8 Restart
七十六年前、さとりはある深刻な事件の解決のため、鬼側から協力の要請を受けた。
後に『持国の大火』として語り継がれることになる、未曽有の大火に関してである。
古明地さとりの仕事は、怨霊の管理だけではない。
それは表向きの仕事であって、他にも旧都という社会を円滑に回すための、いくつかの副次的な仕事がある。
その一つが、重大な犯罪における捜査活動と、犯人の検挙であった。
心を探るのは覚り妖怪にとっての十八番であり、鬼のような強力な妖怪が起こす犯罪に対処できるのは、より強い鬼を除けば、やはり古明地さとりだけだったのだ。
旧都の車輪がようやくバランスよく回り出した矢先だったために、鬼の上層部はその放火事件を重く見ていた。
封じられた火竜の印を盗むだけに飽き足らず、鬼の神経を逆撫でするかのような卑怯で挑発的な犯行。
間違いなく、旧都の支配層に恨みを抱いた輩の仕業だ。
一刻も早く被害を食い止め、犯人を挙げなくてはならない。そこで止む無く、地霊殿の協力を頼んだというわけだった。
旧都の治安を守るのは、当時のさとりも責務として考えていたが、一方でそれをチャンスとして捉えてもいた。
鬼の解決できない事件を、覚り妖怪の自分が解決することにより、今後の地底の運営において優位な立場に立てる。
また、あちこちから不審の目を向けられている現状においては、鬼の上層部とのパイプを強固にするのは、計り知れないメリットがあった。
あらかじめ事件の情報をまとめていたさとりは、一連の放火の犯人が、反社会的な力の弱い妖怪であると推理した。
人間社会の放火犯の心に多くみられる特徴として、社会的に弱い立場にあるか、あるいは身体的な弱さを抱えているというものがある。小さな火種からでも惨事を呼び寄せることのできる放火は、老人や少年、あるいは女性などでも大被害という大きな『成果』を生むことができるからだ。
妖怪の場合にもその法則は当てはまることが多いのだが、同時に何らかの自己顕示欲の強い者が犯人であることが多い。
事件の傾向から犯人の行動パターンを予測して、次に起こるであろう現場をいくつか特定し、そこで張り込む。
さとりはそういう考えを元に、鬼と共に捜査を行うことに決めた。
さとりの犯人像は、確かに当たっていたのかもしれない。
しかし事態は地霊殿にとって最悪な方向へと舵を切った。
捜査を始めたその日の午後に起こった火事の現場にて、さとりの妹である古明地こいしが、火竜の印と共に発見され、逮捕されたのだ。
さとりにとっては、寝耳に水であった。
地霊殿から滅多に出ることのないはずの妹が、そこで見つかったことが信じられず、半ばパニックとなった。
しかも尚悪いことに、彼女はさとりが予測した犯人像と、様々な点で一致していた。
旧都の中では下から数えた方が早い、力の劣った少女。
その一方で、心を読める覚りの能力を用いれば、監視の目をかいくぐって印を盗み、犯罪を起こすのも比較的容易。
動機は当然、覚り妖怪に対する憎悪への反発。
しかもこいしは逮捕される際に、鬼を何名か負傷させてしまったため、見廻り組の鬼達は、さとりの提出したプロファイリングを証文代わりに、無理やり彼女を投獄してしまった。
身内から容疑者を出したことにより、さとりは即刻、捜査本部から外されることになった。
そうでなくとも、憎き覚り妖怪が犯人だと知って殺気立った輩が、旧都の中枢には群れをなしている状況だった。
さとりが尋問役を無理に買って出ても、信じてもらえるような空気ではない。
立場は悪くなる一方。さとりは窮地に追い詰められた。
こいしがそんな大それた事件を起こすはずがない。
何かの間違いであってほしい。けれども圧倒的に不利な状況にある彼女を、どうやって救うことができる?
いやもう、取り返しのつかないところまで来てしまっているのでは。
打ちひしがれていたさとりに、さらなる追い打ちをかけたのは、またしてもこいしが犯した犯罪の一報だった。
それは当時の地底においては、放火以上の大罪。
こいしは――おそらくは無意識の力を使って――牢から脱走し、なんと地上を目指したのだ。
地底と地上は相互不可侵。覚り妖怪が地上に出現すれば、どのような騒ぎになるか考えるまでもない。
おまけに当時の幻想郷の情勢は、旧都に劣らず不安定だった。
彼女の暴走を止めなければ、自分達の立場はおろか、地底そのものが危うくなる。
当時のさとりには、選択の余地はなかった。
こいしの後を追って地上を目指したさとりは、決闘の末、何とかして罪に罪を重ねた妹を捕らえることに成功した。
その時、妹の第三の目はほぼ完全に閉じてしまい、意識を失い、間もなく無意識で動く全く別の存在に成り果てた。
彼女は再び鬼に引き渡すには、あまりにも無防備かつ危険な存在だったため、さとりは出来るだけ、引き渡しの時間を伸ばし、こいしの心を元に戻す術を懸命に探した。
ところが。事件はこの後に急展開を見せる。
なんと、すでに火事の起こっていた現場に向かう、こいしの姿を見たという目撃者が現れたのだ。
さらに、第二の火事における彼女のアリバイを証言する者も現れ、古明地こいしは偶発的に事件に巻き込まれたのでは、という説が持ち上がった。
だが結局のところ、それから七十六年が経っても、事件は解明されぬままだった。
地霊殿と鬼の関係は一気に悪化して、以後互いの陣営の溝は深まる一方となり、妹を失ったさとりは怨霊と灼熱地獄の管理という職務を果たしつつも、灰色の日々を過ごし続けた。
◆◇◆
「……以上が、私のいた世界の話です」
全てを語り終えたさとりは、小さくない疲労感を覚える。
未来の自分にまつわる事実を知ったこいしも、少なからずショックを受けているようだった。
[第三の目が閉じたままになるだなんて……そんなことになるなんて、私考えたことがなかったわ]
その点に関しては、当時のさとりも同じだ。
妹の身にそういったことが起こる可能性について、ずっと軽視していた。
覚り妖怪の歴史においても、非常に稀な例だったから。
[でも、姉さん。無意識ってなんなの? 意識はわかるけど、無意識なんて見たことない]
「……ええ。正直、私も貴方が目を閉じてしまうまで、無意識というものに関して真面目に考察する機会がありませんでした。でもそれは確かに存在していて、以前の世界の貴方がその無意識で動いていたのは間違いない」
無意識の定義は、その種族や立場によって異なっているようだが、さとりは単純に『第三の目』で追えない心の働きであると認識している。
たとえば、今日の自分の行動。朝起きて伸びをして、左右交互に手足を動かしてキッチンに向かい、特に考えずに選択したメニューを作り、気分に合わせてジャムの種類を選択。そのほとんどが、意識を読んで予測することができる行動なものの、元をたどれば無意識に従った結果なのである。
動物であろうと妖怪であろうと、無意識は持ち合わせており、そしてほぼ全てがそれ自体に関心を抱かず、意識の下で飼っている。ありとあらゆる生命にとって、非日常的な存在どころか、むしろ日常に根付いたものだ。
しかし、元来意識という最も直接的な自己表現を見慣れている覚り妖怪にとって、無意識というのは……強いて言うなら人間にとっての超音波や紫外線のように得体が知れず、本能的に距離を置きたくなる事柄である。
過去のこいしも例外ではなかったようで、伝えられた己の未来に怯えているようだった。
[この目が閉じちゃったら……私が、私じゃなくなっちゃうんだ……。姉さんのことも、みんなのことも、過ごした思い出のことも忘れて……」
妹の心に映ったイメージは、落葉樹だった。
瑞々しかった一本の樹から、葉が一枚一枚と落ちていく。
「でもこいし。貴方は、死んではいなかった」
さとりは、はっきり否定する。
葉が落ち切る前に、手のひらで受けるイメージを通して。
「死んでしまえば、意識も無意識も等しく消えてしまいます。でも以前の貴方は、意識は見えなくなってしまったけど、無意識をきちんと持っていた。意識がカップだとすれば、無意識は紅茶のようなもの。私達は自然と、無意識が一番安定するような器になるべく、人格を形作っている。それは私も、どんな妖怪であっても同じ。貴方の本質が失われたわけではないわ。その証拠に、食べ物の好みや、好きな服、行きたい場所などは変わっていなかった」
「でも、性格とか話し方は、全然違う私になったんじゃないの?」
「そうですね。私のことを『姉さん』じゃなくて『お姉ちゃん』と呼ぶようになりました」
[『お姉ちゃん』っ?]
素っ頓狂な声が届いた。
それから、こいしは一転、大笑いして言う。
[あはは、そうなんだ。じゃあ、私もこれから姉さんのこと、お姉ちゃんって呼んでみようかな]
「好きに呼んでいいですよ。貴方が元気になるのなら、どんな呼ばれ方をされようと構いません」
[うん、少し元気出た。ありがとう、お姉ちゃん]
よほど面白かったらしく、石の向こうの声はしばらく「お姉ちゃん、さとりお姉ちゃん」などと小さく繰り返していた。
一方、さとりは複雑な心境だった。
嘘を吐いたわけではないものの、こいしがはっきり変わってしまったのは事実だったし、今のままでは、たとえ目が再び開いたとしても、元の記憶を取り戻したり、同じ人格に戻る見込みはない。
世界そのものを器に変えた妹は、己の核となる無意識を自由にさせることに夢中になってしまっていたから。
実際、昨日までのさとりは――愚かにも墓まで建ててしまうほど――彼女が元に戻る可能性に望みを抱いていなかったのだ。
それでも、姉の励ましは、妹を勇気づけたようだった。
[でも、私はどうして地上に逃げ出したのかしら。私が放火の犯人じゃなくて無実だったなら、逃げたりする必要なんてないのに。それに逃げるなら、地霊殿に逃げた方がずっといいのに]
「……………………」
[そっか……姉さんは、それを確かめようとしてたのね]
「ええ……」
さとり自身、こいしが地上に逃げ出したことで、もしやあの子が犯人だったのでは、という疑念が一時は浮かんだ。
だが、彼女が無実だとはっきりした以上、それから妹に起こった出来事のことを考えると、なんとしてでも救いたいという願いが起こった。
そして、妹の心を完全に壊してしまった事実を消そうとし、もっとひどい未来を呼び寄せてしまった。
この世界では、こいしは己の意識ばかりか命そのものを失い、さとりは旧都で築いた己の地位を根こそぎ奪われているといってよい。
これほど劇的な変化が起こるとあらかじめ予測できていれば、もっと慎重に行動するよう肝に銘じていただろうに。
何層にも重なった悔恨の念に、さとりはとらわれる。
「こいし……私を恨んでも構わないわ。貴方にはそれだけ、ひどいことをしてしまったのだから」
[ううん。姉さんを恨んだりなんてしないわ。私のためにしてくれたことでもあるんだし」
涙が出るほどありがたい言葉だった。
今日まで見た悪夢の中の妹は、一度もそんなことを言ってくれなかっただけに、余計に心に沁みた。
[それより、これからどうすればいいのか考えないと]
「ええ、そうね。貴方が無実だということが判って、昨日までは安心していましたが……」
今は腰を落ち着けている暇もない火急の事態となっている。
こうなった以上、なんとしてでも元の世界に帰らなくてはならない。
「とりあえず、何がどう間違ってこうなってしまったのか、それをはっきりさせるつもりです。これからすぐ、できる限りの情報を集めて、元の世界に戻る方法を速やかに見つけ出そうと思います」
さとりは七十六年前の妹に、力をこめて宣言した。
「貴方の死ぬ未来など、私は決して認めない。きっと……必ず何とかしてあげるから」
◆◇◆
交信を切ったさとりは、一呼吸ついた。
すぐ側にあるシーツの乱れたベッドに飛び込んで布団をかぶりたくなる欲求を、何とか押し殺す。
なんて週末だろう。
時空を越えた交信でさえ驚天動地に値するといってもいいのに、別の世界に飛ばされることになるだなんて。
さとりはその手の理論に明るくない。
超ひも理論やワームホールと言われても、上手く詳細に説明できる自信はない。タイムパラドックスについてもだ。
いずれも専門書が地底では手に入りにくく、せいぜいお伽話に毛が生えたものくらいしか読む機会がないからでもある。
しかし、この際理論は今後の行動にあたっての最重要事項ではない。
万有引力しかり、エネルギー保存の法則しかり、万物の法則は理論で解き明かされる前に現実に生じているのが常で、この場合は自分の身に、それが起こってしまったということなのかもしれない。
ではなぜ起こったのか。
当然、過去の妹と交信して、過去に起きた出来事を変えてしまったから、と推測できる。
けれどもそれなら、どうして自分だけが、『未来が変わったということを自覚できている』のだろう?
枝分かれした未来へと伸びる道筋を、行き来する自由を与えてくれたのは何なのか。
――もしかして、この石の力なのかしら……。
さとりは、妹の遺品を見つめる。
黒くて重みがあって、時々淡い光の粒が生まれることを除けば、そこらに転がってるものと変わらぬ、ただの石だ。
しかしさとりは昨日からこの石に翻弄され、自業自得とはいえ、窮地に追い詰められている。
こんな小さな石だというのに、一体どれほどの力を持っているのか、全く計り知れなかった。
こいしにどこでこれを手に入れたかを、もっとしつこく聞いてみるべきだっただろうか。
だが原理も気になるが、元の世界に戻す方が先決だ。
なぜなら、こちらの時計が進んでいる間も、こいしの生きている時代の時計は進んでいる。
彼女が焼け死ぬまで、残りあと大体半日。
一秒でも惜しいこの状況においては、まず行動を起こさなくては。
「さとり様……」
石を懐にしまったさとりは、振り返る。
この世界のお燐が、不安げな面持ちで寝室の入り口に立っていた。
「今、誰とお話されてたんですか?」
「お燐」
さとりは彼女の元まで歩み寄り、
「ごめんなさい。一瞬で済むから」
そう言った直後、胸元の第三の目が一瞬、赤い光を発した。
「ひっ……」
お燐の体が、水を浴びせられたように跳ね、硬直した。
息を漏らし、後ろに倒れそうになった彼女を、さとりは慌てて支える。
「さ、さとり様……?」
「少し読ませてもらっただけ。体に害はないわ」
お燐の心から得た莫大な情報を頭の中で整理しながら、さとりは微笑んだ。
本来なら、この時代を過ごしていたもう一人の自分が積み重ねた情報をそっくり手に入れることができればよかったのだが、記憶には多かれ少なかれ人格が付随しているもので、そうした場合、もう一人の心が枯れて病んだ古明地さとりを己の中に置いておかなくてはならない。
あのまま許容していれば、精神が崩壊していたかもしれないため、緊急手段として、切り捨てていた。
「留守番を頼みます。私はこれから大事なものを取り返しに行ってくるから」
「あ、危ないことをなさるおつもりですか。でしたら、私は止めます!」
両腕を広げて、お燐はさとりの前に立ちはだかった。
今まで主人に一度たりとも見せたことのない、真剣そのものの表情を浮かべて。
じゃれ付くペットを諌めた経験はあるが、これは初の体験だった。
慣れない状況に困りつつ、さとりは言う。
「……散歩しに行くだけ、と言ったら信じてくれるかしら?」
「いいえ。旧都に行くつもりですね。今のさとり様は、『あの時』と同じ顔をしている。あそこは危険です。そして今の私達には必要のない場所です」
お燐のいう『あの時』の意味が、今のさとりにはわかった。
彼女からもらった記憶に、その出来事が鮮明に刻まれていたからだ。
ほとんど全てを失ったこの世界のさとりは、長らく復讐心を生き甲斐にしてきたらしい。
奪われたかつての家と地位を、死にもの狂いで取り返そうとしたようだった。
そして失敗し、敗者として、無目的に都の外で残ったペットと暮らすようになった。
情けないストーリーだ。ある意味、世界を相手に負け戦を重ねてきた覚り妖怪らしい末路でもある。
「お気持ちはわかります。確かにあたいも、さとり様が住んでた場所を奪われて、ずっと悔しい思いもしてきたけれど、分かったんです。みんな死んじゃうよりは、マシなんだって」
「………………」
「ここにはあの時あったものが何もないかもしれません。住んでる家は狭いし、食べるものも少ないし、一緒に生きていた仲間達も逝ってしまった。それでもここは、地底のどこよりも安全で、平穏です。それで充分じゃないですか!」
「………………」
「行かないでください! さとり様!」
悲痛に訴えるお燐に、さとりは微笑んだ。
七十六年前の自分なら、確かに覚り妖怪としてのプライドのためだけでも、十分動機に値したかもしれない。
でも、
「……それでも、行かなくちゃいけないんです」
今は違う。
古明地さとりがリベンジに向かうその理由は、他にある。
唇を噛んで涙を浮かべるペットを、さとりは抱きしめた。
「お燐……ありがとう」
万感の思いを、最少の言葉で伝える。
「違う未来であっても、貴方とお空は私の側にいてくれた。そのことを決して忘れはしないわ」
そして、さとりは屋敷を飛び出し、異世界の旧都を目指した。
9 Puppet
心は数時間しか過ごしていないのにも関わらず、体はそれを覚えているものなのだろうか。
知らない偽りの地霊殿であっても、離れることに多少の苦痛があった。
しかしジッとしているわけにはいかなかったし、お燐達を巻き込むわけにもいかない。
自分が犯したミスは、自分で解決しなくては気が済まなかった。
さとりは旧地獄街道の南端から、都の内に入り込んだ。
ここらは旧都とそれ以外の地底の境界となっていて、北東へ向かえば向かうほど、鬼をはじめとした強力な妖怪の住み処となっている。
かつては……というより昨日までは確かにその途中に、元の地霊殿の建っている中央街が存在していた。
――とりあえず、灼熱地獄跡を目指すのが手っ取り早そうね。
今の自分に必要なのは、この世界の情報。
そして覚り妖怪にとって、もっとも手っ取り早く情報を集める手法は、他者の心を読むことだ。
心が伝える情報は、一瞬にして膨大であり、その伝達速度は文字媒体とは比較にならない。
もちろん、昨日、今日生まれた妖怪の心を読んでも意味はなく、地底に長く住んでいて、なおかつそれなりの地位に就いている者であることが望ましい。お燐から得た情報は、事態を速やかに解決してくれるレベルのものではなかったものの、少なくとも取っ掛かりにはなりそうだった。
今は灼熱地獄跡の管理に携わっているのは、鬼の中の一握りであって、それらが旧都の実権を握っているということだ。
そうなった経緯も、今どういう運営が行われているのかもわからないという。
ならば、その鬼達と接触し、心を読むことができれば調査は捗る。
かつて地霊殿が建っていた、旧都の中心部をめざし、さとりは飛んだ。
が、数間行かないうちに、すぐに異常に気付く。
静かすぎるのだ。
少なくともさとりの知っている旧都は、移動する際に自分が立てる音に気を遣う必要など無用の場所だった。
常に賑やかで鬼火の絶えることのなかった眠らぬ街であり、場末であっても、必ず妖怪の姿は目についたものだ。
ところがこの辺りは、街全体が死んだように灯が見当たらない。
中央の煌びやかな輝きに全て吸い取られてしまったかのようで、さとりの知っている旧都とは、真逆の状態になっている。
ようやく、通りにぽつんと立つ巨躯を発見し、逆にさとりは安心したほどだった。
ところが、
――鬼……?
見たことのない、その異質な存在に、さとりは眉をひそめた。
角があったから、頑強そうな身体だったから、はじめその影は鬼のように見えた。
が、それは旧都で数限りなくすれ違ってきた鬼とは全く別の妖怪だった。
梵字の書かれた白い面をつけ、全身を鎧具足で覆い、槍を片手に棒立ちしている。
まるで何かの番兵のようだが、通りには蔵のような、その妖怪が守るべき類のものは見当たらない。
さとりはスピードを緩めて、慎重に接近し、試しにその妖怪の視界に入る位置に移動してみた。
相手は感情の起伏を見せぬまま、面に開いた穴から無機質な光をさとりに向けている。
聴診器を当てるような心持ちで、さとりは第三の目を向けてみた。
闇夜の砂の大地に建つ、廃屋のイメージが見えた。
何とも平坦で、動きのない心だ。
麻酔を与えられた病人が、このような状態に陥ることがある。
しかしどちらかというと、これは病気の鬼ではなく、ひどく単純な式神に近い存在に思えた。
どのような命令が下されているのかは、さとりには見当がつかない。
いずれにせよ話しかけるのをためらうほど、不気味な鬼の武者だ。
その妖怪から得られる情報は何もなさそうだったので、さとりはさらに街道を進むことに決めた。
ところが、
――あそこにもいるわ。
全く同じような妖怪が、やはり通りで何もせずに突っ立っている。
遠くに視線を向けてみると、その向こう側にも同じ背格好の妖怪が見えた。
察するに、旧地獄街道に一定の間隔で立たされているらしい。そして、他の妖怪の姿は全く見当たらない。
さとりの勘が、警戒を促してきた。
以前の旧都を歩く際に体感する物騒な気配とは、また異なる緊張感がある。
こんなところで引き返すわけにはいかなかったものの、慎重に動くのに越した事はない。
さとりは、なるべく異形の鬼の視界に入らぬよう、先を急いだ。
やがて、ちらほらと移動する妖怪の影が見えてきて、さとりはホッとした。
が、安心していられる時間はほんの一時に過ぎなかった。
街道を移動する妖怪はいずれも、荷車を押したり、あるいは引いたりして運んでいた。
どの荷台も山ほど物を載せている。血の滴る生肉、匂いの強い果物、蓋をしているのにむせ返るような酒樽、目も眩まんばかりの金銀財宝。
なんと、奴隷らしき老若男女を積んだ荷車も発見した。あるいはあれも、食糧なのだろうか。
妖怪達はいずれも、北を目指していた。
飛ぶ高度を上げて周りを見ると、他の通りを行く妖怪も、同じ方角に向かって荷を運んでいる。
彼らの行軍する先に顔を向けたさとりは、
「なっ……!」
と声を漏らしたきり、絶句した。
通りの先にあったのは、白い、現実離れした規模の城壁だった。
元の世界の地霊殿が建っていた丘まで見通せないほど高く、旧都の中心街をすっぽり覆ってしまうほどの幅がある。
無論、かつての旧都には存在していなかった建造物である。
ここに来るまでは、都の輝きによって空気が白んでいるとばかり思っていたが、まさか一つの壁だったとは。
近付くにつれて、壁はいよいよ視界いっぱいに迫ってきた。
そして、さとりの行く街道の終点には、巨大な青銅の門が待ち構えていた。
門の出入り口には鬼の警備兵らしき者達がうろついており、荷車の点検作業を行っている。
さらに城壁の内側に立つ、黒い監視塔が、赤い光を城壁の周囲に照射していた。
開いた口がふさがらない。悪夢もここに極まれり、だ。
状況を見たままに解釈するなら、中央街へ食料や貴重品などを運ばせているらしい。
妖怪達は苦しいとも辛いとも思わず、働き蟻のように従順な精神で、従っていた。
管理社会と選民政策。その典型的かつ分かりやすい光景だ。
分かりやすすぎて、何かの冗談に思えてきてならない。そして以前の旧都とは、その本質に海と山ほどの差がある。
――甘く見ていたかも……。
さとりは冷や汗を禁じ得なかった。
立ちはだかる巨大な壁は、物理的な圧力もさることながら、その妖気も相当なものだった。
おそらく何らかの大規模な術がかけられていて、外の街からの侵入を防いでいるのだろう。
ここまでくると結界、というより一つの大妖怪と呼んでも差し支えない。
その壁の向こうには監視塔、そして壁の周囲には仁王のごとき鬼達が周回している。
素直に入れてくれそうな気配は微塵もなかった。
しかしお燐からの情報によれば、この向こう側に旧都の支配層がいるという。
時間が差し迫っている以上、悠長に計画を練っている暇もない。何とかして、中に入る手段を編み出さなくては。
物影に隠れたさとりは、壁をじっと睨んだ。
とりあえず、適当な場所から乗り越えるのは危険に思えた。
監視塔の光が絶えず側面を這い回っているし、壁自体にどんな術が仕掛けられているかもわからない。
となると、どうにかしてあの開いた門から中に入るというのが、現実的な策のような気がしてくる。
例えば荷車の運び手にまぎれてみてはどうか。
しかし今の自分の格好は、荷を運ぶ妖怪達とはだいぶ毛色が異なっている。
こんな細い腕であそこに混じって車を押していれば、呼び止められても不思議ではない。
それでは、荷物に混じって侵入するのはどうだろう。
特に奴隷を積んだ車は、紛れ込むのに適当に思えた。
だが、積荷は番兵によって入念なチェックを受けているようだ。バレればすぐに拘束されてしまう可能性がある。
できれば、もっと確実な方法にしたい。
目を閉じた妹であれば、こんなことに悩まなくとも簡単に侵入できるのだろうが……と、さとりはかぶりを振る。
目を開けた姉の武器は、ほとんど一つしかなかった。
さとりは結局、その己の持つ最大の武器と、今日まで磨いた交渉力に賭けてみることにした。
――おそらく、あれが責任者でしょうね。
一人だけ、形式の違う鎧で身を固めた鬼を見据える。
下手にこそこそとした態度で出向けば、逆に警戒心を煽ることに繋がるかもしれない。
さとりは第三の目を見咎められぬよう、服の内に隠し、堂々と門の方まで歩いて行った。
両手を左右に垂らし、敵意がないことを表しながら。
鬼は面をつけた顔を、ゆっくりとこちらに向けた。
そしてさとりが話しかけようと思っていた距離まで、あと数歩というところまで近づいた時。
その鬼は無言で、片手を天に伸ばした。
耳をつんざくような音が、広場に鳴り響いた。
側の荷車を運んでいた妖怪が悲鳴をあげ、来た道を大急ぎで引き返していく。
さとりが訳もわからず、困惑していると、
「……!?」
『目』に火が付いたような痛みが走り、咄嗟に地面に転がった。
その一瞬前に、こめかみを熱源がかすめていた。
寸前に察知していなければ、頭を撃ちぬかれていただろう。
『下層民の重大な越権行為を確認した。これより、強制掃討を開始する』
聞く物を威圧し、震え上がらせる声が天から降ってくる。
放送が終わる前に、さとりは荷車の陰に逃げ込んでいた。
直後、周囲に光弾の暴雨が降り注いだ。
己の妖気を操り、慣れない盾を作って、さとりは死にもの狂いで蜂の巣になるのを防ぐ。
本物の殺意だ。
スペルカードルールが地底に伝わって以来、久しく体感していなかった緊迫感。
しかも、弾幕はさとりだけではなく、通りにいる番兵を除いた、全ての妖怪を狙っていた。
積荷だった奴隷達まで悲鳴を上げながら、門から不格好な走り方で遠ざかっていく。
それらは広場から街道へと戻る前に、一人、また一人と立て続けに、監視塔からの射撃、あるいは番兵の鉄棒によって無残に殺されていく。
やがて、一斉掃射が中断した後、辺りは血の肥やしで溢れかえっていた。
「何をしているのですか、貴方達は!?」
無慈悲かつ無差別な攻撃に激昂したさとりは、荷車の陰から怒鳴る。
直後、背中に衝撃。バラバラになった荷車ごと、十数メートルも吹き飛ばされ、地面を転がった。
聴覚が耳鳴りで、視覚が涙で、残りは痛みで使い物にならなくなる。
唯一無事だった器官、第三の目が、こちらに向かって迫ってくる鬼の一団を捉えた。
心に浮かんだ攻撃色は、焼けそうになるほど熱く、痛い。
「ま、待ってください! 私の話を……!」
ぶん、と鉄棒が振り下ろされた。
あらかじめ予測していたことで、叩き潰される間際で回避できたものの、地面を震わせた衝撃だけで、さとりの身体は宙に浮かんでいた。
反転し、背中を向け、鉄棒の追撃が起こす風を首筋に感じながら、全力で飛び離れる。
無理。相手が悪い。これでは交渉に入る前にパンケーキにされる。
すぐさま方針を転換し、さとりは安全な場所まで撤退することに決めた。
旧都の市街は大混乱となっていた。通りで何もせずに立っていた歩哨役の鬼達も、いつの間にか動き出している。
そして、中心部から逃げてきた妖怪達を、やはり無差別に襲っていた。
死んだと思われていた街に、これだけの妖怪が息をひそめていたというのは驚きだったが、それにも増して目の前の光景が非現実すぎて、平静を失いそうになる。
スピードに自信のないさとりは、喧騒の中を低く飛んでいた。
上空は障害物がないので広々としているものの、逆に敵に見つかりやすいと思ったのだ。
しかし今も、後ろからこちらを正確に追跡してくる心が三つある。
おそらく門の前にいた番兵たちだろう。何とか振り切ることができればいいのだが、ここに来て土地勘の無さが裏目に出ていた。
――どこか隠れる場所があれば……。
と思って、小さな路地の上をまたいだ瞬間。
にゅっ、とそこから出てきた手に、足を掴まれた。
さらに、とんでもない力で引っ張りこまれる。
「きゃっ!?」
さとりは悲鳴を呑みこんだ。
反射的に相手を打とうとするが、その手首もがっちりと掴まれる。
[声を立てるな]
相手は無言で、さとりの脚から手を離し、人差し指を顔に当てた。
もっとも、その顔は上で徘徊している鬼と同じ、覆面のようなもので隠されていた。
やがて頭上を三つの鬼の気配が通過していき、さとりの背中が粟立つ。
だが、それらは問題なく去っていき、こちらに戻ってくる様子はなかった。
さとりは改めて、目の前の覆面を凝視する。
――味方? それとも敵?
外見だけでは判別不能だ。
しかしこの妖怪にたった今、命を拾い上げられたのは確かだった。
「助かりました。感謝します」
[古明地さとりだな]
さとりは瞠目する。
「どうして……?」
[その第三の目、間違いない。まさか、あんな無茶をしでかすとは思わなかったが]
くっくっく、と覆面は忍び笑いを漏らした。
[だが、早くこの街を出た方がいい。間もなく『奴ら』の作戦が始まる。ここら一帯は血の海になるだろう。わざわざ巻き込まれることもあるまい]
覆面の妖怪は立ち上がって、頭をぐるりと回し、
[お前のおかげで、門の警備が手薄になった。せいぜい利用させてもらう。忍び込むつもりだったが、この様子なら真っ直ぐ突っ切ったほうが早い]
「待って。貴方は壁の向こうに行くつもりですか」
[その通り。七十六年前の借りを返しに行く]
「それなら私も同じです! 協力させてください!」
さとりは頭を下げて言った。
しかし、覆面はすげなく首を振る。
[悪いが断る。力を借りるつもりも、貸すつもりもない]
「私にも、どうしても向こう側に行かなくてはいけない理由があるんです。どうかお願いします。早くしないと……」
妹の命が……。
そう言いかけて、さとりは口をつぐんだ。
こんな話、誰が信じてくれるだろう。遥か以前、死ぬはずがなかったのに死んでしまった妹を、再び現代に甦らせるなど。
そこで不意にさとりの頭に、網膜が伝える情報とは別の映像が浮かぶ。
今自分達が身を潜めている裏路地の、鮮明な眺めだった。
さらにイメージが一定のスピードで移動し始める。
裏路地を出てから、視点は南西に向かって複雑な街路を移動し、一軒の家屋で止まった。
[読み取ったな]
「は、はい」
[その家に行け。半分に欠けた鬼瓦が目印だ。庭の井戸をよく調べてみろ。後はせいぜい仲良くやりな]
覆面の妖怪は、さとりが呼び止める間もなく飛び去った。
直後、絶大な妖気の塊が頭上に出現し、さとりは思わず地面に伏せた。
そのまま妖気の主は、旧都の中心部を目指して、それこそ彗星のごとき勢いで飛んで行った。
広範囲を周回していた鬼の兵士達が、その光に引かれるように集まっていく。
残されたさとりは逡巡していたが、ここは相手の助言を信じることにした。
嘘を吐いている気配はなかったし、それに再びあの悪夢の門に戻る気にもならない。
裏路地から表通りに顔を出し、番兵がいないことを確認してから、さとりは迅速に移動した。
街のあらゆる場所から、心の叫びが『第三の目』に集まってくる。
逃げる者達、戦う者達、隠れる者達。有象無象。
自分が起こした火種が、旧都中を巻き込む炎に転じたようだ。少なからず罪悪感を覚える。
――いいえ、むしろこれこそ旧都の正しい姿。あんな旧都を、私は受け入れられない。
正義心からくるものなのか、ただの言い訳なのか、ともかくさとりの闘志はまだ醒めていなかった。
イメージの地図に従って進んでいると、やがて一軒の家屋の前にやってきた。
――この家かしら……。
家屋というより廃屋だったが、確かに目印だといっていた、顔が半分の鬼瓦が屋根についている。
しかし誰も住んでいないらしい。
あの覆面妖怪は、庭にある井戸を調べてみろ、と言っていたが。
さとりは塀を乗り越えて、庭へとお邪魔した。
閉まっていた井戸の蓋を開け、中を覗き込んでみる。
真っ暗闇だ。底が見えぬ程深い。
しばらく身を乗り出して覗いていると、さとりの前髪が持ち上がり、ぷぅんと湿った苔の匂いが鼻をかすめた。
「もしかして……」
さとりは意を決して、穴の中に飛び降りた。
10 Resistance
古井戸の穴は相当深く、さとりは一分ほど緩やかに落ち続けた末に、ようやく足場に到達した。
幸いなことに、底に水が溜まっていたり、蟲の大群が待ち受けているようなことはなかった。
しかし予想した通り、ただの涸れ井戸ではないということも明らかだった。
闇の中に簡単な術で光源を作り出してみたところ、壁にぽっかりと横穴が開いてるのが見つかったのだ。
おまけに奥から風が吹いてきている。上で感じた微風はここから流れてきたらしい。
――この穴の中を進めば行けば、中央街に地下から潜入できる?
……というわけでもなさそうだ。
もしそうだとすれば、あの妖怪がこの道を使わない理由がないだろうし。
となると、一体奥には何が待ち受けているのか。
他に当てがなかったため、仕方なしに、さとりは穴の中を進むことにした。
さほど歩かぬうちに、人一人が通れるほどだった穴は上下左右に広がっていき、やがては象が通れるほどの通路となった。
地面は湿っている。とはいえ、靴の内側まで染み込むほどではなく、つまずくような起伏もない。
気分はほとんど、知らない場所に連れてこられた迷子のようだったが、闇の中を進むにつれ、思考がクリアになってきた。
表の騒動で得た動揺が、ようやく治まってきたのだろう。
やはりどんなに強がっても、自分は机の前がお似合いで、荒事には慣れていないのだ、と思う。
それにしても、あの旧都。
徹底された管理社会と粛清。とても鬼の都とは思えない 地上の妖怪の山……いや、それ以上なのではないか。
強く、選ばれし少数の妖怪が都の益を独占し、多数の妖怪を支配する。
自由を尊ぶ地底の妖怪にとっては、全く新しいタイプの地獄といっていい。
元々、鬼は地上の束縛を逃れてここに都を築いた。
混沌を愛するあの粗暴な妖怪達が暴走せぬよう監視するのも、地霊殿、すなわち古明地さとりの役割の一つだったのだ。
しかしこの未来は、さとり自身も唖然とするほどの管理社会が築かれているようだった。
一体七十六年前にどんな蝶が羽ばたけば、こんなディストピアが生まれるのだろう。
「………………」
さとりは足を止めた。
闇の中をじっと見つめ、もう一度、今の独白を振り返り、吟味する。
考え得る限り、この世界に導かれた可能性は、一つしか浮かばない。
すなわち、
――こいしがあの時地霊殿に帰らず、火事を見に行っていれば……この未来は起こりえなかった。
だが違う行動を取っても、結局こいしは事件に巻き込まれている。
しかも今度は、灼熱地獄の業火に焼かれるという最悪この上ない結果に繋がった。
これは本当に偶然だろうか?
妹がどうあがいても不幸に陥る星の下に生まれてきた、というなら話は別だが、それよりも妥当な推測は……。
再びさとりが歩き始めた、その瞬間。
ヒュルルルルルル……と何かが空気を割いて落下してくる音がした。
攻撃の意志を感じ取ったさとりは、すぐに地面を蹴って、その場を離れる。
とんでもない勢いで降ってきて、ヒュゴゥン、とさとりの頭部があった位置で急停止したそれは、岩でもギロチンでもなく、
「…………桶」
闇の中にぼんやりと映るその姿の、見たままの形を言葉にする。
子供がすっぽりと入れそうなまでの大きな木桶から、綱が上に伸びている。
さとりが桶を観察していると、その中からひょこんと二つの緑色のおさげが飛び出した。
続いて可愛らしい童女の顔の上半分が現れたかと思うと、大きく開いた二つの目が、こちらを一呼吸ほど見つめ……。
ピィイイイイイイイ!!
細く鋭い音が、洞窟内を反響した。
「敵襲――!!」
面食らっていたさとりの前で、その釣瓶落としは顔を真っ赤にして、大声で叫んだ。
「敵襲、敵襲、敵襲、てきしゅー!!」
ガンガンガン、と桶を鳴らしながら、少女は急上昇していく。
すると間もなく、さとりの進んでいた道の奥から、無数の足音が反響して近づいてきた。
黄色に赤、青、そして緑。闇夜で燃える眼光は、妖怪特有のものだ。
「待ってください!」
機先を制し、さとりは自ずから呼びかけていた。
「貴方がたに危害を加えるつもりはありません! こちらの話を聞いてください!」
迫りくる集団が停止し、わずかな動揺が走った。
表の鬼の兵士達と違って、少なくとも言葉は通じる者達のようだ。
ただ一人、全く聞こえていてない様子で、得物を持ったまま飛びかかってきた者がいたが。
「ケァ――ッ!!」
気合の声を上げ、一匹の妖怪が翼を広げて迫ってくる。
そのボサボサ頭を見て、さとりは目を剥いた。
「お空!?」
叫んだ瞬間、飛びかかってきた地獄鴉は思いっきり体勢を崩し、その場に泥を撥ねさせながらすっ転ぶ。
そのまま、地面の上で溺れているような器用な動きを披露してから、顔を上げ、
「さ、さとり様っ! どうしてここにっ!?」
[ヤバい! せっかく会合の前後はお酒呑んでバレないようにしてたのに!]
相当動揺しているらしく、お空はまだ立てないでいる。
しかし、驚いているのはさとりも同じだった。
そもそも彼女は、屋敷で二日酔いで寝ていたのではなかったのか?
二人は全くの隙だらけだったが、周りの妖怪達も事態を把握しかねているようで、得物を持ったまま動かなかった。
よく見ると、土蜘蛛、橋姫、釣瓶落とし、他にも色々と顔ぶれがバラエティに富んでいる。
妖気の劣った鬼くずれなども混じっているようだ。
両陣営が膠着状態に陥っているさなか、ひたひたと一人分の足音が聞こえてきた。
気色ばんでいた妖怪達が、奥から順に道を開けていく。
彼らを二つに分けて姿を現したのは、つなぎの茶色い作業着に身を包んだ、女の土蜘蛛だった。
砂色の髪を一つにまとめ、顔にはごついゴーグルをかけている。
「……こいつは驚いた」
カチカチカチ、と彼女はゴーグルのつまみを動かし、絶滅したはずの昆虫を発見したかのような口調で言った。
「古明地さとり、お目にかかるのは七十年……いや、七十六年ぶりだわね。風の噂で、廃人同然になったと聞いてたけど、ぴんぴんしてるじゃないのさ」
さとりの記憶の中で、彼女の心の波長が、ある妖怪と部分的に一致した。
さほど付き合いが深かったわけではないが、名前は知っている。
黒谷ヤマメ。旧都にも稀に顔を出していた、地底の風穴に住む妖怪だ。
さとりがいた未来では、都に住む妖怪、それ以外に住む鬼、双方に顔が聞く情報通だった。
「なるほど……」
さとりは改めて、周囲の顔ぶれを見渡して言う。
ようやくこの集団の正体に見当がついた。
「察するに、ここは中心街に対する地下抵抗組織、でしょうか」
「ようこそ我らがアジトへ」
芝居がかった仕草で手を広げ、土蜘蛛は言う。
「どうやってここに来たんだい? うちのメンバーと知り合いらしいが、後をつけたのかな」
「いいえ」
さとりは首を振って、正直に事情を明かす。
「親切な覆面の妖怪に、秘密の入り口を紹介してもらいましてね。ここに来れば中央街に行けると聞いたもので」
ぴくり、とゴーグルの上に乗った眉が動く。
土蜘蛛は無言だったが、心の声はしっかり伝わった。
[あんにゃろ……とんでもないもん寄こしやがった。こっちはこっちで準備があるっていうのに]
その声から察するに、この妖怪はあの覆面妖怪に心当たりがあるらしい。
しかし、彼女は肩をすくめ、
「残念だけど、そいつは情報に食い違いがあるようだ。速やかにお引き取り願おう……と言いたいところだが」
分厚いゴーグルの奥に一瞬、不穏な光が見えた。
取り囲んでいた他の妖怪も、寝かせていた毛を逆立てるかのように身構える。
「そういうわけにもいかないねぇ。うちらの計画の邪魔にならぬよう、ここで大人しくしていてもらうか」
[あるいは、永遠に大人しくしてもらうか、だけど]
さとりも自然、半眼となった。
相手はあえて心を読ませることで、こちらの恐怖を煽っている。
覚り妖怪と対峙した経験があるらしい。油断はできない。
不穏な気配を感じ取ったのであろうお空が、さとりの前で立ち上がり、
「みんな! さとり様は悪い妖怪じゃないわ! 事情を教えてあげれば協力してくれるはずだから! 仲間に入れてあげて!」
お空は背中に主人を庇いながら、必死に弁護する。
しかし、妖怪達の間に好意的な表情を浮かべた者は、一人もいなかった。
「そうは言っても……お空ちゃんよ。覚り妖怪っていうのは、他者の心を覗きこむことはあっても、己の心を開くことはないってのが専らの評判だぜ」
「そうね。こんな状況で互いを信じるなんて不可能だわ」
「否定はしません。私の一族は、代々根っからの卑怯者ですから」
お空の肩に手を添え、再度彼らと対峙しながら、さとりは言った。
「しかし、それでも信じてもらいたい。そして許されるなら、手助けさせてほしい。まずは私の話を聞いていただけませんか。その内容が気に入らなければ、拘束するなり、煮るなり焼くなりして結構です」
できる限りの誠意でもって、説得を試みる。
妖怪達は思案気に顔を見合わせた。
心から敵意は消えているものの、それでもさとりのことを受け入れがたく思っているのは明らかだった。
しばらくして、中央の土蜘蛛が、手を叩いて声を張り上げ、
「ようし、あんた達。この一件は私が預かる。もう時間がないんだから、ちゃっちゃと支度をし。お空ちゃん。あんたも行った行った」
すると集団は、ぶつくさと文句を言いながらも解散し、それぞれ暗闇の中に戻っていった。
お空も名残惜しそうに、さとりの方を何度も振り返りながら、彼らと一緒に去っていく。
ただ一人残った妖怪が、ちょいちょいと指で別の方を示し、
[奥で話そうか。歓迎はできないけど、そっちの用件とやらは聞いてあげるよ]
◆◇◆
二分ほど歩くと、急に広い空間に出た。
かつての地霊殿の玄関口かそれ以上の広さがあり、灯りが乏しいせいか余計に広々としている風に見える。
そして騒がしい。あちこちに設置された灯火の側で、先程の妖怪達が忙しなく、何らかの準備を執り行っていた。
熱気も相当なものだが、それを凌ぐ切迫した感じが伝わってくる。
案内されたさとりは、広い空間の壁に備え付けられた、簡素な造りの階段を上った。
その先には、岩の壁から張り出した足場があり、二人並んで歩くことができるようになっていた。
一階にあたる場所で戦闘の準備をしている妖怪達も見下ろせる。
刀を念入りに砥ぐ者達。武器を身に着けて支度をしている者達。
水を天秤棒で運ぶ者達。壁に貼られた地図の前で言い合いをしている者達。
上から眺めると、その働きぶりは一見乱雑なようでいて、こなれた動きをしており、まさしくゲリラ戦士達の隠れ家を覗いているのだと納得させられた。
さとりは前を行く土蜘蛛の背中に尋ねる。
「貴方がここのリーダーをしているのですか?」
「まさか。私はただの穴掘り役。今他に誰もあんたの相手できるやつがいないくらい、準備で立て込んでるだけよ」
「それはわざわざ恐れ入ります」
「ん、恐れ入ってくださいな。よりによって一番忙しい時に、一番厄介なお客さんが来るんだから、上手くいかないもんだね世の中は」
ひらひらと手を動かして、土蜘蛛は軽口を叩く。
しかし心の声のトーンは、意外にも冷静だった。
[あんたに隠してもしょうがないから教えるけど、これから中央街に突入する作戦を決行するんだ。成功しても失敗しても、どっちかの陣営は自然解体するだろうね]
さとりはピリピリした空気に納得した。
この土蜘蛛の言う通り、本当によりによって一番忙しい時に、一番厄介な客としてやってきてしまったらしい。
しかし準備する面子の中に、身内であるお空も混じってきちんと働いているということが、やはり意外に思えた。
様子からすると、昨日今日集会入りしたわけではないようだが。
「あの覆面の妖怪も、ここのメンバーだったのですか?」
「それも違う。共闘している、とも言い難い。利害関係が一致してるから、たまに情報交換してるくらいだね。あんたをここに送り込んだ真意までは、わかりゃしないけど」
やがて、下の様子が一望できる、岩壁の縁の部分に連れてこられた。
ピカピカに磨かれた岩というワイルドな椅子を薦められ、さとりは大人しくそこに腰を下ろす。
そして、雑談を抜きにして、本題を切りだした。
「先程も言いましたが、私は中央街に入る方法を求めて、ここにやってきました。ですが、もし貴方がたの誰かが、すでに私が欲しがってるものをお持ちだというなら、その必要もなくなるかもしれません」
「ほう。面白そうな話だ。一体全体、何が欲しくて、わざわざこんな地下深くに?」
「今の旧都を支配している者達に関する、全ての情報」
それは、過去の謎を解くための、最重要の手がかりに他ならない。
ヤマメはゴーグルを外し、服の端でフレームを拭きながら言った。
「そりゃむしろ私の方が知りたいね。ここらにいる古株の連中も、はっきり言って全然わかってないんだ」
「私が地霊殿を失った後、何らかの決議があって、何者かが灼熱地獄の管理を引き継いだのではないのですか」
「そうか。そこら変の事情もあんたは知らないのね。決議はあったんだろうけど、それらは全て鬼の上層部の間で極秘に進められたものだった。内容は大まかに言うと、灼熱地獄跡に新たな管理者を置き、数名の関係者を除いて一切の立ち入りを禁ずる。まぁ、地底でそれについて知ってんのは、当時中枢にいた鬼達を除けば、よほどの情報通か……あるいは閻魔様くらいか」
さとりはハッとなった。
そうだ。元々地霊殿における怨霊管理の仕事は、是非曲直庁から与えられたものだ。
もし新たな鬼が、その役割をこなすのに値しない存在なら、閻魔は決して黙っていないはず。
ということは、
「現在の支配層は、怨霊と灼熱地獄の両方を抑え込むことに成功し、今に至るまで問題を起こしていないというわけですか」
「ん。それだけなら、旧都の外に住んでる私らにも、ありがたい話だったけど、おまけについてきたのが大問題でさ」
土蜘蛛は組んでいた腕を解いて、指を一本、上に差し向けた。
「あれよあれよという間に、今話してる私らの頭の上に乗っかってる、とんでもない負の帝国ができちまいやがった。選ばれし鬼による徹底した支配。外様の妖怪は搾取され、中央の鬼は権益を独占する……まるでどこぞの人間様の歴史のようだけど、地上も是非曲直庁も、この七十年間ずうっと動く様子がない。つまり、地上にいるであろう博麗の巫女さんも、この世界の変貌を異変としては捉えていないみたいね」
さとりにはその理由に心当たりがあった。
ヤマメも肩をすくめ、その予想を裏付けることを述べる。
「要するに、地底が地上その他に迷惑をかけずに『安定』してさえいれば文句もいえないわけさ。元々地底のことは外に危害が及ばぬ限り……」
「……地底の者だけで解決する。私があそこに着任した時のまま、その取り決めは変わっていないのですね」
「そゆこと。でも連中の腰が重くなるのは、きっとそれだけが理由じゃない。単純に今の中央に居座っているのが、罰したり退治したり滅ぼしたりするには、あまりにも手強すぎる妖怪だからだと思うね」
続く、声の調子を落とした土蜘蛛の語りには、少なからぬ畏怖の念がこもっていた。
「灼熱地獄を一人で監視してのけ、なおかつあらゆる強者を屈服させて鬼の帝国を築き上げた、稀代の英雄が相手じゃ誰だって及び腰になるさ」
「一人?」
さとりは瞠目した。
「そんな妖怪が、今もなお正体不明? 信じられません。それほどの実力者であれば、事件の起こる前に地底で噂になっていてもおかしくないでしょう」
「私も詳細は掴めてないし、もしかしたら有名人だったのかもしれない。鬼の四天王の誰かか、あるいは側近の誰かか……でも腕力だけじゃあ怨霊の対処も灼熱地獄の管理も、そしてこんな帝国を築くこともできやしないだろう。何か秘密があるのは間違いない」
そこで、ヤマメが意味ありげな目付きになって言った。
「七十六年前、あんたのお屋敷が燃えてなかったら、こんなことにはならなかった、と考えるのは私だけかしら」
「それは……」
どういう意味、と言いかけて、さとりは言葉と一緒に鉄棒を呑みこんだ風となった。
そうだ。ことの発端は、持国の大火だ。その帰結として地霊殿が燃えてしまい、地底の頭がすげ変わった。
今まで、さとりも鬼達も、あの一連の放火事件を、無差別な凶悪犯罪と見なして調査していた。
しかし犯人の目的に、始めから地霊殿が入っていたとしたら?
