俺の名前は小里 或司(おり あるじ)。至って普通の男子高校生だ。
突然だけれども、俺は今非常に困惑している。
「何処なんだよ、ここはッ!?」
静かな獣道に、横たわる俺の咆哮がこだました。
~少女遡行中~
彼が「ひょんなことから幻想入りしてしまう」一週間前の夕方頃のこと。
霧雨魔理沙の招集により、幾人かの人と妖が博麗神社に集まっていた――その人数は普段の花見などよりも遥かに少なかったけれども。
博麗霊夢は最初はどうしてウチでやるんだと溜息混じりであったのだが、もはや何かをするための集合場所は博麗神社というのが共通認識になってしまっていたものだから諦めてしまっているらしく、結局霧雨魔理沙たちを追い出すことはせず、けどお茶は出さないから、といって今では部屋の片隅で不貞寝している。
霧雨魔理沙はそんな彼女を構うことすらせず、風呂敷から四冊の本を取り出した。装丁は古書ばかりが出回る幻想郷に住まう者たちにとってはそれだけで目を引く程の小綺麗さであったのだが、そもそもそんな評価を下せるほど多くの本を読んでいる者がこの場に一体何人いるのかは定かではなかった。
重厚な魔道書のような重みや凄みこそ感じられないが、小規模にまとめられたフォーマルなイメージの本。まだ製作されて間もないことが、黄ばんでいない本文から伺える。ここにビブロフィリアの貸本屋がいたならば講釈が始まっていたのだろうけれど、霧雨魔理沙はそれを見越していたのかどうなのか、彼女は招待していないようだった。
兎も角、その場は少しばかりざわめき立った。座敷に並べられた本に、なんだなんだと注目が集まる。
「外の世界の小説本だ。とりあえずパラパラと捲ってみれば、私が皆を集めた理由もわかって貰えると思う」
その言葉を受けて、霧雨魔理沙の右隣に座っていた上白沢慧音が、おもむろに一番近い場所に置かれた本を手に取る。皮切りに、アリス・マーガトロイド、十六夜咲夜、東風谷早苗の三人が各々本を手に取った。それぞれの近くに座る者が三人を横から覗き込む形になり、少しずつざわざわと話し声が大きくなる。
「『俺が幻想入り』……どういうことだ、これは?」
上白沢慧音が訝しげに表紙と裏表紙を見つめてみるが、しかし、彼女にとって理解のヒントとなる部分は見当たらなかったらしく、真剣な眼差しで一頁目を捲った。
「こっちのタイトルは……『東方俺奇譚』……?」
と、アリス・マーガトロイドが続く。最も真新しい文庫本を開いたが、絶句といった感じに固まってしまう。
「ねえ……これって……」
アリス・マーガトロイドの顔が青ざめていく。霧雨魔理沙が、その反応を見て、何が楽しいのか、にやにやと笑みを浮かべた。
「ああ、気付いたか」
数頁の前置きがあったようだが、上白沢慧音にも合点が行ったらしく――しかし、俄かには信じられなかったことなのだろう、恐る恐る、彼女は顔を上げた。
「私達の幻想郷は、外の世界に周知されている」
適当に頁を選び中盤を斜め読みしていた東風谷早苗が本をぱたりと閉じてそう言うと、その場の全員から思い思いの声が上がり始める。なんだそれは、外の世界はどうなっているんだ、エトセトラエトセトラ。隅で寝転がっていた博麗霊夢にすらその言葉は衝撃的だったようで、ごろりと寝返りを打って中央に這い寄り、近くにいた十六夜咲夜の肩を掴むと体を起こして、後ろからぬっと彼女の手の中にある本を覗き込んだ。
「ここには残念ながら、外の世界に日常的に行き来している者はいない……しかし、早苗、お前は何か知らないか?」
お前は現代から引っ越してきたんだろう、と霧雨魔理沙が東風谷早苗の方に目配せしたが、当の彼女は首を横に振りながら手を肩の高さに上げて「お手上げ」のポーズを取るばかりだった。
「少なくとも私は、こんな世界は知りませんでした」
その他大勢ががっかりした声を漏らす。
「……って誰ですかどさくさに紛れて舌打ちしたの!」
東風谷早苗は小さな物音も聞き逃さなかった。牙を剥いた狂犬のような顔をして周りを見回す彼女の肩を、霧雨魔理沙がぽんと叩いて諭す。
「まあそれは後でもいいさ……実際、お前は役に立たなかったしな」
「なんでそんなに辛辣なんですか!?」
目に涙を浮かべて後ろを見返る東風谷早苗。感情がとても直接的に顔に出るタイプのようだ、見ているだけでも面白いわね、と誰かが小声で言った。辺りに掻き消されたのか東風谷早苗に聞き取る余裕がなかったのか、流石に今度の声は東風谷早苗に届くことは無く、部屋の空気に消えていく。
「……でも、この世界が知られていること自体は、別に重要じゃあない。存在が知られているだけならば」
上白沢慧音から本を受け取ったらしい八意永琳が、鋭い目線を霧雨魔理沙に向けながら口を開いた。それまでずっと黙り込んでいたのだが、彼女はその間の僅か数分にして一冊を読み終えたらしい。もっとも、文章は全くもって重苦しくなく、むしろかなり易しい部類だったから、妖精なんかでも読める代物だったであろうけれども。
「流石だな、月の頭脳」
月の頭脳たる彼女に対して、流石だな、なんて口を利けるほど霧雨魔理沙の脳は発達していないのだが、今回ばかりは自分が仕切り役で自分が主役なんだという流れを切らない為に、実は数日前から自分で話をまとめたり対話をシミュレートしたりといった入念な準備を施しており、普段よりも更に彼女の態度は尊大だった。
堂々たる口振りで八意永琳を指差して、パチン、と指を鳴らす。すかさず八意永琳が口を開いた。
「ここに知られている幻想郷は正しくないから」
霧雨魔理沙が説明するよりも八意永琳に進行してもらった方がより要領を得た解説ができそうではあるのだが、しかし生憎にも彼女には未だ人望が無く、それを自身も理解しているのだろう、それだけ言うに留めて霧雨魔理沙の方に話を促した。
「そういうことなんだ。私達が住まうこの理想郷たる幻想郷は、幻想でなきゃあいけない。外の世界に私達が解き明かされてしまった時。それが本当の、私達の世界のおしまいだ」
霧雨魔理沙が力んだ口調で話を続ける。ピンと来る者来ない者、もう既にこの後の流れがわかる者わからない者。反応は実に千差万別であった。
「で、ここには持ってきてこそいないが……実はこれだけじゃなくてな。画集、漫画、果ては『ゲームソフト』に至るまで……我々の世界は、あらゆる外の世界の娯楽に組み込まれてしまっている」
「ちょっと待った」
事前に、それこそ練りこんだであろう彼女の得意気な台詞を遮ったのは、意外にも伊吹萃香であった。お前はこの話を理解していたのか? なんて野次は、彼女には届かなかったらしい。彼女は自分の言いたいことを言うことで頭がいっぱいだったのだから。鬼とはえてしてそういう生き物だ。
霧雨魔理沙がふてぶてしく鬼を見やる。何がだよ、と不平を呟く霧雨魔理沙に、こちらも堂々とした口調で問うた。
「私達の世界が外の世界の人々に知られてることは最早認めざることを得ない事実だって、アンタの言うことが本当のことだって、とりあえず、一旦仮定しよう。だったとして、何故私達の生活が、まるで――いわば『創作物』みたいな――そんなものとして文や絵にならなきゃならないのさ。日本の中に幻想郷がある、その程度のことが……そうだ、その程度のことなんだよ、私達なんてのは。外の世界の奴らと同じように、ただここで生きているだけで、どうして、それが私達の知らないところで発表され、流通しなければいけないんだ」
その通りだとでも言わんばかりに、八意永琳が遠くで大きく首肯する。その通り、誰だって、隣人が自分の生活の臭気を文章にしたためていれば気色の悪いことだと思うだろう、彼女の疑問は真っ当なものであった。
「私も幾つかの書物を読んでみたんだが……それに関しては、実質的な答えが出ていないに等しい状態だ」
そこで一旦、溜め。
霧雨魔理沙はどうやらしかし何か確信的な続きを、やはり入念な事前準備の賜物として、作り上げてきていたらしい。その程度のことは、想定の範囲内。むしろ曲者ばかりが集められたこの場において、霧雨魔理沙へのヘイトもとい訝しみや疑問点はどうせ矢継ぎ早に出てくるに決まっていたのだから、人間の中では比較的賢明な脳髄によって答えを推測することは、不可欠なことですらあった。
「しかし、推測ならばある」
左右へとわざとらしく数歩ずつの往復運動を始めながら、腕を振り、大袈裟なジェスチャーを伴って彼女は続けた。
「先に結論を言うと、幻想郷はそのまま創作物だったんだよ。この世界は箱庭なんだ……虫篭と言い換えてもいい。シャーレやプレパラート、なんて言ったほうがそれらしいが、ここでは一般的な喩えを用いよう。結界によって区切られた内側の我々の生態を、外の世界の奴らは観察し、研究していたと見ていい。そして我々は妖怪鬼人魑魅跋扈、そのままUMAのような物として、一部の巨大なナニカが私たちをここに生き永らえさせている。そしてそれ以外の奴らが伝える伝承、よく知らない者たちによる伝記。まことしやかな都市伝説、騙されたくなる憶測。それが、これだっ!」
立て板に水、そんな長い台詞を一言も噛まずに勢いよく言い切る霧雨魔理沙。台詞が終わると、最も近くにある、アリス・マーガトロイドが持っている本を受け取り高く翳した。
「まあ確かに」
今度に口を挟むのは、今まで黙りこくっていた博麗霊夢。
「今まで言ってたことは、まあそれなりに整合性が取れてるわ。けれど、まだいくつも説明しなきゃいけないことが残ってるでしょ。さしあたり、なんで私等がそんなことのために呼び出されたのかって話とか。アンタの仮説がたとえ正しかったとしても、そんなことを無闇に公表したって私たち住民の不安が煽られるだけじゃない。まさか自分の考えを皆にひけらかしたかっただけなんて言わないでしょ?」
その通り、霧雨魔理沙は勿論、その辺りもちゃんと説明するつもりだった。幻想郷住民は一見のほほんとしているが、一旦興味を持ったらそれ以上は待つということを知らない者が殆どだ。例として、博麗霊夢は普段は縁側でうつらうつらと無為に時間を過ごしているというのに、異変が起きたとわかった途端に出会う者を片っ端からばったばったと薙ぎ倒す殺戮マシーンに豹変するというようなことがあげられる。
「そう慌てるなよ、寿命が縮まるぜ。如何にも人間らしくな」
「む」
なんて前置きをしてから、霧雨魔理沙は先ほどの勢いを保ったまま再度口を開く。
「そうだ、私も同じく不安なんだよ。この幻想郷が壊れてしまわないか――な」
にやりと笑う。如何にも魔女らしく。
「先に霊夢からの熱い要望にお応えして答えを言おう。みんなに集まってもらったのは、これからの幻想郷を守るための要望を伝えるためなんだ。答え自体は割かしシンプルなんだが、しかし如何せん話が突飛でな。一つ一つ説明しようとしたらそこそこ時間がかかってしまう。けれど、どうせお前ら今日だろうが明日だろうが暇を持て余してるんだろ? だからたまには珍しい霧雨魔理沙さんの御講釈に付き合ってくれよな。……さっき月の頭脳が言ってたことを覚えてるか?」
「『ここに描かれている幻想郷は正しくない』」
「その通りだ、アリス。少し読んだだけで歴然だと思う。容姿なんかは確かに近しいんだが、いろいろな部分で差異がある。それがさっき私が言っていた結論の所以なんだよ。氷精は文字を識別できるし、八雲の式神の服は弾け飛ばない。ルーミアの台詞は一種類じゃないし、霊夢は行き倒れていない。アリスは私に劣情を催していないし、早苗は清純派じゃない」
「最後のだけやたら恣意的じゃないですか!?」
「どうどう。……まあ、早い話が、誤解が広まっているんだ。私らが自衛する糸口はそこにある。さっきから幻想郷を守るとか大層なことを言っているが、これも私の推測が正しければ、の話なんだが、本当に正しい、幻想郷をそのまま解き明かしたようなものが外に出回り私達が幻想でなくなってしまえば、幻想郷は崩壊してしまうだろう。もう既に、ここに持ってきていないものの中には、正解にかなり近付いてしまっているものもあるんだ。だって事実は幻想じゃあないもんな……私ら人間ならまだしも、妖怪たちはまた路頭に迷わなきゃならなくなってしまうわけだ。それは私とて心配だしな。至急と冠するほどではないが、できるだけ速やかに手を打ちたいところだ。よって」
霧雨魔理沙は最後になるほどゆっくりとそれらを発音すると、不敵な笑みを最大限に押し出しながら、腕を広げた。実は霧雨魔理沙が中心になって大きなプロジェクトを起こすことは珍しく、多くの者は面白がって彼女の話に耳を傾けていた。
けれどそれは、彼女を信用した上で協力してやろうなどという親切心によるものではなく、ただの好奇心だったのだけれども。
「一つ、提案したいことがある」
霧雨魔理沙はまたしても風呂敷を広げ、今度はいくつもの冊子を次々と取り出す。一冊ごとの厚みは無かったけれども如何せん数が多く、それはそこそこ重たそうに見える。それらの表紙の下部には一人一人の名前と、そしてもう一つ、黒々と手書きで「台本」の文字が書かれていた。部屋の中央、先ほど本が置かれたのと同じ場所に数十冊の真新しい台本がどさどさと音を立てながら並べられていき、間を開けずに各々がそれを手に取り、ある者は表紙をじっくりと、またある者は早速一頁目を熟読したりと、実に多種多様な反応を見せた。何でも受け入れるという八雲紫の言葉は嘘ではないのであろう。
それぞれの本に何が書いてあるのかといえば、キャラクターだった。名前、記号的な台詞、演じる上での留意点、大まかな人格――それら中身は全て霧雨魔理沙の手書きで。アリス・マーガトロイドに至っては、ページを開くと中身を読む前に呆れたような眼で霧雨魔理沙の方を向いたのだが、果たして彼女は気付いたか気付くまいか、そっぽを向いてしまう。
「そーなのかー……これでいいの?」
真っ先に霧雨魔理沙に話しかけたのはルーミア。彼女の台本には、まず一番最初の頁をまるごと使って「そーなのかー」とだけでかでかと書かれていて、二頁目からその台詞の使用場面、トーンなどが記されていた。それが彼女の決め台詞にあたるということに、ルーミアは意外にも早い段階で気付いたようだ。
「飲み込みが早いな、いい感じなのぜ」
「なのぜって……それも『設定』?」
「おう、どんな不自然な文構成でも語尾は『ぜ』なのぜ、これが『霧雨魔理沙』だぜ」
幾分か機嫌よさそうに言い終えると、霧雨魔理沙は、周りの者たちが概ね目を通したことを確認してから、準備していた提案を述べ始めた。
「私の提案ってのはこうだ。実際とは違う、勘違いされた外の情報をそれぞれが演じる。即ち、氷精は文字を識別できないし、八雲の式神の服は弾け飛ぶ。ルーミアの台詞は一種類だけだし、霊夢は行き倒れている。アリスは私に劣情を抱いているし、早苗は清純派。『そういうこと』にするんだよ」
例えば因幡てゐと洩矢諏訪子は隣り合わせでクスクスと笑っているが、例えばミスティア・ローレライにはピンと来ていないようできょとんとした顔で頭の上にクエスチョンマークを浮かべている。しかし全てを受け入れた結果の多種多様なんぞ気にも留めていないらしく、霧雨魔理沙は続ける。
「外の世界が勘違いしているなら、外来人が来た時に勘違いを助長させて言い伝えさせればいい。これまでの外来人は、ここに住み着くか、すぐに送り返されるかだった……送り返されたとして、それまでに見た幻想郷は確かな幻想郷。そんなことを続けていては我々のことがますます外に知られてしまうだけだろう?」
霧雨魔理沙の提案の文言はそこで終わったのだが、その後でリグル・ナイトバグにこそこそと耳打ちされるまで、ミスティア・ローレライはよくわかっていないようだった。まあ、その耳打ちの後も、いまいち要領は得ていなかったように周りの者には見えていただろうし、実際その通りだったのだけれども。
少なくともその会合においては、彼女のその言に異を唱える者はいなかった――それが正しかろうと正しくなかろうと、乗った方が面白いと思ったのだろう。暫く異変も起きておらず、紅魔館などはそろそろまたいっちょかましてやろうとか考えていたところだったから内心穏やかではなかっただろうが、しかし目の前にイベントが吊るされれば、乗らないなんて選択肢は好奇心旺盛な吸血鬼には取れなかった。
「『しゃくやぁぁぁ!! 魔理沙がいじめてくるぅぅぅ!!』……って、私は赤子じゃねえっての!」
しかし、実際にやらなければならないことがわかると、即座にレミリア・スカーレットは台本を床へと叩き付けた。齢五百を数える吸血鬼、いくら子供っぽいとはいっても、そんな台詞を吐くには妖怪の山よりも遥かに高いプライドが邪魔になる。
だがそれはレミリア・スカーレットのものだけではなく、各々、中々過酷な演技が必要になってくるのだ。例えば。
「『Wow! 魔理沙のドロワーズ・スメル! 噛めば噛むほど超、エキサイティン!』……何これ頭おかしいんじゃないの!?」
「うわぁアリス、それは無いわ……以後、三里以内に近付かないでくれよ」
「アンタの配った台本でしょうが!」
「『ちぇぇぇぇぇん!(ここで服が弾け飛んで全裸に)』って意味不明にも程があるんだが……?」
「『おぜうさまのランジェリー姿でご飯七杯はいけますわー!(鼻血を吹き出しながら)』……私はパン派ですわ」
阿鼻叫喚である。他の面々も、定められた「キャラクター」と自分との乖離に半ば引いてしまっているようだ。 これだけ変態キャラが蔓延する幻想郷という場所は理想郷どころか阿鼻地獄それそのものだろう。しかしながら、外の世界における幻想郷とはそういうものだったのだ。
アリス・マーガトロイドを筆頭に、あちこちから悲鳴や怒号が巻き起こる。鈴仙・優曇華院・イナバに至っては既に抵抗虚しく座薬をぶち込まれたらしく、床に突っ伏して小刻みに震えていた。
「なんで私達だけこんなことしなきゃいけないわけ? ざっくりと見たところでも寺とか道教のところの方々なんかは全く見受けられないのだけれど……手心か何か?」
アリス・マーガトロイドの疑問も当然であった。ここに呼び出されている面子は人も人外も混ぜこぜに、しかし有力者だけというわけでもなく、固定の団体の面子だけというわけでもなく、彼女たちにしてみれば一見どのような基準で集められているのかわからないのである。彼女の訝しんでいる目を見据えることはせず、誰に向けた話でもないことを、或いは誰に向けた話でもあることを大袈裟に示しながら、飄々と霧雨魔理沙は答えた。
「それがな、全く掴めない。リグルやプリズムリバー三姉妹なんて弱っちい妖怪は頻繁に登場するのに、弁財天様やアマテラスあたりの神は登場しない。神はいないのかと思いきや神奈子や諏訪子は登場するし、妖怪でも狼女の今泉なんかは全く出てこない。人間だって、私や早苗は登場しても蕎麦屋の八っつぁんは登場しない。そこに何の隔たりがあるのか、何度読み返してもわからなかった。まあ、一応『目立つ行動を取り始めたのが割と昔』……とかいうのもあるにはあるんだが、それにしちゃあ天狗や河童は固定の面子しか出てこないのが不自然だしな。『異変に関わった』ってーのも、早苗や諏訪子なんかは異変と関係ないのに登場してくるし、私の手に負える問題じゃあなかった。だから、もう仕方なく登場頻度の高い者を暫定的に集めているってわけだ」
先の東風谷早苗と同じ、「お手上げ」のジェスチャーをしながら霧雨魔理沙は首を横に振り、もう一度面子を確認する為か部屋をぐるりと見回して、けれどやはり何もわからなかったらしくそそくさと胡座をかき座り込んだ。
何か助言が欲しかったのだろう、永遠亭の頭脳の方へと視線を送っていたが何の反応も得られず、半ばふてくされてしまう。
「となると、最も外の世界に近いであろう紫様の姿は、お前の言うところの『創作物』とやらには見受けられないのか?」
台本を閉じて、八雲藍が問うた。自分と自分の式神だけ招待されて、肝心の主が招かれていないことが気がかりだったのだろう。従順で敬虔な式神である。
「うんにゃ、あいつは呼んでない。纏まる話も纏まらんからな、あいつがいると……まあどうせ私らがやってることが幻想郷の危機を助長するとかそういうことになったら止めに来るだろうし、今も何も言ってこないって事は何も問題は無いんだろ」
霧雨魔理沙が心なしかぶっきらぼうな口調で答えると、そうか、とだけ返して八雲藍はまた台本に目を落とした。霧雨魔理沙の八雲紫に対するそんな評価は、式神たる彼女にとっても正しいものだったのだろう。いくら部下であると言っても、八雲藍は理性的である。
「さて、じゃあ、あとは皆の協力の上で成り立つ一大世界改革だ――頼んだぜ」
言いたかったことは言い切ったようで、立ち上がり早速部屋を出て行こうとする霧雨魔理沙。苦虫を噛み潰したような顔の者も多かったが彼女を止める者はおらず、その日の集会はそこでお開きとなった。他のメンバーも次々と台本片手に帰路についていき、最後に残ったのは博麗霊夢と伊吹萃香、そして四冊の外来小説。
博麗霊夢がぱらりと自分の台本の最初の頁を捲ると、そこにはこう書いてあった。
「ダイエット頑張れよ、お前が喰っていいのは雑草だけだ」
とりあえず手近にいた伊吹萃香を殴りつけて、黙ったまま博麗霊夢は寝床に入った。
「魔理沙さんプレゼンツ、『これからの幻想郷を救おうキャンペーン』会議の第二弾だ。今日は私のために集まってくれてありがとう!」
「帰るわ」
「ごめん調子に乗った」
彼が「ひょんなことから幻想入りしてしまう」五日前の真昼のこと。霧雨魔理沙はまたも何人かの幻想郷住民を呼び出していた。
博麗神社に。
だからなんでウチでやるんだ、と不平を垂れ流す博麗霊夢を気にも留めず皆を上がりこませるものだから、数日前と同じように彼女はまた部屋の隅に転がる羽目になる。
人数は一つの机を囲める程度にしかおらず、そのメンバーがどんな基準で集められたものなのかはやはり霧雨魔理沙以外は誰一人としてわかっていないようだった。
「おっしゃ、これで全員だな」
霧雨魔理沙が障子を閉める。当然のように上席に座ると、面子を確認して、大きく手を打った。
「というと、例のアレよね。外界人がどうこうって」
霧雨魔理沙の左隣に座っている八意永琳が、まず最初に口を開いた。余談だが、指示語をよく用いるのは老化のしるしである。
「そうだ、お前のことだから勝手に理解していたものだと思うし、台本にも記しておいただろ。八意永琳はしょっちゅう黒幕をやらされるってな」
永遠亭のメンバーは、強かな者の多い幻想郷の中でも裏方として奔走することが多かった。頭脳派であることも相まって、「外」では黒幕キャラが板についてしまっている。姫の時間が動き出してからかなりの年月が経っているにも関わらず、結局「竹林の謎の医者」くらいにしか周知されていない不審な団体。月へのロケットのくだりでも彼女たちはこそこそと動いていただけに過ぎず、月との関係すら殆どの者は知らないのである。
無論、霧雨魔理沙もそれを知らなかったのだが、幻想入りしてきた本に目を通したことによって、月に関連する設定をBBAや座薬と同程度には彼女らが有していることには感付いていた。けれどもそんなことを吹聴しても仕方あるまい、各々のキャラクターを共有などする必要はないのだから。よって不老不死の宇宙人の生命にも関わりかねない秘密は守られているし、今のところ脅かされる心配もなさそうだった。
「ってことは、私らには別の役割が与えられるって認識でいいの?」
更にその左隣、藤原妹紅が霧雨魔理沙に問う。
「ああ、その通りさ。まあ、残りはいわばエキストラだな。もしも遭遇したら、その時に演じるだけでいいんだ。だがお前ら――私もだが――此処にいる面々は、仕掛け人、あるいは預言者になる必要がある。ま、早い話が、ここに来てから帰るまでのツアーを組むってことだ」
霧雨魔理沙がまたしても何やら紙を取り出す。お前は一体どれだけ暇なのか、とでも言いたげな失笑が室内に漏れ出て、霧雨魔理沙は頬を膨らました。彼女とて全く暇なわけではなくて、未来と世界のために一生懸命書いてきたプログラムを笑われては心象が芳しくないのも当然である。
失笑の方も当然の結果と言えるだろうけれども。
「んー……じゃあ、私は何をするのかな?」
次の質問は、ルーミアから。にこにこと牙をちらつかせながら人差し指を立てて、小首を傾げる。
「話が早くて助かるぜルーミア……お前は代名詞、看板娘になってもらう。台本に書いたようにそーなのかーわはーと言いながら、最初に獣道で外来人を襲ってくれ。勿論怪我はさせないようにな」
「怪我をさせないように襲う……? しかもそれ、食べちゃいけないんでしょ……?」
霧雨魔理沙の説明に、残念ながらルーミアの首の角度は更に深くなってしまった。基本的に人間は襲うなと言いつけられているのだから、外来人はルーミアにとっての格好の餌食。いわばおやつ抜きと宣告されたようなものだ。そうでなくても、襲うのは人を喰らうための行為でしかなく、怪我をさせずに襲うという概念は彼女には聞いたことのないものであった。
「ポーズだよポーズ。外来人Xに、幻想郷に来た、ってことをまず最初に知らしめるためのな。この前見せた本ってあっただろ? あれでも、何故か外来人の主人公は最初にルーミアに会うってことが多かったんだ」
その説明でやっとこさ合点がいったようで、ルーミアはなるほどね、と呟いてツアーの予定表を覗き込んだ。
食べられないということに若干の不満こそ見えたものの、幻想郷を助けるという霧雨魔理沙の言葉にうまく丸め込まれているようだ。それにつられて、周りの者たちのうちの何人かも机に身を乗り出して、そして直後に、全員が全員、その慌ただしい時間割に苦笑した。特に前半部分の詰め込みが酷く、最初に発見されてからすぐに投薬、そして目覚めれば十分もしないうちに紅魔館に運ばれ、目覚め次第連れ出して永遠亭へ。必要な印象の植え付けが終われば、とっとと博麗神社に向かう。
厄介なのは絶対時間ではなく、幻想郷にて外来人が発見されてから何分後とかいう書かれ方をしていること。一体どこまでこれに沿った動きができるものやら、とは、流石に皆永く生きているだけあって、誰も言わなかった。
「……魔理沙さん、『ルーミアに襲われたところを魔理沙の弾幕に被弾し意識不明に』っていうのの前に、『八意永琳、発光する薬を外来人に投薬』ってあるのですけれども……何ですか、この物騒な言葉の羅列は」
代わりになのか、射命丸文がページの上部、霧雨魔理沙側の文字列を指差す。
「『外来人、危ないっ! 人喰い妖怪の好きにさせるかー! ばーん! おっと手が滑ったー!』だな。そっちの永琳のは、まあ別の説明が必要になるな……」
相変わらずのオーバーアクションはおろか、もはや擬音まで多用し始めた霧雨魔理沙。余談だが、オノマトペの多用は幼さのしるしである。
「外来人には主人公になってもらう予定でな。ここに来て、何か能力を持ってもらうんだ。咲夜が時を操り、早苗が奇跡を起こすような超人的な能力を。けどそんなの生まれつきだし、後天的に能力を得て人から外れることもあるにしろ、そういうのにはやんごとなき事情が必要になるからな、ゆえにこれもポーズで、外来人には何かしらの能力を身に付けたという勘違いをしてもらおうと思っている。体に異変を起こすのは医者の専売特許だろ?」
淀みなく。射命丸文を始めとして、そこの面子は納得したようだった。人数は少なければ少ないほど統制が取れるものだ。小馬鹿にしたような薄ら笑いを浮かべながら八意永琳を見やる霧雨魔理沙。初めはむむむと声を漏らしたものの、八意永琳は溜息混じりに首肯した。
「まあ、私の役については了承したわ……発光させればいいのよね、蛍狩りでもしようかしら」
物騒なことを呟くマッドサイエンティスト。いくら月の頭脳といっても明治十七年に切り離されてしまった世界の遅延は大概なものである。魔法が跋扈する世界において、医術が一体どこまで有用なのかは微妙なところだ。
「おう、お前の胡散臭い薬があれば、人間を騙くらかすくらい造作も無いだろうよ。自分の身に起こったことは何よりもそいつにとって信じやすいんだ、それがどんなに馬鹿馬鹿しくてもな」
上品とは言えない笑いをこぼしながら悪態をつく霧雨魔理沙に対して右腕に拳を作りかける八意永琳を、ルーミアが制した。やれやれと藤原妹紅が笑って、場の進行を促す。
「私の役は竹林の案内、そこの医者は投薬とその後の看護、それで宵闇は襲撃、アンタは基本の案内役ってわけだね。ここにはいないけれどもスキマが能力とやらの勘違いに一役買うんだろ……じゃあ、残りは霊夢と捏造記者だね」
「誇張はスパイスですよ」
「はいはい」
左隣に座っている射命丸文に肩を叩かれるも、飄々と生返事を返して霧雨魔理沙に視線を送る藤原妹紅。
「そのスケジュールにも書いてあるように、ルーミアとの遭遇、紅魔館、永遠亭とまわって、そのあとの舞台はここ、博麗神社だ。ここで一泊して、翌朝外に送り返す。日帰りよりもここにいた記憶が確かなものとして残りやすいだろうしな。だから、その時の外来人Xの世話が霊夢の役目ってことになる」
「はー!? 私そんな面倒なことやらなきゃいけないわけ?」
霧雨魔理沙の言葉が衝撃的だったようで、寝転がっていた博麗霊夢は強靭な四肢を振り乱しながら軽快に飛び上がって、霧雨魔理沙に近寄るとぱくぱくと口を開閉した。若いね、という藤原妹紅の小さな呟きに、射命丸文がクスリと笑った。
「まあまあ。私も妖怪何人か連れて神社をうろちょろするつもりだし、そんなに気にすんなよ。で、最後は捏造記者だな」
「捏造も隠し味ですから」
「認めてんじゃねえかよ」
あやー、と射命丸文が頭を掻く。彼女も彼女で、飄々として掴めない存在であった。霧雨魔理沙は半笑いで突っ込みを入れると、射命丸文を指さす。あまりお行儀は習わずに育ったらしい。いや、むしろ、習った上で逆らっているのかもしれないけれども、正解は誰一人として知る由もなかった。
「お前の役割は発見と監視及び情報の同期役だ。外来人が目を覚ます前に見つけて医者を呼ぶ。変化がある度に私に知らせる。そして私からの伝言をそれぞれに伝える。以上だ」
それを聞いて、射命丸文は少しばかり嫌そうな表情をした。
「忙しいのに活躍が見えなさそうな役回りですね……予想はついてましたが」
「記者は写真に写らない」
「うっ、仰る通りで」
霧雨魔理沙の返答には返す言葉も無かったらしく、苦笑しながら、まあ仕方ないですね、と言って頷いた。項垂れた、の方が近いのかもしれない。確かに、外の世界におけるメールやソーシャル・ネットワーキング・サービスのようなものは幻想郷には存在しないわけで、そうなると彼女に飛び回ってもらうしか良い方法は無いのだった。
全員分の役割を伝え終わり、本日の集会は終了した。しかし霧雨魔理沙は博麗霊夢の方を振り返り、何やら眉を顰めた。理由は単純明快、彼女が痩せていなかったからだ。彼女は貧乏巫女、その辺の雑草を引っこ抜いては土を掘り返し日々を食い繋ぐキャラでなくてはならない。当然というか、博麗霊夢はそんな台本は無視して毎日もりもりおいしくご飯を食べていた。
「そういえば霊夢、お前、ちゃんと断食してるか? 見た感じやつれてないが……」
今日殴られたのは、霧雨魔理沙だった。
?少年復帰中?
