神様の贈り物。
説話を見れば突然不思議な存在が現れて幸運を授けてくれる話は枚挙に暇がない。それが神様かどうかは知らないが、人智を超えた力によって救われる事は世界中で認められている。
現実でもそうだ。奇跡というものは往往にして起こるもので、例えば不治の病に冒され明日をも知れぬ子供が理由も無く回復したり、あるいは数百人を炎で嘗め尽くそうする大火災が奇跡的に降り始めた雨で鎮火したり、まるでハッピーエンドを迎える為に何の理由も無く神様が動いたとしか不思議な出来事は現実の世界でも起こっている。
そこに理由や原因は存在しない。認識出来ないだけで、世界の何処かで蝶が羽ばたいたという事を主張する者も居るが、それならその言葉を証明してみると良い。
奇跡に理由や原因、何か確としたものは存在しない。
何故あなたの足が速いのか、何故あなたの顔は綺麗なのか、何故あなたは勉強が出来るのか、何故あなたの人柄は優れているのか。何故あの時上手くいったのか。何故あの時助かったのか。何故そこにそれがあったのか。何故そこでそれが起こったのか。何故私は生まれたのか。何故私は十字架と杭で死ななければならないのか。
神様の贈り物に理由は無い。
一切の理由が無い。
それを不気味と思わないのか。
それを恐ろしいと思わないのか。
何故それを恐ろしく思わないのか。
私にはそれが理解出来無い。
「フラン?」
私がノックをすると中から声が聞こえた。開けると、真っ暗な部屋で、フランがベッドの上にうずくまっていた。
「フラン、そろそろ機嫌を直して。出ていらっしゃい」
「うるさい!」
近寄ろうとしていた私の足が止まる。
顔を上げたフランの瞳は涙に濡れ、目の周りが赤く腫れ上がっている。
「のこのこ来るな! お姉様の所為だ!」
ぬいぐるみが飛んできて、私の顔に当たった。
床に落ちたぬいぐるみを拾って、傍のテーブルに置き、フランのベッドに近づく。
「フラン、謝っているじゃない。機嫌を直して」
「全然心が篭ってない! どうせ下らないと思ってるんでしょ! お姉様、最初に言ってたもんね! プリン位でそんな怒るなって!」
そう、私がフランのプリンを食べてしまった所為で、フランはずっと昨日からむずかっている。好い加減機嫌を直しても良いと思うのだが、プリン位で大袈裟な事に、全く怒りの熱は引く様子が無い。
「本当に申し訳無いと思っているわよ。その為にね」
その時丁度ノックの音が聞こえたので、私は入ってくる様促した。
咲夜が盆にプリンを載せて持ってきたので、私はそれを両手で受け取り、フランの下へ歩む。
「ほら、ちゃんと買い直してきたのよ。それも私が食べたのは一つだけなのに、二つも。さ、これで良いでしょう? 部屋から出ていらっしゃい。食堂に来てそこで食べましょう」
「馬鹿! お姉様の馬鹿!」
「どうしたの? ほら二つも」
「そんなの要らない!」
思わぬ言葉に驚いた。失ったプリンは一つだから二つ用意すれば、失った時よりも得の筈だ。
「フラン、あまり困らせないで。こうして二つも買ってきたんだから」
「出てって! 出てってよ!」
フランが私に向かって手を握りしめた。
その瞬間、爆発が起こり、私は部屋の壁を突き破って外に吹き飛ばされる。
瓦礫から這い出して、フランの部屋まで戻ると、壁が直り、扉が閉め切られていた。
「フラン」
「来ないで!」
私は溜息を吐いて、その場を離れた。
悩みながら廊下を歩く。
「駄目でしたね」
「そうね。二つでも駄目。なら三つ? いえ、もっとかしら。咲夜とりあえず十ダース程買ってきて」
「数の問題では無い気がしますが」
訳が分からない。なら何だというのだ。
「つまり、フラン様はお嬢様に謝って欲しい、というか」
「謝っているじゃない」
「いえ、心から」
「謝っているわよ」
私はフランが機嫌を直して部屋から出て来て欲しいと心の底から願っている。永きに渡る幽閉に苦しんだフランを、助けだした私自身が再び同じ状況に陥れるなんて笑い事にもならない。
「そう言うなら、何か別の案はあるの?」
「いえ、そうれは無いのですが」
「とりあえず咲夜はプリンを十ダース買ってきて。私は別の案を考えておくから」
「畏まりました」
咲夜と分かれて、私は考える。
何をしたらフランの機嫌を取れるのか。
アリスに人形でも作らせてみようか。
「あの、レミリアお嬢様」
振り返ると、そこに人間のメイドが立っていた。
いつもの様に自信無さげな態度で躊躇いがちな話し方をする。
「クッキーを作ってみたら如何でしょう?」
「成程ねぇ、プリンが駄目なら確かに他の物で。確か良いのがあったわよね。命蓮寺と聖徳太子への手土産に買った奴が余ってた。あれは評判だったわ」
「いえ、既成品ではなく、お嬢様が手作りで作ってみたら如何でしょう?」
「私が手で? 何で? 私料理した事無いわよ」
「一般にですが、手作りの方が心がこもっていると言われているそうです。フランお嬢様に心がこもっていないと言われたのなら、手作り、というのは如何かなと」
「ふむ、一応正しそうに聞こえるわ」
手作りの方が心がこもっているというのは理解出来無いが、一般にそういう認識がある事は知っている。その認識に従うのも良いだろう。
「ありがとうございます。材料と作り方のメモはキッチンに用意しておきましたので」
「気が利くわね。じゃあ、早速作ってくるわ」
私は解決の道が見つかったと勇んで、キッチンへ向かった。悩んでいたのが馬鹿馬鹿しい位に簡単な解決方法だ。
クッキーなんて材料を混ぜて冷やして焼くだけである。それでフランの御機嫌が取れるなら御の字だ。ぱぱっと作って私は皿に載せた。焦がしてしまったが、焦げた位で味は変わらないだろう。
フランの部屋に戻ってノックする。
「フラン」
「あ、レミリア様?」
中から美鈴の声が聞こえた。
どうやらフランを慰めているらしい。
「お姉様?」
「そうみたいです」
「来るなって言って! 入らせないで!」
「いや、そういう訳にも」
足音が聞こえて、扉が開いた。
美鈴が顔を覗かせる。
「美鈴、さっさと中に入れなさい」
「いえ、ですがフラン様は大分怒っているみたいで」
「分かっているわよ。だからこうしてお詫びの品を持ってきたんじゃない」
そう言うと、部屋の中からフランの怒鳴り声が聞こえた。
