それなりに長く生きてしまうと、知恵が付いてくるからいけない。僕はぼんやりしていた。ぼんやりしているだけの毎日だったのに、ある時からふっと、僕は僕自身がそう長くもちそうにない事を悟ってしまった。
僕が以前のように何も知らないままだったなら、あぁなんだか最近調子が良くないみたいだから、しばらく出かけて様子を見よう、で終わるところなのだ。でも、残念ながら、僕は猫としても普通ではないくらいに、少し生き過ぎてしまった。妖怪ばかりの屋敷にいたからだろう。
僕は妖獣と呼べるほどのものではなくて、ただ、たぶん、三十年だか四十年だかくらいは生きていて、それは猫にしてはえらく長命過ぎるけど、妖怪としてはえらく短命過ぎたのだ。
死期を悟った僕は、屋敷の主に手間をかけさせるのも、これまでの多少の御恩を仇で返すようなので、良くないな、と思っていた。だからその居心地の良い場所から離れる事にした。
屋敷の主は最初、なんにも言わなかった。このひとは変なひとだから、誰が何を言わなくても、全部捕まえてしまう。心の小さな揺らぎさえ、このひとの前では丸裸だ。
餌仲間のみんなはこのひとを怖がったり嫌ったり、あるいは逆もあったりと好き好きにしていたけれど、このひとはそんな僕らの感情なんかとお構いなしに、ただ毎日黙って餌とミルクをくれるひとだった。冬にはこの辺りは随分冷えるから、温かいスープと毛布をたくさん用意してくれるひとだった。僕はいつも心の中でありがとうございますって思ってたのだけど、伝わっていただろうか。何せあのひとはなんにも言わないひとだから判らないけど。
だから、その時、僕に投げかけられた言葉は、僕にとっては初めての言葉だった。そのひとから、初めて僕は声をかけられたのだ。
「亡くなるのですか」
そういう事を聞いてくるなら、もっと神妙な顔をして言ってくれても良いのに。そのひとは、いつも通りの無表情だった。このひとが無表情以外の顔をする時なんて、見た事ないけど。
「待っていて」
僕はそこでちょっと驚いた。某かをそれ以上言われるなんて思わなかったからだ。そのひとは待たせる割にはまったく急ぐ様子もなくどこかへ行って、帰って来た時には紐と何かを手に持っていた。
「猫に、どれくらいの舟賃が必要なのかは知らないけど」
そう言って、薄くて柔らかそうな黒い紐にお金を通して、僕の首に軽くかけてくれた。僕はやっぱり驚いて主を見る。僕は世の中のお金の価値がどういったものなのか、今首にかけられたお金がいくらぐらいするのかなんてまったく知らないけれど、それだけの事をしてもらえる身分でない事くらいは、よく承知していたつもりだからだ。
僕は決してこのひとに飼われていた訳ではなかった。屋敷にだって、餌をもらう時と雨風を凌ぎたい時以外には来なかった。僕の事を僕だと認識している訳でもないだろう。
それに何より、これはちょっぴり酷い言い方だけれど、このひとは全然、本当に全然、そんな事をするようなひとにはこれっぽっちも見えないのだ。
僕のそんな気持ちは見え透いていただろうに、そのひとは何も答えなかった。表情もやっぱりいつもの無表情のままだったし、視線なんて結構冷たかった。
でも、僕の頭を二度ほど撫でて、それきりどこかに行ってしまった。
屋敷の主とはそれきりだ。でも、僕は、最期に会うひとがあのひとで良かったなって、それだけは確かに思った。
僕は思い残す事もないのでてくてく歩いていた。歩いていると、いつの間にか薄暗い地底から、明るい地上に出ていた。そうか、地上ってこうも明るいのか、困ったな、などと僕は思っていた。長い地底暮らしで、こんなにも眩しい陽射しには耐えられなかった。
地底に帰ろうかと少し迷った。でも、と僕はかぶりを振る。なんとなくそんな気にはなれなかった。僕は僕の足で地底を出たのだ。ならば死に場所は、このまま辿り着いた終着点にしよう。果てまで歩いてみよう。それは僕のちょっとした冒険だった。緩やかで穏やかな死出の旅だった。
