ぼろきれのような少女がひとり、夕空を見上げていた。
側には誰もおらず、そして周囲には何もなかった。
髪の毛は煤にまみれ、服の端は擦り切れ、素足は土で汚れていた。
青白い肌には痣や傷が浮き出ており、生乾きの血も貼りついていた。
涙の痕が残る顔には、いかなる表情も浮かんではいなかった。
虚ろな瞳は曇った鏡のようで、かすかに開いた口は眠りについた胎児のそれに似ていた。
草の香りの混じる風にも、彼女は反応を示さなかった。
鳥の声が遠くからやってきても、虫が足元を横切っても。おそらくは雨が降ろうとも、稲光に照らされようとも。
すなわち、少女の心は止まっていた。
視線は彼方の一点に繋ぎとめられたまま、動くことはなく。
両手は拳ほどの大きさの石を抱きしめたまま、やはり動くことはなく。
残りを全て世界に委ねたまま、大地の上に立ち尽くしている。
けれども、世界はいまだ少女に気付けずにいた。
なので彼女は、世界を一方的に眺めている。
少女の知っている空は、ずっと暗い岩でおおわれていた。
少女の知っている光は、冷たいか、あるいは熱過ぎた。
少女の知っている影は、もっと小さな火が生み出すものだった。
少女の知っている花は、枯れぬ代わりに水気もないものだった。
少女の知っている星は、生きて動く小さな命でしかなかった。
少女の住んでいた家は、壁に囲まれて閉じている場所だった。
少女のいた世界に、この風景にあるものは、何一つ存在していなかった。
そして、少女の知っている彼女自身も、もう殆どと言っていいほど存在していなかった。
夕日色に染め上げられた原っぱに、もう一つの影が生じる。
少女は振り向かなかった。
けれども止まっていた心が、真鍮の容器と変わらぬ身の内で、弱々しく脈を打った。
「……地底と地上の間に結ばれた条約、相互不可侵。これを踏み越えようとする存在を捕らえる権限と義務が、私にはある」
影が発した声が耳に届き、少女の心の内に、いくつものちぎれた言の葉が踊った。
失態、脱獄、追跡、侵犯、行方、覚り、危険、業火、破滅、生死、手段、不問。
「しかも貴方にはもう一つ、先日の重大な犯罪に関する容疑がかかっている。どう転んでも重罰は免れない」
言の葉は消え、今度は炎が浮かんだ。
暴れ狂う眩い赤の中で、轟音と共に崩壊する建物。煙の中を逃げまどう影と、憎悪に満ちた夥しい数の瞳。
その光景は、少女が失いかけていた記憶の中にも、陽炎となって残っていた。
「抵抗する気がないなら、今すぐ許しを請い、私と共に戻りなさい」
少女の耳は、声を全て聞き取っていた。
しかし少女の心は、いまだ沈黙を保っていた。
夕闇を貫く孤独な光、胸元に抱きしめられた石。
彼女のいる世界には、元よりその二つしか存在していない。
「こいしっ!!」
叱声が背を打擲する。
少女は石を胸元で抱きしめたまま、おもむろに振り返る。
こいし。それが自分の呼び名であることを、少女はまだかろうじて覚えていた。
夕日を背負う影とはじめて対峙した瞬間、膨大な念の吹雪が『目』に送られてきた。
どうしてあんなことをしでかしたのか。どうしてこんなことをしでかしたのか。
なぜ今になって、地霊殿の主であり、姉である私を裏切ったのか。
全てを納得させられる答えが返ってこない限り、許しはしない。
少女はそれらを全て読み上げ、そして全てを虚空へと還していく。
答えるつもりはなかった。
本当のことをわかってもらえるのは、ずっと先のことになるだろうから。
今は何を語っても、理解はしてくれない。
だから少女は――心の欠け落ちた妖怪は、石を抱きしめたまま、一言だけ伝えた。
「……さようなら……『姉さん』」
その遥か頭上で、尾を伸ばした光が、夜闇の中に消えようとしていた。
それから間もなく、地底で確認されている覚り妖怪は、二人から一人となった。
妹が姉に残した謎。その秘密の箱が再び開くのは、七十六年後のことになる。
――ほうき星のパラドクス――
1 Lapis
壁は無地。天井も無地。
装飾に乏しい絨毯と燭台が、わざわざ主演を務めなければいけないほど殺風景な造りの廊下。
敢えてよいところを見つけるとすれば、幅がたっぷりとある割に、掃除が隅々まで行き届いているというところくらいだった。
地底は旧都の中心部に建つ、地霊殿内の通路。ここではペット達が毎日交代で、自分達の落とした毛をせっせと掃いている。
そんな長くて広々とした廊下を、人型の妖獣が二人、言葉を交わしながら歩いていた。
「消えない流れ星?」
「そう。消えない流れ星。といっても、すぐに消えないってだけだけどね。『ほうき星』っていうんだって」
と語るのは、三つ編みを伸ばした赤い髪から、黒い猫耳を生やしたゴスロリ風の化け猫。
隣を行くのは、墨色の翼を持ち、緑の大きなリボンを黒髪に結んだ、ロングヘアーの化け鴉。
猫の方はダークグリーンのお洒落なワンピースで、鴉の方はシックな白のブラウスに緑のスカート。
尾も含めてスリムかつ曲線的な体つきな猫と、直線で構成されたパーツに肉感的なボディを与えられた鴉。
横に並ぶと特徴が綺麗に分かれていて、メリハリの効いているコンビだ。
火車の火焔猫燐、通称お燐は小鼻を得意げに動かして解説する。
「何十年かに一度やって来る、長い尻尾を持ったお星様なんだよ。一週間か、あるいはそれ以上見えてることもあるんだとさ。地上でもなかなかの騒ぎになってて、お祭りも開かれてるみたいだよ」
「ふーん」
地獄鴉の霊烏路空、通称お空はピンとこない様子で歩きながら尋ねる。
「面白そうだけど、お燐がそんなにウキウキする程のものなの?」
「ほら。前に地上に、お空と一緒に流れ星に願い事しに出かけたことあったでしょ。まさか忘れちゃいないよね」
「えーと……あ、覚えてる覚えてる。でも、何をお願いしたか忘れちゃった」
「あっそ。まぁでも実際、何お願いしたって無駄だったんだよ、あの時は」
それまで上機嫌で話していたお燐は、一転、悔しそうに口を尖らせる。
「あたいも流れ星が、あんな一瞬で消えちゃうもんだとは思わなかったからさぁ……」
地底では近年になって、地上との交流が増えたことにより、天体観測のブームが起こっている。
特に中秋の名月と並んで人気を呼んでいるのが、流星群の観測だった。
流れ星が消えるまでに三回、願い事を唱えると叶うという言い伝えは、地上ではありきたりなものだ。
ところが、偽物の夜空しか眺めてこなかった地底の妖怪達にとっては、昨今までそれは百年間禁じられた遊びだったわけで、この機会にまた楽しもうという風潮が生まれるのも、ごくごく自然な話なのであった。
地上に出かけることが多く、なおかつ流行に敏感なお燐も、とっくにその波に乗っかっている。
しかしながら以前、お空を誘って地上に出かけた際、本物の流れ星を目の当たりにして、お燐は見事なまでに思い知らされた。
すなわち、流れ星に三度願うという行為が、超がつくほど難易度の高い作業であるということを。
実際の流れ星は、いずれも消えるまでにほんの一秒くらいしか輝かず、すぐに燃え尽きてしまったのだ。
「願い事しようにも、全っ然間に合わなくてガッカリしたんだよね。大急ぎで言おうとすると舌まで噛みそうになるし」
一応、対策として「色白、髪黒、髪長」や「ぬけ星、ぬけ星、ぬけ星」などと願い事を省略する裏技もあるらしい。
が、妥協してそれらを借用してもなお至難の業であることには変わりなかった。
降ってくる星に喚きながら右往左往する自分達は、地上の者達からはさぞかしお間抜けに見えたことだろう。
「でもほうき星のような消えない流れ星なら、ずっと見えているから……」
とお燐が説明し終える前に、お空が手を鳴らす。
「わかった! ちゃんと三回お願い事が言えるってことね!」
「三回なんてもんじゃないよ! 一晩中見えてるんだから、三十回でも三百回でも言える! つまり! 願い事し放題さ!」
「し、し放題!?」
「そう! し放題!」
お燐はお星さまのように目を輝かせて言う。
それを聞いたお空の目にも、きらきら星が転写された。
「しほーだい!」
彼女は指を立てた親友の腕にひっつくようにして声を弾ませ、
「お燐! それってすごい! 私も絶対絶対行きたい!」
「でしょ!? そうこなくっちゃ! お空は、どんな願い事がいい?」
「うーんと、えーと……! うー、いっぱいあるー!」
「あははっ。じっくり考えて、メモして行こうよ。まだ時間はたっぷりあるんだしさ」
「……あ、思い出した! 前に行った時、何をお願いしようと思ったか!」
お空は赤く輝く胸を張って言う。
「『早口言葉が得意になりますように』! これなら流れ星が速くてもお願いごとがちゃんと言えるわ! 頭いいでしょ!?」
「………………」
あるいはただのバカだね、という言葉をお燐は呑みこんだ。
「……まぁ、確かに重要なスキルだし、いいんじゃないかな」
と、適当に相槌を打っておく。
暢気な相談をしながら歩いている間に、お燐にとっての目的地が近づいてきた。
平たいチョコレートに動物の影を映したような、品のある木製の扉だ。
廊下にある他のものとは形式と装飾が異なっていて、札がかかってなくとも特別な雰囲気がある。
「でさ? どうせ見に行くなら、地霊殿のみんなでピクニックなんていいんじゃないかなって」
「わー。でも、許してもらえるかな」
「それを許してもらうために、あたい達は今ここに来たってわけさ」
お燐はそう言って扉の前に立ち、ノックする。
「さとり様ー」
『二人で行ってきなさい』
「………………」
「相談があるんですが」と話を切りだす前に、扉の向こうから否定の声が返ってきた。
じゃれ付いた主人の足による鮮やかなゴールキック。お燐は一瞬、後ろに倒れそうになる。
が、めげずに再度ドアに向かって、
「ま、まだ何も言ってませんよあたい!」
『私には全て「聞こえて」ましたけど』
「………………」
『ほうき星を見に行きたいんでしょう。いいですよ。楽しんでらっしゃい』
「そうじゃなくて、さとり様も一緒に……」
『私みたいな妖怪が地上に行くと、色々と揉め事を呼んでしまいます。地上の皆さんに迷惑をかけるわけにはいかないわ。私の代わりに楽しんできなさい』
お燐は猫車を押して氷の滑り台を逆走するかのような気持ちに囚われた。
劣勢の火車に代わって、隣で見守っていた地獄鴉が主人に挑戦する。
「で、でも、みんなで行った方がきっと楽しいですよ!」
『ええ。そうですね。お空がそうしたいなら、他の子達を誘っても構いませんよ。私は行けないけど』
「どうしてですか!」
『私が覚り妖怪だからです』
「覚り妖怪は地上に行っちゃダメなんですか?」
『そういうことです』
それが世の理だと言わんばかりの、悲嘆も苦痛もない、ただありのままの事実を語るがごとき返事だった。
口をへの字にして呻いていたお空は、まだ承伏しかねる様子で続けようとする。
「でも、こいし様は、いつも地上に……」
「おっ、お空! このバカ! しーっ、しーっ!」
黙っても意味がないことは分かっているのだが、ついお燐は口に指を立ててしまう。
叱られなかったものの、部屋の向こうにいる主人の態度が、さらに硬化したような気がした。
なおも粘ろうとするお空の両肩を掴み、お燐は無理やり方向転換する。
「了解しましたー。さとり様は行けないってことでー。それじゃあ失礼しまーす」
『他の子達を連れていく場合は、あらかじめ私に顔ぶれを知らせてちょうだいね』
「かしこまりましたー」
二人は廊下を後戻り。
ただし、両者ともスキップ気味だった足取りが、折れた竿を担ぐ釣り人のような歩調に変わっていた。
「……しょうがないから、他にも誰か適当に誘って、行くか」
「待ってお燐! 諦めちゃうの!?」
お空は信じられないといった顔つきになり、腕を掴んで揺さぶりながら、
「さとり様も行かないとつまんないじゃない。もっと粘ってみようよ」
「あたいだって一緒に行きたいさそりゃあ。でも、ああなったら泣こうが喚こうが通用しないよ」
そもそも、心を先読みしてしまう妖怪相手に、どうやって交渉で粘り倒せというのか。
よほど有効なカードが運良く回ってこない限り、一方的にチップを奪われて、テーブルからどくのが関の山。
それは相手が可愛いペットであろうと同じことだった。地霊殿の主人は、優しくはあっても、決して甘くはないのだ。
「それじゃあ、説得する以外のいい方法を考えようよ」
「あいにく、あたいにゃ何も思いつかないね。お空は何かアイディアでもあるの?」
「んーとね。さとり様は地上に行きたくないんでしょ? だから、ちょっと思ったんだけど」
んー、とお空は口に指を当てて考える。
「私の核エネルギーで、どっかーんって地上まで通じる穴を開けて、地霊殿からもお星様が見えるようにする……おお! ナイスアイディア! 私って天才かも!」
「はいはい。どうせそんな程度だろうと思ったよ」
物騒極まりないナイスアイディアに対し、お燐はフンとわざとらしく鼻を鳴らして、
「言っとくけどね。いくらあんたのバカエネルギーでバカみたいにどデカい大穴を開けようとしても、地上まではバカみたいに遠いんだよ。できっこないさ」
「むむ」
「その間にある岩盤も『バカ』みたいに頑丈だし、それに仮にその『バカ』な考えが成功したとしても、どうせ『バカ』みたいな騒ぎになって、結局どっかの『バカ』のせいで、さとり様も含めてあたいら全員途方もなく『バカ』らしい迷惑を被る羽目に……」
「何よ! そこまで積極的にバカバカ言うことないでしょ!」
「った!?」
つんのめったお燐が、キッと横を睨む。
「ちょっとお空! 暴力反対!」
「え? 私何もしてないよ」
「とぼけんじゃないよ! 今私にぶつかったじゃん! 得意の鳥頭で忘れたふりしようったってそうはいかないよ!」
「本当だって! なんで信じてくれないのよ!」
「前科が山ほどあるからだこのバカ!」
「あー! またバカって言った!」
「フーッ!」
「カァーッ!」
ペット達は廊下の真ん中で、激しい口喧嘩を始める。
頭に血が上った二人は、たった今歩いてきた絨毯に、ちゃっかり一人分の足跡が追加されていく様に気が付かなかった。
◆◇◆
椅子に腰かけた妖怪は、二つの目を薄く開け、ぼんやりと視線を空中に遊ばせていた。
水色の大きめのサイズのブラウスと桃色のスカートは、いずれも薄暗い部屋の中に溶け込み、無表情の白い顔もランプの灯から遠い。
両の手のひらは行儀よく膝の上で組まれ、スリッパもつま先を揃えられたまま、動かなかった。
ただ一つ、赤い管で彼女の身体に繋がれた拳大の『目』が明滅し、遠くでペット達が言い争う様子を読み取っている。
――もっとひどい喧嘩になるようなら、仲裁しに行かないといけないかしら。
片方は妖怪の天敵である怨霊を手なずけた猫。もう片方は核融合という桁外れのエネルギーを操る鴉。
一個の妖怪として強い力を手に入れても、中身が動物の頃と変わらないのは、過去のどのペットにも共通する性質だ。
可愛がる主人としては、喜ばしくもあり、頭痛のタネでもあった。
古明地さとりは机に向き直り、中断していた作業を再開することにした。
執務室の空間の半分を占めるのは、左右の壁を覆い隠す書架。
大半は是非曲直庁から仰せつかった仕事のための書類や管理記録だが、いくつかの棚には休憩時に読む本も混ざっている。
地底で書かれたものや、地上から持ち込まれたもの。数少ない自分の趣味のために、今日まで長年かけて集めてきた。
しかし、机の上に置かれているのは、開かれた本ではなかった。
石。
大きさは手におさまるサイズで、表面は黒ずんでいて光沢もなく、地上でも地底でも珍しくはない類の石。
机の上だけではなく、椅子の傍に置かれている籠の中にも、同じ色合いで似た形状の石が積んである。
いずれも、さとりが自分の手で拾い集めたものだった。
石の一つを手に取り、胸の辺りに持っていく。
そこには他者の意識を読み取ることのできる、覚り妖怪特有の器官、『第三の目』があった。
さとりは掌の上をじっと、己の『目』で凝視する。
石の奥にあるであろう何かを、集中して探ろうとする。
その何かが実際に何なのかは、さとりにも分からない。
普通に考えれば、石からこの『目』を用いて読み取ろうとしている以上、その『何か』は石の意識ということになる。
仮に意識以外のものが読み取れれば、あるいはそれは……無意識と呼べるのかもしれない。
やがて第三の目が映し出すイメージの中に、屋敷の中をうろつく無数の心が、影となって踊り始めた。
集中が深くなってきた証拠である。このまま続ければ地霊殿だけではなく、地底全土までその範囲を広げることもできる。
しかし、映し出されたそれらの心は、いずれも生きて動いていた。妖怪か動物か、あるいは蟲が有する意識だ。
それでは、意味がない。さとりが読もうとしているものは、もっと無機質であるか、あるいは死んで干からびていなくてはならない。
もしくはもっと原始的であってほしく、黒蟻の群れに落ちた紅玉のような、あるいは紅玉の山を這う一匹の黒蟻のような、はっきりとした違いがあってほしい。
結局、自分が望んでいるものが何なのか、そして本当に存在するのかもはっきりとしない以上、夢想に終わるだけかもしれないが。
自虐的な考えを己の中から退け、さとりは諦めることなく挑戦し続けた。
無風の中で凧を飛ばそうとするような無力感に抗いつつ、ひたむきに潜っていく。
気が付けば、風を切って飛んでいた。
息を弾ませ、己の動悸を耳元で聞きながら、洞穴の中を進んでいる。
鉛の靴を履いているような重みに、弱火で炙られているような痛みが加わった。
下を見れば、くるぶしが血で濡れていた。岩肌で切ったのだろう。
闇が蔓延る洞穴の中を、泳ぐように進む。
複雑にうねった道ではあるが、障害となる存在はなかった。
妖怪だろうと怨霊だろうと、この『目』を見るだけで退散する。
可能な限り急いでいるのに、どうして追い付けないのだろう。
額に汗を浮かべて、顔を歪ませて、足を血まみれにして、拳を握って。
こんなのは、ただの人間になったようで滑稽だ。妖怪らしくないし、私らしくもない。
奥歯が鳴る。
ともかく、なんとしてでも地上の者達に見つかる前に、捕らえなくては。
墨に水が溶けこむように、周囲の闇が薄まっていく。
洞穴内を流れる湿った重たい風に、草と土の匂いが混ざり始める。
そしてついに、空気がはっきりと変わり……
――ただの記憶に過ぎない。
さとりは冷静に、己の心の内で断じた。
瞑想中に過去の出来事が頭を過ぎるのは、初めてではない。
特にこの試行においては、一番の障害といえた。
