「メリー、聞きたいんだけど」
「ねえ、蓮子。知ってる? この世は自分達と違うものを排除しようとする。異形、異端、異質、異物、ただ他と違うというだけで家から追いだそうとしているの」
「それは、今のメリーを言っている訳?」
「いいえ、私とあなたよ。お互い普通じゃない目を持っている。だから高校で隠しているんじゃない。でもね、いつまでも縮こまっているなんてまっぴらじゃない? そこで大学よ! 大学は自由の場。そこで私達は理想郷を立ち上げ、アダムとイブに」
「うん、それは良いからさ、メリー」
「あ、それからね、蓮子、私達はそうして異端同士。きっとこれから沢山の困難を経験するわ。でもどんな時でも、ずっと傍に居て欲しいの。例え何があろうとも。傍に居て欲しい。蓮子、あなたと一緒に居たい」
「分かった。分かった。何が合っても最後まで傍に居る。それはそうと、メリー。どうして私が留守の間に裸で私のベッドの上に眠っていたか、ちゃんと説明してくれない?」
「そう言えば、明日はトリフネが落ちるね」
蓮子は思いついた言葉をぽつりと漏らした。それは誰に向けたのでもない言葉だったが、盛り上がっていた居酒屋の一室だというのに秘封倶楽部の部員達はみんな耳聡く聞き取って、餌を与えられた魚の様に一斉に食いついてきた。
「ですね!」
「秘封活動っすか?」
「俺達でトリフネを助けましょうよ、部長!」
「かわいそうだと思いません? かわいそう! トリフネかわいそう!」
同時に何人も喋るから上手く聞き取れない。猛烈な後輩達の勢いに、蓮子は苦笑してグラスに口を付ける。
明日トリフネが落ちる。
衛星トリフネは内部に完全な自己完結の生態系を作る為に作られ、打ち上げられた宇宙ステーションだったが、事故でその役目を果たせないまま打ち捨てられ、ラグランジュポイントを漂っていた。
「もう戻ってこないと思っていたけど」
「外国から抗議があったらしいっすからね。何かロシアと中国の宇宙ステーション計画の邪魔になるっつって。今まで回収しようとしなかった癖に、他国に脅されたからって落とすなんて」
科学者としては無駄でも回収したかったと思うけどねと溜息を吐いてから、蓮子はグラスの中のアルコールをじっと見つめた。
トリフネは事故で打ち捨てられてから長い時間放置された為、生態系は死滅していると見なされていた。だから今回の回収計画ではトリフネの中身には全く気を配らず、バインドして無理矢理引っ張り、遠慮呵責無く太平洋上空に落とす事になった。そんな事をすれば、機器類も何もかも全てやられてしまうだろうし、中に何かが残っていたとしても焼かれてしまうだろうと、ニュースで誰かが残念そうに語っていた。
無用の長物を焼却処分する。それだけだ。大した話題にもなっていない。世界各地で巻き起こっている宇宙開発競争に関するニュースの中の、本当に小さな小さな出来事。
世間の目から見ればそう。
ただ変人の集まりである秘封倶楽部のメンバーにとってはそうでもないらしい。蓮子が話題にしたさっきから、役立たずと捨てられ燃やされてしまうトリフネが可哀相だと、酒を片手に盛り上がっている。
そういう気持ちも分かるが、蓮子のトリフネに対する思いは彼等とも少し違う。
蓮子は知っている。
事故で機能が停止し打ち捨てられたトリフネが、実はまだ生きている事を。
それを知っているのは、蓮子とそして相棒のメリーだけ。
「あ、メリー先輩!」
声が聞こえて、思考から立ち戻ると、丁度メリーが部屋に入ってきた。
「メリー先輩、飲み物は?」
「今頼んだから大丈夫」
「遅かったですね!」
「ごめんなさい。寝坊しちゃって」
「寝坊ってもう夜っすよ!」
皆が笑う中、メリーは蓮子を見つけて近寄ってきた。微笑みを浮かべているが、メリーの表情は何やら疲れている。
「何かあったの? メリー。そういえば、最近眠そうだけど」
「何にも」
メリーから言い淀む様な印象を受けた。何か隠し事をしている。そう勘付いたが、メリーが隠している以上、それを無理矢理暴くのも気が引けた。
飲み物が運ばれてきて、改めて乾杯の音頭を終えると、早速話題は元に戻る。
「メリーさん、明日トリフネが落ちるの知ってます?」
その瞬間、メリーの顔色が明らかに変わった。
驚きと恐怖に満ちた表情だ。
その激変した表情に、後輩達が言葉に詰まる。
「メリー?」
蓮子が声を掛けると、メリーは肩を震わせ狼狽えながらも、慌てて笑みを作った。
「そうみたいね。落ちる時の光が隕石みたいに見えるって言ってたけど」
メリーは笑顔で取り繕おうとしたが、後輩達はメリーが一瞬見せた恐怖を訝しんで押し黙った。
その重苦しい空気に、メリーは困惑した様子でしどろもどろになり、やがて耐え切れなくなった様にグラスを呷った。途端にメリーが咳き込んだ。
「何これ、アルコール強すぎ!」
笑いが起こって空気が弛緩する。
後輩の一人が言った。
「もしかして、トリフネが落ちてくるのが怖いんすか?」
それを聞いた他の後輩達は納得し、メリーを励ます。
「なら、大丈夫ですよ! 太平洋上に落とすらしいんで!」
「ね! 万に一つも周りに被害は出ないって言ってましたよ!」
「まあ、そこがまたねぇ、悲劇性があるんすよねぇ。結局助かるのは人間だけで、実際に落ちてくるトリフネはぶっ壊れちゃう訳でしょ? 色色データとか残ってるかもしれないし、もしかしたらまだ生きている生物も残っているかもしれないのに、それを無傷のまま回収するには莫大なお金が掛かるからって、全部おしゃかにしちゃうってのが」
「悲しいよねぇ。人間に迷惑を掛けない為に殺されちゃうってのがねぇ」
「でもそんな大気圏突入位で、機械壊れるかな? データ位は拾える気がするけど」
「色色不測の事態があったみたいだし、駄目なんじゃん?」
「病弱っ子なんだよ。悲劇だから」
皆が気を使ってくれている事に気が付いたメリーは、自分を奮い立たせる様に背筋を伸ばすと、手を叩いて皆の注目を集めた。
「なら、山に登りましょう」
全員の頭に疑問符が灯る。
理解してくれなかった事に焦りながら、メリーは補足した。
「少しでも近くでトリフネの最期を看取ってあげましょう」
途端に「おお!」と声が上がる。
「流石、副部長! 良い案ですね!」
何か悩みのありそうなメリーの気を紛らわす為に、皆が酒を呷りながら、わざとらしい程の勢いで盛り上がった。
「上るならやっぱり皆子山?」
「いや、きつくない? もっと楽に登れる山に」
「は? お前のトリフネへの愛はその程度かよ」
「見るだけじゃなくて、寂しくないように、何かしようよ」
「あ、じゃあ音楽掛けようぜ。音波送ってさ。外壁は鋼だろ? 振動させれば」
「絶対無理でしょ。速度的にも、構造的にも」
「駄目元で!」
「掛けるとしたら何の曲?」
「何が良いかな? トリフネが出発した時のヒット曲とか?」
「いやー、トリフネはそういうヒット曲とか興味ないから。もっとこう落ち着いたさあ」
「トリフネの何知ってんだよ」
後輩達がトリフネに聞かせる曲で盛り上がっている中、メリーが呟いた。
「スタンド・バイ・ミー」
それは微かな声だったが、力強い響きがあり、喧喧囂囂と喋り合っていた後輩達の会話が止まった。メリーは自分の言葉で、皆の会話が止まった事に驚き、誤魔化す様に弱弱しく微笑んだ。
「スタンド・バイ・ミー。空が落ちてこようと山が崩れようと、暗闇に包まれても、傍に居て欲しいって歌う曲。もうずっとずっと昔の曲で、物悲しい曲だけれど、トリフネに重なる気がして」
「おお! それっすよ! トリフネが望んでいる曲は!」
「良いと思います、副部長!」
後輩達は誰もそんな数百年前の曲なんて知らなかったが、メリーを励ます意味で、口口にその提案を褒め称えた。元より彼等からすれば、盛り上がる口実があれば良かったのだから、掛ける曲なんて何でも良い。
「メリー」
「何、蓮子?」
「ううん、何でもない」
こうして秘封倶楽部は、翌日の夜トリフネを迎える事に決まった。
「スタンド・バイ・ミーね。そう言えば、映画もあったよね。何だっけ? 死体を担いで線路を歩いて、最後は、死んじゃうんだっけ? それなら、確かに死体を入れて地球に死にに来るトリフネと重なるかもね」
二人きりの帰り道、蓮子は酔っ払ってふらつきながら、メリーにそう笑いかけた。一方のメリーは、思いつめた様に俯いている。
「メリー? 聞いてる?」
メリーが慌てて顔を上げた。
「あ、えっと、映画の話よね。ちゃんと聞いていたわよ。でも蓮子が言っていたのとは全然内容が違うわ。線路を伝って友達と死体を見つけに行くのよ」
「大体一緒じゃない」
「全然違う。全く淡くないじゃない。死体を担ぐなんて強烈な話じゃ駄目なの。そういうんじゃなくて、あれは子供の頃の淡い思い出。蓮子にも無い? 記憶にだけは残っている子供の頃の思い出。こんな楽しい事があったって。でも大人になった今では印象ばかりが残っていて、細部は覚えていない。人生に何か影響を与えた訳でも無い。こんな楽しい事があったなぁ、素敵だったなぁって思い出すだけの、淡くて綺麗で切ない記憶」
饒舌に語るメリーが艶っぽい視線を向けてきた。
何だか心臓が高鳴って、蓮子は目を逸し、肩を竦める。
「まるで夢みたいね。楽しい事があったなって印象だけは残ってる。でも顔を洗う頃に忘れてる。そう夢みたい」
言ってから、ちょっと詩的だったかなと恥ずかしくなって、恐る恐るメリーの反応を窺った。馬鹿にされるかもと思っていたのだが、メリーの反応は、蓮子が想像していたのとまるで違っていた。
恐怖だ。
さっきの飲みの席でメリーが見せたのと同じ驚愕と恐怖、それを顔いっぱいにたたえている。
トリフネ。夢。
それで蓮子はほぼ確信した。メリーはトリフネの夢を見ている。
「メリー、もしかしてまた夢でトリフネの中に入ったの?」
メリーの目が更に見開かれた。
やはりと思って、蓮子は細く長く、自分の中の戸惑いと一緒に、息を吐き出した。
メリーの目は結界の境目を見る事が出来る。その境目を通って不思議な場所に行く事が出来る。まだ秘封倶楽部が蓮子とメリーの二人だけだった頃、本来の活動は結界を暴いて回る事だった。
トリフネの内部に入ったのもその一つ。
メリーと蓮子が結界を暴き、夢でトリフネの中に入ると、そこには生い茂る植物に個性的な動物、打ち上げの安全を祈願した鳥居があった。そう、そこには世間で言われている事とまるで正反対の世界が広がっていた。トリフネはまだ生きていて、地球とは異質の環境で育まれ、独自に進化した動植物が楽園を築いている。世界の誰も、どの研究機関も知らないその秘密を、二人だけが暴いてみせた。
