私は、比較的頭がいい。
子供の頃は神童と呼ばれ(実際に呼ばれたわけではないが、要はそういう扱いを受けていた)、中学へは一つ、高校へは二つ飛び級をして進んだ。正確には、進まされた、というべきか。私としては、別に人より早く学業を進めることを望んでいたわけではなかった。けれど周りの人間が――主に両親が――自分のレベルに見合った場所で学ぶべきだと強く主張し、私は半ば押し流されるようにして目まぐるしく学問を修めていった。
同級生も学び舎も、矢継ぎ早に私の横を通り過ぎて行った。同年代の友人がなかなかできないことを不満に思う気持ちがなかったわけではない。けれど、私は両親の教育方針には抗わなかった。彼らの思惑はよくわかっていたから。
まぁ、有り体に言えば北白河家のステータスとして扱われていたんだ、私の学問への素質は。代々続くしがない船工場を、一代で巨大な造船会社にまで仕立て上げたという経歴を持つ父は、何につけても貪欲な人だった。一人娘である私が、とにかく何かの分野で一流になることを彼は望んでいた。異例の若さで有名な大学へ入ったときは、これ以上ない学歴だと満面の笑みで私をほめたたえたものだ。だから私は、所属している研究室がオカルトまがいの、いやオカルトそのものといっていいような分野を扱うことがあるということは、両親には話していない。物理学界に対するわが研究室の貢献を差し引いても、常識的な人間ならきっと眉を潜めるだろう。
けれど、私にとってこの研究室は重要な場所なのだ。いや、この研究室がというよりもここの主、岡崎夢美という人物は。彼女こそは、私の早送りのような人生を初めて一時停止せしめた唯一の存在なのだ。
流れに抗うことなく、自分に与えられた学問への資質に安穏と身を委ねていた私に、彼女はある当たり前のことを教えてくれた。
即ち、「上には上がいる」ということを――
『あるいは古代のプロメテウス』
岡崎夢美という人間はひどい気分屋で、そのテンションは時と場合によって大きく上下する。単に上機嫌と不機嫌の差が激しいということではない。ある程度彼女と接した人間なら誰でも気づくのだが、彼女の場合は興味の有無の差がその日の気分を決めているのだ。
「これなんだけど」
その日、研究室で私に論文を突き返した教授は、ひどく興味の失せた目をしていた。何となく嫌な予感を覚えながら、私は教授から十数枚の紙束を受け取る。
「もうちょっと何とかならない?」
「何とかって?」
「だから、何とかよ」
それは先ごろから学会を賑わせている、ある物理実験の結果に対する私の見解を述べたものだった。教授に目を通してもらってから学会誌に投稿しようと思っていたのだが、まぁこういう場合この人のチェックがすんなり通ることはまずない。まずはどこがお気に召さなかったのか探るところからだ。
「んー……まぁ、私もそんなに自信があるわけじゃないけど、筋は通ってるだろ? あの実験結果を説明するには十分だと思うぜ」
「そうね。とりあえず説明はできているわ」
「ならどこが不満なんだ」
私の態度がいけ好かなかったのか、教授は憮然と眉をしかめる。
「そうね……一言で言えば面白くないのよ」
「はぁ。確かに自分でも、機知に富んだ文章だとは思わないけど」
「そうじゃなくて、これ以上興味がわかないって意味よ。確かにあなたは既に分かっている事実をうまく組み合わせて理論を構築しているわ。けれど、そこから先が見えないのよ。その理論はそこからどう発展して、何にたどり着くと思っているのか。もっと言えば、あなたが何を目的としてこの問題に取り組んだのかが見えてこない」
教授の口調はどうにも頭ごなしで、私は少しむっとする。
「目的って言われても……これが将来何の役に立つかとか、そういうこと? それなら正直何の実用性もないぜ。少なくとも現段階ではさ。でも、それは教授だって実験家だってみんな承知してるだろ。それとも何か、この国を守る価値のある国にするとでも書き添えておけばよかったのか?」
言ってから、我ながら生意気な引用だと思ったが、教授はさもつまらなそうに片眉を上げるだけだった。
「実用性の話はしてないわ。展望のことを言っているのよ。そうね、あなた自身の積極性の問題でもあるわ。……そう、例えば」
教授は彼女の三番目の机の上に積まれた書類の山に手を突っ込み、ごそごそと何かを探した。ちなみに整理整頓を忌み嫌う教授は、机の上が荷物でいっぱいになるとそれを放置して新しい机を買うため、この研究室にはゴミ集積所のような過去の教授の机がいくつも並んでいる。
「あった。例えばこのレポートだけど」
教授は書類の山から探し当てたレポートを私に差し出す。それには私も見覚えがあった。数週間前に提出された学部生の実験レポートで、私が採点の手伝いをしたものだったからだ。
「この子は、学習の段階で言えばまだまだあなたよりもずっと後ろにいるけど、展望はあなたよりもしっかりしているわ。この子が次に何を望んでいるか、それをどう伝えようとしているか。これを読んでいて、この子の積極性が伝わってこない?」
私は渋々レポートに目を通す。以前採点のために読んだ時は、こちらが求めている以上のことまであれこれ書いてあって面倒だな、くらいにしか思わなかったが、改めて見ると教授の言わんとしていることはなんとなくわかる。その物理実験によって得られた結果が何を示唆しているのかだけでなく、その実験を学生にやらせた教員の意図まで推察しているのは、まぁ積極的と言えば積極的なのだろう。
「まぁだから、うーん……。積極性、なぁ。なんだか性格的な問題のような気がするけど」
「そうね」
「そうなのか……はぁ。とにかくわかった。一応それを踏まえて書き直してみるけど、ご主人様の期待通りにできるかどうかは保証しないぜ」
「え? 今更?」
「今更って、駄目出ししてきたのはそっちだろ」
「でももう投稿しちゃったわよ?」
は?
「……この論文を?」
教授はこともなげに首肯する。言われて私の論文を見返すと、所々の文言が修正されていることに気づく。
「なんだよ、じゃぁ今の問答は何だったんだ……」
「単に心構えの話よ。もっと視点を高く持たないと新しい展望は開かれないっていう。まぁあなたは元々受動的なところがあるし、そういう人間なんでしょう。だからといって何の役にも立たないってわけでもないけれど、この私の助手なら太平洋に伝説の大陸を発見するくらいの心構えでいてほしいわ」
「悪いけど、オカルトにはそんなに興味はないんだ。ご主人様と違ってね」
「でしょうね」
教授は私の言葉をおざなりに受け流すと、キャスターつきの椅子に座ったまま研究室の床を滑り、テレビの電源を入れた。ただのテレビではない。これは、幻想世界へとつながっている特殊な実験装置だ。顕微鏡で微小な世界を覗き込んだり、望遠鏡で遠大な宇宙を仰ぎ見たりするのと同じように、この装置は幻想の世界を垣間見ることができる。
「さて、雑務も片付いたところで。次の仕事に取り掛かかってもらいましょう、って言いたいところだけど、今ちょっと私の方も手が離せなくてね」
「あぁ、そういえばご主人様も何か論文書いてるんだっけ? 手伝おうか?」
私の提案に、教授はテレビのダイヤル式チャンネルを回しながら「うーん……」と唸る。
「今のところあなたに手伝ってもらう場所はないのよね……。締め切りまであんまり時間もないし……」
「時間がないから手伝ってもらう場所がないってことは、要するに自分でやった方が早いってことか」
「そうね」
私は口を噤む。そこまではっきり言われると、流石に……。
実際私は教授の仕事内容の全てを理解できているわけではない。そうしようと努力してはいるのだが、教授の論文を読むなり文献を漁るなりしてどうにか私の理解が及んだ時には、この人は既に遥か先のことを考えているか、あるいはその分野への興味を失って全く別の方面へ首を突っ込んでいる。人よりもずっと速く、駆け足で生きてきた私だが、この人には追いつける気がしない。そんなことは、ずっと前からわかっていたのだけど。
「さて、というわけで」
などと煩悶する私の心中を他所に、教授は幻想郷の映像が映し出されたテレビの横に立った。
「私の仕事が片付くまで、あなたには課題をやってもらうわ」
「課題?」
「ほら、そんな不貞腐れてないでこっちに来なさい」
私は意識した以上に声に感情を込めてしまっていたらしい。いかんいかん、この気分は一旦振り払おう。落ち込むのは後に回そう。
「課題っていうと強制しているみたいだけど、自由研究みたいなものね。よく考えたら私、あなたがどんなことに興味を抱くのかよく知らないのよ。だから今回は実験的に、あなた自身に研究対象を探してもらおうと思うの」
「はぁ。そのテレビを使って?」
「ええ。何でもいいわ、幻想郷に住む住人たちを観察して、あなたが興味を持つ人物を一人、研究対象に選ぶ。それから、その住人についてあなたが調べたことをレポートにまとめてもらう」
「興味を持つ人物、ねぇ」
なんだか、研究がどうとか以前の部分を求められている気がする。あなたはどんなことに興味がありますか? って、学生の職業研究じゃないんだから。まぁ私がそう見られているってことなんだろうけど。なんだか微妙な気分だ。
「まぁ、我が岡崎研究室としても、今後幻想郷の住人を使ってやりたいことはいろいろ考えているから、住人たちの人となりに慣れ親しんでもらうって意味でも時間の無駄ではないでしょう。この機械の操作に慣れてほしいっていうのもあるし」
教授はそう言ってぼろぼろの取扱説明書を私に手渡すと、くるりと私に背を向けた。
「じゃ、頑張ってね。期待しているわ」
去り際にそう言う彼女の声からは、期待感の微塵も感じられなかった。
要するに、大事な仕事は任せられないが手持ち無沙汰にさせておくのもなんだから、適当な時間潰しをやらせておこう、……ってことなんだろう、多分。ネガティブに考えすぎかもしれないが、さばさばした性格のあの人のことだ、私が若干凹んでいることなど気づいていないだろう。気づいていたとしても、いちいちそれを気にかけるようなたまじゃない。
