「紅魔館は、今日も、人がたくさん来ているようね」
「あら、ごきげんよう。影狼ちゃん」
「ごきげんよう。わかさぎ姫。本日も、ご機嫌麗しゅう」
「あら、いやだ。そういう挨拶はやめてちょうだいな」
慇懃無礼な態度で頭を下げるのは、今泉影狼という妖である。
その彼女を笑顔であしらうのはわかさぎ姫。こちらも、この湖に住まう妖である。
「楽しそうだわ」
「そうね。とても楽しそう。
私は、ほら、まだあの中には入ったことがないのだけど。
チルノちゃんとかが、いつも楽しそうに、お友達と遊んだことをお話してくれるのよ」
「チルノ……。
ああ、この辺りに住んでいる妖精のこと」
「そう。あの子、私に懐いてくれているの」
嬉しいわ、と笑うわかさぎ姫の笑顔は、とてもやわらかくて温かい。
こんな笑顔で笑いかけてくれる相手には、なるほど、妖精などという、『いくつになってもまだまだ子供』なもの達は笑顔で懐いてくることだろう。
「それはよかったわね」
「ええ。とても。
影狼ちゃんも、あの中に行ってきたらどうかしら?」
「私は……その……いいわ」
「あら、どうして?」
「え? その……」
二人の視線の先には、目に痛いくらい鮮やかな紅が目立つ建物がある。
幻想郷でも屈指の名所、『紅のテーマパーク』こと紅魔館である。
その外壁に沿う形で大勢の人々が並んでおり、列の一番後ろには、『本日の待ち時間、ただいま4時間』と書かれた看板を持って、暇そうに、妖精が佇んでいる。
列の先頭に目をやると、自分の順番が来たことに小躍りしながら、館の中に入っていくもの達。
それと入れ替わりに外に出てくるものたちは、皆、笑顔を浮かべて『満足しました!』という雰囲気を漂わせていた。
「あまり、にぎやかなのが好きじゃないというか……」
「あら、そうなの?
だけど、ほら、一人でいるよりも、みんなで楽しくしていた方が楽しいでしょう?」
「それはそうだけど……」
「それなら、えっとね……。
あ、ほら、これよ、これ。この前、あそこのメイドさんから頂いたの。
『一度、ぜひ、うちに来てください』って。割引チケット。影狼ちゃんにあげるわ」
「え? だけど、それはあなたがもらったもので、私は……」
「いいのよ。
私は、また、頼めばもらえるから」
この彼女、どうやら、紅魔館の中の者たちとある程度親しいようだ。
笑顔で差し出される、何やらけばけばしい色使いのチケット。
それを前にうろたえる影狼の背後から、人影が近づいてくる。
「姫の心遣いを素直に受けるのが、君のようなものの役割じゃないのか? 今泉影狼殿」
「わっ」
「あら、赤蛮奇ちゃん」
「ごきげんよう。お姫様」
何やら気取った仕草で一礼し、ころりと落ちた首でにっと笑う、彼女の名前は赤蛮奇。
この中で一番年下の少女の見た目をしているが、やっぱりというか何というか、妖である。
「あら、面白い」
「一発芸として考えてみたのだが、よくよく考えると、わたしにはこれを見せる相手がいなかったからな」
そこで、この場で披露してみせたのだ、と赤蛮奇は言った。
転がり落ちた頭はひゅんと空を舞い、彼女の首へと戻っていく。
そして、
「何を戸惑っている?」
と、影狼に尋ねた。
「べ、別に戸惑っているわけじゃ……。
その、ほら、これは姫がもらったものでしょう? 私が、何の対価もなしに受け取るのは……」
「あら、そんなことを気にしていたの?
いいのよ、影狼ちゃん。
私は、影狼ちゃんの笑顔が見られれば、それだけで充分だわ」
「……ああ~……」
追い詰められる。
悪気のない、しかし、何とかしてチケットの受け取りを拒否しようとした影狼にはクリティカルな笑顔を向けてくるわかさぎ姫に、影狼は頭を抱えてしまう。
その二人を見て、赤蛮奇が、さっとわかさぎ姫の手からチケットを受け取った。
「何だか事情がよくわからない。
説明をして欲しいのだが」
「そうね。赤蛮奇ちゃん」
――そういうわけで、現在の事態についての説明が、わかさぎ姫からなされる。
ふんふん、とうなずいて聞いていた赤蛮奇は、視線を影狼へと移した。
影狼の、頭のてっぺんから足のつま先まで、なめるように眺めていた彼女は、にやりと笑う。
「なるほど。
つまり、影狼くん。君は、あの場に入ることは、妖である己には難しいと考えているのだ?」
「そ、そう! そうなの!
あ、ほら、あそこの人たち、よく見ると、みんな人間でしょう? 私みたいな妖怪がそこに混じったりしたら……」
「そんなことないわよ? 影狼ちゃん。
妖怪の人たちも一杯……あ、ほら。あれを見て。あの人たち、妖怪よ」
閃光を思わせる速さで振り向く影狼。
そこには、何やら連れ立った妖怪の一団の姿がある。先頭の、紫の入った鮮やかな髪の毛の女が、門番の女性と、何やらころころと笑いながら話している光景が、そこにあった。
「大丈夫よ。そんなこと。気にしなくても」
「いや、だけど……」
「影狼くん。君があの場に足を踏み入れたくない理由――悪いが、わたしは見極めさせてもらった」
「へっ?」
「にぎやかな場に出るのが苦手なのだろう? 単純に」
赤蛮奇の言葉に、わかさぎ姫は『あら、そうなのね』という顔をしてうなずいた。
影狼は、しかし、赤蛮奇の言葉の裏に隠された、別の意味に気づいていた。
言葉を失って後ずさる彼女に、赤蛮奇はにやにや笑いながら近づき、ぽん、と彼女の肩を叩く。
「――要するに、恥ずかしいのだろう?」
ぼっ、と影狼の顔に朱が差した。
「立派な体に美しい顔をしているくせに、何を恥ずかしがっているのやら?」
「いや、えっと、だけど……。
……その、私、人に見られる……というか、注目されるのが苦手というか……」
「君は自意識過剰だな。
君が思うほど、他人というものは、君という存在に目を向けたりはしないぞ?」
「そ、そうかしら……?」
「なぜそう思う?」
「だって、ほら、私、妖で……。
こんな見た目だし……。
だから、あの……」
「なるほど」
にんまりと、赤蛮奇は笑った。
彼女は影狼から身を離すと、くるりとわかさぎ姫を振り返る。
「姫。影狼くんは、あなたの心遣いを、ありがたく受け取るとのことだ」
「まあ」
「え!?」
「だけど」
手を胸の前で合わせて、ぱっと顔を笑顔に輝かせるわかさぎ姫。対照的に、取り乱した顔と声を見せる影狼。
その二人を遮るように、赤蛮奇は言う。
「列がすごく並んでいるだろう?
あそこに並んでまで入るのは面倒くさいらしい。
だから、日を改めて、ということになった」
「そうなのね。
影狼ちゃん、楽しんできてね。
あそこはお料理がとても美味しいし、建物の中も、すごく豪華で見ごたえがあるのよ。
きっと楽しいと思うわ」
「う……あ……えと……」
「このチケットには、複数名のご利用が可能とある。
その時は、ぜひとも、わたしも同行したいのだが、いいかな? 影狼くん」
「……あとで覚えてなさいよ」
にやにや笑って振り返る赤蛮奇に、下からにらむような目を見せて、顔を真っ赤に染める影狼であった。
「要するに、君は、他者から与えられるストレスに弱いのが原因だ」
びしっと、赤蛮奇は言った。
わかさぎ姫からチケットをもらった、その翌日のことである。
「……何よ」
ふてくされ気味の影狼に、赤蛮奇は言う。
「以前、竹林の医者に聞いたのだが、君は『対人赤面症』というのを患っている可能性もある。
あとは……」
赤蛮奇は、影狼の体をじろじろと眺めた。
顔、胸、腹、足、背中、お尻、尻尾、などなど。
動きづらそうな、面積が非常に多い布を身に纏い、肌を隠して暮らす彼女。
それはとりもなおさず、彼女が属する妖としての種族が原因なのだが、
「君は、もっと自分に自信を持つべきだ」
「……そう言われても」
「あのような、人の来ない竹林の奥で、ひっそりと暮らす。
まぁ、それは妖としての生活から見れば間違いではない。
妖は本来、人間とは離れて、暗闇の中で暮らす生き物だ。むしろ、わたしのような奴が異端だ。
だが、影狼。この世の中、それじゃやってけないんだな。これが」
いきなりフランクな口調になって、彼女はひょいと肩をすくめたりする。
「一昔前に比べると、人間と妖の距離が縮まっているのを感じる。
人にまぎれて暮らしていると、殊更だ。
その中で、ただひたすら、人に関わらないで生きていこうとするのは、なるほど、悪くはないが賢くもない」
「……そうかしら」
「そうだよ。主観だけどね」
そこでだ、と赤蛮奇。
彼女は影狼をびしっと指差し、
「君は変わるべきだ。社交界デビューと言おうか。
そのようなものを果たす必要がある。
姫を見てみろ。彼女は人当たりのよさで、あのような、妖丸出しの見た目ながら、人々に好かれている。
子供たちに『わかさぎのお姉ちゃん』と呼ばれて、いつも嬉しそうにしている」
「それは知っているけれど」
「ならば、君も、それを目指してみるべきではないだろうか?」
「ぐっ……」
「君が変化を望むというのであれば、わたしはそれに対する協力を惜しむつもりはない」
さて、どうする、と。
問いかけてくる赤蛮奇に、『私は別に……』と影狼は返すのだが、「本当にそれでいいのか?」と赤蛮奇は聞いてくる。
これは、あれだ。脅迫だ。
どんな選択肢を選ぼうとも、『はい』を選ぶまで繰り返される無限のループだ。
手を変え品を変え、何とかして、こちらの首を縦に動かそうとしてくる。
「ほんの少しの勇気があれば、いいのだがね。もちろん、君にだ」
その挑発に、『ぐっ』とうなる影狼である。
――この弱虫め。この程度のことも出来ないのか。
