夜の森には何かと危険が多い。暗闇による視界の悪さはもちろん、最悪の場合深く立ち入ってから帰り道が分からなくなる事もある。さらに危険はそれだけではない。野生の動物に襲われないとも限らないし、もっと厄介なものが森の中には住んでいる。夜に活動を行うそれは、人間を好み、自らの糧とする。だから余程の理由でもない限り、人々は皆夜の森には入らなかった。それでも彼らはあの手この手で人を誘き寄せ、喰らおうとした。人々はそんな彼らに畏怖と戒めの念を込めて、妖怪と呼んでいた。
妖怪は実に多彩な手段で人々を暗い森の中へと誘いこむ。ある者は道を隠し、奥へと進む事しかできない新しい道を作った。またある者は美しい娘の姿に化け、涙を流しながら森の中へと誘って行った。そして、ここにもまた、人を誘き寄せんとするような、人にとって魅力的なものを放つ一匹の妖怪がいた。
せっせと並べられた小さな机を拭いているのは、割烹着を着込んだ小さな娘だった。暗い森の中でもはっきりと見える暖かな光に包まれたそこは、ふわりと漂う誰もが食欲を刺激されるような、甘く、香ばしい香りに包まれた小さな屋台だった。森の周囲にまで漂う香りは、人も妖怪も等しく引きつけられることは間違い無いのだが、いくつかある問題点によって客足はそこまで多くはなかった。
まず一つは立地条件。人が警戒して近づかないような森の中では、そもそも客足がない。つまりどんなに人が寄って来そうな香りを漂わせても、そもそも寄ってくる人がいないので意味がなかった。
そして二つ目。それは屋台の店主その人だった。屋台の店主には普通の人間にはありえない部位が体についていたからだ。それは背中を覆うように折りたたまれた翼。それもそのはず、店主は鳥の妖怪であり、その中でも夜が主な活動時間でもある夜雀の妖怪だった。彼女もまた、自分のために人を呼び寄せる目的でこの屋台を開いた。しかし、まだまだ商売人としても、料理人としても未熟な彼女には多くの課題があった。料理の手際もままならないし、さらに言えば接客もぎこちない。まだまだ新米の彼女は屋台を経営していくのに知識も経験も足りなかったのだ。
そんな事もあってか、彼女は毎日屋台の経営に頭を悩ませ、毎日が勉強の日々だった。効率の良い作業の仕方、味の染みこむ調理法、笑顔の作り方、勘定の計算。覚えることが重なり、そのどれもが複雑に絡み合い、店主にはまるで巨大な鳥籠に閉じ込められているように思えていた。
そんな迷える店主は今日も開店準備に追われていた。蘇芳色の着物にたすき掛けを身につけ、手ぬぐい頭巾を被る姿は小さな女将そのものだ。まだまだ真新しい頭巾には『ミスティア・ローレライ』と黄色の糸で名前が縫い付けてある。自分で縫い付けたものなのか、字の大きさはバラバラだった。黄色い文字を煙で濁らせながら、ミスティアは開店前の仕込みに勤しんでいる最中だった。
「ふう、今日も頑張らないと。でも……ああ、染みるぅ……」
八目鰻の蒲焼きを作りながら目に涙を浮かべている。炭火からでる煙と熱気が、慣れない女将を容赦なく覆っていた。それでもその外側は食欲をそそる香ばしい香りを漂わせており、まだ準備の時間にもかかわらず見知った姿が現れた。
「こんばんは、ミスティア」
「こんばんはー!」
「へー、ここが地上の屋台かー。思ったより静かね?」
「リグル、響子、まだ開店前よ? それと、そっちの知らない方は……」
現れたのは知り合いの妖怪、リグル・ナイトバグと幽谷響子。そして、初めて見る金髪に茶色の丸く膨らんだデザインをしたスカートの少女。漂う気配から妖怪であることはすぐに分かったが、見た目からはどんな妖怪なのかは想像もつかなかった。
「えっと、妖怪でいい、のよね?」