嫌な記憶というのは、逃げればどこまで追いかけてくる。
だから食べるしかない。心の専門家であれば、呑み込むのも早い。
深呼吸を繰り返すにつれて、記憶は彼方へと過ぎ去り、心が整った。
より深い瞑想状態に入ったさとりは、いよいよ手と一体化した石――その中身に意識を溶かしていった。
深く、もっと深く、もっと奥へと。
地の底よりも暗い世界で、何かが見つかることを、あるいは何かに自分を見つけてもらえることを信じて。
コン、ココン、ココッコココン……
瞑想が、不規則なノックの音に邪魔された。
さとりはそれを無視し、一瞬乱れた集中を取り戻そうとしたが、
ココン、コココン、ドンドン、ドドンドン……
奇妙なノックはさらに続き、しまいには杭でも打ち付けているのかと思うほど乱暴になってきた。
仕方なく、さとりはトレーニングを止めて石を置き、手巾で指についた煤をぬぐって立ち上がる。
扉へと向かい、ノブを捻って引くと、黄色のリボンを結んだ鴉羽色の帽子が目に飛び込んできた。
視線を下げると、ひし形のボタンで留めた山吹色の上着、そして萌葱色のスカート。
いかにも外出から戻ってきた風の服装の彼女は、ドアが開いているにも関わらず、何もない空間を叩くようにひたすら拳を動かし続けていた。
「こいし」
さとりが名前を呼ぶと、ようやく妹はシャドーノッキングを中断し、顔を上げる。
クセのついたグリーンの髪の間から覗く顔は、鏡で見慣れた自分の容貌とよく似ていた。
違いはがらんどうの表情と、瞳の色。だがそれだけで、まるで血の繋がりのない他人のような印象も抱かせる。
無意識妖怪、古明地こいしは瞬きを繰り返し、
「あれ? お姉ちゃん、いたの? いないと思ってた」
「ならどうしてノックを続けたの」
「えっとね。廊下を歩いてたら、お姉ちゃんの部屋のドアがあって、しばらくノックしてなかったから、やってみたの」
「そう……」
「入っていい?」
「今はちょっと」
散らかっていて、と断る前に、こいしの姿が霞んでいく。
そよ風が側を通った、と思った時には、もう妹は部屋の中に入り込んでいた。
「おー」
こいしは机の上の石に興味を示したらしく、早速それらを一つ一つ手に取っては確かめている。
やがて彼女は手頃な二つの石を選んで、それらをカチカチと打ち鳴らし始めた。
思うところのあったさとりは、妹に問いかける。
「こいし。もしかして貴方は石の声が聞こえたりするの?」
「石の声?」
こいしは問い返しながら、振り返った。
それから何を思ったのか、二つの石を両耳に当てて、大声を出し始める。
「あー! あー! 聞こえますかー! こちらはこいしー、応答どうぞー」
「わかったわ。もういいから、その石を元の場所に戻してちょうだい」
「あれ? お姉ちゃんの声も聞こえなくなっちゃった」
「………………」
「お姉ちゃーん。何か喋ってみてー」
さとりは無言で歩み寄り、こいしの手から石を取り上げようとした。
が、またも相手の姿は霞んでしまい、風だけが伸ばした腕の下をすり抜けていく。
さとりは肩を落として振り返り、扉の方に移動している妹の姿を見た。
彼女は耳に当てていた二つの石ころを、上着のポケットにつっこみ、
「これ、私がもらうね]
「どうしてその二つを選んだのですか? 何か惹かれるものがあったとか?」
「一番上に載ってたから」
あっけらかんとした中身のない答えに、さとりは眉間をつまみたくなる気持ちを抑え、話を整理する。
「つまり貴方はたまたまこの部屋の前に来て、ドアがあったからとりあえずノックをしてみて、たまたま机の上に石があったから、自分のものにしてみようと思った、と」
「たぶんそう。わかんないけど」
「………………」
第三の目では、無意識を読み取ることはできない。
しかし仮に読むことができたとしても、それを言語に表わすことができるのだろうか。
妹と会話をしていると、時々そんなエニグマがさとりの頭を過ぎる。
「用事が済んだのなら、一人にしてちょうだい、こいし。扉は閉めて行ってね」
「えーと、あ、そうだ。お姉ちゃん。マリーが動かなくなっちゃったわ」
「動かなくなった?」
「うん。玄関で一緒にダンスしてたんだけど、途中で倒れちゃったの。ここまで引きずってこようと思ったけど、重いからやめた」
さとりはしばらく、かける言葉を見失っていた。
いくつもの感情の起伏が過ぎ去っていき、あとには平らな地平が残った。
「……報せてくれて、ありがとうこいし」
「どうして御礼を言うの?」
「大切なことだから。そのうち、貴方もわかるようになると思うわ」
「ふーん」
さよならも言わず、妹は廊下を走り去っていく。
部屋を出る支度をしながら、さとりは呟いた。
「そのうち……いつか……きっと……」
その意味を再び思い出してくれることを、古明地さとりは祈り続けている。
七十余年もの間、ただひたすらに。
2 Grave
執務室に鍵をかけ終えたさとりは、廊下を飛んで移動し、目的の場所へと向かった。
地霊殿の廊下は物がほとんど置かれておらず、急用の際も行き来しやすい造りになっている。
調度品の類が少ないのは、他に掃除しやすいなどのメリットがあるが、最も重大な理由はこいしにあった。
割れやすい壺や取り外しが簡単な絵などは、妹がその『目』を閉じてから、全て物置にしまう必要が生じたのだ。
ただし、エントランスホールだけは今も昔と変わらぬ外観を保っている。
正面階段にたどり着いたさとりは、地霊殿の玄関口を見下ろした。
ゴシック建築を元にして造った、白い石柱とアーチを描いた天井が、静謐な雰囲気を創っていた。
相似の形状をした窓のいくつかには、四色のステンドグラスがはめ込まれている。
それらは裏側にある乏しい光源を筆に変えて、床に張られたタイルに幾何学的な魔方陣を描いていた。
その魔方陣の中央に、灰色の獣が横たわっていた。
四肢を投げ出して動かぬその姿は痛ましくも、天井からの光に守られていて、どこか神の祝福を受ける殉教者の空気をまとっていた。
さとりは猫の側にふわりと降り立ち、その身体を抱き上げる。
「…………マリー」
呼びかけると、猫は瞼を震わせて、薄く目を開いた。
毛並みには艶がなく、緑色だった瞳も濁っている。もう人型を保っていられないほど衰弱しているのが見て取れた。
しかし、さとりが触れてから間もなく彼女の体に、生き物の温もりとは異なる、懐炉のごとき熱が生じ、
[……これは何ともったいのない……]
第三の目を通して、心の発する音が、イメージを伴って届く。
抱き上げたペットの声は、錆びたオルゴールの音色に聴こえた。
「こいしが無理をさせたみたいね」
[……滅相もございません]
猫は柔らかく目を閉じて応えた。
[最期に、ご主人様と踊らせていただくだなんて、仕えるペットにとってこれほどの名誉がございましょうか。その誘惑に、耐えきれませんでした]
オルゴールの周囲に、白い蕾がいくつも現れる。
花はここに住む動物たちが愛を示すイメージとしてよく出てくる。
老いた猫が用意した白薔薇のブーケは、彼女がこいしのことをどう思っているかが、言葉よりも分かりやすく伝わった。
猫は地霊殿で比較的多い動物で、主人であるさとりも触れる機会が多い。
しかし、彼女を抱きかかえたのは、数十年ぶりのことだった。
「もしかして、私にもこいしにも知られぬよう出ていくつもりだったのですか」
[猫ですからね……]
マリーは幾分、自嘲気味に応えた。
[死に際には、静かな場所へと自然に足が向くのかもしれません]
「私の世話になりたくないというのが本音だったのでは?」
[何と恐れ多い]
「誤解だったのであれば、何よりです。どちらにせよ、私は何があろうと責任を持って、貴方達の面倒をみるつもりでいますよ。ゆりかごから墓場まで」
[ペットが己に向ける感情に関わらず、ですか。お変わりないですね、さとり様は]
ぜいぜいとした呼吸音が、猫の口の端から漏れ出る。
ため息をつこうとして失敗したようだった。
[しかし、さとり様は誤解しております。今日の内、ここを発つ前に、さとり様に顔を見せるつもりでありました。私が逝く前に、どうしても告白しなくてはならないことがございましたから]
「告白? 何をです?」
[こいし様が遺した、秘密のことです]
己の顔から血の気が引くのを、さとりははっきりと感じた。
「……迂闊だったわ」
ぽつりと言う。
「こいしに一番長く仕えていた貴方なら、私の知らない何らかの事実を知っていてもおかしくはない。いや……」
すぐに疑問が生じた。
たとえ何かを知っていても、覚り妖怪である自分に秘密を隠し通せるものだろうか。
それも三日やそこらの話ではない。少なく見積もっても、数十年は秘密にしていただろうに。
それに、どうして今までそれを隠していたというのか。
しかし、抱き上げた身体の奥に潜む心には、虚飾の類は見当たらなかった。
[これからお話しいたします。ですがその前に、お手数ながら、さとり様に連れて行っていただきたい場所がございます]
「どこへ……」
第三の目に映った風景は、さとりにとって意外な場所だった。
[もはや外を流離う力もありません。ならばせめて、埋められる場所くらいは選ばせていただければ、と]
足一本動かせない状態で、ぬけぬけと小さな獣は言った。
◆◇◆
絢爛な鬼の都、旧都の中央に建つ地霊殿ではあるが、その周囲は建物が少なく、栄えているとは言い難い。
それに丘というには険しすぎる切り立った台地の上にあるので、どちらかといえば街から孤立した印象を与えている。
しかし、この建物がなければ旧都の住人は怨霊に苛まれ、あるいは灼熱の業火に怯えながら生きなくてはならない、というのは動かぬ現実だった。
二つの災いの元の管理を任された地霊殿の主は、地底の脳幹たる己の役目を自負しつつ、今日まで機械的にその仕事をこなし続けてきた。
遠くの街並みを横目に、さとりは老いた猫を抱いて裏庭の道を歩く。
綺麗に刈り揃えられた芝生も、道端に咲いている青い薔薇も、全て作り物だ。
日の光が届かない地底では、まともな植物は育たない。
それでも作り物にはいいところもある。手入れせずとも、枯れることなく、いつまでも咲いてくれるところとか。
裏庭に限らず、地霊殿は概ねどこも静かで清澄な雰囲気が漂う造りになっている。
おかげで幸せなことに、下界の野蛮とも評せる空気も、ここまで届くことはなかった。
屋敷の当主である自分が、彼らと迎合する機会がない限り、これからもここは旧都の孤島のままだろう。
共生とも共存ともまるで異なる、ただ同じくこの地の底を与えられた関係。地底で暮らすようになってから、ずっとそれは変わらない。
さとりの行き先は、すぐ近くにある墓地だった。
そこにはかつて地霊殿に暮らしていた動物達が埋葬されている。
「貴方には、ふさわしい墓を用意するつもりでした」
さとりは歩きながら沈黙を破る。
「こいしが『目』を閉じてからも、貴方だけはずっと、彼女に根気よく寄り添い続けてくれたから」
[どんなお姿に変わられようと、私にとって、こいし様はいつまでもこいし様のままでございます]
マリーはそう応える。
自由気ままな猫の血を持つ半妖にしては、珍しいほどの忠誠心だった。
[しかしながら、私はいつまでもあの御方のペットのままではいられなかったようです。これもまた、さだめなのでしょうか]
「……………………」
地霊殿内におけるペットの全てが妖怪化するわけではない。
それらは元々は普通の動物であり、ある種の資質がなければ、能力は持てても、完全な妖怪にはなれない。
マリーのように半妖のまま、通常の猫や犬よりは長く、妖怪よりは短い寿命を全うするペットも、決して少なくはなかった。
[……そういえば、さとり様はあの子らと一緒に、ほうき星を見には行かれないのですか]
意外な話を振られ、さとりは偽物の花道から、抱いている猫の方へと視線を移す。
「なんのためにですか?」
[もちろん願い事でございますよ。妖怪にとって、ほうき星は古来より、妖気を育んでくれる有り難き存在と聞いております]
長く生きているだけあって、彼女は猫にしては色々な知識を持っていた。
[しかも数十年に一度の貴重な機会です。手を合わせて拝みに行くだけでも御利益がありそうではないですか]
「神頼みに興味はありません。神にさえ嫌われているのが、私の一族ですから」
[なるほど……お気の毒なことです]
「貴方が望むなら、寿命が少しでも延びるよう、祈りに行ってあげてもいいですよ」
[ふふ。ほうき星に願掛けせずとも、私の望みは間もなく叶います。さとり様次第ではありますが]
やがて二人は、もっとも奥にある一つの墓の前に到着した。
「ここにその秘密が?」
[いいえ。ここには願い事をしに来ました。さとり様、私が逝った後は、このお墓の名前を削ってくださいませ]
猫は墓を向いたまま言った。
そしてその心は、抱いているさとりの方に視線を向けていた。
[そして私の名に換え、骸をここに埋めてください。これが私の最後の願いです]
半分に下りた瞼が、硬質な光を隠している。
表情は挑戦的で油断なく、主人であっても容赦しない心構えが窺えた。
さとりはしばらく、口を固く閉ざしていた。
しまいに、肩を落として嘆息する。
「まさか、こんな条件を出してくるとは……」
[さとり様。怒っておいでですか]
「いいえ」
[どうか勘気をお鎮めくださいまし……]
「怒ってなどいません。呆れているだけです。そもそも私がその気ならば、わざわざこんな茶番に付き合う必要がないことを、貴方も知っているはずよ」
何を隠していたとしても、いつでもその心から一方的に中身を吸い出すことができる。
それが覚り妖怪に与えられた特権であり、ありとあらゆる秘密に対する、絶対的な力だ。
しかしながら、心を読むという作業は、少なからず相手の肉体に悪影響を及ぼす。
すでに虫の息にある猫の心を無理矢理解剖すれば、秘密を読み取る前に命を奪ってしまう可能性もあった。
――そういうことか……。
さとりはここに来て、マリーが今まで秘密を隠し続けてきた理由に思い当たった。
もし彼女が健康な状態であれば、この交渉は不成立に終わり、さとりが強引に心を読むことで勝利していた。
事実、彼女の望みは、さとりにとって素直に首を縦に振るには、いささか重い条件だった。
しかしペットの遺言であり、なおかつ今にも闇に葬られようとしている情報を対価に出されれば、形だけでも約束せざるを得ない。
マリーはそれを承知で、このような捨て身の交渉を持ちかけてきたのだろう。
「飼い猫に手を引っかかれたのは久しぶりですよ」
[約束していただけますか]
「……ええ」
[誓ってくださいませ]
「誓いますよ。呪われた先祖と、この墓の主に」
[ありがとうございます。では、私も潔くお話しいたします]
マリーは体を震わせ、首を伸ばして語り始めた。
[七十六年前、さとり様が地上からこいし様を連れて帰ったあの晩、こいし様がひとつの石を握ってらっしゃったことを覚えてますか]
「無論です」
[さとり様はあれを無理矢理奪い取り、あの崖からお捨てになりましたねぇ。ところが近頃は、石探しに夢中のご様子]
「……………………」
[どうして今頃になって、あれに目をつけたのですか]
「ただの気まぐれです。深い意味はありませんよ」
[私が本物を持っております。ある場所に隠しました]
さとりは思わず、目を見開いた。
「それなら私が気付かないはずがないわ」
[覚えておいでですか。こいし様がああなってしまってから、さとり様はこいし様のお心を救い上げようと、何年も努力し続けておいででした。その間、他の誰の心もお読みになろうとしなかった。私の心も含めて]
「………………」
[その隙をついてある場所に隠し、紙に詳細を綴って封筒に入れ、特別なクスリと酒を混ぜて飲んで忘れました。封筒の表には、私自身宛に、時が来るまで開けぬようにと示しておきました。どの道、さとり様が私に疑いを抱かぬ限り、問い詰められるようなことは無さそうでしたがね。『覚りを欺くことは誰もできない。その目が貴方を見つめている限りは』。以前に貴方様から教わったことですよ]
「………………」
[私の部屋のベッドの下にある箱に、収めてあります。鍵はこいし様の部屋の、絵の裏に隠しました。もうだいぶ昔のことですが]
頭の芯が冷えていく。
それとシンクロするかのように、抱いている猫の身体が重くなっていく。
彼女が体内から発していた熱も、急速に弱まっていった。
[語るべきことは終えました。私はそろそろ失礼いたします]
「まだ話してないことがあるでしょう。こいしを狂わせ、地上へと連れ出したものの正体は、一体何だったのですか?」
[……………………]
「答えなさい。マリー」
第三の目が、赤い光を帯びる。
しかし、マリーの四肢は力なく垂れ下がり、もう動く気配がなかった。
心には深い闇のイメージが、そして両手には毛皮で包んだ古い乳脂を持つ感覚だけが残った。
さとりは、眼前にある墓石に目をやる。
古明地こいし。
その名が彫られた、守る亡骸のない墓を。
3 Will
マリーの葬儀は、翌日に行われた。
式の準備は滞りなく行われ、トラブルも起こりはしなかった。
ここの動物たちは皆、別れ方を知っている。
告別の際、必要以上に大袈裟に泣き喚く者も、余計なことを言って場の空気を悪くするような者もいない。
だがそれでも、今回の葬儀の雰囲気は特別で、従来の例からすれば異質でもあった。
純粋な妖怪になったものを含めても、マリーは地霊殿における最長老のペットだった。
始めはさとりの仕事――灼熱地獄の管理の補佐をしており、後任にそれを譲ってからは、主にこいしの従者としてつき従い続けた功労者だったのだ。
しかし晩年の彼女は、他のペット達から一目置かれてはいたものの、その実敬遠されてもいた。
きっかけは、さとりの妹の変貌にある。
第三の目を閉じてからのこいしは、周囲の動物達に分け隔てなく接するようになった……と言えば聞こえはいいが、実際は特定のペットを可愛がることを止め、平等に乱暴に扱うようになった。
毛をバリカンで刈ったり、ヒゲを抜こうとするのはまだいい方で、アイロンを押し付けたり、池で無理矢理泳がせてみたり、意味もなく窓から投げ捨てたり、叱る者のいない子供が思いつくような残酷なイタズラを次々と行った。
当然のように、こいしから動物たちの心は急速に離れていき、代わりにさとりの周りに集まるようになった。
そんな中で、唯一こいしの元を離れず、無意識の折檻に耐え続けたのがマリーだった。
