1.
慧音が死んだ。
春の初めのことだった。陽射しは段々と温かくなり、だけどまだ山の奥の方では雪が積もっている、そんな時季だった。
慧音は岩場に頭の中の物をすべてぶちまけて、冷たくなっていた。
死体を見つけたのは私だった。その時私は、竹林のあばら家に独りで居るのが何となく面白くなくて、人里の方まで下りてきていた。里の中は、出ていてすぐ分かるほどざわついていた。
私は里人を一人捕まえて訳を訊いた。いわく、昨日から慧音の姿が見えないのだという。
昨日、小さな集会があったらしい。慧音もその集会に出席する予定だったのだが、しかし、いつまで経っても姿を現さない。忘れているのではと家を訪ねてもみたが、家の中には誰も居ない。それでも急用が入ったのだろう程度に思っていたのだが、一晩明けた今日になっても慧音は姿を見せなかった。流石に不審に思って、里中を探し回っているところだったようだ。
話を聞いている時から、私は漠然と嫌な予感がしていた。何か取り返しのつかないことが起きている、そういう直感があった。
私はすぐに竹林へと引き返した。心当たりがあったわけではない。これもまた一つの直感として、慧音は竹林にいると気付いた。
果たしてその直感は正解だった。
私は岩場に転がる顔の潰れた死体を見つけた。
そこは平坦な竹林の中にふとある、深い谷の一番底だった。巨大な鬼が地面を深く切り裂いたみたいに両脇が絶壁になっていて、谷底には小川が流れていた。
底までは陽の光が届きにくいのか、日中にも関わらず薄暗い。まわりは大きな岩々が幾つも並び、まだ雪が少し残っている。死体は雪の積もった岩場の上にあった。
恐らく、この絶壁の上から転落して、その上顔面から岩場に突っ込んでしまったのだろう。慧音の顔は、本当に人の顔であったのか怪しいほどに破壊されており、原型をまるで留めていなかった。
そんな凄惨な現場のはずなのに、どうしてか私の脳裏に最初に浮かんできたのは、綺麗だなという場違いな感想だった。真っ白な雪の上にひろがる朱色は、どこか背徳的な美しさを持っている。長く綺麗だった薄水色の髪は乱雑に広がり、所々を血や泥で汚している。それでさえ何か計算されて芸術性を感じる。
私はそれを綺麗だと捉えていた。
暫くそうして死体を見ていると、私は慧音の手に何かが握られているのに気付く。
今の場所からではよく見えない。私は一歩二歩と足を進め、その手にあるものを確認しようとした。すると、すぐに正体は明らかになる。
私は、はっと息を呑んだ。
止まっていた私の時間が動き出す。私は死体が握っている物の正体を知っていた。思わず駆け寄ってその手を抱きかかえた。氷のように冷たい手だった。
手が冷たい。冷たすぎる。
私は胸に抱えた慧音の手を、ぎゅっと強く抱きしめた。何だか頭の中が熱くなった。何も考えることが出来なくなった。
……どこか遠いところから、声が聞こえる気がする。誰の声かはわからない。何を言っているのかも、本当に遠くからの声だったのかもわからない。肩を掴まれたような気がするが、それさえ真実かどうか定かでない。
考えがまとまらない。考えがまとまらない。
何も考えることが出来ない。
慧音――と、震え切った声が出た。
2.
細い煙突から、白く長い煙が伸びていた。無遠慮に澄んだ青空に、一本の白い線はもうもうと昇り続けていく。
思っていたより臭いはない。説明されなければ、これが人を焼いて出来た煙とは思いもしないだろう。あの日見つけた顔のない死体は、こうして空気中に分解されていった。
煙の根元の建物の前では、黒服を着込んだ集団が立ち昇る煙を見上げている。年老いた大人からまだ幼い子供まで、その年齢層は幅広い。皆、手に数珠を携え、辛気臭い顔を浮かべている。ある者は泣き腫らした顔をし、またある者は今まさに涙を流した。
式が終わってから遺体は里の外れにある火葬場まで運ばれたが、参列者の人数は一向に減っていないようだ。恐らく最後まで見送りたかったのだろう。慧音は里の守護者として長い間、彼らに尽くしてきた。誰しも慧音と所縁のある者ばかりなのだ。
私はそんな彼らからは少し離れ、ぽつんと一本立つ梅の木の木陰にいた。根元に座り込んで体を幹に預け、やはり同じように煙を見上げている。
梅の木に花はない。すでに見頃に時季を桜に譲り、見上げても見えるのは梅の枝と青空だけ。殺風景な景色に、死体の煙ばかりが白かった。
……結局、涙は一滴も出ていない。私もまた、慧音とはそれなりに縁のある身だったのだけれど、涙を流す気分にはならなかった。薄情と言われればそれまでだが、私にとってこの葬儀は何の現実味もないものだった。
あの日のことは、死体を見つけて以降の記憶がない。私はいつの間にか自分の家に戻って眠っていた。明日葬儀を開くからとわざわざ伝えに来てくれた者が居なければ、そのまま眠り続けていただろう。まるで夢の中の出来事のようだったし、何より体調も芳しくなかった。
身体がやけに怠く、筋肉に力が入らない。半分眠ったように意識がぼんやりしている。あの日からずっとだ。
今もまた、ぼんやりと眠りかけて、ふと気付けば煙突の煙は止まっていた。
「妹紅」
腹立たしいほどに清冽な声がした。
相手が誰なのかはすぐに分かった。だから無視しようかとも思ったし、だけどそれはそれで面倒なことになりそうだとも思った。
私は頸だけを動かして声の方を向いた。蓬莱山輝夜がこっちに向かって歩いていた。
輝夜が着ていたのは上品そうな黒の着物だった。いつもは下ろしている黒の長い髪も、今は首の後ろ辺りでまとめられている。
当然、今日の日に合わせた格好だろう。とはいえ私は、輝夜がこんな恰好をしているのを初めて見た。
「ああ、どうした」
「気の抜けた声。どうしたはこっちの台詞よ。貴女、お線香くらいはちゃんと上げたんでしょうね?」
「さあ、どうだったかな。あまり興味がないんだ」
輝夜は腰に手を当ててこちらを睨んでいる。
やれやれと緩く首を振った。
「来るとは思わなかった。その服と髪は永琳か」
「これ? ええそうよ。私、こういう行事は初めて参加するから、ちゃんとやってもらおうと思って」
「なんだ、初めてなのか。……まあ、そういえば月人には寿命が無いものな」
私が納得して頷くと、こんなに長生きしているのにねえ、と輝夜は苦笑いをした。私にはその顔がやけに人間っぽく見えて、思わず目を逸らした。
輝夜はこの頃、人里に出てくることが多かった。ひとりでふらりと現れたり、薬を持ってきた薬師見習いの鈴仙について来たり。別に何かをしようというのでなく、興味の赴くままにぶらぶら歩いたり、忙しい親たちに変わって里の子供たちの面倒を見たり。
そういえば、よく物語を聞かせてくれるお姉さんがいると、子供たちが言っているのを聞いたこともある。
「……心配ね、あの子たち」
つい黒服の集団の中にいる子供に視線を向けていると、何か勘違いした輝夜がそんな風に漏らした。子供たちは寺子屋の生徒だろう。慧音の授業を受けた事があるかは定かでないが、慧音の存在を知らないはずはない。まだ何が起こっているのかわかっていないようで、不安そうにここまで連れてきた自分の親を見上げている。
中にはこちらに視線を寄越す子供もいた。輝夜が軽く手を振る。輝夜の元に行きたいが、そうしていいのかどうか迷っている風だ。
「慧音はずっと寺子屋の教師を務めていた。これから大変だろうな」
「そうね。落ち着くまでは時間がかかるでしょうね」
輝夜は悲しげに息を吐く。もともと子供好きな質だったのだろう。そして今、親しくしていた子供たちのあの顔を前に、自分に何ができるのか考えているようだった。
意外にいいところもあるんだな――。
そう一瞬思って、私は慌てて首を振った。
私と輝夜は長いこと争い合ってきた間柄だ。輝夜に対して負の感情以外が向くというのは、どうにも居心地が悪かった。
私は思わずもんぺのポケットに片手を突っ込む。いつの間にかできた癖のようなものだ。私は自分を落ち着かせたいとき、ポケットに手を入れる。
しかしポケットにはすでに先客がいたようで、突っ込んだ先からくしゃりと音がした。取り出してみると、それは小さな紙袋だ。少し汚れてはいるが中央に書かれている印は読み取れる。
「……輝夜。今日は暇か?」
「忙しくはないけど。でも嫌よ。今日は汚れたくないし」
「別に戦ってくれってんじゃないさ」
私は手に持った紙袋をじっと見つめる。これは慧音の死体の側で見つけたものだ。あの後すぐに永琳がやって来て、上白沢慧音は死亡したと宣告した。私はこの袋を拾ってポケットに入れた。
――そうだ。
輝夜などを見直している場合ではない。私にはするべきことがあった。
「ずっと考えていたことがある」
黒服の方を見ていた輝夜が振り返った。
「少し、訊いていいか」
「何よ、改まって。訊きたいことがあるなら勝手に言えばいいじゃない」
「お前のところの薬師の事なんだよ」
輝夜の顔が怪訝そうなものに変わった。何か口を挟もうとしたが、それを許さず先に続ける。
「あの日、いや、慧音の死んだあの晩。お前のところの薬師はなにをしていた?」
「永琳? 永遠亭にいたけど……」
「それは本当か? お前はそれをずっと見ていたのか?」
私は持っていた紙袋を輝夜に見せた。それは、永遠亭が薬を包むときに使う紙袋だった。永琳や弟子の鈴仙が患者に薬を渡すときに使う、「永遠亭」という文字の入った赤と青の紙袋。
輝夜は私の言いたいことを察したのか、ぎろりと瞳を細めて睨んできた。
「……あの日は急患が入って永琳が治療に当たっていた。だからずっと永遠亭から動いていないはずよ」
「お前も永遠亭にいたのか? 永琳と一緒に?」
「私はこの里に来ていた。てゐと一緒にね。世話したことのある子供のひとりが熱を出したっていうから、看病に行った。両親ともに集会に行かなければいけないらしくて、人がいなかったのよ」
「薬は」
「持って行かなかったわ。置き薬はあったし、そこまで酷い症状でもなかったしね。それはてゐが証明してくれるだろうし、てゐで不満ならその子の親を紹介するわ」
これで満足かしら、輝夜は苛立たしげに言う。
あらぬ疑いをかけられている、そう思っているに違いない。だが、だからと言ってここで引き下がるわけにもいかない。
もう一つ訊きたいことがある、そう口にした時、しかし間が悪いことに別の声がかかった。
「あの、お姉ちゃん……」
入ってきたのは子供の声だった。見れば、先ほど黒服の集団の中に見た子供のうちのひとりだ。
黒のおかっぱで、可愛らしい顔をしているが、少々地味な雰囲気の女の子。彼女は場の雰囲気の悪さを悟ってか、助けを求めるように輝夜を見上げている。
輝夜はすぐにその女の子の方へ振り向いて膝を曲げた。目線を合わせて、少々ばつの悪そうな笑みを浮かべる。
どうしたの、と優しく問いかけた。
「お父さんとお母さんがお骨を上げるから、一緒にどうかって。聞いて来いって……」
子供が言ってきたのは拾骨のことだった。焼いて骨だけになったそれらを骨壺に納める儀式。本来その骨壺は墓地へと埋葬されるものなのだが、しかし今回は墓地を作らず各々好きな場所に骨を撒くという方針だった。
どうやら有名人である慧音の弔い方法を巡って、各宗教勢力が口を挟んできたらしいのだ。しかもこういう時に場を納めるはずの博麗は、運悪くて自己の問題に忙しくてこちらに気を回している余裕はないという。
自分たちの慧音を政治的な道具にされて堪るものか。そう思った里人たちが考え出したのが今回の弔い方法で、特定の場所に墓地を設けないことで、これ以上誰にも口を挟めないようにしたのだ。
「そう。わかったわ。すぐに向かうと伝えてもらえる?」
輝夜に頭を撫でられると、子供はひとつ頷いて、また黒服の集団の中に戻っていった。
輝夜がちらりと私に視線を向ける。
「だそうだけど、一緒に行くでしょ? 先生とは親しかったんだし」
「いいや。私はいかない。興味もないし」
「貴女ねえ……」
輝夜は呆れ果てたというような顔をした。腰に手を当てて気だるげに首を振る。
「いい加減目を覚ましなさいよ。あんな小さな子だって現実を受け止めているのに。貴女もいつまでも子供みたいに拗ねてるんじゃ――」
「その骨の正体なんだがな」
輝夜の言葉を上から遮る。それは先ほど訊けなかったもう一つの質問だった。そして私が一番知りたいことでもある問い――。
「あの日見つかった死体は、本当に慧音のものだったのか?」
3.