「そうだよー。私は黒谷ヤマメ。地底に住んでるんだけど、そこの虫友に誘われて遊びに来たんだ」
「彼女は土蜘蛛なんだ。それに、ミスティアとも気が合うと思って連れてきたんだ」
「私と?」
ミスティアが不思議に思うと、土蜘蛛の妖怪ヤマメはにこりと笑顔を見せる。
「貴女、あの『鳥獣伎楽』なんでしょう? いつか話がしてみたかったのよ。そしたらもう一人のメンバーもリグルと一緒にいたからびっくり!」
「この人、私達が歌を歌ってるのを知って、それから地底でライブをしてるんですって!」
いつも大きな声の響子が一段と声を大きくして話をしている。元々山彦の妖怪である彼女は、基本的に普段話すときも声が大きい。しかしそれが更に声が大きくなっているということは彼女が興奮しているということだ。そしてそれが嬉しさから来るものだと言うことにミスティアはすぐに気がついていた。なぜならその『鳥獣伎楽』とは、ミスティアと響子が二人で音楽活動をしている時のコンビ名であり、それに影響された、つまり自分達の活動に共感してくれた人がいた事実に、ミスティア自身も喜びを感じていたからだ。
「そうだったの!? それは照れるというか、やっぱり嬉しいわね。今日はサービスしちゃおうかしら?」
「それじゃあ何のために屋台を開いてるのさ……」
「もちろん、『鳥獣伎楽』の活動を続けるためよ。ファンは大事にしないとね?」
「んー確かに今でもファンでもあるんだけど、むしろ今はライバルって言った方がいいかも?」
ヤマメの言葉にミスティアは首を傾げる。唐突に出てきたライバルという言葉の意味が理解できなかったからだ。
「ライバルってどういうこと?」
「ふふ、実はね、私貴女達に憧れて地底で歌を歌ってるんだ。いろんな人に自分の歌を聞いてもらおうと思ってさ」
「貴女もそうなの!?」
思わずミスティアも声を大きくする。まさか自分と同じく歌を披露している側の妖怪と出会うとは夢にも思っていなかったからだ。いつかは遭遇するとはどこかで思っていても、やはり本当に見つかった時は嬉しさを感じると共に驚いてしまう。
「ヤマメは地底のアイドルって言われてるから、かなり協力なライバルなんじゃない?」
「やだなぁ、そんなんでも無いって。ただ好きでやってるだけだよ」
「いいなぁ、私もミスティアと一緒に凄い異名が欲しいなぁ」
「異名でいいの……? あ、蒲焼き、用意するね。そろそろ開店時間だし」
ミスティアは焼けた八目鰻をタレにつけて再度焼き始める。香ばしい匂いと共に煙が容赦なくミスティアの顔を燻してくる。熱い空気が呼吸に合わせて自分の肺へと流れ込み、思わず咳き込む。少しだけ胸にチクリと刺さるようなものを感じながら、表面を鮮やかな赤茶色のタレに覆われた八目鰻の蒲焼きを三人の前に運んでいく。
「お待ち遠様、八目鰻の蒲焼きです」
「わあ、美味しそう! 地底だと魚が既に珍しいのよねー」
「ミスティア、また腕上げた?」
「いい匂い! 食べていい?」
「どうぞ、温かい内に食べてね」
全員の『頂きます』の声を聞きながら、ミスティアは空いたスペースへ座った。料理を見て喜んでくれるのは嬉しい事だ。しかし、何故かそのときは素直に喜ぶことができなかった。
「お、美味しいよこれ! こんなにフワフワしてるお肉は初めて!」
「上手な人が焼くと、魚って凄い美味しいよね」
「うーん、美味しい!」
「貴女、お寺で修行してるのにいいの?」
「美味しいものはちゃんと楽しまないと、作ってくれた人に失礼!」
「嬉しい事言ってくれるわ。なら、もっと上手くならないとね」
本心から出た言葉だった。けれど、何故か話す言葉の全てがミスティアの胸を小さく、何度も刺してくる。そんなミスティアの胸の内を知る由も無く、響子はヤマメへ思ったことを素直に伝えていく。
