雲山が目を覚ましたのは、開けっ放しになっていた戸窓から、一筋の風がそよそよと吹き、自身の身体がゆっくりと部屋の片隅に追いやられたときであった。
背に当る壁の固い感触に、ふと目を開けた雲山の視界に映ったのは、薄暗い室内の光景である。
唯一の光源である開けっ放しの戸窓から見える外の景色は、月が雲に隠れているのか薄暗い。部屋に幾つかある行灯の火も消えているようで、他に室内を灯す明かりもないせいか、部屋のなかは大分暗かった。時刻は判然としないが、雲山の体内時計からして、既に深夜は回っているかと思われた。
ぼんやりとした頭のなか、雲山が惰眠の残り香を味わうように、しばし、ぼうっとしていると、すぅ、すぅ、と複数の寝息のような音が彼の耳に届いた。
その音に、わずかに意識を覚醒させた雲山がそちらへと目を向けると、暗い室内のなか、薄っすらと見えたそこには、眠りこける同僚たちの姿があった。
そんな同僚たちの姿を見て、雲山は、ふと昨日の出来事を思い起こした。
昨日、住職の聖白蓮が人里へと出向くため、一日寺を留守にすると出かけた瞬間、待ってましたとばかりに、各自どこに隠していたのやら、酒やらつまみやらを取り出し、鬼の居ぬ間に飲めや歌えやのドンちゃん騒ぎ。すっかり出来上がった命蓮寺信徒たちは、久しく味わった酒に気分を良くしたままに、そのままご就寝と相成ったわけである。
何とも幸せそうに眠る同僚たちの姿に、ひとつほっこりと息をついた雲山が、もう一眠りする前に一口水でも飲むかと、台所へ向かうべく戸に手をかけようとした、まさにそのときであった。
それまで雲に隠れていた月がちらりと姿を現したのか、室内の明度がわずかに上がっていた。
それと同時、丁度、戸の手前に何か黒い物体が落ちているのに雲山は気がついた。
何気なしにその物体に焦点を合わせてみた雲山は、最初、それが何なのか分からなかった。
わずかに月の光が入ってきたとはいえ、室内はまだ暗かった上に、雲山自身もまだ酔いが残っていたため、判断力が鈍っていたのだろうと思われる。
特に気にすることなく無視してしまえばよかったかもしれない。しかし、何となくその物体が気になった雲山は、ひょいと手を伸ばしてそれを手にとってみた。
手にした感触、その肌触りからして、布のようなものだということが分かった。指先で軽くこすってみて、その手触りのよさから、上質な生地を使っているようだ。しかし、それだけではこの布のようなものが何なのかが判然としなかった。
小首を傾げた雲山は、片手で持ち上げていた布のもう片方の端を空いたほうの手でつかんでみた。床と水平になるようにそれを持ち上げてみると、その布は、平べったい逆三角形の形を成していた。
しかし、それでも雲山にはこれが何なのかが分からなかった。
良く分からないまま、何となく両端を軽く引っ張ってみると、その布は、雲山の手に引っ張られるままに、びよんと伸びた。これだけ伸びる材質を使っていることから鑑み、この布は相当上質な生地を使っていることが分かる。しかし、これが何なのか、未だ雲山の頭のなかでは判然としなかった。
そのとき、雲の合間から少しだけ姿を晒していた月が、さらにその身を現したのか、薄暗かった室内がさらに明るくなった。そのおかげか、雲山が手にしていた物体の姿がわずかながら鮮明に浮かび上がった。
それは、ただの布ではないようで、可愛らしいヒラヒラとした装飾のようなものが施されていた。また、中心部分の布地の面積は少なく、中心部分から下にいくにつれて、段々と細くなっているようだ。
改めて全体像を把握しようとした雲山は、しっかりと両手で持ったままに、まじまじとその布を眺め、そうして、ふむ、と良く分からない納得したような声を出すと、この物体の正体について、ゆっくりと結論を出した。
パンツ。
おパンツ。
パンティー。
言い方を変えるとショーツ。
手にした物体の姿形と自身が持つ知識・経験から符号する名称を結びつけ、雲山は再度、まじまじとその物体を見つめた。
その間、たっぷり十数秒。
そして、その布の正体を再確認した瞬間、雲山の酔いも眠気もすべてが吹っ飛んでいた。今、自分が手にしている布地の正体は、パンツ。パンツである。
Q.パンツとは何か?
A.下半身の保護・保温・衛生のために身に着ける下着である。
Q.これは男性用か? それとも女性用か?
A.この造詣から察するに、おおよそ男性用のそれとは言いがたい。つまり、このパンツは女性用のものということである。
Q.なぜこんなものがこんなところにあるのか?
A.分からない。
Q.そもそも、これは誰のものだ?
A.…………。
その疑問に思い至った瞬間、雲山は、はっ、と後ろを振り返った。
そこには、酔いつぶれて熟睡している同僚たちの姿があった。
雲山は、彼女らの姿を認め、そして、己が手にしているパンツを見やり、それと彼女らを見比べる。
つまり、つまり今、雲山が手にしているパンツは、この酔いつぶれている同僚たちのうちの誰かが、酔った勢いで脱ぎ捨ててしまったとか、そういうアレな顛末によるものだというのだろうか。
その可能性は十二分にある、というか、女性用のパンツがこんなところに落っこちているという点からすると、ほぼそれしか考えられないといってもいいだろう。
雲山はパンツから目を離し、再び、眠りこける同僚たちへと目を向ける。
ひとりひとりに視線を置いて、全員の姿を確認すると、もう一度、手にしているパンツへと視線を戻す。
この、身体を保護するというには、些か頼りなさそうに見えるパンツ。その特徴を再度確認する。
色は黒である。
派手なのか地味なのか、ひらひらとした装飾を考えると、このパンツは派手な部類に入るのだろうか。
大人びているのか、子どもじみているのか。やはりこれは、大人びているように思われる。
おおよそ、目から得られる情報を再確認した雲山は、パンツを手にしたまま、視線を下げて熟考を開始した。
パンツの造詣から、このパンツが誰の物であるかを推測しようと試みたのである。
十数秒ほどの沈黙の後。
やはり、答えは出なかった。
雲山には、このパンツの所有者が、ここにいる面々の誰のものであったとしても、不思議ではないように思えてならなかった。
ちなみに、この場にいる雲山の同僚は、端から、寅丸星、村紗水蜜、封獣ぬえ、ナズーリン、二ッ岩マミゾウ、そして、雲居一輪。それぞれがこのパンツの所有者とは違うだろうとも思えるし、逆にそうだったとしても、どこか納得できるような気がした。
それぞれが絶対に違うとは言えない、即ち、全員がこのパンツの所有者だという可能性がある。つまり、現状の情報だけでは、このパンツが誰のものなのかは分からない、ということだ。
パンツを手にした状態のまま、雲山は途方に暮れてしまいそうになった。
もう、これはどうしようもない。
誰のものか判然としないのであれば、自分がこのままパンツを持っているのは非常にまずい気がする。もう、このパンツは見なかったことにして、元あった場所に戻しておいて、自分は知らんぷりして一眠りしてしまえばいいんじゃないか、と雲山が現状のベストアンサーを思い描いた瞬間、とあることが雲山の脳裏に思い浮かんでしまった。
このパンツが誰のものなのかは分からない。
しかし、このなかの誰かのものだということはまず間違いない。
だとすれば。
だとすれば、このなかの誰かは、今、パンツを身に着けていないということになる。
なる。
なるのだ。
その事実は既に明白なものだったはずなのだが、改めてその事に意識が及んだ瞬間、雲山に電撃のようなものが走った。
まずい。
これは相当にまずい。
このまま雲山がこのパンツを見なかったことにすれば、このパンツを脱ぎ捨ててしまった誰かは、目を覚ました瞬間に違和感を覚えることだろう。そしてそれは、限りない羞恥の感情で以って、その誰かの心を満たしてしまうに違いない。
その誰かが、雲山が見逃したこのパンツを誰よりも早く見つけることが出来れば、あるいは被害は最小限に食い止められるかもしれない。しかし、見つけた者が本人以外の別の者だった場合、きっと、ちょっとした騒ぎとなるだろうことは容易に想像できる。
そのときの本人の心中たるや。
お察しするどころの騒ぎではない。
それはきっと、女性としての最大限の恥辱の記憶として、彼女のなかに残ってしまうことだろう。ともすれば、涙で枕を濡らすことになってしまうかもしれない。そのせいで、その彼女が寺にいられなくなるほどの心の傷を負ってしまったとすれば、どうだ?