私が例の竹林の谷まで足を運ぶと、岩場の雪はすでに溶けきっていた。雪解けの冷たい水が谷底を流れ、武骨な岩々に当たって飛沫を上げる。
今日は気温も高い。ちろちろと水の流れる音と、遠くに聞こえる山鳥の声。麗らかな春の陽気。春眠暁を覚えずというが、うっかりすると眠ってしまいそうな平和な気候だ。
ついこの間、惨劇のあった場所とはとても思えない。
谷底を歩いていた私は顔を上げて上空を見上げた。切り立った崖は20から30メートルくらいか。もしあの上から落ちて、硬い岩場に顔面から衝突してしまったら、それは悲惨な事になるに違いない。あの死体が崖の上から落ちたものだというところまでは間違いないだろう。
慧音の死は、そういう転落からの事故死として扱われている。診断を下したのは八意永琳だ。永琳は死体から血液やら何やらを採取して検査し、それが上白沢慧音のものであることを断定した。里の人々もそれを信じ切り、事故には何の疑いも持っていない。
だが本当にそうなのだろうか。私は信じられずにいる。
慧音の死に不審を覚えた私は、あれから密かに調べを進めていた。そしていくつか分かったことがある。生前の慧音は、たまに永遠亭に用があると言って出かけることがあったそうだ。そしてあの事故のあった晩も、やはり永遠亭に行っていたらしいのだ。
何の用かは知らない。だけど事故の以前から永遠亭との接触があったということは、何かしらのヒントになり得ると考えている。
それともうひとつ。慧音は少し前に、寺子屋の教師という職を辞めてしまったようなのだ。それより以前から後進の指導に努め、今はその人物が慧音の代わりに授業を教えている。
寺子屋教師というのは、慧音の天職だと私は思っていた。なぜ自ら職を辞したのか。単に嫌になっただけとは思えない。慧音は一度始めたことを途中で投げ出すのが大嫌いだった。それが何故辞職の決断に至ったのか。
私はふと思い立って、崖の上まで飛び上がった。多少距離はあるが、空を飛べるものにとって、これくらいの高さは障害にならない。私は崖の上に難なく着地した。
崖の上はそのまま竹林だ。背の高い竹がひしめき合い、陽光の届きにくいそこは鬱蒼として薄暗い。底に小川の流れる谷だけが開けている。
谷のすぐ側には人の歩ける街道がある。永遠亭まで繋がっている道だ。谷に沿うようにして平らに整備された道が続いている。
永遠亭はその名が広まると共に、増えた里からの来客者の為に、迷いの竹林の中に人里と永遠亭とを結ぶ道を設けた。以前は永琳の弟子が置き薬を持って行くくらいしか交流がなかったが、少しずつ里人も増えていくと、とてもそれでは足りなくなり、ならばと輝夜が発案して永琳に作らせたのだ。
見た目は舗装していない自然に近い道だが、歩いてみるとこれが中々快適で、妖怪に襲われる心配もなく、平らな道を最短ルートで歩くことが出来る。この道さえ通れば、迷いの竹林はもはや人を惑わすものではなく、私も時折受けていた永遠亭までの道案内の役を降りることが出来た。恐らく事故のあった晩も、慧音はこの道を通っていたはずだ。
私はそっと街道の地面に触れてみる。足元はそう悪くない。谷に近い場所では柵が設けてあるので、道を踏み外しての転落も考えにくい。益々もって事故原因に不審を覚える。
思考に詰まった私は、軽く首を振って息を吐いた。少し休憩しようと思う。
身体から力を抜き、大きく深呼吸をする。静かな竹林の中に山鳥の声だけが響く。もう一度息を吸えば、鼻孔をくすぐる甘酸っぱい香りを感じた。
この匂いは知っている。これは梅の花の匂いだ。
匂いに釣られるように辺りを見渡せば、谷の淵近くに一本の梅の木があった。里で見た梅はすでに花を散らしていたが、この場所の梅は僅かだが上の方にまだ花を付けていた。薄桃色の可愛らしい花が、風に吹かれて揺れている。
そういえば――。
私は生前の慧音と、一緒に梅の花を見に行こうと約束していた。冬が終わったら花見に行こうと、重箱に私の好きな料理を詰めてやるから、一緒に梅の花を見に行こうと、慧音に誘われた。
花見なら桜の方がいいんじゃないかと私は言った。だけど慧音は、珍しく自分の意見を押し通し、絶対に梅でなくては駄目なんだと言って聞かなかった。私もさして拘りがあったわけでもないので、それ以上反論しなかったが、慧音がこうも強情張るのは珍しいなと思っていた。
結果的に慧音は、私との約束を反故にしてしまった。だが私は、約束を破られたことよりも、約束を守れなかった慧音の無念の方が哀しかった。
私はそっと梅の木に近寄った。僅かに残る花の一房に手を伸ばす。無意識のうちの行動だった。手を伸ばしただけでは届かず、足の裏の筋をぐっと伸ばした。
声がしたのはその時だった。
「あれ妹紅さん。こんなところで何を……」
私は伸ばした手を反射的に引っ込める。何ともない風を装って振り返った。梅の花を手折ろうとしたことを咎められるのではないか、そんな下らないことを一瞬意識した。
声をかけてきたのは里人だった。声をかけた男性の後ろにもう三人ほど付いており、例の道を通って永遠亭に向かう途中であったのはすぐに知れた。
「いや。梅の花が咲いていたからちょっと近くで眺めていただけです。貴方たちは永遠亭ですか」
「はい。里の方に常備していた傷薬が無くなったのでそれを頂きに。八意先生には本当にお世話になりますよ」
「まあ、永琳は薬のことに関しては天才的ですからね」
あまり永琳のことを手放しで賞賛したくない私は、曖昧に頷いて返す。
「しかし大変ですね。道が整備されたとはいえ里から永遠亭まではかなり距離があるでしょう。帰りは荷物も増えますし」
「確かにそうですね。ですが我々はまだ恵まれている方ですよ。私の祖父の頃はまだ道がなく、迷いの竹林に入る事さえできませんでしたから。その頃は鈴仙さんだけが頼りでした」
「そういえば鈴仙は?」
鈴仙のことが話に出てふと思った。いつもは鈴仙が薬を持って行っているはずだ。確かにそれだけでは足りなくなったが、生真面目な彼女は、この習慣を止めることは無かったのだから。
今、鈴仙はどうしているのだろう。
「八意先生によれば、しばらく大事な用を出しているそうです。まあ鈴仙さんばかりを頼ってしまうのも情けないですから、丁度いいと思いますよ」
「鈴仙がいない……。何処に行ったかは聞いていませんか?」
「いえ。そこまでは。ただ大事な用とだけ……」
いつからですか、私が続けて尋ねると、彼らは互いに顔を見合わせて躊躇ったが、やがて「例の事故が起きる少し前からです」と答えた。
ならばと私は考える。輝夜の話と合わせれば、輝夜とてゐは里に、永琳は永遠亭に、鈴仙は所要があって出かけていたということになる。慧音はあの晩、永遠亭まで出かけていった。そしてそのとき永遠亭にいたのは永琳だけだ。
慧音は永琳に何の用があったのだろうか。あるいは永琳は慧音にどんな話をしたのだろうか。永琳はその後、顔の潰れた死体を慧音のものと診断している。
「しかし鈴仙さんには早く帰ってきてほしいですよ。八意先生は確かに素晴らしい人ですが、こう、何というか、取っ付き難い感じがして……」
里人のひとりが言った。同調するようにもう一人が続ける。
「もちろん先生には感謝していますよ。有難いことだとも思っています。ですが、どちらかというと鈴仙さんの方が親しみやすいというか」
「言いたいことは分かりますよ。永琳は独特な雰囲気を持っていますからね」
私も里人たちと同じ意見だ。永琳は月人、しかもその月人の中でも飛び抜けたエリートなのだ。地上の人間からすれば、接しにくさを感じてしまっても無理はない。
里人たちは、私が同じ考えだったことで少しほっとしているようだ。つい陰口を言っているようになってしまい、彼らも気まずかったのかもしれない。
さらに気が緩んだ彼らはこんなことも言う。
「これは噂で聞いただけなんですがね。その、八意先生。どうも鈴仙さんとは不仲らしいんですよ」
「えっ、そうなんですか」
「もちろん本当かどうかはわかりません。ですがいつも里に薬を持ってきてくれるのは決まって鈴仙さんの方ですし、永遠亭でもいろいろ手伝わされていると聞きます」
里人はそっと声を潜める。
「お蔭で鈴仙さんは毎日休む暇もないほど働き通しで、最近疲れがたまっているんじゃないかと心配していた所なんです。そんな時に……」
「永琳は何日もかかる仕事を鈴仙に与えた、ということですか」
確かに永琳は鈴仙の師なのだから、師が弟子に仕事を与えるのは当然だろう。だけどそれにだって限度はあるはずだ。私としても、本人の愚痴として師匠が厳しすぎるという話を聞いたことがある。
私は鈴仙と最初に会った時のことを思い出す。慧音のものによく似た薄水色の長い髪。背は高くもなく低くもなく、体つきも普通。頭の上に付いている折れた兎耳だけが特徴。
鈴仙は月の兎である。月から逃げてきた哀れな兎は、永遠亭という囲いの中で新たな人生を歩み始めた。
輝夜は鈴仙がやってきたとき、大層嬉しそうにしていたのを覚えている。誰にも内緒よと前置きして、新しくできた家族を私に自慢してきた。しかし、永琳はどうだったろうか。
「まあ飽くまで噂に過ぎませんけどね。八意先生にとっても大事な弟子のはずですし」
「期待しているからこそ、厳しく指導されているのかもしれませんなあ」
里人たちは一転して永琳を擁護するようなことを言いはじめる。やはりいつも世話になっている永琳に対して批判じみたことを言ってしまったのが心苦しかったのだろう。美人でもありますし、などと今度は永琳の良いところを口々に上げ始めた。
私は里人たちとはそこで別れた。かなり時間を潰してしまった彼らは慌てて謝辞を述べると、永遠亭までの道をまた歩きはじめる。気を付けるようにとその背中に告げて、私も自分の家に向かって歩き始めた。
自分の住んでいるあばら家は、途中まではこの道に沿って行くことが出来る。平坦に整備されとはいえ、鈴仙は荷車に山のように薬を載せてこの道を毎日歩いている。それは大変に骨乗れる仕事だろうと思う。最近では見かねた輝夜が鈴仙の手伝いまでしはじめている。
『でもね、これをやると永琳があまり良い顔をしないのよ』
輝夜はいつだったかそんな風に言っていた。当たり前だろうと思う。自分の主君が自分の部下に当たる人物の仕事を手伝っていると知ったら、誰だって複雑な気持ちになるはずだ。しかし、今里人からの話を聞いていた私には、ただそれだけの事には思えなかった。
輝夜は鈴仙を受け入れている。だから永琳は仕方なく弟子に置いたのではないか。月の都から逃げてきた鈴仙には、はじめ月から来たスパイではないかという疑惑があったという。永琳は鈴仙の事を本当に信用して弟子にしているのか。
そうだ。
昔、輝夜はこんなことも言っていた。
地上に逃げきたばかりで行く当てのない鈴仙に対して、永琳は第一声で、「殺した方がよい」 と言ったらしい。
4.