導かれた答えにさとりは愕然となり、動悸が激しくなる。
そうに違いあるまい。この世界は、その犯人が目的を達成し、築き上げた理想郷なのだ。
元の歴史では、こいしがそれにイレギュラーな形で巻き込まれることによって、計画が頓挫したのでは。
つまり、
――こいしを死なせた輩が、この世界に王として居座っている。
どろどろと焼けるような痛みが腹の内に生じ、顔のあたりまで立ち上ってきた。
血がにじむほど拳を握り込み、酷薄な口調で、さとりは言う。
「その政権を、まさに今これから、貴方がたは転覆させようとしているのですよね」
「無謀だと思うでしょ? 私も正直そう思う。相手は鬼だ。しかも数は間違いなく二千を超えている」
「私も実行部隊の中に加え、灼熱地獄跡まで連れて行ってください」
さとりはここにきて、はっきりと申し出た。
「正直私だけでは、あの城壁を逆立ちしても乗り越えることはできません。でも貴方達の力を借りれば、中に入れる可能性がある。七十六年越しに、ようやく見えた希望です。逃がすことはできない」
たとえこの場で断られたとしても、引く気はなかった。
時間に余裕はない。このチャンスを逃せば、もう二度と機会は巡ってこないかもしれない。
これが自分に残された、こいしを助ける唯一の道だと確信していた。
「……聞いていいかしら」
抵抗軍の窓口役の妖怪は、あるかなしかの笑みを浮かべて口を開いた。
視線をさとりの顔から動かさぬまま、訊ねてくる。
「今、私の心を読んでる?」
「いいえ」
「その気になれば、私の頭から情報を好きなだけ抜き取れるんじゃないかと思ってたんだけど」
「そうしなかったことも、私が提供できる信頼の証の一つです。それに第一……」
さとりは己の第三の目を、別の方に向けた。
「あんなに『うるさく』されては、ろくに貴方の心を読めたものではありません」
いつの間にか、支度をしていた妖怪達の動きは止まっており、全ての面子がこちらの様子を窺っていた。
やれやれとかぶりを振り、沈黙している下界に向かって、ヤマメは燃料を投下する。
「おーい、あんた達。言いたいことがあるなら喋ってどーぞー」
すかさず、凄まじい罵詈雑言が、心の声と二重音声になって、二階まで跳ね返ってきた。
「ふざけんな!! 承知できるか!!」
「ポッと出がデカい面してんじゃないわよ!!」
「そんなひょろ腕で何するつもりだ! この心喰いが!!」
「旧都の鬼の前にお前から滅ぼしてやろうか! クサレアマ!!」
「こらー! みんなー! さとり様のこと悪く言うなー!」
さとりは耳だけでなく、何となく心の目もふさぎたくなった。
お空一人だけが加勢してくれるものの、多勢に無勢。歴史が変わろうと、自分に対する嫌悪は変わらぬらしい。
一方、同席しているヤマメはといえば、「あっはっは」と顔が完全に上を向くほど仰け反りながら笑っている。
「というわけで採決を取るまでもなく、あんたの申し出は受け入れられないことになったわ。やっぱり大人しく捕まってもらうしかないようね」
「向こうの鬼の数は二千を超えている。対してここに集まっているのは五十人足らず。本当に転覆できるとお思いですか」
「ここにいるやつらだけじゃないさ。他にも作戦決行の時間を待っている拠点が、旧都には点在している」
「……北に四十、東に三十、南に五十、西に二十。貴方達を加え、合計で二百名弱」
「まぁ、ひどいわ。心を読んでないって言ったのは嘘だったのね」
「会話をしている間、この場所から、地上の動きを『把握』しておいただけですよ」
「んなっ」
今の今まで余裕ぶった態度を崩さなかった土蜘蛛も、さすがにこれにはぶったまげた様子だった。
しかしながら、さとりからしてみれば、旧都をうろつく鬼の兵の心はいずれも単純過ぎる。
残りの闘志を抱く心、つまり抵抗軍の心を拾い集めるのは、会話しながらイチゴとオレンジをより分けるようなもので、さして難しい芸当ではなかった。
さとりは敢えて、全員に聞こえるように語調を強めて言う。
「たとえ中に入れても、分の悪い賭け。相手の存在を発見し、その動きを読める覚り妖怪が仲間に加われば、成功の可能性を高めることができる。そう思いませんか?」
妖怪達が静まり返る。多くは疑いの眼差しでもって応えていたが、自信なさげに隣と相談する妖怪も幾人かいた。
そんな中、お空だけが頬を染めている。
[さとり様……カッコいい。出会った頃のさとり様みたいだわ……]
さとりは何とか真顔を保つ。
ふーん、とヤマメは口元に手を当てて考え込んでいたが、
「パルスィー」
やがて下にいる一人、最もさとりに対して口汚く毒づいていた妖怪に呼びかける。
「当初の予定通り、指揮はあんたに任せる。んで、この覚り妖怪さんも連れてってやって」
「正気なの!? こいつがもし内通者だったら、玉砕しに行くことになるわよ!」
「いやいや。元々玉砕の可能性が付きまとってる作戦だし」
あっけらかんと土蜘蛛は言って、さとりの方に顎をしゃくりながら、
「それに、こいつがあっち側に協力する理由も思い当たらないしね。味方になってくれるなら、ありがたい。敵もまさか覚り妖怪が攻めてくるとは思っちゃいないだろうし、ことが済んだ後に怨霊をどう扱うかっていう問題も解決する。確かあんたは怨霊の対処はお手の物のはずだ」
「ええ……」
さとりは首肯する。
怨霊の心を読み、それを宥めることのできる能力を持つことから、自分は灼熱地獄跡の管理人となった。
後にペット達にその仕事を譲ったものの、腕は錆びついていない。
「入隊していきなり、訓練も受けないで前線に飛び込むのは、あんたが初めてだよ」
「覚悟はできてます」
「よし。それじゃあ出発は三十分後だ。詳しいことはあいつに聞いてちょうだい」
「ヤマメ! こら! 私は全然納得してないわよ! 降りてこいバカぐも!」
「……まぁ、根は悪い奴じゃないから、なんとか仲良くやっておくれ」
多少疲れた口調で言われ、さとりは微笑んでうなずいた。
石の椅子から席を立ち、思い切って下の広場に降り立つ。
訝しがる他の面々と視線の高さを同じにして、さとりは丁重に挨拶をした。
「この度は、よろしくお願いいたします。古明地さとりです。共に力を合わせ、必ずや旧都を奪還しましょう」
「おー!!」
お空一人だけが拳を突き上げてから、「うにゅ? あれれ?」と周囲の顔を窺う。
こめかみをひくつかせていた橋姫が、やけっぱちな様子で、音頭を取った。
「取り戻すわよ! 私達の地底を!」
今度こそ、洞穴内に力強い歓声が湧き起った。
それはさとりがこの世界にやってきてから、はじめて感じた、心地よい熱だった。
地上にある旧都の空気よりも、こちらの方が何倍もかつての旧都を思わせる。
地霊殿に住んでいた頃はそうした雰囲気を蔑み、距離を置いていたのだが、こんな状況なだけに、不思議と受け入れてしまっていた。
「新入りは初日から便所掃除をやる掟なんだけど、ま、それは生きて帰ってきてからにしてあげる」
歓声が鳴りやまぬ中、同じく隣に降り立っていた土蜘蛛に、さとりはもう一度、礼を言う。
「重ねて、感謝します。証明はできませんが、誓って本心ですよ」
「なに。こっちとしても願いを叶えてくれる幸運の女神が現れたんだから、利用しなきゃ損だしね」
「……?」
「あんたが大事そうに懐に隠してる、その石」
さとりの微笑が引っ込み、背筋が冷えた。
腕組みしたヤマメの指がさりげなく、正確にその位置を示していたのだ。
なぜ気づかれたのだろう。決して失くさぬよう、そして誰の視線にも触れぬようずっと懐に秘めていたのに。
土蜘蛛は組んでいた腕をほどき、何事もなかった様子で、再びゴーグルを装着しながら言った。
「そいつは、ほうき星の子だよ。手に取らなくても気配を感じ取れる。わたしゃ石にはうるさいんだ」
11 Set
旧都の中央街は、二層の城壁によって守られている。
どちらも強固で警備は厳重。なおかつ上空は強力な呪術の結界で覆われており、妖怪が通り過ぎようとすれば、バラバラに千切れた肉体となって、敷地内に降り注ぐ餌と化す。そのため、二つ目の城壁の内に侵入できた者さえも、これまで一人もおらず、その最深部にある灼熱地獄跡周辺が今どんな状態になっているかも外に知られていない。
ただし、そこにこの旧都を統べる鬼の総大将が居座っているのは間違いないようだ。
旧市街と中央部を行き来できる門は、東西南北の四つ。
いずれも監視塔が建っており、異常があればただちに番兵が外に出てきて、事態を力尽くで収拾することになる。
今まで抵抗軍は隙を見て潜入を試みていたらしいが、いずれも失敗に終わり、それだけでも多くの犠牲を払うことになったという。
ただし、難攻不落な鬼の本拠には、唯一といっていい死角が存在した。
そもそも、旧都を内包するこの空間は、巨大かつ頑丈極まりない岩盤に囲まれている。
もしその岩盤に穴を開けて、侵入口を造り出すことができれば?
それも敵が警戒していない地下に、細い坑道を造ることができれば?
その案が出されて以来、これまでずっと続けられてきた突入作戦は全て布石に転じた。
表の抵抗軍が華々しくもささやかに噛みつくのに対し、裏では真の毒牙が敵の寝所へと忍び寄っていたのである。
第二城壁の裏、すなわちかつて地霊殿が建っていた、灼熱地獄跡周辺まで穴は通っている。
まずは、第一城壁の外側にいるゲリラ部隊が発起し、東西南北の門から突入を試みる。
そしてあわよくば、第二城壁の手前まで侵入し、敵の兵をそこに集める。
無論、元の戦力差にかなりの隔たりがあるため、この奇襲は長くは続かず、どれだけ時間が稼げるかは分からない。
しかし少なく見積もっても、一時間は得られるだろう。
中央の勢力がすっからかんになったところで、坑道から第二城壁の裏に侵入した部隊が、旧都の親玉を討つ。
という手はずになっている。
「捕らぬ狸の皮算用……って思ってたら殺すわよ」
「……惜しいですね。飛ぶ鳥の献立と思ったのですが、もしや貴方、覚りの才能があるのかもしれませんよ」
けっ、と悪態をつくのは、眼帯をつけた橋姫だった。
彼女があの水橋パルスィだということを知った時は、さとりもさすがに七十余年という歳月の重みを感じたものだ。
肩まで露わになった腕には生傷が多く残っており、しかも筋肉質。
元々の端正な美貌からも陰気な表情が抜け落ちており、もはや鬼のそれと遜色ない妖気をまとっている。
編んだ髪を一つにまとめて、矢筒を背負ったその姿は、戦女神のようだ。
しかし、絶望的に口が悪い。
「ったく、こんな奴連れてってどうしろっていうのよ。鬼と出くわす度に、オムツを換えてやらなきゃいけないわけ?」
だったり、
「怖くなったら一人で逃げてもいいわよ。抱く肉も喰う肉も少ないあんたじゃ、鬼は見向きもしないだろうし」
だったりと、臆面もなく言ってのける。
周りの妖怪は、下卑た笑みでそれらのジョークに賛同していた。
誰も彼もが古傷だらけで、いずれも、パルスィと同じく幾多の修羅場をくぐり抜けてきた、強力な妖怪であることが見て取れた。
そして顔は笑っているが、心は全てさとりを睨みつけ、嫌悪していた。
彼らの反応は理解できる。覚り妖怪は長きに渡り、人間と妖怪の共通の敵であって、地表が下にあった時代も上にあった時代も、同族以外からは毛嫌いされてきた。ましてや、命がけの作戦決行の時に現れ、半ば強引に飛び入りで参加させてもらったのだから、仲良くなれという方が無理だろう。
唯一、そんな図々しい覚り妖怪の味方になってくれているのが、
「さとり様と一緒に戦えるなんて、ワクワクします」
などと殊勝なことを言ってくれる、ペットのお空だった。
この世界の彼女は八咫烏の力を手に入れなかったらしいが、それでもこうして間近で改めて見ると、他の面子と同じくらい精悍に見えた。
身のこなしはきびきびとしていて、歩く所作にも隙がない。
毎日飲んだくれているのをカモフラージュにして、秘かに十数年、この会合にずっと参加していたのだという。
「お燐は、このことを知っているの?」
さとりは彼女に尋ねてみた。
お空は顔を曇らせ、首を振って、
「心配をかけたくないから……家のことでいっつも忙しそうですし……」
「そう……」
大事な親友を、決して巻き込みたくない。
そんな気持ちが第三の目にはっきりと映った。
形は変われど、二人の絆は世界が違っても続いているらしい。
もし過去が変わったら、この世界のお空とお燐は、どうなってしまうのだろうか。
レジスタンスに加わるまでの間、さとりの頭に、そのことが引っかかっていた。
さとりには一応、今後の行動で未来を変える案が一つある。しかし、これがパラレルワールドだとしたら、再びさとりだけが『もう一人のさとり』を残して転移することになるかもしれない。
その世界に、生きているこいしとかつての地霊殿が残っていれば、本来はそれで万事解決のはずだった。
たとえ、こちら側の世界のクーデターが失敗に終わったとしても、その条件さえクリアしていれば。
しかし、
――私がこの世界に対して責任がないと、どうして言える?
その問いに、冷静で計算高い己の意識が、答えを出す。
別の世界を生きていた自分にとって、そもそもここは知覚することもできなかった夢物語のようなものだ。
浅い情け心に従って、多くを求めて落とし穴にはまらぬよう、余計なことは頭に入れてはいけない。
しかし、さとりの中にあるもう一つの核が、それを受け入れようとしなかった。
会って話してみて、確信する。
過ごした七十六年を忘れていても、お燐とお空は守らなくてはいけないペット達だということを。
彼女達を置いて、自分だけが別の世界に逃げるなんてことはできない。
せめて、嫌われ者の妖怪である皆が安心して暮らせる世界を、その礎だけでも残してあげなければ。
思わず苦笑が漏れた。
意識は無意識という猛獣を手なずけている気でいる。
しかし大体において、意識は無意識の僕であり、ご機嫌取りなのだ。
それは妹に限らず、無意識嫌いの自分も変わりないらしい。
そのうち、坑道の終点が見えてきた。
今まで通ってきた穴よりもさらに狭く、一列に並ばなくては進めないほど狭い空洞が、その真ん中に開いている。
パルスィが時計を取り出して確認した。
「十時ジャスト。第二城壁手前に到達。アクシデントなし」
そう言ってから、彼女はさとりの方を振り返る。
「こっから先は、私語禁止よ。万が一のことがあるからね。私達には専用の合図があるけど、心を読めるあんたには必要ないでしょ」
「ええ」
さとりは頷いて気を引き締め、宿敵の待つ旧都の闇の領域へと足を踏み入れた。
◆◇◆
曲がりくねった狭いトンネルを行き、垂直に近い縦穴を登り、一行はようやく外に出た。
緊張の漂う行軍の最後尾だったさとりは、久しぶりの外気に触れ、深呼吸する。
レジスタンスが侵入口に選んだ場所は、中央街の南側にある庭園だった。
元は料亭だったようだが、今は店が移転して、庭だけが残っているそうだ。
なおかつここは、かつて地霊殿の建っていた丘の近辺であり、目的地を目指すのに複雑な街道を通る必要がない。
侵入口として、うってつけの場所といえた。
それにしても、本当に旧都の端から穴を通って中央街まで辿りついてしまうとは。
あれだけ長い坑道が、よく水脈や灼熱地獄に邪魔されずにここまで通されたものだ。
手先が器用で力持ちの土蜘蛛達の工事でなければ、これほどのものを造ることはできなかっただろう。
それでも七十と六年。彼女達の執念に、さとりも舌を巻く。
遠くから爆音が轟いてきて、一同は顔を動かした。
第二城壁のある方角だ。
別働隊が自分達に注意を引きつけるために、攻勢を仕掛けた音に違いあるまい。
一時間持てばいい。さとりはこの作戦に加わる前に、あらかじめ、そう聞いていたが。
仲間の一人、短い角を生やした妖怪が、呪文を唱えた。
すると、パルスィ達の姿が、黒い霧の中に呑みこまれたかのように隠され、やがて完全に消えてしまった。
さとりは己の掌を見て、次いで全身を眺め、自分の姿も消えてしまっていることを認識する。
隠行の術、それもかなり高度なものだ。術者には鬼の血が入っているのだろう。
姿を隠す技能は、古来より鬼の得意技でもある。
[聞こえるわね、古明地さとり]
心の声で呼ばれ、さとりは顔を上げる。
夜光虫が一匹、緑色に明滅しながら、目の前を飛んでいた。
[お互いの姿が見えないから、この式神が目印。今から灼熱地獄跡への潜入を目指すわ。ションベン漏らしたり、ドジ踏んで余計な騒ぎを起こしたりしたら、すぐに囮役になってもらう。わかった? イエスかイエスで答えなさい]
ノーを言う権利はないらしい。
さとりは――相手に見えてはいないだろうが――うなずいて肯定の意を示した。
もとより、自分の立場と危険は承知済みだ。
しかし念のため、広く周辺の気配を窺ってみる。
第二城壁とこの場所の間にある中央街には、たくさんの『心』が密集しているが、この辺りには、ほんのわずかな心しか見当たらなかった。
特に怪しい動きをしている者もいない。これなら大丈夫そうだ。
さとり達は移動を開始した。
庭園を抜け出し、表街道を避け、裏道を使いながら北を目指す。
さとりの記憶にある、古風で寂れた雰囲気のあった中央街は、統一感のないごてごてとした原色の光を使った建物で埋め尽くされていた。
城壁の外側にある、モノクロの世界とは正反対だ。察するに、旧都中の『色』をここに集めこんだのだろう。
非常事態だからなのか、哨戒中の鬼を除いて、通りには妖怪の気配がなく、ずいぶんと人寂しい感じだ。
といっても目印となった夜光虫の移動は速く、さとりは遅れないようついていくのが精いっぱいで、周囲の光景に意識を配る余裕があまりなかった。
やがて、さとりの目に見慣れた丘がぼんやりと見え隠れしはじめた。
あそこに、この旧都を牛耳る大妖怪が鎮座しているという。
そして、さとりの三番目の『目』には、共に行く妖怪達の昂ぶった心が映っていた。
無理もない。数十年越しの賭けが、果たして吉と出るか凶と出るか。全てこの一夜にかかっているのだろうから。
とはいえここまでは順調だ。鬼に見つかることなく、目的地まで確実に近づいている。
いや……順調すぎるのではないか。
同調して熱くなっていたさとりの心の中に、氷の一かけらが混じった。
物事が上手く進んでいる時ほど、そうでなくなった時のことを考えておかなくてはいけない。
七十六年前に妹を失ったことで、さとりはその教訓を骨身に刻んでいる。
念のため、もう一度周辺の心を広く読んでみた。
そして、すぐに血相が変わった。
――待って!
さとりは腕を伸ばして、適当に触れた衣服をつかんだ。
よりにもよって、水橋パルスィの服だったらしい。
顔は見えないが、眼力だけで妖怪をも睨み殺せそうな般若の絵が、第三の目に映った。
しかし、さとりの心も切羽詰まっている。
「様子が変です」
肩を彼女にくっつけ、小声で伝える。
「散開していた見張りの心が、こちらに集まってきています。私達に気付いたのかも」
[はあ? まだ隠行は働いてるし、第一ここに来て五分しか……]
次の瞬間、急にさとり達の立っている暗がりに、八方から光が集中した。
「全員! 建物の影へ!」
パルスィが叫んだ直後に、爆発が起こった。
間一髪、さとりは爆炎に呑みこまれることなく、路上に転がっていた。
しかし逃げ遅れたものも二名。その心が呆気なく散り果てるのが見えた。
地べたに伏せたさとりの周囲を、殺気の込められた光弾が飛び交う。
「畜生! どうしてバレた!?」
近くにいた隊員が、悲鳴まじりの罵声を上げながら、匍匐前進で移動する。
さとりもそれに倣ってついていき、なんとか丈夫そうな建物の陰に身を隠した。
そこに、パルスィとお空もいた。他の隊員は、通りの真向かいに隠れたらしい。
パルスィは彼らに向かって怒鳴る。
「予定変更! それぞれこのまま丘を目指して強行突破! 私達はこっちの道を行くわ!」
「ダメです! そちらはもう固められている!」
さとりは全力で引き留めた。
多数の心の影が、唯一自分達に残された道を通って、こちらにまっしぐらに向かってくるのがわかる。
「仕方ないでしょ!? このままじゃどっちにしろ全滅だわ! こんな早いタイミングで見つかるなんて……!」
と、パルスィが呻いた後、息を呑んでこちらを凝視する。
「まさかあんた……!」
「違います!!」
即座にさとりは否定する。
「おいゴンザ! 隠行はしっかりかけたのか!?」
「当たり前ぇだ! 俺を疑ってんのか!」
ピンチと疑心暗鬼からくる混乱に、隊の結束が乱れ始めている。
が、さとりにはわかっていた。
内通者は、いない。
異常に気付いた際、その可能性にすでに思い当たっていたさとりは、全員の心をスキャンし終えている。
しかし、明らかにこのタイミングはおかしい。
ランダムで動いていた巡回が、急に組織的に自分達を狙っている。
侵入口から距離を取った瞬間、見張りの一群が背後の通路を塞ぎ、なおかつ照明が迷うことなく自分達を捕捉した。
あらかじめこちらの動きを把握し、罠を張っていたとしか思えない。
やがて、肉眼でも街道を突っ込んでくる番兵達の影が確認できた。
パルスィは吠える。
「どうせ、いつかは戦らなきゃいけないつもりだったわ! 行くわよみんな!!」
彼女が放った、目にも止まらぬスピードの矢が、先頭の鬼の眉間に命中した。
「さとり様! 私の後ろに!」
お空が翼を広げ、太刀を鬼に向けて構える。
「お空! 私のことは構わず、自分の身を……!」
ずしん、と地響きが起き、さとりは背後を振り返る。
最悪だ。別方角から来た鬼の部隊が、現場に到着したところだった。
向こう側に隠れていたレジスタンスの仲間達が不意を突かれ、あっという間に武装した鬼達の餌食となる。
そして、敵は狙いを唯一残ったこちら側に定めた。
お空が身を捻り、迫りくる鎧武者に向かって対峙する。
隣にいたもう一人の仲間が、それに加勢した。
本来なら、鬼に戦いを挑むなど無謀だ。
しかし、決死の覚悟となった抵抗軍の精鋭達は、己らの実力を存分に発揮した。
戦闘が激しすぎて、さとりには到底ついていけない。
その間に自分にできること、この状況の分析を続ける。
――おかしい……どうして?
敵の群れはただの鬼ではなく、異常な集団だった。
一つ一つの実力は、さとりの知っている鬼達ほど強くはない。
だが正々堂々の一対一を挑んで来ることはなく、組織的かつ効率的に、自分達を襲撃している。
これでは中心街にいる鬼も、城壁周辺を守っていた鬼達と変わらないではないか。
いやむしろ、ここらにいる鬼の方が、精神の単一化が進んでいる気がする。
旧都にはもはや、まともな鬼は残っていないというのだろうか。
激烈な戦闘の末、街道から敵の姿が引いた。
先頭で奮戦し、肩で息をしていたパルスィは喘ぐように仲間に問う。
「残ってるのは!」
「四人だ! 飛燕とロクもやられた! 仁と霊烏路は……もう動けそうにない」
十人いた作戦班が、半分以下になってしまった。
パルスィは残った面子を見渡し、即座に判断を下した。
「あんた達。怪我した二人とさとりを連れて、戻りなさい」
隊員の一人が顔色を変え、反対する。
「お前だってケガしている! それに一人じゃ無茶だ! 黒谷が言ってたろ! この作戦は十名無事に丘まで到達しなければ、ほぼ間違いなく失敗する! これ以上の続行は不可能だ! 次の機会を……!」
「今日を逃せば、あの穴は塞がれるか、逆に利用されることになる! もうチャンスはないのよ! 私はここで死ぬ覚悟ができてる!」
パルスィはヒステリックに喚き立てる。
彼女の言っていることは間違っていないかもしれない。
しかしどちらにせよ、状況が絶望的だということには変わりなかった。
「へ、平気……」
額から血を流しながら、お空は言った。
「私も平気……今日しかチャンスがないんだから……さとり様に地霊殿を取り返してあげるチャンスは……今日しか……」
しかし彼女の心の声は、弱音と戦っていた。
[痛いよう……痛いようさとり様]
その時、一度は退いた鬼の部隊が、再び舞い戻ってきた。
だがそれだけではない。
「あ、ありゃ何だ一体……」
その先頭に立つ、巨大な鎧武者達を前にして、隊員の一人が呆然となる。
数は三つ。他の鬼の全てを集めたよりも多い妖気が、街道の空気を一新させた。
彼らの目にはほとんど、意思の光がない。あるのは、植え付けられた明確な殺意と、暴力衝動。
中央街を守る、真の精兵らしい。
対してこちらは、もう戦う力が残りわずか。
「くそっ……! こんなところで!」
身構えながらも、パルスィの顔には討ち死にの覚悟が宿っていた。
残りの全員も、泣きだすものはいなかったものの、気持ちが後ろを向いており、先程の奮闘の再現は不可能に思われた。
そんな中、たった一人、立ち上がった者がいる。
「ちょっとあんた!? 前に出過ぎよ!」
パルスィが喚いている。
しかし、唯一傷を追っていなかったさとりの耳には、彼女の声が届いていなかった。
いや違う。その意識は今までずっと、一人のペットの姿しか捉えていなかったのだ。
顔を血に染めて倒れる、地獄鴉の姿。
――よくも…………。
鬼の群れを前にしたさとりの心が、一色に染め上げられた。
その胸元の第三の目が、異常なほどの輝きを見せている。
ドクン……ドクン……と、体の表面を巡る、赤い血管が脈打つ。
すでに、鎧に身をまとった巨兵は、その武器が届く距離まで迫っていた。
たっぷりと妖気をまとった、大きな血染めの鉄棒が振り上げられ、一気に振り下ろされる。
大風が巻き起こり、地面を穿つ轟音が――
やってはこなかった。
「漂白され、同色に意志統一された番兵。確かに、忠実な兵士ではあるかもね」
空中で停止した鉄棒。
瞬き一つせず、それを間近で見据えていたさとりは、酷薄な口調で告げた。
「けどそんな浅い心、覚りの相手ではない」
鬼の鉄棒が軌道を変え、その背後にいる別の巨兵の頭部を叩き潰した。
それを皮切りに、これまで完璧に統率の取れていた沈黙の戦士達が、恐るべき同士討ちを始めた。
先ほどまでの戦闘がもの静かに思えてくるほど、怒号と血しぶきの舞う壮絶な戦いが繰り広げられる。
もっとも目立つのは巨兵達だ。己の武器を無茶苦茶に振り回し、群がる鬼を容赦なく薙ぎ払い、踏み潰し、噛み砕く。
しかし一般の兵も負けてはいない。まるで猿の群れの如く、巨兵の体に飛びつき、その体に刃を突き立てている。
たった今まで共に獲物を追い詰めていた姿からは、考えられぬ狂いっぷりだった。
パルスィ達は狐につままれたような顔で、その光景を眺めている。
しかしやがて彼女らの目にも、鬼共の心を足場にして、思念の怪物が飛び回っているのが見えてきた。
マインドハック。
覚り妖怪は観測することにより、相手のトラウマを甦らせることができる。
それをさらに一歩進めれば、心を疑似的に操作することが可能なのだった。
この地底にて、目を開けた覚り妖怪のただ一人の生き残りである古明地さとりは、一族の全ての技を受け継いでいる。
その中には、覚りの淘汰され続けた歴史の中で編み出された禁じ手も多くあり、これもまたその一つだった。
条件は揃っていた。
マインドコントロールを受けた単純な思考を持つ者達は、覚りの餌食になりやすい。
加えて古明地さとりは元々、地底において重大な犯罪を犯した者をその能力によって抹殺するという仕事を秘かに持ってもいた。
それが可能なのは、心を読むという行為が、妖怪にとって致命的なものになり得るから。
そして今使われている心の操作は、社会と決して相いれない存在だった覚り妖怪の象徴であり、憎悪の引き金となった技でもあった。
最後に残った鬼が、刀を取り出し、吠えながら自らの首を掻き切った。
それを最後に、死体の山となった街道に立っているのは、さとりだけとなった。
九死に一生を得た地底の妖怪達は、動けずにいる。
彼らの目には、旧都に住まう鬼以上の怪物が映っていた。
さとりは彼らの様子を確認し、振り返り、
「ここまで連れてきてくださって、ありがとうございました」
きちんと、頭を下げて礼を述べた。
場違いな仕草に、抵抗軍の者達はいよいよ言葉を失う。
「今なら脱出に間に合います。動ける人たちは、そうでない人を支えて。先導役は水橋さん、貴方が適任でしょう」
「あんたは……」
「結着をつけにいきます。どうやらここの鬼達は、私には相性のいい輩のようです」
あくまで遠距離からの射撃に徹されていれば、さとりもここまでの成果を挙げることはできなかっただろう。
強力な鬼の兵士を直接現場に向かわせたことが、向こうのあだとなった。
だが今後も上手くいくかどうかは分からない。もしこの光景を見ているものがいたとすれば、次は対策をしてくるかもしれない。
「では失礼します。急がないと、間に合わないかもしれませんから」
さとりは先を行こうとする。
その前に、「待って」と後ろから呼び止められた。
「これを持っていきなさい」
パルスィが矢筒から取り出したのは、白い羽根の矢だった。
軸は紅白に染められており、金の鈴がひとつ結んである。矢尻は露わにされていなかった。
「かぶせはまだ取らない方がいいわ。それは特注の破魔矢だから。傷から入った霊力で、全身が朽ち果てる」
「………………」
「相手が妖怪なら、どんな奴だろうとそれで滅ぼせると思う。覚りのあんたなら、その隙を作れるかもね」
「……お借りします」
さとりは慎重にそれを受け取る。
途端、目の前の橋姫の肩から、急に張りつめていたものが抜けたような気がした。
傷ついた、敗残者の表情を浮かべて、彼女は低い声で言う。
「私らを差し置いて、いいとこどりなんて、死ぬほど妬ましいわね」
「いいえ、貴方達の協力なしでは、私はここまで来られませんでした」
さとりは本心から、そう伝える。
「さもなければ、自分でオムツを換えないといけないところでしたし」
と、ここに来る前のジョークの仕返しも付け加えて。
生き残った皆の目が、点になった。
そして、爆笑が湧き起こった。
こんな場所で、こんな状況なのに、隊員達は傷にさわるのも構わず、大笑いした。
パルスィでさえ、吹き出すのをこらえきれず、肩を震わせていた。
沈んでいた空気に活気が戻る。そして、
「なら、これも持って行ってくれ。お守りだ」
「え?」
と言う間もなく、さとりは隊の一人から小さな鎖を押しつけられた。
「それは三十年前、表通りで奴らに殺られたダチのもんだ。今日まで俺を守ってくれた。俺とあいつの代わりに、勝利の瞬間に立ち会わせてやってくれ」
血走った双眸に、正面から真っ直ぐ見つめられる。
だがそこには、ここまでさとりに抱いていた嫌悪の念は見受けられない。
思わず呆然となる持ち主を置いてけぼりにして、第三の目が相対する妖怪の意志を吸収する。
さらに、別の仲間も名乗り出た。
「じゃあこれも頼めないか。今日まで共に戦ってきた刀だ。いくら覚りでも、得物の一つもなけりゃ心細いだろう」
「ならこの鎧はどうだ。モノはいいぜ。今、オレっちが生きてるのが何よりの証拠だ」
「い、いえ。そんなに持たされても困りますから」
「なんだ、オムツ代わりには大きすぎるってかい?」
再び粗野な笑いが弾ける。
さとりも微笑んではいたが、さすがに首が熱かった。
先の仕返しは、とても地霊殿の中では口にできない、品性に欠けた台詞だったので。
けれども後悔はなく、むしろ痛快な気分だった。
なんでもいいから、彼女達の流儀で誠意を見せたかったのだ。そうする価値のある相手だと思ったから。
さとりは気を失いかけている地獄鴉を一度見つめ、パルスィの方に視線を戻す。
「お空のことを頼みます」
「ええ、任せて。私らはそっちの成功を祈ってるわ」
手負いの橋姫は仲間を代表し、緑の火でたっぷり炙られた心の声を託してきた。
[こんなクソみたいな地底を創り出したやつに、一発ぶち込んでやってきてちょうだい]
12 T.T.E
昨日までどこよりも慣れ親しんでいた道を踏みしめ、さとりは一人丘を登る。
心細くはなかった。それどころか、気持ちは前にも増して逞しく、熱を帯びていた。
結局、破魔矢やお守りはともかく刀や鎧などのかさばるものについては丁重にお断りしたものの、それ以上の物を受け取ることができたから。
しかしながら一方で、奇妙な寂しさがあった。
元の世界に戻ったら、このささやかな――そして生まれてこのかた得たことのない繋がりも失せてしまう。
そのことを惜しむ自分がいた。
皮肉な話だ。
覚りだからこそ、山のごとき悪意に辟易とし、歩み寄ることを諦め、力で己の存在を示そうとしていた過去。
しかし今は覚りだからこそ、出会って間もない同志達の心を直接読み取り、士気も戦意も悲願も全て受けとって進むことができている。
こんな状況でもなければ、その可能性に気付くことはできなかった。
いやもしかしたら、こんな状況でなくとも、気付くことができたのだろうか。
さとりはかぶりを振って、過去に引きずられようとする自分を戒めた。
今はまだ、そのことを顧みる必要はない。やるべきことは一つ。
同志達の思いを背負い、この丘のてっぺんで待っている敵の首魁を倒すべく、前進することだ。
坂道を登り切り、ついにさとりは、敵の伏魔殿へとたどりついた。
そして開いた門の前で――呼吸するのも忘れて、立ち尽くした。
――そんな……どうして……。
かつて過ごした場所が、どれだけ変わり果てていようとも、決して動揺はしない。
さとりはあらかじめ、そう自分に言い聞かせていた。
朽ち果てていようと死体が転がっていようと、そしてもっとひどいことに、その上に悪趣味な建物が乗っかっていようと。
どんな光景が待ち受けていようと、自分を傷つけることはできないという一念でいた。
しかし、さとりの眼前には、そんな覚悟を嘲笑うような眺めが広がっていた。
キィ、と薄い鉄柵の門を押して、中に入る。
緑の蔦が絡まった白いアーチが、訪問者を出迎えた。
石で作られた歩道の周りを埋めているのは本物の土。ペット達が足を痛めないようにと、妹がそうしたのだった。
黄色と橙色、そして青い造花の花壇も、妹のアイディアだ。
さとりは造花の薔薇を限られた色で作ろうとしていたが、こいしはなるべく明るい雰囲気にしたい、とねだった。
わざわざ地下水をくみ上げる構造にして作った噴水は、結果的に雰囲気をよくするのに成功だった。
騒がしい旧都の中で、一番落ち着ける場所にしよう。その願いを実現させるために、姉妹のアイディアを折衷させたのだ。
「なんてこと……」
さとりは思わず呟いていた。
同じだ。
全くといっていいほど、自分がいた未来と……正確には七十六年前に過ごした地霊殿の庭と変わらない。
そして岩壁に建っている建物は、紛れもなく記憶からそのまま取り出してきたような、我が家だった。
訳がわからない。
この世界の地霊殿は持国の大火によって、灰燼に帰したという話だったはず。
なのにこうして、ほとんど完全な状態で残っている。
家主だったさとり自身であっても、ここまで完璧に復元することができるかどうか自信がない。
まるで過去にタイムスリップしたかのようだ。
唯一の違いは、住んでいるはずのペット達の気配が一切無いところだった。
いつもさとりが庭を歩けば、多くの命が心を読んでもらいにやってくる。
しかし今、周囲には動物の姿は一匹も、そして番兵の影も全く見当たらなかった。
見慣れた我が家なのに、薄気味悪く感じるのは、そのせいだろう。
さとりは第三の目で、地霊殿の中を探った。
レジスタンスの話では、この奥に旧都を救った『英雄』がいるという話だった。
確かに、屋敷の中心から心の声が聞こえてくる。
しかし、
――二人?
さとりは訝しんだ。
二人しかいない、というべきなのか。それとも、二人もいるということなのか。
さとりは玄関の戸に手をかけた。
直後、ものすごい地響きが起こり、何とか倒れるのをこらえた。
この音と気配。奥で戦闘が繰り広げられている。
それもこれは間違いなく、大妖怪クラスの妖気のぶつかり合いだ。
さとりは廊下を急いだ。
左右の石柱。二色のクロス柄の床に、等間隔ではめ込まれたステンドグラス。
どれもこれも以前と同じ。奥には一体何が待っているというのか。
さとりが中庭に到達した時、すでに戦いは終わっていた。
床に設置された特殊な金属の扉は、灼熱地獄跡への通り道。
そこに倒れていたのは、旧都で自分を助けてくれた、あの覆面の妖怪だった。
そして、
待ちかねましたよ 古明地さとり
女神のように美しい声が中庭に反響する。
内臓の温度が、一気に下がったような気がした。
あの黒谷ヤマメは、敵の親玉はかつての四天王などの、大物の鬼である可能性が高いと言っていた。
さとりもその意見を認め、同じ予想をしていたのだが……
「貴方は……?」
誰ですか、とは問いかけられなかった。
それほど、その化け物は異形だった。
マントで覆われた体には瘤のようなものがいくつか浮き出ており、枯れ枝のような細い腕が、首の付け根から伸びている。
面をつけた頭からは、鬼の角が乱雑に生えていて、不気味な冠を作っていた。
そしてその妖気は冗談じみた濃度を誇っており、中庭の空気の色と匂いを変えてしまっているほどだった。
相手の正体に、心当たりはない。
そもそも、何なのかさえ分からない。
怪物、化け物、それらの名詞を候補から除外しても、せいぜい悪夢の住人という呼び方しか思い浮かばなかった。
我こそは、究極の妖怪
さとりは眉をひそめる。
宣言の内容にではない。反響する声が、男のものに変わったことに、だ。
名前など無用 なぜなら俺は究極にして唯一の存在 真の鬼
今度は声が若くなる。少し、子供の声も重なっていたような気もした。
第三の目を相手にじっと向けていたさとりは、軽い眩暈を覚える。
外見もさることながら、相手の心はそれ以上の異形だ。
数多くのイメージが混雑しており、行き止まりだらけの迷路を作っている。まさしく混沌。
突如、極彩色の心が、一つの意志に収束した。
お前のことは 忘れはせぬ 古明地さとり
心象風景の中で草木が枯れ、河川が汚濁し、空からは灰色の雨が降ってくる。
常軌を逸した憎しみの念は、妖怪一匹が生み出すものでは到底届かぬ量に思えた。
「私と以前、お会いしたことが?」
さとりは後ずさりしたがる足を意思の力で押さえつけ、慎重に尋ねた。
お前から全てを奪った 心が壊れ 都の外で惨めに暮らす様を見て 愉しんでいた
「それは悪趣味なことで。覚りの私が言えたことではありませんが」
もう 十分に熟れた であろう
怪物がマントの内側から、緑の血管の這った青黒い腕を取り出した。
危険を訴え続けていた本能が、さらにもう一段階、警告のレベルを上げる。
わたくしの 手で 刈り取ってあげま しょう
「お断りします」
ギン、とさとりの第三の目が、最大出力の念を放った。
それは思念の弾丸となって、怪物のマントを貫き、奥にある心に突き刺さった。
弾かれたように、さとりは走り出し、パルスィから受け取った矢からかぶせを外す。
ほんの僅かな時間、動きを止めるだけでいい。
この距離なら矢をあの体に突き刺すのに、数秒で事足りる。
力を十分に奪ってから、その心を残らず暴かせてもらう。
しかし、
「なっ……!?」
さとりの渾身の一撃が、思念の壁に跳ね返された。
その余波で、走りだしていた身体まで、物理的な圧力によって元の位置まで押し戻された。
靴が砂埃を上げて急制動をかける。両腕を交差させて身を守ったさとりは、思わず目を見開いて相手を見つめた。
表情のない怪物は、何層にも重なった声で嘲笑う。
そんなものが 我に 通用する とでも?
さとりは応えず、もう一度思念を放つ。
威力はそのままに、速度と精度をさらに練りこむ。敵の思念の壁の僅かな穴を通る、毒針のごとき一撃だ。
だが攻撃の直後、怪物の全身から、今度は凄まじい怨念が噴出された。
桁違いの質量のヘドロのごとき波は、毒針を瞬く間に飲みこむだけで終わらず、こちらに迫ってくる。
咄嗟にさとりは第三の目を盾に使い、その怨念を受け流そうとした。
しかし、
――重い……!
再び、体ごと弾き飛ばされた。
中庭を転がったさとりは、気がつくと仰向けになっていた。
とどめは刺されていない。が、手に握りしめていた矢の感触が無くなっている。
首をねじって見れば、怪物の足下にそれは落ちていた。
痛恨の念を覚える。
しかし、それ以上に納得がいかなかった。
「どうして……」
どうして防がれた? 覚り妖怪の精神攻撃を、二度も弾き返された。
どれだけ強力な鬼であっても、この技に対抗することはできないと踏んでいたのに。
僕は 究極の妖怪 忘れたか 見せて やろう
怪物の腕が、己のマントにかかった。
歪な形の爪に、布が斜めに引き裂かれていき、奥の肉体を晒しだす。
その内側に現れたものを、理解した瞬間、
さとりは絶叫した。
ははははは はははははははは
異形の怪物は嗤った。地霊殿そのものを声帯に変えて。
その胸には、青い血管のような紐がからまった、拳大の『目』があった。
第三の目。誰の物かは、確かめるまでもない。
いいぞ! お前の怒りが 憎しみが 俺には 聞こえてくるわ!
重なり合った声が、泣き崩れるさとりに追い打ちをかける。
鬼の力と 覚りの力 二つを持った私に 敵う存在はない
ああ、そうだとも。どうして気が付かなかったのだろう。
戦闘力だけなら最強ともいえる鬼を、牽制できる存在、覚り。
だが、もし鬼が覚りの力を得れば、死角はなくなり、旧都を牛耳ることも訳はない。
あの鬼の兵士達が単純な心しか持ち合わせていなかったのは――すなわち、さとりにとってくみし易い衛兵だったのは、――覚り妖怪が思うままに操れるように仕込まれていたから。
突入部隊の動きが読まれていたのも、この怪物の『目』で見張られていたからだろう。
全て掌の上で踊らされていたのだ。
そして怪物は、古明地さとりの弱点を、正確に突いていた。
どんな物事にも冷徹に対処してきたさとりの、唯一の心のアキレス腱が、妹であるこいしの存在だった。
貴様を 殺すのは 止めだ まだこの地で 生き延びてもらわねば
さとりは不可視の衝撃を受けて、無様に転がされた。
覚り妖怪も例に漏れることなく、己の精神を拠り所にした存在である。
能力が通じず、心まで砕かれた今、かつて地底で最も恐れられた妖怪も、無力に等しかった。
強者が 弱者を食らう それこそが 鬼の理想郷である
また衝撃を受ける。致命傷にはなりえない程度の一撃。
ただ痛みと屈辱を与えるためだけの攻撃だ。
我らが 理想郷を眺めながら 生き恥を 晒し続けるがいい
混濁した嗤い声が、再び大気を震わせる。
さとりは地面に倒れ伏したまま、怪物の勝利宣言を聞いていた。
そして、
「あの旧都が……貴方の理想ですか」
頬の端をひきつらせた。
顔を伏せたまま、おもむろに身を起こす。
「実にくだらない。教えてあげます。あれは鬼の理想などではない。覚り妖怪が、かつて夢想した理想郷。そして貴方は」
立ち上がったさとりは、乾いた声で告げた。
「究極の妖怪を自称している、哀れな道化です」
また衝撃が飛んでくる。
再びさとりはそれをまともに食らう。全身を打つ痛みに、意識が肉体から飛び出しかける。
だが、腰を落として、さとりは踏ん張った。ぼろきれのような体を揺らしながら、傷だらけの手で相手を指す。
「貴方は……憎んだはずの覚り妖怪の住む地霊殿を燃やし、どうしてまたその上に、同じものを建てたのですか?」
もう一度衝撃波を生もうとしていた怪物の動きが、ぴたりと止まった。
さとりは独り言のように続ける。
「へぇ……灼熱地獄を安定させるのに、都合のいい設計だったから、また同じものを建てた、というのですか」
胸に構えられた第三の目が、赤い輝きを放っていた。
妖怪にとってのあらゆる壁を浸透する光が、混沌とした怪物の内面を浮き彫りにする。
「合理化して己を納得させようとしているだけですね。真実は違う。その目に宿る記憶にとらわれ、心が対抗できなかったから」
すなわち、第三の目に宿る、古明地こいしの記憶を安定させようとするため。
この旧都の主は、一度燃やした地霊殿を、全く同じ形で作り出すほかなかったのだ。
さらに、さとりは相手に詰め寄る。
「旧都の中央街に住む鬼を、いくつ食らいました?」
本来、妖怪にとっての獲物は、心を持つ人間である。
しかし、妖怪が妖怪を食らって力をつけるという邪法は、古来よりあった。
閉じた世界となった幻想郷では禁じられているものの、この地底ではそうした行為が、裏で行われていた。
だが、妖怪を食らうという行いには、良いことよりも悪いことの方が付きまとう。
肉体よりも精神に依存した存在である妖怪は、他者を食えば食うほど、本来の自分が見えなくなっていく。
限界を過ぎれば、全く別の存在となり、制御することができずに破滅する未来が待っているのだ。
そして、第三の目を持っている場合、それは尚のこと悪い方向に働く。
この目は妖怪にとって、究極の消化器官だ。相手の心の余分な毒素まで含めて、全て吸収してしまう。
そして、その器官自体のキャパシティが尋常ではないため、いくらでも食べられるように錯覚してしまう。
狂い、我を見失い、暴走しながらも死ぬことができず、無様に生き続けることしかできぬ、怪物となってしまう。
それこそが、今さとりの目の前にいる者の正体だった。
「一方で、覚りの力を得た王は、周りから疑念を抱かれ、信用を失っていく。そして当人は、心が読めるだけに、周囲の悪意の芽を見逃せず、心のあるものを食らいつくし、心のない兵を側に置きたがるようになる。貴方は己が望んだ、鬼の理想郷を作っているつもりで……覚り妖怪にとっての初歩のジレンマにぶつかり、そして敗北した」
今度の一撃は、効いた。
さとりの身体は壁に激突し、花壇の中に倒れ、動かせなくなった。
「……食べる前に知っておくべきでしたね。第三の目は、妖怪を支配する万能の道具などではない」
それでも、言ってやらねば気が済まない。この地底一の哀れな愚か者に。
「神々より、覚り妖怪に押し付けられた、最悪の呪いなのですよ」
黙レェ!!
怪物の暴走した力が、マントを突き破って表出する。
鬼の妖力に裏打ちされた、覚り妖怪の思念の爪牙が、一瞬にして迫ってきた。
殺気が全身を包み込む。
しかし、さとりは死を覚悟していなかった。
その目はこの場にいる、もう一人の妖怪の動きを注意深く追っていた。
そして、
耳をつんざく悲鳴が、中庭にこだました。
怪物の体を、『矢』が貫いていた。
大量に食らい、その中に宿していた魂達が、次々に消滅していく。
貴様 貴様 死にぞこないが
「はん……死んだなんて一言も口にしてない。……私は嘘が大嫌いだからな」
虫の息だったはずの覆面の妖怪。
しかしその妖怪は、さとりが怪物と対峙している際に、秘かに交信を持ちかけてきたのだった。
さとりはそれを表に現さないよう、そして相手がその『目』で気付いてしまわぬよう、慎重に誘導し、ついに逆襲の一手にたどりついたのである。
そして、謎の妖怪の正体についても、さとりはすでに確信していた。
「やはり、貴方だったのですね……」
あの赤い一本角が折れ、頬に鋭い傷が残っているものの、彼女の風貌は紛れもなく、
「星熊……勇儀」
かつての旧都の頂点に立っていた、鬼の中の鬼だった。
さとりにとっての好敵手であり、同志でもあった存在だ。
勇儀は傷だらけの笑みを浮かべた。
再会を懐かしんでいるようにも見えたし、今の一撃に満足しているようにも見える。
おそらくは痩せ我慢も混じってはいるのだろうが、それでも劣勢の中で掴んだ、会心の一手ではあったのだろう。
しかし、あの特別性の破魔矢であっても、怪物を殺し切るには足りないようだった。
旧都の鬼の力の大半が、あの怪物に吸収されているのなら、確かに根絶するのはたやすいことではない。
苦悶の声を上げた怪物の一撃が、彼女を吹き飛ばす。
勇儀の体は、同じく倒れているさとりの、すぐ側に転がった。
彼女もすでに、限界だったのだ。
貴様の角は 七十六年前に 折った なぜ今さら 舞い戻った
「さてね……なぜか私は負けた覚えがないし、納得もしていないんだなこれが……」
かつての四天王は、呻きながら立ち上がる。
さとりも勇儀も、どちらも力が残されていない。
そして相手は鬼の戦闘力と、覚りの能力を得た怪物。強さだけなら、確かに究極といえるかもしれない存在だ。
二人の命は風前の灯だった。
なのに、勇儀の表情はなぜか、活き活きとしていた。
「ただ、こいつの話を聞いて、やっと目が覚めた。鬼の理想郷。私はそれを『知って』いる」
その名にふさわしい勇猛な笑みを浮かべ、彼女は信じられない事実を語る。
「ここではない、別の世界にある、仲間達と築き上げた、あの混沌の王国を、私は確かに知っている」
聞いていたさとりは、自然と目を見開いて、その言葉に耳を傾けていた。
「まさか……」
「ようやく思い出せたよ、古明地さとり。地霊殿にはご無沙汰していたな」
呆然となるさとりに、鬼は小さくうなずいて、傷だらけの顔に豪胆な笑みを浮かべた。
「こんな未来、私らが知ってる地底じゃない。取り戻そう。私達の地底を」
その台詞が、さとりの心にガツンと響いた。
この鬼は……星熊勇儀だ。さとりが知っている、元の世界にいた鬼の四天王だ!
彼女もさとりと同じく、並行世界に飛んできたのか?
いや、そうではない。もっと妥当な説について、さとりは思い当たった。
単純に、ここはパラレルワールドではなく、そんなものは最初から存在していなかったのではないか。
――重ね合わせ……。
昨日博物館で妹と学んだ、その性質をさとりは思い出していた。
すなわち自分達は、過去から伸びる無数に枝分かれした世界の一つに立っているのではなく、それらは全て重なっていて、観測者によって決定されているのだとしたら。
この世界の存在を救う術も、本当の歴史を取り戻すという目的も、すべて一つに集約できるのでは……。
そう考えた瞬間、さとりの中でずっと分かれていたいくつもの世界が、ついに重なった。
かつての旧都の意志。
その大きなうねりの中に呑みこまれ、次の瞬間、その先頭に躍り出る。
動きを止めていた怪物から再び、戦意が噴出した。
己の体に突き刺さった破魔矢を引き抜き、怒りの声を上げる。
死にぞこない 共が 塵となれ!
恐るべき妖気の波動が、怪物の腕から発された。
これまでのような生殺しを味わわせるためのものではなく、本気で滅ぼそうとする一撃だ。
中庭の空気を一瞬にして左右に押し除け、おびただしい数の毒牙を剥き出しにして接近してくる。
さすがのさとりも、凝縮した時間の中で、己の死のイメージを受け入れそうになった。
だが、そんな弱気に陥りかけた自分を、『別の心』が突き飛ばした。
両膝に力が戻ったさとりは、中腰で動けぬ勇儀を抱えこみ、ギリギリで回避する。
そのまま反転して距離を取り、油断なく相手を見据えた。
怪物の声に、わずかな動揺が混ざる。
なぜだ 貴様はもう動けぬ はず
驚いているのは、勇儀も同じようだった。
そもそもまともに動けそうな状態に見えなかったということに加え、今のさとりの身のこなしは、戦闘の素人とは思えぬ洗練されたものだったからだ。
しかも、さとりは顔立ちはそのままに、表情を研ぎたての曲刀の如く尖らせ、
「そんな雑な攻撃当たるわけないでしょ。せっかくの馬鹿力が持ち腐れだわ。『妬ましい』」
と吐き捨てたのだった。
勇儀が瞠目して呟く。
「お前……」
さとりは我に返り、側にいる鬼と変わらぬ表情で驚いた。
だがすぐに、今自分の身に起こった出来事について理解する。
理解した瞬間、内から湧き起るエネルギーが、表情となって表れた。
どうしてまだ、自分が戦えているのか。
「私の心だけなら、とうに滅びていたでしょうね」
ひとりであれば、妹の第三の目を見たあの時に、心は再起不能なまでにダメージを負い、気力はとうに使い果たしていただろう。
だが今、さとりの心はさとりだけのものではない。
短い時間ここまで共に歩んできた仲間達、成功を祈ってアジトで待っている同志達、地霊殿で一人無事を祈っているペット。
それらの心を全て預かっている。そして預かるだけではなく、受け入れたからこそ、今も生きている。
この世界に飛ぶ以前は考えもしなかった、そしておそらくは覚り妖怪として初めて手に入れた、古明地さとりに備わった新たな力だった。
とはいえ、
死にぞこない めが 貴様らは どうしようと 我が輩には勝てぬ そのなりで 何ができる
憤怒する怪物が、再び力を溜め始める。
その通り。できることなど僅かしかない。
勇儀は立っているのがやっとの様子だし、さとりの今の状態では、せいぜい時間稼ぎしかできない。
だが、その時間を稼ぐということが、この戦いでは何よりも重要なのだ。
相手は気づいていない。さとりだけが知っていた。
このリレーのアンカーは、自分ではないことを。
「今の私の役目は、できる限り生き延び、時を稼ぐこと。貴方を詰ませるのは、私ではなく、もう一人の覚り妖怪」
そしてその覚り妖怪は、この怪物も絶対に手の届くことのない場所にいるのだ。
なんだ それは?
