月の光は一度死んだ光だ、ということをなにかの本で読んだことがある。
太陽の光が一度当たって反射した光だからというのがその理屈らしいけれど、それは屁理屈じゃないだろうか。そもそも、ものが見える、ということは物に光が反射しているということだから、それならこの世界のどんなものも死んでいるということになってしまう。
でも、そんな屁理屈もそれはそれで面白いという気もする。ありふれた普通のことを斜に構えて考えてみる、ということも新鮮なのだ。やたらに長い時間を生きていると、なんでもいいから刺激がないと毎日が退屈で仕方がなくなってしまう。
けれど、それだってときと場合による。考えすぎがよくないなんてことはよくあることだ。私はまだしも、神経質な人間にとってはなおさらだ。
「最近よく眠れているのかい? 慧音」
鍋をつつく箸を止めて彼女に訊いた。
「あ、ああ……。大丈夫だよ。そんなこと急に訊くなんていったいどうしたんだ?」
言葉で返さず、私はただ目の下を指差した。
慧音の目のまわりには青黒いひどいクマが広がっていた。いつもは丁寧にとかしてある髪もところどころはねかえっているし、顔色も悪く少し青ざめて見える。
少し間をおいてようやく納得したように、ああと慧音は声を漏らした。
「そんなにひどい見た目だったかなあ?」
「いやあ、ひどいねえ。睡眠不足は美容の大敵だよ」
なにかいい返そうと口をもごもごさせる彼女を私はさえぎっていった。
「慧音はもう少し見た目に気を使った方がいいよ」
「どうしてだよ」
不満げに口を尖らせて慧音はいった。
「勘違いしないで欲しいんだけど、別に色気づくとかそういうのじゃなくってさ。なんだかんだいっても人は結構見た目でものを判断するんだよ。もちろん子どもだってさ。あんたは先生なんだ。人にものを教える立場の人間なんだよ。そんな先生が不健康そうな顔してたら、子どもだってなんとなく気持ちが落ち着かなくなるんだよ」
人にいわれずにそういうことに気が回るほど要領が良ければそもそも不眠になるようなこともないんだろうけれど、それをいうのは止しておいた。余計に話がこじれそうだ。
「うーん、そうか。でも、そういうものかなあ」
納得したのだかよくわからないような気の抜けた様子で慧音がいった。
「そういうもんさ」
薪が生乾きだったのか、囲炉裏から上がる煙がけむたくて目にしみる。人間離れした体になってから数百年も経ってるっていうのに、こういうところだけは普通の人間だったころと変わらない。
部屋の中は薄く靄がかかっているようで、睡眠不足もあるからか慧音も目をしょぼつかせていた。
「もしかしてまだあのこと気にしてる? あのエロ親父のこと」
慧音は大人の女性というにはまだまだだけれど、発育は割といいほうだ。服装や化粧に気を使っているわけでもないから色気なんて全然だけれど、逆にそれが良いなんていう好きものもいる。寺子屋の生徒の父兄にもそんな不届き者もいてちょっかいをかけてくることがあった。
「やめてくれよ。もう思い出したくないんだから……」
「そりゃあそうだよねぇ。あのときはずいぶん泣いてたし……。下手したらそのまま泣き寝入りで、外も出歩けなくなってたんじゃない?