あれから数日経った。里の中を歩いてみたが、慧音の死ははや過去のもので、今、中心になっているは博麗が新しい巫女を立てたということと、鈴仙が未だ帰ってこないという話題のどちらかだった。
そういえば慧音の弔い方法を巡って対立が起こったとき、博麗は自分の問題で手一杯と言って関わりを拒んだ。その問題というのがこの事だったのだろう。
何でも次代の巫女はどちらかというと人間側に沿った人物であり、兼ねてから知られていた博麗神社の裏にある間欠泉を、温泉地として里人に開放する計画も立てているらしい。今は引き継ぎのややこしい儀式の最中で、人間妖怪問わず神社には近寄れないが、いずれ何らかの発表があるだろうとのことだった。
博麗霊夢の頃とは大きな違いだ。あの頃は妖怪神社として有名で、人間など近寄りもしなかった。これが時代の潮流というものなのだろう。皆々、新しい波に乗って生きている。
……私には、どうしてそうも簡単に慧音のことを割り切れるのかがわからない。
私はずっと慧音の死の真相を追っているが、多くの人々にとってあれは単なる事故としか捉えられていない。また、その死を惜しみつつも引き摺っている者など居らず、新しい波を受け入れている。
あの日、葬儀の日。慧音の死に多くの里人は涙を流した。そんな彼らはもう元の生活に戻り、あの日涙を流さなかった私だけが、未だにその死を引き摺っている。
とはいえ何も情報が得られなかった訳ではなかった。やはりあの晩、慧音は永遠亭に行っていたという証言が、多くの里人から得られている。一方、後に輝夜に尋ねれば、あの晩慧音は永遠亭を訪ねなかったという。二つの証言は矛盾している。
言うまでもなくどちらかの証言は嘘だ。里人が嘘を言う理由がないので、嘘を吐いているのは輝夜の方だろう。問題は何故嘘を吐く必要があるか、だ。
考えながら歩いていると、私の足はいつの間にか慧音の住んでいた家の方へ向いていた。里の外れ、民家の途切れた林の隅に、ちっぽけな木造小屋が建っている。慧音の生涯の住処だったそこは、主がいなくなって既に廃墟然とした空気を放っていた。
私は無言でその小屋の中に入った。当然ながら人の気配はしない。部屋の中も荷物が運び出されてがらんとしている。来月にはこの小屋も処分するのだそうだ。半妖とはいえ妖物の住んでいた場所、何か良くないものが取りつくかもしれない、とのこと。生前慧音が書き溜めた歴史書も、既に別の場所に運び出されている。
私も以前、何度かこの部屋に招かれたことがあった。部屋に上がると、慧音は決まってお茶を淹れてくれた。淵の欠けた安物の椀を自分に、綺麗で新しい椀を私に。そろそろ自分用のも買ったらどうだと言えば、まだ使えるから勿体ないと返ってきた。倹約家なのか貧乏性なのか、飾り気のないこの家の様子を見るに、単に自分のことには無頓着なだけかもしれない。
私は美味かったと言って椀を返した。慧音はお粗末様でしたと言って椀を受け取った。何てことないが心地のいい空間だった。慧音の側は、何故だか安心できる居場所だった。
今はただ、何もない空間が広がっていた。
「……帰るか」
そう呟いて、私は踵を返した。まるで毒のようだ。甘い記憶ばかりが思い出され、虚しさに心を揺さぶられる。これ以上留まるべきではないと思った。
だが、入口の引き戸を開けようとしたとき、ちょうど表の方から物音が聞こえてきた。
音は段々と近づいてくる。小さな、子供の足音のようだ。
「藤原、さん?」
「お前は確か……」
そのまま屋内まで入ってきたその子は、目を丸くして立ち止まった。まさか人がいるとは思っていなかったようで、私の存在に驚いているようだ。
彼女の姿は見たことがある。赤い着物に黒のおかっぱ、少々地味な顔立ち。あの時は黒の着物だったが、子供は葬儀の時、私が輝夜を問い詰めているときに骨上げの件で割って入ってきた女の子だ。
もしかしてと思っていたら、案の定、輝夜もその子の後から部屋の中に入ってくる。
「……何やってるの妹紅。人様の家で」
「お前も同じだろう。何をしにきた」
「私じゃないわよ」
輝夜が言うと、すっと動き出したのは女の子の方だった。彼女は胸に抱えていたものを、畳を敷いた部屋の中央まで持って行く。細く長い瓶の中には、花のついた枝が入っていた。
「桜か?」
「うん。この子がどうしてもお供えしたいって言うから。私は付き添い」
「桜伐る馬鹿梅伐らぬ馬鹿って言葉を知ってるか」
輝夜は何の事、と首を傾げる。もともと期待していなかったのでまあいいさで済ませる。
「しかし何で桜なんだ。確かに時季ではあるけど……」
「何でって先生が好きだったからでしょう? 遺骨はみんな撒いちゃったし、お墓も作ってないからお供えするには此処しかないし」
ねえ、と水を向けられた少女は、はい、控えめな声で答える。
「上白沢先生は桜が大好きで、寺子屋にいた頃はよく私たちと一緒にお花見に行きました。先生は桜を見ながらみんなでとお話するのが好きなんだと言っていました」
「そうか……」
青い空。満開の桜。子供たちに囲まれて笑う慧音の姿。私はそれを簡単に想像することが出来た。私もいつか、その輪の中にどうかと誘われたことがある。私は恥ずかしがって断った。そのとき慧音は、どんな顔をしていただろうか。
慧音はいつも私の手を引っ張って、人の輪の中に連れて行こうとした。慧音は里の人気者で、その周りにはいつも笑顔の輪があった。私はそれを離れたところから見ているだけだった。本当は加わりたいくせに、私なんかがいるのは場違いさと強がった。
慧音が掴んでくれた手のぬくもりは、今でもはっきり覚えている。
「鈴仙、いなくなったんだって?」
これ以上思い出に浸ることをしたくなくて、輝夜の方に話題を向けた。今、里で話題の中心になっている片方、失踪した鈴仙の件だ。
すると輝夜は、途端に嫌そうな顔をする。もう何人もの人に話したのだと言った。
「別にいなくなったんじゃないわ。仕事で出かけているだけよ」
「仕事、ね」
私はそれを信じない。いや、仕事を与えたのが永琳ならば、輝夜が正確なことを知っているはずがない。
「あの事故のあった晩から居ないようだけど」
「違うわ。あの事件の少し前からよ」
「それだって永琳が仕向けたことには変わりない。どうして信じられる」
輝夜の顔が険のあるものに変わる。眼差しは鋭く、口元は固く引き結ばれた。
「貴女が永琳のことを疑っているのはわかっているけど、私は永琳を信じているの。鈴仙だってそうよ。あんまり勝手な事ばかり言わないでくれる?」
「永琳の方はどうかはわからない。あいつはエリートの月人様だろ。あいつが誰かを信用することなんてあるのか」
「妹紅!」
とうとう輝夜が怒声を上げた。畳の上の瓶が揺れ、中に差した桜の枝がぱたりと傾いた。
同じ部屋の中にいるこの花を持ってきた女の子は、重苦しい空気に怯えてか何も言わない。ただぎゅっと輝夜の着物の裾を握った。
それに気付いた輝夜が、ぷいと私から視線を逸らす。女の子の頭にそっと手を置いた。
「永琳が鈴仙に何かをしたと考えているならそれはお門違いよ。鈴仙は私のお気に入りだし、大切な家族。永琳が手を出したりなんか出来ないわ」
「それはそうだろう。お前の前では出来ない。だから鈴仙を自分の下に付けたんじゃないか」
「だったら勝手にそう思ってなさい。私は永琳を信じている」
もういきましょう、と、女の子を促して輝夜は部屋の外に出ていった。帰り際、引き戸を力任せに閉めて、勢いのついた戸はばたんと大きな音を立てる。反動でまた少し開いてしまい、戸の向こうから昼の陽射しが入り込んでいた。
「……私も帰るか」
またそう呟いて、私は今度こそ部屋の外に出た。
一歩小屋から出ると、途端に陽の眩しさに目が眩む。思っていたよりも長く留まっていたのかもしれない。光に慣れるには時間が必要だった。
頭はぼんやりしている。思考がまとまらない。まるで半分眠っているようだ。
何か喉を潤すものが欲しい。出来れば冷たい井戸水がいい。確か里の中心近くに共用の井戸があったと思う。
私は自分の足を引きずるようにして、井戸のある方へ向かって歩き出した。冷たい水さえ飲めば、この靄のかかったような思考を整理し、いつからか感じ続けている倦怠感を吹き飛ばせるはずだ。
……輝夜が怒るのは無理もない。身内を疑われて気分のいい奴なんていない。
私と輝夜は健全な仲とは言えないが、一方を不当な理由で傷つけていい理由にはならない。とくに本人でなく身内に対してなら尚更だ。
それでも何かが引っ掛かる。何かを見落としているような。何かを見間違えているような。このまま事件を放置していいようには思えない。
しばらく歩いて、私はまた立ち止った。井戸を見つけたわけじゃない。少し前の方に、見たことのある後ろ姿を見つけたからだ。
黒のおかっぱ。赤い着物。うろうろと辺りを見回して、時折しゃがみこんだりを繰り返している。先ほど輝夜に連れられて行った女の子に違いない。
側に輝夜は居ないようだ。ひょっとして何か落し物でもしたのかもしれない。先ほど怖がらせてしまったこともあり、手伝いを申し出ようか、それとも声をかけずに立ち去った方が良いだろうか迷う。
「いや、別人か」
女の子が横を向いたとき、彼女の顔が少し見えた。顔さえ見れば、さっきの子とは似ても似つかない。地味めで大人しそうなあの子と違い、今目の前にいるのは態度も堂々としているし、少し悪戯な顔からはお転婆な気性が透けて見えるようだった。
「……そうか。そういうことか」
そして一陣の風が吹く。
脳裏に浮かんだのは、満開の桜の下で笑う薄水色の髪。またそれとは別に赤い血で汚れたあの日の薄水色。
慧音の顔は潰れていた。慧音の死を診断したのは永琳だった。ところで――、鈴仙の髪の色は何色だっただろうか。
私は、八意永琳に問い質さなければいけないことがあった。
5.
