過去の話はこちらです。
稗田阿求はお茶をすすって、唇の先から口笛のように熱い息を吹き出した。
きまじめな表情に戻った彼女は、一体私たちはどこまで話を進めていましたかねぇ、などと独り言を言いながら書き物机の暗がりに手を潜ませ、がさがさと何かを探りはじめる。
「そうそう、幻想郷の歴史のお話でした。しかし気怠い昼下がり、まじめな話を続けるには助けが必要です。おやまあ、なんでしょうこれは」
「うん?」
何が出てくるものやら、私は少しく緊張して身構えてたが、何のことはない。彼女は腕ほどもある酒屋の貸徳利をずどんと畳の上に引っ張り出してきて、わざとらしくとぼけるのだった。
「こんな隅っこの暗がりに幸せの詰まった瓶が隠れていましたよ。陰翳礼賛とはこのことでしょうか。私の前世の忘れ物かもしれません」
「よく言うよ」
そ知らぬ顔で冗談を飛ばしながら、稗田阿求は徳利の底から頭まで指先で妙になまめかしくすらりとなぞり、私の表情をつと見上げる。
「どうです。ご一緒に」
「今から?」
「いや、あなたが望まないならば、話は別ですが」
徳利を持ち上げ、私の答えが分かり切っているようにくすくすと笑う。
「悪くない」
「控え目ですねえ」
私は素直に頷く。
「じつに素晴らしい」
「そう仰っていただけると思っていました、では」
と言うが早いか、一杯おっぱじめようと互いの空になった湯飲みを愛おしげに手元に集め始める。
「さぁ、こちらへおいで湯呑みちゃん。来たれや来たれやいざ来たれ」
ご機嫌に鼻歌交じりの準備をする彼女は、こちらを向いてしー、と唇に指を当てる。
口元をゆるませ、楽しげな表情を保っている。
「お酒を隠しているとは、家人には内緒にしておいてくださいよあなた。私は気軽に酒も飲めません。皆私の身体を気遣うのです。無用な制欲ですけれども」
「私の土産ってことでいいよ」
「申し訳ないですなあ」
わずかに残った飲み残しを鍋に捨てて逆さに振り振りしずくを切ると、彼女は中腰になりながらたっぷりの幸せの重さに腕を振るわせ、私の湯飲みを満たすのだった。
「ま、どうせ後でお小言を言われるのでしょうがね。しかし言われないかもしれません。どちらでしょう。どちらでもいいです。この子はちょっとした運命を卜占にかけることぐらい、よい肴にしてくれます」
私も彼女から徳利を預かり、彼女の湯飲みに同じように返してやる。
「どうぞ」
「ああこれはどうも。いやあ光栄です、巫女様のお神酒です」
彼女はいたずらっぽく首を傾けた。
「さあ、かちんとしましょう」
そして一息で飲み干し、手酌をしながら彼女はけらけらと笑う。
「どうです。中身は立派に幸せでしょう」
「なるほど、確かにこれは幸せだ」
折り畳まれた若さを感じる口当たりに私は満足して頷く。
「喜びは共有されます、人間はそう創られているのですから。それに、ほら、レミリア・スカーレット様もよく繰り返しているでしょう。『誰かを食事に招くということは、その人の幸せをその家にいる間じゅう引き受けることである。』と。喜んでいただければ、誘ったかいがあるというものです。いや結構結構、美味こそが幸せ。いまやこの郷は美食の郷でもあります。さてと、いいお供もできたことですし、そろそろ立ち戻りましょう」
そして彼女は居住まいを正して、指先を立てた。
「このお話の終着点は博麗大結界の問題点と、その修正です。そして同時にそれは恐らく霊夢さんの死因と、あなたに残された仕事を語ることにもなりましょう」
幻想郷の錯綜した由緒を通覧するのは、淀みの藻の解きほぐすことにも似た作業だろう。稗田阿求は込んだ話の腰をためるように、先の概括から入っていった。
繰り返しではあったが、枕として必要だったのだろう。彼女は年月の重さをあらわすように声を落とす。すなわち、幻想郷は数百年前から幻想の土地であり、独立不羈の幻想の聖域として、現実の裏付けを失った幻想を受け入れてきた。だが平穏はやがて終わる。外の世界で登場した進歩的で科学的な思想が衆目を集め、開明の世相が外界を覆いつくし、妖怪や魔法を許容する世界観に対して退身を要求してきたとき、私たちは新しい段階へと進むことを強いられる。
ここまで喋ると彼女は話の矛先を変えた。
「昔の幻想郷もなかなか良かったですよ」
遠くをしのぶような目をするが、すぐにそうでもないですね、と首を振る。
「今のほうがいいですね。素焼きの皿にへばりついた味噌を舐めて酒を飲むのも美しい風習かもしれませんが、そうでない気分の時だってあります。今日ではいろいろ選べますからね。脱線しました。幻想郷の美しい風習は何も味噌だけではありません。なんといっても妖怪たちの存在でしょう。さて、幻想郷の美しい風習である彼女たちはどのように否定されてたのか」
概ね次のような理屈では否定されたのだと彼女はしたり顔で説明を行う。
いわく、交流の増加や近代化により人間の抱く世界観が次々と統一され、今までのように事象に対する多義的な解釈が許されなくなった。(私はこの最初の文節の時点で、どうも通り一遍のお題目に思え、退屈さに耐えかねて欠伸を湯飲みで隠さなくてはならなくなった)彼女は続けて例示を出す。たとえば火の気のないところに突如燃え上がる炎を一例に論うところ、外の世界では魔法使いや妖怪の闊歩が原因とされるかわりに、自然現象の偶然や、精神に異常を来した不審者の闊歩が原因であるとされる。そこでは自然科学の釈義の範疇における因果のみが現実という書物の解釈を指導し、私議を許さぬ優越を誇り、幻想郷の住人たちの世界に取って変わる。
「なんともはや、実に狭隘な価値観です。科学は河童たちにとっては無害なおもちゃですが、人間たちにとっては、自らを幻惑する背丈より高い影だったのでしょう」
「河童が聞いたらいい顔はしないだろうね」
私は知り合いの河童を連想した。彼女たちには独特の哲学がある。科学をあくまでも自己の行動規範と好ましい内的関連をもつ素晴らしい法則としてしか扱っておらず、アプローチを標準化しようなどとは露も思っていないので、発見を私的な領域にとどめ、共有することを目指さない。徒弟時代を終えた魔法使いの数だけやり方があるように、同じ現象を起こすのにも河童の数だけ方法がある。それは幻想郷の妖怪らしい長生きの知恵からくる、欲望に対する距離の取り方だろう。単純にいえば、自分で発見し、創造していくことが楽しいからそうするのだ。必要ならば彼女たちは記憶を消しさえするだろう。
「河童の技術は好きですよ。魔法は使えませんが、電気製品は使えますからね。幻想郷は今も昔も、同時に妖怪、精霊、魔法を認めているからです。でも外の世界は、認めていません。よくありません。認めなければなりません」
憤懣やるかたない様子で腕を上下させ、外の世界の器の小ささを糾弾する戦士と化す。
「だって実際にそれらの仕組みはあるのですから。人間が空を飛ぶことは不思議なことでしょうか? いいえ、まったく!」
私は彼女の剣幕にたじたじになり、何やら返答にもならぬことを、もごもごと籠った声色で言った。
「かつては外の世界も、幻想郷と何ら変わりなかったのだろう。その、つまり、魔法もあれば、妖怪もいた」
彼女は我が意を得たりとばかりに胸を張る。