そう言われたに等しいその発言に、『そ、そんなことないわ!』と、思わず反論してしまう。
しかし、声を上げてから気づいたのでは、もう遅い。
「やっぱり、君は勇気のある女性だね」
にやりと笑う赤蛮奇。
その笑顔のいやらしさと言ったら。
恐らく、影狼は、今日、この日の彼女の笑顔を、生涯、忘れることはないだろう。
「……ね、ねぇ」
「何か?」
「……見られてない?」
「大丈夫。わたしへの視線はこれっぽっちもない。
視線を集めているのは君だけだ」
「だから言ってるのよ!」
そして。
その翌日、赤蛮奇によって、『人里デビュー』を果たすことになった影狼は、人里の大通りのど真ん中で、赤蛮奇に向かって声を荒げてしまう。
それがさらに周囲の視線を集めてしまって、慌てて、視線をうつむかせる彼女。
「わたしのような子供と違って、立派な体をしているのだから、まずはそれを誇るといい。
妖の見た目は千変万化するが、固定された観念はそのままだ。
わたしは、君のような姿にはなれない。結構、うらやましい」
頭の後ろで手を組んで、すたすたと、赤蛮奇は歩いていく。
慌てて、『待って待って』とそれを追いかける影狼である。
「……足下すーすーする……」
「あんな長いスカートを、普段から履いてるからだ」
さて、本日の影狼の服装であるが、簡単に言うと、春先であるのに露出度かなり高めというものである。
膝上20センチのミニスカートに、体のラインがぴったりと出るシャツにカーディガン。
妖としての彼女の本性を示すふさふさ尻尾はそのままに、慣れないヒールのある靴を履いて歩く彼女へと、里の人間(主に野郎ども)の視線が集中する。
「もっと顔を上げて、胸を張って。
情けないぞ」
「ひゃうっ」
ばしんと赤蛮奇に尻を叩かれて、彼女は飛び上がる。
言われた通り、勇気を振り絞って顔を上げるのだが、人々の視線とばっちりそれが絡み合ってしまい、かーっと頬が熱くなって行く。
「そんなでかい乳をしているのにうつむいていてどうするのだ。もったいない」
男どもの視線は、影狼の顔から、一歩歩くだけで上下にゆっさゆっさする胸部へと集中する。
恥ずかしさのあまり、半分、硬直する影狼の元へと、一人の男性がやってくる。
「あ、あの。今、お一人ですか」
年齢なら二十歳を少し過ぎた頃。
見た目だけなら、影狼とお似合いと言っていい男性だ。
勇気を出してナンパしにきた彼を前に、ぱくぱくと口を動かし、影狼。
まともに対応できない彼女を見て、はぁ、と赤蛮奇はため息をつくと、
「こら、君。
影狼はわたしの友人だ。彼女に声をかける時は、まず、わたしを通してもらおう」
と、二人の間に割ってはいる。
男性は最初、『何だこいつ』という、邪魔者を見るような視線を赤蛮奇に向けるのだが、
「……む、かわいらしい少女……か。
……ここは、俺が引き下がるべきだよな……」
と、赤蛮奇の見た目(ズボンとシャツ、首元を隠すためのストールという、ちょっと男の子っぽい格好)を見て、あっさりと引き下がった。
どうやら、彼は幻想郷における『紳士』の一人であったらしい。
「よかったじゃないか、影狼。いきなりナンパだ。うまい対応が出来ていれば完璧だったのだが」
「そ、そんなこと、で、できっ、出来るわけ……」
「よし、そうだ。そこの茶屋に行こう。
今日はいい天気だ。外で団子を食うのも悪くない」
影狼の手を引っ張って、赤蛮奇は近くの茶屋の前へ。
そして、店主に声をかけ、表の長椅子に腰掛ける。
「ああ、しかし、今日は影狼を里に連れてくることが出来てよかった!
大勢の人たちと、仲良くなれたらいいな!」
わざと大声で、彼女はそんなことを言ったりする。
すると、周囲の野郎どもが、赤蛮奇の『許し』を得たとばかりに殺到し、影狼を取り囲んだ。
「ふえ!?」
目を白黒させて、忙しなく、首を左右に向ける影狼。
自分に向けられる視線と声に、もはや処理能力の限界を超え、彼女の脳みそがフリーズしたようだ。
「ああ、こらこら、君達。
影狼に声をかけるのなら、まずはわたしを通せと言ったはずだ。
質問事項はここに書け。あと、彼女は今日が初めての人里だ。礼儀を見せろ。節度を持て。わかったな?」
片手にみたらし団子を持って、びしびしと、赤蛮奇がその場を仕切る。
すると不思議なことに、野郎どもは礼儀正しくその場に列を作り、影狼への『質問事項』片手に声をかけてくるから、幻想郷とはなんともいえないところである。
「ちなみに、乳のサイズとパンツの色は内緒だ。それを忘れるな」
赤蛮奇の一言に、野郎どもは、『サー・イエッサー!』と敬礼する。
ここに、『影狼ちゃんと仲良くなろうの会』がスタートした瞬間であった。
「……し、死ぬかと思った……」
「あの程度で、情けない。
せっかく、わたしが頼んだ団子も食わずに。全く」
店の店主が『いいよ。もったいないからな。持っていけ』と包んで渡してくれたみたらし団子片手に、憔悴しきった顔で、影狼が歩いている。
あの後、延々、30分ほど野郎どもに質問攻めにあったせいである。
赤蛮奇はにやにや笑いを、しかし、消すことなく、「だが、これで少しは耐性がついたんじゃないかな?」という。
「つくわけないでしょう……」
「だが、少なくとも、今、君は、顔を真っ赤にして歩いているようではないのだが?」
「疲れているだけよ!」
「大声を出す元気はあるのだな」
もう、とぷりぷり怒る影狼は、しかし、この里に初めてやってきた頃の『固まった』姿は見せていない。
ある意味、荒療治によって緊張をほぐされた彼女は、「こんなのが何の役に立つのよ」とぶつくさ文句を言っている。
「ろくに人と会ったこともない妖の分際で、このわたしに文句を言うのか。
それはいい根性だ」
「むっ」
「なら、わたしはちょっと、用事がある。
席をはずすから、君一人で、この里の中を、そうだな、小一時間ほどうろついていてくれ」
「ひっ!?」
「――冗談だ」
まだまだそんな度胸のない影狼は、慌てて、赤蛮奇の手を掴む。
にやりと笑う赤蛮奇は、「でかい態度をとるのは、まだまだ後だな」と一言。
それに反論できない影狼は、顔を赤くしてうつむくだけだ。
「さて、次は、人間の女なら誰もが大喜びでやる服選びだ。
わたしは君の服のセンスなんて知らないからな。わたしが選ぶと、またとんでもない服を着る羽目になるぞ」
「な、何で、服なんか……」
「君は紅魔館に行くのに、そんなカジュアルな服装で行くと言うのか?
いい年をしたレディなら、ドレスの一つも身に纏うのが基本だろう」
「べ、別に普段の服装でいいじゃない」
「よくない。
これは、君の社交界デビューだ。
見た目で、女に限らず、人は値踏みされる。まともな格好をしていないとなめられる。
なに、金ならわたしが出してやろう。幸いなことに、使わない金が山ほどある」
「……どうしてそんなもの」
「何、ちょっとした、智慧の産物さ」
とんとん、と自分の頭を叩く赤蛮奇。
その視線が辺りを回り、『そこにしようか』と、最近、人里で人気の『今までの里じゃ着られない洋服』があるお店へと向いたのだった。
「……ねぇ」
「何?」
「何で今日……」
「君の妖としての本性発揮は今日だろう」
満月の夜。
影狼が、最も、外に出るのを嫌がる日に、赤蛮奇は『紅魔館へ行こう』と彼女を家から連れ出した。
いやだと頑張る影狼を『ディナーの予約は入れたんだ』と連れ出して、今。
「う~……」
満月の日は毛深くなるから外に出るのがいやだ、という影狼は、半分以上、不本意な顔で列に並んでいる。
見事な意匠の、赤のドレスに身を包む彼女の隣には赤蛮奇。こちらは普段の格好である。
曰く、『わたしはこの服が平服だ』ということだった。
「私みたいな妖が来るのはおかしいって……」
「だが、あれを見ろ」
赤蛮奇の示す先には、身長3メートルを優に越す巨人の家族が三人。しかも一つ目――サイクロプスである。
「いやはや、以前、こちらにお世話になった時に、うちの息子が気に入ってしまいまして」
「そうなんですか。今日も楽しんでいってくださいね」
「いやはや、どうもどうも。はい」
「ちょっと、あんた。ぺこぺこしすぎないで。みっともないわよ」
どうやら家族で夕食を食べにきたらしい。
しばらくして、やってきたメイドに連れられる形で、彼らは『ずしーんずしーん』と地面を震わせながら歩いていく。
あの図体で、この屋敷のどこで飯を食うのかは疑問であるが、まぁ、何とかなるのだろう。
「ごきげんよう」
「こんばんわ。
赤蛮奇さんと……あなたは、初めてでしたね。影狼さん。
門番をやっております、紅美鈴と申します。まぁ、今では、お客様案内係のチーフみたいなことになってますが」
「は、はい! 初めまして!」
「ふーん」
にっこり笑う、門の前に立って客あしらいをしている美鈴が、影狼を一瞥する。
そして一言。
「美人ですね」
と言った。
「そうだろう?」
それを赤蛮奇が後押しする。
妖の証である『夜の狼』の変化となった影狼は、普段の、どことなく愁いを帯びた顔立ちは鋭くシャープになり、長く伸びた犬歯が唇から少し顔をのぞかせる。目は紅く爛々と輝き、鋭い、切れ長のものへと変化し、一瞬、受ける印象は『きつめの美人』である。
覗く腕は獣毛に覆われ、真っ白な、しなやかな手の先に伸びるのは鋭い爪。
そんな彼女が、顔を紅く染めて、視線をうつむかせているというのは、何とも言えず新鮮な光景である。
「彼女は自分の見た目に自信を持てないでいる。困ったものだ」
「それは大変ですね。
もったいない」
「だろう?
