その日は、珍しく何の予定もない一日だった。
紅魔館のメイド長――十六夜咲夜にだって休日は存在する。週に一日、それが彼女が館の主と契約した時の労働条件であった。
これを多いと取るか、少ないと取るかは人による。もっと休みがあればと嘆く者もいるだろうし、これだけで充分と言う者もいるだろう。
そして十六夜咲夜はというと、そのどちらでもなく、これでも多過ぎるくらいだと言い放つような人間だった。
勤務にあたる日に仕事をするのは当たり前。与えられた休日であろうと、気になる仕事があれば休みを返上して働いた。そして、翌日も元気に仕事に精を出す。
つまり、彼女は典型的なワーカーホリックであった。
これには週一回も休みがあれば十分だろうと思っていた雇用主の悪魔も頭を悩ませている。
休みである以上は本人がその日をどう過ごすかは自由なことだ。それでいて自分の館が最良の状態で管理されるのであれば、文句も出ようはずがない。
それでも目に余る時は主として強権を発動して無理やりにでも休ませるのだが、自室の椅子に座って彫像の様に固まっている従者のそれは、果たして正しい休日の過ごし方と言っていいのか判断がつかなかった。
最近では、咲夜が楽しいと思っているのならそれが休日なのだろう、と現実逃避に走る雇用主なのであった。
閑話休題。
そんな咲夜も今日は休日を取らざるを得なかった。何故なら、すべきことも、気になることも全て前日に終わらせてしまっていたからだ。
大量の食器洗いから大浴場の掃除、食材の調達、ワインの補充、時計台の点検などなど何もかもである。
「…………」
何もすることがない。すると途端に時間を持て余す。
時間なんて大層なものを操る癖に、時間の潰し方はてんで不得意な咲夜だった。
「人里に行くっていうのもありだけど、私、人混みって苦手なのよね」
慣れない事態に遇うと、慣れない独り言まで出てしまう。
人里は確かに暇を潰すならば格好の場所ではあるが、人の生活圏も担っている為に人口密度は幻想郷一である。
そんな所に出向いては気疲れしてしまう。咲夜にとっては労働よりもよっぽど堪えることだ。
しかし、そうなると行く先はかなり限られてしまう。
学の無い彼女には本を読んで時間を潰す選択は最初から除外されていて、悪魔の従者なんてやっている手前、人付き合いにも疎い。
友人と呼べる存在なんてそれこそ……。
「……あ、そっか。こういう時は誰かの所に遊びに行けばいいのね」
と、数少ない友人たちの顔を思い浮かべた途端、天啓のように解決案が舞い降りてきた。
そうなのだ。人は一人でいるから時間を持て余すのであって、誰かの相手をしていればそれもあっという間に過ぎていく。
いつもの仕事だってそうだ。雇用主の相手をしている間は光のように時間が駆けていくが、一人の仕事の時のそれは進みが遅い。
そうとなると、代わりのお嬢様がいる。そのお嬢様のお世話をしていれば退屈な休みの日も紛れるだろう、と咲夜は考えた。
そして、それはとても素晴らしい休日の使い方だ、とも彼女は本気で思っている。
勿論、自分の考えが世間一般で言うところの「遊びに行く」という行為からかけ離れているとは露とも思っていない。この辺り、彼女の遊び慣れて無さが窺えると言えよう。
「さて、誰の家に行こうかしら……」
目蓋を閉じて思案。そこで、真っ先に浮かんできた相手の下へと行こうと決めた。
暫しの沈黙の後、よし、と小さく頭を振って行き先は決定した。
そうして足は自室のクローゼットに向かう。整然と並ぶメイド服の中から、肩身の狭そうに収まっている私服たちを引っ張り出す咲夜。
彼女とて、友達の家に遊びに行くときは私服で、という常識くらいは持ち合わせているのだ。
# # #
湿った空気を肩で切る。切ったそばからまた湿気が押し寄せてくるから辟易する。
ここ魔法の森は常に薄暗く、陰鬱とした雰囲気が滞留している。並みの者であれば数分もあれば気分を悪くし、数十分で昏睡してそのまま森の養分と成り果てる。
並みの者ではない咲夜はそんなヘマはやらかさないが、好んで訪れたい場所ではない。
しかし、そんな場所に居を構える者たちもいる。こんな陰気な所に住まうくらいなので、総じて偏屈の変人揃いである。
「まぁ、だからこそ尽くし甲斐もあるんだけど……」
人によって短所に見える部分も、咲夜にとっては魅力に見えたりする。
特に今回お邪魔する家の住人は、生活力というものに乏しい可哀想な子どもである。存分にメイド力も振るえるというものだ。
そんな風に口元を緩めているうちに、件の子どもの家が見えてきた。子どもの癖に一丁前の一軒屋である。
大きなキノコやらカボチャやらを横目に、木製の扉に設えられた真鍮のドアノッカーを数度叩く。
「魔理沙ー、いるー?」
扉の向こうにも聞こえるように張った声で呼び掛ける。普段ならはしたないと控える行為も、相手が相手なので気にならない。
少しの間待つが返事はない。留守か、と考えると同時、ドアノブに手を掛ける。ドアノブはゆっくりと回り、咲夜の来訪を勝手に歓迎した。
物盗りの真似事はする癖に防犯意識が薄いことに溜め息を吐く。このまま突っ立ている訳にもいかないので、家主の了承無しでお邪魔することにした。
「うわっ……」
侵入を果たした咲夜がまず最初に目にしたのは、天井近くまでうず高く積み上げられたガラクタの山であった。
ガスコンロ、ホワイトボード、招き猫、ブラウン管テレビ、黒板消しクリーナー、鍵盤ハーモニカ、バトルドーム、etc……それら用途など見当もつかない物たちが、部屋の隅から彼女を睥睨してくる。
その存在感はまるで門番。勝手に入ったことを咎められているようで何となく肩身が狭くなる。うちのと代わってくれないかな、と心中でぼやく。
進んでみると、意外にも床が物に溢れているということはなかった。
もっとゴチャゴチャしていて、足の踏み場もないかと思っていたので拍子抜けだった。少しだけ彼女への評価を改める。
もっとも、天井まで物を積み上げるのはどうかと思う。今にも雪崩を起こしそうな塔は一つや二つではなく、床板も心なしか悲鳴を上げているような気がする。
何処か一ヶ所が崩れれば、連鎖を起こす仕組みだろうか。その先にあるのは圧倒的物量による圧死である。天然の罠に咲夜は顔を青くした。
「魔理沙ー? 留守なのー?」
下手に刺激を与えないように抜き足差し足……空き巣染みた真似に泣きたくなりながら、扉が半開きになっていた一室に身を滑り込ませた。
他と比べて一層雑然としていることから、ここが彼女の私室だと当たりをつける。前に一度忍び込んだ時と間取りが同じなのでビンゴだろう。その上で呼び掛けてみるのだが、返事はない。
これは本当に留守を引いたか、と落胆する咲夜。と、部屋の奥のベットの手前の床に見慣れた黒白の服が脱ぎ捨てられているのを見つけた。
そういう物を見ると我慢できないのがメイドの、というか咲夜の性分である。仮にも魔法使いである少女の部屋を堂々と横切っていく。
「はぁ。脱ぎ散らかして、それに下着もそのままって……あの子は危機感ってものが無いのかしら」
まるで“着ていた中身が丸ごといなくなった”ような状態で落ちているそれを見ながら、咲夜は独りごちる。
魔法の森だからといって、一般人が絶対に寄らないということはないのだ。むしろ、変質者や犯罪者が身を潜めるには都合の良い場所でもある。
そんな所で鍵も掛けず、服は脱ぎ捨てたまま――襲ってくれと言っているようなものではないか。会ったら注意の一つくらいしてやろう、と咲夜は心に決める。
彼女の性格だ、口煩いと一蹴するだろうが、友人の貞操を心配するが故だ。それくらいは許して欲しい。
しかし、家主がいないのではここに長く留まる必要はない。
たまたま真っ先に思い浮かんだから。それ以外に理由はない。他のぐうたらの家に向かえばいいだけだ。例えばそう、紅白巫女の家とか。
だから落ちていた服をとりあえず畳んでベッドに置いたら、そのままお暇するつもりだった。
「……ん?」
咲夜の視界の端を黒い何かが過ぎった。それは彼女の目でも追えない素早さで机の下に潜り込んだように見えた。
角度からしてそこに何が潜り込んだかは窺えない。この散らかり具合である、ネズミの一匹くらいいたって驚きやしない。
先程の行動からも解るように、咲夜は見て見ぬ振りというやつが嫌いだ。
気になることがあるなら何かしらの行動を起こす。そうでもなければ紅魔館のメイド長など務まらない。
怯えさせないよう、ゆっくりとした歩調で机に忍び寄る咲夜。万が一に備え、片手にナイフを持つことも忘れない。
光の差し込まない薄暗い机の下には金色の丸が二つ。覗いた先にいたのは――。
「…………子猫?」
みぃ、とどこか情けない声が咲夜の耳をくすぐった。
# # #
その子猫を見た瞬間、これは魔理沙だ、と咲夜は直感した。何故といえば何故だろう。
確かに毛並みは真っ黒に所々の白のアクセントが可愛らしいモノトーン仕様だが、珍しい毛色でもなし、それだけでこれが魔理沙だと断定するのは時期尚早だろう。
そもそも人が猫になるってどういうことだ、と普通なら突っ込みが入るのかもしれない。
だがしかし、ここは幻想郷である。物理法則が無視されるなんて当たり前で、ぶっちゃけ友人が猫になるなんてことは日常茶飯事、午後の紅茶なのだ。
後はまぁ、メイド的勘という言葉で片は着く。汝、メイドを信じよ、である。
「ねぇ、あんた魔理沙でしょう?」
咲夜のからかい混じりの声に、目の前の子猫はふいと目を逸らした。
猫は無駄な争いを避ける為に目を合わせたがらない生き物だが、それにしても目の前の子猫のそれは人間臭い。
例えるなら、自分の失敗を隠そうとする子どものような、そんな仕草。
「別に笑ったりしないわよ。ほら、合ってるなら右手、違うなら左手を出して」
差し出された左手をジッと見詰める黒白子猫。やがて観念したのか、その小さな前足を乗せた。
乗せられたのは右。手の平に柔らかな肉球の感触を感じながら、咲夜は自分の勘が当たったことに笑みを浮かべた。
「やっぱり。今度は何をやらかしたの? また実験でも失敗した?」
腋に手を差し入れて持ち上げたかと思えば、魔理沙はあっという間に咲夜の腕の中にいた。
一瞬の早業に目をパチクリさせている腕の中の子猫に、自然と咲夜の声音も柔らかくなる。
自分が抱えられていることに遅れて気づいた魔理沙がもがく。だがしかし、何故だか逃げ出そうにも逃げ出せない。
どうして、という感じに見上げたそこには、「こんな可愛い生き物、逃がす訳ないじゃない」と菩薩顔な彼女がいた。
子猫は勘弁してくれとばかりに項垂れる。
「ま、事情なんてどうでもいいわ。今の貴方、とっても可愛いんだもの。いつそうなったかは知らないけど、どうせご飯食べてないんでしょう?」
対照的に、咲夜の声は弾んでいる。
普段の小生意気な魔理沙も可愛らしいものだが、それが小動物に形(なり)を変えたのだから尚更可愛いに決まっている。