いけない。
それはいけない。
食い止めなければならない。
今、自分だけが気がついているこの状況で。
ここで、何事もなく自分が処理できれば、一人の少女の運命を救うことが出来るのである。
雲山とは男である。
愚直なまでに真っ直ぐで、何事においても信念を曲げることをしない男の中の男である。
男が女を守るのは当然のこと。
それこそが彼の美徳でもあり、あるときから心の芯に据えている信念でもある。
なればこそ、この状況。
燃えない男がいるとすれば、そいつは男失格である。
何とかする。
自分が、何とかする。
愚直なまでの真っ直ぐな信念が雲山を突き動かす。
守らねばならない。
このパンツの持ち主である少女の尊厳を。心を。立場を。
それがどんなに困難なことであったとしても。
雲山は逃げない。
何故ならば、雲山は男であるからだ。
男には、成さねばならないものがあるのだから。
さて。
男である雲山は、現実と戦わなければならない。
ここで言う現実とは即ち、雲山が手にしているパンツ。このパンツは誰のものなのか? この一点に集約される。しかし、この現実という敵は、男である雲山にとっては、中々に対応し難い、相当な強敵であった。
ただ、ひとつ話しをしておくと、雲山という男は、女性に対して免疫がないわけではない。
というのも、雲居一輪という少女のパートナーとして知られる雲山は、いわゆる、世間一般で言う、『らっきーすけべ』的な場面には、結構な数、遭遇してきているのだ。
まずいえることは、雲山のパートナーである雲居一輪は、あまりに長い年月を雲山と共に過ごしてきたせいか、雲山に対する羞恥という概念がどこかへ飛んでいってしまったようで、雲山の目の前で平然と着替えをするし、雲山が目の前にいても、その裸体を晒すことにまるで頓着しない。
逆に、雲山の方が気を使って、出来うる限り彼女のそういった場面から目を逸らし、そういった場に出くわしてしまったら、瞬時にその場から退散するという場面は、もう命蓮寺のなかでは日常的なものである。
女性の裸体を見慣れている、といえば、少々誤解や妬みを持たれてしまいそうだが、実際そうなのだから仕方がない。故に、女性に対しての免疫は備えている。そういった恐怖はない。羞恥もない。だがしかし、やはり。
今、この状況、さしもの雲山といえど、なかなかに手をつかねる事態であることは疑いない。
このパンツが誰のものか。
たったひとつ、判明していることは、この同僚たちのなかに、パンツをはいていない者がいるということである。
その誰かを、他の者に知られずに探し出すことがどれほど難解なことであることは、最早説明の必要はないだろうが、実際のところ、色々な要素を無視して考えてみれば、話は簡単なことではある。
要は、パンツをはいてないものを探し出せばいいわけで。
ならば、どうやってパンツをはいていない者を探し出せばいいのか? という問題に行き当たるのであるが。
実に、簡単なことである。
雲山の目の前で熟睡している同僚の面々。
彼女たちのスカート、ないしズボンを脱がせてみて、はいている、はいていない、その確認をすればいい。
まさしく一目瞭然。火を見るより明らか、という奴である。
出来るわけがない。
雲山とは男の中の男である。
そんな変態じみたこと、どうして出来るというのか。
仮に、それを実行してみたとすれば、どうなるだろう。
この子はいてない、この子もはいてない、あ、この子もはいてないか。じゃあ……あ、この子だったか~、全く仕様がない奴め。
ようし仕方がない。この優しい雲山おじさんがおパンツをはきはきさせてあげますからね~。
紛れもない変態である。
というか、そんな場面を誰かに見られようものなら、雲山という妖怪は寺にいられなくなること間違いない。いや、ともすれば、幻想郷から雲山という妖怪が抹殺されるかもしれない。
行く道を誤れば、即、死につながるこの状況。
さすがの雲山といえども、身震いせざるを得ない。
しかし、いつまでも手をつかねているわけにもいかない。時間は限られている。
このなかの誰かの心が傷つけられてしまう瞬間が、刻一刻と近づいてしまっている。
どうすればいい。
どうすれば分かる。
誰がパンツをはいていて、誰がはいていないのか。
分からない。雲山には、皆目見当もつかない。
というか、パンツを片手に酔いつぶれた少女たちを前にして、あたふたと挙動不審な態度を取るこの雲山の姿も、相当まずい状態であることは間違いない。まあ、一輪に見られた程度であれば、彼女はまず事情を聞いてくれるだろうし、少なくとも、他の面々と比べても、最悪の事態になることはないと思われるが。
瞬間、雲山の頭の上に、電球がピロリン、と浮かび上がった。
そう。
そうである。
一輪がいるではないか。
暗闇のなか、ひたすら彷徨っていたところに、突如として天から光明が差した迷い人が如く、雲山は熟睡している一輪へと救いの目を向けた。
雲山の長年のパートナーであるこの少女は、機転を利かせるのが非常に上手い。なれば、この事態、任せるのは適任ではないか。
彼女に事情を話して、誰かが悪酔いしてパンツを脱ぎ捨ててしまったようだ、起きたときに可哀想だから、どうにか穏便に誰にも気がつかれないように処理してやってくれ。そう話すだけですべてが解決する。後は一輪が万事上手くやってくれるだろう。
ふっ、と心が軽くなったように雲山は感じた。
そうとなれば善は急げである。
やはり、最後に頼ることが出来るのは己がパートナーということか。
雲山がすぐさま一輪を起こそうと、彼女の肩に手をかけようとした、まさにその瞬間。
ふと、あるひとつのリスクが雲山の脳裏をよぎった。
このパンツの持ち主が一輪だったときはどうする?
いや、一輪は自分に対して羞恥という感覚はもう持っていないだろう。
目の前で着替えをするくらいだ、何とも思っていないはずだ。そのはずだ。
しかし。
しかしである。
あるいは、こう考えられたらどうする?
一輪を起こす。
彼女に事情を話す。
実はパンツの持ち主が一輪だった。
きっと、一輪は笑うだろう。
私ったら、はしたないことを……。気がついたのが雲山だけで良かった、と。
だが、このときに。もし。
というか、さすがに酔っただけでパンツを脱ぎ捨てるようなことはしないはずよね……。これって誰かに脱がされたんじゃ……?
もしかして、雲山が……? ううん、そんなはずない、雲山に限ってそんな……、いやでも……、まさか、まさか、雲山……、
いつもは気にしてないふりをしていて、酔っちゃったはずみで、こんなことを……?
ううん、もしかして、心のどこかで、いつか私にイケナイことをしたいと思っていた……?
いつかいつか、とチャンスをうかがっていた……?
そして、いざチャンスがきたと私のパンツを脱がして、そして、そして……。
違う。
違う、一輪、そうじゃない。そんなことあるわけない。
自分に限って、そんなこと、有り得ない。
あのとき、あのときから、自分は君を守ると心に決めた。そんな自分が、どうして君にそんなことをしなければならない。
一輪。
一輪、頼む、お願いだ。信じてほしい。自分はそんな男ではない。
その手のものは何……と言われても、知らない、分からない。どうして、自分がこれを手にしているのかも分からない。
そうだ、誰かにはめられたに違いない。これは罠だ。一輪、これは罠だ。何者かの罠だ。自分たちの中を引き裂こうと画策した者が居る。そうに違いない。
騙されるな一輪。……一輪。一輪……? どうした一輪? 待て、待ってくれ一輪! これは、違う、違う!
すまない、これは……、違う! そういうことではなくて! 話を……、一輪! 頼む、話を、一輪! 一輪!!! 一輪ッッッ!!!!!
妄想上の一輪に百万回ほど謝罪し続け、雲山はどうにか元居た世界へと戻ってきた。
そうして、出した結論がひとつ。
一輪に頼るのはやめておこう。
自分は男である。なれば、自分のことは自分で解決しなければならない。
彼女に頼ることになるなど、男としてどうかと思うものだ。
難事こそ、一人でやり遂げなければ男ではない。そうだろう? うん。それがいい。
颯爽とひとつの選択肢を潰すことにした雲山は、ふぅ、と息をついた。
さ、て。
現実と直面する時間である。
現状は何一つとして進展していない。悪い方向にも、良い方向にも転んでいない。
ひとつ動きがあったとすれば、実際には関係ないかもしれない相手に勝手に謝り倒していた雲のおっさんしかいない。
ふと外を見ると、既に夜の時間は通り過ぎ、空が白くなりつつある。もう、時間はない。
しかし、この状況、全くといっていいほど手がかりを見つけられていない。
このパンツが誰のものなのか。
確かめる術もない。一輪を頼ることも出来ない。時間もない。逃げることも出来ない。
さあ、いよいよ追い詰められた。
パンツを片手に、顎に空いたほうの手をやり、雲山はうんうんと唸るが、妙案も思い浮かばない。
雲山は唸るのを止め、彫刻の如く沈黙すると、数秒の間を置いて、カッ、と目を見開いた。
こうなれば、最早やけだ。一発で引き当てることに望みを賭けて、一人だけ起こして事情を話す。もう、これしかない。
持ち主をはずしてしまった場合は、色々とまずいことになるだろうが、そんなこと、もう知ったことか。
なるようになる。雲が風に流されるが如く。その流れに、身を委ねるしかあるまい。
完全に開き直った雲山は、ギロリ、と眠りこける同僚たちに厳しい視線を向けた。
このパンツの持ち主が、このなかの誰なのか。
可能性としては、恐らく均等であるだろうが、それでも、自身の選択には納得したいところである。
開き直りつつも、冷静さは失わない。
この場での有効な選択方法。
雲山は、『消去法』を選択することにした。
『消去法』、つまり、雲山の主観による判断にて、このパンツの持ち主ではないと思われるものを順々に候補から消していき、最後に残った者が、このパンツの持ち主(のはず)となるわけである。
雲山は、フーッ、と息を吐き、冷静な判断が出来るよう、一度、心中をフラットな状態に戻した。
そうして、彼は思考を開始する。
まず一輪は外す。理由は特にない。とにかく外す。彼女ではない。そのはずだ。そうあるべきだ。それが世界の正しい姿であるはずだ。逃げではない。断じて。断じて逃げてない。
次。
おおよそ、高い確率で違うと思われる者。
このなかだと、やはり、ナズーリンという線は薄かろうと思われる。完全に雲山の印象であるが。仮に、このパンツが彼女のものだとしても、それはそれで納得できるような気もするが、雲山の主観的には、彼女はこのパンツの持ち主ではないと思われる。似合う似合わないではなく、黒の下着は彼女のカラーに合わない気がする。どちらかといえば、しましま……、否、蛇足。
さあ、次。
残りは、村紗、ぬえ、寅丸、マミゾウ。
何れも、このパンツの持ち主である可能性が高い者ばかりである。
だが、ここまで来たら、雲山の主観なのだから、意外性とかそんなものはもう関係ない。
じゃあ、寅丸。寅丸を外す。彼女も黒のパンツというよりは、虎柄……、否、これも蛇足。
では次。
…………ぬえ。ぬえを外す。彼女の性格から察するに、背伸びした下着を好んでいる可能性も勿論あるが、雲山的にはまだ早いと判断する。
よし、次。
村紗かマミゾウ。どちらか。
この二択。
最終的な判断基準を言えば、『雲山の主観=雲山の好み』というわけである。
逆に言うと、このパンツ、雲山は誰にはいていてほしいのか?
