部屋中に漂う香りに、私は思わず眩暈を起こしそうになった。決して悪い意味ではない。そのあまりにも甘美な香りに、私の心がとろけそうになってしまっていたのだ。
テーブルの前に座る私の前に置かれた、一枚の皿。皿の上のそれに、私の視線は釘付けになっていた。
皿に鎮座するは、薄いキツネ色の円盤三枚。その見事な焼き色は、表面から側面にかけて美麗なグラデーションを描き、側面からは淡い山吹色が覗く。その色合いからして、卵を多めに含んでいる事が窺える。
――パンケーキ。そう、パンケーキだ。今私の目の前にあるのは、一皿のパンケーキ。それも焼きたての、とびきり美味しそうなやつだ。
今すぐ食べたい衝動を抑えつつ、食べる前に今一度、深呼吸。その香ばしく甘い香りを胸一杯に吸い込む。そしてもう一呼吸すると、私は迷いなく手を動かした。
本当はもう少し香りを楽しみたいところではあるが、そうもいかなかった。パンケーキは思っているより冷めるのが速い。冷める前にやらなければならない事があるのだ。
両手に握ったナイフとフォークで、側にある小皿に乗ったバターひとかけ取り、パンケーキの上に乗せる。焼きたての熱によってバターはたちまち溶け出して広がり、生地のキツネ色に黄金のような艶を出す。その様子をひとしきり見届けた後は、次の行程だ。
ナイフとフォークを一旦置き、シロップピッチャーを手に取る。生地の上でそれを傾けると、注ぎ口から飴色の液体がこぼれ落ちた。
飴色の輝き――メープルシロップが、一つの筋を描く。部屋の光を取り込んでキラキラと輝くそれがトロリとパンケーキの上に軟着陸すると、バターが作った膜の上を滑るようにして広がり、みるみるうちに全体を包み込んでゆく。その艶やかに輝く様を見届――あぁもう辛抱たまらんぜ!
「いただきます!」
シロップピッチャーをそっと置いて、ひとまず手を会わせる。作った人への感謝は忘れてはならない。当たり前の事だ。いやまぁ今目の前にはいないんだけども。そうして再びナイフとフォークを手にすると、早速切り分けを開始した。
ナイフを入れて驚いた。柔らかい。とても柔らかい。ナイフを入れた感覚も殆どないくらいに、まるで生地が刃を受け入れるかのように。そうして出来た切り口に、上にかけたメープルシロップが落ち込み、滝のように流れる。同時に見えた薄白い湯気が、まだ熱を持っている事を物語っている。
そうして四等分に切り分けた一片に、フォークを刺し持ち上げる。バターの染み込んだ上の層と、まだ殆ど何も染み込んでいない中の層、滴り広がったメープルシロップを吸った下の層。それらを同時に、口へと運ぶ。
まず、塩味だった。噛み締めると同時に、バターの塩味と芳醇な香りがジワリと染み出してきた。ついで、甘み。メープルシロップの優しい甘味が、バターのまろやかな塩味によってより一層引き立つ。そしてそれらの甘く香ばしい風味が、噛むたびに口の中から鼻へと抜けていく。
ふわり? もちっ? それがこの食感を表す言葉――いいや、そんなんじゃ足りない。それじゃ表現しきれない。卵の濃厚でありながら丸みのある味と、どちらかというと薄焼きでありながらも、適度に空気を含んだ柔らかな食感。まるで雲のようと言うべきか、いや、空も飛べそうな、雲の上にも行けそうなほど軽く、柔らかい口当たり。それがバターとメープルシロップのシナジーによって、むしろ私が幸せで飛んでしまいそうなほどの、素晴らしい味のハーモニーを奏でる。
ああ、食べる事って、甘いものって、幸せだ。最高だ。もう死んでもいい。いや、死んだらこの味を楽しめないからダメだ。
なんて事を考えながらその幸福を堪能していたら、気付けば残り一切れになっていた。その一切れも同様に堪能し、食べきった後の余韻に身を委ねる。