だが二人はその事を決して誰にも話さなかった。話さない理由は簡単で、単に誰も信じてくれないからだ。夢の中でトリフネへ遊びに行った等、誰も信じない。
そして二人は二度とトリフネに行かなかった。行かない理由は危険だからだ。トリフネの中には一匹の恐ろしい化け物が居る。翼の生えた獣で、生き物を見ると襲い掛かってくる。蓮子とメリーはその化け物に襲われた。そして夢の中で傷ついた。その傷があろうことか、現実のメリーの体にも返ってきた。しかもその怪我が原因で病に倒れた。
トリフネの中は美しいが、立ち入ってはならない危険な場所だ。
二人はトリフネの中を二人だけの秘密に封じする事にした。
その後、メリーの目が暴走し始めた事で二人は結界暴きを止め、今では安穏な普通の大学生活を送っている。秘封倶楽部もまた、蓮子とメリー以外の部員がやってきて、単に不思議な物を調べ回るだけの部活になった。
「どうして? 危険なのに」
蓮子が呆然と呟くと、メリーは頭を抱えた。
「違う! 行きたかった訳じゃない。また勝手に行ってしまったの!」
メリーの叫びに、蓮子は息を飲み、震える唇で言葉を吐き出した。
「また目が暴走したの?」
メリーの結界の境目を見る能力は、使う毎に制御が効かなくなった。暴走した目の所為で、メリーは頻繁に結界の向こうへ引き寄せられ、最終的には姿を消し何日も何ヶ月も戻らない事が繰り返された。蓮子はメリーの身を案じ、必死でメリーの暴走を止めようとした。暴走を止めるのは簡単だ。単に能力の行使を止めれば良いだけだ。だが難航した。メリーにとって結界を見る目はアイデンティティであり、その能力を失う事を極度に嫌がったからだ。だが幾ら断られても蓮子は諦めず、メリーを失いたくない一心で粘り強く説得し、蓮子の思いにうたれたメリーはついに一切の能力行使を止めて、目を封印した。その結果、徐徐にメリーの目は落ち着いて、目が暴走する事も、結界の向こうに行く事も無くなり、今では秘封倶楽部という普通の(と自称する変人ばかりが集う)サークルを主催する普通の(ちょっと仲が良すぎる名物)学生として生活している。
「目が覚めたら、生い茂る草の中で寝ていたの。すぐに分かった。トリフネの中だって。また目の暴走が始まったんだって怖くなって、また蓮子と会えなくなったらどうしようって、何とか戻ろうとして念じてたんだけど、そこにまたあの時の化け物が襲ってきて」
「大丈夫だったの?」
「今日までは逃げ切れた」
「今日まで?」
何度も化け物から逃げていた様な言葉に蓮子は引っかかりを覚え、その意味に気が付いた。メリーはきっと連日トリフネの夢を見ていたのだ。毎晩の様に化け物から逃げていたのだ。
「じゃあ、最近眠そうなのは」
「眠ったらまたあの化け物に追われるから」
「馬鹿!」
蓮子は思わず怒鳴り、平手でメリーを張ろうとした。だがすんでのところで手を止め、メリーの肩に優しく手を載せる。
「何で、言ってくれなかったの!」
メリーの目はまたいつ暴走して、平穏な二人の生活を壊してしまうか分からない。
メリーだってそれが分かっていた筈だ。
メリーだって二人で一緒に居たいと思い続けてきた筈なのに。
また二人が引き離されてしまうかもしれないのに。
相談をしてくれなかった。
それが裏切られたみたいに思えて、蓮子は腹が立った。
「だって」
「とにかく私も連れて行って。メリーを助けに行くわ」
「ほら、そう言うじゃない」
メリーは泣きそうな顔をしていた。
「蓮子、忘れたの? 前にトリフネの夢を見た時は、夢の傷が現実に返ってきたのよ。もしかしたら今回もそうなるかもしれない。そんな危険な夢なのよ」
「メリーこそ、忘れたの? あの時、現実でも傷ついていたのはメリーだけ。私は夢の傷が現実に返ってくる事は無かった」
本質的に、メリーの能力で危険になるのは、メリーだけだ。
メリーもそれを知っている筈なのに、どうして今回に限って、教えてくれなかったのだろう。
「もしかして私、信用されてない?」
「そんな事無い!」
「なら! 私を呼んで! 危ないんでしょ? 怖いんでしょ? なら私を呼んで! 私はいつだってあなたの傍に居る!」
「でも」
「呼んで!」
蓮子は一際強く叫んでメリーの肩を揺さぶった。
するとお互い酔いが周り、二人仲良く傍の路地に、胃の中の物を吐き出した。
目の前には新緑の植物が壁の様に絡まり合っていた。足元には水気のある草むらがあり、革靴にこびりついてくる。吸い込む空気は澄み通って清涼だ。一つ吸込めば、全身に空気が行き渡り体が膨れ上がった様な気がする。じいじいと声がする。ぎーぎーと声がする。虫達の声だろう。あの時と同じだ。
蓮子は今、トリフネの中に居た。
植物と虫、恐らく微生物も、原始的な生物だけが住んでいる。当然だろう。宇宙ステーションという狭苦しく地球とかけ離れた環境に、コンピュータのバグが加わり、生物は一時全滅に近い状況へ追い込まれた事が想像出来る。そこから新しく自然を育んだのであれば、単純で原始的な生物だけが存在する筈だ。
だからこそ、蓮子とメリーを襲った化け物、あの翼を生やした捕食者の異質さが浮き上がる。もしかしたら、あれは初めに乗せられた生物の中で唯一生き残った哺乳類なのかもしれない。だとすればその生物的な強靭さは。
そこまで考えて、メリーは首を横に振った。今はそんな事を考えている暇は無い。このトリフネに来たという事は、メリーに呼ばれたという事だ。なら一刻も早くメリーを探し、助け出さないと。
蓮子は恐る恐る植物のカーテンをずらし、その向こう側へと足を踏み入れた。
でたらめに伸び盛る植物の密度は以前に来た時よりもずっと濃く、十歩も歩かない内にまた植物の壁にぶつかる。そこに恐ろしい捕食者が居る恐怖も加わり、広い筈の宇宙ステーションが酷く狭苦しく窮屈に思えた。
蓮子はメリーを探して植物を掻き分け歩き続ける。
広い宇宙ステーションの、それも植物によって視界を遮られた中で、たった一人のメリーを闇雲に探すなんて不可能に近い。本当なら名前を叫んでメリーに気付いてもらうべきだ。だが化け物にも気が付かれる恐れを考えると、それも出来無い。
蓮子は身を震わせる。
もしかしたら植物を掻き分けた先に化け物が居るかもしれない。
そんな恐ろしさを抱きながら、当ても無く歩き回っていると心細くなってくる。
「メリー、お願いだから早く出て来てよ」
心で願い、実際に呟きながら、蓮子はメリーを求めて歩き続ける。
きっと自分よりも心細い気持ちでいるメリーを一刻でも早く見つける為に。
その時、かさりと音が聞こえた。
かさりと草の擦れる音だった。
かさりと歩いている様な音だった。
音は植物の壁の向こうから聞こえた。
壁に阻まれて見えないが、何かがそこに居る。
それは、メリー?
それとも、化け物?
かさりと足音が聞こえる。
「メリー?」
蓮子はそう呼びかけてみた。
メリーである事を願いながら。
すると声が返ってきた。
「蓮子? 蓮子! 居るの? 何処?」
メリーだ。
「メリー! ここ! すぐ近くに居るよ!」
「本当? 何処? 暗くて何も見えなくて」
「分かった。私がそっちに行くから!」
そう言って、蓮子は植物の壁を払った。
そして目を疑った。
羽を生やした捕食者が目を爛爛と光らせて涎を滴らせていた。
思わず呆けた声を上げ、尻餅をついた蓮子の前で、化け物は唸り声を上げ、赤赤とした口を大きく開いた。
そこで目が覚めた。
ベッドを起き上がり、今見た夢の事を考える。
確かにメリーの声がした筈なのに、居たのは化け物だった。
どういう意味だったのか分からない。
「ん」
声が聞こえた。
隣にメリーが寝ていた。
「メリー!」
蓮子が思わず叫ぶと、メリーが慌てた様子で起き上がった。
「はい! 寝坊しました!」
寝ぼけたメリーが辺りを見回し、そして目の前の蓮子に気がつくと、破顔した。
「おはよう。気持ち悪いの治った?」
「おはよう」
蓮子は辺りを見回し、尋ねる。
「何でメリーの部屋に?」
「何でって蓮子が気持ち悪そうにしてたから」
「そうだっけ?」
覚えていなかった。
だがすぐに、胃の底から湧いてくる不快感に気がつき、蓮子は口元を押さえる。
「大丈夫?」
「うん」
蓮子はふと、やけにメリーが嬉しそうにしているのが気になった。
「どうしたの? 変に緩い笑顔だけど」
「そう?」
「うん」
「良い夢を見たからかな」
「それってトリフネの?」
「違うわ」
メリーが笑う。
「それは見なくなったみたい」
「見なくなった?」
「うん、ここのところ毎日見てたんだけどね。今日は見なかった。蓮子が励ましてくれたからかな?」
「そうなんだ」
何か納得がいかない。違和感がある。だがメリーの笑顔は本物で、心の底から喜んでいる様に見えた。
「実はね、私死にそうだったの」
メリーが笑顔でそういった。
聞き捨てならない言葉に蓮子の顔が険しくなる。
「ほら、トリフネの中に化け物が居たのを覚えている?」
当然覚えている。飲み会の後にも聞いたし、ついさっき夢の中で見たばかりだ。
「私、夢の中でその化け物に追われていたの」
「それは聞いた! だから助けに行きたいって思って」
「もう絶対絶命で、必死で逃げてたの。鳥居の向こうに階段があって、下ると部屋があったから、何とかそこに隠れてやりすごそうとした。でも化け物は私に気が付いて階段を下りてきた。部屋の隅で震える私の視界に、化け物の足が見えて。そこで昨日の夢が終わったの。その夢の続きは考えなくても分かるでしょ? 次に眠ったら私は化け物に襲われて殺される」
だから、飲み会の席でメリーは沈み込んでいたのだ。次に眠った時の事を考えると恐ろしくて。
「だったらどうして黙ってたの?」
「だって言ったら蓮子来ちゃうでしょ? 逃げ場の無いところに化け物が侵入してきたのよ? 蓮子まで殺されちゃうじゃない。だから黙っていようと思った」
「そんなの」
例えそうであっても、蓮子はメリーを助けたかった。
「私は何があってもメリーの傍に」
「ありがとう。その言葉で、救われた。実はね、今度夢の中に入ったら、蓮子を呼ぼうって決めたの。身勝手でごめんなさい。勿論二人で心中する為じゃないわ。蓮子が一緒に居れば勇気が湧いて、戦えると思ったの。でもね」
突然メリーが両手を広げて立ち上がる。
「ほら、私、大丈夫だった。大丈夫だったというか、もうトリフネの夢を見なかったの! 蓮子のお陰よ、きっと! 蓮子が勇気をくれたから、私は引きずり込もうとするトリフネから逃れられたのよ!」
いきなりの言葉に、蓮子は呆気に取られた。
助かった? 夢を見なくなった? 私が一緒に居ると言っただけで? 本当か?