「ありましたともいましたとも、そうですとも、一体どんな根拠でもって、昨日まで確かにそうだったものを、今日はそうでないと言えるのです? 魔法が起こした火は、魔法が起こしたのです。不当にも酸化剤と熱による自然科学的な説明に帰するのは一体どうしてです? 何の根拠もなく解釈を帰す臆断です。鵺の声が全ての病の根源だとする平安の世の精神の様態から一歩も出ていません。もちろん、だからこそ厄介なのです」
どしん、と畳に握り拳を振り下ろす。驚いたようにぽちゃりと奥庭の鯉が跳ねる音がした。
「その臆断が私たちに役に立つのならともかく、不利に働く害毒なのですからね」
熱が入りきった様子の彼女に対し、私はあまりこの話題に気乗りはしていなかった。霊夢の話を脇に置きながら稗田阿求の歴史観について個人授業を受けることは、不利でも有利でもなく単なる冗長にすら考えられた。
私はとくに深くも考えず、持論を挟むのだった。
「私の考えでは、科学も魔法も同じさ、結局は気分によって見たいものを見ているという相の違いに過ぎない。それらは同根より出ずる幻想であり、そしてまた同じところへと還っていく」
「ええ、ですが和気藹々とした連れ合いの旅も、時代の進歩という道祖神の前でお別れです。ふむ(彼女は顎に手を当てて自分の言葉に納得した)。私たちは否定されました。そして、言わずもながでしょうが、幻想は思う人間の数が多ければ多いほど力を持ちます」
それは私自身にも身に覚えがあることであった。
「らしいね、紫は今後のために主観の思想の強さを定量的に図れる水銀計を発明する予定だとうそぶいていたよ。冗談だろうがね」
「分かりませんよ」
控えめに微笑む。
ふと彼女の話に対する反論を思いつく。そのまま要点を固めないまま、ほのめかすように垂れ流す。
「しかしだね、私たちが迷信となって駆逐されようとしている。なるほど、これは悲しむべきことだが、慰めもあるだろう。幻想郷にはもう一面の見方があったはずだ。つまり」
忘れられ、否定され、存在をなくした幻想を救うことが幻想郷の目的のひとつであったことを忘れてはならない。
発話の意志からしばらく遅れ、私は私の言いたい反論の要点にたどり着いた。
「つまり私はこう言いたいんだ。否定されることは消滅を意味しない。幻想入りの査証の発効日となるだけだ」
あっさとり稗田阿求は私の言葉を肯定した。
「実際あなたの仰るとおりに迷信たちの幻想入りは行われましたよ。幻想郷とは死すべき幻想が生き残る、前代未聞の、幻想史に燦然と輝く事業です。このときも立派に働きました」
「ゆえにだね、個別に否定され、個別に忘れられ、現実に打ち倒されたとしても、直接の被害を被らなくなるはずだろう」
「それもまた正しい見方です。ここは現実に裏付けを持たぬ者が生きながらえるには十分な土地であったといえましょう。そして、外の世界の喪失を引き受ける幻想入りの特殊な性質は、後々の大結界の行果ての指針となり今に生きています」
「だったら」
私は彼女の言葉を押しとどめ、当然の疑問を挿入する。
「何をそんなに嘆くことがある。幻想入り、素晴らしいじゃあないか。我らが八雲紫様の頼もしき救世軍の事業があれば何も怖くない。立派なものだ」
けっ、と不満げに鼻で笑う。何が気に食わぬわけでもないが、八雲紫への複雑な思いに対して、施すべき言葉が見付からなかったのだ。
「ですけれども、全て幻想郷が健在であってこそです。時に至りことにあたっては、一個の妖怪のごときの生死など、鴻毛の浮沈のごとき軽さです」
私の誤りを解くため丁寧に、しかしながら模糊とした比喩表現への耽溺でもって、稗田阿求は血色良好、頬に紅をさしながら一から当時の状況を繰り返すのだった。
「私たちは実に快適に過ごしていました。時勢の激流を制し、我々を蜜と乳の流れるせせらぎに遊ばせる幻想郷の内側でね。ですがもはや堤は軋み、流れは我々の流血で赤く染まろうとしていました。私たちは世に勝っているのだという勝利宣言は、幻想郷の担保のないむなしい空手形になりました」
「なかなかいいイメージの語らいだ」
この放埒な比喩力に対する理解力を養おうとも思わず、おおいに納得したふうを装い腕組みして、にこりと笑いかけた。
「黙示録作家にとっては趣深い喚想の助けだ。ところで、その他大勢の人間はもっと散文的な説明を必要としていると思わないか」
「それは失礼」
「そもそも、先ほどから、歴史の動きを一般化しすぎてはいないかね」
彼女は反省した様子も見せず、顎に手をやる。
「これはしたり」
溌剌と水を得た魚のように酒の入り始めた舌を踊らせる。
「今の言葉は心外ですねぇ。とするとあなたはもしかして、、私がいたずらに漠然とした、どこの土地に起こったのかもよく分からない総覧的な光景を語っていたとお考えで?」
しばらく考えた末に肯定する。
「確かにそう聞こえたが」
「逆です」
というと、くるりとペンを回すようなジェスチャーをする。
「誰もできません。外の世界の千思万考花開く姿を同定したなど大上段に構えて断じることはね。私の言葉は徹頭徹尾、幻想郷に起こったこれ以上なく個別的なエピソードの描写から一歩も出ていないのです」
私は渋面を作り、あごに手をあててくぐもった唸り声をあげる。
「ううん」
懐疑的な態度を露骨に表現する。
「やや、思わしくない。いいですか、他でもない、私は幻想郷の人間が至った考え方について語っているのです。深遠で趣き深い思考を求めるには、ここの人間は素朴すぎますからね」
「素朴とはものは言いようだ。軽薄なんだよ。ここの人間は右から左へシラミのように噂話を吸うのが好きだからね」
彼女は苦笑した。
「大結界の以前には幻想郷においても人間は限定的ながら外の世界と行き来を続けていました」
「それで?」
「いわば破滅は歩いてやってきたのです。外の思想に触れた幻想郷の人間達が、先ほど語ったような、今から見れば大ざっぱなきらいもある排他的な幻想に傾き、キラキラ輝く当時の世界観を背嚢に入れた聖者の軍隊になったのです」
「この幻想郷の人間が外の世界の考え方に親しみ、幻想郷を否定したということか」
「人間たちは外の世界の趨勢に幻惑され、感染し、彼らなりに消化しようとしたのでしょう」
人間には十重二十重に入り組んだ陰謀を企てる能力など望むべくもなく、妖怪たちを筆頭にした世界観を迷信だと偏執的に否定するための精神的な資力もない。彼らは妖怪を殺しているという自覚すらなかっただろう。と私は酒をすすりため息をつく。あいもかわらず私は巫女になろうというのに、人間に対する軽蔑を脱することができなかった。
「話が逸れたな。進めてくれ」
「魔理沙さんには、おとなしく頭を垂れて教えを聞くという生徒の心得えて弁えてほしいものです」
と私は思わぬ苦言を頂戴した。
どうやら知らぬ間に彼女の生徒にされているらしかった。
「ねえ魔理沙さん、確かに幻想入りはなかなかの事業です。外の世界で否定されても、一巻の終わりだと嘆かずに済みます。あなたの仰るとおりです」
彼女はぱちぱち、と拍手をした。
続く稗田阿求大先生の話は相も変わらず抽象的だったが、なんとか我慢できる焦点を保持していたとはいえよう。
