――0――
GIFT【英】
:贈物
:天恵
「わたしは、メリーのこと、すきだよ」
わかっている。
どうせいつもと変わらない。
「蓮子? どうしたの?」
わたしがどんなに語り掛けても。
わたしがどんな思いでこの言葉を投げかけても。
「メリーは? わたしのこと、どう思ってるの?」
想いも。
言葉も。
苦悩も。
憎愛も。
「もちろん、好きよ。貴女は私の最高の親友だもの」
なに一つだって伝わらない。
「そっか」
だから、わたしは。
「そうよ」
今日、あなたを殺します。
GIFT
――1――
秘封倶楽部。
大学のサークル活動としてわたしこと宇佐見蓮子が始めた、たった二人の“秘密探究”部だ。
活動内容はいたって簡単、単純明快。怪しいうわさを聞きつけて、調べ上げて探究する。世界の不思議に迫る崇高な活動、であるわけだけれども、科学ですべては説明が付くなどという科学推奨の世間では、なかなか認められてはくれない。
「だからね、メリー。忌々しき事態なのよ」
「はいはい。どう忌々しいのかしら?」
大学のカフェテラスは、わたしがマエリベリー・ハーンことメリーと二人で秘封活動の作戦を練るための場だ。
「このままでは幻想は忘れ去られて、なかったことになってしまうということよ!」
確かに不思議な話は存在するのに。
そうわたしが告げると、メリーは端正な顔立ちを幾分か鋭くさせて、やがてこくりと頷いた。
なんといってもわたしとメリーは、いわば“奇跡の体現者”。わたしの『星を見て時間を、月を見て場所がわかる』程度の能力は科学技術でいくらでもどうにかでてきてしまうことだから大したことはないのだが、メリーの能力は一味違う。なにせ彼女は“結界”を見ることができるのだから。
「そう、そうね。それで、それがどう忌々しいことに繋がるのかしら?」
メリーはそう、わたしに「今に始まったことではない」と告げてくる。
そんなことはわたしだってわかっているし、メリーだってもちろん理解している。けれど私が言いたいのはそういうことではない。そう思いながら不敵に笑ってみせると、メリーもどこか期待を孕んだ、いわば“わくわくした目”でわたしを見る。
「なんとも都合の良いことに、明日からゴールデンウィーク! となれば……」
「遠出、という訳ね」
「いぐざくとりー! そういうことそういうこと」
わたしはそう、残念ながら“くしゃくしゃ”になってしまった新聞紙を引っ張り出す。
日付は昨日。昨日の朝にちょこんと乗っていたコラム欄は、わたしの好奇心をとても大きく刺激した。なにせこれこそが、幻想を否定する忌々しきものだったのだから。
「えーと、株価暴落。原因は外交か?」
「三面じゃなくて、こっち」
「こっちね。えーと、“妖怪の森、町おこしの成果”?」
「そう!」
ちっちゃい地方の隅っこに昔からあったという“妖怪伝説”。その伝承を古くから知るという一族のおじいちゃんが、今になって急に「あれは町おこしの一環」だとか言い始めた。しかし調べれば調べるほど奇妙な噂や伝承が数多く残っており、なにより証言したおじいちゃんはちょっと呆け始めてしまっているらしい。
けれど地味とメディアはそんなことはさておき、「古くからの町おこし」がなんたらと、地方自治を盛り上げるネタにしている。これはその場に伝わる妖怪ご本人様にも良い迷惑であろう。
「そこで! われら秘封倶楽部の出番、という訳」
「なるほど、良いわね。段取りは?」
「マエリベリーお嬢様のご承認在れば、いつでも」
「了解。明日から、早速行くわよ」
「おおせのままにっ」
メリーはわたしの語り口調に、くすくすと上品に笑う。
けれどふと、真剣な表情になりわたしに告げた。
「だけど、その口調はやめて。気持ち悪いわ」
「うん、まぁ、だよね」
ちょっと悪ノリしすぎたかも。
しかし、なんにせよ、これで準備は整った。明日からいよいよ、妖怪探求旅行の始まりだ。
まぁ、メリーと遠出して遊びたかったという副次的な、そう、あくまで副次的な目的も達成できそうなのだし、色々な意味で楽しみなことこの上ない、かな。
――2――
旅行鞄に旅行セット。駅弁とお菓子を買い込んで、いざ電車に乗り込む。
ローカル線は一昔前に比べて乗り心地こそ良くなったらしいのだが、速度自体はそんなに変わっていない。二人がけの椅子が向かい合うように設置されている車両にメリーと向き合うように座って、わたしは持ってきたメモ帳を取り出した。
「まず、これまでにどんな噂が流れていたか、ね」
「事前調査はばっちり、ということ?」
「まぁね!」
わたしの様子に、メリーは口元に手を当ててくすくすと笑う。
柔らかい仕草。同じ女の子としては、ちょっと羨ましかったりもする。
「ええっと、まず、『夜の森に人食い少女が現れる』」
「人食い、ね。妖怪ってことかしら?」
「かもね。もう一つ、『往けば帰ってこられない廃トンネル』」
「廃トンネル、ね」
「そう。で、最後『化け物のうめき声の聞こえる洞窟』」
「うめき声だけ?」
「みたい。これも、複数在る伝承をわたしなりに統括してみた後で、本当はもっといっぱい言われてたの」
なるほど、とメリーは細い指を顎において考え込む。
わたしが調べたときは、もっとたくさんの噂が流れていた。文献やインターネットで精査してあまりに近代に流れ始めたモノは、それこそ町おこしと考えても良いかもしれない。
けれど、起源不明の古くから伝わるモノは埋もれることなく存在していた。廃トンネルというのも近代的だが、元々は炭坑があって、それをトンネルに工事したモノだと言うし。
調べれば調べるほど、わくわくが止まらない。
「妖怪、ね。今日は出逢えるのかしら?」
「妖怪そのものに会えなくても、メリーが結界を見てくれれば……」
「なるほど。それなら、道案内はお願いね」
「もちろん! 夜空さえ見えれば場所は間違えないよ」
そう言って、なんだかおかしくなって少しだけ笑ってしまう。するとメリーもおかしくなったのか、声を上げて笑っていた。
それから先は、ひとまず妖怪談義は終了。
駅弁を食べて、お茶で一服。単位の話をしながら、お菓子をつつく。
「蓮子は、卒業したらどうするの?」
「うーん、決めてない! と、言いたいところだけれど、大学に就職も悪くないかなぁって思う。メリーは?」
「そうね。私は私で大学に残ろうかしら?」
「院?」
「そういうこと」
メリーが院に進んでわたしが教授にでもなったら、まだ、この活動を続けることもできるかもしれない。もっともその時は、メリーたった一人のサークル活動、と顧問のわたしという関係にはなるのだろうけれど。
それはそれで悪くない。メリーに先生、とか呼ばれるのだから。
「その後は、海外にでも飛ぼうかしら」
「え、海外行っちゃうの? メリー」
「まだわからないけれどね」
メリーにだってやりたいことはあるだろう。
ならば、この時間は永遠では無い。当たり前に終わりが待っている。そう考えるとやっぱり寂しかった。
「ふふ、なに落ち込んでいるのよ」
「そういうんじゃないけどさぁ」
「……どこに居て何をしていても、私たちは親友よ。それじゃ、不満?」
「不満じゃ、ないです、メリー先生」
「なによその先生、って。もう」
からからと笑うメリーを見ていると、だんだん、先のことを気にしている自分がばからしくなっていく。
この活動は永遠ではない。でも、この関係を永遠にすることはできる。なら今できることは、今を精一杯謳歌することだ。
「ありがとう、メリー」
「なによ、らしくないわね」
「メリー、どういたしまして、がないわ」
「なによ、急にらしくなったわね」
「あはははっ」
どうしたって、わたしたちは親友だ。
親友とメリーが言ってくれたことがなにより嬉しくて、笑ってしまう。
この心地よい関係だけは、生涯不滅であると、そう信じて。
――3――
ホテルに到着すると、荷物を置いて早速、町の図書館に向かう。
そこで町ならではの資料をめくり、本を見て、メリーと額を付き合わせた。
「ほら、ここ見て。化け物のうめき声が聞こえる洞窟の位置」
「あら? 廃トンネルに近いわね」
「そう! でもこの当時の文献の地図なんて、曖昧だわ。だから……」
「洞窟と廃トンネルは同一視して構わない、ということね。蓮子」
「そう! その上、廃トンネルに行くまでに通らなければならないのが」
「『人食い少女が現れる森』ということね」
「うん。元々は、全部一つの伝承だったのかも知れない」
こういうことは、けっこうある。
複数の噂話を詳しくひもといてみると、そこにたった一つの回答式が現れる。その一連こそ、伝承の中に隠された先人の警告であるのだ。
その警告の意味することころを、今夜、わたしたちは解き明かす。
「見えてきたわね、メリー」
「そうね。場所は……」
「観光目的って言えば、周辺地図くらい買わせてくれると思う」
「データじゃなくていいの?」
「妖怪や幽霊は電子機器に影響を及ぼしやすいらしいからね。念のため」
資料をしまい、図書館を出ると、町役場で地図を買う。
それから早速、目的地に向けてローカル線に乗り込んだ。
「まだ明るい内に森を抜けて、夕暮れ時にトンネルを見る。暗くなりすぎないうちに森を抜ける。これでどう?」
「そうね。蓮子が居れば道に迷う必要だけはないから、それで大丈夫だと思うわ」
メリーと一緒に電車を降りて、タクシーを使って森に。
運転手さんに訝しまれたが、町おこしの記事のことを話して町おこし文化そのものに興味を持っていると誤魔化すと、運転手さんは快く連れて行ってくれた。
どうも、どんな形でも自分の町が話題になったことが嬉しかったようだ。
「よし、到着!」
「まずは森を抜けるわよ、蓮子」
「ええ。妙な結界があったら教えてね」
「任せてちょうだい」
まだ午後三時を回った程度。
陽光が明るく照らし、小さな森を神秘的に彩る。廃トンネルといっても定期的に人の足があるのか、道は舗装こそされていないが草は踏みつぶされて背の低いものしかないようだった。
これなら、帰り道も迷うことも根に足を取られることもないだろう。
「空気が澄んでる」
「そうね。都会では中々味わえないわ」
「メリーは立派なマンションに住んでるじゃない。最上階は空気も美味しいんじゃない?」
「一昔前みたいに排気ガス塗れということはないけれど、都会の空気なんて上に行くほど汚いわ。ベランダにも出られない」
「ふーん。そんなものなんだ」
「そうそう。それより、蓮子」
メリーが足を止めたので、習ってわたしも足を止めて前を見る。
蔦だらけのコンクリート。文字が霞んで見えない道路標識。朽ち果てた看板。封鎖するための鎖も、錆びて千切れている。
「雰囲気はばっちりね」
「行く? 蓮子」
「行くに決まってるでしょ、メリー」
森の中を歩いているときは、空気は爽やかで心地良かった。
だがトンネルから感じる空気はしっとりとじめじめとしていて、肌に張り付くような不快感を覚える。
一歩踏み出すと、錆びた鎖を踏んでしまい、カチャリと音が鳴る。わたしはメリーの手を引き、気持ちだけでも負けないために不敵に笑ってやると、メリーも緊張した面持ちを崩して微笑んだ。
メリーもこうして笑ってくれる。
ならこの先に、恐怖はない。
あるのは、胸躍る冒険だけだ。
「懐中電灯が無ければまずかったわね」
「忘れていたら、の間違いでしょう?」
「あはは、忘れなくて良かったわ」
陽気は陰気を吹き飛ばす。
メリーの、親友の手を握って歩いているおかげか、普段よりも気持ちは落ち着いている。メリーも同じように思っていてくれると嬉しい、とか、ほんのちょっとだけ思いながら。
トンネルの中はじゃりじゃりとした小石ばかりが転がっている。
やはり廃トンネルの中は手入れなどしないのだろう。壁は一面蔦だらけで、コンクリートを割るように雑草が伸びている。
蔦に足を取られないように歩くこと数分。ふと、メリーがわたしの手を強く握って引き留めた。
「メリー?」
「静かに」
メリーが鋭い目で先を見つめる。
メリーの瞳にはなにが映っているのか、皆目見当も付かない。だがこれだけは言える。何かに、メリーは気がついた。
――…………ォ
耳を澄ませて。
――……ォ…………ォォ
神経を研ぎ澄ませて。
――……ォォ……ォ……ォォォ
ただ、じっと見据える。
――ォ……ォォォ……ォ………ォ…ォォォォォ
「聞こえた? 蓮子」
「ええ、聞こえたわ、メリー」
「どうする?」
「結界は?」
「まだよ」
「なら、もう少し進んでみよう」
うめき声、というには遠い。
だが確かに響く音にわたしとメリーは警戒心を引き上げる。
一歩進み、二歩進み、奥へ奥へと歩いて行く。そのうち、最初は何とも思っていなかった音が、だんだんと気味の悪いモノに感じてきた。
かさかさという、草の音。
じゃりじゃりという、小石の音。
ざりざりという、己の足音。
冷や汗だろうか。
頬に張り付いた髪がうっとうしい。
――ォォォ……ォォ……ォォォォ……ォォォォォオオオオオオッ
洞窟の奥から聞こえる音。
その大きな音に身を竦ませるモノの、ふと、気がつく。
「ねぇメリー、これって」
「ええ、たぶん」
音の鳴る方に、今度は駆け足で近づく。
懐中電灯を片手に、メリーの手を片手に。緊張に急かされるように走る。すると。
「光?」
「みたいね」
トンネルの天井に空いた光。
いつの間にか日が落ちていたのだろう。月明かりが差し込んでいる。その光景は非常に幻想的で美しいモノの、求めていたモノかと問われると、ちょっと違う。
――ォォォォオオオ
――ォォ……ォォォォオオオオ
風が天井の穴を抜けて木霊する。
なんということはない。これが“化け物のうめき声”の正体だったのだろう。風の響く音こそが、この音の正体だ。
「幽霊の、姿見たり、ね。蓮子」
「あはは……そうみたい。結局、なんにもなかったかぁ」
「むくれないの。もう、れん、こ?」
「どうしたの? メリー」
メリーは、何かに気がついたように、今度は呆然とトンネルの奥を見据える。
「ねぇ、蓮子」
「なに?」
「噂は、化け物のうめき声と行ったら帰ってこられないトンネル」
「それと、人食い少女ね」
「うめき声は近代出来た噂。帰ってこられないトンネルと森の少女が同一だったら?」
「森を抜けてトンネル、ええっとつまり洞窟に入ったら、食べられる?」
言われて、はっとメリーの見据える方角を見る。
暗がりが続くトンネル。懐中電灯の光を当てても見渡せない。見渡せない?
「め、めりーさん。まさか」
「結界……境目よ」
懐中電灯を暗がりに向ければ、ある程度は見渡すことが出来る。だがわたしたちの視線の先、ある一点から不自然に照らせない光。
その奥から、風の音に紛れ込むように。
――ォ……ォォ
――ォォォ……ふ……ォ……あは……ォォォ
甲高い笑い声が、聞こえた。
「メリー!」
「蓮子!」
『逃げるわよ!』
同時に声を上げて踵を返す。
ばらばらに走り出したのだけれど、少しだけメリーが遅かったから、わたしはメリーの手を握りしめてかけだした。
どれほどトンネルを潜っていたのだろうか。ぜんぜん出口が見えない。違う、きっと、見えないだけだ。このトンネルは明かりを飲み込む闇で出てきている。
「このトンネル、化け物の、口の中だったりして!」
「馬鹿なこと言わないの、蓮子!」
走って、走って、唐突に視界が明るくなる。
トンネルは抜けた。だが伝承では森もまた妖怪のテリトリーだ。
「蓮子!」
「うわぁ」
そうして見上げた先。
ちゃんとした道になっていたはずなのに、帰り道はもう何年も人の足が踏み込まれていないかのように草が生い茂っている。
どうやら、行きはよいよい帰りは怖い、なようだ。
「切り抜けるよ、メリー!」
「頼りにしてるわよ、蓮子!」
メリーの手を引いて、草の中を走る。
頭上には月と星の夜空。ならば道なんか見えなくても、往くべき場所はわかる。
「道に迷いやすくなってるみたいだね!」
「でも、蓮子が居れば大丈夫! でしょ?」
「もちろん!」
なによりも。
なによりも、親友がこうして最大限の信頼を向けてくれる。最も近い友達だからだろう。向けられる信頼が嬉しくて、自然と、動かす足も速くなる。
――がさがさ
――がさがさがさ
――がさがさがさがさっ
「追ってきてる?」
「はぁっ、はぁっ、はぁっ、蓮子、いざとなったら私を置いて」
「置いていくわけないでしょ! 怒るよ!」
だから。
だから、置いて行けなんて言わないで。
たとえ道が分かれようと。
メリーの居ない世界なんていやだ。
メリーが側で笑ってくれない世界なんて――苦しい。
「あれ?」
「蓮子?」
「な、んでもない! 急ぐよ!」
あれ?
苦しい?
走ったから?
吊り橋効果?
それとも、寂しいだけ?
なにか、違う。
「っ、蓮子! 道が空けてる!」
「出口! 飛び込むよ! メリー!」
「ええっ!」
背丈ほどの草をかき分け、一気に走り抜ける。
行きにはなかった広々とした草原に、わたしとメリーは勢い余って倒れ込んだ。
「っ、来る!」
そして、がさがさと揺れる草の狭間から――
「ん?」
――ぴょこんと、兎が跳びだした。
兎はひくひくと鼻を動かすと、そのまま茂みに戻っていく。その様子を、わたしとメリーは呆然と見つめることしか出来ない。
そうして固まったまま、どの程度の時間が経ったのだろうか。ふと、メリーが口元を抑える。
「ふっ……くっ、ふ、あはははははっ」
「ちょっ、ちょっと、笑わないでよ!」
「ご、ごめんなさい、ふふっ、だって、兎って、あはははっ」
「ふっ、ちょ、ちょっとメリー、あはっ、あははははっ、もう!」
あれほど緊張して、焦って。
「ふくっ、メリーなんて、あははっ、置いていってだなんてっ!」
「ふふっ、兎相手に、よね。あはははっ」
笑って、笑って。
わたしとメリーはそろって草原に寝転んだ。
眼前に広がるのは、満天の夜空。手を繋いだまま、星と月を眺める。
「ふふ、こんなに笑ったの、久しぶりね」
「そうだね。メリーはあんまち声を上げて笑わないもんね」
「あんまり、じゃないわ」
ふと、気配がして顔を横に倒す。
すると、同じように顔を向けていたメリーと目が合った。
「知ってる? 私、蓮子の前以外では声を上げたりしないのよ?」
「へっ?」
「ふふっ、蓮子だけが、私の特別! 特別な、親友よ」
「え? ぁ、うん。わたしも。わたしも、メリーだけが、特別な――」
特別な?
特別。メリーはすごく、わたしにとって特別。
でも、特別な友達かと言われると、胸の奥底をひっかくような違和感に包まれる。
「――しんゆう、だよ」
「そっか。ふふっ、否定されたらどうしてやろうかと思ったわ」
「否定なんか、しないよ! うん、するわけないじゃない」
そう、否定なんかできる訳ない。
ないのに。なんだろう。この気持ちは。
メリーはいつか離れる。
心は繋がっているから、距離なんか、どうだっていい。
――本当に?
メリーが夜空に視線を戻す。
わたしも同じように夜空に顔を戻して、でも、視線だけ横に向けてメリーの顔を盗み見た。
整った顔立ち。笑った後だからか、走った後だからか、頬は上気している。
唇は紅くて。口紅もしていないのに、瑞々しくて。
――本当に、友達で満足?
このまま、メリーと永遠に過ごすことは出来ない。
いつしか互いの道は分かれ、互いに生涯を共にする人間が現れ、別々の人生を歩んでいく。
――本当に、わたしは、それでいいの?
道は分かれる。
当たり前の終焉。
その時にメリーの隣に居るのは、わたしじゃない?
だめ。
だめだよ。
考えちゃいけない。
だめだって、わかっているのに。
「綺麗ね、蓮子」
「うん、すごく、綺麗だね、メリー」
わたしは、メリーと別れたくない。
ずっと、ずっと、一緒に居たい。
一緒に笑って。
一緒に泣いて。
一緒に怒って。
一緒に、手を取って、歩きたい。
ああ、そうか。
わたしは――メリーのことが、すきなんだ。
あふれ始めた思いは、きっと留まることを知らない。
けれど親友を望むメリーに、親友だと言ってくれる彼女にこの思いを告げてはならない。
始まってすぐに閉じ込めてしまわなければならない恋に謝るように、わたしは一度だけ、メリーの手を強く握りしめた。
この思いを封印して、特別な“親友”として、メリーの側にいるために。
強く強く、そう、心に決めた。
――4――
さて。
それではわたしこと蓮子は親友のメリーのことが恋愛的な意味で好きだと判明した訳なのだが、それでなにがどう変わるのかと問われれば困る訳で。
具体的には、行動を変えることもできずただこれまでどおりの日常を送る以外に対してできることはない、という結果に落ち着いてしまった。
「はぁ~」
ではそれで満足できるのか、と問われれば、ため息をつくことしか出来ない。
放課後のサークル活動。楽しみ、という感情が先走り、なにもいつもよりもずいぶん早くカフェに到着してしまった。甘いアイスカフェオレをちまちまと飲みながら、メリーのことを待つこと数分、いつも通りの時間にしか来ないであろうメリーのことを思ってもう一度ため息。
ううむ、前までわたしはいったいどんな気持ちでこの時間を過ごしていたのか、これっぽっちも思い出せない。
「うーん、どうしたもんか」
カフェオレを覗き込んでも、薄茶色の液体は鏡の役割なんか果たしちゃくれない。
自分がどんな顔をしているのか。へんな場所はないか。眉間に皺なんか寄ってたらどうしよう。普段気にしなかったことがぐるぐると頭の中を泳ぎ回り、ついそわそわとしてしまう。
わたしはこんな乙女チックなことを考える性格だっただろうか?
「はぁ――」
「どうしたの? 辛気くさいわね」
「――はひゃっ?!」
後ろから響いた声に、わたしは思わず飛び上がって驚く。
それから油の差し忘れたブリキ人形みたいにゆっくりと振り向くと、いつものように端整な顔立ちをそれはもう怪訝そうに歪めたメリーが、腕を組んで立っていた。
後ろから来るとは予想外。この宇佐見蓮子を以てしても読めなかった!
……なんて。
「本当にどうしたの? 熱?」
「い、いやぁ、考え事しててさ。良いネタないかなぁって」
「で、ぼんやりしてた、と? ドジねぇ」
「あ、あははは、はぁ」
誤魔化せた。
誤魔化せた……!
手元を口に当てて上品に笑うメリーの仕草は、これぞまさにお嬢様といった風で、可憐だ。わたしにはとうてい出来そうにない柔らかな仕草に、こっそりと見ほれておく。
心頭滅却心頭滅却。メーデーメーデー、わたしはまだまだ大丈夫。百年は戦える。
「うーん、やっぱりちょっとおかしいわね。熱?」
「そんなこと、な……っ?!」
だけどメリーは、わたしの挙動不審さなどばっちりお見通しのようだ。
おもむろにわたしの額にかかる髪をかき分けると、こつん、とメリーが自分の額を合わせる。
肌白い。まつげ長い。鼻筋きれい。それからそれから、唇、やわらかそう。
「めめめめりーさんんんん???」
「うん、ちょっと熱いわ」
メリーはそんなわたしの動揺はさておき、すっと身体を離してしまう。あわわわ、そりゃ、そうか。
いったいわたしは何を期待していたんだろう。ああナニか。ナニってなんだと自己嫌悪。本当に熱でもあるのかも知れない。さっきから心臓はばくばくいってるし、顔は熱いは手は熱いはで、わたし自身もわたしが正常であるなんて信じられない。
どうしてこうなった。
「やっぱり熱いわね……。よし、今日はもう解散!」
「ええっ」
……って、そりゃそうか。
わたしだってメリーが熱を出してたら解散する。それで、休めって言う。
でも、やっぱりなんだか、悔しい。
「うぅ」
「ほら、反論も出来ないほど辛いんじゃない。今日はもう帰るわよ」
「ええっ、いや、それは……」
などと余計なことを考えている隙に、メリーは“蓮子は完全に病気”なんて風に判断してしまったようだ。それはなんというか困る。たとえこの想いが伝えられなくても。いや、この想いは伝えることが出来ないからこそ、一日一日を大切にしたかったのに。
それが出鼻をくじかれた。他ならぬ、わたし自身の気持ちの甘さが原因で。こんなの望んでいない。こんな、早々とメリーと別れなきゃならない展開なんて、望んでない。
「送るわ」
「え?」
「そんな体調で、ひとりで帰せると思う? 今日は蓮子が寝付くまで、帰ってあげませんからね!」
……と、思ったんだけど。
前言撤回。我ながらわたしはなんて安い女なのだろう。これではチョロイン呼ばわりされることすら免れない。もう、さっきまでの決断は吹き飛んで、自分の甘さに感謝する。
たまには仮病(とは、ちょっと違うけれど)も悪くない。うん。
……うん。
「ふ」
「ふ?」
「ふつつかものですが」
「……どうやら本当にだめみたいね、今日は」
……うん、わたしもそう思う。
メリーに肩を貸して貰いながら帰るというドキドキ展開はタクシーという文明の利器に拒まれたモノの、わたしは無事、メリーに看病して貰えるという展開にありつくことが出来た。
途中で仮病だと発覚してしまう心配は無い。なぜなら、メリーと居るだけでわたしの心臓は早鐘を打ち、とてもじゃないけれど平常心になんて戻れそうにないのだから。
うん、問題ない。
「氷嚢はある?」
「戸棚のいちばんしたー」
「はいはい。それじゃあ大人しくしてなさいね」
そう、メリーが席を立つ。その間にわたしはいそいそと着替えて、ベッドの上に転がった。
なんというかこれは、新妻メリーさん降臨の儀式と考えて相違ないのではなかろうか。
「冷蔵庫の中、使っていいー?」
「も、ももも」
動揺。どうよう?
ち、違う違う。静まれ蓮子!