それは……。
ガラリ。
思考に耽っていた雲山の後ろで、戸が開く音が響いた。
その瞬間、完全に背後への意識を絶っていた雲山は、あまりの驚きに飛び上がりそうになるのをどうにか堪え、そして、ほぼ反射的に、パンツを己が手の中に握り隠していた。
内心パニック寸前になりながらも、年の功と経験でそれを一切表に出すことなくやり過ごし、常の無骨な表情を浮かべたままに、ゆっくりと雲山が振り向くと、そこにいたのは。
「――おはよう。雲山」
振り返った雲山と目が合った瞬間、彼女は微笑を浮かべ、雲山に挨拶をしてくれた。
聖白蓮。
命蓮寺の住職であり、この大所帯な組織の実質的なトップを担っている女性である。
あらゆる妖怪に手を差しのべてくれる彼女に救われた妖怪は数多く、雲山もその内のひとりである。
昨日から一日ほど留守にすると言っていたはずの彼女であったが、この早い時間帯に寺に帰ってきたことを考えると、朝の勤行に間に合うように人里を出立したのだろう。成程、生真面目な彼女らしい。
そんな我らが住職は、常であれば、慈母のように万物を包み込む優しい雰囲気を醸し出しているのだが、今、このときにおいては、そんな雰囲気からは程遠く、柔和な表情を浮かべてはいるものの、どこか、つい後ずさりしたくなるような、威圧感を発しているような凄みを感じ取ることが出来た。
しかし、それもそのはず。
室内に転がる酒瓶。散乱しているつまみ、料理の類。だらしなく眠りこける弟子たちの姿。
この部屋で何が行われたのか。頭を捻る必要もないほどに、容易に答えにたどり着くことが出来るだろう。
雲山的には、未だ解決出来ていない大問題を抱えているところに、新たな大問題が転がり込んできたのだから、もう大変な状況である。
何か言い訳を――。
パニック寸前の頭のなか、白蓮に挨拶を返すことすら出来ないままに、どうにかして頭を働かせようとする雲山であったが。
「――喝ッ!!!!!!!!!!!」
瞬間、爆薬が炸裂したかの如く、すさまじい爆音が室内に轟いたと思った瞬間、何事かと飛び上がって起きたのは、眠りこけていた命蓮寺信徒たちである。
何、何? と状況を把握しようとキョロキョロと周囲を見回す者、起き上がった瞬間に白蓮の姿を認めて、一言も発することも出来ず、この世の全てに絶望したような表情をする者、誰よ、もううるさいなー……、と現実に直面する一歩手前の者、また、未だ眠りこける猛者もいたりしたが。
「……皆、そこに直りなさい」
白蓮の二言目の言葉に、起き上がった全員が現実に直面するや否や、雷光の如く早さでそれぞれ眠りこける者を叩き起こし、叩き起こされた者も白蓮の姿を見て、一瞬で全てを理解したのか、全員が全員、その場に姿勢を正して座した。
まるで、刑が執行される直前の死刑囚の如く、凄まじく張り詰めた緊張感が室内に充満する。
今、この場の中心であり、支配者でもある聖白蓮は、微笑を浮かべてはいるものの、その実、『怒り』の二文字が分かり易すぎるほどに伝わってくる。
滅多に見ることがない彼女の姿に、対する弟子たちは恐怖に慄いていたが、今このときの雲山の意識は、白蓮への恐怖よりも、全く別のものへ向かっていた。
このパンツどうしよう。
数時間ほど続いた白蓮の説教であったが、ひとまず話すことは話したとして、一度区切りをつけることにしたようで、宴会の件については一旦保留とし、後ほど白蓮の裁量を待つことと相成った。
宴会に参加していた各人は、戦々恐々、己が肩を抱き身震いしていたが、雲山はそれどころではなかった。
白蓮の説教の最中、雲山は、このなかの誰かがパンツを身に着けていない状態であるというのであれば、それが態度に出てもおかしくないはず、と思い、つぶさに全員の態度、行動を観察していたのだが、残念ながら、妙な動きをする者はいなかった。
白蓮に怒られている最中だということを考えれば、パンツの有無よりもそちらに意識が向いたといえば、それはそれで正しいとは思うが。
雲山は、己が右手に目をやる。
ぎゅっと拳を握ったままの、ごつくて大きな右手のなかには、件のパンツが隠されたままだ。
このまま、自分が持っていていいわけはないだろうが、果たして、どうしたものやらと、雲山はほとほと困り果てていた。
と、そこに。
「どうかした? 雲山?」
耳通りの良い、澄んだ声が雲山の背後からかかった。
瞬間、直感的に、まずい、と雲山は思った。
しかし、ここで妙な態度を取ることは出来ない。声の主は、雲山に対して何かを感じ取って声をかけてきたのだろうから。
内心の動揺を表に出さないよう注意し、極めてゆっくりと雲山が振り返る。
振り返った雲山の視線の先にいたのは、彼の長年のパートナー、雲居一輪である。
長時間に渡る白蓮の説教を喰らった割には、彼女はけろりとした顔をしている。やはり、肝の据わりようでは命蓮寺内でも随一の少女である。
今の彼女は、寝巻き姿で常のフードは被っておらず、ただの可愛らしい少女のようにしか見えないが、今、このときの雲山にとっては、これ以上ない強敵であった。
というのも、この雲居一輪という少女、雲山との付き合いの長さゆえか、雲山が隠し事をしていたとしても、簡単に見破ってしまうのである。
己が隠し事を見破られる度に、この少女には勝てる気がしない、と雲山は諦めたように息を吐くしかなかった。
だが。
しかし。
そうだとしても。
悪夢のような空想のワンシーンが雲山の脳裏に浮かび上がる。
あのようなこと、あってはならない。
たかがパンツ如きで一輪との関係が拗れることなど、あってはならない。そんなこと、許されるはずがない。
そのためにも、この場は、何としてでも誤魔化しきらなくてはならない。
バッドエンドを避けるべく、雲山は至極平然な風を装い、『特にどうもしないが、そちらこそどうかしたか?』といつものようにぶっきらぼうに応えた。
「ん、何か、元気なさそうに見えたから」
声をかけた割りに、さして気にもしていない風な一輪の口ぶりからすると、ただ何となく気になったから声をかけた、という程度の疑問なのだろうか。
パートナーとして長い付き合いをしている間柄でもあり、互いの機微な感情の動静には、気がつきやすくなるものだとは思うが。
雲山としては、一輪が確信を得ていない様子だというのは収穫である。このまま、彼女をどうにかやり過ごし、一刻でも早くこの場から脱却しなければ。
『白蓮の説教後だというのに、元気があるほうがどうかしているだろう』と雲山は尤もらしく応える。
「それもそうだけど……。んー、姐さんの説教中の雲山、心ここにあらずって感じで、らしくないなって思って」
何と恐ろしい。
この少女、雲山の心中を手に取るように把握できるというのか。
確かに、白蓮の説教よりもパンツの持ち主が誰なのかを探るべく、そちらに意識を向けてはいたが、百パーセント全意識を向けていたわけではない。白蓮の話にも耳を傾けながら、不自然でない程度に周囲に意識を向けていたはずなのだ。そうでなければ、まず、白蓮に看破されるからである。
内心で冷や汗をかきつつも、何とかして一輪の疑問を誤魔化すべく、雲山は常の自分を演じることを念頭に、彼女に続ける。
『起き掛けで酒も残っていたせいかもしれん。確かに、あまり集中は出来ていなかったとは思うが』
「そ。別にいいけど、姐さんに気取られてたら、さらに姐さんを怒らせることになってただろうし、もうちょっと気をつけてよね」
『分かった、以後気をつけよう』と雲山が返すと、一輪は、うーん、と大きく伸びをした。
「でも、姐さんに見つかったのはまずったわね~、まさか、こんな早く帰ってくるとは思ってもみなかったわ~」
ふわぁ、と、一輪は可愛らしく欠伸をした。
どうやら、一輪の疑問は解消出来ないまでも、どうにか誤魔化すところまでは持っていくことに成功したようだ。
「はてさて、どんなお仕置きが待っていることやら。くわばらくわばら」
『仕置きについては、覚悟しなければならないだろうな』と雲山は一輪に適当に合わせながら、会話を終わらせて、そそくさとその場を離れようとした。
「――右手、どうかしたの?」
緩急。
危険地帯は脱したかと思った矢先、よもやの指摘に、雲山の時間が一瞬、停止する。
「さっき、じっと右手見てたじゃない。それに、今もだけど、右手、ずっと握ったままだし」
