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第一章:そちゆきて我が身は幻想成り果てる
第二章:あらためて見つめる世界広き地よ
第三章:なんにでもなりてなるはわたしの形
第四章:新たにて形成すわたしの魂意之霊
第五章:永久に紡ぐ誓いと神語り人の身なして儚きわたし
「れーいっむさーん♪」
「うっわ、うぜぇ。」
「何を言ってるんですか、魔理沙さん。
『女子、一週間会わなければ、まずはだっこすりすりして情を確かめろ』と昔の偉い人は言っていましてですね――」
「よしまずはその偉い人の名前を出せ調べてくる」
博麗神社の定番、夜の宴。
本日の主催者は八雲紫女史であり、彼女曰く、『いつもお世話になっている守矢の方と交流を』ということである。
そのため、厨房に立っているのは紫とその式、藍である。
藍が連れている式の橙は、やってきた彼女、東風谷早苗と一緒に来ていた洩矢諏訪子と遊んでいる。
「いいじゃないですかー。ねー?」
「いや、『ねー』とか言われてもね」
早苗による半分くらい過剰な愛情の対象となってだっこすりすりされている神社の主、博麗霊夢が苦笑を浮かべる。
早苗の言うことに表立って反論するつもりは全くないが、しかし、だからといって、このお人形さん扱いはいかんともしがたいという感じだ。
「というか、何で魔理沙さんがいるんですか?」
「朝飯と昼飯をご馳走になってな。今日はこれからアリスのところで晩飯をご馳走になる」
「またお金ないんですか」
「……いや、その……魔法の研究ってさ、ほら、時間とお金がかかるから……」
視線をそらして、一応、反論するのは霊夢の悪友、早苗の友人、霧雨魔理沙。
「そもそも、魔理沙さんのあのお店、お客さん、来るんですか?」
「少なくとも霊夢のところよりは千客万来だぞ!」
「あんたの家に、うちらとあのいたずら妖精たち以外が来てるところ、見たことないんだけど」
「いや、単に店に客を呼んでいないだけで、行商では売れている。
パチュリーのところから買うと、品質はいいけど高いし、アリスはそもそもその手の行商はやってない。安くてそこそこの品質の私の店には、割と需要がある」
「じゃ、何でお金すっからかんなのよ」
「……売りに出る手間がさぁ。ないんだよなぁ」
いじいじ、と床に指先で『の』の字を書く魔理沙。
とりあえず、彼女には生活力というか資金源のようなものがあるのは間違いないということで認識してもいいだろう。
問題は、そこがなかなか資金の源泉とならないということだが。
「にしても、早苗。一週間ぶりよね」
「神事が多くありまして。
最近は、山のふもとの里なんかにも足を運ぶようになりました」
「そうなんだ」
「いや、『そうなんだ』じゃなくてお前もやれよ」
「やってるわよ。五穀豊穣、災厄退散、家内円満、安全祈願、最近だと合格祈願なんかもお手の物ね」
「それで何でキッチンから米やみそはおろか塩や砂糖まで消えるんだよ」
「うぐ……」
魔理沙がここぞとばかりに反撃に出る。
幻想郷といえば巫女。巫女といえば貧乏、というのはもはやテンプレである。
「あなたは仕事に相応の対価を求めないからそうなるのです」
聞こえていたのか、後ろから、紫がぴしゃりとお叱りの言葉を飛ばしてきた。
「何だ、無償なのか」
「だって、お母さんが無償でそういうことやってたし」
「あの人の時は、他の理由で、参拝客が来ていました。あなたは参拝客を集める努力を全くしてないのに、あの人と同じことをやろうとするから今のようになるんです。
全く、嘆かわしい」
「言われっぱなしだな」
魔理沙がにやにや笑いながら、顔を赤くしてうつむく霊夢の肩を小突く。
「個人的には、神事に対して、なんら見返りを求めないというあなたの姿勢には賛同できかねます」
「あ、神奈子さま」
両手にお酒と何やら他にも一杯持って、現れるのは八坂神奈子。
霊夢の話を聞いていたのか、彼女は腰に手を当てながら、
「そもそも、神事とは神に連なる巫女の儀式であって、それすなわち神の儀式です。
神は人に化体し、もって神は人となる。
神は故に人から見返りとなる信仰を集め、それをもって益となす。
神に益なす行為であるからこそ、それは神事として認められ、受け入れられる。そうでない行為は個人の偽善であり思い上がりも甚だしい。
あなたの行為は神に対する侮辱であり冒涜です」
その辺りの観念のしっかりさは、さすが現役神様であった。
そもそも、神とは信仰を向けてくれるもののみに恵みと利益を与える、心の狭い存在なのだ。
信仰を向けてくれないものには文字通り見向きもしないし、信仰を翻すような罰当たりには祟り神となって天罰を下す、恐ろしい存在なのである。
「いいじゃん、別に。
ちゃんと信仰が欲しいなら、あんた達はあんた達でやりなさいよ。
紫も! これは私のやり方であって、あんたには関係ないの!」
「慈善事業は自己満足であり、後にも先にもよい結果は残しませんよ」
「別にいいもんね。
私が私の代でやることなんだから、私の代の人たちが幸せであれば、それでいいじゃん」
「全く。
本当に、巫女としての質と品格に欠ける」
「本当に。困ったものです。
申し訳ありません、不快な思いをさせてしまって」
「いや、お気になさらずに」
などなど。
紫と神奈子は霊夢に『失望した』と言わんばかりのきっつい視線を向けてから、キッチンにこもってしまう。
霊夢は二人にべーと舌を出すと、
「いいじゃんねぇ?」
と隣の早苗を見る。
「ん~……何とも。
少なくとも、受けた恩には義で返すべきです。義とはすなわち、労力に対する対価であって、それが金銭であったり信仰であったりするんだと思います。
義なき恩は人に限らず増長を招きます。それは結果的に、自分にも相手にとってもためにならない」
「早苗も固いな~。『ありがとう』の一言でいいじゃん」
「それですめばいいんですけどね。
性悪説というか、『ありがとう』だけで片付くと思わせてしまうのはよくないと思います」
「外の世界の人間は、私らとは感覚が違うね。
けどま、私は早苗に賛成だ」
軽く肩をすくめて、魔理沙。
「前回は無料だったのに、何で今回は金を取るんだ、って言う奴もいるしな。心の狭い奴だと思うけど」
「それが当たり前になってしまうからそうなってしまうんです。線引きは大切です」
善意を配って回ることに、心から感謝するものばかりではなく、それを利用するものが居ることを忘れてはならない。
早苗の、戒めとも取れる言葉に「理解できないなぁ」と霊夢は言う。
「けど、わたしは、霊夢さんらしくていいと思いますけどね」
「でしょ?」
そして何だかんだで、最後は霊夢の肩を持つ早苗である。
この辺り、惚れた弱みというか、一歩下がって伴侶に前を譲る奥ゆかしさというか。
こういう態度を他人に見せる人間は、幻想郷……というか、霊夢たちの周りでは絶滅危惧種だ。
「霊夢みたいな奴は、幻想郷の外じゃ苦労しそうだね。
もっとも、こいつみたいなのがいるから、外の世界じゃ、信仰心ってものが失われたのかね?」
神様という存在が身近になりすぎて。
畏れ多くも畏くも、敬われるべき人外の民である神様が、あまりにも身近になりすぎて、それはもはや神ではなく、いて当たり前の『友達感覚』になってしまったとしたら。
わざわざ、神秘的な人ならざるものに額ずきひれ伏す必要もなくなってしまう。
「さあ、どうなんでしょうね」
それについては、言葉を濁す早苗であった。
――1――
この頃、何だか調子が悪い。
そう、早苗が思うようになってからずいぶんになる。
今もそう。
通う学校の、授業の合間の休み時間。
友人たちは、3時間目の体育の授業について不平不満を言っている。
曰く、
「マラソンなんてやりたくなーい」
ということだ。
空は快晴、日本晴れ。雲の欠片も見えない。
正直に言うと、早苗は運動は得意である。その見た目から文系人間扱いされてる彼女であるが、むしろ文系の成績の方が悪い。漢文なんて壊滅的だ。
一方、彼女は運動は得意である。マラソンなんて、授業の間の45分間、ノンストップで走り続けられるくらいの持久力はある。
しかし、
「ねぇ、早苗。マラソンとかやりたくないよね」
「あの先生、何かっちゃ『陸上競技は身体運動の花形だ』って」
「走るより球技の方が楽でいいよね」
なんてことを話題として振られたら『う~ん。そうかも』なんて受け答えしか出来ないのも事実であって。
仕方ないなぁ、と思ったのが2時間目の授業が始まる前の休み時間。
それが、今だ。
もうすぐ次の授業が始まる。
騒がしかった室内も、徐々にその波が引いていって、一人また一人と自席に戻り、教科書を引っ張り出している。
彼ら彼女らを横目で見ながら、早苗はぴっと人差し指を立てる。
軽く目を閉じて深呼吸。
真っ暗な世界にぽっと灯りが点るような感覚が走る。
目の前にじんわりとした、白とも黄色ともつかない、暖かい色の光が現れて、それがぱっとはじけて散る。
――授業の始まりを告げるチャイムが鳴り響き、まるでタイミングを計っていたのではないかと思うほどのタイミングで前の扉が開いて、男性教諭が姿を現す。
「さて……今日は……えー……前回はどこまでやったっけか?」
彼はいつも、そんなくだりで授業を始める。
これの回答を間違えると、『君は前回の復習をやってないみたいだねぇ』と手厳しい指摘を受ける。
『嫌味な教師』として生徒受けはすこぶる悪いものの、これで的確な答えを返すと、きちんとそれを評価してくれる先生ということもあって、いわゆる『ちゃんと真面目に授業を受けている生徒』にはそれなりに好評であった。
今回、その話を振られた女子生徒は、無事に前回の授業で進んだ教科書のページを答えて、「じゃあ、今日はその続きから始めよう」とスムーズに授業が始まる。
「……まだ降らない」
窓際の席で外を眺めて、早苗はつぶやく。
相変わらずの快晴の空。
視界の端っこに、ぽつっと雲が現れたのは、その時だった。
「あーもー! いつまで、この雨、降ってるわけ!?」
「俺、傘、持ってきてねーよ。誰か、折りたたみ持ってる奴いない?」
「持っててもお前になんて貸してやんねー」
雨が降り始めたのは、2時間目の授業が終わり、3時間目の体育が始まる、本当に少し前。
ぽつぽつと、小雨にすぎなかった雨は体育館に生徒たちが集合し、体育教師が『それじゃ、今日は前回の予定通り、校庭でマラソンを……』と言っているうちに土砂降りの大雨へと化けていた。
彼のぽかんとした顔はなかなか傑作ものであり、慌てて、『あ、い、いや。それじゃ、今日はバレーボールの授業に変更する』と言う姿も面白いものであった。
しかし、だ。
「早苗、傘、持って来た?」
「うん。というか、わたし、置き傘してるし」
「あー。卑怯者ー」
「早苗は用意がいいんだよ。この優等生め」
「痛い痛い痛い」
後ろから髪の毛掴まれて引っ張られる。
最近、少しずつ髪の毛を伸ばしている早苗はこうしたいたずらにあうことも多い。
周りの友人曰く、『ショートカットの方が活動的で似合うのに、どうしたのさ。いきなり』というのがその理由だ。
なお、その原因はというと、先日、ちょっと一目ぼれした末、玉砕したお相手からの『あ、いや、あの、ごめん。俺、ロングの女の子の方が好きだから』というぱっと聞いた感じ、本音がオブラートにくるまれた一言にあったりする。
「どうやって帰ろう?」
「みんなでタクシー呼ばない? お金出し合って」
「駅までならそんなにかからないっしょ」
「あ、さんせーい」
「傘持ってる奴は濡れて帰れ!」
などというやりとりも始まったりする。
降り始めた大雨はいつの間にやら豪雨に変じ、傘を差していても路面に当たって跳ね返る水しぶきで足下どころか下半身がずぶぬれになるほどだ。
「……調子悪いなぁ。加減がきかないし」
「ん? 何が?」
「あ、ううん。別に何でも」
「早苗、うちらのタクシー乗ってく? この前、あんたのバイト先の喫茶店でおまけしてくれたお礼しちゃうよ」
「いいよ。歩いてく」
「好き者だねぇ」
「濡れて風邪を引いて、学校サボる気なんだよ」
「あー、ありそー」
気をつけてねー、と手を振る彼女たちに手を振り返して、早苗は学校を後にする。
こんな大雨なら傘を持っていようといまいと同じと開き直り、教科書だけは濡れないように制服の中に隠して、大急ぎで学校を後にする生徒たちも多数。
彼らに混じって、早苗は大きな傘を手にして、学校を後にする。
「本当に、体育の間だけ、降ればいいのに。
お祈りしすぎたわけじゃないんだけど」
この頃、本当に調子が悪いな、と彼女は小さくつぶやいた。
電車に乗る頃には、彼女はずぶぬれ状態になっていた。
はぁ、とため息をついて、ホームに滑り込んできた電車に乗り込む。
大雨で世界が黒雲に覆われているためか、車内の雰囲気も、何となく陰鬱な感じがする。
普段、降りる駅で降りずに、その先――およそ15分ほど先にある、別の駅で彼女は電車を降りた。
「……」
雨が少し小降りになってきている。
ようやく、軒下で雨宿りをしていた者達も、コンビニなどで買ったビニール傘を手に道を歩いていく。
彼らの向かう先とは反対へと、彼女は歩いていく。
通りを抜けて交差点を渡り、左手側へと信号を折れる。
駅から歩くこと、およそ10分。
唐突に住宅街は消え、ふっと場の空気が入れ替わる。
目の前に、大きな鳥居があった。
その手前で一度、彼女は足を止めると、鳥居に向かって一礼する。その鳥居をくぐって、舗装のされていない参道を歩いていく。
神域は、うっそうとした木々に覆われている。とはいえ、誰かが丁寧に手をかけているというわけではなく、ただ、草木の生長に任せるままというところだ。辛うじて、参道だけは下生えの草が取り除かれている程度のものである。
参道を少し行くと、朽ちた石段が現れる。
そこを抜けた先に薄汚れた神社がある。
「雨、上がった」
空をうかがうのが難しいくらいに生い茂る木々。しかし、さすがに神おわす社を覆ってしまうほど不届きものではないのか、彼らはその空間にまで枝葉を伸ばしていない。
覗く空にようやく日の光が現れ、虹がかかっているのがわかる。
彼女は少しだけ口許に笑みを浮かべてから、手にした傘を閉じた。
そして、社の裏手側にある、これまた古びた母屋へと歩いていく。
「えっと……」
ポケットを探って、鍵を取り出す。
最近、流行っている猫のような狸のような、よくわからないマスコットキーホルダーが小さな音を立てる。
「よい……しょ」
がたがたと、立て付けの悪い引き戸を開いて母屋の中へ入り、『失礼します』と彼女は声を上げた。
その見た目に反して、中はきれいなものだった。
足下の板もきれいに張りかえられ、歩いてもきしむことはない。
その中の一室、年代物のタンスなどが並ぶ衣裳部屋に足を踏み入れて、その中から衣装を取り出す。
次に、それを持って、彼女は水場へと歩いていく。
「どうして、ここ、水道が通ってるのかしら」
電気の灯りはないのに、なぜか、水道が使えるのが、この建物の不思議だった。
まぁ、いいかとそれを考えるのをやめて、雨に濡れた制服を脱いで裸になると、水場――恐らく、以前は風呂場として使われていたのだろう――に足を踏み入れて、冷たい水を桶に取ると、それをざばっと頭からかぶる。
「っ~!」
とてつもなく冷たい。思わず、声にならない悲鳴を上げて飛び上がってしまうほどだ。
今の季節はまだマシなのだが、これが冬になってくると、この儀式もしゃれにならない。
不敬と言われようと何と言われようと、一杯、二杯をかぶるのが精一杯。逃げるように水場を後にして、衣服を着替えてしまう。
――彼女は、濡れた衣服を、とりあえずその場にかけてから踵を返し、表から社殿の中へと足を踏み入れる。
閉じられた空間の向こうは、色濃い闇に包まれている。
部屋の四隅にある燭台に、持って来た蝋燭を立ててから、一つずつ、ライターで火を点す。
そして、彼女は静かにその場に正座をすると、深々と、頭を下げた。
「八坂さま、いらっしゃいますか。八坂さま」
静かな声は闇に包まれて消える。
しん、と辺りが静まり返る。
音のしない空間に、ぎし、という小さい軋みが生まれる。
『この雨の中、よくもまぁ』
最初に響いたのは違和感だった。
空間そのものが鳴動しているかのような、不気味なうなり。
人によっては、これを祟りと感じて、飛び上がり、逃げ出してしまうだろう。
しかし、彼女は下げていた頭を上げるだけで、動じない。
ややしばらくすると、目の前の暗闇がぼんやりと歪み始める。
『お前の信心の深さと敬虔さには敬服するが、それでも程度がある。まず顧みるべきは己の健康だと、教えなかった?』
声の響きが変わり、やや、そこに柔和な雰囲気が現れる。
歪んだ闇は徐々に形をなし、人の形を取る。
すると、部屋の四隅に点された炎が、ひときわ高く、まるで篝火のように燃え上がる。
室内の闇は一気に払われ、そこに、一人の女が姿を現す。
「確かに教わっていましたけれど、だからって『来るな』とは言われていませんでした」
「全く。昔の若い娘は、もっと清らかで純朴だったけれど。今時の娘は、本当に口ばかりが達者だ」
しれっと返す早苗に対して、形を成したそれは、やや呆れたように、しかし、嬉しそうな声音を返す。
「強い雨だった」
「はい」
「傘は?」
「こういったこともあろうかと、きちんと、学校に置き傘をしてあります」
そのセリフを一度言ってみたかった早苗は、目を、なぜか輝かせて目の前の相手に答える。
今時の若い娘の言葉はよくわからん、と女は顔を引きつらせた。
「本日は、何かご用事があるということでしたが」
「そうね」
彼女は立ち上がると、社の扉を引き開ける。
木々の隙間から、ちょうどよく、社の上に降り注いでいた日光が室内へと入ってくる。
――今の光景を、もし、見るものがいたとしたら、そのものはさぞ驚いたことだろう。
何せ、いきなり、誰もいないのに社の扉が開いたのだから。
「八坂さま、また少し薄くなられたのではないでしょうか」
「髪の毛みたいに言わないでちょうだい」
早苗の言葉に、『八坂』と呼ばれた女は顔を引きつらせる。
「しかし、それ以外には何とも……」
「……時々、この子はわざとなのか本気なのかわからなくなる」
ぽつりと呻く八坂は、『まぁ、それは横においといて』という仕草を見せる。
「実は、早苗。貴女に少し、話があります」
「はい」
「貴女は最近、何か違和感を感じることはありませんか?」
「あります」
それには、早苗は即答した。
普段から、その違和感を感じている早苗である。他者からの問いかけを否定する意味もない。
「そう。
私もそう。この頃は、特に、それが強い」
「倦怠期とか」
「……あのね」
頬に人差し指を当てながら首をかしげる早苗に、八坂は顔を引きつらせる。
――この子の育て方、間違っただろうか。
その表情を一言で表現するなら、そんな感じだろうか。
「……えー、こほん」
咳払いを一つして。
「その違和感もむべなるかな。
近頃、私は、己の力の衰えを強く感じます」
「年ですね」
「まぁ、確かに、長生きだけどね。神様ってそういうもんだからね?」
本当に、ふざけているのか本気なのか、実にわからない。
即答してくる早苗に、八坂は『話の腰を折らないでくれ、頼むから』という視線を向ける。
神、と自ら名乗ったにしては、些かどころか徹底的に威厳がない。
「その理由は、なぜだと思いますか?」
「年齢的なものでないとすると、神格の低下とか」
「よほどのことをしない限り、懲罰的な意味で、神が格を落とされることはありません」
「そうなのですか」
「あなた達がよく知る、所謂、堕落した神というのは、そういう『よっぽどのこと』をしたものばかり。
そうでなければ話が面白くならないから、後世まで伝わることもないのでしょうが」
「その辺に居る何の変哲もない一般人の一生を伝記とかにしても、売れませんしね」
「そういうこと」
そういうのを『風説の流布』というのだと、八坂は言う。
要は、『一部の例外だけを面白おかしく取り上げるな、この罰当たりめ』ということを言いたいらしい。
「ですが、神というのは、誰からも信心を得られなくなった時、たやすくその格を落とし、著しく力を落とします」
人々の強い信仰を受け、その地域の土地神や国津神になったものもあれば、かつてはその立場にありながら人々の心が離れた結果、路頭に迷い、最終的には荒神として退治されたものまで、と。
「このように古びた社におまいりに来る人などたかが知れている」
昔はこうじゃなかった、と八坂はつぶやく。
「技術の発展に伴い、生活が豊かになるに連れて、人々は、かつて己が畏れ敬っていた神やそれに準じた力ある化外の民を忘れてしまった。
闇を恐れ、夜に怯えていた人間は、光を手に入れ、闇を恐れることがなくなり、逆に闇を圧して、夜に生きる夜の民を暗い闇の中へと追いやってしまった。
心の豊かさを神に求めた者達も、己の中で作り出した偶像を神として崇めることで、その矮小な精神を満足させ、結果として、本当に恐れ敬うべき神を廃してしまった」
「大昔から、寺や社の廃棄は、よく行なわれていました」
「そう。
そうした罰当たりに対して、神とて黙ってはいない。
土地を不毛の地にしたり、恐ろしい伝染病を蔓延させて、祟りを与え、懲らしめようとしてきた。
しかし、それらを克服するために、人は『技術』という智慧を得た。彼らはそれを洗練させ、進化させ、ついに『科学』という神の奇跡を代行する術を手に入れた。
そうして、科学という名の神の御業を手に入れた人間は思い上がり、神の祟りすら克服する魔法を作り出し、神を恐れることも畏れることもなくなったです。
それは言ってみれば、『科学』という新しい神を、人々は生活の中で培い、育て、ついに信仰する形にしてしまったとも言えるでしょう」
元は何の力も持たない、炉端の石程度の存在であろうとも、人々の信仰を集めることで力を増し、神格を得て、『神』へと上り詰めることは珍しくない。
今回、それが、八坂たちの知らない、わからない、『科学』という正体不明の偶像に結集した――ただ、それだけのことだ。
「精錬の神とかとは、また違う?」
「そう。そうした者達すら包含した、もっと大きなもの――形を持たない、本当の『偶像』。それが、今、人々が信仰している神であり、我々のような、古くから土地を守り、育て、人々の生活に寄与してきたものは古びたものとして廃棄される時が来た――それだけのことなのかもしれません」
「……」
「貴女の言った通り、古来より、寺社の廃棄は、そう珍しいことではなかった。
我々は対岸の火事としてそれを見ていたに過ぎなかった――その思い上がりのつけが、今、回ってきたということなのでしょう」
それは自分の落ち度である、と彼女はいう。
もっと以前から、しっかりと営業活動をして、名前を売り込んでればよかったなぁ、と。
まるでサラリーマンが会社にクビを切られるかのように、のほほんと、彼女は言った。
「それって大変なことじゃないんですか!?」
「力を失い、格を落とした神の行き着く先は二つ。
まず一つが、神格を完全に失い、ただのヒトとして今の世の中に溶け込むこと。
そしてもう一つが、そんな惨めな様をよしとせず、神として、誇り高く死を選ぶこと」
早苗は立ち上がると、すぐさま、「それなら、わたしが信仰心をたくさん集めてまいります!」と言った。
その大声は深閑とした境内によく響く。
「まずはわたしの学校から! その家族から! 頑張れば、100人、200人なんてすぐ! 1000人、2000人だっていけます!」
「ありがとう。
けれど、それでは足りない。
元々、格の高い神というのは大食らいでね。その格と力を維持するには、その何倍もの信仰が必要になる。
それほどの人々を、この、古ぼけた社に集めるのは難しいでしょう」
「なぜ諦めるのですか!
社を建て直し、立派なものを作れば……!」
「見た目だけを取り繕ってもね、早苗。
古びた神というのは、いずれ、新しい神に駆逐されるものなのよ」
それは遠き神代の時代から変わらず、この国で連綿として続いてきた歴史なのだ、と。
所詮は、その歴史の一部を構築するに過ぎない八坂では、たとえ『神』と偉ぶってふんぞり返っていても、それを覆すことは出来ない。
何せ、相手は国そのもの。国一個丸ごとを飲み込んでしまうような、巨大な蛇でもなければ、そんなことは出来ないのだ。
「それに、早苗。
そもそもそれを危惧するならば、私のところに、欠かさず足を運んでくれるあなたのように、貴女の血族の者達が、どこかの時点で考えていたはずでしょう?
しかし、彼らは何も出来なかった。何もしなかった。
私の姿も見えない。声も聞こえない。信仰を最初に失ったものに、何が出来るというのです?」
「それは……」
「貴女を責めているわけではない。
だけど、これが現実。自分に仕えてくれるはずの神子の心すら引き止められなかった、己のふがいなさを悔やむばかりです」
何を間違ったかなぁ、と八坂はつぶやき、苦笑した。
やはり親しみやすさが足りなかったのか、と彼女は冗談めかして笑いながら言った。
その彼女の笑顔に、どこか悲痛なものを感じたのだろう。
早苗は決意を目に浮かべると、
「そんなことありません! わたし、頑張ります!」
お任せください、とどんと胸を叩いた。
「今の世の中、ネット使えばどんな情報だってすぐ拡散できます!
八坂さまの功績、ご利益、その他諸々! 一気に情報を広めて、すぐに人を集めてみせます!
何だったら、わたし、脱ぎますよ! それくらい体を張るくらい、朝飯前です!」
ふっと八坂は笑ってみせる。
頑張ります、と気合を入れている早苗の側に歩を進めると、その頭を軽くなでる。
「難しいわね」
それで、たとえ、人気――信仰を獲得したとしても、それは所詮、一過性のものだろうと八坂は看破する。
この国の人々は、熱しやすく、冷めやすい。
八坂のもたらすご利益では、彼らの気持ちをとどめることは難しいと、彼女は言ってのける。それに悔しさなどを感じることなく、ただ淡々と。
「学業の神というのは、ほんと、羨ましい立場にいるわ」
いつの世も必要とされる神とは違い、己のもたらす五穀豊穣も、雨を降らす力も、戦勝祈願も、その他のあらゆるものが、今の世の中には必要ない。
まさしく、己は廃棄される神だったのだ、と。
自分で挙げた要素を指折り確認して、自分の存在を再認識する八坂。
早苗は勢いそのままに、しおしおとしぼんでいく。
「……消えてしまうのですか?」
「ん?」
「もう二度と、わたしは八坂さまに会えないのですか!?」
八坂が、先に挙げた、『廃棄された神の行く末』の一番目を選択することはありえない。早苗はそう信じていた。
気高き神である彼女は、神である己の姿すら捨てて、おめおめと、惨めに生きていくことをよしとしないだろう。
彼女は神として、誇り高く死を選ぶはずだ。
そうなれば、早苗はもう二度と、彼女に会うことは出来ない。
「そんなの……」
「貴女が、いつ頃だったかしら。私の元にやってきて、『パパ、女の人が居る』って私を指差したのは」
「……ずいぶん昔のことです」
肩を落として、意気消沈してつぶやく早苗に、八坂は『そうそう』ところころと笑う。
「こんなに小さかったわね。
貴女の父親が、大層、驚いていたのを覚えているわ。
『お前、八坂さまが見えるのか!』って」
私も驚いたわ、と八坂。
時が流れるに連れて、人々の信仰心が離れた八坂。その存在は日に日に薄まり、弱まり、いつしか己を崇め奉る者たちにすら存在を認識してもらえなくなった。
彼らはそれでも、八坂を崇め続けてきたが、その心が離れることを留めることは出来ず、神職を置くこともなくなり、社は朽ちるに任せることとなった。
そんな中、突然、現れた八坂への信仰を持つ少女。
あの時、さて、自分はどんな顔をしていただろうと、昔に思いを馳せる。
驚いていただろうか。
笑っていただろうか。
それとも、嬉しさのあまり、泣きはらしていただろうか。
――覚えているのだが、恥ずかしくて、口には出せない事実であった。
「このままだと、私は、そう遠くないうちに消えてなくなってしまうでしょう。
ただ、それは、貴女が生きている間のことではない。貴女がいなくなり、何十年か、もしくは何百年か。
しかし、力を失った神など、死んだも同然。そのまま、生き恥をさらすよりは――」
「……ダメです」
「ん?」
「そんなの、絶対にダメです!
八坂さまは、わたしに、色々なことを教えてくださいました! わたしに、神の御力を行使できる術を教えてくださったのも八坂さまです!
八坂さまは、わたしにとって……!」
「お前に力を貸していたから、私の存在が薄まるのが早くなった――とは?」
「え……?」
「冗談よ」
そんなわけないでしょう、と彼女はくすくすと笑う。
「人間に神の力を行使できるはずがない。
私が貴女に貸していた力は、私の中でもはしたの力。巨大な水がめの中から、一滴の雫を分け与えていたようなものです」
たまには冗談も言ってみたくなる、と言って笑う彼女に、早苗はほっとしたような、『こんなときに冗談言わないでください』と怒鳴りたくなるような、そんな複雑な気持ちを覚える。
「しかし、遠からず、貴女もその力を失うでしょう。
私にとっては、その水がめの一滴でも大切なもの。いかな己を信仰し、奉ってくれる血筋の神子とはいえ、神とて命は惜しい。これ以上の力を分け与えることは出来ません」
「わたしはそれでも構いません。
八坂さまのお命が……神としての力が長くもつのなら、わたしはいかなる代償も支払います」
「そう」
――そこで、八坂の雰囲気が変わった。
ざっと風が舞う。
周囲の木々が一度だけ、鋭く揺れた。
「実は、早苗。
もしかしたら、そうならなくてすむかもしれないのです」
「え?」
「己の眷族を使い、この社から離れることすら出来ない私は、様々なものを調べあさりました。
人間とて同じこと。
自分が、明日も危うい命であるなら、何としても生き延びようとする。
もはややることもなく、己の人生全てに満足した、あるいは、命そのものを諦めでもしない限り。
私は、命が惜しい」
神とて意識を持つ生き物。
恐怖を感じることもままある。
今まで、己の強さゆえ、その恐怖を感じることなどなかった。
だが、ここに来て、その恐怖が顕在化し始めている。
それを押しのけるにはどうしたらいいか。
恐怖を打ち払い、強さを取り戻すにはどうしたらいいか。
――早苗の言った通り、あらゆる代償を支払っても、その手段を探そうとするのは、間違いではない。
「この世界には、我々の知る世界とは、もう一つ、違う世界がある」
「高天原のことでしょうか?」
「それとも違う。
それは、『此の世であって此の世でない場所。彼の世に程近いが、彼の世より程遠く離れた場所』」
「……えーっと」
「貴女、国語の成績、また悪かったみたいね」
「こっ、古文は、65点でした!」
「漢文は?」
「……半額特売セール……」
やれやれ、と八坂は肩をすくめてみせる。
「確かに、私は学問の神ではないけれど、私の神子がこのようにおつむが貧弱では。
一度、大宰府で話をしてきてあげましょうか?」
「うぐぐ……」
まぁ、それはそれとして、と八坂。
「それは、この世界から忘れられ、押し流された廃棄物が最後に流れ着くディストピア。
しかし、同時に、この世界より忘れられてなお、誰からも忘れられることのないユートピア。
……英語って苦手だわ」
「でしょう!? きっと、わたしの文系の弱さは、八坂さまのせい……あいてっ」
「人のせいにしないこと」
ごちんと頭をげんこつで叩かれて、早苗は涙目になった。
ついでにどうでもいいが、『ユートピア』も『ディストピア』も英語ではない。それを指摘できない辺りも、早苗の弱さかもしれない。
「その地の名は、幻想郷というそうです」
「……幻想……」
「そう。
何だかわくわくする響きでしょう。
そして、同時に――」
「……とても物悲しい」
「ええ」
うなずく彼女は、その指先を、どことも知れぬ空の向こうへと向ける。
「そこにいこうかなーって思ってるの」
そして、唐突に、彼女は声音を変えた。
それまでの重厚感あふれる、どこか悲壮な決意を漂わせるものではなく、あっけらかんとした、『今度の連休、どこ行く?』と女の子がカフェで話をするかのような声で、
「そこなら、この世界から忘れられたロートル神が逃げ込んでも大丈夫だと思わない?」
「ロ、ロートルって……」
「ふふふ。自分がそこまで追い詰められていることを自覚すれば、こんなにも気持ちが楽になる」
神様とは身勝手な生き物ね、と彼女は笑った。
「……そこに行ったらどうなるんですか?」
「さあ? わからない。
ただ、少なくとも、こちらの世界には戻ってこられなくなるでしょう。
何せ、神である私が、今わの際になって必死に探しても、その正体すらつかめない場所です。
厚く分厚い岩屋の向こうにあるのか、どこへ続くとも知れない暗い闇の中にあるのか。
ただ、その世界が、あらゆる『忘れられたもの』の理想郷であることも確かな様子。ならば、それに一縷の望みを抱いて足を進めてみるのもいいでしょう」
要するに、これは一種のギャンブルだ。
先の見えない、答えのわからないものに、『己の人生』を掛け金として戦うギャンブルだ。
実に面白い、八坂の目はそう言って笑っている。
「競馬やパチンコで身を持ち崩す人の気持ちが、ほんのちょっぴり、理解できました」
「……」
「私はその地へ向かい、そこで改めて、神の威光を見せ付け、信仰を新たに獲得してみせましょう」
「……わたしは……」
「ん?」
「わたしは……どうなるんですか?」
「もう二度と、私に逢うこともなく、此の世で命を全うしなさい」
これはギャンブルだ。
そのリスクは非常に高い。
もしかしたら、リスクの方が高すぎるかもしれない。
ただの一度のミスで、もう取り返しのつかない負債を抱えてしまうかもしれない。
そんなものに、早苗を巻き込むわけにはいかない。
「貴女は、幼い頃から今に至るまで、私によく尽くしてくれました。
貴女からもらった信仰が、今の私の命を永らえさせています。
ありがとう、早苗。この程度のお礼しか出来ないけれど、今まで、本当に……」
「それじゃ、わたしにとって、八坂さまが死んでしまったのと何も変わらない」
「……そうね」
「八坂さまのお言いつけであろうとも、わたしはそれに承服できかねます」
「ならば、どうする?」
凛とした声で返してくる早苗に、八坂は目を細くする。
神に従わぬ愚か者に、神は神罰を下す。
それはたとえ、己の神子であろうとも変わらない。
現に、己に不敬を働いた、己の神子を、八坂は自らの手で始末したこともある。
早苗に対して、それが出来るのか?
その問いかけを己自身にして、八坂は『出来る』と断言する。
神とは慈愛に満ちたもの。だが、裏を返せば、あらゆる咎人に容赦ない断罪を加える、冷酷非情の存在。
八坂の視線に真っ向から向き合う早苗が、口を開く。
「お供いたします」
「……え?」
その回答に、些か、八坂は間抜けな声を上げてしまった。
「それに第一、八坂さまお一人で、かつてのような信仰を獲得できるとは、とても思えません。
わたしのように、若くてかわいい美少女がお側にお仕えしていなければ」
「いやまぁ、言いたいことはわかるけど……」
誰がどう見ても、『若いのどっち?』と聞かれたら、早苗を指差す二人の見た目。
なお、八坂の名誉のために追記すると、彼女は年老いた老婆というわけではなく、威厳と風格相応の女傑である。
「わたしは八坂さまの神子であり、八坂さまのお力とご威光を、我が身をもって顕現させる存在です。
わたしがいれば、八坂さまの神格は、八坂さまを知らぬ下賎のものにもたやすく伝わるでしょう。
いい取引だと思いますけど?」
そこで、にこっと笑ってみせる。
この辺り、自分とよく似ているな、と八坂は思った。そしてもちろん、その後に、『育て方を間違えたか』と頭を抱える。
「わたしでは至らぬところも多々あるとは思いますが、なにとぞ、お考え直しください」
この娘には、言っても無駄だな、と八坂は判断する。
何せ、この娘は、その見た目にそぐわぬ芯の強さとともに頑固さを持ち合わせている。
口でいくら言ったところで、こうと決めたらそれを曲げるような人間ではない。
その胆力と精神力には、八坂すら一目置いているのだ。
「わかりました」
ならば、と。
八坂は尋ねてみる。
「貴女のその決意、しかと受け止めました。貴女のような従者を連れることが出来て、私は幸せ者です」
「はい」
「ですが、早苗。私は言いましたね?
その世界に行けば、二度と戻ってはこられぬだろう、と。
私はこの世界にて忘れられつつあるもの。此の世にしがらみなど何もない。
だが、貴女はどうです?
この世界に生活を持つ貴女は、それを捨て去る勇気はありますか?」
八坂の問いかけに、早苗は沈黙する。
この世界に戻ってこられない。
それは、この世界に、あらゆるものを置いていくことになる。
友達と一緒に馬鹿騒ぎすることも。休日にお気に入りのカフェに行くことも。もしかしたら、朝、普通に目覚めることすらも。
その、あらゆるリスクを背負って、この神についていくことが出来るのか?
己に問いかけた早苗は、答える。
「あります」
八坂の瞳は早苗の瞳を見据え、射抜く。
彼女の強い視線に、視線を逸らしたい衝動に駆られながら、必死にそれを押さえ込む。
呼吸することすら出来ず、体を硬直させていた早苗から、八坂が視線を外す。
「わかりました」
ふぅ、と早苗は息をつく。
途端、どっと汗が流れ落ちてくる。
心臓の鼓動が異常に早く、苦しいほどだった。
「ですが、貴女の迷いとしがらみを、私が見抜けないとでも思いましたか?」
「……いえ」
「わかっているならいいのです」
八坂はそこで、早苗へと背中を向けて、部屋の隅の闇に戻っていく。
「私も少しばかり、この世界には心残りがあります。
それを全て片付けてから、幻想郷へ旅立つことにしましょう」
「……はい」
「その間に、貴女は、そのしがらみと迷いを断ち切りなさい。
少しでもそれが残るようなら、私についてくることは許しません。
神は、二言目に、同じ言葉を繰り返すつもりはない」
ふっと。
八坂の姿が、その場から消えた。
早苗の感覚を持ってしても、その気配を掴むことが出来ない。
この場から姿を消したのか、それとも、深い闇の中にお隠れになられたのか。
早苗はぺたんと、その場に腰を落としてしまう。
「……立てないや」
すっかり抜けてしまった腰が元に戻るまで、まだしばらくかかりそうだった。
それから、何日、過ぎただろうか。
よく、彼女は両親から、『年をとると一年が早く過ぎ去っていくなぁ』ということを、笑い話として聞いていた。
それを、今まさに、彼女は自分で、身をもってそれを味わっていた。
一日があっという間に過ぎていく。
授業を受けて、家に帰って、ご飯を食べて、寝て。時々アルバイトに足を運んで、以前は、給料日はまだかとやきもきしていたのに、今ではふと気付けば、手元にお金がある。
カレンダーをめくることもなくなった。
時間の流れを感じさせてくれるのは、朝と夜の光と闇、暑さ寒さといった感覚だけ。
なぜこうまで、あらゆるものから心が遠く離れているのだろうと、寝る前にベッドの中で考えたことがある。
それは恐らく、この世界に残る、己の『しがらみ』のせいだろうと、彼女は考えていた。
そもそもしがらみとは何なのか。現世とのつながりであると考えれば、この世界に彼女が存在する『理由』ということになる。
そんなものは、捨てられない。捨ててしまえば、己は『此の世』の生き物でなくなってしまうのだから。
八坂は、早苗に、何を捨てさせようとしているのだろう。
自分が捨てても問題のないもの。『此の世』に存在している、何かの理由。それがわからない。
だが、それが失われる日も近い。
それを捨てなければ、己は八坂の神子として、それと運命を共にすることが出来ない。
捨てなければならない。己に出来ないのであれば、誰かに手伝ってもらってでも。それが、自分がなした決意なのだから。
その日が、明日か、明後日か。決断を下すのは、いつになるか。決断が下されるのは、いつになるのか。
それを身構えて一日を過ごしていると、何事もなく、一日が終わる。
――あれ以来、社に行っても、八坂が姿を現すこともない。
一人で行ってしまったのだろうか?
そう思うと、恐怖と、焦りと、失意と、そして喜びが、心の中から湧いてくる。
結果、何をしたらいいかわからない。
友人一同に、『引っ越します』メールを打とうとして、慌ててそれを取りやめたこともある。
幻想郷にいつ行くかもわからないのに、こんなメールを打たれても相手が困るだけと考えたのと同時に、果たして、その程度で、己の中の全てを断ち切ることが出来るのか、疑問に思えたからだ。
結局、毎日、どこか無気力に過ごしてしまっている。
何をすればいいのかわからず、何をしたらどうなるかもわからず。
両親にすら『何かあったのか?』と心配される早苗に、声がかけられる。
「だからさー、ちょっと」
「はっ、はい!?」
「早苗、話、聞いてた?」
「あ、いや、その……」
「ったくもー。頼むよ、ほんとに」
呆れたもんだ、と彼女は肩をすくめてみせる。早苗の友人だ。
「あんた、自分で『主役やる』って言ったんだから」
教室の中は、にわかに活気付いている。
もう授業は終わり、一日の学業から解放されたにも拘わらず、部屋の中に残ってるものは多数。
――もうじき、文化祭。
早苗たちの通う学校は、少しだけ、他の学校とスケジュールをずらして、これが開催される。
秋の盛りの、涼しくなった頃の方がいいという派と、まだ少し残暑の残る熱気の中、その熱気の力を借りて盛り上げようという派が対立し、後者が勝利を収めたためだ。
生徒一同には、『暑いのはやだけど、ほかと日程がかぶらないから、友達を呼びやすくていい』とおおむね好評である。
「あ、ああ。うん。ごめん」
早苗たちのクラスは、今回、自作の劇を発表することになっていた。
というのも、クラスの男子どもが、『校内人気投票トップ3より落ちたことのない東風谷さんこそ、俺達の売りだ!』と強硬に、劇の開催を推したためである。要するに、男どもは着飾った早苗を見てみたいがために、そんな出し物を用意してきたというわけだ。
ちなみに、劇の内容は、完全にオリジナルである。クラスの中に、将来、劇作家を目指しているものがいて、『今度、劇団に出すネタなんだ』とすでに台本すら用意されているという用意周到さである。
「えっと……今、どこだっけ?」
「シーン3の10行目」
隣の女の子が、早苗にそっと耳打ちしてくれる。
ありがと、と視線で礼をしてから、その部分へと視線を向ける。
「はーい。それじゃ、次のシーン行くよー」
劇のタイトルは、『石になった王女様』。
内容はというと、ヒロイック・サーガの系譜に連なるものだ。
貧しい家に生まれ育った、器量よしのヒロインが、とある国の王子様に見初められ、結婚する。
しかし、幸せだった時間は長く続かず、身分の賎しいヒロインのことを快く思わない、王子の母親(つまりは女王)が彼女を追い払って自分のお気に入りと王子の再婚を画策するのだが、ヒロインはその見目麗しさもさることながら気立てもよく、貧富の差に苦しむ王国の民を救い、彼らから絶大な信頼と人気を獲得していく。
結局、正攻法ではどうにもならないことを知った女王はヒロインに『生きながらにして石になる』呪いをかけてしまう。
王子は八方手を尽くして、その呪いを解く方法を探すのだが、そのような方法は見つからない。
ヒロインは日々、石になりつつも、気丈に王子を支え、王国の発展に尽力し、やがて、多くの人々に見守られながら石像となってしまう。
ここで、普通のヒロイック・サーガであれば王子の愛のキスか何かで王女様は救われ、意地悪な女王は城から追い出され、二人は幸せに暮らしましたとさ、めでたしめでたし、なのだが、ここからが血みどろの惨劇の始まりである。
王子はまず、このような事態を招いた元凶である自らの母親に刃を向け、彼女を殺害する。
ヒロインを慕っていた国の民が、『あのお優しい女王様がここまで変貌されたのには何か理由があるはずだ』と勝手な妄想に取り付かれ、女王が王子と結婚させようとしていた、彼女のお気に入りの女が怪しいと王子に進言する。
ヒロインを失った失意と悲しみから、王子は精神に変調をきたしており、その女性を国民の前で火あぶりにする。
この女性というのが、この王国と長年親しい間柄にあった隣国のお姫様であったから、さあ大変。
隣国の王様は激怒し、王国へと戦争を吹っかけてくる。王子も当然、これに応戦し、全臣民一丸となっての玉砕作戦の末、両国はともに滅亡。
何千人という人々の血が流れた末、生き残った王国の民が、『そもそも、王子がヒロインに現を抜かさなければこんなことにならなかった』と石像となったヒロインを壊してしまおうとするのだが、やはり生き残りの隣国の民がそれを止め、『愚かな妄想と嫉妬の末に、我々の国は滅びたのだ。これを戒めとして、未来永劫、残していかなければいけない』と言ったところで場面転換。
数百年後の世界において、変わらぬ美しさと慈愛を宿したヒロインの石像は、『亡国と傾国の戒め』として、未来永劫、語り継がれ、奉られるという救いのないエンディングを迎える、というものである。
当然、ヒロイック・サーガを信奉する女の子たちからは大ブーイングだったのだが、『現実はそう甘くない。敷かれたレール以外を走ろうとした結果、大変な結末になってしまった事件は歴史に枚挙に暇がない』と、学校一の秀才青年が実際の歴史なんかを取り上げて擁護したりするもんだから、それに感銘を受けた教師が『歴史の勉強にいいかもしれない』とGOサインを出すという始末であった。
だーれもヒロイン役に手を挙げない中――散々な目にあわされる上に中盤以降、お役ごめんになるのだから当然だ――、先日の八坂との一件以来、魂が抜けたかのように何事にも虚ろな早苗に教師が『東風谷、お前、ヒロインをやってみるか?』と声をかけたが故の、早苗の抜擢であった。
――閑話休題。
そういうわけで、現在、早苗のクラスでは劇の練習中。
色々不平不満を抱えつつも、『一度決まったことなのだから』と、皆、一応、やる気を出しての練習が始まっている。
「早苗のキャラじゃないのに、うまく演じるもんよねー」
友人の一人から、早苗はそんな風に声をかけられる。
え? と振り返る彼女に、『だってさー』と、
「こんな悲劇のヒロイン、あんたらしくないというか」
「あ、わかるわかる。
早苗の場合、何かあったら『自分を信じて正面突破! ちょっとやそっとの艱難辛苦、乗り越えて踏み倒す!』って感じ、するしね」
友人たちから向けられる評価に、早苗もさすがに苦笑い。
自分は普段、一体、どんな印象を彼女たちに持たれているのか。
日頃の振りを、少し見直そうと考える早苗である。
「う~ん……。
何というか……『やる』って言っちゃったから」
「まぁ、確かにあの役はやりたくない」
「徹底した悪役の分、女王のがマシだよね」
女の子とは、いくつになっても白馬の王子様とのラブロマンスを夢見る生き物なのだ、と彼女たち。
それについては特に異論もないため、早苗も無言となる。
「まぁ、ほら。
誰かがやらなきゃいけないんだし」
「そりゃそうだ」
「文化祭終わったら、みんなで打ち上げやろうぜー」
このとんでもない劇の鬱憤晴らしも兼ねて、と。
彼女たちの言葉に、早苗も笑顔を見せる。
しかし、笑いながら、彼女自身、その笑みがどこか白々しいものだということを感じていた。
何をしていても、やはりどこか、上の空。
真面目に練習をしようと考えているのだが、頭の中では、先日の八坂とのやり取りが繰り返される。
――たとえ、恐れられ、疎まれたとしても、信仰を集めてさえいれば……。それってどうなるんだろう……。
つと、思う。
この悲劇のヒロインは、劇の中で、永遠に、人々から恐れられ、疎まれながらも、永久に、人々の関心を集め、畏れられることとなる。
それは、言葉を言い換えれば興味関心を飛び越えた注目――信仰心を獲得しているということになる。
民に益なす神ではなく、恐れ、畏れられる祟り神として。
祟り神とはいえ、神は神。己を恐れ、敬うものには祟りは下さない。己に不敬を働き、無礼を見せたものに、身の毛もよだつような祟りを与え、もって彼らを己の『信徒』とする。それが祟り神だ。
八坂は祟り神ではない。
しかし、もし、祟り神に変じて、己を信仰しない愚かな人間たちに祟りを下すようになったら?
彼女の機嫌を損ねまいと、大勢の人々が、彼女を信仰するようになるのではないだろうか。
それは人間の浅はかな考えではあるが、そうした信仰の獲得だって、選択肢としてはありのはずである。
八坂はなぜ、信仰心を失った人々を祟ろうとはしなかったのか。
もしくは、祟りはしたものの、その祟りすら人々が忘れてしまうほどの、弱い祟りしか与えなかったのか。
「八坂さま、わたしは……」
と、つぶやいたところで、ぐっ、と体が前のめりになってしまう。
「はぅあ!?」
べしっ、という音とともに、早苗さん、顔面から転倒。
『石になるヒロイン』を再現するために、足に、動きを固定するギブスをはめての練習である。
当然、普段通りに動かない体なのだから、注意しなければこうなってしまう。
「早苗、大丈夫!?」
「東風谷さん、大丈夫ですか!」
「あ、あー、うん。大丈夫、大丈夫……」
「大丈夫じゃないって! 鼻血出てんじゃない! 保健室!」
「あ、そ、それじゃ、わたし一人で行ってくるから」
普段、仕事のない保健委員(男子)が『俺に任せとけ!』と本気になろうとした矢先に、早苗は彼の出鼻をくじいてしまう。
彼は寂しく『……いってらっしゃーい』と彼女を送り出し、周りの友人一同(野郎のみ)から肩を叩いてもらえた。
「あいたたた……」
真っ赤なティッシュペーパーが実に無様。
彼女の見た目は、先に話にも出たが、『学内人気投票』でトップ3から落ちることのない見目麗しさなのだから、その鼻血がマイナス方向にすさまじいアクセサリーとなっていた。
階段をくだり、保健室に入ると、保健教諭が『大丈夫?』と心配そうに早苗を見る。
仕方がないので、鼻血が止まるまでは、眉間のあたりを押さえつつ、鼻栓である。
「うぅ……なひゃけない……」
手鏡を見れば、実に情けない己の顔が、そこに映っている。
ぶつけた鼻の辺りは真っ赤。違う意味でも真っ赤。それにアクセントとなる鼻栓。
美少女度8割くらいダウンであった。
はぁ、と小さくため息。
――わたしは、一体、何をどうしたらいいのだろう。
そんなことを問いかける。
天井を見上げても、返ってくる言葉は何もない。目を閉じ、八坂に声を投げかけても、返事もない。
社に行っても気配もなく、にしては、まだ己の『力』は使うことが出来る。
八坂はどこにいるのか。
近くで見ているなら、迷っている自分に、何か道を示して欲しかった。
普段から、たくさんの信仰心を与えてきたのだ。それくらいの見返りがあってもいいじゃないか。
少しだけ、そんな風に、傲慢な考えを浮かべてしまう。
これを八坂の前で言おうものなら、1時間は正座でお説教だ。いないからこそ、出来る愚痴であった。
「……まだかなぁ」
手鏡をもう一度、覗き込む。
鼻栓を軽く引っ張ってみる。血があふれてくるということはなかったが、まだ、鼻の中に差し込んである部分には、新しい赤い血がついてくる。
もう少し休憩が必要だ。残念ながら、それを再確認し、小さなため息をついたところで、
「……?」
手鏡に、もう一人、人が映っていた。
小さな少女。
年齢は、10歳か、その程度か。
見たこともない古風な衣装を身にまとう彼女は、早苗が自分を見ていることに気付いたのか、一瞬、驚いたような表情を浮かべた後、にっと笑って手をひらひらと振った。
そして、口パクで、『怪我には気をつけなよ、早苗』と言った。
「!?」
振り返っても、誰もいない。
もう一度、手鏡を覗き込む。
鏡の中に映る少女は、退屈そうに、一度、大きく伸びをした。
そうして、早苗に視線を向けると、その瞳を細くする。それは、八坂が時折見せるような、魂の奥までを見透かすような視線とは違う。
早苗の全身を嘗め回し、観察する『興味』の瞳だ。
慌てて、彼女は手鏡の蓋を閉じた。
何度も何度も、深呼吸を繰り返す。そっと、自分の後ろに手を伸ばすのだが、やはり、誰もいない。
一度、喉を鳴らしてから、恐る恐る手鏡を開いて、覗き込む。
中に、誰も映っていない。早苗以外。
「……気のせい?」
気のせいにしては、リアリティのある映像だった。
何より、あの少女は早苗の名前を知っていた。声こそ聞こえなかったものの、あれは確かに『早苗』と言っていた。
――鏡の中に、その場にいないものを見るのは、一度や二度ではない。
それは時に八坂であったり、全く違う幽霊や亡霊の類であったり様々であったが、あの少女を見るのは、今回が初めてだった。
なぜ、初対面の相手が、早苗のことを知っているのか?
「……いないよね?」
もう一度、後ろを振り返る。
そこには、当然ながら、誰もいない。
背筋を冷たいものが流れ落ちるのを感じる。
恐怖と不安、そして――。
「東風谷さん、もうそろそろ大丈夫じゃないかしら?」
「はっ、はいっ!?」
声がかけられ、保健の教諭が姿を見せた。
彼女は、「何よ。人をお化けみたいに」と憤慨してみせた後、にこっと微笑んだ。
「疲れてるんじゃないの?」
「あ、いえ。そんなこと……」
「そう?
無理をしたらダメよ」
美人で優しい彼女を目当てに、保健室に通う男子がいるという噂を、早苗は聞いている。その噂が、『噂じゃないんだな』とこの時、早苗は思う。
確かに、こんな風に、優しい笑顔で笑って生徒を慮ることが出来るなら、男性だろうと女性だろうと人気が出ることだろう。
早苗は彼女にお礼を言って、立ち上がろうとする。
「鼻血は止まったみたいね。
まぁ、鼻血で流れる血は、体にとって不要な血だから、あんまり大事になることはないけど。
あなたは女の子なのだから、貧血には気をつけてね。今日は早めに帰って、ゆっくり休みなさい」
「はい」
教諭は彼女を止めなかった。
鼻栓を抜いても、新しい血は流れてこない。とりあえず、一難は去ったようだった。
ぺこりと相手に対して頭を下げて、早苗は保健室を後にする。
時計を見ると、保健室に駆け込んでから30分ほどが経過していた。
時間が過ぎるのが早い。
それを身を持って体感しつつある早苗であるが、こんなときくらい、もっと時間の過ぎるのが遅くてもいいのにと、思わず愚痴をつぶやいてしまう。
保健室を後にした彼女は、足早に教室へと戻った。
「みんな、遅くなってごめん……」
引き戸を開けて、なるべく明るい声を上げようとして。
早苗は、その場に硬直する。
「『姫。その体では、もう、民の前に出るのは無理だ。頼む、休んでくれ』」
「『いいえ、王子。私は大丈夫です。
私の体はまだ動きます。私は、まだ、笑顔を人々に向けられます。ただそれだけで、彼らは安堵するでしょう。
私とて、この国を愛するもの。この国のため、最期まで尽くさせてください』」
「『だが、それでは、私はどうしたらいいのだ。
私は姫を失ってしまう。姫よ、私は君を失うのはいやだ。
今、よい医者を探している。彼が見つかれば、君は助かる。それまで、どうか、その命を大切にしてくれ』」
「『王子よ。ありがとうございます。
ですが、私にとって、私の体を大切にするということは、私や、王子、あなたを含めた国のものを愛し、尊敬し、慕ってくれる民のために尽くすということなのです。
私はこの国を愛しております。故にこそ、この笑顔を民に届けさせてください』」
劇が進んでいる。
ヒロイン役の早苗がいないのに。
別の少女が、ヒロインの位置に居る。
――……あれ? 何で?
立ち尽くす早苗。
誰も、彼女に気付かない。彼女がそこに立っていることすら、気付かない。彼女の存在そのものが、そこから消えている。
理解が出来なかった。
同時に、とても息が苦しくなった。
胸が痛くて、吐き気を催してしまう。
それをぐっとこらえて、彼女は、「ただいまー」と、明るい声を上げて教室の中へと足を踏み入れる。
瞬間、ぐるんと世界が回転した。
それは比ゆではない。
早苗の見ている世界そのものがぐるりと回転し、風景が、人々が、存在そのものが正逆回転した。
自分の足場を失い、ふらつく足とぐらつく頭のせいで、早苗はよろめいてしまう。
「早苗、大丈夫!?」
地面に倒れる瞬間、それを支えてくれた相手がいた。
入り口のすぐ側で、大道具を作っていた少年が、彼女を心配そうに見つめている。
声を上げたのは、彼と一緒に、その大道具を作っていた少女だ。
「あ、ああ……うん。ごめん。ちょっと貧血になってたみたい」
「あんた、顔色悪いよ。真っ青」
「今日の劇の練習、中止にする?」
「早苗抜きで……」
「だ、大丈夫だから!」
なぜか、その言葉が異様なくらいに怖かった。
慌てて声を上げる早苗に、友人たちが、『だけど……』という視線を向ける。
早苗は気丈に胸を張って、その場に立ち上がると、「わたしなら大丈夫!」と笑顔を浮かべた。
クラスメート達は、そこまで言う彼女を否定するつもりもなく、「じゃあ、なるべく、今日は早めに切り上げよう」と言って練習を再開する。
早苗もその場に加わり、劇のヒロインとしての大役を努めるべく、練習に熱中する。
――さっきの光景は、何だったのか。
未だ、脳裏に残る、あの光景。
早苗がその場に存在していない、それにも拘わらず、誰もそれに気付くことなく、早苗がいた場所には別の人物が割り当てられている、あの光景。
何がどうなって、どうしたら、あんな夢を見るのか。
――そう。夢だ。あれは夢だ。悪い夢だ。そうに決まっている。
早苗は、記憶の海の中へと、悪い夢を放り込んだ。重りをつけられて沈んでいくそれを見送って、『よし』と彼女はうなずく。
「えっと、次のセリフ、次のセリフ……」
「早苗、台本くらい覚えてきてよ。いい加減」
「うぐぐ……。だ、だって、ヒロインってセリフが多くて……」
「王子様なんて出ずっぱりだよ。
しかも最後なんて、『姫を奪った悪の国を滅ぼせ!』って、声を裏返して絶叫しないといけないんだし」
「お前の印象、絶対変わるよなー」
「女の子が近づかなくなるなー」
「俺たちはお前を歓迎するぜ!」
「うっせー! だったら、誰か俺の役をやってみろ!」
『だが断る』
最初は優しく、笑顔が似合う二枚目ヒーローの王子様は、劇の終盤には悪鬼のごとき形相で口から呪いの言葉を吐き、あらゆるものを悪と断罪する気狂いへと化ける。
それを演じなければいけない彼は、『俺、籤運悪いんだよな……』と、配役が決まった日には肩を落としていたほどだ。
「……まぁ、それに比べたら」
「でしょ?」
「東風谷さん、そりゃないよ……」
「東風谷さんといっときのラブロマンスが楽しめるんだ。それが褒美だぜ」
「頑張れよ」
「あとでお前ら覚えてろ」
にぎやかな劇の練習は続く。
早苗も、何とかかんとか自分の役目をこなし、少しずつ、劇の出来は高まっていく。
よしよし、この分なら、今年も成功だ、と。
その時、誰かがそう言った。
夢を見る。
その世界では、彼女の存在は希薄なものだった。
朝起きて、両親に『おはよう』と声をかける。すると、彼らは一瞬、彼女へと視線を硬直させてから、『おはよう、早苗』と声をかけてくれる。
その後に決まって、『いやぁ、誰かと思った。うちの早苗も、ずいぶん美人になったもんだ』と場を濁すようなことを言って、彼らは笑う。
彼女はそんな両親に『もう、冗談やめてよ』と笑いかける。
違和感だけが残る。
何かがおかしい。
彼女は、心の中でそれをつぶやき、その日も変わらず、『行って来ます』と学校に向かう。
学校でも、彼女の居場所は希薄になっていく。
教室の入り口をくぐり、『おはよう』と声をかけると、クラスメート達は彼女を見て、一瞬、言葉を失う。
彼らから向けられる視線。
それは、『え? 誰?』という薄まった意識。
少ししてから、『ああ、何だ。早苗か。見間違いか』と、彼らは安堵したような表情を浮かべて、『おはよう』と言葉を返してくれる。
それが、徐々に悪化していく。
両親が、彼女の言葉に反応するのに時間がかかるようになった。
友人たちが、彼女の存在を認識するのに、とても時間がかかるようになった。
学校への通学路を歩いていくと、まるで彼女がいないものかのように、彼女の脇を、トラックが猛スピードで駆け抜けていく。
横断歩道を渡ろうとしたら、停車していたタクシーがいきなりドアを開き、それに跳ね飛ばされる。
電車に駆け込めば、乗客は彼女の言葉に耳を貸さず、何度も目的の駅を乗り過ごす。
どんどん、彼女の存在がなくなっていく。
彼女は『これは夢だ』ということを知っていた。
薄い意識。薄い存在感。薄い記憶。
全てが現実に存在しない、薄い、希薄な気配だけ。
それは、夢の世界。
彼女の思い通りに動かすことの出来る、彼女にとっての理想郷。
その理想郷の中で、彼女は日常を過ごしている。
いつもと変わらぬ日常を現実世界で繰り返し、夢の世界で、それをリピートする。
夢と現実の境目が希薄になっていく。
今、自分がどちらの世界に居るのか、それがわからなくなってくる。
ある時は現実を、ある時は夢を。
彼女はそれぞれを体験し、それぞれを脳に記憶していく。
その記憶は混濁し、境目を失った世界が、夢と現実の双方に浸食されていく。
今、見ているものがどちらにあるのか。
今、自分は夢の中に居るのか。
今、触れているものは、現実なのか。
どんどん、わからなくなってくる。
わからなくなる理由は簡単だ。彼女はそれを認識している。
そのどちらもが、希薄なのだ。
現実感が全くない。
己の存在そのものが薄まっていって、夢なのか現実なのかがわからなくなる。曖昧になる。
確固たる意思とアイデンティティ、強いリビドーを持ったものが『現実』であるとするなら、夢はその正反対となるべきだ。
だが、今、それが揺らいでいる。
形を失った現実はたやすく溶けて壊れていく。
夢が現実の中に滑り込み、混ざり合い、分離できないものとして融合していく。
しかし、それは夢であり、現実ではない。
混ざり合った『何か』から現実を取り出そうと、必死に彼女はあがくが、それは決してかなわない。
夢は確固たる形を持って、壊れた『現実』というパズルを埋めている。
その『夢』というピースを取り外せば、『現実』が壊れていく。
形の合うピースを探そうとしても、見つからない。
そこには『夢』しか当てはめることが出来ない。
取り外した『夢』が笑う。
『どうだい? 俺がいないと、君はここにいることすら出来ないんだよ』
憎らしく、いやらしく笑う『夢』。
しかし、それはもはや夢ではなく『現実』であった。
『現実』へと姿を変えた『夢』は、もはやそこにあった『現実』に成り代わり、己の存在が『夢』ではないことに歓喜していた。
彼を追い出そうとしても、彼女にそれはできない。もはや『現実』が顕現してしまったものを『夢』と追い払うことは、彼女自身が『現実』を壊してしまうことになるのだから。
否定しても否定できない。抗っても抗いきれない。
自分に与えられた、特殊な力を持ってそれに抗しようとしても、『現実』は彼女を嘲笑う。
戻ることの出来ない、何度目かの『夢』の果てに、彼女は少女の姿を見た。
彼女の持つ、『夢』のパズルを組み立てる少女。
少女は彼女を見て、言う。
『お前は馬鹿だねぇ』
悪意はなく、純粋な興味という笑みを浮かべて。
『せっかく、今まで拠らざるを得なかった偽神から離れられるときが来たと言うのに。
なぜ、あれについていこうとするのかねぇ』
けらけらと笑う少女は、手にしたピースを握りつぶす。
瞬間、彼女の周囲の世界が崩れて、真っ暗闇の世界が現れる。
『残っていればよかったのに。義理を尽くす必要なんてないのに。
お前の中に宿る力は、お前の力であるのに。
神に義理立てとしたところで、神はいずれ、たやすくお前を捨てると言うのに。
神ってのはそういうもんだよ。
立派な神様ほど、情にとらわれず、ただ、神の倫理にのみ沿って動く。
そいつは何も間違っちゃいない。神として、誰からも尊敬を集める神だ。
だが、人間の体から見ればどうだろうね?』
ずきん、と下半身に激痛が走る。
その痛みは全身に広がり、脳髄を焼き、神経細胞一つ一つを破壊していく。
下腹部に集中する激痛に、彼女は呻いて身を折る。
『お前は神より出でて神を孕みし神の子なり。
人ならざりて神あらざれば、すなわちそれ、現人神なり。
人の世に生くるをなさず、神の世に招かれざる哀れな偶像よ。
わたしだけが、お前を受け入れてやることが出来る。お前は我が子であり、わたしはお前の子となろう。
――どうだい? 今からでも遅くない。一緒に暮らそうじゃないか。この世界で。永遠に。楽しいよ。絶対にね』
苦痛に呻く彼女の元へと、少女は歩み寄る。
『痛み。それはお前が今、感じている現実だ。
希薄に成った世界と、混じりあった存在の中で、お前が確かなものとして認識できる。
感情だ。
あらゆる生き物の根底をなす概念だ。
精神だ。
肉体という汚れた器の中に宿る、無謬の存在。
神だ。
あらゆる物を捨てて、あらゆるものを手に入れた、至上の存在だ。
お前は神になることが出来る。
全てを捨てて、全てを手に入れろ。
それが出来るか?
痛みに耐えて、全てを失うことを選ぶか?
傷みを乗り越えて、全てを手に入れることを選ぶか?
もうすぐ全てがなくなってしまう。
その時、お前は悲しむだろうね。
わたしは、そんなお前が見ていられないよ。
だから、今、ここにいるんだ。
わたしはお前を救いたいんだよ? 信じてくれるかい?
さあ』
差し出される、小さな掌。
痛みに歪み、にじんだ視界にも、それはくっきりと映し出された。
手のつながる先を見上げると、少女の笑顔がある。
それはとても優しく、慈愛に満ちたものだった。
何だろうと、彼女は思う。
この笑みを、彼女は見たことがあった。
考えていると、痛みが薄れて、消えていく。
遠い過去に去った記憶。しかし、壊れずに連綿と続く渦と糸。
その流れに抗わずに手繰り寄せたそれに、彼女は『ああ』とうなずく。
母親だ。
お母さんだ。
たとえどんなことをしようとも、決して、敵に回らず、守ってくれる人の顔だ。
そんな人が、どうしてここに?
悩んでも、わからない。
だが、それはとても温かい。
差し出される温情にすがってしまう。
向けられる愛情に手を伸ばす、その瞬間、彼女の中で、誰かが叫ぶ。
『その人の手を取ってはいけない!』
瞬間、電撃のような激痛が脳を弾いた。
息すら出来ずに彼女は倒れこみ、悲鳴すら上げられずにもがく。
ちっ、という舌打ちが聞こえる。
『残念だよ。
お前の世界が壊れていくのを見るのが辛くて、こうして出てきたというのに。
お前は未だに、この世界にすがり続けている。
どうして、こうなのか。
だけど、それがお前の選択肢。わたしは何も言わないことにしよう。
お前があえて、苦しみと絶望に足を浸すというのなら、わたしはそれを見守っていよう。
開かれた苦難の箱の中に、本当に希望が残っているといいねぇ?
もしも残っていなくても、安心するといい。わたしがお前に、最後の希望を提示してやる。お前が安堵して暮らせる世界を、お前がお前として存在できる場所を、わたしが必ず作ってやるよ』
くすくすと笑いながら、少女は踵を返した。
痛みは、まだ去らない。
全身が熱い。痛みで気が狂ってしまいそうだった。
どこからともなく、何かが壊れていく音が響いてくる。それはどんどん近寄ってきて、耳障りな騒音となっていく。
助けを求めて必死に伸ばした手。
何もつかめず、ただ闇しか掴むことの出来ない手。
彼女は歯を食いしばる。
負けてなるものか。
こんなところで、倒れてなるものか。
己の力と己の意思と。
己の全てをつぎ込んで、今まで自分は生きてきたのだ。
絶対に、負けてなるものか。
痛みをこらえ、意識を破壊する騒音を押しのけるために、彼女は絶叫する。
その時、確かに、伸ばした手を誰かが掴んだ。
顔を上げると、そこに、誰かの笑顔が見えた。
――誰?
それを問いかける間もなく、それは消え、一瞬の間に、包まれた闇が晴れていく。
体を蝕む痛みも、音も消え、溶けた夢が形をなして、現実によって駆逐されていく。
体が浮かび上がり、淡い光に包まれる。
温かい、優しい光。
彼女の顔に、ようやく笑顔が戻った、その瞬間。
ぼたりと、何かが体から抜け落ちた感覚があった。
視線を下に向ける。
彼女の体から落ちた粘液が、何かを包み込んでいる。
小さな体。小さな姿。
しかし、彼女はそれを知っている。
それは蠢き、形をなし、彼女を見て、にっこりと微笑んだ。
『おはよう。早苗』
絶叫とともに、彼女はベッドの上に飛び起きる。
全身を、いやな汗がぬらしている。
あまりの汗の量に、ベッドの上に人型の染みが浮かんでいるほどだった。
「何……今の……」
外から、どんどんと、ドアを激しく叩く音が聞こえる。
鍵が外から開けられ、母親が「どうしたの!?」と飛び込んできた。
「ああ……うん……。
ごめんなさい、夢見が悪くて……」
彼女の顔は真っ青で、憔悴しきっていた。
母親は、そんな彼女を見て、『今日は学校を休んで、一日、家でゆっくりしていなさい』と声をかける。
しかし、彼女は『大丈夫だから』と笑顔を浮かべて、立ち上がる。
足もふらつくことはなく、あんな異様な夢を見た後だというのに、寝起きの体は爽やかであった。
大丈夫だから。
もう一言、笑顔とともに告げた彼女の言葉に、母親は納得いかずという顔のまま、部屋を後にする。
しんと静まり返る部屋の中。
彼女は下腹部に手をやると、寝巻きの下と下着をずり下ろす。
「……何もないよね」
鏡に映された、彼女の下半身に、特に違和感は見受けられなかった。
頭が痛い。
体が重たい。
世界がぐらぐら、回っている。
やはり、あの夢見の悪さは相当なものだった。
母親の前では強がってみせたものの、精神的なダメージはかなりのものがあった。肉体のダメージがないだけに、その違和感はとても強い。
誰が見ても『無理してる』と思える姿をさらしながら、彼女は道を行く。
学校に近づくに連れ、徐々にだが、周囲の雰囲気が変わってくる。
――今日は文化祭当日。休むわけにはいかない理由の一つ。
「主役がいないんじゃ、かっこつかないしね……」
これが終われば、文化祭明けの休日がやってくる。
友人たちには悪いが、その日は寝て過ごそうと、早苗は思った。
さすがに、これほどまでに心にダメージを受けていては、友達一同そろっておおはしゃぎ、のノリにはついていけそうになかった。
「おはよ~」
がらっと引き戸を開けて、教室内へと顔を覗かせる。
劇の準備に大忙しなクラスメート達は、一様に、早苗を見て、『あんた大丈夫!?』と声をかけてくる。
彼ら、彼女らに『大丈夫、大丈夫』と気丈に笑ってみせて、手にした荷物は自席の上に。
「そんなことより、今日は本番なんだから。
頑張ろうよ」
にこっと笑った彼女に、級友たちは、皆、困惑したような顔を浮かべるものの、本人が『大丈夫』と言っている以上、それ以上の口出しは控えられるのか、『そうだね』と誰からともなく答えを返してくる。
あとはもう、早苗のことになど誰も触れず、ただひたすら、本番に向けての最終調整を始める。
劇に出るものはセリフと仕草を最後までリハーサルし、大道具小道具担当の者たちは、劇を彩る装飾品に不備がないかの確認に努める。演出担当の者たちは、台本を片手に、このタイミングで大丈夫か、色や音の指定に問題はないかと、詰めの調整を行なっている。
早苗も皆に混じって、台本のセリフを頭の中へ叩き込んでいく。
これまで、セリフもなかなか覚えられないと笑われてきたのだ。本番を迎えたら、その汚名、返上してやろうと彼女は意気込んでいた。
少なくとも、劇に集中している間は、体を包む不快感を忘れられそうだった。
――客の入りは上々。前評判は微妙だったものの、いざ、劇が始まってみれば、自分と同年代の者達が頑張っているということで、観客は皆、好意的に彼女たちを見てくれる。
大人たちは残念ながら、眉をひそめる者達も多い。子供づれの母親は、前半だけを見させて退出している。
それでも、ステージとして割り当てられた体育館には、その6割ほどの席が埋まっている。
「まぁ、いい感じなんじゃないかな」
ステージの袖で舞台の成り行きを見守る少女が一人、つぶやいた。
劇はいよいよクライマックス。
隣国との血で血を洗う戦争のシーン。
小道具として用意した血のりを、これでもかとぶちまけて、絶叫と悲鳴、怒号が飛び交う壮絶なシーンが展開されている。
観客の中には目を覆ってしまうものも居る中、争いは終幕へと向かっていく。
「早苗、そろそろ出番。大丈夫?」
「うん」
特殊メイクに、遠目には石像に見えるような衣装に着替え、顔にもぺたぺたと絵の具を塗られていた早苗が立ち上がる。
――その瞬間、わずかにだが、世界が暗転する。
立ちくらみ? めまい?
頭の中で遠のく意識の中、彼女は首をかしげて、暗がりの中に一匹の蛇がいることを確認する。
その蛇は、ちろちろと赤い舌を出しながら、早苗を見つめていた。
――世間一般に、蛇と聞いて思い浮かぶ神は『ヤマタノオロチ』だろう。そのせいで、蛇は邪神と認識されているのも、また事実だ。
しかし、本当は違う。
蛇は竜神の一種であり、水と山を司る格と徳の高い神である。
そのご利益は計り知れず、もっと大々的に、『よき神』として祀られればいいのにと、早苗はいつも思っていた。
その蛇が、早苗を見つめている。
これは恐らく吉兆だろうと、彼女は安堵した。
蛇はその場で、一度、ぐるりと体を巻いた後、闇の中へと去っていく。その向こうにちらと見えた光の中へ蛇が飛び込んだ瞬間、再び世界がひっくり返り、元の色が返ってくる。
「出番だよー」
響いた声は、どこか遠くから。
しかし、意識を無理やりに引きずり戻して、早苗は舞台へとあがっていく。
交代に、全身真っ赤の友人たちが戻ってきて、「ひっどいよなー、これ」と笑っていた。
彼らに『お疲れ様』と声をかけて、早苗は舞台へ。
用意されている台座の上に上がって、指定されたポーズをとる。
舞台の上に役者がそろったところで、下りていた幕が、『それから数百年の時が流れ、滅びた王国と隣国が、かつてあった場所には平和と平穏の象徴である花畑が造られております』というナレーションとともに上がっていく。
ぱっとスポットライトが当てられる。目を閉じていても伝わるそのまぶしさに、早苗は少しだけ、顔をしかめた。
「『これが、かつては栄華を誇った国の末路か』」
「『何と哀れなことよ。見事に何もない』」
「『残ったのは、この、忌まわしき石像ばかり。
魔性の魅力で人心を惑わせたと伝えられているが……』」
「『おや、そのような噂が?
私のところでは、彼女は王国の秩序と繁栄の維持に尽くし、その身を国のために捧げたと伝わっているよ』」
「『ははは、なるほど。
人の見方など多数ある。一つの側面ばかりが真実ではないということか』」
「『それにしても、なんと優しく、美しい顔だろう。
彼女は今、何を思って、この世界を見つめているのだろうか』」
「『さあ。それは我々にはわからぬよ。
我々に出来ることは、彼女の冥福を祈ることと、二度と、同じ過ちを繰り返さぬよう、彼女に誓いを立てることだけだ』」
王子役の少年の必死の訴えで、エンディングシーンに出てくる『民A』と『民B』のうち、『民A』に彼は割り当てられていた。
悪鬼のごとき所業をなした王子によく似た人物が、かつての過ちを反省し、それを繰り返さぬ誓いを立てるというのは、皮肉で物悲しいが、それゆえ、観客の心によく残るということで、そのキャスティングは受け入れられている。
目を閉じている早苗には、外の様子はわからないが、少なくとも、観客たちは彼らの演技を受け入れて、それに共感を得ているような空気は伝わってくる。
「『やあ、他にもたくさんの人々が訪れている。
あまり長居すると、彼らの邪魔になってしまうだろう』」
「『悲しき咎を背負った姫よ。
我々は貴女のことを忘れることなく、その歴史を胸に刻むことを誓いましょう』」
エンディングとしては後味の悪い、切ない音楽が流れながら、役者二人が舞台を降りていく。
早苗の役目もこれで終わり。
幕が閉じられれば、劇は終了となり、石の呪いは解かれることとなる。
灯りが徐々に薄らいでいく。
幕が下りてきている。
そんな中、
「『わたしの存在を、皆、心の中に刻んでください』」
唐突に、早苗の口が開いた。
『え?』と自分自身で、彼女は声を上げそうになる。
「『長き歴史を経て、記憶が薄らいでいっても。わたしのことを忘れず、その心の中に留め置いていてください。
わたしはその身に世界の記憶を刻んだもの。
過ごした日々を、過ぎた日々を、無限に覚え、記憶するもの。
わたしは決して、あなた達のことを忘れることはないでしょう。
この身、この姿、この心が後世の歴史の中に埋もれ、消えてしまっても。
わたしはあなた達を、ずっと覚えています』」
口が勝手に動く。
彼女の意思とは無関係に。
降りていた幕が止まっている。
観客の視線は、早苗の元へ集まっている。
「『去り往くものの記憶を忘れることが人の運命とあらば、去り逝くものの姿を心に留め置くことも、また人の運命。
逃れえぬものであり、否定することも出来ぬもの。
形なきものは薄れ、揺らぎ、埋もれ、やがて溶けて消えていく。
形あるものは壊れ、沈み、割れて、いずれ風化する。
人の存在、人の歴史、人の記憶も同じもの。
いずれ消え逝く運命にあれど、それを覚え、語り継ぐものが居る限り、それが失われることはありません。
覚えていてください、皆さん。
わたしという、愚かな人間がいたことを。
わたしという、悲しき姫がいたことを。
運命に抗わず、運命を受け入れたがために、己を失ってしまったものの記憶を。
わたしは――』」
閉じていた瞳を開けて、会場を一瞥する。
人々の視線は、皆、早苗に固定されていた。
彼らの顔を、瞳を、その空気を感じて満足したようにうなずく彼女。
その意思とは無関係に刻まれる仕草と言葉を終わらせるべく、一度、息を吸った――その時。
「っ!?」
会場の一番奥、暗闇の中に、あの少女の姿があった。
彼女はにやにやと笑いながら、早苗を見つめている。
その口が動いて、早苗に言葉を伝えてくる。
『だけど、お前は忘れられることを選んだ。それがお前の選択肢だ。
いくら言葉を束ね、連ね、彩り、虚飾の限りを尽くそうとも、お前の選択肢が覆ることはない。
お前は忘れられる存在となる。それを、その身に刻み、自らの選択に後悔するか、それを正しきものとして誇るか。
それをその瞳で見据えて、選ぶがいい。
始まりは結末より出でくるものなり。結末は始まりあってこそ在りゆくものなり。
その果てに何があるか、何が待っているか。それを、これから、お前はその瞳で見つめていく』
彼女はにこにこ笑いながら、ひらひらと手を振った。
踵を返して、会場の片隅の暗がりへと消えていく。
「『わたしは、あなた達の記憶を、永遠に、この胸の中に刻み続けます。
わたしの中の幸せな記憶として。
――ありがとう』」
幕が下りる。
会場は、拍手の嵐。早苗の言葉に心を打たれた者達が涙を流して手を叩く。
わっと沸くクラスメート達。
舞台の袖から走り出てきた彼らが、早苗を囲んで手を叩く。
「すごいじゃない!」
「あんなの、アドリブでもそうそう出ないよ!」
向けられる笑顔。
浴びせられる賞賛。
悪いものではなかった。
早苗は笑顔になって、『うん、ありがとう』と、彼らに、一人一人に笑いかける。
「あなた、すごいね!」
その瞬間、かけられた声に、早苗は目を見開いた。
「うちのクラスの子じゃないよね!? 誰かの手伝い!?」
「劇団とかの志望だったりする!?」
「すごい、すごい!」
「……え?」
がくんと膝が折れそうになった。
言葉が出てこない。
無邪気にはしゃぐ彼らから向けられる笑顔が、言葉が、全て、何かの冗談にしか思えない。
体から一気に力が抜ける。
それでも、彼女は足を踏ん張って、それに耐えた。
皆にあわせて、『ありがとう』という笑顔を崩さないまま、舞台の袖に戻った彼女は、衣装を着替えて顔のメイクを落とした後、『ちょっとごめん』とその場を後にする。
「……冗談だよね?」
彼女たちは、悪い冗談は言わない。長年の付き合いで、それはわかっている。
みんな、本心から、早苗に言葉をかけていた。
『早苗』の存在を知らないものとして。
「……嘘よ。嘘。悪い冗談……」
教室に戻った彼女は、自席に戻って、鞄を手に取る。
それをぎゅっと胸に抱きしめて、彼女は踵を返した。
人であふれる校内。楽しい雰囲気の満ちる廊下。
それを駆け抜けて、下駄箱へとやってくる。
「……!」
自分の靴が入っている靴箱に、真っ白なプレートが張られていた。
蓋を開けると、己の靴がある。
いじめか? いやがらせか?
それを邪推してしまうほどの衝撃に、彼女はふらつき、手にした鞄を取り落とす。
大きな音が響き、たまたま、玄関をくぐって入ってきた女性が「まあ、大丈夫?」と落ちた鞄の中身を拾い集めてくれる。
早苗は彼女に『ありがとうございます』と頭を下げた。
彼女はにっこり笑って、手を振りながら、校内へと入っていく。
『お前は忘れられる』
あの少女の言葉が、頭の中に蘇る。
恐ろしくなって、彼女は携帯電話を取り出した。
学校の中に持ち込み禁止のこれは、教師に見つかれば、下校まで没収となる。
だが、それを恐れてなどいられなかった。
「ない……! ない、ない、ない、ない、ない、ない! ないっ!」
自分から送った通信履歴は残されている。
だが、着信履歴のところに残されているのは、何もない。
アドレス帳を開いてみる。
全て『名無し』となっている。
番号も、メールアドレスも、全て消えている。
携帯電話の故障か? データが壊れたのか? うん、きっとそうよ。そんなことあるはずがない!
彼女は、走り出した。
校門を抜けて、タクシーに飛び乗ろうとする。
「どうして止まってくれないの!?」
明らかに『空席』の文字を輝かせて走っていくタクシーすら、彼女の前で止まろうとしない。
それどころか、学校へと入ってこようとする客が早苗にぶつかった際、「あれ? 何もないのに。何かぶつかるようなものあるのか?」とつぶやいている。
見えていない。
いや、見えているのかもしれないが、認識されていない。
歯を食いしばった。
必死に走って、彼女は電車に飛び乗った。
自宅近くの駅に電車が止まった後、家まで必死になって走る。
しかし、
「鍵が……!?」
鍵が合わない。
がちゃがちゃと、何度も何度も鍵を鳴らしても、入っていかない。
朝は使えた。そんな短時間に、鍵を変更されるはずがない。
早苗は振り上げた鍵を、地面に叩きつける。
ドアが開いた。
「あら? 誰かいたような……」
母親だ。
彼女の前で、早苗は『お母さん! わたしよ!』と叫んだ。
彼女は、しかし、気付かない。
ドアを閉めようとする彼女を押しのけ、早苗は階段を駆け上がる。
そして、自室のドアを開いて――ただ、立ち尽くす。
「……」
何もない。
小学生の頃に買ってもらった、お気に入りの学習机。
10歳を超えて、ようやく一人で寝られるようになった時に与えられたベッド。
色気づいてきて、たくさんの服を買い揃えた衣装箪笥。
ゲームに熱中したパソコン。テレビ。ゲーム機。
何もかもが、ない。
彼女はその場に膝を落として、愕然とした表情で、その光景を見つめていた。
そうしていたのは、5分か、10分か。
彼女は拳を握り締め、歯を食いしばり、全身の血を滾らせて立ち上がる。
「八坂さまなら……!」
そこには、一縷の望みをかけていた。
彼女なら、早苗のことを覚えているはず。
彼女なら、今の状況を教えてくれるはず。
そう思ったら、黙ってはいられない。
早苗は全力で駆け出し、電車に飛び乗り、あの社へと急いだ。
走って、走って、走って。
息もすっかり上がり、体が疲れてしまっても、その足は止まらない。
「……はぁ、はぁ……」
社の姿は、何も変わっていない。
彼女は社殿へと飛び込み、そして、見た。
「……八坂さま」
神が、そこにあぐらをかいて座していた。
隣には、どこで手に入れてきたのか、上等な酒を持ち、豪快にぐい飲みを空けている。
相手の視線が早苗に向かう。
早苗は、ごくりと喉を鳴らした。
続く言葉を待ち焦がれる早苗に対して、八坂は、笑った。
「しがらみは全て捨てられましたか?」
「……八坂さま」
八坂は、早苗のことを覚えていた。
それだけで嬉しくて、声を震わせ、涙を流してしまいそうになる。
しかし、彼女はそれをぐっとこらえた。
社殿の中に足を進めて、早苗は尋ねる。
「八坂さま。わたしはどうなってしまったのですか」
学校での出来事。
家での出来事。
その全てを語る早苗に、八坂は答える。
「幻想郷に行く用意が調いました。
貴女をそれに招き入れるに当たって、私は、貴女に命じました。全てのしがらみを捨てて来い、と。
ただそれだけです」
「……幻想郷は、世界に忘れられたものが行き着くところ。
そこに行き着くには、全てに忘れられる必要がある……」
「そういうことです」
「……八坂さまが行なったのですか?」
「いいえ」
それについては、八坂は首を左右に振った。
今、それを初めて聞いた、と。
彼女は言う。
神は決して、嘘はつかない。嘘をつけば、その時点で、神は大罪を背負い、その格を一気に落とされる。
そんな愚かなことは、決して行なわない。
「私はあくまで、貴女がそれを行うことを命じました。貴女の周囲が、貴女の環境を整えることなど予想していませんし、また、しろと命じた覚えもありません」
「じゃあ……」
思い出すのは、あの少女。
だが、あの少女は、『お前は忘れられる』と、早苗の未来を予言していたに過ぎない。
……わからない。
彼女は言葉をつぐみ、あの少女のことは黙っておくことにした。
それに、なぜだか、八坂の前でそれを話すのは憚られるような気がしていた。
「残酷なことですが、これは逆に都合がいい。
貴女は私と同じく、此の世に忘れられてしまった。もう、この世界に居る理由もない。
ならば、共に参りましょう」
早苗は座したまま、動けなかった。
唇をかみ締めている彼女に、八坂は優しく告げる。
「……辛い?」
「……はい」
「……悲しい?」
「……はい」
「そう」
八坂は立ち上がる。
「早苗。これは、貴女が選んだ選択です。その結果を、貴女は受け入れなくてはなりません」
「はい……」
「残酷だろうけど、一度、起きてしまったことは変わらない。
事実として、此の世に受け入れられてしまった事象は、どう頑張っても覆すことは出来ない。
そんなことが出来るなら、私は面倒なことをせず、己の信仰を回復させる手段を、別に考えていたでしょう」
「……ええ」
「早苗。
私と貴女は、今、生きながらにして幻想となりました。
もはやこの世界に、私たちの実体をとどめておくことは出来ません。
しかし、貴女の中にある記憶と想い出は消えません。
それを、私はしがらみとは言いません」
ぎゅっと、早苗は拳を握り締める。
ぽたぽたと、雫が落ちる。
「ずっと覚えていなさい。その記憶。忘れることは許しません」
「……はい……!」
「新たな記憶で上書きすることも許しません。
ずっとずっと、覚えているんですよ」
早苗には、もはや声もない。
八坂は社の外に歩み出ると、大きく息を吸い込み、朗々と唄を歌い始めた。
その唄に惹かれるように、周囲の木々が揺れて、大地が鳴動する。
空気がざわめき、空が歪み、世界が大きくねじれていく。
「新たな旅路へと、共に参りましょう。我が神子よ」
何かが砕けるような音と共に、早苗の意識が吹っ飛ばされる。
暗闇に落ちていく瞬間、彼女は確かに、光を見た。
そして、その光の中に、ちろちろと赤い舌を出す蛇を見た。
ぷつっと、全てが途切れる。
彼女には、その時、何も聞こえず、何も見えてはいなかった。
――2――
「おおおおおおおおおおお!」
「うっさい、魔理沙」
「何言ってんだ、霊夢! こんなうまそうな飯、初めて見るぜ!」
「すいません。お招きいただいて」
「あら、気にしなくていいんですよ」
「こちらとしても、人数が多いほうがにぎやかでいい。
お前は、あちらの魔法使いとは違って、礼儀正しい。いいことね」
結局、魔理沙は晩御飯を食べにアリス――彼女の、ある意味、保護者的立場になりつつある魔法使い、アリス・マーガトロイドの家に行くことはなかった。
『行くのめんどくさくなった』と、アリスをこの場に呼びつけたのだ。
もちろん、アリスは、今日のこの宴の事情を聞いて、とっても怒った。
魔理沙はアリスに怒鳴られまくったことなどけろっと忘れて、テーブルの上に並ぶ豪華な料理に目を奪われている。
「……ったくも~。
ごめんなさい、霊夢。邪魔をしてしまって」
「ああ、うん。いいよ。別に。
酒を飲む相手は、多い方が楽しいし」
「あ、わたしは遠慮しますね」
「大丈夫。早苗。あんたに飲ませる阿呆はいない」
料理を作っていたメンツ以外は、すでにテーブルについてお預け中。
諏訪子が「はーらへったーはらへったー、かーなこおそいぞはやくしろー♪」と自作の歌を歌って、神奈子のこめかみに青筋を浮かばせている。
「にしても、とんでもなく豪華ね」
「わたしと霊夢さんが式を挙げたら、両家のお付き合いはますます深まりますから。
やはり、ほら。その家のご両親と仲良くするのが、よい夫婦関係を維持する秘訣だと思いませんか?」
「確かに」
何やら早苗の言葉は違和感満載であったが、普段なら、そこら辺に容赦ないツッコミを入れるアリスも何も言わずに首肯するだけだ。
今の一瞬が、妙に奇妙な印象を与えてくるのを、霊夢は無理やり、振り払う。
「あー、料理がうまい親ってのはいいなー。
私も霊夢のうちの子になろうかな」
「あら、貴女が次の博麗の巫女になるというのでしたら、その発言、前向きに考えますよ」
紫がさらに、大皿に料理を盛ってテーブルへとやってくる。
季節の彩り鮮やかなてんぷらの数々に、「……マジで考えるか?」と魔理沙は悩みだす。
「博麗の巫女って、具体的に、どうやったらなれるんですかね?」
「さあ?
紫のお眼鏡にかなえば、誰でもいいんじゃないの?」
「霊夢さんも?」
「教えてくんない」
この職業、連綿と続く家系であるのか、間に合わせのありもので埋められているのかが、いまいちわからない。
霊夢にも親はいた。
しかし、その親が本当に彼女の『親』であるかはわからない。
彼女はそんなことを語らないし、彼女以外に理由を知っている唯一の存在である紫も、『そんなどうでもいいことを気にしてないで、あなたは巫女として、必要充分な存在になるように努力なさい』と話をはぐらかして説教してくるだけだ。
「不思議ですねぇ」
「早苗のところは、確か、家系なのよね」
「ええ、そうです。
うちは父親がその家系でした」
その家系、で早苗の視線は諏訪子へと。
諏訪子は早苗の視線に気付いているんだかいないんだか、皿の上の料理に手を伸ばそうとして、神奈子に雷を落とされている。
ついでに、『橙が真似するからやめて欲しい』と、やんわりと藍にも説教される始末。
あれで『あたしゃ神様だよ』と言ってるのだから、なんとも威厳のない神様である。
「外の世界は、神様や妖怪への畏怖や信仰というものが失われて久しいもので。
わたしの両親も、諏訪子さまはおろか神奈子さまの存在すら感じることが出来ないくらいに、一般人となってしまっています。
そんな中、わたしみたいな存在が産まれたのは、まさに異例。異端児と言ってもいいかもしれませんね」
「異端児、ねぇ」
アリスは隣でおなかをすかせている魔理沙の首根っこ掴まえながら、「大変ね」とコメントする。
「……女の子としても異端児だし」
ぽつりとつぶやくアリスの一言。
それほど長い付き合いではないものの、早苗と付き合ってわかったことが多数。
その中でも特に特徴的なのは、趣味は広いと自分自身、理解しているアリスにですら理解できない『趣味』の世界を、早苗が構築しているということだけだ。
「……あの子の部屋にある、不思議な人形は一体何なのかしら」
「アリスさん、今、『人形』とか聞こえましたよ!
わたしは人形なんて一個も持っていません! 持っているのは『プラモ』と『フィギュア』です! そこんところ間違えないように!」
そんでもって、その『趣味』には相当入れ込んでいるのか、いちいち細かいところを指摘して訂正させようとしてくる。
鬱陶しいことこの上ないのだが、基本、人は皆、趣味に生きる生き物だ。それを否定されたらむきになるのは当然だろう――そう思って、アリスは顔を引きつらせてコメントを失うだけに留めている。
「早苗は色々、残念なんだよなー。
私らの知らないことを色々知ってるのになー」
「ああ、そうそう。
ねぇ、早苗。早苗にこの前もらった『くりーむ』って、これ、何に使うの?」
「……え?」
「いや、『え?』とかじゃなくて。ほんとにわかんない」
「アリスさん。これ絶対おかしいですよ」
「いやまぁ、霊夢や魔理沙は仕方ないわよ」
と思っていたら、変なところで常識的である。
女の子スキルが極めて高いアリスの目から見ても、早苗の女の子レベルはかなりのものだ。
一方、ここに居る霊夢と魔理沙の女の子レベルの低さと言ったら。
未だそれは『少女』よりも『子供』のレベルであり、『こりゃ誰かが何とかしないといけないな』と思わなくても思ってしまうほどなのである。
「いいですか、霊夢さん。女の子は肌が第一です。特に冬の寒い、この季節。肌が乾燥して荒れてしまいます。荒れたお肌は老化の元。そんな時に、こうした化粧品を使うとですね……」
「そんなの気にするようなもんなのか? アリス」
「あったり前でしょう。
年をとってしわくちゃになりたいってなら止めないけど」
「うーん。そいつはやだな。
あれ? だけど、アリス。お前は人間じゃなくて魔法使いって言う生き物なんだから、そんなに年をとるもんなのか?」
「取るわよ。妖怪だって、年齢を経れば、みんなおじさんおばさんになるんだから」
「ありゃどうなんだよ」
「……いやまぁ……うん……」
少なくとも神代の時代から生きている諏訪子を指差す魔理沙に、アリスは沈黙する。
人に限らず、生き物の見た目は精神に引きずられると言われるが、その理屈が成り立つのなら、『お肌ケア』などというものは、心が若いままであれば永遠に不要なものかと思えてしまう。
しかし、アリスは幼い頃から、その辺りに敏感な姉の教育を受けてきている。母親は、誰がどこからどう見てもティーンエイジであるため例外とするが、彼女の姉の『女の子レベル』は極まっているのだ。
「外の世界の子達って、そんなことまで気にして生活してるのねー」
「というか、幻想郷の人たちが気にしなさすぎなんです。
羨ましい反面、将来が恐ろしくなりますよ」
というわけだから、これを使え、ということらしい。
よくわからないままに、霊夢は『早苗が言うならそうする』と案外素直にそれを受け入れた。
これで、相手が紫なら、散々口答えするのだろうが、彼女は早苗には素直なのだ。
「けど、早苗の話を聞いてるとさー、わくわくしてくるときってあるよね」
「ああ、わかるわかる。
私らの知らないことを楽しそうに話してくれるからな」
「地面を走る鉄の塊だの、空飛ぶ大きな乗り物とか。一回、見てみたいなー」
「私は、でかさが妖怪の山にも匹敵するっていう、全面ぎらぎら光る建物を見てみたい。どんなものか、中に入ってみたいな」
それを知らないものから見れば、そこはとても楽しそうな世界であるというのに。
「どうして、早苗は幻想郷なんて、アナクロでモノクロームな世界に来ようと思ったんだ?」
魔理沙のさりげない問いかけに、『ん~……』と早苗は考える。
「魔理沙。あんた、失礼でしょ」
「いてっ」
そんな彼女は、アリスに後頭部をはたかれる。
はたかれた箇所をさすりながら、『いいじゃないか。別に』とふてくされたりする。
「何といっても、わたしは守矢の子で、神奈子さまと諏訪子さまの神子ですから。
信じ、崇め、奉り、祀り上げる神が社を離れてしまうというのに、それを見送るだけというのは」
「義理人情ってやつかね」
魔理沙の問いかけに、早苗は苦笑を浮かべて、『そんなところです』と言った。
「あ、そろそろみたいよ」
そこで、霊夢がその場の話を打ち切った。
いよいよメインの料理と飲み物がテーブルの上に揃い踏みし、皆が席を囲む。
そして、全員のコップやお猪口に飲み物が行き渡ったところで、『いただきまーす』という声が響き渡る。
その夢は、重く、苦しいものだった。
頭の上から、御山の大瀑布が叩きつけてくるような重圧感。
息苦しく、体を動かすことすら出来ない。
そうこうしていると、重たい振動が痛みとなって全身に伝わってくる。
痛みにもがいて体を動かそうとしても、出来ない。
ただ、なぶられるがまま、苦痛に顔をしかめているまま。
しばらくすると、閉じた暗闇がぱっと開けて、見たことのある映像が映し出される。
それを見て、彼女は、『ああ、これ、覚えている』と瞬間的に感じる。
映像は、映画のフィルムのように連綿と続き、途切れることなく巻かれていく。
見覚えのある景色、聞き覚えのある声、郷愁を引き出されるセピアカラー。
映像は、途切れることなく、からからと回り続ける。
――これって、もしかして、走馬灯というやつかしら?
その映像が、現在から過去へ向かって流れているのを、彼女は薄ぼんやりとだが感じていた。
映像の中で、『彼女』が笑っている。
その姿に見覚えがある。自分の姿だからだ。
年がどんどん巻き戻っていって、彼女は青年から少女へ、少女から子供へ、子供から赤ん坊へと移り変わっていく。
赤ん坊の記憶は胎児まで巻き戻り、精子と卵子の受精の瞬間までを描き出して、ぷつっと消える。
ここから先の記憶は、彼女にはない。
彼女が存在しない記憶なのだから、覚えているはずもない。
しかし、記憶のフィルムは途切れない。今もからからと回り続けている。
『お前は物好きだねぇ』
声がした。
からから回るフィルムの音に混じって、その声は、鮮やかに脳裏に響いてくる。
『何もそこまでする必要もないだろうに。
どうして、お前はそこまで自己犠牲に過ぎるのだろうね? わたしには理解が出来ないよ。
いいかい? 生き物ってのは、生きるということに欲を覚えて生きるもんだ。
今よりいい暮らしをしたい、幸せに生きたい、楽しい毎日を過ごしたい、ってね。
辛く苦しい生活を、わざわざ選ぶ阿呆はいないだろう? 誰だって、楽して遊んで暮らしたいもんだ。
にも拘わらず、お前は変だねぇ』
くっく、と声の主は笑っていた。
誰に向けられた言葉であるかを察する必要もなく、彼女の意識は、その声を受け入れていく。
『やめてしまえばいいのに。離れてしまえばいいのに。
なぜそこまで、お前は相手に義理を尽くそうとする? 相手は他人だよ?
どんなに深いつながりを持っていようと。たとえそいつが親だろうと、お前にとっては他人だよ? お前じゃない。
そいつがどんなことになろうと、お前には関係ないだろう?
お前にゃ、お前の幸せを追求する権利と義務がある。苦しい身の上に、あえてその身をやつして生きるなんて、わたしから見りゃ阿呆どころか馬鹿のすることさ。
そんなものはただの自己満足だ。下らない。
お前はそれでいいだろうね? お前のちっぽけな自尊心が、それで満足するんだ。そりゃ、お前にとっちゃ誇らしいことだろう。
だがね、回りから見りゃ、お前なんて嘲笑の的だよ?
出来ることもやろうとしない、やるべきことを放棄してしまった、お前のそれを満足させるという、お前自身の欲に、お前は負けた。
おっと、確かに、お前の言い分もわかる。わたしの人生だ、わたしの好きにさせろ、ってね。
そいつぁ結構。
だからこそ、幸せに生きる権利を放棄したお前は、阿呆でなく、馬鹿なのさ』
フィルムを巻き続ける映写機が見えた。
その映写機のレンズは、暗闇に向いている。投射される光が、闇に飲まれて消えていく。
フィルムの残数も、あとわずか。
記憶は過去に向かって無限に続くといわれるが、あれは嘘だ。
記憶が持つ、過去の起点に辿り着けば、記憶の歴史は終わりを告げる。
『だからこそ、お前は物好きだということだ。道楽者だ。趣味で身を持ち崩す奴はいないが、道楽者はそれで滅びを迎える。
お前は愚かだねぇ。
だけど、そうであるからこそ、わたしはお前を好きなのかもしれないねぇ』
フィルムが全て巻き終わり、映像が途切れた。
じー、という無機質な音が響いている。
起点は終点。
がちゃっと音がして、フィルムが吐き出される。
子供の顔ほどの大きさもあるリールに巻かれたフィルムが取り出され、そこに、新たなフィルムが装填される。
また、からからと、フィルムが回り始める。
映写機から映し出される映像が、闇の中に、色鮮やかに浮かび上がる。
『ここから先は、お前が選んだ選択だ。
わたしは何にも言わないよ。
だけど、お前に何の手向けも手渡してやれないのは残念だ。
だから、お前に一つ、手向けを渡してやろう。
そいつを手放しちゃいけないよ。そいつを持っている限り、わたしはお前を必ず助けに行く。
手放しちゃいけないよ。わたしは嫉妬深くて執念深い。おまけに寂しがりでね。
幾千、幾万、幾億の星が巡ろうとも、万難を排してお前を探し出す。
わたしとお前の邪魔をするものを、わたしとお前を傷つけようとするものを、わたしは必ず、皆殺しにして、お前を見つけ、救い出す。
そうならないための目印さ。そして、御守さ。
手放しちゃいけないよ』
体を覆っていた痛みと重たさが晴れていく。
徐々に暗闇が溶け出して、朝日が昇るかのごとく、晴れていく。
体がふわりと浮かび上がり、彼女は大きく、息をする。
吸って、吐いて。もう一度、吸って。
『わたしを大人しいままにしておきたいならね』
最後に響く、無邪気な、悪意なき呪いの言葉に、彼女の呼吸は止められた。
『お姉ちゃん、朝だよ、起きて。起きてくれないとちゅーしちゃうぞ。
お姉ちゃん、朝だよ、起きて。起きてくれないとちゅーしちゃうぞ。
お姉ちゃん、朝だよ、起きて。起きてくれないとちゅーしちゃうぞ――』
「ん……ん~……。ゆみちゃん、今日はダメよ~……んふふ……」
何やらいかがわしい音声の流れる目覚まし時計に、彼女は妖しい寝言をほざきながら寝返りを打って、『ふぎゃっ』と悲鳴を上げる。
「あいったたた……」
ベッドの上から落下した彼女は、頭をさすりながら、むくっと起き上がる。
部屋の中。
見慣れた部屋の中。
それは、自分の部屋の中。
「……あれ?」
首をかしげて、彼女――早苗は、とりあえず、枕元で妖しいメッセージを垂れ流しまくってる目覚まし時計のスイッチを押した(ちなみに、その目覚まし時計は、時計の文字盤のところにやたら肌色多めの紳士的な少女のイラストが描かれている)。
きょろきょろ辺りを見渡してから、首をかしげる。
「えっと……」
記憶を手繰る。
昨日、起きたこと。眠りに着く前に起きたこと。
忘れようと思っても忘れられない事象の数々が浮かび上がってきて、彼女は思わず、身震いした。
そして、同時に、『どうして?』という疑問が浮かび上がる。
その部屋は、いつもの自分の部屋。レイアウトは何も変わっていない。
あの、何もなかった部屋の中が、今、また、自分の部屋に戻っている。
どうなっているのか。
あれは夢だったのか? 明晰夢というやつか? それにしてはリアリティがありすぎる。
「これ……」
立ち上がって、彼女は一度、深呼吸をした。
その瞬間、彼女はそれを感じる。
「……空気が違う……」
慌てて、彼女は窓を開けた。
閉じられたカーテンの向こうから、燦々と、朝日が差し込んでくる。
そして、彼女は見た。
「……何、これ……」
窓から広がる景色――どこまでも続く、緑豊かな自然。
自分の家の窓から見える、家々の屋根などどこにもない。景色を邪魔する電柱も、ケーブルも。
ただ、あるのは自然ばかり。木々の緑と空の青が、どこまでも続いている。
彼女は着替えもせずに部屋から駆け出した。
ドアを開けて、廊下を右に曲がる。
そのレイアウトに、彼女は見覚えがあった。
階段を駆け下りて、左手側に見えた障子を引き開ける。
「朝からどたどたとうるさいですね。それに、今日はずいぶん、寝坊したのではないですか?」
真新しい畳の敷かれた居間に、その姿はあった。
どこから持ってきたのか、立派な、樫のテーブルについて茶をすすっているのは、
「八坂さま……」
「おはよう、早苗」
にっこり微笑んだ彼女は、つと立ち上がると、そこから間続きになった隣の部屋へと姿を消した。
少しして、両手に朝食が載ったお盆を持って戻ってくる。
「昔取った杵柄。経験と知識というのは役に立つものです」
「あ、あの……えと……」
「あの後、貴女は何をどうしても目が覚めなかったので、部屋まで運びました。
その後は、今に至るまでぐっすり。心が疲れていたのでしょう」
座りなさい、と湯気を立てる朝食が並ぶ席を勧められる。
早苗は一歩、部屋の中に足を踏み入れ、勧められるままに、座布団の敷かれた席へと腰を下ろす。
「八坂さま、ここは……」
「いい場所に飛ぶことが出来ました。
これほどまでに清浄な空気は、久しく吸っていない。外の世界は空気が汚い。あのような空気にさらされていては、神力を失う以前にダメージを受けてしまう」
神というのはきれい好きなのだ、と彼女は己を茶化して言った。
そして、その視線が、引き開けられた正面の障子へと向かう。
障子の向こうは板張りの廊下と壁。その壁の一角に、美しく光るガラスの窓がはめこまれており、そこから覗く風景を一望することが出来る。
「幻想郷。予想以上に、住みやすい」
彼女はそう言って、手にした湯のみを傾ける。
早苗はその一言で、改めて、今の自分の立ち位置を知る。
今までの生活の存在しない別天地。通じていた、知っていた理の通じない、新たな世界。
彼女は息を呑み、そして、『ぐ~……』というおなかの悲鳴に顔を赤くする。
「食べなさい。味は保証します」
「……はい。頂きます」
縮こまったまま、彼女はもぐもぐと朝食を頬張る。
八坂が己で言うだけあり、味はなかなかのものだった。
「貴女の両親も連れてこられればよかったのだけど、あの方たちは、私への信仰を失ったもの。
我が伴侶として連れるにはふさわしくなかった」
「……はい」
「結果として、私は貴女しか連れてくることは出来なかった。許されなかった。許してはならなかった。
まずは、それをわびましょう」
「い、いえ。そんな。わたしが選んだことなので……」
「貴女は最後に、辛い思い出を体験した。
しかし、その想いを晴らすことは出来るでしょう」
八坂は外を眺めながら言う。
「どう? こんな光景、見たことないでしょう?」
「……はい」
早苗は運動は得意だ。
身体競技、器械競技、何でもござれ。
泳ぐのも走るのも大得意。
しかし、山登りというのは、あまりしたことがない。
ついでに言うなら、山登りの結果、眺める風景が、全て緑と青という光景も、見たことがない。
今まで知らない世界。知らない体験。落ち込みつつあった気持ちが上向いてくる。
外の世界に残してきた思い出を胸に残したまま、『これからどんなことがあるんだろう』という、わくわく感に支配されるのは、嘘ではなかった。
「しばらくの間、貴女が断ち切ったしがらみは、なお貴女を縛るでしょう。
それを乗り越えなさい。早苗。
貴女はもう、幻想の身の上なのだから」
「……はい、八坂さま。
早苗、頑張ります!」
「あとそれから」
八坂は手にした湯のみをテーブルの上に戻すと、早苗を見る。
「先にも言った通り、貴女の両親を、ここに連れてくることは出来ませんでした。
しかし、貴女は、精神はともあれ、肉体的にはまだ子供。親が必要でしょう。
この社には、これから、私と貴女が暮らす日常が満ちる。
私で足りるかどうかはわかりませんが、私が貴女の親となり、貴女を教え、導きましょう。
……だから、『八坂さま』は禁止ね?」
にっこり、照れくさそうに微笑む神様に、早苗の顔に、ようやく笑顔が戻る。
ご飯を全部、食べ終えてから、
「とはいえ、わたしにとって、八坂さまは信仰すべき神であり、祀りの対象ですから。
その相手を呼び捨てにすることは出来ません。それはあまりにも不敬で無礼です」
「貴女は堅いわね。誰に似たのやら」
「だから、『神奈子さま』と呼ぶことをお許しください」
微笑む早苗に、八坂――神奈子は、『わかりました』と鷹揚にうなずいた。
「じゃあ、それで妥協します」
「はい。
それじゃ、これからよろしくお願いいたします。神奈子さま」
「ええ」
さて、と神奈子は立ち上がる。
彼女はまず、早苗に「着替えて朝の用意を調えて来なさい」と指示をした。
言われずとも、早苗は『はい』と返事をして、自室へと取って返す。
いつの間にか、部屋の中には、普段、彼女が神子として八坂神奈子の前に姿を現す際に纏う衣装が置かれている。
その衣装――ずいぶん特徴的なデザインの巫女服に身を包み、『よし』と気合を入れなおして、彼女は部屋を後にした。
「神奈子さま。ここはどこなんですか?」
「さあ?」
母屋の外に足を踏み出す。
振り返ると、あのぼろぼろだった母屋と社殿が、ずいぶんと立派な代物に変わっていた。
神奈子の神力か、それとも単なる見栄か。
ともあれ、その新しい『家』から視線を前に戻す。
どこまでも続く空が見える。高い山の上に、二人はいる。
「まずは、この世界の地理を知りたいところね。
どこかに地図は売ってないものかしら」
「はーい。そういうことなら、幻想郷のクオリティペーパーなんていかがですかー?」
いきなり、頭上から声がした。
振り仰ぐと、そこに、一人の少女が逆さまに浮かんでいる。
背中に黒い翼を生やし、赤い烏帽子をかぶった彼女は、手に、早苗たちが見慣れた『新聞』を持って浮かんでいる。
「何者だ」
神奈子はそれまでの雰囲気を消して、神としての威厳に満ちた声で相手を圧する。
通常、それだけであらゆる物を畏怖させる神奈子の声に、しかし、その相手はなんら臆することなく、「天狗です」とにこっと笑う。
「天狗……?」
早苗は首をかしげた。
早苗の記憶にある天狗とは、巌のようにいかつい赤ら顔で、立派な体躯で、特徴的なのは長い鼻。
しかし、目の前に居るのは、自分とそう年齢の変わらない女の子。
ミニスカートからすらりと伸びた足の美しさが特徴的な彼女は、ふわりと地面に舞い降りる。
「どうもどうも。
私、ここ、妖怪の山にて天狗をやっております射命丸文と申します。
あ、こちら、私が発行しております新聞でして。
どうぞどうぞ、お近づきの印に。今なら、洗剤一か月分をお付けして――」
「結構」
「……そうですか」
「あ、いや、あの、神奈子さま。せめて一部だけでも」
「ですよね!」
しょんぼりとなった天狗――文の顔がぱっと輝いた。
神奈子をスルーして、彼女は早苗に駆け寄ると、「どうぞどうぞ!」と手にした新聞を押し付けてくる。
一面には、『妖怪の山に謎の社が出現!』という見出しと共に、自分たちの住む家と神社がカラーで映し出された写真が掲載されている。
「……情報が早いんですね」
「はい。情報はなまもの、新鮮なうちにご提供が、私の信条です」
この人、うちによく来る新聞の勧誘員と同じだな、と思いつつ、早苗はポケットから財布を取り出すと、「いくらですか?」と尋ねる。
「えっと……月の購読料が……だから、えー、50円?」
「やっす!?」
「あ、もっと安いです。すみません。30円」
「いいんですか!?」
「え? 何でですか?」
通常、早苗がよく見る新聞とは、コンビニや駅のキオスクで売っているものである。
朝刊は一部200円前後、夕刊は150円前後。
それに比べて、ページの数はほとんど同じなのに、カラー写真もばさばさ使って、わずか30円だという。
「え、えっと……それじゃ、はい……」
「あれ? これ、お金ですか?」
「え、ええ。そうです」
「ふーん。
もしかして、あなた達、お客さんですかね? なら、私たちが持っているお金を持っていなくても当然だ」
「……えっと?」
文は早苗からお金を受け取ると、腰に提げた巾着の中に、それを放り込んだ。
そうして、『では!』と立ち去ろうとしたところで、神奈子に肩をつかまれる。
「何かを知っているようですね」
「あやややや。そんな怖い顔しないでください。善良な一ジャーナリストの文ちゃん、泣いちゃうっ」
「貴女が知っていることを話すのなら、まずは一ヶ月、お試しで購読させて頂きますよ」
「はい! 何が知りたいのですか!?」
「……」
ふざけ、茶化して、神奈子の前でも全く臆することのない彼女。
その姿に警戒をしていた神奈子は、唐突に掌返して笑顔になる文に、顔を引きつらせる。
「ああ、いや、えっと……。
まず、ここはどこだ?」
「はい。ここは妖怪の山と言いまして、通称、『山』と呼ばれております。
私たち、天狗や河童、その他の大勢の妖怪たちが暮らすところですね。幻想郷では有名ですよ。一歩でも踏み込めば、命のない危険地帯として」
「えっ!?」
「――というのも、今は昔ですけどね。
最近は、天魔さまの方針転換で、『幻想郷で随一の観光地にしよう』ということで頑張っております。はい」
「……」
早苗も沈黙する。
そんな魔鏡に足を踏み入れてしまったのかと驚き、身構えていたら、このオチだ。
というか、どうやって、そんな危険地帯を一大観光地にするというのか、全く道筋が見えてこない。
「……ま、まぁ、いいでしょう。
次に。
貴女は私たちを『お客さん』と言った。貴女は外の世界を知っているのですか?」
「まぁ、これでも1000年くらいは生きてますから。
幻想郷が外の世界から隔絶された経緯も知ってますし、それをなしたのが誰かも知ってます。
そして、この世界が、本来ある世界から閉ざされた世界だということも知ってます」
「私たち以外にも、外から入ってくる人がいるのですか?」
「いますね。
ふとしたことで境界を越えてしまった人とか、外で言う神隠しにあった人とか。
ま、大抵は、そういうのは妖怪に食われてしまうのですけど、運良く人里に辿り着いて、この世界での生活に馴染んでしまったり、また運良く、元の世界に戻れたり。
まぁ、色々ですね。
そういうのはあんまり取材しても面白くないんですよ。そう珍しいことでもないし、そうよくあることでもない。
どうしても記事が足りない時の埋め合わせネタですね」
ひょいと肩をすくめて、文。
神奈子は『わかりました』と、文を掴んでいた手を離す。
文はひょいひょいと神奈子から距離をとると、にんまりと笑った。
「それじゃ、ちょっと、こちらからも聞きたいことがありますので。
お時間、少しだけよろしいですか?」
「何ですか?」
「あなた達は何者ですか? 唐突に、この建物ごと、ここに現れたのですが。
いやー、天狗社会は大騒動。上へ下へのてんやわんやでして」
その『犯人』にいち早く接することが出来たのだから、色々、話を聞いておきたい。
文の目はそう語っている。
神奈子は、相手を一瞥した後、
「私は神です」
「おっと。大きく出ましたね。
ま、幻想郷にも神は少なくありませんが」
「外の世界で信仰を失い、力と格を失いつつある、廃棄された神です。
このたび、外の世界に見切りをつけ、この世界で己の信仰を再び獲得し、力を蓄えるために来ました」
「ほうほう、なるほどなるほど。
つまり、大した威厳も恩恵もない雑魚神、と」
「っ!」
「早苗、やめなさい」
信じ、奉る対象である神奈子に加えられた侮辱に、思わず早苗が文に食って掛かりそうになる。
しかし、神奈子はそれを止めた。
言わせておけばいい、その瞳はそう語っている。
「いやー、すいません。思ったことは口に出さないとすまないタチでして。
おかげで敵を作ることも多いんですよね」
「そうでしょうね」
「この世界で信仰を得る、ですか。
あなたは具体的に何が出来るんですか?」
「あえて言うなら何でも。
この世界での技術の程度や発展、生活の度合いにもよるでしょうが、一瞥した限り、この世界の発展のレベルはそう高くない様子」
「そうですね。
人は朝、日の出と共に起きて、日の入りと共に寝る――ま、それは言いすぎかもしれませんけど、田畑と山野、川が生活の主体です」
ついでに、と文は『幻想郷は、今から数百年前に出来た、新しい世界ですよ』という情報を教えてくれる。
数百年というと、この世界の発展のレベルは相当に低いのだろう。
今、この神社を見てもわかるように、電気も瓦斯も水道もない。
そんな世界においてなら、己の力をいくらでも、民の益とできると、神奈子は宣言した。
「なーるほど。
それなら、割とたやすく、信仰を集めることは可能かもしれませんね」
「確かに」
「ただねー、ちょっと問題があるんですよねー」
「何ですか?」
「あなた達は、我々から見れば、山への不法侵入者であるということです」
にやりと、文は笑った。
「天魔の方針が変わったとはいえ、まだまだ、昔に縛られる堅苦しい連中が牛耳るのが天狗社会。
かなりのものが、あなた達を『排除しよう』と考えているみたいでして。
ほら、見えるでしょう? あれ。実力行使という名の『対話』を始めたいみたいです」
文の示した先には、早苗には何も見えない。
しかし、神奈子にはそれが見えるのか、『なるほど』とうなずくだけだ。
「天狗は頑固で他人の話を聞きません。自分の意見を実力で押し通すのが、我々の話し合いのスタイルです。
どうします? 天狗は手ごわいものばかり。
せっかく、全てを捨てて幻想郷に来たのに、早々に追い出されるようなことにでもなったとしたら」
「たかが獣の変化風情が」
そこで、神奈子の空気が変わった。
足を踏み出す、それだけで、どすんと地面が揺れる。
山が、丸ごと鳴動した。
文が、さすがに目を見張る。
「貴様らは、何を勘違いしている。
我は神ぞ。貴様らのような、畜生の変化ごときが束になってかかったとて、かなうと思うてか。
甘く見るな。図に乗るな。
たとえ力を失ったとして、妖ごときに後れを取るものかよ」
「……へぇ」
文の表情も変わる。
彼女は右手に、カメラではなく風扇を取り出すと、
「そうですか」
一瞬、その姿が消えた。
『え?』と早苗が思った時には、後ろから声が聞こえてくる。
「確かに、あなたは強いようだ。だが、こちらのお嬢さんはそうでもない。
天狗は賢く、卑怯だよ。正々堂々なんて言葉は通じない。
私たち、妖にとっちゃ、己の存在を守ることが生きる理由。きれい汚い関係ない、相手を倒せりゃそれでいい」
「ふん」
神奈子と共に、早苗も振り返る。
彼女のすぐ後ろに、文が立っていた。
その左手に、赤い筋。
流れる血が、ぽたぽたと、地面に落ちている。
「けどま、あなた達みたいな面白い取材対象が、あっさりと消えてもらっては困りますので。
頑張ってくださいね。
妖とは生き物、生き物のルールは、あなた達も熟知しているはずだ」
「強いものが正義、ということでしょう?」
「そういうことです」
にこっと微笑んで、文は空へと舞い上がる。
彼女は『次の新聞の一面記事、よろしくお願いしまーす』と言って、あっという間に空の彼方へと飛んでいった。
あっけに取られている早苗の肩を、神奈子が叩く。
「面倒ごとになってきたわね」
その一言に早苗が振り向く。
神奈子の右手に、血がついている。
その血の先――赤黒い、小さな肉の塊を、彼女は地面へと放り捨てた。
空の彼方からやってきた、天狗の集団が、早苗たちの前に舞い降りる。
若い男性が多いが、それを率いるのは、屈強な体躯の壮年の男。まるで岩山が飛んできたかのような重量感と共に、彼は彼女たちの前へと舞い降りて、足を進めてくる。
「見ぬ顔だな」
「つい先ほどまで、こことは違う世界にいたものだ。当然であろう」
「何者だ」
「我は神だ」
「神だと? 知らぬな」
「そうだろう。お前たちのような、畜生の変化どもが知るはずもない」
その一言で、天狗たちがざわつく。
自分たちをけなされた――そう感じたのだ。
しかし、それを、先頭に立つ壮年の天狗が諌める。
「この山は、我ら天狗のものである。
そこに不用意に立ち入るものにはそれ相応の処罰をしている。
だが、何も一方的に、理不尽に攻撃を仕掛けるというわけではない。
まずは話を聞こう。そちらにも言い分があるはずだ」
「ご考慮いただき、感謝の極み」
下げた頭の下で、彼女は笑みを浮かべている。
再び顔を上げた後、まるで詠うように、神奈子は朗々と宣言する。
この幻想郷で、己の、神としての力を取り戻すこと。失われた信仰を取り戻すこと。そして、己を信仰するものには、神としての利益を最大限供与し、それに報いること。
彼らは、無言のまま、それを聞いていた。
神奈子の語りが終わると、壮年の天狗が口を開く。
「ならば、何もここに社を置かなくともいいことになる」
「確かに。
しかし、この地へと転移してきた時、我はここを気に入った。この地は我の信仰の要となるにふさわしい。
この清浄な空気、満ち溢れた神気、実にいい。
この地を頂く。それにたてつくというのであれば、神罰が下ると知れ」
神は傲岸不遜であり、傲慢である。
神は絶対であるが故に、唯一無二である。
天狗の威厳やプライドなど、神にとっては塵芥の一つに過ぎない。
天より、あるいは地より立ち現れし神と、有象無象の塵芥の一つ、獣から変化をなした化生と、どちらが格上であるか。
それはもはや、言う必要もない。
「断る」
壮年の天狗は答える。
「この地は、先にも言ったが、我々のもの。
民に信仰を求めるのであれば、それにふさわしい相応の地へと行け。
この地に根を下ろすことは認めぬ。立ち去るがいい」
「ふん。下らぬ、矮小な自己を満足させるために、それよりも大きな利を捨て去るか。
やはり獣。一歩前のことすら見えておらぬ。
その日を生きることのみに精力を尽くす。愚かよな」
次の瞬間、壮年の天狗が、手にした巨大な棒の先端を、神奈子の眼前へと突きつけた。
速い。とてつもなく。
音すらしない。それが遅れてやってくる。
吹き付ける風と気配に、早苗は、自分にそれが向けられているわけでもないのに、一歩、後ろに足を引いた。
神奈子は、笑っている。
「神とはいえ、誅されるべき悪神もいる。
何者にも尊敬され、敬われ、畏まる良神もいる。
お前はどうやら、前者のようだ」
「自らの言葉が聞き入れられぬからといって、この八坂神奈子を荒神風情と一緒にするか。
その神を愚弄する無礼な態度、しかと覚えたぞ」
「痛い目を見ぬうちに立ち去るがいい」
「やってみろ。鴉ども」
彼の振るう棒の先端が、神奈子の額を突く。
がつん、という音。
叩きつけられる衝撃に、神奈子が大きくのけぞる。
早苗は息を呑み、上げた悲鳴は、己の肋骨によって押さえ込まれる。
激痛に喘ぎ、早苗は咳き込んだ。
そして、
「これが貴様らの返答か。
神を怒らせたこと、後悔せよ!」
神奈子は、無傷だった。
起き上がりこぼしのようにぐいんと上半身を引き戻すと、天に向かって手を振り上げる。
直後、何もない晴天に黒雲が湧き出し、あっという間に天を覆ってしまった。
さらに豪雨が降り注ぎ、天狗たちが狼狽する。
「な、何だ!?」
壮年の天狗が恐れおののき、足を一歩、引いた瞬間、天から閃く一条の雷光が、彼を直撃する。
悲鳴すら上げられず、彼は雷に焼かれ、黒こげとなって大地に倒れた。
「お前たちは我を知らぬ。
知らぬが故の蛮勇、少しだけ敬意を表してやろう。
この軍神であり、雷神であり、水神である八坂の神の怒りを思い知るがいい!」
荒れ狂う雷撃が、次々に天狗たちを襲う。
彼らは悲鳴を上げて逃げ惑い、這々の体で逃げ出していく。
中にはそれを恐れず、神奈子に向かっていくものもいる。
その手にした錫杖で神奈子に躍りかかるのだが、軽々と、それを彼女に素手で受け止められ、目をむく。直後、その屈強な体は軽々と宙を飛び、大地に叩きつけられる。
「ひぃっ! へ、蛇っ!」
地面から湧き上がる土くれの蛇が、倒れた彼の体に巻きつき、かみつき、悲鳴を上げさせる。
「さあさあ、どうした! この程度か、天狗ども!」
まさに圧倒的。
すさまじいまでの力量の差に、彼らは一斉に逃げにかかった。
倒れ、傷ついた仲間を必死で回収し、一目散に逃げ出していく。
その彼らを見送った後、ふぅ、と神奈子は息をつく。
「だらしない。
もう少し、骨のある連中だと思ったのに」
「……神奈子さま、お体は大丈夫ですか?」
「大丈夫です。
この程度の力の行使ならば朝飯前。神の器は、貴女が心配するほど、小さくはありませんよ」
にこっと笑って、彼女は左手を天に向かって差し伸べる。
荒れ狂う雲は風によって吹き散らされ、燦々と照る太陽が戻ってくる。
「さて、それでは、どのように信仰を集めるかの算段を立てましょう。
先の天狗にもらった新聞に書かれている情報が、正しいかどうかはわかりませんが、少なくとも、この世界の情勢を知る手がかりにはなるでしょう」
「はい。わかりました」
「よろしい」
彼女は踵を返して、母屋の中へと戻っていく。
早苗も、それに続いた。
神々しい、神奈子の姿。これぞまさに、『わたしが信仰する神様』として胸を張ることのできる、神の御姿であった。
「それで、だらしなく逃げ帰ってきた、と」
「は、はい……。申し訳ございません……」
「よい。構わぬ。下がれ」
「……はい」
一方。
神奈子の元から逃げ帰った天狗たちのうち、貧乏くじを引いた一人が、天狗連中を統べる大天狗の元を訪れていた。
額ずきひれ伏し、自分たちの無様な結末を報告する彼を、その場に座す大天狗の一人が追い払う。
その顔に不快の色はない。むしろ、驚きと興味の色が浮かんでいる。
「天狗の実力は、この幻想郷では最上位に位置する。我々は敗北を知らぬ妖だ」
「我らに抗ってかなうのは、せいぜいが、紅の館の吸血鬼か、花畑の妖怪程度のものよ」
車座になって座る大天狗たち。
彼らは、皆、一様に幻想郷の新しい住人について、驚きの色を浮かべてそれを受け止めている。
「まさか、あっさりとあしらわれるとはな」
「若い者たちの経験を積むためとはいえ、少々、荷が勝ちすぎたか」
それについては、自分たちの目が悪かった、と誰かが言う。
「彼のものは己を『神』と名乗っていたそうだ」
「神、か。
確かにこの山にも神はいる。だが、彼女らは、我々が言うのも憚られるが、神格の大したことのない神だ」
「親しみやすい神というべきか。
そこに今回、取り付く島もない神が新たにやってきた、と」
ふーむ、とうなる彼ら。
「さて、どうされようか。各々方」
「その神は、今、力を徐々に失っている状況と聞く。
ならば、ほったらかしておけば、いずれ矮小な神となる。そこを狙って攻め落とすのもありではないか?」
「わしは反対だ。
それまでにどれほどの年月がかかるかわからぬ。
妖は、年を経るごとに力を増すが常道とはいえ、やはり神にはかなわぬ。神すら上回る力を得るまでにどれほどかかるか。それほどまでに神が力を弱めるまでに、どれほどかかるか。
和平を申し出てもよいのではないか?」
「おぬしも衰えたな。かつてはこうした物事があれば、我先にと敵に攻め入っていたものを」
「ふふ、あの頃はやんちゃだっただけよ」
「ほう。『やんちゃ』とはどういう意味じゃ?」
「うむ。若い者たちの話をさりげなく聞いていたのじゃが――」
威厳はあるものの、どこか、『年寄りの井戸端会議』のような雰囲気でもある。
彼らは彼らで仲のいい付き合いにあるのか、割と和気藹々とした話し合いであった。
「ちなみに、その神というのは、どのような相手なのか?」
「うむ。
これがその神の御姿を映したものらしいのだが、見よ、かなりの別嬪さんじゃ」
「おお……これはなかなか……」
そんでもって助平でもある。
天狗社会とは、プライドと規律に統制された世界であるようだが、そのトップは、何のことはない、ただの助平じじいの集まりであるようだ。
「うーむ。
これならば、やはり手を結び、和平を訴えた方がよいかもしれぬ」
「わしも異議はない。
戦うのに手間のかかる相手であるのなら、懐柔し、味方につけたほうが得策じゃろう」
何も、外部からの来訪者全てを排除するのが、妖怪の山の秩序ではない。
時に利用できる相手なら、それを味方につけるのも悪い選択肢ではないのだ。
自分たちが行なうのは、あくまで山の秩序を維持することであって、山に無用の混乱をもたらすことではない。
かつては強硬に侵入者の排除を行なっていた時期もあったが、事情も変わった。その変化に対応していくことも、また、自分たちの役割である――そう、彼らは認識している。
もっとも本音では、『こんな別嬪さんを追い出してしまうのはもったいない!』という助平心が働いているのかもしれないが。
「では、異論はないということで、配下の者たちに通達を……」
「何やら面白い話をしているな」
その時、唐突に、外と部屋とを区切る障子が開いた。
さっと、外から差し込む陽光。
それを背中に背負って立つ相手を見て、大天狗たちは目を丸くする。
「余を差し置いて、お前たちだけで勝手に楽しい相談か? いつから、お前たちは余を出し抜けるほど偉くなったのだ?」
「て、天魔さま……。何ゆえ、このようなところに……」
「何、少し面白い話を耳にしただけよ。
この天魔の庭である山へと勝手に入ってきて、己を『神』と名乗る傲岸不遜の輩がいる、とな」
傲岸不遜はむしろこいつの方じゃないのか、と大天狗の一人は内心でつぶやく。
しかし、そんなことを相手の前で言うことなどできはしない。
そんなことをすれば今ある地位を失い、山を追い立てられ、最悪、『天魔への反逆者』としてかつての仲間に追い回される立場となってしまう。
「今日はめんどくさいからどうでもいいが、明日以降、気が向いたら、余がそのものの顔と名前を覚えにいこう。
誰か案内役の者を用意しておけ」
「は、ははーっ!」
一人がその場に平伏し、皆が慌ててそれに続く。
わっはっは、と笑いながら天魔はその場を後にした。
相手の足音が聞こえなくなり、気配が消えるまで、その場に土下座していた大天狗たちは、慌てて障子を閉めて車座を作り直す。
「ど、どうする」
「まさか天魔さまがこのようなお噂を……」
「誰だ、あれに話を持っていったのは! またややこしくなる!」
「う、ううむ……。
波乱万丈、風雲急を告げるとはまさにこのことよ……」
泡を食って大慌ての彼らは、ああでもないこうでもないと話し合いを再開する。
それほどまでに、彼ら天狗にとって、天魔というのは厄介な相手であった。
――さて。
その様を、空の上から眺めるものが居る。
「文。あんたでしょ。あいつにめんどくさい話を持って行ったの」
「あややや。めんどくさいとは、またご無体な。
私は、下っ端天狗の務めとして、上司への報告を行なっただけですよ」
「あんたの上司は、あそこにいるスケベじじいでしょ。何で直接、天魔なのよ」
「天狗社会を統括するのは天魔さまですしねぇ。
いやぁ、困った困った」
にやにや笑う文の隣には、彼女の友人、姫海棠はたてが浮いている。
その顔は、『こいつは……』という呆れ顔だ。
「それに、私は報告を持って行ったり、というのともまた違う微妙なことをやっただけですしねぇ。
天魔さまのお耳に入るように、噂話をしただけですしねぇ」
「あんた、意外と根に持つタイプよね」
「いえいえ、そのような」
左手を、彼女はぱんと叩く。
真新しい包帯の巻かれたそこは、神奈子との対峙で怪我を負わされたところだ。
あの程度の傷、放っておけば一日も経たずに治るが、治るまでは、やはり痛い。
「それにねぇ、はたてさん」
「何?」
「私には、どーも、あの神様が信用ならないんですよねぇ」
「何か隠しているとか?」
「そう。それ。
あそこは何かが隠れている。それが『者』なのか『物』なのか『モノ』なのかまではわかりませんけどね。
あの神様はそれを隠している。我々に。
そういう態度って気に入らないんですよねー。やっぱり、物事はあけすけに話さないと」
何を言ってるんだか、という目ではたては文を見る。
こいつほど、そういった、『隠し事』を好む天狗もいないからだ。自らは他者に隠し事をして、そのくせ、他人の隠し事を無理やりだろうと暴きだす、そんな悪趣味なことに人生注ぎ込んでいるのがこいつなのだ。
やはり、文は神奈子にやられたことを根に持っているようである。
「陰険なことすんじゃないわよ、ったく」
「いえいえ。
それにそれに。これからいい絵が撮れると考えたら、わくわくしてくるでしょう?」
「火のないところに煙を立てる趣味はないの。あんたと違ってね」
「ふっふっふ~。
あ、特ダネが取れても、分けてあげませんからね」
「いらない。あんたみたいな特ダネの取り方、わたしは好きじゃないし」
「あ~ん、もう。はたてさんったらいけず~」
「よるな、うっとうしいっ」
「ふぎゅっ」
そして、変な声を出してくねくねする文の顔面に、はたての蹴りが突き刺さったのは、また別の話である。
とりあえず、信仰云々をどうにかする前に、まずはこの地での生活基盤を構築しようと、神奈子は早苗に提案した。
文からもらった新聞を読む限り、この世界の人々の生活レベルは、まるで大河ドラマの人々のそれであった。
それでは、自分たちの生活を維持するのは難しい。特に、『現代』の生活レベルに慣れた早苗では、水洗でないトイレは使えないし、取っ手をひねっても炎の出ないコンロでは料理に手も足も出ないだろうし、ましてや、冷たくない冷蔵庫などもってのほかだ。
「……とはいえ、どうしたらいいんでしょう」
「まずは麓まで降りて、この世界の技術屋に話を聞きましょう。
人里まで行けば、その辺りを生業にしているものもいるはずです」
神奈子は、己の威厳を保つため、神としての衣装のまま、早苗の先に立って歩いていく。
一方の早苗もそれを真似ているのだが、足下は山歩きのしやすいトレッキングシューズだ。
二人は軽快に山を降りていくのだが、
「か、神奈子さま~! 待ってください~!」
それから一時間もしないうちに早苗が遅れだす。
いかに『登山困難な山』とはいえ、外の世界にある山は、人々が登山というレジャーを楽しむための整備をされた山が多い。
それ以外の山に入れば、神奈子曰く、『山の神の神域を荒らす不届き者』として神罰を受けるのだ。
そして今、二人が歩いているのは、そんな山である。整備された山道などあるはずもない。
でこぼこと、土や木の根や石などが隆起し、歩きづらい道。垂れ下がった木々の枝葉や足下まで伸びた草が阻む道。
「はひ……ひぃ……ふぅ……」
そんなところをひょいひょいと歩けるほど、早苗の体力はない。
ついでに言えば、技術もである。
「麓に下りるまで、数日はかかりそうね」
「……申し訳ありません」
それを予期して、山の中でもキャンプが出来るよう、装備を背中に背負ってきた神奈子は『気にしないように』と早苗のおでこを小突いた。
「少し休憩してから歩きましょう」
「はい」
神奈子は、その場で軽く、耳を広げてみる。
そうすることで広がった感覚が、それまで気付かなかった音を拾い上げる。
――水の音。川か、沢があるのだろう。
神奈子は『こっちです』と歩いていく。なるべく、早苗が歩きやすいように、邪魔な枝葉は鉈などで落としながら道を進み、やがて目の前の空間が開ける。
「うわぁ、きれいな水」
「こんな水は、外の世界では、お目にかかることも難しいですね」
日の光をきらきらと反射する、きれいな川。
早速、それに近寄っていく早苗。
そして、水の中に手を浸し、「すごい冷たいですね~」と笑った、次の瞬間だ。
「……へっ?」
いきなり、にょき、と水の中から手が生えた。
それががっしりと、早苗の腕を掴む。
「わひぃっ!?」
驚き、後ろに飛びのくと、水しぶきが上がる。
早苗の手を掴んで、早苗によって釣り上げられた――ように見せかけただけかもしれないが――のは、これまた一人のかわいらしい少女であった。
青を基調とした衣装に身を包んだ彼女は、くるりと空中で回転して、すたっと地面に着地する。
「やあやあ、驚かしてごめんごめん。
人間がこんな山奥まで来てるなんて驚きだ。ついつい、驚いていたずらしちゃったよ」
けらけら笑う彼女に、早苗は何も言えず、ただ、ぱくぱくと口を動かすだけだ。
神奈子が早苗と彼女の間に割って入り、「何者ですか?」と問いかける。
「あたし?