でも、お尻を触られたぐらいでさあ……」
つまらない悪戯に過敏に反応してしまうなんて真面目過ぎるのも困りものだ。そんなこといちいち気にしてたらきりがないだろうに。
だけれど、好きでもない男に体を触られたときのあの芋虫が体を這うような、ねっとりとした気味の悪さが嫌なのは私もわかる。今では感性が乾いてしまってあまり感じなくなってはいるが、それが良いことだなんて到底思えない。もちろん彼女にそうなって欲しいとも思わない。
「止めてくれよ! 本当に怖かったんだよ……。何されるかわからなかったし……。
でも、だからって顔を殴って歯をへし折るなんて妹紅はやりすぎだよ」
なにも反撃できないのではいつまた同じことをされるかわかったものじゃない。同じことをされるぐらいで済めばまだいいほうで、大概はエスカレートしてくるものだ。だから、二度とそんなことができないように私が鉄槌を下してやった。
それにあれは多少年を喰ってはいたが結構な二枚目でたらしの顔だった。普段なら鼻血ぐらいで勘弁してやったところだが、他にもいたであろう泣かされた子の分も足して歯が折れるぐらいにやってしまった。
「悪かったよ。けれど、奥さんにいいふらさなかっただけ親切だと思うんだけどなあ。
歯なら折れたって、転んだだけだって言い訳してごまかせるだけ良心的じゃない? 昔はもっとひどいことやったもんだって。指の爪をはいだりとかさ」
「ああ! もういいからやめて!」
両手を上げて大げさに私を止めようとするのに苦笑いした。からかわれることに対してどうにも免疫がない。けれども、騒ぐことができるだけ少しましになってきたのかもしれない。
「ちょっとは元気が出てきた?」
「うん、まあ。なんかくやしいけど」
それでいいさと私は笑った。
「ところで本当のところはどうしたのさ? 私でよければ聞くよ?」
「笑わない?」
上目遣いで慧音が訊いた。
「笑わないよ」
じゃあ、といちいち前置きして慧音が続ける。
「……不安なんだ。とくに何かってわけじゃないんだけど」
窺うように彼女は私の顔を一瞬覗き込んだ。
「今まで自分がやってきたことが全部間違ってたんじゃないかって、そんな気持ちになることがあるんだ。
はっきりとした失敗だけじゃない、一見上手くいってたこともあとでわかると実は下手を打っていたんじゃないかって、そんなことばかり考えてしまうんだよ。
仕事なんて取り返しのつかないことばかりなんだ。歴史の編纂だって、間違った歴史が広まってしまえば、あとで直そうとしたってもう取り返しがつかないじゃないか。いくら特殊な力があっても完全に人の記憶を変えてしまうことなんてできないよ。
ましてや先生の仕事なんて……。私の教え方が悪いせいで子どもが悪いことをしたりするかもしれない。そうしたら、親御さんやそれで迷惑を被った人はもちろん、なによりその子本人に申し訳がないよ。
初めからうまく教えられる人なんていない、失敗しても仕方がないなんていうけれど、そんな簡単なことじゃない。教育は生ものなんだ。
私はきっとこれからも何人もたくさんの生徒を教えるだろうけど、子どもの人生は一回こっきりだろ。いくらあとで上手く教えられたって、それで昔教えた子が救われるなんてことないじゃないか」
闇が忍び寄るように取り囲み、火を囲む私たちの周りだけがほんのりと明るい。ほの暗い中で慧音の顔に一際大きな影が差したように見えた。
「別にそれで教師や歴史の取りまとめが嫌になったとかそういう訳じゃないんだ。でも、不安やもやもやした気持ち、恐い気持ちがあるのも事実なんだ。それで、不安でいると眠るのもなんとなく嫌になるんだよ。
悪い恐い夢を見たりはしないんだ。でも、次の朝が来るのが怖い。次の日になれば嫌でもつらくて厳しいかもしれないなにかに向き合わなければならなくなる。
眠って起きればすぐ次の日の朝だ。不安で先が見えないことがあると、時間が進んで欲しくないんだよ。起きていれば少しでも時間を長く感じることができるじゃないか。ただ嫌なことを先送りにしたくて少しでもぐずぐずさせて欲しいんだ」