ズドン、ズドン、と続けざまに直球でやってくる容赦ない指摘に、雲山は、それでも何とかして一時停止した頭を再起動させるべく、少しでも時間を稼ごうと何か答えようとしたが。
「何か隠してるの?」
一輪が雲山に話す隙を与えてくれない。
もしかしたら、一輪は初めから確信を持って雲山に問いかけてきたのかもしれない。
あえて最初から確信に迫らなかったのは、後から仕掛けることで雲山を油断させて動揺を誘うためか。
だとすれば、この少女の何と恐ろしいことか。
「私たちの間で隠し事はなしよ。雲山」
雲山は、一輪の問いかけに対して、何も答えることが出来ないでいるのだが、最早、確信を持った調子で、彼女は雲山に降伏勧告を告げた。
「白状なさい♪」
にっこりと極上の笑みを浮かべた一輪の表情は、今このときの雲山にとっては、この世のどんなものより恐ろしいものであった。
場所を変え、一輪の部屋で、一輪と雲山が対峙していた。
何を隠しているのか、この場で吐けと一輪は追求の手を緩めようとしなかったが、ここでは、ちょっと……、と雲山がせめて場所を変えてくれと懇願したためである。
意外にも、雲山のその申し出は簡単に承諾した一輪であったが、「場所を変えてあげるから、ちゃあんと全部話してね♪」と返されたときには、ああ、もう逃げ場はどこにもないんだな、と雲山はどこか諦めにも似た感覚に襲われていた。
そうして、一輪の部屋に座するふたりではあるが、それぞれ、実に対照的な態度である。
片や、むん、と腕組みし、さあ吐け今吐けすぐ吐け、と言わんばかりに凄む一輪に対し、常より1割か2割ほど身体が縮こまっているように見える雲山の姿は、どこか、悪戯がばれて叱られている大型犬のようにも見えた。
「雲山」
実に端的に催促をする一輪に対し、雲山は、びくり、と小さく身を震わせた。
ただ名前を呼ばれただけだというのに、今の彼女の言葉には、言いようのない、妙な迫力が内在していた。
「…………」
「…………」
ほんの少しの静寂の間。
その空白の時間は、きっと数秒と経ってはいないはず。
にも関わらず、雲山には、その少しの間が恐ろしいほど長く感じた。
ぐるりぐるりと色んなことが彼の頭を巡りゆく。
――そう。
もう――。
……うん。
浮かんで消えて出てきて伸びて曲がってはじけて。
思考はまるで形にならず、出てきて消えては何も残らず。
この場において、考えることは無駄なことに過ぎない。そういうことだ。
そしてとうとう、雲山は腹を決めた。
この状況である。もう、このまま黙っていてもどうにもならない。こうなれば、なるようにしかならないのだから。
意を決したように、雲山は伏せていた視線を一輪へと向ける。
凛とした真っ直ぐな瞳が雲山の視線とぶつかる。
その勝気な瞳に、若干気圧されたように、雲山が数センチほど身体を縮こませてしまう。
なけなしの勇気が霧散してしまいそうになるが、それでも、何とか寸でのところで散ってしまそうになったそれをかき集め、雲山は己を奮い立たせる。
ひとつだけ。
思わず、雲山は前置きをした。
一輪は、小首を傾げて雲山に続きを促す。
他意はない。
その一点においては、自分は嘘偽りなく、またそのつもりもない。今までも。これからも。
これだけは、この気持ちだけは、何に置いても信用して欲しい。
その言葉の通り、嘘も、偽りもない真っ直ぐな自身の心を吐露した内容に、一輪は、ゆっくりと、それでいて、力強く頷いてくれた。
そんな一輪の様子に、わずかに心を安堵させた雲山は、目を閉じ、数秒ほどの間を置いた後、意を決したように、カッ、と目を開けると、それまで握り隠していた、一枚のパンツをその大きな手から取り出した。
雲山が手から取り出したそれを見た一輪は、全く予想していなかった物体の登場に、流石に面食らったのか、二、三、ぱちぱちと目を瞬かせていた。
皆が酔いつぶれて眠りこけていた頃合、台所で水を飲もうとして、部屋を出ようとしたところで、この下着の存在に気がついた。あの場にいた誰かの物だと思い、どうにかして、その誰かが恥ずかしい思いをしないようにしたいと考えたが、どんなに考えても妙案が思い浮かばず、とうとう誰のものかも分からないまま、どうすることもできず、今、自分の手のなかにある。
この、これをどうすればいいかと思い、今の今まで途方に暮れていた。
と、パンツをめぐる、自身の今現在までに至る行動について、雲山は包み隠すことなく、一輪に話した。
全てを話しきり、ふぅっ、と息を吐いた雲山は、一種の妙な開放感と、ズン、と胃が重くなるような、何とも味わったことのない感覚に襲われた。
そして、まるで、裁判官の裁定を待つ被疑者のような面持ちで、雲山は一輪の反応を伺う。
「…………ぷっ」
数秒ほどの沈黙の後、彼女の口から発せられた第一声は、まるで、雲山が予想もしていないものであった。
「く……、くふふっ、ご、ごめ、うんざ……ふ、ふふふっ」
何かを堪えるように肩を震わせていた一輪であったが、ついに、あっははは、と堰を切ったように笑い始めた。
その一輪の姿に、雲山は事態が飲み込めず、ただただ呆然と爆笑する一輪を見ていることしか出来なかった。
そんな雲山とは対照的に、可笑しくて仕方がないといった風の一輪は、ひとしきり笑った後、目に涙を浮かべながら、こみ上げる笑いをどうにか押し殺し、雲山に告げた。
「……雲山、それ、マミゾウさんが葉っぱを化かしたものよ?」
何とも呆気なく、一輪は事の全貌を明かしてくれた。
そして、その内容のあまりの馬鹿馬鹿しさに、雲山は、その事実を頭の中で認識することが出来なかった。
「っで、でも、流石マミゾウさんよね。これだけ長い間、葉っぱを下着の形のままにすることが出来るんだもの……ぷふっ」
未だ、肩を震わせて笑いを堪えている一輪に対し、雲山は、ようやく頭のなかで、その馬鹿馬鹿しい内容を認識できたのか、ふーっ、と大きな大きな溜め息を漏らした。
何だ、そういうことか。
まず、彼に湧き上がってきた最初の感情は、心の底からの安堵であった。
何か、もう、何もなくて良かった。妙なことにならずに済んで良かった。それだけである。
「それ、いつ術が解けるか分からないけど、雲山が持ってると色々と都合が悪いだろうし、私が持っててあげるわ」
そう言いながら、一輪が雲山に手を差し出す。
雲山は、『全くひと騒がせな』とつぶやきながら、件のパンツを一輪に手渡した。
パンツを手渡しながら、あれだけ散々苦悩した時間は何だったのだろうと雲山は思ったが、色んな方面でこの件が馬鹿馬鹿しすぎたこともあり、これ以上、深く考えないことにしておいた。
ひとまずのところ、自分が馬鹿を見ただけで何事もなかったのだし、とりあえずはそれでいいか、と自身を納得させることにした雲山は、『何だか疲れた。外で気分転換をしてくる』、と一輪に言い残して、部屋を後にすることにした。
去りがけに、一輪から「災難だったわね」と声が届いたが、『全くその通りだ』と雲山はぼそりとつぶやき、その場を去っていった。
心底安堵したようにゆらゆらと立ち去っていった雲山を見送って、一輪は、ふう、と息を吐いた。
昨晩、何がきっかけとなったのかは忘れてしまったのだが、このパンツを全員が爆笑しながら投げつけ合うという意味不明なレクリエーションが始まり、何だかよく分からないまま、全員が満足して寝落ちした、というのが事の真相である。全く、酔いと場の雰囲気とは恐ろしいものだと一輪は思う。
実を言えば、一番楽しそうに、このパンツを投げまくっていたのは、他ならぬ一輪だったりする。
というのも、一輪は、このパンツを見た瞬間に、持ち主が誰なのかが分かったからであったりするのだが。
だからこそ、雲山がこのパンツを取り出したときには、色々な意味で驚いたものだ。しかし、それをおくびにも出さず、至極自然に対応してのけたのは、流石というところか。
あのとき、雲山は一人酔いつぶれていて、部屋の片隅で眠りこけていたため、事の顛末を知らなかったのだろう。
一輪が真相を雲山に話さずに適当な嘘を吐いたのは、その方が雲山にとって良いだろうと思っての行動だった。
一輪は、手にしたパンツを見やり、困ったように頬をかいた。
「……さて、これ、どうやって姐さんに返したものやら」
一輪の口から漏れた小さなつぶやきは、誰の耳にも入ることはなかった。