あたしはね、河童だよ」
「……か、河童?」
早苗の中での『河童』のイメージとしては、全身緑色のぬめっとした体に、水かきのある手、足、頭の上にお皿である。
断じて、このようなかわいらしい女の子ではない。彼女のイメージとしてふさわしいのは、龍の球が要となるアニメに出てくる緑色さんである。もしくはピザの大好きなメリケン忍者か。
「こんにちは。河城にとりって言います」
「八坂神奈子という。神だ」
「神様?
へぇ、新しい神様だね。静葉さんや雛さんとは、また違う感じだ」
「そのもの達も神なのですか?」
「そうだよ。この山に住む神様でね。
そっちのその子は人間だろ? 彼女みたいな人間に、すごく親しみのある、信仰の深い神様さ」
あたしの友達、とにとりは自分を指差し、いたずらっ子のような笑顔で笑う。
神奈子は『ふむ』とうなずいた後、
「にとりといったな」
「はいな」
「その神のいる地へと案内せよ。対価は払う」
「およよ。こりゃまた唐突な。
ひょっとして、神様同士で大喧嘩? やめてあげてよ。彼女たち、そんなに荒事は好きじゃないんだから」
「相手の対応によります」
「うーん……」
腕組みし、うなるにとりは、「もし、そういうことになったら、許さないよ?」と神奈子をにらんだ。
しかし、その腰はわずかに引けている。
神奈子が放つ威光と神力に圧倒されているのだろう。
神奈子は鷹揚にうなずくと、「私も争いごとは好みません」と、一言、約束した。
にとりは「じゃ、こっちだよ」と歩いていく。
「早苗、行きますよ」
「は、はい」
何とかかんとか立ち上がり、早苗は二人に続く。
また、獣道すらない山道を歩き続けること3時間。
早苗が『も、もう……歩けない……』と完全にへばった頃、
「ここさ」
開けた空間に、二人は案内される。
神奈子は『ほう』とわずかに目を見張り、早苗は声すらなく、間抜けに口と目を開いて立ち尽くす。
――先ほどから、それを示す音は響いていた。
しかし、それを、目前で見るのとは、やはり違う。
「妖怪の山の名物、大瀑布」
にとりの言うそれは、山の上から下まで、一気に水が駆け下りる、まさに芸術品。
すさまじい滝の威容に、神奈子は実に満足そうにうなずいた。
自然の力とは素晴らしい。彼女の顔は、そう語っている。
「すごい……」
先ほどまでの疲れなどどこへやら。
その見事な光景に見惚れ、魅了された早苗は、一歩、足を踏み出し、
「ひゃっ!?」
「危ない!」
そこから先が下生えの草に隠された崖になっていることに気付かず、足を滑らせる。
慌ててにとりが手を伸ばし、神奈子が駆け寄るのだが、早苗の姿は一直線に滝つぼへと向かって落ちていく。
必死に伸ばした手はどこにも届かず、早苗の悲鳴は滝の轟音にかき消される。
ぎゅっと目をつぶる早苗。
まさか、覚悟を決めて、そしてこの世界にかすかな希望を抱いた矢先、その人生が終わるとは。
こんな形での終焉を、彼女は想像していなかった。
――せめて、最期くらいは痛くないといいな……。
自嘲の笑みを浮かべた、その瞬間、がくん、と体が何かに引っかかる。
「……え?」
頭上に、一本の太い枝が見えた。
早苗くらいの人間の体重は支えられるだろう、強靭な枝だ。
だが、早苗の体は、その枝の下にある。彼女の体は、どこも、その枝に触れていない。
どうして、ここで落下が止まったのか?
首をかしげる彼女のすぐ横に、何か、手のようなものが見えた。
彼女の肩を掴み、枝を掴んでいる手。
誰の手かはわからない。
だが、小さく、まるで子供のようにかわいらしい手だ。
「大丈夫ですか!」
耳元で声がした。
振り返ると、見慣れぬ相手が、早苗の腰と背中に手を回している。
早苗の落下を防いでいた小さな手は、どこにもない。
「椛ー! ナイスキャッチー!」
「にとり! そこからのルートは気をつけろって言ってるのに、もう!」
頭の上から、にとりの声。
見ると、にとりの姿がこちらに近づいてくるのがわかる。
彼女は、空を飛んでいた。
「いやぁ、本当にごめん。怪我はない?」
「は、はい……」
「私がすぐ近くにいたからいいようなものの。
にとり、山で人間の死人を出したらえらいことになるって、河童の誰かに言われてないの?」
「言われてるよ。
天魔さまの方針転換だろ? 山を観光地にするとかどうとか。
その観光地で、これまで片っ端から人を殺していたくせに、今になって、『山に入ってきた人間は、可能な限り、無傷で帰すように。もし、何かがあったら、お前たちのせい』なんて言ってくるしさぁ」
あれの気まぐれには困ったもんだよ、とにとり。
ともあれ、早苗は助かった。それには変わりない。
椛、とにとりに呼ばれた相手は、早苗を手厚く扱ってくれる。その横顔はなかなかのイケメンさん。
ただ残念なのは、ちょっぴり胸に膨らみを感じるところか。
「早苗、大丈夫!?」
「あ、はい。神奈子さま。大丈夫です。
すみません、わたしの不注意で」
「……全く。死ぬかと思いましたよ」
驚いて、と語る神奈子の顔は、嬉しそうに、安堵の笑みに染まっていた。
早苗は椛に地面に下ろしてもらってから、『ありがとうございます』と頭を下げる。
「いえ。一応、仕事ですから」
「あ、紹介、遅れたね。
こいつは犬走椛って言って、白狼天狗なんてのをやってるんだ」
「お初にお目にかかります」
「椛、こちらさん、神様の八坂神奈子さま。
で、えーっと……」
「現人神の東風谷早苗だ。わたしの従者であり、我が民である」
「おっと、こちらも神様か。そりゃ失敬」
「……神?」
早苗が何かを名乗る前に、勝手に神奈子が、早苗を『神』にしてしまう。
にとりはたははと笑い、椛は眉をひそめる。
「何、椛。何か知ってるの?」
「ああ、いや。
つい先ほどの話なんだけれど、『山に神様が一人増えた。その神様は厄介だ』という通達が天狗社会に出てね。
……あなたが?」
「恐らく、そうだろう」
「……」
椛は無言だった。
――今、気付いたのだが、彼女は腰に刀を掃いている。
それをすかさず抜き放ち、神奈子へと切っ先を向けたとしたら。
「あ、あの! ありがとうございました、椛さん! 助かりました!」
「ああ、いえ……」
「本当にありがとうございます!」
慌てて、早苗が椛の視線に割って入り、ぺこぺこと頭を下げる。
それでわずかに毒気を抜かれたのか、椛は小さく肩をすくめる。
「こっちだよ、こっち。
足下、気をつけてね。
まぁ、また落ちても、椛が助けてくれるから」
「人をライフセーバーみたいに言わないで」
椛も一応、ついてくるようだ。
にとりに案内されて、二人は滝の裏手側へと向かって歩いていく。
近づけば近づくほど、滝の轟音が声を掻き消し、最終的に、にとりは筆談で『こっちこっち』と行き先を示してくれる。
滝の飛沫に日光が反射し、太く大きな虹がかかっているのが見て取れる。
自然の美しさに目を奪われる早苗。
その早苗に興味を示しつつも、神奈子に鋭い視線を向けている椛。
神奈子は、泰然としていた。
「ここ」
にとりがそんな一同を案内したのは、滝の裏側のすぐ近く。
大きな木々が並ぶ茂みの中であり、そこに、畳の敷かれた、木で造られた壁と天井のある『休憩所』がある。
どういう理屈か、滝の音は遠くに遠ざかり、彼女たちの声が、その場にはよく響く。
「あっれー? にとりじゃん、どうしたの?」
そこに、3人の少女がいる。
見た目の年齢は、いずれも、早苗と同じかそれより少し上くらいか。
一番、年上の雰囲気を漂わせている、早苗と同じく緑色の髪をした、少女というよりは女性が立ち上がって一同に座布団を勧めてくる。
「ああ、こちら、新しく山にやってきた神様」
「お初にお目にかかる。八坂神奈子と言う」
「八坂の神様……」
「うち、聞いたことあります。確か、五穀豊穣なんかを司るお人やね」
「うわ、うちらともろかぶりじゃん」
どうぞ、と勧められた座布団に腰を下ろすと、冷たくて美味しい水が、湯のみに入って出てくる。
それを出した女性曰く、「にとりちゃんお勧めのきゅうり茶よ」ということらしい。
なお、どう見ても水である。
「えっと、あたしは秋穣子って言って、こっち、うちの姉の秋静葉。
そろって秋の神様なんてやっています」
「秋の神、ということは、私と同じ、作物の神様ということでよろしいかな?」
「それはあたしの方だけ。姉さんは、秋の彩り演出係。紅葉とか」
「なるほど。素晴らしい」
「私は、鍵山雛と申します。厄神と言いまして、人々の災厄を集めて流す、流し雛の神です」
「話には聞いたことがある。
多くの人々の信仰を集めている、と」
「はい。おかげさまで」
神奈子は早速、神様たちの輪の中に入って会話を進めている。
彼女たちは、皆、神奈子に寛容であるようだ。『新参の神様なんて許せない。いっちょ締めてやるか』という類のものではないらしい。
もっとも、物理的な、神奈子との力の差を感じ取っているだけなのかもしれないが。
「神奈子さん達は、えっと……何で山に来たの? それ、聞いてなかったけど」
「ははは。何、情けない理由だが、私は元々、この世界の外に居た神だ。
外の世界では神に限らず、化外の民への信仰が失われて久しい。
私もまた、そうした失われた信仰に拠り所を失い、この地へと流れてきた、いわば負け犬よ」
「へぇ。外はそんなことになってるんだ」
「雛さんも、そういう風に扱われちゃうのかねぇ」
「そうかもしれないわね。
でも、私は別に、誰かから崇めてもらうつもりはないのよ。誰も知らないところで、ひっそりと、民草の役に立てればそれでいいの」
控えめな人だなぁ、と早苗は思った。
――神奈子は言う。
神の行なう所業全てには、何らかの見返りを求めるべきである、と。
それがすなわち信仰を集める行為であり、もって神の力を維持し、格を高める行為なのだ、と。
何ら見返りを求めない行為というのは、己の力を無駄に使うだけで、いわば自殺行為である。それで力を失ってしまえば、神は何もすることが出来なくなる。結果として、己が本来やろうとしていた、やらなければならなかったことまで出来なくなる。
それでは本末転倒なのだ、と。
しかし、この神はそうではないらしい。
神の在り方と言うのも色々だな、と早苗は思って、出された水を一口する。
疲れているというのもあるが、冷たく、甘くて美味しい水だった。
「神奈子さんは、その地に居る神様を排斥して、自分だけの神を立てる神様?」
「信仰が集められなければそうなるだろう」
「そうなったら、あたしらの敵になる、ってことか……」
「うむ。それについては否定はしない。
だが、案ずることはないだろう。
この世界には、我のような神が必要だ。自分で言うのも何だが、我のなす神の恵みは人々の生活を豊かにする。
豊かになった人々は、自然、我を崇めるようになる」
「それでうちらの信仰、持って行かれると困っちゃうんですけど」
「そこはWin-Winの関係でいこう。
せっかくの新天地、そこの住人といざこざを起こすつもりは、今のところ、ない」
正直な人だ、と穣子は肩をすくめた。
隣では、彼女の姉である静葉が、にこにこ笑いながら話を聞いている。
穣子の肩を持って、神奈子との話に参加するつもりはないようだ。
「まぁ、別にいいけどさ。
うちらとしても、下手な騒動起こすつもりもないんだし」
「新しいお友達なのだもの。仲良くしましょう」
「歓迎してくれて感謝する」
神奈子は彼女たちに向かって、深々と頭を下げた。
しばらくして頭を上げると、『ところで』と話を切り出す。
引っ越してきたはいいものの、今までの自分たちの生活とはあまりにも生活基盤が違いすぎること。それを何とかしようと人里を目指しているのだと告げると、一同の視線はにとりに集まる。
「にとり、何か協力してあげれば?」
穣子の言葉に、にとりが腕組みをする。
「お前は何が出来るのだ?」
「一応、うちら河童は機械いじりが専門でしてね。
まぁ、見返りがもらえるんだったら、それにいくらでも協力するけど。
具体的に何をしたいの?」
「うむ。
早苗」
「あ、は、はい」
言われて、早苗が前に出てくる。
持っていた荷物の中から、『やりたいことリスト』を取り出し、にとりの前へと広げた。
「電気……水洗トイレ……台所にガスコンロ……何これ……。
あ、冷蔵庫はわかるけど、あれ、高いよ。紅魔館が……じゃなくて、それを造れる連中がいるんだけど、魔法が必要になるんだ。
その魔法の触媒を用意するのに時間とお金がかかるとかでさ」
「ふむ。
ならば――」
と、神奈子が背負っていた荷物の中から本を取り出した。
各種の電化製品のカタログや、所謂各種の『工事』に関する書物。
それを手渡されたにとりは、内容を見ていくに連れ、目を輝かせ、「これ、面白そう!」と声を上げる。
「すごいじゃん! こんなの出来たら、住環境ががらりと変わる! あたしもこんなの欲しい!
よっし! やったる! その代わり、この本、ちょうだい! あと、あるなら図面とかも! それでいいよ!」
「うわー……機械ヲタクに火ぃついちゃった」
「うふふ。にとりはん、相変わらずやね」
自分の知らない技術、自分の知らない物の存在に、すっかり魅了され、取り込まれたにとりは胸を叩いて、作業を申し出る。
神奈子は『よろしく頼む』と彼女に頭を下げ、早苗も慌てて、それに倣った。
「これが実現できたら、幻想郷中に、この技術をばら撒くのもいいね。
きっと、みんな、喜ぶよ」
「なるほど。
ならば、それを我への信仰と変えるのもいいかもしれないな。
幻想郷の技術革新。確かに興味がある」
もっとも、やりすぎるのはどうかと思うが、と。
つぶやく彼女は、その『技術』という名の形を持たない神が幻想郷の外を覆ってしまったことを思い出す。
やりすぎれば、技術は肥大化し、『科学』となって、あらゆる神を排斥する力を持ってしまうからだ。
その辺りの線引きをどうするか。
幻想郷の『お客さん』である彼女は、楽しそうに笑う。
「ねぇ、椛。神奈子さん達の家って、確か、山のてっぺんだよね?」
「そういう風に聞いてる」
「じゃあ、そこに、明日にでも行くよ。
いやー、楽しみだ。実際のものを見るのが楽しみだ! わくわくする!」
「楽しそうね、にとりちゃん」
「楽しいさ!」
どうやら、早くも神奈子は、『信者』を一人、獲得したらしい。
満足そうにうなずいて、彼女は立ち上がる。
「当初の目的は達成できたことだし。
早苗、そろそろ帰りましょうか」
「へっ? あ、は、はい」
「里に下りるのは、また今度にしましょう。あなたも疲れているようだし」
「あう」
「というか、人間が、この山を頂上から降りるのには、相当難儀するよね」
「仕方ないっちゃ仕方ないけどねー」
あたしら妖怪だし、とにとり。
妖怪と人間は体力というか、体の基礎がまず違う。
人間に出来ることの大半を妖怪は出来るが、逆は成り立たない。
「早苗さんだっけ? 何とかしないと、この山から出るのも大変だよ、あんた」
「うぐ……。ですよね……」
「あ、そうだ。椛、文さんかはたてさんにさ、何か話を聞いてきてよ。彼女、山の中に閉じ込めておくのもかわいそうでしょ?」
「そう……だね。
わかった。
じゃあ、早苗さん。そういうことで」
「すみません、椛さん。お手数おかけします」
この人は文さんの知り合いなのか、と頭を下げつつ、早苗は内心でつぶやいた。
あの、よくわからない天狗。神奈子にすら無礼な態度を平気でとる。
少しだけ苦々しいものを覚えつつも、早苗はただ、頭を下げるだけだ。
「帰り道は私が案内します。にとりでは、また何かあったら大変ですから」
「それはもう謝ったじゃん。しつこいなぁ」
「じゃあ、行きましょう」
「またねー」
「明日、そっちに行くから! 任せておいてね!」
彼女たちに見送られながら、二人はその場を後にする。
先を歩く椛は、「私が歩いたところを歩くようにしてください」と二人に注意をして、すたすたと、かなりのハイペースで進んでいく。
……無事に倒れず、家に帰りつけるのかな。
顔を引きつらせる早苗とは違い、神奈子は満足の裏に、少しだけ、鋭い視線を載せて、椛の背中を見つめていたのだった。
「んー……」
夜。
無事に家に辿り着いたものの、足が棒のようになっている早苗は、お風呂で『明日は筋肉痛だなぁ』と憂鬱な思いを浮かべる羽目となった。
神奈子に『おやすみなさい』を告げて、ベッドの中に入ってから、すでに一時間。
普段なら5分と経たずに眠れるというのに、今日はなかなか寝付けない。
朝から色々なことがあったためか。
幻想郷にやってきて、初日から、この世界が元の世界とは違うことを見せ付けられたためか、とにかく全ての景色が記憶となって鮮やかに脳裏にこびりついている。
このまま、かつての記憶が全て、上書きされてしまうのだろうか。
胸に抱いたもやもやは晴れない。
こちらの世界にやってくる時に感じた悲しみ、苦しみ、辛さ。それを全て忘れられる『楽しさ』があるのだとしたら、この世界での記憶は大歓迎だ。
だが、元の世界の記憶を全て失ってしまうことも、また、辛い。
あの石になった姫は言っていた。
他の誰が己のことを忘れても、己は他の全てを覚えている、と。
演じた自分でもはっとしてしまう、あのセリフ。
あの時、口をついて出たセリフは、恐らく、己の本心から浮かび上がった無意識の言葉なのだろう。
覚えておかなければならない。覚えておきたい。
「……むー」
何度目かの寝返りを打つ。
記憶を失わないために、今日から日記でもつけようか。
そんなことを思っていると、とんとん、と窓を叩く音がした。
最初は風か何かだと思っていたのだが、それは何度も、規則的に窓を叩いている。
変だなと思って起き上がり、カーテンを開けると、
「こんばんは~」
窓の外に、文が浮いていた。
一瞬、早苗は眉をひそめた後、「もう夜ですよ」と言う。
「ええ。
夜なら、神奈子さんも寝てるんじゃないかと思って」
「はあ」
「私、鴉天狗なので、夜は鳥目で周りがあまり見えないんですよねぇ」
懐中電灯は必須です、と彼女は笑う。
何の用ですか、と早苗は尋ねた。
朝方の記憶があるためか、少し、文に対する態度は辛らつだ。
「いえね、ちょっと、早苗さんに知って欲しいことがあるんですよ」
「わたしに?」
「ええ。ここじゃ話せないので、少し、場所を変えません?」
彼女は一体、何を話そうというのだろう。
にやにやと笑っているその笑みからは、何となく、悪い予感しかしない。
しかし、早苗とて、神奈子に仕える神子。多少の困難は己の力で乗り越えることが、この先、義務付けられている。
あえて罠にかかってみよう。
早苗は、決断した。
「わかりました」
「では、お手を拝借」
「え?」
着替えようとした、早苗の手を取り上げて、文は一気に上空に向かって急上昇をかけた。
息すら出来ない、その唐突な移動に、早苗はぎゅっと目をつぶる。
体が抱えられて、文の「手を回してください」という声。
言われるまま、彼女の体に手を回して、目を開ける。
「軽いですね。あんまり筋肉、ついてないんじゃないですか?」
文の笑顔が、すぐ、目の前にあった。
慌てて彼女は顔を逸らす。
ほっといてください、と文句を言って。
「さあ、夜の幻想郷のツーリングです。美少女と二人っきりのランデブーとか最高ですよねー」
文が空を舞う。
外の世界に居た頃は見られなかった、素晴らしい星空が、後方へと流れていく。
文が、『あそこが人里ですね』と示す。
空の上から見る幻想郷は、闇に沈んでいる。どこに何があるのかさっぱりわからない。
外の世界では、たとえ夜でも、人間は光を失うことはなかった。
街中に行けば闇を圧して、ネオンが一晩中輝き、住宅街であっても足下を照らす街灯が闇を打ち払っている。
だが、この世界はどうだ。
どこを見ても、闇。漆黒。黒に全てが覆われている。
――怖い。
早苗は無意識に恐怖を感じて、文に抱きつく。
「人間が闇を恐れるのは本能ですから。別におかしいことなんて何もないですよ。
我々、妖怪にとっては、闇こそその在り処。
かつて、日の地を謳歌していた土地の神たちが、妖怪の祖先です。
それを後からやってきた、火の子であるあなた達が照日の地を占領し、我々を闇の中へと押しやった。
当時のご先祖様たちは、さぞや、怒り狂ったことでしょう。
しかし、あなた達は火の神に祝福を受け、我々をたやすく退けてしまった。
ご先祖様たちは、仕方なく、闇に居場所を求めた。
闇に、あなた達が入ってこられないように、分厚い結界を造り、堅牢な線引きをして。
闇の中に足を踏み入れたものを集団で襲い、二度と日の当たる場所へと帰さない。そうすることで、人は闇を恐れるようになった。同時に、妖怪は日の光を恐れるようになった。
――大昔の話です」
「……文さんは、わたしを食べるんですか?」
「女の子なら別の意味で食べてもいいですよ?」
その一言に、早苗の顔が真っ赤になる。
文はけらけらと笑いながら、「冗談です、冗談」と茶化して言う。
早苗は頬を膨らませて、ぷいっとそっぽを向いた。
「まぁ、そんな、大昔の国の姿が、未だに残っているのが幻想郷です。
今、外の世界がどうなっているのか知りませんが、さぞかし、そこは明るいのでしょうね」
早苗の態度を見ていると、それを察することが出来るのか、文は言う。
早苗は何も答えず、視線をそらすだけだ。
「この地は狭くて広い。
あなた達が求める信仰だって、恐らく、たくさんあるでしょう。
あなた達は、ここで好きに暮らせばいい。元々、それを目当てにやってきたんだ。
どこかの偉い妖怪が言っていたらしいんですけどね?
幻想郷ってのは、あらゆるものを受け入れる場所なんだそうです。懐が深いですよね」
「……はあ」
「あそこが人里。大勢の人間が集まる場所で、妖怪もよく入り込んでますね。
あそこが魔法の森。日の光が当たらないじめっとしたところで、物好きな魔法使い連中が住んでます。
あそこが霧の湖。幻想郷で一番大きな湖で、妖精たちが毎日、楽しそうに遊んでいるところです。
あそこが紅魔館。最近、何を間違ったか、テーマパーク化してまして、幻想郷住民憩いの場です。
あそこは永遠の竹林。その奥に、やたらとろくさいお医者さんがいます。
それから、あっちが博麗神社」
「……博麗神社?」
「ええ。この世界に、唯一つだけある神社です。
いや、『でした』かな?」
文の指差す先に、それがあるのだろう。
もちろん、早苗には何も見えない。
文は言う。
「その神社に住んでいる巫女は、これまたぐうたらで怠惰の極みを突っ走っている巫女なんですけどね。
まぁ、ありがたみはないわ、威厳もないわ、権威もないわ、もちろん神々しさなんて皆無でして。
年がら年中、『参拝客こないー!』って喚いているような奴です」
「……それって……」
さすがに、早苗も呆れてしまう。
しかし、と。
「だが、こいつがまた、面白い」
文の笑顔が変化する。
今まで浮かべていた、気さくな、『友達風味』の笑顔から、鋭い妖の笑みへと。
「彼女の元には色々なものが集まってくる。
人間、魔法使い、吸血鬼、亡霊、蓬莱人、しまいには死神に閻魔まで。
彼女はこの世界の要をなし、トラブルの中核をなしている。
彼女が居る限り、私の新聞は安泰ですよ。彼女を取材しているだけで、面白い記事が書けるんだから」
「……すごいですね」
「あ、紹介を忘れましたが、あっちが彼の世です。此の世との境目があるのですけど、ここからは見えませんね」
そんなところまであるのか、と早苗は目を丸くする。
彼の世といえば、一度行けば、二度と帰ってこられない世界だ。
それがどんな世界であるか、論じるだけで本が何冊も書けて、偉い先生方がああでもないこうでもないと論議を繰り返すことが出来る。
そこに、文は『生きてる人でも行けますよ』と言うのだ。
ますます、今まで持っていた常識が崩れていく。
「ま、それはともあれ」
彼女は一旦、話を打ち切ると、夜空の遊覧飛行を始める。
ゆったりゆっくり、空が流れる。
早苗は文にしっかりとしがみつき、夜の幻想郷を眺めている。
「広いでしょう?」
「……はい」
「けど、えっと……」
「早苗です」
「早苗さんが、今まで生活していた場所に比べると、とても不便で狭いところだと思います」
「……そうですね。
あの山からここまで来るのに、歩いたら何日かかるんでしょう」
「だから、人里の人間は、ほとんど里から出ないんですよ。
道を歩けば妖怪に食われる可能性もありますし。
あちこちふらふら移動しているのは、私みたいに飛べる奴らだけですね」
「そんなに治安が悪いんですか?」
「いいですよ。むしろ」
昔の、妖怪の偉い連中の取り決めで、『人里を、妖怪は襲ってはいけない』というルールが作られたのだという。
それを破ったものがどうなるか。それを文は知らないとか。そんなことをする妖怪がいないのが、その理由らしい。
しかし、里を離れた人間を襲ってはいけないという取り決めはない。
人里を遠く離れたところに一人で歩いていたりしたら、たとえ昼間であろうと、妖怪に襲われても文句は言えないのだという。
「けど、最近は、めっきり人を襲う妖怪も減りました。
人間側も智慧をつけてきて、妖怪が嫌う術を身に着けたり、もっと簡単に、妖怪よりも強くなろうとしたりしてますし。
妖怪だって、みんながみんな、人間だひゃっはー、な連中ではありません。
私みたいに、とってもかわいくてぷりてぃな妖怪だってたくさんいるんですよ」
「まぁ、それはそれとして」
「ぐっさ」
スマイル文ちゃんです♪ と笑う文を華麗にスルーする早苗。
割と、その態度は文の心を激しく抉ったようだ。
「そういうところに、わたし達は受け入れられないといけないんですね」
「まぁ……そうなりますね。
まずは山の連中に、ですけれど」
「文さんはどうなんですか?」
「あなた達は面白そうですからね。私基準では合格ですよ」
「何か自分勝手」
「妖怪も人間も、そこは変わらないでしょう。根底には全て私利私欲ですよ」
それがよかれど悪かれど、生き物は全て、己の欲のままに行動している。
善も悪も、そこには存在しない。
生物として、『生きる』という行為すら、『己の命を永らえさせる』という欲に基づくからだ。
欲を全て排除した生き物は、生き物ではない。
それはもはや、生きることすらない死体に過ぎないのだから。
「ただねー」
文は口を開く。
「あなた達が神職として受け入れられるかどうかは、ここにかかってるんじゃないかと」
視界の中に――暗闇の中に、建物の姿が浮かび上がる。
どこか古びた印象を携えたその神社。
全てが闇に沈み、しんと静まり返ったそこは、
「……博麗神社」
「そう。
ここの巫女さんはね、何だかんだ言って、人気者ですよ。
たくさんの人、たくさんの妖怪に慕われている。
神社としての信仰は持っていないかもしれないけれど、個人が持っている信仰は大したものです。
もし、あなた達の神社が、後追いで、『神社』として繁栄していくなら、少なくとも、ここは邪魔になりそうですね」
早苗は、無言で博麗神社を見つめている。
その社殿、その向こうの母屋。そして恐らく、そこで眠っている神社の主を、彼女はじっと見詰めている。
「まずは話し合い。それが通じなければ戦って倒す。人間の、争いの歴史そのままです」
「戦う……」
「それが商売的であれ、物理的であれ。
邪魔者は排除するべきでしょう?
自分たちの方が、より、人々にとってためになると考えているのであれば、相手を排除することもいとわない――それくらいの覚悟、いると思いません?」
しかしね、と文。
「ここの巫女はねぇ、そりゃあもう強いんですよ。
私だって、油断できる相手じゃありませんね。
もし、本気の彼女を倒せと言われたら、殺す覚悟でやらなきゃ勝負にならない」
「……そんなに」
「けど、あなたは弱いね」
いきなり、文の手が背中に回る。
彼女の右手が早苗のおとがいを掴み、引き寄せる。
「たとえば、私がこうしてやるだけで、あなたは何も出来なくなる」
「ち、ちょっと、やめてください!」
「唇を奪われて、純潔を散らされるのを待つだけで」
「大声上げますよ! 本気ですよ!」
「やれるものなら――」
文の顔が視界一杯に広がる。
早苗は目を閉じて、大きく胸を膨らませる。
「やってみますか?」
そのささやきが、耳元で響いた。
ぞくっ、と背筋が震える。
よくある、ヒロインが主人公に、甘い言葉で篭絡されるのとは全く違う。
これは、文からの挑戦。しかも、敗北すれば命のない挑戦。背筋に走った電流は、寒気と恐怖。体が引きつり、動けなくなる。
「――と、冗談ですよ?」
しかし、文はぱっと身を離すと、けらけらと笑い出す。
「私がそんなことするはずないじゃないですか~。
やるなら同意の上!」
「……あ、あのねぇ」
怒りと恥ずかしさ、情けなさと悔しさで、別の意味で体が震えてくる。
文句の一つでも言ってやろうとする早苗だが、続く文の言葉で、彼女はそれを呑み込むことになる。
「けど、自分が弱いってのは納得してもらえたでしょ?」
「……」
「幻想郷で生きていくには、あなたはあまりにも弱すぎる。
あの神様の後ろ盾がないところじゃ、何にも出来ない、ただの子供です。
神の威光を、それで伝えられるでしょうかね?」
にやりと笑う、文の顔。
その挑発的な笑顔に、しかし、早苗は反論が出来ない。
昼間の無様な自分が思い浮かぶ。
文の言う通り、己が強ければ、あのような無様な姿はさらさなかっただろう。
そして、神奈子のように強ければ、もしかしたら、この世界に来る時に感じた、あのつらさを感じることもなかったかもしれない。
心が強いものは、神である。
心が弱いものは、まだまだ人間である。
神奈子は早苗を『現人神』として己に従うことを許してくれた。
自分は、『人』を捨て去らねばならない。
――そうか。これこそ、神奈子の言った、『しがらみ』なのか。
早苗は思った。
「……どうすればいいですか」
それはあまりにも短絡的で、あまりにも唐突な思い付きだったのだろう。
もしかしたら、極端な思い込みにも過ぎなかったのかもしれない。
しかし、早苗にとって、それは『本気』であった。
この世界に来る時に味わった、あの痛み。
この世界で味わった、あの想い。
それが全て、己の未熟さゆえに起因するものであったとしたら。
果たして己は、この先、『八坂神奈子』の威光を、身をもって体現する現人神になれるだろうか。
答えは、否。
あのように気高き、神々しい神の御許に仕えるのならば、それ相応の器を持たなくてはならない。
それこそが、己に課せられた使命であり、断ち切らねばならない、人としてのしがらみなのだ。
ならば、やるしかない。
この世界に来た以上、もはや後戻りは出来ない。
この幻想郷で生きていくしかない。
この幻想郷で、多くの信仰を獲得し、神奈子と共に『神』として隆盛を極めるしかない。
「お手伝いしますよ」
文がにやりと笑った。
その笑みに、普段の早苗なら、何か怪しいものを感じて『やっぱりいいです』と断っていただろう。
だが、今の彼女には、その冷静な判断力が欠如していた。
明確なライバルの存在を意識させられ、それに満たない、未熟な自分を再認識させられて。
彼女の中に、『超えるべき自分』という存在が確立してしまったのだ。
「明日以降でいいですか?
この世界で必要なこと。そして、早苗さんに出来ることを、しっかりと学んで、教えて差し上げます」
「お願いします」
「契約成立ですね」
文は早苗を抱いて、博麗神社の空から飛び去っていく。
「じゃ、帰りましょうか。夜更かしは体に悪いですからね」
飛びながら、文は、『さてさて。楽しくなってきた』と笑っていた。
真面目な表情で、何やら今後の自分を考えている早苗を見ると、『何と言う阿呆だ』と思ってしまう。
思い込んだら一直線。とにかく何事にも真面目に考え、冗談すらまともに受け流せない未熟者。
このような阿呆が『現人神』か、と彼女は哂っていた。
「あのわんこの話も役に立つものだ」
そう小さくつぶやいた文の声は、早苗には聞こえていなかった。
――3――
「あ~、食った食った~! 腹いっぱいだ! もう食えない! 動けない!
霊夢、今日は泊まっていくぜ!」
「うっさい帰れ」
「ケチくさいな、いいじゃないか」
にやにや笑いながら、魔理沙は霊夢に声をかける。
霊夢は『ったく』という顔をして、「あんたの分の布団はないからね」と冷たい一言を投げかける。
しかし、この博麗神社、なぜか何組もの布団セットがあったりするのは博麗七不思議のひとつである。
「ああ、早苗ちゃん。あなたはいいのよ、座っていて。
霊夢、何をぼーっとしているの。片づけくらい手伝いなさい」
「何で早苗はよくて、私はダメなのよ」
「早苗ちゃんはお客様でしょう。全くもう。ほら、さっさとなさい」
「あーもー、はいはい」
「『はい』は一回でいいの」
「はーい!」
紫に叱られ、霊夢も後片付けに回される。
その様を見ていた早苗とアリスは、くすくすと笑った。
「紫さんって、何か霊夢さんのお母さんみたいですよね」
「ほんとよね。出来の悪い子供に苦労しているわ」
「わたしは姑に気に入られているみたいでよかったですよ」
そんな二人の前には、食後のデザートとしてみかんとお茶が置かれていた。
実に楽しく、美味しい晩御飯だった。
出された料理はほとんど、参加者の胃袋へと収まった。余った分は、神社の氷室へと入れられている。
紫曰く、『ちゃんと、食べる時は暖めるんですよ』ということだ。
「あ~、幸せだな~。
あとは風呂入って寝るだけだ~」
「ちょっと魔理沙。だらしないわよ、起きなさい」
「やだ!」
魔理沙はアリスに膝枕してもらいながら、ごろごろと、そこで喉を鳴らしている。
ちなみに同じように喉を鳴らす橙は、『自分用』のふかふか座布団の上で丸くなっていた。
「……もう」
「アリスさんは、何だかんだで魔理沙さんに甘いですよね」
「冗談やめてちょうだい。迷惑してるのよ」
「いいじゃないかよ~」
「よくない」
「あいてっ」
ぺちん、とおでこをはたかれて、魔理沙は悲鳴を上げる。
しかし、それでもアリスから離れない辺り、魔理沙がアリスにどれだけ懐いているかわかるというものだ。
「アリスさんも泊まっていくんですか?」
「そうなるかもしれないわね。
何だか悪いわ」
「まぁ、紫さん達は帰るでしょうし、残るのはいつものメンツになりそうですよ」
視線を、彼女は諏訪子に向ける。
諏訪子はぐで~っとテーブルの上に顎を預けてだらけている。神奈子から『お前も手伝え』と怒られているのだが、暖簾に腕押しだ。
「早苗のところは、神様が二人もいて大変よね」
「そうですねぇ。
神奈子さまはお父さんでお母さんで、諏訪子さまはお母さんで友達みたいな感覚なんですよ」
「おっ、なになに? わたしの話? わたしが早苗のお母さん? 照れちゃうな~」
ころころと畳の上を転がってやってきた諏訪子が、早苗の後ろから抱き付いてくる。
やめてくださいよ、と笑う早苗は、「まぁ、こんな感じです」とアリスに一言。
「友達って言うより妹じゃない?」
「ああ、そんな感じするなー」
誰がどう見ても『アリス=姉、魔理沙=妹』な図である『妹』もそれに同意する。
「ん~、早苗はほんとかわいいねぇ。
わたしの自慢だよ~」
しっかり者だし、性格いいし、家事も出来るし、見た目もいい、と。
指折り早苗の長所を挙げてから、『どうだ、すごいだろ』と諏訪子は胸を張った。
親ばかというか、何というか。
早苗から離れた諏訪子は、またころころと畳の上を転がっていった。何がしたいのか、いまいちわからない彼女の仕草に、二人は苦笑する。
「だけど、最初は、早苗は諏訪子のことを知らなかったのでしょう?」
「そうですね。うちに神様がもう一人いたなんて」
「何で知らなかったんだよ。神なんて、そんじょそこらにごろごろいるからか?」
「神様ってかくれんぼが得意なんですよね」
『お隠れになった』って表現があるじゃないですか、と早苗。
大抵、それは、身分の高い貴人が鬼籍に入った時に使う言葉なのだが、
「偉い人は隠れるのも得意なんですよ」
と彼女は言う。
なるほどとアリスは納得し、魔理沙は『よくわからん』とごろごろ呻く。
「あー、終わった終わったー」
「霊夢、早苗ちゃん達と一緒にお風呂に入っちゃいなさい」
「はーいはい」
「『はい』は一回でいいの」
「はーい!」
戻ってきた霊夢は『ほんと、いつまで経っても子供扱いよ』とふてくされる。
そんな彼女の言葉に二人は笑い、アリスが「だって、あなた、子供じゃない」と一言。
ちなみに、実年齢だけで言うなら、この四人の中では霊夢が下から二番目だ。ついでに、見た目も。
「うっさいわね」
「それじゃ、お風呂、行きましょうか」
「私は後でいいわ」
「あー、私も後でいい。アリス、背中流してくれ」
「湯船の中に沈めるわよ」
「今日は楽しかったですねー」
「そうね」
神社の風呂は、ちょっと狭い。
二人で入る分にはまだ少し余裕があるのだが、それ以上は無理である。
湯船と洗い場に、それぞれ、一人ずつ。それが限界だ。
「毎日、こんな風に楽しいご飯ならいいんですけどね」
「ほんとよね。
私なんて、最近は米と味噌汁だけだったわ」
「ちなみにお味噌汁の具は」
「味噌汁のみそ入り」
「……」
ちなみに本日、博麗神社の氷室には、紫が大量に食料を入れていたのを、早苗は知っている。
紫曰く、『こうでもしないと、あの子は栄養失調で死んでしまう』ということだ。
つくづく、紫がいないと生きていけない霊夢である。
「早苗はさー」
「はい」
「幻想郷で暮らしてて楽しい?」
「楽しいですよ?」
ざっとお湯で石鹸を流して、霊夢に振り返る。
霊夢は、ふーん、とうなずいて、
「外の世界に、たくさん、友達いたんでしょ?」
尋ねてくる。
早苗は『そうですね』と微笑を浮かべて、少しだけ視線をそらしてしまう。
「一回さ、外に戻ってみる?」
「え?」
「紫に頼めば、少しの間だけなら、外の世界にだって戻れるよ」
「……」
早苗が黙ったのを、昔の思い出に浸っていると考えたのだろう。
霊夢は霊夢なりに考えての、早苗のことを気遣った発言だった。
早苗は、笑う。
「いいです」
「……そう?」
「はい。
外の世界の想い出は持って来ましたし、それ以外の、わたしを縛るものを、全部、わたしは断ち切って向こうに置いてきました。
今のわたしは、早苗inGENSOKYOです。
ありがとうございます」
「控えめだね、早苗は」
やれやれ、と霊夢は肩をすくめた。
「理解できない」
その一言が、少しだけ、胸に痛い。
「どうして、そこで自分を押し込めるんだろうね。
もっと自分を押し出したっていいじゃない。
紫にさ、『一回くらい、外の世界に帰せ』とか。言ってもいいんだよ? あいつなら笑ってオーケーしてくれるよ」
「帰りたくないといえば嘘になりますけど」
外の世界には、まだ、彼女の両親がいる。友人がいる。
彼らは今、どうしているだろうか。
あれから、もうずいぶんになる。今頃、彼らはどう変わっているのだろうか。
早苗も、この世界に来た時から見れば、見違えるくらいの変化を遂げた。別人になったと言っていいだろう。
ひょっとしたら、彼らは、早苗だということに気付かないかもしれない。本人を前にしても。
「たまにさ、早苗が『外の世界にはこんなことがあって~』って話してくれるけど、あれ、聞いていてすごいわくわくするんだよね。
だけど、早苗の横顔がさ、何かすごく寂しそうなんだ」
「……そうですか?」
「そう。
過ぎ去ったものに思いを馳せる、って感じ。ノスタルジーってやつかな。
それを見るたびにね、『ああ、この子、外に帰りたいんだな』って思う」
「多分、それ、霊夢さんの考えすぎです」
「そう?」
はい、とうなずく早苗。
「さっきも言いましたけど、外に帰りたくないといえば嘘になります。
だけど、今のわたしには、幻想郷の生活が出来ました。
たくさんの友達が出来たし、たくさんのつながりが出来て。
外の世界に帰りたい帰りたいって、それ、そういう人たちを馬鹿にしてるってことですよね」
「……そうかな」
「せっかくの付き合いもうわべだけ。
友達になったと、向こうは思っているのに、こっちはそうじゃない。
霊夢さんだって、そうだったらいやでしょう?」
「……うん」
「お気遣い、ありがとうございます。とっても嬉しいです。
だから、あえて言います。
今のわたしにとって、外の世界に帰るよりも、霊夢さんの側のほうがいいです。ずっと一緒にいるなら、そっちの方が」
ぼっと、霊夢が頭から湯気を噴いた。
茹蛸、完熟トマト、りんご、その他諸々。
あらゆる赤いものより真っ赤に染まった彼女は、早苗に背中を向けて湯船の中に頭まで沈んでしまう。
「お背中流しますよ、霊夢さん。
ついでに、愛を込めて、わたしが霊夢さんの胸が大きくなるよう、バストアップマッサージを……」
「結構ですっ!」
彼女の返答に、早苗は声を上げて笑う。
――楽しそうに。
「あの、神奈子さま」
「何?」
「ちょっと、わたし、出かけてきます。
あの、もしも人里に出たりするようなら連絡をください」
「わかりました」
神奈子は、笑顔で早苗を送り出してくれる。
あれから、すでに数日。
幻想郷にやってきてから、彼女たちは、信仰心を獲得すべく、精力的に活動している。
具体的には、山を降りる近道を、白狼天狗の椛に教えてもらい、人里に出ることを始めている。
ただし、その道を歩けるのは神奈子だけであるため、早苗は大人しく留守番していることが多い。
彼女たちの家には、毎日、河童のにとりがやってくる。
たくさんの友人を連れてやってくる彼女は『さあ、今日も頑張るよー!』と、手に手に工具を取り、母屋のインフラ改善を行なっている。
おかげで、幻想郷にやってきた翌日に、水洗トイレ(ウォシュレットつき)が実装された。早苗は心底、それにほっとしたものである。
そんな毎日の中。
早苗は、時たま、家を抜け出す。
神社の敷地を出て、にとり達に作ってもらった、参拝用の石段を下りていく。
一番下の段を降りきったところに、彼女は待っている。
「おはようございまーす」
にこやかな笑顔と軽快な声、天狗の射命丸文だ。
彼女は、『さあ、お姫様。お手をこちらに』と手を差し出してくる。
早苗はそれに手を載せる。次の瞬間、二人は空の上へと舞い上がっている。
神社を離れた、山の一角。
ひとけもなければ、獣すら近づけないと思われる断崖絶壁の上。
「それじゃ、今日は空を飛ぶ練習をしましょうか」
「は、はい」
「早苗さんは、どんな術が使えるんでしたっけ?」
「えっと……風を巻き起こしたり、雨を降らせたり……」
「それが、神奈子さんの力を借りた、術の行使ということで?」
「そうです」
「わかりました」
文は、早苗の、幻想郷での『先生』の立場を買って出た。
幻想郷のルール。幻想郷の常識。幻想郷の日常を、彼女は早苗に語って聞かせている。
その座学が終わりを告げて、今日から実践練習の開始である。
幻想郷の人々で、所謂『力ある』ものは空を飛ぶことが出来るのだという。人間、妖怪の区別なく。
「たとえば、私は翼と共に風を操って空を飛びます」
ふわりと、文が空へと舞い上がる。
「早苗さんもやってみてください」
「はい。えーっと……」
手にした祓え串で空を薙ぐ。
一陣の風が舞い起こり、突風となって叩きつける。
それに体を預けると、
「ひゃぁぁぁぁぁ~!」
「何やってんですかー!」
風に煽られ、そのまま、早苗は空の彼方へとすっ飛んでいく。
慌てて文がそれを追いかけ、空中でキャッチ。
「……あ、危なく、飛び降り自殺するところでした」
文曰く、『私は幻想郷最速!』ということなので、早苗の急な動きにも、彼女はついてきてくれる。
空中で何とか態勢を立て直した早苗は、再び、足場に戻って再チャレンジ。
今度は風を優しく扱い、自分を包み込むように、それを制御する。
そして、充分、体が風を纏ったら、下から上へと。
結果。
「シャッターチャーンス!」
「東風谷ぁぁぁぁぁぁぁぁ! スマァァァァァァァッシュッ!」
「あべし!」
巻き起こる風は彼女の鉄壁の防御をたやすく打ち崩し、すかさず文がカメラを構えたところで、その顔面に、早苗の渾身の右ストレートが炸裂した。
吹っ飛んだ文は木立に叩きつけられ、しばらく動かなくなる。
「……くっ、私の追いかける青い鳥がすぐそこにいるのにっ!」
そしてすぐ復活する。
文の、この生命力の高さには、早苗も脱帽であった。
「というか、そういうの撮影するなら他の人を撮影してくださいよ!」
「何を言っているんですか! その『他の人』カテゴリに早苗さんがいるのに!」
「じゃあ、自分の撮影してください!」
「どうやって!?」
「……え?」
その『どうやって』の意味には、色々な解釈が出来る。
自分のを撮影するのは『どうやって』するのか。
その手段を確立したとして、シャッターチャンスを『どうやって』確保するのか。
そしてもう一つ。そもそも身に着けてないものを『どうやって』撮影するのか。
……3番目ではないだろう、多分。
そう思いつつも、極端に短いくせに全く下着の見えない文のスカートを疑う早苗である。
「まぁ、ともあれ。
早苗さんは、風を使うのなら、その風を操るのではなく、風に乗ることを覚えるべきです。
早苗さんの世界で言う、『くるま』とか『ひこーき』と同じですね」
「風を乗り物みたいに扱う、ということですか」
「そういうことです。
一度、それに乗ってしまえば、あとはお任せ飛行。まずはそこから。操るのは、その一歩先ですね」
「わかりました」
もう一度、チャレンジ。
風を起こして、それを身に纏う。
そして、足下から湧き上がる風の流れに、あえて自由に身を任せると、
「うわ」
ふわりと、体が浮かんだ。
そのまま風の勢いを強くすると、早苗の体が上空に向かって流れていく。
「出来た、出来た!」
続いて、側面から流れる風に身を任せる。
風に乗って、早苗の体は空を飛ぶ。
「いいじゃないですか。飲み込みが早いですね」
「わたし、体を使う競技は得意なんですよ。かつては『陸上競技の鬼』と呼ばれてました」
「カメラ撮影多かったでしょ?」
「何でわかるんですか?」
威張ってえへんと胸を張る早苗の胸部を眺めながら言う文に、早苗は不思議そうに尋ねる。
それはともあれ、二人はしばらくの間、空を併走する。
「これくらいできるなら、次の、『風を操る』ステップに進めますね」
「はい」
「じゃあ、やってみましょう。
ここから先は難しいので、墜落に注意してください」
言われて、下を見る。
まだ、周囲の木々からの高さは10メートルもない。だが、その木の頂点が、地面から数十メートルはある。
簡単に言って、10階建てのビルくらいの高さを、彼女は飛んでいるのだ。
墜落=即死、である。
泣きそうになる早苗に、文は『ま、まあまあ』と声をかける。
「落ちたら死ぬなら落ちなきゃいいだけです!」
励ましにも何にもならない言葉であるが、とりあえず、やるっきゃない。
何せ、自分で決意したのだ。
今までの自分を越える、と。
その第一歩が、この幻想郷におけるルールに生きることであり、そのルールに則り、生きるだけの力を手に入れることなのだから。
「よ、よーし!」
彼女は意気込み、風を操り、巻き起こす。
そして、
「きゃあぁぁぁぁぁぁぁぁ~!」
「風、強すぎー!」
やっぱり吹っ飛んでいく早苗を追いかけ、文は妖怪の山のあちこちを、必死で飛び回る羽目になったという。
飛んだり飛ばされたり落ちそうになったりすること、すでに3時間。
昼を迎える頃で、ようやく、早苗は自由に空を飛ぶことが出来るようになった。
しかし、やはり動きはまだまだぎくしゃくとしている。
文のように、縦横無尽に飛び回るには、まだまだ練習が必要となりそうだ。
「……おなかすきました」
「じゃあ、そろそろお昼にしましょう」
文に案内されて、早苗は山の稜線に沿って飛んでいく。
広い広い妖怪の山。山というよりは山脈のそれを飛んでいくと、突然、一軒の家が現れる。
文はその前に舞い降りると、とんとん、と家のドアをノックした。
「はい?」
「こんにちはー」
ばたん。
開いて顔を覗かせた家の主は、文の顔を見て即座にドアを閉めた。
しばし、沈黙。
「い、いやいやいや! はたてさん! そりゃないですよ! お友達が来たんですよ! 開けてくださいよー!」
「都合のいい時だけ、友達を言い出すような奴を、わたしは友達に持った覚え、ないんだけど」
どんどん激しくドアを叩いて大慌てになる文。
がちゃりと、再びドアが開いて、不機嫌そうな眼差しの女の子が顔を覗かせる。
何となく、文と似たような衣装。
一番の違いは、そのツインテールな髪型だ。
「……ん? 誰、その子」
彼女の視線が早苗を向いた。
早苗は慌ててぺこりと頭を下げる。
「こちらの方、東風谷早苗さんといいまして。
騒動になっている、八坂神奈子さんの……えー……巫女さん? ですね」
「ふーん」
単に、知らない相手がいたから聞いた、という風情の『はたて』なる人物は、あっさりと早苗から興味を失ったのか、またドアを閉めようとする。
「だから入れてくださいってばー!
私たち、おなかすいてるんです! ご飯食べさせてくださいよぅ!」
「何でわたしがあんた達にご飯を食べさせてやんなきゃならないのよ!」
「だって、はたてさん、料理上手じゃないですか!」
「そこで逆切れするな!」
振り上げたはたての拳が文の顔面にクリーンヒット。
しかし、文はめげずに、「はたてさんほど料理が上手な友人は、私の中にいません!」となぜか胸を張る。
はたては思いっきりため息をついた後、こいつを追い払うのは無理だと判断したのか、観念してドアを開いた。
あまり『歓迎されている』風ではないのだが、さっさと室内へと入っていく文に、早苗も、顔を引きつらせながら続く。
「あんたも大変ね」
「あ……はぁ……」
なぜか、はたてから同情されてしまった。
さて、その家の中は、なかなかに女の子らしい、かわいい雰囲気の空間になっている。
部屋の中央には大きなソファとテーブル。
右手側、窓のすぐ近くに、大きな大きなデスクやら何やらが置かれていた。
「あなた、何か食べたいものとかあるの?」
「あ、いえ。わたし、好き嫌いはないので」
「そう。わかった。
ああ、だけど、卵とかはないから。わたしら、鴉天狗だから、共食いはさすがにね。
あと、あなたの口に合うものが出てくる保証もないから」
そういう意味で、鶏肉もない、とはたては言って炊事場に入っていく。
ちらりと覗くと、その炊事場は、水場と竃などが置かれた部屋になっている。
一昔前……というか、大昔の『日本のキッチン』そのものだ。
「はたてさんのお料理は美味しいですよ! もう、ものすごく! 早苗さん、期待していてくださいね!」
やたら嬉しそうな文。
その文に、はたてが『飯を食いたいなら手伝え』と声をかけた。
文は席を立って、はたてのところに歩いていく。
残された早苗は、ソファに腰掛け、料理を待った。そしてそれから5分もしないうちに、文は『いても役に立たないどころか邪魔になる』としてはたてに蹴りだされてきた。
――それから、20分ほどして。
「あ、ほんと。美味しい……」
出された真っ白つやつやご飯と山菜の炒め物、川魚の塩焼きに、野沢菜の漬物、というラインナップに早苗は声を上げる。
「料理くらい出来なくて、女に生まれた価値なし」
「全くですよねー」
「缶詰と保存食品しか食ってないあんたが言うな」
ばくばくもぐもぐ、ご飯をかきこむ文の脳天に、はたてのチョップがヒットする。
この食べっぷりを見ると、文は相当、おなかがすいているようだ。もしかしたら、何食か食べていないのかもしれない。
「あんた、外の世界の人間だっけ?」
「あ、はい」
「何で文なんかと一緒にいるの」
こいつ面倒な奴でしょ、と箸の先で指差すはたて。
早苗は、それに何ともいえない微妙な笑みを浮かべると、『実はこれこれこういう事情が』と話をする。
はたては、『ふーん』とうなずき、小さくつぶやく。
「……またこいつは。何企んでるのよ」
そのつぶやきは、文にも早苗にも聞こえなかったようだ。
文は『はたてさん、おかわり!』とお茶碗突き出してくる。
「いや~、ほんと、はたてさんのご飯は美味しいですよねぇ! もう、すぐにでもいいお嫁さんになれるくらい!」
「あんたも少しは料理くらい作れるようになりなさいよ。
ほんと、なっさけない」
「いやぁ、色々忙しい身の上でして」
「洗濯物はためる、洗い物もためる、部屋の掃除はしない、そんな生活してるダメ人間は口答えするなっ」
「むぎゅ」
口の中に梅干押し込まれて、文は悲鳴を上げる。
全くもう、とはたて。
「あんた達の話は聞いてる。信仰を求めて外の世界から入ってきた、って」
「はい」
「どう? 少しは、人里で知名度、上がった?」
「……さあ。どうでしょう。
さすがに、あんなところに神社を構えていますから。参拝客は0人です」
「そりゃあねぇ。
今からでも遅くないから、麓とかに移ったら? にとりとかに頼んで」
「あの建物は、わたし達にとって、思い出深いものですから。
それを置いていくのは……」
「だから、にとり達に頼むのよ。
あいつら、あんななりだけど、そこら辺の大木くらい片手で引っこ抜いて持ち歩けるような連中よ。
河童連中と真正面から殴り合いをしたら、天狗なんて完膚なきまでに叩き伏せられて終わり。
土台から担いで持っていってくれるんじゃない?」
「………………」
早苗は沈黙する。
確かに、史実……というか、所謂、よくある『民間伝承』では、河童は相撲好きで妖怪全体の中で比較しても剛力無双の妖怪として知られている。
早苗の頭の中にある『河童』のイメージそのままの河童であれば、それを疑う余地はないだろう。
しかし、この幻想郷にいる河童というのは、何というか、『河童(萌)』なのである。
それが、それほどの怪力の持ち主と言われても、簡単に信じることは出来なかった。
だが、思い返してみれば、にとり達は早苗たちの神社にやってくるとき、人間の身長よりも馬鹿でっかいドリルだの斧だのカッターだのを持って来る。
百聞は一見にしかず、事実は小説より奇なりとは、まさにこのことか。
「ただ、まぁ、えっと……。
神奈子さまが、この山を気に入ってるみたいで」
「神様に気に入られるなんてね。光栄じゃない」
「そうですねー。
私も昔っからこの山に住んでいますけど、確かに住みやすいですよ。ここは」
梅干のすっぱさを乗り切ったのか、文が会話に参加してくる。
彼女は、はたてからお茶を淹れてもらうと、それをずずーとすすりながら、
「人間にとって住みやすいかどうかは別ですけどね」
と、一言、余計な言葉を付け加える。
「あの、はたてさん達って、普段は何をしているんですか?」
早苗は、話題をそらすために、文ではなくはたてに視線を向ける。
はたては肩をすくめると、
「わたしら天狗は、情報通というか、デバガメが好きでさ。
鴉天狗はけたたましく、あることないこと叫びながら飛び回る通達屋。新聞なんて作ってるのよ。仲間内での趣味でね」
「ああ、それで」
「はい。我が文々。新聞は、幻想郷の未来を映し出す、まさにぱーふぇくつな新聞です」
「そういう戯言はさておいて」
「はたてさぁぁぁぁぁぁん」
「ええい、よるな、うっとうしいっ」
この二人、どうやら、ずいぶんと仲のよい友人関係らしい。
傍目には、どう見てもじゃれているようにしか見えない二人に、早苗は小さく笑う。
「わたしも新聞を作ってるの。売り上げはいまいちだけど、まだまだこれから。頑張らないとね」
と、取り出した、彼女の『カメラ』。
それを見て、早苗は『あれ?』と思う。
「ケータイじゃないですか」
「『けぇたい』? 何それ」
「え? だから、それですよ」
「これ、カメラでしょ?」
はたてはそれを広げると、レンズを早苗に向けて、ぴっ、と一枚、写真を撮影する。
『ほら』と見せてくれる、液晶画面。そこには早苗の顔が映し出されている。
「えっと……あー……。
その、ですね。それは本来、『携帯電話』と言いまして、遠隔地との通信が出来る機械なんですけれど、その機能の一つにカメラ撮影機能というものがついているだけでして、カメラというのは、本来はフィルムタイプのものが主流……というか、文さんが持っているようなのを示すんですけど……」
文とはたての頭の上に『??????』と何個ものクエスチョンマークが浮かんでいる。
『機械』というか、『文明』というものが絶妙な感じで入り混じっているのが、この幻想郷。
しかし、そこに住む者達が、皆、ハイテクに強いというわけではない。
「えーっと……通信? これが?」
「これに向かって喋ると、誰かが聞いてくれるんですかね?」
「中に誰かいるとか?」
「さあ……?」
つんつん、と二人そろって、携帯電話をつついている。
まるで、言葉は失礼だが、文明に初めて触れた未開の部族のようだ。
「ただ、まぁ、えっと……通信に必要な設備がないと使えないものでして。多分、その機能は死んでると思います」
「……へえ」
「初めて聞きましたね」
「というか、それ、どうやって印刷してるんですか? データを取り出すなんて、パソコンか何かがないと出来ないはずなんですけど。
あと、充電とか」
「知らない。にとり達に渡したらやってくれるのよ」
「充電というか、それをもう一度、使えるようにする機械もありますよ」
と、文が勝手知ったる我が家とばかりに、部屋の一角から取り出してきたのは、どこからどう見ても『モバイルバッテリー』のそれである。
『天女印のえれきてるくん』と書かれたその商品には、早苗はとっても見覚えがあった。
「……確かに、こういうタイプのケータイ、もう何年も前から見かけなくなったけど、幻想郷に来てたんだなぁ」
そうつぶやく早苗に、『外の世界じゃ、別のけぇたいがあるの?』とはたてが尋ねてくる。
「は、はい。わたしが持ってるタイプはこういうのなんですけど」
「何これ。手鏡?」
「あ、いえ。この部分のボタンを押すと……」
「うわ、何これ!? いきなり光った! 絵が出た! 動いてる!」
「何ですか何ですか、これ!? すごい! 音も出ますよ!」
二人そろっておおはしゃぎ。
早苗の持っていた『携帯電話』を囲んで大騒ぎだ。
「電話も出来るし、ゲームも出来るし……」
「げぇむ? げぇむって何ですか?」
「えっと、こういうので……」
「ちょっと、文! 動いたわよ、これ! うわ、何か震えてる!」
「わっ、わっ、わっ! ちょ、ちょっと! 私に押し付けないでください!」
「あと、動画が見られたり……」
「何よ、これ! 中に人がいるわよ!」
「こんなに小さな人間っているんですねぇ……。どうやって中に入ったんでしょうか」
「他にも色々。あ、もちろん、カメラ機能もあります」
文とはたては、ひとしきり、騒いだ後、恐る恐る、それを早苗のほうへと返してきた。
二人は目を輝かせ、『外の世界ってすごい!』と全力で、それを表情で表現している。
「ねえねえ、早苗! もっと他の話し、色々聞かせてよ!」
「外の世界の話、すごく興味があります! 私にも!」
「あ、あの、ちょっと。わかりました、わかりましたから、ちょっと落ち着いて近い近い近い!」
そうして、捕まること、実に3時間以上。
文とはたての二人から『それってどういうこと?』『これって何?』『あれって何なの?』とひたすら質問攻めにされ、疲れに疲れた早苗が、ぐったりとなって解放されたのは、そろそろ外が夕暮れ色に染まる頃だった。
「言っておくけど、わたしが早苗に話を振ったんだから!
わたしが新聞にする権利があるんだからね!」
「何を言ってるんですか! 早苗さんをここに連れてきたのは私です! 功労者は私です! 私が一番です!」
『ぐぬぬぬぬ~!』
顔を突きあわせ、二人は、『この話を、どっちが新聞にするか』でもめている。
その論争は、最終的に、『ならば早く記事にしたほうが勝ちだ!』というところで収まったらしい。
「早苗さん、すいませんけど、帰る際はお一人で!」
「悪いわね、早苗! 大したおもてなしも出来なくて!
文、こら! フライングは卑怯よ!」
「甘いですね、はたてさん! どんな情報も鮮度が失われてしまえば価値がありません!
すなわち、情報とは速さ! 価値とは速さなのです! 速さこそが世界の倫理! 速さこそ全て! 速いものこそ世界を制するのですよ!」
「……どこの兄貴ですかあんたは」
呻く早苗のツッコミなど聞きもせず、文はどこかへ飛んでいってしまった。
早苗は、『じゃあね』と早々にはたてによって追い出されて、ぽつんと一人、山の中に佇む羽目になる。
「……うん。帰ろう」
今日は何か、色々疲れてしまった。
はぁ、とため息をついた彼女は空へと舞い上がり、ふよふよと漂うように、家へと向かって飛んでいく。
家は山の頂上。上に向かって飛べば、そのうちつくだろう、と。
――適当に飛び続けた彼女は道に迷いまくり、道中、椛に遭遇することで、夜の9時を回ったところで、ようやく家に帰りつけたことを追記しよう。
もちろん、神奈子にこっぴどく叱られて、特大の雷を落とされる早苗であった。
「『妖怪の山に新たな神降臨。名を八坂神奈子。民に益なすよき神となり、幻想郷の礎を築くことを宣言。ただいま信者募集中』……ふむ。
それでこっちが、『現人神、東風谷早苗より告げられた新たな技術! 幻想郷、変革の時きたる!』
……扇情的な見出しだな。天狗というのはやはり下品だ」
「だけど、わかりやすくていいと思います」
わいわいと、人の行きかう人里にて。
たまたま通りで出くわした二人は、近くの甘味処に腰を下ろして、手にした新聞を広げている。
一人は上白沢慧音といい、この人里に暮らす『学校の先生』である。
もう一人は稗田阿求といい、この人里で、幻想郷の歴史を編纂する『物書き』であった。
彼女たちは、先日、知り合いの天狗から押し付けられた新聞を『さて、どうやって有効活用するか』と悩んでいたところだった。
「神が、外の世界から流れてこなくてはいけないほど、外の世界というのは世知辛いところなのか」
「かもしれませんねぇ」
お茶を飲みつつ、おだんごかじる阿求。
ほう、と息をついてから、
「幻想郷もにぎやかになりますねぇ」
「確かに。
しかし、山に神が新たに降臨したとなると、あちらが少しきな臭くなりそうだな」
「あそこは外に対して閉鎖的ですからね」
いさかいが起きるでしょう、と阿求は言った。
どうやら彼女は、山の連中が方針転換し、『妖怪の山を幻想郷の一大観光地に!』という寝言……もとい、天魔の宣言は知らないらしい。
もっとも、神奈子と天狗たちの間で、若干のいさかいがあるのだから、その見立ても半分くらいはあっているのだが。
「とりあえず、あそこに不用意に足を踏み入れるものはいない。
たとえいたとしても、麓で獣を狩る猟師くらいのものだ。
それくらいはお目こぼしをしてもらっているのだから、人間たちに実害が及ぶこともないだろう」
「そうですね」
「しかし、霊夢殿はこれをどう思うか」
慧音は大福をかじりつつ、何となく、といった感じでつぶやいた。
「商売敵現る!」
阿求がそれを面白がって囃し立てる。
「これまで、幻想郷に『神社』というものは一つだけだった」
慧音が手にする新聞には、神奈子のインタビューが載せられており、彼女は自らがこの幻想郷にとって役立つ神であると喧伝している。
神は嘘をつかないというのは常識だ。人々は、この新聞を見て、『どんな神様だろう』と目を輝かせている。
純朴で無欲なものが多い幻想郷とはいえ、やはり、人は人。今よりも優雅な暮らしを望むのは摂理であった。たとえ無欲なものであろうとも、それくらいは許される欲望である。
「たまに、路上で、この神様が演説しているのを見ますね」
「そうなのか?」
「ええ。何度か、その御姿を拝見しましたけれど、確かに威厳のある神様でした。
特に農業や林業、漁を営むものにとっては、とても魅力的な神様でしょう。
一方で、鉱工業ですとか、そっち方面のご利益もあるとか。
ほとんどご利益が得られないのは商売人くらいなものじゃないですか?」
「私もなるべく、外に出るようにしているのだが」
「学校って、拘束時間、長いですから」
阿求はくすくすと笑い、『まぁ、受け入れられてるようです』といった。
ふむ、とうなずいた慧音は、その視線を、どこか遠くの方に向けて、
「そうなると、ますます霊夢殿が不憫なことになりそうだ」
「あの方は『そんなの関係ない。我は我』ですから」
そんな神様いるんだ、あっそ、と。
それだけで、彼女は今の状況を収めてしまうだろうと、阿求。
全く商売に欲がないというか、危機感が薄いというか。
それを否定しても意味がないのだろうな、と慧音が続けた。
「それに、どちらにせよ、幻想郷にとって霊夢さんは絶対に必要ですから。
もし、何事かになれば、妖怪の賢者とかが手を打つのではないかと」
「悪事をなしているわけではないのに目の敵にされる。
神とは難儀な職業だ」
「文字通りの商売敵ですからねぇ。
ただ、博麗神社に信仰が薄いのは、やっぱり当人が悪いわけで。こればっかりは神様を否定することも出来ないでしょう」
因果応報というやつだ、と。
阿求は言って、お茶をすする。
そういう状況に不満があるのなら、黙ってないで自分で何とかしろ、と。
つまりはそういうことを言いたいのだろう。
「阿求殿は霊夢殿に入れ込んでいるな」
「そりゃもう。
私の『幻想郷縁起』で霊夢さんの活躍はフルカラーで語りつくしてますから。これがまた小鈴とかからも評判がよくて、『阿求、あんた、漫画家になった方がいいんじゃない?』って!
見ますか?」
「……幻想郷縁起は漫画じゃないんだが」
「読み物って、結局、読んでもらえないと価値がないんですよ。
だったら、色んな人に受け入れられる、ライトな作風もありなんじゃないかなー、って。
最近は思っています」
「いやまぁ、わからんでもないが……」
いいのか、それで。代々続く、由緒正しい歴史書が。
慧音はそう思ったものの、阿求の言うことはまったく間違っていない。
誰も読まない本など、宝の持ち腐れどころか、ただの燃えるゴミだ。
スペースとるわ、重たいわ、邪魔くさいわ。一刻も早く捨てたくなるだろう。そんな状況に置かれる本は哀れであり、本の神(もしもいるとしたらだが)も草葉の陰で泣きはらそうというものだ。
たくさんの人に読んでもらいたい――本は、もし、彼らに命があるのなら、そう思っていることだろう。
阿求はまさしく、正しいことをしているわけだ。
「……だけどなぁ」
呻く慧音。
ちょうどその時、二人が食事をしている甘味処に、一人の客がやってきた。
緑色の、鮮やかな髪が特徴的な彼女は、店員に『美味しいものください!』と目を輝かせてリクエストしている。
「この辺りでは見ない顔だな……」
その彼女の顔を見て、慧音はぽつりとつぶやいた。
人里に暮らして長い彼女にとって、ほとんどの人間は『知り合い』だ。
その彼女が見たことのない人間。どこかから引っ越してきたのかな、と慧音は思った。
「霊夢さんのところに声をかけに行ってみましょうか」
「やめておいた方がいい。めんどくさいと追い返される」
「いや、単に知らない可能性もありますよ。
霊夢さんって、何か用事がない限り、博麗神社から出てきませんからね。引きこもりってやつです」
「そこまで言うか」
阿求は、よく、正しいことを言う。
しかし、その『正しいこと』は言葉がオブラートにくるまれていない。
言葉のナイフでぐさぐさと、相手の心臓めがけて的確に突き刺してくるようなこともある。
無自覚で。
「しかし、確かに霊夢殿がそれを知らない可能性もある」
「でしょう?
何せ情報源がこれですし」
「本人を見なければ、我々だって信じないところだ」
『これ』で阿求が取り上げる新聞――文の発行する、文々。新聞というやつ。
基本的に、これはかなりたちの悪いゴシップだ。それを手にしている者たちだって、義理か付き合いか、はたまた一ヶ月だけの抱き合わせを目当てにとっているものが大半……というか、9割方そうである。
たまに、本当に、とんでもない特ダネを最速で運んでくることがあるものの、100通あって1通あるかないかという確率である。
『読み物としては面白い。しかし、新聞としては三流以下』。それが、文々。新聞に対する人々の評価であった。
「G退治によく使われていると聞くが」
「あと、火をおこしたり、焼き芋をくるんだり。
ああ、あと、お掃除の時とか引越しの時に役立ちますね」
「まぁ、それはさておこうか。
なるほど。そもそも、霊夢殿の存在も、あまり人々に周知されているわけではない。
その隙間に入り込む余裕はありそうだな」
「周知はされてるんですけどね。
ただ、その『霊夢』が彼女のような女の子とは、誰も思ってないだけですよ」
「なるほど。失敬」
さて、と二人は席を立つ。
店員に勘定を支払ってから、二人は店の表で左右に分かれた。
そんな彼女たちを見送る、少女の視線。
「……ふーん」
もぐもぐと、爽やか冷たい水羊羹を頬張っている早苗は、小さく声を上げる。
「……霊夢って、どういう人なんだろう」
騒がしい店内で、少しだけ、気になった話。
自分たちの商売敵であるとともに、この幻想郷において、唯一の『巫女』。
それがどういう人間であるのか、早苗は気になっていた。
「里の人たちへの周知はだいぶ出来てきてるし。
あとは、その人がどういう行動に出てくるかよね……」
気になるな、と早苗はつぶやいた。
ちなみに、彼女が肩から提げた鞄には、自分たちの神社の販促用チラシが入っている。
電気設備も復旧(?)した母屋で大活躍するパソコンとプリンターで作ったものだ。
これを、今日は、里の人間に配りに来たのである。
「ちょっと気になる。調べてみよう」
早苗はそうつぶやき、水羊羹を平らげる。
その美味しさに顔を笑顔に染めて、食後のお茶に、ほっと一息つくのだった。
「『博麗霊夢。博麗神社に住まう巫女。年がら年中、貧困に喘いでいるらしい。
何事にも無気力な態度だが、こちらがきちんと対価を支払うことを告げるとやる気になる。
巫女としてのご利益は不明。
祭事での祈祷、棟上などでの安全祈願、子供の病魔退散などに成果あり?
その見た目については不明。
かわいらしい女の子説、巫女というだけの筋骨隆々の大男、長いひげを蓄えた老人、形を持たない幻想郷の意思、合体変形して口から火を吐く』……」
とことこ、早苗は人里の中を行く。
印刷してきたチラシは配り終わり、その傍ら、人々に聞いて集めた、『博麗霊夢』の情報を頭の中でまとめている最中だ。
「『巫女としての力は不明。主に妖怪退治を請け負っているという。
現に、巫女に妖怪の被害を訴えたら、翌日、その妖怪が退治されているところを見た』……」
加持祈祷を主とし、神の言葉を人々に伝える、いわゆる触媒としての『巫女』ではなく、武闘派の僧兵みたいなものなのだろうか、と思う。
早苗が想像する、そして早苗自身がそうであったような『巫女』と、この『博麗霊夢』なる巫女は一致しない。
十人十色、人生色々と言ってしまえばそれまでだが、結論としては『変わった人』だった。
「逢いに行ってみようかな」
文は彼女を、早苗たちにとって『邪魔者』だといった。
しかし、外の世界では、未だ勢力を保つ寺社は相互において、相手を『敵』と見てはいない。
信仰する神や仏が一緒であるのだから、相手は自分たちと同じく、人よりも一つ高いところにいる者たちの『使い』である。要は皆、『仲間』なのだ。
相手はどう思うかわからないが、早苗から見れば、幻想郷における先達でもある。
まずは礼儀正しく、菓子折りでも持ってお伺いして、お声がけしてみてもいいんじゃないかな。
――そう思った矢先である。
「おい! みんな、隠れろ、隠れろ!」
「へっ?」
男性の大声が響いた。
直後、わっと人々が通りからいなくなる。
家人ではないだろうに、『こっちです、こっち!』と通りを逃げる人々を、左右に並ぶ家の住人が招きいれる。
「お嬢ちゃんも早く! 流れ弾を食らうぞ!」
「へ? 流れ弾……?」
大柄な体躯の、40歳くらいの男性に肩をつかまれて、早苗は近くの家の軒先に避難することになった。
何が何だかわからず、辺りをきょろきょろしていると、
「まぁぁぁぁぁりさぁぁぁぁぁぁぁっ!」
とんでもなく、鬼気迫った声が響き渡った。
「もう許さない! 今日という今日は、徹底的に痛めつけてぼこぼこにして夢想封印してやるわっ!
私のおせんべい返せー!」
「わっはっは! やれるものならやってみろ! 今日の私は一味違うぜ!
あとこのせんべいうまいな! ご馳走さん!」
「言ったわね! 地面に這いつくばって反省しなさいっ!
せんべいの恨みを思い知れ!」
人里の空を飛び交う、二人の女の子。
一人は紅白のおめでたい衣装、一人は白と黒のモノクロカラー。
彼女たちは空を舞い、両手に光をしたためて、それを相手に向かって解き放つ。
「……流れ弾」
早苗はつぶやいた。
彼女たちの手から放たれた光は弾丸となり、里のあちこちに、流れ弾となって降り注ぐ。
その一撃の威力は大したもので、家々の屋根をぶち抜くわ、地面に穴を空けるわととんでもない。
しかも彼女たちは、それを四方八方に盛大にばら撒くのだから、人々もたまったものではない――と、早苗は思って隣を見るのだが、
「おー、やれやれー!」
「いいぞー! どっちも頑張れー!」
「さあ、張った張った! 今日の弾幕勝負のトトカルチョはこっちだよー!」
と。
散々、逃げ惑っていた人々は、空を舞う二人の少女に、やんややんやと喝采を送っているではないか。
何が何だかさっぱりわからない。
とにかく、事の趨勢を見守るしか、早苗には出来そうもない。
「そーれ! くたばりなー!」
「当たるか、ばーか!
どんなすごい攻撃だって、当たらなければ大したことはないのよ!」
「言ってくれるじゃないか! 弾幕はパワーだ! 正面から押し切ってぶっ倒すのがいいんだよ!」
「……うわ、すごい……」
白黒少女の放つ、巨大な虹色の閃光。
青空に虹をかけるその攻撃に、早苗は目を奪われる。
紅白の少女はそれを華麗に回避し、同じように、幻想的に輝く閃光弾をいくつも解き放つ。
その弾丸は、逃げる白黒少女を追い掛け回し、幻想郷の空を彩っていく。
「ちっ! 追尾弾は相変わらず卑怯くさいぜ!」
「だったら、あんたも学んでみたら!?」
「冗談じゃない! お前の真似なんてやってられっか!」
白黒少女はそれを右手にしたためた緑色の弾丸で撃ち落とし、反撃とばかりに宙を半回転しながら、青いレーザーを撃ちだす。
レーザーを、紅白少女は上昇して回避し、右手からは弾丸を、左手からは鋭い針で反撃する。
白黒少女はそれをレーザーで薙ぎ払うと、紅白少女へ向けて加速する。
紅白少女は両手を前に突き出し、白黒少女の突撃を閃光の壁で受け止める。
「……結界?」
早苗の呟きなどなんのその。
光ははじけて衝撃波となり、白黒少女を吹っ飛ばす。
白黒少女は空中で体勢を整えると、反撃に、何十という緑の弾丸をばら撒いた。
その弾丸は空中で炸裂して分裂し、弾丸の雨となって紅白少女に降り注ぐ。
紅白少女はその攻撃を、左手に構えた光の盾で受け止めつつ、よけられるものをひょいひょいとよけて、白黒少女に接近すると、右手の弾丸を至近距離で投げつける。
「おお、危ねぇ!」
白黒少女はその攻撃を回避する。
共に、当たらなかった弾丸は人里のあちこちに炸裂し、爆裂する。
その騒音に、人々の熱狂した声が上がる。
「やったぜ! あれ、うちの家だ! そろそろ壁が傷んできたからな! タダで建て直せらぁ!」
「羨ましいな、おい!
おーい! うちの家の屋根にも、でっけぇ穴空けてくれー!」
何か、不思議なルールか取り決めでもあるのだろうか。
建物が壊されるたび、悲鳴ではなく、歓声が上がる。
一体何がどうなっているのか。
全くわからず、事の推移を見守る早苗は、いつしか、自分が、空を舞う二人の少女に視線を釘付けにされていることに気付く。
空を縦横無尽に飛び交い、目にも鮮やかな光を解き放つ彼女たち。
その鮮やかさと美しさ、そして激しさ、どれをとっても、今までに感じたことのない『エンターテイメント』。
見ているだけで楽しくなる。
巻き込まれたら大変だとわかっているのに、なぜか、心が熱狂してしまう。
「あ、こら、逃げるな!」
「河岸を変えるだけだ! 誰が逃げるかい!」
二人はそのまま、どこかへ飛んでいく。
爆音はまだ続いているから、戦いは終わっていないのだろう。
空を見上げていた里人たちは、『いやー、いいもの見たなぁ』と、わいわい楽しそうに声を上げている。
「……すごい」
早苗はつぶやいた。
あちこちの家は穴だらけ、道はクレーター、破壊の爪跡はすさまじいというのに、嫌悪感も恐怖もない。
ただ、その心は、彼女たちの戦いに張りつけられていた。
あんな風に、自分も空を舞ってみたい。美しい戦いをしてみたい。
ゲームの中の主人公のように。現実ではありえない世界を感じてみたい。
その想いが胸の中に膨らんで、『すごいすごい!』と彼女ははしゃぐ。
「そうだろう?
ありゃ、たまにしか見られないんだけどなぁ。退屈な毎日の、ちょっとした清涼感ってやつだ」
「おーい! 勝負、決まったぞー!」
「おう、そうか! どっちが勝った!?」
早苗を避難させてくれた男性が、トトカルチョをやっていた男性の方に歩いていく。
去り際に、彼は、『だけど、お嬢ちゃんは真似すんなよ』と笑って、早苗の肩を叩いていった。
この熱狂感、この、心を吸い寄せられる感覚。
それを、早苗は知っている。
そうだ。神を前にした時の、人々の熱狂と同じなのだ。
心を吸い寄せられ、ひきつけられ、囚われる。あの感覚と、全く一緒なのだ。
「……信仰を集めるのにいいかも!」
信者を集めるのに、派手なプロモーションというのは効果的だ。
わかりやすく、たやすく、信者の心をひきつけることが出来る。
あの少女たちのような、鮮やかな『舞』を早苗が覚えたとしたら。それが出来るのだとしたら。
神奈子は、きっと、喜ぶだろう。
たくさんの信者が神社に詰め寄せ、たくさんの信仰を捧げてくれるのは間違いない。
「よし!」
早苗は意気込み、走り出し、地面を蹴って空を飛ぶ。
大急ぎで、彼女は家に帰っていく。
自分に出来そうなことが見つかったのだ。
しかも、この世界ではとても効果的な手法で。
それならば、心も浮かれる。
神奈子のため。信仰を集めるため。そして何より、楽しそう!
「やるぞー!」
人里の空に響き渡る宣言と共に、彼女の姿は一路、山のほうへと向かって消えていったのだった。
「あー、弾幕勝負ですね」
「何ですか? それ」
早苗は家に帰って、すぐに文を呼んでいた。
文曰く『この笛を吹けば、私はどこからでも駆けつけますよ』ということで渡された笛を吹くと、本当に5秒で現れた。
何やら面妖なことが起きたような気がするのだが、早苗はそれを無視することにしている。
やってきた文は、早苗の話を聞いて、すぐに答えを返してくれた。
「まぁ、何というか、人間と妖怪との遊びというか」
「はあ」
「あと、妖怪同士の遊びにも使いますね。
人間と妖怪は、まともに戦えば、地力の違いで勝負にならない。逆に妖怪同士は、本気で戦えば、どっちかが死ぬのは間違いない。
それじゃ、この幻想郷の秩序を保つことが出来ない、ってことで考え出された『ゲーム』ですよ」
「なるほど」
にしちゃ、あの二人は本気で殴り合いをしていたような気がするのだが、それは多分、気のせいだろう。
「どうやるんですか?」
「簡単です。
より強く、より美しい弾幕で、相手を『参った』と言わせるか」
「はい」
「あるいは、相手が手の内を出し尽くして、次の手がなくなったら勝ちです」
よくわからない。
首をかしげる早苗に、『論より証拠。まずはやってみましょう』と文が空に舞い上がる。
それに遅れまいと早苗が続き、二人は青空の中、正面から対峙する。
「じゃあ、私が攻撃するので、当たらないように逃げてくださいね」
「わかりました」
文は片手に風扇を取り出した。
そして、それを一薙ぎすると、空中にいくつもの、色鮮やかな弾丸が現れ、一斉に早苗に向かって迫ってくる。
「わひぃっ!?」
慌てて、それをよける。
弾丸は早苗の頭上を掠め、はるか彼方に向かって飛んでいく。
よけた早苗を追いかけるように文は動き、さらに一発。
前方から扇状に放たれるそれを、ぎりぎりのところで回避し、早苗は上空へと逃げていく。
それを追いかけ、文が、早苗を真下から弾丸で追い立てる。
弾丸のほとんどは早苗に当たらず、その脇を駆け抜けていくのだが、その中の何発かが早苗めがけてまっすぐ飛んでくる。
それをぎりぎりで回避しながら、早苗は空の上を逃げ惑う。
「ちょ、文さーん! 怖い、怖い、怖い!」
「大丈夫ですよー! 一応、安心なゲームですからー!」
「一応って何ですかー!」
「当たり所が悪ければ死ぬ的な意味で」
「全然、安全じゃないっ!」
文の展開する弾丸から必死で逃げつつ、早苗は反論する。
それが大体5分ほど続いたところで、「ま、こんな感じです」と文。
「はぁ~……はぁ~……はぁ~……」
たったの5分なのに、すっかりと、早苗の息は上がってしまっていた。
極度の緊張に置かれたストレス。そして、普段は行なわない高速移動と急速旋回。
精神と肉体の両方が酷使された結果、完全にグロッキーになってしまったのだ。
「これを1時間2時間と続けられるようになれば、早苗さんも、立派な幻想郷の一員ですね」
「い、1時間ですか!?」
「ええ。
先日話した霊夢さんなんかは、相手を仕留めるまで、何時間だろうと戦いますよ。
あの人、疲れを知らないんじゃないかって、たまに思います」
「……うわぁ~」
「何度負けても、何度でも挑戦オッケーってのも、またやる気を喚起しますよね」
果たしてそういうものなのだろうか。
額から大粒の汗を流しつつ、早苗は顔を引きつらせる。
「では、よけてばかりだったので、今度は早苗さんが攻撃に回ってください」
「……えっと、どうやって?」
「どうやって、か……」
う~ん、と悩む文。
彼女自身、真面目に『どうやって弾幕勝負をするのか』を考えたことがなかったのだろう。
そもそも、どうやって弾丸を生み出して放っているのか、その認識すらないのだ。
ただ、手を振れば、そういう攻撃が出来る。だから、技術なんて知らない――そんなところか。
「私はですね、とりあえず、『相手を攻撃する』って思います」
「はい」
「で、手を振ります。弾幕が出ます。
ね? 簡単でしょう?」
「どこがっ!?」
もうちょっと具体的にお願いします、と早苗。
そう言われても、と悩む文だが、とりあえず、早苗にその技術を教えて欲しいと請われているのだから、応じるしかないと思ったらしい。
「えーっと……手の先に力を集中させて」
「はい。
……こんな感じ?」
手を前に突き出して、『う~……!』と目を閉じてうなる。
それが果たして正しいのかはさておき、『まぁ、そんな感じ』と文は適当に返事をした。
「それで、掌に力が集まったら、それを前に向けて放つ感じで」
「えいっ!」
……しーん。
何にも起こらない。
「……」
「いやいやいや! そんな目で見ないでくださいよ! 私、ほんとにそれでやってるんですから!」
「……エネルギー弾を出すのって大変だっていうのがわかったような気がします」
よくわからないつぶやきと共に、早苗はもう一度、チャレンジを開始する。
「何というか……。
掌に力を集めるって、ほら、手があったかくなる感じというか」
「う~ん……。なりませんけど……」
「早苗さんの能力って、風と雨を操る能力なんですよね?」
「いえ、具体的には、『神の奇跡を代替行使する』能力であって、風と雨を操る能力というわけじゃないです」
「なるほど。
となると、神奈子さんが、弾幕勝負に必要な技術を覚えない限り、できないかもしれませんね」
「あー」
神奈子の力を代わりに使えるということは、神奈子に出来ないことは出来ないということになる。
そういうことか、と納得する早苗は、
「……じゃあ、どうしたら?」
「神奈子さんにも、これ、教えましょう。
どうせ、幻想郷のルールなんだし。覚えないと、この世界じゃ生きていけませんよ。
ルールを乱す輩は、確実に、巫女に退治されますから」
「神であっても?」
「神であろうと」
人間でないものならば、神も妖怪も皆同じ、化生に過ぎない。
その辺りのくくりをしていないのが、あの巫女だ、と。
文の言葉に、早苗は少しだけ、眉をひそめるのだった。
「神奈子さま」
「あら、何?」
何だかすっかり、『お茶の間のお母さん』的な感じの神奈子である。
神社のインフラ改善は進み、居間には電気の灯りが皓々と点っている。
夜。
晩御飯を食べて、お風呂に入ってから、早苗は神奈子の元へとやってくる。
彼女の対面に座り、『実はですね』と、最近の文とのやりとりを話すと、
「早苗も頑張っているじゃない」
と、ほめてもらえた。
それはさておき、と説明する早苗に、神奈子は『なるほど』とうなずく。
「幻想郷で生きていくのに必要なルールだというのなら、私もそれを学ばないといけませんね。
郷に入っては郷に従え。
己のものに作り変えるより先に、まずはその場でのルールは学ぶべきでしょう」
「はい」
「無理な行動は他者からの忌避を招く。一時的な迎合でその場に溶け込み、馴染み、そこから手を広げていくのが賢い」
彼女はそう言うと、立ち上がって、居間を後にする。
闇の中、しんと静まり返る神社の境内までやってくると、何もない虚空に向かって片手を伸ばす。
「こんな感じかしら?」
次の瞬間、幻想郷の端から端までを貫通するのではないかというほどの巨大なレーザーが撃ち出された。
ぽかんとする早苗を見て、「案外、簡単ね」と彼女は笑う。
「なるほど。弾幕勝負。安全な遊び、か。
なかなか面白い独自ルールがあるものね」
彼女は軽く右手を何度か振るい、『感覚は覚えました』と早苗に告げた。
「次は、貴女がやってみなさい」
言われて、慌てて、早苗は両手を前にかざす。
昼間、文に教わった通りに、両手に力が集中するように意識を集中する。
体の中を流れる力の流れ――血の流れを意識し、それが掌に集まってくる感覚をしっかりと覚える。
そうして、掌の先端に集まった力を、外に向かって解放するイメージを作り出し、「えい!」と声を上げた。
へろへろへろ……ぽふん。
「……………………」
「まぁ、最初はこんなところでしょう」
早苗の両手から生み出された、小さな小さな光の球は、空中をふわふわ漂い、ぽてっ、と地面に落ちて消えてしまった。
出来損ないの線香花火、といった具合だが、昼間、何度やっても何も出なかった時に比べれば大きな進歩である。
やはり、彼女の能力は神奈子に起因する。それを確認できる一幕であったが、
「……しょぼ」
思わずそうつぶやいてしまうほど、それはそれは情けなくて恥ずかしい結末だったという。
次の日から、早苗のチャレンジが始まった。
弾幕勝負で『強く』なるために、まずは弾丸を強くすることを目指すのだ。
そのためにはどうするか。
はっきり言って、わからなかったため、やっぱり文を頼っている。
文曰く。
『強い弾幕というのは、よけづらく、美しい弾幕です。弾一つ一つの威力を追求するのもよし、搦め手と作戦で、よけられない弾幕を作るもよし。それは早苗さん次第です』
要するに、『早苗が頑張れ』という答えであった。
「うーん……。なかなか、威力と勢いのある弾丸が造れません」
ぽっと掌に点る光。
それを放つのだが、撃ち出された弾丸は10メートルほどを進んで消えてしまう。
文が言うには、『弾丸に当たれば、基本的に相手はダメージを受ける。距離を気にする必要はない』ということだが、接近戦しか出来なければ、それはそれで問題だ。
相手はこちらから距離をとって、ひたすら弾幕を撃っていればいい。いずれこちらは疲れてやられてしまうだろう。
相手よりも素早いのなら、一気に相手に接近し、仕留めてしまう戦いも出来るが、早苗の足は、それほど速くない。
「力の集中が足りないんですね。気が散ってるんじゃないんですか?」
「そんな風に見えます?」
「見えません」
あっさりと、文が答えられるほどに、早苗は真剣に練習に励んでいる。
初日のようなしょぼくて情けない弾丸は卒業した。
撃ち出した弾丸は、たとえ10メートル程度しか進まなくとも、地面に当たれば土を巻き上げ、直径30センチほど、深さ10センチくらいの穴を作るくらいの威力にはなっている。
しかし、早苗が一生懸命集中して、何とか放つ弾丸は、文が何の気なしに右手を一振りしただけで放たれる弾丸より遥かに弱い。
「何が悪いんでしょうか?」
「元々の力がないとか」
文はあっさりと答える。
「何の才能も力もない人間は、そもそも弾幕なんて作れませんからね。
これを出せるのは妖怪と、力ある人間の特権です」
「う~ん……」
「素養が弱ければそれなりのものにしかなりませんし、強い力を持っていれば、その分、強い弾丸を作れます。
早苗さんって、こういう、何ていうんでしょうね。
『人ならざる力』って、どれくらいお持ちなんですか?」
「……さあ?」
早苗は首を傾げてしまう。
外の世界にいた頃から、雨を降らせたり、風を巻き起こしたりと言ったことは出来た。
それは、神奈子の力を代替行使する、神の奇跡の力だ。
だが、それはその程度のものである。
どれくらい強いのか、と言われるとわからない。
神奈子は『早苗の力の器に応じて、私の力を貸し与えている』と言っているが、そもそもどこまでが自分の力で、どこまでが神奈子の力なのかの線引きも出来ていない。
呼ぶだけが力なのか、呼んで操るまでが力なのか、呼んで操り行使するまでが力なのか。
「まぁ、残酷な話ですけど、力が弱い人に出せる弾幕は弱い弾幕です。
頭を使って、それを強い弾幕に仕立て上げることが必要になりそうですね」
「そうですか……」
しょんぼりしてしまう。
風を操り、ようやく、まともに飛べるようになって、嬉しさに包まれていたのもつかの間。
文の容赦ない一言は、早苗の心を深く抉る。
「いやいや、それはそれで強さの糧になりますよ。
どんなに強力な弾幕だって、当たらなければ無意味ですからね。
逆にどんな弱い弾幕でも、積み重なれば大ダメージです」
「むう」
「頭を使って、相手が『よけられない』弾幕を作る。これはなかなか骨の折れる作業ですよ」
「相手を丸ごと囲んじゃえばいいんじゃないですか?」
ちっちっち、と文。
「完璧によけられない弾幕はNGです」
早苗は頭に『?』マークを浮かべて、『どうして?』と視線で尋ねる。
弾幕『勝負』なのだから、勝ち負けを決めるのが目的のはずだ。
勝ち負けを決めるのなら、いかに相手を負かすかが重要になってくるだろう。その時、相手が絶対によけられない弾幕で攻撃するのはありではないだろうか。
そんな素朴な疑問に、文は、「これはあくまでゲームです」と答える。
「絶対にゲームマスターに勝てないゲームはつまらないでしょう?
それと同じですよ。
どんなゲームでも、ルールはある。
100%よけられない弾幕なんて美しくないし、使った瞬間に勝負が決まります。
勝負とは、そしてゲームとは、相手との駆け引きを楽しむものです。
いかに相手によけさせるか。そして、いかに相手がよけられず、追い詰められる弾幕を放つか。
そういう駆け引きも必要になるんです」
「何だかめんどくさいルールですね」
「まぁ、当たり所悪いと、人間は死んじゃうんで。それを防ぐためのルールかもしれませんけどね」
本当のところは、作った人じゃないとわからない、と。
当たり前のことを文は言って、「そういうわけなので、それは反則です」とレッドカードを提示してくる。
早苗は『むー』とうなった後、ならばどうやって、自分の弱々しい弾幕で相手を追い込めるかを考えることになってしまう。
「智慧熱でそう……」
「いいんじゃないですか? 頭を使うとボケ防止になりますよ」
永く生きる妖怪にとって、ボケというのは深刻な病気である。彼女はそう言った。
妖怪もボケるんだなぁ、と早苗は思いつつ、腕組みして空を眺める。
今日も、空は見事に青い。悩み事も吸い込んでくれそうなほどに。
「少し場所を変えて悩みましょう。
立ちっぱなしは疲れますから」
そんな早苗に、文はにこっと笑って、彼女の肩を叩いたのだった。
「もーみーじーさーん! 椛さーん! もみもみー! わんこー!」
「だぁぁぁぁぁれが『わんこ』ですかぁぁぁぁぁぁぁっ!」
呼ばれて現れたのは、白狼天狗の犬走椛であった。
文は『よーしよし、いいこいいこー。おて』などとやっている。
「わんっ。
……じゃなくて!」
否定はしていても、己の血に染み付いた『犬属性』は消せないのか、文の手に自分の右手をぽんと乗せてから、慌てて頭をぶんぶん左右に振る。
「何ですか」
椛の視線は険しいものだ。
文と早苗がやってきたのは、妖怪の山の中腹辺りにある、木で作られた小屋が建ち並ぶエリア。
文が言うには、『ここは白狼天狗連中の詰め所です』ということらしかった。
「実は今、早苗さんが弾幕勝負の練習をしていまして」
「はあ」
「椛さん流の特訓で、早苗さんを鍛えてあげてください」
「どうして私なんですか」
「だって、私よりも、そういうこと、教えるの得意でしょ?」
言われると、椛もそれが否定できないらしい。
椛が反論せずに肩をすくめたのを見て、文は「じゃ、頑張ってくださいね」と去っていく。
早苗はそれを見送った後、「お願いします」と頭を下げた。
「あなたは文さんより、ずっと礼儀正しくて誠実だ。
そういう態度の人には、こちらも親身になって教えたくもなります」
「……ですよねー」
「文さんは、あーいう態度さえまともならいい人なんだけど」
人の態度は性格から表れ、性格はその人の人格から表れる。
つまるところ、文は『人格からしてダメすぎる』ということだ。
椛の強烈な一言に、早苗は顔を引きつらせる。
「私も、今日の仕事は終わりなので。
お付き合いします」
「はい」
「じゃあ、こちらへどうぞ」
少し待っていてくださいね、と椛は地面を蹴って、近くの小屋の中に消えていく。
そうしてしばらくしてから、『改めて』と戻ってきて、早苗を連れてその場を後にする。
二人が向かったのは、山の中の一角。
先日見た大瀑布には全く及ばないものの、舞い散る雫が美しい滝の側だった。
「ここは、私がよく、一人で自己練習する時に使っています」
ひとけがないからちょうどいいんですよ、と。
椛はそう言うと、腰に掃いた剣を抜いた。
「技術は実戦を経てこそ上達します。
早苗さん、行きますよ」
「えっ?」
と思った瞬間に、椛の姿が眼前にあった。
振り下ろされる刃から、慌てて転がって距離をとる。
彼女の剣は地面に触れるなり、そこにざっくりと深い傷跡を残す。正面から食らえば一刀両断されてしまうだろう。
「ち、ちょっと!?」
「はっ!」
短い呼気と共に放たれる、斬撃の形をした弾丸。
早苗は、それをしゃがんで回避する。
弾丸は滝の側の壁面に直撃し、石の飛礫を巻き上げる。
「容赦なしですか!?」
「当然!」
それが、相手に対する礼儀である、と椛は言った。
練習だろうが容赦なし。
スキルが足りなければ死ぬだけだ、と言わんばかりである。
早苗は逃げようとして、思いとどまる。
ここで逃げれば、椛は自分に失望し、以後、訓練などに協力してくれなくなるだろう。
文もそうだ。
早苗ならば、椛の、このとんでもない『実戦』を受けても大丈夫と判断したから、椛に早苗を預けたのだ。
文は、自分を信頼してくれている――早苗は、そう思った。そう判断した。
ならば、その信頼に応えることも必要だろう。逃げるだけなら誰でも出来る。ほんとにやばくなったら、その時、逃げればいい。
「よ、よーし!」
彼女は気合を入れなおすと、椛を正面から迎え撃つ。
あっという間に接近してくる椛に向けて、右手から弾丸を一つ。椛は、この程度よけるまでもないと、左手の盾でそれを受け止め、打ち払い、早苗との距離を詰める。
「っ!」
右下から左上への振り上げを、早苗は身をそらして回避した。
しりもちをついてしまいそうになるのを何とかこらえる。
振り上げの後は、さらに鋭く、速い振り下ろしが来る。
早苗は左足を一歩、後ろに引く。
椛の手が返るのを視界に捉えて、早苗は後ろにバク転する。
刃が通り過ぎる感覚。風。
姿勢を立て直すと、彼女は右手に持った祓え串を左に向かって振りぬいた。
巻き起こる一陣の風が、椛の足を、一瞬だが止める。
彼女の足下に向かって、弾丸を一発。その弾丸は、椛の靴のつま先より少し前の地面を抉る。
「ちっ」
椛は舌打ちし、軸足で地面を蹴って空に舞い上がる。
あのままであれば、前のめりに倒れていただろう。早苗の攻撃は、椛のバランスを崩すのに効果的だったのだ。
椛は空中から、地上の早苗めがけて無数の弾丸を放つ。
剣閃に沿って現れる何十という弾丸が、早苗めがけて降り注ぐ。
「うひゃあ!?」
弾丸の落ちてこないところを必死になって走って逃げ回り、滝つぼまで追い込まれた彼女は、地面を蹴って空へと逃げた。
後ろから、椛が追いかけ、攻撃してくる。
風を必死に操り、自分の体だけでは出来ない急旋回でそれを回避すると、反撃に、また一発、弾丸を放つ。
「その程度しか出来ないんですか!?」
「出来ないんですよ~!」
泣き言にしかならないが、今の早苗にはこれが精一杯だ。
文や椛のように、鮮やかかつ多才な弾丸を操る、放つことなど出来ない。
狙い澄ました一発。それが、今の彼女の実力なのだ。
「神様の力を行使するというのなら、その神様の力を真似てみればいいでしょう!」
振り下ろす、椛の剣が崖の壁面を鋭く叩く。
背後から響く振動と衝撃に、彼女は顔を引きつらせて、その場から逃げていく。
「ええいっ!」
飛んでくる弾丸を、横薙ぎの突風で打ち払う。
風を操れば、自分に向かって飛んでくる弾丸を、ある程度は何とかできる。
防御手段は出来た。だが、攻撃手段がない。
「この!」
上から吹き付ける風で、椛の動きを押さえようとする。
しかし、相手は天狗。風と共に生きる妖怪は、一度目の不意打ちならば通用しても、二度目は通用しない。
風に押されて流される椛。だが、彼女はその動きすら利用して下へ急加速した後、早苗を下から追い立てる弾丸を放ち、地面に着地すると同時に前方へ走って風の流れを抜け出した。
下から飛んでくる弾丸を早苗はぎりぎりでよけて、椛の姿を探す。
「あ、あれ? いない……」
「後ろ」
「へっ?」
瞬間、椛の笑顔が顔のまん前にあった。
息を呑み、体を硬直させる早苗。その喉元に、椛の剣が突きつけられる。
「うぐ……」
「なかなか面白い動きは出来てるんですけどね。
一朝一夕で強くなるのは不可能です。焦らず地道にいきましょう」
「……はい」
椛の手加減が伺える一言だった。
最初、早苗は椛が全力でかかってきているのだとすっかり思い込んでいたが、とんでもない。
やはり、相手は天狗。日本神話にその名を残すだけの妖怪なだけはある。
手加減も手加減、思いっきり手加減されまくっている。
情けなさと同時に悔しさ、そして、相手への尊敬が胸の中に浮かび上がる。
「……どうやったら強くなれますか?」
「一に努力、二に努力、三四がなくて五に努力。以上」
「……やっぱそうですよね」
『少し休憩したら、二戦目、行きましょう』と椛は地面に降りていく。
早苗は小さくため息をついてから、『どうしたもんか』と悩むのであった。
「早苗。
近頃、生傷が絶えないわね」
「たはは……。わたしも、まだまだ努力も精進も足りないということで……」
「あまり根を詰めないように。
貴女は昔から、真面目で一途で猪突猛進なのだから」
自己愛も必要ですよ、と神奈子の軽い説教を受けてから、早苗は母屋を後にする。
向かう先は、文の元。そして、彼女を通して、椛に訓練をつけてもらう。
初日の訓練から、早数日。
身のこなしはだいぶマシになったものの、肝心の弾幕を操る技術についてはまだまだだ。
一発、二発、程度のしょぼい弾幕ではなく、一度に数発の弾丸を生み出すことが出来るようになったものの、そこから先の進歩はない。
今日もお願いします、と椛に頭を下げて、一時間後にはこてんぱんにされて地面の上で大の字になっているという有様である。
「やはり、これ以上は無理ですかね」
椛と早苗の訓練を見ていた文が言う。
「幻想郷の人たちって、いい意味でも悪い意味でも飲み込みが早いんですよ。
もう数日。それなのに、この程度ってことは、早苗さんにはやっぱりそれ以上の才能がないんですね」
「そ、そんなことないです! まだまだやれます!」
「いえ。無理です。
私は言う時は言いますよ。断言します。早苗さんには、これ以上、弾幕勝負に対する素質はありません」
うぐ、と早苗は押し黙る。
文曰く、
「天狗基準では考えていませんよ。人間基準です。
弾丸を生み出し、操るなんて大して難しい技術じゃない。生み出すことさえ出来れば、後は操る技術までとんとん拍子に進んでいく。そうでなくては、技術を持っていることにならない。付け焼刃。後付です。
早苗さんの力の大半は、神奈子さんからの力でしょうから。
その神奈子さんが早苗さんに対して、信仰が徐々に回復してきている今では、力を出し惜しみする必要もないわけだから、早苗さんが操ることの出来る神の力は『この程度』ということになります」
しゅんとなって、早苗は肩を落としてしまう。
何度、『違う』と否定したところで、ここ数日間の進歩がこの程度では反論も出来なかった。
椛も『文さん、言いすぎですよ』とは言わない。彼女もまた、本当に才能のないものに対しては、無理なことはさせない主義なのだろう。
「まぁ、早苗さん自身が弾幕勝負をしなくても、あの、風と組み合わせた技術はなかなかのものですからね。
人間であの手の術を使えるのはいませんから、あれをうまく使えば、他人の信仰心を集めるプロモーションは出来るでしょう」
「その際は、誰かに仕込みを手伝ってもらうんですかね?」
「そうなるでしょうね。
椛さんはクソ真面目で大根なので役に立ちませんが、私なら、うまいこと相手方が出来そうです」
「そんなことないです! 私だって、演劇の一つや二つ!」
「へっ」
「あ、むかつく。」
ふてくされて、ほっぺたをぱんぱんに膨らませた椛が『もう知りません!』とそっぽを向いてしまった。
「早苗さんもお疲れでしょうから。
この近くに温泉があるんですよ。そこでちょっと、休憩しましょうか」
「……は~い」
ぺたりとへたりこんだ早苗が、のろのろ立ち上がる。
椛が先に立ってふわりと空を舞い、彼女はそれに続く。
最後に続く文が、ちっ、と舌打ちする。
「……誤算だったかしらね」
早苗の実力に対する見立てが甘かったか、と。
彼女は内心でつぶやいた。
「彼女ならもう少し絵になると思ったんだけど、所詮は養殖もの。天然ものにはかなわないのかもね」
残念だわ、とつぶやく文の視線が、前を行く早苗にちらと向けられたのは、その時のこと。
「……はぁ」
文と椛に案内してもらった温泉というのは、山の上層部に湧いているものだった。
天狗しか場所を知らないと言われたそこは、断崖絶壁の上に湧く、見事な温泉。誰かが手を加えたのか、見事な岩風呂になっていて、ちゃんと脱衣場や洗い場まで併設されている。
湯船のへりに腰掛け、早苗はため息一つ。
脱衣場では、文と椛が、何やらにぎやかな会話をしているのが聞こえてくる。
「才能なしかぁ」
残念だなぁ、と彼女は天を仰ぎ見てつぶやく。
やはり、世の中、地道が一番だということか。
華やかなプロモーションを飾って耳目を集めるのは、とても簡単な宣伝手法だ。しかし、その手法を使える人物は限られる。
お金や知名度、見た目、もっと簡単に、パフォーマンスの規模。そのいずれか、あるいは全てがそろわなくては、ただ派手なだけのつまらないショーになってしまう。
それよりは、誰もが出来る、チラシのばら撒き、『お願いしまーす』と笑顔で握手、そして演説などなど。
地道な活動というのは草の根となって人々の間に浸透しやすい。
一方、派手なプロモーションは、ぱっと咲いて散る花火のようなもの。一時の印象は強いものの、それ以降はからっきし。
「……仕方ないか」
出来ないと言われてしまえば、仕方ない。
それなら、地道に活動して、神奈子の役に立つことにしよう。
彼女はそう思った。
これもまた、神の戒めなのかもしれない。
楽なほうへ、楽なほうへと逃げてはいけない。若いうちの苦労は買ってでもしろ。努力こそが一番大事――そんな感じでのお言葉だったのかもしれない。
それでも、早苗としては残念極まりない事実であった。
神奈子のため、よりたくさんの信仰を集めるために自分に出来ることを、日々、模索する早苗。出来そうなこと、出来ることには片っ端から手を出していくのが、自分に出来る、自分の役目。
「頑張ろう」
外の世界にいた頃、彼女は周りと違う『特殊な人間』だった。
だが、この世界では、そうではない。
彼女のように、普通の人間とは違う特殊な人間が、この世界にはごろごろいる。彼女はその中の一人にしか過ぎないのだ。
特殊な人間ばかりの世界では、その力の優劣は、外の世界における『一般人』たちと同じく、努力と才能で決まる。
努力で埋められるものを全て埋めてしまえば、あとは才能が全てを分ける。
早苗には、その『才能』が足りなかった。それだけだ。
認識してしまえば簡単な事実である。
ならば、自分は、自分に出来る範囲で頑張るしかない。地道なビラまき、声かけ、などなど色々、やれるべきことはたくさんあるのだ。
これを考えるのはもうやめよう。
早苗は大きく伸びをして、長く続く息を吐いた。
つと閉じていた瞳を開けて、周りを見渡す。
「……湯煙すごい」
周りが見えなくなるくらいの湯煙に、彼女は包まれていた。
まるで、真冬の温泉か、焦熱地獄の釜のようだ。
湯の中に足を浸すだけだった彼女は、お湯の中へ、全身を沈める。
心地よい暖かさが体を包み込んできて、そのまま寝てしまいそうな快感に囚われる。
「いけないいけない」
お風呂の中での睡眠は、失神と同じ。下手をすれば、そのまま溺死してしまう。
頬をぱんとはたいて、彼女は頭を左右に振った。
「以前もねー。お前みたいなこと言ってたのがいたよ。
ありゃ、何代前のやつだったかなぁ」
唐突に、頭の後ろから声がした。
振り返ると、そこに、白い裸体がある。
小柄な少女が、先ほどの早苗と同じく、足だけを湯の中に浸して、風呂のへりに腰掛けていた。
「自分にゃ力がない。力がないから、先代みたいなことは出来ない。
神のお力とお言葉をお伝えすることが出来ない。どうしよう、ってね」
先ほどまで、そこには誰もいなかった。
当然だ。先ほどまで、そこにいたのは早苗だったのだから。
誰かがいるはずなどない。
「とーんでもない。
んなことあるわけないだろ? 神の神子の血が、数百年、数千年程度で薄まってたまるもんかい。
神の血ってのは、とんでもなく濃厚で、とんでもなく高貴なのさ。
あらゆる血と反発しあい、あらゆる血を拒絶する。水と油みたいなもんだね。
お前たち、神の子にはね、二つの血が流れてるんだ。人間と、神様の。
体をこう半分に割ってごらん。左右の割れ目から違う血が流れてくるよ」
けらけら笑う彼女は、ひょいとその場に立ち上がる。
そして、『そーれ!』と湯船の中に飛び込んできた。
水音と共に飛沫が跳ねる。
ぴょこんと水面に顔を出して、「いやー、温泉ってさいこーだねぇ」と早苗に笑いかけてくる。
「だがねぇ、人間ってやつは、所詮は人間だ。神様とは違う。
ましてやお前たちは、わたしらに対する信仰心を忘れっちまって、人間の世界に染まりきっちまった。
こりゃ、うちらも予想してなかったねぇ。
ああ、だけど、仕方ないかな。神様ってのは、割と俗なもんだ。人間とまぐわって腹を膨らましたり、人間の女に種付けしたり、そういう阿呆どももたくさんいる」
少女の口からは、とても想像できない下品な言葉に、早苗は顔を赤くする。
彼女はそんな早苗を見て、『お前は生娘かい』とけらけら笑った。
「人の世に溶け込んじまえば、人間になっちまうのが便利で、暮らしやすいもんだよね。仕方ない、仕方ない。
けどさー、それじゃ困るんだよ」
そこで、少女は早苗に近づいてくる。
早苗は、動けなかった。
逃げようとするのだが、体がびくとも動かない。声すら上げられず、まばたきすら許されない。
蛇ににらまれた蛙。
その言葉が、脳裏に浮かび上がってくる。
「お前たちは神の子だ。神性がそうそう薄れて消えてもらっちゃ困るんだよ。
だからわたしはね、そういう時、お前たちに言うのさ」
少女の手が早苗の額に当てられ、それが一直線に、彼女の体のラインに沿って下に流れていく。
頭から股間まで。
彼女の指が早苗をなぞった後、とん、と胸元をつつかれる。
「人をやめろ、ってね」
くっくっと、彼女は笑う。
「人をやめるのは簡単だよ。
お前自身が、お前の中に流れている神の血にお前を同化させてしまえばいい。
代償は安い。今までの、人だったお前がいなくなるだけだ。
お前の中に流れる人の血が全て流れ出し、神の血に入れ替わるだけだ。
お前は人じゃなくなる。
お前は人の姿をしたまま、神になる。
人間でありながら、神だ。
どうだい。簡単だろう?」
――……来ないで……!