「要らない! どうせプリン百個とかそんなんでしょ!」
「違うわ。今度はクッキーを持ってきたの」
「クッキー? そんなの」
「私が手ずから作ったのよ」
フランと美鈴が同時に驚きの声を上げた。
失礼な。一応これでも私は女だぞ。今まで料理なんてした事無かったけど。
「あ、もしかしてそれですか? うわー、チョコレートクッキーだ! 凄いですね」
美鈴が私のクッキーを指さしてきた。が、チョコレートクッキーではない。
「え? でもそれ黒いですけど……まさか!」
いきなり美鈴が鼻をつまんだ。
「まさか、さっきから嫌な臭いがすると思ってたら! それ焦げてますよね! 焦げてるっていうか完全に炭化してる!」
「ええ、焦げているけど、食べられない事は無いでしょう? お腹に入れれば一緒よ!」
「いえ、それはお腹に入れても違うレベルですよ!」
「材料が同じなら一緒よ。さ、早く中に入れて頂戴。冷めちゃうわ」
中からフランの金切り声が聞こえた。
「それ、クッキーの臭い? 嘘! 腐った臭いする!」
「ベーキングパウダーの臭いじゃない?」
「絶対違う! それ毒でしょ! 美鈴、それ中に入れないで!」
「レミリア様、申し訳ありませんが、その異物を中に入れる訳にはいきません」
「異物って失礼ね。あなた主人の命令に逆らう気?」
「入れる訳にはいきません」
中からフランの喚き声が聞こえてくる。
「美鈴! その異臭をどっかにやって」
美鈴も頑として譲ろうとしない。
「レミリア様、この命に替えても、その異臭を中に入れる訳にはいきません」
「美鈴」
「お嬢様、失礼を承知で聞きますが、それを本当にフラン様に食べさせようと作ったのですか?」
そう言って、美鈴は扉を閉めてしまった。
こうなっては仕方無い。
失礼な二人には二度とクッキーを食べさせてやらんと憤慨しつつ、私はその場を離れた。
困った。
クッキーも駄目。
プリン百個でも駄目。
こうなるともうどうしようも。
「お嬢様?」
振り返ると、さっきのメイドだった。
「ああ、残念だけど駄目だったわ」
「それはそうでしょう。お嬢様がお作りになったのは、いやマジで本当にそれ他人に食べさせようとしたんですか? って感じの代物ですので」
「失礼な奴ね」
本当に。
「良薬口に苦しと言います。良い諫言も同じです」
「で? まさか、主人の作った物にけちつけるだけで、終わりじゃないのよね」
「はい、今度はケーキを作りましょう。流石に同じクッキーでは今度どんなに美味しくつくっても駄目でしょうし」
言っている事は正しそうだが、クッキーが駄目だったのに、ケーキもクソも無いだろう。
「今度は咲夜様に作り方を教えて頂くのです。先程はメモだけでしたから、料理初心者のお嬢様にとっては、色色あれがあれでしたけど、隣に咲夜様が居るのでしたら、幾らあれのあれがあれであれでも、美味しく、というより他人に食べさせられる、字義通りの食べ物が出来るのではないかと思います。承知とは思いますが、先程お嬢様が作ったのは食べ物じゃありません」
「お前、本当に失礼だな」
「良薬口に苦しと言います。耳に痛いという事はそれだけ効き目があるという事で」
「いや、今のは絶対良薬じゃない」
まあ失礼な言葉は入っていたが、意見だけはまっとうだ。最初から料理の上手な咲夜に作り方を監督してもらえば良かったのだ。だが困った事に咲夜は外へ買いに行かせてしまった。
「咲夜様でしたら先程呼び戻しまして、キッチンに。材料も準備してあります」
「相変わらず気が利くわね。じゃあ、早速作ってくるわ」
言ってみると、本当に咲夜が待っていて、早速ケーキを作った。
ケーキというとスポンジを作るのが面倒臭そうなイメージだったが、幸い予め作っておいたスポンジがあったので、後は生クリームに砂糖を混ぜて塗りたくり、苺を入れるだけだった。が、意外とこつというのがあるらしく、砂糖を袋を丸丸そのままぶちこんだりしてはいけないらしいし、オーブンに最大火力で入れて後は適当に放置ではいけないそうだ。
何にせよ、咲夜監修の下、美味しそうなケーキが出来上がった。美味しそうなというのは、つまり人間の血が入っているという事である。甘みだ何だの血の味を引き立たせる為のものでしかない。まあ、見た目も良い方だろう。咲夜が良く作るケーキと同じ様な見た目をしている。つまり真っ白で、丸く、上に苺が載っているという事だ。
ケーキを持って、今度こそという決意の下、フランの部屋に行った。
ノックをする。今度のノックは少しだけ緊張した。もしかしたらまた食べてくれないかもしれない。そしてもし次も、その次も、この先ずっとフランが出て来てくれなかったら、そんな根拠の無い予感を覚えて、少しだけ身震いした。
中から声が聞こえる。
だが返事ではなく、単に声が漏れただけの、意味の無い声だった。
私はもう一度ノックして、フランに呼びかけた。
「フラン! ケーキを作ってきたの!」
答えが返ってこない。
おかしいと思って、もう一度ノックして呼びかける。
「フラン! 今度は大丈夫! ちゃんと美味しいの作ってきたから」
やがてフランの答えが返ってきた。
「要らない」
「フラン」
「要らない」
その瞬間、私の心臓が絶望に浸った様な寒気を覚えた。
フランの声には何の感情も乗っていなかった。
底冷えする様な声だ。
私に何の期待も抱いていない声だ。
私に対する信頼がまるで感じられない声だ。
私は慌てて扉をノックする。
「フラン! 開けて頂戴!」
何とか出て来て欲しいと願って、扉を叩く。
「フラン!」
だが返事すら返ってこない。
「フラン! せめて返事を」
「要らない」
ぞっとした。
その言葉に二つの意味が篭められている事に気が付いた。
ケーキが要らない。
私が要らない。
それに気が付き、私は言葉を失う。
妹が、私の事を拒絶している事がはっきりと分かる。
どうすれば良いのか分からず、咲夜に視線を向けたが、咲夜は苦悩する様に目を逸らした。それが最後通牒の様に思えて、私は途方に暮れ、力が抜けて崩れ落ちそうになった。
それを支えてくれる者が居た。
「お嬢様」
さっきのメイドだ。
「大丈夫ですか?」
大丈夫じゃない。
もう何の希望も。
「お嬢様、あなたは間違っています」
私が間違っている?
