彼女は私を見た時、泣きそうだった。
薄い暗闇に覆われた空はひび割れ、そこから光が差していた。その光に照らされた彼女は薄い微笑みを浮かべ、そして泣きそうだった。
赤い花弁を巻き上げる風に、常盤色の髪を巻き上げられながら。
「貴方を待っていたわ」
言葉は、たったそれだけだった。あっけない、たったそれだけ。
でも、だからだろうか。その一言に言いたいこと、全てが詰まっているような気がした。
淡い杜若色の瞳は苦しそうに歪み、それでも尚、彼女は懸命に笑おうとしていて。それは初めて会ったはずの私の心を苦しませた。言葉はあれから途切れて、彼女は私の言葉を待っているようだった。けれど、私は何も答えることができなかった。
答えようとはしたけれど、何を言ったらいいのか分からなかった。
世界から放り出されたばかりの私には、彼女の言葉に応えるだけの言葉を持ち合わせていなかった。それはひどく辛かった。お前は隣で肩を並べることなんてできやしない。そう言われているような気になった。
風はなく、どこまでも静かで。
ずっと黙っていた私を、彼女は優しく抱きしめてくれた。私よりも遥かに幼い身体をした彼女は、私よりもずっと大きくて。暖かくて。
その時、私はこの人について行こうと決めたのだ。
§
ふいに目が覚めた。
「…………」
すーっと自分でもいつ起きたのか、分からない程度に緩やかな目覚めだった。その癖に、頭の中は靄がかかったように、現実と夢の挟間を行ったり来たりを繰り返している。辺りは静まり返り、まだ夜の闇が場を支配していた。
格子窓の外に、朝の気配はまだなかった。秋の夜の冷ややかな空気が外に充満していて、ぶるりと身を震わせるには十分なほどだった。格子窓の奥には塗り潰したような黒が見える。
――懐かしい、夢を見た。
空の黒を見ながら、夢の輪郭をなぞっていく。彼女との出会い。自分が初めて見た光景。まるで永遠と思わせるかのような沈黙が自分と彼女の間に広がっていたことを思い出しながら、寝床から起き上がった。
上質とは言えない薄い布団をどけると、小町の肌が露わになる。襦袢で寝ているためか、寝ている間にはだけてしまったようだ。もっとも、ここは自分の家で。そう考えるならば何も問題はない。小町とて恥じらいを忘れてしまったわけではない。
襦袢を整えるわけでもなく、小町は土間に降りた。土間に置いた草履に足を通すと、ごわごわした感触が足をくすぐった。ひんやりとした土間を、格子窓から差し込む星の明かりを頼りに歩いていく。小町は格子窓の下にある水瓶まで行くと、水瓶に突っ込んでおいた柄杓で水を掬い、柄杓に口をつけて一気に飲み干した。夜の静けさに冷やされた水が、小町の喉を潤していく。
水を嚥下した後、小町は格子窓から空を見た。星が瞬き、暗い世界に幾つもの光彩を加えている。寝転がりながら見ていた時とは打って変わり、夜空は輝きに溢れていた。夜の闇は祓われていて、不思議と寂しさを感じさせない。風のない、凪いだ夜。
小町は目を空から逸らすと、土間に草履を乱暴に脱ぎ散らして布団へ戻った。まだ寝ていた途中なのだ。ただ、喉が渇いた。それだけで起き上がった。床に就くのはごく自然だった。そのはずなのに。
小町は寝られなかった。
口の中をさっぱりさせてしまったせいなのか、それとも凪いだ夜に魅せられたか。どちらにせよ、小町は床に就いて尚寝られなかった。目を閉じて夜に身を委ねても意識が遠のく様子は一向にない。
「……こんな夜は、久しぶりだね」
ごろりと横向きになり、腕を枕代わりにして格子窓の奥を見た。四角く切り取られた世界は小さく、月は見えない。ただ月の光だけが手を差し伸べるように、降り注いでいた。柔い月明かり。
夜を騒がせないように、するりと布団から出て、箪笥の中から服を取り出した。死神としてあるための服は、ひしゃげていて威厳がまるでない。最も、威厳を出すつもりも毛頭ない。小町はいつものように袖を通し、化粧箪笥から二つ、髪留めを取り出して髪をまとめた。