「お待たせしました」
声が聞こえて、私は目を覚ました。冬も終わったとはいえ、夜の空気は未だ冷たい。その冷たい空気をも凍てつかせてしまいそうな、底冷えする声だった。
待ち合わせの場所を例の谷底にしたのは失敗だったな、そう思いながら、私は腰かけていた岩場から起き上がる。
どこか遠くで梟が鳴いていた。天上には月。まだ暗いが、東の空は少しずつ白みはじめている。
「本当に遅かったじゃないか。もう今夜というより明け方近い」
「文を受け取ったのは姫様です。絶対に行くなと仰るもので、中々空けられませんでした」
「輝夜は?」
「お休みになられました。だからこうして来られたという訳です」
なるほど。本当に輝夜の事だけは大切にしているらしい。私は声の相手の正面に立った。
薄闇に銀色が煌めく。束ねた銀の長髪は、抜き身の刃のような危うさで月光を反射する。顔は一見能面のように無表情だが、その眼差しは射抜かれそうなほど鋭い。
あるいは少し、不機嫌であるのかもしれない。
待ち合わせの相手、八意永琳は、はあと肩を竦めて再び口を開いた。
「何か私に聞きたいことがあるようですが?」
「ああ。鈴仙のことでちょっとな」
「あの子の? 残念ですがあの子は暫し出かけています。何か御用でしたか?」
私はゆっくりと首を振る。とぼけるつもりなら、それでもいい。
「鈴仙じゃない。鈴仙のことであんたに用があるんだ。――訊くが、鈴仙は今どこにいる?」
「さあ。わかりません」
「本当にいないのか」
「永遠亭には居ません」
「何のために出かけた?」
「……私が用を与えました」
簡潔な一問一答。だが永琳はこれで私の意図を察したようだ。つまり――。
「つまり貴女は、私があの子に何かをしたのではないかと疑っているのですね」
「疑っているんじゃない。確信しているんだ」
ここまで言い切って、永琳の表情に変化は見られない。夜の暗い影を背負ったまま、涼しい顔を浮かべている。
もし自分が悪事を働いたのではないかと疑惑を向けられれば、誰だって少なからず動揺するはずだ。それをしないのは開き直っているのか、確たる反論を用意しているのかのどちらかだ。
「輝夜は鈴仙を大切にしている。スパイ疑惑もあったというのに鈴仙を匿い、それを強引に連れ出されるかもしれないとの危惧から永夜異変を起こした。家族同然に接し、最近では里への薬売りの手伝いを買って出ているくらいだ」
「その通りです。姫はお優しい方ですから。姫ほど月兎にも地上人にも優しくあれる月人を私は知りません」
「そしてそのお優しい姫に仕えるあんたはあいつの意向に背くことは出来ない。例えそれが本心でなくとも、な」
きっと、永琳の眼差しが一層険しくなった。
並の妖怪、人間では、それだけで失神してしまうかもしれない。
「あのお方は私の全てです。私はあのお方のためだけに永遠を生きます。それを貴女に哂われる謂れはありません」
「別に馬鹿にしているんじゃないさ。ただ、あんたは輝夜の事しか考えていないって言ってるだけだ。……聞いたよ。あんた、鈴仙にはいろいろきつく当たっているんだって?」
「甘やかす方ではありません」
「そりゃあそうだろうな」
事実だと思う。かつて月の賢者だったという永琳は、地上で暮らし始めて千年以上経ってなお、得体のしれない非人間らしさ、月人らしさを持っている。その永琳が鈴仙を気遣う様など、私には想像も出来ない。
「鈴仙が月からやってきたスパイだっている疑惑、あれは完全に晴れたのか」
「あの子にスパイをやるような図太さはないでしょう。あの子は臆病な子です。それに正直な子でもあります」
「確かに馬鹿正直にあんたを師匠と言って慕っていたな。だけどあんたはどうなんだ。鈴仙の事を可愛い弟子と見ていたのか」
「……私がまだあの子を疑っていると?」
そうだと応えれば、永琳は呆れたように首を振る。
「なるほど。それで私があの子を永遠亭から追い出したのだと言いたいのですね。ですがそれは姫がお許しになられません。あの子は姫のお気に入りでしたから。ならば姫に仕える私にあの子を追い出すことなど出来ません」
「そうだな。輝夜がいる以上あんたは鈴仙に手を出せない。だけど輝夜がそれに気付かなければどうだ? 鈴仙はいつの間にかいなくなった。あんたが手を下したとは思いもしない」
「馬鹿な。何をしたところでいつかは気付かれます。何処に匿ったところでいずれご自身の手で見つけられるでしょう」
「無理だよ。何故ならそいつは本当に存在しないんだからな」
存在しないものを見つけることは出来ない。たとえ永遠に探し続けたとしても。
「鈴仙はもう死んでいる。死体もすでに処分されている。だけど輝夜はそれを鈴仙の死体だとは思っていないんだ」
「何を、そんなことが……」
「有り得るさ。だってその死体の顔は原型もなく壊れてしまっているんだから」
私はあの日、顔の潰れた死体を見た。
真っ白な雪に血の赤が広がっていた。
薄水色の長い髪は乱雑に広がっていた。
私は場違いにも、それを綺麗だと思った。
「あの日見つかった慧音の死体は、実は鈴仙のものだったんだ」
永琳は片眉をぴくりと動かした。
「あんたは邪魔な鈴仙を殺した。だけどそれを輝夜にばれる訳にはいかない。だからそれを慧音の死体だと誤認させた。――慧音と鈴仙は背格好も髪の色もよく似ていた。顔の潰れた死体の判別は難しいからな。医者のあんたがそれを慧音の死体だと診断すれば信じるしかないだろう」
「憶測です。証拠もない」
「証拠なら有るさ。私は例の亡骸の側でこの袋を見つけた。永遠亭の印の入った薬袋だ。これはいつも鈴仙が里人に薬を渡す時に使っていたもの。なぜそれを慧音が持っていたのか。死体が慧音じゃなかったからだ」
鈴仙は薬を持って毎日人里まで行っていた。薬は永遠亭印の紙袋に入れて配られた。当然、鈴仙はその紙袋を持っていたはずだ。
死体の側にそれがあったのは、死体が鈴仙のものだからだ。
私は、一歩永琳に近付いた。
「なあ永琳。あんた慧音をどこかに隠しているんだろう。死んでるはずの慧音を野放しにするはずがない。どこか誰にも見つからないところで匿っているんだ」
「……上白沢慧音がまだ生きていると?」
「慧音は私にとって大切なひとなんだ。なくてはならない。頼むから慧音を返してくれ!」
どこかで山鳥が羽ばたいた。そして一陣の風。ざわざわ、ざわざわと竹林の木々が騒めく。だがそれも所詮一時の事で、すぐに夜の静寂は戻って来る。
冷たい、氷のような沈黙。私は永琳から目を逸らさない。一言も聞き漏らしたりはしない。また一陣の風が吹く。
やがて永琳が重い口を開いた。
「……貴女は、少し勘違いをしているようです」
「なんだと」
「思えば最初に彼女を見つけたのは貴女でしたね。私も、もう少し貴女に配慮をすべきでした」
つい、と永琳が明後日の方向に顔を向ける。何か言い逃れを考えているのかとも思ったが、それにしては落ち着きすぎている。
それはまるで何かを待っているようだ。何か、誰かが此処に来るのを、じっと――。
「呼び出しが今夜であったのは幸いでした。説明の手間が省けます」
「誰が来るんだ。輝夜か?」
「すぐにわかりますよ」
竹林が静まり返る。遠くで鳴いていた梟も声を潜め、どこか張りつめた緊張感が辺りを支配する。よく耳を澄ませば、何か物音が聞こえてきた。
ざくざくざくざく。それは何者かの足音だ。段段と近づいてくる。――早い。走っているのかもしれない。
「永琳。一体誰が――」
「ああ、お師匠様!」
永琳に向けかけた顔をすぐに声のした方に戻した。現れたのは薄水色の長い髪。赤い二つの眼。柔和な顔を浮かべ、頭から生えた兎の耳はへにょりと途中から折れている。
私の前に現れたのは、もうこの世にはいないはずの存在、鈴仙・優曇華院・イナバだった。
「おかえりなさい、ウドンゲ。休暇は楽しめた?」
「はい。それはもう。でもお師匠様はここで何をなさっていたんですか?」
永琳はそっと鈴仙に近付くと、その長い髪に絡まっていた竹の葉を優しく引き抜く。
「何でもないわ。貴女は早く帰りなさい。姫が土産話を楽しみにしていたから」
「あ、はい。それじゃあ私はこれで」
「気を付けて帰るのよ」
鈴仙はぺこりとお辞儀をすると、またとてとてと走りはじめる。元気が有り余っているのか、スキップでもしかねない勢いだ。
また私と永琳だけになると、永琳は肩を竦めていう。
「あの子には暫く休暇を与えていました。勤勉で何事も一生懸命なのはいいのですが、休みも取らずに働き続けていてはいつか倒れてしまいます」
いくら休めと言っても聞かないので命令という形で強制的に休ませたのですが、と永琳は笑う。丁度いい機会だから温泉にでも入ってこいと、今までは博麗神社にいたらしい。確かにあの神社なら里人も妖怪も近づけなかったから、いい気分転換になったかもしれない。
「だけどそれが本当なら、輝夜は……」
「もちろん姫も知っていましたよ。その顔を見るに、姫も貴女には何も教えなかったのでしょう?」
「ああ。それにあんただって最初は知らないって」
「言える訳がありませんよ」
永琳は気だるげに首を振る。そして自嘲っぽく笑った。
「上白沢慧音は死んでしまったのですから」
とくん、と心臓の跳ねる音がした。
「貴女に呼び出されてウドンゲのことを聞かれた時、私ははじめ、ウドンゲのことを責めているのだと思いました。事故は永遠亭から帰る途中で起きています。あの子が休まずに里まで薬と届けに来ていれば上白沢慧音も死ぬことはなかったと、そう言いたいのだと思っていました」
「待て。慧音はやっぱり永遠亭に来ていたのか……?」
「はい。常用していた薬が切れたので追加分をくれないかと訪ねてきました。誰かに任せてしまえばよかったのに、あの日は雪も少し積もっていましたから遠慮してしまったのでしょう」
だから言えなかった。永琳はそう言った。事実を知れば鈴仙が責められるかもしれない。いや、鈴仙自身が気に病んでしまうかもしれない。だから永遠亭はこの事をひた隠しにした。
少なくとも休暇中に鈴仙の耳に入らないようにと、博麗神社の今の代の巫女にも協力してもらったらしい。
「でもなんで薬なんかを。慧音自身はそんなもの必要ないのに」
「いえ、必要でした。上白沢慧音はあの薬を常用していました。あれはちょっとした若返りの薬です。人間が飲めば老化を遅らせるくらいですが、妖怪、半妖ならば若い身体を取り戻すことが出来ます。さすがに寿命まで延びませんが、随分動きやすくなったと仰っていました」
思えば彼女は、来るべき日の為にずっと準備をしていたのかもしれません、永琳は感慨深げに言った。
「花見の約束をしていたそうですね」
「慧音から聞いたのか。確かに私は慧音と花見に行こうと約束した。――でもそういえば、何で梅だったんだ? 本当は桜の方が好きだったようなのに……」
「それは桜より梅の方が早く咲くからでしょう」
頭の中で警鐘が鳴り響く。
これ以上聞いてはいけない。これ以上ここに留まるべきではない。
だけど私の足は動かない。
そういえば永遠亭と人里を結ぶ街道ができたのはいつだったか。
思い出せない。
そういえば博麗神社の博麗霊夢が死んだのはいつだったか。
思い出せない。
「上白沢慧音は老いました。半妖である彼女に寿命が来るほどに月日は流れました。彼女はどのみち近く死を迎えるはずだったのです」
「なんだって……?」
「桜より梅にしたのは桜の季節には間に合わないと思ったからでしょう。今回の件はそれが仇となったのでしょうが……。上白沢慧音が手に握っていたもの、貴女は覚えているでしょう?」
顔の潰れた死体は何かを握ったまま冷たくなっていた。
その手の中に何があったのか。
永遠亭印の薬袋ではない。それは側に落ちていたものだ。手の中にあったものではない。
もちろん私はそれを知っている。
今も、覚えている。
私が黙ったままでいると、変化のなかった永琳の顔が苦々しいものに変わった。
「本当にわかっていないのですか? 貴女は誰よりもそれを知っているはずです。顔の潰れた亡骸の横で、あなたはその手をずっと握っていたではありませんか」
「……知らない。何のことだ」
「上白沢慧音の手には梅の花があったのです。貴女との約束を少しでも早く果たそうとして、崖の上にあった梅の木から花のついたその枝を。ですが彼女はその時誤って転落し、老いて空を飛べなくなっていた彼女はそのまま顔から岩場に……」
死体のあった谷の上には梅の木があった。その木は花を付けており、今より前ならさぞ美しく咲き誇っていただろうと思われた。
私はその花を取ろうとした。手が届かず、足の裏の筋を伸ばした。もっともっと伸ばしていたら、どうなっていただろうか。
私は呻くように呟いていた。
「……違う。私のせいじゃない。私は花見の約束をしただけなんだ。ただそれだけなんだ」
「貴女を責める人などいません。あれは事故です。誰のせいでもありません」
永琳が現場に到着したとき、私は梅の花を持った慧音の手を握り、呆然としていたらしい。声をかけても反応はなく、誰かが死を教えてやらねば動かすことも出来なかった。
私はその手の冷たさを覚えている。
白い雪と赤い血と。花弁が舞っていた。梅の花の薄紅色が。
私はすべて覚えていた。
「……嘘だ。あんたの言っていることは全部でたらめだ。全部嘘に決まっている。慧音はまだ生きているんだ」
「いい加減に目を覚ましなさい、藤原妹紅。上白沢慧音は死にました。私たちはそれを受け止めていかなくてはいけません」
「そんなものは信じない。死体の顔は潰れていたんだ。鈴仙じゃなきゃ誰か別の死体だったんだ。そうに決まっている」
永琳の顔を見ると、それはとても悲しげなものに見えた。永琳には似つかわしくない顔だった。まるで永琳本人でないように見えた。
この永琳は偽物だ。そうに決まっている。偽物の永琳から出る言葉なら、全部嘘に決まっている。
その時、私は背中に温かいものを感じた。振り向けば東の空から太陽が昇りはじめている。
間もなく夜が終わる。光のあまりの強さに目が眩む。私は思わず顔を背けた。
「よく聞きなさい妹紅。彼女は私たちとは違います。いずれ先に逝ってしまう存在でした。永遠を共に生きることは叶わない。ならば私たちは、それを受け止めるべきなのです」
「うるさい、黙れ! 慧音は生きている。あんたが隠しているんだ。早く慧音を返してくれ!! 頼むから私の慧音を――」
東の空に朝陽が昇る。
夢を見る時間がもうすぐ終わる。
新しい一日が、慧音のいない世界が、始まる。
慧音が死んだ。
春の初めのことだった。陽射しは段々と温かくなり、だけどまだ山の奥の方では雪が積もっている、そんな時季だった。
慧音は岩場に頭の中の物をすべてぶちまけて、冷たくなっていた。
死体を見つけたのは私だった。その時私は、竹林のあばら家に独りで居るのが何となく面白くなくて、人里の方まで下りてきていた。里の中は、出ていてすぐ分かるほどざわついていた。
私は里人を一人捕まえて訳を訊いた。いわく、昨日から慧音の姿が見えないのだという。
昨日、小さな集会があったらしい。慧音もその集会に出席する予定だったのだが、しかし、いつまで経っても姿を現さない。忘れているのではと家を訪ねてもみたが、家の中には誰も居ない。それでも急用が入ったのだろう程度に思っていたのだが、一晩明けた今日になっても慧音は姿を見せなかった。流石に不審に思って、里中を探し回っているところだったようだ。
話を聞いている時から、私は漠然と嫌な予感がしていた。何か取り返しのつかないことが起きている、そういう直感があった。
私はすぐに竹林へと引き返した。心当たりがあったわけではない。これもまた一つの直感として、慧音は竹林にいると気付いた。
果たしてその直感は正解だった。
私は岩場に転がる顔の潰れた死体を見つけた。
そこは平坦な竹林の中にふとある、深い谷の一番底だった。巨大な鬼が地面を深く切り裂いたみたいに両脇が絶壁になっていて、谷底には小川が流れていた。
底までは陽の光が届きにくいのか、日中にも関わらず薄暗い。まわりは大きな岩々が幾つも並び、まだ雪が少し残っている。死体は雪の積もった岩場の上にあった。
恐らく、この絶壁の上から転落して、その上顔面から岩場に突っ込んでしまったのだろう。慧音の顔は、本当に人の顔であったのか怪しいほどに破壊されており、原型をまるで留めていなかった。
そんな凄惨な現場のはずなのに、どうしてか私の脳裏に最初に浮かんできたのは、綺麗だなという場違いな感想だった。真っ白な雪の上にひろがる朱色は、どこか背徳的な美しさを持っている。長く綺麗だった薄水色の髪は乱雑に広がり、所々を血や泥で汚している。それでさえ何か計算されて芸術性を感じる。
私はそれを綺麗だと捉えていた。
暫くそうして死体を見ていると、私は慧音の手に何かが握られているのに気付く。
今の場所からではよく見えない。私は一歩二歩と足を進め、その手にあるものを確認しようとした。すると、すぐに正体は明らかになる。
私は、はっと息を呑んだ。
止まっていた私の時間が動き出す。私は死体が握っている物の正体を知っていた。思わず駆け寄ってその手を抱きかかえた。氷のように冷たい手だった。
手が冷たい。冷たすぎる。
私は胸に抱えた慧音の手を、ぎゅっと強く抱きしめた。何だか頭の中が熱くなった。何も考えることが出来なくなった。
……どこか遠いところから、声が聞こえる気がする。誰の声かはわからない。何を言っているのかも、本当に遠くからの声だったのかもわからない。肩を掴まれたような気がするが、それさえ真実かどうか定かでない。
考えがまとまらない。考えがまとまらない。
何も考えることが出来ない。
慧音――と、震え切った声が出た。
2.