少々現実逃避をしよう。
現代日本における怠惰の問題は非常に深刻だと俺は思っている。ここにおいての現代とは、西暦の上において二千十五年四月から、誤差の範囲、前後数年ないし数十年のことだ。三百六十五日二十四時間、代わり映えのしない世界は瞬く間に過ぎ去っていく。ヒーローは僕らを救わないし、怪獣は街を壊さない。宇宙人は世界を震撼させないし、超能力者は事件を解決しない。海賊王も戦闘民族も忍者も世紀末覇者も、どうせこの世にはいやしないのだ。
だからこそ、俺はそんな世界が好きだったのだ。辟易する日々は、間違いなく幸せだった。
何事も、失って初めてその価値がわかるというが――失ってから気付いたところで、結局覆水は盆には返らない。
今の俺のいる状況は、明らかに妄想していた非日常のそれなのだから。
それを踏まえた上で、もう一つ無駄話。
東方projectというものがある。
簡単に説明すれば、「パソコンでできる人気のシューティングゲーム」だ。人気の秘訣は二次創作への事実的な無条件認可にあると言ってもきっと過言ではないだろう、そのおかげか某動画投稿サイトで絶大な人気を誇り、様々な作品が世に出された。漫画、小説、アレンジ楽曲、ゲーム、フィギュア、タペストリー……俺もその界隈に心酔してしまっている有象無象のうちの一人で、色々なグッズなんかも所持している。
先ほどからいきなり何の話をしているかというと、俺が絶望的な虚無感にやっとこさ打ち勝って、体を起こし辺りを見回した時に真っ先に抱いた印象が、まるでその作品の舞台である「幻想郷」のようだな、というものだったという話である。
月並みな表現を使わせて頂くならば、俺が今さっきまで歩いていたのはコンクリートジャングル、ビルとマンションに囲まれた現代的な現代だったはずなのだ。それがどうだ、今俺が座っているところは乾いた砂の上。舗装されている様子は無く、少し横方向に行けば草がぼうぼうと茂っている。見通しもお世辞にもいいとは言えず、ここは林の中の獣道と判断するのが適切に思える。
いやそれだけならいい。それだけなら、「俺がコンクリートの歩道の上で唐突にナルコレプシーを発病して眠りこけてしまい、俺がすやすやと眠っている間に遠く離れた地方の山に移動させられた」ということも考えられるし、もしかしたら「夢遊病に罹患していて、無意識な妹よろしく気付かないままに自ら歩き続けていたのかもしれない」ということも考えられた。むしろどちらも、少なくとも「ひょんなことから異世界に飛んでしまったぜてへぺろー」なんて妄言よりは信憑性があるような気がする。
けれども俺は、数秒後には、ここは幻想郷だと確信せざるを得なくなってしまう。
小さな体躯に短い金髪の靡く。
頭に取り付けられたチャーミングな赤いリボンも、同時に横流しの緩やかな風に流されてはためきながら。
全体的に黒く統一された服は、意外なほどおしゃれに赤いラインが際立っている。
闇を思わせるスカートの下は若干の泥に汚れ、白く煌めく膝小僧と、酷く無粋なコントラストを奏でていた。
特徴的な、十文字を思わせるポーズ。両腕は綺麗に直角に広げられている。
そして、若干の獣臭さ。
俺はこの女の子を知っているから、ああ、返り血塗れじゃなくてよかったなぁとか、そういうことを思ったのだけれども、しかしそれは単純に、水浴びを直前に行っていただけなのだろう。どちらにせよ、俺の身にはわかりやすく死の危険が迫り来ていた。
なんてったって、彼女は、人喰い妖怪なのだから。
爛漫な幼子の眼をして、首を少しだけ右側に傾けると、牙を剥いて口角を上げた。幼女が纏ってはいけないような官能的な雰囲気を振り撒きながら。
「……まあ、待てよ。無闇に人間は喰っちゃだめなんだぜ。一旦話し合おうや……お前だって、紫さんや慧音さんからその辺りの話は聞いてるだろ?」
俺は弱い。
つーか大体二次元に傾倒してしまったインドアボーイなんて軟弱だし、むしろ須く脆弱であるべきだ。ちなみに俺の握力は二十キログラムにも満たない。なんとしても彼女との戦闘は避けなければならなかった。幸いにも日本語は話せたから、とりあえずは座り直して対話を試みる。いくらバカルテットなんて言われたって、そこらの子供くらいの理解力は有しているだろう。
「……そーなのかー?」
傾げた首の角度が深くなっていく。
カルチャーショックだ。
彼女が事あるごとにそーなのかーと発言するとか、語尾は常にのかーだとか、そんなことは、俺にとってはニワカ設定の体現そのものだったから。実在したのか、そーなのかーなんて。そんなもの、一体何年前のネタだと思ってるんだ。しかし目の前で彼女その人……ああ、いや、妖怪か……どちらでもいいけれども、彼女自身がそう発言したのだから、信じざるを得ない。皆でニコニコする某所によって作られた設定なんかではなく、そーなのかーは最初からそーなのかーであったことを。
「……でも、お腹空いたのかー」
しかし俺の言葉はどうやら妖怪の倫理観なんかには影響を及ぼせなかったようで、彼女は軽やかな足取りで此方へと近づいてきた。近くで見たら余計に可愛いなあ。こんなに可愛いょぅじょに食べてもらえるならそれはそれで幸せなのかもしれない……あっでもちょっと待って本当に食べないで。やめてやめてまだ僕にはやるべきことが沢山――
その時、だ。
まさにその刹那、俺の体が光を放ち始めた。
危機に瀕して「発光する程度の能力」が覚醒したということは考えにくく、恐らく何かの副次的な効果であることは明らかだ。何故そんなことがわかるのかということはわからないが、これまでに見てきた多様な創作物から得た統計学的なこの推論は、おそらく正しいのだろう。
しかし副作用であったとしても、闇の妖怪にとっての天敵である光は彼女を硬直させるに足りる攻撃になり得た。前触れのない変化だったから彼女はまともに喰らってしまったのだろう、眼の部分を両手で覆ってよろめく。
しかし冷静に分析している場合かといえばそういうわけでもない。心拍数は上がり、体温も上がり、全身の筋肉が強ばり始める。勿論、本能的な未知への恐怖を伴って。
火事場の馬鹿力なんて言葉があるが、今現在俺は体が自由に動かせない訳で、火事の中でこんな状況に陥ってしまえば何かに目覚めようとしている間に煙を吸って死にかねないというものだ。今は宵闇妖怪相手だから助かっているものの、他の生命の危機を感じた時だったら助からなかったろう。まだまだ俺の生存本能には改善の余地がある。
……数秒だった。
掛け値なしに数秒。人間、恐ろしくなったら数秒間であったとしても頭はいろいろと回るものである。
光が力を失い始め、痛みも不思議なほどに引いていき、何事もなかったかの如く俺の体の異変は通常の状態へ収束した。
しかし、だ。
何も起こらない。必要以上に「通常」すぎるのだ。手から焔は噴き出ないし、背中からものものしい翼は生えてこないし、腕に紋章は浮かび上がらないし、眼球への違和感もない。何もない。もしかして本当に発光するだけの能力だったのだろうか、なんて役に立たない最終形態であろうか。だってそんなことを考えている間にも、目の前の殺戮幼女は腕を顔から放してはぱちぱちと大きく瞬きを繰り返して、どうやら俺の反撃は終わったことを悟ったのだろう、もう一度俺へとにじり寄って来ているのだから。
今度こそ本当にやばい。俺の身体のフシギにはもう頼れないだろう、肩に小さな手が触れて、しかし見た目とは余りにも裏腹にその力は屈強で……まだ何もされていないのに痛みを感じるほどに。
さもありなん。諸行無常。明治十七年の理想郷はそのまま弱肉強食の世界なのだから。目を瞑り、現世への無念を綴る。走馬灯。それほど長くも美しくも山も谷も無い人生だったけれども。一回くらい彼女が作りたかったよね。
「そこまでだぜ!」
……そこに聞き覚えのある台詞と引き連れて現れたのは、白黒の、見習い魔法使いだった。助かる、俺は生きていられるんだ!
「魔理沙さん! 助けてくださいーっ!」
「言われなくてもわかってるのぜ! 覚悟しろ、ルーミア!」
「……!」
霧雨魔理沙が何かを唱えると、256色ではとても表せなさそうなほどに鮮やかな弾幕がぶわっと大群になって押し寄せてきた。けれども流石は幻想郷住民、ルーミアは素早い動きで弾の来ない方向へと飛んでいく。いやあ間近でこんな弾幕戦が見られるなんて、幻想入りさまさま、役得だなあ……と、思ったのも束の間。
突然ですが、ここで問題です! 魔理沙さんの弾幕にホーミング機能は付いていたでしょうか? 答えは否! 一極集中弾幕が彼女の持ち味だよね! つまりどういうことかって? 言うまでもないじゃないか、ルーミアが先程までいた位置とほぼ同座標にいた俺に、大量の弾幕が迫り来て、あっこれ駄目なやつだ、ボムだ、ボム……そう思って何度も頭の中でXキーを押すイメージをしたけれど、まあ、当たり前というか、俺はボムなんて使えなくて。
ぴちゅーん。
目覚めて数分で早くも、再び俺の意識は薄れていくのだった。
次に目が覚めた時、俺がいたのは不気味で綺麗な部屋の中で。
しかし過度な修飾はなく、どうやら空き部屋に寝かされていたようだ。先ほど俺が飛んできたこの世界を幻想郷だと仮定するならば、流れとして俺が巡るべき場所は数か所に絞られるというものだろう。ふらり、部屋を三百六十度と散策してみたけれども、無機質な煉瓦の感触と質素なベッドの白色、それに学校からの帰り道だったために持ち歩いていた学生鞄以外は何も現状を把握する手立ては見当たらなかった。どうしたものか、時計も無いときている。
しかし俺には現代人の魂、万能薬が味方に付いている。鞄をガサガサとひっくり返すと、文明の利器、愛用のスマートフォンが入っている――
――電池が切れていたけれども。
馬鹿馬鹿しくなって鞄の中に再びスマートフォンを投げ込む。仕方ない、ここに居ても何も始まらないな……そう思って、鞄を担いでドアを開けてみた。
意外なことに弾幕をモロに喰らったはずの俺の身体には何の異常も無かったから、もしかしたら死なない程度の能力だとか超回復ができる程度の能力だとか、そういうのに目覚めてしまったのかもしれない。幻想入りってそういうものだと思う。
窓が不思議に少ない廊下に出て、きょろきょろと左右を見渡してみると、ぼんやりと妖精が見える。相当に廊下は長いのだろう。壁、床、天井、扉、蝶番、シャンデリア……もはやノイローゼなのかと疑ってしまうほどに赤く染め上げられた風景に、普通の人なら面食らったかもしれないけれども。右側へ歩いてみる。
俺は慣れていた。一体どれだけの物語の舞台となっただろう、一体どれだけの絵描きによって塗られただろう。その館の赤さ加減は、もはや飽き飽きしてしまうほどよく目にした名スポットのそれだ。角を左に曲がってみた。
音もなく妖精が横を通り過ぎて行った。そのメイド服も、何度目にしたかわからない。焦っていたようだが、鬼ごっこの相手でもさせられているのだろうか。階段を下りてみる。
妖精の数が急に増えてきて、その話し声はやはり人間、外来種である俺にも普通に聞こえてくる。休み時間の教室のような感覚に陥るが、お前ら普通に就業時間中だろ。……まあ、外部の奴にそんなことをいきなり言われても「はあ? なんだこいつ曲者かであえーいであえーい」になるかもしれないから、口は開かないけれども。 長い廊下を歩き続ける。
話し声に少し耳を傾けてみると、まあ、案の定というか、メイド長は凄いとか、門番さんかっこいいとか、さっき横を通った男の人は誰だとか、今日の夕餉の材料じゃないかとかってなにそれ被食の恐怖から被食の恐怖へのたらい回しじゃん。怖い怖い。広間っぽいところに到着した。
そもそもこいつらあんまり働いてないってどっかの書籍に書いてあった気がするのだけれど……よく覚えてない。大仰な扉を開けてみる。
どうやらそこは、大きな食堂らしかった。あまり余所者が物色するのも不躾だよなあ、そんなことを思いながらドアを閉めようとした時。
「おう、もう起きたんだな。探したぜ」
背後からどこかで聞いた声。
「……諸悪の根源」
「おいおいそんなに怖い顔すんなよ、あれは不慮の事故だったのぜ」
かんらかんらと笑う金髪。こいつもまた懐かしい喋り方をしているのぜ……ノスタルジーを感じて涙がちょちょぎれてくる。
「まあまあ、責任は取って此処まで連れて来てやったんだから、これでチャラでいいだろ……なのぜ」
それは付けなきゃ誰かに殺されでもするのだろうか。不協和音でしかないけれども、口を挟むことではないだろう。好きでやっているのだから。うふふうふふふふ時代と何も変わらない……方面が変わっただけで。また暫くすればその変な語尾も改善されることだろう。言わぬが仏。
「まあ、どうやら身体には異常は無いみたいだからいんですけどね……外来人なんです、丁重に扱ってくださいよ」
俺がへらりと笑うと、敵対するつもりはないということが伝わったのだろう、彼女も笑った。
「人間の癖に頑丈だな? 俺はてっきり死にかけているものとばかり思ってたぜ」
ご丁寧な一人称で。
「そんな危険なものばら撒いてんですか、貴女は」
「外来人だからな、殺しても里は追われないんだぜ」
「元々里の人間じゃないでしょう」
「まあな」
魔理沙はそう言うとまた笑って、くるりと踵を返して廊下を歩き出した。何を企んでいるのかはわからないけれども、途方に暮れるよりはマシだろうし着いて行くことにする。運がよければ館内を案内してくれるかもしれない。
「今日はもう一通りかっぱらい終わってな、もう帰るところなのぜ。案内くらいならしてやるが……そもそも、お前は一回医者にかかった方がいいと思うぜ? 何か光ってたじゃないか、蛍でも喰ったのぜ?」
のぜのぜが微妙にうざったくなってきた。流行りが廃れるのも何となくわかる、ずっと見てたら飽きてくるものだね、何事も。
平穏な日々と同じ理屈。
「まあ、それもそうですか。自分でも何が何だかよくわかりませんし……賢人に頼るのは定石かもしれませんね。そういう点では、ベストなのは博麗神社のような気がしないでもないですけど」
ただの、何事もない受け答えだった。少なくとも俺は、そう思って言葉を発した。しかし、魔理沙の様子が何やらおかしい。急に立ち止まると少しの間考える素振りを見せて、こちらを向いて何かを話そうと口を開いた……かと思ったが、しかし彼女は何も言わなかった。きっと、言わなくていいことだったのだろう。おもむろに前を向いて、また歩き出した。
その速度は、さっきよりも幾分か速かったけれども。
外に出る。
霧雨魔理沙はほぼ無意識でも館の中を自由に闊歩できるらしい、どれだけ侵入すればこんなややこしい廊下をすいすいと進んでいけるのか理解に苦しむが、確かに、「それらしさ」はあるような気がした。
外は美しく青い。雲一つない晴天そのものである。
メイド服を着ていない妖精の姿もじわじわと見られ始め、庭とはいえここのセキュリティが如何にボロボロであるかも容易く伺えた。紅魔館のセキュリティ、欠陥……大方予想通りというか、門番はやはり壁に凭れかかって眠っていた。
少しずつ、このおかしな世界にも慣れてくる。何ということはない、数年前に昼夜を問わず作り上げられていた幻想郷、我々が腹を抱えて青春を費やした幻想郷、電子の平面を通して見蕩れていた幻想郷、それと寸分の狂いも無い世界なのだから。生まれ育った世界ではなかっただけで、見知った世界ではあるのだから。故にどこに何があるかはよくわかるし、故に何が起こるかも「お約束」として予測できる。普段ニワカなんて謗られている設定の束は、簡略化され、使い古されてしまった常套句なのだ。
いわば門を出て、門番が眠っていたのを確認したのが三コマ目だ。
だから。
さくり、という、軽い、軽い音。
ナイフ。吸血鬼の大敵である日光を煌めかせながら飛翔する、吸血鬼の大敵である銀の刃。
そして、吸血鬼の大好物である出血。これだけがいやにリアルで、じわり、ぼたりという穏やかな出血がチャイナ服に染み込んでいく。血もギャグっぽくぴゅーって噴水みたいに噴出させることはできなかったのだろうか。
四コマ目は、「いつものアレ」。
「はっ! 寝てませんよ咲夜さん! ちょっと羊を数えていただけです!」
「確信犯じゃないの!」
ナイフが飛んできた方角を見てみると既にそこにいたはずのメイド長の姿は無く、再び振り向くと、代わりに、役に立たない門番の首根っこを掴むメイド長がいた。
勿論、胸囲は補強済み。なにそれ西瓜かなんか詰めてんのってレベルで。
……確信犯ってそういう意味じゃなかったはずなのだけれど、ここでそれをわざわざ訂正するのは嫌な奴すぎた。勘違いしてる人が半分を超えたらもう正しい日本語だよ、独壇場も破天荒も。
勘違いは勘違いにならなくなる。勘違いは蔓延すれば勘違いではなくなる。世界は流動的なものだ。全ては認識の元に構成されるし、認識はそのまま評価に直結する。場合によっては、認識が事実を捻じ曲げることすらあるのだから。
正解なんてものは、大抵勘違いだ。
幻想入りしてから、それを悉く痛感する。
これまでの数十分を振り返るだけで、幾つもの懐古が降り注いできた。
なぞりながら。
ぼんやりと。
世界について考えてみる。
どうせ魔理沙も考え込んでいるし。
霧雨魔理沙がいて、十六夜咲夜がいて、きっと、博麗霊夢もいる。それだけじゃない、人がいて、妖がいて、神もいる。俺が見知った世界。
幻想郷は実在した、俺が今土を踏みしめているのが何よりの証明だ。最初の突拍子もない前提が証明されたのだから、なぜ「こんな幻想郷」なのか、少し考えてみようと思う。
そうだ。――よりにもよって――こんな、幻想郷なんだ。
俺の見知った幻想郷は、俺の見捨てた幻想郷でもあった。中国。居眠り。或いは、ZE。ジゴロ。そんな数文字に凝縮された幻想モドキは、確かに俺たちが抱いた幻想郷への幻想なのだけれども、しかしそんな記号的な世界は、徐々に勢いを失っていったはずだ。氷精は文字を識別できるし、八雲の式神の服は弾け飛ばない。ルーミアの台詞は一種類じゃないし、霊夢は行き倒れていない。アリスは魔理沙に劣情を催していないし、早苗は清純派じゃない。そんなこんなが俺たちの前からふっと消えて、どれくらい経っただろうか。それすらも、よくわからない。
ただただ懐かしい、十年近く前の幻想郷。正しさを度外視した、可愛くて面白い理想郷。
しかし過去のものだったとしても、俺がいるのはそんな幻想郷。酒呑みが酔いどれながら語った言葉こそが正しい幻想郷だと思っていたのだけれど、どうやらそれは大きな間違いらしい。失われていたと思われている設定たちが、キャラクターたちが、幻想郷の真の姿なのだ。
そこまで考えて、何かが脳裏を過る。
ちょっと待て。
十年近く前の。失われた。忘れられた設定たち。
もし、幻想郷そのものが――幻想入りしている、そんなことがあるとすれば。
「おーい、お前。竹林だ。着いたのぜ」
呼び声がして、我に返る。長い間考え事をしていたらしい、目の前には既に、鬱蒼という言葉の似合う、決して入りたくないと思うような竹林がお目見えしていた。幻想郷なんてそこまで広い世界ではないにしても、場所が全く変わってしまっているのだから、どれくらい黙り込んでいたのやら、といった感じだ。とはいえお互い様、魔理沙も相変わらず俺の二歩前で腕を組みながらなにやら考えていたようだったし、それぞれがそれぞれに険しい顔をした、案内と言えるのかも怪しいような道中だった。
「竹林は私にも手に負えないんだぜ。だから、先に別の案内人を用意してあるのぜ」
竹林の案内人。赤いもんぺ。白髪。上がった目尻。煙草。ワイシャツ。
「藤原妹紅だ、永遠亭に行くんだろう? 着いて来な」
煙を吐き出しながらそう言うと、くるりとすぐに踵を返してしまう案内人。テンプレート。不死と煙草のコントラスト。不健康そうな隈をしっかりと確認できるほど、俺は勇敢ではなかった。ぼく、わるい外界人じゃないよ。ぷるぷる。
危うくまた考え込みそうになって、慌てて我に帰る。妹紅は案内人に向いていないのかずんずんと竹林に入って行き、俺も急いで後を追った。もしも迷子になんてなれば、碌な目に遭わないであろうことは承知している。
何たって、兎と狼が出るのだから。
次に出会うのは、誰だろうか。
意外にも、竹林を歩く時間は短かった。前方の妹紅が吸っている煙草の煙を追いかけていくと、ものの数分で永遠亭に到着してしまう。拍子抜けというか、迷いやすいだけで竹林の規模は大きくないのかもしれない。長く長く鮮やかな緑色に伸びた竹の向こうに、どこか不安定な雰囲気を漂わせた、そこだけ不可思議に切り取られているかのような、そんな佇まいの建物――永遠亭が見える。
「どうやら永遠亭はアレみたいですね、妹紅さん」
「ああ、その通り……」
クールなイケメン妹紅だ……大きく煙を吐き出しながら、両手で竹を掻き分け、数歩進む。ややこしい竹が少なくなってきて、視界がどうにか開けてきた。しかし、彼女はまずその敷地に入る前に振り向いて、怪訝そうな面持ちで俺に向かって問うてきた。
「……なあ、お前はどうして、私の名前や……永遠亭の名前を、知ってるんだ?」
どこか引っかかるような、そんな口調で。
勿論引きこもりだったからに他ならないのだけれども、どう説明すればいいのやら。外の世界では貴女達はアイドルなんですよーとか言うのも気味悪がられそうだし、貴女達はゲームの住人なんですよーとか言うと、もしかしたらメタ視点が現実と幻想を分ける云々に抵触する可能性がある。なんとなく、推測でしかないけれど、幻想郷住民がメタ的な話を知ってしまったら、この世界には悪影響がある気がした。嫌な予感、というやつだ。
そうなってくると、もう手は一つしかなかろう。
「……ああ、それはですね。魔理沙さんが親切にも教えてくれたんですよ」
嘘吐き。
「竹林の案内者、藤原妹紅。不老不死の蓬莱人。迷いの竹林。起伏と乱立する竹。見通せない前方。兎の罠。佇む月の病院。医者と兎とかぐや姫。胡散臭さとエタノール……医者に関しては、聞いたところで安心はできない内容でしたが」
それを聞いて、彼女は少しの安堵を見せたような気がした。煙草から煙が一気に噴き出て、小さく咳き込んだ後、また前を向いて俺にも届くかどうかというくらいの大きさの声で言った。
「腕だけは確かだよ、安心しな」
これまでの十七年強で出会った人々の中で、一番恰好いい姿をしていた。
ぼうっと背中を見つめていたらしい。妹紅の後ろ姿が少しばかり遠ざかっていたので、俺も慌てて走り出した。
走り出して、落ちた。
前方から藤原妹紅の甲高い悲鳴が聞こえて、足元に深淵が生まれる。世界が大きく傾いたかと思うと、藤原妹紅が底に着いたらしい、ドンという大きな音が鳴って、続いて、俺も背中から土に衝突する。鈍い痛みが背後から襲い、しかし、藤原妹紅を足蹴にするなんてことがあってはならない、顔などを傷つけてはどうすることもできない、先にそういった考えが過った。幸いにも穴は不必要なほど広く、俺が住んでいた家の自室ほどの広さがあったから、心配は杞憂に終わった。妹紅は向こうの方で腰を押さえている、とりあえず一安心といったところだ。すぐ立ち上がったから、彼女に大きな怪我はないらしい。
まあ、それもそうか。千三百年も生きていれば屈強になっていてもおかしくない。そうでなくても、彼女は確かに人外なわけだし。俺の方も、鈍い痛みは残っているものの、至って平気だった。立ち上がって土を払ってみたけれども、別に行動に支障はない。
どうだろう、三メートルは落ちていないだろうか。上を見上げて手を伸ばしジャンプまでしてみたものの、丸い縁には届かない。バレーボールでもやっておけばよかった。いや、やりたくないけど。
「あー……見落としてたな」
嵌った拍子に煙草も落としてしまったらしい。妹紅も頭を掻きながら空を見上げる。彼女の身長は俺よりもかなり小さいから、実際よりももっと深く感じていることだろう。
「アイツの仕業ですね……怪我はなさそうで何よりですが」
「見破れたはずなんだがな……くっ、どうも調子が悪い」
罠に嵌ったのが気に食わなかったらしく、妹紅は落ちてきた煙草を右足で強めに踏みつけた。そしてまた一つ咳き込むと胸のあたりを叩き、なんでもないような素振りで土の壁を引っ掻く……その行為にどれだけの意味があるのかは、俺にはわからないけれども。
しかしここで妹紅観察日記を付けていてもしょうがない。どうやってここから出るか、それが差し当たり一番の問題なのだ。
「どうします? 何か思いつきましたか?」
「うんにゃ、何も。まあここに人間がかかるのはいつものことだしな、こうしてればすぐにでも兎が様子を見に来るだろ……ほら、こんな風にな」
妹紅が空の方を指さす。髪の長い兎と髪の短い兎が、早くも揃ってこちらを見つめていた。片方は物凄く申し訳なさそうな顔をして、片方は右手を口元に寄せてウサウサと笑って……どちらがどちらかなんて、もはや言うまでもない。
先に口を開いたのは申し訳なさそうな兎だった。
「あのー、大丈夫ですかー……うちのてゐがまた馬鹿を……」
馬鹿をと言われても全く気にしていないようで、てゐの不敵な笑みが歳にそぐわない彼女の幼い顔から消えることは無かった。
「ウサウサ、もこたんが引っかかるなんて珍しいこともあるものウサねー」
「もこたんゆーな、早く此処から出せ」
歯軋りの音が聞こえる。やめてねそこでファイヤーしたら俺も三途の川へ飛ばされてギルティ・オワ・ノットギルティ。
「ちょっと待っててくださいね、縄を持ってきますから」
優曇華院がぱっと視界から消えて、暫くの間足音がして。つまり此処に残ったのは腹黒合法ロリ。
「そこに居るのは誰ウサ? 真昼から男と女が暗いところに二人きりなんて不健全ウサね」
不愉快な笑みを浮かべる兎を、すかさず妹紅が睨みつける。そういえば私の所為だったウサね……と呟いて、また黒い瞳をこちらに向けた。
「見たところ外来人ウサかね、昔の外来人にもそんな服着てたのがいたウサ」
「制服って言って寺子屋ごとに服装が定められてるんですよ」
「うんうん、確かにアンタは若そうウサね。師匠が喜びそうだよ、彼女は見てくれは気にしないウサからね、若い男ならなんでもいいのウサ」
多分貶されている。俺も何か言い返そうと思ったが、彼女は言いたいことを言ったらそのまま返事も待たずに何処かに行ってしまった。多分藤原妹紅のものであろう、溜息が一つ聞こえて、程なくして慌てた足音と激しい呼吸音も近付いてきた。やっと外に出ることができる。俺と彼女は笑いあって、永遠亭へと入って行った。
「共鳴ですね」
八意医師の話によれば、俺はどうやら元々人ならざる何かの血流を薄く受け継いでいたらしい。別にそれ自体は珍しいことではなく、現代でも「左利きかつAB型」くらいのレアリティでいるものだという。けれどもそれが幻想郷に来てしまったことによって、妖怪や神の持ついわゆる妖力とやらにあてられ、俺の体の内部の器官が変異し、本来するはずではなかった能力の覚醒を引き起こした――と、彼女の話を俺がまとめるとこんな感じだ。東風谷早苗に起こったのと似たような現象らしいが、俺の能力がどんなものなのかはわからないと彼女は言った。香霖堂に行けばわかるかもしれないわね、と言われたが、俺は道具ではない。
「直したいっていうなら薬で直すことも不可能じゃないけれど」
一通り説明が終わると、彼女はにこやかな顔で俺に問うた。向こうの方に薬の入った棚が見える。
「つまり、人間度を高めるって感じのお薬ね。ウドンゲ、こっちに」
俺の背後に立っていた優曇華院が、永琳の声を合図にして彼女の横へと軽やかに移動した。かわいい。流石新参ホイホイと呼ばれていただけあって、兎の耳とかセーラー服とか、キャッチーな記号だらけだな……あと何かいい匂いがする。女の子の甘い匂い。
「よく見ておいてね? せいっ」
「あひいんっ!?」
……。
あ……ありのままに今起こったことを話すぜ! 「体が発光したので病院で診察を受けたら看護師に座薬がぶち込まれた」 ……何を言っているのかわからないと思うが、俺にもわけがわからない……月兎遠隔催眠術とかギャグ補正とかそんなチャチなモンじゃ断じてねえ……もっと恐ろしいものの片鱗を味わったぜ……
床に突っ伏す優曇華院。てか、なんでスカート履いてるのに座薬が入るんですか。そうですか捲ればすぐ入るんですか布に覆われてなかったんですか。なるほどなるほど。座薬に悶絶して艶かしい声を上げるはいてない美少女……
……素数だ、素数を数えろッ!