壁に立てかけた鎌を手に取り、小町は手の中でその感触を確かめる。外へ出る以上、何かと備えておく必要はある。風のない夜は、それなりに不気味だ。
肩に鎌をかけ、腰にはどぶろくと盃を引っ提げて、小町は家を出た。外は思っていた以上に冷えていて、一瞬のためらいがあったが、空気を一つ吸ってしまえばその気持ちは跡形もなく消えた。
そして、飛んだ。
重力に抗い、次の瞬間には小町の体は宙に浮いていた。見る見る内に、自身の家は小さくなり、あっという間に空が近くなる。暗い海に身を委ねるように、小町は闇の中に浮き上がった。
眼下には魔法の森や、妖怪の山が見える。それらは月明かりの下でも黒々としていて、ただの黒い塊としか見ることができなかった。が、それでも圧倒的な存在感を放っていたため、嫌でも分かった。
――懐かしい夢だった。
いつのことだったか、それすらも覚えていない遠い記憶。小町が初めて彼女と出会い、そして寄り添って歩こうと決めた、数分間の思い出。色褪せることのない、最初の記憶。
あの日の映姫の顔を、小町はあの日以外に見た覚えがない。どんな時も笑っているか、仏頂面のどちらかだ。もっとも小町が接するときは大概後者ではあるが、それでも歪んだ顔を見たことはなかった。
何があろうと彼女は揺るがない。それが彼女の役割だ。絶対的な力を持ち、そして立ち入ることのない、言わば背景としての役割。
その彼女が、小町を望んだ。
――待っていた、とまで言われちゃあね。
その意味を小町は知らない。問う機会は探せば幾らでもあったけれど、問えば全てが瓦解してしまうような怖さが付きまとって、今まで問えなかった。
これからも、問うつもりはない。
自分が生まれた意味を問う。それは人間のすることで、小町には必要ない。小町は生まれた時すでに死神という役割を持っていた。そしてこれからもそれは変わることがない。
役割を変えられるのは、人間だけだから。
それに不満はない。
三途の川は光彩を反射させていて、夜でも自分の存在を主張していた。その光に誘われるように、夜の中天をふらふらと彷徨いながら、小町は自然と映姫と初めてあった場所に向かっていた。
三途の川原へ。
生と死の淵へ。
「……あ」
彼女はそこにいた。
深夜であるにも関わらず、映姫はいつもと変わらない面持ちで白い、月明かりを反射させて光っている岩の上に座っていた。じっと。初めからそこが定位置だと言わんばかりに。蓮に座すお釈迦様のように。
怖い、とは思えなかった。
けれど、いつもより遠いようには感じた。
いつもと変わらない表情だから、余計にそう感じてしまった。そして感じてしまえば、それを払拭することは難しかった。風のない夜で、音もない夜だったから尚更、強烈な違和感を与えた。
小町は宙に浮いたまま、どうしたら良いのかを考え始めた。映姫のこんな姿を見るのは初めてだった。音もなく、笑みもなく。彼女はただ置物のように、座っている。
小町は映姫に気付かれないように、少し離れたところに降り立った。彼女と会うのに空から行くのは不自然なような気がして、まるでそれが話すための条件のように思えた。あくまで飄々としていなければ、不自然な沈黙に思ったことが塗りつぶされてしまう、そんな気がした。
できるだけ、いつものように。
そう考えながら、歩く。腰に引っ提げたどぶろくが盃にぶつかって、からんからんと音を奏でる。無音の世界に響き渡り、夜を起こす。
「おや、四季様じゃないですか。こんな夜中にどうしましたか?」
「それは私の台詞ね。貴方こそ、こんな夜中にどうしたんですか?」
映姫は小町に目をやったが、微笑まなかった。一瞬だけ見て、正面を向いた。まるで会いたくなかったとでも言っているようだった。
あるいは、本当に会いたくなかったのだろう。彼女は小町が座るスペースを作らずにじっと座っている。流石にここまで邪険に扱われると腰が引けるが、それでも小町はめげなかった。