部屋に漂う残り香までしっかりと嗜んでしばらく、私はキッチンからこちらへ歩いてくる作り主――この素晴らしき幸福の浪漫飛行への切符を提供してくれた張本人、アリス・マーガトロイドに手を合わせて頭を下げた。
「ごちそうさま」
感謝する私に対し、アリスは呆れた様子でため息をつきながら、手に持った皿をテーブルに置いて席につく。
「まったく、人が支度を始めた途端半ば無理矢理上がり込んできて、茶箪笥から勝手にナイフとフォークまで取り出してきてテーブルで待機して……一体何がしたいのよ」
「何がしたいって、他でもないこれをいただくためだよ。ちなみに外の世界ではこれを飯テロと言うらしいぜ」
私の話を聞いているのか聞いていないのか、浅く頷きながら手際よくパンケーキにバターとメープルシロップをトッピングし、切り分ける。
「ふぅん、図々しいテロリズムね」
「図々しいからテロなんだろう。なんでも紫の話によると巨大なしゃもじを片手に問答無用で家に上がり込む飯テロリストが外の世界にいるそうな」
「もはやテロリストというより妖怪ね」
「ところがどっこい、そいつ人間らしいんだ」
「へぇ」
気のない返事を返しながら、アリスはパンケーキを一口食す。私の飯テロ話に興味がないらしい。それどころか、一口食べる毎に何か言いたげな視線をこちらに向ける。
「……で、食べ終わったんなら早く片付けてよ」
ああ、そういう事か。というわけで食器をまとめてキッチンまで持って行く。戻って再び席につくと、さらに怪訝そうな目つきでこちらを見てきた。
「なんでまだ居座ってるのよ。食べる事が目的だったんならもう果たしたでしょうに」
ははーん、どうやら勘違いされているようだな。
「いいや、まだ目的は完遂されちゃいないよ」
「……あんたまさかおかわりとか言うんじゃないでしょうね」
皿を片付けたんだからそれはないってわかるだろうに。
「皿片付けたじゃないか」
「じゃあ何よ」
どうも察してくれなさそうなんで、食器棚の中に置かれた茶器に視線をくべる。
「食後の一杯もいただきたいなー、って」
ちょっとへりくだり気味に言ってみる。アリスは口にした最後の一切れを飲み込みながら、怪訝そうな目つきをさらに細める。
「その目的が完遂するまで出て行く気はないってわけね」
さすがアリスさん、私という人間をよくわかっていらっしゃる。
「うん」
私の頷きに、鼻から漏らすようにため息をつく。そして一間置いて食べ終わった食器を持ち、人形に茶器を取らせると、そのままキッチンへと消えた。しばらくすると、部屋にほのかな紅茶の香りが漂ってきた。
「はいおまちどーさま」
心のこもってないその言葉と共に、人形を周囲に展開させながらアリスが現れる。一瞬このまま襲いかかられるのかと身構えそうになったが、そんな間もなく人形たちが茶器を各々抱えて、テーブルの上に次々並べていく。
「かたじけない」
「もう、次からお金取るわよ」
ほう? お金を取る、か。でも今の生活をするのにそこまでのお金はかからない筈だし、そもそもこいつはお金にそんな執着もないはずだ。それを私はよく知っているし、こいつ自身も分かりきってるはずだ。じゃあ何でそんな事を言うのか。おおかた私に飯テロをためらわせるための方便なんだろうが、そんな事じゃ私を止めることは出来ないぜ。
とはいえ、次来たとき本気で実力行使に出られて拒否られたら困るし、ここは一つ気分を損ねないよう返そう。
「いやぁ、あれはお金取っていい、というか店を開いてもいいレベルだよ本当に」
「な、何よそれ……ふざけてるの?」
ああっと、ちょっと言い方が胡散臭かったかな? やや怒っていらっしゃる。もう少し言い方を変えた方がよさそうだ。
「ふざけてないさ。少なくとも私が食べてきたパンケーキの中では間違いなくトップクラスだ。暫定一位だ」
「暫定一位って……何それ」
紅茶をすすりながら、こちらから目をそらす。少し口元が緩んだように見える。効いてる?