メイドの保護欲が掻き立てられるのも当然、自明の理である。
魔理沙は逃げることは諦めたのか、腕の中で大人しく抱かれている。代わりに、先が真っ白で手袋を履いたみたいな右前足で彼女の手を叩く。
肯定ということは、やはりご飯は食べていなかったらしい。メイドの勘が冴え渡る一日である。
みー、というそれはご飯を催促する声か。姿形は変わっても、図々しいところは変わらないらしい。
「はいはい、作ってあげるからキッチンは借りるわね。あー、今は猫だから玉ねぎは使えないか、うーん……」
魔理沙を床に降ろすとキッチンへと迷いなく足を進める咲夜。
家に入った時にキッチンの場所も把握しておいたのである。出来るメイドは違うのだ。
その後ろを子猫の姿をした魔理沙も付いて行く。難儀そうに歩いているが、それは物があちこり放置されているからで結局は自業自得だったりする。
河童技術の結晶である冷温庫(冷蔵庫。電力を必要としないものだけを指す)を開けてみると、部屋ほどごちゃごちゃはしていない。
その代わりに食材が少なく、よく判らないキノコやら粉末やらドロドロとした何やらが大部分を占めているが想定内である。
これまた河童技術で作られたカッパー(プラスチック容器。きゅうり以外の物も保存できるものを指す)の内の一つを取り出す。
蓋を外すと、保存されていた一食分ほどの白米があった。伊達に一人で暮らしている訳ではないらしい。米を炊く手間が省けた。
他に何かないかと覗いてみれば、瓶にたっぷりと入った牛乳、幻想郷では中々に貴重品のバター、それと余り物と思われる鶏のささ身があった。
それだけあれば十分、と食材を取り出してから冷温庫の扉を閉めた。
「今の貴方でも食べれそうなもの作ってあげるから、少し待ってなさい」
少し後ろで期待の眼差しを向けてくる子猫に、咲夜はパチリとウインクを飛ばした。
「さて、肝心の道具は……あぁ、よかった。鍋も無いんじゃないかと思ってたけど、そこら辺は流石に魔法使いか」
様々な大きさの鍋から、比較的綺麗かつちょうど良い大きさの物を取り出す。
魔理沙の家に置いてあるのは神社などでよく見る竈(かまど)ではなく、紅魔館でも使われている焜炉(こんろ)らしい。慣れた物で幸いである。
咲夜はまず鍋に水を入れることから始めた。水は温泉脈から引いてきたものらしく、ミネラルが豊富……というラベルが貼られてあるが、効能まではよく知らない。
水の入った鍋を焜炉の上に置くと、次は着火の準備だ。焜炉の下を覗いてみると、まだそれなりの木炭(ちなみに紅魔館では石炭を使っている)が残っていた。
脇に積み上げられた文々。新聞のバックナンバーを適当に放り込み、これまた一緒に置いてあった燐寸を擦っては投げ込む。
火の点いた新聞は瞬く間に燃え上がる。しかし、これだけだと肝心の炭に燃え移らないこともあるので、その為の熾きを寄せることを忘れてはいけない。
風口から風を送り、炭に火が点いたのでこれから本格的に調理開始だ。といっても、そんなに手間の掛かる料理でもないのだが……。
水がお湯に変わるまでに少し時間が掛かる。その間に、咲夜は残り物の鳥のささ身をまな板の上に置いた。
鶏のささ身には筋がある。あっても食べれないことはないのだが、無い方が口当たりもいいので捌く前に取り除くのが吉だ。
握られた包丁によってささ身の筋がスルスルと取り除かれていく。また、身の方は魔理沙の身体が身体なので細かく切っていく。
残っていたささ身肉が細切れになっている頃には、鍋に張っていた水がちょうどよく沸騰を始めていた。
ぐつぐつと音を立てるくらいになったら、そこに保存されていたご飯とバターを少量加える。バターが溶け出す頃合いで切っておいたささ身も投入して、鍋には一度蓋をする。
バターの溶けた香りに惹かれたのか、足元には子猫の姿の魔理沙がいて、咲夜の脚に先っぽの白い尻尾を擦り付けていた。
身体が猫になると仕草まで猫っぽくなるのかしら、などと思いながら、足に這うこそばゆい感触は努めて無視した。
しばらくすると米が煮立ってくる。蓋を開けると冷えて固まっていた米たちが水を吸って膨らみ、ささ身も赤から白へと色を変えていた。
よし、と咲夜は頷くと、瓶に入った牛乳を手に取る。栓となっているコルクを抜くと、その中身をトクトクと注いでいく。そうしてまた加熱する。
よく猫に牛乳を与えるのは良くないと言われる。というのも、牛乳に含まれる乳糖を分解する力が不足しているからだ。これは何も猫に限らず、人にも多く見られる。
牛乳を飲んでお腹を壊しやすいのはこれが原因だ。子猫はその力が弱い為に特にお腹を壊しやすく、脱水症状などの重症を引き起こしかねない。
なので、入れる牛乳の量は控えめだ。姿形が子猫なだけで元は元気闊達の見本のような魔理沙なのだが、まぁ用心するに越したことはないだろう。
牛乳が万遍なく絡むようにゆっくりと中身を掻き混ぜる。ついでに火も少し弱めておく。最後に塩で味を調えればそれで出来上がりだ。
……それにしてもだ、足元の魔理沙が鬱陶しい。尻尾を擦り付けるだけならまだしも、人が動く度に足元をちょこまか動くものだから困る。
実を言うと、この短い調理の間にも二回ほど蹴っ飛ばしてしまっていた。その度に「みぎゃっ!」と声を上げて、恨めしそうに咲夜を見上げてくる。
人が料理してるときに足元に寄ってくる方が悪いと思うのだけど、つい謝ってしまう彼女だった。
最後に塩をちょうどいい塩梅に加えて――と言っても魔理沙の姿に合わせてだいぶ減らして薄味ではあるが――咲夜特製ミルク粥の完成である。
濡れた布巾を用意し、焜炉の上から鍋を移動させる。さすがに熱々の出来立てを食べさせるのは酷だろうと思ってのことだ。
食器棚から少し底の深い皿を取り出すと、まだ熱を持っている鍋の中身をそこに注いでいく。
少しでも早く冷めるように咲夜が手をパタパタ振ったり息をフーフー吹き掛けていると、下から嫌そうな視線を感じた。
「嫌なら、食べないでいいけど?」
作った以上は食べて欲しいとは思うけど、嫌なら仕方ない。
そんな気持ちから出た言葉に、足元の子猫は慌てたようにしがみ付いてきた。空腹を訴える瞳は本物だ。
それならと床に皿を置くと魔理沙は勢いよく粥に口を付けた。そして聞こえてくる咀嚼音……ではなく、何度か聞いてしまっていた悲鳴。
「あ、ごめんなさい。まだ熱かったわよね」
粥はまだ熱を持っていたらしい。慌てて別のお椀に水を入れてやると、ぴちゃぴちゃと水音を立てながら勢いよく飲み出した。
猫舌とは言うが、熱い食べ物が平気なのは人間くらいだと何処かで聞いた覚えがあった。なので再度フーフーと息を吹きかけて冷ましてやる。
ひとつまみ分を口に含んで、もう大丈夫だろうと判断したところでもう一度床に置いてみた。
痛い目を見た魔理沙は不審げだったが、咲夜が頷くと恐る恐る口にした。そこからはあっという間だ。
「……よっぽどお腹が空いてたのね、貴方」
子猫は食欲に突き動かされるままに食事を始めた。
味わって食べるというよりは、とにかく胃に流し込むことが最優先といった感じである。
呆れた咲夜の声に、そうだぜ、とでも答えるように顔を上げては食事を再開した。
残されるよりはいいが、やっぱり味わっても欲しいと思う彼女だった。
「そんなに焦らなくてもご飯は逃げないわよ。ほら、鼻まで真っ白」
小休止の為にか顔を上げた魔理沙の鼻先はミルクのせいで白に変わっていた。それも器用に舌で舐め上げたかと思うと、一瞬にして毛並みと同じ黒に戻った。
本当に猫みたいだと思っていると、また食事に没頭している。その姿を見ながら、咲夜は今さらな事を考えた。
要はいつから子猫の姿になったのか、という話である。食べっぷりから一日くらいは飲まず食わずだったことは何となく窺える。
そう考えると、今日この家を訪ねたのはタイミングとして良かったのかもしれない。まぁ、放っておいても餓死なんてヘマはしなかっただろうけども。
子猫になった経緯に興味はないし、きっと問題なく元に戻るのだろう。ご都合主義とはそういうものだ。
「全部食べたのね。はい、お粗末様でした」
気づくと皿の中は綺麗になっていた。そこそこの量があったのに、子猫の身体でよく入ったものだと思う。
何となしにその小さい頭を撫でてやると、嫌そうに身を捩って逃げた。
ご飯を作ってあげたんだからそれくらい許してくれてもいいのにと思う咲夜だった。
何にせよ、食べ終わったなら後片付けをするまでだ。米粒一つ残らないほど綺麗に舐め取られた皿を流しに持っていく。
この家には里でもそうそうない蛇口が設置されている。ここまでくると魔理沙の人脈が少々怖くなってくる。
そして咲夜は気づいた。気づいてしまった。いや、無意識に目を逸らしていたのかもしれない。
何故ならそれを見てしまったら彼女は、越権行為を避けられないからだ。
「……魔理沙。先に謝っておくわね、ごめんなさい……」
台所で動きを止めたかと思えば、そんな事を言ってくる咲夜の後ろ姿を不思議そうに見る子猫。
彼女はまるで、ずっと堪えていたものが我慢できなくなったように震えている。
きっと魔理沙も勘付いた筈だ。その尋常ではない様子、これは悪いことが起きる前兆以外の何ものでもない、と。
「本当はいけないことだって解ってるの。でも、我慢できないっ……!」
絞り出すような声と共に振り返った彼女の瞳には、一種の狂気が宿っていた。
「勝手にお掃除してしまうけど、いいわよねッ!?」
もしも魔理沙が子猫の姿になどなっていなければ、間髪入れずにダメだと制止に入っただろう。
だが悲しいかな。今の子猫の身である彼女に、禁断症状の人間を止める術はない。
今一度流し台に向き合う咲夜。そこに鎮座するのは山と積まれた大量の食器たち。いつから溜め込んでいたのか、皿に溜まった水からは僅かにすえた臭いが漂っている。
こんな物はあってはいけない。存在が許されない。何より、これを許容する自分など許されるはずがない。
スポンジと石鹸を持った彼女は無敵だ。瞬く間に皿という皿が洗われていき、新品も同然の輝きを取り戻していく。
魔理沙の目からは咲夜が早回しでもしたような動きを見せたかと思えば、キッチンが息を吹き返したように見えたことだろう。
瞬きほどの時間で目の前の障害は排除した。しかし、この家の淀みはキッチンだけに留まらない。
魔理沙の部屋はもちろんのこと、そこに辿り着くまでに見てきたガラクタの山、山、山。
あれを幾らか処分するか整頓しなくては、いずれ家のあちこちにガタがきて家主の魔理沙が被害に遭うだろうことは想像に難くない。
そんな危険の芽を摘んでおくことは、彼女の数少ない友人である自分の勤めだと正当化を図る咲夜。
……まぁ、要は家が散らかっているのが許せないという単純極まりない理由である。
とはいえ、何でもかんでも片付けるのは宜しくない。
人の中には、一見散らかっている方が生活しやすいと言う者もいる。魔理沙は正しくそういったタイプの人間だ。