「桃?」
「なんでもないー。もちろんいいよー」
リビングであろう方向から聞こえた声に、動揺しつつも応える。
どうやらわたしは本当に病気なようだ。恋の病ともいう。前ならばこんなことはなかった。きっと、「メリーは優しいなぁ。よし、今日は甘えてしまおう」なんて気軽に受け止めることが出来たろうに、今はまったく、これっぽっちも気軽に受け取ることなんてできそうにない。
緊張で口の中はからからに乾くし、汗はぜんぜん止まらないし、心臓も平常運転してくれない。今この瞬間だけでも、フラット蓮子さんが降臨して乗り移ってくれないモノだろうか、なんて、そんなことばかり考えてしまう。
なんて、そう、思いに耽りすぎたのだろう。気がつけばそれなりの時間が経っていて、毛布にくるまって丸くなっていたわたしの体温はすっかり上がりきってしまったようだ。
こうなってしまえば、元から本物の風邪だったのかそうでないのか見当も付かない。ただ、今はとにかく頭は痛いしぼんやりするしなんだか暑苦しいし、目眩だってする。
「氷嚢と、たまごがゆ。身体起こせる?」
「う、ん」
「熱、上がってきているかしら?」
「だいじょうぶー」
「……そうじゃ、ないわね」
メリーはそう良いながら、わたしの頭の下にタオルで巻いた氷嚢を入れる。
それから顔や肩に流れる汗を拭ってくれた。
「さて、一度起こすわよ」
「あいー」
わたしは今、最高潮にめんどくさい女だろう。なのにメリーは嫌な顔ひとつせずに、わたしの身体をゆっくりと起こしてくれる。
なんという良妻賢母。
「食べられる?」
「うん」
「……無理そうね」
応えはしたモノの、だるくて身体が動かない。そんなわたしの様子を瞬時に察してくれたのだろう。メリーはおかゆをれんげで掬い上げて、ふぅふぅと冷ましてくれた。
メリーの、息の、かかったおかゆ。ちょっと蓮子はもうだめかもわかりません。
「はい、あーん」
「……ぁ、あーん」
とはいっても、わたしはか弱い病人でしかない。
する気も無い抵抗むなしく、突き出されたれんげをぱくりと一口。塩加減も熱もばっちり。これならいつでも嫁に来て貰って大丈夫。
「おいしい?」
「うん、おいしい」
「ふふ、良かった。はい、もう一口」
「あーん。うむ、うむ、おいしい」
「今日はやけに素直ね」
「いつもれんこさんは素直ですよー?」
「そういうことにしておいてあげる。ほら、白湯も」
「ありがとうー」
メリーは甲斐甲斐しく世話をしてくれる。
それにすっかりやられてしまったわたしとしては、もっとどんどん甘やかしてくれても良いと思うのだが、そうは問屋が卸さない。
お腹いっぱい食べて飲んだら、徐々に瞼が下がってきた。
「あら、おねむ?」
「こどもあつかいするなぁー」
「はいはい。欲しいモノはある?」
メリーさんが欲しい。
……なんて流石に、言えるわけがなくて、わたしは無言でメリーの服の裾を掴んだ。本当は“もう離さないぞ”って意思を込めたかったのだけれど、どうにも力がはいらなくって“きゅっ”としか掴めなかったことは、我ながら情けない。
“ぎゅっ”と掴む、くらいはしたかった。
「……はいはい。ここに居てあげる」
「うん」
「白湯、飲む?」
「だいじょうぶ」
「そ。わかったわ」
メリーはそう言って、わたしの手を握ってくれる。
メリーの手はちょっと冷たい。でも手が冷たい人は心が温かいっていうし、きっと、メリーの心はそれはもうあったかいことだろう。
わたしの心は、どうだろうか。きっと冷え冷えとしているに違いない。利己的で我が儘で自分勝手で自己中心。わたしのためだけに、メリーの時間を縛っている。
だけど。
今だけは。
「……そばに、いて」
「……ええ、ここにいるわ、蓮子」
今だけは。
今だけは、甘えさせて。
目が覚めたら、魔法の時間は終わり。いつものわたしに、戻るから、だから。
「側にいる。大丈夫よ、蓮子」
「うん…………うん」
今だけは、あなたの時間をわたしにください。
うつら、うつら。
目が覚めてはっと身体を起こすと、あたりは真っ暗だった。
「え? あれ? 夢?」
あたりを見回しても、当然ながらメリーの気配はない。
もしかしてあれはわたしの願望が見せた夢なのではなかろうか。そう考えると、とたんに顔に熱が集まる。やだなにこれ恥ずかしい。
「どんだけ欲求不満なのよ、わたし」
言いながら電気を付けて、時計を見る。夜十時。まだまだ起きる時間ではない。
それから大きくため息をついてシャワーでも浴びようと背伸びして、ふと、自分のベッドに置かれたモノに気がついた。
「氷嚢……夢じゃ、なかったんだ」
額に手を当てて、それから手鏡で自分の顔を見る。
熱はなさそうだし、顔色も良い。どうやら仮病なんかじゃなくて、本当に熱を出していたようだ。知恵熱か。子供か、わたしは。
思い出せば思い出すほど恥ずかしい。わたしは本当に、明日からどんな顔でメリーに会えば良いのだろうか。
「ううぅ、気持ちを入れ替えなきゃ」
タオルをひっつかんで、シャワールームに向かう。
その前にちょっと水でも飲もうとキッチンに行くと、ふと、ラップのかけられたなにかに気がついた。
「あれ? これって……」
看病されていたときとはちょっと違う。
たまごと梅とささみとほうれん草の入ったおじや。それから。“あっためて食べて”のメッセージカード。どうやら本当にわたしが寝付くまで側にいて、ご飯を作ってくれたみたいだ。
うちにささみなんかない。コンビニで買ってきてくれたのだろう。栄養が、つくようにって。
「食べてから、シャワーかな」
おじやをレンジであっためて、それからいただきます。
れんげで掬って口の中に放り込むと、病み上がりの身体に梅のしょっぱさが染み渡る。おいしい。
「ううむ、メリー料理上手だなぁ。わたしも見習わなきゃ」
一口。
もう一口。
食べ進めれば食べ進めるほど、体と心にしみていく。
メリーはこれをどんな気持ちで作ってくれたのだろう。栄養のバランスもばっちり。これでもかっていうほど、元気になれる要素が盛り込んである。
こんな気遣い、やろうと思って出来ないよ。まったくメリーは優しすぎる。
「あれ?」
一口一口味わって食べていると、ふと、れんげにのっけたおじやに水滴が落ちてきたことに気がつく。
なんだろう、なんて思っている内に、一滴二滴と水滴が増える。
「あれ? は、はは、なんでだろう」
水は止まらない。
わたしのひとみからぽたりぽたりと落ちる水滴は、留まるところを見せない。
「え? な、なんでよ。だってここは、嬉しいって笑うところでしょ? な、なのに……なのにっ」
本当は、わかってた。
わたしの抱く思いは許されないモノだ。いくらか時代が進むにつれ寛容になってきたといっても、やはり同性愛なんてマイノリティだ。世間様から白い目を向けられることなんて、わかりきっている。
まして相手はメリー。高層マンションの最上階、一フロアぶち抜きオーダーメイド。頭も良くて性格も良くて美人で、たまに抜けているところも愛嬌のある、将来の約束されたひと。
同性愛なんかして、許される環境に生まれたひとではない。そんな茨の道を歩かせたいと、思えるひとではない。
「う、くっ、う、ぁぁあ」
それでも、好きになってしまった。
どうしようもなく焦がれてしまった。
告げることの出来ない恋を、実感してしまった。
「あ、ぁああぁぁっ」
へたりこんで、メッセージカードを抱きしめる。
優しさの込められたメッセージ。でも、わかってる。これはわたしがメリーの“ともだち”だから。あくまで、とても近い“親友”だからしてくれたことなんだ。
だからこれは、わたしだけの一方通行。願ったときには捨てなければならない。産んではならなかった片思い。
蓋をして、目をそらして、やがて消えてゆけば良かった。そうしたらわたしとメリーは生涯、最高の親友同士でしかなかった。そうで、あれた。
だというのにわたしは、浅ましく望んでしまったのだ。
メリーと一緒に居たい。
メリーと一緒に生きたい。
メリーと二人で思い合いたい。
メリーのすべてが欲しいだなんて、思ってしまった。
なんて浅ましい。
なんてわたしは、みにくいのだろう。
だって、そこにメリーの意思なんて関係ない。浅ましいわたしがわたしのために、メリーの人生を汚すようなことを、心の底から望んでしまった。
「わたし、は」
なんておぞましいのだろう。
メリーの親友を名乗っておきながら、こんなにも、あってはならない思いに溺れて。
厚かましくも、体調不良を理由に、甘えてしまった。
「めりー、めりーっ、めりーっ……わたしはっ!」
涙は止まらない。
だからこそ、わたしは願う。
「うぁ、あ、あぁっ、ああああぁぁぁぁあぁっっっっ!!!!」
どうか涙よ、わたしの恋心も、涙と一緒に流し出して欲しい――と。
――5――
――いつの間にか、眠ってしまったのだろう。
朝、それも早朝といって差し支えない時間に目が覚める。
「泣き疲れる、なんて。子供じゃないんだからさぁ」
独り言は、誰も居ないキッチンの壁に消えた。
情けない。恥ずかしい。どんな感情よりも自分の心からメリーへの気持ちが消えて無くなっていないことが、嫌だった。
でも方針は決まった。恋心は封印する。漏れ出ないように、頑丈に。これはわたしの罪の証だから、お墓の中までもっていく。
だからわたしは、生涯親友。道が分かれるその時まで、浅ましくも友達で居よう。メリーはきっと、突然わたしが離れてしまったら、自分を責めてしまうから。
「そうだ、おじや」
捨てる気になんてならなかったから、もう一度あたためておじやを食べる。
やっぱり美味しい、けど、昨日のうちに食べておけば良かったかな、なんていう風にも思う。
これを食べたらシャワーを浴びて、歯を磨いて、一日を始めよう。大丈夫、大丈夫、わたしは大丈夫。自己暗示でもなんでもいい。ただ、毎日を繰り返せるように。
結局、二度寝することも出来ずに大学に行くことになる。
とにかく自己暗示と自分自身に塗り替えることに一生懸命で、気がついたらあわや遅刻というところ。
心頭滅却。わたしは今日も変わらず、メリーの“親友”だ。
「えーと、そうだ」
そういえば気が回っていなかったが、メリーから連絡の一本でも入っているかも知れない。
そうスマートフォンを起動させると、ショートメッセージが一本入っていた。
『おじや美味しかった? 学校来られそう? 元気だったら連絡してね』
元気、とは言いがたい。
本当は朝一で返してあげたかったところだが、如何せん、朝はぐったり自己暗示に一生懸命だった。申し訳ないけれど、ここは寝坊ということで勘弁して貰おう。
『美味しかったよ! おかげでぐっすり。遅刻の危機だったり』
わたしがそう返信して、今日の講義の為に席に着いたところでもう一本、メッセージ。
『そう、良かった。遅効で単位落とさないでね、と言いたいところだけど、今回は仕方が無いわね』
やれやれ、なんて顔をしているメリーが思い浮かんで、思わず忍び笑い。メリーはよくわたしに振り回されてる、なんて言ってたけれど、実際に振り回されているのは私の方。
メリーの一喜一憂が、こんなにもわたしの心を揺るがすのだから。うん、この調子なら大丈夫そう。メリーに気持ちを告げられなくても、彼女の存在がわたしを助けてくれるのならわたしはそれに満足しよう。よく隠し事が顔に出るなんて言われるわたしだけれど、今回ばかりは一世一代の大芝居。
貫き通さなければならないのだから。
『単位はほら、わたしにはメリー大先生のご加護があります故……』
『ほうほう。つまりなにを奢ってくれるのかしら?』
『わたしの手作りお菓子なんてどう?』
『却下。駅前のパフェを所望します』
『うぐっ。それでご加護が授かりますなら……』
『一科目手伝うごとに、一個ね』
『ええっ。三科目に一個じゃだめ?』
『何科目危うくするつもり?』
メリーも講義の最中だろうに、コンスタントに返事をくれる。
ううむ、たまらなく嬉しい。そう、そうだ。これでいいんだ。日常の会話や笑顔に満たされる。それ以上さえ望まなければオールおーけー。
やるぞ、宇佐見蓮子。笑う門には福来たり。なんだ、どうにでもなりそうじゃないか。
『よし、秘封倶楽部の出動よ。単位落としお化けの詳細を探るわ』
『寝坊と怠惰じゃないの?』
『胡麻擂り下手を忘れてるよ、メリー』
『はぁ、もっとまっとうな議題を提出してください。今日、無理しなくても良いからね』
『秘封倶楽部の活動は、蓮子さんの元気の源なのです。サボったら調子狂っちゃう』
正確には、元気の源はメリーなんだけど。
教授の目がこちらに向いたので、素早くスマートフォンを暗転させる。さっさと講義を切り抜けて、メリーの顔を見に行こう。うん。
放課後になると、やはりわたしは普段メリーが来る時間よりもかなり早く、カフェに到着した。
前方確認、左右を確認、それからゆっくり後ろを確認。目をこらしてみてもメリーの姿は見当たらない。ふっふっふっ、いつまでも不意を打たれるだけの蓮子さんではないのだ。
昨日の不意打ちは本当に心臓に悪かった。今度は不意は打たないように、メリーにも注意しておかねば。なんて、適当なことを考えながら振り向いていた姿勢を元に戻す。
「元気そうね」
「まぁね。わたしにもうすきは……は?!」
「心の底から、元気そうね」
わたしが振り向いている間に、対面の席に着いていたのだろう。頬杖を突きながらじとっとした目でわたしを見るメリー。幼げな仕草も可愛らしいです、なんて、不意を打たれて脳みそが混乱する。
まさかの二日連続。敵はどうやらわたしよりも一枚上手だったようだ。
「い、いやぁ、メリーの愛情たっぷりのおじやで元気いっぱいだよ」
「みたいね。まったく……病み上がりなんだからじっとしていなさい」
「うう、肝に銘じます」
そこまで言って、メリーはやっと笑顔を見せる。
まぁ、苦笑だけれど。
「で? まともな議題は持ってきたの?」
「ええっと、コードがすぐ絡まるのは妖怪の仕業だと思うのだけれど、どう?」
「ずいぶん近代的な妖怪ね」
「じゃあ、服に毛玉をつける妖怪!」
「なんでも妖怪のせいにしないの。そんなにあふれていたら、私は結界境界だらけの世界でもみくちゃになってしまうわ」
「信じるモノは救われるのよ。鰯の頭だって信じていれば妖怪になるわ」
「魔除けが妖怪になるのなら、鰯の頭の信者は足下を掬われたのかしら?」
「すくわれるのならいいんじゃない?」
盛り上がってくると、わたしたちの仲に恋だの愛だのは混じらない。ただ純粋に、二人の世界にのめり込んでいく。
これが秘封倶楽部。秘密を辿る秘密の倶楽部。
「妖怪になってそうなモノでも調べてみるのはどう? メリー」
「そうねぇ。なら、図書館でも巡ろうかしら?」
「いいね! それじゃあ今日の方針決定!」
カフェでさっさと会計を済ませて、メリーと一緒に立ち上がる。まずは大学図書館。それからじっくり伝承巡りでもすれば、すっかりいつもの秘封倶楽部だ。
そう思うと、自然と足取りも軽くなる。
「モノに宿ると言えばやはり、付喪神?」
「たったの九十九年でいいんなら、ドラムやギターの妖怪もいたりして」
「騒音妖怪ね。夜が怖いわ」
「まんじゅう怖い?」
「目覚まし妖怪ね。朝が怖いわ」
図書館への道のり。
ふと、歩いているメリーの指とわたしの指がぶつかる。こんな今まではいくらでもあったことが今はほんの些細な幸福に繋がっているだなんて、メリー、あなたは想像もしていないことだろうと思う。
だからこれは、わたしだけの幸福。わたしだけの満足。
「なぁに? 人の顔をじっと見て」
メリーの顔立ちはとても整っている。神秘的、といってもいいかもしれない。
もしも本当に神様が居るのなら、彼女はきっと神様からたくさんの恵みをもらったのだろう。最初はその美しさに戸惑い近寄りがたくさえ思っていた。けれどどうだろう、だからこそわたしの求める秘封倶楽部に相応しい、だなんて近づいてみたら、彼女自身に惹かれていた。
メリー、わたしはね。きっとメリーがどこにでもいる普通の容姿だったとしても、あなたに惹かれていたよ。
「あっは、なんでもなーいっ」
「ちょっと、え? もしかしてなにかついてる?」
「さーてどうでしょう?」
「え? 本当に? ちょっと蓮子!」
ねぇメリー。知ってる?
あなたとこうして話をするだけで、わたしの胸はどきどきと高鳴ってうるさいくらいなんだ。
あなたと触れ合うだけで、わたしの心は暖かく満たされて幸せな気持ちになるんだ。
ただの友達でも構わない。それであなたと一番深い関係になれるのならば、わたしはそれを受け入れる。
「ほらほら、図書館閉館しちゃうよ?」
「大学図書館は夜までやっています。じゃなくて!」
「大丈夫大丈夫、私を信じてっ」
「そういうときの蓮子が一番信用ならないの!」
「えっ、ひどい」
「ひどいと思うんなら改めてちょうだい」
「ショックのあまり改められないよ」
「単位危うくても知らないわよ」
「改めました」
「よろしい」
言葉を交わして。
笑顔を交わして。
思いを交わして。
意思を交わして。
想いは、交わせなくても良いから。
だから。
「よし、ではでは秘封倶楽部、調査開始!」
「なにか誤魔化されたような気がするわ」
「細かいことは気にしない!」
「まぁいいわ。あなたの親友やっているのなら、このくらいのことは日常茶飯事だし」
「そうそう、気にしてたらはげちゃうよ」
「単位」
「ごめんなさい」
だから、わたしがあなたの親友でいられる内は。
「まずなにから調べる?」
「九十九年以前に出来たモノの一覧でも作ろうかしら。簡単に」
「そうだね、それがいいかも」
あなたの隣に居させて。
メリー。
「じゃあ、一時解散!」
「一時間後に集合ね」
「うん!」
わたしのだいすきなひと。
――6――
それから。
友達でいることの幸福を満喫しようと決意すると、もう、動揺が顔に出ることはなかった。これからさきもこうやって、緩やかな片思いを続けていたとしても問題は無いと思う。
たとえばこれが完全な片思いで、そもそもメリーの隣に居られないのならば散らかったのかも知れない。けれどわたしは、両想いでこそないが、両思いではある。想って想われてはいないが、想って思われてはいる。
これは世の片思いをする青少女たちの仲では、だいぶ恵まれた環境なのではないのだろうか。
自分の気持ちに気がついて、みっともなく泣きわめいてもう十日経つ。
けれどあれ以来ぼろらしいぼろも出すことはなく、放課後の秘封倶楽部は続いている。
「とはいっても」
どうしても想いに自覚してからというものの、メリーをカフェで待つ時間だけは憂鬱にもなる。なんといっても、毎度、僅かな緊張を保持していないとどこかでぼろがでてしまうかもしれないのだ。
それはさすがに、いただけない。
「おまけに今日は、メリーの方が一限長いしなぁ」
休憩十五分を挟み、講義の時間は九十分。教授に質問したりなんだりして、ここに到着するまでさらに最大十五分。なんとわたしはここで百二十分待ちということだ。
これだけの時間、ひとりで悶々としているのはわたしも流石に辛い。こうなる前までは読書でもしていれば時間なんてさっさと過ぎてくれたのに、こうなってしまえばどうしようもできない。粛々と悶々とするしかない。
「うぅ、本当になにしてよう?」
というわけで、絶賛、お悩み中なのだ。
悩んでいる間の時間というのは、過ぎて欲しいときほどゆっくりと進む。現にもう一時間は悶々としていたつもりだったのに、まだ十五分。
やっとメリーの受講が始まったころである。
「そうだ! メリーを見に行こう!」
もういないメリーのことを考えていても仕方が無い。
幸いなんの講義をどこで受けているのか、以前、メリーから聞いたことがある。もちろんメリーの言葉は事細かにインプット済みなわたしは、ちょちょいとメリーの姿を盗み見にいくことくらいは余裕だと思うのだ。
メリーの講義を受ける凜とした後ろ姿でも見つめていれば、幸福な気持ちになることは間違いない。
思い立ったが吉日だ。
急いで席を立ち、メリーの居る校舎に向かう。受講中の校舎なんてものは無駄に静まりかえっているから、足音だけは立てないように早足で。
流石に今まで一度もしたことがない“お迎え”をしに来たとも“覗き”に来ましたとは言えない。言って呆れられるのはまだ良いが、軽蔑されたら立ち直れない自信がある。
最低限、ことが露見しないようにせねば!
「ええっと、確か……」
抜き足、差し足、忍び足。
目標の講義室を見つけると、一番後ろの扉のやや斜め後ろに身をかがめ、そっと小窓から中を見渡す。
幸い、講堂は七十人強は入る大きめのものだ。わたしひとりが後ろでこそこそしていたところでばれはしない。わたし自身、後ろなんて気にしたことないし。
「メリーは……あ、居た」
中央列よりやや扉より。幸い、横を向いてくれたら横顔が見えるかも、くらいの距離に居る。ばれる心配も見えない心配も無いベストな位置だ。
さすがメリー、わかってる。いやいや落ち着け、落ち着くのよ蓮子。
「やっぱりメリー、髪、綺麗だなぁ。質も良いんだよね。抱きしめたい」
メリーを見ているだけで幸福な気持ちがわいてくる。
やはりカフェで長々と時間をつぶしているよりも全然良い。時間なんて、メリーをみているだけでどんどん過ぎていく。
「ん? あれ?」
でも。
この行動は果たして正解だったのか。
「ぁ」
もしそれが、わたしに現実を直視させるという意味であったのならば正解だったのだろう。
「は、はは」
メリーの隣の席。ショートカットだ。男の子だろうか? 女の子だろうか?
メリーをなにやら肘で突くと、メリーが興味深そうに相手の顔を伺う。それから耳元で一言二言何事かを呟いて、くすくすと上品に微笑んでいるようだった。
相手もその様子に笑っている。メリーは、わたしにしか見せないと思ってた、優しい瞳でその相手を見て笑っていた。
わたしだけが、側にいるわけではない。
「メリーがわたし以外にも友達がいる、なんて、当たり前のことなのに」
目をそらしていた?
いいや、浅はかなわたしはその可能性を除外していた。メリーは蓮子を“特別な親友”と称している。メリーがそういうのなら、そうそうたくさんのひとに使う言葉でもない以上本心からわたしだけに向けられた言葉だろう。
でも、それ以外は?
普通の友達。
特別に近い友人。
そして……“特別な恋人”。
「わたしだけの、友達ではないんだ」
気がついたら、その場から走り去っていた。
無人の給湯室に飛び込んで、外から死角になっている入り口側の壁に背を預けて座り込む。
わかっていなければならなかった。メリーほど魅力的な女性がわたししか見ていないなんて、そんなことがあるはずがない。きっと、誰からも人気なのだろう。友達も思いを寄せられているひともたくさんいて、そのひとたちはきっとわたしほど“面倒”なものではないのだろう。
わたしだけが、メリーの負担になり得る。
「なら、どうすればいいの?」
わたしが離れても、メリーには慰めてくれるひとがたくさん居る。
そうしたらとたんに、メリーの為に側を離れないだなんて思っていた、わたしの身勝手な欺瞞が剥がれ落ちた。
わたしがわたしを護るために貼り付けた、醜さの上の上っ面の偽善。メリーと一緒にいられる理由が欲しくて貼り付けた、ゴテゴテのメッキ。そんなもの、摩耗するごとに剥がれていくことなんてわかりきっていたはずなのに、わたしはそれを見ようとしなかった。
「でも、それでも」
抱きしめるように自分の身体を抱えると、腕に爪が食い込んで血が流れる。
「一緒に居たい。どんな形でも良いから、一緒に居たいっ」
わたしは浅ましい。
厚顔無恥の偽善者だ。
そんなことはわかってる。もう目をそらすことなんか出来ない。メリーに“特別”という席を貰っておいて、彼女の友人であろうひとたちに醜い嫉妬を覚えている。
なんでメリーはわたしだけのメリーじゃなかったんだろうって、ただそんなことばかり考えている。
「つらい、つらいよ、苦しいよぉ、メリー」
わたしは彼女の名前を呼ぶ資格なんか在るのだろうか。
罪悪感。自己嫌悪。自己陶酔に浸って、禁断の恋にのめり込んだ、悲劇のヒロインぶる自分への後悔と憎しみ。
けれどどんなにぐちゃぐちゃの想いに身を焼かれようとも、メリーを手放すことなんてできない。できっこない。
もうわたしは、メリーのことを愛してしまったから。
「そうだ、メリーを手に入れれば良いんだ。どんな手を使っても――」
どんな手を、使っても?
「っ」
こみ上げてきた吐き気を、身体を丸めて堪える。
「げほっ、げほっ、うっ、ふぅ、くっ」
わたしは今、なにを考えていた?
手段を選ばない? それでメリーを不幸にしてわたしだけ幸せになる?
そんな未来、あってたまるか。わたしはメリーの幸せを願う。それだけは、その根底だけは揺るがしちゃいけない。
だって、それが揺らいでしまったら、わたしはもう“メリーの特別”ではいられなくなってしまうから。
「なんて、無様なんだろう。あはっ、ははははっ」
膝を抱えて、唇を噛む。
涙は流れなかった。
それで、わたしは、どうやって帰ってきたのか正直曖昧だ。
ただ無我夢中で、メリーに『風邪がぶり返した』だなんてメールをして、足取りも不確かに帰路についた。
ベッドに倒れ込むように転がって、受信済みを知らせる光が明滅するスマートフォンを抱きしめる。メッセージを開くときっとメリーは心配の言葉を投げかけてくれていることだろう。もしかしたら電話だってしてくれたかもしれない。
けれど受信履歴にメリーの名前が並んでいる様を見ることが怖くて、わたしはスマートフォンの設定をサイレントにしてベッドに放り投げる。電源をオフに出来ない浅ましい自分が、なおさら嫌になった。
「メリー、すきだよ。めりー。めりー、めりー、めりー……」
ああ、だめだ。
気持ちが溢れて止まらない。
「嫌われたくない。嫌われたくない嫌われたくない嫌われたくないっっ」
無様に嫉妬して。
浅ましくも友達面して。
厚かましく愛を請うて。
汚らわしくメリーを想う。
「どうしよう、どうしよう、メリー、わたしはどうしたらいいの?」
好きで居たい。
好きで、メリーの隣でいられるのであれば、メリーと向き合う想いが同じでなくても良いと想っていた。
けれど、メリーの隣にわたし以外の人間が居座ることだけは我慢できない。メリーが誰かの隣で、わたし以外のひとの隣で笑っているということが、どうしようもなく苦しい。
でも。
「わかってるんだ、メリー。メリーだって将来は、誰か素敵なひとを見つけて結婚して、子供を作って家庭を作る。メリーは素敵なひとだから、可愛い子供を産んで幸せになる」
もしも、メリーが男性だったら。
もしも、わたしが男性だったら。
もしも、もしも、もしも。意味の無い過程が脳みそを埋め尽くす。
「でもさ、わたしは耐えられそうにないよ、メリー」
わたし以外の誰かが。
わたしが一番望む場所で。
わたしの苦悩を知ることもなく。
わたしの葛藤をやすやすと越えて。
メリーと一緒にいる、なんて。
「いっそ、本当にわたしだけしか見られなくしてしまいたいよ」
掌に食い込んだ爪が、気がつけば紅く濡れていた。
もしもメリーに刃を突き立てたとき、わたしと同じ汚らわしい紅色が流れ出るところなんて見たくない。メリーの紅は、きっと綺麗なのだろうけれど、それでも。
縊死は汚く死んでしまうという。だから絞殺はだめだ。綺麗のままでいて欲しい。
冷凍はどうだろう。凍死は保存が利く。ああでも、喋られないメリーと居るのは辛い。さっさと後を追うのなら、それはだめだ。苦しみが少なく眠るように死ぬと聞くから、メリーに優しいと思ったのだけれど。
そうだ。毒殺なんてどうだろう。致死性が強くて、即効性。ほとんど苦しまずにメリーを――
「あ、れ?」
顔を上げて。
周囲を見て。
紅い斑を作るシーツを見る。
「なんで、なんでなんでなんでなんでなんでっ!!」
日は落ちている。
どれほど時間が経ったのかわからない。
「なんで、あはっ、わたし、メリーを殺すことなんか考えてるの……?」
やだ、やだよ。
白い画用紙に黒いペンキをぶちまけるように。
真っ白な石を暗い水底に放り込んでしまうように。
黒く淀んだ醜い思考が、頭の中をじわじわと覆い侵していく。
「あ、ははっ、あはははっ、そうか、そうだよね、メリー」
真っ黒に淀んでいく思考が、暗い闇に沈みきってしまう前に、ひとつ、最後の良心がわたしに告げる。
「――わたしは、わたしなんかが、メリーのそばに居ちゃいけない」
ひとつ、決意する。
わたしがこのまま傍に居たら、この自分勝手に塗れた醜い心がメリーを侵して、いずれはメリーに牙をむいてしまうことだろう。
だったらわたしは、たとえわたし自身がどうなろうとも、メリーの傍から離れるべきだ。
だから、気持ちを伝えてしまおう。
わたしの気持ち悪い本音を伝えたら、きっと終わらせてくれる。
「だからメリー、わたしをどうか突き放して」
――わたしが、これ以上、狂ってしまう前に――。
――7――
やるべきことは決まった。
だけどよほど体力を消耗してしまったせいか、我がことながら脆弱なことにまた体調を崩してしまい、本当に寝込むことになる。
なんてしまらない。これがメリーとの別離をいやがるわたしの拒否反応だとしたら、自己嫌悪で死んでしまう。ああいや、違う、死にたい。
「治して、早く言わなきゃ」
次の秘封倶楽部で、この感情に終わりを告げる。
そう、決めた。
けれど、どこまでいっても運命の神様とやらは優しくない。
こんな状態で言いたくなかったからそう決めたっていうのに、わたしの些細な願いはいとも容易く覆される。
サイレントにしたままのスマートフォンが、受信を知らせる明滅を繰り返す。そういえば昨日、メリーからの着信を無視してサイレントにして、そのまま放置だった。メリー、怒っているだろうか。怒って嫌ってくれるのであれば、それはそれで手間が省ける。
なんとなく着信履歴を見るのは怖かった。だから届いたメッセージだけを見る。
『また風邪? 体調管理には気をつけなさいって言ったでしょう?』
『どうしたの? まさか、電話に出られない?』
『まだ寝てる? 起こしてしまったらごめんなさい。体調はどう?』
『心配しています。起きたら、で構わないから連絡ください』
『蓮子に元気がないと、私も元気が出ないわ。連絡待ってます』
時間を置いて綴られていくメッセージ。
きっとその間に何度も着信を入れたのだろう。わたしなんかをこんなにも心配してくれている。そのこと事態は心が満たされるほど嬉しい。だけど、同時に“こう”も考えてしまう。
やっぱり、優しいメリーをわたしなんかのそばに置いてはならない、と。
「大丈夫ってだけ、言おう」
そうスマートフォンでメッセージ入力場面を開き、指を這わせる。
汗でべっとりとした指は、入力を遅らせた。その遅らせた僅かの時間に、新しくメリーからメッセージが届く。
『お見舞いに行きます。覚悟なさい』
「へ?」
覚悟しろとはどういう意味か。
いや、妙なところでテンパるメリーのことだ、心配が重なって行動に出たとかきっとそんなんだろうなぁとは思う。
だけれども、思ったところでどうしようもない。こんな体調では有言実行も出来ず、ここでメリーに遭遇してもわたしは――
「いや、そうだ、返事をしなければいいんだ」
――熱で茹だった頭で行動してはダメだ。
だったらどうすればいいか? 追い詰められたわたしに思い浮かんだのは、思いの外効果的な解決策。いかにメリーといえど、鍵が開いてなければ部屋に入ってくることなんか出来ない。
だったらこのまま返事をせずに寝てしまえば良い。せっかく来てくれたところを追い返すことはつらいけれど、こんな状態で遭遇するわけにはいかないのだから。
「これで、なんとか、だいじょうぶ」
ろれつは回らない。
重くなっていく瞼を自覚して、わたしは風邪を治すためにもしっかり眠ることにする。起きたときに入っているメッセージに、メリーからの諦めの言葉が入っていることを、強く願いながら。
――まどろみから、緩やかに意識が浮上する。
今は何時だろうか。あれからどれほど時間が経ったのだろうか。
未だに身体のだるさも熱も抜けていない。どころか、重くなった気さえする。気持ちの問題だろうか。病は気から。気がこんなんでは、良くなるモノもならないか。
自嘲しながら、手探りでスマートフォンを探す。どの程度経ったのかわからないけれど、そろそろ返事ぐらいあるだろう。きっと、諦めて帰ったとか、そんな反応が送られてきているはずだ。
……そうじゃないと、困る。
「あれ、すまーとふぉん、どこだろ」
「お探しのモノはこれかしら?」
「うん、そう、ありがとー」
スマートフォンを起動する。
メッセージに新しいモノはない。
「あれ? なんでだろう?」
「なにに不思議がっているのか知らないけれど、まず水を飲みなさい。それから何でも良いから食べて薬を飲みなさい」
「みず、みず、ごはん、くすり……」
「ご飯は緊急事態だから勝手に炊かせて貰ったわ。水は今、注いでくる」
「うん、ありがとぅ、め……」
あれ?