「というか飲まないの?」
おっと、機嫌取りに気を取られて危うく忘れかけるところだった。カップに紅茶を注ぎ、砂糖をほんの少しだけ入れる。甘いものを食べた後だから、甘さは控えめくらいがちょうどいい。カップを口元に持ってきて香りを楽しんだあと、一口。この深みと優雅さのある中に、どこか怪しげな、なんとも形容しがたい、妙な香りの混じったような風味。覚えがある。紅魔館で飲んだやつだ。
「なんとも独特な風味のある茶葉だな。どこの茶葉だ?」
「紅魔館よ。庭で栽培してるものが余ったらしくて、少し分けてもらったの」
やっぱりか。にしても、よくもまぁこの風味の得体がしれない代物を貰ったもんだ。この茶葉を栽培しているところを直接見たことがない私にとっては、どうも微妙な胡散臭さというか、怪しさを感じるのだ。いや、物凄く美味しいんだけども。
そういえば今思い出した、この紅茶濃く淹れると血に似た風味が出るとかレミリアが言ってたような気がするけど……いや、まさかな。
「よくあっさりと貰ったな。何が入ってるかわからないのに」
「嫌なら飲まなくていいのよ」
あーっと、また怒らせちゃった? まずいまずい。紅茶はうまいけど。
「や、美味しいんだけどさ。レミリアが『濃く淹れると血に似た風味が出る』って言っててそれがちょっと引っかかってね? そうでなくても紅茶っぽくない風味が、それも複数混じってるような感じがしてさ。まさかな、と思って」
「まさかな、って何がよ」
「人の生き血を啜った茶葉なんじゃないかって」
私のその言葉に、アリスは「ぐふっ」と言ってカップを置き、むせ込む。心配になって背中をさすろうと立ち上がったが、即座に左手を突き出されて拒否されてしまった。
「人が飲み物を口にしてる時にバカな事言わないでよ! 笑って気管に入りかけたわ!」
……面白い事を言ったつもりはないんだけども。
「紅茶で溺死するかと思ったわ……」
「死にはしないさ、もしそうなったら私が人口呼吸するから」
口元まで持ってきたティーカップをピタリと止め、頬をピクピクとさせながらこちらを睨みつける。
「……わざとやってるでしょ?」
本人には非常に申し訳ないけど、こちらの言動に対し一々反応するその様は正直ちょっと面白いと思ってしまった。別に変な事を言ってるつもりはないんだけども、アリスは私がふざけていると思ってるらしい。となると、そろそろ淹れたてアツアツの紅茶をスプーンでぶっかけられてもおかしくはないので、余計な事はなるべく言わないでおこう。
「で、この茶葉についてだけど、同じ場所で別の植物も栽培していたみたいだから、それらの風味が移ってこの独特の風味になったんじゃないかしらね」
ほう、そうだったのか。私ば実際栽培している所を見ていないからいまいち信用しきれなかったが、アリスがそういうんならまぁ間違いはないんだろう。
「ほう……ならば何でレミリアはあんな事を言ったんだろうかね」
何となしに出た疑問に、アリスは紅茶をすすりながら「知らないわよ」と言わんばかりに首を傾げる。
「何らかの理由で鉄分を多く含んでるとかじゃないの……あ」
ティーカップを置くと同時に、何かに気づいたような表情でこちらを見る。
「ん?」
「なんとなくわかったわ。盗まれないように、そういう“曰く”をつけてるんじゃないかしら。そうすれば普通は気味悪がって盗む気が失せるでしょうし」
ほう。でも、誰がわざわざあんな人里離れた怪しい洋館から茶葉を盗もうっていうのか。吸血鬼はそういう変な心配をするような神経質な生き物なんだろうか。
「ほーん。でもわざわざあんな人里離れた場所に行って盗みを働く奴なんざそうそういないと思うがねー」
「…………」