ならばここは一つ面白いレポートを書いて彼女を見返してやろう、という気概も湧かないまま、私はがちゃがちゃとチャンネルを回しながらめぼしい住人を探し回った。
さて、私の興味の対象とは一体何なのだろう。厄介なことに、私は自分でも自分の興味の方向性が見えていないのだった。
「どう? 何か考えてる?」
教授の声に私は顔を上げた。見ると、荷物の積載量がそろそろキャパシティを超えそうな現在の机の前に教授は座り、悠々とイチゴのショートケーキを食べている。どうやら彼女の仕事はもう済んだらしい。
「まぁ、なんとなくは」
「ふぅん」
教授はフォークをケーキの皿に置くと、立ち上がってテレビの前までやってきた。画面に映し出されている少女たちの姿を見て、あら、と呟く。
「神霊廟? あなたにしては意外ね」
「そうか?」
テレビに映っているのはどこかの座敷で、ヘッドホンをした少女、豊聡耳神子と彼女を取り巻く部下の少女たちが談笑している。私が画面上の神子の姿をこんこんと指で叩くと、神子に関する情報が画面に表示される。
「豊聡耳神子。こんな女の子が聖徳太子の生まれ変わり……じゃなくて、千年以上の時を経て蘇った聖徳太子ご本人だってさ。で、こっちのちんちくりんが一緒に眠りについていた部下の物部布都、こっちの半幽霊みたいなのが蘇我屠自古、と」
「ちんちくりんって、体型的にはあなたとそんなに変わらなくない?」
「そこはいいだろ、突っ込まなくても。……とにかく、他の妖怪だか幽霊だかに比べると、この神子の周りの連中はみんな実在の人物だ。過去の秘密には事欠かない気がして、今ちょっと見てたところなんだよ」
ふむ、と教授は満足げに腕を組む。
「いいところに目をつけたじゃない。私もね、この一派は面白そうだと思っていたのよ。それで? 結局誰を研究対象にするの? 布都ちゃん?」
「あ、いや。こっちなんだけど」
私は画面の下のボタンを操作し、場面を切り替える。あまり見慣れない異国風の造りの門の前を、妖艶な雰囲気を漂わせる女性が歩いている。その後ろを、くすんだ肌の色をした少女が、腕を前に突き出した姿勢のままぴょこぴょことついて行く。
私はまず先を行く女性の情報を表示させた。
「霍青娥。古代に中国から日本へ渡ってきた女仙で、神子に仙人になるよう勧めた張本人だ。神子の部下ってわけでもなさそうだが、まぁ神霊廟関係者の一人だな。で、ここまでは説明文に書いてあるんだけどさ」
私は青娥の情報画面を閉じ、青娥の後ろを歩く少女を叩いた。ところが。
「あら?」
教授は首を傾げる。画面は少女の個人情報画面に移行したのだが、彼女に関する説明は一切表示されていなかった。神子や青娥のときのような詳細な生い立ちの説明はおろか、名前すら空白だ。
「な? なんでか知らないけど、こいつに関する情報は全く出てこないんだ。最初はテレビが壊れてるのかと思ったんだけど、こいつらの話を聞いていたらなんとなく事情が見えてきてさ。この、宮古芳香って子について」
それに関してはなかなか地道な調査が要された。青娥は神霊病付近に住んでいるものの、神子たちとは一線を隔てた関係らしく、顔を合わせてもそれほど親しく世間話をするという感じではない。芳香に至っては、これまでのところ青娥以外の住人と話しているのを見たことがない。両人の挙動から、どうも青娥は芳香の主人であり、芳香のことを非常に可愛がっているというのはわかるのだが。
「結局しばらく観察しているうちに新聞記者みたいなのが神霊廟にやってきてさ。神霊廟の内部取材だとか言って。そこで関係者のことを布都があれこれ記者に紹介してるうちに、青娥たちのことも話題に上がったんだ。そこで初めて、宮古芳香って名前だとか、青娥が昔から使役してるキョンシーなんだってことがわかったんだ。ただ、布都もそれ以上のことは知らなかった。いつから青娥と一緒にいるのかとか、キョンシーなんだから元は人間なんだろうけど、いつの時代のどこの誰だったか、とか。そこらへんが全部謎に包まれてる」
ちなみに布都はその後で不必要に外部へ情報を漏らしたことを神子に窘められ、しゅんとしていた。見た目相応に子供っぽい部下らしい。
「なるほどね。それで、この子の出自に興味を抱いたと。確かに、何も情報が出てこないのは妙といえば妙ね」
「そうだろ?」
と言って私は教授の顔を振り向いたが、教授は何やら神妙な表情を浮かべていた。
「いいんじゃない? 彼女について調べてみるのも。そこらへんの墓場から適当な名もない死人をキョンシーとして蘇らせたから、生前のことは青娥にもわからないっていう、さして面白くもない真相が待っているかもしれないけど」
「それでも謎は謎だろ? 宮古芳香は何者だったのか、どういう事情で霍青娥と一緒にいるのか」
「えぇ、そうね……」
呟きつつ、教授は画面下のボタンを操作した。場面が切り替わり、先ほどの神子たちが映し出される。
「あなたにはあなた自身の興味に従って、宮古芳香の正体を解き明かしてもらえれば結構。でも、これはただの参考意見として聞いてもらいたいんだけど……私なら、彼女の方が気になるわね」
「彼女って、神子か?」
「いいえ。布都ちゃんの方よ」
「え、そっち? 物部布都……ねぇ。何が気になるんだ?」
「あなた、この子の説明を読んだでしょう。聖徳太子に取り入って、物部氏滅亡の手引きをしたって」
「あぁ、確かそんなことが書いてあったな」
「この子の言動を見ていて、そんなことをしそうな人間に見えたかしら?」
「……まぁ、そりゃ確かに、こんな見た目も頭脳も子供みたいな奴が、奸計に長けた謀略家だったって言われたら違和感はあるけど」
でもそんなことを言ったら、幻想郷という不確かな世界観の色々な綻びを認めないといけなくなってしまう気がする。なんとなく、そこんところ――人物像の説明と実際の性格の乖離――に突っ込むのは野暮なんじゃないかという気もしないではない。
「んー……例えば、あれじゃないか? 布都は悪いやつだったんだけど、何しろ千年以上眠っていたんだ。まだ寝ぼけてるだけなのかもしれないぜ?」
「えぇ、それも解の一つでしょう。あるいはこの子供っぽい性格がフェイクだとか、裏の人格を持っているとか、物部氏滅亡の手引きをしたのは彼女以外に黒幕がいたとか……色々考えられるわ。でもいずれにせよ、彼女の人間性は矛盾を孕んでいる」
「ん、うーん……そうか、まぁあれだな、興味は人それぞれってことかな」
考えることをやめた私の発言に、教授はふふっと笑った。なんとなく、私に対して何か感想を持ったような笑い方だった気がしたが、教授の内心を窺い知るすべなど私は持っていない。
幻想テレビ。教授がどこからか持ってきた、幻想郷を観察する装置。これまで何度か教授の奇妙な実験のためにこの装置を操作することがあったが、結局これが何なのか、どういう原理で動いているのか、私は今だに理解できないでいた。
宮古芳香の情報を調べるため、私は改めて取扱説明書に目を通しているのだが、分厚いくせに操作説明がやたらと雑でどう扱っていいのかよくわからない。さしあたり理解出来たのは、この装置を使えば現在の幻想郷のことだけでなく過去の映像も見られる、ということか。但し、古今東西あらゆる場面が映し出せるわけではない。過去を見るためには誰か一人住人を指定する必要があり、その人物の過去を辿るといった操作になる。この前舟幽霊について調べたときのように住人の過去を直接見ることはできても、それ以外の情報、例えば村紗が溺死したときに海上で行われていたことなどは見ることができないのだ。
でもまぁ、結局のところ私が知りたいのは芳香の出自なのだから、彼女の過去を辿っていけばいいだろう、と当初は気軽に構えていたのだが、ことはそう簡単には進まなかった。
私はテレビを操作し、宮古芳香のこれまでの足跡を辿っていった。ちょうど動画を巻き戻すように、一本の時間軸をシークするように。だが、どこまで巻き戻っても芳香の過去にはたどり着けなかった。というのも、芳香はいつの時代も主人である青娥と共にいて、ただ青娥に命じられたままに活動しているだけだったからだ。キョンシーである以上元は人間だったはずだが、江戸時代、室町時代、鎌倉時代と時代を巻き戻しても二人は何も変わらなかった。青娥は幻想郷に来る前はどこかの山奥に居を構え、そこでまさに仙人のような暮らしをしていたらしい。時代に合わせて住居は点々としていたが、青娥の傍らには常に芳香がいた。
飛鳥時代に差し掛かっても、二人の関係は変わらなかった。この頃青娥は神子と接触していたはずだが、芳香の前に豪族たちは姿を現さなかった。というより、神子に取り入るため宮中に出かけるときは、青娥は芳香を連れて行かなかったようだ。豪族たちと芳香の間になんらかの繋がりがあるのではと予想していたのだが、ここでも芳香の素性は明らかにならなかった。主人の留守の間、芳香は青娥の庵で何もせずに一人でじっと佇んでいた。
ふむ、神子一派は関係なかったのか……。
そして時代はさらに遡り――と、飛鳥時代を抜けようというところで突然芳香の周囲の景色がめまぐるしく移り変わった。何が起きたのかと驚く間も無く、ぶつっという音と共に巻き戻しが止まった。何だ、どうしたんだ。
テレビの中で誰かの声がする。中国語のようだ。と同時に、日本語の字幕が画面の下に表示される。この装置、前世紀の遺物のような見かけの癖に、自動翻訳機能がついているらしい。
『お目覚めかしら?』
話しているのは中国語だったが、恐らく青娥の声だ。これは……。
『おはよう。気分はどう? 芳香』
テレビには、狭く薄暗い座敷の中央に横たわる芳香と、にこにこしながら芳香の顔を覗き込む青娥の姿が映っている。
『初めまして。私がわかる? あなたの主人、霍青娥よ』