「ですが、なお私たちは否定されたのですよ。それが事実です。ならば、内側から否定される他ありませんでしょう。で、どのように否定されるか、相手は平凡な村人なのです。単純に時勢の赴くまま、外の世界の思想の流行の尻尾を追いかけ、私たちを昨日の世界の古くさい迷信に感じたのです。さて、そうこうしている間にも、外の世界で別個に迷信だと追いやられた妖怪達が移ってきますね。ということで、この場合は否定する幻想、そして否定される幻想、道は違えど共に幻想郷に入ってきたのです。別に珍しいことではありません。幻想郷ではにいがみ合う世界観も共存しています。ですけれど……」
私はあいまいに頷き、ひとまず彼女の言葉に反論を挟まずに受け入れた。
「そういうことか」
彼女の長話の続きを引き受ける。
「かつて起こったのは、否定の先が幻想郷そのものの仕組みに向かったということ、そして幻想郷が素直にその否定を遂行したたことが問題となった」
「そのとき」
彼女は語気を強めて会話に一種の段落をおいた。
「この幻想郷における全ての事象の形相と作用の因果について、私たちが占める余地はなくなるでしょう」
私は口寂しくなり、鉄鍋にういた肉の切れ端をすくいあげる。先ほどは感じられなかった醤油の甘さが、酒でひりついた舌になじむのを楽しむ。彼女は言葉を続ける。
「それに、やがては私たちを迷信と追いやった幻想も死にたえ、幻想入りする。そのときは悲劇が再演される約束でもあったわけです」
この言葉に鷹揚に頷き、追認する。
「起こったことは分かったよ」
「受け入れるわけにはいきませんでしょう? 幻想郷に散歩にやってきた外の世界の世界観が振りまく幻想の黒死病は、はじめ彼らの吐息を介して伝染し、そして次に死体を介して伝染する。この伝染を断絶する方策が何をおいても求められていました」
「大結界だな」
彼女は過去を振り返り、目を伏せる。
「そうです」
「ようやく来るべきものが来た、といったところだな」
この言葉には当然、くだくだしく講義を行う大先生への皮肉が入っていた。しかしこんな嫌味は仄めかしにもならず、彼女は乾いた喉を酒で無限に喉を湿らせながら私に教えを垂れ続ける。
「とはいえ、事態は大結界の圧力により幸いにも終局には至らず、当時を生きたものの記憶に陰鬱な気配を刻むに留まりました。いえ、散発的な徴候はあったと聞いています。目前に立つ妖怪すら否定するのですよ。新たに生まれた子供達は私たちを認識せず、かつての子供達も成長するに従って認識しなくなる。幻想郷の風習の否定は、外の世界の凝縮された反復となるでしょう。そして、私が結界敷設時に転生することができなかった理由の一つでもあります」
私は彼女の言葉の先を想定する。
外の世界の幻想に追い込まれた幻想郷は、幻想を受け入れるという基盤にしたがって、粛々と幻想郷自身を外の世界の進歩と科学の幻想に編入しはじめる。放っておけば国道がとおり首都まで地続きとなり、祖父の世代の遺産は破棄される。それでも幻想郷は自らに及んだ外の世界の趨勢を反映するだろう。
「長い間幻想郷で暮らしたいた妖怪たちにとって、この出来事が及す心理的影響は大きかったでしょう」
「だからもっと頑丈で、限定的な幻想の関所を付け加えると。……幻想郷を否定する幻想に対抗する結界として」
「ええ」
「大結界がもしも引かれていなかったら今頃幻想郷はどうなっていたのだろう?」
「お見込みのとおり、この土地の風土は熱病に冒されたように何もかも逆転し、外界の制度を忠実に反映する最良の尖兵となり、……消えるものは消え、あとはまあ、残された人間たちでお幸せに行く末を歩んでいくでしょう。哀れお連れ合いの妖怪たち、魔法や能力はお先に失礼、おだぶつ昇天です。ことのついでに博麗神社の巫女様おかれましては、霊力からなるあらゆる便利な能力や神との交歓の機会を喪失するかわりに、郷社定則、大小神社氏子取調、神社祭式行事作法に則る男性神主、これはこれで新たな幻想である国家神道のもとで雑用係として雇用されサラリーを得ることでしょう。そういうことが、かつて実際に起ころうとしていたのです」
そうはなるだろう。この見方には私も同意する。……とはいえ、この昔話は私にとっては実感のある物語ではなかった。大結界のあとに生まれた私にとっては魔法と科学と能力が同居する世界こそが普通であり、いずれかが欠けたと想像しただけで、まるで肺が抜き去られたように息苦しくなり、憂鬱になる。胡乱げな視線を手の平から指先へと移す。魔力が収束し、あの偉大な自然に連なる感覚が私を高揚させる。魔法の欠如、それはもしも私が本当に外の世界に出たら……、と考えるとき、外の世界に黒い印象を与えるひとつの要素だった。私が戻るのだ。あのころに、魔法を見つける前に。しかも魔法を味を知った後で。
「魔法のない世界か」
力を込めた指先から炎を出す。僅かに部屋よりも明るく、ちらちらと空気をゆらめかせる。
「お見事お見事」
ぱちぱちと、稗田阿求は本日二度目の拍手をした。
「魔法は私の一部だ。なくなるなんて、あまり想像したくないことだよ。それなりの理由がなければね」
羽虫を振り払うように指先を振る。ぼ、と炎の流れ星が天井に届くまでに砕け散る。
外の世界では尊敬すべき私の二人の魔女の先達、アリス・マーガトロイドの空気の精霊の顎先をくすぐる指先の艶やかな踊りは人形遣いの大道芸を超えて世界に干渉できないだろうし、パチュリー・ノーレッジの見る者の視線の力が加わるだけでたわむほど柔らかい唇はいくら震えても知識のひけらかしを超えて世界に干渉できないだろう。
肝心要の霧雨魔理沙は最低だ、菌類学の知識をかじっただけの、夢見がちな、手段もないのに自分以上のものを望み続けるティーンエイジャーとなるだろう。
「もちろん。賢者様はこういった場合を想定して準備はしていたでしょう。しかしおおむね私たちは立ち淀み、うろたえ、無力感に苛まれたといってよいでしょう」
「幻想郷の終末だな」
稗田阿求は鼻息粗く、黙示録的な幻想郷の光景を身振り手振りで表現するのだった。
「まさしく終末です。終末がやってきます。何らかの対策をしなければ。美しき旧来の幻想の秋もいまや過ぎ、すべての美しき伝統と習慣は絶えていくでしょう。おお見よ!(彼女は何もない天井の一角を指した。) いまや河童は水をはじくことなく溺死し、皮膚はつじみ腐臭を放ちます。天狗達は徒歩で逃げ延び、かつての住まいであった霊峰が昇霞する浮煙果てなきを呆然と見上げます。私たちは生命を奪われ、二度と大手を振って人間の前に現れることなく、紙の記録、儀式の約束や寝物語に存在が留まる人文科学の標本になるでしょう。天使のラッパが吹かれようとしている」
かくして自らをむしばむ毒杯を飲み下し、斃れ、道端の草むしる行路病者となった幻想郷は、自らの体液で自らの隔膜を溶かそうとするような死体の自壊を開始する。
彼女は口に手を当て、ふうふうと息を吐いた。恐らくそれは吹奏の表現だった。しばらく息を整え、彼女はどうです、というふうにあごを上げる。
「お分かりでしょう。この最後の復活の日に博麗大結界という救いが登場したのです」
「それはそうと、今日はいつもの十倍はよく動くね。随分酔っ払っているじゃあないか」
私の問いを首を振って否定する。そして照れたように髪をかき上げる。