「そうです。あなたは最初から大きな間違いをしている」
間違っていても何でも良い。
それを直せば、フランが出て来てくれるなら何でも良い。
私はどうすれば良い。
どうしたらフランは機嫌を直して部屋から出て来てくれる。
「それが間違いなんです、お嬢様。フラン様のご機嫌を取るじゃ駄目なんです。フラン様と仲直りしなくちゃいけないんです! あなたはそれを間違えていた」
「意味が分からない。どう違うのよ!」
「お嬢様、分かる筈です。ご機嫌を取るのではなく、仲直りするのならどうすれば良いのか」
ふと、クッキーを作った時、皆に言われた言葉を思い出した。本当にそれを他人に食べさせるつもりなのか。
私は一方的にフランに私の考えを押し付けようとしていただけなのかもしれない。フランの心を考えずに、私がこう思っているのだからこうしてくれるだろうと考えていた。
私はもう一度フランの部屋の扉と向き合った。
どうすれば、フランと仲直り出来るのか。
それはきっと、フランの心を理解してあげる必要がある。そして一方的に押し付けるのではなく、フランが心から望んでいる事をしてあげる必要がある。
ならフランが心から望んでいる事は何か。
フランは今何を思い、私に何を望んでいるのか。
私は何をしたら、仲直り出来るのか。
分からなかった。
それを幾ら考えても、フランと私が笑っている光景は思い浮かぶのに、そこに至るまでの筋道だって考えられない。
私はそれでも意を決して、部屋をノックした。先に進もうとすれば、フランの心が分かる気がした。
「フラン」
だがやっぱり分からない。
「フラン、お願い。開けて頂戴」
散散悩んだ挙句、結局同じ事を言う事しか出来なかった。
「プリンを食べてしまってごめんなさい。あなたには心が篭っていないと言われるかもしれないけど、ごめんなさい。本当に早く出て来て欲しい。お願いだから」
同じ事の繰り返し。全てフランに否定された言葉の繰り返しだ。
それで出て来てくれる訳が無い。
分かっている。
それ位は分かる。
だがそれしか言葉が出て来ないのだから仕方が無い。
フランがどうして欲しいのか分からない。
どうしたらフランの期待に応えられるのか分からない。
フランの心が分からない。
気が付くと涙が溢れてきた。
己の不甲斐なさの為か。妹の心すら分からない事が恐ろしいからか。
自分の情けなさに力が抜けて、私は扉にすがりつく。
その時、扉の向こうから声が聞こえた。
「お姉様」
「フラン!」
「心から謝ってる?」
「謝っているわ! 本当よ! でも」
でも結局それでは意味が無いのだ。
自分の謝罪を一方的に押し付けているのじゃ駄目だ。
そこまでは分かっているのに、そこまでしか分からない。
駄目だと分かっていても、私はただ涙を流しながら自分の心を吐き出す事しか出来無い。
「ごめんなさい、フラン」
それ以上はもう言葉にならない。
謝る事さえ出来なくなった。
茫洋とした静寂が私を苛む様に辺りを包む。
その時、突然扉が開いて、私の頭にぶつかった。
「しょうがないなぁ、って、うわ! 泣いてる!」
フランは顔を覗かせ私を見ると、驚いた声を上げた。
「フラン!」
私は扉が閉まってしまわない様に、慌てて押さえて、中からフランを引きずりだした。
嬉しさにあまって、フランを抱き寄せる。
「フラン、出て来てくれたのね」
私が感極まって、言葉をつまらせると、フランは忍び笑いを漏らした。
「お姉様、ちょーっと恥ずかしいんじゃない? こんなプリン如きで泣いちゃうなんて」
フランはそう言うが、プリンがどうとかでは無いのだ。妹が、離れていってしまう事が怖かったのだ。
「フラン、ごめんなさい!」
私が抱きしめると、しばらくしてフランも抱き返してくれた。
「こっちこそ、ごめんなさい。ちょっと意地になりすぎてた」
何故かその言葉で私の中の堰が切れて、涙が一層溢れだし、言葉が出なくなった。
嗚咽を上げながら、少しでも今のフランの心が分かる様に、力強く抱き締め続けた。
それによると、フランは私と抱きしめあっている事を恥ずかしがっている様に思った。
それが本当かは分からないけれど、いつか本当にフランの気持ちが分かる様に願って、私はただただ抱き締めて、フランの事を抱き締め続けた。
「あー、痛かった。お姉様、強く抱き締め過ぎ」
フランは嬉しそうに飛び跳ねて、様子を見ていた美鈴に抱き着いてから、咲夜の前に立って、ケーキを覗きこんだ。
「おお、中中美味しそうに出来てる! 流石私のお姉様、に仕える完全で瀟洒な咲夜。美味しそうなケーキだね。切り分けた時に一番大きいのは私のだけど、次に大きいのは咲夜にあげよう。お姉様は一番小さいのね」
「そこはケーキを作った私を褒めてよ」
「えー、でも実際、これ作ったの殆ど咲夜じゃないの? 生クリームを作るのは元から無理にしても、スポンジすら作ってなさそう。お姉様は混ぜて塗って苺置いただけみたいな気がするなぁ」
流石私の妹だけ合って鋭い。その通りである。
「そもそもケーキ作るとか、クッキー作るっていうのもお姉様のアイディアじゃないでしょ? 咲夜が色色考えて手配したんでしょ? お姉様に出来るのなんて、どうせプリン百個買ってきてって咲夜に命令する位だし」
鋭いが、ちょっと違う。
「ケーキの作り方を教えてくれて材料を準備してくれたのは咲夜だけど、クッキーの準備や、実際のアイディア出しはもう一人の方よ」
「いえ、お嬢様。ケーキの材料も私が用意したんじゃありません」
「あら、そうなの? じゃあ、殆どやってくれた訳ね。二番目に大きいのは咲夜じゃなくてあの子にあげましょう」
「そうですね」
私と咲夜が笑い合っていると、フランが突然変な事を言った。
「もう一人? って誰? 妖精メイド?」
「誰って、違うわよ。咲夜の他にもう一人、人間のメイドが居るでしょ?」
「え?」
「えって? いっつも二人で屋敷を取り仕切ってくれてるじゃない。考えてみなさい。咲夜一人に仕事を任せたら、咲夜死んじゃうわよ」
「そうですね。今でも死にそうですけど」
冗談のつもりだったが、咲夜が少しだけ疲れた顔をみて少し反省。一応負担を減らす為に、ホブゴブリンを雇ったりしたがまだ足りないか。