疑う蓮子だが、メリーの目に嘘の色は無い。
何が何だか分からないで居ると、メリーは恥ずかしそうに頭を掻いた。
「ごめんなさい。ここまで語っていて気付いたんだけど、もしかしたら私は、最初からトリフネに行っていなかったのかもしれない」
「どういう事?」
「うん、良く考えたら、結界を越えていたんじゃなくて、本当に単なる夢だったのかも。ずっと目は使っていなかったのよ? それがいきなり暴走するなんておかしいじゃない。トリフネがもうすぐ落ちるって聞いて、それが昔の記憶に結びついてトリフネの中で襲われる夢になったんだと思う。その夢が怖くて印象的だったから連続して悪夢を見ちゃってのよ。でも昨日蓮子に励まされて怖くなくなったから、トリフネの夢を見なくなったのね、きっと」
今見てた夢は、蓮子と二人幸せに暮す夢だったしね、とメリーが嬉しそうにウインクをしてきた。
蓮子は最初こそ気丈に振舞っているだけではないかと訝っていたが、メリーの言葉に嘘はなさそうだと判断し、やがて呆れ、疲れてベッドに倒れ込んだ。
言われてみれば、かつて見たトリフネの夢は、夢と言いつつも整合性が取れていた。それなのに今蓮子が見た夢は明らかにおかしかった。特に最後、メリーの声が聞こえたと思ったら化け物に変わるなんて、あまりにも唐突で突拍子もなく、如何にも悪夢めいている。
酩酊の末の悪夢だったとすればしっくりくる。
「はーあ、何か馬鹿馬鹿しい」
「ごめんなさい。心配掛けちゃって」
「いいえ。メリーさんが元気なら何よりです」
蓮子はベッドから降りて伸びをした。まだ気持ち悪さが残っている。
「蓮子、怒らせたならごめんなさい。でもあの時は本当に不安で」
メリーの必死な声に、蓮子は笑みを見せた。
「分かってる。でもどっちでも良いの。勘違いでも何でも、メリーが不安になっていたのなら、私は傍に居てそれを救ってあげたい」
「蓮子!」
メリーは感極まった様子で口元を押さえた。
だがその視線を向ける先がおかしい。何故か蓮子の顔よりも更に下の下腹部へ視線が注がれている。蓮子は何故だと疑問に思い、下を見る。そして下半身が下着しか穿いていない事に気が付いて固まった。
「何じゃ、こりゃ!」
犯人は一人しか居ない。
「メリー!」
「違うのよ!」
蓮子が怒鳴ると、メリーは赤くなって首を横に振った。
「蓮子が勝手に脱いだの! 私は何もしてないわ」
「私が自分で? 嘘つけ!」
「本当よ! 私かに私だって、スカート穿いていると苦しくない? とか言ってみたけど、最後に決断したのは蓮子だわ!」
「やっぱりお前が原因じゃねえか!」
蓮子は慌てて床に落ちていたスカートを穿き、メリーに襲われない内に、部屋を後にする。
「待って! 本当はパンツも脱がせちゃおうって思ったんだけど、ちゃんと自制したのよ!」
メリーが追ってくるが、蓮子は止まらない。
「益益怖いわ! 自制も何も最初から思い浮かべるな!」
「本当に帰っちゃうの? 酔って気持ち悪いんでしょ? うちに泊まっていけば」
玄関で靴を履きながら、蓮子は自分のシャツの首元を引っ張りながらメリーに振り返った。
「一度家に帰って着がえないと明日みんなの前に出られないでしょ? お風呂も入っていないのに」
「私は気にしないわ! むしろ大歓迎!」
嬉しそうにウインクしたメリーを尻目に、蓮子は思いっきり玄関の扉を閉めて、自分の家に向かった。
目の前には植物が絡まりあう壁があった。驚いて手で触れると、確かな草の手応えが返ってくる。またトリフネの中に居る。蓮子はそれに気が付いて、一瞬頭が真っ白になった。
確か、あの後、メリーの家から自宅に帰って、もう一眠りしようとして。
単なる夢ではなかったのか。
もしくは、これも単なる夢なのか。
答えの見つからないまま、蓮子は辺りを見回し、ここが前回の夢で最後にメリーの声を聞き、化け物に襲われそうになった場所だと気が付いた。この夢は前回の夢の続きだ。
ならば化け物はと辺りを探すが、何処に見当たらない。
一先ず安堵する。
一度深呼吸して心を落ち着けた。空気は相変わらず清涼だ。それに加え、今は何だかとても懐かしい匂いがする。
気分を落ち着けてから、もう一度幾重にも植物が連なる楽園を見渡し、どうすれば良いのか考える。
そして考えるまでもなく、メリーを探すべきだろうと結論づけた。
最初からそれが目的であり、それ以外の目的は持っていない。もうメリーが夢を見なくなり、このトリフネに居ないと分かっていても、それ以外にする事が無い。
「メリー」と駄目元で呼びかけてみた。
すると「蓮子?」という声が返ってきた。
蓮子は驚いて体を強張らせる。
メリーが夢を見なくなったと聞いていたから、もうこのトリフネの中にメリーは居ないものだと思っていた。
それなのに声が返ってきた。
どうしてか分からない。
夢を見なくなったというのは、やはりメリーの嘘だったのか。
それともまた夢を見始めてしまったのか。
とにかくこの辺りにメリーが居る。蓮子は目を凝らして辺りを見回しながら、声のする方へ歩き出す。
「メリー? 何処に居るの?」
「蓮子、ここよ。何処か分からないけど、暗い所」
蓮子はメリーを迎える為に歩きながらも、嫌な予感に気が付いていた。
メリーが化け物に襲われそうになったという話を聞いた事、明るいトリフネの中だというのにメリーは辺りを真っ暗だと言っている事、前回の夢でメリーの声がした方へ行くと化け物が現れた事、それ等を繋ぎ合わせると、鮮血に塗れた嫌な想像が働く。
「メリー、その暗い所から出られそう?」
「ごめんなさい。何か体の感覚がおかしいの」
それは蓮子の疑惑を、殆ど確信に変える言葉だった。
蓮子は思わず立ち止まり目を瞑る。
このままメリーの声を追って先へ進めば、またあの化け物が居る気がする。もしもそうであるなら、メリーはもう。
不安ばかりが募る。
怖気が足を止める。
だが怯えて立ち止まっている事は、生来の生真面目さが許さなかった。
例えそこに絶望が待っていても、メリーを探すという当初の目的に従って、蓮子は歩き出す。
虫の鳴き声の輪唱を聞きながら、植物の壁を掻き分けて、メリーの声がする方へ歩いて行く。
不安が熱を持って体の底に溜まり、一歩歩く毎に胸の奥へ熱した鉛を滴下されていく。行きたくない、行っちゃいけないと心が叫んでいる。けれど体は律儀に植物を掻き分けて、絶望へ向けて進んでいく。
「もうすぐ近くだよ、メリー」
「蓮子、ありがとう」
「良いの。私はいつだってあなたの傍に居る」
そして一段と分厚い植物の壁を押しのける。
そこにあの化け物が居た。
蓮子はそれを見て悲しげに微笑み、そして数瞬後、口から涙に似た叫びを上げた。
良く晴れ渡り、絶好の山登り日和であった。皆子山は子供でも登れる位に十分舗装された登山道があり、四時間程度で登れる比較的簡単な山だ。だがだからと言って、今まで碌に山登りを経験していない秘封倶楽部の面面が、しかも夕方から夜に掛けて登ろうとするのは、無謀と言っても差し支えない計画であった。
「やべえ、疲れた。死ぬ」
誰かが呟いたのに端を発し、しばらく黙っていた事に全員が気が付いて、皆慌てた様子で、喋り始めた。登り始めてから三時間。奇跡的に何の問題も起こっていない事だけが幸いで、既に全員の疲労は頂点に達していた。
「もう駄目。足痛い。歩けない。私達、このまま山の神の生贄になるわ」
「イケメンの山の神ならちょっと貰われたいかも」
「山の神は女神だろ。常識的に考えて」
「ついに俺も彼女持ちか。怖ぇ。山の神、超怖ぇ」
「女は殺されて、男は連れて行かれるんでしたっけ? その場合、レズってどうなるんすかね、蓮子先輩」
「私に聞くな。私はレズじゃない」
「私は、蓮子以外に靡いたりしないわ」
「メリー先輩ってぶれないっすよねぇ」
「神様って言えば、知ってます?」
下らない事を話していると、一人が言った。
「これ、噂なんですけど、トリフネの中に鳥居があるらしいですよ。トリフネにも神様が居るのかも」
「神様は知らないけど、鳥居は本当にあるらしいよ。打ち上げの安全祈願だって」
それは蓮子も知っている。実際に夢の中で見た事もある。
「神頼みかよ、情けねぇ」
「トリフネの事もっと信頼しろよな」
「結局あいつ一人で頑張ってんだぜ」
泣けるわぁと、何人かが嘆きながら空を見上げた。もう完全に夜が来て、辺りは星に包まれている。もう後一時間もしない内に、大気に触れたトリフネは発光しながら、地球に向けて落ちてくる。
「後、これも噂なんだけど、実はトリフネって研究員も乗っていたらしいよ」
「え? そんなの聞いた事無いけど。動植物だけじゃないの?」
「今回の実験は、地球のテラフォーミングの為でしょ?」
「らしいね。テラフォーミングっていうか地球の環境を復活させるって奴」
「で、環境を人間が住める様に変える実験と一緒に、人間が環境に適応出来るかの実験も一緒にやったんだって。それで人間を積んで乗せたって。表向きは宇宙ステーションで研究を行う為って言われていたんだけど、その研究て言うのが人間として環境に適応出来るかどうかっていう」
「何それ、怖! じゃあ何も知らずに乗せられて、頑張って生きろよーって宇宙に送り出された訳?」
「らしいよ。実際トリフネが打ち上がった後に行方不明になった職員が居るとか」
一瞬場が凍りついた。もしもそれが本当で、もしもその人体実験の被験者として閉鎖された宇宙ステーションに自分が乗せられていたら。そうやって想像すると、恐ろしさが湧いてくる。
真っ暗な暗闇の中で生まれた微かな恐怖は、一気に皆の間に広まり膨れ上がった。
山を登り汗だくだというのに、寒気を感じる位に。
それを笑い飛ばす為に、誰かが叫んだ。
「嘘臭ぇ!」
「てか、適応ってどうなるの? 翼とか生えちゃうの?」
「ちょっと羨ましい」
「一世代で人間がそんなに進化出来る訳無いだろ。ねえ、メリー先輩?」
「翼欲しい!」
「ほら! メリー先輩も、欲しいけどあの月の様に手が届かないって言うとるやろ!」
「どうやら宇宙ステーションの中は特別変異しやすくなっているらしくて。ほら、知らない。昔、貧困街で飢えた子供達の為に体が勝手に植物になって自分を食べさせるお母さんの話あったでしょ? あんな感じで変異しちゃうって」
「あの話、眉唾だぞ。翻訳ミスの」
「後は、孤独に絶望した女の子が無数の虫になるっていう話が」
「そんな映画あったよね。都市伝説が元だっけ?」
「後は、屈辱に耐え切れず走りだした男が虎に」
「臆病な自尊心と尊大な羞恥心!」
「その声は、我が友、李徴ではないか?」
「あんた達、嫌い」
「まあ、そういう実は人間が入っていました系の噂って良くあるよね」
誰かがそう締めて、トリフネの噂話は途切れ、同時に会話も途切れた。皆がまた黙黙と山を上る。それからもまたぽつぽつと会話があったものの、「さっきのトリフネの噂、やっぱ本当だったら怖いよね」という誰かの呟きには誰も答えなかった。
そしてトリフネが大気圏に突入する三十分前に一行は頂上に辿り着いた。
「メリー」
蓮子は涙を流しながら、その名を呼んだ。
「蓮子? どうしたの?」
メリーの声は相変わらず聞こえてくる。
だが目の前には化け物が居る。
ここが暗いと言うメリー。
化け物に襲われる寸前だったと語ったメリー。
それ等を考えれば、メリーが化け物に食われてしまったとしか思えない。
だがそうすると、何故メリーの声が聞こえてくるのか分からない。まさか丸呑みされたから化け物のお腹の中で生きているなんて訳でもあるまい。メリーの声は、良く聞けば何処か一点からではなく、まるで周囲の空気が震えているかの様に、辺りから聞こえている。明らかに生きた人間の発する声ではない。
蓮子は化け物を睨みつける。
「よくも」
メリーが化け物に食われてしまったと、蓮子は確信していた。
「よくも!」
涙を流し、メリーの仇を取る為に、近くの木の枝を折った。ひょろひょろとした枝を構え、頼りない武器として化け物に向けて突きつける。
化け物はその威嚇行動に刺激されて、唸り声を上げ、今にも飛びかからんと殺気を漲らせてきた。
蓮子は手の震えを止める為に、枝を固く握り、必死で恐怖を抑え付ける。
「よくも!」
その時また、メリーの声が聞こえた。
「蓮子? どうしたの? 何が起こっているの? 何だか蓮子の様子怖いよ? 何持っているの?」
その言葉に、蓮子は違和感を覚えた。
まるでメリーが今の蓮子の行動を見ていた様だった。
「メリー? 私が見えるの?」
「見えない。けど何となく分かるの。今蓮子は何か怖い事をしようとしているって」
怖い事?
確かに化け物と戦うのは怖い事かもしれない。
だが蓮子はそれと別のある可能性に気が付き、まさかと、より一層体を震わせた。
化け物が唸っている。
唸ってこちらに飛び掛かろうとしている。
その化け物が、まさかメリーなんじゃないだろうかという可能性が蓮子の頭の中を回り出した。
メリーは化け物に食われたのではなく、何かあって、化け物に変化してしまったのではないだろうか。
思えば最初にメリーの声を聞いた時にも、その先に化け物が居た。
思えば今も、メリーの声を辿って行くと化け物に辿り着いた。
今も、化け物に武器を向けると、メリーは怖いと言う。
まさか。
まさかメリーは化け物に変わり、獣の外見、獣の凶暴さを備えながら、その実、内にはメリーの魂を抱え、そして今、枝を突き付けられたから、怖がっているのではないか。
考えれば考えるだけ、そう思えてくる。
まさかという気持ちは最早無く、蓮子の目には目の前の化け物にメリーの姿が重なって見えた。
蓮子はどうすれば良いのか分からずに立ち尽くす。
化け物は唸り声を上げ、そして一歩前に踏み出してきた。
幾ら中にメリーが宿っていようと、獣は獣。その行動にメリーの意思が無いのは明白だ。身を守る為には戦うしかない。
蓮子は枝を握り締め、獣に対抗しようとした。
だが出来なかった。力を入れる事が出来無い。
目の前に居るのがメリーだと思うと、戦おうとする気力が抜け落ちてしまう。
獣がまた一歩近付いてくる。
涙が後から後から溢れてくる。
メリーを救いたい。
でも方法が分からない。
無力で、どうする事も出来無い。
ただ悲しくて、涙を流す事しか出来無い。
メリーを助けたいのに、それが出来無い。
自分に出来る事は結局。
蓮子はメリーの名を呟き、脱力し、枝を取り落とした。
その瞬間、獣が飛びかかってきた。
「蓮子!」
メリーの焦った様な声が聞こえた。
蓮子の腹に化け物がぶつかってきた。蓮子は弾き飛ばされ地面に転がる。何とか起き上がろうとするも、痛みで力が入らない。
辛うじて顔だけ上げて、襲いかかってこようとする化け物を見る。だが化け物はこちらに飛びかかって来ようとはしていなかった。それどころか、化け物は苦しげに呻いていた。
何が起こったのか分からない。
最後に、化け物が人間の様な声で、誰かの名前を呼んだ様な気がしたが、それも単なる勘違いかもしれない。
そのまま化け物は動かなくなった。
化け物が、死んだ。
その事実に気が付いて、蓮子の全身に怖気が走った。
化け物が死んだ。ならその内に宿るメリーは?
蓮子は慌てて化け物の死骸に縋った。だが動く気配が無い。何処かにメリーだった跡は無いかと探す。そして化け物の顔に何かが埋め込まれているのを見た。眦の横に、毛と肉に埋もれる様にして、金属製の小さな装飾品があった。まるで成長する肉に巻き込まれて埋め込まれた様にして。
その装飾品に見覚えが無い。
メリーの物だと思えない。
だが不吉な予感がする。
蓮子は躊躇したが、そうも言っていられず、意を決して、木の枝を使って、化け物の肉を抉ってみた。出て来たのは。ハート型のイアリング。メリーはそんな物をつけていなかった。だとしたらこれは誰の?