「1、1、2、3、5、8、13……」
「フィボナッチよそれ」
というか、俺の能力の覚醒を押さえられるという薬を彼女に挿したのであれば、彼女の持っている狂気の瞳の能力が失われてしまうのではなかろうか。動かなくなっちゃったし。
「……あっ」
俺にでもわかるような事実に今更気付いたのだろうか、医者が最も発してはいけない感動詞を口にして一瞬硬直した後、しかし彼女は何でもないような顔をして俺の方を向き直った。
「……何でもないわ。そんなことよりね」
逃げた。
「貴方の能力……というか、能力の基盤となっている性質……それに、若干、違和感があるのよ。何というか、人為的に作られたもの、みたいな……貴方がそれに心当たりがないのであれば、恐らく私の思い過ごしなのだろうけれど……」
床に転がる助手を見捨ててシリアスモードに入る八意永琳。ちょっと待って俺その展開についていけてないです。さっきから死んだように動かない兎耳の少女が気になって気になって仕方ないです。
「……残念ながら俺には知る由もないって感じですね……つーか、いいんですか、優曇華院さんそのままにしてて」
「また薬漬けにすれば治るでしょ」
荒療治すぎやしませんかねそれ。
「というか、他人もとい他兎のことを気にしている場合じゃないわ。貴方はさっき妖怪に食べられそうになったと言ったけれど……」
流石に俺も診察室のシリアスに慣れて、一瞬言い淀んだ永琳の言葉の隙間、静寂に残る時計の秒針の音が一気に澄んでくるような風に感じられる。時の流れが遅れて感じられるのは宵闇妖怪が近付いてきたあの時と一緒だった。
中々の適応力ではなかろうか、俺の感覚は研ぎ澄まされていたはずなのだけれど――流石に、彼女の宣告は想定外だった。
「人間に殺されるかもしれないわよ」
竹林を出た。振り返って、妹紅に礼を入れる。永遠亭から出てきた時の俺はかなり神妙な面持ちをしていたものだろうと思うし、言い渡されてから今まで殆ど喋った記憶がないので、またしても案内人に気まずい雰囲気を味わわせてしまったのだろうけれど、まあ、俺だって頭の中が一杯なのだから、勘弁していただきたい。
俺は俺のことを紛れもない人間だと思っていたのだけれど、どうやらそれは少し間違っていたらしい。俺の中に眠る妖怪の部分、恐らくだけれど――このままいれば、俺は妖怪になってしまうのだろう。ぶっちゃけ座薬を使うのは遠慮しておきたいところだし、そうなると、俺に残された選択肢は二つで、妖怪として幻想郷に生き延びていくか、幻想郷から出ていくか……その二者択一。
難しい判断ではあったのだが、俺は帰ることを選択した。
幻想郷を外から眺めている俺たちは、ややもすればここを妖怪も神も人間も仲良しな理想郷のように思ってしまうのだが、それはあくまで一部だけ――というか、博麗霊夢と霧雨魔理沙が人外に触れすぎているだけなのだ。人里の人間たちは無条件に妖怪を恐れているし、妖怪たちは無条件に人間を脅かさねばならない。そういうのが、幻想郷の本質であり摂理なのだ。
って鈴奈庵で阿求が言ってた。
なんか不穏な感じになってるね鈴奈庵。
あと「ないでーす」のコマ可愛いよね。
閑話休題。
ということはだ、先ほど永琳が俺に忠告したように、このまま妖怪になってしまえば、否が応にも俺は人間から疎まれる存在になってしまうということだ。まあ、それだけなら現実世界にいた時の俺とそんなに変わらない……認めたくないことだが、実際、そんなに変わらない、のだけれども。それくらいなら、幻想郷の少女たちと共に過ごして行けるという条件と引き換えならば安い物だろう。でも、違う。よくよく思い出さなくても、男の妖怪なんてここにはいない。いや、いるにはいる。例えば雲山。森近霖之助。だからどうした。ゲームにも書籍にも、驚くほど男の妖怪はいない。人里に男の人は多くいるのだけれど、妖怪となると男の占める割合はぐっと減る……何故か。
簡単だ。
不要だからだ。
幻想郷は作られた世界だし、箱庭だし、ディストピアだ。美しき幻想郷に、男は少なくていい。少女が弾幕ごっこをするから東方なのだし、少女が日常を送るから東方なのだ。男がでしゃばるのは薄い本だけで充分だ。
男が妖怪化して、力を持ってしまったら博麗霊夢との接触は避けられません、でもゲームでも書籍でも彼女らは殆ど男の妖怪と触れ合いません。
ちなみに、世の中には間引きという言葉があります。
……全て推測の域を出ない男子高校生の戯言でしかないのだけれど、でも、我ながらそこそこ説得力のある論説だと思う。だってかの八雲紫だもん、それくらいしてもおかしくないよ。俺だって死にたくないし。死ぬリスクだけで考えたら、現代の数倍いや数十倍はこっちの方が高いだろう。妖怪なら尚更だ。
それらのことを考えて、俺は元の世界に戻ることを決意した。霧雨魔理沙には神社へ案内してもらおう。これまでの幻想入り系を信じるなら、帰る方法はそこにあるはずだ。
「博麗神社に案内してください」
竹林の前で待ってくれていたのだろう、欠伸をしていた霧雨魔理沙に後ろから声をかけた。真っ直ぐに。魔女が不敵に笑って、トンガリ帽子を引き下げた。やるべきことは決まった。あとは歩くだけだ。
帰ろう、俺たちの退屈な世界に。
「つっても箒には乗せてくれないんですね」
「悪いな外来人、俺の箒は一人用なんだぜ」
もう三回目になる獣道を、二人で並んで歩く。今回は俺も彼女も中々饒舌だった。考え込む理由がなくなったからだ。
「帰ろうと思うんですよ」
「言ってくれりゃ土にならいつでも返してやるぜ。マスタ」
「ストップストップ! ノンストップ命の危機は懲り懲りです。目的も目的地も定まった、ここからは消化試合、日常系になってもらわなきゃ俺の身が持ちませんよ」
俺が必死に手を振り彼女の暴発を収めようとすると、くくくと霧雨魔理沙が笑った。手元の八卦炉を紗綾の風呂敷に捻じ込んで頷き、まあ、それももっともだな――そう呟いた、横にいる俺にすら聞こえるか聞こえないかのギリギリの声量で。
「冗談だぜ、博麗神社だろ? ここを道なりに行けばいいのぜ」
霧雨魔理沙はそう言うと前方を指さした。道なりっつーか、道無き道なりっつーか。明らかに進めない山林や崖に二方を遮られているから、多分彼女なしでも着くことには着くのだろうけれど、やはり不安は付き纏う。もう一回宵闇妖怪に遭遇する可能性だってあるのだから。
「帰りたいなら博麗神社、まあ確かにそうなのぜ」
「博麗神社、あれって境界上にあるらしいじゃないですか。恐らく博麗神社は外の世界にも属する場所。冷静に考えて、帰るならそこでしょう……まあ、鵺や狸に頼るのもアリかもしれませんが」
俺がそう言って左側を見やると、彼女は怪訝な顔で固まっていた。恐る恐る、彼女が口を開く。しまった、言い過ぎたか。口が滑った……! そうだ、そりゃあそうだ。だって、霊夢が彼女に結界の話をした時、霊夢と彼女は二人きりだったではないか。確か三妖精だったか……それを、俺が知っているのはあまりに不自然だ。やってもーた。外からの視線に、気付かれてしまう――
「なあ、お前、鵺や狸を知っているのか?」
しかし、彼女の質問はそこに関するものではなかった。
なるほど、ニコニコ黎明期あるいは最盛期の世界が投影されているとして、鵺や狸は出てこない。俺はまだここに来てから地霊殿以降に登場するキャラと出会っていないわけで、俺にはそれらが存在することすら証明できないのだ。しかし彼女の態度を見るに、存在はするのだろう。命蓮寺も、おそらく草の根ネットワークも。となるとちょっとばかり推測に訂正を入れねばなるまい。
「ええ、まあ。俺は幻想郷に少々興味があって調べているにすぎませんが」
「ふむ……となると、外の世界には幻想郷の某かを綴った書物があるってことか?」
霧雨魔理沙の足が再び回りだして、俺も同じく歩いていく。
「まあ、そこまで流通量は多くありませんが」
そうなると、例えばぬえはここで終わりだがな! と叫びながらエビフライを頬張っているのかもしれないし、弁々はアップルパイを腹一杯食べているのかもしれないし、聖と神子は半ば家族のように秦こころを育てているのかもしれない。そうなると、幻想郷に関する創作物が幻想入りすることによって象られていく世界だという俺の考えには若干の綻びが生まれてしまった事になる。例えば、一度作られた世界に登場人物は揃っていて、確かに明治十七年に切り離された世界が続いていて、創作物がその世界を上塗りしていっているとか……と。
俺の思考の訂正は、ここで誰かの声に遮られた。
「あややややー! 魔理沙さんと……そちらは彼氏ですか? いやーついに初心だった魔理沙さんも色恋沙汰に目覚めるお年頃ですかー、感慨深いですねえ……人間ったらすぐ大きくなってすぐ成長しちゃうんですもん、半ば寂しさもありますけど、仕方ありませんよねー。あれ、そうなるとアリスさんやパチュリーさんはほったらかしですか……散々思わせ振りな態度で誑かしておいて自分は男と逢引、なるほど外道ですね! 明日の朝刊一面は決定しましたー!」
あーもう台詞が不必要に長い! 最初に思い切り名前を申告している特徴的な口癖は、やはりどこか得意気な天狗のそれであった。彼女の右手のカメラが光を放ち、シャッター音が聞こえる。ふわりと風が吹き、彼女は少しだけこっちに近付いてきた。白!
「あんのおしゃべり出しゃばり天狗め……」
憤りを顕にしながら箒を手に取る霧雨魔理沙。まずそれより先に彼氏を否定するべきだし或いはボロボロ出てきたスキャンダルを隠すべきだと思うんですけど。
「あややややー! やーややー!」
「あーもううっせえ! 今日こそとっちめてやるぜ、捏造記者……!」
ひゅおおおお。空を裂く音がした、それは恐らく射命丸文の能力によるものではなく、霧雨魔理沙が地面から離れて高速移動しだしたことに起因するのだろう。
「……なんでやねん……」
独りぼっち、取り残された俺。どうしよう、一人で博麗神社に向かうしかないのだろうか。幸いにもこのまま進めばいいことは先ほど魔理沙の説明によって判明しているのだけれど、一度人喰い妖怪に遭遇している身としては気が乗らないし、だからってここで座り込んでも何も変わらない。つーか死ぬ確率すら変わらないんだから立ち止まることによる得が一つもない、だから仕方なく俺は歩みを止めずに歩いているのだけれど、折角拾った命をここで落とす危険が存分にあるというのは、現代では中々味わうことのできなかった貴重な体験だし、求めていた刺激というのはこういうことなのだと思うのだけれど、しかしやはり怖いものは怖い。
「何にも出会わずに行けますように……」
「残念でした?」
ゲームオーバー! 後ろからの声、そういうの本当に心臓に悪いからやめてほしい。ゆっくりと後ろを振り向くと、そこにいたのは紫BB……げふん、八雲紫だった。まあ、わけのわからん野良妖怪よりはマシというものだ。
「……なんだ、貴方でしたか……何の用です?」
「つまらないわねぇ……もうちょっと動転してもいいんじゃない?」
そう言って年甲斐も無く口を尖らすスキマ妖怪。こちらからしてみれば、あまり危険なイメージはないから、突如として空間を切り裂き神出鬼没すること以外は別段恐れる部分はない。しかし思考の読めなさは妖怪たちの中でもかなり高い方の彼女は、強かかつ策士家である。ここで出てきたということには何かしらの意味があるということなのに、一体俺にどんな底知れない用があるのかが微妙につかめないあたりが不気味だ。胡散臭い彼女はネタバラシ要員だから、まあ、この世界についての何かを教えてくれるのかもしれない。外の世界に触れている数少ない住民のうちの一人だし。
「出てきたのが鬼だったら動転してましたよ、死にますもん」
俺がそう言うと、スキマから上半身だけ覗かせている八雲紫は腕を組んだ。
「私は恐るに足りないと? 私が出てきても貴方が死ぬ可能性は低くないわよ、妖怪だもの」
「どうせ殺さないでしょう? 食用に連れてこられたわけでもなさそうですし」
「詳しいわね」
「趣味でね」
どこから出てきたのやら扇子を勢い良くぱっと開くと、それを口元に当てながら彼女は目を細めた。会話の内容こそかなり物騒ではあったものの、そこに本格的な殺気は含まれていない。二次創作的な世界なら彼女は危険な人喰いキャラではないからかもしれない。
「殺す気はなかったけれど貴方の態度が気に入らないわ」
「うわあああ! 妖怪だ! 誰か、誰かいませんか!?」
「ふふふ、ここは人里から離れた獣道……そうそう人間は通らないわ」
「気は済みましたか」
「ええ」
ふふふ、と彼女は楽しそうに笑った。なんだこの下らねえ対話。幻想入りしたんだから幻想郷の危機を巫女と共に回避していったり命を顧みず悪しき心に染まった妖怪と拳でわかりあったりなんかよーわからんうちにフラグを立てて女の子といちゃこらするものだと思っていたのだが、どうにも面白コメディ路線らしい。
「で、茶番やりにわざわざ俺に接触したんですか?」
俺の閑話休題に、笑いを止めてあからさまに不服そうな顔をする八雲紫。
「もう、つれないわねえ……最近の若い子は、なに? さとり世代だっけ? こういう一見馬鹿みたいなやりとりにも、相手を思いやる情ができたりとかね、意味があるのよ……はあ。じゃあ本題に入りましょうか? 貴方がこの世界に入ってきてしまったことについてのお話よ」
そうそう、こういう話よこういう話。八雲紫といえば解説役。お困りのようじゃな! あっ、物知り博士! の役割を担うのが彼女なのだ。
「まあ私が話すのは幻想郷の話じゃなくて貴方の能力についての話なのだけれど。幻想郷の話は徒に吹聴していいものじゃないもの。……さっきヤブ医者になんか言われてたでしょ?」
気味の悪い笑みを浮かべたまま、彼女は訥々と語り始めた。
「あれは私の仕業よ」
「……」
「……」
「……」
「……」
「えっ終わりですか!?」
満足気な顔をするな! 俺の運命と変貌の全容をたかだか八文字で表現しようとするな! 幻想郷が懐かしの設定に埋め尽くされてることはまあ話せないならそれで譲歩するよ! けど前振りがあったからには俺の話はせめてちゃんとしろよ! まあだいたい予想はついてたけどな! どうせお前か永遠亭の奴らかのどっちかだよこんな奇天烈な展開の黒幕っつったら! でもおかしいだろ! なんか、もっと、こう、胸躍らせる中学二年生感溢れる説明パートが、あるだろ!
「え、他に話すべきことあるかしら……?」
「ありますよ! わんさかありますよ! 採用面接かアンタは!?」
眉尻を下げて扇子を閉じる八雲紫。
「うんうん、いいツッコミスキルね。それでこそ主人公枠よ」
「やかましいわ! メタ語りは俺だけで充分じゃないですか! 話が進まないんですよこの調子だと!」
別に俺だって現代で売れっ子漫才コンビのツッコミだったわけではなく、通り一遍な男子高校生でしかないのだからそんなツッコミどころしかない発言はお控え願いたい。追いつかない。
「ええ、それもそうね。人体ってフシギがいっぱいね! なんて語りじゃあ納得できないって。わかってるわかってる。じゃあ始めましょうか、ありがたいお話」
やっと八雲紫が真面目な面持ちになった。なるほどシリアスになるべき場面ではシリアスになるべきなのだなあ。こんなに肩透かしでコメディをやられては無駄に疲れてしまう、さっきの医者のあれでよかったのだろう……俺はとりあえず一つ溜息を吐いて、その大事なはずの語りに耳を傾けた。
「貴方の体が光を放ったのは、さっきも言ったように確かに私の仕業なのよ。月の医者のところに見てもらっていたらしいけれど、なんと言われたのかしら?」
「人外の血、でした」
「ふうん……やっぱりヤブ医者ね、月の頭脳が聞いて呆れるわ……その血は私の差し金、というか私のちょっとした手品ね。本当は貴方の先祖は神でもなければ妖怪でもなく、まさか妖精であるはずもない。貴方は何の面白みもないただの人間でしかない。人間三昧ね。けれど私は貴方にとある力を与えた。貴方が宵闇妖怪に襲われていた時に、ちょっと弄らせてもらったわ。それのおかけで貴方は難を逃れ、命拾いをした。感謝してもらいたいものね」
「それはそれはどうも」
「乾いてるわねぇ……まあいいけれど。それで、貴方の力について。ここからが本題ってわけよね。簡単に言えば、主人公補正の能力……ね。中々死なないし、負けたところで取り返しがつくようにしかならない。周りの女性はみな貴方に興味を持つし、手厚い加護が簡単に受けられる。運命は否が応にも起伏を激しく色々なイベントを善悪好悪全く関係なく巻き起こし続ける。ご都合主義だなって顔。でもそれで充分じゃない? 貴方が『ひょんなことから幻想入りした』なんてことも、他愛もない偶然とは言い難いのだしね。世界ってのはそういうものよ。幻想郷と『外の世界』とが別の世界であるかどうかについては別の議題になるから割愛するけれど、運命とか偶然とか、そんなのは起こってしまえば結果でしかないのだから、ご都合主義なんて言いがかりも甚だしいことよ。だからおかしなことじゃあない。私がふと思い立って、幻想入りした男に力を与えて、勝手気ままに観察して、気まぐれに話しかけたって、それがたまたま自分だったことは面白い事ですらない後付けの結果なのよ。虫取りをするときにわざわざどのモンシロチョウを捕まえるかなんて選ばなくても、その時には確かに選ばれているモンシロチョウと選ばれなかったモンシロチョウとがいるのと同じ理屈で、ね。だから気にする必要も、ましてや気に病む必要なんてない。見たところ気に病んではいないようだけれど、そのままでいいわ。貴方は何も疑わずに私の手品に踊らされて、その中で選択すればいい。良心的よねぇ……帰るという選択肢と、帰らないという選択肢がある。大抵のことは結局のところ選べる選択肢なんて一つあればいいところだっていうのに、私は心がさながら私のように慈愛に満ち溢れているから二つもの選択肢を与えられる。どうするかしら? ちなみに、ここに残ったらその能力は少なくとも私がまた厄介な気まぐれを起こさない限りは適用され続ける。貴方は昔懐かしい幻想郷に包まれて、死にかけたり復活したりしながら刺激と幻想をふんだんにあしらった日常を過ごすことができるわ。けれど帰るのであれば、それは適用されなくなる。外の世界にまで干渉し続けるのは趣味じゃないし面倒だわ。さて、貴方はどうするかしら?」
「帰りますよ」
「あら意外。貴方は昔からここが好きだったのでしょう? 見ていたけれど、そういった人間はやはり少なくてね。そんなあなたには、まさにここは理想郷そのものだと思ったのだけれど」
「別に、俺は霊夢さんが好きでしたし魔理沙さんが好きでした。ルーミアチルノに始まり八橋弁々にまだまだ終わらない、なんならkonngaraやトランプキングだって交えて、俺はここを愛していましたよ。別に彼女らの動きが、性質が、俺の求めていたものとかなりの差異があったことは事実であっても理由ではありません。単純に、帰りたいんですよ俺は」
「そのこころは?」
「俺は引きこもりなんですよ。だから、退屈な日常から出ることも趣味じゃないし面倒なんです」
「結構頑固者なのね」
「オタクは思考が凝り固まるんですよ」
「それ、私以外には通用しないわよ」
「緑の巫女にも通用するでしょう」
「もしかしたらね」
「この世界の有様も貴方の所為なんですか」
「さあ、どうかしら」
「やっぱり肝心なところはボカすんですね」
「だって私は『八雲紫』なんだもの」
「ええ……俺の知っている八雲紫そのままですよ」
「いい台詞ね」
「だって俺は『主人公』なんですから」
どこまで意味があるのかすら良く分からない応答だった。けれど彼女との対話は気分の悪いものではなくて、俺も不思議な高揚感を持ったまま一人で歩き出す。隙間に消えてしまった八雲紫。博麗神社までSPを頼めばよかった……まあ、別にいいか。本当に主人公なら、絶対に雑魚では死なない。胡散臭いからこそ、八雲紫を信じてみよう。
徒歩にして八雲紫と別れてから二十分はかかっていないだろうか、博麗神社の石段が目の前に聳えていた。うわあめんどくせえ。そりゃあ参拝客も少ないままに寂れるわけだわ。息も絶えだえに階段を上っていく。
「ひー、やっと頂上か……」
俺の瞳からハイライトが消えかけようとしていた頃、やっと鳥居の向こうに神社の姿が見え始めた。俺には人の気配を感じられるほど卓越した第六感は無いのだけれど、少なくとも常識的な人間の視力で周りを見回したところ、視界の中には誰もいないように思えた。案の定参拝客の姿もない。
「霊夢さーん。霊夢さんはいらっしゃいますかー」
しーん。
「…… 」
声どころか物音もしやしねえ。もしかして留守なのかもしれない。そうか、皆が昔のキャラクターになってしまっているのは異変だったのか。だとすれば博麗霊夢は妖怪退治に出かけて飛び回り、その辺の妖怪を無闇に薙ぎ倒しながら今現在も黒幕に向かって直進しながら弾幕を避けているのだろう。ならば仕方ない。俺はここで彼女の帰りを待つことにしよう。
……とはいえ、勝手に入ってもいいのだろうか。
まあ、別に構わないだろう。俺は人間なのだから、博麗神社に保護されるべき存在なのだ。鍵がかかっているわけでもないし、神社とはいえ別に祟りがあるわけでもなさそうだ。襖に手をかけて、そっと開いた。
人が死んでいた。
あわわわわ。俺じゃない俺じゃない、信じてくれ。神社の中に入ったら巫女さんが既に死んでたんだ。どうしよう、110番しなきゃ、携帯電話……は充電が切れてて使えないんだ、じゃあ充電器を取りに家に帰ってってここ幻想郷やないかーい!
……現実逃避、おわり。
どうしよう、事件の予感だ。ここから推理編、解決編が始まるのかもしれない。かけるじっちゃんの名は無いのだけれど、ホームズならちょっとだけ読んだことがある。主人公なら俺が探偵役に抜擢されてしまうのだろう……!
と、そこまで考えて、ふと思った。
巫女さんって博麗霊夢だよね?
あれっそれ帰れなくね?
博麗大結界、これ、どうするの?
あわわわわ。あわわわわわわ。なにこれ、結局帰るという選択肢は俺の前には提示されていなかったのだろうか。幻想は残酷だ。
「何をやっているの、そんなに慌ててどたばたと」
「ひーっ!? 俺じゃないですよ!?」
後ろから声がする。ばっと振り向くと、日傘をメイドに持たせて胸を張っている永遠に紅い幼き月と、日傘をお嬢様に持たされて胸を張っている完璧で瀟洒な従者がいた。
そんでメイド、お前は胸を張り過ぎだ。
「咲夜!」
「はい」
レミリア・スカーレットに名前を呼ばれた十六夜咲夜が、手元に握っていた小銭を賽銭箱に投げ入れた。流石ナイフ投げの名手といったところだろうか、 恐らく銭単位の価値しか持たない硬貨は寸分の狂いもなく箱の中央へと弧を描き消えていった。
ちゃりん、とチープな音がした。
刹那。
死体が賽銭箱の前に現れた。否、瞬間移動したのだ。まさに瞬く間の出来事だったから、先程まで巫女が転がっていた場所に視線を送り事態を飲み込むには少しの時間を要した。けれども、賽銭箱の方から、さっきとは比べ物にならないほどの大袈裟な物音がしたので、状況が確認するまでもなく理解される。
赤色が三倍速なら紅白は三百倍速だ。
「霊夢、フルーツを持ってきたわよ」
レミリア・スカーレットは淀みなくそう言うが、しかし誰の手元にもフルーツどころか荷物すら見当たらない。
「はっ」
その瞬間、十六夜咲夜の両手の上には、二つの西瓜が並んでいた。何処から出したのだろうか。確かに彼女は手品師とも呼ばれるが、このためにわざわざ紅魔館まで取りに戻……いや、違う。十六夜咲夜の胸が、萎んでいるッ!
「本当に西瓜詰めとったんかい!」
「非常食ですわ」
そんな重たいもの詰め込んで動きにくくないのだろうか。なんだこのメイド……などと考えていたところ、早速博麗霊夢は西瓜を貪り食っていた。
「はー……何とか生きてけるわー……」
残骸が散らばり、お世辞にも綺麗とは言いがたい様相なのだが、ともかく巫女さんは復活したらしい。よかった。俺の帰る目処が立ったではないか。
「……ねえ、その皮、片付けるとかなんとか」
「いいのよ。肥料になるでしょ? ここに草が生えれば儲け物じゃない」
「なるほどお」
なるほどおじゃねえよメイド、見栄えの悪いことこの上ないだろ、こんなんだから参拝客が死ぬほど来ないんでしょ?