細い煙突から、白く長い煙が伸びていた。無遠慮に澄んだ青空に、一本の白い線はもうもうと昇り続けていく。
思っていたより臭いはない。説明されなければ、これが人を焼いて出来た煙とは思いもしないだろう。あの日見つけた顔のない死体は、こうして空気中に分解されていった。
煙の根元の建物の前では、黒服を着込んだ集団が立ち昇る煙を見上げている。年老いた大人からまだ幼い子供まで、その年齢層は幅広い。皆、手に数珠を携え、辛気臭い顔を浮かべている。ある者は泣き腫らした顔をし、またある者は今まさに涙を流した。
式が終わってから遺体は里の外れにある火葬場まで運ばれたが、参列者の人数は一向に減っていないようだ。恐らく最後まで見送りたかったのだろう。慧音は里の守護者として長い間、彼らに尽くしてきた。誰しも慧音と所縁のある者ばかりなのだ。
私はそんな彼らからは少し離れ、ぽつんと一本立つ梅の木の木陰にいた。根元に座り込んで体を幹に預け、やはり同じように煙を見上げている。
梅の木に花はない。すでに見頃に時季を桜に譲り、見上げても見えるのは梅の枝と青空だけ。殺風景な景色に、死体の煙ばかりが白かった。
……結局、涙は一滴も出ていない。私もまた、慧音とはそれなりに縁のある身だったのだけれど、涙を流す気分にはならなかった。薄情と言われればそれまでだが、私にとってこの葬儀は何の現実味もないものだった。
あの日のことは、死体を見つけて以降の記憶がない。私はいつの間にか自分の家に戻って眠っていた。明日葬儀を開くからとわざわざ伝えに来てくれた者が居なければ、そのまま眠り続けていただろう。まるで夢の中の出来事のようだったし、何より体調も芳しくなかった。
身体がやけに怠く、筋肉に力が入らない。半分眠ったように意識がぼんやりしている。あの日からずっとだ。
今もまた、ぼんやりと眠りかけて、ふと気付けば煙突の煙は止まっていた。
「妹紅」
腹立たしいほどに清冽な声がした。
相手が誰なのかはすぐに分かった。だから無視しようかとも思ったし、だけどそれはそれで面倒なことになりそうだとも思った。
私は頸だけを動かして声の方を向いた。蓬莱山輝夜がこっちに向かって歩いていた。
輝夜が着ていたのは上品そうな黒の着物だった。いつもは下ろしている黒の長い髪も、今は首の後ろ辺りでまとめられている。
当然、今日の日に合わせた格好だろう。とはいえ私は、輝夜がこんな恰好をしているのを初めて見た。
「ああ、どうした」
「気の抜けた声。どうしたはこっちの台詞よ。貴女、お線香くらいはちゃんと上げたんでしょうね?」
「さあ、どうだったかな。あまり興味がないんだ」
輝夜は腰に手を当ててこちらを睨んでいる。
やれやれと緩く首を振った。
「来るとは思わなかった。その服と髪は永琳か」
「これ? ええそうよ。私、こういう行事は初めて参加するから、ちゃんとやってもらおうと思って」
「なんだ、初めてなのか。……まあ、そういえば月人には寿命が無いものな」
私が納得して頷くと、こんなに長生きしているのにねえ、と輝夜は苦笑いをした。私にはその顔がやけに人間っぽく見えて、思わず目を逸らした。
輝夜はこの頃、人里に出てくることが多かった。ひとりでふらりと現れたり、薬を持ってきた薬師見習いの鈴仙について来たり。別に何かをしようというのでなく、興味の赴くままにぶらぶら歩いたり、忙しい親たちに変わって里の子供たちの面倒を見たり。
そういえば、よく物語を聞かせてくれるお姉さんがいると、子供たちが言っているのを聞いたこともある。
「……心配ね、あの子たち」
つい黒服の集団の中にいる子供に視線を向けていると、何か勘違いした輝夜がそんな風に漏らした。子供たちは寺子屋の生徒だろう。慧音の授業を受けた事があるかは定かでないが、慧音の存在を知らないはずはない。まだ何が起こっているのかわかっていないようで、不安そうにここまで連れてきた自分の親を見上げている。
中にはこちらに視線を寄越す子供もいた。輝夜が軽く手を振る。輝夜の元に行きたいが、そうしていいのかどうか迷っている風だ。
「慧音はずっと寺子屋の教師を務めていた。これから大変だろうな」
「そうね。落ち着くまでは時間がかかるでしょうね」
輝夜は悲しげに息を吐く。もともと子供好きな質だったのだろう。そして今、親しくしていた子供たちのあの顔を前に、自分に何ができるのか考えているようだった。
意外にいいところもあるんだな――。
そう一瞬思って、私は慌てて首を振った。
私と輝夜は長いこと争い合ってきた間柄だ。輝夜に対して負の感情以外が向くというのは、どうにも居心地が悪かった。
私は思わずもんぺのポケットに片手を突っ込む。いつの間にかできた癖のようなものだ。私は自分を落ち着かせたいとき、ポケットに手を入れる。
しかしポケットにはすでに先客がいたようで、突っ込んだ先からくしゃりと音がした。取り出してみると、それは小さな紙袋だ。少し汚れてはいるが中央に書かれている印は読み取れる。
「……輝夜。今日は暇か?」
「忙しくはないけど。でも嫌よ。今日は汚れたくないし」
「別に戦ってくれってんじゃないさ」
私は手に持った紙袋をじっと見つめる。これは慧音の死体の側で見つけたものだ。あの後すぐに永琳がやって来て、上白沢慧音は死亡したと宣告した。私はこの袋を拾ってポケットに入れた。
――そうだ。
輝夜などを見直している場合ではない。私にはするべきことがあった。
「ずっと考えていたことがある」
黒服の方を見ていた輝夜が振り返った。
「少し、訊いていいか」
「何よ、改まって。訊きたいことがあるなら勝手に言えばいいじゃない」
「お前のところの薬師の事なんだよ」
輝夜の顔が怪訝そうなものに変わった。何か口を挟もうとしたが、それを許さず先に続ける。
「あの日、いや、慧音の死んだあの晩。お前のところの薬師はなにをしていた?」
「永琳? 永遠亭にいたけど……」
「それは本当か? お前はそれをずっと見ていたのか?」
私は持っていた紙袋を輝夜に見せた。それは、永遠亭が薬を包むときに使う紙袋だった。永琳や弟子の鈴仙が患者に薬を渡すときに使う、「永遠亭」という文字の入った赤と青の紙袋。
輝夜は私の言いたいことを察したのか、ぎろりと瞳を細めて睨んできた。
「……あの日は急患が入って永琳が治療に当たっていた。だからずっと永遠亭から動いていないはずよ」
「お前も永遠亭にいたのか? 永琳と一緒に?」
「私はこの里に来ていた。てゐと一緒にね。世話したことのある子供のひとりが熱を出したっていうから、看病に行った。両親ともに集会に行かなければいけないらしくて、人がいなかったのよ」
「薬は」
「持って行かなかったわ。置き薬はあったし、そこまで酷い症状でもなかったしね。それはてゐが証明してくれるだろうし、てゐで不満ならその子の親を紹介するわ」
これで満足かしら、輝夜は苛立たしげに言う。
あらぬ疑いをかけられている、そう思っているに違いない。だが、だからと言ってここで引き下がるわけにもいかない。
もう一つ訊きたいことがある、そう口にした時、しかし間が悪いことに別の声がかかった。
「あの、お姉ちゃん……」
入ってきたのは子供の声だった。見れば、先ほど黒服の集団の中に見た子供のうちのひとりだ。
黒のおかっぱで、可愛らしい顔をしているが、少々地味な雰囲気の女の子。彼女は場の雰囲気の悪さを悟ってか、助けを求めるように輝夜を見上げている。
輝夜はすぐにその女の子の方へ振り向いて膝を曲げた。目線を合わせて、少々ばつの悪そうな笑みを浮かべる。
どうしたの、と優しく問いかけた。
「お父さんとお母さんがお骨を上げるから、一緒にどうかって。聞いて来いって……」
子供が言ってきたのは拾骨のことだった。焼いて骨だけになったそれらを骨壺に納める儀式。本来その骨壺は墓地へと埋葬されるものなのだが、しかし今回は墓地を作らず各々好きな場所に骨を撒くという方針だった。
どうやら有名人である慧音の弔い方法を巡って、各宗教勢力が口を挟んできたらしいのだ。しかもこういう時に場を納めるはずの博麗は、運悪くて自己の問題に忙しくてこちらに気を回している余裕はないという。
自分たちの慧音を政治的な道具にされて堪るものか。そう思った里人たちが考え出したのが今回の弔い方法で、特定の場所に墓地を設けないことで、これ以上誰にも口を挟めないようにしたのだ。
「そう。わかったわ。すぐに向かうと伝えてもらえる?」
輝夜に頭を撫でられると、子供はひとつ頷いて、また黒服の集団の中に戻っていった。
輝夜がちらりと私に視線を向ける。
「だそうだけど、一緒に行くでしょ? 先生とは親しかったんだし」
「いいや。私はいかない。興味もないし」
「貴女ねえ……」
輝夜は呆れ果てたというような顔をした。腰に手を当てて気だるげに首を振る。
「いい加減目を覚ましなさいよ。あんな小さな子だって現実を受け止めているのに。貴女もいつまでも子供みたいに拗ねてるんじゃ――」
「その骨の正体なんだがな」
輝夜の言葉を上から遮る。それは先ほど訊けなかったもう一つの質問だった。そして私が一番知りたいことでもある問い――。
「あの日見つかった死体は、本当に慧音のものだったのか?」
3.