だから手当たり次第に片付けてしまっては怒られてしまう。最悪、絶交もありうる。
それはいけない。彼女と絶交なんてことになったら、咲夜は八つ当たりで主の紅茶に毒を入れてしまうかもしれない。
そう、大事なのは見栄えを良くすることだ。
最低限、咲夜が気にならない程度に。かつ魔理沙に怒られない程度で、最低限の生活が送れるような環境に。
出来る出来ないの問題ではない。やらなくてはいけないのだ。
たとえ一日だけのご主人様相手でも、最高の仕事を果たすのが咲夜の流儀である。
着慣れたメイド服も、愛用のモップもない。
場所はいつもの悪魔の館ではなく、間取りも把握しきれていない魔法使いの家。
立ち向かう先には、威容を持って客人を迎えるガラクタたち。
傍観者は家主の子猫が一人。当然、役には立たない。
相手にとって不足はない。久しくなかった高揚に心地よさすら覚える。
「さぁ、大掃除の時間よ!」
声も高らかに、私服姿の非番メイドが孤立無援の聖戦に挑む。
無論、足元の抗議の声など彼女の耳には届きはしないのだった。
# # #
「ねぇ、そろそろ機嫌直してってば……」
狭い部屋の中に猫撫で声が響いている。
音源はベッドの上に座る子猫……ではなく、その背を撫でる咲夜から。
割と必死にご機嫌取りに勤しんでいるのだが、小さなご主人様はそっぽを向いて尻尾をパタパタと揺らすばかりだ。
どうやら相当な不興を買ってしまったらしい。
激しい戦いは終結した。咲夜の実力を以てしても数時間を必要とし、陽はとっくに沈んで夜になっている。
相手は難敵であった。数もさることながら、その物量を活かした上からの不意打ちで何度も彼女の肝を冷やしたものだ。
死角からの雪崩に気づけず、何度か時を止めて全力で回避に回った、と言えばその危険具合も窺えるだろう。
時には原型が何であったかも定かではないナニカを発掘してしまったりして気が遠のきかけたりもした。
持って、運んで、避けて、掃いて、拭いて、時を止めて――咲夜の戦いはその繰り返しだった。
しかし、軍配は咲夜の方に上がった。
危険を冒した甲斐もあって家の大部分は片付いた。匠の技によって変貌を遂げた室内に、散らかり放題だった面影はない。
必要な物は残して、不要な物は捨てる。普段から使う物は取りやすい場所に、自分では用途の判らない物に関しては最低限の整理を心掛けた。
咲夜の働きぶりに点数を付けるなら間違いなく百点満点の仕事をしたと言える。
だが、そんな咲夜の気遣いも魔理沙からすれば余計なお世話だったのかもしれない。現にヘソを曲げてからは、みぃともにゃあとも鳴きはしない。
作業中はあまりに熱中していたので、彼女の抗議も耳には入らなかった。気づいた時には今のベットの上で不貞腐れていた。
これは予想以上だと、思わず溜め息を吐きそうになる咲夜だった。
「魔理沙、こっち向いてくれたっていいじゃない!」
膠着した状況に痺れを切らしたのは咲夜の方だった。いくら声を掛けてもなしのつぶての反応しか返さない魔理沙に、彼女は強行策に出た。
背を向ける小さな背中、その後ろから腋に手を差し込む。抱き上げ、無理やりにでも顔を合わせようと動いた。
しかし、野生の勘にでも目覚めたのか、魔理沙は持ち上げられるほんの一瞬前に爪を立てた。引っ掛かった先は綺麗に整えられたベットだ。
「往生際が悪いわね! 爪を引っ込めなさい……!」
咲夜が持ち上げようとするが、爪のせいで中途半端な高さにしかならない。しかも子猫の身体だから下手に力を入れればどうなるか判らない。
自らのハンデを逆手に取る小賢しい真似は咲夜のよく知る少女の十八番で、目の前の子猫の口元は心なしか笑みを浮かべているように見えた。
とはいえ、子猫程度の抵抗に何時までも手を焼く咲夜ではない。小さな手から伸びた爪先は、あっという間にベットから離してしまう。
魔理沙が慌てて手を伸ばすが、咲夜の両腕はそれよりも早く上がっていた。
「つーかーまーえーた! 大人しく、私の話を、聞いて……こら、暴れないの!」
持ち上げたはいいものの、魔理沙はより抵抗を激しくする。いくら子猫とはいえ、本気で手の内で暴れられると抑えるのも困難だ。
咲夜も必死で、魔理沙もまた必死だった。だから、ちょっとした事故が起きるのも仕方がない。
「いたっ……!」
手の甲に痛みが走ったと思ったら、そこには小さな切り傷が生まれていた。
遅れて浮かび上がる自分の赤い血液を茫然と見る咲夜。
そんな彼女以上に驚いているのが、傷をつくった張本猫である魔理沙だった。
小さな手の先から飛び出した自分の爪を目を真ん丸にして凝視していた。
「って、急に大人しくならないでよ。この程度の傷なら気にもならないから」
自分がしでかした訳でもないのに、何となく気まずくて柄にもなくフォローなんてしてしまう。
実際、痛みは一瞬だったし、手に傷なんて家事をやっていれば日常的に出来てしまうものだ。咲夜の言葉に嘘はない。
それでも、急に借りてきた猫のようになってしまった魔理沙に驚きを禁じ得ない。
「あー、もう!」
子猫の姿になった友人の慰め方なんて知らない。なので、咲夜は一先ずは場の仕切り直しに打って出た。
「その、私も手荒な真似をして悪かったわ。それに、貴方が嫌がると解ってて掃除したことも。ごめんなさいね」
魔理沙をベットの上に降ろし、咲夜本人もベットの上に正座の姿勢を取る。
それが咲夜なりの誠意だった。姿勢だけでは足りないと思ったから、謝罪も口にした。
無理に残っても遺恨を残すである、目の前の子猫がこれ以上も本気で嫌がるようなら大人しく帰るつもりだった。
「でもね。私も貴方が心配だったの。それだけは信じて」
だけどもし許してもらえるのなら、今日一日だけは自分を置いてくれて欲しかった。
こればっかりはメイドだからとか、ご主人様だからとか関係なく、いち友人としての願いだ。
そんな咲夜の真摯な態度が通じたかは、生憎と相手が言葉を話せないので判らない。
「あ……」
それでも、こうやって近付いてきてくれたということは、彼女の想いが多少なりとも伝わったということだろう。
手の甲に新たな感触を得る。ついさっきみたいな鋭い痛みではなく、ざらざらとくすぐったい。加えて僅かな湿り気も。
自分の手を見ると、魔理沙が傷の上を舐めていた。おずおずと、それでいて労わるように。
咲夜には何だかそれだけで手の傷が癒えてしまったような錯覚を覚えた。
「ありがとう。でも、私の手なんて舐めても美味しくないわよ」
一心不乱に傷を舐めていた子猫を抱き上げる。今度はさっきと違って抵抗もない。
目線を合わせようとすると露骨に逸らされる。やっぱりこの子は猫っぽい、と心の内でほくそ笑んだ。
そのまま胸元まで持ってきて、正座の姿勢から後ろにベットへ倒れ込む。こんなお行儀の悪い真似、館の中では出来ないが、今この場限りでは許される気がした。
胸の上で目を白黒させている魔理沙の姿に、自然と笑みが零れる。
「親しい者の前だと、人ってこんなに無防備になれるのね。今の私は、とても気楽だわ」
夢見心地のような声でそんな事を呟く。
決して紅魔館での日々が息苦しい訳ではない。館には館なりの気安さがある。咲夜も苦に思ったことはない。
だから今のそれは、魔理沙の人徳によるものだ。彼女の気が咲夜をそうさせる。こんなにも気を抜けたことが今まで何度あったことだろうか。
そして、それは何も咲夜だけではない。
「え、ちょ、ちょっと魔理沙!? 何やって……!」
咲夜が自分の胸に違和感を覚えると、違和感の正体はすぐに判明した。抱かれた子猫姿の魔理沙が、その小さな前足で咲夜の胸を揉んでいた。
まさかと思って魔理沙を見やるが、その金の瞳に邪な色はない。むしろ今にもその双眸は閉じられようとしていた。
ぎゅうぎゅうと服の上から何度も何度も押してくる。邪気のない行動に、咲夜もどうしていいか判らないまま揉まれ続けた。
そして体内時計でぴったり一分経った時、子猫は静かに眠りに落ちていった。
「えーっ……」
訳も判らないままに胸を揉まれた咲夜からすれば拍子抜けというか、納得がいかないというか、とにかく微妙な気分である。
彼女がもう少し猫に詳しければ、魔理沙の行動が相手を信頼しきった猫特有のものだと理解できただろうが、残念ながら彼女は飼う側ではなく飼われる側の身だ。
そっと添えていた両手を放す。身動きのとれるようになった魔理沙は寝返りを打ち、よりリラックスした姿勢をとった。
人の胸の上で寝るなんてふてぶてしいとも思うが、そういった所は実に魔理沙らしい。
逆に、もしかしたら不安だったのかもしれない。猫になって、もし戻れなくなったら……そんな思いで寝つけなかったから、こんなにも寝つきが良いのか。
聞いてみたい気もするが、猫の言葉は解らない。元に戻ったときに聞いたとしても、まともに答えてくれるような素直な性格はしていない。結局、考えても詮無い事だった。
胸の上で寝られている以上、下手に動くことは出来ない。だから咲夜は、魔理沙のゆっくりと上下するお腹を眺めていた。
ふかふかの黒毛の中にちらちらと混じる白毛がタンポポの綿毛のように見える。
落ちていた毛で鼻先をくすぐってやると、むず痒さからくしゃみをひとつして、また眠ってしまった。よっぽど眠たいらしい。
この姿勢だと何も出来ることがない。そうなると咲夜もなんだか眠たいような気がしてきた。
よく考えなくても今日はたくさん動いて身体はそれなりに疲れている。その上、身体はベットの上に寝転がっているのだから、睡魔が来てもおかしくはない。
「ふぁっ……」
誰も見ていないから大きく欠伸なんてしてしまう。相当緩んでるなという自覚はあっても、欠伸というやつはそうそう止まらない。
身体から力を抜いてベットに身を任せる。館のベットよりは固いが、眠気で誤魔化せる程度だ。
咲夜はいつも胸の上で手を組んで寝るのだが、この日はふてぶてしい先客がいる。だからと言って自分の習慣を曲げるのも気に食わない。
そんな訳で、両手は魔理沙の身体に触れるように置いた。ふかふかとした毛の感触と伝わる温かさは、不思議と咲夜の中の睡魔を強烈に駆り立てた。
ゆっくりと、微睡みの中に落ちていく。その感覚は、真っ暗な海底に沈んでいくのに似ている。
いつもと違うのはそこに同行者がいること。小さな影を追って、より深みを目指していく。
底はもうすぐ。そこを目指してどんどんと加速。さらに重みまで増して――。
「お、っも……」
息苦しさに意識は一気に表へと引き上げられた。
身体が、というよりは胸の上が圧迫されて苦しい。おかしい、そこには子猫しか乗っていないというのに。
薄目を開けて見ると、やはり黒白猫がいるだけ。ただ、どうにもその様子がおかしい。
「……魔理沙? 大丈夫?」
丸くなって寝ていた筈の子猫は震えていた。
咲夜の私服に爪を立て、みぃみぃとか細い鳴き声を繰り返している。
瞳は大きく見開かれ、薄闇の中で満月が二つ輝いているようだ。一目でただ事ではないと察した。
慌てて身を起こそうとする――が、叶わない。