「元気になったところでお願いなんですが」
俺の発言に、博麗霊夢の視線がこちらに向けられる。
「……誰よ」
「あー、えっと、外来人の小里です。ここから外に帰れると聞きまして」
「……待ってて、すぐには帰せないの」
さすが結界のこととなれば博麗の巫女は本業である、凛々しい顔で受け答えして、準備を始めようとしたのか部屋に入った。
……口元が西瓜の汁でベッタベタでさえなければ格好いいんだけれどなあ。
「間の悪いことに、ちょうど今結界の綻びを修繕しなきゃいけないのよ。で、さっきまで寝てたからまだ終わってないわ」
幣のようなものを左手に持ち、部屋から博麗霊夢が出てきた。顔洗ってこようよ。
「終わったら帰してあげるから、それまでここに居るといいわ」
「ねえそこの人間、じゃあ少し遊ばない?」
子供っぽい声が話しかけてくる。レミリア・スカーレットだ。
「折角来たのに霊夢が仕事じゃあつまんないもの。だから貴方で我慢してあげるわ……なんだっけ、森だっけ?」
「小里です」
「まあどうでもいいけど」
くっそこのお嬢様腹立つぞ。何がそんなに誇らしいのかは全くもってわからない。紅魔館は幻想郷を牛耳っていると言っても過言ではないと思うし、その富は幻想郷においては巨万というほか無いのだろうが、お前にカリスマはない。
「で? 遊ぶっても、何するんです」
「吸血」
「遊びじゃねえ!?」
渾身のツッコミだった。俺自身が驚いてしまうほどに大きく声が通ってしまい、それに驚いて、レミリア・スカーレットが一歩下がって、そのまま尻餅をついた。
「……ッ! お嬢様!」
十六夜咲夜が、何かに焦ったように叫ぶ。しかし間に合わなかった。吸血鬼は日光に弱い。さながら俺のようだが、吸血鬼のそれは種族的であり本能的であり克服できない壁なのである。吸血鬼において、日光に当たることはすなわち大怪我を意味する。強大な力を持つレミリア・スカーレットとて例外ではない。
……そのことに俺が気付く頃には、レミリア・スカーレットの首筋あたりがぷすぷすと効果音を振り撒きながら煙を上げていた。ものの数秒で十六夜咲夜が日傘を動かして日光を遮ったのだけれど、幼い吸血鬼は確実にダメージを負っていた。
「うーっ……」
痛いのか苦しいのかは吸血鬼ではない俺には知る由もないが、少なくとも心情が芳しくないらしく、弱々しく唸る。それを恐る恐ると言った風に見守る十六夜咲夜。
「うーっ」
「……」
「うー……」
「その調子で、いつもの、おねがいします!」
「れみ☆りあ☆うー☆」
「あっぱれお嬢様! ノルマを達成いたしました!」
「ってなにやらせんのよ!」
主従コント。かわいい。
「そこの人間……この私に、よくも……!」
ぎりぎりと、生き物を咬み殺すことに特化しているであろう形状の歯を軋ませながら鋭い眼光を俺に突き刺すレミリア・スカーレット。それを愛おしそうな目つきで見つめる十六夜咲夜。止めろ。
「私の僕にしてやるっ!」
「落ち着きなよ」
「あいたっ」
突如吸血鬼の後ろに霧が出たかと思うと、それはみるみるうちに小学生ほどの風貌の幼女を象っていった。吸血鬼の頭に手刀を入れた鬼は、磊落そうに笑っている。 呑んでいるのか、顔は些か赤みがかっていた。このゲームに登場するキャラクターは全員二十歳以上です。
「よーう、外来人。あんまり元気そうじゃねーけど、ホームシックか?」
「まあそれも零ってわけじゃないですけどね」
吸血鬼の横を通り、俺の前に陣取る伊吹萃香。後ろから吸血鬼にめっちゃ睨まれてますけど。ちゃんと手刀は手加減したのだろうか。
「まあ酒でも呑めや、仲良くなるにゃ酒が一番だ」
「……外の世界では、二十歳になるまで酒は飲めないのよ」
次に現れたのは紫の魔女。屋敷から出るんだ。お互いに気を取られていたせいで気が付かなかったのだろう。俺の後ろから静かに現れると、右手で伊吹萃香を制止した。
「あー!? 人間はめんどくせえなー! こっちじゃ産湯が麦酒だぞ!」
「盛りすぎよ」
伊吹萃香が手足のごちゃごちゃした装飾品を鳴らしながら地団駄を踏み、それを冷静にパチュリー・ノーレッジが諭す。まだ何か鬼は行っていたようだけれど、パチュリー・ノーレッジは無視して俺の方を見返った。
「……貴方が例の外来人ね」
「その通り、どうも、外来人です」
親友の来訪に幾分か機嫌が良くなったのか、それとも親友に気を取られて俺に対して興味を失ったのかはわからないが、ともかく俺は助かった。主人公補正さまさまである。
「しかし、パチュリー様が外に出るとは珍しいこともあったものですね」
「他人をまるで引きこもりみたいに言うのはやめてもらえるかしら」
メイドの発した言葉の針に、むきゅー、と嘆息するパチュリー・ノーレッジ。ていうかそれ嘆息でいいのか。なんか違う器官からの音だったりしないだろうか。俺はどう頑張ってもそのむきゅーって音出せんぞ。
「では、お屋敷の外に出たのはいつ振りですか?」
「……前に魔理沙に呼ばれて出たときはとても暑かったわ……」
オカルト倶楽部の片割れや完全記憶の編纂乙女あたりならば知っていたのかもしれないが、いかに明晰な頭脳を持つ魔道士たるパチュリー・ノーレッジでも日付は覚えていなかったようだ。
「それは第何季の夏?」
「……」
ついにパチュリー・ノーレッジは黙り込んでしまった。どことなく俺にも耳の痛い話だ。
「流石引き篭り、不健康なこと極まりないわねぇ!」
と、今度現れたのは金髪の人形遣い。甲高く何やら敵対心を剥き出しにしながら石段を登ってくる。
「チッ……貴女も似たようなものじゃない」
今あからさまに舌打ちしましたよね。もはや敵愾心を隠すつもりが全く見受けられませんね。
「あーっははは! 片腹痛いわね! 私は一昨日も魔理沙とデートしたわ! 都会派の健康的な淑女ですもの!」
左手を口元に添え、高笑いを振り撒きながらこちらへと一歩ずつ近付いてくる。
「どこへ?」
「人里の貸本屋にね! 勿論淑女たる私は十五歩ほど下がって!」
「それは尾行よ」
むっきゅっきゅ、と今度はパチュリー・ノーレッジが笑いだし、アリス・マーガトロイドは眉間に皺を寄せる。まあここだけ聞いてるとパチュリー・ノーレッジの勝ちである。
「本盗まれてるだけのもやしとはレベルが違うじゃない!」
「本人にすら迷惑をかけていてどこがハイレベルかしら!」
その言い合いがローレベルだ。
「なによ!」
「煩いわね!」
程なくして、つかみ合いが始まってしまった。こうなると恐らくパチュリー・ノーレッジの勝機は相当薄まるだろう。物理的な戦闘力の差はかなり歴然。
「ういーっす。お前ら相変わらず仲いいんだぜ」
「いや、これは違……!」
「誰がこんなのと仲良く……!」
風が吹いて、箒に乗って空から砂を巻き上げながら着地した白黒の魔法使いは和やかに笑いつつこちらに振り返った。
「おお、外来人。無事だったのぜ」
俺の顔を見た彼女は、少しばかり驚いた素振りを見せた。何なんだ、無事じゃないと思っていたのか。もっと労われよ。
「隙間妖怪には遭遇しましたけどね」
「全くどいつもこいつも好き勝手してくれるぜ」
彼女は疲れ果てたといった表情で空を仰ぎ、手を翳して数秒硬直した後、下を向いて一度肩を大きく上下させた。
「さて、外来人。帰るつもりらしいが、霊夢は何て言ってたんだぜ? あいつのことだからそろそろ飢えて死にかけていることだろうと思うぜ」
半笑いでそう言って俺の横を通り部屋の中を一瞥すると、回復してるのぜ、と呟いて縁側に尊大な態度で座り込んだ。そして次の瞬間、流れるような手つきで右手を何もない虚空に伸ばすとそのまま空振って縁側の木に思い切り指を付き立てた。何をしているのだろうか、手刀を身につけて更なるレベルアップを目指すのだろうか。
あ、でもめっちゃ痛がってる。唐突に武闘家の道を志したというわけでも無かろう、謎だ。
「ってえな……ああ、そうか、煎餅は……」
霧雨魔理沙のさりげない呟き。
「魔理沙」
「貴女が言い出しっぺなのよ」
何も引っかかる部分は無かったように思うのだが、しかし、周囲のメイドや吸血鬼、その他の面々も皆、彼女に厳しい視線を向けていた。それに気付いたらしく、霧雨魔理沙はバツが悪そうに帽子を引き下げてしまい、俺からは表情が伺えなくなる。
「……悪いぜ」
不穏な空気が辺りに漂い、些か居心地悪い静寂が神社を包み込んだ。現実にてこういった状況には度々陥っていたからそれほど気に病むわけでもないのだが、それでも確かに居心地が悪いのには代わりはない。互いに視線を向けたり、と思えば明後日の方向に意識を追いやったり、誰もが話題を探し、しかし誰一人として、何も手が打てなくなっているように思えた。
「ちょっと、私の家で辛気臭い顔しないでよ。お墓じゃないんだから」
結界を打ち破ったのは、博麗霊夢だった。手をぱんぱんと二度打ち鳴らし、声を張り上げる。
口には出さないが、誰もが、博麗霊夢に助けられた形になる。
「あー、そこの外来人。これ、明日の朝くらいまでかかるわ。今日はここに泊まっていきなさい」
「えー、ずーるーいー!」
博麗霊夢からのありがたいお達しに、俺よりも先にレミリア・スカーレットが反応した。俺の方を一度睨んで、巫女に向かって叫ぶ。
「いつも遊びに来てもすぐ追い返す癖に! 」
「それはアンタの従者が面倒臭いからよ」
「こんなところでお嬢様にひもじい思いをさせるわけにはいかないじゃない」
そうして、その場がまた回り出す。博麗霊夢には、確実に辺りの空気を変え、世界を支配する能力がある。主人公が主人公たる所以だろう。俺の取ってつけたような補正では足元にも及ばない、十年以上主役を張り続ける世界一位は、この少しばかりズレた幻想郷においても頂点に位置するらしい。
霧雨魔理沙の方をちらっと見てみたが、どうやら元の傲岸な彼女の様態を取り戻しつつあるように見えた。先程の矮小に見えた彼女は、目の錯覚のようなものだったのかもしれない。
「で、森だっけ」
「小里です」
「あー、そうそう、小野里くんね。夕飯はそこのメイドにでも作ってもらいなさい、私は結界をここで編んでるから」
漢字にしなきゃわからないような勘違いを披露する博麗霊夢の夕飯という言葉に気付いて見渡せば、もう日は西に沈みかけ、世界はオレンジ色に染められていた。俺たちの影が、長く長く伸びて神社にかかる。それもそうか、俺がここに飛ばされたとき、俺は学校からの帰り道だったのだから、帰宅部とはいえ午後三時は回っていたはずなのだ。これだけ幻想郷中を行脚すれば、時間が経つのも当然だった。怒濤に押し寄せる急展開のせいで腹が減ったのも忘れていて、そう言われると急にご飯が食べたくなってきた。プラシーボとか思い込みとかは全くもって馬鹿にできない。
「別にいいですけど、それなら館にいらっしゃいます? どちらにしても一度食材を取りに帰らなくてはなりませんし、皆さんで立食会でも致しましょうか」
十六夜咲夜がレミリア・スカーレットを撫で回しながら応えた。なにそれ羨ましい。なんか撫でられてる側も満更じゃない顔してるし。むにむに伸びてるし。
「でもそれじゃあ霊夢を放ったらかしにすることになるじゃない」
そう唱えたのはアリス・マーガトロイド。ええ人や。人じゃないけど。
「大丈夫ですよ、普段パーティーするときは貴女を放ったらかしにしてますし」
「全然大丈夫じゃないわ!」
ぼっちアリスだ。変態アリスとともに最近見なくなったアリスの筆頭である。アリス総受けが世界平和の流れに乗って、不憫な役回りは最近ではあまりされなくなったらしい。今では貫禄の東方のかわいい担当である。
「あーっはっはっは! ざまあねえわね!」
「パチュリー様も呼んでも出てこないので最近は専ら放ったらかしにしておりますが」
「ガッデム!」
館に引きこもってるんじゃなくて図書館に引きこもっているのか。この性格の主と二十四時間三百六十五日軟禁されているというのは辛い生活だろうと思う。小悪魔の受難に少しばかり思いを馳せた。
「でもまあ、確かに、霊夢さんを放置してというのは心が痛みますね」
「私は!?」
「私は!?」
魔女二人の心の底からの突っ込みに、霧雨魔理沙は笑い転げている。魔女二人はそれを見て……いやなんでそんな恍惚の表情なの。体を張った芸が受けて嬉しいの。ガッツポーズとかできるタイミングじゃないから。
「ではアリスさん、手伝ってください。どうしますか、お嬢様? ここで食べて帰ります?」
十六夜咲夜が腕をまくりながらレミリア・スカーレットを日の当たらない神社の屋内にエスコートする。
「咲夜がここにいる限りは帰れないわね、パチェは?」
「食べてくわよ! 乙女を一人で帰す気!?」
「醜女?」
「はっ倒すぞてめえ!」
「私からすればお嬢様以外は全員醜いものですよ」
「何がアンタをそこまで盲目にするのよ!」
そんな感じで。ドタバタと、夕餉の準備は進み始めたらしい。厨房に、おそらく幻想郷における料理スキルナンバーワンとナンバーツーが消えてゆく。食材を用意した風がないのは、おそらく彼女が時を止めて紅魔館とここを往復しただけのことだろう。霧雨魔理沙やレミリア・スカーレットやパチュリー・ノーレッジとなんだかんだととりとめの無い話を続けていると、豪勢な皿がいくつも運ばれてきた。卓袱台と言った方が正鵠でありそうなテーブルに各々が座り込み、博麗霊夢も一旦ご飯を食べるためにその手を止めて、空いていたレミリア・スカーレットと霧雨魔理沙の隙間に座った。
「アリスさん、箸使うの上手いんですね」
「人形劇だと思えば楽勝よ。それに比べて……」
アリス・マーガトロイドは、そう言いながら豆を掴み、得意気な顔でパチュリー・ノーレッジの方を見た。スプーンで米を掬うって絵面はなかなか面白いものがある。
「何よ! 紅魔館は洋食なのよ!」
「私とお嬢様は普通に扱えますけど」
「あんたらは日本人と親日家でしょうが!」
幻想郷は驚くほどに平和だった。こうして、かつて大きな異変を起こした者と、それを力技で止めた者と、何の関連性もない余所者が、共に食卓を囲み、談笑している。信じ難いことだと思う。現代に例えるなら、警部と囚人と知らないおじさんが一緒にカツ丼を食べるようなもので、そんなことは有り得ない。
幻想郷は当然のように全てを受け入れている。
少しだけ、残っていたいと思った。
「……魔理沙さん」
夜だ。結界に向かう博麗霊夢を邪魔してはならないと、少し離れた縁側に、俺と霧雨魔理沙は並んで座っていた。
夕食が終わると、瞬く間に、みんな思い思いに散っていった。それぞれがそれぞれの家を持ち、用事をもっているのだろう。あるいは、ここでは日が沈めばすぐに眠るものなのかもしれない。こと吸血鬼に限っては、今から眠る時間なのかもしれないが。そうして、残ったのは、俺と、博麗霊夢と、霧雨魔理沙。
「一つ、気になることを聞いてもいいですか?」
どうして霧雨魔理沙がここに残っているかはわからなかったが、おおよそ、博麗霊夢が心配なのだろうと思う。
「ああ、いいぜ」
「華扇さんは何処にいるんですか?」
「っつーと、仙人ぜ。やっぱり知ってたんだぜ……」
あー、と霧雨魔理沙は唸って、首を多様な方向に傾げながら考え込む素振りを見せた。
「まあ、あいつはずっとここにいる訳じゃあないからなのぜ。たまに現れるだけだぜ。名前を知ってるくらいなんだから、住んでるところが違うことも知ってんのぜ?」
「ああ、そういえばそうでしたね、失念してました」
なにやらとてもよく迷う場所の奥に大勢の動物とともに住んでいたような気がする。
「じゃあ、こっちからも質問だぜ。お前は、私についてどこまで知ってるのぜ?」
これが、彼女の目的だったのだろう。自分から出す情報と引換に、外の世界の人物から情報を集める、と。魔女らしい知識欲だ。
「うふふ、うふ、うふふふふふふ」
「あばばばばば、お前、そんなことまで知ってんのかよ!?」
ちょっとカマをかけたのだけれど、思ったよりもしっかりと乗ってくれた。焦りすぎてだぜ口調も抜けているし、なんか顔が真っ赤だし、両手を顔に被せて何か呟きながら足をバタバタやっているし、悪いことをしたかもしれない。金髪の子かわいそう。男役やってる時よりこういう時の魔理沙ちゃんの方が可愛いね。ジゴロではなく、最近のキャラ付けの魔理沙ちゃんだ。
「……オウケイオウケイ、かなり前のことも外の世界に知れているわけだなのぜ」
冷や汗だらっだら出てますけど。なんかだぜ口調を思い出したのはいいけど接続部がおかしいですけど。
「……体調が優れないなら帰った方が」
「誰のせいだと思ってんのぜ!?」
大声で突っ込みこそ入れたものの、やはり漆黒の歴史を抉られるのは相当に心的外傷を受けるものらしく、俺とて引き出しの底から設定ノートが掘り出されれば外を出歩けなくなるしお婿に行けなくなるだろう。霧雨魔理沙は覚束無い足取りで立ち上がり帰路に着こうとした。少々悪いことをした。そんな歩き方で石段を下りられるかどうかは怪しいものだと思うのだけれど、俺が今更何か言っても仕方があるまい。そう思って、俺は別れの言葉だけを掛けて神社に入り寝転がった。
朝が来た。まだ明かりは薄く、太陽は東の空に出ているのだろうが、博麗神社の裏に回っても、その姿は掴めない程の早朝だった。
一度眠って起きたら普通に俺の部屋にいるかもしれない、ただの質のいいのか悪いのか判断しにくい夢なのかもしれない、そんなことを夜中には思っていたのだけれど、しかし俺のその想像は間違っていたようで、俺は古臭い和室の布団の中で目を覚ましてしまった。これは紛れもなく現実、か。
欠伸をして体を伸ばすと、日頃の運動不足の賜物か、体の繋ぎ目という繋ぎ目からおおよそ人間の体から出たとは思えない音が鳴り響く。制服は一応脱いだものの、カッターシャツで眠ってしまったのは、流石に不躾だったかもしれない。よれたシャツで人前に出るのは少なくとも褒められたことではなかろう。
一通り関節を回し終えて神社の裏から表側へと廻ってくると、一人の女性が凛と立っていた。
「おはよう」
その女性とは、アリス・マーガトロイドだった。右手の肘に何やらバスケットをかけている。
「おはようございます……どうしたんですか、こんなに早くから」
「朝食を渡しに。霊夢、今夜はずっと結界とにらめっこしてたらしいし 」
そう言って、魔女は優しく笑った。魔女といわれてイメージするような黒く妖しい要素は微塵も感じられず、そこにいるのはただ気配りのできる優しい女の子だった。
「しかも、このタイミングで魔理沙が来たら私の株は急上昇するだろうし、そうでなくても魔理沙は霊夢とよくつるんでるから霊夢に気に入られて寝取れば傷心する魔理沙を手ごめにすることだって夢じゃないでしょ」
前言、オール撤回。
「二割くらいは冗談よ」
「八割本音ならそれは本音ですよ」
アリス・マーガトロイドは、くすくすと笑いながら縁側に座って、布団の上にあられもない姿で寝転がっている博麗霊夢に、優しい視線を向けた。さっきの言葉のせいでその瞳をそのまま素直に評価はできないけれど。
「あやややー! ややーやーややー! 毎度おなじみ射命丸でーす! おーっと、アリスさんではありませんか! その手に提げているのはなんです? 推測によるとこれは朝餉ですね!? むむむ、となると魔理沙さんからついに霊夢さんに乗り換えたということですかね!? こーれは大スクープです!」
「あー? 私が魔理沙以外に乗り換えるなんて天地がひっくり返っても有り得ないわよ」
騒がしい鴉の来襲に、気に食わなかったらしいアリス・マーガトロイドは彼女を睨み付けた。舌打ちを一つ零して、拾い上げた石を思い切り放り投げる。
「おお、こわいこわい」
しかしそこは幻想郷最速の称号を欲しいままにする射命丸文、軽やかな動きで、残像だと言わんばかりの回避をこなした。
「ぷぎゃっ!?」
当然のようにその後ろへと石は飛んでいく。後ろから幼子のような声が聞こえた。おいおい一般参拝客に流れ弾ならぬ流れ石が当たったんじゃないのか?
「なんで石が飛んでくるんだよー! あの三人組の仕業かー!?」
「ちょっとチルノちゃん! あの妖精三人組の話はしちゃいけないっていわれてるでしょ!」
……あー。なるほど。これは、当たっても問題ありませんわ。
「昨日は会えなかったけれど外来人を一目見たいという方々は結構いましてね。私は身を削って飛び回り彼女らを集めてきたのです。あややや、褒めてもいいのですよ」
「はいはい美味しそう美味しそう」
「褒めれてねーですよそれ!」
アリス・マーガトロイドにとって鴉天狗は唐揚げの素材でしかないらしい。魔女は優しそうな顔をしていても、結局は残酷で不気味な生き物であるということがよくわかる。
「一番乗りは僕だったね!」
「そーなのかー」
「石にさえ当たってなければあたいがさいきょーだったぞ!」
「みんな体力あるなあ……」
最初に上がってきたのは馬鹿四人組……通称バカルテット、かと、思ったのだけれど、構成員が俺の知っているそれとは微妙に違う。大妖精がいる代わりにミスティア・ローレライがいない。もう唐揚げになってしまったのだろうか。当然のようにリグル・ナイトバグの一人称は僕で、当然のようにルーミアはそーなのかーと平坦に呟いていた。
「あー! 知らない人間だー! なんでこんなところに人間がいるんだー!?」
「チルノちゃん! 今日はこの人に会いに来たんでしょ!」
そしてチルノは致命的に馬鹿らしかった。
「おはよう」
俺は努めて平静に挨拶をする。外の世界では、子供には挨拶をしただけで不審者として学校に通報され、親の携帯メールに不審者情報が流れる仕組みになってしまっているから、おちおち子供達に目を配ることすらできなくなってしまっている。そもそも俺のような人間関係を殆ど断絶してしまうような児童ならばそうであっても然程困らないし、そういう風潮であった方が面倒な人間関係が少なくなってありがたいことですらあるのだけれど、一般論として、そういうドライな社会はあまり良くないとされているから、明治十七年から殆ど文明が進化していない幻想郷の、子供に声をかけても防犯ブザーを鳴らされることがない社会は古き良きものといった感じだ。
「おはようございます」
と、まず最も大人っぽくしっかり者風の大妖精がぺこりと頭を下げた。よくできた子だ。
「おはようございますっ」
続いてリグル・ナイトバグ。
「なのかー」
それ挨拶なんですかね。まあお辞儀してくれてはいるのだけれど。
「知らない人と話しちゃいけないんだぞ!」
躾はされているらしかった。礼儀は無いけれど。
「そこの人間も気をつけるんだぞ!」
しかしうまく理解できていないらしかった。
「もーぐもーぐ!」
「げげっ! みすちーのカタキ!」
「まだ生きてるからー! たすけてー!」
その後ろから幽霊が上ってくる。口には鳥肉……もとい、ミスティア・ローレライ。なるほど、さっきのメンバーにミスティア・ローレライがいなかったのは捕食されていたからだったのか。
「ゆーゆーこーさーまー! まってくださ」
ずべっ。
次は、そんな効果音を鳴らしながら階段の最上部に意図せぬヘッドスライディングをかました魂魄妖夢。涙目で起き上がり西行寺幽々子に耳打ちをする。
「みすちーは昼飯じゃないんですよ!」
勇敢にも立ち向かうリグル・ナイトバグ。
「ゴキブリは流石に食べたくないわねー」
「ゴキブリじゃねーよ!」
しかし哀れにも敗れて泣き出した。そもそも、口の中に物を入れたまま流暢に喋っている方法がわからないし女児一人分が易々と入る口というのも全く意味がわからないのだけれど、この目の前には確かに夜雀を頬張る幽霊がいるわけで、これまでの常識なんか通用する相手じゃあないのはもう痛いほどわかっているから、何も言わずに次に上ってくる者へと意識を傾けた。
「ホント……生きててすいません……」
「ひゃあああっはあああ! 外来人だぁぁぁ!」
「あ、おはようございます。申し訳ありません姉がなんかおかしくて」
騒音三姉妹が楽器を漂わせながら現れる。末っ子のみまともな顔をしているが、金髪の長女は死んだ魚のような瞳をしているし、白髪の次女はなんか飛び跳ねているし、完全に目の焦点が合っていない。恐らく世界が丸ごと幸福の塊のように見えているのだろうと思う。ダメ、ゼッタイ。
「じゃあメルラン、一曲弾き語りしまーす!」
「やめてお姉ちゃん! お姉ちゃんの脱法ソロパートはこの前厳しく制限されたでしょ!」
やっぱりか、そりゃそうだというか、なんというか。少し可哀想でもあるが、仕方ないことだ。俺はあんな風にはなりたくない。ぜひ姉と二人の時に披露してやってほしい。
「前が偉く騒がしいな……そんなに外来人が大人気なのか」
「申し訳ありませんが俺は殆ど発言してませんよ、みんなキャラが立ち過ぎて圧倒されてます」
やっとこさまともな方が上がってきた。もんぺの妖怪もとい藤原妹紅。煙草をふかしながらくっくっく、と静かに笑った。ハードボイルドだ。
「もっこたーん! どう? 外来人ってハンサムな感じ?」
「……ああ、そうでもねえぞ」
おい。
「まあ私はもこたんだけいれば男なんて興味ないけどねー!」
「お、おう」
着物を着た少女、蓬莱山輝夜が藤原妹紅に飛びつく。めっちゃ引かれてますけど。もこたんめっちゃ居心地悪そうですけど。
「二人は相変わらず仲がいいわね、ウドンゲ」
「殺しあっていた頃が嘘のようですね」
「仲良きことはいいことウサ」
付いてくる医者と兎と兎。鈴仙・優曇華院・イナバはとぼとぼと、因幡てゐは頭の後ろで手を組みながら、それぞれにそれぞれっぽい雰囲気を出しながら。
「もこっ……お前いつから輝夜と仲良くしてたんだ……!?」
後ろから藤原妹紅を眺めながら涎を垂らしていたものの、蓬莱山輝夜の行動に驚愕して教師が足を止める。
「え、知らなかったの慧音さんだけですよ?」
「馬鹿、イナバ、余計なこと……」
顔だけ振り返って上白沢慧音に憐憫の視線を向ける鈴仙・優曇華院・イナバ。その言葉にわなわなと上白沢慧音が震えだす。周囲の空気が若干歪んで見えるほどのエネルギーを装填し、大きく嘶いたかと思うと、その刹那、上白沢慧音の位置座標が豹変する。それは昨日の博麗霊夢の小銭への反応速度にも等しく、とてもじゃあないが人間の認識能力の限界値を大きく超えているから俺の目には消えたようにすらみえたのだけれど、その考えはある声によって消去される。
「あひぃんっ!?」
鈴仙・優曇華院・イナバがまたしても嬌声をあげたのである。どうやら上白沢慧音の頭突きを喰らったらしい。手を背後に回して患部を押さえながら、その場にへたりこむ。冤罪どころかえげつない巻き添えである。
「気が済んだ!」
さよか。
「あら、他人を痛めつけるのは私の専売特許よ?」
日傘が目印のアルティメットサディスティッククリーチャーが、この惨状を見るや否や不敵に笑う。
「じゃあ私を痛めつけていいわよ! ってか痛めつけて! 是非に!」
その後ろから、青い髪の天人が両足を縛られたままうさぎ跳びで風見幽香の前に立ちはだかった。
容赦ない音が響いた。
しかし天人、防御力は尋常ではない。恍惚とした表情を浮かべてはいるものの、その場を微動だにしない。
もう一発。
今度のは先程のよりも更に腰が入っていた。俺が喰らったら哀れ雲散霧消していたことだろう、そんな打撃を二発喰らってそれでもなおまだまだ足りないとでもいわんばかりの態度で薄ら笑いを浮かべている姿は、三姉妹の次女にも負けないくらいの狂気を帯びているように見えた。
「ねえ咲夜、貴女は私にあんな風に殴られたら喜ぶの?」
「勿論ですわ、お嬢様」
「じゃあ中国、お前は?」
「すや……すや……」
「何だコイツ眠りながら階段上ってる! こわいよおしゃくやあー!」
紅魔組も続いて姿を現す。フランドール・スカーレットの姿が見当たらなかったが、しかしあんな危ない妹を人の集まる場所に連れてこれないというのも仕方のないことだったのかもしれない。
昨日使ってしまった胸部への詰め物、今日は昨日の西瓜よりは小振りだったが、それでも相当な重さと体積を偽っていた。臨月の妊婦さんみたいな歩き方になってますよ。無理しない方がいいと思いますけど。
「何をしているのですか風見幽香! 暴力行為は即刻止めなさい!」
暫くすると、殴打の音に反応したらしく、メガホンを片手に四季映姫が石段を駆け上ってきた。今では幾分か茨木華扇や聖白蓮に取られてしまった説教キャラも、ここでは現役である。しかし彼女の後ろを、不審な人物が追いかけて上ってきている。
「何を言っているんだ、山田さん……本人が喜んでいるのだから良い事じゃないか」
褌一丁の男。ここに来て目に優しくない光景がそこに広がってきてしまった。はっはっは、とナイスミドルっぽい笑い声を響かせながら悠々と闊歩する姿には最早感心すらしてしまいそうになる。人として色々捨てすぎではなかろうか。
「貴方の格好は本人しか喜んでないじゃないですか!」
流石は閻魔、的確な突っ込みだ。
「何やってんだぜ香霖ーッ!」
堂々と胸を張る森近霖之助の後頭部に、霧雨魔理沙の飛び蹴りが炸裂する。さっきから暴力行為ばかり易々と行われているのだけれど、こんなに幻想郷ってギャグマンガ補正を多用する世界だったのか。目の前でそれが行われると、リアルな効果音のせいで些か恐ろしさを覚えてしまう。
「あっ、まぁぁりさぁぁ!!」
「まりさぁぁぁぁっ!!」
そして、空中戦。誰と誰が戦っているのかなど説明する必要もない。スペルカードが宣言され、周りの者は皆、開いた口がふさがらないといった感じで空を見上げていた。七色と七曜の弾幕勝負は目を奪われてしまうほどに美しくて、朝日の下で、何かショーでも見ているかのような気分になってしまう。
しかしそう上手く纏められるような状況ではなく、四方八方に弾幕は飛び散っていく。辺り一帯から爆発音や、怒声や、悲鳴が次々と上がって。俺が目にしていないところでメンバーは更に増えていたらしく、ひゅいーと鳴きながら走り回る河童とか、無闇に回る厄神とか、尊大に座り込む御柱とか、個性豊かな数十名の自由行動は一切の統制も取れていなかった。
ああ、こういうの、なんていうか、俺は知っている。現代においても良く使われる表現。俺の脳裏で、八雲紫がニヤニヤと笑った。
「カオスだ……」
呟いて、急速に接近してくる大玉を避けた。
その弾は比那名居天子に衝突していた。
「うるっ……さーい!!」
数分ほど経った頃だろうか、障子を開けて博麗霊夢が怒りの叫びを連れて飛び出してきた。その気迫に、周囲は完全に静まり返る。
「あんたらまた私の神社の前で騒ぎやがって……全員退治してやるわよ!」
アリス・マーガトロイドとパチュリー・ノーレッジがすごすごと地面に降り立つ。それでもなお霧雨魔理沙のすぐ斜め後方に陣取るあたり、彼女らの情熱は計り知れない。
「はあ……外来人、帰る準備はできてるわよ」
目の下に隈を作った博麗霊夢が、俺を手招きする。俺は少しだけ周りを見回して、誰にともなく頷き、真っ直ぐ神社の中へと歩みを進めた。
さて、こことももうお別れか。たった一泊二日の旅だったけれど、どれだけ多くのイベントが起こったことか。一年分くらいのをハチャメチャを一挙に味わったような気がする。
縁側に経って、後ろを向いた。
人間が、人外が、そこにはありとあらゆる幻想が犇めき合っていた。
「私が念じれば、貴方はここから居なくなって、外の世界に戻る」
背後から博麗霊夢の疲れを感じさせる声が聞こえた。俺は黙って頷く。真っ直ぐ前を見据えて、前方の人間を、河童を、吸血鬼を、神を、半獣を、幽霊を、妖精を、天狗を、人形を、魔女を、半霊を、妖怪を、蓬莱人を、騒霊を、夜雀を、虫を、そして、夢を、現を、一つずつ噛み締める。
宵闇妖怪に喰われそうになった。紅魔館を歩き回った。胡散臭い医者にかかった。勿体ぶった隙間に絡まれた。博麗神社にお世話になった。大好きだった幻想郷を、しかとこの目に焼き付けた。
決心する。
「では皆さん、さようなら。ありがとうございました」
俺は息を吸って、別れの言葉を紡いだ。
それを皮切りに、何人もが思い思いにコメントを残す。
何人もが喋る中、一人の声が、思い切り耳を突いた。
「じゃあな、外来人。なかなか面白かったぜ」
俺もですよ、魔理沙さん。大好きだった貴方達に逢えて、俺は、本当に幸せでした。
目を瞑って、最後には、何も聴こえなかった。
俺魔理沙を見なくなった。妾レミリアを見なくなった。貧乏霊夢を見なくなった。イケメン妹紅を見なくなった。PAD長を見なくなった。山田を見なくなった。褌こーりんを見なくなった。きもけーねを見なくなった。フランちゃんウフフを見なくなった。鎌田さんを見なくなった。ヒーリングリリーホワイトを見なくなった。スッパテンコーを見なくなった。カリスマガードを見なくなった。語尾ウサてゐを見なくなった。ドリキャスマークを見なくなった。ジゴロ魔理沙を見なくなった。座薬鈴仙を見なくなった。幽々子に捕食されるみすちーを見なくなった。めるぽを見なくなった。走るチルノを見なくなった。オリキャラ秋姉妹を見なくなった。中国を見なくなった。わはーを見なくなった。れみ☆りあ☆うー☆を見なくなった。マジカルさくやちゃんスターを見なくなった。ふとましいレティを見なくなった。ドM天子を見なくなった。みさえを見なくなった。ニート姫を見なくなった。BBA呼ばわりを見なくなった。TNTNを見なくなった。わはーを見なくなった。