私が例の竹林の谷まで足を運ぶと、岩場の雪はすでに溶けきっていた。雪解けの冷たい水が谷底を流れ、武骨な岩々に当たって飛沫を上げる。
今日は気温も高い。ちろちろと水の流れる音と、遠くに聞こえる山鳥の声。麗らかな春の陽気。春眠暁を覚えずというが、うっかりすると眠ってしまいそうな平和な気候だ。
ついこの間、惨劇のあった場所とはとても思えない。
谷底を歩いていた私は顔を上げて上空を見上げた。切り立った崖は20から30メートルくらいか。もしあの上から落ちて、硬い岩場に顔面から衝突してしまったら、それは悲惨な事になるに違いない。あの死体が崖の上から落ちたものだというところまでは間違いないだろう。
慧音の死は、そういう転落からの事故死として扱われている。診断を下したのは八意永琳だ。永琳は死体から血液やら何やらを採取して検査し、それが上白沢慧音のものであることを断定した。里の人々もそれを信じ切り、事故には何の疑いも持っていない。
だが本当にそうなのだろうか。私は信じられずにいる。
慧音の死に不審を覚えた私は、あれから密かに調べを進めていた。そしていくつか分かったことがある。生前の慧音は、たまに永遠亭に用があると言って出かけることがあったそうだ。そしてあの事故のあった晩も、やはり永遠亭に行っていたらしいのだ。
何の用かは知らない。だけど事故の以前から永遠亭との接触があったということは、何かしらのヒントになり得ると考えている。
それともうひとつ。慧音は少し前に、寺子屋の教師という職を辞めてしまったようなのだ。それより以前から後進の指導に努め、今はその人物が慧音の代わりに授業を教えている。
寺子屋教師というのは、慧音の天職だと私は思っていた。なぜ自ら職を辞したのか。単に嫌になっただけとは思えない。慧音は一度始めたことを途中で投げ出すのが大嫌いだった。それが何故辞職の決断に至ったのか。
私はふと思い立って、崖の上まで飛び上がった。多少距離はあるが、空を飛べるものにとって、これくらいの高さは障害にならない。私は崖の上に難なく着地した。
崖の上はそのまま竹林だ。背の高い竹がひしめき合い、陽光の届きにくいそこは鬱蒼として薄暗い。底に小川の流れる谷だけが開けている。
谷のすぐ側には人の歩ける街道がある。永遠亭まで繋がっている道だ。谷に沿うようにして平らに整備された道が続いている。
永遠亭はその名が広まると共に、増えた里からの来客者の為に、迷いの竹林の中に人里と永遠亭とを結ぶ道を設けた。以前は永琳の弟子が置き薬を持って行くくらいしか交流がなかったが、少しずつ里人も増えていくと、とてもそれでは足りなくなり、ならばと輝夜が発案して永琳に作らせたのだ。
見た目は舗装していない自然に近い道だが、歩いてみるとこれが中々快適で、妖怪に襲われる心配もなく、平らな道を最短ルートで歩くことが出来る。この道さえ通れば、迷いの竹林はもはや人を惑わすものではなく、私も時折受けていた永遠亭までの道案内の役を降りることが出来た。恐らく事故のあった晩も、慧音はこの道を通っていたはずだ。
私はそっと街道の地面に触れてみる。足元はそう悪くない。谷に近い場所では柵が設けてあるので、道を踏み外しての転落も考えにくい。益々もって事故原因に不審を覚える。
思考に詰まった私は、軽く首を振って息を吐いた。少し休憩しようと思う。
身体から力を抜き、大きく深呼吸をする。静かな竹林の中に山鳥の声だけが響く。もう一度息を吸えば、鼻孔をくすぐる甘酸っぱい香りを感じた。
この匂いは知っている。これは梅の花の匂いだ。
匂いに釣られるように辺りを見渡せば、谷の淵近くに一本の梅の木があった。里で見た梅はすでに花を散らしていたが、この場所の梅は僅かだが上の方にまだ花を付けていた。薄桃色の可愛らしい花が、風に吹かれて揺れている。
そういえば――。
私は生前の慧音と、一緒に梅の花を見に行こうと約束していた。冬が終わったら花見に行こうと、重箱に私の好きな料理を詰めてやるから、一緒に梅の花を見に行こうと、慧音に誘われた。
花見なら桜の方がいいんじゃないかと私は言った。だけど慧音は、珍しく自分の意見を押し通し、絶対に梅でなくては駄目なんだと言って聞かなかった。私もさして拘りがあったわけでもないので、それ以上反論しなかったが、慧音がこうも強情張るのは珍しいなと思っていた。
結果的に慧音は、私との約束を反故にしてしまった。だが私は、約束を破られたことよりも、約束を守れなかった慧音の無念の方が哀しかった。
私はそっと梅の木に近寄った。僅かに残る花の一房に手を伸ばす。無意識のうちの行動だった。手を伸ばしただけでは届かず、足の裏の筋をぐっと伸ばした。
声がしたのはその時だった。
「あれ妹紅さん。こんなところで何を……」
私は伸ばした手を反射的に引っ込める。何ともない風を装って振り返った。梅の花を手折ろうとしたことを咎められるのではないか、そんな下らないことを一瞬意識した。
声をかけてきたのは里人だった。声をかけた男性の後ろにもう三人ほど付いており、例の道を通って永遠亭に向かう途中であったのはすぐに知れた。
「いや。梅の花が咲いていたからちょっと近くで眺めていただけです。貴方たちは永遠亭ですか」
「はい。里の方に常備していた傷薬が無くなったのでそれを頂きに。八意先生には本当にお世話になりますよ」
「まあ、永琳は薬のことに関しては天才的ですからね」
あまり永琳のことを手放しで賞賛したくない私は、曖昧に頷いて返す。
「しかし大変ですね。道が整備されたとはいえ里から永遠亭まではかなり距離があるでしょう。帰りは荷物も増えますし」
「確かにそうですね。ですが我々はまだ恵まれている方ですよ。私の祖父の頃はまだ道がなく、迷いの竹林に入る事さえできませんでしたから。その頃は鈴仙さんだけが頼りでした」
「そういえば鈴仙は?」
鈴仙のことが話に出てふと思った。いつもは鈴仙が薬を持って行っているはずだ。確かにそれだけでは足りなくなったが、生真面目な彼女は、この習慣を止めることは無かったのだから。
今、鈴仙はどうしているのだろう。
「八意先生によれば、しばらく大事な用を出しているそうです。まあ鈴仙さんばかりを頼ってしまうのも情けないですから、丁度いいと思いますよ」
「鈴仙がいない……。何処に行ったかは聞いていませんか?」
「いえ。そこまでは。ただ大事な用とだけ……」
いつからですか、私が続けて尋ねると、彼らは互いに顔を見合わせて躊躇ったが、やがて「例の事故が起きる少し前からです」と答えた。
ならばと私は考える。輝夜の話と合わせれば、輝夜とてゐは里に、永琳は永遠亭に、鈴仙は所要があって出かけていたということになる。慧音はあの晩、永遠亭まで出かけていった。そしてそのとき永遠亭にいたのは永琳だけだ。
慧音は永琳に何の用があったのだろうか。あるいは永琳は慧音にどんな話をしたのだろうか。永琳はその後、顔の潰れた死体を慧音のものと診断している。
「しかし鈴仙さんには早く帰ってきてほしいですよ。八意先生は確かに素晴らしい人ですが、こう、何というか、取っ付き難い感じがして……」
里人のひとりが言った。同調するようにもう一人が続ける。
「もちろん先生には感謝していますよ。有難いことだとも思っています。ですが、どちらかというと鈴仙さんの方が親しみやすいというか」
「言いたいことは分かりますよ。永琳は独特な雰囲気を持っていますからね」
私も里人たちと同じ意見だ。永琳は月人、しかもその月人の中でも飛び抜けたエリートなのだ。地上の人間からすれば、接しにくさを感じてしまっても無理はない。
里人たちは、私が同じ考えだったことで少しほっとしているようだ。つい陰口を言っているようになってしまい、彼らも気まずかったのかもしれない。
さらに気が緩んだ彼らはこんなことも言う。
「これは噂で聞いただけなんですがね。その、八意先生。どうも鈴仙さんとは不仲らしいんですよ」
「えっ、そうなんですか」
「もちろん本当かどうかはわかりません。ですがいつも里に薬を持ってきてくれるのは決まって鈴仙さんの方ですし、永遠亭でもいろいろ手伝わされていると聞きます」
里人はそっと声を潜める。
「お蔭で鈴仙さんは毎日休む暇もないほど働き通しで、最近疲れがたまっているんじゃないかと心配していた所なんです。そんな時に……」
「永琳は何日もかかる仕事を鈴仙に与えた、ということですか」
確かに永琳は鈴仙の師なのだから、師が弟子に仕事を与えるのは当然だろう。だけどそれにだって限度はあるはずだ。私としても、本人の愚痴として師匠が厳しすぎるという話を聞いたことがある。
私は鈴仙と最初に会った時のことを思い出す。慧音のものによく似た薄水色の長い髪。背は高くもなく低くもなく、体つきも普通。頭の上に付いている折れた兎耳だけが特徴。
鈴仙は月の兎である。月から逃げてきた哀れな兎は、永遠亭という囲いの中で新たな人生を歩み始めた。
輝夜は鈴仙がやってきたとき、大層嬉しそうにしていたのを覚えている。誰にも内緒よと前置きして、新しくできた家族を私に自慢してきた。しかし、永琳はどうだったろうか。
「まあ飽くまで噂に過ぎませんけどね。八意先生にとっても大事な弟子のはずですし」
「期待しているからこそ、厳しく指導されているのかもしれませんなあ」
里人たちは一転して永琳を擁護するようなことを言いはじめる。やはりいつも世話になっている永琳に対して批判じみたことを言ってしまったのが心苦しかったのだろう。美人でもありますし、などと今度は永琳の良いところを口々に上げ始めた。
私は里人たちとはそこで別れた。かなり時間を潰してしまった彼らは慌てて謝辞を述べると、永遠亭までの道をまた歩きはじめる。気を付けるようにとその背中に告げて、私も自分の家に向かって歩き始めた。
自分の住んでいるあばら家は、途中まではこの道に沿って行くことが出来る。平坦に整備されとはいえ、鈴仙は荷車に山のように薬を載せてこの道を毎日歩いている。それは大変に骨乗れる仕事だろうと思う。最近では見かねた輝夜が鈴仙の手伝いまでしはじめている。
『でもね、これをやると永琳があまり良い顔をしないのよ』
輝夜はいつだったかそんな風に言っていた。当たり前だろうと思う。自分の主君が自分の部下に当たる人物の仕事を手伝っていると知ったら、誰だって複雑な気持ちになるはずだ。しかし、今里人からの話を聞いていた私には、ただそれだけの事には思えなかった。
輝夜は鈴仙を受け入れている。だから永琳は仕方なく弟子に置いたのではないか。月の都から逃げてきた鈴仙には、はじめ月から来たスパイではないかという疑惑があったという。永琳は鈴仙の事を本当に信用して弟子にしているのか。
そうだ。
昔、輝夜はこんなことも言っていた。
地上に逃げきたばかりで行く当てのない鈴仙に対して、永琳は第一声で、「殺した方がよい」 と言ったらしい。
4.