会話の内容からすると、どうやらこれは芳香が青娥の手によって蘇った場面らしい。宮古芳香の来歴の一番最初まで巻き戻って、そこから再生されている、という感じだろうか。ええと、時は西暦五九一年、場所は中国の、現在で言うところの広東省広州市か……。その後も何度か巻き戻しを試みたが、この場面より過去へ遡ることはできないようだった。つまり、ここが宮古芳香の歴史のスタート地点ということになっているわけだ。
『起き上がれる? そうよ、ゆっくり……あぁ、無理はしないでいいのよ』
青娥は芳香を慎重に起き上がらせ、自分の前に立たせた。ぽかんとした表情を浮かべる芳香を、青娥はうっとりとした恍惚の目で眺める。
『あぁ……素晴らしいわ……』
う……。何なんだこの奇妙な空間は。
その後しばらく青娥たちを観察してみたが、青娥はただひたすら芳香を可愛がるだけで、その会話からは芳香に関する情報は一切読み取ることができなかった。まぁ会話といっても、芳香の方は「あー」とか「んー?」とかうめき声を上げるだけで、青娥が一方的に芳香を褒め称えるという妙な状況なのだが。
しかし、ふーむ……。結局ほとんど何もわかっていない。私はテレビをつけたまま考え込む。やはり教授の言うように、適当な墓を暴いて適当な死体を調達し、仙術で蘇らせたのだろうか。そうかもしれないが、それにしては異様なほど青娥は芳香を可愛がっている。その様子は、もしかして青娥は生前の芳香のことを深く知っているのではないか、と私に思わせた。
そうだ、きっと青娥にとって芳香は何かしら意味のある存在なんだ、行きずりの死体などではなく。だったら、芳香ではなく、最初から青娥の過去を辿るべきだったんじゃないか。
私は時代を一度現代へと戻し、改めて青娥の足跡を辿り始めた。基本的には芳香のときと何も変わらない。二人は気の遠くなるほど多くの時間を共に過ごしてきたらしい。唯一先ほどと違うのは、途中で青娥が神子と会う場面があったことだが、彼女たちの間に協力関係があったことは既に知っている。神子の近くには布都や屠自古の姿がなかったが、まぁ、今そこは重要ではないだろう。
そして先ほど追跡が途絶えた六世紀半ばに差し掛かり、青娥の周りの風景が一変した。私は慌てて巻き戻しをやめ、時間を再生する。どうやら芳香を起こすシーンを通り過ぎ、さらに過去まで巻き戻ってしまったらしい。画面に映し出されているのは中国風の豪奢な書斎と、その窓際に一人で腰かけている青娥の姿だった。物憂げな表情で窓の外を見ていた青娥は、ふと何かに気付いて書斎の入り口の方へ視線を動かした。
『あぁ、いらっしゃい』
紅を引いた艶やかな唇が言葉を紡ぐ。その言葉は、書斎の入り口に立っていた小柄な少女に向けられたものだった。
『歓迎するわ。ようこそ、私の園へ。これからよろしくね。……芳芳』
◆
ようやく。
ようやくこの日が来たのだ。
「これからよろしくね。芳芳」
あの人の美しい唇が、私の名前を呼んだ。たったそれだけで、私の心は舞い上がってしまいそうになる。けれど、調子に乗って何か粗相でもしたらこれまでの苦労が水の泡だ。
「はい、青娥様」
胸の奥の感慨と興奮を抑えながら、私はそれだけ言って頭を下げる。そう、ここまで来て下手は打てない。まだ気を抜くわけにはいかない。肝心なのはここからなのだ。
「あら、そんなに硬くならないでいいのよ」
跪く私の前に青娥は屈みこみ、優しく微笑みかける。自分の心臓が早鐘を打つ音が聞こえるようだ。あぁ、こんな間近にこの人の顔があるなんて。途方もなく憧れてやまなかった、あの霍青娥の顔が。
私のそんな内心を見透かすように彼女はくすくすと笑うと、私の手を取って私を立ち上がらせた。
「といっても、最初は戸惑うことばかりかもしれないわね。ひとまず、ほかの子たちにも顔を合わせてもらいましょう」
ついてきて、と言われるがままに、私は青娥の後に続いて書斎を後にする。朱塗りの艶やかな廊下を、青娥は着物の裾をこすりながら歩いていく。丸窓から覗く庭園は手入れが行き届いており、ふと立ち止まって眺め入ってしまいそうになるほど明媚だった。これだけ広大で豪奢な屋敷でありながら、使用人の姿はどこにも見当たらない。それもそのはず、この屋敷の主人――霍青娥にはそんなものは必要ないのだ。何故なら、彼女は仙人なのだから。
「さぁ、ついたわ。もうみんな揃っているから」
青娥はある扉の前で足を止め、私を振り返った。
「……最初に言っておきたいのだけど」
「はい」
「現時点では、私にとってあなたは可でも不可でもない。それはあなた以外の子も同じよ。だから、あなたは気後れしないでことに臨んでほしいの。実際のところ、あなたは年齢も身分も一番低いわ。けれど、だからと言って不必要に力むことはないのよ」
「……心得ております」
青娥は、「そう」と頷き、扉を開けた。
その広い講堂のような部屋には、三人の娘たちがいた。みな一斉に顔を上げ、入り口の青娥と私の方を見る。
「みんな集まっているわね」
青娥は講壇の前に立ち、よく通る声で言う。
「紹介するわ。この子が最後の候補者よ。艾芳芳、字は清額。みんな、仲良くしてあげてね」
幼い頃から、私は本を読むのが好きだった。
私の生家は書庫の管理を生業としていて、父はよく安く買い叩いた書物を持ち帰った。そのため、家には貧しさの割に多くの蔵書があった。
その環境もさることながら、私は生来知識そのものに対する憧れのようなものを強く持っていた。何か新しいことを知るたびに、自分の中の世界が広がって行くような気がして、私は書と学問に浴して育った。長じるにつれ、蓄えたその知識を何かに生かしたいという思いが強くなっていったのは自然なことだったろう。
だが、私は幼いながらに理解していた。この国の、この社会の一員として生きて行く以上、女である私にとって学識など何の役にも立たない。ましてや、二代前の先祖も辿れないような家に生まれたとあれば、男であったとしても出世は望むべくもない。
世界はこんなにも驚きで満ちているというのに、わたしはこんなにも多くのことを知っているというのに、いつの日かまるで水泡が弾けるように、私という人間は死にゆくのか。順当に、何事もなかったかのように……。私はそんな思いを胸に抱きながら、悶々と日々をやり過ごしていた。
あの日、生まれて初めて仙人というものを目の当たりにするまでは。
「ね、あなた、芳芳さん」
夕日に包まれた庭園を歩いていた私を、張りのある女の声が呼び止めた。振り向くと、先ほど青娥に紹介された候補者の娘の一人がにこにこと陽気な笑みを浮かべている。名前は確か――
「はい。なんでしょう。唯さん」
「まぁ、もう私の名前を覚えてくださったの?」
彼女――武唯は手をたたいて喜ぶ。私は最年少だから、唯は少なくとも十七より上のはずだが、その笑顔は子供のように無垢だった。
「芳芳さんは、お散歩中だったのかしら?」
私は唯と庭園を歩きながら言葉を交わす。
「はい。しばらく屋敷の中を歩いて慣れるようにと、青娥様が」
「そう。綺麗なところでしょう。あの方にふさわしいお庭だわ。……私、初めて来たときは、あの方にお会いできた感動とこのお屋敷の美しさで、立ちすくんで動けなくなってしまったのよ」
私はちらりと隣を歩く唯の顔を見た。顔立ちはそれほど美人というわけでもなかったが、日に焼けた健康そうな肌の色と、はきはきとした声色からは、明朗で行動的な印象を受ける。
「唯さんは、……西方のご出身ということでしたが」
「えぇ。ここよりずっと西の辺境の、砂漠みたいなところで生まれたわ。一応、その一帯の領主の娘として。といっても、うちはどうにも昔から武家の気風が強くて、都の貴族の方々のような教養や品性は備わっていないけれど」
と、唯は悪びれもせずに言う。確かに、唯は足も大きくて肩や腰はがっしりとしており、青娥のようなたおやかさは感じられない。けれど彼女は、砂嵐の中を猛然と馬を駆って走り抜ける絵が似合いそうな、ある種の風格を漂わせていた。
「……あの、もし失礼でなければ教えていただきたいのですが。唯さんは何故、ここへいらしたのですか?」
私が見たところ、黄砂も届かない雲上にある仙人の屋敷は、唯のような人間の居場所として不似合に思える。だが、彼女の答えは明確だった。
「それはきっとあなたと同じよ。仙人になりたいからというより、あの人のお傍にいたいの。この人の傍らにいたい、私にそう思わせた唯一の人が、青娥様だった」
「……なるほど、わかる気がします」
「嬉しいわ、あなたとは楽しくやって行けそうだわ。これからよろしく」
「え、えぇ」
素直に頷いていいものだろうか。私も彼女も候補者の一人だ。悪く言えば敵同士のはずなのに。
私の躊躇は唯に悟られてしまったらしく、唯はばつが悪そうに一歩身を引く。
「ごめんなさい、ちょっと馴れ馴れしかったかもしれないわね。けれど、短い期間とはいえ共に過ごす間柄なのだから、仲良くしてもらえたらと思ったの」
私はぽかんとした顔をしていたらしい。唯は、あぁ、と付け加えるように言う。
「もちろん……競い合いこそすれど、ね」
邸内の菜園で採った薬草を、私たちは青娥の指示で作業机の上に並べた。青娥は薬草を一つ二つ手に取り、満足げに頷く。
「それでは、作業に取り掛かってもらおうかしら。今回出来上がった薬は動物に与えて効能を試すから、失敗を恐れる必要はないわ。資料は書庫から自由に持ち出していいけれど、汚さないようにね。それと」
青娥は私たち四人の娘の顔を見回す。
「四人での演習はこれが最初だから、まずは肩慣らしとお互いを知るところから始めましょう。知識量の差もあるでしょうし、必要であればお互いに協力して作業にあたってちょうだい」
青娥の言葉を聞いて、私の隣に立っていた、私の次に幼そうな少女が手を挙げた。人形のように整った顔立ちの、思わず見とれてしまうような少女。確か、範小伊という名前だったか。
「青娥様、一つよろしいでしょうか?」
「なぁに?」
「青娥様が選ばれるのは私たちの中で一人だけと聞いております。それなのに、その選抜の場で互助を推奨されるのですか?」
小伊は玉を転がすような美しい声でなかなか容赦のないことを尋ねた。