「それにしても、地底のアイドルなんて言われてるのは、そんなに人気が出てるってこと?」
「最近だよ。でも、こんなにいろんな人に見てもらえるのはやっぱり楽しいし、嬉しいね」
「へぇー……。いいなぁ、私もミスティアと一緒にそんな風に言われたいなー」
「……ま、そうなる為の屋台なんだけどね」
急に振られた話に、一瞬言葉に詰まりながらミスティアは会話に加わる。
「衣装代やら場所代やら、そういうのがかかるから屋台始めたのよ? こっちもそれなりに頑張っていかないと」
それはミスティアが自分に向かって言い聞かせる為の言葉でもあった。
確かにそれは紛れも無い事実で、この屋台はミスティアが自分で歌の活動をするために始めたことだ。
そんなミスティアに対し、響子は素直に返す。
「でもさ、こっちが忙しいのは分かるけど、最近歌ってないよね?」
相方である響子から見れば、活動が少なくなっていた事実がはっきりと見えているわけで、ミスティア自身もそれは分かっていたことだった。
しかし屋台の経営に関して何の経験も無いミスティアには、まず経営の為の勉強から始める必要があった。そして次に料理、接客と必要な知識は多岐に渡る。必要な物が多ければ、当然それを習得するのに必要な時間も増える。そして気がつけば、本来の目的である歌うことから自分から遠ざかっていた。本末転倒とはよく言ったものである。
「まあ、こっちで覚えないといけない事も多いし……。だからって歌うことを辞めたわけでは無いからね? 本当に小さな事かも知れないけれど、料理作りながら歌ったりしてるし。まあ、無駄な抵抗かも知れないけど……」
「でも私はミスティアと一緒にまたライブがしたいな……」
「まあまあ。でも、ミスティアのやってること、無駄では無いんじゃないかな?」
助け舟を出したのはリグルだった。この場にいる中で唯一の観客側の存在。そして、この場で唯一別の角度からの視点を持っていた。
「確かに、今は忙しいかもしれないけど、続けたいから抵抗するんでしょう? だったら、その思いは大事にしておいた方がいいと思うな」
「言われなくてもそのつもりよ。でも、そうするとどんどん、歌が好きなのか、今までの惰性でやってるだけなのか分からなくなってくる時もあって……」
「それでもいいと思う。誰だって、好きな物がずっと好きって訳じゃなくて、いろんな事をしながら、最終的に自然に戻ってくるものが本当に好きな物なんだと思うし」
「あー、それ何となく分かるかも。食べ物とか、好物ばっかり食べてると飽きたりするし、そもそもずっと食べてる訳じゃないけど、やっぱり好きな物ってなかなか変わらないものね」
「自然に戻ってくるか……」
リグルやヤマメの言葉を噛みしめるように、じっくりとミスティアは自分の中で繰り返す。
いつか自然に戻ってくる、どんなに離れていても忘れずに自分の中に確かにあるもの。それは確かに自分の中で大切にしていなければ生まれない物。それが自分の中にもあるのだと思えば、ほんの少しだけ安心することが出来た。
けれどミスティアの中にある詰まったものは全て取れた訳では無かった。それはまだ向き合わなければならないものが、自分の中で納得していない部分があることを訴えていた。
「確かに、そういうものなのかも知れない。歌を歌った時にもらった感想は、未だに覚えてるから。だけど……」
「だけど?」
ヤマメがミスティアを覗き込みながら続きを問いかける。その真っ直ぐな視線の中にある、自分の中で詰まっていたものを見ながらミスティアは答える。
「やっぱり、自然に戻ってくる物を待ってるのはダメだと思うの。本当に、雀くらいの小さな一歩でもいいから、続けようと思うの。歌も、屋台も、全部出来るようになる。そう思って動きたい」