あれから数日経った。里の中を歩いてみたが、慧音の死ははや過去のもので、今、中心になっているは博麗が新しい巫女を立てたということと、鈴仙が未だ帰ってこないという話題のどちらかだった。
そういえば慧音の弔い方法を巡って対立が起こったとき、博麗は自分の問題で手一杯と言って関わりを拒んだ。その問題というのがこの事だったのだろう。
何でも次代の巫女はどちらかというと人間側に沿った人物であり、兼ねてから知られていた博麗神社の裏にある間欠泉を、温泉地として里人に開放する計画も立てているらしい。今は引き継ぎのややこしい儀式の最中で、人間妖怪問わず神社には近寄れないが、いずれ何らかの発表があるだろうとのことだった。
博麗霊夢の頃とは大きな違いだ。あの頃は妖怪神社として有名で、人間など近寄りもしなかった。これが時代の潮流というものなのだろう。皆々、新しい波に乗って生きている。
……私には、どうしてそうも簡単に慧音のことを割り切れるのかがわからない。
私はずっと慧音の死の真相を追っているが、多くの人々にとってあれは単なる事故としか捉えられていない。また、その死を惜しみつつも引き摺っている者など居らず、新しい波を受け入れている。
あの日、葬儀の日。慧音の死に多くの里人は涙を流した。そんな彼らはもう元の生活に戻り、あの日涙を流さなかった私だけが、未だにその死を引き摺っている。
とはいえ何も情報が得られなかった訳ではなかった。やはりあの晩、慧音は永遠亭に行っていたという証言が、多くの里人から得られている。一方、後に輝夜に尋ねれば、あの晩慧音は永遠亭を訪ねなかったという。二つの証言は矛盾している。
言うまでもなくどちらかの証言は嘘だ。里人が嘘を言う理由がないので、嘘を吐いているのは輝夜の方だろう。問題は何故嘘を吐く必要があるか、だ。
考えながら歩いていると、私の足はいつの間にか慧音の住んでいた家の方へ向いていた。里の外れ、民家の途切れた林の隅に、ちっぽけな木造小屋が建っている。慧音の生涯の住処だったそこは、主がいなくなって既に廃墟然とした空気を放っていた。
私は無言でその小屋の中に入った。当然ながら人の気配はしない。部屋の中も荷物が運び出されてがらんとしている。来月にはこの小屋も処分するのだそうだ。半妖とはいえ妖物の住んでいた場所、何か良くないものが取りつくかもしれない、とのこと。生前慧音が書き溜めた歴史書も、既に別の場所に運び出されている。
私も以前、何度かこの部屋に招かれたことがあった。部屋に上がると、慧音は決まってお茶を淹れてくれた。淵の欠けた安物の椀を自分に、綺麗で新しい椀を私に。そろそろ自分用のも買ったらどうだと言えば、まだ使えるから勿体ないと返ってきた。倹約家なのか貧乏性なのか、飾り気のないこの家の様子を見るに、単に自分のことには無頓着なだけかもしれない。
私は美味かったと言って椀を返した。慧音はお粗末様でしたと言って椀を受け取った。何てことないが心地のいい空間だった。慧音の側は、何故だか安心できる居場所だった。
今はただ、何もない空間が広がっていた。
「……帰るか」
そう呟いて、私は踵を返した。まるで毒のようだ。甘い記憶ばかりが思い出され、虚しさに心を揺さぶられる。これ以上留まるべきではないと思った。
だが、入口の引き戸を開けようとしたとき、ちょうど表の方から物音が聞こえてきた。
音は段々と近づいてくる。小さな、子供の足音のようだ。
「藤原、さん?」
「お前は確か……」
そのまま屋内まで入ってきたその子は、目を丸くして立ち止まった。まさか人がいるとは思っていなかったようで、私の存在に驚いているようだ。
彼女の姿は見たことがある。赤い着物に黒のおかっぱ、少々地味な顔立ち。あの時は黒の着物だったが、子供は葬儀の時、私が輝夜を問い詰めているときに骨上げの件で割って入ってきた女の子だ。
もしかしてと思っていたら、案の定、輝夜もその子の後から部屋の中に入ってくる。
「……何やってるの妹紅。人様の家で」
「お前も同じだろう。何をしにきた」
「私じゃないわよ」
輝夜が言うと、すっと動き出したのは女の子の方だった。彼女は胸に抱えていたものを、畳を敷いた部屋の中央まで持って行く。細く長い瓶の中には、花のついた枝が入っていた。
「桜か?」
「うん。この子がどうしてもお供えしたいって言うから。私は付き添い」
「桜伐る馬鹿梅伐らぬ馬鹿って言葉を知ってるか」
輝夜は何の事、と首を傾げる。もともと期待していなかったのでまあいいさで済ませる。
「しかし何で桜なんだ。確かに時季ではあるけど……」
「何でって先生が好きだったからでしょう? 遺骨はみんな撒いちゃったし、お墓も作ってないからお供えするには此処しかないし」
ねえ、と水を向けられた少女は、はい、控えめな声で答える。
「上白沢先生は桜が大好きで、寺子屋にいた頃はよく私たちと一緒にお花見に行きました。先生は桜を見ながらみんなでとお話するのが好きなんだと言っていました」
「そうか……」
青い空。満開の桜。子供たちに囲まれて笑う慧音の姿。私はそれを簡単に想像することが出来た。私もいつか、その輪の中にどうかと誘われたことがある。私は恥ずかしがって断った。そのとき慧音は、どんな顔をしていただろうか。
慧音はいつも私の手を引っ張って、人の輪の中に連れて行こうとした。慧音は里の人気者で、その周りにはいつも笑顔の輪があった。私はそれを離れたところから見ているだけだった。本当は加わりたいくせに、私なんかがいるのは場違いさと強がった。
慧音が掴んでくれた手のぬくもりは、今でもはっきり覚えている。
「鈴仙、いなくなったんだって?」
これ以上思い出に浸ることをしたくなくて、輝夜の方に話題を向けた。今、里で話題の中心になっている片方、失踪した鈴仙の件だ。
すると輝夜は、途端に嫌そうな顔をする。もう何人もの人に話したのだと言った。
「別にいなくなったんじゃないわ。仕事で出かけているだけよ」
「仕事、ね」
私はそれを信じない。いや、仕事を与えたのが永琳ならば、輝夜が正確なことを知っているはずがない。
「あの事故のあった晩から居ないようだけど」
「違うわ。あの事件の少し前からよ」
「それだって永琳が仕向けたことには変わりない。どうして信じられる」
輝夜の顔が険のあるものに変わる。眼差しは鋭く、口元は固く引き結ばれた。
「貴女が永琳のことを疑っているのはわかっているけど、私は永琳を信じているの。鈴仙だってそうよ。あんまり勝手な事ばかり言わないでくれる?」
「永琳の方はどうかはわからない。あいつはエリートの月人様だろ。あいつが誰かを信用することなんてあるのか」
「妹紅!」
とうとう輝夜が怒声を上げた。畳の上の瓶が揺れ、中に差した桜の枝がぱたりと傾いた。
同じ部屋の中にいるこの花を持ってきた女の子は、重苦しい空気に怯えてか何も言わない。ただぎゅっと輝夜の着物の裾を握った。
それに気付いた輝夜が、ぷいと私から視線を逸らす。女の子の頭にそっと手を置いた。
「永琳が鈴仙に何かをしたと考えているならそれはお門違いよ。鈴仙は私のお気に入りだし、大切な家族。永琳が手を出したりなんか出来ないわ」
「それはそうだろう。お前の前では出来ない。だから鈴仙を自分の下に付けたんじゃないか」
「だったら勝手にそう思ってなさい。私は永琳を信じている」
もういきましょう、と、女の子を促して輝夜は部屋の外に出ていった。帰り際、引き戸を力任せに閉めて、勢いのついた戸はばたんと大きな音を立てる。反動でまた少し開いてしまい、戸の向こうから昼の陽射しが入り込んでいた。
「……私も帰るか」
またそう呟いて、私は今度こそ部屋の外に出た。
一歩小屋から出ると、途端に陽の眩しさに目が眩む。思っていたよりも長く留まっていたのかもしれない。光に慣れるには時間が必要だった。
頭はぼんやりしている。思考がまとまらない。まるで半分眠っているようだ。
何か喉を潤すものが欲しい。出来れば冷たい井戸水がいい。確か里の中心近くに共用の井戸があったと思う。
私は自分の足を引きずるようにして、井戸のある方へ向かって歩き出した。冷たい水さえ飲めば、この靄のかかったような思考を整理し、いつからか感じ続けている倦怠感を吹き飛ばせるはずだ。
……輝夜が怒るのは無理もない。身内を疑われて気分のいい奴なんていない。
私と輝夜は健全な仲とは言えないが、一方を不当な理由で傷つけていい理由にはならない。とくに本人でなく身内に対してなら尚更だ。
それでも何かが引っ掛かる。何かを見落としているような。何かを見間違えているような。このまま事件を放置していいようには思えない。
しばらく歩いて、私はまた立ち止った。井戸を見つけたわけじゃない。少し前の方に、見たことのある後ろ姿を見つけたからだ。
黒のおかっぱ。赤い着物。うろうろと辺りを見回して、時折しゃがみこんだりを繰り返している。先ほど輝夜に連れられて行った女の子に違いない。
側に輝夜は居ないようだ。ひょっとして何か落し物でもしたのかもしれない。先ほど怖がらせてしまったこともあり、手伝いを申し出ようか、それとも声をかけずに立ち去った方が良いだろうか迷う。
「いや、別人か」
女の子が横を向いたとき、彼女の顔が少し見えた。顔さえ見れば、さっきの子とは似ても似つかない。地味めで大人しそうなあの子と違い、今目の前にいるのは態度も堂々としているし、少し悪戯な顔からはお転婆な気性が透けて見えるようだった。
「……そうか。そういうことか」
そして一陣の風が吹く。
脳裏に浮かんだのは、満開の桜の下で笑う薄水色の髪。またそれとは別に赤い血で汚れたあの日の薄水色。
慧音の顔は潰れていた。慧音の死を診断したのは永琳だった。ところで――、鈴仙の髪の色は何色だっただろうか。
私は、八意永琳に問い質さなければいけないことがあった。
5.