けれど、あらゆる幻想は、そこにあった。俺たちの幻想郷は無くなっていなかった。幻想郷は幻想郷にて確かに存在している、それがわかると、少し安心した気分になった。
「はぁー……慣れないことしたから疲れたわ」
博麗霊夢が、これまでに幾度となく吐いていたであろう溜息の中で恐らく最も大きな溜息を吐きながらお茶を注いで、縁側に座り込む。
「おーい霊夢ー、次の外来人だぞー」
階段を駆け上がり、遠くから魔女が巫女を呼んだ。
「はー、またなの? 忙しないわねえ……」
誰かが数えるだろうか、少なくとも、今日に入ってからだけでも彼女の嘆息の数を数えるのに両手の指では足りなかった。またあの面倒な私にならなければいけないのか……と、霊夢は持ち前のめんどくさい精神を持ってして、ごろりと後ろに倒れた。
二人目のピエロが博麗神社に現れるまで、数十分。
彼女たちは今日も演じるのだろう。
幻想郷を幻想たらしめるために。
気が付いた時には、俺は家から程近い駅の前で立ち尽くしていた。相変わらず身体の感覚には全く異常がない。頬を抓るまでもなく完膚無きまでに紛れもなく、俺の周りに繰り広げられているのは、少年の愛した日本の殺風景だった。一体どれくらいの時間が経っていたのだろうか……向こうで寝泊まりしていたのだからこっちでも同程度の時間が経過しているのだろうか。そうなってくると俺を捜索するために国家権力が動いているかもしれない。面倒なことになったな……だがしかし。そんなもの、幻想郷に行けたことに比べたら些細なことだ。だって幻想入りだぜ? 全国各地の東方好きの誰もが一度は抱くそんな妄想を、俺は、たった今まで体験していたのだ。警察と親にこっぴどく叱られたって、数えきれないくらいのお釣りが帰ってこようというものだ。
数少ない友人たちに一体どんな風に自慢してやろうか、居場所たるSNSでどんな知識を披露してやろうか……いや、それよりも先に、久々に手描き動画でも漁ることにしようか。
暮れようとしている無機質な喧騒を背負いながら、果たして昨日までの俺ならば絶対に浮かべなかったような、希望を思い切り表した表情をしてみる。
家に向かって、張り切って歩き出した。
俺達の幻想郷は、間違いなく其処に在る。
突然だけれども、俺は今非常に困惑している。
「何処なんだよ、ここはッ!?」
静かな獣道に、横たわる俺の咆哮がこだました。
~少女遡行中~
彼が「ひょんなことから幻想入りしてしまう」一週間前の夕方頃のこと。
霧雨魔理沙の招集により、幾人かの人と妖が博麗神社に集まっていた――その人数は普段の花見などよりも遥かに少なかったけれども。
博麗霊夢は最初はどうしてウチでやるんだと溜息混じりであったのだが、もはや何かをするための集合場所は博麗神社というのが共通認識になってしまっていたものだから諦めてしまっているらしく、結局霧雨魔理沙たちを追い出すことはせず、けどお茶は出さないから、といって今では部屋の片隅で不貞寝している。
霧雨魔理沙はそんな彼女を構うことすらせず、風呂敷から四冊の本を取り出した。装丁は古書ばかりが出回る幻想郷に住まう者たちにとってはそれだけで目を引く程の小綺麗さであったのだが、そもそもそんな評価を下せるほど多くの本を読んでいる者がこの場に一体何人いるのかは定かではなかった。
重厚な魔道書のような重みや凄みこそ感じられないが、小規模にまとめられたフォーマルなイメージの本。まだ製作されて間もないことが、黄ばんでいない本文から伺える。ここにビブロフィリアの貸本屋がいたならば講釈が始まっていたのだろうけれど、霧雨魔理沙はそれを見越していたのかどうなのか、彼女は招待していないようだった。
兎も角、その場は少しばかりざわめき立った。座敷に並べられた本に、なんだなんだと注目が集まる。
「外の世界の小説本だ。とりあえずパラパラと捲ってみれば、私が皆を集めた理由もわかって貰えると思う」
その言葉を受けて、霧雨魔理沙の右隣に座っていた上白沢慧音が、おもむろに一番近い場所に置かれた本を手に取る。皮切りに、アリス・マーガトロイド、十六夜咲夜、東風谷早苗の三人が各々本を手に取った。それぞれの近くに座る者が三人を横から覗き込む形になり、少しずつざわざわと話し声が大きくなる。
「『俺が幻想入り』……どういうことだ、これは?」
上白沢慧音が訝しげに表紙と裏表紙を見つめてみるが、しかし、彼女にとって理解のヒントとなる部分は見当たらなかったらしく、真剣な眼差しで一頁目を捲った。
「こっちのタイトルは……『東方俺奇譚』……?」
と、アリス・マーガトロイドが続く。最も真新しい文庫本を開いたが、絶句といった感じに固まってしまう。
「ねえ……これって……」
アリス・マーガトロイドの顔が青ざめていく。霧雨魔理沙が、その反応を見て、何が楽しいのか、にやにやと笑みを浮かべた。
「ああ、気付いたか」
数頁の前置きがあったようだが、上白沢慧音にも合点が行ったらしく――しかし、俄かには信じられなかったことなのだろう、恐る恐る、彼女は顔を上げた。
「私達の幻想郷は、外の世界に周知されている」
適当に頁を選び中盤を斜め読みしていた東風谷早苗が本をぱたりと閉じてそう言うと、その場の全員から思い思いの声が上がり始める。なんだそれは、外の世界はどうなっているんだ、エトセトラエトセトラ。隅で寝転がっていた博麗霊夢にすらその言葉は衝撃的だったようで、ごろりと寝返りを打って中央に這い寄り、近くにいた十六夜咲夜の肩を掴むと体を起こして、後ろからぬっと彼女の手の中にある本を覗き込んだ。
「ここには残念ながら、外の世界に日常的に行き来している者はいない……しかし、早苗、お前は何か知らないか?」
お前は現代から引っ越してきたんだろう、と霧雨魔理沙が東風谷早苗の方に目配せしたが、当の彼女は首を横に振りながら手を肩の高さに上げて「お手上げ」のポーズを取るばかりだった。
「少なくとも私は、こんな世界は知りませんでした」
その他大勢ががっかりした声を漏らす。
「……って誰ですかどさくさに紛れて舌打ちしたの!」
東風谷早苗は小さな物音も聞き逃さなかった。牙を剥いた狂犬のような顔をして周りを見回す彼女の肩を、霧雨魔理沙がぽんと叩いて諭す。
「まあそれは後でもいいさ……実際、お前は役に立たなかったしな」
「なんでそんなに辛辣なんですか!?」
目に涙を浮かべて後ろを見返る東風谷早苗。感情がとても直接的に顔に出るタイプのようだ、見ているだけでも面白いわね、と誰かが小声で言った。辺りに掻き消されたのか東風谷早苗に聞き取る余裕がなかったのか、流石に今度の声は東風谷早苗に届くことは無く、部屋の空気に消えていく。
「……でも、この世界が知られていること自体は、別に重要じゃあない。存在が知られているだけならば」
上白沢慧音から本を受け取ったらしい八意永琳が、鋭い目線を霧雨魔理沙に向けながら口を開いた。それまでずっと黙り込んでいたのだが、彼女はその間の僅か数分にして一冊を読み終えたらしい。もっとも、文章は全くもって重苦しくなく、むしろかなり易しい部類だったから、妖精なんかでも読める代物だったであろうけれども。
「流石だな、月の頭脳」
月の頭脳たる彼女に対して、流石だな、なんて口を利けるほど霧雨魔理沙の脳は発達していないのだが、今回ばかりは自分が仕切り役で自分が主役なんだという流れを切らない為に、実は数日前から自分で話をまとめたり対話をシミュレートしたりといった入念な準備を施しており、普段よりも更に彼女の態度は尊大だった。
堂々たる口振りで八意永琳を指差して、パチン、と指を鳴らす。すかさず八意永琳が口を開いた。
「ここに知られている幻想郷は正しくないから」
霧雨魔理沙が説明するよりも八意永琳に進行してもらった方がより要領を得た解説ができそうではあるのだが、しかし生憎にも彼女には未だ人望が無く、それを自身も理解しているのだろう、それだけ言うに留めて霧雨魔理沙の方に話を促した。
「そういうことなんだ。私達が住まうこの理想郷たる幻想郷は、幻想でなきゃあいけない。外の世界に私達が解き明かされてしまった時。それが本当の、私達の世界のおしまいだ」
霧雨魔理沙が力んだ口調で話を続ける。ピンと来る者来ない者、もう既にこの後の流れがわかる者わからない者。反応は実に千差万別であった。
「で、ここには持ってきてこそいないが……実はこれだけじゃなくてな。画集、漫画、果ては『ゲームソフト』に至るまで……我々の世界は、あらゆる外の世界の娯楽に組み込まれてしまっている」
「ちょっと待った」
事前に、それこそ練りこんだであろう彼女の得意気な台詞を遮ったのは、意外にも伊吹萃香であった。お前はこの話を理解していたのか? なんて野次は、彼女には届かなかったらしい。彼女は自分の言いたいことを言うことで頭がいっぱいだったのだから。鬼とはえてしてそういう生き物だ。
霧雨魔理沙がふてぶてしく鬼を見やる。何がだよ、と不平を呟く霧雨魔理沙に、こちらも堂々とした口調で問うた。
「私達の世界が外の世界の人々に知られてることは最早認めざることを得ない事実だって、アンタの言うことが本当のことだって、とりあえず、一旦仮定しよう。だったとして、何故私達の生活が、まるで――いわば『創作物』みたいな――そんなものとして文や絵にならなきゃならないのさ。日本の中に幻想郷がある、その程度のことが……そうだ、その程度のことなんだよ、私達なんてのは。外の世界の奴らと同じように、ただここで生きているだけで、どうして、それが私達の知らないところで発表され、流通しなければいけないんだ」
その通りだとでも言わんばかりに、八意永琳が遠くで大きく首肯する。その通り、誰だって、隣人が自分の生活の臭気を文章にしたためていれば気色の悪いことだと思うだろう、彼女の疑問は真っ当なものであった。
「私も幾つかの書物を読んでみたんだが……それに関しては、実質的な答えが出ていないに等しい状態だ」
そこで一旦、溜め。
霧雨魔理沙はどうやらしかし何か確信的な続きを、やはり入念な事前準備の賜物として、作り上げてきていたらしい。その程度のことは、想定の範囲内。むしろ曲者ばかりが集められたこの場において、霧雨魔理沙へのヘイトもとい訝しみや疑問点はどうせ矢継ぎ早に出てくるに決まっていたのだから、人間の中では比較的賢明な脳髄によって答えを推測することは、不可欠なことですらあった。
「しかし、推測ならばある」
左右へとわざとらしく数歩ずつの往復運動を始めながら、腕を振り、大袈裟なジェスチャーを伴って彼女は続けた。
「先に結論を言うと、幻想郷はそのまま創作物だったんだよ。この世界は箱庭なんだ……虫篭と言い換えてもいい。シャーレやプレパラート、なんて言ったほうがそれらしいが、ここでは一般的な喩えを用いよう。結界によって区切られた内側の我々の生態を、外の世界の奴らは観察し、研究していたと見ていい。そして我々は妖怪鬼人魑魅跋扈、そのままUMAのような物として、一部の巨大なナニカが私たちをここに生き永らえさせている。そしてそれ以外の奴らが伝える伝承、よく知らない者たちによる伝記。まことしやかな都市伝説、騙されたくなる憶測。それが、これだっ!」
立て板に水、そんな長い台詞を一言も噛まずに勢いよく言い切る霧雨魔理沙。台詞が終わると、最も近くにある、アリス・マーガトロイドが持っている本を受け取り高く翳した。
「まあ確かに」
今度に口を挟むのは、今まで黙りこくっていた博麗霊夢。
「今まで言ってたことは、まあそれなりに整合性が取れてるわ。けれど、まだいくつも説明しなきゃいけないことが残ってるでしょ。さしあたり、なんで私等がそんなことのために呼び出されたのかって話とか。アンタの仮説がたとえ正しかったとしても、そんなことを無闇に公表したって私たち住民の不安が煽られるだけじゃない。まさか自分の考えを皆にひけらかしたかっただけなんて言わないでしょ?」
その通り、霧雨魔理沙は勿論、その辺りもちゃんと説明するつもりだった。幻想郷住民は一見のほほんとしているが、一旦興味を持ったらそれ以上は待つということを知らない者が殆どだ。例として、博麗霊夢は普段は縁側でうつらうつらと無為に時間を過ごしているというのに、異変が起きたとわかった途端に出会う者を片っ端からばったばったと薙ぎ倒す殺戮マシーンに豹変するというようなことがあげられる。
「そう慌てるなよ、寿命が縮まるぜ。如何にも人間らしくな」
「む」
なんて前置きをしてから、霧雨魔理沙は先ほどの勢いを保ったまま再度口を開く。
「そうだ、私も同じく不安なんだよ。この幻想郷が壊れてしまわないか――な」
にやりと笑う。如何にも魔女らしく。
「先に霊夢からの熱い要望にお応えして答えを言おう。みんなに集まってもらったのは、これからの幻想郷を守るための要望を伝えるためなんだ。答え自体は割かしシンプルなんだが、しかし如何せん話が突飛でな。一つ一つ説明しようとしたらそこそこ時間がかかってしまう。けれど、どうせお前ら今日だろうが明日だろうが暇を持て余してるんだろ? だからたまには珍しい霧雨魔理沙さんの御講釈に付き合ってくれよな。……さっき月の頭脳が言ってたことを覚えてるか?」
「『ここに描かれている幻想郷は正しくない』」
「その通りだ、アリス。少し読んだだけで歴然だと思う。容姿なんかは確かに近しいんだが、いろいろな部分で差異がある。それがさっき私が言っていた結論の所以なんだよ。氷精は文字を識別できるし、八雲の式神の服は弾け飛ばない。ルーミアの台詞は一種類じゃないし、霊夢は行き倒れていない。アリスは私に劣情を催していないし、早苗は清純派じゃない」
「最後のだけやたら恣意的じゃないですか!?」
「どうどう。……まあ、早い話が、誤解が広まっているんだ。私らが自衛する糸口はそこにある。さっきから幻想郷を守るとか大層なことを言っているが、これも私の推測が正しければ、の話なんだが、本当に正しい、幻想郷をそのまま解き明かしたようなものが外に出回り私達が幻想でなくなってしまえば、幻想郷は崩壊してしまうだろう。もう既に、ここに持ってきていないものの中には、正解にかなり近付いてしまっているものもあるんだ。だって事実は幻想じゃあないもんな……私ら人間ならまだしも、妖怪たちはまた路頭に迷わなきゃならなくなってしまうわけだ。それは私とて心配だしな。至急と冠するほどではないが、できるだけ速やかに手を打ちたいところだ。よって」
霧雨魔理沙は最後になるほどゆっくりとそれらを発音すると、不敵な笑みを最大限に押し出しながら、腕を広げた。実は霧雨魔理沙が中心になって大きなプロジェクトを起こすことは珍しく、多くの者は面白がって彼女の話に耳を傾けていた。
けれどそれは、彼女を信用した上で協力してやろうなどという親切心によるものではなく、ただの好奇心だったのだけれども。
「一つ、提案したいことがある」
霧雨魔理沙はまたしても風呂敷を広げ、今度はいくつもの冊子を次々と取り出す。一冊ごとの厚みは無かったけれども如何せん数が多く、それはそこそこ重たそうに見える。それらの表紙の下部には一人一人の名前と、そしてもう一つ、黒々と手書きで「台本」の文字が書かれていた。部屋の中央、先ほど本が置かれたのと同じ場所に数十冊の真新しい台本がどさどさと音を立てながら並べられていき、間を開けずに各々がそれを手に取り、ある者は表紙をじっくりと、またある者は早速一頁目を熟読したりと、実に多種多様な反応を見せた。何でも受け入れるという八雲紫の言葉は嘘ではないのであろう。
それぞれの本に何が書いてあるのかといえば、キャラクターだった。名前、記号的な台詞、演じる上での留意点、大まかな人格――それら中身は全て霧雨魔理沙の手書きで。アリス・マーガトロイドに至っては、ページを開くと中身を読む前に呆れたような眼で霧雨魔理沙の方を向いたのだが、果たして彼女は気付いたか気付くまいか、そっぽを向いてしまう。
「そーなのかー……これでいいの?」
真っ先に霧雨魔理沙に話しかけたのはルーミア。彼女の台本には、まず一番最初の頁をまるごと使って「そーなのかー」とだけでかでかと書かれていて、二頁目からその台詞の使用場面、トーンなどが記されていた。それが彼女の決め台詞にあたるということに、ルーミアは意外にも早い段階で気付いたようだ。
「飲み込みが早いな、いい感じなのぜ」
「なのぜって……それも『設定』?」
「おう、どんな不自然な文構成でも語尾は『ぜ』なのぜ、これが『霧雨魔理沙』だぜ」
幾分か機嫌よさそうに言い終えると、霧雨魔理沙は、周りの者たちが概ね目を通したことを確認してから、準備していた提案を述べ始めた。
「私の提案ってのはこうだ。実際とは違う、勘違いされた外の情報をそれぞれが演じる。即ち、氷精は文字を識別できないし、八雲の式神の服は弾け飛ぶ。ルーミアの台詞は一種類だけだし、霊夢は行き倒れている。アリスは私に劣情を抱いているし、早苗は清純派。『そういうこと』にするんだよ」
例えば因幡てゐと洩矢諏訪子は隣り合わせでクスクスと笑っているが、例えばミスティア・ローレライにはピンと来ていないようできょとんとした顔で頭の上にクエスチョンマークを浮かべている。しかし全てを受け入れた結果の多種多様なんぞ気にも留めていないらしく、霧雨魔理沙は続ける。
「外の世界が勘違いしているなら、外来人が来た時に勘違いを助長させて言い伝えさせればいい。これまでの外来人は、ここに住み着くか、すぐに送り返されるかだった……送り返されたとして、それまでに見た幻想郷は確かな幻想郷。そんなことを続けていては我々のことがますます外に知られてしまうだけだろう?」
霧雨魔理沙の提案の文言はそこで終わったのだが、その後でリグル・ナイトバグにこそこそと耳打ちされるまで、ミスティア・ローレライはよくわかっていないようだった。まあ、その耳打ちの後も、いまいち要領は得ていなかったように周りの者には見えていただろうし、実際その通りだったのだけれども。
少なくともその会合においては、彼女のその言に異を唱える者はいなかった――それが正しかろうと正しくなかろうと、乗った方が面白いと思ったのだろう。暫く異変も起きておらず、紅魔館などはそろそろまたいっちょかましてやろうとか考えていたところだったから内心穏やかではなかっただろうが、しかし目の前にイベントが吊るされれば、乗らないなんて選択肢は好奇心旺盛な吸血鬼には取れなかった。
「『しゃくやぁぁぁ!! 魔理沙がいじめてくるぅぅぅ!!』……って、私は赤子じゃねえっての!」
しかし、実際にやらなければならないことがわかると、即座にレミリア・スカーレットは台本を床へと叩き付けた。齢五百を数える吸血鬼、いくら子供っぽいとはいっても、そんな台詞を吐くには妖怪の山よりも遥かに高いプライドが邪魔になる。
だがそれはレミリア・スカーレットのものだけではなく、各々、中々過酷な演技が必要になってくるのだ。例えば。
「『Wow! 魔理沙のドロワーズ・スメル! 噛めば噛むほど超、エキサイティン!』……何これ頭おかしいんじゃないの!?」
「うわぁアリス、それは無いわ……以後、三里以内に近付かないでくれよ」
「アンタの配った台本でしょうが!」
「『ちぇぇぇぇぇん!(ここで服が弾け飛んで全裸に)』って意味不明にも程があるんだが……?」
「『おぜうさまのランジェリー姿でご飯七杯はいけますわー!(鼻血を吹き出しながら)』……私はパン派ですわ」
阿鼻叫喚である。他の面々も、定められた「キャラクター」と自分との乖離に半ば引いてしまっているようだ。 これだけ変態キャラが蔓延する幻想郷という場所は理想郷どころか阿鼻地獄それそのものだろう。しかしながら、外の世界における幻想郷とはそういうものだったのだ。
アリス・マーガトロイドを筆頭に、あちこちから悲鳴や怒号が巻き起こる。鈴仙・優曇華院・イナバに至っては既に抵抗虚しく座薬をぶち込まれたらしく、床に突っ伏して小刻みに震えていた。
「なんで私達だけこんなことしなきゃいけないわけ? ざっくりと見たところでも寺とか道教のところの方々なんかは全く見受けられないのだけれど……手心か何か?」
アリス・マーガトロイドの疑問も当然であった。ここに呼び出されている面子は人も人外も混ぜこぜに、しかし有力者だけというわけでもなく、固定の団体の面子だけというわけでもなく、彼女たちにしてみれば一見どのような基準で集められているのかわからないのである。彼女の訝しんでいる目を見据えることはせず、誰に向けた話でもないことを、或いは誰に向けた話でもあることを大袈裟に示しながら、飄々と霧雨魔理沙は答えた。
「それがな、全く掴めない。リグルやプリズムリバー三姉妹なんて弱っちい妖怪は頻繁に登場するのに、弁財天様やアマテラスあたりの神は登場しない。神はいないのかと思いきや神奈子や諏訪子は登場するし、妖怪でも狼女の今泉なんかは全く出てこない。人間だって、私や早苗は登場しても蕎麦屋の八っつぁんは登場しない。そこに何の隔たりがあるのか、何度読み返してもわからなかった。まあ、一応『目立つ行動を取り始めたのが割と昔』……とかいうのもあるにはあるんだが、それにしちゃあ天狗や河童は固定の面子しか出てこないのが不自然だしな。『異変に関わった』ってーのも、早苗や諏訪子なんかは異変と関係ないのに登場してくるし、私の手に負える問題じゃあなかった。だから、もう仕方なく登場頻度の高い者を暫定的に集めているってわけだ」
先の東風谷早苗と同じ、「お手上げ」のジェスチャーをしながら霧雨魔理沙は首を横に振り、もう一度面子を確認する為か部屋をぐるりと見回して、けれどやはり何もわからなかったらしくそそくさと胡座をかき座り込んだ。
何か助言が欲しかったのだろう、永遠亭の頭脳の方へと視線を送っていたが何の反応も得られず、半ばふてくされてしまう。
「となると、最も外の世界に近いであろう紫様の姿は、お前の言うところの『創作物』とやらには見受けられないのか?」
台本を閉じて、八雲藍が問うた。自分と自分の式神だけ招待されて、肝心の主が招かれていないことが気がかりだったのだろう。従順で敬虔な式神である。
「うんにゃ、あいつは呼んでない。纏まる話も纏まらんからな、あいつがいると……まあどうせ私らがやってることが幻想郷の危機を助長するとかそういうことになったら止めに来るだろうし、今も何も言ってこないって事は何も問題は無いんだろ」
霧雨魔理沙が心なしかぶっきらぼうな口調で答えると、そうか、とだけ返して八雲藍はまた台本に目を落とした。霧雨魔理沙の八雲紫に対するそんな評価は、式神たる彼女にとっても正しいものだったのだろう。いくら部下であると言っても、八雲藍は理性的である。
「さて、じゃあ、あとは皆の協力の上で成り立つ一大世界改革だ――頼んだぜ」
言いたかったことは言い切ったようで、立ち上がり早速部屋を出て行こうとする霧雨魔理沙。苦虫を噛み潰したような顔の者も多かったが彼女を止める者はおらず、その日の集会はそこでお開きとなった。他のメンバーも次々と台本片手に帰路についていき、最後に残ったのは博麗霊夢と伊吹萃香、そして四冊の外来小説。
博麗霊夢がぱらりと自分の台本の最初の頁を捲ると、そこにはこう書いてあった。
「ダイエット頑張れよ、お前が喰っていいのは雑草だけだ」
とりあえず手近にいた伊吹萃香を殴りつけて、黙ったまま博麗霊夢は寝床に入った。
「魔理沙さんプレゼンツ、『これからの幻想郷を救おうキャンペーン』会議の第二弾だ。今日は私のために集まってくれてありがとう!」
「帰るわ」
「ごめん調子に乗った」
彼が「ひょんなことから幻想入りしてしまう」五日前の真昼のこと。霧雨魔理沙はまたも何人かの幻想郷住民を呼び出していた。
博麗神社に。
だからなんでウチでやるんだ、と不平を垂れ流す博麗霊夢を気にも留めず皆を上がりこませるものだから、数日前と同じように彼女はまた部屋の隅に転がる羽目になる。
人数は一つの机を囲める程度にしかおらず、そのメンバーがどんな基準で集められたものなのかはやはり霧雨魔理沙以外は誰一人としてわかっていないようだった。
「おっしゃ、これで全員だな」
霧雨魔理沙が障子を閉める。当然のように上席に座ると、面子を確認して、大きく手を打った。
「というと、例のアレよね。外界人がどうこうって」
霧雨魔理沙の左隣に座っている八意永琳が、まず最初に口を開いた。余談だが、指示語をよく用いるのは老化のしるしである。
「そうだ、お前のことだから勝手に理解していたものだと思うし、台本にも記しておいただろ。八意永琳はしょっちゅう黒幕をやらされるってな」
永遠亭のメンバーは、強かな者の多い幻想郷の中でも裏方として奔走することが多かった。頭脳派であることも相まって、「外」では黒幕キャラが板についてしまっている。姫の時間が動き出してからかなりの年月が経っているにも関わらず、結局「竹林の謎の医者」くらいにしか周知されていない不審な団体。月へのロケットのくだりでも彼女たちはこそこそと動いていただけに過ぎず、月との関係すら殆どの者は知らないのである。
無論、霧雨魔理沙もそれを知らなかったのだが、幻想入りしてきた本に目を通したことによって、月に関連する設定をBBAや座薬と同程度には彼女らが有していることには感付いていた。けれどもそんなことを吹聴しても仕方あるまい、各々のキャラクターを共有などする必要はないのだから。よって不老不死の宇宙人の生命にも関わりかねない秘密は守られているし、今のところ脅かされる心配もなさそうだった。
「ってことは、私らには別の役割が与えられるって認識でいいの?」
更にその左隣、藤原妹紅が霧雨魔理沙に問う。
「ああ、その通りさ。まあ、残りはいわばエキストラだな。もしも遭遇したら、その時に演じるだけでいいんだ。だがお前ら――私もだが――此処にいる面々は、仕掛け人、あるいは預言者になる必要がある。ま、早い話が、ここに来てから帰るまでのツアーを組むってことだ」
霧雨魔理沙がまたしても何やら紙を取り出す。お前は一体どれだけ暇なのか、とでも言いたげな失笑が室内に漏れ出て、霧雨魔理沙は頬を膨らました。彼女とて全く暇なわけではなくて、未来と世界のために一生懸命書いてきたプログラムを笑われては心象が芳しくないのも当然である。
失笑の方も当然の結果と言えるだろうけれども。
「んー……じゃあ、私は何をするのかな?」
次の質問は、ルーミアから。にこにこと牙をちらつかせながら人差し指を立てて、小首を傾げる。
「話が早くて助かるぜルーミア……お前は代名詞、看板娘になってもらう。台本に書いたようにそーなのかーわはーと言いながら、最初に獣道で外来人を襲ってくれ。勿論怪我はさせないようにな」
「怪我をさせないように襲う……? しかもそれ、食べちゃいけないんでしょ……?」
霧雨魔理沙の説明に、残念ながらルーミアの首の角度は更に深くなってしまった。基本的に人間は襲うなと言いつけられているのだから、外来人はルーミアにとっての格好の餌食。いわばおやつ抜きと宣告されたようなものだ。そうでなくても、襲うのは人を喰らうための行為でしかなく、怪我をさせずに襲うという概念は彼女には聞いたことのないものであった。
「ポーズだよポーズ。外来人Xに、幻想郷に来た、ってことをまず最初に知らしめるためのな。この前見せた本ってあっただろ? あれでも、何故か外来人の主人公は最初にルーミアに会うってことが多かったんだ」
その説明でやっとこさ合点がいったようで、ルーミアはなるほどね、と呟いてツアーの予定表を覗き込んだ。
食べられないということに若干の不満こそ見えたものの、幻想郷を助けるという霧雨魔理沙の言葉にうまく丸め込まれているようだ。それにつられて、周りの者たちのうちの何人かも机に身を乗り出して、そして直後に、全員が全員、その慌ただしい時間割に苦笑した。特に前半部分の詰め込みが酷く、最初に発見されてからすぐに投薬、そして目覚めれば十分もしないうちに紅魔館に運ばれ、目覚め次第連れ出して永遠亭へ。必要な印象の植え付けが終われば、とっとと博麗神社に向かう。
厄介なのは絶対時間ではなく、幻想郷にて外来人が発見されてから何分後とかいう書かれ方をしていること。一体どこまでこれに沿った動きができるものやら、とは、流石に皆永く生きているだけあって、誰も言わなかった。
「……魔理沙さん、『ルーミアに襲われたところを魔理沙の弾幕に被弾し意識不明に』っていうのの前に、『八意永琳、発光する薬を外来人に投薬』ってあるのですけれども……何ですか、この物騒な言葉の羅列は」
代わりになのか、射命丸文がページの上部、霧雨魔理沙側の文字列を指差す。
「『外来人、危ないっ! 人喰い妖怪の好きにさせるかー! ばーん! おっと手が滑ったー!』だな。そっちの永琳のは、まあ別の説明が必要になるな……」
相変わらずのオーバーアクションはおろか、もはや擬音まで多用し始めた霧雨魔理沙。余談だが、オノマトペの多用は幼さのしるしである。
「外来人には主人公になってもらう予定でな。ここに来て、何か能力を持ってもらうんだ。咲夜が時を操り、早苗が奇跡を起こすような超人的な能力を。けどそんなの生まれつきだし、後天的に能力を得て人から外れることもあるにしろ、そういうのにはやんごとなき事情が必要になるからな、ゆえにこれもポーズで、外来人には何かしらの能力を身に付けたという勘違いをしてもらおうと思っている。体に異変を起こすのは医者の専売特許だろ?」
淀みなく。射命丸文を始めとして、そこの面子は納得したようだった。人数は少なければ少ないほど統制が取れるものだ。小馬鹿にしたような薄ら笑いを浮かべながら八意永琳を見やる霧雨魔理沙。初めはむむむと声を漏らしたものの、八意永琳は溜息混じりに首肯した。
「まあ、私の役については了承したわ……発光させればいいのよね、蛍狩りでもしようかしら」
物騒なことを呟くマッドサイエンティスト。いくら月の頭脳といっても明治十七年に切り離されてしまった世界の遅延は大概なものである。魔法が跋扈する世界において、医術が一体どこまで有用なのかは微妙なところだ。
「おう、お前の胡散臭い薬があれば、人間を騙くらかすくらい造作も無いだろうよ。自分の身に起こったことは何よりもそいつにとって信じやすいんだ、それがどんなに馬鹿馬鹿しくてもな」
上品とは言えない笑いをこぼしながら悪態をつく霧雨魔理沙に対して右腕に拳を作りかける八意永琳を、ルーミアが制した。やれやれと藤原妹紅が笑って、場の進行を促す。
「私の役は竹林の案内、そこの医者は投薬とその後の看護、それで宵闇は襲撃、アンタは基本の案内役ってわけだね。ここにはいないけれどもスキマが能力とやらの勘違いに一役買うんだろ……じゃあ、残りは霊夢と捏造記者だね」
「誇張はスパイスですよ」
「はいはい」
左隣に座っている射命丸文に肩を叩かれるも、飄々と生返事を返して霧雨魔理沙に視線を送る藤原妹紅。
「そのスケジュールにも書いてあるように、ルーミアとの遭遇、紅魔館、永遠亭とまわって、そのあとの舞台はここ、博麗神社だ。ここで一泊して、翌朝外に送り返す。日帰りよりもここにいた記憶が確かなものとして残りやすいだろうしな。だから、その時の外来人Xの世話が霊夢の役目ってことになる」
「はー!? 私そんな面倒なことやらなきゃいけないわけ?」
霧雨魔理沙の言葉が衝撃的だったようで、寝転がっていた博麗霊夢は強靭な四肢を振り乱しながら軽快に飛び上がって、霧雨魔理沙に近寄るとぱくぱくと口を開閉した。若いね、という藤原妹紅の小さな呟きに、射命丸文がクスリと笑った。
「まあまあ。私も妖怪何人か連れて神社をうろちょろするつもりだし、そんなに気にすんなよ。で、最後は捏造記者だな」
「捏造も隠し味ですから」
「認めてんじゃねえかよ」
あやー、と射命丸文が頭を掻く。彼女も彼女で、飄々として掴めない存在であった。霧雨魔理沙は半笑いで突っ込みを入れると、射命丸文を指さす。あまりお行儀は習わずに育ったらしい。いや、むしろ、習った上で逆らっているのかもしれないけれども、正解は誰一人として知る由もなかった。
「お前の役割は発見と監視及び情報の同期役だ。外来人が目を覚ます前に見つけて医者を呼ぶ。変化がある度に私に知らせる。そして私からの伝言をそれぞれに伝える。以上だ」
それを聞いて、射命丸文は少しばかり嫌そうな表情をした。
「忙しいのに活躍が見えなさそうな役回りですね……予想はついてましたが」
「記者は写真に写らない」
「うっ、仰る通りで」
霧雨魔理沙の返答には返す言葉も無かったらしく、苦笑しながら、まあ仕方ないですね、と言って頷いた。項垂れた、の方が近いのかもしれない。確かに、外の世界におけるメールやソーシャル・ネットワーキング・サービスのようなものは幻想郷には存在しないわけで、そうなると彼女に飛び回ってもらうしか良い方法は無いのだった。
全員分の役割を伝え終わり、本日の集会は終了した。しかし霧雨魔理沙は博麗霊夢の方を振り返り、何やら眉を顰めた。理由は単純明快、彼女が痩せていなかったからだ。彼女は貧乏巫女、その辺の雑草を引っこ抜いては土を掘り返し日々を食い繋ぐキャラでなくてはならない。当然というか、博麗霊夢はそんな台本は無視して毎日もりもりおいしくご飯を食べていた。
「そういえば霊夢、お前、ちゃんと断食してるか? 見た感じやつれてないが……」
今日殴られたのは、霧雨魔理沙だった。
?少年復帰中?