呆れの混じったようなアリスの剣呑な視線が、こちらに向けられる。言わんとしてる事は何となく分かってはいるんだけど、あえてとぼけるとこういういかにもツッコミを入れたそうな露骨な反応してくれるから、どうしても悪戯心がくすぐられてしまって仕方がない。
「何だよう、その『どの口が言うか』といいたげな目は。私は盗んだりはしないぜ?」
「しょっちゅう本盗んでる人の台詞じゃないわ」
「でも茶葉を盗みに行ったりはしないってば。きちんと『貰ってくぜ』と言った上でもらうからな」
「それ相手の返答無視して持ってってる図しか想像できないんだけど」
……さて、これ以上居座ってお茶の時間を邪魔してしまうと本気で怒られそうだし、パンケーキも紅茶も一通り堪能し終えた訳だし、そろそろお暇しよう。
「ま、コソコソ盗んだりはしないって事で。と言うわけでご馳走様でした」
ティーカップを片付けようとキッチンへ向かおうとする私を制止するように身振りする。
「いいわよ片付けておくから。用が済んだならさっさと帰る。ほら帰った帰った。私のお茶の時間をこれ以上邪魔しないで頂戴」
まぁ、素直に従っておこう。
「またいただきに来るよ」
「お金取るわよって言ったでしょ」
「そこまで言うなら払うよ。あんな素晴らしいパンケーキをタダで食べられるなんて贅沢にも程があるし、あれなら私が払える限りならばいくらでも払える」
アリスの返事がない。もしかしたら怒っているのかもしれない。余計な事は言わず、振り返らずドアを開ける。
「お邪魔しましたー」
ドアを閉める寸前何か呟くような声が聞こえたような気がしたが、たぶん気のせいか、どうせ悪態だろう。さてと、魔法の実験材料でも探しに行こうか。
「……ん?」
箒に腰掛け、上空へと飛び上がると、私の嗅覚が何かに反応した。目を閉じて、それを嗅ぐ。少し遠いような気もするがこれは……味噌のような匂いだ。たぶん味噌汁だろう。
夕飯の支度をするには少々早いような気がしないでもないが、まぁ早すぎるということもないだろう。
「……よし」
そうなれば、やることはシンプルだ。迷わず箒の先を匂いのする方向――次の飯テロの標的、博麗神社のへとピタリと定めると、ミサイルのように飛んで行った。
テーブルの前に座る私の前に置かれた、一枚の皿。皿の上のそれに、私の視線は釘付けになっていた。
皿に鎮座するは、薄いキツネ色の円盤三枚。その見事な焼き色は、表面から側面にかけて美麗なグラデーションを描き、側面からは淡い山吹色が覗く。その色合いからして、卵を多めに含んでいる事が窺える。
――パンケーキ。そう、パンケーキだ。今私の目の前にあるのは、一皿のパンケーキ。それも焼きたての、とびきり美味しそうなやつだ。
今すぐ食べたい衝動を抑えつつ、食べる前に今一度、深呼吸。その香ばしく甘い香りを胸一杯に吸い込む。そしてもう一呼吸すると、私は迷いなく手を動かした。
本当はもう少し香りを楽しみたいところではあるが、そうもいかなかった。パンケーキは思っているより冷めるのが速い。冷める前にやらなければならない事があるのだ。
両手に握ったナイフとフォークで、側にある小皿に乗ったバターひとかけ取り、パンケーキの上に乗せる。焼きたての熱によってバターはたちまち溶け出して広がり、生地のキツネ色に黄金のような艶を出す。その様子をひとしきり見届けた後は、次の行程だ。
ナイフとフォークを一旦置き、シロップピッチャーを手に取る。生地の上でそれを傾けると、注ぎ口から飴色の液体がこぼれ落ちた。
飴色の輝き――メープルシロップが、一つの筋を描く。部屋の光を取り込んでキラキラと輝くそれがトロリとパンケーキの上に軟着陸すると、バターが作った膜の上を滑るようにして広がり、みるみるうちに全体を包み込んでゆく。その艶やかに輝く様を見届――あぁもう辛抱たまらんぜ!