何故と思えば、理由は簡単。胸の上に感じる重みがどんどん増していっているからだ。
まさかという咲夜の推測は、奇しくも彼女の目の前で証明された。
子猫の身体が人間の形へと変わっていく。
言葉にすれば何とも奇妙なものだが、咲夜の目の前で起きている現象は正にそれだった。
手足が関節を持ったそれへと変形していく。
頭は少女の平均かそれより小さい卵型に。
長くしなやかだった尻尾は何処かへ引っ込む。
黒と白の体毛は影も形もなく、見慣れた御髪に生え変わった。
変わらないのは、自分を見つめ返すクリソベルの輝きだけ。
咲夜の胸の上にはもはや子猫の姿はない。そこにいるのは一人の少女だ。
薄暗い中でも上気していると判る表情を見やる。
それを支える細い首筋を舐めるように下へ。
未だ成長の乏しい丘を愛しく思いながら。
妬ましさすら覚える腰回りから、最近は丸みを帯びてきた臀部に視線を移そうとしたところで――。
「――――み、みるなアアアアアアアアアアアアっ!!!!」
正に絹を裂くような乙女の悲鳴に、咲夜は正気を取り戻したのだった。
# # #
さて、それからどうなったかというと、なかなかに難儀なことになっていた。
「変態変態、咲夜のド変態ムッツリスケベメイドー」
「ちがっ! 違うのよ、あれはそう! ちょっとびっくりしちゃってただけで……」
「……本当か? 目がいやらしかった気がするぞ?」
「うっ……」
人の身体に戻った魔理沙の追及に、咲夜は答えに窮した。魔理沙の身体――正確には裸だが――をがっつり見てしまったのは確かなのだから。
しかし、咲夜としても言い訳の一言や二言くらい言わせて欲しかった。
そもそもだ。子猫がいきなり金髪少女の姿になったら誰だって見てしまうだろう。世の草食男子が咄嗟に目を逸らそうと、咲夜はガン見するのだ。
つまり、そんな自分の前で無防備に裸を晒す魔理沙が悪い。自分は偶然その現場に居合わせてしまった痴漢呼ばわりされる冤罪者も同然なのだ。
そう自分の中で結論付けた咲夜は、ほんの一瞬で落ち着きを取り戻し、湖底のような澄んだ瞳で魔理沙を見つめ返して言う。
「えぇ、本当よ」
「あぁ、お前がそうやって自信満々に答える時は、思考が四次元くらいにすっ飛んでるって私は知ってるんだぜ」
ジットリとした魔理沙の視線を咲夜は不思議に思う。
確かに不躾に見てしまったのは悪かったが、可愛いものを愛でるのは何もおかしくはないと思うのだ。
それを魔理沙に伝えると、うるさいうるさい馬鹿咲夜めこのスケコマシ野郎、と罵られた。
自分は野郎じゃなくて女なんだけどなぁ、とやはりズレた事を思う彼女であった。
「それにしても、今回はまたどんな方法で子猫になんてなってたの? 前は何だったけ、カタタタキみたいな鳥になってなかった?」
「話題を逸らしやがって。それキタタキな。カタタタキって何だよ、私は親不孝娘の代表格だぞ」
「はいはい、それで?」
「自分で間違えやがった癖にこいつ……まぁ、あれだよ。変身薬を酒と間違えて飲んじまった」
「あぁ、割と普通の理由ね」
「そうかぁ?」
「えぇ。パチュリー様なんてしょっちゅう爬虫類の姿に変身してらっしゃるわ」
「あいつ本人が爬虫類みたいだけどな、何かと執念深いし。まぁ、問題はそれを霊夢にも分けてしまったことなんだよなぁ……」
「じゃあ、もしかしたら霊夢も猫に?」
「あの霊夢だぞ? 人から貰った物を後生大事に取っておくような性格してないだろ」
それは確かに、と頷く咲夜。相手は我慢なんて言葉とは一番遠いところにある放蕩巫女様である。
きっと貰ったその日に晩酌と洒落こんだに違いないだろう。
「なぁ、やっぱりマズイと思うか? 後で怒られるかな」
「さぁね。ただ、あの子の事だからちゃんとした手土産を持って行けば猫になったことくらい流してくれるでしょうよ」
「あー、お前の言葉は説得力があるなぁ。そうしようそうしよう」
ホッとしたような表情で頷く魔理沙。よほど巫女の報復が恐かったと見える。それかその後ろにいる過保護な妖怪賢者か。
いずれにしろ、彼女が元に戻れることを実証しているのだから杞憂だろう。
「で? そういうお前は私に何の用だったんだ?」
「ん、私?」
「そうだよ。勝手に人の家に入ってきやがって。また泥棒しに来たのかと思ったぜ」
「泥棒に泥棒扱いされる日が来るとは思わなかったわ。私は今日はお休みの日だったの」
「ほうほう」
「それで折角だからお友達の家に行こうと思って」
「ふむふむ」
「魔理沙にご主人様になってもらおうって来たの」
「うん……うん? いや、待て待て。意味が解らん。何だご主人様って」
魔理沙が頭に指を当てて悩んでいる。
この天然メイドはまた変な事でも考えたんだろうどうしてそうなった、みたいな顔をしている。咲夜は失礼な奴だと思った。
「言葉通りよ。お嬢様の代わりになってくれるご主人様を探してたのよ。あ、でも今日限定なんだから勘違いしちゃダメよ?」
「するか! 大体、何で私が、その、あー……ご主人様なんだよ!」
「貴方が一番だらしなさそうだから」
「そんな事だろうと思ったよチクショウっ!」
叫んだかと思えば、そのまま顔を伏せてしまった。また拗ねてしまったらしい。魔法使いは気難しい奴ばかりだ。
しかし、今のこの姿勢で顔を伏せられると、咲夜としては色々と困るのである。ちょっと顔を顰めながら声を掛ける。
「ん。ねぇ魔理沙、ちょっと顔の向きを変えてくれない?」
「へん、やだね。この体勢に不都合でもあるのかよ」
「あるに決まってるでしょ……あっ」
魔理沙がうつ伏せのまま、ぐりぐりと頭を左右に揺らすものだから変な声が出てしまう。
咲夜は羞恥で頬を染め、魔理沙はしてやったりと笑みを浮かべる。
今の二人の体勢は俗に言う、膝枕の状態だった。
「魔理沙、本当にやめて……。息が当たるの、すごく変な感じなのよ……」
「あー? 普段のメイド服姿でしてやらないだけ有り難く思うんだな」
魔理沙がうつ伏せの状態で呼吸をすると、その息が咲夜のジーンズに当たる。
服越しに感じる生暖かさが、何とも言えないむず痒さを彼女に与えていた。
「大体だな、メイドがご主人様のすることに口出しするもんじゃないぜ」
「いきなりご主人様振るなんて貴方らしいわ。それに私はお嬢様が間違ってたら口出しもするのだけど……」
「知らん! 他のご主人様がどうたらは関係ない! よそはよそ! うちはうち! 私はメイドからの口出しは許さない! 以上だ!」
「……はぁ、人選を間違えたかしらね」
清々しい暴君っぷりに咲夜は今さらながら後悔する。
とはいえ、彼女であっても時を戻すだけの力はない。取り返しのつかないことは、やってしまったことと切り替えるが吉だ。
「まぁ、恨むんなら自分を恨むんだな!」
「えぇもう。少し前の自分を張り倒したいくらいよ」
「はっはっは。自分の浅慮を嘆くがいい……ふあっ」
そんな憎まれ口を叩きながらも、うつ伏せはやめてくれる。膝枕の体勢だけは変わらないが。
「眠いの?」
「うむ。昨日は寝つけなかったから……」
やはり眠れていなかったらしい。欠伸と一緒に目蓋をごしごしと擦っている。
今にも寝落ちしそうな魔理沙の身体は軽い。咲夜の腕でも抱え上げて、そのままベットに寝かしつけるくらいは出来るだろう。
ゆっくりと魔理沙の頭から膝を抜こうとして……服を掴まれて止められた。
「ちょっと」
「んー? なに逃げようとしてるんだよぉ」
「逃げるとかじゃなくて、あんたもベットでちゃんと寝た方がいいでしょう?」
「やだ! 私はこの枕で寝るんだ!」
まるっきり子どものような駄々。普段の魔理沙なら言わないのだろうが、どうも箍(たが)が外れているらしい。
それに、咲夜からすれば実に見慣れたもので微笑ましいくらいだ。
「ふーん。それは、ご主人様としての命令かしら?」
「ん? ……あぁ、そうだな。これはご主人様の命令だ。今日一晩は私の枕になるがいいぞ、咲夜」
「はぁ、仕様がないか。仰せのままに、お嬢様」
ご主人様の命令とあれば、咲夜に拒否権はない。何故なら彼女はメイド、主に仕えることが生き甲斐の人間であるから。
薄っすらと明かりが部屋に差し込む。月光はこの上なく優しく、一日限りの主従を照らしている。
咲夜が月明かりに見惚れていると、下から小さく声が聞こえた。
「その、ありがとう。今日は、助かった……」
「え?」
「もう言わない。おやすみ、咲夜」
「……えぇ。おやすみなさい、魔理沙」
言うだけ言って顔を伏せる魔理沙。そうしてすぐに寝息が聞こえ始めた。
その無防備な寝顔を拝めるのは、この一日を働き抜いた者の特権だろう。
労働の報酬としてはまずまずといった感じである。
それにしても、普段の勝気で生意気な雰囲気が鳴りを潜めれば本当にただの少女だ。今ここで咲夜がナイフを抜けば、それまでの命でしかない。
悪魔の狗を前に無防備が過ぎると思う。だから魔法使いとしては三流もいいところなのだ、と図書館の主は苛立たしげに呟いていたのを彼女は思い出す。
危機感、焦燥感、そういったものは自分の身を守る上では確かに必要である。
しかし、魔理沙にはもっと必要なものがあるのではないかとも咲夜は思う。
それは頼れる仲間であったり、頼るべき庇護者であったり。このいつ命を落とすかもしれない少女には、命綱は幾つあっても足りやしない。
もっとも、霧雨魔理沙という人間は必要ないと言い切るのだろうが、それでも良いとも思う。
彼女を心配する人間は存外に多い。きっと本人が望む、望まないに関わらず、救いの手は差し伸べられるだろう。
今日こうして偶然にもやって来た咲夜のようにである。
寝ている姿は安心しきった子猫そのものだ。
子は親に知らず助けられて生きていくもの。そして自分が大きくなって初めて守るものの大切さに気づいていく。
それが遠くか、目先の未来か。今はただ、甘い睡魔に身を委ねていれば、それでいい。
月明かりを返すその柔らかな頬へと、咲夜はゆっくりと顔を寄せた。
紅魔館のメイド長――十六夜咲夜にだって休日は存在する。週に一日、それが彼女が館の主と契約した時の労働条件であった。
これを多いと取るか、少ないと取るかは人による。もっと休みがあればと嘆く者もいるだろうし、これだけで充分と言う者もいるだろう。
そして十六夜咲夜はというと、そのどちらでもなく、これでも多過ぎるくらいだと言い放つような人間だった。
勤務にあたる日に仕事をするのは当たり前。与えられた休日であろうと、気になる仕事があれば休みを返上して働いた。そして、翌日も元気に仕事に精を出す。
つまり、彼女は典型的なワーカーホリックであった。
これには週一回も休みがあれば十分だろうと思っていた雇用主の悪魔も頭を悩ませている。
休みである以上は本人がその日をどう過ごすかは自由なことだ。それでいて自分の館が最良の状態で管理されるのであれば、文句も出ようはずがない。
