Coolier - 新生・東方創想話

教師に向かない奴、医者に向かない奴

2015/05/08 23:39:26
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「ふうむ」と自分の師匠が声を漏らす様子を、鈴仙はすぐ横で見守っていた。
 清潔に整えられた診察室は微かに薬品の匂いがする。
 永琳はデスクを指で軽く叩きながら、

「それで、症状はいつからですか?」

 その質問に上白沢慧音は困ったように眉を寄せた。

「三日前からです。朝起きて顔を洗おうと鏡を見た所で、この姿になっている事に気が付きました」

「なるほど」と永琳は呟いた。トントンとリズムを取っていた指がデスクから離れ、自分の口元へ向かった。対面する慧音をじっと見つめる。
 鈴仙の視線は真剣な表情を浮かべる永琳の横顔へ向けられ、それから患者用の丸椅子に座る慧音へと移った。
 膝の上で丁寧に重ねられた手は彼女の物腰の柔らかさを表していた。永琳の質問に答える口調は、鈴仙が知る慧音のそれと変わりがない。
 だが一点、いつもと明らかに違う所がある。
 見た目だ。
 鈴仙は普段の慧音の姿を鮮明に覚えている訳ではなかったが、それでも彼女の変化は一目で気付いた。薄い青色だったはずの髪は緑がかった色へと変色していたし、何より左右から突き出る角は誰が見たって一目瞭然だ。

「普段は月に一回、満月の夜だけしかこのハクタクの姿にはならないのですが……」
「最後に満月だった夜は今からちょうど二週間前ですね」

 永琳は壁に掛けられた兎さんカレンダーに目をやった。

「ええ、ですから私もこの姿になっていたのはとても驚きました。まさかそれから三日経っても治らないとは……。さすがに心配になりこうして診て貰おうと思った訳です」

「なるほど」と永琳が再び呟く。
 鈴仙は黙っていた。これまで色々な患者がここにやって来たが、永琳は見事な手腕でどの患者にも適切な処理を施し、驚くほど早く病気や怪我を治してしまう。人里にもその名は知れ渡っており、永琳を頼りにやって来る人間は多い。自分の師匠ながら鼻が高い鈴仙だった。
 だから今回だって永琳なら何とかしてくれるだろう。自分はもし指示があったらその通りに動けばいい。鈴仙はそう思っていた。
 永琳は腕を組んで瞳を閉じた。
 あの頭の中にはものすごい量の知識が眠っている。瞳を閉じるのはそれらの知識を探り出す行為であり、同時に患者に対してどう対処をするべきかについてプロセスを組み立てる行為でもある。
 再び目が開けられた時、幾筋にも枝分かれしていた選択肢の中から、たったひとつの冴えたやり方が示される。
 鈴仙はその瞬間が来るのを楽しみに待っていた。
 そして、数十秒の沈黙の後に永琳が目を開いた。
「来た!」と鈴仙は目を輝かせる。
 永琳は組んでいた腕をゆっくりとほどいて、それから慧音に向かって静かに言葉を発した。


「お手上げね。私には治せないわ」


 あんぐりと口を開けたのは慧音ではなく鈴仙だった。
 永琳がさじを投げた瞬間を初めて目の当たりにして、驚きを隠す事ができなかった。冗談ではなく卒倒しかけた。意識を保ち続けたのは奇跡だ。
 だがそれ以上に驚く言葉を永琳は続けて言う。

「でも安心してください。私には無理ですが、代わりの適任者がいます」
「そ、それはどなたですか?」

 慧音の質問に、永琳はそっと立ち上がった。
 そして、隣で大口開けてたたずむ鈴仙の肩にぽんと手を置いた。

「彼女があなたの問題を解決してくれますよ」

 自分の肩に置かれた手の感触と、そしてにっこりと微笑む師匠の顔に、鈴仙はこれ以上ないほど大きく開けられた口から素っ頓狂な叫び声を上げる。
 竹林中に響き渡った大絶叫を遠吠えと勘違いした狼妖怪が、「ウォーン」と叫びを返した。
 永遠亭に用意された診察室の中で、笑顔を見せる永琳と、突然の出来事に呆然とする慧音、そして誰よりも驚いた鈴仙の三人が作り出すバミューダトライアングルは異様な雰囲気に包まれていた。
 そんな雰囲気に耐えきれなくなり、鈴仙は今度こそ意識が吹っ飛んだ。


 ◇


「大変な事になってしまったようで、何だか申し訳ない」
「いえ、こちらこそ」

 お互いに頭を下げ合うのは慧音と鈴仙だ。
 二人がいるのは里にあるちょっと洒落たカフェだった。
 なぜそんな所にいるかというと、意識を取り戻した鈴仙に対して永琳が「慧音さんについての問題は全てあなたに託すわ。主治医として責任持って事に当たりなさい」と言い放った事による。
 今まで鈴仙は誰かの治療を全面的に許された事など一度もなかった。あくまで永琳の許可の元、その手伝いをしていただけである。
 それが今日になっていきなり、師匠が自分に向かって全てを丸投げして来るなんて想像もしていなかった。さすがに面食らった鈴仙は永琳にどうしたら良いかわからないと泣きついた。永琳は何とも軽い口調で「とりあえずランチでも一緒にしたら?」と答えたのだった。
 そんなわけで鈴仙はBLTサンドを注文し、慧音はラップサンドのアボガド&チキン(トルティーヤでアボガドやチキン、サラダを巻いた物で慧音はこれを好んで良く食べるらしい。鈴仙は食べたことがない)とコンソメスープを頼んだ。

「とにかく、慧音さんがなぜこの姿になったまま戻らなくなったのか、まずはその原因を突き止めるのが必要だと思うんです」

 とんでもない形で任される事になった仕事だが、任されたからには全力でやりたいと思う。手伝いという形ではあったものの今まで多くの患者を治療してきたのだ。苦しんでいた人が治っていく様子は見ていて気持ちがいいし、何より快復した後に言われる「ありがとう」の一言はすごく嬉しい。
 そして、何度もそんな経験をしていると欲が出るものなのだ。
 もし自分が担当する患者が、自分の選択した治療法によって全快したら、どういう気分なんだろう。その後に言われる感謝の一言を受け取ったらどう感じるだろう。
 頭の中で想像するしかなかったその一連の過程が、現実で起こり得る可能性として目の前にやって来たのだ。このチャンスを逃す手はない。

「原因か……。とは言っても、何も心当たりがないんだ」

 慧音は角の生えた頭を左右に振った。

「本当に何もないんですか? その前日に何か変わった事はありませんでした?」
「前日か……」

 三日前、朝起きたらこの姿になっていたという彼女の発言から、その前日に何かがあったと考えるのは何もおかしくはないだろう。
 慧音は考える素振りを見せたが、

「いや、やはり思い浮かばない。すまない」
「そうですか……」

 前日に何か起こったと考えるのは安直すぎるだろうか。
 鈴仙は考える。
 そもそも簡単な原因ならあの永琳が投げ出すはずもない。例えば、ワーハクタクの能力の暴走が原因だとしたらその能力を抑えこむ薬を処方すれば済む話だ。
 そうしない所を見ると、原因はもっと根深いのではないか。
 さらに考える。
 師匠は何の考えもなしに行動を起こすようなタイプではない。鈴仙に慧音の主治医になるように命じたのもきっと何かの意図があっての事だ。
「ランチでも一緒にしたら?」という発言にも、何かしらの意味があったら。それは何だ?
 答えは簡単だ。相手を観察しろ、だ。観察は診断の基礎中の基礎だ。
 今回の場合、よりじっくり相手を観察する必要があるのだ。その意味は――。

「慧音さん。最近、何か悩みなどはありますか?」
「悩み?」

 慧音が突然の質問に眉を寄せる。

「あ、別に無理に答えろとは言いません。ただ原因はもしかしたら心理的なものではないかと思うんです」

 おそらくそういう事だろうと鈴仙は思う。心理的な問題の場合、どうしても治療に時間がかかる。注射を打って、はい終わりとはならない。時間的に余裕のない永琳よりも、付きっきりで事に当たれる鈴仙の方が効果があるとふんだのかもしれない。

「そうだな。強いて言うなら子供達がなかなか授業を理解してくれないところか」
「なるほど」

 寺子屋で教師をやっている彼女だからこそ感じるストレスがあるのかもしれないな、と鈴仙は思う。とにかく、まずはできる限り情報を集めることが必要だ。

「他には?」

 慧音は腕組みをしてしばらく考えた後、

「……出てこない」

「そうですか」と鈴仙は言う。そう簡単にはいかない。
 しかし心理的な問題であるとすれば、別のアプローチ方法がある。

「私に考えがあります」


 ◇


 場所は永遠亭。ランチを済ませて帰ってきた二人は空き部屋のひとつにいた。
 最初こそ自分の師匠の無茶ぶりに途方に暮れたものだが、すでにそんな気持ちも遠い昔、むしろ永琳が「適任者」として自分を選んでくれた事に感激し、すっかりやる気になっていた。
「彼女ならあなたの問題を解決してくれますよ」という声が鈴仙の頭の中に何度も鳴り響く。
 そう、永琳は何も考え無しにこの問題をほっぽり出した訳ではない。鈴仙ならどうにかできると踏んで、任せたのである。あの月の頭脳として恐れられた彼女がまさか、これは埒が明かないしもう面倒臭いから適当に誰かに押しつけちゃえばいいや、なんて事はしない。
 しないはずだ。

 畳敷きの八畳間。中央にテーブル、隅にはタンスと姿見が置かれているだけの実に質素な部屋の中で、二人は向き合う。

「これから行うのは、慧音さんがハクタクの姿になってしまった原因を究明するためのものです」

 医療行為を行う場合、患者への説明は不可欠だ。
 真面目な口調で話す鈴仙に、慧音はしっかりと耳を傾けている。

「おそらく、……これは私の推測なのですが、原因は慧音さんの心にあるのではないかと思われます。心理的な問題を抱えた場合、その影響は実に様々な形で姿を現すもので、実際に身体に何かしらの症状として出てくる場合もあります。ですので、今回の問題もそう考えて何もおかしくはないと思います」