背に当る壁の固い感触に、ふと目を開けた雲山の視界に映ったのは、薄暗い室内の光景である。
唯一の光源である開けっ放しの戸窓から見える外の景色は、月が雲に隠れているのか薄暗い。部屋に幾つかある行灯の火も消えているようで、他に室内を灯す明かりもないせいか、部屋のなかは大分暗かった。時刻は判然としないが、雲山の体内時計からして、既に深夜は回っているかと思われた。
ぼんやりとした頭のなか、雲山が惰眠の残り香を味わうように、しばし、ぼうっとしていると、すぅ、すぅ、と複数の寝息のような音が彼の耳に届いた。
その音に、わずかに意識を覚醒させた雲山がそちらへと目を向けると、暗い室内のなか、薄っすらと見えたそこには、眠りこける同僚たちの姿があった。
そんな同僚たちの姿を見て、雲山は、ふと昨日の出来事を思い起こした。
昨日、住職の聖白蓮が人里へと出向くため、一日寺を留守にすると出かけた瞬間、待ってましたとばかりに、各自どこに隠していたのやら、酒やらつまみやらを取り出し、鬼の居ぬ間に飲めや歌えやのドンちゃん騒ぎ。すっかり出来上がった命蓮寺信徒たちは、久しく味わった酒に気分を良くしたままに、そのままご就寝と相成ったわけである。
何とも幸せそうに眠る同僚たちの姿に、ひとつほっこりと息をついた雲山が、もう一眠りする前に一口水でも飲むかと、台所へ向かうべく戸に手をかけようとした、まさにそのときであった。
それまで雲に隠れていた月がちらりと姿を現したのか、室内の明度がわずかに上がっていた。
それと同時、丁度、戸の手前に何か黒い物体が落ちているのに雲山は気がついた。
何気なしにその物体に焦点を合わせてみた雲山は、最初、それが何なのか分からなかった。
わずかに月の光が入ってきたとはいえ、室内はまだ暗かった上に、雲山自身もまだ酔いが残っていたため、判断力が鈍っていたのだろうと思われる。
特に気にすることなく無視してしまえばよかったかもしれない。しかし、何となくその物体が気になった雲山は、ひょいと手を伸ばしてそれを手にとってみた。
手にした感触、その肌触りからして、布のようなものだということが分かった。指先で軽くこすってみて、その手触りのよさから、上質な生地を使っているようだ。しかし、それだけではこの布のようなものが何なのかが判然としなかった。
小首を傾げた雲山は、片手で持ち上げていた布のもう片方の端を空いたほうの手でつかんでみた。床と水平になるようにそれを持ち上げてみると、その布は、平べったい逆三角形の形を成していた。
しかし、それでも雲山にはこれが何なのかが分からなかった。
良く分からないまま、何となく両端を軽く引っ張ってみると、その布は、雲山の手に引っ張られるままに、びよんと伸びた。これだけ伸びる材質を使っていることから鑑み、この布は相当上質な生地を使っていることが分かる。しかし、これが何なのか、未だ雲山の頭のなかでは判然としなかった。
そのとき、雲の合間から少しだけ姿を晒していた月が、さらにその身を現したのか、薄暗かった室内がさらに明るくなった。そのおかげか、雲山が手にしていた物体の姿がわずかながら鮮明に浮かび上がった。
それは、ただの布ではないようで、可愛らしいヒラヒラとした装飾のようなものが施されていた。また、中心部分の布地の面積は少なく、中心部分から下にいくにつれて、段々と細くなっているようだ。
改めて全体像を把握しようとした雲山は、しっかりと両手で持ったままに、まじまじとその布を眺め、そうして、ふむ、と良く分からない納得したような声を出すと、この物体の正体について、ゆっくりと結論を出した。
パンツ。
おパンツ。
パンティー。
言い方を変えるとショーツ。
手にした物体の姿形と自身が持つ知識・経験から符号する名称を結びつけ、雲山は再度、まじまじとその物体を見つめた。
その間、たっぷり十数秒。
そして、その布の正体を再確認した瞬間、雲山の酔いも眠気もすべてが吹っ飛んでいた。今、自分が手にしている布地の正体は、パンツ。パンツである。
Q.パンツとは何か?
A.下半身の保護・保温・衛生のために身に着ける下着である。
Q.これは男性用か? それとも女性用か?
A.この造詣から察するに、おおよそ男性用のそれとは言いがたい。つまり、このパンツは女性用のものということである。
Q.なぜこんなものがこんなところにあるのか?
A.分からない。
Q.そもそも、これは誰のものだ?
A.…………。
その疑問に思い至った瞬間、雲山は、はっ、と後ろを振り返った。
そこには、酔いつぶれて熟睡している同僚たちの姿があった。
雲山は、彼女らの姿を認め、そして、己が手にしているパンツを見やり、それと彼女らを見比べる。
つまり、つまり今、雲山が手にしているパンツは、この酔いつぶれている同僚たちのうちの誰かが、酔った勢いで脱ぎ捨ててしまったとか、そういうアレな顛末によるものだというのだろうか。
その可能性は十二分にある、というか、女性用のパンツがこんなところに落っこちているという点からすると、ほぼそれしか考えられないといってもいいだろう。
雲山はパンツから目を離し、再び、眠りこける同僚たちへと目を向ける。
ひとりひとりに視線を置いて、全員の姿を確認すると、もう一度、手にしているパンツへと視線を戻す。
この、身体を保護するというには、些か頼りなさそうに見えるパンツ。その特徴を再度確認する。
色は黒である。
派手なのか地味なのか、ひらひらとした装飾を考えると、このパンツは派手な部類に入るのだろうか。
大人びているのか、子どもじみているのか。やはりこれは、大人びているように思われる。
おおよそ、目から得られる情報を再確認した雲山は、パンツを手にしたまま、視線を下げて熟考を開始した。
パンツの造詣から、このパンツが誰の物であるかを推測しようと試みたのである。
十数秒ほどの沈黙の後。
やはり、答えは出なかった。
雲山には、このパンツの所有者が、ここにいる面々の誰のものであったとしても、不思議ではないように思えてならなかった。
ちなみに、この場にいる雲山の同僚は、端から、寅丸星、村紗水蜜、封獣ぬえ、ナズーリン、二ッ岩マミゾウ、そして、雲居一輪。それぞれがこのパンツの所有者とは違うだろうとも思えるし、逆にそうだったとしても、どこか納得できるような気がした。
それぞれが絶対に違うとは言えない、即ち、全員がこのパンツの所有者だという可能性がある。つまり、現状の情報だけでは、このパンツが誰のものなのかは分からない、ということだ。
パンツを手にした状態のまま、雲山は途方に暮れてしまいそうになった。
もう、これはどうしようもない。
誰のものか判然としないのであれば、自分がこのままパンツを持っているのは非常にまずい気がする。もう、このパンツは見なかったことにして、元あった場所に戻しておいて、自分は知らんぷりして一眠りしてしまえばいいんじゃないか、と雲山が現状のベストアンサーを思い描いた瞬間、とあることが雲山の脳裏に思い浮かんでしまった。
このパンツが誰のものなのかは分からない。
しかし、このなかの誰かのものだということはまず間違いない。
だとすれば。
だとすれば、このなかの誰かは、今、パンツを身に着けていないということになる。
なる。
なるのだ。
その事実は既に明白なものだったはずなのだが、改めてその事に意識が及んだ瞬間、雲山に電撃のようなものが走った。
まずい。
これは相当にまずい。
このまま雲山がこのパンツを見なかったことにすれば、このパンツを脱ぎ捨ててしまった誰かは、目を覚ました瞬間に違和感を覚えることだろう。そしてそれは、限りない羞恥の感情で以って、その誰かの心を満たしてしまうに違いない。
その誰かが、雲山が見逃したこのパンツを誰よりも早く見つけることが出来れば、あるいは被害は最小限に食い止められるかもしれない。しかし、見つけた者が本人以外の別の者だった場合、きっと、ちょっとした騒ぎとなるだろうことは容易に想像できる。
そのときの本人の心中たるや。
お察しするどころの騒ぎではない。
それはきっと、女性としての最大限の恥辱の記憶として、彼女のなかに残ってしまうことだろう。ともすれば、涙で枕を濡らすことになってしまうかもしれない。そのせいで、その彼女が寺にいられなくなるほどの心の傷を負ってしまったとすれば、どうだ?