「え? 咲夜もその人を知ってるの? 私、会った事無い」
フランがおかしな事を言う。
美鈴が苦笑しながら、言った。
「フラン様、どうしたんですか? もしかして泣き疲れて」
「違う! 美鈴も知ってるの? どんな人? 名前は? どんな顔?」
「どんなって。ほら、あの綺麗な、優しそうな、えーっと、あれ?」
「フラン、本当に分からないの?」
フランが必死な形相で私に詰め寄ってくる。
「じゃあ、名前は? どんな顔? いつ来たの?」
「名前って、だから」
そこで名前を発しようとして言葉が止まった。
一瞬前まで確かに、覚えていた筈だ。
今回のフランとの仲直りをする間だって、何度も会って名前も呼んだ筈だ。
なのに思い出せなかった。
名前だけじゃない。顔も思い出せない。何度も見ている筈なのに、急にすっぽり抜けた様に思い出せない。
何か、全体の印象、優しさであったり、美しさであったりは、そういう輪郭の部分は思い浮かぶのに、肝心の具体的な情報が全く出て来ない。
「あれ? ど忘れかしら。咲夜は咲夜よね。うん、それにもう一人。あれ?」
困り果てて咲夜に視線を送ると、咲夜も困った顔をしていた。
「おかしいですね。確かに居た筈です。でも名前も顔も、私より先に居たのか後に居たのかさえ思い出せない」
幾ら考えても、まるで記憶が蘇ってこない。
「お姉様達は、どうしちゃったの? この屋敷に居る人間のメイドは咲夜だけでしょう?」
「でも」
「いつもお姉様のお世話をしているのは咲夜でしょう?」
「そうね」
「屋敷のお掃除も、洗濯も、料理もみんな咲夜でしょう?」
「そうね」
「里への買い出しも、外の世界に言って映画とか漫画を買ってくるのも咲夜でしょう?」
「そうね」
「屋敷の守りと私のお世話は美鈴でしょう?」
「ええ、そうね」
「じゃあ何処! そのどっかの誰かは何処で何をしていたの? 何処にも入り込む余地なんて無いじゃない!」
確かにその通りだ。屋敷のメインの仕事は咲夜が行っている。妖精メイドやホブゴブリン、小悪魔達はその補助だ。残りの守衛やフランの世話等の重要な部分は美鈴に任せてある。勿論二人の仕事にも休憩として交代時間はあるが、その交代要員も、妖精メイド、ホブゴブリン、小悪魔の中で優秀な者を選りすぐり任せている。
何処にもそれ以外の人間が入り込む場所なんて無い。
そしてそう考えると、もう一人のメイドの実在性が疑われてくる。本当に居なかった様な気がしてくる。
まるでさっきまでの事が夢の様な。
だがそうは言っても、確かにフランとの仲直りに力を貸してくれた者が居る。
だったら、あれは?
一体誰だったんだ。
幾ら考えても答えは出ない。
幻想郷の誰かが私達を欺いたのかと考えてみたが、あり得ない。単に言葉の上で騙すのならともかく、認識をずらす様な化かし方なら必ず感知出来る。
悩んでいると、やがて美鈴が手を打ち鳴らした。
「もしかしたらバレンタインデーの奇跡なんじゃないですか?」
全員が美鈴に注目した為、美鈴はうろたえた様に後ずさった。
「いえ、確証は全く無いんですけど、ほら、バレンタインデーの奇跡とか、良く物語であるじゃないですか? 今日は、丁度バレンタインデーですし、奇跡が起こってもおかしくないかなと」
それに咲夜が反論する。
「何の答えにもなってないじゃない」
「まあ、そうですけど、強いていうなら、神様の贈り物、というか」
「神様の贈り物ねぇ」
「レミリア様とフラン様の仲直りを手伝ってくれたんですよ。それなら、それで良いじゃないですか。良い事をしてくれたんですし」
そう言われると確かにそうで、あのギフトが無ければ、フランと仲直りする事は出来なかった。
「バレンタインデーの奇跡、ね」
咲夜も諦めた様に首を横に振った。
「まあ、何か害があった訳でも無いですし」
「そうですよ。神様の贈り物! それで良いんじゃないですか?」
その時、美鈴のお腹が鳴った。
恥ずかしそうに顔を赤らめる美鈴に、咲夜が吹き出す。
「そうね。美鈴もお腹が空いているみたいだし、お嬢様のケーキを食べる事にしましょうか」
「すみません」
まあ、幾ら考えても分からないのだから、頃合いだろう。
「そうね。硬くなる前にケーキを食べましょうか」
するとフランが恐ろしそうに叫んだ。
「待って! 何でそうやって納得出来るの? 明らかに変だよ! おかしいよ!」
なだめる様に美鈴が言った。
「でも害が無かったんですし、むしろ良い事ばかりだったんだから良いじゃないですか。きっとレミリア様とフラン様が良い子にしていたから神様が微笑んでくれたんですよ」
良い子って、私達はもうそんな歳じゃない。
咲夜がケーキを掲げて微笑んだ。
「そんな事より、ケーキを食べましょう。フラン様も早く食べたいでしょう?」
その時、何故かだらだらと咲夜の鼻から血が流れてケーキに垂れ始めた。
私は慌てて咲夜からケーキを奪う。
「ちょっとちょっと!」
「あ、すみません。お嬢様が初めて作ったケーキを食べられるとわくわくしていたら、もう我慢の限界で」
さっきまで白かったケーキの表面が赤く染まり、苺のアクセントも何も無くなってしまっていた。
「まあ良いじゃないですか。さっきも私の血を入れた訳ですし」
「指先からと鼻からとじゃ大分違うだろ!」
「同じ様な物ですって。結局私の愛の証な訳ですし」
私は溜息を吐いて、咲夜の足を蹴りつつ、食堂へ歩き出した。
「まあ、良いわ。行きましょう、フラン」
振り返ると、フランはスカートを握りしめ、涙を浮かべながら立ち尽くしていた。
「フラン、気になるのは分かるけど、もう悩んでいてもしょうがないわ」
「そうですよ、フラン様。っていうか、これ以上待っていると、咲夜さんが先に全部食べちゃいそうですよ」
「そうですね。本当に食べますよ。これ以上待たされたら、私。一人でも」
そう言って三人でフランを誘う。
早くフランの機嫌を直してもらえる様に、出来るだけ優しい笑顔を浮かべて、フランを待った。
「ねえ! 何で! どうして平気なの! 変な人が居たんだよ! 誰も気が付けなかったんだよ! これって凄く怖い事だよ! 何でそんな風に笑っていられるの! ねえ!」