 鈴仙はそこで一呼吸置き、

「そして、その原因を探るために、これから私の『能力』を使います」
「能力?」
「そうです。自然界には生物に限らずあらゆる物に『波長』が存在しています。この『波長』は色々な効果を発揮する物で、それらの効果は――、説明しているとそれだけでかなりの時間がかかってしまうので、必要な事だけを言いますね」

 コホン、と咳払い。

「私の目はそれらの『波長』を操ることができます。そしてこれから慧音さんの『波長』を操り、心の奥底に抱えている問題を浮かび上がらせようと思います。泥に隠れた金塊をサルベージするみたいなものですね。……ですが、これは結構荒療治になると思います。心の問題をすくい取って表面化する作業ですので、精神的苦痛を伴うかもしれません。よろしいでしょうか?」

 ちらりと慧音の様子をうかがう。
 わずかに思案するような表情を浮かべた慧音はすぐに、

「やってみない事にはわからないな。試してみてくれ」
「わかりました」

 鈴仙はさっそく取りかかる。
 二人は立った姿勢で、お互いに向き合う。目を合わせる。
 鈴仙は意識を目に集中させる。波長のコントロールは繊細な作業だ。少しでも間違えば、思っていた効果とは別の効果を引き出してしまう。
 鋼鉄製の金庫についているダイアルを回すような感覚で、能力の出力値を慎重に選び出していく。X軸良し。Y軸良し。……Z軸良し。

「準備できました。では、いきます」

 鈴仙が言い、慧音が静かに頷く。
 そして、鈴仙が波長を操ろうとしたその時だ。慧音が思わぬ動きを見せた。
 慧音は頷いた拍子にある物が目に入ってしまった。テーブルの上に置いてあるお盆だ。それは鈴仙が持ってきた物で上には熱々のお茶が入った湯飲みがふたつ並んでいる。しかし、鈴仙の置き方が悪かった。テーブルから半分ほどお盆が突き出ていて非常に危なっかしい。いつひっくり返ってもおかしくない。一度目に入ると気になってしょうがなかった。
 そんなわけで、鈴仙が能力を発揮したその瞬間、慧音はお盆を動かすために身をかがめたのだった。
 目標を失った鈴仙が見たものは、その先にある姿見だった。つまり自分の姿であり、能力をかけようとした自分の目を思いっきり視界に収めてしまったのである。
 そうなるとどうなるか。

「すまない。お盆が気になってしまってな。……鈴仙?」

 元の姿勢に戻った慧音が、目の前にいる少女の異変に気付いた。

「……うう」

 苦しげなうめき声。
 唐突に、大きな赤い目から涙がこぼれ落ちる。

「やめて、ちが……。私は、だって違うんです。……うう、あれはてゐが……。だから私は仕方なく…………、やめてお願いします、誰か、……誰か~~~~~~!!!」

 悲痛な叫び声。
 それからしばらく鈴仙は意味不明な言葉を発しながら、苦しげに涙をこぼし続けていた。
 あまりに凄惨な様子に慧音は顔を背けたくなったが、鈴仙の様子が心配で、時には励まし、時には肩を抱き、泣きじゃくる鈴仙を支え続けた。
 どっちが医者なのかわからない状態だ。
 そんなわけで。

「その方法はやめてくれないか」

 鈴仙が正気を取り戻した後、慧音が言い放った。
 やんわりとした口調ではあったが、その目は笑っていなかった。場合によってはセカンドオピニオンも辞さないという覚悟が見て取れた。
 こうして鈴仙の初めての試みは失敗に終わった。

 実に情けない話であるがこれが最初にして最後のアイデアだった。鈴仙は再び途方に暮れる。仕方なくその日は慧音に帰って貰った。
 師匠を頼っても、「あなたが何とかしなさい」の一点張りだ。
 どうしたらいいんだろう、と鈴仙は頭を抱える。その日は夜遅くまでずっと考えていた。
 暗闇の支配する自室の中で、布団の上に横になった鈴仙はぼうっと天井を見つめていた。この問題を解決する光明が降ってこないかと期待しているかのようだった。
 残念ながら、その夜は良いアイデアは降ってこなかった。
 仕方なく、慧音についてもっと情報を集めようと思った。心理的な原因であるとすれば、それの元となっているものは普段の生活の中にあるはずだ。慧音と行動を共にすれば何か見えてくるものがあるかもしれない。
 そう思い、鈴仙はやっと眠りについた。


 ◇


「え~、まず今日は皆さんに二つほど言わなければならないことがあります」

 教壇に立った慧音はこほんと咳払いをした。

「まずひとつ。先生の見た目についてだが、あー、みんなも知っての通り、先生は半分は人間でもう半分は妖怪だ。原因はわからないが、月に一度しかならないはずのこの姿から戻らなくなってしまった。とはいっても、変わったのは見た目だけで他はいつも通りの先生だから安心するように」

 はーい、と子供達が返事をする。
 子供達が慧音の姿を見てどのような反応をするのか少し心配した鈴仙だったが特に問題はないようだ。最初こそ子供達は「おや」という表情をしたものの、慧音の説明を聞いてみんな納得した様子だった。
 この従順さはきっと、子供だからという理由だけではない。おそらく日頃の慧音の人徳があってこそだ。鈴仙は感心した。
 それより。

「そしてふたつめ。今日はみんなに新しい友達を紹介するぞ! ほら、挨拶」

 慧音が鈴仙に目配せをした。鈴仙は慌てて、

「あ、えっと、鈴仙……です。よろしくお願いします」

 ぺこりと一礼。顔を上げると数十の視線が突き刺さる。
 先ほどから「誰だこいつ」みたいな視線がちらちらと飛んできていた。それは良い。鈴仙だって当然予想はできた。メダカの水槽の中にいきなり金魚が入ってきたようなものだ。教室というある種の閉じられた空間の中では、見慣れた風景はなかなか変わらないもので、そこに少しでも変化が加わればそれに気を取られるのは当たり前の事だ。
 だから子供達の興味深げな視線が、鈴仙の頭から伸びる兎の耳へ行き、それから顔へと行き、再び耳へと移って行くのがはっきりとわかっても特に気にはならなかった。
 それよりも、だ。

「はい、挨拶も終わった所で、さっそくだが授業に入ろう。鈴仙、もう座っていいぞ」

 教室の一番後ろ、窓際の列に用意された自分の席に着いた鈴仙は考える。
 鈴仙は、朝一番に慧音の家を訪れて「授業を見学させて欲しい」と頼んだ。すると慧音は二つ返事で「いいぞ」と大きく頷いたのだった。
 良く考える。
 自分は確かにその時、「見学させて欲しい」と言ったはず。なのになぜ、自分は生徒の一人としてこれから授業を受ける事になっているのか、と。
 憂鬱な視線を窓の外へと投げた。鈴仙の胸中とは裏腹に清々しいほど晴れた空が伸び広がっている。
 鈴仙はふと自分はここに何しに来たのだろうと疑問に思った。もはや目的すら忘れてしまう所だったが、ぎりぎりの所で自分の使命を思い出す。
 慧音をいつも通りの人間の姿に戻す。ハクタクの姿になったまま戻らなくなった原因を探ろうと、こうして彼女の普段の生活を追っているのだ。
 少々予定は狂ったが彼女の生活の一部に足を踏み込んでいるのには違いない。鈴仙はこの状況を受け入れる事にした。理不尽な状況に陥る事には慣れていた。

「さて今日は歴史についての授業だ。みんな予習はしてきたかな」

 慧音が嬉しそうな声を出す。
 と、なぜか教室は不穏な空気になった。確かに空気が変わった。
 鈴仙はすぐにその意味を知ることになる。


「え~、幻想郷は知っての通り外の世界から隔離された世界だ。結界によって外と内を区別している訳だが、その結界が張られたのは百年以上前になる。結界が張られてから今日に至るまで一度としてこの結界の効力が消えた事はないが、何かの理由で弱まった事はある。それが特に顕著だったのが、え~、第五十七季であり、この年は妖怪、人間に限らず――」

 耳に入ってくる声を右から左に受け流しながら、鈴仙は欠伸をかみ殺した。
 まるで念仏だ。
 慧音は授業が始まってから、難しい内容について「これくらいわかって当たり前」という風にさらっと説明していくし、おまけに抑揚のない口調でずっと喋り続けるその様はマラソンランナーが自分のペースを守って走り続けている様子と重なって、これなら蓄音機から流れてくる声の方がよっぽど融通が利く。
 授業が始まってから十五分足らずで、すでに教室は葬式と化した。
 誰の葬式か。
 言うまでもない。みんなのだ。この教室で授業を受けているみんなのだ。
 鈴仙の隣に座る男の子なんかは開始五分で早くも死んだ目をしていたし、それは他の生徒も例外ではなかった。五分で三分の一が、十分で約半数が、十五分で教室のほとんどが死に絶え、わずかに残った意志がゾンビのように手だけを動かして、黒板(慧音がびっしりと文字を書き記した事でもはや白板と言った方が正確だったが)に書かれた文字を書き写している。
 唯一生き残っているのは最前列に並ぶ優等生グループだけだったが、ここが落ちるのも時間の問題に思えた。
 必死に手を動かしながら慧音の言葉に耳を傾けている彼らの姿は称賛に値する。しかし、その頭は揺れ動き、力を失って崩れ落ちた頭が「ガン」と机にぶつかった音が数十秒おきに響き渡る。自分が眠りそうになっていた事に気付き、すかさず頭を元の位置に戻して授業に復帰するが、またしばらくすると頭がフラフラしだす。後ろから見ている鈴仙にはししおどしが並んでいるようにしか見えなかった。