それでも目に余る時は主として強権を発動して無理やりにでも休ませるのだが、自室の椅子に座って彫像の様に固まっている従者のそれは、果たして正しい休日の過ごし方と言っていいのか判断がつかなかった。
最近では、咲夜が楽しいと思っているのならそれが休日なのだろう、と現実逃避に走る雇用主なのであった。
閑話休題。
そんな咲夜も今日は休日を取らざるを得なかった。何故なら、すべきことも、気になることも全て前日に終わらせてしまっていたからだ。
大量の食器洗いから大浴場の掃除、食材の調達、ワインの補充、時計台の点検などなど何もかもである。
「…………」
何もすることがない。すると途端に時間を持て余す。
時間なんて大層なものを操る癖に、時間の潰し方はてんで不得意な咲夜だった。
「人里に行くっていうのもありだけど、私、人混みって苦手なのよね」
慣れない事態に遇うと、慣れない独り言まで出てしまう。
人里は確かに暇を潰すならば格好の場所ではあるが、人の生活圏も担っている為に人口密度は幻想郷一である。
そんな所に出向いては気疲れしてしまう。咲夜にとっては労働よりもよっぽど堪えることだ。
しかし、そうなると行く先はかなり限られてしまう。
学の無い彼女には本を読んで時間を潰す選択は最初から除外されていて、悪魔の従者なんてやっている手前、人付き合いにも疎い。
友人と呼べる存在なんてそれこそ……。
「……あ、そっか。こういう時は誰かの所に遊びに行けばいいのね」
と、数少ない友人たちの顔を思い浮かべた途端、天啓のように解決案が舞い降りてきた。
そうなのだ。人は一人でいるから時間を持て余すのであって、誰かの相手をしていればそれもあっという間に過ぎていく。
いつもの仕事だってそうだ。雇用主の相手をしている間は光のように時間が駆けていくが、一人の仕事の時のそれは進みが遅い。
そうとなると、代わりのお嬢様がいる。そのお嬢様のお世話をしていれば退屈な休みの日も紛れるだろう、と咲夜は考えた。
そして、それはとても素晴らしい休日の使い方だ、とも彼女は本気で思っている。
勿論、自分の考えが世間一般で言うところの「遊びに行く」という行為からかけ離れているとは露とも思っていない。この辺り、彼女の遊び慣れて無さが窺えると言えよう。
「さて、誰の家に行こうかしら……」
目蓋を閉じて思案。そこで、真っ先に浮かんできた相手の下へと行こうと決めた。
暫しの沈黙の後、よし、と小さく頭を振って行き先は決定した。
そうして足は自室のクローゼットに向かう。整然と並ぶメイド服の中から、肩身の狭そうに収まっている私服たちを引っ張り出す咲夜。
彼女とて、友達の家に遊びに行くときは私服で、という常識くらいは持ち合わせているのだ。
# # #
湿った空気を肩で切る。切ったそばからまた湿気が押し寄せてくるから辟易する。
ここ魔法の森は常に薄暗く、陰鬱とした雰囲気が滞留している。並みの者であれば数分もあれば気分を悪くし、数十分で昏睡してそのまま森の養分と成り果てる。
並みの者ではない咲夜はそんなヘマはやらかさないが、好んで訪れたい場所ではない。
しかし、そんな場所に居を構える者たちもいる。こんな陰気な所に住まうくらいなので、総じて偏屈の変人揃いである。
「まぁ、だからこそ尽くし甲斐もあるんだけど……」
人によって短所に見える部分も、咲夜にとっては魅力に見えたりする。
特に今回お邪魔する家の住人は、生活力というものに乏しい可哀想な子どもである。存分にメイド力も振るえるというものだ。
そんな風に口元を緩めているうちに、件の子どもの家が見えてきた。子どもの癖に一丁前の一軒屋である。
大きなキノコやらカボチャやらを横目に、木製の扉に設えられた真鍮のドアノッカーを数度叩く。
「魔理沙ー、いるー?」
扉の向こうにも聞こえるように張った声で呼び掛ける。普段ならはしたないと控える行為も、相手が相手なので気にならない。
少しの間待つが返事はない。留守か、と考えると同時、ドアノブに手を掛ける。ドアノブはゆっくりと回り、咲夜の来訪を勝手に歓迎した。
物盗りの真似事はする癖に防犯意識が薄いことに溜め息を吐く。このまま突っ立ている訳にもいかないので、家主の了承無しでお邪魔することにした。
「うわっ……」
侵入を果たした咲夜がまず最初に目にしたのは、天井近くまでうず高く積み上げられたガラクタの山であった。
ガスコンロ、ホワイトボード、招き猫、ブラウン管テレビ、黒板消しクリーナー、鍵盤ハーモニカ、バトルドーム、etc……それら用途など見当もつかない物たちが、部屋の隅から彼女を睥睨してくる。
その存在感はまるで門番。勝手に入ったことを咎められているようで何となく肩身が狭くなる。うちのと代わってくれないかな、と心中でぼやく。
進んでみると、意外にも床が物に溢れているということはなかった。
もっとゴチャゴチャしていて、足の踏み場もないかと思っていたので拍子抜けだった。少しだけ彼女への評価を改める。
もっとも、天井まで物を積み上げるのはどうかと思う。今にも雪崩を起こしそうな塔は一つや二つではなく、床板も心なしか悲鳴を上げているような気がする。
何処か一ヶ所が崩れれば、連鎖を起こす仕組みだろうか。その先にあるのは圧倒的物量による圧死である。天然の罠に咲夜は顔を青くした。
「魔理沙ー? 留守なのー?」
下手に刺激を与えないように抜き足差し足……空き巣染みた真似に泣きたくなりながら、扉が半開きになっていた一室に身を滑り込ませた。
他と比べて一層雑然としていることから、ここが彼女の私室だと当たりをつける。前に一度忍び込んだ時と間取りが同じなのでビンゴだろう。その上で呼び掛けてみるのだが、返事はない。
これは本当に留守を引いたか、と落胆する咲夜。と、部屋の奥のベットの手前の床に見慣れた黒白の服が脱ぎ捨てられているのを見つけた。
そういう物を見ると我慢できないのがメイドの、というか咲夜の性分である。仮にも魔法使いである少女の部屋を堂々と横切っていく。
「はぁ。脱ぎ散らかして、それに下着もそのままって……あの子は危機感ってものが無いのかしら」
まるで“着ていた中身が丸ごといなくなった”ような状態で落ちているそれを見ながら、咲夜は独りごちる。
魔法の森だからといって、一般人が絶対に寄らないということはないのだ。むしろ、変質者や犯罪者が身を潜めるには都合の良い場所でもある。
そんな所で鍵も掛けず、服は脱ぎ捨てたまま――襲ってくれと言っているようなものではないか。会ったら注意の一つくらいしてやろう、と咲夜は心に決める。
彼女の性格だ、口煩いと一蹴するだろうが、友人の貞操を心配するが故だ。それくらいは許して欲しい。
しかし、家主がいないのではここに長く留まる必要はない。
たまたま真っ先に思い浮かんだから。それ以外に理由はない。他のぐうたらの家に向かえばいいだけだ。例えばそう、紅白巫女の家とか。
だから落ちていた服をとりあえず畳んでベッドに置いたら、そのままお暇するつもりだった。
「……ん?」
咲夜の視界の端を黒い何かが過ぎった。それは彼女の目でも追えない素早さで机の下に潜り込んだように見えた。
角度からしてそこに何が潜り込んだかは窺えない。この散らかり具合である、ネズミの一匹くらいいたって驚きやしない。
先程の行動からも解るように、咲夜は見て見ぬ振りというやつが嫌いだ。
気になることがあるなら何かしらの行動を起こす。そうでもなければ紅魔館のメイド長など務まらない。
怯えさせないよう、ゆっくりとした歩調で机に忍び寄る咲夜。万が一に備え、片手にナイフを持つことも忘れない。
光の差し込まない薄暗い机の下には金色の丸が二つ。覗いた先にいたのは――。
「…………子猫?」
みぃ、とどこか情けない声が咲夜の耳をくすぐった。
# # #
その子猫を見た瞬間、これは魔理沙だ、と咲夜は直感した。何故といえば何故だろう。
確かに毛並みは真っ黒に所々の白のアクセントが可愛らしいモノトーン仕様だが、珍しい毛色でもなし、それだけでこれが魔理沙だと断定するのは時期尚早だろう。
そもそも人が猫になるってどういうことだ、と普通なら突っ込みが入るのかもしれない。
だがしかし、ここは幻想郷である。物理法則が無視されるなんて当たり前で、ぶっちゃけ友人が猫になるなんてことは日常茶飯事、午後の紅茶なのだ。
後はまぁ、メイド的勘という言葉で片は着く。汝、メイドを信じよ、である。
「ねぇ、あんた魔理沙でしょう?」
咲夜のからかい混じりの声に、目の前の子猫はふいと目を逸らした。
猫は無駄な争いを避ける為に目を合わせたがらない生き物だが、それにしても目の前の子猫のそれは人間臭い。
例えるなら、自分の失敗を隠そうとする子どものような、そんな仕草。
「別に笑ったりしないわよ。ほら、合ってるなら右手、違うなら左手を出して」
差し出された左手をジッと見詰める黒白子猫。やがて観念したのか、その小さな前足を乗せた。
乗せられたのは右。手の平に柔らかな肉球の感触を感じながら、咲夜は自分の勘が当たったことに笑みを浮かべた。
「やっぱり。今度は何をやらかしたの? また実験でも失敗した?」
腋に手を差し入れて持ち上げたかと思えば、魔理沙はあっという間に咲夜の腕の中にいた。
一瞬の早業に目をパチクリさせている腕の中の子猫に、自然と咲夜の声音も柔らかくなる。
自分が抱えられていることに遅れて気づいた魔理沙がもがく。だがしかし、何故だか逃げ出そうにも逃げ出せない。
どうして、という感じに見上げたそこには、「こんな可愛い生き物、逃がす訳ないじゃない」と菩薩顔な彼女がいた。
子猫は勘弁してくれとばかりに項垂れる。
「ま、事情なんてどうでもいいわ。今の貴方、とっても可愛いんだもの。いつそうなったかは知らないけど、どうせご飯食べてないんでしょう?」
対照的に、咲夜の声は弾んでいる。
普段の小生意気な魔理沙も可愛らしいものだが、それが小動物に形(なり)を変えたのだから尚更可愛いに決まっている。
メイドの保護欲が掻き立てられるのも当然、自明の理である。
魔理沙は逃げることは諦めたのか、腕の中で大人しく抱かれている。代わりに、先が真っ白で手袋を履いたみたいな右前足で彼女の手を叩く。
肯定ということは、やはりご飯は食べていなかったらしい。メイドの勘が冴え渡る一日である。
みー、というそれはご飯を催促する声か。姿形は変わっても、図々しいところは変わらないらしい。
「はいはい、作ってあげるからキッチンは借りるわね。あー、今は猫だから玉ねぎは使えないか、うーん……」
魔理沙を床に降ろすとキッチンへと迷いなく足を進める咲夜。
家に入った時にキッチンの場所も把握しておいたのである。出来るメイドは違うのだ。
その後ろを子猫の姿をした魔理沙も付いて行く。難儀そうに歩いているが、それは物があちこり放置されているからで結局は自業自得だったりする。
河童技術の結晶である冷温庫(冷蔵庫。電力を必要としないものだけを指す)を開けてみると、部屋ほどごちゃごちゃはしていない。