なにか、おかしい。
気怠い身体を気合いで動かして、ゆっくりとベッド脇を見る。
淡い金の髪。白い肌。青い目。呆れたような表情。美しいかんばせ。
逢うことを願って、会い続けることを拒否した少女。わたしが希う大切なひと。
決意を込めて、治ったらすべてに決着を付けよう。そう決めたはずなのに。そう決めて、実行してみせると誓ったのに、メリーは何故か、さも当たり前のような表情で、わたしのことを見つめている。
「め、りー?」
「はい、そうよ、メリーさんよ」
「なん、で」
「管理人さんに事情を話して合い鍵借りたわ」
「い、つ」
「たっぷり一時間は、寝顔を眺めさせて貰ったかしらねぇ」
「ぇ、あ、ぅ」
言葉にならない。
熱で浮かされた脳みそは、沸騰してしまいそうなほど強い熱を持つ。風邪とは違う心臓の脈動が、どこか苦しい。
嬉しい。
愛しい。
苦しい。
辛いよ。
傍に居て。
望ませないで。
だめだよ。
これ以上、わたしを狂わせないで、メリー。
「とりあえず、水を持ってくるか、ら……っ?」
離れようとするメリーの手を掴んで、どこにそんな力があったのやら、わたしはメリーをベッドに引きずり込む。
重く苦しい身体。けれど火事場の馬鹿力とでもいうのだろうか。わたしはメリーを逃がさないために彼女の上に馬乗りになる。それから、力を振り絞ってメリーの両手を彼女の頭の横で、わたしの手で拘束した。
「蓮子……?」
綺麗な瞳。
戸惑いに揺れていても、あなたの瞳はどこまでも澄んでいるんだね。
叶うことならば、このままベッドに縛り付けて、あなたをわたしの手で嬲り尽くしてしまいたい。
朝も昼も夜も平日も休日も過去も今も未来も、わたしだけをその瞳に映させたい。隠しようのないわたしの本性。醜く汚れた心の声。
「メリー」
「どうしたの? 蓮子? ――悲しいの?」
こんなときでも、ひとの心配?
もっと自分の心配してよ。いやがって身を捩って、助けを求めて突き飛ばしてよ。そんなに優しいんじゃ、蓮子さん、メリーさんの将来が心配だよ。
鎖を付けて羽をもいで閉じ込めてしまえば、そんな心配なくなるのかな。あなたがわたしだけを見てくれるのなら、そんな心配必要ないよね。
「メリー、わたし、は」
でもね、わかっているんだ。
そもそもわたしのような傷つけようとする人間が、我が物顔でメリーの隣に経っていることこそが何よりも罪なんだって。
だからね、メリー。あなたはもう、わたしなんかの傍にいちゃだめ。あなたを護ってくれるひとを、傍に置いて? メリーならきっと、素敵なひとと巡り会えるから。
「メリー」
唇が震える。
心臓が痛い。
息が苦しい。
喉が、軋む。
「わたしは、メリーのことが」
さぁ、これで終わりにしよう。
わたしの醜い恋に、終わりを告げよう。
「――すきだよ」
だから、メリー。
「わたしはメリーのことが好き。あなたの全てが欲しいと願うくらい」
右手で、メリーの頬に手を当てる。
きっとわたしは今、情欲に塗れた汚らしい表情を見せていることだろう。
「だから、お願い、メリー」
だから。
「――わたしのことを、受け止めて」
――わたしのことを、突き放して。
お願い。
これ以上わたしに、あなたを傷つけさせないで、メリー。
「蓮子、あなた、何を言っているの?」
メリーの言葉に、身体が震える。
自分から望んだことだというのに、なんと無様なのだろう。わたしはメリーに突き放されることを強く望んで、ひどく怯えている。
だけどね、メリー。
同時にわたしは、安心しているんだよ。
これでようやくメリーは、わたしと、わたしなんかと離れることが出来るのだから。
「おかしな蓮子ね、どうしたの? 急に」
それなのに。
「私も、蓮子のことが好きよ。ふふっ」
やっとこの苦しみを終えられると、そう思ったのに。
「だってあなたは――」
やめて。
「私の、“とくべつ”な」
お願い。
その続きを、言わないで。
「“親友”だから、ね」
そう言って微笑むメリー。
その笑顔を見たときに、わたしの心の中で、何かが砕けた。
「今日は甘えん坊ね。一緒に寝る?」
その言葉、ずっと欲しかったよ。
でもね、メリー。欲しいコトバとは違うんだ。
「と、その前にお水ね。あと、ご飯とお薬」
わたしの本気も。
わたしの決意も。
わたしの憎愛すらも。
「ほら、いつまでそうしてるの? さっさと退きなさい。風邪、早く治しましょう?」
あなたには、なにも伝わらないんだね、メリー。
「よいしょっと。じゃあ、水、持ってくるわね」
それなら、良いよ。
もうどうだって良い。
応えても突き放してもくれないのであれば、もう、わたしだけしかわからないようにすればいい。
「あなたは休んでいて、蓮子」
メリーの姿が部屋から消えていく。
水を取りに行ってくれたのだろう。やっぱり、メリーは優しい。
でもね、メリー。あなたの優しさがわたし以外のところへ向けられるなんて、わたしには到底、受け入れられないんだ。
「ふっ、あはっ。あははははっ! メリー、わたしは――」
だからわたしは、選ぶよ。
メリー。
――8――
メリーの手厚い看護もあって、わたしの風邪はすぐによくなった。
それからはまた、表面上の日常が続いていく。大学に行って、まるでこれまでのようにメリーと秘封倶楽部の活動を続ける日々だ。
あれから、わたしはメリーが誰と居ても気にならなくなった。いや、正確には少し違う。我慢できるようになった、というのが正しいだろう。
例えばメリーが見知らぬ男性と話していても。
例えばメリーが見知らぬ女性と親しげにしていても。
もうすぐわたしのものになるのだから、と、そう考えれば気持ちも落ち着く。
「メリー、愛してる。あはっ、はははっ」
誰かと楽しげに話すメリーを、わたしは物陰から眺める。
愛しい愛しい、わたしのメリー。二人きりになったらなにをしようか。そうだ、美味しい料理を並べて、ワインを注いで乾杯しよう。それに“茨姫の眠り薬”を混ぜてメリーと永遠に二人きりになれる時間を作ろう。永遠。なんて良いコトバなんだろうか。だってメリーとずっとずっとずっと二人きりという意味だ。メリーもわたしを愛してくれるかな。でも時間はいくらでもあるんだ。事切れたメリーの横でわたしも一緒に眠りにつけばいくらなんでも鈍感すぎるメリーだってわたしのことを振り向いてくれるに違いない。人間、長く共に居ればたとえ相手が自分を人質に立てこもる殺人犯や強盗だったとしても情がわいて恋に落ちるのが人間だ。今だけはその浅ましさに感謝しよう。だってそうすればわたしとメリーが相思相愛になるんだから。なんてなんてなんて楽しい想像なのだろう。そしてこの妄想は現実になる。だってだってもうすぐもうすぐもうすぐもうすぐわたしのひがんがかなえられるのだから。
「愛してる、愛してるよメリー」
好きで好きで、もう我慢できない。
うっかり合い鍵を用意してしまうわたしのマンションの管理人は信用できない。だから申し訳ないけれど、メリーの部屋を借りさせて貰おう。
色々と準備が必要で時間が掛かってしまったが、なんとか終えることが出来た。あとはメリーの承諾を願わないと。準備が終えている以上、別に今日がダメでも構わない。ああでも、やっぱりできるだけ急ぎたいなぁ。メリーがわたし以外のひとをみるなんて、やっぱり気分の良いものではないし。
『蓮子さん完全快気祝いに、メリーさんのおうちで快気宅呑みを所望します』
わたしのメッセージに反応して、メリーは親しげに会話をしていた誰かに断りを入れて、スマートフォンを見ているようだ。
『まぁ良いでしょう。なにがたべたい?』
“誰か”よりもわたしを優先して返事をしてくれる。些細な行動が嬉しい。
『メリーさんの手作りならばなんでもよろしいです』
『そう。お酒は?』
『用意済み』
『周到ね』
もちろん。
今日でやっと願いが叶うのだ。周到にならないはずがない。
『今日は秘封倶楽部の活動はお休み! パァっとやろう!』
だからね、メリー。
『ええ、いいわ。仰せのままに』
今日、わたしは、あなたを殺します。
メリーの部屋は高層マンションの最上階ということもあり、都市の夜景が一望できる。
煌びやかなネオンと幾ばくかの星。運の良いことに今日は満月だったから、眺めは最高だ。
「では、乾杯!」
「はい、乾杯」
メリーとグラスを打ち付けて、二人でシャンパンを呷る。
アルコールが身体の中を駆け巡っていく陶酔感。強めのアルコールだったからか、勢いよくワイングラスのいっぱいも飲み干せば、すぐに身体は熱く火照った。
「短期間で二度も風邪になるなんて、本当に珍しいわね」
「わたしも初めての経験だよ。もうこりごりかな」
「そうでしょうねぇ」
短期間で二回というのは辛い。
もうすぐ味わうことのなくなる感覚だとはいえ、知りたい感覚でも無かった。ああでも、メリーに看病されるっていう素敵なイベントが二度もあったということは忘れられないなぁ。
うん、風邪万歳。
「それにしても、メリーは料理上手だよねぇ」
「蓮子はやらないだけでやれない訳ではないでしょう?」
「やりたくないからね。やっぱり料理は食べるに限るよ」
「ふふっ、なにそれ。もう」
グラタン。
ピラフ。
生ハムのサラダ。
アヒージョ。
ゴルゴンゾーラのニョッキ。
バーニャカウダ。
どれもこれも舌鼓を打つような出来ばかり。
こんなに出来たひとがわたしのものになるなんて、嬉しいことこのうえない。まぁもっとも、メリーの手料理を食べられるのは今日で最後だ。
十二分に堪能せねば!
「ここのところなんだか元気がなかったみたいだから心配したのだけれど……」
「はむ、はむ、んぐ、おいしい。……ん? なに? メリー」
「ふふっ、その様子なら、問題なさそうね」
メリーはそう、わたしに向けて柔らかく笑う。
うん、その笑顔、すごく良い。永久保存永久保存。魂のHDに刻み込んでしまえば、この記憶は永遠だ。たとえ死んでも消してなんかやれない。あはっ。
「ほら、汚さないの。口元くらい拭いてちょうだい」
「えー、メリー拭いてー」
「子供扱いして欲しいのかしら?」
「大人扱いして欲しいのよ」
メリーはぶーぶーと文句を言いながらも、苦笑して口元を拭いてくれる。
優しいなぁ。慈しみの溢れる瞳。うん、母性だね。
メリーの娘なら、こんな気持ちは抱かなかったのかな。
「メリーの手は、冷たいね」
「蓮子の手が温かいだけよ」
「わたしの心が冷たいのかな」
「熱すぎて熱が漏れてる、の方がしっくりくるわ」
「あははっ、なにそれ。メリーは外に漏れずに内側で燃え続けているのかな」
「あら、案外冷酷な人間かも知れないわよ」
「ないない。メリーはとてもすばらしいひとだと、この宇佐見蓮子様が保証するのですよ」
「あら、それなら安心ね」
「そうそう、安心安心」
言葉を交わして。
瞳を交差させて。
笑顔を見せ合い。
共に声を上げる。
もう、共に眠りにつくのなら、この光景は永遠に訪れない。
だから最後の最後まで、たっぷりと堪能しなければ、ね。
「ふぅ、お腹いっぱい! おいしかった!」
メリーと過ごす時間は、あっという間だった。
楽しい時間ほど過ぎていくのは早い。それは仕方の無いことなのだろう。楽しむな、勤勉に励めという偉いひとのお達しなのだ。
「そうね、ちょっと作りすぎたかも知れないと思ったのだけれど、ちょうど良かったわ」
夜景の一望できるソファーに腰をかけると、メリーもわたしの隣に並んで座り込む。
「美味しいからね」
「ふふ、ありがとう。お粗末様」
楽しく食事をして、お酒を飲んで高揚し、ロマンチックな光景を一望しながらソファーに並ぶ。
雰囲気はばっちりだ。これ以上はないと言っても過言ではない。
だから、だからね、メリー。
わたしとメリーに、最後のチャンスをちょうだい。
「ねぇ、メリー」
「どうしたの? 蓮子?」
メリーの瞳を見つめて、この想いが、伝わるように。
「わたしは、メリーのことが、すきだよ」
でもね、メリー、わたしはわかっているんだ。
「すごくすごく、特別な“すき”なんだ」
わたしがどんなに想いを伝えようとも。
「メリーは? わたしのこと、どう思っているの?」
わたしがどんなに、あなたを求めようとも。
「もちろん」
あなたはそれに、応えない。
「私も、蓮子のことが好きよ。だってあなたは――」
わたしの苦悩も。
わたしの葛藤も。
わたしの意思も。
わたしの憎愛も。
何一つだって、くみ取ってはくれない。
「――私の、“特別”な“親友”ですもの」
ああ、そうか。
「そっか」
やっぱりだめだ。
「そうよ」
今、確信した。
「ねぇ、メリー」
もう。
「なに? 蓮子」
わたしは。
「夜景を肴に、いっぱいやろうよ」
後戻りできない。
「ふふ、良いわね」
メリーを座らせたまま、わたしはテーブルにワイングラスとシャンパンを取りに行く。
シャンパンはその場で注いでしまい、メリーのグラスにかなり強めの睡眠薬をあらかじめ水に溶かしたモノを流し込んだ。
持ってきた睡眠薬はひとつ。わたしは他の方法で構わないから、メリーの分だけだ。
「お持たせ」
「ありがとう」
メリーの隣に並んで、グラスを手渡す。
メリーは疑いもせずに柔らかな笑みでお礼を言って、受け取ってくれた。
「それでは、“永遠の秘封倶楽部”に」
「なぁに、その文句? まぁ良いわ、ふふっ、乾杯!」
「乾杯!」
メリーはワイングラスを上品に傾けると、喉を艶美に動かして飲み干す。
わたしもメリーに習って飲み干してみせるが、わたしのお酒とメリーのお酒は少々内容が違う。
「あ、れ? なんだか、ねむ、け、が」
かしゃん、と、メリーの手からこぼれ落ちたワイングラスが、フローリングに落ちて割れる。するとメリーはソファーに倒れ込むようにして眠りについた。
心療内科で眠れないと偽って処方して貰った、ちゃんとした眠剤だ。効果が出ないはずもない。これでメリーはもう、なにをしても起きることはないだろう。
「ねぇメリー、好きだよ。あはっ」
眠り姫に覆い被さり、白くなめらかな頬に手を添える。
ずっと欲しかった唇がそこにあった。
「わたしもすぐにいくからね。だからおやすみ――メリー」
そうしてわたしは、片手でメリーの鼻を押さえ、唇を重ねる。
本能からか僅かに身を捩るが、完全に眠りについたメリーの身体は、それだけでは自由を取り戻すことなど出来ない。
何分そうしていたことだろうか。大きく一度、二度とメリーの身体が痙攣して、やがて、ゆっくりと力が抜け落ちていく。
「これでもう、永遠に、あなたはわたしのものだよ、メリー」
口元に手を当てて確認をする。
もうメリーは息をしていない。
あっさりと意識を手放して、あっさりと永久の眠りについた。
「ふふ、あはははっ、あはははははっ、あははあはははははははははあははははははあああははっっっ!!!!」
ふと、メリーと最後に見た夜景を見る。
ガラス窓に映るのは、狂ったように笑うわたしの姿。
メリーの頬に手を添えて、狂人のように声を上げて、笑いながら涙を流すわたしの――
「あれ?」
――なんで、わたしは泣いているんだろう。
「お、おかしいな、これ以上無いくらいにうまくいって、うれしいはずなのに」
口元は笑みの形に歪んでいる。
だが、私の両目からは、留処なく涙が流れ続ける。
「止まれ、止まれ、とまれ、とまれ! なんで、なんでよ! 止まってよ!!」
メリーを殺した。
もう二度とメリーはわたし以外の人に笑いかけない。
メリーの笑顔は、わたしだけの――
「わたし、だけ、の? あ、あははは、なにいってんだろ、わたし」
――もうわたしにすら、笑いかけてくれないのに。
「あ、あはっ、あはははっ、なにいってんの? 当たり前じゃん。だってメリーはもう、死んで、あああ、し、死んでいるんだ」
眠っている?
一緒に居られる?
死んで、後を追いかけて、その後は?
その後なんか、本当にあるの?
「あ、ああああ、ああああああああああああ、あああああああああああああッッッ!!!」
やだ。
やだよ、メリー。
なんで、こんなときに正気に戻るの?
取り返しの付かないことをした。もう、後戻りは出来ない。メリーは確かにわたしがこの手で殺して、もう二度と目覚めない。
『好きよ、メリー。あなたは私の、特別な親友だから』
わたしに向けて笑いかけてくれることは、もう、二度と無い。
だって他でもないこのわたしが、その機会を永遠になくしてしまったのだから。
「本当に、わたしは自分勝手」
メリーの死体は、まだぬくもりがある。
だからわたしは死んだときにメリーのうえに覆い被さるように、彼女を見下ろしながらナイフを手に取った。
首筋に当てて強く引き絞れば、多少時間が掛かっても、死ぬことは出来るだろう。
「せめて陶酔したまま死にたかったかな、なんてね」
もう狂うことは出来ない。
でもメリーのいない人生に、価値は見いだせない。
だから、苦しみながら死ぬことは、他でもないわたしへの罰。
「メリーはきっと天国ね。でもわたしは地獄におちるから、これでお別れ」
ナイフは冷たく、アルコールで火照った身体をひどく緊張させた。
押しつけるだけでは切れない。勢いよく引かなければちゃんと切れない。
苦しむことは確定事項。それはわたしへの贖罪だから、受け入れる。でも中途半端に生き残ってしまうのは嫌だった。
「さようなら、メリー」
もう、逢うことはないけれど。
「ごめんね、ごめんなさい、メリー。それから――ありがとう」
そうしてわたしは、ナイフを一息に――
「っ」
――引き絞ることが、できなかった。
「っあッ」
ナイフを取り上げられて、ソファーに押し倒される。
フローリングを滑っていくナイフの音が、妙に鮮明に響いた。
「な、んで」
「蓮子」
「あ、あああ、ぁあああああぁあ」
わたしがこの手で、殺したはずなのに。
わたしがこの手で、死を確認したはずなのに。
メリーがわたしに、覆い被さっていた。
「私は、小さい頃から不眠気味でね。睡眠薬を定期的に処方して貰っているの。だからあの程度の眠剤では、簡単に眠りにつくことなんか出来ないわ」
「だ、ったら、なん、で」
「あなたの真意が知りたくて、息を止めて死んだふりをしていたの」
生きていた。
聞かれていたことなんて、もうどうでもいい。
今から突き放されて、殺人未遂で牢屋に入っても構わない。
そんな些細なことよりも、メリーが生きていてくれたことが、なによりも嬉しい。
「ごめん、なさい、ごめんなさいっ、ごめんなさいっ、ごめんっ、ね、メリーっ!」
嫌われても良い。
憎まれても良い。
ただ生きていてくれたことが、それだけが嬉しいから。
「謝るのは、私の方よ、蓮子」
だけれど、メリーはそう言って、わたしを抱きしめた。
「なん、で?」
「私はね、蓮子。あなたの気持ちに気がついていたの」
「ぇ?」
メリーの吐息が、首元にかかる。
だからだろうか、メリーの言葉をすぐに理解することが出来なかった。
「でも今までの関係が崩れてしまうことが怖くて、あなたを理解できなくなってしまうことが怖くて、ずっと目をそらしてきた。けれど見知った睡眠薬の味がして、蓮子が心からどうしたいのかが知りたくなった。私があなたに、なんて応えたいと思っているのかが知りたくなった」
だからね、と、メリーは言葉を句切る。
「謝らなければならないのは、私の方。ずっと、ずっと一人で苦しめてごめんなさい!」
そうして、メリーはわたしをさらに強く抱きしめる。
震える手。首元にこぼれ落ちる熱い滴。泣いてるの? メリー。
「私は蓮子を失いたくない! 特別な親友なんかで満足できなかったのは、きっと、私の方だった。だからなんどもなんども貴女に、私たちは親友でしかないと言って、自分自身に思い込ませていた! でも!」
顔を上げたメリーの瞳は、涙で濡れている。
わたしのために、泣いてくれている。
「私は蓮子が好き。いいえ、私は蓮子のことを、愛してるわ」
ずっと、欲しかった言葉だった。
ずっと、求めていたことだった。
ずっと、請い、願っていた想いだった。
「わたしは、メリーを、好きで居ていいの?」
「ええ。そうでないと、苦しいわ」
「わたしは、メリーの隣に居ていいの?」
「ええ、ええ。当たり前じゃない」
「うぁっ、わたし、わたしも、メリーがすきだって、う、ぁぁっ、いってもいいの?」
「私も、っ、私も、蓮子のことが好きだから!」
「うぁっ、ああああぁっ、メリー、メリー、メリーメリーメリー!!!」
強く、強くメリーを抱きしめる。
メリーと同じ気持ちで、彼女を求めることが出来る。
手に入らないと思ったのに。もう、後悔に苛まれた結末しか無いと思ったのに。
「私を好きでいてくれて、ありがとう。蓮子」
「わたしを好きになってくれて、ありがとう、メリー」
メリーの唇が、ゆっくりとわたしに落ちてくる。
メリーを死に追いやろうとした時とは違う、幸福に塗れた感触がわたしを包み込む。
ありがとう、メリー。
「ありがとう、蓮子。それから――」
最後の言葉は、聞き取れない。
間抜けなことにメリーの唇に残っていたのであろう、微量の睡眠薬を舐めとってしまっていたのだろう。抗いようのない眠気に、瞼が落ちていく。
どうか、目が覚めても隣に居て。
そう願い込めて笑いかけると、メリーもまた、微笑み返してくれたような気がした。
――0――
GIFT【独】
:毒
「――ごめんね。もう、あなたを放してはあげられないの」
私が服用した睡眠薬を舐めとってしまい、眠りに落ちた蓮子に語りかける。
涙の跡の残る顔も、今は穏やかだ。よほど安心したのだろう。
「ふふ、思えば長かったわ。ねぇ蓮子? 私、頑張ったのよ?」
健やかに眠る蓮子の頬に、手を這わせる。
柔らかくて暖かい、健康的な肌だ。蓮子は手が冷たいひとの方が心は暖かいといっていたが、私は逆だと思う。
だってそうだろう。欲しい人を手に入れるために葛藤できる人間が、優しくないはずがない。
「蓮子、あなたはとても優しい人よ。私は蓮子みたいにはできないもの」
欲しいモノがあれば、どんな手段を使っても手に入れる。
そうでなければ手に入らないかもしれないのに、意思を慮って手に入れ損ねるなんてばかばかしい。
「でもそんなあなただからこそ、私はあなたに惹かれたのかも知れないのよね」
思えばずいぶんと時間が掛かった。
欲しいと願って。
欲しいと行動して。
慎重に慎重に、鳥が檻の中に誘われていると気がつかないよう。
ゆっくりと忍び寄り、空中に張られた蜘蛛の糸に蝶を絡め取るように。
「あの楽しくも辛い日々も、今日でおしまい。だってもう、あなたは私の籠の中」
さぁ、蜜月を始めよう。
「ふふふっ、あはははははっ、あははははははっ」
この醜く退屈な世界で。
鮮やかで美しい、あなたと共に――。
――Ⅰ――
自我を持つ頃には、私の価値観は完成されていた。
生まれ持った全能感。一目見れば全て、十年努力した人間の上をいく天賦の才。
両親は将来の後を継ぐ人間として私の存在を祝福し、同時に、自分たちの理解できない化け物として恐怖していた。だからだろう。中学を上がってすぐに高層マンションの最上階を与えられて、両親も親戚も私から離れた。
けれど、私にはどんな感情を向けられてもどうとも思わなかったということを、何年もたって覚えている。
何故、だなんて考える必要も無い。足下で人間に恐怖する蟻の気持ちなんて、私には少しも関係なかったから。
退屈な世界。
私が動けば、全てが良く回る。
生まれ持った不思議な能力。結界を見る力と認識していたが、実際は境界をのぞき見る力で、人の心の境界をのぞき見れば欲しいモノは、欲しい言葉はすぐにわかる。
だから誰も彼もが私に傾倒して、狂っていく。
どうか自分に祝福を。どうか自分に恵みを。私が助言して少し力を貸せば、それでなんでも解決していくから。
高等学校は詰まらなかった。
自分以下の人間に教わることなんてなにもなかったから。
せっかく良い教授が集まっているという大学に通ったのに、高校と同じ。同級生も教授も誰も、わかりきったことしか言わない、格下の存在ばかり。
色あせた日常。生きているのか死んでいるのか自分でもわからない。退屈に塗れた世界に、ひとりざぶざぶと溺れている。
そんな、息苦しさに塗れた世界に藻掻いていたときだった。
私が、彼女に出会ったのは。
「ねぇあなた! わたしと神秘を暴いてみない?」
第一印象は、「へんなひと」で。
「神秘を暴く? ……変な遊びね。遠慮しておくわ」
「まぁまぁそう言わずにさ! 良い? 世界には魅力的な秘密で溢れているのよ! 暴かずに、科学で解明、プラズマに決まってるとか常識に縛られて目をそらすなんて、もったいないと思わない?」
それから、ことあるごとに声をかけられた。
黒い帽子が視界の端に映る度に、なんとなく気まずような、むずがゆいような気持ちになったことを覚えている。
でも不思議と、嫌な気分をしたことはなかった。
「ハーンさーん、ハーンさーん、蓮子さんの勧誘の時間ですよー」
「またあなたなの。ねぇ、いったいどうして私に声をかけるの? 他にもいくらでもいるでしょうに」
宇佐見蓮子。
そう名乗った彼女の周りには、なにかと人が多い。明るく分け隔てのない彼女の傍は他の人間たちにとっては居心地が良いのだろう。
私も“世渡り”なんて呼ばれるモノはひどく簡単なモノだったから、ちょっと人の心をくすぐれば、人の心の境界に目をやれば、人は私に簡単に心酔した。だが、そうしているのともまた違う。
宇佐見蓮子という人間の周囲は、常に自然体だったのだから。
「だってさ、いつもつまらなそうじゃん」
「え……?」
「世界には不思議で、綺麗で、面白いモノがいっぱいあるんだよ? そんな顔してたらもったいない――」
「なにそれ、同情?」
「――って、最初は思ってたんだけどね」
「え、と?」
彼女は私の隣に腰を下ろすと、ふと、空を見上げた。
夕暮れの空。薄く浮かび上がる星と月。その光景を私は忘れたことがない。
「あなたを見ていたら、仲良くなりたくなっちゃったのよ。だからこれは、わたしの我が儘!」
「仲良くって、それは、いったい……」
「うーんと、もっとシンプルに言おう」
「え、ええ、お願い」
その時の、その光景を、私はきっと生涯忘れることはないだろう。
「友達になりたい。だってきっと、あなたと暴く神秘は、魅力に満ちていそうだから!」
そう自信満々の笑みで告げる彼女の姿を中心に、世界が鮮やかに色づいていく。
彼女だけが、蓮子だけが、私の才覚も性格も全て知っているのに私を対等として、心の底から対等な“友達”として求めてくれた。
たったそれだけのこと。そう断ずるにはあまりにも、私という人間は突出しすぎている。そんなことは生まれたときからわかっていたからこそ、世界はセピア色で、退屈なモノトーンであったのに。
夕焼けは茜色。
空は薄紫に染まる。
笑いかける彼女の瞳は黒。
髪と同じ、優しい夜の色。
薄く桃色に色づく唇は、柔らかな色合い。
世界は、こんなにも美しかったんだ。
私はこの瞬間、初めて、この世界に生まれて息をした。
「ふふ、そう、そうなんだ」
「そう! それで、返事はどう?」
「そうね、ええ、私の負けだわ――宇佐見さん」
それが始まり。
親にも世界にも興味の無かった私が、初めて他者を内側に入れた。
生涯唯一となる、最高の隣人を手に入れたことで、本当の私が始まった。
そして私は、同時に知ることになる。
退屈な世界では、到底理解できなかったこと。
幸福を得るということは――真逆の恐怖を知らなければならないということを。
――Ⅱ――
蓮子、メリー。
私たちがそう呼び合うようになるまで、さほど時間は必要なかった。
東に幽霊が出れば赴き。
西に妖怪と噂たてば調べ。
南に伝承在れば足を向け。
北に神秘在れば暴きに往く。
「だからね、メリー! この伝承はわたしが思うに――」
「待って蓮子、早計よ。こちらの記述によれば――」
蓮子と過ごす日々は、あまりにも居心地が良く、そして何よりも楽しくて仕方が無い。
私とはまったく違う視点。頭の良し悪しではなく、発想と行動で私を驚かせ続けることが出来るというポテンシャル。
何一つ、どれ一つとっても、興味の惹かれない部分などない。私を世界に引きずり出した暖かい手。その手に私は、きっと他の誰よりも惹かれていった。
「それじゃあメリー、今日の活動はここまで! また明日っ」
「ええ、また明日」
けれど、同時に、この頃になって新しく生まれた感情が存在する。
「また明日、か。明日まで、またひとり」
寂しい。
苦しい。
愛しい。
欲しい。
渦巻く感情が、私をとらえて放さない。
宇佐見蓮子という人間の周りには、老若男女問わず様々な人が集まる。
もしもその中に蓮子が“マエリベリー・ハーンよりも好奇心を刺激する存在”と出会ってしまったら?