「いただきます!」
シロップピッチャーをそっと置いて、ひとまず手を会わせる。作った人への感謝は忘れてはならない。当たり前の事だ。いやまぁ今目の前にはいないんだけども。そうして再びナイフとフォークを手にすると、早速切り分けを開始した。
ナイフを入れて驚いた。柔らかい。とても柔らかい。ナイフを入れた感覚も殆どないくらいに、まるで生地が刃を受け入れるかのように。そうして出来た切り口に、上にかけたメープルシロップが落ち込み、滝のように流れる。同時に見えた薄白い湯気が、まだ熱を持っている事を物語っている。
そうして四等分に切り分けた一片に、フォークを刺し持ち上げる。バターの染み込んだ上の層と、まだ殆ど何も染み込んでいない中の層、滴り広がったメープルシロップを吸った下の層。それらを同時に、口へと運ぶ。
まず、塩味だった。噛み締めると同時に、バターの塩味と芳醇な香りがジワリと染み出してきた。ついで、甘み。メープルシロップの優しい甘味が、バターのまろやかな塩味によってより一層引き立つ。そしてそれらの甘く香ばしい風味が、噛むたびに口の中から鼻へと抜けていく。
ふわり? もちっ? それがこの食感を表す言葉――いいや、そんなんじゃ足りない。それじゃ表現しきれない。卵の濃厚でありながら丸みのある味と、どちらかというと薄焼きでありながらも、適度に空気を含んだ柔らかな食感。まるで雲のようと言うべきか、いや、空も飛べそうな、雲の上にも行けそうなほど軽く、柔らかい口当たり。それがバターとメープルシロップのシナジーによって、むしろ私が幸せで飛んでしまいそうなほどの、素晴らしい味のハーモニーを奏でる。
ああ、食べる事って、甘いものって、幸せだ。最高だ。もう死んでもいい。いや、死んだらこの味を楽しめないからダメだ。
なんて事を考えながらその幸福を堪能していたら、気付けば残り一切れになっていた。その一切れも同様に堪能し、食べきった後の余韻に身を委ねる。
部屋に漂う残り香までしっかりと嗜んでしばらく、私はキッチンからこちらへ歩いてくる作り主――この素晴らしき幸福の浪漫飛行への切符を提供してくれた張本人、アリス・マーガトロイドに手を合わせて頭を下げた。
「ごちそうさま」
感謝する私に対し、アリスは呆れた様子でため息をつきながら、手に持った皿をテーブルに置いて席につく。
「まったく、人が支度を始めた途端半ば無理矢理上がり込んできて、茶箪笥から勝手にナイフとフォークまで取り出してきてテーブルで待機して……一体何がしたいのよ」
「何がしたいって、他でもないこれをいただくためだよ。ちなみに外の世界ではこれを飯テロと言うらしいぜ」
私の話を聞いているのか聞いていないのか、浅く頷きながら手際よくパンケーキにバターとメープルシロップをトッピングし、切り分ける。
「ふぅん、図々しいテロリズムね」
「図々しいからテロなんだろう。なんでも紫の話によると巨大なしゃもじを片手に問答無用で家に上がり込む飯テロリストが外の世界にいるそうな」
「もはやテロリストというより妖怪ね」
「ところがどっこい、そいつ人間らしいんだ」
「へぇ」
気のない返事を返しながら、アリスはパンケーキを一口食す。私の飯テロ話に興味がないらしい。それどころか、一口食べる毎に何か言いたげな視線をこちらに向ける。
「……で、食べ終わったんなら早く片付けてよ」
ああ、そういう事か。というわけで食器をまとめてキッチンまで持って行く。戻って再び席につくと、さらに怪訝そうな目つきでこちらを見てきた。
「なんでまだ居座ってるのよ。食べる事が目的だったんならもう果たしたでしょうに」
ははーん、どうやら勘違いされているようだな。
「いいや、まだ目的は完遂されちゃいないよ」
「……あんたまさかおかわりとか言うんじゃないでしょうね」
皿を片付けたんだからそれはないってわかるだろうに。
「皿片付けたじゃないか」
「じゃあ何よ」
どうも察してくれなさそうなんで、食器棚の中に置かれた茶器に視線をくべる。
「食後の一杯もいただきたいなー、って」
ちょっとへりくだり気味に言ってみる。アリスは口にした最後の一切れを飲み込みながら、怪訝そうな目つきをさらに細める。
「その目的が完遂するまで出て行く気はないってわけね」