「まあともかく、大結界が何故必要なのかは、おわかりいただけたでしょう」
もはや首を振るまでもない。私はちらりと目をやり、伏せることで意を伝えた。
「よろしい」
生徒の理解力に満足げだ。
「二つ目の結界である博麗大結界。それは幻想の種類を選別し、時に抗い、旧い幻想を守ろうとした結界です。結界とは即ち条件であり、二重の結界とは二重の条件でもある。私たちは二重の条件に守られてはじめて生きていくことのできるか弱い生き物なのです」
少し言葉を切り、同意を求めるように言葉の先に力を込めてくる。
「いびつでしょう。醜いでしょう。妖怪の賢者様の、ええと、何でしたっけ、お得意の、存在の本分ですって? 二百年前ならば、耳を傾ける価値もありました。しかしいまや、その本分が喪失された証拠が私たちの土地を取り巻いています」
「奴らのその手の思想的なたわごとに関しては、誰もまともには聞かないさ。事業はなかなか立派だけれどね」
肩をすくめる。
どうせ心構えや覚悟の問題などは、巫女の引継ぎの過程でいくらでもしつけを受ける機会はあるだろう。私はついぽろりと思ったことを口に出した。
「そろそろ初等教育は結構だよ。結論だけを受け取りたいものだがね」
彼女は頬を膨らませながら、昨今の若者についての不満を垂れ流した。
「初等教育とはかわいらしい強がりもあったものですね、どうも外の世界を知らない若い方は大結界などあって当たり前だと思っているようで気にもしていません。百歩譲ってあなたのような人間が技術的な造りと実際上の影響に気をひかれても、そこにまつわる思想については軽く捉えるふしがある。それにあなたは」
指を指し、私の矛盾を同定するかのように胸の中央を捉える
「いまの幻想郷の有様だけ見て幻想という言葉が我々を指示するものと思い込んでいたのではないですか。幻想郷の中しか知らないあなたに区別がつくでしょうか。何が結界に吸い寄せられ、何が向こうに留まるのか。主義や世界観、フェティシズム、物語、あらゆる日常生活に入り込んでいる幻想を」
押し寄せる講義に、しまったと後悔する。余計な話題に水を向けてしまったようだ。
「確かに、この地で幻想といえば私たちだからね。だが言われれば区別は付く。私だって外の世界の知識には触れているのだから」
人間はもちろん、現実だけではやっていけない。想像力の階梯があるにせよ、何らかのこの世あらざるものを常に希求している。だから私は外界にはたった一片、たった一葉の物語も存在していないのだと、意固地になって言い切りはしない。幻想郷がそれらを幻想と取り合うなら御心のままに。ただし、パチュリー・ノーレッジなら次の言葉を贈るだろう。心の欲するところに従えども、則を超えず。
何故それらが幻想郷の査証を得えないのか。そして何故、幻想が外界に留まることができるのかについて答えなければならない。外界は役目を終えた思想たちを多く抱えている。もちろん常識の埒外の出来事も。
「他の人間たちよりは、あなたは外の世界を知っていることは認めましょう。ですが、あくまでも人間の中での話です。ですから……」
「まあまあ先生」
終わりなき説教が始まる気配を感じた私は、天狗よりも素早く彼女の杯を満たし、袖口を親しくぽんぽんと叩く。
そして頭の花を直してやって、魔法で活性化させ、摘み立てのみずみずしい香りを復活させながら、先ほどは紫への反意で八つ当たり気味に口を滑らせてしてしまったが、あなたの話は有意義だし、非難するつもりもない。続きを是非とも聞きたいのだけれど、と下手に出た。
稗田阿求は私の発言に「うむむ」と唸って、本筋に戻ってきた。
「よいでしょう。……というわけで、もとより幻想は未だ外界にも総なりです。これら幻想の繭糸を絡げ、私たちを救いを選定する。……大結界の条件として。まさにそれこそが問題でした」
私はできるかぎり神妙な顔をしながら、声を落とす。
「考えるだけで頭が痛くなってくるよ。合意がとれるわけがない」
「救われるべき存在を、誰が、どのように判断するか。この議論は一般的に結界騒動と呼ばれているのですがね。ご存じですか」
しばらく記憶に分け入り、正直に答えた。
「知らない」
「知らない」
老婆が若者の軽率な発言を嘆くように、気の抜けた繰り返してため息をついた。
「幻想郷には歴史がありません。もっとも、幻想郷はいつもそうで、群盲象を撫でるがごとき流言がその場限りで飛び交うばかりです。前の異変もそうです、前の前の異変もそう。今回のあなたがたの巫女様の代替わりだってそうではないですか。やれやれ、では考えてみてください。結界騒動の開始です。ねえ、霧雨魔理沙さん、あなたなら、この幻想郷をどう創ります? どうします?」
一転、目をきらめかせながら腕を振り、大仰に設問を披露する。私はこんなにはしゃぐ彼女を今日まで見たことがなかった。
「元気溌剌だね。私の元気が吸い取られているようだよ」
「あら、吸い取りましょうか」
ぺろりと赤い舌を踊らせて近寄ろうとする彼女を押しとどめる。
「いや結構、謝るよ」
「では改めて、あなたならどう創りますか」
どう創る。耳に入る言葉を染み渡らせる。
私は観念して彼女の質問に対する答えを考えた。
外の世界を知る彼女たちと、外の世界を知らない私。体験は天壌の空間を隔てている。
確かに私は外の世界を知らない。幻想ばかりのこの地で生まれ育った私は、大結界の向こうとこちらの違いが分からず、したがって大結界が何を通さず、何を通すのかも本当には分かっていないのかもしれない。だがそれでも推量を試みることはできる。
「私は、今のこの幻想郷を正しいと思っている。だから私は一から積み上げて私の考えを述べることは出来ない。今の幻想郷を見れば問題を解消する条件を満たす答えは自ずと逆算される」
「あ、それはずるいですよ。答え合わせではないですか」
彼女は言葉とは裏腹に、まんざらでもない表情を保ちながら言葉の先を催促した。
「でもいいです。大結界がいう非常識とは、何でしょう。妖怪の賢者様や、あなた、博麗の巫女様の審美観? 人類の価値判断の総花? 神に実在する観念の篩い目?」
八雲紫ならどうするか、私は必要性の尻尾を辿っていく。
私たちが外の世界と共有しないもの、救い出したもの、ここにしかないものを考えればいい。とどのつまりは目新しくもない、今更の確認だ。
「非常識なるものとは、私たちだ。そして、それだけだ」
耳に入る自分の声を聞いた直感で、やはり間違っていないという確信を得た私は回答を続ける。
「それは誰にとっての非常識でもなく、百年前の事相の写し身を、危機の解決を大結界に刻み込んだものだ。そして単なる思想や制度はいくら非常識であっても、ここには来ない。かつて具体的な形をもって練り歩き、笑い、生活をしていた幻想の存在だけが大結界を通り抜ける」
幻想郷というやつは、目的を達することにおいては大胆だ。結界をどのようにしても敷くだろう。境に住む人間を地上げによって強制的に移住させたり、外の世界に土下座したり脅したりする政治的取引もするかもしれない。同時に極めて慎重な面もある。大結界とは、私たちの生存条件で糾える命綱であり、詭弁や空論が入り込む隙間を許したり、おふざけの笑劇に宛がわれる、乗るかそるかのタイトロープであってはならない。