「蓮子? 大丈夫なの?」
メリーの声が再び聞こえ、蓮子は顔を上げる。
「メリー! 生きてるの?」
「蓮子こそ! 大丈夫? 化け物に襲われているんでしょ?」
「でも化け物は何か死んじゃったみたい」
「そう、良かった」
「メリーは? メリーこそ、何処に居るの? 化け物に食べられたんじゃなかったの?」
「分からない。記憶が曖昧で。飲み会の後、蓮子に励まされて、もう一回、今度こそ化け物に立ち向かおうと思って夢を見たんだけど」
その話は何処かで聞いた事がある。
蓮子はその引っ掛かりを掘り起こそうとするが、メリーが先を話すので、思考が止まる。
「やっぱり化け物を見たら怖くなって、それで蓮子に来て欲しいって頼んだの。でもそんな上手く蓮子が来てくれる訳無くて、化け物に食べられそうになった。それで気が付いたら辺りが真っ暗になってた。食べられたのとも違う、でも自分が何処に居るのか分からない」
「待って! 待って、メリー! おかしいよ!」
現実のメリーと夢のメリーの会話が食い違っている。明らかに齟齬がある。
「メリー! だって! メリーはトリフネの夢を見なくなったんでしょ?」
現実と夢の齟齬が、ひたひたと侵食してくる。
メリーがどうなってしまったのかという不吉な予感が胸を締め上げる。
「どういう事?」
「だってメリー、あの飲み会の後、私が酔いつぶれてメリーの部屋で眠った後よ、その時に言ってたじゃない! 今回はトリフネの夢を見なかったって!」
何かの間違いであってくれと蓮子は叫ぶ。
一瞬の間があって、メリーが静かに言った。
「何それ、知らない」
その無感情な声音の中には、微かに絶望の色が見え隠れしていた。
現実と夢の齟齬が広がり、明らかに見える様になった。
現実と夢が隔たっていく。
「メリー」
「蓮子、どういう事? そうね、確かにあなたは酔い潰れていた。だから私は自分の部屋に運んだ」
「それでスカートずりおろしたんでしょ?」
「それはあなたが勝手に……蓮子? 一度起きたの?」
「起きたよ。そして、メリーももう起きている」
「ねえ、さっきから言っている意味が」
現実のメリーと夢のメリーの間には、明らかな齟齬があり、まるで二つは分かたれてしまった様だ。
ならば己はどうだ。
今夢の中に居る自分は、まだ現実との繋がりを保てているのか。
あの後、メリーの家から自分の家に戻って寝入った時点で、現実も止まっているのか、あるいは現実はメリーだけでなく自分すらも置き去りにして、トリフネの最期を見届ける為に山を登っているのだろうか。
これは推論だ。
確証なんて無い。
でも正しいと感覚で分かっている。
今、このトリフネに残された自分達が居る。
そして同時に、トリフネを見に出掛けようとする自分達が居る筈だ。
「メリー、あんたは現実に置いて行かれたのよ!」
「置いて行かれたって? 意味分からない」
蓮子は涙を流して歩き出した。
メリーだけじゃない。きっと自分もそうだ。
「蓮子! お願い! 返事して! どういう事なの?」
ふらつきながら歩いて行くと、鳥居があった。鳥居は、ずっと昔に見た時よりも、遥かに小さい。宇宙ステーションの中には二つの鳥居があったのだ。鳥居の向こうには地下へ続く階段がある。例え植物に埋もれても、この階段を見つけられる様に、こちらの小さな鳥居が目印とされたのだろう。きっとこの先には機関室や研究室等の人間が使う為の施設がある。打ち捨てられたこのトリフネに対してはもう何の役割も持っていないが、今の蓮子には二つの事を教えてくれた。このトリフネは人間が暮らすのを前提に設計されている事。そしてこの階段を下ればメリーを失った場所に行ける事。
「メリー、現実の世界ではきっと今頃、私とメリーは一緒に皆子山を上って、このトリフネの最期を見ようとしている」
今、何時だろう、と蓮子は思った。星も月も見えないから正確な時間は分からないが察しはつく。もうすぐこのトリフネは大気圏に突入し、内部は焼き尽くされる。今のこの自分の、凪いだ様な絶望の心地は、明らかに死を目前にしている。
「ねえ、どういう事? じゃあ、ここに居る私達は何?」
「分からない。私達である事は間違い無いけれど」
蓮子は階段を降りきり、鍵の掛かっていない扉を開けた。
そこは電源の切れたモニター室。椅子が散らばるばかりで何も無い。植物で溢れた外の世界に比べて、人工的なモニター室の中は殺風景で寂しく見えた。蓮子は地球並みの重力に調整されたタイル張りの床を歩いて、部屋の隅へ行き、そしてそれを拾い上げた。
メリーの服だ。
昨日着ていたのと同じ服。
調べてみても、血の一滴もなければ、破れた跡も無い。化け物に食われたのでない事だけが救いと言えば救いだった。
「メリー、見える?」
「何? 真っ暗で見えない。どうしたの? 何か持ってる?」
「そう。メリーの服が落ちてたよ」
蓮子はメリーの服を抱いて、壁を背に座り込んだ。
「私の服がどうして? じゃあ、今、私は」
「裸なんじゃない?」
「私はどうなってるの?」
からかってみたが、真面目に返された。当然かと蓮子は苦笑する。既に殆ど察して諦めきった自分と違い、メリーはまだ理解が及んでいないのだから必死になっている。
蓮子は自分の鼻腔にまた懐かしい香りを感じる。メリーの匂いだ。メリーの服から漂ってくる。だけじゃない。この部屋の外でも植物の匂いに混じって、懐かしい匂いを嗅いでいた。
「これはね、全くの推論だけど」
「うん」
「きっとこの衛星トリフネに居ると体が変質する。あの化け物居たでしょ? あれもきっと元人間」
「嘘」
「憶測だけどね。そう言えば、恐怖に反応して進化を激烈に早める研究があったね。あの応用かな。そしてこれは更に憶測。きっとメリーは、植物や虫や動物ですらない、大気になったんじゃないかな?」
「大気?」
「そ、空気」
だからきっと今、自分の周りをメリーが取り巻いている。
それはせめてもの慰めになるんじゃないだろうか。
憶測だけれど。
微生物という可能性もあるし。
「信じられない」
「そうだね。私も。憶測だし。でもこれだけは確信しているよ。私達は」
もうすぐ死ぬ。
大気圏に突入して燃え尽きる。
それは恐ろしい結末だ。けれど、こうしてゆっくりと死を迎え、その上、昔馴染の親友が傍に居てくれるのならそれは、きっと宇宙開発戦争の中で死ぬ人間としては、それなりにまともな死に方に違いない。
そうでも思わないとやっていられないのかもしれないが。
やがてメリーの啜り泣きが聞こえてきた。
「じゃあ、トリフネはもうすぐ落ちるのよね?」
「そうだね。そして中は焼き尽くされる。有機物の私は勿論そうだし、気体のメリーでもきっと、死ぬだろうね」
「そう」
蓮子は何と言って慰めるべきか考える。
だが中中相応しい言葉は思い浮かばない。
「ごめんなさい、蓮子」
「何が?」
「私が助けなんて呼ばなければ、蓮子がここに来る事は無かったのに」
そうだろうか? そうかもしれない。ああ、そういう事かもしれない。
全ては一人で死にたくなかったから引き起こされたのかもしれない。トリフネが一人死ぬのを嫌ってメリーを呼んだのかもしれない。そして一人恐ろしい思いをしていたメリーに呼ばれたから、自分もここに来たのかもしれない。
かもしれないばかり。
もしかしたら、メリーはこうなる事が分かっていて、私に助けを求めなかったのかもしれない。
だとすれば、結局ここに来たのは自業自得である。むしろメリーの思いを踏みにじった事になる。
逆に申し訳無く思った。
だがそういった悔恨や恐怖以外に喜びが灯っている。
暗い喜びだなと自分でも思った。
「前から言っているでしょ?」
私はあなたの傍に居る。
それを口約束で終わらせなかった。
メリーの傍に居る事が出来た。それは確かに喜んで良い事だろう。
丁度良く、音楽が流れてきた。飲み会の席で提案された、スタンド・バイ・ミー。
地球に近付いているという事だ。最期が迫っているという事だ。蓮子は身を固くする。残された時間は、後どれ位? 一分? 二分? 数十秒? あるいは数秒? もしかしたら次の瞬間?
「ごめんなさい、蓮子」
「だから良いって。私も悪かったよ」
「本当にごめんなさい」
「泣かないでよ、メリー」
折角の最後なんだから、せめて泣いていて欲しくない。
「傍に居てあげるから」
メリーの啜り泣きが止む。何か自分の周りの空気が濃くなった気がした。
抱きつかれたのかもしれないと思って、蓮子は何だか嬉しくなる。
空気が濃すぎても人は死ぬらしい。窒息するかもなと笑った後、本当にそれを頼んでみようかと思った。焼ける中で死ぬのはきっと苦しいだろう。それよりもいっそ。
だが蓮子は頭を振る。
折角の最後なんだ。
前から約束していたんだ。
だからせめて後少し、格好良い蓮子で居たい。
メリーの傍に少しでも長く居たい。
やがて周囲が熱くなってきた。
熱が内部まで回ってきたという事は、既に大気に侵入しているという事。
終わりが見えてきた。
メリーの悲鳴が聞こえる。
「蓮子、私死にたくない」
「うん」
「蓮子、嫌! 私!」
「メリー、泣かないで」
何と慰めれば良いのか分からない。
だから言った。
「私が傍に居てあげるから」
「蓮子」
「だから泣かないで」
「ありがとう」
蓮子達は空を見上げている。スタンド・バイ・ミーが流れているが、それを衛星トリフネに届ける発信装置の音がうるさすぎて何だか締まらない気分。そんな中で、誰かが言った。
「もう少しで大気圏突入みたいですよ! 後一分!」
カウントダウンが始まる。
発信装置の音とスタンド・バイ・ミーが混ざり合ってうるさいが、それでも皆耳を澄ませてカウントダウンを聞き、衛星トリフネが大気に擦れて光るのを待った。
「そうだ。見えたら三回願い事を言わなくちゃ」
急にメリーがそんな事を言ったので、蓮子は呆れて言った。
「彗星じゃないよ」
「似た様なものよ」
「何てお願いするの?」
蓮子のパンツが欲しいとかそういう変なのじゃないだろうなと疑っていると、メリーは鼻息を荒くして言った。
「蓮子がずっと傍に居てくれます様に」
思わぬまともな願いに、蓮子が驚いてメリーを見ると、不満気な顔をしていた。
「三十秒前! 来ますよ!」
誰かが声を張り上げる。
メリーは不満げに、蓮子のお腹を突っついた。
「どうせ変な事を言うと思ってたんでしょ」
「まあ。って言っても、その願いも別に、願うまでもないけど」
言ってから、恥ずかしい事を言ったと気が付いて蓮子は思わず口元を押さえた。メリーが目を輝かせて笑顔になったので、益益恥ずかしくなる。
「それもそうね。じゃあ、別の願いを。えーっと、空が崩れ落ちてきませんように?」
「願いが歌に引きずられ過ぎなんじゃない?」
そう言いながら、蓮子も願い事を考えたが、鳴り響く歌に引きずられて、中中思い浮かばない。
「後十秒!」
「あー、もう駄目。思い浮かばない。やっぱり、ずっと傍に居てくれます様に、にしよう! 蓮子は?」
「私は」
結局浮かばない。メリーが傍に居てくれます様に? メリーが泣きません様に?