いけない。
それはいけない。
食い止めなければならない。
今、自分だけが気がついているこの状況で。
ここで、何事もなく自分が処理できれば、一人の少女の運命を救うことが出来るのである。
雲山とは男である。
愚直なまでに真っ直ぐで、何事においても信念を曲げることをしない男の中の男である。
男が女を守るのは当然のこと。
それこそが彼の美徳でもあり、あるときから心の芯に据えている信念でもある。
なればこそ、この状況。
燃えない男がいるとすれば、そいつは男失格である。
何とかする。
自分が、何とかする。
愚直なまでの真っ直ぐな信念が雲山を突き動かす。
守らねばならない。
このパンツの持ち主である少女の尊厳を。心を。立場を。
それがどんなに困難なことであったとしても。
雲山は逃げない。
何故ならば、雲山は男であるからだ。
男には、成さねばならないものがあるのだから。
さて。
男である雲山は、現実と戦わなければならない。
ここで言う現実とは即ち、雲山が手にしているパンツ。このパンツは誰のものなのか? この一点に集約される。しかし、この現実という敵は、男である雲山にとっては、中々に対応し難い、相当な強敵であった。
ただ、ひとつ話しをしておくと、雲山という男は、女性に対して免疫がないわけではない。
というのも、雲居一輪という少女のパートナーとして知られる雲山は、いわゆる、世間一般で言う、『らっきーすけべ』的な場面には、結構な数、遭遇してきているのだ。
まずいえることは、雲山のパートナーである雲居一輪は、あまりに長い年月を雲山と共に過ごしてきたせいか、雲山に対する羞恥という概念がどこかへ飛んでいってしまったようで、雲山の目の前で平然と着替えをするし、雲山が目の前にいても、その裸体を晒すことにまるで頓着しない。
逆に、雲山の方が気を使って、出来うる限り彼女のそういった場面から目を逸らし、そういった場に出くわしてしまったら、瞬時にその場から退散するという場面は、もう命蓮寺のなかでは日常的なものである。
女性の裸体を見慣れている、といえば、少々誤解や妬みを持たれてしまいそうだが、実際そうなのだから仕方がない。故に、女性に対しての免疫は備えている。そういった恐怖はない。羞恥もない。だがしかし、やはり。
今、この状況、さしもの雲山といえど、なかなかに手をつかねる事態であることは疑いない。
このパンツが誰のものか。
たったひとつ、判明していることは、この同僚たちのなかに、パンツをはいていない者がいるということである。
その誰かを、他の者に知られずに探し出すことがどれほど難解なことであることは、最早説明の必要はないだろうが、実際のところ、色々な要素を無視して考えてみれば、話は簡単なことではある。
要は、パンツをはいてないものを探し出せばいいわけで。
ならば、どうやってパンツをはいていない者を探し出せばいいのか? という問題に行き当たるのであるが。
実に、簡単なことである。
雲山の目の前で熟睡している同僚の面々。
彼女たちのスカート、ないしズボンを脱がせてみて、はいている、はいていない、その確認をすればいい。
まさしく一目瞭然。火を見るより明らか、という奴である。
出来るわけがない。
雲山とは男の中の男である。
そんな変態じみたこと、どうして出来るというのか。
仮に、それを実行してみたとすれば、どうなるだろう。
この子はいてない、この子もはいてない、あ、この子もはいてないか。じゃあ……あ、この子だったか~、全く仕様がない奴め。
ようし仕方がない。この優しい雲山おじさんがおパンツをはきはきさせてあげますからね~。
紛れもない変態である。
というか、そんな場面を誰かに見られようものなら、雲山という妖怪は寺にいられなくなること間違いない。いや、ともすれば、幻想郷から雲山という妖怪が抹殺されるかもしれない。
行く道を誤れば、即、死につながるこの状況。
さすがの雲山といえども、身震いせざるを得ない。
しかし、いつまでも手をつかねているわけにもいかない。時間は限られている。
このなかの誰かの心が傷つけられてしまう瞬間が、刻一刻と近づいてしまっている。
どうすればいい。
どうすれば分かる。
誰がパンツをはいていて、誰がはいていないのか。
分からない。雲山には、皆目見当もつかない。
というか、パンツを片手に酔いつぶれた少女たちを前にして、あたふたと挙動不審な態度を取るこの雲山の姿も、相当まずい状態であることは間違いない。まあ、一輪に見られた程度であれば、彼女はまず事情を聞いてくれるだろうし、少なくとも、他の面々と比べても、最悪の事態になることはないと思われるが。
瞬間、雲山の頭の上に、電球がピロリン、と浮かび上がった。
そう。
そうである。
一輪がいるではないか。
暗闇のなか、ひたすら彷徨っていたところに、突如として天から光明が差した迷い人が如く、雲山は熟睡している一輪へと救いの目を向けた。
雲山の長年のパートナーであるこの少女は、機転を利かせるのが非常に上手い。なれば、この事態、任せるのは適任ではないか。
彼女に事情を話して、誰かが悪酔いしてパンツを脱ぎ捨ててしまったようだ、起きたときに可哀想だから、どうにか穏便に誰にも気がつかれないように処理してやってくれ。そう話すだけですべてが解決する。後は一輪が万事上手くやってくれるだろう。
ふっ、と心が軽くなったように雲山は感じた。
そうとなれば善は急げである。
やはり、最後に頼ることが出来るのは己がパートナーということか。
雲山がすぐさま一輪を起こそうと、彼女の肩に手をかけようとした、まさにその瞬間。
ふと、あるひとつのリスクが雲山の脳裏をよぎった。
このパンツの持ち主が一輪だったときはどうする?
いや、一輪は自分に対して羞恥という感覚はもう持っていないだろう。
目の前で着替えをするくらいだ、何とも思っていないはずだ。そのはずだ。
しかし。
しかしである。
あるいは、こう考えられたらどうする?
一輪を起こす。
彼女に事情を話す。
実はパンツの持ち主が一輪だった。
きっと、一輪は笑うだろう。
私ったら、はしたないことを……。気がついたのが雲山だけで良かった、と。
だが、このときに。もし。
というか、さすがに酔っただけでパンツを脱ぎ捨てるようなことはしないはずよね……。これって誰かに脱がされたんじゃ……?
もしかして、雲山が……? ううん、そんなはずない、雲山に限ってそんな……、いやでも……、まさか、まさか、雲山……、
いつもは気にしてないふりをしていて、酔っちゃったはずみで、こんなことを……?
ううん、もしかして、心のどこかで、いつか私にイケナイことをしたいと思っていた……?
いつかいつか、とチャンスをうかがっていた……?
そして、いざチャンスがきたと私のパンツを脱がして、そして、そして……。
違う。
違う、一輪、そうじゃない。そんなことあるわけない。
自分に限って、そんなこと、有り得ない。
あのとき、あのときから、自分は君を守ると心に決めた。そんな自分が、どうして君にそんなことをしなければならない。
一輪。
一輪、頼む、お願いだ。信じてほしい。自分はそんな男ではない。
その手のものは何……と言われても、知らない、分からない。どうして、自分がこれを手にしているのかも分からない。
そうだ、誰かにはめられたに違いない。これは罠だ。一輪、これは罠だ。何者かの罠だ。自分たちの中を引き裂こうと画策した者が居る。そうに違いない。
騙されるな一輪。……一輪。一輪……? どうした一輪? 待て、待ってくれ一輪! これは、違う、違う!
すまない、これは……、違う! そういうことではなくて! 話を……、一輪! 頼む、話を、一輪! 一輪!!! 一輪ッッッ!!!!!
妄想上の一輪に百万回ほど謝罪し続け、雲山はどうにか元居た世界へと戻ってきた。
そうして、出した結論がひとつ。
一輪に頼るのはやめておこう。
自分は男である。なれば、自分のことは自分で解決しなければならない。
彼女に頼ることになるなど、男としてどうかと思うものだ。
難事こそ、一人でやり遂げなければ男ではない。そうだろう? うん。それがいい。
颯爽とひとつの選択肢を潰すことにした雲山は、ふぅ、と息をついた。
さ、て。
現実と直面する時間である。
現状は何一つとして進展していない。悪い方向にも、良い方向にも転んでいない。
ひとつ動きがあったとすれば、実際には関係ないかもしれない相手に勝手に謝り倒していた雲のおっさんしかいない。
ふと外を見ると、既に夜の時間は通り過ぎ、空が白くなりつつある。もう、時間はない。
しかし、この状況、全くといっていいほど手がかりを見つけられていない。
このパンツが誰のものなのか。
確かめる術もない。一輪を頼ることも出来ない。時間もない。逃げることも出来ない。
さあ、いよいよ追い詰められた。
パンツを片手に、顎に空いたほうの手をやり、雲山はうんうんと唸るが、妙案も思い浮かばない。
雲山は唸るのを止め、彫刻の如く沈黙すると、数秒の間を置いて、カッ、と目を見開いた。
こうなれば、最早やけだ。一発で引き当てることに望みを賭けて、一人だけ起こして事情を話す。もう、これしかない。
持ち主をはずしてしまった場合は、色々とまずいことになるだろうが、そんなこと、もう知ったことか。
なるようになる。雲が風に流されるが如く。その流れに、身を委ねるしかあるまい。
完全に開き直った雲山は、ギロリ、と眠りこける同僚たちに厳しい視線を向けた。
このパンツの持ち主が、このなかの誰なのか。
可能性としては、恐らく均等であるだろうが、それでも、自身の選択には納得したいところである。
開き直りつつも、冷静さは失わない。
この場での有効な選択方法。
雲山は、『消去法』を選択することにした。
『消去法』、つまり、雲山の主観による判断にて、このパンツの持ち主ではないと思われるものを順々に候補から消していき、最後に残った者が、このパンツの持ち主(のはず)となるわけである。
雲山は、フーッ、と息を吐き、冷静な判断が出来るよう、一度、心中をフラットな状態に戻した。
そうして、彼は思考を開始する。
まず一輪は外す。理由は特にない。とにかく外す。彼女ではない。そのはずだ。そうあるべきだ。それが世界の正しい姿であるはずだ。逃げではない。断じて。断じて逃げてない。
次。
おおよそ、高い確率で違うと思われる者。
このなかだと、やはり、ナズーリンという線は薄かろうと思われる。完全に雲山の印象であるが。仮に、このパンツが彼女のものだとしても、それはそれで納得できるような気もするが、雲山の主観的には、彼女はこのパンツの持ち主ではないと思われる。似合う似合わないではなく、黒の下着は彼女のカラーに合わない気がする。どちらかといえば、しましま……、否、蛇足。
さあ、次。
残りは、村紗、ぬえ、寅丸、マミゾウ。
何れも、このパンツの持ち主である可能性が高い者ばかりである。
だが、ここまで来たら、雲山の主観なのだから、意外性とかそんなものはもう関係ない。
じゃあ、寅丸。寅丸を外す。彼女も黒のパンツというよりは、虎柄……、否、これも蛇足。
では次。
…………ぬえ。ぬえを外す。彼女の性格から察するに、背伸びした下着を好んでいる可能性も勿論あるが、雲山的にはまだ早いと判断する。
よし、次。
村紗かマミゾウ。どちらか。
この二択。
最終的な判断基準を言えば、『雲山の主観=雲山の好み』というわけである。
逆に言うと、このパンツ、雲山は誰にはいていてほしいのか?