少々現実逃避をしよう。
現代日本における怠惰の問題は非常に深刻だと俺は思っている。ここにおいての現代とは、西暦の上において二千十五年四月から、誤差の範囲、前後数年ないし数十年のことだ。三百六十五日二十四時間、代わり映えのしない世界は瞬く間に過ぎ去っていく。ヒーローは僕らを救わないし、怪獣は街を壊さない。宇宙人は世界を震撼させないし、超能力者は事件を解決しない。海賊王も戦闘民族も忍者も世紀末覇者も、どうせこの世にはいやしないのだ。
だからこそ、俺はそんな世界が好きだったのだ。辟易する日々は、間違いなく幸せだった。
何事も、失って初めてその価値がわかるというが――失ってから気付いたところで、結局覆水は盆には返らない。
今の俺のいる状況は、明らかに妄想していた非日常のそれなのだから。
それを踏まえた上で、もう一つ無駄話。
東方projectというものがある。
簡単に説明すれば、「パソコンでできる人気のシューティングゲーム」だ。人気の秘訣は二次創作への事実的な無条件認可にあると言ってもきっと過言ではないだろう、そのおかげか某動画投稿サイトで絶大な人気を誇り、様々な作品が世に出された。漫画、小説、アレンジ楽曲、ゲーム、フィギュア、タペストリー……俺もその界隈に心酔してしまっている有象無象のうちの一人で、色々なグッズなんかも所持している。
先ほどからいきなり何の話をしているかというと、俺が絶望的な虚無感にやっとこさ打ち勝って、体を起こし辺りを見回した時に真っ先に抱いた印象が、まるでその作品の舞台である「幻想郷」のようだな、というものだったという話である。
月並みな表現を使わせて頂くならば、俺が今さっきまで歩いていたのはコンクリートジャングル、ビルとマンションに囲まれた現代的な現代だったはずなのだ。それがどうだ、今俺が座っているところは乾いた砂の上。舗装されている様子は無く、少し横方向に行けば草がぼうぼうと茂っている。見通しもお世辞にもいいとは言えず、ここは林の中の獣道と判断するのが適切に思える。
いやそれだけならいい。それだけなら、「俺がコンクリートの歩道の上で唐突にナルコレプシーを発病して眠りこけてしまい、俺がすやすやと眠っている間に遠く離れた地方の山に移動させられた」ということも考えられるし、もしかしたら「夢遊病に罹患していて、無意識な妹よろしく気付かないままに自ら歩き続けていたのかもしれない」ということも考えられた。むしろどちらも、少なくとも「ひょんなことから異世界に飛んでしまったぜてへぺろー」なんて妄言よりは信憑性があるような気がする。
けれども俺は、数秒後には、ここは幻想郷だと確信せざるを得なくなってしまう。
小さな体躯に短い金髪の靡く。
頭に取り付けられたチャーミングな赤いリボンも、同時に横流しの緩やかな風に流されてはためきながら。
全体的に黒く統一された服は、意外なほどおしゃれに赤いラインが際立っている。
闇を思わせるスカートの下は若干の泥に汚れ、白く煌めく膝小僧と、酷く無粋なコントラストを奏でていた。
特徴的な、十文字を思わせるポーズ。両腕は綺麗に直角に広げられている。
そして、若干の獣臭さ。
俺はこの女の子を知っているから、ああ、返り血塗れじゃなくてよかったなぁとか、そういうことを思ったのだけれども、しかしそれは単純に、水浴びを直前に行っていただけなのだろう。どちらにせよ、俺の身にはわかりやすく死の危険が迫り来ていた。
なんてったって、彼女は、人喰い妖怪なのだから。
爛漫な幼子の眼をして、首を少しだけ右側に傾けると、牙を剥いて口角を上げた。幼女が纏ってはいけないような官能的な雰囲気を振り撒きながら。
「……まあ、待てよ。無闇に人間は喰っちゃだめなんだぜ。一旦話し合おうや……お前だって、紫さんや慧音さんからその辺りの話は聞いてるだろ?」
俺は弱い。
つーか大体二次元に傾倒してしまったインドアボーイなんて軟弱だし、むしろ須く脆弱であるべきだ。ちなみに俺の握力は二十キログラムにも満たない。なんとしても彼女との戦闘は避けなければならなかった。幸いにも日本語は話せたから、とりあえずは座り直して対話を試みる。いくらバカルテットなんて言われたって、そこらの子供くらいの理解力は有しているだろう。
「……そーなのかー?」
傾げた首の角度が深くなっていく。
カルチャーショックだ。
彼女が事あるごとにそーなのかーと発言するとか、語尾は常にのかーだとか、そんなことは、俺にとってはニワカ設定の体現そのものだったから。実在したのか、そーなのかーなんて。そんなもの、一体何年前のネタだと思ってるんだ。しかし目の前で彼女その人……ああ、いや、妖怪か……どちらでもいいけれども、彼女自身がそう発言したのだから、信じざるを得ない。皆でニコニコする某所によって作られた設定なんかではなく、そーなのかーは最初からそーなのかーであったことを。
「……でも、お腹空いたのかー」
しかし俺の言葉はどうやら妖怪の倫理観なんかには影響を及ぼせなかったようで、彼女は軽やかな足取りで此方へと近づいてきた。近くで見たら余計に可愛いなあ。こんなに可愛いょぅじょに食べてもらえるならそれはそれで幸せなのかもしれない……あっでもちょっと待って本当に食べないで。やめてやめてまだ僕にはやるべきことが沢山――
その時、だ。
まさにその刹那、俺の体が光を放ち始めた。
危機に瀕して「発光する程度の能力」が覚醒したということは考えにくく、恐らく何かの副次的な効果であることは明らかだ。何故そんなことがわかるのかということはわからないが、これまでに見てきた多様な創作物から得た統計学的なこの推論は、おそらく正しいのだろう。
しかし副作用であったとしても、闇の妖怪にとっての天敵である光は彼女を硬直させるに足りる攻撃になり得た。前触れのない変化だったから彼女はまともに喰らってしまったのだろう、眼の部分を両手で覆ってよろめく。
しかし冷静に分析している場合かといえばそういうわけでもない。心拍数は上がり、体温も上がり、全身の筋肉が強ばり始める。勿論、本能的な未知への恐怖を伴って。
火事場の馬鹿力なんて言葉があるが、今現在俺は体が自由に動かせない訳で、火事の中でこんな状況に陥ってしまえば何かに目覚めようとしている間に煙を吸って死にかねないというものだ。今は宵闇妖怪相手だから助かっているものの、他の生命の危機を感じた時だったら助からなかったろう。まだまだ俺の生存本能には改善の余地がある。
……数秒だった。
掛け値なしに数秒。人間、恐ろしくなったら数秒間であったとしても頭はいろいろと回るものである。
光が力を失い始め、痛みも不思議なほどに引いていき、何事もなかったかの如く俺の体の異変は通常の状態へ収束した。
しかし、だ。
何も起こらない。必要以上に「通常」すぎるのだ。手から焔は噴き出ないし、背中からものものしい翼は生えてこないし、腕に紋章は浮かび上がらないし、眼球への違和感もない。何もない。もしかして本当に発光するだけの能力だったのだろうか、なんて役に立たない最終形態であろうか。だってそんなことを考えている間にも、目の前の殺戮幼女は腕を顔から放してはぱちぱちと大きく瞬きを繰り返して、どうやら俺の反撃は終わったことを悟ったのだろう、もう一度俺へとにじり寄って来ているのだから。
今度こそ本当にやばい。俺の身体のフシギにはもう頼れないだろう、肩に小さな手が触れて、しかし見た目とは余りにも裏腹にその力は屈強で……まだ何もされていないのに痛みを感じるほどに。
さもありなん。諸行無常。明治十七年の理想郷はそのまま弱肉強食の世界なのだから。目を瞑り、現世への無念を綴る。走馬灯。それほど長くも美しくも山も谷も無い人生だったけれども。一回くらい彼女が作りたかったよね。
「そこまでだぜ!」
……そこに聞き覚えのある台詞と引き連れて現れたのは、白黒の、見習い魔法使いだった。助かる、俺は生きていられるんだ!
「魔理沙さん! 助けてくださいーっ!」
「言われなくてもわかってるのぜ! 覚悟しろ、ルーミア!」
「……!」
霧雨魔理沙が何かを唱えると、256色ではとても表せなさそうなほどに鮮やかな弾幕がぶわっと大群になって押し寄せてきた。けれども流石は幻想郷住民、ルーミアは素早い動きで弾の来ない方向へと飛んでいく。いやあ間近でこんな弾幕戦が見られるなんて、幻想入りさまさま、役得だなあ……と、思ったのも束の間。
突然ですが、ここで問題です! 魔理沙さんの弾幕にホーミング機能は付いていたでしょうか? 答えは否! 一極集中弾幕が彼女の持ち味だよね! つまりどういうことかって? 言うまでもないじゃないか、ルーミアが先程までいた位置とほぼ同座標にいた俺に、大量の弾幕が迫り来て、あっこれ駄目なやつだ、ボムだ、ボム……そう思って何度も頭の中でXキーを押すイメージをしたけれど、まあ、当たり前というか、俺はボムなんて使えなくて。
ぴちゅーん。
目覚めて数分で早くも、再び俺の意識は薄れていくのだった。
次に目が覚めた時、俺がいたのは不気味で綺麗な部屋の中で。
しかし過度な修飾はなく、どうやら空き部屋に寝かされていたようだ。先ほど俺が飛んできたこの世界を幻想郷だと仮定するならば、流れとして俺が巡るべき場所は数か所に絞られるというものだろう。ふらり、部屋を三百六十度と散策してみたけれども、無機質な煉瓦の感触と質素なベッドの白色、それに学校からの帰り道だったために持ち歩いていた学生鞄以外は何も現状を把握する手立ては見当たらなかった。どうしたものか、時計も無いときている。
しかし俺には現代人の魂、万能薬が味方に付いている。鞄をガサガサとひっくり返すと、文明の利器、愛用のスマートフォンが入っている――
――電池が切れていたけれども。
馬鹿馬鹿しくなって鞄の中に再びスマートフォンを投げ込む。仕方ない、ここに居ても何も始まらないな……そう思って、鞄を担いでドアを開けてみた。
意外なことに弾幕をモロに喰らったはずの俺の身体には何の異常も無かったから、もしかしたら死なない程度の能力だとか超回復ができる程度の能力だとか、そういうのに目覚めてしまったのかもしれない。幻想入りってそういうものだと思う。
窓が不思議に少ない廊下に出て、きょろきょろと左右を見渡してみると、ぼんやりと妖精が見える。相当に廊下は長いのだろう。壁、床、天井、扉、蝶番、シャンデリア……もはやノイローゼなのかと疑ってしまうほどに赤く染め上げられた風景に、普通の人なら面食らったかもしれないけれども。右側へ歩いてみる。
俺は慣れていた。一体どれだけの物語の舞台となっただろう、一体どれだけの絵描きによって塗られただろう。その館の赤さ加減は、もはや飽き飽きしてしまうほどよく目にした名スポットのそれだ。角を左に曲がってみた。
音もなく妖精が横を通り過ぎて行った。そのメイド服も、何度目にしたかわからない。焦っていたようだが、鬼ごっこの相手でもさせられているのだろうか。階段を下りてみる。
妖精の数が急に増えてきて、その話し声はやはり人間、外来種である俺にも普通に聞こえてくる。休み時間の教室のような感覚に陥るが、お前ら普通に就業時間中だろ。……まあ、外部の奴にそんなことをいきなり言われても「はあ? なんだこいつ曲者かであえーいであえーい」になるかもしれないから、口は開かないけれども。 長い廊下を歩き続ける。
話し声に少し耳を傾けてみると、まあ、案の定というか、メイド長は凄いとか、門番さんかっこいいとか、さっき横を通った男の人は誰だとか、今日の夕餉の材料じゃないかとかってなにそれ被食の恐怖から被食の恐怖へのたらい回しじゃん。怖い怖い。広間っぽいところに到着した。
そもそもこいつらあんまり働いてないってどっかの書籍に書いてあった気がするのだけれど……よく覚えてない。大仰な扉を開けてみる。
どうやらそこは、大きな食堂らしかった。あまり余所者が物色するのも不躾だよなあ、そんなことを思いながらドアを閉めようとした時。
「おう、もう起きたんだな。探したぜ」
背後からどこかで聞いた声。
「……諸悪の根源」
「おいおいそんなに怖い顔すんなよ、あれは不慮の事故だったのぜ」
かんらかんらと笑う金髪。こいつもまた懐かしい喋り方をしているのぜ……ノスタルジーを感じて涙がちょちょぎれてくる。
「まあまあ、責任は取って此処まで連れて来てやったんだから、これでチャラでいいだろ……なのぜ」
それは付けなきゃ誰かに殺されでもするのだろうか。不協和音でしかないけれども、口を挟むことではないだろう。好きでやっているのだから。うふふうふふふふ時代と何も変わらない……方面が変わっただけで。また暫くすればその変な語尾も改善されることだろう。言わぬが仏。
「まあ、どうやら身体には異常は無いみたいだからいんですけどね……外来人なんです、丁重に扱ってくださいよ」
俺がへらりと笑うと、敵対するつもりはないということが伝わったのだろう、彼女も笑った。
「人間の癖に頑丈だな? 俺はてっきり死にかけているものとばかり思ってたぜ」
ご丁寧な一人称で。
「そんな危険なものばら撒いてんですか、貴女は」
「外来人だからな、殺しても里は追われないんだぜ」
「元々里の人間じゃないでしょう」
「まあな」
魔理沙はそう言うとまた笑って、くるりと踵を返して廊下を歩き出した。何を企んでいるのかはわからないけれども、途方に暮れるよりはマシだろうし着いて行くことにする。運がよければ館内を案内してくれるかもしれない。
「今日はもう一通りかっぱらい終わってな、もう帰るところなのぜ。案内くらいならしてやるが……そもそも、お前は一回医者にかかった方がいいと思うぜ? 何か光ってたじゃないか、蛍でも喰ったのぜ?」
のぜのぜが微妙にうざったくなってきた。流行りが廃れるのも何となくわかる、ずっと見てたら飽きてくるものだね、何事も。
平穏な日々と同じ理屈。
「まあ、それもそうですか。自分でも何が何だかよくわかりませんし……賢人に頼るのは定石かもしれませんね。そういう点では、ベストなのは博麗神社のような気がしないでもないですけど」
ただの、何事もない受け答えだった。少なくとも俺は、そう思って言葉を発した。しかし、魔理沙の様子が何やらおかしい。急に立ち止まると少しの間考える素振りを見せて、こちらを向いて何かを話そうと口を開いた……かと思ったが、しかし彼女は何も言わなかった。きっと、言わなくていいことだったのだろう。おもむろに前を向いて、また歩き出した。
その速度は、さっきよりも幾分か速かったけれども。
外に出る。
霧雨魔理沙はほぼ無意識でも館の中を自由に闊歩できるらしい、どれだけ侵入すればこんなややこしい廊下をすいすいと進んでいけるのか理解に苦しむが、確かに、「それらしさ」はあるような気がした。
外は美しく青い。雲一つない晴天そのものである。
メイド服を着ていない妖精の姿もじわじわと見られ始め、庭とはいえここのセキュリティが如何にボロボロであるかも容易く伺えた。紅魔館のセキュリティ、欠陥……大方予想通りというか、門番はやはり壁に凭れかかって眠っていた。
少しずつ、このおかしな世界にも慣れてくる。何ということはない、数年前に昼夜を問わず作り上げられていた幻想郷、我々が腹を抱えて青春を費やした幻想郷、電子の平面を通して見蕩れていた幻想郷、それと寸分の狂いも無い世界なのだから。生まれ育った世界ではなかっただけで、見知った世界ではあるのだから。故にどこに何があるかはよくわかるし、故に何が起こるかも「お約束」として予測できる。普段ニワカなんて謗られている設定の束は、簡略化され、使い古されてしまった常套句なのだ。
いわば門を出て、門番が眠っていたのを確認したのが三コマ目だ。
だから。
さくり、という、軽い、軽い音。
ナイフ。吸血鬼の大敵である日光を煌めかせながら飛翔する、吸血鬼の大敵である銀の刃。
そして、吸血鬼の大好物である出血。これだけがいやにリアルで、じわり、ぼたりという穏やかな出血がチャイナ服に染み込んでいく。血もギャグっぽくぴゅーって噴水みたいに噴出させることはできなかったのだろうか。
四コマ目は、「いつものアレ」。
「はっ! 寝てませんよ咲夜さん! ちょっと羊を数えていただけです!」
「確信犯じゃないの!」
ナイフが飛んできた方角を見てみると既にそこにいたはずのメイド長の姿は無く、再び振り向くと、代わりに、役に立たない門番の首根っこを掴むメイド長がいた。
勿論、胸囲は補強済み。なにそれ西瓜かなんか詰めてんのってレベルで。
……確信犯ってそういう意味じゃなかったはずなのだけれど、ここでそれをわざわざ訂正するのは嫌な奴すぎた。勘違いしてる人が半分を超えたらもう正しい日本語だよ、独壇場も破天荒も。
勘違いは勘違いにならなくなる。勘違いは蔓延すれば勘違いではなくなる。世界は流動的なものだ。全ては認識の元に構成されるし、認識はそのまま評価に直結する。場合によっては、認識が事実を捻じ曲げることすらあるのだから。
正解なんてものは、大抵勘違いだ。
幻想入りしてから、それを悉く痛感する。
これまでの数十分を振り返るだけで、幾つもの懐古が降り注いできた。
なぞりながら。
ぼんやりと。
世界について考えてみる。
どうせ魔理沙も考え込んでいるし。
霧雨魔理沙がいて、十六夜咲夜がいて、きっと、博麗霊夢もいる。それだけじゃない、人がいて、妖がいて、神もいる。俺が見知った世界。
幻想郷は実在した、俺が今土を踏みしめているのが何よりの証明だ。最初の突拍子もない前提が証明されたのだから、なぜ「こんな幻想郷」なのか、少し考えてみようと思う。
そうだ。――よりにもよって――こんな、幻想郷なんだ。
俺の見知った幻想郷は、俺の見捨てた幻想郷でもあった。中国。居眠り。或いは、ZE。ジゴロ。そんな数文字に凝縮された幻想モドキは、確かに俺たちが抱いた幻想郷への幻想なのだけれども、しかしそんな記号的な世界は、徐々に勢いを失っていったはずだ。氷精は文字を識別できるし、八雲の式神の服は弾け飛ばない。ルーミアの台詞は一種類じゃないし、霊夢は行き倒れていない。アリスは魔理沙に劣情を催していないし、早苗は清純派じゃない。そんなこんなが俺たちの前からふっと消えて、どれくらい経っただろうか。それすらも、よくわからない。
ただただ懐かしい、十年近く前の幻想郷。正しさを度外視した、可愛くて面白い理想郷。
しかし過去のものだったとしても、俺がいるのはそんな幻想郷。酒呑みが酔いどれながら語った言葉こそが正しい幻想郷だと思っていたのだけれど、どうやらそれは大きな間違いらしい。失われていたと思われている設定たちが、キャラクターたちが、幻想郷の真の姿なのだ。
そこまで考えて、何かが脳裏を過る。
ちょっと待て。
十年近く前の。失われた。忘れられた設定たち。
もし、幻想郷そのものが――幻想入りしている、そんなことがあるとすれば。
「おーい、お前。竹林だ。着いたのぜ」
呼び声がして、我に返る。長い間考え事をしていたらしい、目の前には既に、鬱蒼という言葉の似合う、決して入りたくないと思うような竹林がお目見えしていた。幻想郷なんてそこまで広い世界ではないにしても、場所が全く変わってしまっているのだから、どれくらい黙り込んでいたのやら、といった感じだ。とはいえお互い様、魔理沙も相変わらず俺の二歩前で腕を組みながらなにやら考えていたようだったし、それぞれがそれぞれに険しい顔をした、案内と言えるのかも怪しいような道中だった。
「竹林は私にも手に負えないんだぜ。だから、先に別の案内人を用意してあるのぜ」
竹林の案内人。赤いもんぺ。白髪。上がった目尻。煙草。ワイシャツ。
「藤原妹紅だ、永遠亭に行くんだろう? 着いて来な」
煙を吐き出しながらそう言うと、くるりとすぐに踵を返してしまう案内人。テンプレート。不死と煙草のコントラスト。不健康そうな隈をしっかりと確認できるほど、俺は勇敢ではなかった。ぼく、わるい外界人じゃないよ。ぷるぷる。
危うくまた考え込みそうになって、慌てて我に帰る。妹紅は案内人に向いていないのかずんずんと竹林に入って行き、俺も急いで後を追った。もしも迷子になんてなれば、碌な目に遭わないであろうことは承知している。
何たって、兎と狼が出るのだから。
次に出会うのは、誰だろうか。
意外にも、竹林を歩く時間は短かった。前方の妹紅が吸っている煙草の煙を追いかけていくと、ものの数分で永遠亭に到着してしまう。拍子抜けというか、迷いやすいだけで竹林の規模は大きくないのかもしれない。長く長く鮮やかな緑色に伸びた竹の向こうに、どこか不安定な雰囲気を漂わせた、そこだけ不可思議に切り取られているかのような、そんな佇まいの建物――永遠亭が見える。
「どうやら永遠亭はアレみたいですね、妹紅さん」
「ああ、その通り……」
クールなイケメン妹紅だ……大きく煙を吐き出しながら、両手で竹を掻き分け、数歩進む。ややこしい竹が少なくなってきて、視界がどうにか開けてきた。しかし、彼女はまずその敷地に入る前に振り向いて、怪訝そうな面持ちで俺に向かって問うてきた。
「……なあ、お前はどうして、私の名前や……永遠亭の名前を、知ってるんだ?」
どこか引っかかるような、そんな口調で。
勿論引きこもりだったからに他ならないのだけれども、どう説明すればいいのやら。外の世界では貴女達はアイドルなんですよーとか言うのも気味悪がられそうだし、貴女達はゲームの住人なんですよーとか言うと、もしかしたらメタ視点が現実と幻想を分ける云々に抵触する可能性がある。なんとなく、推測でしかないけれど、幻想郷住民がメタ的な話を知ってしまったら、この世界には悪影響がある気がした。嫌な予感、というやつだ。
そうなってくると、もう手は一つしかなかろう。
「……ああ、それはですね。魔理沙さんが親切にも教えてくれたんですよ」
嘘吐き。
「竹林の案内者、藤原妹紅。不老不死の蓬莱人。迷いの竹林。起伏と乱立する竹。見通せない前方。兎の罠。佇む月の病院。医者と兎とかぐや姫。胡散臭さとエタノール……医者に関しては、聞いたところで安心はできない内容でしたが」
それを聞いて、彼女は少しの安堵を見せたような気がした。煙草から煙が一気に噴き出て、小さく咳き込んだ後、また前を向いて俺にも届くかどうかというくらいの大きさの声で言った。
「腕だけは確かだよ、安心しな」
これまでの十七年強で出会った人々の中で、一番恰好いい姿をしていた。
ぼうっと背中を見つめていたらしい。妹紅の後ろ姿が少しばかり遠ざかっていたので、俺も慌てて走り出した。
走り出して、落ちた。
前方から藤原妹紅の甲高い悲鳴が聞こえて、足元に深淵が生まれる。世界が大きく傾いたかと思うと、藤原妹紅が底に着いたらしい、ドンという大きな音が鳴って、続いて、俺も背中から土に衝突する。鈍い痛みが背後から襲い、しかし、藤原妹紅を足蹴にするなんてことがあってはならない、顔などを傷つけてはどうすることもできない、先にそういった考えが過った。幸いにも穴は不必要なほど広く、俺が住んでいた家の自室ほどの広さがあったから、心配は杞憂に終わった。妹紅は向こうの方で腰を押さえている、とりあえず一安心といったところだ。すぐ立ち上がったから、彼女に大きな怪我はないらしい。
まあ、それもそうか。千三百年も生きていれば屈強になっていてもおかしくない。そうでなくても、彼女は確かに人外なわけだし。俺の方も、鈍い痛みは残っているものの、至って平気だった。立ち上がって土を払ってみたけれども、別に行動に支障はない。
どうだろう、三メートルは落ちていないだろうか。上を見上げて手を伸ばしジャンプまでしてみたものの、丸い縁には届かない。バレーボールでもやっておけばよかった。いや、やりたくないけど。
「あー……見落としてたな」
嵌った拍子に煙草も落としてしまったらしい。妹紅も頭を掻きながら空を見上げる。彼女の身長は俺よりもかなり小さいから、実際よりももっと深く感じていることだろう。
「アイツの仕業ですね……怪我はなさそうで何よりですが」
「見破れたはずなんだがな……くっ、どうも調子が悪い」
罠に嵌ったのが気に食わなかったらしく、妹紅は落ちてきた煙草を右足で強めに踏みつけた。そしてまた一つ咳き込むと胸のあたりを叩き、なんでもないような素振りで土の壁を引っ掻く……その行為にどれだけの意味があるのかは、俺にはわからないけれども。
しかしここで妹紅観察日記を付けていてもしょうがない。どうやってここから出るか、それが差し当たり一番の問題なのだ。
「どうします? 何か思いつきましたか?」
「うんにゃ、何も。まあここに人間がかかるのはいつものことだしな、こうしてればすぐにでも兎が様子を見に来るだろ……ほら、こんな風にな」
妹紅が空の方を指さす。髪の長い兎と髪の短い兎が、早くも揃ってこちらを見つめていた。片方は物凄く申し訳なさそうな顔をして、片方は右手を口元に寄せてウサウサと笑って……どちらがどちらかなんて、もはや言うまでもない。
先に口を開いたのは申し訳なさそうな兎だった。
「あのー、大丈夫ですかー……うちのてゐがまた馬鹿を……」
馬鹿をと言われても全く気にしていないようで、てゐの不敵な笑みが歳にそぐわない彼女の幼い顔から消えることは無かった。
「ウサウサ、もこたんが引っかかるなんて珍しいこともあるものウサねー」
「もこたんゆーな、早く此処から出せ」
歯軋りの音が聞こえる。やめてねそこでファイヤーしたら俺も三途の川へ飛ばされてギルティ・オワ・ノットギルティ。
「ちょっと待っててくださいね、縄を持ってきますから」
優曇華院がぱっと視界から消えて、暫くの間足音がして。つまり此処に残ったのは腹黒合法ロリ。
「そこに居るのは誰ウサ? 真昼から男と女が暗いところに二人きりなんて不健全ウサね」
不愉快な笑みを浮かべる兎を、すかさず妹紅が睨みつける。そういえば私の所為だったウサね……と呟いて、また黒い瞳をこちらに向けた。
「見たところ外来人ウサかね、昔の外来人にもそんな服着てたのがいたウサ」
「制服って言って寺子屋ごとに服装が定められてるんですよ」
「うんうん、確かにアンタは若そうウサね。師匠が喜びそうだよ、彼女は見てくれは気にしないウサからね、若い男ならなんでもいいのウサ」
多分貶されている。俺も何か言い返そうと思ったが、彼女は言いたいことを言ったらそのまま返事も待たずに何処かに行ってしまった。多分藤原妹紅のものであろう、溜息が一つ聞こえて、程なくして慌てた足音と激しい呼吸音も近付いてきた。やっと外に出ることができる。俺と彼女は笑いあって、永遠亭へと入って行った。
「共鳴ですね」
八意医師の話によれば、俺はどうやら元々人ならざる何かの血流を薄く受け継いでいたらしい。別にそれ自体は珍しいことではなく、現代でも「左利きかつAB型」くらいのレアリティでいるものだという。けれどもそれが幻想郷に来てしまったことによって、妖怪や神の持ついわゆる妖力とやらにあてられ、俺の体の内部の器官が変異し、本来するはずではなかった能力の覚醒を引き起こした――と、彼女の話を俺がまとめるとこんな感じだ。東風谷早苗に起こったのと似たような現象らしいが、俺の能力がどんなものなのかはわからないと彼女は言った。香霖堂に行けばわかるかもしれないわね、と言われたが、俺は道具ではない。
「直したいっていうなら薬で直すことも不可能じゃないけれど」
一通り説明が終わると、彼女はにこやかな顔で俺に問うた。向こうの方に薬の入った棚が見える。
「つまり、人間度を高めるって感じのお薬ね。ウドンゲ、こっちに」
俺の背後に立っていた優曇華院が、永琳の声を合図にして彼女の横へと軽やかに移動した。かわいい。流石新参ホイホイと呼ばれていただけあって、兎の耳とかセーラー服とか、キャッチーな記号だらけだな……あと何かいい匂いがする。女の子の甘い匂い。
「よく見ておいてね? せいっ」
「あひいんっ!?」
……。
あ……ありのままに今起こったことを話すぜ! 「体が発光したので病院で診察を受けたら看護師に座薬がぶち込まれた」 ……何を言っているのかわからないと思うが、俺にもわけがわからない……月兎遠隔催眠術とかギャグ補正とかそんなチャチなモンじゃ断じてねえ……もっと恐ろしいものの片鱗を味わったぜ……
床に突っ伏す優曇華院。てか、なんでスカート履いてるのに座薬が入るんですか。そうですか捲ればすぐ入るんですか布に覆われてなかったんですか。なるほどなるほど。座薬に悶絶して艶かしい声を上げるはいてない美少女……
……素数だ、素数を数えろッ!