笑えるよね、と自嘲気味に彼女はいった。
「笑わないよ」
「どうして?」
「笑ってそれで済むならいくらでも笑うよ。でも、そんなことしたってなんにもならないよね。
がんばればなんとかなるなんてことはいわないよ。ぐちゃぐちゃな気分は事実だし、それは簡単に切りかえたりできないのもわかる」
誰でもそういうことはあるなんて月並みなこともいわない。
どれくらい彼女が悩んでいるかなんて私には理解できっこない。でも、悩んでいるということは、事実として理解できた。
何百年生きてきたって人の気持ちを全部理解するなんて無理なことだ。でも、わかったふりをしてごまかすというつもりもなかいしそんなことできない。まあ、友だちの悩みを足蹴にするほど薄情じゃないつもりでもある。
「寝酒はしてみた?」
「今、お酒はやめてるんだよ」
そういえば食事のときも一口も飲んでいなかった。もともとつぶれるほど飲んだりはしないはずだが、一滴も飲まないとなると珍しい。
「何となく生徒たちに示しが付かない気がするんだ。
実は私の生徒でも年長の子はもうお酒を飲んでいる子がいるらしい。さすがに早すぎると思ってね、飲まないよう注意もしてるから決まりが悪いんだよ。それに、親が酒乱で、暴力を振るわれる子もいるんだ。そういう子もいることを考えるとなんだか申し訳が立たない気がしてね……」
正直なところ考えすぎだと思う。それだけのことに気が回せるのならもっと別のところに気配りをできればいいんだけれど。そうなら、こんなことで神経質に悩んだりすることもないのに……。けれど人間そんなに単純じゃないんだろう。
彼方から犬の遠吠えが一つ聞こえた。侘しげな高い音がかえす声もないまま消えていった。
私は一つ溜息をついた。
「でも、もうすぐ満月だよね。このまま、寝不足のままじゃあまずいんじゃないの?」
満月は歴史編纂のピークだ。不眠不休で仕事に臨まなければならない。
「わかっているさ。わかっているけれど、どうしようもない」
うついたまま慧音が答えた。日が落ちてすっかり暗くなった部屋の中ではどんな顔をしているのかはわからない。
囲炉裏の燃え落ちた白い灰の塊が音もなく崩れた。
「歌、歌ってあげようか?」
「うたぁ?」
素っ頓狂な声を上げる慧音に私が答える。
「そ、子守唄」
「私はそんなに子どもじゃあない」
「それはわかってるよ。でも、他になにもできないんだったら、なんでもやってみるべきじゃない? 駄目もとでも良いからさ」
うーん、とうなる彼女を気にせずに私は正座をして膝を叩いた。
「駄目ならそれでいいさ。とにかくなにかしたっていうことで少しでも気持ちが楽になるならそれでいい」
「そういうものかなぁ」
恥ずかしがってもじもじとする彼女をうながして、無理に膝の上に頭を乗せさせる。野の花のような飾り気のない香りがほんの少しした。
子守歌を歌うなんて何年振りだろう。いや、もう何十年ぶりかそれでもきかないかもしれない。昔はこうやって子供をあやすような仕事をしたこともあったけれど、百数十年前にこの地が外の世界と隔離されてからずっと竹林に篭ってばかりでそんなことともしばらく縁がなかった。
久しぶりな割にはわりときれいに通った声が出た、と思う。上手く歌うも何もないような簡単な歌だからそんな気がしてるだけかもしれないけど……。
「新しい歌だな」
一番を歌い終わったところで慧音がいった。静かにしているからもう寝たのかと思っていた。
「新しい? けっこう昔からある歌だよ」
江戸子守唄ならもう二百年近く前からあるはずなんだけれど。
「でも、妹紅にとっては新しい部類に入るんじゃないのか」
相変わらず余計なところに頭が回る。確かにその通りだけれど、こんな調子でいちいち余計なことを考えていたらきりがないのに。
「いいからさっさと寝ろよ!」
「わかってるよ……」
ちょっとふてくされて慧音はまた眼を瞑った。