さとりが握りしめている、黒い石の表面が輝いているのを見て、怪物は狼狽の声を上げた。
13 Blaze
さとりが地霊殿に乗り込む、数時間前のこと。
レジスタンスと手を組むことになったさとりは、旧都の中央街へ向かう準備をする前に、一度こいしに連絡をしておくことにした。
旧都が支配層をひっくるめて全て変わってしまっていて、それを引き起こした謎の妖怪の正体を探る必要があるということ。
そのために、今から旧都の内部に潜入するということも。
話を聞いたこいしは、さとりの身を案じつつも、存外素直にそうすることに同意してくれた。
ところが、
[それじゃあ姉さん。犯人がわかったら教えてね。その後は、私が何とかするわ]
「は?」
交信を再び切ろうとしていたさとりは、妹の発言にぽかんとなった。
「どういう意味ですか、こいし。『私が何とかする』とは」
[姉さんがそっちの世界で犯人の正体を暴いたら、私がこっちの世界で、その犯人が火事を起こす前に捕まえる]
「なんですって!?」
妹の発言に、さとりは飛び上がった。
「ダメです! そんなことは許せません!」
相手は間違いなく、危険な思想を持ち、手段を選ばない悪辣な妖怪だ。
そうでなくても、心を読むのが不得手な覚り妖怪でしかない妹を前にして、「はいわかりました。放火は止めます。ごめんなさい」と素直に聞き入れてくれるわけがない。そもそも、そんな善良な妖怪であれば地底に封じられるはずがない。
貴方はネギを背負った鴨になりたいのですか、飛んで火にいる夏の虫という言葉を知っていますか、などと叱りつけながら、さとりは、あの手この手で止めようとした。
が、こいしの意見は、憎たらしいほど筋が通っていた。
[だって、未来の姉さんが何かしたって、私が死んじゃった事実は変えられないんじゃない? それに、今ここにいる私が何かしないと、姉さんは元にいた世界には帰れないと思うし]
「そ、それは……」
確かに、冷静に考えてみると、未来にいるさとりができることといえば、せいぜい結果を観測し、整理するくらいだ。
実際に起きた出来事を変えるには、過去にいるこいしが具体的な行動を起こすしかない。
しかし、妹を危険の核心に近付けるのは、どうしても抵抗があった。
[私、今まで姉さんの期待をずっと裏切ってきたわ]
突然の告白に、さとりは沈黙した。
[誰かの心も読めない臆病者で……心配かけてばかりで……こんな自分がずっと嫌いで……ずっと変わりたかった。姉さんみたいに、強くなりたかった。恩返しがしたかった]
「………………」
[でももしかしたら、今度こそ姉さんの役に立てるかもしれない。ううん。私が役に立たなくちゃ、姉さんは元の未来に戻れない。そうでしょ? だったら、私はどんな危ないことでも、全力でやるよ]
「こいし……」
自分の知らない妹の一面を、ここにきて見つけた気がした。
手を引かれるだけだったあの小さな覚り妖怪が、いつの間にこんなことを言えるようになっていたのだろう。
結局、さとりは折れた。
「そうね……心苦しいけど、それしか方法は無いみたいだわ。けど、こいし。その代わり、私の指示には従ってもらいます。連絡を待って、くれぐれも一人で勝手な行動を取ろうとしないこと。いいですね」
[うん。でも姉さん。なるべく早く知らせてね? 火事で焼け死んじゃうなんて、私嫌だもの]
「絶対にそんなことにはなりません」
口にすることで、さとりは決意を固める。
「必ずバトンを渡しに行きます。それまで信じて、待っていてください」
◆◇◆
「来た!」
姉の連絡を待っていた古明地こいしは、思わず歓声をあげた。
場所は地霊殿ではない。旧都の中央街では唯一といっていい繁華街の中の、目立たない裏路地である。
すなわち、第三の火災が起きるとあらかじめ伝えられていた場所の近くだ。
こいしの役目は、間もなく現れるであろう犯人の情報を受け取った後、その現場を押さえることだった。
石を通じて、たった一つの情報が送られてくる。
七十六年後のさとりが、怪物と対峙しつつ、その心から秘かに抜き取った情報だ。
それは怪物に変貌する以前の核となった妖怪、持国の大火を起こした犯人の心が持つ波長だった。
まさに、覚り妖怪の中でも、古明地さとりにしかできない業といっていい。
相手は第三の目を持ってはいても、それを鍛え、洗練させることを怠っていたが故に、自らが侵入されていることに気付かなかったのだ。
しかし、こいしが受け取ったのは、犯人に関する情報だけではなかった。
血まみれになって、死の淵まで追い詰められている姉のイメージまで付随してきたのだ。
「姉さん……!」
それを見た瞬間、こいしはあまりの衝撃に思考が麻痺してしまった。
だがそれは一瞬のことで、すぐに怒りが湧き起こった。
許してはならない。ペットをひどい目に遭わせて、私を殺して、姉を傷つけた。
一人の覚り妖怪として、必ずや裁きを下さなくてはならない。
現在、十二時四十九分五十一秒。火事が起こるまで、時間はあと五分程度しかない。
しかし火元となった建物のある場所は、ここからは目と鼻の先だ。
こいしは表通りに飛び出し、旧地獄街道を急いだ。
コートの中に忍ばせた第三の目に、すれ違う者達の心の声が伝わってくる。
今夜飲みに行く店や夕飯の算段、逢引の待ち合わせ場所など。仇討ちの準備等の物騒なイメージも届く。
だが、こいしはそれらの妖怪の具体的な思考まで『視て』はいなかった。
波長が特定できている以上、わざわざ深く覗きこまなくても、目に入った瞬間一発でそれとわかるはずだからだ。
――どこにいるの!?
まだ犯人の姿は見当たらない
このままだと現場に着いてしまう。
そして、行く手にまさに煙が立ち込めているのを見て、こいしは青ざめた。
遅かった! もう火事は起こっている。
幾ばくも走らぬうちに、通りをこちらに向かって逃げてくる群衆が目に入った。
繁華街にいた妖怪達だろう。どら声をあげて先を争うように、というよりも前を行く背中を踏みつけるようにして急いでいる。
火竜の印に封じられた炎は、普通の火ではない。
その本源は、この旧都を築く前の空間に残っていた灼熱地獄の炎であり、巻き込まれればあっという間に焼き滅ぼされる。
鬼であっても装備がなければ、ああして逃げるしかない。
通りの端に避難したこいしは、群衆の心を第三の目を使って、大まかにスキャンしていく。
ダメだ! やっぱりいない!
迷った末、こいしは飛んだり駆けたりとパニックになってやってくる集団を避けながら、通りを走り抜けることにした。
途中で一人の妖怪と激突しそうになり、慌てて転倒寸前になりながらかわす。
「おいお前! どこに行くんだ! そっちは危険だ! あの火が見えんのか!」
「ごめんなさい! 姉の命が危ないんです!」
七十六年後の姉さんだけど、と付け加えながらも、こいしは現場を目指して急いだ。
だんだんと、煙が目に染みてくるほど濃くなってくる。気温もとっくに体温を超えていた。
こいしはハンカチで口元を覆って、身を低くしながら移動していたが、突然の轟音に足を止めた。
迫りくる熱波の中で、信じられない光景を目撃する。
炎の龍が建物の一つに巻きついたと思った途端、倒壊させてしまったのだ。
なんて火勢だろう。ただ油を撒いただけでは、絶対にああはならない。やはり、火竜の印を用いた犯行に違いない。
もう犯人は逃げたのか? いや、きっとまだ近くにいるはずだ。
ああ、もうじれったい。
こいしは意を決して、コートを脱ぎ捨てた。
第三の目の力をフル稼働させて、標的の姿を探す。
――いた……!
なんと、真向かいの三階建ての石でできた建物に、犯人の波長がくっきりと映っていた。
火事が起こる様子を観察しているのだろうか。なんて悠長な。
こいしは咳き込みながら、火の粉を振り払い、地面を蹴った。
息を止めて、宙に浮きあがる。
それから石の壁に穴を開けただけの、簡素な窓に狙いを定め、一気に飛び込んだ。
「見つけたわよ! 観念しなさい!」
部屋に入るなり、こいしは相手の姿を確認する前に叱りつけた。
「貴方のたくらみは、もう全部知ってるわ! これ以上罪を重ねる前に大人しく……!」
部屋の奥にいた影が、こちらを向き、表情を強張らせる。
犯人は予想していたよりも細身で、少女といってもいい若い姿だった。
髪は長めのアッシュブロンド。そして、頭頂部から猫の耳が二つ飛び出している。
瞳の色はグリーン……ん?
「マリー?」
詰め寄る足を止め、こいしはその名を口にする。
地霊殿において、最も親しいペットは、突然現れた主人を前に瞠目し、硬直していた。
「どうしてここにいるの? 地霊殿で皆と避難の準備をしてるはずじゃ……」
言いかけた瞬間、こいしの視界の外で、敵意が膨れ上がった。
咄嗟に横に転がるようにして避ける。
床の一部が砕ける音がした。
振り向くと、そこに屈強な体躯の鬼がごつい鉄棒を手にして、凄い形相で立っていた。
こいしは恐怖する。
この鬼が犯人だ。容姿は全然変わってはいるが、心の波長を見れば一目瞭然。
けど、こいしの記憶によれば、目の前の鬼が着ているのは、旧都を警備する見廻り組のものだ。
本来、治安を守る側であるはずの者が、なぜ。
状況に理解が追いつかぬ内に、鬼は再び、鉄棒を振り上げて襲い掛かってくる。
こいしは慌てて体を引き、とりあえず自分の持っている第三の目で脅そうとするが、
「待って!」
鬼の動きがピタリと止まった。
彼を制止したのは、マリーだった。
「大丈夫よ。私が説得するから。計画に支障はないわ」
鬼は無言で、構えていた武器をゆっくりと下ろす。
こいしは唖然となった。
この放火犯は、マリーと知り合いらしい。
しかもこの状況を見る限り、もっとも自然な解釈といえば、
「どういうこと、マリー……?」
こいしは震える声で尋ねる。
「貴方が、火事を起こしてたの?」
そう聴きつつも、そうに違いない、とこいしは確信してしまっていた。
状況証拠だけではなく、他にも多くの心当たりがある。
しかし、主人であるこいしに黙って、彼女が火災を起こしていたというのは、認めることはできても、受け入れ難い事実だった。
「こいし様。訳を説明させてください」
己の傷口をさらすような辛い表情を浮かべて、マリーは口を開いた。
「元より、此度の火災で、一人の被害も出すつもりはございません。あの火勢は所詮こけおどし。妖怪であれば逃げおおせる程度の火でしかありません故。私もことが済み次第、自首するつもりでした」
「………………」
嘘は吐いていない、はずだ。
マリーが自分に嘘をつくはずがない。こいしは今も、そう信じている。
それに覚りの能力を使えば、どんな嘘もすぐに暴かれるということも、彼女は知っている。
だからこそ、続けて彼女が明かした秘密に、こいしは凍りついた。
「もし鬼の住む街を標的とした火事が起こり、それがさとり様のペットの仕業だと判明すれば、あの方はもう灼熱地獄跡の管理を任されることはないでしょう。地霊殿は別の者達に受け継がれ、我々は旧都を去ることになります」
「そんな……じゃあ……」
「ええ。そうなのです。我々の目的は……」
彼女は息を深く吸い込み、告白する。
「古明地さとり、貴方様の姉君の失脚でございます」
足場が突然消え失せたような気がした。
一方、相対するマリーは毅然とした態度で続ける。
「たまたま、こちらの鬼と知り合い、互いの利害が一致したことで、協力してもらうことになりました。旧都警備の責任者の一人である鬼の協力があれば、余計な被害を生まず、発覚することなく任務を遂行できるでしょうから」
「待って! どうしてマリーがそんなことをするの!?」
我に返ったこいしは、眦を吊り上げて問い質す。
いくら一番可愛がっているペットとはいえ、それは決して許せない話だった。
「マリーも知ってるでしょ!? 姉さんは旧都のために、それと私達家族みんながこの街に住めるように、毎日頑張ってきたのよ! 忘れちゃったの!?」
「いいえ、それは違います、こいし様」
マリーは言下に否定する。
「さとり様が今のお仕事に力を尽くしてらっしゃるのは、旧都のためではございません。ご自身の復讐のためです」
復讐、という言葉に、こいしの突き出していた角が抑えつけられた。
「こいし様。地霊殿に住む我々ペットに対する、さとり様の深いご愛情に、私は疑いを抱いてはございません。妹君である貴方様への想いはそれ以上であり、並々ならぬものだと感じております。無理もありませんわ。この地底でたった二人の、覚り妖怪なのですから。それが今、こいし様がお心に浮かべておられるさとり様でございましょう」
「………うん」
「けれども……さとり様には、もう一つのお顔があります。覚り妖怪としての、復讐者としてのお顔が」
追い詰められる立場が入れ替わった。
しかもペットの隠し持っていた剣は、より相手の喉元に迫っている。
「古明地さとり。覚り妖怪であるあの方が『さとり』の名を受け継いだその意味はご存知でしょう。覚り妖怪の長は、一族の心を次代に受け継ぎ、伝えていく使命がございます。しかし、当代のさとり様が受け継ぐまでに、覚り妖怪は人間にも妖怪にも忌み嫌われ、淘汰されてきました。その恨みと憎しみを受け継いださとり様にとっての悲願は、覚り妖怪の復権。そして地霊殿は、その第一歩でございました」
「でも……地霊殿の仕事は、閻魔様から言い渡されたものだって……」
「それにも理由があるのです」
地霊殿の古株であるペットは、灼熱地獄跡の管理者を取り巻く事情を隅々まで知っていた。
「閻魔様は、旧都の鬼が力を得てさらに棲み処を拡張し、他の勢力との摩擦が起こることを懸念しておりました。よって、鬼に対抗出来うる者に、旧都における最も重要な役職を与え、互いに牽制させてバランスを取ろうとお考えになったのでございます。鬼の軍団がもし事を起こそうと蜂起すれば、少なくとも力でそれに対抗できる存在はいない。いつ暴走するか分からない地底に、確かな蓋をすることができる種族がいるとすれば……」
それは一つ。
皆まで言わずとも、こいしも容易にその答えにたどり着くことができた。
鬼の――いや、ありとあらゆる妖怪にとっての天敵。
地底に封じられることを、どの妖怪よりも望まれていた者達。
自分と、そしてもう一人。
「無論、心の読めるさとり様は、閻魔様のお考えも承知済みでした。そして敢えてその策に乗り、鬼に対抗し得る権力を授かったのです。もっとも、残念なことにさとり様の中の復讐心は、その程度に甘んじることで解消されるものではございません。彼女は将来的には完全に旧都における権力を掌握し、支配しようという考えをお持ちです」
淡々と語るペットに、こいしは揺れ動く己の心情を持て余していた。
妹であれば擁護すべきなのに、否定することができない。
こいしはさとりの性格を知っている。そして、気づいてもいる。
彼女の心の底に、他の妖怪に対するとてつもない憎悪と軽蔑が宿っているということを。
そしてそれが彼女だけのものではなく、覚り妖怪の歴史そのものであるということを。
さらにそれが、妹である自分の代わりに一人で背負いこんでしまった呪いだということを。
『第三の目』を持ちながら、最も近しい存在であったはずの姉の心を無視してきたのだという事実は、こいしにとって恥ずべき負い目だった。
「でも……」
まだわからない。
こいしは、ペットの計画の核心に触れようと試みる。
「どうしてマリーがそれに反対するの? 確かに、やりすぎだとは思うわ。でも姉さんが偉くなれば……普通に考えれば、貴方ももっと暮らしやすくなるかもしれないでしょ?」
マリーだけではない。
地霊殿にいるペット達は、主人のさとりの地位が向上することに、いずれも諸手を挙げて賛成するだろう。
日頃から旧都の妖怪達に軽んじられていることに、不満を覚えている者は大勢いるし、彼らはどれも元々、都の栄えた場所から爪弾きにされたあぶれ者ばかりなのだから。
さとりが都を手中に収めれば、その立場の差をひっくり返すことができるのだ。
しかし、対峙するペットは、鋭い目つきになって言った。
「では逆に、お訊ねします。それはこいし様。『貴方の望み』ですか?」
今度こそ、トラウマともいえる己の急所を突かれ、こいしは金縛りにあった。
体内の時計の針を取り上げられたかのように、呼吸が止まり、指一本動かせなくなる。
そんな主人を心底憐れむような眼差しで、マリーは続ける。
「こいし様……貴方はさとり様よりもずっと穏やかな心をお持ちです。他の妖怪に対する憎しみや恨みなど持たず、争いごとも好まない。そして何よりも、姉君であるさとり様をはじめとして、私のようなペット達も含めた、身近な者の幸せを願っている。ただひたすらに、いたいけに、健気に。……なのに!」
窓から見える炎が、急激に勢いを増した。
赤い蛇の群れが呻きながら食らい合うかのようなその光景は、かつての地獄をそのまま召喚したかのようだった。
そしてその表現は、ある意味で正確なはずだった。
なぜならこの炎は、こいしの従者兼ペットとなる以前、地霊殿における灼熱地獄跡の初代管理人をしていた妖猫が操っているのだから。
『熱を操る力』。
地霊殿の中庭にて、数時間ごとに起きる噴火の兆候を察知し、そのエネルギーを上手に逃がしてやるのが、かつてのマリーの仕事だった。
元々火竜の印とは、この旧都を建造する前の空間に残っていた灼熱地獄の炎を、一つの巻物に封印したものだ。
術者をも滅ぼしかねないその神器を制御できたのは、灼熱地獄に慣れ親しんだ、彼女の能力があってこそだろう。
ほとんどの時間を一人で過ごさなくてはならない、忙しくないものの根気のいるその作業をしていた彼女に、当時から引き籠りがちだったこいしが、話し相手となってあげたことがきっかけで、二人は仲良くなった。
そしてマリーの後継者ができてから、姉の許しを得て、仕事をこいしのメイド役に代えてもらい、いつしか誰よりも一緒の時間を過ごすようになっていた。
しかし、こんなにも激昂するマリーの姿を、こいしは今日まで知らなかった。
「さとり様は貴方の考えを理解しようともなさらない。強くあれ、とこいし様に願うだけで、耳を貸そうともしない。こいし様は、さとり様を含めた家族で過ごす時間以上のものを求めていないというのに、己の復讐のことしか頭にない」
「………………」
「さとり様を説得することは、どんな妖怪であっても不可能でございます。彼女は鬼を始めとした地底の妖怪達から、完全な勝利を得ない限り、このゲームを止めようとはしないでしょう。ならば、さとり様からその椅子を取り上げるしかない」
マリーは熱に浮かされた口調で、粛然と続ける。
「先程申し上げた通り、時がくれば私は、自ら出頭する覚悟です。これ以上、苦しみ続けるこいし様を見ることに耐えられません」
「違う……」
「いいえ! 違いませんわ! 私はこいし様、貴方の幸せのために、地獄に身を投じる覚悟でございます!」
「違う!!」
こいしは絶叫した。
ぽろぽろと、涙をこぼしながら。
「もうやめて、マリー。それは貴方の願いじゃない」
マリーの『意識』は気づいていない。
彼女はそんな子ではなかった。いつだって物静かで、優しくて、争いを好まない、穏やかな性格をしていた。
だからこそ、姉の覚り妖怪に信頼され、妹の覚り妖怪に愛される、地霊殿の中でも特別なペットだったのだ。
彼女の意識は、本来の自分を見失っている。
そうでなければ、どんな理由があったとしても、こんな大それた事件を起こせるはずがない。
今の彼女はただ、己の『無意識』が命じた無理難題に、盲目的に従っているのだ。
そして、その無意識を操っていたのは……。
――私だ……。
こいしは殴りつけた。
自分の心の底に隠れた、恥ずべき己の無意識を。
――全部……私が願ったこと……。
14 Id
この地底にやって来る以前から、こいしは姉のさとりから、他者の恐怖を食せ、と命じられてきた。
それこそが覚り妖怪の生き方であり、宿業なのだ、と。
恐れられることは恵みである。憎まれることは誉れである。私達の能力の価値は恐れられ、憎まれることにある。
心を読むという武器があるからこそ、長きにわたる苦難に耐え、生き延びてきたのだ。
その末裔である自分たちは、覚り妖怪に相応しい振る舞いを心掛け、宿業を背負って闘い続けなければいけない。
だがこいしは、その宿業を受け入れることを長らく拒んできた。
心なんて読めなくてもいい、旧都にだって住めなくていい。
ただ普通の妖怪として、姉と……そしてペット達と過ごすだけで、満ち足りる。
どうしてそれ以上を求めるのか。復讐しても父や母が……覚り妖怪の皆が生き返るわけでもないのに。
そんな秘めた心を、こいしはさとりに明かしたことがある。
自分の気持ちを恐る恐る、クレープの皮に包むようにして、それとなく伝えてみた。
その時、第三の目に映った姉の姿は、こいしの心に消えない火傷を残した。
以来、こいしは姉のやることに口を出すことができなくなった。
恐かったのだ。姉の逆鱗に触れ、嫌われてしまうことが。
こいしにとって、己を嫌うさとりの心を読むことほどの地獄はこの世に存在しなかった。
そうした心情を、こいしは今まで誰にも吐露したことはなかった。
ほんの七日前のあの晩、夜空に伝えたことを除けば。
屋上で一人で泣いている時、空に祈った。
七十六年に一度やってきて、妖怪の願いを叶えてくれる星。
そのことを聞いて、地霊殿の屋上へと向かい、本物の星の見えぬ寂しい夜空を見上げて祈った。
何千キロも離れた場所を旅する、孤独で気高い星。
それを心に思い浮かべながら呟いた。
誰にも話せない、自分のことがますます嫌いになりそうな願い事。
私の気持ちを理解してくれる……そうでなくても、もっと耳を傾けてくれる姉さんがほしい、と。
すぐに自己嫌悪に陥ったこいしは、その心をしまい直し、綺麗さっぱり忘れてしまおうとした。
次の日、屋上には一かけらの石が落ちていた。
こいしが、それがほうき星からのプレゼントだと理解したのは、七十六年後の姉と交信できたことに気づいてから、つまり昨日のことだ。
そう。だからマリーが知るはずがない。
今まで心の中に隠してきた秘密を知っているのは、こいしだけのはずだった。
無意識を操る能力。
七十六年後の姉から、その力について伝えられた時、こいしにはそれがどんなものか見当もつかなかった。
無意識というものがどういうものかさえも、ろくに理解が及ばなかった。
きっと自分が第三の目を閉じてしまうようなことになった際に、その力を知ることになるのだろうと、漠然と考えていた。
でも違ったのだ。
すでに自分は、無意識を操っていた。
自覚のない己の欲求に従い、自覚なく他者の心を動かそうとしていた。
自我で無理矢理蓋してきた己の中の無意識を、マリーのそれに我知らず投影させてしまっていたのだ。
とてつもなく邪で、危険で、子供っぽい力。
その力が、姉を今、窮地に追い込んでいる。
冤罪などではない。全て、己が招いたことだったのだ。
「こいし様……?」
困惑するマリーの前で、こいしは袖で乱暴に顔をこすり、涙をぬぐった。
これ以上情けない姿を、ペットに見せているわけにはいかない。
「マリー。貴方の言いたいことはわかった。今度は私の話を聞いてほしい」
ジッと、血気にはやっていた妖獣を見つめ返す。
「こんな大げさなことする必要なんてない。私がちゃんと姉さんに伝える。貴方の気持ちも、ペット達の気持ちも、私の気持ちも全部伝える。復讐なんて必要ないって。みんなで過ごすだけで、私達は十分幸せだって」
姉の背負っている業の重さを想えば、確約することはできない。
それでも、古明地さとりに挑戦し、その心を変えられるのは、妹であり、覚り妖怪である自分以外にいないはずだ。
今まで逃避してきたものと向き合い、負うべき責任を負うことを誓う。
「私はきっと変わってみせるよ。だからもう、無理をしないで。こんなこと、貴方には似合わないから」
呆然とたたずむマリーの心の映像が、こいしの『目』に映る。
たくさんの心象風景が、そこを流れていく。その中には、地霊殿の家族の絵があった。
覚り妖怪は心の窓から、意識の歴史を読む。
これまでマリーがどんな思いでいたか、どれほどの覚悟があったかを、こいしは汲み取った。
無意識に翻弄されて、乱れ、傷だらけになってしまっていた心に包帯を巻いていくイメージで治療していく。
心をなだめ、制御不能となっている感情を緩やかに。覚り妖怪だからこそできる処方を。
そこに、黒い影が混じった。
鈍い音が響き、こいしはハッとなる。
両の瞳に、眼前に立つ猫が、力なく倒れていく姿が映った。
「マリー!?」
こいしは悲鳴を上げる。
マリーの背後に、六角棒を手にした鬼が立っていた。
「そっちの話は済んだようだったからな。今度は俺と話そうか、覚り妖怪さんよ」
こいしは信じられない思いで、鬼を見つめた。
「マリーは貴方の仲間じゃなかったの……?」
「たまたま利害が一致しただけだ。欲しいものが手に入り次第、こいつはいずれ『食う』つもりだった」
「………………」
「だがこうなった以上、計画に多少の修正が必要だな」
本能的に足が一歩引きそうになる。
それを鬼が抜け目なく見咎める。
「逃げられると思うなよ」
「貴方こそ」
こいしは勇気を奮い立たせ、傲然と言い返す。
「私がマリーを置いて逃げるような飼い主だなんて思わないでほしいわ」
鬼が鼻で笑った。
改めて、こいしはマリーの協力者と対峙し、その姿を観察する。
短く刈られた髪、二本の牛の角、口からうっすらと見える牙、そして筋肉質の体。
まさしく鬼の特徴で、旧都ではどこでも見られる姿だ。
ただしその格好は旧都の見廻り組のもの。
彼が得物にしている六角棒も、武器というよりその象徴として使われているものだった。
鬼の結束は強く、身内が神器を盗んで都を滅ぼそうとするなど考えもしない。
その死角をついた犯行だったのだろう。
後に地底の未来を変えてしまうことになる、全ての元凶となった鬼。
彼は六角棒を肩に担ぎ、重い足取りで、一歩ずつ近づいてきた。
「私は覚り妖怪よ」
こいしは身構えつつ警告する。
接近してくる大柄な体に威圧されないよう、毛を逆立てる心持ちを保つ。
迫りくる岩壁を前にしているようなこの気配。まさしく鬼のものだ。大抵の妖怪を、存在だけで圧倒することのできる者達。
しかし、
「この第三の目がその証拠。妖怪の貴方の力は、私には通用しない」
旧都の鬼はもれなく覚りの力を忌避している。
その心を読まれることで、力を奪われることを等しく恐れている。
「どこへ逃げてもわかる。だからもう観念して、大人しくして」
鬼はこいしの前で、足を止めた。
そして肩をすくめ、
「ああ、わかった」
「え……?」
直後、こいしの第三の目に痛みが走った。
赤い刃に直接眼球を切り付けられたような激痛は、攻撃の意志。
つい反射的に、第三の目を両腕でかばう。
一瞬遅れて六角棒が飛んできた。
力任せの横殴りの一撃に、こいしは為す術もなく壁に叩きつけられた。
「…………っ!!」
今度は本物の肉体の痛みが、神経を駆け巡った。
余りの衝撃に、まともに声も出ない。
争いごとの経験もなければ、暴力を受けた経験すらほとんどないこいしにとっては、未知の苦痛だった。
涙でにじんだ視界の中心を、精一杯睨み付ける。
「嘘つき……! 鬼のくせに……!」
「ほう? おかしなことを言うな、覚り妖怪のくせに」
鬼は猫がネズミをなぶるような口ぶりで言う。
「その目があるなら、俺がこうすることも読めたはずだろう? なぜかわさず、防ごうとしなかった?」
「………………」
立ち上がろうとするこいしの機先を制して、鬼が足を払ってきた。
こいしは避けることができず、再度まともにくらい、無様に床の上を転がることになった。
「やはりな。そいつから聞いていた情報は、本当だったらしい」
鬼の声が、こいしの胸に突き刺さった。
かわせず、反撃もできない。それは単純な理由が故だった。
「心を読めない覚り妖怪が、この世にいるとはな」
「……違う……私は……」
心を読むのが、下手なのだ。
表層を撫でるだけで、己の意識に取り込むことなく、忘れようとしてしまう。
だからいつも、肝心な時に間に合わない。ずっと姉に、そのことを叱られ続けてきた。
金属質の冷たく硬い感触が、喉に当てられた。
無理やり顔を持ち上げられる。六角棒をこちらに突き出し、見下ろす鬼と目が合う。
「ついさっき、部屋に入ってきたのがお前の姉だったとしたら……」
獰猛な笑みを浮かべた鬼の瞳に、昏い炎が宿った。
「ペットとぬくぬく会話なんざしてなかっただろうよ。部屋の外から俺の心を瞬時に読んで、即座にこの俺をどうにかしていたはずだ」
こいしはその眼光を見返しながら、確かめる。
「貴方の本当のねらいは……私の『目』なのね?」
「……いいや、それはさすがに高望みだと思っていた」
鬼の視線が下がり、こいしの身体の中心を射抜く。
「だが叶うなら……その通り。お前のその『第三の目』を頂くつもりだった。そして間もなくそれは現実となる」
やはりそうだった。
姉から受け取った情報に拠れば、旧都を変えてしまった怪物は、灼熱地獄を一人で管理し、怨霊を抑え込んでしまったということだった。
前者はマリー、そして後者はこいしの持つ能力を食らったのだろう。
妖怪が妖怪を食らうという邪法。
そのおぞましい行いは、この土の下では禁じられておらず、地霊殿のペット達の中にも、力尽きた妖怪や、すでに先のない妖怪を食らって能力を手に入れた者が少なくない。
その極意は相手の存在を屈伏させることにある。
屈伏させ、抵抗できなくなった精神を呑みこむのだ。
「お前はどんな風に食われることを望む?」
鬼はこいしの首根っこをつかみ、持ち上げ、牙を鳴らして言った。
「その肉を刻んで平らげられたいか?」
こいしは床に投げ出された。
鬼の手が一閃し、正面を空気の刃が通り過ぎる。
「それともこの場で犯されて、自ら舌を噛むのが望みか?」
肌の上を滑り落ちそうになった服を、慌ててこいしは抱きかかえる。
だが羞恥を感じる間もなく、
「もしくはただいたぶられ、なぶり殺しにされたいか?」
続いてやってきたのは、ろくに想いもこもってない、ただ腕を振るだけの機械的な暴力。
拳を振いなれた鬼の力は、華奢なこいしの身体を紙切れのように吹き飛ばした。
ただの妖怪と鬼が普通に相対すれば、一方的で勝負にもならない。
歪んだ光景の中心で屹立した鬼が、乾いた声で告げる。
「早く決めろ、古明地こいし。お前に直接的な恨みはない。ただ覚り妖怪に対抗し得る力として、旧都を正しい形に戻すために、その『目』が欲しい」
「正しい形ですって?」
第三の目に手をやりながら、こいしはペースを取り戻そうと、必死に反論する。
「貴方がこの力を手に入れたって、旧都は正しくなんてならない。貴方の願望は破綻しちゃうのよ。それでもいいわけ?」
未来から情報を得ているこいしと違い、鬼はこの先のことなど知る由もない。
こんなことを言ったって聞く耳は持たないと分かっていても、非難したくなった。
しかし、鬼の返答は予想の斜め上を行った。
「そうはならん。仮にそうなったとしても、お前の姉の破滅は免れない。それさえ叶えば、俺は構わない」
敢然とした口調で放たれたその発言に、こいしは絶句する。
「強き力を持つ者が弱き者を食らう。それは鬼の摂理。すなわち、旧都の理念でもある。その理念を捻じ曲げ、この都を支配しようとした、お前の姉の罪は重い。旧都の未来を守るため、鬼の仲間を代表して、俺がその野望を阻止する」
「………………」
正直、こいしには全く理解できない動機だった。あと百年生きたとしても、やはり解らないだろう。
しかし理解はできずとも、解釈はできる。言っていることは無茶苦茶な暴論だったが、そもそも鬼とはそういう妖怪なのだ。
力を尊び、力以外には頭を垂れようとしない。物事の多くを力で解決し、力で蓋をする。
そんな鬼であっても、心を読むという、妖怪にとっては反則的な能力を持つ覚り妖怪が相手では手を焼く。
だからこそ、
「お前のその『力』が必要なのだ。怨霊を御し、灼熱地獄を管理し、力で以って支配する究極の存在となるためにな」
鬼の激情が生み出した波動が、第三の目に焼き付いた。
こいしは始め、どす黒い欲望をはらんだ心を想像していたが……しかし、そこにあったのは、確かに義憤とも呼べる感情だった。
だがそれはあくまで、表層に過ぎなかった。
薄い鋼鉄の扉の向こうでは、姉であるさとりに対するほの暗い憎悪が見え隠れしている。
そして突然、火炎のイメージが全てを呑みこんだ。
「言っておくが、俺がイカれてるわけじゃない。俺と同じことを考えてる鬼は、旧都にごまんといる。たまたまあの妖獣が声をかけたのが、俺だっただけのことだ。お前の姉を引きずり下ろすためなら、俺達鬼はなんだってする。覚りが支配する地底なんざ、誰も認めやしない。そして引きずり下ろすだけで済まそうとも思っちゃいない」
外の炎に負けず劣らずの炎が、鬼の心の内に荒れ狂っていた。
仮想の古明地さとりが、焼き滅ぼされる。それは幾たびも繰り返された。
「己の身内が起こした火で地位を奪われ、そして家族を失った時、あいつは永遠の敗北に苛まれることになる。そうして、奴が苦しみぬく様を、妹のお前の『目』で存分に観察してやろう」
圧倒的な憎しみの念に押しつぶされそうになりながら、こいしは尋ねた。
「……どうして?」
泣きたい思いで訴える。
「どうして、そんなに姉さんを……覚りを憎むの?」
直後、鎖から解き放たれた暴力がこいしを襲った。
怒り狂った鬼の大音声に、部屋が揺らぐ。
「覚りだからだ! それ以上の理由などあるか!」
これまで何度も言われた声に、その声が重なった。
これまで何度も見た表情に、その顔が重なった。
これまで何度も読んだ気持ちに、その心が……。
また、こいしは吹き飛ばされた。
幼いころから刷り込まれ、記憶に刻まれた訓戒が思い出される。
心の読めない覚り妖怪ほど、弱い存在はないと。
だから私達は、心を読むという力を、何よりも大事にしなくてはいけない、とも。
――姉さん……。
こいしは壁に背をつけて座り込んだまま、拳を小さく握った。
昨日までの自分なら、泣きじゃくるだけで諦めていたかもしれない。
でも今は、絶対諦められない理由がある。
七十五年後の、私を強くしてくれた姉さんを、元の未来に帰してあげるために。
どうするべきなのか、もう解っている。
「恨むならお前の血と、お前の姉を恨むんだな」
鬼の手がついに、第三の目にかかった瞬間、こいしは己を『捨てた』。
そして、己の受け継いだ呪いに、全てを委ねた。
◆◇◆
鬼は不意に寒気を覚え、伸ばしていた腕をとっさに引いた。
――なんだ?
極寒の氷海に肩まで浸かったような、異常な冷えだった。
外の火災による熱気によって、部屋の気温は高く、鬼の肌であっても汗玉が浮かぶほどだ。
そして、これから待っている強者の未来に昂ぶっているこの状況で、なぜ寒気を覚えたのか。
思わず、目の前に座り込んだ影を見つめる。
心を読もうとしない覚り妖怪、つまりほとんど人間と変わらぬ、ただの小娘だった。
一方で、あの忌まわしい第三の目はちゃんと持っている。
鍵の開いた金庫に、この世で最も凶悪かつ魅力的な宝がある。
圧倒的に優位にあるこの状況において、奪わない手はない。
かつてどの鬼も到達したことのない高みに手が届くのだから。
にもかかわらず、指を伸ばすことができなかった。
本能が警告している。引き返せと。今すぐ逃げろと。
先程感じた寒気の正体が、戦慄であるとわかって、鬼は戸惑った。
最強の種族である鬼が、同族以外に戦慄を覚えることなどない。
いや……そうではなかった。かつて、確かに一度だけ……
「食べかけ……」
目の前の小娘が呟いた一言に、鬼は当惑した。
「そっか……貴方……『食べかけ』だったのね」
「何?」
意味がわからない。
しかし、その言葉になぜか、体に力が入らなくなった。
「心を読まれたの……初めてじゃないんでしょ? ずうっと前に一度、貴方は心を読まれている」
小娘が立ち上がる。
外見的な変化はない。唯一、くすんだ色をしていた第三の目の瞼が、瑞々しい青に変わっている。
それだけで、雰囲気がまるで異なっていた。
触れるだけで割れそうだった外見の殻が割れ、中からぬるりと得体のしれぬ化け物が顔をのぞかせたような。
娘が顔を上げた。
そこに貼り付いた表情は、氷点下で沸騰するメタンのような、妖怪の目で見ても不気味な面構えだった。
「『殴りつけて大人しくさせてやろう』?」
言われた瞬間、鬼の中にあった殴ろうという心が消失した。
「思い出してるね。こんな風に、『姉さんに』心を読まれたことを、貴方は思い出してる」
内臓に穴を開けられたかのように、嫌な記憶が漏れ出す。
「やめろ……」
鬼は思い出そうとする意志を食い止めようと試みた。
「『鬼のため。旧都のため。未来のため。全部上辺だけのおまじない。本当の本当は、一番偉くて強い妖怪になりたかっただけ』」
そんなことは考えていない。考えていないのに、読みとられている。
自分の心のはずなのに、思うようにならず、逆に追いかけているような焦り。
握りしめた六角棒が、急に頼りない武器に思えてくる。
「『この俺様より偉い鬼がいることが、強い鬼がいるということが許せなかった。権力が欲しかった』。飛びかかる」
「やめろ!!」
鬼は『飛びかかった』。
そして、その行動を予測し、口にしていた覚り妖怪は、すでに別の場所に移動していた。
呼吸を荒くして、鬼はその姿を睨みつける。
「『第三の目さえ手に入れば、四天王をも凌ぐ力が手に入る。その時、俺はこの地底で一番高い場所に腰掛けている』
まるで自分の心が相手の口を借りて喋っているようだった。
鏡に映る自分に嘲られているようだった。
そして、鬼はそれに抗うことができなかった。
「『ただの読心だ。捕まえればすぐに恐怖に震えて動かなくなる』」
「………………」
「『今考えているのはどっちだ? 俺なのか? 本当に?』」
また目が輝く。
網膜が青白い光に染まる。
屈辱ではなく、恐怖の色に心が染まる。
鬼は本能的に耳を塞いだ。そうすれば聞こえなくなるはずだと思ったから。
「けれども俺には、どうしても許せなくて、我慢できないことがあった。俺よりも上に鬼以外の妖怪がいること。俺よりも非力で、ただ心が読めるというだけで旧都の中心に据えられたあの妖怪。なので直接、一対一で話した」
「ああ……ああ……!」
頭をかきむしる。
まるで全身が鼓膜になったかの如く響いてくる、この無慈悲な声。
「そこで俺は、古明地さとりをやりこめるつもりだった。しかし、あの化け物は怯みもせず、俺の心に刃物を差しこんで、ゆっくりと切り開いた」
時間によってミイラ化していた屈辱の記憶が、水気を取り戻し、復活する。
もっとも見たくない己の姿が、そこに映っている。
「浅くて、弱くて、その野心を支えきれない哀れな俺。奴に心を読まれて、かじり取られた。自分が地底じゃ、とてもちっぽけで何もできない鬼だと、暴かれた。地上では天狗や河童を顎で使えても、地底では通用しないことに苛々して、それにずっと耐えていた」
「がぁっ……」
古明地さとりの読心は、切れ味が鋭かった。
痛みを感じさせず、生きたまま解剖し、相手の心にある腫瘍を見せつけるような技。
鮮やかなまでに弱みを自覚させられ、後には屈辱だけが残った。
しかしこの覚り妖怪は違う。
さながら猛獣の爪のような、荒々しくもさとりより遥かに強い力で引き裂き、こじ開けようとしてくる。
そしてその背後には、鬼のそれを凌ぐ、暴力的な衝動が存在していた。
ここにきて、ようやく鬼はここから逃げようと身を翻した。
その時、
「でも知ってる? 姉さんは貴方のことなんて、全然覚えてないのよ? 面白いでしょ?」
逃げようとする鬼の背骨に、致命的なピンが刺さった。
「なのに貴方は絶対に忘れられない。何十年経っても辱められたことが忘れることができずに、狂うことになる」
いつの間にか、心を読む怪物は上から見下ろしていた。
三つの目の全てが、自分を嗤っていた。
「見るな……見るな……見るな……」
鬼は瞼を閉じ、耳を塞ぎ、体を丸める。
それなのに、声は終わってくれない。体の内側に、いくつもの『目』が浮かび、観察している。
「貴方のトラウマを、私は何千回も繰り返せる。壊れたら、それをまた組み立てて、永遠に辱めを受ける蝋人形にだってできる」
無邪気なその声に意識を絡めとられ、牙を突き立てられ、鬼は恐怖におびえた。
「でも、それは可哀想だから、全部バラバラにして食べてあげるわ。だって、このままだとまた姉さんに悪いことをするつもりだから」
「し、しない!」
鬼はすがるような気持ちで喘ぐ。
「誓う! もう二度とあいつの前には姿を現さない! だから放っておいてくれ!」
しかし、目の前の怪物は、可笑しそうに唱える。
「ダメよ。鬼さんが嘘を吐いたりしちゃ。全部私には『視えて』るんだから」
視界があの禍々しい目によって埋め尽くされる。
「弱肉強食が好きって言ってたでしょ。だから別におかしくないわ。貴方が弱い肉で、私が食べる役。自分が弱い肉だったってこと、自覚してなかったのかしら。姉さんもちゃんと教えてあげればよかったのに。それとも、教わっても聞こえないふりをして逃げてきたの? ああ、そうだ。俺は逃げ出した。背を向けて、みっともなく、自分の本当の姿から」
鬼は己の心を開き、そこにあるものを読み上げた。
「だから俺はもう、ここで消えてしまいたい。消してくれ。消してくれ。消してくれ。消してくれ……!」
ようやく見つけた己の意志を掴んだ瞬間、鬼は救われたような表情を浮かべて呟いた。
「どうか消してください……お願いします……」
その意志の残りかす以外にはすでにもう、一粒たりとも自我が残っていないことに気付かぬまま。
妖怪の命は、肉体よりも精神を支えにしている。
精神が外圧に屈し、消滅せぬ限り、妖怪は何度でも復活を遂げる。
しかし心を暴かれ、壊されてしまえば、どれほど強い肉体を持っていたとしても滅びは免れない。
心を食べつくされた鬼の身体は、頭髪から血の一滴に至るまでが色素を失っていき、やがて泥水と化し、蒸発してしまった。
後には、彼が封印されていた場所から持ち去ったのであろう火竜の印だけが残っていた。
静寂の中、鬼を滅ぼした覚り妖怪は、しばらく微動だにしなかった。
小さく息をしながら、部屋の真ん中で立ち尽くしていた。
そして唐突に、古明地こいしは体をくの字に折った。
服の上から、肌をかきむしり、せき込む。
「ゲホッ! ゴホッ! ううぉええええええ……!」
何も出てこない。けれどとにかく、体の中を空っぽにしたかった。
記憶を消してしまいたかった。
今すぐ今夜の出来事を忘れて、地霊殿のベッドで目を覚ましたかった。
嫌悪し、憎悪する。
食べたものよりも、それを余さず食べることに躊躇しなかった自分自身を。
一粒も残らず食らいつくし、満たされた己の欲に愉悦を覚える本能が、ただひたすらに嫌だった。
そして唐突に、燃えカスのような哀しさが心に生じた。
――何を夢見てたんだろう、私は。
こいしは無理に笑って、自嘲する。
――だって、これが覚り妖怪でしょうに。
それはずっと分かっていたはずだったのに。いつだって自分は、覚り妖怪の自分から目を背けてきた。
本当は、自分がどんなに『凶暴』な妖怪なのかを知っていながら、それに蓋をし続け、そうでない妖怪を演じていた。
だって、そっちの自分の方が、ずっと好きになれそうな気がしたから。
意外にも、頭の片隅が冷静に働いていることに、こいしは気付いた。
身体の操作を持て余した心を、もう一つの心がまるで第三者のように監視している。
姉さんみたいだ。
こいしはそう思った。
たぶん、姉はこういう辛い気持ちに小さな頃から耐え続けてきたのだろう。
その末に、誰にも傷つけられることのない、鉄の心を手に入れたのだろう。
心を食べるには、そうした強さを持たなくては、その分多くの何かを代償として払わなくてはならないのだとしたら。
悲しかった。憐れみたくなった。
覚り妖怪に生まれたばかりに、そんな風になってしまった、この世でたった一人の姉が。
そして、その宿業から逃れられずに死んでいった全ての覚り妖怪が、哀れでならなかった。
でも今は、今だけはこの冷え切った気持ちを捨ててはならない。
今までの弱虫こいしじゃ、これから為すべきことはできないから。
部屋の隅に視線を向ける。
そこでは、とっくに目を覚ましていた妖猫が、ガタガタと震えて息を殺していた。
第三の目が、マリーの心を覗き込む。
ペットの内なる鏡には、抵抗を許すことなく鬼を屠った化け物が映っていた。
そして妖怪としての本能が、覚り妖怪に対してはっきりと怯えを見せていた。
こいしは彼女の元に足を運ぶ。
「ごめんね、マリー。怖い思いをさせちゃったね」
「ひっ……ひっ……」
「大丈夫よ、もう」
そう声をかけて、ペットの頭を抱きかかえ、心臓を押し当てる。
自分の鼓動は、不思議なほど落ち着いていた。
「ほら……大丈夫でしょ?」
「こ、こいし様?」
狂乱状態の淵から救いだされ、マリーの震えが止まる。
彼女を宥めた魔法は、主人の体温だけではない。
第三の目を用いた弱い精神操作が、荒れる海を凪に変えたのだ。
ペットに寝物語を聞かせるような声音で、こいしは囁いた。
「たくさんの『声』が近づいてくるわ。きっと鬼の人達。火が消えた後の現場の近くで、犯人を捜して回ってる」
遠くにやっていた視線を下げて、こいしは言った。
「でもまだ貴方が逃げるのには間に合う。ここから急いで東に向かって。飛んだら目立つから、走って行って。そして落ち着いたら、遠回りして地霊殿に帰りなさい」
「こいし様は……」
「私はここに残る。今回の事件を起こした、犯人として」
マリーの顔が再び青ざめた。
彼女は首を振ってしがみついてくる。
「そんな……! ダメです! 私は死んでもここを動きません! 罰を受けるのは私であって、貴方じゃない!」
「ううん。元はと言えば私のせいだし」
愛する家族の頭を撫でて、こいしは語りかける。
「ペットがいけないことをしちゃったら、飼い主が責任を取らなきゃ」
「こいし様……! どうか……!」
「マリー。ありがとう私のために頑張ってくれて」
泣きじゃくるペットの頭を再び抱き寄せながら、こいしは囁いた。
胸元の第三の目が、青い輝きを帯びている。
「今日起きた辛いこと。そしてこれまで起きた悲しいことを、貴方が忘れてしまいますように」
一滴の涙がペットの額に落ちる。
「そして貴方がこれからも地霊殿で、幸せに暮らせますように。私が私でなくなっても、私と過ごしたことを忘れないでくれますように」
一生を狂わせてしまった贖罪の気持ちを込めたおまじないが、抱きしめる純真な心に浸透していく。
「さぁ、『お行き』」
瞬間、妖猫の乱れた心は、巨大な力に絡めとられ、封じ込められた。
「あ…………」
それっきり、マリーの意識は抵抗することもかなわず、眠りに落ちた。
彼女の体は、一時的な別の主人の命令に忠実に従い、活動を始めた。
夢遊病とは思えぬ、素早く洗練された動きで立ち上がり、窓から身を乗り出し、外へと飛び出す。
彼女の気配は、東に向かって瞬く間に遠ざかっていった。
部屋に残ったこいしは、外の様子を眺めた。
火はもう収まろうとしている。消火活動が炎の広がりを食い止めることに成功したのだろう。
マリー達が火災を本格化させる前に、こいしが中断させることが出来たのも功を奏したようだ。
そして犯人がいなくなった今、これからはもう旧都の火事が続くことはない。
と、肝心なことを、こいしは思い出した。
――そうだ! 未来はどうなったのかしら!
