蓮台野夜行編
夢違科学世紀編
「蓮子、いつまでもぶつくさ言ってないで、早く済ませましょう」
メリーは機械の集めたゴミをひとまとめにして、ぽいと放った。マニピュレータがそれをキャッチする。
「だってさ、今日は蓮台野に行く予定だったのに」
メリーは、文句を言いながらゴミをまとめている蓮子の隣に座り込むと、励ます様に笑みを見せた。
「仕方無いじゃない。蓮子のお母さんに頼まれたんじゃ」
二人は蓮子の母親に頼まれて廃墟を片付けに来ていた。この廃屋敷は、持ち主の遺言で保存を余儀なくされ、今日になるまで壊せないでいた。それに加えて、遺言の期間も終わりようやく壊す事になった途端、親戚の一人が、もしかして屋敷のゴミの中に高く売れるものがあるんじゃないかという要らぬ提案をした為に、今度この廃屋敷を親戚皆で宝探しする事になり、その事前準備として何故か蓮子が掃除をする羽目になったのだ。
「丁度私達のマンションから近いからね。しょうがないわ」
「しょうがなくないわ。今日になって急に掃除しろなんて。学生という一番貴重な時間を何でこんな事に費やさなくちゃいけないの」
「まあ。でもご先祖様の残したお屋敷なんだし最後位は綺麗にしてあげても」
「ご先祖様って言ったって私の直系じゃないわ」
「あら、そうなの?」
「それに生涯独身だったみたい。これだけのお屋敷、子供が居れば引き継ぐでしょうしね。誰も使わないんだから誰かに売るか壊すか出来れば良かったのに、遺言で誰も家に住んじゃいけません。指定した期間、壊してもいけませんって書いてあったらしくて。その期間っていうのも今日この日って日付指定! きっと物凄く神経質な人だったに違いないわ!」
食器を縛り終えた蓮子は勢い良く立ち上がった。自動で食器が運ばれていくのを尻目に、蓮子は熱く拳を握る。
「よりにもよって今日よ? 全く、妙な遺言の所為で。私達は今日蓮台野へ行くという至上目的が合ったのに」
「私達が掃除に来たのは蓮子のお母さんの思いつきであって、遺言は関係無いと思うけど」
「そうだけど。でも、後二十年早く壊せてたら、私達が掃除に来る事も無かったのに」
「良いじゃない。こんな古いお屋敷初めて見たし、貴重な体験よ。本当に壊しちゃうの?」
「まあね。今更売れないし、住むにしても、近所じゃ評判のお化け屋敷で、夜になると阿呆共が忍び込んでくるらしくて。役人がうちに苦情を入れてきた事もあった」
「ああ、道理で人が住んでいない筈なのに、色色ゴミが落ちていると思った。でも放置してた古いお屋敷の割には随分綺麗よね。世間の目が無ければ住めそうだわ」
「放置してないわよ。保存の為に半年に一度業者に来てもらってるんだから。百五十年契約ですって。馬鹿みたい。今日もその業者に任せれば良いのに、追加料金が掛かるからって」
また蓮子が愚痴り始めたので、メリーは苦笑する。それから思いついた様に目を見開いておんぼろ屋敷を見回した。
「蓮子、ちょっと待って! あなた、自分が何を言ったのか分かってる?」
「何って?」
「お化け屋敷って言ったじゃない! 何でそんな面白そうな事に食いつかないのよ!」
「えー、だって、ここ昔来た事あるけど、何も起こらなかったわよ。古いだけでお化けなんて全然」
「甘いわ、蓮子! 探さないと!」
メリーが落ち着きなく辺りを歩き出す。
蓮子は呆れた様子でそれを眺める。
「じゃあ、メリー任せた」
「蓮子! あなたも不思議倶楽部の一員でしょ! 一緒に探して!」
「好い加減、不思議倶楽部って名前もどうにかしたいよね」
蓮子のぼやきを無視して、メリーは一頻り屈みこんだり、伸び上がったりして部屋の中を観察してから蓮子の下に戻ってきた。
「この部屋には無いみたいね」
蓮子は冷たく尋ねる。
「他の部屋って言っても、もう片付けながらあちこち歩きまわってるんだけど。結界の裂け目なんてあった?」
「まだだけど。残っている所に」
「後は小さな書斎位しか無いわよ」
「ならそこよ! 書斎なんて如何にもじゃない!」
メリーに手を引かれて歩き出した蓮子は、「どうかなぁ」とまだぼやいていたが、その口調は不思議を前にした所為で明らかに元気が出ている。メリーは蓮子が元気になった事に満足して、笑顔を浮かべて蓮子の手を引き、軽やかな足取りで書斎へ向かう。
だがそのメリーの笑みは書斎を前にした途端に消え去った。
「ほら、メリー、最後の部屋はここ。どう? 何かある?」
幾分の期待が篭められた蓮子の言葉に、メリーは喉の渇きを覚えながら辛うじて答えた。
「ある」
蓮子は驚いて、メリーを見る。メリーの顔は驚きに強張っていた。蓮子はもう一度、書斎の戸を見る。何の変哲も無い木戸だ。経年劣化して黒ずんでいるだけの扉だ。だがメリーの反応を見てしまった今、それは地獄の蓋の様にも、天国の門の様にも見える。