どうしても動けないでいた。やりたい事が自然と億劫に感じるようになっていた。それでもどこかで諦めきれない自分がいる。好きなことを嫌々やっているように感じていたのが、どうしても気になっていた。
しかし、周りの友人の話を聞き、自分で言葉にすることで、自分が目指しているものを再確認することが出来た。それだけでほんの少し、また続けていけると思い直す事ができた。その瞬間からミスティアの中で詰まっていたものは体の奥へ流れ始めていた。
「うん、それがいいと思うな。今度歌ってるときは前の席で合いの手でも入れてみようかな?」
「私も協力するよ! 大事なパートナーだもん!」
「私も一緒にライブがしたいな。今度は地底に招待しなきゃ」
「そうね、私も今度お休みに向けて頑張らないといけないな」
たすきを結び直し、屋台に立てかけてある看板を『営業中』に向けてもう一度立てかける。
「さあ、もう本格的にお店を開けるから、食べちゃうか席を移ってね?」
「おっと、もうそんな時間か。私はそろそろ帰ろうかな」
「私も地底にかーえろっと。今日はありがとね」
「私も明日も早いんだった! じゃあまたね!」
「みんな今日はありがとう。また今度ね。あ、いらっしゃいませ。お好きな席にどうぞ?」
友人達とすれ違うようにして訪れる客人に挨拶をする。
「おー今日は妖気が強いと思ったら、先に妖怪が飲んでたのね」
「だな、ここにいる時は大人しいって聞いてるけど」
「そりゃあお酒の席で物騒なことなんて嫌でしょう?」
「私も飲んでる時に妖怪退治なんてゴメンだわ」
「色々巫女としてどうかと思う発言だな」
「いつも泥棒騒ぎを起こしているあんたには言われたくないわね」
「もう、喧嘩はやめてくださいね? さ、注文は何にします?」
心なしか、いつもより自然に接客ができていると思うミスティアだった。
それから数日後、森の中で歌が聞こえると、そこには決まってぼんやりとした明かりと共に、屋台が見つかるのだという噂が人里に知れ渡ったと言う。
妖怪は実に多彩な手段で人々を暗い森の中へと誘いこむ。ある者は道を隠し、奥へと進む事しかできない新しい道を作った。またある者は美しい娘の姿に化け、涙を流しながら森の中へと誘って行った。そして、ここにもまた、人を誘き寄せんとするような、人にとって魅力的なものを放つ一匹の妖怪がいた。
せっせと並べられた小さな机を拭いているのは、割烹着を着込んだ小さな娘だった。暗い森の中でもはっきりと見える暖かな光に包まれたそこは、ふわりと漂う誰もが食欲を刺激されるような、甘く、香ばしい香りに包まれた小さな屋台だった。森の周囲にまで漂う香りは、人も妖怪も等しく引きつけられることは間違い無いのだが、いくつかある問題点によって客足はそこまで多くはなかった。
まず一つは立地条件。人が警戒して近づかないような森の中では、そもそも客足がない。つまりどんなに人が寄って来そうな香りを漂わせても、そもそも寄ってくる人がいないので意味がなかった。
そして二つ目。それは屋台の店主その人だった。屋台の店主には普通の人間にはありえない部位が体についていたからだ。それは背中を覆うように折りたたまれた翼。それもそのはず、店主は鳥の妖怪であり、その中でも夜が主な活動時間でもある夜雀の妖怪だった。彼女もまた、自分のために人を呼び寄せる目的でこの屋台を開いた。しかし、まだまだ商売人としても、料理人としても未熟な彼女には多くの課題があった。料理の手際もままならないし、さらに言えば接客もぎこちない。まだまだ新米の彼女は屋台を経営していくのに知識も経験も足りなかったのだ。