「お金持ちな猫なのね」
僕の死出の旅は、早速出端をくじかれた。
白いんだか緑なんだかどちらとも取れるような不思議な髪色をした女の子が、僕の首にかかったお金をちろちろと触った。困る。別に今更どうこうされたって後は死ぬだけだから良いのだけど、折角もらったこのお金を盗人に取られて終わるのはなんだか癪に障る。
「お兄さんどこから来たの? あぁ、えっと、お姉さん?」
お兄さんだよ。でもどう見たって目の前の女の子は妖怪で、だって胸に変な目玉あるし、どう見たって僕より歳上なのだ。
「どっちでも良いや。ねぇ猫、どこから来たの? ひとり?」
下手なナンパに付き合っているみたいだった。こういう時、屋敷の主みたいに話の判る相手の方が楽だなぁ、と思う。でも明らかに妖怪の彼女に僕が勝てる道理はないので、僕は逃げられもせずその場に立ちすくんでしまった。逃げようとした瞬間殺されては敵わない。
「貴方、どこに行くつもり? ちなみに私はどこにも行かないつもり。どこにも帰らないつもり。つまり、ここにいるつもり」
なんだか変なひとに捕まっちゃったなぁ、と不運を嘆いた。僕にはそんなに時間がないのに。僕は死にに行くつもりなんだよ。だからほっといてよ。死に場所を探しに行くんだ。ひとりが良いんだよ。
「貴方、死ぬの?」
いきなり会話が通じたみたいで、びっくりした。何ほどもさっきまでは意思疎通できなかったのに。女の子のまあるい瞳が僕を見ている。泥んこの眼だな、と思った。綺麗なお洋服を着ている可愛い女の子なのに、眼だけが、泥まみれだ。
「付いて行くわ」
さっきまでここにいるつもりって言ってたのに。でも、その女の子の表情が、さっきまでのふわふわしたものから急に大人びて怖くなって、僕は逃げるように両足を前に出した。走り出す姿勢だ。きっとこの子は、僕を殺したりしない。でも同時に、この子からは逃げられない。僕は死ぬまでこの子に観察される。
そんな恐怖が、いっぺんにやって来て、振り払うように走った。
命を燃やすように、走った。
†
妹が急に帰って来たと思ったら、猫の死体を抱いて帰って来たので、私は一応「どうしたんです」と声をかけた。
「紅魔館の湖まで走ったわ。でも、それからよたよた歩くようになって、何日くらいかなぁ、ずぅっと歩いてたんだけど。ある日急に歩かなくなって、そのまんま」
「死までの経過を聞いたつもりはありませんでしたが、そうですか」
死体の首にかかった物を見て、またか、と息を吐いた。舟賃をかけた動物の死体を、一体今まで何体、彼女が持って帰って来た事か。
「もうここから出ても良いというつもりで彼らにそうして渡しているのに、どうして貴方、逐一連れ帰って来るんです?」
妹の瞳が私を見つめる。何も見えぬ瞳。何も語らぬ瞳。死を直視し過ぎると、そうなるのだろうか。地獄に生きる私より尚、その瞳は死を直視している。向き合っている。生よりも死に、動よりも静に、彼女の関心が向くようになったのはいつからだろう。
「お姉ちゃん、寂しく、ないかなぁって」
胡乱な彼女の言葉の意味が、私にはよく判らない。
「いいえ」
「そっか」
彼女はまた一層腕の中の猫を愛おしそうに抱きかかえる。死体のこうべに頬を摺り寄せて、「そっか」とまた繰り返す。壊れた時計のようだ。
「じゃあ、きっと、お姉ちゃんに、寂しくなって欲しいんだわ」
やっぱりその言葉の意味する所が判らなかったので、私は判然としない様子で、「そうですか」と答える他になかった。
寂しいという言葉の意味を、理解できなくなったのは私か妹か、どちらが先なのかも、よく判らないままだった。
おわり
相変わらず、寂しさと暖かさがある雰囲気で良かったです。
短いのに十分な読み応え、素晴らしいです