彼女は主人を慕い続ける一方で、心変わりをした他のペット達を疎むようになり、こいしと一緒にいる時間を除けば、食事も独りで済ますようになった。
マリーの心の主人は、ずっとこいしのままで、彼女が第三の目を閉じてからも、それは変わりなかったのだ。
だからこそ、あの墓を作った私を、ずっと憎んでいたのだろう。
葬儀の間、さとりはそう過去を振り返っていた。
もう少し自分が意地の悪い性格をしていれば、マリーとの約束を破っていたかもしれない。
だが結局、さとりは遺言に従い、こいしの墓に猫の亡骸を納め、彫った名を変えることにした。
そして、主人としてやるべきことを片づけてから、ようやく交換に得た手がかりを確かめに向かった。
目を閉じる前のこいしの部屋にあった絵の裏には、確かに、小さな鍵がはめ込まれていた。
その鍵を持って、今度はマリーの部屋へと向かう。
地霊殿のペット達に与えられる部屋は、ほぼ全て同じ間取りとなっており、模様替えについては当人に任せている。
マリーのそれは、綺麗好きで几帳面な彼女の性格が表れていて、お燐やお空の部屋とは異なった雰囲気だった。
だが今のさとりには、内装に興味を示している余裕がない。
部屋の真ん中を横切り、脚付きのベッドの下に手を差しこむ。
すぐに指先に箱らしきものが触れた。
慎重に引っ張りだし、鍵穴に持ってきた鍵を差しこみ、捻る。
キィ、と金属質の音を立てて、箱は開いた。
中には一枚の手紙と……
「…………あった…………」
思わず、呟きを漏らす。
そこにあったのは、間違いなく、こいしが大事に持っていた、あの石だった。
記憶を頼りに集めた他の石と、大きさも色合いもほとんど変わらない。
しかしながら、重さはだいぶこちらの方がある。そして確かに、得体の知れない力のようなものが感じ取れなくもない。
他にもよく見ると、うっすらと、指の跡のようなものが浮き出ているように思えた。
それともこの模様は、最初からあったものだろうか。
頭を軽く振って余計な想いを捨て、さとりはまず手紙の方を読んでみた。
さとり様へ
無事に受け取っていただけたようで何よりです
このような形で真実を明かす非礼を、どうかお許しください
今、さとり様が手になさっているであろう石は、正真正銘まぎれもなく、こいし様が最後まで手放そうとしなかった、あの石でございます
何も特別な秘密はございません 私でなくとも獣の鼻であれば、崖から落ちて行方がわからなくなった石を見つけ出すことはできましょう
ただし当時、そうしようと考えたのが、ペット達の中で私だけであったことに、心が痛みます
この石をさとり様にお渡ししてよいものかどうかも、最後まで悩みました
ご主人様があれだけ大切にしていたものだけに、もう一度捨てられてしまったり、粗末に扱われるようなことがないという確信が持てるまで
私はこの石を最後まで隠しておくことを心に決めていたのです
白状いたしますと、私はこいし様が起こしたことについては、何も存じません
情けないことに、ショックのあまり動転していたのか、あの日の記憶もろくに残ってない有様です
ただどうしてあの時、ご主人様のすぐ側にいてあげられなかったのか
ペットとして、主が苦しんでいる時にこそ、心の支えとなるべきだと思って生きてきたつもりでした
このことについてはこうして書いている今でも、悔やんでも悔やみきれぬ思いです
けれども。私は決して、あの日をご主人様を失った日とは考えておりません
確かに哀しかった しかし誰が何と言おうと、こいし様は、やはりこいし様なのではないかと思うのです
こいし様がこの石を最後まで握っていたのは、確かに何か理由があったのかもしれません
けれどもその謎の答えが何であれ、どうかさとり様も、今のこいし様のことを心より受け入れていただきたく存じます
できれば、過去のことは水に流し、全てを新しくやり直すことはできないでしょうか
二人のご主人様にお仕えすることができ、ペットとして、まことに光栄な生涯でした
さとり様が、過去から解き放たれる時が来るよう、心よりお祈り申し上げます
さとりは二度、頭から最後までその文を読んだ。
己の死を予感した彼女は、あらかじめこれを書きしたためていたのだろう。
残念ながら覚りの力は、書かれた文字には十分に働かない。なのでこの文面の信憑性については、確かめる術がない。
内容をそのまま信じるなら、マリーはこの石を、あくまで主人が大切に扱っていたものだから、捨てるのは忍びないという気持ちで保管していたらしい。
彼女自身、それがどういったものなのかは、全く知らなかったようである。
さとりは改めて、件の石の方を鑑定してみることにした。
手に持ってみても、何も起こらない。第三の目で何かを読み取ろうとしても、反応は無い。
今までに集めた他の石と同様で、特別なことが起きる兆候はなかった。
「お姉ちゃん?」
さとりは勢いよく振り返る。
開いたドアの向こうに、妹が立っていた。
「あれ? ここマリーの部屋だよね? お姉ちゃんの部屋にするの?」
「………………」
「さっきからマリー探してるんだけど、どこにもいないの。ダンスの続きをしようと思ったのに」
「こいし……」
複雑な想いが、さとりの心を襲う。
それらを理性の重しに縛り付け、妹に問う。
「貴方はこの石に心当たりがある?」
そう言って立ち上がり、手に持ったものを掲げて見せる。
「……………………」
こいしは無言で首を振った。
「本当に? 何も思い出せない?」
「知らなーい。わかんなーい」
「そんなはずがないわ。貴方はあの時、確かにこれを持っていた。そして私と会う前に……これに話しかけていた」
間近に迫り、その瞳を見つめながら、さとりは問う。
「それは一体誰だったの?」
貴方をたぶらかせ、私達の関係を狂わせ、地底の歯車を歪ませた、その相手は。
こいしは感情の剥がれ落ちた顔のまま、
「『あの時』って?」
「それは……」
「私を殺した時?」
ハッと息を呑み、さとりは身を引いた。
「こいし、今なんと?」
妹の姿をした何かは、首を傾げて言う。
「『姉さん』が、私を殺した時よ」
さとりは、さらに後ずさる。
目を逸らしたくなる心を、悲鳴を上げたくなる心を、制御しようとする。
妹の口は動いていない。幻聴だ。
聞こえないはずの声が、聞こえているだけだ。
[姉さんは私を殺した。私を殺した。私を私でないものにしてしまった]
床が傾いていく。
側頭部に鈍い痛みが広がり、視界が真っ白になった。
墨に水が溶けこむように、周囲の闇が薄まっていく。
洞穴内を流れる湿った重たい風に、草と土の匂いが混ざり始める。
そしてついに、空気がはっきりと変わった。
地上に出たのだ。
およそ百年ぶりに見る光景に、ほんの一瞬、自分がここにいる意味を忘れてしまいそうになった。
はっきり言って、地獄が生易しく見える景色だ。
雲は赤く焼け、あるいは青紫に腐っていて、不気味な色合いをしている。
そして……南にて青白く輝く、あの光の禍々しいことといったら。
さとりは天から視線を落とした。
ただの夕空だ。地底の闇に慣れすぎていたせいで、目が眩んだだけだ。
今は空が赤だろうと緑だろうと関係ない。目的は他にある。
追っていた存在の心を感じ取り、地面を蹴った。
もう逃がすわけにはいかない。ここで見失ってしまえば、残りの全てを失ってしまうだろうから。
[そして、私を殺すのね]
天から降ってきたその声に、さとりは硬直した。
次いで、この先に待ち受けている『未来』を思い出し、戦慄する。
[姉さんは私を殺した。私を壊した。私から目を奪った。私を殺した。私を殺した。私を殺した]
胸を押さえ、顔を伏せる。
髪をかきむしり、声を消そうとする。
けれども、妹の声は止もうとしなかった。
[わたしをコロした。ワタシをコロシタ。ワタシヲコロシタ。ワタシヲ……]
――ええ、そうよ!!
心の濁流に自我が溺れる中、さとりはついに叫んだ。
――私は貴方を殺した! 心をこじ開けようとして、鍵を壊してしまった! 二度と開かないようにしてしまった!
そして妹の意識は何処かへと消えた。
あとには、今までとは性格も性質も全く異なる、別の存在が現れた。
新しくなった妹は、無意識の赴くままに動くことで、姉である自分を責め続けるようになった。
以前とはまるで違う言葉遣いで、以前とはまるで違う仕草で、以前とはまるで違う生き方で。
それらは過去の彼女のものと比べれば比べるほど、さとりの目にグロテスクに映った。
だからこそ、
[私のお墓を作ったのよね、姉さんは]
再び、心を深くえぐられる。
這いつくばる身体を置き去りにして、覚り妖怪としての本能が、反撃へと移る。
その通り。恨むなら恨んでくれて構わない。
新しい妹を受け入れるため、旧い妹の思い出は全て、墓の下にしまいこんだ。
仕方がなかった。自分だけではなく、この屋敷に住む大勢の家族のためでもあった。
あれは皆が新しい妹を受け入れ、新たな生活に向けて前進するための、避けては通れない儀式だったのだ。
そうする以外に、前に進む方法がなかった。
――だってもう、貴方は帰ってこない!
さとりは心の内で絶叫する。
――私を裏切ったのは貴方の方だった! 貴方は私に何も残さず、抜け殻だけを置いて消えてしまった!
それを訴える相手は、もういない。
無理に激情をぶつけて何になろう。無意識でしか動くことができなくなった、哀れな妹に。
記憶を捨て、感情を捨て、自我を捨て、あらゆるしがらみからその身を剥がして、あの子は手の届かない所に去ってしまった。
子供の頃、あの手はいつも、私の手の内にあった。
引っ張るのは私の役目で、あの子はいつも半歩遅れて、はにかんだ笑みでついてきた。
あの時、この『目』に映っていたのは、まぎれもなくこいしの心だったのに。
その形も、色も、手触りも覚えているのに。
それは影だけを残して、永遠に手の届かぬ場所へと消えてしまった。
地上の草原で、あの子の最期を見届けた時から。
沈みゆく陽の光に焼かれた空に、冷たく燃え続ける小さな光。
地底で生きる者からすれば、まるでおとぎ話のような世界。
そして、野原に一人立ちつくし、星を見上げている妹。
振り向いたあの子に、私は何も言えなくなってしまった。
どうしてそんな顔をしているのか、わからなくて。
そんな寂しそうな笑みを、どこで覚えたの。
「さようなら、姉さん」
待って。
行かないで、こいし。私を一人にしないで。
あの子の姿が遠ざかっていく。私の身体は、海の底に落ちていくばかり。
やがて、上も下もわからなくなり、五感も、そして三番目の目も役に立たない世界に。
呼吸ができず、潰されていく苦しさにもがき苦しむ。
それでも何とか声を出そうとする。遥か彼方に向かって、手を伸ばし続ける。
返して、妹を。
帰ってきて、こいし。
闇の中で、手の内に温もりが生まれた。
荒れていた闇が、急速に穏やかになっていった。
引っ張られながら、光の方に向かって足を動かす。
もう少しで、息ができるところまで行ける。
もう少し……もう少しで……私は妹に……もう一度……。
◆◇◆
水面に顔を出したさとりは、大きく息を吸い込んだ。
酸素をできるだけ取り込み、次に頭が水に浸かる瞬間を覚悟する。
その間に手足を動かし、体に力を込めて、空中に飛び出そうとして……。
「……っ!」
瞼が開いた。
肺が半分息を吸い込んだ状態で止まり、わずかに開いていた口が、自然と閉じる。
慣れ親しんだ天井の光景と、後頭部の枕の感触が、ほとんど同時に共通の解を導き出した。
今いる場所が海ではなく、自室のベッドの上だということを。
息ができないと思っていたのは気のせいで、手足の自由が利かなかったのは、布団が身体に載っていたからだ。
多少体は汗ばんでいるようだが、少なくとも深海から引き揚げられたような、ずぶ濡れの状態ではない。
と、二つの黒い瞳を持つ顔が、視界にひょっこりと現れる。
「お空?」
自分の手を握り締めている、その存在の名を呟く。
すると彼女は、空気が鳴るほどの勢いで大きく翼を広げ、
「よかったー! お燐ー! さとり様が起きたよー!」
間もなく、忙しない足音が近付いてきたかと思えば、ドアが音を立てて開き、お盆を持った三つ編みの猫が現れる。
「さとり様! ……おおっととと!?」
勢い余って、お燐はベッドに倒れ込んできた。
こぼれた水が枕元に撒き散らされる前に、お空がお盆から浮き上がったコップを、空中でキャッチする。
呆気にとられて、目の前のコンビプレーを見つめていたさとりの顔に、水滴が降り注いだ。
「よ、よかったぁ……。さとり様ぁ……」
お燐は顔を起こそうとせず、そのまま猫らしい仕草で、ベッドに体をうずめる。
「あっ! お燐ずるい!」
布団の上に、もう一人分の体重が追加される。
どちらも人型の状態だっため、さとりは危うく、もう一度呼吸困難に陥るところだった。
だが二人が運んできた日常の空気のおかげで、ようやく落ち着いて思考できる土台が手に入る。
とりあえず、ペット達に布団から下りてもらいながら尋ねた。
「どうして私はここに?」
「覚えてないんですか? さとり様、マリー姐さんの部屋で倒れてたんですよ。あたい達が見つけて、びっくりしちゃって、慌ててここまで運んだんです」
「そう……」
横目で時計を確認しながら、さとりは状況を振り返る。
あの部屋でパニックを起こした挙句に、ずっと気を失っていたようだ。
どこからどこまでが夢だったのか定かではないが……枕元に置かれている石を見る限り、マリーの遺言を読んだ辺りまでは現実だったのだろう。
「こいしはどこ?」
「こいし様は……さっき見かけたんですけど、いなくなっちゃいました。あたいらが捜しに行きましょうか?」
「……ううん、いいわ」
どうせ見つからないだろうから。それに、今の状態では合わせる顔もないから。
それよりも二人の温もりを手放したくなかった。
「…………ありがとう、お空、お燐」
両方の頭を抱き寄せ、感謝を伝える。
「もう大丈夫よ。私は考え事があるから、しばらく一人にしてくれないかしら」
「でも……」
「貴方達の顔を見たら、元気になった。何よりの薬になった」
さとりはこつん、と頭を当てて言う。
ペット達は、第三の目を持たない。なのでさとりと異なり、想いをそのまま受け取ることができない。
だから二人には、せめて具体的な仕草で、精いっぱいの感謝を伝えたかった。
ペット達が主人の部屋を、名残惜しそうに去った後。
さとりは此度の醜態に、かつてない自己嫌悪と倦怠感を覚え、再び横になった。
覚り妖怪がトラウマを植え付けられるなど、滑稽すぎて笑うこともできない。
それでも、古明地こいしに関する記憶はまぎれもなく、古明地さとりのトラウマなのだと認める他は無かった。
布団に半身を入れたまま、妹が遺した石を手に取って眺める。
お燐によれば、気絶してマリーの部屋に倒れ込んでいた後も、ずっとこれを握りしめていたらしい。
まるで七十六年前のこいしの行動を、今度は姉である自分がなぞっているようだった。
試しに、第三の目の近くに石を持ってきてみる。
やはり何も聞こえない。だが、この石に何かの秘密があるという可能性を、さとりはまだ捨てきれていなかった。
――どうしてあの子は……これを持っていたのかしら。
『目』を閉じ、抜け殻のようになってしまった妹が、最後まで手放そうとしなかったのが、この石だった。
地霊殿に連れ帰ってからも彼女はこれに執着し、誰にも触れさせようとせず、いくら説得しても、まるで体の一部だと思っているかのようにしがみつき、拒否した。
業を煮やしたさとりは、マリーの反対を押し切って、それを力づくで妹の手から奪い取り、捨ててしまった。
それがどんな結果を生むかも予想せずに。
こいしはそれから、無意識という隠れ蓑をまとって、世界を自由に飛び回る様になってしまった。
もはや情緒不安定などというレベルではなく、ほとんど別の生き物に変わってしまった。
今思えばこの石は、無意識という羽を得た彼女を繋ぎとめる、錨のような役を果たしてくれていたのかもしれない。
もっと他にやり様があったのでは、そう冷静に考えられるのは、七十六年が経過した今だからこそだ。
何もかも徒労に終わり、さとりはついに妹の『目』を再び開くには、己の力だけでは足りないことを悟った。
そうなると、他に手がかりとなりうるのは、彼女が目を閉じるその瞬間も握りしめていた、この石である。
これの正体が一体何だったのかは、今までずっと心に引っかかったままの謎だった。
妹を狂わせたのは、そして地上へと連れ出させたのは一体何だったのか。
姉としても、地霊殿の代表者としても、その謎を解かなければ、前に進めないのではないか。
そう思って最後の手がかりといえる、あの石の候補を拾い集め、そこから何かを読み取れないか努力してきた。
しかし、いざ本物を前にしても、結局何も読めず、こいし自身も何の反応を示さなかった。
一度羽を得た妹を、もう一度繋ぎとめるのは不可能なことなのかもしれない。
――マリーはそれを伝えようとしたのかもね。
心の内で呟き、さとりは嘆息する。
吐きだした息と共に、身体の内側から指先まで、諦観が広がっていくようだった。
そして突然、何もかも吹っ切れた。
石を枕の隣に置き、両腕を思いっきり天井に伸ばす。
古明地さとり個人にとっては、確かにこれは大事な案件だ。
しかしながら、地霊殿の代表者という立場においては、言ってしまえば私事に過ぎない。
過去を振り返る時間も、横にそれる暇も本来は許されていないのだ。
しばらく姉の役目を忘れ、己を慕う者達に、気丈な姿を見せに行かなくては。
さとりは心を奮い立たせ、ベッドから下り、スリッパに足を入れて、部屋を出ようとした。
その時、
[…………………………]
呼ばれた気がして、さとりは振り返った。
手が自然と、己の第三の目に向かう。
[…………誰か…………]
また幻聴かと思ったが、これは違う。
微弱な反応だが、今のはまぎれもなく……。
[誰か……そこにいるの? ……お願い……いるなら応えて……]
さとりは慌ててベッドに戻り、石を手に取った。
興奮を抑えながら、『声』の主に応える。
「ここにいますよ」
すると驚くべきことが起こった。
どこにでもありふれているはずの黒ずんだ石……の表面に、光の粒が生じたのだ。
しかも一つではなく、石の奥にある星雲を観察しているかのような気持ちにさせられる変化だった。
さとりはその神秘的な表面を見つめながら尋ねる。
「今、私に話しかけているのは、誰ですか。石の中に宿る精霊ですか?」
[石……?]