だから、わたしが、ちょっと一芝居演じてやって、彼女をこうして連れてきたというわけだ」
「うちの子達は、美人の人に憧れを持つ子が多いので。
きっと騒がれますよ」
「……うぅ~」
「ほら、もっと胸を張れ。その乳は飾りか!」
「きゃいん!」
また赤蛮奇に尻を叩かれて、影狼は悲鳴を上げる。
背筋を伸ばすと、美鈴並みの身長にスタイルの持ち主である彼女は、それだけで印象が大きく変わる。
やってきたメイドが『ごきげんよう』と頭を下げてくる。
彼女に挨拶をして、二人は、紅魔館の中へと歩いていく。
「……」
「美鈴の言うことは正しいな」
騒がずとも、入り口のホールの時点で、そこで仕事をするメイドたちが視線を向けてくるのがわかる。
その視線は、全て、影狼が独り占めである。
「こちらです」
案内されるのは、通称『紅魔館レストラン』の主体となる大ホール。
開かれた扉の向こうの光景を見て、影狼は沈黙する。
「本日のレストランは、ビュッフェスタイルとなっております」
「これは素晴らしい。今日はパーティーか何か?」
「はい。
お嬢様が、『みんなでわいわい騒ぎながら食べるというのも楽しいでしょ。参加する人募りなさい』と」
「なるほど」
言われて、影狼は、先日、赤蛮奇から渡されていた『今日のチケットだ』というのを取り出した。
――違う。
先日、わかさぎ姫からもらった『お食事割引券』とは違う。
そこには、『紅魔館立食パーティーへのご招待』という文字が書かれている。
「恐らく、お二方のお知り合いの方々もいらっしゃいますので。
その方達との交友を深めてみる、というのも」
「道理で、今日、表に並んでいるもの達の中に、着飾ったものが多い理由がわかった」
「もちろん、こちらに出られない方々も大勢いらっしゃいますから。
その方々は、本日は特別、個室でのディナーを楽しめるようになっております」
「あ、あの! 私も、そっちの方が……!」
「申し訳ございません。そちらのチケットは、このパーティー専用のものでして。
変更の際には、多少、お時間と追加料金がかかってしまいます」
「言っておくけど、今日、あの場に払った以外の金は持ってきてないぞ」
赤蛮奇の一言に、影狼は痛感する。
『騙された』
――と。
「……どうしろっていうのよ、もう」
赤蛮奇は、『あっちに、わたしの知り合いがいた。一人で楽しんでいてくれ、影狼くん』と、あっさり、影狼を見捨ててどこかへ行ってしまった。
知り合いも友人も、その欠片の気配すらないこのパーティー会場に、ぽつんと一人、取り残された影狼は、とりあえず壁際へと移動する。
そこで、まともに顔も上げることも出来ず、黙って立っていると、
「失礼します。
お客様、お飲み物はいかがでしょうか?」
「……あの、お水ください」
「畏まりました」
それを見て取ったのか、会場で料理を補充したり、空いた皿を下げたりしていたメイドが一人、声をかけてきた。
にっこり微笑んだ彼女は、冷たい水の入ったグラスを影狼に手渡してくる。
「あちらにお料理がございます。
制限時間は2時間です。足が疲れたりしましたら、向こうにお席もご用意しておりますので」
「……はい」
「ごゆっくり」
メイドがぺこりと一礼して去っていく。
その堂々たる振る舞いに、はぁ、とため息をついて、影狼はとりあえず料理を取りに移動する。
「さっさと食べて帰ろう」
制限時間2時間と、彼女は言っていたが、何も2時間、この場に拘束される理由はない。
さっさと食べて、さっさと帰ってしまえばいいのだ。
幸い、会場への出入りは自由。逃げるのは簡単――のはずだった。
「お嬢さん、お一人ですか?」
「はひっ!?」
料理をお皿に載せて、ちまちま、口元へ運んでいた彼女の前に、なかなか着飾った男性が一人、現れる。
「お美しいお嬢さん。どなたかとご一緒ではございませんか?」
「あ、あの、私、その、えっと、一人で……」
「それはもったいない。
――いや、実は、私も一人ものでして。
しばし、お話、いかがでしょう?」
ナンパされた。速攻で。
男性の年齢は30歳くらい。気配からして、人間だろう。
このパーティーで、『生涯の伴侶』でも探しに来たのか、多少の強引さを見せながら影狼へと接してくる。
影狼は、『い、いえ、あの……』としどろもどろになるばかり。
すると彼は、この女性は責めれば『行ける』と判断したのか、さらに饒舌になる。
半分、影狼が涙目になって縮こまっていると、
「君、彼女が困っている。あまり強引なことをするのはやめなさい」
と、横から第二の勢力登場である。
振り返ると、これまた見事な質の着物に身を包んだ男性が立っている。こちらの年齢は40ほどか。
こうした社交場での礼儀もわきまえていそうな彼は、
「美しい花は、そっと優しく愛でるものだ。無理に手折るものではない」
と、先の男性に説教をした後、影狼を振り返る。
「お嬢さん、こうした場は初めてですかな?」
「……は、はい」
「そうですか。
ならば、緊張するのも無理はない。
――おっと。そちらの彼と違って、私はあなたをナンパするつもりはない。何せ家族がいる」
「俺もそろそろ、と思ったんですけど、やっぱ強引でしたかね」
「当然だろう。
女性の顔と仕草から、男はそれを察するものだ」
「……あの、私、妖怪なんですけれど……」
「ははは。
なぁに、気にすることはありません。私らは、そうした、妖怪と接することに興味と快楽を覚える変わり者です」
「わはは、確かに。いいことを仰る」
「若いの。君はなかなか、見所がある。このようにお美しいお嬢さんに、まずは声をかける――私の若い頃とよく似ている」
「そうですか? そんなもんですかね」
「ああ。どうだ、君。今、どんな仕事をしている? こうした場で会ったのも何かの縁だ。うちの仕事に興味はないか?
ふふふ……驚いているかい? こういう社交場で、なかなかいいものを持っているものを雇うのが、私の趣味だ」
――今のうちだ。
影狼は、相手の話が違う方向へシフトしているのを察して、「あ、あの、失礼します」とぺこりと頭を下げた。
すると、彼らは『ああ、また後で、お時間があれば』『強引に声をかけてすいませんでした』と笑って、影狼を解放してくれる。
ほっと一息ついて、そそくさと、その場から去っていく。
とにかく、誰にも声をかけられずにすみそうな場を探してあちこちきょろきょろするのだが、どこもかしこも人ばかり。
これはもう、椅子に座って、黙って食べているのが一番か。
それを判断して、彼女は、『もうやけくそ』とばかりに大皿に料理を山盛り持って、空いている席へと移動する。
「いただきます!」
大声で宣言して、お食事開始。
この彼女、こんな見た目と性格だが、なかなかの健啖家でありご飯は丼山盛りどんとこいである。
「……見事だ」
「うむ。あの見た目であのような……」
「ご飯を美味しそうに食べる女性は美しい」
あちこちで、そんな声がちらほら上がっていたりする。
逆に自分が注目される存在になっていることなど気づきもせずに、皿の上の料理をあっさり平らげた彼女は、『さらにもう一つ』とばかりに立ち上がる。
「あれ? 影狼さん」
「あ……!」
そこへ、救いの女神が登場した。
彼女に声をかけてきたのは、犬走椛という天狗の少女であった。
彼女と同じように、普段は見せないドレス(のようなもの)で着飾っているのだが、その中身は、いつもと全く変わらないようだ。
「こんなところで会うなんて。奇遇ですね」
どん、と椛は片手に持った大皿を、影狼のテーブルへと置いた。
そこにも、山盛りの料理。
「椛ちゃん……! 助かったわ……」
「へ?」
「待っていてね! 今、私も持ってくるから!」
「あ、はい」
椛に『おあずけ』させて、影狼はテーブルへダッシュする。
そして、また片っ端から大皿に持って戻ってくると、
「紅魔館の料理は本当に美味しいですよね」
「ええ。そうね。
普段は食べることがない味ばかりで新鮮」
「わかります。
こういう、『洋風の味』なんて、私の周りでも作れる人は限られてますから」
と、楽しく談笑しながら、山盛り料理を軽々と平らげていく。
「……なんと!」
「これは見事……!」
「彼女たち、一体、何者なのだ……!」
また違う方向から注目されていることなど、二人は気づきもしないで、皿の上を空っぽにする。
「私、まだ4皿目なんですよ」
「私はまだ二枚目よ」
「じゃあ、まだまだ余裕ですね」
「もちろん」
彼女たちのセリフに、その場の空気に戦慄走る。
普通の人間なら、三人前……いや、四人前には匹敵するような料理を平らげて、『まだ余裕』があるのだという。
しかも、彼女たちは、その皿を一枚平らげたのではない。
すでに、この時点で『何枚も』平らげているのだ。
「むぅ……! 何という……!」
「見ていると腹が減るような食べっぷりだな」
「ああ。素晴らしい」
「よし、俺達も食おう」
徐々に、二人に注目する視線が増えているのだが、やっぱり二人は何も気づいていない。
「今日は、影狼さん、どうしてここに?」
「ちょっとあって……。
あなたは?」
「私は文さんとはたてさんの付き添いです。
何でも、このパーティーの取材をするとか」
「どこかに行ってしまったのね」
「そうなんです。
で、お腹が空いたので」
「そうね。そうね」
影狼は、今、心底ほっとしていた。
この椛と仲良くなったのには紆余曲折あるが(一番は、同じ『イヌ科』の妖怪であるというところだが)、影狼にとっては数少ない、気負わずに話せる友人である。
何事にも素直で真面目で屈託のない彼女と話している時は、自分の性格を忘れられるのだ。
これを幻想郷では『もみもみ効果』と呼ばれていることを、影狼はまだ知らない。
「ああ、椛さん。こちらにいたんですね」
「椛……と、えっと……影狼だっけ?」
「……あっ」
しかし、その時間は、長くは続かなかった。
取材を終えて戻ってきたのだろう、椛の友人である射命丸文と姫海棠はたてといったか、二人の天狗の視線を受けて、影狼は硬直する。
「おお! これはまた美しいお姿!