けれど、どうしましたと、再度聞くことはできなかった。代わりに、笑って。
「あれ? 怒ってます?」
「当然です。夜中に出歩くぐらいなら、昼間に寝るのをやめなさい」
「そいつぁ、無理な話ですねぇ。言うなれば、あたいの気質ってとこですか」
「どこぞの不良天子にでも頼んで矯正してもらったらどうですか? このままじゃ治りませんよ」
「どうですかね? 四季様の近くにいて治らないのだから、治りようもないですよ」
「どういう意味ですか」
「そのままの意味ですよ」
小町は立ったまま腰に提げた酒と盃を取って盃に酒を注いだ。酒に満たされた盃の水面に月が映り込む。欠けていない、完璧な月。
――こんな夜に、喧嘩なんか勿体ない。
「どうぞ」
「まったく……」
「綺麗な月ですねぇ」
盃を映姫に渡し、小町は空を見上げたまま動かない映姫の隣に立った。丸い月が、二人を見下ろしている。冷ややかでいて、柔らかな明かりを灯す月はいつも見ているものと同じものだ。ただ、形だけが変わって、そしてまた戻る。
「貴方が来た時の夜も、こんな夜だったわよ」
「そうでしたっけ? いやはや、もう何百年も昔のことですからねぇ。昨日の晩飯すら覚えていない私には、そんなことを覚えるほどの容量はありませんよ」
小町は優しく笑った。その笑みの意味を、映姫は知らない。
「寝てばかりいるからですよ」
「きっついこと言いますねぇ」
小町はどぶろくに口をつけ、そのまま傾けた。つんと、日本酒特有の突き抜けるような感覚が舌の上を転がっていく。つぅーっと小町の口の端から酒が零れた。小さな雫がぽたりと落ちて、小町のスカートに色を加えた。
「……昔の、夢を見ました」
映姫は月を見るのをやめて盃を隣に置くと、ぴょんと白い岩から飛んだ。川原の小石がぶつかり合って、静かな川辺を賑わせた。映姫が歩くたびにじゃりじゃりと音が跳ねる。童女が遊ぶように両手でバランスを取りながら、くるりとその場で回った。
映姫と小町の視線が絡む。どちらも先に目を離したら負けだというように、どちらも目を離さなかった。
あるいは離せなかった。絡む視線を外してしまえば大事なものを失ってしまうような、そんな気持ちが二人の中に生まれていた。そうして見つめ合うこと、数十秒。先に目を離したのは映姫だった。振り返って月を見上げる。小町に映姫の表情は見えない。
二人きりだった。誰もいない河原に、たった二人きり。あとは夜空に月が一つ、星がたくさんあるぐらいで、夜を騒がす者は誰もいない。
音もなく、吐息だけが夜を息づかせていた。朝まで時間がある。二人の沈黙は際限がなかった。少なくとも、小町は動けなかった。どう動けば良いのか、分からなかった。
映姫は空を見上げて、言葉を紡いだ。
「貴方が来た時の、夢です。貴方は幼かったですね。体も、心も」映姫は目を瞑った。「貴方の目はとても綺麗だった。紅玉のような瞳で……曇ったところのない目は、私にも眩しかったほどでした」
「……まるで、今は曇っちまったみたいな言い方はよしてくれませんか」
軽口を、叩いた。いつものように。
その軽口を肯定するわけでも否定するわけでもなく、映姫はふふと笑って白い岩に再び座った。映姫は盃を持って膝の上に手を落とした。
月が、揺れる。
「……貴方は、後悔してませんか」
映姫は渡された盃に口をつけることなく、空を見たまま続ける。小町はそんな映姫を横から見るわけでもなく、ただ黙って映姫と同じように上を見上げる。雲が月を覆い、辺りは黒に還元されていく。
「あの日、私は貴方に死神になるように言いました。それは生まれながらにして、死神である貴方にとって普通の選択でした。でも、それ以外にも方法はあった。いや、ないにしても探しようはあったはずです。前例などないだけで、実のところそんなものはどうでも良かった……貴方は後悔してませんか? 私は今でも思うのですよ。私は背景でなければならないのに、貴方にある意味で強制してしまった。役者になってしまった」
