全く、五月蝿くてしょうがない。
分厚い本を読みながら呟いた。
何が、と聞かれれば『すべて』だ。
何故なら私の周りは無駄に溢れている。
父様も母様も会えば語るのは学のある振りをしたウドの様な言葉でしかない。
同世代の相手が語るのは、無学な実りの無い会話。
老獪な者が語るのは、風化した武勇伝ばかりだった。
寺子屋の教師も本に書かれた文字を読み繋げ、書かれた数字を書き上げるだけ。
その言葉は私にとって邪魔でしかなかった。
だってそうじゃないか。
竜の像の起源を知ったところで天気が予測できるわけでもなく、縄飛びをしたところで金が入るわけでもなし。
半世紀前の災害を聞いたところで、麦の値段は一銭たりとも変わらない。
書かれた文字は読めばいいし、数字は自分で書けばいい。
すべては私の将来にとって無駄なことだった。
子供らしくないと言うなら言わせておけばいい。
自分が子供の割りに大人ぶっていることは自覚しているし、別に気にしてない。
何を言われようと本を読み、商才を研鑽すれば結果は付いてくるだろうから。
そういう思考を持っていた私は周囲から浮いていた。
当たり前と言えば当たり前だ、私自身、自分の性格を知らない訳ではない。
それでも私は里にいる以上、最低限の関わりが必ずある。
会うたびに言われる言葉に苛立って仕方が無かった。
そしてある日、私はふと思い立ったのだ。
里の外の静かな場所で本を読もう。
誰にも邪魔をされる事の無い、雑音一つ届く事の無い何処かで、一人読書に耽ってみたいと思った。
周りに余計なものが多いというのなら、私を取り巻く環境を変えてみれば良い。
それに、子供だからという理由で殆ど里の外に出た事が無かった私からしてみれば、全てが未知の世界だ。
そうした期待も有って、私は何の躊躇いも無く里の外へ出る事を決行した。
これが、私が彼に会うきっかけになった行動だ。
私は本を家から持ち出して里の外へ飛び出した。
「なんだここ?」
それが私が『そこ』を見た時に呟いた言葉だった。
静かな場所で本を読もうと里を出てから程近い竹林に入った私は……見事に迷った。
里から出たのは今回が初めてだった私は家にあった地図を頼りに静かな場所を探し始めたのだけど。
その結果向かったのが『迷いの竹林』と呼ばれている竹薮。そこは妖怪の噂も少なかったから、割と軽い気持ちで入って行けた。
だが現実は地図のように簡単ではなくて、私は竹林に入ってものの数十分で入り口と出口を忘れたのだった。
迷子になったことに気付きつつも心の中で否定を続け、無作為に歩き回る。
結果、私の方向感覚を麻痺させるように乱立していた竹林が急に整然と並び出す、奇妙な場所に出ていた。
正確にはそこは場所、というより地帯、いや道と言える空間だ。
後ろを見れば、まさに竹藪と言う様な乱雑とした竹林が広がっているのに、目の前に広がるのは見事に一定の間隔で竹同士が離れた美しい空間。
薄暗くてとても本など読めなかったはずなのに、ここには眩しすぎない程度の光が差し込んでいる。
人の手が加わっているのは、見ただけでも明らかだった。
その辺の竹に背を預けて本を読んでしまってもよかったのだけど、今の私にはここが竹林の何処なのかも、里への帰り道も分からない。
来た道を戻ることも出来ない以上、人に道を聞かないと帰る事が出来なくなってしまっていた。
この道の先は竹林の出口かも知れない。もしくはここを作った誰かに会えるはずだ。
私は本を抱え、竹が壁のように並ぶ道を歩いていく。
まるで私を先へ導くように、竹は真っ直ぐな道を作っていた。
整備された山道でもないというのに、この竹の道はそこらの街道よりも綺麗な気がする。
先ほどまで苦労していた足元の土も、踏み固められたのかがっしりとしていて、明るいために危なげが無い。
幅も馬車こそ通れないものの人が通るには悠々と歩ける程度。
どんな方法を使えば、竹林の中にこんな道を作れるのだろうか。
先ほどまで歩いてきた場所を考えると、ここまで竹を並べるのには大変な苦労が必要なはずだ。
そんなことを考えて進んでいくと竹の道が途切れ、目の前に大きな小屋が見えた。
大きな、と言っても正直馬屋より少し大きい程度だ。その上ものすごくボロボロなのがわかる。台風でも来たら吹き飛ぶのではないだろうか。
私はとりあえず人がいるならば帰り道を聞けるだろうと、小屋に足を踏み入れた。
そして中を恐る恐る覗いてみると、広がっていたのは、
「うわぁ……」
本だ。本の山、いや本の壁だった。
壁という壁に天井まで本棚が入っており、その全部にびっしりと本が詰まっている。それでも入りきらない本が床にうず高く重ねてあり、それすらも私の身長よりも高い。
更に、一歩足を動かしてみると、足元にも大量の本が散らばっているのが分かった。辺りを見回してみても、視界が本で埋まってしまうほどで、外観に比べてとても狭く感じる。
試しに何冊かを手にとってみると、聞いたこともないタイトルばかりが並んでいる。
中には、見た事の無い言葉の本まで有る、それどころか魔道書の類まであるじゃないか。まるで大きな図書館の本をここにむりやり詰め込んだような空間だった。
何百、いや千に届きそうな情報の壁。その重圧に圧倒されながら、この中に人がいないかと大きく声を出した。
「誰かいませんか!」
声が響くと本全体に響き渡る。
すると小屋の奥、ここからは本の壁にしか見えない場所でゴソゴソと音がする。
やはり人がいるようだと奥に向かって足を進めると。
「あー、止まってくれないかな」
「?」
と壁の奥から声が聞こえ、その方に足を踏み込んだ瞬間。
ドサドサドサドサ!
「……遅かったか。その辺はバランスが悪かったのに」
本の雪崩に飲み込まれた私は、そのまま意識を失った。
「気がついたかい? ここがどこだかわかる?」
目を開けると、そこは私の家……ではなく、小屋の天井が見えた。
見慣れない景色に慌てて身を起こすと、まるで毛布をかける様に置いてあった大量の本が散らばる。
ズキズキと痛む頭に手を当てながら周りを確認してみると、すぐ目の前に男の子がしゃがみ込んでいた。
手には分厚い本を持って私の顔を覗き込んでいる。
髪は綺麗な銀髪ではあるものの、肌は病的なまでに白い。体は肩こそ広いが全体的に細く、筋力はありそうに見えない。
お世辞にも、健康的とは言い難い姿だ。
どう見てもこの男の子から悪意を感じなかったので、色々聞いてみる事にした。
「私は……気絶してたのか?」
「あぁ、積み上げてた本が君の声でバランスが崩れちゃってね。それに加えて君がその本の山の近くを歩いたから」
「私が悪いような言い方をするな。こんな本の置き方は非常識だ」
「……助けてあげたのに、礼より先に罵倒が来るとはね」
男の子はため息を吐くと、今度は真剣な顔をして私に問いかけて来る。
「君はどうしてここに? 多分里の人間だと思うけど……君は誰だい?」
そう言われて、私は彼に名前も名乗っていないことに気がつく。
私は自分がここに来るまでの経緯を説明し、彼に名前を名乗った。
「君が名乗ったのだから、僕も名乗った方がいいかな?」
「当たり前だ。お前は社交辞令を知らないのか?」
「迷子の子供が言う言葉とは思えないね……」
「それは関係ないだろう」
と私がふくれた顔で言うと、男はおどけた顔で私に自分を名乗る。
聞いたことの無い名前だった。外見的には私と近い年に見えるのだけど、聞き覚えも見覚えも無い。
ひょっとして、里の人間ではないのだろうか。
そう考えていると彼は怪訝な顔をして私を見る。
「しかし……本を読むために里を出るなんて君は馬鹿かい? あれだけ広い里なんだから、静かな所なんていくらでもあるだろうに」
「……静かじゃないんだ。人が来るたびに無駄なことを話してくる」
「無駄なこと?」
「あぁ。子供は分かりきった事や大して中身の無い事しか話していないし、
大人はご機嫌取りの言葉や聞き飽きた過去の話しか投げかけて来ないんだ。だから、聞きたくない」
私の家は、自慢ではないが里では知らないものの少ない相当に大きな家系だ。
だからこそ、話しかけてくる相手は子供大人問わずどこにでもいたのだ。
彼はその私の話を聞くや、不思議そうな顔をしながら言う。
「どうして過去の話が『無駄』なんだい? 学ぶべきものじゃないか」
私の言った事を、真っ向から否定する様に。
「無駄だろう? 過去を知ったからと行ってこの先何かある? 全ては終わったことじゃないか」
「君は歴史というものを全て否定するつもりかい?」
「歴史なら文献から読み通せばいいじゃないか。いつ何が起こった。必要なのはそれだけだろう?」
彼は私の顔を見て冗談ではないと理解し、心底不思議そうな顔をする。
私と同じように『何を言っているのか』と言う様な顔をしていた。
「文献に書かれたことは結果ばかりじゃないか。その中で起こった事件、物語はすべて省かれている」
「過去の話はそれで十分だろう? 今に必要なのは結果だけのはずだ」
「事件の中に存在する物語を知らずに事件を知った顔でいる事は愚考だと思うけどね」
お互いに、相手をにらみ合う。
話が合わないわけではない。ないのだけど、自分の意見を否定されて黙っていられるはずが無い。
「なら君は先人が事件の中で学んだ教訓は無駄だと言いたいのかい?」
「そうは言わない。だが学ぶべきは事実だろう?」
「事実よりも大事になる行動があることを君は知るべきだと思うね」
さっきから、話が平行線から一歩も進んでいない。
いい加減煩わしくもなって来ていたものの、それと同時に、不思議な高揚感も有った。
「……じゃあ、例えばの話をしよう。君が人を殺したとする」
「はあ? どうしてそんな話になるんだ」
「だから例えばの話だと言ったはずだよ。で、君が人を殺したとしよう」
ここまで熱くなって誰かと言葉を交わしたのは、いつ以来だろう。
こいつは私と同じか、私以上に自分の意思を曲げない奴らしい。
そして、その意見を裏付けられるだけの知識と自信が有るのではないか。
「人を殺す事自体は悪い事だ、それは誰にも曲げようが無いからね。 だけど、それが君を殺そうとした人から身を守るためだったら、どうなる?」
「そ、それは……」
「殺さなければ、自分が殺されていた。 そんな状況だとしたら、それは悪い事だと言えるのかな」
全くと言って良いほど言葉に詰まる事無く、私の意見の一つ上を行くこいつに、凄く興味が湧いて来た。
見た目には私と大差無い年頃のはずなのに、私以上に子供らしくない、そんな気がする。
同じ様な奴だからこそ気になるのだ。と、勝手にそう思っておく事にした。
「……そうだな、私が間違っていた」
こんな風に負かされたのも、私がこうなってからは初めてかもしれない。
ほんの少しだけ悔しく、でもそれ以上に清々しい気分になって、ふっと息を吐く。
この話が出来ただけでも里の外に出て良かったと、そう思う。
「それじゃあ、この本を片付けてくれないか」
「は?」
そんな気持ちも束の間、とんでもない命令に思わず変な声が出てしまった。
「どうして私が片付けなきゃならないんだ、これはお前の本だろう」
「でも崩したのは君だ。なら君には片付ける責任が有ると思うけどね」
「こんな簡単に崩れる様に置いておく方が悪いじゃないかっ!」
流石に反論したくもなる様な酷く一方的な言い草に、つい声を荒げてしまった。
こいつはそれに何を思ったか、読んでいた本を閉じて、立ち上がった。
「……それじゃあ、片付けるのを手伝ってよ。それくらいなら良いよね?」
もの凄く面倒くさそうに言っているが、こいつとしても部屋が滅茶苦茶なままなのは困るのだろう。
少なくとも、私に非が無いとは言い切れないので、その折衷案を呑むのが一番妥当だ。
私は一度だけコクンと頷いて、後はほとんど何も喋らないまま、雪崩れた本を二人して纏め始めた。
日が大分傾いた所で、ようやく床が見える様になった。
既に体中が埃塗れで、もう本を読むにも痒くて集中できないし、そもそも本を読む時間も無いだろう。
すぐに里に戻らなければ夜になってしまう。 いくら里から出たいからといって、夜に出歩くなんていう命知らずなマネをする気は全く無い。
「結局私は、ここに片づけをしに来た様なものだったな」
帰る前にせめてもと、思いっきり皮肉を込めて、言ってやりたかった事をぶちまける。
正直な所、私が言い負かされるなんていう体験は久しぶりだったから、凄く悔しかった。
しかし、とても良い経験が出来た事には変わり無い。 上には上が居る事や、自分で動く事で変わる事が有るという事。
「その様だね。とても助かったよ」
そして、さも当たり前の様にそんな事を言ってのける様な奴が居るという事も。
こいつには、人の心という物が無いのだろうか。私が言うのもおかしい話だけど、私でも言える程だと思う。
おおよそ、子供らしくない奴だ。
「……ところで、さ」
でも、こいつの知識は本物だと思う。
私以上に本を読み、それを自分の物として自分なりに扱っている、それも私以上に。
自身の知識にはそれなりに自信は有ったものの、完璧に丸め込まれてしまった。
「また今度、此処に来ても良いのだろうか」
それなのに、どうしてこの小屋に、こいつに興味を持ってしまったんだろう。
目の前にいるこいつが私に何かをくれるような、何かが変わるような気がして。
私の目を見ると手で髪を掻いて本の壁の奥に潜り込み、小さな本を一冊取り出して、ずいっと私に向けた。
「持って行くといい」
「……?」
「……『読み終わったら』返してくれ」
渡された本は薄く、1日も有れば十分読めてしまえるほどの厚さしか無い。
本を開くと小さな紙が挟まっており、そこには地図のような線が、曖昧だけど丁寧に書かれている。
「あぁ、読み終わったらまた来るよ」
私は言葉の意味を少し考えて、ほっこりと笑って小屋を出た。
家に帰るなり、部屋に篭って渡された本を読む。
親が、どうしたのかやら大丈夫かなどと喚いていたが、適当に答えて後は無視した。
内容は、私も別の本で読んだ事のある事件の、被害者側から見た物語だった。
容疑者に対しての被害者の心境や状況、被害者側の生活等は物語として書かれた物ながら臨場感に溢れ、初めて知る観点に読む手が進む。
事件自体にそこまでの関心があったわけではなかったので、思い出しながらの形になる。
それでもあいつの言っていたことを考えて、一応内容を理解する努力はしてみた。
あいつもそのつもりで渡しただろうし。
「まぁ……おもしろいけど……」
それよりもあいつより深く理解してあいつを凹ませるのも面白いだろう。
そうと決まれば、私が見た本も探さなくちゃいけない。それが有れば、あいつを負かす事も楽勝だ。
そんなことを考えつつ本をめくりながら夜は更けた。
結論から言えば、また負けた。
私とて自分の頭脳に自信が無いというわけでもなく、勝負に対して手を抜くような事はしない。
しかしあいつは、そういった文献の語りについては私の頭1つ上を行くようで、何か語る度にすぐさま返答が返ってくる。
それも、多少筋違いな所や飛躍した考えはあったものの、おおよそ理解ができるものだから余計に悔しい。
自分の想像や意見を混ぜるのがうまい、と言うべきだろうか、半ば呆れながらもその論に感動を覚えていた。
だが、その感動もあっさりと消えてしまうくらいの怒りも覚えた。
それは、
「……どうして1日でこうなる?」
まるで時を遡ったかのような、見事なまでの散らかりようだった。
昨日ほどではなかったものの、足元には大量の本が散らばり、床がまるで見えていない。
よくもまぁ、ここまで散らかせたものだと、ある意味で感心さえ出来る。
「読みたい本を探してたらちょっとね。見つかったからいいけど」
「取ったものは元の場所に戻す、という簡単な作業がなぜできない?」
「君が続き物の本の順番を無視して滅茶苦茶に並べるからだよ。おかげで探すのにかなり手間取ったし、本を退けるのに苦労した」
「……また私のせいか。元はと言えばこの小屋が汚いのが悪いだろう、そこまで言うのなら始めからお前が片付けていれば良いじゃないか」
「君ほどの本の読み手なら、題名から並べるくらい簡単だろう?」
「そんなことを言っている場合じゃなかっただろうが!」
幸い(?)怒鳴って崩れるような本の山は周りにはない。遠慮なく怒鳴れる。
しかし口論だけでは部屋は片付かない。 仕方なく、また昨日と同じように本の話をしながら本を片付ける作業に移った。
話題はずっと本の話題で、それ以外の――例えば、俗っぽい会話は一切ない。
それどころか、互いのことは名前しかわからない。
でも、それでもいいような気がした。
こいつについてあまり深く詮索する気はないし、逆に探られるのも面倒だ。
こいつが私の家柄に驚いてヘコヘコするような姿は見たくないし、それを自慢する気も無い。
対等。そう、対等だ。
私にはほとんど居なかった対等に話のできる相手、その相手とこうして過ごせるという事が、とても嬉しかった。
一人で本を読み、それを伝える時とは違う高揚感が身を包み、議論の声が胸を焦がす。
時を忘れて知識をぶつけ合う。そんな久しぶりの経験とその相手が、何よりも私の興味を惹いていた。
「――よし、これで十分だろう」
本の整理が終わった頃には大分日も落ちていて、結局まともに本を読めるだけの時間は、全く残っていなかった。
流石にこれ以上遅くなるわけにはいかない、そう言うとこいつはまた本を手にとって、私に向かって突きつけて来る。
「これを」
「……また本か?」
「昨日貸した本の続き……ではないな。加害者の日記だ。また事件の視点が変わると思うよ」
「これがあったからあの質問の時にあの返しができたんじゃないか。ズルいぞお前」
「なかったとは言ってないし、読んでない人からの意見も欲しかったからね。僕は両方を同時に手に入れて1日で読んでしまったから」
「そうか、まぁわかったよ。また借りることにする」
「あぁ。読み終わったらまた来てくれ」
「そうするよ」
昨日と同じようにまた本を渡され、私は嬉々として小屋から出て行く。
小脇に抱えた重くない『約束』を、確かに感じながら。
いつしか、このよくわからない借り本は、私とあいつとの間での習慣になっていった。
本を読み終える度にあいつの所へ行って議論を交わし、ボコボコに論破されてはまた新しい本を借りる。
毎度毎度、あいつに勝てないながらも、それはとても楽しくて充実した時間だった。
そして気が付けば、私達には不思議なルールができていた。
それは、借りた本を読み終わるまで来てはいけないこと。あいつは時折妙に分厚い本を渡すことがあり、数日かけて読み終わるとあいつは「客人が来ていた」と話していた。
つまり分厚い本を渡すということは数日来ないでくれ、という意味だった。
私は分厚い本を渡す度に少し残念そうな顔をするあいつを見て子供らしさもあるのかと感心し、私自身も妙な寂しさを感じながら本を読み進めていった。
その分、読み終わった次の日の論議はとても充実していて、数日の鬱憤を晴らすかのように朝から日暮れまで語り合った。
そんな毎日は、勉強するだけだった今までの淡白な私の生活よりも素晴らしく、輝いていた。
困ったのは、毎回家に戻ったときの対応だ。
親や周りの人達に何度行き先を問い詰められても決して答えることはしなかったが、いくらなんでも限度がある。
自分がどういう立場の人間かは、重々承知しているつもりだ。
その為に、あいつに会う大義名分が必要である。
「なぁ」
「なんだい?」
一ヶ月近くが経ち、いつもの議論を終えた私達は今、互いに全く別の本を読んでいる。
最初の頃は議論を終えるなり帰っていたのだが、最近はこういう事も増えていた。