そしてまた同時に、幻想郷は平穏無事を尊ぶ。外界の失敗した思想や根絶された病が、ある日突然堰を切ってあふれ出すように幻想郷を作ったとしよう。私たちがいつ訪れるとも分からぬ終焉に頬をこけさせ、寝不足の目をこすりながら、その日その日を生き延びる偶然に煩悶するとしよう。
これは杞憂ではない。事実として幻想郷は一度外の世界の気紛れに付き合い、消滅しかけた。……まさにそのために大結界が敷かれたとつい先ほど聞いたばかりではないか。安息を、と希求する幻想郷とその住人の望みが、まさか同じ轍を踏むことはないだろう。時勢の気紛れと手を切らない限り、大結界は私たちにとって何の保証にもならない。
拡がる想像力に力尽きたように衰勢した声を出す。
「違うか? それとも、地球の全ての記憶を宝石にして陳列する原初の空気が満ちた聖堂がこの幻想郷なのだ。だから幻想郷が作られた時より前の幻想も、後の幻想も全て含まれているのだ。思想も制度も全て保存しているのだ。などと言えばよかったのかい」
「いいえ」
「そして条件は不変で強力だが、実際上は結界は柔軟に運用されている。奴らは珍品珍味や食料の人間を大結界に入れるとき、『結界のゆらぎ』という言葉を使うのではないのかな。逆に言えば、それは本来なら大結界を通過する品物ではない」
「概ねそのとおりです。かつての幻想郷では、大結界の計画の終着までには紆余曲折がありました」
彼女は悲しげに手を合わせて、天を仰ぐ。
「なんという悲劇でしょう。外の世界の人間は恐らく今の外の世界に違和感がないでしょう。あるいはその中で、妖怪に会えないのか、どうして魔法が出せないのか、そうあれば良いのに。と願い探し回っている人間もいるかもしれません。が、それらの非常識な生き物は根こそぎ幻想郷が奪ったのです。彼らが彼らの理想のガラテアの石像の前でいかに苦悶し、祈りを捧げ、不眠不休で跪き、いかに稠密類を絶するがごとき彫琢を尽くしたところで、石像は物憂げに沈黙するばかりで、永遠に作り主に微笑みのご褒美を与えてはくれないでしょう」
そこでは迷信対する憧憬や信仰といった精神的態度や知識の多寡は問題にはならない。もしも今になって外の世界に住む人間が、万古の伝承やファンタジーに夢中になり心を奪われ、どうして妖怪に会えないのか、どうして魔法が出せないのか、そうあれば良いのに、と四方八方の図書館の未整理資料の間を飛び回っているとしよう。だがそういう人間がもしも居たとして、いくら文献や儀式を追ったところで、私たちにはたどり着けない。教義は残されるし、教義の意味も残されるだろう。そこまでは我々は共有している。だがその教義の指し示す約束は、この幻想郷に摘出されているのだ。
結界はそれ以外の世界と共有しない何かによって区別されている。私たちを救うのならば私たちを確実に救い、所与の目的を達成するだろう。
「当時の結界の条件に対する意見、そして結界の影響力に対する意見は鈴なりで、収集がつきませんでした。結果としてどうなったか。……博麗大結界の影響力はこれ以上ないほど強く、力加減の極限を目指されています。賢者様が全世界に対抗する気概で、広く深く及ぼすように敷設されています。これにてとりあえず、一件落着はしたわけです」
よって外では巫女の振る舞いは美しい無形文化遺産でしかなく、教養にはなるだろうが、神様と交感する上澄みは相も変わらず私たちの領域にとどめおかれている。巫女の本当の能力は失われ、外の世界の巫女が祝詞や神具の役割について目を血走らせながら探求したところで、その湿った目やにはどんな神も生み出してはくれない。逆も然りだ。外の世界へ出張した私が幻想郷と同じ儀式を行っても、それはある儀式を出張させるだけで神を出張させることにはならない。またそうでなければ内側と外側を隔てる膜の存在は保たれない。
彼女から徳利を預かり、杯を満たす。
「ああ、どうぞ、気がつかずにすみませんねえ」
「失礼するよ」
すするように湯飲みの中身を味わっていく。
しばらくの幕間の気配が漂った。
私は執拗な歴史の講義から何故霊夢の死因の話が導かれるのか、まだ想像ができなかった。いまの博麗大結界によしんば隠れたる瑕疵があろうとも、妖怪の賢者達の知性で及ばぬところを私たちが気付くことなどできない以上、思い煩うだけ無駄というものだ。私たちの考えなど彼女たちの考え全体から比べると、猫の額の一角ほどしか占めていないのだから。
だが彼女に話をせかしても無駄だろう。稗田阿求は言いたいことを最後まで言わないと我慢ならない性質の人間のようだった。
手短な授業を諦めた私は、くちくなったお腹を抱えて座りっぱなしだったことに気付いて風を受けたくなり、立ち上がって髪を敷かないように窓枠に腰をかける。茫茫した桐の葉がこすれる音が炒りめきあう。
先ほどの鯉だろうか、再びぱしゃりと音がする。顔を向けると姿はなく、池に残る魚紋の上でさかさまの塀がはためき、照り映える落ち葉がつたよっている。
「見事な庭だね」
「ええ、私の部屋からの景色が一番です」
開け放しの窓から吹き込む円満なそよ風が喉元を乾かし、食後の甘い呼気を循環させていく。
肺の奥から、食後の血液で熱された、粘性を帯びた湿り気が追い出される。
暖かく、軽すぎない天気。いろいろなものが溶け出しやすい頃合いの微風というものがある。里には里の、神社には神社の、外の世界には外の世界の。匂いや音、気配。季節や温度が乗りやすい風が。
この妙なるハーモニーから一条の要素だけを取り出すことができるか。できるのだろう。彼女たちならば。
はらりと散る後ろ髪を後ろ手にまとめ、襟に入れる。私を首を取り巻く私の一部の感触は、安心感を与えてくれた。
「髪、伸びましたね。もしかして、願掛けですか。どのような望みでしょう。霊夢さんのことでしょうか」
もちろんこの前会ったときからさほど時を開けたわけではない。これは、からかいだろう。見透かすような彼女の視線に頬が歪む。
「そういうお前は背が縮んだのではないのかな。長寿を願うヨーガの奥義を試した代償かい」
「長寿には興味ありません、それで、どうです」
「霊夢の死は理不尽だ。これ以上はいう事もないさ」
「ふむ」
頭には今後の計画がいくつも生まれ、うち捨てられていく。私の全存在が博麗の巫女に成り代わる前に、何を成すべきかという問題だ。素描はこうだ、まず霊夢の依り代を手に入れ、賢者の石による変容により霊夢の完全な肉体を手に入れる。そして次にその肉体に降霊術により魂を呼び寄せ、蓬莱の薬により魂を彼岸から奪い、永遠の寿命を得た私たちは、輪廻から解き放たれて第二の蓬莱山輝夜と八意永琳になる。この計画において、私は霊夢の依り代という第一歩で蹉跌をきたし、うろうろと日々を徘徊していた。
彼女はぱんと手を打ち鳴らす。
「あ、そうだ。それはそうと、お土産がありますよ。もうすぐお話も終わります。お帰りになるとき私が渡すのを忘れたのならば、お声をかけてくださいね」
「もらえるものはもらうさ」
そしてまた意識が内面へ向かう。
今のところ私は今回のばかげた騒動にある、稗田阿求が抱く真実とやらにもたどり着いておらず、霊夢の意図を解明するというぶらさげられたニンジンによだれをたらしてこの雑駁とした考えに緻密さを与えることができずにいた。