「お前はもう、人であることをやめたんだろう?
じゃあ、嫌がることも、怖がることもない。
なっちまえよ。なるしかないんだよ。神に。
出来ないってなら手伝ってやるよ。わたしは優しいんだ」
――……やめて……!
「痛いのは最初だけ。すぐに消える。お前は入れ替わり、生まれ変わる。
人の世を捨てて、神の世に来たんだ。
どのみち、お前に選択肢なんてないんだよ。なかったんだよ。あるはずがないんだよ。
だって――」
――誰か……!
「選んだのは、お前なんだからな」
――助けて!
少女の両手が早苗の肩を掴み、がっしりと握り締める。
少女の唇が早苗の唇に重ねられ、その舌が、早苗の口の中に入ってくる。
ヒトとは思えない、ねっとりとした舌が早苗の舌を引きずり出す。
そして、早苗に、舌を噛み切られた激痛が走る。
「うげっ! げほっ! げぇっ!」
「さあ、さあ、さあ!
ほら見ろ、どんどん流れてくるよ! よかったねぇ、これで名実共に、お前は神様だ!
神の力が使えないだとか何だとか、悩む必要もないよ! ここから先は、全てお前の力だ!
……よかったじゃないか、なぁ」
高く響く声を上げた少女は、その瞳を甘く優しいものに変え、口から血を吐き続ける早苗の頬をなでる。
口中に広がる、血の味。
その味は、ものすごく、甘い。血の味は鉄の味と同じと聞いていたが、違う。
甘いのだ。
一滴残さず、飲み干したくなるくらいに甘くて美味い。
その血が。
大切な血が。
押さえることが出来ず、少女にかみちぎられた舌から口の中にあふれ、外に流れ出していく。
滝のように流れる血を、何とか押さえようと両手を口に押し当てても、その指の隙間から血はあふれていく。
流さぬように口を閉ざしても、鼻から、目から、耳から、下半身から、押さえることが出来ずに流れ、流れ、流れ、流れていく。
「さあ、流せ流せ。いらない血を。全部流してしまえ。
神に必要なのは神の血のみ。神子に必要なのは神の血だけ。
もはや捨てた人の身。残す必要などどこにあろうか。
お前は晴れて神となる。
神となったお前には、もはや恐れるものは何もない。
人でありながら人ならざる力を持っていたお前の力は、神の力へと昇華する。
これより得られたもの、与えられるもの、そして往くものは全てお前のものとなる。
よかったねぇ。これで、お前はお前の力で奇跡を起こせるのだから。ね」
全身の、穴という穴から血を噴出し、苦しむ早苗を見ながら、少女は言った。
どこか遠く、優しく。それでいて、残酷に、近く。
その声を残したまま、温泉の湯煙の中に消えていく。
「待って……!」
早苗の伸ばした手は、どこにも届かない。
赤に染まった世界。
何も見えず、わからない世界。
「返して……!」
あふれた血を、必死ですくいあげて飲み込もうとする。
だが、飲んだそばから吐き出してしまう。
体が、その血を受け付けない。
やがて、吐き出した血は、急速に温泉の湯と交わり、薄くなって、消えていく。
「わたしの血……!」
赤く染まる涙を流し、全身を真っ赤な血で染めて、彼女は絶叫する。
「わたしの血ぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃっ!」
「早苗さん、どうしたんですか!? 早苗さん!」
「早苗さん、ちょっと! 血って何ですか!? 早苗さんってば!」
「……あ」
ぐるんと、世界が回転して裏返った。
真っ青な空。
きれいな世界。
雄大な自然。
そして、温かい、お湯の感覚。
全てが戻ってくる。
文と椛の二人が、心配そうな顔をしている。彼女たちは、必死になって、早苗を揺さぶっていた。
「あ……えっと……」
「大丈夫ですか!?」
椛が、早苗の瞳を覗き込みながら声を上げる。
「何事かと思いましたよ……。
いきなり立ち上がって、『わたしの血』とか叫びだして……」
恐ろしいものを見た、という顔で、文。
「血なんて流れてませんよ、早苗さん」
「椛さん、相手を怪我させずにいたぶる天才ですから。大丈夫ですよ」
「人聞きの悪いこと言わないでください。がお」
「あいたた」
かぷ、と文の頭にかみついて、椛が言う。
単なるじゃれあいだったのか、二人はすぐに身を離すと、『今日はもう帰りましょう』と早苗に声をかける。
「あ……いや……」
早苗は、二人から離れると、かぶりを振る。
そして、大きく息を吸い込み、お湯の中に潜った。
10秒、20秒、30秒。
息が続く限界までお湯の中にもぐっていた彼女は、ざばっと顔を上げる。
そして同時に、彼女は右手を振り上げる。
「っ!?」
文が、顔色を変えた。
風が巻き起こる。
それは小さな風の流れから始まり、強い流れへと変じ、最終的に烈風とも言える風の塔となった。
ぽかんと、それを見上げる椛の前で、風は温泉のお湯を全て吸い上げ、空中からばら撒いていく。
「……何だ、これ」
文は小さくつぶやき、その視線を早苗に向ける。
早苗は、自分が行なった事実が信じられないという顔で、その様を見つめている。
「あれは……?」
文が感じたもの、それは、早苗の周囲で揺らめく気配。
つい先ほどまで存在しなかったそれは、彼女を何かから隔絶させるかのごとく、彼女を覆っている。
それをじっと見つめていた文は、気付く。
そうだ。この気配は、初めて神奈子に会った時のあれだ。
こちらを圧倒した、『神の気配』。言葉に出して具体的には言い表せないが、あれだ。あのままだ。
「温泉が……」
つぶやく椛。
あちこちから湯が湧き出してきているが、再び、この温泉をまともに使えるようになるまではしばらくの時間が必要となるだろう。
「……あの、早苗さん?」
早苗に声をかける椛。
早苗は無言だった。
無言のまま、小さく、かぶりを振る。
「……やっちゃった」
そのつぶやきが、湯の雨が降り注ぐその場に、小さく響いた。
「ちょっと、あんた達! こんなところで何やってんのよ!」
湯船から上がり、服を着替えていた一同の元に、はたてがやってくる。
「ありゃ、はたてさん。どうしたんですか?」
「何をのんびりしとるか! この元凶!」
「あいったー!?」
ばしぃっ、と頭をひっぱたかれて、文が悲鳴を上げてうずくまる。
「どうしたんですか? はたてさん」
「椛、あんたはちょっとどいて。
早苗、あんたの家に、天魔が来てるわよ」
「……天魔?」
「簡単に言うと、この妖怪の山で、一番偉くて強くて厄介な奴!」
きょとんとなる早苗に、はたてが解説する。
天狗一同を統べる大天狗をさらに超える存在。
具体的にどういう妖怪なのか、そもそも妖怪なのかすら、はたて達、下っ端天狗にはわからない。
ただわかるのは、妖怪の山の全勢力が束になってかかったところで、相手は笑いながらこちらを蹴散らす強さを持ち、そのくせ、人格はかなり破綻しており、わがまま全開の超厄介な相手であるということだ。
「……神奈子さま!」
早苗の顔色が変わった。
彼女は、服を着替えるのももどかしいとばかりに、半脱ぎ状態のまま、駆け出そうとする。
「文! あんたが原因なんだから、あんたが早苗を連れて行きなさい!」
「いたた~……。はたてさん、痛いですよ~……」
「いいからいけっ!」
「ひにゃっ」
げしっ、とお尻を蹴飛ばされて、文は悲鳴を上げて早苗の後に続いた。
「早苗さん、息を止めててください」
「は、はい」
文は早苗の手をとり、加速する。
その加速の瞬間、早苗の耳から音が消えた。無意識にぎゅっと目を閉じる。
体が前方に引っ張られ、感覚が消える。
「つきました」
次の瞬間、文と早苗は神社の境内へとやってきていた。
目を開けた早苗の前に、見慣れた母屋が佇んでいる。
「……今、何が……」
「私は幻想郷最速ですから!」
えっへん、と胸を張る文を無視して、早苗は母屋の中へと上がっていく。
「神奈子さま!」
そして、居間に続く襖を開いて、沈黙する。
「わっはっは! そうかそうか!
よし、わかった! ならば、この山のこの区域をお前たちに貸そうではないか!」
「ご理解いただき、感謝の極みです」
「いやいや。余もこのように、余を歓待してくれるものを追い出そうなどとは考えぬ。
うまい酒とうまい飯を馳走になったのだ。その恩に報いねばな。うわはははは!」
「あら、早苗。お帰りなさい」
「………………………………なにこれ」
ぽつりとつぶやき、早苗は所在なげに立ち尽くす。
居間の中では、どんちゃん騒ぎの宴会が行なわれていた。
片手に、神奈子が『秘蔵のお酒です』とどこかから手に入れてきた高級日本酒の瓶を持ち、それをラッパ飲みしている少女。
どう見ても子供。
その彼女の前で、神奈子が笑いながら、「それにしても、天魔、だというから、どのように恐ろしい妖怪かと思ったら」と冗談を言っている。
ちなみに、その子供の向こうには、どう見てもこの子供の保護者にしか見えない女の天狗が佇み、頭痛をこらえるような仕草をしていた。
「む? そちらの童は何者じゃ?」
「ああ、彼女は私の従者であり、使いであり、神子である東風谷早苗と」
「ほほう。
余は天魔と呼ばれておる。見ての通りの、古株雑魚妖怪よ」
くっくっく、と笑う彼女は、瓶の口を口の中に突っ込んで、がばがばと酒を飲み干していく。
「ぷっはーっ! たまらぬ!
おい、酒がないぞ! 追加を持ってこい!」
「……天魔さま、お酒は一日一本までとお約束にしていたはずですが」
「何を堅いことを言っている。
山の新しい住人だ。仲間だ。それを迎えるための宴会に、そのような堅苦しいルールを持ち込むな。
ほら、金だ。買ってこい!」
「……このアル中幼女……」
女の天狗が、そう呻くのを、早苗は確かにその耳で聞いていた。
天魔が薄い懐から取り出した札束を握って、ため息混じりに早苗の横を通り抜けていく。
通り抜けざまに、『お目付け役に言いつけてやる』とつぶやいていたのを、早苗は聞き逃さなかった。
「それにしても、天狗どもから話を聞いた時には、どのように恐ろしい鬼神や戦神が現れたのかと思ったわ」
「こちらこそ、それは同じです」
「このように話のわかる輩ばかりであれば、幻想郷も、もっと平和なのだろうな」
「戦は最終手段。基本は話し合い。昔から伝わる解決方法ですね」
「ふふ、確かに。
だが、聞くところによれば、お前はよく隣国などを攻め滅ぼしていたらしいが?」
「それはそれ。これはこれ」
「わはははは! そうかそうか、確かにそうだ!」
彼女はどんと空っぽになった酒瓶をテーブルに戻して、つまみのソーセージ(これも高いやつ)をもぐもぐかじる。
そして、その瞳は、早苗の方へ。
「早苗、といったか」
「は、はい。お初にお目にかかります、天魔さま」
「何、そこまで畏まらずともよい。
余など、その辺りで巫女や妖怪退治に震えて暮らしている木っ端妖怪の端くれに過ぎぬ。
天狗どもが、余をあまりに持ち上げすぎておる。何が『幻想郷最悪の妖怪』だ。失礼極まるわ。このようにかわいらしい子供を相手に。なあ?」
普通、『かわいらしい子供』は酒瓶片手に酒盛りなどしません、と言ってやりたいところだったが、早苗はその言葉を飲み込んだ。
下手なことを言えば、万倍になって言い返されそうな気がしたのだ。
「ところで神奈子よ。
この神社に、山の一角を貸す。そして、お前たちは見返りに、余を始めとした山の妖怪、果ては幻想郷に益をなす。それでいいな?」
「はい」
「ならば、余は隠し事は好かぬ。
一つだけ、聞いておきたい。
この神社にいる神は、貴様一人だけだな?」
その言葉に、神奈子は答えなかった。
彼女の視線は早苗を向く。
早苗は自分を指差し、目を白黒させる。
「彼女を神と含めるなら、二人かと」
「ほう」
天魔の瞳が早苗を見据える。
先ほどまでと、雰囲気が変わっていた。
先ほどまでの天魔は、ただの酔っ払いのそれだった。だが、今は違う。その視線で射すくめられるだけで、気の弱いものなど失神どころか心臓すら止めてしまうほどの鋭さを持っている。
「現人神とか言ったか。なるほどな。
確かに、それも神は神だ。
なるほど、なるほど。この神社に神は二人もいたか」
天魔は立ち上がる。
早苗へと近づいた彼女は、早苗の視界一杯を、己の顔で塞ぐ。
天魔の口が、小さく動く。
「ならば問う。貴様は何者だ?」
早苗の呼吸が止められる。
身動き一つ出来ず、体を堅くする彼女。
「早苗は人間でありながら神の身を宿した存在。だからこそ、神子であり現人神なのです」
「……ふふふ、そうか。
気に入った。
よし、神奈子よ。飲みなおしだ! 今日は飲むぞ! 夜が明けるまでな! うわっはっはは!」
ちょうどその時、あの女天狗が帰って来る。
彼女が『これ以上、飲めるものか。この幼女め』といわんばかりの視線で天魔を見据え、その場に樽酒をどでんと置く。
天魔は大喜びでその中にひしゃくを突っ込み、「神奈子、飲むぞ!」と、直接、ひしゃくに口をつけてぐびぐびと酒を飲み始めた。
神奈子はそれに続き、「早苗。貴女は、今日は外でご飯を食べてきなさい」と早苗にお金を渡してくれた。
体よく、母屋から追い出された早苗は、未だ、表の社殿の前でぼーっとしている文の元に歩いていく。
「お帰りなさーい」
「あ、はい……」
「どうでした? 天魔さま、何か言ってました?」
「い、いえ。何も」
「ふーん」
文の問いかけに、早苗は慌てて答える。
傍から見ても、それは妖しい反応だっただろう。
だが、文は何も言わなかった。何も聞かなかった。
「あ、あの、今日はどうも家に帰れそうになくて。どこか、美味しいご飯を食べられるところ、知りませんか?」
「はたてさんの家か……。
ああ、あとは、天狗連中がよく使う飲み処があるんですよ。山の中腹に。
今、そこ、旅館に改装中なんですけどね。食事処は継続して営業してますので、そこに行きましょう」
「……旅館?」
「旅館」
「……なんで?」
「天魔さまだから」
「あー。」
その一言で、思わず納得できてしまうほど、『まじかる天魔ちゃん』の説得力は抜群であった。
「早苗。体調が悪いの?」
「え? どうしてですか?」
「何だかふらついているように見えたから」
「大丈夫です。
むしろ、元気一杯ですよ」
そう答える早苗には、強がっている感じはない。
神奈子は、少しだけ目を細く、鋭くして早苗を見た後、『……そう』とだけ答えた。
天魔がやってきて、早三日。
彼女たちの、山での立場も決まり、晴れて、今生活している一角を含めた山の一部の使用が認められた二人は、それまでにも増して精力的に信者獲得に動いている。
近くの人里の人々は、実際に神奈子がなす『神の御業』に感心し、『この神様なら、俺たちの手助けになる』とばかりに側にいる早苗に対してお賽銭を渡してくれるようになった。
日を追うごとに、信者の数は増えてきている。
心なしか、神奈子の顔にも笑顔が増え、動きも軽くなってきたような感じすらする。
そんな中。
「はあ。スペルカード、ですか」
「要は『私の考えたすごく強くてかっこいい必殺技』ですね」
早苗の『弾幕訓練』は続いていた。
あの温泉での一幕の後、早苗は変わった。
何が変わったのかはわからないが、とにかく、変わったのだ。
端的に言うと、信じられないくらい強くなった。
へろへろぽてんの弾丸ではなく、無数の、色鮮やかな弾丸を生み出し、操り、先日は椛を真正面から打ち負かしたほどだ。
その成長は目覚しく、男は三日も会わなければ別人になると言うが、早苗の場合は翌日から別人になっているほどだった。
強くなればなるほど、己の力の使い方もわかってきているのか、どんどん新しい力を発揮してくる。
文は、そんな彼女に、『幻想郷の弾幕勝負の花形』であるスペルカードルールを教え込んでいる。
「どうだ!」
「……えっらいうまいですね」
「こう見えて、有明の戦場では売り子と共に薄い本出してましたから!」
えっへんと胸を張る早苗が突き出すカードは、何というか、やたら絵がうまかった。
色使い、エフェクトなんかも絶妙であり、これ一枚を『グッズ』として売ったら売れるだろうと思われるほどだ。
「これを宣言した後に、必殺技を使うんですね。かっこいいじゃないですか!」
目をきらきらさせて、やたら『宣言』だの『必殺技』だのといった言葉にこだわる早苗。
言語というのには特殊な力があるのだが、それを伝えるのを生業とする文にですら、早苗のこれはよくわからないこだわりである。
「これで『闇』とか『死』とか『破壊』とかって単語を好んで使うようになったり、漢字ばっかりを羅列して、振り仮名で、どう頑張っても読めないカタカナ横文字とかつけたらダメですよね」
「……はあ」
一体どういう意味だろうと思ったが、文にはわからなかったので、とりあえず内容を詳しく尋ねることはしなかった。
なお、この時、とある紅の館の吸血鬼や、とある竹林のうさぎが唐突にくしゃみをしていたが、とりあえず今は関係ない。
「何枚くらいあればいいんですかね」
「大体、一回の弾幕勝負では、多くても6枚とか7枚とか。
あんまり多くしすぎてもあれですしね」
「ある程度、負けたら潔く負けを認める姿勢も必要ですよね」
「悪あがきも大切とは言いますけどね」
とりあえず、そういうわけで、早苗の手元には20枚ほどのスペルカードが出来上がる。
同じ種類の弾幕でも威力や見た目、弾丸の種類などを変えたものが含まれているため、実際の枚数は一桁である。
『早く使ってみたいな~』とうきうきしている早苗を、文は見る。
その瞬間、まるで狙ったかのように、ふっと、早苗の動きが停止する。
「……またか」
文はつぶやいた。
この時、早苗の瞳からは光が失われる。文が目の前で手をひらひらさせたり、彼女のほっぺたをぺちんぺちんとしても何の反応もない。
耳を近づけても、早苗の口許からは呼吸の音が聞こえてこない。
「まるで死体ね」
あの温泉での一件以降、早苗は一日に何度もこんな状態に陥る。
それはまるで、人が此の世から解脱する儀式をしているかのようだ。
生きていながら死んでいる。そんな言葉がふさわしい。
「……ん?」
だが、今日の早苗は少し違った。
彼女の口許が動き、呼吸を始める。
元に戻ったか、と安堵する文。その文の方をふっと見ると、早苗の瞳が急に鋭くなった。
「!?」
突然、早苗の腕が動き、その右手が神速の動きで地面に置かれていた祓え串を取ると、その先端を文めがけて突き出してきた。
ぎりぎりで、頭だけを動かしてそれをよける文。
早苗の祓え串は、文が寄りかかっていた岩を貫通し、それを吹き飛ばす。
「……呼吸がおかしいな」
それは、人間のする呼吸とはとても思えない。
深く、浅く。遅く、速く。不規則に、何度も何度も不可思議な呼吸を繰り返す。
早苗の瞳が形を変化させ、爬虫類を思わせるような瞳孔を文へと向けてくる。
「何かに憑かれた!?」
すかさず構えたカメラで、早苗の目の前でフラッシュをたく。
ぱっと光る激しい閃光に、早苗は悲鳴を上げてのけぞった。
そのまま、ふらふらと後ろに向かって後ずさりした後、唐突に、つぶやく。
「……オ願い……助けテ……」
「早苗さん!?」
何だ、今の声は。
文がそれを再確認するより早く、早苗の体が崖下に向かって落下していく。
彼女は自ら、崖を飛び降りたのだ。
慌てて、文は地面を蹴って、落下していく早苗を助けようとする。
早苗の落下速度より文の飛行速度の方が速い。助けるのは難しくはない。
だが、早苗の体は、文が見ている前で不思議な動きをした。
頭を下にして落下していた彼女は、唐突に空中で体勢を立て直すと、体を一回転させる。
そして、岸壁めがけて早苗から伸びた『何か』が腕を伸ばし、騒音と共に彼女の体の落下がストップした。
空中で、早苗の体がぶらぶらと揺れている。
彼女の体を支えるものは何もなく、まさしく虚空に漂っているかのようだ。
「あんた、何者?」
早苗の体から『腕』を伸ばす何者か。
それは、今、文の目にもはっきりと映っている。
子供だ。
見た目の年齢なら10歳にも満たないだろう。
その子供が、早苗の体を支えている。彼女の視線は文を見て、ふっと、言葉に出せない表情を浮かべる。
「ちっ」
文が舌打ちすると、子供の姿は消え、支えを失った早苗の体が落下を再開する。
文は早苗を抱えると、まっすぐに、崖の上へと戻っていく。
そして、
「……はれ? わたし、寝てました?」
「疲れてるんじゃないですか?」
早苗が目を覚ますと、彼女は先ほどのことなどすっかり忘れている。
というより、記憶がその部分だけ、完全に欠落しているのだ。先ほどまでの『早苗』は存在してないのである。
自分が先ほどまで、手の中に広げていたスペルカードが、ばらばらと地面に落ちているのを見て、彼女は自分が『寝ている』と思ったのだろう。
てへへ、と頭をかきながら、「実は最近、深夜までチラシを作ったりとかが多くて」と照れくさそうに、彼女は笑う。
「いけませんねぇ。
女性にとって、夜更かしはお肌と若さの敵ですよ」
「うぐ……。そうなんですよね……。
幻想郷に、基礎化粧品なんて売ってませんよね……? 今、持ってきてるのなくなったらどうしよう……」
「そうならないために、夜更かし、朝寝坊はしないようにしないといけませんね。
ちなみに、私は深夜に帰ってきても、朝は自分で決めた時間に起きられますよ」
「はたてさんが、『文は起こしに行かないと昼まで寝てる』って言ってましたけど」
「そういうこともあります」
「ダメじゃないですか」
早苗はけらけらと笑い出す。
文もそれにつられて笑い出すのだが、笑いながら、その鋭い瞳で、早苗を見据えていた。
ひとしきり笑った後、文は小さな声でつぶやく。
「ちぇっ。まずったか」
やっぱり、物事をうまく動かすには、もっと頭がよくないといけないわね、と。
彼女はそれを反省する素振りもなく、めんどくさそうに、そして残念そうにつぶやくのだった。
――4――
宴も終わって、夜が本格的に訪れる。
博麗神社の居間の隣に、寝室が用意されている。そこで寝てるのは、枕を四つ並べて、霊夢に早苗、魔理沙にアリスである。
「ん~……」
魔理沙は、寝相が悪いのかアリスに甘えたいのか、自分の布団ではなくアリスの布団にもぐりこんでいる。
アリスはというと、それに気付いているはずもなく、すやすや寝ているのだが、
「うぐぐ……う~……!」
魔理沙はアリスに抱き枕と勘違いされたのか、むぎゅ~と抱きしめられる。
苦しそうに呻く魔理沙。ぺちぺちとアリスの腕をタップするのだが、アリスの締め付けが緩むことはない。
やがて、かくんと、糸の切れた人形のように魔理沙が大人しくなった。
――さて。
「……」
早苗は一人、目を開けて天井を見上げている。
隣の部屋からは、まだ起きているのか、紫と神奈子の声が聞こえてくる。諏訪子は寝ているか、ゲームでもしているのだろう。
藍と橙は家に帰り、あの場にはいないはず。
布団の中で寝返りを打つと、目の前に、寝ている霊夢の顔がある。
そのほっぺたをつんつんつついて、くすくす笑う。
そうして遊んでいても、やはり飽きてくる。
彼女はゆっくりと起き上がり、音を立てないようにして、右手側の障子から部屋の外へと退散した。
「あ、月がきれい」
神社の廊下を少し歩くと、表に面した縁側に辿り着く。
そこに腰掛けて、のんびりと、夜空を見上げる。
今日は珍しく、眠れない。
普段なら、布団に入れば5分で寝られるというのに。
こんなに眠れない夜は、この世界にやってきた頃以来だ。
何か感傷的になることあったかな~、と彼女は空を見上げてつぶやく。
「きれいな空」
外の世界にいた頃は、決して見られなかった満天の星空を眺めて、彼女は声を上げる。
雄大な自然に包まれて、古きよき国の姿が残る、それがここ、幻想郷。
もちろん不便なところも山ほどあれば、物足りないところもたくさんある。外の世界が恋しくなる事だって、一度や二度ではない。
しかし、それでも、この世界で、彼女は生きていく。これまでも、そしてこれからも。
そうなることを望んでついてきたのだ。
そうあることを覚悟してやってきたのだ。
今更、『帰りたい』と口に出して言うことはない。
霊夢に言ったように『帰りたい』と思うことはあっても、口には出さない。
それはいっときの感傷。
旅行先などで、楽しい日々を過ごしていても、『ああ、家に帰りたいなぁ』と思うのと、何も変わらない。
人間というのは不思議なものだと思いながら、足をふらふら、ぶらぶらさせる。
――夜の空に月上がり 星が煌く天の川
見上げた空に映るのは 自分を忘れた鏡の心
映る鏡に見た心 それは暗く沈む色
空の闇だけ見つめてる――
何となく、歌を歌ってしまう。
あー、CDどこやったっけなー、などと思いながら。
――歩く道は暗く沈み 先の見えない不安が包む
ふと立ち止まる道先で 差し伸べられる手が一つ
見つめる先に君の笑顔 いつも私を導いてくれる
手を取り歩く道すがら 君は笑って答えてくれた――
「……?」
つと、振り返る。
「あ、霊夢さん……」
「寒いでしょ。どてらでかっこ悪いけど」
「起こしちゃいました?」
「まさか。ずっと起きてた。
よくも人のほっぺたをおもちゃにしてくれたな」
「ふひぃ~……ごめんなひゃい~……」
ぐにーっとほっぺた左右に引っ張られて、早苗は悲鳴を上げる。
いつの間にか、早苗の背後に立っていた霊夢は、手に持っていたどてらを早苗の肩にかけてから、その横に座る。
「何の歌? 普段の祝詞とかとは違うよね」
「ああ、わたしが好きだったバンドの曲です。もう結構前に解散しちゃったんですよ」
「へぇ。どうして?」
「売れなかったみたいです」
音楽業界は厳しく険しいものなのだ、と早苗はしたり顔で言う。
まるで見てきたかのように、『CDの売れ行きが全て』だの『音楽バブルは弾けたのに、今も頑張ってるミュージシャンはすごい』だの、挙句、『音楽だけで勝負しないバンドは許さない』とまで。
霊夢は、「私は、歌なんて民謡とかくらいしか知らないなぁ」と言う。
「幻想郷で、バンドとか組んだら売れますかね?」
「物珍しさで人は来ると思う。
ほら、この前、ミスティアと響子が何かやってたでしょ。あれ、結構、人がきたみたいよ」
「その後、白蓮さんに『お寺の境内でやることではありません』って叱られてたみたいですけど」
「場所を選ばないとね」
それこそTPOってやつだ、と霊夢。
その『TPO』というやつを、よほど理解してないのはこの霊夢なのは間違いないのだが、早苗は何も言わなかった。
「霊夢さんって」
「ん?」
「髪の毛、伸ばしてますよね」
「ああ、うん。どう? 似合う?」
「似合います。
けど、私のイメージじゃありません」
「……何か、勢い、ストレートに来るね」
「霊夢さんはスレンダー美人ですからねぇ。それでいて活動的な印象なので、こう、しっとりとした和風美人って感じじゃ」
「それ、何気に傷つくんですけど」
そんなに似合わないかなぁ、と自分の髪の毛を手ですく彼女。
もちろん『いえいえ、似合いますよ』と霊夢をフォローするのを、早苗は忘れない。
実際、長髪の霊夢というのは、なかなかかわいらしい。
大人しく、黙って座っていれば、それこそ雅な和風美人だ。さぞかし、男どもが騙されてくれるだろう。
口を開けばあの調子な上に、すぐに魔理沙と大喧嘩するため、そのイメージも長く続かないのが欠点であるが。
「早苗とか紫みたいにさー、髪を長くすれば、自分も雰囲気変わると思ったんだけどなー」
「実際、髪型で、だいぶ雰囲気って変わりますからね」
「それに、髪が長いと、色々遊べるし」
「その分、シャンプーとか面倒ですけどね」
「それだ」
この頃、博麗神社の財政を圧迫しているのは、おしゃれに目覚めた(?)霊夢のシャンプー代に原因がある。
何となく、それをイメージさせるような一言をつぶやき、うーむ、と霊夢は腕組みする。
「ちなみに、シャンプーって、何使ってるんですか?」
「紫にもらった奴」
「タダじゃないですか」
しかし、ちゃんとオチはついていた。
早苗の一言に霊夢は笑い、『そういやそうだった』と笑顔を見せる。
そうして、
「何かさ、考えることでもあるの?」
霊夢が本題を切り出してくる。
「え?」
「寝れなくて天井を見ている早苗の横顔、すっごく寂しそうだったよ」
「そうですか?」
「初めて会ったときレベル」
「あれは忘れてください」
苦笑を浮かべて、早苗は返す。
霊夢は『私はいつも早苗のことを見てるんだぞ。嘘なんて言うものか』という瞳で早苗を見ながら、「何かあったの?」と、もう一度、尋ねてくる。
「強いてあげるなら、昔を少し、思い出してました」
「昔?」
「幻想郷に来た頃のこと」
「ふーん」
「もう長いものですよねー。昔のことですよねー。
だけど、何でか、ふっと思い出しちゃったんです」
「それってさ、辛い思い出なの?」
霊夢の視線が早苗を見る。
そこには、どこか、不安と悲しさが浮いていた。
早苗は小さく笑って、「そんなことあるわけないじゃないですか」と霊夢の肩に手を回して、自分の方に抱き寄せる。
「この世界は素敵なところです。
それに何より、霊夢さんがいますから。
わたしにとって、この世界は、いっちばん、素敵な世界です」
「……う~」
「ただ、違いに戸惑っていただけですね。
あと、変に力が入りすぎてました。
霊夢さんみたく、緩く過ごせなかったのが原因です」
「うっさいわね」
ぽっと顔を赤くして、霊夢は反論する。
何事にも真面目で、まともに取り組みすぎる早苗と、普段はどこか気が抜けていて、緩んだ糸のような霊夢。
二人は、正反対。
そんな早苗に、「いつでも張り詰めている糸は、簡単なことでぷつんと切れる」と霊夢は言った。
「そうですね」
「早苗は、もっと気を楽にしてさ、みんなと一緒に毎日を楽しめばいいんだよ」
「はい」
「まだお客さん気分が抜けないなら、もっとみんなと遊んでさ。
早く溶け込もう」
「ええ」
もちろんそのつもりです、と早苗は空を見上げる。
「ただ――」
「ただ?」
「わたしと皆さんが違うのは、やっぱり、わたしには覚えておきたい昔の記憶が残っていることですね。
これだけは、どうやったって捨てられないし、忘れられません」
「……そうだね」
「それをゆっくりゆっくり、この世界に慣らしていきたいと思います。
わたしが……外の世界のわたしと、今、ここに生きているわたしが、一つになるまで」
「いつだろうね」
「もうずっと前から、大丈夫だと思っていたんですけどね。
案外、人間って、過去を引きずるものです」
そりゃそうだ、と霊夢は笑った。
「髪の毛伸ばしてるの、お母さんに似せるため?」
「内緒」
早苗は以前、霊夢から聞いた、『霊夢の母親』のことを話題に出して、霊夢に尋ねる。
返答は、予想通りだった。
そうして、思う。
そんな風に、昔のことを思い出したりしているから、『寂しそう』って思われるのかな、と。
忘れられない過去の記憶が『寂しさ』にどうしてつながってしまうのだろう。
彼女は夜空を見上げながら、そんなことを考える。
「文。
あんた、ちょっといい?」
「はい? 何でしょうか、はたてさん」
「あんた……」
「あー、ちょっと待ってください。
にとりさーん! もうちょっとこっちこっち! フレームに入ってませーん!」
「はーい! こんな感じー!?」
「そうそう、そんな感じー!」
妖怪の山(早苗たちの神社)のインフラ改善事業も、いよいよ大詰め。
にとり達が日々、忙しく、そして楽しそうに神社を改造していく様を、文はカメラに収めて新聞で発表している。
それを見た天狗たちは『こんな便利な技術があるのか! うちもやってくれ!』と河童たちに声をかけ、河童たちは『そういうわけなので、この技術を教えてくれ』と神奈子の元に集ってくる。
その輪は徐々に人里の方にも伝わり始めており、『この手段を使えば、こんなにあなた達の暮らしがよくなります』と早苗や神奈子が熱心に宣伝と勧誘を行なっていた。
「……よし、っと。
で、何ですか?」
「こっち」
その様を眺めていたはたてが、文の手を引いて空の上へと移動する。
他に誰もいない、風の音しか聞こえない高空で、はたては文の手を離す。
「何ですか? はたてさん。
あっ、まさか、愛の告白ですか! 困っちゃうな~。はたてさんくらいにいい人だと、他に貰い手もたくさんいるでしょうし。
私が独占していいのか……」
「違うわ、ばかたれ」
「いてっ」
ぺこん、と頭を叩かれて、文が悲鳴を上げる。
はたては肩をすくめながら、
「あんたさ、何を企んでる?」
「企む? 私が?
やだなぁ、はたてさん。人が悪い……」
「ごまかしてんならぶっ飛ばすよ」
はたての声音が変わった。
文に対して、いつも『鬱陶しいけどいい友人』という感じで接していたはたてが、明確に、文に対して敵意を見せたのだ。
にやにや浮かべていた文は、笑みはそのままに瞳の形だけを変える。
「あんたが、あの、早苗だっけ? あいつをたきつけてるのは知ってんのよ。
あの子に弾幕勝負を教えたり、スペルカード描かせたり。
それって結局、あんた、あの子を使って、何かいい記事を作ろうって考えてんでしょ?」
「ええ」
文は、ごまかしたりせずに、はたての言葉をまっすぐそのまま受け止め、返す。
「この幻想郷には、あの早苗以外に、もう一人、巫女がいる。
あいつらは面白い。焚き付けたら、きっと、面白いことになる」
「へぇ。さすがね。性格の悪さは昔から直ってないわ」
「直すつもりもないけどね。
天狗はお祭り大好き。ましてや鴉天狗をいわんや。ねぇ?」
彼女は片手にカメラを持って、そのレンズをはたてに向ける。
「あの世間知らず、本当に面白いくらいに、色んなものに興味を持って、まっすぐにそれにぶつかろうとする。
妖怪の企みなんて疑うこともせずにね。
昔から、人間は妖怪と化かしあいをしてきた。人間の立てた策に妖怪が嵌れば、その妖怪は退治される。逆なら人間は妖怪の餌になる。
それは別に、あんたも否定しないわよね?」
「もちろん。
ただ、わたしは、めんどくさいからそれをやらないだけ」
「だから引きこもりって言われて馬鹿にされてんだよ」
「それを言いふらしたの、あんただけどね」
「あれ、そうだっけ」
ひょいと肩をすくめて、はたては文に反論した。
確かに、文に比べれば出不精であるが、はたてには、文以外の交友関係も山ほどある。
決して、家の中に閉じこもってばかりの妖怪ではないのだ。
それなのに、文が、はたてのことを『家の中にこもってばかりの出不精天狗』と言いふらしたのである。
当然、激怒したはたては文に弾幕勝負を申し込み、この時ばかりはこてんぱんに彼女をのしている。
「何でそんなことしたのか、聞いた時、あんた言ったよね?
『こうすれば、はたてさんをネタに、面白い記事が書ける』って」
「新聞記者は体が資本。火のないところに煙を立てて、それがくすぶる程度なら、盛大に付け火をして燃やすのも仕事だわ」
「この三流デバガメ野郎」
「それくらい自覚してるわよーだ」
だが、やめないのだ、と文は言う。
いい記事を書いて、少しでも面白い新聞を幻想郷に流すためには、ちょっとくらいの犠牲は必要なのだ、と。
それが自分の身の安全であったり、取材対象の立場や信用に関わることだったり。あるいは今回のように、その取材対象にすら物理的な被害を及ぼすものまで。
「いいじゃない。ちゃんとフォローしとけば。後から」
「そのうち、また痛い目見るわよ」
「別に結構」
そうして、
「だけど、今回はちょっと、うまくいってないのよね」
「へぇ」
「あの間抜け人間、本人はお人よしの上に真面目一徹だから、それはそれで操りやすいんだけど」
「神様は、そうそう簡単にはいかないでしょ」
「まぁね」
神奈子はやはり、油断の出来る相手ではない。
文の瞳ははたてにそれを訴える。当然でしょ、とはたては返すのだが。
だからこそ、獣の変化の妖である自分にでも騙して動かしやすい相手として、早苗を選別したのだろうが。
古来より、人は、たかが獣にすらよく騙されてきたのは事実だからだ。
「当初の予定より、だいぶ、あいつがずれてきた」
「あいつ……早苗?」
「外の世界じゃどうだったかは知らないけど、この世界においてじゃ、そんなに大したことが出来る人間じゃなかった。
最初はね。
だけど、今は違う。
あの実力……下手に動かれたら、私ですら止められない」
「へぇ」
策士が策に溺れたか、とはたては文を嘲笑う。
しかし、文の表情は重たく、厳しい。
「当初はこんな風じゃなかった。
確かに、あの神は油断できないし、その分、強い。初日に見せた強さははっきり言って大したものだった。
だけど、あいつは違う。あいつは神の後ろで縮こまっているだけの人間だった。
やる気を出した後も、何も変わらない。
少し、普通の人間と違うだけの、ただの人間。巫女ってのは神様の言葉や恵みを人々に伝えるための触媒であり、単なる入れ物であればいいから、それはそれでふさわしいんだけどね。
あいつにね、最近、神様がいるんだ」
「は?」
言っている意味がわからなかった。
首をかしげるはたてに、文も頬をかきながら、「私も、何て言えばいいかわからない」と困惑したような顔を見せる。
「見た目は普段のあいつと同じ。
だけど、違うんだ。
あいつの中に、もう一人、誰かいる。それが、初日に見た、神奈子と一緒のような感じがする」
「早苗は神奈子が『現人神』って紹介していたんでしょう?」
「外の世界じゃ、それが通じただろうけど、幻想郷じゃ通じないわよ。
そんなの『へー、そうなんだ』で終わるくらい。神々しさもありがたみもあったもんじゃない。
けど、今は違う。今は、あいつ自身が何らかの形で神様としての信仰を集め出してる。
それを神奈子が知っているのか知らないのか……いや、間違いなく、知ってるだろうけど、何で何も言わないのか」
「自分の従者が、神様としての自覚を持って成長してきてるなら、育ててる側としては歓迎するだろうし」
親が子の成長を喜ばない理由はない、というのがはたての理論だった。
なるほど。確かに言われてみればその通り。
文も、たとえば自分が親になったとして、我が子が一流の天狗として成長してきているのなら、それを大喜びして歓迎するだろう。下手な詮索などもしないはずだ。
それと同じことが、今、起きている。
確かに、その通り。
そう納得することは出来るのだが、
「あの神様が、そんなに浅はかだとは思えないのよね」
「悪かったわね。浅はかで」
「ああ、いや、あんたを馬鹿にしてるわけじゃないんだけどさ。
何かね、おかしいのよ。知ってて流してる感じもする」
「ふぅん」
「まぁ、ともあれ、焚きつけられるところまでは焚き付ける。
そこから先はどうなるかなんて知ったことじゃない。
私は、面白い写真が撮れれば、それでいい」
「丸焦げの焼き鴉にならないように注意しなさい」
はたてが文から離れるように、ふわりと風に体をなびかせる。
「それに、あいつはあんたのこと、『いい人』って信頼してるんだから。
その信頼を裏切ったら、あんた、神罰が下るわよ」
「はいはい」
「わたしは別に何も言わない。
あんたの真意が確認できただけで充分。だからこそ、言うけどね。
わたしらは、大して頭がよくないんだから、あんまり付け火をして遊んでると大火傷するからね」
はたてが空の彼方に去っていく。
それを、手を振って見送ってから、文は地面へと舞い降りる。
「文さん、はたてさんと何を話してたのさ?」
「んー、ちょっと。二人だけの込み入った話ですよ」
「へー。色恋沙汰?」
「さあ、どうでしょう」
「河童はその辺り、興味ないからねぇ。
人里とかで見聞してみるといいかもね。結構、食いつき、いいかもよ」
にとりの冗談に、文は『わはは』と笑って返す。
笑いながら、『河童は計算だのシミュレートだのは得意でも、あんまり智慧は回らないな』と思う。
彼女たちまで文の企みに気付いていれば、文の企みはそもそも企みでも何でもない。
いつもの彼女の『思い込み』になってしまう。
「そういえば、早苗さんは?」
「ああ。何か『博麗神社さんにご挨拶に行ってきます』って出てったよ」
「えー!? どうして、それを早く教えてくれないんですか!」
「だって、文さん、ずっと空の上にいたじゃないか」
こうしちゃいられない、と文は空へと舞い上がった。
そして、一路、博麗神社に向けて全力で飛行する。自分の飛行速度なら、ここから神社までだって秒単位。一番いいシーンを逃してたまるか。彼女のその取材根性(というかデバガメ根性)を感じ取ったのか、神社の社殿から神奈子が顔を出し、飛んでいく彼女を見つめていたのだった。
「えっと……」
片手に持った菓子折り。ご挨拶ということで、きちんと身なりを整えた正装。
やってきた早苗は、目の前に佇む、古びた鳥居を見上げている。
「……掃除くらいすればいいのに」
その鳥居は、好き放題に汚れていた。
くすんでいるのは、年月を吸い込んでいるからではなく、単に掃除されていなくて表面が薄汚れているためだ。
とりあえず、鳥居の前で頭をぺこりと下げてから、石段を上がっていく。
「ここも苔むしてたり、ひび割れてたり……。古いから仕方ないのかもしれないけど」
見た目の整っていない神社には、神様のご利益はない――そう、人は考えてもおかしくない。
ここの神社の主がどのような人物かはわからないが、『博麗霊夢という人間は、常に貧困に喘いでいる』という人々の評価は、その人物の内面から出た結果なのだろうなと、早苗は思っていた。
石段を登り続けて、ようやく、神社の境内に辿り着く。
入り口に置かれた二つ目の鳥居には、さすがに掃除が行き届いている。
また、ぺこりと頭を下げて、彼女は境内の中へと入っていく。
「えっと……」
境内に、人の姿が一つ。
紅白衣装の女の子が、さっさと竹箒を使って、境内の掃除をしている。
自分よりも年下、身長も下。何となく、その後ろ姿にそれを覚えながら、彼女は少女に近寄っていく。
「あの、すみません」
少女に声をかける。
彼女は早苗を振り返ると、少しだけ、視線を細めた。
「あの、博麗霊夢さんというのは……」
「私。
あんた誰?」
「あ、すいません。申し遅れました。
わたし、東風谷早苗と申します」
「ふぅん……」
霊夢、という人物は、ぶしつけな態度で早苗の姿を頭のてっぺんから足下まで見つめた。
「何か用?」
「はい。
このたび、わたし達、幻想郷に引っ越してきまして。
それで、この世界の先達である、博麗の巫女の霊夢さんにご挨拶を……」
「いらない。帰って」
「……え?」
何か失礼なことをしただろうか、と早苗は困惑する。
「あ、あの、すいません。何か不愉快にさせるようなことがあったら……」
謝る早苗の喉元に、霊夢が手にしていた竹箒の柄が突きつけられる。
早苗は息を飲み、目を丸くした。
「あんた、何者?」
「え? あ、あの……わたし、神奈子さまという神様に仕える……」
「私と同じ巫女みたいなもんか。
じゃあ、あんたのために言ってあげる。
その『神奈子』って奴は邪神よ。とっとと離れなさい。あと、そいつがどこにいるか教えて。今すぐ、退治しに行く」
早苗はぽかんと呆けてしまう。
霊夢の言った意味がわからなかった。
いきなり、早苗が敬愛し、信仰する神である神奈子を『邪神』と言い切った。
確かに、神はあらゆる側面から見て、『邪神』といわれる場合も、ないことはない。地域や地方、人種、信仰の形態、様々あるが、ある側面では素晴らしい良神であっても、ある側面からは邪悪な神になるのが『神』というものだからだ。
しかし、だからといって、納得できるものではない。
「邪神、って……!
そんなことありません! 神奈子さまは、皆に益を与える素晴らしい神様です!
今の言葉、撤回してください!」
「私は同じことは、二度、言わない。
あんたがどんなにそれを否定しても、事実なんてものは変わらない。
信仰の深さに応じて、人の目が曇ることも知ってる。あんたはそいつに利用されている」
「違う! そんなことない!
神奈子さまは……神奈子さまは、今のわたしにとって、大切な神様です! 大切な人です!
それを馬鹿にするなんて……!」
早苗の瞳に敵意が宿る。
彼女は一歩、後ろに下がると、祓え串を取り出した。
「何よ。やろうっての」
「今の言葉を撤回しなさい。さもなければ、わたしはあなたを許さない」
「いやだね。
私はね、自分の目に自信を持ってるんだ。
あんた、騙されてるよ。このままだと、あんたはひどい目にあう」
「絶対に、そんなこと、ありえない!」
「人は自分が考えていないことを指摘されると『ありえない』って言って否定するもんなのよ。
ありえないはありえない」
早苗は相手をにらみつけ、さらに一歩、足を後ろに引いた。
そして、いきなり、その祓え串を右から左へと振るう。
巻き起こる烈風の直撃を受けて、霊夢が後ろに吹っ飛ばされる。
「……許さない。神奈子さまを愚弄する奴……!
絶対に、許さない!」
早苗の言葉は、ともすれば狂信者の言葉とも取れるような発言だった。
怒りに目をたぎらせ、祓え串を握る手が震えている。
「……ちっ。こいつ、妖怪か?」
霊夢は小さくつぶやいた。
早苗から漂ってくる気配が、尋常ではない。
少なくとも、人間が持っている気配ではなかった。彼女の知り合いには、妖怪連中が多々いるが、その手の連中が放つものと全く一緒なのだ。
「けど、雰囲気は人間だった。
……人間をやめた?」
霊夢の呟きなど聞こえない早苗が、「早く取り消しなさい!」と叫び、更なる風を叩きつけてくる。
この直撃を受けてはたまらないと、霊夢は横っ飛びに飛んで、その一撃を回避した。
烈風は物理的衝撃を伴って神社の社殿に叩きつけられ、その一角を粉砕する。
「うちの神社を壊すの、やめてよね!」
「他人が信仰する神を邪悪と断じる。それは、宗教の違いであれば、あってもおかしくない。
だけど、理由もなく、理由も話さず、他者が信仰する神をけなす理由が、人間であるあなたにあるはずがない!」
「支離滅裂もいいところね! この石頭!」
霊夢は手にした札を早苗めがけて投げつける。
早苗は祓え串を振るい、強烈な烈風を生み出して、霊夢の札の軌道をそらす。
そして、彼女の操る風はまっすぐな流れとなり、霊夢を包み込んでその動きを阻害する。
「こいつ、文みたいなことして!」
風に乗って接近してきた早苗の、至近距離からの弾丸をまともに食らって、霊夢は吹っ飛ばされる。
彼女の上空へと移動した早苗は、霊夢を中心に雨のように弾丸を降らせた後、宣言する。
「はっきりとわかりました。
博麗霊夢、他者の信仰をけなし、阻害し、傍若無人に振舞う無法者! 人でありながら神の理に楯突く身の程知らず!
あなたのような堕落したものを神の信徒と認めるわけにはいきません!
あなたは、この幻想郷にふさわしくない! この神社は、幻想郷の信仰の中心とはならない!
ならばこそ、人々の心の平穏のため、この世界の安定のため、あなたがなすべきだった役目を、わたし達がなして差し上げましょう!」
朗々と宣言し、早苗は祓え串の先端を、地面の上から彼女を見上げる霊夢に向ける。
「今、この時をもって、博麗神社は廃棄される! 幻想郷の神は唯一である!」
周囲一帯に響き渡るほどの声をもって、早苗は宣言を放ち、踵を返した。
空の彼方――妖怪の山に向かって飛んでいく彼女を見送り、霊夢は周囲を見渡す。
早苗が持って来た菓子折りが、地面の上に転がっている。
蓋は開いているものの、中の菓子は入れ物に包まれて無事だった。
それを一つずつ、霊夢は拾い集めていく。
「よーう、霊夢」
「ん」
ちょうどその時、新たな客がやってくる。
早苗が去ってから、5分後のことだ。
地面に降り立った、霊夢の悪友、霧雨魔理沙は「どうした。何か汚れてるな」と霊夢を茶化した。
霊夢は「ん!」と賽銭箱を指差す。魔理沙は肩をすくめて、ポケットから取り出した小銭を、ちゃりーんと放り投げた。
「そのお菓子、どうしたんだ?」
「ここに来た奴がね、持って来たのよ」
「そっか。
そいつは帰ったのか。帰っていきなり蓋を開けるなんて、食い意地張ってるなー」
わはは、と笑う魔理沙の口の中に、霊夢は、封を切ったお菓子をねじ込む。
むぎゅ、と悲鳴を上げた魔理沙は、もぐもぐそれを頬張って、「お、うまい」と笑顔になる。
「食べたわね?」
「おう、食べたさ。うまかった。もう一つくれ。まだあるんだし」
「そんなら、ちょっと手伝え」
「は?」
「手伝え」
「何を」
「妖怪退治」
いや、神様退治か、と霊夢はつぶやいた。
魔理沙は一度、小首をかしげるような仕草を見せた後、目を輝かせて、「神様退治か! 面白そうじゃないか!」と乗り気になる。
「目的地はどこだよ?」
「あっち」
霊夢が指差すのは、妖怪の山。
魔理沙はそれを、手をかざして眺めていたが、「へぇ」と面白そうにつぶやく。
「ありゃ天狗たちのアジトだな。
あそこに殴りこみに行くと、奴らも敵に回すことになる。面倒だな」
「別に構わないわよ。
何であれ、幻想郷の中でめちゃをしようってんだもの。ちょっとばかし、強烈なお灸を据えてやるわ」
霊夢は手元の札の枚数と、針の本数を確認する。
魔理沙はにやにや笑いながら、「おお、こえぇ」とおどけてみせた。
「それにね」
「それに?」
「お菓子を一緒に食べられなかったのが、ちょっと残念なのよ」
「……は?」
首を傾げる魔理沙に答えず、霊夢は地面を蹴って空を舞う。
慌てて、魔理沙が「おい、待てよ!」と霊夢に続く。
霊夢は手にした菓子をポケットの中へとしまった。
そうして、小さく、舌打ちする。
「……何があったらああなる? 人の癖に人じゃない。神を名乗って神じゃない。
……憑き物か」
――やれやれ、めんどくさいな。
小さく肩をすくめて、前を見る霊夢の瞳は、いつもの霊夢の瞳とは、少しだけ色が違った。
「はぁ……はぁ……!」
空を舞う早苗は、時折、ふらつきながら山へと戻ってくる。
胸をぎゅっと押さえて、額からは玉のような汗を流している。顔を苦しそうに歪めながら飛行する彼女は、ついにバランスを崩して、木立の中に突っ込んだ。
幸い、高度が低かったことで怪我こそしなかったものの、墜落の衝撃でしばらく動けなくなってしまう。
「……痛い……!」
何とか立ち上がって、自分の家へと急ぐ。
霊夢から浴びせられた言葉が、今も脳裏に響いている。
『邪神』
尊敬し、信じている神奈子をそのように罵られて、早苗は怒り狂っていた。
その言葉を撤回したとて、彼女は霊夢のことを許すことは出来ないだろう。
怒りの感情は全身を支配し、感情のままに突き動かされて、彼女は霊夢に宣戦布告を行なったのだ。
だが、その一方で、湧き上がる『怒り』以外の何かが己の体を焦がしている。
あの場で怒りに任せて力を使ってしまったせいか?
これまでの自分とは違う、明確な『敵意』を元に力を奮ってしまったせいか?
ぐわんぐわんと頭が鳴る。
苦しくて、辛くて、動けなくなる。
このまま、わたし、死んじゃうんじゃないだろうか。
そんな想いが、ふと、頭の中をよぎり、彼女は大きく深呼吸した。
瞬間、世界がぴんと張り詰めて固まった。
音が消失し、彼女の体から、あらゆる『感覚』が消え去る。
痛みも苦しみも、何も感じない。
「……?」
折っていた膝を伸ばして、彼女は立ち上がる。
彼女は周囲を見渡し、つと、その視界に人の気配を捉えた。
形をなさない、ゆらゆら揺らめく『人』の形をした何かが、早苗の前方にいる。
それは、早苗に見つかったことを察したのか、踵を返して走り去った。
自然と、早苗の足が、それを追いかけて走り出す。
「待って……!」
なぜ、自分は、あれを追いかけているのだろう。
走りながら、自問自答する。
ああいう妖怪は、此の世に存在する。ふと思い出す。人間を、人間の世界ではなく、自分たちの世界に引きずりこむべく、人が興味を示すような姿をして此の世に現れる。それを追いかけた人間は、妖怪の世界に引きずり込まれて、食われて、殺される。
わかっていても、早苗の足は止まらない。
不思議なことに、何の手入れもされていない、深い山の中を、彼女は転ぶことも躓くこともなく、まるで飛ぶように走っていく。
段々、目の前の『何か』に早苗は近づいていく。
伸ばした手が、もう少しで届く。
早苗は大きく息を吸い込んで、一歩を踏み出した。
彼女の手が『何か』に届いた。
その瞬間、早苗の体の中から、何かがざっと音を立てて抜け出ていった。
早苗に触れられたそれは、早苗の方を振り向くように体を回転させると、風に溶けて消えていく。
――つと気がつくと、彼女は己の神社に帰ってきていた。
先ほどまで、体を蝕んでいた苦痛は、全て消え去っている。
彼女は首をかしげ、辺りをきょろきょろと見回して、もう一度、首をかしげる。
「……あ」
そこで、改めて思い出す。
博麗神社でなした己の蛮行。いかに霊夢の言葉に腹を立てようとも、怒りに任せた己の愚かな行為が罪から逃れることなどない。
少しだけ自己嫌悪に陥りながら、しかし、『絶対に謝ってなんてやるもんか』と意地を張る。
まるで子供のそれだが、それだけ、早苗にとって神奈子という神は絶対なのだ。
自らが得られた、与えられた全てを捨てて、現世とのしがらみを全て捨てて幽世へとやってくるだけに値する存在なのだ。
「……ただいま」
母屋へと戻った早苗。
居間へと足を運んだ彼女の目の前に、神奈子の姿がある。
神奈子はいつものように、畳の上に座してお茶をすすっていた。
「今、帰りました」
「お帰りなさい」
神奈子はそう言うと、湯のみを置いて、早苗を見る。
その、深い、何もかもを見透かされ、飲み込まれてしまいそうな圧力に、早苗は息を止めて後ずさる。
「少し、落ち着きましたか?」
神奈子の言葉に、どくん、と早苗の中で何かが脈動する。
「あ……えっと……」
心臓の鼓動とも、また違う感覚。
それが、最初は静かにゆっくりと、段々速く、激しく。
どくんどくんと胸の中で、体の中で、魂の中で、何かが激しく震えている。
「す、すいません。
少し気分が悪いので、部屋に戻ります」
「そう。
わかりました」
神奈子は何も聞いてこなかった。
早苗は、部屋の襖を閉じて、胸を押さえながら自室へと歩いていく。
「熱い……!」
体の中に、燃え盛る炎の塊を抱えたようだった。
めらめらと燃え上がる炎が、早苗の体を焼いていく。
胸から広がるその熱は、今や体全体を覆っている。
ぼたぼたと、落ちる汗が服をぬらし、体をぬらし、まるで豪雨の中、傘も差さずに立っていたかのように、早苗の全身をぬらしていく。
「熱い……! 熱い、熱い、熱い、熱い!」
部屋に辿り着いた彼女は、部屋の窓を全て開け放つ。
それでも、体を覆う熱は取り払えない。
服を脱ぎ捨て、裸になって、窓辺に立って風を直接に浴びる。
「息が……!」
肺病を患った病人のごとく、彼女の呼吸は、浅く速く繰り返される。
酸素を体の中にうまく取り込めず、頭がぼうっとしてくる。
汗はまだ止まらず、彼女の足下に水溜りを作っていく。
何かおかしい。
自分の中で、何かがおかしくなっている。
無意識に伸ばした手が虚空を薙いで、何かがその手に触れて床へと落ちる。
こつん、という小さな音。
何とか、首だけを動かして音の源を見る。
――手鏡が落ちている。
蓋を開けたそれが、早苗の裸体を映している。
そして、その向こう。
「……!」
あの少女。
これまでに何度も見てきた、あの少女。
姿も正体もわからない彼女が鏡の中に映っている。
その瞳は早苗を見つめている。
悲しみを浮かべた瞳。眉毛はハの字に垂れ下がり、今にも泣き出しそうな顔をしている。
彼女は早苗に向かって手を伸ばした後、何かに気付いたように、その手を引っ込める。
そうして、ゆるゆると首を左右に振った。
――自分には何も出来ない。
彼女の瞳は、それを語っていた。
彼女はそれでも早苗を見つめて、口許に手をあてがって、口を動かしている。
『頑張れ、早苗! 負けるな、早苗!』
その応援の言葉に、手鏡を手に取ろうとした瞬間、鏡が木っ端微塵に砕け散った。
「いたっ……!」
砕けた鏡の破片が、早苗の手に小さな傷跡を作る。
その途端、全身の熱が引いていった。
「……あれ?」
汗などかいていない。
部屋の中は、涼しいを通り越して寒いほど。
「さーなえさんっ」
「うわわっ!?」
窓際から声がした。
驚いてすっ転び、相手の前で股を広げるという無様な姿をさらして、慌てて、彼女は顔を真っ赤に染めて脱ぎ散らかした服で体を隠す。
「どもども」
文だった。
彼女は窓の桟に肘をついて、早苗を見つめている。
「いやー、すごいことやっちゃいましたねー」
「なっ、なななな何ですか!? わたし、まだ、AVに出る年頃じゃないですよ!?」
「えぇぶい、ってのが何だかわかりませんけれど。
今、山の麓から、わいわいと大騒ぎが始まってます」
「な、何のこと……」
「霊夢さんが来たんですよ」
その言葉に、早苗の意識は覚醒する。
大急ぎで服を着込んだ後、「どういうことですか!?」と文に問いかける。
文は、『さあ』と肩をすくめた後、
「大方、早苗さんの売ったケンカを買ったってところじゃないですかね?」
「…………」
罪悪感で胸が一杯になる。
今すぐにでも、神社での振る舞いを謝りたい――だが、自分から頭を下げることなど、絶対に出来ない。
本心と感情の板ばさみになる彼女の肩を、文はぽんと叩いた。
「天狗にも、巫女の撃退命令が出ています。
私も、ちょっと、久方ぶりに行って来ますよ」
文はにやりと笑った。
「なぁに、私、強いですから。
私が霊夢さんも魔理沙さんも蹴散らしてきますから、どうかご安心を」
「あ、あの!」
背を向けて、飛んでいこうとした文に、思わず声をかけてしまう。
振り返る文。
彼女の視線を受けて、続く言葉が見つからない。
文は、『それでは!』と早苗に笑顔を向けて、飛んでいく。
早苗はしばらく、その場から動けなかった。
自分が何をするべきか。何をしたらいいのか。わからなかった。
何も出来なくても、何もすることがなくても、とりあえず、行動する。結果は後からついてくる。
それが早苗の行動原理の一つ。だから、彼女は友人に、『早苗は行動的だね。後先考えてないけど』と笑われる。
自分が正しいと信じたことは疑わず、ただひたすらまっすぐに。
そんな彼女の姿勢を、にこやかに笑うものこそいるものの、嘲笑するものは誰もいない。
その彼女が、自分に出来ることを見失っている。
何であんなことをしてしまったのか。どうして、感情に飲み込まれてしまったのか。
やってくるのは後悔ばかり。
そして、唯一、それを解決できるであろう方法にすら、己の感情ゆえに手を出すことが出来ないでいる。
――しがらみを捨て去れ
神奈子の言葉が、脳裏に思い浮かぶ。
感情に伴う迷いがしがらみだと言うのなら、己は人間である限り、決してそれを捨て去ることは出来ないだろうと、早苗は思った。
いくら神奈子に『現人神』といわれようとも、結局、自分は人間なのだ。
迷い、悩み、時に打ちひしがれて何も出来なくなる、ただの人間なのだ。
「……どうしたら……」
こんなとき、神奈子に声をかけたら、きっと彼女は何かを教えてくれるだろう。
弱い人間である彼女は、そう信じることしかできなかった。
信じ、崇め、畏れる、己よりも一段上のところにいるものにすがることしか出来なかった。
部屋を出て、神奈子のいる居間へと向かう。
襖を開けて、『神奈子さま』と声をかける。
「何ですか?」
「あの……わたし……」
「早苗」
神奈子が立ち上がった。
自分とほとんど身長など変わらないのに、まるで巨大な山が――いや、天そのものが動いたかのような威圧感を感じる。
足を下げようにも、動かない。
神奈子は早苗の前にやってくると、その瞳を覗き込んでくる。
「私は、お前に、『しがらみを捨てろ』と言いました。
お前はそれをこなした。お前は、私が望み、私が夢見て、私が信じた現人神となりました。
お前は人でありながら神なのです。
人の持つ感情に流され、神の倫理に困惑し、人にも神にも属することの出来ない神の子なのです。
ならばこそ、人にも神にも出来ぬことを、お前はなすことが出来ます。
ならばこそ、私はお前に命じます。
己の戦に打ち勝ちなさい。
己がなすべき戦から目を背け、逃げることは出来ません。
たとえ私とて、それは同じこと。私がお前に戦を強いた――その罪を、私は晴らそう」
ずしん、と辺りの空気が重くなり、続いて、ずん、という重たい音が辺りに響き渡る。
空がきしみ、大地が鳴動したのだ。
神奈子の力を受けて、その神力に世界が敬服を示したのだ。
神奈子は早苗の隣を通り過ぎて行く。
早苗はしばし、その場に立ち尽くしていたが、何かを振り払うように、何度も何度もかぶりを振った。
最後に、己の頬を両手で思い切りはたいて、神奈子の後を追いかけていく。
――神より示された、己の道を往くために。
響く爆音と閃光が、徐々にこちらに近づいてくる。
空の向こう、視界の彼方に、こちらに迫ってくる人影が見える。
その姿がはっきりと、明確に、彼女の視界に焼き記されたその時に。
「貴女の方から神おわす社にいたるとは」
「呼ばれたら来るしかないじゃない」
早苗は、両手に武器を構えて、不敵な笑みを浮かべる霊夢の前に対峙する。
その隣に浮かぶ白黒の少女は「おい、霊夢。誰だこいつ?」と首をかしげている。
「わたしは――」
彼女の手に握られた祓え串が翻る。
その動きに従って、空気がざわめき、烈風が辺りを薙ぎ払う。
「うお、何だ何だ! こいつ、文みたいな術を使うじゃないか!」
「わたしは東風谷早苗。人も神も、我を風祝と呼ぶもの!
我、人でありながら神となるもの! すなわち、現人神なり!
人でありながら神と成ったものの血族であり、その咎を背負いしもの!」
「けっ、堅苦しいね! 私はそういう堅苦しいのが嫌いなんだ!
人は自由が一番だね!」
白黒少女――魔理沙の先制攻撃が、早苗に向かっていく。
放たれたレーザーは、しかし、早苗の祓え串の一振りで軌道を捻じ曲げられ、あさっての方向に飛んでいく。
へぇ、と魔理沙は楽しそうに目を細める。
「早苗だっけ。
あんた、何したいわけ?」
「わたしが信仰する、神への信仰を高めること。もって、その神の力にて、幻想郷に平和をなし、人々に益をもたらすこと。
あなたには出来ない――出来なかったことです」
「なめられたもんね」
「事実でしょう。
あなたの元には信仰心は欠片も集まっていない。あなたは巫女の立場として、幻想郷の民に神を敬う信仰の心を喚起し、根付かせなければならないはず」
「言われてるな、霊夢。あいつの方が正しいぞ」
「うっさい」
「いてっ」
霊夢にひっぱたかれて、魔理沙は悲鳴を上げる。
そのやり取りを見ても、早苗はにこりとも笑わない。
「あなたのような堕落した巫女に神は何も与えない。あなたのように堕落した巫女では、神の触媒となることも出来ない。
人々の心から信仰は失われ、神は衰退し、滅び行く。
それは、幻想郷の破滅も意味する」
「そんな大げさなもんじゃないけどね。
まぁ、言ってることはわかってるし、伝わることも伝わるんだけどさ」
そこで、霊夢が初めて構えを取った。
「あんたに、そいつが出来るなんて、思い上がりもはなはだしい」
「人でありながら人を捨て、神と成るということの意味――その重みを、あなたは理解していない。
理解できるはずもない。
あなた程度の存在に、神なる我、敗北はあたわずっ!」
早苗を中心に、烈風の塔が築き上げられる。
風は渦を巻いて周囲を薙ぎ払い、はじけて全てを吹き飛ばす。
ちっ、と魔理沙が舌打ちをした。
「魔理沙」
「何だよ」
「先に行きなさい。多分、あいつをおかしくした犯人――今回の騒動の主犯格が、その先にいるはずよ」
「おっ、珍しい。手柄を譲るってのか」
「んなわけないでしょ。
私はあいつの目を覚まさせてから、あんたを追いかける」
風になびく髪を押さえながら、霊夢は言う。
その瞳は真剣そのもの。
よく、霊夢とじゃれて、話して、笑って、そしてケンカをする魔理沙でも、ついぞ見たことのない表情だった。
彼女はひょいと肩をすくめる。
「了解。
んじゃ、お先に失礼するか。早く来いよ! じゃないと、私が手柄を独り占めするからな!」
魔理沙が加速して、早苗の横を駆け抜けようとする。
早苗は両手を広げて、それを邪魔しようとする。何の術が展開されるかはわからないが、魔理沙の速度より、それの方が遥かに早い。
魔理沙は少しだけ顔を歪めて、それでも加速をやめずに突っ切ろうとした。
直後、早苗のそばで閃光が花開く。
霊夢の攻撃で、わずかに集中を乱されたせいで、早苗の術が不発に終わる。
その隙に、魔理沙が早苗の横を駆け抜けた。振り返り、追いすがろうとした早苗の頬を、霊夢の攻撃が掠めていく。
「私に背中を向けて、勝てると思ってんの?」
霊夢から向けられる鋭い視線。
早苗は静かに、彼女に向き直る。
「往きてその身に還れ! 紅と白の流れよ!」
早苗の放つ、無数の弾丸が霊夢の周囲を包み込み、一斉に攻撃を仕掛ける。
霊夢は一瞬だけ、周囲の状況を確認した後、両手に結界の盾を展開させながら、包囲の薄いところを突っ切った
霊夢めがけて、早苗が攻撃を放つ。
撃ち出される弾丸が、霊夢に追いすがり、その体を掠めていく。
霊夢は空中でくるりと反転し、動きを止めた後、両手の結界を放り投げて己のバリアとし、空いた両手から反撃を放つ。
飛んでくる札は空中で無限に軌道を変えて、複雑な動きをしながら早苗へと迫ってくる。
派手に煌く光跡に、早苗の目が乱される。それを狙って、無数の針が一直線に早苗を狙う。
早苗はまず、手にした祓え串を振るった。
その先端に触れて、霊夢の札が撃墜される。
続けて飛んでくる針を、彼女は下から上へと噴き上げる突風で吹き飛ばす。
「はっ」
短い息と共に放つ、鋭い青の閃光。
霊夢の肩を掠めたそれに、霊夢はわずかに表情を変える。
「……この子……」
続けて早苗は、四方八方に、同じように青い閃光を展開して霊夢を狙う。
降り注ぐそれを軽々回避する霊夢だが、それを狙って、早苗は風を巻き起こす。
「っ!」
風に乗って弾丸は軌道を変え、霊夢をめがけて飛んでくる。
「やってくれる!」
自由に操られ、不規則に動きを変える弾丸は、さすがの霊夢でもよけきれない。
彼女は反転して弾丸を視界に収めると、左手から赤く輝く札を放った。
その札は空中で青の弾丸を撃ち落とし、爆裂して閃光を残す。その爆風が、残りの弾丸の、およそ半数を消滅させる。
閃光の中を突き抜けた青の弾丸は、一旦、霊夢の前で拡散すると、方位と角度を変えて降り注ぐ。
同時に、早苗が、己の体を風で押し流し、霊夢に向かって接近してくる。
霊夢は一旦、動きを止めた後、自分の全周囲を覆う結界を展開した。
弾丸が結界に突き刺さり、炸裂する。直後、早苗の振り下ろした一撃が、霊夢の結界を激しく揺らす。
衝撃に、わずかに霊夢は歯を食いしばり、表情を堅くする。
早苗を弾き飛ばすために、彼女は目を見開き、鋭く声を叫ぶ。
結界が弾け、衝撃波となって、早苗を吹き飛ばした。
霊夢は、体勢を崩したままの彼女めがけて針を放つ。しかし、その反撃も回避も不可能な態勢にあってなお、早苗にその攻撃は当たらない。
「……あれは」
正確には、霊夢の放つ攻撃は早苗に命中している。
だが、早苗の体から放たれる『何か』がそれを打ち払っているのだ。
早苗は、彼女自身は、恐らくそれに気付いていないのだろう。
彼女は姿勢を整えると、霊夢を見据える。
「この幻想郷にはルールが存在すると聞いています。
あらゆる物事、あらゆる争い、あらゆる諍いにおいて、それは絶対であり、敗北したものは勝者に対して反論をすることを許されないルール!」
彼女は服の袖から、一枚のカードを取り出す。
「そのルールに則って、あなたが敗北したのなら、あなたはわたしのすることに口出しは出来ない!
そして、あなたは、わたしのすることを自ずと認めるしかない!
それがこの世界の理であるならば!」
――秘術「グレイソーマタージ」――
「へぇ……。スペルカードまで知ってるのか。誰に仕込まれたか知らないけど」
早苗を中心に展開されるのは、青と赤の弾丸。
一旦、彼女を中心に置いて形を成したそれは、五つの頂点を持つ星の形を保っている。
霊夢が眉をひそめた次の瞬間、星は砕けて流星となり、一斉に、霊夢めがけて突っ込んでくる。
「ちっ」
その速度は大したことはない。
だが、狙いは非常に正確。
逃げたところを狙って、流星が的確に突っ込んでくる。
魔理沙の放つ星屑のように、途中でねじれたり曲がったりしないだけ、まだ他人に優しいと言えるが、
「はっ!」
とにかく、狙いが精密すぎた。
針の穴を通すように、霊夢の一瞬の隙を的確に突いてくる。
飛んでくるそれを手にした祓え串で打ち払い、構えた結界で受け止める。
激しい衝撃と振動に体が揺らされ、両手に苦痛が刻まれる。
「この!」
相手の攻撃の合間に反撃を放つ。
飛ぶ札も針も、早苗は防御手段を完璧に備えている。
文の操る風よりも、それは稚拙で程度も低いが、その分、文のそれより柔軟性に長けている。
風は瞬間、強さを増して霊夢の弾丸を吹き散らす。その風の結界に逆らって、相手に飛んでいくほどの威力は、それにはない。
「やってくれんじゃない! 新参の人間に古参が負けてたまるかっての!」
斜め前方から飛んできた赤の流星を、体を回転させて回避する。
その瞬間を狙って突っ込んでくる青の流星。その星の尾に、彼女は手を当てる。
「よけられないなら流してやるだけよ!」
尾の肌を、霊夢の手が流れていく。
彼女の掌に集中された力が簡易ながら分厚い結界となり、尾から放たれる力を押さえ込み、さながらサーフィンのように、霊夢の体を案内してくれる。
流星が通り過ぎた後、霊夢は体を反転させて、早苗めがけて反撃を放つ。
早苗は軽く身をそらす程度でそれをよけると、続く相手の反撃を断ち切るために、自らもその手を振るって攻撃を放つ。
風の流れになぶられて、霊夢は姿勢を崩される。
そこに、赤と青の流星が突撃してくる。
「当たるか、ばーか!」
だが、狙いが正確すぎるゆえの弱点が、そこにある。
攻撃の瞬間、狙い定めた座標から、わずかでも対象が動けば、流星は狙いを見失ってあさっての方向へと飛んでいく。
霊夢は腕を、足を、大きくがばっと広げた。それで生まれた空間を、流星が貫いていく。
星の熱に体を焼かれて、痛みに顔をしかめるものの、ダメージはそれだけ。
「それ!」
霊夢の放つ針が、真正面から早苗に向かっていく。
早苗の放つ風が、再び、針を薙ぎ払って破壊する。
しかし、それが霊夢の狙い。
空中に散った針の欠片が、日の光を浴びて煌いている。霊夢はそれを見逃さず、両手で印を結び、「界をなせ!」と叫ぶ。
「!?」
空中で、光が煌き線をなし、無数の形をなして、早苗を結界の檻の中へと封じ込めた。
「弾けろ!」
結界は一瞬で形を狭め、急速に収縮した後、身を堅くした早苗に触れて爆裂する。
轟音と共に炎が彼女の姿を覆い隠す。
早苗の側で舞っていた、彼女の力を示すカードが力を失い、ひらひらと、地面に向かって舞い落ちていく。
「結界術の先輩、なめんなよ」
「――そうですね」
「!?」
頭上から、声が響いた。
振り仰ぐ暇すらなく、霊夢の肩に、重たい衝撃が走る。
ぐらりと傾く彼女。
顔を上げると、そこに、早苗の姿。
早苗は、服が破れ、その下の肌に黒い火傷を作っているが、五体満足、無事である。
「爆風を利用して、衝撃の中心からは逃げた、ってわけね……」
「爆風も、風は風ですから」
だけど、痛かった、と彼女は言う。
さらに反撃。霊夢の肩に残っていた衝撃が爆発し、彼女の体を回転させながら吹っ飛ばす。
霊夢は木立に叩きつけられ、痛みでしばらく、動けなくなる。
その彼女を木立に貼り付けようと、早苗の放つ線上の光が霊夢に迫る。
「百舌の早贄は勘弁してちょうだい!」
木の表面を回るように、木の裏に逃げ込んだ霊夢のそれまでいた場所に、閃光が突き刺さった。
「いったたた……」
早苗の攻撃が命中した左肩を見る。
赤い血が浮かび、深く、肉が抉られている。
もう少し威力が高ければ、霊夢の左腕が根元から吹っ飛んでいただろう。
早苗の手加減か、それとも、操れてこのレベルの威力の術だったのか。
何にせよ、助かった。霊夢は服の袖を破ると、止血帯代わりにそれを肩に巻きつけて、早苗を見上げる。
早苗は、霊夢がまだ戦えるのを見て取ると、次のカードを取り出し、宣言する。
――奇跡「白昼の客星」――
「……光?」
掲げた彼女の払え串の先端に光が宿る。
それはまるで、太陽のように明るく、空の青を圧して光り輝く。
その見事な輝きに、霊夢が目を奪われた瞬間、閃光ははじけて辺りを白で覆い尽くした。
やられた、と霊夢は舌打ちする。
閃光の圧倒的光量が、彼女の目を焼いていた。完全に視界を奪われた霊夢めがけて、集った光が形をなした弾丸が降り注ぐ。
「ああ、もう!」
両手に結界の盾を構え、弾丸が飛んできていると思われる方向に向けて盾を造りながら、彼女は立ち並ぶ木立の中に逃げ込んでいく。
「まずい、まずい、まずい!」
左手の結界の盾を前にかざし、木にぶつからないよう、目印と己の『感覚』としながら木立の間を縫って飛んでいく。
頭上からは、連続して破砕音が響き渡る。そして後方からは、巨大な爆発音。
霊夢を上空から追い立てる、早苗の強烈な弾丸の嵐。
霊夢はそれを必死でよけながら飛んでいき、
「あいてっ!」
がん、と何かにぶつかってしまう。
ぺたぺたと、目の前のものに触れる。壁だ。恐らく、崖か何かだろう。
「やばい!」
即座に、その壁面に沿って上空に移動する。
一瞬遅れて、早苗の攻撃が、それまで霊夢がいた場所に直撃して轟音を立てる。
壁面に沿って移動する霊夢の足下から、爆音が接近してくる。
彼女は一旦、反転して、爆音の中へと突っ込んでいく。
その切り返しについていけず、早苗は一瞬の戸惑いを見せた。
おかげで、霊夢は相手の攻撃にさらされることなく、再び、木立の中へ逃げ込むことに成功する。
「くそ……前が見えない……」
まだ、視力は回復しない。
瞳を開けても、辺りはうすぼんやりとにじんでいる。
このままでは戦えない。
彼女は大人しく、近くの木の根元に着地して、周囲に結界を張った。
「何とか……」
結界によって気配を絶ち、木の根元に隠れることで、早苗の視界から逃れる。
情けない話だが、このような戦えない状況で相手の前に出てはやられるだけだ。逃げて隠れるのも、また戦術である。
一方の早苗は、深い木立の中に霊夢の姿を見失っている。
彼女が動きを切り返して木の中へと逃げていって、そこでぷつっと気配が途切れた。
あの特徴的な赤と白の衣装が見当たらない。
「……隠れたか」
つぶやくと、彼女は両手で印を結び、自らも結界を構築していく。
流れる風の動き、微細な世界の息遣いを感じるべく、目を閉じ、耳を塞いで、感覚のみに全てをゆだねる。
広がる『彼女』自身の存在。
それが、辺りを包み込み、霊夢の姿を探していく。
「……いた」
にやりと、彼女の口許に笑みが浮かぶ。
霊夢の姿を、木々の中でもひときわ太い木の根元に確認した彼女は、力を操り、相手を包囲するように弾丸を構築していく。
そして、弾丸の結界を作り上げた後、それを一斉に、霊夢にめがけて降り注がせる。
弾丸は大地を穿ち、木々をへし折り、霊夢の周囲を徹底的に破壊しつくした。
とどめに、霊夢の頭上から、巨大な光の弾丸が降り注ぎ、大地に突き刺さる。
「……さて」
彼女の激しい弾幕にさらされた一角は、見るも無惨に破壊されている。
樹齢数百年には達していたであろう木も根元からへし折られ、粉々になって、地面に還った。
残るは霊夢なのだが、巻き起こった粉塵が、早苗の視界を遮っている。
彼女は油断することなく、風を操り、それを吹き散らす。
「……やはり、いない」
霊夢の姿はどこにもない。
早苗の攻撃を察して逃げたのだろう。
問題は、どこに逃げたかだ。
「まだ視力は回復してないはず……。
逃げるなら……」
彼女の気配が、再び、拡大していく。
自分自身をレーダーとして、辺りを仔細に、暗闇の影すら見落とさず、探していく。
「……いない?」
しかし、どこにも霊夢の姿は確認できない。
彼女はレーダーを解除する。
自分を中心に、およそ半径100メートル程度は探したのだが、どこにも霊夢の姿はない。
――まさか、逃げた?
あれだけ大口を叩いておいて、霊夢が敵前逃亡するとは、とても思えない。
ならば、どこに隠れているというのか。
早苗の感覚から逃れるためには、それこそ、地面の中に潜るくらいしか方法はない。
だが、霊夢は人間だ。もぐらやアナグマなどではない。地面に潜ることなど出来はしない。
「……結界……」
そうつぶやいた早苗は、『そうか』と何かに気付いたらしい。
彼女は何もない虚空にめがけて、五枚の札を投げつけた。
札は五つの星をかたどった光をなし、その中心に歪みを作る。
早苗は、その歪みの中めがけて、弾丸を放つ。
輝く光が歪みの中に吸い込まれ、直後、霊夢の姿がその場に吐き出された。
「よく気付いたわね!」
霊夢の目が開いている。
早苗が迷い、行動を止めていた間に、彼女が受けたダメージは回復していたのだ。
結界。それは、界を操り、此の世にもう一つの『此の世』を生み出す技術。
界の向こうに隠れれば、それはもはや、此の世から認識できない『彼の世』の存在となる。
早苗の攻撃は、その『彼の世』へと飛び込み、そこに隠れていた霊夢をいぶりだしたのだ。
「伊達に、わたしだって、結界を操る力を持っていません!」
飛び出してきた霊夢は、すでに攻撃の態勢を整えている。
彼女が右手に構えた光の弾丸は、早苗に向かって解き放たれる。
それを、早苗は風で押し流そうとするのだが、その風の結界を、霊夢の攻撃は突き崩して進んでくる。
ちっ、と早苗は舌打ちした。
その攻撃を回避し、早苗は、光の力でもって霊夢を押し返そうとする。
弾け、展開される弾幕に、霊夢は結界の盾をもって当たり、受け止め、よけながら、早苗から距離をとる。
直後、霊夢の放った弾丸が、この世界から消失した。
早苗の瞳がそれを捉える。彼女の視線が霊夢に向けられる。
「結界術の先輩をなめるなって言ったでしょ!」
言葉に言い表せない振動と衝撃が、早苗を包み込む。
結界を飛び越え、『彼の世』の存在となった霊夢の弾丸が、その『彼の世』で弾けたのだ。
その力の余波は彼の世の結界を飛び越え、『此の世』に姿を顕現させる。
目に見えない余波ではあるが、それでも、それは確実に『此の世』をゆるがせる。
そして、界は崩れて形を失い、界に閉じられていた『彼の世』が『此の世』と融合する。
「くっ!」
霊夢の放った弾丸の力の残滓が一斉に解き放たれ、早苗の周囲を弾丸で埋め尽くした。
早苗はそれを迎撃していくのだが、相手の弾幕が濃すぎてどうしようも出来ない。
結界を維持する方に力を傾け、結果的に、スペルカードに割く力を失ってしまう。
力の供給を絶たれたスペルカードは形を失い、消滅する。
「やってくれますね」
霊夢の反撃に、早苗は歯噛みする。
確実に途中までこちらが押していても、それを受け止め、受け流し、そして押し返してくる。
それが博麗の巫女の戦い方なのか、と彼女は看破する。
「あんた、早苗とかいったっけ!?」
霊夢の鋭い針が飛ぶ。
早苗はそれを見切って祓え串で叩き落すと、「それが何か!?」と返す。
「何で幻想郷なんかにやってきた!?」
撃ち出される弾丸。
それを、早苗は祓え串で受け止め、迫り来る圧力に歯を食いしばる。
「外の世界から、何でわざわざ、この世界にやってきた!?」
「外の世界には、神への信仰が存在しないからです!」
ばしっ、という衝撃。
何とか相手の力を中和することには成功したが、もれる力の残滓は抑えきれない。
衝撃に振り回される彼女。
「だから、この世界に逃げ込んできたってことか!」
「そうです!」
早苗は、その言葉を肯定する。
神奈子が、それを己で口にしているからだ。
神奈子がもしも『逃げるのではなく、ただ新天地を求めるだけだ』と言っていたら、早苗は霊夢の言葉を否定していただろう。
言い訳だろうと何だろうと、早苗にとって、神奈子の言葉は、神から下される『御言葉』なのだ。
「この世界で神奈子さまは信仰を広め、多くの信徒を集め、そしてかつての強い神へと返り咲く!
この世界に神奈子さまの神力でもって多くの益をなし、幻想郷の人々に、神の偉業を見せつけ、幻想郷の人々に、神の恩恵を分け与える!
何の不都合がありますか!」
「自惚れるな!」
反撃に、早苗が放つ弾丸を、霊夢は手にした札で撃墜した。
爆発と共に炎と煙が巻き起こり、二人の間に壁を作り出す。
「そんなこと、こっちは求めてない! あんた達のそれはね、親切の押し売りっていう、一番厄介な行為よ!
自分たちの力なら、この世界の人々を幸せに出来る!? 図に乗るな!」
「人がそう言うのなら、あなたの言葉にも意義は在る!
だが、これは神の言葉! 神は人より上に立ち、人より上に立つからこそ、上から下へと御心は下る!」
「ああ、そう!
だったら、それを外の世界でやるべきだったわね!
この世界じゃね、神も人も妖怪も、みんな平等、横並び! どいつもこいつも人間くさい! どいつもこいつも人間じゃない!
人間のくせして人間じゃない! みんな、幻想の産物だからね!」
煙を突っ切って、霊夢が早苗に迫る。
彼女の右手に、いつの間にか鋭い剣が握られている。
それが、早苗の構える祓え串とぶつかり合い、甲高い音を立てる。
「あんた達は望んで現実から幻想に変わった! 幻想の中じゃ、幻想は皆、同じ幻想となる!
それを維持するのが、私の仕事だっ!」
相手の払う剣に、早苗の手から祓え串が吹き飛ばされた。
続く霊夢の斬撃を、早苗は後ろに下がって回避する。
「故に私は人にも妖にも与しない!
どちらも同じ存在なら、どちらも維持するのが、私の道理!
それを乱そうとする奴を懲らしめるのが、私の二つ目の仕事っ!」
目の前に迫る斬撃。
早苗は意を決して、振り下ろされたそれを、左の掌で受け止める。
彼女の掌には、札が握られている。札が何枚も積層し、盾になっている。
「くっ……!」
圧力と刃の鋭さが、彼女の盾を切り裂いている。
しかし、その刃は止まっている。
早苗は霊夢の剣を握り締める。伝わる強烈な熱に、彼女は顔をしかめる。
「あんた達は、ただそれを乱すだけの奴に過ぎない! だから、私は、あんた達を懲らしめるっ!」
「あなたのその理屈は……!
あなたのその理屈は、わたし達には通じないっ!」
相手の剣を握り締めて、相手の動きを封じる。
早苗は霊夢に己を突きつける。
「わたし達は、人に益なす神! 人に益なすものであるから、此の世の理を乱すというならば、人は、幸せになっちゃいけないんですか!?」
振り上げた拳が、霊夢の胸元を貫く。
霊夢は顔をしかめながら、彼女の手を握り締めると、
「んなもん、幸せになりたいに決まってんでしょうが!」
叫び、そのまま、彼女を投げ飛ばした。
二人の距離が一旦離れる。
少しだけ、二人は乱れた呼吸を整えながら、相手を見据える。
「あんたは……幸せになりたいの?」
「……なりたいです」
ぽつりとつぶやく。
相手の問いかけに、否定する要素など何もない。
早苗は拳を握りこむ。
「幸せになりたいです……。毎日、楽しく、笑って過ごしたい!
わたしは、そのために、全部を向こうに置いてきた……! 全部を忘れられて、置いてきたんです!」
展開される弾丸の嵐が、霊夢へと襲い掛かる。
霊夢は一旦、身を固くした後、すぐに行動を開始する。
弾丸の途切れた隙間を狙ってその中を駆け抜け、早苗へと接近する。
霊夢の接近を察した早苗は、霊夢との距離が詰まった瞬間、下から上に噴き上げる風を放つ。
風に煽られる形で、霊夢が上空に吹っ飛ばされる。
だが、それこそが霊夢の狙い。
一気に相手の弾丸の雨を切り抜けた彼女は、早苗の頭上で風の流れを抜け出すと、反撃に札の嵐を放ってくる。
その札は、早苗のすぐ側で炸裂し、赤い閃光を残していく。
早苗を追い詰め、恐怖させるための、見せ掛けの弾幕。
「わたしはみんなに忘れられた……! みんな、わたしを忘れてしまった!
友達も! 家族も! みんな、みんな!
だから、わたしはこっちの世界に来られたんです! 生きながらにして幻想となり、人でありながら神となったことで!
わたしは、もう、元の世界の『わたし』とは違う!」
霊夢の放つ赤い札が、早苗の視界一杯に広がる。
彼女はそれを両手で受け止める。
その瞬間に、霊夢が攻撃を放ってくることはわかっていた。予想通りの相手の攻撃に、彼女は歯を食いしばり、両足で空の上を踏みしめて、耐える。
「全てのしがらみを捨てる覚悟もないくせにっ! そのくせに、何が『幻想郷の巫女』よっ!」
相手の攻撃の流れに逆らわず、体を回転させて、その流れを利用して、投げ返す。
ハンマー投げの要領に近いその反撃に、霊夢はわずかに目を見開いた後、飛んでくる己の攻撃を結界の盾で受け止める。
早苗の攻撃がそれに続き、霊夢の結界を揺らしていく。
霊夢は、叫ぶ。
「だったら、何で、『いやだ』って言わなかった!」
霊夢の姿が消えた。
早苗は目を見張り、慌てて辺りを見渡す。
霊夢の姿が見えた――その刹那、わき腹に鈍い衝撃が走る。
空間を飛び越えて、早苗へと接近した霊夢の、鋭い拳が彼女のわき腹に突き刺さっていた。
続く、霊夢の張り手。その手には札が握られており、早苗の体に触れるなり、爆発して、早苗を吹き飛ばす。
「だったら『いやだ』って言えばよかっただろ! 何でついてきた!?
この世界は、あんたの求める、あんたの『幸せ』があるかどうかわからないんだろ!? それをわかっていたのに!
なのに、どうしてついてきた!
今までのしがらみを全て捨てた!? 嘘つけ! それに囚われてるくせに!
それに、目を曇らされてるくせに!」
早苗は、打撃によって受けたダメージに何度も何度も咳き込み、苦しみを浮かべた顔で霊夢をにらむ。
「自分は神の子だとか、神奈子さまは絶対だ、とかそんなのどうだっていいんだよ!
あんたはあんただ! あんたのしたいこと、やらなきゃいけないこと、あんたの抱えてること、あんたの想い! 他の誰があんたを否定したって、それはあんたに変わりない!
本当に、今、私の前にいる『東風谷早苗』はあんたなのか!? あんた自身が顕現した器なのか!?
違うだろ!」
「黙れっ!」
声を裏返して、早苗は絶叫する。
彼女は痛みを無理やり体の内側に押し込めて、両手で印を結ぶ。
「お前に何がわかる!? わたしの考え……わたしの覚悟……わたしの決意っ!
全てを捨てなければこの世界に来られなかった、わたしのことを!
お前に……お前にっ!」
――準備「神風を喚ぶ星の儀式」――
『お前に、何がわかるってんだっ!』
「……来たか」
怒りと悲しみ、嘆き、絶望、およそ人が考えうる全てのマイナスの感情を顔に浮かべて、早苗は己の次なる手を宣言する。
彼女に向かって、周囲の風が収束していく。
それと共に、彼女の中の『彼女』が高まっていく。
東風谷早苗の器を壊してしまいそうなくらいに高まった、『彼女』の力が外に向かって爆裂し、弾丸ともいえない光の欠片となって霊夢に吹き付ける。
「あんたはね、早苗! 何にも、しがらみを断ち切れてない!
あんたが断ち切ったのは、本来、あんたが残しておかなきゃいけない記憶と過去だっ!
それを忘れちゃいけないのに、どうして忘れようとした!? 忘れてしまった!」
噴出し、叩きつけられる攻撃。
もはや形を成すことの出来ない、早苗の力。
それを必死によけながら、霊夢は彼女へと接近していく。
早苗は霊夢の接近を感知すると、霊夢から距離をとるように動き、己の力を、ただ無闇やたらにばら撒き、激しい攻撃を放ってくる。
「いけっ!」
4枚の札を一枚にまとめ、一抱えくらいの赤の弾丸を生み出して、霊夢は早苗めがけてそれを放つ。
その攻撃は早苗の攻撃を蹴散らしながら彼女に向かって接近し、早苗の肩口に命中する。
その程度の攻撃ではダメージを受けない『結界』を纏った早苗は霊夢へと接近する。
『わたしはこの世界で生きていく! 人を捨て、神の存在となって!
それが、わたしが仕える神が望んだわたしの姿! 覚悟を決め、決意をした、わたしのあるべき姿!
ならば、わたしは今の己を受け入れる! そうなることを避けられぬのなら、それを受け止め、受け入れて、己のものとする!
それが現人神たる、わたしの真実の姿なんだっ!』
「違うっ! 人でありながら神と成ることを望むのなら、人を捨てることとは違うっ!
無様なくらいに、人であることに拘泥することだっ!」
迫る早苗に自ら接近し、彼女と真正面から組み合う。
叩きつけてくる、強烈な衝撃と『気配』。
前方に結界を張り、組み合う両手を結界の盾で覆っていなければ、接近した時点で霊夢の顔と手が吹っ飛んでいてもおかしくないほどの力だった。
「あんたの神が何と言おうと! あんたの神が、たとえあんたに失望しようと!
あんたは人を捨てるべきじゃなかった! ずっと人のままでいるべきだった!
どうして捨てたのよ! どうして、人であった自分を忘れようとしているの! どうして!
あんた、おかしいと思わなかったの!? 後悔を残して旅立つ自分を! 笑顔で『行って来ます』って言えなかった自分を!
あんたはおかしいと思わなかったのか!?」
ばちばちと、二人が組んだ両手の間に火花が散る。
断続的に続く激痛をこらえながら、霊夢は早苗に向かって声を上げる。
「その苦しみから、あんたの神は、あんたを救ってくれない神なのか!」
ばきんと、何かが割れる音がした。
早苗の左手から力が抜け、霊夢の力が押し勝る。
そのまま、霊夢の右手が早苗の肩を掴み、相手を放り投げた。
早苗は空中で体勢を整えると、霊夢めがけて弾丸の雨で反撃してくる。
霊夢は祓え串を構えると、己を中心に無限の結界の陣を形成する。
一枚目の結界が相手の弾丸を全て弾き、二枚目の結界が相手の平面の次元を束縛し、三枚目の結界が相手の立体の次元を拘束する。そして、続く四枚目の結界が、相手の存在そのものを固めると、早苗を中心に無限の陣が展開されて、炸裂する。
早苗の悲鳴が響き渡る。
結界から与えられた、無数の界からなる無限の力。
いつまでも続く衝撃と激痛に、彼女は呻き、体をよじり、それでも、耐える。
『ワたシは逃げナい!』
早苗の声が、変わった。
それまでに響いていた少女の声に混じって、何か、別の『モノ』の気配が現れる。
霊夢は顔を鋭いものに変えて、つぶやく。
「出たな……化け物……!」
彼女の口許に、小さな笑み。
『ようやく引きずり出してやったぞ』
霊夢の顔は、それを語っている。そして、同時に、鋭く引き締められる。
その瞳に浮かぶのは、すさまじいまでの怒り。
『神奈子サまは仰っタ! わタシが、この戦イで、さらナル成長を遂げラれルと!
ヒトならずカみとしテ! 神あルベキ人とシて!
ワタしはモッとツヨクなる! もっと、モット! もっト強くなっテミせる!』
早苗の瞳が変化し、爬虫類のそれを思わせる形となる。
鋭く光るその瞳で、彼女は霊夢を見据える。
全身を拘束する、霊夢の結界を力ずくで破ろうとする。彼女の力に押し負けて、霊夢の結界がぎしぎしとうなり始める。
『神奈子サまは、わたシをこコまで育てテくダサった!
たくさンの知識を、智慧を、力ヲ与えてクださった! わたしハ神奈子さマの恩義に報いルため、こノ身、この心、コの命を神に捧ゲテみせル!
そレがわタシの覚悟! わタしの決意!
それヲ……!』
「そこに、本当に、あんたの意思はあったのか?」
霊夢の小さな問いかけ。
早苗の叫びが、そこで一瞬、止まる。
彼女は何かを思い出すように、思い返すように、言葉を、意識を、止めてしまった。
必死に悩んで、苦悩して、迷いに迷って、辛い想いをして。
それを断ち切るべく、今の世に楽しさを、嬉しさを、希望を持つために過ごしてきた日々。
その全てが去来した瞬間、彼女の思考は弾けて凍りつく。
――どうして、今、こうなっている?
それは、己が望んだから。
――本当に、それを己が望んだのか?
これは神奈子さまのため。一人、孤独に、しかし気高く生きてきた神のため。
――神に命じられたから従うのか?
違う。これは私の意思。わたしは、命じられたから従ったのではない。与えられた恩義に、神の益に報いるために。
――何を与えられた?
力。智慧。経験。過去。未来。
――その代償として、『現在』を捨てたのに?
……それは……。
「早苗。私は巫女だ。
確かに、あんたから見れば、だらだらしててどうしようもないくらいにダメな巫女かもしれない。
紫にだって……ああ、紫ってのは、私の後見人を勝手に名乗ってるおせっかいな妖怪で、私よりも、ずっと強い結界使いの妖怪でね……あいつにだって、よく言われる。
『貴女は、歴代博麗の巫女で、一番の出来損ない』って。
だけど……そんな私でも、ほら、巫女としての仕事をしてる。満足に出来てると思ってる。
そして実際に、たくさんの異変を解決してきた。あんたは知らないだろうけどさ。
だから、私は、今回の異変も解決してみせる」
彼女は大きく息を吸い込み、構えを取る。
「あんたに取り付いてる、その憑き物、私が祓ってみせる!」
なぜ、この人は、初めて会う他人に、これほどまでに入れ込んでくるのか。
その体を傷つけられたとしても、なぜ、引かないのか。
この人は、どうして……。
「ちっ……」
霊夢は舌打ちする。
結界の軋みが限界に達している。そろそろ、この結界も限界だろう。
そして、それが弾けてしまえば、いよいよ早苗を押さえつけておくことが出来なくなる。
あの荒ぶる神を鎮められるか?
古来、神は一度暴れだすと、誰の手にも負えなかった。
同じくらいか、それより高位の神が重たい腰を上げて討伐に来なければ、どうすることも出来なかった。
人の身では、何も出来なかった。
だが、やるしかない。
「やってやるわよ。
博麗の巫女、なめんじゃないわよ!」
彼女は啖呵を切ると、自ら、早苗を束縛する結界を解除する。
風がうなる。
集中していく風が結界をなし、無数の界を築き上げ、その向こうに、『早苗』という存在を確定させる。
「神様の一人や二人、ぶちのめしてやる!
そこのお前! その子はお前のものじゃない! その子の体は、心は、魂は、意之霊はその子のものだ!
取り返してやるから覚悟しろ!」
名指しされた『神』は、霊夢を見据えて咆哮する。
それは果たして神なのか。
もはや、その存在すらわからない。
人が神となったものを神と呼ぶなら、それは『神』なのだろう。
だが、神は神として誰かに認めてもらえなくば神となることは出来ない。
出来損ないの『神もどき』。
それが今、早苗の体と心を贄に、此の世に顕現する。
響き渡る、『神』の声。
早苗を覆って内に捉えた『神もどき』の姿。
――奇跡「神の風」――
「神を名乗るか、この野郎!」
霊夢の怒りが響き渡る。
早苗を中心に展開され、吐き出される、猛烈な烈風。
それはもはや風ではなく、物理的な攻撃力を持った『弾丸』だった。
目に見えない、弾丸の嵐。
その力は辺りの空を切り裂き、木々を薙ぎ払い、大地を丸ごと巻き上げる。
「くそっ!」
結界の盾を展開して攻撃を避けつつ、霊夢は反撃を放つ。
しかし、放たれる全ての攻撃が、早苗を中心に渦巻く界に飲み込まれて、粉々に粉砕される。
「魔理沙みたいな攻撃が使えたら楽だったかもね」
実体弾ではなく、エネルギーのみで構成される攻撃であれば、あの界を突き抜けることも、もしかしたら可能かもしれない。
だが、ないものねだりはみっともない。
自分に出来る範囲で、出来ることをやるしかない。
何せ、宣言したのだ。
自分が彼女を助けてみせると。
「この似非神! その子を離せ!」
放つ弾丸は、全て、風によって吹き散らされる。
とにかく、霊夢の攻撃には威力が足りない。
直線を突き進む推力が、勢いが、全く足りないのだ。
彼女自身が搦め手の攻撃を好むというのもあるが、こういう状況に陥ると、魔理沙のような直線の強さが羨ましくなってくる。
「ちっ!」
相手から放たれる弾丸は、的確に霊夢にめがけて飛んでくる。
かと思えば、こちらが必要以上の回避を出来ないように、その動きを制限してくるおまけつきだ。
あの『神』に己の意思があるかどうかはわからないが、あくまで相手は、この世界のルールに則って霊夢を倒そうとしているらしい。
律儀なのかいい加減なのか。いまいちわからない相手だ。
「それでも、私が今まで戦ってきた連中の中で、一番、胸くその悪い相手だけどね」
霊夢は相手に接近しようとする。
だが、相手は鋭い風を巻き起こして風の壁を生み出し、霊夢の接近を阻む。
妖怪の山の大瀑布にすら匹敵する、分厚い風の流れを乗り越えることは出来ない。
接近を阻まれた彼女は、一旦、切り返して相手から距離をとる。
「早苗! 聞こえてる!?
あんたの中の神様、今、何て言ってる!?」
霊夢の声は、果たして、早苗に届くのか。
己に宿った『神』に完全に体を乗っ取られ、ただ、『神』の力と言葉を此の世に顕現するだけの触媒と成り下がった彼女に、『人』としての意思があるのかどうか。
わからないが、訴えかけるしかない。
「そいつを何て言ってる!? 悪党!? 屑野郎!?
何でもいいよ! そいつが悪い奴だって言ってくれれば、もっと本気でぶつかれる!」
彼女の周囲に、淡く輝く無数の弾丸が生まれる。
霊夢の指の動き、腕の動きに従って飛翔するそれが、『早苗』の張った風の結界にぶつかり、爆裂する。
風はうねり、ねじれ、破壊される。
だが、その流れを止めることは出来ない。
一度、空いた穴はすぐに修復され、結果として、元通り。ダメージなんて与えられない。
「夢想封印でもダメか……。どうするかな……」
よけられない弾幕は禁止というルールを明言したが、『当てられない状況』を禁止するとは明言していない。
この状況下で、あれにダメージを与えるには、結界を乗り越えるしかない。
しかし、結界は、此の世に界をなして別の世界を作り出す技術。
結界使いの使う結界は、結界使いにしか破れない。
「仕方ない」
霊夢は右手に札を取り出した。
その札は互いに寄り集まり、硬化し、鋭く先端を尖らせていく。
「こいつでぶち抜く!」
彼女はそれを――札で作り出された剣を握り締めると、『早苗』に向かって突進する。
「うわたっ!?」
飛んでくる風は、形を変えて、鋭い鎌鼬となった。
それに触れたらしい右足が、肉がばっくりと切り裂かれ、血が遅れて噴出してくる。
血が出てくる少し前には、彼女の足の骨すら見えた。あんなものが直撃すれば、そうと気付くことなく真っ二つだ。
「結界を固めないとやばい!」
全身を覆う結界を生み出して、改めて、『早苗』に向かって突撃する。
接近すればするほど、風が強くなる。
そのうねりに流されまいと、必死に歯を食いしばって、結界を維持しながら接近していく。
「早苗! 聞こえてる!? 聞こえてないなら、私が適当に言ってるだけだから、空耳として聞き流しておいて!
お菓子、ありがとう! しばらく、甘いもの食べてなかったから、すごく嬉しいわ!
これが終わったら、一緒にお菓子、食べよう! 紫がねー、うるさいのよ! 他人から頂いたものを独り占めするなんて、あなたはなんて意地汚いのかしら、って!
だから、くれた人と一緒に食べないとさー、あいつがうるさいの! わかったー!?」
腕を伸ばし、それが風に触れて弾かれる。
指先に傷。血が、風の流れに乗って、霊夢の体から吸い出されていく。
『早苗』の周囲に渦巻く、風の結界は、触れるもの全てを拒み、弾く、刃の壁であると共に、近づくものを全て吸い込もうとする無限の結界でもあった。
下手に接近すれば、全身を切り刻まれ、血を抜かれて即死する。
全く、とんでもない『界』である。
「行くわよー!」
霊夢は、その『界』に挑む。
手にした刃の先端を風の壁に叩きつけ、それを両手で押し込んでいく。
「このっ……! 固いなぁ、もう!」
全身の体重を乗せて、思いっきり、刃を押し込む。
ぎりぎりと、刃はきしみ、先端がへし折れる。
しかし、霊夢は構わず、折れた先端を己の力で補い、なお、諦めない。
「早苗! あんたは、どう思ってるの!? 今の自分!
あんたはね、もっと自分を前に出していかないとダメ! 言われたから、恩だから、とか! そんなこと、どうだっていい!
そりゃ、あんたの行動の動機にはなるよ! だけど、それは最終的には他人に頼ってるだけ!
自分がしたいから! 自分がこうしたいと思ったなら、それに向かって突き進めばいい!
いやだということは素直に言って、やりたいことは思いっきり楽しむ!
そういう生き方できないと、幻想郷じゃ、阿呆と馬鹿に流されて、胃に穴空いて髪の毛抜けるよ!」
がきん! という鋭い音がした。
風の流れを、霊夢の刃が貫通する。
よし、と彼女はつぶやいた。
その瞬間、霊夢が纏う結界がきしみだす。
「こいつ……こっちを潰すつもりか!」
結界で結界を覆い、握りつぶす。出来ないことはないが、両者に圧倒的な力の差が必要となる。
たとえるなら、霊夢と紫程度か。
霊夢は己の結界術に自信を持っている。
しかし、
「マジでやばそう。あんまりもたないな」
がたがた揺れる結界は、すでにあちこちがほころび、壊れ始めている。
あまり時間をかけると、本格的に、結界ごと潰されてしまいそうだ。
「急ぐか」
両手に再度、意識を集中して、貫いた刃を深く、深く、押し込んでいく。
相手の結界から伝わる衝撃。そして、力。
「くっ……!」
相手の結界を通して伝わってくる熱が、彼女の手を焼いていく。
すぐさま手を離したいくらいの高熱に、彼女は歯を食いしばる。
熱い。痛い。涙が浮かんでくる。
しかし、諦めない。
「早苗、あんたはね、自分で自分を『人を捨てて神になった』とか言ってたけど、あんたはやっぱ人間だよ」
がきん、と音がする。
刃がさらに一段食い込み、『早苗』へと、迫っていく。
「そう言われたら、あんたにとってはショックかもしれないけどね。
神様ってさ、迷わないんだ。自分のすることには絶対の自信を持っているし、他人の言葉を絶対に受け入れない。
神様ってやつは完成してるからね。その態度は自信に満ち溢れているし、同時に傲慢だ。
あんたは違う。
あんたは迷った。私の言葉に。今まで自分が信じていたものに疑問を感じた。
それはね、人間の特徴だよ。人間は迷う。自分のすることにすら。
信じていたくせに。こうだと思っていたくせに。ちょっとしたことで、足下ふらついて、わけわかんなくなって、今のあんたみたいになることもある。
けどね、それって、人間にしか出来ないことなんだわ」
さらに、刃が突き進む。
あともう少しで、その先端が『早苗』に届く。
ここが正念場とばかりに、霊夢の両手に力がこもる。
同時に、結界の一部が崩れ、そこから風が入り込んでくる。
結界の中から空気が吸い上げられ、霊夢は大きく息を吸い込んだ。
「迷っていい。どうしたらいいかわかんなくなったっていい。それをいつだって自分の力だけで決められる奴なんていない。
必ず、何かに頼る。何かにすがる。
あんたにとって、それが神様だった。ただそれだけのことだ。
あんたはね、優しいし、まっすぐすぎるんだ。
だから、簡単に騙される。悪党に利用される。
この世界にゃね、あんたの世界じゃ考えられないことがたくさんあるよ。もしかしたら、あんたに害をなすことだって。
そういう時にね、必要なのは、自分を思いっきり前に出して跳ね除けること。
自分を神に昇華させたいなら、絶対にそうするんだ。あんたはまだまだ、人なんだから。
迷ったら、手を貸すよ。
私は人のまま生きて、人のまま死ぬつもりだ。神になるなんてまっぴらごめん、興味すらない。
だけど、頼られたら、それに手を貸す事だってやぶさかじゃあない」
結界が限界を迎えて崩れ始める。
『早苗』の展開する風の結界が、霊夢を丸ごと、握りつぶしていく。
響く騒音。きしむ世界。
その中で、霊夢は歯を食いしばって、叫ぶ。
「だから!
そんな奴に乗っ取られてないで、こっちに手を伸ばせ!
この世界じゃ、私の方が先達だ! 偽物だろうが本物だろうが、神様だろうが、私にとっちゃ後輩だ!
この世界での理屈、ルール、楽しいこと、辛いこと、幸せ、不安、喜び、涙! 全部、教えてやるよ!
幻想郷は誰だって受け入れる! 幻想郷へ――!」
ついに、霊夢の刃が、完全に『早苗』の結界を抜けた。
刃は『早苗』の胸に突き刺さり、その体を貫いていく。
「ようこそ!」
刹那、全てが弾けて、砕け散る。
界は壊され、一つに融合される。
「外側はすごいことになってるね」
いきなり、後ろから声がした。
振り返ると、そこに、あの少女の姿がある。
もう何度も見てきた、あの彼女。彼女は気楽に両手を頭の後ろで組んで、
「大丈夫かい。早苗」
と、声をかけてきた。
早苗は『あ、はい……』と曖昧に返事をした後、『誰だろう、この子?』と首をかしげる。
「本当ならさー、わたしがもうちょい、早苗に干渉したほうがよかったんだろうね。
全く、神奈子に全部任せたらこれだよ」
「え? 神奈子さまのお知り合いなんですか?」
「そうだよ。神代の時代からずっとね。
あいつにゃ、色んな意味で世話になった。国を盗られたところから、ね」
「……え?」
「大昔にゃ、神様同士の争いなんてよくあることでさ。
わたしは神奈子に負けた。負けて、国を盗られた。
んだけども、うちの民は神奈子に迎合することをよしとしなくてねー。
結局、わたしが国を統治してた」
けらけらと、彼女は笑った。
早苗は『あの、どういう意味ですか?』と尋ねる。
「神奈子はね、まぁ、いい奴さ。
あの、神としての姿勢は真似できない。わたしの柄じゃない。
そういうところは尊敬しているし、羨ましいとも思う。
ま、結果としては、この有様だけど」
「……」
「わたしも神さ。
もうずいぶん前に力を失ったよ。消えてしまうところだった。それを助けてもらって、今、生きてる」
自分はどこの神様で、今、どこにいるのか。
それを彼女は語ろうとはしなかった。
「幻想郷ね。面白いところを見つけたものだよ。この世界なら、うちらも満足して生きていけるかもしれない」
「はい」
「だけど、ちょっとやり方がまずかったというか、うまいこといかなかったね。
現地の民を敵に回しちゃまずい」
その辺りは神奈子だし仕方ない、と彼女は笑った。
そういうことがあったとしても、後で取り返せばいい。謝るってのは、そういう時に使うもんなんだ、と。
何やら、彼女には彼女なりのポリシーがあっての発言のようだ。
早苗としては、『そもそもいざこざを起こさない方がいいんじゃ……』という立場なのだが、
「早苗はさ。大変だね」
なぜか、彼女の前では、その言葉を口に出せない。
彼女は早苗へと近寄ってきて、背伸びをして、その肩をぽんぽんと叩く。
「あんたはほんとに、何ていうか、馬鹿だねぇ。
真面目すぎるっていうか、融通利かないっていうか。
何でもかんでも自分でしょいこんで、誰かに助けを求めない。そのくせ、最後の最後に、逃げるところがなくなったら、ためたものを爆発させてしまう。
そういうの、悪い癖だよ」
「うぐ……。よく言われます……」
「もっとさ、世の中、軽く考えていいんだよ。
なぁに、早苗のするミスの一つや二つ、神奈子に尻拭いさせればいいさ。あいつはそういうのだってためらわないくらい、早苗を溺愛してるからね」
「……そうでしょうか」
「してるしてる。親ばかっていうか、ありゃ馬鹿親だ」
あっはっは、と彼女はおなかを抱えて大笑いする。
その彼女には、さすがに同意も出来ず、早苗は苦笑いをするだけだ。
「ここまで来るの、大変だっただろう?
あっちの世界じゃ追い払われ、こっちの世界じゃ、面倒な奴らに目をつけられる」
「……仕方ないと思っています」
「生きながらにして幻想になる。
それは果たして、生きているって言うカテゴリに当てはまるのかね」
彼女はひょいと肩をすくめて、そんな、答えの出ない質問を投げかけてくる。
「わたしはね、神奈子と同じ、早苗には幸せに生きて欲しいと思っているよ。
神になろうなんてとんでもない。神ってやつぁ、面倒だ。生きていくだけで面倒だ。
なのに、神奈子の奴は、何で早苗を神様にしたがってるのか」
「あの、神奈子さまには、神奈子さまなりの考えが……」
「多分だけどね。
神奈子は、幻想郷の厄介なところを、早苗よりも多く見てしまったんだと思う。
それを見たから、早苗がこのままじゃ『まずい』と思ったんだ。
だから、早苗を『神』に押し上げたかった。
……ま、結局、親ばかなのさ」
少しだけ、そこで、彼女は悲しそうな顔をする。
あの、と声をかけようとして、伸ばした手が、鋭い衝撃と共に弾かれる。
「え……?」
いつの間にか、少女の周囲を、半透明の壁が覆っていた。
それを見て、早苗はすぐに感づく。
これは、結界だ。
「あー、またか。
あいつはほんと、早苗のことばっか考えてるなー。もう」
「あ、あの!」
「あ、だいじょぶだいじょぶ。これ、わたしを閉じ込めるだけで、早苗には悪影響、ないから」
「よくありません!」
早苗は結界の側へと駆け寄り、何とか、それを解除しようとする。
だが、彼女の使うあらゆる術が通じない。
何らかの効果を見せるものもあっても、地力が全く違うのか、その力が全く及ばないのだ。
「早苗。
あいつはね、本当に、早苗のことを大切に思ってるみたいだよ。
ただ、その愛情が、ちょっとずれてるっていうか」
「そういう愛情の押し売りはいりません!」
早苗の右手が結界に押し当てられる。
そこに激しい火花が散り、肉の焼けるいやな臭いが漂う。
「早苗は、何で幻想郷に来たの? 神奈子のため?」
「……多分、そうです」
ばちばちと、弾ける火花を押さえ込み、早苗の指が結界を握り締めていく。
苦痛。激痛。
すぐにでも、手を離したくなる衝動に駆られる。
「わたし……多分、神奈子さまのことが心配だったんだと思います。
だって、神奈子さまは、わたしが生まれるまで、何百年……あるいは、何千年もの間、孤独でした。
民が信仰を失い、己を信奉する神子までが神奈子さまの姿も見えず、声も聞こえない状態になってしまって……。
それでも、ずっと、お一人で神社を守り続けてきたんです」
「そいつは違うな。
神奈子は、神社を守りたかったんじゃない。自分を守りたかったんだ。
消えてしまう自分が怖かったんだよ」
「たとえそうだとしても、神奈子さまが、わたし達の神社を守り続けてきたことに代わりはありません。
ずっとずっと、たった一人で」
ばきっ、という音がする。
早苗の指が結界を破り、その内側へと侵入した。
真っ赤になった指。皮膚は溶け落ち、筋肉が見えるくらいに焼かれた肌。
それを、目の前の少女はじっと見詰めている。
「そんな人が、もうどうしようもなくなって、最後の希望をかけて幻想郷にやってくることを決意した。
その際に、神奈子さまは、わたしを失うかもしれなかった」
「まぁ、そうだね」
「何百年、何千年、待ち続けた、自分の姿が見える、自分の『神子』。
……きっと、嬉しかったんだと思います」
「そうだね」
「幻想郷にやってきたとて、信仰を回復できるかわからない。また、一人になってしまうかもしれない。
神奈子さまは、それを、どのように感じていたのか。その御心を探ることなど不敬だと思いますが……きっと、怖かったんだと思います」
「そうかもね」
やれやれ、と少女は肩をすくめた。
早苗の指先が弾けて、骨が露出する。
手から力が抜けていくのを感じながら、早苗は思いっきり、掴んだ結界を引っ張り上げ、その結界を根元から引きちぎった。
「わたしにとって、神奈子さまは、父親であり母親です。
たくさんのことを、あの方は教えてくださいました。
わたしは、あの方から与えられた恩義に報いることが……」
「必要ないよ、そんなの」
「……え?」
「神は確かに、与えられた見返りを欲しがる。けれど、欲しがる見返りは信仰心だ。物理的な見返りなんていらない。
神奈子はね、もし、早苗が『ついてこない』って言ったら、ためらわずに一人で幻想郷に来たと思うよ」
そこが間違ってるんだね、と彼女は言った。
引きちぎられた結界を乗り越えると、彼女は大きく伸びをする。
「あの巫女が言っていただろう?