「境界が見えるのよね」
「見える」
メリーが短く答えた。その息は短く荒い。蓮子もメリーの息遣いにつられて、苦しくなる。
何だか空恐ろしい心地になった。
結界を暴くのは初めてじゃない。メリーとはずっと昔から不思議を追い求めてきた。それが高じて大学では二人で不思議倶楽部という結界暴きのサークルを作った程だ。危ない目にあった事もある。それでもずっと境界の向こう側を追いかけてきた。
だから結界暴きなんて、二人にとってなんて事無い筈だ。境界なんて恐れるものじゃ無い筈だ。
でもメリーの反応を見たからか、今、目の前に存在する扉がやけにおどろおどろしく見える。
この扉を開けたらもう二度と戻って来られない気がする。
「メリー」
蓮子が呼びかけると、メリーと目が合った。その目の奥に恐れがちらついているのを見て、きっとメリーも同じ恐怖を抱いているのだと思った。
この先の非日常へ行けば、もう日常には戻って来られない。
そんな確信があった。
「メリー、開けて」
だからこそ、不思議を追い求める二人は扉の向こうへ行かなければならなかった。
蓮子は無理矢理笑みを作ってメリーに告げる。
メリーもまた強張る口元を笑みの形にして、頷いた。
そっと扉のノブに手を掛けて、ゆっくりと回す。
二人は扉を開けて、書斎へと足を踏み入れた。
廊下に立った私はぼんやりと辺りを見回した。
何処だろうとまず思った。そして、あの廃屋敷にメリーと来ていたんだと思いだした。メリーが境界を見つけて、結界暴きを敢行したんだ。部屋の中に足を踏み入れて。
それからどうなった?
廊下はやけに暗い。まだ昼間だった筈なのに、屋敷の中は薄暗く、影が色濃く浮き上がっている。
ここは何処だ。
再びそう思った。
先祖の遺したぼろぼろの屋敷であるという結論に、何か違和感がある。それが間違いである気がしてならない。
廊下を歩く。何か美味しそうな匂いがする。シチューの匂いだ。クリームシチューだなと思った。鍋で煮こまれる様子が想像出来た。ぐつぐつと泡を立てながら煮立っている。
何故?
そんな料理見た事が無い。それなのに何故か見た目も匂いも味も名前も調理の仕方も分かる。知っている。ここをもう少し進んで左手に曲がれば調理場がある。料理が出来上がるにはもう少し時間が掛かる。何故そんな事が分かるのか。思い浮かぶ。天然の野菜を大きめに切り刻み、血の滴る肉をぶつ切りにして。思わず吐き気がこみ上げた。血の浮き出た肉を切りつけるなんて正気の沙汰じゃない。それを煮えたぎった鍋に入れるのだ。何の肉だか分からない。もしかしたら人肉かもしれない。そんな不快な想像が湧く。でも私は知っている。鍋に入っているのは鶏の肉だと。何故そんな事が分かるのか。
このまま進めば、今まさにシチューの煮立つ調理場に辿り着いてしまう。そうしたら野菜も肉もぶつ切りにされる。その肉は何の肉? それは鶏肉 と私が言った。私は調理場へ歩いている。生贄の様に鍋で煮込まれる為に。私は恐ろしくて、踵を返した。
不安が肌から滲み出てくる。自分の頭の中がごちゃごちゃとして訳が分からない。自分の周りを取り巻く意味が理解出来ない。自分の中から、持ち得ていなくてはいけない何かが流れ出している。
その時、何処からか声が聞こえた。何か甲高い声だ。子供の声だ。もしかしたらメリーかも知れない。私は一縷の望みに勇気付けられて声のした方へ向かった。けれど内心分かっていた。それがメリーの筈が無い。明らかにメリーと違う声だった。まるで知らない声だった。それでも私の足は向かう。その声を上げたのか誰だか知りたくて。私はその子供をずっと待っていた気がしてならない。私が待っていたのだからそれはメリーだと思った。それは違うと分かっていながらも。
声のした部屋は居間だったが、居間を覗いても誰も居ない。それに何も無い。夕飯の準備をする前は、ここで何か書き物をしていた気がするのに、ペンも紙も無い。誰かが片付けてしまったのか。
また声がした。今度は庭からだ。私は部屋を通って窓から庭を覗いた。そこには子供が居た。子供が一人、門へと走っていた。何か見覚えがある。その子供を見た覚えがある。記憶を掘り起こそうとしていると、子供が振り返って私の覗く窓を見た。見覚えのある顔だった。見覚えがあって当然だ。それは私なのだから。私そっくりの顔をした子供が門の前でこちらを向いている。その子供は少しずつ成長し、いつの間にか私と同じ位の年齢の私になった。そして隣に見知った誰かを伴って門を出て行った。そうして誰も居なくなった。