それは……。
ガラリ。
思考に耽っていた雲山の後ろで、戸が開く音が響いた。
その瞬間、完全に背後への意識を絶っていた雲山は、あまりの驚きに飛び上がりそうになるのをどうにか堪え、そして、ほぼ反射的に、パンツを己が手の中に握り隠していた。
内心パニック寸前になりながらも、年の功と経験でそれを一切表に出すことなくやり過ごし、常の無骨な表情を浮かべたままに、ゆっくりと雲山が振り向くと、そこにいたのは。
「――おはよう。雲山」
振り返った雲山と目が合った瞬間、彼女は微笑を浮かべ、雲山に挨拶をしてくれた。
聖白蓮。
命蓮寺の住職であり、この大所帯な組織の実質的なトップを担っている女性である。
あらゆる妖怪に手を差しのべてくれる彼女に救われた妖怪は数多く、雲山もその内のひとりである。
昨日から一日ほど留守にすると言っていたはずの彼女であったが、この早い時間帯に寺に帰ってきたことを考えると、朝の勤行に間に合うように人里を出立したのだろう。成程、生真面目な彼女らしい。
そんな我らが住職は、常であれば、慈母のように万物を包み込む優しい雰囲気を醸し出しているのだが、今、このときにおいては、そんな雰囲気からは程遠く、柔和な表情を浮かべてはいるものの、どこか、つい後ずさりしたくなるような、威圧感を発しているような凄みを感じ取ることが出来た。
しかし、それもそのはず。
室内に転がる酒瓶。散乱しているつまみ、料理の類。だらしなく眠りこける弟子たちの姿。
この部屋で何が行われたのか。頭を捻る必要もないほどに、容易に答えにたどり着くことが出来るだろう。
雲山的には、未だ解決出来ていない大問題を抱えているところに、新たな大問題が転がり込んできたのだから、もう大変な状況である。
何か言い訳を――。
パニック寸前の頭のなか、白蓮に挨拶を返すことすら出来ないままに、どうにかして頭を働かせようとする雲山であったが。
「――喝ッ!!!!!!!!!!!」
瞬間、爆薬が炸裂したかの如く、すさまじい爆音が室内に轟いたと思った瞬間、何事かと飛び上がって起きたのは、眠りこけていた命蓮寺信徒たちである。
何、何? と状況を把握しようとキョロキョロと周囲を見回す者、起き上がった瞬間に白蓮の姿を認めて、一言も発することも出来ず、この世の全てに絶望したような表情をする者、誰よ、もううるさいなー……、と現実に直面する一歩手前の者、また、未だ眠りこける猛者もいたりしたが。
「……皆、そこに直りなさい」
白蓮の二言目の言葉に、起き上がった全員が現実に直面するや否や、雷光の如く早さでそれぞれ眠りこける者を叩き起こし、叩き起こされた者も白蓮の姿を見て、一瞬で全てを理解したのか、全員が全員、その場に姿勢を正して座した。
まるで、刑が執行される直前の死刑囚の如く、凄まじく張り詰めた緊張感が室内に充満する。
今、この場の中心であり、支配者でもある聖白蓮は、微笑を浮かべてはいるものの、その実、『怒り』の二文字が分かり易すぎるほどに伝わってくる。
滅多に見ることがない彼女の姿に、対する弟子たちは恐怖に慄いていたが、今このときの雲山の意識は、白蓮への恐怖よりも、全く別のものへ向かっていた。
このパンツどうしよう。
数時間ほど続いた白蓮の説教であったが、ひとまず話すことは話したとして、一度区切りをつけることにしたようで、宴会の件については一旦保留とし、後ほど白蓮の裁量を待つことと相成った。
宴会に参加していた各人は、戦々恐々、己が肩を抱き身震いしていたが、雲山はそれどころではなかった。
白蓮の説教の最中、雲山は、このなかの誰かがパンツを身に着けていない状態であるというのであれば、それが態度に出てもおかしくないはず、と思い、つぶさに全員の態度、行動を観察していたのだが、残念ながら、妙な動きをする者はいなかった。
白蓮に怒られている最中だということを考えれば、パンツの有無よりもそちらに意識が向いたといえば、それはそれで正しいとは思うが。
雲山は、己が右手に目をやる。
ぎゅっと拳を握ったままの、ごつくて大きな右手のなかには、件のパンツが隠されたままだ。
このまま、自分が持っていていいわけはないだろうが、果たして、どうしたものやらと、雲山はほとほと困り果てていた。
と、そこに。
「どうかした? 雲山?」
耳通りの良い、澄んだ声が雲山の背後からかかった。
瞬間、直感的に、まずい、と雲山は思った。
しかし、ここで妙な態度を取ることは出来ない。声の主は、雲山に対して何かを感じ取って声をかけてきたのだろうから。
内心の動揺を表に出さないよう注意し、極めてゆっくりと雲山が振り返る。
振り返った雲山の視線の先にいたのは、彼の長年のパートナー、雲居一輪である。
長時間に渡る白蓮の説教を喰らった割には、彼女はけろりとした顔をしている。やはり、肝の据わりようでは命蓮寺内でも随一の少女である。
今の彼女は、寝巻き姿で常のフードは被っておらず、ただの可愛らしい少女のようにしか見えないが、今、このときの雲山にとっては、これ以上ない強敵であった。
というのも、この雲居一輪という少女、雲山との付き合いの長さゆえか、雲山が隠し事をしていたとしても、簡単に見破ってしまうのである。
己が隠し事を見破られる度に、この少女には勝てる気がしない、と雲山は諦めたように息を吐くしかなかった。
だが。
しかし。
そうだとしても。
悪夢のような空想のワンシーンが雲山の脳裏に浮かび上がる。
あのようなこと、あってはならない。
たかがパンツ如きで一輪との関係が拗れることなど、あってはならない。そんなこと、許されるはずがない。
そのためにも、この場は、何としてでも誤魔化しきらなくてはならない。
バッドエンドを避けるべく、雲山は至極平然な風を装い、『特にどうもしないが、そちらこそどうかしたか?』といつものようにぶっきらぼうに応えた。
「ん、何か、元気なさそうに見えたから」
声をかけた割りに、さして気にもしていない風な一輪の口ぶりからすると、ただ何となく気になったから声をかけた、という程度の疑問なのだろうか。
パートナーとして長い付き合いをしている間柄でもあり、互いの機微な感情の動静には、気がつきやすくなるものだとは思うが。
雲山としては、一輪が確信を得ていない様子だというのは収穫である。このまま、彼女をどうにかやり過ごし、一刻でも早くこの場から脱却しなければ。
『白蓮の説教後だというのに、元気があるほうがどうかしているだろう』と雲山は尤もらしく応える。
「それもそうだけど……。んー、姐さんの説教中の雲山、心ここにあらずって感じで、らしくないなって思って」
何と恐ろしい。
この少女、雲山の心中を手に取るように把握できるというのか。
確かに、白蓮の説教よりもパンツの持ち主が誰なのかを探るべく、そちらに意識を向けてはいたが、百パーセント全意識を向けていたわけではない。白蓮の話にも耳を傾けながら、不自然でない程度に周囲に意識を向けていたはずなのだ。そうでなければ、まず、白蓮に看破されるからである。
内心で冷や汗をかきつつも、何とかして一輪の疑問を誤魔化すべく、雲山は常の自分を演じることを念頭に、彼女に続ける。
『起き掛けで酒も残っていたせいかもしれん。確かに、あまり集中は出来ていなかったとは思うが』
「そ。別にいいけど、姐さんに気取られてたら、さらに姐さんを怒らせることになってただろうし、もうちょっと気をつけてよね」
『分かった、以後気をつけよう』と雲山が返すと、一輪は、うーん、と大きく伸びをした。
「でも、姐さんに見つかったのはまずったわね~、まさか、こんな早く帰ってくるとは思ってもみなかったわ~」
ふわぁ、と、一輪は可愛らしく欠伸をした。
どうやら、一輪の疑問は解消出来ないまでも、どうにか誤魔化すところまでは持っていくことに成功したようだ。
「はてさて、どんなお仕置きが待っていることやら。くわばらくわばら」
『仕置きについては、覚悟しなければならないだろうな』と雲山は一輪に適当に合わせながら、会話を終わらせて、そそくさとその場を離れようとした。
「――右手、どうかしたの?」
緩急。
危険地帯は脱したかと思った矢先、よもやの指摘に、雲山の時間が一瞬、停止する。
「さっき、じっと右手見てたじゃない。それに、今もだけど、右手、ずっと握ったままだし」
ズドン、ズドン、と続けざまに直球でやってくる容赦ない指摘に、雲山は、それでも何とかして一時停止した頭を再起動させるべく、少しでも時間を稼ごうと何か答えようとしたが。