声はちょっと笑ったようだった。
[私は……石じゃないわ。貴方こそ……石じゃないの……?]
「いいえ、私は石ではありません。妖怪です」
すると相手の声のトーンが、幾分弱まった。
[私も……妖怪……嫌われ者の妖怪……]
「今貴方はどこにいるのですか?」
[地底よ……地底に住んでいるわ]
「地底のどこに?」
[……………………]
「どこにいるんです?」
[…………話したくない…………]
声が闇の中に吸い込まれるかのように小さくなった。
さとりは落ち着いて確かめる。
「いいですか、貴方は覚り妖怪ですね」
そうに違いあるまい。
向こうにいる妖怪の微弱な波動は、同族の気配に他ならなかった。
つまり、石が話しているのではなくて、石を通してどこかから思念が送られてきているのだ。
「私は貴方を保護しなくてはいけない。地底の管理者……いいえ、同じ種族として」
[……じゃあ……貴方も覚り妖怪なの……!? ……]
喜びの波動が石から発せられた。
浮かんだイメージは、雪解けの後に生まれたつくしんぼ。
「はい。貴方の情報を詳しく聞かせてください」
さとりは枕元にいつも置いてある、メモ用紙を手に取る。
通話の相手は、自分と同じく石を通じてこの交信を行っているらしい。
覚り妖怪はとっくにいなくなったと思っていたさとりにとっては驚きだった。
向こうの心の声も上ずっている。
[覚り妖怪……他にもいたんだ……私と姉さんだけだと思ってた……]
「姉さん?」
さとりはペン先を紙に走らせながら尋ねる。
「今そこに姉さんもいるんですか」
[ううん……姉さんはいつも家を留守にして出かけてる]
「住んでる場所は?」
[……旧都……昔地獄があった場所……わかるかしら……]
「はい」
[その旧都の……真ん中……]
「真ん中、ですか」
その情報をメモしながら、さとりは訝しむ。
旧都の真ん中であれば、自分がその存在にとっくに気付いていてもおかしくないと思うのだが。
「それでは……貴方の名前を教えていただけますか?」
そう尋ねると、また声がおかしそうに言った。
[貴方がさっき、正解を言った……石は石でも……私は小石だけど]
「小石……ですか」
ペンを動かす手が止まった。
[そう…………こいし…………私の名前…………]
「……………………」
[もしもし……もしもし……]
さとりは声を無視して立ち上がるなり、部屋の外へと飛び出した。
発火しそうな三つの視線を、廊下の左右に走らせる。
この性質の悪いイタズラを仕掛けた相手が誰だろうと、相応の罰を下さなくては気が済まない。
「誰か! 隠れてるなら出てきなさい!」
さとりはきつい口調で言う。
しかし、静けさの漂う廊下には誰もおらず、誰かが様子を窺っているような気配も、全く感じられなかった。
[……怒ったの……? ……どうして……?]
ハッとして、石の方に視線を戻す。
心からはみ出した感情が、相手に伝わったらしい。
相手は間違いなく、覚り妖怪なのだ。しかし、どうしてこんなふざけたマネをする?
[『どうしてこんなことを』……? 何を言ってるの……?]
さとりは苛立ちを抑え、質問をやり直す。
「もう一度だけ聞きます。貴方の名前は?」
[さっき言ったわ……こいしよ……古明地、こいし……]
そんなはずがあるものか。
「ならば、貴方が住んでいる場所は?」
[……旧都の真ん中にある家で、たくさんのペット達と暮らしてる……あと、姉さんと……]
「姉さんと?」
[ええ……私はたった一人の姉さんと……たくさんのペット達と一緒に……この屋敷で暮らしてるの]
「……そのお姉さんの名前を教えていただけませんか」
[さとりよ……古明地……さとり]
質問する度に、猛烈な吐き気が襲ってきた。
実際のところ、この程度の情報は、旧都に住むものならばどうにかして仕入れることができるだろう。
だが冷静に考えて、そうするメリットは、どこにある?
相手の狙いがわからない以上、投げかける質問を慎重に選択しなくてはいけない。
すると向こうから、奇妙な質問があった。
[もしかして、貴方も石を持ってるの?]
「はい?」
[私は今、石に話しかけてるの。そうしたら、貴方と心が繋がったから……]
さとりの中の、旧い記憶が呼び覚まされる。
第三の目を閉じる前の妹は、確かに今さとりが使っている石をよく抱いて寝ていた。
しかし、その情報を知っているのは、当時地霊殿に住んでいた者だけだ。
そして、マリーが死んだ今、知っているのはさとりを除けば……。
さとりは身震いした。
何か自分が、とんでもない間違いを犯している気がしてならなかった。
今伝わってくる思念、同族のものだったからこそ、懐かしさを覚えたのだと思っていた。
しかし、よく聴き取ってみると、その波動に同族以上の親しみを感じずにはいられなかった。
ありえない。
あってはいけないはずのその可能性に思い当たり、さとりは震える声でたずねる。
「年号を……」
[…………え…………?]
「貴方がいるその時代の、年号を教えてください」
どうか、間違いであってほしい。あるいは夢であってほしい。
[…………地底の暦だと……持国二十三年……地上の暦だと、第『53季』の…………葉月の…………二十八日…………]
再び気を失わなかったのは、奇跡と言ってもよかった。
手から滑り落ちたペンが、ベッドを転がり、床に落ちる。
[…………もしもし……どうしたの…………]
応答できるはずがない。
彼女は、石の向こうにいる相手は、遠い存在。
二度と会うことはできないと思っていた相手。
七十六年前、まだ『第三の目』を閉じる前の、古明地こいしだった。
4 Wave
[もしもし……? もしもし……?]
さとりはベッドの側面に背をもたれ、両手両足を投げ出して床に座り、放心状態にあった。
頭を空っぽにしなければ、感情やら疑問やらで押し潰され、まともな思考が生き埋めになりそうだったのだ。
[……行っちゃったのね……さようなら……]
「待って!」
さとりは弾かれたように石の元へと跳び、手に取って話しかけた。
「待ってください。もう少し、貴方と話をさせてください」
[……ごめんなさい……声が遠くてよく……それにそろそろ……疲れちゃった……]
伝わる声が弱まっている。
さとりの方も、この念話が相当精神力を消耗することに気付いた。
普段から心を読み慣れているさとりであれば、まだ何とかなる。
だがもし……七十六年前の妹だとしたら、病弱な幼子がいきなり持久走をさせられているようなものだろう。
「明日の決まった時間に、もう一度話せませんか?」
[いつ?]
「今から……十時間後はどうでしょう。今夜はもう遅いですし一度睡眠を取ってから、もう一度お話するというのは」
[ええ! いいわ!]
弾んだ声は、紛れもなく妹の声だった。
感情を失った空虚な声ではなく、意識に裏打ちされた本物の声だ。
もっと聞いていたい欲求を押しやり、さとりはあくまで理性で物事を進めることに徹した。
「それでは、また明日お話しましょう」
[待って。貴方のお名前は?]
「……明日教えてあげます」
[話せて……嬉しかっ……]
会話が唐突に途切れた。
「もしもし……? こ、古明地こいしさん?」
馬鹿丁寧な呼び方で石に尋ねてみるが、反応はもうなかった。
交信に疲れて念話を切ってしまったのだろうか。
いやそもそも、今のは全て幻覚だったのかも?
さとりは枕に後頭部を投げ出すように沈め、瞼を手で覆う。
石が過去の妹に繋がった?
そんな荒唐無稽なことがどうして起こった?
では過去の妹が石を通して語りかけていた相手は、未来の……つまり今の自分だったのか?
そしてこれが夢ではなく、現実だったとしても、何をすればいいというのか。
――持国二十三年、第53季の葉月の二十八日……。
頭の中で、その年号と日時を繰り返す。
忘れられるはずがない。
旧都を震撼させた、あの事件が起こる一日前。
その犯罪の容疑者として、妹が捕らえられた二日前。
そして、地底を脱出して地上に出た罪により、さとりが直々に彼女の心を打ち砕いた、三日前。
さとりは呻きながら、寝返りを打った。
ウィルスが突然変異を起こしたように、トラウマが全く別の毒素で自分を苛んでいるように思えてならなかった。
しかし、いつまでも現実逃避しているわけにもいくまい。
――もし、相手が七十六年前のこいしだとして……彼女が過去の行いを再現してくれるなら……?
さとりは身を起こした。
長年解き明かそうとして出来ずにいた、あの謎が解けるかもしれない。
すぐに交信を切ったのは早計だっただろうか。無理にでも説得して、根掘り葉掘り聞くべきだったか。
いや、そうとも言い難い。むしろ万全の準備ができる時間が与えられたと考えれば……。
さとりはスリッパを履き、石を持って部屋を出て、仕事場へと向かった。
執務室に着くなり、鍵をかけ、机に向かい、ランプのコックを捻る。
紙を用意して、ペン先にインクを浸し、猛烈なスピードで書き始めた。
――正確な時刻……その日の行動予定……私が誰なのか……どうしてこんなことになったのか……。
思考する内容を、全て紙に書き出していく。
いつしか胸の内の疼痛はおさまり、涸れていたはずの井戸から急に水があふれ出したように、活力が湧いていた。
◆◇◆
葉月の二十九日、午前七時半。
古明地さとりは、地霊殿の食卓に新聞を携えて現れた。
「おはようございます、さとり様」
「おはようございます、お燐。いい匂いね」
住人の多い地霊殿の食事は、主に食事当番が用意することになっている。
今日はお燐が班長だったらしく、地底魚のソテーや、バターをたっぷり使った野菜のグラッセなど、彼女の好物が揃っていた。
間もなくペット達が集まってきて、賑やかな朝食となった。
人型の者はテーブルにつき、そうでないものは床に用意されたお皿から食べている。
普段は食が細く、日に三度食事することも珍しいさとりではあったが、今朝はトーストをお代わりした。
今日起こる出来事に備えて、エネルギーを蓄えておく必要がある。
[さとり様、元気が出てよかったね]
[うんうん]
[昨日倒れたって聞いてたから、心配しちゃった]
ペット達の会話が、さとりの席まで届いた。
声、表情、心。全てが一致している様を眺めるのは、覚り妖怪にとって微笑ましい光景だ。
食後のお茶の時間となり、さとりは持ってきた新聞を開いた。
天狗が記事を乱造する地上と比べて報道機関に乏しい地底では、定期的に刷られる新聞がない。
そのかわり、大きな事件のあった際には、その内容について知らしめる号外のようなものが配達されることになっている。
さとりが購読しているのも、その類のものだった。
しかし、今日の新聞の大見出しは、最近起こった事件でなく、旧都郊外に封印された『火竜の印』に関する特集だった。
地獄の業火を封じ込めたその神器は、長年の封印の甲斐あって、そのエネルギーをほぼ安全に排出し終えたということだった。
かつて旧都を脅かした炎は、ようやく永遠の眠りに就いてくれたということらしい。
従事役の妖怪犬が、さとりに紅茶を注ぎながら言う。
「あの事件からもう七十年と少しですか……若輩だった私は覚えておりませぬが、さぞかし大変だったことでしょうね」
「ええ。当時の旧都はまだ幼かったから、尚更でした」
さとりは相槌を打ち、続く文面に目を通す。
持国の大火。
それは七十六年前に旧都で起きた、無差別放火事件の名称である。
鬼の上層が権力機関を置く乾闥婆街。住宅地の広がる鳩槃荼街、そして地霊殿の膝元にある中央街と、二日間に渡って、計三つの場所で火災は発生した。
ほぼ同時期に火竜の印が持ち出されていたことからも、犯人がそれを使用していたことは明らかだった。
その神器は元々、この旧都が建つ前の空間に残っていた灼熱地獄の炎を封印した巻き物で、用い方次第では並の妖怪はもちろん鬼でさえ滅ぼすことも容易な代物であった。
当時から旧都の治安は鬼の手によって保たれており、その危険な神器を管理していたのもまた鬼であったため、二つの意味で面子を潰された彼らは、犯人を血眼になって探すことになった。
そして、当時はさとり自身も、鬼の上層部からの要請を受け、この捜査に参加していたのである。
新聞に載っている内容は、事件のおさらいで、特に目新しいことはなかった。
そもそも、さとりはあの事件に関する情報なら、この旧都の誰よりも頭に入っているという自負がある。
しかしながら、火災から七十年以上経った今も、あの事件の全貌はいまだ解明されていない。
真犯人は誰だったのか、その目的はなんだったのか。
もしかすると今日、新しい何かが掴めるかもしれなかった。
お茶を済ませたさとりは、ペット達がまだ食堂にいる間に呼びかける。
「ここに集まっている皆に、話しておくことがあります」
それぞれ談笑していたペット達が、一斉にこちらを向いた。
「今日、私は大事な仕事があるので、地霊殿の雑事はほとんど貴方達に任せることになります。執務室にこもっているので、滅多な用事でない限りは、ノックも無用に願います」
動物たちは返事をせずに承諾する。
さとりの第三の目に、彼らの心の揺れが映った。
[さとり様の大事な仕事ってなんだろう]
[久しぶりに本を書くことにしたとか]
それらの声を聞き流し、さとりは話を続ける。
「それと、お燐とお空の天体観測についてですが」
注目が再び集まるのを待ってから、さとりはあらかじめ用意していた名簿を取り出し、お燐の方へと回す。
「希望者はあらかじめ、それに名前を書いておいてください。くれぐれも、地上の方々の迷惑になるような行為は慎むように」
ペット達の間から、歓声が起こった。
すぐに人型の妖怪達が名簿に殺到し、いまだ妖怪化していない動物達も興味深そうに寄っていく。
この様子だと、しばらくの期間地霊殿は、閑散とすることになるだろう。
地上でも珍しいほうき星観測のツアーとくれば、地底で生きる者達にとっては尚のことビッグなイベントだから。
もっとも、はしゃいでいるペット達を横目にお茶を飲んでいた主人には、これからそれ以上に重大なイベントが待ち受けているのだが。
彼らの喜びの『声』を後に、さとりは食堂を退出し、執務室へと向かった。
残り三十分。運命の時が迫っている。
部屋の扉を開けて中に入り、しっかりと鍵を掛ける。
深呼吸して落ち着き、準備に抜かりがないか改めて点検。
メモ用のペンと予備のペン。十分な数のメモ用紙。当時の自分の日記と、事件に関する記録。
訊ねるべきあらゆる質問、こちらが聞かれるであろうあらゆる質問、それによって起こりうる展開をまとめた用紙。
そしてもちろん、交信のための石。机のスペースはそれらで埋まっていた。
脇に置いた水差しからコップに水を注ぎ、喉を潤す。
昨晩に交信を切ってから、さとりは最低限の睡眠時間を除いて、残りの時間を全て会話のシミュレートにあてていた。
もっともまだ、昨日の出来事は全て己の幻覚だったという可能性も捨ててはいない。
過去の妹と交信するなど。
しかも大がかりな装置や、古代の神具などの類を用いずに、そんなことが可能などというのを真に受けるほうがどうかしている。
その呼び水の候補があるとすれば、彼女が遺したこの石だ。
こんな何の変哲もない石に、時空を飛び超えさせる力があるとは考えにくいが。
――この石を手に入れた経緯についても、詳しく尋ねてみなくてはいけませんね。
約束の時間まで、残り十五分となった。
こうなると、遅々とした時計の針の動きがもどかしい。
何かし忘れたことがないか、さとりは再度点検し、念のため廊下で誰か盗み聞きしていないかも探ってみた。
そしてようやく分針がついに完全に屹立し、約束の十時になったことを報せる。
さとりは机に置かれた石をじっと見つめる。
自然と、眦が大きく開いていた。
昨日と同じように、石の表面に星を思わせる、光の粒が生じたのだ。
[もしもし?]