ぐるぐると、答えのない問いだけが繰り返す。私の頭は人間の持つ疑問という感情を蒸留する器械にでもなったようだった。だが逼塞とした考えは、やがて道を見いだす圧力に耐えきれず壊裂する。私の堂々巡りに疲れた思考の裂け目から、甘い誘惑の蒸気が噴き出し、脈絡の欠いた願望が生み出され、私は夢想に酩酊する。
「やがて私は・・・・・・」
声にせず、舌先だけで、しゅうと漏らす。さほどとおくもない未来、私と霊夢が二人で手を繋いで幻想郷を飛び出し、外の世界のいろいろな場所を旅してまわり、雄大な光景や偉大な建造物に思いをはせ、お互いの感想を笑顔で交換し合い、夜になれば同じベッドで今日の冒険を寝物語にして次の日を始める。私たちは朝に目覚め、くつろぎながら朝食を庭先でとる。夢で練り上げた次の計画を、コーヒー片手に棕櫚のクッションを抱いて話し合う。エサにつられたホシムクドリがやってきたら指先へ宿らせ、この可愛らしい訪問客にどこから来てどこへ行くのか問いただす。そう、永遠に私たちは若いまま、魔法と霊力を保ち、何にも煩わされることなく生き続け、あらゆる問題は無限の時間の前に解消し、ただ日常の楽しさだけが残される。
これがお幸せな村娘の妄想でなくて何なのだ。でなければ、阿片患者の午睡だ。私はのぼせた額を手の平で冷やす。
「くだくだしいかもしれないがね、外の世界には魔法がひとかけらも残っていないし、残す方法もないのか」
「そんなにお外の様子が気になりますか」
彼女の瞳は、おもしろがる意図はあれど、諮詢や詰問の色を帯びてはなかった。
そっぽを向いて唇をとがらす。
「気になるよ」
「じつは私もですよ、今の外の様子は私も知りません」
と言いながら稗田阿求めは書き物机に移った。
乾いた硯を当箱の下段から取り出した花柄の水注でしめらせ、半紙に細線で二重丸を描く。
近づいて後ろから覗き込む。すらすらと、彼女は図を認める。そして紙に向かって一人で次のようなことを呟いた。
「博麗大結界と幻と実体の境界です。小さな星型も散らしましょう、これは外界の幻想です。架空の友達や恋人、物語の登場人物なんてどうでしょう。いろいろあります。私は野望を持った若い男性の主人公が大好きでしてねえ」
全体を眺めれば幻想郷と外の世界の図式図が出来上がっていた。
「外界の幻想は幻想郷中のダニを足したよりも多く存在します。もっとも、あなた今までついたウソよりも少ないでしょうけれども」
「でもそれは優しいウソってやつだよ」
聞き流しながら慣れた手つきで半紙にいくつも幻想をあらわす星を描く彼女は、星から線を結界に向けて伸ばすが、流れる線は博麗大結界にぶつかって砕ける。そして星に次々とばってんを引く。そして次に彼女は朱を取り出すと、筆を変えて幻想郷の内側まで入る線を引いた。
「幻想郷に入れる幻想は多くありません。つまりこれが、私たちです。何故か。もうおわかりですね。多くは幻想であるけれども、大結界から言わせれば常識であるからです」
彼女は朱色で八雲紫の似顔絵を描き、矢印を幻想郷の中央に引き込んだ。花丸を描く。
そして低い吐息のような声で『あなたがたにはまかせられません』と物まねをした。
確かに似てはいたが、今はオウムの芸めいた小芝居に興味を示す気分ではなく、杯を傾けて問いただした。
「そうかな? 紛れもなく、かつてあったもので、今もこの幻想郷にあるものなら、外の世界は簡単に見つけてしまうのではないのかな。奴らはなまっちょろい赤子じゃないぜ。夜驚症の悪童だ。いつ私たちの全てが暴かれるのか、じつに楽しみだよ」
「いやん、怖いですわ」
肩を抱き、かぶりを振って八雲紫を表現する稗田阿求は、反応の薄い聴衆に気を病むことなくごきげんに言葉を続ける。気味の悪い微笑みをたたえながら、私の肩に手を置いた。
「魔法使いよ。あなたが外の世界を自らの理想と重ねているのは私も感じています」
「そうかもな。よく見ているじゃあないか」
とはいえ私自身、彼女から言われるまでその二つを同列として扱ったことは無かった。しかし一度解け合ったものは戻らない。たっぷり引かれた墨汁の線の上、文字と文字の液体が混じり合うように、ふと彼女の言葉が外の物語と私と物語を線を結びあわせその溶融を形作る、そして私は理解する。
……私がくだくだしく繰り返す外の世界は進歩し続けるという宣言。進歩の過程において喪失したものを再び自らの進歩により全て取り戻し、万物の追世化成の計画が熟していき、ついに歴史が完成する結願の日が訪れ、私たちは存在性格に関わらず永遠の安定のもと何不自由なく生を営むことができるのだいう無反省でどこか陶酔の匂いがする楽観的な見通し。具体的な形象は棚上げにされているが、すべてが許されて併存し、いかなる憂いや苦しみから解放された黄金の素晴らしい時代。このこれは他でもない、失われた私自身の全てを再び得たいのだという霧雨魔理沙の個人的な物語の別の表現だった。
つまり、こういった具合にだ。かつての私が今の私を誰何する。薄暗い記憶の底の万能の夢に住まう自分自身が、ホオズキの萼のように成長してもなお残る紐帯をとおり、私の存在の問いを悪魔的に回帰させる。よう私、お前は誰だ、私だろう。そうだ、霧雨魔理沙は霧雨魔理沙に立ち戻らなくてはならない。どのようにして? 外の世界のように進歩し続けることによって、万物を解き明かすことによって、何者にもならず、未来の果てで全ての私を取り戻すことによって。欠落も疵もない円かなる生を得るために。
ちっぽけな小娘の個人的見解に妖怪たちと渡り合う御稜威を帯びさせる紫染めのマントとして、この混同が必要だったのだ。私はこの着想が及ぼす恥じらいから離れられず、じっと黙り込んだ。
「実際のところ、忘れられた形を取り戻すというのは口でいうほど簡単ではありません」
あっさりと紫の物まねをやめ稗田阿求に戻ってきた彼女は、ひとり内面で回顧的な錯覚に耽る私を諭すように間を置きながら、筆をべちゃりと星に押し付ける、ぐじぐじと、紙に朱色がしたみふやけていく。執拗に塗りつぶされ、もとの姿が失われる。
「ほうら、わからなくなりました。元の姿は分かりません。あいや、この書道の摂理が正確に事物を反映する訳ではないですが、……要は前の存在、前の仕組みを本当の意味で取り戻すことは困難だということです。文献としてかつての存在が残っていたところで、それは今の世の知識と化すに過ぎません。私たちは時計を逆回しにはできない。おまけに大結界もあります」
筆を置いた彼女は私に向き直る。
「当時、この大結界を嫌う妖怪はたくさんいました。自らが外界には認められない非常識な存在に陥ったと認め、その非常識な存在の世界を創ることが生存条件である。……この先鋭化された逆説を信じるか否かを突きつけられたからです」
「だがこの幻想郷においては妖怪が自らを否定する必要はどこにもない」
「ええ、ご存知のとおり、幻想郷の外と内を隔てる基準は妖怪達の心構えから切り離された大結界の冷厳な論理的圧力にあります。幻想郷の条件は妖怪の繊細な感受性を無視して、妖怪を引き寄せるでしょう。結界と関係ないところで好き勝手悩めばよろしい、という訳です。ですから不安の告白は結界騒動の第一段階における一部の初心な連中の手慰に過ぎません」