いつの間にか日暮れを超えていて、月も見え始めている。ここまで遅く小屋に残ったのは初めてだった。
小さな明かり一つだけの、薄暗い小屋。
私は窓側に座るこいつに声をかけたが、まるで聞く耳を持たないように本から片時も目を離さないこいつを睨んだ。
「話しかけているのだからこっちを向いたらどうだ?」
「無茶言わないでくれ。今、丁度面白いところなんだよ」
本に夢中になっているこいつが話を聞かないことはわかっている。
だが、多少はこちらに意識が向いたはずだ。声だけでも聞こえていればそれで良い。
私は気恥ずかしいこと隠しながら続ける。まぁ、私の顔色なんて見てもいないだろうけど。
「なぁ、お前は……私の友達だろうか?」
「……何を急に」
「ここに来るのに理由が必要だろう?」
「……だからどうしたんだい?」
察してくれ。お願いだから。
こんな時、なんて言えば良いか分からないんだ。
「親が私の動向を知りたがってるんだ」
「そうだろうね。君はまだ子供だし、親が心配するのは当然だ」
「お前も同じだろう。それでな、お前が私の友達なら……『友達の場所へ』と言えるじゃないか」
そう言うと、あいつは本を捲ることを止めた。
こちらを見るのかと思い、赤面した顔を隠そうとしたがこちらを見る気配はない。
1つのページの見続けたまま、口を開く。
「君は妖怪に会った事はあるかい?」
「なんだ急に。今は関係ない話だろ?」
「関係有るんだよ」
パタンと本を閉じ、本の山から立ち上がって私の元に歩み寄る。
小屋の入り口で本棚に腰掛けながら問いかけていた私に、大きく影がかかった。
「言い方を変えよう」
「……?」
「君は妖怪を信じられるかい?」
「何を言って……」
私が聞いても何も答えず、私の真横にあった本棚から一冊の本を抜き取った。
パラパラと捲られていくページ。その全てに、醜悪な妖怪の姿がありありと描かれている。
この妖怪達が何だと言うのか。私はこいつの言っている意味がわからなかった。
……いや、薄々気付いていたようなものだ。ただ、私が勝手に否定し続けてきた事、それを聞こうとしなかっただけ。
しかし、事ここに来て避けて通れる道ではない。私は、理由が欲しい。
震える心を抑えて、答えを求めた。
「お前は……妖怪なのか?」
私が問うとこいつは私の顔を見て、心なしか悲しそうな顔をする。
こいつのこんな顔を見るのは、初めてだ。
「あぁ、妖怪……だね。いや、もっと気味の悪い存在だ」
返って来たのは、聞きたくなかった答えの一つと、それ以上に悪い答え。
妖怪だ、という事だけでも辛いのに、ここから先の言葉に耐えられるかどうか、自信が無い。
言葉が出ない私の目の前にしゃがみ込んで、私の顔を強く見据えて来る。
陰が濃くなりその表情は分かり難かったが、私はその時その顔から目を逸らす事が出来なかった。
「僕は……半妖なんだ」
半妖。つまり人間と妖怪の混血で、そのどちらでもない存在。
こいつが。一緒に本を読み合っていたこいつが。
「半妖は人間にも妖怪にも嫌われ、半端者だと疎まれる存在だ。それくらいは君も知っているんじゃないか」
「ま、まあな……」
「だから、僕はここにいる。ここに居れば、誰も僕を見はしないし、僕も誰も見なくて済むからね」
なるほど、確かにこいつの言い分には一理有る。
一人で本ばかりを読んでいたのも、こんな所で生きていけるのも、合点がいく。
だけど、納得なんか出来るはずが無い。
「半妖だから仕方が無いんだ。まぁ、もう慣れたから大丈夫だよ」
そんな事を、乾いた笑顔で言うな。
確かに感じた、煮え滾る様な怒りが身体から頭へと昇っていく感覚。
気が付けば、私は拳を強く握り締めていた。
「それに僕を助けてくれる人もいるんだ。だから」
だから。だから何なのだ。
「だから、君はもうここに――」
私ははっきりと見ていた。目の前でしゃがみこんだ時のこいつの顔を。
悲しそうな双眸が見えた。辛そうに言葉を紡ごうとする口が見えた。わずかに震える肌が見えた。
「ッ!そんな事を言うな!」
私にだってすぐに分かる。こいつは、嘘を吐いている。
「嘘をつくな。お前は私の友達だ!」
「……何をいきなり。君自身が聞いてきたんじゃないか」
「わかってるさ! 自分でも理屈になってないことなんてわかってる!」
言葉を遮るように大声を飛ばして、辺りの本を蹴飛ばしながら立ち上がった。
確かに、全部私が言い出した事だ。理由が欲しいからと、友達なのだろうかと、こんな事になったのは全部私の所為だ。
それは分かってるし、こいつの言い分も悔しいくらいに正しい。
だが今は、ただこいつに怒るだけの言葉が、激流の様に頭から湧き出て来る。
言わねばならない。言ってしまえ。
「たとえお前が妖怪だったとしても、私はお前と共に居たいよ!また一緒に本を読みたいよ!」
「何を言っているんだい?」
「私は楽しいんだ、お前と本を読むこの時間が。最近は、あんなにつまらなかった里に居ても楽しいと思えるようになった。それはお前のおかげだ」
間違っているなんて思わないし、こいつの言葉なんて聞きたくない。
私が思っている事は、絶対に本物だ。
「お前のおかげで私の意識は変わったんだ。お前のおかげなんだ」
「僕はただ話しただけだろうに」
「私はここに来るぞ。お前が来るなと言っても。お前が妖怪だろうが半妖だろうが」
「……」
「お前は私の友達なんだ。お前なんて怖くない!」
返事を聞かず、顔も見ずに、私は小屋を飛び出した。
聞く必要なんて無かったし、吐き出した言葉に後悔はない。
半妖だろうが妖怪だろうが、あいつは私の友人だ。
彼女が帰った後、僕はしばらく呆気に取られたまま静止していた。
なんだ今の言葉は。愛の告白……ではないにしろ、かなり大胆な言葉だった。
あんなことを言い放って、彼女はまた来るのだろうか。
何にしろ、理由は彼女に話せるだけ話した。もうここに来れはしないだろう。
そう思って、荒れに荒れた小屋の入り口に向かうと、さっきまで有ったはずの本が一冊無くなっていた。
確か、そこにあったのはこの小屋で1、2を争う厚い本。
こうなってまでルール通りにするつもりなのかと、つい苦笑してしまった。
彼女は本当に行ってしまったのだろうか。開けっ放しの戸から外を見てみると、彼女ではない誰かが居るのが見えた。
「熱い告白だったじゃないか」
と、その女性は冷やかす様に僕に向かって言う。
いつの間に来たのやら。まさか、全部聞かれていたんじゃないだろうか?
「今日はこちらには来ないはずでしたよね?」
「なんとなくだよ、何か有ると思ってね。多分女の勘ってやつだけど、大当りだったわ」
「……人で遊ばないでくださいよ」
「いいだろう? お前の成長も見れたし、今日は最高の日ね」
「とりあえず、何か用事が有るなら明日改めて来てくださいよ、妹紅さん」
赤いもんぺが特徴的な女性、妹紅さんは、満足気に手を振りながら夜の竹林へと歩いていった。
帰ってすぐ、私は親にこっ酷く怒鳴られた。
夜遅くに帰ってきたのは初めてだったし、帰りに気付かぬうちに泣いていたらしく、顔が赤く腫れていた。
一体何が有ったと問い詰めてくる親に、私は
「友人と喧嘩になったんだ」
と言ってやった。
私が今まで喧嘩をするような子供だと思っていなかっただろうし、私と喧嘩をするような相手が誰か気になるのだろう。しつこい位にどんな奴なのかと質問され続けた。
もちろん親に教える気はなかったし、今の私にはやらなくてはならない事が有る。だから、明日も朝から出掛けるから、とだけ言い残して、すぐさま部屋に逃げ込んだ。
あの小屋にあった分厚い本。適当に引っつかんで来た所為か予想以上に量が多く、読み終わるにはまた数日、いや1週間かかろうか。
これを満足の行くまで読み終えたら、またあいつに会いに行く事にしよう。
あいつに反論の余地を与えない位、楽しい議論をしたい。
次の日、ちょっと寝不足のまま、私は人里に出かけていた。
目的地は、余所者を受け入れないかの様に大きな門と、その中の大きな屋敷。
私にとってそれは見慣れた事で、臆する事無く親しい友人の元を訪ねる。
「すみません、用事が有って来たのですが」
門の外から中に向かって声を掛けると、中から女中さんが一人出て来て門を開けてくれる。
この屋敷の人にとって私は、声だけで中に入れてくれる程度に快く思われているらしい。
門が開いて姿が見えた女中さんに一礼して、戸惑う事無く屋敷の中に連れられて行った。
「お久しぶりです、阿弥様」
広い屋敷の奥の一室、豪奢な襖を開いた先にその人は居た。
今代の阿礼御子様の、稗田阿弥。
人里でも特に有力な家系の当主であり、代々幻想郷についての資料を記録している幻想郷縁起の編纂者でもある。
普段は忙しくて会える時間は無いのだけど、こうして不定期に暇を見つけては、私はお邪魔させてもらっている。
阿弥様と話す間は、人里だという事も忘れて本の話題で夢中になれるのが、楽しいから。
「あっ、いらっしゃい。」
机に向かっていた阿弥様は、筆を置いて私の方に向き直った。
既に私の分の座布団が準備されていて、お盆の上に乗せられたお茶が湯気を立てている。
そして阿弥様の向かっていた机の上には、大きめの急須が一つ、こちらも口から湯気が昇っていた。
「あ……わざわざ阿弥様がお茶を淹れてくださるなんて、すみません」
「いいのよ、私がそうしたいんだから」
そう言って、阿弥様は机の上の紙箱から取り出した羊羹の包みを開いて皿の上に乗せ、切り分けられていたそれを爪楊枝で一切れ取り、頬張る。
んー、と美味しそうに羊羹を食べる姿は、人里随一の屋敷の当主という立場とはかなり結びつき難い。
私もそれに倣って爪楊枝を取り、同じ様に一切れを頂く。
いつの間にか私を連れて来てくれた女中さんは居なくなっていて、少し広い部屋に部屋に私と阿弥様だけが残った。
「幻想郷縁起の方は、大丈夫なのですか?」
「私だってたまには休憩も必要よ。それに、そこまで急いで纏める必用は無いから、貴女は気にしなくて良いわ」
「はい、分かりました」
お茶を少し熱そうに一啜りして、阿弥様は困ったように少し首を傾げる。
「貴女も、私にそんなに丁寧にしてくれなくて良いのよ。私から言えば、もっと楽にして欲しいくらい」
「そ、そんな失礼な事――」
私と阿弥様では、年も十近く離れている上に、阿弥様は稗田家の当主である。
知り合った初めの頃は恐れ多くて口も聞けなかったほどで、こうして話しているだけでも大分進歩したのだと、自分でも思う。
もっとも、阿弥様はそれを望んではいない様だけども。
「だって、私の大切な友達だもの。そんな風に緊張していたら、私もちょっとやり難いわ」
いつもこうして、阿弥様は私の事を友達だと言う。
その度に私は、謝りつつも結局話し方は変えないようにして来た。例え阿弥様が良くても、それを良く思わない人が居るかもしれない。
それに、そうして私の事を友達だとはっきり伝えてくれる事が、少し心地良いから。
「友達、ですか」
「?」
私は、あいつに向かって友達だと言った。
それは私が決めた事だし、それについて後悔はしていない。
ただ、あの時は頭に血が昇っていたから気にも留めなかったが、あいつはどう思っているのだろうか。
「最近、新しい友達が出来たのです」
「本当!?それって、どんな子なの?」
私よりも頭が良い人です、と答えると阿弥様は驚いて、珍しい子じゃないと自分の事のように喜んでいた。
ただ、まともな関係とは言い切れない。今の私とあいつを繋いでいるのは、たった一冊の本だけ。
「ただ……その友達は、私と関わりたくないと思っている様なのです。それも、そう簡単に意思を曲げる様な人ではありません」
言葉にする度、あの時のあいつの悲し気な笑顔が脳裏を過ぎる。
今更、自信が無くなってしまったとなると、私の立つ瀬が無い。
「それって、友達だって言えるのかな」
「……!」
――途端、カァッと頭に熱い血が昇り、身体が衝動に突き動かされる。
後一歩、周りを見るのが遅れていたら、私はまた昨日あいつにした様に、阿弥様に対して怒りをぶつけていたかもしれない。
「……すみません」
「私も悪かったわ、ごめんなさい。……でも、貴女は本気でその子と友達になりたいのね」
コクンと一度頷いただけで、後は言葉が思い浮かばない。しかし、少なくとも私は本気であいつと友達になりたいと、そう思っている。
「なら、貴女がされて嬉しい事を、その子にしてあげれば良いわ」
私がされて嬉しい事。少しの間考えて、分かってしまった。
あいつと一緒に居て、語り合える事。それが今の私にとって、一番嬉しい事だ。
「だから、今度はちゃんとその子の傍に居てあげる事。貴女が話しかけて、その子が返事をして、ちゃんとお話出来ているなら、少しずつでもその子は心を開いてくれるわよ」
ああ、そうだった。
私はあの時、あいつから逃げていたんだ。
あいつの答えが怖くて、言いたいだけ言って、耳を塞いで逃げ出して来ただけだ。
そんなの、友達でもなんでもないじゃないか。
「……分かりました、やっと。申し訳有りません、変な事を話してしまって」
こんなしょうもない事に気付けなかったのが情けなくて、それについて考えさせてしまった阿弥様に申し訳無くて、暫く頭を畳に擦り続ける。
阿弥様は、そんな事気にしなくてもいいと慌てて私の顔を上げる。
「良いのよ。私も、そうだったから」
阿弥様は言う。
「前に言ったわよね、私の夢は寺子屋の教師だって。 子供達に勉強を教えて、腕白な子供達に手を焼いて、子供達の悩み事を聞いて、一緒になって笑い合って。
私は御阿礼の子だけど、貴女に本を教えて、一緒に遊んだり出来て、まるで本物の教師になれたみたいだったわ」
ふふふ、と阿弥様は微笑んで、頭を撫でられて。
「だから、貴女がこうして悩み事を相談してくれて、凄く嬉しかったの。ありがとう」
とても優しい笑顔で、そう言われた。
母親にも見た事の無い様な暖かい笑顔が、ピリピリしていた私の心をふわりと鎮めてくれる。
それきり、私と阿弥様はこの話題から離れてしまったものの、十分に答えは貰えた。
後は、私の心構え次第だ。
「阿弥様、そろそろ……」
女中さんが一人、部屋に来て小声で阿弥様と何かを話している。
そして、阿弥様は分かりましたと小さく返して、女中さんはすぐに部屋から出て行った。
「ごめんね、もうそろそろ時間だから」
「はい、今日はありがとうございました」
「だから、そんな畏まらなくてもいいわよ。またね」
帰り際に、阿弥様はお土産を持たせてくれた。
中には、生菓子ではなくお煎餅やなどの日持ちするお茶請けが、所狭しと敷き詰められているらしい。
何となく阿弥様の考えている事が分かり、その気遣いが嬉しくて、何度もお辞儀をして稗田の屋敷を後にした。
家に帰り僅かな食べ物と飲み物だけを持って、自室に閉じ篭る。
もう迷いは晴れた、私は早くあいつに謝らなければならない。私が間違っていたのだから。
そして数日が経ち、私は目の前にいるこいつに読み終えた分厚い本を突きつけ、言ってやった。
「来てやったぞ」
「相変わらず上から目線なんだね、君は」
けれどこいつは本を読んだまま目線を外さず、大きくため息まで吐いてくれる。
しかしその顔には最後に別れた時のような寂しい様子はまるで無くて、ただ呆れたような顔だけが見えただけなのが、素直に嬉しくもあった。
私の気持ちが少しでも届いていて、それを悪く思っていないのだろうと考えて、少し誇らしく思う。
かく言う私も、別れ際の顔など全く無しに堂々と入っていったのだが。
「いいだろう別に。ほら、差し入れだよ。一緒に食べないか」
「差し入れという物は渡すものであって本人は食べないものじゃないのか?」
「細かいことは言うな」
持ってきたお茶請けを、床に敷いた紙の上に無造作に広げる。
この小屋には机の一つもないのだから仕方が無い。こいつは本を机代わりにしていたが、同じく本をよく読む者としてそんな事は許せない。
かといって床に広げるのもどうかと思うが、私なりの妥協案だ。
中には煎餅やおかきといったものが入っており、お茶が恋しくなるようなものだ。
もちろん周りを見渡しても本しか見えず、茶葉は元より急須の類のものも全く見られない。
と言うよりここには生活感が全く感じられ無い。
食器の一つも無ければ食料庫も見当たらず、この小屋は本当に本と棚だけしか無いのだ。
聞いた話によれば別に小屋が近くにあるらしいのだが、私がその場所を知るはずもなく、こいつも場所までは話してくれていない。
それを指摘すると、何を今更といった風に訝しげな目を向けてくる。
「お茶請けを持ってきた友人にお茶を出す気は?」
「ないね」
本から目を離さずに淡々と言いつつ、お茶の無いお茶請けへと手を伸ばしていた。
「そうか」
少し苛立ちを覚え、菓子の並ぶ紙を自分の方へ引き込んだ。
するとあいつの手は空を切り、掴めるはずの物が無くなっている事に気が付いて、怪訝な顔をする。
本から目を離しこちらを見るあいつの顔を見てしてやったりと思いつつ、そこで紙を返してやる。
すると小さくため息を吐いた後、再び手を伸ばして、煎餅を一枚手に取り口に運んだ。
「……うまい」
思いもかけず、素直な感想がこいつの口から出てきた。
本を読む手は止まり視線は煎餅の方を向く、流石の本の虫も美味しい食べ物には心を惹かれる様だ。
「当たり前だろう。 阿弥様が持たせてくれたんだからな――」
それが少し嬉しくて、つい口走ってしまった。
あいつの顔は豆鉄砲を食らったような顔をしている。手から本がずり落ちて、バサッと床に頁が広がる。
「……えっとだな……それは……そうじゃなくて」
「阿弥って……稗田阿弥? 今代の阿礼御子の?」
こいつが驚く以上に、私がこいつの言葉に目を丸くせざるを得なかった。
いくら里で知らない者など居ない名前とはいえ、こいつの様な半妖にまで知れ渡っているとは、思いもしなかった。
そしてこいつは落ちた本にも目も暮れず、私の顔を急に真剣に見つめてくる。
……この顔に嘘はつけない。真剣には真剣で返す義理が有る。
「あ、あぁそうだ。阿弥様とは少し交流があって……」
「そうなのか。君は実は凄い人間なんだね」
「実は、とはなんだ。私はなぁ――」
私の家のことを続けようとして、今度こそしっかりと口を閉ざす。ここで自分の立場を言っては、今まで家柄を隠してきた意味が無い。
とはいってもこいつも私が阿弥様と交流がある時点で只者ではないことは察したのだろう、深入りするようなことは聞いてこなかった。
だが、代わりにこいつは阿弥様のことを聞いてきた。それも人物から家柄、里での評判まで、仔細まで知ろうと私に質問して来る。
心なしかもやもやするのを感じながら、私なりに曖昧に返答を返しておいた。
実際そこまで阿弥様について詳しいわけではなかった。だというのに、私が返答を返す度にあいつは嬉々としてより深くまで聞いて来るのだ。
……私のことは何一つ聞きもしない癖に。
「なあ、お前はどうしてそんな阿弥様を気にするんだ?」
「ああ、彼女は里一番の賢人だからね。個人的に憧れもするさ」
「そうか。知識を持つ者として、尊敬できる人だものな」
「ん? 確かにそうだけど。どうしたんだい?」
何だろう。言葉が続かなかった。
嫉妬だろうか? そんなわけがない。
だが何故か言葉は浮かばなくて、じっと口を結んでこいつを睨む。
何か察したのか、もしくは興味の対象が変わったのか、こいつは落とした本を拾いなおしてまた読み始めた。
正直な所、私はこいつが話を切り上げてくれた事に安堵した。私も手元の本ではなく目の前に広がる煎餅などのお菓子を見つめ、改めて考える。
ふと、阿弥様の言葉が浮かんだ。
今私がして欲しいこととはなんだろう?