その時、蓮子はきっと分け隔て無く私とその存在と接することだろう。持ち前の明るさと人間的魅力で、自分を囲う人間を次々と増やしていくことだろう。
私には、蓮子しかいないのに。
「私だけを見て欲しい。なら、どうする?」
私以外に、蓮子の傍に居る人間なんて必要ない。
だったら蓮子を私に依存させて、私以外の誰をも望めなくなるようにしてしまえばいい。
これで対象が凡人であったのなら、心のスキマをついて私に酔わせてしまうだけで良い。だが、蓮子となると話は変わってきてしまう。蓮子は弱い人間ではない。だからこそ私は、慎重に、策を積み重ねなければならない。
蓮子に発覚しないように、慎重を期して。
「そう、慎重に。蓮子の心の隙間を、ほんの僅かでも見逃さないように」
もしも、その瞬間をとらえることが出来たのであれば、それが私の正念場だ。
蜘蛛の糸に絡め取り、真綿で縛り付け、愛という名の鳥かごに入れるまで私は片時たりとも気を抜くことなどできない。
誰よりも臆病な私だからこそ、蓮子を手放すこと無いように、ほんの僅かな見落としすらも許してはならない。
そうすれば、そうした先には、きっと今よりももっと鮮やかな世界が待っている。
蓮子と私が、私たちだけが互いを求める夢のような世界が待っている。そう考えればいくらでも頑張ることが出来るのだから。
「そう、そうよ。まずは隙間を見つけないと。誰よりも何よりも、蓮子が私だけを見てくれるように考えないと」
私は蓮子と出会って、この上ない幸福をしることができた。
「ふふっ、あはははっ、こうしてはいられないわ」
だがそれは、同時にもう一つの可能性を示す。
「より精密に、より細微に、到着地点までの道程を築かなければ」
それは、“失う”ということ。
もしかしたら“失う”かもしれないという、可能性。
「確実に、完璧に、完全に、蓮子を手に入れるために」
幸福を得るということは、不幸に怯えるということだ。
幸福も不幸もなにもない退屈な世界でまどろんでいた私に突きつけられたのは、そんな単純で明快な世界の理。
そして、知ればもう逃げられない、運命の道。
「ここから先は、振り向かない」
蓮子を手に入れるために、無駄な時間などひとつもないのだから。
――Ⅲ――
蓮子を手に入れると決意した私が最初に行ったのは、剪定だった。
蓮子の周りを飛び回る価値のない蠅に、身の程を教えてやらなければならない。
だが、もし万が一にでも蓮子に知られるわけにはいかないから、あくまでも間接的にことを行う必要があった。
偶然を装い、別人から辿り、間接的に罠に嵌めて、時にはお金の力すら使い、弱みを握って蓮子の傍から離れさせる。徐々に人が居なくなるにつれ、私だけは時間を作って会いに行くと、蓮子は必然的に私と一緒にいる時間が増えていく。
そうした生活を一年ほど続けてきたときだろうか。
ついに私に、転機が訪れる。
「だからね、メリー! 忌々しき事態なのよ」
蓮子が持ってきた話は、ありきたりな怪談話だった。
よくある町おこしの妖怪騒動。けれど持ち前の勘が彼女の琴線に触れたのだろう。その瞳は好奇心に満ちていて、色鮮やかに輝いているように見える。
「なんとも都合の良いことに、明日からゴールデンウィーク! となれば……」
「遠出、という訳ね」
「いぐざくとりー! そういうことそういうこと」
蓮子の提案に、私もまた心躍る。
蓮子と二人きりで旅行となるのだ。気分が高揚しないはずはない。
二人で旅行に出かけることは初めてではない。初めてではないからこそ、覚えのある幸福に胸が躍る。
蓮子のぬくもりを間近で感じながら過ごせる夜ほど幸福な時間を、私は今まで味わったことなどないのだから。
翌日には、一緒に電車に乗り込んだ。
妖怪談義に花を咲かせ、盗み見る蓮子の明るい表情に心を躍らせる。
それはほんの些細な光景。だけれども、私にとっては何よりも求める時間。
そんな楽しい時間は、当然のことながらあっという間に過ぎていく。
今日もいつもと同じ。私たちの関係はなにも変わらない。そのことは非常に苦しいが、こればかりは焦ってどうにかなるものではない。
だからじっくりと、自分の身体が溶かされていることにも気がつかない、食虫植物に取り込まれた憐れな蝶を眺めるように、じっと待たなければならない。
そう、思っていたのに。
「蓮子は、卒業したらどうするの?」
ほんの些細な問いかけ。
蓮子とより長く会話を続けるための、適当な話題。
「うーん、決めてない! と、言いたいところだけれど、大学に就職も悪くないかなぁって思う。メリーは?」
「そうね。私は私で大学に残ろうかしら?」
「院?」
「そういうこと」
気軽で、けれど心地よい会話を繰り広げる。
それだけで終わってしまう、はずだった。
「その後は、海外にでも飛ぼうかしら」
それは、ほんの小さな冗談。
「え、海外行っちゃうの? メリー」
けれど、ほんの僅かに――蓮子の心の境界が、揺らいだ。
「まだわからないけれどね」
その瞬間の私の気持ちが、蓮子にわかるだろうか。
ずっとずっと罠をはり待ち続けていた瞬間が、ほんの小さな一言で降りてきてくれた。
その私の喜びが、どこの誰に理解できようか。
「ふふ、なに落ち込んでいるのよ」
拗ねたような顔。
「そういうんじゃないけどさぁ」
蓮子自身もわかっていないのだろう。
どこか傷ついたような表情をしている。
「……どこに居て何をしていても、私たちは親友よ。それじゃ、不満?」
不満?
ふふ、蓮子、あなたは今、とても不満そうな顔をしているのよ?
「不満じゃ、ないです、メリー先生」
私はなんて運が良いのだろう。
揺らぐスキマ、浮き出る境界。
今、蓮子の心は蓮子自身でも理解できないであろう感情が、渦巻いている。
「なによその先生、って。もう」
その感情は、未だ友情の域を出ることはないだろう。
だから私はこの旅行を切っ掛けに、一つの大きな楔を打とう。
心の隙間を読み取って。
一番響く行為と言葉を積み重ねよう。
もはや運命は、私の手の中にある。誰にも、どんな存在にも、私とメリーの間になんか入れてやらない。
そのことを証明できると思うと、また、大きく胸が高鳴った。
秘封倶楽部の調査活動に入ると、一時的に蓮子の心から葛藤のようなモノはなりを潜める。
私と冒険することを喜んでくれるのは嬉しいが、今は他にやらなければならないことがある。そのためにはより盤石に、より完璧に、場を整えなければならない。
蓮子が見つけてくるスポットは、何故か必ず何かしらの神秘を内包している。
それは彼女自身の勘の良さか、はたまた非常に鼻が利くのかはわからない。だ一つ言えることがあるとしたら、今回の調査する場所も、一目で尋常じゃないとわかる場所だった。
だから私はあえて、蓮子には“まだ結界は見えない”といって歩かせる。吊り橋効果というものがあるように、危機的状況は心の動きを活発にさせる。空振りだったとしても、妖怪ごときを私の蓮子に指一本触れさせない。
本当に危険なようだったら、結界が見えたといって戻れば良いのだから。
チャンスを逃してはならない。
ずっと待ちわびてきた瞬間だからこそ、焦ってはならない。
洞窟の中。
――蓮子の心に緊張が満ちる。
風の音と差し込む光。
――安心と緊張からの解放。
妖怪の出現と逃走。
――焦燥と恐怖。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ、蓮子、いざとなったら私を置いて」
――驚き。困惑。
「置いていくわけないでしょ! 怒るよ!」
――怒り。それから……失うことへの恐怖
ああ、求めていた感情の動きだ。
ではどうしたら、ここから発展させられる?
どうしたら、蓮子の感情を動かすことが出来る?
そうだ。
「知ってる? 私、蓮子の前以外では声を上げたりしないのよ?」
本当は、少し違う。
蓮子の前以外では、偽りではない感情を見せることはまずあり得ない。私の感情を動かせる人間など、他に存在しないのだから。
「へっ?」
――歓喜。困惑。
だけど、失うことへの恐怖を知り、またその恐怖から解放された瞬間の彼女にそれを言えば、どうなるか?
あらゆる人間を罠に嵌めてきた経験が、私に囁く。今が待ち望んだ、蓮子の心を絡め取るチャンスなのだ、と。
「ふふっ、蓮子だけが、私の特別! 特別な、親友よ」
親友に特別もなにもない。友情を語りたいのなら、親友とだけ言えば良い。
親友という言葉の重みはそれだけで十分、相手の心に響いてくれるのだから。
だが、あえて特別という言葉を使うことによって、相手はその“特別”という特殊な言葉の意味をどうしても深く考えてしまう。特別な親友。特別なひと。その先にある意味は?
「え? ぁ、うん。わたしも。わたしも、メリーだけが、特別な――」
――違和感。葛藤。
「――しんゆう、だよ」
――戸惑い。そして、大きく動く心。
どれほどこの瞬間を待ちわびたか。
どれほどこの瞬間のために手を費やしたか。
蓮子の心が、私に傾く。
私の結界を、境界を、隙間を捉える瞳は確かにその瞬間を知覚した。
――Ⅳ――
蓮子の心が私に傾いてくれたのであれば、漸く次のステップに入ることが出来る。
本当はすぐに応えて抱きしめてたくさんキスをしてあげたいけれど、それではだめだ。同性愛への忌諱や罪悪感、世間の目などに耐えきれなくなり“私のために”離れてしまうことだろう。
自分の欲望を超越して他者を思える蓮子の人間性には惚れ直してしまうが、それではだめだ。心苦しいけれど、まずは蓮子の心を追い詰めなければならない。私に依存して、私から離れられなくなるような“イベント”を用意しなければならない。
よほど葛藤したのか、秘封倶楽部のために集まると、蓮子は紅い顔でため息をついていた。風邪を引いてしまったとみれば一目でわかる体調。
けれどあえて額を合わせて熱を測ると、我ながらごくごく自然に蓮子の家に行く約束を取り付けられることが出来たように思う。
「ふ」
「ふ?」
「ふつつかものですが」
けれど、まぁ。
「……どうやら本当にだめみたいね、今日は」
蓮子に動揺させられたのは、予想外だったのだけれども。
蓮子の家で、可愛らしく苦しむ蓮子にご飯を食べさせて寝かしつける。
ここから先は、賭けの要素が強い。“買い出し”に出て、“用事”が終わる前に蓮子が起きてしまったら、私の負け。
“用事”が終わっても起きなかったら、私の勝ち。
料理の材料を買いに行くという名目。
意識が朦朧とする蓮子に予備の鍵の場所を聞き出すと、まず、すぐに鍵屋に足を運んで合い鍵を要請する。証明書がなんだかんだというのは、心の隙間を縫うように微笑みかけてやれば、すぐに特別を許してくれた。
次に、スーパーに寄る前に、電気屋に足を運ぶ。遠隔式の小型カメラとやはり小型の盗聴器――正確には、ICレコーダーの亜種だけれど――。事前に調べておいたそれらを手早く買い込むと、予定どおり、スーパーに寄って、手早く作ってくれた合い鍵を受け取り蓮子の家に戻る。
料理の最中を見られるのは構わない。
だが、“他の準備”を見られるわけにはいかない。
リビング、キッチン、寝室、玄関、浴室。
本当はもっとたくさん仕掛けたかったけれど、あまりに多いと発覚するかも知れないので我慢。
他者の心の隙間をつく、まずばれないであろう位置と角度に、私はカメラと盗聴器を仕込んだ。
ばれないような偽装も完璧にこなすと、それからようやく料理を作り出す。できた料理には気遣いが見て取れるようなメモを残し、ラップを張り、蓮子の寝顔を堪能する。
「そうだ、もう一つ、忘れていたわ」
蓮子の愛用の帽子に、小型の遠隔式盗聴器を。
蓮子の愛用の鞄に、GPSをそれぞれしかける。
心の推移には気を配っているが、もし万が一自暴自棄に出られたら、私の望みは叶わなくなってしまう。
まぁ、私が常に蓮子を感じていたい、という理由もあるのだが。
「ふふ、あははっ、おやすみ、蓮子」
起こさないように、静かに蓮子の家を去る。
蓮子が目を覚ましてから、どれほど私の存在を求めてくれるのか。
「もっともっともっと、私を愛して? あはっ、あははははははっ」
蓮子の心が狂気に染まれば染まるほどに、私の喜びが強くなる。
もっともっと私に心を傾けて、私だけを愛せばいい。
私も蓮子だけを、愛しているのだから。
翌日には、蓮子はしっかりと大学に来た。
といっても、朝の様子を“視て”いた限り、まだまだ体調は悪そうだったのだけれど、蓮子はそれに気がついていないようだった。
まったく、無理ばかりして。そんなところも愛おしいのだけれど。
つまらない講義の時間。
私のスマートフォンには、常に蓮子の居場所が表示されていた。いつものカフェで待っていたようだが、今回はどうも我慢できなかったみたい。
ふらふらと赴く足。目的地はきっと、私の居る講義室。急いで、教授に見つからないようにイヤホンをつける。するとすぐに、蓮子に取り付けた盗聴器から蓮子の息づかいが聞こえてきた。
「ふふ」
講義室の後ろ。
私の背中を見ているであろう蓮子。
他人の視線をこうまで心地よく感じる時間が来るとは、思わなかった。
「ハーンさん?」
そんなとき、私の至福のひとときを邪魔するノイズが入る。
いつものように適当にやり込めてしまえばいい。けれどふと、良いことを思いついた。
「どうかしました?」
蓮子に見えるように、この雑草に微笑みかける。
すると盗聴器から、蓮子の動揺が聞こえてきた。ああ。行動一つにしてもなんて愛おしいのだろう。
「この講義、けっこう難しいけれど大丈夫なの?」
「ふふっ、予習さえしておけば大丈夫よ」
「へぇ、ハーンさん、すごいんだね」
蓮子は私に劣等感を抱いている部分もあるが、彼女も十分優秀だ。これくらいの講義ならば悠々と乗り切れることだろう。
だが私の隣に座るような雑草たちは別。踏まれるしか能が無いのにやたらしぶといから、中々絶滅してくれない。
ああ、蓮子以外の声を聞いてしまった。煩わしい。欲望のためとはいえ自分の身を犠牲にしすぎた。蓮子の声を聞いて、癒やされなければやっていけないわ。
『一緒に居たい。どんな形でも良いから、一緒に居たいっ』
どんな形でもいい?
私はそれでは、我慢できないわ。
『つらい、つらいよ、苦しいよぉ、メリー』
私のために苦しんでくれるのね。
私を想って、狂気を孕んでくれるのね。
『そうだ、メリーを手に入れれば良いんだ。どんな手を使っても――』
なんて、心地よい愛なのだろう。
私のために狂うほど愛してくれる。これ以上の幸福が、果たして存在するだろうか。
本当は私も心苦しいのよ? 蓮子。
でもね、これも全て、あなたと私の為なの。
より幸福な未来を、目指すために。
蓮子の済むアパートメントの近所。
手頃な個室のネットカフェに入ると、端末を充電器にさしながらイヤホンを付ける。
安っぽい無料のコーヒーを用意して、気分は立派な音楽鑑賞といったところだろうか。もっとも、聞こえてくる音は世の中のどんな音楽よりも極上なものであるのだが。
『メリー、すきだよ。めりー。めりー、めりー、めりー……』
ええ、私も好きよ。
『嫌われたくない。嫌われたくない嫌われたくない嫌われたくないっっ』
嫌ったりなんかしないわ。
『どうしよう、どうしよう、メリー、わたしはどうしたらいいの?』
もっと愛してくれれば良い。
もっと狂ってくれれば良い。
もっと想ってくれれば良い。
『いっそ、本当にわたしだけしか見られなくしてしまいたいよ』
ふふ、やっぱり私たち、気が合うのね。
私もいつも、そう考えているわ。
ぶつぶつと漏れ出る声。
絞殺、刺殺、凍死、毒殺。
殺してくれるほど愛してくれるのは嬉しいけれど、あなたを愛でられないのは辛いわ。
『あ、れ?』
『なんで、なんでなんでなんでなんでなんでっ!!』
『なんで、あはっ、わたし、メリーを殺すことなんか考えてるの……?』
残念。
正気に戻ってしまったのかしら?
もっともっともっと、狂ってくれても、愛してくれても良いのに。
『あ、ははっ、あはははっ、そうか、そうだよね、メリー』
『――わたしは、わたしなんかが、メリーのそばに居ちゃいけない』
『だからメリー、わたしをどうか突き放して』
だめよ。
突き放してなんかあげない。
やっとここまで来たのだもの。殺したいとすら想ってくれるようになったのだもの。
イヤホンを外して、ネットカフェを出る。
一日おけば想いも熟成することだろう。すぐに元気になってしまったら淡々と別れを告げてくるぐらいやりかねないから、なるべく、本音が出やすい体調がピークの時にでも訪ねれば良い。
「ふふふ、あなたを追い詰める私を、許してくれる? 蓮子」
あともう少し。
ともう少しで、あなたは私の掌の中。
「ふふっ、ふふふっ、あははははははははははっ!」
本当に、楽しみだわ。
ねぇ? 私の愛しい蓮子。
予定どおり、私は盗聴器とカメラで蓮子の様子を事細かに観察しながら、良いタイミングで蓮子の部屋を訪れた。
追い詰められて、眠り、浅くしか眠れず葛藤を繰り返す。なるべく冷静になれないタイミングで傍に寄り、囁くように声をかけてあげる。それだけで蓮子は面白いように反応してくれた。
「め、りー?」
――戸惑い。
「はい、そうよ、メリーさんよ」
――歓喜。
「なん、で」
――困惑。
「管理人さんに事情を話して合い鍵借りたわ」
――怒り。
「い、つ」
――焦燥。
「たっぷり一時間は、寝顔を眺めさせて貰ったかしらねぇ」
――羞恥、
「ぇ、あ、ぅ」
――無防備な、心。
あえて背中を向けて立ち去ろうとする。
「とりあえず、私は水を持ってくるか……らっ?」
すると蓮子は、“去られる”という恐怖に突き動かされて、私をベッドに押し倒した。
うん、なんて理想的なシチュエーション。ことが終わったらもう一度やって貰おう。
「メリー」
潤む瞳。
「わたしは、メリーのことが」
震える唇。
「――すきだよ」
絞り出すような声。
「わたしはメリーのことが好き。あなたの全てが欲しいと願うくらい」
早口になる。
頭で考えず、心から引っ張り出した未加工の声。
「だから、お願い、メリー」
だからか、その嘆願は真に迫る。
「――わたしのことを、受け止めて」
突き放して。
そう伝えたいからこの言葉を選んだのだろう。蓮子を本当にただの友達としか想っていない人間だったのならば、ここは優しく突き放してあげるべきだ。
だけれど、私は違う。確かに見えているのだ。蓮子の心の隙間が“愛を望んでいる”ということを。
「蓮子、あなた、何を言っているの?」
だから。
「おかしな蓮子ね、どうしたの? 急に」
どんなに懇願されようと。
「私も、蓮子のことが好きよ。ふふっ」
私は貴女を突き放してあげない。
「だってあなたは――」
どんなに願おうと。
「私の、“とくべつ”な」
私はあなたを逃がしてあげない。
「“親友”だから、ね」
あなたは私の“特別”だから。
そう、完全に狂気に振り切れた蓮子の心を見て、私は心の底から歓喜の笑みを浮かべて見せた。
――Ⅴ――
――それからの十日間は、私にとっても蓮子にとっても準備期間だった。
蓮子が睡眠薬を処方して貰ったと聴いて効果を打ち消すような薬を秘密裏に入手したり、蓮子が実行できそうなタイミングに間に合うように料理の材料を買い込んだりと、尽くせる手は尽くしたように思える。
あとはもう、タイミングだけ。そう願っていると、蓮子が狂気に落ちてちょうど十日経った時に、メッセージが届いた。
『蓮子さん完全快気祝いに、メリーさんのおうちで快気宅呑みを所望します』
ずぅっと、待ち望んでいた瞬間だ。
断るはずがない。
『まぁ良いでしょう。なにがたべたい?』
『メリーさんの手作りならばなんでもよろしいです』
やっぱり、私の料理を望んでくれた。
愛情をたっぷりこめて作らないと。蓮子にまずいものは食べさせられないわ。
『そう。お酒は?』
『用意済み』
『周到ね』
楽しみにしていてくれたのだろう。
そう考えると、私の身に力も入る。
『今日は秘封倶楽部の活動はお休み! パァっとやろう!』
『ええ、いいわ。仰せのままに』
あなたの想うままにしましょう。
これが互いにとって、最高の始まりになるのだから。
二人でグラスを打ち合って、乾杯をする。
夜景も星空も満月も、今日この日の私たちを祝福してくれているような気がした。
手料理も喜んでもらえた。
口元を拭いてあげて、まるで恋人のように接する。友達で居られるのは今日で最後なのだから、“友達”を満喫しようと思っていたのに、どうもだめだ。
蓮子が望むのならば、それに応えてしまう。私は将来、蓮子に逆らえそうにないわね。彼女に甘えられたら、私はまず間違いなくなんでも許してしまうことだろう。
宴もたけなわというところになると、蓮子は私を夜景が一望できるソファーに誘った。
本来はここにあるのは来客用のソファーだったのだが、蓮子以外も座ったことのあるソファーは嫌だったので買い換えてしまったのだが、蓮子はどうやら気がついていないようだ。
まぁ、蓮子の心は今、狂気とそれから最後に残った幾ばくかの良心で葛藤している。他に目を向ける余裕はないだろう。
さて、それでは私も大仕事をしなければならない。
最後に残った蓮子の良心を、丁寧に摘み取るという仕事をこなさなければ、先には進めないのだから。
「ねぇ、メリー」
だから。
「どうしたの? 蓮子?」
始めましょう。
私と蓮子の、運命を決める会話を。
「わたしは、メリーのことが、すきだよ」
伝わってくるのは、蓮子のむき出しの感情。
「すごくすごく、特別な“すき”なんだ」
苦悩。
葛藤。
意思。
憎愛。
「メリーは? わたしのこと、どう思っているの?」
その全てが、私に伝わってくる。
思って欲しい、応えて欲しい、突き放して欲しい、理解して欲しい。
請い、願うその感情を、私にぶつけてくれる。
だから、
「もちろん」
だから、私は。
「私も、蓮子のことが好きよ。だってあなたは――」
その感情を、打ち砕こう。
「――私の、“特別”な“親友”ですもの」
葛藤を捨て去った、より深い狂愛のために!
「そっか」
蓮子の心が、完全に狂気に染まる。
私の目的どおりに、寸分の狂い無く。
「そうよ」
「ねぇ、メリー」
「なに? 蓮子」
「夜景を肴に、いっぱいやろうよ」
あとは睡眠薬を回避して、寝たふりをしながら蓮子の挙動を見守れば良い。
「ふふ、良いわね」
どんな方法で私を殺そうとしても、それを妨げて、予定どおりに振る舞えば良い。
「それでは、“永遠の秘封倶楽部”に」
「なぁに、その文句? まぁ良いわ、ふふっ、乾杯!」
「乾杯!」
睡眠薬を飲み干す。
けれどあらかじめ準備をしておいたから、眠気に襲われることはない。けれど眠りに落ちたふりをして、私はソファーに倒れ込む。
……押し倒されることも想定して、大きめのソファーにしておいて良かった。
「ねぇメリー、好きだよ。あはっ」
蓮子はそう、私の上に覆い被さる。
寝たふりというのは案外辛い。蓮子の顔が見られないのだから。
「わたしもすぐにいくからね。だからおやすみ――メリー」
どんな方法で殺そうとしてくれるのだろう。
そう様々なパターンを予想していたのだが、蓮子は、私の想像をいつものように上回る。
「っ」
口づけ。
鼻を押さえて、口づけをして窒息死させる。
起きる心配のない眠りについているものにするのならば、確かに効果的だ。
ああ、でもまさか、蓮子がこんなにも“幸福な方法”で殺そうとしてくれるなんて。
一度溢れた欲望は、留まるところを知らない。もっと、最後までこの狂気の口づけを堪能していたい。けれどこのままでは本当に死んでしまう。
それではだめだ。でも。
私が死んだら、蓮子はどんな顔で泣いてくれるのだろう?
欲望は止まらない。
ここを逃してしまったら、私は生涯その光景を見ることが出来ない。
喜んでくれるだろうか。泣いてくれるだろうか。慟哭の声をあげてくれるだろうか。
その全てを私にぶつけてもらうには、やはり“一度”死ななければならない。
だから。
私は。
「これでもう、永遠に」
朦朧とする意識の中。
手探りの視界。
強く意識するのは、ずっと見えていた境界。
「あなたはわたしのものだよ」
能力は、視て、頭で使えば良い。
手を伸ばす必要も、身体を動かす必要も無い。
だから、私は心の中で手を伸ばして――
「メリー」
――“生と死の境界”を、操った。
――Ⅵ――
ソファーに寝かしたままだと、また風邪を引いてしまいそうだ。
そう思って、蓮子を抱き上げてベッドまで連れて行く。
「軽いわね、蓮子」
前は、いくら蓮子が軽くても、こんな風に運べはしなかったはずだ。
だからきっと、私はあの瞬間に生物としての箍を破壊してしまったのだろう。死んで、それから生き返った。でもそれはもしかしたら、蘇りではなく“進化”だったのかもしれない。
「でも、それならそれでいいわ」
ベッドに寝かしつける。
すると、無意識なのだろうが、蓮子が私の服の裾を掴んだ。
「一緒に寝ましょうか」
蓮子の隣に潜り込んで、彼女の頭を柔らかく抱きしめる。
睡眠薬のこともあるが、それ以上に疲れもあることだろう。今日はゆっくりと眠らせてあげたい。明日からは恋人同士としての日常が始まるのだ。
甘い甘い蜜月の為にも、疲れは全て取って欲しかった。
「ふふ、これであなたと、ずっと一緒に居られるわ」
私が本当に“進化”したのであれば、煩わしい全てのモノから蓮子を遠ざけることが出来る。
自分がそれを成すだけの力を手に入れられたということが、こんなにも大きな喜びになるだなんて、蓮子に出会う前は知り得なかったことだろう。
「蓮子、私は誰よりも、あなたのことを愛しているわ」
たとえこの感情が、誰かにとっての毒であっても構わない。
「ふふっ、あははははっ」
なによりも欲しかったものを手に入れることが出来た。
「あはははっ、あはっ、あははははははははははっ!」
それ以上のことなど、なにもないのだから。
この先、蓮子はまだ様々な葛藤を繰り返すことだろう。
私と違って他者を気にかけることができる蓮子は、私から離れようとすることもあるだろう。
けれど私は、その全てを許すつもりはない。
蜘蛛は、糸に捕らえた蝶を逃がさない。
鳥かごは、鍵を溶かして固めてしまえば、鳥を逃がすことはない。
翼をもいだ天使は、もう天国に帰ることは、できない。
全ては私の手の中で。
ずぅっと幸せになりましょう?