弱々しく震える映姫の声が、音のしない川原に広がっていく。音が朽ちていき、辺りはまた静かな世界へと戻っていく。映姫が小町の言葉を待っているのは明白だった。まるで断罪を待ち望んでいるかのようだった。
「後悔、ですか」
小町の一言で、映姫の体が少し震えた。小町はそれに気付きつつも、気付かないふりをして手元にある酒を呷った。
「考えたこともありませんね。……ええ。思い返してみても、ないような気がします。勿論、別のことができたんじゃないかって思ったことはあります。あたいはこれでも器用ですし、それなりのことはできたと思います。それでも、後悔はしてませんよ」
――それに、四季様が泣きそうな顔をしていたから。
瞼を閉じれば、ここに来る理由となった夢の内容を思い出せた。貴方を待っていたと告げる小さな口。子供の姿の癖に、大人以上の威厳を兼ね備えた彼女の姿。今と変わらない姿の彼女が顔を歪めている。
「それが聞けて良かったです」
雲が晴れ、辺りはまた月で明るくなる。映姫は月の映る盃を傾けた。上品に両手を使って、夜を騒がせないように。音もない、死んだような夜。そんな夜に、二人きりだ。
二人以外誰もいない静謐に満ちた世界で、その世界に馴染もうとしばらく無言で酒を飲んでいた。酒気に当てられることもなく、ただ淡々と飲んでいる。不自然な沈黙を肴にして。
「露の命」
ぽつりと、呟いた。
「露の命はかなきものを朝夕に生きたるかぎり逢ひ見てしがな、ってね。まぁあたいの命はかなり図太いですけど、それでも、そう思ったんですよ。四季様と会った時に」
「……部下に恵まれたようですね、私は」
「そうですよ。ですから、卑下するようなことは言わないでください」
小町はどぶろくを差し出した。それに呼応するように、映姫もまた盃を差し出して。
静かな夜に、かちんと音がした。
薄い暗闇に覆われた空はひび割れ、そこから光が差していた。その光に照らされた彼女は薄い微笑みを浮かべ、そして泣きそうだった。
赤い花弁を巻き上げる風に、常盤色の髪を巻き上げられながら。
「貴方を待っていたわ」
言葉は、たったそれだけだった。あっけない、たったそれだけ。
でも、だからだろうか。その一言に言いたいこと、全てが詰まっているような気がした。
淡い杜若色の瞳は苦しそうに歪み、それでも尚、彼女は懸命に笑おうとしていて。それは初めて会ったはずの私の心を苦しませた。言葉はあれから途切れて、彼女は私の言葉を待っているようだった。けれど、私は何も答えることができなかった。
答えようとはしたけれど、何を言ったらいいのか分からなかった。
世界から放り出されたばかりの私には、彼女の言葉に応えるだけの言葉を持ち合わせていなかった。それはひどく辛かった。お前は隣で肩を並べることなんてできやしない。そう言われているような気になった。
風はなく、どこまでも静かで。
ずっと黙っていた私を、彼女は優しく抱きしめてくれた。私よりも遥かに幼い身体をした彼女は、私よりもずっと大きくて。暖かくて。
その時、私はこの人について行こうと決めたのだ。
§
ふいに目が覚めた。
「…………」
すーっと自分でもいつ起きたのか、分からない程度に緩やかな目覚めだった。その癖に、頭の中は靄がかかったように、現実と夢の挟間を行ったり来たりを繰り返している。辺りは静まり返り、まだ夜の闇が場を支配していた。
格子窓の外に、朝の気配はまだなかった。秋の夜の冷ややかな空気が外に充満していて、ぶるりと身を震わせるには十分なほどだった。格子窓の奥には塗り潰したような黒が見える。
――懐かしい、夢を見た。
空の黒を見ながら、夢の輪郭をなぞっていく。彼女との出会い。自分が初めて見た光景。まるで永遠と思わせるかのような沈黙が自分と彼女の間に広がっていたことを思い出しながら、寝床から起き上がった。