「助け合いを推奨するというより、基本的には自由にやってもらって構わないわ。今、私はただ、あなたたちに薬を煎じてほしいとお願いしているだけよ。私はその過程や結果を見て、従者選びの参考にさせてもらうけど、それを気にしすぎて成果がおろそかになるようでは、今後近くに置きたいとは思わないでしょうね」
「わかりました」
小伊は柔らかな物腰で礼をする。彼女は私たちの中でも最も身分が高く、そして最も美しかった。皇族に連なる血筋の出身でありながら、青娥に憧れて単身家を飛び出たという行動力の持ち主でもある。
そう、私たち四人の娘は皆、同じ目的を持ってこの屋敷に集まった。
私自身について言えば、ここへ来た事情はごくごく単純だ。私は、その身分に不相応なほどの学識を持て余しつつ、先の見えない鬱屈とした日々を送っていた。そんなある日、私の住む街に霍青娥は風のように現れた。大通りで青娥が術を人に披露しているのを最初に見かけたときは、大道芸人の類かと思った。その頃の私の認識では、仙人とは見世物小屋で働く奇術使いであり、怪しげな術で人々を誑かし少ない金銭を巻き上げていく詐欺師まがいの輩に過ぎなかった。だが、やっていることは辻芸人と変わらないとしても、霍青娥の持つ輝きは私の目を奪った。彼女の術は私の常識を覆すものばかりで、私は自分の知っている世界がいかに狭かったかということを思い知らされた。仙術だけでない。この世の全てを見透かしたかのような青娥の眼差しは、私に自身の卑小さを痛感させた。
あそこだ。私はあの場所を目指すべきなのだ。私に与えられた、一生の全てを費やしてでも。私はそう心に誓ったのだった。
私は仙人や仙術について書を漁った。青娥が邪仙と呼ばれていることも知った。だが彼女の悪行にまつわる巷説は全て、彼女の能力の素晴らしさの裏返しでもあった。
やがて、私はある噂に行き着いた。あの邪仙、霍青娥が弟子を一人とろうとしているというのだ。詳しく調べたところ、どうやら青娥は海を渡って日本へ移り住む気でいるらしく、その旅程に付き従う御伴を探しているらしい。青娥は隋の方々を渡り歩きながら、各地の学府を訪れては人材を見繕っているのだという。
私は、腹を決める時がやってきたと思った。旅の従者というのは弟子とは違うのかもしれない。けれど、仙人に、そして霍青娥に近づくために、これ以上の機会は今後一生訪れないような気がした。
私は、父の仕事を手伝って得たわずかばかりの給金を手に、両親に黙って家を飛び出した。悔いはない。無事に青娥の屋敷へたどり着けるかはわからないし、たどり着けたとしても、青娥は私のような何者でもない小娘になど目もくれないかもしれない。それならそれで構わない、そのときはのたれ死ぬまでだ。旅先で一人無念に倒れようが、このまま老いて襤褸きれの上で隙間風にさらされながら無為の一生を終えようが、本質的には何も変わりはしないのだから。
平易な旅路ではなかったが、結果として私は青娥の元へとたどり着くことができた。青娥は私を見、その出自と仙道への想いを聞いて、何か興味をそそられたような顔をした。そして私に驚くべきことを告げたのだ。
――ちょうど締め切ろうと思っていたところなのよ。世間での私の悪名の割には、まあまあの人材が集まってきたところだったから。そうね、そこに一人くらい、あなたのような子を交えて見るのも一興でしょう。……今、この屋敷にはあなたを含めて四人の娘が集まっている。けれど、日本へ連れて行くのは一人と決めているのよ。これからその一人を選ばなければならない。そこで、あなたたちには半年間、この屋敷で寝食を共にしながら、私が課す課題や修行、それに屋敷での雑務をやってもらおうと思うの。私はその間、あなたたちをずっと見ているわ。そして半年後に、私の旅の同伴者を選ばせてもらう。
青娥のその言葉を聞いた瞬間に、旅の疲れはどこかへ消し飛んでしまった。目もくれないどころか、こんな私にも契機を与えるというのだ。
候補者は四人。選ばれるのは一人。
あの霍青娥の館で暮らすことができるからといって、浮かれている暇はない。
選ばれなければ元も子もないのだ。私は、この半年に、私の全てを費やさなければならない。
「あの方は、どうお考えなのかしら」
煮立った鍋の中をのぞき込みながら、細身の娘、迅がか細い声で言う。
私は顔を上げ、部屋の隅で何か書き物をしている青娥の方を見た。迅の声は聞こえているのだろうか。
「私たちを競わせるつもりなのか、それとも……」
彼女の言葉尻は小さくなっていき、鍋から顔を背けて小さく咳き込む。迅は私たちの中では最年長で、宮仕えの占星術師として高名な、あの温一族の出身らしい。私からしてみればうらやましい環境だが、迅はどうやら病弱なようで、いつも青い顔をしていた。
「あの方の思惑なんて、私たちに推し量れるできるものではないわ。ただあの方が望まれたことをやるまでよ」
小伊は彼女らしく割り切ったことを言い、さて、と椅子から立ち上がって鍋を持ち上げた。
「私はお先に失礼するわ」
「あら、小伊はもうできたの? 早いわねぇ」
唯は素直に感心したようにそう言った。小伊はそんな唯を冷たい目で見下ろすと、青娥の方へ鍋を持って行った。
結局私たちは個々人で作業を進めていた。薬草を四等分し、各々が自分の担当分の責任を持つことになったのだ。周りに後れを取るまいと私は必死に取り組んだが、彼女らも仙人を志すだけあってこの手の作業は軽々とこなしている。書を読むだけだった自分の生き方が、今になって悔やまれる。
だがまだまだ始まったばかりだ。くよくよしていても仕方がない。
……青娥は、明らかに私には期待していない。自分でも、期待してもらえそうな要素を持ち合わせているとは思っていない。私が乗り越えなければならない壁は高いが、泣き言を言っている場合ではない。
青娥の館での生活は、表面上は静かに過ぎていった。ここには本当に青娥と私たち四人の娘しかいないらしく、山奥にあるため人の往来もない。あまりに世俗からかけ離れていて、雑念を挟む余地がない環境なのだった。寝ても覚めても、私の頭に浮かぶのは何としてでも自分が選ばれなければならないということばかりだった。
炊事洗濯や館内の掃除などは候補者たちの仕事だった。私たちは交代で青娥の身の回りの世話にあたった。それ以外の多くの時間は、青娥の出す課題に取り組んだ。青娥の出す課題は多岐に渡り、古典教養の筆記試験のようなものもあれば、穴を掘って埋めるような全く目的のわからないものもあった。
時には講義のような形で、青娥が私たちに教鞭をとることもあった。
「人を動かしている気は二つの要素に分けられるわ。魂魄……つまり、肝に宿る『魂』と肺に宿る『魄』ね。誰か、それぞれの役割を覚えているかしら」
この手のことは私の得意分野だ。私は手を上げて答えようとしたが、それよりも早く小伊が答える。
「魂は私たちの精神を司る気です。感情や思考、情動などは魂の強さの影響を受けます。魄は肉体を操る気です。魄の強い者は体が丈夫で、永く健康であるとされます」
青娥はにこりと微笑んだ。
「えぇ、その通り。さすがは宮圓。その二つは、生者なら誰しも持ち合わせている基本的な力なのだけど、人が死んだときは――」
総合的に見て、私たちの中では小伊が最も優れていた。彼女は器量だけでなく要領もよく、なんでもそつなくこなす。筆記や知識量では私も決して引けを取らなかったが、小伊は貴族でありながら騎馬や狩猟、果ては剣術までも心得があるようだった。
青娥の言いつけで近くの山へ猪狩りへ行ったときも、最終的に猪を矢で射止めたのは小伊だった。
「うーん、狩りなら負けないと思ったのだけど、小伊は何でもできるのねぇ」
普段は対抗意識の低い唯が、その日は珍しく悔しがっていた。
「なんでもできるわけではないわ。私のような年代の娘ができることは、全て試してみただけよ」
小伊は紫煙を燻らせながら、当然のようにそう言った。まだ幼さの残る顔立ちでありながら、煙管を指先で弄ぶ彼女の仕草は不思議と様になっていて、既に女仙の風格を漂わせているように思えた。
「私はただ、何につけても興味があっただけ。仙術というものに対してもね」
「それでうまくできるんだから、嫌になっちゃうわ。はぁ、私も頑張らなくちゃ」
唯は率直な感想を零す。
けれど、唯は唯で得意分野というものがあった。
私が館へ来て一月ほど経った頃、青娥はどこからともなく見たこともないほどの大きさの鷲を連れてきた。
「誰かこれに乗ってみて。大丈夫、躾はしてあるから」
それまでの青娥の要求は、比較的常識の範囲に収まる内容だったため、これには面食らった。小伊ですら最初は尻込みしていたのだが、この要求に唯は
「私に! 私にやらせてください!」
と目を輝かせて手を上げた。
武家の気風が強いとは唯自身の言だったが、どうやら動物の扱いにも長けていたらしく、唯は初めてとは思えないほどに巧みに大鷲を手なずけて見せた。私たちも続いて挑戦してみたのだが、なかなか彼女のようにうまく言うことを聞かない。私はなんとか最後までしがみついたが、迅に至っては空中で振り落とされ、単身で空を飛べる青娥に危ういところで助けられていた。
青娥は、楽しそうに大鷲を乗り回す唯を見上げて
「思っていた以上に上手ね。それに、様になっているわ」
と呟いた。私は思わずどきりとする。青娥が私たちの誰かを褒めることなど、滅多に無いからだ。青娥はいつも私たちの活動を少し離れたところから見ていて、声をかけることすら稀だった。
「青娥様のように自分自身が空を飛べるようになったら、獣に跨る必要なんてなくなるのに」
小伊は、彼女にしては珍しく感情的にそうぼやいた。
「あら、負け惜しみかしら?」
と青娥はくすくすと笑いながら小伊の顔を覗き込む。
「あれはあれで役に立つのよ。何しろ派手だから、自分で飛ぶよりも衆目を集められるの。それに、私に選ばれずに国へ帰ることになったとき、ああいう芸当は覚えておくときっと役に立つわ。あの程度の一芸だけでも、食い扶持くらいは稼げるでしょうから」