「冷たいことだ」
「ですが外への憧憬は尾を引くでしょう。さて、第二段階は、実利的な大結界の条件の綱引きが始まります。そして、こちらが本当の逆説です。賢者たちの最終的解決――最終的解決という言葉は当時よく使われた言葉なのです――の方策は、結界に許す限りの影響力を持たせ、外の世界の私たちを全て否定することです。幻想郷だけが救いであり、ここに来なければ消えるしかないのだと、幻想郷の外の世界全ての存在に迫りました。おっと、そうだ。せっかくですし、当時の意見を見てみましょうかね。賢者様に反対する者の意見です」
紙束の一片のスクラップを取り出す。それは天狗の新聞だった。
私はそれを開き、座り込む。大結界の影響力の行使には否定的な論調を保っており、次のような意見を述べていた。
『幻想郷は自らが陥った困難を乗り越えるために、日本の一地域が直面した個別的状況を、全世界的規模の普遍的状況にまで加速させ、その結論を先取りさせることで切り抜ける方策を選んだ。これは私たちが外の世界の趨勢の後押しをし、同族の首縄に石鹸を塗りたくることを意味する。最後の同族の埋葬を終えた暁には、外の世界は私たちを永遠に喪失するだろう。そして二度と、私たちはこの牢獄から抜け出すことはできないだろう。私たちはこのような一足飛びの『最終的解決』を到底受け入れることはできない。それは私たちのテンポではない。外の世界は未だに我々の源泉であり、また幻想郷の風土はこの土地を超えた影響力を行使しなくても、十分に自立可能な底力を秘めている』
しかしこの言葉を読み解くには、当時の文脈から切り離されている私にとっていささか難解ではあった。過去の書簡を読み解くために年表が必要なように、この手の時事の助けは必要だ。
「このときは誰を救うのかについての議論は終わっていました。大結界に影響力を持たせるかどうかの議論です」
「なるほどな」
おそらくは、と留保付きではあったが、言わんとすることはこうだろう。鼻溝に手を当て、指先を体温に温めながら私はしばらく沈思する。
村々の一軒一軒を律儀に駆け回り、一家団欒のちゃぶ台の薄暗い周縁で付喪神の復権を叫ぶような――具体的には茶碗を死に体にがちゃがちゃさせたり、縁地に影を油虫のごとく這わせたりして存在を主張するような――、そのようなしみったれたやり口に我慢ならなくなった賢者様が、物事の『最終的解決』を求めた。なるほど、と新聞はいう。最終的解決を図るのはいい。時の経過に試みられない問題の最終的解決を図る、それができれば立派だろう。だが結界に影響力を持たせるということは同時に、妖怪にとっての外界の砂漠化の計画でもある。外界は未だに豊饒な我々の大地であり、あえて汲みつくす必要はどこにも無い。幻想郷は自分を守る結界のみを作り、あとは自分の住人だけ面倒を見ていればいい。
これはこれでまっとうな見方にも見えるが、次に渡されたスクラップには、別の天狗の新聞の意見が貼り付けられている。
「別の新聞で多角的な視野を養いましょう」
「そりゃどうも」
投げ遣りに返答する。
言われるがままに広げたこの新聞では、同じ出来事に対してまったく対極の見解を示し、妖怪の賢者たちの意見に諸手をあげて賛同していた。
『生死の相克は』と、一言目から彼女たちの機関誌は勇みこんで踏み込んでいく。『ぼやけたり混じり合ったりした結果、なし崩し的に和平を選んだりしたりはしない。私たちはどちらかの状態を選ばなければならない。どちらを? もちろん生を。そして結界こそが済度であり、死脈の幻想郷を蘇生させるには、不可避的に外の世界に死が対置される。私たちには外の世界を向こうに回すに釣り合う重さが与えられなければならない。外の世界の死……この言葉は確かに重苦しい響きを持っている。……だが、もちろん私たちは遊牧民的な虐殺趣味で外の友人に死を振りまいたりはしない。影響力の重みを増した幻想入りの射程は窮地に陥った友人たちをむしろ救い幻想郷に受け入れるだろう。そしてやがて、いかなる個別的な祈念からも完全に切り離された私たちは、大結界の庇護のもと幻想郷という本当の世界で繁栄を享受してゆくだろう……』
口吻も軽やかにバラ色の未来を幻視するこの新聞は、このたびの延命措置の心髄は、妖怪たちの存在の否定という窮境をその極点まで推し進めるとことで、妖怪たちの存在の否定を既成事実にし、外界の事態を旗幟鮮明にし、ひいては結界の強度を時代が降るごとに高める方法の導入こそが、唯一の安息を得る生存の現実的な方法であるということを保証していた。結界の条件と外の世界が同じくなり、整合性の高まれば高まるほど、博麗大結界は世界を二分化を既成事実とし、不可逆的な影響を外の世界に及ぼすようになる。そしてついに最後の一体が幻想郷に回収されたとき、博麗大結界は真に論理的な結界となり、外の世界から我々を最終的に摘出する。
結びの言葉はこうだ。
『……完成された幻想郷ではもはや一遍の箱庭的エピソードをも見出すことはできない。外側を持たない世界そのものとなった私たちは、いかなる時間的、地理的接点も持たない楽園を見出すだろう』
と、暫時の間をおき、小首をかしげて話を変える。
「こちらが賢者様の見解か。私たちが外の世界で追いやられているのは、時代の趨勢だけではなく、大結界があるからという訳だ。幻想郷という本当の世界、ときたか」
「ええ。昔の新聞が幻想郷を『本当の世界』と言っているのは、特殊な見方ではありません。結界敷設の前から生きているものから言わせれば、外の世界こそが歪な箱庭なのです。この幻想郷だけが『本当の世界』ですよ。あなたは外の世界が進歩して幻想を取り戻すと言いましたね。何故取り戻す必要があります? それは外の世界が欠けているからです。反対に、幻想郷は何一つ欠けてはいません。全てが同居しています」
「昔から生きている者にとっては、確かにそうだろうね」
私が読み終わると、彼女はぱらりぱらりと繰ったのち、扉と共紙の粗末な紙が使われたスクラップを捨て置く。
「だがそれは自分たちが図った故でもある」
「そう、一時代を乗り切るために。一時代の流行を銀鉛写真にしてアルバムにし、変化を拒み、過去も未来も(彼女は手の平をぱたりと倒した)殺すことで」
「もはや外の時代の思いなど関係なく押しつけることで、か。しかし、世界中のコミニティにおいて思想の発展の度合いなど、どだい統一性をもつものではないだろう。はじめ言ったよね、バラバラだ。何故、俯瞰した視点で影響力を一様に及ぼせるのだという能書きをたれることができる?」
たまたま幻想郷の地政学的問題から、不幸にも周辺一帯が私たちを迷信とする風潮とする幻想に取り巻かれ、そして人間の出入りにより破滅しかけたかもしれない。だけれども、私たちを許容する文化が外の世界にだって残されているかもしれない。これは大いにありそうなことに思えた。
「できるのですよ」
畳の上にすげない声をなげうつ。つまらなさそうな目と相まって、鳥のふんがべちゃりと落ちるような音程を模しているかのようだった。