犯人が消え、地霊殿への放火が未遂に終わり、自分がいまだに無事だということは、未来の旧都の姿もきっと変わっているはず。
すぐにこいしは石を取り出し、呼びかける。
「姉さん? 姉さん聞こえる?」
しかし、未来のさとりからの反応はなかった。
声はもちろん、交信中はいつも副次的に伝わっている波長らしきものも感じ取れない。
胸の内に不安が広がる。まさか、上手くいかなかったのだろうか。
いやたまたま、こちらの声が届いていないだけなのかも。
「姉さん! 返事をして! 姉さん!」
こいしはもっと強く念じるため、意識を集中させた。
だが、さとりのことを思い浮かべたその瞬間、その心に突然、急激なブレーキがかかった。
そう。こいしは今から真実を伝えなくてはいけない。
マリーがこの災厄に関わっていたということ。
そして、彼女をそうさせてしまったのが、自分だったということも。
無実を信じて、命までかけてくれたさとりは、その事実を受け入れた時、どんな風に想うだろう。
その反応を受け止める覚悟が今、自分にあるだろうか。
石を握りしめたまま、逡巡していたこいしは、背後に現れた気配を覚ることができなかった。
音もなく忍び寄っていた縄が、蛇のごとく体に絡みつく。
「――っ!?」
振り向く間もなく、重力を奪われたこいしは、顔から床に激突する。
意識が遠のく一瞬前に、持っていた石の感触が、手から飛んでいった。
「こやつだけか。くまなく調べろ」
半ば気を失った中、第三の目だけがしっかりと働いていた。
部屋の中に知らない心が二つ。
こいしは夢うつつの状態で、彼らの会話を聞いていた。
「あったぞ! 火竜の印だ!」
「本当か! ついに見つかったか!」
「ここだけ焼けていないのは不思議だったが、なぜここにこれが……そしてこの娘は一体?」
「起こして知っていることを吐かせればよい。おい! 立て!」
冷たい床から、乱暴に引き起こされる。
まだ頭がじんじんと痺れてて、足が紐のように垂れていた。
視界には二人の、見廻り組の服装をしている鬼。
そして片方の火竜の印を持っている鬼の足元に、『石』が放置されていることに気づき、こいしは思わず声を上げた。
「待って! それを返して!」
ふらつきながらも、手を伸ばして訴える。
「お願い! 大事なものなの!」
「待て! 貴様の素性と、ここにいる理由を答えんか!」
縄が再び、体を締め上げた。
鬼はこいしの取り返したがっている物が、火竜の印だと思ったのだろう。
足元にある石の方は、無造作に蹴飛ばそうとしている。
こいしは血相を変え、
「やめて!」
力の限り叫ぶ。
その時、覚り妖怪が持つ最も有能な器官が、主の願いに応えた。
鬼が突然、石化したように動かなくなる。
硬直したその手から、縄の先が離れ、こいしの体は自由を取り戻した。
床に転がっている石に飛びつく。幸いなことに、割れたり欠けたりはしていないようだった。
「まさか……その『目』は……」
振り返ると、残った鬼が瞳に恐怖を宿していた。
こいしは思わず、自分の体を見下ろす。そこには、覚り妖怪の証明である第三の目が露わになっていた。
だがそれだけではない。第三の目は心臓のように強く脈打っていて、明らかに普通の状態ではなかった。
突然、青の閃光が部屋を染め上げる。
直後に鬼達は、悲鳴も上げることもできずにその場に昏倒した。
それぞれ、『目』に心をかじり取られたのだ。
異常を察したこいしが寸前で抑えつけていなければ、今ので相手を消滅させてしまっていたかもしれない。
しかし暴走はそれでおさまらなかった。
『目』から生じた光はさらに強みを増していき、ついには部屋を飛び出し、
「…………っ!!」
情報の洪水が、こいしの頭に流れ込んできた。
旧都にいるあらゆる生命体、そしてあらゆる心を、こいしは感じ取った。
しかも己の第三の目が、その全てに今にも牙を突き立てることができるほど肉薄していることにも気づいた。
唖然としている間もなく、こいしの第三の目に、猛烈なエネルギーが逆流し始める。
『旧都の心』を吸っているのだ。長きに渡る渇きを癒すために、ただひたすら貪欲に。
「待って! それは駄目!」
しかし、『目』は止まろうとしなかった。
いまだ輝きを帯びたまま、持ち主に猛烈な勢いで情報を送り届けてくる。
自分の体の一部なのに、そうじゃないようだ。
微量だからこそ住人に気づかれていないが、このまま続けば火災どころではない被害を旧都にもたらすことになる。
「やめて! おさまって!」
こいしは第三の目に己の腕をかぶせ、力を抑え込もうとした。
しかし、覚り妖怪の本能は、こいしの貧弱な意志を弾き飛ばした。
心の味を知ったばかりの『目』は、主人の願いに耳を貸さず、さらに吸収する速度を上げる。
「助けて! 誰か!」
こいしが恐怖のあまり絶叫した、その瞬間だった。
何者かの力によって、旧都に張り巡らされていたこいしの神経が、全て寸断された。
第三の目が悲鳴を上げて、光を失う。さらに急激なショックによって、繋がっている当人の意識にも少なくはないダメージが跳ね返ってきた。
再び、床へと身体が向かう。
衰弱したこいしは、残った僅かな力を用いて、部屋の入り口を見る。
そこに立っていたのは……。
「姉さん……」
姉が、同じ時代を生きる古明地さとりが、血の気の無い顔をして立っていた。
暗転。
こいしの意識は今度こそ、奈落に落ちていった。
15 Hallucination
古明地こいしは中央街の一角にて、放火事件の重要参考人としてその身柄を拘束された。
火竜の印が現場に落ちていたということ、現場の建物だけが焼けていなかったこと、そして彼女だけが発見されたこと。
さらに、心神喪失の状態ではあったものの、一連の犯行を認めたことにより、鬼の上層部は有無を言わさず彼女を投獄した。
裁判らしい裁判のない旧都において、それらは特に支障なく手短に行われた。
ただし、事件にいまだ不明な点も多く、古明地こいしの単独犯だったかどうかも疑問符が付いたことで、彼女への刑罰はより事件の全容がはっきりしてから決定する、ということになった。
当然、古明地さとりの能力があれば真相を暴くのは造作ないと思われるが、彼女の身内が容疑者である以上、それは不可だ。
今は鬼の上層部の主導により、捜査本部が証拠集めに奔走しているところだった。
その間、古明地こいしは特別な牢に入れられることとなった。
旧都の郊外地下に建設されたそれは、元々、都に害を為した強力な妖怪を閉じ込めるために造られたものだ。
そこでは徹底した警備体制が敷かれており、覚りであっても、心を読んで脱走を図ったり、上の様子を窺うことはできないはずだった。
以上は全て、私がこの地下牢に入るまでに、旧都に棲む鬼の人達の心を読んで知った情報だ。
でも本当に、捕まってここに入れられてから、まだ半日しか経っていないんだろうか。
もう何十年も過ぎたような気さえするのは、たぶん、あれからずっと生き生きとしている、この『目』が原因だった。
こうして暗闇の中でジッとしているだけで、旧都にいる人達の考えてる声が、土砂降りの雨みたいに聞こえてくる。
声の行方を追いかけてると、自分の思考が遥か遠くに置いてけぼりになってしまうくらい。
だから、本当に今自分が考えていることなのか、それとも心の声が聞こえてくるのか、たまに分からなくなる時がある。
「飯だ」
びっくりした。
心の声じゃなくて、耳で聞く声は久しぶりだった。
看守……じゃなくて、獄卒っていうのかしら。
牛の頭をした鬼の人が、檻の横の壁に取り付けられた頑丈な鉄の箱を通じて、お盆を差し入れてくれる。
でもそれは、盛り付けがひどくて、中身がこぼれていて、お箸もついていなかった。
盛り付けがきちんとしていたとしても、食欲の湧くようなメニューじゃなかったけど。
「なんだその目は。文句があるのか。え?」
グワワーンと凄い音がした。
鬼の人が持ってる鉄棒で鉄格子を殴ったのだ。
けど牢屋は暗かったし、行動を読んで反射的に耳も目も閉じてたので、そんなに驚くほどのことじゃなかった。
「ただで死ねると思うなよ。証拠が出次第、お前には仲間が受けた分の苦しみを、存分に味あわせてやるからな」
鬼さんは歯をむき出して笑って、舌舐めずりまでしてる。
私がみじめな目に遭っているのが楽しい……ふりをしているんだ。
でもこの『目』があると、全部視えちゃう。
そんなに私が恐いなら、早く上に帰ってくれればいいのに。
私の心の声が届いた訳でもないだろうけど、獄卒の人は唾を吐き捨てて、足を踏み鳴らして行ってしまった。
運ばれてきたご飯を見てみたけど、やっぱり手を付ける気がしなかった。
そもそもお腹が全然空かない。
第三の目が暴走した時みたいな、ひどい渇きも無くなっていた。
旧都にある心のほとんど全てを覗いて、ほんの少し吸い取ってしまったからなのかも。
私はまた、石の寝台の上に腰かけて、黙想に耽った。
ここに連れてこられてからずっと探していて、いまだに見つからない心を求めて。
どちらにせよ集中していなくても、外の色々な声が聞こえてくるのだけど。
あの、死んだ哀れな鬼さんの言ってたことは本当だった。
ここ半日のうちに、私は自分がどれほど憎まれている存在なのかを、直に味わった。
街を滅茶苦茶にした覚り妖怪に対する恨みが、牢屋の外に溢れかえっている。
それらは、生きた茨の蔓が下りてきて首を締め上げてくるみたいな苦痛になって、いつまでも側から離れようとしない。
意識を飛ばし、そんな茨の海を泳ぐような気持ちに耐えながら、私は探しているものを見つけようとした。
そして、ついに見つけた時、私は思わず立ち上がっていた。
そこは旧都の真ん中にありながら、都に点在する心とは距離を置いている不思議な場所だった。
そしてそこにある心も、妖怪らしくないものばかり。
純粋で裏の少ない鮮やかな心が、分子のように集まっている。不安を覚えつつも互いを守るように寄り添っているみたいだった。
私がずっと読んできた、地霊殿の動物たちの心だ。
その中にマリーの心があるのを見つけて、私は安心した。辛いことを何も思い出さずに、これからを過ごしてくれることを祈る。
その代わり、彼女とした約束を、私は果たさなくちゃいけない。
さらに一歩、奥へと進む。
動物たちの心から離れた場所にぽつんと、一つのハートが浮かんでいた。
私は強く呼びかける。
[姉さん……!]
声は届かなかった。
くすんだ色のハートは、いくつもの壁を作って、何もかもを拒絶している風に見えた。
[姉さん……! 聞いて……! 私がここにいるのは、訳があって……!]
その時、いくつものイメージが私の『目』に映った。
闇夜の下、壊れた城の瓦礫に立ち、途方に暮れている女性の映像。
築き上げた物を失ったことによる失意が、そこにはあった。
しかし、その女性には鎖が絡みついていて、それは地面の下へと続いていた。
その奥にあった物を感じ取った瞬間、私は凍り付いた。
知ってはいた。
姉さんが今日までの覚り妖怪の心を全て背負って、古明地さとりの名を襲名したことを。
けどその本質について、まるで私は理解していなかったことに気づいてしまった。
あらゆる心を食い漁ってきた覚り妖怪の精神の束の重みが、そこに地層のように横たわっていた。
まるで恨みに燃える悪鬼の群れを溶かしたマグマを、心の底に飼っているような光景だった。
いいや、違う。飼っているのではなく、姉は率いていたのだ。覚り妖怪の長として、彼らの悲願を叶えるために。
けれど、全身に結び付けられた鎖をとてつもない力で引っ張られている様子は、一方で、それらに虐げられているようにも見えた。
こんなにもひどいものを抱えながら、姉はずっと、私を覚り妖怪の闘争に巻き込もうとせず、独りで戦ってきたのだ。
それを今さら、そんなもの意味がないと、忘れろと、責任を放棄し続けてきた私が、どうして伝えられるだろう。
たとえ、私が自己嫌悪に耐えて、それを行ったとしても、立ちふさがる壁はあまりにも厚すぎた。
そして……扉から漏れ出る心情に、妹である私に対する怒りと失望が混ざっているのを見て、ますます近づけなくなった。
――ごめんなさい……許して姉さん……お願い……。
外からそんな弱々しい声をかけるのが、今の私の精いっぱいだった。
けれども、扉は開いてくれない。
聞こえていないのだろうか、気づいているのに、私を避けているのかも。
もしくは私が逃げているんだろうか。
もっと大きな声で訴えなければいけないのに、どんどん意気地が削られていくばかりで、自分が情けなくてたまらなかった。
孤独なハートが、どんどん遠ざかっていく。
そして再び、旧都の心が私の『目』に映し出された。
耳を塞いだ。それでも声は聞こえてきた。
瞼を閉じた。それでも幻は見えていた。
震えが止まらない。
世界中が私を嫌っている気がする。
世界中が私を怖れている気がする。
世界中が……私をこの世から消したがっている気がする。
そしてどれも全て、本当なのだとしたら。
誰か助けてほしい。
温もりが、囁きが、心以外のものが恋しくてたまらない。
[寒いのかい?]
私は膝から顔を持ち上げた。
灯りに乏しい牢の中は、どこを向いても石の壁ばかり。
けどだんだんと壁の染みが、蝶々に見えてきた。
もう一度まばたきすると、本当に青白い羽をもつ蝶が、壁にとまっていた。
[同情するよ。こんな狭くて寂しい所に閉じ込められるなんて]
「貴方……誰?」
[アニマっていうんだ。大丈夫。僕は君を傷つけたりはしないよ。できっこないさ。やせっぽちな虫けらで、見た目もよくないだろうし]
皮肉っぽいけど、この牢には合わない温かみのある語調だった。
何だか可笑しくなって、一日ぶりに顔がほころぶ。
「そんなことないわ。貴方はとってもハンサムよ」
[ありがとう。ところで君は蝶々と蛾、どっちが好き? 自分がどんな姿なのか、わからないんだ。鏡があればわかると思うんだけどなぁ。でももしかしたら、鏡があっても分からないかもしれない]
「ごめんね。鏡は今持ってないの。外に出られれば、見つけてきてあげられるんだけど」
[どうして外に出ないんだい?]
「どうしてって……」
[君は望んでここにいるの? 僕だったら絶対に嫌だな]
「好きでいるわけじゃないけど、ここにいないといけないの」
[君の願いが早く叶うことを祈るよ]
「私の願いなんて知らないくせに」
[君だって知らないくせに]
そんなことないわ。
私は知ってる。ちゃんと自分の望みはわかってる。
わかってるよね……?
まばたきすると、青い羽は消えてしまっていた。
そして私は、柔らかい背もたれのある椅子に腰かけていた。
[私が思うに、ですね]
天井いっぱいに広がるプラネタリウム。
穏やかなナレーションが、耳元に語りかけてくる。
[ほうき星が叶えてくれる願いが、どのような形で表れるかまでは、当人にも分からないのではないかと思うのです。そう。当人というのは、これはまさしく自我のことを示します。つまり自我の裏にあるイドの願いを、ほうき星が叶えてくれたとしても、自我は戸惑うだけなのではないでしょうか]
[私の願いって、何だったっけ]
[貴方は覚えていないのかもしれませんが……。しかし、貴方は間違いなく願ったのではないかと思います]
願い事……。
姉さんや家族のみんなと暮らすこと……確かそうだったはずだけど。
瞬きを区切りにして、また世界が切り替わった。
いつの間にか、人生で一番見慣れた場所に来ていた。
地霊殿にある自分の部屋だ。
ちょうどお出かけする準備の最中だったのだろう。帽子と、そしてコートがベッドの上に置いてある。
私は何も考えることなく着替え始めた。
帽子が好きなのは、嫌いな私と違う子になれる気がするから。
そして厚い服が好きなのは、他の人に見せたくないものを隠せるから。
身支度を終えた私は、廊下へと通じるドアを開けた。
私を出迎えてくれたのは、色をごちゃ混ぜにした液体で埋め尽くされた、おどろおどろしい世界だった。
そこでは、ありとあらゆる邪な思いが、奇怪な音を立てて蠢いていた。
見慣れた廊下を頭に描いていた私は、あまりに現実離れした眺めに硬直していた。
すかさず、まだら色の液体から大量の手が生え、私めがけて押し寄せてくる。
髪を掴もうと、目を潰そうと、首を絞めようと。
私は帽子とコートを犠牲にして、必死に手を振り払い、扉を勢いよく閉め、鍵をかけて、
[だから言っただろうが]
素早く振り返った。
部屋の隅に、いつの間にか鬼が座り込んでいた。
[たまたま俺だっただけで、代わりはいくらでもいると]
彼の姿を忘れられるはずがない。
私を食べようとして失敗して、逆に心を食べられてしまった見廻り組の人。
彼は六角棒を杖のように床に立て、冷めた目で私を見て言う。
[俺もみじめだが、お前ら姉妹はもっと哀れなもんだな]
違う。
私たちのことをそんな風に言わないで。
何か物を投げつけてやろうとしたけど、目をそらした瞬間に、また場面が切り替わる。
今度も私にとってなじみのある場所だった。
地霊殿の中庭にある、灼熱地獄跡。
隣には、私と同じ色の髪で、同じ色の目のペット。初めに話すきっかけはそれくらいだったけど、今では一番の仲良しだ。
あらゆるものを焼き滅ぼすといわれている炎を見下ろす彼女は、手塩にかけて育てた花を見守るような優しい眼差しをしている。
その横顔を眺めるのが好きで、私はいつもここに来ている。
でも彼女は仕事をしながらも、私に暑くないかだとか、喉が渇かないかだとか、あとは退屈じゃないかだとか気を遣ってくれる。
そんな優しさにも、ついつい私は甘えてしまっている。
「マリーはどんな願い事がいい?」
今日の話題は、あと十数年経てば地上で見えるという噂のほうき星。
マリーはお星様には好奇心を示したけど、願い事にはさほど興味がないそう。
[この屋敷に住ませてもらってるだけで、私は十分満ち足りてますよ。ここに集まった動物たちは私も含めて、心を読み、理解してくれる存在を求めています。さとり様とこいし様は、その願いに応えてくださいました]
欲がないなぁホントに。私は願い事がたくさんある。
もっと背が高かったらとか、もっとお洒落が似合う外見だったらとか、大人びた容姿だったりとか……。
……なぜだろう、どんどん猫耳のないマリーに近づいてる気がする。
でもやっぱり、第三の目を持ってない自分を想像しちゃうな。
それだけでも、ほうき星は叶えてくれないかしら。姉さんには、罰当たりだって叱られそうだけど。
「覚り妖怪を嫌わない世界をくださいって言うよりは、慎ましい願い事だと思うし」
[旧都にて覚り妖怪に対する風当たりが強いというのは、私も重々承知しております。悲しいことですわ]
「旧都だけじゃないわ。どこもおんなじ」
私は愚痴っぽく言って、膝に顔をうずめる。
「地上だって、世界のどこだって、宇宙のどこでだって覚り妖怪は嫌われる運命なんだわ。私が普通に過ごせるのは、ここだけ」
地霊殿だけ。
その中でも一番安心して過ごせるのが、この灼熱地獄を封印した中庭だった。
ここみたいに、争い事が起きなくて、時間がゆっくり流れて、心を読む私でも受け入れてもらえる。
そんな世界がもう少しだけ、この地底のどこかにあったらいいのに。
[それが、こいし様の本当のお望みだったのですか?]
マリーは炎を見下ろしたまま、微笑む。
[でしたら、何も地霊殿にこだわることもないかもしれません]
「え?」
それってどういう意味?
16 Eclosion
……………………。
…………いつの間にか、私はまた牢屋に戻ってきていた。
ううん、違う。初めからここにずっといた。たぶん今までのは全部、ただの夢だったのだろう。
やっぱり他人の心を覗き過ぎたせいで、自分の心がどこにあるのかわからなくなっちゃったのかな。
もしそうだったら、怖くて哀しい。
「あれ……?」
私はお盆に載っていたあのご飯が消えてることに気づいた。
牢屋の反対側で、小さな影が動いている。しかも食事中、というか盗み食いの最中のご様子。
夢はまだ終わってなかったのかしら。
[誰?]
「………………」
同じことを尋ねようと思っていた私は、開きかけた口を閉じた。
声からすると、影の主は小さな子供のようだ。
シルエットはスカートを穿いてるみたいだし、たぶん女の子。
仕方ない。もう少し、夢に付き合ってあげよう。他にすることもないのだし。
「悪い妖怪」
私がそう答えてあげると、向こうは食べる手を止めて、不思議そうに言う。
[悪いことしたの?]
「悪いこともしたけど、生まれる前から嫌われてるの」
[どうして生まれる前から嫌われてるの?]
「覚り妖怪だから」
すると子供の影は黙っちゃった。
私が覚り妖怪だと知って、怖くなったのかもしれない。
大抵は誰でも不気味に思い、できるだけ遠ざけようとするのだ、私たちのことを。
でもこの子はどこから来て、どうやってここに入ったのかしら。
聞いてみることにした。
「どうやってここに入ってきたの?」
[ずっと前から、ここにいたわ]
「鍵がかかっていたのに?」
すると、女の子が腕を動かす。
暗くてよく見えなかったけど、チャラチャラと金属が鳴る音が聞こえた。
[さっき怖いおじさんが持ってたのをもらっちゃった]
あらら……この子は盗みが達者なようで。
もちろんこれは夢だから、その鍵もきっと幻なのよね。
女の子は私に一歩近づいて言った。
[ここから出たいなら、出してあげる]
ありがたい申し出に聞こえたけど、私には立ち上がる元気がなかった。
「ごめんね。私も外に出たいけど、そうしちゃダメなの。ここから出ると、たくさんの人に迷惑をかけちゃうし……」
それにどこに行っても、私を受け入れてくれる世界はない。
唯一の帰る場所だった家も、自分から手放してしまった。
「この世界は、覚り妖怪には残酷すぎるから」
[お姉ちゃんと同じこと言うのね]
とことこと近づいてきた女の子が、私の顔を見上げて言った。
[覚り妖怪だから嫌われないといけないなんて変。私、嫌われたくない世界に行きたい]
私は……本当にびっくりした。
目の前にいる子供が、小さい頃の……姉さんに手を引かれていた頃の私にそっくりだったから。
呆気にとられて見つめていると、小さな私はいかにも子供らしい仕草で見つめ返し、そして無邪気に笑った。
……こんな風に笑っていた時代が、私にもあったのかな。
なんとなく、泣きたい気持ちになりながら、私は言った。
「うん……私もそうよ。でもそんな世界、本当にあるのかしらね」
あえて言葉を濁してしまう。
せめてこの頃の私には、まだ希望とか夢みたいな甘い幻想を持っていてほしいから。
でも結局裏切られるのだとしたら、素直に現実を教えてあげる方がいいんだろうか。
小さな私は、また無邪気な様子で言った。
[私ね。一度だけ見たことがあるわ、そんな世界。遊びでこの目を閉じられないかと思って、試してみたことがあるの]
え? そうだったっけ?
[そうしたらね。見えてた物が見えなくなっちゃって、見えてなかった物が見えるようになったの。お姉ちゃんも知らないみたい]
そういえば、小さい頃にそんな遊びをした事があったような気もする。
心を読まなければ、覚り妖怪は覚り妖怪でなくなってしまう、だからそんなことをしてはいけない、って姉さんに叱られたけど。
それに、
「心が読めない世界なんて、私達には暗闇と同じ。寂しくて、何も感じない世界」
でも今の私にはどっちにしても絶望的。
だってこの世界は私を――覚り妖怪を拒絶することしか、頭にない人達ばかりだもの。
小さな私は不満そうに口を尖らせて、頭を振った。
[嘘。『目』を閉じても真っ暗になんてならないわ。『目』を閉じたらすごく世界が大きくなるんだもん]
心臓を触られたみたいに、私はドキンとなった。
小さな私の小さな手が、生まれてからずっと私を苦しませてきた、青い瞼に触れている。
[ね、試してみて。きっとわかってくれるから]
そうは言っても、第三の目をどうやって閉じるかなんて知らない。
手を触れずに耳を動かせ、っていうみたいなものだし……あ、でもペットの子達は確かにできるか。
違う違う、そういうことじゃなくて……。
「あれ?」
あの子がいない。
つい今の今までそこにいたのに、急にいなくなってしまった。
白昼夢がまた、唐突に終わっちゃったってことなのかしら。
「目を閉じる……か……」
言われた通り、第三の目に手を当て、それが閉じられるものなのかどうか私は試してみた。
まずは顔についている両目の方を閉じて、深呼吸し、何も考えないように努力してみる。
当たり前だけど、上手くいかなかった。私が何も思わない代わりに、他の誰かが何かを思う。それが生まれた時からの私のさだめ。
もし私が死んだら、第三の目はどうなるんだろう。その時は、やっぱり瞼を閉じてるのかな。
そっか。自分が死んじゃったと思えばいいのかも。試しにそうしてみることにした。
しばらくして、意識せずとも『目』が受信していた無数の心の声が、徐々に小さくなっていった。
怨霊がたくさん集まってできた嵐が、どこかに遠ざかっていくみたい。
さらに深く、私は自分の中に潜って行こうとする。
ああ……水の底に沈んで死ぬのって、こんな感じなのかも……。
そして、何も聞こえなくなった。
真の闇の中に一人浮かんでいるような、どうしようもない孤独に陥ってしまった。
見えなくて、聞こえなくて、他と比べる物がない世界で、私が私であるかどうかも分からない。
こんな世界にいるくらいなら、まだ現実の世界の方が……
あ……一瞬、あの子の背中が、闇の中に見えた気がした。
いや、気のせいかもしれない。たまたま私が、見えたらいいな、って思っただけで、きっとただの幻。
変化は突然だった。
その瞬間私は、はっきり知覚した。
知覚した瞬間、闇の底にあった、とてつもなく広い世界が、私を一息に呑みこんだ。
初めは宇宙だと思った。
プラネタリウムよりももっとたくさんの星が、生き生きと輝いてたから。
でもそんなはずはなかった。宇宙にしては空虚な感じがしなくて、色々なものが視えすぎている気がした。
空気があったり、望遠鏡も無しに星雲がくっきりと映ったり、天の川の様子がはっきりとわかるって意味じゃなくて。
たとえば深い森のイメージが頭上を流れていったり、ご馳走の匂いが後ろを横切ったり、足元をピンクの象の群れが通ったり。
こんな賑やかなのが宇宙なはずないわ。
それにこの世界は、ないものを探す方が難しいくらいだった。
動物もいれば植物も生えている。山もあれば川もある。なんと旧都まで視えた。そこで暮らす人達の存在が感じ取れた。
けれども、どのイメージも押しつけがましくなく、頭にすっと入ってくる。
試しに、今まで見たこともないような怪獣のイメージを思い浮かべると、本当に見たこともない怪獣が現れて、私に挨拶してくれた。
ちょっと思っただけで、私の体はとてつもなく大きくなってしまい、青くて綺麗な真ん丸の水玉につま先立ちしないといけなかった。
そしてちょっと思っただけで、とてつもなく小さくなってしまい、チリの中に紛れて回り始めた。
ものすごく情報が多いのに、負担にならない。ものすごく激しい変化なのに、追い付けてしまう。
あまりにもデタラメで、なのに懐かしく感じる。
そして夢だとは信じられないほどリアルで、存在感に溢れてた。
「ここは……」
[みんなが気づいていない世界。君の『目』では読みとることのできなかった精神の世界さ]
得意げな台詞と共に私の前に現れたのは、あの青い蝶君だった。
びっくりして聞き返す。
「精神の世界!? ここが!?」
[そうだよ。信じられないかもしれないけど]
「だって、そんなのありえない。だって心は……」
私が覗いてきた他の人の心は、確かに広くて色々なものが映る、とても奥深い世界だったけど。
でもこの世界と比べたら、海に浮かんだ無人島の池みたい。
[虫にだって石にだって、ありとあらゆるものに魂は宿るって聞いたことがあるだろう? 僕らは意識よりももっと広くて深い、無意識の世界を共有しているんだ]
はばたきから生まれた鱗粉が光の粒になって、背景のカラフルな宇宙に彩を添えていく。
私は蝶君から遠くにピントを合わせ、再び自転しながら、無意識の世界を眺め渡した。
皆が共有している世界。それは境目のない世界。
上も下も右も左もなく、過去と未来だってない。時間は帯のように描写されて、空間に寄り添っている。
ありとあらゆるものがリンクしていて、複雑に混ざり合っていて、でもその全ての場所と私は交信することができた。
無限の彼方で真っ赤に燃える星と、間近に漂うチリの一つ。同時に認識し、手を繋ぐこともできる。
ミクロとマクロが等しい立場で共存する宇宙。
広い地底が砂粒よりも小さく見えるほど、無限に等しい世界。
「そっか……」
思わず呟いた。
ずっと、子供のころから私は、ここに憧れていたんだ。
自分の悩みをちっぽけにさせてくれる、この世界を求めてた。
第三の目を閉じなければ決して気づけなかった、この無意識の世界に。
そして、私は全てと繋がっていた。
こんなにも多くの存在が、無意識を持っていて、それを元に動いている。その法則がリアルアイムに伝わった。
無限の情報が体の中を流れていき、自分が全体に埋没していく安心感に、とろけてしまいそうだった。
[そうですね。貴方はこの世界に住む資格があると思われます]
プラネタリウムのナレーションの声が、私に合格を与えてくれる。
[もしかしたら、支配できるかもな]
捻くれた鬼さんの声が、私にいけない誘いをしてくる。
[ただのんびりと過ごすだけでも楽しそうだね]
はしゃいだ蝶君の声が、私の思っていたことと重なる。
[こいし様がお求めになっていた、自由が手に入りますよ]
優しいマリーの声が、私の背中を後押ししてくれる。
そして……小さい頃の私は、もう夢中になって翔けだしていた。
銀河の中へと推進していくその後ろ姿は、まるで旅する天体の一つになったようで、とても眩しくて、羨ましかった。
彼女は振り返った。こちらに向かって手招きをしている。今の私を待っている。
自然と足が前に出ていた。
こんな世界があるなら、他の何を捨てても構わない。
私の意識も無意識も、そんな想いに統一されて、踏み出す瞬間を待っていた。
けれども、飛び出そうとした私の体は、急に重りが加わったかのように速度を落とした。
体は前に向かっているのに、顔も先を向いているのに、右腕だけが遅れていて、いつまで経っても来てくれない。
見かねた小さな私が戻ってきて、指摘してくる。
[その持っているものも捨てなきゃ]
[……これを?]
私は自分が持っていた物に、視線を落とした。
それから理由もわからず、首を振った。
[これは駄目……これだけは捨てちゃ駄目]
[どうして? それを捨てれば、あっちの素敵な世界に行けるのに]
[それでも駄目。だって、まだ声が聞こえる気がするから]
[何も聞こえないよ。ただの石だもの]
私の持っている黒い石は、小さな私にとって、何の価値も無いようだった。
首を振って、私は彼女の指摘を訂正する。
[ただの石じゃないわ。これは、ほうき星の石]
ああ、そう。
ほうき星の石。失くしちゃったと思ったけど、ここにあったんだ。
とっても大事な、私の願いを叶えてくれた石。
私の願いは……えーと……。
[心を読む私達を、みんながもっと受け入れてくれますように……]
違った。それもあるけど、もっと他の願いだった気がする。
[誰にも嫌われることのない自由な世界に行きたい]
それも当たってるけど、でももっと別なお願いごとをしていたはず……。
あれ? 石から何かが聞こえてくる。
[何も聞こえないよ]
[聞こえるわ。私の名前を呼んでる]
[つまり、私の名前でもある]
[そう。貴方の名前。私達の名前]
[古明地こいし?]
[古明地こいし]
[誰が呼んでるの?]
[誰って……]
対話する私たちの遥か頭上で、光が炸裂した。
遠くでブラックホールみたいに漂っていた真の闇の一点に、星のようなものが見える。
その星から、一筋のまばゆい帯が螺旋を描いて、私たちの元に向かってきていた。
風にさからって懸命に飛ぶ鳥のイメージが、私の頭をよぎった。
そして、ついに光が私たちの元にたどり着いた時、声が聞こえた。
[こいし……!]
分厚い闇を切り開いて、光が声と共に舞い降りてくる。
[こいし……! 返事をして……! こいし……]
二つの私が重なって、同じ言葉を叫んだ。
[『お姉ちゃん』!!]
その瞬間に私達は、ほうき星に乗ってすごいスピードで浮上していった。
◆◇◆
[こいし、無事なのね!?]
命の息吹が吹き込まれ、しぼんでいた心が大きく膨む。
精根が体の中心から末端まで走り抜け、こいしは一瞬にして己を取り戻した。
慌てて左右に顔を振って確認する。
どこを見ても岩ばかりの周囲の景色から察するに、ここは旧都の郊外だ。
いつの間にか、あの地下牢を脱け出していたようだった。
無意識を操る能力を、まさしく無意識のままに使用したのかもしれない。
しかし、今のこいしにとっては、そんなことどうでもよかった。
石から聞こえてくる声。何よりも読みたかった心。
七十六年後の古明地さとりは、興奮を抑えきれない様子で言った。
[未来がまた変わったんです。気がつくと、元の地霊殿に帰ってきていました。しかも今度はほとんど全てといっていいほど、記憶の乱れが生じませんでした。つまり私の知っている、あるべき未来に戻れたんです]
「………………」
[貴方は死ななかった。やり遂げたんですね、こいし。しばらく連絡が取れなかったから、どれほど心配したことか……]
「姉さん……」
さとりが無事でいてくれたことに、こいしははじめ、安堵の息を吐いていた。
しかしその後に、どうしようもなく重たい気持ちが押し寄せてきた。
「ごめんなさい……姉さんの期待を、また裏切っちゃった。全部私のせいだったの。姉さんが頑張って築いてきたものを、全部壊しちゃった……私のせいで……」
こいしは懺悔する。
未来から情報を受け取った後に起こったことを全て伝える。
マリーの心を狂わせ、それを犯人の鬼に付け込まれ、今回の災いを起こしてしまったのが自分であったということも。
消沈するこいしの元に、よりはっきりとした声が届いた。
[こいし]
ハッとなり、こいしは顔を上げる。
目の前に、よく知っているようで、全く知らない覚り妖怪が立っていた。
未来の、七十六年後の古明地さとりから届いた心だ。
届く思念が膨大なために、はっきりとしたイメージとなって、今自分の前に現れたのだ。
「姉さん……」
こいしはそう呟いた直後、さとりに力いっぱい抱きしめられた。
[貴方は私の誇りです]
本当に、息が止まるかと思った。
[よく頑張りましたね。貴方は私を支えてきてくれただけじゃなく、旧都を救った。どれだけ感謝を伝えても伝えきれません]
「ち、違うよ。元はと言えば、私が無意識を操っていたせいで……」
[ならば、貴方がそうなるまで放っておいてしまった、私に責任があります。自ら苦しみを引き受けて、一人で抱え込もうとして、どんなに辛かったでしょう]
いたわりの心が申し訳なくて、こいしは首を振った。
「私のせいで姉さんはせっかく積み重ねてきたものを失って……」
[『今の』私にそんなもの、何の価値もありません。マリーからも、お燐とお空からも、他のペット達からも教わりました。そして何より貴方を失ったことで、ようやく気付くことができました]
抱きしめるさとりから、イメージが伝わってくる。
温かく、楽しく暮らし、そして旧都から疎外されてもいない、未来の地霊殿の光景だった。
[私の復讐は、鬼から権力を奪うことで達成できるものではなかった。覚り妖怪が幸せに過ごしているということを、皆に、そして私自身に、さらに私が受け継いだ覚り妖怪の魂達全てに知らしめることで、解き放たれるものだったんです]
「………………!」
[でももう、それだけじゃないわ]
こいしの『目』に映るイメージに、さらに別の光景が混ざった。
[別の世界で、不思議な出来事があったの。短い時間だったけど、すごく印象的だった。貴方を生き返らせるために無我夢中で動いていたけど、いつの間にか、自分が覚り妖怪であることを忘れて、旧都を取り戻すために戦っていた。旧都を愛して、共に戦おうとする皆が、眩しくて、羨ましく見えたかもしれない]
狂わされた未来に翻弄されながらも、戦いに挑むさとり。
彼女は独りで奮闘していたんだろうと、こいしは漠然と考えていた。
けれども違った。さとりの周りには仲間がいて、しかも心にはまだ出来たばかりの繋がりまで見えた。
さらに信じられないことに、姉がこのひどい経験を受け入れ、ワクワクしている様まで伝わってきたのだ。
[初めから諦めていただけで、もっと歩み寄るべきだったんじゃないかって、ちょっとだけ思った]
「姉さん……それって……」
[ええ]
そう言って、こいしが大好きな古明地さとりは、楽しそうに微笑んだ。
[確信まではできないけど、もしかすると、私も地底が好きになれるかもしれない。家族以外の誰かにも、心を開いてみる準備ができた気がするの]
嘘偽りのない、覚り妖怪同士の呼応だった。
だからこそ、さとりの告白に、こいしは呆然としていた。
これが夢じゃないことが信じられなかった。
――すごい……。
感嘆する。
姉はついに、覚り妖怪の業を、乗り越えてしまったのだ。
心を読む力を肯定的に捉え、恐れずに立ち向かい、さらに皆を傷つけることなく受け入れ、なおかつ受け入れられようとする。
最も贅沢で、最も欲張りな、願うだけで罰が当たりそうな生き方。
けれどもそれは、こいしが漠然と想像しつつも伝えられずにいた、理想の覚り妖怪だったのだ。
[全ては、こいし。貴方のおかげです。改めてお礼を言います。そして七十六年後に、私はもう一度、貴方に直接感謝を伝えますよ]
「………………」
[こいし……?]
何も言わずに、姉のイメージを抱きしめ、こいしは泣きじゃくった。
もっと早く、もっと早くその告白を受け取っていれば……。
違う未来もありえたかもしれない。同じ道を踏みしめて、追いかけることができたかもしれない。
けれども、
「ごめん……お姉ちゃん、もう間に合わないの……」
無意識の世界と溶け合ったことで、もう自分は足を踏み入れてしまった。そして選択もしてしまった。
引き返すことはできない。胸元の第三の目が、その瞬間へと着実に進んでいるのがわかる。
「私は……もう私は……」
不意に、違和感が起こった。
抱きしめていた温もりが、徐々に弱まっていくのだ。
淡雪が解けるかのように感触もなくなっていく。
「お姉ちゃん……?」
返事はなかった。
さとりが口を開いて何かを言おうとしている。しかし言葉は第三の目で拾えず、零れ落ちてしまう。
そしてその姿も、もう消えかかっていた。
「そんな……待って! まだ伝えたいことが!」
こいしは手を伸ばす。
その指は、むなしく宙を掴んだ。
◆◇◆
「こいし!!」
さとりは石に向かって、必死に呼びかける。
しかし、こいしの思念はもう微かにすら感じ取れなかった。
必死になって意識を集中させるものの、声は聞こえず、見えるものもない。
石の力が、ほとんどゼロに近いほど弱まっている。
「ああ……どうすれば……」
過去の妹を思い、さとりは地霊殿の書斎で膝をついた。
今こいしは、どんな気持ちで過ごしているだろう。
この世に味方が一人もいない、孤独に苛まれて。
今こそ側にいてやるべきなのに。そうしなければいけない、と思ってるのに。
本当はあの時に、何を置いてもそうしてあげるために、全力を尽くすべきだったのに。
どうか、ほうき星の神よ。
私の願いを聞き届けてください。
どんな罰であろうと受け入れます。妹の苦しみも、全て私が引き受けます。
だから、こんな別れにだけはしないで。お願いします。どうかお願いします。
石を額に押し当てて祈ったさとりは、もう一度、全力で交信を試してみる。
しかし、返ってきたのは地平の果てまで続く砂漠からガラスの一粒を見つけ出すような、無力感だった。
さとり自身が力不足というよりも、石自体から感じ取っていた力が弱くなっているのが原因のようだ。
せめて、元となる星の恵みがもっと近くにあれば……。
もっと近くに?
「……まさか」
不意に、七十六年前の事件の顛末が、さとりの心に甦った。
どうして、こいしは地上を目指した?
それがどれほどの大罪なのか、あの子は分かっていると言っていたのに。
今日までずっと、狂気にとりつかれたからだとばかり思っていたが、そうではなかったとしたら?
持っている石を見つめる。
これは、ほうき星の子。すなわち彗星のチリで出来た石だと、別世界の土蜘蛛は言っていた。
それが正しかったとしても、時空を飛び越える大魔法が、この小さな石だけで出来るとは到底考えにくい。
でもこれが、魔法の中継点なのだとしたら。
さとりは無我夢中で、部屋を飛び出した。
17 Link
音よりも速く、光よりも迷いなく。
それが無理だと分かっていても、気持ちだけはその勢いで。
さとりは、七十六年前に通った時と同じか、それ以上の速さで地上へと急いでいた。
あの時と同じだ。
額に汗を浮かべて、顔を歪ませて、足を血まみれにして、拳を握って。
けれども、体を突き動かす感情の質は、全く異なっている。
ただの人間になったようで滑稽だ? こんなのは覚り妖怪らしくない?
知ったことか。体裁を気にしていられる状況なんかじゃない。
長年の謎がついに氷解した今、血が流れようと、肌が切れようと構わなかった。
肉が裂けようと、骨が折れようとも、決して止まりはしない。
ただこの身体が進めばいい。迷いはもうとっくに消えた。
手には妹の忘れ形見がある。ほうき星の子。時空を越える魔法を生み出した奇跡の石。
けどこれがもし、魔法の中継点だとすれば、より母体に近い方がその恵みを受けられると考えるのが自然である。
すなわち、地底よりも地上の方が。
こいしは地底から逃げたのだと、さとりはずっと信じ込んでいた。
姉である自分を憎み、そこから逃れようとしたのだと思っていた。
けれども、そうではなかった。
こいしは逃げたんじゃない。狂ったのでもない。
彼女が地上を目指したのは、もっとシンプルな理由だった。
ほうき星を、目指したのだ。
未来の……すなわち『今』のさとりと繋がる細い糸が切れぬよう、あの星に近づこうとしていたのだ。
間に合うだろうか。
きっと間に合うはず、いや……間に合ったはずだ。
立ちはだかるものは、何もない。
妖怪だろうと怨霊だろうと、この『目』を見るだけで退散する。
例えそうでなくても、どんな障害があろうと貫いてみせる。
本気になった覚り妖怪を、止められる者がいるなら止めてみるがいい!
ついに空気が変わった。
体を駆け巡っていた熱気が、地上の空気によって冷やされる。
さとりの視線は、空の一点にくぎ付けとなった。
一筋の光が、夕闇を貫くように伸びている。
さとりは握りしめていた石を、第三の目に当てた。
まばゆい、跪きたくなるほどの力が降り注ぐ。
その力を束ね、思念のレーザーを過去へと飛ばす。
ほつれた糸が繋がり、心の波が再び、七十六年間を駆け抜ける。
[……お姉ちゃん……お姉ちゃん……!]
繋がった。
ノイズに混じって届く妹の声に、さとりも強く呼びかけた。
「こいし……!」
[……よかった通じて……!]
「ええ……!」
間に合った。追いかけても追いかけても届かなかった後ろ姿に、七十六年かけて、ついに追いついた。
疲労と安堵で倒れそうになるのを、何とかこらえる。
新鮮な空気を肺いっぱいに吸い込み、呼吸を整え、交信に集中する。
「地上にいるんですね? 今私も、地上に来ています」
[うん……よかった……お姉ちゃんが来てくれなかったら……どうしようかと思った……]
「こいしが望むのであれば、どこへでも行きますよ。けど正直、ギリギリでした。貴方の方こそ、よく勇気を出して地上に出ましたね」
[どうしても……話したくて……悪いことしちゃった……後で大変なことになるかも……]
途切れ途切れに、こいしの笑い声が聞こえてくる。
七十六年前であれば、確かにこれは旧都も幻想郷をも震撼させる大罪である。
けれども無論、さとりは今さら妹を叱るつもりなど毛頭なかった。
「でも……来てよかった……ほうき星って、あんな風に見えるんだ……プラネタリウムで見たのとも違う……素敵……」
憧憬の声が聞こえる。
過去のこいしが眺めている光景と、頭上の夕空の光景が重なった。
菫色の空に白色の尾を引いて、ほのかな輝きを見せる二つのほうき星が、寄り添うように飛んでいる。
さとりは感慨に耽る妹の心を受け入れ、それを受け止めてあげた。
彼女にとっては憧れの場所なのだから、出来ればいつまでも気の済むまで、そっとしておいてあげたい。
しかし、雰囲気に浸っていられる時間は、もう残り僅かに迫っていた。
「こいし。よく聞いて。貴方には自分の意志で道を選択する権利がある」
さとりは真剣な声で告げる。
「間もなく、過去の私がそこに現れます。望むのなら、そこから去りなさい。何を言われようと耳を貸さず、振り切って逃げてしまえば、『目』を閉じなくても済むかもしれません」
そうなれば、再び未来は変わり、さとりの記憶は失われるかもしれない。
けれども、地底の脅威は去り、今は当初懸案していたほどの事態にならないのではないか。
だがそれは方便に過ぎず、同じ過ちを繰り返すことになるだけなのだろうと、さとりもとうに自覚している。
ただ、知りたかったから、聞いた。
妹がどんな選択をしたのか。なぜ進んで目を閉じようとしたのか。
それが分からなければ、あの日からさとりの中の時間は止まったまま、動くことはない。
[私……無意識の世界を少しだけ見たの……。とっても広くて、優しくて、いいところで、憧れる……。でも本音を言うと、『目』を閉じるのは怖い……]
こいしがついに、秘密のベールを解き始める。
[私が今まで過ごした時間の……ほとんどを忘れちゃうかもしれないのも怖い……。私が私じゃなくなっちゃうかもしれないのも……やっぱり怖い]
だから、向こう側に行くのは諦める。
そう続くのではないかと、さとりは一瞬だけ思った。
しかし、
[でも……私は逃げない……姉さんと戦うことで目を永遠に閉じちゃうなら、それを受け入れるわ……]
「どうして……」
[だって……未来が変わったら……今話してる『お姉ちゃん』がいなくなっちゃうかもしれないから……]
七十六年越しに知った思いも寄らぬ真実に、さとりは声を呑んだ。
[私……『姉さん』のことは……大事に思ってる……でも……今ここで話してる『お姉ちゃん』は……絶対に消しちゃいけない存在なの……。私の目標で……誰よりも尊敬出来て……側にいてほしい人……。たとえ目が閉じちゃっても……私はお姉ちゃんと……これからを生きていきたい……。私も……もう一人の私も……同じことを思っていて、どうしても譲れないの……]
「………………」
さとりの目の前に、こいしの姿が現れた。
あの時と同じ表情をして、彼女は立っていた。
泣いているような笑っているような、そして夕闇が作るシルエットの中で、胸元にある『目』が青く輝いている。
まるで今まで過ごしてきた己の時が、ブルーの血に変わり、そのままこぼれているようだった。
[我が儘ばかりだね……私って。ごめんね……お姉ちゃん。こんなこと言っても……お姉ちゃんが困るだけなのに]
「………………」
[でもきっと……私はもう一度、お姉ちゃんに会えるよ]
「いいえ、貴方は逝ってしまう……。私が……」
殺してしまったから……。
けれども妹は、全てわかっているという風に、笑って言った。
[お姉ちゃん、前に言ってたよね……。意識っていうのはティーカップで……無意識っていうのは、その中に入っている紅茶みたいなものだって……。私、あの言葉とっても好きだけど……でもちょっとだけ違うと思うの]
こいしはさとりの手を取り、それを両手で包み込んで言った。
[だって、カップが割れて、中身がこぼれちゃっても……私は絶対お姉ちゃんの元を離れたりしない……。離れられないよ……。七十年離れてたって届いちゃう……誰にも切れない繋がりがあるんだから]
「こいし……」
[覚えてる? あの時の約束……]
こいしの姿が霞んでいく。
さとりの持つ石が光を失い、砂となってゆく。
[私が私である限り……きっとまたお姉ちゃんと私は会えるよ……そうしたら……]
声が今までで、一番遠くなった。
しかしその最後の一言は、さとりの『目』に、はっきりと届いた。
[二人で手を繋いで、ほうき星を見られるといいね]
18 Homecoming
どれほどの時間、泣いていたのだろう。
まだ夕暮れの空には――うっすらとではあるが、ほうき星が見えている。
しかし、さとりの周りには、もう何も残っていなかった。
魔法を与えてくれた石は砂となり、七十六年前の妹は幻となって消えた。
静かに俯いていると、風もないのに、側の草が揺れた。
瞬きの後、目の前に靴が現れる。
「あれ? お姉ちゃん、どうしてこんなところにいるの?」
さとりは顔を上げた。
帽子を深くかぶった、見慣れた少女の姿があった。
彼女は水たまりを観察するような表情で、こちらの顔を覗き込み、
「それ涙? 味見していい?」
「……すみません、こいし。情けない所を見せましたね」
さとりは瞼をハンカチで拭って、立ち上がった。
「どうして貴方は地上に?」
「お燐とお空がほうき星を見に行くって言ってたから、後を尾けてみたの。もう帰ろうかって思ってたけど、お姉ちゃんがいた」
「そう……」
「どうして泣いてたの?」
「なんでもありません、大丈夫です」
「ふーん。何でもないのに泣くなんて変なの」
帽子が落ちそうなほど首を傾けながら、こいしはさして興味なさげに言う。
やはり覚えていないのだ、何もかも。
そしてこれから先も思い出すことは、無いのかもしれない。
一度瞬きをすると、妹の姿はもう消えていた。
また無意識の世界を旅しに出かけたのだろう。
再び、独りの時間の中で、さとりは思いに耽った。
今度こそ、本当に別れを告げることができたはずなのに、達成感はなかった。
いまだ虚無に等しい喪失感が、心の隅に横たわっている。
七十六年間、埋まることのなかったこの気持ちは、きっとこれからも欠けたまま穴として残り続けるのだろう、きっと。
さとりは己を叱咤し、顔を持ち上げ、ほうき星を見つめた。
それは私に相応しい罰だ。
犯した罪から目を逸らさず、今の現実を受け入れる努力をしなくてはいけない。
そうでなければ、失った妹に、申し訳が立たないから。
だから、
「…………え?」
さとりは思わず隣を見た。
帰ったと思っていたこいしが、そこに立っていた。
しかも彼女は真剣な顔で、さとりの手を強く握っていた。
「こいし……」
「ん?」
「どうして……私の手を……」
「え、だって、だってだって」
いきなり邪険にされた子供のように、こいしは目を白黒させて、手を一度離し、
「……ほら、自分の手は上手くつなげないもん」
そう言って彼女は、自分の右手と左手を繋いで遊ぶ。
それからまた、さとりの方に視線を戻し、
「お姉ちゃん、手をつなぐの嫌だったの? 私そういうの『視え』ないから、ごめんね」
「いいえ」
さとりは首を振り、彼女の手を取った。
「嫌じゃないわ。びっくりしただけ」
こいしは不思議そうにこちらを見つめてくる。
いつものように姿を消して去ったりはしなかった。
彼女はさとりの目に、今までの妹とは違う、別の懐かしい存在に映った。
いいや、そうではない。
思わず苦笑する。
死んだだの別れを告げただの、ましてや虚無だのと、何を勝手に一人で落ち込んでいたのだろう。
マリーに叱られるわけだ。また大きな勘違いをしてしまうところだった。
七十六年前から、彼女はずっと待ってくれていたのに。
「ただいま、こいし」
さとりは妹に、そう伝えた。
こいしはますます妙な顔をする。
「どうして? ただいま?」
「ええ。おかえり、じゃないんです。ただいまなんです」
「ふ~ん」
相変わらず、わかったようなわからないような返事だ。
けれども彼女は、側を離れる気にはならないようだった。
さとりは妹と手を繋ぎ、肩を触れ合わせ、空を見上げる。
音にならない荘厳なメロディーが、天に描かれていた。
なんて雄大で、美しい景色なのだろう。
夕闇に飾られた星の鈴を、ほうき星が鳴らしているみたいだ。限りなく高潔な精神を覗けば、このように視えるだろうか。
心が洗われ、広がり、吸い込まれ、一つになりそう。
「お姉ちゃん、ほうき星って綺麗ね」
「そうね」
「願い事、考えた?」
「私の願い事は……もう叶ったわ。たくさんの願い事が、今日叶った……」
「あれって、いくらお願いしてもいいのよ。ずっと見えてるから」
「ええ。わかってる」
言葉を交わしながら、さとりは妹と並んで歩き始めた。
遠くの原っぱから、こちらに向かって、ペット達の影が駆けてくるのが見える。
息を吐くと、視線が再び空に吸い込まれ、心は星の海に広がる。
今日までの願い事は、全て叶えてもらった。
だから、これからの願いを考えよう。
私と、妹と、二人の覚りを支えてくれる家族と、これからできるかもしれない仲間のための、ささやかな願い事を。
繋いだ手の温もりを感じながら、そう心の内で呟く。
「いつかまた、皆で見に来ましょう、こいし」
「うん……」
こいしはうなずいて、手を握り返してくる。
空を流れる一筋の光は、何よりも強く、気高く、そして優しい光に映った。
七十六年前、さとりはある深刻な事件の解決のため、鬼側から協力の要請を受けた。
後に『持国の大火』として語り継がれることになる、未曽有の大火に関してである。
古明地さとりの仕事は、怨霊の管理だけではない。
それは表向きの仕事であって、他にも旧都という社会を円滑に回すための、いくつかの副次的な仕事がある。
その一つが、重大な犯罪における捜査活動と、犯人の検挙であった。
心を探るのは覚り妖怪にとっての十八番であり、鬼のような強力な妖怪が起こす犯罪に対処できるのは、より強い鬼を除けば、やはり古明地さとりだけだったのだ。
旧都の車輪がようやくバランスよく回り出した矢先だったために、鬼の上層部はその放火事件を重く見ていた。
封じられた火竜の印を盗むだけに飽き足らず、鬼の神経を逆撫でするかのような卑怯で挑発的な犯行。
間違いなく、旧都の支配層に恨みを抱いた輩の仕業だ。
一刻も早く被害を食い止め、犯人を挙げなくてはならない。そこで止む無く、地霊殿の協力を頼んだというわけだった。
旧都の治安を守るのは、当時のさとりも責務として考えていたが、一方でそれをチャンスとして捉えてもいた。
鬼の解決できない事件を、覚り妖怪の自分が解決することにより、今後の地底の運営において優位な立場に立てる。
また、あちこちから不審の目を向けられている現状においては、鬼の上層部とのパイプを強固にするのは、計り知れないメリットがあった。
あらかじめ事件の情報をまとめていたさとりは、一連の放火の犯人が、反社会的な力の弱い妖怪であると推理した。
人間社会の放火犯の心に多くみられる特徴として、社会的に弱い立場にあるか、あるいは身体的な弱さを抱えているというものがある。小さな火種からでも惨事を呼び寄せることのできる放火は、老人や少年、あるいは女性などでも大被害という大きな『成果』を生むことができるからだ。
妖怪の場合にもその法則は当てはまることが多いのだが、同時に何らかの自己顕示欲の強い者が犯人であることが多い。
事件の傾向から犯人の行動パターンを予測して、次に起こるであろう現場をいくつか特定し、そこで張り込む。
さとりはそういう考えを元に、鬼と共に捜査を行うことに決めた。
さとりの犯人像は、確かに当たっていたのかもしれない。
しかし事態は地霊殿にとって最悪な方向へと舵を切った。
捜査を始めたその日の午後に起こった火事の現場にて、さとりの妹である古明地こいしが、火竜の印と共に発見され、逮捕されたのだ。
さとりにとっては、寝耳に水であった。
地霊殿から滅多に出ることのないはずの妹が、そこで見つかったことが信じられず、半ばパニックとなった。
しかも尚悪いことに、彼女はさとりが予測した犯人像と、様々な点で一致していた。
旧都の中では下から数えた方が早い、力の劣った少女。
その一方で、心を読める覚りの能力を用いれば、監視の目をかいくぐって印を盗み、犯罪を起こすのも比較的容易。
動機は当然、覚り妖怪に対する憎悪への反発。
しかもこいしは逮捕される際に、鬼を何名か負傷させてしまったため、見廻り組の鬼達は、さとりの提出したプロファイリングを証文代わりに、無理やり彼女を投獄してしまった。
身内から容疑者を出したことにより、さとりは即刻、捜査本部から外されることになった。
そうでなくとも、憎き覚り妖怪が犯人だと知って殺気立った輩が、旧都の中枢には群れをなしている状況だった。
さとりが尋問役を無理に買って出ても、信じてもらえるような空気ではない。
立場は悪くなる一方。さとりは窮地に追い詰められた。
こいしがそんな大それた事件を起こすはずがない。
何かの間違いであってほしい。けれども圧倒的に不利な状況にある彼女を、どうやって救うことができる?