仲直り? それはもう済んでいると思う。雑談? それも今したじゃないか。静寂だろうか? でも静かなのにもやもやする。
ならばなんだろう。私は煎餅を見つめながら考え、そしておもむろに、
「なぁ。お前の夢ってなんだ?」
こう声に出していた。
恐らく、阿弥様が自分の夢のことを語っていたことを思い出したからだろう。
本当に無意識に口に出したので、自分でも一瞬何を言ったのかわからず、自分の口を疑った。半妖で、ここに居続けているこいつにとっては触れてはいけないタブーだったかもしれないのに。
恐る恐る彼の方を向くと、彼は真剣な顔で私の顔を見つめていた。私は何を言えばいいのだろうか。こんな事を聞いてしまったことを謝るべきだろうか。
覚悟を決めて言葉を待っていると、彼は本を置いて立ち上がり、少し寂しげな顔を私に向けた。
「僕の……夢……」
「……すまない。お前にこんな事を話しても――」
「君はあるのかい? 夢って物が」
謝ろうとした私の言葉を遮って、彼は私に質問し返してきた。
その口ぶりは真剣だったが、怒っているかどうかで見れば、そうではないと思える。
むしろ逆に問われたことに少しの安心感を持ちつつ、私は胸を張ってあいつに言ってやる。
「私の夢は商人になることだ。だから私は勉強をしているんだ」
堂々と言い放った私を見て、彼は少し顔を顰めた。
「商人……君が?」
「なんだ、私には似合わないとでも言う気か?」
「いや、出会い頭に罵倒を吐くような人間に商人ができるのかなって」
と、こちらを見て笑っている。
どうせ私の商人姿を想像して勝手に失敗させているのだろうと、すぐに分かった。
少し腹が立って、本に座りながら苦笑するこいつに詰め寄り、問い詰めてやる。
「なら、お前の夢は何だと言うんだ! さぞ高尚な夢なんだろうな?」
こいつの事なんて知ったことでは無い、何が何でも聞き出してやらないと気がすまない。
「……僕の夢か」
彼は少し考える素振りを見せて、何かを思い出したようにハッとした顔になった。
こいつにも、夢があったのだろうか。
「なんだ? 夢が浮かんだのか?」
「いや……浮かんだんじゃない。昔から思ってる事だよ」
そう言って、一息吐く。
その目はすぐ前にいる私を向いているのに、私を見てはいなかった様に思えた。
「僕は……先生になりたいな。寺子屋の」
「先生?」
こいつほどの知識を持つやつの割には妙に小さな……というわけではないが、変わった夢だと思った。
寺子屋の先生と言うのは、基本文芸に長けた年長者や僧などがやっていたもので、そこまで重要なものではないイメージがある。
彼は私が不思議そうな顔をしているのを見て、小さく笑った。
「変だと思ったかい?」
「変じゃない。変じゃないが……お前ならもっと」
「僕がやりたい先生ってものは、君が知っているような普通のものじゃないんだ」
普通じゃないとは、どういうことだ?
私が疑問符ばかり浮かべているのを感じたのか、彼はその微妙な笑顔のまま語り続ける。
「僕がやりたいのは、人間も妖怪も、……半妖も。分け隔てなく教える先生だ。だから僕は様々な文献も読むし、それについて自分で考えているんだよ」
何を言いたいのか、私には理解しきれなかった。
人妖分け隔てなく? 妖怪が人間の横に並んで学ぶのか。
「全ての妖怪というわけじゃない。君が持つ文献の通りの化け物のような妖怪もいるけど、端から見れば人にしか見えない人畜無害な妖怪もいる」
僕みたいにね、と小さく付け加える。小さな笑顔を貼り付けたままで。
その笑顔で、やっと気が付いた。
「僕は半妖だから。人間にも、妖怪にも接することができる。だから……僕の夢は先生だな」
違う。そうじゃない。
確かにこいつの夢は先生なんだろう。人間も妖怪も分け隔てなく、それも嘘じゃないはずだ。
だが私はなんとなくわかっていた。あの顔は、嘘だ。
笑顔を、明るく貼り付けているのに、その声は、その顔は、諦めている顔だ。だから私は夢を語り終え、小さく息を吐いたこいつを強く睨み付けた。
「無理だと思ってるのか」
「そうは思わないかい?」
気付かれたか、とばかりにおどけている。
その態度が気に入らず、私はまた声を続けた。
「私はお前が凄い奴だと思ってる。知識もあるし、弁も立つ。先生にはぴったりだと思うよ」
「ありがとう。君がそう言ってくれるだけで嬉しいよ」
「私は商人を目指してる。だから必死に学んでるしお前からの知識も受け取ってるんだ。いつかその知識を使って商売がうまく行くようにと」
「僕は学んだ知識を人に伝えたい。だから先生を選んだ。けど僕には無理な事だよ」
「どうしてだ? 半妖だからか?」
「あぁ、そうだよ。僕は半妖だから、先生にはなれないんだ」
そんな、吐き捨てるように言うこいつを、思い切り殴ってやりたかった。
私は小さく俯くこいつに激を飛ばすように、声を荒げて言い放つ。
「そんなのやってみなきゃわからないじゃないか! お前らしくもない。なんでそんなに弱気なんだ!」
「僕らしくない? 僕は昔からこういう性格だよ。君が勝手に僕に期待してるだけだ」
夢を語ってから。こいつはずっと乾いた顔をしている。
無理。無駄。無意味って言葉を顔に貼り付けて無理矢理顔を作っていた。
「わかってるからさ」
「わかってる? 何をだ」
「僕がここから出て、そして人里で生きようとすればどうなるのか。答えは単純だよ、恐れられる。怖がられる。そうなるんだよ」
「どうしてお前わかるのさ。私はお前のことなんて怖くない。里の人だってきっと」
「わかるよ。だって……」
何かを押し殺すように唇を結び、搾り出すように声を続ける。
その声は乾いた顔とは対照的に、今にも泣きそうな声で。
「半妖で……バケモノの。そんな自分が一番怖いんだよ。僕は僕が怖い」
「自分が?」
「素性を隠せばみんな僕を恐れたりなんかしない。 でも僕が正体を話せば、正体を知れば――」
その顔に見覚えがあった。あの時、私がこいつの正体を知った時の悲しい顔。
自分を語り始めてから、堰を切った様にこいつの感情が流れているのがわかる。
「恐れるよ。君だってそうだったろう? 僕はその時自分が呪いたくなるんだ。親しくなった人が、笑いあった人がみんな顔を歪ませてしまう」
「それは……」
私は確かにあの時こいつを恐れた。逆上して恐れを飛ばしたが、それでも恐れた事に変わりない。
言葉を否定できない。その状況すらこいつの心を傷つけているとわかっているのに。
「妖怪に対してもそう。僕は妖怪にも染まれない。みんな腫れ物のように僕を扱う。だから僕は……無理なんだよ」
すぼむ声。だがその声にあるのは諦めじゃなかった。悲しみと……無念だ。
こいつはやっぱり諦め切れてない。ただ押し込めているだけだ。
「諦められないんじゃないか。結局そうなんだろ?」
「諦めてるさ。人間も妖怪も。僕はどちらにもなれない」
感情をまた押し殺して微笑む。
その顔を見て私はまた感情が湧き上がる。
そして思いのままに声を飛ばす。
「なら、私が変えてやる」
「……?」
「私は、人間も妖怪にも、お前にだって平等に商品を売るような商人になる。そして私が里にその考えを広めてやるんだ」
その私の言葉に呆れ半分驚き半分の顔で私の顔を見つめる。
「人間と妖怪の溝を君が埋めるというのかい?」
「埋められるとは思えない。でも、私が架け橋になる、商人にはそれができる。妖怪相手にだって商売はできるさ」
「理想論……だね」
「あぁそうだ、理想だよ。だけど夢だ。夢なら何とでも言える。決めた、私はそういう商人になってみせる」
話すだけならいくらでもできる。夢なんてそんなものだ。
願えば叶うなんて夢物語は信じちゃいない。でも、それでも。この思いは、意思はこいつに言わなければならない。
「夢なら何とでも言える……か。確かにそうだ」
やっと笑ってくれたこいつにつられて、私も嬉しくなった。
そうだ、これが阿弥様の言っていた事なんじゃないか。
「それなら僕は、その最中に人妖両方に学問を教えよう。そうすればいつか人間と妖怪は問題が無くなるはずだ」
「それが夢か?」
「あぁ、夢だよ。僕ら二人の夢だ」
大仰な夢を語り合うのが可笑しくて、私たちは笑っていた。
初めて見るこいつの子供らしい笑顔を見て、私も子供らしく微笑んでしまう。
子供っぽいのは好きじゃないけど……今だけは、嫌な気分じゃなかった。
「なんだいその顔は」
「合図くらいしてくださいよ」
「扉もないのにノックをしろってのか?」
彼女が帰った後、僕がまた本を読んでいると、妹紅さんが来た。
確かに今日来るとは言っていたけれど、合図も無しにいきなり本の山を崩して入って来るとは。
妹紅さんは腕を伸ばして大きく欠伸をすると、崩れた本でできた絨毯にどっかりと腰を置いて、にやにやとしている。
小屋を汚くしている僕に言えた義理ではないけど、良い態度とは言えない。
彼女がここに居たら、怒鳴り声の一つでも飛んできそうだ。
「調子はどう?」
「別に何もありませんよ。異常無しです」
「そうかい? それにしちゃ表情が柔らかいじゃないか。何かいい事でもあった?」
直接見てはいないけど、顔を伺うようにこちらを覗き込んでいるのだろう。
というよりも知っていて言っているような節がある様に思える。
ちらりと横目で見てみれば、案の定『全部知っているよ』と言いたげな顔をしていた。
「……何もないですよ」
「そうか。何もなかったのにお前は笑ってたんだな。変なやつめ」
いきなり言われた言葉についハッとして、妹紅さんの方を見てしまった。それが裏付けだと確信した様に、妹紅さんは満面の笑顔を向けて来る。
まさか、覗いていたんじゃないか。
そう考えていると、妹紅さんはからかう様に笑い、話を続ける。
「偶然だよ。そっちに向かう最中に女の子を見かけてな。その女の子が『あいつもあんな風に笑うんだな』なんて独り言を言ってたからねぇ」
「……そうですか」
多分、大体の事は妹紅さんにはバレているんだろう。
少し大げさに溜息を吐いて、観念したと妹紅さんから目を背ける。
「かわいい子じゃないか。もうお友達なんだろう?」
「ええ。大事な友人です」
「そうかいそうかい。私も、お前には同世代の友人が必要だと思ってたんだ。ちょうどいいね」
「親みたいなこと言わないでくださいよ。あなたには――」
「私はお前の保護者役なんだからな。心配のひとつもしてやるさ」
と、懐から笹の包みを取り出して手前の大き目の本の上に置き、包みを開く。
中には大きめの握り飯が数個、綺麗に並んで入っている。それをむんずと手に掴み、僕に見せ付けるようにして、
「これは私のだからな」
「……わかってますよ。自分の分は後で取りに行きます」
わざわざ見せ付けに来たのかと、もう一度溜息を吐くと、途端に妹紅さんがむっと顔を顰めた。
「なんだなんだ? 私が心配して来てやったのに」
「からかいに来ただけでしょう。それなら僕は元気ですから。帰ってくださいよ」
「いや、お前には聞きたいことが山ほどあるからね。今日は居座らせてもらうよ」
「それなら僕の分の食料を持ってきてくださいよ……」
どっかりと腰を据えている妹紅さんはそう簡単に帰るはずも無いので、諦めて付き合う事にした。
根掘り葉掘り聞かれるよりは、先に大丈夫な所だけ答えてしまったほうが良いかもしれない。
僕は本を閉じて立ち上がり、部屋の隅を探る。確か、あの子が置いていった煎餅の残りがまだ有ったはずだ。
「ふぅん。夢を語らうまで行ったかぁ」
「何を感慨深く言ってるんですか」
遠くを見つめる様に上を見る妹紅さん。僕は半ば呆れながら、それを眺めて煎餅を齧る。
「まぁお前に友人ができたのは良いとして。お前はどう考えてるんだ?」
「何をです?」
握り飯の食べ終わった笹の包みを丸めて、真剣な顔でこちらを見て来る。
「相手は人間だ。だからお前はどう思っているのかって聞いてるのさ」
「……それは」
改めてその事を突き付けられて、口篭ってしまった。
あの時、僕は半妖である事を明かして、彼女を突き放したはずだ。だというのに今日、彼女は笑顔でここに来てくれた。それも、手土産まで持って。
僕の事を知って、それでも何も変わらず接してくれた事。それが嬉しく無いと言えば、嘘になる。
そんな彼女と友人になりたい。そう思う気持ちは確かに有る。
だけど、僕は……彼女のような人間じゃない。
「私にしてみれば、深く考えることじゃないと思うけどね」
「そうでしょうか」
妹紅さんはびしりと僕に指を突きつけながら、言葉を飛ばしてきた。
僕に突き刺すように。聞かない振りなどさせまいと。
「お前はあの子を友人として迎えたんだろう。それなら覚悟を決めるべきだ」
「覚悟……ですか」
「そう。人間の、妖怪の世界に混じろうとする覚悟。それが無いからお前はずっとここに篭ってたんだろ?」
「……」
「でもお前はあの子と知り合って、友達になった。それが嫌なら妖怪だって言った時に襲い掛かってしまえば良かったんだ」
妖怪としてじゃなくてもな、と妹紅さんは笑う。
「だからもう悩むなんてことは遅すぎることだ。もう覚悟を決めてあの子と関わっていくしかない」
「僕は……」
それに、とこっちの煎餅を掴みつつ言葉を続けられる。こちらの言い分は無視のようだ。
「秘密も見せた。弱みも見せた。夢も教えた。そっから『他人に戻りましょうね』なんて言えやしないだろう? それならもう終わりさ。怖がることも許されない」
「別に人間が怖いわけじゃない。妖怪だって」
「でも避けてたのは事実だね。私はお前をずっと見てきたからわかるよ。
お前は臆病だ。飄々としている振りをしていつも彼女がいつ自分を恐れるかと怯えていたんだろ?」
「妹紅さんは僕をどうしたいんですか。嫌がらせですか」
ここまで酷く言われて黙っていられるほど、僕は冷静な人じゃない。
妹紅さんは、まさか、と言わんばかりに手を広げて首を横に振る。
「別に何もない。私はお前が決めたことに否定はしないし賛同もしない。どう在って欲しいってのはあるけどな」
「どういうことですか」
「私はお前が死なないように護るだけさ。お前がこのまま引き篭もってようが外へ行こうが、私のやることは変わらない」
凛とした顔で僕を見つめ、一言一言を刺すように紡ぐ。
何か言おうとしていた事が、口の中で篭った。
「だが私はそれに関わる気はない。妖怪に襲われたら助けてやるけど、私は妖怪と仲良くする気はないし、人間だって同じさ」
「人間ってのは、あの子も入っているのですか」
「お前の友人なんだ。ある程度は交流するかもしれないが……まぁその程度だろうな」
「僕はどうすれば」
僕が問うと妹紅さんは立ち上がり、小屋の出口まで歩いて、
「言ったでしょ。私はこれ以上何も言わないよ。お前が決めな」
ひらひらと、手を振りながら出ていった。
次の日の朝、私はまた阿弥様に会いに行く事にした。
あいつと仲直り出来た事のお礼と報告と、妖怪についての知識を貰う為。
阿弥様に隠し事をするのは悪いと思うけれど、今はそれ以上にあいつの為に何かをしたかった。
いつもの様に女中さんに連れられて屋敷の奥へ。襖を開けた先には、阿弥様が先日と同じように筆を置いて待っていた。
「昨日来たばかりなのに今日も来るなんて、珍しいわね」
「すみません。お忙しいはずなのに」
「謝らないで欲しいなぁ。むしろ嬉しいのよ? お友達には毎日来て欲しいくらいだもの」
貴女もそう思うよね? と見透かされたように聞かれて、つい頷いてしまった。
そして阿弥様は、まるで私が来るのが分かっていた様に、温かいお茶と菓子を二組並べて笑顔を浮かべる。
私は良い香りのするお茶を手に取って小さく啜り、ほうと息を吐く。
「良かった。その様子からすると、お友達とは仲直り出来たみたいね」
私が何かを言うより早く、阿弥様が楽しそうに言った。
「よく分かりましたね、まだ何も話していないのに」
「だって、貴女が今来る理由なんて、その子の事しか無いでしょう」
「その通りです。おかげさまで、無事仲直りする事が出来ました。阿弥様のおかげです」
「私は何もしてないわよ。全部あなたの頑張りだもの」
お互いに譲り合って、くすくすと笑い合う。私も阿弥様もこうなので、適当な所で今日の本題に切り替える。
もちろん、あいつが半妖だという事も、里の外にいるという事も、絶対に隠し通さなくてはならない。
阿弥様も御阿礼の子としてこの屋敷に居なければならない時間は多いものの、妖怪の姿を記録する以上外を出歩く事も多いはず。
出来るだけ慎重に言葉を選んで、里の外の事だと気付かれない様に、話を進めていった。
「寺子屋の先生かぁ。私もその子とはお友達になれそうね」
「はい。きっと阿弥様も気に入ると思いますよ!」
「あなたのお友達ですもの、きっと楽しい人なんだろうな」
「いや……あいつは楽しい……かな?」
あの気難しいやつを見て楽しいだろうかと考えてみるが、決してそう言い切れる奴ではない。
「多分二人は似たもの同士なのね。だからきっと楽しいのよ」
「私が、あいつと?」
とんでもない。
私があんなわからずやとそっくりなわけあるか。
「そうよ。誰だって自分に近いものを持っている人とは、一緒に居ると楽しくなるもの」
私と貴女の様にね。と付け加えて、阿弥様は言う。
確かにあいつとは凄く話し易いし、あいつの知識は尊敬に値するとは思っている。
でも、それは私と阿弥様との関係とは少し、いや大分違う気がする。
「いや、私はそんな」
「良いのよ、それで。理屈なんて無いんだから」
「むぅ」
阿弥様にそんな風に言われると、返す言葉が思い浮かばない。
今度、私があいつをどう認識しているか考え直す必要が有りそうだ。
「それで、その子の話はおしまい?」
阿弥様はまるで子供の様に、あいつの事に興味津々といった感じで、私の次の話を待っている。
今ならあの話をしても怪しまれないだろう、そう思いつつも可能な限り言葉を選んで、話を切り出す事にした。
「そうだ、阿弥様。妖怪についてもっと詳しく知る事が出来る資料は有りませんか?」
「妖怪? 今になって、どうして?」
「あいつが今、妖怪について勉強しているのです。だから、私もそれに負けないよう知識を付けたくて」