影狼さん、一枚、ぜひ!」
「い、いや、あの……」
「こら、文。やめなさいよ」
「もったいないじゃないですか、はたてさん!」
「その気持ちはわかるけど」
「フルカラーで一枚、新聞の……そうですね、二面くらいにまけておきますので!」
「あ、あの、えっと……!」
「……ったく。
一枚だけ撮られてやってくれない? こいつうるさいのよ」
「影狼さん、ぜひ、ぜひ、ぜひ!」
カメラのレンズ向けて迫ってくる文に、影狼の顔が真っ赤に染まる。
写真に撮られる。新聞に載せられる。イコール、今の自分が幻想郷に『ばら撒かれる』。
そんなの、冗談ではない。
慌てて立ち上がり、影狼は『そ、それじゃ、私、これで!』と逃げ出そうとするのだが、普段、履きなれない靴を履いているせいか、その場でバランス崩してすっ転ぶ。
果たしてその瞬間、『危ない!』と差し伸べられた手の持ち主へと、影狼は視線を向ける。
「Hello,Lady.
今宵の宴は楽しんでいるかな?」
気取った仕草の赤蛮奇が、そこにいた。
「大丈夫ですか、影狼さん」
「こら、文! あんたのせいよ!」
「いたたた! はたかないでくださいよぅ!」
天狗三人が何やら騒いでいるのを横目に、赤蛮奇は、どこでもらったのか持ち出したのか、仮面舞踏会のそれに使うマスクをすっと外して、
「何をやっているんだ」
と、にやり、笑ったのだった。
「ナンパにあっては逃げ回り、友と会ってはやけ食いし。
やれやれ」
「う~……」
「しかし、こういうにぎやかな場を、なぜ嫌う?」
赤蛮奇は片手にワインを取り、気取った仕草でそのグラスを傾けながら、隣の影狼に尋ねる。
にぎやかな会場から少し離れた壁際に背を預け、やれやれ、といわんばかりに。
「……だって、その……恥ずかしいじゃない」
「何が恥ずかしいのやら。
わたしにはそれがさっぱりわからない。
見た目を気にしているというのなら、わたしからすれば、それはいやみだな。
そんな立派な見た目と体をしている君と違って、わたしはずっと、このままなんだぞ」
「……うぐ」
「別に匂いがおかしくなるというわけでもあるまいに。
着飾った服に隠してしまえば、何も見えるものなどないのに」
もっと楽しんだらどうだ、と彼女は言う。
「楽しいことは世の中数あれど、参加するものが、それを『楽しもう』と思わない限りは苦痛なだけだ。
君のような、『食わず嫌い』はあまりよくないな」
「そ、それは、あなたの持論でしょう。
私は、その……し、静かに暮らせれば、それでいいのよ」
「飾ることをしても、誰にも見られないのであれば、それはそれでいいかもしれないな」
赤蛮奇は視線をめぐらせる。
そして、何かを見つけたのか、『ちょっと待っていてくれ』と、その場を去った。
何を見つけたのか、と首をかしげて影狼が待っていると、彼女は一人の少女を連れて戻ってくる。
「こんばんは!」
笑顔で声をかけてくる小さな女の子に、影狼は一瞬、言葉に詰まったものの、さすがにこのような子供を相手に恥ずかしがっていてはおとなげないと思ったのか、『こんばんは』と笑いかけた。
「君は彼女をどう思う?」
「きれい!」
その少女は即答した。
影狼を見上げて、何が嬉しいのか、にこにこと笑っている。
「こんな女性になるのは難しい」
「だけど、きれいだよ!」
向けられる純粋な視線と言葉に、影狼は口をつぐんだ。
ゆっくりと膝を曲げて、少女と同じ目線になると、『ありがとう』とその頭をやさしくなでる。
「フランドール様、そろそろお部屋に戻りますよ」
「はーい!」
後ろからかけられる声に少女は返事をすると、くるりと振り返り、その場を走り去っていった。
その姿を見送って、軽く手を振っていた影狼に、赤蛮奇が「悪いものではないだろう」という。
「こういう場でなければ味わえないものなど、他にもたくさんある。
一人、竹林の奥に暮らしていて、それで生涯を終えるのか。
それとも、もう少し、社交的になってみるのか。
それは君の自由だがね」
「……ふん」
頭の上からかけられる声に、影狼は膝を伸ばして立ち上がる。
軽く伸びをしてから、
「子供を使うのは卑怯だわ」
「卑怯だろうと何だろうと、有効な手段は余さず使うのが、弱いものが強いものに勝つための手段だ」
「あんたらしい」
「そうだな。自分でもそう思う。
しかし、君に、こうしたにぎやかな場に慣れて欲しいという思いは変わっているわけではない。
今度はわたしのようなひねくれものではなく、姫を連れてくればいい。
もちろん、エスコート役は君だ」
「……それはそれで」
たはは、と言わんばかりの笑みを浮かべて、影狼は頬をかいた。
あの、誰に対しても悪意を見せない『お姫様』の扱いは、あれはあれで難しいのだ。
「普段の君が、あの少女に『きれい』と言われる存在であるかどうかについては、わたしは何も言わないよ。
だが、可能性は0ではないな。どちらにせよ」
「そうね」
「もっと友人を増やせ。それだけだ。
じゃないと、わたしみたいなひねくれ者はさておき、姫みたいな人のいい奴まで、君のことを心配するぞ」
壁から背中を離して、赤蛮奇は歩いていく。
陽炎は一瞬、ぱちくりとなる。赤蛮奇の表情はうかがい知れなかったのだが――。
その後ろ姿にため息一つ。
「そういう押し付けが困るのよ。人には人の生き方ってあるんだから」
つぶやく影狼。
その視線は、ホールの一角にある、大きな柱時計に向く。
ここに入場してから、まだ1時間。あと1時間の余裕がある。
「お腹すいた。
料金分のご飯、食べていきましょう」
彼女もその場から歩き出す。
目に映る、色とりどりの料理を眺めながら、その視線を辺りに向ける。
人の視線が時たま絡み、影狼の方に会釈をするものがいる。
それに、彼女は言葉に詰まって動きを止めそうになるものの、ぎこちない、ぎくしゃくとした動作で手を振った。
「馬鹿にされっぱなし」
そう、小さくつぶやいて。
「影狼ちゃん。紅魔館はどうだった?」
「料理がとても美味しかった」
「そう。よかったわ」
後日。
わかさぎ姫と話をする影狼は、いつもの服に身を包み、湖のほとりに腰を下ろしている。
わかさぎ姫は水面から顔を出し、草の上に肘をつきながら、『楽しかったみたいで何よりだわ』と微笑んでいる。
「赤蛮奇ちゃんは?」
「今日は暇じゃないから君に付き合えない、だって」
「あら、そうなの。大変なのね」
「……さあ」
彼女の視線は紅魔館に向かう。
今日も館は人が並んでいる。相変わらずのにぎやかさ。そして、楽しさが、そこにある。
妖精たちが、館の前で遊んでいる。その相手をしているのは美鈴か。
「楽しそうだわ」
「そうね。
ああいうにぎやかなところ、私は大好きよ。
普段、静かなところに住んでいると、ああいうのが懐かしく……って言うか、羨ましく思えるの」
くすくす笑うわかさぎ姫に、影狼は視線を移す。
彼女は服のポケットを探ると、二枚、チケットを取り出した。
「自分で作るよりも、あそこの料理はずっと美味しいの。
ご一緒にいかが?」
そう言って、軽く笑いかける影狼の笑顔は、どこかぎこちなく、そしていつもより、少しだけ柔らかかった。
「あら、いいの?」
「ええ」
「そうね。
それじゃ、私も、初めてだから。影狼ちゃんに案内してもらおうかしら」
よいしょ、と水の上に上がってくるわかさぎ姫。
ぱちゃぱちゃと水を揺らしながら、「だけど、どうして?」と尋ねてくる。
「ほら、あそこ、ご飯が美味しいし。
それに、あなたは人当たりもいいし、一緒に連れていて苦労しなさそうだから」
「……ふーん」
「どう?」
「もちろん」
にこっと笑って、彼女は答える。
「影狼ちゃんからの誘いは断らないわ。
それに」
「それに?」
「何だか、前よりも、影狼ちゃんの笑顔がかわいいの」
その一言で、影狼の顔がぼっと燃え上がる。
慌てて、自分のほっぺたぺたぺた触って「そ、そんなにおかしい顔してた?」と恐る恐る尋ねる彼女。
わかさぎ姫は『違う違う』と首を左右に振ってから、
「さすがは赤蛮奇ちゃんね。
影狼ちゃんの魅力をうまく引き出したわ」
「……へっ」
「なーんて。
うふふ。そうね。そう。
いいわね。いいわ。そうしましょう」
何が嬉しいのか。
そして、彼女は何に納得しているのか。
両手をぱんと打ち鳴らし、彼女は笑顔で首肯する。
「賛成」
差し出される掌に、とりあえず、自分の掌を合わせる影狼。
ぱん、と軽い音がする。
「成功」
「え?」
「日が決まったら教えてね。
一緒に、ご飯、食べに行きましょう」
「え……? え、ええ……」
何が何やらわからない、といった風の影狼に手を振って、わかさぎ姫は水の中に消えていった。
一人、取り残された影狼は、しばし、その場で膝を抱いていたものの、やがて立ち上がる。
「……失敗した?」
わかさぎ姫の笑顔とは正反対に、何か自分にとってうまくいかないことがあったのではないかと、不安になる影狼だった。
「あら、ごきげんよう。影狼ちゃん」
「ごきげんよう。わかさぎ姫。本日も、ご機嫌麗しゅう」
「あら、いやだ。そういう挨拶はやめてちょうだいな」
慇懃無礼な態度で頭を下げるのは、今泉影狼という妖である。
その彼女を笑顔であしらうのはわかさぎ姫。こちらも、この湖に住まう妖である。
「楽しそうだわ」
「そうね。とても楽しそう。
私は、ほら、まだあの中には入ったことがないのだけど。
チルノちゃんとかが、いつも楽しそうに、お友達と遊んだことをお話してくれるのよ」
「チルノ……。
ああ、この辺りに住んでいる妖精のこと」
「そう。あの子、私に懐いてくれているの」
嬉しいわ、と笑うわかさぎ姫の笑顔は、とてもやわらかくて温かい。
こんな笑顔で笑いかけてくれる相手には、なるほど、妖精などという、『いくつになってもまだまだ子供』なもの達は笑顔で懐いてくることだろう。
「それはよかったわね」
「ええ。とても。
影狼ちゃんも、あの中に行ってきたらどうかしら?」
「私は……その……いいわ」
「あら、どうして?」
「え? その……」
二人の視線の先には、目に痛いくらい鮮やかな紅が目立つ建物がある。
幻想郷でも屈指の名所、『紅のテーマパーク』こと紅魔館である。
その外壁に沿う形で大勢の人々が並んでおり、列の一番後ろには、『本日の待ち時間、ただいま4時間』と書かれた看板を持って、暇そうに、妖精が佇んでいる。
列の先頭に目をやると、自分の順番が来たことに小躍りしながら、館の中に入っていくもの達。
それと入れ替わりに外に出てくるものたちは、皆、笑顔を浮かべて『満足しました!』という雰囲気を漂わせていた。
「あまり、にぎやかなのが好きじゃないというか……」
「あら、そうなの?