上質とは言えない薄い布団をどけると、小町の肌が露わになる。襦袢で寝ているためか、寝ている間にはだけてしまったようだ。もっとも、ここは自分の家で。そう考えるならば何も問題はない。小町とて恥じらいを忘れてしまったわけではない。
襦袢を整えるわけでもなく、小町は土間に降りた。土間に置いた草履に足を通すと、ごわごわした感触が足をくすぐった。ひんやりとした土間を、格子窓から差し込む星の明かりを頼りに歩いていく。小町は格子窓の下にある水瓶まで行くと、水瓶に突っ込んでおいた柄杓で水を掬い、柄杓に口をつけて一気に飲み干した。夜の静けさに冷やされた水が、小町の喉を潤していく。
水を嚥下した後、小町は格子窓から空を見た。星が瞬き、暗い世界に幾つもの光彩を加えている。寝転がりながら見ていた時とは打って変わり、夜空は輝きに溢れていた。夜の闇は祓われていて、不思議と寂しさを感じさせない。風のない、凪いだ夜。
小町は目を空から逸らすと、土間に草履を乱暴に脱ぎ散らして布団へ戻った。まだ寝ていた途中なのだ。ただ、喉が渇いた。それだけで起き上がった。床に就くのはごく自然だった。そのはずなのに。
小町は寝られなかった。
口の中をさっぱりさせてしまったせいなのか、それとも凪いだ夜に魅せられたか。どちらにせよ、小町は床に就いて尚寝られなかった。目を閉じて夜に身を委ねても意識が遠のく様子は一向にない。
「……こんな夜は、久しぶりだね」
ごろりと横向きになり、腕を枕代わりにして格子窓の奥を見た。四角く切り取られた世界は小さく、月は見えない。ただ月の光だけが手を差し伸べるように、降り注いでいた。柔い月明かり。
夜を騒がせないように、するりと布団から出て、箪笥の中から服を取り出した。死神としてあるための服は、ひしゃげていて威厳がまるでない。最も、威厳を出すつもりも毛頭ない。小町はいつものように袖を通し、化粧箪笥から二つ、髪留めを取り出して髪をまとめた。
壁に立てかけた鎌を手に取り、小町は手の中でその感触を確かめる。外へ出る以上、何かと備えておく必要はある。風のない夜は、それなりに不気味だ。
肩に鎌をかけ、腰にはどぶろくと盃を引っ提げて、小町は家を出た。外は思っていた以上に冷えていて、一瞬のためらいがあったが、空気を一つ吸ってしまえばその気持ちは跡形もなく消えた。
そして、飛んだ。
重力に抗い、次の瞬間には小町の体は宙に浮いていた。見る見る内に、自身の家は小さくなり、あっという間に空が近くなる。暗い海に身を委ねるように、小町は闇の中に浮き上がった。
眼下には魔法の森や、妖怪の山が見える。それらは月明かりの下でも黒々としていて、ただの黒い塊としか見ることができなかった。が、それでも圧倒的な存在感を放っていたため、嫌でも分かった。
――懐かしい夢だった。
いつのことだったか、それすらも覚えていない遠い記憶。小町が初めて彼女と出会い、そして寄り添って歩こうと決めた、数分間の思い出。色褪せることのない、最初の記憶。
あの日の映姫の顔を、小町はあの日以外に見た覚えがない。どんな時も笑っているか、仏頂面のどちらかだ。もっとも小町が接するときは大概後者ではあるが、それでも歪んだ顔を見たことはなかった。
何があろうと彼女は揺るがない。それが彼女の役割だ。絶対的な力を持ち、そして立ち入ることのない、言わば背景としての役割。
その彼女が、小町を望んだ。
――待っていた、とまで言われちゃあね。
その意味を小町は知らない。問う機会は探せば幾らでもあったけれど、問えば全てが瓦解してしまうような怖さが付きまとって、今まで問えなかった。
これからも、問うつもりはない。
自分が生まれた意味を問う。それは人間のすることで、小町には必要ない。小町は生まれた時すでに死神という役割を持っていた。そしてこれからもそれは変わることがない。
役割を変えられるのは、人間だけだから。
それに不満はない。