石から声が聞こえてきて、心臓が大きく鳴る。
さとりはシミュレーション通り、落ち着いて応えた。
「もしもし、聞こえますか」
[ええ……! 聞こえるわ! こんにちは!]
懐かしい妹の声は、昨日よりもずっとはっきり聞こえた。
彼女は心のイメージを喜色で彩りながら続ける。
[約束よ。貴方の名前を教えて。それと、今どこに住んでるのかとか……]
「その前にですね……」
[いっぱい質問を考えてきたの! 背の高さとか、髪の毛の色とか、好きな食べ物とか好きな飲み物とか……]
やはり向こうはこちらの正体に気付いておらず、同じ地底のどこかにいる野良の覚り妖怪だと考えていたらしい。
はしゃぐ彼女に、さとりは速やかに真実を伝えることにした。
「……そういった情報は必要ありません。私も貴方も、お互いのことについて、みんな知ってます」
[…………?]
「でも約束ですからね。質問には答えてあげましょう」
さとりは目を閉じて、語り始める。
伏せたカードを読み当てるディーラーのように、さらりとしていながらも確信に満ちた口調で。
「私の髪の毛は熟したラズベリーの色、そして貴方の髪の毛は光に透かしたミントの色」
驚いた気配が、石から伝わってきた。
「私の好きな食べ物はリンゴ。そして貴方はナシ」
[………………]
「私の好きなお茶はレモンティー。そして貴方はミルクティー」
[………………]
「背の高さはほとんど変わらない。私の方が少しだけ高いけど、いつも貴方は帽子をかぶりたがるから、並ぶとやっぱり同じくらい」
[……どうして……]
「私達は生まれた時から、好みも性格も何もかも正反対だった」
もう、十分なようだった。
はしゃいでいた相手の精神が、羽を閉じて固まっていく。
しばらくして、心の声を震わせながら、彼女は訊ねてきた。
[……姉さん? 姉さんなの?]
「そう。私の名前は古明地さとり。貴方の姉です」
[…………………………]
「ええ、ええ。混乱する気持ちは分かります。でも落ち着いて聞いてください」
しかし、石から届く思念の量は、一瞬でゼロとなった。
目の前で鋼鉄の門が閉じたかのような拒絶だった。
さとりは慌てて石に呼びかける。
「待って! こいし! 話を聞いて!」
だがすでに、石の表面に浮かんでいた星は全て消えてしまっていた。
我を失ったさとりは、必死に彼女に訴えかける。
「騙したつもりはないの! 貴方を傷つけるつもりもなかった! ただ、話がしたくて……!」
何度も呼びかけるが、石はただの石ころと化してしまったように、無反応だった。
さとりは両手で硬く冷たい礫に触れ、額を押し付け、諦めずに呼びかける。
「ああ……お願いこいし……」
もう少し、貴方の声を聴かせて。本当の、貴方の声を。
いくらでも謝ってあげるから。あの時私がしたことを。
[嘘つき]
「っ……!?」
いきなり思念が繋がり、さとりは小さく息を呑んで顔を上げた。
石が元通りに光っている。
そこから、幾分トーンが低くなった妹の声が聞こえてきた。
[本物の姉さんは今、うちのペット達とお話してたわ]
「……ぺ、ペットと?」
[ええ。昨日この家に来た、新入りの子達よ。貴方には知る由もないだろうけど]
慌ててさとりは、あらかじめ用意しておいた古い日記の、しおりを挟んでいた部分を開く。
「…………そうね]
思わず、微笑みが浮かんだ。
「お燐とお空が、はじめてうちに来た日だわ……。懐かしい」
火焔猫燐と霊烏路空。
火車と地獄鴉という異なる種族でありながら、二人はこの屋敷で姉妹同然に育った仲良しだった。
今では二人とも、地霊殿でも有数の発言力を持つペットになっているが、この頃はまだ人の姿を取る程の力はなかった。
[……どうして?]
石の向こう側にいる存在は、動揺しているらしかった。
「貴方は私と姉さんのことを知っている。しかも来たばかりのペットの名前まで。どうしてわかるの? 気味が悪いわ]
「気味悪がられるのも無理はありません。私は貴方のいる時代よりも、もっと先の時代に生きている古明地さとりだから」
改めて、さとりは自己紹介する。
「今、こちらは第129季です。そして私は紛れもなく、地霊殿の主である古明地さとり。貴方は七十六年後の姉と話していることになるわ。そして私は、七十六年前の妹と話していることになる」
[……未来の、姉さんってこと?]
「そういうことになります」
[ほ、本当に?]
「お互い信じられない状況ですよね、こいし。上手く証明できるといいんだけど……」
さとりは当時の日記から、いくつか未来の自分でなくては知り得ない情報を伝えようとした。
こいしがこちらのことを疑うのは想定済みだし、そのための対策もきちんと準備している。
だが、
[ううん……信じるわ]
と、石の向こうにいる覚り妖怪は言った。
[信じる。だって、私のことをそんなに知ってるのは姉さんだけだし、ペットの名前まで当てちゃった。それなら、今話しているのが姉さん以外の姉さんってことになるもの。だからきっと貴方は本当に……未来の姉さんなのね]
「ええ……」
[逆に、姉さんは信じてくれる?]
「何をですか?」
[私が、本当にこいしだって]
「………………」
正直な話、さとりはまだわずかに疑っていた。
たとえ一日が経過して、状況を吟味したとしても、あまりにも突飛な出来事だったからだ。
けれど、
「信じますよ」
さとりは優しい声で、用意していた答えを告げる。
たとえこれが本当に全て夢だとしても、無理に目覚めようとするにはもったいないくらい魅力的だったから。
こいしが、おかしそうな調子で話す。
[ふふっ、未来の姉さんが相手なら、質問を全部考え直さないといけないわ。こんなことになるなんて、思ってなかった]
さとりもその意見に同調し、笑みを深める。
いい流れだ。互いの存在を無事に認め合うことができ、なおかつ信頼を得ることもできた。
スムーズに事が進んでいる。これなら……。
[姉さん。今どこにいるの? 自分の部屋? それともお仕事のお部屋?]
「え? ……ええ、執務室から話していますが」
[じゃあちょっと待ってて]
さとりは不思議な気分で、言われた通りに待つ。
一分ほど経って、こいしの声がまた聞こえた。
[お待たせー。姉さん、ドアを開けてみて。あ、ちゃんと石も持ってきてよ?]
「は? はぁ」
言われたさとりは、戸惑いながら部屋の扉を開ける。
[ドアは開けた?]
「ええ、開けましたけど」
[七十六年前の今、私がそこに立ってまーす]
さとりの踵が、わずかに浮いた。
もちろん、廊下には誰もいない。いつもと同じく何の変哲もない無地の壁しか、自分を迎えてはくれない。
なのに……この高揚感は何だろう。
[じゃあ姉さん。今度は玄関まで移動しましょ?]
「ちょ、ちょっと待ってこいし」
[早くしないと置いてっちゃうよ]
「置いていくと言っても、貴方とは石を通じて会話してるだけで……」
と言ってから、さとりは思わず自分の瞼をこすっていた。
一瞬、無人の廊下に、かつての妹の姿が浮かび上がった気がしたのだ。
[廊下の壁紙は換えた? それともクリーム色のまま?]
「な、何度か換えましたけど、色はそのままにしてありますよ」
[ここに飾ってる絵も同じ? それとも新しいのに変わったのかしら。ほら、地上の風景を描いた高そうな絵]
「その絵は今、ちょっと色々あって物置にしまっていて……」
また廊下に、妹の姿が映った気がした。
いや、錯覚じゃない。本当に時々、ふっと盲点の陰で見え隠れするように、黄色い洋服を着た少女が現れる。
さとりはそれが何なのか気付いた。
石から伝わる心象風景によって、当時のこいしのイメージが投影されているのだ。
覚り妖怪として長く生きてはいるが、このような現象を体験したことは今までになかった。
時々現れる妹の後姿を、さとりは早足で追いかける。
[今アライグマのピピとすれ違ったわ。姉さんの方はどう? 誰かに見つかった?]
「いえ……まだ誰とも……」
[何か喋って。そっちにあるものをきちんと伝えてくれなきゃ]
「ええと、壁があって、燭台があって……あ、部屋が見えてきました」
[ワインセラーね! 姉さんが誰にも触らせないで取ってある年代物のワイン、まだそっちに残ってる?]
「いえ、数年前に皆でいただきました」
忍び込んだ未来の貴方に栓を抜かれてしまい、仕方なく空けることにしたのです。
と、さとりは心の声にはせずに付け加える。
しかし、あの貴重なワインを烏龍茶割りで飲むとは何事ですか、妹よ。
[おやおや、階段が見えてきましたよ。姉さんのいる時代ではまさか、無くなってたりしないよね?]
「そんなことは、もちろんありませんが……」
[それじゃあ、一緒に屋上までレッツゴー]
幽霊に手を引っ張られているような気分で、さとりは階段をいそいそと上る。
屋上に出ると、唐突に風が吹いた。
乱れた前髪を直しながら、さとりは妹の姿を探す。
「こいし、どこにいるんですか?」
[もう縁のところまで来ちゃったわ。東向きの……あ! 今、姉さんが見えた気がした! すごい!]
向こうにも、こちらの姿が幻か何かのように映っているのだろうか。
さとりは七十六年前の妹が立っていたであろう屋上の縁に移動して、景色を眺めてみた。
旧都の中心に建つこの屋敷からは、街が一望できるようになっている。
東側は今も昔も煌びやかな鬼火が、絢爛ながら毒気も混じる建物の数々を闇の中に浮かび上がらせている。
石から伝わる思念と、網膜に映る都の光景が重なって、眩惑的な光景となっていた。
いいや、違う。
光景がだぶって見えるのは、そのせいだけではない。
[姉さんの時代だったら、きっともっと建物が増えてるんでしょうね]
「そうですね……」
[覚えてる? 去年の夏に、ここでダンスパーティーをしたのよ。今年は去年よりも姉さんが忙しいからできないかもしれないけど……]
「………………」
[あ、そっか。もう姉さんは未来に何が起こるか知ってるんだもんね。でも七十六年も前なんだから、パーティーのことは忘れちゃってるかしら]
「………………」
[姉さん? どうしたの?]
ひっきりなしに話しかけてくる妹に、さとりは返事することができなかった。
ハンカチを目に押し当て、嗚咽をこらえる。
七十七年前のパーティー。忘れるはずがない。
『目』を閉じる前の妹が、ペット達も含めた全員が楽しめるように、一人で一生懸命考えて準備してくれたパーティーだ。
あれが最後の催しになるだなんて、そんな残酷なことをどうして告げることができようか。
――忘れてはいけない。感傷に浸るのではなく、使命を果たすために私はここにいる。
落ち着きを取り戻したさとりは、ハンカチをしまい、瞼を開けた。
妹が目の前に立っていた。
「きゃあ!?」
さとりはあられもない悲鳴を上げて、思わず石を取り落す。
驚かせた相手、すなわち『現在のこいし』は、両手を上に掲げ、片足立ちになって、
「キェ――!!」
と奇声を上げてきた。
訳のわからない行動だが、もしかすると威嚇されたと思って、威嚇し返してきたのかもしれない。
無意識妖怪らしい、ある種の野生動物のような反応だ。
そして、
[どうしたの!? 姉さん!? 大丈夫!?]
落とした石の方から『過去のこいし』の心配する声が聞こえてきて、さとりの意識はこんがらがった。
どうして予想していなかったのか自分は。昔の妹と交信しながら、現在の妹に脅かされるというこの状況に。
これこそまさしく、しっかりと対応する準備をしなくてはならないことだったのではないか。
――い、いいえ、そこまで深刻に考えることもないんだわ。
慌てていたさとりは思い直す。
石から聞こえてくるのは、『音』ではない。『心』の波長だ。
つまり、第三の目を開いている自分にしか聞こえず、当然、昔のこいしが何をしゃべっても、今のこいしには伝わらない。
そして無意識妖怪の今のこいしの心は、第三の目で読むことはできないので、昔のこいしには伝わらない。
脱力感でしゃがみこみそうになるのを、さとりは何とかこらえた。
[姉さん? そっちで何があったの?]
[こいし。しばらく会話は中断しますね]
念話でそう断ってから、さとりはいまだに変てこなポーズを取っている、現在の妹と向き直った。
「こいし」
「アチョオオオオ」
「こいし」
「トゥエエエエィ」
「こいし。姉を威嚇するのは止めて。私は今、貴方と話をしている暇がないんです。すごく大事な用事があって」
「石を抱きしめて涙する用事?」
ぐっ、と言葉に詰まる。
いつからか知らないが、ちゃっかりこちらの様子をどこかで観察していたようだ。
さとりは敢えて堂々と大嘘を吐く。
「ええ、そうです。私はいい石を見ると感動する性格なんです」
「へー。面白ーい。お姉ちゃん石マニアだったんだー。だから昨日もあんなに石を貯めこんでたのね」
「そういうことです」
「じゃあ私にもその石ちょうだい。見して貸して触らして」
「それはいくらこいしと言えども許せません」
「ケチンボ」
「そのかわり、私が今まで集めた石は全部貴方にあげますよ。裏庭に置いた箱にたくさん入ってますから」
「おお。お姉ちゃん太鼓腹」
「それを言うなら、太っ腹です。早く行ってらっしゃい」
「ひゃっほーい。アワワワワワ」
指を差して命じると、こいしは騎兵隊を襲撃する先住民の如き仕草で、屋上から飛び降りていった。
我ながら実に勝手な話だが、いてほしいときにどこかに行ってしまい、いてほしくない時にやってくる妹というのは困りものだった。
もっとも送り出された方は、こちらの罪悪の念を綺麗さっぱり洗い流してくれそうなほど、お気楽に見えたが。
さとりは改めて、話が通じる方の妹と交信する。
「こいし、もう会話ができる状態になりました」
[びっくりしたわ。どうしたの突然。誰かと話してたみたいだったけど]
「……ペットに不意打ちを受けて、ちょっと驚かされましてね」
罪悪の念がさらにチクチクと心に刺さる。
だがまさか、第三の目を閉じた未来の貴方に奇襲を受けた、などと言えるはずもない。
すると、
[ふふっ、ふふふふ、あはははは……]
石から笑い声が聞こえてきて、さとりは眉をひそめる。
「そんなに笑うほどのことですか?」
[ごめんなさい。だって、私の姉さんのイメージと違ってるから]
こいしはまだ脇腹をくすぐられているように笑いながら、訳を話す。
[姉さんって、一生驚くことはない人なんじゃないかって思ってた。だって、いつでもどこでも隙がないんだもん。鬼の役人さん達が相手でも平然としてるし。それなのにペットの子に脅かされてうろたえるなんて、何だか姉さんらしくないわ]
「そ、そうかしら……」
確かに、自分で言うのもなんだが、さとりはあまり人から驚かされた経験がない。
というよりも、覚り妖怪というのは元々そういう存在なのだ。
他者の敵意や悪意には敏感だし、常に先手を取って行動できるのが強みなのである。
それを欺けるとすれば、まさしく無意識で動く存在に他ならない。
というわけでこの七十六年、さとりは唯一自分を出し抜ける存在に、足をすくわれることが頻繁にあった。
[そうだ、ペットで思い出した。マリーは元気?]
再び、質問が飛んでくる。しかも今度もまた、この交信にとって致命的になりうる問いだ。
とはいえ、これに関しては昨日のうちに予期していたため、よどみなく答えることができた。
「ええ、元気ですよ」
「半妖のまま?」
「いいえ。完全に妖怪化しました」
[わぁ、そうなんだー。本物の妖怪になったマリー、見てみたいなー]
――やっぱり、そうなのね。
さとりはこのゲームの新たなルールを再確認した。
先程のこいしに関する説明と、マリーについての会話。
どちらも大嘘が混じっているのに、こいしはそのことに気がついた様子はなかった。
通常の念話の場合、覚り妖怪相手に嘘を吐くのは超絶技巧に等しい。
では、どうしてこいしは、何ら疑問を抱かなかったのか。
おそらく原因は、この石塊を通じた念話という方式にある。
というのも、昨日からの体験を通じてさとりは感覚的に理解したのだが、これは心をそのまま読みとっているのではなく、心が発するものを間接的に読みとる作業だ。
言ってみれば、影絵からそれが表しているものを推理するようなもので、深層部まで明らかにするのが困難なのである。
もちろん、七十六年という時間を飛び越えて会話をやり取りしているのだから、普通のテレパシーとは次元の違う現象なのは間違いない。
姉の考察に気付いた様子もなく、こいしは朗らかに続ける。
[それじゃ、姉さん。今度は外に出かけてみない?]