ねぇ、蓮子。
私の愛しいひと。
――了――
GIFT【英】
:贈物
:天恵
「わたしは、メリーのこと、すきだよ」
わかっている。
どうせいつもと変わらない。
「蓮子? どうしたの?」
わたしがどんなに語り掛けても。
わたしがどんな思いでこの言葉を投げかけても。
「メリーは? わたしのこと、どう思ってるの?」
想いも。
言葉も。
苦悩も。
憎愛も。
「もちろん、好きよ。貴女は私の最高の親友だもの」
なに一つだって伝わらない。
「そっか」
だから、わたしは。
「そうよ」
今日、あなたを殺します。
GIFT
――1――
秘封倶楽部。
大学のサークル活動としてわたしこと宇佐見蓮子が始めた、たった二人の“秘密探究”部だ。
活動内容はいたって簡単、単純明快。怪しいうわさを聞きつけて、調べ上げて探究する。世界の不思議に迫る崇高な活動、であるわけだけれども、科学ですべては説明が付くなどという科学推奨の世間では、なかなか認められてはくれない。
「だからね、メリー。忌々しき事態なのよ」
「はいはい。どう忌々しいのかしら?」
大学のカフェテラスは、わたしがマエリベリー・ハーンことメリーと二人で秘封活動の作戦を練るための場だ。
「このままでは幻想は忘れ去られて、なかったことになってしまうということよ!」
確かに不思議な話は存在するのに。
そうわたしが告げると、メリーは端正な顔立ちを幾分か鋭くさせて、やがてこくりと頷いた。
なんといってもわたしとメリーは、いわば“奇跡の体現者”。わたしの『星を見て時間を、月を見て場所がわかる』程度の能力は科学技術でいくらでもどうにかでてきてしまうことだから大したことはないのだが、メリーの能力は一味違う。なにせ彼女は“結界”を見ることができるのだから。
「そう、そうね。それで、それがどう忌々しいことに繋がるのかしら?」
メリーはそう、わたしに「今に始まったことではない」と告げてくる。
そんなことはわたしだってわかっているし、メリーだってもちろん理解している。けれど私が言いたいのはそういうことではない。そう思いながら不敵に笑ってみせると、メリーもどこか期待を孕んだ、いわば“わくわくした目”でわたしを見る。
「なんとも都合の良いことに、明日からゴールデンウィーク! となれば……」
「遠出、という訳ね」
「いぐざくとりー! そういうことそういうこと」
わたしはそう、残念ながら“くしゃくしゃ”になってしまった新聞紙を引っ張り出す。
日付は昨日。昨日の朝にちょこんと乗っていたコラム欄は、わたしの好奇心をとても大きく刺激した。なにせこれこそが、幻想を否定する忌々しきものだったのだから。
「えーと、株価暴落。原因は外交か?」
「三面じゃなくて、こっち」
「こっちね。えーと、“妖怪の森、町おこしの成果”?」
「そう!」
ちっちゃい地方の隅っこに昔からあったという“妖怪伝説”。その伝承を古くから知るという一族のおじいちゃんが、今になって急に「あれは町おこしの一環」だとか言い始めた。しかし調べれば調べるほど奇妙な噂や伝承が数多く残っており、なにより証言したおじいちゃんはちょっと呆け始めてしまっているらしい。
けれど地味とメディアはそんなことはさておき、「古くからの町おこし」がなんたらと、地方自治を盛り上げるネタにしている。これはその場に伝わる妖怪ご本人様にも良い迷惑であろう。
「そこで! われら秘封倶楽部の出番、という訳」
「なるほど、良いわね。段取りは?」
「マエリベリーお嬢様のご承認在れば、いつでも」
「了解。明日から、早速行くわよ」
「おおせのままにっ」
メリーはわたしの語り口調に、くすくすと上品に笑う。
けれどふと、真剣な表情になりわたしに告げた。
「だけど、その口調はやめて。気持ち悪いわ」
「うん、まぁ、だよね」
ちょっと悪ノリしすぎたかも。
しかし、なんにせよ、これで準備は整った。明日からいよいよ、妖怪探求旅行の始まりだ。
まぁ、メリーと遠出して遊びたかったという副次的な、そう、あくまで副次的な目的も達成できそうなのだし、色々な意味で楽しみなことこの上ない、かな。
――2――
旅行鞄に旅行セット。駅弁とお菓子を買い込んで、いざ電車に乗り込む。
ローカル線は一昔前に比べて乗り心地こそ良くなったらしいのだが、速度自体はそんなに変わっていない。二人がけの椅子が向かい合うように設置されている車両にメリーと向き合うように座って、わたしは持ってきたメモ帳を取り出した。
「まず、これまでにどんな噂が流れていたか、ね」
「事前調査はばっちり、ということ?」
「まぁね!」
わたしの様子に、メリーは口元に手を当ててくすくすと笑う。
柔らかい仕草。同じ女の子としては、ちょっと羨ましかったりもする。
「ええっと、まず、『夜の森に人食い少女が現れる』」
「人食い、ね。妖怪ってことかしら?」
「かもね。もう一つ、『往けば帰ってこられない廃トンネル』」
「廃トンネル、ね」
「そう。で、最後『化け物のうめき声の聞こえる洞窟』」
「うめき声だけ?」
「みたい。これも、複数在る伝承をわたしなりに統括してみた後で、本当はもっといっぱい言われてたの」
なるほど、とメリーは細い指を顎において考え込む。
わたしが調べたときは、もっとたくさんの噂が流れていた。文献やインターネットで精査してあまりに近代に流れ始めたモノは、それこそ町おこしと考えても良いかもしれない。
けれど、起源不明の古くから伝わるモノは埋もれることなく存在していた。廃トンネルというのも近代的だが、元々は炭坑があって、それをトンネルに工事したモノだと言うし。
調べれば調べるほど、わくわくが止まらない。
「妖怪、ね。今日は出逢えるのかしら?」
「妖怪そのものに会えなくても、メリーが結界を見てくれれば……」
「なるほど。それなら、道案内はお願いね」
「もちろん! 夜空さえ見えれば場所は間違えないよ」
そう言って、なんだかおかしくなって少しだけ笑ってしまう。するとメリーもおかしくなったのか、声を上げて笑っていた。
それから先は、ひとまず妖怪談義は終了。
駅弁を食べて、お茶で一服。単位の話をしながら、お菓子をつつく。
「蓮子は、卒業したらどうするの?」
「うーん、決めてない! と、言いたいところだけれど、大学に就職も悪くないかなぁって思う。メリーは?」
「そうね。私は私で大学に残ろうかしら?」
「院?」
「そういうこと」
メリーが院に進んでわたしが教授にでもなったら、まだ、この活動を続けることもできるかもしれない。もっともその時は、メリーたった一人のサークル活動、と顧問のわたしという関係にはなるのだろうけれど。
それはそれで悪くない。メリーに先生、とか呼ばれるのだから。
「その後は、海外にでも飛ぼうかしら」
「え、海外行っちゃうの? メリー」
「まだわからないけれどね」
メリーにだってやりたいことはあるだろう。
ならば、この時間は永遠では無い。当たり前に終わりが待っている。そう考えるとやっぱり寂しかった。
「ふふ、なに落ち込んでいるのよ」
「そういうんじゃないけどさぁ」
「……どこに居て何をしていても、私たちは親友よ。それじゃ、不満?」
「不満じゃ、ないです、メリー先生」
「なによその先生、って。もう」
からからと笑うメリーを見ていると、だんだん、先のことを気にしている自分がばからしくなっていく。
この活動は永遠ではない。でも、この関係を永遠にすることはできる。なら今できることは、今を精一杯謳歌することだ。
「ありがとう、メリー」
「なによ、らしくないわね」
「メリー、どういたしまして、がないわ」
「なによ、急にらしくなったわね」
「あはははっ」
どうしたって、わたしたちは親友だ。
親友とメリーが言ってくれたことがなにより嬉しくて、笑ってしまう。
この心地よい関係だけは、生涯不滅であると、そう信じて。
――3――
ホテルに到着すると、荷物を置いて早速、町の図書館に向かう。
そこで町ならではの資料をめくり、本を見て、メリーと額を付き合わせた。
「ほら、ここ見て。化け物のうめき声が聞こえる洞窟の位置」
「あら? 廃トンネルに近いわね」
「そう! でもこの当時の文献の地図なんて、曖昧だわ。だから……」
「洞窟と廃トンネルは同一視して構わない、ということね。蓮子」
「そう! その上、廃トンネルに行くまでに通らなければならないのが」
「『人食い少女が現れる森』ということね」
「うん。元々は、全部一つの伝承だったのかも知れない」
こういうことは、けっこうある。
複数の噂話を詳しくひもといてみると、そこにたった一つの回答式が現れる。その一連こそ、伝承の中に隠された先人の警告であるのだ。
その警告の意味することころを、今夜、わたしたちは解き明かす。
「見えてきたわね、メリー」
「そうね。場所は……」
「観光目的って言えば、周辺地図くらい買わせてくれると思う」
「データじゃなくていいの?」
「妖怪や幽霊は電子機器に影響を及ぼしやすいらしいからね。念のため」
資料をしまい、図書館を出ると、町役場で地図を買う。
それから早速、目的地に向けてローカル線に乗り込んだ。
「まだ明るい内に森を抜けて、夕暮れ時にトンネルを見る。暗くなりすぎないうちに森を抜ける。これでどう?」
「そうね。蓮子が居れば道に迷う必要だけはないから、それで大丈夫だと思うわ」
メリーと一緒に電車を降りて、タクシーを使って森に。
運転手さんに訝しまれたが、町おこしの記事のことを話して町おこし文化そのものに興味を持っていると誤魔化すと、運転手さんは快く連れて行ってくれた。
どうも、どんな形でも自分の町が話題になったことが嬉しかったようだ。
「よし、到着!」
「まずは森を抜けるわよ、蓮子」
「ええ。妙な結界があったら教えてね」
「任せてちょうだい」
まだ午後三時を回った程度。
陽光が明るく照らし、小さな森を神秘的に彩る。廃トンネルといっても定期的に人の足があるのか、道は舗装こそされていないが草は踏みつぶされて背の低いものしかないようだった。
これなら、帰り道も迷うことも根に足を取られることもないだろう。
「空気が澄んでる」
「そうね。都会では中々味わえないわ」
「メリーは立派なマンションに住んでるじゃない。最上階は空気も美味しいんじゃない?」
「一昔前みたいに排気ガス塗れということはないけれど、都会の空気なんて上に行くほど汚いわ。ベランダにも出られない」
「ふーん。そんなものなんだ」
「そうそう。それより、蓮子」
メリーが足を止めたので、習ってわたしも足を止めて前を見る。
蔦だらけのコンクリート。文字が霞んで見えない道路標識。朽ち果てた看板。封鎖するための鎖も、錆びて千切れている。
「雰囲気はばっちりね」
「行く? 蓮子」
「行くに決まってるでしょ、メリー」
森の中を歩いているときは、空気は爽やかで心地良かった。
だがトンネルから感じる空気はしっとりとじめじめとしていて、肌に張り付くような不快感を覚える。
一歩踏み出すと、錆びた鎖を踏んでしまい、カチャリと音が鳴る。わたしはメリーの手を引き、気持ちだけでも負けないために不敵に笑ってやると、メリーも緊張した面持ちを崩して微笑んだ。
メリーもこうして笑ってくれる。
ならこの先に、恐怖はない。
あるのは、胸躍る冒険だけだ。
「懐中電灯が無ければまずかったわね」
「忘れていたら、の間違いでしょう?」
「あはは、忘れなくて良かったわ」
陽気は陰気を吹き飛ばす。
メリーの、親友の手を握って歩いているおかげか、普段よりも気持ちは落ち着いている。メリーも同じように思っていてくれると嬉しい、とか、ほんのちょっとだけ思いながら。
トンネルの中はじゃりじゃりとした小石ばかりが転がっている。
やはり廃トンネルの中は手入れなどしないのだろう。壁は一面蔦だらけで、コンクリートを割るように雑草が伸びている。
蔦に足を取られないように歩くこと数分。ふと、メリーがわたしの手を強く握って引き留めた。
「メリー?」
「静かに」
メリーが鋭い目で先を見つめる。
メリーの瞳にはなにが映っているのか、皆目見当も付かない。だがこれだけは言える。何かに、メリーは気がついた。
――…………ォ
耳を澄ませて。
――……ォ…………ォォ
神経を研ぎ澄ませて。
――……ォォ……ォ……ォォォ
ただ、じっと見据える。
――ォ……ォォォ……ォ………ォ…ォォォォォ
「聞こえた? 蓮子」
「ええ、聞こえたわ、メリー」
「どうする?」
「結界は?」
「まだよ」
「なら、もう少し進んでみよう」
うめき声、というには遠い。
だが確かに響く音にわたしとメリーは警戒心を引き上げる。
一歩進み、二歩進み、奥へ奥へと歩いて行く。そのうち、最初は何とも思っていなかった音が、だんだんと気味の悪いモノに感じてきた。
かさかさという、草の音。
じゃりじゃりという、小石の音。
ざりざりという、己の足音。
冷や汗だろうか。
頬に張り付いた髪がうっとうしい。
――ォォォ……ォォ……ォォォォ……ォォォォォオオオオオオッ
洞窟の奥から聞こえる音。
その大きな音に身を竦ませるモノの、ふと、気がつく。
「ねぇメリー、これって」
「ええ、たぶん」
音の鳴る方に、今度は駆け足で近づく。
懐中電灯を片手に、メリーの手を片手に。緊張に急かされるように走る。すると。
「光?」
「みたいね」
トンネルの天井に空いた光。
いつの間にか日が落ちていたのだろう。月明かりが差し込んでいる。その光景は非常に幻想的で美しいモノの、求めていたモノかと問われると、ちょっと違う。
――ォォォォオオオ
――ォォ……ォォォォオオオオ
風が天井の穴を抜けて木霊する。
なんということはない。これが“化け物のうめき声”の正体だったのだろう。風の響く音こそが、この音の正体だ。
「幽霊の、姿見たり、ね。蓮子」
「あはは……そうみたい。結局、なんにもなかったかぁ」
「むくれないの。もう、れん、こ?」
「どうしたの? メリー」
メリーは、何かに気がついたように、今度は呆然とトンネルの奥を見据える。
「ねぇ、蓮子」
「なに?」
「噂は、化け物のうめき声と行ったら帰ってこられないトンネル」
「それと、人食い少女ね」
「うめき声は近代出来た噂。帰ってこられないトンネルと森の少女が同一だったら?」
「森を抜けてトンネル、ええっとつまり洞窟に入ったら、食べられる?」
言われて、はっとメリーの見据える方角を見る。
暗がりが続くトンネル。懐中電灯の光を当てても見渡せない。見渡せない?
「め、めりーさん。まさか」
「結界……境目よ」
懐中電灯を暗がりに向ければ、ある程度は見渡すことが出来る。だがわたしたちの視線の先、ある一点から不自然に照らせない光。
その奥から、風の音に紛れ込むように。
――ォ……ォォ
――ォォォ……ふ……ォ……あは……ォォォ
甲高い笑い声が、聞こえた。
「メリー!」
「蓮子!」
『逃げるわよ!』
同時に声を上げて踵を返す。
ばらばらに走り出したのだけれど、少しだけメリーが遅かったから、わたしはメリーの手を握りしめてかけだした。
どれほどトンネルを潜っていたのだろうか。ぜんぜん出口が見えない。違う、きっと、見えないだけだ。このトンネルは明かりを飲み込む闇で出てきている。
「このトンネル、化け物の、口の中だったりして!」
「馬鹿なこと言わないの、蓮子!」
走って、走って、唐突に視界が明るくなる。
トンネルは抜けた。だが伝承では森もまた妖怪のテリトリーだ。
「蓮子!」
「うわぁ」
そうして見上げた先。
ちゃんとした道になっていたはずなのに、帰り道はもう何年も人の足が踏み込まれていないかのように草が生い茂っている。
どうやら、行きはよいよい帰りは怖い、なようだ。
「切り抜けるよ、メリー!」
「頼りにしてるわよ、蓮子!」
メリーの手を引いて、草の中を走る。
頭上には月と星の夜空。ならば道なんか見えなくても、往くべき場所はわかる。
「道に迷いやすくなってるみたいだね!」
「でも、蓮子が居れば大丈夫! でしょ?」
「もちろん!」
なによりも。
なによりも、親友がこうして最大限の信頼を向けてくれる。最も近い友達だからだろう。向けられる信頼が嬉しくて、自然と、動かす足も速くなる。
――がさがさ
――がさがさがさ
――がさがさがさがさっ
「追ってきてる?」
「はぁっ、はぁっ、はぁっ、蓮子、いざとなったら私を置いて」
「置いていくわけないでしょ! 怒るよ!」
だから。
だから、置いて行けなんて言わないで。
たとえ道が分かれようと。
メリーの居ない世界なんていやだ。
メリーが側で笑ってくれない世界なんて――苦しい。
「あれ?」
「蓮子?」
「な、んでもない! 急ぐよ!」
あれ?
苦しい?
走ったから?
吊り橋効果?
それとも、寂しいだけ?
なにか、違う。
「っ、蓮子! 道が空けてる!」
「出口! 飛び込むよ! メリー!」
「ええっ!」
背丈ほどの草をかき分け、一気に走り抜ける。
行きにはなかった広々とした草原に、わたしとメリーは勢い余って倒れ込んだ。
「っ、来る!」
そして、がさがさと揺れる草の狭間から――
「ん?」
――ぴょこんと、兎が跳びだした。
兎はひくひくと鼻を動かすと、そのまま茂みに戻っていく。その様子を、わたしとメリーは呆然と見つめることしか出来ない。
そうして固まったまま、どの程度の時間が経ったのだろうか。ふと、メリーが口元を抑える。
「ふっ……くっ、ふ、あはははははっ」
「ちょっ、ちょっと、笑わないでよ!」
「ご、ごめんなさい、ふふっ、だって、兎って、あはははっ」
「ふっ、ちょ、ちょっとメリー、あはっ、あははははっ、もう!」
あれほど緊張して、焦って。
「ふくっ、メリーなんて、あははっ、置いていってだなんてっ!」
「ふふっ、兎相手に、よね。あはははっ」
笑って、笑って。
わたしとメリーはそろって草原に寝転んだ。
眼前に広がるのは、満天の夜空。手を繋いだまま、星と月を眺める。
「ふふ、こんなに笑ったの、久しぶりね」
「そうだね。メリーはあんまち声を上げて笑わないもんね」
「あんまり、じゃないわ」
ふと、気配がして顔を横に倒す。
すると、同じように顔を向けていたメリーと目が合った。
「知ってる? 私、蓮子の前以外では声を上げたりしないのよ?」
「へっ?」
「ふふっ、蓮子だけが、私の特別! 特別な、親友よ」
「え? ぁ、うん。わたしも。わたしも、メリーだけが、特別な――」
特別な?
特別。メリーはすごく、わたしにとって特別。
でも、特別な友達かと言われると、胸の奥底をひっかくような違和感に包まれる。
「――しんゆう、だよ」
「そっか。ふふっ、否定されたらどうしてやろうかと思ったわ」
「否定なんか、しないよ! うん、するわけないじゃない」
そう、否定なんかできる訳ない。
ないのに。なんだろう。この気持ちは。
メリーはいつか離れる。
心は繋がっているから、距離なんか、どうだっていい。
――本当に?
メリーが夜空に視線を戻す。
わたしも同じように夜空に顔を戻して、でも、視線だけ横に向けてメリーの顔を盗み見た。
整った顔立ち。笑った後だからか、走った後だからか、頬は上気している。
唇は紅くて。口紅もしていないのに、瑞々しくて。
――本当に、友達で満足?
このまま、メリーと永遠に過ごすことは出来ない。
いつしか互いの道は分かれ、互いに生涯を共にする人間が現れ、別々の人生を歩んでいく。
――本当に、わたしは、それでいいの?
道は分かれる。
当たり前の終焉。
その時にメリーの隣に居るのは、わたしじゃない?
だめ。
だめだよ。
考えちゃいけない。
だめだって、わかっているのに。
「綺麗ね、蓮子」
「うん、すごく、綺麗だね、メリー」
わたしは、メリーと別れたくない。
ずっと、ずっと、一緒に居たい。
一緒に笑って。
一緒に泣いて。
一緒に怒って。
一緒に、手を取って、歩きたい。
ああ、そうか。
わたしは――メリーのことが、すきなんだ。
あふれ始めた思いは、きっと留まることを知らない。
けれど親友を望むメリーに、親友だと言ってくれる彼女にこの思いを告げてはならない。
始まってすぐに閉じ込めてしまわなければならない恋に謝るように、わたしは一度だけ、メリーの手を強く握りしめた。
この思いを封印して、特別な“親友”として、メリーの側にいるために。
強く強く、そう、心に決めた。
――4――
さて。
それではわたしこと蓮子は親友のメリーのことが恋愛的な意味で好きだと判明した訳なのだが、それでなにがどう変わるのかと問われれば困る訳で。
具体的には、行動を変えることもできずただこれまでどおりの日常を送る以外に対してできることはない、という結果に落ち着いてしまった。
「はぁ~」
ではそれで満足できるのか、と問われれば、ため息をつくことしか出来ない。
放課後のサークル活動。楽しみ、という感情が先走り、なにもいつもよりもずいぶん早くカフェに到着してしまった。甘いアイスカフェオレをちまちまと飲みながら、メリーのことを待つこと数分、いつも通りの時間にしか来ないであろうメリーのことを思ってもう一度ため息。
ううむ、前までわたしはいったいどんな気持ちでこの時間を過ごしていたのか、これっぽっちも思い出せない。
「うーん、どうしたもんか」
カフェオレを覗き込んでも、薄茶色の液体は鏡の役割なんか果たしちゃくれない。
自分がどんな顔をしているのか。へんな場所はないか。眉間に皺なんか寄ってたらどうしよう。普段気にしなかったことがぐるぐると頭の中を泳ぎ回り、ついそわそわとしてしまう。
わたしはこんな乙女チックなことを考える性格だっただろうか?
「はぁ――」
「どうしたの? 辛気くさいわね」
「――はひゃっ?!」
後ろから響いた声に、わたしは思わず飛び上がって驚く。
それから油の差し忘れたブリキ人形みたいにゆっくりと振り向くと、いつものように端整な顔立ちをそれはもう怪訝そうに歪めたメリーが、腕を組んで立っていた。
後ろから来るとは予想外。この宇佐見蓮子を以てしても読めなかった!
……なんて。
「本当にどうしたの? 熱?」
「い、いやぁ、考え事しててさ。良いネタないかなぁって」
「で、ぼんやりしてた、と? ドジねぇ」
「あ、あははは、はぁ」
誤魔化せた。
誤魔化せた……!
手元を口に当てて上品に笑うメリーの仕草は、これぞまさにお嬢様といった風で、可憐だ。わたしにはとうてい出来そうにない柔らかな仕草に、こっそりと見ほれておく。
心頭滅却心頭滅却。メーデーメーデー、わたしはまだまだ大丈夫。百年は戦える。
「うーん、やっぱりちょっとおかしいわね。熱?」
「そんなこと、な……っ?!」
だけどメリーは、わたしの挙動不審さなどばっちりお見通しのようだ。
おもむろにわたしの額にかかる髪をかき分けると、こつん、とメリーが自分の額を合わせる。
肌白い。まつげ長い。鼻筋きれい。それからそれから、唇、やわらかそう。
「めめめめりーさんんんん???」
「うん、ちょっと熱いわ」
メリーはそんなわたしの動揺はさておき、すっと身体を離してしまう。あわわわ、そりゃ、そうか。
いったいわたしは何を期待していたんだろう。ああナニか。ナニってなんだと自己嫌悪。本当に熱でもあるのかも知れない。さっきから心臓はばくばくいってるし、顔は熱いは手は熱いはで、わたし自身もわたしが正常であるなんて信じられない。
どうしてこうなった。
「やっぱり熱いわね……。よし、今日はもう解散!」
「ええっ」
……って、そりゃそうか。
わたしだってメリーが熱を出してたら解散する。それで、休めって言う。
でも、やっぱりなんだか、悔しい。
「うぅ」
「ほら、反論も出来ないほど辛いんじゃない。今日はもう帰るわよ」
「ええっ、いや、それは……」
などと余計なことを考えている隙に、メリーは“蓮子は完全に病気”なんて風に判断してしまったようだ。それはなんというか困る。たとえこの想いが伝えられなくても。いや、この想いは伝えることが出来ないからこそ、一日一日を大切にしたかったのに。
それが出鼻をくじかれた。他ならぬ、わたし自身の気持ちの甘さが原因で。こんなの望んでいない。こんな、早々とメリーと別れなきゃならない展開なんて、望んでない。
「送るわ」
「え?」
「そんな体調で、ひとりで帰せると思う? 今日は蓮子が寝付くまで、帰ってあげませんからね!」
……と、思ったんだけど。
前言撤回。我ながらわたしはなんて安い女なのだろう。これではチョロイン呼ばわりされることすら免れない。もう、さっきまでの決断は吹き飛んで、自分の甘さに感謝する。
たまには仮病(とは、ちょっと違うけれど)も悪くない。うん。
……うん。
「ふ」
「ふ?」
「ふつつかものですが」
「……どうやら本当にだめみたいね、今日は」
……うん、わたしもそう思う。
メリーに肩を貸して貰いながら帰るというドキドキ展開はタクシーという文明の利器に拒まれたモノの、わたしは無事、メリーに看病して貰えるという展開にありつくことが出来た。
途中で仮病だと発覚してしまう心配は無い。なぜなら、メリーと居るだけでわたしの心臓は早鐘を打ち、とてもじゃないけれど平常心になんて戻れそうにないのだから。
うん、問題ない。
「氷嚢はある?」
「戸棚のいちばんしたー」
「はいはい。それじゃあ大人しくしてなさいね」
そう、メリーが席を立つ。その間にわたしはいそいそと着替えて、ベッドの上に転がった。
なんというかこれは、新妻メリーさん降臨の儀式と考えて相違ないのではなかろうか。
「冷蔵庫の中、使っていいー?」
「も、ももも」
動揺。どうよう?
ち、違う違う。静まれ蓮子!