そんな事もあってか、彼女は毎日屋台の経営に頭を悩ませ、毎日が勉強の日々だった。効率の良い作業の仕方、味の染みこむ調理法、笑顔の作り方、勘定の計算。覚えることが重なり、そのどれもが複雑に絡み合い、店主にはまるで巨大な鳥籠に閉じ込められているように思えていた。
そんな迷える店主は今日も開店準備に追われていた。蘇芳色の着物にたすき掛けを身につけ、手ぬぐい頭巾を被る姿は小さな女将そのものだ。まだまだ真新しい頭巾には『ミスティア・ローレライ』と黄色の糸で名前が縫い付けてある。自分で縫い付けたものなのか、字の大きさはバラバラだった。黄色い文字を煙で濁らせながら、ミスティアは開店前の仕込みに勤しんでいる最中だった。
「ふう、今日も頑張らないと。でも……ああ、染みるぅ……」
八目鰻の蒲焼きを作りながら目に涙を浮かべている。炭火からでる煙と熱気が、慣れない女将を容赦なく覆っていた。それでもその外側は食欲をそそる香ばしい香りを漂わせており、まだ準備の時間にもかかわらず見知った姿が現れた。
「こんばんは、ミスティア」
「こんばんはー!」
「へー、ここが地上の屋台かー。思ったより静かね?」
「リグル、響子、まだ開店前よ? それと、そっちの知らない方は……」
現れたのは知り合いの妖怪、リグル・ナイトバグと幽谷響子。そして、初めて見る金髪に茶色の丸く膨らんだデザインをしたスカートの少女。漂う気配から妖怪であることはすぐに分かったが、見た目からはどんな妖怪なのかは想像もつかなかった。
「えっと、妖怪でいい、のよね?」
「そうだよー。私は黒谷ヤマメ。地底に住んでるんだけど、そこの虫友に誘われて遊びに来たんだ」
「彼女は土蜘蛛なんだ。それに、ミスティアとも気が合うと思って連れてきたんだ」
「私と?」
ミスティアが不思議に思うと、土蜘蛛の妖怪ヤマメはにこりと笑顔を見せる。
「貴女、あの『鳥獣伎楽』なんでしょう? いつか話がしてみたかったのよ。そしたらもう一人のメンバーもリグルと一緒にいたからびっくり!」
「この人、私達が歌を歌ってるのを知って、それから地底でライブをしてるんですって!」
いつも大きな声の響子が一段と声を大きくして話をしている。元々山彦の妖怪である彼女は、基本的に普段話すときも声が大きい。しかしそれが更に声が大きくなっているということは彼女が興奮しているということだ。そしてそれが嬉しさから来るものだと言うことにミスティアはすぐに気がついていた。なぜならその『鳥獣伎楽』とは、ミスティアと響子が二人で音楽活動をしている時のコンビ名であり、それに影響された、つまり自分達の活動に共感してくれた人がいた事実に、ミスティア自身も喜びを感じていたからだ。
「そうだったの!? それは照れるというか、やっぱり嬉しいわね。今日はサービスしちゃおうかしら?」
「それじゃあ何のために屋台を開いてるのさ……」
「もちろん、『鳥獣伎楽』の活動を続けるためよ。ファンは大事にしないとね?」
「んー確かに今でもファンでもあるんだけど、むしろ今はライバルって言った方がいいかも?」
ヤマメの言葉にミスティアは首を傾げる。唐突に出てきたライバルという言葉の意味が理解できなかったからだ。
「ライバルってどういうこと?」
「ふふ、実はね、私貴女達に憧れて地底で歌を歌ってるんだ。いろんな人に自分の歌を聞いてもらおうと思ってさ」
「貴女もそうなの!?」
思わずミスティアも声を大きくする。まさか自分と同じく歌を披露している側の妖怪と出会うとは夢にも思っていなかったからだ。いつかは遭遇するとはどこかで思っていても、やはり本当に見つかった時は嬉しさを感じると共に驚いてしまう。
「ヤマメは地底のアイドルって言われてるから、かなり協力なライバルなんじゃない?」