迷っている間にカウントダウンが、終わった。
そして遂に衛星トリフネが最期を迎える。それは空の彼方の一粒の煌きだった。それが伸び上がり、一筋の光になった。やがてそれは膨れ上がり、そして強烈な閃光となり、空が真っ白く染まった。
空を照らした光が消え、辺りはまた夜に戻る。
誰からも見捨てられていた衛星が発した、ほんの一瞬の、最期の煌き。
メリーの手が自分の手に触れたので、蓮子は握り返す。
秘封倶楽部の皆が、凄いものを見たと騒ぎ合っているのを視界に収めながら、メリーは蓮子に言った。
「ねえ、蓮子。私、幸せよ。ありがとう」
「どう致しまして。でもこの光景を見られたのは、私のお陰だけじゃないよ」
「違う。全部。今までの、全部。蓮子が私を説得してくれて、目の暴走を止める事が出来たから、今こうして蓮子と生きていける。もしもあのまま目の能力を使い続けていたらどうなってたか分からない」
「それも、少し違うよ。私だってメリーと一緒に生きて行きたかったんだから」
「蓮子、これからもずっと一緒に居てね」
「こちらこそ」
蓮子とメリーは顔を見合わせて微笑みあう。
これならやっぱりトリフネに願う必要は無かったな。
蓮子はちょっと後悔したが、願い事なんてそんなものかもしれないと思い直した。
トリフネは消滅した。
世間はその事だけを知らされた。
「ねえ、蓮子。知ってる? この世は自分達と違うものを排除しようとする。異形、異端、異質、異物、ただ他と違うというだけで家から追いだそうとしているの」
「それは、今のメリーを言っている訳?」
「いいえ、私とあなたよ。お互い普通じゃない目を持っている。だから高校で隠しているんじゃない。でもね、いつまでも縮こまっているなんてまっぴらじゃない? そこで大学よ! 大学は自由の場。そこで私達は理想郷を立ち上げ、アダムとイブに」
「うん、それは良いからさ、メリー」
「あ、それからね、蓮子、私達はそうして異端同士。きっとこれから沢山の困難を経験するわ。でもどんな時でも、ずっと傍に居て欲しいの。例え何があろうとも。傍に居て欲しい。蓮子、あなたと一緒に居たい」
「分かった。分かった。何が合っても最後まで傍に居る。それはそうと、メリー。どうして私が留守の間に裸で私のベッドの上に眠っていたか、ちゃんと説明してくれない?」
「そう言えば、明日はトリフネが落ちるね」
蓮子は思いついた言葉をぽつりと漏らした。それは誰に向けたのでもない言葉だったが、盛り上がっていた居酒屋の一室だというのに秘封倶楽部の部員達はみんな耳聡く聞き取って、餌を与えられた魚の様に一斉に食いついてきた。
「ですね!」
「秘封活動っすか?」
「俺達でトリフネを助けましょうよ、部長!」
「かわいそうだと思いません? かわいそう! トリフネかわいそう!」
同時に何人も喋るから上手く聞き取れない。猛烈な後輩達の勢いに、蓮子は苦笑してグラスに口を付ける。
明日トリフネが落ちる。
衛星トリフネは内部に完全な自己完結の生態系を作る為に作られ、打ち上げられた宇宙ステーションだったが、事故でその役目を果たせないまま打ち捨てられ、ラグランジュポイントを漂っていた。
「もう戻ってこないと思っていたけど」
「外国から抗議があったらしいっすからね。何かロシアと中国の宇宙ステーション計画の邪魔になるっつって。今まで回収しようとしなかった癖に、他国に脅されたからって落とすなんて」
科学者としては無駄でも回収したかったと思うけどねと溜息を吐いてから、蓮子はグラスの中のアルコールをじっと見つめた。
トリフネは事故で打ち捨てられてから長い時間放置された為、生態系は死滅していると見なされていた。だから今回の回収計画ではトリフネの中身には全く気を配らず、バインドして無理矢理引っ張り、遠慮呵責無く太平洋上空に落とす事になった。そんな事をすれば、機器類も何もかも全てやられてしまうだろうし、中に何かが残っていたとしても焼かれてしまうだろうと、ニュースで誰かが残念そうに語っていた。
無用の長物を焼却処分する。それだけだ。大した話題にもなっていない。世界各地で巻き起こっている宇宙開発競争に関するニュースの中の、本当に小さな小さな出来事。
世間の目から見ればそう。
ただ変人の集まりである秘封倶楽部のメンバーにとってはそうでもないらしい。蓮子が話題にしたさっきから、役立たずと捨てられ燃やされてしまうトリフネが可哀相だと、酒を片手に盛り上がっている。
そういう気持ちも分かるが、蓮子のトリフネに対する思いは彼等とも少し違う。
蓮子は知っている。
事故で機能が停止し打ち捨てられたトリフネが、実はまだ生きている事を。
それを知っているのは、蓮子とそして相棒のメリーだけ。
「あ、メリー先輩!」
声が聞こえて、思考から立ち戻ると、丁度メリーが部屋に入ってきた。
「メリー先輩、飲み物は?」
「今頼んだから大丈夫」
「遅かったですね!」
「ごめんなさい。寝坊しちゃって」
「寝坊ってもう夜っすよ!」
皆が笑う中、メリーは蓮子を見つけて近寄ってきた。微笑みを浮かべているが、メリーの表情は何やら疲れている。
「何かあったの? メリー。そういえば、最近眠そうだけど」
「何にも」
メリーから言い淀む様な印象を受けた。何か隠し事をしている。そう勘付いたが、メリーが隠している以上、それを無理矢理暴くのも気が引けた。
飲み物が運ばれてきて、改めて乾杯の音頭を終えると、早速話題は元に戻る。
「メリーさん、明日トリフネが落ちるの知ってます?」
その瞬間、メリーの顔色が明らかに変わった。
驚きと恐怖に満ちた表情だ。
その激変した表情に、後輩達が言葉に詰まる。
「メリー?」
蓮子が声を掛けると、メリーは肩を震わせ狼狽えながらも、慌てて笑みを作った。
「そうみたいね。落ちる時の光が隕石みたいに見えるって言ってたけど」
メリーは笑顔で取り繕おうとしたが、後輩達はメリーが一瞬見せた恐怖を訝しんで押し黙った。
その重苦しい空気に、メリーは困惑した様子でしどろもどろになり、やがて耐え切れなくなった様にグラスを呷った。途端にメリーが咳き込んだ。
「何これ、アルコール強すぎ!」
笑いが起こって空気が弛緩する。
後輩の一人が言った。
「もしかして、トリフネが落ちてくるのが怖いんすか?」
それを聞いた他の後輩達は納得し、メリーを励ます。
「なら、大丈夫ですよ! 太平洋上に落とすらしいんで!」
「ね! 万に一つも周りに被害は出ないって言ってましたよ!」
「まあ、そこがまたねぇ、悲劇性があるんすよねぇ。結局助かるのは人間だけで、実際に落ちてくるトリフネはぶっ壊れちゃう訳でしょ? 色色データとか残ってるかもしれないし、もしかしたらまだ生きている生物も残っているかもしれないのに、それを無傷のまま回収するには莫大なお金が掛かるからって、全部おしゃかにしちゃうってのが」
「悲しいよねぇ。人間に迷惑を掛けない為に殺されちゃうってのがねぇ」
「でもそんな大気圏突入位で、機械壊れるかな? データ位は拾える気がするけど」
「色色不測の事態があったみたいだし、駄目なんじゃん?」
「病弱っ子なんだよ。悲劇だから」
皆が気を使ってくれている事に気が付いたメリーは、自分を奮い立たせる様に背筋を伸ばすと、手を叩いて皆の注目を集めた。
「なら、山に登りましょう」
全員の頭に疑問符が灯る。
理解してくれなかった事に焦りながら、メリーは補足した。
「少しでも近くでトリフネの最期を看取ってあげましょう」
途端に「おお!」と声が上がる。
「流石、副部長! 良い案ですね!」
何か悩みのありそうなメリーの気を紛らわす為に、皆が酒を呷りながら、わざとらしい程の勢いで盛り上がった。
「上るならやっぱり皆子山?」
「いや、きつくない? もっと楽に登れる山に」
「は? お前のトリフネへの愛はその程度かよ」
「見るだけじゃなくて、寂しくないように、何かしようよ」
「あ、じゃあ音楽掛けようぜ。音波送ってさ。外壁は鋼だろ? 振動させれば」
「絶対無理でしょ。速度的にも、構造的にも」
「駄目元で!」
「掛けるとしたら何の曲?」
「何が良いかな? トリフネが出発した時のヒット曲とか?」
「いやー、トリフネはそういうヒット曲とか興味ないから。もっとこう落ち着いたさあ」
「トリフネの何知ってんだよ」
後輩達がトリフネに聞かせる曲で盛り上がっている中、メリーが呟いた。
「スタンド・バイ・ミー」
それは微かな声だったが、力強い響きがあり、喧喧囂囂と喋り合っていた後輩達の会話が止まった。メリーは自分の言葉で、皆の会話が止まった事に驚き、誤魔化す様に弱弱しく微笑んだ。
「スタンド・バイ・ミー。空が落ちてこようと山が崩れようと、暗闇に包まれても、傍に居て欲しいって歌う曲。もうずっとずっと昔の曲で、物悲しい曲だけれど、トリフネに重なる気がして」
「おお! それっすよ! トリフネが望んでいる曲は!」
「良いと思います、副部長!」
後輩達は誰もそんな数百年前の曲なんて知らなかったが、メリーを励ます意味で、口口にその提案を褒め称えた。元より彼等からすれば、盛り上がる口実があれば良かったのだから、掛ける曲なんて何でも良い。
「メリー」
「何、蓮子?」
「ううん、何でもない」
こうして秘封倶楽部は、翌日の夜トリフネを迎える事に決まった。
「スタンド・バイ・ミーね。そう言えば、映画もあったよね。何だっけ? 死体を担いで線路を歩いて、最後は、死んじゃうんだっけ? それなら、確かに死体を入れて地球に死にに来るトリフネと重なるかもね」
二人きりの帰り道、蓮子は酔っ払ってふらつきながら、メリーにそう笑いかけた。一方のメリーは、思いつめた様に俯いている。
「メリー? 聞いてる?」
メリーが慌てて顔を上げた。
「あ、えっと、映画の話よね。ちゃんと聞いていたわよ。でも蓮子が言っていたのとは全然内容が違うわ。線路を伝って友達と死体を見つけに行くのよ」
「大体一緒じゃない」
「全然違う。全く淡くないじゃない。死体を担ぐなんて強烈な話じゃ駄目なの。そういうんじゃなくて、あれは子供の頃の淡い思い出。蓮子にも無い? 記憶にだけは残っている子供の頃の思い出。こんな楽しい事があったって。でも大人になった今では印象ばかりが残っていて、細部は覚えていない。人生に何か影響を与えた訳でも無い。こんな楽しい事があったなぁ、素敵だったなぁって思い出すだけの、淡くて綺麗で切ない記憶」
饒舌に語るメリーが艶っぽい視線を向けてきた。
何だか心臓が高鳴って、蓮子は目を逸し、肩を竦める。
「まるで夢みたいね。楽しい事があったなって印象だけは残ってる。でも顔を洗う頃に忘れてる。そう夢みたい」
言ってから、ちょっと詩的だったかなと恥ずかしくなって、恐る恐るメリーの反応を窺った。馬鹿にされるかもと思っていたのだが、メリーの反応は、蓮子が想像していたのとまるで違っていた。
恐怖だ。
さっきの飲みの席でメリーが見せたのと同じ驚愕と恐怖、それを顔いっぱいにたたえている。
トリフネ。夢。
それで蓮子はほぼ確信した。メリーはトリフネの夢を見ている。
「メリー、もしかしてまた夢でトリフネの中に入ったの?」
メリーの目が更に見開かれた。
やはりと思って、蓮子は細く長く、自分の中の戸惑いと一緒に、息を吐き出した。
メリーの目は結界の境目を見る事が出来る。その境目を通って不思議な場所に行く事が出来る。まだ秘封倶楽部が蓮子とメリーの二人だけだった頃、本来の活動は結界を暴いて回る事だった。
トリフネの内部に入ったのもその一つ。
メリーと蓮子が結界を暴き、夢でトリフネの中に入ると、そこには生い茂る植物に個性的な動物、打ち上げの安全を祈願した鳥居があった。そう、そこには世間で言われている事とまるで正反対の世界が広がっていた。トリフネはまだ生きていて、地球とは異質の環境で育まれ、独自に進化した動植物が楽園を築いている。世界の誰も、どの研究機関も知らないその秘密を、二人だけが暴いてみせた。
だが二人はその事を決して誰にも話さなかった。話さない理由は簡単で、単に誰も信じてくれないからだ。夢の中でトリフネへ遊びに行った等、誰も信じない。
そして二人は二度とトリフネに行かなかった。行かない理由は危険だからだ。トリフネの中には一匹の恐ろしい化け物が居る。翼の生えた獣で、生き物を見ると襲い掛かってくる。蓮子とメリーはその化け物に襲われた。そして夢の中で傷ついた。その傷があろうことか、現実のメリーの体にも返ってきた。しかもその怪我が原因で病に倒れた。
トリフネの中は美しいが、立ち入ってはならない危険な場所だ。
二人はトリフネの中を二人だけの秘密に封じする事にした。
その後、メリーの目が暴走し始めた事で二人は結界暴きを止め、今では安穏な普通の大学生活を送っている。秘封倶楽部もまた、蓮子とメリー以外の部員がやってきて、単に不思議な物を調べ回るだけの部活になった。