ある意味、間違っては居ないはず。
私もあいつも、人間と妖怪について知らなくてはならない事は多い。
「……なるほど、良い心がけね」
「ありがとうございます」
「でも、その前に一つだけ試験をします」
「試験、ですか?」
コホンと咳払いを一つ、阿弥様は少し声を低くして、
「貴女は妖怪についてどこまで知ってるかしら?」
そう一言だけ質問してきた。
「妖怪……ですか」
阿弥様程ではないけれど、阿弥様と話している手前、妖怪について少しは心得が有る。
私は自分の知る限りの妖怪の知識を、伝えられる範囲で阿弥様に話した。
その風貌、行動などを語り、その都度阿弥様は頷いてくれる。そして阿弥様が頷いてくれる度に、私も嬉しくなる。
阿弥様が私の事を認めてくれている様な気がして、凄く気分が高揚して来る。
「うん、さすがね。よく勉強できてるわ。偉い偉い」
私が勢いに任せて話し続けている最中、阿弥様は真剣な顔で答えをもって遮った。
その声で、私はやっと我を取り戻して、夢中になっていた自分を少しだけ恥じた。
「ありがとうございます。ですが、子供扱いしないでくださいよ」
「まだ子供じゃないの。それに」
これじゃあ合格はあげられないわね、と、阿弥様は言った。
「どうしてですか? 確かに阿弥様に至らない点は多いですが、私だって……」
「違うわ、貴女の知識には十分に合格点をあげられるもの。だからこそ、今の貴女の答えは不合格なの」
阿弥様は私に諭すようにゆっくりと告げる。
自分でも分かっていた。だけど、私の口はその言葉を発してくれなかった。
私が言わなかったこと。それは、
「貴女は妖怪の『危険さ』を何も知らないの? そんなわけないでしょう、そんなにも勉強しているのだから」
阿弥様の言う通りだ。
妖怪の容姿・習性・能力、その他資料に有る限りの知識は、私の知る全てを伝えた。
ただ一つ、人間への害を除いて。
「だから、貴女の妖怪についての知識は不合格。一番大切な事を伝えられない様では、貴女の知識は曇っていて何の価値も無くなるわ」
阿弥様の言う事に、軽い苛立ちを覚える。
確かに、妖怪について最も知らなければならない事は、その脅威だろう。それは妖怪と人間とを区別しなければならない理由の最たるものだ。
だけど、妖怪を一緒くたに悪く言う事は、半妖であるあいつの事をも悪く言ってしまっている気がした。
だからこそ、私の口から出せなかった。
「それは……」
「妖怪の怖さが判ってない、なんて事、貴女に有る訳無いと信じてるわ。でも」
「私は知りたいんです。妖怪の事を!」
「どうして? 里に居れば妖怪になんて会わずに過ごせるのよ?」
「知識のため、という事では納得してもらえませんか」
「いつもなら喜んでって言ってあげる所だけど。でも今の貴女には教える事は出来ないわ」
どうして、という私に阿弥様は一本の巻物を突きつけた。
そして促されるがままに広げてみると、その中には何人分もの名前がずらりと並んでいる。
その中には、いくつか私の知っている名が有った。
「ここに書かれているのが誰なのか、どうして書かれているのかは分かるよね」
その意味を知って、私の口は物を言えず、ただ頷く事しか出来なかった。
ここに書かれている名前は、私の知る限り、もう生きては居ない人達の名前だ。
つまり、この人達は。
「貴女にこんな事を言うのは苦しいけど、貴女が妖怪の事を知りたいと言うなら、この事も知ってもらわないといけないわ」
『妖怪』という存在が、現実味を伴って私の心に圧し掛かる。
妖怪とは、人間にとってそういう存在なのだ。例えその中に僅かでも例外が居たとしても、人間にとっては同じ妖怪でしかない。
「阿弥様、私は……」
「私はね。あなたがその『友達』のために頑張っているのはよくわかるの。あなたの顔を見れば痛いほどわかるわ。でもね」
でもね、と私の名前を私に刺す様に続け、少し悲しい笑顔で言葉を続ける。
「私も『友達』が危ないことに飛び込もうとしているのは見ていられないの。わかって……くれないかしら?」
友達と呼んでくれた、その言葉が私に刺さった。
改めて伝える阿弥様の顔は、とても真剣で、とても悲しそうで、寂しそうで。
「すみません、阿弥様。私が無知なばかりに……」
「そんなに謝らないで。知りたいって思うことは大事だもの、ただ、貴女にはちゃんと知っておいてほしかったの」
あれほど燃えていた気概が、今は後悔となって私の心を押し潰す。
いつもの微笑みでお茶と菓子を用意し直す阿弥様を見て、私にはこれ以上何かを聞くことはできなかった。
深夜、静まり返った大きな屋敷の一室に、少女が座っている。彼女は薄暗い部屋の中で、じっと障子の方を見つめていた。
やがて雲の切れ間から月が姿を現すと、障子に人影が映し出された。
『帰ったようですね、あの子』
「ええ。でも……あの子には悪いこと言っちゃったわね」
『私にも、ですよ。阿弥』
「そうよね。『妖怪になんて』って言ったら酷いわよね。ところで、どうだった?」
『貴女の読み通りでしたよ。あの子が会っていた『友達』はあの里の外の半妖です』
「やっぱりそうなのね。まぁあの子の知識について行ける子供なんてあの半妖の子くらいしか思い浮かばなかったから」
『随分あの子に御執心なんですね。貴女にしては珍しい』
「あの子は私を尊敬して、それでいて他の人より凄く近くに居てくれるの。私にとっては嬉しい人よ」
『そうですか。確かに頭も切れるようでしたしね』
「えぇ。あの子は里の一番の賢人に成れるわ。きっとね」
『貴女よりも? それはないでしょう』
「あら。貴女もあの子と話せばきっと考えを改めると思うわ。あの子は凄いのよ?」
『貴女がそうまで言うのでしたら、余程のものなのでしょうね』
「そうそう。だからあの子が半妖の子と仲良くなったのは良い事だと思う。仲良しなんでしょう?」
『えぇ。仲良しですよ。別に何かあったという訳でもありませんでした。仲良く談笑して、本を読んで。
妹紅さんも元気でしたしね』
「それなら良かった。藤原さんも里から出てからはあまりわからなかったから。無事で何よりだわ」
『あの人は不死ですから。無事以外の何者にもなりませんけどね』
「そういうことは言わないの。心配してるんですからね、貴女の事も」
『私はついこの前会ったばかりでしょう? 阿弥こそ体は大丈夫ですか?』
「大丈夫よ。まぁどっちにしてもそろそろでしょうから」
『転生……もう近いのですね。また百年眠るのですか』
「もう慣れた、わけじゃないけどね。でも、いつでも貴女がが待っていてくれるもの。大丈夫よ」
『……阿弥。私は』
「ああ、そっか。残念だなぁ。ずっと友達だったのに」
『ごめんなさい阿弥。ずっと一緒に居られればよかったのに』
「良いのよ。私はその辺の妖怪よりもよっぽど別れには慣れてるわ」
ふっと寂しげな笑みを零して、阿弥は立ち上がる。
その足は部屋の外へ、人影の映る障子とは別の障子をそっと開けて、女中も連れずに月夜の下に出た。
「少し出ます、貴女も来て下さい」
声を潜めてそう伝え、阿弥は物音を立てない様に縁側から庭へ、小さな勝手口から屋敷の外へと出て行く。
人の声も聞こえない静寂の中、阿弥はその身一つで夜の里を、外へと歩いて行った。
深夜の迷いの竹林は、数寸先も見紛う程に暗く、見通しが悪い。
こうなれば竹林の兎も滅多には歩き回らない、天然の迷路の様なものだ。
その中を、身の丈に不釣合いな荷を背負った少女が平然と歩いていた。
藤原妹紅、竹林に住む少女。
彼女がどれだけの年月をこの竹林で過ごしたのかは分からないが、真夜中の竹林を平気で歩き回れる程度には知り尽くしている様だ。
「……?」
その足が、はたと止まる。
人里の外に居を構える彼女の鋭敏な感覚が、夜に似つかわしくない来訪者を察知していた。
少し屈んで荷を地面に置き、周囲を見渡す。
あたり一面、全く同じにさえ思える竹林が続くばかりだが、その内の一方から、土を踏み締める音が微かに妹紅の耳に届いた。
「誰?」
その気配がある程度近付いた所で、妹紅が声を発する。
「出来るだけ気を付けて来たつもりなんですが、流石ですね、藤原さん」
これまた深夜の竹林に似つかわしくない和装の少女が、手を振りながら妹紅の元へと歩み寄る。
その姿に、妹紅は妖怪が出る時よりも驚いていた。
「阿弥!?」
人里の有力者、御阿礼の子供、それを差し引いてもただの少女である阿弥が、真夜中の竹林を訪れている。
想像もしていなかった出来事を前に、妹紅の口がぱくぱくと開く。
「はい、こんばんは」
そんな中でも平然と挨拶をする阿弥、時と場所の事なんて全く意にも介せず、言葉を続けた。
「良かった、まだ起きていたんですね」
「ま、まあね……って、どうしてこんな所に居るんだ?」
「貴女に会いに来たのです、ちょっと用事が有るので」
「用事?」
用事の為に命を危険に晒すのか、と妹紅が口に出し掛けた所で、妹紅は気付く。
阿弥以外にもう一つ、誰かがこの近くに居る、と。
「……どうして、お前が?」
「何の事でしょうか」
「いくらお前が妖怪と積極的に関わろうとしているからといって、妖怪を従えているなんてのは聞いた事が無いからな」
妖怪の様に暮らす妹紅にとって、妖怪の気配を探知するのはお手の物だ。
姿は見せずとも阿弥の傍らには、何かしら妖怪の存在が有ると見て、妹紅は呪符を構える。
「大丈夫ですよ。彼女は私の古くからの友人ですから」
「友人、ねぇ」
確かに、妹紅は普通の妖怪が発する様な敵意を感じず、ただ阿弥の傍に座しているだけの様だった。
しかし妖怪である以上、妹紅は警戒を解こうとはしない。
「それで、こんな時間にこんな所にまで来て、何の用だい?」
「ああ、そうでした」
忘れる所でした、と阿弥は呆れてしまいそうになる程暢気に微笑む。
「あの半妖の子は元気で過ごしていますか?」
阿弥が興味を示すのは、妹紅の庇護に在る半妖の少年。
はぁと妹紅は溜息を吐き、頭を掻きながら答える。
「……あいつなら元気だよ。最近は友達も出来て、いつも楽しそうにしてる」
「そうですか、それは良かったです」
「それだけか?」
たった一人の少年の様子を聞く為だけにこんな危険を冒してまで来るとは、妹紅には思えなかった。
「それと、いつもお世話になってます、って言いたくて」
「どういう事だ?」
「あの子の友達は、私の友達だもの」
「……なるほどな」
単なる保護者達の世間話、そんな風に阿弥は話を続けた。
普段はどんな話をしているか、本人の前では明かさないお互いの評価、最近の様子の変化まで、気楽な話が続く。
暫く続いた頃には妹紅の警戒も程好く解れ、保護者として我が子を得意気に語り合う様になっていた。
「あの子は半妖だと分かっても物怖じしない、強い子だな」
「ええ。だから今も仲良くやっているのでしょう」
「まったく、そんな奴と友達になれたってだけで、あいつは幸せ者だよ」
「あら、藤原さんもあの子と友達になってみても良いのではないでしょうか?」
「いや、遠慮しておくよ。あの子はあいつと居るのが一番だし、私がそれに口を挟むなんておこがましい事さ」
詰まる事無く心の内を見せる妹紅、阿弥も笑顔で同じ様に本音で接している。
「そうですか……貴女も随分あの子達を評価しているのですね」
「まあね。あいつは自分の立場を弁えているし、あの子は人間の割に良い子だよ。ひょっとしたら、良いパートナーになるかもしれないね」
「そうですね。きっとあの子達なら、人間と妖怪の垣根を越えて一緒にやっていけるでしょう」
「そんな話は、まだ早いだろうけどね」
ははは、ふふふ、と笑い合う二人の声が、深夜の竹林に深く染み込んだ。
「それで、今日は一つ提案が有って、貴女に会いに来ました」
阿弥の言葉に陰りが差す。
それが世間話から離れるサインだと気付き、妹紅も眉をひそめる。
「……一応、聞いておこうか」
「ありがとうございます。ですが、その前に藤原さんに伝えなくてはならない事が有ります」
阿弥が言葉を切り、手を大きく振り上げる。
それを合図に、阿弥の傍らから長身の女性が音も無く姿を現した。
妹紅にはすぐに分かった。彼女こそが阿弥と一緒に居て、夜の幻想郷から阿弥を守っていた気配の元。
「改めて紹介します。彼女は、代々御阿礼の子と共に歴史を創り上げてきた神獣――ハクタクです」
白銀の長髪に白い単、細身の身体はすらりと細く、手足は衣の一部に見えるほど白い。
細身の顔立ちはその双眸を閉じている所為か、何処か攻撃的な美しさを覗かせる。
そして、並の妖怪とは明らかに異なる妖気、纏う空気は神域のそれで在り、彼女が紛れも無い神獣であると誇示していた。
「な……こんな妖怪、見た事無い……?」
長きに渡って妖怪の世界で過ごして来た妹紅をして、ハクタクの様な妖怪は記憶に無かった。
「ええ、彼女は阿礼の代から稗田家と他ごく僅かの前にしか、姿を見せていないのですから」
「……それで、何が言いたいんだ」
そんな存在であるハクタクの存在を明かしてまで、妹紅に持ち掛けたい提案。
妹紅の疑問にハクタクは黙したまま、阿弥の声だけが竹林の中に響き渡る。
「残酷な話ではありません。貴女にも私にも、あの子達にも、とても良いものだと信じてます」
何処か悲壮感を漂わせる微笑を袖で覆い、阿弥は言葉を続けた。
次の日、私はいつものように読み終えた本を手に小屋へ行くと、
「やあこんにちは」
見知らぬ女性が我が物顔であいつの小屋の床に座って、親し気に片手を上げていた。
銀色の長髪に赤いもんぺが特徴的だが、里では見た事が無い人だった。
「えっと……あなたは?」
「聞いてないかい? ここに住んでる子供の保護者さ」
保護者? そういえばあいつは、助けてくれる人がいると言っていたな。
という事は、この人も――。
「あなたも半妖……ですか?」
見た目こそ私より少し上くらいではあるものの、何処かあいつに似た雰囲気がしている。
試しにそう聞いてみると、その女性はふっと息を吐いて首を横に振った。
「悪いけど、私は半妖じゃないよ。まぁ人間でも無いけれどね」
「それじゃ、妖怪……?」
「それも違う。何にしろ、お前を取って喰う気は無いよ。……証拠は無いけどさ、信じてくれるか?」
そうまで言われて信じられないと言い張れるほど、私は荒んでいる訳じゃない。
それに、あいつの知り合いなら悪い奴は居ないと、そう確信できたから、微かな恐怖心を捻じ伏せて力いっぱい頷いた。
「ありがとう」
満面の笑みを返して、女性は立ち上がる。
やはり私より少し背が高いくらいだが、私よりずっと大人らしい。そんな空気がした。
「お前の事はいつもあいつから聞いてるよ。なんでも、負けず嫌いで頑固者、その上口うるさいそうじゃないか」
「なっ! あいつ、私の居ない所でそんな事を……!」
「冗談だよ。私は何度かあんたの事を見ていたからね、今のは私のイメージ」
とんでもない人だ。ここまで堂々と初対面の人を相手に失礼な事を言ってのけるとは。
あいつがあんな性格になったのも、きっとこの人の影響が強いのだろう。なんとなく、そんな気がした。
「……今日は、何か用でも有るのですか?」
「いや、ちょっとあいつの保護者としてあんたと話したいだけさ。あと、ついでに食料をちょっとね」
「そうですか。えっと……」
「妹紅で良いよ。あんたの名前は知ってるしね。まあ立ち話もあれだから、座ろうよ」
簡単過ぎる自己紹介の後、妹紅さんは先程まで座っていた辺りの本を端に寄せて、私が座れる分のスペースを作ってくれた。
そして何処から出したのか、座布団まで敷かれたので、大人しく妹紅さんの隣に座る事にする。
ドスッと豪快に床に座り、片膝を立てる妹紅さん。癖だから気にしないでくれとは、妹紅さんの言。
こうして近付いてみて分かった事だが、妹紅さんの身体は何となく温かい気がした。
理由は分からないけれど、不思議と落ち着ける事にこれといった問題は無かったから、深く考えない事にした。
「さっきの話だけど、あいつはあんたの事を悪し様に言った事は殆ど無いよ。むしろ、楽しそうだった」
「本当ですか?」
「ああ。口うるさいだの、勝手に本を動かすだの、生き生きと話してくるからね」
「……それは、喜んで良いのかどうか分からないのですが」
案の定というか、あいつの私へのイメージはそんな感じだったのかと、呆れながら思う。
私の忠告など、あいつには右から左だったらしい。
「あっはっは。それもあいつなりの感情表現なんだ、その内慣れるよ」
思い切り笑い飛ばされた後、傍らに置いてあった袋から握り飯を一つ取り出して、私の手に押し付けてきた。
それをあちこち眺めて、匂いをかいで、少しだけ味を見てみても怪しい所は無かったから、少しずつ口を付けてみる。
「リスみたいだ。別に毒なんて入ってないよ」
「念の為です。よく知らない人から貰う物には注意する様にしていますので」
「良い心がけだね」
そんな私を尻目に、妹紅さんは袋の中からもう一つの握り飯を取り出して、大きくほおばった。
少しの間、お互いに黙ったまま食べていたが、ふと気になる事が思い浮かび、握り飯を食べる手を止めてそれを口に出す。
「そういえば、どうして妹紅さんはあいつの保護者をしているのですか?」
あいつはあまりにも偏屈で、本の虫で、他人にもそっけない態度を平然と表に出すような奴だ。
妹紅さんも食べる手を止めて、口の中に残った白米を軽い咀嚼の後に飲み込んでから、口を開く。
「なんとなく、かな。私も似たような生活をしてきたから、同情なのかもしれないけどね」
「あいつのような?」
一度大きく頷いて、妹紅さんは言葉を続ける。
「私もあまり人と会わない生活をしているから、少しくらいはあいつの気持ちも分かってやれると思っているんだ」
「…………」
考えてみれば、いくら半妖とはいえ、私と同じくらいの子どもが人里を離れて生活できるなんて、ありえない話だ。
それゆえに、妹紅さんはあいつの保護者として、ずっと見守ってきたのだろう。
「……へえ、そうですか」
そう口に出して、自分で驚いた。
自分の声だとは思えない様な声で、たった一言だけ。
「ん?」
幸いにも妹紅さんには聞こえておらず、なんとかはぐらかす事は出来た。
でもどうして、私の声は、こんなに酷い?