「やだなぁ、そんなんでも無いって。ただ好きでやってるだけだよ」
「いいなぁ、私もミスティアと一緒に凄い異名が欲しいなぁ」
「異名でいいの……? あ、蒲焼き、用意するね。そろそろ開店時間だし」
ミスティアは焼けた八目鰻をタレにつけて再度焼き始める。香ばしい匂いと共に煙が容赦なくミスティアの顔を燻してくる。熱い空気が呼吸に合わせて自分の肺へと流れ込み、思わず咳き込む。少しだけ胸にチクリと刺さるようなものを感じながら、表面を鮮やかな赤茶色のタレに覆われた八目鰻の蒲焼きを三人の前に運んでいく。
「お待ち遠様、八目鰻の蒲焼きです」
「わあ、美味しそう! 地底だと魚が既に珍しいのよねー」
「ミスティア、また腕上げた?」
「いい匂い! 食べていい?」
「どうぞ、温かい内に食べてね」
全員の『頂きます』の声を聞きながら、ミスティアは空いたスペースへ座った。料理を見て喜んでくれるのは嬉しい事だ。しかし、何故かそのときは素直に喜ぶことができなかった。
「お、美味しいよこれ! こんなにフワフワしてるお肉は初めて!」
「上手な人が焼くと、魚って凄い美味しいよね」
「うーん、美味しい!」
「貴女、お寺で修行してるのにいいの?」
「美味しいものはちゃんと楽しまないと、作ってくれた人に失礼!」
「嬉しい事言ってくれるわ。なら、もっと上手くならないとね」
本心から出た言葉だった。けれど、何故か話す言葉の全てがミスティアの胸を小さく、何度も刺してくる。そんなミスティアの胸の内を知る由も無く、響子はヤマメへ思ったことを素直に伝えていく。
「それにしても、地底のアイドルなんて言われてるのは、そんなに人気が出てるってこと?」
「最近だよ。でも、こんなにいろんな人に見てもらえるのはやっぱり楽しいし、嬉しいね」
「へぇー……。いいなぁ、私もミスティアと一緒にそんな風に言われたいなー」
「……ま、そうなる為の屋台なんだけどね」
急に振られた話に、一瞬言葉に詰まりながらミスティアは会話に加わる。
「衣装代やら場所代やら、そういうのがかかるから屋台始めたのよ? こっちもそれなりに頑張っていかないと」
それはミスティアが自分に向かって言い聞かせる為の言葉でもあった。
確かにそれは紛れも無い事実で、この屋台はミスティアが自分で歌の活動をするために始めたことだ。
そんなミスティアに対し、響子は素直に返す。
「でもさ、こっちが忙しいのは分かるけど、最近歌ってないよね?」
相方である響子から見れば、活動が少なくなっていた事実がはっきりと見えているわけで、ミスティア自身もそれは分かっていたことだった。
しかし屋台の経営に関して何の経験も無いミスティアには、まず経営の為の勉強から始める必要があった。そして次に料理、接客と必要な知識は多岐に渡る。必要な物が多ければ、当然それを習得するのに必要な時間も増える。そして気がつけば、本来の目的である歌うことから自分から遠ざかっていた。本末転倒とはよく言ったものである。
「まあ、こっちで覚えないといけない事も多いし……。だからって歌うことを辞めたわけでは無いからね? 本当に小さな事かも知れないけれど、料理作りながら歌ったりしてるし。まあ、無駄な抵抗かも知れないけど……」
「でも私はミスティアと一緒にまたライブがしたいな……」
「まあまあ。でも、ミスティアのやってること、無駄では無いんじゃないかな?」
助け舟を出したのはリグルだった。この場にいる中で唯一の観客側の存在。そして、この場で唯一別の角度からの視点を持っていた。
「確かに、今は忙しいかもしれないけど、続けたいから抵抗するんでしょう? だったら、その思いは大事にしておいた方がいいと思うな」