何が何だか分からなかった。今見たものが理解出来なかった。ただ頭の中で片付いていなかった理解不能さの中に、何やらしっくりとくる感覚があった。つまりそれは、理解不能に陥っていた私という存在が、たった今、疑問と一緒に門から出て行った事に他ならない。私は私でなくなった様な心地と共に、気分が落ち着いていくのを感じた。
ようやっと落ち着き切った私は掛けてあった帽子を被り、机の上に置かれた封筒に目をやる。その封筒には遺書が入っている。門から出て行った私の姿を思い出す。あの子がまた鍵を握った伴侶を伴ってこの屋敷へやってくる。今日この日、あの子がまた秘封倶楽部を興す。だから今日この日まで、私の屋敷が残っている様に。遺書にはそう認めてある。その想像は私にはっきりとした満足感を与えてくれた。きっと子を成すというのはこういう気分なのだろうと思った。
私は万事が済んだ事を確認する。調理場に行き、カレーのこびりついた鍋と食器を洗って棚にしまい、ゴミ袋の口を縛って玄関まで持っていった。家の中を一頻り回り、全てを確認した私は大きく伸びをした。何かやり遂げた様な思いがあった。それが何かは分からない。
家の中を見回してもメリーの姿が無かった。後、探していないのは書斎だけ。メリーが居るとすればそこだろうと、私は書斎へ向かった。
書斎の扉の前に立った私は柄にも無く緊張して、開けるのを躊躇した。
分かっている。
この扉を開けたらもう二度と戻って来られない。
私は口元に笑みを浮かべ、そっと扉に手を掛けて、幻想郷への扉を開けた。
そこにはメリーにそっくりの女性が立っていた。その女性は私を見るなり、メリーが絶対に浮かべない様な胡散臭い笑みを浮かべて私を迎えてくれた。
部屋の扉の傍に立った蓮子は見当識を喪失して、辺りを見回した。
書斎だ。黴臭く古びた紛う事無い書斎だ。一瞬、書斎の扉が何処か別の場所に繋がっていて、その向こうにあり得ない物を見た気がしたが、勘違いだった様だ。その勘違いも朧になり、霞となって霧散する。見当識も戻り、メリーと一緒に書斎へ踏み込み、そのまま入り口で立ち尽くしていたのだと想い出す。
「蓮子、見て!」
メリーが書棚のノートを取り出して読んでいた。蓮子はもう一度辺りを見回してから、メリーに視線を戻す。
「メリー、境界は?」
「だから扉を開ける瞬間に消えちゃったって言ってるでしょ?」
そうだった。さっきも聞いたのに忘れていた。そういう事ならば仕方無いと、蓮子は首を振って、頭の中に残る最後の靄を吹き飛ばすと、メリーが読んでいるノートを覗きこんだ。何か写真の貼られたページに文字が書き込まれていた。
「それは?」
「蓮子、これよ!」
「え? 何が?」
「これは、とあるサークルの活動記録簿。私達の前にもね、うちの大学に私達と同じ様に結界暴きをするサークルがあったみたいなの」
「そりゃ、あるにはあるでしょ。現在だって私が知らないだけで他にもあるだろうし。昔って言うなら、結界暴きが禁止される前はもっと。っていうか、そういうサークルが乱立したから大学で禁止されたって聞いたし」
「そう! そうなの! このサークルはね、結界暴きが禁止される前のものなのよ! 私達の先輩!」
蓮子は活動記録の表紙を突き付けられて身を引いた。急に何だとメリーを睨めつけると、何故か蓮子を驚かせようと活動記録を突きつけたメリーの方が驚いた顔になっていた。その視線は蓮子の頭の上を見ている。
「蓮子、その帽子は?」
「帽子?」
蓮子は訝しんで自分の頭に手をやった。すると何も被っていなかった筈なのに、布の感触が返って来た。自分が帽子を被っている事に驚いていると、メリーが笑いかけてきた。
「屋敷の何処かにあったの? ちょっとくたびれてるけど、でも似合っていると思うわ」
「いや、帽子なんて。え? 何で被ってるの?」
「まあ、良いわ! それよりもこれよ!」
不思議がっている蓮子にメリーが再び活動記録を突きつけた。蓮子は思わずその表紙に書かれた文字を読む。
「秘封倶楽部?」
「そう! この前書きによるとね、どうやらかつてうちの大学に存在した、世界的に有名でアインシュタインにも一目置かれていた結界暴きサークルらしいの! しかもね、この初代会長が宇佐見って人なんだって! きっと蓮子の祖先よ。もしかしたらこの家に住んでいたのかも」
「そうなんだ」
世界的に有名だとかアインシュタインがどうたらは眉唾だろうが、初代会長が自分と同じ名字を持っているというのは興味深い。もしかしたら本当にご先祖様かもしれない。珍しい因縁もあるものだ。
「で?」
だからと言って、それが何だという話だが。
「つまり、蓮子はこの秘封倶楽部を継ぐ者な訳!」
「は?」
「私達のサークルの名前」