「……っと、いつの間にか雨が降ってた。傘は持ってる?」
それから長らく話し込んでしまい、気が付けば既に窓の外は暗く、土を打つ雨音がかすかに聞こえてきていた。
ここの所雨が少なかったし、本で両手が塞がっていたから、傘なんて持って来ていなかった。
「いえ、有りません」
「そっか。なら、その辺の布とか一枚羽織って行きなよ、何も無いよりよっぽどマシさ」
妹紅さんは部屋の隅の方にくしゃくしゃに丸められていた薄めの布を取り上げて、バサバサと窓の外ではたく。
布から埃が飛ばなくなったのを確認して、それを私の方に投げて来た。
「今日はありがとう、中々面白い話が出来たよ」
「私の方こそ、ありがとうございます。……結局あいつは来ませんでしたが」
「何処に行ったんだろうなぁ、こんなに可愛い彼女が遊びに来てるっていうのに」
「違いますっ!」
冗談だよ、と妹紅さんは手をひらひらさせる。くすくす笑うのが隠せていない辺り、何処まで本当なのだろうか。
「……噂をすれば影ってものかな」
「?」
「帰ってきたよ、あいつが」
「えっ!?」
そう言われて、入り口の方に振り向く。 よく耳を済ませてみれば、雨音に混じって微かに足音の様なものが聞こえてきた。
バチャバチャと慌ただしく泥を踏み締めている辺り、あいつも傘を持ってないんだろう。
間を置かず、バンという大きな音を立てて、乱暴に入り口が開け放たれた。
「はぁっ、はぁっ……」
滑り込むなり、両手に抱えていた本をばさばさと落として、泥まみれの脚も気にせず地面に倒れ込んだ。
酷く疲れているのか、バランスの悪い体勢を直す事も無く肩で大きく息をついていて、とても話しかけられる状態ではない。
「……どうしたの?」
私より早く、妹紅さんが声をかけた。
先程までの暢気さは無くなり、何処か刺々しさを現していて、かけようとしていた声が詰まる。
「…………」
こいつは何も言わない。いつの間にか、右の手が強く握り締められて、血を零していた。
心なしか、体が震えている。
「怪我は無い?」
妹紅さんの質問に、小さく頷いて答えている。微かに、唇が揺れ動く。
それだけを見て、妹紅さんは背中を二回ぽんぽんと撫でて、すぐに立ち上がり小屋を出て行ってしまった。
私は、何も言えなかった。
空気が重い。
何とか立ち直っていつもの場所に座り込んだこいつは、本から眼を離さずに黙々と読み続けている。
私は掛ける言葉も見付からないまま、じっと見つめている事しか出来なかった。
雨空の所為で薄暗くて、よく見えはしなかったけれど、普段より明らかに元気が無い様に見える。
「……どうしたんだ?」
迷いに迷ってようやくひねり出せたのが、そんな言葉だった。
どうしたか、なんてのは妹紅さんを見ればすぐに分かる事だというのに。
「ごめん、今日はもう帰ってくれるかな」
僅かに低い、絞り出したようなかすれ声で、そう言われる。
聞かれたくない事だとすぐに分かった。けれど、私は知りたかった。
こいつの一番の悩みを、こいつの一番の苦しみを、私自身で理解したかった。
だけど、私に何が出来る?
「……」
雨に打たれながら、一人考える。
私はあの時どうして、妹紅さんとあんな声で話していたのだろう。
私が何を思えば、あいつを励ますことが出来たのだろう。
頭から被った布の上から雨が背中を打つ。その音が、私の気持ちを惨めな方に追い遣っていく。
嫌な感情ばかりが雨の様に降り、溜まっていく。
あいつは半妖だ。
妹紅さんは、あいつの保護者だ。
「私は……」
あいつの、何なのだろうか。
家路を進んでいた足を止めて、雨の中、じっと佇んでいた。
話を聞く限りでは、まだ遠くに行った訳では無いはずだった。
ある程度探し回れば簡単に見付かるだろう。その程度に妹紅は考えて、竹林の隙間を縫う様に駆け抜ける。
実際、小屋を飛び出して間も無く、それらしきものを見つける事が出来た。
「……?」
ただ、『らしきもの』までにしか、妹紅には判断出来なかった。その姿はあまりにも、想像からかけ離れていた。
これが半妖の子どもが出来るような業だとは思えない。ならば、他の何物かがまだ近くに居る可能性が高い。
妹紅は警戒を解かず、その場に立ち止まって周囲に意識を向ける。雨音の中の微かな音、竹林の妖気、動き、あらゆる気配を覚る。
その中に僅かな異物を感じて、その方向へ駆け出した。
数分、竹林を駆け抜けた先に、その異物は居た。
「来てくれましたか」
白い装束に白い長髪、その風貌や纏う妖気は妹紅には忘れる事も出来ない妖怪、いや神獣が、妹紅を迎えた。
ハクタク。
先日、阿弥と一緒に妹紅の元を訪れたハクタクが、今また妹紅の前に姿を現していた。
「……今日は阿弥は居ないの?」
「はい。個人的に、貴女に話したい事が有って、こうして訊ねてきました」
一度顔を合わせた相手とは言え、妹紅に気を緩める事は出来ない。
「その前に一つ聞いておきたい。あの妖怪を攻撃したのは、貴女?」
「ええ、そうです」
「どうしてそんな事を?」
ハクタクほどの力なら、あの様子も理解出来る範囲のものだろう。
だからこそ、その理由を突き止めるまでは、妹紅とて油断は出来なかった。
いくら阿弥と懇意にしているからといえ、その牙がいつ妹紅の身に突き立つかは、分からない。
「警告です。あの妖怪は今でこそ瀕死でしょうが、妖怪が死ぬ様な事をしたつもりは有りません。
……それに、貴女も同じ事をしに来たのでしょう」
「それは……」
ハクタクの言葉は、妹紅の図星を突いた。 妹紅は、襲った妖怪を攻撃する事で、その驚異を退けようとここまで来ていたのだ。
「私と貴女の目的は同じでした。それなら、私が話したい事も分かるでしょう」
そう聞いて、妹紅は警戒を解いた。微かに、ハクタクの口元が微笑むように動いた様に、妹紅は思った。
「それで、阿弥に続いてハクタクまで……私に何か頼み事を?」
ハクタクは、小さく頷く。
妹紅は満足気に顔を綻ばせて、数歩ほどハクタクに歩み寄り、声低くハクタクと話し出す。
止みそうに無い雨が、二人の会合をより密かなものにした。
あいつはまだ怒っているだろうか。
あの雨の日から三日ほど、ずっとそんなことばかり考えていた。
借りていた本を眺めても、その中には今にも泣き出しそうなあいつの顔が浮かび上がる。
雨上がりの泥にまみれて遊ぶ同級生を見て、本を取り落とすあいつを思い出す。
そんな事も有ってか、時間が数倍速く過ぎて行った様な感覚だった。
その間、私は何も出来なかった。
ふと思いついて、阿弥様に借りた魔法の本に目を通した時も有った。
案の定、私にもさっぱり分からない内容だった上に、阿弥様の話では、魔法を覚えるには何十年もの修行が必要らしい。
今この時にあいつの力になるのは、私には出来ない事だ。
それが、ただひたすらに歯痒かった。
「どうしたの?」
「……あっ」
気が付けば、私は阿弥様の目の前で、何をする訳でもなく呆けていた。
熱くなった顔を俯いて隠し、本を阿弥様に差し出す。
「その本、そんなに気に入ったの?」
阿弥様が話すには、返しに来たはずの魔法の本をしっかり抱えたまま、少しの間意識が飛んでいたらしい。
そういう訳ではない。そういう訳ではないのだけれど、もどかしい。
「いえ……有難うございました」
私が『魔法を使えるようになりたい』と切り出したら、阿弥様はどう思うだろう。笑って、協力してくれるだろうか。
もしくは、とんでもないと怒ってこの顔を叩いてくれるだろうか。
何故だろう。私の心に燻っていたのは、あいつのことじゃなかったのか。
何故『魔法』なんてモノに縋ろうとしたのだろう。
あいつと私は友達で、語り合える中で。
許しあえた存在の……はずだ。
「……どうしたの?」
阿弥様が不思議そうな顔で私を見る。
私は何でもないです、とだけ言って踵を返し阿弥様の前から立ち去ろうと駆け出した。
私に今できることは、あいつに会う事くらいだから。
家にあった分厚い本はまだ読み終わっていないけど。
何故か行かなきゃ行けないような気がして。
私は本を片手に飛び出した。
そして、小屋の入り口で私は呆然と立ち尽くす。
本だらけの小屋、大量の本。それは全く変わっていない。
だが、目の前の小屋の主の姿が私の目から離れなかった。
「どうしたんだその怪我……」
片腕に包帯を巻きつけ、頭にも包帯が巻かれている。
頭の包帯は放置しているのか、固まって黒くなった血の跡が見える。
「別になんでもないさ。両手は無事だし本は読める」
「そうじゃない! お前が何でそんな傷を!」
「理由なんて……いらないだろう?」
半妖……だからか。
あの時、妹紅さんが帰れと言ったあの時、こいつは怪我をしていたのか?
私は全く気付きもしなかった。鈍重な空気に飲まれ、食い入るようにこいつを見ていたはずなのに。
何故気付かなかった。
そして、何故何も言えなかったのだ。
絶望を貼り付けたような顔をしている私をアイツは私が手に持つ本を指差して、
「……その付箋」
「付箋? ……!」
「まだ読み終わってないのに来たのかい? それは約束違反じゃないのか」
「べ、別にそんな約束決めたわけじゃないだろう? お前が気になったから会いに来たんだ」
私の言葉にあいつは小さくため息を吐く。本から視線を変えないままに。
だが、あいつから感じ取れる少しの怒りと、別の感情が見えた気がした。
それを私が触れてはいけない。触れてはいけないのだ。
なのに私は易々と、平然と、こいつのその『傷』に触れている。
「なんで来たんだ」
「あの後で……心配だったんだ」
「本は渡しただろう?」
「心配だったと言ってるじゃないか」
あいつの声は冷たい。私を強く否定するような声だった。
どうしてこいつはこんな冷たい声を出しているのか。
この時の私にはわかっていない。
「心配? なんで君が僕を心配なんてするんだよ」
「と、友達を心配するのは当たり前だろう?」
私が少し震えた声であいつに返す。するとあいつは本を閉じ、足元へ置く。
あの時のように座る私に詰め寄って、声を張り上げた。
「……僕は君に『心配』なんてされたくない!」
あの時とは違う。この声は怒声だった。
こいつが怒った声など初めて聞いた気がする。
だが、その怒声には強い悲しみも感じる。
「君は、『友達』で、『対等』だと言ったじゃないか。そんな君に『心配』なんて感情は向けられたくない」
その言葉は私への否定ではない。むしろ自身の否定だ。
対等であったのは自分で。そう思っていたのは自分だと。そうであると信じていたと。
その言葉を、その全てを、私にたたきつけた。
「ち、違う。私はお前が心配で……」
「僕は君とは普通でいたい。そうだったろう? だから君の家のことも聞かなかった。君は僕のことも聞かなかったのに」
「当たり前だ! 私はお前と友達でいたいから」
「なら。ならどうして君は傷ついた僕を見るんだ。その本が読み終わった後に来たのなら、僕らは普通でいられたのに」
それにあわせるように目の前で吐露される言葉。私には、その一つ一つが突き刺さる。
こいつが思っていたこと。隠してきたこと。 よく考えてみれば当たり前のことだ。
それが、当のこいつの言葉でもって、私にのしかかる。
感情を吐き出し終え、見たこともない顔で息を荒げるこいつを見て私は思う。
あぁ、私は無力だ。
何一つこいつに与えることも、支えることもできなかった。
仮初のつながりも断ち切るほどに私の存在は脆い。彼を護る妹紅さんの言葉を理解できる、少しでもわかってやれる。
私はそんなことすらできていなかった。
対等に、とは私の勝手な土俵の上で、友達とは私が決めた無理矢理な舞台の上で、それに無理矢理こいつを乗せていただけだ。
あいつがその場所にいるために、どれだけの苦労をしていたのか、知るわけも無い。
厚い本を渡した時、あいつは今のように怪我をしていたのかもしれない。
薄い本を渡した時、あいつは私を、いや人が恋しかったのかもしれない。
そんな事も考えずに私は私の思いを押し付けてここに立っていた。
そんな私にできる事なんて、何が有ると言うんだ。
「すまない。言い過ぎた」
「いや、私が悪かったよ。続きはここで読んでいっていいか」
「あぁ、そうして欲しい。次に渡したい本はもう決めてあるんだ」
わざとらしく言ったその言葉に苦しみを覚えながら手の中の分厚い本を開く。
そこからは全くの無音で、ページのめくる音だけが響いた。
いつも通りなはずなのに、心が強く締め付けられるようで。重く、鈍い思いが全身を駆け巡っている。
無力な私は、どうすればいい。
その後、ろくな会話もなく次の本を渡され、陰々とした空気のまま私は小屋を出た。
あいつも変わることなく本を読み続けていた。渡された本は薄い伝記物で、明日には読み終えれそうな短い作品だ。
それはつまり、あいつが私に会う事を望んでいるわけだと思う。
私はそのことに喜びながらも、あいつに出来る何かを考えながら竹林を歩く。
竹林は密度が濃く、月の明かりも線のように薄い暗い道だ。だが、私にとってはもう歩きなれた道だ。
さぁさっさと帰って本を読んでしまおう、そしてあいつとの議論に備えて読み耽るのだ。
そう思った。その時だった。
「そこの子。止まってもらえないか?」
静かな声が私の後ろから響いた。
その声は聞いた事がない。妹紅さんでも、あいつでもない。
夜の竹林という事は、里の誰かでもない。なら、選択肢は1つしかないじゃないか。
妖怪だ。
私は慌てる息を整え、ゆっくり後ろに振り返る。本当なら、そのまま走って逃げるのが正解だったのかも知れない。
だが私はその声に敵意、というよりは悪意を感じなかった。子供の癖に何を言うかというモノだが、それについてはなんとも言いがたい。
「止まってくれたか。ありがたいね」
そこには美麗な白髪と白装束の女性が立っていた。
綺麗、という言葉ではなく神秘的、という言葉が似合う女性。竹林から通る月光が、白い髪を輝かせる。
言葉の通り、いや存在の通り『人間離れ』した美しさだった。
「君を見つけたのはいいが、先日は気を落としていたようなのでね。話しかけるのは悪いと思ったんだ」
女性はハハッと笑った後、改めて私を見る。
「何、正直私の案件を話すのに君の機嫌など些事なんだが……今日も暗い何かを抱えているようだしね」
私の心を見透かすような言葉を吐いてくる。
私はそれに少し苛立ちを覚えながら目の前の女性に問う。
「妖怪……なのか?」
「おや、気付くのも早いものだね。まぁこの竹林に湧くような輩はあの不死人以外は妖怪だ。無論私もだが」
「私を襲うのか?」
「そう思うなら何故逃げない? 君は子供だろう? 大した力もあるわけじゃない」
その通り、本当の妖怪に会ったのなんて初めてだ。
悪意が無い、なんて考えてはいるが、足が震えているのがわかる。
逃げることなんてできない。そもそも妖怪相手に子供の私が逃げれるはずがない。
だから今私がするべき行動は、
「聞きたいことが……あるんだ」
「ふむ、声の震えはないか……大した肝だな、さぞうまかろう。まぁいい、何が聞きたい」
「この先にあった小屋に住む男の話だ。ここに居るという事は、貴女も知っているんだろう」
妖怪が私の言葉にピクンと反応したのを確認する。
そう、私のできることは妖怪に話題を投げて興味を持たせること。私を食べない理由を作る、これは昔からある妖怪回避の方法の1つだ。
今回振った話題は完全に私の個人的な興味だったけども、私の言葉に対する妖怪の返しは、ある意味予想通りだった。
「ああ、彼の事なら私も知っている。しかし、答える前に私からも問おうかな?」
「構わない」
ゴクリ、と唾を飲む。
妖怪は小さく息を整えると、私の体を貫く様な鋭い視線で私を睨む。
思わずビクリと体を硬直させて、その目を覗いてしまう。
炎のような赤い瞳。その中に怯えた私が映る。
「君はそれを知ってどうする?」
「ッ……!」
「私は君が知りたい事、それを全て伝えることができるだろう。だが、君に彼の事を伝える事で、君は彼に何をするんだい?」
言葉が出なかった。
出るわけがない。それどころか息すらままならず口はパクパクと酸素を求めている。
怖い、という感覚ではない。何と言えばいいだろうか。
全身を矢で射抜かれたような、動くことすらままならない感覚。
足の震えも動揺の瞳も、その感覚でピタリと止まり目の前の妖怪を覗く。
「君は彼との関係をどうしたいんだい? 『たかが』人間の君が。『せいぜい』数十年の命で」
「私は、あいつの、友達だ」
「そうか。それならば君は全てを知りたいのかい? どんな真実でも、どんな理由でも、どんな結果でも?」
妖怪の目は真っ直ぐに私を貫いている。
まるで品定めするように、私の眼を、口を、手足を睨んでいる。
……そうだ、何を悩む。何を恐れる。
そもそも私はこの妖怪に喰われないために言葉を投げかけたはずだ。それならば恐れてはならない、退いてはならない。
どんな言葉が投げかけられても、痛みが傍に寄ろうとも。
引いた足を踏みしめて、開いた手を握り締めて、小さく息を吸って、有らん限りの力を込めて目の前の妖怪を睨み返す。
返す言葉なんてものはわかっている。そんなこと、1つしかない。
「知りたい。教えてくれ」
「何故だい? それに質問に答えていないね?」
「あぁ、答えてやる。私のすることは一つだけだ。私にはそれしかできそうもない」
「ほう?」
私はもう一度大きく息を吸って。
輝く白髪の妖怪に埃を被った私が言い放つ。
「同じだ。あいつがどんなものであろうが、どんな境遇だろうが、私はあいつの友達でいる。
……いや、私はあいつの友達でいたいんだ」
その私の声は静かな竹林の中を静かに響いて、そのまま消えた。
小さく風がそよぎ、竹林にサワサワと静かな音が響く。風で私の体が冷えて心も落ち着いていく。
妖怪は風が止んだのを確認した後に、小さく笑って、
「あぁ、充分だ。充分だね……阿弥」
「阿弥――阿弥様を知っているのか!?」
「自己紹介がまだだったな。私はハクタク、歴史を司る神獣と呼ばれている。まぁ妖怪とも性質は変わらないがね」
「神獣……」
雰囲気から普通ではないとは思っていたが、そこまで神聖な存在だとは。
喰われるか、等と考えた自分を少し恥じたくなる。
「何を思っているかはわからないが、私と妖怪の差なんてものは、伝承が信仰か恐怖かというだけだと思うぞ」
「その神獣が、どうして人里の大家の阿弥様を知っているんだ?」
「何、私と阿弥は君の言う『友達』というやつだよ。彼女が阿礼のころから共にいる」
「里に妖怪が来るなんてありえない! 里の有力者である阿弥様がそれを率先して行うわけが!」
「『友達を悪くは言えない子』だと、阿弥は君をそう言っていた。妖怪であろうと、な」
それは違う。
阿弥様は、妖怪への注意や対策の為に幻想郷縁起を書いてきた、そう話してくれた。
そんな阿弥様が裏で、神獣とはいえ、人間以外と手を組んでいた、なんてこと。
「おかしいとは思わなかったかい?」
「何がだ?」
「転生を重ね、寿命をすり減らし、力も無い人間の少女が、恐るべき妖怪の対策を書き記せる事を。
君も同じ人間のはずなのに、おかしいとは感じなかったのかな?」
「……」
ここまで断言されて、私は考え直さざるを得なかった。
「なに、稗田は私と共に在ったが、人間を裏切る事は絶対にしなかった。
それに私は、稗田の書き記す幻想郷縁起に、少し手を貸していただけだからね」
「貴女が……」
「だから、君は阿弥を疑わなくても良い。私が好きで阿弥のそばに居るんだ」
何も言い返せなかった。
阿弥様は、ハクタクについて何も話してくれてはいなかった。
それは阿弥様がハクタクを頼りにし、ハクタクもまた阿弥様の為に居るからなのだろうか。
「大丈夫だよ。そいつは決して悪い奴じゃない、私も保障する」
後ろから声がして、私は咄嗟に振り向く。
僅かに聞き覚えのある声、竹の間から現れた妹紅さんは、ハクタクを前にしてあの時の様な自然な態度で居る。
「やあ、しばらくぶり」
「妹紅さん……?」
片手をひらひらさせて、軽い挨拶をされた。
視線を戻すと、ハクタクもまた、まるで友人と会うかのように軽く手を振っていた。
それはつまり。
「……どういうこと? 知らなかったのは、私だけ……?」
阿弥様も、妹紅さんも、私の知らない所で繋がっていて。
それはつまり、妹紅さんの庇護に居るあいつも?