「どうして? 危険なのに」
蓮子が呆然と呟くと、メリーは頭を抱えた。
「違う! 行きたかった訳じゃない。また勝手に行ってしまったの!」
メリーの叫びに、蓮子は息を飲み、震える唇で言葉を吐き出した。
「また目が暴走したの?」
メリーの結界の境目を見る能力は、使う毎に制御が効かなくなった。暴走した目の所為で、メリーは頻繁に結界の向こうへ引き寄せられ、最終的には姿を消し何日も何ヶ月も戻らない事が繰り返された。蓮子はメリーの身を案じ、必死でメリーの暴走を止めようとした。暴走を止めるのは簡単だ。単に能力の行使を止めれば良いだけだ。だが難航した。メリーにとって結界を見る目はアイデンティティであり、その能力を失う事を極度に嫌がったからだ。だが幾ら断られても蓮子は諦めず、メリーを失いたくない一心で粘り強く説得し、蓮子の思いにうたれたメリーはついに一切の能力行使を止めて、目を封印した。その結果、徐徐にメリーの目は落ち着いて、目が暴走する事も、結界の向こうに行く事も無くなり、今では秘封倶楽部という普通の(と自称する変人ばかりが集う)サークルを主催する普通の(ちょっと仲が良すぎる名物)学生として生活している。
「目が覚めたら、生い茂る草の中で寝ていたの。すぐに分かった。トリフネの中だって。また目の暴走が始まったんだって怖くなって、また蓮子と会えなくなったらどうしようって、何とか戻ろうとして念じてたんだけど、そこにまたあの時の化け物が襲ってきて」
「大丈夫だったの?」
「今日までは逃げ切れた」
「今日まで?」
何度も化け物から逃げていた様な言葉に蓮子は引っかかりを覚え、その意味に気が付いた。メリーはきっと連日トリフネの夢を見ていたのだ。毎晩の様に化け物から逃げていたのだ。
「じゃあ、最近眠そうなのは」
「眠ったらまたあの化け物に追われるから」
「馬鹿!」
蓮子は思わず怒鳴り、平手でメリーを張ろうとした。だがすんでのところで手を止め、メリーの肩に優しく手を載せる。
「何で、言ってくれなかったの!」
メリーの目はまたいつ暴走して、平穏な二人の生活を壊してしまうか分からない。
メリーだってそれが分かっていた筈だ。
メリーだって二人で一緒に居たいと思い続けてきた筈なのに。
また二人が引き離されてしまうかもしれないのに。
相談をしてくれなかった。
それが裏切られたみたいに思えて、蓮子は腹が立った。
「だって」
「とにかく私も連れて行って。メリーを助けに行くわ」
「ほら、そう言うじゃない」
メリーは泣きそうな顔をしていた。
「蓮子、忘れたの? 前にトリフネの夢を見た時は、夢の傷が現実に返ってきたのよ。もしかしたら今回もそうなるかもしれない。そんな危険な夢なのよ」
「メリーこそ、忘れたの? あの時、現実でも傷ついていたのはメリーだけ。私は夢の傷が現実に返ってくる事は無かった」
本質的に、メリーの能力で危険になるのは、メリーだけだ。
メリーもそれを知っている筈なのに、どうして今回に限って、教えてくれなかったのだろう。
「もしかして私、信用されてない?」
「そんな事無い!」
「なら! 私を呼んで! 危ないんでしょ? 怖いんでしょ? なら私を呼んで! 私はいつだってあなたの傍に居る!」
「でも」
「呼んで!」
蓮子は一際強く叫んでメリーの肩を揺さぶった。
するとお互い酔いが周り、二人仲良く傍の路地に、胃の中の物を吐き出した。
目の前には新緑の植物が壁の様に絡まり合っていた。足元には水気のある草むらがあり、革靴にこびりついてくる。吸い込む空気は澄み通って清涼だ。一つ吸込めば、全身に空気が行き渡り体が膨れ上がった様な気がする。じいじいと声がする。ぎーぎーと声がする。虫達の声だろう。あの時と同じだ。
蓮子は今、トリフネの中に居た。
植物と虫、恐らく微生物も、原始的な生物だけが住んでいる。当然だろう。宇宙ステーションという狭苦しく地球とかけ離れた環境に、コンピュータのバグが加わり、生物は一時全滅に近い状況へ追い込まれた事が想像出来る。そこから新しく自然を育んだのであれば、単純で原始的な生物だけが存在する筈だ。
だからこそ、蓮子とメリーを襲った化け物、あの翼を生やした捕食者の異質さが浮き上がる。もしかしたら、あれは初めに乗せられた生物の中で唯一生き残った哺乳類なのかもしれない。だとすればその生物的な強靭さは。
そこまで考えて、メリーは首を横に振った。今はそんな事を考えている暇は無い。このトリフネに来たという事は、メリーに呼ばれたという事だ。なら一刻も早くメリーを探し、助け出さないと。
蓮子は恐る恐る植物のカーテンをずらし、その向こう側へと足を踏み入れた。
でたらめに伸び盛る植物の密度は以前に来た時よりもずっと濃く、十歩も歩かない内にまた植物の壁にぶつかる。そこに恐ろしい捕食者が居る恐怖も加わり、広い筈の宇宙ステーションが酷く狭苦しく窮屈に思えた。
蓮子はメリーを探して植物を掻き分け歩き続ける。
広い宇宙ステーションの、それも植物によって視界を遮られた中で、たった一人のメリーを闇雲に探すなんて不可能に近い。本当なら名前を叫んでメリーに気付いてもらうべきだ。だが化け物にも気が付かれる恐れを考えると、それも出来無い。
蓮子は身を震わせる。
もしかしたら植物を掻き分けた先に化け物が居るかもしれない。
そんな恐ろしさを抱きながら、当ても無く歩き回っていると心細くなってくる。
「メリー、お願いだから早く出て来てよ」
心で願い、実際に呟きながら、蓮子はメリーを求めて歩き続ける。
きっと自分よりも心細い気持ちでいるメリーを一刻でも早く見つける為に。
その時、かさりと音が聞こえた。
かさりと草の擦れる音だった。
かさりと歩いている様な音だった。
音は植物の壁の向こうから聞こえた。
壁に阻まれて見えないが、何かがそこに居る。
それは、メリー?
それとも、化け物?
かさりと足音が聞こえる。
「メリー?」
蓮子はそう呼びかけてみた。
メリーである事を願いながら。
すると声が返ってきた。
「蓮子? 蓮子! 居るの? 何処?」
メリーだ。
「メリー! ここ! すぐ近くに居るよ!」
「本当? 何処? 暗くて何も見えなくて」
「分かった。私がそっちに行くから!」
そう言って、蓮子は植物の壁を払った。
そして目を疑った。
羽を生やした捕食者が目を爛爛と光らせて涎を滴らせていた。
思わず呆けた声を上げ、尻餅をついた蓮子の前で、化け物は唸り声を上げ、赤赤とした口を大きく開いた。
そこで目が覚めた。
ベッドを起き上がり、今見た夢の事を考える。
確かにメリーの声がした筈なのに、居たのは化け物だった。
どういう意味だったのか分からない。
「ん」
声が聞こえた。
隣にメリーが寝ていた。
「メリー!」
蓮子が思わず叫ぶと、メリーが慌てた様子で起き上がった。
「はい! 寝坊しました!」
寝ぼけたメリーが辺りを見回し、そして目の前の蓮子に気がつくと、破顔した。
「おはよう。気持ち悪いの治った?」
「おはよう」
蓮子は辺りを見回し、尋ねる。
「何でメリーの部屋に?」
「何でって蓮子が気持ち悪そうにしてたから」
「そうだっけ?」
覚えていなかった。
だがすぐに、胃の底から湧いてくる不快感に気がつき、蓮子は口元を押さえる。
「大丈夫?」
「うん」
蓮子はふと、やけにメリーが嬉しそうにしているのが気になった。
「どうしたの? 変に緩い笑顔だけど」
「そう?」
「うん」
「良い夢を見たからかな」
「それってトリフネの?」
「違うわ」
メリーが笑う。
「それは見なくなったみたい」
「見なくなった?」
「うん、ここのところ毎日見てたんだけどね。今日は見なかった。蓮子が励ましてくれたからかな?」
「そうなんだ」
何か納得がいかない。違和感がある。だがメリーの笑顔は本物で、心の底から喜んでいる様に見えた。
「実はね、私死にそうだったの」
メリーが笑顔でそういった。
聞き捨てならない言葉に蓮子の顔が険しくなる。
「ほら、トリフネの中に化け物が居たのを覚えている?」
当然覚えている。飲み会の後にも聞いたし、ついさっき夢の中で見たばかりだ。
「私、夢の中でその化け物に追われていたの」
「それは聞いた! だから助けに行きたいって思って」
「もう絶対絶命で、必死で逃げてたの。鳥居の向こうに階段があって、下ると部屋があったから、何とかそこに隠れてやりすごそうとした。でも化け物は私に気が付いて階段を下りてきた。部屋の隅で震える私の視界に、化け物の足が見えて。そこで昨日の夢が終わったの。その夢の続きは考えなくても分かるでしょ? 次に眠ったら私は化け物に襲われて殺される」
だから、飲み会の席でメリーは沈み込んでいたのだ。次に眠った時の事を考えると恐ろしくて。
「だったらどうして黙ってたの?」
「だって言ったら蓮子来ちゃうでしょ? 逃げ場の無いところに化け物が侵入してきたのよ? 蓮子まで殺されちゃうじゃない。だから黙っていようと思った」
「そんなの」
例えそうであっても、蓮子はメリーを助けたかった。
「私は何があってもメリーの傍に」
「ありがとう。その言葉で、救われた。実はね、今度夢の中に入ったら、蓮子を呼ぼうって決めたの。身勝手でごめんなさい。勿論二人で心中する為じゃないわ。蓮子が一緒に居れば勇気が湧いて、戦えると思ったの。でもね」
突然メリーが両手を広げて立ち上がる。
「ほら、私、大丈夫だった。大丈夫だったというか、もうトリフネの夢を見なかったの! 蓮子のお陰よ、きっと! 蓮子が勇気をくれたから、私は引きずり込もうとするトリフネから逃れられたのよ!」
いきなりの言葉に、蓮子は呆気に取られた。
助かった? 夢を見なくなった? 私が一緒に居ると言っただけで? 本当か?
疑う蓮子だが、メリーの目に嘘の色は無い。
何が何だか分からないで居ると、メリーは恥ずかしそうに頭を掻いた。
「ごめんなさい。ここまで語っていて気付いたんだけど、もしかしたら私は、最初からトリフネに行っていなかったのかもしれない」
「どういう事?」
「うん、良く考えたら、結界を越えていたんじゃなくて、本当に単なる夢だったのかも。ずっと目は使っていなかったのよ? それがいきなり暴走するなんておかしいじゃない。トリフネがもうすぐ落ちるって聞いて、それが昔の記憶に結びついてトリフネの中で襲われる夢になったんだと思う。その夢が怖くて印象的だったから連続して悪夢を見ちゃってのよ。でも昨日蓮子に励まされて怖くなくなったから、トリフネの夢を見なくなったのね、きっと」
今見てた夢は、蓮子と二人幸せに暮す夢だったしね、とメリーが嬉しそうにウインクをしてきた。
蓮子は最初こそ気丈に振舞っているだけではないかと訝っていたが、メリーの言葉に嘘はなさそうだと判断し、やがて呆れ、疲れてベッドに倒れ込んだ。
言われてみれば、かつて見たトリフネの夢は、夢と言いつつも整合性が取れていた。それなのに今蓮子が見た夢は明らかにおかしかった。特に最後、メリーの声が聞こえたと思ったら化け物に変わるなんて、あまりにも唐突で突拍子もなく、如何にも悪夢めいている。
酩酊の末の悪夢だったとすればしっくりくる。
「はーあ、何か馬鹿馬鹿しい」
「ごめんなさい。心配掛けちゃって」
「いいえ。メリーさんが元気なら何よりです」
蓮子はベッドから降りて伸びをした。まだ気持ち悪さが残っている。
「蓮子、怒らせたならごめんなさい。でもあの時は本当に不安で」
メリーの必死な声に、蓮子は笑みを見せた。
「分かってる。でもどっちでも良いの。勘違いでも何でも、メリーが不安になっていたのなら、私は傍に居てそれを救ってあげたい」
「蓮子!」
メリーは感極まった様子で口元を押さえた。
だがその視線を向ける先がおかしい。何故か蓮子の顔よりも更に下の下腹部へ視線が注がれている。蓮子は何故だと疑問に思い、下を見る。そして下半身が下着しか穿いていない事に気が付いて固まった。
「何じゃ、こりゃ!」
犯人は一人しか居ない。
「メリー!」
「違うのよ!」
蓮子が怒鳴ると、メリーは赤くなって首を横に振った。
「蓮子が勝手に脱いだの! 私は何もしてないわ」
「私が自分で? 嘘つけ!」
「本当よ! 私かに私だって、スカート穿いていると苦しくない? とか言ってみたけど、最後に決断したのは蓮子だわ!」
「やっぱりお前が原因じゃねえか!」
蓮子は慌てて床に落ちていたスカートを穿き、メリーに襲われない内に、部屋を後にする。
「待って! 本当はパンツも脱がせちゃおうって思ったんだけど、ちゃんと自制したのよ!」
メリーが追ってくるが、蓮子は止まらない。
「益益怖いわ! 自制も何も最初から思い浮かべるな!」
「本当に帰っちゃうの? 酔って気持ち悪いんでしょ? うちに泊まっていけば」