説話を見れば突然不思議な存在が現れて幸運を授けてくれる話は枚挙に暇がない。それが神様かどうかは知らないが、人智を超えた力によって救われる事は世界中で認められている。
現実でもそうだ。奇跡というものは往往にして起こるもので、例えば不治の病に冒され明日をも知れぬ子供が理由も無く回復したり、あるいは数百人を炎で嘗め尽くそうする大火災が奇跡的に降り始めた雨で鎮火したり、まるでハッピーエンドを迎える為に何の理由も無く神様が動いたとしか不思議な出来事は現実の世界でも起こっている。
そこに理由や原因は存在しない。認識出来ないだけで、世界の何処かで蝶が羽ばたいたという事を主張する者も居るが、それならその言葉を証明してみると良い。
奇跡に理由や原因、何か確としたものは存在しない。
何故あなたの足が速いのか、何故あなたの顔は綺麗なのか、何故あなたは勉強が出来るのか、何故あなたの人柄は優れているのか。何故あの時上手くいったのか。何故あの時助かったのか。何故そこにそれがあったのか。何故そこでそれが起こったのか。何故私は生まれたのか。何故私は十字架と杭で死ななければならないのか。
神様の贈り物に理由は無い。
一切の理由が無い。
それを不気味と思わないのか。
それを恐ろしいと思わないのか。
何故それを恐ろしく思わないのか。
私にはそれが理解出来無い。
「フラン?」
私がノックをすると中から声が聞こえた。開けると、真っ暗な部屋で、フランがベッドの上にうずくまっていた。
「フラン、そろそろ機嫌を直して。出ていらっしゃい」
「うるさい!」
近寄ろうとしていた私の足が止まる。
顔を上げたフランの瞳は涙に濡れ、目の周りが赤く腫れ上がっている。
「のこのこ来るな! お姉様の所為だ!」
ぬいぐるみが飛んできて、私の顔に当たった。
床に落ちたぬいぐるみを拾って、傍のテーブルに置き、フランのベッドに近づく。
「フラン、謝っているじゃない。機嫌を直して」
「全然心が篭ってない! どうせ下らないと思ってるんでしょ! お姉様、最初に言ってたもんね! プリン位でそんな怒るなって!」
そう、私がフランのプリンを食べてしまった所為で、フランはずっと昨日からむずかっている。好い加減機嫌を直しても良いと思うのだが、プリン位で大袈裟な事に、全く怒りの熱は引く様子が無い。
「本当に申し訳無いと思っているわよ。その為にね」
その時丁度ノックの音が聞こえたので、私は入ってくる様促した。
咲夜が盆にプリンを載せて持ってきたので、私はそれを両手で受け取り、フランの下へ歩む。
「ほら、ちゃんと買い直してきたのよ。それも私が食べたのは一つだけなのに、二つも。さ、これで良いでしょう? 部屋から出ていらっしゃい。食堂に来てそこで食べましょう」
「馬鹿! お姉様の馬鹿!」
「どうしたの? ほら二つも」
「そんなの要らない!」
思わぬ言葉に驚いた。失ったプリンは一つだから二つ用意すれば、失った時よりも得の筈だ。
「フラン、あまり困らせないで。こうして二つも買ってきたんだから」
「出てって! 出てってよ!」
フランが私に向かって手を握りしめた。
その瞬間、爆発が起こり、私は部屋の壁を突き破って外に吹き飛ばされる。
瓦礫から這い出して、フランの部屋まで戻ると、壁が直り、扉が閉め切られていた。
「フラン」
「来ないで!」
私は溜息を吐いて、その場を離れた。
悩みながら廊下を歩く。
「駄目でしたね」
「そうね。二つでも駄目。なら三つ? いえ、もっとかしら。咲夜とりあえず十ダース程買ってきて」
「数の問題では無い気がしますが」
訳が分からない。なら何だというのだ。
「つまり、フラン様はお嬢様に謝って欲しい、というか」
「謝っているじゃない」
「いえ、心から」
「謝っているわよ」
私はフランが機嫌を直して部屋から出て来て欲しいと心の底から願っている。永きに渡る幽閉に苦しんだフランを、助けだした私自身が再び同じ状況に陥れるなんて笑い事にもならない。
「そう言うなら、何か別の案はあるの?」
「いえ、そうれは無いのですが」
「とりあえず咲夜はプリンを十ダース買ってきて。私は別の案を考えておくから」
「畏まりました」
咲夜と分かれて、私は考える。
何をしたらフランの機嫌を取れるのか。
アリスに人形でも作らせてみようか。
「あの、レミリアお嬢様」
振り返ると、そこに人間のメイドが立っていた。
いつもの様に自信無さげな態度で躊躇いがちな話し方をする。
「クッキーを作ってみたら如何でしょう?」
「成程ねぇ、プリンが駄目なら確かに他の物で。確か良いのがあったわよね。命蓮寺と聖徳太子への手土産に買った奴が余ってた。あれは評判だったわ」
「いえ、既成品ではなく、お嬢様が手作りで作ってみたら如何でしょう?」
「私が手で? 何で? 私料理した事無いわよ」
「一般にですが、手作りの方が心がこもっていると言われているそうです。フランお嬢様に心がこもっていないと言われたのなら、手作り、というのは如何かなと」
「ふむ、一応正しそうに聞こえるわ」
手作りの方が心がこもっているというのは理解出来無いが、一般にそういう認識がある事は知っている。その認識に従うのも良いだろう。
「ありがとうございます。材料と作り方のメモはキッチンに用意しておきましたので」
「気が利くわね。じゃあ、早速作ってくるわ」
私は解決の道が見つかったと勇んで、キッチンへ向かった。悩んでいたのが馬鹿馬鹿しい位に簡単な解決方法だ。
クッキーなんて材料を混ぜて冷やして焼くだけである。それでフランの御機嫌が取れるなら御の字だ。ぱぱっと作って私は皿に載せた。焦がしてしまったが、焦げた位で味は変わらないだろう。
フランの部屋に戻ってノックする。
「フラン」
「あ、レミリア様?」
中から美鈴の声が聞こえた。
どうやらフランを慰めているらしい。
「お姉様?」
「そうみたいです」
「来るなって言って! 入らせないで!」
「いや、そういう訳にも」
足音が聞こえて、扉が開いた。
美鈴が顔を覗かせる。
「美鈴、さっさと中に入れなさい」
「いえ、ですがフラン様は大分怒っているみたいで」
「分かっているわよ。だからこうしてお詫びの品を持ってきたんじゃない」
そう言うと、部屋の中からフランの怒鳴り声が聞こえた。