「私達のサークルって、不思議倶楽部よね? それがどうしたの? 安直でどうかと思ってたけど、メリーが付けたのよ?」
「だから! 蓮子はいっつも私の付けた名前に文句を言うじゃない。不思議倶楽部も駄目だし、結界暴露サークルも駄目。幻想倶楽部も駄目。浪漫倶楽部も危ない。蓮子とメリーの素敵な会も駄目」
「最後のは特に酷いけどね」
「だからね、この名前にしましょう! 何せ数百年前のサークルなんだから、伝統と格式は十分。初代が蓮子の祖先っていうのもぴったりな因縁だし。今は私達は二人だけだけど、いずれこの当時の秘封倶楽部に並べる様にすっごいサークルにするのよ! そういう気構えも込めて」
メリーは自分の思いついたアイディアに興奮した様子で自画自賛し始めた。蓮子としてはどちらでも良かった。名前にぼやいていたのはメリーをからかう為であって、結局、結界暴きをして境界の向こう側を思い求めるという中身が大事なのだ。
そう思いつつも、秘封倶楽部という言葉が自分達にしっくりとくる奇妙な感覚があった。同じ様な感覚を最近抱いた気がした。いつの事だったか思い出そうとしたが思いだせない。デジャヴだ。
「まあ、良いんじゃない」
「じゃあ決まりね!」
嬉しそうにしているメリーを余所に、蓮子は自分の先祖が興したという秘封倶楽部に興味を持って、本棚に向かった。活動記録は高校編、大学編とある。流石に社会人編は無いかと他人事なのに安堵しつつ、蓮子は大学編の一冊目を取り出し読んでみた。表紙の裏には写真が貼られていた。クスノキを背に十数人の男女が並んでいる。
「その真ん中に居るのが、初代会長さんみたいね。ちょっと蓮子に似てるかも」
居並ぶ中で真ん中の女性が一際晴れやかな笑みを浮かべている。自分に似ているのかどうか蓮子自身には分からない。ただその頭に被っている帽子が、丁度今、自分の被っている帽子と同じ物だと気がついた。それは奇妙で恐ろしい事だったが、何故か蓮子は恐怖を感じなかった。
ぺらぺらと活動記録をめくると部員紹介の後に、大学第一回目の活動として博麗神社という場所へ行った様子が記録されていた。笑顔のサークル員達が夜景を背にして写っている。どうやらそこに結界があるらしい。今度私達も行ってみようかと背後の星の位置から博麗神社の場所を割り出そうとした蓮子の傍で、メリーがぽつりと呟いた。
「こんなに楽しそうなのに、生涯独身って何だか寂しいわね」
「どうだろう。寂しいかは本人しか分からないよ。っていうか、この人が本当にここに住んでいた生涯独身のご先祖様と同一人物か分からないし」
「そうね」
あっと言う声を上げてメリーは嬉しそうに顔を上げた。
「もしかしたら境界の向こうの何処かの世界に伴侶が居たのかもしれないわ!」
「どうだろうね。もうずっと昔の話だから」
「そうよね」
今度は残念そうに項垂れる。
何だか心苦しくなって、蓮子は急いで言葉を継ぎ足した。
「でも、この家に住んでいたご先祖様は遺書だけ残して失踪したらしいわ」
「失踪? 何で?」
「分からないけど、もしかしたら大切な人の居る境界の向こうに行ったのかもね」
言ってから何を勝手に想像して綺麗事を語っているんだろうと蓮子は自己嫌悪した。他人の末期をあまりにも貶める発言だ。
だがメリーはそう思わなかった様で、うっとりとした様子で虚空を見つめだした。
「素敵」
「素敵って、あんた」
「私も最後は境界の向こう側に」
そんなメリーのいつもの妄言を聞いた瞬間、蓮子の背に凄まじい悪寒が走った。書斎の扉の前で覚えた恐怖と一緒だ。何か取り返しの無い世界へ繋がる扉を開けてしまった様な危惧が背筋を通って、頭の中に警鐘を鳴らす。
「メリー」
思わず今のメリーの発言を咎めようとしたが、「何?」と言って振り向いたメリーの笑顔があまりにも無垢で晴れやかで、蓮子は言葉に詰まってしまった。
「どうしたの?」
「いや」
尚もメリーの笑みに晒された蓮子は、諦めた様な息と共に言葉を吐き出した。
「もし向こうへ行くのなら私も連れて行ってよ」
するとメリーが益益の笑顔になる。
「勿論! 私は蓮子と一緒よ! ずっとね!」
頭の中の警鐘が更に強くなる。視界が狭窄する程の緊張が全身を支配している。まるで体中を雁字搦めに縛られた様な錯覚を覚えた。もう逃げられないというはっきりとした予感があった。
けれど、
「もう扉は開けてしまったのだし」
目の前でメリーが笑っているのを見ると、それ等何もかもがどうでも良くなった。
「何が?」
「何でもない」
開けてしまったのなら後はメリーと一緒に飛び込むだけだ。
扉の向こうの道はきっと何処までも続いている。
「さ、日が暮れる前に片付けて蓮台野へ行きましょう!」
蓮子はそう言って、古くなった秘封倶楽部の活動記録を閉じた。