「1、1、2、3、5、8、13……」
「フィボナッチよそれ」
というか、俺の能力の覚醒を押さえられるという薬を彼女に挿したのであれば、彼女の持っている狂気の瞳の能力が失われてしまうのではなかろうか。動かなくなっちゃったし。
「……あっ」
俺にでもわかるような事実に今更気付いたのだろうか、医者が最も発してはいけない感動詞を口にして一瞬硬直した後、しかし彼女は何でもないような顔をして俺の方を向き直った。
「……何でもないわ。そんなことよりね」
逃げた。
「貴方の能力……というか、能力の基盤となっている性質……それに、若干、違和感があるのよ。何というか、人為的に作られたもの、みたいな……貴方がそれに心当たりがないのであれば、恐らく私の思い過ごしなのだろうけれど……」
床に転がる助手を見捨ててシリアスモードに入る八意永琳。ちょっと待って俺その展開についていけてないです。さっきから死んだように動かない兎耳の少女が気になって気になって仕方ないです。
「……残念ながら俺には知る由もないって感じですね……つーか、いいんですか、優曇華院さんそのままにしてて」
「また薬漬けにすれば治るでしょ」
荒療治すぎやしませんかねそれ。
「というか、他人もとい他兎のことを気にしている場合じゃないわ。貴方はさっき妖怪に食べられそうになったと言ったけれど……」
流石に俺も診察室のシリアスに慣れて、一瞬言い淀んだ永琳の言葉の隙間、静寂に残る時計の秒針の音が一気に澄んでくるような風に感じられる。時の流れが遅れて感じられるのは宵闇妖怪が近付いてきたあの時と一緒だった。
中々の適応力ではなかろうか、俺の感覚は研ぎ澄まされていたはずなのだけれど――流石に、彼女の宣告は想定外だった。
「人間に殺されるかもしれないわよ」
竹林を出た。振り返って、妹紅に礼を入れる。永遠亭から出てきた時の俺はかなり神妙な面持ちをしていたものだろうと思うし、言い渡されてから今まで殆ど喋った記憶がないので、またしても案内人に気まずい雰囲気を味わわせてしまったのだろうけれど、まあ、俺だって頭の中が一杯なのだから、勘弁していただきたい。
俺は俺のことを紛れもない人間だと思っていたのだけれど、どうやらそれは少し間違っていたらしい。俺の中に眠る妖怪の部分、恐らくだけれど――このままいれば、俺は妖怪になってしまうのだろう。ぶっちゃけ座薬を使うのは遠慮しておきたいところだし、そうなると、俺に残された選択肢は二つで、妖怪として幻想郷に生き延びていくか、幻想郷から出ていくか……その二者択一。
難しい判断ではあったのだが、俺は帰ることを選択した。
幻想郷を外から眺めている俺たちは、ややもすればここを妖怪も神も人間も仲良しな理想郷のように思ってしまうのだが、それはあくまで一部だけ――というか、博麗霊夢と霧雨魔理沙が人外に触れすぎているだけなのだ。人里の人間たちは無条件に妖怪を恐れているし、妖怪たちは無条件に人間を脅かさねばならない。そういうのが、幻想郷の本質であり摂理なのだ。
って鈴奈庵で阿求が言ってた。
なんか不穏な感じになってるね鈴奈庵。
あと「ないでーす」のコマ可愛いよね。
閑話休題。
ということはだ、先ほど永琳が俺に忠告したように、このまま妖怪になってしまえば、否が応にも俺は人間から疎まれる存在になってしまうということだ。まあ、それだけなら現実世界にいた時の俺とそんなに変わらない……認めたくないことだが、実際、そんなに変わらない、のだけれども。それくらいなら、幻想郷の少女たちと共に過ごして行けるという条件と引き換えならば安い物だろう。でも、違う。よくよく思い出さなくても、男の妖怪なんてここにはいない。いや、いるにはいる。例えば雲山。森近霖之助。だからどうした。ゲームにも書籍にも、驚くほど男の妖怪はいない。人里に男の人は多くいるのだけれど、妖怪となると男の占める割合はぐっと減る……何故か。
簡単だ。
不要だからだ。
幻想郷は作られた世界だし、箱庭だし、ディストピアだ。美しき幻想郷に、男は少なくていい。少女が弾幕ごっこをするから東方なのだし、少女が日常を送るから東方なのだ。男がでしゃばるのは薄い本だけで充分だ。
男が妖怪化して、力を持ってしまったら博麗霊夢との接触は避けられません、でもゲームでも書籍でも彼女らは殆ど男の妖怪と触れ合いません。
ちなみに、世の中には間引きという言葉があります。
……全て推測の域を出ない男子高校生の戯言でしかないのだけれど、でも、我ながらそこそこ説得力のある論説だと思う。だってかの八雲紫だもん、それくらいしてもおかしくないよ。俺だって死にたくないし。死ぬリスクだけで考えたら、現代の数倍いや数十倍はこっちの方が高いだろう。妖怪なら尚更だ。
それらのことを考えて、俺は元の世界に戻ることを決意した。霧雨魔理沙には神社へ案内してもらおう。これまでの幻想入り系を信じるなら、帰る方法はそこにあるはずだ。
「博麗神社に案内してください」
竹林の前で待ってくれていたのだろう、欠伸をしていた霧雨魔理沙に後ろから声をかけた。真っ直ぐに。魔女が不敵に笑って、トンガリ帽子を引き下げた。やるべきことは決まった。あとは歩くだけだ。
帰ろう、俺たちの退屈な世界に。
「つっても箒には乗せてくれないんですね」
「悪いな外来人、俺の箒は一人用なんだぜ」
もう三回目になる獣道を、二人で並んで歩く。今回は俺も彼女も中々饒舌だった。考え込む理由がなくなったからだ。
「帰ろうと思うんですよ」
「言ってくれりゃ土にならいつでも返してやるぜ。マスタ」
「ストップストップ! ノンストップ命の危機は懲り懲りです。目的も目的地も定まった、ここからは消化試合、日常系になってもらわなきゃ俺の身が持ちませんよ」
俺が必死に手を振り彼女の暴発を収めようとすると、くくくと霧雨魔理沙が笑った。手元の八卦炉を紗綾の風呂敷に捻じ込んで頷き、まあ、それももっともだな――そう呟いた、横にいる俺にすら聞こえるか聞こえないかのギリギリの声量で。
「冗談だぜ、博麗神社だろ? ここを道なりに行けばいいのぜ」
霧雨魔理沙はそう言うと前方を指さした。道なりっつーか、道無き道なりっつーか。明らかに進めない山林や崖に二方を遮られているから、多分彼女なしでも着くことには着くのだろうけれど、やはり不安は付き纏う。もう一回宵闇妖怪に遭遇する可能性だってあるのだから。
「帰りたいなら博麗神社、まあ確かにそうなのぜ」
「博麗神社、あれって境界上にあるらしいじゃないですか。恐らく博麗神社は外の世界にも属する場所。冷静に考えて、帰るならそこでしょう……まあ、鵺や狸に頼るのもアリかもしれませんが」
俺がそう言って左側を見やると、彼女は怪訝な顔で固まっていた。恐る恐る、彼女が口を開く。しまった、言い過ぎたか。口が滑った……! そうだ、そりゃあそうだ。だって、霊夢が彼女に結界の話をした時、霊夢と彼女は二人きりだったではないか。確か三妖精だったか……それを、俺が知っているのはあまりに不自然だ。やってもーた。外からの視線に、気付かれてしまう――
「なあ、お前、鵺や狸を知っているのか?」
しかし、彼女の質問はそこに関するものではなかった。
なるほど、ニコニコ黎明期あるいは最盛期の世界が投影されているとして、鵺や狸は出てこない。俺はまだここに来てから地霊殿以降に登場するキャラと出会っていないわけで、俺にはそれらが存在することすら証明できないのだ。しかし彼女の態度を見るに、存在はするのだろう。命蓮寺も、おそらく草の根ネットワークも。となるとちょっとばかり推測に訂正を入れねばなるまい。
「ええ、まあ。俺は幻想郷に少々興味があって調べているにすぎませんが」
「ふむ……となると、外の世界には幻想郷の某かを綴った書物があるってことか?」
霧雨魔理沙の足が再び回りだして、俺も同じく歩いていく。
「まあ、そこまで流通量は多くありませんが」
そうなると、例えばぬえはここで終わりだがな! と叫びながらエビフライを頬張っているのかもしれないし、弁々はアップルパイを腹一杯食べているのかもしれないし、聖と神子は半ば家族のように秦こころを育てているのかもしれない。そうなると、幻想郷に関する創作物が幻想入りすることによって象られていく世界だという俺の考えには若干の綻びが生まれてしまった事になる。例えば、一度作られた世界に登場人物は揃っていて、確かに明治十七年に切り離された世界が続いていて、創作物がその世界を上塗りしていっているとか……と。
俺の思考の訂正は、ここで誰かの声に遮られた。
「あややややー! 魔理沙さんと……そちらは彼氏ですか? いやーついに初心だった魔理沙さんも色恋沙汰に目覚めるお年頃ですかー、感慨深いですねえ……人間ったらすぐ大きくなってすぐ成長しちゃうんですもん、半ば寂しさもありますけど、仕方ありませんよねー。あれ、そうなるとアリスさんやパチュリーさんはほったらかしですか……散々思わせ振りな態度で誑かしておいて自分は男と逢引、なるほど外道ですね! 明日の朝刊一面は決定しましたー!」
あーもう台詞が不必要に長い! 最初に思い切り名前を申告している特徴的な口癖は、やはりどこか得意気な天狗のそれであった。彼女の右手のカメラが光を放ち、シャッター音が聞こえる。ふわりと風が吹き、彼女は少しだけこっちに近付いてきた。白!
「あんのおしゃべり出しゃばり天狗め……」
憤りを顕にしながら箒を手に取る霧雨魔理沙。まずそれより先に彼氏を否定するべきだし或いはボロボロ出てきたスキャンダルを隠すべきだと思うんですけど。
「あややややー! やーややー!」
「あーもううっせえ! 今日こそとっちめてやるぜ、捏造記者……!」
ひゅおおおお。空を裂く音がした、それは恐らく射命丸文の能力によるものではなく、霧雨魔理沙が地面から離れて高速移動しだしたことに起因するのだろう。
「……なんでやねん……」
独りぼっち、取り残された俺。どうしよう、一人で博麗神社に向かうしかないのだろうか。幸いにもこのまま進めばいいことは先ほど魔理沙の説明によって判明しているのだけれど、一度人喰い妖怪に遭遇している身としては気が乗らないし、だからってここで座り込んでも何も変わらない。つーか死ぬ確率すら変わらないんだから立ち止まることによる得が一つもない、だから仕方なく俺は歩みを止めずに歩いているのだけれど、折角拾った命をここで落とす危険が存分にあるというのは、現代では中々味わうことのできなかった貴重な体験だし、求めていた刺激というのはこういうことなのだと思うのだけれど、しかしやはり怖いものは怖い。
「何にも出会わずに行けますように……」
「残念でした?」
ゲームオーバー! 後ろからの声、そういうの本当に心臓に悪いからやめてほしい。ゆっくりと後ろを振り向くと、そこにいたのは紫BB……げふん、八雲紫だった。まあ、わけのわからん野良妖怪よりはマシというものだ。
「……なんだ、貴方でしたか……何の用です?」
「つまらないわねぇ……もうちょっと動転してもいいんじゃない?」
そう言って年甲斐も無く口を尖らすスキマ妖怪。こちらからしてみれば、あまり危険なイメージはないから、突如として空間を切り裂き神出鬼没すること以外は別段恐れる部分はない。しかし思考の読めなさは妖怪たちの中でもかなり高い方の彼女は、強かかつ策士家である。ここで出てきたということには何かしらの意味があるということなのに、一体俺にどんな底知れない用があるのかが微妙につかめないあたりが不気味だ。胡散臭い彼女はネタバラシ要員だから、まあ、この世界についての何かを教えてくれるのかもしれない。外の世界に触れている数少ない住民のうちの一人だし。
「出てきたのが鬼だったら動転してましたよ、死にますもん」
俺がそう言うと、スキマから上半身だけ覗かせている八雲紫は腕を組んだ。
「私は恐るに足りないと? 私が出てきても貴方が死ぬ可能性は低くないわよ、妖怪だもの」
「どうせ殺さないでしょう? 食用に連れてこられたわけでもなさそうですし」
「詳しいわね」
「趣味でね」
どこから出てきたのやら扇子を勢い良くぱっと開くと、それを口元に当てながら彼女は目を細めた。会話の内容こそかなり物騒ではあったものの、そこに本格的な殺気は含まれていない。二次創作的な世界なら彼女は危険な人喰いキャラではないからかもしれない。
「殺す気はなかったけれど貴方の態度が気に入らないわ」
「うわあああ! 妖怪だ! 誰か、誰かいませんか!?」
「ふふふ、ここは人里から離れた獣道……そうそう人間は通らないわ」
「気は済みましたか」
「ええ」
ふふふ、と彼女は楽しそうに笑った。なんだこの下らねえ対話。幻想入りしたんだから幻想郷の危機を巫女と共に回避していったり命を顧みず悪しき心に染まった妖怪と拳でわかりあったりなんかよーわからんうちにフラグを立てて女の子といちゃこらするものだと思っていたのだが、どうにも面白コメディ路線らしい。
「で、茶番やりにわざわざ俺に接触したんですか?」
俺の閑話休題に、笑いを止めてあからさまに不服そうな顔をする八雲紫。
「もう、つれないわねえ……最近の若い子は、なに? さとり世代だっけ? こういう一見馬鹿みたいなやりとりにも、相手を思いやる情ができたりとかね、意味があるのよ……はあ。じゃあ本題に入りましょうか? 貴方がこの世界に入ってきてしまったことについてのお話よ」
そうそう、こういう話よこういう話。八雲紫といえば解説役。お困りのようじゃな! あっ、物知り博士! の役割を担うのが彼女なのだ。
「まあ私が話すのは幻想郷の話じゃなくて貴方の能力についての話なのだけれど。幻想郷の話は徒に吹聴していいものじゃないもの。……さっきヤブ医者になんか言われてたでしょ?」
気味の悪い笑みを浮かべたまま、彼女は訥々と語り始めた。
「あれは私の仕業よ」
「……」
「……」
「……」
「……」
「えっ終わりですか!?」
満足気な顔をするな! 俺の運命と変貌の全容をたかだか八文字で表現しようとするな! 幻想郷が懐かしの設定に埋め尽くされてることはまあ話せないならそれで譲歩するよ! けど前振りがあったからには俺の話はせめてちゃんとしろよ! まあだいたい予想はついてたけどな! どうせお前か永遠亭の奴らかのどっちかだよこんな奇天烈な展開の黒幕っつったら! でもおかしいだろ! なんか、もっと、こう、胸躍らせる中学二年生感溢れる説明パートが、あるだろ!
「え、他に話すべきことあるかしら……?」
「ありますよ! わんさかありますよ! 採用面接かアンタは!?」
眉尻を下げて扇子を閉じる八雲紫。
「うんうん、いいツッコミスキルね。それでこそ主人公枠よ」
「やかましいわ! メタ語りは俺だけで充分じゃないですか! 話が進まないんですよこの調子だと!」
別に俺だって現代で売れっ子漫才コンビのツッコミだったわけではなく、通り一遍な男子高校生でしかないのだからそんなツッコミどころしかない発言はお控え願いたい。追いつかない。
「ええ、それもそうね。人体ってフシギがいっぱいね! なんて語りじゃあ納得できないって。わかってるわかってる。じゃあ始めましょうか、ありがたいお話」
やっと八雲紫が真面目な面持ちになった。なるほどシリアスになるべき場面ではシリアスになるべきなのだなあ。こんなに肩透かしでコメディをやられては無駄に疲れてしまう、さっきの医者のあれでよかったのだろう……俺はとりあえず一つ溜息を吐いて、その大事なはずの語りに耳を傾けた。
「貴方の体が光を放ったのは、さっきも言ったように確かに私の仕業なのよ。月の医者のところに見てもらっていたらしいけれど、なんと言われたのかしら?」
「人外の血、でした」
「ふうん……やっぱりヤブ医者ね、月の頭脳が聞いて呆れるわ……その血は私の差し金、というか私のちょっとした手品ね。本当は貴方の先祖は神でもなければ妖怪でもなく、まさか妖精であるはずもない。貴方は何の面白みもないただの人間でしかない。人間三昧ね。けれど私は貴方にとある力を与えた。貴方が宵闇妖怪に襲われていた時に、ちょっと弄らせてもらったわ。それのおかけで貴方は難を逃れ、命拾いをした。感謝してもらいたいものね」
「それはそれはどうも」
「乾いてるわねぇ……まあいいけれど。それで、貴方の力について。ここからが本題ってわけよね。簡単に言えば、主人公補正の能力……ね。中々死なないし、負けたところで取り返しがつくようにしかならない。周りの女性はみな貴方に興味を持つし、手厚い加護が簡単に受けられる。運命は否が応にも起伏を激しく色々なイベントを善悪好悪全く関係なく巻き起こし続ける。ご都合主義だなって顔。でもそれで充分じゃない? 貴方が『ひょんなことから幻想入りした』なんてことも、他愛もない偶然とは言い難いのだしね。世界ってのはそういうものよ。幻想郷と『外の世界』とが別の世界であるかどうかについては別の議題になるから割愛するけれど、運命とか偶然とか、そんなのは起こってしまえば結果でしかないのだから、ご都合主義なんて言いがかりも甚だしいことよ。だからおかしなことじゃあない。私がふと思い立って、幻想入りした男に力を与えて、勝手気ままに観察して、気まぐれに話しかけたって、それがたまたま自分だったことは面白い事ですらない後付けの結果なのよ。虫取りをするときにわざわざどのモンシロチョウを捕まえるかなんて選ばなくても、その時には確かに選ばれているモンシロチョウと選ばれなかったモンシロチョウとがいるのと同じ理屈で、ね。だから気にする必要も、ましてや気に病む必要なんてない。見たところ気に病んではいないようだけれど、そのままでいいわ。貴方は何も疑わずに私の手品に踊らされて、その中で選択すればいい。良心的よねぇ……帰るという選択肢と、帰らないという選択肢がある。大抵のことは結局のところ選べる選択肢なんて一つあればいいところだっていうのに、私は心がさながら私のように慈愛に満ち溢れているから二つもの選択肢を与えられる。どうするかしら? ちなみに、ここに残ったらその能力は少なくとも私がまた厄介な気まぐれを起こさない限りは適用され続ける。貴方は昔懐かしい幻想郷に包まれて、死にかけたり復活したりしながら刺激と幻想をふんだんにあしらった日常を過ごすことができるわ。けれど帰るのであれば、それは適用されなくなる。外の世界にまで干渉し続けるのは趣味じゃないし面倒だわ。さて、貴方はどうするかしら?」
「帰りますよ」
「あら意外。貴方は昔からここが好きだったのでしょう? 見ていたけれど、そういった人間はやはり少なくてね。そんなあなたには、まさにここは理想郷そのものだと思ったのだけれど」
「別に、俺は霊夢さんが好きでしたし魔理沙さんが好きでした。ルーミアチルノに始まり八橋弁々にまだまだ終わらない、なんならkonngaraやトランプキングだって交えて、俺はここを愛していましたよ。別に彼女らの動きが、性質が、俺の求めていたものとかなりの差異があったことは事実であっても理由ではありません。単純に、帰りたいんですよ俺は」
「そのこころは?」
「俺は引きこもりなんですよ。だから、退屈な日常から出ることも趣味じゃないし面倒なんです」
「結構頑固者なのね」
「オタクは思考が凝り固まるんですよ」
「それ、私以外には通用しないわよ」
「緑の巫女にも通用するでしょう」
「もしかしたらね」
「この世界の有様も貴方の所為なんですか」
「さあ、どうかしら」
「やっぱり肝心なところはボカすんですね」
「だって私は『八雲紫』なんだもの」
「ええ……俺の知っている八雲紫そのままですよ」
「いい台詞ね」
「だって俺は『主人公』なんですから」
どこまで意味があるのかすら良く分からない応答だった。けれど彼女との対話は気分の悪いものではなくて、俺も不思議な高揚感を持ったまま一人で歩き出す。隙間に消えてしまった八雲紫。博麗神社までSPを頼めばよかった……まあ、別にいいか。本当に主人公なら、絶対に雑魚では死なない。胡散臭いからこそ、八雲紫を信じてみよう。
徒歩にして八雲紫と別れてから二十分はかかっていないだろうか、博麗神社の石段が目の前に聳えていた。うわあめんどくせえ。そりゃあ参拝客も少ないままに寂れるわけだわ。息も絶えだえに階段を上っていく。
「ひー、やっと頂上か……」
俺の瞳からハイライトが消えかけようとしていた頃、やっと鳥居の向こうに神社の姿が見え始めた。俺には人の気配を感じられるほど卓越した第六感は無いのだけれど、少なくとも常識的な人間の視力で周りを見回したところ、視界の中には誰もいないように思えた。案の定参拝客の姿もない。
「霊夢さーん。霊夢さんはいらっしゃいますかー」
しーん。
「…… 」
声どころか物音もしやしねえ。もしかして留守なのかもしれない。そうか、皆が昔のキャラクターになってしまっているのは異変だったのか。だとすれば博麗霊夢は妖怪退治に出かけて飛び回り、その辺の妖怪を無闇に薙ぎ倒しながら今現在も黒幕に向かって直進しながら弾幕を避けているのだろう。ならば仕方ない。俺はここで彼女の帰りを待つことにしよう。
……とはいえ、勝手に入ってもいいのだろうか。
まあ、別に構わないだろう。俺は人間なのだから、博麗神社に保護されるべき存在なのだ。鍵がかかっているわけでもないし、神社とはいえ別に祟りがあるわけでもなさそうだ。襖に手をかけて、そっと開いた。
人が死んでいた。
あわわわわ。俺じゃない俺じゃない、信じてくれ。神社の中に入ったら巫女さんが既に死んでたんだ。どうしよう、110番しなきゃ、携帯電話……は充電が切れてて使えないんだ、じゃあ充電器を取りに家に帰ってってここ幻想郷やないかーい!
……現実逃避、おわり。
どうしよう、事件の予感だ。ここから推理編、解決編が始まるのかもしれない。かけるじっちゃんの名は無いのだけれど、ホームズならちょっとだけ読んだことがある。主人公なら俺が探偵役に抜擢されてしまうのだろう……!
と、そこまで考えて、ふと思った。
巫女さんって博麗霊夢だよね?
あれっそれ帰れなくね?
博麗大結界、これ、どうするの?
あわわわわ。あわわわわわわ。なにこれ、結局帰るという選択肢は俺の前には提示されていなかったのだろうか。幻想は残酷だ。
「何をやっているの、そんなに慌ててどたばたと」
「ひーっ!? 俺じゃないですよ!?」
後ろから声がする。ばっと振り向くと、日傘をメイドに持たせて胸を張っている永遠に紅い幼き月と、日傘をお嬢様に持たされて胸を張っている完璧で瀟洒な従者がいた。
そんでメイド、お前は胸を張り過ぎだ。
「咲夜!」
「はい」
レミリア・スカーレットに名前を呼ばれた十六夜咲夜が、手元に握っていた小銭を賽銭箱に投げ入れた。流石ナイフ投げの名手といったところだろうか、 恐らく銭単位の価値しか持たない硬貨は寸分の狂いもなく箱の中央へと弧を描き消えていった。
ちゃりん、とチープな音がした。
刹那。
死体が賽銭箱の前に現れた。否、瞬間移動したのだ。まさに瞬く間の出来事だったから、先程まで巫女が転がっていた場所に視線を送り事態を飲み込むには少しの時間を要した。けれども、賽銭箱の方から、さっきとは比べ物にならないほどの大袈裟な物音がしたので、状況が確認するまでもなく理解される。
赤色が三倍速なら紅白は三百倍速だ。
「霊夢、フルーツを持ってきたわよ」
レミリア・スカーレットは淀みなくそう言うが、しかし誰の手元にもフルーツどころか荷物すら見当たらない。
「はっ」
その瞬間、十六夜咲夜の両手の上には、二つの西瓜が並んでいた。何処から出したのだろうか。確かに彼女は手品師とも呼ばれるが、このためにわざわざ紅魔館まで取りに戻……いや、違う。十六夜咲夜の胸が、萎んでいるッ!
「本当に西瓜詰めとったんかい!」
「非常食ですわ」
そんな重たいもの詰め込んで動きにくくないのだろうか。なんだこのメイド……などと考えていたところ、早速博麗霊夢は西瓜を貪り食っていた。
「はー……何とか生きてけるわー……」
残骸が散らばり、お世辞にも綺麗とは言いがたい様相なのだが、ともかく巫女さんは復活したらしい。よかった。俺の帰る目処が立ったではないか。
「……ねえ、その皮、片付けるとかなんとか」
「いいのよ。肥料になるでしょ? ここに草が生えれば儲け物じゃない」
「なるほどお」
なるほどおじゃねえよメイド、見栄えの悪いことこの上ないだろ、こんなんだから参拝客が死ぬほど来ないんでしょ?