「要らない! どうせプリン百個とかそんなんでしょ!」
「違うわ。今度はクッキーを持ってきたの」
「クッキー? そんなの」
「私が手ずから作ったのよ」
フランと美鈴が同時に驚きの声を上げた。
失礼な。一応これでも私は女だぞ。今まで料理なんてした事無かったけど。
「あ、もしかしてそれですか? うわー、チョコレートクッキーだ! 凄いですね」
美鈴が私のクッキーを指さしてきた。が、チョコレートクッキーではない。
「え? でもそれ黒いですけど……まさか!」
いきなり美鈴が鼻をつまんだ。
「まさか、さっきから嫌な臭いがすると思ってたら! それ焦げてますよね! 焦げてるっていうか完全に炭化してる!」
「ええ、焦げているけど、食べられない事は無いでしょう? お腹に入れれば一緒よ!」
「いえ、それはお腹に入れても違うレベルですよ!」
「材料が同じなら一緒よ。さ、早く中に入れて頂戴。冷めちゃうわ」
中からフランの金切り声が聞こえた。
「それ、クッキーの臭い? 嘘! 腐った臭いする!」
「ベーキングパウダーの臭いじゃない?」
「絶対違う! それ毒でしょ! 美鈴、それ中に入れないで!」
「レミリア様、申し訳ありませんが、その異物を中に入れる訳にはいきません」
「異物って失礼ね。あなた主人の命令に逆らう気?」
「入れる訳にはいきません」
中からフランの喚き声が聞こえてくる。
「美鈴! その異臭をどっかにやって」
美鈴も頑として譲ろうとしない。
「レミリア様、この命に替えても、その異臭を中に入れる訳にはいきません」
「美鈴」
「お嬢様、失礼を承知で聞きますが、それを本当にフラン様に食べさせようと作ったのですか?」
そう言って、美鈴は扉を閉めてしまった。
こうなっては仕方無い。
失礼な二人には二度とクッキーを食べさせてやらんと憤慨しつつ、私はその場を離れた。
困った。
クッキーも駄目。
プリン百個でも駄目。
こうなるともうどうしようも。
「お嬢様?」
振り返ると、さっきのメイドだった。
「ああ、残念だけど駄目だったわ」
「それはそうでしょう。お嬢様がお作りになったのは、いやマジで本当にそれ他人に食べさせようとしたんですか? って感じの代物ですので」
「失礼な奴ね」
本当に。
「良薬口に苦しと言います。良い諫言も同じです」
「で? まさか、主人の作った物にけちつけるだけで、終わりじゃないのよね」
「はい、今度はケーキを作りましょう。流石に同じクッキーでは今度どんなに美味しくつくっても駄目でしょうし」
言っている事は正しそうだが、クッキーが駄目だったのに、ケーキもクソも無いだろう。
「今度は咲夜様に作り方を教えて頂くのです。先程はメモだけでしたから、料理初心者のお嬢様にとっては、色色あれがあれでしたけど、隣に咲夜様が居るのでしたら、幾らあれのあれがあれであれでも、美味しく、というより他人に食べさせられる、字義通りの食べ物が出来るのではないかと思います。承知とは思いますが、先程お嬢様が作ったのは食べ物じゃありません」
「お前、本当に失礼だな」
「良薬口に苦しと言います。耳に痛いという事はそれだけ効き目があるという事で」
「いや、今のは絶対良薬じゃない」
まあ失礼な言葉は入っていたが、意見だけはまっとうだ。最初から料理の上手な咲夜に作り方を監督してもらえば良かったのだ。だが困った事に咲夜は外へ買いに行かせてしまった。
「咲夜様でしたら先程呼び戻しまして、キッチンに。材料も準備してあります」
「相変わらず気が利くわね。じゃあ、早速作ってくるわ」
言ってみると、本当に咲夜が待っていて、早速ケーキを作った。
ケーキというとスポンジを作るのが面倒臭そうなイメージだったが、幸い予め作っておいたスポンジがあったので、後は生クリームに砂糖を混ぜて塗りたくり、苺を入れるだけだった。が、意外とこつというのがあるらしく、砂糖を袋を丸丸そのままぶちこんだりしてはいけないらしいし、オーブンに最大火力で入れて後は適当に放置ではいけないそうだ。
何にせよ、咲夜監修の下、美味しそうなケーキが出来上がった。美味しそうなというのは、つまり人間の血が入っているという事である。甘みだ何だの血の味を引き立たせる為のものでしかない。まあ、見た目も良い方だろう。咲夜が良く作るケーキと同じ様な見た目をしている。つまり真っ白で、丸く、上に苺が載っているという事だ。
ケーキを持って、今度こそという決意の下、フランの部屋に行った。
ノックをする。今度のノックは少しだけ緊張した。もしかしたらまた食べてくれないかもしれない。そしてもし次も、その次も、この先ずっとフランが出て来てくれなかったら、そんな根拠の無い予感を覚えて、少しだけ身震いした。
中から声が聞こえる。
だが返事ではなく、単に声が漏れただけの、意味の無い声だった。
私はもう一度ノックして、フランに呼びかけた。
「フラン! ケーキを作ってきたの!」
答えが返ってこない。
おかしいと思って、もう一度ノックして呼びかける。
「フラン! 今度は大丈夫! ちゃんと美味しいの作ってきたから」
やがてフランの答えが返ってきた。
「要らない」
「フラン」
「要らない」
その瞬間、私の心臓が絶望に浸った様な寒気を覚えた。
フランの声には何の感情も乗っていなかった。
底冷えする様な声だ。
私に何の期待も抱いていない声だ。
私に対する信頼がまるで感じられない声だ。
私は慌てて扉をノックする。
「フラン! 開けて頂戴!」
何とか出て来て欲しいと願って、扉を叩く。
「フラン!」
だが返事すら返ってこない。
「フラン! せめて返事を」
「要らない」
ぞっとした。
その言葉に二つの意味が篭められている事に気が付いた。
ケーキが要らない。
私が要らない。
それに気が付き、私は言葉を失う。
妹が、私の事を拒絶している事がはっきりと分かる。
どうすれば良いのか分からず、咲夜に視線を向けたが、咲夜は苦悩する様に目を逸らした。それが最後通牒の様に思えて、私は途方に暮れ、力が抜けて崩れ落ちそうになった。
それを支えてくれる者が居た。
「お嬢様」
さっきのメイドだ。
「大丈夫ですか?」
大丈夫じゃない。
もう何の希望も。
「お嬢様、あなたは間違っています」
私が間違っている?