そして新たな秘封倶楽部のページを開く。
蓮台野夜行編
夢違科学世紀編
夢違科学世紀編
「蓮子、いつまでもぶつくさ言ってないで、早く済ませましょう」
メリーは機械の集めたゴミをひとまとめにして、ぽいと放った。マニピュレータがそれをキャッチする。
「だってさ、今日は蓮台野に行く予定だったのに」
メリーは、文句を言いながらゴミをまとめている蓮子の隣に座り込むと、励ます様に笑みを見せた。
「仕方無いじゃない。蓮子のお母さんに頼まれたんじゃ」
二人は蓮子の母親に頼まれて廃墟を片付けに来ていた。この廃屋敷は、持ち主の遺言で保存を余儀なくされ、今日になるまで壊せないでいた。それに加えて、遺言の期間も終わりようやく壊す事になった途端、親戚の一人が、もしかして屋敷のゴミの中に高く売れるものがあるんじゃないかという要らぬ提案をした為に、今度この廃屋敷を親戚皆で宝探しする事になり、その事前準備として何故か蓮子が掃除をする羽目になったのだ。
「丁度私達のマンションから近いからね。しょうがないわ」
「しょうがなくないわ。今日になって急に掃除しろなんて。学生という一番貴重な時間を何でこんな事に費やさなくちゃいけないの」
「まあ。でもご先祖様の残したお屋敷なんだし最後位は綺麗にしてあげても」
「ご先祖様って言ったって私の直系じゃないわ」
「あら、そうなの?」
「それに生涯独身だったみたい。これだけのお屋敷、子供が居れば引き継ぐでしょうしね。誰も使わないんだから誰かに売るか壊すか出来れば良かったのに、遺言で誰も家に住んじゃいけません。指定した期間、壊してもいけませんって書いてあったらしくて。その期間っていうのも今日この日って日付指定! きっと物凄く神経質な人だったに違いないわ!」
食器を縛り終えた蓮子は勢い良く立ち上がった。自動で食器が運ばれていくのを尻目に、蓮子は熱く拳を握る。
「よりにもよって今日よ? 全く、妙な遺言の所為で。私達は今日蓮台野へ行くという至上目的が合ったのに」
「私達が掃除に来たのは蓮子のお母さんの思いつきであって、遺言は関係無いと思うけど」
「そうだけど。でも、後二十年早く壊せてたら、私達が掃除に来る事も無かったのに」
「良いじゃない。こんな古いお屋敷初めて見たし、貴重な体験よ。本当に壊しちゃうの?」
「まあね。今更売れないし、住むにしても、近所じゃ評判のお化け屋敷で、夜になると阿呆共が忍び込んでくるらしくて。役人がうちに苦情を入れてきた事もあった」
「ああ、道理で人が住んでいない筈なのに、色色ゴミが落ちていると思った。でも放置してた古いお屋敷の割には随分綺麗よね。世間の目が無ければ住めそうだわ」
「放置してないわよ。保存の為に半年に一度業者に来てもらってるんだから。百五十年契約ですって。馬鹿みたい。今日もその業者に任せれば良いのに、追加料金が掛かるからって」
また蓮子が愚痴り始めたので、メリーは苦笑する。それから思いついた様に目を見開いておんぼろ屋敷を見回した。
「蓮子、ちょっと待って! あなた、自分が何を言ったのか分かってる?」
「何って?」
「お化け屋敷って言ったじゃない! 何でそんな面白そうな事に食いつかないのよ!」
「えー、だって、ここ昔来た事あるけど、何も起こらなかったわよ。古いだけでお化けなんて全然」
「甘いわ、蓮子! 探さないと!」
メリーが落ち着きなく辺りを歩き出す。
蓮子は呆れた様子でそれを眺める。
「じゃあ、メリー任せた」
「蓮子! あなたも不思議倶楽部の一員でしょ! 一緒に探して!」
「好い加減、不思議倶楽部って名前もどうにかしたいよね」
蓮子のぼやきを無視して、メリーは一頻り屈みこんだり、伸び上がったりして部屋の中を観察してから蓮子の下に戻ってきた。
「この部屋には無いみたいね」
蓮子は冷たく尋ねる。
「他の部屋って言っても、もう片付けながらあちこち歩きまわってるんだけど。結界の裂け目なんてあった?」
「まだだけど。残っている所に」
「後は小さな書斎位しか無いわよ」
「ならそこよ! 書斎なんて如何にもじゃない!」
メリーに手を引かれて歩き出した蓮子は、「どうかなぁ」とまだぼやいていたが、その口調は不思議を前にした所為で明らかに元気が出ている。メリーは蓮子が元気になった事に満足して、笑顔を浮かべて蓮子の手を引き、軽やかな足取りで書斎へ向かう。
だがそのメリーの笑みは書斎を前にした途端に消え去った。
「ほら、メリー、最後の部屋はここ。どう? 何かある?」
幾分の期待が篭められた蓮子の言葉に、メリーは喉の渇きを覚えながら辛うじて答えた。
「ある」