いやもう、取り返しのつかないところまで来てしまっているのでは。
打ちひしがれていたさとりに、さらなる追い打ちをかけたのは、またしてもこいしが犯した犯罪の一報だった。
それは当時の地底においては、放火以上の大罪。
こいしは――おそらくは無意識の力を使って――牢から脱走し、なんと地上を目指したのだ。
地底と地上は相互不可侵。覚り妖怪が地上に出現すれば、どのような騒ぎになるか考えるまでもない。
おまけに当時の幻想郷の情勢は、旧都に劣らず不安定だった。
彼女の暴走を止めなければ、自分達の立場はおろか、地底そのものが危うくなる。
当時のさとりには、選択の余地はなかった。
こいしの後を追って地上を目指したさとりは、決闘の末、何とかして罪に罪を重ねた妹を捕らえることに成功した。
その時、妹の第三の目はほぼ完全に閉じてしまい、意識を失い、間もなく無意識で動く全く別の存在に成り果てた。
彼女は再び鬼に引き渡すには、あまりにも無防備かつ危険な存在だったため、さとりは出来るだけ、引き渡しの時間を伸ばし、こいしの心を元に戻す術を懸命に探した。
ところが。事件はこの後に急展開を見せる。
なんと、すでに火事の起こっていた現場に向かう、こいしの姿を見たという目撃者が現れたのだ。
さらに、第二の火事における彼女のアリバイを証言する者も現れ、古明地こいしは偶発的に事件に巻き込まれたのでは、という説が持ち上がった。
だが結局のところ、それから七十六年が経っても、事件は解明されぬままだった。
地霊殿と鬼の関係は一気に悪化して、以後互いの陣営の溝は深まる一方となり、妹を失ったさとりは怨霊と灼熱地獄の管理という職務を果たしつつも、灰色の日々を過ごし続けた。
◆◇◆
「……以上が、私のいた世界の話です」
全てを語り終えたさとりは、小さくない疲労感を覚える。
未来の自分にまつわる事実を知ったこいしも、少なからずショックを受けているようだった。
[第三の目が閉じたままになるだなんて……そんなことになるなんて、私考えたことがなかったわ]
その点に関しては、当時のさとりも同じだ。
妹の身にそういったことが起こる可能性について、ずっと軽視していた。
覚り妖怪の歴史においても、非常に稀な例だったから。
[でも、姉さん。無意識ってなんなの? 意識はわかるけど、無意識なんて見たことない]
「……ええ。正直、私も貴方が目を閉じてしまうまで、無意識というものに関して真面目に考察する機会がありませんでした。でもそれは確かに存在していて、以前の世界の貴方がその無意識で動いていたのは間違いない」
無意識の定義は、その種族や立場によって異なっているようだが、さとりは単純に『第三の目』で追えない心の働きであると認識している。
たとえば、今日の自分の行動。朝起きて伸びをして、左右交互に手足を動かしてキッチンに向かい、特に考えずに選択したメニューを作り、気分に合わせてジャムの種類を選択。そのほとんどが、意識を読んで予測することができる行動なものの、元をたどれば無意識に従った結果なのである。
動物であろうと妖怪であろうと、無意識は持ち合わせており、そしてほぼ全てがそれ自体に関心を抱かず、意識の下で飼っている。ありとあらゆる生命にとって、非日常的な存在どころか、むしろ日常に根付いたものだ。
しかし、元来意識という最も直接的な自己表現を見慣れている覚り妖怪にとって、無意識というのは……強いて言うなら人間にとっての超音波や紫外線のように得体が知れず、本能的に距離を置きたくなる事柄である。
過去のこいしも例外ではなかったようで、伝えられた己の未来に怯えているようだった。
[この目が閉じちゃったら……私が、私じゃなくなっちゃうんだ……。姉さんのことも、みんなのことも、過ごした思い出のことも忘れて……」
妹の心に映ったイメージは、落葉樹だった。
瑞々しかった一本の樹から、葉が一枚一枚と落ちていく。
「でもこいし。貴方は、死んではいなかった」
さとりは、はっきり否定する。
葉が落ち切る前に、手のひらで受けるイメージを通して。
「死んでしまえば、意識も無意識も等しく消えてしまいます。でも以前の貴方は、意識は見えなくなってしまったけど、無意識をきちんと持っていた。意識がカップだとすれば、無意識は紅茶のようなもの。私達は自然と、無意識が一番安定するような器になるべく、人格を形作っている。それは私も、どんな妖怪であっても同じ。貴方の本質が失われたわけではないわ。その証拠に、食べ物の好みや、好きな服、行きたい場所などは変わっていなかった」
「でも、性格とか話し方は、全然違う私になったんじゃないの?」
「そうですね。私のことを『姉さん』じゃなくて『お姉ちゃん』と呼ぶようになりました」
[『お姉ちゃん』っ?]
素っ頓狂な声が届いた。
それから、こいしは一転、大笑いして言う。
[あはは、そうなんだ。じゃあ、私もこれから姉さんのこと、お姉ちゃんって呼んでみようかな]
「好きに呼んでいいですよ。貴方が元気になるのなら、どんな呼ばれ方をされようと構いません」
[うん、少し元気出た。ありがとう、お姉ちゃん]
よほど面白かったらしく、石の向こうの声はしばらく「お姉ちゃん、さとりお姉ちゃん」などと小さく繰り返していた。
一方、さとりは複雑な心境だった。
嘘を吐いたわけではないものの、こいしがはっきり変わってしまったのは事実だったし、今のままでは、たとえ目が再び開いたとしても、元の記憶を取り戻したり、同じ人格に戻る見込みはない。
世界そのものを器に変えた妹は、己の核となる無意識を自由にさせることに夢中になってしまっていたから。
実際、昨日までのさとりは――愚かにも墓まで建ててしまうほど――彼女が元に戻る可能性に望みを抱いていなかったのだ。
それでも、姉の励ましは、妹を勇気づけたようだった。
[でも、私はどうして地上に逃げ出したのかしら。私が放火の犯人じゃなくて無実だったなら、逃げたりする必要なんてないのに。それに逃げるなら、地霊殿に逃げた方がずっといいのに]
「……………………」
[そっか……姉さんは、それを確かめようとしてたのね]
「ええ……」
さとり自身、こいしが地上に逃げ出したことで、もしやあの子が犯人だったのでは、という疑念が一時は浮かんだ。
だが、彼女が無実だとはっきりした以上、それから妹に起こった出来事のことを考えると、なんとしてでも救いたいという願いが起こった。
そして、妹の心を完全に壊してしまった事実を消そうとし、もっとひどい未来を呼び寄せてしまった。
この世界では、こいしは己の意識ばかりか命そのものを失い、さとりは旧都で築いた己の地位を根こそぎ奪われているといってよい。
これほど劇的な変化が起こるとあらかじめ予測できていれば、もっと慎重に行動するよう肝に銘じていただろうに。
何層にも重なった悔恨の念に、さとりはとらわれる。
「こいし……私を恨んでも構わないわ。貴方にはそれだけ、ひどいことをしてしまったのだから」
[ううん。姉さんを恨んだりなんてしないわ。私のためにしてくれたことでもあるんだし」
涙が出るほどありがたい言葉だった。
今日まで見た悪夢の中の妹は、一度もそんなことを言ってくれなかっただけに、余計に心に沁みた。
[それより、これからどうすればいいのか考えないと]
「ええ、そうね。貴方が無実だということが判って、昨日までは安心していましたが……」
今は腰を落ち着けている暇もない火急の事態となっている。
こうなった以上、なんとしてでも元の世界に帰らなくてはならない。
「とりあえず、何がどう間違ってこうなってしまったのか、それをはっきりさせるつもりです。これからすぐ、できる限りの情報を集めて、元の世界に戻る方法を速やかに見つけ出そうと思います」
さとりは七十六年前の妹に、力をこめて宣言した。
「貴方の死ぬ未来など、私は決して認めない。きっと……必ず何とかしてあげるから」
◆◇◆
交信を切ったさとりは、一呼吸ついた。
すぐ側にあるシーツの乱れたベッドに飛び込んで布団をかぶりたくなる欲求を、何とか押し殺す。
なんて週末だろう。
時空を越えた交信でさえ驚天動地に値するといってもいいのに、別の世界に飛ばされることになるだなんて。
さとりはその手の理論に明るくない。
超ひも理論やワームホールと言われても、上手く詳細に説明できる自信はない。タイムパラドックスについてもだ。
いずれも専門書が地底では手に入りにくく、せいぜいお伽話に毛が生えたものくらいしか読む機会がないからでもある。
しかし、この際理論は今後の行動にあたっての最重要事項ではない。
万有引力しかり、エネルギー保存の法則しかり、万物の法則は理論で解き明かされる前に現実に生じているのが常で、この場合は自分の身に、それが起こってしまったということなのかもしれない。
ではなぜ起こったのか。
当然、過去の妹と交信して、過去に起きた出来事を変えてしまったから、と推測できる。
けれどもそれなら、どうして自分だけが、『未来が変わったということを自覚できている』のだろう?
枝分かれした未来へと伸びる道筋を、行き来する自由を与えてくれたのは何なのか。
――もしかして、この石の力なのかしら……。
さとりは、妹の遺品を見つめる。
黒くて重みがあって、時々淡い光の粒が生まれることを除けば、そこらに転がってるものと変わらぬ、ただの石だ。
しかしさとりは昨日からこの石に翻弄され、自業自得とはいえ、窮地に追い詰められている。
こんな小さな石だというのに、一体どれほどの力を持っているのか、全く計り知れなかった。
こいしにどこでこれを手に入れたかを、もっとしつこく聞いてみるべきだっただろうか。
だが原理も気になるが、元の世界に戻す方が先決だ。
なぜなら、こちらの時計が進んでいる間も、こいしの生きている時代の時計は進んでいる。
彼女が焼け死ぬまで、残りあと大体半日。
一秒でも惜しいこの状況においては、まず行動を起こさなくては。
「さとり様……」
石を懐にしまったさとりは、振り返る。
この世界のお燐が、不安げな面持ちで寝室の入り口に立っていた。
「今、誰とお話されてたんですか?」
「お燐」
さとりは彼女の元まで歩み寄り、
「ごめんなさい。一瞬で済むから」
そう言った直後、胸元の第三の目が一瞬、赤い光を発した。
「ひっ……」
お燐の体が、水を浴びせられたように跳ね、硬直した。
息を漏らし、後ろに倒れそうになった彼女を、さとりは慌てて支える。
「さ、さとり様……?」
「少し読ませてもらっただけ。体に害はないわ」
お燐の心から得た莫大な情報を頭の中で整理しながら、さとりは微笑んだ。
本来なら、この時代を過ごしていたもう一人の自分が積み重ねた情報をそっくり手に入れることができればよかったのだが、記憶には多かれ少なかれ人格が付随しているもので、そうした場合、もう一人の心が枯れて病んだ古明地さとりを己の中に置いておかなくてはならない。
あのまま許容していれば、精神が崩壊していたかもしれないため、緊急手段として、切り捨てていた。
「留守番を頼みます。私はこれから大事なものを取り返しに行ってくるから」
「あ、危ないことをなさるおつもりですか。でしたら、私は止めます!」
両腕を広げて、お燐はさとりの前に立ちはだかった。
今まで主人に一度たりとも見せたことのない、真剣そのものの表情を浮かべて。
じゃれ付くペットを諌めた経験はあるが、これは初の体験だった。
慣れない状況に困りつつ、さとりは言う。
「……散歩しに行くだけ、と言ったら信じてくれるかしら?」
「いいえ。旧都に行くつもりですね。今のさとり様は、『あの時』と同じ顔をしている。あそこは危険です。そして今の私達には必要のない場所です」
お燐のいう『あの時』の意味が、今のさとりにはわかった。
彼女からもらった記憶に、その出来事が鮮明に刻まれていたからだ。
ほとんど全てを失ったこの世界のさとりは、長らく復讐心を生き甲斐にしてきたらしい。
奪われたかつての家と地位を、死にもの狂いで取り返そうとしたようだった。
そして失敗し、敗者として、無目的に都の外で残ったペットと暮らすようになった。
情けないストーリーだ。ある意味、世界を相手に負け戦を重ねてきた覚り妖怪らしい末路でもある。
「お気持ちはわかります。確かにあたいも、さとり様が住んでた場所を奪われて、ずっと悔しい思いもしてきたけれど、分かったんです。みんな死んじゃうよりは、マシなんだって」
「………………」
「ここにはあの時あったものが何もないかもしれません。住んでる家は狭いし、食べるものも少ないし、一緒に生きていた仲間達も逝ってしまった。それでもここは、地底のどこよりも安全で、平穏です。それで充分じゃないですか!」
「………………」
「行かないでください! さとり様!」
悲痛に訴えるお燐に、さとりは微笑んだ。
七十六年前の自分なら、確かに覚り妖怪としてのプライドのためだけでも、十分動機に値したかもしれない。
でも、
「……それでも、行かなくちゃいけないんです」
今は違う。
古明地さとりがリベンジに向かうその理由は、他にある。
唇を噛んで涙を浮かべるペットを、さとりは抱きしめた。
「お燐……ありがとう」
万感の思いを、最少の言葉で伝える。
「違う未来であっても、貴方とお空は私の側にいてくれた。そのことを決して忘れはしないわ」
そして、さとりは屋敷を飛び出し、異世界の旧都を目指した。
9 Puppet
心は数時間しか過ごしていないのにも関わらず、体はそれを覚えているものなのだろうか。
知らない偽りの地霊殿であっても、離れることに多少の苦痛があった。
しかしジッとしているわけにはいかなかったし、お燐達を巻き込むわけにもいかない。
自分が犯したミスは、自分で解決しなくては気が済まなかった。
さとりは旧地獄街道の南端から、都の内に入り込んだ。
ここらは旧都とそれ以外の地底の境界となっていて、北東へ向かえば向かうほど、鬼をはじめとした強力な妖怪の住み処となっている。
かつては……というより昨日までは確かにその途中に、元の地霊殿の建っている中央街が存在していた。
――とりあえず、灼熱地獄跡を目指すのが手っ取り早そうね。
今の自分に必要なのは、この世界の情報。
そして覚り妖怪にとって、もっとも手っ取り早く情報を集める手法は、他者の心を読むことだ。
心が伝える情報は、一瞬にして膨大であり、その伝達速度は文字媒体とは比較にならない。
もちろん、昨日、今日生まれた妖怪の心を読んでも意味はなく、地底に長く住んでいて、なおかつそれなりの地位に就いている者であることが望ましい。お燐から得た情報は、事態を速やかに解決してくれるレベルのものではなかったものの、少なくとも取っ掛かりにはなりそうだった。
今は灼熱地獄跡の管理に携わっているのは、鬼の中の一握りであって、それらが旧都の実権を握っているということだ。
そうなった経緯も、今どういう運営が行われているのかもわからないという。
ならば、その鬼達と接触し、心を読むことができれば調査は捗る。
かつて地霊殿が建っていた、旧都の中心部をめざし、さとりは飛んだ。
が、数間行かないうちに、すぐに異常に気付く。
静かすぎるのだ。
少なくともさとりの知っている旧都は、移動する際に自分が立てる音に気を遣う必要など無用の場所だった。
常に賑やかで鬼火の絶えることのなかった眠らぬ街であり、場末であっても、必ず妖怪の姿は目についたものだ。
ところがこの辺りは、街全体が死んだように灯が見当たらない。
中央の煌びやかな輝きに全て吸い取られてしまったかのようで、さとりの知っている旧都とは、真逆の状態になっている。
ようやく、通りにぽつんと立つ巨躯を発見し、逆にさとりは安心したほどだった。
ところが、
――鬼……?
見たことのない、その異質な存在に、さとりは眉をひそめた。
角があったから、頑強そうな身体だったから、はじめその影は鬼のように見えた。
が、それは旧都で数限りなくすれ違ってきた鬼とは全く別の妖怪だった。
梵字の書かれた白い面をつけ、全身を鎧具足で覆い、槍を片手に棒立ちしている。
まるで何かの番兵のようだが、通りには蔵のような、その妖怪が守るべき類のものは見当たらない。
さとりはスピードを緩めて、慎重に接近し、試しにその妖怪の視界に入る位置に移動してみた。
相手は感情の起伏を見せぬまま、面に開いた穴から無機質な光をさとりに向けている。
聴診器を当てるような心持ちで、さとりは第三の目を向けてみた。
闇夜の砂の大地に建つ、廃屋のイメージが見えた。
何とも平坦で、動きのない心だ。
麻酔を与えられた病人が、このような状態に陥ることがある。
しかしどちらかというと、これは病気の鬼ではなく、ひどく単純な式神に近い存在に思えた。
どのような命令が下されているのかは、さとりには見当がつかない。
いずれにせよ話しかけるのをためらうほど、不気味な鬼の武者だ。
その妖怪から得られる情報は何もなさそうだったので、さとりはさらに街道を進むことに決めた。
ところが、
――あそこにもいるわ。
全く同じような妖怪が、やはり通りで何もせずに突っ立っている。
遠くに視線を向けてみると、その向こう側にも同じ背格好の妖怪が見えた。
察するに、旧地獄街道に一定の間隔で立たされているらしい。そして、他の妖怪の姿は全く見当たらない。
さとりの勘が、警戒を促してきた。
以前の旧都を歩く際に体感する物騒な気配とは、また異なる緊張感がある。
こんなところで引き返すわけにはいかなかったものの、慎重に動くのに越した事はない。
さとりは、なるべく異形の鬼の視界に入らぬよう、先を急いだ。
やがて、ちらほらと移動する妖怪の影が見えてきて、さとりはホッとした。
が、安心していられる時間はほんの一時に過ぎなかった。
街道を移動する妖怪はいずれも、荷車を押したり、あるいは引いたりして運んでいた。
どの荷台も山ほど物を載せている。血の滴る生肉、匂いの強い果物、蓋をしているのにむせ返るような酒樽、目も眩まんばかりの金銀財宝。
なんと、奴隷らしき老若男女を積んだ荷車も発見した。あるいはあれも、食糧なのだろうか。
妖怪達はいずれも、北を目指していた。
飛ぶ高度を上げて周りを見ると、他の通りを行く妖怪も、同じ方角に向かって荷を運んでいる。
彼らの行軍する先に顔を向けたさとりは、
「なっ……!」
と声を漏らしたきり、絶句した。
通りの先にあったのは、白い、現実離れした規模の城壁だった。
元の世界の地霊殿が建っていた丘まで見通せないほど高く、旧都の中心街をすっぽり覆ってしまうほどの幅がある。
無論、かつての旧都には存在していなかった建造物である。
ここに来るまでは、都の輝きによって空気が白んでいるとばかり思っていたが、まさか一つの壁だったとは。
近付くにつれて、壁はいよいよ視界いっぱいに迫ってきた。
そして、さとりの行く街道の終点には、巨大な青銅の門が待ち構えていた。
門の出入り口には鬼の警備兵らしき者達がうろついており、荷車の点検作業を行っている。
さらに城壁の内側に立つ、黒い監視塔が、赤い光を城壁の周囲に照射していた。
開いた口がふさがらない。悪夢もここに極まれり、だ。
状況を見たままに解釈するなら、中央街へ食料や貴重品などを運ばせているらしい。
妖怪達は苦しいとも辛いとも思わず、働き蟻のように従順な精神で、従っていた。
管理社会と選民政策。その典型的かつ分かりやすい光景だ。
分かりやすすぎて、何かの冗談に思えてきてならない。そして以前の旧都とは、その本質に海と山ほどの差がある。
――甘く見ていたかも……。
さとりは冷や汗を禁じ得なかった。
立ちはだかる巨大な壁は、物理的な圧力もさることながら、その妖気も相当なものだった。
おそらく何らかの大規模な術がかけられていて、外の街からの侵入を防いでいるのだろう。
ここまでくると結界、というより一つの大妖怪と呼んでも差し支えない。
その壁の向こうには監視塔、そして壁の周囲には仁王のごとき鬼達が周回している。
素直に入れてくれそうな気配は微塵もなかった。
しかしお燐からの情報によれば、この向こう側に旧都の支配層がいるという。
時間が差し迫っている以上、悠長に計画を練っている暇もない。何とかして、中に入る手段を編み出さなくては。
物影に隠れたさとりは、壁をじっと睨んだ。
とりあえず、適当な場所から乗り越えるのは危険に思えた。
監視塔の光が絶えず側面を這い回っているし、壁自体にどんな術が仕掛けられているかもわからない。
となると、どうにかしてあの開いた門から中に入るというのが、現実的な策のような気がしてくる。
例えば荷車の運び手にまぎれてみてはどうか。
しかし今の自分の格好は、荷を運ぶ妖怪達とはだいぶ毛色が異なっている。
こんな細い腕であそこに混じって車を押していれば、呼び止められても不思議ではない。
それでは、荷物に混じって侵入するのはどうだろう。
特に奴隷を積んだ車は、紛れ込むのに適当に思えた。
だが、積荷は番兵によって入念なチェックを受けているようだ。バレればすぐに拘束されてしまう可能性がある。
できれば、もっと確実な方法にしたい。
目を閉じた妹であれば、こんなことに悩まなくとも簡単に侵入できるのだろうが……と、さとりはかぶりを振る。
目を開けた姉の武器は、ほとんど一つしかなかった。
さとりは結局、その己の持つ最大の武器と、今日まで磨いた交渉力に賭けてみることにした。
――おそらく、あれが責任者でしょうね。
一人だけ、形式の違う鎧で身を固めた鬼を見据える。
下手にこそこそとした態度で出向けば、逆に警戒心を煽ることに繋がるかもしれない。
さとりは第三の目を見咎められぬよう、服の内に隠し、堂々と門の方まで歩いて行った。
両手を左右に垂らし、敵意がないことを表しながら。
鬼は面をつけた顔を、ゆっくりとこちらに向けた。
そしてさとりが話しかけようと思っていた距離まで、あと数歩というところまで近づいた時。
その鬼は無言で、片手を天に伸ばした。
耳をつんざくような音が、広場に鳴り響いた。
側の荷車を運んでいた妖怪が悲鳴をあげ、来た道を大急ぎで引き返していく。
さとりが訳もわからず、困惑していると、
「……!?」
『目』に火が付いたような痛みが走り、咄嗟に地面に転がった。
その一瞬前に、こめかみを熱源がかすめていた。
寸前に察知していなければ、頭を撃ちぬかれていただろう。
『下層民の重大な越権行為を確認した。これより、強制掃討を開始する』
聞く物を威圧し、震え上がらせる声が天から降ってくる。
放送が終わる前に、さとりは荷車の陰に逃げ込んでいた。
直後、周囲に光弾の暴雨が降り注いだ。
己の妖気を操り、慣れない盾を作って、さとりは死にもの狂いで蜂の巣になるのを防ぐ。
本物の殺意だ。
スペルカードルールが地底に伝わって以来、久しく体感していなかった緊迫感。
しかも、弾幕はさとりだけではなく、通りにいる番兵を除いた、全ての妖怪を狙っていた。
積荷だった奴隷達まで悲鳴を上げながら、門から不格好な走り方で遠ざかっていく。
それらは広場から街道へと戻る前に、一人、また一人と立て続けに、監視塔からの射撃、あるいは番兵の鉄棒によって無残に殺されていく。
やがて、一斉掃射が中断した後、辺りは血の肥やしで溢れかえっていた。
「何をしているのですか、貴方達は!?」
無慈悲かつ無差別な攻撃に激昂したさとりは、荷車の陰から怒鳴る。
直後、背中に衝撃。バラバラになった荷車ごと、十数メートルも吹き飛ばされ、地面を転がった。
聴覚が耳鳴りで、視覚が涙で、残りは痛みで使い物にならなくなる。
唯一無事だった器官、第三の目が、こちらに向かって迫ってくる鬼の一団を捉えた。
心に浮かんだ攻撃色は、焼けそうになるほど熱く、痛い。
「ま、待ってください! 私の話を……!」
ぶん、と鉄棒が振り下ろされた。
あらかじめ予測していたことで、叩き潰される間際で回避できたものの、地面を震わせた衝撃だけで、さとりの身体は宙に浮かんでいた。
反転し、背中を向け、鉄棒の追撃が起こす風を首筋に感じながら、全力で飛び離れる。
無理。相手が悪い。これでは交渉に入る前にパンケーキにされる。
すぐさま方針を転換し、さとりは安全な場所まで撤退することに決めた。
旧都の市街は大混乱となっていた。通りで何もせずに立っていた歩哨役の鬼達も、いつの間にか動き出している。
そして、中心部から逃げてきた妖怪達を、やはり無差別に襲っていた。
死んだと思われていた街に、これだけの妖怪が息をひそめていたというのは驚きだったが、それにも増して目の前の光景が非現実すぎて、平静を失いそうになる。
スピードに自信のないさとりは、喧騒の中を低く飛んでいた。
上空は障害物がないので広々としているものの、逆に敵に見つかりやすいと思ったのだ。
しかし今も、後ろからこちらを正確に追跡してくる心が三つある。
おそらく門の前にいた番兵たちだろう。何とか振り切ることができればいいのだが、ここに来て土地勘の無さが裏目に出ていた。
――どこか隠れる場所があれば……。
と思って、小さな路地の上をまたいだ瞬間。
にゅっ、とそこから出てきた手に、足を掴まれた。
さらに、とんでもない力で引っ張りこまれる。
「きゃっ!?」
さとりは悲鳴を呑みこんだ。
反射的に相手を打とうとするが、その手首もがっちりと掴まれる。
[声を立てるな]
相手は無言で、さとりの脚から手を離し、人差し指を顔に当てた。
もっとも、その顔は上で徘徊している鬼と同じ、覆面のようなもので隠されていた。
やがて頭上を三つの鬼の気配が通過していき、さとりの背中が粟立つ。
だが、それらは問題なく去っていき、こちらに戻ってくる様子はなかった。
さとりは改めて、目の前の覆面を凝視する。
――味方? それとも敵?
外見だけでは判別不能だ。
しかしこの妖怪にたった今、命を拾い上げられたのは確かだった。
「助かりました。感謝します」
[古明地さとりだな]
さとりは瞠目する。
「どうして……?」
[その第三の目、間違いない。まさか、あんな無茶をしでかすとは思わなかったが]
くっくっく、と覆面は忍び笑いを漏らした。
[だが、早くこの街を出た方がいい。間もなく『奴ら』の作戦が始まる。ここら一帯は血の海になるだろう。わざわざ巻き込まれることもあるまい]
覆面の妖怪は立ち上がって、頭をぐるりと回し、
[お前のおかげで、門の警備が手薄になった。せいぜい利用させてもらう。忍び込むつもりだったが、この様子なら真っ直ぐ突っ切ったほうが早い]
「待って。貴方は壁の向こうに行くつもりですか」
[その通り。七十六年前の借りを返しに行く]
「それなら私も同じです! 協力させてください!」
さとりは頭を下げて言った。
しかし、覆面はすげなく首を振る。
[悪いが断る。力を借りるつもりも、貸すつもりもない]
「私にも、どうしても向こう側に行かなくてはいけない理由があるんです。どうかお願いします。早くしないと……」
妹の命が……。
そう言いかけて、さとりは口をつぐんだ。
こんな話、誰が信じてくれるだろう。遥か以前、死ぬはずがなかったのに死んでしまった妹を、再び現代に甦らせるなど。
そこで不意にさとりの頭に、網膜が伝える情報とは別の映像が浮かぶ。
今自分達が身を潜めている裏路地の、鮮明な眺めだった。
さらにイメージが一定のスピードで移動し始める。
裏路地を出てから、視点は南西に向かって複雑な街路を移動し、一軒の家屋で止まった。
[読み取ったな]
「は、はい」
[その家に行け。半分に欠けた鬼瓦が目印だ。庭の井戸をよく調べてみろ。後はせいぜい仲良くやりな]
覆面の妖怪は、さとりが呼び止める間もなく飛び去った。
直後、絶大な妖気の塊が頭上に出現し、さとりは思わず地面に伏せた。
そのまま妖気の主は、旧都の中心部を目指して、それこそ彗星のごとき勢いで飛んで行った。
広範囲を周回していた鬼の兵士達が、その光に引かれるように集まっていく。
残されたさとりは逡巡していたが、ここは相手の助言を信じることにした。
嘘を吐いている気配はなかったし、それに再びあの悪夢の門に戻る気にもならない。
裏路地から表通りに顔を出し、番兵がいないことを確認してから、さとりは迅速に移動した。
街のあらゆる場所から、心の叫びが『第三の目』に集まってくる。
逃げる者達、戦う者達、隠れる者達。有象無象。
自分が起こした火種が、旧都中を巻き込む炎に転じたようだ。少なからず罪悪感を覚える。
――いいえ、むしろこれこそ旧都の正しい姿。あんな旧都を、私は受け入れられない。
正義心からくるものなのか、ただの言い訳なのか、ともかくさとりの闘志はまだ醒めていなかった。
イメージの地図に従って進んでいると、やがて一軒の家屋の前にやってきた。
――この家かしら……。
家屋というより廃屋だったが、確かに目印だといっていた、顔が半分の鬼瓦が屋根についている。
しかし誰も住んでいないらしい。
あの覆面妖怪は、庭にある井戸を調べてみろ、と言っていたが。
さとりは塀を乗り越えて、庭へとお邪魔した。
閉まっていた井戸の蓋を開け、中を覗き込んでみる。
真っ暗闇だ。底が見えぬ程深い。
しばらく身を乗り出して覗いていると、さとりの前髪が持ち上がり、ぷぅんと湿った苔の匂いが鼻をかすめた。
「もしかして……」
さとりは意を決して、穴の中に飛び降りた。
10 Resistance
古井戸の穴は相当深く、さとりは一分ほど緩やかに落ち続けた末に、ようやく足場に到達した。
幸いなことに、底に水が溜まっていたり、蟲の大群が待ち受けているようなことはなかった。
しかし予想した通り、ただの涸れ井戸ではないということも明らかだった。
闇の中に簡単な術で光源を作り出してみたところ、壁にぽっかりと横穴が開いてるのが見つかったのだ。
おまけに奥から風が吹いてきている。上で感じた微風はここから流れてきたらしい。
――この穴の中を進めば行けば、中央街に地下から潜入できる?
……というわけでもなさそうだ。
もしそうだとすれば、あの妖怪がこの道を使わない理由がないだろうし。
となると、一体奥には何が待ち受けているのか。
他に当てがなかったため、仕方なしに、さとりは穴の中を進むことにした。
さほど歩かぬうちに、人一人が通れるほどだった穴は上下左右に広がっていき、やがては象が通れるほどの通路となった。
地面は湿っている。とはいえ、靴の内側まで染み込むほどではなく、つまずくような起伏もない。
気分はほとんど、知らない場所に連れてこられた迷子のようだったが、闇の中を進むにつれ、思考がクリアになってきた。
表の騒動で得た動揺が、ようやく治まってきたのだろう。
やはりどんなに強がっても、自分は机の前がお似合いで、荒事には慣れていないのだ、と思う。
それにしても、あの旧都。
徹底された管理社会と粛清。とても鬼の都とは思えない 地上の妖怪の山……いや、それ以上なのではないか。
強く、選ばれし少数の妖怪が都の益を独占し、多数の妖怪を支配する。
自由を尊ぶ地底の妖怪にとっては、全く新しいタイプの地獄といっていい。
元々、鬼は地上の束縛を逃れてここに都を築いた。
混沌を愛するあの粗暴な妖怪達が暴走せぬよう監視するのも、地霊殿、すなわち古明地さとりの役割の一つだったのだ。
しかしこの未来は、さとり自身も唖然とするほどの管理社会が築かれているようだった。
一体七十六年前にどんな蝶が羽ばたけば、こんなディストピアが生まれるのだろう。
「………………」
さとりは足を止めた。
闇の中をじっと見つめ、もう一度、今の独白を振り返り、吟味する。
考え得る限り、この世界に導かれた可能性は、一つしか浮かばない。
すなわち、
――こいしがあの時地霊殿に帰らず、火事を見に行っていれば……この未来は起こりえなかった。
だが違う行動を取っても、結局こいしは事件に巻き込まれている。
しかも今度は、灼熱地獄の業火に焼かれるという最悪この上ない結果に繋がった。
これは本当に偶然だろうか?
妹がどうあがいても不幸に陥る星の下に生まれてきた、というなら話は別だが、それよりも妥当な推測は……。
再びさとりが歩き始めた、その瞬間。
ヒュルルルルルル……と何かが空気を割いて落下してくる音がした。
攻撃の意志を感じ取ったさとりは、すぐに地面を蹴って、その場を離れる。
とんでもない勢いで降ってきて、ヒュゴゥン、とさとりの頭部があった位置で急停止したそれは、岩でもギロチンでもなく、
「…………桶」
闇の中にぼんやりと映るその姿の、見たままの形を言葉にする。
子供がすっぽりと入れそうなまでの大きな木桶から、綱が上に伸びている。
さとりが桶を観察していると、その中からひょこんと二つの緑色のおさげが飛び出した。
続いて可愛らしい童女の顔の上半分が現れたかと思うと、大きく開いた二つの目が、こちらを一呼吸ほど見つめ……。
ピィイイイイイイイ!!
細く鋭い音が、洞窟内を反響した。
「敵襲――!!」
面食らっていたさとりの前で、その釣瓶落としは顔を真っ赤にして、大声で叫んだ。
「敵襲、敵襲、敵襲、てきしゅー!!」
ガンガンガン、と桶を鳴らしながら、少女は急上昇していく。
すると間もなく、さとりの進んでいた道の奥から、無数の足音が反響して近づいてきた。
黄色に赤、青、そして緑。闇夜で燃える眼光は、妖怪特有のものだ。
「待ってください!」
機先を制し、さとりは自ずから呼びかけていた。
「貴方がたに危害を加えるつもりはありません! こちらの話を聞いてください!」
迫りくる集団が停止し、わずかな動揺が走った。
表の鬼の兵士達と違って、少なくとも言葉は通じる者達のようだ。
ただ一人、全く聞こえていてない様子で、得物を持ったまま飛びかかってきた者がいたが。
「ケァ――ッ!!」
気合の声を上げ、一匹の妖怪が翼を広げて迫ってくる。
そのボサボサ頭を見て、さとりは目を剥いた。
「お空!?」
叫んだ瞬間、飛びかかってきた地獄鴉は思いっきり体勢を崩し、その場に泥を撥ねさせながらすっ転ぶ。
そのまま、地面の上で溺れているような器用な動きを披露してから、顔を上げ、
「さ、さとり様っ! どうしてここにっ!?」
[ヤバい! せっかく会合の前後はお酒呑んでバレないようにしてたのに!]
相当動揺しているらしく、お空はまだ立てないでいる。
しかし、驚いているのはさとりも同じだった。
そもそも彼女は、屋敷で二日酔いで寝ていたのではなかったのか?
二人は全くの隙だらけだったが、周りの妖怪達も事態を把握しかねているようで、得物を持ったまま動かなかった。
よく見ると、土蜘蛛、橋姫、釣瓶落とし、他にも色々と顔ぶれがバラエティに富んでいる。
妖気の劣った鬼くずれなども混じっているようだ。
両陣営が膠着状態に陥っているさなか、ひたひたと一人分の足音が聞こえてきた。
気色ばんでいた妖怪達が、奥から順に道を開けていく。
彼らを二つに分けて姿を現したのは、つなぎの茶色い作業着に身を包んだ、女の土蜘蛛だった。
砂色の髪を一つにまとめ、顔にはごついゴーグルをかけている。
「……こいつは驚いた」
カチカチカチ、と彼女はゴーグルのつまみを動かし、絶滅したはずの昆虫を発見したかのような口調で言った。
「古明地さとり、お目にかかるのは七十年……いや、七十六年ぶりだわね。風の噂で、廃人同然になったと聞いてたけど、ぴんぴんしてるじゃないのさ」
さとりの記憶の中で、彼女の心の波長が、ある妖怪と部分的に一致した。
さほど付き合いが深かったわけではないが、名前は知っている。
黒谷ヤマメ。旧都にも稀に顔を出していた、地底の風穴に住む妖怪だ。
さとりがいた未来では、都に住む妖怪、それ以外に住む鬼、双方に顔が聞く情報通だった。
「なるほど……」
さとりは改めて、周囲の顔ぶれを見渡して言う。
ようやくこの集団の正体に見当がついた。
「察するに、ここは中心街に対する地下抵抗組織、でしょうか」
「ようこそ我らがアジトへ」
芝居がかった仕草で手を広げ、土蜘蛛は言う。
「どうやってここに来たんだい? うちのメンバーと知り合いらしいが、後をつけたのかな」
「いいえ」
さとりは首を振って、正直に事情を明かす。
「親切な覆面の妖怪に、秘密の入り口を紹介してもらいましてね。ここに来れば中央街に行けると聞いたもので」
ぴくり、とゴーグルの上に乗った眉が動く。
土蜘蛛は無言だったが、心の声はしっかり伝わった。
[あんにゃろ……とんでもないもん寄こしやがった。こっちはこっちで準備があるっていうのに]
その声から察するに、この妖怪はあの覆面妖怪に心当たりがあるらしい。
しかし、彼女は肩をすくめ、
「残念だけど、そいつは情報に食い違いがあるようだ。速やかにお引き取り願おう……と言いたいところだが」
分厚いゴーグルの奥に一瞬、不穏な光が見えた。
取り囲んでいた他の妖怪も、寝かせていた毛を逆立てるかのように身構える。
「そういうわけにもいかないねぇ。うちらの計画の邪魔にならぬよう、ここで大人しくしていてもらうか」
[あるいは、永遠に大人しくしてもらうか、だけど]
さとりも自然、半眼となった。
相手はあえて心を読ませることで、こちらの恐怖を煽っている。
覚り妖怪と対峙した経験があるらしい。油断はできない。
不穏な気配を感じ取ったのであろうお空が、さとりの前で立ち上がり、
「みんな! さとり様は悪い妖怪じゃないわ! 事情を教えてあげれば協力してくれるはずだから! 仲間に入れてあげて!」
お空は背中に主人を庇いながら、必死に弁護する。
しかし、妖怪達の間に好意的な表情を浮かべた者は、一人もいなかった。
「そうは言っても……お空ちゃんよ。覚り妖怪っていうのは、他者の心を覗きこむことはあっても、己の心を開くことはないってのが専らの評判だぜ」
「そうね。こんな状況で互いを信じるなんて不可能だわ」
「否定はしません。私の一族は、代々根っからの卑怯者ですから」
お空の肩に手を添え、再度彼らと対峙しながら、さとりは言った。
「しかし、それでも信じてもらいたい。そして許されるなら、手助けさせてほしい。まずは私の話を聞いていただけませんか。その内容が気に入らなければ、拘束するなり、煮るなり焼くなりして結構です」
できる限りの誠意でもって、説得を試みる。
妖怪達は思案気に顔を見合わせた。
心から敵意は消えているものの、それでもさとりのことを受け入れがたく思っているのは明らかだった。
しばらくして、中央の土蜘蛛が、手を叩いて声を張り上げ、
「ようし、あんた達。この一件は私が預かる。もう時間がないんだから、ちゃっちゃと支度をし。お空ちゃん。あんたも行った行った」
すると集団は、ぶつくさと文句を言いながらも解散し、それぞれ暗闇の中に戻っていった。
お空も名残惜しそうに、さとりの方を何度も振り返りながら、彼らと一緒に去っていく。
ただ一人残った妖怪が、ちょいちょいと指で別の方を示し、
[奥で話そうか。歓迎はできないけど、そっちの用件とやらは聞いてあげるよ]
◆◇◆
二分ほど歩くと、急に広い空間に出た。
かつての地霊殿の玄関口かそれ以上の広さがあり、灯りが乏しいせいか余計に広々としている風に見える。
そして騒がしい。あちこちに設置された灯火の側で、先程の妖怪達が忙しなく、何らかの準備を執り行っていた。
熱気も相当なものだが、それを凌ぐ切迫した感じが伝わってくる。
案内されたさとりは、広い空間の壁に備え付けられた、簡素な造りの階段を上った。
その先には、岩の壁から張り出した足場があり、二人並んで歩くことができるようになっていた。
一階にあたる場所で戦闘の準備をしている妖怪達も見下ろせる。
刀を念入りに砥ぐ者達。武器を身に着けて支度をしている者達。
水を天秤棒で運ぶ者達。壁に貼られた地図の前で言い合いをしている者達。
上から眺めると、その働きぶりは一見乱雑なようでいて、こなれた動きをしており、まさしくゲリラ戦士達の隠れ家を覗いているのだと納得させられた。
さとりは前を行く土蜘蛛の背中に尋ねる。
「貴方がここのリーダーをしているのですか?」
「まさか。私はただの穴掘り役。今他に誰もあんたの相手できるやつがいないくらい、準備で立て込んでるだけよ」
「それはわざわざ恐れ入ります」
「ん、恐れ入ってくださいな。よりによって一番忙しい時に、一番厄介なお客さんが来るんだから、上手くいかないもんだね世の中は」
ひらひらと手を動かして、土蜘蛛は軽口を叩く。
しかし心の声のトーンは、意外にも冷静だった。
[あんたに隠してもしょうがないから教えるけど、これから中央街に突入する作戦を決行するんだ。成功しても失敗しても、どっちかの陣営は自然解体するだろうね]
さとりはピリピリした空気に納得した。
この土蜘蛛の言う通り、本当によりによって一番忙しい時に、一番厄介な客としてやってきてしまったらしい。
しかし準備する面子の中に、身内であるお空も混じってきちんと働いているということが、やはり意外に思えた。
様子からすると、昨日今日集会入りしたわけではないようだが。
「あの覆面の妖怪も、ここのメンバーだったのですか?」
「それも違う。共闘している、とも言い難い。利害関係が一致してるから、たまに情報交換してるくらいだね。あんたをここに送り込んだ真意までは、わかりゃしないけど」
やがて、下の様子が一望できる、岩壁の縁の部分に連れてこられた。
ピカピカに磨かれた岩というワイルドな椅子を薦められ、さとりは大人しくそこに腰を下ろす。
そして、雑談を抜きにして、本題を切りだした。
「先程も言いましたが、私は中央街に入る方法を求めて、ここにやってきました。ですが、もし貴方がたの誰かが、すでに私が欲しがってるものをお持ちだというなら、その必要もなくなるかもしれません」
「ほう。面白そうな話だ。一体全体、何が欲しくて、わざわざこんな地下深くに?」
「今の旧都を支配している者達に関する、全ての情報」
それは、過去の謎を解くための、最重要の手がかりに他ならない。
ヤマメはゴーグルを外し、服の端でフレームを拭きながら言った。
「そりゃむしろ私の方が知りたいね。ここらにいる古株の連中も、はっきり言って全然わかってないんだ」
「私が地霊殿を失った後、何らかの決議があって、何者かが灼熱地獄の管理を引き継いだのではないのですか」
「そうか。そこら変の事情もあんたは知らないのね。決議はあったんだろうけど、それらは全て鬼の上層部の間で極秘に進められたものだった。内容は大まかに言うと、灼熱地獄跡に新たな管理者を置き、数名の関係者を除いて一切の立ち入りを禁ずる。まぁ、地底でそれについて知ってんのは、当時中枢にいた鬼達を除けば、よほどの情報通か……あるいは閻魔様くらいか」
さとりはハッとなった。
そうだ。元々地霊殿における怨霊管理の仕事は、是非曲直庁から与えられたものだ。
もし新たな鬼が、その役割をこなすのに値しない存在なら、閻魔は決して黙っていないはず。
ということは、
「現在の支配層は、怨霊と灼熱地獄の両方を抑え込むことに成功し、今に至るまで問題を起こしていないというわけですか」
「ん。それだけなら、旧都の外に住んでる私らにも、ありがたい話だったけど、おまけについてきたのが大問題でさ」
土蜘蛛は組んでいた腕を解いて、指を一本、上に差し向けた。
「あれよあれよという間に、今話してる私らの頭の上に乗っかってる、とんでもない負の帝国ができちまいやがった。選ばれし鬼による徹底した支配。外様の妖怪は搾取され、中央の鬼は権益を独占する……まるでどこぞの人間様の歴史のようだけど、地上も是非曲直庁も、この七十年間ずうっと動く様子がない。つまり、地上にいるであろう博麗の巫女さんも、この世界の変貌を異変としては捉えていないみたいね」
さとりにはその理由に心当たりがあった。
ヤマメも肩をすくめ、その予想を裏付けることを述べる。
「要するに、地底が地上その他に迷惑をかけずに『安定』してさえいれば文句もいえないわけさ。元々地底のことは外に危害が及ばぬ限り……」
「……地底の者だけで解決する。私があそこに着任した時のまま、その取り決めは変わっていないのですね」
「そゆこと。でも連中の腰が重くなるのは、きっとそれだけが理由じゃない。単純に今の中央に居座っているのが、罰したり退治したり滅ぼしたりするには、あまりにも手強すぎる妖怪だからだと思うね」
続く、声の調子を落とした土蜘蛛の語りには、少なからぬ畏怖の念がこもっていた。
「灼熱地獄を一人で監視してのけ、なおかつあらゆる強者を屈服させて鬼の帝国を築き上げた、稀代の英雄が相手じゃ誰だって及び腰になるさ」
「一人?」
さとりは瞠目した。
「そんな妖怪が、今もなお正体不明? 信じられません。それほどの実力者であれば、事件の起こる前に地底で噂になっていてもおかしくないでしょう」
「私も詳細は掴めてないし、もしかしたら有名人だったのかもしれない。鬼の四天王の誰かか、あるいは側近の誰かか……でも腕力だけじゃあ怨霊の対処も灼熱地獄の管理も、そしてこんな帝国を築くこともできやしないだろう。何か秘密があるのは間違いない」
そこで、ヤマメが意味ありげな目付きになって言った。
「七十六年前、あんたのお屋敷が燃えてなかったら、こんなことにはならなかった、と考えるのは私だけかしら」
「それは……」
どういう意味、と言いかけて、さとりは言葉と一緒に鉄棒を呑みこんだ風となった。
そうだ。ことの発端は、持国の大火だ。その帰結として地霊殿が燃えてしまい、地底の頭がすげ変わった。
今まで、さとりも鬼達も、あの一連の放火事件を、無差別な凶悪犯罪と見なして調査していた。
しかし犯人の目的に、始めから地霊殿が入っていたとしたら?