 このままではいけない。
 放っておいたら全員が死に絶えてしまう。
 その時の鈴仙は戦場を駆け抜ける衛生兵の気持ちだった。

「先生!」

 手を真っ直ぐ上に伸ばし、声を出した。
 しかし、慧音は相変わらず背中で念仏を唱えている。
 鈴仙は立ち上がって、もう一度声を上げる。

「先生! 慧音先生!」

 そこでようやく黒板に向いていた慧音の顔が、こっちを向いた。

「お、どうした鈴仙。トイレか? トイレは扉を出て、右手に真っ直ぐ行った先をさらに右だ。男子と女子の区別がわかりにくいから気をつけるんだぞ」

 そう言うなりせっかくこっちを向いた顔が、再び黒板に向かおうとする。
 鈴仙は慌てて、

「違います! 先生そっちを向かないで。あ、いや違います! こっち、こっちです。そうそう、こっちを向いて。できれば身体ごと」

 慧音は授業を中断されて不服そうな表情を浮かべた。

「なんだ?」
「え~と、先生は教室のこの状況を見て、何か思いませんか?」

 腕組み。教室の端から端へと移動する視線。ふむ、と一言。

「いつも通りだが?」

 いつも通りなのか。鈴仙は頭を抱えたくなった。
 子供達が授業をなかなか理解してくれない。慧音に悩みはないかと尋ねた時にそう返ってきたが、なるほど納得できた。
 子供達のペースを考えずに突っ走っているのだ。子供達がついて行けなくても仕方がない。

「あの~、なんと言うか……。もう少しペースダウンしてもいいんじゃないかな~、と。ほら、子供達もついていくのがやっとみたいだし」

 子供達の目にわずかながら光が戻った。希望の光だ。魔王との戦いに疲れ果て、敗北寸前でもはやこれまで、とあきらめかけたその時になって、いきなり伝説の勇者が自分たちの眼前に現れた。子供達には鈴仙が光の装備を纏った戦士に見えた。
 慧音はふむ、と一言呟き、

「このくらいならわかるだろう」

 再びこの世界は暗黒へと落ちた。
 鈴仙は「あ、そうですか……」と弱々しく言って、椅子に座ろうとする。が、子供達の視線がそれを許さない。前にいた坊主頭の男の子が「何だよおめー、偽もんかよ」と目で言葉を放ち、壁際にいた眼鏡の男子は「期待したぼくが間違いだった」みたいな表情を浮かべてうつむいていた。右斜め前に座る女の子が「私は信じてるわ。頑張って……!」と両手を合わせて必死な眼差しを向けてくる。
 鈴仙はやむを得ず、再び戦いを挑む。

「でもやっぱり子供達には難しい内容だと思います。内容のレベルを落とすか、もしくはじっくりひとつひとつを丁寧に教えるべきではないでしょうか」

 慧音はまた、ふむと言った。だが今までの「ふむ」ではない。何か考えるような表情を浮かべている。今度は確かに効果があった。

「だがな、私には私のやり方がある」

 ここで相手の反撃。しかしひるんではならない。向こうは確かに一瞬の隙を見せた。ここはさらに深く攻め込む必要がある。
 鈴仙は言葉を探す。が、肝心な時に浮かんでこない。焦った。そのせいで余計に自分が何を言うべきかわからなくなる。
 鈴仙が迷っている隙に、慧音が続けて言葉を発してしまう。

「確かに少しばかり難しい内容かもしれない。もう少しゆっくり進めてもいいのかもしれない。でも、そうすると今度は私がやりにくいんだ。いつものやり方じゃないと落ち着かない。不器用だとは思ってる。先生としての立場でそれはどうなのだろうとも思うが、こういう性分なんだ。すまないがこのやり方でやらせてくれ」

 不思議な空気に包まれた。
 戦いに敗れ、悔しさの尾を引きながらも、それでいてどこか清々しい。自分たちは全力で戦った。全ての力を出し尽くした。その結果がこれだ。
 教室中の顔が互いに視線を交わす。

 ――俺たち良くやったよな?
 ――うん、そうだ。良くやった。良く戦った。
 ――そうよ。負けちゃったけど仕方がないわ。

 生徒達はうんうんと頷き、それぞれの健闘を称え合った。

 ――敗北を受け入れよう。

 そんな空気の中で、たった一人だけがまだあきらめていなかった。
 天をつくように伸ばされた腕、指先までピンと張り詰めたその姿勢は美しく、宗教画の中に描かれた人物のような神々しさがあった。
 そう、それはまるで、剣を高く掲げて民衆を導く、ジャンヌ・ダルクのような――

「提案があります!」

 鈴仙が鬨の声を放った。

「今日の授業は、私に任せて貰えませんか?」


 ◇


 結果として、鈴仙の授業は大成功を収めた。
 わかりにくいと思われる所は鈴仙が教科書と睨めっこして、可能な限りかみ砕いて説明した。生徒の方にも「わからなければすぐに手を挙げて質問するように」と言ってあったので、次から次へと質問が飛んできたが、鈴仙はそのひとつひとつに生徒がわかるまで丁寧に説明を繰り返した。その分、時間がかかり当初目標としていた部分には到達できなかったものの、生徒達は授業の内容を良く理解し大変満足して帰って行った。

「いや~~、勢いで『授業を任せてください』なんて言ってしまいましたが、やればできるものですね!」

 生徒達が帰った後、鈴仙は慧音と二人で教室の後片付けをしていた。

「もしかしたら私、教師の才能があったりして!」
「そうかもな」

 ちりとりでゴミをすくい取りながら得意げな顔を浮かべる鈴仙。それに対し慧音の反応は冷たい。だが、鈴仙はまったく気付いていない様子で、

「ふふ。『兎のお姉ちゃん』か~。なんかくすぐったい呼ばれ方だけど、悪くはないな~。子供達みんな素直で、すごく教え甲斐があるし」
「ああ、そうだな」

 生徒達は帰り際、みんな鈴仙に挨拶していった。

 ――兎のお姉ちゃん、今日はありがとう!
 ――すっげーわかりやすかった。またお願い!
 ――またねー、兎のお姉ちゃん! バイバイ!

 そんな生徒達の背中を、鈴仙は笑顔で手を振って見送った。

 ――なあ、あの兎のお姉ちゃん。可愛くない?
 ――慧音先生の方が可愛い。
 ――それに教え方もすごくうまいし、私たちと同じ目線で見てくれるよね。
 ――慧音先生の方が可愛い。

 生徒達があれこれ話ながら帰って行くその時の様子を思い出して、にへらと彼女は笑った。

「あ、そうだ慧音さん。明日のご予定は?」
「明日も今日と同じ時間から授業だ」
「そうですか。それじゃあ、もしよろしければ明日も授業を見学させて欲しいんですけれど」

「いいですか?」と慧音に顔を向けた鈴仙は固まった。

「それなら、明日も『兎のお姉ちゃん』が授業をやればいいんじゃないですかね」

 慧音の冷たい眼差しが突き刺さった。
 冷や汗が出た。
 あれ、と鈴仙は思う。もしかして、と。

「慧音さん。怒ってます?」

 すると彼女は目線を外して一言、

「別に」

「怒ってますか」と尋ねて「別に」と返ってきたらその相手は確実に怒っている。これは絶対に間違いがない。
 そこで浮かれていた鈴仙が、ようやく冷静に自分の立場を分析し始める。
 例えば。

 ある日、永遠亭に患者がやって来る。その患者は永琳に対し病状を伝える。永琳はそこから判断し、適切な指示を鈴仙に与える。鈴仙は指示通り動くが、そこで患者が「待った」と言う。「あなたの動きには無駄がある。私ならもっとうまくできる」
 鈴仙は軽い気持ちで「じゃあやってみれば」と言う。どうせそこまでうまくできないだろう、と。だがしかし、その患者が予想外の働きを見せる。鈴仙よりも圧倒的な効率で、素晴らしい働きっぷりを披露する。いつの間にか、永琳の横に立つポジションは鈴仙ではなく、その患者のものとなっていた。

 面白くない。これは非常に面白くない。腹が立って当然だ。
 自分はそれとまったく同じ事をしてしまったのだ。その事に気が付き、鈴仙は申し訳ない気持ちになる。
 素直に謝ろうと思い、口を開こうとした。が、無理だった。空気が重たい。重たすぎる。
 結局、しばらくの間、重苦しい雰囲気が二人を包んでいた。


 ◇


「すまなかった。大人げない反応を見せてしまった」
「いえ、こちらこそ」

 お互いに頭を下げ合うのは慧音と鈴仙だ。
 場所は里のちょっと洒落たレストラン。慧音は先ほどの態度のお詫びに夕食を奢ると言って、鈴仙を誘った。奢ってもらうのはさすがに悪いと鈴仙は断ったが、一緒に夕食を取るのは賛成した。

「それで、今日一日の中で何かわかった事はあるか?」

 さて、お忘れかもしれないので言っておく。慧音は半獣形態であり、今も頭からは比喩ではなく角を生やしている。鈴仙はその状態を治すために今日一日、慧音に密着していたのだ。

「いえ、まったく……」
「そうか」

 慧音は苦笑した。
 鈴仙は気まずくて目を合わせられなかった。
 病気や怪我なら、よっぽどのものではない限り鈴仙にだって適切な処置ができる。だが、今回のケースはどうすれば良いのか彼女にもわかっていなかった。
 仮に鈴仙の思っている通り、心理的な原因によりこの状態が引き起こされているとして、ではその原因とは何なのか。またその原因がわかったとして、その後どうすればいいのか。明確な筋道が立てられない。
 一口に医学と言ってもその幅は想像以上に広い。スポーツという枠組みの中にサッカーやら野球やらバスケが入っているようなものだ。
 はっきり言って今回の問題は鈴仙には専門外だった。何とかしてあげたいという気持ちはあっても、気持ちだけではどうにもできない。「あなたの力にはなれそうにない」と口にこそ出さないが、心の中ではそんな思いが大きく膨らんでいく。
 慧音はうつむいた鈴仙を労るように、

「そんな気落ちしなくていい。私としては、まあ……、ずっとこの姿のままというのはさすがに困るが、今すぐに戻らなければいけないわけでもないしな。焦らないでやっていこう」

 患者に励まされる医者というのもおかしなものだ。
 しっかりしようと思った。
 鈴仙はハンバーグオムライスを頼み、慧音はポークときのこのジェノベーゼパスタ(ジェノベーゼとはバジルペーストにチーズ、松の実、オリーブオイルを加えたソースで、慧音はこのパスタも良く食べるらしい。鈴仙は食べたことがない。今度試してみようと思った)と、野菜スープを頼んだ。
 二人の会話は弾み、楽しく夕食を共に過ごした。今日は色々あったが最終的には二人の仲は深まったようだった。