青娥は私たちの不安を煽るようなことを口にする。多分、わざとそうしているのだろう。けれど小伊の自信はその程度では揺るがない。
「では、唯には国へ帰って大鷲乗りになってもらいましょう。その方が彼女のためになります」
他でもない青娥の前でこんなことを言うなんて、どれだけ太い神経の持ち主なんだと私ははらはらしたが、青娥はただ面白そうに小伊の顔を眺めるだけだった。
しばらくここで暮らしていて気付いたことがある。
霍青娥という人物は、こんな世俗と隔絶された山奥に居を構えていながら、ひどく俗っぽい側面を持っているのだ。私が仙人というものに対して抱いていた、見世物小屋の奇術師というような先入観を地で行く印象すらある。それが邪仙と呼ばれる所以なのかもしれない。
そもそも彼女が語った日本へ行く理由というのが、
「この国の人は、もうちょっとやそっとじゃ驚かなくなっちゃったの。私以外に力のある仙人も多いしね。だから日本へ行くのよ。海を渡ったら、きっと私は唯一の存在として認められるでしょう?」
というのだから、贔屓目に見ても高尚な思想の持ち主であるとは言い難い。
そんな青娥と共に暮らしていながら、幻滅するどころか以前より強く惹かれている私は、彼女の術中にはまっているのだろうか。未だに、彼女には何かしら得体のしれないところがあった。どれだけ俗っぽい考えを口にしても、彼女が私やほかの俗人と同じ地平で物事を考えているとはどうしても思えないのだ。
青娥は、基本的には常に私たちのやることなすことを余さず見ていた。だが、彼女が何を基準に御伴を選ぶ気でいるのか、私たちの行動の一体どこを見ているのか、私にはさっぱりわからなかった。ただ漠然とした焦りと、何に焦ればいいのかわからないという不安だけが降り積もっていく毎日だった。
その日、炊事当番を唯と小伊に任せた私は、部屋で靴を脱いで足を洗っていた。青娥の評価基準に外見や身だしなみが入っているかどうかはわからなかったが、できることはなんでもやっておかなければ気が済まなかった。
ふと窓の外を見ると、中庭の木々の合間に人影がいるのに気がついた。あれは、迅だ。切り株に腰を下ろし、夕日の差し込む庭園で一人、頭上の梢をぼんやりと見上げている。何をやっているのだろう。
私は靴を履き、そっと中庭へと出た。私たちは皆競い合う関係ではあったが、寝食をともにしているうちに私は彼女たちとそれなりに打ち解けていた。
「何をやっているんですか?」
私が話しかけると、迅は振り向いて
「あぁ、芳芳さん」
と薄い笑みを浮かべた。夕日で影の差したその顔があまりにやつれているように見えて、私はぎくりとした。彼女は第一印象からして不健康そうだったが、その生気は日に日に衰えているように感じられる。
「その……大丈夫ですか?」
「え?」
「あぁすみません、その、思わず……お疲れなのではと思って」
「あぁ、大丈夫よ。元々、大丈夫ではないのだから。私は……」
迅はそこで言葉を切り、失礼、と顔を背けて咳き込んだ。
「……思っていたよりも、私の体って、脆かったみたいね。半年くらいなら、やり過ごせると思っていたのだけど……」
やり過ごせる、というのは……。もしかして。
迅は私の顔を見て頷いた。
「肺を、患っていてね。お医者様の話だと、年明けまではもつだろうってことだったから、この半年はなんとか持ちこたえられると思っていたけど……。元々、私の家は同じような病気で亡くなる人が多かったから、私としては、その……それほど意外でもないのよ。まぁ、うちの人からしたら、余命を宣告された最後の一年だというのに、何も言わず仙人の館に修行に出てしまうなんて、意外も意外だったでしょうけど……」
「そう……だったんですか……」
私も伸るか反るかの一大決心をして家を出たつもりだが、彼女ほどの覚悟と決意を持っていただろうか。
「あぁ、そんな顔しないで、芳芳。仙人になって生きながらえるのが私の目的だけど、たとえ青娥様に選ばれなかったとしても、あるべき運命の流れに戻るだけなのだから。それに、安静に過ごしながら最期を待っていた頃よりも、今の生活はずっと楽しいもの」
……なんと声をかければいいのだろう。私は言葉を失って視線を彷徨わせ、ふと迅が手に筆を持っていることに気付いた。彼女の足元には、数枚の紙束が置かれている。
「……歌を詠んでいたんですか?」
「あぁ、これ? えぇ、ほんの手遊び程度に」
「その、ちょっと見てみてもいいですか?」
えぇ、どうぞ、と迅はやや恥ずかしそうに自作の詩を差し出した。
それは会話のやり場に困った私の話題逸らしだったのだが、最初の二、三作に目を通しただけで私は息を呑んだ。
「……これは……」
私も、読書量だけは自ら負うところがあるため、詩歌に関してもそれなりの知識とある程度までの審美眼を持っているつもりだ。けれど、迅の詩はそんなものがなくてもはっきりとわかるほど、素晴らしいものだった。山奥での奇妙な共同生活を美しい修辞を交えて描きながら、病に侵されていく自らの境遇への嘆きをそっと行間に忍ばせている。これまでは注意を払っていなかったが、迅は書の腕も達者で、流れるような筆の運びはそれだけで鑑賞に値するほどのものだった。
「あの、そろそろ……」
気が付けば私は、会話を続けるのも忘れて彼女の作品に耽っていた。はっとして顔を上げると、既に庭園は暗くなり始めていた。
「ごめんなさい、ちょっとぼんやりしていて……」
私は笑ってごまかしつつ、迅と食堂へ向かった。
迅の詩から受けた最初の感動が収まるにつれ、私の心の中では別の不穏な感情が頭をもたげ始めた。それは、迅にあれほどの芸術の才があったことに対する、自分自身への焦りだった。
そうだ、私は心のどこかで、自分にはまだ可能性があると考えていた。
課題の成績ははっきりと点数化されていたわけではなかったが、小伊はともかく、ほかの娘には決して後れを取っていないと思っていた。いや、それどころか、控えめでいつも目立たない迅に対してはいくらかの優越感すら覚えていたのだ。小伊ほどの才覚や唯のような活力は自分は持ち合わせていないが、少なくとも迅には優っていると、私は心のどこかで迅を見下していた。
けれど、そんな迅にも飛びぬけて優れた能力があることを私は知ってしまった。
青娥が何を基準にしているのかはわからない。彼女は従者に芸術的才能など求めていないかもしれない。
けれど、ずっと私の奥底に流れていた漠然とした不安が今また息を吹き返し。
私の心には、暗雲が立ち込めつつあった。
◆
……私はふと顔を上げた。テレビに夢中になっているうちに、研究室は夕闇に包まれていた。こんな暗い部屋で画面を凝視していたのか、私は。この研究に従事していると目が悪くなりそうだ。
宮古芳香の調査を始めてからここ数日というもの、私は研究室へ来てはテレビをつけ、日がな一日少女たちの研鑽する姿を観察するというよくわからない毎日を送っていた。青娥の隣に芳香が現れた時期を考えると、恐らくこの四人のうちの誰かが後の芳香なのだろう。早送りして誰が選ばれるのかだけ確認してもいいのだが、それでは芳香に関する情報が十分に得られない。私が今追っているのはあくまで青娥の来歴であるため、候補者たちが青娥と出会う前までは見ることができない。つまり、芳香の過去や出自については、青娥の近くで語られる候補者たちの人となりしか手がかりがないのだ。そんなわけで、私は半年分の彼女たちの奇妙な共同生活を、適度に早送りしながら追いかけているのだった。
椅子から立ち上がり、背伸びをする。テレビ内の日時を確認すると、芳芳が館へやってきてから既に二ヶ月が経過していた。このペースなら、今週中には結末まで見られるだろう。
一応ずっと録画はしているし、全ての字幕の内容は自動的に文書化し保存するように設定してある。それでもやはり自分の目で見たほうがいい。その方が面白いし。
そう、これはなかなか興味深い物語映像だった。
芳香はキョンシーである上にいつも顔を札で隠していたため、少女たちの顔からは誰が芳香になったのか判別できない。
青娥は誰を選んだのだろう。
高慢で自信家な万能美少女、小伊か。
素朴で人好きのする愛嬌の持ち主、唯か。
詩作と書の才を持つ薄命の娘、迅か。
それとも――決定的な長所を持たない努力家、芳芳か。
……まだ、時間はあるか。教授はもう帰ってしまったが、私は家に帰っても特にやることがない。コンビニで弁当でも買って、ここで夕食を食べながら、もう少し彼女たちの奮闘を見てみよう。
……あ、あれ。
誰かが私の肩を揺さぶっている。私の名前を呼んで……。
「……っと……ちょっと、起きなさい、ちゆり!」
はっと私は目を覚ました。隋の代、仙人の館、青娥に憧れて集まった四人の娘たち、……目の前に浮かんでいた古代の世界の情景が、霧が晴れるように遠ざかって行く。
……テレビをつけたまま寝ていたのか、私は。ついさっきまで青娥の館で修行に励んでいた気がするが、あれは夢だったのか、それともテレビの内容なのか……。
目の前で呆れ顔の教授が、
「うわぁ……」
と顔を引きつらせている。
何かと思って起き上がろうとすると、頬にべたつく感触がした。げ……。テレビの前の机に突っ伏して寝ていた私の顔の下には、よだれにまみれた私の実験ノートがあった。
「うわ、きったね……」
「自分でやったんでしょうが。早く顔洗って来なさい。全く、一晩中テレビを見ていたなんて……こうなるともうただのテレビっ子じゃない」
「う、んー……」
私はよろよろと研究室備え付けの洗面所へ向かう。机で寝たせいか、体の節々が痛んだ。
冷たい水で顔を洗うと、さすがに眠気も晴れ、ようやく正常な思考が回り始める。鏡を見ると、髪は乱れ、襟元はよだれで濡れている。とても人前に出られる格好ではない。……私にしては、いつになく夢中になっているな。この調査。自分が興味を持った対象を調べているため、身が入りやすいのだろうか。
私が身だしなみをなんとか整えて洗面所から出ると、研究室の方から人の話し声が聞こえた。片方は教授だが、話し相手は誰だろう……?