「外に?」
[旧都よ、旧都。姉さんと行ってみたいところがあったの。でも今の姉さんは忙しそうだから]
声が弱々しくなった。
[未来の姉さんも忙しい? ダメ?]
「いいえ。貴方が行きたいのなら、出かけましょう」
[よかった! じゃあ今から急いで支度するね]
「でも、どこに行く予定なんですか?」
[それはまだ内緒。でも期待していいわ。それじゃ姉さん、また後でね]
石から光が消える。
さとりは苦笑しながらも、再び成果を上げたことに手応えを感じる。
今の会話で、もう一つの事実が明らかになったのだ。
――こいしは七十六年前の出来事を、そのままなぞっている。
実はさとりは、日記に記された過去の事実と、当時の妹の行動に相違がないかを確認するつもりでいた。
確かに七十六年前の八月三十日に、こいしは旧都に外出している。
地霊殿に引き籠りがちだった妹にとって、それはとても珍しい出来事だった。
こいしにその訳を尋ねる前に、彼女は第三の目を閉じてしまったため、真相は闇の中のままだったのだが。
――あの時、一体何をしていたのか。そしてどうしてあの時、地底から逃げようとしたのか。
七十六年越しに、ようやく真実を探るチャンスが巡ってきた。
石の向こうにいる相手は気づいていないだろう。
さとりは過去に干渉したり、こいしに余計な情報を与えるつもりは全くない。
そもそも自分にとっての妹は、この世に一人しかいない。
先程唐突に現れて去って行った、閉じた第三の目を持つ少女。過去でも未来でもなく、『現在』を生きる古明地こいしだ。
本来ならば過去のこいしとは、会話をするのも憚られるところだったが、今回は例外的に、この現象に付き合う必要があった。
全ては古明地さとり個人ではなく、地霊殿の当主として、七十六年前のあの事件の真相を暴くためのプラン。
今後も彼女にそのことに気付かれぬよう、冷静に状況を見定めなくては。
[姉さん!!]
「はいっ!!?」
突然持っていた石に話しかけられたさとりは、口から返事と共に心臓が飛び出しかけた。
[お菓子とお飲み物は何を持ってく?]
「え? お、お菓子? どうして?」
[だって一緒に出かけるなら、お揃いにした方が面白いじゃない]
「……………………」
[そうだ! いいことを考えたわ。姉さん、今からキッチンで一緒にお菓子作らない?]
「……ちょ、ちょっと待ってねこいし」
さとりはメモをめくる。
確かに、当時のペットの証言から、妹は出かける前にキッチンを使用しているようだ。
こうした細かい事項も、さとりはきちんと調査済みだった。
ともかく、過去と狂いはない。
「ええと、私は大丈夫です。それじゃあ今からキッチンに向かいますね」
[よかった! 何を作る? 簡単にできるのがいいよね。時間がもったいないから]
「……………………」
[未来の姉さんと一緒にお料理ができるなんて、ワクワクするわ。そう思わない?]
「そうですね……」
はしゃぎ立てる妹に、さとりは半生の返事で応える。
内心では、今さらながら、本当にこれは夢なのではないのかと、誰かに頬をつねってもらいたかった。
5 Kepler
ご来場の皆様。
本日は当館にお越しいただき、まことにありがとうございます。
これから皆様にお届けする演目は、『天球の旅人 ほうき星の恵み』。
地底では見ることのできない、素敵な星空の世界を、どうぞごゆっくりとお楽しみください。
東の空をご覧ください。
今貴方が目にしているのは、第二十五季に観測された、ほうき星です。
人間の言葉では、ハレー彗星とも呼ばれており、最もポピュラーなほうき星といえるでしょう
真夜中ではなく、明け方の映像を選んだことについて、不思議に思われたでしょうか?
実は、ほうき星は月と同じく自ら輝いてはおらず、その光の大部分は、太陽の光を反射したものなのです。
なので、明け方の東の空、あるいは夕方の西の空に観測できることが多いのですね。
しかし残念なことに、この映像のほうき星はすでに『魔法』が薄くなっております。
本日はその理由と、歴史上ほうき星が妖怪にもたらしてきた恵みについて、紹介していきたいと思います。
ほうき星の名の由来は、ご覧の通り、その尾が箒を思わせる軌跡を夜空に描くことから、と言われております。
古代ギリシャではcometo、すなわち髪の毛をもった星とされました。
それでは、ほうき星と流れ星の違いについては、皆様ご存知でしょうか。
実は多くの流れ星は、ほうき星から生まれた子供、と解釈することもできるのです。
というのも、ほうき星は小さな塵や金属、凍った気体などでできている天体です。
Dirty Snowballs すなわち汚れた雪だるまとも呼ばれるこの星は、その尾から多くの塵を生み出します。
それが地上に降り注いだ時に、流れ星として観測されるのです。
さて、流れ星が願いを叶えてくれるというのは、妖怪のみならず、人間の世界においても広く伝えられているところでございます。
その中から一つ、中央アジアのアルタイ地方に伝えられている、流れ星の伝説をご紹介いたします。
天にいる神様は、時々天の蓋を開いて地上の様子を覗き見ます。そのとき、蓋から溢れた光が流れ星となって空を走るのですが……その時は神様がお顔を見せている状態なので、地上にいる我々が願いごとを口ずさむと、しっかり神様の耳元に入る。だから願いが叶う……。
なかなか面白いお伽話といえはしませんか。
しかしながら、流れ星に淡い願いを抱く人間が、ほうき星に関しては全く逆の印象を抱いているというのは、なおのこと興味深いものです。
ほうき星は歴史的に、人間から災厄の象徴として恐れられてきました。
ある場所では疫病を運んでくるという言い伝えが広まり、ある場所では天災の前触れと語られ、ある場所では凶兆だと占われた皇帝が、そのまま気が触れて亡くなった等々……。
失礼いたしました。妖怪のお客様にとっては、人間の歴史など退屈なものかもしれません。
しかし敢えてこれらの歴史を紹介したのには、れっきとした理由がございます。
先程ご説明した通り、ほうき星は災厄の象徴として、古より人間に恐れられてきました。
なので人間の恐れを食らって成長する妖怪にとっては、明けの明星と同じく、信仰の対象となったのです。
ほうき星に対する思いが、妖怪と人間とで食い違っているのは不思議なようで、ある意味では自然なことかもしれません。
私は長らく人間のために働いてきたため、妖怪となった今も双方の視点を持っていると自負しておりますが、そこから推測するに……その理由は、ほうき星の尾にあるのではないか、と思われます。
光り輝くあの尾は、ほうき星の数ある特徴の中でも、最も我々に興味を抱かせるものといえるでしょう。
実は、ほうき星には尾が二つあったり、あるいは尾の無いものも珍しくはないのですが、最も目立つ尾は大抵の場合、太陽の方角とは逆に伸びております。この姿が、太陽に抗う凶兆の星としてのイメージを抱かせるようになったのではないか、というのが私の説でございます。
それはさておき、これは我々妖怪にとってはありがたく、人間にとっては実に勿体の無い話といえるでしょう。
流れ星が子なら、ほうき星は、それとは比較にならぬ大きさの親星です。
単純に計算するならば、願い事を叶えてくれる小さな流星の、何千億倍、あるいはそれ以上の願いを叶える力を持っているといえます。
そして事実、ほうき星は強力かつ多様な魔法の宝庫であり、妖怪に多くの恵みをもたらしてきたのです。
しかしながら、人間が科学を持ちだすようになってから、ほうき星の力は急速に失われてしまいました。
なぜなら科学というものは、いってみれば、森羅万象を隅々まで明らかにすることによって力を得ようとする御業であったからです。
それに対し魔法というものは、『見えない』部分、はっきりとしない部分に力を宿すものであり、正反対の性質を持っております。
森羅万象を理解する道具としての科学が、魔法や信仰とは反対の効力を持っているというのは、こういうことなのであります。
よって、ほうき星が科学の力で暴かれれば暴かれるほど、そこから魔法としての力は失われてしまいました。
ですが、ご安心を。
おかげ様で、幻想としてのほうき星は、今我々がいるこの世界に、数十年を周期にして姿を現すようになったのです。
しかもその力は、かつてのどのほうき星と比較しても優るとも劣らぬ規模のものです。
考えてもごらんくださいませ。歴史上何度も人間達を恐れさせ、その恐怖を吸収し、成長してきた凶星。
もしそれがひとつの象徴として現れれば、どれほど強力な力をもたらすことになるか……。
それこそ、普通では到底叶えることの難しい、あるいは打ち明けるだけで嘲笑の的となるような夢であっても、もしかすると叶えてくれるかもしれない。なんとも胸の躍る話ではございませんか? 建物である私に胸はありませんが。
こほん、失礼いたしました。
穏やかな老人の語り口に合わせて、視界に納まりきらないほどの星空は緩やかに回る。
それは心の変化に比べて緩慢としていて、単調で、だからこそ神経の休まる眺めだった。
星空はもとより、宇宙もまた地底においては幻想に等しい世界だ。
そして幻想は、人に夢を与える場所であり、妖怪にとっては還るべき場所なのでもあった。
[もしもーし……]
耳元よりももっと傍で、ささやき声がした。
[姉さん、起きてる?]
「起きてますよちゃんと」
さとりは小声で応える。プラネタリウムの座席に体をあずけ、天井を見上げながら。
他の席には人っ子一人おらず、妹と自分しか聞いていないようだ。
正確には、現代のこの演目を聞いているのは、自分ただ一人らしい。
しかしながら、さとりも七十六年前と全く同じ演目がプラネタリウムで上映されているとは思わなかった。
おかげで過去のこいしと、こうして時間を共に過ごすことができている。
まるで、ゆりかごを二人で共有しながら星空を見上げているような、どこか懐かしいひと時だった。
人間と妖怪それぞれから、お互いに全く逆のイメージを抱かれるようになった、ほうき星と太陽。
ですが、不思議なのはこの二つが近付いては離れ、近づいては離れることを周期的に繰り返していることです。
ほうき星は、まさしく無数に存在しているのですが、その軌道を遡ると……
[素敵だと思うわ]
こいしが言った。
[どんなに離れても、いつかまた太陽の元に戻って来るってことでしょう。見えない赤い糸で結ばれてるみたい]
「ロマンチックな解釈ね」
さとりは微笑し、逆に質問を投げかけてみる。
「だとすると、どうして彗星は離れていくのかしら」
[それはきっと……]
しかしながら、太陽の元に戻ってくるのは、彗星にとっては時に安全な航路とはならないこともございます。
地上から見れば大きさはさほど変わらないものの、太陽はほうき星の何万倍もの大きさであって、なおかつ炎の星だからです。
[近づき過ぎると溶けちゃうからかな]
念話に笑い声が混じる。
[もしくは彗星にとって、太陽は眩しすぎて、いつまでも側にいると恥ずかしくなってしまうものなのかも]
「そして何十年、何百年と留守にして、また戻ってくるというわけですか。織姫と彦星よりも、大きなスケールの再会ですね」
[姉さん。もし姉さんだったら、ほうき星にどんな願い事をする?]
「そうですね……考えたこともなかったから……」
貴方が遠くに行かず、いつまでも側にいてくれますように。
その本音を、さとりは心のカバーで隠す。
「家族みんなの幸せを願うくらいでしょうか」
[私は、心を読む私達を、この世界がもっと受け入れてくれますようにって]
「……………………」
[どう思う姉さん?]
「そうね……ほうき星にする願い事にはちょうどいいかもしれないわ」
演目は終わりに近づいていた。
6 Street
[ああ! 楽しかった!]
地底博物館のエントランスを出ると、開口一番、こいしが満足げに言った。
[姉さんはどうだった? 楽しかった?]
「ええ。ここのところ娯楽を求めて外出する機会がなかったものですし、久しぶりにくつろげた気分です」
さとりは演技抜きにそう伝えて、建物の方を振り返る。
旧都の場末にあるこの博物館は、外界で取り壊されたものが一つの巨大な付喪神となって幻想入りしたものらしかった。
知的な娯楽施設が少ない地底においては貴重なスポットだ。
地底にやってきた原因については諸説あるが、おそらく科学的な力を扱っているからだと思われる。
全てが見えてしまう覚りも、全てを見ようとする科学も、妖怪の空気にはなじまない。
だから両者とも地底に封じられることになるわけだが、二つの嫌われ者同士の相性は存外悪くないようだった。
無論、過去のこいしが側にいたというのも、さとりが楽しめた理由の一つだっただろう。
彼女はナウマンゾウやサーベルタイガー等の古代の動物の剥製が、いたくお気に入りの様子だった。
死体に興味があるのかと思いきや、それらの心が生きている時、どんな色や形をしていたのか想像するとワクワクするそうだ。
一方、さとりは量子力学の展示に強い興味を抱いた。
観測者が影響を及ぼすミクロの世界は、心を読むことでそれを操作する覚り妖怪にとって、奇妙な親近感があったので。
そして、珍しく姉妹の好みが一致した展示が、ほうき星のプラネタリウムだった。
さとりも本来の目的をしばし忘れて、つい心の赴くままに時間を過ごしてしまい、また訪れてみたいという気にもなっていた。
[次はどこへ行く? 姉さん]
「貴方に任せますよ」
[じゃあ……美術館に行ってみない? この近くにあるんだけど、まだ行ったことないの。ちょっと怖い噂もあるけど、姉さんと一緒なら……]
「では、そうしましょうか」
さとりは石を片手に、旧地獄街道を歩き始めた。
冬に比べて、夏の旧都は騒がしく猥雑としている。
音を吸ってくれる雪がないということもあるが、単純に妖怪の血が騒ぐ季節だというのが主な理由だろう。
石、あるいは古い木材で造られた荒家の奥からは、血の気の多い妖怪達のがなり声や嗤い声、悲鳴やすすり泣きの声などが絶えない。
ぶら下げられた赤提灯の下は、忌み嫌われた妖怪達の百鬼夜行。
異形の酔っ払いが千鳥足で行けば、寝そべって呪詛を唱える魍魎につまずき、抜き身の刃を手にした荒くれ者が睨みつけ、店から飛び出してきた酒臭い鬼が喧嘩に顔を突っこむ。
妹のイメージから見えてくる七十六年前の風景は、品の無いものばかりで、さとりは少なからずうんざりした。
今の時代であっても、並の妖怪よりも遥かに力を持った鬼が動物よろしく振る舞う光景に辟易としているというのに。
これでも割とましな道を選んでいるのだから、最も栄える繁華街がどうなっているかは、推して知るべし。
とはいえ、記憶力には自信があったものの、妹のイメージから見えてくる街道の眺めは新鮮ではあった。
「意外と忘れてるものね……」
[姉さん、後で将来なくなっちゃうお店について教えて? 今のうちに行ってみたくなるかもしれないから]
「ええ、いいですよ」
[そっちは道が混んでない? こっちは人通りが多くて大変なの。よそ見してると踏みつぶされちゃいそう]
「こちらはそんなに混んでませんよ」
それに、どれだけ通行人がいたとしても、水たまりを泳ぐ油の玉のように進むことができる。
身の丈十一尺を超える鬼であっても、さとりの胸元に赤い管で繋がれているものを見据えた瞬間、道の端を歩こうとする。
それだけ怖れられているのだ。旧都において古明地さとりという存在は。
正確には、心を読み取ることのできる第三の目が。
心を読むことができなければ、並の妖怪より非力なさとりなど、この都では取るに足らない輩に成り下がってしまうであろう。
反対に、鬼のような頑強な肉体が備われば、四天王をはじめとした地底のありとあらゆる存在を平伏させることができるかもしれない。
つまるところ、旧都における鬼達と地霊殿の力関係を奇妙に釣り合わせているのは、主にさとりの持つ第三の目といえた。
腕力主義の連中に敬遠されるというのも、無理のない話というわけだ。
もっとも絡まれることはなくても、悪口雑言の類は山のように聞こえてくるのだが。
一々気にすることもない。こちらもわざわざ歩み寄る気は皆無だし、彼らの恐怖は覚り妖怪にとって、いい滋養にもなるので。
と、そこでさとりは、重要なことを思い出した。
「こいし。つかぬことを聞きますが、貴方は今どんな格好を?」
[え……]
予想通り、慌てる気配が伝わってくる。
[えっと……帽子と……その……]
「その?」
[コート……冬物の]
やっぱり……と、さとりは溜息をついた。
「こいし。そちらも夏の終わりだったはずだけど、この暑い時節にコートを着て外出するというのは、どういうことですか」
[ほ、ほら。私、冷え症だから]
「初耳です。厚手の服をまとうのは、『目』を内側に隠せるからでしょう。ごまかせるとでも思ったの?」
小さいころから、妹は偏食の傾向があった。
その『目』で読む心は、自分を慕っているペット達のものだけで、赤の他人のものは決して味見しなかった。
要するに、読んでも自分が傷つかないと分かっている心しか読もうとしないのだ。
野菜嫌いな子供のようなものである。
「覚り妖怪は人間の、ひいては他者の恐怖を読み取って生きる妖怪です。その気になれば、食事をとらなくても心を読むだけで生きていける。けれど、心を読まずにずっと健康に生き続けることはできない」
[……………………]
「心を読むというのは、覚り妖怪にとって日々の食事よりも大切なこと。心が読めなければ、病んで死ぬか『覚り』であることをやめなくてはいけない。そのことを、我々は己自身の心に留めなければいけない」
[……………………]
「こいし? 聞いているんですか? どうして何も言わないの?」
[別に。ただ姉さんって、七十六年経っても姉さんなのね、って思っただけ]
思わぬ返答に、さとりは面食らった。
「どういう意味ですか、それは」
[姉さんと話すと、どれだけ楽しいことを話してても、最後にはいっつもその話になっちゃうってこと]
「いつも同じ話になるのは、貴方がいつまでも改めようとしないからでしょう。そもそも、貴方がいけないことをしているからよ」
[もちろん私がいけないのはわかってるけど、せっかくのお出かけの時くらい、お説教しなくてもいいじゃない。ちなみに姉さんと出かけるのがいつぶりか知ってる? 三年ぶりよ三年ぶり。三日とか三ヵ月じゃないのよ]
「それは……」
言い淀んだ隙に、こいしはプンプン怒った口調で、さらに畳みかけてくる。
[最近は私だけじゃなくて、ペット達もみんな姉さんの顔色窺ってる。怖がってるのよ。何だかピリピリしてて、何を聞いても上の空。おかげで他の子達の愚痴を聞くのはずっと私の役目なんだもん。だから私の方が心を読んで、みんなの注文に応えてあげてるのよ。どう? これでも姉さんは私に説教できるわけ?]