「明日も私の代わりに授業をやってみないか」

 帰り際になって、慧音がそんな事を言った。
 まさかまだ怒っているのではないか。

「ああ、いや心配しなくていい。怒ってはいない。偶には新しい風を取り入れるのもいいかもしれないと思ったんだ。私以外の人から教わるというのも子供達には良い経験になるだろう」

 ほっと息を吐いた。

「なるほど。そうかもしれませんね」
「うむ。それに私も勉強したい。鈴仙は教え方がうまいようだからな。どうやったら授業をうまく行えるのか、それを探ってみたいんだ」

 鈴仙はほんのわずかに逡巡する。
 自分の向かうべき方向とは違う気がした。
 それでも結局、

「そういうことでしたら、わかりました。お受けします」

 ハクタクの姿を元に戻す。その解決策がまったく見えてこない現状、とにかく前に進まなければならないと思った。例えそれが、明後日の方向だったとしてもだ。

 慧音と別れ、一人で里の通りを歩く。
 まっすぐ帰っても良かったのだが、ぶらぶらしたい気分だった。歩きながらの方が考えが纏まるような気がしたというのもある。
 子供達が授業を理解してくれない。彼女はそんな悩みを持っていると言っていたが、身体に影響を及ぼすほど深く思い悩む、という感じではなかった。他に原因があると見るべきだろうか。
 これからどうすべきか。
 考える。
 考える。
 すごく考える。
 わからない。
 ため息。
 と、人の影がまばらになった通り道。ふと見知った顔を見つけた。
 妹紅だった。
 彼女はとある民家の前で、大きな荷物を抱えていた。その荷物を持って民家の中へと入っていった。すぐに手ぶらになった妹紅が出てきて、ぺこりと頭を下げた。ポケットに手を突っ込んで歩き出そうとした、のだが民家の中からにゅっと手が伸びてきて、妹紅の腕を捕まえた。すぐに家から人が出てきた。妹紅の腕をつかんだのは人の良さそうな女性だった。二人は何やら話し込んでいる。
 鈴仙には二人が何を話しているのか、聞こえない。ただどういうやり取りをしているのかは見当がついた。

 ――じゃあ、私はこれで
 ――ああ、ちょっと待って。
 ――はい?
 ――せっかく手伝って貰ったのにタダで帰すなんて事はできないわ。ねえどうせご飯まだなんでしょ? うちで食べて行きなさいよ。
 ――いや、悪いですよ。
 ――悪くなんかないわよ。遠慮なんていらないわ、うちには食べ盛りな子供三人と大食らいな馬鹿亭主が一人いるし、元々夕飯は多めに作ってあるの、今更一人増えたところで負担になんかなりゃしないんだからうちでご飯食べて行きなさいそうしなさい。

 妹紅は折れたようだった。
 腕を引っ張られて民家に入って行った。
 鈴仙はふと思い返す。そう言えば彼女はここ最近、永遠亭にやってきていない。以前は日課のように姫様とじゃれ合っていたのに。
 毎日同じ時間に餌をねだりに来る猫が急に姿を見せなくなったので心配していたら、どこか別の家で餌を貰っているのを目撃してしまった程度の嫉妬心が芽生えた。
 しばらく民家からこぼれる明かりを見つめていた。
 再び歩き出す。
 そう言えば、妹紅は慧音と仲が良かったなと思い出した。今度彼女に慧音について何か変わった事がなかったか、もしくは気になることがないか訊いてみるのもいいかもしれない。
 鈴仙はとぼとぼとした足取りで自分の家へと帰った。


 ◇


「え~、それでは授業を始めます。今日は算数をやるわ。みんなどうかな、苦手? ……うんうん、そうね。なるべくみんなが理解できるよう頑張るから、みんなも一緒に頑張ろうね」

 はーい、と子供達の元気な声が響く。
 教壇の上から生徒達の顔を一望しているのは鈴仙だった。
 ここからの眺めは悪くない。子供達の顔を見るとやる気が出てくる。
 しかし、気になる点がひとつ。
 窓際の列の一番後ろ。昨日鈴仙が座った席であるが、今日そこに座るのは慧音だった。
 気になる。非常に気になる。
 ただ座っているだけならそこまで気にはならない。ではなぜ気になるかというならば、慧音がものすごく真剣な眼差しで見つめてくるからである。一挙手一投足を見落とさないよう、目をしかと見開いて熱い視線を飛ばしてくる。
 本人に悪気はない。どうすればよりうまく子供達に授業を行えるか、その参考にしようと恐ろしいほど真剣なのだ。だが真剣になればなるほど、人というのは鋭さを増して行く。黒板に字を書いている最中、鈴仙は自分の背中を刃物で優しく撫でられているような気がして落ち着かなかった。
 一言で言えば怖かった。
 とはいえ、授業は昨日と同じく大成功だったと言える。本人の意志とは関係なく飛んでくる無言のプレッシャーに耐えた鈴仙は、教師としての役目を十二分にこなしたし、生徒達はまたしても大満足だった。
 放課後の教室で昨日と同じように片付けを行う二人。昨日と違うのは重苦しい空気がなかった事だ。

「すごいな。たった二日でここまで子供達の心をつかんでしまうとは」

 慧音は感心した様子だった。

「恐縮です」

 調子に乗らない。学んだ。

「これだけうまくやられては嫉妬してしまうな」

 苦笑いを浮かべた慧音。その言葉は嘘ではないだろう。
 
「どうだ明日もやってみるか?」

 鈴仙は結局、次もその次も、さらにその次の日も授業を行った。
 元々うまかった鈴仙の教え方は、日が経つにつれてさらにうまくなっていった。
 生憎、目的である「慧音の姿を戻す」は全くの進展がなかった。自分で行った授業の出来に満足して胸を張り、何の成果も見いだせない本来の目的にがっかりして背中を丸めながら帰る日が続いた。
 さらに慧音は日が経つにつれて、段々と元気が無くなっていくように見えた。初日こそ覇気のある目をしていたが、一日一日とその目から光が失せて弱々しくなっていくのがはっきりと感じられた。最初は鈴仙に対抗心を持ち、相手の技を盗んでやろうと勢い込んでいたのだろう。だが、鈴仙がうまくやり過ぎた事である種の疑惑を自分の胸に抱いてしまったのだ。
 自分には才能がないのではないか?
 その思考に足を踏み入れたら後は泥沼だ。もがけばもがくほど沈んでいく。
 そんな慧音が決定的な致命傷を与えられたのは、鈴仙の授業の五日目が終わった後だった。
 慧音と鈴仙は放課後に二人で授業を振り返って意見を交わす。あれが良かった、逆にあれはどうなのか、もっとこうしたら良いのではないか、等々。
 そうやって意見を交わす二人の様子はいたって真面目で、子供から見たら「ちょっと近づきがたい雰囲気」を放っているわけで、さらに遠くから眺めると「鈴仙が慧音を叱っている」ようにも見えなくもないのだ。
 そんなわけで、鈴仙と慧音が二人で話し込んでいる所にある生徒がふらりとやって来て、

「あのね、慧音先生の授業がわかりにくいのは歴史の授業なの。それ以外は頑張れば何とかなるから。あまり先生の事を責めないであげてね」

 子供というのはなんと残酷な生き物だろう。
 その言葉は確かに慧音先生の事を思って発言したものだし、本人も心から思っての事だろう。
 だが慧音からしてみれば、歴史の授業はわかりにくい、という事実を子供から直接告げられたわけであり、さらに他の授業についても頑張らなければ何ともならないレベル、と解釈もできる言葉を聞いたわけで。
 最後には「先生を責めないであげてね」とフォローのおまけ付きだ。子供にフォローされる大人。大人の身からしたらこれほど傷つく事もない。
 あの短い言葉の中に良くこれだけの意味を詰め込んだ物だと、鈴仙が逆に感心してしまったほどだ。

「私は教師に向いてないのだろうか?」

 夜の帳が降りた人里、仕事帰りの男達で賑わう焼き鳥屋に二人はいた。
 弱々しく吐かれた言葉を鈴仙は申し訳ない気持ちで聞いていた。
 鈴仙は慧音の姿を戻すために一緒にいるのだ。それがなぜか彼女の人生をぶっ壊しているような気がする。
 目の前で炙られる焼き鳥から立ち上る煙を亡霊の目つきで眺める慧音に対して、鈴仙は何も言えない。
「そんな事はありませんよ」と言ってあげたかったが、どうしても言えない。
 彼女の教育に対する熱意は相当なものだ。その点に関してだけいえば文句はない。
 残念ながら熱意だけではどうにもならないのがこの世の中で、鈴仙はこの数日間でそれを嫌というほど学んだ。
 慧音の身体的な異常に対する問題は解決の糸口すら見えてこない。今も頭からは角が生えているし、ふさふさとした尻尾が椅子の下へと流れていて、引っ込んでくれる気配は微塵もない。永琳から主治医に任命されたからには彼女をサポートしなければならないのに、鈴仙は何もできていなかった。
 熱意はあっても実現する力がない。その歯がゆさはこれ以上ないほど良く理解できる。
 だから鈴仙はそっと、

「ごめんなさい」

 慧音は冷酒の入ったコップを傾けながら、静かに笑った。

「どうして謝る?」
「何も力になれていないから……」

 慧音の方も「そんな事はない」とは言ってこなかった。その言葉は今の二人にとっては気休めにもならない。慧音もわかっているのだ。
 そんな彼女の気遣いに対して、鈴仙は心の中で感謝した。

「飲もう飲もう。どうせ明日は休みなんだ。今日くらいぱぁーっといったって、バチは当たらないさ」

 慧音はぐいと冷酒を一気にあおった。
 鈴仙はふっと表情を緩めて、

「良いんですか。先生がそんな態度で」
「教師がハメを外しちゃダメなんて決まりはない。さあお前も飲め」

 言われて、鈴仙も一息に酒を飲んだ。お腹の中でふわっとした熱が広がる。

「そういう事なら付き合いましょう。言っておきますが、私は結構お酒に強いですよ」
「ほう面白いな。見せて貰おう」

 そんなわけで二人は焼き鳥を食べ、酒を飲み、焼き鳥を食べ、酒を飲み、酒を飲んだ。
 話も弾み、二人はかなりのペースで酒を飲んでいった。その時間、店で消費された酒の半分以上はこの二人の腹の中に収まった。
 しばらく経ち、先に酔ったのは鈴仙だった。