さらさら、と枯れたすすきが夜風に揺れる音がする。乾いているけれど不思議と無味という気はしない、晩秋の季節の音だ。
戸の隙間から差し込む月明かりが火の消えた部屋をほのかに照らした。十三夜の月の輝きは柔らかくて強い。それでいて十五夜ほど強すぎないのが良い。
百数十年ぶりの月を思うと、思わず戸に手をかけたくなる。
けれど、今日はやめておくことにした。
冷たい夜風は体に毒なんて、天涯孤独でそれも決して体を壊すことのない私がそんなことを考えているのがなんとなくおかしかった。
「今度は好きになった男にでもしてもらいなよ」
今はそういったことに全然関心がないようだけれど、彼女にいい人ができれば今の関係もきっと崩れてしまうだろう。
それでもいいさ。
むしろそれでいい。
私は彼女の髪をそっと撫でた。
太陽の光が一度当たって反射した光だからというのがその理屈らしいけれど、それは屁理屈じゃないだろうか。そもそも、ものが見える、ということは物に光が反射しているということだから、それならこの世界のどんなものも死んでいるということになってしまう。
でも、そんな屁理屈もそれはそれで面白いという気もする。ありふれた普通のことを斜に構えて考えてみる、ということも新鮮なのだ。やたらに長い時間を生きていると、なんでもいいから刺激がないと毎日が退屈で仕方がなくなってしまう。
けれど、それだってときと場合による。考えすぎがよくないなんてことはよくあることだ。私はまだしも、神経質な人間にとってはなおさらだ。
「最近よく眠れているのかい? 慧音」
鍋をつつく箸を止めて彼女に訊いた。
「あ、ああ……。大丈夫だよ。そんなこと急に訊くなんていったいどうしたんだ?」
言葉で返さず、私はただ目の下を指差した。
慧音の目のまわりには青黒いひどいクマが広がっていた。いつもは丁寧にとかしてある髪もところどころはねかえっているし、顔色も悪く少し青ざめて見える。
少し間をおいてようやく納得したように、ああと慧音は声を漏らした。
「そんなにひどい見た目だったかなあ?」
「いやあ、ひどいねえ。睡眠不足は美容の大敵だよ」
なにかいい返そうと口をもごもごさせる彼女を私はさえぎっていった。
「慧音はもう少し見た目に気を使った方がいいよ」
「どうしてだよ」
不満げに口を尖らせて慧音はいった。
「勘違いしないで欲しいんだけど、別に色気づくとかそういうのじゃなくってさ。なんだかんだいっても人は結構見た目でものを判断するんだよ。もちろん子どもだってさ。あんたは先生なんだ。人にものを教える立場の人間なんだよ。そんな先生が不健康そうな顔してたら、子どもだってなんとなく気持ちが落ち着かなくなるんだよ」
人にいわれずにそういうことに気が回るほど要領が良ければそもそも不眠になるようなこともないんだろうけれど、それをいうのは止しておいた。余計に話がこじれそうだ。
「うーん、そうか。でも、そういうものかなあ」
納得したのだかよくわからないような気の抜けた様子で慧音がいった。
「そういうもんさ」
薪が生乾きだったのか、囲炉裏から上がる煙がけむたくて目にしみる。人間離れした体になってから数百年も経ってるっていうのに、こういうところだけは普通の人間だったころと変わらない。
部屋の中は薄く靄がかかっているようで、睡眠不足もあるからか慧音も目をしょぼつかせていた。
「もしかしてまだあのこと気にしてる? あのエロ親父のこと」
慧音は大人の女性というにはまだまだだけれど、発育は割といいほうだ。服装や化粧に気を使っているわけでもないから色気なんて全然だけれど、逆にそれが良いなんていう好きものもいる。寺子屋の生徒の父兄にもそんな不届き者もいてちょっかいをかけてくることがあった。
「やめてくれよ。もう思い出したくないんだから……」
「そりゃあそうだよねぇ。あのときはずいぶん泣いてたし……。下手したらそのまま泣き寝入りで、外も出歩けなくなってたんじゃない?