さすがアリスさん、私という人間をよくわかっていらっしゃる。
「うん」
私の頷きに、鼻から漏らすようにため息をつく。そして一間置いて食べ終わった食器を持ち、人形に茶器を取らせると、そのままキッチンへと消えた。しばらくすると、部屋にほのかな紅茶の香りが漂ってきた。
「はいおまちどーさま」
心のこもってないその言葉と共に、人形を周囲に展開させながらアリスが現れる。一瞬このまま襲いかかられるのかと身構えそうになったが、そんな間もなく人形たちが茶器を各々抱えて、テーブルの上に次々並べていく。
「かたじけない」
「もう、次からお金取るわよ」
ほう? お金を取る、か。でも今の生活をするのにそこまでのお金はかからない筈だし、そもそもこいつはお金にそんな執着もないはずだ。それを私はよく知っているし、こいつ自身も分かりきってるはずだ。じゃあ何でそんな事を言うのか。おおかた私に飯テロをためらわせるための方便なんだろうが、そんな事じゃ私を止めることは出来ないぜ。
とはいえ、次来たとき本気で実力行使に出られて拒否られたら困るし、ここは一つ気分を損ねないよう返そう。
「いやぁ、あれはお金取っていい、というか店を開いてもいいレベルだよ本当に」
「な、何よそれ……ふざけてるの?」
ああっと、ちょっと言い方が胡散臭かったかな? やや怒っていらっしゃる。もう少し言い方を変えた方がよさそうだ。
「ふざけてないさ。少なくとも私が食べてきたパンケーキの中では間違いなくトップクラスだ。暫定一位だ」
「暫定一位って……何それ」
紅茶をすすりながら、こちらから目をそらす。少し口元が緩んだように見える。効いてる?
「というか飲まないの?」
おっと、機嫌取りに気を取られて危うく忘れかけるところだった。カップに紅茶を注ぎ、砂糖をほんの少しだけ入れる。甘いものを食べた後だから、甘さは控えめくらいがちょうどいい。カップを口元に持ってきて香りを楽しんだあと、一口。この深みと優雅さのある中に、どこか怪しげな、なんとも形容しがたい、妙な香りの混じったような風味。覚えがある。紅魔館で飲んだやつだ。
「なんとも独特な風味のある茶葉だな。どこの茶葉だ?」
「紅魔館よ。庭で栽培してるものが余ったらしくて、少し分けてもらったの」
やっぱりか。にしても、よくもまぁこの風味の得体がしれない代物を貰ったもんだ。この茶葉を栽培しているところを直接見たことがない私にとっては、どうも微妙な胡散臭さというか、怪しさを感じるのだ。いや、物凄く美味しいんだけども。
そういえば今思い出した、この紅茶濃く淹れると血に似た風味が出るとかレミリアが言ってたような気がするけど……いや、まさかな。
「よくあっさりと貰ったな。何が入ってるかわからないのに」
「嫌なら飲まなくていいのよ」
あーっと、また怒らせちゃった? まずいまずい。紅茶はうまいけど。
「や、美味しいんだけどさ。レミリアが『濃く淹れると血に似た風味が出る』って言っててそれがちょっと引っかかってね? そうでなくても紅茶っぽくない風味が、それも複数混じってるような感じがしてさ。まさかな、と思って」
「まさかな、って何がよ」
「人の生き血を啜った茶葉なんじゃないかって」
私のその言葉に、アリスは「ぐふっ」と言ってカップを置き、むせ込む。心配になって背中をさすろうと立ち上がったが、即座に左手を突き出されて拒否されてしまった。
「人が飲み物を口にしてる時にバカな事言わないでよ! 笑って気管に入りかけたわ!」
……面白い事を言ったつもりはないんだけども。
「紅茶で溺死するかと思ったわ……」
「死にはしないさ、もしそうなったら私が人口呼吸するから」
口元まで持ってきたティーカップをピタリと止め、頬をピクピクとさせながらこちらを睨みつける。
「……わざとやってるでしょ?」
本人には非常に申し訳ないけど、こちらの言動に対し一々反応するその様は正直ちょっと面白いと思ってしまった。別に変な事を言ってるつもりはないんだけども、アリスは私がふざけていると思ってるらしい。となると、そろそろ淹れたてアツアツの紅茶をスプーンでぶっかけられてもおかしくはないので、余計な事はなるべく言わないでおこう。