「まったく~、お師匠様ったらほんと~~~~~にひどい人なんですよ。とにかく人使いが荒い、人使いが荒い、人使いが荒い!」
「苦労しているみたいだな」

 慧音は苦笑した。

「苦労なんてもんじゃないですよ。てゐは身のこなしがうまくてそういうのは全部回避しちゃうし、そのせいで頼み事は全部私の仕事みたいになっちゃってるんですから」

 はあ、と深いため息を吐く鈴仙。

「すいません。何か愚痴ばっかりで……」

 さっきから鈴仙が自分の心情を吐露し、それについてすっかり聞き役となっている慧音がうんうん相槌を打つ形になっている。
 何をやっているんだろう、と鈴仙は思う。本来なら逆の立場にならなければいけないのに。冷静な自分と、酒に酔って「どうでもいいや、この機会だから心の中を全部ぶちまけてしまえ」という自分がいて、その二人の自分を見ている自分がいる。もしかしたらもっといるのかもしれない。とにかく酔っていた。

「いいよ。話を聞くのは得意なんだ。愚痴でも何でもいい。話を聞かせてくれ」

 その言葉に鈴仙は不意に涙腺が緩み、目の端からすっと涙がこぼれ落ちた。
 慧音は慌てて、

「おい、どうした!?」

 鈴仙は手で涙を拭いながら、

「ご、ごめんなさ……。け、慧音さんみたいに優しい言葉をくれるの、うちにはいないから、つい……」

 涙を拭っても、また次から次へとこぼれてくる。酒が入った事で感情が高ぶりやすくなっていた所に、純粋な優しさを投げかけられて心の壁が決壊した。
 そんな鈴仙に対して慧音は、

「まったく、本当に苦労しているみたいだな。ほらこれ使え。もう泣くんじゃない」

 ハンカチを差し出し、鈴仙の頭をぽんぽんと優しく叩いた。
 慧音は明るく微笑んでいた。
 煙が充満する店内に寂れた音楽が流れている。蓄音機が壊れかけているのか時折雑音が入った。こういう無骨な店ではその雑音に妙な味わいすら感じられる。
 女の客は鈴仙と慧音の二人だけだった。

「慧音さんは悩みを聞くのがうまい」

 落ち着きを取り戻した鈴仙が言う。

「そうかな。言われてみれば相談される事は多いかもしれないな。誰かの頼りにされるのは好きだ」
「もしかしたら医者に向いているのかも。患者の心のケアはすごく大事だし。そういう所は、私なんかよりずっと上手にやりそう」
「お互いなかなかうまくいかないものだな」
「まったくですね」

 苦笑いを浮かべる慧音の顔を見て、鈴仙も同じように笑った。
 すると慧音がふと物憂げな視線をぼうっと空中に彷徨わせた。

「自分が理想とする自分には、なかなかなれないものだ。ふと思うよ。今よりもっとうまくいっている人生があったんじゃないかって……。例えば私はカリスマ教師として誰よりも教えるのがうまくて、私の授業を受けた子供の学力は大幅アップ。それが噂となって里中から自分の子供をぜひ寺子屋へ通わせたいという親御さんが殺到。授業は連日、超満員の大盛況。……そんな人生への分かれ道が、私の歩んできた道の中にあったんじゃないかって」

 慧音は酒を一口だけ飲み、

「もしかしたら見落としていたのかもしれない。気付かなかっただけで通り過ぎていたのかもしれない。そう思って道を振り返ってみる。でもな、ないんだ。そんな分かれ道はどこにもない。道はずっと一本線で、どこまでも私の知っている道だ。私はあきらめて前を見る。すると前に広がっている道も同じような道が続いているんだ。ただ、先に行くにつれて景色がぼんやりとしてはっきりと見えなくなる。しばらく同じ道が続いている事への安心感と、何も変わらない事に対する不満、そして遠くにある見えない景色に怯えながら、再び歩き出す。そうやって生きているんだ私は」

「何を言っているんだろうな」と弱々しく笑った慧音の顔を、鈴仙はじっと見つめていた。
 鏡に映った自分だった。鈴仙には彼女の痛みがはっきりと理解できた。
 でも言うべき言葉が見つからなかった。仕方なく慧音が酒をあおる動作に合わせて、一緒に酒を飲んだ。

「事実は歴史のように都合良く書き換える事はできない。今の私の能力を使えば、文字の上で踊る歴史など簡単に変えられる。……変えた所で意味なんてないけどな。事実はそのままの形で残るんだ。私にはもう一段階の変身が残されていて、その姿に到達すれば事実だろうが何だろうが自分の都合良く変えられる、……なんて事があればいいのにな。もしかしたら、私が月に一度しかならないはずのこの姿から戻らなくなったのも、そんな気持ちのせいかもしれないな」

 そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。
 鈴仙にはわからない。唯一わかったのは、慧音の持つ「歴史を創る程度の能力」はそんなに都合の良いものではないということだけだ。
 さあ、飲もう、飲もう、と言ってさらに二人は酒を口にした。
 それからしばらくして。

「そうか、妹紅を見たか」
「家の中に招き入れられてたわね。たぶん夕食をごちそうになったんじゃないかと思うんだけど」

 鈴仙はつい先日の記憶を引っ張り出す。

「妹紅に里に馴染むように言ったのは私なんだ。最近になって、里の住民ともどうやらうまく行き始めたみたいだな」

 なるほど、と鈴仙は思う。やはりあの場面は鈴仙の予想通りと思って良いだろう。最近妹紅が永遠亭から足を遠ざけているのも、里に意識が向いているから、というわけだ。
 慧音はほんのりと上気した顔で、手元に置いてある酒の入ったコップを見つめた。

「里に馴染め、と言っておきながら実際そうなると寂しいものだな。前は良く私の家に来てくれたのに、ここしばらく顔を見せてくれないんだ。あいつの事だ。あんまり私に心配かけまいと一人で頑張っているんだろう。まったく。……もう少し私の事を頼ってくれても良いのに」

 彼女は静かに息を吐いた。自分でもよくわからない複雑な気持ちを吐き出しているかのようだった。


 ◇


「すまない。少し飲ませすぎたか」

 店を出た二人は柳の木が立ち並ぶ通りにいた。
 風に揺られてさわさと音を立てる柳の木の下で、鈴仙はうずくまっていた。

「ごめん」

 と鈴仙はつぶやいて、言葉と一緒にせり上がって来ようとする人前で出してはいけないアレを必死に我慢する。
 酔いすぎて吐き気と必死に戦う彼女の丸くなった背中を、

「気にするな。面倒を見るのは嫌いじゃない。それが例え酔っぱらいの相手でもな」

 と言って優しい手つきでさすってくれる慧音に対して、申し訳ない気持ちと甘えさせてくれる事に対しての嬉しさが混ざり合って、「もうなるようになればいいや」と思った。
 幸いにも道ばたに何もかもぶちまけるという最悪の事態は避けることができ、少し回復した事で歩く余裕はできた。
 それでも、迷いの竹林の奥にある永遠亭まで戻るなどは無理だと慧音は言い、鈴仙としても今あの竹林に足を踏み入れたら迷いに迷ったあげく、翌日には変わり果てた姿で発見される自信があったので、「うちに泊まっていけばいい。女の一人暮らしの家だ。何も問題はない」という言葉に甘えることにした。

「まっすぐ帰ってもいいんだが、ちょっと酔い醒ましをして行かないか」
「そうね。いいかも」

 二人はそれまで歩いていた道を外れて、錆び付いた手すりが伸びる階段を下り(フラフラしている鈴仙を心配し、慧音が手を貸した)、石垣に隔たれた狭い道を進んだ。舗装された道からでこぼこした土の道に変わった先、川原に出る。
 水の流れる音。
 夜に吹き抜ける風。
 どちらも血の巡りが良い身体には心地良かった。

「慧音は本当に気が利くわね」
「なに私が風に当たりたかっただけだ。それに部屋の中に色々と吐き出されるのは勘弁だからな」

 その言葉が本心から出たわけではない事は、酒に酔っていた頭でも十分に理解できた。
 川の水は夜の闇を溶かし込んだみたいに黒々としていて、何か得体の知れないものが流れているように見える。怖いというよりは、もっと近くで見てみたいと好奇心をそそってくる。
 川沿いを二人で歩いた。
 欠けた月が空に浮かんでいる。
 何かの鳴き声が微かに聞こえる。
 家の窓から漏れる明かりに温かみを感じる。
 カップルがイチャついている。
 ふと、隣を歩く慧音の歩みが止まった。対岸のベンチに座って良い雰囲気を出しているアベックを値踏みするかのような目つきで見ている。

「どうしたの?」
「向こう岸のあの二人。かなり若いんじゃないか」
「どうかしら。暗くてあまり見えないけれど」

「それがどうかした」と鈴仙が訊くと、慧音は腕組みをする。

「若さ故に外でもイチャつきたいという気持ちは理解できる。だがな、私は教師なんだ。職業柄こういうのは見逃せない。若いからといって、自分の中に芽生える性をどこでもさらけ出していいわけではない。それにまだ恋愛というものがわかっていない年頃には間違いも多い。自分の気持ちに正直に行動していたと思ったら、その実気持ちに振り回されていただけなんて事もある。何かの拍子に心に傷を負い、そのまま非行に走ってしまうかもしれない。それは防がなければならない」
「なるほど。それでどうするの」

 うむ、とつぶやいた慧音はおもむろに辺りを見渡し始めた。近くに落ちていた拳大の石を拾い上げた。
 黙って見守る鈴仙。
 次の瞬間、慧音は持っていた石を大きく振りかぶると、カップルに向かって全力で投げつけた。当然、間にはそれなりに幅のある川があるので、石は二人に届く前にドボンと音を立てて川の中へと落ちたが、自分の近くでそんな不審な音がしたら誰だって怪しむ。
 見つめ合っていたカップルがこちらに顔を向けた。