「そうです。あなたは最初から大きな間違いをしている」
間違っていても何でも良い。
それを直せば、フランが出て来てくれるなら何でも良い。
私はどうすれば良い。
どうしたらフランは機嫌を直して部屋から出て来てくれる。
「それが間違いなんです、お嬢様。フラン様のご機嫌を取るじゃ駄目なんです。フラン様と仲直りしなくちゃいけないんです! あなたはそれを間違えていた」
「意味が分からない。どう違うのよ!」
「お嬢様、分かる筈です。ご機嫌を取るのではなく、仲直りするのならどうすれば良いのか」
ふと、クッキーを作った時、皆に言われた言葉を思い出した。本当にそれを他人に食べさせるつもりなのか。
私は一方的にフランに私の考えを押し付けようとしていただけなのかもしれない。フランの心を考えずに、私がこう思っているのだからこうしてくれるだろうと考えていた。
私はもう一度フランの部屋の扉と向き合った。
どうすれば、フランと仲直り出来るのか。
それはきっと、フランの心を理解してあげる必要がある。そして一方的に押し付けるのではなく、フランが心から望んでいる事をしてあげる必要がある。
ならフランが心から望んでいる事は何か。
フランは今何を思い、私に何を望んでいるのか。
私は何をしたら、仲直り出来るのか。
分からなかった。
それを幾ら考えても、フランと私が笑っている光景は思い浮かぶのに、そこに至るまでの筋道だって考えられない。
私はそれでも意を決して、部屋をノックした。先に進もうとすれば、フランの心が分かる気がした。
「フラン」
だがやっぱり分からない。
「フラン、お願い。開けて頂戴」
散散悩んだ挙句、結局同じ事を言う事しか出来なかった。
「プリンを食べてしまってごめんなさい。あなたには心が篭っていないと言われるかもしれないけど、ごめんなさい。本当に早く出て来て欲しい。お願いだから」
同じ事の繰り返し。全てフランに否定された言葉の繰り返しだ。
それで出て来てくれる訳が無い。
分かっている。
それ位は分かる。
だがそれしか言葉が出て来ないのだから仕方が無い。
フランがどうして欲しいのか分からない。
どうしたらフランの期待に応えられるのか分からない。
フランの心が分からない。
気が付くと涙が溢れてきた。
己の不甲斐なさの為か。妹の心すら分からない事が恐ろしいからか。
自分の情けなさに力が抜けて、私は扉にすがりつく。
その時、扉の向こうから声が聞こえた。
「お姉様」
「フラン!」
「心から謝ってる?」
「謝っているわ! 本当よ! でも」
でも結局それでは意味が無いのだ。
自分の謝罪を一方的に押し付けているのじゃ駄目だ。
そこまでは分かっているのに、そこまでしか分からない。
駄目だと分かっていても、私はただ涙を流しながら自分の心を吐き出す事しか出来無い。
「ごめんなさい、フラン」
それ以上はもう言葉にならない。
謝る事さえ出来なくなった。
茫洋とした静寂が私を苛む様に辺りを包む。
その時、突然扉が開いて、私の頭にぶつかった。
「しょうがないなぁ、って、うわ! 泣いてる!」
フランは顔を覗かせ私を見ると、驚いた声を上げた。
「フラン!」
私は扉が閉まってしまわない様に、慌てて押さえて、中からフランを引きずりだした。
嬉しさにあまって、フランを抱き寄せる。
「フラン、出て来てくれたのね」
私が感極まって、言葉をつまらせると、フランは忍び笑いを漏らした。
「お姉様、ちょーっと恥ずかしいんじゃない? こんなプリン如きで泣いちゃうなんて」
フランはそう言うが、プリンがどうとかでは無いのだ。妹が、離れていってしまう事が怖かったのだ。
「フラン、ごめんなさい!」
私が抱きしめると、しばらくしてフランも抱き返してくれた。
「こっちこそ、ごめんなさい。ちょっと意地になりすぎてた」
何故かその言葉で私の中の堰が切れて、涙が一層溢れだし、言葉が出なくなった。
嗚咽を上げながら、少しでも今のフランの心が分かる様に、力強く抱き締め続けた。
それによると、フランは私と抱きしめあっている事を恥ずかしがっている様に思った。
それが本当かは分からないけれど、いつか本当にフランの気持ちが分かる様に願って、私はただただ抱き締めて、フランの事を抱き締め続けた。
「あー、痛かった。お姉様、強く抱き締め過ぎ」
フランは嬉しそうに飛び跳ねて、様子を見ていた美鈴に抱き着いてから、咲夜の前に立って、ケーキを覗きこんだ。
「おお、中中美味しそうに出来てる! 流石私のお姉様、に仕える完全で瀟洒な咲夜。美味しそうなケーキだね。切り分けた時に一番大きいのは私のだけど、次に大きいのは咲夜にあげよう。お姉様は一番小さいのね」
「そこはケーキを作った私を褒めてよ」
「えー、でも実際、これ作ったの殆ど咲夜じゃないの? 生クリームを作るのは元から無理にしても、スポンジすら作ってなさそう。お姉様は混ぜて塗って苺置いただけみたいな気がするなぁ」
流石私の妹だけ合って鋭い。その通りである。
「そもそもケーキ作るとか、クッキー作るっていうのもお姉様のアイディアじゃないでしょ? 咲夜が色色考えて手配したんでしょ? お姉様に出来るのなんて、どうせプリン百個買ってきてって咲夜に命令する位だし」
鋭いが、ちょっと違う。
「ケーキの作り方を教えてくれて材料を準備してくれたのは咲夜だけど、クッキーの準備や、実際のアイディア出しはもう一人の方よ」
「いえ、お嬢様。ケーキの材料も私が用意したんじゃありません」
「あら、そうなの? じゃあ、殆どやってくれた訳ね。二番目に大きいのは咲夜じゃなくてあの子にあげましょう」
「そうですね」
私と咲夜が笑い合っていると、フランが突然変な事を言った。
「もう一人? って誰? 妖精メイド?」
「誰って、違うわよ。咲夜の他にもう一人、人間のメイドが居るでしょ?」
「え?」
「えって? いっつも二人で屋敷を取り仕切ってくれてるじゃない。考えてみなさい。咲夜一人に仕事を任せたら、咲夜死んじゃうわよ」
「そうですね。今でも死にそうですけど」
冗談のつもりだったが、咲夜が少しだけ疲れた顔をみて少し反省。一応負担を減らす為に、ホブゴブリンを雇ったりしたがまだ足りないか。
「え? 咲夜もその人を知ってるの? 私、会った事無い」
フランがおかしな事を言う。
美鈴が苦笑しながら、言った。
「フラン様、どうしたんですか? もしかして泣き疲れて」