だけど、ほら、一人でいるよりも、みんなで楽しくしていた方が楽しいでしょう?」
「それはそうだけど……」
「それなら、えっとね……。
あ、ほら、これよ、これ。この前、あそこのメイドさんから頂いたの。
『一度、ぜひ、うちに来てください』って。割引チケット。影狼ちゃんにあげるわ」
「え? だけど、それはあなたがもらったもので、私は……」
「いいのよ。
私は、また、頼めばもらえるから」
この彼女、どうやら、紅魔館の中の者たちとある程度親しいようだ。
笑顔で差し出される、何やらけばけばしい色使いのチケット。
それを前にうろたえる影狼の背後から、人影が近づいてくる。
「姫の心遣いを素直に受けるのが、君のようなものの役割じゃないのか? 今泉影狼殿」
「わっ」
「あら、赤蛮奇ちゃん」
「ごきげんよう。お姫様」
何やら気取った仕草で一礼し、ころりと落ちた首でにっと笑う、彼女の名前は赤蛮奇。
この中で一番年下の少女の見た目をしているが、やっぱりというか何というか、妖である。
「あら、面白い」
「一発芸として考えてみたのだが、よくよく考えると、わたしにはこれを見せる相手がいなかったからな」
そこで、この場で披露してみせたのだ、と赤蛮奇は言った。
転がり落ちた頭はひゅんと空を舞い、彼女の首へと戻っていく。
そして、
「何を戸惑っている?」
と、影狼に尋ねた。
「べ、別に戸惑っているわけじゃ……。
その、ほら、これは姫がもらったものでしょう? 私が、何の対価もなしに受け取るのは……」
「あら、そんなことを気にしていたの?
いいのよ、影狼ちゃん。
私は、影狼ちゃんの笑顔が見られれば、それだけで充分だわ」
「……ああ~……」
追い詰められる。
悪気のない、しかし、何とかしてチケットの受け取りを拒否しようとした影狼にはクリティカルな笑顔を向けてくるわかさぎ姫に、影狼は頭を抱えてしまう。
その二人を見て、赤蛮奇が、さっとわかさぎ姫の手からチケットを受け取った。
「何だか事情がよくわからない。
説明をして欲しいのだが」
「そうね。赤蛮奇ちゃん」
――そういうわけで、現在の事態についての説明が、わかさぎ姫からなされる。
ふんふん、とうなずいて聞いていた赤蛮奇は、視線を影狼へと移した。
影狼の、頭のてっぺんから足のつま先まで、なめるように眺めていた彼女は、にやりと笑う。
「なるほど。
つまり、影狼くん。君は、あの場に入ることは、妖である己には難しいと考えているのだ?」
「そ、そう! そうなの!
あ、ほら、あそこの人たち、よく見ると、みんな人間でしょう? 私みたいな妖怪がそこに混じったりしたら……」
「そんなことないわよ? 影狼ちゃん。
妖怪の人たちも一杯……あ、ほら。あれを見て。あの人たち、妖怪よ」
閃光を思わせる速さで振り向く影狼。
そこには、何やら連れ立った妖怪の一団の姿がある。先頭の、紫の入った鮮やかな髪の毛の女が、門番の女性と、何やらころころと笑いながら話している光景が、そこにあった。
「大丈夫よ。そんなこと。気にしなくても」
「いや、だけど……」
「影狼くん。君があの場に足を踏み入れたくない理由――悪いが、わたしは見極めさせてもらった」
「へっ?」
「にぎやかな場に出るのが苦手なのだろう? 単純に」
赤蛮奇の言葉に、わかさぎ姫は『あら、そうなのね』という顔をしてうなずいた。
影狼は、しかし、赤蛮奇の言葉の裏に隠された、別の意味に気づいていた。
言葉を失って後ずさる彼女に、赤蛮奇はにやにや笑いながら近づき、ぽん、と彼女の肩を叩く。
「――要するに、恥ずかしいのだろう?」
ぼっ、と影狼の顔に朱が差した。
「立派な体に美しい顔をしているくせに、何を恥ずかしがっているのやら?」
「いや、えっと、だけど……。
……その、私、人に見られる……というか、注目されるのが苦手というか……」
「君は自意識過剰だな。
君が思うほど、他人というものは、君という存在に目を向けたりはしないぞ?」
「そ、そうかしら……?」
「なぜそう思う?」
「だって、ほら、私、妖で……。
こんな見た目だし……。
だから、あの……」
「なるほど」
にんまりと、赤蛮奇は笑った。
彼女は影狼から身を離すと、くるりとわかさぎ姫を振り返る。
「姫。影狼くんは、あなたの心遣いを、ありがたく受け取るとのことだ」
「まあ」
「え!?」
「だけど」
手を胸の前で合わせて、ぱっと顔を笑顔に輝かせるわかさぎ姫。対照的に、取り乱した顔と声を見せる影狼。
その二人を遮るように、赤蛮奇は言う。
「列がすごく並んでいるだろう?
あそこに並んでまで入るのは面倒くさいらしい。
だから、日を改めて、ということになった」
「そうなのね。
影狼ちゃん、楽しんできてね。
あそこはお料理がとても美味しいし、建物の中も、すごく豪華で見ごたえがあるのよ。
きっと楽しいと思うわ」
「う……あ……えと……」
「このチケットには、複数名のご利用が可能とある。
その時は、ぜひとも、わたしも同行したいのだが、いいかな? 影狼くん」
「……あとで覚えてなさいよ」
にやにや笑って振り返る赤蛮奇に、下からにらむような目を見せて、顔を真っ赤に染める影狼であった。
「要するに、君は、他者から与えられるストレスに弱いのが原因だ」
びしっと、赤蛮奇は言った。
わかさぎ姫からチケットをもらった、その翌日のことである。
「……何よ」
ふてくされ気味の影狼に、赤蛮奇は言う。
「以前、竹林の医者に聞いたのだが、君は『対人赤面症』というのを患っている可能性もある。
あとは……」
赤蛮奇は、影狼の体をじろじろと眺めた。
顔、胸、腹、足、背中、お尻、尻尾、などなど。
動きづらそうな、面積が非常に多い布を身に纏い、肌を隠して暮らす彼女。
それはとりもなおさず、彼女が属する妖としての種族が原因なのだが、
「君は、もっと自分に自信を持つべきだ」
「……そう言われても」
「あのような、人の来ない竹林の奥で、ひっそりと暮らす。
まぁ、それは妖としての生活から見れば間違いではない。
妖は本来、人間とは離れて、暗闇の中で暮らす生き物だ。むしろ、わたしのような奴が異端だ。
だが、影狼。この世の中、それじゃやってけないんだな。これが」
いきなりフランクな口調になって、彼女はひょいと肩をすくめたりする。
「一昔前に比べると、人間と妖の距離が縮まっているのを感じる。
人にまぎれて暮らしていると、殊更だ。
その中で、ただひたすら、人に関わらないで生きていこうとするのは、なるほど、悪くはないが賢くもない」
「……そうかしら」
「そうだよ。主観だけどね」
そこでだ、と赤蛮奇。
彼女は影狼をびしっと指差し、
「君は変わるべきだ。社交界デビューと言おうか。
そのようなものを果たす必要がある。
姫を見てみろ。彼女は人当たりのよさで、あのような、妖丸出しの見た目ながら、人々に好かれている。
子供たちに『わかさぎのお姉ちゃん』と呼ばれて、いつも嬉しそうにしている」
「それは知っているけれど」
「ならば、君も、それを目指してみるべきではないだろうか?」
「ぐっ……」
「君が変化を望むというのであれば、わたしはそれに対する協力を惜しむつもりはない」
さて、どうする、と。
問いかけてくる赤蛮奇に、『私は別に……』と影狼は返すのだが、「本当にそれでいいのか?」と赤蛮奇は聞いてくる。
これは、あれだ。脅迫だ。
どんな選択肢を選ぼうとも、『はい』を選ぶまで繰り返される無限のループだ。
手を変え品を変え、何とかして、こちらの首を縦に動かそうとしてくる。
「ほんの少しの勇気があれば、いいのだがね。もちろん、君にだ」
その挑発に、『ぐっ』とうなる影狼である。
――この弱虫め。この程度のことも出来ないのか。
そう言われたに等しいその発言に、『そ、そんなことないわ!』と、思わず反論してしまう。
しかし、声を上げてから気づいたのでは、もう遅い。
「やっぱり、君は勇気のある女性だね」
にやりと笑う赤蛮奇。
その笑顔のいやらしさと言ったら。
恐らく、影狼は、今日、この日の彼女の笑顔を、生涯、忘れることはないだろう。
「……ね、ねぇ」
「何か?」
「……見られてない?」
「大丈夫。わたしへの視線はこれっぽっちもない。
視線を集めているのは君だけだ」
「だから言ってるのよ!」
そして。
その翌日、赤蛮奇によって、『人里デビュー』を果たすことになった影狼は、人里の大通りのど真ん中で、赤蛮奇に向かって声を荒げてしまう。
それがさらに周囲の視線を集めてしまって、慌てて、視線をうつむかせる彼女。
「わたしのような子供と違って、立派な体をしているのだから、まずはそれを誇るといい。