「こっちを見てるわ」
「安心しろ。音のした方を見ただけだ。私たちの姿は見えていない」

 二人は茂みに隠れ、隙間からこっそり向こう岸にいるカップルの様子をうかがう。

「あ、またイチャつき始めた」
「一回では効果がないか。仕方がない」

 二発目の爆撃。
 さっきよりもでかい奴を投げたので激しく水しぶきがあがった。音もさっきより重く響く。
 しかしカップルは聞こえていないのか、聞こえていないふりをしているのか微動だにしない。

「なるほど。そっちがその気ならこっちも徹底的に戦うぞ」

 もはや歩く投石機と化した寺子屋の教師(年齢不詳)は、落ちている石を拾っては投げ、投げては拾いを繰り返している。
 次から次へと川に降り注ぐ石つぶて。水しぶきがひっきりなしに上がり、夜の闇に異音が響き渡る。
 さすがに目の前でこんな怪奇現象が起これば誰だって怖いに決まってる。カップルは小走りにどこかへ去って行った。

「よぉーし。少年少女を正しい道に帰してやったぞ」
「さすが先生!」
「外の世界では、夜になると街に彷徨う少年達に声を掛けて歩く夜回り先生なる人がいるらしい。私も始めてもいいかもしれないな」
「よ、教育者の鑑!」

 素面の鈴仙ならこの奇行に対して「何やってんだこの人」と思ったに違いない。が、ひどく酔っていた。まともな思考回路など存在しない。それは慧音も同じだった。
 二人はまた川沿いを歩き始める。
 夜の川原の雰囲気は趣がある。街灯に虫が集まって来るのと同じ原理で、こういった場所にはカップルが集まって来るものなのだ。
 そんなわけで二人の前にまたしても「指導」すべき相手が現れたわけである。

「今度は私に任せて」
「お、何だ。教育に目覚めたか。良いだろうやってみろ」

 ――ドボン、ドボン。

 水の底へ沈んでいく石の叫び声を聞きながら、鈴仙は恍惚とした表情を浮かべる。
 また一組のカップルが正しい道へと帰って行く背中を見送る。清々しい気分だった。教育とはなんと素晴らしいものだろう。

「……先生。私、教師という職業の素晴らしさを改めて理解しました」
「そうか。教師の魅力をついにわかってくれたか……。私は嬉しいぞ」

 熱く握手を交わし合う二人。
 と、そこへまたしても。

「先生! また来ました!」
「くそ。今夜はどうなっているんだ」

 しかも今度の相手はかなり図太い二人組だった。鈴仙と慧音が二人がかりで爆撃を繰り返しても、気にした素振りをまったく見せない。それどころか、まるで見せつけるかのように身体を密着させている。

「生半可な『指導』では効果がないようだな……」
「どうしたらいいんでしょう先生」
「私に考えがある。下がっていろ」

 鈴仙は二歩ほど後ろに下がった。
 慧音は石を探す素振りを見せている。足下に落ちている石には目もくれないで、何かを探し求めている。と、お気に召すものを見つけたのか小走りに駆け寄った。
 人の体ほどある大石だった。その前で、ふむと彼女は唸った。

「まさかそれを……」
「ああ。人間の姿だったら当然こんな物は持ち上げられないがな。でも今は違う。ハクタクの血の威力を見せてやろう」

 そう言った彼女の横顔は、月の光りに照らされて見とれるほどに美しく、人間のものでも獣のものでもない妖艶な笑みを湛えていた。
 あの大岩が持ち上がるなんて信じがたかったが、鈴仙は数秒後に息を飲むことになる。
 両腕でがっしりと捕まれた岩が、静かに持ち上がる。巨人がゆっくりと身体を起こすみたいに、圧倒的な存在感を放ちながらその全貌を明らかにした。
 丸い岩だった。
 直径は鈴仙の身長よりも大きい。
 ねずみ色の岩肌に月の光りが当たって青白く光っている。土に埋まっていた部分は変わらず黒く、欠けた月をすぐ目の前で見ている感覚だった。
 おまけに今の慧音には角が生えている。端から見れば鬼が月を持ち上げているようにしか見えない。
 これならいける。鈴仙は確信した。

「先生! 決めゼリフをお願いします!」

 慧音が頷いた。
 二本の足を大きく開いて、力を込める。
 そして、

「女教師がモテるなんてのは幻想だ!」

 夜の人里に獣の咆哮が響き渡る。

「私にも出会いをよこせ~~~~!!!!!」

 月が舞う。
 川に吸い込まれていく大岩の様子は、地平線に消えていく月を思わせた。なんて事はなく、目を覆いたくなる破壊的な惨状となった。
 衝撃。
 岩に押しのけられた水が大きくうねり、巨大に膨れあがると壁がのし掛かってくるように一気に流れこんでくる。岩が落ちた場所には一瞬空洞が生まれたがたちまちふさがり、溜め込まれていた力が解放され、耳をつんざくような音を発して天まで続く水の塔が出来上がった。
 端から見ていた人は隕石が降ってきたのだと勘違いしただろう。
 事実、それほどの威力があった。
 今夜の天気予報は100%晴れの予報だったのに、人里の特定の範囲には雨が降り注いだくらいだ。
 目の前で繰り広げられた出来事が、現実のものとは思えない。だから鈴仙は一言、

「……すごい」

 降りしきる雨をぼうっと見つめていた。
 と、そこで、

「ゴォオオオラアアア~~、貴様らなにやっとんじゃ~~~!!!!!!!!!」

 雷並みの大声が背後から飛んできた。
 鈴仙が振り返ると、民家の窓のひとつから親父が鬼の形相でこちらを睨んでいる。

「やばい! あれは町長だ! 私がやったのがばれたらPTA会議ものだ。逃げるぞ!」

 そう言い残して走っていく慧音は兎よりも逃げ足が速かった。鈴仙は必死に後を追う。
 酔っぱらっておぼつかない足で懸命に走る。
 何とか慧音に追いついて横に並ぶと、目があった。そして、どちらからともなく声を上げて笑いあった。
 腹の底から笑った。


 ◇


「散らかっているが上がってくれ」

 そういう場合はどちらかと言えば散らかっていない方が多い。が、慧音の家は散らかっていた。
 こぢんまりとした家で、一人の人間にはちょっと広く二人ではちょっと狭い、と感じさせる慎ましい広さだ。
 部屋に足を踏み入れた鈴仙の感想は「うわ汚い」だった。
 脱ぎ捨てられた衣服がそこらに散らばっているし、パンパンに膨れたゴミ袋が壁際に並べられていてオブジェと化しているし、蓋の開いた酒瓶にはなぜか花が生けてあって、そんな所で女子力を発揮するくらいならもっと他に目を向けるべき対象があるだろうと、頭を抱えたくなる。
 とても寺子屋で教師をやっている人の部屋とは思えない。
 もし鈴仙が初日にこの部屋に足を踏み入れていたら頭の中に作り上げていた慧音像とのギャップに、どん引きしていたに違いない。
 だがこの数日間で慧音の印象が変わった鈴仙にとって、整理整頓された部屋よりも妙に生活感のあるごちゃごちゃした部屋の方が「彼女らしい」と思えて、不思議な安心感を覚えた。

「走って汗を掻いたな。風呂を沸かそう。沸くまでそこらに座って待っていてくれ」

 慧音は床を占領している衣服やら学校で使うプリントやらを足で蹴飛ばす。
 鈴仙は確保されたスペースに腰を下ろした。特にする事もなかったので大人しく待っていた。
 しばらくすると慧音が戻ってきた。

「おう風呂が沸いた。先に入ってくれ」
「わかったわ」

 湯船に浸かったら身体の中に残っていたアルコールが溶け出ていくのを感じられる。酔いはかなり良くなっていた。それでも先ほどの興奮は冷めやらない。自分たちがしでかしてきた事を振り返って、自然と笑みがこぼれる。
 馬鹿な事をしたと思う。でも人生には馬鹿な事をしたくなる時があるのだ。
 風呂から上がった。着替えは慧音のパジャマを借りた。慧音の身長は鈴仙よりもだいぶ高いので、パジャマはぶかぶかだった。

「どうだ、お前も食べるかヨーグルト?」

 次いで風呂から上がったTシャツ短パン姿の慧音が、鈴仙に尋ねる。

「う~~ん、ヨーグルトはいらないかな」
「そうか。他にはドライフルーツがあるぞ」
「ううん、いい」

 そうか、と慧音はつぶやいてスプーンですくったヨーグルトを口に運んだ。食べ終わると皿を戻しに台所に向かった。戻ってきた時間から考えて洗ったとは思えなかったのでおそらく台所の流しに置いてきただけだ。
 慧音は床の上にどかりと座り込んで、今度はストレッチを始めた。

「日課になってるんだ」
「健康的ね」
「鈴仙もやればいい。気持ちがいいぞ」

 足を伸ばしてつま先に手がつくかどうか試してみた。後もう少しの所までは行くのに、そのもう少しが遠い。

「呼吸を止めないことだ。リラックス、リラックス」

 結局、鈴仙は慧音と一緒にストレッチをする事になった。「気持ちがいいぞ」という言葉はまったくその通りで、無理のない範囲でやる分には筋肉の伸び広がる刺激が心地良い。
 程なく身体がほぐれた所で、テーブルの上に「ドン」と置かれたのは酒瓶だった。

「誰かを家に泊めるのは久しぶりだ。いつも一人でいる空間に、二人いるというのは良いもんだ。……どうだ、ここらで飲み直さないか?」

 彼女はにやりと笑った。

「ええ、いいわよ。もうこうなったら徹底的にやりましょう。二人で朝日を拝むまで飲んでやろうじゃないの」

 鈴仙も笑う。ついさっき吐きそうになっていた現実はもはや過去の出来事だ。
 そうして二人は酒を酌み交わした。
 当然と言えば当然だが、「朝日を拝むまで飲む」を実行するまでの余力は鈴仙に残されていなかった。飲み始めてから一時間ほど経った所でうとうとしだして、それから三十分もしないうちに身体を支えきれなくなり床の上に寝転んだ。
 まどろむ意識の中で慧音が自分の身体を持ち上げて布団に運ぶ様子を、別の誰かが見るような感覚で眺める。堅かった床から柔らかい布団の上に移って毛布にくるまれると、重くのし掛かる眠気がさらに重量を増した。
 鈴仙が最後に覚えている記憶は、