三途の川は光彩を反射させていて、夜でも自分の存在を主張していた。その光に誘われるように、夜の中天をふらふらと彷徨いながら、小町は自然と映姫と初めてあった場所に向かっていた。
三途の川原へ。
生と死の淵へ。
「……あ」
彼女はそこにいた。
深夜であるにも関わらず、映姫はいつもと変わらない面持ちで白い、月明かりを反射させて光っている岩の上に座っていた。じっと。初めからそこが定位置だと言わんばかりに。蓮に座すお釈迦様のように。
怖い、とは思えなかった。
けれど、いつもより遠いようには感じた。
いつもと変わらない表情だから、余計にそう感じてしまった。そして感じてしまえば、それを払拭することは難しかった。風のない夜で、音もない夜だったから尚更、強烈な違和感を与えた。
小町は宙に浮いたまま、どうしたら良いのかを考え始めた。映姫のこんな姿を見るのは初めてだった。音もなく、笑みもなく。彼女はただ置物のように、座っている。
小町は映姫に気付かれないように、少し離れたところに降り立った。彼女と会うのに空から行くのは不自然なような気がして、まるでそれが話すための条件のように思えた。あくまで飄々としていなければ、不自然な沈黙に思ったことが塗りつぶされてしまう、そんな気がした。
できるだけ、いつものように。
そう考えながら、歩く。腰に引っ提げたどぶろくが盃にぶつかって、からんからんと音を奏でる。無音の世界に響き渡り、夜を起こす。
「おや、四季様じゃないですか。こんな夜中にどうしましたか?」
「それは私の台詞ね。貴方こそ、こんな夜中にどうしたんですか?」
映姫は小町に目をやったが、微笑まなかった。一瞬だけ見て、正面を向いた。まるで会いたくなかったとでも言っているようだった。
あるいは、本当に会いたくなかったのだろう。彼女は小町が座るスペースを作らずにじっと座っている。流石にここまで邪険に扱われると腰が引けるが、それでも小町はめげなかった。
けれど、どうしましたと、再度聞くことはできなかった。代わりに、笑って。
「あれ? 怒ってます?」
「当然です。夜中に出歩くぐらいなら、昼間に寝るのをやめなさい」
「そいつぁ、無理な話ですねぇ。言うなれば、あたいの気質ってとこですか」
「どこぞの不良天子にでも頼んで矯正してもらったらどうですか? このままじゃ治りませんよ」
「どうですかね? 四季様の近くにいて治らないのだから、治りようもないですよ」
「どういう意味ですか」
「そのままの意味ですよ」
小町は立ったまま腰に提げた酒と盃を取って盃に酒を注いだ。酒に満たされた盃の水面に月が映り込む。欠けていない、完璧な月。
――こんな夜に、喧嘩なんか勿体ない。
「どうぞ」
「まったく……」
「綺麗な月ですねぇ」
盃を映姫に渡し、小町は空を見上げたまま動かない映姫の隣に立った。丸い月が、二人を見下ろしている。冷ややかでいて、柔らかな明かりを灯す月はいつも見ているものと同じものだ。ただ、形だけが変わって、そしてまた戻る。
「貴方が来た時の夜も、こんな夜だったわよ」
「そうでしたっけ? いやはや、もう何百年も昔のことですからねぇ。昨日の晩飯すら覚えていない私には、そんなことを覚えるほどの容量はありませんよ」
小町は優しく笑った。その笑みの意味を、映姫は知らない。
「寝てばかりいるからですよ」
「きっついこと言いますねぇ」
小町はどぶろくに口をつけ、そのまま傾けた。つんと、日本酒特有の突き抜けるような感覚が舌の上を転がっていく。つぅーっと小町の口の端から酒が零れた。小さな雫がぽたりと落ちて、小町のスカートに色を加えた。
「……昔の、夢を見ました」
映姫は月を見るのをやめて盃を隣に置くと、ぴょんと白い岩から飛んだ。川原の小石がぶつかり合って、静かな川辺を賑わせた。映姫が歩くたびにじゃりじゃりと音が跳ねる。童女が遊ぶように両手でバランスを取りながら、くるりとその場で回った。