「あぁ、おかえり、ちゆり。そのべっとべとの実験ノート、なんとかしておきなさいよ」
部屋へ戻った私に教授はそれだけ言うと、部屋にいた女学生に向き直る。誰だ、見覚えはある気がするが……。
「そう、なかなか広くアンテナを張っているのね。先日あの雑誌に私が書いた記事は読んだ?」
「はい! とても面白かったです。ああいう都市伝説に対する斬新な調査方法は、もっと他の現象にも適応できるのではないでしょうか?」
「どうかしら、あれはあの調査のためだけに作った装置だったから。宇佐見さんなら、どうやって調査したかしら?」
「そうですね、私ならまず現地に行って……」
宇佐見さん、と教授は彼女を呼んだ。そうだ、思い出した。彼女は物理学科の学部生の宇佐見蓮子だ。以前教授の講義の手伝いをしたとき、最前列に座って熱心に講義を聞いていたから覚えている。それについ先日、教授が私に自由課題を出したとき、引き合いに出したあの学部生のレポート。あれを書いたのも宇佐見蓮子だった。
……要するに、教授のお気に入りの学生、ってことになるのか。二人の話を聞いていると、どうやら宇佐見は論理物理学に興味があるだけでなく、オカルトの世界に対しても一家言あるようだった。その双方で教授と話が合う人なんて、初めて見た。
「そういえば、そろそろ所属する研究室を考える時期じゃない? あなたはどう考えているの?」
教授は宇佐見にわかりやすく水を向けた。私も、雑巾で机を拭きながら耳をそばだてる。
実はこれは私にとってなかなか切実な問題で、我が岡崎研究室にも毎年数人の学部生が入ってくるのだが、大抵はやる気のない学生ばかりなのだ。ちゃんと勉学に取り組んでいて情報収集を怠らない学生は、教授が疑似科学者と揶揄されることもあると知っているからだ。教授も教授で学生の指導に熱心な方ではないため、ここへ入った学生たちはいつしか離れていき、度重なる留年の果てに退学していたり、いつの間にか別の研究室に所属しなおしていたりする。
そんなわけで、今現在この研究室に所属しているのは私と教授の二人だけなのだ。それはつまり、教授の奇怪な研究の手伝いをやらされるのが私一人だけということでもある。
「そうですね、まだ決めていません。今は色々な研究室を見学させていただいているところです」
「ふぅん。うちは候補に入っているのかしら?」
「あぁ、ええと、その」
宇佐見は目をそらす。うむ、嫌そうだな。先ほどは二人してオカルト話に花を咲かせていたが、彼女にとって趣味と研究は別物らしい。ちっ、こいつも常識人だったか。
「面白そうだな、って思っています」
「そう」
と教授は気にした風もない。
「あなたみたいな優秀な学生がいたら、うちとしても大助かりだったんだけど」
え?
机を拭く私の手が止まる。
今、教授は何と言った。――あなたみたいな優秀な学生……?
この人は宇佐見を褒めたのか。
岡崎夢美は、お世辞や社交辞令を言う人ではない。思っていないことを口にする人ではない。そして、だからこそ、滅多なことでは他人を褒めたりしない。自分がこの世の誰よりも優秀だと信じているから、およそ他人を認めるという感覚を知らない人だと思っていた。
そこそこの時間を教授と同じ研究室で共有してきたこの私でも、彼女が誰かを認めるような発言をするのを聞いたことがない。
その教授が……。
「あ、ありがとうございます。岡崎先生にそう言っていただけるなんて、光栄です。でも、やっぱり自分のやりたいことや得意分野を勘案して、自分で決めたいので」
宇佐見は恐縮しながらも、はっきりと自分の意見を述べた。
「そう。あなたは方向性がはっきりしていてわかりやすいわね」
それは、教授にしてみればただの感想だったのかもしれない。皮肉とか当てこすりとか、そういう分かりやすい嫌味は言わない人だ。だから、……方向性がはっきりしていない子を抱えると面倒なのよ、あの子みたいにね――だなんて、そんな含みを持たせた発言ではないのだろうけど。
何だろう、落ち着かない。胸の奥がちくちくする。
研究室所属の話はそれで流れたらしく、教授と宇佐見はまた別の話題に移行していた。今度は教授の研究のテーマ(オカルトではなく論理物理学の方面だ)について、宇佐見に概要を話して聞かせているらしい。
……あまり、聞いていたくない。
けれど、研究室はそれほど広くはない。教授の産廃机のせいで、私は逃げ場がなかった。仕方なくヘッドホンを取り出し、テレビにつなげて電源を入れる。教授たちの会話が遠ざかり、私は再び古代中国へと没入していく。
なにくそ、この調査で教授をあっと言わせてやれ、という反骨精神の持ち主ではない。私は。この研究テーマだって教授に言われたから探し出したものだ、自主的な研究とは言えない。最後まで物語を見終えたところで、さしたる達成感は得られないだろう。
それでも私はテレビを見た。
それが今の私の仕事なのだからと、現実から目を背けるように。
芳芳たちの生活は、すでに折り返し地点を過ぎていた。しばらくは平穏に時間が流れていたのだが、修行期間の終わりが近づくにつれ、娘たちの間には少しずつぴりぴりした空気が流れ始める。
見たところ、彼女たちの成績に大きな変化は現れていなかった。それに一番焦りをあらわにしていたのが、芳芳だった。このままでは自分は選ばれないという焦燥感から、彼女は毎日遅くまで書庫で自習に励んでいた。
『芳芳、もう明かりを落とすわよ。まだ部屋に帰らないの?』
そんな芳芳に、小伊が呆れたように声をかける。
『ええ、まだ少し気になることがあって。おやすみなさい』
そう言って芳芳は今日も夜更かしをするのだ。
私は次第に、娘たちの中でも特に芳芳に対して共感を覚えるようになっていった。
私と芳芳は決して同じタイプの人間というわけではない。私も楽々とここまで歩んできたわけではないにせよ、芳芳ほどの努力家とは言えなかった。けれど、どうしてだか芳芳の頑張る姿は私に親近感を抱かせる。
環境には恵まれなかった芳芳だが、同年代の一般の少女の中では飛びぬけて深い教養を彼女は持っていた。けれど、結局彼女はそれだけなのだ。唯や迅のように、特別な身体能力や芸術の才は持っていない。学識・教養でいっても小伊にはかなわない。青娥の従者選びの基準がどこにあるとしても、このままでは自分は選ばれない……その不安が、芳芳を駆り立てている。
どれだけ知識を詰め込んだところで、どれだけ勉強ができたところで、それ自体には何の意味もない。それだけでは人を振り向かせられない。
私はどうだろう。自分では何も始められない。ただ人についていくことしかできない。
けれど、あの人はそんな人間を求めていない。それはきっと霍青娥も同じだ。
だから、私は芳芳に自分を重ねてしまうのだろうか。
だから私は、彼女だけを応援してしまうのだろうか。ことがうまく運んで、芳芳が霍青娥の従者に選ばれて欲しい、と……。
――だが、私は知っている。霍青娥が日本に連れて行ったのは、生身の人間でも仙人でもない。
彼女が秘術によって蘇らせた、宮古芳香という名のキョンシーなのだ。
キョンシーについて調べてみると、それは人が死んだ後、精神を司っていた魂が散じて、身体を司る魄だけがその身に残った状態なのだという。仙術によってその魄を駆動し、術者の意のままに肉体を操られている状態、それがキョンシー――即ち宮古芳香なのだ。
つまり、初めからわかり切ったことだが、それは若い娘の死体なのだ。
私は知っている。青娥に選ばれた者は……何らかの理由によって、遠からず命を落とすことになるということを。
◆
不意に書面がぼやけ、私は文机から顔を上げた。目を閉じ、眉間をもみほぐす。少し、根詰め過ぎてしまったらしい。あまり夜遅くまで頑張るのは良くない。目が悪くなる。
けれど、そうでもしない限り。いや、そうしていないことには、私はこの不安からは逃れられない。
既に修行の期間は残り二か月を切っている。これまで青娥は色々な課題を私たちにやらせてきた。多少人間業の域を超えた術も教えてもらったし、武術の初歩に取り組むこともあった。けれど、それらの修行を通してわかったことは、私という人間はとことん凡庸な俗輩だということだけだった。何一つとして特別秀でた才はない。
……選ばれる理由が、自分でも見当たらない。
「……はぁ」
白いため息が、目の前でかすんでいく。
選ばれなかったとき……私は、一体どうなるのだろう。
青娥の隣に立つという輝ける目標を失ったとき、私はどこへ向かうのだろう。
ひたすら努力を重ねることでその不安を追い払うのも、そろそろ限界だ。体力にも限りというものがある。私は立ち上がり、明かりを持って書庫を後にしようとした。
この館の蔵書量は相当なもので、半年をここで過ごしたというのに、私は未だにその一割も目を通せていなかった。私は未知の知識の詰まった書棚の間を通り、ふと、書庫の奥にある書棚が気になって立ち止まった。確か、医学に関する資料が保管されていたはずだが、そこにある巻物の一つが棚の中に倒れていたのだ。
明かりを灯台に置き、その巻物に手を伸ばす。どうやら最近ひも解かれたらしいその巻物は、死者を使役する術に関して記述したものだった。
その術は、話には聞いたことがあった。魂の抜けた人の死体を意のままに操る、便利だが高度な技量を要する仙術だ。
この書庫は私たち候補者もよく利用するが、この書棚を参照するような課題は出された記憶がない。となると、この巻物をひも解いたのは青娥なのだろうか。
……なぜこの術を、見ようと思ったんだ……?