「………………」
七十六年前の妹からの反撃に、さとりは赤面した。
そういえば、過去の自分はペット達から畏敬を受けてはいたが、彼らに懐かれていたのはむしろこいしの方だった。
一応言い訳はある。今のさとりは地霊殿から出ることが少ないものの、当時は旧都に出かける用事が多すぎて、ペットに構ってやる暇がなかったのだ。
灼熱地獄跡の管理者という立場を維持するため、とにかく鬼達を納得させられるだけの結果を出し続ける必要があった。
そんなわけで、さとりが全ての住人から尊敬ではなく、親愛を得ることができたのは、こいしが第三の目を閉ざしてからだった。
あれからマリーを除いて、彼女の周囲からペット達の影は消えてしまったのだが……。
「ごめんなさい。自覚してるようで、自覚してなかったわ」
[え……]
「家のことはずっと貴方にまかせっきりだった。貴方が影で支えてくれなかったら……閻魔様から与えられた仕事を、軌道に乗せることさえ難しかったかもしれない」
「………………」
「ありがとう、こいし。そちらの時代の私は御礼を言う余裕がないらしいから、未来の姉の言葉で勘弁してください」
まさか七十六年越しに、こんなに素直に感謝を伝えられる日が来るとは、我ながら驚きだった。
しかし驚いたのは向こうも同じだったらしい。
石を通じて浸透する心のイメージが、もにょもにょと濁った。
[……あ、あのね。姉さん。その時代の私はどんな風? 相変わらず? それとも少しは変われた?]
こいしは唐突に違う話題を提供してくる。
さとりは苦笑を隠せなかった。
少し変わったどころではない。変わり果てた、という方がより正確だろう。
「ええ。家にこもりがちな昔の貴方と違って、毎日のように外で元気に遊び回ってます」
[ウソ! 本当に!?]
よほど意外だったのか、こいしの心の声のトーンが跳ね上がった。
伝わってくる心象風景の裏には、喜びの感情が見え隠れしている。
[相変わらず心を読みに出かけずに引き籠っていて、姉さんに心配かけてばかりなんだろうなって思ってたわ]
「心配の種が変わった、というのが正しいですね。私に黙って、地上まで出かけることもしょっちゅうだから」
[ふふ、それはいくらなんでも信じられない。地上に出かけることが、どんなにいけないことか知ってるもの]
「この時代では、少し規制が緩くなりまして……」
さとりは、過去に支障をきたさぬ程度に、今の状況を伝える。
地上に怨霊がたくさん現れたことで、博麗の巫女が解決にやってきたこと。
それを境にして、地上との交流が徐々にではあるが始まっているということ。
こいしの食いつきは、相当なものだった。
[じゃあ、地底の妖怪でも、本物のほうき星を見られるってこと!?]
「ええ」
[わぁ素敵! 七十六年後の楽しみが増えたわ! 姉さん、絶対に連れってね? 約束よ?]
「わかりました」
さとりは禅の心で、言葉を返した。
都合のいい時に本来の目的に立ち戻り、相手に本心は決して見せようとしない。
これだから覚り妖怪は、きっと神にも仏にも妖怪にも嫌われるのだろう。
とはいえ、過去のこいしが地上に出かけることの重大さをわきまえていることに、さとり内心ホッとしていた。
ではなぜ、あんな大それたことをしでかしたのかが疑問に思えてくるが……。
「そういえば、こいし。私達が交信に使っているこの石は、どこで手に入れたの?」
[えっ……! えっと、えっとね。市場で買ったのよ]
「市場で? いつ旧都に出かけたんですか?」
[わ、私じゃなくて、ペットの子に買ってきてもらったの。ほら、幸運の石シリーズっていう名前で売られてたんだって。素敵じゃない?]
「そう…………」
さとりは嘆息して、第三の目を持つ相手であっても、この石越しでは嘘が有効だというルールを思い返していた。
もっとも、その嘘の吐き方が下手過ぎれば、当然バレることになるのだが。
さらに突っ込んで訊ねたいところだったが、今日起こる出来事を見据えるのに集中するため、今のところは石の性質について明らかにするのを後回しにする。
[わっ、姉さん。ここって何だろ]
こいしが浮き立った声を上げる。
さとりもちょうど、地底ではこれまた珍しい美術館の建っている通り、通称『落書き横丁』に入ったところだった。
その名の通り、塀に隙間なく絵やら字やらが書きこまれており、それがざっと三百メートルほど続いている。
[すごーい。こんなの初めて見たわ。もしかしてこれも美術館の展示品なのかしら]
「ええ。ここに書かれた文字は、不思議なことに書いた者が死ぬか滅びるかするまで、いつまでも残っているんです。上書きすることも消すこともできない、呪いの壁ですね」
[そっか。じゃあ、姉さんのいる時代と同じものが書かれてるかもしれないのね]
覚り妖怪の二人は、七十六年という年月を隔てて共に歩きながら、壁に書かれた作品を見てみた。
地底のものだけあって、地獄絵図や幽霊画のようなおどろおどろしいものが多い。
それらに混じって、色彩豊かな抽象画や、幻想上の動物を描いたものもあった。
さとりからすれば、過去の妹に見せたくないような卑猥な図なども。
もちろん絵だけではなく、愛の詩や俳句、短歌に漢詩、呪いの文句までも所狭しと書かれていた。
何と言うべきか、節操がないにも程がある。
[姉さん。今どのあたりに立ってる?]
「三丁目に差し掛かったところですよ。船の絵が描かれています」
[うん。じゃあちょうどいいわ。そこに立ってて]
「?」
さとりは不思議に思いつつも従う。
壁に書かれた宝船の絵は、作意を解釈してみる限り、海を割って現れた輝く船と、それに驚く者達の図だった。
が、その下にはなんと仏教のお経が書かれている。鬼が支配する地底では、悪趣味とみなされる部類のものだ。
「この絵がどうかしたんですか?」
[下よ下ー]
さとりは言われて、足元を見てみる。
「……………………」
[どう姉さん? なんて書いたかわかる?]
「……『姉さんへ』……ですか……」
[当たり! わぁ、本当に伝わるのね]
こいしは弾んだ声で言う。
[即席タイムカプセル~……なんちゃって]
「……………………」
[それじゃ、姉さん。美術館に行ってみよ]
「……………………」
[姉さん?]
「……こいし……もう一つ字を書いてくれませんか」
[いいけど、何て書いてほしい?]
「間欠泉地下センター」
さとりが口にしたのは、この時代でなければ、決して知り得るはずのない名詞だった。
石の向こうの妹も、ちんぷんかんぷんな様子で繰り返す。
[間欠泉地下センター……って何それ]
「お願いします。とても大事なことなんです。その下に書いてみてください」
[まぁ、姉さんが言うなら……]
さとりは壁を食い入るように見つめた。
そして、その表情がさらに強張るのに、さほど時間はかからなかった。
[どう? この字で合ってた?]
「…………ええ」
[よかった! これで本当に私が、過去のこいしだってことが、姉さんに証明できたね]
いいや違う。さとりは心の内で呟く。
証明できたことは、もっと他にある。
[どうしたの姉さん。さっきから様子が変よ]
「すみません。少し考える時間をください、こいし」
[美術館が好きじゃないなら別のところでも……]
「いえ、そういうことではなくて……」
さとりは固い声で言って、横髪に指でかき上げながら、熟考する。
音もなく、書き手の姿もなく、あぶり出しのように浮かび上がったその字を見つめながら。
これは……一体どういうことだろう?
過去が積み重ねた因果は絶対的なもので、現世の行いによって、間接的に歴史を変えることはできない。
それがこの世の公理なのだと、さとりは今までごく自然にそれを受け入れようとしていた。
しかし、この壁に書かれた字を読む限り、それは誤りだったとしか思えない。
そして新たに突きつけられたルールは、今日のさとりの計画を、根本的に変えてしまう可能性を持っていた。
もしやすでに何らかの影響が出ているのだろうか。
さとりは視線を上下左右に――自らが生きているこの世界そのものに走らせた。
昨日までの自分が知っている光景に、何らかの変化が起こってはいないか、確かめようとする。
[何だろう……赤くなってるけど、あれって炎かしら]
炎、というキーワードを聞いて、さとりの思考は突如現実に引き戻された。
「こいし。今、炎と言いましたか?」
[うん……北の方の空が赤くなってるの……火事……なのかな。何だかすごく嫌な感じ」
さとりの血流が速まった。
脳内にイメージが弾けては消える。
こいしが見ている光景だ。懐かしい都の空が赤く燃えている映像が、フラッシュバックの如く再生された。
[大変! 姉さん、ちょっと行って見てくる!]
「駄目っ!! やめなさい!!」
さとりは慌てて止める。
しかし、こいしの方も聞かなかった。
[どうして!? ただの火事じゃないわ。あんなに火が大きくなってるもの!]
「そうだとしても、貴方が現場に向かって、できることなどほとんどありません。身の安全を考えて避難しなさい」
[でも! 凄く一杯『声』が聞こえてくるわ! 助けを呼んでる人がいるなら、助けに行かないと!]
「こいしっ!!」
さとりは石に思念を叩きつけた。
強情を張る妹の頬を打ち据え、目を覚まさせるイメージで。
こいしは動きを止めて、自らの顔に手を当て、茫然としているようだった。
「私の言う事を聞きなさい。その騒ぎは放っておいて、今すぐ地霊殿に帰って」
鬼気迫る様子で言ったのが功を奏したのだろう。
やがて、こいしは怯えた調子で言った。
[うん……わかったわ、姉さん]
それを聞き届けたさとりは、念話を使ってこいしの避難のサポートを始めた。
通い慣れた道を使うこと。寄り道せず、人通りが少ない今のうちに速やかに移動すること。
相手に考える暇を与えず、矢継ぎ早に指示する。
こいしは火事の様子が気になるらしく、何度も振り返っている様子だったが、さとりの豹変ぶりによほど驚いたらしく、大人しく従ってくれた。
そして、さとりの方はといえば、妹の反応を気にする余裕がなかった。
たった今気が付いた可能性が、完全に己の心を支配していた。
過去は変えられる。今を生きている自分が、過去を生きているこいしに関与することで、変えられるのだとしたら、
あの日に失われたこいしの自我も、取り戻すことができるのではないか?
◆◇◆
中央街の街道を抜け、旧都のど真ん中に聳えながらも孤独な丘を登って、さとりは、やっとの思いで地霊殿にたどり着いた。
ドアを開けてエントランスに入るなり、すぐに石を通じて、問いかける。
「こいし。今どこ?」
[うちの玄関……]
「それを証明して。壁の隅の目立たない場所に、何かで傷をつけて。私が合図したらよ。いいわね」
[う、うん]
さとりは壁の指定した部分を、穴が開くほど見つめる。
やがて、細い引っ掻き傷が白い壁面にポツポツと現れたのを見て、ようやく胸を撫で下ろした。
「良かった……それじゃあ今日はもう一日、地霊殿から出ないように」
[姉さん]
「わかってますよ。どうしてこんなことをしたのか聞きたいんでしょう」
もっとも手近にあった応接間の扉を開け、さとりは長椅子に腰を落ち着かせる。
「こんなことを言ってもすぐには理解できないかもしれない。けどこれは全て貴方のためを思ってのことだとわかってください。あのまま現場に行ってしまえば……貴方はその事件に巻き込まれることになっていた」
石からこいしの想いが伝わってくる。
部屋の外を無数の獣の影に脅かされるという、恐怖の表象だった。
[怖いわ……未来の私に何があったの姉さん?]
「貴方が心配する必要はないわ。直に旧都で何が起こったのか、わかることでしょうし」
[でも……だって、未来の私は元気に外で遊び回ってるって、さっきは言ってたじゃない]
さとりは言い訳に迷った結果、またも嘘を吐くこととなった。
ただし、大部分は真実が混ざっていたが。
「元気に遊び回れるようになるまで、長い時間がかかったんです。もしも貴方があそこで救助をして、旧都の消防隊から表彰される過去を知っているというなら、私だって止めたりはしません。でも事実はそうじゃなかった」
[……………………]
「その事件の後遺症は、とてつもなく重いものでした。貴方は長い間寝たきりとなり、ペットの皆は貴方の事を心配し、地霊殿は長い間全く別の空気に変わってしまいました。あんな思いはもうたくさんです」
[……………………]
「こいし?」
急に石から何も聞こえなくなった。
さとりは色々と思念を飛ばして試してみたが、結局反応は戻らなかった。
つのる苛々を、深呼吸と論理的な思考で落ち着かせる。
昨日と同じく、交信の疲れが限界に達した等の理由で、打ち切っただけかもしれない。
さすがにあれだけ念を押しておけば、こいしも軽はずみな行動を取るようなことはしないだろう。
これでいい。
彼女はやはり無実だった。あの一連の火災には、偶然巻き込まれただけだった。
それが確信できればもう十分だ。これでもうあの不可解な事件と関わるようなこともあるまい。
そうすれば、こいしが第三の目を閉じることも……。
「……………………」
さとりはソファから身を起こす。
未来はどう変わる?
過去の妹が第三の目を閉じなかったとして、すぐに現在に変化が訪れるのか、それともこれからいずれ起こるのか。
そもそも、自分達が繋がっている過去と未来の関係はどうなっているのか。
時間の帯がたまたま重なっていて、お互いに影響を与えている状態なのか。
それとも何か特殊な原理が働いているのか。
こいしが別の行動を取った今、未来はどのような方向に舵を切ったのだろう。
夜が沁み込んできたような寒気が、さとりを襲った。
今さらながら、自分がしてしまったことが恐ろしく思えてきた。
自分達が置かれている状況をきちんと吟味もせずに、過去を変えてしまうようなことが、ただの一妖怪に許された所業とは思えない。
昨日までは確かに、起きた事実は全て受け入れる覚悟をしていたはずだったのに。
なんということをしてしまったのだ自分は。軽率にもほどがある。
それにあれは、本当に妹のためを思った行為だったか?
自分の罪を消したいがために、無理やり説得してしまったのではないか?