導かれた答えにさとりは愕然となり、動悸が激しくなる。
そうに違いあるまい。この世界は、その犯人が目的を達成し、築き上げた理想郷なのだ。
元の歴史では、こいしがそれにイレギュラーな形で巻き込まれることによって、計画が頓挫したのでは。
つまり、
――こいしを死なせた輩が、この世界に王として居座っている。
どろどろと焼けるような痛みが腹の内に生じ、顔のあたりまで立ち上ってきた。
血がにじむほど拳を握り込み、酷薄な口調で、さとりは言う。
「その政権を、まさに今これから、貴方がたは転覆させようとしているのですよね」
「無謀だと思うでしょ? 私も正直そう思う。相手は鬼だ。しかも数は間違いなく二千を超えている」
「私も実行部隊の中に加え、灼熱地獄跡まで連れて行ってください」
さとりはここにきて、はっきりと申し出た。
「正直私だけでは、あの城壁を逆立ちしても乗り越えることはできません。でも貴方達の力を借りれば、中に入れる可能性がある。七十六年越しに、ようやく見えた希望です。逃がすことはできない」
たとえこの場で断られたとしても、引く気はなかった。
時間に余裕はない。このチャンスを逃せば、もう二度と機会は巡ってこないかもしれない。
これが自分に残された、こいしを助ける唯一の道だと確信していた。
「……聞いていいかしら」
抵抗軍の窓口役の妖怪は、あるかなしかの笑みを浮かべて口を開いた。
視線をさとりの顔から動かさぬまま、訊ねてくる。
「今、私の心を読んでる?」
「いいえ」
「その気になれば、私の頭から情報を好きなだけ抜き取れるんじゃないかと思ってたんだけど」
「そうしなかったことも、私が提供できる信頼の証の一つです。それに第一……」
さとりは己の第三の目を、別の方に向けた。
「あんなに『うるさく』されては、ろくに貴方の心を読めたものではありません」
いつの間にか、支度をしていた妖怪達の動きは止まっており、全ての面子がこちらの様子を窺っていた。
やれやれとかぶりを振り、沈黙している下界に向かって、ヤマメは燃料を投下する。
「おーい、あんた達。言いたいことがあるなら喋ってどーぞー」
すかさず、凄まじい罵詈雑言が、心の声と二重音声になって、二階まで跳ね返ってきた。
「ふざけんな!! 承知できるか!!」
「ポッと出がデカい面してんじゃないわよ!!」
「そんなひょろ腕で何するつもりだ! この心喰いが!!」
「旧都の鬼の前にお前から滅ぼしてやろうか! クサレアマ!!」
「こらー! みんなー! さとり様のこと悪く言うなー!」
さとりは耳だけでなく、何となく心の目もふさぎたくなった。
お空一人だけが加勢してくれるものの、多勢に無勢。歴史が変わろうと、自分に対する嫌悪は変わらぬらしい。
一方、同席しているヤマメはといえば、「あっはっは」と顔が完全に上を向くほど仰け反りながら笑っている。
「というわけで採決を取るまでもなく、あんたの申し出は受け入れられないことになったわ。やっぱり大人しく捕まってもらうしかないようね」
「向こうの鬼の数は二千を超えている。対してここに集まっているのは五十人足らず。本当に転覆できるとお思いですか」
「ここにいるやつらだけじゃないさ。他にも作戦決行の時間を待っている拠点が、旧都には点在している」
「……北に四十、東に三十、南に五十、西に二十。貴方達を加え、合計で二百名弱」
「まぁ、ひどいわ。心を読んでないって言ったのは嘘だったのね」
「会話をしている間、この場所から、地上の動きを『把握』しておいただけですよ」
「んなっ」
今の今まで余裕ぶった態度を崩さなかった土蜘蛛も、さすがにこれにはぶったまげた様子だった。
しかしながら、さとりからしてみれば、旧都をうろつく鬼の兵の心はいずれも単純過ぎる。
残りの闘志を抱く心、つまり抵抗軍の心を拾い集めるのは、会話しながらイチゴとオレンジをより分けるようなもので、さして難しい芸当ではなかった。
さとりは敢えて、全員に聞こえるように語調を強めて言う。
「たとえ中に入れても、分の悪い賭け。相手の存在を発見し、その動きを読める覚り妖怪が仲間に加われば、成功の可能性を高めることができる。そう思いませんか?」
妖怪達が静まり返る。多くは疑いの眼差しでもって応えていたが、自信なさげに隣と相談する妖怪も幾人かいた。
そんな中、お空だけが頬を染めている。
[さとり様……カッコいい。出会った頃のさとり様みたいだわ……]
さとりは何とか真顔を保つ。
ふーん、とヤマメは口元に手を当てて考え込んでいたが、
「パルスィー」
やがて下にいる一人、最もさとりに対して口汚く毒づいていた妖怪に呼びかける。
「当初の予定通り、指揮はあんたに任せる。んで、この覚り妖怪さんも連れてってやって」
「正気なの!? こいつがもし内通者だったら、玉砕しに行くことになるわよ!」
「いやいや。元々玉砕の可能性が付きまとってる作戦だし」
あっけらかんと土蜘蛛は言って、さとりの方に顎をしゃくりながら、
「それに、こいつがあっち側に協力する理由も思い当たらないしね。味方になってくれるなら、ありがたい。敵もまさか覚り妖怪が攻めてくるとは思っちゃいないだろうし、ことが済んだ後に怨霊をどう扱うかっていう問題も解決する。確かあんたは怨霊の対処はお手の物のはずだ」
「ええ……」
さとりは首肯する。
怨霊の心を読み、それを宥めることのできる能力を持つことから、自分は灼熱地獄跡の管理人となった。
後にペット達にその仕事を譲ったものの、腕は錆びついていない。
「入隊していきなり、訓練も受けないで前線に飛び込むのは、あんたが初めてだよ」
「覚悟はできてます」
「よし。それじゃあ出発は三十分後だ。詳しいことはあいつに聞いてちょうだい」
「ヤマメ! こら! 私は全然納得してないわよ! 降りてこいバカぐも!」
「……まぁ、根は悪い奴じゃないから、なんとか仲良くやっておくれ」
多少疲れた口調で言われ、さとりは微笑んでうなずいた。
石の椅子から席を立ち、思い切って下の広場に降り立つ。
訝しがる他の面々と視線の高さを同じにして、さとりは丁重に挨拶をした。
「この度は、よろしくお願いいたします。古明地さとりです。共に力を合わせ、必ずや旧都を奪還しましょう」
「おー!!」
お空一人だけが拳を突き上げてから、「うにゅ? あれれ?」と周囲の顔を窺う。
こめかみをひくつかせていた橋姫が、やけっぱちな様子で、音頭を取った。
「取り戻すわよ! 私達の地底を!」
今度こそ、洞穴内に力強い歓声が湧き起った。
それはさとりがこの世界にやってきてから、はじめて感じた、心地よい熱だった。
地上にある旧都の空気よりも、こちらの方が何倍もかつての旧都を思わせる。
地霊殿に住んでいた頃はそうした雰囲気を蔑み、距離を置いていたのだが、こんな状況なだけに、不思議と受け入れてしまっていた。
「新入りは初日から便所掃除をやる掟なんだけど、ま、それは生きて帰ってきてからにしてあげる」
歓声が鳴りやまぬ中、同じく隣に降り立っていた土蜘蛛に、さとりはもう一度、礼を言う。
「重ねて、感謝します。証明はできませんが、誓って本心ですよ」
「なに。こっちとしても願いを叶えてくれる幸運の女神が現れたんだから、利用しなきゃ損だしね」
「……?」
「あんたが大事そうに懐に隠してる、その石」
さとりの微笑が引っ込み、背筋が冷えた。
腕組みしたヤマメの指がさりげなく、正確にその位置を示していたのだ。
なぜ気づかれたのだろう。決して失くさぬよう、そして誰の視線にも触れぬようずっと懐に秘めていたのに。
土蜘蛛は組んでいた腕をほどき、何事もなかった様子で、再びゴーグルを装着しながら言った。
「そいつは、ほうき星の子だよ。手に取らなくても気配を感じ取れる。わたしゃ石にはうるさいんだ」
11 Set
旧都の中央街は、二層の城壁によって守られている。
どちらも強固で警備は厳重。なおかつ上空は強力な呪術の結界で覆われており、妖怪が通り過ぎようとすれば、バラバラに千切れた肉体となって、敷地内に降り注ぐ餌と化す。そのため、二つ目の城壁の内に侵入できた者さえも、これまで一人もおらず、その最深部にある灼熱地獄跡周辺が今どんな状態になっているかも外に知られていない。
ただし、そこにこの旧都を統べる鬼の総大将が居座っているのは間違いないようだ。
旧市街と中央部を行き来できる門は、東西南北の四つ。
いずれも監視塔が建っており、異常があればただちに番兵が外に出てきて、事態を力尽くで収拾することになる。
今まで抵抗軍は隙を見て潜入を試みていたらしいが、いずれも失敗に終わり、それだけでも多くの犠牲を払うことになったという。
ただし、難攻不落な鬼の本拠には、唯一といっていい死角が存在した。
そもそも、旧都を内包するこの空間は、巨大かつ頑丈極まりない岩盤に囲まれている。
もしその岩盤に穴を開けて、侵入口を造り出すことができれば?
それも敵が警戒していない地下に、細い坑道を造ることができれば?
その案が出されて以来、これまでずっと続けられてきた突入作戦は全て布石に転じた。
表の抵抗軍が華々しくもささやかに噛みつくのに対し、裏では真の毒牙が敵の寝所へと忍び寄っていたのである。
第二城壁の裏、すなわちかつて地霊殿が建っていた、灼熱地獄跡周辺まで穴は通っている。
まずは、第一城壁の外側にいるゲリラ部隊が発起し、東西南北の門から突入を試みる。
そしてあわよくば、第二城壁の手前まで侵入し、敵の兵をそこに集める。
無論、元の戦力差にかなりの隔たりがあるため、この奇襲は長くは続かず、どれだけ時間が稼げるかは分からない。
しかし少なく見積もっても、一時間は得られるだろう。
中央の勢力がすっからかんになったところで、坑道から第二城壁の裏に侵入した部隊が、旧都の親玉を討つ。
という手はずになっている。
「捕らぬ狸の皮算用……って思ってたら殺すわよ」
「……惜しいですね。飛ぶ鳥の献立と思ったのですが、もしや貴方、覚りの才能があるのかもしれませんよ」
けっ、と悪態をつくのは、眼帯をつけた橋姫だった。
彼女があの水橋パルスィだということを知った時は、さとりもさすがに七十余年という歳月の重みを感じたものだ。
肩まで露わになった腕には生傷が多く残っており、しかも筋肉質。
元々の端正な美貌からも陰気な表情が抜け落ちており、もはや鬼のそれと遜色ない妖気をまとっている。
編んだ髪を一つにまとめて、矢筒を背負ったその姿は、戦女神のようだ。
しかし、絶望的に口が悪い。
「ったく、こんな奴連れてってどうしろっていうのよ。鬼と出くわす度に、オムツを換えてやらなきゃいけないわけ?」
だったり、
「怖くなったら一人で逃げてもいいわよ。抱く肉も喰う肉も少ないあんたじゃ、鬼は見向きもしないだろうし」
だったりと、臆面もなく言ってのける。
周りの妖怪は、下卑た笑みでそれらのジョークに賛同していた。
誰も彼もが古傷だらけで、いずれも、パルスィと同じく幾多の修羅場をくぐり抜けてきた、強力な妖怪であることが見て取れた。
そして顔は笑っているが、心は全てさとりを睨みつけ、嫌悪していた。
彼らの反応は理解できる。覚り妖怪は長きに渡り、人間と妖怪の共通の敵であって、地表が下にあった時代も上にあった時代も、同族以外からは毛嫌いされてきた。ましてや、命がけの作戦決行の時に現れ、半ば強引に飛び入りで参加させてもらったのだから、仲良くなれという方が無理だろう。
唯一、そんな図々しい覚り妖怪の味方になってくれているのが、
「さとり様と一緒に戦えるなんて、ワクワクします」
などと殊勝なことを言ってくれる、ペットのお空だった。
この世界の彼女は八咫烏の力を手に入れなかったらしいが、それでもこうして間近で改めて見ると、他の面子と同じくらい精悍に見えた。
身のこなしはきびきびとしていて、歩く所作にも隙がない。
毎日飲んだくれているのをカモフラージュにして、秘かに十数年、この会合にずっと参加していたのだという。
「お燐は、このことを知っているの?」
さとりは彼女に尋ねてみた。
お空は顔を曇らせ、首を振って、
「心配をかけたくないから……家のことでいっつも忙しそうですし……」
「そう……」
大事な親友を、決して巻き込みたくない。
そんな気持ちが第三の目にはっきりと映った。
形は変われど、二人の絆は世界が違っても続いているらしい。
もし過去が変わったら、この世界のお空とお燐は、どうなってしまうのだろうか。
レジスタンスに加わるまでの間、さとりの頭に、そのことが引っかかっていた。
さとりには一応、今後の行動で未来を変える案が一つある。しかし、これがパラレルワールドだとしたら、再びさとりだけが『もう一人のさとり』を残して転移することになるかもしれない。
その世界に、生きているこいしとかつての地霊殿が残っていれば、本来はそれで万事解決のはずだった。
たとえ、こちら側の世界のクーデターが失敗に終わったとしても、その条件さえクリアしていれば。
しかし、
――私がこの世界に対して責任がないと、どうして言える?
その問いに、冷静で計算高い己の意識が、答えを出す。
別の世界を生きていた自分にとって、そもそもここは知覚することもできなかった夢物語のようなものだ。
浅い情け心に従って、多くを求めて落とし穴にはまらぬよう、余計なことは頭に入れてはいけない。
しかし、さとりの中にあるもう一つの核が、それを受け入れようとしなかった。
会って話してみて、確信する。
過ごした七十六年を忘れていても、お燐とお空は守らなくてはいけないペット達だということを。
彼女達を置いて、自分だけが別の世界に逃げるなんてことはできない。
せめて、嫌われ者の妖怪である皆が安心して暮らせる世界を、その礎だけでも残してあげなければ。
思わず苦笑が漏れた。
意識は無意識という猛獣を手なずけている気でいる。
しかし大体において、意識は無意識の僕であり、ご機嫌取りなのだ。
それは妹に限らず、無意識嫌いの自分も変わりないらしい。
そのうち、坑道の終点が見えてきた。
今まで通ってきた穴よりもさらに狭く、一列に並ばなくては進めないほど狭い空洞が、その真ん中に開いている。
パルスィが時計を取り出して確認した。
「十時ジャスト。第二城壁手前に到達。アクシデントなし」
そう言ってから、彼女はさとりの方を振り返る。
「こっから先は、私語禁止よ。万が一のことがあるからね。私達には専用の合図があるけど、心を読めるあんたには必要ないでしょ」
「ええ」
さとりは頷いて気を引き締め、宿敵の待つ旧都の闇の領域へと足を踏み入れた。
◆◇◆
曲がりくねった狭いトンネルを行き、垂直に近い縦穴を登り、一行はようやく外に出た。
緊張の漂う行軍の最後尾だったさとりは、久しぶりの外気に触れ、深呼吸する。
レジスタンスが侵入口に選んだ場所は、中央街の南側にある庭園だった。
元は料亭だったようだが、今は店が移転して、庭だけが残っているそうだ。
なおかつここは、かつて地霊殿の建っていた丘の近辺であり、目的地を目指すのに複雑な街道を通る必要がない。
侵入口として、うってつけの場所といえた。
それにしても、本当に旧都の端から穴を通って中央街まで辿りついてしまうとは。
あれだけ長い坑道が、よく水脈や灼熱地獄に邪魔されずにここまで通されたものだ。
手先が器用で力持ちの土蜘蛛達の工事でなければ、これほどのものを造ることはできなかっただろう。
それでも七十と六年。彼女達の執念に、さとりも舌を巻く。
遠くから爆音が轟いてきて、一同は顔を動かした。
第二城壁のある方角だ。
別働隊が自分達に注意を引きつけるために、攻勢を仕掛けた音に違いあるまい。
一時間持てばいい。さとりはこの作戦に加わる前に、あらかじめ、そう聞いていたが。
仲間の一人、短い角を生やした妖怪が、呪文を唱えた。
すると、パルスィ達の姿が、黒い霧の中に呑みこまれたかのように隠され、やがて完全に消えてしまった。
さとりは己の掌を見て、次いで全身を眺め、自分の姿も消えてしまっていることを認識する。
隠行の術、それもかなり高度なものだ。術者には鬼の血が入っているのだろう。
姿を隠す技能は、古来より鬼の得意技でもある。
[聞こえるわね、古明地さとり]
心の声で呼ばれ、さとりは顔を上げる。
夜光虫が一匹、緑色に明滅しながら、目の前を飛んでいた。
[お互いの姿が見えないから、この式神が目印。今から灼熱地獄跡への潜入を目指すわ。ションベン漏らしたり、ドジ踏んで余計な騒ぎを起こしたりしたら、すぐに囮役になってもらう。わかった? イエスかイエスで答えなさい]
ノーを言う権利はないらしい。
さとりは――相手に見えてはいないだろうが――うなずいて肯定の意を示した。
もとより、自分の立場と危険は承知済みだ。
しかし念のため、広く周辺の気配を窺ってみる。
第二城壁とこの場所の間にある中央街には、たくさんの『心』が密集しているが、この辺りには、ほんのわずかな心しか見当たらなかった。
特に怪しい動きをしている者もいない。これなら大丈夫そうだ。
さとり達は移動を開始した。
庭園を抜け出し、表街道を避け、裏道を使いながら北を目指す。
さとりの記憶にある、古風で寂れた雰囲気のあった中央街は、統一感のないごてごてとした原色の光を使った建物で埋め尽くされていた。
城壁の外側にある、モノクロの世界とは正反対だ。察するに、旧都中の『色』をここに集めこんだのだろう。
非常事態だからなのか、哨戒中の鬼を除いて、通りには妖怪の気配がなく、ずいぶんと人寂しい感じだ。
といっても目印となった夜光虫の移動は速く、さとりは遅れないようついていくのが精いっぱいで、周囲の光景に意識を配る余裕があまりなかった。
やがて、さとりの目に見慣れた丘がぼんやりと見え隠れしはじめた。
あそこに、この旧都を牛耳る大妖怪が鎮座しているという。
そして、さとりの三番目の『目』には、共に行く妖怪達の昂ぶった心が映っていた。
無理もない。数十年越しの賭けが、果たして吉と出るか凶と出るか。全てこの一夜にかかっているのだろうから。
とはいえここまでは順調だ。鬼に見つかることなく、目的地まで確実に近づいている。
いや……順調すぎるのではないか。
同調して熱くなっていたさとりの心の中に、氷の一かけらが混じった。
物事が上手く進んでいる時ほど、そうでなくなった時のことを考えておかなくてはいけない。
七十六年前に妹を失ったことで、さとりはその教訓を骨身に刻んでいる。
念のため、もう一度周辺の心を広く読んでみた。
そして、すぐに血相が変わった。
――待って!
さとりは腕を伸ばして、適当に触れた衣服をつかんだ。
よりにもよって、水橋パルスィの服だったらしい。
顔は見えないが、眼力だけで妖怪をも睨み殺せそうな般若の絵が、第三の目に映った。
しかし、さとりの心も切羽詰まっている。
「様子が変です」
肩を彼女にくっつけ、小声で伝える。
「散開していた見張りの心が、こちらに集まってきています。私達に気付いたのかも」
[はあ? まだ隠行は働いてるし、第一ここに来て五分しか……]
次の瞬間、急にさとり達の立っている暗がりに、八方から光が集中した。
「全員! 建物の影へ!」
パルスィが叫んだ直後に、爆発が起こった。
間一髪、さとりは爆炎に呑みこまれることなく、路上に転がっていた。
しかし逃げ遅れたものも二名。その心が呆気なく散り果てるのが見えた。
地べたに伏せたさとりの周囲を、殺気の込められた光弾が飛び交う。
「畜生! どうしてバレた!?」
近くにいた隊員が、悲鳴まじりの罵声を上げながら、匍匐前進で移動する。
さとりもそれに倣ってついていき、なんとか丈夫そうな建物の陰に身を隠した。
そこに、パルスィとお空もいた。他の隊員は、通りの真向かいに隠れたらしい。
パルスィは彼らに向かって怒鳴る。
「予定変更! それぞれこのまま丘を目指して強行突破! 私達はこっちの道を行くわ!」
「ダメです! そちらはもう固められている!」
さとりは全力で引き留めた。
多数の心の影が、唯一自分達に残された道を通って、こちらにまっしぐらに向かってくるのがわかる。
「仕方ないでしょ!? このままじゃどっちにしろ全滅だわ! こんな早いタイミングで見つかるなんて……!」
と、パルスィが呻いた後、息を呑んでこちらを凝視する。
「まさかあんた……!」
「違います!!」
即座にさとりは否定する。
「おいゴンザ! 隠行はしっかりかけたのか!?」
「当たり前ぇだ! 俺を疑ってんのか!」
ピンチと疑心暗鬼からくる混乱に、隊の結束が乱れ始めている。
が、さとりにはわかっていた。
内通者は、いない。
異常に気付いた際、その可能性にすでに思い当たっていたさとりは、全員の心をスキャンし終えている。
しかし、明らかにこのタイミングはおかしい。
ランダムで動いていた巡回が、急に組織的に自分達を狙っている。
侵入口から距離を取った瞬間、見張りの一群が背後の通路を塞ぎ、なおかつ照明が迷うことなく自分達を捕捉した。
あらかじめこちらの動きを把握し、罠を張っていたとしか思えない。
やがて、肉眼でも街道を突っ込んでくる番兵達の影が確認できた。
パルスィは吠える。
「どうせ、いつかは戦らなきゃいけないつもりだったわ! 行くわよみんな!!」
彼女が放った、目にも止まらぬスピードの矢が、先頭の鬼の眉間に命中した。
「さとり様! 私の後ろに!」
お空が翼を広げ、太刀を鬼に向けて構える。
「お空! 私のことは構わず、自分の身を……!」
ずしん、と地響きが起き、さとりは背後を振り返る。
最悪だ。別方角から来た鬼の部隊が、現場に到着したところだった。
向こう側に隠れていたレジスタンスの仲間達が不意を突かれ、あっという間に武装した鬼達の餌食となる。
そして、敵は狙いを唯一残ったこちら側に定めた。
お空が身を捻り、迫りくる鎧武者に向かって対峙する。
隣にいたもう一人の仲間が、それに加勢した。
本来なら、鬼に戦いを挑むなど無謀だ。
しかし、決死の覚悟となった抵抗軍の精鋭達は、己らの実力を存分に発揮した。
戦闘が激しすぎて、さとりには到底ついていけない。
その間に自分にできること、この状況の分析を続ける。
――おかしい……どうして?
敵の群れはただの鬼ではなく、異常な集団だった。
一つ一つの実力は、さとりの知っている鬼達ほど強くはない。
だが正々堂々の一対一を挑んで来ることはなく、組織的かつ効率的に、自分達を襲撃している。
これでは中心街にいる鬼も、城壁周辺を守っていた鬼達と変わらないではないか。
いやむしろ、ここらにいる鬼の方が、精神の単一化が進んでいる気がする。
旧都にはもはや、まともな鬼は残っていないというのだろうか。
激烈な戦闘の末、街道から敵の姿が引いた。
先頭で奮戦し、肩で息をしていたパルスィは喘ぐように仲間に問う。
「残ってるのは!」
「四人だ! 飛燕とロクもやられた! 仁と霊烏路は……もう動けそうにない」
十人いた作戦班が、半分以下になってしまった。
パルスィは残った面子を見渡し、即座に判断を下した。
「あんた達。怪我した二人とさとりを連れて、戻りなさい」
隊員の一人が顔色を変え、反対する。
「お前だってケガしている! それに一人じゃ無茶だ! 黒谷が言ってたろ! この作戦は十名無事に丘まで到達しなければ、ほぼ間違いなく失敗する! これ以上の続行は不可能だ! 次の機会を……!」
「今日を逃せば、あの穴は塞がれるか、逆に利用されることになる! もうチャンスはないのよ! 私はここで死ぬ覚悟ができてる!」
パルスィはヒステリックに喚き立てる。
彼女の言っていることは間違っていないかもしれない。
しかしどちらにせよ、状況が絶望的だということには変わりなかった。
「へ、平気……」
額から血を流しながら、お空は言った。
「私も平気……今日しかチャンスがないんだから……さとり様に地霊殿を取り返してあげるチャンスは……今日しか……」
しかし彼女の心の声は、弱音と戦っていた。
[痛いよう……痛いようさとり様]
その時、一度は退いた鬼の部隊が、再び舞い戻ってきた。
だがそれだけではない。
「あ、ありゃ何だ一体……」
その先頭に立つ、巨大な鎧武者達を前にして、隊員の一人が呆然となる。
数は三つ。他の鬼の全てを集めたよりも多い妖気が、街道の空気を一新させた。
彼らの目にはほとんど、意思の光がない。あるのは、植え付けられた明確な殺意と、暴力衝動。
中央街を守る、真の精兵らしい。
対してこちらは、もう戦う力が残りわずか。
「くそっ……! こんなところで!」
身構えながらも、パルスィの顔には討ち死にの覚悟が宿っていた。
残りの全員も、泣きだすものはいなかったものの、気持ちが後ろを向いており、先程の奮闘の再現は不可能に思われた。
そんな中、たった一人、立ち上がった者がいる。
「ちょっとあんた!? 前に出過ぎよ!」
パルスィが喚いている。
しかし、唯一傷を追っていなかったさとりの耳には、彼女の声が届いていなかった。
いや違う。その意識は今までずっと、一人のペットの姿しか捉えていなかったのだ。
顔を血に染めて倒れる、地獄鴉の姿。
――よくも…………。
鬼の群れを前にしたさとりの心が、一色に染め上げられた。
その胸元の第三の目が、異常なほどの輝きを見せている。
ドクン……ドクン……と、体の表面を巡る、赤い血管が脈打つ。
すでに、鎧に身をまとった巨兵は、その武器が届く距離まで迫っていた。
たっぷりと妖気をまとった、大きな血染めの鉄棒が振り上げられ、一気に振り下ろされる。
大風が巻き起こり、地面を穿つ轟音が――
やってはこなかった。
「漂白され、同色に意志統一された番兵。確かに、忠実な兵士ではあるかもね」
空中で停止した鉄棒。
瞬き一つせず、それを間近で見据えていたさとりは、酷薄な口調で告げた。
「けどそんな浅い心、覚りの相手ではない」
鬼の鉄棒が軌道を変え、その背後にいる別の巨兵の頭部を叩き潰した。
それを皮切りに、これまで完璧に統率の取れていた沈黙の戦士達が、恐るべき同士討ちを始めた。
先ほどまでの戦闘がもの静かに思えてくるほど、怒号と血しぶきの舞う壮絶な戦いが繰り広げられる。
もっとも目立つのは巨兵達だ。己の武器を無茶苦茶に振り回し、群がる鬼を容赦なく薙ぎ払い、踏み潰し、噛み砕く。
しかし一般の兵も負けてはいない。まるで猿の群れの如く、巨兵の体に飛びつき、その体に刃を突き立てている。
たった今まで共に獲物を追い詰めていた姿からは、考えられぬ狂いっぷりだった。
パルスィ達は狐につままれたような顔で、その光景を眺めている。
しかしやがて彼女らの目にも、鬼共の心を足場にして、思念の怪物が飛び回っているのが見えてきた。
マインドハック。
覚り妖怪は観測することにより、相手のトラウマを甦らせることができる。
それをさらに一歩進めれば、心を疑似的に操作することが可能なのだった。
この地底にて、目を開けた覚り妖怪のただ一人の生き残りである古明地さとりは、一族の全ての技を受け継いでいる。
その中には、覚りの淘汰され続けた歴史の中で編み出された禁じ手も多くあり、これもまたその一つだった。
条件は揃っていた。
マインドコントロールを受けた単純な思考を持つ者達は、覚りの餌食になりやすい。
加えて古明地さとりは元々、地底において重大な犯罪を犯した者をその能力によって抹殺するという仕事を秘かに持ってもいた。
それが可能なのは、心を読むという行為が、妖怪にとって致命的なものになり得るから。
そして今使われている心の操作は、社会と決して相いれない存在だった覚り妖怪の象徴であり、憎悪の引き金となった技でもあった。
最後に残った鬼が、刀を取り出し、吠えながら自らの首を掻き切った。
それを最後に、死体の山となった街道に立っているのは、さとりだけとなった。
九死に一生を得た地底の妖怪達は、動けずにいる。
彼らの目には、旧都に住まう鬼以上の怪物が映っていた。
さとりは彼らの様子を確認し、振り返り、
「ここまで連れてきてくださって、ありがとうございました」
きちんと、頭を下げて礼を述べた。
場違いな仕草に、抵抗軍の者達はいよいよ言葉を失う。
「今なら脱出に間に合います。動ける人たちは、そうでない人を支えて。先導役は水橋さん、貴方が適任でしょう」
「あんたは……」
「結着をつけにいきます。どうやらここの鬼達は、私には相性のいい輩のようです」
あくまで遠距離からの射撃に徹されていれば、さとりもここまでの成果を挙げることはできなかっただろう。
強力な鬼の兵士を直接現場に向かわせたことが、向こうのあだとなった。
だが今後も上手くいくかどうかは分からない。もしこの光景を見ているものがいたとすれば、次は対策をしてくるかもしれない。
「では失礼します。急がないと、間に合わないかもしれませんから」
さとりは先を行こうとする。
その前に、「待って」と後ろから呼び止められた。
「これを持っていきなさい」
パルスィが矢筒から取り出したのは、白い羽根の矢だった。
軸は紅白に染められており、金の鈴がひとつ結んである。矢尻は露わにされていなかった。
「かぶせはまだ取らない方がいいわ。それは特注の破魔矢だから。傷から入った霊力で、全身が朽ち果てる」
「………………」
「相手が妖怪なら、どんな奴だろうとそれで滅ぼせると思う。覚りのあんたなら、その隙を作れるかもね」
「……お借りします」
さとりは慎重にそれを受け取る。
途端、目の前の橋姫の肩から、急に張りつめていたものが抜けたような気がした。
傷ついた、敗残者の表情を浮かべて、彼女は低い声で言う。
「私らを差し置いて、いいとこどりなんて、死ぬほど妬ましいわね」
「いいえ、貴方達の協力なしでは、私はここまで来られませんでした」
さとりは本心から、そう伝える。
「さもなければ、自分でオムツを換えないといけないところでしたし」
と、ここに来る前のジョークの仕返しも付け加えて。
生き残った皆の目が、点になった。
そして、爆笑が湧き起こった。
こんな場所で、こんな状況なのに、隊員達は傷にさわるのも構わず、大笑いした。
パルスィでさえ、吹き出すのをこらえきれず、肩を震わせていた。
沈んでいた空気に活気が戻る。そして、
「なら、これも持って行ってくれ。お守りだ」
「え?」
と言う間もなく、さとりは隊の一人から小さな鎖を押しつけられた。
「それは三十年前、表通りで奴らに殺られたダチのもんだ。今日まで俺を守ってくれた。俺とあいつの代わりに、勝利の瞬間に立ち会わせてやってくれ」
血走った双眸に、正面から真っ直ぐ見つめられる。
だがそこには、ここまでさとりに抱いていた嫌悪の念は見受けられない。
思わず呆然となる持ち主を置いてけぼりにして、第三の目が相対する妖怪の意志を吸収する。
さらに、別の仲間も名乗り出た。
「じゃあこれも頼めないか。今日まで共に戦ってきた刀だ。いくら覚りでも、得物の一つもなけりゃ心細いだろう」
「ならこの鎧はどうだ。モノはいいぜ。今、オレっちが生きてるのが何よりの証拠だ」
「い、いえ。そんなに持たされても困りますから」
「なんだ、オムツ代わりには大きすぎるってかい?」
再び粗野な笑いが弾ける。
さとりも微笑んではいたが、さすがに首が熱かった。
先の仕返しは、とても地霊殿の中では口にできない、品性に欠けた台詞だったので。
けれども後悔はなく、むしろ痛快な気分だった。
なんでもいいから、彼女達の流儀で誠意を見せたかったのだ。そうする価値のある相手だと思ったから。
さとりは気を失いかけている地獄鴉を一度見つめ、パルスィの方に視線を戻す。
「お空のことを頼みます」
「ええ、任せて。私らはそっちの成功を祈ってるわ」
手負いの橋姫は仲間を代表し、緑の火でたっぷり炙られた心の声を託してきた。
[こんなクソみたいな地底を創り出したやつに、一発ぶち込んでやってきてちょうだい]
12 T.T.E
昨日までどこよりも慣れ親しんでいた道を踏みしめ、さとりは一人丘を登る。
心細くはなかった。それどころか、気持ちは前にも増して逞しく、熱を帯びていた。
結局、破魔矢やお守りはともかく刀や鎧などのかさばるものについては丁重にお断りしたものの、それ以上の物を受け取ることができたから。
しかしながら一方で、奇妙な寂しさがあった。
元の世界に戻ったら、このささやかな――そして生まれてこのかた得たことのない繋がりも失せてしまう。
そのことを惜しむ自分がいた。
皮肉な話だ。
覚りだからこそ、山のごとき悪意に辟易とし、歩み寄ることを諦め、力で己の存在を示そうとしていた過去。
しかし今は覚りだからこそ、出会って間もない同志達の心を直接読み取り、士気も戦意も悲願も全て受けとって進むことができている。
こんな状況でもなければ、その可能性に気付くことはできなかった。
いやもしかしたら、こんな状況でなくとも、気付くことができたのだろうか。
さとりはかぶりを振って、過去に引きずられようとする自分を戒めた。
今はまだ、そのことを顧みる必要はない。やるべきことは一つ。
同志達の思いを背負い、この丘のてっぺんで待っている敵の首魁を倒すべく、前進することだ。
坂道を登り切り、ついにさとりは、敵の伏魔殿へとたどりついた。
そして開いた門の前で――呼吸するのも忘れて、立ち尽くした。
――そんな……どうして……。
かつて過ごした場所が、どれだけ変わり果てていようとも、決して動揺はしない。
さとりはあらかじめ、そう自分に言い聞かせていた。
朽ち果てていようと死体が転がっていようと、そしてもっとひどいことに、その上に悪趣味な建物が乗っかっていようと。
どんな光景が待ち受けていようと、自分を傷つけることはできないという一念でいた。
しかし、さとりの眼前には、そんな覚悟を嘲笑うような眺めが広がっていた。
キィ、と薄い鉄柵の門を押して、中に入る。
緑の蔦が絡まった白いアーチが、訪問者を出迎えた。
石で作られた歩道の周りを埋めているのは本物の土。ペット達が足を痛めないようにと、妹がそうしたのだった。
黄色と橙色、そして青い造花の花壇も、妹のアイディアだ。
さとりは造花の薔薇を限られた色で作ろうとしていたが、こいしはなるべく明るい雰囲気にしたい、とねだった。
わざわざ地下水をくみ上げる構造にして作った噴水は、結果的に雰囲気をよくするのに成功だった。
騒がしい旧都の中で、一番落ち着ける場所にしよう。その願いを実現させるために、姉妹のアイディアを折衷させたのだ。
「なんてこと……」
さとりは思わず呟いていた。
同じだ。
全くといっていいほど、自分がいた未来と……正確には七十六年前に過ごした地霊殿の庭と変わらない。
そして岩壁に建っている建物は、紛れもなく記憶からそのまま取り出してきたような、我が家だった。
訳がわからない。
この世界の地霊殿は持国の大火によって、灰燼に帰したという話だったはず。
なのにこうして、ほとんど完全な状態で残っている。
家主だったさとり自身であっても、ここまで完璧に復元することができるかどうか自信がない。
まるで過去にタイムスリップしたかのようだ。
唯一の違いは、住んでいるはずのペット達の気配が一切無いところだった。
いつもさとりが庭を歩けば、多くの命が心を読んでもらいにやってくる。
しかし今、周囲には動物の姿は一匹も、そして番兵の影も全く見当たらなかった。
見慣れた我が家なのに、薄気味悪く感じるのは、そのせいだろう。
さとりは第三の目で、地霊殿の中を探った。
レジスタンスの話では、この奥に旧都を救った『英雄』がいるという話だった。
確かに、屋敷の中心から心の声が聞こえてくる。
しかし、
――二人?
さとりは訝しんだ。
二人しかいない、というべきなのか。それとも、二人もいるということなのか。
さとりは玄関の戸に手をかけた。
直後、ものすごい地響きが起こり、何とか倒れるのをこらえた。
この音と気配。奥で戦闘が繰り広げられている。
それもこれは間違いなく、大妖怪クラスの妖気のぶつかり合いだ。
さとりは廊下を急いだ。
左右の石柱。二色のクロス柄の床に、等間隔ではめ込まれたステンドグラス。
どれもこれも以前と同じ。奥には一体何が待っているというのか。
さとりが中庭に到達した時、すでに戦いは終わっていた。
床に設置された特殊な金属の扉は、灼熱地獄跡への通り道。
そこに倒れていたのは、旧都で自分を助けてくれた、あの覆面の妖怪だった。
そして、
待ちかねましたよ 古明地さとり
女神のように美しい声が中庭に反響する。
内臓の温度が、一気に下がったような気がした。
あの黒谷ヤマメは、敵の親玉はかつての四天王などの、大物の鬼である可能性が高いと言っていた。
さとりもその意見を認め、同じ予想をしていたのだが……
「貴方は……?」
誰ですか、とは問いかけられなかった。
それほど、その化け物は異形だった。
マントで覆われた体には瘤のようなものがいくつか浮き出ており、枯れ枝のような細い腕が、首の付け根から伸びている。
面をつけた頭からは、鬼の角が乱雑に生えていて、不気味な冠を作っていた。
そしてその妖気は冗談じみた濃度を誇っており、中庭の空気の色と匂いを変えてしまっているほどだった。
相手の正体に、心当たりはない。
そもそも、何なのかさえ分からない。
怪物、化け物、それらの名詞を候補から除外しても、せいぜい悪夢の住人という呼び方しか思い浮かばなかった。
我こそは、究極の妖怪
さとりは眉をひそめる。
宣言の内容にではない。反響する声が、男のものに変わったことに、だ。
名前など無用 なぜなら俺は究極にして唯一の存在 真の鬼
今度は声が若くなる。少し、子供の声も重なっていたような気もした。
第三の目を相手にじっと向けていたさとりは、軽い眩暈を覚える。
外見もさることながら、相手の心はそれ以上の異形だ。
数多くのイメージが混雑しており、行き止まりだらけの迷路を作っている。まさしく混沌。
突如、極彩色の心が、一つの意志に収束した。
お前のことは 忘れはせぬ 古明地さとり
心象風景の中で草木が枯れ、河川が汚濁し、空からは灰色の雨が降ってくる。
常軌を逸した憎しみの念は、妖怪一匹が生み出すものでは到底届かぬ量に思えた。
「私と以前、お会いしたことが?」
さとりは後ずさりしたがる足を意思の力で押さえつけ、慎重に尋ねた。
お前から全てを奪った 心が壊れ 都の外で惨めに暮らす様を見て 愉しんでいた
「それは悪趣味なことで。覚りの私が言えたことではありませんが」
もう 十分に熟れた であろう
怪物がマントの内側から、緑の血管の這った青黒い腕を取り出した。
危険を訴え続けていた本能が、さらにもう一段階、警告のレベルを上げる。
わたくしの 手で 刈り取ってあげま しょう
「お断りします」
ギン、とさとりの第三の目が、最大出力の念を放った。
それは思念の弾丸となって、怪物のマントを貫き、奥にある心に突き刺さった。
弾かれたように、さとりは走り出し、パルスィから受け取った矢からかぶせを外す。
ほんの僅かな時間、動きを止めるだけでいい。
この距離なら矢をあの体に突き刺すのに、数秒で事足りる。
力を十分に奪ってから、その心を残らず暴かせてもらう。
しかし、
「なっ……!?」
さとりの渾身の一撃が、思念の壁に跳ね返された。
その余波で、走りだしていた身体まで、物理的な圧力によって元の位置まで押し戻された。
靴が砂埃を上げて急制動をかける。両腕を交差させて身を守ったさとりは、思わず目を見開いて相手を見つめた。
表情のない怪物は、何層にも重なった声で嘲笑う。
そんなものが 我に 通用する とでも?
さとりは応えず、もう一度思念を放つ。
威力はそのままに、速度と精度をさらに練りこむ。敵の思念の壁の僅かな穴を通る、毒針のごとき一撃だ。
だが攻撃の直後、怪物の全身から、今度は凄まじい怨念が噴出された。
桁違いの質量のヘドロのごとき波は、毒針を瞬く間に飲みこむだけで終わらず、こちらに迫ってくる。
咄嗟にさとりは第三の目を盾に使い、その怨念を受け流そうとした。
しかし、
――重い……!
再び、体ごと弾き飛ばされた。
中庭を転がったさとりは、気がつくと仰向けになっていた。
とどめは刺されていない。が、手に握りしめていた矢の感触が無くなっている。
首をねじって見れば、怪物の足下にそれは落ちていた。
痛恨の念を覚える。
しかし、それ以上に納得がいかなかった。
「どうして……」
どうして防がれた? 覚り妖怪の精神攻撃を、二度も弾き返された。
どれだけ強力な鬼であっても、この技に対抗することはできないと踏んでいたのに。
僕は 究極の妖怪 忘れたか 見せて やろう
怪物の腕が、己のマントにかかった。
歪な形の爪に、布が斜めに引き裂かれていき、奥の肉体を晒しだす。
その内側に現れたものを、理解した瞬間、
さとりは絶叫した。
ははははは はははははははは
異形の怪物は嗤った。地霊殿そのものを声帯に変えて。
その胸には、青い血管のような紐がからまった、拳大の『目』があった。
第三の目。誰の物かは、確かめるまでもない。
いいぞ! お前の怒りが 憎しみが 俺には 聞こえてくるわ!
重なり合った声が、泣き崩れるさとりに追い打ちをかける。
鬼の力と 覚りの力 二つを持った私に 敵う存在はない
ああ、そうだとも。どうして気が付かなかったのだろう。
戦闘力だけなら最強ともいえる鬼を、牽制できる存在、覚り。
だが、もし鬼が覚りの力を得れば、死角はなくなり、旧都を牛耳ることも訳はない。
あの鬼の兵士達が単純な心しか持ち合わせていなかったのは――すなわち、さとりにとってくみし易い衛兵だったのは、――覚り妖怪が思うままに操れるように仕込まれていたから。
突入部隊の動きが読まれていたのも、この怪物の『目』で見張られていたからだろう。
全て掌の上で踊らされていたのだ。
そして怪物は、古明地さとりの弱点を、正確に突いていた。
どんな物事にも冷徹に対処してきたさとりの、唯一の心のアキレス腱が、妹であるこいしの存在だった。
貴様を 殺すのは 止めだ まだこの地で 生き延びてもらわねば
さとりは不可視の衝撃を受けて、無様に転がされた。
覚り妖怪も例に漏れることなく、己の精神を拠り所にした存在である。
能力が通じず、心まで砕かれた今、かつて地底で最も恐れられた妖怪も、無力に等しかった。
強者が 弱者を食らう それこそが 鬼の理想郷である
また衝撃を受ける。致命傷にはなりえない程度の一撃。
ただ痛みと屈辱を与えるためだけの攻撃だ。
我らが 理想郷を眺めながら 生き恥を 晒し続けるがいい
混濁した嗤い声が、再び大気を震わせる。
さとりは地面に倒れ伏したまま、怪物の勝利宣言を聞いていた。
そして、
「あの旧都が……貴方の理想ですか」
頬の端をひきつらせた。
顔を伏せたまま、おもむろに身を起こす。
「実にくだらない。教えてあげます。あれは鬼の理想などではない。覚り妖怪が、かつて夢想した理想郷。そして貴方は」
立ち上がったさとりは、乾いた声で告げた。
「究極の妖怪を自称している、哀れな道化です」
また衝撃が飛んでくる。
再びさとりはそれをまともに食らう。全身を打つ痛みに、意識が肉体から飛び出しかける。
だが、腰を落として、さとりは踏ん張った。ぼろきれのような体を揺らしながら、傷だらけの手で相手を指す。
「貴方は……憎んだはずの覚り妖怪の住む地霊殿を燃やし、どうしてまたその上に、同じものを建てたのですか?」
もう一度衝撃波を生もうとしていた怪物の動きが、ぴたりと止まった。
さとりは独り言のように続ける。
「へぇ……灼熱地獄を安定させるのに、都合のいい設計だったから、また同じものを建てた、というのですか」
胸に構えられた第三の目が、赤い輝きを放っていた。
妖怪にとってのあらゆる壁を浸透する光が、混沌とした怪物の内面を浮き彫りにする。
「合理化して己を納得させようとしているだけですね。真実は違う。その目に宿る記憶にとらわれ、心が対抗できなかったから」
すなわち、第三の目に宿る、古明地こいしの記憶を安定させようとするため。
この旧都の主は、一度燃やした地霊殿を、全く同じ形で作り出すほかなかったのだ。
さらに、さとりは相手に詰め寄る。
「旧都の中央街に住む鬼を、いくつ食らいました?」
本来、妖怪にとっての獲物は、心を持つ人間である。
しかし、妖怪が妖怪を食らって力をつけるという邪法は、古来よりあった。
閉じた世界となった幻想郷では禁じられているものの、この地底ではそうした行為が、裏で行われていた。
だが、妖怪を食らうという行いには、良いことよりも悪いことの方が付きまとう。
肉体よりも精神に依存した存在である妖怪は、他者を食えば食うほど、本来の自分が見えなくなっていく。
限界を過ぎれば、全く別の存在となり、制御することができずに破滅する未来が待っているのだ。
そして、第三の目を持っている場合、それは尚のこと悪い方向に働く。
この目は妖怪にとって、究極の消化器官だ。相手の心の余分な毒素まで含めて、全て吸収してしまう。
そして、その器官自体のキャパシティが尋常ではないため、いくらでも食べられるように錯覚してしまう。
狂い、我を見失い、暴走しながらも死ぬことができず、無様に生き続けることしかできぬ、怪物となってしまう。
それこそが、今さとりの目の前にいる者の正体だった。
「一方で、覚りの力を得た王は、周りから疑念を抱かれ、信用を失っていく。そして当人は、心が読めるだけに、周囲の悪意の芽を見逃せず、心のあるものを食らいつくし、心のない兵を側に置きたがるようになる。貴方は己が望んだ、鬼の理想郷を作っているつもりで……覚り妖怪にとっての初歩のジレンマにぶつかり、そして敗北した」
今度の一撃は、効いた。
さとりの身体は壁に激突し、花壇の中に倒れ、動かせなくなった。
「……食べる前に知っておくべきでしたね。第三の目は、妖怪を支配する万能の道具などではない」
それでも、言ってやらねば気が済まない。この地底一の哀れな愚か者に。
「神々より、覚り妖怪に押し付けられた、最悪の呪いなのですよ」
黙レェ!!
怪物の暴走した力が、マントを突き破って表出する。
鬼の妖力に裏打ちされた、覚り妖怪の思念の爪牙が、一瞬にして迫ってきた。
殺気が全身を包み込む。
しかし、さとりは死を覚悟していなかった。
その目はこの場にいる、もう一人の妖怪の動きを注意深く追っていた。
そして、
耳をつんざく悲鳴が、中庭にこだました。
怪物の体を、『矢』が貫いていた。
大量に食らい、その中に宿していた魂達が、次々に消滅していく。
貴様 貴様 死にぞこないが
「はん……死んだなんて一言も口にしてない。……私は嘘が大嫌いだからな」
虫の息だったはずの覆面の妖怪。
しかしその妖怪は、さとりが怪物と対峙している際に、秘かに交信を持ちかけてきたのだった。
さとりはそれを表に現さないよう、そして相手がその『目』で気付いてしまわぬよう、慎重に誘導し、ついに逆襲の一手にたどりついたのである。
そして、謎の妖怪の正体についても、さとりはすでに確信していた。
「やはり、貴方だったのですね……」
あの赤い一本角が折れ、頬に鋭い傷が残っているものの、彼女の風貌は紛れもなく、
「星熊……勇儀」
かつての旧都の頂点に立っていた、鬼の中の鬼だった。
さとりにとっての好敵手であり、同志でもあった存在だ。
勇儀は傷だらけの笑みを浮かべた。
再会を懐かしんでいるようにも見えたし、今の一撃に満足しているようにも見える。
おそらくは痩せ我慢も混じってはいるのだろうが、それでも劣勢の中で掴んだ、会心の一手ではあったのだろう。
しかし、あの特別性の破魔矢であっても、怪物を殺し切るには足りないようだった。
旧都の鬼の力の大半が、あの怪物に吸収されているのなら、確かに根絶するのはたやすいことではない。
苦悶の声を上げた怪物の一撃が、彼女を吹き飛ばす。
勇儀の体は、同じく倒れているさとりの、すぐ側に転がった。
彼女もすでに、限界だったのだ。
貴様の角は 七十六年前に 折った なぜ今さら 舞い戻った
「さてね……なぜか私は負けた覚えがないし、納得もしていないんだなこれが……」
かつての四天王は、呻きながら立ち上がる。
さとりも勇儀も、どちらも力が残されていない。
そして相手は鬼の戦闘力と、覚りの能力を得た怪物。強さだけなら、確かに究極といえるかもしれない存在だ。
二人の命は風前の灯だった。
なのに、勇儀の表情はなぜか、活き活きとしていた。
「ただ、こいつの話を聞いて、やっと目が覚めた。鬼の理想郷。私はそれを『知って』いる」
その名にふさわしい勇猛な笑みを浮かべ、彼女は信じられない事実を語る。
「ここではない、別の世界にある、仲間達と築き上げた、あの混沌の王国を、私は確かに知っている」
聞いていたさとりは、自然と目を見開いて、その言葉に耳を傾けていた。
「まさか……」
「ようやく思い出せたよ、古明地さとり。地霊殿にはご無沙汰していたな」
呆然となるさとりに、鬼は小さくうなずいて、傷だらけの顔に豪胆な笑みを浮かべた。
「こんな未来、私らが知ってる地底じゃない。取り戻そう。私達の地底を」
その台詞が、さとりの心にガツンと響いた。
この鬼は……星熊勇儀だ。さとりが知っている、元の世界にいた鬼の四天王だ!
彼女もさとりと同じく、並行世界に飛んできたのか?
いや、そうではない。もっと妥当な説について、さとりは思い当たった。
単純に、ここはパラレルワールドではなく、そんなものは最初から存在していなかったのではないか。
――重ね合わせ……。
昨日博物館で妹と学んだ、その性質をさとりは思い出していた。
すなわち自分達は、過去から伸びる無数に枝分かれした世界の一つに立っているのではなく、それらは全て重なっていて、観測者によって決定されているのだとしたら。
この世界の存在を救う術も、本当の歴史を取り戻すという目的も、すべて一つに集約できるのでは……。
そう考えた瞬間、さとりの中でずっと分かれていたいくつもの世界が、ついに重なった。
かつての旧都の意志。
その大きなうねりの中に呑みこまれ、次の瞬間、その先頭に躍り出る。
動きを止めていた怪物から再び、戦意が噴出した。
己の体に突き刺さった破魔矢を引き抜き、怒りの声を上げる。
死にぞこない 共が 塵となれ!
恐るべき妖気の波動が、怪物の腕から発された。
これまでのような生殺しを味わわせるためのものではなく、本気で滅ぼそうとする一撃だ。
中庭の空気を一瞬にして左右に押し除け、おびただしい数の毒牙を剥き出しにして接近してくる。
さすがのさとりも、凝縮した時間の中で、己の死のイメージを受け入れそうになった。
だが、そんな弱気に陥りかけた自分を、『別の心』が突き飛ばした。
両膝に力が戻ったさとりは、中腰で動けぬ勇儀を抱えこみ、ギリギリで回避する。
そのまま反転して距離を取り、油断なく相手を見据えた。
怪物の声に、わずかな動揺が混ざる。
なぜだ 貴様はもう動けぬ はず
驚いているのは、勇儀も同じようだった。
そもそもまともに動けそうな状態に見えなかったということに加え、今のさとりの身のこなしは、戦闘の素人とは思えぬ洗練されたものだったからだ。
しかも、さとりは顔立ちはそのままに、表情を研ぎたての曲刀の如く尖らせ、
「そんな雑な攻撃当たるわけないでしょ。せっかくの馬鹿力が持ち腐れだわ。『妬ましい』」
と吐き捨てたのだった。
勇儀が瞠目して呟く。
「お前……」
さとりは我に返り、側にいる鬼と変わらぬ表情で驚いた。
だがすぐに、今自分の身に起こった出来事について理解する。
理解した瞬間、内から湧き起るエネルギーが、表情となって表れた。
どうしてまだ、自分が戦えているのか。
「私の心だけなら、とうに滅びていたでしょうね」
ひとりであれば、妹の第三の目を見たあの時に、心は再起不能なまでにダメージを負い、気力はとうに使い果たしていただろう。
だが今、さとりの心はさとりだけのものではない。
短い時間ここまで共に歩んできた仲間達、成功を祈ってアジトで待っている同志達、地霊殿で一人無事を祈っているペット。
それらの心を全て預かっている。そして預かるだけではなく、受け入れたからこそ、今も生きている。
この世界に飛ぶ以前は考えもしなかった、そしておそらくは覚り妖怪として初めて手に入れた、古明地さとりに備わった新たな力だった。
とはいえ、
死にぞこない めが 貴様らは どうしようと 我が輩には勝てぬ そのなりで 何ができる
憤怒する怪物が、再び力を溜め始める。
その通り。できることなど僅かしかない。
勇儀は立っているのがやっとの様子だし、さとりの今の状態では、せいぜい時間稼ぎしかできない。
だが、その時間を稼ぐということが、この戦いでは何よりも重要なのだ。
相手は気づいていない。さとりだけが知っていた。
このリレーのアンカーは、自分ではないことを。
「今の私の役目は、できる限り生き延び、時を稼ぐこと。貴方を詰ませるのは、私ではなく、もう一人の覚り妖怪」
そしてその覚り妖怪は、この怪物も絶対に手の届くことのない場所にいるのだ。
なんだ それは?