「違う! 美鈴も知ってるの? どんな人? 名前は? どんな顔?」
「どんなって。ほら、あの綺麗な、優しそうな、えーっと、あれ?」
「フラン、本当に分からないの?」
フランが必死な形相で私に詰め寄ってくる。
「じゃあ、名前は? どんな顔? いつ来たの?」
「名前って、だから」
そこで名前を発しようとして言葉が止まった。
一瞬前まで確かに、覚えていた筈だ。
今回のフランとの仲直りをする間だって、何度も会って名前も呼んだ筈だ。
なのに思い出せなかった。
名前だけじゃない。顔も思い出せない。何度も見ている筈なのに、急にすっぽり抜けた様に思い出せない。
何か、全体の印象、優しさであったり、美しさであったりは、そういう輪郭の部分は思い浮かぶのに、肝心の具体的な情報が全く出て来ない。
「あれ? ど忘れかしら。咲夜は咲夜よね。うん、それにもう一人。あれ?」
困り果てて咲夜に視線を送ると、咲夜も困った顔をしていた。
「おかしいですね。確かに居た筈です。でも名前も顔も、私より先に居たのか後に居たのかさえ思い出せない」
幾ら考えても、まるで記憶が蘇ってこない。
「お姉様達は、どうしちゃったの? この屋敷に居る人間のメイドは咲夜だけでしょう?」
「でも」
「いつもお姉様のお世話をしているのは咲夜でしょう?」
「そうね」
「屋敷のお掃除も、洗濯も、料理もみんな咲夜でしょう?」
「そうね」
「里への買い出しも、外の世界に言って映画とか漫画を買ってくるのも咲夜でしょう?」
「そうね」
「屋敷の守りと私のお世話は美鈴でしょう?」
「ええ、そうね」
「じゃあ何処! そのどっかの誰かは何処で何をしていたの? 何処にも入り込む余地なんて無いじゃない!」
確かにその通りだ。屋敷のメインの仕事は咲夜が行っている。妖精メイドやホブゴブリン、小悪魔達はその補助だ。残りの守衛やフランの世話等の重要な部分は美鈴に任せてある。勿論二人の仕事にも休憩として交代時間はあるが、その交代要員も、妖精メイド、ホブゴブリン、小悪魔の中で優秀な者を選りすぐり任せている。
何処にもそれ以外の人間が入り込む場所なんて無い。
そしてそう考えると、もう一人のメイドの実在性が疑われてくる。本当に居なかった様な気がしてくる。
まるでさっきまでの事が夢の様な。
だがそうは言っても、確かにフランとの仲直りに力を貸してくれた者が居る。
だったら、あれは?
一体誰だったんだ。
幾ら考えても答えは出ない。
幻想郷の誰かが私達を欺いたのかと考えてみたが、あり得ない。単に言葉の上で騙すのならともかく、認識をずらす様な化かし方なら必ず感知出来る。
悩んでいると、やがて美鈴が手を打ち鳴らした。
「もしかしたらバレンタインデーの奇跡なんじゃないですか?」
全員が美鈴に注目した為、美鈴はうろたえた様に後ずさった。
「いえ、確証は全く無いんですけど、ほら、バレンタインデーの奇跡とか、良く物語であるじゃないですか? 今日は、丁度バレンタインデーですし、奇跡が起こってもおかしくないかなと」
それに咲夜が反論する。
「何の答えにもなってないじゃない」
「まあ、そうですけど、強いていうなら、神様の贈り物、というか」
「神様の贈り物ねぇ」
「レミリア様とフラン様の仲直りを手伝ってくれたんですよ。それなら、それで良いじゃないですか。良い事をしてくれたんですし」
そう言われると確かにそうで、あのギフトが無ければ、フランと仲直りする事は出来なかった。
「バレンタインデーの奇跡、ね」
咲夜も諦めた様に首を横に振った。
「まあ、何か害があった訳でも無いですし」
「そうですよ。神様の贈り物! それで良いんじゃないですか?」
その時、美鈴のお腹が鳴った。
恥ずかしそうに顔を赤らめる美鈴に、咲夜が吹き出す。
「そうね。美鈴もお腹が空いているみたいだし、お嬢様のケーキを食べる事にしましょうか」
「すみません」
まあ、幾ら考えても分からないのだから、頃合いだろう。
「そうね。硬くなる前にケーキを食べましょうか」
するとフランが恐ろしそうに叫んだ。
「待って! 何でそうやって納得出来るの? 明らかに変だよ! おかしいよ!」
なだめる様に美鈴が言った。
「でも害が無かったんですし、むしろ良い事ばかりだったんだから良いじゃないですか。きっとレミリア様とフラン様が良い子にしていたから神様が微笑んでくれたんですよ」
良い子って、私達はもうそんな歳じゃない。
咲夜がケーキを掲げて微笑んだ。
「そんな事より、ケーキを食べましょう。フラン様も早く食べたいでしょう?」
その時、何故かだらだらと咲夜の鼻から血が流れてケーキに垂れ始めた。
私は慌てて咲夜からケーキを奪う。
「ちょっとちょっと!」
「あ、すみません。お嬢様が初めて作ったケーキを食べられるとわくわくしていたら、もう我慢の限界で」
さっきまで白かったケーキの表面が赤く染まり、苺のアクセントも何も無くなってしまっていた。
「まあ良いじゃないですか。さっきも私の血を入れた訳ですし」
「指先からと鼻からとじゃ大分違うだろ!」
「同じ様な物ですって。結局私の愛の証な訳ですし」
私は溜息を吐いて、咲夜の足を蹴りつつ、食堂へ歩き出した。
「まあ、良いわ。行きましょう、フラン」
振り返ると、フランはスカートを握りしめ、涙を浮かべながら立ち尽くしていた。
「フラン、気になるのは分かるけど、もう悩んでいてもしょうがないわ」
「そうですよ、フラン様。っていうか、これ以上待っていると、咲夜さんが先に全部食べちゃいそうですよ」
「そうですね。本当に食べますよ。これ以上待たされたら、私。一人でも」
そう言って三人でフランを誘う。
早くフランの機嫌を直してもらえる様に、出来るだけ優しい笑顔を浮かべて、フランを待った。
「ねえ! 何で! どうして平気なの! 変な人が居たんだよ! 誰も気が付けなかったんだよ! これって凄く怖い事だよ! 何でそんな風に笑っていられるの! ねえ!」
ゾクっとくんな。だけどまぁ幻想郷だし…って理由で納得してしまう安易な自分もいる
こういう話好きです
おもしろいのに点数低いのはなぜなのか
プリンに関しては溝が埋まったけど、謎の人物については溝は埋まらないまま。
フランドールの感受性は紅魔館の他のメンバーにも共有されない。
フランドールの孤独がくっきり浮かび上がるラストが、なんとも言えず気持ち悪くて面白い。