「どうだ寒くないか?」

 と訊いてくる慧音の顔で、

「うん」

 短く放たれたその言葉を聞いた彼女が、とても満足そうに微笑んだ様子だった。


 ◇


「うわ、酒くさ!」

 思わず声を漏らしたのは藤原妹紅だ。
 朝と昼の境目辺りの時間。慧音の家を久しぶりに訪れた彼女が見たのは、だらしなく眠り込む二人の姿で、「昨晩は飲み過ぎちゃって」と言われなくても一目でどういう状態なのかがわかった。
 部屋に漂う酒臭さとテーブルの上に並べられた酒瓶が、何より昨日この部屋で何が行われたのかを如実に表している。

「ひどいな、こりゃ」

 この時間になっても未だ泥のように眠っている二人の姿に対しての言葉でもあり、以前来たときよりもさらに汚くなっている部屋に対しての言葉でもあった。
 それにしても妹紅が気になったのは、

「永遠亭の兎じゃないか。こんな所で見るなんて珍しいね。……おい、大丈夫?」

 話しかけられて微かに鈴仙の目が開く。次いで口が開き、

「……水」
「はいよ」

 台所に行き、冷たい水を入れたコップを持って来てやると、鈴仙は一息にそれを飲み干した。彼女は「ありがとう」と言い終わる前にすぐにまた横になってしまった。しばらくはそっとしてあげた方が良さそうだと妹紅は思った。
 横になった鈴仙を跨いで部屋の奥へと進む。
 慧音は妹紅の家を訪れる度に「片付ける癖は付けておいたほうがいいぞ。溜め込んで一気に掃除するより、毎日ちょっとずつやった方が楽だ」なんて説教を食らわすが、そっくりそのまま返してやりたい。少なくとも自分の家は足の踏み場を探さなければいけないほど散らかってはいない。
 地雷原を抜ける気持ちで足を運びようやく友人の許に辿り着いた妹紅は、

「慧音。起きてよ」

 肩を軽く叩いてみる。
 うーん、と反応がある。もう一度叩く。目が開く。

「おお妹紅……?」
「うん。妹紅だよ」

 半開きの目が妹紅の顔へ向けられる。ピントが合ってない。まだ寝ぼけている。

「なあ妹紅」
「うん」

 寝ぼけていたし、まだ酔いも残っていた。だから慧音は心の奥底に溜まっていた思いをぽろりと、

「もう少し私の事を頼ってくれてもいいんじゃないか」

 それから寝返りを打って、妹紅に背中を見せてしまう。
 その背中で語りかける。

「……私は、寂しいぞ」

 妹紅は一瞬きょとんとした後、そっと笑った。

「どうしたのさ。いきなり」

 その後の返事はなかった。すっかり石になってしまった。
 そんな友人の姿にふうとため息を吐いて、

「まったく。何か困った事があったら一番先に来るのはここだよ。今も昔も、そしてこれからもそれは変わらないよ」

 妹紅は「ほら、風呂でも入ったらすっきりするよ」と言って慧音の身体に腕を回して、風呂場へと引きずっていく。風呂を沸かし、そこに慧音を叩きこんだ。
 部屋に戻ってくると今度は掃除を開始。寝ている鈴仙に配慮してできる限り音を立てないように気をつけながら、ゴミを纏めていく。ある程度まで纏まったら持てる限り持って、外のゴミ捨て場へ捨てに行くために家を出た。

 妹紅が出て行ってからすぐに、鈴仙は起き上がった。うんと伸びをして、辺りを見渡す。だいぶ片付いている。見違えるくらい綺麗になった部屋の様子に「少しは教師の部屋らしくなったな」と思った。
 立ち上がってもう一度伸びをすると、背後から、

「おう鈴仙、起きたか」

 と風呂から上がった慧音の声がかかり、鈴仙は振り返った。

 そして、驚く。
 あんぐりと口を開いて、彼女の姿をまじまじと見つめる。

「ん? どうした?」

 慧音はタオルで髪を拭きながら、鈴仙の反応に首を傾げた。
 彼女の髪の色は昨日までの色ではなく、薄い青色に変わっている。
 そして、しっかり生えていた二本の角も、すっかり消え失せていた。
 つまり元の姿に戻っていたのだった。


 ◇


「お疲れ様」

 永琳の労いの言葉に、鈴仙は納得できない気持ちでいっぱいだった。
 薬品の匂いが微かにする診察室で二人は向かい合う。

「どうしたの? 患者の問題はしっかり解決できたじゃない。医者としては喜ぶべきよ」
「納得できません。お師匠様はどこまでわかってたんですか?」

 鈴仙のじとっとした視線を受けた永琳はデスクを指でトントンと何回か叩いた後、

「慧音さんから症状の説明を受けて、心理的な理由だろうという予測はついたわ。何かの悩みか、もしくは願望か。そこで目を付けたのは彼女の能力。人間時の『歴史を食べる』能力とハクタク時の『歴史を創る』能力。このふたつは『なくしたい』と『こうであって欲しい』と言い換えることができると思うわ。原因が悩みであるなら『なくしたい』と思うはず。じゃあなぜ今回ハクタクの姿になったのか。答えは簡単。『こうであって欲しい』という願望があったからよ」

 永琳の指がデスクの上で跳ねる。トン、トトン、トン。

「さて問題はどういう願望か。そこでここ最近、何か彼女に変わった事はなかったか、と考えて思い当たる事がひとつだけあった」
「それは何です?」

 トン、トン……トトン。

「彼女は生粋の世話したがり。とにかく人の世話をするのが好きで、頼りにされる事に何よりも喜びを感じる。私の彼女に対する印象ね。それで、そんな人が親身になって世話をしていた人物と、急に距離が離れてしまった場合、どうなると思う?」
「ああ……」

 と思わず鈴仙は声を出した。

「最近、妹紅はここにやって来なくなったわね。姫様がつまらないってぼやいてたわ。妹紅は里で色々と手伝いやら何やらをやっているって噂は聞いていたわよ。おそらく、そっちに手一杯でここには来られなくなったんでしょうね。そして、慧音さんの所も同じように」

 鈴仙は思い出す。「最近、妹紅が顔を出してくれない」と酒の席で言っていたのを。
 つまりこういう事だ。
 毎日同じ時間に餌をねだりに来ていた猫が急に来なくなってしまった。と思ったら、風の噂でその猫が別の家で餌を貰っているらしいとの情報を聞く。普通なら寂しいとは思いつつも仕方がないとあきらめられるものだ。でも慧音は違った。自分の家で餌を食べて欲しかった。自分の家に元気な姿を見せて欲しかった。自分が世話をしてあげたかった。
 そんな思いが日々膨らんでいったのだ。その結果が、今回の問題へと繋がったというわけだ。

「面白い例えね。簡単に言えばそういう事。じゃあ、猫がいなくなって寂しい、となった人を癒すにはどうしたらいいか。答えはふたつ。その一、猫が帰ってくるように仕向ける。その二、新しい猫を用意してやる。今回はその二を選択したわけよ。もっとも、用意したのは猫ではなく兎だけどね」

 鈴仙は盛大にため息を吐いた。師匠は最初から何もかもお見通しだったというわけだ。

「それならちゃんと説明してくれれば良かったのに」
「説明したら意味がないのよ。だって、あなたが慧音さんの姿を戻そうと頑張っても、まったくうまくいかない、って事が重要だったんだから。何でもそつなくこなす人と何をやってもダメダメな人、どちらが世話のしがいがあるか言うまでもないでしょう」

 鈴仙はまた大きくなため息を吐く。
 ざっと振り返っただけでも慧音と一緒にいた時間の中で、彼女の世話になった場面がいくつか浮かんでくる。

「でも結局、妹紅が帰ってきて全て丸く収まったみたいですけれどね。私が慧音と一緒に過ごした時間はまったくの無駄だった、てわけですよ」

 弱々しく鈴仙は笑った。
 治った事に文句はない。素直に喜ばしい。でも欲を言えば、自分の力で治したかった。永琳の差し金でうまい具合に動かされたのだとしても、自分の働きによって治ったのであればまだ納得はできる。頑張って良かったと心から思える。それが我が儘であっても、そうあって欲しいと思う気持ちはどうしようもない。
 落ち込んだ弟子の様子に永琳は言葉をかけてあげようとして、飲み込んだ。
「そんな事はない」と言おうと思った。けれど結局言えずに、鈴仙が先に声を出してしまう。

「思ったんですけど、もし妹紅が帰って来なかったとしても、それはそれでまずかったんじゃないですか。だって、慧音が私の世話をした事で満足したとしても、私だってずっと彼女と一緒にいられるわけじゃないですよ。姿が元に戻ったら、彼女に会いに行く理由がなくなるわけだし。そしたらまた、慧音は寂しい思いをして変身しちゃうんじゃ……」

 永琳はにっこりと笑って、

「そしたらまた新しいペットを用意すればいいじゃない」

 聞かなかった事にする。
 何だかとても疲れた鈴仙は、本日何度目かわからないため息を吐いた。

「……子供達が授業を理解してくれない、という悩みは何も関係なかったんですね」
「彼女の教え方の下手さはずっと前からよ。私の耳にも入ってくるほど有名なのだから、今回の件とはまったく関係ないわ」

 本人が聞いたら思いっきり頭を抱えそうな事を言い放つ。
 もう色々と疲れたので、そろそろ自室でゆっくりしたいと鈴仙は思い、診察室から出ようと扉に手を掛けた時、背後から声が飛んできた。

「それにしてもあなた、慧音さんと随分仲良くなったみたいね」

 そう言う永琳の声音は、どこか嬉しそうで、どこか羨んでいるようにも聞こえた。


 ◇


「おい、どこへ行くんだ?」

 数日後のある昼下がり。
 鈴仙と慧音は人里を歩いていた。
 慧音には「一応その後の経過を見る」という名目で、この時間を空けておいて貰った。名目というからには本当の理由は違う。目的は寺子屋にあって、どう見ても竹林の奥にある永遠亭に向かっていない鈴仙の足取りに慧音が訝しむ。