「で、この茶葉についてだけど、同じ場所で別の植物も栽培していたみたいだから、それらの風味が移ってこの独特の風味になったんじゃないかしらね」
ほう、そうだったのか。私ば実際栽培している所を見ていないからいまいち信用しきれなかったが、アリスがそういうんならまぁ間違いはないんだろう。
「ほう……ならば何でレミリアはあんな事を言ったんだろうかね」
何となしに出た疑問に、アリスは紅茶をすすりながら「知らないわよ」と言わんばかりに首を傾げる。
「何らかの理由で鉄分を多く含んでるとかじゃないの……あ」
ティーカップを置くと同時に、何かに気づいたような表情でこちらを見る。
「ん?」
「なんとなくわかったわ。盗まれないように、そういう“曰く”をつけてるんじゃないかしら。そうすれば普通は気味悪がって盗む気が失せるでしょうし」
ほう。でも、誰がわざわざあんな人里離れた怪しい洋館から茶葉を盗もうっていうのか。吸血鬼はそういう変な心配をするような神経質な生き物なんだろうか。
「ほーん。でもわざわざあんな人里離れた場所に行って盗みを働く奴なんざそうそういないと思うがねー」
「…………」
呆れの混じったようなアリスの剣呑な視線が、こちらに向けられる。言わんとしてる事は何となく分かってはいるんだけど、あえてとぼけるとこういういかにもツッコミを入れたそうな露骨な反応してくれるから、どうしても悪戯心がくすぐられてしまって仕方がない。
「何だよう、その『どの口が言うか』といいたげな目は。私は盗んだりはしないぜ?」
「しょっちゅう本盗んでる人の台詞じゃないわ」
「でも茶葉を盗みに行ったりはしないってば。きちんと『貰ってくぜ』と言った上でもらうからな」
「それ相手の返答無視して持ってってる図しか想像できないんだけど」
……さて、これ以上居座ってお茶の時間を邪魔してしまうと本気で怒られそうだし、パンケーキも紅茶も一通り堪能し終えた訳だし、そろそろお暇しよう。
「ま、コソコソ盗んだりはしないって事で。と言うわけでご馳走様でした」
ティーカップを片付けようとキッチンへ向かおうとする私を制止するように身振りする。
「いいわよ片付けておくから。用が済んだならさっさと帰る。ほら帰った帰った。私のお茶の時間をこれ以上邪魔しないで頂戴」
まぁ、素直に従っておこう。
「またいただきに来るよ」
「お金取るわよって言ったでしょ」
「そこまで言うなら払うよ。あんな素晴らしいパンケーキをタダで食べられるなんて贅沢にも程があるし、あれなら私が払える限りならばいくらでも払える」
アリスの返事がない。もしかしたら怒っているのかもしれない。余計な事は言わず、振り返らずドアを開ける。
「お邪魔しましたー」
ドアを閉める寸前何か呟くような声が聞こえたような気がしたが、たぶん気のせいか、どうせ悪態だろう。さてと、魔法の実験材料でも探しに行こうか。
「……ん?」
箒に腰掛け、上空へと飛び上がると、私の嗅覚が何かに反応した。目を閉じて、それを嗅ぐ。少し遠いような気もするがこれは……味噌のような匂いだ。たぶん味噌汁だろう。
夕飯の支度をするには少々早いような気がしないでもないが、まぁ早すぎるということもないだろう。
「……よし」
そうなれば、やることはシンプルだ。迷わず箒の先を匂いのする方向――次の飯テロの標的、博麗神社のへとピタリと定めると、ミサイルのように飛んで行った。
説明もなきゃ読者にとってよくわかんないパンケーキだからね。
話の中から徐々に期待を膨らませていくのがメシ描写では大切だと思うのよ。
私なら魔理沙ではなく、上海人形視点
または魔理沙の心情を描写しない三人称で、食事風景や表情、仕草のみを描写します。
上海は人形ですから、料理の見た目しか分からず
一体どんな味がするのか、と未知の部分を残し
読者へ委ね想像させる余地を与えると、面白いと感じました。
三人称も上記と同様の理由です。
私が物語を書く時に気を使うのは、誰から見た視点で
誰の何を描くのが、一番読者にコンセプトが伝わりやすいかを考えます。
今回なら、上海から見たアリスの食事風景を描き
人形である為、ご飯が食べられないもどかしさを主軸に
飯テロを表現します。
ちょっとハワイに行ってきます