ぞくりと背筋が震える。いけない、ここは夜は底冷えがするのだ。早く寝所へ戻って、明日に備えなければ。
私は巻物を棚に戻し、書庫を後にした。
いよいよ、その日が訪れようとしていた。
数日前から青娥の姿は見えなかった。館には候補者が立ち入りを禁じられている場所も多い。そのどこかにこもって、何かをやっているらしい。この修行が終わったらすぐに日本へ旅立つと彼女は言っていたから、旅支度ではないかと私たちは話していた。
従って、期日の前一週間ほどは、私たちは完全に自由に過ごした。青娥は最早私たちを見ていない。ということは、誰を従者にするか彼女の中ではすでに決めている可能性が高い。
けれど私は、半年の間に体に染みついた習慣に従って、まだ一日中書庫に通い、詰め込めるだけの知識を頭に詰め込んでいた。他の娘たちもそわそわして落ち着かず、館の中に会話はほとんどなかった。
「……いよいよ、明日、ね」
その晩、夕食の席で唯がようやく口を開いた。
そう、明日。青娥が、半年の間あなたたちを見させてもらうと言ったあの日から、明日でちょうど半年が経つのだ。
「えぇ、明日でもう、あなたたちとはお別れね」
小伊はさらりとそう言った。誰が選ばれたとしても私たちは別れることになるのだろうが、小伊が言っているのは勿論、彼女が選ばれるに決まっている、という意味だった。あぁ、そうかもしれない。自分が選ばれて当然という小伊の自信には、私は反論できない。
「これでお別れと思うと、寂しくなるわ。せっかく仲良くなれたのに」
唯はそう言って食卓の顔ぶれを見回す。彼女とて選考結果で頭がいっぱいだろうに、この期に及んでも私たちの和を取り持とうとする。私が従者を選べる立場だったら、きっと私は唯を選んだだろう。彼女は、そう思わせる人柄の持ち主だった。
迅はこの席では一言も言葉を発しなかった。彼女は今日にいたるまで一見平静な日常生活を送っていたが、病状は確実に進行しており、もう話すのも大儀らしい。だが、声を封じた代わりに彼女が多くの詩を書きためていることを私は知っている。
私は改めて三人の顔を見回した。もう明日ですべてが終わると思うと、自然とため息がこぼれる。
「……はぁ……」
肩の力が抜けていく。私はその時、何だか不思議な気分になっていた。
結局、私は彼女たちに内心を打ち明けないまま、就寝のあいさつをして自室へと戻った。寝台に潜り込み、安らかな気持ちで目を閉じる。
そう、私は最後の夕餉の席で悟ったのだ。もう、無理をして力む必要はないのだと。
結局私は、半年かけても彼女たちには勝てなかった。それはみんなわかっていただろう。青娥の選ぶ一人が誰であれ、それは私ではないのだ。
全力を尽くしたとは思う。けれど、努力ではどうにもならない壁があったのだ。
それが何かはわからない。身分や境遇でないことは確かだが、答えが出たところで……青娥が、私たちの何を見ていたのか教えてくれたところで、やはり私は諦めただろう。自らの身の程を知って、もう何も言わずに館を去るのだろう。
そう思った瞬間にどっと押し寄せた半年分の疲労と、そして心地よい虚脱感に包まれて、私は眠りに落ちていった。
その日は、朝から何をすればいいのかわからなかった。
誰も部屋から出ていないようだった。
青娥が誰かを選ぶなら、その者の部屋へ直接言ってそう告げるだろう。
昼を過ぎた頃、私の寝所の前の廊下に、何者かが現れた気配があった。あの裾のこすれる音、間違いない、青娥だ。
私は呼吸を止めた。そんな、まさか。
いや、私であるはずが……。
「ちょっといいかしら?」
すぐ近くで、あの人の声がした。
はっと気が付くと、青娥は私の目の前に立っていた。いつもと変わらない、掴みどころのない笑顔を浮かべて。
そうだ、この人は自由に壁を抜けることができるのだった。なんといったって、彼女は仙人なのだから。
「あ……」
私は椅子に座ったまま、言葉を失ってただただ青娥を見上げていた。
「お疲れ様、芳芳。随分頑張ったわね、この半年間」
青娥はそっと私の肩に両手を乗せる。彼女の手のぬくもりが、私に伝わってくる。
「あ、あの……」
言葉に詰まる私を見て、青娥はおかしそうな顔をする。
「あなたが今何を考えているか、この半年間何を考えていたか、私にはわかっているわ。あなたはきっと、候補者の中で最も思いつめていたでしょう。選ばれたいという思いと同時に、他の子はあんなにも優れているのに自分はどうして何も長所がないのかって。そう、あなたはね、芳芳。四人の中で唯一、そういうまっとうな劣等感を抱ける人間だったのよ。それはきっと、精神的に余裕のない身分に生まれたことによるところが大きいのでしょうね」
「は……はい」
はい、としか言いようがない。彼女が何を言おうとしているのか、私はまだその真意を測りかねていた。
が、私が戸惑っていることも青娥には筒抜けだった。青娥は悪戯っぽく小首を傾げ、
「あら、まだわからないの? あなたにする、と言っているのよ」
笑顔でそう告げた。
その瞬間の私は、呼吸どころか、心臓すら停まっていたかもしれない。
「……私に、する……と、いうのは……」
「そのままの意味よ」
青娥の両手が私の肩を滑り、妖艶な仕草で私の両の頬を挟み込む。そして、吐息がかかるほどに顔を近づけて、
「あなたが、必要なの」
眩暈がするほどに甘い声でそう言った。
私が、選ばれた……? この、何一つとりえのない私が……?
「……本当に……?」
一体……。
「えぇ、本当よ」
一体、何故私を……?
驚きと嬉しさと疑問が同時に湧きあがり、脳いっぱいに絡まり合う。
青娥は一呼吸置き、
「だから」
その両手がまたすっと私の肌の上を滑る。その両手は流れるように私の首筋へ降りた。そして。
少しずつ、その手に力が込められていく。
青娥の細い指が、ゆっくりと私の首の皮膚に食い込んでいく。
青娥の表情は変わらない。それはあまりに自然で何気ない手つきだった。私が、青娥の手によって首を絞められている、という状況を理解できた頃には、既に手足の自由も効かなくなっていた。
「……がっ……は……」
少女の喉が発する音声とは思えない奇妙な音が私の喉から絞り出されるのを、私の耳が聞いている。
視界が青く染まっていく。思考が青一色に塗りつぶされていく。
最後に私の脳に届いたのは、青娥の甘く囁きかけるような一言だった。
「だから、一緒に日本へ行きましょう」
◆
「ちゆり! しっかりして、ちゆり!」
誰かが私の肩を力強く掴み、前後に揺さぶっている。随分必死な様子だ。そんなに、その人のことが大事なのだろうか。
ちゆり、とはその人の名前だろうか。
一体、誰のことだろう……。
気が付いたときには、私はふかふかの布団に仰向けに横たわっていた。
あ、あれ?
覚醒はあまりに唐突で、瞼を開いたその瞬間に眠気や夢見心地は吹き飛んでしまった。そのかわりに私の頭を支配したのは、ありったけの疑問符だった。
……ん?
あれ?
何だここは。どこだ、今はいつだ?
ええと、私は……そうだ、確かあの人に、首を絞められて……。
「……っうわぁぁぁぁぁっ!!」
弾かれたように飛び起きる。そうだ、そうだった、私は首を絞められたんだ、あんな細い指で、あんなに強い力で。首を絞めるという行為がもたらすのは、窒息だけではない。効果的に首を絞めれば、息が苦しくなるより先に脳に血が届かなくなり、意識など数秒のうちに吹き飛ぶのだ。いや、彼女の場合はそれも違う。あの手の力は、締めるという生易しいものではない。容赦のない圧力によって首の皮下組織を押し潰し骨を砕き、そのまま切断するまで、彼女は手の力を緩めなかっただろう……。
「ちょっと」
えらく不機嫌そうな声が、私の頭のすぐ横から聞こえた。
「いつまで寝ぼけてるのよ、ちゆり」
……ちゆり?
そう、ちゆり……北白河ちゆり。私の名前だ。
そして私の隣にいたのは。
「全く、とんだ助手もあった物だわ」
いつにもまして険悪な表情を浮かべる、我がご主人様こと岡崎夢美だった。
「……ええと」
猛烈な勢いで私の自我が回復するにつれて、自分の置かれた状況を把握する余裕が生まれる。ふむ。研究室でテレビを見ていたはずの私は、いつの間にか病院にあるようなベッドに寝ていた。そこは病室の様な清潔な部屋で、傍らの教授はまるで病人の見舞いに来たように椅子に座っている。彼女のしかめつらは見舞客のそれではなかったが。
「あのー……私は、っていうかここは……」
「大学の保険センターよ。あなたたち学生は健康診断の時くらいしか使わないでしょうけど、ここって学内で何か事故があったとき、そこそこの応急処置ができる施設でもあるのよ。あなたはそこに担ぎ込まれたの。まさしく事故でね」
「……事故」
「ええ。首を絞められたのよ。霍青娥に」
青娥。私はその言葉を聞いて鳥肌が立った。
「ま、首を絞められたのはテレビの中の艾芳芳だけど。あなた、私があげた説明書をちゃんと読んでいなかったでしょう。あのテレビは、ただ映像を流すだけの装置ではないのよ。こちらが指定した状況をあのブラウン管の中に再現するために、仮想幻想を筐体の中に形成している。つまり、あの画面に映し出されているのは、過去の映像でも作り物の動画でもなく、もう一つの現実、つまり幻想なのよ。そして隣り合った現実は、力の強い方が弱い方を侵食することがある。あれは、そういう危険性をはらんだ実験装置なのよ」
「……はぁ」
よくわからないが、とりあえず言うべきことを言っておこう。
「それを最初に言ってくれよ」
「こら、よくわかっていない癖に雑な文句を垂れるのはやめなさい。……とにかく、今回の場合は、向こうが神話時代でこっちが科学世紀だから、現実の力はこっちの方が強いのよ。だから基本的には、幻想世界をただ観察する分にはこちらが侵食される危険はない。けど、ちゆり」
教授はぎろりと私を睨む。
「あなたは、あなたのほうから向こうの現実に近寄ったでしょう。自分とあの芳芳を重ね合わせて、いえ、途中からはほぼ同一視していた。それで向こうに引きずり込まれたのよ、あなた一人分の現実がね」
「は……あー、ええと、……私は、テレビの中に入ってた、ってこと……?」
冗談のつもりで言ったのだが、教授は頷く。マジかよ。
「あなたとあの女の子は性格も能力も全然違うのに、よく感情移入できたわね。……それはともかく、そんなわけで芳芳があの女に首を絞められたとき、芳芳と同一化していたあなたもまた首を絞められていたの。まったく、……私が咄嗟に気付いてテレビを切ったからよかったものの……。私が忘れ物を取りに研究室に戻っていなかったら、あなた、本当に縊り殺されていたわよ。そしてきっと私が殺人容疑でしょっぴかれていたでしょうね」
「うえぇ……それって、結構……っていうか、滅茶苦茶危なかったってことか?」
「えぇ。感謝しなさい」
「はぁ……あ、ありがとう」