その代わりに食材が少なく、よく判らないキノコやら粉末やらドロドロとした何やらが大部分を占めているが想定内である。
これまた河童技術で作られたカッパー(プラスチック容器。きゅうり以外の物も保存できるものを指す)の内の一つを取り出す。
蓋を外すと、保存されていた一食分ほどの白米があった。伊達に一人で暮らしている訳ではないらしい。米を炊く手間が省けた。
他に何かないかと覗いてみれば、瓶にたっぷりと入った牛乳、幻想郷では中々に貴重品のバター、それと余り物と思われる鶏のささ身があった。
それだけあれば十分、と食材を取り出してから冷温庫の扉を閉めた。
「今の貴方でも食べれそうなもの作ってあげるから、少し待ってなさい」
少し後ろで期待の眼差しを向けてくる子猫に、咲夜はパチリとウインクを飛ばした。
「さて、肝心の道具は……あぁ、よかった。鍋も無いんじゃないかと思ってたけど、そこら辺は流石に魔法使いか」
様々な大きさの鍋から、比較的綺麗かつちょうど良い大きさの物を取り出す。
魔理沙の家に置いてあるのは神社などでよく見る竈(かまど)ではなく、紅魔館でも使われている焜炉(こんろ)らしい。慣れた物で幸いである。
咲夜はまず鍋に水を入れることから始めた。水は温泉脈から引いてきたものらしく、ミネラルが豊富……というラベルが貼られてあるが、効能まではよく知らない。
水の入った鍋を焜炉の上に置くと、次は着火の準備だ。焜炉の下を覗いてみると、まだそれなりの木炭(ちなみに紅魔館では石炭を使っている)が残っていた。
脇に積み上げられた文々。新聞のバックナンバーを適当に放り込み、これまた一緒に置いてあった燐寸を擦っては投げ込む。
火の点いた新聞は瞬く間に燃え上がる。しかし、これだけだと肝心の炭に燃え移らないこともあるので、その為の熾きを寄せることを忘れてはいけない。
風口から風を送り、炭に火が点いたのでこれから本格的に調理開始だ。といっても、そんなに手間の掛かる料理でもないのだが……。
水がお湯に変わるまでに少し時間が掛かる。その間に、咲夜は残り物の鳥のささ身をまな板の上に置いた。
鶏のささ身には筋がある。あっても食べれないことはないのだが、無い方が口当たりもいいので捌く前に取り除くのが吉だ。
握られた包丁によってささ身の筋がスルスルと取り除かれていく。また、身の方は魔理沙の身体が身体なので細かく切っていく。
残っていたささ身肉が細切れになっている頃には、鍋に張っていた水がちょうどよく沸騰を始めていた。
ぐつぐつと音を立てるくらいになったら、そこに保存されていたご飯とバターを少量加える。バターが溶け出す頃合いで切っておいたささ身も投入して、鍋には一度蓋をする。
バターの溶けた香りに惹かれたのか、足元には子猫の姿の魔理沙がいて、咲夜の脚に先っぽの白い尻尾を擦り付けていた。
身体が猫になると仕草まで猫っぽくなるのかしら、などと思いながら、足に這うこそばゆい感触は努めて無視した。
しばらくすると米が煮立ってくる。蓋を開けると冷えて固まっていた米たちが水を吸って膨らみ、ささ身も赤から白へと色を変えていた。
よし、と咲夜は頷くと、瓶に入った牛乳を手に取る。栓となっているコルクを抜くと、その中身をトクトクと注いでいく。そうしてまた加熱する。
よく猫に牛乳を与えるのは良くないと言われる。というのも、牛乳に含まれる乳糖を分解する力が不足しているからだ。これは何も猫に限らず、人にも多く見られる。
牛乳を飲んでお腹を壊しやすいのはこれが原因だ。子猫はその力が弱い為に特にお腹を壊しやすく、脱水症状などの重症を引き起こしかねない。
なので、入れる牛乳の量は控えめだ。姿形が子猫なだけで元は元気闊達の見本のような魔理沙なのだが、まぁ用心するに越したことはないだろう。
牛乳が万遍なく絡むようにゆっくりと中身を掻き混ぜる。ついでに火も少し弱めておく。最後に塩で味を調えればそれで出来上がりだ。
……それにしてもだ、足元の魔理沙が鬱陶しい。尻尾を擦り付けるだけならまだしも、人が動く度に足元をちょこまか動くものだから困る。
実を言うと、この短い調理の間にも二回ほど蹴っ飛ばしてしまっていた。その度に「みぎゃっ!」と声を上げて、恨めしそうに咲夜を見上げてくる。
人が料理してるときに足元に寄ってくる方が悪いと思うのだけど、つい謝ってしまう彼女だった。
最後に塩をちょうどいい塩梅に加えて――と言っても魔理沙の姿に合わせてだいぶ減らして薄味ではあるが――咲夜特製ミルク粥の完成である。
濡れた布巾を用意し、焜炉の上から鍋を移動させる。さすがに熱々の出来立てを食べさせるのは酷だろうと思ってのことだ。
食器棚から少し底の深い皿を取り出すと、まだ熱を持っている鍋の中身をそこに注いでいく。
少しでも早く冷めるように咲夜が手をパタパタ振ったり息をフーフー吹き掛けていると、下から嫌そうな視線を感じた。
「嫌なら、食べないでいいけど?」
作った以上は食べて欲しいとは思うけど、嫌なら仕方ない。
そんな気持ちから出た言葉に、足元の子猫は慌てたようにしがみ付いてきた。空腹を訴える瞳は本物だ。
それならと床に皿を置くと魔理沙は勢いよく粥に口を付けた。そして聞こえてくる咀嚼音……ではなく、何度か聞いてしまっていた悲鳴。
「あ、ごめんなさい。まだ熱かったわよね」
粥はまだ熱を持っていたらしい。慌てて別のお椀に水を入れてやると、ぴちゃぴちゃと水音を立てながら勢いよく飲み出した。
猫舌とは言うが、熱い食べ物が平気なのは人間くらいだと何処かで聞いた覚えがあった。なので再度フーフーと息を吹きかけて冷ましてやる。
ひとつまみ分を口に含んで、もう大丈夫だろうと判断したところでもう一度床に置いてみた。
痛い目を見た魔理沙は不審げだったが、咲夜が頷くと恐る恐る口にした。そこからはあっという間だ。
「……よっぽどお腹が空いてたのね、貴方」
子猫は食欲に突き動かされるままに食事を始めた。
味わって食べるというよりは、とにかく胃に流し込むことが最優先といった感じである。
呆れた咲夜の声に、そうだぜ、とでも答えるように顔を上げては食事を再開した。
残されるよりはいいが、やっぱり味わっても欲しいと思う彼女だった。
「そんなに焦らなくてもご飯は逃げないわよ。ほら、鼻まで真っ白」
小休止の為にか顔を上げた魔理沙の鼻先はミルクのせいで白に変わっていた。それも器用に舌で舐め上げたかと思うと、一瞬にして毛並みと同じ黒に戻った。
本当に猫みたいだと思っていると、また食事に没頭している。その姿を見ながら、咲夜は今さらな事を考えた。
要はいつから子猫の姿になったのか、という話である。食べっぷりから一日くらいは飲まず食わずだったことは何となく窺える。
そう考えると、今日この家を訪ねたのはタイミングとして良かったのかもしれない。まぁ、放っておいても餓死なんてヘマはしなかっただろうけども。
子猫になった経緯に興味はないし、きっと問題なく元に戻るのだろう。ご都合主義とはそういうものだ。
「全部食べたのね。はい、お粗末様でした」
気づくと皿の中は綺麗になっていた。そこそこの量があったのに、子猫の身体でよく入ったものだと思う。
何となしにその小さい頭を撫でてやると、嫌そうに身を捩って逃げた。
ご飯を作ってあげたんだからそれくらい許してくれてもいいのにと思う咲夜だった。
何にせよ、食べ終わったなら後片付けをするまでだ。米粒一つ残らないほど綺麗に舐め取られた皿を流しに持っていく。
この家には里でもそうそうない蛇口が設置されている。ここまでくると魔理沙の人脈が少々怖くなってくる。
そして咲夜は気づいた。気づいてしまった。いや、無意識に目を逸らしていたのかもしれない。
何故ならそれを見てしまったら彼女は、越権行為を避けられないからだ。
「……魔理沙。先に謝っておくわね、ごめんなさい……」
台所で動きを止めたかと思えば、そんな事を言ってくる咲夜の後ろ姿を不思議そうに見る子猫。
彼女はまるで、ずっと堪えていたものが我慢できなくなったように震えている。
きっと魔理沙も勘付いた筈だ。その尋常ではない様子、これは悪いことが起きる前兆以外の何ものでもない、と。
「本当はいけないことだって解ってるの。でも、我慢できないっ……!」
絞り出すような声と共に振り返った彼女の瞳には、一種の狂気が宿っていた。
「勝手にお掃除してしまうけど、いいわよねッ!?」
もしも魔理沙が子猫の姿になどなっていなければ、間髪入れずにダメだと制止に入っただろう。
だが悲しいかな。今の子猫の身である彼女に、禁断症状の人間を止める術はない。
今一度流し台に向き合う咲夜。そこに鎮座するのは山と積まれた大量の食器たち。いつから溜め込んでいたのか、皿に溜まった水からは僅かにすえた臭いが漂っている。
こんな物はあってはいけない。存在が許されない。何より、これを許容する自分など許されるはずがない。
スポンジと石鹸を持った彼女は無敵だ。瞬く間に皿という皿が洗われていき、新品も同然の輝きを取り戻していく。
魔理沙の目からは咲夜が早回しでもしたような動きを見せたかと思えば、キッチンが息を吹き返したように見えたことだろう。
瞬きほどの時間で目の前の障害は排除した。しかし、この家の淀みはキッチンだけに留まらない。
魔理沙の部屋はもちろんのこと、そこに辿り着くまでに見てきたガラクタの山、山、山。
あれを幾らか処分するか整頓しなくては、いずれ家のあちこちにガタがきて家主の魔理沙が被害に遭うだろうことは想像に難くない。
そんな危険の芽を摘んでおくことは、彼女の数少ない友人である自分の勤めだと正当化を図る咲夜。
……まぁ、要は家が散らかっているのが許せないという単純極まりない理由である。
とはいえ、何でもかんでも片付けるのは宜しくない。
人の中には、一見散らかっている方が生活しやすいと言う者もいる。魔理沙は正しくそういったタイプの人間だ。
だから手当たり次第に片付けてしまっては怒られてしまう。最悪、絶交もありうる。
それはいけない。彼女と絶交なんてことになったら、咲夜は八つ当たりで主の紅茶に毒を入れてしまうかもしれない。
そう、大事なのは見栄えを良くすることだ。
最低限、咲夜が気にならない程度に。かつ魔理沙に怒られない程度で、最低限の生活が送れるような環境に。
出来る出来ないの問題ではない。やらなくてはいけないのだ。
たとえ一日だけのご主人様相手でも、最高の仕事を果たすのが咲夜の流儀である。
着慣れたメイド服も、愛用のモップもない。
場所はいつもの悪魔の館ではなく、間取りも把握しきれていない魔法使いの家。
立ち向かう先には、威容を持って客人を迎えるガラクタたち。
傍観者は家主の子猫が一人。当然、役には立たない。
相手にとって不足はない。久しくなかった高揚に心地よさすら覚える。
「さぁ、大掃除の時間よ!」
声も高らかに、私服姿の非番メイドが孤立無援の聖戦に挑む。
無論、足元の抗議の声など彼女の耳には届きはしないのだった。