妖の見た目は千変万化するが、固定された観念はそのままだ。
わたしは、君のような姿にはなれない。結構、うらやましい」
頭の後ろで手を組んで、すたすたと、赤蛮奇は歩いていく。
慌てて、『待って待って』とそれを追いかける影狼である。
「……足下すーすーする……」
「あんな長いスカートを、普段から履いてるからだ」
さて、本日の影狼の服装であるが、簡単に言うと、春先であるのに露出度かなり高めというものである。
膝上20センチのミニスカートに、体のラインがぴったりと出るシャツにカーディガン。
妖としての彼女の本性を示すふさふさ尻尾はそのままに、慣れないヒールのある靴を履いて歩く彼女へと、里の人間(主に野郎ども)の視線が集中する。
「もっと顔を上げて、胸を張って。
情けないぞ」
「ひゃうっ」
ばしんと赤蛮奇に尻を叩かれて、彼女は飛び上がる。
言われた通り、勇気を振り絞って顔を上げるのだが、人々の視線とばっちりそれが絡み合ってしまい、かーっと頬が熱くなって行く。
「そんなでかい乳をしているのにうつむいていてどうするのだ。もったいない」
男どもの視線は、影狼の顔から、一歩歩くだけで上下にゆっさゆっさする胸部へと集中する。
恥ずかしさのあまり、半分、硬直する影狼の元へと、一人の男性がやってくる。
「あ、あの。今、お一人ですか」
年齢なら二十歳を少し過ぎた頃。
見た目だけなら、影狼とお似合いと言っていい男性だ。
勇気を出してナンパしにきた彼を前に、ぱくぱくと口を動かし、影狼。
まともに対応できない彼女を見て、はぁ、と赤蛮奇はため息をつくと、
「こら、君。
影狼はわたしの友人だ。彼女に声をかける時は、まず、わたしを通してもらおう」
と、二人の間に割ってはいる。
男性は最初、『何だこいつ』という、邪魔者を見るような視線を赤蛮奇に向けるのだが、
「……む、かわいらしい少女……か。
……ここは、俺が引き下がるべきだよな……」
と、赤蛮奇の見た目(ズボンとシャツ、首元を隠すためのストールという、ちょっと男の子っぽい格好)を見て、あっさりと引き下がった。
どうやら、彼は幻想郷における『紳士』の一人であったらしい。
「よかったじゃないか、影狼。いきなりナンパだ。うまい対応が出来ていれば完璧だったのだが」
「そ、そんなこと、で、できっ、出来るわけ……」
「よし、そうだ。そこの茶屋に行こう。
今日はいい天気だ。外で団子を食うのも悪くない」
影狼の手を引っ張って、赤蛮奇は近くの茶屋の前へ。
そして、店主に声をかけ、表の長椅子に腰掛ける。
「ああ、しかし、今日は影狼を里に連れてくることが出来てよかった!
大勢の人たちと、仲良くなれたらいいな!」
わざと大声で、彼女はそんなことを言ったりする。
すると、周囲の野郎どもが、赤蛮奇の『許し』を得たとばかりに殺到し、影狼を取り囲んだ。
「ふえ!?」
目を白黒させて、忙しなく、首を左右に向ける影狼。
自分に向けられる視線と声に、もはや処理能力の限界を超え、彼女の脳みそがフリーズしたようだ。
「ああ、こらこら、君達。
影狼に声をかけるのなら、まずはわたしを通せと言ったはずだ。
質問事項はここに書け。あと、彼女は今日が初めての人里だ。礼儀を見せろ。節度を持て。わかったな?」
片手にみたらし団子を持って、びしびしと、赤蛮奇がその場を仕切る。
すると不思議なことに、野郎どもは礼儀正しくその場に列を作り、影狼への『質問事項』片手に声をかけてくるから、幻想郷とはなんともいえないところである。
「ちなみに、乳のサイズとパンツの色は内緒だ。それを忘れるな」
赤蛮奇の一言に、野郎どもは、『サー・イエッサー!』と敬礼する。
ここに、『影狼ちゃんと仲良くなろうの会』がスタートした瞬間であった。
「……し、死ぬかと思った……」
「あの程度で、情けない。
せっかく、わたしが頼んだ団子も食わずに。全く」
店の店主が『いいよ。もったいないからな。持っていけ』と包んで渡してくれたみたらし団子片手に、憔悴しきった顔で、影狼が歩いている。
あの後、延々、30分ほど野郎どもに質問攻めにあったせいである。
赤蛮奇はにやにや笑いを、しかし、消すことなく、「だが、これで少しは耐性がついたんじゃないかな?」という。
「つくわけないでしょう……」
「だが、少なくとも、今、君は、顔を真っ赤にして歩いているようではないのだが?」
「疲れているだけよ!」
「大声を出す元気はあるのだな」
もう、とぷりぷり怒る影狼は、しかし、この里に初めてやってきた頃の『固まった』姿は見せていない。
ある意味、荒療治によって緊張をほぐされた彼女は、「こんなのが何の役に立つのよ」とぶつくさ文句を言っている。
「ろくに人と会ったこともない妖の分際で、このわたしに文句を言うのか。
それはいい根性だ」
「むっ」
「なら、わたしはちょっと、用事がある。
席をはずすから、君一人で、この里の中を、そうだな、小一時間ほどうろついていてくれ」
「ひっ!?」
「――冗談だ」
まだまだそんな度胸のない影狼は、慌てて、赤蛮奇の手を掴む。
にやりと笑う赤蛮奇は、「でかい態度をとるのは、まだまだ後だな」と一言。
それに反論できない影狼は、顔を赤くしてうつむくだけだ。
「さて、次は、人間の女なら誰もが大喜びでやる服選びだ。
わたしは君の服のセンスなんて知らないからな。わたしが選ぶと、またとんでもない服を着る羽目になるぞ」
「な、何で、服なんか……」
「君は紅魔館に行くのに、そんなカジュアルな服装で行くと言うのか?
いい年をしたレディなら、ドレスの一つも身に纏うのが基本だろう」
「べ、別に普段の服装でいいじゃない」
「よくない。
これは、君の社交界デビューだ。
見た目で、女に限らず、人は値踏みされる。まともな格好をしていないとなめられる。
なに、金ならわたしが出してやろう。幸いなことに、使わない金が山ほどある」
「……どうしてそんなもの」
「何、ちょっとした、智慧の産物さ」
とんとん、と自分の頭を叩く赤蛮奇。
その視線が辺りを回り、『そこにしようか』と、最近、人里で人気の『今までの里じゃ着られない洋服』があるお店へと向いたのだった。
「……ねぇ」
「何?」
「何で今日……」
「君の妖としての本性発揮は今日だろう」
満月の夜。
影狼が、最も、外に出るのを嫌がる日に、赤蛮奇は『紅魔館へ行こう』と彼女を家から連れ出した。
いやだと頑張る影狼を『ディナーの予約は入れたんだ』と連れ出して、今。
「う~……」
満月の日は毛深くなるから外に出るのがいやだ、という影狼は、半分以上、不本意な顔で列に並んでいる。
見事な意匠の、赤のドレスに身を包む彼女の隣には赤蛮奇。こちらは普段の格好である。
曰く、『わたしはこの服が平服だ』ということだった。
「私みたいな妖が来るのはおかしいって……」
「だが、あれを見ろ」
赤蛮奇の示す先には、身長3メートルを優に越す巨人の家族が三人。しかも一つ目――サイクロプスである。
「いやはや、以前、こちらにお世話になった時に、うちの息子が気に入ってしまいまして」
「そうなんですか。今日も楽しんでいってくださいね」
「いやはや、どうもどうも。はい」
「ちょっと、あんた。ぺこぺこしすぎないで。みっともないわよ」
どうやら家族で夕食を食べにきたらしい。
しばらくして、やってきたメイドに連れられる形で、彼らは『ずしーんずしーん』と地面を震わせながら歩いていく。
あの図体で、この屋敷のどこで飯を食うのかは疑問であるが、まぁ、何とかなるのだろう。
「ごきげんよう」
「こんばんわ。
赤蛮奇さんと……あなたは、初めてでしたね。影狼さん。
門番をやっております、紅美鈴と申します。まぁ、今では、お客様案内係のチーフみたいなことになってますが」
「は、はい! 初めまして!」
「ふーん」
にっこり笑う、門の前に立って客あしらいをしている美鈴が、影狼を一瞥する。
そして一言。
「美人ですね」
と言った。
「そうだろう?」
それを赤蛮奇が後押しする。
妖の証である『夜の狼』の変化となった影狼は、普段の、どことなく愁いを帯びた顔立ちは鋭くシャープになり、長く伸びた犬歯が唇から少し顔をのぞかせる。目は紅く爛々と輝き、鋭い、切れ長のものへと変化し、一瞬、受ける印象は『きつめの美人』である。
覗く腕は獣毛に覆われ、真っ白な、しなやかな手の先に伸びるのは鋭い爪。
そんな彼女が、顔を紅く染めて、視線をうつむかせているというのは、何とも言えず新鮮な光景である。
「彼女は自分の見た目に自信を持てないでいる。困ったものだ」
「それは大変ですね。
もったいない」
「だろう?