玄関で靴を履きながら、蓮子は自分のシャツの首元を引っ張りながらメリーに振り返った。
「一度家に帰って着がえないと明日みんなの前に出られないでしょ? お風呂も入っていないのに」
「私は気にしないわ! むしろ大歓迎!」
嬉しそうにウインクしたメリーを尻目に、蓮子は思いっきり玄関の扉を閉めて、自分の家に向かった。
目の前には植物が絡まりあう壁があった。驚いて手で触れると、確かな草の手応えが返ってくる。またトリフネの中に居る。蓮子はそれに気が付いて、一瞬頭が真っ白になった。
確か、あの後、メリーの家から自宅に帰って、もう一眠りしようとして。
単なる夢ではなかったのか。
もしくは、これも単なる夢なのか。
答えの見つからないまま、蓮子は辺りを見回し、ここが前回の夢で最後にメリーの声を聞き、化け物に襲われそうになった場所だと気が付いた。この夢は前回の夢の続きだ。
ならば化け物はと辺りを探すが、何処に見当たらない。
一先ず安堵する。
一度深呼吸して心を落ち着けた。空気は相変わらず清涼だ。それに加え、今は何だかとても懐かしい匂いがする。
気分を落ち着けてから、もう一度幾重にも植物が連なる楽園を見渡し、どうすれば良いのか考える。
そして考えるまでもなく、メリーを探すべきだろうと結論づけた。
最初からそれが目的であり、それ以外の目的は持っていない。もうメリーが夢を見なくなり、このトリフネに居ないと分かっていても、それ以外にする事が無い。
「メリー」と駄目元で呼びかけてみた。
すると「蓮子?」という声が返ってきた。
蓮子は驚いて体を強張らせる。
メリーが夢を見なくなったと聞いていたから、もうこのトリフネの中にメリーは居ないものだと思っていた。
それなのに声が返ってきた。
どうしてか分からない。
夢を見なくなったというのは、やはりメリーの嘘だったのか。
それともまた夢を見始めてしまったのか。
とにかくこの辺りにメリーが居る。蓮子は目を凝らして辺りを見回しながら、声のする方へ歩き出す。
「メリー? 何処に居るの?」
「蓮子、ここよ。何処か分からないけど、暗い所」
蓮子はメリーを迎える為に歩きながらも、嫌な予感に気が付いていた。
メリーが化け物に襲われそうになったという話を聞いた事、明るいトリフネの中だというのにメリーは辺りを真っ暗だと言っている事、前回の夢でメリーの声がした方へ行くと化け物が現れた事、それ等を繋ぎ合わせると、鮮血に塗れた嫌な想像が働く。
「メリー、その暗い所から出られそう?」
「ごめんなさい。何か体の感覚がおかしいの」
それは蓮子の疑惑を、殆ど確信に変える言葉だった。
蓮子は思わず立ち止まり目を瞑る。
このままメリーの声を追って先へ進めば、またあの化け物が居る気がする。もしもそうであるなら、メリーはもう。
不安ばかりが募る。
怖気が足を止める。
だが怯えて立ち止まっている事は、生来の生真面目さが許さなかった。
例えそこに絶望が待っていても、メリーを探すという当初の目的に従って、蓮子は歩き出す。
虫の鳴き声の輪唱を聞きながら、植物の壁を掻き分けて、メリーの声がする方へ歩いて行く。
不安が熱を持って体の底に溜まり、一歩歩く毎に胸の奥へ熱した鉛を滴下されていく。行きたくない、行っちゃいけないと心が叫んでいる。けれど体は律儀に植物を掻き分けて、絶望へ向けて進んでいく。
「もうすぐ近くだよ、メリー」
「蓮子、ありがとう」
「良いの。私はいつだってあなたの傍に居る」
そして一段と分厚い植物の壁を押しのける。
そこにあの化け物が居た。
蓮子はそれを見て悲しげに微笑み、そして数瞬後、口から涙に似た叫びを上げた。
良く晴れ渡り、絶好の山登り日和であった。皆子山は子供でも登れる位に十分舗装された登山道があり、四時間程度で登れる比較的簡単な山だ。だがだからと言って、今まで碌に山登りを経験していない秘封倶楽部の面面が、しかも夕方から夜に掛けて登ろうとするのは、無謀と言っても差し支えない計画であった。
「やべえ、疲れた。死ぬ」
誰かが呟いたのに端を発し、しばらく黙っていた事に全員が気が付いて、皆慌てた様子で、喋り始めた。登り始めてから三時間。奇跡的に何の問題も起こっていない事だけが幸いで、既に全員の疲労は頂点に達していた。
「もう駄目。足痛い。歩けない。私達、このまま山の神の生贄になるわ」
「イケメンの山の神ならちょっと貰われたいかも」
「山の神は女神だろ。常識的に考えて」
「ついに俺も彼女持ちか。怖ぇ。山の神、超怖ぇ」
「女は殺されて、男は連れて行かれるんでしたっけ? その場合、レズってどうなるんすかね、蓮子先輩」
「私に聞くな。私はレズじゃない」
「私は、蓮子以外に靡いたりしないわ」
「メリー先輩ってぶれないっすよねぇ」
「神様って言えば、知ってます?」
下らない事を話していると、一人が言った。
「これ、噂なんですけど、トリフネの中に鳥居があるらしいですよ。トリフネにも神様が居るのかも」
「神様は知らないけど、鳥居は本当にあるらしいよ。打ち上げの安全祈願だって」
それは蓮子も知っている。実際に夢の中で見た事もある。
「神頼みかよ、情けねぇ」
「トリフネの事もっと信頼しろよな」
「結局あいつ一人で頑張ってんだぜ」
泣けるわぁと、何人かが嘆きながら空を見上げた。もう完全に夜が来て、辺りは星に包まれている。もう後一時間もしない内に、大気に触れたトリフネは発光しながら、地球に向けて落ちてくる。
「後、これも噂なんだけど、実はトリフネって研究員も乗っていたらしいよ」
「え? そんなの聞いた事無いけど。動植物だけじゃないの?」
「今回の実験は、地球のテラフォーミングの為でしょ?」
「らしいね。テラフォーミングっていうか地球の環境を復活させるって奴」
「で、環境を人間が住める様に変える実験と一緒に、人間が環境に適応出来るかの実験も一緒にやったんだって。それで人間を積んで乗せたって。表向きは宇宙ステーションで研究を行う為って言われていたんだけど、その研究て言うのが人間として環境に適応出来るかどうかっていう」
「何それ、怖! じゃあ何も知らずに乗せられて、頑張って生きろよーって宇宙に送り出された訳?」
「らしいよ。実際トリフネが打ち上がった後に行方不明になった職員が居るとか」
一瞬場が凍りついた。もしもそれが本当で、もしもその人体実験の被験者として閉鎖された宇宙ステーションに自分が乗せられていたら。そうやって想像すると、恐ろしさが湧いてくる。
真っ暗な暗闇の中で生まれた微かな恐怖は、一気に皆の間に広まり膨れ上がった。
山を登り汗だくだというのに、寒気を感じる位に。
それを笑い飛ばす為に、誰かが叫んだ。
「嘘臭ぇ!」
「てか、適応ってどうなるの? 翼とか生えちゃうの?」
「ちょっと羨ましい」
「一世代で人間がそんなに進化出来る訳無いだろ。ねえ、メリー先輩?」
「翼欲しい!」
「ほら! メリー先輩も、欲しいけどあの月の様に手が届かないって言うとるやろ!」
「どうやら宇宙ステーションの中は特別変異しやすくなっているらしくて。ほら、知らない。昔、貧困街で飢えた子供達の為に体が勝手に植物になって自分を食べさせるお母さんの話あったでしょ? あんな感じで変異しちゃうって」
「あの話、眉唾だぞ。翻訳ミスの」
「後は、孤独に絶望した女の子が無数の虫になるっていう話が」
「そんな映画あったよね。都市伝説が元だっけ?」
「後は、屈辱に耐え切れず走りだした男が虎に」
「臆病な自尊心と尊大な羞恥心!」
「その声は、我が友、李徴ではないか?」
「あんた達、嫌い」
「まあ、そういう実は人間が入っていました系の噂って良くあるよね」
誰かがそう締めて、トリフネの噂話は途切れ、同時に会話も途切れた。皆がまた黙黙と山を上る。それからもまたぽつぽつと会話があったものの、「さっきのトリフネの噂、やっぱ本当だったら怖いよね」という誰かの呟きには誰も答えなかった。
そしてトリフネが大気圏に突入する三十分前に一行は頂上に辿り着いた。
「メリー」
蓮子は涙を流しながら、その名を呼んだ。
「蓮子? どうしたの?」
メリーの声は相変わらず聞こえてくる。
だが目の前には化け物が居る。
ここが暗いと言うメリー。
化け物に襲われる寸前だったと語ったメリー。
それ等を考えれば、メリーが化け物に食われてしまったとしか思えない。
だがそうすると、何故メリーの声が聞こえてくるのか分からない。まさか丸呑みされたから化け物のお腹の中で生きているなんて訳でもあるまい。メリーの声は、良く聞けば何処か一点からではなく、まるで周囲の空気が震えているかの様に、辺りから聞こえている。明らかに生きた人間の発する声ではない。
蓮子は化け物を睨みつける。
「よくも」
メリーが化け物に食われてしまったと、蓮子は確信していた。
「よくも!」
涙を流し、メリーの仇を取る為に、近くの木の枝を折った。ひょろひょろとした枝を構え、頼りない武器として化け物に向けて突きつける。
化け物はその威嚇行動に刺激されて、唸り声を上げ、今にも飛びかからんと殺気を漲らせてきた。
蓮子は手の震えを止める為に、枝を固く握り、必死で恐怖を抑え付ける。
「よくも!」
その時また、メリーの声が聞こえた。
「蓮子? どうしたの? 何が起こっているの? 何だか蓮子の様子怖いよ? 何持っているの?」
その言葉に、蓮子は違和感を覚えた。
まるでメリーが今の蓮子の行動を見ていた様だった。
「メリー? 私が見えるの?」
「見えない。けど何となく分かるの。今蓮子は何か怖い事をしようとしているって」
怖い事?
確かに化け物と戦うのは怖い事かもしれない。
だが蓮子はそれと別のある可能性に気が付き、まさかと、より一層体を震わせた。
化け物が唸っている。
唸ってこちらに飛び掛かろうとしている。
その化け物が、まさかメリーなんじゃないだろうかという可能性が蓮子の頭の中を回り出した。
メリーは化け物に食われたのではなく、何かあって、化け物に変化してしまったのではないだろうか。
思えば最初にメリーの声を聞いた時にも、その先に化け物が居た。
思えば今も、メリーの声を辿って行くと化け物に辿り着いた。
今も、化け物に武器を向けると、メリーは怖いと言う。
まさか。
まさかメリーは化け物に変わり、獣の外見、獣の凶暴さを備えながら、その実、内にはメリーの魂を抱え、そして今、枝を突き付けられたから、怖がっているのではないか。
考えれば考えるだけ、そう思えてくる。
まさかという気持ちは最早無く、蓮子の目には目の前の化け物にメリーの姿が重なって見えた。
蓮子はどうすれば良いのか分からずに立ち尽くす。
化け物は唸り声を上げ、そして一歩前に踏み出してきた。
幾ら中にメリーが宿っていようと、獣は獣。その行動にメリーの意思が無いのは明白だ。身を守る為には戦うしかない。
蓮子は枝を握り締め、獣に対抗しようとした。
だが出来なかった。力を入れる事が出来無い。
目の前に居るのがメリーだと思うと、戦おうとする気力が抜け落ちてしまう。
獣がまた一歩近付いてくる。
涙が後から後から溢れてくる。
メリーを救いたい。
でも方法が分からない。
無力で、どうする事も出来無い。
ただ悲しくて、涙を流す事しか出来無い。
メリーを助けたいのに、それが出来無い。
自分に出来る事は結局。
蓮子はメリーの名を呟き、脱力し、枝を取り落とした。
その瞬間、獣が飛びかかってきた。
「蓮子!」
メリーの焦った様な声が聞こえた。
蓮子の腹に化け物がぶつかってきた。蓮子は弾き飛ばされ地面に転がる。何とか起き上がろうとするも、痛みで力が入らない。
辛うじて顔だけ上げて、襲いかかってこようとする化け物を見る。だが化け物はこちらに飛びかかって来ようとはしていなかった。それどころか、化け物は苦しげに呻いていた。
何が起こったのか分からない。
最後に、化け物が人間の様な声で、誰かの名前を呼んだ様な気がしたが、それも単なる勘違いかもしれない。
そのまま化け物は動かなくなった。
化け物が、死んだ。
その事実に気が付いて、蓮子の全身に怖気が走った。
化け物が死んだ。ならその内に宿るメリーは?
蓮子は慌てて化け物の死骸に縋った。だが動く気配が無い。何処かにメリーだった跡は無いかと探す。そして化け物の顔に何かが埋め込まれているのを見た。眦の横に、毛と肉に埋もれる様にして、金属製の小さな装飾品があった。まるで成長する肉に巻き込まれて埋め込まれた様にして。
その装飾品に見覚えが無い。
メリーの物だと思えない。
だが不吉な予感がする。
蓮子は躊躇したが、そうも言っていられず、意を決して、木の枝を使って、化け物の肉を抉ってみた。出て来たのは。ハート型のイアリング。メリーはそんな物をつけていなかった。だとしたらこれは誰の?