蓮子は驚いて、メリーを見る。メリーの顔は驚きに強張っていた。蓮子はもう一度、書斎の戸を見る。何の変哲も無い木戸だ。経年劣化して黒ずんでいるだけの扉だ。だがメリーの反応を見てしまった今、それは地獄の蓋の様にも、天国の門の様にも見える。
「境界が見えるのよね」
「見える」
メリーが短く答えた。その息は短く荒い。蓮子もメリーの息遣いにつられて、苦しくなる。
何だか空恐ろしい心地になった。
結界を暴くのは初めてじゃない。メリーとはずっと昔から不思議を追い求めてきた。それが高じて大学では二人で不思議倶楽部という結界暴きのサークルを作った程だ。危ない目にあった事もある。それでもずっと境界の向こう側を追いかけてきた。
だから結界暴きなんて、二人にとってなんて事無い筈だ。境界なんて恐れるものじゃ無い筈だ。
でもメリーの反応を見たからか、今、目の前に存在する扉がやけにおどろおどろしく見える。
この扉を開けたらもう二度と戻って来られない気がする。
「メリー」
蓮子が呼びかけると、メリーと目が合った。その目の奥に恐れがちらついているのを見て、きっとメリーも同じ恐怖を抱いているのだと思った。
この先の非日常へ行けば、もう日常には戻って来られない。
そんな確信があった。
「メリー、開けて」
だからこそ、不思議を追い求める二人は扉の向こうへ行かなければならなかった。
蓮子は無理矢理笑みを作ってメリーに告げる。
メリーもまた強張る口元を笑みの形にして、頷いた。
そっと扉のノブに手を掛けて、ゆっくりと回す。
二人は扉を開けて、書斎へと足を踏み入れた。
廊下に立った私はぼんやりと辺りを見回した。
何処だろうとまず思った。そして、あの廃屋敷にメリーと来ていたんだと思いだした。メリーが境界を見つけて、結界暴きを敢行したんだ。部屋の中に足を踏み入れて。
それからどうなった?
廊下はやけに暗い。まだ昼間だった筈なのに、屋敷の中は薄暗く、影が色濃く浮き上がっている。
ここは何処だ。
再びそう思った。
先祖の遺したぼろぼろの屋敷であるという結論に、何か違和感がある。それが間違いである気がしてならない。
廊下を歩く。何か美味しそうな匂いがする。シチューの匂いだ。クリームシチューだなと思った。鍋で煮こまれる様子が想像出来た。ぐつぐつと泡を立てながら煮立っている。
何故?
そんな料理見た事が無い。それなのに何故か見た目も匂いも味も名前も調理の仕方も分かる。知っている。ここをもう少し進んで左手に曲がれば調理場がある。料理が出来上がるにはもう少し時間が掛かる。何故そんな事が分かるのか。思い浮かぶ。天然の野菜を大きめに切り刻み、血の滴る肉をぶつ切りにして。思わず吐き気がこみ上げた。血の浮き出た肉を切りつけるなんて正気の沙汰じゃない。それを煮えたぎった鍋に入れるのだ。何の肉だか分からない。もしかしたら人肉かもしれない。そんな不快な想像が湧く。でも私は知っている。鍋に入っているのは鶏の肉だと。何故そんな事が分かるのか。
このまま進めば、今まさにシチューの煮立つ調理場に辿り着いてしまう。そうしたら野菜も肉もぶつ切りにされる。その肉は何の肉? それは
不安が肌から滲み出てくる。自分の頭の中がごちゃごちゃとして訳が分からない。自分の周りを取り巻く意味が理解出来ない。自分の中から、持ち得ていなくてはいけない何かが流れ出している。
その時、何処からか声が聞こえた。何か甲高い声だ。子供の声だ。もしかしたらメリーかも知れない。私は一縷の望みに勇気付けられて声のした方へ向かった。けれど内心分かっていた。それがメリーの筈が無い。明らかにメリーと違う声だった。まるで知らない声だった。それでも私の足は向かう。その声を上げたのか誰だか知りたくて。私はその子供をずっと待っていた気がしてならない。私が待っていたのだからそれはメリーだと思った。それは違うと分かっていながらも。
声のした部屋は居間だったが、居間を覗いても誰も居ない。それに何も無い。夕飯の準備をする前は、ここで何か書き物をしていた気がするのに、ペンも紙も無い。誰かが片付けてしまったのか。
また声がした。今度は庭からだ。私は部屋を通って窓から庭を覗いた。そこには子供が居た。子供が一人、門へと走っていた。何か見覚えがある。その子供を見た覚えがある。記憶を掘り起こそうとしていると、子供が振り返って私の覗く窓を見た。見覚えのある顔だった。見覚えがあって当然だ。それは私なのだから。私そっくりの顔をした子供が門の前でこちらを向いている。その子供は少しずつ成長し、いつの間にか私と同じ位の年齢の私になった。そして隣に見知った誰かを伴って門を出て行った。そうして誰も居なくなった。