早苗は早苗の意思で、幻想郷に来たかったのか、って。
本当に、そうなのか、って。
元の世界にいた方が幸せになれたかもしれないのに、どうして幻想郷に来たんだ、って。
そこんとこどうなの?」
「あ……その……」
改まって、瞳を見つめられながら問われると、言葉を失ってしまう。
早苗にとって、今回の行動のきっかけは、自分で言ったとおり『神奈子』だ。
彼女を一人にさせたくない。また、彼女を孤独にさせたくない。
それが、今回の、彼女の行動原理だ。
「神様を馬鹿にしちゃいけないよ。人間と神様は、考え方が違うんだ。
神奈子は、早苗が、元の世界に残りたいと言ったら何も言わなかった」
「……その……」
「早苗」
「……居場所、なくなっちゃいましたから」
小さな声で、彼女はつぶやく。
「迷いました。
仰るとおり、とても迷いました。
本当に神奈子さまについていっていいのか、その決断を下していいのか、って。
神奈子さまは、わたしに『全てのしがらみを断ち切れば、ついてきてもいい』と仰いました。
わたしに、その『しがらみ』というのが何なのか……わからなくて……」
「だろうね」
「……だから、あの時……みんなが……みんなの記憶の中から『わたし』がいなくなった瞬間、わたしの居場所はあそこになくなったような……。
だから、それでいいのかなって……」
神奈子さまも何も言わなかったし、と早苗。
はぁ、と彼女はため息をついた。
「神奈子の言っていた『しがらみ』ってのは、確かに、元の世界とのつながりみたいなもんさ。
それを持たない神奈子にとって、幻想郷に来るのにしがらみなんてないからね。
けど、早苗はそうじゃない。
だから、それを捨ててこいと言った。早苗に、それだけの覚悟があるのか、って」
結果は、どうだったのか。
思い返してみる。
そういえば、確かにあの時、神奈子は言った。
『自分が予想していたのと違うが』
――と。
早苗が全てに忘れられることを、神奈子は想像していなかった。それをなすにしても、早苗が己の力でやると思っていた。
結果が、違う。
あの時点で、何かがずれている。
「早苗。
あんたはね、あいつにまんまとはめられた。あいつにしてみれば、それが早苗のためと信じてやったことなのかもしれない。
だけど、結果は、早苗にとって苦しいものだった。
神奈子はね、多分、気付いてないよ」
「え?」
「今、早苗は、順調に育ってる。現人神として。そしていずれは神として。順調すぎて怖いくらいだ。
それを神奈子はとても喜んでいる。
手塩にかけて育てた神子が、己の望む姿になってきてるんだ。そりゃ、神様でも嬉しくて目が曇ることくらいある。
早苗。一つ聞くよ。
早苗は本当に、神になりたいの?」
まっすぐ、真摯な瞳で見つめられて、早苗は言葉に詰まる。
少女は『だよね』と笑う。
「今の問いに真っ向から答えられる奴なんていない。わからないんだ。当然だよ。
だからね、早苗。その迷いを大切にして。今、決めちゃいけない。今、それを決断しちゃいけない。
神奈子のためだとか、自分の成長に必要なんだとか、そんなことも考えちゃいけない。
日々を過ごしていく中で、いずれ、それを己で決断できるようになる。
それまで、絶対に、結論を下しちゃいけない」
「だ、だけど……」
「それを強制する奴がいる。
わたしは、そいつを許せない」
少女はそうつぶやくと、大きく伸びをする。
「早苗。
今はまだ、早苗は人間のままでいるといい。友達をたくさん作って、みんなと一緒に、楽しく過ごすといい。
最初は神奈子のためだった自分の決断が、本当は正しかったことに気付くことが出来たら、また一つ、何かが変わる。
逆に、この世界に来てしまったことを後悔するようになったら、己の決断を嘆き、浅はかな自分を呪うといい。そうすることしか、早苗には出来ない。
どっちになるか、今はまだ、わからない。
わからないから、絶対に、自分だけで決断を下しちゃいけない。いいね?」
「あ……!」
少女の体がふわりと溶けて消える。
それと同時に、早苗の周囲の世界も崩れて壊れていく。
今まで構成されていた何かが、離れて、外れていく。
何が起きているのか、わからない。
わからないが、今の『わたし』に起きている、この事象は、『わたし』にとって必要だということがわかる。
――足下が崩れて、体が下に落下を始める。
飛ぼうと思っても飛べない。
落下に逆らおうと手を伸ばしても、届かない。
目を閉じ、体を固くする。
すると、その手を掴む感覚が生まれる。
目を開けると、消えた少女がそこにいる。彼女はにっこり笑って、早苗を上へと連れて行ってくれる。
落ちて消えていくものが、また生まれていく。
目の前に広がるのは、光――。
霊夢の突き出した刃が『早苗』の心臓を抉る。
『早苗』は絶叫し、その身をよじり、激しく、己の周囲の風をゆるがせた。
風に流され、なぶられ、傷つけられても、霊夢は刃を放さない。
「さあ、大人しく出て行け! 出ていかないなら、このまま、結界の狭間に逆落とししてやる!」
霊夢の刃は、さらに『早苗』の胸の中へ食い込み、彼女にダメージを与えていく。
『早苗』は呪いの瞳で霊夢を見る。
開いた瞳孔の向こうに、暗く光る星が見える。
霊夢は大きく息を吸う。
そして、彼女は握っていた刃から両手を離すと、『早苗』の頭を押さえた。
「堕ちろ!」
彼女と唇を合わせて、思いっきり、肺から息を吹き込んでいく。
『早苗』の胸が大きく膨らみ、霊夢が体を離した途端、彼女は絶叫した。
その悲鳴は徐々に苦鳴に代わり、弱々しい悲鳴へと変わって行く。
断末魔を上げてもがき苦しんだ『早苗』の体から、何かがぼたりと、地面に向かって落ちていく。
急速に、風が収まる。
早苗の周囲で荒れ狂っていた風は凪を迎え、やがて、その凪は、優しい、温かな風に変わって行く。
「……っと」
早苗の体から力が抜け、地面へと、彼女は落下していく。
それを霊夢は抱えると、ふんわり、ゆっくり、地面に着地する。
「おい、大丈夫? ちょっと」
気を失っている彼女の頬を、ぴたぴたと張る。
しばらくすると、彼女は『ん……』と声を上げ、目を開けた。
「よっし。お祓い成功。もう大丈夫だよ」
「あ……」
早苗は目の前の霊夢を見て、彼女の笑顔を見て、慌てて霊夢から体を離すと、地面の上で土下座した。
「申し訳ありませんでした!
霊夢さんにご無礼を働き、このような事態を招いて……!
本当に、ごめんなさい!」
絶対に謝ってなんてやるものか。
そう宣言して、心に決めていたはずなのに、それをあっさりと覆す。
先ほどまで――そう、それこそ、ほんの数分前どころか数秒前の自分すら、どこかに抜け落ちて、消えてしまったかのようだった。
憑き物が落ちた。まさにその表現にふさわしい心の入れ替わりを、彼女は言葉に出せずに感じ、それをただ、行動で示したのだ。
「あ、いや、そこまで丁寧に頭下げてもらっても」
霊夢は引きつり笑顔を浮かべ、頬を指先でかいた。
とりあえず、彼女は早苗に『ほら、頭上げて』と笑いかける。
顔を上げた早苗の頬には、涙の跡。霊夢は肩をすくめると、「ほい、ハンカチ」と真っ白なそれを手渡した。
「いやー、よかったよかった。
ようやく元に戻ったわ」
「元に……?」
「あんたは察してないかもしれないし、全く身に覚えのないことかもしれないけど。
あんたは何かに取り憑かれてた。
そいつが何の目的を持って、あんたに取り憑いていたのかわからないけど、よくないものだったからね。
祓い落としておいたよ」
「……いつの間に……」
「人ってのはそういうもんだよ。
心の隙間を見せれば、そこに付け込んでくる奴らがたくさんいる。ふとしたことで何かに取り憑かれて豹変する人なんて、腐るほど見てきた。
あんたの場合は、ちょっと厄介だったから。だから、落とした」
そんだけ、と笑う彼女は、服のポケットから、早苗が持ってきた菓子折りのお菓子を取り出した。
それを一つ、早苗に放ると、自分の手元のお菓子を口にする。
「んー、なかなか。
食べないの?」
「あ、は、はい。いただきます」
慌てて、彼女も封を切って、お菓子を口に運ぶ。
あんこのしっとりとした、優しい甘さが口の中に広がる。
弾幕勝負は疲れるからねー、と笑う霊夢と一緒に、お菓子を頬張る。
「ねぇ、あんた。
えっと……早苗だっけ?」
「は、はい」
「初めまして。改めて。博麗霊夢です」
「こ、こちらこそ。東風谷早苗です」
差し出された手を握り、ぺこぺこと頭を下げる。
霊夢は嬉しそうに、満足したように笑うと、お菓子をぺろりと平らげる。
「あー、美味しかった! この頃、甘いもの食べてなかったから余計に!」
「そうなんですか……?」
「うちはお客さん来ないからさー」
「それって、お客さんを獲得する努力を怠ってるからじゃ……」
「んー? 努力してるよ?
頼まれれば加持祈祷はするし、ちゃんと御守作って売ってるし」
「いえ、そういう努力もそうなんですけど。
もっと根本的に、神社の宣伝とか……」
「口コミ」
「だからですよ」
はぁ、と早苗はため息をつく。
「あのですねぇ、霊夢さん。
そもそも神おわす社が、あんな煤けていたり、参道が壊れていたりしたら、得られる加護もご利益もあったもんじゃないですよ。
あーいうのがいけないんです。ちゃんとしましょうよ」
「うわ、紫みたいなこと言われたし」
「その紫さんが何者なのかは知りませんけど。
少なくとも、周りはそう見ているということです」
つまりは霊夢が悪い、と早苗は断言する。
はいはいと霊夢は軽く肩をすくめて受け流し、聞く耳持たずという感じだ。
これでは、参拝客が増えるはずもない。
「あんたのところの神社さ、人里から人を集めてるよね?」
「……ええ、まあ。人々に益をなすのが神奈子さまのお力ですし」
「そういうことやられると、うちからお客さんがさらにいなくなるんですけど」
「そう言われても」
「第一、こんな山奥にある神社に、普通の人が来られるわけないじゃん」
「あー」
言われてみれば確かに。
妖怪の山は、深く、広い。
下手にその奥地に入れば、そこを住処とする妖怪たちに狙われ、襲われる。
そんな危険なところに、好き好んで参拝に行くものなど、いるはずもない。
「だからさ、妖怪を信者にしたらどう? この山の。
天狗たちとか、河童とかさ。あいつらだって、数だけなら人間以上にいるでしょ」
「ええ、そうですね……。
ああ、そっか。そういうのもありですね」
「でしょ? 私って、あったまいい!」
「だけど、それとこれとは別です。
人間のお客さん……。
……あ、そうだ。霊夢さんの神社に、うちの分社を置いてもらうとか」
「えー。お客さんいなくなるー」
「うちの分社にお参りに来る人に、『博麗神社のご利益もあわせれば、ご利益二倍で倍率ドン!』って宣伝したらどうです?」
う~ん、と霊夢は渋い顔。
よっぽど、そうして精力的に働くのがめんどくさくていやらしい。
怠け者なのか、神様への信仰を、そもそもこやつが持っていないのか。
もしかしたら両方かも、と早苗はため息をついて、
「じゃあ、うちの分社に奉納されたお賽銭、場所代で15%くらいあげますから」
「やる。」
「即答ですか」
あまりにも俗物過ぎる回答に、早苗にも諦めの色が浮かぶ。
しかし、とりあえず、これで問題は解決したわけだ。一応、ほっと安堵するべきなのだろう。
「あとさ、早苗」
「はい」
「うちら、よく、神社で宴会とかしてるんだ。
今度、おいでよ」
「え? だけど……」
「いいからいいから。
うちにはね、色んな奴が来るよ。夏の日差しがいやだから、って理由で幻想郷を霧に閉ざした奴とか、桜が見たいから、って幻想郷から春を奪っていった奴とか。あと、月からの使者を欺くために、偽物の夜を作った奴もいたっけ。
そんな連中に比べたら、あんた達のやったことなんて軽い軽い」
そして、そんな奴らも、霊夢の、今では『友人』なのだという。
もちろん、彼女はそう言った後に、『ああ、知り合いだ、知り合い』と言い直すのだが。
そうした者たちすら、集まって、賑わい、楽しく過ごすのが博麗神社の宴会なのだとか。
「あんた達が何をしたかとか、そんなの関係ない。
一緒に並んでご飯を食べて、お酒飲んで、はい全部チャラ、ってのがうちらのルール」
「……いいんですか? そんないい加減で」
「いいのいいの。
糸って奴は、いつでもぴんと張り詰めてると、ちょっとした事でも切れるようになるけれど、普段はだらりと垂れ下がっていれば、なかなか切れるもんじゃない。
必要に応じて張り詰めて、必要に応じてだらだらする。
メリハリだね」
じゃないと疲れるだけ、と彼女は笑った。
つられて、早苗も笑い出す。
――何だか久しぶりに笑ったような気がした。
こんなに楽しく、心から笑ったことは、ここしばらく、なかったような気がした。
「おーい、霊夢ー!」
頭上から声。
振り仰ぐと、そこには、霊夢の友人という白黒魔法使いの姿。名は、確か魔理沙と言ったか。
その彼女の後ろには神奈子まで続いている。
「ふっふっふ。
今回の異変の解決は、私がやってやったぜ! お前の出る幕はなかったな!」
「神奈子さま、大丈夫ですか?」
「なに、大したことではないですよ」
その神奈子は、あちこちにダメージを受けたような跡がある。
もちろん、魔理沙のほうも無事ではなく、服が破け、肌が露出している。
しかし、双方共に、お互いを恨むような感じを見せることはなく、むしろさっぱりとした雰囲気を漂わせていた。
「ちぇっ、あんたがぼろぼろになったところに、颯爽と援軍で駆けつけてやろうと思ったのに」
「残念だったな」
「神奈子さま」
「早苗」
立ち上がろうとした早苗を押し留めて、神奈子。
彼女は早苗の瞳を覗き込むと、優しい笑みを浮かべる。
「よろしい」
一体、何が『よろしい』のか。
早苗にはわからなかった。
尋ねるようなこともしなかった。
ただ、神奈子の手が、早苗がまだまだ小さかった時のように頭に乗せられる。
何となく、ただそれだけで神奈子の言いたいこと、彼女の考えていることがわかったような気がして、早苗は嬉しそうに目を細める。
「よし、そんじゃ、異変は解決だ。
帰ろうぜ」
「そうね。よっ……と」
「お、おいおい。大丈夫か」
立ち上がろうとした霊夢の足下がふらつく。
慌てて、魔理沙が彼女に肩を貸した。
霊夢は苦笑すると、「早苗、割りとあんた、強かったよ」と言った。
「それじゃ――」
またね、と。
霊夢が笑顔を浮かべようとした瞬間、その目は鋭く引き締められ、口許は真一文字に結ばれる。
魔理沙が『おい、どうした』と尋ねようとする、その言葉を遮って、空に声が響く。
『おやおや、もう帰っちゃうの? もったいないねぇ。お遊びはこれから始まるってのにさ』
「っ!?」
早苗も空を振り仰ぐ。
今、聞こえた声には覚えがある。
何度も何度も、夢の中、闇の中、無の世界で出会った、あの『少女』。
彼女の声と、全く同じなのだから。
「あっち!」
霊夢は鋭く叫び、空に浮かび、そちらに飛ぼうとする。
だが、それを神奈子が遮った。
「ちょっと!」
彼女のすさまじい神力に衰えは見られない。
魔理沙が『なんてやつだ。あんだけやられてこれかよ』と呻いている。
「ここより先に進むことは許さん」
「何でよ」
「この地より奥――そこの魔法使いが我と交えたよりもさらに向こうに、眠る神一つあり。
その神を起こすことは許されぬ」
「へぇ」
霊夢の瞳に敵意が宿る。
これほど傷ついているというのに、まだ闘志を失わない彼女に敬意を表するためか、神奈子の神力が爆発し、膨れ上がる。
その圧倒的な力は幻想郷そのものを揺るがす。
「ダメだ」
「なら、あんたをぶち倒してでも通してもらう」
「やってみるがいい。
これは、お前たちのためなのだ」
「は?」
「ここより先に潜むは神。この地、この場、この時に眠るは祟り神なり。
その深き呪いに、その身、呑みこまれたいか?」
神奈子の瞳。
その鋭い視線に、魔理沙は息を飲み、霊夢もわずかに体を堅くする。
――当然でしょ!
そう、霊夢が叫ぼうとしたときだ。
「ならば、わたしが行きます」
横から、思いもしなかった声が響く。
神奈子すら、目を丸くして振り向いた先に、早苗の姿がある。
「わたしは、この神社の神子です。
自分の神社に、自分の知らない場所や知らないものがあるのは、神子としてどうかと思います」
二人はしばしの間、にらみ合う。
早苗は内心、腰が引けている。
神奈子から叩きつけられる視線の圧力に、足が震えている。
だが、それを必死にこらえ、神奈子を見つめていた。
その視線の強さは、神にすら通じるほど。
それを証拠に、神奈子は静かに視線を外すと、『好きにしなさい』と言った。
「はい。好きにします」
「貴女は昔から、私に従順だった。私以外の誰かに対しても、言われたことには『はい』と答えて口答えを、抵抗をしなかった。
その貴女が、初めて、私に刃向かった。
……反抗期かしらね」
「わたしは悪い子じゃないので、ご安心を」
「気をつけなさい」
「はい」
早苗は霊夢と魔理沙にウインクをすると、先頭に立って移動する。
二人は一瞬だけ、顔を見合わせてから、早苗に続いた。
神社を飛び越え、その向こう――深く、濃くなる神域の向こうに広がる、一つの湖。
早苗が昔、神社に遊びに来ていた時、この湖に近づこうとして両親に、そして神奈子に叱られたことのある場所。
そのほとりへと、三人は降り立った。
「私が神奈子とやりあったのはこの辺りだ。
あいつは一体、何を守ろうとしてるんだ?」
「さあね。まぁ、よくないものでしょ」
「まだ奥があります。行きましょう」
三人は空へと舞い上がり、湖の奥を目指す。
つと、上空から湖を見下ろすと、それは、美しい光を放って三人の目を魅了してくれる。
見事にきれいに透き通った水。水底まで臨むことの出来るそれに、ふと、三人は己の目を疑う。
「あれ……社じゃないか?」
水底に揺らめく何かが見える。
五つの岩塊が塔のように突き立ち、それは五つの頂点を持った星の形を形成している。
星の中心には社のようなものがゆらゆら揺らめきながら存在し、その周囲を注連縄がくくっている。
三人は顔を見合わせると、『とりあえず、あそこにはどうやって行けばいいだろう』と思案する。
見た感じ、深さはかなりのもの。
皆、泳ぎは得意であるが、『潜水ってやったことない』というものばかり。
「あの、じゃあ、わたしが潜ります」
「そうだな。何かあったら、私が上からサポートするよ」
「よし、頑張れ」
「お前も何かしろよ」
そんな間抜けなやり取りの後、早苗は湖の水面ぎりぎりまで下りていき、よーし、と気合を入れなおす。
「そんなところ潜っても、逢いたい奴に会えるかどうかはわからないよ」
その時、後ろから声がした。
一同は自分の背後を振り返る。
湖の上、浮かぶ木っ端に足を乗せて、にやにや笑いながら水面に立っている少女が一人。
その姿に、早苗は見覚えがある。
「お前にこうして会うのは初めてだねぇ」
「……!」
「おい、霊夢。あれ」
「……想像以上だわ」
その少女から漂ってくる禍々しい気配。
霊夢は吐き捨てるように「あいつがあの子に取り憑いてた」とつぶやく。
霊夢によって、早苗の外に『吐き出された』少女。
彼女はけらけら笑いながら、「娑婆の空気は久しぶりだよ」と言った。
「あんた、何者!?」
霊夢の鋭い誰何の声が飛ぶ。
彼女は自分を指差すと、にやりと笑い、
「わたし? わたしの名前は洩矢諏訪子。
ここ、洩矢の地に住まいし諏訪の神。大昔には、そりゃあ、大勢の人々を統べていたもんさ」
「国すら平定する神だったわね。確か。
それが落ちぶれに落ちぶれて、今や祟りしかなさない悪神か。
当時の人たちがかわいそうだわ」
「あはは、何とでも言いなよ。
神ってのはね、二つの顔があるのさ。
一つは、にこやかに、自分を慕ってくる人間や妖怪に向ける笑顔。
信仰を絶やさず、供物を絶やさず、神に対して敬意を表し、畏れ敬うものに神は無限の寵愛を授ける。
一つは、泣こうが喚こうがその罪を絶対に許さず断罪する鬼の顔。
信仰を忘れ、供物を捧げるのを忘れ、神を冒涜し、ないがしろにするものに、神は身の毛もよだつ罰を与える。
さて。
後者に値する神は、邪悪な神でしょうか。それとも、嘆きの神でしょうか?」
おちょくるような諏訪子の一言に、無言で、霊夢は右手を振るった。
彼女の手から放たれた針が、諏訪子の頭を貫通する。
魔理沙と早苗は息を飲み、諏訪子はけらけらと笑う。
「そうだねぇ。
人間の主観で、いい神も悪い神も形を変える。
ある側面ではいい神で、ある側面では悪い神だ。そいつは勝手な思い込み。神は自分の存在ゆえに、自分がなすべきことやなしたいことをなす。
それを、お前らごとき、ただの人間が定義する。そいつはおかしくないかねぇ?」
頭に刺さった針を抜き取ると、彼女はそれを片手で握りつぶす。
粉々になった針は、そのまま、湖の水面へ消えていった。
「黙っとけよ、ゲス野郎」
霊夢がドスの利いた、低い声で相手を罵倒する。
諏訪子はわざとらしく、驚いたような表情を見せた。
「お前がどんな神かなんて関係ない。
お前は、自分のやりたいことのために、あの子を利用した。あの子がめちゃくちゃになって壊れてもいいってくらいにね。
それだけで、人間側から見れば滅ぼすべき対象なんだよ」
「こいつは驚いた。
お前は人にも神にも妖にも与しないと言っていたのにね。
ま、所詮は人間か。人間は決して、感情を廃することが出来ないからね。人間として、同じ人間が傷つけられ、利用されでもしていたら、そいつの肩を持ちたくもなる」
彼女は大きく伸びをする。
そして、その手が水面を叩いた途端、湖の水面が弾け、巨大な水柱を作り出した。
「だったら、滅してみなよ。この神を。
わたしはお前たちと遊んであげるよ。神は祀られ、祭られることで奉りを好むんだ。
お前たちのお遊びに付き合ってあげるよ」
「っ!」
「おい、霊夢。お前はダメージでかいんだから後ろにいろ。
あの野郎は私が蹴散らしてやる。あんなむかつく野郎は初めてだ」
その二人を制する形で、彼女たちの前に、早苗がやってくる。
早苗の背中に、二人は視線を注ぐ。
心なしか、自分たちが、彼女に圧倒されているような気がした。
息を飲み、思わず、足を後ろに下げてしまう。
「……貴女は、本当に神なのですか?」
「神だよ。お前よりも偉い神だ。
神奈子と比べるとどうだろうね。それはわからない」
「……貴女は一体、何の関係があって、ここにいるのですか?」
「この神社は、元々、わたしのものだよ。
それを外からやってきた神奈子が奪ったんだ。わたしを倒してね。
神の戦で負けたのだから、わたしは神奈子に従った。
だけど、神奈子はなかなか信仰を集められなかった。土着の神――それを国津神とするなら、国や土地に宿るその神は、永く永く、民の信仰と信頼を集め、民に利益をなしてきたからね。深い親交を、信仰を、わたしは集めていた。
そこにやってきた外様の神。そりゃ、民はその神を信頼することはしないさ。それがいくら、いい神であってもね。けど、それじゃ困る。神のルールに反する。だから、結果として、神奈子の信仰を維持していたのも、このわたしさ。
この神社に集まっていた信仰は、ほとんど、わたしが集めていたんだ。神奈子の力の源も、このわたし。
ぜーんぶ、わたしがいなくちゃ、この神社は回らない。
なのに、あいつは勝手に、この神社をこんな辺鄙なところに持ち込んだ。
ま、割と簡単に信仰も集められそうだし、文句は言わないけどね。
何せ外の世界じゃ、信仰心なんて欠片もない人間ばっかりだ。みーんな、祟り殺してやろうと思うくらいにさ」
そう言って笑う諏訪子の笑顔は、どこまでも無邪気だ。
しかし、悪意がないわけではない。
瞳はどんよりと暗く濁り、口許に浮かぶ笑顔は、子供特有の残酷なもの。
それを見た人間は、思わず息を呑むほどの邪悪。
「……そうですか」
「お前は、神奈子の神子。そう思ってるだろ?
違うんだよ。
あいつはね、まぁ、確かに人間の神子も備えてきた。自分の信徒としてね。
けど、正式に血を引いているものを備えていたわけじゃない。
お前はね、わたしの血族なんだよ。知ってる? 知ってた? 知らないよねぇ」
諏訪子は水の上をとんとんと歩きながら、早苗の前にやってくる。
そして、彼女の頬をぺたぺたと触りながら、「美人になったもんだ」と笑う。
「こーんな美人なら、引く手数多だね。親……というか、祖先としては誇らしいよ。
どう? いい人見つかった? 見つからないなら、わたしが連れてきてあげるよ。
お前を振ったりしたら、七日七晩苦しんで、のた打ち回って、魂もろとも穢す呪いをかけてね」
それは冗談だけど、とけらけら笑いながら、踊るような足取りで、水の上をぺたんぺたんと歩いていく。
「……貴女が、わたしに力を?」
「ん? そりゃ当然。
わたしの神子には、わたしの力が受け継がれている。どれだけ人の血を混ぜ込んでも、絶対に薄まることのない神の血がね。
けれど、信仰心ばかりはどうすることも出来ない。
永い年月が過ぎて、どんどん、人の意識の中から神の存在は薄れていって。
……寂しいもんさ」
ふっと肩をすくめる諏訪子。
彼女は早苗に振り返ると、「わたしのことを見てくれるやつもいなくなったよね」と言う。
「神奈子も同じ。神奈子以外にもいる神はみんな同じ。妖怪もそう。
誰も彼もが人間の心の中から失われて、日の当たらない、暗い闇の中に押し込まれてしまった。
哀れなもんだ。かわいそうなもんだ。
そういう連中が、ここに流れ着くってなら、わたしらがここに来るのは、何かの運命だったのかもしれないね」
彼女の視線は、霊夢へ。
霊夢は諏訪子に対して、すさまじい怒りと忌避の視線を向けている。
諏訪子は軽く笑って、ひょいと肩をすくめた。
「まぁ、そんな感じでさ。
遅かれ早かれ、わたし達はこの世界に来るかもしれなかった。
その時に、神奈子のことだ。手塩にかけて育てて、溺愛しまくって、これ以上ないくらいにお人形さん扱いしてかわいがっていた早苗を、元の世界に置いてくるなんてこと、絶対にするわけない。
そうなると……」
諏訪子は大きく伸びをする。
その場でくるりと回転して、楽しそうに笑うと、
「お前を連れてこなくちゃ、って話になる」
早苗は顔を伏せていた。
諏訪子の言葉に何も答えず、ただ、黙って下を向いている。
「お前はあの世界じゃ、色んなものを持っていた。友達、家族、楽しい場所、思い出。
そういうものを持ってるとさ、置いていくとき、辛いだろ?
だから、全部、わたしが忘れさせてやった。わたしの力で、連中の頭の中からお前を消し去ってやった。
誰からも引き止められず、誰からも、いることを認識すらされず。
わたし達はすでに幻想となって久しいけれど、お前は未だ、現実の中にいた。
それを幻想にしてやったんだ。ちょっと心は痛んだけど、それもお前にとって、長い目で見りゃためになる。
実際、この世界に来て、新しい友達は増えたし、面白いことも楽しいことも知ることが出来た。
あいつらに負けないくらいの力も授けてやったし、お前個人を信奉する奴らも出来た。
嬉しいだろ? 楽しいだろ? この世界に来られてよかったじゃないか。
なあ――」
続く言葉は遮られる。
早苗の右手から放たれた、一発の弾丸が、諏訪子の額を直撃していた。
大きくのけぞった諏訪子が、ぐんと、体を起こす。
「痛いじゃないか。親に向かって手をあげるのかい?」
「……あなたが……!」
早苗が顔を上げる。
その瞳には大粒の涙が浮かび、頬を、服を、ぬらしていた。
「あなたが……こんなことを……!」
「へぇ。
嬉しくなかったんだ。そいつはごめんごめん」
「どうして……! どうして、こんな強引なことをしたんですか!?」
「母の愛、ってやつさ」
諏訪子はあっさりと答える。
「言っただろ?
お前はわたしの子供、わたしの血族だ、ってね。
わたしはお前を愛している。心からね。お前には幸せになってほしいと思っているし、お前に近づく悪意は許せない。
わたしはお前を心配しているんだよ。だから、少しばかり、強引にもなる。
子供が悪い相手と付き合っていたら、たとえそれがどれほどの親友であろうとも、親なら引き離しにかかるだろう? あれと同じさ。
その行為は子供に恨まれる。『どうしてそんなことをするんだ』ってね。
お前にとって、それは、『外の世界』に存在するつながり全てがそうだ。それを維持し、保持することは、お前にとっては大切なことだったんだろう。たくさんの、大切な思い出ってやつだ。記憶ってやつだ。
それを忘れるのは、なるほど、辛いことだね。
だけどね、これはお前のためでもあるんだよ。
神奈子とわたしが、この世界にやってきてしまったら、お前は外の世界じゃただの人間になってしまう。
得られた神性も神格も全部失ってね。
ただの人間になるんだ。
そんなの耐えられないだろ? 周りと違う、特別な人間ということに、お前も優越感を感じていたはずだからな」
諏訪子の笑みに邪悪なものが宿る。
彼女は人の心を見透かし、それを握り、いたぶろうとする。
かける言葉一つ一つで早苗を痛めつけていく。
「人間ってのはね、欲と見栄の塊だ。
他人よりよく見られたい。他人よりよくありたい。他人より優れていたい、ってね。
お前はわたし達がいなくなれば、その全てを失ってしまう。そんなの耐えられるかい? 無理だろうねぇ。
それまで、お前は人より優れた存在として、人より一つ上のところにいたのに、人と同じところに落とされる。それまでに得られたもの全てを失って、お前は『人』に逆戻りする。
だから、わたしはお前をこっちの世界に連れてきたんだよ。
この世界でなら、お前は特別な人間のままでいられる。
わたしと神奈子の神力を受け続け、いずれは人を捨てて神になる。命の縛りすら解かれて、永遠に、神としてこの世界に君臨できる。
夢みたいな話じゃないか。
現実なんて空っぽのもの、捨ててしまえばいい。幻想になったのなら、幻想のままでいればいい。幻想の中で育てばいい。
それがお前にとって、一番、幸せなんだよ。
現実なんて忘れてしまえ。現実なんて捨ててしまえ。お前はもう、現実には還れないんだから」
「……くそったれが」
諏訪子の言葉に、ついに堪忍袋の尾が切れたのか、魔理沙がつぶやいた。
彼女は手にした八卦炉を強く握り締め、「おい、早苗! そいつは私にやらせろ!」と叫ぶ。
怒りで頭が沸騰している彼女は、今すぐにでも、諏訪子に対して攻撃を仕掛けそうだ。
しかし、早苗はその彼女を遮るように手を広げる。
「いいえ。わたしがやります」
「おや、親に逆らうのかい。反抗期だ。いけないねぇ」
「この人は、わたしが倒す。わたしが勝つ!
神奈子さまのお言葉がわかりました。
これは、わたしの戦いです! 霊夢さん、魔理沙さん! 手出し無用! そこで見ていて下さい!」
彼女を中心に風が吹きすさび、魔理沙たちの足を阻む。
魔理沙は、肩を貸している霊夢を見る。
霊夢は無言だった。
黙って、彼女は早苗の後ろ姿を見つめている。
魔理沙は何を思ったのだろう。軽く首を左右に振って、帽子のつばを下げるような仕草を取る。
「いいだろう。
それじゃ、遊んであげるよ。お前に、この洩矢の神の力、存分に見せてやろう。
この力がお前に宿っていることも教えてやる。お前は、わたしの子だということを。
そして、まつろわぬ土着の神の頂点、そこに君臨する神の力をね!」
「東風谷早苗、いざ、参る!」
涙をぬぐってまっすぐに前を見詰め、早苗は宣言する。
同時に、諏訪子は上空へと移動し、彼女はそれを追いかける。その動きに呼応するように風がうなり、叫び、吼える。
「……やれんのかよ。あいつに」
「出来るでしょ」
「……は?」
「出来る。絶対。
私らは黙って見てましょ、魔理沙」
「……変な奴」
霊夢の瞳は、いつもと違う。
何が違うのかは、具体的にはわからない。
しかし、その違いを、魔理沙は確実に感じている。
感じているからこそ、「好きにしろよ、ったく」と悪態をつくのだ。
――5――
「さぁて、まずは力試しだ!
神に挑む愚か者! その力、その言葉、その意思がどれほどのものか確かめてあげるよ!」
撃ち出される一発の弾丸。
それは、空中で分裂し、無数の雨となって降り注ぐ。
その雨の間を低空飛行で縫って飛び、水面ぎりぎりから諏訪子に接近した早苗は、振り上げた祓え串で相手に一撃を見舞おうとする。
しかし、それは、諏訪子が広げた掌で留まる。
子供独特の、小さな、白い掌。ふわりとした肉付きのそれが、がっしりと、祓え串を押さえている。
「っ!?」
動かない。
押しても引いても、動かない。
諏訪子が握り締めたそれは、びくともしない。
「ダメだね」
次の瞬間、早苗の体が後ろに向かって吹っ飛ばされた。
何が起きたのか、事態が理解できず、湖の上を飛ばされた彼女は、そのまま、湖のほとりの地面に激突する。
「うぐっ……! ぐっ……!」
後から、遅れて痛みがやってくる。
みぞおちから全身に向かって、すさまじい痛みが突き抜ける。
カウンターで拳か何かをもらったのだろう。
「くっ……!」
その痛みに耐えて立ち上がろうとした瞬間、彼女の頭上から弾丸の雨が降る。
それを横っ飛びによけて、再び、空へと舞い上がる。
お返しに無数の弾丸を生み出し、風に乗せて、それを放つ。
風に操られる弾丸は諏訪子の周囲を取り囲み、タイミングをずらして次々に降り注ぐ。
「ふーん。
なるほど。小ざかしい小手先の技術は、ずいぶんと鍛えたってとこか」
それを、諏訪子は動かずによける。
彼女のつま先が湖の水面を叩くと、立ち上がる水柱が彼女の周囲で壁となり、弾丸の着弾を防いでいく。
「この世界での遊びになるのだから、この世界でのルールに従うのが常。
神はルールとか規律とか、約束、守りごとなんかをとても好む。自分がそういうものを相手に課して、相手がそれを守っているのを見るのが、とても好きだからね」
彼女の右手が翻る。
「その理由が、何でだかわかるかい?」
早苗が接近してくる。
彼女の姿を見据えながら、その瞳がわずかに細くなる。
笑みの形に。
「神ってのは、とても傲慢な生き物だからね。
自分が他人を制する――そういうのを、とても好む生き物なんだよ」
――開宴「二拝二拍一拝」――
迫る早苗に向かって雨のごとく、矢のごとく、無数のレーザー状の閃光が撃ち出される。
直撃を避けるべく、回避に動く早苗。
その動きを予想して放たれる、人の背丈よりも巨大な弾丸。
それが雨あられと降り注ぎ、早苗が必死に、湖の上を飛びまわる。
「神を名乗るのならね。
まず、その態度を何とかしないといけない。
他人に対して低姿勢。他人に対してくそ真面目。他人に対して無礼を働けない。
そういう姿勢は神にはふさわしくない。
そっちの巫女の方が、なんぼか神らしい。態度が悪いって点でね」
諏訪子は霊夢を指差し、けらけらと笑った。
魔理沙が『……あいつの言うことはむかつくけど、まぁ、確かに』と肩を貸す霊夢を見てうなずく。霊夢は無言で、魔理沙の脳天をどつき倒した。
早苗はレーザーと弾丸の二つの間を縫って飛び、諏訪子へと接近する。
「これ以上は近づけない」
諏訪子の弾幕が激しさを増し、早苗の足を阻む。
早苗は口許に小さな笑みを浮かべると、振り上げた両手で、思い切り、湖の水面を叩いた。
彼女の腕の動きに従って現れた烈風が、水の上で爆発し、水しぶきを巻き上げると共に早苗の体を上空へと吹っ飛ばす。
諏訪子の対応が一瞬遅れ、次に彼女は顔を振り上げて『へぇ』とつぶやく。
直後、その額を一条の閃光が貫く。
真っ赤な血が湖の上を赤く染め、諏訪子の服を染めていく。
「なるほどなるほど。
まぁ、まずはこんなもんだね」
だが、諏訪子がその攻撃でダメージを受けた様子はない。
流れる血はあっという間に止まり、彼女の額に空いた、人の腕くらいの巨大な穴はすぐに埋まっていく。
彼女の放つレーザーは早苗を追いかけて宙を貫き、弾丸が空を焼く。
「ほらほら、どうしたどうした。
今のような奇襲を仕掛けておいでよ。こっちはよけたりなんてしないからさぁ」
閃光はさらに厚さを増し、前を見ても光が全てを埋め尽くすほど。
その状況では接近することは出来ず、早苗はほぞをかむ。
反撃として放つ弾丸も、諏訪子のレーザーに全て撃ちぬかれ、空中で爆発する。
下手な攻撃は通じない。接近戦も出来ない。
地力の違いを思い切り見せ付けられ、「やってくれるじゃない」と彼女は呻いた。
「さあさあ! この程度で終わるか!? 何ともつまらない奴だね!」
諏訪子は調子に乗って、早苗を攻め立てる。
完全に防戦一辺倒の早苗。
どうすることも出来ず、ただ翻弄されているだけだった彼女は、大きく息を吸い込んだ。
その視線が霊夢に向く。
彼女を一度見て、小さくうなずいた後、早苗は一気に、諏訪子のレーザーの中へと突撃していく。
「お、おいおい! 危ないぞ、早苗!」
魔理沙が慌てて声を上げる。
しかし、早苗はそれを聞くことをしなかった。
「へぇ」
考えたね、と諏訪子はつぶやく。
早苗は周囲の風を操り、風の結界を生み出す。
そして、風の結界の先端に、結界の要となる札を配置して、他者を拒絶する『界』を生み出した。
界は風と共に全ての流れを制御し、弾く空間を形成する。
諏訪子のレーザーは、早苗の張った結界の表面をなでるようにコースを変更され、彼女の後ろに流れていく。
早苗はそのまま、諏訪子へと、結界ごと体当たりをかます。
「なるほどね。
よけることが出来なきゃ流してやりゃいい、か。力の弱いものが力の強いものに対する対抗手段の一つだ。
考えたもんじゃないか」
「受け売りですけどね!」
諏訪子の体を水の中へと、早苗は叩き込む。
結界が弾け、強烈な衝撃波を周囲に撒き散らす。
その破壊力はすさまじく、湖の水面を深さ数メートルほども抉るほどだ。
諏訪子の体は水の中に消え、湖底に叩きつけられる。
諏訪子が操っていたカードが力を失い、消える頃、彼女はけらけらと笑いながら、水の中から上がってくる。
「こりゃ面白い。
ただの小手試しに対して、ここまでしなきゃ、お前はわたしに勝てないのかどうか。
もういっちょ試してやるよ」
諏訪子に、ダメージを受けた様子はない。
あれほどの至近距離から爆風を受けても、まるでこたえていない。
「大した生命力だぜ」
「神様ってそういうもんでしょ」
「ああ、確かに。神奈子のやつも、私のマスタースパークを何発も食らってもけろっとしてやがった」
やってられるか、と魔理沙が呻く。
――土着神「手長足長さま」――
続く諏訪子の力。
彼女は一度、後ろに飛んだ後、「そーれ!」と右手を振るう。
すると、そこから長い閃光が伸び、まるで巨大な鞭のようになって早苗に迫る。
その大きさは、人間一人分ほど。長さは、数十……いや、ひょっとしたら百を超えるかもしれない。
慌てて、彼女は頭を下げた。
その頭上を、諏訪子の攻撃が通り過ぎていく。
「そーれそれ! 右から左から、上から下から!
よけろよけろ!」
カードの名前どおり、それは、諏訪子の両手両足から放たれる。
長く巨大なレーザーが鞭となり、湖の上の空間を切り裂いていく。
先ほどの連続レーザーより密度は薄いものの、自分に向かって、巨大な光の壁が迫ってくる圧迫感はかなりのものだ。
早苗も、相手の攻撃をよけて距離をとろうとするのだが、どこに逃げても相手の攻撃が届いてしまう。
「一撃一撃が大振りなら……!」
逆に、接近すれば、相手はこちらの細かい動きに対応できないはず。
そう判断した早苗は、諏訪子の懐へと飛び込もうとする。
諏訪子は、しかし、にやりと笑う。
「残念賞」
早苗の接近を察した彼女の両手から光が消える。
そして、早苗に向かってその手を、諏訪子が向けた瞬間、閃光が再び放たれる。
「しまっ……!」
収納も伸縮も自在な攻撃。
それを察した時には、早苗は相手の攻撃を真正面から受けて弾き飛ばされていた。
空中を舞う彼女に、追撃が、その上空からヒットする。
地面に叩きつけられた彼女を、諏訪子の腕から伸びる閃光が捉え、持ち上げ、再び地面へと叩きつける。
「おや、人間の体は意外と頑丈だ。
一発で木っ端微塵になってしまうかと思ったら、意外と耐えるじゃないか」
両手で早苗を捉えて、湖の中へと投げ込む。
そして、両足から伸びる閃光で、彼女を水底へと叩きつけ、押し付ける。
「……っ……!」
「人間は、水中じゃ呼吸が出来ないからねぇ。
何分もつ? 5分か? 10分か?
ま、安心しなよ。殺しゃしないからさ」
水底まで透き通った湖は、上空から見ても、その様がよくわかる。
水底の岩の上に押し付けられた早苗は、必死に、諏訪子の『足』をどけようとするのだが、彼女の力では相手はびくともしない。
しかも、諏訪子は徐々に、『足』を押し付ける力を強くしてきている。
それに押されて、彼女の口から空気が漏れる。
にやにや笑う諏訪子は、「窒息死と溺死って、どっちが苦しいんだろうね?」と霊夢たちに言ってのける。
たとえ冗談だとしても、許されないその言葉に、魔理沙が諏訪子に食って掛かろうとするが、霊夢がそれを押し留める。
「ま、そろそろ限界かな?」
抵抗を見せていた早苗が、ぐったりとしている。
水の中では、お得意の風を使った術も使えない。
反撃の手段を失い、敗北した――誰もがそう思った、次の瞬間。
「……何だ?」
諏訪子が少しだけ、眉をひそめて辺りを訝しげに見渡す。
感じた異変――それに気付いたとき、「何だと!?」と彼女は叫ぶ。
「お、おいおい……マジかよ……」
風が、空気が、うねっている。
目に見えないそれを肌で感じ取ることのできるほどの、巨大な変化。
それは上空で徐々に渦を巻き、巨大な流れとなって、湖へと根を下ろしていく。
諏訪子の頭上から迫るそれを、慌てて、彼女は回避した。
渦の根が湖の水面に触れた瞬間、広大な湖の水が、一瞬で天空に向かって吸い上げられる。
「……冗談だろ」
そのつぶやきは、魔理沙のものか、諏訪子のものか。
水は全て空中へと持ち上げられ、豪雨となってあたりに降り注ぐ。
「しまっ……!」
その間に、息を吹き返していた早苗が、諏訪子の眼前に接近していた。
彼女の振り上げた祓え串が、諏訪子の肩口を捉える。
叩きつけられる衝撃に、彼女の意識は乱れ、舞っていたカードが力を失う。
雨が世界を覆っていく。
その圧力はすさまじく、霊夢も慌てて、頭上に結界を張るほどだ。
「ぷわっ!」
祓え串の衝撃と、雨の圧力に負けて、水中に叩き落されていた諏訪子は、水面から顔を出して、小さく舌打ちする。
「あの瞬間に術の仕込をしたか!」
憎憎しげに叫び、諏訪子は上空へと舞い上がる。
そして、早苗の眼前で閃光を放つのだが、早苗はそれを、少しだけ身を動かす程度でよけると、相手のがら空きの胴体に至近距離からの弾丸を撃ちこむ。
諏訪子は遠くまで吹っ飛ばされ、くるくると回転して態勢を立て直す。
「ちっ。やってくれるね」
早苗の目から、まだ闘志は消えていない。
体に刻まれたダメージはそれなりのものだが、まだまだ、心は折れていない。
人間ってのは厄介な生き物だ。
諏訪子は思う。
肉体的にも精神的にも弱いくせに、あるとき、ある条件がそろうと、神ですら舌を巻くほどの強さを発揮する。
人間のくせに神を凌駕し、神を滅すことだってある。
「そいつは神の油断が原因だ。人間が神を超えることなんてあるはずがない。
人間は神がなくては生きられない。
神が授ける恵みなくして、人間は生きられない。
人間は神に生かされている。
故に、神は人よりも常に上にある!」
――神具「洩矢の鉄の輪」――
両手に鉄輪を構えた諏訪子が、早苗へと接近していく。
投げつける鉄輪は早苗にまっすぐ迫り、彼女がよけたとしても、その動きを追尾して飛翔する。
鉄輪を次から次へと諏訪子は生み出し、早苗に投げつける。
飛んでくるそれを回避しながら、早苗は諏訪子へと反撃を行なう。
放つ弾丸を諏訪子は鉄輪で弾き、早苗へと肉薄すると、それで相手を叩き伏せようとする。
「神のなすことに人は従うのみ!
逆らうものは神の裁きの前に逃げ惑い、泣き喚き、そして後悔するだろう!
己の愚かな行為が神の怒りを呼び、己を滅ぼす! それが人のなしてきた愚かな歴史だ!」
早苗はよけるのに必死で、反撃の手を封じられてしまう。
諏訪子は決して相手からはなれず、連続して攻撃を放ちながら、徐々に、早苗を追い詰めていく。
「お前もそれは同じだよ。
お前のなしてきたこと全てが己の歴史を築くのであれば、お前は神に逆らってはいけない。
お前は神の神子として、此の世に生を受けた。神に従い、神の言葉を聴き、神に全てを捧げ、そして神の前に死す事がお前の役割!
お前の意思など関係ない! お前が何をしようとも、何を考えようとも、全てはお前の中にある神のなす業!
お前の存在は神によって定義される! お前は所詮、神の入れ物であり、神の従者にしか過ぎないんだからね!」
諏訪子の鉄輪が、わずかに早苗の額を掠めた。
ただそれだけで、すさまじい衝撃が加えられ、早苗の体が錐もみ状態で吹っ飛ばされる。
放たれる鉄輪の嵐が、早苗に迫る。
早苗は必死に態勢を立て直し、続く攻撃だけは回避する。
しかし、その間に接近してきた諏訪子の攻撃はよけられず、ついに、相手の鉄輪を体に受けてしまう。
「お前はただ黙って、神に従っていればいい。神の前で、従順な操り人形を名乗っていればいい。
さすれば、全ての神はお前に対して、最大限の寵愛を捧げよう。
操られ、愛され、入れ物として、ただその口を動かしているだけでいいんだ。
楽な生き方だろう? そうしていれば、お前はずっと、幸せでいられるんだよ」
早苗は体をひねって、水面に風を叩きつけることで、空中へと復帰する。
左手がぴくりとも動かない。さっきの一撃で骨折したのだろう。激痛が、絶え間なしに襲ってくる。
「黙って従っていればいいものを、お前はどうして、そこまで反駁する?
人は楽に生きることを望むものだ。
己の意思を一切間に入れず、ただ黙って、大人しくしていれば、永遠に幸せでいられるというのに。
なぜ、己の意思をそこに介在させようとする?
道具に意思は必要ない。そして、道具の幸せは、己を使ってくれる主人を持つことだ。
お前も一緒だよ。お前は幸せでいるためには、わたしという主人を持っていることが必要だ。逆に言えば、わたしがいれば、ずっとお前は幸せでいられるというのに。
これは、お前のためなんだよ?」
諏訪子は再度、早苗に接近すると、その鉄輪で相手を打ちすえようとする。
早苗は一瞬、迷いを見せる。
どう反撃するべきか。それとも、結界を張って、衝撃を緩和して耐えるべきか。
下手な行動をすれば、諏訪子はすぐに反撃してくる。相手を完膚なきまでに追い返さなくては、防御に回るほうが得策だ。
だが、それが出来るのか?
諏訪子と己の力の差ははっきりしている。
下手な結界で受け止めれば、結界ごと、諏訪子は早苗を粉砕する。余計な反撃をすれば、更なる反撃を食らう。
「――それなら!」
早苗は決断する。
諏訪子の鉄輪が直撃する瞬間、彼女は諏訪子の懐へと飛び込んだ。
子供ゆえの短いリーチは、相手が接近してきたとしても、己の間合いを保つ武器になる。だが、極限まで接近されてしまえば、それは関係ない。
諏訪子の腕が空を切る。
彼女の目の前まで迫った早苗は、動く右手で諏訪子の頭を捕まえると、思いっきり、その額に頭突きをかました。
「あいてっ」
諏訪子が短い悲鳴を上げて、思わず目を閉じる。
すかさず、早苗の突き出した祓え串が諏訪子の胸を突いた。衝撃で、彼女の体が、少し、後ろへと流れていく。
両者の距離がわずかに離れる。
「風よ!」
早苗の叫びが風を操り、その体を前方へと運んでいく。
充分勢いの乗った、肩からのタックル。諏訪子の小さな体がさらに吹っ飛ばされて、空中を舞う。
「我が奇跡、ここに顕現せしめん!」
彼女は宣言と共に、カードを構える。
「それ渡りしもの、神の道なり!
この御神渡り、これぞ神のなす神秘なり!」
――開海「海が割れる日」――
赤い、無数の閃光が諏訪子の体に突き刺さり、炸裂する。
光に束縛されて身動きできない諏訪子の左右に、巨大な光の壁が現れる。
その光の壁は、早苗と諏訪子を結ぶ空間のみを残し、高い壁をなした。
彼女たちのいる空間を結ぶ御神渡りの光は赤く煌き、諏訪子がわずかに唇をかみ締めて、身を起こし、反撃をしようとする。
早苗はすかさず、壁と壁の間から脱すると、振り上げた祓え串を左右に振り、叫ぶ。
「道よ、閉じ逝け!」
左右に割れた壁が崩れて諏訪子の体を飲み込み、爆裂する。
すさまじい光と爆風が辺りを一気に薙ぎ払い、吹き飛ばす。
光の壁に物理的に押し潰された諏訪子の姿が、閃光の中に消える。
「よし!」
その様を見ていた魔理沙がガッツポーズを作る。
やるじゃないか、と彼女は声を上げた。
「まだですよ! 魔理沙さん!」
だが、早苗からは喜びの声は返ってこない。
それを示すように、無数の、緑色の光が早苗の周囲を覆っていく。
それは牢獄のように、だが、閉じた世界からの道を示す糸か蔓のように。
早苗の周囲を覆いつくすと、一斉に、彼女めがけて雪崩れかかってくる。
「やるじゃん」
早苗が回避に走る。
攻撃をよけながら、彼女は、声のした方を向く。
崩れた光によって生み出された『瓦礫』の中。
無傷で佇む、諏訪子の姿。
――源符 「厭い川の翡翠」――
「あの程度で反撃とみなすことは出来ないけれど、少なくとも、お前はまだまだ敗北するつもりがないってのはわかったよ」
あの攻撃をどうやって耐えたのか。
たとえ、霊夢や魔理沙の知る『力のあるもの』であろうとも、直撃を受ければ少なからずダメージを受けるには違いない攻撃であっただろうに、諏訪子の体には傷一つついていない。
「力は力でねじ伏せることが出来る。
お前のような貧弱な力じゃ、この神は倒せないよ。もっと頭を使わなきゃあね」
こいつは小手調べさ、と諏訪子。
緑の蔓が次々に早苗を狙って伸びて来る。
それに捕まれまいと空中を飛び回り、早苗は反撃を放つのだが、その手から放たれる弾丸は、諏訪子の眼前で弾けて消える。
目に見えない結界が、そこにあるのだろう。
恐らく、先ほどの早苗の攻撃を耐えたのも、その結界のおかげに違いない。
「所詮、成り上がりの、付け焼刃の神がなす奇跡じゃ、本物の神のなす奇跡にゃ抗えない。
お前は賢い子だろうに、どうしてそれがわからないのかねぇ」
早苗が回避行動を取り、次の動きが拘束される瞬間を狙って、諏訪子の周囲から伸びる光の蔓が巻きついた。
彼女は手足を拘束され、空中に足止めされる。
力でそれを引きちぎることは出来ない。すかさず、何らかの術を放とうとする彼女に、
「わからないのなら教えてやろうか? 神の力が、一体何で決まるのかを」
――蛙狩 「蛙は口ゆえ蛇に呑まるる」――
放つ弾丸が早苗の周囲で無数に炸裂する。
その破裂は徐々に彼女に近づき、飛び交う弾幕が、早苗の視界を埋めていく。
じわりじわりと相手をなぶる、悪い意味でのこけおどし。
早苗は歯噛みすると、一度、途切れた術を再度行使しようとする。
「お前は神であって神じゃない。
人であって人じゃない。
どちらにも、お前は属していない。
それが、今のお前の姿だ。
お前はそれを受け入れている。いずれどちらの道に進むかを、今、お前は判断していようとしている。
遅いね、全く。
お前は生まれた時に、それを決めなくてはいけなかった。
なのに、それを邪魔した奴がいた。
それが、向こうの世界での、お前の家族。お前を人としてつなぎとめた、厄介な奴らだ」
早苗の瞳が、はっとしたように見開かれる。
彼女の視線が、諏訪子へと――迫る弾幕の向こうに隠れた、諏訪子の姿に向けられる。
「神ってのはね、生まれたときから決まってるもんなんだよ。
努力と修練の結果、神になったものも、そりゃあ、山のようにいるもんさ。
だけどね、努力して修練したら、誰も彼もが神になれるとしたら、世の中、そこらじゅう、神だらけだろ?
神になれるものは決まってるんだよ。最初から。そいつは運命ってやつだ。
その運命に気付いて、神になろうとしたものは神になれる。
最初から神だったやつは、まぁ、この際、話に関係ない。神に『なろうとした』奴だ。
人だろうと獣だろうと、虫だろうと草木だろうと、全ては変わらない。
神になれる奴となれない奴が、世の中には存在する。
お前はその中で、神になれる奴だった。わたし達、神の純粋な血を引いてきた血族の中で、珍しく、血の濃度が濃い奴だった。
わたしゃ、遺伝だとかには詳しくないけどね。お前には、その才能が、特に色濃く受け継がれてきた。そいつは間違いない。
そうしてお前は神奈子に出会った。奴はお前を歓迎し、神の技術やら智慧やらを授けた。
その時点で、お前は神になることが決定された」
ばぁん、という音。
早苗のすぐ目の前で弾丸が弾けて、弾けたその欠片が、早苗の全身を直撃する。
与えられるのは、ただ、ひたすらな苦痛だけ。ほとんど傷はつかないものの、全身を鋭い針で刺されたような、耐え難い激痛に、早苗は悲鳴を上げる。
「神奈子もそれを望んだだろう。お前が神となることを。
だが、お前の周囲には、お前が神になることを邪魔する奴らばかりだった。
お前の親。お前の友人。お前の暮らしている世界そのもの。
それがお前が神に昇華することを邪魔する。お前を現世につなぎとめる。お前を人でいさせようとする。
……正直ね、ラッキーだと思ったよ。
神奈子が『幻想郷』なんてものの存在を知ったことがね」
早苗の周囲で弾丸がはじけた。
再び加えられる激痛に、一瞬、意識が飛ぶ。
意識が暗闇に落ちる寸前、彼女の両手両足を拘束する蔓が力を増し、食い込んでくる。肌が、肉が、骨が焼かれる痛みに、再び、早苗の意識は現世に引き戻される。
「此の世ならざる神の世。もうずいぶん前に、天津神の顕現と共に失われた世界。それが、まだ、この世界にあった。
その世界は、お前にとってふさわしい。
此の世に引き止めるものが何もない、幻想の世界。姿あって姿なし。形もって形なし。
その世界でなら、お前の神への昇華は、より早く進む。
出来損ないの人間の形なんて捨てて、あっという間に神に成れる。
神の器でしかなかったお前は神になることで神の器を逃れる。人としての幸せの果てに、神になり、お前は永久に神として神の姿と神の意識と神の存在をその身に宿し、もってお前は夢幻となる」
諏訪子の姿が、早苗のすぐ前にあった。
彼女は苦痛に呻く早苗の頬を指先でなぞり、前髪に隠れた彼女の瞳を、そっと見つめる。
「お前は神になることが運命づけられていた。
わたしは最初に言ったよね? お前は入れ物として動いていれば、人として幸せになれた、と。
けど、お前はそれを嫌うだろう。そして、お前はそれを否定するだろう。
しかし、外の世界じゃ、お前はどうやったって神にはなれなかった。
お前の周りにある、たくさんのものがそれを邪魔した。わたしはこいつらが憎くて憎くてたまらなかった。
わたしの子であるお前が、いつまでたっても、その程度の存在に過ぎない、神の器たる人の身に貶められていることが、悔しくて悔しくてたまらなかった」
彼女は親指に歯を立てて、肌を食い破る。
流れる血。
赤い血。
諏訪子は左手を早苗の服にかけると、それを一気に破り去る。
「これが神の血だ。
お前の中にも流れている。感じるだろう? 己の血の脈動を。わかるだろう? お前の中を流れる、汚らわしい人の血を。
熱くなれ。形を成せ。今を捨てろ。己の御魂に呼応しろ。
この血の赤を。血の疼きを。人の血など、全て吐き出してしまえ」
早苗の素肌の上に、諏訪子の血が印を描く。
その印の形は不可解極まりないものであり、霊夢ですら『……何、あれ』とつぶやくもの。
描かれた印は真っ赤に輝き、心臓の鼓動のように、その光を明滅させる。
「神となったお前を、わたしは導いてやろう。わたしはお前の親だ。お前の母だ。お前の存在を、永遠に、どこまででも受け入れよう。
お前は神としてわたしにつき従い、そしていずれは神としてひとり立ちしていく。
わたしの言うことをきちんと守って、わたしに従順にしていれば、わたしの愛はお前のために、どこまででも注がれる。
お前は神として、神の遣いとなって、大勢の民から信仰を集め、人よりも一つ高い場所に存在するようになる。
お前は入れ物として、器として、遣いとして、民に受け入れられていく。
神から見れば、民などは愚かなものよ。与えられる寵愛にどこまでも感謝し、入れ込んでくれる。何も考えずに。ただ、神の愛だけを求める。
そんな民にな、神は必要以上に近づいてはいけないのさ。
愚かな民は、いずれ、神を人と同一視しようとする。神を人に同化させようとする。
そうした愚か者どもは裁きと罰で一掃する。
民は恐れる。お前を。民は畏れる。お前を。
あめと鞭を使いこなして、お前は民をいずれ使役し、自らの『民』となす。
お前はそうして神へと近づいていく。やがてはわたしから離れて、一個の神として、一つの国の頂点に君臨する。
神はいいものだよ。
なあ? 人の身なんて、もういらないだろう? 人としての記憶なんて必要ないだろう? 人としての感情なんて入る余地もないだろう?
神になれ。神となれ。神として己を君臨させろ。お前ならできる。わたしは信じているよ」
早苗は何も出来ず、ただ、相手のなすがまま、されるがままとなっている。
その光景に、魔理沙は、『早苗は敗北を認めたか』と思った。
次は私がやってやる。そんな想いを瞳に浮かべる彼女だが、少しだけ、困惑の色もある。
諏訪子の調子がおかしい。
最初の頃のように、邪悪さだけを前面に出した姿がない。今の諏訪子の姿には、邪悪さと共に、早苗のことを本当に想っているような雰囲気すら認められる。
手段が違うだけで、諏訪子は早苗のことを、言葉だけでなく、本当に愛しているのではないか?
その疑問を持つ魔理沙は、隣の霊夢を見る。
霊夢は何も言わない。黙って、彼女は早苗と諏訪子を見つめている。
どうするべきか。
魔理沙は迷った末に、左手に握った八卦炉を相手に――諏訪子に向ける。
そして、攻撃を放とうとした瞬間、その左手を、霊夢に掴まれた。
諏訪子の言葉に間違いはあるのだろうか。
早苗は己に問いかける。
与えられる言葉は、確かに、間違いに満ちている。早苗の都合など何一つ考えず、早苗が神になることを、ただ望む彼女にとって、邪魔なものを指折り列挙し、排除した――それは、早苗にとって、全てが『誤り』となる。
しかし、それは、諏訪子にとっては――神の視線にとっては、正しいことなのだろう。
神は人の都合など考えない。神は己の倫理と論理に従って動く。己の全てを己で肯定し、あらゆる行為に意味を持たせ、それを正しいものとして、外側へと顕現させている。
諏訪子にとって――早苗を神に押し上げたい諏訪子にとって、彼女のなしたことは全てが正しく、早苗の全ては否定される。
ただ、それだけのことだ。
反論など入る余地もない。
相手の言葉を真っ向から否定しても意味がない。
ならば、どうする?
「わたしは――」
声が響いた。
ならば、己の中で結論を下すしかない。決断するしかない。
今、この時、この場所をもって。
まだ早いと言われようとも、まだその時ではないと言われようとも、今、決断するしかない。
真っ向から与えられている結論に反抗するのなら、同じくらい、意味のある『決断』をするしかない。
追い詰められているのか?
そうせざるを得ない状況に、追い込まれてしまったのか?
――違う。
それは、今、『その時』が来たに過ぎない。
『その時』がいつ来るかなど、誰にもわからない。
明日か、一週間後か、一年後か、十年後か。
もしかしたら、一生、それは来ないかもしれない。
だが、逆に、一時間後、十分後、一分後、一秒後にそれが訪れるかもしれない。
人生というのは不思議なものだ。
積み重ねてきた歴史というのは、不思議なものだ。
因果なものだ。
今、早苗は決断を下す機会を得た。
己の頭の中で整理した、全ての情報をもって。
人としての記憶。過去。歴史。
神としての記憶。現在。未来。
それを全て総合して、まとめて、頭の中で理屈を立てて理論だてて、誰からも反論されない結論を出して。
早苗は、決断する。
「わたしは、神となる」
その宣言をしたのは、早苗。
諏訪子は顔に歓喜の表情を浮かべ、「そうか、そうか!」と喜んだ。
子供のように無邪気にはしゃぐ彼女。
対照的に、魔理沙は苦い表情を浮かべて二人を見る。
「だけど――」
早苗の両手に力が戻る。
握り締めた彼女の拳が光を増し、それが全身に回ってくる。
諏訪子が『え?』という表情を浮かべた。
早苗の肌に塗られた諏訪子の血が、乾いてぼろぼろと落ちていく。
対照的に、早苗の体に、その下腹部から赤い光が走っていく。
それは、血の流れ。彼女の中に宿る『神』之血。
諏訪子は困惑と共に驚きの表情を浮かべて、早苗から距離をとる。
「わたしが成るのは、『わたし』という神だ!」
「……なんて傲慢な宣言だよ」
早苗の宣言に、魔理沙は呆れたようにつぶやいた。
早苗の体を拘束していた蔓が弾け、彼女の周囲を覆っていた緑の光も弾き飛ばされる。
彼女の体からあふれる、彼女の『霊』。
宣言と共に解き放った言葉が、彼女の『意之霊』。
それを、諏訪子は理解できない。
今まで、早苗を培ってきたもの。彼女を育ててきたもの。彼女の周囲を包み込んできたもの。
その全てを彼女は内包する。
彼女の存在は、彼女によってしか定義されるものではない。外部のものから示されるものではない。
その彼女にとって、『神』となることは、諏訪子や、そして神奈子が意識する神となることとは違う。
「人としての記憶をいつまでも残し、人としての姿を無様に持ち続ける!
わたしの神としての姿は、『神』ならざるものとなる!
わたしは人でありながら神になる! 人のまま、神になる!
わたしは純粋な神ではなく、『現人神』として! 人である神として! すなわち、神になる!」
やはり、早苗は、己を纏う『しがらみ』を捨てることは出来なかった。
その宣言で、彼女自身も、はっきりとそれを自覚する。
神奈子は恐らく、悲しむだろう。もしかしたら怒るかもしれない。
しかし、それならそれで仕方ない。
早苗は決めたのだ。己で定義したのだ。
神となる事の意味を。
もはや己は純粋な神となることは出来ない。
諏訪子の言った通り、彼女が神となるには不適格なものが多すぎる。
人間としての姿が、人としての血が濃すぎる。神としては、あまりにも、『純度』が足りない。
だが、彼女は、それを捨てられない。
己を作っているものを捨てることも、忘れることも、絶対に出来ない。したくない。させない。決して。
ならば、そのまま、神となろう。
彼女は決意する。
諏訪子の言う通り、己はいずれ、神になるしかないのだとしたら、あえて人の姿のまま、神となろう。
誰からも忘れられ、失われた幻想である己であったとしても。
己の中の『現実』は消えることはない。
今までを培ってきた、己の中の『現実』は、いつまででも、彼女の中に残り続ける。
――そんな神がいてもいいじゃないか。
早苗の視線は霊夢に向いた。
霊夢は笑って、その親指を立てる。
彼女は言った。
『人生、メリハリが大切よ』
――と。
神として張り詰めた人生ばかりを送るのは、あまりにも疲れてしまうだろう。ましてや、己の性格は、もう変えられないのだ。
クソ真面目にまっすぐに神様をやっていたら、そのうち、疲れて寝込んでしまう。
そんな神様にはなりたくない。
なるのなら、人として、人の姿を持って、民である人々から親しまれる『現人神』として。
本物の神様から見れば不敬極まりない、いい加減な神様。しかし、人々から見れば、とても親しみやすい『人』。
そんな神となろう。
民から与えられる信仰は、儚き人であるわたしのために。
それが、神奈子と諏訪子の教えを理解した、東風谷早苗の道なのだから。
「負けてなるものか!」
早苗は宣言と共に、新たなカードを取り出す。
「不完全な神様は、他の神様の力を借りても文句は言われない! そうでしょう!?」
――準備「サモンタケミナカタ」――
「……そうか」
早苗に宿る、その力。
膨れ上がる『神』としての気配に、諏訪子はつぶやく。
「……そういうことか」
彼女の顔が上げられる。
その瞳に浮かぶのは絶望と失望の色。
信じたものに裏切られた、子供の顔。
「やっぱり、全部、壊しておけばよかった。
お前を包むものを全て、わたしの力で取り殺し、なくしてしまえばよかった。
お前をこんなにも縛り付けて、お前を捕らえて、お前を苦しめるものならば――」
諏訪子は、泣いていた。
彼女の瞳から留処なくあふれる涙。
それが、彼女の力を顕現させる。
「全部、あの時、壊してしまえばよかったっ!」
――「諏訪大戦 ~ 土着神話 vs 中央神話」――
「お、おいおい! こっちはギャラリーだぞ!」
「見てるこっちも危ないわ。ここにいると」
霊夢と魔理沙が二人から距離をとる。
周囲一面に降り注ぐ、巨大な弾丸。それは一発一発が巨大なクレーターを生み、山の地形を変えていく。
大地から無数に伸びる巨大な蔓が天で花を咲かせ、そして、その種子をばら撒く。
降り注ぐ弾丸。それをまるで迎え撃つような光の蔓。
両者の争いが、全く関係のないものを巻き込み、拡大していく。
「お前はわたしの元を離れ、神奈子の元に行った時、わたしに言ったな!?
『わたしが人身御供となることで、両者の神の間をつなぐ。人として、神と神をつなぐ礎となる。この国のために。諏訪子さまのために』と!
あの時、わたしはお前を、殺してでも止めるべきだった!
ああ、国は豊かになったさ! 民の信仰は神奈子ではなく、わたしの元に、さらに集まったよ! 力強く!
だけど、わたしはお前を失ってしまったんだっ!」
早苗は、自分の頭上に降ってくる弾丸を、その拳で殴り飛ばす。
足下から伸びる蔓を、折れたはずの左腕を振り回して切り倒す。
神と『神』の力と力のぶつかり合い。
諏訪子は己の嘆きを呪いとして吐き出しながら、早苗を攻撃する。
その攻撃の激しさはすさまじく、それほどの力を発揮しながらも、早苗が全く近づけないほどだ。
「今だってそうだ!
お前は幼い頃から神奈子の存在に気付いていた! 神奈子の元に、その信仰を授けていた!
だけど!
だけど、お前は、わたしの存在に気付かなかった!
ずっと、お前の側にいたのに! お前の側にいて、お前の成長を見守って、お前を守ってきたのは、神奈子じゃない! わたしだ!
それなのに、お前はそれに気付かなかっただろう!
わたしは、お前のために……お前を守って、お前を育てることに、何よりも一生懸命だったのに!
どうして、お前はわたしに反抗するんだ!」
早苗は飛んできた弾丸を受け止めると、諏訪子に向かって投げ返す。
諏訪子はそれをよけると、手にした鉄輪で反撃する。
上下と正面、三つの方向から繰り出される攻撃に、早苗は歯噛みし、後ろに下がる。
「お前にわかるのか……!
お前に、わかるのかっ! 我が子からすら見てもらえなくなった、母親の気持ちをっ!
お前にわかるというのか!
まつろわぬ民にとって、神はわたし一人なのに! お前にとっての神様は、わたしなのにっ!
それなのに……それなのに、それなのに、それなのにっ!
それなのに、我が子に触れられないわたしの気持ち、お前にわかるというのかっ!
大好きな……愛した子供に、『お母さん』と呼ばれない母親の気持ち! 今のお前にわかるというのか!」
力が入りすぎて、諏訪子の手から鉄輪がすっぽ抜けた。
早苗はそれをすかさず奪い取ると、空いている左手で諏訪子の胸に一撃を加える。
ぐっ、と呻いた諏訪子の体を、右手に持った鉄輪で殴りつけて、跳ね飛ばす。
「お前が神となれば、お前はわたしと一緒の存在になる!
また二人で暮らせる!
わたしは諦めないぞ……! お前を取り戻すために、その穢れた人の体、人の血、人の意之霊、全てを追い出してやる!
追い出せないのなら、祟り壊してやる!
お前はわたしの子供……! わたしの、大切な大切な宝物! 絶対に、誰にも渡さない! 誰にも傷つけさせない! ずっとずっと、お前をわたしの側にいさせてみせるっ!」
――祟符 「ミシャグジさま」――
「ようやく、正体を現したか」
「ん? 何か言ったか、霊夢」
「正体を現したか、って言ったのよ。
あいつ、諏訪子じゃないわ」
「は?」
降り注ぐ弾丸と蔓を跳ね飛ばす早苗の前で、巨大な白蛇が形をなす。
無数の蛇の口から吐き出される猛毒が形を成し、早苗へ向かって、その体を覆いつくそうと迫る。
「諏訪子じゃないって……」
「ああ、いや、諏訪子じゃないってのはおかしいか。
あれは『諏訪子』なんだけど『諏訪子』じゃないの」
「さっぱりわからん」
その様を眺める霊夢と魔理沙。
早苗と諏訪子の激しい戦いを見つめる二人の視線は、異なっている。
「確かに、あれは諏訪子だわ。それには違いない。
だけど、あいつは諏訪子の本体じゃない。
分霊って知ってる?」
「ああ、まぁ……。
あれだろ? 神様とか妖怪が、自分の分身を作る……」
「そう。
あいつは諏訪子の分霊なのよ。諏訪子本体からは独立した、己の意思を持った分霊。
珍しい妖怪だわ」
多分だけど、と霊夢。
「諏訪子は自分の子供を生む時に血を分けた。
神の血には神の『霊』が宿る。血は力。血は霊。血は絆。その時点で、早苗……というか、自分の子供には諏訪子の『分霊』が宿った。
そして、早苗のご先祖様が諏訪子の元を離れた時に、諏訪子はもしもの時、万が一、早苗たちの身に危険が迫った時に、分霊が意思を持って、目覚めて活動するような細工をした。
全ては、早苗の……自分の子供のために」
だから、あいつ、泣いてるのか、と。
魔理沙は小さな声でつぶやく。
諏訪子の放つ攻撃に容赦はない。
だが、最初の頃のような精度や調子は存在せず、ただ闇雲に早苗に向かって攻撃しているようにしか見えない。
感情が弾けて己の力が制御できなくなる――神ならばありえないが、人の身ならば、よくあることだ。
「時が経って、神の血に余計なものが混ざっていくに連れて、あの子は諏訪子を認識できなくなっていった。
それでも、諏訪子はあの子の側にいて、ずっとあの子を守っていた。
あいつは早苗を溺愛してたのよ」
「……なるほどね」
「あの子のことが大切で、守りたくて、だから、人を超えた存在にしようとした。
神として存在を昇華させることで、人以上の力が、あの子に宿る。そうしたら、あの子はもっと強くなって、安心。
そのために強引な手段をとって、あの子を傷つけて……。
だけど、それを、あの子のためと信じて疑わなかった。
分霊って、自分の意思を持ったとしても、最初に与えられた魂に逆らうことは出来ないのよね。
あいつはただ、『早苗を守る』ことしか考えてないのよ」
しかし、今の『諏訪子』はもはや悪神であり、誰からの信仰を集めることもなければ、誰からも愛されることのない存在となってしまった。
彼女はそれに気付いていない。
早苗のために一生懸命な『自分』が、『悪』であるはずがないと信じきっている。
それは文字通り、純粋な、悪意なき悪意なのだ。
「……何か考えさせられるわね」
「……ノーコメント」
しかし、だからといって、今の『諏訪子』を放置することなど出来ない。
ほったらかしておけば、悪神と化した彼女は際限なく、自分の『愛』を暴走させて回りに多大な被害をもたらすことだろう。
今、この場で滅ぼさなければならない。
そして、それをなすのは、彼女が愛し、守ろうとした『我が子』の早苗。
霊夢はぽつりと、「私がやるって言えばよかったかな」と、小さくつぶやいた。
「その力で、わたしに勝てると思うなよ」
降り注ぐ蛇の毒。
それを必死に回避し、弾き、しかし攻めあぐねている早苗に、諏訪子は言う。
「その力はわたしの力だ。
わたしの元から分かれた力で、わたしに勝てると思うな。
お前はまだ、出来損ないの神だ。その中途半端な存在が、神として完成したものにかなうはずがあるか!」
早苗の放つ弾丸が、諏訪子へと迫る。
しかし、諏訪子の呼び出した白蛇が壁となり、届かない。
一匹が倒されても、またすぐに別の白蛇が現れて形を成す。
反撃に、一斉に放たれる弾丸と蛇の猛毒。
早苗は後ろに下がると、右手を振り上げる。
彼女の右手が光を持ち、そこから薙ぎ払うような形で放たれる光の刃がその攻撃を撃墜した。
空中で、いくつもの光の花が咲く。
その閃光が早苗の視界を圧し、一瞬ではあるものの、世界を真っ白に染め上げる。
「どうしてわたしに逆らう!?」
諏訪子の手から放たれる閃光が、動きの止まった早苗の右肩を捉える。
痛みに呻く早苗。
すかさず、その傷跡に、諏訪子から伸びる白蛇が食らいつく。
「わたしの言うことに従って、黙って大人しくしていれば!
神奈子のところなんかに行かず、わたしのところにいてくれれば!
そうしたら、お前は何も変わらなかったのに!
神性を維持したまま、人の世に溶け込むこともなく、神としての道を順調に歩んでいたのに!
そうしたら、こんなに苦しまなくてすんだのに!
どうして、わたしに逆らうんだ!」
早苗は、食らいつく蛇の胴体をねじ切ると、その体を宙へと投げ捨てる。
蛇は宙に溶け消えて、再び、諏訪子の元へと現れる。
この蛇は倒しても無駄。
そう判断した彼女は、攻撃を放つ本体である『諏訪子』に視線を移す。
「わたしの作った、わたしの国にいてくれれば! わたしの側にいてくれれば!
そうしたら、お前は、傷つかなかった! 絶対に!」
相手の攻撃を弾き、受け流し、反撃の機会を伺っていた早苗が、体に違和感を覚える。
視線を下げると、右足に、小さな蛇が食らいついているのが見えた。
慌ててそれを振り払うのだが、次から次へと、蛇が噛み付いてくる。
足、腕、胴体、頭、顔、指先、乳房、股間。
全身を蛇に埋め尽くされて、早苗の動きがついに止まる。
「今からでも遅くない。
わたしのところに戻って来い。もう一度、二人で、この世界に国を築こう。
一緒に、幸せに……!」
「そこに、わたしの意思はあるんですか?」
すがるように早苗に近づき、声をかける諏訪子に、早苗は問いかける。
蛇に体の動きを止められても、口は動く。
早苗の問いかけに、諏訪子は「そんなものは必要ない」と答える。
「お前はわたしの言うとおりにしていればいい。
わたしはお前を、必ず、幸せにしてやる。お前は、ただ黙ってついてくるだけでいい。
お前に必要なものは、全て、わたしがそろえてやる。
お前に何かあったら、わたしが全力で、それを排除してやる。
だから……!」
「いやです」
諏訪子の声が、動きが止まる。
我が子から告げられる、明確な拒絶の意思。
それを正面から受け止めて、諏訪子はふらつき、顔に絶望の色を浮かべる。
「わたしは……わたしだって、一人の人間です。
わたしは、わたしの意思で、わたしの命に従って動いているんです。
誰かから与えられるだけの人生なんて、絶対にいや……! ましてや、誰かの言いなりになって、空っぽの道具みたいに使われるのなんて、絶対にいや!
わたしの意思を……わたしの意之霊を邪魔しないで!」
諏訪子は歯を食いしばる。
拳を握り締め、目元に浮かんだ涙を、服の袖でぬぐう。
「……そうかい」
諏訪子は後ろに下がると、巨大な白蛇を一匹、背後に携える。
「なら、もういい。
そこまで親に逆らう子なんて、もう、わたしは知らない。
消えてしまえ。
わたしのところに戻ってこないなら、消えてしまえばいい!
もう一度、子供を産めばいい! お前のような子供じゃなくて、本当のわたしの子供を!
お前みたいな悪い子なんて、もう、いなくなってしまえ!」
自分の感情を制御できなくなったものの行き着く先はただ一つ。
ためにためたものが外に向かって弾けて、全てを台無しにすることだけ。癇癪を引き起こすだけ。
文字通り、その命をかけて守ってきた我が子すら、もういらないと絶叫してしまえるほど、それはとてもとても悲しいもの。それは、涙と共にあふれるものを抑えられなくなったものの、悲しい末路だ。
諏訪子の叫びに呼応して、巨大な口を開けて、蛇が早苗へと向かっていく。
早苗は、大きく息を吸う。
吸い込んだ息を肺の中に溜め込んで、膨らました後、吐き出す。
そして、叫ぶ。
「いい加減にしろぉっ!」
その絶叫は、文字通り、妖怪の山を鳴動させた。
空気が震え、大地が振動し、どこまで遠く、長く、伝わっていく。
同時に、山に漂っていた神力を呼吸によって取り入れた彼女の力が炸裂する。
早苗に噛み付いていた蛇が全て、吹き飛んでいく。
なお向かってくる大蛇の顎を、彼女の両手が受け止める。
「本当にわたしのことが……! 本当に、自分の子供が大切ならば、その子供のことをどうして包み込んであげないんですか!」
すさまじい力と勢いで、己を丸呑みにしようとする蛇を支えながら、早苗は続ける。
「子供はいずれ成長し、親元を離れていくものです!
その時に存在するのは、己の意思! 母親……親のことを考える中で下した決断!
貴女の元を離れた、貴女の子供は、それが本当に貴女のことを想って、貴女のためになした決断なのに!
どうしてそれをけなすんですか! どうしてそれを認めないんですか! どうして、貴女は子供の意之霊を、大切に想ってあげなかったんですか!」
彼女の両手が蛇を引き裂く。
悲鳴すら上げることなく、蛇は此の世から消滅し、消えていく。
「その想いゆえに、貴女が妄執に囚われ、悪神となったならば!
我が秘術でもって、その悪心を祓ってみせる!」
諏訪子の動きが完全に止まる。
早苗の指が、腕が動き、呪と印を結ぶ。
紡がれた印は形となり、赤と青の奇跡となって、諏訪子へと――諏訪子の形をした『妄執』を捉える。
――秘法「九字刺し」――
紡がれた呪は法となって、諏訪子を封じていく。
術に紡がれた無数の呪。
それは諏訪子の中の、乱れた存在を中和し、封じていく。
諏訪子の悲鳴。
長く響くそれは、ある一瞬で唐突に収まっていく。
「何で……。どうして……」
術に捉えられ、封じられるその力。
中和されていく存在。
諏訪子の瞳に浮かんだ涙が、ぽたりと、その服に雫を落とす。
「……どうして……わかってくれないの……」
その言葉を残して、彼女の姿は消滅した。
「おっと」
魔理沙が、何かを見つけ、霊夢と共にそこへ移動して、『それ』を受け止める。
「何だこりゃ?」
それは、蛙の顔の髪飾り。
何事もなかったかのように、日差しを降り注がせる太陽に、彼女はそれをかざしてみせる。
早苗は魔理沙の元へ舞い降りると、「……それ、わたしのです」とつぶやいた。
「お前の?」
「あ、はい。
……そういえば、さっきから、ないなと思ったら」
自分の頭をぺたぺた触る彼女。
本来なら、そこに、その髪飾りがあったのだろう。
とりあえず、魔理沙は、それを早苗へと手渡した。
そして、
「……なぁ、霊夢。あいつは一体何を食ったらああなるんだ?」
「……知るかい」
「あ、あの……出来れば、あんまり見ないでいただけると……」
諏訪子との戦いで服を破かれて、見事な裸身をさらしている早苗が、恥ずかしそうに胸元と股間を手で隠した。
それと同時に、体に刻まれた激痛が戻ってきたのか、彼女は呻いて身を折る。
慌てて、魔理沙と霊夢が左右から、早苗を支えた。
「しっかし、よくやったもんだ」
「幻想郷に来て、初めての妖怪退治が神様退治なんて、あなた、やるじゃない」
「あはは……。
ほめていただけると嬉しいです……。あいててて……」
「待ってろよ、すぐに永遠亭に連れて行ってやるからな」
立ち去ろうとした、その時だ。
ざっ、と一瞬、風が舞った。
その気配の入れ替わりに、はっと気付いたのは早苗だった。
遅れて霊夢が、そして魔理沙が気付く。
振り返る。
波立つ水面。それが徐々に割れて、そして、ざばっという音を生み出す。
「や」
水の中から現れた、その顔。
彼女の顔に、一同は見覚えがある。
慌てて、魔理沙が八卦炉を構え、「諏訪子!」と叫んだ。
水の中から現れた『諏訪子』は、慌てて両手を顔の前でぶんぶんと振る。
「ちょ、ちょっと待った! ストップ、ストップ!
わたしはあいつじゃないよ! 本物の洩矢諏訪子!」
水の上にぴょんと現れた彼女は、「まだ目覚めたばっかりなんだから、怖いのは勘弁しとくれよ」と呻く。
三人は顔を見合わせる。
先ほどの『諏訪子』と、この『諏訪子』。見た目は完全に一緒だ。
霊夢の見立てでは、あの『諏訪子』はこの『諏訪子』の分霊――つまり、分身みたいなものだった。
となれば、この『諏訪子』もまた、あの『諏訪子』のように早苗に対する妄執に取り付かれている可能性もある。
慎重に、油断なく、三人は彼女を見つめる。
どうしたもんかと『諏訪子』は頬をかいた。
「えーっと……。
わたし、悪い神様じゃないよぅ! 攻撃しないで! けろけろ――なんて」
ふざけてみせるのだが、三人の警戒が解かれることはない。
はぁ、と諏訪子はため息をついた。
そうして、両手を挙げる。
「攻撃する意思はないから。大丈夫だってば」
さすがに『降参』の意思表示をしたものには、ある程度、警戒を解くのか、三人の気配が緩む。
ほっと息をついた諏訪子は、その視線を、三人の後ろに向ける。
「おっ、かーなこー! ちょっと、この子達に説明してやっておくれよ! わたしは悪い神様じゃないよー、って!」
三人は振り返る。
いつの間にか、その後ろに、神奈子が立っていた。
神奈子は一同を見渡した後、一言、告げる。
「諏訪子。お前が悪い」
――と。
「まぁ、つまるところね」
ここは、深閑とした竹林の中に佇む永遠の館。
そこの一角――入院患者用の病室に、早苗たちは通されていた。
早苗の病状は、そこを統べる医者――早苗曰く『眼鏡、白衣、おっとりお姉さん、巨乳、ストッキング。まさに完璧ですね』――曰く、『だいぶ怪我はひどいけれど、うちに一週間も入院していればよくなります』とのことだ。
そして、一同の視線は、湖の中から現れた少女、洩矢諏訪子へと向いている。
「あいつは――わたしの分霊は、悪い奴じゃないんだよね」
そう、彼女は軽い感じで語る。
「あいつはそもそも何者なのよ」
霊夢の問いかけ。
諏訪子は「人間の世界の認識で言うなら、アマツミカボシとかあのあたりかな」と答える。
「……あの、それ、神話に残ってる最悪の悪神の一人なんですけど」
「だけど、タケミナカタの側面の一つだからね。
ミシャグジさまの色んな姿の一つでもあるし」
早苗の言葉にも、諏訪子は動じない。
ということは、この彼女は、『神話に残る悪神』の側面を持っているということだ。
このように幼い少女の見た目に反して、中身はかなりやんちゃであるということである。
「神奈子は知ってたんでしょ?」
「早苗が……というより、早苗の先祖、つまりはお前の子供が私のところに出向いてきた時から知っている。
こいつには何かが取り付いている、と。
だが、祓う必要はないと感じたから、そのままにしておいた」
「その考えは正しい。
あれは、わたしが、早苗を……我が子を守るためにつけておいた安全装置だからね」
諏訪子の話によると、大昔、まだ神代の時代。
神奈子に負けた諏訪子は、その統治していた国を神奈子に盗られることになった。
だが、神奈子は所詮、外様の神。彼女を信仰する民が出てくるとはとても思えない。
そこで、諏訪子の子供――要は、早苗の先祖は、『この方は、諏訪子さまもお認めになった、民に益なす神です。皆さん、諏訪子さまはこの方に国の統治を依頼しました。自らのご利益と、この方のご利益をもって、さらにこの国を発展させてみせます』というアナウンス兼プロモーション係として。彼女は、神奈子の元に『嫁ぐ』こととなったのだ。
「ま、我が子だしね。
何かあったら不安だから、分霊を持たせたってわけさ」
以後、諏訪子は国の裏に回り、国の統治を続けた。
表に出た神奈子は、諏訪子の子供と共に国を守り立て、より一層の発展を――となるはずだったのだが、結果としては、今のような現状にある。
「長い時間の中で、早苗の先祖は、誰一人として病気やら事故やらで死んでいない。
みんな天寿を全うしてる。
それは全部、あいつが、早苗のことを守っていたからなんだよね」
時が経つに連れて、国は失われ、民は離れ、もって信仰心は失われる。
諏訪子と神奈子は何とかして、自分たちの存在を維持し、その力を維持しようとしたのだが、うまく行かない。
そうこうしているうちに失われた信仰のせいで、この二柱の神の力は弱まっていく。
このままでは己の存在が維持できなくなるとして、諏訪子は神社の中にある湖に造られた社で眠りについた。
後のことは、神奈子に丸投げで。
「……それってどうなんだよ」
「わたしが実務担当だしねぇ。
営業担当が神奈子だもん。信仰の拡大は、神奈子の役目」
ひょいと肩をすくめて、諏訪子は魔理沙に答える。
神奈子は、はぁ、とため息をついていた。
そうして、諏訪子の存在が、一時的にせよ隠されたことで、諏訪子の『分霊』は自分へと指示を下す本体を失い、元から組み込まれている指示――つまり、『我が子を守る』ことのために動き始める。
我が子に害をなすものを遠ざけ、我が子に危険が迫れば、その身を挺して守り抜く。
それを、何百年、何千年と続けてきたのだ。
『彼女』の活動には、神奈子も理解を示していた。
自らの元に嫁いできた、自分にとって『外様』の存在であろうとも、『早苗』は神奈子のために尽くしてくれた。
彼女のことを愛おしく思う神奈子にとって、『彼女』の存在はむしろ好都合だったのだ。
「その結果が、この大暴れというわけね」
「そういうことになる」
「……悪気の欠片もないわね」
「もし、私が謝るとするならば、あいつが私の予想以上のことをして、早苗を守ろうとしたことだ。
私が頭を下げるべきは早苗であり、お前じゃない」
きっぱりはっきり言う神奈子に、霊夢は絶句する。
早苗が苦笑いを浮かべ、諏訪子は「だけど、まさか、早苗の存在を外の世界から消し去るとは思わなかったね」とつぶやく。
「……確かに。
あの時、何者かの力が働いたのを感じたが……」
「うまいこと、ミシャグジさまの毒を回らせたんだろうね。
あの毒が呪いとなって、人間たちに回りきったのさ」
ということは、『彼女』は神奈子が幻想郷に行くことを決意する、もっと前から、ひょっとしたら動いていたのかもしれない。
神奈子という、力を失いつつあっても強力な神にすら気付かせずに何らかの行動を起こすのは並大抵のことではない。
本当に少量の『毒』を、早苗が生まれた当初から、彼女の周囲にばら撒き続けていたのだとすれば。
「あいつは一体、神奈子が言い出さなかったら、どうしてたんだろうな」
「もしかしたら、自分の命も、そう長くないことを感じていたのかもしれないね」
分霊は、本体から力の供給を受けられなくなれば、いずれ弱って消滅する。
諏訪子ほどの力を持った神だからこそ、分霊も、何百年、何千年と力を維持することが出来たのだが、それもいよいよ限界に達していたのだとすれば。
本来の目的――『早苗を守る』ことが出来なくなると感じた『彼女』は、最後の力を振り絞って、早苗を『神』へと昇華させ、現世に存在するあらゆる艱難辛苦から早苗を遠ざけることのできる、『神の世界』へ、早苗を押し上げようとしたのかもしれない。
すでに、『彼女』は封じられ、その力は、その御魂は、もうここにはない。
『彼女』の口から、真相を語ってもらうことは出来ない。一同に出来るのは、『彼女』がどうしてこんなことをしたのか、推測するだけだ。
「だから、あんなに弱かったのかもね」
「弱い? お前、見てたのか」
「まぁね。社の中から見てた。
やばくなったら飛び出そうと思ってたけど、早苗が思いのほか、奮闘してたからさ。
本来のあいつの力じゃないなーとは思ってたよ」
「……あれでですか?」
「当たり前じゃん。仮にもわたしの分身だよ?」
それで徹底的に苦戦させられた早苗は顔を引きつらせる。
――ともあれ、これで事件は一件落着。
霊夢と魔理沙による異変解決も終局である。
二人は顔を見合わせると、立ち上がる。
「それじゃ、早苗。ゆっくり体、治しなさいよ」
「またな。明日か明後日に、私の知り合いとか連れて見舞いに来るよ」
「あ、はい。
すみませんでした。霊夢さん、魔理沙さん」
「いいよいいよ。お菓子、美味しかったし」
「神と戦って、こいつを負けさせたんだからな。いい経験をさせてもらったぜ」
二人は笑いながら踵を返す。
そして、『またね』と声をかけて、部屋を後にしようとして、
「あーっ!」
響く第三者の声。
何事かと振り向く一同の視線の先には、障子を開けて佇む文の姿。
「もしかして、もう全部、終わっちゃいましたか!?」
「もう全部、って……。
早苗たちのこと? まぁ、そりゃ」
「そんなー!
せっかく、いい記事が作れると思ったのに!」
「お前、霊夢にこてんぱんにやられたくせして、まだそんなこと言ってんのかよ」
「それとこれとは別ですよぅ!」
地団太を踏む文。
彼女の唐突な出現に、一同の顔に笑顔がもれる。
「せっかく、早苗さんをたきつけて、霊夢さんと一戦交えさせたらいい絵が撮れると思ったのにぃ!」
――そして、その一言で、一同の笑顔は硬直する。
「……あれ?」
文はきょとんとなった後、『あっ……』という顔になった。
「あ、あの、私、今、何かものすごい失言をしたような……」
「なるほど」
文の右肩に、魔理沙の手が載せられる。
「つまるところ」
その左肩に、霊夢の手。
「早苗たちがさー、幻想郷にやってきた理由とか、その辺りのことは解消したんだけどさー。
わだかまりがあったのよねー」
「そうだよなー。
あんな人畜無害な顔した奴が、霊夢に宣戦布告なんて、どうもおかしいと思ってたんだよなー」
「いっ、痛い痛い痛い痛い痛い! お、お二人とも、ちょっとタンマタンマタンマ折れる折れる折れるぅぅぅぅぅ!」
ぎりぎりめきめきと、二人の手が文の骨に食い込んでいく。
人間とはとても思えない握力に、文が悲鳴を上げた。
「お前が犯人だったのかー」
「以前、徹底的に痛めつけられたくせにこりてなかったのねー」
「なぁ、どーする? 霊夢」
「焼き鳥にして、鳥鍋作りましょう」
「おー、いいなー。んじゃ、とりあえずマスパかなー」
「私、夢想封印しちゃおっかなー」
笑顔で『ごごごごごごごご!』という擬音と共に必殺奥義を取り出す二人に、文の顔が引きつり固まる。
その時。
「ち、ちょっと待ってください!」
そこに、救いの女神参上。
早苗が二人と文の間に割って入り、「待ってください!」と声を上げる。
「確かに、文さんがそういうことをしたのかもしれません!
だけど、それをしたのはわたしで、乗せられたわたしが悪いんです!」
「……あのさー」
「お前、人がいいにも程があるぞ」
「さ、早苗さぁぁぁぁぁん、助かりましたぁ~」
「それに、文さんは、わたしに幻想郷での色々なことを教えてくださいました。
幻想郷で、一番最初に、わたしの友達になってくれたのも文さんです」
必死に訴えかける早苗に、霊夢と魔理沙は困ったように顔を見合わせる。
一方の文は、地獄に仏と言わんばかりに早苗の背中にすがる。
「だから――」
早苗は、そこで文に振り返る。
「一発殴るの、わたしの役目ということで♪」
『よし許す』
「ちょ、そんなぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!?」
とはいえ、『親しき仲にも礼儀あり』。
悪事を働いた友人は、懲罰を与えなくてはならないだろう。
笑顔で早苗は文に振り返る。
その笑顔は、まさに、『殺ス笑ミ』。
早苗は拳を握り締め、チャージを始める。
「ま、待ってください、早苗さん! あの、私、悪気はちっとも……!」
「大丈夫。痛くないですよ。
痛いって感じる前に意識が飛びますから」
「ためてますよね!? それ、今、めっちゃためてますよね!?
に、逃げ……って、結界ぃ!?」
「文、あんたなら大丈夫よ」
「そうだな。零距離でマスパ食らってもぴんぴんしてるもんな」
「だからちょっとあのえっといやぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!?」
「必殺! 早苗ぇぇぇぇぇぇぇぇ! ストラァァァァァァァァイクッ!」
サモンタケミナカタによるパワーチャージに加えて、全速力の必殺パンチ。
その威力はまさに『神の拳』であった。
「それじゃ、霊夢さん、魔理沙さん。また」
「ええ。じゃね」
「大人しく寝てろよー」
永遠亭の壁に人型の穴がギャグのように空いている。
響き渡った轟音に、『何事ですか!?』と駆けつけてきた、永遠亭のうさぎ達がぽかんとそれを眺める中、笑顔で、早苗は霊夢と魔理沙に手を振った。
その様を見ていた神様二人は思う。
「……神奈子。早苗の友人関係、ちょっと見直そっか」
「……そうだな」
このままほったらかしといたら、早苗がどんな風になるかさっぱりわからない。
わからなくて、不安になる。
ああ、『彼女』をそのまま残しておけばよかったな、と。
この時になって、二人はそれを心から思うのだった。
つと、目が覚める。
障子の向こうから差し込む月光が、部屋の中を白く照らし出す。
霊夢と魔理沙はいない。文もいない。
神奈子と諏訪子は、今回の一件で、文字通り、山の形が神社の周囲を中心に変わってしまったため、その説明のために山の偉い連中と会合を設けることになってしまったため、やはり、いない。
一人で布団の上に横になっていた早苗は、起き上がる。
起き上がって、彼女は周囲を見渡す。
誰もいない。
いるはずがない。
その空間に、一箇所だけ、闇があった。
闇、というよりは暗がりと言うべきか。
月光の差し込む空間に、誰もおらず、何もないのに、影がある。
早苗は立ち上がると、そちらに歩み寄り、「こんばんは」と声をかけた。
返事はない。
「どうしてそこにいるの?」
彼女の問いかけに、答えはない。
早苗は膝を折って、その影の高さと目線を合わせる。
「どうしたの?」
その問いかけに、さっと、一瞬、月に雲がかかった。
室内が一瞬だけ闇に覆われて、そして、晴れる。
晴れた月光の下、一人の少女が佇んでいる。
「こんばんは」
彼女の声に、その少女は小さな声で「……こんばんは」と答えた。
「どうしてそこにいるの?」
「……」
「どうしたの?」
先ほどと、全く同じやり取りをする。
すると少女は、顔をくしゃくしゃにして、ぽたぽたと涙をこぼす。
「何かあったの?」
「……」
まだ、何も答えない。
答えないまま、彼女は左右に首を振る。
ふぅ、と早苗は肩をすくめた。
そうして、もう一度、「こんばんは」と声をかける。
「……どうして……」
「ん?」
「どうして……声をかけてくれるの……」
「どうして、って。
こんなところに、貴女みたいな女の子が一人でいたら、気になるもの」
にこっと笑いかける。
すると、少女は、『……馬鹿みたい』とつぶやいた。
「そうやって……周りのものに無警戒だから……お前は色んなものに巻き込まれて……ひどい目にあう……」
「そうでもないのよ?
こうやって、色んな人に話しかけると、色んな答えが返ってくる。
それは、貴女の言う通り、ひどいことの時もあるし、そうじゃないこともある。むしろ、そうじゃないことの方が、ずっと多い。
世の中には色んな人がいて、色んなことを考えていて、色んなことをしている。
そういう人たちに話しかけたりしないのはもったいないと思う」
「違う」
彼女はそう言った。
早苗の言葉に間髪入れずに、そう答えた。
「……違う。
もっと、お前は周りを警戒して、もっと周囲に用心深くなった方がいい。
じゃないと、また今回みたいなことになる。
お前にとって悪意を持つものを、お前は受け入れて、それで……」
「わたしは、そういう人には、最初から声をかけない」
今度は、早苗が言い返す番だった。
そんな間抜けなことはしない、と彼女は言う。
「確かに、警戒心とか薄いかもしれない。
だけど、それくらいのことはわかる。その人が自分にとってどういう人なのか。
それがわからないほど、目が曇ってるわけじゃない」
「……」
「貴女は、わたしにとって、悪いことしかしない人?」
彼女の問いかけに、少女は無言でうつむいた。
うつむいたまま『……違う』と小さくつぶやく。
「どうして、ここにいるの?」
早苗の問いかけに、彼女は答える。
「……ごめんなさい」
その一言をつぶやいた後、彼女は小さく、嗚咽を漏らす。
「……お前のためだと思ってやったことなのに……。
お前たちのことを想ってやっていたのに……。
だけど、お前たちにとってはそうじゃなくて……お前たちにとって、苦しいことばかりで……。
それくらいのことは必要だって、わたしは思ってて……お前たちは何も言わなくて……」
「うん」
「……お前が、初めてで……。
わたしに反抗したの……お前が初めてで……」
「そう」
「……どうして、わたしの言うことを聞かないの……。
みんな、もっと素直に、わたしの言うことを聞いていた……! わたしの声が聞こえなくて、姿も見えなかったけど、だけど、みんな、わたしの言う通りに動いていた!
だから、みんな、平穏に、笑って死んでいった! わたしは、お前たちのことしか考えてないのに!
なのに……!」
「だからよ」
その一言で、少女は顔を上げる。
彼女の顔に光る涙を、早苗は、自分の寝巻きの袖でぬぐってやる。
「だから、わたしは貴女に反抗したの」
「……どうして……」
「わたしにとって、大切な人は、貴女だけじゃない。
わたしにとって大切な人って、一杯いるの。
もう、多分会えないだろうけど、お父さんとかお母さん、おじいちゃん、おばあちゃん、おじさん、おばさん、それから、たくさんの友達。
そういう人たちがいるから、今のわたしがある。
貴女が望んだものとは違うんだろうけど、わたしにとって、今のわたしの姿は、わたしが望んだもの。
貴女はね、わたしのことしか考えてない。それはすごく嬉しい。
けど、その相手の心すら無視して、自分の想いを押し付けようとするのはよくないことよ。
それは、誰も望まない。貴女だけの自己満足」
ぽんぽん、と伸ばした手で、彼女の頭を軽く叩く。
それから、その手で相手をかき抱き、「ありがとう」とその耳元で囁く。
「貴女は、本当に、わたしの……わたし達のことを考えてくれていたのね。
長い間、ずっと。
わたしに危険なこととかが起きたら、身を挺して助けてくれていたのね。
本当にありがとう。
貴女がいたから、わたし達、今まで生きてこられたの。
貴女は貴女の意思で、ずっと、わたし達を守ってくれていた。
だからね、これからも、わたし達のこと、見守っていてちょうだい。
大丈夫。貴女の力を借りなくても、わたし達、立派にやっていける。貴女はその目で、その瞳で、わたし達のこと、見守っていて欲しいの。
ずっと、ずっと」
少女の顔は、変わらない。
涙に濡れたその瞳を早苗に向けて、何度も何度もかぶりを振った後、
「これ……わたしの意思じゃない……!」
そうつぶやいた。
「わたしの意思は作られたもの……! 誰かから与えられたもの……!
わたしは、わたしの意思で動くことが出来なかった……! わたしの意思は、わたし以外の他人に操られていた……!
だけど、わたしは、それでも……!」
「わかってる」
それから、『違うよ』と。
早苗は言う。
「それは違う。
貴女は、貴女の意思で、貴女のやり方で、わたし達を守ってくれていた。
そのやり方がちょっと間違っちゃっただけで、貴女のしていたことを、わたしは……そうね……。
多分、今は無理。
今は、わたし、貴女のことを許せない。貴女のしたことを、絶対に許せない。
だけどね、いつか……そう遠くないうちに、貴女のしたことを許せるような気がする。
わたしの心の中には、貴女を許せない気持ちと、貴女にとって、『ありがとう』の気持ちがあるの。
『ありがとう』を、今、素直に口に出せるから。
だから、そのうち、わたしは貴女を許せると思う。わたし達に、貴女を許せる日が、必ず来るはず。
その時に、もう一度、会いましょう。
その時には、わたし、貴女に、心から『ありがとう』が言えるから」
少女は、無言だった。
無言のまま、彼女の体は闇に溶けて消えていく。
去り際に、頭だけが残った彼女の唇が小さく動いて、もう一度、『……ごめんなさい』とつぶやいて。
少女の姿は消えていく。
「……」
彼女は、一体、何を考えて、早苗の前に姿を現したのか。
もう体を具現化させる力もないだろうに。
その最後の力を振り絞ってまで、早苗に伝えたかったものは、何だったのだろうか。
ただ一言、謝りたかった?
――それは恐らく、違うだろう。
それならば、早苗の言葉を否定するはずもない。
己の正しさを伝えたかった?
――恐らく、これも違う。
それならば、謝罪の言葉を口にする必要もない。
尋ねてみたくても、もう、彼女の姿はどこにもない。
この先、何年……何十年、あるいは、何百年も何千年も経たないと、彼女は早苗の前に姿を現せないかもしれない。
それでも、
「……いつか、また」
早苗にとって、それは待ち望むべき日。
お互いのわだかまりが解けて、本当の意味で、『ありがとう』と『ごめんなさい』が言える日。
その日が本当に来るのかわからない。
わからないが、待たなくてはいけない。
小さくため息をついて、早苗は布団に戻っていく。
眠りに落ちる間際、本当に一瞬だけ、背中を向けて、寂しそうに歩み去っていくあの少女の姿が見えたような――そんな気がした。
「おーい、霊夢」
「何よ。魔理沙」
「何、不景気な顔してんだよ」
無言で、霊夢は前を指差す。
そこにあるのは、博麗神社の敷地内に造られた、小さな小さな分社。それは、早苗たちの神社のものだ。
「あっちにゃざくざく人が来て、じゃらじゃら賽銭入るのに、こっちは閑古鳥だしなぁ」
歩いて数歩の距離だというのに、その距離は、現実には三途の河の川幅など生易しいくらいに遠いもの。
けっけっけ、と笑う魔理沙の脳天に『夢想封印―肘鉄―』がめり込むのは次の瞬間の出来事である。
「あー、もー! 何よ、この差! うちが何かしたの!? 何か悪いことしたっての!?」
「何もしてないからこうなるのよ。少しは反省なさい」
「うっさい、紫!
何もかんも終わった後にのこのこ出てきてしたり顔すんな!」
「あら、これはお言葉」
空間の亀裂から姿を現した妖怪が、音もなく、ふわりと地面に降り立つ。
紫の出現を見て、人々が『よ、妖怪だー!』と悲鳴を上げて逃げ出していく。
あっという間に、閑散とする神社の境内。
紫は、「何よ。失礼しちゃうわね」とぷりぷり怒りながら、手にした日傘を広げる。
「……あんた、それ、マジで言ってる?」
「私は冗談も嘘も言わないわ」
「……こいつは」
うふふ、と笑う彼女の視線は空の彼方へ。
しばらくすると、その先に、霊夢たちにとって見慣れた姿が現れる。
「こんにちは、霊夢……」
やってきたのは早苗と神奈子、そして諏訪子の三人だ。
挨拶をしようとした早苗が、紫を(というか、その足下の地面の上で身動きしない魔理沙を、だが)見て止まる。
「ごきげんよう」
彼女はにっこりと笑って早苗たちに挨拶をした後、その笑みで、三人を見据える。
早苗は慌てて「こ、こんにちは!」と頭を下げるのだが、神奈子は紫を警戒する顔を見せ、諏訪子はにやりと笑うだけ。
「何しに来たのよ」
「分社の様子を見に来た。
人が全くいないようね」
「さっき、蜘蛛の子を散らすように逃げてったわよ」
「お茶くれーお茶ー」
「出がらししかない」
「何だ、ケチぃな。博麗の巫女」
「うっさい、このケロ子!」
けらけら笑う諏訪子は、ぴょんぴょんと跳ね回り、倒れた魔理沙の上に着地する。
ぶぎゅ、という悲鳴を上げて、魔理沙が起き上がる。
「あの、実はですね」
「うん」
「このたび、我が神社――守矢神社が、正式に営業を開始しましたので。
そのご挨拶に参りました」
「あーそー。商売敵への挑戦状ね。いい度胸だわ」
「い、いえいえ。そんな」
「こら、霊夢。新しいお客様にけんか腰とは何事? 全く、これだから貴女は」
「いてっ」
べしっ、と傘で頭を叩かれて、霊夢は悲鳴を上げる。
紫は早苗たち三人を一瞥すると、「初めまして。八雲紫と申します」と頭を下げる。
「私はこの幻想郷を見守る、妖怪の賢者の一人。そして、幻想郷の、まぁ、母親と申しましょうか。
その縁で、この子の後見人もやっております」
「お初にお目にかかる。八坂神奈子という」
「洩矢諏訪子ー」
「あ、あの、東風谷早苗といいます」
「ええ。
皆様、ようこそ幻想郷へ。歓迎いたします。
しょっぱなから、だいぶ大騒ぎしていただいたようで。とても歓迎していますよ」
そう言う紫の目は全く笑っていない。
圧倒的な、相手からの気配に顔を引きつらせた早苗が、神奈子と諏訪子に助けを求める。
「まぁ、このような場で立ち話というのも何ですから。
霊夢、手伝いなさい。お客様にお茶とお菓子を用意するわよ」
「んなもんないわよ」
「私が持ってきました。
ほら、早く」
「はいはい!」
「『はい』は一回でいいの」
「はーい!」
「では、皆様、こちらへどうぞ」
紫が先頭に立って歩いていく。その後ろを不満げな顔で霊夢がついていく。何だかんだで、紫の言うことには従うようだ。
「えっと……どうしましょう?」
「別に気にする必要ないさ。
あいつはあんな奴だが、少なくとも、お前らを出し抜いてどうこうしようとか考える奴じゃない」
むくっと起き上がった魔理沙が、珍しく、紫を擁護する。
その思惑に何があるのかは不明だが、とりあえず、現時点では信頼すべき相手である――彼女の言葉を信じたのか、神奈子が一同の先に立って歩いていく。
「お菓子とお茶だって。何が出るかな」
「さ、さあ……」
「わたしは大福がいいなー。
塩大福! あれ美味しいよねぇ」
「そ、そうですね」
「今度、早苗に作っちゃるよ。わたしの作る大福、美味しいよー」
その後を、無邪気な神様が続き、最後に早苗と魔理沙。
「霊夢は、結構、お前のこと、歓迎してるぞ」
「え?」
「同世代の知り合いが新しく増えたんだ。
それに、私や霊夢の知り合いには人間の知り合いは少ないからな。
私にとっても、人間の友達が増えるのは大歓迎だ」
「は、はい。こちらこそ」
「ああ、よろしくな」
にかっと笑って、魔理沙は早苗に手を伸ばす。
その右手を握り返して、早苗はもう一度、『よろしくお願いします』と頭を下げる。
母屋の中から、「そこの遅れてる二人ー! 早くこーい!」という霊夢の声が上がり、続けて、「だから叩かないでよ、紫!」という悲鳴が響いて。
二人は小さく、顔を見合わせて笑った後、母屋の中へと歩いていくのだった。
「時々ですけど」
「ん?」
「未だに思い出すんですよ」
「何の話?」
「昔のこと。
まだ、わたしが、幻想郷に来て間もない頃のことです」
「あー、あれか。
あの時は大騒ぎだったよねぇ」
楽しかったわ、と笑う霊夢が、あったかいお茶を一口。
そうですねぇ、と早苗は返して、
「迷惑をかけてしまいました」
「あはは。
いいのいいの、気にしない、気にしない。
あの後、色んな連中と知り合ったでしょ? 変なことしてた奴ら、一杯いたじゃない」
「まぁ、確かに」
それから比較すると、自分たちは、まだまともだったのかな、と。
ちょっぴり失礼なことを考えて苦笑する。
「早苗たちはさー」
「はい」
「慣れた? 幻想郷」
「だいぶ」
だけど、まだまだ、この世界で最初から暮らしていた人たちには及ばないと、早苗は言う。
霊夢は『へぇ』と笑った。
縁側で足をふらつかせながら、「そんなことないと思うけどなー」と言う。
「充分、染まってるよ?」
「うーん……」
それは果たして、いいことなのか悪いことなのか。
現地の習慣や現地の風習に慣れてきて、その土地に染まってきたというのは、確かに、いいことなのかもしれない。
しかし、ここは幻想郷。
日常的に弾幕と爆発が飛び交い、何だかよくわからない連中が何だかよくわからない理由で、好き勝手に厄介ごとを起こす世界である。
果たして、その世界に染まるというのはいいことなのか悪いことなのか。
悩んでしまう。
「私は、早苗、ずいぶん楽しそうにしてるなって思ってるけど」
「ええ、まあ。
毎日、楽しいですよ。いろんなことがあって。
未だに知らないことがありますし」
「あるある」
そういう『新しい発見』をするだけで、この世界で生きているのは楽しいと、早苗。
霊夢は空を見上げながら、「だけど、それは、この世界の楽しさには当てはまらないなぁ」とつぶやく。
「外の世界でも、早苗の知らないことは、きっとたくさんあっただろうね。
あなたはそれを知らなくて、多分、それを知れば、楽しいと感じるんだと思う。
幻想郷は広くて狭い。外の世界の『発見』には、きっと及ばない。
その世界であなたが感じる、あなたの楽しさって、何?」
「それは~……」
ん~、と悩みながら空を見る。
都会の空では決して見えない、見事な星空。
視界の隅を、流れ星が流れていく。
「やっぱり、これかな」
「わっ」
いきなり、早苗は霊夢の肩に手を伸ばして、自分の方に抱き寄せる。
『もう、何よ』と霊夢は顔を赤くして抗議するのだが、
「こうやって、博麗霊夢さんと過ごす毎日」
そう、まっすぐな瞳で、だけど茶目っ気たっぷりの笑顔で言われて、霊夢は顔を真っ赤に染める。
相変わらず、この手の恋愛ごとにはまるで耐性のない巫女である。
そっぽを向いて、『からかわないでよ』とふてくされる。
「まあまあ。
……けど、これは割りと本当ですよ?
一緒に過ごすだけで楽しい人って、人生、長くたってそうはいませんから」
「……かな」
私もだ、と霊夢はつぶやいて、何だか照れくさそうに笑う。
「明日は何する?」
「わたし、明日は神社の祭事があります」
「うわ、仕事熱心。
私は~……そうだな、久々に、里に御守でも売りに行こうかな。華扇でも連れて」
「華扇さまですか。あの方がいれば、売り上げ、上がりそうですね」
「……あいつが作ったものばっか売れるのよね。
何で私が作った御守、一個も売れないんだろう」
誰も彼もが、『いえいえ、博麗の巫女さまがお作りになられた御守なんて、ありがたすぎてとてもとても』と言葉を何重にもオブラートにくるんで、受け取るのを否定してくる現実。
霊夢は相手に気を遣われているのをわかっているようだが、それが普段の、自分への悪評につながる所以だとは思っていないらしい。
「……早苗の作る御守って、めっちゃよく売れるよね」
「ええ、まあ。売れます。はい」
「どうやって売るのか、こつを教えて」
「……こつと言われても」
素直に『日頃から常に神様を信仰し、礼儀正しく真面目に人生を過ごすこと』とはとても言えない。
実際、霊夢の私生活というか、日常生活といえば、ひがなだらだらお茶を飲んで境内を掃除して、やってくる悪友どもとドンパチ繰り広げることのみ。
……これでは、『神性』だの『神格』だの、あったものではない。
「相変わらず、あんたの分社にはお賽銭入るけど、うちにはからっきしだし。
……何が悪いのやら」
本人は、真面目に巫女やってるつもりでも、世間一般から見ればそうではない。
その認識の違いを、誰かが霊夢に教えなければならないだろう。
普段なら、そういうことは紫の役目なのだが、この頃は、そうした点に関するお小言は減ってきているらしい。
「まあ、頑張りましょう」
その理由は、恐らく、霊夢を支えるこの彼女がいるからなのだろうが。
とはいえ、早苗としては、『そういうことを押し付けないでください』と言いたいことでもあるのだが。
「星空、か」
霊夢は空を見上げてつぶやく。
つられて、早苗も視線を空に。
「まつろわぬ民を統べる、星の神。あれは今、何をやってるんだろうね」
「……さあ」
あれから、もう数年。
諏訪子の分霊として、此の世に生を受け、その命と生涯をかけて、ただひたすら『早苗』を守り続けた神。
それが宿っていると思われる早苗の髪飾りは、今は、彼女の枕元。
あれから一度も、早苗は彼女に逢ってはいない。
「早苗はこれからどうなるんだろうね」
「さあ」
おや、という顔をする霊夢。
「珍しいね。
そういう話に曖昧な答えをするなんて」
「まだ決まってませんから」
神として成るか、人として生きるか。
早苗は人として神と成り、神として人のまま生きることを宣言した。
それは一体、彼女の中で、どういう生き方に当てはまるのか。
それはまだ、彼女にとっても、結論の出ない人生である。
「これからどうしようか。
先は決まっているんだけど、どう歩んでいこうか。
もしかしたら、道が変わったりするんだろうか。
そういう悩みは、人間、生きている限り、抱き続けるものです」
「確かに」
「わたしはいずれ、神様になりますよ。頑張って。
今だって、半分、神様に足突っ込んでますから」
「はいはい。
そういうところが、こういう態度に出てくるってわけね」
ぷに、と霊夢の指先が早苗のほっぺたを押した。
お返し、とほっぺたぐにぐにされて、霊夢は『痛いわね!』と抗議の声を上げる。
「神奈子さまと諏訪子さまも、何も仰ることはありません。
ただ、わたしのことを見守っているだけですね。
……まぁ、修行は課せられますけど」
「ふーん。
何で神様になんかなりたいかね。私にはわからないわ。
私にとっては、人間としての自分の命と自分の姿が、何より大切だと思ってるんだけどね」
「それは人それぞれの感覚です。
霊夢さんにとってはそうでも、わたしにとっては違う――ただそれだけ」
「議論にならないね」
「結論、出てますからね」
人生色々。
その一言で、それは終わってしまう。
誰の人生観が正しく、また、間違っているのかなど、明確に答えが出せる話ではない。
他人の人生を否定する権利など、誰も持っていないのだ。
それが客観的に見て、明らかに誤りであろうとも、その人物にとっては正しい人生なのだから。
それを否定できるほど、強い命を持っているものなど、それこそ『神』にしかありえない。
「さて。
そろそろ寒いし、眠くなってきた。
寝よう」
「そうですね。風邪を引いちゃいますし」
二人は立ち上がって、肩を並べて、縁側を歩いていく。
そうして、寝床へと戻ってきて、布団の中に。
ちなみに、隣の布団では、相変わらず魔理沙がアリスに抱き枕にされていた。明日、魔理沙の目が覚めるかどうかは、それこそ神のみぞ知るという状況だ。
「早苗が何になろうと、早苗は早苗だ。
自分の好きなようにやるのがいいよ」
「そのお言葉、そっくりそのままお返しします」
「了解。
お休み」
「おやすみなさい」
二人は布団の中で目を閉じる。
すぐに心地よい眠気がやってきて、意識がうとうとと遠ざかっていく。
――その中で、早苗は暗闇の中に、誰かの姿を見た。
その姿は闇に閉ざされ、何者なのかはわからない。
その『何か』は、相変わらず、暗がりの中から一歩も出てくることはない。ただ、早苗と距離をとって、早苗を見つめているように見えた。
――あなたは誰?
問いかけても、答えはない。
――あなたは、何をしにきたの?