「桃?」
「なんでもないー。もちろんいいよー」
リビングであろう方向から聞こえた声に、動揺しつつも応える。
どうやらわたしは本当に病気なようだ。恋の病ともいう。前ならばこんなことはなかった。きっと、「メリーは優しいなぁ。よし、今日は甘えてしまおう」なんて気軽に受け止めることが出来たろうに、今はまったく、これっぽっちも気軽に受け取ることなんてできそうにない。
緊張で口の中はからからに乾くし、汗はぜんぜん止まらないし、心臓も平常運転してくれない。今この瞬間だけでも、フラット蓮子さんが降臨して乗り移ってくれないモノだろうか、なんて、そんなことばかり考えてしまう。
なんて、そう、思いに耽りすぎたのだろう。気がつけばそれなりの時間が経っていて、毛布にくるまって丸くなっていたわたしの体温はすっかり上がりきってしまったようだ。
こうなってしまえば、元から本物の風邪だったのかそうでないのか見当も付かない。ただ、今はとにかく頭は痛いしぼんやりするしなんだか暑苦しいし、目眩だってする。
「氷嚢と、たまごがゆ。身体起こせる?」
「う、ん」
「熱、上がってきているかしら?」
「だいじょうぶー」
「……そうじゃ、ないわね」
メリーはそう良いながら、わたしの頭の下にタオルで巻いた氷嚢を入れる。
それから顔や肩に流れる汗を拭ってくれた。
「さて、一度起こすわよ」
「あいー」
わたしは今、最高潮にめんどくさい女だろう。なのにメリーは嫌な顔ひとつせずに、わたしの身体をゆっくりと起こしてくれる。
なんという良妻賢母。
「食べられる?」
「うん」
「……無理そうね」
応えはしたモノの、だるくて身体が動かない。そんなわたしの様子を瞬時に察してくれたのだろう。メリーはおかゆをれんげで掬い上げて、ふぅふぅと冷ましてくれた。
メリーの、息の、かかったおかゆ。ちょっと蓮子はもうだめかもわかりません。
「はい、あーん」
「……ぁ、あーん」
とはいっても、わたしはか弱い病人でしかない。
する気も無い抵抗むなしく、突き出されたれんげをぱくりと一口。塩加減も熱もばっちり。これならいつでも嫁に来て貰って大丈夫。
「おいしい?」
「うん、おいしい」
「ふふ、良かった。はい、もう一口」
「あーん。うむ、うむ、おいしい」
「今日はやけに素直ね」
「いつもれんこさんは素直ですよー?」
「そういうことにしておいてあげる。ほら、白湯も」
「ありがとうー」
メリーは甲斐甲斐しく世話をしてくれる。
それにすっかりやられてしまったわたしとしては、もっとどんどん甘やかしてくれても良いと思うのだが、そうは問屋が卸さない。
お腹いっぱい食べて飲んだら、徐々に瞼が下がってきた。
「あら、おねむ?」
「こどもあつかいするなぁー」
「はいはい。欲しいモノはある?」
メリーさんが欲しい。
……なんて流石に、言えるわけがなくて、わたしは無言でメリーの服の裾を掴んだ。本当は“もう離さないぞ”って意思を込めたかったのだけれど、どうにも力がはいらなくって“きゅっ”としか掴めなかったことは、我ながら情けない。
“ぎゅっ”と掴む、くらいはしたかった。
「……はいはい。ここに居てあげる」
「うん」
「白湯、飲む?」
「だいじょうぶ」
「そ。わかったわ」
メリーはそう言って、わたしの手を握ってくれる。
メリーの手はちょっと冷たい。でも手が冷たい人は心が温かいっていうし、きっと、メリーの心はそれはもうあったかいことだろう。
わたしの心は、どうだろうか。きっと冷え冷えとしているに違いない。利己的で我が儘で自分勝手で自己中心。わたしのためだけに、メリーの時間を縛っている。
だけど。
今だけは。
「……そばに、いて」
「……ええ、ここにいるわ、蓮子」
今だけは。
今だけは、甘えさせて。
目が覚めたら、魔法の時間は終わり。いつものわたしに、戻るから、だから。
「側にいる。大丈夫よ、蓮子」
「うん…………うん」
今だけは、あなたの時間をわたしにください。
うつら、うつら。
目が覚めてはっと身体を起こすと、あたりは真っ暗だった。
「え? あれ? 夢?」
あたりを見回しても、当然ながらメリーの気配はない。
もしかしてあれはわたしの願望が見せた夢なのではなかろうか。そう考えると、とたんに顔に熱が集まる。やだなにこれ恥ずかしい。
「どんだけ欲求不満なのよ、わたし」
言いながら電気を付けて、時計を見る。夜十時。まだまだ起きる時間ではない。
それから大きくため息をついてシャワーでも浴びようと背伸びして、ふと、自分のベッドに置かれたモノに気がついた。
「氷嚢……夢じゃ、なかったんだ」
額に手を当てて、それから手鏡で自分の顔を見る。
熱はなさそうだし、顔色も良い。どうやら仮病なんかじゃなくて、本当に熱を出していたようだ。知恵熱か。子供か、わたしは。
思い出せば思い出すほど恥ずかしい。わたしは本当に、明日からどんな顔でメリーに会えば良いのだろうか。
「ううぅ、気持ちを入れ替えなきゃ」
タオルをひっつかんで、シャワールームに向かう。
その前にちょっと水でも飲もうとキッチンに行くと、ふと、ラップのかけられたなにかに気がついた。
「あれ? これって……」
看病されていたときとはちょっと違う。
たまごと梅とささみとほうれん草の入ったおじや。それから。“あっためて食べて”のメッセージカード。どうやら本当にわたしが寝付くまで側にいて、ご飯を作ってくれたみたいだ。
うちにささみなんかない。コンビニで買ってきてくれたのだろう。栄養が、つくようにって。
「食べてから、シャワーかな」
おじやをレンジであっためて、それからいただきます。
れんげで掬って口の中に放り込むと、病み上がりの身体に梅のしょっぱさが染み渡る。おいしい。
「ううむ、メリー料理上手だなぁ。わたしも見習わなきゃ」
一口。
もう一口。
食べ進めれば食べ進めるほど、体と心にしみていく。
メリーはこれをどんな気持ちで作ってくれたのだろう。栄養のバランスもばっちり。これでもかっていうほど、元気になれる要素が盛り込んである。
こんな気遣い、やろうと思って出来ないよ。まったくメリーは優しすぎる。
「あれ?」
一口一口味わって食べていると、ふと、れんげにのっけたおじやに水滴が落ちてきたことに気がつく。
なんだろう、なんて思っている内に、一滴二滴と水滴が増える。
「あれ? は、はは、なんでだろう」
水は止まらない。
わたしのひとみからぽたりぽたりと落ちる水滴は、留まるところを見せない。
「え? な、なんでよ。だってここは、嬉しいって笑うところでしょ? な、なのに……なのにっ」
本当は、わかってた。
わたしの抱く思いは許されないモノだ。いくらか時代が進むにつれ寛容になってきたといっても、やはり同性愛なんてマイノリティだ。世間様から白い目を向けられることなんて、わかりきっている。
まして相手はメリー。高層マンションの最上階、一フロアぶち抜きオーダーメイド。頭も良くて性格も良くて美人で、たまに抜けているところも愛嬌のある、将来の約束されたひと。
同性愛なんかして、許される環境に生まれたひとではない。そんな茨の道を歩かせたいと、思えるひとではない。
「う、くっ、う、ぁぁあ」
それでも、好きになってしまった。
どうしようもなく焦がれてしまった。
告げることの出来ない恋を、実感してしまった。
「あ、ぁああぁぁっ」
へたりこんで、メッセージカードを抱きしめる。
優しさの込められたメッセージ。でも、わかってる。これはわたしがメリーの“ともだち”だから。あくまで、とても近い“親友”だからしてくれたことなんだ。
だからこれは、わたしだけの一方通行。願ったときには捨てなければならない。産んではならなかった片思い。
蓋をして、目をそらして、やがて消えてゆけば良かった。そうしたらわたしとメリーは生涯、最高の親友同士でしかなかった。そうで、あれた。
だというのにわたしは、浅ましく望んでしまったのだ。
メリーと一緒に居たい。
メリーと一緒に生きたい。
メリーと二人で思い合いたい。
メリーのすべてが欲しいだなんて、思ってしまった。
なんて浅ましい。
なんてわたしは、みにくいのだろう。
だって、そこにメリーの意思なんて関係ない。浅ましいわたしがわたしのために、メリーの人生を汚すようなことを、心の底から望んでしまった。
「わたし、は」
なんておぞましいのだろう。
メリーの親友を名乗っておきながら、こんなにも、あってはならない思いに溺れて。
厚かましくも、体調不良を理由に、甘えてしまった。
「めりー、めりーっ、めりーっ……わたしはっ!」
涙は止まらない。
だからこそ、わたしは願う。
「うぁ、あ、あぁっ、ああああぁぁぁぁあぁっっっっ!!!!」
どうか涙よ、わたしの恋心も、涙と一緒に流し出して欲しい――と。
――5――
――いつの間にか、眠ってしまったのだろう。
朝、それも早朝といって差し支えない時間に目が覚める。
「泣き疲れる、なんて。子供じゃないんだからさぁ」
独り言は、誰も居ないキッチンの壁に消えた。
情けない。恥ずかしい。どんな感情よりも自分の心からメリーへの気持ちが消えて無くなっていないことが、嫌だった。
でも方針は決まった。恋心は封印する。漏れ出ないように、頑丈に。これはわたしの罪の証だから、お墓の中までもっていく。
だからわたしは、生涯親友。道が分かれるその時まで、浅ましくも友達で居よう。メリーはきっと、突然わたしが離れてしまったら、自分を責めてしまうから。
「そうだ、おじや」
捨てる気になんてならなかったから、もう一度あたためておじやを食べる。
やっぱり美味しい、けど、昨日のうちに食べておけば良かったかな、なんていう風にも思う。
これを食べたらシャワーを浴びて、歯を磨いて、一日を始めよう。大丈夫、大丈夫、わたしは大丈夫。自己暗示でもなんでもいい。ただ、毎日を繰り返せるように。
結局、二度寝することも出来ずに大学に行くことになる。
とにかく自己暗示と自分自身に塗り替えることに一生懸命で、気がついたらあわや遅刻というところ。
心頭滅却。わたしは今日も変わらず、メリーの“親友”だ。
「えーと、そうだ」
そういえば気が回っていなかったが、メリーから連絡の一本でも入っているかも知れない。
そうスマートフォンを起動させると、ショートメッセージが一本入っていた。
『おじや美味しかった? 学校来られそう? 元気だったら連絡してね』
元気、とは言いがたい。
本当は朝一で返してあげたかったところだが、如何せん、朝はぐったり自己暗示に一生懸命だった。申し訳ないけれど、ここは寝坊ということで勘弁して貰おう。
『美味しかったよ! おかげでぐっすり。遅刻の危機だったり』
わたしがそう返信して、今日の講義の為に席に着いたところでもう一本、メッセージ。
『そう、良かった。遅効で単位落とさないでね、と言いたいところだけど、今回は仕方が無いわね』
やれやれ、なんて顔をしているメリーが思い浮かんで、思わず忍び笑い。メリーはよくわたしに振り回されてる、なんて言ってたけれど、実際に振り回されているのは私の方。
メリーの一喜一憂が、こんなにもわたしの心を揺るがすのだから。うん、この調子なら大丈夫そう。メリーに気持ちを告げられなくても、彼女の存在がわたしを助けてくれるのならわたしはそれに満足しよう。よく隠し事が顔に出るなんて言われるわたしだけれど、今回ばかりは一世一代の大芝居。
貫き通さなければならないのだから。
『単位はほら、わたしにはメリー大先生のご加護があります故……』
『ほうほう。つまりなにを奢ってくれるのかしら?』
『わたしの手作りお菓子なんてどう?』
『却下。駅前のパフェを所望します』
『うぐっ。それでご加護が授かりますなら……』
『一科目手伝うごとに、一個ね』
『ええっ。三科目に一個じゃだめ?』
『何科目危うくするつもり?』
メリーも講義の最中だろうに、コンスタントに返事をくれる。
ううむ、たまらなく嬉しい。そう、そうだ。これでいいんだ。日常の会話や笑顔に満たされる。それ以上さえ望まなければオールおーけー。
やるぞ、宇佐見蓮子。笑う門には福来たり。なんだ、どうにでもなりそうじゃないか。
『よし、秘封倶楽部の出動よ。単位落としお化けの詳細を探るわ』
『寝坊と怠惰じゃないの?』
『胡麻擂り下手を忘れてるよ、メリー』
『はぁ、もっとまっとうな議題を提出してください。今日、無理しなくても良いからね』
『秘封倶楽部の活動は、蓮子さんの元気の源なのです。サボったら調子狂っちゃう』
正確には、元気の源はメリーなんだけど。
教授の目がこちらに向いたので、素早くスマートフォンを暗転させる。さっさと講義を切り抜けて、メリーの顔を見に行こう。うん。
放課後になると、やはりわたしは普段メリーが来る時間よりもかなり早く、カフェに到着した。
前方確認、左右を確認、それからゆっくり後ろを確認。目をこらしてみてもメリーの姿は見当たらない。ふっふっふっ、いつまでも不意を打たれるだけの蓮子さんではないのだ。
昨日の不意打ちは本当に心臓に悪かった。今度は不意は打たないように、メリーにも注意しておかねば。なんて、適当なことを考えながら振り向いていた姿勢を元に戻す。
「元気そうね」
「まぁね。わたしにもうすきは……は?!」
「心の底から、元気そうね」
わたしが振り向いている間に、対面の席に着いていたのだろう。頬杖を突きながらじとっとした目でわたしを見るメリー。幼げな仕草も可愛らしいです、なんて、不意を打たれて脳みそが混乱する。
まさかの二日連続。敵はどうやらわたしよりも一枚上手だったようだ。
「い、いやぁ、メリーの愛情たっぷりのおじやで元気いっぱいだよ」
「みたいね。まったく……病み上がりなんだからじっとしていなさい」
「うう、肝に銘じます」
そこまで言って、メリーはやっと笑顔を見せる。
まぁ、苦笑だけれど。
「で? まともな議題は持ってきたの?」
「ええっと、コードがすぐ絡まるのは妖怪の仕業だと思うのだけれど、どう?」
「ずいぶん近代的な妖怪ね」
「じゃあ、服に毛玉をつける妖怪!」
「なんでも妖怪のせいにしないの。そんなにあふれていたら、私は結界境界だらけの世界でもみくちゃになってしまうわ」
「信じるモノは救われるのよ。鰯の頭だって信じていれば妖怪になるわ」
「魔除けが妖怪になるのなら、鰯の頭の信者は足下を掬われたのかしら?」
「すくわれるのならいいんじゃない?」
盛り上がってくると、わたしたちの仲に恋だの愛だのは混じらない。ただ純粋に、二人の世界にのめり込んでいく。
これが秘封倶楽部。秘密を辿る秘密の倶楽部。
「妖怪になってそうなモノでも調べてみるのはどう? メリー」
「そうねぇ。なら、図書館でも巡ろうかしら?」
「いいね! それじゃあ今日の方針決定!」
カフェでさっさと会計を済ませて、メリーと一緒に立ち上がる。まずは大学図書館。それからじっくり伝承巡りでもすれば、すっかりいつもの秘封倶楽部だ。
そう思うと、自然と足取りも軽くなる。
「モノに宿ると言えばやはり、付喪神?」
「たったの九十九年でいいんなら、ドラムやギターの妖怪もいたりして」
「騒音妖怪ね。夜が怖いわ」
「まんじゅう怖い?」
「目覚まし妖怪ね。朝が怖いわ」
図書館への道のり。
ふと、歩いているメリーの指とわたしの指がぶつかる。こんな今まではいくらでもあったことが今はほんの些細な幸福に繋がっているだなんて、メリー、あなたは想像もしていないことだろうと思う。
だからこれは、わたしだけの幸福。わたしだけの満足。
「なぁに? 人の顔をじっと見て」
メリーの顔立ちはとても整っている。神秘的、といってもいいかもしれない。
もしも本当に神様が居るのなら、彼女はきっと神様からたくさんの恵みをもらったのだろう。最初はその美しさに戸惑い近寄りがたくさえ思っていた。けれどどうだろう、だからこそわたしの求める秘封倶楽部に相応しい、だなんて近づいてみたら、彼女自身に惹かれていた。
メリー、わたしはね。きっとメリーがどこにでもいる普通の容姿だったとしても、あなたに惹かれていたよ。
「あっは、なんでもなーいっ」
「ちょっと、え? もしかしてなにかついてる?」
「さーてどうでしょう?」
「え? 本当に? ちょっと蓮子!」
ねぇメリー。知ってる?
あなたとこうして話をするだけで、わたしの胸はどきどきと高鳴ってうるさいくらいなんだ。
あなたと触れ合うだけで、わたしの心は暖かく満たされて幸せな気持ちになるんだ。
ただの友達でも構わない。それであなたと一番深い関係になれるのならば、わたしはそれを受け入れる。
「ほらほら、図書館閉館しちゃうよ?」
「大学図書館は夜までやっています。じゃなくて!」
「大丈夫大丈夫、私を信じてっ」
「そういうときの蓮子が一番信用ならないの!」
「えっ、ひどい」
「ひどいと思うんなら改めてちょうだい」
「ショックのあまり改められないよ」
「単位危うくても知らないわよ」
「改めました」
「よろしい」
言葉を交わして。
笑顔を交わして。
思いを交わして。
意思を交わして。
想いは、交わせなくても良いから。
だから。
「よし、ではでは秘封倶楽部、調査開始!」
「なにか誤魔化されたような気がするわ」
「細かいことは気にしない!」
「まぁいいわ。あなたの親友やっているのなら、このくらいのことは日常茶飯事だし」
「そうそう、気にしてたらはげちゃうよ」
「単位」
「ごめんなさい」
だから、わたしがあなたの親友でいられる内は。
「まずなにから調べる?」
「九十九年以前に出来たモノの一覧でも作ろうかしら。簡単に」
「そうだね、それがいいかも」
あなたの隣に居させて。
メリー。
「じゃあ、一時解散!」
「一時間後に集合ね」
「うん!」
わたしのだいすきなひと。
――6――
それから。
友達でいることの幸福を満喫しようと決意すると、もう、動揺が顔に出ることはなかった。これからさきもこうやって、緩やかな片思いを続けていたとしても問題は無いと思う。
たとえばこれが完全な片思いで、そもそもメリーの隣に居られないのならば散らかったのかも知れない。けれどわたしは、両想いでこそないが、両思いではある。想って想われてはいないが、想って思われてはいる。
これは世の片思いをする青少女たちの仲では、だいぶ恵まれた環境なのではないのだろうか。
自分の気持ちに気がついて、みっともなく泣きわめいてもう十日経つ。
けれどあれ以来ぼろらしいぼろも出すことはなく、放課後の秘封倶楽部は続いている。
「とはいっても」
どうしても想いに自覚してからというものの、メリーをカフェで待つ時間だけは憂鬱にもなる。なんといっても、毎度、僅かな緊張を保持していないとどこかでぼろがでてしまうかもしれないのだ。
それはさすがに、いただけない。
「おまけに今日は、メリーの方が一限長いしなぁ」
休憩十五分を挟み、講義の時間は九十分。教授に質問したりなんだりして、ここに到着するまでさらに最大十五分。なんとわたしはここで百二十分待ちということだ。
これだけの時間、ひとりで悶々としているのはわたしも流石に辛い。こうなる前までは読書でもしていれば時間なんてさっさと過ぎてくれたのに、こうなってしまえばどうしようもできない。粛々と悶々とするしかない。
「うぅ、本当になにしてよう?」
というわけで、絶賛、お悩み中なのだ。
悩んでいる間の時間というのは、過ぎて欲しいときほどゆっくりと進む。現にもう一時間は悶々としていたつもりだったのに、まだ十五分。
やっとメリーの受講が始まったころである。
「そうだ! メリーを見に行こう!」
もういないメリーのことを考えていても仕方が無い。
幸いなんの講義をどこで受けているのか、以前、メリーから聞いたことがある。もちろんメリーの言葉は事細かにインプット済みなわたしは、ちょちょいとメリーの姿を盗み見にいくことくらいは余裕だと思うのだ。
メリーの講義を受ける凜とした後ろ姿でも見つめていれば、幸福な気持ちになることは間違いない。
思い立ったが吉日だ。
急いで席を立ち、メリーの居る校舎に向かう。受講中の校舎なんてものは無駄に静まりかえっているから、足音だけは立てないように早足で。
流石に今まで一度もしたことがない“お迎え”をしに来たとも“覗き”に来ましたとは言えない。言って呆れられるのはまだ良いが、軽蔑されたら立ち直れない自信がある。
最低限、ことが露見しないようにせねば!
「ええっと、確か……」
抜き足、差し足、忍び足。
目標の講義室を見つけると、一番後ろの扉のやや斜め後ろに身をかがめ、そっと小窓から中を見渡す。
幸い、講堂は七十人強は入る大きめのものだ。わたしひとりが後ろでこそこそしていたところでばれはしない。わたし自身、後ろなんて気にしたことないし。
「メリーは……あ、居た」
中央列よりやや扉より。幸い、横を向いてくれたら横顔が見えるかも、くらいの距離に居る。ばれる心配も見えない心配も無いベストな位置だ。
さすがメリー、わかってる。いやいや落ち着け、落ち着くのよ蓮子。
「やっぱりメリー、髪、綺麗だなぁ。質も良いんだよね。抱きしめたい」
メリーを見ているだけで幸福な気持ちがわいてくる。
やはりカフェで長々と時間をつぶしているよりも全然良い。時間なんて、メリーをみているだけでどんどん過ぎていく。
「ん? あれ?」
でも。
この行動は果たして正解だったのか。
「ぁ」
もしそれが、わたしに現実を直視させるという意味であったのならば正解だったのだろう。
「は、はは」
メリーの隣の席。ショートカットだ。男の子だろうか? 女の子だろうか?
メリーをなにやら肘で突くと、メリーが興味深そうに相手の顔を伺う。それから耳元で一言二言何事かを呟いて、くすくすと上品に微笑んでいるようだった。
相手もその様子に笑っている。メリーは、わたしにしか見せないと思ってた、優しい瞳でその相手を見て笑っていた。
わたしだけが、側にいるわけではない。
「メリーがわたし以外にも友達がいる、なんて、当たり前のことなのに」
目をそらしていた?
いいや、浅はかなわたしはその可能性を除外していた。メリーは蓮子を“特別な親友”と称している。メリーがそういうのなら、そうそうたくさんのひとに使う言葉でもない以上本心からわたしだけに向けられた言葉だろう。
でも、それ以外は?
普通の友達。
特別に近い友人。
そして……“特別な恋人”。
「わたしだけの、友達ではないんだ」
気がついたら、その場から走り去っていた。
無人の給湯室に飛び込んで、外から死角になっている入り口側の壁に背を預けて座り込む。
わかっていなければならなかった。メリーほど魅力的な女性がわたししか見ていないなんて、そんなことがあるはずがない。きっと、誰からも人気なのだろう。友達も思いを寄せられているひともたくさんいて、そのひとたちはきっとわたしほど“面倒”なものではないのだろう。
わたしだけが、メリーの負担になり得る。
「なら、どうすればいいの?」
わたしが離れても、メリーには慰めてくれるひとがたくさん居る。
そうしたらとたんに、メリーの為に側を離れないだなんて思っていた、わたしの身勝手な欺瞞が剥がれ落ちた。
わたしがわたしを護るために貼り付けた、醜さの上の上っ面の偽善。メリーと一緒にいられる理由が欲しくて貼り付けた、ゴテゴテのメッキ。そんなもの、摩耗するごとに剥がれていくことなんてわかりきっていたはずなのに、わたしはそれを見ようとしなかった。
「でも、それでも」
抱きしめるように自分の身体を抱えると、腕に爪が食い込んで血が流れる。
「一緒に居たい。どんな形でも良いから、一緒に居たいっ」
わたしは浅ましい。
厚顔無恥の偽善者だ。
そんなことはわかってる。もう目をそらすことなんか出来ない。メリーに“特別”という席を貰っておいて、彼女の友人であろうひとたちに醜い嫉妬を覚えている。
なんでメリーはわたしだけのメリーじゃなかったんだろうって、ただそんなことばかり考えている。
「つらい、つらいよ、苦しいよぉ、メリー」
わたしは彼女の名前を呼ぶ資格なんか在るのだろうか。
罪悪感。自己嫌悪。自己陶酔に浸って、禁断の恋にのめり込んだ、悲劇のヒロインぶる自分への後悔と憎しみ。
けれどどんなにぐちゃぐちゃの想いに身を焼かれようとも、メリーを手放すことなんてできない。できっこない。
もうわたしは、メリーのことを愛してしまったから。
「そうだ、メリーを手に入れれば良いんだ。どんな手を使っても――」
どんな手を、使っても?
「っ」
こみ上げてきた吐き気を、身体を丸めて堪える。
「げほっ、げほっ、うっ、ふぅ、くっ」
わたしは今、なにを考えていた?
手段を選ばない? それでメリーを不幸にしてわたしだけ幸せになる?
そんな未来、あってたまるか。わたしはメリーの幸せを願う。それだけは、その根底だけは揺るがしちゃいけない。
だって、それが揺らいでしまったら、わたしはもう“メリーの特別”ではいられなくなってしまうから。
「なんて、無様なんだろう。あはっ、ははははっ」
膝を抱えて、唇を噛む。
涙は流れなかった。
それで、わたしは、どうやって帰ってきたのか正直曖昧だ。
ただ無我夢中で、メリーに『風邪がぶり返した』だなんてメールをして、足取りも不確かに帰路についた。
ベッドに倒れ込むように転がって、受信済みを知らせる光が明滅するスマートフォンを抱きしめる。メッセージを開くときっとメリーは心配の言葉を投げかけてくれていることだろう。もしかしたら電話だってしてくれたかもしれない。
けれど受信履歴にメリーの名前が並んでいる様を見ることが怖くて、わたしはスマートフォンの設定をサイレントにしてベッドに放り投げる。電源をオフに出来ない浅ましい自分が、なおさら嫌になった。
「メリー、すきだよ。めりー。めりー、めりー、めりー……」
ああ、だめだ。
気持ちが溢れて止まらない。
「嫌われたくない。嫌われたくない嫌われたくない嫌われたくないっっ」
無様に嫉妬して。
浅ましくも友達面して。
厚かましく愛を請うて。
汚らわしくメリーを想う。
「どうしよう、どうしよう、メリー、わたしはどうしたらいいの?」
好きで居たい。
好きで、メリーの隣でいられるのであれば、メリーと向き合う想いが同じでなくても良いと想っていた。
けれど、メリーの隣にわたし以外の人間が居座ることだけは我慢できない。メリーが誰かの隣で、わたし以外のひとの隣で笑っているということが、どうしようもなく苦しい。
でも。
「わかってるんだ、メリー。メリーだって将来は、誰か素敵なひとを見つけて結婚して、子供を作って家庭を作る。メリーは素敵なひとだから、可愛い子供を産んで幸せになる」
もしも、メリーが男性だったら。
もしも、わたしが男性だったら。
もしも、もしも、もしも。意味の無い過程が脳みそを埋め尽くす。
「でもさ、わたしは耐えられそうにないよ、メリー」
わたし以外の誰かが。
わたしが一番望む場所で。
わたしの苦悩を知ることもなく。
わたしの葛藤をやすやすと越えて。
メリーと一緒にいる、なんて。
「いっそ、本当にわたしだけしか見られなくしてしまいたいよ」
掌に食い込んだ爪が、気がつけば紅く濡れていた。
もしもメリーに刃を突き立てたとき、わたしと同じ汚らわしい紅色が流れ出るところなんて見たくない。メリーの紅は、きっと綺麗なのだろうけれど、それでも。
縊死は汚く死んでしまうという。だから絞殺はだめだ。綺麗のままでいて欲しい。
冷凍はどうだろう。凍死は保存が利く。ああでも、喋られないメリーと居るのは辛い。さっさと後を追うのなら、それはだめだ。苦しみが少なく眠るように死ぬと聞くから、メリーに優しいと思ったのだけれど。
そうだ。毒殺なんてどうだろう。致死性が強くて、即効性。ほとんど苦しまずにメリーを――
「あ、れ?」
顔を上げて。
周囲を見て。
紅い斑を作るシーツを見る。
「なんで、なんでなんでなんでなんでなんでっ!!」
日は落ちている。
どれほど時間が経ったのかわからない。
「なんで、あはっ、わたし、メリーを殺すことなんか考えてるの……?」
やだ、やだよ。
白い画用紙に黒いペンキをぶちまけるように。
真っ白な石を暗い水底に放り込んでしまうように。
黒く淀んだ醜い思考が、頭の中をじわじわと覆い侵していく。
「あ、ははっ、あはははっ、そうか、そうだよね、メリー」
真っ黒に淀んでいく思考が、暗い闇に沈みきってしまう前に、ひとつ、最後の良心がわたしに告げる。
「――わたしは、わたしなんかが、メリーのそばに居ちゃいけない」
ひとつ、決意する。
わたしがこのまま傍に居たら、この自分勝手に塗れた醜い心がメリーを侵して、いずれはメリーに牙をむいてしまうことだろう。
だったらわたしは、たとえわたし自身がどうなろうとも、メリーの傍から離れるべきだ。
だから、気持ちを伝えてしまおう。
わたしの気持ち悪い本音を伝えたら、きっと終わらせてくれる。
「だからメリー、わたしをどうか突き放して」
――わたしが、これ以上、狂ってしまう前に――。
――7――
やるべきことは決まった。
だけどよほど体力を消耗してしまったせいか、我がことながら脆弱なことにまた体調を崩してしまい、本当に寝込むことになる。
なんてしまらない。これがメリーとの別離をいやがるわたしの拒否反応だとしたら、自己嫌悪で死んでしまう。ああいや、違う、死にたい。
「治して、早く言わなきゃ」
次の秘封倶楽部で、この感情に終わりを告げる。
そう、決めた。
けれど、どこまでいっても運命の神様とやらは優しくない。
こんな状態で言いたくなかったからそう決めたっていうのに、わたしの些細な願いはいとも容易く覆される。
サイレントにしたままのスマートフォンが、受信を知らせる明滅を繰り返す。そういえば昨日、メリーからの着信を無視してサイレントにして、そのまま放置だった。メリー、怒っているだろうか。怒って嫌ってくれるのであれば、それはそれで手間が省ける。
なんとなく着信履歴を見るのは怖かった。だから届いたメッセージだけを見る。
『また風邪? 体調管理には気をつけなさいって言ったでしょう?』
『どうしたの? まさか、電話に出られない?』
『まだ寝てる? 起こしてしまったらごめんなさい。体調はどう?』
『心配しています。起きたら、で構わないから連絡ください』
『蓮子に元気がないと、私も元気が出ないわ。連絡待ってます』
時間を置いて綴られていくメッセージ。
きっとその間に何度も着信を入れたのだろう。わたしなんかをこんなにも心配してくれている。そのこと事態は心が満たされるほど嬉しい。だけど、同時に“こう”も考えてしまう。
やっぱり、優しいメリーをわたしなんかのそばに置いてはならない、と。
「大丈夫ってだけ、言おう」
そうスマートフォンでメッセージ入力場面を開き、指を這わせる。
汗でべっとりとした指は、入力を遅らせた。その遅らせた僅かの時間に、新しくメリーからメッセージが届く。
『お見舞いに行きます。覚悟なさい』
「へ?」
覚悟しろとはどういう意味か。
いや、妙なところでテンパるメリーのことだ、心配が重なって行動に出たとかきっとそんなんだろうなぁとは思う。
だけれども、思ったところでどうしようもない。こんな体調では有言実行も出来ず、ここでメリーに遭遇してもわたしは――
「いや、そうだ、返事をしなければいいんだ」
――熱で茹だった頭で行動してはダメだ。
だったらどうすればいいか? 追い詰められたわたしに思い浮かんだのは、思いの外効果的な解決策。いかにメリーといえど、鍵が開いてなければ部屋に入ってくることなんか出来ない。
だったらこのまま返事をせずに寝てしまえば良い。せっかく来てくれたところを追い返すことはつらいけれど、こんな状態で遭遇するわけにはいかないのだから。
「これで、なんとか、だいじょうぶ」
ろれつは回らない。
重くなっていく瞼を自覚して、わたしは風邪を治すためにもしっかり眠ることにする。起きたときに入っているメッセージに、メリーからの諦めの言葉が入っていることを、強く願いながら。
――まどろみから、緩やかに意識が浮上する。
今は何時だろうか。あれからどれほど時間が経ったのだろうか。
未だに身体のだるさも熱も抜けていない。どころか、重くなった気さえする。気持ちの問題だろうか。病は気から。気がこんなんでは、良くなるモノもならないか。
自嘲しながら、手探りでスマートフォンを探す。どの程度経ったのかわからないけれど、そろそろ返事ぐらいあるだろう。きっと、諦めて帰ったとか、そんな反応が送られてきているはずだ。
……そうじゃないと、困る。
「あれ、すまーとふぉん、どこだろ」
「お探しのモノはこれかしら?」
「うん、そう、ありがとー」
スマートフォンを起動する。
メッセージに新しいモノはない。
「あれ? なんでだろう?」
「なにに不思議がっているのか知らないけれど、まず水を飲みなさい。それから何でも良いから食べて薬を飲みなさい」
「みず、みず、ごはん、くすり……」
「ご飯は緊急事態だから勝手に炊かせて貰ったわ。水は今、注いでくる」
「うん、ありがとぅ、め……」
あれ?