「いや、あいつにもこの事は何一つ教えてない。 全部私達だけの中で済ませてきた事なんだ」
「隠していた事はすまないと思ってる。 ただ、今は私を信じて話をして欲しい」
私よりもずっと年上で、力の有る二人にこう言われては、疑えと言う方が無理な話だ。
それに藤原妹紅さんは、あいつが頼りにしている人だ。妹紅さんを疑うという事は、あいつを疑うという事と同じになる。
はっきりと頷いて答えると、ハクタクは満足そうに微笑んだ。
「それじゃあ、話を戻そうか」
「何の話をしていたんだ?」
「あの子の事についてね。この子が知りたいって言うものだから」
「へえ、そうだったんだ」
改めてそう言われると、顔が熱くなってきた。
妖怪から身を守るための行動とはいえ、結果的にそういう事になってしまっている。
そう聞いて、妹紅さんはクスクスと笑って、私の顔を見つめてきた。
「何だかんだで、結構気が有るんじゃないか。あいつに」
「そ、そういう事じゃ……!」
「まあまあ」
妹紅さんはからからと笑って、ハクタクの方を見る。
「……と、そういう事なんだよ」
「なるほど、よく分かりました」
ハクタクもそう感じたらしく、私を向いて薄く微笑んでいる。
まだ会ったばかりのハクタクにまでそう思われたと思うと、余計に恥ずかしさがこみあげてくる。
「妹紅さん、私からこの子に話すよ」
ハクタクはそう言うと、妹紅さんに深く頭を下げた。
妹紅さんもそれに答える様に笑顔を潜めて、私の方に向き直った。
そうしてハクタクは私に語りかける。
「あの子は君も知っている通り、半妖だ。 それ故に人間と妖怪、どちらにも馴染めず、時には迫害さえ受けてきた。
君も見ただろう、あの子が貴女に教えたがらなかった事を」
さっきのあいつの顔が、はっきりと思い浮かぶ。
まだ私と変わらないくらいの背丈で、どれだけの苦労や痛みを受けてきたのか、私に想像なんて出来ない。
だから、私はハクタクにはっきりと頷き返した。
「同情したか? 悲しいと思ったのか? 君の思いはそれ故の保護欲でないと言い切れるか?」
「……わからない。私には先ほどの返答しか返すことは出来そうもないんだ」
返す言葉もなく、頭を下げる私にハクタクは小さく首を振る。
その顔は笑顔。
だがその笑顔に何か違和感を感じるのは何故だろうか。
「いや、分かってる。君の気持ちははっきりと伝わっているよ。これはただの私の意地悪だ。
君の眼は澄んでいる。だからこそ、君に一つ、頼みたい事が有るんだ」
「私に……」
他ならぬ阿弥様の親友であろうハクタクからの頼み。
それがあいつの為になるのなら、何だって受け入れよう。
ハクタクは一度言葉を止めて、私の目を真っ直ぐに見て、伝える。
「――私の力を、君に預けたい」
確かに、ハクタクはそう告げた。
頭が、上手く回ってくれない。言われたばかりの言葉が、意識を通ってくれない。
半ば呆然としたままで、言葉を絞り出す。
「ハクタクの……力?」
「ああ。私の妖力、能力、歴史、知識。それらの全てを」
もう一度言われても、耳を疑うような提案だった。
神獣の力が、知識が、私に?
理解ができない。目の前が霞む。 思考に視界が奪われる。
「少し落ち着いて。ゆっくりで良いから」
ぽす、と妹紅さんの手が私の頭に乗っかって、じっと押さえつける。
そこから伝わる確かな感覚と言葉が、やっと私に僅かに余裕を取り戻させてくれた。
「どうしてそんな事を私に?」
「……信じられないとは思うけど、私はもう、長くは無い。私が生きていくのに、私はもう、忘れられ過ぎたんだ」
ハクタクが言う、妖怪の死。
ここ幻想郷において、人と対立しない妖怪が密かに存在を薄れさせていくという現象が有るというのは、聴いた事が有る。
それは、神獣とて同じなのか。
だが、預けるとはなんだ。私は人。それも子供だ。
文書も言葉も、ましてや力などは持っていない。
「私にはまだ果たしていない約束が有る。その為に、私はここで終わるわけにはいかない」
無念そうに、しかし力強く、ハクタクは語る。
死を目前にしても尚、自分の意思のために、私に全てを託そうとしている。
その願いは、約束は。
「その約束は……阿弥様が関係しているのですか?」
「その質問には君の返答次第で答えよう。私は悲しくも死に体。君が私を知る、ただそれだけでも存在の維持が助かる程度にはね」
その眼が答えを雄弁に語っていた。
たった一人の意識、信仰で存在の存続に関わる。
それはどれほどの極限、そしてどれほどの苦しみなのだろうか。
苦しみが理解できるのか、視線の端で妹紅さんが目を伏せる。
そんな限界に至っても尚、目の前のハクタクは阿弥様を想っている。
「私の心が消えてしまっても、君が私を、私の力を受け入れてくれるのなら。約束は果たされる」
「どうして、私なんですか。先ほど言っておりました……妹紅さんは不死人なのでしょう?」
「阿弥の友人の君に、先を望むのは間違っていたかい? それに」
声を一区切り、ハクタクは私を見透かすような眼光で、されど優しげに私を見る。
「君は力を欲していたはずだ。無力を背負い、故に気を落としていたのだろう?」
「あ……」
「考えず、私を『力』とすればいい。私の約束は……それで叶う」
その言葉は天啓に聞こえた。
彼女の願いも達成され、私の想いも続くなら、それは万全の答えだ。
ハクタクを取り込むことで起こりえることは私には想像ができた。
人ならざるものを受け入れたなら、それはもう人ではない。
魔法を得た人間が『魔法使い』と呼ばれ、人とは違う垣根に分けられるように。
半妖になれるのならばあいつと共に立てる。
私は内心で大きく頷いてハクタクへと手を伸ばそうとした。
だが、その手を妹紅さんが掴む。
「……妹紅さん?」
「力を預けるという言葉の意味、わかっているんだろうな?」
その声は冷たく、だが感情を感じる。
妹紅さんの顔はまるで何か、悔しそうな顔だった。
「わかっています。妖怪を受け入れたなら、私は半妖。つまりあいつと同じになってしまう」
「それは結果だ。私が聞きたいのはその後だ」
その……後?
私の顔を見て、妹紅さんは絞り出すような声で、
「もしお前が力を受け入れたら……『お前』は死ぬんだぞ?」
そう告げた。
浮足立った私の心に冷や水をかぶせるような、そんな言葉。
わからなかった。その言葉の意味が。
半妖になったとて私は私だ。
絵物語のようにハクタクが私を乗っ取る、ということだろうか。
いや、妹紅さんの顔からはそんな様子だとは思えない。
「人を捨てるということはそういうことだ。頭の良いお前ならわかるだろう?」
「……人を捨てる」
「『人間としての君』が消えてしまうということです」
ハクタクも妹紅さんに続けるように答える。
その言葉で私は理解した。
答え合わせのように妹紅さんが言葉を紡ぐ。
「半妖のお前は、本当にお前なのか。それを自分と言えるのか?」
思わず唇を噛む。自分の軽率さを恨むように。
ただこの一時の感情で、高揚するその身で選ぶには重すぎる決定だったのに。
私はただあいつに近づける、ただそれだけのために全てを捨てると決めたのに。
私は二人を視界に移して漠然と前を見る。
紅色の人と、白色の妖怪がいる。
妹紅さんは私を心配してくれていた。
私に会ったのなんて今を含めても2回目なのに。
アイツの保護者として、アイツの友人の私を心から心配している。
ハクタクは真剣な瞳で私を見ている。
自分の命を預ける人格であろうかと見定めるために。
それなのに私は今、一時の高揚する感情のままに動こうとした。
そんなこと、目の前の二人に申し訳ない。
私の選択が一つだったとしても。その行動にも私の意思がある。
言葉のままに流されて行うことじゃない。
私は大きく深呼吸をして。
「ください。あなたの命を。力を。歴史を。そして愛すべき友人も」
その言葉にハクタクが小さく微笑む。
「その眼、偽りはないようだね。……後悔はないのかい?」
「後悔は……あります」
「だろうね。此処で後悔無し等と言おうものなら張り倒す所だ。私とて本当なら最後に阿弥と、とも思っていたしね」
「全てが私のために、そして阿弥様とハクタク様、そしてアイツのために考えられていたとわかっています。ですが、私には全てが……唐突すぎる」
「ならば一夜置こうと、時を伸ばそうとは思わないのかな? 親御様にも、話す言葉はあろうに」
「何夜あろうと、何を告げようと、きっとこの後悔は尽きない。そして選ばずに終わったらもっと後悔する」
私には夢がある。
人も妖怪も受け入れる、立派な商人になること。
アイツとの夢だ。
それを捨ててでもアイツの隣に並ぶことは正しいのだろうか。
わからない。アイツは怒るかも知れない。
それでも私は、この道を選びたい。
人も妖怪も受け入れるのは、アイツの隣に居たいから。
アイツと笑いあいたいからだ。
あいつの気持ちに少しでも近づけるなら、あいつの苦痛を少しでも理解する事ができるならそれでいい。
私を変えた彼のために。
「……決意はできたようだね。君の言葉通りの子だ」
「あぁ。肝が据わってると言うか変わってると言うか、凄い子だよ」
「でも、私と阿弥にとって、これほど嬉しい事は……無いよ」
遠く、人里の方を見上げて、ハクタクは嘆息している。
阿弥様も……こうなる事を望んでいたのだろうか?
「阿弥様……」
私は、阿弥様に何も聞かされても、教えられていなかった。
阿弥様は何も言わずに、私に手を貸してくれて、導いてくれていた。
もしも騙されていたのだとしても、私が阿弥様を恨む理由なんて微塵も無い。
優しい阿弥様の顔を思い出して、ハクタクと同じ方を向いて、頭を下げた。
「私はずっと、人間のために生きてきた。
私みたいな人外の存在でも、他者のために何かをする事が出来ると信じて、ずっと力を貸してきた。
しかし人間たちは、人間と違う者を避け始め、隔離し、迫害し始める。
……妖怪と違って、人間は何の力も持たないから、そうしなければ生きていけなかったんだ」
ハクタクは語る。
かつて、ハクタクが関わってきた人間達、妖怪達、そしてその関係の移り変わり。
私の生まれるより遥か昔を顧みて、ハクタクは顔を伏せていた。
「私は今もまだ、人間のためになりたいと思っている。
千年前にも私と似た理想を掲げた尼僧が居たが、終には人間の手により封印されてしまった。
そして阿弥は、私と同じ願いを――人間と妖怪がお互いに生きられる可能性を探していたんだ」
「そんな事……今更出来るのか? 人間達はもう」
「その為の第一歩が、この子だよ」
ハクタクは私を、人間である私を指して、言葉を続ける。
「君の様な広い心と深い知識、固い意志が有れば、きっと何かが変わってくれる。
私も阿弥も、それを祈っていた。
そしてそれは、君があの子と知り合って、確信に変わったんだ」
「私が……」
「君に、人間と妖怪の繋がる橋になって欲しい。
平和ではなくても、人間と妖怪が共存出来る世界を築いて欲しい。
……私からの頼みを、聞いてもらえるか?」
その言葉に息を飲んだ。
その願いは、私の願いだ。彼の願いだ。
そして、阿弥様の、ハクタクの願い。
ならば何を躊躇う、何を迷う。
私は決めたのならば、その願いがあるのなら。
「言われるまでも無い、私はあいつが自由に暮らせる様にしたいんだ。
そのためなら、私は……!」
人間なんて、と言いかけた口を閉じる。
その言葉は絶対に言ってはならない。この先ずっと。
もしこの願いが偽りであってもだ。
「ありがとう――」
一瞬だけ驚くような顔をしたハクタクは、すぐに顔を綻ばせて、私を抱き締めてきた。
驚くほど冷たい、体温というものを感じられない身体は、その身体の限界を表しているかのようだった。
「――さて、もう良いかな」
もう一度、ハクタクが私の意思を確認するかのように、私の目を見つめてきた。
何度聞かれても、私は意志を曲げたりするつもりは決して無い。
そう気持ちを込めて視線を返した。これが、最後だろう。
「ありがとう、私の最期の頼みを引き受けてくれて」
恭しく、ハクタクが頭を下げる。
まだ会って間もないのに、これが最後だと思うと、不思議な感情が湧いてくる。
いや、私は別れたくないんだろう。
阿弥様の親友で、伝説の神獣にしてあらゆる知識を持つ妖怪。
私はもっと、ハクタクと話していたいとさえ思っていた。
ああそうか、これが阿弥様の話していた事か。
「そして妹紅さん、予ての通り、二人の事をよろしくお願いするよ」
続いてハクタクは妹紅さんにも、その一言を遺す。
少し複雑そうな顔をしていたが、すぐに妹紅さんも頷き返した。
「良かった。……最後の最後、良い人達に巡り合えて。 阿弥も、素敵な友人を持ったものだ」
ありがとう、と、何かに感謝するようにハクタクが呟いて。
すぐに私の方を向いたかと思うと、きゅ、と優しく抱きしめられる。
「これが、最後だ。――ありがとう、――」
その言葉に、聞こえなかった言葉に、どれほどの意味があっただろうか。
後悔も、希望も、その全てが詰まっているのだろう。
私を抱くハクタクの身体が淡く光り溶けていく。
抱きしめたまま私を流れ込んでくるそれは、きっとハクタクの全て。
そしてこの光が、私が人間として見る最後の光景。
光の先の妹紅さんが悲しそうに私を見る。
私は後悔なんてしていない。と言ってやりたくなる。
段々と薄れて行く意識の中で、少ない思い出が走馬灯の様に蘇っていく。
もう、この思い出の中の世界を、私が進むことは無いかもしれない。
だから、きっとハクタクも言ったであろう言葉を、『私』に送ろう。
私よ。人間の私よ。これが最後。最後だから。
ありがとう。――さよならだ。
私は私の世界に別れを告げて、意識を手放した。
目が覚めて、冷静になって考えてみれば、僕は彼女に酷い事を言い過ぎていた。
そもそも、彼女は人間で僕は半妖、住む世界も何もかもが違うはずだ。それなのに、僕は何を期待していたんだろうか。
初めから対等ですら無かったのに、僕は彼女に対等である事を求めていた。
そんな事、おこがましいにも程が有る。
昨日、彼女に渡した本は、読み終わるのにそれほど時間がかかるものじゃない。
彼女なら、二日も有れば読み終えるには十分だろう。その時までに、僕は覚悟を決めておくべきなんだろう。
それは、僕なりの彼女に対する接し方を考え直す必要が有る、という事だ。
丁度読み終えた本を元の場所に戻して、窓から外を眺めた。
いつの間にか辺りは大分暗くなっていて、もともと暗かった竹林が更に暗くなり、殆ど先が見えなくなっている。
その向こうから、彼女が歩いてきたりしないだろうか。
もしも来たとしたら、その時僕は。
「……?」
気のせいか、竹が少し揺れた気がした。もしかして、もう読み終えてここに来たのだろうか。
その方向にじっと目を凝らし耳を欹てて、様子を伺う。がさがさ、と竹の葉を掻き分けて、誰かがこっちに歩いて来ている。
それがはっきりと分かるようになって、僕は自分の行動に気が付いた。
窓から離れて、ふらつきながらと元居た場所に座る。
本当に、僕は何を期待していたんだ。
「やあ、元気だったか?」
結局、戸をあけて入ってきたのはいつもの通り、妹紅さんだった。
「こんばんは、妹紅さん」
「ん、何か凄い不満そうだけど、どうしたんだ?」
「何でもないですよ」
あまり妹紅さんの顔を見ないようにして、本に視線を戻す。
妹紅さんは何も持ってきていない様だったし、僕の方も特に伝えるべき事は無い。
「そう? まあ良いけど」
そう言って、僕の隣に並んで妹紅さんも座り込む。
さっきがさっきだけに、少し居辛いけれど、変に怪しまれたらそれはそれで面倒だ。・
「ところでさ」
「何ですか?」
目の前に開いた本に眼を落としたまま、妹紅さんの話を聞く。
「お前は、あいつの事をどう思ってるんだ?」
ページを捲ろうとした手が止まる。
以前の様な軽い世間話をする時の声じゃない。妹紅さんは、真剣に訊ねてきている。
「深く考えなくて良い、今思っていることをそのまま話して欲しいんだ」
「そのまま……ですか」
正直な所、まだ答えがまとまっていない。
僕は彼女の事を嫌いだと言えば、それは嘘になるのは間違い無い。だけど、僕と彼女は絶対的な違いが有る。そしてそれは、絶対に埋まる事は無い差だ。
だから今は、平行線を辿るしか無い。
「嫌いではありません。けど、対等にはなれませんから……多分、何処かで線引きは有ります」
よく分からない感情はよく分からないまま放っておいて、分かる所だけをそのまま伝えた。
言葉に出来ない所は、また今度にしよう。
「……そうか」
妹紅さんは少しだけ笑って、
「対等――にはなったよ、後はお前次第だ」
信じたく無い様な突拍子もない事を事を、告げられた。
対等だって?まさか、彼女が僕と同じ存在になったとでも言うのか。
今まで自分が見てきた事、聞いてきた事を全部放り投げて、半妖になったとでも言うのか。
そもそも、人間から半妖になる方法なんてものが実在したのか。
疑問がいくつも浮かんでは、焦燥感に埋もれて行く。
「言っておくけど、これは冗談でもなんでもないよ。それに私が唆したわけでもない、あの子が自分で決めた事なんだ」
自分で決めた? それこそ、信じられない。今の世の中で人間をやめるという事が、こちら側に来るのがどういう事か知らない程馬鹿じゃないはずだ。
それなのに、どうしてこんな事を。
「……今、何処に居るんですか?」
「ああ、今日の昼頃に送ってきたから、今頃は里に居るはず――あっ!」
人里、という言葉が聞こえた瞬間、僕は本を投げ打って小屋を飛び出した。考えている暇が惜しい、今は彼女の行動の理由が知りたい。
妹紅さんとの話も途中に、真っ暗な竹林の中に飛び込んだ。
どのくらい走ったかは覚えていないけれど、気が付けば人里の前に出ていた。
家々からは明かりが漏れて炊煙が上がり、近くの窓からは談笑する家族の声が耳に届く。僕が昔に捨てざるを得なかった人間の生活が、壁を隔てたすぐ傍にある。
そんな生活を捨てた彼女を探しに、迷わず里の中へと飛び込んだ。
夜だったのが幸いして、外に人の姿は無かった。もしも僕が人に見つかれば面倒事になるだろうし、下手をすれば彼女にも被害が及びかねない。
だから、出来れば長居はしたくない。
「居た……?」
里の外れの方、古びた家の向こうに誰かが歩いて行った。少しだけ見えた姿が彼女にそっくりだったから、すぐに走っていく。
こんな夜に外を出歩いているという事は、彼女は。
「……ッ!」
角を曲がるとそこには、彼女ではない、彼女が居た。
いや、彼女だと分かるのに、彼女だと分からなかった。
「ああ、お前か」
彼女の声がした。けど、僕の覚えている彼女の姿ではなかった。
「その姿……」
「ん、ああ、確かに分からないのも無理は無いな」
彼女は自分の髪に触れて、呟いた。
濡れてしまったな、と呟く彼女は大雨に降られたかのように全身を濡らしていた。
水滴が跳ねる所々が青み掛かった銀色の長髪に、こんな時にも関わらず少し見惚れ、降り払う。
僕が知っている彼女は、そんな姿じゃない。
やはり、もう。
「なあ」
彼女が言う。
「お前は、ずっとこんな思いをしてきたんだな」
その言葉で全て分かった。
「君は……」
「やっぱり……すぐには駄目だった。父様も、母様も……耳など貸してはくれなかった……」
妹紅さんの言った通り、彼女はもう、人間ではない。
それどころか、既に、こちら側に足を踏み入れてしまっていた。
「……どうして」
「諦めきれなかったんだ。もしかしたら、なんて考えたのが馬鹿な話さ。水を被せられただけで済んだからよかったよ」
「そうじゃない。どうして君は……どうして」
怒りにも似た情けなさに、身体が震えた。
彼女の気持ちが、僕にはどうしても分からない。どうして、自分から幸せな世界を捨てるなんて、馬鹿な事を。
「私は、お前の気持ちが知りたかった、もっとお前の事を知りたかった。
そして……友達との約束を、守りたかったんだ」
「約束……」
その言葉で思い出した、彼女との何気ないやり取りの一つ。
まさか、あんな夢物語を本気にして、こんな無謀な事を?