それは、何も答えない。
――あなたは……。
言葉を続けようとした瞬間、暗闇はさっと晴れて、消えていく。
後に残るものは何もない。
それが何をしたかったのか。
それが何を訴えたかったのか。
それが何を思っているのか。
わからない。
わからないままに、早苗は眠りにつく。
その暗闇は、いつか晴れるであろうことを考えながら。
そして、その日、その時が来たら、自分は一体、何をどうしたらいいのか。
悩んでばっかりで、わたしは本当に大変だな、と。
小さく、笑いながら。
「わたし、常々思うんですけど」
「うん」
「幻想郷の人たちって、美容に気を使わなすぎだと思いません?」
「思う」
翌朝。
洗面所でぱたぱたぺたぺた、お肌に気を遣う女の子が二人。
言うまでもなく、早苗とアリスの二人である。
霊夢は顔を洗ったらさっさと朝ご飯、魔理沙は『何か三途の河で小町と酒を飲む夢を見た』と呻いて起きた後、顔を洗うのもめんどくさいと、すでに食卓についている。
「女性なのに、何の対策もしないって。昔の日本ってそうだったのかもしれませんけど」
「その辺りは幻想郷は遅れているわよね。
早苗のいた外の世界が羨ましいわ。こんなに便利な化粧品、魔界にだってないもの」
「わたしも、持って来たものがなくなっちゃいまして。
同じ成分で使いやすいものを紅魔館で咲夜さんに貸して頂いていたんですけど、あるとき、永遠亭に持って行ったら、永琳さんが『ええ、これくらいなら作れますよ』って。
おかげで格安で化粧品が一式そろうんですよね~」
「あ、ほんと? それなら、私も今度、永琳さんのところから買うようにしようかな」
女の子にとって、美とは永遠に追求していくべきものである。
それはもう、断言してもいいだろう。
たとえどれだけ年をとっておばあちゃんになったとしても、美は諦めてはならないものなのだ。
そして、それに費やす費用と時間はプライスレス。
かけた努力の分だけ、結果は返ってくるものなのである。
「よし、完璧」
「アリスさん、肌、きれいですよね~。お人形さんみたい」
「それ、うちの姉によく言われる」
「あはは。そうなんですか」
「早苗、これ、ありがとう。使いやすくて助かるわ」
「いえいえ」
それじゃ、お先に、とアリスが踵を返して洗面所を後にする。
早苗は『こんな感じかな?』と最後のチェック。
べたつきなし、てかりなし、乾燥もしわもなし。
「よし、完璧」
うん、とうなずき、にこっと笑って。
「……!」
その時、彼女は鏡の中に、人の姿を見た。
子供。
女の子。
その姿に、早苗は見覚えがある。
振り返っても、誰もいない。
彼女は鏡の中にだけ、存在している。
彼女はうつむいていた。
うつむいて、手を胸の前でもじもじさせていた。
そうして、意を決したように顔を上げると、大きく口を開けて、言った。
『おはよう、早苗!』
手を振って、彼女は去っていく。
まだぎこちない笑顔を浮かべていた彼女は、最後にもう一度だけ、振り返って、早苗に手を振った。
彼女が鏡の向こうに消えていくのを、ただ見つめていた早苗は、思わず、その顔を笑顔に染める。
洗面所を後にして、食卓の並ぶ居間へ。
そこではいつものメンツが、朝ご飯の開始を、今か今かと待っている。
ようやくやってきた、最後の一人。
全員の目が集まったところで、早苗は、「皆さん、おはようございます!」と大きな声で挨拶するのだった。
第一章:そちゆきて我が身は幻想成り果てる
第二章:あらためて見つめる世界広き地よ
第三章:なんにでもなりてなるはわたしの形
第四章:新たにて形成すわたしの魂意之霊
第五章:永久に紡ぐ誓いと神語り人の身なして儚きわたし
「れーいっむさーん♪」
「うっわ、うぜぇ。」
「何を言ってるんですか、魔理沙さん。
『女子、一週間会わなければ、まずはだっこすりすりして情を確かめろ』と昔の偉い人は言っていましてですね――」
「よしまずはその偉い人の名前を出せ調べてくる」
博麗神社の定番、夜の宴。
本日の主催者は八雲紫女史であり、彼女曰く、『いつもお世話になっている守矢の方と交流を』ということである。
そのため、厨房に立っているのは紫とその式、藍である。
藍が連れている式の橙は、やってきた彼女、東風谷早苗と一緒に来ていた洩矢諏訪子と遊んでいる。
「いいじゃないですかー。ねー?」
「いや、『ねー』とか言われてもね」
早苗による半分くらい過剰な愛情の対象となってだっこすりすりされている神社の主、博麗霊夢が苦笑を浮かべる。
早苗の言うことに表立って反論するつもりは全くないが、しかし、だからといって、このお人形さん扱いはいかんともしがたいという感じだ。
「というか、何で魔理沙さんがいるんですか?」
「朝飯と昼飯をご馳走になってな。今日はこれからアリスのところで晩飯をご馳走になる」
「またお金ないんですか」
「……いや、その……魔法の研究ってさ、ほら、時間とお金がかかるから……」
視線をそらして、一応、反論するのは霊夢の悪友、早苗の友人、霧雨魔理沙。
「そもそも、魔理沙さんのあのお店、お客さん、来るんですか?」
「少なくとも霊夢のところよりは千客万来だぞ!」
「あんたの家に、うちらとあのいたずら妖精たち以外が来てるところ、見たことないんだけど」
「いや、単に店に客を呼んでいないだけで、行商では売れている。
パチュリーのところから買うと、品質はいいけど高いし、アリスはそもそもその手の行商はやってない。安くてそこそこの品質の私の店には、割と需要がある」
「じゃ、何でお金すっからかんなのよ」
「……売りに出る手間がさぁ。ないんだよなぁ」
いじいじ、と床に指先で『の』の字を書く魔理沙。
とりあえず、彼女には生活力というか資金源のようなものがあるのは間違いないということで認識してもいいだろう。
問題は、そこがなかなか資金の源泉とならないということだが。
「にしても、早苗。一週間ぶりよね」
「神事が多くありまして。
最近は、山のふもとの里なんかにも足を運ぶようになりました」
「そうなんだ」
「いや、『そうなんだ』じゃなくてお前もやれよ」
「やってるわよ。五穀豊穣、災厄退散、家内円満、安全祈願、最近だと合格祈願なんかもお手の物ね」
「それで何でキッチンから米やみそはおろか塩や砂糖まで消えるんだよ」
「うぐ……」
魔理沙がここぞとばかりに反撃に出る。
幻想郷といえば巫女。巫女といえば貧乏、というのはもはやテンプレである。
「あなたは仕事に相応の対価を求めないからそうなるのです」
聞こえていたのか、後ろから、紫がぴしゃりとお叱りの言葉を飛ばしてきた。
「何だ、無償なのか」
「だって、お母さんが無償でそういうことやってたし」
「あの人の時は、他の理由で、参拝客が来ていました。あなたは参拝客を集める努力を全くしてないのに、あの人と同じことをやろうとするから今のようになるんです。
全く、嘆かわしい」
「言われっぱなしだな」
魔理沙がにやにや笑いながら、顔を赤くしてうつむく霊夢の肩を小突く。
「個人的には、神事に対して、なんら見返りを求めないというあなたの姿勢には賛同できかねます」
「あ、神奈子さま」
両手にお酒と何やら他にも一杯持って、現れるのは八坂神奈子。
霊夢の話を聞いていたのか、彼女は腰に手を当てながら、
「そもそも、神事とは神に連なる巫女の儀式であって、それすなわち神の儀式です。
神は人に化体し、もって神は人となる。
神は故に人から見返りとなる信仰を集め、それをもって益となす。
神に益なす行為であるからこそ、それは神事として認められ、受け入れられる。そうでない行為は個人の偽善であり思い上がりも甚だしい。
あなたの行為は神に対する侮辱であり冒涜です」
その辺りの観念のしっかりさは、さすが現役神様であった。
そもそも、神とは信仰を向けてくれるもののみに恵みと利益を与える、心の狭い存在なのだ。
信仰を向けてくれないものには文字通り見向きもしないし、信仰を翻すような罰当たりには祟り神となって天罰を下す、恐ろしい存在なのである。
「いいじゃん、別に。
ちゃんと信仰が欲しいなら、あんた達はあんた達でやりなさいよ。
紫も! これは私のやり方であって、あんたには関係ないの!」
「慈善事業は自己満足であり、後にも先にもよい結果は残しませんよ」
「別にいいもんね。
私が私の代でやることなんだから、私の代の人たちが幸せであれば、それでいいじゃん」
「全く。
本当に、巫女としての質と品格に欠ける」
「本当に。困ったものです。
申し訳ありません、不快な思いをさせてしまって」
「いや、お気になさらずに」
などなど。
紫と神奈子は霊夢に『失望した』と言わんばかりのきっつい視線を向けてから、キッチンにこもってしまう。
霊夢は二人にべーと舌を出すと、
「いいじゃんねぇ?」
と隣の早苗を見る。
「ん~……何とも。
少なくとも、受けた恩には義で返すべきです。義とはすなわち、労力に対する対価であって、それが金銭であったり信仰であったりするんだと思います。
義なき恩は人に限らず増長を招きます。それは結果的に、自分にも相手にとってもためにならない」
「早苗も固いな~。『ありがとう』の一言でいいじゃん」
「それですめばいいんですけどね。
性悪説というか、『ありがとう』だけで片付くと思わせてしまうのはよくないと思います」
「外の世界の人間は、私らとは感覚が違うね。
けどま、私は早苗に賛成だ」
軽く肩をすくめて、魔理沙。
「前回は無料だったのに、何で今回は金を取るんだ、って言う奴もいるしな。心の狭い奴だと思うけど」
「それが当たり前になってしまうからそうなってしまうんです。線引きは大切です」
善意を配って回ることに、心から感謝するものばかりではなく、それを利用するものが居ることを忘れてはならない。
早苗の、戒めとも取れる言葉に「理解できないなぁ」と霊夢は言う。
「けど、わたしは、霊夢さんらしくていいと思いますけどね」
「でしょ?」
そして何だかんだで、最後は霊夢の肩を持つ早苗である。
この辺り、惚れた弱みというか、一歩下がって伴侶に前を譲る奥ゆかしさというか。
こういう態度を他人に見せる人間は、幻想郷……というか、霊夢たちの周りでは絶滅危惧種だ。
「霊夢みたいな奴は、幻想郷の外じゃ苦労しそうだね。
もっとも、こいつみたいなのがいるから、外の世界じゃ、信仰心ってものが失われたのかね?」
神様という存在が身近になりすぎて。
畏れ多くも畏くも、敬われるべき人外の民である神様が、あまりにも身近になりすぎて、それはもはや神ではなく、いて当たり前の『友達感覚』になってしまったとしたら。
わざわざ、神秘的な人ならざるものに額ずきひれ伏す必要もなくなってしまう。
「さあ、どうなんでしょうね」
それについては、言葉を濁す早苗であった。
――1――
この頃、何だか調子が悪い。
そう、早苗が思うようになってからずいぶんになる。
今もそう。
通う学校の、授業の合間の休み時間。
友人たちは、3時間目の体育の授業について不平不満を言っている。
曰く、
「マラソンなんてやりたくなーい」
ということだ。
空は快晴、日本晴れ。雲の欠片も見えない。
正直に言うと、早苗は運動は得意である。その見た目から文系人間扱いされてる彼女であるが、むしろ文系の成績の方が悪い。漢文なんて壊滅的だ。
一方、彼女は運動は得意である。マラソンなんて、授業の間の45分間、ノンストップで走り続けられるくらいの持久力はある。
しかし、
「ねぇ、早苗。マラソンとかやりたくないよね」
「あの先生、何かっちゃ『陸上競技は身体運動の花形だ』って」
「走るより球技の方が楽でいいよね」
なんてことを話題として振られたら『う~ん。そうかも』なんて受け答えしか出来ないのも事実であって。
仕方ないなぁ、と思ったのが2時間目の授業が始まる前の休み時間。
それが、今だ。
もうすぐ次の授業が始まる。
騒がしかった室内も、徐々にその波が引いていって、一人また一人と自席に戻り、教科書を引っ張り出している。
彼ら彼女らを横目で見ながら、早苗はぴっと人差し指を立てる。
軽く目を閉じて深呼吸。
真っ暗な世界にぽっと灯りが点るような感覚が走る。
目の前にじんわりとした、白とも黄色ともつかない、暖かい色の光が現れて、それがぱっとはじけて散る。
――授業の始まりを告げるチャイムが鳴り響き、まるでタイミングを計っていたのではないかと思うほどのタイミングで前の扉が開いて、男性教諭が姿を現す。
「さて……今日は……えー……前回はどこまでやったっけか?」
彼はいつも、そんなくだりで授業を始める。
これの回答を間違えると、『君は前回の復習をやってないみたいだねぇ』と手厳しい指摘を受ける。
『嫌味な教師』として生徒受けはすこぶる悪いものの、これで的確な答えを返すと、きちんとそれを評価してくれる先生ということもあって、いわゆる『ちゃんと真面目に授業を受けている生徒』にはそれなりに好評であった。
今回、その話を振られた女子生徒は、無事に前回の授業で進んだ教科書のページを答えて、「じゃあ、今日はその続きから始めよう」とスムーズに授業が始まる。
「……まだ降らない」
窓際の席で外を眺めて、早苗はつぶやく。
相変わらずの快晴の空。
視界の端っこに、ぽつっと雲が現れたのは、その時だった。
「あーもー! いつまで、この雨、降ってるわけ!?」
「俺、傘、持ってきてねーよ。誰か、折りたたみ持ってる奴いない?」
「持っててもお前になんて貸してやんねー」
雨が降り始めたのは、2時間目の授業が終わり、3時間目の体育が始まる、本当に少し前。
ぽつぽつと、小雨にすぎなかった雨は体育館に生徒たちが集合し、体育教師が『それじゃ、今日は前回の予定通り、校庭でマラソンを……』と言っているうちに土砂降りの大雨へと化けていた。
彼のぽかんとした顔はなかなか傑作ものであり、慌てて、『あ、い、いや。それじゃ、今日はバレーボールの授業に変更する』と言う姿も面白いものであった。
しかし、だ。
「早苗、傘、持って来た?」
「うん。というか、わたし、置き傘してるし」
「あー。卑怯者ー」
「早苗は用意がいいんだよ。この優等生め」
「痛い痛い痛い」
後ろから髪の毛掴まれて引っ張られる。
最近、少しずつ髪の毛を伸ばしている早苗はこうしたいたずらにあうことも多い。
周りの友人曰く、『ショートカットの方が活動的で似合うのに、どうしたのさ。いきなり』というのがその理由だ。
なお、その原因はというと、先日、ちょっと一目ぼれした末、玉砕したお相手からの『あ、いや、あの、ごめん。俺、ロングの女の子の方が好きだから』というぱっと聞いた感じ、本音がオブラートにくるまれた一言にあったりする。
「どうやって帰ろう?」
「みんなでタクシー呼ばない? お金出し合って」
「駅までならそんなにかからないっしょ」
「あ、さんせーい」
「傘持ってる奴は濡れて帰れ!」
などというやりとりも始まったりする。
降り始めた大雨はいつの間にやら豪雨に変じ、傘を差していても路面に当たって跳ね返る水しぶきで足下どころか下半身がずぶぬれになるほどだ。
「……調子悪いなぁ。加減がきかないし」
「ん? 何が?」
「あ、ううん。別に何でも」
「早苗、うちらのタクシー乗ってく? この前、あんたのバイト先の喫茶店でおまけしてくれたお礼しちゃうよ」
「いいよ。歩いてく」
「好き者だねぇ」
「濡れて風邪を引いて、学校サボる気なんだよ」
「あー、ありそー」
気をつけてねー、と手を振る彼女たちに手を振り返して、早苗は学校を後にする。
こんな大雨なら傘を持っていようといまいと同じと開き直り、教科書だけは濡れないように制服の中に隠して、大急ぎで学校を後にする生徒たちも多数。
彼らに混じって、早苗は大きな傘を手にして、学校を後にする。
「本当に、体育の間だけ、降ればいいのに。
お祈りしすぎたわけじゃないんだけど」
この頃、本当に調子が悪いな、と彼女は小さくつぶやいた。
電車に乗る頃には、彼女はずぶぬれ状態になっていた。
はぁ、とため息をついて、ホームに滑り込んできた電車に乗り込む。
大雨で世界が黒雲に覆われているためか、車内の雰囲気も、何となく陰鬱な感じがする。
普段、降りる駅で降りずに、その先――およそ15分ほど先にある、別の駅で彼女は電車を降りた。
「……」
雨が少し小降りになってきている。
ようやく、軒下で雨宿りをしていた者達も、コンビニなどで買ったビニール傘を手に道を歩いていく。
彼らの向かう先とは反対へと、彼女は歩いていく。
通りを抜けて交差点を渡り、左手側へと信号を折れる。
駅から歩くこと、およそ10分。
唐突に住宅街は消え、ふっと場の空気が入れ替わる。
目の前に、大きな鳥居があった。
その手前で一度、彼女は足を止めると、鳥居に向かって一礼する。その鳥居をくぐって、舗装のされていない参道を歩いていく。
神域は、うっそうとした木々に覆われている。とはいえ、誰かが丁寧に手をかけているというわけではなく、ただ、草木の生長に任せるままというところだ。辛うじて、参道だけは下生えの草が取り除かれている程度のものである。
参道を少し行くと、朽ちた石段が現れる。
そこを抜けた先に薄汚れた神社がある。
「雨、上がった」
空をうかがうのが難しいくらいに生い茂る木々。しかし、さすがに神おわす社を覆ってしまうほど不届きものではないのか、彼らはその空間にまで枝葉を伸ばしていない。
覗く空にようやく日の光が現れ、虹がかかっているのがわかる。
彼女は少しだけ口許に笑みを浮かべてから、手にした傘を閉じた。
そして、社の裏手側にある、これまた古びた母屋へと歩いていく。
「えっと……」
ポケットを探って、鍵を取り出す。
最近、流行っている猫のような狸のような、よくわからないマスコットキーホルダーが小さな音を立てる。
「よい……しょ」
がたがたと、立て付けの悪い引き戸を開いて母屋の中へ入り、『失礼します』と彼女は声を上げた。
その見た目に反して、中はきれいなものだった。
足下の板もきれいに張りかえられ、歩いてもきしむことはない。
その中の一室、年代物のタンスなどが並ぶ衣裳部屋に足を踏み入れて、その中から衣装を取り出す。
次に、それを持って、彼女は水場へと歩いていく。
「どうして、ここ、水道が通ってるのかしら」
電気の灯りはないのに、なぜか、水道が使えるのが、この建物の不思議だった。
まぁ、いいかとそれを考えるのをやめて、雨に濡れた制服を脱いで裸になると、水場――恐らく、以前は風呂場として使われていたのだろう――に足を踏み入れて、冷たい水を桶に取ると、それをざばっと頭からかぶる。
「っ~!」
とてつもなく冷たい。思わず、声にならない悲鳴を上げて飛び上がってしまうほどだ。
今の季節はまだマシなのだが、これが冬になってくると、この儀式もしゃれにならない。
不敬と言われようと何と言われようと、一杯、二杯をかぶるのが精一杯。逃げるように水場を後にして、衣服を着替えてしまう。
――彼女は、濡れた衣服を、とりあえずその場にかけてから踵を返し、表から社殿の中へと足を踏み入れる。
閉じられた空間の向こうは、色濃い闇に包まれている。
部屋の四隅にある燭台に、持って来た蝋燭を立ててから、一つずつ、ライターで火を点す。
そして、彼女は静かにその場に正座をすると、深々と、頭を下げた。
「八坂さま、いらっしゃいますか。八坂さま」
静かな声は闇に包まれて消える。
しん、と辺りが静まり返る。
音のしない空間に、ぎし、という小さい軋みが生まれる。
『この雨の中、よくもまぁ』
最初に響いたのは違和感だった。
空間そのものが鳴動しているかのような、不気味なうなり。
人によっては、これを祟りと感じて、飛び上がり、逃げ出してしまうだろう。
しかし、彼女は下げていた頭を上げるだけで、動じない。
ややしばらくすると、目の前の暗闇がぼんやりと歪み始める。
『お前の信心の深さと敬虔さには敬服するが、それでも程度がある。まず顧みるべきは己の健康だと、教えなかった?』
声の響きが変わり、やや、そこに柔和な雰囲気が現れる。
歪んだ闇は徐々に形をなし、人の形を取る。
すると、部屋の四隅に点された炎が、ひときわ高く、まるで篝火のように燃え上がる。
室内の闇は一気に払われ、そこに、一人の女が姿を現す。
「確かに教わっていましたけれど、だからって『来るな』とは言われていませんでした」
「全く。昔の若い娘は、もっと清らかで純朴だったけれど。今時の娘は、本当に口ばかりが達者だ」
しれっと返す早苗に対して、形を成したそれは、やや呆れたように、しかし、嬉しそうな声音を返す。
「強い雨だった」
「はい」
「傘は?」
「こういったこともあろうかと、きちんと、学校に置き傘をしてあります」
そのセリフを一度言ってみたかった早苗は、目を、なぜか輝かせて目の前の相手に答える。
今時の若い娘の言葉はよくわからん、と女は顔を引きつらせた。
「本日は、何かご用事があるということでしたが」
「そうね」
彼女は立ち上がると、社の扉を引き開ける。
木々の隙間から、ちょうどよく、社の上に降り注いでいた日光が室内へと入ってくる。
――今の光景を、もし、見るものがいたとしたら、そのものはさぞ驚いたことだろう。
何せ、いきなり、誰もいないのに社の扉が開いたのだから。
「八坂さま、また少し薄くなられたのではないでしょうか」
「髪の毛みたいに言わないでちょうだい」
早苗の言葉に、『八坂』と呼ばれた女は顔を引きつらせる。
「しかし、それ以外には何とも……」
「……時々、この子はわざとなのか本気なのかわからなくなる」
ぽつりと呻く八坂は、『まぁ、それは横においといて』という仕草を見せる。
「実は、早苗。貴女に少し、話があります」
「はい」
「貴女は最近、何か違和感を感じることはありませんか?」
「あります」
それには、早苗は即答した。
普段から、その違和感を感じている早苗である。他者からの問いかけを否定する意味もない。
「そう。
私もそう。この頃は、特に、それが強い」
「倦怠期とか」
「……あのね」
頬に人差し指を当てながら首をかしげる早苗に、八坂は顔を引きつらせる。
――この子の育て方、間違っただろうか。
その表情を一言で表現するなら、そんな感じだろうか。
「……えー、こほん」
咳払いを一つして。
「その違和感もむべなるかな。
近頃、私は、己の力の衰えを強く感じます」
「年ですね」
「まぁ、確かに、長生きだけどね。神様ってそういうもんだからね?」
本当に、ふざけているのか本気なのか、実にわからない。
即答してくる早苗に、八坂は『話の腰を折らないでくれ、頼むから』という視線を向ける。
神、と自ら名乗ったにしては、些かどころか徹底的に威厳がない。
「その理由は、なぜだと思いますか?」
「年齢的なものでないとすると、神格の低下とか」
「よほどのことをしない限り、懲罰的な意味で、神が格を落とされることはありません」
「そうなのですか」
「あなた達がよく知る、所謂、堕落した神というのは、そういう『よっぽどのこと』をしたものばかり。
そうでなければ話が面白くならないから、後世まで伝わることもないのでしょうが」
「その辺に居る何の変哲もない一般人の一生を伝記とかにしても、売れませんしね」
「そういうこと」
そういうのを『風説の流布』というのだと、八坂は言う。
要は、『一部の例外だけを面白おかしく取り上げるな、この罰当たりめ』ということを言いたいらしい。
「ですが、神というのは、誰からも信心を得られなくなった時、たやすくその格を落とし、著しく力を落とします」
人々の強い信仰を受け、その地域の土地神や国津神になったものもあれば、かつてはその立場にありながら人々の心が離れた結果、路頭に迷い、最終的には荒神として退治されたものまで、と。
「このように古びた社におまいりに来る人などたかが知れている」
昔はこうじゃなかった、と八坂はつぶやく。
「技術の発展に伴い、生活が豊かになるに連れて、人々は、かつて己が畏れ敬っていた神やそれに準じた力ある化外の民を忘れてしまった。
闇を恐れ、夜に怯えていた人間は、光を手に入れ、闇を恐れることがなくなり、逆に闇を圧して、夜に生きる夜の民を暗い闇の中へと追いやってしまった。
心の豊かさを神に求めた者達も、己の中で作り出した偶像を神として崇めることで、その矮小な精神を満足させ、結果として、本当に恐れ敬うべき神を廃してしまった」
「大昔から、寺や社の廃棄は、よく行なわれていました」
「そう。
そうした罰当たりに対して、神とて黙ってはいない。
土地を不毛の地にしたり、恐ろしい伝染病を蔓延させて、祟りを与え、懲らしめようとしてきた。
しかし、それらを克服するために、人は『技術』という智慧を得た。彼らはそれを洗練させ、進化させ、ついに『科学』という神の奇跡を代行する術を手に入れた。
そうして、科学という名の神の御業を手に入れた人間は思い上がり、神の祟りすら克服する魔法を作り出し、神を恐れることも畏れることもなくなったです。
それは言ってみれば、『科学』という新しい神を、人々は生活の中で培い、育て、ついに信仰する形にしてしまったとも言えるでしょう」
元は何の力も持たない、炉端の石程度の存在であろうとも、人々の信仰を集めることで力を増し、神格を得て、『神』へと上り詰めることは珍しくない。
今回、それが、八坂たちの知らない、わからない、『科学』という正体不明の偶像に結集した――ただ、それだけのことだ。
「精錬の神とかとは、また違う?」
「そう。そうした者達すら包含した、もっと大きなもの――形を持たない、本当の『偶像』。それが、今、人々が信仰している神であり、我々のような、古くから土地を守り、育て、人々の生活に寄与してきたものは古びたものとして廃棄される時が来た――それだけのことなのかもしれません」
「……」
「貴女の言った通り、古来より、寺社の廃棄は、そう珍しいことではなかった。
我々は対岸の火事としてそれを見ていたに過ぎなかった――その思い上がりのつけが、今、回ってきたということなのでしょう」
それは自分の落ち度である、と彼女はいう。
もっと以前から、しっかりと営業活動をして、名前を売り込んでればよかったなぁ、と。
まるでサラリーマンが会社にクビを切られるかのように、のほほんと、彼女は言った。
「それって大変なことじゃないんですか!?」
「力を失い、格を落とした神の行き着く先は二つ。
まず一つが、神格を完全に失い、ただのヒトとして今の世の中に溶け込むこと。
そしてもう一つが、そんな惨めな様をよしとせず、神として、誇り高く死を選ぶこと」
早苗は立ち上がると、すぐさま、「それなら、わたしが信仰心をたくさん集めてまいります!」と言った。
その大声は深閑とした境内によく響く。
「まずはわたしの学校から! その家族から! 頑張れば、100人、200人なんてすぐ! 1000人、2000人だっていけます!」
「ありがとう。
けれど、それでは足りない。
元々、格の高い神というのは大食らいでね。その格と力を維持するには、その何倍もの信仰が必要になる。
それほどの人々を、この、古ぼけた社に集めるのは難しいでしょう」
「なぜ諦めるのですか!
社を建て直し、立派なものを作れば……!」
「見た目だけを取り繕ってもね、早苗。
古びた神というのは、いずれ、新しい神に駆逐されるものなのよ」
それは遠き神代の時代から変わらず、この国で連綿として続いてきた歴史なのだ、と。
所詮は、その歴史の一部を構築するに過ぎない八坂では、たとえ『神』と偉ぶってふんぞり返っていても、それを覆すことは出来ない。
何せ、相手は国そのもの。国一個丸ごとを飲み込んでしまうような、巨大な蛇でもなければ、そんなことは出来ないのだ。
「それに、早苗。
そもそもそれを危惧するならば、私のところに、欠かさず足を運んでくれるあなたのように、貴女の血族の者達が、どこかの時点で考えていたはずでしょう?
しかし、彼らは何も出来なかった。何もしなかった。
私の姿も見えない。声も聞こえない。信仰を最初に失ったものに、何が出来るというのです?」
「それは……」
「貴女を責めているわけではない。
だけど、これが現実。自分に仕えてくれるはずの神子の心すら引き止められなかった、己のふがいなさを悔やむばかりです」
何を間違ったかなぁ、と八坂はつぶやき、苦笑した。
やはり親しみやすさが足りなかったのか、と彼女は冗談めかして笑いながら言った。
その彼女の笑顔に、どこか悲痛なものを感じたのだろう。
早苗は決意を目に浮かべると、
「そんなことありません! わたし、頑張ります!」
お任せください、とどんと胸を叩いた。
「今の世の中、ネット使えばどんな情報だってすぐ拡散できます!
八坂さまの功績、ご利益、その他諸々! 一気に情報を広めて、すぐに人を集めてみせます!
何だったら、わたし、脱ぎますよ! それくらい体を張るくらい、朝飯前です!」
ふっと八坂は笑ってみせる。
頑張ります、と気合を入れている早苗の側に歩を進めると、その頭を軽くなでる。
「難しいわね」
それで、たとえ、人気――信仰を獲得したとしても、それは所詮、一過性のものだろうと八坂は看破する。
この国の人々は、熱しやすく、冷めやすい。
八坂のもたらすご利益では、彼らの気持ちをとどめることは難しいと、彼女は言ってのける。それに悔しさなどを感じることなく、ただ淡々と。
「学業の神というのは、ほんと、羨ましい立場にいるわ」
いつの世も必要とされる神とは違い、己のもたらす五穀豊穣も、雨を降らす力も、戦勝祈願も、その他のあらゆるものが、今の世の中には必要ない。
まさしく、己は廃棄される神だったのだ、と。
自分で挙げた要素を指折り確認して、自分の存在を再認識する八坂。
早苗は勢いそのままに、しおしおとしぼんでいく。
「……消えてしまうのですか?」
「ん?」
「もう二度と、わたしは八坂さまに会えないのですか!?」
八坂が、先に挙げた、『廃棄された神の行く末』の一番目を選択することはありえない。早苗はそう信じていた。
気高き神である彼女は、神である己の姿すら捨てて、おめおめと、惨めに生きていくことをよしとしないだろう。
彼女は神として、誇り高く死を選ぶはずだ。
そうなれば、早苗はもう二度と、彼女に会うことは出来ない。
「そんなの……」
「貴女が、いつ頃だったかしら。私の元にやってきて、『パパ、女の人が居る』って私を指差したのは」
「……ずいぶん昔のことです」
肩を落として、意気消沈してつぶやく早苗に、八坂は『そうそう』ところころと笑う。
「こんなに小さかったわね。
貴女の父親が、大層、驚いていたのを覚えているわ。
『お前、八坂さまが見えるのか!』って」
私も驚いたわ、と八坂。
時が流れるに連れて、人々の信仰心が離れた八坂。その存在は日に日に薄まり、弱まり、いつしか己を崇め奉る者たちにすら存在を認識してもらえなくなった。
彼らはそれでも、八坂を崇め続けてきたが、その心が離れることを留めることは出来ず、神職を置くこともなくなり、社は朽ちるに任せることとなった。
そんな中、突然、現れた八坂への信仰を持つ少女。
あの時、さて、自分はどんな顔をしていただろうと、昔に思いを馳せる。
驚いていただろうか。
笑っていただろうか。
それとも、嬉しさのあまり、泣きはらしていただろうか。
――覚えているのだが、恥ずかしくて、口には出せない事実であった。
「このままだと、私は、そう遠くないうちに消えてなくなってしまうでしょう。
ただ、それは、貴女が生きている間のことではない。貴女がいなくなり、何十年か、もしくは何百年か。
しかし、力を失った神など、死んだも同然。そのまま、生き恥をさらすよりは――」
「……ダメです」
「ん?」
「そんなの、絶対にダメです!
八坂さまは、わたしに、色々なことを教えてくださいました! わたしに、神の御力を行使できる術を教えてくださったのも八坂さまです!
八坂さまは、わたしにとって……!」
「お前に力を貸していたから、私の存在が薄まるのが早くなった――とは?」
「え……?」
「冗談よ」
そんなわけないでしょう、と彼女はくすくすと笑う。
「人間に神の力を行使できるはずがない。
私が貴女に貸していた力は、私の中でもはしたの力。巨大な水がめの中から、一滴の雫を分け与えていたようなものです」
たまには冗談も言ってみたくなる、と言って笑う彼女に、早苗はほっとしたような、『こんなときに冗談言わないでください』と怒鳴りたくなるような、そんな複雑な気持ちを覚える。
「しかし、遠からず、貴女もその力を失うでしょう。
私にとっては、その水がめの一滴でも大切なもの。いかな己を信仰し、奉ってくれる血筋の神子とはいえ、神とて命は惜しい。これ以上の力を分け与えることは出来ません」
「わたしはそれでも構いません。
八坂さまのお命が……神としての力が長くもつのなら、わたしはいかなる代償も支払います」
「そう」
――そこで、八坂の雰囲気が変わった。
ざっと風が舞う。
周囲の木々が一度だけ、鋭く揺れた。
「実は、早苗。
もしかしたら、そうならなくてすむかもしれないのです」
「え?」
「己の眷族を使い、この社から離れることすら出来ない私は、様々なものを調べあさりました。
人間とて同じこと。
自分が、明日も危うい命であるなら、何としても生き延びようとする。
もはややることもなく、己の人生全てに満足した、あるいは、命そのものを諦めでもしない限り。
私は、命が惜しい」
神とて意識を持つ生き物。
恐怖を感じることもままある。
今まで、己の強さゆえ、その恐怖を感じることなどなかった。
だが、ここに来て、その恐怖が顕在化し始めている。
それを押しのけるにはどうしたらいいか。
恐怖を打ち払い、強さを取り戻すにはどうしたらいいか。
――早苗の言った通り、あらゆる代償を支払っても、その手段を探そうとするのは、間違いではない。
「この世界には、我々の知る世界とは、もう一つ、違う世界がある」
「高天原のことでしょうか?」
「それとも違う。
それは、『此の世であって此の世でない場所。彼の世に程近いが、彼の世より程遠く離れた場所』」
「……えーっと」
「貴女、国語の成績、また悪かったみたいね」
「こっ、古文は、65点でした!」
「漢文は?」
「……半額特売セール……」
やれやれ、と八坂は肩をすくめてみせる。
「確かに、私は学問の神ではないけれど、私の神子がこのようにおつむが貧弱では。
一度、大宰府で話をしてきてあげましょうか?」
「うぐぐ……」
まぁ、それはそれとして、と八坂。
「それは、この世界から忘れられ、押し流された廃棄物が最後に流れ着くディストピア。
しかし、同時に、この世界より忘れられてなお、誰からも忘れられることのないユートピア。
……英語って苦手だわ」
「でしょう!? きっと、わたしの文系の弱さは、八坂さまのせい……あいてっ」
「人のせいにしないこと」
ごちんと頭をげんこつで叩かれて、早苗は涙目になった。
ついでにどうでもいいが、『ユートピア』も『ディストピア』も英語ではない。それを指摘できない辺りも、早苗の弱さかもしれない。
「その地の名は、幻想郷というそうです」
「……幻想……」
「そう。
何だかわくわくする響きでしょう。
そして、同時に――」
「……とても物悲しい」
「ええ」
うなずく彼女は、その指先を、どことも知れぬ空の向こうへと向ける。
「そこにいこうかなーって思ってるの」
そして、唐突に、彼女は声音を変えた。
それまでの重厚感あふれる、どこか悲壮な決意を漂わせるものではなく、あっけらかんとした、『今度の連休、どこ行く?』と女の子がカフェで話をするかのような声で、
「そこなら、この世界から忘れられたロートル神が逃げ込んでも大丈夫だと思わない?」
「ロ、ロートルって……」
「ふふふ。自分がそこまで追い詰められていることを自覚すれば、こんなにも気持ちが楽になる」
神様とは身勝手な生き物ね、と彼女は笑った。
「……そこに行ったらどうなるんですか?」
「さあ? わからない。
ただ、少なくとも、こちらの世界には戻ってこられなくなるでしょう。
何せ、神である私が、今わの際になって必死に探しても、その正体すらつかめない場所です。
厚く分厚い岩屋の向こうにあるのか、どこへ続くとも知れない暗い闇の中にあるのか。
ただ、その世界が、あらゆる『忘れられたもの』の理想郷であることも確かな様子。ならば、それに一縷の望みを抱いて足を進めてみるのもいいでしょう」
要するに、これは一種のギャンブルだ。
先の見えない、答えのわからないものに、『己の人生』を掛け金として戦うギャンブルだ。
実に面白い、八坂の目はそう言って笑っている。
「競馬やパチンコで身を持ち崩す人の気持ちが、ほんのちょっぴり、理解できました」
「……」
「私はその地へ向かい、そこで改めて、神の威光を見せ付け、信仰を新たに獲得してみせましょう」
「……わたしは……」
「ん?」
「わたしは……どうなるんですか?」
「もう二度と、私に逢うこともなく、此の世で命を全うしなさい」
これはギャンブルだ。
そのリスクは非常に高い。
もしかしたら、リスクの方が高すぎるかもしれない。
ただの一度のミスで、もう取り返しのつかない負債を抱えてしまうかもしれない。
そんなものに、早苗を巻き込むわけにはいかない。
「貴女は、幼い頃から今に至るまで、私によく尽くしてくれました。
貴女からもらった信仰が、今の私の命を永らえさせています。
ありがとう、早苗。この程度のお礼しか出来ないけれど、今まで、本当に……」
「それじゃ、わたしにとって、八坂さまが死んでしまったのと何も変わらない」
「……そうね」
「八坂さまのお言いつけであろうとも、わたしはそれに承服できかねます」
「ならば、どうする?」
凛とした声で返してくる早苗に、八坂は目を細くする。
神に従わぬ愚か者に、神は神罰を下す。
それはたとえ、己の神子であろうとも変わらない。
現に、己に不敬を働いた、己の神子を、八坂は自らの手で始末したこともある。
早苗に対して、それが出来るのか?
その問いかけを己自身にして、八坂は『出来る』と断言する。
神とは慈愛に満ちたもの。だが、裏を返せば、あらゆる咎人に容赦ない断罪を加える、冷酷非情の存在。
八坂の視線に真っ向から向き合う早苗が、口を開く。
「お供いたします」
「……え?」
その回答に、些か、八坂は間抜けな声を上げてしまった。
「それに第一、八坂さまお一人で、かつてのような信仰を獲得できるとは、とても思えません。
わたしのように、若くてかわいい美少女がお側にお仕えしていなければ」
「いやまぁ、言いたいことはわかるけど……」
誰がどう見ても、『若いのどっち?』と聞かれたら、早苗を指差す二人の見た目。
なお、八坂の名誉のために追記すると、彼女は年老いた老婆というわけではなく、威厳と風格相応の女傑である。
「わたしは八坂さまの神子であり、八坂さまのお力とご威光を、我が身をもって顕現させる存在です。
わたしがいれば、八坂さまの神格は、八坂さまを知らぬ下賎のものにもたやすく伝わるでしょう。
いい取引だと思いますけど?」
そこで、にこっと笑ってみせる。
この辺り、自分とよく似ているな、と八坂は思った。そしてもちろん、その後に、『育て方を間違えたか』と頭を抱える。
「わたしでは至らぬところも多々あるとは思いますが、なにとぞ、お考え直しください」
この娘には、言っても無駄だな、と八坂は判断する。
何せ、この娘は、その見た目にそぐわぬ芯の強さとともに頑固さを持ち合わせている。
口でいくら言ったところで、こうと決めたらそれを曲げるような人間ではない。
その胆力と精神力には、八坂すら一目置いているのだ。
「わかりました」
ならば、と。
八坂は尋ねてみる。
「貴女のその決意、しかと受け止めました。貴女のような従者を連れることが出来て、私は幸せ者です」
「はい」
「ですが、早苗。私は言いましたね?
その世界に行けば、二度と戻ってはこられぬだろう、と。
私はこの世界にて忘れられつつあるもの。此の世にしがらみなど何もない。
だが、貴女はどうです?
この世界に生活を持つ貴女は、それを捨て去る勇気はありますか?」
八坂の問いかけに、早苗は沈黙する。
この世界に戻ってこられない。
それは、この世界に、あらゆるものを置いていくことになる。
友達と一緒に馬鹿騒ぎすることも。休日にお気に入りのカフェに行くことも。もしかしたら、朝、普通に目覚めることすらも。
その、あらゆるリスクを背負って、この神についていくことが出来るのか?
己に問いかけた早苗は、答える。
「あります」
八坂の瞳は早苗の瞳を見据え、射抜く。
彼女の強い視線に、視線を逸らしたい衝動に駆られながら、必死にそれを押さえ込む。
呼吸することすら出来ず、体を硬直させていた早苗から、八坂が視線を外す。
「わかりました」
ふぅ、と早苗は息をつく。
途端、どっと汗が流れ落ちてくる。
心臓の鼓動が異常に早く、苦しいほどだった。
「ですが、貴女の迷いとしがらみを、私が見抜けないとでも思いましたか?」
「……いえ」
「わかっているならいいのです」
八坂はそこで、早苗へと背中を向けて、部屋の隅の闇に戻っていく。
「私も少しばかり、この世界には心残りがあります。
それを全て片付けてから、幻想郷へ旅立つことにしましょう」
「……はい」
「その間に、貴女は、そのしがらみと迷いを断ち切りなさい。
少しでもそれが残るようなら、私についてくることは許しません。
神は、二言目に、同じ言葉を繰り返すつもりはない」
ふっと。
八坂の姿が、その場から消えた。
早苗の感覚を持ってしても、その気配を掴むことが出来ない。
この場から姿を消したのか、それとも、深い闇の中にお隠れになられたのか。
早苗はぺたんと、その場に腰を落としてしまう。
「……立てないや」
すっかり抜けてしまった腰が元に戻るまで、まだしばらくかかりそうだった。
それから、何日、過ぎただろうか。
よく、彼女は両親から、『年をとると一年が早く過ぎ去っていくなぁ』ということを、笑い話として聞いていた。
それを、今まさに、彼女は自分で、身をもってそれを味わっていた。
一日があっという間に過ぎていく。
授業を受けて、家に帰って、ご飯を食べて、寝て。時々アルバイトに足を運んで、以前は、給料日はまだかとやきもきしていたのに、今ではふと気付けば、手元にお金がある。
カレンダーをめくることもなくなった。
時間の流れを感じさせてくれるのは、朝と夜の光と闇、暑さ寒さといった感覚だけ。
なぜこうまで、あらゆるものから心が遠く離れているのだろうと、寝る前にベッドの中で考えたことがある。
それは恐らく、この世界に残る、己の『しがらみ』のせいだろうと、彼女は考えていた。
そもそもしがらみとは何なのか。現世とのつながりであると考えれば、この世界に彼女が存在する『理由』ということになる。
そんなものは、捨てられない。捨ててしまえば、己は『此の世』の生き物でなくなってしまうのだから。
八坂は、早苗に、何を捨てさせようとしているのだろう。
自分が捨てても問題のないもの。『此の世』に存在している、何かの理由。それがわからない。
だが、それが失われる日も近い。
それを捨てなければ、己は八坂の神子として、それと運命を共にすることが出来ない。
捨てなければならない。己に出来ないのであれば、誰かに手伝ってもらってでも。それが、自分がなした決意なのだから。
その日が、明日か、明後日か。決断を下すのは、いつになるか。決断が下されるのは、いつになるのか。
それを身構えて一日を過ごしていると、何事もなく、一日が終わる。
――あれ以来、社に行っても、八坂が姿を現すこともない。
一人で行ってしまったのだろうか?
そう思うと、恐怖と、焦りと、失意と、そして喜びが、心の中から湧いてくる。
結果、何をしたらいいかわからない。
友人一同に、『引っ越します』メールを打とうとして、慌ててそれを取りやめたこともある。
幻想郷にいつ行くかもわからないのに、こんなメールを打たれても相手が困るだけと考えたのと同時に、果たして、その程度で、己の中の全てを断ち切ることが出来るのか、疑問に思えたからだ。
結局、毎日、どこか無気力に過ごしてしまっている。
何をすればいいのかわからず、何をしたらどうなるかもわからず。
両親にすら『何かあったのか?』と心配される早苗に、声がかけられる。
「だからさー、ちょっと」
「はっ、はい!?」
「早苗、話、聞いてた?」
「あ、いや、その……」
「ったくもー。頼むよ、ほんとに」
呆れたもんだ、と彼女は肩をすくめてみせる。早苗の友人だ。
「あんた、自分で『主役やる』って言ったんだから」
教室の中は、にわかに活気付いている。
もう授業は終わり、一日の学業から解放されたにも拘わらず、部屋の中に残ってるものは多数。
――もうじき、文化祭。
早苗たちの通う学校は、少しだけ、他の学校とスケジュールをずらして、これが開催される。
秋の盛りの、涼しくなった頃の方がいいという派と、まだ少し残暑の残る熱気の中、その熱気の力を借りて盛り上げようという派が対立し、後者が勝利を収めたためだ。
生徒一同には、『暑いのはやだけど、ほかと日程がかぶらないから、友達を呼びやすくていい』とおおむね好評である。
「あ、ああ。うん。ごめん」
早苗たちのクラスは、今回、自作の劇を発表することになっていた。
というのも、クラスの男子どもが、『校内人気投票トップ3より落ちたことのない東風谷さんこそ、俺達の売りだ!』と強硬に、劇の開催を推したためである。要するに、男どもは着飾った早苗を見てみたいがために、そんな出し物を用意してきたというわけだ。
ちなみに、劇の内容は、完全にオリジナルである。クラスの中に、将来、劇作家を目指しているものがいて、『今度、劇団に出すネタなんだ』とすでに台本すら用意されているという用意周到さである。
「えっと……今、どこだっけ?」
「シーン3の10行目」
隣の女の子が、早苗にそっと耳打ちしてくれる。
ありがと、と視線で礼をしてから、その部分へと視線を向ける。
「はーい。それじゃ、次のシーン行くよー」
劇のタイトルは、『石になった王女様』。
内容はというと、ヒロイック・サーガの系譜に連なるものだ。
貧しい家に生まれ育った、器量よしのヒロインが、とある国の王子様に見初められ、結婚する。
しかし、幸せだった時間は長く続かず、身分の賎しいヒロインのことを快く思わない、王子の母親(つまりは女王)が彼女を追い払って自分のお気に入りと王子の再婚を画策するのだが、ヒロインはその見目麗しさもさることながら気立てもよく、貧富の差に苦しむ王国の民を救い、彼らから絶大な信頼と人気を獲得していく。
結局、正攻法ではどうにもならないことを知った女王はヒロインに『生きながらにして石になる』呪いをかけてしまう。
王子は八方手を尽くして、その呪いを解く方法を探すのだが、そのような方法は見つからない。
ヒロインは日々、石になりつつも、気丈に王子を支え、王国の発展に尽力し、やがて、多くの人々に見守られながら石像となってしまう。
ここで、普通のヒロイック・サーガであれば王子の愛のキスか何かで王女様は救われ、意地悪な女王は城から追い出され、二人は幸せに暮らしましたとさ、めでたしめでたし、なのだが、ここからが血みどろの惨劇の始まりである。
王子はまず、このような事態を招いた元凶である自らの母親に刃を向け、彼女を殺害する。
ヒロインを慕っていた国の民が、『あのお優しい女王様がここまで変貌されたのには何か理由があるはずだ』と勝手な妄想に取り付かれ、女王が王子と結婚させようとしていた、彼女のお気に入りの女が怪しいと王子に進言する。
ヒロインを失った失意と悲しみから、王子は精神に変調をきたしており、その女性を国民の前で火あぶりにする。
この女性というのが、この王国と長年親しい間柄にあった隣国のお姫様であったから、さあ大変。
隣国の王様は激怒し、王国へと戦争を吹っかけてくる。王子も当然、これに応戦し、全臣民一丸となっての玉砕作戦の末、両国はともに滅亡。
何千人という人々の血が流れた末、生き残った王国の民が、『そもそも、王子がヒロインに現を抜かさなければこんなことにならなかった』と石像となったヒロインを壊してしまおうとするのだが、やはり生き残りの隣国の民がそれを止め、『愚かな妄想と嫉妬の末に、我々の国は滅びたのだ。これを戒めとして、未来永劫、残していかなければいけない』と言ったところで場面転換。
数百年後の世界において、変わらぬ美しさと慈愛を宿したヒロインの石像は、『亡国と傾国の戒め』として、未来永劫、語り継がれ、奉られるという救いのないエンディングを迎える、というものである。
当然、ヒロイック・サーガを信奉する女の子たちからは大ブーイングだったのだが、『現実はそう甘くない。敷かれたレール以外を走ろうとした結果、大変な結末になってしまった事件は歴史に枚挙に暇がない』と、学校一の秀才青年が実際の歴史なんかを取り上げて擁護したりするもんだから、それに感銘を受けた教師が『歴史の勉強にいいかもしれない』とGOサインを出すという始末であった。
だーれもヒロイン役に手を挙げない中――散々な目にあわされる上に中盤以降、お役ごめんになるのだから当然だ――、先日の八坂との一件以来、魂が抜けたかのように何事にも虚ろな早苗に教師が『東風谷、お前、ヒロインをやってみるか?』と声をかけたが故の、早苗の抜擢であった。
――閑話休題。
そういうわけで、現在、早苗のクラスでは劇の練習中。
色々不平不満を抱えつつも、『一度決まったことなのだから』と、皆、一応、やる気を出しての練習が始まっている。
「早苗のキャラじゃないのに、うまく演じるもんよねー」
友人の一人から、早苗はそんな風に声をかけられる。
え? と振り返る彼女に、『だってさー』と、
「こんな悲劇のヒロイン、あんたらしくないというか」
「あ、わかるわかる。
早苗の場合、何かあったら『自分を信じて正面突破! ちょっとやそっとの艱難辛苦、乗り越えて踏み倒す!』って感じ、するしね」
友人たちから向けられる評価に、早苗もさすがに苦笑い。
自分は普段、一体、どんな印象を彼女たちに持たれているのか。
日頃の振りを、少し見直そうと考える早苗である。
「う~ん……。
何というか……『やる』って言っちゃったから」
「まぁ、確かにあの役はやりたくない」
「徹底した悪役の分、女王のがマシだよね」
女の子とは、いくつになっても白馬の王子様とのラブロマンスを夢見る生き物なのだ、と彼女たち。
それについては特に異論もないため、早苗も無言となる。
「まぁ、ほら。
誰かがやらなきゃいけないんだし」
「そりゃそうだ」
「文化祭終わったら、みんなで打ち上げやろうぜー」
このとんでもない劇の鬱憤晴らしも兼ねて、と。
彼女たちの言葉に、早苗も笑顔を見せる。
しかし、笑いながら、彼女自身、その笑みがどこか白々しいものだということを感じていた。
何をしていても、やはりどこか、上の空。
真面目に練習をしようと考えているのだが、頭の中では、先日の八坂とのやり取りが繰り返される。
――たとえ、恐れられ、疎まれたとしても、信仰を集めてさえいれば……。それってどうなるんだろう……。
つと、思う。
この悲劇のヒロインは、劇の中で、永遠に、人々から恐れられ、疎まれながらも、永久に、人々の関心を集め、畏れられることとなる。
それは、言葉を言い換えれば興味関心を飛び越えた注目――信仰心を獲得しているということになる。
民に益なす神ではなく、恐れ、畏れられる祟り神として。
祟り神とはいえ、神は神。己を恐れ、敬うものには祟りは下さない。己に不敬を働き、無礼を見せたものに、身の毛もよだつような祟りを与え、もって彼らを己の『信徒』とする。それが祟り神だ。
八坂は祟り神ではない。
しかし、もし、祟り神に変じて、己を信仰しない愚かな人間たちに祟りを下すようになったら?
彼女の機嫌を損ねまいと、大勢の人々が、彼女を信仰するようになるのではないだろうか。
それは人間の浅はかな考えではあるが、そうした信仰の獲得だって、選択肢としてはありのはずである。
八坂はなぜ、信仰心を失った人々を祟ろうとはしなかったのか。
もしくは、祟りはしたものの、その祟りすら人々が忘れてしまうほどの、弱い祟りしか与えなかったのか。
「八坂さま、わたしは……」
と、つぶやいたところで、ぐっ、と体が前のめりになってしまう。
「はぅあ!?」
べしっ、という音とともに、早苗さん、顔面から転倒。
『石になるヒロイン』を再現するために、足に、動きを固定するギブスをはめての練習である。
当然、普段通りに動かない体なのだから、注意しなければこうなってしまう。
「早苗、大丈夫!?」
「東風谷さん、大丈夫ですか!」
「あ、あー、うん。大丈夫、大丈夫……」
「大丈夫じゃないって! 鼻血出てんじゃない! 保健室!」
「あ、そ、それじゃ、わたし一人で行ってくるから」
普段、仕事のない保健委員(男子)が『俺に任せとけ!』と本気になろうとした矢先に、早苗は彼の出鼻をくじいてしまう。
彼は寂しく『……いってらっしゃーい』と彼女を送り出し、周りの友人一同(野郎のみ)から肩を叩いてもらえた。
「あいたたた……」
真っ赤なティッシュペーパーが実に無様。
彼女の見た目は、先に話にも出たが、『学内人気投票』でトップ3から落ちることのない見目麗しさなのだから、その鼻血がマイナス方向にすさまじいアクセサリーとなっていた。
階段をくだり、保健室に入ると、保健教諭が『大丈夫?』と心配そうに早苗を見る。
仕方がないので、鼻血が止まるまでは、眉間のあたりを押さえつつ、鼻栓である。
「うぅ……なひゃけない……」
手鏡を見れば、実に情けない己の顔が、そこに映っている。
ぶつけた鼻の辺りは真っ赤。違う意味でも真っ赤。それにアクセントとなる鼻栓。
美少女度8割くらいダウンであった。
はぁ、と小さくため息。
――わたしは、一体、何をどうしたらいいのだろう。
そんなことを問いかける。
天井を見上げても、返ってくる言葉は何もない。目を閉じ、八坂に声を投げかけても、返事もない。
社に行っても気配もなく、にしては、まだ己の『力』は使うことが出来る。
八坂はどこにいるのか。
近くで見ているなら、迷っている自分に、何か道を示して欲しかった。
普段から、たくさんの信仰心を与えてきたのだ。それくらいの見返りがあってもいいじゃないか。
少しだけ、そんな風に、傲慢な考えを浮かべてしまう。
これを八坂の前で言おうものなら、1時間は正座でお説教だ。いないからこそ、出来る愚痴であった。
「……まだかなぁ」
手鏡をもう一度、覗き込む。
鼻栓を軽く引っ張ってみる。血があふれてくるということはなかったが、まだ、鼻の中に差し込んである部分には、新しい赤い血がついてくる。
もう少し休憩が必要だ。残念ながら、それを再確認し、小さなため息をついたところで、
「……?」
手鏡に、もう一人、人が映っていた。
小さな少女。
年齢は、10歳か、その程度か。
見たこともない古風な衣装を身にまとう彼女は、早苗が自分を見ていることに気付いたのか、一瞬、驚いたような表情を浮かべた後、にっと笑って手をひらひらと振った。
そして、口パクで、『怪我には気をつけなよ、早苗』と言った。
「!?」
振り返っても、誰もいない。
もう一度、手鏡を覗き込む。
鏡の中に映る少女は、退屈そうに、一度、大きく伸びをした。
そうして、早苗に視線を向けると、その瞳を細くする。それは、八坂が時折見せるような、魂の奥までを見透かすような視線とは違う。
早苗の全身を嘗め回し、観察する『興味』の瞳だ。
慌てて、彼女は手鏡の蓋を閉じた。
何度も何度も、深呼吸を繰り返す。そっと、自分の後ろに手を伸ばすのだが、やはり、誰もいない。
一度、喉を鳴らしてから、恐る恐る手鏡を開いて、覗き込む。
中に、誰も映っていない。早苗以外。
「……気のせい?」
気のせいにしては、リアリティのある映像だった。
何より、あの少女は早苗の名前を知っていた。声こそ聞こえなかったものの、あれは確かに『早苗』と言っていた。
――鏡の中に、その場にいないものを見るのは、一度や二度ではない。
それは時に八坂であったり、全く違う幽霊や亡霊の類であったり様々であったが、あの少女を見るのは、今回が初めてだった。
なぜ、初対面の相手が、早苗のことを知っているのか?
「……いないよね?」
もう一度、後ろを振り返る。
そこには、当然ながら、誰もいない。
背筋を冷たいものが流れ落ちるのを感じる。
恐怖と不安、そして――。
「東風谷さん、もうそろそろ大丈夫じゃないかしら?」
「はっ、はいっ!?」
声がかけられ、保健の教諭が姿を見せた。
彼女は、「何よ。人をお化けみたいに」と憤慨してみせた後、にこっと微笑んだ。
「疲れてるんじゃないの?」
「あ、いえ。そんなこと……」
「そう?
無理をしたらダメよ」
美人で優しい彼女を目当てに、保健室に通う男子がいるという噂を、早苗は聞いている。その噂が、『噂じゃないんだな』とこの時、早苗は思う。
確かに、こんな風に、優しい笑顔で笑って生徒を慮ることが出来るなら、男性だろうと女性だろうと人気が出ることだろう。
早苗は彼女にお礼を言って、立ち上がろうとする。
「鼻血は止まったみたいね。
まぁ、鼻血で流れる血は、体にとって不要な血だから、あんまり大事になることはないけど。
あなたは女の子なのだから、貧血には気をつけてね。今日は早めに帰って、ゆっくり休みなさい」
「はい」
教諭は彼女を止めなかった。
鼻栓を抜いても、新しい血は流れてこない。とりあえず、一難は去ったようだった。
ぺこりと相手に対して頭を下げて、早苗は保健室を後にする。
時計を見ると、保健室に駆け込んでから30分ほどが経過していた。
時間が過ぎるのが早い。
それを身を持って体感しつつある早苗であるが、こんなときくらい、もっと時間の過ぎるのが遅くてもいいのにと、思わず愚痴をつぶやいてしまう。
保健室を後にした彼女は、足早に教室へと戻った。
「みんな、遅くなってごめん……」
引き戸を開けて、なるべく明るい声を上げようとして。
早苗は、その場に硬直する。
「『姫。その体では、もう、民の前に出るのは無理だ。頼む、休んでくれ』」
「『いいえ、王子。私は大丈夫です。
私の体はまだ動きます。私は、まだ、笑顔を人々に向けられます。ただそれだけで、彼らは安堵するでしょう。
私とて、この国を愛するもの。この国のため、最期まで尽くさせてください』」
「『だが、それでは、私はどうしたらいいのだ。
私は姫を失ってしまう。姫よ、私は君を失うのはいやだ。
今、よい医者を探している。彼が見つかれば、君は助かる。それまで、どうか、その命を大切にしてくれ』」
「『王子よ。ありがとうございます。
ですが、私にとって、私の体を大切にするということは、私や、王子、あなたを含めた国のものを愛し、尊敬し、慕ってくれる民のために尽くすということなのです。
私はこの国を愛しております。故にこそ、この笑顔を民に届けさせてください』」
劇が進んでいる。
ヒロイン役の早苗がいないのに。
別の少女が、ヒロインの位置に居る。
――……あれ? 何で?
立ち尽くす早苗。
誰も、彼女に気付かない。彼女がそこに立っていることすら、気付かない。彼女の存在そのものが、そこから消えている。
理解が出来なかった。
同時に、とても息が苦しくなった。
胸が痛くて、吐き気を催してしまう。
それをぐっとこらえて、彼女は、「ただいまー」と、明るい声を上げて教室の中へと足を踏み入れる。
瞬間、ぐるんと世界が回転した。
それは比ゆではない。
早苗の見ている世界そのものがぐるりと回転し、風景が、人々が、存在そのものが正逆回転した。
自分の足場を失い、ふらつく足とぐらつく頭のせいで、早苗はよろめいてしまう。
「早苗、大丈夫!?」
地面に倒れる瞬間、それを支えてくれた相手がいた。
入り口のすぐ側で、大道具を作っていた少年が、彼女を心配そうに見つめている。
声を上げたのは、彼と一緒に、その大道具を作っていた少女だ。
「あ、ああ……うん。ごめん。ちょっと貧血になってたみたい」
「あんた、顔色悪いよ。真っ青」
「今日の劇の練習、中止にする?」
「早苗抜きで……」
「だ、大丈夫だから!」
なぜか、その言葉が異様なくらいに怖かった。
慌てて声を上げる早苗に、友人たちが、『だけど……』という視線を向ける。
早苗は気丈に胸を張って、その場に立ち上がると、「わたしなら大丈夫!」と笑顔を浮かべた。
クラスメート達は、そこまで言う彼女を否定するつもりもなく、「じゃあ、なるべく、今日は早めに切り上げよう」と言って練習を再開する。
早苗もその場に加わり、劇のヒロインとしての大役を努めるべく、練習に熱中する。
――さっきの光景は、何だったのか。
未だ、脳裏に残る、あの光景。
早苗がその場に存在していない、それにも拘わらず、誰もそれに気付くことなく、早苗がいた場所には別の人物が割り当てられている、あの光景。
何がどうなって、どうしたら、あんな夢を見るのか。
――そう。夢だ。あれは夢だ。悪い夢だ。そうに決まっている。
早苗は、記憶の海の中へと、悪い夢を放り込んだ。重りをつけられて沈んでいくそれを見送って、『よし』と彼女はうなずく。
「えっと、次のセリフ、次のセリフ……」
「早苗、台本くらい覚えてきてよ。いい加減」
「うぐぐ……。だ、だって、ヒロインってセリフが多くて……」
「王子様なんて出ずっぱりだよ。
しかも最後なんて、『姫を奪った悪の国を滅ぼせ!』って、声を裏返して絶叫しないといけないんだし」
「お前の印象、絶対変わるよなー」
「女の子が近づかなくなるなー」
「俺たちはお前を歓迎するぜ!」
「うっせー! だったら、誰か俺の役をやってみろ!」
『だが断る』
最初は優しく、笑顔が似合う二枚目ヒーローの王子様は、劇の終盤には悪鬼のごとき形相で口から呪いの言葉を吐き、あらゆるものを悪と断罪する気狂いへと化ける。
それを演じなければいけない彼は、『俺、籤運悪いんだよな……』と、配役が決まった日には肩を落としていたほどだ。
「……まぁ、それに比べたら」
「でしょ?」
「東風谷さん、そりゃないよ……」
「東風谷さんといっときのラブロマンスが楽しめるんだ。それが褒美だぜ」
「頑張れよ」
「あとでお前ら覚えてろ」
にぎやかな劇の練習は続く。
早苗も、何とかかんとか自分の役目をこなし、少しずつ、劇の出来は高まっていく。
よしよし、この分なら、今年も成功だ、と。
その時、誰かがそう言った。
夢を見る。
その世界では、彼女の存在は希薄なものだった。
朝起きて、両親に『おはよう』と声をかける。すると、彼らは一瞬、彼女へと視線を硬直させてから、『おはよう、早苗』と声をかけてくれる。
その後に決まって、『いやぁ、誰かと思った。うちの早苗も、ずいぶん美人になったもんだ』と場を濁すようなことを言って、彼らは笑う。
彼女はそんな両親に『もう、冗談やめてよ』と笑いかける。
違和感だけが残る。
何かがおかしい。
彼女は、心の中でそれをつぶやき、その日も変わらず、『行って来ます』と学校に向かう。
学校でも、彼女の居場所は希薄になっていく。
教室の入り口をくぐり、『おはよう』と声をかけると、クラスメート達は彼女を見て、一瞬、言葉を失う。
彼らから向けられる視線。
それは、『え? 誰?』という薄まった意識。
少ししてから、『ああ、何だ。早苗か。見間違いか』と、彼らは安堵したような表情を浮かべて、『おはよう』と言葉を返してくれる。
それが、徐々に悪化していく。
両親が、彼女の言葉に反応するのに時間がかかるようになった。
友人たちが、彼女の存在を認識するのに、とても時間がかかるようになった。
学校への通学路を歩いていくと、まるで彼女がいないものかのように、彼女の脇を、トラックが猛スピードで駆け抜けていく。
横断歩道を渡ろうとしたら、停車していたタクシーがいきなりドアを開き、それに跳ね飛ばされる。
電車に駆け込めば、乗客は彼女の言葉に耳を貸さず、何度も目的の駅を乗り過ごす。
どんどん、彼女の存在がなくなっていく。
彼女は『これは夢だ』ということを知っていた。
薄い意識。薄い存在感。薄い記憶。
全てが現実に存在しない、薄い、希薄な気配だけ。
それは、夢の世界。
彼女の思い通りに動かすことの出来る、彼女にとっての理想郷。
その理想郷の中で、彼女は日常を過ごしている。
いつもと変わらぬ日常を現実世界で繰り返し、夢の世界で、それをリピートする。
夢と現実の境目が希薄になっていく。
今、自分がどちらの世界に居るのか、それがわからなくなってくる。
ある時は現実を、ある時は夢を。
彼女はそれぞれを体験し、それぞれを脳に記憶していく。
その記憶は混濁し、境目を失った世界が、夢と現実の双方に浸食されていく。
今、見ているものがどちらにあるのか。
今、自分は夢の中に居るのか。
今、触れているものは、現実なのか。
どんどん、わからなくなってくる。
わからなくなる理由は簡単だ。彼女はそれを認識している。
そのどちらもが、希薄なのだ。
現実感が全くない。
己の存在そのものが薄まっていって、夢なのか現実なのかがわからなくなる。曖昧になる。
確固たる意思とアイデンティティ、強いリビドーを持ったものが『現実』であるとするなら、夢はその正反対となるべきだ。
だが、今、それが揺らいでいる。
形を失った現実はたやすく溶けて壊れていく。
夢が現実の中に滑り込み、混ざり合い、分離できないものとして融合していく。
しかし、それは夢であり、現実ではない。
混ざり合った『何か』から現実を取り出そうと、必死に彼女はあがくが、それは決してかなわない。
夢は確固たる形を持って、壊れた『現実』というパズルを埋めている。
その『夢』というピースを取り外せば、『現実』が壊れていく。
形の合うピースを探そうとしても、見つからない。
そこには『夢』しか当てはめることが出来ない。
取り外した『夢』が笑う。
『どうだい? 俺がいないと、君はここにいることすら出来ないんだよ』
憎らしく、いやらしく笑う『夢』。
しかし、それはもはや夢ではなく『現実』であった。
『現実』へと姿を変えた『夢』は、もはやそこにあった『現実』に成り代わり、己の存在が『夢』ではないことに歓喜していた。
彼を追い出そうとしても、彼女にそれはできない。もはや『現実』が顕現してしまったものを『夢』と追い払うことは、彼女自身が『現実』を壊してしまうことになるのだから。
否定しても否定できない。抗っても抗いきれない。
自分に与えられた、特殊な力を持ってそれに抗しようとしても、『現実』は彼女を嘲笑う。
戻ることの出来ない、何度目かの『夢』の果てに、彼女は少女の姿を見た。
彼女の持つ、『夢』のパズルを組み立てる少女。
少女は彼女を見て、言う。
『お前は馬鹿だねぇ』
悪意はなく、純粋な興味という笑みを浮かべて。
『せっかく、今まで拠らざるを得なかった偽神から離れられるときが来たと言うのに。
なぜ、あれについていこうとするのかねぇ』
けらけらと笑う少女は、手にしたピースを握りつぶす。
瞬間、彼女の周囲の世界が崩れて、真っ暗闇の世界が現れる。
『残っていればよかったのに。義理を尽くす必要なんてないのに。
お前の中に宿る力は、お前の力であるのに。
神に義理立てとしたところで、神はいずれ、たやすくお前を捨てると言うのに。
神ってのはそういうもんだよ。
立派な神様ほど、情にとらわれず、ただ、神の倫理にのみ沿って動く。
そいつは何も間違っちゃいない。神として、誰からも尊敬を集める神だ。
だが、人間の体から見ればどうだろうね?』
ずきん、と下半身に激痛が走る。
その痛みは全身に広がり、脳髄を焼き、神経細胞一つ一つを破壊していく。
下腹部に集中する激痛に、彼女は呻いて身を折る。
『お前は神より出でて神を孕みし神の子なり。
人ならざりて神あらざれば、すなわちそれ、現人神なり。
人の世に生くるをなさず、神の世に招かれざる哀れな偶像よ。
わたしだけが、お前を受け入れてやることが出来る。お前は我が子であり、わたしはお前の子となろう。
――どうだい? 今からでも遅くない。一緒に暮らそうじゃないか。この世界で。永遠に。楽しいよ。絶対にね』
苦痛に呻く彼女の元へと、少女は歩み寄る。
『痛み。それはお前が今、感じている現実だ。
希薄に成った世界と、混じりあった存在の中で、お前が確かなものとして認識できる。
感情だ。
あらゆる生き物の根底をなす概念だ。
精神だ。
肉体という汚れた器の中に宿る、無謬の存在。
神だ。
あらゆる物を捨てて、あらゆるものを手に入れた、至上の存在だ。
お前は神になることが出来る。
全てを捨てて、全てを手に入れろ。
それが出来るか?
痛みに耐えて、全てを失うことを選ぶか?
傷みを乗り越えて、全てを手に入れることを選ぶか?
もうすぐ全てがなくなってしまう。
その時、お前は悲しむだろうね。
わたしは、そんなお前が見ていられないよ。
だから、今、ここにいるんだ。
わたしはお前を救いたいんだよ? 信じてくれるかい?
さあ』
差し出される、小さな掌。
痛みに歪み、にじんだ視界にも、それはくっきりと映し出された。
手のつながる先を見上げると、少女の笑顔がある。
それはとても優しく、慈愛に満ちたものだった。
何だろうと、彼女は思う。
この笑みを、彼女は見たことがあった。
考えていると、痛みが薄れて、消えていく。
遠い過去に去った記憶。しかし、壊れずに連綿と続く渦と糸。
その流れに抗わずに手繰り寄せたそれに、彼女は『ああ』とうなずく。
母親だ。
お母さんだ。
たとえどんなことをしようとも、決して、敵に回らず、守ってくれる人の顔だ。
そんな人が、どうしてここに?
悩んでも、わからない。
だが、それはとても温かい。
差し出される温情にすがってしまう。
向けられる愛情に手を伸ばす、その瞬間、彼女の中で、誰かが叫ぶ。
『その人の手を取ってはいけない!』
瞬間、電撃のような激痛が脳を弾いた。
息すら出来ずに彼女は倒れこみ、悲鳴すら上げられずにもがく。
ちっ、という舌打ちが聞こえる。
『残念だよ。
お前の世界が壊れていくのを見るのが辛くて、こうして出てきたというのに。
お前は未だに、この世界にすがり続けている。
どうして、こうなのか。
だけど、それがお前の選択肢。わたしは何も言わないことにしよう。
お前があえて、苦しみと絶望に足を浸すというのなら、わたしはそれを見守っていよう。
開かれた苦難の箱の中に、本当に希望が残っているといいねぇ?
もしも残っていなくても、安心するといい。わたしがお前に、最後の希望を提示してやる。お前が安堵して暮らせる世界を、お前がお前として存在できる場所を、わたしが必ず作ってやるよ』
くすくすと笑いながら、少女は踵を返した。
痛みは、まだ去らない。
全身が熱い。痛みで気が狂ってしまいそうだった。
どこからともなく、何かが壊れていく音が響いてくる。それはどんどん近寄ってきて、耳障りな騒音となっていく。
助けを求めて必死に伸ばした手。
何もつかめず、ただ闇しか掴むことの出来ない手。
彼女は歯を食いしばる。
負けてなるものか。
こんなところで、倒れてなるものか。
己の力と己の意思と。
己の全てをつぎ込んで、今まで自分は生きてきたのだ。
絶対に、負けてなるものか。
痛みをこらえ、意識を破壊する騒音を押しのけるために、彼女は絶叫する。
その時、確かに、伸ばした手を誰かが掴んだ。
顔を上げると、そこに、誰かの笑顔が見えた。
――誰?
それを問いかける間もなく、それは消え、一瞬の間に、包まれた闇が晴れていく。
体を蝕む痛みも、音も消え、溶けた夢が形をなして、現実によって駆逐されていく。
体が浮かび上がり、淡い光に包まれる。
温かい、優しい光。
彼女の顔に、ようやく笑顔が戻った、その瞬間。
ぼたりと、何かが体から抜け落ちた感覚があった。
視線を下に向ける。
彼女の体から落ちた粘液が、何かを包み込んでいる。
小さな体。小さな姿。
しかし、彼女はそれを知っている。
それは蠢き、形をなし、彼女を見て、にっこりと微笑んだ。
『おはよう。早苗』
絶叫とともに、彼女はベッドの上に飛び起きる。
全身を、いやな汗がぬらしている。
あまりの汗の量に、ベッドの上に人型の染みが浮かんでいるほどだった。
「何……今の……」
外から、どんどんと、ドアを激しく叩く音が聞こえる。
鍵が外から開けられ、母親が「どうしたの!?」と飛び込んできた。
「ああ……うん……。
ごめんなさい、夢見が悪くて……」
彼女の顔は真っ青で、憔悴しきっていた。
母親は、そんな彼女を見て、『今日は学校を休んで、一日、家でゆっくりしていなさい』と声をかける。
しかし、彼女は『大丈夫だから』と笑顔を浮かべて、立ち上がる。
足もふらつくことはなく、あんな異様な夢を見た後だというのに、寝起きの体は爽やかであった。
大丈夫だから。
もう一言、笑顔とともに告げた彼女の言葉に、母親は納得いかずという顔のまま、部屋を後にする。
しんと静まり返る部屋の中。
彼女は下腹部に手をやると、寝巻きの下と下着をずり下ろす。
「……何もないよね」
鏡に映された、彼女の下半身に、特に違和感は見受けられなかった。
頭が痛い。
体が重たい。
世界がぐらぐら、回っている。
やはり、あの夢見の悪さは相当なものだった。
母親の前では強がってみせたものの、精神的なダメージはかなりのものがあった。肉体のダメージがないだけに、その違和感はとても強い。
誰が見ても『無理してる』と思える姿をさらしながら、彼女は道を行く。
学校に近づくに連れ、徐々にだが、周囲の雰囲気が変わってくる。
――今日は文化祭当日。休むわけにはいかない理由の一つ。
「主役がいないんじゃ、かっこつかないしね……」
これが終われば、文化祭明けの休日がやってくる。
友人たちには悪いが、その日は寝て過ごそうと、早苗は思った。
さすがに、これほどまでに心にダメージを受けていては、友達一同そろっておおはしゃぎ、のノリにはついていけそうになかった。
「おはよ~」
がらっと引き戸を開けて、教室内へと顔を覗かせる。
劇の準備に大忙しなクラスメート達は、一様に、早苗を見て、『あんた大丈夫!?』と声をかけてくる。
彼ら、彼女らに『大丈夫、大丈夫』と気丈に笑ってみせて、手にした荷物は自席の上に。
「そんなことより、今日は本番なんだから。
頑張ろうよ」
にこっと笑った彼女に、級友たちは、皆、困惑したような顔を浮かべるものの、本人が『大丈夫』と言っている以上、それ以上の口出しは控えられるのか、『そうだね』と誰からともなく答えを返してくる。
あとはもう、早苗のことになど誰も触れず、ただひたすら、本番に向けての最終調整を始める。
劇に出るものはセリフと仕草を最後までリハーサルし、大道具小道具担当の者たちは、劇を彩る装飾品に不備がないかの確認に努める。演出担当の者たちは、台本を片手に、このタイミングで大丈夫か、色や音の指定に問題はないかと、詰めの調整を行なっている。
早苗も皆に混じって、台本のセリフを頭の中へ叩き込んでいく。
これまで、セリフもなかなか覚えられないと笑われてきたのだ。本番を迎えたら、その汚名、返上してやろうと彼女は意気込んでいた。
少なくとも、劇に集中している間は、体を包む不快感を忘れられそうだった。
――客の入りは上々。前評判は微妙だったものの、いざ、劇が始まってみれば、自分と同年代の者達が頑張っているということで、観客は皆、好意的に彼女たちを見てくれる。
大人たちは残念ながら、眉をひそめる者達も多い。子供づれの母親は、前半だけを見させて退出している。
それでも、ステージとして割り当てられた体育館には、その6割ほどの席が埋まっている。
「まぁ、いい感じなんじゃないかな」
ステージの袖で舞台の成り行きを見守る少女が一人、つぶやいた。
劇はいよいよクライマックス。
隣国との血で血を洗う戦争のシーン。
小道具として用意した血のりを、これでもかとぶちまけて、絶叫と悲鳴、怒号が飛び交う壮絶なシーンが展開されている。
観客の中には目を覆ってしまうものも居る中、争いは終幕へと向かっていく。
「早苗、そろそろ出番。大丈夫?」
「うん」
特殊メイクに、遠目には石像に見えるような衣装に着替え、顔にもぺたぺたと絵の具を塗られていた早苗が立ち上がる。
――その瞬間、わずかにだが、世界が暗転する。
立ちくらみ? めまい?
頭の中で遠のく意識の中、彼女は首をかしげて、暗がりの中に一匹の蛇がいることを確認する。
その蛇は、ちろちろと赤い舌を出しながら、早苗を見つめていた。
――世間一般に、蛇と聞いて思い浮かぶ神は『ヤマタノオロチ』だろう。そのせいで、蛇は邪神と認識されているのも、また事実だ。
しかし、本当は違う。
蛇は竜神の一種であり、水と山を司る格と徳の高い神である。
そのご利益は計り知れず、もっと大々的に、『よき神』として祀られればいいのにと、早苗はいつも思っていた。
その蛇が、早苗を見つめている。
これは恐らく吉兆だろうと、彼女は安堵した。
蛇はその場で、一度、ぐるりと体を巻いた後、闇の中へと去っていく。その向こうにちらと見えた光の中へ蛇が飛び込んだ瞬間、再び世界がひっくり返り、元の色が返ってくる。
「出番だよー」
響いた声は、どこか遠くから。
しかし、意識を無理やりに引きずり戻して、早苗は舞台へとあがっていく。
交代に、全身真っ赤の友人たちが戻ってきて、「ひっどいよなー、これ」と笑っていた。
彼らに『お疲れ様』と声をかけて、早苗は舞台へ。
用意されている台座の上に上がって、指定されたポーズをとる。
舞台の上に役者がそろったところで、下りていた幕が、『それから数百年の時が流れ、滅びた王国と隣国が、かつてあった場所には平和と平穏の象徴である花畑が造られております』というナレーションとともに上がっていく。
ぱっとスポットライトが当てられる。目を閉じていても伝わるそのまぶしさに、早苗は少しだけ、顔をしかめた。
「『これが、かつては栄華を誇った国の末路か』」
「『何と哀れなことよ。見事に何もない』」
「『残ったのは、この、忌まわしき石像ばかり。
魔性の魅力で人心を惑わせたと伝えられているが……』」
「『おや、そのような噂が?
私のところでは、彼女は王国の秩序と繁栄の維持に尽くし、その身を国のために捧げたと伝わっているよ』」
「『ははは、なるほど。
人の見方など多数ある。一つの側面ばかりが真実ではないということか』」
「『それにしても、なんと優しく、美しい顔だろう。
彼女は今、何を思って、この世界を見つめているのだろうか』」
「『さあ。それは我々にはわからぬよ。
我々に出来ることは、彼女の冥福を祈ることと、二度と、同じ過ちを繰り返さぬよう、彼女に誓いを立てることだけだ』」
王子役の少年の必死の訴えで、エンディングシーンに出てくる『民A』と『民B』のうち、『民A』に彼は割り当てられていた。
悪鬼のごとき所業をなした王子によく似た人物が、かつての過ちを反省し、それを繰り返さぬ誓いを立てるというのは、皮肉で物悲しいが、それゆえ、観客の心によく残るということで、そのキャスティングは受け入れられている。
目を閉じている早苗には、外の様子はわからないが、少なくとも、観客たちは彼らの演技を受け入れて、それに共感を得ているような空気は伝わってくる。
「『やあ、他にもたくさんの人々が訪れている。
あまり長居すると、彼らの邪魔になってしまうだろう』」
「『悲しき咎を背負った姫よ。
我々は貴女のことを忘れることなく、その歴史を胸に刻むことを誓いましょう』」
エンディングとしては後味の悪い、切ない音楽が流れながら、役者二人が舞台を降りていく。
早苗の役目もこれで終わり。
幕が閉じられれば、劇は終了となり、石の呪いは解かれることとなる。
灯りが徐々に薄らいでいく。
幕が下りてきている。
そんな中、
「『わたしの存在を、皆、心の中に刻んでください』」
唐突に、早苗の口が開いた。
『え?』と自分自身で、彼女は声を上げそうになる。
「『長き歴史を経て、記憶が薄らいでいっても。わたしのことを忘れず、その心の中に留め置いていてください。
わたしはその身に世界の記憶を刻んだもの。
過ごした日々を、過ぎた日々を、無限に覚え、記憶するもの。
わたしは決して、あなた達のことを忘れることはないでしょう。
この身、この姿、この心が後世の歴史の中に埋もれ、消えてしまっても。
わたしはあなた達を、ずっと覚えています』」
口が勝手に動く。
彼女の意思とは無関係に。
降りていた幕が止まっている。
観客の視線は、早苗の元へ集まっている。
「『去り往くものの記憶を忘れることが人の運命とあらば、去り逝くものの姿を心に留め置くことも、また人の運命。
逃れえぬものであり、否定することも出来ぬもの。
形なきものは薄れ、揺らぎ、埋もれ、やがて溶けて消えていく。
形あるものは壊れ、沈み、割れて、いずれ風化する。
人の存在、人の歴史、人の記憶も同じもの。
いずれ消え逝く運命にあれど、それを覚え、語り継ぐものが居る限り、それが失われることはありません。
覚えていてください、皆さん。
わたしという、愚かな人間がいたことを。
わたしという、悲しき姫がいたことを。
運命に抗わず、運命を受け入れたがために、己を失ってしまったものの記憶を。
わたしは――』」
閉じていた瞳を開けて、会場を一瞥する。
人々の視線は、皆、早苗に固定されていた。
彼らの顔を、瞳を、その空気を感じて満足したようにうなずく彼女。
その意思とは無関係に刻まれる仕草と言葉を終わらせるべく、一度、息を吸った――その時。
「っ!?」
会場の一番奥、暗闇の中に、あの少女の姿があった。
彼女はにやにやと笑いながら、早苗を見つめている。
その口が動いて、早苗に言葉を伝えてくる。
『だけど、お前は忘れられることを選んだ。それがお前の選択肢だ。
いくら言葉を束ね、連ね、彩り、虚飾の限りを尽くそうとも、お前の選択肢が覆ることはない。
お前は忘れられる存在となる。それを、その身に刻み、自らの選択に後悔するか、それを正しきものとして誇るか。
それをその瞳で見据えて、選ぶがいい。
始まりは結末より出でくるものなり。結末は始まりあってこそ在りゆくものなり。
その果てに何があるか、何が待っているか。それを、これから、お前はその瞳で見つめていく』
彼女はにこにこ笑いながら、ひらひらと手を振った。
踵を返して、会場の片隅の暗がりへと消えていく。
「『わたしは、あなた達の記憶を、永遠に、この胸の中に刻み続けます。
わたしの中の幸せな記憶として。
――ありがとう』」
幕が下りる。
会場は、拍手の嵐。早苗の言葉に心を打たれた者達が涙を流して手を叩く。
わっと沸くクラスメート達。
舞台の袖から走り出てきた彼らが、早苗を囲んで手を叩く。
「すごいじゃない!」
「あんなの、アドリブでもそうそう出ないよ!」
向けられる笑顔。
浴びせられる賞賛。
悪いものではなかった。
早苗は笑顔になって、『うん、ありがとう』と、彼らに、一人一人に笑いかける。
「あなた、すごいね!」
その瞬間、かけられた声に、早苗は目を見開いた。
「うちのクラスの子じゃないよね!? 誰かの手伝い!?」
「劇団とかの志望だったりする!?」
「すごい、すごい!」
「……え?」
がくんと膝が折れそうになった。
言葉が出てこない。
無邪気にはしゃぐ彼らから向けられる笑顔が、言葉が、全て、何かの冗談にしか思えない。
体から一気に力が抜ける。
それでも、彼女は足を踏ん張って、それに耐えた。
皆にあわせて、『ありがとう』という笑顔を崩さないまま、舞台の袖に戻った彼女は、衣装を着替えて顔のメイクを落とした後、『ちょっとごめん』とその場を後にする。
「……冗談だよね?」
彼女たちは、悪い冗談は言わない。長年の付き合いで、それはわかっている。
みんな、本心から、早苗に言葉をかけていた。
『早苗』の存在を知らないものとして。
「……嘘よ。嘘。悪い冗談……」
教室に戻った彼女は、自席に戻って、鞄を手に取る。
それをぎゅっと胸に抱きしめて、彼女は踵を返した。
人であふれる校内。楽しい雰囲気の満ちる廊下。
それを駆け抜けて、下駄箱へとやってくる。
「……!」
自分の靴が入っている靴箱に、真っ白なプレートが張られていた。
蓋を開けると、己の靴がある。
いじめか? いやがらせか?
それを邪推してしまうほどの衝撃に、彼女はふらつき、手にした鞄を取り落とす。
大きな音が響き、たまたま、玄関をくぐって入ってきた女性が「まあ、大丈夫?」と落ちた鞄の中身を拾い集めてくれる。
早苗は彼女に『ありがとうございます』と頭を下げた。
彼女はにっこり笑って、手を振りながら、校内へと入っていく。
『お前は忘れられる』
あの少女の言葉が、頭の中に蘇る。
恐ろしくなって、彼女は携帯電話を取り出した。
学校の中に持ち込み禁止のこれは、教師に見つかれば、下校まで没収となる。
だが、それを恐れてなどいられなかった。
「ない……! ない、ない、ない、ない、ない、ない! ないっ!」
自分から送った通信履歴は残されている。
だが、着信履歴のところに残されているのは、何もない。
アドレス帳を開いてみる。
全て『名無し』となっている。
番号も、メールアドレスも、全て消えている。
携帯電話の故障か? データが壊れたのか? うん、きっとそうよ。そんなことあるはずがない!
彼女は、走り出した。
校門を抜けて、タクシーに飛び乗ろうとする。
「どうして止まってくれないの!?」
明らかに『空席』の文字を輝かせて走っていくタクシーすら、彼女の前で止まろうとしない。
それどころか、学校へと入ってこようとする客が早苗にぶつかった際、「あれ? 何もないのに。何かぶつかるようなものあるのか?」とつぶやいている。
見えていない。
いや、見えているのかもしれないが、認識されていない。
歯を食いしばった。
必死に走って、彼女は電車に飛び乗った。
自宅近くの駅に電車が止まった後、家まで必死になって走る。
しかし、
「鍵が……!?」
鍵が合わない。
がちゃがちゃと、何度も何度も鍵を鳴らしても、入っていかない。
朝は使えた。そんな短時間に、鍵を変更されるはずがない。
早苗は振り上げた鍵を、地面に叩きつける。
ドアが開いた。
「あら? 誰かいたような……」
母親だ。
彼女の前で、早苗は『お母さん! わたしよ!』と叫んだ。
彼女は、しかし、気付かない。
ドアを閉めようとする彼女を押しのけ、早苗は階段を駆け上がる。
そして、自室のドアを開いて――ただ、立ち尽くす。
「……」
何もない。
小学生の頃に買ってもらった、お気に入りの学習机。
10歳を超えて、ようやく一人で寝られるようになった時に与えられたベッド。
色気づいてきて、たくさんの服を買い揃えた衣装箪笥。
ゲームに熱中したパソコン。テレビ。ゲーム機。
何もかもが、ない。
彼女はその場に膝を落として、愕然とした表情で、その光景を見つめていた。
そうしていたのは、5分か、10分か。
彼女は拳を握り締め、歯を食いしばり、全身の血を滾らせて立ち上がる。
「八坂さまなら……!」
そこには、一縷の望みをかけていた。
彼女なら、早苗のことを覚えているはず。
彼女なら、今の状況を教えてくれるはず。
そう思ったら、黙ってはいられない。
早苗は全力で駆け出し、電車に飛び乗り、あの社へと急いだ。
走って、走って、走って。
息もすっかり上がり、体が疲れてしまっても、その足は止まらない。
「……はぁ、はぁ……」
社の姿は、何も変わっていない。
彼女は社殿へと飛び込み、そして、見た。
「……八坂さま」
神が、そこにあぐらをかいて座していた。
隣には、どこで手に入れてきたのか、上等な酒を持ち、豪快にぐい飲みを空けている。
相手の視線が早苗に向かう。
早苗は、ごくりと喉を鳴らした。
続く言葉を待ち焦がれる早苗に対して、八坂は、笑った。
「しがらみは全て捨てられましたか?」
「……八坂さま」
八坂は、早苗のことを覚えていた。
それだけで嬉しくて、声を震わせ、涙を流してしまいそうになる。
しかし、彼女はそれをぐっとこらえた。
社殿の中に足を進めて、早苗は尋ねる。
「八坂さま。わたしはどうなってしまったのですか」
学校での出来事。
家での出来事。
その全てを語る早苗に、八坂は答える。
「幻想郷に行く用意が調いました。
貴女をそれに招き入れるに当たって、私は、貴女に命じました。全てのしがらみを捨てて来い、と。
ただそれだけです」
「……幻想郷は、世界に忘れられたものが行き着くところ。
そこに行き着くには、全てに忘れられる必要がある……」
「そういうことです」
「……八坂さまが行なったのですか?」
「いいえ」
それについては、八坂は首を左右に振った。
今、それを初めて聞いた、と。
彼女は言う。
神は決して、嘘はつかない。嘘をつけば、その時点で、神は大罪を背負い、その格を一気に落とされる。
そんな愚かなことは、決して行なわない。
「私はあくまで、貴女がそれを行うことを命じました。貴女の周囲が、貴女の環境を整えることなど予想していませんし、また、しろと命じた覚えもありません」
「じゃあ……」
思い出すのは、あの少女。
だが、あの少女は、『お前は忘れられる』と、早苗の未来を予言していたに過ぎない。
……わからない。
彼女は言葉をつぐみ、あの少女のことは黙っておくことにした。
それに、なぜだか、八坂の前でそれを話すのは憚られるような気がしていた。
「残酷なことですが、これは逆に都合がいい。
貴女は私と同じく、此の世に忘れられてしまった。もう、この世界に居る理由もない。
ならば、共に参りましょう」
早苗は座したまま、動けなかった。
唇をかみ締めている彼女に、八坂は優しく告げる。
「……辛い?」
「……はい」
「……悲しい?」
「……はい」
「そう」
八坂は立ち上がる。
「早苗。これは、貴女が選んだ選択です。その結果を、貴女は受け入れなくてはなりません」
「はい……」
「残酷だろうけど、一度、起きてしまったことは変わらない。
事実として、此の世に受け入れられてしまった事象は、どう頑張っても覆すことは出来ない。
そんなことが出来るなら、私は面倒なことをせず、己の信仰を回復させる手段を、別に考えていたでしょう」
「……ええ」
「早苗。
私と貴女は、今、生きながらにして幻想となりました。
もはやこの世界に、私たちの実体をとどめておくことは出来ません。
しかし、貴女の中にある記憶と想い出は消えません。
それを、私はしがらみとは言いません」
ぎゅっと、早苗は拳を握り締める。
ぽたぽたと、雫が落ちる。
「ずっと覚えていなさい。その記憶。忘れることは許しません」
「……はい……!」
「新たな記憶で上書きすることも許しません。
ずっとずっと、覚えているんですよ」
早苗には、もはや声もない。
八坂は社の外に歩み出ると、大きく息を吸い込み、朗々と唄を歌い始めた。
その唄に惹かれるように、周囲の木々が揺れて、大地が鳴動する。
空気がざわめき、空が歪み、世界が大きくねじれていく。
「新たな旅路へと、共に参りましょう。我が神子よ」
何かが砕けるような音と共に、早苗の意識が吹っ飛ばされる。
暗闇に落ちていく瞬間、彼女は確かに、光を見た。
そして、その光の中に、ちろちろと赤い舌を出す蛇を見た。
ぷつっと、全てが途切れる。
彼女には、その時、何も聞こえず、何も見えてはいなかった。
――2――
「おおおおおおおおおおお!」
「うっさい、魔理沙」
「何言ってんだ、霊夢! こんなうまそうな飯、初めて見るぜ!」
「すいません。お招きいただいて」
「あら、気にしなくていいんですよ」
「こちらとしても、人数が多いほうがにぎやかでいい。
お前は、あちらの魔法使いとは違って、礼儀正しい。いいことね」
結局、魔理沙は晩御飯を食べにアリス――彼女の、ある意味、保護者的立場になりつつある魔法使い、アリス・マーガトロイドの家に行くことはなかった。
『行くのめんどくさくなった』と、アリスをこの場に呼びつけたのだ。
もちろん、アリスは、今日のこの宴の事情を聞いて、とっても怒った。
魔理沙はアリスに怒鳴られまくったことなどけろっと忘れて、テーブルの上に並ぶ豪華な料理に目を奪われている。
「……ったくも~。
ごめんなさい、霊夢。邪魔をしてしまって」
「ああ、うん。いいよ。別に。
酒を飲む相手は、多い方が楽しいし」
「あ、わたしは遠慮しますね」
「大丈夫。早苗。あんたに飲ませる阿呆はいない」
料理を作っていたメンツ以外は、すでにテーブルについてお預け中。
諏訪子が「はーらへったーはらへったー、かーなこおそいぞはやくしろー♪」と自作の歌を歌って、神奈子のこめかみに青筋を浮かばせている。
「にしても、とんでもなく豪華ね」
「わたしと霊夢さんが式を挙げたら、両家のお付き合いはますます深まりますから。
やはり、ほら。その家のご両親と仲良くするのが、よい夫婦関係を維持する秘訣だと思いませんか?」
「確かに」
何やら早苗の言葉は違和感満載であったが、普段なら、そこら辺に容赦ないツッコミを入れるアリスも何も言わずに首肯するだけだ。
今の一瞬が、妙に奇妙な印象を与えてくるのを、霊夢は無理やり、振り払う。
「あー、料理がうまい親ってのはいいなー。
私も霊夢のうちの子になろうかな」
「あら、貴女が次の博麗の巫女になるというのでしたら、その発言、前向きに考えますよ」
紫がさらに、大皿に料理を盛ってテーブルへとやってくる。
季節の彩り鮮やかなてんぷらの数々に、「……マジで考えるか?」と魔理沙は悩みだす。
「博麗の巫女って、具体的に、どうやったらなれるんですかね?」
「さあ?
紫のお眼鏡にかなえば、誰でもいいんじゃないの?」
「霊夢さんも?」
「教えてくんない」
この職業、連綿と続く家系であるのか、間に合わせのありもので埋められているのかが、いまいちわからない。
霊夢にも親はいた。
しかし、その親が本当に彼女の『親』であるかはわからない。
彼女はそんなことを語らないし、彼女以外に理由を知っている唯一の存在である紫も、『そんなどうでもいいことを気にしてないで、あなたは巫女として、必要充分な存在になるように努力なさい』と話をはぐらかして説教してくるだけだ。
「不思議ですねぇ」
「早苗のところは、確か、家系なのよね」
「ええ、そうです。
うちは父親がその家系でした」
その家系、で早苗の視線は諏訪子へと。
諏訪子は早苗の視線に気付いているんだかいないんだか、皿の上の料理に手を伸ばそうとして、神奈子に雷を落とされている。
ついでに、『橙が真似するからやめて欲しい』と、やんわりと藍にも説教される始末。
あれで『あたしゃ神様だよ』と言ってるのだから、なんとも威厳のない神様である。
「外の世界は、神様や妖怪への畏怖や信仰というものが失われて久しいもので。
わたしの両親も、諏訪子さまはおろか神奈子さまの存在すら感じることが出来ないくらいに、一般人となってしまっています。
そんな中、わたしみたいな存在が産まれたのは、まさに異例。異端児と言ってもいいかもしれませんね」
「異端児、ねぇ」
アリスは隣でおなかをすかせている魔理沙の首根っこ掴まえながら、「大変ね」とコメントする。
「……女の子としても異端児だし」
ぽつりとつぶやくアリスの一言。
それほど長い付き合いではないものの、早苗と付き合ってわかったことが多数。
その中でも特に特徴的なのは、趣味は広いと自分自身、理解しているアリスにですら理解できない『趣味』の世界を、早苗が構築しているということだけだ。
「……あの子の部屋にある、不思議な人形は一体何なのかしら」
「アリスさん、今、『人形』とか聞こえましたよ!
わたしは人形なんて一個も持っていません! 持っているのは『プラモ』と『フィギュア』です! そこんところ間違えないように!」
そんでもって、その『趣味』には相当入れ込んでいるのか、いちいち細かいところを指摘して訂正させようとしてくる。
鬱陶しいことこの上ないのだが、基本、人は皆、趣味に生きる生き物だ。それを否定されたらむきになるのは当然だろう――そう思って、アリスは顔を引きつらせてコメントを失うだけに留めている。
「早苗は色々、残念なんだよなー。
私らの知らないことを色々知ってるのになー」
「ああ、そうそう。
ねぇ、早苗。早苗にこの前もらった『くりーむ』って、これ、何に使うの?」
「……え?」
「いや、『え?』とかじゃなくて。ほんとにわかんない」
「アリスさん。これ絶対おかしいですよ」
「いやまぁ、霊夢や魔理沙は仕方ないわよ」
と思っていたら、変なところで常識的である。
女の子スキルが極めて高いアリスの目から見ても、早苗の女の子レベルはかなりのものだ。
一方、ここに居る霊夢と魔理沙の女の子レベルの低さと言ったら。
未だそれは『少女』よりも『子供』のレベルであり、『こりゃ誰かが何とかしないといけないな』と思わなくても思ってしまうほどなのである。
「いいですか、霊夢さん。女の子は肌が第一です。特に冬の寒い、この季節。肌が乾燥して荒れてしまいます。荒れたお肌は老化の元。そんな時に、こうした化粧品を使うとですね……」
「そんなの気にするようなもんなのか? アリス」
「あったり前でしょう。
年をとってしわくちゃになりたいってなら止めないけど」
「うーん。そいつはやだな。
あれ? だけど、アリス。お前は人間じゃなくて魔法使いって言う生き物なんだから、そんなに年をとるもんなのか?」
「取るわよ。妖怪だって、年齢を経れば、みんなおじさんおばさんになるんだから」
「ありゃどうなんだよ」
「……いやまぁ……うん……」
少なくとも神代の時代から生きている諏訪子を指差す魔理沙に、アリスは沈黙する。
人に限らず、生き物の見た目は精神に引きずられると言われるが、その理屈が成り立つのなら、『お肌ケア』などというものは、心が若いままであれば永遠に不要なものかと思えてしまう。
しかし、アリスは幼い頃から、その辺りに敏感な姉の教育を受けてきている。母親は、誰がどこからどう見てもティーンエイジであるため例外とするが、彼女の姉の『女の子レベル』は極まっているのだ。
「外の世界の子達って、そんなことまで気にして生活してるのねー」
「というか、幻想郷の人たちが気にしなさすぎなんです。
羨ましい反面、将来が恐ろしくなりますよ」
というわけだから、これを使え、ということらしい。
よくわからないままに、霊夢は『早苗が言うならそうする』と案外素直にそれを受け入れた。
これで、相手が紫なら、散々口答えするのだろうが、彼女は早苗には素直なのだ。
「けど、早苗の話を聞いてるとさー、わくわくしてくるときってあるよね」
「ああ、わかるわかる。
私らの知らないことを楽しそうに話してくれるからな」
「地面を走る鉄の塊だの、空飛ぶ大きな乗り物とか。一回、見てみたいなー」
「私は、でかさが妖怪の山にも匹敵するっていう、全面ぎらぎら光る建物を見てみたい。どんなものか、中に入ってみたいな」
それを知らないものから見れば、そこはとても楽しそうな世界であるというのに。
「どうして、早苗は幻想郷なんて、アナクロでモノクロームな世界に来ようと思ったんだ?」
魔理沙のさりげない問いかけに、『ん~……』と早苗は考える。
「魔理沙。あんた、失礼でしょ」
「いてっ」
そんな彼女は、アリスに後頭部をはたかれる。
はたかれた箇所をさすりながら、『いいじゃないか。別に』とふてくされたりする。
「何といっても、わたしは守矢の子で、神奈子さまと諏訪子さまの神子ですから。
信じ、崇め、奉り、祀り上げる神が社を離れてしまうというのに、それを見送るだけというのは」
「義理人情ってやつかね」
魔理沙の問いかけに、早苗は苦笑を浮かべて、『そんなところです』と言った。
「あ、そろそろみたいよ」
そこで、霊夢がその場の話を打ち切った。
いよいよメインの料理と飲み物がテーブルの上に揃い踏みし、皆が席を囲む。
そして、全員のコップやお猪口に飲み物が行き渡ったところで、『いただきまーす』という声が響き渡る。
その夢は、重く、苦しいものだった。
頭の上から、御山の大瀑布が叩きつけてくるような重圧感。
息苦しく、体を動かすことすら出来ない。
そうこうしていると、重たい振動が痛みとなって全身に伝わってくる。
痛みにもがいて体を動かそうとしても、出来ない。
ただ、なぶられるがまま、苦痛に顔をしかめているまま。
しばらくすると、閉じた暗闇がぱっと開けて、見たことのある映像が映し出される。
それを見て、彼女は、『ああ、これ、覚えている』と瞬間的に感じる。
映像は、映画のフィルムのように連綿と続き、途切れることなく巻かれていく。
見覚えのある景色、聞き覚えのある声、郷愁を引き出されるセピアカラー。
映像は、途切れることなく、からからと回り続ける。
――これって、もしかして、走馬灯というやつかしら?
その映像が、現在から過去へ向かって流れているのを、彼女は薄ぼんやりとだが感じていた。
映像の中で、『彼女』が笑っている。
その姿に見覚えがある。自分の姿だからだ。
年がどんどん巻き戻っていって、彼女は青年から少女へ、少女から子供へ、子供から赤ん坊へと移り変わっていく。
赤ん坊の記憶は胎児まで巻き戻り、精子と卵子の受精の瞬間までを描き出して、ぷつっと消える。
ここから先の記憶は、彼女にはない。
彼女が存在しない記憶なのだから、覚えているはずもない。
しかし、記憶のフィルムは途切れない。今もからからと回り続けている。
『お前は物好きだねぇ』
声がした。
からから回るフィルムの音に混じって、その声は、鮮やかに脳裏に響いてくる。
『何もそこまでする必要もないだろうに。
どうして、お前はそこまで自己犠牲に過ぎるのだろうね? わたしには理解が出来ないよ。
いいかい? 生き物ってのは、生きるということに欲を覚えて生きるもんだ。
今よりいい暮らしをしたい、幸せに生きたい、楽しい毎日を過ごしたい、ってね。
辛く苦しい生活を、わざわざ選ぶ阿呆はいないだろう? 誰だって、楽して遊んで暮らしたいもんだ。
にも拘わらず、お前は変だねぇ』
くっく、と声の主は笑っていた。
誰に向けられた言葉であるかを察する必要もなく、彼女の意識は、その声を受け入れていく。
『やめてしまえばいいのに。離れてしまえばいいのに。
なぜそこまで、お前は相手に義理を尽くそうとする? 相手は他人だよ?
どんなに深いつながりを持っていようと。たとえそいつが親だろうと、お前にとっては他人だよ? お前じゃない。
そいつがどんなことになろうと、お前には関係ないだろう?
お前にゃ、お前の幸せを追求する権利と義務がある。苦しい身の上に、あえてその身をやつして生きるなんて、わたしから見りゃ阿呆どころか馬鹿のすることさ。
そんなものはただの自己満足だ。下らない。
お前はそれでいいだろうね? お前のちっぽけな自尊心が、それで満足するんだ。そりゃ、お前にとっちゃ誇らしいことだろう。
だがね、回りから見りゃ、お前なんて嘲笑の的だよ?
出来ることもやろうとしない、やるべきことを放棄してしまった、お前のそれを満足させるという、お前自身の欲に、お前は負けた。
おっと、確かに、お前の言い分もわかる。わたしの人生だ、わたしの好きにさせろ、ってね。
そいつぁ結構。
だからこそ、幸せに生きる権利を放棄したお前は、阿呆でなく、馬鹿なのさ』
フィルムを巻き続ける映写機が見えた。
その映写機のレンズは、暗闇に向いている。投射される光が、闇に飲まれて消えていく。
フィルムの残数も、あとわずか。
記憶は過去に向かって無限に続くといわれるが、あれは嘘だ。
記憶が持つ、過去の起点に辿り着けば、記憶の歴史は終わりを告げる。
『だからこそ、お前は物好きだということだ。道楽者だ。趣味で身を持ち崩す奴はいないが、道楽者はそれで滅びを迎える。
お前は愚かだねぇ。
だけど、そうであるからこそ、わたしはお前を好きなのかもしれないねぇ』
フィルムが全て巻き終わり、映像が途切れた。
じー、という無機質な音が響いている。
起点は終点。
がちゃっと音がして、フィルムが吐き出される。
子供の顔ほどの大きさもあるリールに巻かれたフィルムが取り出され、そこに、新たなフィルムが装填される。
また、からからと、フィルムが回り始める。
映写機から映し出される映像が、闇の中に、色鮮やかに浮かび上がる。
『ここから先は、お前が選んだ選択だ。
わたしは何にも言わないよ。
だけど、お前に何の手向けも手渡してやれないのは残念だ。
だから、お前に一つ、手向けを渡してやろう。
そいつを手放しちゃいけないよ。そいつを持っている限り、わたしはお前を必ず助けに行く。
手放しちゃいけないよ。わたしは嫉妬深くて執念深い。おまけに寂しがりでね。
幾千、幾万、幾億の星が巡ろうとも、万難を排してお前を探し出す。
わたしとお前の邪魔をするものを、わたしとお前を傷つけようとするものを、わたしは必ず、皆殺しにして、お前を見つけ、救い出す。
そうならないための目印さ。そして、御守さ。
手放しちゃいけないよ』
体を覆っていた痛みと重たさが晴れていく。
徐々に暗闇が溶け出して、朝日が昇るかのごとく、晴れていく。
体がふわりと浮かび上がり、彼女は大きく、息をする。
吸って、吐いて。もう一度、吸って。
『わたしを大人しいままにしておきたいならね』
最後に響く、無邪気な、悪意なき呪いの言葉に、彼女の呼吸は止められた。
『お姉ちゃん、朝だよ、起きて。起きてくれないとちゅーしちゃうぞ。
お姉ちゃん、朝だよ、起きて。起きてくれないとちゅーしちゃうぞ。
お姉ちゃん、朝だよ、起きて。起きてくれないとちゅーしちゃうぞ――』
「ん……ん~……。ゆみちゃん、今日はダメよ~……んふふ……」
何やらいかがわしい音声の流れる目覚まし時計に、彼女は妖しい寝言をほざきながら寝返りを打って、『ふぎゃっ』と悲鳴を上げる。
「あいったたた……」
ベッドの上から落下した彼女は、頭をさすりながら、むくっと起き上がる。
部屋の中。
見慣れた部屋の中。
それは、自分の部屋の中。
「……あれ?」
首をかしげて、彼女――早苗は、とりあえず、枕元で妖しいメッセージを垂れ流しまくってる目覚まし時計のスイッチを押した(ちなみに、その目覚まし時計は、時計の文字盤のところにやたら肌色多めの紳士的な少女のイラストが描かれている)。
きょろきょろ辺りを見渡してから、首をかしげる。
「えっと……」
記憶を手繰る。
昨日、起きたこと。眠りに着く前に起きたこと。
忘れようと思っても忘れられない事象の数々が浮かび上がってきて、彼女は思わず、身震いした。
そして、同時に、『どうして?』という疑問が浮かび上がる。
その部屋は、いつもの自分の部屋。レイアウトは何も変わっていない。
あの、何もなかった部屋の中が、今、また、自分の部屋に戻っている。
どうなっているのか。
あれは夢だったのか? 明晰夢というやつか? それにしてはリアリティがありすぎる。
「これ……」
立ち上がって、彼女は一度、深呼吸をした。
その瞬間、彼女はそれを感じる。
「……空気が違う……」
慌てて、彼女は窓を開けた。
閉じられたカーテンの向こうから、燦々と、朝日が差し込んでくる。
そして、彼女は見た。
「……何、これ……」
窓から広がる景色――どこまでも続く、緑豊かな自然。
自分の家の窓から見える、家々の屋根などどこにもない。景色を邪魔する電柱も、ケーブルも。
ただ、あるのは自然ばかり。木々の緑と空の青が、どこまでも続いている。
彼女は着替えもせずに部屋から駆け出した。
ドアを開けて、廊下を右に曲がる。
そのレイアウトに、彼女は見覚えがあった。
階段を駆け下りて、左手側に見えた障子を引き開ける。
「朝からどたどたとうるさいですね。それに、今日はずいぶん、寝坊したのではないですか?」
真新しい畳の敷かれた居間に、その姿はあった。
どこから持ってきたのか、立派な、樫のテーブルについて茶をすすっているのは、
「八坂さま……」
「おはよう、早苗」
にっこり微笑んだ彼女は、つと立ち上がると、そこから間続きになった隣の部屋へと姿を消した。
少しして、両手に朝食が載ったお盆を持って戻ってくる。
「昔取った杵柄。経験と知識というのは役に立つものです」
「あ、あの……えと……」
「あの後、貴女は何をどうしても目が覚めなかったので、部屋まで運びました。
その後は、今に至るまでぐっすり。心が疲れていたのでしょう」
座りなさい、と湯気を立てる朝食が並ぶ席を勧められる。
早苗は一歩、部屋の中に足を踏み入れ、勧められるままに、座布団の敷かれた席へと腰を下ろす。
「八坂さま、ここは……」
「いい場所に飛ぶことが出来ました。
これほどまでに清浄な空気は、久しく吸っていない。外の世界は空気が汚い。あのような空気にさらされていては、神力を失う以前にダメージを受けてしまう」
神というのはきれい好きなのだ、と彼女は己を茶化して言った。
そして、その視線が、引き開けられた正面の障子へと向かう。
障子の向こうは板張りの廊下と壁。その壁の一角に、美しく光るガラスの窓がはめこまれており、そこから覗く風景を一望することが出来る。
「幻想郷。予想以上に、住みやすい」
彼女はそう言って、手にした湯のみを傾ける。
早苗はその一言で、改めて、今の自分の立ち位置を知る。
今までの生活の存在しない別天地。通じていた、知っていた理の通じない、新たな世界。
彼女は息を呑み、そして、『ぐ~……』というおなかの悲鳴に顔を赤くする。
「食べなさい。味は保証します」
「……はい。頂きます」
縮こまったまま、彼女はもぐもぐと朝食を頬張る。
八坂が己で言うだけあり、味はなかなかのものだった。
「貴女の両親も連れてこられればよかったのだけど、あの方たちは、私への信仰を失ったもの。
我が伴侶として連れるにはふさわしくなかった」
「……はい」
「結果として、私は貴女しか連れてくることは出来なかった。許されなかった。許してはならなかった。
まずは、それをわびましょう」
「い、いえ。そんな。わたしが選んだことなので……」
「貴女は最後に、辛い思い出を体験した。
しかし、その想いを晴らすことは出来るでしょう」
八坂は外を眺めながら言う。
「どう? こんな光景、見たことないでしょう?」
「……はい」
早苗は運動は得意だ。
身体競技、器械競技、何でもござれ。
泳ぐのも走るのも大得意。
しかし、山登りというのは、あまりしたことがない。
ついでに言うなら、山登りの結果、眺める風景が、全て緑と青という光景も、見たことがない。
今まで知らない世界。知らない体験。落ち込みつつあった気持ちが上向いてくる。
外の世界に残してきた思い出を胸に残したまま、『これからどんなことがあるんだろう』という、わくわく感に支配されるのは、嘘ではなかった。
「しばらくの間、貴女が断ち切ったしがらみは、なお貴女を縛るでしょう。
それを乗り越えなさい。早苗。
貴女はもう、幻想の身の上なのだから」
「……はい、八坂さま。
早苗、頑張ります!」
「あとそれから」
八坂は手にした湯のみをテーブルの上に戻すと、早苗を見る。
「先にも言った通り、貴女の両親を、ここに連れてくることは出来ませんでした。
しかし、貴女は、精神はともあれ、肉体的にはまだ子供。親が必要でしょう。
この社には、これから、私と貴女が暮らす日常が満ちる。
私で足りるかどうかはわかりませんが、私が貴女の親となり、貴女を教え、導きましょう。
……だから、『八坂さま』は禁止ね?」
にっこり、照れくさそうに微笑む神様に、早苗の顔に、ようやく笑顔が戻る。
ご飯を全部、食べ終えてから、
「とはいえ、わたしにとって、八坂さまは信仰すべき神であり、祀りの対象ですから。
その相手を呼び捨てにすることは出来ません。それはあまりにも不敬で無礼です」
「貴女は堅いわね。誰に似たのやら」
「だから、『神奈子さま』と呼ぶことをお許しください」
微笑む早苗に、八坂――神奈子は、『わかりました』と鷹揚にうなずいた。
「じゃあ、それで妥協します」
「はい。
それじゃ、これからよろしくお願いいたします。神奈子さま」
「ええ」
さて、と神奈子は立ち上がる。
彼女はまず、早苗に「着替えて朝の用意を調えて来なさい」と指示をした。
言われずとも、早苗は『はい』と返事をして、自室へと取って返す。
いつの間にか、部屋の中には、普段、彼女が神子として八坂神奈子の前に姿を現す際に纏う衣装が置かれている。
その衣装――ずいぶん特徴的なデザインの巫女服に身を包み、『よし』と気合を入れなおして、彼女は部屋を後にした。
「神奈子さま。ここはどこなんですか?」
「さあ?」
母屋の外に足を踏み出す。
振り返ると、あのぼろぼろだった母屋と社殿が、ずいぶんと立派な代物に変わっていた。
神奈子の神力か、それとも単なる見栄か。
ともあれ、その新しい『家』から視線を前に戻す。
どこまでも続く空が見える。高い山の上に、二人はいる。
「まずは、この世界の地理を知りたいところね。
どこかに地図は売ってないものかしら」
「はーい。そういうことなら、幻想郷のクオリティペーパーなんていかがですかー?」
いきなり、頭上から声がした。
振り仰ぐと、そこに、一人の少女が逆さまに浮かんでいる。
背中に黒い翼を生やし、赤い烏帽子をかぶった彼女は、手に、早苗たちが見慣れた『新聞』を持って浮かんでいる。
「何者だ」
神奈子はそれまでの雰囲気を消して、神としての威厳に満ちた声で相手を圧する。
通常、それだけであらゆる物を畏怖させる神奈子の声に、しかし、その相手はなんら臆することなく、「天狗です」とにこっと笑う。
「天狗……?」
早苗は首をかしげた。
早苗の記憶にある天狗とは、巌のようにいかつい赤ら顔で、立派な体躯で、特徴的なのは長い鼻。
しかし、目の前に居るのは、自分とそう年齢の変わらない女の子。
ミニスカートからすらりと伸びた足の美しさが特徴的な彼女は、ふわりと地面に舞い降りる。
「どうもどうも。
私、ここ、妖怪の山にて天狗をやっております射命丸文と申します。
あ、こちら、私が発行しております新聞でして。
どうぞどうぞ、お近づきの印に。今なら、洗剤一か月分をお付けして――」
「結構」
「……そうですか」
「あ、いや、あの、神奈子さま。せめて一部だけでも」
「ですよね!」
しょんぼりとなった天狗――文の顔がぱっと輝いた。
神奈子をスルーして、彼女は早苗に駆け寄ると、「どうぞどうぞ!」と手にした新聞を押し付けてくる。
一面には、『妖怪の山に謎の社が出現!』という見出しと共に、自分たちの住む家と神社がカラーで映し出された写真が掲載されている。
「……情報が早いんですね」
「はい。情報はなまもの、新鮮なうちにご提供が、私の信条です」
この人、うちによく来る新聞の勧誘員と同じだな、と思いつつ、早苗はポケットから財布を取り出すと、「いくらですか?」と尋ねる。
「えっと……月の購読料が……だから、えー、50円?」
「やっす!?」
「あ、もっと安いです。すみません。30円」
「いいんですか!?」
「え? 何でですか?」
通常、早苗がよく見る新聞とは、コンビニや駅のキオスクで売っているものである。
朝刊は一部200円前後、夕刊は150円前後。
それに比べて、ページの数はほとんど同じなのに、カラー写真もばさばさ使って、わずか30円だという。
「え、えっと……それじゃ、はい……」
「あれ? これ、お金ですか?」
「え、ええ。そうです」
「ふーん。
もしかして、あなた達、お客さんですかね? なら、私たちが持っているお金を持っていなくても当然だ」
「……えっと?」
文は早苗からお金を受け取ると、腰に提げた巾着の中に、それを放り込んだ。
そうして、『では!』と立ち去ろうとしたところで、神奈子に肩をつかまれる。
「何かを知っているようですね」
「あやややや。そんな怖い顔しないでください。善良な一ジャーナリストの文ちゃん、泣いちゃうっ」
「貴女が知っていることを話すのなら、まずは一ヶ月、お試しで購読させて頂きますよ」
「はい! 何が知りたいのですか!?」
「……」
ふざけ、茶化して、神奈子の前でも全く臆することのない彼女。
その姿に警戒をしていた神奈子は、唐突に掌返して笑顔になる文に、顔を引きつらせる。
「ああ、いや、えっと……。
まず、ここはどこだ?」
「はい。ここは妖怪の山と言いまして、通称、『山』と呼ばれております。
私たち、天狗や河童、その他の大勢の妖怪たちが暮らすところですね。幻想郷では有名ですよ。一歩でも踏み込めば、命のない危険地帯として」
「えっ!?」
「――というのも、今は昔ですけどね。
最近は、天魔さまの方針転換で、『幻想郷で随一の観光地にしよう』ということで頑張っております。はい」
「……」
早苗も沈黙する。
そんな魔鏡に足を踏み入れてしまったのかと驚き、身構えていたら、このオチだ。
というか、どうやって、そんな危険地帯を一大観光地にするというのか、全く道筋が見えてこない。
「……ま、まぁ、いいでしょう。
次に。
貴女は私たちを『お客さん』と言った。貴女は外の世界を知っているのですか?」
「まぁ、これでも1000年くらいは生きてますから。
幻想郷が外の世界から隔絶された経緯も知ってますし、それをなしたのが誰かも知ってます。
そして、この世界が、本来ある世界から閉ざされた世界だということも知ってます」
「私たち以外にも、外から入ってくる人がいるのですか?」
「いますね。
ふとしたことで境界を越えてしまった人とか、外で言う神隠しにあった人とか。
ま、大抵は、そういうのは妖怪に食われてしまうのですけど、運良く人里に辿り着いて、この世界での生活に馴染んでしまったり、また運良く、元の世界に戻れたり。
まぁ、色々ですね。
そういうのはあんまり取材しても面白くないんですよ。そう珍しいことでもないし、そうよくあることでもない。
どうしても記事が足りない時の埋め合わせネタですね」
ひょいと肩をすくめて、文。
神奈子は『わかりました』と、文を掴んでいた手を離す。
文はひょいひょいと神奈子から距離をとると、にんまりと笑った。
「それじゃ、ちょっと、こちらからも聞きたいことがありますので。
お時間、少しだけよろしいですか?」
「何ですか?」
「あなた達は何者ですか? 唐突に、この建物ごと、ここに現れたのですが。
いやー、天狗社会は大騒動。上へ下へのてんやわんやでして」
その『犯人』にいち早く接することが出来たのだから、色々、話を聞いておきたい。
文の目はそう語っている。
神奈子は、相手を一瞥した後、
「私は神です」
「おっと。大きく出ましたね。
ま、幻想郷にも神は少なくありませんが」
「外の世界で信仰を失い、力と格を失いつつある、廃棄された神です。
このたび、外の世界に見切りをつけ、この世界で己の信仰を再び獲得し、力を蓄えるために来ました」
「ほうほう、なるほどなるほど。
つまり、大した威厳も恩恵もない雑魚神、と」
「っ!」
「早苗、やめなさい」
信じ、奉る対象である神奈子に加えられた侮辱に、思わず早苗が文に食って掛かりそうになる。
しかし、神奈子はそれを止めた。
言わせておけばいい、その瞳はそう語っている。
「いやー、すいません。思ったことは口に出さないとすまないタチでして。
おかげで敵を作ることも多いんですよね」
「そうでしょうね」
「この世界で信仰を得る、ですか。
あなたは具体的に何が出来るんですか?」
「あえて言うなら何でも。
この世界での技術の程度や発展、生活の度合いにもよるでしょうが、一瞥した限り、この世界の発展のレベルはそう高くない様子」
「そうですね。
人は朝、日の出と共に起きて、日の入りと共に寝る――ま、それは言いすぎかもしれませんけど、田畑と山野、川が生活の主体です」
ついでに、と文は『幻想郷は、今から数百年前に出来た、新しい世界ですよ』という情報を教えてくれる。
数百年というと、この世界の発展のレベルは相当に低いのだろう。
今、この神社を見てもわかるように、電気も瓦斯も水道もない。
そんな世界においてなら、己の力をいくらでも、民の益とできると、神奈子は宣言した。
「なーるほど。
それなら、割とたやすく、信仰を集めることは可能かもしれませんね」
「確かに」
「ただねー、ちょっと問題があるんですよねー」
「何ですか?」
「あなた達は、我々から見れば、山への不法侵入者であるということです」
にやりと、文は笑った。
「天魔の方針が変わったとはいえ、まだまだ、昔に縛られる堅苦しい連中が牛耳るのが天狗社会。
かなりのものが、あなた達を『排除しよう』と考えているみたいでして。
ほら、見えるでしょう? あれ。実力行使という名の『対話』を始めたいみたいです」
文の示した先には、早苗には何も見えない。
しかし、神奈子にはそれが見えるのか、『なるほど』とうなずくだけだ。
「天狗は頑固で他人の話を聞きません。自分の意見を実力で押し通すのが、我々の話し合いのスタイルです。
どうします? 天狗は手ごわいものばかり。
せっかく、全てを捨てて幻想郷に来たのに、早々に追い出されるようなことにでもなったとしたら」
「たかが獣の変化風情が」
そこで、神奈子の空気が変わった。
足を踏み出す、それだけで、どすんと地面が揺れる。
山が、丸ごと鳴動した。
文が、さすがに目を見張る。
「貴様らは、何を勘違いしている。
我は神ぞ。貴様らのような、畜生の変化ごときが束になってかかったとて、かなうと思うてか。
甘く見るな。図に乗るな。
たとえ力を失ったとして、妖ごときに後れを取るものかよ」
「……へぇ」
文の表情も変わる。
彼女は右手に、カメラではなく風扇を取り出すと、
「そうですか」
一瞬、その姿が消えた。
『え?』と早苗が思った時には、後ろから声が聞こえてくる。
「確かに、あなたは強いようだ。だが、こちらのお嬢さんはそうでもない。
天狗は賢く、卑怯だよ。正々堂々なんて言葉は通じない。
私たち、妖にとっちゃ、己の存在を守ることが生きる理由。きれい汚い関係ない、相手を倒せりゃそれでいい」
「ふん」
神奈子と共に、早苗も振り返る。
彼女のすぐ後ろに、文が立っていた。
その左手に、赤い筋。
流れる血が、ぽたぽたと、地面に落ちている。
「けどま、あなた達みたいな面白い取材対象が、あっさりと消えてもらっては困りますので。
頑張ってくださいね。
妖とは生き物、生き物のルールは、あなた達も熟知しているはずだ」
「強いものが正義、ということでしょう?」
「そういうことです」
にこっと微笑んで、文は空へと舞い上がる。
彼女は『次の新聞の一面記事、よろしくお願いしまーす』と言って、あっという間に空の彼方へと飛んでいった。
あっけに取られている早苗の肩を、神奈子が叩く。
「面倒ごとになってきたわね」
その一言に早苗が振り向く。
神奈子の右手に、血がついている。
その血の先――赤黒い、小さな肉の塊を、彼女は地面へと放り捨てた。
空の彼方からやってきた、天狗の集団が、早苗たちの前に舞い降りる。
若い男性が多いが、それを率いるのは、屈強な体躯の壮年の男。まるで岩山が飛んできたかのような重量感と共に、彼は彼女たちの前へと舞い降りて、足を進めてくる。
「見ぬ顔だな」
「つい先ほどまで、こことは違う世界にいたものだ。当然であろう」
「何者だ」
「我は神だ」
「神だと? 知らぬな」
「そうだろう。お前たちのような、畜生の変化どもが知るはずもない」
その一言で、天狗たちがざわつく。
自分たちをけなされた――そう感じたのだ。
しかし、それを、先頭に立つ壮年の天狗が諌める。
「この山は、我ら天狗のものである。
そこに不用意に立ち入るものにはそれ相応の処罰をしている。
だが、何も一方的に、理不尽に攻撃を仕掛けるというわけではない。
まずは話を聞こう。そちらにも言い分があるはずだ」
「ご考慮いただき、感謝の極み」
下げた頭の下で、彼女は笑みを浮かべている。
再び顔を上げた後、まるで詠うように、神奈子は朗々と宣言する。
この幻想郷で、己の、神としての力を取り戻すこと。失われた信仰を取り戻すこと。そして、己を信仰するものには、神としての利益を最大限供与し、それに報いること。
彼らは、無言のまま、それを聞いていた。
神奈子の語りが終わると、壮年の天狗が口を開く。
「ならば、何もここに社を置かなくともいいことになる」
「確かに。
しかし、この地へと転移してきた時、我はここを気に入った。この地は我の信仰の要となるにふさわしい。
この清浄な空気、満ち溢れた神気、実にいい。
この地を頂く。それにたてつくというのであれば、神罰が下ると知れ」
神は傲岸不遜であり、傲慢である。
神は絶対であるが故に、唯一無二である。
天狗の威厳やプライドなど、神にとっては塵芥の一つに過ぎない。
天より、あるいは地より立ち現れし神と、有象無象の塵芥の一つ、獣から変化をなした化生と、どちらが格上であるか。
それはもはや、言う必要もない。
「断る」
壮年の天狗は答える。
「この地は、先にも言ったが、我々のもの。
民に信仰を求めるのであれば、それにふさわしい相応の地へと行け。
この地に根を下ろすことは認めぬ。立ち去るがいい」
「ふん。下らぬ、矮小な自己を満足させるために、それよりも大きな利を捨て去るか。
やはり獣。一歩前のことすら見えておらぬ。
その日を生きることのみに精力を尽くす。愚かよな」
次の瞬間、壮年の天狗が、手にした巨大な棒の先端を、神奈子の眼前へと突きつけた。
速い。とてつもなく。
音すらしない。それが遅れてやってくる。
吹き付ける風と気配に、早苗は、自分にそれが向けられているわけでもないのに、一歩、後ろに足を引いた。
神奈子は、笑っている。
「神とはいえ、誅されるべき悪神もいる。
何者にも尊敬され、敬われ、畏まる良神もいる。
お前はどうやら、前者のようだ」
「自らの言葉が聞き入れられぬからといって、この八坂神奈子を荒神風情と一緒にするか。
その神を愚弄する無礼な態度、しかと覚えたぞ」
「痛い目を見ぬうちに立ち去るがいい」
「やってみろ。鴉ども」
彼の振るう棒の先端が、神奈子の額を突く。
がつん、という音。
叩きつけられる衝撃に、神奈子が大きくのけぞる。
早苗は息を呑み、上げた悲鳴は、己の肋骨によって押さえ込まれる。
激痛に喘ぎ、早苗は咳き込んだ。
そして、
「これが貴様らの返答か。
神を怒らせたこと、後悔せよ!」
神奈子は、無傷だった。
起き上がりこぼしのようにぐいんと上半身を引き戻すと、天に向かって手を振り上げる。
直後、何もない晴天に黒雲が湧き出し、あっという間に天を覆ってしまった。
さらに豪雨が降り注ぎ、天狗たちが狼狽する。
「な、何だ!?」
壮年の天狗が恐れおののき、足を一歩、引いた瞬間、天から閃く一条の雷光が、彼を直撃する。
悲鳴すら上げられず、彼は雷に焼かれ、黒こげとなって大地に倒れた。
「お前たちは我を知らぬ。
知らぬが故の蛮勇、少しだけ敬意を表してやろう。
この軍神であり、雷神であり、水神である八坂の神の怒りを思い知るがいい!」
荒れ狂う雷撃が、次々に天狗たちを襲う。
彼らは悲鳴を上げて逃げ惑い、這々の体で逃げ出していく。
中にはそれを恐れず、神奈子に向かっていくものもいる。
その手にした錫杖で神奈子に躍りかかるのだが、軽々と、それを彼女に素手で受け止められ、目をむく。直後、その屈強な体は軽々と宙を飛び、大地に叩きつけられる。
「ひぃっ! へ、蛇っ!」
地面から湧き上がる土くれの蛇が、倒れた彼の体に巻きつき、かみつき、悲鳴を上げさせる。
「さあさあ、どうした! この程度か、天狗ども!」
まさに圧倒的。
すさまじいまでの力量の差に、彼らは一斉に逃げにかかった。
倒れ、傷ついた仲間を必死で回収し、一目散に逃げ出していく。
その彼らを見送った後、ふぅ、と神奈子は息をつく。
「だらしない。
もう少し、骨のある連中だと思ったのに」
「……神奈子さま、お体は大丈夫ですか?」
「大丈夫です。
この程度の力の行使ならば朝飯前。神の器は、貴女が心配するほど、小さくはありませんよ」
にこっと笑って、彼女は左手を天に向かって差し伸べる。
荒れ狂う雲は風によって吹き散らされ、燦々と照る太陽が戻ってくる。
「さて、それでは、どのように信仰を集めるかの算段を立てましょう。
先の天狗にもらった新聞に書かれている情報が、正しいかどうかはわかりませんが、少なくとも、この世界の情勢を知る手がかりにはなるでしょう」
「はい。わかりました」
「よろしい」
彼女は踵を返して、母屋の中へと戻っていく。
早苗も、それに続いた。
神々しい、神奈子の姿。これぞまさに、『わたしが信仰する神様』として胸を張ることのできる、神の御姿であった。
「それで、だらしなく逃げ帰ってきた、と」
「は、はい……。申し訳ございません……」
「よい。構わぬ。下がれ」
「……はい」
一方。
神奈子の元から逃げ帰った天狗たちのうち、貧乏くじを引いた一人が、天狗連中を統べる大天狗の元を訪れていた。
額ずきひれ伏し、自分たちの無様な結末を報告する彼を、その場に座す大天狗の一人が追い払う。
その顔に不快の色はない。むしろ、驚きと興味の色が浮かんでいる。
「天狗の実力は、この幻想郷では最上位に位置する。我々は敗北を知らぬ妖だ」
「我らに抗ってかなうのは、せいぜいが、紅の館の吸血鬼か、花畑の妖怪程度のものよ」
車座になって座る大天狗たち。
彼らは、皆、一様に幻想郷の新しい住人について、驚きの色を浮かべてそれを受け止めている。
「まさか、あっさりとあしらわれるとはな」
「若い者たちの経験を積むためとはいえ、少々、荷が勝ちすぎたか」
それについては、自分たちの目が悪かった、と誰かが言う。
「彼のものは己を『神』と名乗っていたそうだ」
「神、か。
確かにこの山にも神はいる。だが、彼女らは、我々が言うのも憚られるが、神格の大したことのない神だ」
「親しみやすい神というべきか。
そこに今回、取り付く島もない神が新たにやってきた、と」
ふーむ、とうなる彼ら。
「さて、どうされようか。各々方」
「その神は、今、力を徐々に失っている状況と聞く。
ならば、ほったらかしておけば、いずれ矮小な神となる。そこを狙って攻め落とすのもありではないか?」
「わしは反対だ。
それまでにどれほどの年月がかかるかわからぬ。
妖は、年を経るごとに力を増すが常道とはいえ、やはり神にはかなわぬ。神すら上回る力を得るまでにどれほどかかるか。それほどまでに神が力を弱めるまでに、どれほどかかるか。
和平を申し出てもよいのではないか?」
「おぬしも衰えたな。かつてはこうした物事があれば、我先にと敵に攻め入っていたものを」
「ふふ、あの頃はやんちゃだっただけよ」
「ほう。『やんちゃ』とはどういう意味じゃ?」
「うむ。若い者たちの話をさりげなく聞いていたのじゃが――」
威厳はあるものの、どこか、『年寄りの井戸端会議』のような雰囲気でもある。
彼らは彼らで仲のいい付き合いにあるのか、割と和気藹々とした話し合いであった。
「ちなみに、その神というのは、どのような相手なのか?」
「うむ。
これがその神の御姿を映したものらしいのだが、見よ、かなりの別嬪さんじゃ」
「おお……これはなかなか……」
そんでもって助平でもある。
天狗社会とは、プライドと規律に統制された世界であるようだが、そのトップは、何のことはない、ただの助平じじいの集まりであるようだ。
「うーむ。
これならば、やはり手を結び、和平を訴えた方がよいかもしれぬ」
「わしも異議はない。
戦うのに手間のかかる相手であるのなら、懐柔し、味方につけたほうが得策じゃろう」
何も、外部からの来訪者全てを排除するのが、妖怪の山の秩序ではない。
時に利用できる相手なら、それを味方につけるのも悪い選択肢ではないのだ。
自分たちが行なうのは、あくまで山の秩序を維持することであって、山に無用の混乱をもたらすことではない。
かつては強硬に侵入者の排除を行なっていた時期もあったが、事情も変わった。その変化に対応していくことも、また、自分たちの役割である――そう、彼らは認識している。
もっとも本音では、『こんな別嬪さんを追い出してしまうのはもったいない!』という助平心が働いているのかもしれないが。
「では、異論はないということで、配下の者たちに通達を……」
「何やら面白い話をしているな」
その時、唐突に、外と部屋とを区切る障子が開いた。
さっと、外から差し込む陽光。
それを背中に背負って立つ相手を見て、大天狗たちは目を丸くする。
「余を差し置いて、お前たちだけで勝手に楽しい相談か? いつから、お前たちは余を出し抜けるほど偉くなったのだ?」
「て、天魔さま……。何ゆえ、このようなところに……」
「何、少し面白い話を耳にしただけよ。
この天魔の庭である山へと勝手に入ってきて、己を『神』と名乗る傲岸不遜の輩がいる、とな」
傲岸不遜はむしろこいつの方じゃないのか、と大天狗の一人は内心でつぶやく。
しかし、そんなことを相手の前で言うことなどできはしない。
そんなことをすれば今ある地位を失い、山を追い立てられ、最悪、『天魔への反逆者』としてかつての仲間に追い回される立場となってしまう。
「今日はめんどくさいからどうでもいいが、明日以降、気が向いたら、余がそのものの顔と名前を覚えにいこう。
誰か案内役の者を用意しておけ」
「は、ははーっ!」
一人がその場に平伏し、皆が慌ててそれに続く。
わっはっは、と笑いながら天魔はその場を後にした。
相手の足音が聞こえなくなり、気配が消えるまで、その場に土下座していた大天狗たちは、慌てて障子を閉めて車座を作り直す。
「ど、どうする」
「まさか天魔さまがこのようなお噂を……」
「誰だ、あれに話を持っていったのは! またややこしくなる!」
「う、ううむ……。
波乱万丈、風雲急を告げるとはまさにこのことよ……」
泡を食って大慌ての彼らは、ああでもないこうでもないと話し合いを再開する。
それほどまでに、彼ら天狗にとって、天魔というのは厄介な相手であった。
――さて。
その様を、空の上から眺めるものが居る。
「文。あんたでしょ。あいつにめんどくさい話を持って行ったの」
「あややや。めんどくさいとは、またご無体な。
私は、下っ端天狗の務めとして、上司への報告を行なっただけですよ」
「あんたの上司は、あそこにいるスケベじじいでしょ。何で直接、天魔なのよ」
「天狗社会を統括するのは天魔さまですしねぇ。
いやぁ、困った困った」
にやにや笑う文の隣には、彼女の友人、姫海棠はたてが浮いている。
その顔は、『こいつは……』という呆れ顔だ。
「それに、私は報告を持って行ったり、というのともまた違う微妙なことをやっただけですしねぇ。
天魔さまのお耳に入るように、噂話をしただけですしねぇ」
「あんた、意外と根に持つタイプよね」
「いえいえ、そのような」
左手を、彼女はぱんと叩く。
真新しい包帯の巻かれたそこは、神奈子との対峙で怪我を負わされたところだ。
あの程度の傷、放っておけば一日も経たずに治るが、治るまでは、やはり痛い。
「それにねぇ、はたてさん」
「何?」
「私には、どーも、あの神様が信用ならないんですよねぇ」
「何か隠しているとか?」
「そう。それ。
あそこは何かが隠れている。それが『者』なのか『物』なのか『モノ』なのかまではわかりませんけどね。
あの神様はそれを隠している。我々に。
そういう態度って気に入らないんですよねー。やっぱり、物事はあけすけに話さないと」
何を言ってるんだか、という目ではたては文を見る。
こいつほど、そういった、『隠し事』を好む天狗もいないからだ。自らは他者に隠し事をして、そのくせ、他人の隠し事を無理やりだろうと暴きだす、そんな悪趣味なことに人生注ぎ込んでいるのがこいつなのだ。
やはり、文は神奈子にやられたことを根に持っているようである。
「陰険なことすんじゃないわよ、ったく」
「いえいえ。
それにそれに。これからいい絵が撮れると考えたら、わくわくしてくるでしょう?」
「火のないところに煙を立てる趣味はないの。あんたと違ってね」
「ふっふっふ~。
あ、特ダネが取れても、分けてあげませんからね」
「いらない。あんたみたいな特ダネの取り方、わたしは好きじゃないし」
「あ~ん、もう。はたてさんったらいけず~」
「よるな、うっとうしいっ」
「ふぎゅっ」
そして、変な声を出してくねくねする文の顔面に、はたての蹴りが突き刺さったのは、また別の話である。
とりあえず、信仰云々をどうにかする前に、まずはこの地での生活基盤を構築しようと、神奈子は早苗に提案した。
文からもらった新聞を読む限り、この世界の人々の生活レベルは、まるで大河ドラマの人々のそれであった。
それでは、自分たちの生活を維持するのは難しい。特に、『現代』の生活レベルに慣れた早苗では、水洗でないトイレは使えないし、取っ手をひねっても炎の出ないコンロでは料理に手も足も出ないだろうし、ましてや、冷たくない冷蔵庫などもってのほかだ。
「……とはいえ、どうしたらいいんでしょう」
「まずは麓まで降りて、この世界の技術屋に話を聞きましょう。
人里まで行けば、その辺りを生業にしているものもいるはずです」
神奈子は、己の威厳を保つため、神としての衣装のまま、早苗の先に立って歩いていく。
一方の早苗もそれを真似ているのだが、足下は山歩きのしやすいトレッキングシューズだ。
二人は軽快に山を降りていくのだが、
「か、神奈子さま~! 待ってください~!」
それから一時間もしないうちに早苗が遅れだす。
いかに『登山困難な山』とはいえ、外の世界にある山は、人々が登山というレジャーを楽しむための整備をされた山が多い。
それ以外の山に入れば、神奈子曰く、『山の神の神域を荒らす不届き者』として神罰を受けるのだ。
そして今、二人が歩いているのは、そんな山である。整備された山道などあるはずもない。
でこぼこと、土や木の根や石などが隆起し、歩きづらい道。垂れ下がった木々の枝葉や足下まで伸びた草が阻む道。
「はひ……ひぃ……ふぅ……」
そんなところをひょいひょいと歩けるほど、早苗の体力はない。
ついでに言えば、技術もである。
「麓に下りるまで、数日はかかりそうね」
「……申し訳ありません」
それを予期して、山の中でもキャンプが出来るよう、装備を背中に背負ってきた神奈子は『気にしないように』と早苗のおでこを小突いた。
「少し休憩してから歩きましょう」
「はい」
神奈子は、その場で軽く、耳を広げてみる。
そうすることで広がった感覚が、それまで気付かなかった音を拾い上げる。
――水の音。川か、沢があるのだろう。
神奈子は『こっちです』と歩いていく。なるべく、早苗が歩きやすいように、邪魔な枝葉は鉈などで落としながら道を進み、やがて目の前の空間が開ける。
「うわぁ、きれいな水」
「こんな水は、外の世界では、お目にかかることも難しいですね」
日の光をきらきらと反射する、きれいな川。
早速、それに近寄っていく早苗。
そして、水の中に手を浸し、「すごい冷たいですね~」と笑った、次の瞬間だ。
「……へっ?」
いきなり、にょき、と水の中から手が生えた。
それががっしりと、早苗の腕を掴む。
「わひぃっ!?」
驚き、後ろに飛びのくと、水しぶきが上がる。
早苗の手を掴んで、早苗によって釣り上げられた――ように見せかけただけかもしれないが――のは、これまた一人のかわいらしい少女であった。
青を基調とした衣装に身を包んだ彼女は、くるりと空中で回転して、すたっと地面に着地する。
「やあやあ、驚かしてごめんごめん。
人間がこんな山奥まで来てるなんて驚きだ。ついつい、驚いていたずらしちゃったよ」
けらけら笑う彼女に、早苗は何も言えず、ただ、ぱくぱくと口を動かすだけだ。
神奈子が早苗と彼女の間に割って入り、「何者ですか?」と問いかける。
「あたし?