なにか、おかしい。
気怠い身体を気合いで動かして、ゆっくりとベッド脇を見る。
淡い金の髪。白い肌。青い目。呆れたような表情。美しいかんばせ。
逢うことを願って、会い続けることを拒否した少女。わたしが希う大切なひと。
決意を込めて、治ったらすべてに決着を付けよう。そう決めたはずなのに。そう決めて、実行してみせると誓ったのに、メリーは何故か、さも当たり前のような表情で、わたしのことを見つめている。
「め、りー?」
「はい、そうよ、メリーさんよ」
「なん、で」
「管理人さんに事情を話して合い鍵借りたわ」
「い、つ」
「たっぷり一時間は、寝顔を眺めさせて貰ったかしらねぇ」
「ぇ、あ、ぅ」
言葉にならない。
熱で浮かされた脳みそは、沸騰してしまいそうなほど強い熱を持つ。風邪とは違う心臓の脈動が、どこか苦しい。
嬉しい。
愛しい。
苦しい。
辛いよ。
傍に居て。
望ませないで。
だめだよ。
これ以上、わたしを狂わせないで、メリー。
「とりあえず、水を持ってくるか、ら……っ?」
離れようとするメリーの手を掴んで、どこにそんな力があったのやら、わたしはメリーをベッドに引きずり込む。
重く苦しい身体。けれど火事場の馬鹿力とでもいうのだろうか。わたしはメリーを逃がさないために彼女の上に馬乗りになる。それから、力を振り絞ってメリーの両手を彼女の頭の横で、わたしの手で拘束した。
「蓮子……?」
綺麗な瞳。
戸惑いに揺れていても、あなたの瞳はどこまでも澄んでいるんだね。
叶うことならば、このままベッドに縛り付けて、あなたをわたしの手で嬲り尽くしてしまいたい。
朝も昼も夜も平日も休日も過去も今も未来も、わたしだけをその瞳に映させたい。隠しようのないわたしの本性。醜く汚れた心の声。
「メリー」
「どうしたの? 蓮子? ――悲しいの?」
こんなときでも、ひとの心配?
もっと自分の心配してよ。いやがって身を捩って、助けを求めて突き飛ばしてよ。そんなに優しいんじゃ、蓮子さん、メリーさんの将来が心配だよ。
鎖を付けて羽をもいで閉じ込めてしまえば、そんな心配なくなるのかな。あなたがわたしだけを見てくれるのなら、そんな心配必要ないよね。
「メリー、わたし、は」
でもね、わかっているんだ。
そもそもわたしのような傷つけようとする人間が、我が物顔でメリーの隣に経っていることこそが何よりも罪なんだって。
だからね、メリー。あなたはもう、わたしなんかの傍にいちゃだめ。あなたを護ってくれるひとを、傍に置いて? メリーならきっと、素敵なひとと巡り会えるから。
「メリー」
唇が震える。
心臓が痛い。
息が苦しい。
喉が、軋む。
「わたしは、メリーのことが」
さぁ、これで終わりにしよう。
わたしの醜い恋に、終わりを告げよう。
「――すきだよ」
だから、メリー。
「わたしはメリーのことが好き。あなたの全てが欲しいと願うくらい」
右手で、メリーの頬に手を当てる。
きっとわたしは今、情欲に塗れた汚らしい表情を見せていることだろう。
「だから、お願い、メリー」
だから。
「――わたしのことを、受け止めて」
――わたしのことを、突き放して。
お願い。
これ以上わたしに、あなたを傷つけさせないで、メリー。
「蓮子、あなた、何を言っているの?」
メリーの言葉に、身体が震える。
自分から望んだことだというのに、なんと無様なのだろう。わたしはメリーに突き放されることを強く望んで、ひどく怯えている。
だけどね、メリー。
同時にわたしは、安心しているんだよ。
これでようやくメリーは、わたしと、わたしなんかと離れることが出来るのだから。
「おかしな蓮子ね、どうしたの? 急に」
それなのに。
「私も、蓮子のことが好きよ。ふふっ」
やっとこの苦しみを終えられると、そう思ったのに。
「だってあなたは――」
やめて。
「私の、“とくべつ”な」
お願い。
その続きを、言わないで。
「“親友”だから、ね」
そう言って微笑むメリー。
その笑顔を見たときに、わたしの心の中で、何かが砕けた。
「今日は甘えん坊ね。一緒に寝る?」
その言葉、ずっと欲しかったよ。
でもね、メリー。欲しいコトバとは違うんだ。
「と、その前にお水ね。あと、ご飯とお薬」
わたしの本気も。
わたしの決意も。
わたしの憎愛すらも。
「ほら、いつまでそうしてるの? さっさと退きなさい。風邪、早く治しましょう?」
あなたには、なにも伝わらないんだね、メリー。
「よいしょっと。じゃあ、水、持ってくるわね」
それなら、良いよ。
もうどうだって良い。
応えても突き放してもくれないのであれば、もう、わたしだけしかわからないようにすればいい。
「あなたは休んでいて、蓮子」
メリーの姿が部屋から消えていく。
水を取りに行ってくれたのだろう。やっぱり、メリーは優しい。
でもね、メリー。あなたの優しさがわたし以外のところへ向けられるなんて、わたしには到底、受け入れられないんだ。
「ふっ、あはっ。あははははっ! メリー、わたしは――」
だからわたしは、選ぶよ。
メリー。
――8――
メリーの手厚い看護もあって、わたしの風邪はすぐによくなった。
それからはまた、表面上の日常が続いていく。大学に行って、まるでこれまでのようにメリーと秘封倶楽部の活動を続ける日々だ。
あれから、わたしはメリーが誰と居ても気にならなくなった。いや、正確には少し違う。我慢できるようになった、というのが正しいだろう。
例えばメリーが見知らぬ男性と話していても。
例えばメリーが見知らぬ女性と親しげにしていても。
もうすぐわたしのものになるのだから、と、そう考えれば気持ちも落ち着く。
「メリー、愛してる。あはっ、はははっ」
誰かと楽しげに話すメリーを、わたしは物陰から眺める。
愛しい愛しい、わたしのメリー。二人きりになったらなにをしようか。そうだ、美味しい料理を並べて、ワインを注いで乾杯しよう。それに“茨姫の眠り薬”を混ぜてメリーと永遠に二人きりになれる時間を作ろう。永遠。なんて良いコトバなんだろうか。だってメリーとずっとずっとずっと二人きりという意味だ。メリーもわたしを愛してくれるかな。でも時間はいくらでもあるんだ。事切れたメリーの横でわたしも一緒に眠りにつけばいくらなんでも鈍感すぎるメリーだってわたしのことを振り向いてくれるに違いない。人間、長く共に居ればたとえ相手が自分を人質に立てこもる殺人犯や強盗だったとしても情がわいて恋に落ちるのが人間だ。今だけはその浅ましさに感謝しよう。だってそうすればわたしとメリーが相思相愛になるんだから。なんてなんてなんて楽しい想像なのだろう。そしてこの妄想は現実になる。だってだってもうすぐもうすぐもうすぐもうすぐわたしのひがんがかなえられるのだから。
「愛してる、愛してるよメリー」
好きで好きで、もう我慢できない。
うっかり合い鍵を用意してしまうわたしのマンションの管理人は信用できない。だから申し訳ないけれど、メリーの部屋を借りさせて貰おう。
色々と準備が必要で時間が掛かってしまったが、なんとか終えることが出来た。あとはメリーの承諾を願わないと。準備が終えている以上、別に今日がダメでも構わない。ああでも、やっぱりできるだけ急ぎたいなぁ。メリーがわたし以外のひとをみるなんて、やっぱり気分の良いものではないし。
『蓮子さん完全快気祝いに、メリーさんのおうちで快気宅呑みを所望します』
わたしのメッセージに反応して、メリーは親しげに会話をしていた誰かに断りを入れて、スマートフォンを見ているようだ。
『まぁ良いでしょう。なにがたべたい?』
“誰か”よりもわたしを優先して返事をしてくれる。些細な行動が嬉しい。
『メリーさんの手作りならばなんでもよろしいです』
『そう。お酒は?』
『用意済み』
『周到ね』
もちろん。
今日でやっと願いが叶うのだ。周到にならないはずがない。
『今日は秘封倶楽部の活動はお休み! パァっとやろう!』
だからね、メリー。
『ええ、いいわ。仰せのままに』
今日、わたしは、あなたを殺します。
メリーの部屋は高層マンションの最上階ということもあり、都市の夜景が一望できる。
煌びやかなネオンと幾ばくかの星。運の良いことに今日は満月だったから、眺めは最高だ。
「では、乾杯!」
「はい、乾杯」
メリーとグラスを打ち付けて、二人でシャンパンを呷る。
アルコールが身体の中を駆け巡っていく陶酔感。強めのアルコールだったからか、勢いよくワイングラスのいっぱいも飲み干せば、すぐに身体は熱く火照った。
「短期間で二度も風邪になるなんて、本当に珍しいわね」
「わたしも初めての経験だよ。もうこりごりかな」
「そうでしょうねぇ」
短期間で二回というのは辛い。
もうすぐ味わうことのなくなる感覚だとはいえ、知りたい感覚でも無かった。ああでも、メリーに看病されるっていう素敵なイベントが二度もあったということは忘れられないなぁ。
うん、風邪万歳。
「それにしても、メリーは料理上手だよねぇ」
「蓮子はやらないだけでやれない訳ではないでしょう?」
「やりたくないからね。やっぱり料理は食べるに限るよ」
「ふふっ、なにそれ。もう」
グラタン。
ピラフ。
生ハムのサラダ。
アヒージョ。
ゴルゴンゾーラのニョッキ。
バーニャカウダ。
どれもこれも舌鼓を打つような出来ばかり。
こんなに出来たひとがわたしのものになるなんて、嬉しいことこのうえない。まぁもっとも、メリーの手料理を食べられるのは今日で最後だ。
十二分に堪能せねば!
「ここのところなんだか元気がなかったみたいだから心配したのだけれど……」
「はむ、はむ、んぐ、おいしい。……ん? なに? メリー」
「ふふっ、その様子なら、問題なさそうね」
メリーはそう、わたしに向けて柔らかく笑う。
うん、その笑顔、すごく良い。永久保存永久保存。魂のHDに刻み込んでしまえば、この記憶は永遠だ。たとえ死んでも消してなんかやれない。あはっ。
「ほら、汚さないの。口元くらい拭いてちょうだい」
「えー、メリー拭いてー」
「子供扱いして欲しいのかしら?」
「大人扱いして欲しいのよ」
メリーはぶーぶーと文句を言いながらも、苦笑して口元を拭いてくれる。
優しいなぁ。慈しみの溢れる瞳。うん、母性だね。
メリーの娘なら、こんな気持ちは抱かなかったのかな。
「メリーの手は、冷たいね」
「蓮子の手が温かいだけよ」
「わたしの心が冷たいのかな」
「熱すぎて熱が漏れてる、の方がしっくりくるわ」
「あははっ、なにそれ。メリーは外に漏れずに内側で燃え続けているのかな」
「あら、案外冷酷な人間かも知れないわよ」
「ないない。メリーはとてもすばらしいひとだと、この宇佐見蓮子様が保証するのですよ」
「あら、それなら安心ね」
「そうそう、安心安心」
言葉を交わして。
瞳を交差させて。
笑顔を見せ合い。
共に声を上げる。
もう、共に眠りにつくのなら、この光景は永遠に訪れない。
だから最後の最後まで、たっぷりと堪能しなければ、ね。
「ふぅ、お腹いっぱい! おいしかった!」
メリーと過ごす時間は、あっという間だった。
楽しい時間ほど過ぎていくのは早い。それは仕方の無いことなのだろう。楽しむな、勤勉に励めという偉いひとのお達しなのだ。
「そうね、ちょっと作りすぎたかも知れないと思ったのだけれど、ちょうど良かったわ」
夜景の一望できるソファーに腰をかけると、メリーもわたしの隣に並んで座り込む。
「美味しいからね」
「ふふ、ありがとう。お粗末様」
楽しく食事をして、お酒を飲んで高揚し、ロマンチックな光景を一望しながらソファーに並ぶ。
雰囲気はばっちりだ。これ以上はないと言っても過言ではない。
だから、だからね、メリー。
わたしとメリーに、最後のチャンスをちょうだい。
「ねぇ、メリー」
「どうしたの? 蓮子?」
メリーの瞳を見つめて、この想いが、伝わるように。
「わたしは、メリーのことが、すきだよ」
でもね、メリー、わたしはわかっているんだ。
「すごくすごく、特別な“すき”なんだ」
わたしがどんなに想いを伝えようとも。
「メリーは? わたしのこと、どう思っているの?」
わたしがどんなに、あなたを求めようとも。
「もちろん」
あなたはそれに、応えない。
「私も、蓮子のことが好きよ。だってあなたは――」
わたしの苦悩も。
わたしの葛藤も。
わたしの意思も。
わたしの憎愛も。
何一つだって、くみ取ってはくれない。
「――私の、“特別”な“親友”ですもの」
ああ、そうか。
「そっか」
やっぱりだめだ。
「そうよ」
今、確信した。
「ねぇ、メリー」
もう。
「なに? 蓮子」
わたしは。
「夜景を肴に、いっぱいやろうよ」
後戻りできない。
「ふふ、良いわね」
メリーを座らせたまま、わたしはテーブルにワイングラスとシャンパンを取りに行く。
シャンパンはその場で注いでしまい、メリーのグラスにかなり強めの睡眠薬をあらかじめ水に溶かしたモノを流し込んだ。
持ってきた睡眠薬はひとつ。わたしは他の方法で構わないから、メリーの分だけだ。
「お持たせ」
「ありがとう」
メリーの隣に並んで、グラスを手渡す。
メリーは疑いもせずに柔らかな笑みでお礼を言って、受け取ってくれた。
「それでは、“永遠の秘封倶楽部”に」
「なぁに、その文句? まぁ良いわ、ふふっ、乾杯!」
「乾杯!」
メリーはワイングラスを上品に傾けると、喉を艶美に動かして飲み干す。
わたしもメリーに習って飲み干してみせるが、わたしのお酒とメリーのお酒は少々内容が違う。
「あ、れ? なんだか、ねむ、け、が」
かしゃん、と、メリーの手からこぼれ落ちたワイングラスが、フローリングに落ちて割れる。するとメリーはソファーに倒れ込むようにして眠りについた。
心療内科で眠れないと偽って処方して貰った、ちゃんとした眠剤だ。効果が出ないはずもない。これでメリーはもう、なにをしても起きることはないだろう。
「ねぇメリー、好きだよ。あはっ」
眠り姫に覆い被さり、白くなめらかな頬に手を添える。
ずっと欲しかった唇がそこにあった。
「わたしもすぐにいくからね。だからおやすみ――メリー」
そうしてわたしは、片手でメリーの鼻を押さえ、唇を重ねる。
本能からか僅かに身を捩るが、完全に眠りについたメリーの身体は、それだけでは自由を取り戻すことなど出来ない。
何分そうしていたことだろうか。大きく一度、二度とメリーの身体が痙攣して、やがて、ゆっくりと力が抜け落ちていく。
「これでもう、永遠に、あなたはわたしのものだよ、メリー」
口元に手を当てて確認をする。
もうメリーは息をしていない。
あっさりと意識を手放して、あっさりと永久の眠りについた。
「ふふ、あはははっ、あはははははっ、あははあはははははははははあははははははあああははっっっ!!!!」
ふと、メリーと最後に見た夜景を見る。
ガラス窓に映るのは、狂ったように笑うわたしの姿。
メリーの頬に手を添えて、狂人のように声を上げて、笑いながら涙を流すわたしの――
「あれ?」
――なんで、わたしは泣いているんだろう。
「お、おかしいな、これ以上無いくらいにうまくいって、うれしいはずなのに」
口元は笑みの形に歪んでいる。
だが、私の両目からは、留処なく涙が流れ続ける。
「止まれ、止まれ、とまれ、とまれ! なんで、なんでよ! 止まってよ!!」
メリーを殺した。
もう二度とメリーはわたし以外の人に笑いかけない。
メリーの笑顔は、わたしだけの――
「わたし、だけ、の? あ、あははは、なにいってんだろ、わたし」
――もうわたしにすら、笑いかけてくれないのに。
「あ、あはっ、あはははっ、なにいってんの? 当たり前じゃん。だってメリーはもう、死んで、あああ、し、死んでいるんだ」
眠っている?
一緒に居られる?
死んで、後を追いかけて、その後は?
その後なんか、本当にあるの?
「あ、ああああ、ああああああああああああ、あああああああああああああッッッ!!!」
やだ。
やだよ、メリー。
なんで、こんなときに正気に戻るの?
取り返しの付かないことをした。もう、後戻りは出来ない。メリーは確かにわたしがこの手で殺して、もう二度と目覚めない。
『好きよ、メリー。あなたは私の、特別な親友だから』
わたしに向けて笑いかけてくれることは、もう、二度と無い。
だって他でもないこのわたしが、その機会を永遠になくしてしまったのだから。
「本当に、わたしは自分勝手」
メリーの死体は、まだぬくもりがある。
だからわたしは死んだときにメリーのうえに覆い被さるように、彼女を見下ろしながらナイフを手に取った。
首筋に当てて強く引き絞れば、多少時間が掛かっても、死ぬことは出来るだろう。
「せめて陶酔したまま死にたかったかな、なんてね」
もう狂うことは出来ない。
でもメリーのいない人生に、価値は見いだせない。
だから、苦しみながら死ぬことは、他でもないわたしへの罰。
「メリーはきっと天国ね。でもわたしは地獄におちるから、これでお別れ」
ナイフは冷たく、アルコールで火照った身体をひどく緊張させた。
押しつけるだけでは切れない。勢いよく引かなければちゃんと切れない。
苦しむことは確定事項。それはわたしへの贖罪だから、受け入れる。でも中途半端に生き残ってしまうのは嫌だった。
「さようなら、メリー」
もう、逢うことはないけれど。
「ごめんね、ごめんなさい、メリー。それから――ありがとう」
そうしてわたしは、ナイフを一息に――
「っ」
――引き絞ることが、できなかった。
「っあッ」
ナイフを取り上げられて、ソファーに押し倒される。
フローリングを滑っていくナイフの音が、妙に鮮明に響いた。
「な、んで」
「蓮子」
「あ、あああ、ぁあああああぁあ」
わたしがこの手で、殺したはずなのに。
わたしがこの手で、死を確認したはずなのに。
メリーがわたしに、覆い被さっていた。
「私は、小さい頃から不眠気味でね。睡眠薬を定期的に処方して貰っているの。だからあの程度の眠剤では、簡単に眠りにつくことなんか出来ないわ」
「だ、ったら、なん、で」
「あなたの真意が知りたくて、息を止めて死んだふりをしていたの」
生きていた。
聞かれていたことなんて、もうどうでもいい。
今から突き放されて、殺人未遂で牢屋に入っても構わない。
そんな些細なことよりも、メリーが生きていてくれたことが、なによりも嬉しい。
「ごめん、なさい、ごめんなさいっ、ごめんなさいっ、ごめんっ、ね、メリーっ!」
嫌われても良い。
憎まれても良い。
ただ生きていてくれたことが、それだけが嬉しいから。
「謝るのは、私の方よ、蓮子」
だけれど、メリーはそう言って、わたしを抱きしめた。
「なん、で?」
「私はね、蓮子。あなたの気持ちに気がついていたの」
「ぇ?」
メリーの吐息が、首元にかかる。
だからだろうか、メリーの言葉をすぐに理解することが出来なかった。
「でも今までの関係が崩れてしまうことが怖くて、あなたを理解できなくなってしまうことが怖くて、ずっと目をそらしてきた。けれど見知った睡眠薬の味がして、蓮子が心からどうしたいのかが知りたくなった。私があなたに、なんて応えたいと思っているのかが知りたくなった」
だからね、と、メリーは言葉を句切る。
「謝らなければならないのは、私の方。ずっと、ずっと一人で苦しめてごめんなさい!」
そうして、メリーはわたしをさらに強く抱きしめる。
震える手。首元にこぼれ落ちる熱い滴。泣いてるの? メリー。
「私は蓮子を失いたくない! 特別な親友なんかで満足できなかったのは、きっと、私の方だった。だからなんどもなんども貴女に、私たちは親友でしかないと言って、自分自身に思い込ませていた! でも!」
顔を上げたメリーの瞳は、涙で濡れている。
わたしのために、泣いてくれている。
「私は蓮子が好き。いいえ、私は蓮子のことを、愛してるわ」
ずっと、欲しかった言葉だった。
ずっと、求めていたことだった。
ずっと、請い、願っていた想いだった。
「わたしは、メリーを、好きで居ていいの?」
「ええ。そうでないと、苦しいわ」
「わたしは、メリーの隣に居ていいの?」
「ええ、ええ。当たり前じゃない」
「うぁっ、わたし、わたしも、メリーがすきだって、う、ぁぁっ、いってもいいの?」
「私も、っ、私も、蓮子のことが好きだから!」
「うぁっ、ああああぁっ、メリー、メリー、メリーメリーメリー!!!」
強く、強くメリーを抱きしめる。
メリーと同じ気持ちで、彼女を求めることが出来る。
手に入らないと思ったのに。もう、後悔に苛まれた結末しか無いと思ったのに。
「私を好きでいてくれて、ありがとう。蓮子」
「わたしを好きになってくれて、ありがとう、メリー」
メリーの唇が、ゆっくりとわたしに落ちてくる。
メリーを死に追いやろうとした時とは違う、幸福に塗れた感触がわたしを包み込む。
ありがとう、メリー。
「ありがとう、蓮子。それから――」
最後の言葉は、聞き取れない。
間抜けなことにメリーの唇に残っていたのであろう、微量の睡眠薬を舐めとってしまっていたのだろう。抗いようのない眠気に、瞼が落ちていく。
どうか、目が覚めても隣に居て。
そう願い込めて笑いかけると、メリーもまた、微笑み返してくれたような気がした。
――0――
GIFT【独】
:毒
「――ごめんね。もう、あなたを放してはあげられないの」
私が服用した睡眠薬を舐めとってしまい、眠りに落ちた蓮子に語りかける。
涙の跡の残る顔も、今は穏やかだ。よほど安心したのだろう。
「ふふ、思えば長かったわ。ねぇ蓮子? 私、頑張ったのよ?」
健やかに眠る蓮子の頬に、手を這わせる。
柔らかくて暖かい、健康的な肌だ。蓮子は手が冷たいひとの方が心は暖かいといっていたが、私は逆だと思う。
だってそうだろう。欲しい人を手に入れるために葛藤できる人間が、優しくないはずがない。
「蓮子、あなたはとても優しい人よ。私は蓮子みたいにはできないもの」
欲しいモノがあれば、どんな手段を使っても手に入れる。
そうでなければ手に入らないかもしれないのに、意思を慮って手に入れ損ねるなんてばかばかしい。
「でもそんなあなただからこそ、私はあなたに惹かれたのかも知れないのよね」
思えばずいぶんと時間が掛かった。
欲しいと願って。
欲しいと行動して。
慎重に慎重に、鳥が檻の中に誘われていると気がつかないよう。
ゆっくりと忍び寄り、空中に張られた蜘蛛の糸に蝶を絡め取るように。
「あの楽しくも辛い日々も、今日でおしまい。だってもう、あなたは私の籠の中」
さぁ、蜜月を始めよう。
「ふふふっ、あはははははっ、あははははははっ」
この醜く退屈な世界で。
鮮やかで美しい、あなたと共に――。
――Ⅰ――
自我を持つ頃には、私の価値観は完成されていた。
生まれ持った全能感。一目見れば全て、十年努力した人間の上をいく天賦の才。
両親は将来の後を継ぐ人間として私の存在を祝福し、同時に、自分たちの理解できない化け物として恐怖していた。だからだろう。中学を上がってすぐに高層マンションの最上階を与えられて、両親も親戚も私から離れた。
けれど、私にはどんな感情を向けられてもどうとも思わなかったということを、何年もたって覚えている。
何故、だなんて考える必要も無い。足下で人間に恐怖する蟻の気持ちなんて、私には少しも関係なかったから。
退屈な世界。
私が動けば、全てが良く回る。
生まれ持った不思議な能力。結界を見る力と認識していたが、実際は境界をのぞき見る力で、人の心の境界をのぞき見れば欲しいモノは、欲しい言葉はすぐにわかる。
だから誰も彼もが私に傾倒して、狂っていく。
どうか自分に祝福を。どうか自分に恵みを。私が助言して少し力を貸せば、それでなんでも解決していくから。
高等学校は詰まらなかった。
自分以下の人間に教わることなんてなにもなかったから。
せっかく良い教授が集まっているという大学に通ったのに、高校と同じ。同級生も教授も誰も、わかりきったことしか言わない、格下の存在ばかり。
色あせた日常。生きているのか死んでいるのか自分でもわからない。退屈に塗れた世界に、ひとりざぶざぶと溺れている。
そんな、息苦しさに塗れた世界に藻掻いていたときだった。
私が、彼女に出会ったのは。
「ねぇあなた! わたしと神秘を暴いてみない?」
第一印象は、「へんなひと」で。
「神秘を暴く? ……変な遊びね。遠慮しておくわ」
「まぁまぁそう言わずにさ! 良い? 世界には魅力的な秘密で溢れているのよ! 暴かずに、科学で解明、プラズマに決まってるとか常識に縛られて目をそらすなんて、もったいないと思わない?」
それから、ことあるごとに声をかけられた。
黒い帽子が視界の端に映る度に、なんとなく気まずような、むずがゆいような気持ちになったことを覚えている。
でも不思議と、嫌な気分をしたことはなかった。
「ハーンさーん、ハーンさーん、蓮子さんの勧誘の時間ですよー」
「またあなたなの。ねぇ、いったいどうして私に声をかけるの? 他にもいくらでもいるでしょうに」
宇佐見蓮子。
そう名乗った彼女の周りには、なにかと人が多い。明るく分け隔てのない彼女の傍は他の人間たちにとっては居心地が良いのだろう。
私も“世渡り”なんて呼ばれるモノはひどく簡単なモノだったから、ちょっと人の心をくすぐれば、人の心の境界に目をやれば、人は私に簡単に心酔した。だが、そうしているのともまた違う。
宇佐見蓮子という人間の周囲は、常に自然体だったのだから。
「だってさ、いつもつまらなそうじゃん」
「え……?」
「世界には不思議で、綺麗で、面白いモノがいっぱいあるんだよ? そんな顔してたらもったいない――」
「なにそれ、同情?」
「――って、最初は思ってたんだけどね」
「え、と?」
彼女は私の隣に腰を下ろすと、ふと、空を見上げた。
夕暮れの空。薄く浮かび上がる星と月。その光景を私は忘れたことがない。
「あなたを見ていたら、仲良くなりたくなっちゃったのよ。だからこれは、わたしの我が儘!」
「仲良くって、それは、いったい……」
「うーんと、もっとシンプルに言おう」
「え、ええ、お願い」
その時の、その光景を、私はきっと生涯忘れることはないだろう。
「友達になりたい。だってきっと、あなたと暴く神秘は、魅力に満ちていそうだから!」
そう自信満々の笑みで告げる彼女の姿を中心に、世界が鮮やかに色づいていく。
彼女だけが、蓮子だけが、私の才覚も性格も全て知っているのに私を対等として、心の底から対等な“友達”として求めてくれた。
たったそれだけのこと。そう断ずるにはあまりにも、私という人間は突出しすぎている。そんなことは生まれたときからわかっていたからこそ、世界はセピア色で、退屈なモノトーンであったのに。
夕焼けは茜色。
空は薄紫に染まる。
笑いかける彼女の瞳は黒。
髪と同じ、優しい夜の色。
薄く桃色に色づく唇は、柔らかな色合い。
世界は、こんなにも美しかったんだ。
私はこの瞬間、初めて、この世界に生まれて息をした。
「ふふ、そう、そうなんだ」
「そう! それで、返事はどう?」
「そうね、ええ、私の負けだわ――宇佐見さん」
それが始まり。
親にも世界にも興味の無かった私が、初めて他者を内側に入れた。
生涯唯一となる、最高の隣人を手に入れたことで、本当の私が始まった。
そして私は、同時に知ることになる。
退屈な世界では、到底理解できなかったこと。
幸福を得るということは――真逆の恐怖を知らなければならないということを。
――Ⅱ――
蓮子、メリー。
私たちがそう呼び合うようになるまで、さほど時間は必要なかった。
東に幽霊が出れば赴き。
西に妖怪と噂たてば調べ。
南に伝承在れば足を向け。
北に神秘在れば暴きに往く。
「だからね、メリー! この伝承はわたしが思うに――」
「待って蓮子、早計よ。こちらの記述によれば――」
蓮子と過ごす日々は、あまりにも居心地が良く、そして何よりも楽しくて仕方が無い。
私とはまったく違う視点。頭の良し悪しではなく、発想と行動で私を驚かせ続けることが出来るというポテンシャル。
何一つ、どれ一つとっても、興味の惹かれない部分などない。私を世界に引きずり出した暖かい手。その手に私は、きっと他の誰よりも惹かれていった。
「それじゃあメリー、今日の活動はここまで! また明日っ」
「ええ、また明日」
けれど、同時に、この頃になって新しく生まれた感情が存在する。
「また明日、か。明日まで、またひとり」
寂しい。
苦しい。
愛しい。
欲しい。
渦巻く感情が、私をとらえて放さない。
宇佐見蓮子という人間の周りには、老若男女問わず様々な人が集まる。
もしもその中に蓮子が“マエリベリー・ハーンよりも好奇心を刺激する存在”と出会ってしまったら?