何が何だか分からなかった。今見たものが理解出来なかった。ただ頭の中で片付いていなかった理解不能さの中に、何やらしっくりとくる感覚があった。つまりそれは、理解不能に陥っていた私という存在が、たった今、疑問と一緒に門から出て行った事に他ならない。私は私でなくなった様な心地と共に、気分が落ち着いていくのを感じた。
ようやっと落ち着き切った私は掛けてあった帽子を被り、机の上に置かれた封筒に目をやる。その封筒には遺書が入っている。門から出て行った私の姿を思い出す。あの子がまた鍵を握った伴侶を伴ってこの屋敷へやってくる。今日この日、あの子がまた秘封倶楽部を興す。だから今日この日まで、私の屋敷が残っている様に。遺書にはそう認めてある。その想像は私にはっきりとした満足感を与えてくれた。きっと子を成すというのはこういう気分なのだろうと思った。
私は万事が済んだ事を確認する。調理場に行き、カレーのこびりついた鍋と食器を洗って棚にしまい、ゴミ袋の口を縛って玄関まで持っていった。家の中を一頻り回り、全てを確認した私は大きく伸びをした。何かやり遂げた様な思いがあった。それが何かは分からない。
家の中を見回してもメリーの姿が無かった。後、探していないのは書斎だけ。メリーが居るとすればそこだろうと、私は書斎へ向かった。
書斎の扉の前に立った私は柄にも無く緊張して、開けるのを躊躇した。
分かっている。
この扉を開けたらもう二度と戻って来られない。
私は口元に笑みを浮かべ、そっと扉に手を掛けて、幻想郷への扉を開けた。
そこにはメリーにそっくりの女性が立っていた。その女性は私を見るなり、メリーが絶対に浮かべない様な胡散臭い笑みを浮かべて私を迎えてくれた。
部屋の扉の傍に立った蓮子は見当識を喪失して、辺りを見回した。
書斎だ。黴臭く古びた紛う事無い書斎だ。一瞬、書斎の扉が何処か別の場所に繋がっていて、その向こうにあり得ない物を見た気がしたが、勘違いだった様だ。その勘違いも朧になり、霞となって霧散する。見当識も戻り、メリーと一緒に書斎へ踏み込み、そのまま入り口で立ち尽くしていたのだと想い出す。
「蓮子、見て!」
メリーが書棚のノートを取り出して読んでいた。蓮子はもう一度辺りを見回してから、メリーに視線を戻す。
「メリー、境界は?」
「だから扉を開ける瞬間に消えちゃったって言ってるでしょ?」
そうだった。さっきも聞いたのに忘れていた。そういう事ならば仕方無いと、蓮子は首を振って、頭の中に残る最後の靄を吹き飛ばすと、メリーが読んでいるノートを覗きこんだ。何か写真の貼られたページに文字が書き込まれていた。
「それは?」
「蓮子、これよ!」
「え? 何が?」
「これは、とあるサークルの活動記録簿。私達の前にもね、うちの大学に私達と同じ様に結界暴きをするサークルがあったみたいなの」
「そりゃ、あるにはあるでしょ。現在だって私が知らないだけで他にもあるだろうし。昔って言うなら、結界暴きが禁止される前はもっと。っていうか、そういうサークルが乱立したから大学で禁止されたって聞いたし」
「そう! そうなの! このサークルはね、結界暴きが禁止される前のものなのよ! 私達の先輩!」
蓮子は活動記録の表紙を突き付けられて身を引いた。急に何だとメリーを睨めつけると、何故か蓮子を驚かせようと活動記録を突きつけたメリーの方が驚いた顔になっていた。その視線は蓮子の頭の上を見ている。
「蓮子、その帽子は?」
「帽子?」
蓮子は訝しんで自分の頭に手をやった。すると何も被っていなかった筈なのに、布の感触が返って来た。自分が帽子を被っている事に驚いていると、メリーが笑いかけてきた。
「屋敷の何処かにあったの? ちょっとくたびれてるけど、でも似合っていると思うわ」
「いや、帽子なんて。え? 何で被ってるの?」
「まあ、良いわ! それよりもこれよ!」
不思議がっている蓮子にメリーが再び活動記録を突きつけた。蓮子は思わずその表紙に書かれた文字を読む。
「秘封倶楽部?」
「そう! この前書きによるとね、どうやらかつてうちの大学に存在した、世界的に有名でアインシュタインにも一目置かれていた結界暴きサークルらしいの! しかもね、この初代会長が宇佐見って人なんだって! きっと蓮子の祖先よ。もしかしたらこの家に住んでいたのかも」
「そうなんだ」
世界的に有名だとかアインシュタインがどうたらは眉唾だろうが、初代会長が自分と同じ名字を持っているというのは興味深い。もしかしたら本当にご先祖様かもしれない。珍しい因縁もあるものだ。
「で?」
だからと言って、それが何だという話だが。
「つまり、蓮子はこの秘封倶楽部を継ぐ者な訳!」
「は?」
「私達のサークルの名前」
「私達のサークルって、不思議倶楽部よね? それがどうしたの? 安直でどうかと思ってたけど、メリーが付けたのよ?」