あたしはね、河童だよ」
「……か、河童?」
早苗の中での『河童』のイメージとしては、全身緑色のぬめっとした体に、水かきのある手、足、頭の上にお皿である。
断じて、このようなかわいらしい女の子ではない。彼女のイメージとしてふさわしいのは、龍の球が要となるアニメに出てくる緑色さんである。もしくはピザの大好きなメリケン忍者か。
「こんにちは。河城にとりって言います」
「八坂神奈子という。神だ」
「神様?
へぇ、新しい神様だね。静葉さんや雛さんとは、また違う感じだ」
「そのもの達も神なのですか?」
「そうだよ。この山に住む神様でね。
そっちのその子は人間だろ? 彼女みたいな人間に、すごく親しみのある、信仰の深い神様さ」
あたしの友達、とにとりは自分を指差し、いたずらっ子のような笑顔で笑う。
神奈子は『ふむ』とうなずいた後、
「にとりといったな」
「はいな」
「その神のいる地へと案内せよ。対価は払う」
「およよ。こりゃまた唐突な。
ひょっとして、神様同士で大喧嘩? やめてあげてよ。彼女たち、そんなに荒事は好きじゃないんだから」
「相手の対応によります」
「うーん……」
腕組みし、うなるにとりは、「もし、そういうことになったら、許さないよ?」と神奈子をにらんだ。
しかし、その腰はわずかに引けている。
神奈子が放つ威光と神力に圧倒されているのだろう。
神奈子は鷹揚にうなずくと、「私も争いごとは好みません」と、一言、約束した。
にとりは「じゃ、こっちだよ」と歩いていく。
「早苗、行きますよ」
「は、はい」
何とかかんとか立ち上がり、早苗は二人に続く。
また、獣道すらない山道を歩き続けること3時間。
早苗が『も、もう……歩けない……』と完全にへばった頃、
「ここさ」
開けた空間に、二人は案内される。
神奈子は『ほう』とわずかに目を見張り、早苗は声すらなく、間抜けに口と目を開いて立ち尽くす。
――先ほどから、それを示す音は響いていた。
しかし、それを、目前で見るのとは、やはり違う。
「妖怪の山の名物、大瀑布」
にとりの言うそれは、山の上から下まで、一気に水が駆け下りる、まさに芸術品。
すさまじい滝の威容に、神奈子は実に満足そうにうなずいた。
自然の力とは素晴らしい。彼女の顔は、そう語っている。
「すごい……」
先ほどまでの疲れなどどこへやら。
その見事な光景に見惚れ、魅了された早苗は、一歩、足を踏み出し、
「ひゃっ!?」
「危ない!」
そこから先が下生えの草に隠された崖になっていることに気付かず、足を滑らせる。
慌ててにとりが手を伸ばし、神奈子が駆け寄るのだが、早苗の姿は一直線に滝つぼへと向かって落ちていく。
必死に伸ばした手はどこにも届かず、早苗の悲鳴は滝の轟音にかき消される。
ぎゅっと目をつぶる早苗。
まさか、覚悟を決めて、そしてこの世界にかすかな希望を抱いた矢先、その人生が終わるとは。
こんな形での終焉を、彼女は想像していなかった。
――せめて、最期くらいは痛くないといいな……。
自嘲の笑みを浮かべた、その瞬間、がくん、と体が何かに引っかかる。
「……え?」
頭上に、一本の太い枝が見えた。
早苗くらいの人間の体重は支えられるだろう、強靭な枝だ。
だが、早苗の体は、その枝の下にある。彼女の体は、どこも、その枝に触れていない。
どうして、ここで落下が止まったのか?
首をかしげる彼女のすぐ横に、何か、手のようなものが見えた。
彼女の肩を掴み、枝を掴んでいる手。
誰の手かはわからない。
だが、小さく、まるで子供のようにかわいらしい手だ。
「大丈夫ですか!」
耳元で声がした。
振り返ると、見慣れぬ相手が、早苗の腰と背中に手を回している。
早苗の落下を防いでいた小さな手は、どこにもない。
「椛ー! ナイスキャッチー!」
「にとり! そこからのルートは気をつけろって言ってるのに、もう!」
頭の上から、にとりの声。
見ると、にとりの姿がこちらに近づいてくるのがわかる。
彼女は、空を飛んでいた。
「いやぁ、本当にごめん。怪我はない?」
「は、はい……」
「私がすぐ近くにいたからいいようなものの。
にとり、山で人間の死人を出したらえらいことになるって、河童の誰かに言われてないの?」
「言われてるよ。
天魔さまの方針転換だろ? 山を観光地にするとかどうとか。
その観光地で、これまで片っ端から人を殺していたくせに、今になって、『山に入ってきた人間は、可能な限り、無傷で帰すように。もし、何かがあったら、お前たちのせい』なんて言ってくるしさぁ」
あれの気まぐれには困ったもんだよ、とにとり。
ともあれ、早苗は助かった。それには変わりない。
椛、とにとりに呼ばれた相手は、早苗を手厚く扱ってくれる。その横顔はなかなかのイケメンさん。
ただ残念なのは、ちょっぴり胸に膨らみを感じるところか。
「早苗、大丈夫!?」
「あ、はい。神奈子さま。大丈夫です。
すみません、わたしの不注意で」
「……全く。死ぬかと思いましたよ」
驚いて、と語る神奈子の顔は、嬉しそうに、安堵の笑みに染まっていた。
早苗は椛に地面に下ろしてもらってから、『ありがとうございます』と頭を下げる。
「いえ。一応、仕事ですから」
「あ、紹介、遅れたね。
こいつは犬走椛って言って、白狼天狗なんてのをやってるんだ」
「お初にお目にかかります」
「椛、こちらさん、神様の八坂神奈子さま。
で、えーっと……」
「現人神の東風谷早苗だ。わたしの従者であり、我が民である」
「おっと、こちらも神様か。そりゃ失敬」
「……神?」
早苗が何かを名乗る前に、勝手に神奈子が、早苗を『神』にしてしまう。
にとりはたははと笑い、椛は眉をひそめる。
「何、椛。何か知ってるの?」
「ああ、いや。
つい先ほどの話なんだけれど、『山に神様が一人増えた。その神様は厄介だ』という通達が天狗社会に出てね。
……あなたが?」
「恐らく、そうだろう」
「……」
椛は無言だった。
――今、気付いたのだが、彼女は腰に刀を掃いている。
それをすかさず抜き放ち、神奈子へと切っ先を向けたとしたら。
「あ、あの! ありがとうございました、椛さん! 助かりました!」
「ああ、いえ……」
「本当にありがとうございます!」
慌てて、早苗が椛の視線に割って入り、ぺこぺこと頭を下げる。
それでわずかに毒気を抜かれたのか、椛は小さく肩をすくめる。
「こっちだよ、こっち。
足下、気をつけてね。
まぁ、また落ちても、椛が助けてくれるから」
「人をライフセーバーみたいに言わないで」
椛も一応、ついてくるようだ。
にとりに案内されて、二人は滝の裏手側へと向かって歩いていく。
近づけば近づくほど、滝の轟音が声を掻き消し、最終的に、にとりは筆談で『こっちこっち』と行き先を示してくれる。
滝の飛沫に日光が反射し、太く大きな虹がかかっているのが見て取れる。
自然の美しさに目を奪われる早苗。
その早苗に興味を示しつつも、神奈子に鋭い視線を向けている椛。
神奈子は、泰然としていた。
「ここ」
にとりがそんな一同を案内したのは、滝の裏側のすぐ近く。
大きな木々が並ぶ茂みの中であり、そこに、畳の敷かれた、木で造られた壁と天井のある『休憩所』がある。
どういう理屈か、滝の音は遠くに遠ざかり、彼女たちの声が、その場にはよく響く。
「あっれー? にとりじゃん、どうしたの?」
そこに、3人の少女がいる。
見た目の年齢は、いずれも、早苗と同じかそれより少し上くらいか。
一番、年上の雰囲気を漂わせている、早苗と同じく緑色の髪をした、少女というよりは女性が立ち上がって一同に座布団を勧めてくる。
「ああ、こちら、新しく山にやってきた神様」
「お初にお目にかかる。八坂神奈子と言う」
「八坂の神様……」
「うち、聞いたことあります。確か、五穀豊穣なんかを司るお人やね」
「うわ、うちらともろかぶりじゃん」
どうぞ、と勧められた座布団に腰を下ろすと、冷たくて美味しい水が、湯のみに入って出てくる。
それを出した女性曰く、「にとりちゃんお勧めのきゅうり茶よ」ということらしい。
なお、どう見ても水である。
「えっと、あたしは秋穣子って言って、こっち、うちの姉の秋静葉。
そろって秋の神様なんてやっています」
「秋の神、ということは、私と同じ、作物の神様ということでよろしいかな?」
「それはあたしの方だけ。姉さんは、秋の彩り演出係。紅葉とか」
「なるほど。素晴らしい」
「私は、鍵山雛と申します。厄神と言いまして、人々の災厄を集めて流す、流し雛の神です」
「話には聞いたことがある。
多くの人々の信仰を集めている、と」
「はい。おかげさまで」
神奈子は早速、神様たちの輪の中に入って会話を進めている。
彼女たちは、皆、神奈子に寛容であるようだ。『新参の神様なんて許せない。いっちょ締めてやるか』という類のものではないらしい。
もっとも、物理的な、神奈子との力の差を感じ取っているだけなのかもしれないが。
「神奈子さん達は、えっと……何で山に来たの? それ、聞いてなかったけど」
「ははは。何、情けない理由だが、私は元々、この世界の外に居た神だ。
外の世界では神に限らず、化外の民への信仰が失われて久しい。
私もまた、そうした失われた信仰に拠り所を失い、この地へと流れてきた、いわば負け犬よ」
「へぇ。外はそんなことになってるんだ」
「雛さんも、そういう風に扱われちゃうのかねぇ」
「そうかもしれないわね。
でも、私は別に、誰かから崇めてもらうつもりはないのよ。誰も知らないところで、ひっそりと、民草の役に立てればそれでいいの」
控えめな人だなぁ、と早苗は思った。
――神奈子は言う。
神の行なう所業全てには、何らかの見返りを求めるべきである、と。
それがすなわち信仰を集める行為であり、もって神の力を維持し、格を高める行為なのだ、と。
何ら見返りを求めない行為というのは、己の力を無駄に使うだけで、いわば自殺行為である。それで力を失ってしまえば、神は何もすることが出来なくなる。結果として、己が本来やろうとしていた、やらなければならなかったことまで出来なくなる。
それでは本末転倒なのだ、と。
しかし、この神はそうではないらしい。
神の在り方と言うのも色々だな、と早苗は思って、出された水を一口する。
疲れているというのもあるが、冷たく、甘くて美味しい水だった。
「神奈子さんは、その地に居る神様を排斥して、自分だけの神を立てる神様?」
「信仰が集められなければそうなるだろう」
「そうなったら、あたしらの敵になる、ってことか……」
「うむ。それについては否定はしない。
だが、案ずることはないだろう。
この世界には、我のような神が必要だ。自分で言うのも何だが、我のなす神の恵みは人々の生活を豊かにする。
豊かになった人々は、自然、我を崇めるようになる」
「それでうちらの信仰、持って行かれると困っちゃうんですけど」
「そこはWin-Winの関係でいこう。
せっかくの新天地、そこの住人といざこざを起こすつもりは、今のところ、ない」
正直な人だ、と穣子は肩をすくめた。
隣では、彼女の姉である静葉が、にこにこ笑いながら話を聞いている。
穣子の肩を持って、神奈子との話に参加するつもりはないようだ。
「まぁ、別にいいけどさ。
うちらとしても、下手な騒動起こすつもりもないんだし」
「新しいお友達なのだもの。仲良くしましょう」
「歓迎してくれて感謝する」
神奈子は彼女たちに向かって、深々と頭を下げた。
しばらくして頭を上げると、『ところで』と話を切り出す。
引っ越してきたはいいものの、今までの自分たちの生活とはあまりにも生活基盤が違いすぎること。それを何とかしようと人里を目指しているのだと告げると、一同の視線はにとりに集まる。
「にとり、何か協力してあげれば?」
穣子の言葉に、にとりが腕組みをする。
「お前は何が出来るのだ?」
「一応、うちら河童は機械いじりが専門でしてね。
まぁ、見返りがもらえるんだったら、それにいくらでも協力するけど。
具体的に何をしたいの?」
「うむ。
早苗」
「あ、は、はい」
言われて、早苗が前に出てくる。
持っていた荷物の中から、『やりたいことリスト』を取り出し、にとりの前へと広げた。
「電気……水洗トイレ……台所にガスコンロ……何これ……。
あ、冷蔵庫はわかるけど、あれ、高いよ。紅魔館が……じゃなくて、それを造れる連中がいるんだけど、魔法が必要になるんだ。
その魔法の触媒を用意するのに時間とお金がかかるとかでさ」
「ふむ。
ならば――」
と、神奈子が背負っていた荷物の中から本を取り出した。
各種の電化製品のカタログや、所謂各種の『工事』に関する書物。
それを手渡されたにとりは、内容を見ていくに連れ、目を輝かせ、「これ、面白そう!」と声を上げる。
「すごいじゃん! こんなの出来たら、住環境ががらりと変わる! あたしもこんなの欲しい!
よっし! やったる! その代わり、この本、ちょうだい! あと、あるなら図面とかも! それでいいよ!」
「うわー……機械ヲタクに火ぃついちゃった」
「うふふ。にとりはん、相変わらずやね」
自分の知らない技術、自分の知らない物の存在に、すっかり魅了され、取り込まれたにとりは胸を叩いて、作業を申し出る。
神奈子は『よろしく頼む』と彼女に頭を下げ、早苗も慌てて、それに倣った。
「これが実現できたら、幻想郷中に、この技術をばら撒くのもいいね。
きっと、みんな、喜ぶよ」
「なるほど。
ならば、それを我への信仰と変えるのもいいかもしれないな。
幻想郷の技術革新。確かに興味がある」
もっとも、やりすぎるのはどうかと思うが、と。
つぶやく彼女は、その『技術』という名の形を持たない神が幻想郷の外を覆ってしまったことを思い出す。
やりすぎれば、技術は肥大化し、『科学』となって、あらゆる神を排斥する力を持ってしまうからだ。
その辺りの線引きをどうするか。
幻想郷の『お客さん』である彼女は、楽しそうに笑う。
「ねぇ、椛。神奈子さん達の家って、確か、山のてっぺんだよね?」
「そういう風に聞いてる」
「じゃあ、そこに、明日にでも行くよ。
いやー、楽しみだ。実際のものを見るのが楽しみだ! わくわくする!」
「楽しそうね、にとりちゃん」
「楽しいさ!」
どうやら、早くも神奈子は、『信者』を一人、獲得したらしい。
満足そうにうなずいて、彼女は立ち上がる。
「当初の目的は達成できたことだし。
早苗、そろそろ帰りましょうか」
「へっ? あ、は、はい」
「里に下りるのは、また今度にしましょう。あなたも疲れているようだし」
「あう」
「というか、人間が、この山を頂上から降りるのには、相当難儀するよね」
「仕方ないっちゃ仕方ないけどねー」
あたしら妖怪だし、とにとり。
妖怪と人間は体力というか、体の基礎がまず違う。
人間に出来ることの大半を妖怪は出来るが、逆は成り立たない。
「早苗さんだっけ? 何とかしないと、この山から出るのも大変だよ、あんた」
「うぐ……。ですよね……」
「あ、そうだ。椛、文さんかはたてさんにさ、何か話を聞いてきてよ。彼女、山の中に閉じ込めておくのもかわいそうでしょ?」
「そう……だね。
わかった。
じゃあ、早苗さん。そういうことで」
「すみません、椛さん。お手数おかけします」
この人は文さんの知り合いなのか、と頭を下げつつ、早苗は内心でつぶやいた。
あの、よくわからない天狗。神奈子にすら無礼な態度を平気でとる。
少しだけ苦々しいものを覚えつつも、早苗はただ、頭を下げるだけだ。
「帰り道は私が案内します。にとりでは、また何かあったら大変ですから」
「それはもう謝ったじゃん。しつこいなぁ」
「じゃあ、行きましょう」
「またねー」
「明日、そっちに行くから! 任せておいてね!」
彼女たちに見送られながら、二人はその場を後にする。
先を歩く椛は、「私が歩いたところを歩くようにしてください」と二人に注意をして、すたすたと、かなりのハイペースで進んでいく。
……無事に倒れず、家に帰りつけるのかな。
顔を引きつらせる早苗とは違い、神奈子は満足の裏に、少しだけ、鋭い視線を載せて、椛の背中を見つめていたのだった。
「んー……」
夜。
無事に家に辿り着いたものの、足が棒のようになっている早苗は、お風呂で『明日は筋肉痛だなぁ』と憂鬱な思いを浮かべる羽目となった。
神奈子に『おやすみなさい』を告げて、ベッドの中に入ってから、すでに一時間。
普段なら5分と経たずに眠れるというのに、今日はなかなか寝付けない。
朝から色々なことがあったためか。
幻想郷にやってきて、初日から、この世界が元の世界とは違うことを見せ付けられたためか、とにかく全ての景色が記憶となって鮮やかに脳裏にこびりついている。
このまま、かつての記憶が全て、上書きされてしまうのだろうか。
胸に抱いたもやもやは晴れない。
こちらの世界にやってくる時に感じた悲しみ、苦しみ、辛さ。それを全て忘れられる『楽しさ』があるのだとしたら、この世界での記憶は大歓迎だ。
だが、元の世界の記憶を全て失ってしまうことも、また、辛い。
あの石になった姫は言っていた。
他の誰が己のことを忘れても、己は他の全てを覚えている、と。
演じた自分でもはっとしてしまう、あのセリフ。
あの時、口をついて出たセリフは、恐らく、己の本心から浮かび上がった無意識の言葉なのだろう。
覚えておかなければならない。覚えておきたい。
「……むー」
何度目かの寝返りを打つ。
記憶を失わないために、今日から日記でもつけようか。
そんなことを思っていると、とんとん、と窓を叩く音がした。
最初は風か何かだと思っていたのだが、それは何度も、規則的に窓を叩いている。
変だなと思って起き上がり、カーテンを開けると、
「こんばんは~」
窓の外に、文が浮いていた。
一瞬、早苗は眉をひそめた後、「もう夜ですよ」と言う。
「ええ。
夜なら、神奈子さんも寝てるんじゃないかと思って」
「はあ」
「私、鴉天狗なので、夜は鳥目で周りがあまり見えないんですよねぇ」
懐中電灯は必須です、と彼女は笑う。
何の用ですか、と早苗は尋ねた。
朝方の記憶があるためか、少し、文に対する態度は辛らつだ。
「いえね、ちょっと、早苗さんに知って欲しいことがあるんですよ」
「わたしに?」
「ええ。ここじゃ話せないので、少し、場所を変えません?」
彼女は一体、何を話そうというのだろう。
にやにやと笑っているその笑みからは、何となく、悪い予感しかしない。
しかし、早苗とて、神奈子に仕える神子。多少の困難は己の力で乗り越えることが、この先、義務付けられている。
あえて罠にかかってみよう。
早苗は、決断した。
「わかりました」
「では、お手を拝借」
「え?」
着替えようとした、早苗の手を取り上げて、文は一気に上空に向かって急上昇をかけた。
息すら出来ない、その唐突な移動に、早苗はぎゅっと目をつぶる。
体が抱えられて、文の「手を回してください」という声。
言われるまま、彼女の体に手を回して、目を開ける。
「軽いですね。あんまり筋肉、ついてないんじゃないですか?」
文の笑顔が、すぐ、目の前にあった。
慌てて彼女は顔を逸らす。
ほっといてください、と文句を言って。
「さあ、夜の幻想郷のツーリングです。美少女と二人っきりのランデブーとか最高ですよねー」
文が空を舞う。
外の世界に居た頃は見られなかった、素晴らしい星空が、後方へと流れていく。
文が、『あそこが人里ですね』と示す。
空の上から見る幻想郷は、闇に沈んでいる。どこに何があるのかさっぱりわからない。
外の世界では、たとえ夜でも、人間は光を失うことはなかった。
街中に行けば闇を圧して、ネオンが一晩中輝き、住宅街であっても足下を照らす街灯が闇を打ち払っている。
だが、この世界はどうだ。
どこを見ても、闇。漆黒。黒に全てが覆われている。
――怖い。
早苗は無意識に恐怖を感じて、文に抱きつく。
「人間が闇を恐れるのは本能ですから。別におかしいことなんて何もないですよ。
我々、妖怪にとっては、闇こそその在り処。
かつて、日の地を謳歌していた土地の神たちが、妖怪の祖先です。
それを後からやってきた、火の子であるあなた達が照日の地を占領し、我々を闇の中へと押しやった。
当時のご先祖様たちは、さぞや、怒り狂ったことでしょう。
しかし、あなた達は火の神に祝福を受け、我々をたやすく退けてしまった。
ご先祖様たちは、仕方なく、闇に居場所を求めた。
闇に、あなた達が入ってこられないように、分厚い結界を造り、堅牢な線引きをして。
闇の中に足を踏み入れたものを集団で襲い、二度と日の当たる場所へと帰さない。そうすることで、人は闇を恐れるようになった。同時に、妖怪は日の光を恐れるようになった。
――大昔の話です」
「……文さんは、わたしを食べるんですか?」
「女の子なら別の意味で食べてもいいですよ?」
その一言に、早苗の顔が真っ赤になる。
文はけらけらと笑いながら、「冗談です、冗談」と茶化して言う。
早苗は頬を膨らませて、ぷいっとそっぽを向いた。
「まぁ、そんな、大昔の国の姿が、未だに残っているのが幻想郷です。
今、外の世界がどうなっているのか知りませんが、さぞかし、そこは明るいのでしょうね」
早苗の態度を見ていると、それを察することが出来るのか、文は言う。
早苗は何も答えず、視線をそらすだけだ。
「この地は狭くて広い。
あなた達が求める信仰だって、恐らく、たくさんあるでしょう。
あなた達は、ここで好きに暮らせばいい。元々、それを目当てにやってきたんだ。
どこかの偉い妖怪が言っていたらしいんですけどね?
幻想郷ってのは、あらゆるものを受け入れる場所なんだそうです。懐が深いですよね」
「……はあ」
「あそこが人里。大勢の人間が集まる場所で、妖怪もよく入り込んでますね。
あそこが魔法の森。日の光が当たらないじめっとしたところで、物好きな魔法使い連中が住んでます。
あそこが霧の湖。幻想郷で一番大きな湖で、妖精たちが毎日、楽しそうに遊んでいるところです。
あそこが紅魔館。最近、何を間違ったか、テーマパーク化してまして、幻想郷住民憩いの場です。
あそこは永遠の竹林。その奥に、やたらとろくさいお医者さんがいます。
それから、あっちが博麗神社」
「……博麗神社?」
「ええ。この世界に、唯一つだけある神社です。
いや、『でした』かな?」
文の指差す先に、それがあるのだろう。
もちろん、早苗には何も見えない。
文は言う。
「その神社に住んでいる巫女は、これまたぐうたらで怠惰の極みを突っ走っている巫女なんですけどね。
まぁ、ありがたみはないわ、威厳もないわ、権威もないわ、もちろん神々しさなんて皆無でして。
年がら年中、『参拝客こないー!』って喚いているような奴です」
「……それって……」
さすがに、早苗も呆れてしまう。
しかし、と。
「だが、こいつがまた、面白い」
文の笑顔が変化する。
今まで浮かべていた、気さくな、『友達風味』の笑顔から、鋭い妖の笑みへと。
「彼女の元には色々なものが集まってくる。
人間、魔法使い、吸血鬼、亡霊、蓬莱人、しまいには死神に閻魔まで。
彼女はこの世界の要をなし、トラブルの中核をなしている。
彼女が居る限り、私の新聞は安泰ですよ。彼女を取材しているだけで、面白い記事が書けるんだから」
「……すごいですね」
「あ、紹介を忘れましたが、あっちが彼の世です。此の世との境目があるのですけど、ここからは見えませんね」
そんなところまであるのか、と早苗は目を丸くする。
彼の世といえば、一度行けば、二度と帰ってこられない世界だ。
それがどんな世界であるか、論じるだけで本が何冊も書けて、偉い先生方がああでもないこうでもないと論議を繰り返すことが出来る。
そこに、文は『生きてる人でも行けますよ』と言うのだ。
ますます、今まで持っていた常識が崩れていく。
「ま、それはともあれ」
彼女は一旦、話を打ち切ると、夜空の遊覧飛行を始める。
ゆったりゆっくり、空が流れる。
早苗は文にしっかりとしがみつき、夜の幻想郷を眺めている。
「広いでしょう?」
「……はい」
「けど、えっと……」
「早苗です」
「早苗さんが、今まで生活していた場所に比べると、とても不便で狭いところだと思います」
「……そうですね。
あの山からここまで来るのに、歩いたら何日かかるんでしょう」
「だから、人里の人間は、ほとんど里から出ないんですよ。
道を歩けば妖怪に食われる可能性もありますし。
あちこちふらふら移動しているのは、私みたいに飛べる奴らだけですね」
「そんなに治安が悪いんですか?」
「いいですよ。むしろ」
昔の、妖怪の偉い連中の取り決めで、『人里を、妖怪は襲ってはいけない』というルールが作られたのだという。
それを破ったものがどうなるか。それを文は知らないとか。そんなことをする妖怪がいないのが、その理由らしい。
しかし、里を離れた人間を襲ってはいけないという取り決めはない。
人里を遠く離れたところに一人で歩いていたりしたら、たとえ昼間であろうと、妖怪に襲われても文句は言えないのだという。
「けど、最近は、めっきり人を襲う妖怪も減りました。
人間側も智慧をつけてきて、妖怪が嫌う術を身に着けたり、もっと簡単に、妖怪よりも強くなろうとしたりしてますし。
妖怪だって、みんながみんな、人間だひゃっはー、な連中ではありません。
私みたいに、とってもかわいくてぷりてぃな妖怪だってたくさんいるんですよ」
「まぁ、それはそれとして」
「ぐっさ」
スマイル文ちゃんです♪ と笑う文を華麗にスルーする早苗。
割と、その態度は文の心を激しく抉ったようだ。
「そういうところに、わたし達は受け入れられないといけないんですね」
「まぁ……そうなりますね。
まずは山の連中に、ですけれど」
「文さんはどうなんですか?」
「あなた達は面白そうですからね。私基準では合格ですよ」
「何か自分勝手」
「妖怪も人間も、そこは変わらないでしょう。根底には全て私利私欲ですよ」
それがよかれど悪かれど、生き物は全て、己の欲のままに行動している。
善も悪も、そこには存在しない。
生物として、『生きる』という行為すら、『己の命を永らえさせる』という欲に基づくからだ。
欲を全て排除した生き物は、生き物ではない。
それはもはや、生きることすらない死体に過ぎないのだから。
「ただねー」
文は口を開く。
「あなた達が神職として受け入れられるかどうかは、ここにかかってるんじゃないかと」
視界の中に――暗闇の中に、建物の姿が浮かび上がる。
どこか古びた印象を携えたその神社。
全てが闇に沈み、しんと静まり返ったそこは、
「……博麗神社」
「そう。
ここの巫女さんはね、何だかんだ言って、人気者ですよ。
たくさんの人、たくさんの妖怪に慕われている。
神社としての信仰は持っていないかもしれないけれど、個人が持っている信仰は大したものです。
もし、あなた達の神社が、後追いで、『神社』として繁栄していくなら、少なくとも、ここは邪魔になりそうですね」
早苗は、無言で博麗神社を見つめている。
その社殿、その向こうの母屋。そして恐らく、そこで眠っている神社の主を、彼女はじっと見詰めている。
「まずは話し合い。それが通じなければ戦って倒す。人間の、争いの歴史そのままです」
「戦う……」
「それが商売的であれ、物理的であれ。
邪魔者は排除するべきでしょう?
自分たちの方が、より、人々にとってためになると考えているのであれば、相手を排除することもいとわない――それくらいの覚悟、いると思いません?」
しかしね、と文。
「ここの巫女はねぇ、そりゃあもう強いんですよ。
私だって、油断できる相手じゃありませんね。
もし、本気の彼女を倒せと言われたら、殺す覚悟でやらなきゃ勝負にならない」
「……そんなに」
「けど、あなたは弱いね」
いきなり、文の手が背中に回る。
彼女の右手が早苗のおとがいを掴み、引き寄せる。
「たとえば、私がこうしてやるだけで、あなたは何も出来なくなる」
「ち、ちょっと、やめてください!」
「唇を奪われて、純潔を散らされるのを待つだけで」
「大声上げますよ! 本気ですよ!」
「やれるものなら――」
文の顔が視界一杯に広がる。
早苗は目を閉じて、大きく胸を膨らませる。
「やってみますか?」
そのささやきが、耳元で響いた。
ぞくっ、と背筋が震える。
よくある、ヒロインが主人公に、甘い言葉で篭絡されるのとは全く違う。
これは、文からの挑戦。しかも、敗北すれば命のない挑戦。背筋に走った電流は、寒気と恐怖。体が引きつり、動けなくなる。
「――と、冗談ですよ?」
しかし、文はぱっと身を離すと、けらけらと笑い出す。
「私がそんなことするはずないじゃないですか~。
やるなら同意の上!」
「……あ、あのねぇ」
怒りと恥ずかしさ、情けなさと悔しさで、別の意味で体が震えてくる。
文句の一つでも言ってやろうとする早苗だが、続く文の言葉で、彼女はそれを呑み込むことになる。
「けど、自分が弱いってのは納得してもらえたでしょ?」
「……」
「幻想郷で生きていくには、あなたはあまりにも弱すぎる。
あの神様の後ろ盾がないところじゃ、何にも出来ない、ただの子供です。
神の威光を、それで伝えられるでしょうかね?」
にやりと笑う、文の顔。
その挑発的な笑顔に、しかし、早苗は反論が出来ない。
昼間の無様な自分が思い浮かぶ。
文の言う通り、己が強ければ、あのような無様な姿はさらさなかっただろう。
そして、神奈子のように強ければ、もしかしたら、この世界に来る時に感じた、あのつらさを感じることもなかったかもしれない。
心が強いものは、神である。
心が弱いものは、まだまだ人間である。
神奈子は早苗を『現人神』として己に従うことを許してくれた。
自分は、『人』を捨て去らねばならない。
――そうか。これこそ、神奈子の言った、『しがらみ』なのか。
早苗は思った。
「……どうすればいいですか」
それはあまりにも短絡的で、あまりにも唐突な思い付きだったのだろう。
もしかしたら、極端な思い込みにも過ぎなかったのかもしれない。
しかし、早苗にとって、それは『本気』であった。
この世界に来る時に味わった、あの痛み。
この世界で味わった、あの想い。
それが全て、己の未熟さゆえに起因するものであったとしたら。
果たして己は、この先、『八坂神奈子』の威光を、身をもって体現する現人神になれるだろうか。
答えは、否。
あのように気高き、神々しい神の御許に仕えるのならば、それ相応の器を持たなくてはならない。
それこそが、己に課せられた使命であり、断ち切らねばならない、人としてのしがらみなのだ。
ならば、やるしかない。
この世界に来た以上、もはや後戻りは出来ない。
この幻想郷で生きていくしかない。
この幻想郷で、多くの信仰を獲得し、神奈子と共に『神』として隆盛を極めるしかない。
「お手伝いしますよ」
文がにやりと笑った。
その笑みに、普段の早苗なら、何か怪しいものを感じて『やっぱりいいです』と断っていただろう。
だが、今の彼女には、その冷静な判断力が欠如していた。
明確なライバルの存在を意識させられ、それに満たない、未熟な自分を再認識させられて。
彼女の中に、『超えるべき自分』という存在が確立してしまったのだ。
「明日以降でいいですか?
この世界で必要なこと。そして、早苗さんに出来ることを、しっかりと学んで、教えて差し上げます」
「お願いします」
「契約成立ですね」
文は早苗を抱いて、博麗神社の空から飛び去っていく。
「じゃ、帰りましょうか。夜更かしは体に悪いですからね」
飛びながら、文は、『さてさて。楽しくなってきた』と笑っていた。
真面目な表情で、何やら今後の自分を考えている早苗を見ると、『何と言う阿呆だ』と思ってしまう。
思い込んだら一直線。とにかく何事にも真面目に考え、冗談すらまともに受け流せない未熟者。
このような阿呆が『現人神』か、と彼女は哂っていた。
「あのわんこの話も役に立つものだ」
そう小さくつぶやいた文の声は、早苗には聞こえていなかった。
――3――
「あ~、食った食った~! 腹いっぱいだ! もう食えない! 動けない!
霊夢、今日は泊まっていくぜ!」
「うっさい帰れ」
「ケチくさいな、いいじゃないか」
にやにや笑いながら、魔理沙は霊夢に声をかける。
霊夢は『ったく』という顔をして、「あんたの分の布団はないからね」と冷たい一言を投げかける。
しかし、この博麗神社、なぜか何組もの布団セットがあったりするのは博麗七不思議のひとつである。
「ああ、早苗ちゃん。あなたはいいのよ、座っていて。
霊夢、何をぼーっとしているの。片づけくらい手伝いなさい」
「何で早苗はよくて、私はダメなのよ」
「早苗ちゃんはお客様でしょう。全くもう。ほら、さっさとなさい」
「あーもー、はいはい」
「『はい』は一回でいいの」
「はーい!」
紫に叱られ、霊夢も後片付けに回される。
その様を見ていた早苗とアリスは、くすくすと笑った。
「紫さんって、何か霊夢さんのお母さんみたいですよね」
「ほんとよね。出来の悪い子供に苦労しているわ」
「わたしは姑に気に入られているみたいでよかったですよ」
そんな二人の前には、食後のデザートとしてみかんとお茶が置かれていた。
実に楽しく、美味しい晩御飯だった。
出された料理はほとんど、参加者の胃袋へと収まった。余った分は、神社の氷室へと入れられている。
紫曰く、『ちゃんと、食べる時は暖めるんですよ』ということだ。
「あ~、幸せだな~。
あとは風呂入って寝るだけだ~」
「ちょっと魔理沙。だらしないわよ、起きなさい」
「やだ!」
魔理沙はアリスに膝枕してもらいながら、ごろごろと、そこで喉を鳴らしている。
ちなみに同じように喉を鳴らす橙は、『自分用』のふかふか座布団の上で丸くなっていた。
「……もう」
「アリスさんは、何だかんだで魔理沙さんに甘いですよね」
「冗談やめてちょうだい。迷惑してるのよ」
「いいじゃないかよ~」
「よくない」
「あいてっ」
ぺちん、とおでこをはたかれて、魔理沙は悲鳴を上げる。
しかし、それでもアリスから離れない辺り、魔理沙がアリスにどれだけ懐いているかわかるというものだ。
「アリスさんも泊まっていくんですか?」
「そうなるかもしれないわね。
何だか悪いわ」
「まぁ、紫さん達は帰るでしょうし、残るのはいつものメンツになりそうですよ」
視線を、彼女は諏訪子に向ける。
諏訪子はぐで~っとテーブルの上に顎を預けてだらけている。神奈子から『お前も手伝え』と怒られているのだが、暖簾に腕押しだ。
「早苗のところは、神様が二人もいて大変よね」
「そうですねぇ。
神奈子さまはお父さんでお母さんで、諏訪子さまはお母さんで友達みたいな感覚なんですよ」
「おっ、なになに? わたしの話? わたしが早苗のお母さん? 照れちゃうな~」
ころころと畳の上を転がってやってきた諏訪子が、早苗の後ろから抱き付いてくる。
やめてくださいよ、と笑う早苗は、「まぁ、こんな感じです」とアリスに一言。
「友達って言うより妹じゃない?」
「ああ、そんな感じするなー」
誰がどう見ても『アリス=姉、魔理沙=妹』な図である『妹』もそれに同意する。
「ん~、早苗はほんとかわいいねぇ。
わたしの自慢だよ~」
しっかり者だし、性格いいし、家事も出来るし、見た目もいい、と。
指折り早苗の長所を挙げてから、『どうだ、すごいだろ』と諏訪子は胸を張った。
親ばかというか、何というか。
早苗から離れた諏訪子は、またころころと畳の上を転がっていった。何がしたいのか、いまいちわからない彼女の仕草に、二人は苦笑する。
「だけど、最初は、早苗は諏訪子のことを知らなかったのでしょう?」
「そうですね。うちに神様がもう一人いたなんて」
「何で知らなかったんだよ。神なんて、そんじょそこらにごろごろいるからか?」
「神様ってかくれんぼが得意なんですよね」
『お隠れになった』って表現があるじゃないですか、と早苗。
大抵、それは、身分の高い貴人が鬼籍に入った時に使う言葉なのだが、
「偉い人は隠れるのも得意なんですよ」
と彼女は言う。
なるほどとアリスは納得し、魔理沙は『よくわからん』とごろごろ呻く。
「あー、終わった終わったー」
「霊夢、早苗ちゃん達と一緒にお風呂に入っちゃいなさい」
「はーいはい」
「『はい』は一回でいいの」
「はーい!」
戻ってきた霊夢は『ほんと、いつまで経っても子供扱いよ』とふてくされる。
そんな彼女の言葉に二人は笑い、アリスが「だって、あなた、子供じゃない」と一言。
ちなみに、実年齢だけで言うなら、この四人の中では霊夢が下から二番目だ。ついでに、見た目も。
「うっさいわね」
「それじゃ、お風呂、行きましょうか」
「私は後でいいわ」
「あー、私も後でいい。アリス、背中流してくれ」
「湯船の中に沈めるわよ」
「今日は楽しかったですねー」
「そうね」
神社の風呂は、ちょっと狭い。
二人で入る分にはまだ少し余裕があるのだが、それ以上は無理である。
湯船と洗い場に、それぞれ、一人ずつ。それが限界だ。
「毎日、こんな風に楽しいご飯ならいいんですけどね」
「ほんとよね。
私なんて、最近は米と味噌汁だけだったわ」
「ちなみにお味噌汁の具は」
「味噌汁のみそ入り」
「……」
ちなみに本日、博麗神社の氷室には、紫が大量に食料を入れていたのを、早苗は知っている。
紫曰く、『こうでもしないと、あの子は栄養失調で死んでしまう』ということだ。
つくづく、紫がいないと生きていけない霊夢である。
「早苗はさー」
「はい」
「幻想郷で暮らしてて楽しい?」
「楽しいですよ?」
ざっとお湯で石鹸を流して、霊夢に振り返る。
霊夢は、ふーん、とうなずいて、
「外の世界に、たくさん、友達いたんでしょ?」
尋ねてくる。
早苗は『そうですね』と微笑を浮かべて、少しだけ視線をそらしてしまう。
「一回さ、外に戻ってみる?」
「え?」
「紫に頼めば、少しの間だけなら、外の世界にだって戻れるよ」
「……」
早苗が黙ったのを、昔の思い出に浸っていると考えたのだろう。
霊夢は霊夢なりに考えての、早苗のことを気遣った発言だった。
早苗は、笑う。
「いいです」
「……そう?」
「はい。
外の世界の想い出は持って来ましたし、それ以外の、わたしを縛るものを、全部、わたしは断ち切って向こうに置いてきました。
今のわたしは、早苗inGENSOKYOです。
ありがとうございます」
「控えめだね、早苗は」
やれやれ、と霊夢は肩をすくめた。
「理解できない」
その一言が、少しだけ、胸に痛い。
「どうして、そこで自分を押し込めるんだろうね。
もっと自分を押し出したっていいじゃない。
紫にさ、『一回くらい、外の世界に帰せ』とか。言ってもいいんだよ? あいつなら笑ってオーケーしてくれるよ」
「帰りたくないといえば嘘になりますけど」
外の世界には、まだ、彼女の両親がいる。友人がいる。
彼らは今、どうしているだろうか。
あれから、もうずいぶんになる。今頃、彼らはどう変わっているのだろうか。
早苗も、この世界に来た時から見れば、見違えるくらいの変化を遂げた。別人になったと言っていいだろう。
ひょっとしたら、彼らは、早苗だということに気付かないかもしれない。本人を前にしても。
「たまにさ、早苗が『外の世界にはこんなことがあって~』って話してくれるけど、あれ、聞いていてすごいわくわくするんだよね。
だけど、早苗の横顔がさ、何かすごく寂しそうなんだ」
「……そうですか?」
「そう。
過ぎ去ったものに思いを馳せる、って感じ。ノスタルジーってやつかな。
それを見るたびにね、『ああ、この子、外に帰りたいんだな』って思う」
「多分、それ、霊夢さんの考えすぎです」
「そう?」
はい、とうなずく早苗。
「さっきも言いましたけど、外に帰りたくないといえば嘘になります。
だけど、今のわたしには、幻想郷の生活が出来ました。
たくさんの友達が出来たし、たくさんのつながりが出来て。
外の世界に帰りたい帰りたいって、それ、そういう人たちを馬鹿にしてるってことですよね」
「……そうかな」
「せっかくの付き合いもうわべだけ。
友達になったと、向こうは思っているのに、こっちはそうじゃない。
霊夢さんだって、そうだったらいやでしょう?」
「……うん」
「お気遣い、ありがとうございます。とっても嬉しいです。
だから、あえて言います。
今のわたしにとって、外の世界に帰るよりも、霊夢さんの側のほうがいいです。ずっと一緒にいるなら、そっちの方が」
ぼっと、霊夢が頭から湯気を噴いた。
茹蛸、完熟トマト、りんご、その他諸々。
あらゆる赤いものより真っ赤に染まった彼女は、早苗に背中を向けて湯船の中に頭まで沈んでしまう。
「お背中流しますよ、霊夢さん。
ついでに、愛を込めて、わたしが霊夢さんの胸が大きくなるよう、バストアップマッサージを……」
「結構ですっ!」
彼女の返答に、早苗は声を上げて笑う。
――楽しそうに。
「あの、神奈子さま」
「何?」
「ちょっと、わたし、出かけてきます。
あの、もしも人里に出たりするようなら連絡をください」
「わかりました」
神奈子は、笑顔で早苗を送り出してくれる。
あれから、すでに数日。
幻想郷にやってきてから、彼女たちは、信仰心を獲得すべく、精力的に活動している。
具体的には、山を降りる近道を、白狼天狗の椛に教えてもらい、人里に出ることを始めている。
ただし、その道を歩けるのは神奈子だけであるため、早苗は大人しく留守番していることが多い。
彼女たちの家には、毎日、河童のにとりがやってくる。
たくさんの友人を連れてやってくる彼女は『さあ、今日も頑張るよー!』と、手に手に工具を取り、母屋のインフラ改善を行なっている。
おかげで、幻想郷にやってきた翌日に、水洗トイレ(ウォシュレットつき)が実装された。早苗は心底、それにほっとしたものである。
そんな毎日の中。
早苗は、時たま、家を抜け出す。
神社の敷地を出て、にとり達に作ってもらった、参拝用の石段を下りていく。
一番下の段を降りきったところに、彼女は待っている。
「おはようございまーす」
にこやかな笑顔と軽快な声、天狗の射命丸文だ。
彼女は、『さあ、お姫様。お手をこちらに』と手を差し出してくる。
早苗はそれに手を載せる。次の瞬間、二人は空の上へと舞い上がっている。
神社を離れた、山の一角。
ひとけもなければ、獣すら近づけないと思われる断崖絶壁の上。
「それじゃ、今日は空を飛ぶ練習をしましょうか」
「は、はい」
「早苗さんは、どんな術が使えるんでしたっけ?」
「えっと……風を巻き起こしたり、雨を降らせたり……」
「それが、神奈子さんの力を借りた、術の行使ということで?」
「そうです」
「わかりました」
文は、早苗の、幻想郷での『先生』の立場を買って出た。
幻想郷のルール。幻想郷の常識。幻想郷の日常を、彼女は早苗に語って聞かせている。
その座学が終わりを告げて、今日から実践練習の開始である。
幻想郷の人々で、所謂『力ある』ものは空を飛ぶことが出来るのだという。人間、妖怪の区別なく。
「たとえば、私は翼と共に風を操って空を飛びます」
ふわりと、文が空へと舞い上がる。
「早苗さんもやってみてください」
「はい。えーっと……」
手にした祓え串で空を薙ぐ。
一陣の風が舞い起こり、突風となって叩きつける。
それに体を預けると、
「ひゃぁぁぁぁぁ~!」
「何やってんですかー!」
風に煽られ、そのまま、早苗は空の彼方へとすっ飛んでいく。
慌てて文がそれを追いかけ、空中でキャッチ。
「……あ、危なく、飛び降り自殺するところでした」
文曰く、『私は幻想郷最速!』ということなので、早苗の急な動きにも、彼女はついてきてくれる。
空中で何とか態勢を立て直した早苗は、再び、足場に戻って再チャレンジ。
今度は風を優しく扱い、自分を包み込むように、それを制御する。
そして、充分、体が風を纏ったら、下から上へと。
結果。
「シャッターチャーンス!」
「東風谷ぁぁぁぁぁぁぁぁ! スマァァァァァァァッシュッ!」
「あべし!」
巻き起こる風は彼女の鉄壁の防御をたやすく打ち崩し、すかさず文がカメラを構えたところで、その顔面に、早苗の渾身の右ストレートが炸裂した。
吹っ飛んだ文は木立に叩きつけられ、しばらく動かなくなる。
「……くっ、私の追いかける青い鳥がすぐそこにいるのにっ!」
そしてすぐ復活する。
文の、この生命力の高さには、早苗も脱帽であった。
「というか、そういうの撮影するなら他の人を撮影してくださいよ!」
「何を言っているんですか! その『他の人』カテゴリに早苗さんがいるのに!」
「じゃあ、自分の撮影してください!」
「どうやって!?」
「……え?」
その『どうやって』の意味には、色々な解釈が出来る。
自分のを撮影するのは『どうやって』するのか。
その手段を確立したとして、シャッターチャンスを『どうやって』確保するのか。
そしてもう一つ。そもそも身に着けてないものを『どうやって』撮影するのか。
……3番目ではないだろう、多分。
そう思いつつも、極端に短いくせに全く下着の見えない文のスカートを疑う早苗である。
「まぁ、ともあれ。
早苗さんは、風を使うのなら、その風を操るのではなく、風に乗ることを覚えるべきです。
早苗さんの世界で言う、『くるま』とか『ひこーき』と同じですね」
「風を乗り物みたいに扱う、ということですか」
「そういうことです。
一度、それに乗ってしまえば、あとはお任せ飛行。まずはそこから。操るのは、その一歩先ですね」
「わかりました」
もう一度、チャレンジ。
風を起こして、それを身に纏う。
そして、足下から湧き上がる風の流れに、あえて自由に身を任せると、
「うわ」
ふわりと、体が浮かんだ。
そのまま風の勢いを強くすると、早苗の体が上空に向かって流れていく。
「出来た、出来た!」
続いて、側面から流れる風に身を任せる。
風に乗って、早苗の体は空を飛ぶ。
「いいじゃないですか。飲み込みが早いですね」
「わたし、体を使う競技は得意なんですよ。かつては『陸上競技の鬼』と呼ばれてました」
「カメラ撮影多かったでしょ?」
「何でわかるんですか?」
威張ってえへんと胸を張る早苗の胸部を眺めながら言う文に、早苗は不思議そうに尋ねる。
それはともあれ、二人はしばらくの間、空を併走する。
「これくらいできるなら、次の、『風を操る』ステップに進めますね」
「はい」
「じゃあ、やってみましょう。
ここから先は難しいので、墜落に注意してください」
言われて、下を見る。
まだ、周囲の木々からの高さは10メートルもない。だが、その木の頂点が、地面から数十メートルはある。
簡単に言って、10階建てのビルくらいの高さを、彼女は飛んでいるのだ。
墜落=即死、である。
泣きそうになる早苗に、文は『ま、まあまあ』と声をかける。
「落ちたら死ぬなら落ちなきゃいいだけです!」
励ましにも何にもならない言葉であるが、とりあえず、やるっきゃない。
何せ、自分で決意したのだ。
今までの自分を越える、と。
その第一歩が、この幻想郷におけるルールに生きることであり、そのルールに則り、生きるだけの力を手に入れることなのだから。
「よ、よーし!」
彼女は意気込み、風を操り、巻き起こす。
そして、
「きゃあぁぁぁぁぁぁぁぁ~!」
「風、強すぎー!」
やっぱり吹っ飛んでいく早苗を追いかけ、文は妖怪の山のあちこちを、必死で飛び回る羽目になったという。
飛んだり飛ばされたり落ちそうになったりすること、すでに3時間。
昼を迎える頃で、ようやく、早苗は自由に空を飛ぶことが出来るようになった。
しかし、やはり動きはまだまだぎくしゃくとしている。
文のように、縦横無尽に飛び回るには、まだまだ練習が必要となりそうだ。
「……おなかすきました」
「じゃあ、そろそろお昼にしましょう」
文に案内されて、早苗は山の稜線に沿って飛んでいく。
広い広い妖怪の山。山というよりは山脈のそれを飛んでいくと、突然、一軒の家が現れる。
文はその前に舞い降りると、とんとん、と家のドアをノックした。
「はい?」
「こんにちはー」
ばたん。
開いて顔を覗かせた家の主は、文の顔を見て即座にドアを閉めた。
しばし、沈黙。
「い、いやいやいや! はたてさん! そりゃないですよ! お友達が来たんですよ! 開けてくださいよー!」
「都合のいい時だけ、友達を言い出すような奴を、わたしは友達に持った覚え、ないんだけど」
どんどん激しくドアを叩いて大慌てになる文。
がちゃりと、再びドアが開いて、不機嫌そうな眼差しの女の子が顔を覗かせる。
何となく、文と似たような衣装。
一番の違いは、そのツインテールな髪型だ。
「……ん? 誰、その子」
彼女の視線が早苗を向いた。
早苗は慌ててぺこりと頭を下げる。
「こちらの方、東風谷早苗さんといいまして。
騒動になっている、八坂神奈子さんの……えー……巫女さん? ですね」
「ふーん」
単に、知らない相手がいたから聞いた、という風情の『はたて』なる人物は、あっさりと早苗から興味を失ったのか、またドアを閉めようとする。
「だから入れてくださいってばー!
私たち、おなかすいてるんです! ご飯食べさせてくださいよぅ!」
「何でわたしがあんた達にご飯を食べさせてやんなきゃならないのよ!」
「だって、はたてさん、料理上手じゃないですか!」
「そこで逆切れするな!」
振り上げたはたての拳が文の顔面にクリーンヒット。
しかし、文はめげずに、「はたてさんほど料理が上手な友人は、私の中にいません!」となぜか胸を張る。
はたては思いっきりため息をついた後、こいつを追い払うのは無理だと判断したのか、観念してドアを開いた。
あまり『歓迎されている』風ではないのだが、さっさと室内へと入っていく文に、早苗も、顔を引きつらせながら続く。
「あんたも大変ね」
「あ……はぁ……」
なぜか、はたてから同情されてしまった。
さて、その家の中は、なかなかに女の子らしい、かわいい雰囲気の空間になっている。
部屋の中央には大きなソファとテーブル。
右手側、窓のすぐ近くに、大きな大きなデスクやら何やらが置かれていた。
「あなた、何か食べたいものとかあるの?」
「あ、いえ。わたし、好き嫌いはないので」
「そう。わかった。
ああ、だけど、卵とかはないから。わたしら、鴉天狗だから、共食いはさすがにね。
あと、あなたの口に合うものが出てくる保証もないから」
そういう意味で、鶏肉もない、とはたては言って炊事場に入っていく。
ちらりと覗くと、その炊事場は、水場と竃などが置かれた部屋になっている。
一昔前……というか、大昔の『日本のキッチン』そのものだ。
「はたてさんのお料理は美味しいですよ! もう、ものすごく! 早苗さん、期待していてくださいね!」
やたら嬉しそうな文。
その文に、はたてが『飯を食いたいなら手伝え』と声をかけた。
文は席を立って、はたてのところに歩いていく。
残された早苗は、ソファに腰掛け、料理を待った。そしてそれから5分もしないうちに、文は『いても役に立たないどころか邪魔になる』としてはたてに蹴りだされてきた。
――それから、20分ほどして。
「あ、ほんと。美味しい……」
出された真っ白つやつやご飯と山菜の炒め物、川魚の塩焼きに、野沢菜の漬物、というラインナップに早苗は声を上げる。
「料理くらい出来なくて、女に生まれた価値なし」
「全くですよねー」
「缶詰と保存食品しか食ってないあんたが言うな」
ばくばくもぐもぐ、ご飯をかきこむ文の脳天に、はたてのチョップがヒットする。
この食べっぷりを見ると、文は相当、おなかがすいているようだ。もしかしたら、何食か食べていないのかもしれない。
「あんた、外の世界の人間だっけ?」
「あ、はい」
「何で文なんかと一緒にいるの」
こいつ面倒な奴でしょ、と箸の先で指差すはたて。
早苗は、それに何ともいえない微妙な笑みを浮かべると、『実はこれこれこういう事情が』と話をする。
はたては、『ふーん』とうなずき、小さくつぶやく。
「……またこいつは。何企んでるのよ」
そのつぶやきは、文にも早苗にも聞こえなかったようだ。
文は『はたてさん、おかわり!』とお茶碗突き出してくる。
「いや~、ほんと、はたてさんのご飯は美味しいですよねぇ! もう、すぐにでもいいお嫁さんになれるくらい!」
「あんたも少しは料理くらい作れるようになりなさいよ。
ほんと、なっさけない」
「いやぁ、色々忙しい身の上でして」
「洗濯物はためる、洗い物もためる、部屋の掃除はしない、そんな生活してるダメ人間は口答えするなっ」
「むぎゅ」
口の中に梅干押し込まれて、文は悲鳴を上げる。
全くもう、とはたて。
「あんた達の話は聞いてる。信仰を求めて外の世界から入ってきた、って」
「はい」
「どう? 少しは、人里で知名度、上がった?」
「……さあ。どうでしょう。
さすがに、あんなところに神社を構えていますから。参拝客は0人です」
「そりゃあねぇ。
今からでも遅くないから、麓とかに移ったら? にとりとかに頼んで」
「あの建物は、わたし達にとって、思い出深いものですから。
それを置いていくのは……」
「だから、にとり達に頼むのよ。
あいつら、あんななりだけど、そこら辺の大木くらい片手で引っこ抜いて持ち歩けるような連中よ。
河童連中と真正面から殴り合いをしたら、天狗なんて完膚なきまでに叩き伏せられて終わり。
土台から担いで持っていってくれるんじゃない?」
「………………」
早苗は沈黙する。
確かに、史実……というか、所謂、よくある『民間伝承』では、河童は相撲好きで妖怪全体の中で比較しても剛力無双の妖怪として知られている。
早苗の頭の中にある『河童』のイメージそのままの河童であれば、それを疑う余地はないだろう。
しかし、この幻想郷にいる河童というのは、何というか、『河童(萌)』なのである。
それが、それほどの怪力の持ち主と言われても、簡単に信じることは出来なかった。
だが、思い返してみれば、にとり達は早苗たちの神社にやってくるとき、人間の身長よりも馬鹿でっかいドリルだの斧だのカッターだのを持って来る。
百聞は一見にしかず、事実は小説より奇なりとは、まさにこのことか。
「ただ、まぁ、えっと……。
神奈子さまが、この山を気に入ってるみたいで」
「神様に気に入られるなんてね。光栄じゃない」
「そうですねー。
私も昔っからこの山に住んでいますけど、確かに住みやすいですよ。ここは」
梅干のすっぱさを乗り切ったのか、文が会話に参加してくる。
彼女は、はたてからお茶を淹れてもらうと、それをずずーとすすりながら、
「人間にとって住みやすいかどうかは別ですけどね」
と、一言、余計な言葉を付け加える。
「あの、はたてさん達って、普段は何をしているんですか?」
早苗は、話題をそらすために、文ではなくはたてに視線を向ける。
はたては肩をすくめると、
「わたしら天狗は、情報通というか、デバガメが好きでさ。
鴉天狗はけたたましく、あることないこと叫びながら飛び回る通達屋。新聞なんて作ってるのよ。仲間内での趣味でね」
「ああ、それで」
「はい。我が文々。新聞は、幻想郷の未来を映し出す、まさにぱーふぇくつな新聞です」
「そういう戯言はさておいて」
「はたてさぁぁぁぁぁぁん」
「ええい、よるな、うっとうしいっ」
この二人、どうやら、ずいぶんと仲のよい友人関係らしい。
傍目には、どう見てもじゃれているようにしか見えない二人に、早苗は小さく笑う。
「わたしも新聞を作ってるの。売り上げはいまいちだけど、まだまだこれから。頑張らないとね」
と、取り出した、彼女の『カメラ』。
それを見て、早苗は『あれ?』と思う。
「ケータイじゃないですか」
「『けぇたい』? 何それ」
「え? だから、それですよ」
「これ、カメラでしょ?」
はたてはそれを広げると、レンズを早苗に向けて、ぴっ、と一枚、写真を撮影する。
『ほら』と見せてくれる、液晶画面。そこには早苗の顔が映し出されている。
「えっと……あー……。
その、ですね。それは本来、『携帯電話』と言いまして、遠隔地との通信が出来る機械なんですけれど、その機能の一つにカメラ撮影機能というものがついているだけでして、カメラというのは、本来はフィルムタイプのものが主流……というか、文さんが持っているようなのを示すんですけど……」
文とはたての頭の上に『??????』と何個ものクエスチョンマークが浮かんでいる。
『機械』というか、『文明』というものが絶妙な感じで入り混じっているのが、この幻想郷。
しかし、そこに住む者達が、皆、ハイテクに強いというわけではない。
「えーっと……通信? これが?」
「これに向かって喋ると、誰かが聞いてくれるんですかね?」
「中に誰かいるとか?」
「さあ……?」
つんつん、と二人そろって、携帯電話をつついている。
まるで、言葉は失礼だが、文明に初めて触れた未開の部族のようだ。
「ただ、まぁ、えっと……通信に必要な設備がないと使えないものでして。多分、その機能は死んでると思います」
「……へえ」
「初めて聞きましたね」
「というか、それ、どうやって印刷してるんですか? データを取り出すなんて、パソコンか何かがないと出来ないはずなんですけど。
あと、充電とか」
「知らない。にとり達に渡したらやってくれるのよ」
「充電というか、それをもう一度、使えるようにする機械もありますよ」
と、文が勝手知ったる我が家とばかりに、部屋の一角から取り出してきたのは、どこからどう見ても『モバイルバッテリー』のそれである。
『天女印のえれきてるくん』と書かれたその商品には、早苗はとっても見覚えがあった。
「……確かに、こういうタイプのケータイ、もう何年も前から見かけなくなったけど、幻想郷に来てたんだなぁ」
そうつぶやく早苗に、『外の世界じゃ、別のけぇたいがあるの?』とはたてが尋ねてくる。
「は、はい。わたしが持ってるタイプはこういうのなんですけど」
「何これ。手鏡?」
「あ、いえ。この部分のボタンを押すと……」
「うわ、何これ!? いきなり光った! 絵が出た! 動いてる!」
「何ですか何ですか、これ!? すごい! 音も出ますよ!」
二人そろっておおはしゃぎ。
早苗の持っていた『携帯電話』を囲んで大騒ぎだ。
「電話も出来るし、ゲームも出来るし……」
「げぇむ? げぇむって何ですか?」
「えっと、こういうので……」
「ちょっと、文! 動いたわよ、これ! うわ、何か震えてる!」
「わっ、わっ、わっ! ちょ、ちょっと! 私に押し付けないでください!」
「あと、動画が見られたり……」
「何よ、これ! 中に人がいるわよ!」
「こんなに小さな人間っているんですねぇ……。どうやって中に入ったんでしょうか」
「他にも色々。あ、もちろん、カメラ機能もあります」
文とはたては、ひとしきり、騒いだ後、恐る恐る、それを早苗のほうへと返してきた。
二人は目を輝かせ、『外の世界ってすごい!』と全力で、それを表情で表現している。
「ねえねえ、早苗! もっと他の話し、色々聞かせてよ!」
「外の世界の話、すごく興味があります! 私にも!」
「あ、あの、ちょっと。わかりました、わかりましたから、ちょっと落ち着いて近い近い近い!」
そうして、捕まること、実に3時間以上。
文とはたての二人から『それってどういうこと?』『これって何?』『あれって何なの?』とひたすら質問攻めにされ、疲れに疲れた早苗が、ぐったりとなって解放されたのは、そろそろ外が夕暮れ色に染まる頃だった。
「言っておくけど、わたしが早苗に話を振ったんだから!
わたしが新聞にする権利があるんだからね!」
「何を言ってるんですか! 早苗さんをここに連れてきたのは私です! 功労者は私です! 私が一番です!」
『ぐぬぬぬぬ~!』
顔を突きあわせ、二人は、『この話を、どっちが新聞にするか』でもめている。
その論争は、最終的に、『ならば早く記事にしたほうが勝ちだ!』というところで収まったらしい。
「早苗さん、すいませんけど、帰る際はお一人で!」
「悪いわね、早苗! 大したおもてなしも出来なくて!
文、こら! フライングは卑怯よ!」
「甘いですね、はたてさん! どんな情報も鮮度が失われてしまえば価値がありません!
すなわち、情報とは速さ! 価値とは速さなのです! 速さこそが世界の倫理! 速さこそ全て! 速いものこそ世界を制するのですよ!」
「……どこの兄貴ですかあんたは」
呻く早苗のツッコミなど聞きもせず、文はどこかへ飛んでいってしまった。
早苗は、『じゃあね』と早々にはたてによって追い出されて、ぽつんと一人、山の中に佇む羽目になる。
「……うん。帰ろう」
今日は何か、色々疲れてしまった。
はぁ、とため息をついた彼女は空へと舞い上がり、ふよふよと漂うように、家へと向かって飛んでいく。
家は山の頂上。上に向かって飛べば、そのうちつくだろう、と。
――適当に飛び続けた彼女は道に迷いまくり、道中、椛に遭遇することで、夜の9時を回ったところで、ようやく家に帰りつけたことを追記しよう。
もちろん、神奈子にこっぴどく叱られて、特大の雷を落とされる早苗であった。
「『妖怪の山に新たな神降臨。名を八坂神奈子。民に益なすよき神となり、幻想郷の礎を築くことを宣言。ただいま信者募集中』……ふむ。
それでこっちが、『現人神、東風谷早苗より告げられた新たな技術! 幻想郷、変革の時きたる!』
……扇情的な見出しだな。天狗というのはやはり下品だ」
「だけど、わかりやすくていいと思います」
わいわいと、人の行きかう人里にて。
たまたま通りで出くわした二人は、近くの甘味処に腰を下ろして、手にした新聞を広げている。
一人は上白沢慧音といい、この人里に暮らす『学校の先生』である。
もう一人は稗田阿求といい、この人里で、幻想郷の歴史を編纂する『物書き』であった。
彼女たちは、先日、知り合いの天狗から押し付けられた新聞を『さて、どうやって有効活用するか』と悩んでいたところだった。
「神が、外の世界から流れてこなくてはいけないほど、外の世界というのは世知辛いところなのか」
「かもしれませんねぇ」
お茶を飲みつつ、おだんごかじる阿求。
ほう、と息をついてから、
「幻想郷もにぎやかになりますねぇ」
「確かに。
しかし、山に神が新たに降臨したとなると、あちらが少しきな臭くなりそうだな」
「あそこは外に対して閉鎖的ですからね」
いさかいが起きるでしょう、と阿求は言った。
どうやら彼女は、山の連中が方針転換し、『妖怪の山を幻想郷の一大観光地に!』という寝言……もとい、天魔の宣言は知らないらしい。
もっとも、神奈子と天狗たちの間で、若干のいさかいがあるのだから、その見立ても半分くらいはあっているのだが。
「とりあえず、あそこに不用意に足を踏み入れるものはいない。
たとえいたとしても、麓で獣を狩る猟師くらいのものだ。
それくらいはお目こぼしをしてもらっているのだから、人間たちに実害が及ぶこともないだろう」
「そうですね」
「しかし、霊夢殿はこれをどう思うか」
慧音は大福をかじりつつ、何となく、といった感じでつぶやいた。
「商売敵現る!」
阿求がそれを面白がって囃し立てる。
「これまで、幻想郷に『神社』というものは一つだけだった」
慧音が手にする新聞には、神奈子のインタビューが載せられており、彼女は自らがこの幻想郷にとって役立つ神であると喧伝している。
神は嘘をつかないというのは常識だ。人々は、この新聞を見て、『どんな神様だろう』と目を輝かせている。
純朴で無欲なものが多い幻想郷とはいえ、やはり、人は人。今よりも優雅な暮らしを望むのは摂理であった。たとえ無欲なものであろうとも、それくらいは許される欲望である。
「たまに、路上で、この神様が演説しているのを見ますね」
「そうなのか?」
「ええ。何度か、その御姿を拝見しましたけれど、確かに威厳のある神様でした。
特に農業や林業、漁を営むものにとっては、とても魅力的な神様でしょう。
一方で、鉱工業ですとか、そっち方面のご利益もあるとか。
ほとんどご利益が得られないのは商売人くらいなものじゃないですか?」
「私もなるべく、外に出るようにしているのだが」
「学校って、拘束時間、長いですから」
阿求はくすくすと笑い、『まぁ、受け入れられてるようです』といった。
ふむ、とうなずいた慧音は、その視線を、どこか遠くの方に向けて、
「そうなると、ますます霊夢殿が不憫なことになりそうだ」
「あの方は『そんなの関係ない。我は我』ですから」
そんな神様いるんだ、あっそ、と。
それだけで、彼女は今の状況を収めてしまうだろうと、阿求。
全く商売に欲がないというか、危機感が薄いというか。
それを否定しても意味がないのだろうな、と慧音が続けた。
「それに、どちらにせよ、幻想郷にとって霊夢さんは絶対に必要ですから。
もし、何事かになれば、妖怪の賢者とかが手を打つのではないかと」
「悪事をなしているわけではないのに目の敵にされる。
神とは難儀な職業だ」
「文字通りの商売敵ですからねぇ。
ただ、博麗神社に信仰が薄いのは、やっぱり当人が悪いわけで。こればっかりは神様を否定することも出来ないでしょう」
因果応報というやつだ、と。
阿求は言って、お茶をすする。
そういう状況に不満があるのなら、黙ってないで自分で何とかしろ、と。
つまりはそういうことを言いたいのだろう。
「阿求殿は霊夢殿に入れ込んでいるな」
「そりゃもう。
私の『幻想郷縁起』で霊夢さんの活躍はフルカラーで語りつくしてますから。これがまた小鈴とかからも評判がよくて、『阿求、あんた、漫画家になった方がいいんじゃない?』って!
見ますか?」
「……幻想郷縁起は漫画じゃないんだが」
「読み物って、結局、読んでもらえないと価値がないんですよ。
だったら、色んな人に受け入れられる、ライトな作風もありなんじゃないかなー、って。
最近は思っています」
「いやまぁ、わからんでもないが……」
いいのか、それで。代々続く、由緒正しい歴史書が。
慧音はそう思ったものの、阿求の言うことはまったく間違っていない。
誰も読まない本など、宝の持ち腐れどころか、ただの燃えるゴミだ。
スペースとるわ、重たいわ、邪魔くさいわ。一刻も早く捨てたくなるだろう。そんな状況に置かれる本は哀れであり、本の神(もしもいるとしたらだが)も草葉の陰で泣きはらそうというものだ。
たくさんの人に読んでもらいたい――本は、もし、彼らに命があるのなら、そう思っていることだろう。
阿求はまさしく、正しいことをしているわけだ。
「……だけどなぁ」
呻く慧音。
ちょうどその時、二人が食事をしている甘味処に、一人の客がやってきた。
緑色の、鮮やかな髪が特徴的な彼女は、店員に『美味しいものください!』と目を輝かせてリクエストしている。
「この辺りでは見ない顔だな……」
その彼女の顔を見て、慧音はぽつりとつぶやいた。
人里に暮らして長い彼女にとって、ほとんどの人間は『知り合い』だ。
その彼女が見たことのない人間。どこかから引っ越してきたのかな、と慧音は思った。
「霊夢さんのところに声をかけに行ってみましょうか」
「やめておいた方がいい。めんどくさいと追い返される」
「いや、単に知らない可能性もありますよ。
霊夢さんって、何か用事がない限り、博麗神社から出てきませんからね。引きこもりってやつです」
「そこまで言うか」
阿求は、よく、正しいことを言う。
しかし、その『正しいこと』は言葉がオブラートにくるまれていない。
言葉のナイフでぐさぐさと、相手の心臓めがけて的確に突き刺してくるようなこともある。
無自覚で。
「しかし、確かに霊夢殿がそれを知らない可能性もある」
「でしょう?
何せ情報源がこれですし」
「本人を見なければ、我々だって信じないところだ」
『これ』で阿求が取り上げる新聞――文の発行する、文々。新聞というやつ。
基本的に、これはかなりたちの悪いゴシップだ。それを手にしている者たちだって、義理か付き合いか、はたまた一ヶ月だけの抱き合わせを目当てにとっているものが大半……というか、9割方そうである。
たまに、本当に、とんでもない特ダネを最速で運んでくることがあるものの、100通あって1通あるかないかという確率である。
『読み物としては面白い。しかし、新聞としては三流以下』。それが、文々。新聞に対する人々の評価であった。
「G退治によく使われていると聞くが」
「あと、火をおこしたり、焼き芋をくるんだり。
ああ、あと、お掃除の時とか引越しの時に役立ちますね」
「まぁ、それはさておこうか。
なるほど。そもそも、霊夢殿の存在も、あまり人々に周知されているわけではない。
その隙間に入り込む余裕はありそうだな」
「周知はされてるんですけどね。
ただ、その『霊夢』が彼女のような女の子とは、誰も思ってないだけですよ」
「なるほど。失敬」
さて、と二人は席を立つ。
店員に勘定を支払ってから、二人は店の表で左右に分かれた。
そんな彼女たちを見送る、少女の視線。
「……ふーん」
もぐもぐと、爽やか冷たい水羊羹を頬張っている早苗は、小さく声を上げる。
「……霊夢って、どういう人なんだろう」
騒がしい店内で、少しだけ、気になった話。
自分たちの商売敵であるとともに、この幻想郷において、唯一の『巫女』。
それがどういう人間であるのか、早苗は気になっていた。
「里の人たちへの周知はだいぶ出来てきてるし。
あとは、その人がどういう行動に出てくるかよね……」
気になるな、と早苗はつぶやいた。
ちなみに、彼女が肩から提げた鞄には、自分たちの神社の販促用チラシが入っている。
電気設備も復旧(?)した母屋で大活躍するパソコンとプリンターで作ったものだ。
これを、今日は、里の人間に配りに来たのである。
「ちょっと気になる。調べてみよう」
早苗はそうつぶやき、水羊羹を平らげる。
その美味しさに顔を笑顔に染めて、食後のお茶に、ほっと一息つくのだった。
「『博麗霊夢。博麗神社に住まう巫女。年がら年中、貧困に喘いでいるらしい。
何事にも無気力な態度だが、こちらがきちんと対価を支払うことを告げるとやる気になる。
巫女としてのご利益は不明。
祭事での祈祷、棟上などでの安全祈願、子供の病魔退散などに成果あり?
その見た目については不明。
かわいらしい女の子説、巫女というだけの筋骨隆々の大男、長いひげを蓄えた老人、形を持たない幻想郷の意思、合体変形して口から火を吐く』……」
とことこ、早苗は人里の中を行く。
印刷してきたチラシは配り終わり、その傍ら、人々に聞いて集めた、『博麗霊夢』の情報を頭の中でまとめている最中だ。
「『巫女としての力は不明。主に妖怪退治を請け負っているという。
現に、巫女に妖怪の被害を訴えたら、翌日、その妖怪が退治されているところを見た』……」
加持祈祷を主とし、神の言葉を人々に伝える、いわゆる触媒としての『巫女』ではなく、武闘派の僧兵みたいなものなのだろうか、と思う。
早苗が想像する、そして早苗自身がそうであったような『巫女』と、この『博麗霊夢』なる巫女は一致しない。
十人十色、人生色々と言ってしまえばそれまでだが、結論としては『変わった人』だった。
「逢いに行ってみようかな」
文は彼女を、早苗たちにとって『邪魔者』だといった。
しかし、外の世界では、未だ勢力を保つ寺社は相互において、相手を『敵』と見てはいない。
信仰する神や仏が一緒であるのだから、相手は自分たちと同じく、人よりも一つ高いところにいる者たちの『使い』である。要は皆、『仲間』なのだ。
相手はどう思うかわからないが、早苗から見れば、幻想郷における先達でもある。
まずは礼儀正しく、菓子折りでも持ってお伺いして、お声がけしてみてもいいんじゃないかな。
――そう思った矢先である。
「おい! みんな、隠れろ、隠れろ!」
「へっ?」
男性の大声が響いた。
直後、わっと人々が通りからいなくなる。
家人ではないだろうに、『こっちです、こっち!』と通りを逃げる人々を、左右に並ぶ家の住人が招きいれる。
「お嬢ちゃんも早く! 流れ弾を食らうぞ!」
「へ? 流れ弾……?」
大柄な体躯の、40歳くらいの男性に肩をつかまれて、早苗は近くの家の軒先に避難することになった。
何が何だかわからず、辺りをきょろきょろしていると、
「まぁぁぁぁぁりさぁぁぁぁぁぁぁっ!」
とんでもなく、鬼気迫った声が響き渡った。
「もう許さない! 今日という今日は、徹底的に痛めつけてぼこぼこにして夢想封印してやるわっ!
私のおせんべい返せー!」
「わっはっは! やれるものならやってみろ! 今日の私は一味違うぜ!
あとこのせんべいうまいな! ご馳走さん!」
「言ったわね! 地面に這いつくばって反省しなさいっ!
せんべいの恨みを思い知れ!」
人里の空を飛び交う、二人の女の子。
一人は紅白のおめでたい衣装、一人は白と黒のモノクロカラー。
彼女たちは空を舞い、両手に光をしたためて、それを相手に向かって解き放つ。
「……流れ弾」
早苗はつぶやいた。
彼女たちの手から放たれた光は弾丸となり、里のあちこちに、流れ弾となって降り注ぐ。
その一撃の威力は大したもので、家々の屋根をぶち抜くわ、地面に穴を空けるわととんでもない。
しかも彼女たちは、それを四方八方に盛大にばら撒くのだから、人々もたまったものではない――と、早苗は思って隣を見るのだが、
「おー、やれやれー!」
「いいぞー! どっちも頑張れー!」
「さあ、張った張った! 今日の弾幕勝負のトトカルチョはこっちだよー!」
と。
散々、逃げ惑っていた人々は、空を舞う二人の少女に、やんややんやと喝采を送っているではないか。
何が何だかさっぱりわからない。
とにかく、事の趨勢を見守るしか、早苗には出来そうもない。
「そーれ! くたばりなー!」
「当たるか、ばーか!
どんなすごい攻撃だって、当たらなければ大したことはないのよ!」
「言ってくれるじゃないか! 弾幕はパワーだ! 正面から押し切ってぶっ倒すのがいいんだよ!」
「……うわ、すごい……」
白黒少女の放つ、巨大な虹色の閃光。
青空に虹をかけるその攻撃に、早苗は目を奪われる。
紅白の少女はそれを華麗に回避し、同じように、幻想的に輝く閃光弾をいくつも解き放つ。
その弾丸は、逃げる白黒少女を追い掛け回し、幻想郷の空を彩っていく。
「ちっ! 追尾弾は相変わらず卑怯くさいぜ!」
「だったら、あんたも学んでみたら!?」
「冗談じゃない! お前の真似なんてやってられっか!」
白黒少女はそれを右手にしたためた緑色の弾丸で撃ち落とし、反撃とばかりに宙を半回転しながら、青いレーザーを撃ちだす。
レーザーを、紅白少女は上昇して回避し、右手からは弾丸を、左手からは鋭い針で反撃する。
白黒少女はそれをレーザーで薙ぎ払うと、紅白少女へ向けて加速する。
紅白少女は両手を前に突き出し、白黒少女の突撃を閃光の壁で受け止める。
「……結界?」
早苗の呟きなどなんのその。
光ははじけて衝撃波となり、白黒少女を吹っ飛ばす。
白黒少女は空中で体勢を整えると、反撃に、何十という緑の弾丸をばら撒いた。
その弾丸は空中で炸裂して分裂し、弾丸の雨となって紅白少女に降り注ぐ。
紅白少女はその攻撃を、左手に構えた光の盾で受け止めつつ、よけられるものをひょいひょいとよけて、白黒少女に接近すると、右手の弾丸を至近距離で投げつける。
「おお、危ねぇ!」
白黒少女はその攻撃を回避する。
共に、当たらなかった弾丸は人里のあちこちに炸裂し、爆裂する。
その騒音に、人々の熱狂した声が上がる。
「やったぜ! あれ、うちの家だ! そろそろ壁が傷んできたからな! タダで建て直せらぁ!」
「羨ましいな、おい!
おーい! うちの家の屋根にも、でっけぇ穴空けてくれー!」
何か、不思議なルールか取り決めでもあるのだろうか。
建物が壊されるたび、悲鳴ではなく、歓声が上がる。
一体何がどうなっているのか。
全くわからず、事の推移を見守る早苗は、いつしか、自分が、空を舞う二人の少女に視線を釘付けにされていることに気付く。
空を縦横無尽に飛び交い、目にも鮮やかな光を解き放つ彼女たち。
その鮮やかさと美しさ、そして激しさ、どれをとっても、今までに感じたことのない『エンターテイメント』。
見ているだけで楽しくなる。
巻き込まれたら大変だとわかっているのに、なぜか、心が熱狂してしまう。
「あ、こら、逃げるな!」
「河岸を変えるだけだ! 誰が逃げるかい!」
二人はそのまま、どこかへ飛んでいく。
爆音はまだ続いているから、戦いは終わっていないのだろう。
空を見上げていた里人たちは、『いやー、いいもの見たなぁ』と、わいわい楽しそうに声を上げている。
「……すごい」
早苗はつぶやいた。
あちこちの家は穴だらけ、道はクレーター、破壊の爪跡はすさまじいというのに、嫌悪感も恐怖もない。
ただ、その心は、彼女たちの戦いに張りつけられていた。
あんな風に、自分も空を舞ってみたい。美しい戦いをしてみたい。
ゲームの中の主人公のように。現実ではありえない世界を感じてみたい。
その想いが胸の中に膨らんで、『すごいすごい!』と彼女ははしゃぐ。
「そうだろう?
ありゃ、たまにしか見られないんだけどなぁ。退屈な毎日の、ちょっとした清涼感ってやつだ」
「おーい! 勝負、決まったぞー!」
「おう、そうか! どっちが勝った!?」
早苗を避難させてくれた男性が、トトカルチョをやっていた男性の方に歩いていく。
去り際に、彼は、『だけど、お嬢ちゃんは真似すんなよ』と笑って、早苗の肩を叩いていった。
この熱狂感、この、心を吸い寄せられる感覚。
それを、早苗は知っている。
そうだ。神を前にした時の、人々の熱狂と同じなのだ。
心を吸い寄せられ、ひきつけられ、囚われる。あの感覚と、全く一緒なのだ。
「……信仰を集めるのにいいかも!」
信者を集めるのに、派手なプロモーションというのは効果的だ。
わかりやすく、たやすく、信者の心をひきつけることが出来る。
あの少女たちのような、鮮やかな『舞』を早苗が覚えたとしたら。それが出来るのだとしたら。
神奈子は、きっと、喜ぶだろう。
たくさんの信者が神社に詰め寄せ、たくさんの信仰を捧げてくれるのは間違いない。
「よし!」
早苗は意気込み、走り出し、地面を蹴って空を飛ぶ。
大急ぎで、彼女は家に帰っていく。
自分に出来そうなことが見つかったのだ。
しかも、この世界ではとても効果的な手法で。
それならば、心も浮かれる。
神奈子のため。信仰を集めるため。そして何より、楽しそう!
「やるぞー!」
人里の空に響き渡る宣言と共に、彼女の姿は一路、山のほうへと向かって消えていったのだった。
「あー、弾幕勝負ですね」
「何ですか? それ」
早苗は家に帰って、すぐに文を呼んでいた。
文曰く『この笛を吹けば、私はどこからでも駆けつけますよ』ということで渡された笛を吹くと、本当に5秒で現れた。
何やら面妖なことが起きたような気がするのだが、早苗はそれを無視することにしている。
やってきた文は、早苗の話を聞いて、すぐに答えを返してくれた。
「まぁ、何というか、人間と妖怪との遊びというか」
「はあ」
「あと、妖怪同士の遊びにも使いますね。
人間と妖怪は、まともに戦えば、地力の違いで勝負にならない。逆に妖怪同士は、本気で戦えば、どっちかが死ぬのは間違いない。
それじゃ、この幻想郷の秩序を保つことが出来ない、ってことで考え出された『ゲーム』ですよ」
「なるほど」
にしちゃ、あの二人は本気で殴り合いをしていたような気がするのだが、それは多分、気のせいだろう。
「どうやるんですか?」
「簡単です。
より強く、より美しい弾幕で、相手を『参った』と言わせるか」
「はい」
「あるいは、相手が手の内を出し尽くして、次の手がなくなったら勝ちです」
よくわからない。
首をかしげる早苗に、『論より証拠。まずはやってみましょう』と文が空に舞い上がる。
それに遅れまいと早苗が続き、二人は青空の中、正面から対峙する。
「じゃあ、私が攻撃するので、当たらないように逃げてくださいね」
「わかりました」
文は片手に風扇を取り出した。
そして、それを一薙ぎすると、空中にいくつもの、色鮮やかな弾丸が現れ、一斉に早苗に向かって迫ってくる。
「わひぃっ!?」
慌てて、それをよける。
弾丸は早苗の頭上を掠め、はるか彼方に向かって飛んでいく。
よけた早苗を追いかけるように文は動き、さらに一発。
前方から扇状に放たれるそれを、ぎりぎりのところで回避し、早苗は上空へと逃げていく。
それを追いかけ、文が、早苗を真下から弾丸で追い立てる。
弾丸のほとんどは早苗に当たらず、その脇を駆け抜けていくのだが、その中の何発かが早苗めがけてまっすぐ飛んでくる。
それをぎりぎりで回避しながら、早苗は空の上を逃げ惑う。
「ちょ、文さーん! 怖い、怖い、怖い!」
「大丈夫ですよー! 一応、安心なゲームですからー!」
「一応って何ですかー!」
「当たり所が悪ければ死ぬ的な意味で」
「全然、安全じゃないっ!」
文の展開する弾丸から必死で逃げつつ、早苗は反論する。
それが大体5分ほど続いたところで、「ま、こんな感じです」と文。
「はぁ~……はぁ~……はぁ~……」
たったの5分なのに、すっかりと、早苗の息は上がってしまっていた。
極度の緊張に置かれたストレス。そして、普段は行なわない高速移動と急速旋回。
精神と肉体の両方が酷使された結果、完全にグロッキーになってしまったのだ。
「これを1時間2時間と続けられるようになれば、早苗さんも、立派な幻想郷の一員ですね」
「い、1時間ですか!?」
「ええ。
先日話した霊夢さんなんかは、相手を仕留めるまで、何時間だろうと戦いますよ。
あの人、疲れを知らないんじゃないかって、たまに思います」
「……うわぁ~」
「何度負けても、何度でも挑戦オッケーってのも、またやる気を喚起しますよね」
果たしてそういうものなのだろうか。
額から大粒の汗を流しつつ、早苗は顔を引きつらせる。
「では、よけてばかりだったので、今度は早苗さんが攻撃に回ってください」
「……えっと、どうやって?」
「どうやって、か……」
う~ん、と悩む文。
彼女自身、真面目に『どうやって弾幕勝負をするのか』を考えたことがなかったのだろう。
そもそも、どうやって弾丸を生み出して放っているのか、その認識すらないのだ。
ただ、手を振れば、そういう攻撃が出来る。だから、技術なんて知らない――そんなところか。
「私はですね、とりあえず、『相手を攻撃する』って思います」
「はい」
「で、手を振ります。弾幕が出ます。
ね? 簡単でしょう?」
「どこがっ!?」
もうちょっと具体的にお願いします、と早苗。
そう言われても、と悩む文だが、とりあえず、早苗にその技術を教えて欲しいと請われているのだから、応じるしかないと思ったらしい。
「えーっと……手の先に力を集中させて」
「はい。
……こんな感じ?」
手を前に突き出して、『う~……!』と目を閉じてうなる。
それが果たして正しいのかはさておき、『まぁ、そんな感じ』と文は適当に返事をした。
「それで、掌に力が集まったら、それを前に向けて放つ感じで」
「えいっ!」
……しーん。
何にも起こらない。
「……」
「いやいやいや! そんな目で見ないでくださいよ! 私、ほんとにそれでやってるんですから!」
「……エネルギー弾を出すのって大変だっていうのがわかったような気がします」
よくわからないつぶやきと共に、早苗はもう一度、チャレンジを開始する。
「何というか……。
掌に力を集めるって、ほら、手があったかくなる感じというか」
「う~ん……。なりませんけど……」
「早苗さんの能力って、風と雨を操る能力なんですよね?」
「いえ、具体的には、『神の奇跡を代替行使する』能力であって、風と雨を操る能力というわけじゃないです」
「なるほど。
となると、神奈子さんが、弾幕勝負に必要な技術を覚えない限り、できないかもしれませんね」
「あー」
神奈子の力を代わりに使えるということは、神奈子に出来ないことは出来ないということになる。
そういうことか、と納得する早苗は、
「……じゃあ、どうしたら?」
「神奈子さんにも、これ、教えましょう。
どうせ、幻想郷のルールなんだし。覚えないと、この世界じゃ生きていけませんよ。
ルールを乱す輩は、確実に、巫女に退治されますから」
「神であっても?」
「神であろうと」
人間でないものならば、神も妖怪も皆同じ、化生に過ぎない。
その辺りのくくりをしていないのが、あの巫女だ、と。
文の言葉に、早苗は少しだけ、眉をひそめるのだった。
「神奈子さま」
「あら、何?」
何だかすっかり、『お茶の間のお母さん』的な感じの神奈子である。
神社のインフラ改善は進み、居間には電気の灯りが皓々と点っている。
夜。
晩御飯を食べて、お風呂に入ってから、早苗は神奈子の元へとやってくる。
彼女の対面に座り、『実はですね』と、最近の文とのやりとりを話すと、
「早苗も頑張っているじゃない」
と、ほめてもらえた。
それはさておき、と説明する早苗に、神奈子は『なるほど』とうなずく。
「幻想郷で生きていくのに必要なルールだというのなら、私もそれを学ばないといけませんね。
郷に入っては郷に従え。
己のものに作り変えるより先に、まずはその場でのルールは学ぶべきでしょう」
「はい」
「無理な行動は他者からの忌避を招く。一時的な迎合でその場に溶け込み、馴染み、そこから手を広げていくのが賢い」
彼女はそう言うと、立ち上がって、居間を後にする。
闇の中、しんと静まり返る神社の境内までやってくると、何もない虚空に向かって片手を伸ばす。
「こんな感じかしら?」
次の瞬間、幻想郷の端から端までを貫通するのではないかというほどの巨大なレーザーが撃ち出された。
ぽかんとする早苗を見て、「案外、簡単ね」と彼女は笑う。
「なるほど。弾幕勝負。安全な遊び、か。
なかなか面白い独自ルールがあるものね」
彼女は軽く右手を何度か振るい、『感覚は覚えました』と早苗に告げた。
「次は、貴女がやってみなさい」
言われて、慌てて、早苗は両手を前にかざす。
昼間、文に教わった通りに、両手に力が集中するように意識を集中する。
体の中を流れる力の流れ――血の流れを意識し、それが掌に集まってくる感覚をしっかりと覚える。
そうして、掌の先端に集まった力を、外に向かって解放するイメージを作り出し、「えい!」と声を上げた。
へろへろへろ……ぽふん。
「……………………」
「まぁ、最初はこんなところでしょう」
早苗の両手から生み出された、小さな小さな光の球は、空中をふわふわ漂い、ぽてっ、と地面に落ちて消えてしまった。
出来損ないの線香花火、といった具合だが、昼間、何度やっても何も出なかった時に比べれば大きな進歩である。
やはり、彼女の能力は神奈子に起因する。それを確認できる一幕であったが、
「……しょぼ」
思わずそうつぶやいてしまうほど、それはそれは情けなくて恥ずかしい結末だったという。
次の日から、早苗のチャレンジが始まった。
弾幕勝負で『強く』なるために、まずは弾丸を強くすることを目指すのだ。
そのためにはどうするか。
はっきり言って、わからなかったため、やっぱり文を頼っている。
文曰く。
『強い弾幕というのは、よけづらく、美しい弾幕です。弾一つ一つの威力を追求するのもよし、搦め手と作戦で、よけられない弾幕を作るもよし。それは早苗さん次第です』
要するに、『早苗が頑張れ』という答えであった。
「うーん……。なかなか、威力と勢いのある弾丸が造れません」
ぽっと掌に点る光。
それを放つのだが、撃ち出された弾丸は10メートルほどを進んで消えてしまう。
文が言うには、『弾丸に当たれば、基本的に相手はダメージを受ける。距離を気にする必要はない』ということだが、接近戦しか出来なければ、それはそれで問題だ。
相手はこちらから距離をとって、ひたすら弾幕を撃っていればいい。いずれこちらは疲れてやられてしまうだろう。
相手よりも素早いのなら、一気に相手に接近し、仕留めてしまう戦いも出来るが、早苗の足は、それほど速くない。
「力の集中が足りないんですね。気が散ってるんじゃないんですか?」
「そんな風に見えます?」
「見えません」
あっさりと、文が答えられるほどに、早苗は真剣に練習に励んでいる。
初日のようなしょぼくて情けない弾丸は卒業した。
撃ち出した弾丸は、たとえ10メートル程度しか進まなくとも、地面に当たれば土を巻き上げ、直径30センチほど、深さ10センチくらいの穴を作るくらいの威力にはなっている。
しかし、早苗が一生懸命集中して、何とか放つ弾丸は、文が何の気なしに右手を一振りしただけで放たれる弾丸より遥かに弱い。
「何が悪いんでしょうか?」
「元々の力がないとか」
文はあっさりと答える。
「何の才能も力もない人間は、そもそも弾幕なんて作れませんからね。
これを出せるのは妖怪と、力ある人間の特権です」
「う~ん……」
「素養が弱ければそれなりのものにしかなりませんし、強い力を持っていれば、その分、強い弾丸を作れます。
早苗さんって、こういう、何ていうんでしょうね。
『人ならざる力』って、どれくらいお持ちなんですか?」
「……さあ?」
早苗は首を傾げてしまう。
外の世界にいた頃から、雨を降らせたり、風を巻き起こしたりと言ったことは出来た。
それは、神奈子の力を代替行使する、神の奇跡の力だ。
だが、それはその程度のものである。
どれくらい強いのか、と言われるとわからない。
神奈子は『早苗の力の器に応じて、私の力を貸し与えている』と言っているが、そもそもどこまでが自分の力で、どこまでが神奈子の力なのかの線引きも出来ていない。
呼ぶだけが力なのか、呼んで操るまでが力なのか、呼んで操り行使するまでが力なのか。
「まぁ、残酷な話ですけど、力が弱い人に出せる弾幕は弱い弾幕です。
頭を使って、それを強い弾幕に仕立て上げることが必要になりそうですね」
「そうですか……」
しょんぼりしてしまう。
風を操り、ようやく、まともに飛べるようになって、嬉しさに包まれていたのもつかの間。
文の容赦ない一言は、早苗の心を深く抉る。
「いやいや、それはそれで強さの糧になりますよ。
どんなに強力な弾幕だって、当たらなければ無意味ですからね。
逆にどんな弱い弾幕でも、積み重なれば大ダメージです」
「むう」
「頭を使って、相手が『よけられない』弾幕を作る。これはなかなか骨の折れる作業ですよ」
「相手を丸ごと囲んじゃえばいいんじゃないですか?」
ちっちっち、と文。
「完璧によけられない弾幕はNGです」
早苗は頭に『?』マークを浮かべて、『どうして?』と視線で尋ねる。
弾幕『勝負』なのだから、勝ち負けを決めるのが目的のはずだ。
勝ち負けを決めるのなら、いかに相手を負かすかが重要になってくるだろう。その時、相手が絶対によけられない弾幕で攻撃するのはありではないだろうか。
そんな素朴な疑問に、文は、「これはあくまでゲームです」と答える。
「絶対にゲームマスターに勝てないゲームはつまらないでしょう?
それと同じですよ。
どんなゲームでも、ルールはある。
100%よけられない弾幕なんて美しくないし、使った瞬間に勝負が決まります。
勝負とは、そしてゲームとは、相手との駆け引きを楽しむものです。
いかに相手によけさせるか。そして、いかに相手がよけられず、追い詰められる弾幕を放つか。
そういう駆け引きも必要になるんです」
「何だかめんどくさいルールですね」
「まぁ、当たり所悪いと、人間は死んじゃうんで。それを防ぐためのルールかもしれませんけどね」
本当のところは、作った人じゃないとわからない、と。
当たり前のことを文は言って、「そういうわけなので、それは反則です」とレッドカードを提示してくる。
早苗は『むー』とうなった後、ならばどうやって、自分の弱々しい弾幕で相手を追い込めるかを考えることになってしまう。
「智慧熱でそう……」
「いいんじゃないですか? 頭を使うとボケ防止になりますよ」
永く生きる妖怪にとって、ボケというのは深刻な病気である。彼女はそう言った。
妖怪もボケるんだなぁ、と早苗は思いつつ、腕組みして空を眺める。
今日も、空は見事に青い。悩み事も吸い込んでくれそうなほどに。
「少し場所を変えて悩みましょう。
立ちっぱなしは疲れますから」
そんな早苗に、文はにこっと笑って、彼女の肩を叩いたのだった。
「もーみーじーさーん! 椛さーん! もみもみー! わんこー!」
「だぁぁぁぁぁれが『わんこ』ですかぁぁぁぁぁぁぁっ!」
呼ばれて現れたのは、白狼天狗の犬走椛であった。
文は『よーしよし、いいこいいこー。おて』などとやっている。
「わんっ。
……じゃなくて!」
否定はしていても、己の血に染み付いた『犬属性』は消せないのか、文の手に自分の右手をぽんと乗せてから、慌てて頭をぶんぶん左右に振る。
「何ですか」
椛の視線は険しいものだ。
文と早苗がやってきたのは、妖怪の山の中腹辺りにある、木で作られた小屋が建ち並ぶエリア。
文が言うには、『ここは白狼天狗連中の詰め所です』ということらしかった。
「実は今、早苗さんが弾幕勝負の練習をしていまして」
「はあ」
「椛さん流の特訓で、早苗さんを鍛えてあげてください」
「どうして私なんですか」
「だって、私よりも、そういうこと、教えるの得意でしょ?」
言われると、椛もそれが否定できないらしい。
椛が反論せずに肩をすくめたのを見て、文は「じゃ、頑張ってくださいね」と去っていく。
早苗はそれを見送った後、「お願いします」と頭を下げた。
「あなたは文さんより、ずっと礼儀正しくて誠実だ。
そういう態度の人には、こちらも親身になって教えたくもなります」
「……ですよねー」
「文さんは、あーいう態度さえまともならいい人なんだけど」
人の態度は性格から表れ、性格はその人の人格から表れる。
つまるところ、文は『人格からしてダメすぎる』ということだ。
椛の強烈な一言に、早苗は顔を引きつらせる。
「私も、今日の仕事は終わりなので。
お付き合いします」
「はい」
「じゃあ、こちらへどうぞ」
少し待っていてくださいね、と椛は地面を蹴って、近くの小屋の中に消えていく。
そうしてしばらくしてから、『改めて』と戻ってきて、早苗を連れてその場を後にする。
二人が向かったのは、山の中の一角。
先日見た大瀑布には全く及ばないものの、舞い散る雫が美しい滝の側だった。
「ここは、私がよく、一人で自己練習する時に使っています」
ひとけがないからちょうどいいんですよ、と。
椛はそう言うと、腰に掃いた剣を抜いた。
「技術は実戦を経てこそ上達します。
早苗さん、行きますよ」
「えっ?」
と思った瞬間に、椛の姿が眼前にあった。
振り下ろされる刃から、慌てて転がって距離をとる。
彼女の剣は地面に触れるなり、そこにざっくりと深い傷跡を残す。正面から食らえば一刀両断されてしまうだろう。
「ち、ちょっと!?」
「はっ!」
短い呼気と共に放たれる、斬撃の形をした弾丸。
早苗は、それをしゃがんで回避する。
弾丸は滝の側の壁面に直撃し、石の飛礫を巻き上げる。
「容赦なしですか!?」
「当然!」
それが、相手に対する礼儀である、と椛は言った。
練習だろうが容赦なし。
スキルが足りなければ死ぬだけだ、と言わんばかりである。
早苗は逃げようとして、思いとどまる。
ここで逃げれば、椛は自分に失望し、以後、訓練などに協力してくれなくなるだろう。
文もそうだ。
早苗ならば、椛の、このとんでもない『実戦』を受けても大丈夫と判断したから、椛に早苗を預けたのだ。
文は、自分を信頼してくれている――早苗は、そう思った。そう判断した。
ならば、その信頼に応えることも必要だろう。逃げるだけなら誰でも出来る。ほんとにやばくなったら、その時、逃げればいい。
「よ、よーし!」
彼女は気合を入れなおすと、椛を正面から迎え撃つ。
あっという間に接近してくる椛に向けて、右手から弾丸を一つ。椛は、この程度よけるまでもないと、左手の盾でそれを受け止め、打ち払い、早苗との距離を詰める。
「っ!」
右下から左上への振り上げを、早苗は身をそらして回避した。
しりもちをついてしまいそうになるのを何とかこらえる。
振り上げの後は、さらに鋭く、速い振り下ろしが来る。
早苗は左足を一歩、後ろに引く。
椛の手が返るのを視界に捉えて、早苗は後ろにバク転する。
刃が通り過ぎる感覚。風。
姿勢を立て直すと、彼女は右手に持った祓え串を左に向かって振りぬいた。
巻き起こる一陣の風が、椛の足を、一瞬だが止める。
彼女の足下に向かって、弾丸を一発。その弾丸は、椛の靴のつま先より少し前の地面を抉る。
「ちっ」
椛は舌打ちし、軸足で地面を蹴って空に舞い上がる。
あのままであれば、前のめりに倒れていただろう。早苗の攻撃は、椛のバランスを崩すのに効果的だったのだ。
椛は空中から、地上の早苗めがけて無数の弾丸を放つ。
剣閃に沿って現れる何十という弾丸が、早苗めがけて降り注ぐ。
「うひゃあ!?」
弾丸の落ちてこないところを必死になって走って逃げ回り、滝つぼまで追い込まれた彼女は、地面を蹴って空へと逃げた。
後ろから、椛が追いかけ、攻撃してくる。
風を必死に操り、自分の体だけでは出来ない急旋回でそれを回避すると、反撃に、また一発、弾丸を放つ。
「その程度しか出来ないんですか!?」
「出来ないんですよ~!」
泣き言にしかならないが、今の早苗にはこれが精一杯だ。
文や椛のように、鮮やかかつ多才な弾丸を操る、放つことなど出来ない。
狙い澄ました一発。それが、今の彼女の実力なのだ。
「神様の力を行使するというのなら、その神様の力を真似てみればいいでしょう!」
振り下ろす、椛の剣が崖の壁面を鋭く叩く。
背後から響く振動と衝撃に、彼女は顔を引きつらせて、その場から逃げていく。
「ええいっ!」
飛んでくる弾丸を、横薙ぎの突風で打ち払う。
風を操れば、自分に向かって飛んでくる弾丸を、ある程度は何とかできる。
防御手段は出来た。だが、攻撃手段がない。
「この!」
上から吹き付ける風で、椛の動きを押さえようとする。
しかし、相手は天狗。風と共に生きる妖怪は、一度目の不意打ちならば通用しても、二度目は通用しない。
風に押されて流される椛。だが、彼女はその動きすら利用して下へ急加速した後、早苗を下から追い立てる弾丸を放ち、地面に着地すると同時に前方へ走って風の流れを抜け出した。
下から飛んでくる弾丸を早苗はぎりぎりでよけて、椛の姿を探す。
「あ、あれ? いない……」
「後ろ」
「へっ?」
瞬間、椛の笑顔が顔のまん前にあった。
息を呑み、体を硬直させる早苗。その喉元に、椛の剣が突きつけられる。
「うぐ……」
「なかなか面白い動きは出来てるんですけどね。
一朝一夕で強くなるのは不可能です。焦らず地道にいきましょう」
「……はい」
椛の手加減が伺える一言だった。
最初、早苗は椛が全力でかかってきているのだとすっかり思い込んでいたが、とんでもない。
やはり、相手は天狗。日本神話にその名を残すだけの妖怪なだけはある。
手加減も手加減、思いっきり手加減されまくっている。
情けなさと同時に悔しさ、そして、相手への尊敬が胸の中に浮かび上がる。
「……どうやったら強くなれますか?」
「一に努力、二に努力、三四がなくて五に努力。以上」
「……やっぱそうですよね」
『少し休憩したら、二戦目、行きましょう』と椛は地面に降りていく。
早苗は小さくため息をついてから、『どうしたもんか』と悩むのであった。
「早苗。
近頃、生傷が絶えないわね」
「たはは……。わたしも、まだまだ努力も精進も足りないということで……」
「あまり根を詰めないように。
貴女は昔から、真面目で一途で猪突猛進なのだから」
自己愛も必要ですよ、と神奈子の軽い説教を受けてから、早苗は母屋を後にする。
向かう先は、文の元。そして、彼女を通して、椛に訓練をつけてもらう。
初日の訓練から、早数日。
身のこなしはだいぶマシになったものの、肝心の弾幕を操る技術についてはまだまだだ。
一発、二発、程度のしょぼい弾幕ではなく、一度に数発の弾丸を生み出すことが出来るようになったものの、そこから先の進歩はない。
今日もお願いします、と椛に頭を下げて、一時間後にはこてんぱんにされて地面の上で大の字になっているという有様である。
「やはり、これ以上は無理ですかね」
椛と早苗の訓練を見ていた文が言う。
「幻想郷の人たちって、いい意味でも悪い意味でも飲み込みが早いんですよ。
もう数日。それなのに、この程度ってことは、早苗さんにはやっぱりそれ以上の才能がないんですね」
「そ、そんなことないです! まだまだやれます!」
「いえ。無理です。
私は言う時は言いますよ。断言します。早苗さんには、これ以上、弾幕勝負に対する素質はありません」
うぐ、と早苗は押し黙る。
文曰く、
「天狗基準では考えていませんよ。人間基準です。
弾丸を生み出し、操るなんて大して難しい技術じゃない。生み出すことさえ出来れば、後は操る技術までとんとん拍子に進んでいく。そうでなくては、技術を持っていることにならない。付け焼刃。後付です。
早苗さんの力の大半は、神奈子さんからの力でしょうから。
その神奈子さんが早苗さんに対して、信仰が徐々に回復してきている今では、力を出し惜しみする必要もないわけだから、早苗さんが操ることの出来る神の力は『この程度』ということになります」
しゅんとなって、早苗は肩を落としてしまう。
何度、『違う』と否定したところで、ここ数日間の進歩がこの程度では反論も出来なかった。
椛も『文さん、言いすぎですよ』とは言わない。彼女もまた、本当に才能のないものに対しては、無理なことはさせない主義なのだろう。
「まぁ、早苗さん自身が弾幕勝負をしなくても、あの、風と組み合わせた技術はなかなかのものですからね。
人間であの手の術を使えるのはいませんから、あれをうまく使えば、他人の信仰心を集めるプロモーションは出来るでしょう」
「その際は、誰かに仕込みを手伝ってもらうんですかね?」
「そうなるでしょうね。
椛さんはクソ真面目で大根なので役に立ちませんが、私なら、うまいこと相手方が出来そうです」
「そんなことないです! 私だって、演劇の一つや二つ!」
「へっ」
「あ、むかつく。」
ふてくされて、ほっぺたをぱんぱんに膨らませた椛が『もう知りません!』とそっぽを向いてしまった。
「早苗さんもお疲れでしょうから。
この近くに温泉があるんですよ。そこでちょっと、休憩しましょうか」
「……は~い」
ぺたりとへたりこんだ早苗が、のろのろ立ち上がる。
椛が先に立ってふわりと空を舞い、彼女はそれに続く。
最後に続く文が、ちっ、と舌打ちする。
「……誤算だったかしらね」
早苗の実力に対する見立てが甘かったか、と。
彼女は内心でつぶやいた。
「彼女ならもう少し絵になると思ったんだけど、所詮は養殖もの。天然ものにはかなわないのかもね」
残念だわ、とつぶやく文の視線が、前を行く早苗にちらと向けられたのは、その時のこと。
「……はぁ」
文と椛に案内してもらった温泉というのは、山の上層部に湧いているものだった。
天狗しか場所を知らないと言われたそこは、断崖絶壁の上に湧く、見事な温泉。誰かが手を加えたのか、見事な岩風呂になっていて、ちゃんと脱衣場や洗い場まで併設されている。
湯船のへりに腰掛け、早苗はため息一つ。
脱衣場では、文と椛が、何やらにぎやかな会話をしているのが聞こえてくる。
「才能なしかぁ」
残念だなぁ、と彼女は天を仰ぎ見てつぶやく。
やはり、世の中、地道が一番だということか。
華やかなプロモーションを飾って耳目を集めるのは、とても簡単な宣伝手法だ。しかし、その手法を使える人物は限られる。
お金や知名度、見た目、もっと簡単に、パフォーマンスの規模。そのいずれか、あるいは全てがそろわなくては、ただ派手なだけのつまらないショーになってしまう。
それよりは、誰もが出来る、チラシのばら撒き、『お願いしまーす』と笑顔で握手、そして演説などなど。
地道な活動というのは草の根となって人々の間に浸透しやすい。
一方、派手なプロモーションは、ぱっと咲いて散る花火のようなもの。一時の印象は強いものの、それ以降はからっきし。
「……仕方ないか」
出来ないと言われてしまえば、仕方ない。
それなら、地道に活動して、神奈子の役に立つことにしよう。
彼女はそう思った。
これもまた、神の戒めなのかもしれない。
楽なほうへ、楽なほうへと逃げてはいけない。若いうちの苦労は買ってでもしろ。努力こそが一番大事――そんな感じでのお言葉だったのかもしれない。
それでも、早苗としては残念極まりない事実であった。
神奈子のため、よりたくさんの信仰を集めるために自分に出来ることを、日々、模索する早苗。出来そうなこと、出来ることには片っ端から手を出していくのが、自分に出来る、自分の役目。
「頑張ろう」
外の世界にいた頃、彼女は周りと違う『特殊な人間』だった。
だが、この世界では、そうではない。
彼女のように、普通の人間とは違う特殊な人間が、この世界にはごろごろいる。彼女はその中の一人にしか過ぎないのだ。
特殊な人間ばかりの世界では、その力の優劣は、外の世界における『一般人』たちと同じく、努力と才能で決まる。
努力で埋められるものを全て埋めてしまえば、あとは才能が全てを分ける。
早苗には、その『才能』が足りなかった。それだけだ。
認識してしまえば簡単な事実である。
ならば、自分は、自分に出来る範囲で頑張るしかない。地道なビラまき、声かけ、などなど色々、やれるべきことはたくさんあるのだ。
これを考えるのはもうやめよう。
早苗は大きく伸びをして、長く続く息を吐いた。
つと閉じていた瞳を開けて、周りを見渡す。
「……湯煙すごい」
周りが見えなくなるくらいの湯煙に、彼女は包まれていた。
まるで、真冬の温泉か、焦熱地獄の釜のようだ。
湯の中に足を浸すだけだった彼女は、お湯の中へ、全身を沈める。
心地よい暖かさが体を包み込んできて、そのまま寝てしまいそうな快感に囚われる。
「いけないいけない」
お風呂の中での睡眠は、失神と同じ。下手をすれば、そのまま溺死してしまう。
頬をぱんとはたいて、彼女は頭を左右に振った。
「以前もねー。お前みたいなこと言ってたのがいたよ。
ありゃ、何代前のやつだったかなぁ」
唐突に、頭の後ろから声がした。
振り返ると、そこに、白い裸体がある。
小柄な少女が、先ほどの早苗と同じく、足だけを湯の中に浸して、風呂のへりに腰掛けていた。
「自分にゃ力がない。力がないから、先代みたいなことは出来ない。
神のお力とお言葉をお伝えすることが出来ない。どうしよう、ってね」
先ほどまで、そこには誰もいなかった。
当然だ。先ほどまで、そこにいたのは早苗だったのだから。
誰かがいるはずなどない。
「とーんでもない。
んなことあるわけないだろ? 神の神子の血が、数百年、数千年程度で薄まってたまるもんかい。
神の血ってのは、とんでもなく濃厚で、とんでもなく高貴なのさ。
あらゆる血と反発しあい、あらゆる血を拒絶する。水と油みたいなもんだね。
お前たち、神の子にはね、二つの血が流れてるんだ。人間と、神様の。
体をこう半分に割ってごらん。左右の割れ目から違う血が流れてくるよ」
けらけら笑う彼女は、ひょいとその場に立ち上がる。
そして、『そーれ!』と湯船の中に飛び込んできた。
水音と共に飛沫が跳ねる。
ぴょこんと水面に顔を出して、「いやー、温泉ってさいこーだねぇ」と早苗に笑いかけてくる。
「だがねぇ、人間ってやつは、所詮は人間だ。神様とは違う。
ましてやお前たちは、わたしらに対する信仰心を忘れっちまって、人間の世界に染まりきっちまった。
こりゃ、うちらも予想してなかったねぇ。
ああ、だけど、仕方ないかな。神様ってのは、割と俗なもんだ。人間とまぐわって腹を膨らましたり、人間の女に種付けしたり、そういう阿呆どももたくさんいる」
少女の口からは、とても想像できない下品な言葉に、早苗は顔を赤くする。
彼女はそんな早苗を見て、『お前は生娘かい』とけらけら笑った。
「人の世に溶け込んじまえば、人間になっちまうのが便利で、暮らしやすいもんだよね。仕方ない、仕方ない。
けどさー、それじゃ困るんだよ」
そこで、少女は早苗に近づいてくる。
早苗は、動けなかった。
逃げようとするのだが、体がびくとも動かない。声すら上げられず、まばたきすら許されない。
蛇ににらまれた蛙。
その言葉が、脳裏に浮かび上がってくる。
「お前たちは神の子だ。神性がそうそう薄れて消えてもらっちゃ困るんだよ。
だからわたしはね、そういう時、お前たちに言うのさ」
少女の手が早苗の額に当てられ、それが一直線に、彼女の体のラインに沿って下に流れていく。
頭から股間まで。
彼女の指が早苗をなぞった後、とん、と胸元をつつかれる。
「人をやめろ、ってね」
くっくっと、彼女は笑う。
「人をやめるのは簡単だよ。
お前自身が、お前の中に流れている神の血にお前を同化させてしまえばいい。
代償は安い。今までの、人だったお前がいなくなるだけだ。
お前の中に流れる人の血が全て流れ出し、神の血に入れ替わるだけだ。
お前は人じゃなくなる。
お前は人の姿をしたまま、神になる。
人間でありながら、神だ。
どうだい。簡単だろう?」
――……来ないで……!