さとりはすぐに食堂に向かい、今朝の新聞を取りに行った。
改めて記事を眺めてみるが、特に事件の記述に関する変化は見当たらない。
歴史が変わったのだとしたら、これはこれでおかしな話に思える。あの後、妹はどのような過去を辿ったのだろう。
そして今のこいしは……。
キィ、とドアが開く音がして、さとりは入り口の方に目を向けた。
誰もいない。
しかし、経験則に従って、さとりは自然と声をかけていた。
「こいし? そこにいるの?」
呼んでも返事がない。
不安に思って捜しに行こうとすると、ドアの裏に妹の姿を見つけて、さとりは引っくり返りそうになった。
「どしたのお姉ちゃん」
妹は目を真ん丸にして、こちらを見つめている。
間違いなく、こいし、だ。
屋敷の中でも帽子を取ることをせず、第三の目の瞼を閉じっぱなしの。
七十年以上も姉を悩ませ続け、困らせ続け、心配させ続けた、さとりの知っている、今のこいしだった。
何だか色々と力が抜けてしまい、さとりは額を覆って、その場にへたりこんだ。
「怖い夢でも見たの?」
「……ええ」
苦笑して肯定する。
「貴方が遠くに行ってしまうような、そんな夢を見たの」
隣にしゃがみこんだこいしは、真水が揺らいだような笑みを浮かべた。
「それはきっと夢じゃないわ。だって、私はいっつも遠くに行ってるもの。お姉ちゃんの知らない所や、行ったことのないところに、毎日出かけてる」
「確かにそうね」
ふらりと地霊殿に立ち寄っては、またどこかに消えてしまう。
いつか、今度こそ本当に戻ってこないんじゃないかと思う時もある。
それだけに、こうして顔を見ることができた時、心底ホッとするのだ。
しかし今となっては残念ながら、心の窓を閉じた妹に、この気持ちを直接伝える術はない。
「こいし…今日はお姉ちゃんと一緒に寝ませんか?」
まさしく無意識に、さとりはそんなことを提案していた。
突拍子もない提案に、相手は目をぱちくりさせて、
「だって、まだ眠くない」
「私もそうですよ。眠たくなったらでいいから」
「んー、じゃあ考えとくね」
「よろしくお願いします」
奇妙な会話を終えて、こいしは無意識のベールをまとい、また姿を消してしまった。
きっと、地霊殿の外か、あるいは地上まで足を運んでくるのだろう。
姉の頼みも忘れて、翌日の朝になって帰ってきてもおかしくはない。
ああ、そうか……と、さとりは自責の念に囚われた。
かつてはこいしも、こんな気持ちを味わっていたんだろう、と。
七十六年前から続く、この世でただ一人の妹のささやかな復讐は、いまだに続いているらしかった。
7 Awareness
その日の目覚めは、生まれてこのかた経験したことのない、最悪の部類のものといってよかった。
側頭部が痛み、体の節々が固まっていて、妙な倦怠感が筋肉に残っている。
昨日の疲れがたまっているのだろうか。
それでも睡眠は十分に取ったはずなのだが。
「……六時」
さとりは寝返りを打ち、時計の文字盤を確認する。
ベッドの上には、一人分の温もりしか残っていない。
結局昨日のささやかな願いは、聞き届けてもらえなかったようだ。
まぁ、元々望みの薄い話ではあったし、お互いもう子供ではないのだし。
そんな風に自分を慰め、
「今日は私が用意しようかしら」
独り言を呟きながら、身を起こしたさとりはスリッパを履いて、洗面所へと向かった。
顔を洗って意識をはっきりさせたさとりは、キッチンで料理を始めた。
献立はシンプルに、サラダとスクランブルエッグ、それにパンケーキ。
地獄の熱を調整して焼き上げるこのキッチンは、灼熱地獄の管理を任された者の特権といってよかった。
一枚一枚、パンケーキを丁寧に焼き上げながら、さとりは昨日のお菓子作りのことを振り返る。
――楽しかったわね……。
今ではつまみ食い専門になってしまった妹だが、料理全般に関しては、姉である当時の自分よりも一枚上手だった。
ああいう時間を、彼女がずっと求めていたということに、もっと早く気付いてあげるべきだったのかもしれない。
「心を読まなければ、覚りではない、か」
ご先祖様の訓戒を口ずさみ、さとりは料理を皿に盛りつけてから、テーブルに運び始めた。
ここのペット達は夕食以外は決まった時間に食べることはなく、誰が朝起きて来るかもわからない。
なので、できるだけたくさん作っておくのが慣例となっていた。
料理を並べ終えたさとりは、朝食を報せるベルを鳴らす。
屋敷の大きさに比べて貧弱な、風鈴ほどの音だが、動物の聴覚にはこの程度で十分だ。
始めに現れたのは、地霊殿のトレンド隊長にして、元気印でもある火車だった。
「さとり様、お早うございます」
「お早うございます、お燐」
さとりは振り返って「あら」と目を瞬いた。
「髪型、変えたのね」
「えっ? わ、わかりました?」
お燐は自分の髪に手を添えて言う。
口元を綻ばせつつ、心には愛らしい花を咲かせ、
[ちょっと切り揃えただけなんだけど。さとり様って相変わらず鋭いわね]
と心の声も。
しかし、ちょっと切り揃えたというには、三つ編みからボブカットへの変更は大胆だと思うのだが。
けれども、とてもよく似合っている。
服も今日はクロムグリーンのブラウスと明るめの黒のスカート。全体的に大人びた感じになっていた。
次に現れたのは、地獄鴉のお空だ。
こちらも本日は、格好が恐ろしく変わっている。
「お゛~は~よ゛~う゛~ご~ざ~い゛~~」
「お空、どうしたの一体」
さとりは目を丸くする。
同性のペット達にも羨ましがられていた艶やかで長い黒髪が、一月ブラシをしていない癖毛玉のごとき有様に変わっていた。
しかも紐やら金細工やらがついた皮のジャケットを着ていて、まるで異国のダンサーだ。
お燐が呆れたように、肩をすくめて言う。
「いつものごとく飲み過ぎですよ」
「ぞ~う゛~で~ず~」[あ~頭がガンガンする。頭蓋骨の内側でひよこちゃんのロックバンドを飼ってるみたいだわ]
「独特の喩えですね。スープだけでも飲んだら?」
しかし、隣のお燐が椅子を引いてやっても、それが目に映っていないらしく、お空はフラフラとその場をさまよっていた。
酔っ払いの心を読むのは波に浮かぶジグソーを解くようなもので、同席していてあまり気持ちのいいものではない。
「そんなに具合がよくないなら、部屋に戻って寝てらっしゃい。あとで二日酔いにいいものを持っていってあげます」
「あ゛り゛がどう゛ござい゛ま゛す」
礼を言って、鳥の巣頭の地獄鴉が去っていく。
結局、他のペットたちは来なかったので、今日の朝食はお燐と二人だけで取ることになった。
「いただきまーす」
髪型が変わると、性格も変わるものなのだろうか。
どんな服を着せても舌でミルクを舐めたがる癖が抜けないお燐だったが、今朝は食器の音を立てずにフォークを口に運んでいる。
「うん! 美味しい! やっぱりさとり様のスクランブルエッグは一味違いますね!」
「どういたしまして」
さとりもジャムを塗ったパンケーキをナイフで切り分け、口に運ぶ。
ちょっと火力が強かったかもしれないが、そこは御愛嬌。
こいしにも焼き立てを食べさせてあげたいが、今日は留守だろうか。
さとりは何気なく尋ねた。
「お燐。こいしを見ませんでしたか」
テーブルの上で、食器が甲高い音を立てた。
お燐はケーキを喉に詰まらせたような顔をこちらに向けて、固まっている。
[それって、どういう意味なのかな……]
彼女の心の声を妙に思いつつも、さとりは会話を繋ぐ。
「二人で食べるには作りすぎてしまいましたし、あの子も欲しがるなら持っていこうかな、と」
「あっ……あーそういうことですか! じゃあ、私が持っていきますよ」
お燐が納得した様子で相好を崩す。
[でもパンケーキはともかく、『お供え』にスクランブルエッグってありなのかしら]
「お供え?」
お燐の心の声に、さとりは眉をひそめる。
「お燐。今なんて?」
「え、私が持っていきますって……」
「そうじゃなくて……」
さとりの背に悪寒が走る。
お燐の頭に浮かんだイメージが、余りにも不吉過ぎるものだったのだ。
墓だった。しかも、さとりの知らない墓だった。
「お燐……?」
「え?」
不思議そうに首を傾げているその火車が、突然、さとりの全く知らない妖怪に映った。
髪型が違う。仕草が違う。言葉遣いが違う。そして……その心の中身も。
さとりは椅子を蹴飛ばすようにして立ち上がり、部屋を見渡す。
――ここは!?
地霊殿……ではない!
同じような造りの建物だが、それよりずっと狭く、何よりも内装が全然異なっている。
あまりにも体が馴染みすぎていて、気付くのが遅れた。一体ここはどこだ。
すぐさまさとりは玄関へと向かう。
やはりおかしい。
飛んでも食堂から二十秒かかるはずの玄関口に、たったの三秒で到達する。
扉を開けようとして――引いてもびくともしないことに気付き、押す。
勢いよく外に飛び出したさとりは、
「なっ……!」
その光景に打ちのめされた。
見ないで絵に描けるほど慣れ親しんだ庭園が、影も形もなくなっている。
石のアーチも噴水も花壇もない。そのかわり、物寂しい石の大地が広がっていた。
しかもその向こうは、あるはずの無数の建物の灯りが全て消えていて、暗闇が横たわっている。
右を見ても左を見ても、自分の知っている地霊殿の外の眺めが、目に飛び込んできてくれなかった。
さとりは屋敷の裏手に回ってみようとした。
そして、出くわした光景に、氷の縄が喉に巻きついたかのように呼吸が停止した。
背後から、お燐の足音が近づいてくる。
彼女は心配した様子で声をかけてきた。
「どうしたんですか、さとり様。いきなり外に飛び出すなんて」
「お燐……」
さとりは振り返らずに呟く。
血の気を失った指を、遠くに向けながら。
「あれは……何……?」
その指が示す方向に、都があった。
旧都は闇色をしている。そういう表現はよく聞く。
石造りであろうと木造であろうとその色は瑞々しさがなく、昏くくすんでおり、それらを照らす灯篭の炎も昏く燃えている。
街道を漂う獣と酒の臭いが混ざった空気も、昏くぬめりを帯びていると言い表される。
熱気と寒気が入り混じった混沌の都。それはかつて魑魅魍魎が跋扈した平安の京における丑三つ時を想わせたものだ。
しかし今、さとりの目に映っている都は、ほとんど真逆のイメージを醸し出していた。
言うなれば白き魔都。
石と骨で築き上げたかのような建物が立ち並んでおり、淡く白い光が街道の隅々まで浮かび上がらせている。
中央は薄い靄をまとっていて、どうなっているかはよくわからないが、見えている部分だけでも、地底の妖怪の目には寒々しく、なおかつ奇異に映った。
お燐が懐かしそうに、そして少し寂しげに言う。
「ずいぶん変わっちゃいましたね……ほんの三日くらいだったけど、あの辺りに住んでたなんて、今でも信じられません」
「ほんの三日……?」
「ええ。七十年以上前、まだ生きてらっしゃったこいし様に、私もお会いしましたから」
何か、氷が割れるような音を聞いた気がした。
そして、ドミノの絵のように、世界の一つ一つが音を立てて引っくり返っていく。
新たに出現したその絵を前にして、さとりはようやく『思い出した』。
古明地こいし、彼女は逝ってしまったのだ。あの七十六年前の忘れがたき火災によって。
ひどい事故だった。
灼熱地獄跡の炎がかつてない勢いで暴走し、その上に建っていた地霊殿が、一瞬で炎に呑みこまれたのだ。
旧都の北側に出張していたさとりが、事態に気付いて引き返した時には、すでに手遅れだった。
お燐とお空は、たまたま地霊殿をこっそり抜け出して中央街に遊びに出かけていたため、命が助かった。
泣き叫ぶ二人に止められなければ、さとりは五体を失ったとしても、地獄の炎の中に身を投じていただろう。
誰よりも優しく、健気だったこいし。
自分の身を省みず、動物達を避難させようとした彼女の心が、さとりにはあの時届いていた。
姉のいない間、代わりに家族を守らなければいけないと。
だが結局、その行いに神は報いてくれなかった。
妹だけではなく、お燐とお空以外のペットの命も、全て天に旅立ってしまった。
あるいは、地獄の業火に焼かれて、本当に消滅してしまったのかもしれない。
そしてそれ以来、さとりは生き物の命を預かることができなくなった。
怨霊と灼熱地獄跡の管理の任務も解かれ、覚りの力の限界を知り、郊外に生きることに決めた。
そう、なぜかそのことを忘れていた。
「さとり様……大丈夫ですか?」
「……ええ。平気よ。ありがとうお燐」
倒れかけた自分を支えてくれたお燐に、さとりはそう断って、しっかりと自分の脚で立ち直った。
幸せすぎる夢だった。
妹のこいしは焼け死ぬことなく、姉である自分を困らせながらも、元気に飛び回っていて。
ペット達は慕ってくれて、たとえさとりが体調を崩しても、地霊殿が変わらぬ日常を送れるよう、精いっぱい尽くしてくれる。
そんな中、仕事の傍らに本を読み、あるいは書きながら、穏やかな時を過ごしている自分。
今の生活と比べれば、天国に一番近い地底のように思える。
けれど、こんな夢はお燐やお空には話せない。
生き残った者達が、元通りの日常を送れるようになるまで、長い月日を費やしたのだ。
彼女達を落ち込ませるようなことは言えない。ここもまた、一つの小さな楽園ではあるのだから。
「戻りましょう。食事がまだだったから」
「はい」
お燐はそう言って、しずしずと後をついてくる。
さとりは地霊殿の一部を模した、健気でいじましい設計の建物を見上げ、自嘲の笑みを浮かべた。
今度は押し引きを間違えずにドアを開けて、玄関から中に入る。
その時だった。
[…………もしもし…………]
椅子をお燐に引いてもらい、そこに座ろうとしていたさとりは、伏せていた顔を上げる。
「あれは誰の声?」
「え? 何も言ってませんけど」
「いいえ」
視線を宙に彷徨わせ、胸元の第三の目に手を添える。
「確かに聞こえました……どこからかしら……」
声の出どころを探りながら、さとりは足を進めた。
食堂を出て、短い廊下を行き、今朝に出たばかりの自分の寝室に入る。
簡素なベッドの上に、夢の中で見た、あの石が載っていた。
[……もしもし……]
その声が再び『目』を通して脳に反響した瞬間、強烈な痛みが遅れてやってきた。
「ぐぅ……!!」
思わずさとりは頭に指を這わせて、体を揺り動かす。
生まれてこのかた経験したことのない痛みだ。神経に針を刺されたか、血管の中を異物が移動しているかのような。
呻き声を上げ、必死にその痛みに耐えていると、突然、瞼の裏にイメージが浮かんだ。
それを皮切りにして、ダムが決壊したかのような勢いで爆発的な情報が流れ込み、さとりの中にあらかじめあった情報と衝突を始めた。
一方の記憶によって、もう一方の記憶が強制的に書き換えられようとしている。
壮絶な陣取りゲームに翻弄されながら、さとりは己の指に噛みついた。
痛みで無理矢理、力尽くで意識を統一し、
――去れ!!!
第三の目が赤い閃光を放ち、部屋にあった家具が一瞬にして配置を変えた。
横にスライドしたベッドが壁に激突し、布団が宙を舞って天井を叩く。
倒れたクローゼットが、同じく倒れた隣の鏡台と頭を突き合わせ、机の上にあった小物は一掃された。
覚り妖怪として与えられた力を最大出力で解放したさとりは、その場に崩れ落ちた。
本の散らばった床に手をつき、乱れた呼吸を整える。
痛みは去ったが、今度はとんでもない虚脱感でこのまま気を失ってしまいそうだった。
けれどもこれで、『戻った』。
死に物狂いで体を引きずって、さとりは石にすがりつくように呼びかける。
「こいしっ!?」
思わず肉声で、その名を呼んでいた。
「こいし! 貴方は今どこに?」
[え? 地霊殿よ? ついさっき朝ご飯を食べ終わって、私の部屋に戻ってきたところ]
彼女がまだ死んではいなかったことに、さとりは心の底から安堵した。
身内の心肺蘇生が成功した報せを受けた気分だ。
[それより聞いて! 昨日の火事は本当に凄かったらしくて、町一つが全部燃えちゃって、しかも消火している間に今度は夜に全然別の場所でまた火事が起こって、今朝になってようやく消えたそうよ。しかも原因はまだわかってないらしくて……]
「……ええ。全部知ってるわ、こいし」
[あ……そうだったね。さすが未来の姉さん]
「それより聞きたいのは私の方です。貴方の今日の予定は?」
消えかかっていた元の記憶を取り戻したさとりは、鼻息を荒くして尋ねていた。
[今日の予定は……特にないよ? 昨日姉さんにおうちにいなさい、って言いつけられたから、みんなとトランプでもしようかなって。でもポーカーだといつも私が勝っちゃうし、神経衰弱も他の子達の記憶が読めちゃうからズルになっちゃうし……。姉さんならこの悩みわかるよね?]
妹の能天気な話題を、宇宙の彼方へ蹴っ飛ばす勢いで流し、さとりは彼女の胸倉を掴む気持ちで問う。
「本当にそれだけですか? 今すぐに自分の知っていることを洗いざらい話しなさい。気付いたこと、起こったこと、自分のだけではなく、他の者達の分も、一切合切私に伝えなさい」
[ちょ、ちょっとどうしたの一体?]
「質問形式がいいのであれば、そちらに変えます。就寝したのは? 起きて始めに誰に会いましたか? その前に今、地霊殿の周囲に怪しい人物がいないか探って……」
[ま、待ってよ姉さん]
「いやそれよりも、灼熱地獄跡はどうなってますか? まさか蓋が開きっぱなしなんてことにはなっていませんよね。今すぐ確認してらっしゃい。異常があればすぐにペット達を連れて避難の準備を……!」
[ストップ、ストップ、スト――ップッ!]
こいしに制され、ようやくさとりは念話の機関銃を停止させた。
[落ち着いてよ。普通の交信ならまだしも、『このやり方』でそんなに一度に聞かれても、わからないわ]
「ああ、すみません。少し私が今置かれている状況に困惑しているの。とにかく貴方の無事を一刻も早く確認したくて……」
[私の無事? そっちで何かあったの?]
失言に気付いたさとりは、思わず喉を鳴らす。
「その、何かあったというか、少し未来に変化が起こって、今までとは違う形に」
[まさか……私、死んじゃってたとか]
鋭い指摘に、さとりは絶句した後、否定しようとするが、
[だって、そうでもなければ、姉さんがそんなに隠そうとするのはおかしいもの。今の反応で確信したわ]
「…………ええ」
嘘が下手なのはお互い様らしい。あるいは姉妹だからこそ、互いの言動に勘が働くのだろうか。
さとりは深呼吸し、
「その通りです。貴方は亡くなっていた」
口にするのもおぞましい事実を告げた。
「でもそれは、『私の知っている現在』じゃ……つまり貴方からすると、『私のいた未来』の話ではないんです。こんな事態になるなんて、想像もしていなかった」
[昨日姉さんが、私が火事に向かうのを止めたのと、関係があるの?]
「……ええ、おそらくは。他に考えられませんから」
さとりにとっては衝撃的な出来事だった。
なぜこいしが死んでしまったのか。しかも地霊殿での火災が原因とは。
灼熱地獄の管理は徹底しているし、主に問題となるのは怨霊の管理の方であり、むしろ全焼させる方が手間なのだ。
一連の放火事件と関連はあるのだろうか。
解けずに捨てたはずの知恵の輪が、再び複雑さを増して枕元に現れたような薄気味悪さがあった。
[姉さん]
妹の真剣な声に、さとりは思考を中断した。
[今度こそちゃんと話して]
「………………」
[昨日みたいに誤魔化さないで、姉さんの知ってる歴史も、今そっちで起こってることも、全部私に教えて]
適当に言い含められるような雰囲気ではない。
さとりは決心を固め、真実を語ることに決めた。
かつて旧都を揺るがせた大火と、その第一の容疑者として挙げられた覚り妖怪、古明地こいしについて。
後編いってきやす
過去になにがあったのか!
これからどうなってしまうのか!
いますぐ続きを読まざるを得ない!
さとり様は過去のこいしちゃんが残した痕跡を見つけられるけれど、こいしちゃんには未来のさとり様の声しか届かない……んですね。この距離感がたまらなく好きです。
後編いってきます。
後編に行ってきます