「だから! 蓮子はいっつも私の付けた名前に文句を言うじゃない。不思議倶楽部も駄目だし、結界暴露サークルも駄目。幻想倶楽部も駄目。浪漫倶楽部も危ない。蓮子とメリーの素敵な会も駄目」
「最後のは特に酷いけどね」
「だからね、この名前にしましょう! 何せ数百年前のサークルなんだから、伝統と格式は十分。初代が蓮子の祖先っていうのもぴったりな因縁だし。今は私達は二人だけだけど、いずれこの当時の秘封倶楽部に並べる様にすっごいサークルにするのよ! そういう気構えも込めて」
メリーは自分の思いついたアイディアに興奮した様子で自画自賛し始めた。蓮子としてはどちらでも良かった。名前にぼやいていたのはメリーをからかう為であって、結局、結界暴きをして境界の向こう側を思い求めるという中身が大事なのだ。
そう思いつつも、秘封倶楽部という言葉が自分達にしっくりとくる奇妙な感覚があった。同じ様な感覚を最近抱いた気がした。いつの事だったか思い出そうとしたが思いだせない。デジャヴだ。
「まあ、良いんじゃない」
「じゃあ決まりね!」
嬉しそうにしているメリーを余所に、蓮子は自分の先祖が興したという秘封倶楽部に興味を持って、本棚に向かった。活動記録は高校編、大学編とある。流石に社会人編は無いかと他人事なのに安堵しつつ、蓮子は大学編の一冊目を取り出し読んでみた。表紙の裏には写真が貼られていた。クスノキを背に十数人の男女が並んでいる。
「その真ん中に居るのが、初代会長さんみたいね。ちょっと蓮子に似てるかも」
居並ぶ中で真ん中の女性が一際晴れやかな笑みを浮かべている。自分に似ているのかどうか蓮子自身には分からない。ただその頭に被っている帽子が、丁度今、自分の被っている帽子と同じ物だと気がついた。それは奇妙で恐ろしい事だったが、何故か蓮子は恐怖を感じなかった。
ぺらぺらと活動記録をめくると部員紹介の後に、大学第一回目の活動として博麗神社という場所へ行った様子が記録されていた。笑顔のサークル員達が夜景を背にして写っている。どうやらそこに結界があるらしい。今度私達も行ってみようかと背後の星の位置から博麗神社の場所を割り出そうとした蓮子の傍で、メリーがぽつりと呟いた。
「こんなに楽しそうなのに、生涯独身って何だか寂しいわね」
「どうだろう。寂しいかは本人しか分からないよ。っていうか、この人が本当にここに住んでいた生涯独身のご先祖様と同一人物か分からないし」
「そうね」
あっと言う声を上げてメリーは嬉しそうに顔を上げた。
「もしかしたら境界の向こうの何処かの世界に伴侶が居たのかもしれないわ!」
「どうだろうね。もうずっと昔の話だから」
「そうよね」
今度は残念そうに項垂れる。
何だか心苦しくなって、蓮子は急いで言葉を継ぎ足した。
「でも、この家に住んでいたご先祖様は遺書だけ残して失踪したらしいわ」
「失踪? 何で?」
「分からないけど、もしかしたら大切な人の居る境界の向こうに行ったのかもね」
言ってから何を勝手に想像して綺麗事を語っているんだろうと蓮子は自己嫌悪した。他人の末期をあまりにも貶める発言だ。
だがメリーはそう思わなかった様で、うっとりとした様子で虚空を見つめだした。
「素敵」
「素敵って、あんた」
「私も最後は境界の向こう側に」
そんなメリーのいつもの妄言を聞いた瞬間、蓮子の背に凄まじい悪寒が走った。書斎の扉の前で覚えた恐怖と一緒だ。何か取り返しの無い世界へ繋がる扉を開けてしまった様な危惧が背筋を通って、頭の中に警鐘を鳴らす。
「メリー」
思わず今のメリーの発言を咎めようとしたが、「何?」と言って振り向いたメリーの笑顔があまりにも無垢で晴れやかで、蓮子は言葉に詰まってしまった。
「どうしたの?」
「いや」
尚もメリーの笑みに晒された蓮子は、諦めた様な息と共に言葉を吐き出した。
「もし向こうへ行くのなら私も連れて行ってよ」
するとメリーが益益の笑顔になる。
「勿論! 私は蓮子と一緒よ! ずっとね!」
頭の中の警鐘が更に強くなる。視界が狭窄する程の緊張が全身を支配している。まるで体中を雁字搦めに縛られた様な錯覚を覚えた。もう逃げられないというはっきりとした予感があった。
けれど、
「もう扉は開けてしまったのだし」
目の前でメリーが笑っているのを見ると、それ等何もかもがどうでも良くなった。
「何が?」
「何でもない」
開けてしまったのなら後はメリーと一緒に飛び込むだけだ。
扉の向こうの道はきっと何処までも続いている。
「さ、日が暮れる前に片付けて蓮台野へ行きましょう!」
蓮子はそう言って、古くなった秘封倶楽部の活動記録を閉じた。
そして新たな秘封倶楽部のページを開く。
蓮台野夜行編
夢違科学世紀編