「お前はもう、人であることをやめたんだろう?
じゃあ、嫌がることも、怖がることもない。
なっちまえよ。なるしかないんだよ。神に。
出来ないってなら手伝ってやるよ。わたしは優しいんだ」
――……やめて……!
「痛いのは最初だけ。すぐに消える。お前は入れ替わり、生まれ変わる。
人の世を捨てて、神の世に来たんだ。
どのみち、お前に選択肢なんてないんだよ。なかったんだよ。あるはずがないんだよ。
だって――」
――誰か……!
「選んだのは、お前なんだからな」
――助けて!
少女の両手が早苗の肩を掴み、がっしりと握り締める。
少女の唇が早苗の唇に重ねられ、その舌が、早苗の口の中に入ってくる。
ヒトとは思えない、ねっとりとした舌が早苗の舌を引きずり出す。
そして、早苗に、舌を噛み切られた激痛が走る。
「うげっ! げほっ! げぇっ!」
「さあ、さあ、さあ!
ほら見ろ、どんどん流れてくるよ! よかったねぇ、これで名実共に、お前は神様だ!
神の力が使えないだとか何だとか、悩む必要もないよ! ここから先は、全てお前の力だ!
……よかったじゃないか、なぁ」
高く響く声を上げた少女は、その瞳を甘く優しいものに変え、口から血を吐き続ける早苗の頬をなでる。
口中に広がる、血の味。
その味は、ものすごく、甘い。血の味は鉄の味と同じと聞いていたが、違う。
甘いのだ。
一滴残さず、飲み干したくなるくらいに甘くて美味い。
その血が。
大切な血が。
押さえることが出来ず、少女にかみちぎられた舌から口の中にあふれ、外に流れ出していく。
滝のように流れる血を、何とか押さえようと両手を口に押し当てても、その指の隙間から血はあふれていく。
流さぬように口を閉ざしても、鼻から、目から、耳から、下半身から、押さえることが出来ずに流れ、流れ、流れ、流れていく。
「さあ、流せ流せ。いらない血を。全部流してしまえ。
神に必要なのは神の血のみ。神子に必要なのは神の血だけ。
もはや捨てた人の身。残す必要などどこにあろうか。
お前は晴れて神となる。
神となったお前には、もはや恐れるものは何もない。
人でありながら人ならざる力を持っていたお前の力は、神の力へと昇華する。
これより得られたもの、与えられるもの、そして往くものは全てお前のものとなる。
よかったねぇ。これで、お前はお前の力で奇跡を起こせるのだから。ね」
全身の、穴という穴から血を噴出し、苦しむ早苗を見ながら、少女は言った。
どこか遠く、優しく。それでいて、残酷に、近く。
その声を残したまま、温泉の湯煙の中に消えていく。
「待って……!」
早苗の伸ばした手は、どこにも届かない。
赤に染まった世界。
何も見えず、わからない世界。
「返して……!」
あふれた血を、必死ですくいあげて飲み込もうとする。
だが、飲んだそばから吐き出してしまう。
体が、その血を受け付けない。
やがて、吐き出した血は、急速に温泉の湯と交わり、薄くなって、消えていく。
「わたしの血……!」
赤く染まる涙を流し、全身を真っ赤な血で染めて、彼女は絶叫する。
「わたしの血ぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃっ!」
「早苗さん、どうしたんですか!? 早苗さん!」
「早苗さん、ちょっと! 血って何ですか!? 早苗さんってば!」
「……あ」
ぐるんと、世界が回転して裏返った。
真っ青な空。
きれいな世界。
雄大な自然。
そして、温かい、お湯の感覚。
全てが戻ってくる。
文と椛の二人が、心配そうな顔をしている。彼女たちは、必死になって、早苗を揺さぶっていた。
「あ……えっと……」
「大丈夫ですか!?」
椛が、早苗の瞳を覗き込みながら声を上げる。
「何事かと思いましたよ……。
いきなり立ち上がって、『わたしの血』とか叫びだして……」
恐ろしいものを見た、という顔で、文。
「血なんて流れてませんよ、早苗さん」
「椛さん、相手を怪我させずにいたぶる天才ですから。大丈夫ですよ」
「人聞きの悪いこと言わないでください。がお」
「あいたた」
かぷ、と文の頭にかみついて、椛が言う。
単なるじゃれあいだったのか、二人はすぐに身を離すと、『今日はもう帰りましょう』と早苗に声をかける。
「あ……いや……」
早苗は、二人から離れると、かぶりを振る。
そして、大きく息を吸い込み、お湯の中に潜った。
10秒、20秒、30秒。
息が続く限界までお湯の中にもぐっていた彼女は、ざばっと顔を上げる。
そして同時に、彼女は右手を振り上げる。
「っ!?」
文が、顔色を変えた。
風が巻き起こる。
それは小さな風の流れから始まり、強い流れへと変じ、最終的に烈風とも言える風の塔となった。
ぽかんと、それを見上げる椛の前で、風は温泉のお湯を全て吸い上げ、空中からばら撒いていく。
「……何だ、これ」
文は小さくつぶやき、その視線を早苗に向ける。
早苗は、自分が行なった事実が信じられないという顔で、その様を見つめている。
「あれは……?」
文が感じたもの、それは、早苗の周囲で揺らめく気配。
つい先ほどまで存在しなかったそれは、彼女を何かから隔絶させるかのごとく、彼女を覆っている。
それをじっと見つめていた文は、気付く。
そうだ。この気配は、初めて神奈子に会った時のあれだ。
こちらを圧倒した、『神の気配』。言葉に出して具体的には言い表せないが、あれだ。あのままだ。
「温泉が……」
つぶやく椛。
あちこちから湯が湧き出してきているが、再び、この温泉をまともに使えるようになるまではしばらくの時間が必要となるだろう。
「……あの、早苗さん?」
早苗に声をかける椛。
早苗は無言だった。
無言のまま、小さく、かぶりを振る。
「……やっちゃった」
そのつぶやきが、湯の雨が降り注ぐその場に、小さく響いた。
「ちょっと、あんた達! こんなところで何やってんのよ!」
湯船から上がり、服を着替えていた一同の元に、はたてがやってくる。
「ありゃ、はたてさん。どうしたんですか?」
「何をのんびりしとるか! この元凶!」
「あいったー!?」
ばしぃっ、と頭をひっぱたかれて、文が悲鳴を上げてうずくまる。
「どうしたんですか? はたてさん」
「椛、あんたはちょっとどいて。
早苗、あんたの家に、天魔が来てるわよ」
「……天魔?」
「簡単に言うと、この妖怪の山で、一番偉くて強くて厄介な奴!」
きょとんとなる早苗に、はたてが解説する。
天狗一同を統べる大天狗をさらに超える存在。
具体的にどういう妖怪なのか、そもそも妖怪なのかすら、はたて達、下っ端天狗にはわからない。
ただわかるのは、妖怪の山の全勢力が束になってかかったところで、相手は笑いながらこちらを蹴散らす強さを持ち、そのくせ、人格はかなり破綻しており、わがまま全開の超厄介な相手であるということだ。
「……神奈子さま!」
早苗の顔色が変わった。
彼女は、服を着替えるのももどかしいとばかりに、半脱ぎ状態のまま、駆け出そうとする。
「文! あんたが原因なんだから、あんたが早苗を連れて行きなさい!」
「いたた~……。はたてさん、痛いですよ~……」
「いいからいけっ!」
「ひにゃっ」
げしっ、とお尻を蹴飛ばされて、文は悲鳴を上げて早苗の後に続いた。
「早苗さん、息を止めててください」
「は、はい」
文は早苗の手をとり、加速する。
その加速の瞬間、早苗の耳から音が消えた。無意識にぎゅっと目を閉じる。
体が前方に引っ張られ、感覚が消える。
「つきました」
次の瞬間、文と早苗は神社の境内へとやってきていた。
目を開けた早苗の前に、見慣れた母屋が佇んでいる。
「……今、何が……」
「私は幻想郷最速ですから!」
えっへん、と胸を張る文を無視して、早苗は母屋の中へと上がっていく。
「神奈子さま!」
そして、居間に続く襖を開いて、沈黙する。
「わっはっは! そうかそうか!
よし、わかった! ならば、この山のこの区域をお前たちに貸そうではないか!」
「ご理解いただき、感謝の極みです」
「いやいや。余もこのように、余を歓待してくれるものを追い出そうなどとは考えぬ。
うまい酒とうまい飯を馳走になったのだ。その恩に報いねばな。うわはははは!」
「あら、早苗。お帰りなさい」
「………………………………なにこれ」
ぽつりとつぶやき、早苗は所在なげに立ち尽くす。
居間の中では、どんちゃん騒ぎの宴会が行なわれていた。
片手に、神奈子が『秘蔵のお酒です』とどこかから手に入れてきた高級日本酒の瓶を持ち、それをラッパ飲みしている少女。
どう見ても子供。
その彼女の前で、神奈子が笑いながら、「それにしても、天魔、だというから、どのように恐ろしい妖怪かと思ったら」と冗談を言っている。
ちなみに、その子供の向こうには、どう見てもこの子供の保護者にしか見えない女の天狗が佇み、頭痛をこらえるような仕草をしていた。
「む? そちらの童は何者じゃ?」
「ああ、彼女は私の従者であり、使いであり、神子である東風谷早苗と」
「ほほう。
余は天魔と呼ばれておる。見ての通りの、古株雑魚妖怪よ」
くっくっく、と笑う彼女は、瓶の口を口の中に突っ込んで、がばがばと酒を飲み干していく。
「ぷっはーっ! たまらぬ!
おい、酒がないぞ! 追加を持ってこい!」
「……天魔さま、お酒は一日一本までとお約束にしていたはずですが」
「何を堅いことを言っている。
山の新しい住人だ。仲間だ。それを迎えるための宴会に、そのような堅苦しいルールを持ち込むな。
ほら、金だ。買ってこい!」
「……このアル中幼女……」
女の天狗が、そう呻くのを、早苗は確かにその耳で聞いていた。
天魔が薄い懐から取り出した札束を握って、ため息混じりに早苗の横を通り抜けていく。
通り抜けざまに、『お目付け役に言いつけてやる』とつぶやいていたのを、早苗は聞き逃さなかった。
「それにしても、天狗どもから話を聞いた時には、どのように恐ろしい鬼神や戦神が現れたのかと思ったわ」
「こちらこそ、それは同じです」
「このように話のわかる輩ばかりであれば、幻想郷も、もっと平和なのだろうな」
「戦は最終手段。基本は話し合い。昔から伝わる解決方法ですね」
「ふふ、確かに。
だが、聞くところによれば、お前はよく隣国などを攻め滅ぼしていたらしいが?」
「それはそれ。これはこれ」
「わはははは! そうかそうか、確かにそうだ!」
彼女はどんと空っぽになった酒瓶をテーブルに戻して、つまみのソーセージ(これも高いやつ)をもぐもぐかじる。
そして、その瞳は、早苗の方へ。
「早苗、といったか」
「は、はい。お初にお目にかかります、天魔さま」
「何、そこまで畏まらずともよい。
余など、その辺りで巫女や妖怪退治に震えて暮らしている木っ端妖怪の端くれに過ぎぬ。
天狗どもが、余をあまりに持ち上げすぎておる。何が『幻想郷最悪の妖怪』だ。失礼極まるわ。このようにかわいらしい子供を相手に。なあ?」
普通、『かわいらしい子供』は酒瓶片手に酒盛りなどしません、と言ってやりたいところだったが、早苗はその言葉を飲み込んだ。
下手なことを言えば、万倍になって言い返されそうな気がしたのだ。
「ところで神奈子よ。
この神社に、山の一角を貸す。そして、お前たちは見返りに、余を始めとした山の妖怪、果ては幻想郷に益をなす。それでいいな?」
「はい」
「ならば、余は隠し事は好かぬ。
一つだけ、聞いておきたい。
この神社にいる神は、貴様一人だけだな?」
その言葉に、神奈子は答えなかった。
彼女の視線は早苗を向く。
早苗は自分を指差し、目を白黒させる。
「彼女を神と含めるなら、二人かと」
「ほう」
天魔の瞳が早苗を見据える。
先ほどまでと、雰囲気が変わっていた。
先ほどまでの天魔は、ただの酔っ払いのそれだった。だが、今は違う。その視線で射すくめられるだけで、気の弱いものなど失神どころか心臓すら止めてしまうほどの鋭さを持っている。
「現人神とか言ったか。なるほどな。
確かに、それも神は神だ。
なるほど、なるほど。この神社に神は二人もいたか」
天魔は立ち上がる。
早苗へと近づいた彼女は、早苗の視界一杯を、己の顔で塞ぐ。
天魔の口が、小さく動く。
「ならば問う。貴様は何者だ?」
早苗の呼吸が止められる。
身動き一つ出来ず、体を堅くする彼女。
「早苗は人間でありながら神の身を宿した存在。だからこそ、神子であり現人神なのです」
「……ふふふ、そうか。
気に入った。
よし、神奈子よ。飲みなおしだ! 今日は飲むぞ! 夜が明けるまでな! うわっはっはは!」
ちょうどその時、あの女天狗が帰って来る。
彼女が『これ以上、飲めるものか。この幼女め』といわんばかりの視線で天魔を見据え、その場に樽酒をどでんと置く。
天魔は大喜びでその中にひしゃくを突っ込み、「神奈子、飲むぞ!」と、直接、ひしゃくに口をつけてぐびぐびと酒を飲み始めた。
神奈子はそれに続き、「早苗。貴女は、今日は外でご飯を食べてきなさい」と早苗にお金を渡してくれた。
体よく、母屋から追い出された早苗は、未だ、表の社殿の前でぼーっとしている文の元に歩いていく。
「お帰りなさーい」
「あ、はい……」
「どうでした? 天魔さま、何か言ってました?」
「い、いえ。何も」
「ふーん」
文の問いかけに、早苗は慌てて答える。
傍から見ても、それは妖しい反応だっただろう。
だが、文は何も言わなかった。何も聞かなかった。
「あ、あの、今日はどうも家に帰れそうになくて。どこか、美味しいご飯を食べられるところ、知りませんか?」
「はたてさんの家か……。
ああ、あとは、天狗連中がよく使う飲み処があるんですよ。山の中腹に。
今、そこ、旅館に改装中なんですけどね。食事処は継続して営業してますので、そこに行きましょう」
「……旅館?」
「旅館」
「……なんで?」
「天魔さまだから」
「あー。」
その一言で、思わず納得できてしまうほど、『まじかる天魔ちゃん』の説得力は抜群であった。
「早苗。体調が悪いの?」
「え? どうしてですか?」
「何だかふらついているように見えたから」
「大丈夫です。
むしろ、元気一杯ですよ」
そう答える早苗には、強がっている感じはない。
神奈子は、少しだけ目を細く、鋭くして早苗を見た後、『……そう』とだけ答えた。
天魔がやってきて、早三日。
彼女たちの、山での立場も決まり、晴れて、今生活している一角を含めた山の一部の使用が認められた二人は、それまでにも増して精力的に信者獲得に動いている。
近くの人里の人々は、実際に神奈子がなす『神の御業』に感心し、『この神様なら、俺たちの手助けになる』とばかりに側にいる早苗に対してお賽銭を渡してくれるようになった。
日を追うごとに、信者の数は増えてきている。
心なしか、神奈子の顔にも笑顔が増え、動きも軽くなってきたような感じすらする。
そんな中。
「はあ。スペルカード、ですか」
「要は『私の考えたすごく強くてかっこいい必殺技』ですね」
早苗の『弾幕訓練』は続いていた。
あの温泉での一幕の後、早苗は変わった。
何が変わったのかはわからないが、とにかく、変わったのだ。
端的に言うと、信じられないくらい強くなった。
へろへろぽてんの弾丸ではなく、無数の、色鮮やかな弾丸を生み出し、操り、先日は椛を真正面から打ち負かしたほどだ。
その成長は目覚しく、男は三日も会わなければ別人になると言うが、早苗の場合は翌日から別人になっているほどだった。
強くなればなるほど、己の力の使い方もわかってきているのか、どんどん新しい力を発揮してくる。
文は、そんな彼女に、『幻想郷の弾幕勝負の花形』であるスペルカードルールを教え込んでいる。
「どうだ!」
「……えっらいうまいですね」
「こう見えて、有明の戦場では売り子と共に薄い本出してましたから!」
えっへんと胸を張る早苗が突き出すカードは、何というか、やたら絵がうまかった。
色使い、エフェクトなんかも絶妙であり、これ一枚を『グッズ』として売ったら売れるだろうと思われるほどだ。
「これを宣言した後に、必殺技を使うんですね。かっこいいじゃないですか!」
目をきらきらさせて、やたら『宣言』だの『必殺技』だのといった言葉にこだわる早苗。
言語というのには特殊な力があるのだが、それを伝えるのを生業とする文にですら、早苗のこれはよくわからないこだわりである。
「これで『闇』とか『死』とか『破壊』とかって単語を好んで使うようになったり、漢字ばっかりを羅列して、振り仮名で、どう頑張っても読めないカタカナ横文字とかつけたらダメですよね」
「……はあ」
一体どういう意味だろうと思ったが、文にはわからなかったので、とりあえず内容を詳しく尋ねることはしなかった。
なお、この時、とある紅の館の吸血鬼や、とある竹林のうさぎが唐突にくしゃみをしていたが、とりあえず今は関係ない。
「何枚くらいあればいいんですかね」
「大体、一回の弾幕勝負では、多くても6枚とか7枚とか。
あんまり多くしすぎてもあれですしね」
「ある程度、負けたら潔く負けを認める姿勢も必要ですよね」
「悪あがきも大切とは言いますけどね」
とりあえず、そういうわけで、早苗の手元には20枚ほどのスペルカードが出来上がる。
同じ種類の弾幕でも威力や見た目、弾丸の種類などを変えたものが含まれているため、実際の枚数は一桁である。
『早く使ってみたいな~』とうきうきしている早苗を、文は見る。
その瞬間、まるで狙ったかのように、ふっと、早苗の動きが停止する。
「……またか」
文はつぶやいた。
この時、早苗の瞳からは光が失われる。文が目の前で手をひらひらさせたり、彼女のほっぺたをぺちんぺちんとしても何の反応もない。
耳を近づけても、早苗の口許からは呼吸の音が聞こえてこない。
「まるで死体ね」
あの温泉での一件以降、早苗は一日に何度もこんな状態に陥る。
それはまるで、人が此の世から解脱する儀式をしているかのようだ。
生きていながら死んでいる。そんな言葉がふさわしい。
「……ん?」
だが、今日の早苗は少し違った。
彼女の口許が動き、呼吸を始める。
元に戻ったか、と安堵する文。その文の方をふっと見ると、早苗の瞳が急に鋭くなった。
「!?」
突然、早苗の腕が動き、その右手が神速の動きで地面に置かれていた祓え串を取ると、その先端を文めがけて突き出してきた。
ぎりぎりで、頭だけを動かしてそれをよける文。
早苗の祓え串は、文が寄りかかっていた岩を貫通し、それを吹き飛ばす。
「……呼吸がおかしいな」
それは、人間のする呼吸とはとても思えない。
深く、浅く。遅く、速く。不規則に、何度も何度も不可思議な呼吸を繰り返す。
早苗の瞳が形を変化させ、爬虫類を思わせるような瞳孔を文へと向けてくる。
「何かに憑かれた!?」
すかさず構えたカメラで、早苗の目の前でフラッシュをたく。
ぱっと光る激しい閃光に、早苗は悲鳴を上げてのけぞった。
そのまま、ふらふらと後ろに向かって後ずさりした後、唐突に、つぶやく。
「……オ願い……助けテ……」
「早苗さん!?」
何だ、今の声は。
文がそれを再確認するより早く、早苗の体が崖下に向かって落下していく。
彼女は自ら、崖を飛び降りたのだ。
慌てて、文は地面を蹴って、落下していく早苗を助けようとする。
早苗の落下速度より文の飛行速度の方が速い。助けるのは難しくはない。
だが、早苗の体は、文が見ている前で不思議な動きをした。
頭を下にして落下していた彼女は、唐突に空中で体勢を立て直すと、体を一回転させる。
そして、岸壁めがけて早苗から伸びた『何か』が腕を伸ばし、騒音と共に彼女の体の落下がストップした。
空中で、早苗の体がぶらぶらと揺れている。
彼女の体を支えるものは何もなく、まさしく虚空に漂っているかのようだ。
「あんた、何者?」
早苗の体から『腕』を伸ばす何者か。
それは、今、文の目にもはっきりと映っている。
子供だ。
見た目の年齢なら10歳にも満たないだろう。
その子供が、早苗の体を支えている。彼女の視線は文を見て、ふっと、言葉に出せない表情を浮かべる。
「ちっ」
文が舌打ちすると、子供の姿は消え、支えを失った早苗の体が落下を再開する。
文は早苗を抱えると、まっすぐに、崖の上へと戻っていく。
そして、
「……はれ? わたし、寝てました?」
「疲れてるんじゃないですか?」
早苗が目を覚ますと、彼女は先ほどのことなどすっかり忘れている。
というより、記憶がその部分だけ、完全に欠落しているのだ。先ほどまでの『早苗』は存在してないのである。
自分が先ほどまで、手の中に広げていたスペルカードが、ばらばらと地面に落ちているのを見て、彼女は自分が『寝ている』と思ったのだろう。
てへへ、と頭をかきながら、「実は最近、深夜までチラシを作ったりとかが多くて」と照れくさそうに、彼女は笑う。
「いけませんねぇ。
女性にとって、夜更かしはお肌と若さの敵ですよ」
「うぐ……。そうなんですよね……。
幻想郷に、基礎化粧品なんて売ってませんよね……? 今、持ってきてるのなくなったらどうしよう……」
「そうならないために、夜更かし、朝寝坊はしないようにしないといけませんね。
ちなみに、私は深夜に帰ってきても、朝は自分で決めた時間に起きられますよ」
「はたてさんが、『文は起こしに行かないと昼まで寝てる』って言ってましたけど」
「そういうこともあります」
「ダメじゃないですか」
早苗はけらけらと笑い出す。
文もそれにつられて笑い出すのだが、笑いながら、その鋭い瞳で、早苗を見据えていた。
ひとしきり笑った後、文は小さな声でつぶやく。
「ちぇっ。まずったか」
やっぱり、物事をうまく動かすには、もっと頭がよくないといけないわね、と。
彼女はそれを反省する素振りもなく、めんどくさそうに、そして残念そうにつぶやくのだった。
――4――
宴も終わって、夜が本格的に訪れる。
博麗神社の居間の隣に、寝室が用意されている。そこで寝てるのは、枕を四つ並べて、霊夢に早苗、魔理沙にアリスである。
「ん~……」
魔理沙は、寝相が悪いのかアリスに甘えたいのか、自分の布団ではなくアリスの布団にもぐりこんでいる。
アリスはというと、それに気付いているはずもなく、すやすや寝ているのだが、
「うぐぐ……う~……!」
魔理沙はアリスに抱き枕と勘違いされたのか、むぎゅ~と抱きしめられる。
苦しそうに呻く魔理沙。ぺちぺちとアリスの腕をタップするのだが、アリスの締め付けが緩むことはない。
やがて、かくんと、糸の切れた人形のように魔理沙が大人しくなった。
――さて。
「……」
早苗は一人、目を開けて天井を見上げている。
隣の部屋からは、まだ起きているのか、紫と神奈子の声が聞こえてくる。諏訪子は寝ているか、ゲームでもしているのだろう。
藍と橙は家に帰り、あの場にはいないはず。
布団の中で寝返りを打つと、目の前に、寝ている霊夢の顔がある。
そのほっぺたをつんつんつついて、くすくす笑う。
そうして遊んでいても、やはり飽きてくる。
彼女はゆっくりと起き上がり、音を立てないようにして、右手側の障子から部屋の外へと退散した。
「あ、月がきれい」
神社の廊下を少し歩くと、表に面した縁側に辿り着く。
そこに腰掛けて、のんびりと、夜空を見上げる。
今日は珍しく、眠れない。
普段なら、布団に入れば5分で寝られるというのに。
こんなに眠れない夜は、この世界にやってきた頃以来だ。
何か感傷的になることあったかな~、と彼女は空を見上げてつぶやく。
「きれいな空」
外の世界にいた頃は、決して見られなかった満天の星空を眺めて、彼女は声を上げる。
雄大な自然に包まれて、古きよき国の姿が残る、それがここ、幻想郷。
もちろん不便なところも山ほどあれば、物足りないところもたくさんある。外の世界が恋しくなる事だって、一度や二度ではない。
しかし、それでも、この世界で、彼女は生きていく。これまでも、そしてこれからも。
そうなることを望んでついてきたのだ。
そうあることを覚悟してやってきたのだ。
今更、『帰りたい』と口に出して言うことはない。
霊夢に言ったように『帰りたい』と思うことはあっても、口には出さない。
それはいっときの感傷。
旅行先などで、楽しい日々を過ごしていても、『ああ、家に帰りたいなぁ』と思うのと、何も変わらない。
人間というのは不思議なものだと思いながら、足をふらふら、ぶらぶらさせる。
――夜の空に月上がり 星が煌く天の川
見上げた空に映るのは 自分を忘れた鏡の心
映る鏡に見た心 それは暗く沈む色
空の闇だけ見つめてる――
何となく、歌を歌ってしまう。
あー、CDどこやったっけなー、などと思いながら。
――歩く道は暗く沈み 先の見えない不安が包む
ふと立ち止まる道先で 差し伸べられる手が一つ
見つめる先に君の笑顔 いつも私を導いてくれる
手を取り歩く道すがら 君は笑って答えてくれた――
「……?」
つと、振り返る。
「あ、霊夢さん……」
「寒いでしょ。どてらでかっこ悪いけど」
「起こしちゃいました?」
「まさか。ずっと起きてた。
よくも人のほっぺたをおもちゃにしてくれたな」
「ふひぃ~……ごめんなひゃい~……」
ぐにーっとほっぺた左右に引っ張られて、早苗は悲鳴を上げる。
いつの間にか、早苗の背後に立っていた霊夢は、手に持っていたどてらを早苗の肩にかけてから、その横に座る。
「何の歌? 普段の祝詞とかとは違うよね」
「ああ、わたしが好きだったバンドの曲です。もう結構前に解散しちゃったんですよ」
「へぇ。どうして?」
「売れなかったみたいです」
音楽業界は厳しく険しいものなのだ、と早苗はしたり顔で言う。
まるで見てきたかのように、『CDの売れ行きが全て』だの『音楽バブルは弾けたのに、今も頑張ってるミュージシャンはすごい』だの、挙句、『音楽だけで勝負しないバンドは許さない』とまで。
霊夢は、「私は、歌なんて民謡とかくらいしか知らないなぁ」と言う。
「幻想郷で、バンドとか組んだら売れますかね?」
「物珍しさで人は来ると思う。
ほら、この前、ミスティアと響子が何かやってたでしょ。あれ、結構、人がきたみたいよ」
「その後、白蓮さんに『お寺の境内でやることではありません』って叱られてたみたいですけど」
「場所を選ばないとね」
それこそTPOってやつだ、と霊夢。
その『TPO』というやつを、よほど理解してないのはこの霊夢なのは間違いないのだが、早苗は何も言わなかった。
「霊夢さんって」
「ん?」
「髪の毛、伸ばしてますよね」
「ああ、うん。どう? 似合う?」
「似合います。
けど、私のイメージじゃありません」
「……何か、勢い、ストレートに来るね」
「霊夢さんはスレンダー美人ですからねぇ。それでいて活動的な印象なので、こう、しっとりとした和風美人って感じじゃ」
「それ、何気に傷つくんですけど」
そんなに似合わないかなぁ、と自分の髪の毛を手ですく彼女。
もちろん『いえいえ、似合いますよ』と霊夢をフォローするのを、早苗は忘れない。
実際、長髪の霊夢というのは、なかなかかわいらしい。
大人しく、黙って座っていれば、それこそ雅な和風美人だ。さぞかし、男どもが騙されてくれるだろう。
口を開けばあの調子な上に、すぐに魔理沙と大喧嘩するため、そのイメージも長く続かないのが欠点であるが。
「早苗とか紫みたいにさー、髪を長くすれば、自分も雰囲気変わると思ったんだけどなー」
「実際、髪型で、だいぶ雰囲気って変わりますからね」
「それに、髪が長いと、色々遊べるし」
「その分、シャンプーとか面倒ですけどね」
「それだ」
この頃、博麗神社の財政を圧迫しているのは、おしゃれに目覚めた(?)霊夢のシャンプー代に原因がある。
何となく、それをイメージさせるような一言をつぶやき、うーむ、と霊夢は腕組みする。
「ちなみに、シャンプーって、何使ってるんですか?」
「紫にもらった奴」
「タダじゃないですか」
しかし、ちゃんとオチはついていた。
早苗の一言に霊夢は笑い、『そういやそうだった』と笑顔を見せる。
そうして、
「何かさ、考えることでもあるの?」
霊夢が本題を切り出してくる。
「え?」
「寝れなくて天井を見ている早苗の横顔、すっごく寂しそうだったよ」
「そうですか?」
「初めて会ったときレベル」
「あれは忘れてください」
苦笑を浮かべて、早苗は返す。
霊夢は『私はいつも早苗のことを見てるんだぞ。嘘なんて言うものか』という瞳で早苗を見ながら、「何かあったの?」と、もう一度、尋ねてくる。
「強いてあげるなら、昔を少し、思い出してました」
「昔?」
「幻想郷に来た頃のこと」
「ふーん」
「もう長いものですよねー。昔のことですよねー。
だけど、何でか、ふっと思い出しちゃったんです」
「それってさ、辛い思い出なの?」
霊夢の視線が早苗を見る。
そこには、どこか、不安と悲しさが浮いていた。
早苗は小さく笑って、「そんなことあるわけないじゃないですか」と霊夢の肩に手を回して、自分の方に抱き寄せる。
「この世界は素敵なところです。
それに何より、霊夢さんがいますから。
わたしにとって、この世界は、いっちばん、素敵な世界です」
「……う~」
「ただ、違いに戸惑っていただけですね。
あと、変に力が入りすぎてました。
霊夢さんみたく、緩く過ごせなかったのが原因です」
「うっさいわね」
ぽっと顔を赤くして、霊夢は反論する。
何事にも真面目で、まともに取り組みすぎる早苗と、普段はどこか気が抜けていて、緩んだ糸のような霊夢。
二人は、正反対。
そんな早苗に、「いつでも張り詰めている糸は、簡単なことでぷつんと切れる」と霊夢は言った。
「そうですね」
「早苗は、もっと気を楽にしてさ、みんなと一緒に毎日を楽しめばいいんだよ」
「はい」
「まだお客さん気分が抜けないなら、もっとみんなと遊んでさ。
早く溶け込もう」
「ええ」
もちろんそのつもりです、と早苗は空を見上げる。
「ただ――」
「ただ?」
「わたしと皆さんが違うのは、やっぱり、わたしには覚えておきたい昔の記憶が残っていることですね。
これだけは、どうやったって捨てられないし、忘れられません」
「……そうだね」
「それをゆっくりゆっくり、この世界に慣らしていきたいと思います。
わたしが……外の世界のわたしと、今、ここに生きているわたしが、一つになるまで」
「いつだろうね」
「もうずっと前から、大丈夫だと思っていたんですけどね。
案外、人間って、過去を引きずるものです」
そりゃそうだ、と霊夢は笑った。
「髪の毛伸ばしてるの、お母さんに似せるため?」
「内緒」
早苗は以前、霊夢から聞いた、『霊夢の母親』のことを話題に出して、霊夢に尋ねる。
返答は、予想通りだった。
そうして、思う。
そんな風に、昔のことを思い出したりしているから、『寂しそう』って思われるのかな、と。
忘れられない過去の記憶が『寂しさ』にどうしてつながってしまうのだろう。
彼女は夜空を見上げながら、そんなことを考える。
「文。
あんた、ちょっといい?」
「はい? 何でしょうか、はたてさん」
「あんた……」
「あー、ちょっと待ってください。
にとりさーん! もうちょっとこっちこっち! フレームに入ってませーん!」
「はーい! こんな感じー!?」
「そうそう、そんな感じー!」
妖怪の山(早苗たちの神社)のインフラ改善事業も、いよいよ大詰め。
にとり達が日々、忙しく、そして楽しそうに神社を改造していく様を、文はカメラに収めて新聞で発表している。
それを見た天狗たちは『こんな便利な技術があるのか! うちもやってくれ!』と河童たちに声をかけ、河童たちは『そういうわけなので、この技術を教えてくれ』と神奈子の元に集ってくる。
その輪は徐々に人里の方にも伝わり始めており、『この手段を使えば、こんなにあなた達の暮らしがよくなります』と早苗や神奈子が熱心に宣伝と勧誘を行なっていた。
「……よし、っと。
で、何ですか?」
「こっち」
その様を眺めていたはたてが、文の手を引いて空の上へと移動する。
他に誰もいない、風の音しか聞こえない高空で、はたては文の手を離す。
「何ですか? はたてさん。
あっ、まさか、愛の告白ですか! 困っちゃうな~。はたてさんくらいにいい人だと、他に貰い手もたくさんいるでしょうし。
私が独占していいのか……」
「違うわ、ばかたれ」
「いてっ」
ぺこん、と頭を叩かれて、文が悲鳴を上げる。
はたては肩をすくめながら、
「あんたさ、何を企んでる?」
「企む? 私が?
やだなぁ、はたてさん。人が悪い……」
「ごまかしてんならぶっ飛ばすよ」
はたての声音が変わった。
文に対して、いつも『鬱陶しいけどいい友人』という感じで接していたはたてが、明確に、文に対して敵意を見せたのだ。
にやにや浮かべていた文は、笑みはそのままに瞳の形だけを変える。
「あんたが、あの、早苗だっけ? あいつをたきつけてるのは知ってんのよ。
あの子に弾幕勝負を教えたり、スペルカード描かせたり。
それって結局、あんた、あの子を使って、何かいい記事を作ろうって考えてんでしょ?」
「ええ」
文は、ごまかしたりせずに、はたての言葉をまっすぐそのまま受け止め、返す。
「この幻想郷には、あの早苗以外に、もう一人、巫女がいる。
あいつらは面白い。焚き付けたら、きっと、面白いことになる」
「へぇ。さすがね。性格の悪さは昔から直ってないわ」
「直すつもりもないけどね。
天狗はお祭り大好き。ましてや鴉天狗をいわんや。ねぇ?」
彼女は片手にカメラを持って、そのレンズをはたてに向ける。
「あの世間知らず、本当に面白いくらいに、色んなものに興味を持って、まっすぐにそれにぶつかろうとする。
妖怪の企みなんて疑うこともせずにね。
昔から、人間は妖怪と化かしあいをしてきた。人間の立てた策に妖怪が嵌れば、その妖怪は退治される。逆なら人間は妖怪の餌になる。
それは別に、あんたも否定しないわよね?」
「もちろん。
ただ、わたしは、めんどくさいからそれをやらないだけ」
「だから引きこもりって言われて馬鹿にされてんだよ」
「それを言いふらしたの、あんただけどね」
「あれ、そうだっけ」
ひょいと肩をすくめて、はたては文に反論した。
確かに、文に比べれば出不精であるが、はたてには、文以外の交友関係も山ほどある。
決して、家の中に閉じこもってばかりの妖怪ではないのだ。
それなのに、文が、はたてのことを『家の中にこもってばかりの出不精天狗』と言いふらしたのである。
当然、激怒したはたては文に弾幕勝負を申し込み、この時ばかりはこてんぱんに彼女をのしている。
「何でそんなことしたのか、聞いた時、あんた言ったよね?
『こうすれば、はたてさんをネタに、面白い記事が書ける』って」
「新聞記者は体が資本。火のないところに煙を立てて、それがくすぶる程度なら、盛大に付け火をして燃やすのも仕事だわ」
「この三流デバガメ野郎」
「それくらい自覚してるわよーだ」
だが、やめないのだ、と文は言う。
いい記事を書いて、少しでも面白い新聞を幻想郷に流すためには、ちょっとくらいの犠牲は必要なのだ、と。
それが自分の身の安全であったり、取材対象の立場や信用に関わることだったり。あるいは今回のように、その取材対象にすら物理的な被害を及ぼすものまで。
「いいじゃない。ちゃんとフォローしとけば。後から」
「そのうち、また痛い目見るわよ」
「別に結構」
そうして、
「だけど、今回はちょっと、うまくいってないのよね」
「へぇ」
「あの間抜け人間、本人はお人よしの上に真面目一徹だから、それはそれで操りやすいんだけど」
「神様は、そうそう簡単にはいかないでしょ」
「まぁね」
神奈子はやはり、油断の出来る相手ではない。
文の瞳ははたてにそれを訴える。当然でしょ、とはたては返すのだが。
だからこそ、獣の変化の妖である自分にでも騙して動かしやすい相手として、早苗を選別したのだろうが。
古来より、人は、たかが獣にすらよく騙されてきたのは事実だからだ。
「当初の予定より、だいぶ、あいつがずれてきた」
「あいつ……早苗?」
「外の世界じゃどうだったかは知らないけど、この世界においてじゃ、そんなに大したことが出来る人間じゃなかった。
最初はね。
だけど、今は違う。
あの実力……下手に動かれたら、私ですら止められない」
「へぇ」
策士が策に溺れたか、とはたては文を嘲笑う。
しかし、文の表情は重たく、厳しい。
「当初はこんな風じゃなかった。
確かに、あの神は油断できないし、その分、強い。初日に見せた強さははっきり言って大したものだった。
だけど、あいつは違う。あいつは神の後ろで縮こまっているだけの人間だった。
やる気を出した後も、何も変わらない。
少し、普通の人間と違うだけの、ただの人間。巫女ってのは神様の言葉や恵みを人々に伝えるための触媒であり、単なる入れ物であればいいから、それはそれでふさわしいんだけどね。
あいつにね、最近、神様がいるんだ」
「は?」
言っている意味がわからなかった。
首をかしげるはたてに、文も頬をかきながら、「私も、何て言えばいいかわからない」と困惑したような顔を見せる。
「見た目は普段のあいつと同じ。
だけど、違うんだ。
あいつの中に、もう一人、誰かいる。それが、初日に見た、神奈子と一緒のような感じがする」
「早苗は神奈子が『現人神』って紹介していたんでしょう?」
「外の世界じゃ、それが通じただろうけど、幻想郷じゃ通じないわよ。
そんなの『へー、そうなんだ』で終わるくらい。神々しさもありがたみもあったもんじゃない。
けど、今は違う。今は、あいつ自身が何らかの形で神様としての信仰を集め出してる。
それを神奈子が知っているのか知らないのか……いや、間違いなく、知ってるだろうけど、何で何も言わないのか」
「自分の従者が、神様としての自覚を持って成長してきてるなら、育ててる側としては歓迎するだろうし」
親が子の成長を喜ばない理由はない、というのがはたての理論だった。
なるほど。確かに言われてみればその通り。
文も、たとえば自分が親になったとして、我が子が一流の天狗として成長してきているのなら、それを大喜びして歓迎するだろう。下手な詮索などもしないはずだ。
それと同じことが、今、起きている。
確かに、その通り。
そう納得することは出来るのだが、
「あの神様が、そんなに浅はかだとは思えないのよね」
「悪かったわね。浅はかで」
「ああ、いや、あんたを馬鹿にしてるわけじゃないんだけどさ。
何かね、おかしいのよ。知ってて流してる感じもする」
「ふぅん」
「まぁ、ともあれ、焚きつけられるところまでは焚き付ける。
そこから先はどうなるかなんて知ったことじゃない。
私は、面白い写真が撮れれば、それでいい」
「丸焦げの焼き鴉にならないように注意しなさい」
はたてが文から離れるように、ふわりと風に体をなびかせる。
「それに、あいつはあんたのこと、『いい人』って信頼してるんだから。
その信頼を裏切ったら、あんた、神罰が下るわよ」
「はいはい」
「わたしは別に何も言わない。
あんたの真意が確認できただけで充分。だからこそ、言うけどね。
わたしらは、大して頭がよくないんだから、あんまり付け火をして遊んでると大火傷するからね」
はたてが空の彼方に去っていく。
それを、手を振って見送ってから、文は地面へと舞い降りる。
「文さん、はたてさんと何を話してたのさ?」
「んー、ちょっと。二人だけの込み入った話ですよ」
「へー。色恋沙汰?」
「さあ、どうでしょう」
「河童はその辺り、興味ないからねぇ。
人里とかで見聞してみるといいかもね。結構、食いつき、いいかもよ」
にとりの冗談に、文は『わはは』と笑って返す。
笑いながら、『河童は計算だのシミュレートだのは得意でも、あんまり智慧は回らないな』と思う。
彼女たちまで文の企みに気付いていれば、文の企みはそもそも企みでも何でもない。
いつもの彼女の『思い込み』になってしまう。
「そういえば、早苗さんは?」
「ああ。何か『博麗神社さんにご挨拶に行ってきます』って出てったよ」
「えー!? どうして、それを早く教えてくれないんですか!」
「だって、文さん、ずっと空の上にいたじゃないか」
こうしちゃいられない、と文は空へと舞い上がった。
そして、一路、博麗神社に向けて全力で飛行する。自分の飛行速度なら、ここから神社までだって秒単位。一番いいシーンを逃してたまるか。彼女のその取材根性(というかデバガメ根性)を感じ取ったのか、神社の社殿から神奈子が顔を出し、飛んでいく彼女を見つめていたのだった。
「えっと……」
片手に持った菓子折り。ご挨拶ということで、きちんと身なりを整えた正装。
やってきた早苗は、目の前に佇む、古びた鳥居を見上げている。
「……掃除くらいすればいいのに」
その鳥居は、好き放題に汚れていた。
くすんでいるのは、年月を吸い込んでいるからではなく、単に掃除されていなくて表面が薄汚れているためだ。
とりあえず、鳥居の前で頭をぺこりと下げてから、石段を上がっていく。
「ここも苔むしてたり、ひび割れてたり……。古いから仕方ないのかもしれないけど」
見た目の整っていない神社には、神様のご利益はない――そう、人は考えてもおかしくない。
ここの神社の主がどのような人物かはわからないが、『博麗霊夢という人間は、常に貧困に喘いでいる』という人々の評価は、その人物の内面から出た結果なのだろうなと、早苗は思っていた。
石段を登り続けて、ようやく、神社の境内に辿り着く。
入り口に置かれた二つ目の鳥居には、さすがに掃除が行き届いている。
また、ぺこりと頭を下げて、彼女は境内の中へと入っていく。
「えっと……」
境内に、人の姿が一つ。
紅白衣装の女の子が、さっさと竹箒を使って、境内の掃除をしている。
自分よりも年下、身長も下。何となく、その後ろ姿にそれを覚えながら、彼女は少女に近寄っていく。
「あの、すみません」
少女に声をかける。
彼女は早苗を振り返ると、少しだけ、視線を細めた。
「あの、博麗霊夢さんというのは……」
「私。
あんた誰?」
「あ、すいません。申し遅れました。
わたし、東風谷早苗と申します」
「ふぅん……」
霊夢、という人物は、ぶしつけな態度で早苗の姿を頭のてっぺんから足下まで見つめた。
「何か用?」
「はい。
このたび、わたし達、幻想郷に引っ越してきまして。
それで、この世界の先達である、博麗の巫女の霊夢さんにご挨拶を……」
「いらない。帰って」
「……え?」
何か失礼なことをしただろうか、と早苗は困惑する。
「あ、あの、すいません。何か不愉快にさせるようなことがあったら……」
謝る早苗の喉元に、霊夢が手にしていた竹箒の柄が突きつけられる。
早苗は息を飲み、目を丸くした。
「あんた、何者?」
「え? あ、あの……わたし、神奈子さまという神様に仕える……」
「私と同じ巫女みたいなもんか。
じゃあ、あんたのために言ってあげる。
その『神奈子』って奴は邪神よ。とっとと離れなさい。あと、そいつがどこにいるか教えて。今すぐ、退治しに行く」
早苗はぽかんと呆けてしまう。
霊夢の言った意味がわからなかった。
いきなり、早苗が敬愛し、信仰する神である神奈子を『邪神』と言い切った。
確かに、神はあらゆる側面から見て、『邪神』といわれる場合も、ないことはない。地域や地方、人種、信仰の形態、様々あるが、ある側面では素晴らしい良神であっても、ある側面からは邪悪な神になるのが『神』というものだからだ。
しかし、だからといって、納得できるものではない。
「邪神、って……!
そんなことありません! 神奈子さまは、皆に益を与える素晴らしい神様です!
今の言葉、撤回してください!」
「私は同じことは、二度、言わない。
あんたがどんなにそれを否定しても、事実なんてものは変わらない。
信仰の深さに応じて、人の目が曇ることも知ってる。あんたはそいつに利用されている」
「違う! そんなことない!
神奈子さまは……神奈子さまは、今のわたしにとって、大切な神様です! 大切な人です!
それを馬鹿にするなんて……!」
早苗の瞳に敵意が宿る。
彼女は一歩、後ろに下がると、祓え串を取り出した。
「何よ。やろうっての」
「今の言葉を撤回しなさい。さもなければ、わたしはあなたを許さない」
「いやだね。
私はね、自分の目に自信を持ってるんだ。
あんた、騙されてるよ。このままだと、あんたはひどい目にあう」
「絶対に、そんなこと、ありえない!」
「人は自分が考えていないことを指摘されると『ありえない』って言って否定するもんなのよ。
ありえないはありえない」
早苗は相手をにらみつけ、さらに一歩、足を後ろに引いた。
そして、いきなり、その祓え串を右から左へと振るう。
巻き起こる烈風の直撃を受けて、霊夢が後ろに吹っ飛ばされる。
「……許さない。神奈子さまを愚弄する奴……!
絶対に、許さない!」
早苗の言葉は、ともすれば狂信者の言葉とも取れるような発言だった。
怒りに目をたぎらせ、祓え串を握る手が震えている。
「……ちっ。こいつ、妖怪か?」
霊夢は小さくつぶやいた。
早苗から漂ってくる気配が、尋常ではない。
少なくとも、人間が持っている気配ではなかった。彼女の知り合いには、妖怪連中が多々いるが、その手の連中が放つものと全く一緒なのだ。
「けど、雰囲気は人間だった。
……人間をやめた?」
霊夢の呟きなど聞こえない早苗が、「早く取り消しなさい!」と叫び、更なる風を叩きつけてくる。
この直撃を受けてはたまらないと、霊夢は横っ飛びに飛んで、その一撃を回避した。
烈風は物理的衝撃を伴って神社の社殿に叩きつけられ、その一角を粉砕する。
「うちの神社を壊すの、やめてよね!」
「他人が信仰する神を邪悪と断じる。それは、宗教の違いであれば、あってもおかしくない。
だけど、理由もなく、理由も話さず、他者が信仰する神をけなす理由が、人間であるあなたにあるはずがない!」
「支離滅裂もいいところね! この石頭!」
霊夢は手にした札を早苗めがけて投げつける。
早苗は祓え串を振るい、強烈な烈風を生み出して、霊夢の札の軌道をそらす。
そして、彼女の操る風はまっすぐな流れとなり、霊夢を包み込んでその動きを阻害する。
「こいつ、文みたいなことして!」
風に乗って接近してきた早苗の、至近距離からの弾丸をまともに食らって、霊夢は吹っ飛ばされる。
彼女の上空へと移動した早苗は、霊夢を中心に雨のように弾丸を降らせた後、宣言する。
「はっきりとわかりました。
博麗霊夢、他者の信仰をけなし、阻害し、傍若無人に振舞う無法者! 人でありながら神の理に楯突く身の程知らず!
あなたのような堕落したものを神の信徒と認めるわけにはいきません!
あなたは、この幻想郷にふさわしくない! この神社は、幻想郷の信仰の中心とはならない!
ならばこそ、人々の心の平穏のため、この世界の安定のため、あなたがなすべきだった役目を、わたし達がなして差し上げましょう!」
朗々と宣言し、早苗は祓え串の先端を、地面の上から彼女を見上げる霊夢に向ける。
「今、この時をもって、博麗神社は廃棄される! 幻想郷の神は唯一である!」
周囲一帯に響き渡るほどの声をもって、早苗は宣言を放ち、踵を返した。
空の彼方――妖怪の山に向かって飛んでいく彼女を見送り、霊夢は周囲を見渡す。
早苗が持って来た菓子折りが、地面の上に転がっている。
蓋は開いているものの、中の菓子は入れ物に包まれて無事だった。
それを一つずつ、霊夢は拾い集めていく。
「よーう、霊夢」
「ん」
ちょうどその時、新たな客がやってくる。
早苗が去ってから、5分後のことだ。
地面に降り立った、霊夢の悪友、霧雨魔理沙は「どうした。何か汚れてるな」と霊夢を茶化した。
霊夢は「ん!」と賽銭箱を指差す。魔理沙は肩をすくめて、ポケットから取り出した小銭を、ちゃりーんと放り投げた。
「そのお菓子、どうしたんだ?」
「ここに来た奴がね、持って来たのよ」
「そっか。
そいつは帰ったのか。帰っていきなり蓋を開けるなんて、食い意地張ってるなー」
わはは、と笑う魔理沙の口の中に、霊夢は、封を切ったお菓子をねじ込む。
むぎゅ、と悲鳴を上げた魔理沙は、もぐもぐそれを頬張って、「お、うまい」と笑顔になる。
「食べたわね?」
「おう、食べたさ。うまかった。もう一つくれ。まだあるんだし」
「そんなら、ちょっと手伝え」
「は?」
「手伝え」
「何を」
「妖怪退治」
いや、神様退治か、と霊夢はつぶやいた。
魔理沙は一度、小首をかしげるような仕草を見せた後、目を輝かせて、「神様退治か! 面白そうじゃないか!」と乗り気になる。
「目的地はどこだよ?」
「あっち」
霊夢が指差すのは、妖怪の山。
魔理沙はそれを、手をかざして眺めていたが、「へぇ」と面白そうにつぶやく。
「ありゃ天狗たちのアジトだな。
あそこに殴りこみに行くと、奴らも敵に回すことになる。面倒だな」
「別に構わないわよ。
何であれ、幻想郷の中でめちゃをしようってんだもの。ちょっとばかし、強烈なお灸を据えてやるわ」
霊夢は手元の札の枚数と、針の本数を確認する。
魔理沙はにやにや笑いながら、「おお、こえぇ」とおどけてみせた。
「それにね」
「それに?」
「お菓子を一緒に食べられなかったのが、ちょっと残念なのよ」
「……は?」
首を傾げる魔理沙に答えず、霊夢は地面を蹴って空を舞う。
慌てて、魔理沙が「おい、待てよ!」と霊夢に続く。
霊夢は手にした菓子をポケットの中へとしまった。
そうして、小さく、舌打ちする。
「……何があったらああなる? 人の癖に人じゃない。神を名乗って神じゃない。
……憑き物か」
――やれやれ、めんどくさいな。
小さく肩をすくめて、前を見る霊夢の瞳は、いつもの霊夢の瞳とは、少しだけ色が違った。
「はぁ……はぁ……!」
空を舞う早苗は、時折、ふらつきながら山へと戻ってくる。
胸をぎゅっと押さえて、額からは玉のような汗を流している。顔を苦しそうに歪めながら飛行する彼女は、ついにバランスを崩して、木立の中に突っ込んだ。
幸い、高度が低かったことで怪我こそしなかったものの、墜落の衝撃でしばらく動けなくなってしまう。
「……痛い……!」
何とか立ち上がって、自分の家へと急ぐ。
霊夢から浴びせられた言葉が、今も脳裏に響いている。
『邪神』
尊敬し、信じている神奈子をそのように罵られて、早苗は怒り狂っていた。
その言葉を撤回したとて、彼女は霊夢のことを許すことは出来ないだろう。
怒りの感情は全身を支配し、感情のままに突き動かされて、彼女は霊夢に宣戦布告を行なったのだ。
だが、その一方で、湧き上がる『怒り』以外の何かが己の体を焦がしている。
あの場で怒りに任せて力を使ってしまったせいか?
これまでの自分とは違う、明確な『敵意』を元に力を奮ってしまったせいか?
ぐわんぐわんと頭が鳴る。
苦しくて、辛くて、動けなくなる。
このまま、わたし、死んじゃうんじゃないだろうか。
そんな想いが、ふと、頭の中をよぎり、彼女は大きく深呼吸した。
瞬間、世界がぴんと張り詰めて固まった。
音が消失し、彼女の体から、あらゆる『感覚』が消え去る。
痛みも苦しみも、何も感じない。
「……?」
折っていた膝を伸ばして、彼女は立ち上がる。
彼女は周囲を見渡し、つと、その視界に人の気配を捉えた。
形をなさない、ゆらゆら揺らめく『人』の形をした何かが、早苗の前方にいる。
それは、早苗に見つかったことを察したのか、踵を返して走り去った。
自然と、早苗の足が、それを追いかけて走り出す。
「待って……!」
なぜ、自分は、あれを追いかけているのだろう。
走りながら、自問自答する。
ああいう妖怪は、此の世に存在する。ふと思い出す。人間を、人間の世界ではなく、自分たちの世界に引きずりこむべく、人が興味を示すような姿をして此の世に現れる。それを追いかけた人間は、妖怪の世界に引きずり込まれて、食われて、殺される。
わかっていても、早苗の足は止まらない。
不思議なことに、何の手入れもされていない、深い山の中を、彼女は転ぶことも躓くこともなく、まるで飛ぶように走っていく。
段々、目の前の『何か』に早苗は近づいていく。
伸ばした手が、もう少しで届く。
早苗は大きく息を吸い込んで、一歩を踏み出した。
彼女の手が『何か』に届いた。
その瞬間、早苗の体の中から、何かがざっと音を立てて抜け出ていった。
早苗に触れられたそれは、早苗の方を振り向くように体を回転させると、風に溶けて消えていく。
――つと気がつくと、彼女は己の神社に帰ってきていた。
先ほどまで、体を蝕んでいた苦痛は、全て消え去っている。
彼女は首をかしげ、辺りをきょろきょろと見回して、もう一度、首をかしげる。
「……あ」
そこで、改めて思い出す。
博麗神社でなした己の蛮行。いかに霊夢の言葉に腹を立てようとも、怒りに任せた己の愚かな行為が罪から逃れることなどない。
少しだけ自己嫌悪に陥りながら、しかし、『絶対に謝ってなんてやるもんか』と意地を張る。
まるで子供のそれだが、それだけ、早苗にとって神奈子という神は絶対なのだ。
自らが得られた、与えられた全てを捨てて、現世とのしがらみを全て捨てて幽世へとやってくるだけに値する存在なのだ。
「……ただいま」
母屋へと戻った早苗。
居間へと足を運んだ彼女の目の前に、神奈子の姿がある。
神奈子はいつものように、畳の上に座してお茶をすすっていた。
「今、帰りました」
「お帰りなさい」
神奈子はそう言うと、湯のみを置いて、早苗を見る。
その、深い、何もかもを見透かされ、飲み込まれてしまいそうな圧力に、早苗は息を止めて後ずさる。
「少し、落ち着きましたか?」
神奈子の言葉に、どくん、と早苗の中で何かが脈動する。
「あ……えっと……」
心臓の鼓動とも、また違う感覚。
それが、最初は静かにゆっくりと、段々速く、激しく。
どくんどくんと胸の中で、体の中で、魂の中で、何かが激しく震えている。
「す、すいません。
少し気分が悪いので、部屋に戻ります」
「そう。
わかりました」
神奈子は何も聞いてこなかった。
早苗は、部屋の襖を閉じて、胸を押さえながら自室へと歩いていく。
「熱い……!」
体の中に、燃え盛る炎の塊を抱えたようだった。
めらめらと燃え上がる炎が、早苗の体を焼いていく。
胸から広がるその熱は、今や体全体を覆っている。
ぼたぼたと、落ちる汗が服をぬらし、体をぬらし、まるで豪雨の中、傘も差さずに立っていたかのように、早苗の全身をぬらしていく。
「熱い……! 熱い、熱い、熱い、熱い!」
部屋に辿り着いた彼女は、部屋の窓を全て開け放つ。
それでも、体を覆う熱は取り払えない。
服を脱ぎ捨て、裸になって、窓辺に立って風を直接に浴びる。
「息が……!」
肺病を患った病人のごとく、彼女の呼吸は、浅く速く繰り返される。
酸素を体の中にうまく取り込めず、頭がぼうっとしてくる。
汗はまだ止まらず、彼女の足下に水溜りを作っていく。
何かおかしい。
自分の中で、何かがおかしくなっている。
無意識に伸ばした手が虚空を薙いで、何かがその手に触れて床へと落ちる。
こつん、という小さな音。
何とか、首だけを動かして音の源を見る。
――手鏡が落ちている。
蓋を開けたそれが、早苗の裸体を映している。
そして、その向こう。
「……!」
あの少女。
これまでに何度も見てきた、あの少女。
姿も正体もわからない彼女が鏡の中に映っている。
その瞳は早苗を見つめている。
悲しみを浮かべた瞳。眉毛はハの字に垂れ下がり、今にも泣き出しそうな顔をしている。
彼女は早苗に向かって手を伸ばした後、何かに気付いたように、その手を引っ込める。
そうして、ゆるゆると首を左右に振った。
――自分には何も出来ない。
彼女の瞳は、それを語っていた。
彼女はそれでも早苗を見つめて、口許に手をあてがって、口を動かしている。
『頑張れ、早苗! 負けるな、早苗!』
その応援の言葉に、手鏡を手に取ろうとした瞬間、鏡が木っ端微塵に砕け散った。
「いたっ……!」
砕けた鏡の破片が、早苗の手に小さな傷跡を作る。
その途端、全身の熱が引いていった。
「……あれ?」
汗などかいていない。
部屋の中は、涼しいを通り越して寒いほど。
「さーなえさんっ」
「うわわっ!?」
窓際から声がした。
驚いてすっ転び、相手の前で股を広げるという無様な姿をさらして、慌てて、彼女は顔を真っ赤に染めて脱ぎ散らかした服で体を隠す。
「どもども」
文だった。
彼女は窓の桟に肘をついて、早苗を見つめている。
「いやー、すごいことやっちゃいましたねー」
「なっ、なななな何ですか!? わたし、まだ、AVに出る年頃じゃないですよ!?」
「えぇぶい、ってのが何だかわかりませんけれど。
今、山の麓から、わいわいと大騒ぎが始まってます」
「な、何のこと……」
「霊夢さんが来たんですよ」
その言葉に、早苗の意識は覚醒する。
大急ぎで服を着込んだ後、「どういうことですか!?」と文に問いかける。
文は、『さあ』と肩をすくめた後、
「大方、早苗さんの売ったケンカを買ったってところじゃないですかね?」
「…………」
罪悪感で胸が一杯になる。
今すぐにでも、神社での振る舞いを謝りたい――だが、自分から頭を下げることなど、絶対に出来ない。
本心と感情の板ばさみになる彼女の肩を、文はぽんと叩いた。
「天狗にも、巫女の撃退命令が出ています。
私も、ちょっと、久方ぶりに行って来ますよ」
文はにやりと笑った。
「なぁに、私、強いですから。
私が霊夢さんも魔理沙さんも蹴散らしてきますから、どうかご安心を」
「あ、あの!」
背を向けて、飛んでいこうとした文に、思わず声をかけてしまう。
振り返る文。
彼女の視線を受けて、続く言葉が見つからない。
文は、『それでは!』と早苗に笑顔を向けて、飛んでいく。
早苗はしばらく、その場から動けなかった。
自分が何をするべきか。何をしたらいいのか。わからなかった。
何も出来なくても、何もすることがなくても、とりあえず、行動する。結果は後からついてくる。
それが早苗の行動原理の一つ。だから、彼女は友人に、『早苗は行動的だね。後先考えてないけど』と笑われる。
自分が正しいと信じたことは疑わず、ただひたすらまっすぐに。
そんな彼女の姿勢を、にこやかに笑うものこそいるものの、嘲笑するものは誰もいない。
その彼女が、自分に出来ることを見失っている。
何であんなことをしてしまったのか。どうして、感情に飲み込まれてしまったのか。
やってくるのは後悔ばかり。
そして、唯一、それを解決できるであろう方法にすら、己の感情ゆえに手を出すことが出来ないでいる。
――しがらみを捨て去れ
神奈子の言葉が、脳裏に思い浮かぶ。
感情に伴う迷いがしがらみだと言うのなら、己は人間である限り、決してそれを捨て去ることは出来ないだろうと、早苗は思った。
いくら神奈子に『現人神』といわれようとも、結局、自分は人間なのだ。
迷い、悩み、時に打ちひしがれて何も出来なくなる、ただの人間なのだ。
「……どうしたら……」
こんなとき、神奈子に声をかけたら、きっと彼女は何かを教えてくれるだろう。
弱い人間である彼女は、そう信じることしかできなかった。
信じ、崇め、畏れる、己よりも一段上のところにいるものにすがることしか出来なかった。
部屋を出て、神奈子のいる居間へと向かう。
襖を開けて、『神奈子さま』と声をかける。
「何ですか?」
「あの……わたし……」
「早苗」
神奈子が立ち上がった。
自分とほとんど身長など変わらないのに、まるで巨大な山が――いや、天そのものが動いたかのような威圧感を感じる。
足を下げようにも、動かない。
神奈子は早苗の前にやってくると、その瞳を覗き込んでくる。
「私は、お前に、『しがらみを捨てろ』と言いました。
お前はそれをこなした。お前は、私が望み、私が夢見て、私が信じた現人神となりました。
お前は人でありながら神なのです。
人の持つ感情に流され、神の倫理に困惑し、人にも神にも属することの出来ない神の子なのです。
ならばこそ、人にも神にも出来ぬことを、お前はなすことが出来ます。
ならばこそ、私はお前に命じます。
己の戦に打ち勝ちなさい。
己がなすべき戦から目を背け、逃げることは出来ません。
たとえ私とて、それは同じこと。私がお前に戦を強いた――その罪を、私は晴らそう」
ずしん、と辺りの空気が重くなり、続いて、ずん、という重たい音が辺りに響き渡る。
空がきしみ、大地が鳴動したのだ。
神奈子の力を受けて、その神力に世界が敬服を示したのだ。
神奈子は早苗の隣を通り過ぎて行く。
早苗はしばし、その場に立ち尽くしていたが、何かを振り払うように、何度も何度もかぶりを振った。
最後に、己の頬を両手で思い切りはたいて、神奈子の後を追いかけていく。
――神より示された、己の道を往くために。
響く爆音と閃光が、徐々にこちらに近づいてくる。
空の向こう、視界の彼方に、こちらに迫ってくる人影が見える。
その姿がはっきりと、明確に、彼女の視界に焼き記されたその時に。
「貴女の方から神おわす社にいたるとは」
「呼ばれたら来るしかないじゃない」
早苗は、両手に武器を構えて、不敵な笑みを浮かべる霊夢の前に対峙する。
その隣に浮かぶ白黒の少女は「おい、霊夢。誰だこいつ?」と首をかしげている。
「わたしは――」
彼女の手に握られた祓え串が翻る。
その動きに従って、空気がざわめき、烈風が辺りを薙ぎ払う。
「うお、何だ何だ! こいつ、文みたいな術を使うじゃないか!」
「わたしは東風谷早苗。人も神も、我を風祝と呼ぶもの!
我、人でありながら神となるもの! すなわち、現人神なり!
人でありながら神と成ったものの血族であり、その咎を背負いしもの!」
「けっ、堅苦しいね! 私はそういう堅苦しいのが嫌いなんだ!
人は自由が一番だね!」
白黒少女――魔理沙の先制攻撃が、早苗に向かっていく。
放たれたレーザーは、しかし、早苗の祓え串の一振りで軌道を捻じ曲げられ、あさっての方向に飛んでいく。
へぇ、と魔理沙は楽しそうに目を細める。
「早苗だっけ。
あんた、何したいわけ?」
「わたしが信仰する、神への信仰を高めること。もって、その神の力にて、幻想郷に平和をなし、人々に益をもたらすこと。
あなたには出来ない――出来なかったことです」
「なめられたもんね」
「事実でしょう。
あなたの元には信仰心は欠片も集まっていない。あなたは巫女の立場として、幻想郷の民に神を敬う信仰の心を喚起し、根付かせなければならないはず」
「言われてるな、霊夢。あいつの方が正しいぞ」
「うっさい」
「いてっ」
霊夢にひっぱたかれて、魔理沙は悲鳴を上げる。
そのやり取りを見ても、早苗はにこりとも笑わない。
「あなたのような堕落した巫女に神は何も与えない。あなたのように堕落した巫女では、神の触媒となることも出来ない。
人々の心から信仰は失われ、神は衰退し、滅び行く。
それは、幻想郷の破滅も意味する」
「そんな大げさなもんじゃないけどね。
まぁ、言ってることはわかってるし、伝わることも伝わるんだけどさ」
そこで、霊夢が初めて構えを取った。
「あんたに、そいつが出来るなんて、思い上がりもはなはだしい」
「人でありながら人を捨て、神と成るということの意味――その重みを、あなたは理解していない。
理解できるはずもない。
あなた程度の存在に、神なる我、敗北はあたわずっ!」
早苗を中心に、烈風の塔が築き上げられる。
風は渦を巻いて周囲を薙ぎ払い、はじけて全てを吹き飛ばす。
ちっ、と魔理沙が舌打ちをした。
「魔理沙」
「何だよ」
「先に行きなさい。多分、あいつをおかしくした犯人――今回の騒動の主犯格が、その先にいるはずよ」
「おっ、珍しい。手柄を譲るってのか」
「んなわけないでしょ。
私はあいつの目を覚まさせてから、あんたを追いかける」
風になびく髪を押さえながら、霊夢は言う。
その瞳は真剣そのもの。
よく、霊夢とじゃれて、話して、笑って、そしてケンカをする魔理沙でも、ついぞ見たことのない表情だった。
彼女はひょいと肩をすくめる。
「了解。
んじゃ、お先に失礼するか。早く来いよ! じゃないと、私が手柄を独り占めするからな!」
魔理沙が加速して、早苗の横を駆け抜けようとする。
早苗は両手を広げて、それを邪魔しようとする。何の術が展開されるかはわからないが、魔理沙の速度より、それの方が遥かに早い。
魔理沙は少しだけ顔を歪めて、それでも加速をやめずに突っ切ろうとした。
直後、早苗のそばで閃光が花開く。
霊夢の攻撃で、わずかに集中を乱されたせいで、早苗の術が不発に終わる。
その隙に、魔理沙が早苗の横を駆け抜けた。振り返り、追いすがろうとした早苗の頬を、霊夢の攻撃が掠めていく。
「私に背中を向けて、勝てると思ってんの?」
霊夢から向けられる鋭い視線。
早苗は静かに、彼女に向き直る。
「往きてその身に還れ! 紅と白の流れよ!」
早苗の放つ、無数の弾丸が霊夢の周囲を包み込み、一斉に攻撃を仕掛ける。
霊夢は一瞬だけ、周囲の状況を確認した後、両手に結界の盾を展開させながら、包囲の薄いところを突っ切った
霊夢めがけて、早苗が攻撃を放つ。
撃ち出される弾丸が、霊夢に追いすがり、その体を掠めていく。
霊夢は空中でくるりと反転し、動きを止めた後、両手の結界を放り投げて己のバリアとし、空いた両手から反撃を放つ。
飛んでくる札は空中で無限に軌道を変えて、複雑な動きをしながら早苗へと迫ってくる。
派手に煌く光跡に、早苗の目が乱される。それを狙って、無数の針が一直線に早苗を狙う。
早苗はまず、手にした祓え串を振るった。
その先端に触れて、霊夢の札が撃墜される。
続けて飛んでくる針を、彼女は下から上へと噴き上げる突風で吹き飛ばす。
「はっ」
短い息と共に放つ、鋭い青の閃光。
霊夢の肩を掠めたそれに、霊夢はわずかに表情を変える。
「……この子……」
続けて早苗は、四方八方に、同じように青い閃光を展開して霊夢を狙う。
降り注ぐそれを軽々回避する霊夢だが、それを狙って、早苗は風を巻き起こす。
「っ!」
風に乗って弾丸は軌道を変え、霊夢をめがけて飛んでくる。
「やってくれる!」
自由に操られ、不規則に動きを変える弾丸は、さすがの霊夢でもよけきれない。
彼女は反転して弾丸を視界に収めると、左手から赤く輝く札を放った。
その札は空中で青の弾丸を撃ち落とし、爆裂して閃光を残す。その爆風が、残りの弾丸の、およそ半数を消滅させる。
閃光の中を突き抜けた青の弾丸は、一旦、霊夢の前で拡散すると、方位と角度を変えて降り注ぐ。
同時に、早苗が、己の体を風で押し流し、霊夢に向かって接近してくる。
霊夢は一旦、動きを止めた後、自分の全周囲を覆う結界を展開した。
弾丸が結界に突き刺さり、炸裂する。直後、早苗の振り下ろした一撃が、霊夢の結界を激しく揺らす。
衝撃に、わずかに霊夢は歯を食いしばり、表情を堅くする。
早苗を弾き飛ばすために、彼女は目を見開き、鋭く声を叫ぶ。
結界が弾け、衝撃波となって、早苗を吹き飛ばした。
霊夢は、体勢を崩したままの彼女めがけて針を放つ。しかし、その反撃も回避も不可能な態勢にあってなお、早苗にその攻撃は当たらない。
「……あれは」
正確には、霊夢の放つ攻撃は早苗に命中している。
だが、早苗の体から放たれる『何か』がそれを打ち払っているのだ。
早苗は、彼女自身は、恐らくそれに気付いていないのだろう。
彼女は姿勢を整えると、霊夢を見据える。
「この幻想郷にはルールが存在すると聞いています。
あらゆる物事、あらゆる争い、あらゆる諍いにおいて、それは絶対であり、敗北したものは勝者に対して反論をすることを許されないルール!」
彼女は服の袖から、一枚のカードを取り出す。
「そのルールに則って、あなたが敗北したのなら、あなたはわたしのすることに口出しは出来ない!
そして、あなたは、わたしのすることを自ずと認めるしかない!
それがこの世界の理であるならば!」
――秘術「グレイソーマタージ」――
「へぇ……。スペルカードまで知ってるのか。誰に仕込まれたか知らないけど」
早苗を中心に展開されるのは、青と赤の弾丸。
一旦、彼女を中心に置いて形を成したそれは、五つの頂点を持つ星の形を保っている。
霊夢が眉をひそめた次の瞬間、星は砕けて流星となり、一斉に、霊夢めがけて突っ込んでくる。
「ちっ」
その速度は大したことはない。
だが、狙いは非常に正確。
逃げたところを狙って、流星が的確に突っ込んでくる。
魔理沙の放つ星屑のように、途中でねじれたり曲がったりしないだけ、まだ他人に優しいと言えるが、
「はっ!」
とにかく、狙いが精密すぎた。
針の穴を通すように、霊夢の一瞬の隙を的確に突いてくる。
飛んでくるそれを手にした祓え串で打ち払い、構えた結界で受け止める。
激しい衝撃と振動に体が揺らされ、両手に苦痛が刻まれる。
「この!」
相手の攻撃の合間に反撃を放つ。
飛ぶ札も針も、早苗は防御手段を完璧に備えている。
文の操る風よりも、それは稚拙で程度も低いが、その分、文のそれより柔軟性に長けている。
風は瞬間、強さを増して霊夢の弾丸を吹き散らす。その風の結界に逆らって、相手に飛んでいくほどの威力は、それにはない。
「やってくれんじゃない! 新参の人間に古参が負けてたまるかっての!」
斜め前方から飛んできた赤の流星を、体を回転させて回避する。
その瞬間を狙って突っ込んでくる青の流星。その星の尾に、彼女は手を当てる。
「よけられないなら流してやるだけよ!」
尾の肌を、霊夢の手が流れていく。
彼女の掌に集中された力が簡易ながら分厚い結界となり、尾から放たれる力を押さえ込み、さながらサーフィンのように、霊夢の体を案内してくれる。
流星が通り過ぎた後、霊夢は体を反転させて、早苗めがけて反撃を放つ。
早苗は軽く身をそらす程度でそれをよけると、続く相手の反撃を断ち切るために、自らもその手を振るって攻撃を放つ。
風の流れになぶられて、霊夢は姿勢を崩される。
そこに、赤と青の流星が突撃してくる。
「当たるか、ばーか!」
だが、狙いが正確すぎるゆえの弱点が、そこにある。
攻撃の瞬間、狙い定めた座標から、わずかでも対象が動けば、流星は狙いを見失ってあさっての方向へと飛んでいく。
霊夢は腕を、足を、大きくがばっと広げた。それで生まれた空間を、流星が貫いていく。
星の熱に体を焼かれて、痛みに顔をしかめるものの、ダメージはそれだけ。
「それ!」
霊夢の放つ針が、真正面から早苗に向かっていく。
早苗の放つ風が、再び、針を薙ぎ払って破壊する。
しかし、それが霊夢の狙い。
空中に散った針の欠片が、日の光を浴びて煌いている。霊夢はそれを見逃さず、両手で印を結び、「界をなせ!」と叫ぶ。
「!?」
空中で、光が煌き線をなし、無数の形をなして、早苗を結界の檻の中へと封じ込めた。
「弾けろ!」
結界は一瞬で形を狭め、急速に収縮した後、身を堅くした早苗に触れて爆裂する。
轟音と共に炎が彼女の姿を覆い隠す。
早苗の側で舞っていた、彼女の力を示すカードが力を失い、ひらひらと、地面に向かって舞い落ちていく。
「結界術の先輩、なめんなよ」
「――そうですね」
「!?」
頭上から、声が響いた。
振り仰ぐ暇すらなく、霊夢の肩に、重たい衝撃が走る。
ぐらりと傾く彼女。
顔を上げると、そこに、早苗の姿。
早苗は、服が破れ、その下の肌に黒い火傷を作っているが、五体満足、無事である。
「爆風を利用して、衝撃の中心からは逃げた、ってわけね……」
「爆風も、風は風ですから」
だけど、痛かった、と彼女は言う。
さらに反撃。霊夢の肩に残っていた衝撃が爆発し、彼女の体を回転させながら吹っ飛ばす。
霊夢は木立に叩きつけられ、痛みでしばらく、動けなくなる。
その彼女を木立に貼り付けようと、早苗の放つ線上の光が霊夢に迫る。
「百舌の早贄は勘弁してちょうだい!」
木の表面を回るように、木の裏に逃げ込んだ霊夢のそれまでいた場所に、閃光が突き刺さった。
「いったたた……」
早苗の攻撃が命中した左肩を見る。
赤い血が浮かび、深く、肉が抉られている。
もう少し威力が高ければ、霊夢の左腕が根元から吹っ飛んでいただろう。
早苗の手加減か、それとも、操れてこのレベルの威力の術だったのか。
何にせよ、助かった。霊夢は服の袖を破ると、止血帯代わりにそれを肩に巻きつけて、早苗を見上げる。
早苗は、霊夢がまだ戦えるのを見て取ると、次のカードを取り出し、宣言する。
――奇跡「白昼の客星」――
「……光?」
掲げた彼女の払え串の先端に光が宿る。
それはまるで、太陽のように明るく、空の青を圧して光り輝く。
その見事な輝きに、霊夢が目を奪われた瞬間、閃光ははじけて辺りを白で覆い尽くした。
やられた、と霊夢は舌打ちする。
閃光の圧倒的光量が、彼女の目を焼いていた。完全に視界を奪われた霊夢めがけて、集った光が形をなした弾丸が降り注ぐ。
「ああ、もう!」
両手に結界の盾を構え、弾丸が飛んできていると思われる方向に向けて盾を造りながら、彼女は立ち並ぶ木立の中に逃げ込んでいく。
「まずい、まずい、まずい!」
左手の結界の盾を前にかざし、木にぶつからないよう、目印と己の『感覚』としながら木立の間を縫って飛んでいく。
頭上からは、連続して破砕音が響き渡る。そして後方からは、巨大な爆発音。
霊夢を上空から追い立てる、早苗の強烈な弾丸の嵐。
霊夢はそれを必死でよけながら飛んでいき、
「あいてっ!」
がん、と何かにぶつかってしまう。
ぺたぺたと、目の前のものに触れる。壁だ。恐らく、崖か何かだろう。
「やばい!」
即座に、その壁面に沿って上空に移動する。
一瞬遅れて、早苗の攻撃が、それまで霊夢がいた場所に直撃して轟音を立てる。
壁面に沿って移動する霊夢の足下から、爆音が接近してくる。
彼女は一旦、反転して、爆音の中へと突っ込んでいく。
その切り返しについていけず、早苗は一瞬の戸惑いを見せた。
おかげで、霊夢は相手の攻撃にさらされることなく、再び、木立の中へ逃げ込むことに成功する。
「くそ……前が見えない……」
まだ、視力は回復しない。
瞳を開けても、辺りはうすぼんやりとにじんでいる。
このままでは戦えない。
彼女は大人しく、近くの木の根元に着地して、周囲に結界を張った。
「何とか……」
結界によって気配を絶ち、木の根元に隠れることで、早苗の視界から逃れる。
情けない話だが、このような戦えない状況で相手の前に出てはやられるだけだ。逃げて隠れるのも、また戦術である。
一方の早苗は、深い木立の中に霊夢の姿を見失っている。
彼女が動きを切り返して木の中へと逃げていって、そこでぷつっと気配が途切れた。
あの特徴的な赤と白の衣装が見当たらない。
「……隠れたか」
つぶやくと、彼女は両手で印を結び、自らも結界を構築していく。
流れる風の動き、微細な世界の息遣いを感じるべく、目を閉じ、耳を塞いで、感覚のみに全てをゆだねる。
広がる『彼女』自身の存在。
それが、辺りを包み込み、霊夢の姿を探していく。
「……いた」
にやりと、彼女の口許に笑みが浮かぶ。
霊夢の姿を、木々の中でもひときわ太い木の根元に確認した彼女は、力を操り、相手を包囲するように弾丸を構築していく。
そして、弾丸の結界を作り上げた後、それを一斉に、霊夢にめがけて降り注がせる。
弾丸は大地を穿ち、木々をへし折り、霊夢の周囲を徹底的に破壊しつくした。
とどめに、霊夢の頭上から、巨大な光の弾丸が降り注ぎ、大地に突き刺さる。
「……さて」
彼女の激しい弾幕にさらされた一角は、見るも無惨に破壊されている。
樹齢数百年には達していたであろう木も根元からへし折られ、粉々になって、地面に還った。
残るは霊夢なのだが、巻き起こった粉塵が、早苗の視界を遮っている。
彼女は油断することなく、風を操り、それを吹き散らす。
「……やはり、いない」
霊夢の姿はどこにもない。
早苗の攻撃を察して逃げたのだろう。
問題は、どこに逃げたかだ。
「まだ視力は回復してないはず……。
逃げるなら……」
彼女の気配が、再び、拡大していく。
自分自身をレーダーとして、辺りを仔細に、暗闇の影すら見落とさず、探していく。
「……いない?」
しかし、どこにも霊夢の姿は確認できない。
彼女はレーダーを解除する。
自分を中心に、およそ半径100メートル程度は探したのだが、どこにも霊夢の姿はない。
――まさか、逃げた?
あれだけ大口を叩いておいて、霊夢が敵前逃亡するとは、とても思えない。
ならば、どこに隠れているというのか。
早苗の感覚から逃れるためには、それこそ、地面の中に潜るくらいしか方法はない。
だが、霊夢は人間だ。もぐらやアナグマなどではない。地面に潜ることなど出来はしない。
「……結界……」
そうつぶやいた早苗は、『そうか』と何かに気付いたらしい。
彼女は何もない虚空にめがけて、五枚の札を投げつけた。
札は五つの星をかたどった光をなし、その中心に歪みを作る。
早苗は、その歪みの中めがけて、弾丸を放つ。
輝く光が歪みの中に吸い込まれ、直後、霊夢の姿がその場に吐き出された。
「よく気付いたわね!」
霊夢の目が開いている。
早苗が迷い、行動を止めていた間に、彼女が受けたダメージは回復していたのだ。
結界。それは、界を操り、此の世にもう一つの『此の世』を生み出す技術。
界の向こうに隠れれば、それはもはや、此の世から認識できない『彼の世』の存在となる。
早苗の攻撃は、その『彼の世』へと飛び込み、そこに隠れていた霊夢をいぶりだしたのだ。
「伊達に、わたしだって、結界を操る力を持っていません!」
飛び出してきた霊夢は、すでに攻撃の態勢を整えている。
彼女が右手に構えた光の弾丸は、早苗に向かって解き放たれる。
それを、早苗は風で押し流そうとするのだが、その風の結界を、霊夢の攻撃は突き崩して進んでくる。
ちっ、と早苗は舌打ちした。
その攻撃を回避し、早苗は、光の力でもって霊夢を押し返そうとする。
弾け、展開される弾幕に、霊夢は結界の盾をもって当たり、受け止め、よけながら、早苗から距離をとる。
直後、霊夢の放った弾丸が、この世界から消失した。
早苗の瞳がそれを捉える。彼女の視線が霊夢に向けられる。
「結界術の先輩をなめるなって言ったでしょ!」
言葉に言い表せない振動と衝撃が、早苗を包み込む。
結界を飛び越え、『彼の世』の存在となった霊夢の弾丸が、その『彼の世』で弾けたのだ。
その力の余波は彼の世の結界を飛び越え、『此の世』に姿を顕現させる。
目に見えない余波ではあるが、それでも、それは確実に『此の世』をゆるがせる。
そして、界は崩れて形を失い、界に閉じられていた『彼の世』が『此の世』と融合する。
「くっ!」
霊夢の放った弾丸の力の残滓が一斉に解き放たれ、早苗の周囲を弾丸で埋め尽くした。
早苗はそれを迎撃していくのだが、相手の弾幕が濃すぎてどうしようも出来ない。
結界を維持する方に力を傾け、結果的に、スペルカードに割く力を失ってしまう。
力の供給を絶たれたスペルカードは形を失い、消滅する。
「やってくれますね」
霊夢の反撃に、早苗は歯噛みする。
確実に途中までこちらが押していても、それを受け止め、受け流し、そして押し返してくる。
それが博麗の巫女の戦い方なのか、と彼女は看破する。
「あんた、早苗とかいったっけ!?」
霊夢の鋭い針が飛ぶ。
早苗はそれを見切って祓え串で叩き落すと、「それが何か!?」と返す。
「何で幻想郷なんかにやってきた!?」
撃ち出される弾丸。
それを、早苗は祓え串で受け止め、迫り来る圧力に歯を食いしばる。
「外の世界から、何でわざわざ、この世界にやってきた!?」
「外の世界には、神への信仰が存在しないからです!」
ばしっ、という衝撃。
何とか相手の力を中和することには成功したが、もれる力の残滓は抑えきれない。
衝撃に振り回される彼女。
「だから、この世界に逃げ込んできたってことか!」
「そうです!」
早苗は、その言葉を肯定する。
神奈子が、それを己で口にしているからだ。
神奈子がもしも『逃げるのではなく、ただ新天地を求めるだけだ』と言っていたら、早苗は霊夢の言葉を否定していただろう。
言い訳だろうと何だろうと、早苗にとって、神奈子の言葉は、神から下される『御言葉』なのだ。
「この世界で神奈子さまは信仰を広め、多くの信徒を集め、そしてかつての強い神へと返り咲く!
この世界に神奈子さまの神力でもって多くの益をなし、幻想郷の人々に、神の偉業を見せつけ、幻想郷の人々に、神の恩恵を分け与える!
何の不都合がありますか!」
「自惚れるな!」
反撃に、早苗が放つ弾丸を、霊夢は手にした札で撃墜した。
爆発と共に炎と煙が巻き起こり、二人の間に壁を作り出す。
「そんなこと、こっちは求めてない! あんた達のそれはね、親切の押し売りっていう、一番厄介な行為よ!
自分たちの力なら、この世界の人々を幸せに出来る!? 図に乗るな!」
「人がそう言うのなら、あなたの言葉にも意義は在る!
だが、これは神の言葉! 神は人より上に立ち、人より上に立つからこそ、上から下へと御心は下る!」
「ああ、そう!
だったら、それを外の世界でやるべきだったわね!
この世界じゃね、神も人も妖怪も、みんな平等、横並び! どいつもこいつも人間くさい! どいつもこいつも人間じゃない!
人間のくせして人間じゃない! みんな、幻想の産物だからね!」
煙を突っ切って、霊夢が早苗に迫る。
彼女の右手に、いつの間にか鋭い剣が握られている。
それが、早苗の構える祓え串とぶつかり合い、甲高い音を立てる。
「あんた達は望んで現実から幻想に変わった! 幻想の中じゃ、幻想は皆、同じ幻想となる!
それを維持するのが、私の仕事だっ!」
相手の払う剣に、早苗の手から祓え串が吹き飛ばされた。
続く霊夢の斬撃を、早苗は後ろに下がって回避する。
「故に私は人にも妖にも与しない!
どちらも同じ存在なら、どちらも維持するのが、私の道理!
それを乱そうとする奴を懲らしめるのが、私の二つ目の仕事っ!」
目の前に迫る斬撃。
早苗は意を決して、振り下ろされたそれを、左の掌で受け止める。
彼女の掌には、札が握られている。札が何枚も積層し、盾になっている。
「くっ……!」
圧力と刃の鋭さが、彼女の盾を切り裂いている。
しかし、その刃は止まっている。
早苗は霊夢の剣を握り締める。伝わる強烈な熱に、彼女は顔をしかめる。
「あんた達は、ただそれを乱すだけの奴に過ぎない! だから、私は、あんた達を懲らしめるっ!」
「あなたのその理屈は……!
あなたのその理屈は、わたし達には通じないっ!」
相手の剣を握り締めて、相手の動きを封じる。
早苗は霊夢に己を突きつける。
「わたし達は、人に益なす神! 人に益なすものであるから、此の世の理を乱すというならば、人は、幸せになっちゃいけないんですか!?」
振り上げた拳が、霊夢の胸元を貫く。
霊夢は顔をしかめながら、彼女の手を握り締めると、
「んなもん、幸せになりたいに決まってんでしょうが!」
叫び、そのまま、彼女を投げ飛ばした。
二人の距離が一旦離れる。
少しだけ、二人は乱れた呼吸を整えながら、相手を見据える。
「あんたは……幸せになりたいの?」
「……なりたいです」
ぽつりとつぶやく。
相手の問いかけに、否定する要素など何もない。
早苗は拳を握りこむ。
「幸せになりたいです……。毎日、楽しく、笑って過ごしたい!
わたしは、そのために、全部を向こうに置いてきた……! 全部を忘れられて、置いてきたんです!」
展開される弾丸の嵐が、霊夢へと襲い掛かる。
霊夢は一旦、身を固くした後、すぐに行動を開始する。
弾丸の途切れた隙間を狙ってその中を駆け抜け、早苗へと接近する。
霊夢の接近を察した早苗は、霊夢との距離が詰まった瞬間、下から上に噴き上げる風を放つ。
風に煽られる形で、霊夢が上空に吹っ飛ばされる。
だが、それこそが霊夢の狙い。
一気に相手の弾丸の雨を切り抜けた彼女は、早苗の頭上で風の流れを抜け出すと、反撃に札の嵐を放ってくる。
その札は、早苗のすぐ側で炸裂し、赤い閃光を残していく。
早苗を追い詰め、恐怖させるための、見せ掛けの弾幕。
「わたしはみんなに忘れられた……! みんな、わたしを忘れてしまった!
友達も! 家族も! みんな、みんな!
だから、わたしはこっちの世界に来られたんです! 生きながらにして幻想となり、人でありながら神となったことで!
わたしは、もう、元の世界の『わたし』とは違う!」
霊夢の放つ赤い札が、早苗の視界一杯に広がる。
彼女はそれを両手で受け止める。
その瞬間に、霊夢が攻撃を放ってくることはわかっていた。予想通りの相手の攻撃に、彼女は歯を食いしばり、両足で空の上を踏みしめて、耐える。
「全てのしがらみを捨てる覚悟もないくせにっ! そのくせに、何が『幻想郷の巫女』よっ!」
相手の攻撃の流れに逆らわず、体を回転させて、その流れを利用して、投げ返す。
ハンマー投げの要領に近いその反撃に、霊夢はわずかに目を見開いた後、飛んでくる己の攻撃を結界の盾で受け止める。
早苗の攻撃がそれに続き、霊夢の結界を揺らしていく。
霊夢は、叫ぶ。
「だったら、何で、『いやだ』って言わなかった!」
霊夢の姿が消えた。
早苗は目を見張り、慌てて辺りを見渡す。
霊夢の姿が見えた――その刹那、わき腹に鈍い衝撃が走る。
空間を飛び越えて、早苗へと接近した霊夢の、鋭い拳が彼女のわき腹に突き刺さっていた。
続く、霊夢の張り手。その手には札が握られており、早苗の体に触れるなり、爆発して、早苗を吹き飛ばす。
「だったら『いやだ』って言えばよかっただろ! 何でついてきた!?
この世界は、あんたの求める、あんたの『幸せ』があるかどうかわからないんだろ!? それをわかっていたのに!
なのに、どうしてついてきた!
今までのしがらみを全て捨てた!? 嘘つけ! それに囚われてるくせに!
それに、目を曇らされてるくせに!」
早苗は、打撃によって受けたダメージに何度も何度も咳き込み、苦しみを浮かべた顔で霊夢をにらむ。
「自分は神の子だとか、神奈子さまは絶対だ、とかそんなのどうだっていいんだよ!
あんたはあんただ! あんたのしたいこと、やらなきゃいけないこと、あんたの抱えてること、あんたの想い! 他の誰があんたを否定したって、それはあんたに変わりない!
本当に、今、私の前にいる『東風谷早苗』はあんたなのか!? あんた自身が顕現した器なのか!?
違うだろ!」
「黙れっ!」
声を裏返して、早苗は絶叫する。
彼女は痛みを無理やり体の内側に押し込めて、両手で印を結ぶ。
「お前に何がわかる!? わたしの考え……わたしの覚悟……わたしの決意っ!
全てを捨てなければこの世界に来られなかった、わたしのことを!
お前に……お前にっ!」
――準備「神風を喚ぶ星の儀式」――
『お前に、何がわかるってんだっ!』
「……来たか」
怒りと悲しみ、嘆き、絶望、およそ人が考えうる全てのマイナスの感情を顔に浮かべて、早苗は己の次なる手を宣言する。
彼女に向かって、周囲の風が収束していく。
それと共に、彼女の中の『彼女』が高まっていく。
東風谷早苗の器を壊してしまいそうなくらいに高まった、『彼女』の力が外に向かって爆裂し、弾丸ともいえない光の欠片となって霊夢に吹き付ける。
「あんたはね、早苗! 何にも、しがらみを断ち切れてない!
あんたが断ち切ったのは、本来、あんたが残しておかなきゃいけない記憶と過去だっ!
それを忘れちゃいけないのに、どうして忘れようとした!? 忘れてしまった!」
噴出し、叩きつけられる攻撃。
もはや形を成すことの出来ない、早苗の力。
それを必死によけながら、霊夢は彼女へと接近していく。
早苗は霊夢の接近を感知すると、霊夢から距離をとるように動き、己の力を、ただ無闇やたらにばら撒き、激しい攻撃を放ってくる。
「いけっ!」
4枚の札を一枚にまとめ、一抱えくらいの赤の弾丸を生み出して、霊夢は早苗めがけてそれを放つ。
その攻撃は早苗の攻撃を蹴散らしながら彼女に向かって接近し、早苗の肩口に命中する。
その程度の攻撃ではダメージを受けない『結界』を纏った早苗は霊夢へと接近する。
『わたしはこの世界で生きていく! 人を捨て、神の存在となって!
それが、わたしが仕える神が望んだわたしの姿! 覚悟を決め、決意をした、わたしのあるべき姿!
ならば、わたしは今の己を受け入れる! そうなることを避けられぬのなら、それを受け止め、受け入れて、己のものとする!
それが現人神たる、わたしの真実の姿なんだっ!』
「違うっ! 人でありながら神と成ることを望むのなら、人を捨てることとは違うっ!
無様なくらいに、人であることに拘泥することだっ!」
迫る早苗に自ら接近し、彼女と真正面から組み合う。
叩きつけてくる、強烈な衝撃と『気配』。
前方に結界を張り、組み合う両手を結界の盾で覆っていなければ、接近した時点で霊夢の顔と手が吹っ飛んでいてもおかしくないほどの力だった。
「あんたの神が何と言おうと! あんたの神が、たとえあんたに失望しようと!
あんたは人を捨てるべきじゃなかった! ずっと人のままでいるべきだった!
どうして捨てたのよ! どうして、人であった自分を忘れようとしているの! どうして!
あんた、おかしいと思わなかったの!? 後悔を残して旅立つ自分を! 笑顔で『行って来ます』って言えなかった自分を!
あんたはおかしいと思わなかったのか!?」
ばちばちと、二人が組んだ両手の間に火花が散る。
断続的に続く激痛をこらえながら、霊夢は早苗に向かって声を上げる。
「その苦しみから、あんたの神は、あんたを救ってくれない神なのか!」
ばきんと、何かが割れる音がした。
早苗の左手から力が抜け、霊夢の力が押し勝る。
そのまま、霊夢の右手が早苗の肩を掴み、相手を放り投げた。
早苗は空中で体勢を整えると、霊夢めがけて弾丸の雨で反撃してくる。
霊夢は祓え串を構えると、己を中心に無限の結界の陣を形成する。
一枚目の結界が相手の弾丸を全て弾き、二枚目の結界が相手の平面の次元を束縛し、三枚目の結界が相手の立体の次元を拘束する。そして、続く四枚目の結界が、相手の存在そのものを固めると、早苗を中心に無限の陣が展開されて、炸裂する。
早苗の悲鳴が響き渡る。
結界から与えられた、無数の界からなる無限の力。
いつまでも続く衝撃と激痛に、彼女は呻き、体をよじり、それでも、耐える。
『ワたシは逃げナい!』
早苗の声が、変わった。
それまでに響いていた少女の声に混じって、何か、別の『モノ』の気配が現れる。
霊夢は顔を鋭いものに変えて、つぶやく。
「出たな……化け物……!」
彼女の口許に、小さな笑み。
『ようやく引きずり出してやったぞ』
霊夢の顔は、それを語っている。そして、同時に、鋭く引き締められる。
その瞳に浮かぶのは、すさまじいまでの怒り。
『神奈子サまは仰っタ! わタシが、この戦イで、さらナル成長を遂げラれルと!
ヒトならずカみとしテ! 神あルベキ人とシて!
ワタしはモッとツヨクなる! もっと、モット! もっト強くなっテミせる!』
早苗の瞳が変化し、爬虫類のそれを思わせる形となる。
鋭く光るその瞳で、彼女は霊夢を見据える。
全身を拘束する、霊夢の結界を力ずくで破ろうとする。彼女の力に押し負けて、霊夢の結界がぎしぎしとうなり始める。
『神奈子サまは、わたシをこコまで育てテくダサった!
たくさンの知識を、智慧を、力ヲ与えてクださった! わたしハ神奈子さマの恩義に報いルため、こノ身、この心、コの命を神に捧ゲテみせル!
そレがわタシの覚悟! わタしの決意!
それヲ……!』
「そこに、本当に、あんたの意思はあったのか?」
霊夢の小さな問いかけ。
早苗の叫びが、そこで一瞬、止まる。
彼女は何かを思い出すように、思い返すように、言葉を、意識を、止めてしまった。
必死に悩んで、苦悩して、迷いに迷って、辛い想いをして。
それを断ち切るべく、今の世に楽しさを、嬉しさを、希望を持つために過ごしてきた日々。
その全てが去来した瞬間、彼女の思考は弾けて凍りつく。
――どうして、今、こうなっている?
それは、己が望んだから。
――本当に、それを己が望んだのか?
これは神奈子さまのため。一人、孤独に、しかし気高く生きてきた神のため。
――神に命じられたから従うのか?
違う。これは私の意思。わたしは、命じられたから従ったのではない。与えられた恩義に、神の益に報いるために。
――何を与えられた?
力。智慧。経験。過去。未来。
――その代償として、『現在』を捨てたのに?
……それは……。
「早苗。私は巫女だ。
確かに、あんたから見れば、だらだらしててどうしようもないくらいにダメな巫女かもしれない。
紫にだって……ああ、紫ってのは、私の後見人を勝手に名乗ってるおせっかいな妖怪で、私よりも、ずっと強い結界使いの妖怪でね……あいつにだって、よく言われる。
『貴女は、歴代博麗の巫女で、一番の出来損ない』って。
だけど……そんな私でも、ほら、巫女としての仕事をしてる。満足に出来てると思ってる。
そして実際に、たくさんの異変を解決してきた。あんたは知らないだろうけどさ。
だから、私は、今回の異変も解決してみせる」
彼女は大きく息を吸い込み、構えを取る。
「あんたに取り付いてる、その憑き物、私が祓ってみせる!」
なぜ、この人は、初めて会う他人に、これほどまでに入れ込んでくるのか。
その体を傷つけられたとしても、なぜ、引かないのか。
この人は、どうして……。
「ちっ……」
霊夢は舌打ちする。
結界の軋みが限界に達している。そろそろ、この結界も限界だろう。
そして、それが弾けてしまえば、いよいよ早苗を押さえつけておくことが出来なくなる。
あの荒ぶる神を鎮められるか?
古来、神は一度暴れだすと、誰の手にも負えなかった。
同じくらいか、それより高位の神が重たい腰を上げて討伐に来なければ、どうすることも出来なかった。
人の身では、何も出来なかった。
だが、やるしかない。
「やってやるわよ。
博麗の巫女、なめんじゃないわよ!」
彼女は啖呵を切ると、自ら、早苗を束縛する結界を解除する。
風がうなる。
集中していく風が結界をなし、無数の界を築き上げ、その向こうに、『早苗』という存在を確定させる。
「神様の一人や二人、ぶちのめしてやる!
そこのお前! その子はお前のものじゃない! その子の体は、心は、魂は、意之霊はその子のものだ!
取り返してやるから覚悟しろ!」
名指しされた『神』は、霊夢を見据えて咆哮する。
それは果たして神なのか。
もはや、その存在すらわからない。
人が神となったものを神と呼ぶなら、それは『神』なのだろう。
だが、神は神として誰かに認めてもらえなくば神となることは出来ない。
出来損ないの『神もどき』。
それが今、早苗の体と心を贄に、此の世に顕現する。
響き渡る、『神』の声。
早苗を覆って内に捉えた『神もどき』の姿。
――奇跡「神の風」――
「神を名乗るか、この野郎!」
霊夢の怒りが響き渡る。
早苗を中心に展開され、吐き出される、猛烈な烈風。
それはもはや風ではなく、物理的な攻撃力を持った『弾丸』だった。
目に見えない、弾丸の嵐。
その力は辺りの空を切り裂き、木々を薙ぎ払い、大地を丸ごと巻き上げる。
「くそっ!」
結界の盾を展開して攻撃を避けつつ、霊夢は反撃を放つ。
しかし、放たれる全ての攻撃が、早苗を中心に渦巻く界に飲み込まれて、粉々に粉砕される。
「魔理沙みたいな攻撃が使えたら楽だったかもね」
実体弾ではなく、エネルギーのみで構成される攻撃であれば、あの界を突き抜けることも、もしかしたら可能かもしれない。
だが、ないものねだりはみっともない。
自分に出来る範囲で、出来ることをやるしかない。
何せ、宣言したのだ。
自分が彼女を助けてみせると。
「この似非神! その子を離せ!」
放つ弾丸は、全て、風によって吹き散らされる。
とにかく、霊夢の攻撃には威力が足りない。
直線を突き進む推力が、勢いが、全く足りないのだ。
彼女自身が搦め手の攻撃を好むというのもあるが、こういう状況に陥ると、魔理沙のような直線の強さが羨ましくなってくる。
「ちっ!」
相手から放たれる弾丸は、的確に霊夢にめがけて飛んでくる。
かと思えば、こちらが必要以上の回避を出来ないように、その動きを制限してくるおまけつきだ。
あの『神』に己の意思があるかどうかはわからないが、あくまで相手は、この世界のルールに則って霊夢を倒そうとしているらしい。
律儀なのかいい加減なのか。いまいちわからない相手だ。
「それでも、私が今まで戦ってきた連中の中で、一番、胸くその悪い相手だけどね」
霊夢は相手に接近しようとする。
だが、相手は鋭い風を巻き起こして風の壁を生み出し、霊夢の接近を阻む。
妖怪の山の大瀑布にすら匹敵する、分厚い風の流れを乗り越えることは出来ない。
接近を阻まれた彼女は、一旦、切り返して相手から距離をとる。
「早苗! 聞こえてる!?
あんたの中の神様、今、何て言ってる!?」
霊夢の声は、果たして、早苗に届くのか。
己に宿った『神』に完全に体を乗っ取られ、ただ、『神』の力と言葉を此の世に顕現するだけの触媒と成り下がった彼女に、『人』としての意思があるのかどうか。
わからないが、訴えかけるしかない。
「そいつを何て言ってる!? 悪党!? 屑野郎!?
何でもいいよ! そいつが悪い奴だって言ってくれれば、もっと本気でぶつかれる!」
彼女の周囲に、淡く輝く無数の弾丸が生まれる。
霊夢の指の動き、腕の動きに従って飛翔するそれが、『早苗』の張った風の結界にぶつかり、爆裂する。
風はうねり、ねじれ、破壊される。
だが、その流れを止めることは出来ない。
一度、空いた穴はすぐに修復され、結果として、元通り。ダメージなんて与えられない。
「夢想封印でもダメか……。どうするかな……」
よけられない弾幕は禁止というルールを明言したが、『当てられない状況』を禁止するとは明言していない。
この状況下で、あれにダメージを与えるには、結界を乗り越えるしかない。
しかし、結界は、此の世に界をなして別の世界を作り出す技術。
結界使いの使う結界は、結界使いにしか破れない。
「仕方ない」
霊夢は右手に札を取り出した。
その札は互いに寄り集まり、硬化し、鋭く先端を尖らせていく。
「こいつでぶち抜く!」
彼女はそれを――札で作り出された剣を握り締めると、『早苗』に向かって突進する。
「うわたっ!?」
飛んでくる風は、形を変えて、鋭い鎌鼬となった。
それに触れたらしい右足が、肉がばっくりと切り裂かれ、血が遅れて噴出してくる。
血が出てくる少し前には、彼女の足の骨すら見えた。あんなものが直撃すれば、そうと気付くことなく真っ二つだ。
「結界を固めないとやばい!」
全身を覆う結界を生み出して、改めて、『早苗』に向かって突撃する。
接近すればするほど、風が強くなる。
そのうねりに流されまいと、必死に歯を食いしばって、結界を維持しながら接近していく。
「早苗! 聞こえてる!? 聞こえてないなら、私が適当に言ってるだけだから、空耳として聞き流しておいて!
お菓子、ありがとう! しばらく、甘いもの食べてなかったから、すごく嬉しいわ!
これが終わったら、一緒にお菓子、食べよう! 紫がねー、うるさいのよ! 他人から頂いたものを独り占めするなんて、あなたはなんて意地汚いのかしら、って!
だから、くれた人と一緒に食べないとさー、あいつがうるさいの! わかったー!?」
腕を伸ばし、それが風に触れて弾かれる。
指先に傷。血が、風の流れに乗って、霊夢の体から吸い出されていく。
『早苗』の周囲に渦巻く、風の結界は、触れるもの全てを拒み、弾く、刃の壁であると共に、近づくものを全て吸い込もうとする無限の結界でもあった。
下手に接近すれば、全身を切り刻まれ、血を抜かれて即死する。
全く、とんでもない『界』である。
「行くわよー!」
霊夢は、その『界』に挑む。
手にした刃の先端を風の壁に叩きつけ、それを両手で押し込んでいく。
「このっ……! 固いなぁ、もう!」
全身の体重を乗せて、思いっきり、刃を押し込む。
ぎりぎりと、刃はきしみ、先端がへし折れる。
しかし、霊夢は構わず、折れた先端を己の力で補い、なお、諦めない。
「早苗! あんたは、どう思ってるの!? 今の自分!
あんたはね、もっと自分を前に出していかないとダメ! 言われたから、恩だから、とか! そんなこと、どうだっていい!
そりゃ、あんたの行動の動機にはなるよ! だけど、それは最終的には他人に頼ってるだけ!
自分がしたいから! 自分がこうしたいと思ったなら、それに向かって突き進めばいい!
いやだということは素直に言って、やりたいことは思いっきり楽しむ!
そういう生き方できないと、幻想郷じゃ、阿呆と馬鹿に流されて、胃に穴空いて髪の毛抜けるよ!」
がきん! という鋭い音がした。
風の流れを、霊夢の刃が貫通する。
よし、と彼女はつぶやいた。
その瞬間、霊夢が纏う結界がきしみだす。
「こいつ……こっちを潰すつもりか!」
結界で結界を覆い、握りつぶす。出来ないことはないが、両者に圧倒的な力の差が必要となる。
たとえるなら、霊夢と紫程度か。
霊夢は己の結界術に自信を持っている。
しかし、
「マジでやばそう。あんまりもたないな」
がたがた揺れる結界は、すでにあちこちがほころび、壊れ始めている。
あまり時間をかけると、本格的に、結界ごと潰されてしまいそうだ。
「急ぐか」
両手に再度、意識を集中して、貫いた刃を深く、深く、押し込んでいく。
相手の結界から伝わる衝撃。そして、力。
「くっ……!」
相手の結界を通して伝わってくる熱が、彼女の手を焼いていく。
すぐさま手を離したいくらいの高熱に、彼女は歯を食いしばる。
熱い。痛い。涙が浮かんでくる。
しかし、諦めない。
「早苗、あんたはね、自分で自分を『人を捨てて神になった』とか言ってたけど、あんたはやっぱ人間だよ」
がきん、と音がする。
刃がさらに一段食い込み、『早苗』へと、迫っていく。
「そう言われたら、あんたにとってはショックかもしれないけどね。
神様ってさ、迷わないんだ。自分のすることには絶対の自信を持っているし、他人の言葉を絶対に受け入れない。
神様ってやつは完成してるからね。その態度は自信に満ち溢れているし、同時に傲慢だ。
あんたは違う。
あんたは迷った。私の言葉に。今まで自分が信じていたものに疑問を感じた。
それはね、人間の特徴だよ。人間は迷う。自分のすることにすら。
信じていたくせに。こうだと思っていたくせに。ちょっとしたことで、足下ふらついて、わけわかんなくなって、今のあんたみたいになることもある。
けどね、それって、人間にしか出来ないことなんだわ」
さらに、刃が突き進む。
あともう少しで、その先端が『早苗』に届く。
ここが正念場とばかりに、霊夢の両手に力がこもる。
同時に、結界の一部が崩れ、そこから風が入り込んでくる。
結界の中から空気が吸い上げられ、霊夢は大きく息を吸い込んだ。
「迷っていい。どうしたらいいかわかんなくなったっていい。それをいつだって自分の力だけで決められる奴なんていない。
必ず、何かに頼る。何かにすがる。
あんたにとって、それが神様だった。ただそれだけのことだ。
あんたはね、優しいし、まっすぐすぎるんだ。
だから、簡単に騙される。悪党に利用される。
この世界にゃね、あんたの世界じゃ考えられないことがたくさんあるよ。もしかしたら、あんたに害をなすことだって。
そういう時にね、必要なのは、自分を思いっきり前に出して跳ね除けること。
自分を神に昇華させたいなら、絶対にそうするんだ。あんたはまだまだ、人なんだから。
迷ったら、手を貸すよ。
私は人のまま生きて、人のまま死ぬつもりだ。神になるなんてまっぴらごめん、興味すらない。
だけど、頼られたら、それに手を貸す事だってやぶさかじゃあない」
結界が限界を迎えて崩れ始める。
『早苗』の展開する風の結界が、霊夢を丸ごと、握りつぶしていく。
響く騒音。きしむ世界。
その中で、霊夢は歯を食いしばって、叫ぶ。
「だから!
そんな奴に乗っ取られてないで、こっちに手を伸ばせ!
この世界じゃ、私の方が先達だ! 偽物だろうが本物だろうが、神様だろうが、私にとっちゃ後輩だ!
この世界での理屈、ルール、楽しいこと、辛いこと、幸せ、不安、喜び、涙! 全部、教えてやるよ!
幻想郷は誰だって受け入れる! 幻想郷へ――!」
ついに、霊夢の刃が、完全に『早苗』の結界を抜けた。
刃は『早苗』の胸に突き刺さり、その体を貫いていく。
「ようこそ!」
刹那、全てが弾けて、砕け散る。
界は壊され、一つに融合される。
「外側はすごいことになってるね」
いきなり、後ろから声がした。
振り返ると、そこに、あの少女の姿がある。
もう何度も見てきた、あの彼女。彼女は気楽に両手を頭の後ろで組んで、
「大丈夫かい。早苗」
と、声をかけてきた。
早苗は『あ、はい……』と曖昧に返事をした後、『誰だろう、この子?』と首をかしげる。
「本当ならさー、わたしがもうちょい、早苗に干渉したほうがよかったんだろうね。
全く、神奈子に全部任せたらこれだよ」
「え? 神奈子さまのお知り合いなんですか?」
「そうだよ。神代の時代からずっとね。
あいつにゃ、色んな意味で世話になった。国を盗られたところから、ね」
「……え?」
「大昔にゃ、神様同士の争いなんてよくあることでさ。
わたしは神奈子に負けた。負けて、国を盗られた。
んだけども、うちの民は神奈子に迎合することをよしとしなくてねー。
結局、わたしが国を統治してた」
けらけらと、彼女は笑った。
早苗は『あの、どういう意味ですか?』と尋ねる。
「神奈子はね、まぁ、いい奴さ。
あの、神としての姿勢は真似できない。わたしの柄じゃない。
そういうところは尊敬しているし、羨ましいとも思う。
ま、結果としては、この有様だけど」
「……」
「わたしも神さ。
もうずいぶん前に力を失ったよ。消えてしまうところだった。それを助けてもらって、今、生きてる」
自分はどこの神様で、今、どこにいるのか。
それを彼女は語ろうとはしなかった。
「幻想郷ね。面白いところを見つけたものだよ。この世界なら、うちらも満足して生きていけるかもしれない」
「はい」
「だけど、ちょっとやり方がまずかったというか、うまいこといかなかったね。
現地の民を敵に回しちゃまずい」
その辺りは神奈子だし仕方ない、と彼女は笑った。
そういうことがあったとしても、後で取り返せばいい。謝るってのは、そういう時に使うもんなんだ、と。
何やら、彼女には彼女なりのポリシーがあっての発言のようだ。
早苗としては、『そもそもいざこざを起こさない方がいいんじゃ……』という立場なのだが、
「早苗はさ。大変だね」
なぜか、彼女の前では、その言葉を口に出せない。
彼女は早苗へと近寄ってきて、背伸びをして、その肩をぽんぽんと叩く。
「あんたはほんとに、何ていうか、馬鹿だねぇ。
真面目すぎるっていうか、融通利かないっていうか。
何でもかんでも自分でしょいこんで、誰かに助けを求めない。そのくせ、最後の最後に、逃げるところがなくなったら、ためたものを爆発させてしまう。
そういうの、悪い癖だよ」
「うぐ……。よく言われます……」
「もっとさ、世の中、軽く考えていいんだよ。
なぁに、早苗のするミスの一つや二つ、神奈子に尻拭いさせればいいさ。あいつはそういうのだってためらわないくらい、早苗を溺愛してるからね」
「……そうでしょうか」
「してるしてる。親ばかっていうか、ありゃ馬鹿親だ」
あっはっは、と彼女はおなかを抱えて大笑いする。
その彼女には、さすがに同意も出来ず、早苗は苦笑いをするだけだ。
「ここまで来るの、大変だっただろう?
あっちの世界じゃ追い払われ、こっちの世界じゃ、面倒な奴らに目をつけられる」
「……仕方ないと思っています」
「生きながらにして幻想になる。
それは果たして、生きているって言うカテゴリに当てはまるのかね」
彼女はひょいと肩をすくめて、そんな、答えの出ない質問を投げかけてくる。
「わたしはね、神奈子と同じ、早苗には幸せに生きて欲しいと思っているよ。
神になろうなんてとんでもない。神ってやつぁ、面倒だ。生きていくだけで面倒だ。
なのに、神奈子の奴は、何で早苗を神様にしたがってるのか」
「あの、神奈子さまには、神奈子さまなりの考えが……」
「多分だけどね。
神奈子は、幻想郷の厄介なところを、早苗よりも多く見てしまったんだと思う。
それを見たから、早苗がこのままじゃ『まずい』と思ったんだ。
だから、早苗を『神』に押し上げたかった。
……ま、結局、親ばかなのさ」
少しだけ、そこで、彼女は悲しそうな顔をする。
あの、と声をかけようとして、伸ばした手が、鋭い衝撃と共に弾かれる。
「え……?」
いつの間にか、少女の周囲を、半透明の壁が覆っていた。
それを見て、早苗はすぐに感づく。
これは、結界だ。
「あー、またか。
あいつはほんと、早苗のことばっか考えてるなー。もう」
「あ、あの!」
「あ、だいじょぶだいじょぶ。これ、わたしを閉じ込めるだけで、早苗には悪影響、ないから」
「よくありません!」
早苗は結界の側へと駆け寄り、何とか、それを解除しようとする。
だが、彼女の使うあらゆる術が通じない。
何らかの効果を見せるものもあっても、地力が全く違うのか、その力が全く及ばないのだ。
「早苗。
あいつはね、本当に、早苗のことを大切に思ってるみたいだよ。
ただ、その愛情が、ちょっとずれてるっていうか」
「そういう愛情の押し売りはいりません!」
早苗の右手が結界に押し当てられる。
そこに激しい火花が散り、肉の焼けるいやな臭いが漂う。
「早苗は、何で幻想郷に来たの? 神奈子のため?」
「……多分、そうです」
ばちばちと、弾ける火花を押さえ込み、早苗の指が結界を握り締めていく。
苦痛。激痛。
すぐにでも、手を離したくなる衝動に駆られる。
「わたし……多分、神奈子さまのことが心配だったんだと思います。
だって、神奈子さまは、わたしが生まれるまで、何百年……あるいは、何千年もの間、孤独でした。
民が信仰を失い、己を信奉する神子までが神奈子さまの姿も見えず、声も聞こえない状態になってしまって……。
それでも、ずっと、お一人で神社を守り続けてきたんです」
「そいつは違うな。
神奈子は、神社を守りたかったんじゃない。自分を守りたかったんだ。
消えてしまう自分が怖かったんだよ」
「たとえそうだとしても、神奈子さまが、わたし達の神社を守り続けてきたことに代わりはありません。
ずっとずっと、たった一人で」
ばきっ、という音がする。
早苗の指が結界を破り、その内側へと侵入した。
真っ赤になった指。皮膚は溶け落ち、筋肉が見えるくらいに焼かれた肌。
それを、目の前の少女はじっと見詰めている。
「そんな人が、もうどうしようもなくなって、最後の希望をかけて幻想郷にやってくることを決意した。
その際に、神奈子さまは、わたしを失うかもしれなかった」
「まぁ、そうだね」
「何百年、何千年、待ち続けた、自分の姿が見える、自分の『神子』。
……きっと、嬉しかったんだと思います」
「そうだね」
「幻想郷にやってきたとて、信仰を回復できるかわからない。また、一人になってしまうかもしれない。
神奈子さまは、それを、どのように感じていたのか。その御心を探ることなど不敬だと思いますが……きっと、怖かったんだと思います」
「そうかもね」
やれやれ、と少女は肩をすくめた。
早苗の指先が弾けて、骨が露出する。
手から力が抜けていくのを感じながら、早苗は思いっきり、掴んだ結界を引っ張り上げ、その結界を根元から引きちぎった。
「わたしにとって、神奈子さまは、父親であり母親です。
たくさんのことを、あの方は教えてくださいました。
わたしは、あの方から与えられた恩義に報いることが……」
「必要ないよ、そんなの」
「……え?」
「神は確かに、与えられた見返りを欲しがる。けれど、欲しがる見返りは信仰心だ。物理的な見返りなんていらない。
神奈子はね、もし、早苗が『ついてこない』って言ったら、ためらわずに一人で幻想郷に来たと思うよ」
そこが間違ってるんだね、と彼女は言った。
引きちぎられた結界を乗り越えると、彼女は大きく伸びをする。
「あの巫女が言っていただろう?