さとりが握りしめている、黒い石の表面が輝いているのを見て、怪物は狼狽の声を上げた。
13 Blaze
さとりが地霊殿に乗り込む、数時間前のこと。
レジスタンスと手を組むことになったさとりは、旧都の中央街へ向かう準備をする前に、一度こいしに連絡をしておくことにした。
旧都が支配層をひっくるめて全て変わってしまっていて、それを引き起こした謎の妖怪の正体を探る必要があるということ。
そのために、今から旧都の内部に潜入するということも。
話を聞いたこいしは、さとりの身を案じつつも、存外素直にそうすることに同意してくれた。
ところが、
[それじゃあ姉さん。犯人がわかったら教えてね。その後は、私が何とかするわ]
「は?」
交信を再び切ろうとしていたさとりは、妹の発言にぽかんとなった。
「どういう意味ですか、こいし。『私が何とかする』とは」
[姉さんがそっちの世界で犯人の正体を暴いたら、私がこっちの世界で、その犯人が火事を起こす前に捕まえる]
「なんですって!?」
妹の発言に、さとりは飛び上がった。
「ダメです! そんなことは許せません!」
相手は間違いなく、危険な思想を持ち、手段を選ばない悪辣な妖怪だ。
そうでなくても、心を読むのが不得手な覚り妖怪でしかない妹を前にして、「はいわかりました。放火は止めます。ごめんなさい」と素直に聞き入れてくれるわけがない。そもそも、そんな善良な妖怪であれば地底に封じられるはずがない。
貴方はネギを背負った鴨になりたいのですか、飛んで火にいる夏の虫という言葉を知っていますか、などと叱りつけながら、さとりは、あの手この手で止めようとした。
が、こいしの意見は、憎たらしいほど筋が通っていた。
[だって、未来の姉さんが何かしたって、私が死んじゃった事実は変えられないんじゃない? それに、今ここにいる私が何かしないと、姉さんは元にいた世界には帰れないと思うし]
「そ、それは……」
確かに、冷静に考えてみると、未来にいるさとりができることといえば、せいぜい結果を観測し、整理するくらいだ。
実際に起きた出来事を変えるには、過去にいるこいしが具体的な行動を起こすしかない。
しかし、妹を危険の核心に近付けるのは、どうしても抵抗があった。
[私、今まで姉さんの期待をずっと裏切ってきたわ]
突然の告白に、さとりは沈黙した。
[誰かの心も読めない臆病者で……心配かけてばかりで……こんな自分がずっと嫌いで……ずっと変わりたかった。姉さんみたいに、強くなりたかった。恩返しがしたかった]
「………………」
[でももしかしたら、今度こそ姉さんの役に立てるかもしれない。ううん。私が役に立たなくちゃ、姉さんは元の未来に戻れない。そうでしょ? だったら、私はどんな危ないことでも、全力でやるよ]
「こいし……」
自分の知らない妹の一面を、ここにきて見つけた気がした。
手を引かれるだけだったあの小さな覚り妖怪が、いつの間にこんなことを言えるようになっていたのだろう。
結局、さとりは折れた。
「そうね……心苦しいけど、それしか方法は無いみたいだわ。けど、こいし。その代わり、私の指示には従ってもらいます。連絡を待って、くれぐれも一人で勝手な行動を取ろうとしないこと。いいですね」
[うん。でも姉さん。なるべく早く知らせてね? 火事で焼け死んじゃうなんて、私嫌だもの]
「絶対にそんなことにはなりません」
口にすることで、さとりは決意を固める。
「必ずバトンを渡しに行きます。それまで信じて、待っていてください」
◆◇◆
「来た!」
姉の連絡を待っていた古明地こいしは、思わず歓声をあげた。
場所は地霊殿ではない。旧都の中央街では唯一といっていい繁華街の中の、目立たない裏路地である。
すなわち、第三の火災が起きるとあらかじめ伝えられていた場所の近くだ。
こいしの役目は、間もなく現れるであろう犯人の情報を受け取った後、その現場を押さえることだった。
石を通じて、たった一つの情報が送られてくる。
七十六年後のさとりが、怪物と対峙しつつ、その心から秘かに抜き取った情報だ。
それは怪物に変貌する以前の核となった妖怪、持国の大火を起こした犯人の心が持つ波長だった。
まさに、覚り妖怪の中でも、古明地さとりにしかできない業といっていい。
相手は第三の目を持ってはいても、それを鍛え、洗練させることを怠っていたが故に、自らが侵入されていることに気付かなかったのだ。
しかし、こいしが受け取ったのは、犯人に関する情報だけではなかった。
血まみれになって、死の淵まで追い詰められている姉のイメージまで付随してきたのだ。
「姉さん……!」
それを見た瞬間、こいしはあまりの衝撃に思考が麻痺してしまった。
だがそれは一瞬のことで、すぐに怒りが湧き起こった。
許してはならない。ペットをひどい目に遭わせて、私を殺して、姉を傷つけた。
一人の覚り妖怪として、必ずや裁きを下さなくてはならない。
現在、十二時四十九分五十一秒。火事が起こるまで、時間はあと五分程度しかない。
しかし火元となった建物のある場所は、ここからは目と鼻の先だ。
こいしは表通りに飛び出し、旧地獄街道を急いだ。
コートの中に忍ばせた第三の目に、すれ違う者達の心の声が伝わってくる。
今夜飲みに行く店や夕飯の算段、逢引の待ち合わせ場所など。仇討ちの準備等の物騒なイメージも届く。
だが、こいしはそれらの妖怪の具体的な思考まで『視て』はいなかった。
波長が特定できている以上、わざわざ深く覗きこまなくても、目に入った瞬間一発でそれとわかるはずだからだ。
――どこにいるの!?
まだ犯人の姿は見当たらない
このままだと現場に着いてしまう。
そして、行く手にまさに煙が立ち込めているのを見て、こいしは青ざめた。
遅かった! もう火事は起こっている。
幾ばくも走らぬうちに、通りをこちらに向かって逃げてくる群衆が目に入った。
繁華街にいた妖怪達だろう。どら声をあげて先を争うように、というよりも前を行く背中を踏みつけるようにして急いでいる。
火竜の印に封じられた炎は、普通の火ではない。
その本源は、この旧都を築く前の空間に残っていた灼熱地獄の炎であり、巻き込まれればあっという間に焼き滅ぼされる。
鬼であっても装備がなければ、ああして逃げるしかない。
通りの端に避難したこいしは、群衆の心を第三の目を使って、大まかにスキャンしていく。
ダメだ! やっぱりいない!
迷った末、こいしは飛んだり駆けたりとパニックになってやってくる集団を避けながら、通りを走り抜けることにした。
途中で一人の妖怪と激突しそうになり、慌てて転倒寸前になりながらかわす。
「おいお前! どこに行くんだ! そっちは危険だ! あの火が見えんのか!」
「ごめんなさい! 姉の命が危ないんです!」
七十六年後の姉さんだけど、と付け加えながらも、こいしは現場を目指して急いだ。
だんだんと、煙が目に染みてくるほど濃くなってくる。気温もとっくに体温を超えていた。
こいしはハンカチで口元を覆って、身を低くしながら移動していたが、突然の轟音に足を止めた。
迫りくる熱波の中で、信じられない光景を目撃する。
炎の龍が建物の一つに巻きついたと思った途端、倒壊させてしまったのだ。
なんて火勢だろう。ただ油を撒いただけでは、絶対にああはならない。やはり、火竜の印を用いた犯行に違いない。
もう犯人は逃げたのか? いや、きっとまだ近くにいるはずだ。
ああ、もうじれったい。
こいしは意を決して、コートを脱ぎ捨てた。
第三の目の力をフル稼働させて、標的の姿を探す。
――いた……!
なんと、真向かいの三階建ての石でできた建物に、犯人の波長がくっきりと映っていた。
火事が起こる様子を観察しているのだろうか。なんて悠長な。
こいしは咳き込みながら、火の粉を振り払い、地面を蹴った。
息を止めて、宙に浮きあがる。
それから石の壁に穴を開けただけの、簡素な窓に狙いを定め、一気に飛び込んだ。
「見つけたわよ! 観念しなさい!」
部屋に入るなり、こいしは相手の姿を確認する前に叱りつけた。
「貴方のたくらみは、もう全部知ってるわ! これ以上罪を重ねる前に大人しく……!」
部屋の奥にいた影が、こちらを向き、表情を強張らせる。
犯人は予想していたよりも細身で、少女といってもいい若い姿だった。
髪は長めのアッシュブロンド。そして、頭頂部から猫の耳が二つ飛び出している。
瞳の色はグリーン……ん?
「マリー?」
詰め寄る足を止め、こいしはその名を口にする。
地霊殿において、最も親しいペットは、突然現れた主人を前に瞠目し、硬直していた。
「どうしてここにいるの? 地霊殿で皆と避難の準備をしてるはずじゃ……」
言いかけた瞬間、こいしの視界の外で、敵意が膨れ上がった。
咄嗟に横に転がるようにして避ける。
床の一部が砕ける音がした。
振り向くと、そこに屈強な体躯の鬼がごつい鉄棒を手にして、凄い形相で立っていた。
こいしは恐怖する。
この鬼が犯人だ。容姿は全然変わってはいるが、心の波長を見れば一目瞭然。
けど、こいしの記憶によれば、目の前の鬼が着ているのは、旧都を警備する見廻り組のものだ。
本来、治安を守る側であるはずの者が、なぜ。
状況に理解が追いつかぬ内に、鬼は再び、鉄棒を振り上げて襲い掛かってくる。
こいしは慌てて体を引き、とりあえず自分の持っている第三の目で脅そうとするが、
「待って!」
鬼の動きがピタリと止まった。
彼を制止したのは、マリーだった。
「大丈夫よ。私が説得するから。計画に支障はないわ」
鬼は無言で、構えていた武器をゆっくりと下ろす。
こいしは唖然となった。
この放火犯は、マリーと知り合いらしい。
しかもこの状況を見る限り、もっとも自然な解釈といえば、
「どういうこと、マリー……?」
こいしは震える声で尋ねる。
「貴方が、火事を起こしてたの?」
そう聴きつつも、そうに違いない、とこいしは確信してしまっていた。
状況証拠だけではなく、他にも多くの心当たりがある。
しかし、主人であるこいしに黙って、彼女が火災を起こしていたというのは、認めることはできても、受け入れ難い事実だった。
「こいし様。訳を説明させてください」
己の傷口をさらすような辛い表情を浮かべて、マリーは口を開いた。
「元より、此度の火災で、一人の被害も出すつもりはございません。あの火勢は所詮こけおどし。妖怪であれば逃げおおせる程度の火でしかありません故。私もことが済み次第、自首するつもりでした」
「………………」
嘘は吐いていない、はずだ。
マリーが自分に嘘をつくはずがない。こいしは今も、そう信じている。
それに覚りの能力を使えば、どんな嘘もすぐに暴かれるということも、彼女は知っている。
だからこそ、続けて彼女が明かした秘密に、こいしは凍りついた。
「もし鬼の住む街を標的とした火事が起こり、それがさとり様のペットの仕業だと判明すれば、あの方はもう灼熱地獄跡の管理を任されることはないでしょう。地霊殿は別の者達に受け継がれ、我々は旧都を去ることになります」
「そんな……じゃあ……」
「ええ。そうなのです。我々の目的は……」
彼女は息を深く吸い込み、告白する。
「古明地さとり、貴方様の姉君の失脚でございます」
足場が突然消え失せたような気がした。
一方、相対するマリーは毅然とした態度で続ける。
「たまたま、こちらの鬼と知り合い、互いの利害が一致したことで、協力してもらうことになりました。旧都警備の責任者の一人である鬼の協力があれば、余計な被害を生まず、発覚することなく任務を遂行できるでしょうから」
「待って! どうしてマリーがそんなことをするの!?」
我に返ったこいしは、眦を吊り上げて問い質す。
いくら一番可愛がっているペットとはいえ、それは決して許せない話だった。
「マリーも知ってるでしょ!? 姉さんは旧都のために、それと私達家族みんながこの街に住めるように、毎日頑張ってきたのよ! 忘れちゃったの!?」
「いいえ、それは違います、こいし様」
マリーは言下に否定する。
「さとり様が今のお仕事に力を尽くしてらっしゃるのは、旧都のためではございません。ご自身の復讐のためです」
復讐、という言葉に、こいしの突き出していた角が抑えつけられた。
「こいし様。地霊殿に住む我々ペットに対する、さとり様の深いご愛情に、私は疑いを抱いてはございません。妹君である貴方様への想いはそれ以上であり、並々ならぬものだと感じております。無理もありませんわ。この地底でたった二人の、覚り妖怪なのですから。それが今、こいし様がお心に浮かべておられるさとり様でございましょう」
「………うん」
「けれども……さとり様には、もう一つのお顔があります。覚り妖怪としての、復讐者としてのお顔が」
追い詰められる立場が入れ替わった。
しかもペットの隠し持っていた剣は、より相手の喉元に迫っている。
「古明地さとり。覚り妖怪であるあの方が『さとり』の名を受け継いだその意味はご存知でしょう。覚り妖怪の長は、一族の心を次代に受け継ぎ、伝えていく使命がございます。しかし、当代のさとり様が受け継ぐまでに、覚り妖怪は人間にも妖怪にも忌み嫌われ、淘汰されてきました。その恨みと憎しみを受け継いださとり様にとっての悲願は、覚り妖怪の復権。そして地霊殿は、その第一歩でございました」
「でも……地霊殿の仕事は、閻魔様から言い渡されたものだって……」
「それにも理由があるのです」
地霊殿の古株であるペットは、灼熱地獄跡の管理者を取り巻く事情を隅々まで知っていた。
「閻魔様は、旧都の鬼が力を得てさらに棲み処を拡張し、他の勢力との摩擦が起こることを懸念しておりました。よって、鬼に対抗出来うる者に、旧都における最も重要な役職を与え、互いに牽制させてバランスを取ろうとお考えになったのでございます。鬼の軍団がもし事を起こそうと蜂起すれば、少なくとも力でそれに対抗できる存在はいない。いつ暴走するか分からない地底に、確かな蓋をすることができる種族がいるとすれば……」
それは一つ。
皆まで言わずとも、こいしも容易にその答えにたどり着くことができた。
鬼の――いや、ありとあらゆる妖怪にとっての天敵。
地底に封じられることを、どの妖怪よりも望まれていた者達。
自分と、そしてもう一人。
「無論、心の読めるさとり様は、閻魔様のお考えも承知済みでした。そして敢えてその策に乗り、鬼に対抗し得る権力を授かったのです。もっとも、残念なことにさとり様の中の復讐心は、その程度に甘んじることで解消されるものではございません。彼女は将来的には完全に旧都における権力を掌握し、支配しようという考えをお持ちです」
淡々と語るペットに、こいしは揺れ動く己の心情を持て余していた。
妹であれば擁護すべきなのに、否定することができない。
こいしはさとりの性格を知っている。そして、気づいてもいる。
彼女の心の底に、他の妖怪に対するとてつもない憎悪と軽蔑が宿っているということを。
そしてそれが彼女だけのものではなく、覚り妖怪の歴史そのものであるということを。
さらにそれが、妹である自分の代わりに一人で背負いこんでしまった呪いだということを。
『第三の目』を持ちながら、最も近しい存在であったはずの姉の心を無視してきたのだという事実は、こいしにとって恥ずべき負い目だった。
「でも……」
まだわからない。
こいしは、ペットの計画の核心に触れようと試みる。
「どうしてマリーがそれに反対するの? 確かに、やりすぎだとは思うわ。でも姉さんが偉くなれば……普通に考えれば、貴方ももっと暮らしやすくなるかもしれないでしょ?」
マリーだけではない。
地霊殿にいるペット達は、主人のさとりの地位が向上することに、いずれも諸手を挙げて賛成するだろう。
日頃から旧都の妖怪達に軽んじられていることに、不満を覚えている者は大勢いるし、彼らはどれも元々、都の栄えた場所から爪弾きにされたあぶれ者ばかりなのだから。
さとりが都を手中に収めれば、その立場の差をひっくり返すことができるのだ。
しかし、対峙するペットは、鋭い目つきになって言った。
「では逆に、お訊ねします。それはこいし様。『貴方の望み』ですか?」
今度こそ、トラウマともいえる己の急所を突かれ、こいしは金縛りにあった。
体内の時計の針を取り上げられたかのように、呼吸が止まり、指一本動かせなくなる。
そんな主人を心底憐れむような眼差しで、マリーは続ける。
「こいし様……貴方はさとり様よりもずっと穏やかな心をお持ちです。他の妖怪に対する憎しみや恨みなど持たず、争いごとも好まない。そして何よりも、姉君であるさとり様をはじめとして、私のようなペット達も含めた、身近な者の幸せを願っている。ただひたすらに、いたいけに、健気に。……なのに!」
窓から見える炎が、急激に勢いを増した。
赤い蛇の群れが呻きながら食らい合うかのようなその光景は、かつての地獄をそのまま召喚したかのようだった。
そしてその表現は、ある意味で正確なはずだった。
なぜならこの炎は、こいしの従者兼ペットとなる以前、地霊殿における灼熱地獄跡の初代管理人をしていた妖猫が操っているのだから。
『熱を操る力』。
地霊殿の中庭にて、数時間ごとに起きる噴火の兆候を察知し、そのエネルギーを上手に逃がしてやるのが、かつてのマリーの仕事だった。
元々火竜の印とは、この旧都を建造する前の空間に残っていた灼熱地獄の炎を、一つの巻物に封印したものだ。
術者をも滅ぼしかねないその神器を制御できたのは、灼熱地獄に慣れ親しんだ、彼女の能力があってこそだろう。
ほとんどの時間を一人で過ごさなくてはならない、忙しくないものの根気のいるその作業をしていた彼女に、当時から引き籠りがちだったこいしが、話し相手となってあげたことがきっかけで、二人は仲良くなった。
そしてマリーの後継者ができてから、姉の許しを得て、仕事をこいしのメイド役に代えてもらい、いつしか誰よりも一緒の時間を過ごすようになっていた。
しかし、こんなにも激昂するマリーの姿を、こいしは今日まで知らなかった。
「さとり様は貴方の考えを理解しようともなさらない。強くあれ、とこいし様に願うだけで、耳を貸そうともしない。こいし様は、さとり様を含めた家族で過ごす時間以上のものを求めていないというのに、己の復讐のことしか頭にない」
「………………」
「さとり様を説得することは、どんな妖怪であっても不可能でございます。彼女は鬼を始めとした地底の妖怪達から、完全な勝利を得ない限り、このゲームを止めようとはしないでしょう。ならば、さとり様からその椅子を取り上げるしかない」
マリーは熱に浮かされた口調で、粛然と続ける。
「先程申し上げた通り、時がくれば私は、自ら出頭する覚悟です。これ以上、苦しみ続けるこいし様を見ることに耐えられません」
「違う……」
「いいえ! 違いませんわ! 私はこいし様、貴方の幸せのために、地獄に身を投じる覚悟でございます!」
「違う!!」
こいしは絶叫した。
ぽろぽろと、涙をこぼしながら。
「もうやめて、マリー。それは貴方の願いじゃない」
マリーの『意識』は気づいていない。
彼女はそんな子ではなかった。いつだって物静かで、優しくて、争いを好まない、穏やかな性格をしていた。
だからこそ、姉の覚り妖怪に信頼され、妹の覚り妖怪に愛される、地霊殿の中でも特別なペットだったのだ。
彼女の意識は、本来の自分を見失っている。
そうでなければ、どんな理由があったとしても、こんな大それた事件を起こせるはずがない。
今の彼女はただ、己の『無意識』が命じた無理難題に、盲目的に従っているのだ。
そして、その無意識を操っていたのは……。
――私だ……。
こいしは殴りつけた。
自分の心の底に隠れた、恥ずべき己の無意識を。
――全部……私が願ったこと……。
14 Id
この地底にやって来る以前から、こいしは姉のさとりから、他者の恐怖を食せ、と命じられてきた。
それこそが覚り妖怪の生き方であり、宿業なのだ、と。
恐れられることは恵みである。憎まれることは誉れである。私達の能力の価値は恐れられ、憎まれることにある。
心を読むという武器があるからこそ、長きにわたる苦難に耐え、生き延びてきたのだ。
その末裔である自分たちは、覚り妖怪に相応しい振る舞いを心掛け、宿業を背負って闘い続けなければいけない。
だがこいしは、その宿業を受け入れることを長らく拒んできた。
心なんて読めなくてもいい、旧都にだって住めなくていい。
ただ普通の妖怪として、姉と……そしてペット達と過ごすだけで、満ち足りる。
どうしてそれ以上を求めるのか。復讐しても父や母が……覚り妖怪の皆が生き返るわけでもないのに。
そんな秘めた心を、こいしはさとりに明かしたことがある。
自分の気持ちを恐る恐る、クレープの皮に包むようにして、それとなく伝えてみた。
その時、第三の目に映った姉の姿は、こいしの心に消えない火傷を残した。
以来、こいしは姉のやることに口を出すことができなくなった。
恐かったのだ。姉の逆鱗に触れ、嫌われてしまうことが。
こいしにとって、己を嫌うさとりの心を読むことほどの地獄はこの世に存在しなかった。
そうした心情を、こいしは今まで誰にも吐露したことはなかった。
ほんの七日前のあの晩、夜空に伝えたことを除けば。
屋上で一人で泣いている時、空に祈った。
七十六年に一度やってきて、妖怪の願いを叶えてくれる星。
そのことを聞いて、地霊殿の屋上へと向かい、本物の星の見えぬ寂しい夜空を見上げて祈った。
何千キロも離れた場所を旅する、孤独で気高い星。
それを心に思い浮かべながら呟いた。
誰にも話せない、自分のことがますます嫌いになりそうな願い事。
私の気持ちを理解してくれる……そうでなくても、もっと耳を傾けてくれる姉さんがほしい、と。
すぐに自己嫌悪に陥ったこいしは、その心をしまい直し、綺麗さっぱり忘れてしまおうとした。
次の日、屋上には一かけらの石が落ちていた。
こいしが、それがほうき星からのプレゼントだと理解したのは、七十六年後の姉と交信できたことに気づいてから、つまり昨日のことだ。
そう。だからマリーが知るはずがない。
今まで心の中に隠してきた秘密を知っているのは、こいしだけのはずだった。
無意識を操る能力。
七十六年後の姉から、その力について伝えられた時、こいしにはそれがどんなものか見当もつかなかった。
無意識というものがどういうものかさえも、ろくに理解が及ばなかった。
きっと自分が第三の目を閉じてしまうようなことになった際に、その力を知ることになるのだろうと、漠然と考えていた。
でも違ったのだ。
すでに自分は、無意識を操っていた。
自覚のない己の欲求に従い、自覚なく他者の心を動かそうとしていた。
自我で無理矢理蓋してきた己の中の無意識を、マリーのそれに我知らず投影させてしまっていたのだ。
とてつもなく邪で、危険で、子供っぽい力。
その力が、姉を今、窮地に追い込んでいる。
冤罪などではない。全て、己が招いたことだったのだ。
「こいし様……?」
困惑するマリーの前で、こいしは袖で乱暴に顔をこすり、涙をぬぐった。
これ以上情けない姿を、ペットに見せているわけにはいかない。
「マリー。貴方の言いたいことはわかった。今度は私の話を聞いてほしい」
ジッと、血気にはやっていた妖獣を見つめ返す。
「こんな大げさなことする必要なんてない。私がちゃんと姉さんに伝える。貴方の気持ちも、ペット達の気持ちも、私の気持ちも全部伝える。復讐なんて必要ないって。みんなで過ごすだけで、私達は十分幸せだって」
姉の背負っている業の重さを想えば、確約することはできない。
それでも、古明地さとりに挑戦し、その心を変えられるのは、妹であり、覚り妖怪である自分以外にいないはずだ。
今まで逃避してきたものと向き合い、負うべき責任を負うことを誓う。
「私はきっと変わってみせるよ。だからもう、無理をしないで。こんなこと、貴方には似合わないから」
呆然とたたずむマリーの心の映像が、こいしの『目』に映る。
たくさんの心象風景が、そこを流れていく。その中には、地霊殿の家族の絵があった。
覚り妖怪は心の窓から、意識の歴史を読む。
これまでマリーがどんな思いでいたか、どれほどの覚悟があったかを、こいしは汲み取った。
無意識に翻弄されて、乱れ、傷だらけになってしまっていた心に包帯を巻いていくイメージで治療していく。
心をなだめ、制御不能となっている感情を緩やかに。覚り妖怪だからこそできる処方を。
そこに、黒い影が混じった。
鈍い音が響き、こいしはハッとなる。
両の瞳に、眼前に立つ猫が、力なく倒れていく姿が映った。
「マリー!?」
こいしは悲鳴を上げる。
マリーの背後に、六角棒を手にした鬼が立っていた。
「そっちの話は済んだようだったからな。今度は俺と話そうか、覚り妖怪さんよ」
こいしは信じられない思いで、鬼を見つめた。
「マリーは貴方の仲間じゃなかったの……?」
「たまたま利害が一致しただけだ。欲しいものが手に入り次第、こいつはいずれ『食う』つもりだった」
「………………」
「だがこうなった以上、計画に多少の修正が必要だな」
本能的に足が一歩引きそうになる。
それを鬼が抜け目なく見咎める。
「逃げられると思うなよ」
「貴方こそ」
こいしは勇気を奮い立たせ、傲然と言い返す。
「私がマリーを置いて逃げるような飼い主だなんて思わないでほしいわ」
鬼が鼻で笑った。
改めて、こいしはマリーの協力者と対峙し、その姿を観察する。
短く刈られた髪、二本の牛の角、口からうっすらと見える牙、そして筋肉質の体。
まさしく鬼の特徴で、旧都ではどこでも見られる姿だ。
ただしその格好は旧都の見廻り組のもの。
彼が得物にしている六角棒も、武器というよりその象徴として使われているものだった。
鬼の結束は強く、身内が神器を盗んで都を滅ぼそうとするなど考えもしない。
その死角をついた犯行だったのだろう。
後に地底の未来を変えてしまうことになる、全ての元凶となった鬼。
彼は六角棒を肩に担ぎ、重い足取りで、一歩ずつ近づいてきた。
「私は覚り妖怪よ」
こいしは身構えつつ警告する。
接近してくる大柄な体に威圧されないよう、毛を逆立てる心持ちを保つ。
迫りくる岩壁を前にしているようなこの気配。まさしく鬼のものだ。大抵の妖怪を、存在だけで圧倒することのできる者達。
しかし、
「この第三の目がその証拠。妖怪の貴方の力は、私には通用しない」
旧都の鬼はもれなく覚りの力を忌避している。
その心を読まれることで、力を奪われることを等しく恐れている。
「どこへ逃げてもわかる。だからもう観念して、大人しくして」
鬼はこいしの前で、足を止めた。
そして肩をすくめ、
「ああ、わかった」
「え……?」
直後、こいしの第三の目に痛みが走った。
赤い刃に直接眼球を切り付けられたような激痛は、攻撃の意志。
つい反射的に、第三の目を両腕でかばう。
一瞬遅れて六角棒が飛んできた。
力任せの横殴りの一撃に、こいしは為す術もなく壁に叩きつけられた。
「…………っ!!」
今度は本物の肉体の痛みが、神経を駆け巡った。
余りの衝撃に、まともに声も出ない。
争いごとの経験もなければ、暴力を受けた経験すらほとんどないこいしにとっては、未知の苦痛だった。
涙でにじんだ視界の中心を、精一杯睨み付ける。
「嘘つき……! 鬼のくせに……!」
「ほう? おかしなことを言うな、覚り妖怪のくせに」
鬼は猫がネズミをなぶるような口ぶりで言う。
「その目があるなら、俺がこうすることも読めたはずだろう? なぜかわさず、防ごうとしなかった?」
「………………」
立ち上がろうとするこいしの機先を制して、鬼が足を払ってきた。
こいしは避けることができず、再度まともにくらい、無様に床の上を転がることになった。
「やはりな。そいつから聞いていた情報は、本当だったらしい」
鬼の声が、こいしの胸に突き刺さった。
かわせず、反撃もできない。それは単純な理由が故だった。
「心を読めない覚り妖怪が、この世にいるとはな」
「……違う……私は……」
心を読むのが、下手なのだ。
表層を撫でるだけで、己の意識に取り込むことなく、忘れようとしてしまう。
だからいつも、肝心な時に間に合わない。ずっと姉に、そのことを叱られ続けてきた。
金属質の冷たく硬い感触が、喉に当てられた。
無理やり顔を持ち上げられる。六角棒をこちらに突き出し、見下ろす鬼と目が合う。
「ついさっき、部屋に入ってきたのがお前の姉だったとしたら……」
獰猛な笑みを浮かべた鬼の瞳に、昏い炎が宿った。
「ペットとぬくぬく会話なんざしてなかっただろうよ。部屋の外から俺の心を瞬時に読んで、即座にこの俺をどうにかしていたはずだ」
こいしはその眼光を見返しながら、確かめる。
「貴方の本当のねらいは……私の『目』なのね?」
「……いいや、それはさすがに高望みだと思っていた」
鬼の視線が下がり、こいしの身体の中心を射抜く。
「だが叶うなら……その通り。お前のその『第三の目』を頂くつもりだった。そして間もなくそれは現実となる」
やはりそうだった。
姉から受け取った情報に拠れば、旧都を変えてしまった怪物は、灼熱地獄を一人で管理し、怨霊を抑え込んでしまったということだった。
前者はマリー、そして後者はこいしの持つ能力を食らったのだろう。
妖怪が妖怪を食らうという邪法。
そのおぞましい行いは、この土の下では禁じられておらず、地霊殿のペット達の中にも、力尽きた妖怪や、すでに先のない妖怪を食らって能力を手に入れた者が少なくない。
その極意は相手の存在を屈伏させることにある。
屈伏させ、抵抗できなくなった精神を呑みこむのだ。
「お前はどんな風に食われることを望む?」
鬼はこいしの首根っこをつかみ、持ち上げ、牙を鳴らして言った。
「その肉を刻んで平らげられたいか?」
こいしは床に投げ出された。
鬼の手が一閃し、正面を空気の刃が通り過ぎる。
「それともこの場で犯されて、自ら舌を噛むのが望みか?」
肌の上を滑り落ちそうになった服を、慌ててこいしは抱きかかえる。
だが羞恥を感じる間もなく、
「もしくはただいたぶられ、なぶり殺しにされたいか?」
続いてやってきたのは、ろくに想いもこもってない、ただ腕を振るだけの機械的な暴力。
拳を振いなれた鬼の力は、華奢なこいしの身体を紙切れのように吹き飛ばした。
ただの妖怪と鬼が普通に相対すれば、一方的で勝負にもならない。
歪んだ光景の中心で屹立した鬼が、乾いた声で告げる。
「早く決めろ、古明地こいし。お前に直接的な恨みはない。ただ覚り妖怪に対抗し得る力として、旧都を正しい形に戻すために、その『目』が欲しい」
「正しい形ですって?」
第三の目に手をやりながら、こいしはペースを取り戻そうと、必死に反論する。
「貴方がこの力を手に入れたって、旧都は正しくなんてならない。貴方の願望は破綻しちゃうのよ。それでもいいわけ?」
未来から情報を得ているこいしと違い、鬼はこの先のことなど知る由もない。
こんなことを言ったって聞く耳は持たないと分かっていても、非難したくなった。
しかし、鬼の返答は予想の斜め上を行った。
「そうはならん。仮にそうなったとしても、お前の姉の破滅は免れない。それさえ叶えば、俺は構わない」
敢然とした口調で放たれたその発言に、こいしは絶句する。
「強き力を持つ者が弱き者を食らう。それは鬼の摂理。すなわち、旧都の理念でもある。その理念を捻じ曲げ、この都を支配しようとした、お前の姉の罪は重い。旧都の未来を守るため、鬼の仲間を代表して、俺がその野望を阻止する」
「………………」
正直、こいしには全く理解できない動機だった。あと百年生きたとしても、やはり解らないだろう。
しかし理解はできずとも、解釈はできる。言っていることは無茶苦茶な暴論だったが、そもそも鬼とはそういう妖怪なのだ。
力を尊び、力以外には頭を垂れようとしない。物事の多くを力で解決し、力で蓋をする。
そんな鬼であっても、心を読むという、妖怪にとっては反則的な能力を持つ覚り妖怪が相手では手を焼く。
だからこそ、
「お前のその『力』が必要なのだ。怨霊を御し、灼熱地獄を管理し、力で以って支配する究極の存在となるためにな」
鬼の激情が生み出した波動が、第三の目に焼き付いた。
こいしは始め、どす黒い欲望をはらんだ心を想像していたが……しかし、そこにあったのは、確かに義憤とも呼べる感情だった。
だがそれはあくまで、表層に過ぎなかった。
薄い鋼鉄の扉の向こうでは、姉であるさとりに対するほの暗い憎悪が見え隠れしている。
そして突然、火炎のイメージが全てを呑みこんだ。
「言っておくが、俺がイカれてるわけじゃない。俺と同じことを考えてる鬼は、旧都にごまんといる。たまたまあの妖獣が声をかけたのが、俺だっただけのことだ。お前の姉を引きずり下ろすためなら、俺達鬼はなんだってする。覚りが支配する地底なんざ、誰も認めやしない。そして引きずり下ろすだけで済まそうとも思っちゃいない」
外の炎に負けず劣らずの炎が、鬼の心の内に荒れ狂っていた。
仮想の古明地さとりが、焼き滅ぼされる。それは幾たびも繰り返された。
「己の身内が起こした火で地位を奪われ、そして家族を失った時、あいつは永遠の敗北に苛まれることになる。そうして、奴が苦しみぬく様を、妹のお前の『目』で存分に観察してやろう」
圧倒的な憎しみの念に押しつぶされそうになりながら、こいしは尋ねた。
「……どうして?」
泣きたい思いで訴える。
「どうして、そんなに姉さんを……覚りを憎むの?」
直後、鎖から解き放たれた暴力がこいしを襲った。
怒り狂った鬼の大音声に、部屋が揺らぐ。
「覚りだからだ! それ以上の理由などあるか!」
これまで何度も言われた声に、その声が重なった。
これまで何度も見た表情に、その顔が重なった。
これまで何度も読んだ気持ちに、その心が……。
また、こいしは吹き飛ばされた。
幼いころから刷り込まれ、記憶に刻まれた訓戒が思い出される。
心の読めない覚り妖怪ほど、弱い存在はないと。
だから私達は、心を読むという力を、何よりも大事にしなくてはいけない、とも。
――姉さん……。
こいしは壁に背をつけて座り込んだまま、拳を小さく握った。
昨日までの自分なら、泣きじゃくるだけで諦めていたかもしれない。
でも今は、絶対諦められない理由がある。
七十五年後の、私を強くしてくれた姉さんを、元の未来に帰してあげるために。
どうするべきなのか、もう解っている。
「恨むならお前の血と、お前の姉を恨むんだな」
鬼の手がついに、第三の目にかかった瞬間、こいしは己を『捨てた』。
そして、己の受け継いだ呪いに、全てを委ねた。
◆◇◆
鬼は不意に寒気を覚え、伸ばしていた腕をとっさに引いた。
――なんだ?
極寒の氷海に肩まで浸かったような、異常な冷えだった。
外の火災による熱気によって、部屋の気温は高く、鬼の肌であっても汗玉が浮かぶほどだ。
そして、これから待っている強者の未来に昂ぶっているこの状況で、なぜ寒気を覚えたのか。
思わず、目の前に座り込んだ影を見つめる。
心を読もうとしない覚り妖怪、つまりほとんど人間と変わらぬ、ただの小娘だった。
一方で、あの忌まわしい第三の目はちゃんと持っている。
鍵の開いた金庫に、この世で最も凶悪かつ魅力的な宝がある。
圧倒的に優位にあるこの状況において、奪わない手はない。
かつてどの鬼も到達したことのない高みに手が届くのだから。
にもかかわらず、指を伸ばすことができなかった。
本能が警告している。引き返せと。今すぐ逃げろと。
先程感じた寒気の正体が、戦慄であるとわかって、鬼は戸惑った。
最強の種族である鬼が、同族以外に戦慄を覚えることなどない。
いや……そうではなかった。かつて、確かに一度だけ……
「食べかけ……」
目の前の小娘が呟いた一言に、鬼は当惑した。
「そっか……貴方……『食べかけ』だったのね」
「何?」
意味がわからない。
しかし、その言葉になぜか、体に力が入らなくなった。
「心を読まれたの……初めてじゃないんでしょ? ずうっと前に一度、貴方は心を読まれている」
小娘が立ち上がる。
外見的な変化はない。唯一、くすんだ色をしていた第三の目の瞼が、瑞々しい青に変わっている。
それだけで、雰囲気がまるで異なっていた。
触れるだけで割れそうだった外見の殻が割れ、中からぬるりと得体のしれぬ化け物が顔をのぞかせたような。
娘が顔を上げた。
そこに貼り付いた表情は、氷点下で沸騰するメタンのような、妖怪の目で見ても不気味な面構えだった。
「『殴りつけて大人しくさせてやろう』?」
言われた瞬間、鬼の中にあった殴ろうという心が消失した。
「思い出してるね。こんな風に、『姉さんに』心を読まれたことを、貴方は思い出してる」
内臓に穴を開けられたかのように、嫌な記憶が漏れ出す。
「やめろ……」
鬼は思い出そうとする意志を食い止めようと試みた。
「『鬼のため。旧都のため。未来のため。全部上辺だけのおまじない。本当の本当は、一番偉くて強い妖怪になりたかっただけ』」
そんなことは考えていない。考えていないのに、読みとられている。
自分の心のはずなのに、思うようにならず、逆に追いかけているような焦り。
握りしめた六角棒が、急に頼りない武器に思えてくる。
「『この俺様より偉い鬼がいることが、強い鬼がいるということが許せなかった。権力が欲しかった』。飛びかかる」
「やめろ!!」
鬼は『飛びかかった』。
そして、その行動を予測し、口にしていた覚り妖怪は、すでに別の場所に移動していた。
呼吸を荒くして、鬼はその姿を睨みつける。
「『第三の目さえ手に入れば、四天王をも凌ぐ力が手に入る。その時、俺はこの地底で一番高い場所に腰掛けている』
まるで自分の心が相手の口を借りて喋っているようだった。
鏡に映る自分に嘲られているようだった。
そして、鬼はそれに抗うことができなかった。
「『ただの読心だ。捕まえればすぐに恐怖に震えて動かなくなる』」
「………………」
「『今考えているのはどっちだ? 俺なのか? 本当に?』」
また目が輝く。
網膜が青白い光に染まる。
屈辱ではなく、恐怖の色に心が染まる。
鬼は本能的に耳を塞いだ。そうすれば聞こえなくなるはずだと思ったから。
「けれども俺には、どうしても許せなくて、我慢できないことがあった。俺よりも上に鬼以外の妖怪がいること。俺よりも非力で、ただ心が読めるというだけで旧都の中心に据えられたあの妖怪。なので直接、一対一で話した」
「ああ……ああ……!」
頭をかきむしる。
まるで全身が鼓膜になったかの如く響いてくる、この無慈悲な声。
「そこで俺は、古明地さとりをやりこめるつもりだった。しかし、あの化け物は怯みもせず、俺の心に刃物を差しこんで、ゆっくりと切り開いた」
時間によってミイラ化していた屈辱の記憶が、水気を取り戻し、復活する。
もっとも見たくない己の姿が、そこに映っている。
「浅くて、弱くて、その野心を支えきれない哀れな俺。奴に心を読まれて、かじり取られた。自分が地底じゃ、とてもちっぽけで何もできない鬼だと、暴かれた。地上では天狗や河童を顎で使えても、地底では通用しないことに苛々して、それにずっと耐えていた」
「がぁっ……」
古明地さとりの読心は、切れ味が鋭かった。
痛みを感じさせず、生きたまま解剖し、相手の心にある腫瘍を見せつけるような技。
鮮やかなまでに弱みを自覚させられ、後には屈辱だけが残った。
しかしこの覚り妖怪は違う。
さながら猛獣の爪のような、荒々しくもさとりより遥かに強い力で引き裂き、こじ開けようとしてくる。
そしてその背後には、鬼のそれを凌ぐ、暴力的な衝動が存在していた。
ここにきて、ようやく鬼はここから逃げようと身を翻した。
その時、
「でも知ってる? 姉さんは貴方のことなんて、全然覚えてないのよ? 面白いでしょ?」
逃げようとする鬼の背骨に、致命的なピンが刺さった。
「なのに貴方は絶対に忘れられない。何十年経っても辱められたことが忘れることができずに、狂うことになる」
いつの間にか、心を読む怪物は上から見下ろしていた。
三つの目の全てが、自分を嗤っていた。
「見るな……見るな……見るな……」
鬼は瞼を閉じ、耳を塞ぎ、体を丸める。
それなのに、声は終わってくれない。体の内側に、いくつもの『目』が浮かび、観察している。
「貴方のトラウマを、私は何千回も繰り返せる。壊れたら、それをまた組み立てて、永遠に辱めを受ける蝋人形にだってできる」
無邪気なその声に意識を絡めとられ、牙を突き立てられ、鬼は恐怖におびえた。
「でも、それは可哀想だから、全部バラバラにして食べてあげるわ。だって、このままだとまた姉さんに悪いことをするつもりだから」
「し、しない!」
鬼はすがるような気持ちで喘ぐ。
「誓う! もう二度とあいつの前には姿を現さない! だから放っておいてくれ!」
しかし、目の前の怪物は、可笑しそうに唱える。
「ダメよ。鬼さんが嘘を吐いたりしちゃ。全部私には『視えて』るんだから」
視界があの禍々しい目によって埋め尽くされる。
「弱肉強食が好きって言ってたでしょ。だから別におかしくないわ。貴方が弱い肉で、私が食べる役。自分が弱い肉だったってこと、自覚してなかったのかしら。姉さんもちゃんと教えてあげればよかったのに。それとも、教わっても聞こえないふりをして逃げてきたの? ああ、そうだ。俺は逃げ出した。背を向けて、みっともなく、自分の本当の姿から」
鬼は己の心を開き、そこにあるものを読み上げた。
「だから俺はもう、ここで消えてしまいたい。消してくれ。消してくれ。消してくれ。消してくれ……!」
ようやく見つけた己の意志を掴んだ瞬間、鬼は救われたような表情を浮かべて呟いた。
「どうか消してください……お願いします……」
その意志の残りかす以外にはすでにもう、一粒たりとも自我が残っていないことに気付かぬまま。
妖怪の命は、肉体よりも精神を支えにしている。
精神が外圧に屈し、消滅せぬ限り、妖怪は何度でも復活を遂げる。
しかし心を暴かれ、壊されてしまえば、どれほど強い肉体を持っていたとしても滅びは免れない。
心を食べつくされた鬼の身体は、頭髪から血の一滴に至るまでが色素を失っていき、やがて泥水と化し、蒸発してしまった。
後には、彼が封印されていた場所から持ち去ったのであろう火竜の印だけが残っていた。
静寂の中、鬼を滅ぼした覚り妖怪は、しばらく微動だにしなかった。
小さく息をしながら、部屋の真ん中で立ち尽くしていた。
そして唐突に、古明地こいしは体をくの字に折った。
服の上から、肌をかきむしり、せき込む。
「ゲホッ! ゴホッ! ううぉええええええ……!」
何も出てこない。けれどとにかく、体の中を空っぽにしたかった。
記憶を消してしまいたかった。
今すぐ今夜の出来事を忘れて、地霊殿のベッドで目を覚ましたかった。
嫌悪し、憎悪する。
食べたものよりも、それを余さず食べることに躊躇しなかった自分自身を。
一粒も残らず食らいつくし、満たされた己の欲に愉悦を覚える本能が、ただひたすらに嫌だった。
そして唐突に、燃えカスのような哀しさが心に生じた。
――何を夢見てたんだろう、私は。
こいしは無理に笑って、自嘲する。
――だって、これが覚り妖怪でしょうに。
それはずっと分かっていたはずだったのに。いつだって自分は、覚り妖怪の自分から目を背けてきた。
本当は、自分がどんなに『凶暴』な妖怪なのかを知っていながら、それに蓋をし続け、そうでない妖怪を演じていた。
だって、そっちの自分の方が、ずっと好きになれそうな気がしたから。
意外にも、頭の片隅が冷静に働いていることに、こいしは気付いた。
身体の操作を持て余した心を、もう一つの心がまるで第三者のように監視している。
姉さんみたいだ。
こいしはそう思った。
たぶん、姉はこういう辛い気持ちに小さな頃から耐え続けてきたのだろう。
その末に、誰にも傷つけられることのない、鉄の心を手に入れたのだろう。
心を食べるには、そうした強さを持たなくては、その分多くの何かを代償として払わなくてはならないのだとしたら。
悲しかった。憐れみたくなった。
覚り妖怪に生まれたばかりに、そんな風になってしまった、この世でたった一人の姉が。
そして、その宿業から逃れられずに死んでいった全ての覚り妖怪が、哀れでならなかった。
でも今は、今だけはこの冷え切った気持ちを捨ててはならない。
今までの弱虫こいしじゃ、これから為すべきことはできないから。
部屋の隅に視線を向ける。
そこでは、とっくに目を覚ましていた妖猫が、ガタガタと震えて息を殺していた。
第三の目が、マリーの心を覗き込む。
ペットの内なる鏡には、抵抗を許すことなく鬼を屠った化け物が映っていた。
そして妖怪としての本能が、覚り妖怪に対してはっきりと怯えを見せていた。
こいしは彼女の元に足を運ぶ。
「ごめんね、マリー。怖い思いをさせちゃったね」
「ひっ……ひっ……」
「大丈夫よ、もう」
そう声をかけて、ペットの頭を抱きかかえ、心臓を押し当てる。
自分の鼓動は、不思議なほど落ち着いていた。
「ほら……大丈夫でしょ?」
「こ、こいし様?」
狂乱状態の淵から救いだされ、マリーの震えが止まる。
彼女を宥めた魔法は、主人の体温だけではない。
第三の目を用いた弱い精神操作が、荒れる海を凪に変えたのだ。
ペットに寝物語を聞かせるような声音で、こいしは囁いた。
「たくさんの『声』が近づいてくるわ。きっと鬼の人達。火が消えた後の現場の近くで、犯人を捜して回ってる」
遠くにやっていた視線を下げて、こいしは言った。
「でもまだ貴方が逃げるのには間に合う。ここから急いで東に向かって。飛んだら目立つから、走って行って。そして落ち着いたら、遠回りして地霊殿に帰りなさい」
「こいし様は……」
「私はここに残る。今回の事件を起こした、犯人として」
マリーの顔が再び青ざめた。
彼女は首を振ってしがみついてくる。
「そんな……! ダメです! 私は死んでもここを動きません! 罰を受けるのは私であって、貴方じゃない!」
「ううん。元はと言えば私のせいだし」
愛する家族の頭を撫でて、こいしは語りかける。
「ペットがいけないことをしちゃったら、飼い主が責任を取らなきゃ」
「こいし様……! どうか……!」
「マリー。ありがとう私のために頑張ってくれて」
泣きじゃくるペットの頭を再び抱き寄せながら、こいしは囁いた。
胸元の第三の目が、青い輝きを帯びている。
「今日起きた辛いこと。そしてこれまで起きた悲しいことを、貴方が忘れてしまいますように」
一滴の涙がペットの額に落ちる。
「そして貴方がこれからも地霊殿で、幸せに暮らせますように。私が私でなくなっても、私と過ごしたことを忘れないでくれますように」
一生を狂わせてしまった贖罪の気持ちを込めたおまじないが、抱きしめる純真な心に浸透していく。
「さぁ、『お行き』」
瞬間、妖猫の乱れた心は、巨大な力に絡めとられ、封じ込められた。
「あ…………」
それっきり、マリーの意識は抵抗することもかなわず、眠りに落ちた。
彼女の体は、一時的な別の主人の命令に忠実に従い、活動を始めた。
夢遊病とは思えぬ、素早く洗練された動きで立ち上がり、窓から身を乗り出し、外へと飛び出す。
彼女の気配は、東に向かって瞬く間に遠ざかっていった。
部屋に残ったこいしは、外の様子を眺めた。
火はもう収まろうとしている。消火活動が炎の広がりを食い止めることに成功したのだろう。
マリー達が火災を本格化させる前に、こいしが中断させることが出来たのも功を奏したようだ。
そして犯人がいなくなった今、これからはもう旧都の火事が続くことはない。
と、肝心なことを、こいしは思い出した。
――そうだ! 未来はどうなったのかしら!
犯人が消え、地霊殿への放火が未遂に終わり、自分がいまだに無事だということは、未来の旧都の姿もきっと変わっているはず。
すぐにこいしは石を取り出し、呼びかける。
「姉さん? 姉さん聞こえる?」
しかし、未来のさとりからの反応はなかった。
声はもちろん、交信中はいつも副次的に伝わっている波長らしきものも感じ取れない。
胸の内に不安が広がる。まさか、上手くいかなかったのだろうか。
いやたまたま、こちらの声が届いていないだけなのかも。
「姉さん! 返事をして! 姉さん!」
こいしはもっと強く念じるため、意識を集中させた。
だが、さとりのことを思い浮かべたその瞬間、その心に突然、急激なブレーキがかかった。
そう。こいしは今から真実を伝えなくてはいけない。
マリーがこの災厄に関わっていたということ。
そして、彼女をそうさせてしまったのが、自分だったということも。
無実を信じて、命までかけてくれたさとりは、その事実を受け入れた時、どんな風に想うだろう。
その反応を受け止める覚悟が今、自分にあるだろうか。
石を握りしめたまま、逡巡していたこいしは、背後に現れた気配を覚ることができなかった。
音もなく忍び寄っていた縄が、蛇のごとく体に絡みつく。
「――っ!?」
振り向く間もなく、重力を奪われたこいしは、顔から床に激突する。
意識が遠のく一瞬前に、持っていた石の感触が、手から飛んでいった。
「こやつだけか。くまなく調べろ」
半ば気を失った中、第三の目だけがしっかりと働いていた。
部屋の中に知らない心が二つ。
こいしは夢うつつの状態で、彼らの会話を聞いていた。
「あったぞ! 火竜の印だ!」
「本当か! ついに見つかったか!」
「ここだけ焼けていないのは不思議だったが、なぜここにこれが……そしてこの娘は一体?」
「起こして知っていることを吐かせればよい。おい! 立て!」
冷たい床から、乱暴に引き起こされる。
まだ頭がじんじんと痺れてて、足が紐のように垂れていた。
視界には二人の、見廻り組の服装をしている鬼。
そして片方の火竜の印を持っている鬼の足元に、『石』が放置されていることに気づき、こいしは思わず声を上げた。
「待って! それを返して!」
ふらつきながらも、手を伸ばして訴える。
「お願い! 大事なものなの!」
「待て! 貴様の素性と、ここにいる理由を答えんか!」
縄が再び、体を締め上げた。
鬼はこいしの取り返したがっている物が、火竜の印だと思ったのだろう。
足元にある石の方は、無造作に蹴飛ばそうとしている。
こいしは血相を変え、
「やめて!」
力の限り叫ぶ。
その時、覚り妖怪が持つ最も有能な器官が、主の願いに応えた。
鬼が突然、石化したように動かなくなる。
硬直したその手から、縄の先が離れ、こいしの体は自由を取り戻した。
床に転がっている石に飛びつく。幸いなことに、割れたり欠けたりはしていないようだった。
「まさか……その『目』は……」
振り返ると、残った鬼が瞳に恐怖を宿していた。
こいしは思わず、自分の体を見下ろす。そこには、覚り妖怪の証明である第三の目が露わになっていた。
だがそれだけではない。第三の目は心臓のように強く脈打っていて、明らかに普通の状態ではなかった。
突然、青の閃光が部屋を染め上げる。
直後に鬼達は、悲鳴も上げることもできずにその場に昏倒した。
それぞれ、『目』に心をかじり取られたのだ。
異常を察したこいしが寸前で抑えつけていなければ、今ので相手を消滅させてしまっていたかもしれない。
しかし暴走はそれでおさまらなかった。
『目』から生じた光はさらに強みを増していき、ついには部屋を飛び出し、
「…………っ!!」
情報の洪水が、こいしの頭に流れ込んできた。
旧都にいるあらゆる生命体、そしてあらゆる心を、こいしは感じ取った。
しかも己の第三の目が、その全てに今にも牙を突き立てることができるほど肉薄していることにも気づいた。
唖然としている間もなく、こいしの第三の目に、猛烈なエネルギーが逆流し始める。
『旧都の心』を吸っているのだ。長きに渡る渇きを癒すために、ただひたすら貪欲に。
「待って! それは駄目!」
しかし、『目』は止まろうとしなかった。
いまだ輝きを帯びたまま、持ち主に猛烈な勢いで情報を送り届けてくる。
自分の体の一部なのに、そうじゃないようだ。
微量だからこそ住人に気づかれていないが、このまま続けば火災どころではない被害を旧都にもたらすことになる。
「やめて! おさまって!」
こいしは第三の目に己の腕をかぶせ、力を抑え込もうとした。
しかし、覚り妖怪の本能は、こいしの貧弱な意志を弾き飛ばした。
心の味を知ったばかりの『目』は、主人の願いに耳を貸さず、さらに吸収する速度を上げる。
「助けて! 誰か!」
こいしが恐怖のあまり絶叫した、その瞬間だった。
何者かの力によって、旧都に張り巡らされていたこいしの神経が、全て寸断された。
第三の目が悲鳴を上げて、光を失う。さらに急激なショックによって、繋がっている当人の意識にも少なくはないダメージが跳ね返ってきた。
再び、床へと身体が向かう。
衰弱したこいしは、残った僅かな力を用いて、部屋の入り口を見る。
そこに立っていたのは……。
「姉さん……」
姉が、同じ時代を生きる古明地さとりが、血の気の無い顔をして立っていた。
暗転。
こいしの意識は今度こそ、奈落に落ちていった。
15 Hallucination
古明地こいしは中央街の一角にて、放火事件の重要参考人としてその身柄を拘束された。
火竜の印が現場に落ちていたということ、現場の建物だけが焼けていなかったこと、そして彼女だけが発見されたこと。
さらに、心神喪失の状態ではあったものの、一連の犯行を認めたことにより、鬼の上層部は有無を言わさず彼女を投獄した。
裁判らしい裁判のない旧都において、それらは特に支障なく手短に行われた。
ただし、事件にいまだ不明な点も多く、古明地こいしの単独犯だったかどうかも疑問符が付いたことで、彼女への刑罰はより事件の全容がはっきりしてから決定する、ということになった。
当然、古明地さとりの能力があれば真相を暴くのは造作ないと思われるが、彼女の身内が容疑者である以上、それは不可だ。
今は鬼の上層部の主導により、捜査本部が証拠集めに奔走しているところだった。
その間、古明地こいしは特別な牢に入れられることとなった。
旧都の郊外地下に建設されたそれは、元々、都に害を為した強力な妖怪を閉じ込めるために造られたものだ。
そこでは徹底した警備体制が敷かれており、覚りであっても、心を読んで脱走を図ったり、上の様子を窺うことはできないはずだった。
以上は全て、私がこの地下牢に入るまでに、旧都に棲む鬼の人達の心を読んで知った情報だ。
でも本当に、捕まってここに入れられてから、まだ半日しか経っていないんだろうか。
もう何十年も過ぎたような気さえするのは、たぶん、あれからずっと生き生きとしている、この『目』が原因だった。
こうして暗闇の中でジッとしているだけで、旧都にいる人達の考えてる声が、土砂降りの雨みたいに聞こえてくる。
声の行方を追いかけてると、自分の思考が遥か遠くに置いてけぼりになってしまうくらい。
だから、本当に今自分が考えていることなのか、それとも心の声が聞こえてくるのか、たまに分からなくなる時がある。
「飯だ」
びっくりした。
心の声じゃなくて、耳で聞く声は久しぶりだった。
看守……じゃなくて、獄卒っていうのかしら。
牛の頭をした鬼の人が、檻の横の壁に取り付けられた頑丈な鉄の箱を通じて、お盆を差し入れてくれる。
でもそれは、盛り付けがひどくて、中身がこぼれていて、お箸もついていなかった。
盛り付けがきちんとしていたとしても、食欲の湧くようなメニューじゃなかったけど。
「なんだその目は。文句があるのか。え?」
グワワーンと凄い音がした。
鬼の人が持ってる鉄棒で鉄格子を殴ったのだ。
けど牢屋は暗かったし、行動を読んで反射的に耳も目も閉じてたので、そんなに驚くほどのことじゃなかった。
「ただで死ねると思うなよ。証拠が出次第、お前には仲間が受けた分の苦しみを、存分に味あわせてやるからな」
鬼さんは歯をむき出して笑って、舌舐めずりまでしてる。
私がみじめな目に遭っているのが楽しい……ふりをしているんだ。
でもこの『目』があると、全部視えちゃう。
そんなに私が恐いなら、早く上に帰ってくれればいいのに。
私の心の声が届いた訳でもないだろうけど、獄卒の人は唾を吐き捨てて、足を踏み鳴らして行ってしまった。
運ばれてきたご飯を見てみたけど、やっぱり手を付ける気がしなかった。
そもそもお腹が全然空かない。
第三の目が暴走した時みたいな、ひどい渇きも無くなっていた。
旧都にある心のほとんど全てを覗いて、ほんの少し吸い取ってしまったからなのかも。
私はまた、石の寝台の上に腰かけて、黙想に耽った。
ここに連れてこられてからずっと探していて、いまだに見つからない心を求めて。
どちらにせよ集中していなくても、外の色々な声が聞こえてくるのだけど。
あの、死んだ哀れな鬼さんの言ってたことは本当だった。
ここ半日のうちに、私は自分がどれほど憎まれている存在なのかを、直に味わった。
街を滅茶苦茶にした覚り妖怪に対する恨みが、牢屋の外に溢れかえっている。
それらは、生きた茨の蔓が下りてきて首を締め上げてくるみたいな苦痛になって、いつまでも側から離れようとしない。
意識を飛ばし、そんな茨の海を泳ぐような気持ちに耐えながら、私は探しているものを見つけようとした。
そして、ついに見つけた時、私は思わず立ち上がっていた。
そこは旧都の真ん中にありながら、都に点在する心とは距離を置いている不思議な場所だった。
そしてそこにある心も、妖怪らしくないものばかり。
純粋で裏の少ない鮮やかな心が、分子のように集まっている。不安を覚えつつも互いを守るように寄り添っているみたいだった。
私がずっと読んできた、地霊殿の動物たちの心だ。
その中にマリーの心があるのを見つけて、私は安心した。辛いことを何も思い出さずに、これからを過ごしてくれることを祈る。
その代わり、彼女とした約束を、私は果たさなくちゃいけない。
さらに一歩、奥へと進む。
動物たちの心から離れた場所にぽつんと、一つのハートが浮かんでいた。
私は強く呼びかける。
[姉さん……!]