「妖怪の賢者達は、できるのですよ。彼女たちは知っているのです。各地域の分裂的な傾向を所与のものとし、なお結論を与えさえすれば個別の状況に応じて、独自の形で、しかしながら共通の幻想に達することができる。ある種の幻想の性質を」
何故なら、と彼女は説明する。鉄道や電信の基地がビルの中も山の中も同じく走り、役場や新聞、そして当世の思想が地域に応じた文化を育むように。あらゆる最新の発明品が、全ての後進国に等しく行き渡ったとして、それぞれの国の文明をそれぞれの発展の度合いによって独自の模様を描きながら、なおその傘のもとにおさめるように、いかなる局地的状況においても、私たちの敗北を認めさせることができる。
こんな未発展な田舎でさえ容易に感染した妖怪と魔法の世界の敗北と科学的な世界観の勝利を、世界に輸出すること。既存の価値の転倒を、あらゆる世界中の発展の度合いに応じて急進させ、発展の度合いに応じて過程を飛ばし、最終的な結論まで行きつかせること。つまり、夜の住人たちの否定まで推し進めること。夜の住人たちが生き延びるために、大結界が、幻想郷が、個別の幻想の時期を脱し普遍性を得て、人間のもつどこか別の世界に対する憧憬に寄生することによって、堅牢無比の楽園として独自の世界を営んでいくために。
「ふぅん」
当時でさえ、残された外の世界の住人候補には限りがあっただろう。外の世界のやり方を真似て、私たち自らが状況の後押しをした訳だ。もちろん、今の世においても新しい住人候補も奇跡的に残された外の飛び地で生まれるかもしれないが、その飛び地も次々と大結界の圧力は飲み込み、私たちを否定する空間と化し、ぺんぺん草ひとつ生えない荒野にする代わりに、幻想郷を肥え太らせる。
「今の形をとったからこそ、今の幻想郷があります。この賢者様の機関誌の内容を補足すると」
と彼女は湯飲みをあおり少し間を置きスクラップをぱたぱたと揺らせ、つまらなさそうに付け加える。
「賢者たちの思考の本音は、何を今更、遅ればせながら大騒ぎしやがって、てなものです。大結界の条件を修正しようとするどちらつかずの連中の言っていることなど、彼女たちは数百年前に既に通過しているのです。そも、お優しい賢者たち自身も同じ意見でしたからね。結論を留保させた折衷案が幻想入り、ですよ」
そしてそのスクラップを適当な山に置き、腕組みをした。
「最初から今の効果を持つ大結界を引いてもよかったのです。ですが妖怪の賢者たちは幻想入りという留保を敷き、人間の進歩をじっと、辛抱強く待ち続けました。修正主義者の楽園である、いつでもたちもどれる、いいとこどりの、中途半端な異界としてね」
彼女は時折、会話というよりも、むしろぽつりぽつりと独り言のようなしゃべり方をした。御阿礼の子の能力が、思考するしゃべり方というよりも、記憶を読むしゃべり方に傾かせるからだろうか、
いまもまた、目にやや酔いの色を浮かばせながらも、読んでいる本をふと潜めて読唱するようにささやかな、紙のほこりを払うがごとき声色を使う。
「そして待ち続け、期待しつづけ、とうとう時間切れです。外の世界の考え方が幻想郷に入り込むまでに至った今、外の世界の夾雑物を輩出し、幻想郷そのものを守るためには、論理的な結界の圧力を持って対処する方法しかありませんでした」
ひざを直し、からかいの色を本棚の楓の木目の斑のように混じらせながら、私のお得意の考え方に戻ってくるのだった。
「いずれ外の世界は幻想郷を取り戻す。なるほど、同じ考えを賢者様も、かつては持っていたでしょう」
「もう私のことはいいよ」
と、不満をあらわし言葉を切る。
「はい」
にこにこと彼女は笑う。近所の犬をからかって干し魚を届かないところに持っていき、飛び掛るのを意地悪に見ているような笑いだった。
「結界騒動は彼女たちに判断を迫りました。答えはシンプル、時間切れです。彼女たちは幻想の寿命を越えて生き過ぎました。彼女と同じ存在性格を持つ幻想がいまさら外の世界に受け入れられたところで、彼女たちの居場所はそこになく、当世の別の妖怪が復活するだけでしょう。時の流れに反した報いです。というわけで、幻想郷は外の世界には戻らないように作られているのです。あなたの考えと違ってね」
「全ては過去からの続きか。自らが生き延びるために。時代に忘れられても、外の世界が同水準の幻想を失ったとしても、どれだけ現実と乖離しても生き延びるために。一度生まれたからには、どんな手段を使っても」
遥か昔から幻想には時宜に応じた死に方があったはずだ。明治の世になり始めて登場した悲劇ではない。部族宗教は一神教に飲み込まれ変質し、異端は正統に迫害され否定され、クロノスはゼウスと闘争し殺され、サモトラケのニケは自動車の咆哮に価値を追い抜かされる。妖怪もまた、その妖怪たちの前の存在を打ち倒してここに立っている。しかしこういった歴史家な見方は、私たちに向かって、お前たちも原人を駆逐してきたのだから、同じようにお前たちの幼年期が終わったのなら駆逐されねばならん、と宣言するのと同じ身勝手さを持っていたのだろう。
人間が自然環境が強いる生物の死滅と交代にあらがうように、妖怪たちが滅びを否定する。
私は人間から生まれた彼女たちが独り立ちし、自分たちの住かを作り始めるという無制御の過程に恐怖を覚えた。
「論理的な結界を採用すれば、外と幻想郷の対応の不一致、つまり、論理的な不整合は結界の強さにほころびを生じさせます。二度と同じことを繰り返さぬためには、外の我々を全て否定することになろうとも、内と外とを峻別する影響力を持たなければならなかったのです」
数百年前から始まった幻想入り、その仕組みを置くことで私たちは消滅を気にせずに長い時間を得ることができた。これは最初の事業でありながら、すでに幻想郷の本質を規定している。滅びの否定。そしてその仕組みが危機に瀕したとき、彼女たちはこの幻想入りという事業の延長として、大結界による論理的圧力により、実際上幻想郷を救うために必要な方法と、幻想郷の当初から続く本質であった滅びの否定を同時に満たす方法を提示したのだった。
「まあ私もそろそろ、やつらのやり口については分かってきたつもりさ」
私は考えるのもばかばかしくなり、腕を振って会話の断絶をしめす。
「とはいえ、秘密でも何でもないですが、外の世界にはまだ生き残っている妖怪たちが居ます。大結界は未だ為果てず、外の世界を征服するには至っていません。この意味で、未だに当時の事情は続いているのでしょうね。もちろんこの移行期間すら、妖怪の賢者様から言わせれば執行猶予の期間だったのでしょうが」
薄い身体の線を膨らませながら稗田阿求は深く長息をつき、涼しげな青色の手巾で口元をぬぐう。
そしてすぐに器用に片手で布を折りたたみ、絽羽織と質感を同じくするその手巾を袂に仕舞まった。何気ない行いをひと仕草に縮めることで、流麗な余韻を見るものに与えていた。
一語で済む話が十語百語と流れ水の如く溢れ出す様
いぁ、心理的に読み辛かった。「先ずは結論から言え」と何度叫びたくなった事か。阿求は理と耽溺的修辞を平気で綯い交ぜにするので、訊いてる聞いてる聴いてる内に何を要点にしてたのかすら(読者が)忘れる始末。前話も阿求との会話に終始して進展なかったし疲れた。全部阿求が悪い。疲れた。
変わらぬこの文章も好きです。続きを楽しみにしております。