早苗は早苗の意思で、幻想郷に来たかったのか、って。
本当に、そうなのか、って。
元の世界にいた方が幸せになれたかもしれないのに、どうして幻想郷に来たんだ、って。
そこんとこどうなの?」
「あ……その……」
改まって、瞳を見つめられながら問われると、言葉を失ってしまう。
早苗にとって、今回の行動のきっかけは、自分で言ったとおり『神奈子』だ。
彼女を一人にさせたくない。また、彼女を孤独にさせたくない。
それが、今回の、彼女の行動原理だ。
「神様を馬鹿にしちゃいけないよ。人間と神様は、考え方が違うんだ。
神奈子は、早苗が、元の世界に残りたいと言ったら何も言わなかった」
「……その……」
「早苗」
「……居場所、なくなっちゃいましたから」
小さな声で、彼女はつぶやく。
「迷いました。
仰るとおり、とても迷いました。
本当に神奈子さまについていっていいのか、その決断を下していいのか、って。
神奈子さまは、わたしに『全てのしがらみを断ち切れば、ついてきてもいい』と仰いました。
わたしに、その『しがらみ』というのが何なのか……わからなくて……」
「だろうね」
「……だから、あの時……みんなが……みんなの記憶の中から『わたし』がいなくなった瞬間、わたしの居場所はあそこになくなったような……。
だから、それでいいのかなって……」
神奈子さまも何も言わなかったし、と早苗。
はぁ、と彼女はため息をついた。
「神奈子の言っていた『しがらみ』ってのは、確かに、元の世界とのつながりみたいなもんさ。
それを持たない神奈子にとって、幻想郷に来るのにしがらみなんてないからね。
けど、早苗はそうじゃない。
だから、それを捨ててこいと言った。早苗に、それだけの覚悟があるのか、って」
結果は、どうだったのか。
思い返してみる。
そういえば、確かにあの時、神奈子は言った。
『自分が予想していたのと違うが』
――と。
早苗が全てに忘れられることを、神奈子は想像していなかった。それをなすにしても、早苗が己の力でやると思っていた。
結果が、違う。
あの時点で、何かがずれている。
「早苗。
あんたはね、あいつにまんまとはめられた。あいつにしてみれば、それが早苗のためと信じてやったことなのかもしれない。
だけど、結果は、早苗にとって苦しいものだった。
神奈子はね、多分、気付いてないよ」
「え?」
「今、早苗は、順調に育ってる。現人神として。そしていずれは神として。順調すぎて怖いくらいだ。
それを神奈子はとても喜んでいる。
手塩にかけて育てた神子が、己の望む姿になってきてるんだ。そりゃ、神様でも嬉しくて目が曇ることくらいある。
早苗。一つ聞くよ。
早苗は本当に、神になりたいの?」
まっすぐ、真摯な瞳で見つめられて、早苗は言葉に詰まる。
少女は『だよね』と笑う。
「今の問いに真っ向から答えられる奴なんていない。わからないんだ。当然だよ。
だからね、早苗。その迷いを大切にして。今、決めちゃいけない。今、それを決断しちゃいけない。
神奈子のためだとか、自分の成長に必要なんだとか、そんなことも考えちゃいけない。
日々を過ごしていく中で、いずれ、それを己で決断できるようになる。
それまで、絶対に、結論を下しちゃいけない」
「だ、だけど……」
「それを強制する奴がいる。
わたしは、そいつを許せない」
少女はそうつぶやくと、大きく伸びをする。
「早苗。
今はまだ、早苗は人間のままでいるといい。友達をたくさん作って、みんなと一緒に、楽しく過ごすといい。
最初は神奈子のためだった自分の決断が、本当は正しかったことに気付くことが出来たら、また一つ、何かが変わる。
逆に、この世界に来てしまったことを後悔するようになったら、己の決断を嘆き、浅はかな自分を呪うといい。そうすることしか、早苗には出来ない。
どっちになるか、今はまだ、わからない。
わからないから、絶対に、自分だけで決断を下しちゃいけない。いいね?」
「あ……!」
少女の体がふわりと溶けて消える。
それと同時に、早苗の周囲の世界も崩れて壊れていく。
今まで構成されていた何かが、離れて、外れていく。
何が起きているのか、わからない。
わからないが、今の『わたし』に起きている、この事象は、『わたし』にとって必要だということがわかる。
――足下が崩れて、体が下に落下を始める。
飛ぼうと思っても飛べない。
落下に逆らおうと手を伸ばしても、届かない。
目を閉じ、体を固くする。
すると、その手を掴む感覚が生まれる。
目を開けると、消えた少女がそこにいる。彼女はにっこり笑って、早苗を上へと連れて行ってくれる。
落ちて消えていくものが、また生まれていく。
目の前に広がるのは、光――。
霊夢の突き出した刃が『早苗』の心臓を抉る。
『早苗』は絶叫し、その身をよじり、激しく、己の周囲の風をゆるがせた。
風に流され、なぶられ、傷つけられても、霊夢は刃を放さない。
「さあ、大人しく出て行け! 出ていかないなら、このまま、結界の狭間に逆落とししてやる!」
霊夢の刃は、さらに『早苗』の胸の中へ食い込み、彼女にダメージを与えていく。
『早苗』は呪いの瞳で霊夢を見る。
開いた瞳孔の向こうに、暗く光る星が見える。
霊夢は大きく息を吸う。
そして、彼女は握っていた刃から両手を離すと、『早苗』の頭を押さえた。
「堕ちろ!」
彼女と唇を合わせて、思いっきり、肺から息を吹き込んでいく。
『早苗』の胸が大きく膨らみ、霊夢が体を離した途端、彼女は絶叫した。
その悲鳴は徐々に苦鳴に代わり、弱々しい悲鳴へと変わって行く。
断末魔を上げてもがき苦しんだ『早苗』の体から、何かがぼたりと、地面に向かって落ちていく。
急速に、風が収まる。
早苗の周囲で荒れ狂っていた風は凪を迎え、やがて、その凪は、優しい、温かな風に変わって行く。
「……っと」
早苗の体から力が抜け、地面へと、彼女は落下していく。
それを霊夢は抱えると、ふんわり、ゆっくり、地面に着地する。
「おい、大丈夫? ちょっと」
気を失っている彼女の頬を、ぴたぴたと張る。
しばらくすると、彼女は『ん……』と声を上げ、目を開けた。
「よっし。お祓い成功。もう大丈夫だよ」
「あ……」
早苗は目の前の霊夢を見て、彼女の笑顔を見て、慌てて霊夢から体を離すと、地面の上で土下座した。
「申し訳ありませんでした!
霊夢さんにご無礼を働き、このような事態を招いて……!
本当に、ごめんなさい!」
絶対に謝ってなんてやるものか。
そう宣言して、心に決めていたはずなのに、それをあっさりと覆す。
先ほどまで――そう、それこそ、ほんの数分前どころか数秒前の自分すら、どこかに抜け落ちて、消えてしまったかのようだった。
憑き物が落ちた。まさにその表現にふさわしい心の入れ替わりを、彼女は言葉に出せずに感じ、それをただ、行動で示したのだ。
「あ、いや、そこまで丁寧に頭下げてもらっても」
霊夢は引きつり笑顔を浮かべ、頬を指先でかいた。
とりあえず、彼女は早苗に『ほら、頭上げて』と笑いかける。
顔を上げた早苗の頬には、涙の跡。霊夢は肩をすくめると、「ほい、ハンカチ」と真っ白なそれを手渡した。
「いやー、よかったよかった。
ようやく元に戻ったわ」
「元に……?」
「あんたは察してないかもしれないし、全く身に覚えのないことかもしれないけど。
あんたは何かに取り憑かれてた。
そいつが何の目的を持って、あんたに取り憑いていたのかわからないけど、よくないものだったからね。
祓い落としておいたよ」
「……いつの間に……」
「人ってのはそういうもんだよ。
心の隙間を見せれば、そこに付け込んでくる奴らがたくさんいる。ふとしたことで何かに取り憑かれて豹変する人なんて、腐るほど見てきた。
あんたの場合は、ちょっと厄介だったから。だから、落とした」
そんだけ、と笑う彼女は、服のポケットから、早苗が持ってきた菓子折りのお菓子を取り出した。
それを一つ、早苗に放ると、自分の手元のお菓子を口にする。
「んー、なかなか。
食べないの?」
「あ、は、はい。いただきます」
慌てて、彼女も封を切って、お菓子を口に運ぶ。
あんこのしっとりとした、優しい甘さが口の中に広がる。
弾幕勝負は疲れるからねー、と笑う霊夢と一緒に、お菓子を頬張る。
「ねぇ、あんた。
えっと……早苗だっけ?」
「は、はい」
「初めまして。改めて。博麗霊夢です」
「こ、こちらこそ。東風谷早苗です」
差し出された手を握り、ぺこぺこと頭を下げる。
霊夢は嬉しそうに、満足したように笑うと、お菓子をぺろりと平らげる。
「あー、美味しかった! この頃、甘いもの食べてなかったから余計に!」
「そうなんですか……?」
「うちはお客さん来ないからさー」
「それって、お客さんを獲得する努力を怠ってるからじゃ……」
「んー? 努力してるよ?
頼まれれば加持祈祷はするし、ちゃんと御守作って売ってるし」
「いえ、そういう努力もそうなんですけど。
もっと根本的に、神社の宣伝とか……」
「口コミ」
「だからですよ」
はぁ、と早苗はため息をつく。
「あのですねぇ、霊夢さん。
そもそも神おわす社が、あんな煤けていたり、参道が壊れていたりしたら、得られる加護もご利益もあったもんじゃないですよ。
あーいうのがいけないんです。ちゃんとしましょうよ」
「うわ、紫みたいなこと言われたし」
「その紫さんが何者なのかは知りませんけど。
少なくとも、周りはそう見ているということです」
つまりは霊夢が悪い、と早苗は断言する。
はいはいと霊夢は軽く肩をすくめて受け流し、聞く耳持たずという感じだ。
これでは、参拝客が増えるはずもない。
「あんたのところの神社さ、人里から人を集めてるよね?」
「……ええ、まあ。人々に益をなすのが神奈子さまのお力ですし」
「そういうことやられると、うちからお客さんがさらにいなくなるんですけど」
「そう言われても」
「第一、こんな山奥にある神社に、普通の人が来られるわけないじゃん」
「あー」
言われてみれば確かに。
妖怪の山は、深く、広い。
下手にその奥地に入れば、そこを住処とする妖怪たちに狙われ、襲われる。
そんな危険なところに、好き好んで参拝に行くものなど、いるはずもない。
「だからさ、妖怪を信者にしたらどう? この山の。
天狗たちとか、河童とかさ。あいつらだって、数だけなら人間以上にいるでしょ」
「ええ、そうですね……。
ああ、そっか。そういうのもありですね」
「でしょ? 私って、あったまいい!」
「だけど、それとこれとは別です。
人間のお客さん……。
……あ、そうだ。霊夢さんの神社に、うちの分社を置いてもらうとか」
「えー。お客さんいなくなるー」
「うちの分社にお参りに来る人に、『博麗神社のご利益もあわせれば、ご利益二倍で倍率ドン!』って宣伝したらどうです?」
う~ん、と霊夢は渋い顔。
よっぽど、そうして精力的に働くのがめんどくさくていやらしい。
怠け者なのか、神様への信仰を、そもそもこやつが持っていないのか。
もしかしたら両方かも、と早苗はため息をついて、
「じゃあ、うちの分社に奉納されたお賽銭、場所代で15%くらいあげますから」
「やる。」
「即答ですか」
あまりにも俗物過ぎる回答に、早苗にも諦めの色が浮かぶ。
しかし、とりあえず、これで問題は解決したわけだ。一応、ほっと安堵するべきなのだろう。
「あとさ、早苗」
「はい」
「うちら、よく、神社で宴会とかしてるんだ。
今度、おいでよ」
「え? だけど……」
「いいからいいから。
うちにはね、色んな奴が来るよ。夏の日差しがいやだから、って理由で幻想郷を霧に閉ざした奴とか、桜が見たいから、って幻想郷から春を奪っていった奴とか。あと、月からの使者を欺くために、偽物の夜を作った奴もいたっけ。
そんな連中に比べたら、あんた達のやったことなんて軽い軽い」
そして、そんな奴らも、霊夢の、今では『友人』なのだという。
もちろん、彼女はそう言った後に、『ああ、知り合いだ、知り合い』と言い直すのだが。
そうした者たちすら、集まって、賑わい、楽しく過ごすのが博麗神社の宴会なのだとか。
「あんた達が何をしたかとか、そんなの関係ない。
一緒に並んでご飯を食べて、お酒飲んで、はい全部チャラ、ってのがうちらのルール」
「……いいんですか? そんないい加減で」
「いいのいいの。
糸って奴は、いつでもぴんと張り詰めてると、ちょっとした事でも切れるようになるけれど、普段はだらりと垂れ下がっていれば、なかなか切れるもんじゃない。
必要に応じて張り詰めて、必要に応じてだらだらする。
メリハリだね」
じゃないと疲れるだけ、と彼女は笑った。
つられて、早苗も笑い出す。
――何だか久しぶりに笑ったような気がした。
こんなに楽しく、心から笑ったことは、ここしばらく、なかったような気がした。
「おーい、霊夢ー!」
頭上から声。
振り仰ぐと、そこには、霊夢の友人という白黒魔法使いの姿。名は、確か魔理沙と言ったか。
その彼女の後ろには神奈子まで続いている。
「ふっふっふ。
今回の異変の解決は、私がやってやったぜ! お前の出る幕はなかったな!」
「神奈子さま、大丈夫ですか?」
「なに、大したことではないですよ」
その神奈子は、あちこちにダメージを受けたような跡がある。
もちろん、魔理沙のほうも無事ではなく、服が破け、肌が露出している。
しかし、双方共に、お互いを恨むような感じを見せることはなく、むしろさっぱりとした雰囲気を漂わせていた。
「ちぇっ、あんたがぼろぼろになったところに、颯爽と援軍で駆けつけてやろうと思ったのに」
「残念だったな」
「神奈子さま」
「早苗」
立ち上がろうとした早苗を押し留めて、神奈子。
彼女は早苗の瞳を覗き込むと、優しい笑みを浮かべる。
「よろしい」
一体、何が『よろしい』のか。
早苗にはわからなかった。
尋ねるようなこともしなかった。
ただ、神奈子の手が、早苗がまだまだ小さかった時のように頭に乗せられる。
何となく、ただそれだけで神奈子の言いたいこと、彼女の考えていることがわかったような気がして、早苗は嬉しそうに目を細める。
「よし、そんじゃ、異変は解決だ。
帰ろうぜ」
「そうね。よっ……と」
「お、おいおい。大丈夫か」
立ち上がろうとした霊夢の足下がふらつく。
慌てて、魔理沙が彼女に肩を貸した。
霊夢は苦笑すると、「早苗、割りとあんた、強かったよ」と言った。
「それじゃ――」
またね、と。
霊夢が笑顔を浮かべようとした瞬間、その目は鋭く引き締められ、口許は真一文字に結ばれる。
魔理沙が『おい、どうした』と尋ねようとする、その言葉を遮って、空に声が響く。
『おやおや、もう帰っちゃうの? もったいないねぇ。お遊びはこれから始まるってのにさ』
「っ!?」
早苗も空を振り仰ぐ。
今、聞こえた声には覚えがある。
何度も何度も、夢の中、闇の中、無の世界で出会った、あの『少女』。
彼女の声と、全く同じなのだから。
「あっち!」
霊夢は鋭く叫び、空に浮かび、そちらに飛ぼうとする。
だが、それを神奈子が遮った。
「ちょっと!」
彼女のすさまじい神力に衰えは見られない。
魔理沙が『なんてやつだ。あんだけやられてこれかよ』と呻いている。
「ここより先に進むことは許さん」
「何でよ」
「この地より奥――そこの魔法使いが我と交えたよりもさらに向こうに、眠る神一つあり。
その神を起こすことは許されぬ」
「へぇ」
霊夢の瞳に敵意が宿る。
これほど傷ついているというのに、まだ闘志を失わない彼女に敬意を表するためか、神奈子の神力が爆発し、膨れ上がる。
その圧倒的な力は幻想郷そのものを揺るがす。
「ダメだ」
「なら、あんたをぶち倒してでも通してもらう」
「やってみるがいい。
これは、お前たちのためなのだ」
「は?」
「ここより先に潜むは神。この地、この場、この時に眠るは祟り神なり。
その深き呪いに、その身、呑みこまれたいか?」
神奈子の瞳。
その鋭い視線に、魔理沙は息を飲み、霊夢もわずかに体を堅くする。
――当然でしょ!
そう、霊夢が叫ぼうとしたときだ。
「ならば、わたしが行きます」
横から、思いもしなかった声が響く。
神奈子すら、目を丸くして振り向いた先に、早苗の姿がある。
「わたしは、この神社の神子です。
自分の神社に、自分の知らない場所や知らないものがあるのは、神子としてどうかと思います」
二人はしばしの間、にらみ合う。
早苗は内心、腰が引けている。
神奈子から叩きつけられる視線の圧力に、足が震えている。
だが、それを必死にこらえ、神奈子を見つめていた。
その視線の強さは、神にすら通じるほど。
それを証拠に、神奈子は静かに視線を外すと、『好きにしなさい』と言った。
「はい。好きにします」
「貴女は昔から、私に従順だった。私以外の誰かに対しても、言われたことには『はい』と答えて口答えを、抵抗をしなかった。
その貴女が、初めて、私に刃向かった。
……反抗期かしらね」
「わたしは悪い子じゃないので、ご安心を」
「気をつけなさい」
「はい」
早苗は霊夢と魔理沙にウインクをすると、先頭に立って移動する。
二人は一瞬だけ、顔を見合わせてから、早苗に続いた。
神社を飛び越え、その向こう――深く、濃くなる神域の向こうに広がる、一つの湖。
早苗が昔、神社に遊びに来ていた時、この湖に近づこうとして両親に、そして神奈子に叱られたことのある場所。
そのほとりへと、三人は降り立った。
「私が神奈子とやりあったのはこの辺りだ。
あいつは一体、何を守ろうとしてるんだ?」
「さあね。まぁ、よくないものでしょ」
「まだ奥があります。行きましょう」
三人は空へと舞い上がり、湖の奥を目指す。
つと、上空から湖を見下ろすと、それは、美しい光を放って三人の目を魅了してくれる。
見事にきれいに透き通った水。水底まで臨むことの出来るそれに、ふと、三人は己の目を疑う。
「あれ……社じゃないか?」
水底に揺らめく何かが見える。
五つの岩塊が塔のように突き立ち、それは五つの頂点を持った星の形を形成している。
星の中心には社のようなものがゆらゆら揺らめきながら存在し、その周囲を注連縄がくくっている。
三人は顔を見合わせると、『とりあえず、あそこにはどうやって行けばいいだろう』と思案する。
見た感じ、深さはかなりのもの。
皆、泳ぎは得意であるが、『潜水ってやったことない』というものばかり。
「あの、じゃあ、わたしが潜ります」
「そうだな。何かあったら、私が上からサポートするよ」
「よし、頑張れ」
「お前も何かしろよ」
そんな間抜けなやり取りの後、早苗は湖の水面ぎりぎりまで下りていき、よーし、と気合を入れなおす。
「そんなところ潜っても、逢いたい奴に会えるかどうかはわからないよ」
その時、後ろから声がした。
一同は自分の背後を振り返る。
湖の上、浮かぶ木っ端に足を乗せて、にやにや笑いながら水面に立っている少女が一人。
その姿に、早苗は見覚えがある。
「お前にこうして会うのは初めてだねぇ」
「……!」
「おい、霊夢。あれ」
「……想像以上だわ」
その少女から漂ってくる禍々しい気配。
霊夢は吐き捨てるように「あいつがあの子に取り憑いてた」とつぶやく。
霊夢によって、早苗の外に『吐き出された』少女。
彼女はけらけら笑いながら、「娑婆の空気は久しぶりだよ」と言った。
「あんた、何者!?」
霊夢の鋭い誰何の声が飛ぶ。
彼女は自分を指差すと、にやりと笑い、
「わたし? わたしの名前は洩矢諏訪子。
ここ、洩矢の地に住まいし諏訪の神。大昔には、そりゃあ、大勢の人々を統べていたもんさ」
「国すら平定する神だったわね。確か。
それが落ちぶれに落ちぶれて、今や祟りしかなさない悪神か。
当時の人たちがかわいそうだわ」
「あはは、何とでも言いなよ。
神ってのはね、二つの顔があるのさ。
一つは、にこやかに、自分を慕ってくる人間や妖怪に向ける笑顔。
信仰を絶やさず、供物を絶やさず、神に対して敬意を表し、畏れ敬うものに神は無限の寵愛を授ける。
一つは、泣こうが喚こうがその罪を絶対に許さず断罪する鬼の顔。
信仰を忘れ、供物を捧げるのを忘れ、神を冒涜し、ないがしろにするものに、神は身の毛もよだつ罰を与える。
さて。
後者に値する神は、邪悪な神でしょうか。それとも、嘆きの神でしょうか?」
おちょくるような諏訪子の一言に、無言で、霊夢は右手を振るった。
彼女の手から放たれた針が、諏訪子の頭を貫通する。
魔理沙と早苗は息を飲み、諏訪子はけらけらと笑う。
「そうだねぇ。
人間の主観で、いい神も悪い神も形を変える。
ある側面ではいい神で、ある側面では悪い神だ。そいつは勝手な思い込み。神は自分の存在ゆえに、自分がなすべきことやなしたいことをなす。
それを、お前らごとき、ただの人間が定義する。そいつはおかしくないかねぇ?」
頭に刺さった針を抜き取ると、彼女はそれを片手で握りつぶす。
粉々になった針は、そのまま、湖の水面へ消えていった。
「黙っとけよ、ゲス野郎」
霊夢がドスの利いた、低い声で相手を罵倒する。
諏訪子はわざとらしく、驚いたような表情を見せた。
「お前がどんな神かなんて関係ない。
お前は、自分のやりたいことのために、あの子を利用した。あの子がめちゃくちゃになって壊れてもいいってくらいにね。
それだけで、人間側から見れば滅ぼすべき対象なんだよ」
「こいつは驚いた。
お前は人にも神にも妖にも与しないと言っていたのにね。
ま、所詮は人間か。人間は決して、感情を廃することが出来ないからね。人間として、同じ人間が傷つけられ、利用されでもしていたら、そいつの肩を持ちたくもなる」
彼女は大きく伸びをする。
そして、その手が水面を叩いた途端、湖の水面が弾け、巨大な水柱を作り出した。
「だったら、滅してみなよ。この神を。
わたしはお前たちと遊んであげるよ。神は祀られ、祭られることで奉りを好むんだ。
お前たちのお遊びに付き合ってあげるよ」
「っ!」
「おい、霊夢。お前はダメージでかいんだから後ろにいろ。
あの野郎は私が蹴散らしてやる。あんなむかつく野郎は初めてだ」
その二人を制する形で、彼女たちの前に、早苗がやってくる。
早苗の背中に、二人は視線を注ぐ。
心なしか、自分たちが、彼女に圧倒されているような気がした。
息を飲み、思わず、足を後ろに下げてしまう。
「……貴女は、本当に神なのですか?」
「神だよ。お前よりも偉い神だ。
神奈子と比べるとどうだろうね。それはわからない」
「……貴女は一体、何の関係があって、ここにいるのですか?」
「この神社は、元々、わたしのものだよ。
それを外からやってきた神奈子が奪ったんだ。わたしを倒してね。
神の戦で負けたのだから、わたしは神奈子に従った。
だけど、神奈子はなかなか信仰を集められなかった。土着の神――それを国津神とするなら、国や土地に宿るその神は、永く永く、民の信仰と信頼を集め、民に利益をなしてきたからね。深い親交を、信仰を、わたしは集めていた。
そこにやってきた外様の神。そりゃ、民はその神を信頼することはしないさ。それがいくら、いい神であってもね。けど、それじゃ困る。神のルールに反する。だから、結果として、神奈子の信仰を維持していたのも、このわたしさ。
この神社に集まっていた信仰は、ほとんど、わたしが集めていたんだ。神奈子の力の源も、このわたし。
ぜーんぶ、わたしがいなくちゃ、この神社は回らない。
なのに、あいつは勝手に、この神社をこんな辺鄙なところに持ち込んだ。
ま、割と簡単に信仰も集められそうだし、文句は言わないけどね。
何せ外の世界じゃ、信仰心なんて欠片もない人間ばっかりだ。みーんな、祟り殺してやろうと思うくらいにさ」
そう言って笑う諏訪子の笑顔は、どこまでも無邪気だ。
しかし、悪意がないわけではない。
瞳はどんよりと暗く濁り、口許に浮かぶ笑顔は、子供特有の残酷なもの。
それを見た人間は、思わず息を呑むほどの邪悪。
「……そうですか」
「お前は、神奈子の神子。そう思ってるだろ?
違うんだよ。
あいつはね、まぁ、確かに人間の神子も備えてきた。自分の信徒としてね。
けど、正式に血を引いているものを備えていたわけじゃない。
お前はね、わたしの血族なんだよ。知ってる? 知ってた? 知らないよねぇ」
諏訪子は水の上をとんとんと歩きながら、早苗の前にやってくる。
そして、彼女の頬をぺたぺたと触りながら、「美人になったもんだ」と笑う。
「こーんな美人なら、引く手数多だね。親……というか、祖先としては誇らしいよ。
どう? いい人見つかった? 見つからないなら、わたしが連れてきてあげるよ。
お前を振ったりしたら、七日七晩苦しんで、のた打ち回って、魂もろとも穢す呪いをかけてね」
それは冗談だけど、とけらけら笑いながら、踊るような足取りで、水の上をぺたんぺたんと歩いていく。
「……貴女が、わたしに力を?」
「ん? そりゃ当然。
わたしの神子には、わたしの力が受け継がれている。どれだけ人の血を混ぜ込んでも、絶対に薄まることのない神の血がね。
けれど、信仰心ばかりはどうすることも出来ない。
永い年月が過ぎて、どんどん、人の意識の中から神の存在は薄れていって。
……寂しいもんさ」
ふっと肩をすくめる諏訪子。
彼女は早苗に振り返ると、「わたしのことを見てくれるやつもいなくなったよね」と言う。
「神奈子も同じ。神奈子以外にもいる神はみんな同じ。妖怪もそう。
誰も彼もが人間の心の中から失われて、日の当たらない、暗い闇の中に押し込まれてしまった。
哀れなもんだ。かわいそうなもんだ。
そういう連中が、ここに流れ着くってなら、わたしらがここに来るのは、何かの運命だったのかもしれないね」
彼女の視線は、霊夢へ。
霊夢は諏訪子に対して、すさまじい怒りと忌避の視線を向けている。
諏訪子は軽く笑って、ひょいと肩をすくめた。
「まぁ、そんな感じでさ。
遅かれ早かれ、わたし達はこの世界に来るかもしれなかった。
その時に、神奈子のことだ。手塩にかけて育てて、溺愛しまくって、これ以上ないくらいにお人形さん扱いしてかわいがっていた早苗を、元の世界に置いてくるなんてこと、絶対にするわけない。
そうなると……」
諏訪子は大きく伸びをする。
その場でくるりと回転して、楽しそうに笑うと、
「お前を連れてこなくちゃ、って話になる」
早苗は顔を伏せていた。
諏訪子の言葉に何も答えず、ただ、黙って下を向いている。
「お前はあの世界じゃ、色んなものを持っていた。友達、家族、楽しい場所、思い出。
そういうものを持ってるとさ、置いていくとき、辛いだろ?
だから、全部、わたしが忘れさせてやった。わたしの力で、連中の頭の中からお前を消し去ってやった。
誰からも引き止められず、誰からも、いることを認識すらされず。
わたし達はすでに幻想となって久しいけれど、お前は未だ、現実の中にいた。
それを幻想にしてやったんだ。ちょっと心は痛んだけど、それもお前にとって、長い目で見りゃためになる。
実際、この世界に来て、新しい友達は増えたし、面白いことも楽しいことも知ることが出来た。
あいつらに負けないくらいの力も授けてやったし、お前個人を信奉する奴らも出来た。
嬉しいだろ? 楽しいだろ? この世界に来られてよかったじゃないか。
なあ――」
続く言葉は遮られる。
早苗の右手から放たれた、一発の弾丸が、諏訪子の額を直撃していた。
大きくのけぞった諏訪子が、ぐんと、体を起こす。
「痛いじゃないか。親に向かって手をあげるのかい?」
「……あなたが……!」
早苗が顔を上げる。
その瞳には大粒の涙が浮かび、頬を、服を、ぬらしていた。
「あなたが……こんなことを……!」
「へぇ。
嬉しくなかったんだ。そいつはごめんごめん」
「どうして……! どうして、こんな強引なことをしたんですか!?」
「母の愛、ってやつさ」
諏訪子はあっさりと答える。
「言っただろ?
お前はわたしの子供、わたしの血族だ、ってね。
わたしはお前を愛している。心からね。お前には幸せになってほしいと思っているし、お前に近づく悪意は許せない。
わたしはお前を心配しているんだよ。だから、少しばかり、強引にもなる。
子供が悪い相手と付き合っていたら、たとえそれがどれほどの親友であろうとも、親なら引き離しにかかるだろう? あれと同じさ。
その行為は子供に恨まれる。『どうしてそんなことをするんだ』ってね。
お前にとって、それは、『外の世界』に存在するつながり全てがそうだ。それを維持し、保持することは、お前にとっては大切なことだったんだろう。たくさんの、大切な思い出ってやつだ。記憶ってやつだ。
それを忘れるのは、なるほど、辛いことだね。
だけどね、これはお前のためでもあるんだよ。
神奈子とわたしが、この世界にやってきてしまったら、お前は外の世界じゃただの人間になってしまう。
得られた神性も神格も全部失ってね。
ただの人間になるんだ。
そんなの耐えられないだろ? 周りと違う、特別な人間ということに、お前も優越感を感じていたはずだからな」
諏訪子の笑みに邪悪なものが宿る。
彼女は人の心を見透かし、それを握り、いたぶろうとする。
かける言葉一つ一つで早苗を痛めつけていく。
「人間ってのはね、欲と見栄の塊だ。
他人よりよく見られたい。他人よりよくありたい。他人より優れていたい、ってね。
お前はわたし達がいなくなれば、その全てを失ってしまう。そんなの耐えられるかい? 無理だろうねぇ。
それまで、お前は人より優れた存在として、人より一つ上のところにいたのに、人と同じところに落とされる。それまでに得られたもの全てを失って、お前は『人』に逆戻りする。
だから、わたしはお前をこっちの世界に連れてきたんだよ。
この世界でなら、お前は特別な人間のままでいられる。
わたしと神奈子の神力を受け続け、いずれは人を捨てて神になる。命の縛りすら解かれて、永遠に、神としてこの世界に君臨できる。
夢みたいな話じゃないか。
現実なんて空っぽのもの、捨ててしまえばいい。幻想になったのなら、幻想のままでいればいい。幻想の中で育てばいい。
それがお前にとって、一番、幸せなんだよ。
現実なんて忘れてしまえ。現実なんて捨ててしまえ。お前はもう、現実には還れないんだから」
「……くそったれが」
諏訪子の言葉に、ついに堪忍袋の尾が切れたのか、魔理沙がつぶやいた。
彼女は手にした八卦炉を強く握り締め、「おい、早苗! そいつは私にやらせろ!」と叫ぶ。
怒りで頭が沸騰している彼女は、今すぐにでも、諏訪子に対して攻撃を仕掛けそうだ。
しかし、早苗はその彼女を遮るように手を広げる。
「いいえ。わたしがやります」
「おや、親に逆らうのかい。反抗期だ。いけないねぇ」
「この人は、わたしが倒す。わたしが勝つ!
神奈子さまのお言葉がわかりました。
これは、わたしの戦いです! 霊夢さん、魔理沙さん! 手出し無用! そこで見ていて下さい!」
彼女を中心に風が吹きすさび、魔理沙たちの足を阻む。
魔理沙は、肩を貸している霊夢を見る。
霊夢は無言だった。
黙って、彼女は早苗の後ろ姿を見つめている。
魔理沙は何を思ったのだろう。軽く首を左右に振って、帽子のつばを下げるような仕草を取る。
「いいだろう。
それじゃ、遊んであげるよ。お前に、この洩矢の神の力、存分に見せてやろう。
この力がお前に宿っていることも教えてやる。お前は、わたしの子だということを。
そして、まつろわぬ土着の神の頂点、そこに君臨する神の力をね!」
「東風谷早苗、いざ、参る!」
涙をぬぐってまっすぐに前を見詰め、早苗は宣言する。
同時に、諏訪子は上空へと移動し、彼女はそれを追いかける。その動きに呼応するように風がうなり、叫び、吼える。
「……やれんのかよ。あいつに」
「出来るでしょ」
「……は?」
「出来る。絶対。
私らは黙って見てましょ、魔理沙」
「……変な奴」
霊夢の瞳は、いつもと違う。
何が違うのかは、具体的にはわからない。
しかし、その違いを、魔理沙は確実に感じている。
感じているからこそ、「好きにしろよ、ったく」と悪態をつくのだ。
――5――
「さぁて、まずは力試しだ!
神に挑む愚か者! その力、その言葉、その意思がどれほどのものか確かめてあげるよ!」
撃ち出される一発の弾丸。
それは、空中で分裂し、無数の雨となって降り注ぐ。
その雨の間を低空飛行で縫って飛び、水面ぎりぎりから諏訪子に接近した早苗は、振り上げた祓え串で相手に一撃を見舞おうとする。
しかし、それは、諏訪子が広げた掌で留まる。
子供独特の、小さな、白い掌。ふわりとした肉付きのそれが、がっしりと、祓え串を押さえている。
「っ!?」
動かない。
押しても引いても、動かない。
諏訪子が握り締めたそれは、びくともしない。
「ダメだね」
次の瞬間、早苗の体が後ろに向かって吹っ飛ばされた。
何が起きたのか、事態が理解できず、湖の上を飛ばされた彼女は、そのまま、湖のほとりの地面に激突する。
「うぐっ……! ぐっ……!」
後から、遅れて痛みがやってくる。
みぞおちから全身に向かって、すさまじい痛みが突き抜ける。
カウンターで拳か何かをもらったのだろう。
「くっ……!」
その痛みに耐えて立ち上がろうとした瞬間、彼女の頭上から弾丸の雨が降る。
それを横っ飛びによけて、再び、空へと舞い上がる。
お返しに無数の弾丸を生み出し、風に乗せて、それを放つ。
風に操られる弾丸は諏訪子の周囲を取り囲み、タイミングをずらして次々に降り注ぐ。
「ふーん。
なるほど。小ざかしい小手先の技術は、ずいぶんと鍛えたってとこか」
それを、諏訪子は動かずによける。
彼女のつま先が湖の水面を叩くと、立ち上がる水柱が彼女の周囲で壁となり、弾丸の着弾を防いでいく。
「この世界での遊びになるのだから、この世界でのルールに従うのが常。
神はルールとか規律とか、約束、守りごとなんかをとても好む。自分がそういうものを相手に課して、相手がそれを守っているのを見るのが、とても好きだからね」
彼女の右手が翻る。
「その理由が、何でだかわかるかい?」
早苗が接近してくる。
彼女の姿を見据えながら、その瞳がわずかに細くなる。
笑みの形に。
「神ってのは、とても傲慢な生き物だからね。
自分が他人を制する――そういうのを、とても好む生き物なんだよ」
――開宴「二拝二拍一拝」――
迫る早苗に向かって雨のごとく、矢のごとく、無数のレーザー状の閃光が撃ち出される。
直撃を避けるべく、回避に動く早苗。
その動きを予想して放たれる、人の背丈よりも巨大な弾丸。
それが雨あられと降り注ぎ、早苗が必死に、湖の上を飛びまわる。
「神を名乗るのならね。
まず、その態度を何とかしないといけない。
他人に対して低姿勢。他人に対してくそ真面目。他人に対して無礼を働けない。
そういう姿勢は神にはふさわしくない。
そっちの巫女の方が、なんぼか神らしい。態度が悪いって点でね」
諏訪子は霊夢を指差し、けらけらと笑った。
魔理沙が『……あいつの言うことはむかつくけど、まぁ、確かに』と肩を貸す霊夢を見てうなずく。霊夢は無言で、魔理沙の脳天をどつき倒した。
早苗はレーザーと弾丸の二つの間を縫って飛び、諏訪子へと接近する。
「これ以上は近づけない」
諏訪子の弾幕が激しさを増し、早苗の足を阻む。
早苗は口許に小さな笑みを浮かべると、振り上げた両手で、思い切り、湖の水面を叩いた。
彼女の腕の動きに従って現れた烈風が、水の上で爆発し、水しぶきを巻き上げると共に早苗の体を上空へと吹っ飛ばす。
諏訪子の対応が一瞬遅れ、次に彼女は顔を振り上げて『へぇ』とつぶやく。
直後、その額を一条の閃光が貫く。
真っ赤な血が湖の上を赤く染め、諏訪子の服を染めていく。
「なるほどなるほど。
まぁ、まずはこんなもんだね」
だが、諏訪子がその攻撃でダメージを受けた様子はない。
流れる血はあっという間に止まり、彼女の額に空いた、人の腕くらいの巨大な穴はすぐに埋まっていく。
彼女の放つレーザーは早苗を追いかけて宙を貫き、弾丸が空を焼く。
「ほらほら、どうしたどうした。
今のような奇襲を仕掛けておいでよ。こっちはよけたりなんてしないからさぁ」
閃光はさらに厚さを増し、前を見ても光が全てを埋め尽くすほど。
その状況では接近することは出来ず、早苗はほぞをかむ。
反撃として放つ弾丸も、諏訪子のレーザーに全て撃ちぬかれ、空中で爆発する。
下手な攻撃は通じない。接近戦も出来ない。
地力の違いを思い切り見せ付けられ、「やってくれるじゃない」と彼女は呻いた。
「さあさあ! この程度で終わるか!? 何ともつまらない奴だね!」
諏訪子は調子に乗って、早苗を攻め立てる。
完全に防戦一辺倒の早苗。
どうすることも出来ず、ただ翻弄されているだけだった彼女は、大きく息を吸い込んだ。
その視線が霊夢に向く。
彼女を一度見て、小さくうなずいた後、早苗は一気に、諏訪子のレーザーの中へと突撃していく。
「お、おいおい! 危ないぞ、早苗!」
魔理沙が慌てて声を上げる。
しかし、早苗はそれを聞くことをしなかった。
「へぇ」
考えたね、と諏訪子はつぶやく。
早苗は周囲の風を操り、風の結界を生み出す。
そして、風の結界の先端に、結界の要となる札を配置して、他者を拒絶する『界』を生み出した。
界は風と共に全ての流れを制御し、弾く空間を形成する。
諏訪子のレーザーは、早苗の張った結界の表面をなでるようにコースを変更され、彼女の後ろに流れていく。
早苗はそのまま、諏訪子へと、結界ごと体当たりをかます。
「なるほどね。
よけることが出来なきゃ流してやりゃいい、か。力の弱いものが力の強いものに対する対抗手段の一つだ。
考えたもんじゃないか」
「受け売りですけどね!」
諏訪子の体を水の中へと、早苗は叩き込む。
結界が弾け、強烈な衝撃波を周囲に撒き散らす。
その破壊力はすさまじく、湖の水面を深さ数メートルほども抉るほどだ。
諏訪子の体は水の中に消え、湖底に叩きつけられる。
諏訪子が操っていたカードが力を失い、消える頃、彼女はけらけらと笑いながら、水の中から上がってくる。
「こりゃ面白い。
ただの小手試しに対して、ここまでしなきゃ、お前はわたしに勝てないのかどうか。
もういっちょ試してやるよ」
諏訪子に、ダメージを受けた様子はない。
あれほどの至近距離から爆風を受けても、まるでこたえていない。
「大した生命力だぜ」
「神様ってそういうもんでしょ」
「ああ、確かに。神奈子のやつも、私のマスタースパークを何発も食らってもけろっとしてやがった」
やってられるか、と魔理沙が呻く。
――土着神「手長足長さま」――
続く諏訪子の力。
彼女は一度、後ろに飛んだ後、「そーれ!」と右手を振るう。
すると、そこから長い閃光が伸び、まるで巨大な鞭のようになって早苗に迫る。
その大きさは、人間一人分ほど。長さは、数十……いや、ひょっとしたら百を超えるかもしれない。
慌てて、彼女は頭を下げた。
その頭上を、諏訪子の攻撃が通り過ぎていく。
「そーれそれ! 右から左から、上から下から!
よけろよけろ!」
カードの名前どおり、それは、諏訪子の両手両足から放たれる。
長く巨大なレーザーが鞭となり、湖の上の空間を切り裂いていく。
先ほどの連続レーザーより密度は薄いものの、自分に向かって、巨大な光の壁が迫ってくる圧迫感はかなりのものだ。
早苗も、相手の攻撃をよけて距離をとろうとするのだが、どこに逃げても相手の攻撃が届いてしまう。
「一撃一撃が大振りなら……!」
逆に、接近すれば、相手はこちらの細かい動きに対応できないはず。
そう判断した早苗は、諏訪子の懐へと飛び込もうとする。
諏訪子は、しかし、にやりと笑う。
「残念賞」
早苗の接近を察した彼女の両手から光が消える。
そして、早苗に向かってその手を、諏訪子が向けた瞬間、閃光が再び放たれる。
「しまっ……!」
収納も伸縮も自在な攻撃。
それを察した時には、早苗は相手の攻撃を真正面から受けて弾き飛ばされていた。
空中を舞う彼女に、追撃が、その上空からヒットする。
地面に叩きつけられた彼女を、諏訪子の腕から伸びる閃光が捉え、持ち上げ、再び地面へと叩きつける。
「おや、人間の体は意外と頑丈だ。
一発で木っ端微塵になってしまうかと思ったら、意外と耐えるじゃないか」
両手で早苗を捉えて、湖の中へと投げ込む。
そして、両足から伸びる閃光で、彼女を水底へと叩きつけ、押し付ける。
「……っ……!」
「人間は、水中じゃ呼吸が出来ないからねぇ。
何分もつ? 5分か? 10分か?
ま、安心しなよ。殺しゃしないからさ」
水底まで透き通った湖は、上空から見ても、その様がよくわかる。
水底の岩の上に押し付けられた早苗は、必死に、諏訪子の『足』をどけようとするのだが、彼女の力では相手はびくともしない。
しかも、諏訪子は徐々に、『足』を押し付ける力を強くしてきている。
それに押されて、彼女の口から空気が漏れる。
にやにや笑う諏訪子は、「窒息死と溺死って、どっちが苦しいんだろうね?」と霊夢たちに言ってのける。
たとえ冗談だとしても、許されないその言葉に、魔理沙が諏訪子に食って掛かろうとするが、霊夢がそれを押し留める。
「ま、そろそろ限界かな?」
抵抗を見せていた早苗が、ぐったりとしている。
水の中では、お得意の風を使った術も使えない。
反撃の手段を失い、敗北した――誰もがそう思った、次の瞬間。
「……何だ?」
諏訪子が少しだけ、眉をひそめて辺りを訝しげに見渡す。
感じた異変――それに気付いたとき、「何だと!?」と彼女は叫ぶ。
「お、おいおい……マジかよ……」
風が、空気が、うねっている。
目に見えないそれを肌で感じ取ることのできるほどの、巨大な変化。
それは上空で徐々に渦を巻き、巨大な流れとなって、湖へと根を下ろしていく。
諏訪子の頭上から迫るそれを、慌てて、彼女は回避した。
渦の根が湖の水面に触れた瞬間、広大な湖の水が、一瞬で天空に向かって吸い上げられる。
「……冗談だろ」
そのつぶやきは、魔理沙のものか、諏訪子のものか。
水は全て空中へと持ち上げられ、豪雨となってあたりに降り注ぐ。
「しまっ……!」
その間に、息を吹き返していた早苗が、諏訪子の眼前に接近していた。
彼女の振り上げた祓え串が、諏訪子の肩口を捉える。
叩きつけられる衝撃に、彼女の意識は乱れ、舞っていたカードが力を失う。
雨が世界を覆っていく。
その圧力はすさまじく、霊夢も慌てて、頭上に結界を張るほどだ。
「ぷわっ!」
祓え串の衝撃と、雨の圧力に負けて、水中に叩き落されていた諏訪子は、水面から顔を出して、小さく舌打ちする。
「あの瞬間に術の仕込をしたか!」
憎憎しげに叫び、諏訪子は上空へと舞い上がる。
そして、早苗の眼前で閃光を放つのだが、早苗はそれを、少しだけ身を動かす程度でよけると、相手のがら空きの胴体に至近距離からの弾丸を撃ちこむ。
諏訪子は遠くまで吹っ飛ばされ、くるくると回転して態勢を立て直す。
「ちっ。やってくれるね」
早苗の目から、まだ闘志は消えていない。
体に刻まれたダメージはそれなりのものだが、まだまだ、心は折れていない。
人間ってのは厄介な生き物だ。
諏訪子は思う。
肉体的にも精神的にも弱いくせに、あるとき、ある条件がそろうと、神ですら舌を巻くほどの強さを発揮する。
人間のくせに神を凌駕し、神を滅すことだってある。
「そいつは神の油断が原因だ。人間が神を超えることなんてあるはずがない。
人間は神がなくては生きられない。
神が授ける恵みなくして、人間は生きられない。
人間は神に生かされている。
故に、神は人よりも常に上にある!」
――神具「洩矢の鉄の輪」――
両手に鉄輪を構えた諏訪子が、早苗へと接近していく。
投げつける鉄輪は早苗にまっすぐ迫り、彼女がよけたとしても、その動きを追尾して飛翔する。
鉄輪を次から次へと諏訪子は生み出し、早苗に投げつける。
飛んでくるそれを回避しながら、早苗は諏訪子へと反撃を行なう。
放つ弾丸を諏訪子は鉄輪で弾き、早苗へと肉薄すると、それで相手を叩き伏せようとする。
「神のなすことに人は従うのみ!
逆らうものは神の裁きの前に逃げ惑い、泣き喚き、そして後悔するだろう!
己の愚かな行為が神の怒りを呼び、己を滅ぼす! それが人のなしてきた愚かな歴史だ!」
早苗はよけるのに必死で、反撃の手を封じられてしまう。
諏訪子は決して相手からはなれず、連続して攻撃を放ちながら、徐々に、早苗を追い詰めていく。
「お前もそれは同じだよ。
お前のなしてきたこと全てが己の歴史を築くのであれば、お前は神に逆らってはいけない。
お前は神の神子として、此の世に生を受けた。神に従い、神の言葉を聴き、神に全てを捧げ、そして神の前に死す事がお前の役割!
お前の意思など関係ない! お前が何をしようとも、何を考えようとも、全てはお前の中にある神のなす業!
お前の存在は神によって定義される! お前は所詮、神の入れ物であり、神の従者にしか過ぎないんだからね!」
諏訪子の鉄輪が、わずかに早苗の額を掠めた。
ただそれだけで、すさまじい衝撃が加えられ、早苗の体が錐もみ状態で吹っ飛ばされる。
放たれる鉄輪の嵐が、早苗に迫る。
早苗は必死に態勢を立て直し、続く攻撃だけは回避する。
しかし、その間に接近してきた諏訪子の攻撃はよけられず、ついに、相手の鉄輪を体に受けてしまう。
「お前はただ黙って、神に従っていればいい。神の前で、従順な操り人形を名乗っていればいい。
さすれば、全ての神はお前に対して、最大限の寵愛を捧げよう。
操られ、愛され、入れ物として、ただその口を動かしているだけでいいんだ。
楽な生き方だろう? そうしていれば、お前はずっと、幸せでいられるんだよ」
早苗は体をひねって、水面に風を叩きつけることで、空中へと復帰する。
左手がぴくりとも動かない。さっきの一撃で骨折したのだろう。激痛が、絶え間なしに襲ってくる。
「黙って従っていればいいものを、お前はどうして、そこまで反駁する?
人は楽に生きることを望むものだ。
己の意思を一切間に入れず、ただ黙って、大人しくしていれば、永遠に幸せでいられるというのに。
なぜ、己の意思をそこに介在させようとする?
道具に意思は必要ない。そして、道具の幸せは、己を使ってくれる主人を持つことだ。
お前も一緒だよ。お前は幸せでいるためには、わたしという主人を持っていることが必要だ。逆に言えば、わたしがいれば、ずっとお前は幸せでいられるというのに。
これは、お前のためなんだよ?」
諏訪子は再度、早苗に接近すると、その鉄輪で相手を打ちすえようとする。
早苗は一瞬、迷いを見せる。
どう反撃するべきか。それとも、結界を張って、衝撃を緩和して耐えるべきか。
下手な行動をすれば、諏訪子はすぐに反撃してくる。相手を完膚なきまでに追い返さなくては、防御に回るほうが得策だ。
だが、それが出来るのか?
諏訪子と己の力の差ははっきりしている。
下手な結界で受け止めれば、結界ごと、諏訪子は早苗を粉砕する。余計な反撃をすれば、更なる反撃を食らう。
「――それなら!」
早苗は決断する。
諏訪子の鉄輪が直撃する瞬間、彼女は諏訪子の懐へと飛び込んだ。
子供ゆえの短いリーチは、相手が接近してきたとしても、己の間合いを保つ武器になる。だが、極限まで接近されてしまえば、それは関係ない。
諏訪子の腕が空を切る。
彼女の目の前まで迫った早苗は、動く右手で諏訪子の頭を捕まえると、思いっきり、その額に頭突きをかました。
「あいてっ」
諏訪子が短い悲鳴を上げて、思わず目を閉じる。
すかさず、早苗の突き出した祓え串が諏訪子の胸を突いた。衝撃で、彼女の体が、少し、後ろへと流れていく。
両者の距離がわずかに離れる。
「風よ!」
早苗の叫びが風を操り、その体を前方へと運んでいく。
充分勢いの乗った、肩からのタックル。諏訪子の小さな体がさらに吹っ飛ばされて、空中を舞う。
「我が奇跡、ここに顕現せしめん!」
彼女は宣言と共に、カードを構える。
「それ渡りしもの、神の道なり!
この御神渡り、これぞ神のなす神秘なり!」
――開海「海が割れる日」――
赤い、無数の閃光が諏訪子の体に突き刺さり、炸裂する。
光に束縛されて身動きできない諏訪子の左右に、巨大な光の壁が現れる。
その光の壁は、早苗と諏訪子を結ぶ空間のみを残し、高い壁をなした。
彼女たちのいる空間を結ぶ御神渡りの光は赤く煌き、諏訪子がわずかに唇をかみ締めて、身を起こし、反撃をしようとする。
早苗はすかさず、壁と壁の間から脱すると、振り上げた祓え串を左右に振り、叫ぶ。
「道よ、閉じ逝け!」
左右に割れた壁が崩れて諏訪子の体を飲み込み、爆裂する。
すさまじい光と爆風が辺りを一気に薙ぎ払い、吹き飛ばす。
光の壁に物理的に押し潰された諏訪子の姿が、閃光の中に消える。
「よし!」
その様を見ていた魔理沙がガッツポーズを作る。
やるじゃないか、と彼女は声を上げた。
「まだですよ! 魔理沙さん!」
だが、早苗からは喜びの声は返ってこない。
それを示すように、無数の、緑色の光が早苗の周囲を覆っていく。
それは牢獄のように、だが、閉じた世界からの道を示す糸か蔓のように。
早苗の周囲を覆いつくすと、一斉に、彼女めがけて雪崩れかかってくる。
「やるじゃん」
早苗が回避に走る。
攻撃をよけながら、彼女は、声のした方を向く。
崩れた光によって生み出された『瓦礫』の中。
無傷で佇む、諏訪子の姿。
――源符 「厭い川の翡翠」――
「あの程度で反撃とみなすことは出来ないけれど、少なくとも、お前はまだまだ敗北するつもりがないってのはわかったよ」
あの攻撃をどうやって耐えたのか。
たとえ、霊夢や魔理沙の知る『力のあるもの』であろうとも、直撃を受ければ少なからずダメージを受けるには違いない攻撃であっただろうに、諏訪子の体には傷一つついていない。
「力は力でねじ伏せることが出来る。
お前のような貧弱な力じゃ、この神は倒せないよ。もっと頭を使わなきゃあね」
こいつは小手調べさ、と諏訪子。
緑の蔓が次々に早苗を狙って伸びて来る。
それに捕まれまいと空中を飛び回り、早苗は反撃を放つのだが、その手から放たれる弾丸は、諏訪子の眼前で弾けて消える。
目に見えない結界が、そこにあるのだろう。
恐らく、先ほどの早苗の攻撃を耐えたのも、その結界のおかげに違いない。
「所詮、成り上がりの、付け焼刃の神がなす奇跡じゃ、本物の神のなす奇跡にゃ抗えない。
お前は賢い子だろうに、どうしてそれがわからないのかねぇ」
早苗が回避行動を取り、次の動きが拘束される瞬間を狙って、諏訪子の周囲から伸びる光の蔓が巻きついた。
彼女は手足を拘束され、空中に足止めされる。
力でそれを引きちぎることは出来ない。すかさず、何らかの術を放とうとする彼女に、
「わからないのなら教えてやろうか? 神の力が、一体何で決まるのかを」
――蛙狩 「蛙は口ゆえ蛇に呑まるる」――
放つ弾丸が早苗の周囲で無数に炸裂する。
その破裂は徐々に彼女に近づき、飛び交う弾幕が、早苗の視界を埋めていく。
じわりじわりと相手をなぶる、悪い意味でのこけおどし。
早苗は歯噛みすると、一度、途切れた術を再度行使しようとする。
「お前は神であって神じゃない。
人であって人じゃない。
どちらにも、お前は属していない。
それが、今のお前の姿だ。
お前はそれを受け入れている。いずれどちらの道に進むかを、今、お前は判断していようとしている。
遅いね、全く。
お前は生まれた時に、それを決めなくてはいけなかった。
なのに、それを邪魔した奴がいた。
それが、向こうの世界での、お前の家族。お前を人としてつなぎとめた、厄介な奴らだ」
早苗の瞳が、はっとしたように見開かれる。
彼女の視線が、諏訪子へと――迫る弾幕の向こうに隠れた、諏訪子の姿に向けられる。
「神ってのはね、生まれたときから決まってるもんなんだよ。
努力と修練の結果、神になったものも、そりゃあ、山のようにいるもんさ。
だけどね、努力して修練したら、誰も彼もが神になれるとしたら、世の中、そこらじゅう、神だらけだろ?
神になれるものは決まってるんだよ。最初から。そいつは運命ってやつだ。
その運命に気付いて、神になろうとしたものは神になれる。
最初から神だったやつは、まぁ、この際、話に関係ない。神に『なろうとした』奴だ。
人だろうと獣だろうと、虫だろうと草木だろうと、全ては変わらない。
神になれる奴となれない奴が、世の中には存在する。
お前はその中で、神になれる奴だった。わたし達、神の純粋な血を引いてきた血族の中で、珍しく、血の濃度が濃い奴だった。
わたしゃ、遺伝だとかには詳しくないけどね。お前には、その才能が、特に色濃く受け継がれてきた。そいつは間違いない。
そうしてお前は神奈子に出会った。奴はお前を歓迎し、神の技術やら智慧やらを授けた。
その時点で、お前は神になることが決定された」
ばぁん、という音。
早苗のすぐ目の前で弾丸が弾けて、弾けたその欠片が、早苗の全身を直撃する。
与えられるのは、ただ、ひたすらな苦痛だけ。ほとんど傷はつかないものの、全身を鋭い針で刺されたような、耐え難い激痛に、早苗は悲鳴を上げる。
「神奈子もそれを望んだだろう。お前が神となることを。
だが、お前の周囲には、お前が神になることを邪魔する奴らばかりだった。
お前の親。お前の友人。お前の暮らしている世界そのもの。
それがお前が神に昇華することを邪魔する。お前を現世につなぎとめる。お前を人でいさせようとする。
……正直ね、ラッキーだと思ったよ。
神奈子が『幻想郷』なんてものの存在を知ったことがね」
早苗の周囲で弾丸がはじけた。
再び加えられる激痛に、一瞬、意識が飛ぶ。
意識が暗闇に落ちる寸前、彼女の両手両足を拘束する蔓が力を増し、食い込んでくる。肌が、肉が、骨が焼かれる痛みに、再び、早苗の意識は現世に引き戻される。
「此の世ならざる神の世。もうずいぶん前に、天津神の顕現と共に失われた世界。それが、まだ、この世界にあった。
その世界は、お前にとってふさわしい。
此の世に引き止めるものが何もない、幻想の世界。姿あって姿なし。形もって形なし。
その世界でなら、お前の神への昇華は、より早く進む。
出来損ないの人間の形なんて捨てて、あっという間に神に成れる。
神の器でしかなかったお前は神になることで神の器を逃れる。人としての幸せの果てに、神になり、お前は永久に神として神の姿と神の意識と神の存在をその身に宿し、もってお前は夢幻となる」
諏訪子の姿が、早苗のすぐ前にあった。
彼女は苦痛に呻く早苗の頬を指先でなぞり、前髪に隠れた彼女の瞳を、そっと見つめる。
「お前は神になることが運命づけられていた。
わたしは最初に言ったよね? お前は入れ物として動いていれば、人として幸せになれた、と。
けど、お前はそれを嫌うだろう。そして、お前はそれを否定するだろう。
しかし、外の世界じゃ、お前はどうやったって神にはなれなかった。
お前の周りにある、たくさんのものがそれを邪魔した。わたしはこいつらが憎くて憎くてたまらなかった。
わたしの子であるお前が、いつまでたっても、その程度の存在に過ぎない、神の器たる人の身に貶められていることが、悔しくて悔しくてたまらなかった」
彼女は親指に歯を立てて、肌を食い破る。
流れる血。
赤い血。
諏訪子は左手を早苗の服にかけると、それを一気に破り去る。
「これが神の血だ。
お前の中にも流れている。感じるだろう? 己の血の脈動を。わかるだろう? お前の中を流れる、汚らわしい人の血を。
熱くなれ。形を成せ。今を捨てろ。己の御魂に呼応しろ。
この血の赤を。血の疼きを。人の血など、全て吐き出してしまえ」
早苗の素肌の上に、諏訪子の血が印を描く。
その印の形は不可解極まりないものであり、霊夢ですら『……何、あれ』とつぶやくもの。
描かれた印は真っ赤に輝き、心臓の鼓動のように、その光を明滅させる。
「神となったお前を、わたしは導いてやろう。わたしはお前の親だ。お前の母だ。お前の存在を、永遠に、どこまででも受け入れよう。
お前は神としてわたしにつき従い、そしていずれは神としてひとり立ちしていく。
わたしの言うことをきちんと守って、わたしに従順にしていれば、わたしの愛はお前のために、どこまででも注がれる。
お前は神として、神の遣いとなって、大勢の民から信仰を集め、人よりも一つ高い場所に存在するようになる。
お前は入れ物として、器として、遣いとして、民に受け入れられていく。
神から見れば、民などは愚かなものよ。与えられる寵愛にどこまでも感謝し、入れ込んでくれる。何も考えずに。ただ、神の愛だけを求める。
そんな民にな、神は必要以上に近づいてはいけないのさ。
愚かな民は、いずれ、神を人と同一視しようとする。神を人に同化させようとする。
そうした愚か者どもは裁きと罰で一掃する。
民は恐れる。お前を。民は畏れる。お前を。
あめと鞭を使いこなして、お前は民をいずれ使役し、自らの『民』となす。
お前はそうして神へと近づいていく。やがてはわたしから離れて、一個の神として、一つの国の頂点に君臨する。
神はいいものだよ。
なあ? 人の身なんて、もういらないだろう? 人としての記憶なんて必要ないだろう? 人としての感情なんて入る余地もないだろう?
神になれ。神となれ。神として己を君臨させろ。お前ならできる。わたしは信じているよ」
早苗は何も出来ず、ただ、相手のなすがまま、されるがままとなっている。
その光景に、魔理沙は、『早苗は敗北を認めたか』と思った。
次は私がやってやる。そんな想いを瞳に浮かべる彼女だが、少しだけ、困惑の色もある。
諏訪子の調子がおかしい。
最初の頃のように、邪悪さだけを前面に出した姿がない。今の諏訪子の姿には、邪悪さと共に、早苗のことを本当に想っているような雰囲気すら認められる。
手段が違うだけで、諏訪子は早苗のことを、言葉だけでなく、本当に愛しているのではないか?
その疑問を持つ魔理沙は、隣の霊夢を見る。
霊夢は何も言わない。黙って、彼女は早苗と諏訪子を見つめている。
どうするべきか。
魔理沙は迷った末に、左手に握った八卦炉を相手に――諏訪子に向ける。
そして、攻撃を放とうとした瞬間、その左手を、霊夢に掴まれた。
諏訪子の言葉に間違いはあるのだろうか。
早苗は己に問いかける。
与えられる言葉は、確かに、間違いに満ちている。早苗の都合など何一つ考えず、早苗が神になることを、ただ望む彼女にとって、邪魔なものを指折り列挙し、排除した――それは、早苗にとって、全てが『誤り』となる。
しかし、それは、諏訪子にとっては――神の視線にとっては、正しいことなのだろう。
神は人の都合など考えない。神は己の倫理と論理に従って動く。己の全てを己で肯定し、あらゆる行為に意味を持たせ、それを正しいものとして、外側へと顕現させている。
諏訪子にとって――早苗を神に押し上げたい諏訪子にとって、彼女のなしたことは全てが正しく、早苗の全ては否定される。
ただ、それだけのことだ。
反論など入る余地もない。
相手の言葉を真っ向から否定しても意味がない。
ならば、どうする?
「わたしは――」
声が響いた。
ならば、己の中で結論を下すしかない。決断するしかない。
今、この時、この場所をもって。
まだ早いと言われようとも、まだその時ではないと言われようとも、今、決断するしかない。
真っ向から与えられている結論に反抗するのなら、同じくらい、意味のある『決断』をするしかない。
追い詰められているのか?
そうせざるを得ない状況に、追い込まれてしまったのか?
――違う。
それは、今、『その時』が来たに過ぎない。
『その時』がいつ来るかなど、誰にもわからない。
明日か、一週間後か、一年後か、十年後か。
もしかしたら、一生、それは来ないかもしれない。
だが、逆に、一時間後、十分後、一分後、一秒後にそれが訪れるかもしれない。
人生というのは不思議なものだ。
積み重ねてきた歴史というのは、不思議なものだ。
因果なものだ。
今、早苗は決断を下す機会を得た。
己の頭の中で整理した、全ての情報をもって。
人としての記憶。過去。歴史。
神としての記憶。現在。未来。
それを全て総合して、まとめて、頭の中で理屈を立てて理論だてて、誰からも反論されない結論を出して。
早苗は、決断する。
「わたしは、神となる」
その宣言をしたのは、早苗。
諏訪子は顔に歓喜の表情を浮かべ、「そうか、そうか!」と喜んだ。
子供のように無邪気にはしゃぐ彼女。
対照的に、魔理沙は苦い表情を浮かべて二人を見る。
「だけど――」
早苗の両手に力が戻る。
握り締めた彼女の拳が光を増し、それが全身に回ってくる。
諏訪子が『え?』という表情を浮かべた。
早苗の肌に塗られた諏訪子の血が、乾いてぼろぼろと落ちていく。
対照的に、早苗の体に、その下腹部から赤い光が走っていく。
それは、血の流れ。彼女の中に宿る『神』之血。
諏訪子は困惑と共に驚きの表情を浮かべて、早苗から距離をとる。
「わたしが成るのは、『わたし』という神だ!」
「……なんて傲慢な宣言だよ」
早苗の宣言に、魔理沙は呆れたようにつぶやいた。
早苗の体を拘束していた蔓が弾け、彼女の周囲を覆っていた緑の光も弾き飛ばされる。
彼女の体からあふれる、彼女の『霊』。
宣言と共に解き放った言葉が、彼女の『意之霊』。
それを、諏訪子は理解できない。
今まで、早苗を培ってきたもの。彼女を育ててきたもの。彼女の周囲を包み込んできたもの。
その全てを彼女は内包する。
彼女の存在は、彼女によってしか定義されるものではない。外部のものから示されるものではない。
その彼女にとって、『神』となることは、諏訪子や、そして神奈子が意識する神となることとは違う。
「人としての記憶をいつまでも残し、人としての姿を無様に持ち続ける!
わたしの神としての姿は、『神』ならざるものとなる!
わたしは人でありながら神になる! 人のまま、神になる!
わたしは純粋な神ではなく、『現人神』として! 人である神として! すなわち、神になる!」
やはり、早苗は、己を纏う『しがらみ』を捨てることは出来なかった。
その宣言で、彼女自身も、はっきりとそれを自覚する。
神奈子は恐らく、悲しむだろう。もしかしたら怒るかもしれない。
しかし、それならそれで仕方ない。
早苗は決めたのだ。己で定義したのだ。
神となる事の意味を。
もはや己は純粋な神となることは出来ない。
諏訪子の言った通り、彼女が神となるには不適格なものが多すぎる。
人間としての姿が、人としての血が濃すぎる。神としては、あまりにも、『純度』が足りない。
だが、彼女は、それを捨てられない。
己を作っているものを捨てることも、忘れることも、絶対に出来ない。したくない。させない。決して。
ならば、そのまま、神となろう。
彼女は決意する。
諏訪子の言う通り、己はいずれ、神になるしかないのだとしたら、あえて人の姿のまま、神となろう。
誰からも忘れられ、失われた幻想である己であったとしても。
己の中の『現実』は消えることはない。
今までを培ってきた、己の中の『現実』は、いつまででも、彼女の中に残り続ける。
――そんな神がいてもいいじゃないか。
早苗の視線は霊夢に向いた。
霊夢は笑って、その親指を立てる。
彼女は言った。
『人生、メリハリが大切よ』
――と。
神として張り詰めた人生ばかりを送るのは、あまりにも疲れてしまうだろう。ましてや、己の性格は、もう変えられないのだ。
クソ真面目にまっすぐに神様をやっていたら、そのうち、疲れて寝込んでしまう。
そんな神様にはなりたくない。
なるのなら、人として、人の姿を持って、民である人々から親しまれる『現人神』として。
本物の神様から見れば不敬極まりない、いい加減な神様。しかし、人々から見れば、とても親しみやすい『人』。
そんな神となろう。
民から与えられる信仰は、儚き人であるわたしのために。
それが、神奈子と諏訪子の教えを理解した、東風谷早苗の道なのだから。
「負けてなるものか!」
早苗は宣言と共に、新たなカードを取り出す。
「不完全な神様は、他の神様の力を借りても文句は言われない! そうでしょう!?」
――準備「サモンタケミナカタ」――
「……そうか」
早苗に宿る、その力。
膨れ上がる『神』としての気配に、諏訪子はつぶやく。
「……そういうことか」
彼女の顔が上げられる。
その瞳に浮かぶのは絶望と失望の色。
信じたものに裏切られた、子供の顔。
「やっぱり、全部、壊しておけばよかった。
お前を包むものを全て、わたしの力で取り殺し、なくしてしまえばよかった。
お前をこんなにも縛り付けて、お前を捕らえて、お前を苦しめるものならば――」
諏訪子は、泣いていた。
彼女の瞳から留処なくあふれる涙。
それが、彼女の力を顕現させる。
「全部、あの時、壊してしまえばよかったっ!」
――「諏訪大戦 ~ 土着神話 vs 中央神話」――
「お、おいおい! こっちはギャラリーだぞ!」
「見てるこっちも危ないわ。ここにいると」
霊夢と魔理沙が二人から距離をとる。
周囲一面に降り注ぐ、巨大な弾丸。それは一発一発が巨大なクレーターを生み、山の地形を変えていく。
大地から無数に伸びる巨大な蔓が天で花を咲かせ、そして、その種子をばら撒く。
降り注ぐ弾丸。それをまるで迎え撃つような光の蔓。
両者の争いが、全く関係のないものを巻き込み、拡大していく。
「お前はわたしの元を離れ、神奈子の元に行った時、わたしに言ったな!?
『わたしが人身御供となることで、両者の神の間をつなぐ。人として、神と神をつなぐ礎となる。この国のために。諏訪子さまのために』と!
あの時、わたしはお前を、殺してでも止めるべきだった!
ああ、国は豊かになったさ! 民の信仰は神奈子ではなく、わたしの元に、さらに集まったよ! 力強く!
だけど、わたしはお前を失ってしまったんだっ!」
早苗は、自分の頭上に降ってくる弾丸を、その拳で殴り飛ばす。
足下から伸びる蔓を、折れたはずの左腕を振り回して切り倒す。
神と『神』の力と力のぶつかり合い。
諏訪子は己の嘆きを呪いとして吐き出しながら、早苗を攻撃する。
その攻撃の激しさはすさまじく、それほどの力を発揮しながらも、早苗が全く近づけないほどだ。
「今だってそうだ!
お前は幼い頃から神奈子の存在に気付いていた! 神奈子の元に、その信仰を授けていた!
だけど!
だけど、お前は、わたしの存在に気付かなかった!
ずっと、お前の側にいたのに! お前の側にいて、お前の成長を見守って、お前を守ってきたのは、神奈子じゃない! わたしだ!
それなのに、お前はそれに気付かなかっただろう!
わたしは、お前のために……お前を守って、お前を育てることに、何よりも一生懸命だったのに!
どうして、お前はわたしに反抗するんだ!」
早苗は飛んできた弾丸を受け止めると、諏訪子に向かって投げ返す。
諏訪子はそれをよけると、手にした鉄輪で反撃する。
上下と正面、三つの方向から繰り出される攻撃に、早苗は歯噛みし、後ろに下がる。
「お前にわかるのか……!
お前に、わかるのかっ! 我が子からすら見てもらえなくなった、母親の気持ちをっ!
お前にわかるというのか!
まつろわぬ民にとって、神はわたし一人なのに! お前にとっての神様は、わたしなのにっ!
それなのに……それなのに、それなのに、それなのにっ!
それなのに、我が子に触れられないわたしの気持ち、お前にわかるというのかっ!
大好きな……愛した子供に、『お母さん』と呼ばれない母親の気持ち! 今のお前にわかるというのか!」
力が入りすぎて、諏訪子の手から鉄輪がすっぽ抜けた。
早苗はそれをすかさず奪い取ると、空いている左手で諏訪子の胸に一撃を加える。
ぐっ、と呻いた諏訪子の体を、右手に持った鉄輪で殴りつけて、跳ね飛ばす。
「お前が神となれば、お前はわたしと一緒の存在になる!
また二人で暮らせる!
わたしは諦めないぞ……! お前を取り戻すために、その穢れた人の体、人の血、人の意之霊、全てを追い出してやる!
追い出せないのなら、祟り壊してやる!
お前はわたしの子供……! わたしの、大切な大切な宝物! 絶対に、誰にも渡さない! 誰にも傷つけさせない! ずっとずっと、お前をわたしの側にいさせてみせるっ!」
――祟符 「ミシャグジさま」――
「ようやく、正体を現したか」
「ん? 何か言ったか、霊夢」
「正体を現したか、って言ったのよ。
あいつ、諏訪子じゃないわ」
「は?」
降り注ぐ弾丸と蔓を跳ね飛ばす早苗の前で、巨大な白蛇が形をなす。
無数の蛇の口から吐き出される猛毒が形を成し、早苗へ向かって、その体を覆いつくそうと迫る。
「諏訪子じゃないって……」
「ああ、いや、諏訪子じゃないってのはおかしいか。
あれは『諏訪子』なんだけど『諏訪子』じゃないの」
「さっぱりわからん」
その様を眺める霊夢と魔理沙。
早苗と諏訪子の激しい戦いを見つめる二人の視線は、異なっている。
「確かに、あれは諏訪子だわ。それには違いない。
だけど、あいつは諏訪子の本体じゃない。
分霊って知ってる?」
「ああ、まぁ……。
あれだろ? 神様とか妖怪が、自分の分身を作る……」
「そう。
あいつは諏訪子の分霊なのよ。諏訪子本体からは独立した、己の意思を持った分霊。
珍しい妖怪だわ」
多分だけど、と霊夢。
「諏訪子は自分の子供を生む時に血を分けた。
神の血には神の『霊』が宿る。血は力。血は霊。血は絆。その時点で、早苗……というか、自分の子供には諏訪子の『分霊』が宿った。
そして、早苗のご先祖様が諏訪子の元を離れた時に、諏訪子はもしもの時、万が一、早苗たちの身に危険が迫った時に、分霊が意思を持って、目覚めて活動するような細工をした。
全ては、早苗の……自分の子供のために」
だから、あいつ、泣いてるのか、と。
魔理沙は小さな声でつぶやく。
諏訪子の放つ攻撃に容赦はない。
だが、最初の頃のような精度や調子は存在せず、ただ闇雲に早苗に向かって攻撃しているようにしか見えない。
感情が弾けて己の力が制御できなくなる――神ならばありえないが、人の身ならば、よくあることだ。
「時が経って、神の血に余計なものが混ざっていくに連れて、あの子は諏訪子を認識できなくなっていった。
それでも、諏訪子はあの子の側にいて、ずっとあの子を守っていた。
あいつは早苗を溺愛してたのよ」
「……なるほどね」
「あの子のことが大切で、守りたくて、だから、人を超えた存在にしようとした。
神として存在を昇華させることで、人以上の力が、あの子に宿る。そうしたら、あの子はもっと強くなって、安心。
そのために強引な手段をとって、あの子を傷つけて……。
だけど、それを、あの子のためと信じて疑わなかった。
分霊って、自分の意思を持ったとしても、最初に与えられた魂に逆らうことは出来ないのよね。
あいつはただ、『早苗を守る』ことしか考えてないのよ」
しかし、今の『諏訪子』はもはや悪神であり、誰からの信仰を集めることもなければ、誰からも愛されることのない存在となってしまった。
彼女はそれに気付いていない。
早苗のために一生懸命な『自分』が、『悪』であるはずがないと信じきっている。
それは文字通り、純粋な、悪意なき悪意なのだ。
「……何か考えさせられるわね」
「……ノーコメント」
しかし、だからといって、今の『諏訪子』を放置することなど出来ない。
ほったらかしておけば、悪神と化した彼女は際限なく、自分の『愛』を暴走させて回りに多大な被害をもたらすことだろう。
今、この場で滅ぼさなければならない。
そして、それをなすのは、彼女が愛し、守ろうとした『我が子』の早苗。
霊夢はぽつりと、「私がやるって言えばよかったかな」と、小さくつぶやいた。
「その力で、わたしに勝てると思うなよ」
降り注ぐ蛇の毒。
それを必死に回避し、弾き、しかし攻めあぐねている早苗に、諏訪子は言う。
「その力はわたしの力だ。
わたしの元から分かれた力で、わたしに勝てると思うな。
お前はまだ、出来損ないの神だ。その中途半端な存在が、神として完成したものにかなうはずがあるか!」
早苗の放つ弾丸が、諏訪子へと迫る。
しかし、諏訪子の呼び出した白蛇が壁となり、届かない。
一匹が倒されても、またすぐに別の白蛇が現れて形を成す。
反撃に、一斉に放たれる弾丸と蛇の猛毒。
早苗は後ろに下がると、右手を振り上げる。
彼女の右手が光を持ち、そこから薙ぎ払うような形で放たれる光の刃がその攻撃を撃墜した。
空中で、いくつもの光の花が咲く。
その閃光が早苗の視界を圧し、一瞬ではあるものの、世界を真っ白に染め上げる。
「どうしてわたしに逆らう!?」
諏訪子の手から放たれる閃光が、動きの止まった早苗の右肩を捉える。
痛みに呻く早苗。
すかさず、その傷跡に、諏訪子から伸びる白蛇が食らいつく。
「わたしの言うことに従って、黙って大人しくしていれば!
神奈子のところなんかに行かず、わたしのところにいてくれれば!
そうしたら、お前は何も変わらなかったのに!
神性を維持したまま、人の世に溶け込むこともなく、神としての道を順調に歩んでいたのに!
そうしたら、こんなに苦しまなくてすんだのに!
どうして、わたしに逆らうんだ!」
早苗は、食らいつく蛇の胴体をねじ切ると、その体を宙へと投げ捨てる。
蛇は宙に溶け消えて、再び、諏訪子の元へと現れる。
この蛇は倒しても無駄。
そう判断した彼女は、攻撃を放つ本体である『諏訪子』に視線を移す。
「わたしの作った、わたしの国にいてくれれば! わたしの側にいてくれれば!
そうしたら、お前は、傷つかなかった! 絶対に!」
相手の攻撃を弾き、受け流し、反撃の機会を伺っていた早苗が、体に違和感を覚える。
視線を下げると、右足に、小さな蛇が食らいついているのが見えた。
慌ててそれを振り払うのだが、次から次へと、蛇が噛み付いてくる。
足、腕、胴体、頭、顔、指先、乳房、股間。
全身を蛇に埋め尽くされて、早苗の動きがついに止まる。
「今からでも遅くない。
わたしのところに戻って来い。もう一度、二人で、この世界に国を築こう。
一緒に、幸せに……!」
「そこに、わたしの意思はあるんですか?」
すがるように早苗に近づき、声をかける諏訪子に、早苗は問いかける。
蛇に体の動きを止められても、口は動く。
早苗の問いかけに、諏訪子は「そんなものは必要ない」と答える。
「お前はわたしの言うとおりにしていればいい。
わたしはお前を、必ず、幸せにしてやる。お前は、ただ黙ってついてくるだけでいい。
お前に必要なものは、全て、わたしがそろえてやる。
お前に何かあったら、わたしが全力で、それを排除してやる。
だから……!」
「いやです」
諏訪子の声が、動きが止まる。
我が子から告げられる、明確な拒絶の意思。
それを正面から受け止めて、諏訪子はふらつき、顔に絶望の色を浮かべる。
「わたしは……わたしだって、一人の人間です。
わたしは、わたしの意思で、わたしの命に従って動いているんです。
誰かから与えられるだけの人生なんて、絶対にいや……! ましてや、誰かの言いなりになって、空っぽの道具みたいに使われるのなんて、絶対にいや!
わたしの意思を……わたしの意之霊を邪魔しないで!」
諏訪子は歯を食いしばる。
拳を握り締め、目元に浮かんだ涙を、服の袖でぬぐう。
「……そうかい」
諏訪子は後ろに下がると、巨大な白蛇を一匹、背後に携える。
「なら、もういい。
そこまで親に逆らう子なんて、もう、わたしは知らない。
消えてしまえ。
わたしのところに戻ってこないなら、消えてしまえばいい!
もう一度、子供を産めばいい! お前のような子供じゃなくて、本当のわたしの子供を!
お前みたいな悪い子なんて、もう、いなくなってしまえ!」
自分の感情を制御できなくなったものの行き着く先はただ一つ。
ためにためたものが外に向かって弾けて、全てを台無しにすることだけ。癇癪を引き起こすだけ。
文字通り、その命をかけて守ってきた我が子すら、もういらないと絶叫してしまえるほど、それはとてもとても悲しいもの。それは、涙と共にあふれるものを抑えられなくなったものの、悲しい末路だ。
諏訪子の叫びに呼応して、巨大な口を開けて、蛇が早苗へと向かっていく。
早苗は、大きく息を吸う。
吸い込んだ息を肺の中に溜め込んで、膨らました後、吐き出す。
そして、叫ぶ。
「いい加減にしろぉっ!」
その絶叫は、文字通り、妖怪の山を鳴動させた。
空気が震え、大地が振動し、どこまで遠く、長く、伝わっていく。
同時に、山に漂っていた神力を呼吸によって取り入れた彼女の力が炸裂する。
早苗に噛み付いていた蛇が全て、吹き飛んでいく。
なお向かってくる大蛇の顎を、彼女の両手が受け止める。
「本当にわたしのことが……! 本当に、自分の子供が大切ならば、その子供のことをどうして包み込んであげないんですか!」
すさまじい力と勢いで、己を丸呑みにしようとする蛇を支えながら、早苗は続ける。
「子供はいずれ成長し、親元を離れていくものです!
その時に存在するのは、己の意思! 母親……親のことを考える中で下した決断!
貴女の元を離れた、貴女の子供は、それが本当に貴女のことを想って、貴女のためになした決断なのに!
どうしてそれをけなすんですか! どうしてそれを認めないんですか! どうして、貴女は子供の意之霊を、大切に想ってあげなかったんですか!」
彼女の両手が蛇を引き裂く。
悲鳴すら上げることなく、蛇は此の世から消滅し、消えていく。
「その想いゆえに、貴女が妄執に囚われ、悪神となったならば!
我が秘術でもって、その悪心を祓ってみせる!」
諏訪子の動きが完全に止まる。
早苗の指が、腕が動き、呪と印を結ぶ。
紡がれた印は形となり、赤と青の奇跡となって、諏訪子へと――諏訪子の形をした『妄執』を捉える。
――秘法「九字刺し」――
紡がれた呪は法となって、諏訪子を封じていく。
術に紡がれた無数の呪。
それは諏訪子の中の、乱れた存在を中和し、封じていく。
諏訪子の悲鳴。
長く響くそれは、ある一瞬で唐突に収まっていく。
「何で……。どうして……」
術に捉えられ、封じられるその力。
中和されていく存在。
諏訪子の瞳に浮かんだ涙が、ぽたりと、その服に雫を落とす。
「……どうして……わかってくれないの……」
その言葉を残して、彼女の姿は消滅した。
「おっと」
魔理沙が、何かを見つけ、霊夢と共にそこへ移動して、『それ』を受け止める。
「何だこりゃ?」
それは、蛙の顔の髪飾り。
何事もなかったかのように、日差しを降り注がせる太陽に、彼女はそれをかざしてみせる。
早苗は魔理沙の元へ舞い降りると、「……それ、わたしのです」とつぶやいた。
「お前の?」
「あ、はい。
……そういえば、さっきから、ないなと思ったら」
自分の頭をぺたぺた触る彼女。
本来なら、そこに、その髪飾りがあったのだろう。
とりあえず、魔理沙は、それを早苗へと手渡した。
そして、
「……なぁ、霊夢。あいつは一体何を食ったらああなるんだ?」
「……知るかい」
「あ、あの……出来れば、あんまり見ないでいただけると……」
諏訪子との戦いで服を破かれて、見事な裸身をさらしている早苗が、恥ずかしそうに胸元と股間を手で隠した。
それと同時に、体に刻まれた激痛が戻ってきたのか、彼女は呻いて身を折る。
慌てて、魔理沙と霊夢が左右から、早苗を支えた。
「しっかし、よくやったもんだ」
「幻想郷に来て、初めての妖怪退治が神様退治なんて、あなた、やるじゃない」
「あはは……。
ほめていただけると嬉しいです……。あいててて……」
「待ってろよ、すぐに永遠亭に連れて行ってやるからな」
立ち去ろうとした、その時だ。
ざっ、と一瞬、風が舞った。
その気配の入れ替わりに、はっと気付いたのは早苗だった。
遅れて霊夢が、そして魔理沙が気付く。
振り返る。
波立つ水面。それが徐々に割れて、そして、ざばっという音を生み出す。
「や」
水の中から現れた、その顔。
彼女の顔に、一同は見覚えがある。
慌てて、魔理沙が八卦炉を構え、「諏訪子!」と叫んだ。
水の中から現れた『諏訪子』は、慌てて両手を顔の前でぶんぶんと振る。
「ちょ、ちょっと待った! ストップ、ストップ!
わたしはあいつじゃないよ! 本物の洩矢諏訪子!」
水の上にぴょんと現れた彼女は、「まだ目覚めたばっかりなんだから、怖いのは勘弁しとくれよ」と呻く。
三人は顔を見合わせる。
先ほどの『諏訪子』と、この『諏訪子』。見た目は完全に一緒だ。
霊夢の見立てでは、あの『諏訪子』はこの『諏訪子』の分霊――つまり、分身みたいなものだった。
となれば、この『諏訪子』もまた、あの『諏訪子』のように早苗に対する妄執に取り付かれている可能性もある。
慎重に、油断なく、三人は彼女を見つめる。
どうしたもんかと『諏訪子』は頬をかいた。
「えーっと……。
わたし、悪い神様じゃないよぅ! 攻撃しないで! けろけろ――なんて」
ふざけてみせるのだが、三人の警戒が解かれることはない。
はぁ、と諏訪子はため息をついた。
そうして、両手を挙げる。
「攻撃する意思はないから。大丈夫だってば」
さすがに『降参』の意思表示をしたものには、ある程度、警戒を解くのか、三人の気配が緩む。
ほっと息をついた諏訪子は、その視線を、三人の後ろに向ける。
「おっ、かーなこー! ちょっと、この子達に説明してやっておくれよ! わたしは悪い神様じゃないよー、って!」
三人は振り返る。
いつの間にか、その後ろに、神奈子が立っていた。
神奈子は一同を見渡した後、一言、告げる。
「諏訪子。お前が悪い」
――と。
「まぁ、つまるところね」
ここは、深閑とした竹林の中に佇む永遠の館。
そこの一角――入院患者用の病室に、早苗たちは通されていた。
早苗の病状は、そこを統べる医者――早苗曰く『眼鏡、白衣、おっとりお姉さん、巨乳、ストッキング。まさに完璧ですね』――曰く、『だいぶ怪我はひどいけれど、うちに一週間も入院していればよくなります』とのことだ。
そして、一同の視線は、湖の中から現れた少女、洩矢諏訪子へと向いている。
「あいつは――わたしの分霊は、悪い奴じゃないんだよね」
そう、彼女は軽い感じで語る。
「あいつはそもそも何者なのよ」
霊夢の問いかけ。
諏訪子は「人間の世界の認識で言うなら、アマツミカボシとかあのあたりかな」と答える。
「……あの、それ、神話に残ってる最悪の悪神の一人なんですけど」
「だけど、タケミナカタの側面の一つだからね。
ミシャグジさまの色んな姿の一つでもあるし」
早苗の言葉にも、諏訪子は動じない。
ということは、この彼女は、『神話に残る悪神』の側面を持っているということだ。
このように幼い少女の見た目に反して、中身はかなりやんちゃであるということである。
「神奈子は知ってたんでしょ?」
「早苗が……というより、早苗の先祖、つまりはお前の子供が私のところに出向いてきた時から知っている。
こいつには何かが取り付いている、と。
だが、祓う必要はないと感じたから、そのままにしておいた」
「その考えは正しい。
あれは、わたしが、早苗を……我が子を守るためにつけておいた安全装置だからね」
諏訪子の話によると、大昔、まだ神代の時代。
神奈子に負けた諏訪子は、その統治していた国を神奈子に盗られることになった。
だが、神奈子は所詮、外様の神。彼女を信仰する民が出てくるとはとても思えない。
そこで、諏訪子の子供――要は、早苗の先祖は、『この方は、諏訪子さまもお認めになった、民に益なす神です。皆さん、諏訪子さまはこの方に国の統治を依頼しました。自らのご利益と、この方のご利益をもって、さらにこの国を発展させてみせます』というアナウンス兼プロモーション係として。彼女は、神奈子の元に『嫁ぐ』こととなったのだ。
「ま、我が子だしね。
何かあったら不安だから、分霊を持たせたってわけさ」
以後、諏訪子は国の裏に回り、国の統治を続けた。
表に出た神奈子は、諏訪子の子供と共に国を守り立て、より一層の発展を――となるはずだったのだが、結果としては、今のような現状にある。
「長い時間の中で、早苗の先祖は、誰一人として病気やら事故やらで死んでいない。
みんな天寿を全うしてる。
それは全部、あいつが、早苗のことを守っていたからなんだよね」
時が経つに連れて、国は失われ、民は離れ、もって信仰心は失われる。
諏訪子と神奈子は何とかして、自分たちの存在を維持し、その力を維持しようとしたのだが、うまく行かない。
そうこうしているうちに失われた信仰のせいで、この二柱の神の力は弱まっていく。
このままでは己の存在が維持できなくなるとして、諏訪子は神社の中にある湖に造られた社で眠りについた。
後のことは、神奈子に丸投げで。
「……それってどうなんだよ」
「わたしが実務担当だしねぇ。
営業担当が神奈子だもん。信仰の拡大は、神奈子の役目」
ひょいと肩をすくめて、諏訪子は魔理沙に答える。
神奈子は、はぁ、とため息をついていた。
そうして、諏訪子の存在が、一時的にせよ隠されたことで、諏訪子の『分霊』は自分へと指示を下す本体を失い、元から組み込まれている指示――つまり、『我が子を守る』ことのために動き始める。
我が子に害をなすものを遠ざけ、我が子に危険が迫れば、その身を挺して守り抜く。
それを、何百年、何千年と続けてきたのだ。
『彼女』の活動には、神奈子も理解を示していた。
自らの元に嫁いできた、自分にとって『外様』の存在であろうとも、『早苗』は神奈子のために尽くしてくれた。
彼女のことを愛おしく思う神奈子にとって、『彼女』の存在はむしろ好都合だったのだ。
「その結果が、この大暴れというわけね」
「そういうことになる」
「……悪気の欠片もないわね」
「もし、私が謝るとするならば、あいつが私の予想以上のことをして、早苗を守ろうとしたことだ。
私が頭を下げるべきは早苗であり、お前じゃない」
きっぱりはっきり言う神奈子に、霊夢は絶句する。
早苗が苦笑いを浮かべ、諏訪子は「だけど、まさか、早苗の存在を外の世界から消し去るとは思わなかったね」とつぶやく。
「……確かに。
あの時、何者かの力が働いたのを感じたが……」
「うまいこと、ミシャグジさまの毒を回らせたんだろうね。
あの毒が呪いとなって、人間たちに回りきったのさ」
ということは、『彼女』は神奈子が幻想郷に行くことを決意する、もっと前から、ひょっとしたら動いていたのかもしれない。
神奈子という、力を失いつつあっても強力な神にすら気付かせずに何らかの行動を起こすのは並大抵のことではない。
本当に少量の『毒』を、早苗が生まれた当初から、彼女の周囲にばら撒き続けていたのだとすれば。
「あいつは一体、神奈子が言い出さなかったら、どうしてたんだろうな」
「もしかしたら、自分の命も、そう長くないことを感じていたのかもしれないね」
分霊は、本体から力の供給を受けられなくなれば、いずれ弱って消滅する。
諏訪子ほどの力を持った神だからこそ、分霊も、何百年、何千年と力を維持することが出来たのだが、それもいよいよ限界に達していたのだとすれば。
本来の目的――『早苗を守る』ことが出来なくなると感じた『彼女』は、最後の力を振り絞って、早苗を『神』へと昇華させ、現世に存在するあらゆる艱難辛苦から早苗を遠ざけることのできる、『神の世界』へ、早苗を押し上げようとしたのかもしれない。
すでに、『彼女』は封じられ、その力は、その御魂は、もうここにはない。
『彼女』の口から、真相を語ってもらうことは出来ない。一同に出来るのは、『彼女』がどうしてこんなことをしたのか、推測するだけだ。
「だから、あんなに弱かったのかもね」
「弱い? お前、見てたのか」
「まぁね。社の中から見てた。
やばくなったら飛び出そうと思ってたけど、早苗が思いのほか、奮闘してたからさ。
本来のあいつの力じゃないなーとは思ってたよ」
「……あれでですか?」
「当たり前じゃん。仮にもわたしの分身だよ?」
それで徹底的に苦戦させられた早苗は顔を引きつらせる。
――ともあれ、これで事件は一件落着。
霊夢と魔理沙による異変解決も終局である。
二人は顔を見合わせると、立ち上がる。
「それじゃ、早苗。ゆっくり体、治しなさいよ」
「またな。明日か明後日に、私の知り合いとか連れて見舞いに来るよ」
「あ、はい。
すみませんでした。霊夢さん、魔理沙さん」
「いいよいいよ。お菓子、美味しかったし」
「神と戦って、こいつを負けさせたんだからな。いい経験をさせてもらったぜ」
二人は笑いながら踵を返す。
そして、『またね』と声をかけて、部屋を後にしようとして、
「あーっ!」
響く第三者の声。
何事かと振り向く一同の視線の先には、障子を開けて佇む文の姿。
「もしかして、もう全部、終わっちゃいましたか!?」
「もう全部、って……。
早苗たちのこと? まぁ、そりゃ」
「そんなー!
せっかく、いい記事が作れると思ったのに!」
「お前、霊夢にこてんぱんにやられたくせして、まだそんなこと言ってんのかよ」
「それとこれとは別ですよぅ!」
地団太を踏む文。
彼女の唐突な出現に、一同の顔に笑顔がもれる。
「せっかく、早苗さんをたきつけて、霊夢さんと一戦交えさせたらいい絵が撮れると思ったのにぃ!」
――そして、その一言で、一同の笑顔は硬直する。
「……あれ?」
文はきょとんとなった後、『あっ……』という顔になった。
「あ、あの、私、今、何かものすごい失言をしたような……」
「なるほど」
文の右肩に、魔理沙の手が載せられる。
「つまるところ」
その左肩に、霊夢の手。
「早苗たちがさー、幻想郷にやってきた理由とか、その辺りのことは解消したんだけどさー。
わだかまりがあったのよねー」
「そうだよなー。
あんな人畜無害な顔した奴が、霊夢に宣戦布告なんて、どうもおかしいと思ってたんだよなー」
「いっ、痛い痛い痛い痛い痛い! お、お二人とも、ちょっとタンマタンマタンマ折れる折れる折れるぅぅぅぅぅ!」
ぎりぎりめきめきと、二人の手が文の骨に食い込んでいく。
人間とはとても思えない握力に、文が悲鳴を上げた。
「お前が犯人だったのかー」
「以前、徹底的に痛めつけられたくせにこりてなかったのねー」
「なぁ、どーする? 霊夢」
「焼き鳥にして、鳥鍋作りましょう」
「おー、いいなー。んじゃ、とりあえずマスパかなー」
「私、夢想封印しちゃおっかなー」
笑顔で『ごごごごごごごご!』という擬音と共に必殺奥義を取り出す二人に、文の顔が引きつり固まる。
その時。
「ち、ちょっと待ってください!」
そこに、救いの女神参上。
早苗が二人と文の間に割って入り、「待ってください!」と声を上げる。
「確かに、文さんがそういうことをしたのかもしれません!
だけど、それをしたのはわたしで、乗せられたわたしが悪いんです!」
「……あのさー」
「お前、人がいいにも程があるぞ」
「さ、早苗さぁぁぁぁぁん、助かりましたぁ~」
「それに、文さんは、わたしに幻想郷での色々なことを教えてくださいました。
幻想郷で、一番最初に、わたしの友達になってくれたのも文さんです」
必死に訴えかける早苗に、霊夢と魔理沙は困ったように顔を見合わせる。
一方の文は、地獄に仏と言わんばかりに早苗の背中にすがる。
「だから――」
早苗は、そこで文に振り返る。
「一発殴るの、わたしの役目ということで♪」
『よし許す』
「ちょ、そんなぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!?」
とはいえ、『親しき仲にも礼儀あり』。
悪事を働いた友人は、懲罰を与えなくてはならないだろう。
笑顔で早苗は文に振り返る。
その笑顔は、まさに、『殺ス笑ミ』。
早苗は拳を握り締め、チャージを始める。
「ま、待ってください、早苗さん! あの、私、悪気はちっとも……!」
「大丈夫。痛くないですよ。
痛いって感じる前に意識が飛びますから」
「ためてますよね!? それ、今、めっちゃためてますよね!?
に、逃げ……って、結界ぃ!?」
「文、あんたなら大丈夫よ」
「そうだな。零距離でマスパ食らってもぴんぴんしてるもんな」
「だからちょっとあのえっといやぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!?」
「必殺! 早苗ぇぇぇぇぇぇぇぇ! ストラァァァァァァァァイクッ!」
サモンタケミナカタによるパワーチャージに加えて、全速力の必殺パンチ。
その威力はまさに『神の拳』であった。
「それじゃ、霊夢さん、魔理沙さん。また」
「ええ。じゃね」
「大人しく寝てろよー」
永遠亭の壁に人型の穴がギャグのように空いている。
響き渡った轟音に、『何事ですか!?』と駆けつけてきた、永遠亭のうさぎ達がぽかんとそれを眺める中、笑顔で、早苗は霊夢と魔理沙に手を振った。
その様を見ていた神様二人は思う。
「……神奈子。早苗の友人関係、ちょっと見直そっか」
「……そうだな」
このままほったらかしといたら、早苗がどんな風になるかさっぱりわからない。
わからなくて、不安になる。
ああ、『彼女』をそのまま残しておけばよかったな、と。
この時になって、二人はそれを心から思うのだった。
つと、目が覚める。
障子の向こうから差し込む月光が、部屋の中を白く照らし出す。
霊夢と魔理沙はいない。文もいない。
神奈子と諏訪子は、今回の一件で、文字通り、山の形が神社の周囲を中心に変わってしまったため、その説明のために山の偉い連中と会合を設けることになってしまったため、やはり、いない。
一人で布団の上に横になっていた早苗は、起き上がる。
起き上がって、彼女は周囲を見渡す。
誰もいない。
いるはずがない。
その空間に、一箇所だけ、闇があった。
闇、というよりは暗がりと言うべきか。
月光の差し込む空間に、誰もおらず、何もないのに、影がある。
早苗は立ち上がると、そちらに歩み寄り、「こんばんは」と声をかけた。
返事はない。
「どうしてそこにいるの?」
彼女の問いかけに、答えはない。
早苗は膝を折って、その影の高さと目線を合わせる。
「どうしたの?」
その問いかけに、さっと、一瞬、月に雲がかかった。
室内が一瞬だけ闇に覆われて、そして、晴れる。
晴れた月光の下、一人の少女が佇んでいる。
「こんばんは」
彼女の声に、その少女は小さな声で「……こんばんは」と答えた。
「どうしてそこにいるの?」
「……」
「どうしたの?」
先ほどと、全く同じやり取りをする。
すると少女は、顔をくしゃくしゃにして、ぽたぽたと涙をこぼす。
「何かあったの?」
「……」
まだ、何も答えない。
答えないまま、彼女は左右に首を振る。
ふぅ、と早苗は肩をすくめた。
そうして、もう一度、「こんばんは」と声をかける。
「……どうして……」
「ん?」
「どうして……声をかけてくれるの……」
「どうして、って。
こんなところに、貴女みたいな女の子が一人でいたら、気になるもの」
にこっと笑いかける。
すると、少女は、『……馬鹿みたい』とつぶやいた。
「そうやって……周りのものに無警戒だから……お前は色んなものに巻き込まれて……ひどい目にあう……」
「そうでもないのよ?
こうやって、色んな人に話しかけると、色んな答えが返ってくる。
それは、貴女の言う通り、ひどいことの時もあるし、そうじゃないこともある。むしろ、そうじゃないことの方が、ずっと多い。
世の中には色んな人がいて、色んなことを考えていて、色んなことをしている。
そういう人たちに話しかけたりしないのはもったいないと思う」
「違う」
彼女はそう言った。
早苗の言葉に間髪入れずに、そう答えた。
「……違う。
もっと、お前は周りを警戒して、もっと周囲に用心深くなった方がいい。
じゃないと、また今回みたいなことになる。
お前にとって悪意を持つものを、お前は受け入れて、それで……」
「わたしは、そういう人には、最初から声をかけない」
今度は、早苗が言い返す番だった。
そんな間抜けなことはしない、と彼女は言う。
「確かに、警戒心とか薄いかもしれない。
だけど、それくらいのことはわかる。その人が自分にとってどういう人なのか。
それがわからないほど、目が曇ってるわけじゃない」
「……」
「貴女は、わたしにとって、悪いことしかしない人?」
彼女の問いかけに、少女は無言でうつむいた。
うつむいたまま『……違う』と小さくつぶやく。
「どうして、ここにいるの?」
早苗の問いかけに、彼女は答える。
「……ごめんなさい」
その一言をつぶやいた後、彼女は小さく、嗚咽を漏らす。
「……お前のためだと思ってやったことなのに……。
お前たちのことを想ってやっていたのに……。
だけど、お前たちにとってはそうじゃなくて……お前たちにとって、苦しいことばかりで……。
それくらいのことは必要だって、わたしは思ってて……お前たちは何も言わなくて……」
「うん」
「……お前が、初めてで……。
わたしに反抗したの……お前が初めてで……」
「そう」
「……どうして、わたしの言うことを聞かないの……。
みんな、もっと素直に、わたしの言うことを聞いていた……! わたしの声が聞こえなくて、姿も見えなかったけど、だけど、みんな、わたしの言う通りに動いていた!
だから、みんな、平穏に、笑って死んでいった! わたしは、お前たちのことしか考えてないのに!
なのに……!」
「だからよ」
その一言で、少女は顔を上げる。
彼女の顔に光る涙を、早苗は、自分の寝巻きの袖でぬぐってやる。
「だから、わたしは貴女に反抗したの」
「……どうして……」
「わたしにとって、大切な人は、貴女だけじゃない。
わたしにとって大切な人って、一杯いるの。
もう、多分会えないだろうけど、お父さんとかお母さん、おじいちゃん、おばあちゃん、おじさん、おばさん、それから、たくさんの友達。
そういう人たちがいるから、今のわたしがある。
貴女が望んだものとは違うんだろうけど、わたしにとって、今のわたしの姿は、わたしが望んだもの。
貴女はね、わたしのことしか考えてない。それはすごく嬉しい。
けど、その相手の心すら無視して、自分の想いを押し付けようとするのはよくないことよ。
それは、誰も望まない。貴女だけの自己満足」
ぽんぽん、と伸ばした手で、彼女の頭を軽く叩く。
それから、その手で相手をかき抱き、「ありがとう」とその耳元で囁く。
「貴女は、本当に、わたしの……わたし達のことを考えてくれていたのね。
長い間、ずっと。
わたしに危険なこととかが起きたら、身を挺して助けてくれていたのね。
本当にありがとう。
貴女がいたから、わたし達、今まで生きてこられたの。
貴女は貴女の意思で、ずっと、わたし達を守ってくれていた。
だからね、これからも、わたし達のこと、見守っていてちょうだい。
大丈夫。貴女の力を借りなくても、わたし達、立派にやっていける。貴女はその目で、その瞳で、わたし達のこと、見守っていて欲しいの。
ずっと、ずっと」
少女の顔は、変わらない。
涙に濡れたその瞳を早苗に向けて、何度も何度もかぶりを振った後、
「これ……わたしの意思じゃない……!」
そうつぶやいた。
「わたしの意思は作られたもの……! 誰かから与えられたもの……!
わたしは、わたしの意思で動くことが出来なかった……! わたしの意思は、わたし以外の他人に操られていた……!
だけど、わたしは、それでも……!」
「わかってる」
それから、『違うよ』と。
早苗は言う。
「それは違う。
貴女は、貴女の意思で、貴女のやり方で、わたし達を守ってくれていた。
そのやり方がちょっと間違っちゃっただけで、貴女のしていたことを、わたしは……そうね……。
多分、今は無理。
今は、わたし、貴女のことを許せない。貴女のしたことを、絶対に許せない。
だけどね、いつか……そう遠くないうちに、貴女のしたことを許せるような気がする。
わたしの心の中には、貴女を許せない気持ちと、貴女にとって、『ありがとう』の気持ちがあるの。
『ありがとう』を、今、素直に口に出せるから。
だから、そのうち、わたしは貴女を許せると思う。わたし達に、貴女を許せる日が、必ず来るはず。
その時に、もう一度、会いましょう。
その時には、わたし、貴女に、心から『ありがとう』が言えるから」
少女は、無言だった。
無言のまま、彼女の体は闇に溶けて消えていく。
去り際に、頭だけが残った彼女の唇が小さく動いて、もう一度、『……ごめんなさい』とつぶやいて。
少女の姿は消えていく。
「……」
彼女は、一体、何を考えて、早苗の前に姿を現したのか。
もう体を具現化させる力もないだろうに。
その最後の力を振り絞ってまで、早苗に伝えたかったものは、何だったのだろうか。
ただ一言、謝りたかった?
――それは恐らく、違うだろう。
それならば、早苗の言葉を否定するはずもない。
己の正しさを伝えたかった?
――恐らく、これも違う。
それならば、謝罪の言葉を口にする必要もない。
尋ねてみたくても、もう、彼女の姿はどこにもない。
この先、何年……何十年、あるいは、何百年も何千年も経たないと、彼女は早苗の前に姿を現せないかもしれない。
それでも、
「……いつか、また」
早苗にとって、それは待ち望むべき日。
お互いのわだかまりが解けて、本当の意味で、『ありがとう』と『ごめんなさい』が言える日。
その日が本当に来るのかわからない。
わからないが、待たなくてはいけない。
小さくため息をついて、早苗は布団に戻っていく。
眠りに落ちる間際、本当に一瞬だけ、背中を向けて、寂しそうに歩み去っていくあの少女の姿が見えたような――そんな気がした。
「おーい、霊夢」
「何よ。魔理沙」
「何、不景気な顔してんだよ」
無言で、霊夢は前を指差す。
そこにあるのは、博麗神社の敷地内に造られた、小さな小さな分社。それは、早苗たちの神社のものだ。
「あっちにゃざくざく人が来て、じゃらじゃら賽銭入るのに、こっちは閑古鳥だしなぁ」
歩いて数歩の距離だというのに、その距離は、現実には三途の河の川幅など生易しいくらいに遠いもの。
けっけっけ、と笑う魔理沙の脳天に『夢想封印―肘鉄―』がめり込むのは次の瞬間の出来事である。
「あー、もー! 何よ、この差! うちが何かしたの!? 何か悪いことしたっての!?」
「何もしてないからこうなるのよ。少しは反省なさい」
「うっさい、紫!
何もかんも終わった後にのこのこ出てきてしたり顔すんな!」
「あら、これはお言葉」
空間の亀裂から姿を現した妖怪が、音もなく、ふわりと地面に降り立つ。
紫の出現を見て、人々が『よ、妖怪だー!』と悲鳴を上げて逃げ出していく。
あっという間に、閑散とする神社の境内。
紫は、「何よ。失礼しちゃうわね」とぷりぷり怒りながら、手にした日傘を広げる。
「……あんた、それ、マジで言ってる?」
「私は冗談も嘘も言わないわ」
「……こいつは」
うふふ、と笑う彼女の視線は空の彼方へ。
しばらくすると、その先に、霊夢たちにとって見慣れた姿が現れる。
「こんにちは、霊夢……」
やってきたのは早苗と神奈子、そして諏訪子の三人だ。
挨拶をしようとした早苗が、紫を(というか、その足下の地面の上で身動きしない魔理沙を、だが)見て止まる。
「ごきげんよう」
彼女はにっこりと笑って早苗たちに挨拶をした後、その笑みで、三人を見据える。
早苗は慌てて「こ、こんにちは!」と頭を下げるのだが、神奈子は紫を警戒する顔を見せ、諏訪子はにやりと笑うだけ。
「何しに来たのよ」
「分社の様子を見に来た。
人が全くいないようね」
「さっき、蜘蛛の子を散らすように逃げてったわよ」
「お茶くれーお茶ー」
「出がらししかない」
「何だ、ケチぃな。博麗の巫女」
「うっさい、このケロ子!」
けらけら笑う諏訪子は、ぴょんぴょんと跳ね回り、倒れた魔理沙の上に着地する。
ぶぎゅ、という悲鳴を上げて、魔理沙が起き上がる。
「あの、実はですね」
「うん」
「このたび、我が神社――守矢神社が、正式に営業を開始しましたので。
そのご挨拶に参りました」
「あーそー。商売敵への挑戦状ね。いい度胸だわ」
「い、いえいえ。そんな」
「こら、霊夢。新しいお客様にけんか腰とは何事? 全く、これだから貴女は」
「いてっ」
べしっ、と傘で頭を叩かれて、霊夢は悲鳴を上げる。
紫は早苗たち三人を一瞥すると、「初めまして。八雲紫と申します」と頭を下げる。
「私はこの幻想郷を見守る、妖怪の賢者の一人。そして、幻想郷の、まぁ、母親と申しましょうか。
その縁で、この子の後見人もやっております」
「お初にお目にかかる。八坂神奈子という」
「洩矢諏訪子ー」
「あ、あの、東風谷早苗といいます」
「ええ。
皆様、ようこそ幻想郷へ。歓迎いたします。
しょっぱなから、だいぶ大騒ぎしていただいたようで。とても歓迎していますよ」
そう言う紫の目は全く笑っていない。
圧倒的な、相手からの気配に顔を引きつらせた早苗が、神奈子と諏訪子に助けを求める。
「まぁ、このような場で立ち話というのも何ですから。
霊夢、手伝いなさい。お客様にお茶とお菓子を用意するわよ」
「んなもんないわよ」
「私が持ってきました。
ほら、早く」
「はいはい!」
「『はい』は一回でいいの」
「はーい!」
「では、皆様、こちらへどうぞ」
紫が先頭に立って歩いていく。その後ろを不満げな顔で霊夢がついていく。何だかんだで、紫の言うことには従うようだ。
「えっと……どうしましょう?」
「別に気にする必要ないさ。
あいつはあんな奴だが、少なくとも、お前らを出し抜いてどうこうしようとか考える奴じゃない」
むくっと起き上がった魔理沙が、珍しく、紫を擁護する。
その思惑に何があるのかは不明だが、とりあえず、現時点では信頼すべき相手である――彼女の言葉を信じたのか、神奈子が一同の先に立って歩いていく。
「お菓子とお茶だって。何が出るかな」
「さ、さあ……」
「わたしは大福がいいなー。
塩大福! あれ美味しいよねぇ」
「そ、そうですね」
「今度、早苗に作っちゃるよ。わたしの作る大福、美味しいよー」
その後を、無邪気な神様が続き、最後に早苗と魔理沙。
「霊夢は、結構、お前のこと、歓迎してるぞ」
「え?」
「同世代の知り合いが新しく増えたんだ。
それに、私や霊夢の知り合いには人間の知り合いは少ないからな。
私にとっても、人間の友達が増えるのは大歓迎だ」
「は、はい。こちらこそ」
「ああ、よろしくな」
にかっと笑って、魔理沙は早苗に手を伸ばす。
その右手を握り返して、早苗はもう一度、『よろしくお願いします』と頭を下げる。
母屋の中から、「そこの遅れてる二人ー! 早くこーい!」という霊夢の声が上がり、続けて、「だから叩かないでよ、紫!」という悲鳴が響いて。
二人は小さく、顔を見合わせて笑った後、母屋の中へと歩いていくのだった。
「時々ですけど」
「ん?」
「未だに思い出すんですよ」
「何の話?」
「昔のこと。
まだ、わたしが、幻想郷に来て間もない頃のことです」
「あー、あれか。
あの時は大騒ぎだったよねぇ」
楽しかったわ、と笑う霊夢が、あったかいお茶を一口。
そうですねぇ、と早苗は返して、
「迷惑をかけてしまいました」
「あはは。
いいのいいの、気にしない、気にしない。
あの後、色んな連中と知り合ったでしょ? 変なことしてた奴ら、一杯いたじゃない」
「まぁ、確かに」
それから比較すると、自分たちは、まだまともだったのかな、と。
ちょっぴり失礼なことを考えて苦笑する。
「早苗たちはさー」
「はい」
「慣れた? 幻想郷」
「だいぶ」
だけど、まだまだ、この世界で最初から暮らしていた人たちには及ばないと、早苗は言う。
霊夢は『へぇ』と笑った。
縁側で足をふらつかせながら、「そんなことないと思うけどなー」と言う。
「充分、染まってるよ?」
「うーん……」
それは果たして、いいことなのか悪いことなのか。
現地の習慣や現地の風習に慣れてきて、その土地に染まってきたというのは、確かに、いいことなのかもしれない。
しかし、ここは幻想郷。
日常的に弾幕と爆発が飛び交い、何だかよくわからない連中が何だかよくわからない理由で、好き勝手に厄介ごとを起こす世界である。
果たして、その世界に染まるというのはいいことなのか悪いことなのか。
悩んでしまう。
「私は、早苗、ずいぶん楽しそうにしてるなって思ってるけど」
「ええ、まあ。
毎日、楽しいですよ。いろんなことがあって。
未だに知らないことがありますし」
「あるある」
そういう『新しい発見』をするだけで、この世界で生きているのは楽しいと、早苗。
霊夢は空を見上げながら、「だけど、それは、この世界の楽しさには当てはまらないなぁ」とつぶやく。
「外の世界でも、早苗の知らないことは、きっとたくさんあっただろうね。
あなたはそれを知らなくて、多分、それを知れば、楽しいと感じるんだと思う。
幻想郷は広くて狭い。外の世界の『発見』には、きっと及ばない。
その世界であなたが感じる、あなたの楽しさって、何?」
「それは~……」
ん~、と悩みながら空を見る。
都会の空では決して見えない、見事な星空。
視界の隅を、流れ星が流れていく。
「やっぱり、これかな」
「わっ」
いきなり、早苗は霊夢の肩に手を伸ばして、自分の方に抱き寄せる。
『もう、何よ』と霊夢は顔を赤くして抗議するのだが、
「こうやって、博麗霊夢さんと過ごす毎日」
そう、まっすぐな瞳で、だけど茶目っ気たっぷりの笑顔で言われて、霊夢は顔を真っ赤に染める。
相変わらず、この手の恋愛ごとにはまるで耐性のない巫女である。
そっぽを向いて、『からかわないでよ』とふてくされる。
「まあまあ。
……けど、これは割りと本当ですよ?
一緒に過ごすだけで楽しい人って、人生、長くたってそうはいませんから」
「……かな」
私もだ、と霊夢はつぶやいて、何だか照れくさそうに笑う。
「明日は何する?」
「わたし、明日は神社の祭事があります」
「うわ、仕事熱心。
私は~……そうだな、久々に、里に御守でも売りに行こうかな。華扇でも連れて」
「華扇さまですか。あの方がいれば、売り上げ、上がりそうですね」
「……あいつが作ったものばっか売れるのよね。
何で私が作った御守、一個も売れないんだろう」
誰も彼もが、『いえいえ、博麗の巫女さまがお作りになられた御守なんて、ありがたすぎてとてもとても』と言葉を何重にもオブラートにくるんで、受け取るのを否定してくる現実。
霊夢は相手に気を遣われているのをわかっているようだが、それが普段の、自分への悪評につながる所以だとは思っていないらしい。
「……早苗の作る御守って、めっちゃよく売れるよね」
「ええ、まあ。売れます。はい」
「どうやって売るのか、こつを教えて」
「……こつと言われても」
素直に『日頃から常に神様を信仰し、礼儀正しく真面目に人生を過ごすこと』とはとても言えない。
実際、霊夢の私生活というか、日常生活といえば、ひがなだらだらお茶を飲んで境内を掃除して、やってくる悪友どもとドンパチ繰り広げることのみ。
……これでは、『神性』だの『神格』だの、あったものではない。
「相変わらず、あんたの分社にはお賽銭入るけど、うちにはからっきしだし。
……何が悪いのやら」
本人は、真面目に巫女やってるつもりでも、世間一般から見ればそうではない。
その認識の違いを、誰かが霊夢に教えなければならないだろう。
普段なら、そういうことは紫の役目なのだが、この頃は、そうした点に関するお小言は減ってきているらしい。
「まあ、頑張りましょう」
その理由は、恐らく、霊夢を支えるこの彼女がいるからなのだろうが。
とはいえ、早苗としては、『そういうことを押し付けないでください』と言いたいことでもあるのだが。
「星空、か」
霊夢は空を見上げてつぶやく。
つられて、早苗も視線を空に。
「まつろわぬ民を統べる、星の神。あれは今、何をやってるんだろうね」
「……さあ」
あれから、もう数年。
諏訪子の分霊として、此の世に生を受け、その命と生涯をかけて、ただひたすら『早苗』を守り続けた神。
それが宿っていると思われる早苗の髪飾りは、今は、彼女の枕元。
あれから一度も、早苗は彼女に逢ってはいない。
「早苗はこれからどうなるんだろうね」
「さあ」
おや、という顔をする霊夢。
「珍しいね。
そういう話に曖昧な答えをするなんて」
「まだ決まってませんから」
神として成るか、人として生きるか。
早苗は人として神と成り、神として人のまま生きることを宣言した。
それは一体、彼女の中で、どういう生き方に当てはまるのか。
それはまだ、彼女にとっても、結論の出ない人生である。
「これからどうしようか。
先は決まっているんだけど、どう歩んでいこうか。
もしかしたら、道が変わったりするんだろうか。
そういう悩みは、人間、生きている限り、抱き続けるものです」
「確かに」
「わたしはいずれ、神様になりますよ。頑張って。
今だって、半分、神様に足突っ込んでますから」
「はいはい。
そういうところが、こういう態度に出てくるってわけね」
ぷに、と霊夢の指先が早苗のほっぺたを押した。
お返し、とほっぺたぐにぐにされて、霊夢は『痛いわね!』と抗議の声を上げる。
「神奈子さまと諏訪子さまも、何も仰ることはありません。
ただ、わたしのことを見守っているだけですね。
……まぁ、修行は課せられますけど」
「ふーん。
何で神様になんかなりたいかね。私にはわからないわ。
私にとっては、人間としての自分の命と自分の姿が、何より大切だと思ってるんだけどね」
「それは人それぞれの感覚です。
霊夢さんにとってはそうでも、わたしにとっては違う――ただそれだけ」
「議論にならないね」
「結論、出てますからね」
人生色々。
その一言で、それは終わってしまう。
誰の人生観が正しく、また、間違っているのかなど、明確に答えが出せる話ではない。
他人の人生を否定する権利など、誰も持っていないのだ。
それが客観的に見て、明らかに誤りであろうとも、その人物にとっては正しい人生なのだから。
それを否定できるほど、強い命を持っているものなど、それこそ『神』にしかありえない。
「さて。
そろそろ寒いし、眠くなってきた。
寝よう」
「そうですね。風邪を引いちゃいますし」
二人は立ち上がって、肩を並べて、縁側を歩いていく。
そうして、寝床へと戻ってきて、布団の中に。
ちなみに、隣の布団では、相変わらず魔理沙がアリスに抱き枕にされていた。明日、魔理沙の目が覚めるかどうかは、それこそ神のみぞ知るという状況だ。
「早苗が何になろうと、早苗は早苗だ。
自分の好きなようにやるのがいいよ」
「そのお言葉、そっくりそのままお返しします」
「了解。
お休み」
「おやすみなさい」
二人は布団の中で目を閉じる。
すぐに心地よい眠気がやってきて、意識がうとうとと遠ざかっていく。
――その中で、早苗は暗闇の中に、誰かの姿を見た。
その姿は闇に閉ざされ、何者なのかはわからない。
その『何か』は、相変わらず、暗がりの中から一歩も出てくることはない。ただ、早苗と距離をとって、早苗を見つめているように見えた。
――あなたは誰?
問いかけても、答えはない。
――あなたは、何をしにきたの?
それは、何も答えない。
――あなたは……。
言葉を続けようとした瞬間、暗闇はさっと晴れて、消えていく。
後に残るものは何もない。
それが何をしたかったのか。
それが何を訴えたかったのか。
それが何を思っているのか。
わからない。
わからないままに、早苗は眠りにつく。
その暗闇は、いつか晴れるであろうことを考えながら。
そして、その日、その時が来たら、自分は一体、何をどうしたらいいのか。
悩んでばっかりで、わたしは本当に大変だな、と。
小さく、笑いながら。
「わたし、常々思うんですけど」
「うん」
「幻想郷の人たちって、美容に気を使わなすぎだと思いません?」
「思う」
翌朝。
洗面所でぱたぱたぺたぺた、お肌に気を遣う女の子が二人。
言うまでもなく、早苗とアリスの二人である。
霊夢は顔を洗ったらさっさと朝ご飯、魔理沙は『何か三途の河で小町と酒を飲む夢を見た』と呻いて起きた後、顔を洗うのもめんどくさいと、すでに食卓についている。
「女性なのに、何の対策もしないって。昔の日本ってそうだったのかもしれませんけど」
「その辺りは幻想郷は遅れているわよね。
早苗のいた外の世界が羨ましいわ。こんなに便利な化粧品、魔界にだってないもの」
「わたしも、持って来たものがなくなっちゃいまして。
同じ成分で使いやすいものを紅魔館で咲夜さんに貸して頂いていたんですけど、あるとき、永遠亭に持って行ったら、永琳さんが『ええ、これくらいなら作れますよ』って。
おかげで格安で化粧品が一式そろうんですよね~」
「あ、ほんと? それなら、私も今度、永琳さんのところから買うようにしようかな」
女の子にとって、美とは永遠に追求していくべきものである。
それはもう、断言してもいいだろう。
たとえどれだけ年をとっておばあちゃんになったとしても、美は諦めてはならないものなのだ。
そして、それに費やす費用と時間はプライスレス。
かけた努力の分だけ、結果は返ってくるものなのである。
「よし、完璧」
「アリスさん、肌、きれいですよね~。お人形さんみたい」
「それ、うちの姉によく言われる」
「あはは。そうなんですか」
「早苗、これ、ありがとう。使いやすくて助かるわ」
「いえいえ」
それじゃ、お先に、とアリスが踵を返して洗面所を後にする。
早苗は『こんな感じかな?』と最後のチェック。
べたつきなし、てかりなし、乾燥もしわもなし。
「よし、完璧」
うん、とうなずき、にこっと笑って。
「……!」
その時、彼女は鏡の中に、人の姿を見た。
子供。
女の子。
その姿に、早苗は見覚えがある。
振り返っても、誰もいない。
彼女は鏡の中にだけ、存在している。
彼女はうつむいていた。
うつむいて、手を胸の前でもじもじさせていた。
そうして、意を決したように顔を上げると、大きく口を開けて、言った。
『おはよう、早苗!』
手を振って、彼女は去っていく。
まだぎこちない笑顔を浮かべていた彼女は、最後にもう一度だけ、振り返って、早苗に手を振った。
彼女が鏡の向こうに消えていくのを、ただ見つめていた早苗は、思わず、その顔を笑顔に染める。
洗面所を後にして、食卓の並ぶ居間へ。
そこではいつものメンツが、朝ご飯の開始を、今か今かと待っている。
ようやくやってきた、最後の一人。
全員の目が集まったところで、早苗は、「皆さん、おはようございます!」と大きな声で挨拶するのだった。
100作目にふさわしいぐらいな大ボリュームでいつもと違ってシリアスムードな感じで面白かったです
これからも応援していきますのでがんばってください
毎度楽しませていただいて本当にありがとうございます。
これからも応援してますからね!
その限界をぶっちぎっての100作品目(ジェネ除く)
しかもそれが長編なのだから頭が下がります
今まで見てきた氏の世界観を再確認しつつ、風神録を楽しませて頂きました
早苗さんって設定だけなら人間組で一番主役っぽいんですよねえ
しかしこの作品で誰の株が上がったのかと言うと…あやややだと思われます
普段の氏の作品では見られない、表と裏の顔で物語に絡んでいく姿はあやや株爆上げ待った無し
オチにも絡んで来るし、やっぱり新聞記者は正義やな!(マスゴミ感)
面白かった。
ネット使えば
話のテーマを絞っていながら、場面のメリハリはつけて様々なシーンを組み入れていたので、フォーカスを外すことなくしかし飽きさせない作りになっています。素晴らしい。
ゆうかりんシリーズやサナレイシリーズのどちらも楽しく読めてそそわでもっとも好きな話の一つです。
これからも応援しています。
れいさなは素晴らしいし、それを書き続けるharukaさんも素晴らしいです。