映姫と小町の視線が絡む。どちらも先に目を離したら負けだというように、どちらも目を離さなかった。
あるいは離せなかった。絡む視線を外してしまえば大事なものを失ってしまうような、そんな気持ちが二人の中に生まれていた。そうして見つめ合うこと、数十秒。先に目を離したのは映姫だった。振り返って月を見上げる。小町に映姫の表情は見えない。
二人きりだった。誰もいない河原に、たった二人きり。あとは夜空に月が一つ、星がたくさんあるぐらいで、夜を騒がす者は誰もいない。
音もなく、吐息だけが夜を息づかせていた。朝まで時間がある。二人の沈黙は際限がなかった。少なくとも、小町は動けなかった。どう動けば良いのか、分からなかった。
映姫は空を見上げて、言葉を紡いだ。
「貴方が来た時の、夢です。貴方は幼かったですね。体も、心も」映姫は目を瞑った。「貴方の目はとても綺麗だった。紅玉のような瞳で……曇ったところのない目は、私にも眩しかったほどでした」
「……まるで、今は曇っちまったみたいな言い方はよしてくれませんか」
軽口を、叩いた。いつものように。
その軽口を肯定するわけでも否定するわけでもなく、映姫はふふと笑って白い岩に再び座った。映姫は盃を持って膝の上に手を落とした。
月が、揺れる。
「……貴方は、後悔してませんか」
映姫は渡された盃に口をつけることなく、空を見たまま続ける。小町はそんな映姫を横から見るわけでもなく、ただ黙って映姫と同じように上を見上げる。雲が月を覆い、辺りは黒に還元されていく。
「あの日、私は貴方に死神になるように言いました。それは生まれながらにして、死神である貴方にとって普通の選択でした。でも、それ以外にも方法はあった。いや、ないにしても探しようはあったはずです。前例などないだけで、実のところそんなものはどうでも良かった……貴方は後悔してませんか? 私は今でも思うのですよ。私は背景でなければならないのに、貴方にある意味で強制してしまった。役者になってしまった」
弱々しく震える映姫の声が、音のしない川原に広がっていく。音が朽ちていき、辺りはまた静かな世界へと戻っていく。映姫が小町の言葉を待っているのは明白だった。まるで断罪を待ち望んでいるかのようだった。
「後悔、ですか」
小町の一言で、映姫の体が少し震えた。小町はそれに気付きつつも、気付かないふりをして手元にある酒を呷った。
「考えたこともありませんね。……ええ。思い返してみても、ないような気がします。勿論、別のことができたんじゃないかって思ったことはあります。あたいはこれでも器用ですし、それなりのことはできたと思います。それでも、後悔はしてませんよ」
――それに、四季様が泣きそうな顔をしていたから。
瞼を閉じれば、ここに来る理由となった夢の内容を思い出せた。貴方を待っていたと告げる小さな口。子供の姿の癖に、大人以上の威厳を兼ね備えた彼女の姿。今と変わらない姿の彼女が顔を歪めている。
「それが聞けて良かったです」
雲が晴れ、辺りはまた月で明るくなる。映姫は月の映る盃を傾けた。上品に両手を使って、夜を騒がせないように。音もない、死んだような夜。そんな夜に、二人きりだ。
二人以外誰もいない静謐に満ちた世界で、その世界に馴染もうとしばらく無言で酒を飲んでいた。酒気に当てられることもなく、ただ淡々と飲んでいる。不自然な沈黙を肴にして。
「露の命」
ぽつりと、呟いた。
「露の命はかなきものを朝夕に生きたるかぎり逢ひ見てしがな、ってね。まぁあたいの命はかなり図太いですけど、それでも、そう思ったんですよ。四季様と会った時に」
「……部下に恵まれたようですね、私は」
「そうですよ。ですから、卑下するようなことは言わないでください」
小町はどぶろくを差し出した。それに呼応するように、映姫もまた盃を差し出して。
静かな夜に、かちんと音がした。
この二人は色々と膨らませがいがありますね。