声は届かなかった。
くすんだ色のハートは、いくつもの壁を作って、何もかもを拒絶している風に見えた。
[姉さん……! 聞いて……! 私がここにいるのは、訳があって……!]
その時、いくつものイメージが私の『目』に映った。
闇夜の下、壊れた城の瓦礫に立ち、途方に暮れている女性の映像。
築き上げた物を失ったことによる失意が、そこにはあった。
しかし、その女性には鎖が絡みついていて、それは地面の下へと続いていた。
その奥にあった物を感じ取った瞬間、私は凍り付いた。
知ってはいた。
姉さんが今日までの覚り妖怪の心を全て背負って、古明地さとりの名を襲名したことを。
けどその本質について、まるで私は理解していなかったことに気づいてしまった。
あらゆる心を食い漁ってきた覚り妖怪の精神の束の重みが、そこに地層のように横たわっていた。
まるで恨みに燃える悪鬼の群れを溶かしたマグマを、心の底に飼っているような光景だった。
いいや、違う。飼っているのではなく、姉は率いていたのだ。覚り妖怪の長として、彼らの悲願を叶えるために。
けれど、全身に結び付けられた鎖をとてつもない力で引っ張られている様子は、一方で、それらに虐げられているようにも見えた。
こんなにもひどいものを抱えながら、姉はずっと、私を覚り妖怪の闘争に巻き込もうとせず、独りで戦ってきたのだ。
それを今さら、そんなもの意味がないと、忘れろと、責任を放棄し続けてきた私が、どうして伝えられるだろう。
たとえ、私が自己嫌悪に耐えて、それを行ったとしても、立ちふさがる壁はあまりにも厚すぎた。
そして……扉から漏れ出る心情に、妹である私に対する怒りと失望が混ざっているのを見て、ますます近づけなくなった。
――ごめんなさい……許して姉さん……お願い……。
外からそんな弱々しい声をかけるのが、今の私の精いっぱいだった。
けれども、扉は開いてくれない。
聞こえていないのだろうか、気づいているのに、私を避けているのかも。
もしくは私が逃げているんだろうか。
もっと大きな声で訴えなければいけないのに、どんどん意気地が削られていくばかりで、自分が情けなくてたまらなかった。
孤独なハートが、どんどん遠ざかっていく。
そして再び、旧都の心が私の『目』に映し出された。
耳を塞いだ。それでも声は聞こえてきた。
瞼を閉じた。それでも幻は見えていた。
震えが止まらない。
世界中が私を嫌っている気がする。
世界中が私を怖れている気がする。
世界中が……私をこの世から消したがっている気がする。
そしてどれも全て、本当なのだとしたら。
誰か助けてほしい。
温もりが、囁きが、心以外のものが恋しくてたまらない。
[寒いのかい?]
私は膝から顔を持ち上げた。
灯りに乏しい牢の中は、どこを向いても石の壁ばかり。
けどだんだんと壁の染みが、蝶々に見えてきた。
もう一度まばたきすると、本当に青白い羽をもつ蝶が、壁にとまっていた。
[同情するよ。こんな狭くて寂しい所に閉じ込められるなんて]
「貴方……誰?」
[アニマっていうんだ。大丈夫。僕は君を傷つけたりはしないよ。できっこないさ。やせっぽちな虫けらで、見た目もよくないだろうし]
皮肉っぽいけど、この牢には合わない温かみのある語調だった。
何だか可笑しくなって、一日ぶりに顔がほころぶ。
「そんなことないわ。貴方はとってもハンサムよ」
[ありがとう。ところで君は蝶々と蛾、どっちが好き? 自分がどんな姿なのか、わからないんだ。鏡があればわかると思うんだけどなぁ。でももしかしたら、鏡があっても分からないかもしれない]
「ごめんね。鏡は今持ってないの。外に出られれば、見つけてきてあげられるんだけど」
[どうして外に出ないんだい?]
「どうしてって……」
[君は望んでここにいるの? 僕だったら絶対に嫌だな]
「好きでいるわけじゃないけど、ここにいないといけないの」
[君の願いが早く叶うことを祈るよ]
「私の願いなんて知らないくせに」
[君だって知らないくせに]
そんなことないわ。
私は知ってる。ちゃんと自分の望みはわかってる。
わかってるよね……?
まばたきすると、青い羽は消えてしまっていた。
そして私は、柔らかい背もたれのある椅子に腰かけていた。
[私が思うに、ですね]
天井いっぱいに広がるプラネタリウム。
穏やかなナレーションが、耳元に語りかけてくる。
[ほうき星が叶えてくれる願いが、どのような形で表れるかまでは、当人にも分からないのではないかと思うのです。そう。当人というのは、これはまさしく自我のことを示します。つまり自我の裏にあるイドの願いを、ほうき星が叶えてくれたとしても、自我は戸惑うだけなのではないでしょうか]
[私の願いって、何だったっけ]
[貴方は覚えていないのかもしれませんが……。しかし、貴方は間違いなく願ったのではないかと思います]
願い事……。
姉さんや家族のみんなと暮らすこと……確かそうだったはずだけど。
瞬きを区切りにして、また世界が切り替わった。
いつの間にか、人生で一番見慣れた場所に来ていた。
地霊殿にある自分の部屋だ。
ちょうどお出かけする準備の最中だったのだろう。帽子と、そしてコートがベッドの上に置いてある。
私は何も考えることなく着替え始めた。
帽子が好きなのは、嫌いな私と違う子になれる気がするから。
そして厚い服が好きなのは、他の人に見せたくないものを隠せるから。
身支度を終えた私は、廊下へと通じるドアを開けた。
私を出迎えてくれたのは、色をごちゃ混ぜにした液体で埋め尽くされた、おどろおどろしい世界だった。
そこでは、ありとあらゆる邪な思いが、奇怪な音を立てて蠢いていた。
見慣れた廊下を頭に描いていた私は、あまりに現実離れした眺めに硬直していた。
すかさず、まだら色の液体から大量の手が生え、私めがけて押し寄せてくる。
髪を掴もうと、目を潰そうと、首を絞めようと。
私は帽子とコートを犠牲にして、必死に手を振り払い、扉を勢いよく閉め、鍵をかけて、
[だから言っただろうが]
素早く振り返った。
部屋の隅に、いつの間にか鬼が座り込んでいた。
[たまたま俺だっただけで、代わりはいくらでもいると]
彼の姿を忘れられるはずがない。
私を食べようとして失敗して、逆に心を食べられてしまった見廻り組の人。
彼は六角棒を杖のように床に立て、冷めた目で私を見て言う。
[俺もみじめだが、お前ら姉妹はもっと哀れなもんだな]
違う。
私たちのことをそんな風に言わないで。
何か物を投げつけてやろうとしたけど、目をそらした瞬間に、また場面が切り替わる。
今度も私にとってなじみのある場所だった。
地霊殿の中庭にある、灼熱地獄跡。
隣には、私と同じ色の髪で、同じ色の目のペット。初めに話すきっかけはそれくらいだったけど、今では一番の仲良しだ。
あらゆるものを焼き滅ぼすといわれている炎を見下ろす彼女は、手塩にかけて育てた花を見守るような優しい眼差しをしている。
その横顔を眺めるのが好きで、私はいつもここに来ている。
でも彼女は仕事をしながらも、私に暑くないかだとか、喉が渇かないかだとか、あとは退屈じゃないかだとか気を遣ってくれる。
そんな優しさにも、ついつい私は甘えてしまっている。
「マリーはどんな願い事がいい?」
今日の話題は、あと十数年経てば地上で見えるという噂のほうき星。
マリーはお星様には好奇心を示したけど、願い事にはさほど興味がないそう。
[この屋敷に住ませてもらってるだけで、私は十分満ち足りてますよ。ここに集まった動物たちは私も含めて、心を読み、理解してくれる存在を求めています。さとり様とこいし様は、その願いに応えてくださいました]
欲がないなぁホントに。私は願い事がたくさんある。
もっと背が高かったらとか、もっとお洒落が似合う外見だったらとか、大人びた容姿だったりとか……。
……なぜだろう、どんどん猫耳のないマリーに近づいてる気がする。
でもやっぱり、第三の目を持ってない自分を想像しちゃうな。
それだけでも、ほうき星は叶えてくれないかしら。姉さんには、罰当たりだって叱られそうだけど。
「覚り妖怪を嫌わない世界をくださいって言うよりは、慎ましい願い事だと思うし」
[旧都にて覚り妖怪に対する風当たりが強いというのは、私も重々承知しております。悲しいことですわ]
「旧都だけじゃないわ。どこもおんなじ」
私は愚痴っぽく言って、膝に顔をうずめる。
「地上だって、世界のどこだって、宇宙のどこでだって覚り妖怪は嫌われる運命なんだわ。私が普通に過ごせるのは、ここだけ」
地霊殿だけ。
その中でも一番安心して過ごせるのが、この灼熱地獄を封印した中庭だった。
ここみたいに、争い事が起きなくて、時間がゆっくり流れて、心を読む私でも受け入れてもらえる。
そんな世界がもう少しだけ、この地底のどこかにあったらいいのに。
[それが、こいし様の本当のお望みだったのですか?]
マリーは炎を見下ろしたまま、微笑む。
[でしたら、何も地霊殿にこだわることもないかもしれません]
「え?」
それってどういう意味?
16 Eclosion
……………………。
…………いつの間にか、私はまた牢屋に戻ってきていた。
ううん、違う。初めからここにずっといた。たぶん今までのは全部、ただの夢だったのだろう。
やっぱり他人の心を覗き過ぎたせいで、自分の心がどこにあるのかわからなくなっちゃったのかな。
もしそうだったら、怖くて哀しい。
「あれ……?」
私はお盆に載っていたあのご飯が消えてることに気づいた。
牢屋の反対側で、小さな影が動いている。しかも食事中、というか盗み食いの最中のご様子。
夢はまだ終わってなかったのかしら。
[誰?]
「………………」
同じことを尋ねようと思っていた私は、開きかけた口を閉じた。
声からすると、影の主は小さな子供のようだ。
シルエットはスカートを穿いてるみたいだし、たぶん女の子。
仕方ない。もう少し、夢に付き合ってあげよう。他にすることもないのだし。
「悪い妖怪」
私がそう答えてあげると、向こうは食べる手を止めて、不思議そうに言う。
[悪いことしたの?]
「悪いこともしたけど、生まれる前から嫌われてるの」
[どうして生まれる前から嫌われてるの?]
「覚り妖怪だから」
すると子供の影は黙っちゃった。
私が覚り妖怪だと知って、怖くなったのかもしれない。
大抵は誰でも不気味に思い、できるだけ遠ざけようとするのだ、私たちのことを。
でもこの子はどこから来て、どうやってここに入ったのかしら。
聞いてみることにした。
「どうやってここに入ってきたの?」
[ずっと前から、ここにいたわ]
「鍵がかかっていたのに?」
すると、女の子が腕を動かす。
暗くてよく見えなかったけど、チャラチャラと金属が鳴る音が聞こえた。
[さっき怖いおじさんが持ってたのをもらっちゃった]
あらら……この子は盗みが達者なようで。
もちろんこれは夢だから、その鍵もきっと幻なのよね。
女の子は私に一歩近づいて言った。
[ここから出たいなら、出してあげる]
ありがたい申し出に聞こえたけど、私には立ち上がる元気がなかった。
「ごめんね。私も外に出たいけど、そうしちゃダメなの。ここから出ると、たくさんの人に迷惑をかけちゃうし……」
それにどこに行っても、私を受け入れてくれる世界はない。
唯一の帰る場所だった家も、自分から手放してしまった。
「この世界は、覚り妖怪には残酷すぎるから」
[お姉ちゃんと同じこと言うのね]
とことこと近づいてきた女の子が、私の顔を見上げて言った。
[覚り妖怪だから嫌われないといけないなんて変。私、嫌われたくない世界に行きたい]
私は……本当にびっくりした。
目の前にいる子供が、小さい頃の……姉さんに手を引かれていた頃の私にそっくりだったから。
呆気にとられて見つめていると、小さな私はいかにも子供らしい仕草で見つめ返し、そして無邪気に笑った。
……こんな風に笑っていた時代が、私にもあったのかな。
なんとなく、泣きたい気持ちになりながら、私は言った。
「うん……私もそうよ。でもそんな世界、本当にあるのかしらね」
あえて言葉を濁してしまう。
せめてこの頃の私には、まだ希望とか夢みたいな甘い幻想を持っていてほしいから。
でも結局裏切られるのだとしたら、素直に現実を教えてあげる方がいいんだろうか。
小さな私は、また無邪気な様子で言った。
[私ね。一度だけ見たことがあるわ、そんな世界。遊びでこの目を閉じられないかと思って、試してみたことがあるの]
え? そうだったっけ?
[そうしたらね。見えてた物が見えなくなっちゃって、見えてなかった物が見えるようになったの。お姉ちゃんも知らないみたい]
そういえば、小さい頃にそんな遊びをした事があったような気もする。
心を読まなければ、覚り妖怪は覚り妖怪でなくなってしまう、だからそんなことをしてはいけない、って姉さんに叱られたけど。
それに、
「心が読めない世界なんて、私達には暗闇と同じ。寂しくて、何も感じない世界」
でも今の私にはどっちにしても絶望的。
だってこの世界は私を――覚り妖怪を拒絶することしか、頭にない人達ばかりだもの。
小さな私は不満そうに口を尖らせて、頭を振った。
[嘘。『目』を閉じても真っ暗になんてならないわ。『目』を閉じたらすごく世界が大きくなるんだもん]
心臓を触られたみたいに、私はドキンとなった。
小さな私の小さな手が、生まれてからずっと私を苦しませてきた、青い瞼に触れている。
[ね、試してみて。きっとわかってくれるから]
そうは言っても、第三の目をどうやって閉じるかなんて知らない。
手を触れずに耳を動かせ、っていうみたいなものだし……あ、でもペットの子達は確かにできるか。
違う違う、そういうことじゃなくて……。
「あれ?」
あの子がいない。
つい今の今までそこにいたのに、急にいなくなってしまった。
白昼夢がまた、唐突に終わっちゃったってことなのかしら。
「目を閉じる……か……」
言われた通り、第三の目に手を当て、それが閉じられるものなのかどうか私は試してみた。
まずは顔についている両目の方を閉じて、深呼吸し、何も考えないように努力してみる。
当たり前だけど、上手くいかなかった。私が何も思わない代わりに、他の誰かが何かを思う。それが生まれた時からの私のさだめ。
もし私が死んだら、第三の目はどうなるんだろう。その時は、やっぱり瞼を閉じてるのかな。
そっか。自分が死んじゃったと思えばいいのかも。試しにそうしてみることにした。
しばらくして、意識せずとも『目』が受信していた無数の心の声が、徐々に小さくなっていった。
怨霊がたくさん集まってできた嵐が、どこかに遠ざかっていくみたい。
さらに深く、私は自分の中に潜って行こうとする。
ああ……水の底に沈んで死ぬのって、こんな感じなのかも……。
そして、何も聞こえなくなった。
真の闇の中に一人浮かんでいるような、どうしようもない孤独に陥ってしまった。
見えなくて、聞こえなくて、他と比べる物がない世界で、私が私であるかどうかも分からない。
こんな世界にいるくらいなら、まだ現実の世界の方が……
あ……一瞬、あの子の背中が、闇の中に見えた気がした。
いや、気のせいかもしれない。たまたま私が、見えたらいいな、って思っただけで、きっとただの幻。
変化は突然だった。
その瞬間私は、はっきり知覚した。
知覚した瞬間、闇の底にあった、とてつもなく広い世界が、私を一息に呑みこんだ。
初めは宇宙だと思った。
プラネタリウムよりももっとたくさんの星が、生き生きと輝いてたから。
でもそんなはずはなかった。宇宙にしては空虚な感じがしなくて、色々なものが視えすぎている気がした。
空気があったり、望遠鏡も無しに星雲がくっきりと映ったり、天の川の様子がはっきりとわかるって意味じゃなくて。
たとえば深い森のイメージが頭上を流れていったり、ご馳走の匂いが後ろを横切ったり、足元をピンクの象の群れが通ったり。
こんな賑やかなのが宇宙なはずないわ。
それにこの世界は、ないものを探す方が難しいくらいだった。
動物もいれば植物も生えている。山もあれば川もある。なんと旧都まで視えた。そこで暮らす人達の存在が感じ取れた。
けれども、どのイメージも押しつけがましくなく、頭にすっと入ってくる。
試しに、今まで見たこともないような怪獣のイメージを思い浮かべると、本当に見たこともない怪獣が現れて、私に挨拶してくれた。
ちょっと思っただけで、私の体はとてつもなく大きくなってしまい、青くて綺麗な真ん丸の水玉につま先立ちしないといけなかった。
そしてちょっと思っただけで、とてつもなく小さくなってしまい、チリの中に紛れて回り始めた。
ものすごく情報が多いのに、負担にならない。ものすごく激しい変化なのに、追い付けてしまう。
あまりにもデタラメで、なのに懐かしく感じる。
そして夢だとは信じられないほどリアルで、存在感に溢れてた。
「ここは……」
[みんなが気づいていない世界。君の『目』では読みとることのできなかった精神の世界さ]
得意げな台詞と共に私の前に現れたのは、あの青い蝶君だった。
びっくりして聞き返す。
「精神の世界!? ここが!?」
[そうだよ。信じられないかもしれないけど]
「だって、そんなのありえない。だって心は……」
私が覗いてきた他の人の心は、確かに広くて色々なものが映る、とても奥深い世界だったけど。
でもこの世界と比べたら、海に浮かんだ無人島の池みたい。
[虫にだって石にだって、ありとあらゆるものに魂は宿るって聞いたことがあるだろう? 僕らは意識よりももっと広くて深い、無意識の世界を共有しているんだ]
はばたきから生まれた鱗粉が光の粒になって、背景のカラフルな宇宙に彩を添えていく。
私は蝶君から遠くにピントを合わせ、再び自転しながら、無意識の世界を眺め渡した。
皆が共有している世界。それは境目のない世界。
上も下も右も左もなく、過去と未来だってない。時間は帯のように描写されて、空間に寄り添っている。
ありとあらゆるものがリンクしていて、複雑に混ざり合っていて、でもその全ての場所と私は交信することができた。
無限の彼方で真っ赤に燃える星と、間近に漂うチリの一つ。同時に認識し、手を繋ぐこともできる。
ミクロとマクロが等しい立場で共存する宇宙。
広い地底が砂粒よりも小さく見えるほど、無限に等しい世界。
「そっか……」
思わず呟いた。
ずっと、子供のころから私は、ここに憧れていたんだ。
自分の悩みをちっぽけにさせてくれる、この世界を求めてた。
第三の目を閉じなければ決して気づけなかった、この無意識の世界に。
そして、私は全てと繋がっていた。
こんなにも多くの存在が、無意識を持っていて、それを元に動いている。その法則がリアルアイムに伝わった。
無限の情報が体の中を流れていき、自分が全体に埋没していく安心感に、とろけてしまいそうだった。
[そうですね。貴方はこの世界に住む資格があると思われます]
プラネタリウムのナレーションの声が、私に合格を与えてくれる。
[もしかしたら、支配できるかもな]
捻くれた鬼さんの声が、私にいけない誘いをしてくる。
[ただのんびりと過ごすだけでも楽しそうだね]
はしゃいだ蝶君の声が、私の思っていたことと重なる。
[こいし様がお求めになっていた、自由が手に入りますよ]
優しいマリーの声が、私の背中を後押ししてくれる。
そして……小さい頃の私は、もう夢中になって翔けだしていた。
銀河の中へと推進していくその後ろ姿は、まるで旅する天体の一つになったようで、とても眩しくて、羨ましかった。
彼女は振り返った。こちらに向かって手招きをしている。今の私を待っている。
自然と足が前に出ていた。
こんな世界があるなら、他の何を捨てても構わない。
私の意識も無意識も、そんな想いに統一されて、踏み出す瞬間を待っていた。
けれども、飛び出そうとした私の体は、急に重りが加わったかのように速度を落とした。
体は前に向かっているのに、顔も先を向いているのに、右腕だけが遅れていて、いつまで経っても来てくれない。
見かねた小さな私が戻ってきて、指摘してくる。
[その持っているものも捨てなきゃ]
[……これを?]
私は自分が持っていた物に、視線を落とした。
それから理由もわからず、首を振った。
[これは駄目……これだけは捨てちゃ駄目]
[どうして? それを捨てれば、あっちの素敵な世界に行けるのに]
[それでも駄目。だって、まだ声が聞こえる気がするから]
[何も聞こえないよ。ただの石だもの]
私の持っている黒い石は、小さな私にとって、何の価値も無いようだった。
首を振って、私は彼女の指摘を訂正する。
[ただの石じゃないわ。これは、ほうき星の石]
ああ、そう。
ほうき星の石。失くしちゃったと思ったけど、ここにあったんだ。
とっても大事な、私の願いを叶えてくれた石。
私の願いは……えーと……。
[心を読む私達を、みんながもっと受け入れてくれますように……]
違った。それもあるけど、もっと他の願いだった気がする。
[誰にも嫌われることのない自由な世界に行きたい]
それも当たってるけど、でももっと別なお願いごとをしていたはず……。
あれ? 石から何かが聞こえてくる。
[何も聞こえないよ]
[聞こえるわ。私の名前を呼んでる]
[つまり、私の名前でもある]
[そう。貴方の名前。私達の名前]
[古明地こいし?]
[古明地こいし]
[誰が呼んでるの?]
[誰って……]
対話する私たちの遥か頭上で、光が炸裂した。
遠くでブラックホールみたいに漂っていた真の闇の一点に、星のようなものが見える。
その星から、一筋のまばゆい帯が螺旋を描いて、私たちの元に向かってきていた。
風にさからって懸命に飛ぶ鳥のイメージが、私の頭をよぎった。
そして、ついに光が私たちの元にたどり着いた時、声が聞こえた。
[こいし……!]
分厚い闇を切り開いて、光が声と共に舞い降りてくる。
[こいし……! 返事をして……! こいし……]
二つの私が重なって、同じ言葉を叫んだ。
[『お姉ちゃん』!!]
その瞬間に私達は、ほうき星に乗ってすごいスピードで浮上していった。
◆◇◆
[こいし、無事なのね!?]
命の息吹が吹き込まれ、しぼんでいた心が大きく膨む。
精根が体の中心から末端まで走り抜け、こいしは一瞬にして己を取り戻した。
慌てて左右に顔を振って確認する。
どこを見ても岩ばかりの周囲の景色から察するに、ここは旧都の郊外だ。
いつの間にか、あの地下牢を脱け出していたようだった。
無意識を操る能力を、まさしく無意識のままに使用したのかもしれない。
しかし、今のこいしにとっては、そんなことどうでもよかった。
石から聞こえてくる声。何よりも読みたかった心。
七十六年後の古明地さとりは、興奮を抑えきれない様子で言った。
[未来がまた変わったんです。気がつくと、元の地霊殿に帰ってきていました。しかも今度はほとんど全てといっていいほど、記憶の乱れが生じませんでした。つまり私の知っている、あるべき未来に戻れたんです]
「………………」
[貴方は死ななかった。やり遂げたんですね、こいし。しばらく連絡が取れなかったから、どれほど心配したことか……]
「姉さん……」
さとりが無事でいてくれたことに、こいしははじめ、安堵の息を吐いていた。
しかしその後に、どうしようもなく重たい気持ちが押し寄せてきた。
「ごめんなさい……姉さんの期待を、また裏切っちゃった。全部私のせいだったの。姉さんが頑張って築いてきたものを、全部壊しちゃった……私のせいで……」
こいしは懺悔する。
未来から情報を受け取った後に起こったことを全て伝える。
マリーの心を狂わせ、それを犯人の鬼に付け込まれ、今回の災いを起こしてしまったのが自分であったということも。
消沈するこいしの元に、よりはっきりとした声が届いた。
[こいし]
ハッとなり、こいしは顔を上げる。
目の前に、よく知っているようで、全く知らない覚り妖怪が立っていた。
未来の、七十六年後の古明地さとりから届いた心だ。
届く思念が膨大なために、はっきりとしたイメージとなって、今自分の前に現れたのだ。
「姉さん……」
こいしはそう呟いた直後、さとりに力いっぱい抱きしめられた。
[貴方は私の誇りです]
本当に、息が止まるかと思った。
[よく頑張りましたね。貴方は私を支えてきてくれただけじゃなく、旧都を救った。どれだけ感謝を伝えても伝えきれません]
「ち、違うよ。元はと言えば、私が無意識を操っていたせいで……」
[ならば、貴方がそうなるまで放っておいてしまった、私に責任があります。自ら苦しみを引き受けて、一人で抱え込もうとして、どんなに辛かったでしょう]
いたわりの心が申し訳なくて、こいしは首を振った。
「私のせいで姉さんはせっかく積み重ねてきたものを失って……」
[『今の』私にそんなもの、何の価値もありません。マリーからも、お燐とお空からも、他のペット達からも教わりました。そして何より貴方を失ったことで、ようやく気付くことができました]
抱きしめるさとりから、イメージが伝わってくる。
温かく、楽しく暮らし、そして旧都から疎外されてもいない、未来の地霊殿の光景だった。
[私の復讐は、鬼から権力を奪うことで達成できるものではなかった。覚り妖怪が幸せに過ごしているということを、皆に、そして私自身に、さらに私が受け継いだ覚り妖怪の魂達全てに知らしめることで、解き放たれるものだったんです]
「………………!」
[でももう、それだけじゃないわ]
こいしの『目』に映るイメージに、さらに別の光景が混ざった。
[別の世界で、不思議な出来事があったの。短い時間だったけど、すごく印象的だった。貴方を生き返らせるために無我夢中で動いていたけど、いつの間にか、自分が覚り妖怪であることを忘れて、旧都を取り戻すために戦っていた。旧都を愛して、共に戦おうとする皆が、眩しくて、羨ましく見えたかもしれない]
狂わされた未来に翻弄されながらも、戦いに挑むさとり。
彼女は独りで奮闘していたんだろうと、こいしは漠然と考えていた。
けれども違った。さとりの周りには仲間がいて、しかも心にはまだ出来たばかりの繋がりまで見えた。
さらに信じられないことに、姉がこのひどい経験を受け入れ、ワクワクしている様まで伝わってきたのだ。
[初めから諦めていただけで、もっと歩み寄るべきだったんじゃないかって、ちょっとだけ思った]
「姉さん……それって……」
[ええ]
そう言って、こいしが大好きな古明地さとりは、楽しそうに微笑んだ。
[確信まではできないけど、もしかすると、私も地底が好きになれるかもしれない。家族以外の誰かにも、心を開いてみる準備ができた気がするの]
嘘偽りのない、覚り妖怪同士の呼応だった。
だからこそ、さとりの告白に、こいしは呆然としていた。
これが夢じゃないことが信じられなかった。
――すごい……。
感嘆する。
姉はついに、覚り妖怪の業を、乗り越えてしまったのだ。
心を読む力を肯定的に捉え、恐れずに立ち向かい、さらに皆を傷つけることなく受け入れ、なおかつ受け入れられようとする。
最も贅沢で、最も欲張りな、願うだけで罰が当たりそうな生き方。
けれどもそれは、こいしが漠然と想像しつつも伝えられずにいた、理想の覚り妖怪だったのだ。
[全ては、こいし。貴方のおかげです。改めてお礼を言います。そして七十六年後に、私はもう一度、貴方に直接感謝を伝えますよ]
「………………」
[こいし……?]
何も言わずに、姉のイメージを抱きしめ、こいしは泣きじゃくった。
もっと早く、もっと早くその告白を受け取っていれば……。
違う未来もありえたかもしれない。同じ道を踏みしめて、追いかけることができたかもしれない。
けれども、
「ごめん……お姉ちゃん、もう間に合わないの……」
無意識の世界と溶け合ったことで、もう自分は足を踏み入れてしまった。そして選択もしてしまった。
引き返すことはできない。胸元の第三の目が、その瞬間へと着実に進んでいるのがわかる。
「私は……もう私は……」
不意に、違和感が起こった。
抱きしめていた温もりが、徐々に弱まっていくのだ。
淡雪が解けるかのように感触もなくなっていく。
「お姉ちゃん……?」
返事はなかった。
さとりが口を開いて何かを言おうとしている。しかし言葉は第三の目で拾えず、零れ落ちてしまう。
そしてその姿も、もう消えかかっていた。
「そんな……待って! まだ伝えたいことが!」
こいしは手を伸ばす。
その指は、むなしく宙を掴んだ。
◆◇◆
「こいし!!」
さとりは石に向かって、必死に呼びかける。
しかし、こいしの思念はもう微かにすら感じ取れなかった。
必死になって意識を集中させるものの、声は聞こえず、見えるものもない。
石の力が、ほとんどゼロに近いほど弱まっている。
「ああ……どうすれば……」
過去の妹を思い、さとりは地霊殿の書斎で膝をついた。
今こいしは、どんな気持ちで過ごしているだろう。
この世に味方が一人もいない、孤独に苛まれて。
今こそ側にいてやるべきなのに。そうしなければいけない、と思ってるのに。
本当はあの時に、何を置いてもそうしてあげるために、全力を尽くすべきだったのに。
どうか、ほうき星の神よ。
私の願いを聞き届けてください。
どんな罰であろうと受け入れます。妹の苦しみも、全て私が引き受けます。
だから、こんな別れにだけはしないで。お願いします。どうかお願いします。
石を額に押し当てて祈ったさとりは、もう一度、全力で交信を試してみる。
しかし、返ってきたのは地平の果てまで続く砂漠からガラスの一粒を見つけ出すような、無力感だった。
さとり自身が力不足というよりも、石自体から感じ取っていた力が弱くなっているのが原因のようだ。
せめて、元となる星の恵みがもっと近くにあれば……。
もっと近くに?
「……まさか」
不意に、七十六年前の事件の顛末が、さとりの心に甦った。
どうして、こいしは地上を目指した?
それがどれほどの大罪なのか、あの子は分かっていると言っていたのに。
今日までずっと、狂気にとりつかれたからだとばかり思っていたが、そうではなかったとしたら?
持っている石を見つめる。
これは、ほうき星の子。すなわち彗星のチリで出来た石だと、別世界の土蜘蛛は言っていた。
それが正しかったとしても、時空を飛び越える大魔法が、この小さな石だけで出来るとは到底考えにくい。
でもこれが、魔法の中継点なのだとしたら。
さとりは無我夢中で、部屋を飛び出した。
17 Link
音よりも速く、光よりも迷いなく。
それが無理だと分かっていても、気持ちだけはその勢いで。
さとりは、七十六年前に通った時と同じか、それ以上の速さで地上へと急いでいた。
あの時と同じだ。
額に汗を浮かべて、顔を歪ませて、足を血まみれにして、拳を握って。
けれども、体を突き動かす感情の質は、全く異なっている。
ただの人間になったようで滑稽だ? こんなのは覚り妖怪らしくない?
知ったことか。体裁を気にしていられる状況なんかじゃない。
長年の謎がついに氷解した今、血が流れようと、肌が切れようと構わなかった。
肉が裂けようと、骨が折れようとも、決して止まりはしない。
ただこの身体が進めばいい。迷いはもうとっくに消えた。
手には妹の忘れ形見がある。ほうき星の子。時空を越える魔法を生み出した奇跡の石。
けどこれがもし、魔法の中継点だとすれば、より母体に近い方がその恵みを受けられると考えるのが自然である。
すなわち、地底よりも地上の方が。
こいしは地底から逃げたのだと、さとりはずっと信じ込んでいた。
姉である自分を憎み、そこから逃れようとしたのだと思っていた。
けれども、そうではなかった。
こいしは逃げたんじゃない。狂ったのでもない。
彼女が地上を目指したのは、もっとシンプルな理由だった。
ほうき星を、目指したのだ。
未来の……すなわち『今』のさとりと繋がる細い糸が切れぬよう、あの星に近づこうとしていたのだ。
間に合うだろうか。
きっと間に合うはず、いや……間に合ったはずだ。
立ちはだかるものは、何もない。
妖怪だろうと怨霊だろうと、この『目』を見るだけで退散する。
例えそうでなくても、どんな障害があろうと貫いてみせる。
本気になった覚り妖怪を、止められる者がいるなら止めてみるがいい!
ついに空気が変わった。
体を駆け巡っていた熱気が、地上の空気によって冷やされる。
さとりの視線は、空の一点にくぎ付けとなった。
一筋の光が、夕闇を貫くように伸びている。
さとりは握りしめていた石を、第三の目に当てた。
まばゆい、跪きたくなるほどの力が降り注ぐ。
その力を束ね、思念のレーザーを過去へと飛ばす。
ほつれた糸が繋がり、心の波が再び、七十六年間を駆け抜ける。
[……お姉ちゃん……お姉ちゃん……!]
繋がった。
ノイズに混じって届く妹の声に、さとりも強く呼びかけた。
「こいし……!」
[……よかった通じて……!]
「ええ……!」
間に合った。追いかけても追いかけても届かなかった後ろ姿に、七十六年かけて、ついに追いついた。
疲労と安堵で倒れそうになるのを、何とかこらえる。
新鮮な空気を肺いっぱいに吸い込み、呼吸を整え、交信に集中する。
「地上にいるんですね? 今私も、地上に来ています」
[うん……よかった……お姉ちゃんが来てくれなかったら……どうしようかと思った……]
「こいしが望むのであれば、どこへでも行きますよ。けど正直、ギリギリでした。貴方の方こそ、よく勇気を出して地上に出ましたね」
[どうしても……話したくて……悪いことしちゃった……後で大変なことになるかも……]
途切れ途切れに、こいしの笑い声が聞こえてくる。
七十六年前であれば、確かにこれは旧都も幻想郷をも震撼させる大罪である。
けれども無論、さとりは今さら妹を叱るつもりなど毛頭なかった。
「でも……来てよかった……ほうき星って、あんな風に見えるんだ……プラネタリウムで見たのとも違う……素敵……」
憧憬の声が聞こえる。
過去のこいしが眺めている光景と、頭上の夕空の光景が重なった。
菫色の空に白色の尾を引いて、ほのかな輝きを見せる二つのほうき星が、寄り添うように飛んでいる。
さとりは感慨に耽る妹の心を受け入れ、それを受け止めてあげた。
彼女にとっては憧れの場所なのだから、出来ればいつまでも気の済むまで、そっとしておいてあげたい。
しかし、雰囲気に浸っていられる時間は、もう残り僅かに迫っていた。
「こいし。よく聞いて。貴方には自分の意志で道を選択する権利がある」
さとりは真剣な声で告げる。
「間もなく、過去の私がそこに現れます。望むのなら、そこから去りなさい。何を言われようと耳を貸さず、振り切って逃げてしまえば、『目』を閉じなくても済むかもしれません」
そうなれば、再び未来は変わり、さとりの記憶は失われるかもしれない。
けれども、地底の脅威は去り、今は当初懸案していたほどの事態にならないのではないか。
だがそれは方便に過ぎず、同じ過ちを繰り返すことになるだけなのだろうと、さとりもとうに自覚している。
ただ、知りたかったから、聞いた。
妹がどんな選択をしたのか。なぜ進んで目を閉じようとしたのか。
それが分からなければ、あの日からさとりの中の時間は止まったまま、動くことはない。
[私……無意識の世界を少しだけ見たの……。とっても広くて、優しくて、いいところで、憧れる……。でも本音を言うと、『目』を閉じるのは怖い……]
こいしがついに、秘密のベールを解き始める。
[私が今まで過ごした時間の……ほとんどを忘れちゃうかもしれないのも怖い……。私が私じゃなくなっちゃうかもしれないのも……やっぱり怖い]
だから、向こう側に行くのは諦める。
そう続くのではないかと、さとりは一瞬だけ思った。
しかし、
[でも……私は逃げない……姉さんと戦うことで目を永遠に閉じちゃうなら、それを受け入れるわ……]
「どうして……」
[だって……未来が変わったら……今話してる『お姉ちゃん』がいなくなっちゃうかもしれないから……]
七十六年越しに知った思いも寄らぬ真実に、さとりは声を呑んだ。
[私……『姉さん』のことは……大事に思ってる……でも……今ここで話してる『お姉ちゃん』は……絶対に消しちゃいけない存在なの……。私の目標で……誰よりも尊敬出来て……側にいてほしい人……。たとえ目が閉じちゃっても……私はお姉ちゃんと……これからを生きていきたい……。私も……もう一人の私も……同じことを思っていて、どうしても譲れないの……]
「………………」
さとりの目の前に、こいしの姿が現れた。
あの時と同じ表情をして、彼女は立っていた。
泣いているような笑っているような、そして夕闇が作るシルエットの中で、胸元にある『目』が青く輝いている。
まるで今まで過ごしてきた己の時が、ブルーの血に変わり、そのままこぼれているようだった。
[我が儘ばかりだね……私って。ごめんね……お姉ちゃん。こんなこと言っても……お姉ちゃんが困るだけなのに]
「………………」
[でもきっと……私はもう一度、お姉ちゃんに会えるよ]
「いいえ、貴方は逝ってしまう……。私が……」
殺してしまったから……。
けれども妹は、全てわかっているという風に、笑って言った。
[お姉ちゃん、前に言ってたよね……。意識っていうのはティーカップで……無意識っていうのは、その中に入っている紅茶みたいなものだって……。私、あの言葉とっても好きだけど……でもちょっとだけ違うと思うの]
こいしはさとりの手を取り、それを両手で包み込んで言った。
[だって、カップが割れて、中身がこぼれちゃっても……私は絶対お姉ちゃんの元を離れたりしない……。離れられないよ……。七十年離れてたって届いちゃう……誰にも切れない繋がりがあるんだから]
「こいし……」
[覚えてる? あの時の約束……]
こいしの姿が霞んでいく。
さとりの持つ石が光を失い、砂となってゆく。
[私が私である限り……きっとまたお姉ちゃんと私は会えるよ……そうしたら……]
声が今までで、一番遠くなった。
しかしその最後の一言は、さとりの『目』に、はっきりと届いた。
[二人で手を繋いで、ほうき星を見られるといいね]
18 Homecoming
どれほどの時間、泣いていたのだろう。
まだ夕暮れの空には――うっすらとではあるが、ほうき星が見えている。
しかし、さとりの周りには、もう何も残っていなかった。
魔法を与えてくれた石は砂となり、七十六年前の妹は幻となって消えた。
静かに俯いていると、風もないのに、側の草が揺れた。
瞬きの後、目の前に靴が現れる。
「あれ? お姉ちゃん、どうしてこんなところにいるの?」
さとりは顔を上げた。
帽子を深くかぶった、見慣れた少女の姿があった。
彼女は水たまりを観察するような表情で、こちらの顔を覗き込み、
「それ涙? 味見していい?」
「……すみません、こいし。情けない所を見せましたね」
さとりは瞼をハンカチで拭って、立ち上がった。
「どうして貴方は地上に?」
「お燐とお空がほうき星を見に行くって言ってたから、後を尾けてみたの。もう帰ろうかって思ってたけど、お姉ちゃんがいた」
「そう……」
「どうして泣いてたの?」
「なんでもありません、大丈夫です」
「ふーん。何でもないのに泣くなんて変なの」
帽子が落ちそうなほど首を傾けながら、こいしはさして興味なさげに言う。
やはり覚えていないのだ、何もかも。
そしてこれから先も思い出すことは、無いのかもしれない。
一度瞬きをすると、妹の姿はもう消えていた。
また無意識の世界を旅しに出かけたのだろう。
再び、独りの時間の中で、さとりは思いに耽った。
今度こそ、本当に別れを告げることができたはずなのに、達成感はなかった。
いまだ虚無に等しい喪失感が、心の隅に横たわっている。
七十六年間、埋まることのなかったこの気持ちは、きっとこれからも欠けたまま穴として残り続けるのだろう、きっと。
さとりは己を叱咤し、顔を持ち上げ、ほうき星を見つめた。
それは私に相応しい罰だ。
犯した罪から目を逸らさず、今の現実を受け入れる努力をしなくてはいけない。
そうでなければ、失った妹に、申し訳が立たないから。
だから、
「…………え?」
さとりは思わず隣を見た。
帰ったと思っていたこいしが、そこに立っていた。
しかも彼女は真剣な顔で、さとりの手を強く握っていた。
「こいし……」
「ん?」
「どうして……私の手を……」
「え、だって、だってだって」
いきなり邪険にされた子供のように、こいしは目を白黒させて、手を一度離し、
「……ほら、自分の手は上手くつなげないもん」
そう言って彼女は、自分の右手と左手を繋いで遊ぶ。
それからまた、さとりの方に視線を戻し、
「お姉ちゃん、手をつなぐの嫌だったの? 私そういうの『視え』ないから、ごめんね」
「いいえ」
さとりは首を振り、彼女の手を取った。
「嫌じゃないわ。びっくりしただけ」
こいしは不思議そうにこちらを見つめてくる。
いつものように姿を消して去ったりはしなかった。
彼女はさとりの目に、今までの妹とは違う、別の懐かしい存在に映った。
いいや、そうではない。
思わず苦笑する。
死んだだの別れを告げただの、ましてや虚無だのと、何を勝手に一人で落ち込んでいたのだろう。
マリーに叱られるわけだ。また大きな勘違いをしてしまうところだった。
七十六年前から、彼女はずっと待ってくれていたのに。
「ただいま、こいし」
さとりは妹に、そう伝えた。
こいしはますます妙な顔をする。
「どうして? ただいま?」
「ええ。おかえり、じゃないんです。ただいまなんです」
「ふ~ん」
相変わらず、わかったようなわからないような返事だ。
けれども彼女は、側を離れる気にはならないようだった。
さとりは妹と手を繋ぎ、肩を触れ合わせ、空を見上げる。
音にならない荘厳なメロディーが、天に描かれていた。
なんて雄大で、美しい景色なのだろう。
夕闇に飾られた星の鈴を、ほうき星が鳴らしているみたいだ。限りなく高潔な精神を覗けば、このように視えるだろうか。
心が洗われ、広がり、吸い込まれ、一つになりそう。
「お姉ちゃん、ほうき星って綺麗ね」
「そうね」
「願い事、考えた?」
「私の願い事は……もう叶ったわ。たくさんの願い事が、今日叶った……」
「あれって、いくらお願いしてもいいのよ。ずっと見えてるから」
「ええ。わかってる」
言葉を交わしながら、さとりは妹と並んで歩き始めた。
遠くの原っぱから、こちらに向かって、ペット達の影が駆けてくるのが見える。
息を吐くと、視線が再び空に吸い込まれ、心は星の海に広がる。
今日までの願い事は、全て叶えてもらった。
だから、これからの願いを考えよう。
私と、妹と、二人の覚りを支えてくれる家族と、これからできるかもしれない仲間のための、ささやかな願い事を。
繋いだ手の温もりを感じながら、そう心の内で呟く。
「いつかまた、皆で見に来ましょう、こいし」
「うん……」
こいしはうなずいて、手を握り返してくる。
空を流れる一筋の光は、何よりも強く、気高く、そして優しい光に映った。
古明地姉妹を扱う以上、心に踏み込んで意識無意識があーだこーだと言う作品になるのは避けて通れない道なのかもしれませんが
普段の作品の大半が綺麗に大団円を迎えるのに対して珍しく余韻の強く残るビターエンドとは…そういうのも好きじゃあ!
それにしても覚妖怪の可能性凄いですね
他人の恐怖をエサとするのではなく、心を読んだ他人の意志を、自分を通して発現させ、さらなる力とする…完全に主人公じゃないですか(※主人公です)
覚を超えた超覚
私は…超(スーパー)さとりだ!
しかしこれで二組の姉妹(ゴリラ姉妹、覚姉妹)をコンペ向け長編で扱った訳ですが、次は秋姉妹なんですかね(迷推理)
一気に読んで、とても楽しめました
他の妖怪からも恐れられる妖怪である覚りの解釈の仕方が素晴らしかったと思います。個人的には別世界での勇儀が出てくるところが凄くツボでした。
未来のレジスタンスも実に暑い展開でした
しかし女隊長パルスィとは…新しい・・・
結局未来は変わりませんでしたが、真実を知った分の救いはあったのかなぁと。
いつかこいしが目を開く時が来るのか来ないのか・・・。
個人的に、このこいしが希望の面を拾って、
希望に触れた時にどうなるのかなぁと気にはなったり。
この切なくも素晴らしい読後感を与えてくれてありがとう
涙出ました。とてもよかったです。
大分個人的な話ですが過去のトラウマを思い返して嘆いている様子ってすごく心に来ます…
例大祭のために早く寝るつもりがこの為体、いつも本当にありがたい限りです(錯乱)。
変わって、変えようとして、変わらなかった中の希望に落ち着くという展開はとても上手で手が止まりませんでした。
伏線というかストーリープロットの作り方が巧すぎます。
読み終わったあと、前編のプロローグを読み返した時の切なさったら。
最高でした。泣きました。
>こんぺ用
埋もれずに供養されて本当に良かった
もう、最高でした!書いてくれてありがとうとしか言えないです。
今回も引き込まれるように読んでしまいました。
ただ、今までの作品とは異なりお話に合わせて東方キャラを合わせただけではないか感が強く、少し残念でした。究極の妖怪と対峙しているさとり様はかっこよかったのですが違和感が。
お話は上手かったです。最後のさとりとこいしの会話には涙を流しました。
結局第三の目が開くことは無かったけど、さとりがこいしと向き合えるようになったことは読んでいてほっとした。
もうこれ以上言葉にできない
本当にありがとう
PNSさんの作品はいつもオリキャラ含めキャラクターにいやみがなくて、そのおかげか、ちょっとほろ苦いお話なのに、読み終えた今とても澄んだ気持ちです。
供養という形でも、読ませていただいてありがとうございました。
それまでの不幸の分、きっと二人は幸せに生きていけるはずです
散りばめられた謎が綺麗に、それにスッキリとはまっていく感覚はいつ感じても素晴らしいものだと感じます。
古明地姉妹のサードアイを巡るお話は数あれど、こんなに素敵な形のお話を読むことができて幸せです。
そして盛り上がるところではとことん盛り上がり、悲痛な部分は胸を締め付けるような文章。緩急に合わせて感情動かしまくりで読んでいました。
素晴らしいお話、本当に尊敬します。
私の中で、このお話を読む前後で二人の言葉遣いや会話の感情の篭もり方、普段の生活などは変わっていません。
なのにこのお話を読んでから、以前抱いていたイメージとは180度と言って良い程ポジティブなものに変わることが出来ました。少し影響され過ぎなのかもしれませんが(笑)
少し距離があったりする二人も魅力的だとは思うのですが、私はこのお話の中の二人のようにどれだけの時間や距離があっても、確かな絆で繋がっている二人がたまらなく好きです。
もう一度目が開いてハッピーエンドという類のものではないのに、これほど幸せであることを感じられるのは、ただただ素晴らしいと思います。
作品の執筆、投稿お疲れ様でした。
このお話と出会わせてくれて、ありがとうございます。
古明地姉妹で通信機の使用は前からあったものの、時越えを題材にするのは!
凄くドキドキワクワクしながら読みました。ほんと面白かったです。
さとりと旧都メンバーとの絆、76年越しの姉妹の絆、どちらも熱かったです。この後の地底の情景を思うとほっこりする。
ありがとうございます。