でも、お尻を触られたぐらいでさあ……」
つまらない悪戯に過敏に反応してしまうなんて真面目過ぎるのも困りものだ。そんなこといちいち気にしてたらきりがないだろうに。
だけれど、好きでもない男に体を触られたときのあの芋虫が体を這うような、ねっとりとした気味の悪さが嫌なのは私もわかる。今では感性が乾いてしまってあまり感じなくなってはいるが、それが良いことだなんて到底思えない。もちろん彼女にそうなって欲しいとも思わない。
「止めてくれよ! 本当に怖かったんだよ……。何されるかわからなかったし……。
でも、だからって顔を殴って歯をへし折るなんて妹紅はやりすぎだよ」
なにも反撃できないのではいつまた同じことをされるかわかったものじゃない。同じことをされるぐらいで済めばまだいいほうで、大概はエスカレートしてくるものだ。だから、二度とそんなことができないように私が鉄槌を下してやった。
それにあれは多少年を喰ってはいたが結構な二枚目でたらしの顔だった。普段なら鼻血ぐらいで勘弁してやったところだが、他にもいたであろう泣かされた子の分も足して歯が折れるぐらいにやってしまった。
「悪かったよ。けれど、奥さんにいいふらさなかっただけ親切だと思うんだけどなあ。
歯なら折れたって、転んだだけだって言い訳してごまかせるだけ良心的じゃない? 昔はもっとひどいことやったもんだって。指の爪をはいだりとかさ」
「ああ! もういいからやめて!」
両手を上げて大げさに私を止めようとするのに苦笑いした。からかわれることに対してどうにも免疫がない。けれども、騒ぐことができるだけ少しましになってきたのかもしれない。
「ちょっとは元気が出てきた?」
「うん、まあ。なんかくやしいけど」
それでいいさと私は笑った。
「ところで本当のところはどうしたのさ? 私でよければ聞くよ?」
「笑わない?」
上目遣いで慧音が訊いた。
「笑わないよ」
じゃあ、といちいち前置きして慧音が続ける。
「……不安なんだ。とくに何かってわけじゃないんだけど」
窺うように彼女は私の顔を一瞬覗き込んだ。
「今まで自分がやってきたことが全部間違ってたんじゃないかって、そんな気持ちになることがあるんだ。
はっきりとした失敗だけじゃない、一見上手くいってたこともあとでわかると実は下手を打っていたんじゃないかって、そんなことばかり考えてしまうんだよ。
仕事なんて取り返しのつかないことばかりなんだ。歴史の編纂だって、間違った歴史が広まってしまえば、あとで直そうとしたってもう取り返しがつかないじゃないか。いくら特殊な力があっても完全に人の記憶を変えてしまうことなんてできないよ。
ましてや先生の仕事なんて……。私の教え方が悪いせいで子どもが悪いことをしたりするかもしれない。そうしたら、親御さんやそれで迷惑を被った人はもちろん、なによりその子本人に申し訳がないよ。
初めからうまく教えられる人なんていない、失敗しても仕方がないなんていうけれど、そんな簡単なことじゃない。教育は生ものなんだ。
私はきっとこれからも何人もたくさんの生徒を教えるだろうけど、子どもの人生は一回こっきりだろ。いくらあとで上手く教えられたって、それで昔教えた子が救われるなんてことないじゃないか」
闇が忍び寄るように取り囲み、火を囲む私たちの周りだけがほんのりと明るい。ほの暗い中で慧音の顔に一際大きな影が差したように見えた。
「別にそれで教師や歴史の取りまとめが嫌になったとかそういう訳じゃないんだ。でも、不安やもやもやした気持ち、恐い気持ちがあるのも事実なんだ。それで、不安でいると眠るのもなんとなく嫌になるんだよ。
悪い恐い夢を見たりはしないんだ。でも、次の朝が来るのが怖い。次の日になれば嫌でもつらくて厳しいかもしれないなにかに向き合わなければならなくなる。
眠って起きればすぐ次の日の朝だ。不安で先が見えないことがあると、時間が進んで欲しくないんだよ。起きていれば少しでも時間を長く感じることができるじゃないか。ただ嫌なことを先送りにしたくて少しでもぐずぐずさせて欲しいんだ」
笑えるよね、と自嘲気味に彼女はいった。
「笑わないよ」
「どうして?」
「笑ってそれで済むならいくらでも笑うよ。でも、そんなことしたってなんにもならないよね。
がんばればなんとかなるなんてことはいわないよ。ぐちゃぐちゃな気分は事実だし、それは簡単に切りかえたりできないのもわかる」
誰でもそういうことはあるなんて月並みなこともいわない。