「元気になったところでお願いなんですが」
俺の発言に、博麗霊夢の視線がこちらに向けられる。
「……誰よ」
「あー、えっと、外来人の小里です。ここから外に帰れると聞きまして」
「……待ってて、すぐには帰せないの」
さすが結界のこととなれば博麗の巫女は本業である、凛々しい顔で受け答えして、準備を始めようとしたのか部屋に入った。
……口元が西瓜の汁でベッタベタでさえなければ格好いいんだけれどなあ。
「間の悪いことに、ちょうど今結界の綻びを修繕しなきゃいけないのよ。で、さっきまで寝てたからまだ終わってないわ」
幣のようなものを左手に持ち、部屋から博麗霊夢が出てきた。顔洗ってこようよ。
「終わったら帰してあげるから、それまでここに居るといいわ」
「ねえそこの人間、じゃあ少し遊ばない?」
子供っぽい声が話しかけてくる。レミリア・スカーレットだ。
「折角来たのに霊夢が仕事じゃあつまんないもの。だから貴方で我慢してあげるわ……なんだっけ、森だっけ?」
「小里です」
「まあどうでもいいけど」
くっそこのお嬢様腹立つぞ。何がそんなに誇らしいのかは全くもってわからない。紅魔館は幻想郷を牛耳っていると言っても過言ではないと思うし、その富は幻想郷においては巨万というほか無いのだろうが、お前にカリスマはない。
「で? 遊ぶっても、何するんです」
「吸血」
「遊びじゃねえ!?」
渾身のツッコミだった。俺自身が驚いてしまうほどに大きく声が通ってしまい、それに驚いて、レミリア・スカーレットが一歩下がって、そのまま尻餅をついた。
「……ッ! お嬢様!」
十六夜咲夜が、何かに焦ったように叫ぶ。しかし間に合わなかった。吸血鬼は日光に弱い。さながら俺のようだが、吸血鬼のそれは種族的であり本能的であり克服できない壁なのである。吸血鬼において、日光に当たることはすなわち大怪我を意味する。強大な力を持つレミリア・スカーレットとて例外ではない。
……そのことに俺が気付く頃には、レミリア・スカーレットの首筋あたりがぷすぷすと効果音を振り撒きながら煙を上げていた。ものの数秒で十六夜咲夜が日傘を動かして日光を遮ったのだけれど、幼い吸血鬼は確実にダメージを負っていた。
「うーっ……」
痛いのか苦しいのかは吸血鬼ではない俺には知る由もないが、少なくとも心情が芳しくないらしく、弱々しく唸る。それを恐る恐ると言った風に見守る十六夜咲夜。
「うーっ」
「……」
「うー……」
「その調子で、いつもの、おねがいします!」
「れみ☆りあ☆うー☆」
「あっぱれお嬢様! ノルマを達成いたしました!」
「ってなにやらせんのよ!」
主従コント。かわいい。
「そこの人間……この私に、よくも……!」
ぎりぎりと、生き物を咬み殺すことに特化しているであろう形状の歯を軋ませながら鋭い眼光を俺に突き刺すレミリア・スカーレット。それを愛おしそうな目つきで見つめる十六夜咲夜。止めろ。
「私の僕にしてやるっ!」
「落ち着きなよ」
「あいたっ」
突如吸血鬼の後ろに霧が出たかと思うと、それはみるみるうちに小学生ほどの風貌の幼女を象っていった。吸血鬼の頭に手刀を入れた鬼は、磊落そうに笑っている。 呑んでいるのか、顔は些か赤みがかっていた。このゲームに登場するキャラクターは全員二十歳以上です。
「よーう、外来人。あんまり元気そうじゃねーけど、ホームシックか?」
「まあそれも零ってわけじゃないですけどね」
吸血鬼の横を通り、俺の前に陣取る伊吹萃香。後ろから吸血鬼にめっちゃ睨まれてますけど。ちゃんと手刀は手加減したのだろうか。
「まあ酒でも呑めや、仲良くなるにゃ酒が一番だ」
「……外の世界では、二十歳になるまで酒は飲めないのよ」
次に現れたのは紫の魔女。屋敷から出るんだ。お互いに気を取られていたせいで気が付かなかったのだろう。俺の後ろから静かに現れると、右手で伊吹萃香を制止した。
「あー!? 人間はめんどくせえなー! こっちじゃ産湯が麦酒だぞ!」
「盛りすぎよ」
伊吹萃香が手足のごちゃごちゃした装飾品を鳴らしながら地団駄を踏み、それを冷静にパチュリー・ノーレッジが諭す。まだ何か鬼は行っていたようだけれど、パチュリー・ノーレッジは無視して俺の方を見返った。
「……貴方が例の外来人ね」
「その通り、どうも、外来人です」
親友の来訪に幾分か機嫌が良くなったのか、それとも親友に気を取られて俺に対して興味を失ったのかはわからないが、ともかく俺は助かった。主人公補正さまさまである。
「しかし、パチュリー様が外に出るとは珍しいこともあったものですね」
「他人をまるで引きこもりみたいに言うのはやめてもらえるかしら」
メイドの発した言葉の針に、むきゅー、と嘆息するパチュリー・ノーレッジ。ていうかそれ嘆息でいいのか。なんか違う器官からの音だったりしないだろうか。俺はどう頑張ってもそのむきゅーって音出せんぞ。
「では、お屋敷の外に出たのはいつ振りですか?」
「……前に魔理沙に呼ばれて出たときはとても暑かったわ……」
オカルト倶楽部の片割れや完全記憶の編纂乙女あたりならば知っていたのかもしれないが、いかに明晰な頭脳を持つ魔道士たるパチュリー・ノーレッジでも日付は覚えていなかったようだ。
「それは第何季の夏?」
「……」
ついにパチュリー・ノーレッジは黙り込んでしまった。どことなく俺にも耳の痛い話だ。
「流石引き篭り、不健康なこと極まりないわねぇ!」
と、今度現れたのは金髪の人形遣い。甲高く何やら敵対心を剥き出しにしながら石段を登ってくる。
「チッ……貴女も似たようなものじゃない」
今あからさまに舌打ちしましたよね。もはや敵愾心を隠すつもりが全く見受けられませんね。
「あーっははは! 片腹痛いわね! 私は一昨日も魔理沙とデートしたわ! 都会派の健康的な淑女ですもの!」
左手を口元に添え、高笑いを振り撒きながらこちらへと一歩ずつ近付いてくる。
「どこへ?」
「人里の貸本屋にね! 勿論淑女たる私は十五歩ほど下がって!」
「それは尾行よ」
むっきゅっきゅ、と今度はパチュリー・ノーレッジが笑いだし、アリス・マーガトロイドは眉間に皺を寄せる。まあここだけ聞いてるとパチュリー・ノーレッジの勝ちである。
「本盗まれてるだけのもやしとはレベルが違うじゃない!」
「本人にすら迷惑をかけていてどこがハイレベルかしら!」
その言い合いがローレベルだ。
「なによ!」
「煩いわね!」
程なくして、つかみ合いが始まってしまった。こうなると恐らくパチュリー・ノーレッジの勝機は相当薄まるだろう。物理的な戦闘力の差はかなり歴然。
「ういーっす。お前ら相変わらず仲いいんだぜ」
「いや、これは違……!」
「誰がこんなのと仲良く……!」
風が吹いて、箒に乗って空から砂を巻き上げながら着地した白黒の魔法使いは和やかに笑いつつこちらに振り返った。
「おお、外来人。無事だったのぜ」
俺の顔を見た彼女は、少しばかり驚いた素振りを見せた。何なんだ、無事じゃないと思っていたのか。もっと労われよ。
「隙間妖怪には遭遇しましたけどね」
「全くどいつもこいつも好き勝手してくれるぜ」
彼女は疲れ果てたといった表情で空を仰ぎ、手を翳して数秒硬直した後、下を向いて一度肩を大きく上下させた。
「さて、外来人。帰るつもりらしいが、霊夢は何て言ってたんだぜ? あいつのことだからそろそろ飢えて死にかけていることだろうと思うぜ」
半笑いでそう言って俺の横を通り部屋の中を一瞥すると、回復してるのぜ、と呟いて縁側に尊大な態度で座り込んだ。そして次の瞬間、流れるような手つきで右手を何もない虚空に伸ばすとそのまま空振って縁側の木に思い切り指を付き立てた。何をしているのだろうか、手刀を身につけて更なるレベルアップを目指すのだろうか。
あ、でもめっちゃ痛がってる。唐突に武闘家の道を志したというわけでも無かろう、謎だ。
「ってえな……ああ、そうか、煎餅は……」
霧雨魔理沙のさりげない呟き。
「魔理沙」
「貴女が言い出しっぺなのよ」
何も引っかかる部分は無かったように思うのだが、しかし、周囲のメイドや吸血鬼、その他の面々も皆、彼女に厳しい視線を向けていた。それに気付いたらしく、霧雨魔理沙はバツが悪そうに帽子を引き下げてしまい、俺からは表情が伺えなくなる。
「……悪いぜ」
不穏な空気が辺りに漂い、些か居心地悪い静寂が神社を包み込んだ。現実にてこういった状況には度々陥っていたからそれほど気に病むわけでもないのだが、それでも確かに居心地が悪いのには代わりはない。互いに視線を向けたり、と思えば明後日の方向に意識を追いやったり、誰もが話題を探し、しかし誰一人として、何も手が打てなくなっているように思えた。
「ちょっと、私の家で辛気臭い顔しないでよ。お墓じゃないんだから」
結界を打ち破ったのは、博麗霊夢だった。手をぱんぱんと二度打ち鳴らし、声を張り上げる。
口には出さないが、誰もが、博麗霊夢に助けられた形になる。
「あー、そこの外来人。これ、明日の朝くらいまでかかるわ。今日はここに泊まっていきなさい」
「えー、ずーるーいー!」
博麗霊夢からのありがたいお達しに、俺よりも先にレミリア・スカーレットが反応した。俺の方を一度睨んで、巫女に向かって叫ぶ。
「いつも遊びに来てもすぐ追い返す癖に! 」
「それはアンタの従者が面倒臭いからよ」
「こんなところでお嬢様にひもじい思いをさせるわけにはいかないじゃない」
そうして、その場がまた回り出す。博麗霊夢には、確実に辺りの空気を変え、世界を支配する能力がある。主人公が主人公たる所以だろう。俺の取ってつけたような補正では足元にも及ばない、十年以上主役を張り続ける世界一位は、この少しばかりズレた幻想郷においても頂点に位置するらしい。
霧雨魔理沙の方をちらっと見てみたが、どうやら元の傲岸な彼女の様態を取り戻しつつあるように見えた。先程の矮小に見えた彼女は、目の錯覚のようなものだったのかもしれない。
「で、森だっけ」
「小里です」
「あー、そうそう、小野里くんね。夕飯はそこのメイドにでも作ってもらいなさい、私は結界をここで編んでるから」
漢字にしなきゃわからないような勘違いを披露する博麗霊夢の夕飯という言葉に気付いて見渡せば、もう日は西に沈みかけ、世界はオレンジ色に染められていた。俺たちの影が、長く長く伸びて神社にかかる。それもそうか、俺がここに飛ばされたとき、俺は学校からの帰り道だったのだから、帰宅部とはいえ午後三時は回っていたはずなのだ。これだけ幻想郷中を行脚すれば、時間が経つのも当然だった。怒濤に押し寄せる急展開のせいで腹が減ったのも忘れていて、そう言われると急にご飯が食べたくなってきた。プラシーボとか思い込みとかは全くもって馬鹿にできない。
「別にいいですけど、それなら館にいらっしゃいます? どちらにしても一度食材を取りに帰らなくてはなりませんし、皆さんで立食会でも致しましょうか」
十六夜咲夜がレミリア・スカーレットを撫で回しながら応えた。なにそれ羨ましい。なんか撫でられてる側も満更じゃない顔してるし。むにむに伸びてるし。
「でもそれじゃあ霊夢を放ったらかしにすることになるじゃない」
そう唱えたのはアリス・マーガトロイド。ええ人や。人じゃないけど。
「大丈夫ですよ、普段パーティーするときは貴女を放ったらかしにしてますし」
「全然大丈夫じゃないわ!」
ぼっちアリスだ。変態アリスとともに最近見なくなったアリスの筆頭である。アリス総受けが世界平和の流れに乗って、不憫な役回りは最近ではあまりされなくなったらしい。今では貫禄の東方のかわいい担当である。
「あーっはっはっは! ざまあねえわね!」
「パチュリー様も呼んでも出てこないので最近は専ら放ったらかしにしておりますが」
「ガッデム!」
館に引きこもってるんじゃなくて図書館に引きこもっているのか。この性格の主と二十四時間三百六十五日軟禁されているというのは辛い生活だろうと思う。小悪魔の受難に少しばかり思いを馳せた。
「でもまあ、確かに、霊夢さんを放置してというのは心が痛みますね」
「私は!?」
「私は!?」
魔女二人の心の底からの突っ込みに、霧雨魔理沙は笑い転げている。魔女二人はそれを見て……いやなんでそんな恍惚の表情なの。体を張った芸が受けて嬉しいの。ガッツポーズとかできるタイミングじゃないから。
「ではアリスさん、手伝ってください。どうしますか、お嬢様? ここで食べて帰ります?」
十六夜咲夜が腕をまくりながらレミリア・スカーレットを日の当たらない神社の屋内にエスコートする。
「咲夜がここにいる限りは帰れないわね、パチェは?」
「食べてくわよ! 乙女を一人で帰す気!?」
「醜女?」
「はっ倒すぞてめえ!」
「私からすればお嬢様以外は全員醜いものですよ」
「何がアンタをそこまで盲目にするのよ!」
そんな感じで。ドタバタと、夕餉の準備は進み始めたらしい。厨房に、おそらく幻想郷における料理スキルナンバーワンとナンバーツーが消えてゆく。食材を用意した風がないのは、おそらく彼女が時を止めて紅魔館とここを往復しただけのことだろう。霧雨魔理沙やレミリア・スカーレットやパチュリー・ノーレッジとなんだかんだととりとめの無い話を続けていると、豪勢な皿がいくつも運ばれてきた。卓袱台と言った方が正鵠でありそうなテーブルに各々が座り込み、博麗霊夢も一旦ご飯を食べるためにその手を止めて、空いていたレミリア・スカーレットと霧雨魔理沙の隙間に座った。
「アリスさん、箸使うの上手いんですね」
「人形劇だと思えば楽勝よ。それに比べて……」
アリス・マーガトロイドは、そう言いながら豆を掴み、得意気な顔でパチュリー・ノーレッジの方を見た。スプーンで米を掬うって絵面はなかなか面白いものがある。
「何よ! 紅魔館は洋食なのよ!」
「私とお嬢様は普通に扱えますけど」
「あんたらは日本人と親日家でしょうが!」
幻想郷は驚くほどに平和だった。こうして、かつて大きな異変を起こした者と、それを力技で止めた者と、何の関連性もない余所者が、共に食卓を囲み、談笑している。信じ難いことだと思う。現代に例えるなら、警部と囚人と知らないおじさんが一緒にカツ丼を食べるようなもので、そんなことは有り得ない。
幻想郷は当然のように全てを受け入れている。
少しだけ、残っていたいと思った。
「……魔理沙さん」
夜だ。結界に向かう博麗霊夢を邪魔してはならないと、少し離れた縁側に、俺と霧雨魔理沙は並んで座っていた。
夕食が終わると、瞬く間に、みんな思い思いに散っていった。それぞれがそれぞれの家を持ち、用事をもっているのだろう。あるいは、ここでは日が沈めばすぐに眠るものなのかもしれない。こと吸血鬼に限っては、今から眠る時間なのかもしれないが。そうして、残ったのは、俺と、博麗霊夢と、霧雨魔理沙。
「一つ、気になることを聞いてもいいですか?」
どうして霧雨魔理沙がここに残っているかはわからなかったが、おおよそ、博麗霊夢が心配なのだろうと思う。
「ああ、いいぜ」
「華扇さんは何処にいるんですか?」
「っつーと、仙人ぜ。やっぱり知ってたんだぜ……」
あー、と霧雨魔理沙は唸って、首を多様な方向に傾げながら考え込む素振りを見せた。
「まあ、あいつはずっとここにいる訳じゃあないからなのぜ。たまに現れるだけだぜ。名前を知ってるくらいなんだから、住んでるところが違うことも知ってんのぜ?」
「ああ、そういえばそうでしたね、失念してました」
なにやらとてもよく迷う場所の奥に大勢の動物とともに住んでいたような気がする。
「じゃあ、こっちからも質問だぜ。お前は、私についてどこまで知ってるのぜ?」
これが、彼女の目的だったのだろう。自分から出す情報と引換に、外の世界の人物から情報を集める、と。魔女らしい知識欲だ。
「うふふ、うふ、うふふふふふふ」
「あばばばばば、お前、そんなことまで知ってんのかよ!?」
ちょっとカマをかけたのだけれど、思ったよりもしっかりと乗ってくれた。焦りすぎてだぜ口調も抜けているし、なんか顔が真っ赤だし、両手を顔に被せて何か呟きながら足をバタバタやっているし、悪いことをしたかもしれない。金髪の子かわいそう。男役やってる時よりこういう時の魔理沙ちゃんの方が可愛いね。ジゴロではなく、最近のキャラ付けの魔理沙ちゃんだ。
「……オウケイオウケイ、かなり前のことも外の世界に知れているわけだなのぜ」
冷や汗だらっだら出てますけど。なんかだぜ口調を思い出したのはいいけど接続部がおかしいですけど。
「……体調が優れないなら帰った方が」
「誰のせいだと思ってんのぜ!?」
大声で突っ込みこそ入れたものの、やはり漆黒の歴史を抉られるのは相当に心的外傷を受けるものらしく、俺とて引き出しの底から設定ノートが掘り出されれば外を出歩けなくなるしお婿に行けなくなるだろう。霧雨魔理沙は覚束無い足取りで立ち上がり帰路に着こうとした。少々悪いことをした。そんな歩き方で石段を下りられるかどうかは怪しいものだと思うのだけれど、俺が今更何か言っても仕方があるまい。そう思って、俺は別れの言葉だけを掛けて神社に入り寝転がった。
朝が来た。まだ明かりは薄く、太陽は東の空に出ているのだろうが、博麗神社の裏に回っても、その姿は掴めない程の早朝だった。
一度眠って起きたら普通に俺の部屋にいるかもしれない、ただの質のいいのか悪いのか判断しにくい夢なのかもしれない、そんなことを夜中には思っていたのだけれど、しかし俺のその想像は間違っていたようで、俺は古臭い和室の布団の中で目を覚ましてしまった。これは紛れもなく現実、か。
欠伸をして体を伸ばすと、日頃の運動不足の賜物か、体の繋ぎ目という繋ぎ目からおおよそ人間の体から出たとは思えない音が鳴り響く。制服は一応脱いだものの、カッターシャツで眠ってしまったのは、流石に不躾だったかもしれない。よれたシャツで人前に出るのは少なくとも褒められたことではなかろう。
一通り関節を回し終えて神社の裏から表側へと廻ってくると、一人の女性が凛と立っていた。
「おはよう」
その女性とは、アリス・マーガトロイドだった。右手の肘に何やらバスケットをかけている。
「おはようございます……どうしたんですか、こんなに早くから」
「朝食を渡しに。霊夢、今夜はずっと結界とにらめっこしてたらしいし 」
そう言って、魔女は優しく笑った。魔女といわれてイメージするような黒く妖しい要素は微塵も感じられず、そこにいるのはただ気配りのできる優しい女の子だった。
「しかも、このタイミングで魔理沙が来たら私の株は急上昇するだろうし、そうでなくても魔理沙は霊夢とよくつるんでるから霊夢に気に入られて寝取れば傷心する魔理沙を手ごめにすることだって夢じゃないでしょ」
前言、オール撤回。
「二割くらいは冗談よ」
「八割本音ならそれは本音ですよ」
アリス・マーガトロイドは、くすくすと笑いながら縁側に座って、布団の上にあられもない姿で寝転がっている博麗霊夢に、優しい視線を向けた。さっきの言葉のせいでその瞳をそのまま素直に評価はできないけれど。
「あやややー! ややーやーややー! 毎度おなじみ射命丸でーす! おーっと、アリスさんではありませんか! その手に提げているのはなんです? 推測によるとこれは朝餉ですね!? むむむ、となると魔理沙さんからついに霊夢さんに乗り換えたということですかね!? こーれは大スクープです!」
「あー? 私が魔理沙以外に乗り換えるなんて天地がひっくり返っても有り得ないわよ」
騒がしい鴉の来襲に、気に食わなかったらしいアリス・マーガトロイドは彼女を睨み付けた。舌打ちを一つ零して、拾い上げた石を思い切り放り投げる。
「おお、こわいこわい」
しかしそこは幻想郷最速の称号を欲しいままにする射命丸文、軽やかな動きで、残像だと言わんばかりの回避をこなした。
「ぷぎゃっ!?」
当然のようにその後ろへと石は飛んでいく。後ろから幼子のような声が聞こえた。おいおい一般参拝客に流れ弾ならぬ流れ石が当たったんじゃないのか?
「なんで石が飛んでくるんだよー! あの三人組の仕業かー!?」
「ちょっとチルノちゃん! あの妖精三人組の話はしちゃいけないっていわれてるでしょ!」
……あー。なるほど。これは、当たっても問題ありませんわ。
「昨日は会えなかったけれど外来人を一目見たいという方々は結構いましてね。私は身を削って飛び回り彼女らを集めてきたのです。あややや、褒めてもいいのですよ」
「はいはい美味しそう美味しそう」
「褒めれてねーですよそれ!」
アリス・マーガトロイドにとって鴉天狗は唐揚げの素材でしかないらしい。魔女は優しそうな顔をしていても、結局は残酷で不気味な生き物であるということがよくわかる。
「一番乗りは僕だったね!」
「そーなのかー」
「石にさえ当たってなければあたいがさいきょーだったぞ!」
「みんな体力あるなあ……」
最初に上がってきたのは馬鹿四人組……通称バカルテット、かと、思ったのだけれど、構成員が俺の知っているそれとは微妙に違う。大妖精がいる代わりにミスティア・ローレライがいない。もう唐揚げになってしまったのだろうか。当然のようにリグル・ナイトバグの一人称は僕で、当然のようにルーミアはそーなのかーと平坦に呟いていた。
「あー! 知らない人間だー! なんでこんなところに人間がいるんだー!?」
「チルノちゃん! 今日はこの人に会いに来たんでしょ!」
そしてチルノは致命的に馬鹿らしかった。
「おはよう」
俺は努めて平静に挨拶をする。外の世界では、子供には挨拶をしただけで不審者として学校に通報され、親の携帯メールに不審者情報が流れる仕組みになってしまっているから、おちおち子供達に目を配ることすらできなくなってしまっている。そもそも俺のような人間関係を殆ど断絶してしまうような児童ならばそうであっても然程困らないし、そういう風潮であった方が面倒な人間関係が少なくなってありがたいことですらあるのだけれど、一般論として、そういうドライな社会はあまり良くないとされているから、明治十七年から殆ど文明が進化していない幻想郷の、子供に声をかけても防犯ブザーを鳴らされることがない社会は古き良きものといった感じだ。
「おはようございます」
と、まず最も大人っぽくしっかり者風の大妖精がぺこりと頭を下げた。よくできた子だ。
「おはようございますっ」
続いてリグル・ナイトバグ。
「なのかー」
それ挨拶なんですかね。まあお辞儀してくれてはいるのだけれど。
「知らない人と話しちゃいけないんだぞ!」
躾はされているらしかった。礼儀は無いけれど。
「そこの人間も気をつけるんだぞ!」
しかしうまく理解できていないらしかった。
「もーぐもーぐ!」
「げげっ! みすちーのカタキ!」
「まだ生きてるからー! たすけてー!」
その後ろから幽霊が上ってくる。口には鳥肉……もとい、ミスティア・ローレライ。なるほど、さっきのメンバーにミスティア・ローレライがいなかったのは捕食されていたからだったのか。
「ゆーゆーこーさーまー! まってくださ」
ずべっ。
次は、そんな効果音を鳴らしながら階段の最上部に意図せぬヘッドスライディングをかました魂魄妖夢。涙目で起き上がり西行寺幽々子に耳打ちをする。
「みすちーは昼飯じゃないんですよ!」
勇敢にも立ち向かうリグル・ナイトバグ。
「ゴキブリは流石に食べたくないわねー」
「ゴキブリじゃねーよ!」
しかし哀れにも敗れて泣き出した。そもそも、口の中に物を入れたまま流暢に喋っている方法がわからないし女児一人分が易々と入る口というのも全く意味がわからないのだけれど、この目の前には確かに夜雀を頬張る幽霊がいるわけで、これまでの常識なんか通用する相手じゃあないのはもう痛いほどわかっているから、何も言わずに次に上ってくる者へと意識を傾けた。
「ホント……生きててすいません……」
「ひゃあああっはあああ! 外来人だぁぁぁ!」
「あ、おはようございます。申し訳ありません姉がなんかおかしくて」
騒音三姉妹が楽器を漂わせながら現れる。末っ子のみまともな顔をしているが、金髪の長女は死んだ魚のような瞳をしているし、白髪の次女はなんか飛び跳ねているし、完全に目の焦点が合っていない。恐らく世界が丸ごと幸福の塊のように見えているのだろうと思う。ダメ、ゼッタイ。
「じゃあメルラン、一曲弾き語りしまーす!」
「やめてお姉ちゃん! お姉ちゃんの脱法ソロパートはこの前厳しく制限されたでしょ!」
やっぱりか、そりゃそうだというか、なんというか。少し可哀想でもあるが、仕方ないことだ。俺はあんな風にはなりたくない。ぜひ姉と二人の時に披露してやってほしい。
「前が偉く騒がしいな……そんなに外来人が大人気なのか」
「申し訳ありませんが俺は殆ど発言してませんよ、みんなキャラが立ち過ぎて圧倒されてます」
やっとこさまともな方が上がってきた。もんぺの妖怪もとい藤原妹紅。煙草をふかしながらくっくっく、と静かに笑った。ハードボイルドだ。
「もっこたーん! どう? 外来人ってハンサムな感じ?」
「……ああ、そうでもねえぞ」
おい。
「まあ私はもこたんだけいれば男なんて興味ないけどねー!」
「お、おう」
着物を着た少女、蓬莱山輝夜が藤原妹紅に飛びつく。めっちゃ引かれてますけど。もこたんめっちゃ居心地悪そうですけど。
「二人は相変わらず仲がいいわね、ウドンゲ」
「殺しあっていた頃が嘘のようですね」
「仲良きことはいいことウサ」
付いてくる医者と兎と兎。鈴仙・優曇華院・イナバはとぼとぼと、因幡てゐは頭の後ろで手を組みながら、それぞれにそれぞれっぽい雰囲気を出しながら。
「もこっ……お前いつから輝夜と仲良くしてたんだ……!?」
後ろから藤原妹紅を眺めながら涎を垂らしていたものの、蓬莱山輝夜の行動に驚愕して教師が足を止める。
「え、知らなかったの慧音さんだけですよ?」
「馬鹿、イナバ、余計なこと……」
顔だけ振り返って上白沢慧音に憐憫の視線を向ける鈴仙・優曇華院・イナバ。その言葉にわなわなと上白沢慧音が震えだす。周囲の空気が若干歪んで見えるほどのエネルギーを装填し、大きく嘶いたかと思うと、その刹那、上白沢慧音の位置座標が豹変する。それは昨日の博麗霊夢の小銭への反応速度にも等しく、とてもじゃあないが人間の認識能力の限界値を大きく超えているから俺の目には消えたようにすらみえたのだけれど、その考えはある声によって消去される。
「あひぃんっ!?」
鈴仙・優曇華院・イナバがまたしても嬌声をあげたのである。どうやら上白沢慧音の頭突きを喰らったらしい。手を背後に回して患部を押さえながら、その場にへたりこむ。冤罪どころかえげつない巻き添えである。
「気が済んだ!」
さよか。
「あら、他人を痛めつけるのは私の専売特許よ?」
日傘が目印のアルティメットサディスティッククリーチャーが、この惨状を見るや否や不敵に笑う。
「じゃあ私を痛めつけていいわよ! ってか痛めつけて! 是非に!」
その後ろから、青い髪の天人が両足を縛られたままうさぎ跳びで風見幽香の前に立ちはだかった。
容赦ない音が響いた。
しかし天人、防御力は尋常ではない。恍惚とした表情を浮かべてはいるものの、その場を微動だにしない。
もう一発。
今度のは先程のよりも更に腰が入っていた。俺が喰らったら哀れ雲散霧消していたことだろう、そんな打撃を二発喰らってそれでもなおまだまだ足りないとでもいわんばかりの態度で薄ら笑いを浮かべている姿は、三姉妹の次女にも負けないくらいの狂気を帯びているように見えた。
「ねえ咲夜、貴女は私にあんな風に殴られたら喜ぶの?」
「勿論ですわ、お嬢様」
「じゃあ中国、お前は?」
「すや……すや……」
「何だコイツ眠りながら階段上ってる! こわいよおしゃくやあー!」
紅魔組も続いて姿を現す。フランドール・スカーレットの姿が見当たらなかったが、しかしあんな危ない妹を人の集まる場所に連れてこれないというのも仕方のないことだったのかもしれない。
昨日使ってしまった胸部への詰め物、今日は昨日の西瓜よりは小振りだったが、それでも相当な重さと体積を偽っていた。臨月の妊婦さんみたいな歩き方になってますよ。無理しない方がいいと思いますけど。
「何をしているのですか風見幽香! 暴力行為は即刻止めなさい!」
暫くすると、殴打の音に反応したらしく、メガホンを片手に四季映姫が石段を駆け上ってきた。今では幾分か茨木華扇や聖白蓮に取られてしまった説教キャラも、ここでは現役である。しかし彼女の後ろを、不審な人物が追いかけて上ってきている。
「何を言っているんだ、山田さん……本人が喜んでいるのだから良い事じゃないか」
褌一丁の男。ここに来て目に優しくない光景がそこに広がってきてしまった。はっはっは、とナイスミドルっぽい笑い声を響かせながら悠々と闊歩する姿には最早感心すらしてしまいそうになる。人として色々捨てすぎではなかろうか。
「貴方の格好は本人しか喜んでないじゃないですか!」
流石は閻魔、的確な突っ込みだ。
「何やってんだぜ香霖ーッ!」
堂々と胸を張る森近霖之助の後頭部に、霧雨魔理沙の飛び蹴りが炸裂する。さっきから暴力行為ばかり易々と行われているのだけれど、こんなに幻想郷ってギャグマンガ補正を多用する世界だったのか。目の前でそれが行われると、リアルな効果音のせいで些か恐ろしさを覚えてしまう。
「あっ、まぁぁりさぁぁ!!」
「まりさぁぁぁぁっ!!」
そして、空中戦。誰と誰が戦っているのかなど説明する必要もない。スペルカードが宣言され、周りの者は皆、開いた口がふさがらないといった感じで空を見上げていた。七色と七曜の弾幕勝負は目を奪われてしまうほどに美しくて、朝日の下で、何かショーでも見ているかのような気分になってしまう。
しかしそう上手く纏められるような状況ではなく、四方八方に弾幕は飛び散っていく。辺り一帯から爆発音や、怒声や、悲鳴が次々と上がって。俺が目にしていないところでメンバーは更に増えていたらしく、ひゅいーと鳴きながら走り回る河童とか、無闇に回る厄神とか、尊大に座り込む御柱とか、個性豊かな数十名の自由行動は一切の統制も取れていなかった。
ああ、こういうの、なんていうか、俺は知っている。現代においても良く使われる表現。俺の脳裏で、八雲紫がニヤニヤと笑った。
「カオスだ……」
呟いて、急速に接近してくる大玉を避けた。
その弾は比那名居天子に衝突していた。
「うるっ……さーい!!」
数分ほど経った頃だろうか、障子を開けて博麗霊夢が怒りの叫びを連れて飛び出してきた。その気迫に、周囲は完全に静まり返る。
「あんたらまた私の神社の前で騒ぎやがって……全員退治してやるわよ!」
アリス・マーガトロイドとパチュリー・ノーレッジがすごすごと地面に降り立つ。それでもなお霧雨魔理沙のすぐ斜め後方に陣取るあたり、彼女らの情熱は計り知れない。
「はあ……外来人、帰る準備はできてるわよ」
目の下に隈を作った博麗霊夢が、俺を手招きする。俺は少しだけ周りを見回して、誰にともなく頷き、真っ直ぐ神社の中へと歩みを進めた。
さて、こことももうお別れか。たった一泊二日の旅だったけれど、どれだけ多くのイベントが起こったことか。一年分くらいのをハチャメチャを一挙に味わったような気がする。
縁側に経って、後ろを向いた。
人間が、人外が、そこにはありとあらゆる幻想が犇めき合っていた。
「私が念じれば、貴方はここから居なくなって、外の世界に戻る」
背後から博麗霊夢の疲れを感じさせる声が聞こえた。俺は黙って頷く。真っ直ぐ前を見据えて、前方の人間を、河童を、吸血鬼を、神を、半獣を、幽霊を、妖精を、天狗を、人形を、魔女を、半霊を、妖怪を、蓬莱人を、騒霊を、夜雀を、虫を、そして、夢を、現を、一つずつ噛み締める。
宵闇妖怪に喰われそうになった。紅魔館を歩き回った。胡散臭い医者にかかった。勿体ぶった隙間に絡まれた。博麗神社にお世話になった。大好きだった幻想郷を、しかとこの目に焼き付けた。
決心する。
「では皆さん、さようなら。ありがとうございました」
俺は息を吸って、別れの言葉を紡いだ。
それを皮切りに、何人もが思い思いにコメントを残す。
何人もが喋る中、一人の声が、思い切り耳を突いた。
「じゃあな、外来人。なかなか面白かったぜ」
俺もですよ、魔理沙さん。大好きだった貴方達に逢えて、俺は、本当に幸せでした。
目を瞑って、最後には、何も聴こえなかった。
俺魔理沙を見なくなった。妾レミリアを見なくなった。貧乏霊夢を見なくなった。イケメン妹紅を見なくなった。PAD長を見なくなった。山田を見なくなった。褌こーりんを見なくなった。きもけーねを見なくなった。フランちゃんウフフを見なくなった。鎌田さんを見なくなった。ヒーリングリリーホワイトを見なくなった。スッパテンコーを見なくなった。カリスマガードを見なくなった。語尾ウサてゐを見なくなった。ドリキャスマークを見なくなった。ジゴロ魔理沙を見なくなった。座薬鈴仙を見なくなった。幽々子に捕食されるみすちーを見なくなった。めるぽを見なくなった。走るチルノを見なくなった。オリキャラ秋姉妹を見なくなった。中国を見なくなった。わはーを見なくなった。れみ☆りあ☆うー☆を見なくなった。マジカルさくやちゃんスターを見なくなった。ふとましいレティを見なくなった。ドM天子を見なくなった。みさえを見なくなった。ニート姫を見なくなった。BBA呼ばわりを見なくなった。TNTNを見なくなった。わはーを見なくなった。
けれど、あらゆる幻想は、そこにあった。俺たちの幻想郷は無くなっていなかった。幻想郷は幻想郷にて確かに存在している、それがわかると、少し安心した気分になった。
「はぁー……慣れないことしたから疲れたわ」
博麗霊夢が、これまでに幾度となく吐いていたであろう溜息の中で恐らく最も大きな溜息を吐きながらお茶を注いで、縁側に座り込む。
「おーい霊夢ー、次の外来人だぞー」
階段を駆け上がり、遠くから魔女が巫女を呼んだ。
「はー、またなの? 忙しないわねえ……」
誰かが数えるだろうか、少なくとも、今日に入ってからだけでも彼女の嘆息の数を数えるのに両手の指では足りなかった。またあの面倒な私にならなければいけないのか……と、霊夢は持ち前のめんどくさい精神を持ってして、ごろりと後ろに倒れた。
二人目のピエロが博麗神社に現れるまで、数十分。
彼女たちは今日も演じるのだろう。
幻想郷を幻想たらしめるために。
気が付いた時には、俺は家から程近い駅の前で立ち尽くしていた。相変わらず身体の感覚には全く異常がない。頬を抓るまでもなく完膚無きまでに紛れもなく、俺の周りに繰り広げられているのは、少年の愛した日本の殺風景だった。一体どれくらいの時間が経っていたのだろうか……向こうで寝泊まりしていたのだからこっちでも同程度の時間が経過しているのだろうか。そうなってくると俺を捜索するために国家権力が動いているかもしれない。面倒なことになったな……だがしかし。そんなもの、幻想郷に行けたことに比べたら些細なことだ。だって幻想入りだぜ? 全国各地の東方好きの誰もが一度は抱くそんな妄想を、俺は、たった今まで体験していたのだ。警察と親にこっぴどく叱られたって、数えきれないくらいのお釣りが帰ってこようというものだ。
数少ない友人たちに一体どんな風に自慢してやろうか、居場所たるSNSでどんな知識を披露してやろうか……いや、それよりも先に、久々に手描き動画でも漁ることにしようか。
暮れようとしている無機質な喧騒を背負いながら、果たして昨日までの俺ならば絶対に浮かべなかったような、希望を思い切り表した表情をしてみる。
家に向かって、張り切って歩き出した。
俺達の幻想郷は、間違いなく其処に在る。
例えば、
>博麗霊夢は最初はどうしてウチでやるんだと溜息混じりであったのだが、もはや何かをするための集合場所は博麗神社というのが共通認識になってしまっていたものだから諦めてしまっているらしく、結局霧雨魔理沙たちを追い出すことはせず、けどお茶は出さないから、といって今では部屋の片隅で不貞寝している。
「けどお茶は出さないから、といって」の部分、「けど」のせいで文の修飾関係がわかり辛くなっています。
話の本筋を考えると、ここまで長くなる作品ではないように思えます。シナリオにもっと緩急をつけるといいかもしれません。
もこたんの地の性格知りたかった
でも単純にわかりにくい文章でした。もっとノリが軽いテンポのいい文章がこういう話には必要かもですね。なんだか内容とかみ合ってない印象です。
でも他の創作もリアルも大概は演じてる世界だからこそこの話には妙な親近感というかリアルテイーがある気がする
創作なんて作者や消費者の都合のいいようにキャラが演じるという前提で成り立つ気がするしね
だからどんなリアリテイのある名作でもなんつーか白々しさや押し付けがましさを感じるし創作もリアルの一部と感じて真剣に見ることが出来るんだろう
面白かったです