「そんな、あんなどうでも良い話を真に――」
「どうでも良くなんかない!」
鋭く叱咤され、言葉が詰まる。
「私とお前は友達だって、何度も言っただろう。友達との約束は、守りたいものなんだ。それに……」
彼女が一歩近寄って、僕の手を取る。
濡れた手の水の感触に驚きながら、目の前の彼女を見る。
何かをぶつけられたのか、額から流れる血が水と混じりながら一筋の線を顔に引く。
それなのに、彼女の顔は穏やかだった。
「これでやっと、お前と『対等』になれたんだ。だから、私もお前の事を『心配』しても良いだろう?」
その言葉に、手の温度に、僕は心を震わせた。
暖かい。
彼女の手は、確かに水で冷えていた。しかし、僕の手をつかむその手からは暖かさを感じる。
人に、いや、誰にも触れられることのなかった体が触れた手から流れるように熱を帯びる。
それは単純な熱ではなく、温度とは違う暖かさだった。
……全部、僕の所為だったんだ。
それなら、僕がその責任を取らないといけない。返事の変わりに、彼女の手を握り返す。そして、二人して笑った。
僕の求めていたものは、こんなに近くに有ったんだ。
ふと、僕達ではない声が聞こえて、慌てて家の影に身を隠した。
「……まずい、人が来る」
「え?あ――」
恐らく、僕たちの話声を聞いて誰かが探しに来たのだろう。
こんな時間に子供が外に出ていたとなれば、大人が見に来てもおかしくない。
このまま此処に残っていたら、より大変な事になる。
僕が里からの脱出を提案するよりも前に彼女は僕の手を引っ張り、里の奥へと駆け出した。
彼女に引かれて入ったのは破棄されたらしい古びた建物だった。
明かりなどあるわけもなく、それでも満月の光が部屋の中を明るく照らしていた。
「昔、寺子屋だった場所だ。読書には持って来いだったんだけど悪ガキが居座って煩くなってしまってな。夜には誰も来ないだろ」
「そんなことはどうでもいいよ。早く里を出よう。ここにいてもじきに見つかってしまう」
月光に光る青の混じる銀髪が何か小さく光るのが見える。
僕がそれを指摘する前に、彼女は僕の腹を手で押し込んで教室の奥へと突き飛ばした。
「里から竹林に行くにはまた里の中を通らないといけない、大回りしたら里の外の妖怪に襲われてしまうぞ」
「それならどうしてこっちに逃げてきたんだい?」
その僕の指摘に、彼女は数秒の静止の後、取り繕うように
「こ、こっちにはなんとかする方法があるんだ!」
「随分と大雑把な解答だね? まぁ地の理は君の方があるんだ、僕は君を信じるけどね」
「あぁ任せろ。お前を里の皆に晒したりなんかしないさ」
静かな、鋭い声。
そう彼女が言ったその時、僕は気づく。
満月の光に呼応するように彼女の外観がさざめいていく。
銀の髪に翠が混じり、何よりも人外の証拠とも言える2本の角が見えた。
面を上げたその姿は恐ろしく人間離れしていて、先程までの彼女とは別人の様だった。
「私にはまだ、やるべき事が有る」
そう言って彼女は、満月の浮かぶ、雲一つない群青色の空を見上げた。
人ならざる存在の証明である、獣の角と尻尾を揺らして。
僕は不覚にも、それに見惚れてしまっていた。
大人達も眠る深夜の人里。
月が照らす大きな屋敷にただ一つ、明かりの灯る部屋が有った。
「……」
その夜、阿弥はいつも通り深夜まで幻想郷縁起の編纂を続けていた。
使用人は皆眠り、屋敷は阿弥の立てる筆の音だけが微かに広がっている。
「もう、居ないのかな」
阿弥は筆を止めて、友人の事を思い出す。
ハクタクと予てからの計画を実行すると話し、見送ってから既にかなりの時間が経っている。
順当に進んでいれば、ハクタクはもう彼女に会って事を進めているのだろうか。
「……ごめんね」
それはどちらかの友への言葉だったのか。
ハクタクへのあまりに寂しく、あっけ無かった別れの瞬間を思い出して考える。
もしかしたら、ハクタクはハクタクのままで戻って来れるのではないか。
そう考えて、阿弥は自分の考えに痛みを感じた。
それはつまり、あの子が犠牲になって消えてしまえと言っているようなものだ。
確かにハクタクは何世も共に生きた親友である。
なればあの子は捨て置いていいなどと考えられるはずもない。
しかし、私たちが考えた計画とはそういうことだ。
ハクタクとあの子、確実にどちらかが、恐らくは前者が消滅する。
それもあの世や霊体等ではない、文字通り消えてなくなる。
今になっては思い出すのも難しい、ハクタクとの最初の関わり。そして今までの繋がり。
そして消えてしまう、ハクタクへ持ちかけた今回の計画。
それは、何代にも渡り助けてもらっていたハクタクを、その生を終えた後も傍に置き続けているようなものだ。
能力目当てに、歴史を目当てに。ハクタクの意志なんてものを無視してだ。
ハクタクは決してそんな存在ではない、そうして良い存在じゃない。
だがハクタクがハクタクで生き続けるには、その代償はあの子の魂だ。
阿弥はただ、安らかに眠らせてあげられない事だけを悔い、遠い竹林に向かって頭を下げた。
懺悔が終われば、すぐに筆が紙を走る。
そんな静寂の中で、不意に阿弥は障子戸の方に振り向いた。
「今、何か……」
姿は見えなかったが、何かが居る気がする。
阿弥は、覚えの有る気配に誘われるように、障子を開いて外へ出る。
「こんばんは、阿弥」
途端、阿弥は目を見開いた。
二本の角に、白く長い尻尾、緑色の混じる長い銀髪を揺らして、少女が阿弥の名を呼ぶ。
よく知る人間の少女に似た姿をした、人間ではない者が、屋敷の庭に立っていた。
「まさか……!」
見た目こそ阿弥の記憶の中の姿とは違っていたが、その雰囲気は明らかに、あのハクタクだ。
どうしてここに居るのか、その姿は何故なのか、湧き上がる疑問を問う前に阿弥は、ハクタクを抱き締めた。
「裸足だよ、阿弥」
ハクタクの注意も無視して、阿弥はハクタクに身を寄せる。
少しだけの抱擁の後、ハクタクは名残惜しそうに阿弥の身体を放して、話し始めた。
「どうして……貴女はもう、あの子に魂を預けたはずじゃ……」
「いや、確かに私の魂はこの子と結びついたが、まだ私とこの子の繋がりは、非常に不安定なままなんだ。
今は満月の影響で、私の意識が混じっているだけに過ぎない」
「貴女の意識だけ……」
「そう。満月の夜に、私が表に現れてしまうんだ。あまり、良くない状況だね」
ハクタクの意識が、器である少女の意識と深い所で混ざり合っている、不安定な状態であると、ハクタクは言う。
このままでは、いずれ消え行くハクタクの意識に取り込まれて、魂ごと消えてしまうかもしれないと。
阿弥はそれを聞いて一瞬先ほどまで考えていた邪な考えを口に出そうとする。
それなら、そうしてしまえば、あなたは。
その言葉を読むかのようにハクタクは阿弥の肩に手を置いて。
「私は消えてしまった存在だ。それにこの子を巻き込むわけにはいくまいよ」
まぁもう十分に巻き込んでいるけどね、とハクタクは続けた。
そう、これは降って湧いてしまった悪魔のような好機なのだ。
消えるつもりで、死ぬつもりで彼女に全てを捧げ、偶然なりとも今この時彼女の体を乗っ取った。
それはハクタクからすれば死から蘇るに近きタイミングなのだから。
「でも……あなたはそれでいいの?」
「阿弥。どうしたんだい?まさか君がこの子を犠牲にして私に蘇れなんてことは言わないだろう?」
「違う、違うのよハクタク。私は、あなたの心を考えて、考えたくないと思っているの」
もし、自分ならどうしていただろう。
自分が消えてしまう事を恐れて、何をしてしまうだろう。
阿弥がそれを考えることは容易い。されどその選択を、その決断を、今この目の前で考えたくはない。
そしてハクタクが先ほど言った言葉を考えなくてはならない。
「今目の前にいるあなたを……『消えてしまった』なんて改めて理解するのが怖くて」
「……ここには来ない方がよかったかな」
「いいえ違う。最後に会えて本当によかったと思ってる。だって、お別れが言えるもの」
強く心を持て。
ハクタクの今の心はわからないけれど、私は彼女に最後に会う人間なのだから。
別れを、言わなければならないのだ。
「私は最後に、私の力でこの子の正しい歴史を創り上げる」
「この子の、歴史……?」
「人間と神獣、本来なら決して合わさる事の無い二つの魂を宿らせる器として、この子の半獣としての歴史を創る。
そうすれば、この子は完全な半獣として、記憶と能力を受け継いだまま新しく生まれ変わる事が出来るだろう。
……後は、この子が上手くやってくれるよ」
「そう、ね……」
結果として、ハクタクの意思が二度と表れなくなったとしても。
「だから、私からの頼みを一つ、聞いてくれないかな」
何代にも渡って私達御阿礼の子を護ってきたハクタクの、最期の頼み。
友達の言葉を一言一句聞き逃すまいと、力強く頷いた。
「この子に取り込まれて、この子の全てが分かった。この子達の想い、意志、そして夢。それらはとても純粋で、力強く輝いていた。
阿弥、この子達の夢を叶えてあげて欲しい」
「夢……?」
「この子達はとても大きな夢を持っているが、今のこの子達では力不足なんだ。
必ず誰かの助けが必要になる。だから、最初は阿弥が助けてあげて欲しい」
半妖の子供達に、味方は居ない。孤立した二人に必要な最初の懸け橋を、ハクタクは阿弥に託す。
それは、妖怪を人里に迎え入れるという無謀な事であったが、阿弥は躊躇う事無く頷く。
「分かった。親友の頼みだもの、私で良ければ頑張るわ」
親友、という言葉が、ハクタクの心に心地良く沁み渡る。
子供達と同じ、いや、それ以上に深い繋がりを感じて、思わず顔を綻ばせた。
「……そろそろ始めよう。これ以上は、良くない」
言い聞かせるように、ハクタクが阿弥から離れる。そして手を空にかざして、新たな歴史を創り始めた。
噴出した緑色の妖力が文字を形取り、ハクタクの周りを舞う。その一つ一つが、ハクタクの歴史として紡がれ、ハクタクの意思を塗り潰していく。
もう幾ばくもしない内に、少女の新たな歴史が創られるだろう。
「……ハクタク。最後に一つだけ、言えなかったことが有るの」
微かな期待に縋るあまり、避けてしまった言葉。既にハクタクは妖力を展開していて、後戻りは出来ない。
ただ一言だけ、阿弥は力を込めて、叫ぶように伝えた。
「今まで一緒に居てくれて、ありがとう。そして、これからもよろしくね」
精一杯の心を、阿弥は伝える。
ハクタクは、ふっ、と阿弥に柔らかく微笑みかけ、すぐに緑光に包まれて見えなくなった。
――――ああ。これからも私を……上白沢慧音を、頼んだよ。
それは数刻前、寺子屋後でのこと。
「……僕は反対だ」
「お前の意見は聞いてないさ」
彼女のやろうとしていることを聞いて僕はすぐさま否定の言葉を飛ばした。
彼女は半妖の片割れであるハクタクに体を預け阿弥様の屋敷に行くのだという。
ハクタクが自分たちを守るために便宜を図るよう阿弥様に話をしてくれる。
自分には信じられることではなかった。
ハクタクと言えば『歴史を、存在を書き換える』神獣だ。
神獣とはいえ、そんなものに体の全権を預けようものなら
「君の存在を消して乗っ取るつもりかもしれないんだぞ?」
「それはないよ。ハクタク様とは記憶も感情までも共有したんだ。そんな思いはない。ハクタク様は阿弥様と最後のあいさつをしたいだけだ」
「それに、稗田家はあくまで人間贔屓なんだろう? 君を」
「お前らしくもないな。推察しか見えないぞ? 阿弥様はハクタクと共に生きてきたんだ。問題はないさ」
わかっているんだ。
これは僕の暴論でしかない。
なぜかはわからない。僕が思うその感情を目の前の彼女にぶつけるのを僕はなぜか躊躇っていない。
満月の下、窓際で輝く彼女を僕は手を引っ張って部屋の奥に引き込む。
月の光が外れて、髪の輝きが薄れて。
「あの小屋に逃げよう。そうすれば」
「そうすれば、なんだ?」
言葉が続かない。
「なぁ」
彼女が僕の名を呼ぶ。
僕も返すように彼女を名を読んで。
「あの場所は終わりじゃないだろう?」
「……」
「私たちは共に夢を叶えるんだ。共に、並んで、一緒にだ」
人ではない彼女が柔和な笑顔を見せる。
いつ人が来て自分たちを殺しに来るかもわからないこの状況で。
「あそこは私とお前の始まりだ。そして今、私はお前と『平等』になれた」
「それは君の間違いだよ」
「いいや違うね。言ったろう?私とお前は友人なんだ。それはお前のおかげなんだよ」
「違う。小屋に来たのは偶然で、全部君が進んできたんじゃないか」
それでも、彼女は。
「私はお前に会えてよかったよ、だからお前のおかげなんだ」
そんなの、
「だから私はお前のために、私のために阿弥様のところへ行く。それだけだ。夢のためさ」
そんなのは。
「……僕の負けだね。おめでとう初勝利だ」
「ちょっと待て! 今ここでそういう話をするのか!?」
勝ち負けの論争に僕らは笑い合って。
そして彼女は行くから、と寺子屋の窓に腰を掛ける。
寺子屋の入り口からでは里の目の前を通るからだろうがその姿は些か滑稽ではあった。
自分も見送ろうと彼女に向かい合う。
すると
「一つ、お願いがあるんだ」
「……なんだい?」
彼女が、静寂でなければ聞こえないような声でつぶやいた。
それを聞き取った僕を見つめ返して彼女は言う。
「私は話した通り、歴史を変える。里の商人の娘なんてものはいなくなってしまうだろう?」
歴史、存在そのものを消してしまう行為。
「そうしたら人間の『私』なんてものも影も形もなくなってしまうわけだ」
「そうだね」
「だから……お願いだ」
僕の名前をしっかりと刻み込むように言って。
「私の名前を、呼んでくれ」
彼女の顔は気づけば真っ赤で、満月に反射する銀髪とは真逆で。
僕はその意図に気づく。
僕はそれが可笑しくて、それでいて真剣に。
彼女の名を、伝えるように。
彼女の名を、この世界で最後に呼んだ人間として。
彼女に。
強く、呼んだ。
その声を聴いた満月の光の中輝く彼女の笑顔を、僕はきっと忘れない。
そして、僕は考える。彼女の言葉に答えるために。
「さて、そろそろ約束の時間だな」
少し重い本の束を抱えて、私は人里を歩く。向かう先は里一番の大きな屋敷――稗田家だ。
「ああ、慧音さんいらっしゃい」
「こんにちは」
「慧音さんがいらっしゃる事は伺っております、どうぞこちらへ」
屋敷の女中に案内されて、屋敷の廊下を歩く。
寺子屋の教育の関係で何度も訪れている内に、すっかり顔なじみになってしまったみたいだ。
それはそれで、便利なのではあるが。
案内されたのは、庭に面した障子戸の前。この中に、今日会う予定の人がいる。
女中さんが一礼して姿を消した後、私は障子が破れないように、軽く叩いた。
「こんにちは、――阿求」
障子を開けると、中には一人の少女が机に向かい、本に目を通していた。
私の声に気付いたのか、少女――稗田阿求は、本を置いて私の方に向き直る。
「こんにちは、慧音さん」
阿求が立ち上がり、お茶の準備をしようとする。
何故か阿求は私にだけ、自分でお茶を準備したいと言うので、私は阿求に任せっきりだ。
「……ん?」
ふと、阿求が向かっていた机の上の本に目が行く。
閉じられていた本の表紙には、『幻想郷縁起』と書かれていた。
「阿求、その本は……」
「ああ、それは先代の記した幻想郷縁起です。何か参考になると思いまして」
「そうか、過去の事はしっかり学んでおくべきだな」
「そうですね――あっ」
お茶を淹れ終えた阿求が、何かに気付いたように私の顔を見つめてきた。
「そういえば、慧音さんは先代の御阿礼の子との面識は有ったのですか?」
そう質問されて、返事に詰まってしまった。
何の記録にも残されていない、稗田の記憶にも残っていないのだとしたら、それはそれで嬉しい事だ。
「……ああ、先代の御阿礼の子には世話になったよ」
阿求は、何も知らない。何も知らないままで良い。特に私の名前なんてものは。
不思議そうに首を傾げる阿求を前に、私は一人、阿弥様との記憶を思い出していた。
私がハクタクの魂を取り込んでから数日して、私達は揃って阿弥様の屋敷に呼び出された。
もちろん女中さんに見つかる訳にはいかないので、泥棒の様に裏手から忍び込まなければならなかったのだが。
「私達に用というのは何でしょうか、阿弥様?」
阿弥様の部屋で、三人向かい合って話を切り出す。
こいつは稗田の屋敷はあの満月の夜以来、しかもあの時はそれどころではなかったため今は周囲に興味津々という具合だった。
「あなたが慧音ちゃんの友人ね?お名前は?」
阿弥様の言葉にこいつは恭しく礼をして、
「申し訳ありません。里を離れてより数年、自分の名前もうろ覚えでして」
「なっ、お前!」
「慧音も『お前』だの『こいつ』としか呼びませんので……」
何を言っているのだこいつは。
どうせ阿弥様はこいつの名前くらい知ってるはずなのに。
すると阿弥様はわざとらしく困ったように肘をついて
「あら、それは困ったわね……でも名無しというわけにもいかないし」
「あ、阿弥様?」
「うろ覚えながらに名乗ってよろしいのでしたら……それで」
「まぁ構わないでしょう。あなたにも話すことはありますしね」
そういうと阿弥様は急に真面目な顔をして私に向き直って。
「あれから色々有ったのだけど、慧音。貴女には里に戻ってきてもらう事にしたの」
そう阿弥様は言う。
私たちは結局あの後しばらくあの小屋に戻って本を読み続けていた。
実際問題それしか現状やることがなかったのも事実だったからだ。
そんな中の阿弥様の提案だった。
「私を里に?」
「ええ。むしろ、貴女でないとダメなのよ。貴女ならまだ里の人間との繋がりが有る、私との繋がりが有る。
だから、貴女が先だって里の人達に示して欲しいの」
人の輪に混じって、妖怪の安全性を訴えるという、あまりに危険な行為だ。