だから、わたしが、ちょっと一芝居演じてやって、彼女をこうして連れてきたというわけだ」
「うちの子達は、美人の人に憧れを持つ子が多いので。
きっと騒がれますよ」
「……うぅ~」
「ほら、もっと胸を張れ。その乳は飾りか!」
「きゃいん!」
また赤蛮奇に尻を叩かれて、影狼は悲鳴を上げる。
背筋を伸ばすと、美鈴並みの身長にスタイルの持ち主である彼女は、それだけで印象が大きく変わる。
やってきたメイドが『ごきげんよう』と頭を下げてくる。
彼女に挨拶をして、二人は、紅魔館の中へと歩いていく。
「……」
「美鈴の言うことは正しいな」
騒がずとも、入り口のホールの時点で、そこで仕事をするメイドたちが視線を向けてくるのがわかる。
その視線は、全て、影狼が独り占めである。
「こちらです」
案内されるのは、通称『紅魔館レストラン』の主体となる大ホール。
開かれた扉の向こうの光景を見て、影狼は沈黙する。
「本日のレストランは、ビュッフェスタイルとなっております」
「これは素晴らしい。今日はパーティーか何か?」
「はい。
お嬢様が、『みんなでわいわい騒ぎながら食べるというのも楽しいでしょ。参加する人募りなさい』と」
「なるほど」
言われて、影狼は、先日、赤蛮奇から渡されていた『今日のチケットだ』というのを取り出した。
――違う。
先日、わかさぎ姫からもらった『お食事割引券』とは違う。
そこには、『紅魔館立食パーティーへのご招待』という文字が書かれている。
「恐らく、お二方のお知り合いの方々もいらっしゃいますので。
その方達との交友を深めてみる、というのも」
「道理で、今日、表に並んでいるもの達の中に、着飾ったものが多い理由がわかった」
「もちろん、こちらに出られない方々も大勢いらっしゃいますから。
その方々は、本日は特別、個室でのディナーを楽しめるようになっております」
「あ、あの! 私も、そっちの方が……!」
「申し訳ございません。そちらのチケットは、このパーティー専用のものでして。
変更の際には、多少、お時間と追加料金がかかってしまいます」
「言っておくけど、今日、あの場に払った以外の金は持ってきてないぞ」
赤蛮奇の一言に、影狼は痛感する。
『騙された』
――と。
「……どうしろっていうのよ、もう」
赤蛮奇は、『あっちに、わたしの知り合いがいた。一人で楽しんでいてくれ、影狼くん』と、あっさり、影狼を見捨ててどこかへ行ってしまった。
知り合いも友人も、その欠片の気配すらないこのパーティー会場に、ぽつんと一人、取り残された影狼は、とりあえず壁際へと移動する。
そこで、まともに顔も上げることも出来ず、黙って立っていると、
「失礼します。
お客様、お飲み物はいかがでしょうか?」
「……あの、お水ください」
「畏まりました」
それを見て取ったのか、会場で料理を補充したり、空いた皿を下げたりしていたメイドが一人、声をかけてきた。
にっこり微笑んだ彼女は、冷たい水の入ったグラスを影狼に手渡してくる。
「あちらにお料理がございます。
制限時間は2時間です。足が疲れたりしましたら、向こうにお席もご用意しておりますので」
「……はい」
「ごゆっくり」
メイドがぺこりと一礼して去っていく。
その堂々たる振る舞いに、はぁ、とため息をついて、影狼はとりあえず料理を取りに移動する。
「さっさと食べて帰ろう」
制限時間2時間と、彼女は言っていたが、何も2時間、この場に拘束される理由はない。
さっさと食べて、さっさと帰ってしまえばいいのだ。
幸い、会場への出入りは自由。逃げるのは簡単――のはずだった。
「お嬢さん、お一人ですか?」
「はひっ!?」
料理をお皿に載せて、ちまちま、口元へ運んでいた彼女の前に、なかなか着飾った男性が一人、現れる。
「お美しいお嬢さん。どなたかとご一緒ではございませんか?」
「あ、あの、私、その、えっと、一人で……」
「それはもったいない。
――いや、実は、私も一人ものでして。
しばし、お話、いかがでしょう?」
ナンパされた。速攻で。
男性の年齢は30歳くらい。気配からして、人間だろう。
このパーティーで、『生涯の伴侶』でも探しに来たのか、多少の強引さを見せながら影狼へと接してくる。
影狼は、『い、いえ、あの……』としどろもどろになるばかり。
すると彼は、この女性は責めれば『行ける』と判断したのか、さらに饒舌になる。
半分、影狼が涙目になって縮こまっていると、
「君、彼女が困っている。あまり強引なことをするのはやめなさい」
と、横から第二の勢力登場である。
振り返ると、これまた見事な質の着物に身を包んだ男性が立っている。こちらの年齢は40ほどか。
こうした社交場での礼儀もわきまえていそうな彼は、
「美しい花は、そっと優しく愛でるものだ。無理に手折るものではない」
と、先の男性に説教をした後、影狼を振り返る。
「お嬢さん、こうした場は初めてですかな?」
「……は、はい」
「そうですか。
ならば、緊張するのも無理はない。
――おっと。そちらの彼と違って、私はあなたをナンパするつもりはない。何せ家族がいる」
「俺もそろそろ、と思ったんですけど、やっぱ強引でしたかね」
「当然だろう。
女性の顔と仕草から、男はそれを察するものだ」
「……あの、私、妖怪なんですけれど……」
「ははは。
なぁに、気にすることはありません。私らは、そうした、妖怪と接することに興味と快楽を覚える変わり者です」
「わはは、確かに。いいことを仰る」
「若いの。君はなかなか、見所がある。このようにお美しいお嬢さんに、まずは声をかける――私の若い頃とよく似ている」
「そうですか? そんなもんですかね」
「ああ。どうだ、君。今、どんな仕事をしている? こうした場で会ったのも何かの縁だ。うちの仕事に興味はないか?
ふふふ……驚いているかい? こういう社交場で、なかなかいいものを持っているものを雇うのが、私の趣味だ」
――今のうちだ。
影狼は、相手の話が違う方向へシフトしているのを察して、「あ、あの、失礼します」とぺこりと頭を下げた。
すると、彼らは『ああ、また後で、お時間があれば』『強引に声をかけてすいませんでした』と笑って、影狼を解放してくれる。
ほっと一息ついて、そそくさと、その場から去っていく。
とにかく、誰にも声をかけられずにすみそうな場を探してあちこちきょろきょろするのだが、どこもかしこも人ばかり。
これはもう、椅子に座って、黙って食べているのが一番か。
それを判断して、彼女は、『もうやけくそ』とばかりに大皿に料理を山盛り持って、空いている席へと移動する。
「いただきます!」
大声で宣言して、お食事開始。
この彼女、こんな見た目と性格だが、なかなかの健啖家でありご飯は丼山盛りどんとこいである。
「……見事だ」
「うむ。あの見た目であのような……」
「ご飯を美味しそうに食べる女性は美しい」
あちこちで、そんな声がちらほら上がっていたりする。
逆に自分が注目される存在になっていることなど気づきもせずに、皿の上の料理をあっさり平らげた彼女は、『さらにもう一つ』とばかりに立ち上がる。
「あれ? 影狼さん」
「あ……!」
そこへ、救いの女神が登場した。
彼女に声をかけてきたのは、犬走椛という天狗の少女であった。
彼女と同じように、普段は見せないドレス(のようなもの)で着飾っているのだが、その中身は、いつもと全く変わらないようだ。
「こんなところで会うなんて。奇遇ですね」
どん、と椛は片手に持った大皿を、影狼のテーブルへと置いた。
そこにも、山盛りの料理。
「椛ちゃん……! 助かったわ……」
「へ?」
「待っていてね! 今、私も持ってくるから!」
「あ、はい」
椛に『おあずけ』させて、影狼はテーブルへダッシュする。
そして、また片っ端から大皿に持って戻ってくると、
「紅魔館の料理は本当に美味しいですよね」
「ええ。そうね。
普段は食べることがない味ばかりで新鮮」
「わかります。
こういう、『洋風の味』なんて、私の周りでも作れる人は限られてますから」
と、楽しく談笑しながら、山盛り料理を軽々と平らげていく。
「……なんと!」
「これは見事……!」
「彼女たち、一体、何者なのだ……!」
また違う方向から注目されていることなど、二人は気づきもしないで、皿の上を空っぽにする。
「私、まだ4皿目なんですよ」
「私はまだ二枚目よ」
「じゃあ、まだまだ余裕ですね」
「もちろん」
彼女たちのセリフに、その場の空気に戦慄走る。
普通の人間なら、三人前……いや、四人前には匹敵するような料理を平らげて、『まだ余裕』があるのだという。
しかも、彼女たちは、その皿を一枚平らげたのではない。
すでに、この時点で『何枚も』平らげているのだ。
「むぅ……! 何という……!」
「見ていると腹が減るような食べっぷりだな」
「ああ。素晴らしい」
「よし、俺達も食おう」
徐々に、二人に注目する視線が増えているのだが、やっぱり二人は何も気づいていない。
「今日は、影狼さん、どうしてここに?」
「ちょっとあって……。
あなたは?」
「私は文さんとはたてさんの付き添いです。
何でも、このパーティーの取材をするとか」
「どこかに行ってしまったのね」
「そうなんです。
で、お腹が空いたので」
「そうね。そうね」
影狼は、今、心底ほっとしていた。
この椛と仲良くなったのには紆余曲折あるが(一番は、同じ『イヌ科』の妖怪であるというところだが)、影狼にとっては数少ない、気負わずに話せる友人である。
何事にも素直で真面目で屈託のない彼女と話している時は、自分の性格を忘れられるのだ。
これを幻想郷では『もみもみ効果』と呼ばれていることを、影狼はまだ知らない。
「ああ、椛さん。こちらにいたんですね」
「椛……と、えっと……影狼だっけ?」
「……あっ」
しかし、その時間は、長くは続かなかった。
取材を終えて戻ってきたのだろう、椛の友人である射命丸文と姫海棠はたてといったか、二人の天狗の視線を受けて、影狼は硬直する。
「おお! これはまた美しいお姿!