どれくらい彼女が悩んでいるかなんて私には理解できっこない。でも、悩んでいるということは、事実として理解できた。
何百年生きてきたって人の気持ちを全部理解するなんて無理なことだ。でも、わかったふりをしてごまかすというつもりもなかいしそんなことできない。まあ、友だちの悩みを足蹴にするほど薄情じゃないつもりでもある。
「寝酒はしてみた?」
「今、お酒はやめてるんだよ」
そういえば食事のときも一口も飲んでいなかった。もともとつぶれるほど飲んだりはしないはずだが、一滴も飲まないとなると珍しい。
「何となく生徒たちに示しが付かない気がするんだ。
実は私の生徒でも年長の子はもうお酒を飲んでいる子がいるらしい。さすがに早すぎると思ってね、飲まないよう注意もしてるから決まりが悪いんだよ。それに、親が酒乱で、暴力を振るわれる子もいるんだ。そういう子もいることを考えるとなんだか申し訳が立たない気がしてね……」
正直なところ考えすぎだと思う。それだけのことに気が回せるのならもっと別のところに気配りをできればいいんだけれど。そうなら、こんなことで神経質に悩んだりすることもないのに……。けれど人間そんなに単純じゃないんだろう。
彼方から犬の遠吠えが一つ聞こえた。侘しげな高い音がかえす声もないまま消えていった。
私は一つ溜息をついた。
「でも、もうすぐ満月だよね。このまま、寝不足のままじゃあまずいんじゃないの?」
満月は歴史編纂のピークだ。不眠不休で仕事に臨まなければならない。
「わかっているさ。わかっているけれど、どうしようもない」
うついたまま慧音が答えた。日が落ちてすっかり暗くなった部屋の中ではどんな顔をしているのかはわからない。
囲炉裏の燃え落ちた白い灰の塊が音もなく崩れた。
「歌、歌ってあげようか?」
「うたぁ?」
素っ頓狂な声を上げる慧音に私が答える。
「そ、子守唄」
「私はそんなに子どもじゃあない」
「それはわかってるよ。でも、他になにもできないんだったら、なんでもやってみるべきじゃない? 駄目もとでも良いからさ」
うーん、とうなる彼女を気にせずに私は正座をして膝を叩いた。
「駄目ならそれでいいさ。とにかくなにかしたっていうことで少しでも気持ちが楽になるならそれでいい」
「そういうものかなぁ」
恥ずかしがってもじもじとする彼女をうながして、無理に膝の上に頭を乗せさせる。野の花のような飾り気のない香りがほんの少しした。
子守歌を歌うなんて何年振りだろう。いや、もう何十年ぶりかそれでもきかないかもしれない。昔はこうやって子供をあやすような仕事をしたこともあったけれど、百数十年前にこの地が外の世界と隔離されてからずっと竹林に篭ってばかりでそんなことともしばらく縁がなかった。
久しぶりな割にはわりときれいに通った声が出た、と思う。上手く歌うも何もないような簡単な歌だからそんな気がしてるだけかもしれないけど……。
「新しい歌だな」
一番を歌い終わったところで慧音がいった。静かにしているからもう寝たのかと思っていた。
「新しい? けっこう昔からある歌だよ」
江戸子守唄ならもう二百年近く前からあるはずなんだけれど。
「でも、妹紅にとっては新しい部類に入るんじゃないのか」
相変わらず余計なところに頭が回る。確かにその通りだけれど、こんな調子でいちいち余計なことを考えていたらきりがないのに。
「いいからさっさと寝ろよ!」
「わかってるよ……」
ちょっとふてくされて慧音はまた眼を瞑った。
さらさら、と枯れたすすきが夜風に揺れる音がする。乾いているけれど不思議と無味という気はしない、晩秋の季節の音だ。
戸の隙間から差し込む月明かりが火の消えた部屋をほのかに照らした。十三夜の月の輝きは柔らかくて強い。それでいて十五夜ほど強すぎないのが良い。
百数十年ぶりの月を思うと、思わず戸に手をかけたくなる。
けれど、今日はやめておくことにした。
冷たい夜風は体に毒なんて、天涯孤独でそれも決して体を壊すことのない私がそんなことを考えているのがなんとなくおかしかった。
「今度は好きになった男にでもしてもらいなよ」
今はそういったことに全然関心がないようだけれど、彼女にいい人ができれば今の関係もきっと崩れてしまうだろう。
それでもいいさ。
むしろそれでいい。
私は彼女の髪をそっと撫でた。
ただ、自分にはタイトルと話の内容のつながりが見えにくかったというかなんというか
あと妹紅色んな意味でGJ