「言われなくてもそのつもりよ。でも、そうするとどんどん、歌が好きなのか、今までの惰性でやってるだけなのか分からなくなってくる時もあって……」
「それでもいいと思う。誰だって、好きな物がずっと好きって訳じゃなくて、いろんな事をしながら、最終的に自然に戻ってくるものが本当に好きな物なんだと思うし」
「あー、それ何となく分かるかも。食べ物とか、好物ばっかり食べてると飽きたりするし、そもそもずっと食べてる訳じゃないけど、やっぱり好きな物ってなかなか変わらないものね」
「自然に戻ってくるか……」
リグルやヤマメの言葉を噛みしめるように、じっくりとミスティアは自分の中で繰り返す。
いつか自然に戻ってくる、どんなに離れていても忘れずに自分の中に確かにあるもの。それは確かに自分の中で大切にしていなければ生まれない物。それが自分の中にもあるのだと思えば、ほんの少しだけ安心することが出来た。
けれどミスティアの中にある詰まったものは全て取れた訳では無かった。それはまだ向き合わなければならないものが、自分の中で納得していない部分があることを訴えていた。
「確かに、そういうものなのかも知れない。歌を歌った時にもらった感想は、未だに覚えてるから。だけど……」
「だけど?」
ヤマメがミスティアを覗き込みながら続きを問いかける。その真っ直ぐな視線の中にある、自分の中で詰まっていたものを見ながらミスティアは答える。
「やっぱり、自然に戻ってくる物を待ってるのはダメだと思うの。本当に、雀くらいの小さな一歩でもいいから、続けようと思うの。歌も、屋台も、全部出来るようになる。そう思って動きたい」
どうしても動けないでいた。やりたい事が自然と億劫に感じるようになっていた。それでもどこかで諦めきれない自分がいる。好きなことを嫌々やっているように感じていたのが、どうしても気になっていた。
しかし、周りの友人の話を聞き、自分で言葉にすることで、自分が目指しているものを再確認することが出来た。それだけでほんの少し、また続けていけると思い直す事ができた。その瞬間からミスティアの中で詰まっていたものは体の奥へ流れ始めていた。
「うん、それがいいと思うな。今度歌ってるときは前の席で合いの手でも入れてみようかな?」
「私も協力するよ! 大事なパートナーだもん!」
「私も一緒にライブがしたいな。今度は地底に招待しなきゃ」
「そうね、私も今度お休みに向けて頑張らないといけないな」
たすきを結び直し、屋台に立てかけてある看板を『営業中』に向けてもう一度立てかける。
「さあ、もう本格的にお店を開けるから、食べちゃうか席を移ってね?」
「おっと、もうそんな時間か。私はそろそろ帰ろうかな」
「私も地底にかーえろっと。今日はありがとね」
「私も明日も早いんだった! じゃあまたね!」
「みんな今日はありがとう。また今度ね。あ、いらっしゃいませ。お好きな席にどうぞ?」
友人達とすれ違うようにして訪れる客人に挨拶をする。
「おー今日は妖気が強いと思ったら、先に妖怪が飲んでたのね」
「だな、ここにいる時は大人しいって聞いてるけど」
「そりゃあお酒の席で物騒なことなんて嫌でしょう?」
「私も飲んでる時に妖怪退治なんてゴメンだわ」
「色々巫女としてどうかと思う発言だな」
「いつも泥棒騒ぎを起こしているあんたには言われたくないわね」
「もう、喧嘩はやめてくださいね? さ、注文は何にします?」
心なしか、いつもより自然に接客ができていると思うミスティアだった。
それから数日後、森の中で歌が聞こえると、そこには決まってぼんやりとした明かりと共に、屋台が見つかるのだという噂が人里に知れ渡ったと言う。
今後も楽しいと思える作品を作っていきますので、よろしくお願いしますー