影狼さん、一枚、ぜひ!」
「い、いや、あの……」
「こら、文。やめなさいよ」
「もったいないじゃないですか、はたてさん!」
「その気持ちはわかるけど」
「フルカラーで一枚、新聞の……そうですね、二面くらいにまけておきますので!」
「あ、あの、えっと……!」
「……ったく。
一枚だけ撮られてやってくれない? こいつうるさいのよ」
「影狼さん、ぜひ、ぜひ、ぜひ!」
カメラのレンズ向けて迫ってくる文に、影狼の顔が真っ赤に染まる。
写真に撮られる。新聞に載せられる。イコール、今の自分が幻想郷に『ばら撒かれる』。
そんなの、冗談ではない。
慌てて立ち上がり、影狼は『そ、それじゃ、私、これで!』と逃げ出そうとするのだが、普段、履きなれない靴を履いているせいか、その場でバランス崩してすっ転ぶ。
果たしてその瞬間、『危ない!』と差し伸べられた手の持ち主へと、影狼は視線を向ける。
「Hello,Lady.
今宵の宴は楽しんでいるかな?」
気取った仕草の赤蛮奇が、そこにいた。
「大丈夫ですか、影狼さん」
「こら、文! あんたのせいよ!」
「いたたた! はたかないでくださいよぅ!」
天狗三人が何やら騒いでいるのを横目に、赤蛮奇は、どこでもらったのか持ち出したのか、仮面舞踏会のそれに使うマスクをすっと外して、
「何をやっているんだ」
と、にやり、笑ったのだった。
「ナンパにあっては逃げ回り、友と会ってはやけ食いし。
やれやれ」
「う~……」
「しかし、こういうにぎやかな場を、なぜ嫌う?」
赤蛮奇は片手にワインを取り、気取った仕草でそのグラスを傾けながら、隣の影狼に尋ねる。
にぎやかな会場から少し離れた壁際に背を預け、やれやれ、といわんばかりに。
「……だって、その……恥ずかしいじゃない」
「何が恥ずかしいのやら。
わたしにはそれがさっぱりわからない。
見た目を気にしているというのなら、わたしからすれば、それはいやみだな。
そんな立派な見た目と体をしている君と違って、わたしはずっと、このままなんだぞ」
「……うぐ」
「別に匂いがおかしくなるというわけでもあるまいに。
着飾った服に隠してしまえば、何も見えるものなどないのに」
もっと楽しんだらどうだ、と彼女は言う。
「楽しいことは世の中数あれど、参加するものが、それを『楽しもう』と思わない限りは苦痛なだけだ。
君のような、『食わず嫌い』はあまりよくないな」
「そ、それは、あなたの持論でしょう。
私は、その……し、静かに暮らせれば、それでいいのよ」
「飾ることをしても、誰にも見られないのであれば、それはそれでいいかもしれないな」
赤蛮奇は視線をめぐらせる。
そして、何かを見つけたのか、『ちょっと待っていてくれ』と、その場を去った。
何を見つけたのか、と首をかしげて影狼が待っていると、彼女は一人の少女を連れて戻ってくる。
「こんばんは!」
笑顔で声をかけてくる小さな女の子に、影狼は一瞬、言葉に詰まったものの、さすがにこのような子供を相手に恥ずかしがっていてはおとなげないと思ったのか、『こんばんは』と笑いかけた。
「君は彼女をどう思う?」
「きれい!」
その少女は即答した。
影狼を見上げて、何が嬉しいのか、にこにこと笑っている。
「こんな女性になるのは難しい」
「だけど、きれいだよ!」
向けられる純粋な視線と言葉に、影狼は口をつぐんだ。
ゆっくりと膝を曲げて、少女と同じ目線になると、『ありがとう』とその頭をやさしくなでる。
「フランドール様、そろそろお部屋に戻りますよ」
「はーい!」
後ろからかけられる声に少女は返事をすると、くるりと振り返り、その場を走り去っていった。
その姿を見送って、軽く手を振っていた影狼に、赤蛮奇が「悪いものではないだろう」という。
「こういう場でなければ味わえないものなど、他にもたくさんある。
一人、竹林の奥に暮らしていて、それで生涯を終えるのか。
それとも、もう少し、社交的になってみるのか。
それは君の自由だがね」
「……ふん」
頭の上からかけられる声に、影狼は膝を伸ばして立ち上がる。
軽く伸びをしてから、
「子供を使うのは卑怯だわ」
「卑怯だろうと何だろうと、有効な手段は余さず使うのが、弱いものが強いものに勝つための手段だ」
「あんたらしい」
「そうだな。自分でもそう思う。
しかし、君に、こうしたにぎやかな場に慣れて欲しいという思いは変わっているわけではない。
今度はわたしのようなひねくれものではなく、姫を連れてくればいい。
もちろん、エスコート役は君だ」
「……それはそれで」
たはは、と言わんばかりの笑みを浮かべて、影狼は頬をかいた。
あの、誰に対しても悪意を見せない『お姫様』の扱いは、あれはあれで難しいのだ。
「普段の君が、あの少女に『きれい』と言われる存在であるかどうかについては、わたしは何も言わないよ。
だが、可能性は0ではないな。どちらにせよ」
「そうね」
「もっと友人を増やせ。それだけだ。
じゃないと、わたしみたいなひねくれ者はさておき、姫みたいな人のいい奴まで、君のことを心配するぞ」
壁から背中を離して、赤蛮奇は歩いていく。
陽炎は一瞬、ぱちくりとなる。赤蛮奇の表情はうかがい知れなかったのだが――。
その後ろ姿にため息一つ。
「そういう押し付けが困るのよ。人には人の生き方ってあるんだから」
つぶやく影狼。
その視線は、ホールの一角にある、大きな柱時計に向く。
ここに入場してから、まだ1時間。あと1時間の余裕がある。
「お腹すいた。
料金分のご飯、食べていきましょう」
彼女もその場から歩き出す。
目に映る、色とりどりの料理を眺めながら、その視線を辺りに向ける。
人の視線が時たま絡み、影狼の方に会釈をするものがいる。
それに、彼女は言葉に詰まって動きを止めそうになるものの、ぎこちない、ぎくしゃくとした動作で手を振った。
「馬鹿にされっぱなし」
そう、小さくつぶやいて。
「影狼ちゃん。紅魔館はどうだった?」
「料理がとても美味しかった」
「そう。よかったわ」
後日。
わかさぎ姫と話をする影狼は、いつもの服に身を包み、湖のほとりに腰を下ろしている。
わかさぎ姫は水面から顔を出し、草の上に肘をつきながら、『楽しかったみたいで何よりだわ』と微笑んでいる。
「赤蛮奇ちゃんは?」
「今日は暇じゃないから君に付き合えない、だって」
「あら、そうなの。大変なのね」
「……さあ」
彼女の視線は紅魔館に向かう。
今日も館は人が並んでいる。相変わらずのにぎやかさ。そして、楽しさが、そこにある。
妖精たちが、館の前で遊んでいる。その相手をしているのは美鈴か。
「楽しそうだわ」
「そうね。
ああいうにぎやかなところ、私は大好きよ。
普段、静かなところに住んでいると、ああいうのが懐かしく……って言うか、羨ましく思えるの」
くすくす笑うわかさぎ姫に、影狼は視線を移す。
彼女は服のポケットを探ると、二枚、チケットを取り出した。
「自分で作るよりも、あそこの料理はずっと美味しいの。
ご一緒にいかが?」
そう言って、軽く笑いかける影狼の笑顔は、どこかぎこちなく、そしていつもより、少しだけ柔らかかった。
「あら、いいの?」
「ええ」
「そうね。
それじゃ、私も、初めてだから。影狼ちゃんに案内してもらおうかしら」
よいしょ、と水の上に上がってくるわかさぎ姫。
ぱちゃぱちゃと水を揺らしながら、「だけど、どうして?」と尋ねてくる。
「ほら、あそこ、ご飯が美味しいし。
それに、あなたは人当たりもいいし、一緒に連れていて苦労しなさそうだから」
「……ふーん」
「どう?」
「もちろん」
にこっと笑って、彼女は答える。
「影狼ちゃんからの誘いは断らないわ。
それに」
「それに?」
「何だか、前よりも、影狼ちゃんの笑顔がかわいいの」
その一言で、影狼の顔がぼっと燃え上がる。
慌てて、自分のほっぺたぺたぺた触って「そ、そんなにおかしい顔してた?」と恐る恐る尋ねる彼女。
わかさぎ姫は『違う違う』と首を左右に振ってから、
「さすがは赤蛮奇ちゃんね。
影狼ちゃんの魅力をうまく引き出したわ」
「……へっ」
「なーんて。
うふふ。そうね。そう。
いいわね。いいわ。そうしましょう」
何が嬉しいのか。
そして、彼女は何に納得しているのか。
両手をぱんと打ち鳴らし、彼女は笑顔で首肯する。
「賛成」
差し出される掌に、とりあえず、自分の掌を合わせる影狼。
ぱん、と軽い音がする。
「成功」
「え?」
「日が決まったら教えてね。
一緒に、ご飯、食べに行きましょう」
「え……? え、ええ……」
何が何やらわからない、といった風の影狼に手を振って、わかさぎ姫は水の中に消えていった。
一人、取り残された影狼は、しばし、その場で膝を抱いていたものの、やがて立ち上がる。
「……失敗した?」
わかさぎ姫の笑顔とは正反対に、何か自分にとってうまくいかないことがあったのではないかと、不安になる影狼だった。
ところでタグと本文に一箇所づつ陽炎って誤字?わざとですか?
かわいい
恥じらい美人、最高でございます
・・・地味にもみもみもよかったな。