# # #
「ねぇ、そろそろ機嫌直してってば……」
狭い部屋の中に猫撫で声が響いている。
音源はベッドの上に座る子猫……ではなく、その背を撫でる咲夜から。
割と必死にご機嫌取りに勤しんでいるのだが、小さなご主人様はそっぽを向いて尻尾をパタパタと揺らすばかりだ。
どうやら相当な不興を買ってしまったらしい。
激しい戦いは終結した。咲夜の実力を以てしても数時間を必要とし、陽はとっくに沈んで夜になっている。
相手は難敵であった。数もさることながら、その物量を活かした上からの不意打ちで何度も彼女の肝を冷やしたものだ。
死角からの雪崩に気づけず、何度か時を止めて全力で回避に回った、と言えばその危険具合も窺えるだろう。
時には原型が何であったかも定かではないナニカを発掘してしまったりして気が遠のきかけたりもした。
持って、運んで、避けて、掃いて、拭いて、時を止めて――咲夜の戦いはその繰り返しだった。
しかし、軍配は咲夜の方に上がった。
危険を冒した甲斐もあって家の大部分は片付いた。匠の技によって変貌を遂げた室内に、散らかり放題だった面影はない。
必要な物は残して、不要な物は捨てる。普段から使う物は取りやすい場所に、自分では用途の判らない物に関しては最低限の整理を心掛けた。
咲夜の働きぶりに点数を付けるなら間違いなく百点満点の仕事をしたと言える。
だが、そんな咲夜の気遣いも魔理沙からすれば余計なお世話だったのかもしれない。現にヘソを曲げてからは、みぃともにゃあとも鳴きはしない。
作業中はあまりに熱中していたので、彼女の抗議も耳には入らなかった。気づいた時には今のベットの上で不貞腐れていた。
これは予想以上だと、思わず溜め息を吐きそうになる咲夜だった。
「魔理沙、こっち向いてくれたっていいじゃない!」
膠着した状況に痺れを切らしたのは咲夜の方だった。いくら声を掛けてもなしのつぶての反応しか返さない魔理沙に、彼女は強行策に出た。
背を向ける小さな背中、その後ろから腋に手を差し込む。抱き上げ、無理やりにでも顔を合わせようと動いた。
しかし、野生の勘にでも目覚めたのか、魔理沙は持ち上げられるほんの一瞬前に爪を立てた。引っ掛かった先は綺麗に整えられたベットだ。
「往生際が悪いわね! 爪を引っ込めなさい……!」
咲夜が持ち上げようとするが、爪のせいで中途半端な高さにしかならない。しかも子猫の身体だから下手に力を入れればどうなるか判らない。
自らのハンデを逆手に取る小賢しい真似は咲夜のよく知る少女の十八番で、目の前の子猫の口元は心なしか笑みを浮かべているように見えた。
とはいえ、子猫程度の抵抗に何時までも手を焼く咲夜ではない。小さな手から伸びた爪先は、あっという間にベットから離してしまう。
魔理沙が慌てて手を伸ばすが、咲夜の両腕はそれよりも早く上がっていた。
「つーかーまーえーた! 大人しく、私の話を、聞いて……こら、暴れないの!」
持ち上げたはいいものの、魔理沙はより抵抗を激しくする。いくら子猫とはいえ、本気で手の内で暴れられると抑えるのも困難だ。
咲夜も必死で、魔理沙もまた必死だった。だから、ちょっとした事故が起きるのも仕方がない。
「いたっ……!」
手の甲に痛みが走ったと思ったら、そこには小さな切り傷が生まれていた。
遅れて浮かび上がる自分の赤い血液を茫然と見る咲夜。
そんな彼女以上に驚いているのが、傷をつくった張本猫である魔理沙だった。
小さな手の先から飛び出した自分の爪を目を真ん丸にして凝視していた。
「って、急に大人しくならないでよ。この程度の傷なら気にもならないから」
自分がしでかした訳でもないのに、何となく気まずくて柄にもなくフォローなんてしてしまう。
実際、痛みは一瞬だったし、手に傷なんて家事をやっていれば日常的に出来てしまうものだ。咲夜の言葉に嘘はない。
それでも、急に借りてきた猫のようになってしまった魔理沙に驚きを禁じ得ない。
「あー、もう!」
子猫の姿になった友人の慰め方なんて知らない。なので、咲夜は一先ずは場の仕切り直しに打って出た。
「その、私も手荒な真似をして悪かったわ。それに、貴方が嫌がると解ってて掃除したことも。ごめんなさいね」
魔理沙をベットの上に降ろし、咲夜本人もベットの上に正座の姿勢を取る。
それが咲夜なりの誠意だった。姿勢だけでは足りないと思ったから、謝罪も口にした。
無理に残っても遺恨を残すである、目の前の子猫がこれ以上も本気で嫌がるようなら大人しく帰るつもりだった。
「でもね。私も貴方が心配だったの。それだけは信じて」
だけどもし許してもらえるのなら、今日一日だけは自分を置いてくれて欲しかった。
こればっかりはメイドだからとか、ご主人様だからとか関係なく、いち友人としての願いだ。
そんな咲夜の真摯な態度が通じたかは、生憎と相手が言葉を話せないので判らない。
「あ……」
それでも、こうやって近付いてきてくれたということは、彼女の想いが多少なりとも伝わったということだろう。
手の甲に新たな感触を得る。ついさっきみたいな鋭い痛みではなく、ざらざらとくすぐったい。加えて僅かな湿り気も。
自分の手を見ると、魔理沙が傷の上を舐めていた。おずおずと、それでいて労わるように。
咲夜には何だかそれだけで手の傷が癒えてしまったような錯覚を覚えた。
「ありがとう。でも、私の手なんて舐めても美味しくないわよ」
一心不乱に傷を舐めていた子猫を抱き上げる。今度はさっきと違って抵抗もない。
目線を合わせようとすると露骨に逸らされる。やっぱりこの子は猫っぽい、と心の内でほくそ笑んだ。
そのまま胸元まで持ってきて、正座の姿勢から後ろにベットへ倒れ込む。こんなお行儀の悪い真似、館の中では出来ないが、今この場限りでは許される気がした。
胸の上で目を白黒させている魔理沙の姿に、自然と笑みが零れる。
「親しい者の前だと、人ってこんなに無防備になれるのね。今の私は、とても気楽だわ」
夢見心地のような声でそんな事を呟く。
決して紅魔館での日々が息苦しい訳ではない。館には館なりの気安さがある。咲夜も苦に思ったことはない。
だから今のそれは、魔理沙の人徳によるものだ。彼女の気が咲夜をそうさせる。こんなにも気を抜けたことが今まで何度あったことだろうか。
そして、それは何も咲夜だけではない。
「え、ちょ、ちょっと魔理沙!? 何やって……!」
咲夜が自分の胸に違和感を覚えると、違和感の正体はすぐに判明した。抱かれた子猫姿の魔理沙が、その小さな前足で咲夜の胸を揉んでいた。
まさかと思って魔理沙を見やるが、その金の瞳に邪な色はない。むしろ今にもその双眸は閉じられようとしていた。
ぎゅうぎゅうと服の上から何度も何度も押してくる。邪気のない行動に、咲夜もどうしていいか判らないまま揉まれ続けた。
そして体内時計でぴったり一分経った時、子猫は静かに眠りに落ちていった。
「えーっ……」
訳も判らないままに胸を揉まれた咲夜からすれば拍子抜けというか、納得がいかないというか、とにかく微妙な気分である。
彼女がもう少し猫に詳しければ、魔理沙の行動が相手を信頼しきった猫特有のものだと理解できただろうが、残念ながら彼女は飼う側ではなく飼われる側の身だ。
そっと添えていた両手を放す。身動きのとれるようになった魔理沙は寝返りを打ち、よりリラックスした姿勢をとった。
人の胸の上で寝るなんてふてぶてしいとも思うが、そういった所は実に魔理沙らしい。
逆に、もしかしたら不安だったのかもしれない。猫になって、もし戻れなくなったら……そんな思いで寝つけなかったから、こんなにも寝つきが良いのか。
聞いてみたい気もするが、猫の言葉は解らない。元に戻ったときに聞いたとしても、まともに答えてくれるような素直な性格はしていない。結局、考えても詮無い事だった。
胸の上で寝られている以上、下手に動くことは出来ない。だから咲夜は、魔理沙のゆっくりと上下するお腹を眺めていた。
ふかふかの黒毛の中にちらちらと混じる白毛がタンポポの綿毛のように見える。
落ちていた毛で鼻先をくすぐってやると、むず痒さからくしゃみをひとつして、また眠ってしまった。よっぽど眠たいらしい。
この姿勢だと何も出来ることがない。そうなると咲夜もなんだか眠たいような気がしてきた。
よく考えなくても今日はたくさん動いて身体はそれなりに疲れている。その上、身体はベットの上に寝転がっているのだから、睡魔が来てもおかしくはない。
「ふぁっ……」
誰も見ていないから大きく欠伸なんてしてしまう。相当緩んでるなという自覚はあっても、欠伸というやつはそうそう止まらない。
身体から力を抜いてベットに身を任せる。館のベットよりは固いが、眠気で誤魔化せる程度だ。
咲夜はいつも胸の上で手を組んで寝るのだが、この日はふてぶてしい先客がいる。だからと言って自分の習慣を曲げるのも気に食わない。
そんな訳で、両手は魔理沙の身体に触れるように置いた。ふかふかとした毛の感触と伝わる温かさは、不思議と咲夜の中の睡魔を強烈に駆り立てた。
ゆっくりと、微睡みの中に落ちていく。その感覚は、真っ暗な海底に沈んでいくのに似ている。
いつもと違うのはそこに同行者がいること。小さな影を追って、より深みを目指していく。
底はもうすぐ。そこを目指してどんどんと加速。さらに重みまで増して――。
「お、っも……」
息苦しさに意識は一気に表へと引き上げられた。
身体が、というよりは胸の上が圧迫されて苦しい。おかしい、そこには子猫しか乗っていないというのに。
薄目を開けて見ると、やはり黒白猫がいるだけ。ただ、どうにもその様子がおかしい。
「……魔理沙? 大丈夫?」
丸くなって寝ていた筈の子猫は震えていた。
咲夜の私服に爪を立て、みぃみぃとか細い鳴き声を繰り返している。
瞳は大きく見開かれ、薄闇の中で満月が二つ輝いているようだ。一目でただ事ではないと察した。
慌てて身を起こそうとする――が、叶わない。
何故と思えば、理由は簡単。胸の上に感じる重みがどんどん増していっているからだ。
まさかという咲夜の推測は、奇しくも彼女の目の前で証明された。
子猫の身体が人間の形へと変わっていく。
言葉にすれば何とも奇妙なものだが、咲夜の目の前で起きている現象は正にそれだった。
手足が関節を持ったそれへと変形していく。
頭は少女の平均かそれより小さい卵型に。
長くしなやかだった尻尾は何処かへ引っ込む。
黒と白の体毛は影も形もなく、見慣れた御髪に生え変わった。
変わらないのは、自分を見つめ返すクリソベルの輝きだけ。
咲夜の胸の上にはもはや子猫の姿はない。そこにいるのは一人の少女だ。
薄暗い中でも上気していると判る表情を見やる。
それを支える細い首筋を舐めるように下へ。
未だ成長の乏しい丘を愛しく思いながら。
妬ましさすら覚える腰回りから、最近は丸みを帯びてきた臀部に視線を移そうとしたところで――。
「――――み、みるなアアアアアアアアアアアアっ!!!!」