その時、蓮子はきっと分け隔て無く私とその存在と接することだろう。持ち前の明るさと人間的魅力で、自分を囲う人間を次々と増やしていくことだろう。
私には、蓮子しかいないのに。
「私だけを見て欲しい。なら、どうする?」
私以外に、蓮子の傍に居る人間なんて必要ない。
だったら蓮子を私に依存させて、私以外の誰をも望めなくなるようにしてしまえばいい。
これで対象が凡人であったのなら、心のスキマをついて私に酔わせてしまうだけで良い。だが、蓮子となると話は変わってきてしまう。蓮子は弱い人間ではない。だからこそ私は、慎重に、策を積み重ねなければならない。
蓮子に発覚しないように、慎重を期して。
「そう、慎重に。蓮子の心の隙間を、ほんの僅かでも見逃さないように」
もしも、その瞬間をとらえることが出来たのであれば、それが私の正念場だ。
蜘蛛の糸に絡め取り、真綿で縛り付け、愛という名の鳥かごに入れるまで私は片時たりとも気を抜くことなどできない。
誰よりも臆病な私だからこそ、蓮子を手放すこと無いように、ほんの僅かな見落としすらも許してはならない。
そうすれば、そうした先には、きっと今よりももっと鮮やかな世界が待っている。
蓮子と私が、私たちだけが互いを求める夢のような世界が待っている。そう考えればいくらでも頑張ることが出来るのだから。
「そう、そうよ。まずは隙間を見つけないと。誰よりも何よりも、蓮子が私だけを見てくれるように考えないと」
私は蓮子と出会って、この上ない幸福をしることができた。
「ふふっ、あはははっ、こうしてはいられないわ」
だがそれは、同時にもう一つの可能性を示す。
「より精密に、より細微に、到着地点までの道程を築かなければ」
それは、“失う”ということ。
もしかしたら“失う”かもしれないという、可能性。
「確実に、完璧に、完全に、蓮子を手に入れるために」
幸福を得るということは、不幸に怯えるということだ。
幸福も不幸もなにもない退屈な世界でまどろんでいた私に突きつけられたのは、そんな単純で明快な世界の理。
そして、知ればもう逃げられない、運命の道。
「ここから先は、振り向かない」
蓮子を手に入れるために、無駄な時間などひとつもないのだから。
――Ⅲ――
蓮子を手に入れると決意した私が最初に行ったのは、剪定だった。
蓮子の周りを飛び回る価値のない蠅に、身の程を教えてやらなければならない。
だが、もし万が一にでも蓮子に知られるわけにはいかないから、あくまでも間接的にことを行う必要があった。
偶然を装い、別人から辿り、間接的に罠に嵌めて、時にはお金の力すら使い、弱みを握って蓮子の傍から離れさせる。徐々に人が居なくなるにつれ、私だけは時間を作って会いに行くと、蓮子は必然的に私と一緒にいる時間が増えていく。
そうした生活を一年ほど続けてきたときだろうか。
ついに私に、転機が訪れる。
「だからね、メリー! 忌々しき事態なのよ」
蓮子が持ってきた話は、ありきたりな怪談話だった。
よくある町おこしの妖怪騒動。けれど持ち前の勘が彼女の琴線に触れたのだろう。その瞳は好奇心に満ちていて、色鮮やかに輝いているように見える。
「なんとも都合の良いことに、明日からゴールデンウィーク! となれば……」
「遠出、という訳ね」
「いぐざくとりー! そういうことそういうこと」
蓮子の提案に、私もまた心躍る。
蓮子と二人きりで旅行となるのだ。気分が高揚しないはずはない。
二人で旅行に出かけることは初めてではない。初めてではないからこそ、覚えのある幸福に胸が躍る。
蓮子のぬくもりを間近で感じながら過ごせる夜ほど幸福な時間を、私は今まで味わったことなどないのだから。
翌日には、一緒に電車に乗り込んだ。
妖怪談義に花を咲かせ、盗み見る蓮子の明るい表情に心を躍らせる。
それはほんの些細な光景。だけれども、私にとっては何よりも求める時間。
そんな楽しい時間は、当然のことながらあっという間に過ぎていく。
今日もいつもと同じ。私たちの関係はなにも変わらない。そのことは非常に苦しいが、こればかりは焦ってどうにかなるものではない。
だからじっくりと、自分の身体が溶かされていることにも気がつかない、食虫植物に取り込まれた憐れな蝶を眺めるように、じっと待たなければならない。
そう、思っていたのに。
「蓮子は、卒業したらどうするの?」
ほんの些細な問いかけ。
蓮子とより長く会話を続けるための、適当な話題。
「うーん、決めてない! と、言いたいところだけれど、大学に就職も悪くないかなぁって思う。メリーは?」
「そうね。私は私で大学に残ろうかしら?」
「院?」
「そういうこと」
気軽で、けれど心地よい会話を繰り広げる。
それだけで終わってしまう、はずだった。
「その後は、海外にでも飛ぼうかしら」
それは、ほんの小さな冗談。
「え、海外行っちゃうの? メリー」
けれど、ほんの僅かに――蓮子の心の境界が、揺らいだ。
「まだわからないけれどね」
その瞬間の私の気持ちが、蓮子にわかるだろうか。
ずっとずっと罠をはり待ち続けていた瞬間が、ほんの小さな一言で降りてきてくれた。
その私の喜びが、どこの誰に理解できようか。
「ふふ、なに落ち込んでいるのよ」
拗ねたような顔。
「そういうんじゃないけどさぁ」
蓮子自身もわかっていないのだろう。
どこか傷ついたような表情をしている。
「……どこに居て何をしていても、私たちは親友よ。それじゃ、不満?」
不満?
ふふ、蓮子、あなたは今、とても不満そうな顔をしているのよ?
「不満じゃ、ないです、メリー先生」
私はなんて運が良いのだろう。
揺らぐスキマ、浮き出る境界。
今、蓮子の心は蓮子自身でも理解できないであろう感情が、渦巻いている。
「なによその先生、って。もう」
その感情は、未だ友情の域を出ることはないだろう。
だから私はこの旅行を切っ掛けに、一つの大きな楔を打とう。
心の隙間を読み取って。
一番響く行為と言葉を積み重ねよう。
もはや運命は、私の手の中にある。誰にも、どんな存在にも、私とメリーの間になんか入れてやらない。
そのことを証明できると思うと、また、大きく胸が高鳴った。
秘封倶楽部の調査活動に入ると、一時的に蓮子の心から葛藤のようなモノはなりを潜める。
私と冒険することを喜んでくれるのは嬉しいが、今は他にやらなければならないことがある。そのためにはより盤石に、より完璧に、場を整えなければならない。
蓮子が見つけてくるスポットは、何故か必ず何かしらの神秘を内包している。
それは彼女自身の勘の良さか、はたまた非常に鼻が利くのかはわからない。だ一つ言えることがあるとしたら、今回の調査する場所も、一目で尋常じゃないとわかる場所だった。
だから私はあえて、蓮子には“まだ結界は見えない”といって歩かせる。吊り橋効果というものがあるように、危機的状況は心の動きを活発にさせる。空振りだったとしても、妖怪ごときを私の蓮子に指一本触れさせない。
本当に危険なようだったら、結界が見えたといって戻れば良いのだから。
チャンスを逃してはならない。
ずっと待ちわびてきた瞬間だからこそ、焦ってはならない。
洞窟の中。
――蓮子の心に緊張が満ちる。
風の音と差し込む光。
――安心と緊張からの解放。
妖怪の出現と逃走。
――焦燥と恐怖。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ、蓮子、いざとなったら私を置いて」
――驚き。困惑。
「置いていくわけないでしょ! 怒るよ!」
――怒り。それから……失うことへの恐怖
ああ、求めていた感情の動きだ。
ではどうしたら、ここから発展させられる?
どうしたら、蓮子の感情を動かすことが出来る?
そうだ。
「知ってる? 私、蓮子の前以外では声を上げたりしないのよ?」
本当は、少し違う。
蓮子の前以外では、偽りではない感情を見せることはまずあり得ない。私の感情を動かせる人間など、他に存在しないのだから。
「へっ?」
――歓喜。困惑。
だけど、失うことへの恐怖を知り、またその恐怖から解放された瞬間の彼女にそれを言えば、どうなるか?
あらゆる人間を罠に嵌めてきた経験が、私に囁く。今が待ち望んだ、蓮子の心を絡め取るチャンスなのだ、と。
「ふふっ、蓮子だけが、私の特別! 特別な、親友よ」
親友に特別もなにもない。友情を語りたいのなら、親友とだけ言えば良い。
親友という言葉の重みはそれだけで十分、相手の心に響いてくれるのだから。
だが、あえて特別という言葉を使うことによって、相手はその“特別”という特殊な言葉の意味をどうしても深く考えてしまう。特別な親友。特別なひと。その先にある意味は?
「え? ぁ、うん。わたしも。わたしも、メリーだけが、特別な――」
――違和感。葛藤。
「――しんゆう、だよ」
――戸惑い。そして、大きく動く心。
どれほどこの瞬間を待ちわびたか。
どれほどこの瞬間のために手を費やしたか。
蓮子の心が、私に傾く。
私の結界を、境界を、隙間を捉える瞳は確かにその瞬間を知覚した。
――Ⅳ――
蓮子の心が私に傾いてくれたのであれば、漸く次のステップに入ることが出来る。
本当はすぐに応えて抱きしめてたくさんキスをしてあげたいけれど、それではだめだ。同性愛への忌諱や罪悪感、世間の目などに耐えきれなくなり“私のために”離れてしまうことだろう。
自分の欲望を超越して他者を思える蓮子の人間性には惚れ直してしまうが、それではだめだ。心苦しいけれど、まずは蓮子の心を追い詰めなければならない。私に依存して、私から離れられなくなるような“イベント”を用意しなければならない。
よほど葛藤したのか、秘封倶楽部のために集まると、蓮子は紅い顔でため息をついていた。風邪を引いてしまったとみれば一目でわかる体調。
けれどあえて額を合わせて熱を測ると、我ながらごくごく自然に蓮子の家に行く約束を取り付けられることが出来たように思う。
「ふ」
「ふ?」
「ふつつかものですが」
けれど、まぁ。
「……どうやら本当にだめみたいね、今日は」
蓮子に動揺させられたのは、予想外だったのだけれども。
蓮子の家で、可愛らしく苦しむ蓮子にご飯を食べさせて寝かしつける。
ここから先は、賭けの要素が強い。“買い出し”に出て、“用事”が終わる前に蓮子が起きてしまったら、私の負け。
“用事”が終わっても起きなかったら、私の勝ち。
料理の材料を買いに行くという名目。
意識が朦朧とする蓮子に予備の鍵の場所を聞き出すと、まず、すぐに鍵屋に足を運んで合い鍵を要請する。証明書がなんだかんだというのは、心の隙間を縫うように微笑みかけてやれば、すぐに特別を許してくれた。
次に、スーパーに寄る前に、電気屋に足を運ぶ。遠隔式の小型カメラとやはり小型の盗聴器――正確には、ICレコーダーの亜種だけれど――。事前に調べておいたそれらを手早く買い込むと、予定どおり、スーパーに寄って、手早く作ってくれた合い鍵を受け取り蓮子の家に戻る。
料理の最中を見られるのは構わない。
だが、“他の準備”を見られるわけにはいかない。
リビング、キッチン、寝室、玄関、浴室。
本当はもっとたくさん仕掛けたかったけれど、あまりに多いと発覚するかも知れないので我慢。
他者の心の隙間をつく、まずばれないであろう位置と角度に、私はカメラと盗聴器を仕込んだ。
ばれないような偽装も完璧にこなすと、それからようやく料理を作り出す。できた料理には気遣いが見て取れるようなメモを残し、ラップを張り、蓮子の寝顔を堪能する。
「そうだ、もう一つ、忘れていたわ」
蓮子の愛用の帽子に、小型の遠隔式盗聴器を。
蓮子の愛用の鞄に、GPSをそれぞれしかける。
心の推移には気を配っているが、もし万が一自暴自棄に出られたら、私の望みは叶わなくなってしまう。
まぁ、私が常に蓮子を感じていたい、という理由もあるのだが。
「ふふ、あははっ、おやすみ、蓮子」
起こさないように、静かに蓮子の家を去る。
蓮子が目を覚ましてから、どれほど私の存在を求めてくれるのか。
「もっともっともっと、私を愛して? あはっ、あははははははっ」
蓮子の心が狂気に染まれば染まるほどに、私の喜びが強くなる。
もっともっと私に心を傾けて、私だけを愛せばいい。
私も蓮子だけを、愛しているのだから。
翌日には、蓮子はしっかりと大学に来た。
といっても、朝の様子を“視て”いた限り、まだまだ体調は悪そうだったのだけれど、蓮子はそれに気がついていないようだった。
まったく、無理ばかりして。そんなところも愛おしいのだけれど。
つまらない講義の時間。
私のスマートフォンには、常に蓮子の居場所が表示されていた。いつものカフェで待っていたようだが、今回はどうも我慢できなかったみたい。
ふらふらと赴く足。目的地はきっと、私の居る講義室。急いで、教授に見つからないようにイヤホンをつける。するとすぐに、蓮子に取り付けた盗聴器から蓮子の息づかいが聞こえてきた。
「ふふ」
講義室の後ろ。
私の背中を見ているであろう蓮子。
他人の視線をこうまで心地よく感じる時間が来るとは、思わなかった。
「ハーンさん?」
そんなとき、私の至福のひとときを邪魔するノイズが入る。
いつものように適当にやり込めてしまえばいい。けれどふと、良いことを思いついた。
「どうかしました?」
蓮子に見えるように、この雑草に微笑みかける。
すると盗聴器から、蓮子の動揺が聞こえてきた。ああ。行動一つにしてもなんて愛おしいのだろう。
「この講義、けっこう難しいけれど大丈夫なの?」
「ふふっ、予習さえしておけば大丈夫よ」
「へぇ、ハーンさん、すごいんだね」
蓮子は私に劣等感を抱いている部分もあるが、彼女も十分優秀だ。これくらいの講義ならば悠々と乗り切れることだろう。
だが私の隣に座るような雑草たちは別。踏まれるしか能が無いのにやたらしぶといから、中々絶滅してくれない。
ああ、蓮子以外の声を聞いてしまった。煩わしい。欲望のためとはいえ自分の身を犠牲にしすぎた。蓮子の声を聞いて、癒やされなければやっていけないわ。
『一緒に居たい。どんな形でも良いから、一緒に居たいっ』
どんな形でもいい?
私はそれでは、我慢できないわ。
『つらい、つらいよ、苦しいよぉ、メリー』
私のために苦しんでくれるのね。
私を想って、狂気を孕んでくれるのね。
『そうだ、メリーを手に入れれば良いんだ。どんな手を使っても――』
なんて、心地よい愛なのだろう。
私のために狂うほど愛してくれる。これ以上の幸福が、果たして存在するだろうか。
本当は私も心苦しいのよ? 蓮子。
でもね、これも全て、あなたと私の為なの。
より幸福な未来を、目指すために。
蓮子の済むアパートメントの近所。
手頃な個室のネットカフェに入ると、端末を充電器にさしながらイヤホンを付ける。
安っぽい無料のコーヒーを用意して、気分は立派な音楽鑑賞といったところだろうか。もっとも、聞こえてくる音は世の中のどんな音楽よりも極上なものであるのだが。
『メリー、すきだよ。めりー。めりー、めりー、めりー……』
ええ、私も好きよ。
『嫌われたくない。嫌われたくない嫌われたくない嫌われたくないっっ』
嫌ったりなんかしないわ。
『どうしよう、どうしよう、メリー、わたしはどうしたらいいの?』
もっと愛してくれれば良い。
もっと狂ってくれれば良い。
もっと想ってくれれば良い。
『いっそ、本当にわたしだけしか見られなくしてしまいたいよ』
ふふ、やっぱり私たち、気が合うのね。
私もいつも、そう考えているわ。
ぶつぶつと漏れ出る声。
絞殺、刺殺、凍死、毒殺。
殺してくれるほど愛してくれるのは嬉しいけれど、あなたを愛でられないのは辛いわ。
『あ、れ?』
『なんで、なんでなんでなんでなんでなんでっ!!』
『なんで、あはっ、わたし、メリーを殺すことなんか考えてるの……?』
残念。
正気に戻ってしまったのかしら?
もっともっともっと、狂ってくれても、愛してくれても良いのに。
『あ、ははっ、あはははっ、そうか、そうだよね、メリー』
『――わたしは、わたしなんかが、メリーのそばに居ちゃいけない』
『だからメリー、わたしをどうか突き放して』
だめよ。
突き放してなんかあげない。
やっとここまで来たのだもの。殺したいとすら想ってくれるようになったのだもの。
イヤホンを外して、ネットカフェを出る。
一日おけば想いも熟成することだろう。すぐに元気になってしまったら淡々と別れを告げてくるぐらいやりかねないから、なるべく、本音が出やすい体調がピークの時にでも訪ねれば良い。
「ふふふ、あなたを追い詰める私を、許してくれる? 蓮子」
あともう少し。
ともう少しで、あなたは私の掌の中。
「ふふっ、ふふふっ、あははははははははははっ!」
本当に、楽しみだわ。
ねぇ? 私の愛しい蓮子。
予定どおり、私は盗聴器とカメラで蓮子の様子を事細かに観察しながら、良いタイミングで蓮子の部屋を訪れた。
追い詰められて、眠り、浅くしか眠れず葛藤を繰り返す。なるべく冷静になれないタイミングで傍に寄り、囁くように声をかけてあげる。それだけで蓮子は面白いように反応してくれた。
「め、りー?」
――戸惑い。
「はい、そうよ、メリーさんよ」
――歓喜。
「なん、で」
――困惑。
「管理人さんに事情を話して合い鍵借りたわ」
――怒り。
「い、つ」
――焦燥。
「たっぷり一時間は、寝顔を眺めさせて貰ったかしらねぇ」
――羞恥、
「ぇ、あ、ぅ」
――無防備な、心。
あえて背中を向けて立ち去ろうとする。
「とりあえず、私は水を持ってくるか……らっ?」
すると蓮子は、“去られる”という恐怖に突き動かされて、私をベッドに押し倒した。
うん、なんて理想的なシチュエーション。ことが終わったらもう一度やって貰おう。
「メリー」
潤む瞳。
「わたしは、メリーのことが」
震える唇。
「――すきだよ」
絞り出すような声。
「わたしはメリーのことが好き。あなたの全てが欲しいと願うくらい」
早口になる。
頭で考えず、心から引っ張り出した未加工の声。
「だから、お願い、メリー」
だからか、その嘆願は真に迫る。
「――わたしのことを、受け止めて」
突き放して。
そう伝えたいからこの言葉を選んだのだろう。蓮子を本当にただの友達としか想っていない人間だったのならば、ここは優しく突き放してあげるべきだ。
だけれど、私は違う。確かに見えているのだ。蓮子の心の隙間が“愛を望んでいる”ということを。
「蓮子、あなた、何を言っているの?」
だから。
「おかしな蓮子ね、どうしたの? 急に」
どんなに懇願されようと。
「私も、蓮子のことが好きよ。ふふっ」
私は貴女を突き放してあげない。
「だってあなたは――」
どんなに願おうと。
「私の、“とくべつ”な」
私はあなたを逃がしてあげない。
「“親友”だから、ね」
あなたは私の“特別”だから。
そう、完全に狂気に振り切れた蓮子の心を見て、私は心の底から歓喜の笑みを浮かべて見せた。
――Ⅴ――
――それからの十日間は、私にとっても蓮子にとっても準備期間だった。
蓮子が睡眠薬を処方して貰ったと聴いて効果を打ち消すような薬を秘密裏に入手したり、蓮子が実行できそうなタイミングに間に合うように料理の材料を買い込んだりと、尽くせる手は尽くしたように思える。
あとはもう、タイミングだけ。そう願っていると、蓮子が狂気に落ちてちょうど十日経った時に、メッセージが届いた。
『蓮子さん完全快気祝いに、メリーさんのおうちで快気宅呑みを所望します』
ずぅっと、待ち望んでいた瞬間だ。
断るはずがない。
『まぁ良いでしょう。なにがたべたい?』
『メリーさんの手作りならばなんでもよろしいです』
やっぱり、私の料理を望んでくれた。
愛情をたっぷりこめて作らないと。蓮子にまずいものは食べさせられないわ。
『そう。お酒は?』
『用意済み』
『周到ね』
楽しみにしていてくれたのだろう。
そう考えると、私の身に力も入る。
『今日は秘封倶楽部の活動はお休み! パァっとやろう!』
『ええ、いいわ。仰せのままに』
あなたの想うままにしましょう。
これが互いにとって、最高の始まりになるのだから。
二人でグラスを打ち合って、乾杯をする。
夜景も星空も満月も、今日この日の私たちを祝福してくれているような気がした。
手料理も喜んでもらえた。
口元を拭いてあげて、まるで恋人のように接する。友達で居られるのは今日で最後なのだから、“友達”を満喫しようと思っていたのに、どうもだめだ。
蓮子が望むのならば、それに応えてしまう。私は将来、蓮子に逆らえそうにないわね。彼女に甘えられたら、私はまず間違いなくなんでも許してしまうことだろう。
宴もたけなわというところになると、蓮子は私を夜景が一望できるソファーに誘った。
本来はここにあるのは来客用のソファーだったのだが、蓮子以外も座ったことのあるソファーは嫌だったので買い換えてしまったのだが、蓮子はどうやら気がついていないようだ。
まぁ、蓮子の心は今、狂気とそれから最後に残った幾ばくかの良心で葛藤している。他に目を向ける余裕はないだろう。
さて、それでは私も大仕事をしなければならない。
最後に残った蓮子の良心を、丁寧に摘み取るという仕事をこなさなければ、先には進めないのだから。
「ねぇ、メリー」
だから。
「どうしたの? 蓮子?」
始めましょう。
私と蓮子の、運命を決める会話を。
「わたしは、メリーのことが、すきだよ」
伝わってくるのは、蓮子のむき出しの感情。
「すごくすごく、特別な“すき”なんだ」
苦悩。
葛藤。
意思。
憎愛。
「メリーは? わたしのこと、どう思っているの?」
その全てが、私に伝わってくる。
思って欲しい、応えて欲しい、突き放して欲しい、理解して欲しい。
請い、願うその感情を、私にぶつけてくれる。
だから、
「もちろん」
だから、私は。
「私も、蓮子のことが好きよ。だってあなたは――」
その感情を、打ち砕こう。
「――私の、“特別”な“親友”ですもの」
葛藤を捨て去った、より深い狂愛のために!
「そっか」
蓮子の心が、完全に狂気に染まる。
私の目的どおりに、寸分の狂い無く。
「そうよ」
「ねぇ、メリー」
「なに? 蓮子」
「夜景を肴に、いっぱいやろうよ」
あとは睡眠薬を回避して、寝たふりをしながら蓮子の挙動を見守れば良い。
「ふふ、良いわね」
どんな方法で私を殺そうとしても、それを妨げて、予定どおりに振る舞えば良い。
「それでは、“永遠の秘封倶楽部”に」
「なぁに、その文句? まぁ良いわ、ふふっ、乾杯!」
「乾杯!」
睡眠薬を飲み干す。
けれどあらかじめ準備をしておいたから、眠気に襲われることはない。けれど眠りに落ちたふりをして、私はソファーに倒れ込む。
……押し倒されることも想定して、大きめのソファーにしておいて良かった。
「ねぇメリー、好きだよ。あはっ」
蓮子はそう、私の上に覆い被さる。
寝たふりというのは案外辛い。蓮子の顔が見られないのだから。
「わたしもすぐにいくからね。だからおやすみ――メリー」
どんな方法で殺そうとしてくれるのだろう。
そう様々なパターンを予想していたのだが、蓮子は、私の想像をいつものように上回る。
「っ」
口づけ。
鼻を押さえて、口づけをして窒息死させる。
起きる心配のない眠りについているものにするのならば、確かに効果的だ。
ああ、でもまさか、蓮子がこんなにも“幸福な方法”で殺そうとしてくれるなんて。
一度溢れた欲望は、留まるところを知らない。もっと、最後までこの狂気の口づけを堪能していたい。けれどこのままでは本当に死んでしまう。
それではだめだ。でも。
私が死んだら、蓮子はどんな顔で泣いてくれるのだろう?
欲望は止まらない。
ここを逃してしまったら、私は生涯その光景を見ることが出来ない。
喜んでくれるだろうか。泣いてくれるだろうか。慟哭の声をあげてくれるだろうか。
その全てを私にぶつけてもらうには、やはり“一度”死ななければならない。
だから。
私は。
「これでもう、永遠に」
朦朧とする意識の中。
手探りの視界。
強く意識するのは、ずっと見えていた境界。
「あなたはわたしのものだよ」
能力は、視て、頭で使えば良い。
手を伸ばす必要も、身体を動かす必要も無い。
だから、私は心の中で手を伸ばして――
「メリー」
――“生と死の境界”を、操った。
――Ⅵ――
ソファーに寝かしたままだと、また風邪を引いてしまいそうだ。
そう思って、蓮子を抱き上げてベッドまで連れて行く。
「軽いわね、蓮子」
前は、いくら蓮子が軽くても、こんな風に運べはしなかったはずだ。
だからきっと、私はあの瞬間に生物としての箍を破壊してしまったのだろう。死んで、それから生き返った。でもそれはもしかしたら、蘇りではなく“進化”だったのかもしれない。
「でも、それならそれでいいわ」
ベッドに寝かしつける。
すると、無意識なのだろうが、蓮子が私の服の裾を掴んだ。
「一緒に寝ましょうか」
蓮子の隣に潜り込んで、彼女の頭を柔らかく抱きしめる。
睡眠薬のこともあるが、それ以上に疲れもあることだろう。今日はゆっくりと眠らせてあげたい。明日からは恋人同士としての日常が始まるのだ。
甘い甘い蜜月の為にも、疲れは全て取って欲しかった。
「ふふ、これであなたと、ずっと一緒に居られるわ」
私が本当に“進化”したのであれば、煩わしい全てのモノから蓮子を遠ざけることが出来る。
自分がそれを成すだけの力を手に入れられたということが、こんなにも大きな喜びになるだなんて、蓮子に出会う前は知り得なかったことだろう。
「蓮子、私は誰よりも、あなたのことを愛しているわ」
たとえこの感情が、誰かにとっての毒であっても構わない。
「ふふっ、あははははっ」
なによりも欲しかったものを手に入れることが出来た。
「あはははっ、あはっ、あははははははははははっ!」
それ以上のことなど、なにもないのだから。
この先、蓮子はまだ様々な葛藤を繰り返すことだろう。
私と違って他者を気にかけることができる蓮子は、私から離れようとすることもあるだろう。
けれど私は、その全てを許すつもりはない。
蜘蛛は、糸に捕らえた蝶を逃がさない。
鳥かごは、鍵を溶かして固めてしまえば、鳥を逃がすことはない。
翼をもいだ天使は、もう天国に帰ることは、できない。
全ては私の手の中で。
ずぅっと幸せになりましょう?
ねぇ、蓮子。
私の愛しいひと。
――了――
メリーかわいい。
あぁ、だが何故だ。まだ物足りない、まだまだイケるという気がしてならない。この愛の狂おしさを、もっと、もっと、と!
でも点数的には十全ですw 満点!
二人の行末に乾杯!!
僕はメリーさんに踏みつけられる雑草で十分です。
蓮メリは本当にいいな…
徐々に狂気に引き摺り込まれていく蓮子と、それを上回っていそうなメリーの狂気の対比が最高でした。
蓮メリっていいな。
本当に良かったです