「何か隠してるの?」
一輪が雲山に話す隙を与えてくれない。
もしかしたら、一輪は初めから確信を持って雲山に問いかけてきたのかもしれない。
あえて最初から確信に迫らなかったのは、後から仕掛けることで雲山を油断させて動揺を誘うためか。
だとすれば、この少女の何と恐ろしいことか。
「私たちの間で隠し事はなしよ。雲山」
雲山は、一輪の問いかけに対して、何も答えることが出来ないでいるのだが、最早、確信を持った調子で、彼女は雲山に降伏勧告を告げた。
「白状なさい♪」
にっこりと極上の笑みを浮かべた一輪の表情は、今このときの雲山にとっては、この世のどんなものより恐ろしいものであった。
場所を変え、一輪の部屋で、一輪と雲山が対峙していた。
何を隠しているのか、この場で吐けと一輪は追求の手を緩めようとしなかったが、ここでは、ちょっと……、と雲山がせめて場所を変えてくれと懇願したためである。
意外にも、雲山のその申し出は簡単に承諾した一輪であったが、「場所を変えてあげるから、ちゃあんと全部話してね♪」と返されたときには、ああ、もう逃げ場はどこにもないんだな、と雲山はどこか諦めにも似た感覚に襲われていた。
そうして、一輪の部屋に座するふたりではあるが、それぞれ、実に対照的な態度である。
片や、むん、と腕組みし、さあ吐け今吐けすぐ吐け、と言わんばかりに凄む一輪に対し、常より1割か2割ほど身体が縮こまっているように見える雲山の姿は、どこか、悪戯がばれて叱られている大型犬のようにも見えた。
「雲山」
実に端的に催促をする一輪に対し、雲山は、びくり、と小さく身を震わせた。
ただ名前を呼ばれただけだというのに、今の彼女の言葉には、言いようのない、妙な迫力が内在していた。
「…………」
「…………」
ほんの少しの静寂の間。
その空白の時間は、きっと数秒と経ってはいないはず。
にも関わらず、雲山には、その少しの間が恐ろしいほど長く感じた。
ぐるりぐるりと色んなことが彼の頭を巡りゆく。
――そう。
もう――。
……うん。
浮かんで消えて出てきて伸びて曲がってはじけて。
思考はまるで形にならず、出てきて消えては何も残らず。
この場において、考えることは無駄なことに過ぎない。そういうことだ。
そしてとうとう、雲山は腹を決めた。
この状況である。もう、このまま黙っていてもどうにもならない。こうなれば、なるようにしかならないのだから。
意を決したように、雲山は伏せていた視線を一輪へと向ける。
凛とした真っ直ぐな瞳が雲山の視線とぶつかる。
その勝気な瞳に、若干気圧されたように、雲山が数センチほど身体を縮こませてしまう。
なけなしの勇気が霧散してしまいそうになるが、それでも、何とか寸でのところで散ってしまそうになったそれをかき集め、雲山は己を奮い立たせる。
ひとつだけ。
思わず、雲山は前置きをした。
一輪は、小首を傾げて雲山に続きを促す。
他意はない。
その一点においては、自分は嘘偽りなく、またそのつもりもない。今までも。これからも。
これだけは、この気持ちだけは、何に置いても信用して欲しい。
その言葉の通り、嘘も、偽りもない真っ直ぐな自身の心を吐露した内容に、一輪は、ゆっくりと、それでいて、力強く頷いてくれた。
そんな一輪の様子に、わずかに心を安堵させた雲山は、目を閉じ、数秒ほどの間を置いた後、意を決したように、カッ、と目を開けると、それまで握り隠していた、一枚のパンツをその大きな手から取り出した。
雲山が手から取り出したそれを見た一輪は、全く予想していなかった物体の登場に、流石に面食らったのか、二、三、ぱちぱちと目を瞬かせていた。
皆が酔いつぶれて眠りこけていた頃合、台所で水を飲もうとして、部屋を出ようとしたところで、この下着の存在に気がついた。あの場にいた誰かの物だと思い、どうにかして、その誰かが恥ずかしい思いをしないようにしたいと考えたが、どんなに考えても妙案が思い浮かばず、とうとう誰のものかも分からないまま、どうすることもできず、今、自分の手のなかにある。
この、これをどうすればいいかと思い、今の今まで途方に暮れていた。
と、パンツをめぐる、自身の今現在までに至る行動について、雲山は包み隠すことなく、一輪に話した。
全てを話しきり、ふぅっ、と息を吐いた雲山は、一種の妙な開放感と、ズン、と胃が重くなるような、何とも味わったことのない感覚に襲われた。
そして、まるで、裁判官の裁定を待つ被疑者のような面持ちで、雲山は一輪の反応を伺う。
「…………ぷっ」
数秒ほどの沈黙の後、彼女の口から発せられた第一声は、まるで、雲山が予想もしていないものであった。
「く……、くふふっ、ご、ごめ、うんざ……ふ、ふふふっ」
何かを堪えるように肩を震わせていた一輪であったが、ついに、あっははは、と堰を切ったように笑い始めた。
その一輪の姿に、雲山は事態が飲み込めず、ただただ呆然と爆笑する一輪を見ていることしか出来なかった。
そんな雲山とは対照的に、可笑しくて仕方がないといった風の一輪は、ひとしきり笑った後、目に涙を浮かべながら、こみ上げる笑いをどうにか押し殺し、雲山に告げた。
「……雲山、それ、マミゾウさんが葉っぱを化かしたものよ?」
何とも呆気なく、一輪は事の全貌を明かしてくれた。
そして、その内容のあまりの馬鹿馬鹿しさに、雲山は、その事実を頭の中で認識することが出来なかった。
「っで、でも、流石マミゾウさんよね。これだけ長い間、葉っぱを下着の形のままにすることが出来るんだもの……ぷふっ」
未だ、肩を震わせて笑いを堪えている一輪に対し、雲山は、ようやく頭のなかで、その馬鹿馬鹿しい内容を認識できたのか、ふーっ、と大きな大きな溜め息を漏らした。
何だ、そういうことか。
まず、彼に湧き上がってきた最初の感情は、心の底からの安堵であった。
何か、もう、何もなくて良かった。妙なことにならずに済んで良かった。それだけである。
「それ、いつ術が解けるか分からないけど、雲山が持ってると色々と都合が悪いだろうし、私が持っててあげるわ」
そう言いながら、一輪が雲山に手を差し出す。
雲山は、『全くひと騒がせな』とつぶやきながら、件のパンツを一輪に手渡した。
パンツを手渡しながら、あれだけ散々苦悩した時間は何だったのだろうと雲山は思ったが、色んな方面でこの件が馬鹿馬鹿しすぎたこともあり、これ以上、深く考えないことにしておいた。
ひとまずのところ、自分が馬鹿を見ただけで何事もなかったのだし、とりあえずはそれでいいか、と自身を納得させることにした雲山は、『何だか疲れた。外で気分転換をしてくる』、と一輪に言い残して、部屋を後にすることにした。
去りがけに、一輪から「災難だったわね」と声が届いたが、『全くその通りだ』と雲山はぼそりとつぶやき、その場を去っていった。
心底安堵したようにゆらゆらと立ち去っていった雲山を見送って、一輪は、ふう、と息を吐いた。
昨晩、何がきっかけとなったのかは忘れてしまったのだが、このパンツを全員が爆笑しながら投げつけ合うという意味不明なレクリエーションが始まり、何だかよく分からないまま、全員が満足して寝落ちした、というのが事の真相である。全く、酔いと場の雰囲気とは恐ろしいものだと一輪は思う。
実を言えば、一番楽しそうに、このパンツを投げまくっていたのは、他ならぬ一輪だったりする。
というのも、一輪は、このパンツを見た瞬間に、持ち主が誰なのかが分かったからであったりするのだが。
だからこそ、雲山がこのパンツを取り出したときには、色々な意味で驚いたものだ。しかし、それをおくびにも出さず、至極自然に対応してのけたのは、流石というところか。
あのとき、雲山は一人酔いつぶれていて、部屋の片隅で眠りこけていたため、事の顛末を知らなかったのだろう。
一輪が真相を雲山に話さずに適当な嘘を吐いたのは、その方が雲山にとって良いだろうと思っての行動だった。
一輪は、手にしたパンツを見やり、困ったように頬をかいた。
「……さて、これ、どうやって姐さんに返したものやら」
一輪の口から漏れた小さなつぶやきは、誰の耳にも入ることはなかった。
雲山と一輪がそれぞれ可愛かったです。
ですよねーw
酔っ払いの意味不明なノリってよくあるよね
基本的に雲山の内心の焦りだけで話が進んでいたのにこんなに笑えるなんて。笑いました。
これは巧い!