正に絹を裂くような乙女の悲鳴に、咲夜は正気を取り戻したのだった。
# # #
さて、それからどうなったかというと、なかなかに難儀なことになっていた。
「変態変態、咲夜のド変態ムッツリスケベメイドー」
「ちがっ! 違うのよ、あれはそう! ちょっとびっくりしちゃってただけで……」
「……本当か? 目がいやらしかった気がするぞ?」
「うっ……」
人の身体に戻った魔理沙の追及に、咲夜は答えに窮した。魔理沙の身体――正確には裸だが――をがっつり見てしまったのは確かなのだから。
しかし、咲夜としても言い訳の一言や二言くらい言わせて欲しかった。
そもそもだ。子猫がいきなり金髪少女の姿になったら誰だって見てしまうだろう。世の草食男子が咄嗟に目を逸らそうと、咲夜はガン見するのだ。
つまり、そんな自分の前で無防備に裸を晒す魔理沙が悪い。自分は偶然その現場に居合わせてしまった痴漢呼ばわりされる冤罪者も同然なのだ。
そう自分の中で結論付けた咲夜は、ほんの一瞬で落ち着きを取り戻し、湖底のような澄んだ瞳で魔理沙を見つめ返して言う。
「えぇ、本当よ」
「あぁ、お前がそうやって自信満々に答える時は、思考が四次元くらいにすっ飛んでるって私は知ってるんだぜ」
ジットリとした魔理沙の視線を咲夜は不思議に思う。
確かに不躾に見てしまったのは悪かったが、可愛いものを愛でるのは何もおかしくはないと思うのだ。
それを魔理沙に伝えると、うるさいうるさい馬鹿咲夜めこのスケコマシ野郎、と罵られた。
自分は野郎じゃなくて女なんだけどなぁ、とやはりズレた事を思う彼女であった。
「それにしても、今回はまたどんな方法で子猫になんてなってたの? 前は何だったけ、カタタタキみたいな鳥になってなかった?」
「話題を逸らしやがって。それキタタキな。カタタタキって何だよ、私は親不孝娘の代表格だぞ」
「はいはい、それで?」
「自分で間違えやがった癖にこいつ……まぁ、あれだよ。変身薬を酒と間違えて飲んじまった」
「あぁ、割と普通の理由ね」
「そうかぁ?」
「えぇ。パチュリー様なんてしょっちゅう爬虫類の姿に変身してらっしゃるわ」
「あいつ本人が爬虫類みたいだけどな、何かと執念深いし。まぁ、問題はそれを霊夢にも分けてしまったことなんだよなぁ……」
「じゃあ、もしかしたら霊夢も猫に?」
「あの霊夢だぞ? 人から貰った物を後生大事に取っておくような性格してないだろ」
それは確かに、と頷く咲夜。相手は我慢なんて言葉とは一番遠いところにある放蕩巫女様である。
きっと貰ったその日に晩酌と洒落こんだに違いないだろう。
「なぁ、やっぱりマズイと思うか? 後で怒られるかな」
「さぁね。ただ、あの子の事だからちゃんとした手土産を持って行けば猫になったことくらい流してくれるでしょうよ」
「あー、お前の言葉は説得力があるなぁ。そうしようそうしよう」
ホッとしたような表情で頷く魔理沙。よほど巫女の報復が恐かったと見える。それかその後ろにいる過保護な妖怪賢者か。
いずれにしろ、彼女が元に戻れることを実証しているのだから杞憂だろう。
「で? そういうお前は私に何の用だったんだ?」
「ん、私?」
「そうだよ。勝手に人の家に入ってきやがって。また泥棒しに来たのかと思ったぜ」
「泥棒に泥棒扱いされる日が来るとは思わなかったわ。私は今日はお休みの日だったの」
「ほうほう」
「それで折角だからお友達の家に行こうと思って」
「ふむふむ」
「魔理沙にご主人様になってもらおうって来たの」
「うん……うん? いや、待て待て。意味が解らん。何だご主人様って」
魔理沙が頭に指を当てて悩んでいる。
この天然メイドはまた変な事でも考えたんだろうどうしてそうなった、みたいな顔をしている。咲夜は失礼な奴だと思った。
「言葉通りよ。お嬢様の代わりになってくれるご主人様を探してたのよ。あ、でも今日限定なんだから勘違いしちゃダメよ?」
「するか! 大体、何で私が、その、あー……ご主人様なんだよ!」
「貴方が一番だらしなさそうだから」
「そんな事だろうと思ったよチクショウっ!」
叫んだかと思えば、そのまま顔を伏せてしまった。また拗ねてしまったらしい。魔法使いは気難しい奴ばかりだ。
しかし、今のこの姿勢で顔を伏せられると、咲夜としては色々と困るのである。ちょっと顔を顰めながら声を掛ける。
「ん。ねぇ魔理沙、ちょっと顔の向きを変えてくれない?」
「へん、やだね。この体勢に不都合でもあるのかよ」
「あるに決まってるでしょ……あっ」
魔理沙がうつ伏せのまま、ぐりぐりと頭を左右に揺らすものだから変な声が出てしまう。
咲夜は羞恥で頬を染め、魔理沙はしてやったりと笑みを浮かべる。
今の二人の体勢は俗に言う、膝枕の状態だった。
「魔理沙、本当にやめて……。息が当たるの、すごく変な感じなのよ……」
「あー? 普段のメイド服姿でしてやらないだけ有り難く思うんだな」
魔理沙がうつ伏せの状態で呼吸をすると、その息が咲夜のジーンズに当たる。
服越しに感じる生暖かさが、何とも言えないむず痒さを彼女に与えていた。
「大体だな、メイドがご主人様のすることに口出しするもんじゃないぜ」
「いきなりご主人様振るなんて貴方らしいわ。それに私はお嬢様が間違ってたら口出しもするのだけど……」
「知らん! 他のご主人様がどうたらは関係ない! よそはよそ! うちはうち! 私はメイドからの口出しは許さない! 以上だ!」
「……はぁ、人選を間違えたかしらね」
清々しい暴君っぷりに咲夜は今さらながら後悔する。
とはいえ、彼女であっても時を戻すだけの力はない。取り返しのつかないことは、やってしまったことと切り替えるが吉だ。
「まぁ、恨むんなら自分を恨むんだな!」
「えぇもう。少し前の自分を張り倒したいくらいよ」
「はっはっは。自分の浅慮を嘆くがいい……ふあっ」
そんな憎まれ口を叩きながらも、うつ伏せはやめてくれる。膝枕の体勢だけは変わらないが。
「眠いの?」
「うむ。昨日は寝つけなかったから……」
やはり眠れていなかったらしい。欠伸と一緒に目蓋をごしごしと擦っている。
今にも寝落ちしそうな魔理沙の身体は軽い。咲夜の腕でも抱え上げて、そのままベットに寝かしつけるくらいは出来るだろう。
ゆっくりと魔理沙の頭から膝を抜こうとして……服を掴まれて止められた。
「ちょっと」
「んー? なに逃げようとしてるんだよぉ」
「逃げるとかじゃなくて、あんたもベットでちゃんと寝た方がいいでしょう?」
「やだ! 私はこの枕で寝るんだ!」
まるっきり子どものような駄々。普段の魔理沙なら言わないのだろうが、どうも箍(たが)が外れているらしい。
それに、咲夜からすれば実に見慣れたもので微笑ましいくらいだ。
「ふーん。それは、ご主人様としての命令かしら?」
「ん? ……あぁ、そうだな。これはご主人様の命令だ。今日一晩は私の枕になるがいいぞ、咲夜」
「はぁ、仕様がないか。仰せのままに、お嬢様」
ご主人様の命令とあれば、咲夜に拒否権はない。何故なら彼女はメイド、主に仕えることが生き甲斐の人間であるから。
薄っすらと明かりが部屋に差し込む。月光はこの上なく優しく、一日限りの主従を照らしている。
咲夜が月明かりに見惚れていると、下から小さく声が聞こえた。
「その、ありがとう。今日は、助かった……」
「え?」
「もう言わない。おやすみ、咲夜」
「……えぇ。おやすみなさい、魔理沙」
言うだけ言って顔を伏せる魔理沙。そうしてすぐに寝息が聞こえ始めた。
その無防備な寝顔を拝めるのは、この一日を働き抜いた者の特権だろう。
労働の報酬としてはまずまずといった感じである。
それにしても、普段の勝気で生意気な雰囲気が鳴りを潜めれば本当にただの少女だ。今ここで咲夜がナイフを抜けば、それまでの命でしかない。
悪魔の狗を前に無防備が過ぎると思う。だから魔法使いとしては三流もいいところなのだ、と図書館の主は苛立たしげに呟いていたのを彼女は思い出す。
危機感、焦燥感、そういったものは自分の身を守る上では確かに必要である。
しかし、魔理沙にはもっと必要なものがあるのではないかとも咲夜は思う。
それは頼れる仲間であったり、頼るべき庇護者であったり。このいつ命を落とすかもしれない少女には、命綱は幾つあっても足りやしない。
もっとも、霧雨魔理沙という人間は必要ないと言い切るのだろうが、それでも良いとも思う。
彼女を心配する人間は存外に多い。きっと本人が望む、望まないに関わらず、救いの手は差し伸べられるだろう。
今日こうして偶然にもやって来た咲夜のようにである。
寝ている姿は安心しきった子猫そのものだ。
子は親に知らず助けられて生きていくもの。そして自分が大きくなって初めて守るものの大切さに気づいていく。
それが遠くか、目先の未来か。今はただ、甘い睡魔に身を委ねていれば、それでいい。
月明かりを返すその柔らかな頬へと、咲夜はゆっくりと顔を寄せた。
世話焼き咲夜さん愛おしいんじゃ〜
確かに霊夢や魔理沙は人里よりもハイテクで良い生活環境な気がします。肉とか自分達で獲って絞めているみたいですし人里で調達するの米や甘味くらいですかね。
…魔理沙の腰のくびれを私も両手で抱えてみたいな。妖々夢トリオは私も大好きです。
魔理沙ちゃんを甘やかしてる顔が目に浮かぶようです。
調理場など描写に気を配ってるところがあって、読みやすかったです。
咲夜さんの胸をふみふむしてるシーンでやられました、猫魔理沙ごちそうさまです。
料理シーンも丁寧でお腹にグッとくる描写で良かったです。
>1
ありがとうございます。
>2
一時的な幼児退行のようなものです。赤ちゃん返りする魔理沙ちゃん、いいですよね……。
>3
魔理沙ちゃんも咲夜さんもカワイ愛しいですね。
>4
癒されて頂けたなら何よりです。
>6
咲夜さんはきっと仕事も楽しんでやれる人。
>7
今回は調理場面やその環境の描写に力を入れていたので良かったと言ってもらえて嬉しいです!
>8
猫好きの方に喜んでもらえて何より。
>9
なお咲夜さんに排除される模様。
>13
咲マリ最高ー!
>15
魔理沙ちゃんを甘やかしている時の咲夜さんはそれはもうお優しい顔をされています。
>19
咲夜さんの定期出勤が望まれる!
>20
可愛いって言ってもらえるの本当に嬉しいです。
>21
本当もっと増えてくれませんかね、咲マリ。
>22
ニャーン!!(気分だけでも猫になりましょう)
>24
咲マリ尊い……。
>25
魔理沙猫は構われたがり。暖炉と焜炉の違いとか、猫の食べられない物とか調べてたら時間があっという間でしたw
>26
魔理沙猫はきっと毛並みふかふか。
>28
咲夜さんのおっぱいはそれはもう揉み心地が良かったと魔理沙ちゃんは語っています。
次回作とっても楽しみにしております。
しかし、友人の家に遊びに来た、からの咲夜の思考のずれっぷり……。んん、と驚きつつも楽しそうかつ活き活きしているのでそれもまた魅力的に見えますね。
楽しく読ませていただきました。