それは、戦時に敵陣の中心で和平を叫ぶ事に近い。
「しかし、この姿では……」
それに、今の私はハクタクを取り込んだことにより、外見がかなり変わってしまっている。
私を知る者なら、一目で怪しまれるだろう。私が人間をやめた、あの夜の時の様に。
「だからこそ、私が居るのよ。私も一緒に貴女が里に居られるように協力する」
「それでは、阿弥様の……!」
「私なら大丈夫、慧音が頑張って里の人達に認めてもらえれば、私は何も悪くないもの」
稗田と妖怪の繋がりを、自ら公表しようとする阿弥様。
あまりに軽く話す阿弥様が、少し悪い人の様に思えた。
「そ、そうですか……」
「でね、里に戻るからには貴女も人と同じ様に生活してもらう必要が有るわ。
それで、自分の生活を営んでもらうのだけど、何かやりたい事とか無いかしら?」
やりたい事、と聞かれて、ずっと目指し続けていた事をすぐに思い浮かべた。
私には夢が有る。今がその夢を叶えるチャンスだ。
「私は……商人になりたいです。 それも人妖分け隔てなく商売する様な、特別なお店で」
胸を張って、阿弥様に自分の夢を伝える。
それは夢の第一歩。反対されるも止む無しの願い。
だが、
「君ほど商売人向きじゃないのも珍しいと思うけどね」
途端、横槍を入れられた。
最近は無かったのに、こいつは隙が有るとすぐにこうして口を挟んでくる。
「なっ……お前はまた!」
「こら、喧嘩しないの」
「僕より君の方がよっぽど教師に向いているんじゃないか。ハクタクの知識を受け継いだんだろう?」
少し沈んだ、その言葉で思い出す。こいつの夢は、寺子屋の教師だと言っていた。
しかしそれは間違いなく正論だ。
ハクタクの知識とは間違いなく万論の歴史であり里の歴史に相違ない。
道具の知識も里の知識の一つとして存在はしているし算術なんてものは私が元より得意としている。
ただ少々自分の見てくれが今だ子供に近いのが難点か。
ハクタクの話では急激ではないにしろ成長期程となれば一気に成長し、その後老化は止まるとのことだったが。
しかし、私はその提案に彼の重みを感じた。
懐かしさすら覚える諦めの重み。
私はそれに抗うようにこいつを見つめた後、ふと呟く。
「……そうか、ならこうすれば良いんだ」
「どうするんだい?」
気怠さすら感じるこいつの顔に釘でも刺すように私は阿弥様に提案した。
「私がこいつの代わりに寺子屋を開きます。人間と、妖怪の為の寺子屋を」
そこまで言うのなら、私がやってやろうじゃないか、と。
「阿弥様。その間、こいつをなんとかどこかで引き取らせるわけには参りませんか?」
「な、何をいきなり言っているんだ君は?」
明らかに動揺するこいつを無視して私は続ける。
「彼の言ったように、寺子屋で学問を教えることで問題ありません、里の外れに少々古いですが丁度良い建物がありますので」
「そうね……いきなり里の真ん中に来るわけにもいきませんし、それがいいのかもしれないわ。でも」
阿弥様は不思議そうに、そして少し悲しそうに私を見つめて。
「あなたの夢はそれでいいの?」
「ええ、大丈夫です。私の夢は消えはしません」
なぁ?と私はこいつを見やる。そして。
「私がお前の夢を叶える。その代わり、お前は私の夢を叶えるんだ」
私の提案に、こいつは少し驚いたような顔をして、それを阿弥様に悟られぬようにすぐさま話を繋げてきた。
「あぁ、そうだね。君が教師になるというのなら僕は君の想いに答えよう」
「そもそもお前の能力は商人向けなんだ、適材適所というだろう?」
「それなら事前に話しておいてもらいたいものだね。今ここで僕が指摘しなければなかった話じゃないか?」
「う、うるさいな!決まりだ決まり!」
そんなくだらない会話を聞いて阿弥様は微笑んで私たちに問う。
「そんな簡単に自分の夢を託していいの?」
「えぇ。阿弥様。私は彼を信用していますから。そして自分も、阿弥様も」
私の言葉に阿弥様がハッとして、小さく頷いてくれた。
「さて、慧音には里に戻ってきてもらうけれど、君はまたしばらく妹紅さんの元に居てね」
「はい、分かってます」
「正直な話、商店のアテならもうあるのよ。慧音ちゃんはてっきり商人を目指すものだと思っていたから」
「そうなんですか?」
「すぐには難しいだろうけど、元々昔から妖怪の大地主さんと取引してる商店があってね」
また1つわかった里の裏情報に私は少し嫌な顔をしながらこいつを見る。
とはいえ、こいつはまたあの小屋に戻って日々を過ごしていくのだろう。
私がある程度里に馴染むまで、いつまでそうしているのかは、私に掛かっている。
「まぁ気長に待つさ。君のその性格じゃ、時間がかかりそうだ」
「人のことを言えた義理かお前は。お前のことだ、うまくお偉いさんに取り入るだろうけどな」
「馴染むにはそれが一番だろうからね。それが正解だろ?」
「あらあら。それなら君は私にもごまを磨ってくれるのかしら?」
「それはそれはもちろん」
阿弥様とこいつがフフフと笑う。
「……いつか必ず、私が迎えに行くからな」
「ああ、待っているよ」
「時々、遊びに行く」
「楽しみにしているよ」
そう微笑むこいつの顔は先ほどの諦めた顔ではなかった。
初めて見たかもしれない、希望を持った笑顔。
誤魔化すような乾いた表情などではなかった。
「ふふふ……私の分もお願いね、慧音」
今は阿弥様と一緒に、最初の一歩を踏み出そう。
どれだけの時間が掛かろうとも、友達との約束を守るために。
阿弥様と別れた後、私とこいつは屋敷の客間に案内されていた。
女中さんの怪訝な顔が目に焼き付いている。
そんなことよりもだ。
「お前! 名前を名乗らないなんてなんて失礼なことを!」
「あの人だってわかってくれたさ。今後この名前は無駄になる」
怒鳴る私に対してこいつは嫌に冷静だった。
無駄?どういうことだ。
「里に馴染もうにもこの名前は妖怪側にも少々知れてしまっているからね。どうせ捨てる名前だったのさ」
「知れているのが問題……だな」
否定しようとしてすぐにそれを取りやめる。
確かに人間側にも、妖怪側にも存在が知れているのは問題だ。
彼が里に入ったことを聞きつけた妖怪が彼を襲いにやってくる可能性がある。
里が妖怪に襲われるきっかけを彼が作ったともなれば、友好などできるはずもない。
「本当なら僕に関することも君に改編をお願いしようと思っていたんだけどね」
「そ、それなら次の満月に……」
「いや、やめておこう。それは逃げだよ。排斥される理由を根本から消したんでは僕の意義がないさ」
「どういうことだ?お前らしくもない」
「妖怪と人間、両方に疎まれた半妖がいた、という歴史はなくちゃいけない。それは消えてはいけないものだ」
真剣な顔に私は返すように見つめる。
「僕たちは半妖が排斥される、そういう現実も変えるつもりでここにいる。そうだろう?」
「本当にお前らしくもないな。お前はそんな積極的なやつでもなかったろう」
「吹っ切れたといえば聞こえはいいが……もうここまで来た以上僕も引けないさ」
こいつの真面目な顔に私は頷いた。
しかし、そうなると気になることが1つある。
「それなら名前はそのままでもよかったろうに。その方が……」
「……言わせる気かい君は」
指摘しようとして気づく。
あの満月の夜。私とこいつとの最後の会話。
最後に名前を呼んだ相手、そう伝えたくて。
それは私の我儘で。
それを、こいつは。
「言わないでくれよ。ロマンチックなんてガラじゃないんだ」
自分の顔が上気しているのがわかる。
こいつもそっぽを向いているから表情こそわからないが、もしかしたら似たようなことを考えているのかもしれない。
「里に行くなら心機一転と名前も変えるさ」
「そ、そうだな!その方が私の友として紹介もしやすかろうし!」
実際そうなのだから仕方がない。
妖怪たちにとって旧知の半妖が里にいる半妖と友人として突如里に行こうものなら話題にもなる。
それをなんとかして躱さなければならない。
問題は山積みだ。
するとこいつは改めるように息を吐いて、
「今度は僕から聞かせてもらおうか? 君が教師になるのはいい。だがその後のアレはどういうことだい?」
「お、怒ってるのか?」
「いいや、正論だと思っているよ。阿弥様が元々君が商人を目指していることは知っていただろうし、そういう点では僕の場所を確保するには最適案だ」
ずいっと顔を私へ向けて、こいつは言葉を続ける。
「だけど相談なしにそうされちゃ困る」
「悪かったよ。あの場所でお前に教師の道を諭されるまでは私も商人になるつもりだったんだから」
「しかし……成り行きとはいえ不思議なことだね」
奇怪で不思議な語感と感覚に今更ながらにむず痒さを感じてくる。
私に教師などできるのだろうか?教鞭を振るう私に人はついてくれるのだろうか?
あいつのような無愛想な男に商人が務まるのだろうか?商才なんてものをこいつ持ち合わせているのか?
今更になってぐるぐると問題点が回り始める。
けれど、私はそれを成し遂げたいと、心から思っている。
「人と妖怪のための教師の道を選んでくれた。そうなんだろ?」
「自分の為じゃない。友達の為に、夢を叶えてあげるんだ」
これは、皆の為に二人で行う夢交換。
形は違っても同じ目的を持つ私達だからこそ出来る、私達だけの約束事。
「……そうか、それなら僕も、友達の為に頑張らないといけないね」
「お前の能力は、私よりずっと商売人向きじゃないか。お前ならきっと出来るよ」
「ありがとう」
だけど、といってあいつは私に向いて
「この夢を互いにというのも変な話さ。この夢は人間と妖怪が共に過ごすっていう『僕たち』の夢だろう?」
きっと、こいつの言う『僕たち』の中には、阿弥様も、ハクタク様もいるんだろう。
私は小さく頷いて。お前の名前を呼んでやる。
「……最後に呼ぶのは」
「今言ったとしても最後だろ?」
そういうと、あいつは憎らしく笑った。
そうして幾年もの時が過ぎて。
私は教師として、里の人達に妖怪と歴史を教えてきた。
それが良かったかどうかは分からないが、今こうして人間と妖怪が手を取り生活しているのは事実だ。
その功績の全てが私達だとは言わない。むしろ私たちの功績など微々たるものなはずだ。
しかし私はこれからも人間の側に立って、妖怪というものを教えていくだろう。
それが、皆との約束だ。
「――それでは、今日はこのくらいにしておきましょうか」
「そうだな。すっかり長くなってしまったな、阿求」
「いえ、私も慧音さんとお話しするのは楽しいですから」
一しきり話すべき事を終えて、お茶を啜る。
すっかり冷めてしまったお茶を飲みほして、散らばった本やら資料を纏めて、帰る支度をする。
「ああ慧音さん、もしもこの後ご予定が無いのでしたら、少し里に出ませんか?」
本を抱えて立ち上がろうとした時、阿求から言われて、私はすぐに首を横に振る。
「すまない、今日はこの後行かなくちゃいけない所が有るんだ」
「そうですか……それではまた今度、よろしくお願いします」
「ああ、よろしく頼む」
少し落ち込んでいる阿求には悪いが、今はそれ以上に、行きたい場所が有る。
阿求に挨拶を告げて屋敷を出た私は、そのまま里の外へと歩いて行った。
人里から離れた魔法の森のすぐ傍に、一軒の店が有る。
人妖分け隔て無くよく分からないものを売り、非売品を多く溜め込んでいるという、変わった古道具屋。
入り口が開いているのを見て、私は埃っぽい店内に躊躇無く入って行く。
「ああ慧音、いらっしゃい」
中で椅子に座り、新聞を読んで居た男が、私に気付いて声をかける。
「霖之助、久方ぶりだな」
この古道具屋『香霖堂』店主である霖之助は、読み途中らしい新聞を机に置いて、私を迎えた。
「君がここに来るなんて随分久しぶりだけど、何か有ったのかい」
「いや、何も変わった事は無いんだ。ただ、阿求から阿弥様について聞かれたものでな」
「そういう事か。それなら、お茶でも淹れて来よう」
「手伝うよ」
勝手知ったる他人の家、とばかりに私は霖之助より先にお勝手に行き、お茶の準備をする。
すると二人分の湯飲みを用意したその途端私の両側より湯飲みが2個置かれた。
「お茶を用意してくれるなんてちょうどいいわ」
「私らも分も、よろしくな」
どこから入ったのか、紅白と白黒が湯飲みを置くなり店内へと侵入していった。
あの傍若無人ぶりは真似できないな、と思いながら緑茶を注ぐ。
私がお盆片手に店の奥から帰ってくると、二人が店を漁る中悠々と新聞を読みふけるこいつがいた。
「妹紅さんは元気かい?」
「ああ、まだ里に来てくれてはいないけれど、よく会いに行ってる」
「それは良かった。それで、今日は昔話でもしに来たのかい」
「まあ、そんな所だな。ところで彼女達は?」
「あら?お客よ?」
「商品を買わずに、あまつさえ盗んでいくような相手を客とは言わないよ霊夢」
「なんだよ、いっつもお前の講釈を聞いてやってるだろ?こっちが金をもらいたいくらいだぜ」
仲睦まじく会話する3人にお茶を配りながら苦い顔をする魔理沙を見て。
「よくこいつの会話を聞いてられるものだ。支離滅裂で分かりづらかろうに」
「おいおいなんてこと言うんだ? 君に言われるほど言葉の整理を間違えた覚えはないけどね?」
「私は教師としての業務を全うしてるんだ。閑古鳥の鳴く商人の商談なんてものよりはよほどに弁論は立つさ」
私は本を一冊取り出して、こいつに突き付けて
「なれば霖之助、久方ぶりに弁論とでもいこうか?」
「いいや、やめておこう。そこのお客様が船を漕いでしまうし……他の客がくるとも限らないさ」
なんだかんだで私が里に下りてより、弁論対決は実現していない。
一応私の勝ち逃げという形で終わってはいるが、累積した負けの数は多い。
というのもこいつが妙な余裕を持ち始めたのもあり、それが商人のなんたるかと諭された時はなんとも言えなかった。
悪く言えばこじ付けが過ぎるにようになったとも言えるのだけども。
「何よ霖之助さん、私たちが邪魔?」
「なんて薄情なやつなんだ!」
「そうとはいっていないだろう? 後魔理沙、今袋に入れた本を元に戻しなさい」
「借りるだけだぜ?」
「ならいつかあの家ごと返却してもらわないとね」
「そうねぇ、その時は手伝うわよ?霖之助さん」
3人で会話が成立しているような感じがして混じりづらい、と感じながら私はお茶を啜る。
ただ、あの根暗だったこいつがこうして話しているのにも感嘆を感じたのは事実だ。
まぁ何度も見た姿だし、霧雨店じゃ相当に揉まれてきたようではあるし。
とはいえ私はこいつの講釈を聞きながら二人が帰るまでのんびりと成長したこいつを見ていた。
二人が帰った後。すでに夕暮れ時を過ぎて夜が迫ってきている。
そんな中、今日二度目のお茶を啜って、店内を見回す。
私にもよく分からない物が所狭しと並んでいるのを見て、改めて思う。
「……やったな」
「あぁ、間違いないさ」
「ちゃんと、約束は果たしたよ」
「ああ、僕もちゃんと約束は守ったつもりだ」
何も言わないが、おそらく霖之助も私と同じ事を思い出しているのだろう。
まだ私達が子供の頃に交換した、大切な夢。
「結局、君はあれから全く変わらないまま成長したみたいだけどね」
「お前はずいぶん変わったな。偏屈になったし妄言も増えたと聞いたぞ?」
「それを言うなら君だって教師としては良くとも生徒にからかわれてるらしいじゃないか?」
こいつの言葉に私はハッとしてお茶と共に微睡んでいた空気を変える。
それは少し懐かしいような。
「なっ、誰からそんなことを聞いてる!」
「新聞を取ってる天狗は里にも精通してるんでね。君の話は偶然聞いた」
「悟られてないだろうな?」
「……何がだい?」
「私とお前が旧知の仲だってことだ!」
「そんなこと既に知れているだろうさ。君が一時期どれだけここに来たと思っているのさ」
「変な言い方をするな。お前が里の外に店を出すなどと妄言を吐いたから連れ戻しに来てたんだ」
私の言葉にこいつは微笑んで。
読んでいた新聞を畳んで私の方を向く。
「まぁ、結局のところ根っこのところは変わらないものだね」
「あぁ。今お前と話して確信したよ。お前は変わり者だ」
「実際、変わり者だからね、君もだけど」
「自分で言う事か。私は……いや、そうだな。お前との会話に付き合っているんだ変わり者に違いない」
お互い言い合って、二人で笑い合う。
今ではすっかり成長して、こうして夢を叶える事も出来た。だけど、私とこいつのやり取りは今も変わらない。
憎まれ口を叩き、思い出話に花を咲かせられる。
「なぁ――――」
「なんだい?―――」
互いに互いの名前を呼ぶ。
周りには誰もいない。
だからこそ、今ならば。
互いに最後に呼び合う名前でいられる。
「やはり奇怪だねこんなことは」
「あの時で最後と言ったのにな」
だけどどうしてだろう。
この時だけは童心と共にあの小屋に戻れた気がして。
あの時には互いに見せることのなかった笑顔で、私たちは童心のまま笑いあえる。
「変わらないな、お前は」
「変わらないね、君も」
そんな関係が、堪らなく大好きだ。
しかしあとから考えれば友人は無条件で対等と言える存在なハズだし別に友情はそこまで愛情というわけでもないし穿った見方をすれば大人に上手いこと利用されたという側面もありますが、だからこそうまくいったわけで本人達がそう思えばそれが本人達の真実なんだと思います
真実も運命もどうせ誰にもわからなくてどうせ誰もがわかった気になるものですしね
しかし知識があるが故に冷めたところがある二人でしたが覚めていたワケじゃなかったからこそ好きですね
冷めると覚めるは違うということですかね
最初は名前云々の際にセリフがなかったので違和感があったのですがわざとだったのですね
夢の交換、妹紅や阿弥との絡み、慧音が変化して両親に拒まれたシーンなど、細かい部分まで書き込まれていてとても面白かったです!!