「蓮子? 大丈夫なの?」
メリーの声が再び聞こえ、蓮子は顔を上げる。
「メリー! 生きてるの?」
「蓮子こそ! 大丈夫? 化け物に襲われているんでしょ?」
「でも化け物は何か死んじゃったみたい」
「そう、良かった」
「メリーは? メリーこそ、何処に居るの? 化け物に食べられたんじゃなかったの?」
「分からない。記憶が曖昧で。飲み会の後、蓮子に励まされて、もう一回、今度こそ化け物に立ち向かおうと思って夢を見たんだけど」
その話は何処かで聞いた事がある。
蓮子はその引っ掛かりを掘り起こそうとするが、メリーが先を話すので、思考が止まる。
「やっぱり化け物を見たら怖くなって、それで蓮子に来て欲しいって頼んだの。でもそんな上手く蓮子が来てくれる訳無くて、化け物に食べられそうになった。それで気が付いたら辺りが真っ暗になってた。食べられたのとも違う、でも自分が何処に居るのか分からない」
「待って! 待って、メリー! おかしいよ!」
現実のメリーと夢のメリーの会話が食い違っている。明らかに齟齬がある。
「メリー! だって! メリーはトリフネの夢を見なくなったんでしょ?」
現実と夢の齟齬が、ひたひたと侵食してくる。
メリーがどうなってしまったのかという不吉な予感が胸を締め上げる。
「どういう事?」
「だってメリー、あの飲み会の後、私が酔いつぶれてメリーの部屋で眠った後よ、その時に言ってたじゃない! 今回はトリフネの夢を見なかったって!」
何かの間違いであってくれと蓮子は叫ぶ。
一瞬の間があって、メリーが静かに言った。
「何それ、知らない」
その無感情な声音の中には、微かに絶望の色が見え隠れしていた。
現実と夢の齟齬が広がり、明らかに見える様になった。
現実と夢が隔たっていく。
「メリー」
「蓮子、どういう事? そうね、確かにあなたは酔い潰れていた。だから私は自分の部屋に運んだ」
「それでスカートずりおろしたんでしょ?」
「それはあなたが勝手に……蓮子? 一度起きたの?」
「起きたよ。そして、メリーももう起きている」
「ねえ、さっきから言っている意味が」
現実のメリーと夢のメリーの間には、明らかな齟齬があり、まるで二つは分かたれてしまった様だ。
ならば己はどうだ。
今夢の中に居る自分は、まだ現実との繋がりを保てているのか。
あの後、メリーの家から自分の家に戻って寝入った時点で、現実も止まっているのか、あるいは現実はメリーだけでなく自分すらも置き去りにして、トリフネの最期を見届ける為に山を登っているのだろうか。
これは推論だ。
確証なんて無い。
でも正しいと感覚で分かっている。
今、このトリフネに残された自分達が居る。
そして同時に、トリフネを見に出掛けようとする自分達が居る筈だ。
「メリー、あんたは現実に置いて行かれたのよ!」
「置いて行かれたって? 意味分からない」
蓮子は涙を流して歩き出した。
メリーだけじゃない。きっと自分もそうだ。
「蓮子! お願い! 返事して! どういう事なの?」
ふらつきながら歩いて行くと、鳥居があった。鳥居は、ずっと昔に見た時よりも、遥かに小さい。宇宙ステーションの中には二つの鳥居があったのだ。鳥居の向こうには地下へ続く階段がある。例え植物に埋もれても、この階段を見つけられる様に、こちらの小さな鳥居が目印とされたのだろう。きっとこの先には機関室や研究室等の人間が使う為の施設がある。打ち捨てられたこのトリフネに対してはもう何の役割も持っていないが、今の蓮子には二つの事を教えてくれた。このトリフネは人間が暮らすのを前提に設計されている事。そしてこの階段を下ればメリーを失った場所に行ける事。
「メリー、現実の世界ではきっと今頃、私とメリーは一緒に皆子山を上って、このトリフネの最期を見ようとしている」
今、何時だろう、と蓮子は思った。星も月も見えないから正確な時間は分からないが察しはつく。もうすぐこのトリフネは大気圏に突入し、内部は焼き尽くされる。今のこの自分の、凪いだ様な絶望の心地は、明らかに死を目前にしている。
「ねえ、どういう事? じゃあ、ここに居る私達は何?」
「分からない。私達である事は間違い無いけれど」
蓮子は階段を降りきり、鍵の掛かっていない扉を開けた。
そこは電源の切れたモニター室。椅子が散らばるばかりで何も無い。植物で溢れた外の世界に比べて、人工的なモニター室の中は殺風景で寂しく見えた。蓮子は地球並みの重力に調整されたタイル張りの床を歩いて、部屋の隅へ行き、そしてそれを拾い上げた。
メリーの服だ。
昨日着ていたのと同じ服。
調べてみても、血の一滴もなければ、破れた跡も無い。化け物に食われたのでない事だけが救いと言えば救いだった。
「メリー、見える?」
「何? 真っ暗で見えない。どうしたの? 何か持ってる?」
「そう。メリーの服が落ちてたよ」
蓮子はメリーの服を抱いて、壁を背に座り込んだ。
「私の服がどうして? じゃあ、今、私は」
「裸なんじゃない?」
「私はどうなってるの?」
からかってみたが、真面目に返された。当然かと蓮子は苦笑する。既に殆ど察して諦めきった自分と違い、メリーはまだ理解が及んでいないのだから必死になっている。
蓮子は自分の鼻腔にまた懐かしい香りを感じる。メリーの匂いだ。メリーの服から漂ってくる。だけじゃない。この部屋の外でも植物の匂いに混じって、懐かしい匂いを嗅いでいた。
「これはね、全くの推論だけど」
「うん」
「きっとこの衛星トリフネに居ると体が変質する。あの化け物居たでしょ? あれもきっと元人間」
「嘘」
「憶測だけどね。そう言えば、恐怖に反応して進化を激烈に早める研究があったね。あの応用かな。そしてこれは更に憶測。きっとメリーは、植物や虫や動物ですらない、大気になったんじゃないかな?」
「大気?」
「そ、空気」
だからきっと今、自分の周りをメリーが取り巻いている。
それはせめてもの慰めになるんじゃないだろうか。
憶測だけれど。
微生物という可能性もあるし。
「信じられない」
「そうだね。私も。憶測だし。でもこれだけは確信しているよ。私達は」
もうすぐ死ぬ。
大気圏に突入して燃え尽きる。
それは恐ろしい結末だ。けれど、こうしてゆっくりと死を迎え、その上、昔馴染の親友が傍に居てくれるのならそれは、きっと宇宙開発戦争の中で死ぬ人間としては、それなりにまともな死に方に違いない。
そうでも思わないとやっていられないのかもしれないが。
やがてメリーの啜り泣きが聞こえてきた。
「じゃあ、トリフネはもうすぐ落ちるのよね?」
「そうだね。そして中は焼き尽くされる。有機物の私は勿論そうだし、気体のメリーでもきっと、死ぬだろうね」
「そう」
蓮子は何と言って慰めるべきか考える。
だが中中相応しい言葉は思い浮かばない。
「ごめんなさい、蓮子」
「何が?」
「私が助けなんて呼ばなければ、蓮子がここに来る事は無かったのに」
そうだろうか? そうかもしれない。ああ、そういう事かもしれない。
全ては一人で死にたくなかったから引き起こされたのかもしれない。トリフネが一人死ぬのを嫌ってメリーを呼んだのかもしれない。そして一人恐ろしい思いをしていたメリーに呼ばれたから、自分もここに来たのかもしれない。
かもしれないばかり。
もしかしたら、メリーはこうなる事が分かっていて、私に助けを求めなかったのかもしれない。
だとすれば、結局ここに来たのは自業自得である。むしろメリーの思いを踏みにじった事になる。
逆に申し訳無く思った。
だがそういった悔恨や恐怖以外に喜びが灯っている。
暗い喜びだなと自分でも思った。
「前から言っているでしょ?」
私はあなたの傍に居る。
それを口約束で終わらせなかった。
メリーの傍に居る事が出来た。それは確かに喜んで良い事だろう。
丁度良く、音楽が流れてきた。飲み会の席で提案された、スタンド・バイ・ミー。
地球に近付いているという事だ。最期が迫っているという事だ。蓮子は身を固くする。残された時間は、後どれ位? 一分? 二分? 数十秒? あるいは数秒? もしかしたら次の瞬間?
「ごめんなさい、蓮子」
「だから良いって。私も悪かったよ」
「本当にごめんなさい」
「泣かないでよ、メリー」
折角の最後なんだから、せめて泣いていて欲しくない。
「傍に居てあげるから」
メリーの啜り泣きが止む。何か自分の周りの空気が濃くなった気がした。
抱きつかれたのかもしれないと思って、蓮子は何だか嬉しくなる。
空気が濃すぎても人は死ぬらしい。窒息するかもなと笑った後、本当にそれを頼んでみようかと思った。焼ける中で死ぬのはきっと苦しいだろう。それよりもいっそ。
だが蓮子は頭を振る。
折角の最後なんだ。
前から約束していたんだ。
だからせめて後少し、格好良い蓮子で居たい。
メリーの傍に少しでも長く居たい。
やがて周囲が熱くなってきた。
熱が内部まで回ってきたという事は、既に大気に侵入しているという事。
終わりが見えてきた。
メリーの悲鳴が聞こえる。
「蓮子、私死にたくない」
「うん」
「蓮子、嫌! 私!」
「メリー、泣かないで」
何と慰めれば良いのか分からない。
だから言った。
「私が傍に居てあげるから」
「蓮子」
「だから泣かないで」
「ありがとう」
蓮子達は空を見上げている。スタンド・バイ・ミーが流れているが、それを衛星トリフネに届ける発信装置の音がうるさすぎて何だか締まらない気分。そんな中で、誰かが言った。
「もう少しで大気圏突入みたいですよ! 後一分!」
カウントダウンが始まる。
発信装置の音とスタンド・バイ・ミーが混ざり合ってうるさいが、それでも皆耳を澄ませてカウントダウンを聞き、衛星トリフネが大気に擦れて光るのを待った。
「そうだ。見えたら三回願い事を言わなくちゃ」
急にメリーがそんな事を言ったので、蓮子は呆れて言った。
「彗星じゃないよ」
「似た様なものよ」
「何てお願いするの?」
蓮子のパンツが欲しいとかそういう変なのじゃないだろうなと疑っていると、メリーは鼻息を荒くして言った。
「蓮子がずっと傍に居てくれます様に」
思わぬまともな願いに、蓮子が驚いてメリーを見ると、不満気な顔をしていた。
「三十秒前! 来ますよ!」
誰かが声を張り上げる。
メリーは不満げに、蓮子のお腹を突っついた。
「どうせ変な事を言うと思ってたんでしょ」
「まあ。って言っても、その願いも別に、願うまでもないけど」
言ってから、恥ずかしい事を言ったと気が付いて蓮子は思わず口元を押さえた。メリーが目を輝かせて笑顔になったので、益益恥ずかしくなる。
「それもそうね。じゃあ、別の願いを。えーっと、空が崩れ落ちてきませんように?」
「願いが歌に引きずられ過ぎなんじゃない?」
そう言いながら、蓮子も願い事を考えたが、鳴り響く歌に引きずられて、中中思い浮かばない。
「後十秒!」
「あー、もう駄目。思い浮かばない。やっぱり、ずっと傍に居てくれます様に、にしよう! 蓮子は?」
「私は」
結局浮かばない。メリーが傍に居てくれます様に? メリーが泣きません様に?
迷っている間にカウントダウンが、終わった。
そして遂に衛星トリフネが最期を迎える。それは空の彼方の一粒の煌きだった。それが伸び上がり、一筋の光になった。やがてそれは膨れ上がり、そして強烈な閃光となり、空が真っ白く染まった。
空を照らした光が消え、辺りはまた夜に戻る。
誰からも見捨てられていた衛星が発した、ほんの一瞬の、最期の煌き。
メリーの手が自分の手に触れたので、蓮子は握り返す。
秘封倶楽部の皆が、凄いものを見たと騒ぎ合っているのを視界に収めながら、メリーは蓮子に言った。
「ねえ、蓮子。私、幸せよ。ありがとう」
「どう致しまして。でもこの光景を見られたのは、私のお陰だけじゃないよ」
「違う。全部。今までの、全部。蓮子が私を説得してくれて、目の暴走を止める事が出来たから、今こうして蓮子と生きていける。もしもあのまま目の能力を使い続けていたらどうなってたか分からない」
「それも、少し違うよ。私だってメリーと一緒に生きて行きたかったんだから」
「蓮子、これからもずっと一緒に居てね」
「こちらこそ」
蓮子とメリーは顔を見合わせて微笑みあう。
これならやっぱりトリフネに願う必要は無かったな。
蓮子はちょっと後悔したが、願い事なんてそんなものかもしれないと思い直した。
トリフネは消滅した。
世間はその事だけを知らされた。
だってかわいそうだし、読んでて辛いから
「これはしかたがなかったんだ」みたいに自分に言い聞かせるためのものがほしい
ただ来る理不尽に翻弄されるだけってのは読んでてなんていうか「悔しい」
それはそれとしてあるけどこの作品はとても好きです
あんまり評価能力とかないから「良い」「悪い」で語ったりはできないですが
理不尽に二人は死んでしまうけど最後まで一緒だったし、二人はこれからも生きていて一緒にいるんでしょう
特別なことをやめた二人は「不思議」にとって不要になったから処分されたのかなー、とか勝手に想像して理由づけしたりもしちゃいますけどね
このrateはちょっと評価が低すぎる気もしますね。
まあ人それぞれなので評価にはこれ以上触れませんが他の作品も覗いてみます。