「まあまあ良いじゃない。偶には、こう……歩くだけってのも」
「嘘をつけ。何が目的だ」

 慧音の質問攻めをかわしながら、ようやく寺子屋の前に到着してほっと息を吐く。今日は休日で本来なら寺子屋は閉まっているのだが、鈴仙のポケットの中に入っているスペアキーですでに開けてある。
 もうすぐだ。ここまで来るのにちょっと苦労した。
 子供達からその相談を受けたのは慧音の姿が元に戻った日の二日後で、子供達の頼みを快く引き受けた鈴仙はその日からあれこれと準備に走り回ったのだった。
 一番苦労したのはPTAへの説明で、親御さん達に私用で寺子屋を使わせて欲しいと拝み倒した鈴仙の心情を理解して欲しい。
 慧音と二人で酔っぱらった日に「あれだけ」の事をしでかしたのだ。もしかしたらあの時の事がバレてるんじゃないかと、PTAの面々の顔を見ながら冷や汗が止まらなかった。
 寺子屋の使用許可が下りたのは、子供達の熱意と、何より慧音の人望があったからだと思う。
 そんなわけで、だ。
 教室に足を踏み入れた慧音を出迎えたのは、たくさんの生徒達だった。
「わー」と歓声が上がり、姿を見せた先生に対して生徒達が拍手を送りながら、「けーねせんせ~!」やら「おめでとうございます」とか「やっぱりこっちの姿の方が安心できるね」、「いやでもあっちの姿も捨てがたい」など思い思いの言葉を口にした。
 子供達は慧音が無事に元の姿に戻った事で、お祝いしたいと今回のパーティーを企画。鈴仙はそれに手を貸したのだ。
 黒板にはでかでかと「けいね先生おめでとう!!」と文字が書かれてある。
 今から二時間前、教室を飾り付けする段階である生徒が、

「おれ知ってるー、こういう時『ごカイユおめでとうございます』って言うんだぜー」

 と別の生徒が、

「えーでも、何かそれかたっ苦しくない?」

 とさらに、

「じゃあなんて書くんだよ。『ご退院おめでとうございます』か?」
「おめーは馬鹿か、入院なんてしてねえだろ」
「うるせえ誰が馬鹿だよこのあんぽんたん」
「はあ~~~マジふっざけんなよ、オレそんな安っぽい中華料理みたいな名前してませ~~~~ん」
「ああうるさいな! もう面倒だから『おめでとう』だけでいいよ」

 という熱い議論の末にシンプルイズベストな形に収まったのだった。代わりにその文字の周りには女子達が色とりどりのチョークを使って、お花やら動物やらを描いて実に華やかになっている。中央にはデフォルメされた慧音の似顔絵がにこっと笑っていて、その隣には同じように可愛く描かれた鈴仙の顔がある。
 そんな慧音の似顔絵の左下にものすごく小さな字で「スキです」と書いたのは、鈴仙がここにやって来て授業を受けた際、すぐ前に座っていた坊主頭の男の子で、こんな場でこっそり自分の内に秘めた思いを告白した彼は「自分の恋は叶わない」と自覚していた。自覚しつつも、せめて「そんな思い」を持った生徒がいたのだと知って欲しかった。
 いずれこの文字は消されるだろう。自分の中に芽生えた思いも、大人になるにつれて消えていくように。でもこの瞬間、この時に感じた「思い」は確かに本物で、十一歳の春に経験したほろ苦い思い出は誰にも言わずに、自分の心の中にだけしまっておこう。
 と決めた彼だったが、彼が慧音に好意を寄せている事はバレバレで、その事に気付いていないのはこの教室の中で慧音その人だけだったのだから何とも悲しい話だ。

 さて、教室に足を踏み入れた慧音は、突然の出来事に驚きを越えて放心していた。
 生徒達が何に対して歓声を上げているのか理解できない。まん丸くなった目が黒板に書かれた「けいね先生おめでとう!!」を捉え、また自分に熱い視線を送ってくる生徒達へと向けられ、それから数秒後、

「みんな……」

 ようやく全てを理解した慧音の瞳からは、あれよあれよと涙があふれ出す。
 慧音は涙を流しながら、一番近くにいた生徒をがっしりと抱きしめた。それからその隣にいた生徒を抱きしめる。一人一人抱きしめて回る慧音に、生徒達はお互い顔を見合わせて笑っていたが、その顔は満更でもなかった。
 いよいよ慧音に好意を寄せる坊主頭の子の番だった。彼は自分の身体を包む大きな身体に戸惑いを見せていたが、他の子供達が「ただ抱きしめられるだけ」だったのに対し、その小さな腕をしっかり慧音の身体に回して抱きしめ返していたのを、鈴仙はしっかり見ていた。
 愛しい人と最初で最後の抱擁を交わした彼がその瞬間、大人の階段を上ったのは間違いない。
 最後は鈴仙の番だった。

「ありがとう。色々やってくれたんだろ」
「ちょっとだけね」

 笑って答えると、力一杯抱きしめられた。少し苦しかった。
 ちょっぴり涙が出た。

「よ~~~~し、乾杯しようぜ~~」

 男子生徒が机の上に登って紙コップを掲げながら声を張り上げる。「机の上に登るな」という説教の声は聞こえてこない。

「ケーキもあるぞケーキ。食おう食おう」
「ローソクもあるわよ。ね、これに火をつけて、先生に吹き消してもらいましょうよ。ねえ、先生良いですよね!?」
「なんだ、まるで誕生日だな。ま、良いだろう」

 生徒達に囲まれる慧音を、鈴仙は教室の端から眺める。
 思う。
 確かに、慧音の教え方はヘタかもしれない。頭が固くて融通が利かないかもしれない。人並みに嫉妬だってするし、酒に酔えば変な事だってやらかすし、部屋だって尋常じゃないくらい汚い。
 でも、慧音は教師として一番大切なものを持ってる。
 生徒達から好かれる、という最高の素質を。
 それは紛れもない事実だ。





 事実がいつも人の目に触れるとは限らない。
 今まで人類が積み重ねてきた歴史のページには、埋没した事実が大量に眠っているのだから。
 さて、慧音の家に妹紅が訪れた時の様子を思い出してみて欲しい。
 彼女が慧音の家に足を運ぶのは久しぶりだった。ここしばらく顔さえ合わせていなかったのである。当然、慧音がハクタクの姿になったまま戻らなくなった、という事実を彼女は知らなかった。
 久しぶりに会った友人が本来なら「満月の夜にしかならない姿」でいたのを、彼女が見たらどう思うだろう。
 驚くかもしれないし、困惑するかもしれない。
 少なくとも何かしらの反応は見せるはずだ。
 だが、あの場面で妹紅はまったくそのような反応を見せなかった。
 つまりどういう事か。
 言うまでもない。
 妹紅が部屋に足を踏み入れた時には、すでに慧音の姿は元に戻っていたのである。
 どういう形であれ鈴仙の頑張りによって今回の問題は解決されていたのだ。
 残念ながら、その事実を本人は知らない。そしてこれからも知る事はないかもしれない。
 今までたくさんの事実が歴史の闇に飲まれたように、その事実もまた闇の中だ。



 こんな慧音先生もありではないでしょうか。
 ……ありな気がします。
 書いていて楽しかったです。
あめの
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コメント



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2.90名前が無い程度の能力削除
先生も鈴仙も可愛いかったです
3.100名前が無い程度の能力削除
ありそうでなかなか無いうどんとけーねの絡み
面白かったです
5.90名前が無い程度の能力削除
優曇華も何だかんだで幸せそうで泣けて来る。
慧音先生すらハッチャける幻想郷は今日も平和であった。
7.90奇声を発する程度の能力削除
可愛らしく面白かったです
9.100名前が無い程度の能力削除
みんな可愛かった
10.100名前が無い程度の能力削除
いいコンビだと思う。こういう二人の日常は読んでいて楽しいな。
11.100名前が無い程度の能力削除
酔っぱらった二人が面白すぎますw
13.100名前が無い程度の能力削除
なんて表せばいいかわかりませんがこういうの好きです
14.80名前が無い程度の能力削除
レーセン頑張れ
17.100名前が無い程度の能力削除
面白かったです。
18.100名前が無い程度の能力削除
ありですね! 
事件は重すぎず、キャラは可愛く、雰囲気を壊さない程度に小ネタを挟み、読了した後は何だかいい気分になれる
こういう日常系?のSSをちゃんと書けるのは羨ましい
19.90名前が無い程度の能力削除
夜風にあたりながら二人がはっちゃけるシーンが良かった
この二人の絡みはもっと増えていいよね
20.100名前が無い程度の能力削除
酔いに任せてはっちゃける二人が実に可愛らしかったです。
21.100名前が無い程度の能力削除
読みやすく面白いナイス短編でした。
24.100名前が無い程度の能力削除
面白かったです。良いオチだ…
29.100名前が無い程度の能力削除
面白かったです。
31.100名前が無い程度の能力削除
 好いお話でした。楽しめました。
32.90絶望を司る程度の能力削除
みんないいキャラしてましたw
妹紅の女子力の高さよな。
33.100名前が無い程度の能力削除
いいですね。すごく面白かったです。
34.100名前が無い程度の能力削除
こんな慧音……ありです。
40.100名前が無い程度の能力削除
それぞれのキャラがたってて、読んでてもすごく楽しい 
最高でした!
41.100名前が無い程度の能力削除
どんけね。そういうのもあるのか。
なんということだ。
42.90名前が無い程度の能力削除
すき
43.100名前が無い程度の能力削除
妹紅が可愛すぎて生きるのが辛い
45.100名前が無い程度の能力削除
いい幻想郷ですね!鈴仙と慧音のキャラがいい…
49.100名前が無い程度の能力削除
面白かったです
52.90ばかのひ削除
うーんとても良かった
慧音は不器用そうだもんなあ
55.100名前が無い程度の能力削除
慧音のキャラが良かった~
うどんちゃんには何かご褒美を上げたいw