「お待たせしました」
声が聞こえて、私は目を覚ました。冬も終わったとはいえ、夜の空気は未だ冷たい。その冷たい空気をも凍てつかせてしまいそうな、底冷えする声だった。
待ち合わせの場所を例の谷底にしたのは失敗だったな、そう思いながら、私は腰かけていた岩場から起き上がる。
どこか遠くで梟が鳴いていた。天上には月。まだ暗いが、東の空は少しずつ白みはじめている。
「本当に遅かったじゃないか。もう今夜というより明け方近い」
「文を受け取ったのは姫様です。絶対に行くなと仰るもので、中々空けられませんでした」
「輝夜は?」
「お休みになられました。だからこうして来られたという訳です」
なるほど。本当に輝夜の事だけは大切にしているらしい。私は声の相手の正面に立った。
薄闇に銀色が煌めく。束ねた銀の長髪は、抜き身の刃のような危うさで月光を反射する。顔は一見能面のように無表情だが、その眼差しは射抜かれそうなほど鋭い。
あるいは少し、不機嫌であるのかもしれない。
待ち合わせの相手、八意永琳は、はあと肩を竦めて再び口を開いた。
「何か私に聞きたいことがあるようですが?」
「ああ。鈴仙のことでちょっとな」
「あの子の? 残念ですがあの子は暫し出かけています。何か御用でしたか?」
私はゆっくりと首を振る。とぼけるつもりなら、それでもいい。
「鈴仙じゃない。鈴仙のことであんたに用があるんだ。――訊くが、鈴仙は今どこにいる?」
「さあ。わかりません」
「本当にいないのか」
「永遠亭には居ません」
「何のために出かけた?」
「……私が用を与えました」
簡潔な一問一答。だが永琳はこれで私の意図を察したようだ。つまり――。
「つまり貴女は、私があの子に何かをしたのではないかと疑っているのですね」
「疑っているんじゃない。確信しているんだ」
ここまで言い切って、永琳の表情に変化は見られない。夜の暗い影を背負ったまま、涼しい顔を浮かべている。
もし自分が悪事を働いたのではないかと疑惑を向けられれば、誰だって少なからず動揺するはずだ。それをしないのは開き直っているのか、確たる反論を用意しているのかのどちらかだ。
「輝夜は鈴仙を大切にしている。スパイ疑惑もあったというのに鈴仙を匿い、それを強引に連れ出されるかもしれないとの危惧から永夜異変を起こした。家族同然に接し、最近では里への薬売りの手伝いを買って出ているくらいだ」
「その通りです。姫はお優しい方ですから。姫ほど月兎にも地上人にも優しくあれる月人を私は知りません」
「そしてそのお優しい姫に仕えるあんたはあいつの意向に背くことは出来ない。例えそれが本心でなくとも、な」
きっと、永琳の眼差しが一層険しくなった。
並の妖怪、人間では、それだけで失神してしまうかもしれない。
「あのお方は私の全てです。私はあのお方のためだけに永遠を生きます。それを貴女に哂われる謂れはありません」
「別に馬鹿にしているんじゃないさ。ただ、あんたは輝夜の事しか考えていないって言ってるだけだ。……聞いたよ。あんた、鈴仙にはいろいろきつく当たっているんだって?」
「甘やかす方ではありません」
「そりゃあそうだろうな」
事実だと思う。かつて月の賢者だったという永琳は、地上で暮らし始めて千年以上経ってなお、得体のしれない非人間らしさ、月人らしさを持っている。その永琳が鈴仙を気遣う様など、私には想像も出来ない。
「鈴仙が月からやってきたスパイだっている疑惑、あれは完全に晴れたのか」
「あの子にスパイをやるような図太さはないでしょう。あの子は臆病な子です。それに正直な子でもあります」
「確かに馬鹿正直にあんたを師匠と言って慕っていたな。だけどあんたはどうなんだ。鈴仙の事を可愛い弟子と見ていたのか」
「……私がまだあの子を疑っていると?」
そうだと応えれば、永琳は呆れたように首を振る。
「なるほど。それで私があの子を永遠亭から追い出したのだと言いたいのですね。ですがそれは姫がお許しになられません。あの子は姫のお気に入りでしたから。ならば姫に仕える私にあの子を追い出すことなど出来ません」
「そうだな。輝夜がいる以上あんたは鈴仙に手を出せない。だけど輝夜がそれに気付かなければどうだ? 鈴仙はいつの間にかいなくなった。あんたが手を下したとは思いもしない」
「馬鹿な。何をしたところでいつかは気付かれます。何処に匿ったところでいずれご自身の手で見つけられるでしょう」
「無理だよ。何故ならそいつは本当に存在しないんだからな」
存在しないものを見つけることは出来ない。たとえ永遠に探し続けたとしても。
「鈴仙はもう死んでいる。死体もすでに処分されている。だけど輝夜はそれを鈴仙の死体だとは思っていないんだ」
「何を、そんなことが……」
「有り得るさ。だってその死体の顔は原型もなく壊れてしまっているんだから」
私はあの日、顔の潰れた死体を見た。
真っ白な雪に血の赤が広がっていた。
薄水色の長い髪は乱雑に広がっていた。
私は場違いにも、それを綺麗だと思った。
「あの日見つかった慧音の死体は、実は鈴仙のものだったんだ」
永琳は片眉をぴくりと動かした。
「あんたは邪魔な鈴仙を殺した。だけどそれを輝夜にばれる訳にはいかない。だからそれを慧音の死体だと誤認させた。――慧音と鈴仙は背格好も髪の色もよく似ていた。顔の潰れた死体の判別は難しいからな。医者のあんたがそれを慧音の死体だと診断すれば信じるしかないだろう」
「憶測です。証拠もない」
「証拠なら有るさ。私は例の亡骸の側でこの袋を見つけた。永遠亭の印の入った薬袋だ。これはいつも鈴仙が里人に薬を渡す時に使っていたもの。なぜそれを慧音が持っていたのか。死体が慧音じゃなかったからだ」
鈴仙は薬を持って毎日人里まで行っていた。薬は永遠亭印の紙袋に入れて配られた。当然、鈴仙はその紙袋を持っていたはずだ。
死体の側にそれがあったのは、死体が鈴仙のものだからだ。
私は、一歩永琳に近付いた。
「なあ永琳。あんた慧音をどこかに隠しているんだろう。死んでるはずの慧音を野放しにするはずがない。どこか誰にも見つからないところで匿っているんだ」
「……上白沢慧音がまだ生きていると?」
「慧音は私にとって大切なひとなんだ。なくてはならない。頼むから慧音を返してくれ!」
どこかで山鳥が羽ばたいた。そして一陣の風。ざわざわ、ざわざわと竹林の木々が騒めく。だがそれも所詮一時の事で、すぐに夜の静寂は戻って来る。
冷たい、氷のような沈黙。私は永琳から目を逸らさない。一言も聞き漏らしたりはしない。また一陣の風が吹く。
やがて永琳が重い口を開いた。
「……貴女は、少し勘違いをしているようです」
「なんだと」
「思えば最初に彼女を見つけたのは貴女でしたね。私も、もう少し貴女に配慮をすべきでした」
つい、と永琳が明後日の方向に顔を向ける。何か言い逃れを考えているのかとも思ったが、それにしては落ち着きすぎている。
それはまるで何かを待っているようだ。何か、誰かが此処に来るのを、じっと――。
「呼び出しが今夜であったのは幸いでした。説明の手間が省けます」
「誰が来るんだ。輝夜か?」
「すぐにわかりますよ」
竹林が静まり返る。遠くで鳴いていた梟も声を潜め、どこか張りつめた緊張感が辺りを支配する。よく耳を澄ませば、何か物音が聞こえてきた。
ざくざくざくざく。それは何者かの足音だ。段段と近づいてくる。――早い。走っているのかもしれない。
「永琳。一体誰が――」
「ああ、お師匠様!」
永琳に向けかけた顔をすぐに声のした方に戻した。現れたのは薄水色の長い髪。赤い二つの眼。柔和な顔を浮かべ、頭から生えた兎の耳はへにょりと途中から折れている。
私の前に現れたのは、もうこの世にはいないはずの存在、鈴仙・優曇華院・イナバだった。
「おかえりなさい、ウドンゲ。休暇は楽しめた?」
「はい。それはもう。でもお師匠様はここで何をなさっていたんですか?」
永琳はそっと鈴仙に近付くと、その長い髪に絡まっていた竹の葉を優しく引き抜く。
「何でもないわ。貴女は早く帰りなさい。姫が土産話を楽しみにしていたから」
「あ、はい。それじゃあ私はこれで」
「気を付けて帰るのよ」
鈴仙はぺこりとお辞儀をすると、またとてとてと走りはじめる。元気が有り余っているのか、スキップでもしかねない勢いだ。
また私と永琳だけになると、永琳は肩を竦めていう。
「あの子には暫く休暇を与えていました。勤勉で何事も一生懸命なのはいいのですが、休みも取らずに働き続けていてはいつか倒れてしまいます」
いくら休めと言っても聞かないので命令という形で強制的に休ませたのですが、と永琳は笑う。丁度いい機会だから温泉にでも入ってこいと、今までは博麗神社にいたらしい。確かにあの神社なら里人も妖怪も近づけなかったから、いい気分転換になったかもしれない。
「だけどそれが本当なら、輝夜は……」
「もちろん姫も知っていましたよ。その顔を見るに、姫も貴女には何も教えなかったのでしょう?」
「ああ。それにあんただって最初は知らないって」
「言える訳がありませんよ」
永琳は気だるげに首を振る。そして自嘲っぽく笑った。
「上白沢慧音は死んでしまったのですから」
とくん、と心臓の跳ねる音がした。
「貴女に呼び出されてウドンゲのことを聞かれた時、私ははじめ、ウドンゲのことを責めているのだと思いました。事故は永遠亭から帰る途中で起きています。あの子が休まずに里まで薬と届けに来ていれば上白沢慧音も死ぬことはなかったと、そう言いたいのだと思っていました」
「待て。慧音はやっぱり永遠亭に来ていたのか……?」
「はい。常用していた薬が切れたので追加分をくれないかと訪ねてきました。誰かに任せてしまえばよかったのに、あの日は雪も少し積もっていましたから遠慮してしまったのでしょう」
だから言えなかった。永琳はそう言った。事実を知れば鈴仙が責められるかもしれない。いや、鈴仙自身が気に病んでしまうかもしれない。だから永遠亭はこの事をひた隠しにした。
少なくとも休暇中に鈴仙の耳に入らないようにと、博麗神社の今の代の巫女にも協力してもらったらしい。
「でもなんで薬なんかを。慧音自身はそんなもの必要ないのに」
「いえ、必要でした。上白沢慧音はあの薬を常用していました。あれはちょっとした若返りの薬です。人間が飲めば老化を遅らせるくらいですが、妖怪、半妖ならば若い身体を取り戻すことが出来ます。さすがに寿命まで延びませんが、随分動きやすくなったと仰っていました」
思えば彼女は、来るべき日の為にずっと準備をしていたのかもしれません、永琳は感慨深げに言った。
「花見の約束をしていたそうですね」
「慧音から聞いたのか。確かに私は慧音と花見に行こうと約束した。――でもそういえば、何で梅だったんだ? 本当は桜の方が好きだったようなのに……」
「それは桜より梅の方が早く咲くからでしょう」
頭の中で警鐘が鳴り響く。
これ以上聞いてはいけない。これ以上ここに留まるべきではない。
だけど私の足は動かない。
そういえば永遠亭と人里を結ぶ街道ができたのはいつだったか。
思い出せない。
そういえば博麗神社の博麗霊夢が死んだのはいつだったか。
思い出せない。
「上白沢慧音は老いました。半妖である彼女に寿命が来るほどに月日は流れました。彼女はどのみち近く死を迎えるはずだったのです」
「なんだって……?」
「桜より梅にしたのは桜の季節には間に合わないと思ったからでしょう。今回の件はそれが仇となったのでしょうが……。上白沢慧音が手に握っていたもの、貴女は覚えているでしょう?」
顔の潰れた死体は何かを握ったまま冷たくなっていた。
その手の中に何があったのか。
永遠亭印の薬袋ではない。それは側に落ちていたものだ。手の中にあったものではない。
もちろん私はそれを知っている。
今も、覚えている。
私が黙ったままでいると、変化のなかった永琳の顔が苦々しいものに変わった。
「本当にわかっていないのですか? 貴女は誰よりもそれを知っているはずです。顔の潰れた亡骸の横で、あなたはその手をずっと握っていたではありませんか」
「……知らない。何のことだ」
「上白沢慧音の手には梅の花があったのです。貴女との約束を少しでも早く果たそうとして、崖の上にあった梅の木から花のついたその枝を。ですが彼女はその時誤って転落し、老いて空を飛べなくなっていた彼女はそのまま顔から岩場に……」
死体のあった谷の上には梅の木があった。その木は花を付けており、今より前ならさぞ美しく咲き誇っていただろうと思われた。
私はその花を取ろうとした。手が届かず、足の裏の筋を伸ばした。もっともっと伸ばしていたら、どうなっていただろうか。
私は呻くように呟いていた。
「……違う。私のせいじゃない。私は花見の約束をしただけなんだ。ただそれだけなんだ」
「貴女を責める人などいません。あれは事故です。誰のせいでもありません」
永琳が現場に到着したとき、私は梅の花を持った慧音の手を握り、呆然としていたらしい。声をかけても反応はなく、誰かが死を教えてやらねば動かすことも出来なかった。
私はその手の冷たさを覚えている。
白い雪と赤い血と。花弁が舞っていた。梅の花の薄紅色が。
私はすべて覚えていた。
「……嘘だ。あんたの言っていることは全部でたらめだ。全部嘘に決まっている。慧音はまだ生きているんだ」
「いい加減に目を覚ましなさい、藤原妹紅。上白沢慧音は死にました。私たちはそれを受け止めていかなくてはいけません」
「そんなものは信じない。死体の顔は潰れていたんだ。鈴仙じゃなきゃ誰か別の死体だったんだ。そうに決まっている」
永琳の顔を見ると、それはとても悲しげなものに見えた。永琳には似つかわしくない顔だった。まるで永琳本人でないように見えた。
この永琳は偽物だ。そうに決まっている。偽物の永琳から出る言葉なら、全部嘘に決まっている。
その時、私は背中に温かいものを感じた。振り向けば東の空から太陽が昇りはじめている。
間もなく夜が終わる。光のあまりの強さに目が眩む。私は思わず顔を背けた。
「よく聞きなさい妹紅。彼女は私たちとは違います。いずれ先に逝ってしまう存在でした。永遠を共に生きることは叶わない。ならば私たちは、それを受け止めるべきなのです」
「うるさい、黙れ! 慧音は生きている。あんたが隠しているんだ。早く慧音を返してくれ!! 頼むから私の慧音を――」
東の空に朝陽が昇る。
夢を見る時間がもうすぐ終わる。
新しい一日が、慧音のいない世界が、始まる。
妹紅も1000年以上生きているのですから、さすがに人との死別には慣れていると思うので、そこだけ違和感がありました。
なんとなく妹紅の気持ちに沿うように進んで、
最後の種明かしで「たしかにそうだ」と納得させられた
変わっていく永遠亭の面子に比べて変われない妹紅のなんと悲しいことでしょうか
時間の流れに対する認識をからめつつ
死別の辛さが中心に据えられていて、
すごくよかった