言われた通り感謝の言葉を述べたが、また教授に睨まれる。
「全く、どこまでものんきなんだから。……とにかく、今回のことでよくわかったわ。あなたに好き勝手にやらせていたら、私の面倒が増えて大変なことになる。これからは、勝手なことは控えてもらうわよ。特に、あの装置を使った実験については」
「ん、うーん……教授にやれって言われてやったのに、何だか理不尽な気が……いや、まぁ、不満はないぜ、っていうか不注意で死にかけたやつが言えたことじゃないよな。悪かった、今後はどんな命令でもご主人様に従う」
「それがいいわね」
そんなにすっぱり言い切るか。まぁ、そこに文句をつけられる立場ではなくなってしまったが。
「……でも……」
「何。まだ何か言いたことがあるの?」
「いや、研究の狙いとしては悪くなかったはずなんだけどな、って思ってさ。装置の使い方を熟知してなかったのは失敗だったけど、研究の目的は達成されたって言っていいだろ」
「ふぅん。つまり? 何がわかったの?」
教授は興味なさげに相槌を打つ。
「芳香は元は艾芳芳って名前の平民で、青娥の弟子になるために入山したんだが、青娥は最初から生身の人間を従者として日本に連れていく気はなかったんだ。半年の試験期間の後、青娥はその手で芳芳を殺して、何でも言うことを聞くキョンシー、宮古芳香に作り替えた。芳香は、青娥に殺されたんだ。青娥の都合だけで」
教授は何も言わなかった。ただつまらなそうに窓枠に頬杖を突き、ふぅ、と短く息を吐いただけだった。
「……でも、そういえば結局わからなかったんだよな。なんで芳芳が選ばれたのか……」
そう、芳香の出自がわかったと言っても、芳芳が選ばれた理由はわからない。私個人は芳芳を応援してはいたものの、贔屓目に見ても彼女がほかの娘より優れているようには見えなかった。
「……ねぇ、ちゆり」
「ん?」
「私は思うのだけど、あなたってあんまり頭がよくないわね」
「へ」
何だ、その突然の罵倒。
頬杖をついたまま窓の外を見る教授の眉間には、深い深い皺が寄っていた。
「だって、そう言うってことはまだ気づいていないんでしょう。私が何でこんなに不機嫌なのか。……わかる? 想像でもいいから言ってみなさい、私が何に怒っているのか」
「は、はぁ……いや、それは私が実験でへまをして、迷惑をかけたから……」
「違う。私はそのことに怒っているんじゃないの。あなたが私に対してとても失礼な見方をしていたとわかったから、今とてもイライラしているのよ」
「え、ええと……?」
話がどんどん見えなくなっていく。何が言いたいんだ、この人は。
「あのー、この際馬鹿でもいいからさ、もうちょっとストレートに言ってくれないか。あぁ、正直言って全く見当がつかないんだ、ご主人様が何を言いたのか」
「簡単よ。あなたが芳芳にあそこまで自分を投影してしまったのは、私と青娥も重ね合わせていたからでしょう。あなたはね、ちゆり。芳芳が青娥に憧れると同時に、小伊や唯、迅に対して強い劣等感や焦りを抱いている姿を見て、まるで自分と私の関係のようだと感じたのよ。あなたの嫉妬相手はさしずめ宇佐見蓮子といったところかしら?」
う……言われてみれば確かにそうだ。要するに私は、芳芳たちにとっての青娥を、自分にとっての教授のような人間として見ていたんだ。何だ、この人は何もかもお見通しだったのか。
「宇佐見さんね……。あの子は確かに学部生としては優秀だけど、別にうちへの所属を強く希望してるわけじゃないし、助手としてはあなたの方が使えるわ。それでもあなたは不安に思っていたんでしょう。自分の居場所が脅かされるようで」
「う……そ、そんな直接言わなくても……」
だんだん恥ずかしくなってきた。自分がいかに子供っぽい思考の持ち主なのか、暴かれていくようで。
教授はちらりとこちらを一瞥し、何かを諦めたように肩を落とした。
「もう一つ。こっちの方がより重要だから、よく聞いてよく考えなさい。あなたは勘違いしているわ。芳芳は芳香じゃない」
「……え?」
な、今何て?
「あなたの研究ノートは読ませてもらっていたから、私もあの半年については大体把握しているわ。けど、あなたの記録からは重要な要素が抜け落ちているの。ねぇ、ちゆり。一応確認したいんだけど」
そして教授はこちらを振り向き、
「もしかして、青娥は一度も候補者たちの名前を呼んでいないんじゃない?」
「……え、……えっと、どういう意味だ?」
「そのままの意味よ。多分、あなたが見ている前では青娥は娘たちを一度も名前で呼んだことはない。芳芳は呼んでいたかもしれないけど」
「た、確かに、そもそも青娥は課題をやらせている間は基本放置だったし、それはそうかもな。私も全部の発言を追いかけたわけじゃないからわからないけど……」
「私、多分そうなんじゃないかと思って、倒れたあなたをここへ担ぎ込んだ後に確認したのよ。青娥が候補者たちの名前を呼ぶところをね。そしたら、案の定だった。青娥は、小伊のことを『宮圓』と呼んでいたわ」
「……え、何だって?」
教授は立ち上がり、手帳を取り出して私に差し出した。そこにペンで「範宮圓、小伊」という文字を書き綴った。
「小伊というのはね、彼女の字(あざな)なのよ。知っているかしら、中国の人は二つの名前を持っているの。親や目上の人から呼ばれる本当の名前、つまり諱(いみな)と、同僚や目下の人に使わせる通り名、つまり字ね。芳芳は彼女の諱で、字は清額といった。けれどこの『清額』という名前は、『青娥』と全く同じ発音だった。それに加えて彼女は候補者の中では最年少で、身分も明らかに低かったから、彼女だけは周りから諱で呼ばれていたのよ。それ以外の子は全て字で呼び合っていた。小伊や唯、迅といったように。けれど青娥は彼女たちを全員本当の名前、諱で呼んでいた……」
教授は喋りながら、手帳に彼女たちの名前を書きならべていく。
「小伊の諱は宮圓、範宮圓。迅の諱は古希、温古希。芳芳はそのまま、艾芳芳。唯の諱は香蕾、武香蕾」
私は手帳に羅列されたその四つの名前を眺め、あっ、と思わず声を上げた。
宮圓。
古希。
芳芳。
香蕾。
「……どう? だからきっとあなたは知らないと思ったのよ、この娘たちの本当の名前を。だって、あなたがどんなに頭が鈍くても、この文字の並びを見て気付かないはずがないもの。宮古芳香という名前が、この四人の名前の一部分をつなげて作られたということに。そう、ちょうど」
そして教授は、軽く頷いてから言う。
「宮古芳香の体が、四人の体の一部分をつなげて作られたのと同じようにね」
教授は保健センターの職員に無理を言い、私の病室へホワイトボードを運ばせた。病人相手に講義とは何という教授だという目線が彼女を貫いたが、そんなことを気にかけるような人ではない。
「結論から言いましょう。宮古芳香は、一人の人間の死体を蘇らせたキョンシーではない。小伊の頭部と、迅の両腕、芳芳の胸部、それに唯の腰から下をつなぎ合わせて作られたのよ。だから幻想テレビで芳香の過去の情報が何も拾えなかったんでしょうね。何しろ、宮古芳香という人間がこの地上で生きていたことなんて一度もないのだから。あなたは芳芳が殺害された時点で気を失ったから、その後にあの館で何が起きたかは知らないでしょう。もしあなたが望むなら、あの後青娥が残り三人を次々と殺していく場面も全部録画されているから、確認してもいいかもしれないわね。ただ、四人分の死体がそろった後の人体解体スプラッターショーは、見ていて決して気分のいいものではないから、あまりおすすめはしないけど」
教授は淡々とホワイトボードに図を書いていく。簡易な人体図を頭部、胸部、両腕、そして下半身の四つに区切り、それぞれに元持ち主の名前を書き沿える。
「きっと一番最初はこんなことをするつもりはなかったのよ、霍青娥は。彼女は普通に候補者の中から誰か一人を選び、人間のまま従者として日本へ連れていく気だった。最初のうちは、選ばれなかった三人へのその後のアドバイスをしているくらいだしね。けれど四人の娘たちを見ているうちに、青娥の中にある考えが芽生えた。四人はそれぞれ異なる長所を持っている。この中から誰か一人を選ぼうとすると、ほかの子の持つ長所をみすみす捨てることになる。それはもったいない、であればそれぞれが持つ長所をつなぎ合わせればいい、と。死体をキョンシーとして使役する術があるのなら、フランケンシュタイン博士のように複数の人体のパーツを繋ぎ合わせて新たな人間を作り出すことができたとしても、それほど突飛とは思えないわ。さて、一応あなたもさっき気にしていたことだし、疑問は全て解決しておきましょうか。なぜ選ばれたのか、という疑問をね。
「まず頭部。小伊を選んだのは、これは単純に彼女が美しかったからでしょう。唯はそれほど器量よしではなかったし、迅は病気で痩せこけていた。芳芳は貧民層出身ということもあって肉付きはよくなかったわ。後の青娥と芳香の関係を見ていると、青娥は芳香を愛玩動物のように扱っている節があるわ。可愛がるのに最も適していたのは、可愛い顔だったというわけね」
教授はホワイトボードの頭部を丸で囲んだ。
「次に両腕。青娥は迅の腕を欲しがった。最も体が弱っていたはずの迅の腕をね。それは、彼女が書道と詩作の才能に恵まれていたからよ。青娥は自分の作品である芳香に、芸術的素養を添えたいと考えた。キョンシーとなった宮古芳香はもはや自律的に考えて行動するということはないわ。けれど、芸術というものは心を失っても体が覚えているもので、その儚い生涯のうちの多くの時間を書に費やした迅の腕は、青娥が従者に求める素養を実現するための大切なパーツだった。実際、千年以上経った現在の幻想郷でも、芳香は時々一人で歌を詠むことがあるみたいね。その歌は、もう頭で考えて作られたものではないのでしょうけど」
確かに、そのような光景をテレビで見た気がする。歌の内容までは見られなかったが。
教授は両腕を丸で囲い、話を次に進める。
「さて、次は下半身、唯に移りましょう。これは少し気付きにくい理由だけど、わかるかしら?」
「え……。ええと、やっぱり唯が身体能力に長けていたから、とか……?」
尋ねられてそう答えはしたが、答えてからなんだか胸の奥が気持ち悪くなってきた。私は今、人体解体からの再構成という、およそ常人のモラルからはかけ離れた議論をしているはずなのに、こんなに冷静にパーツの効用について推測していても大丈夫なのだろうか。私の倫理観は、教授に引きずられておかしくなっていはいないか。
私の心配をよそに、教授は、そうね、と頷いた。
「身体能力から唯を選んだ、というのは間違いではないわ。でももっと明確な選定基準があった。見た目から明らかなのだけど、あなたは気付かなかったかしら。唯だけ、娘たちの中で靴が大きいことに。……そう、候補者の中で唯だけが、纏足をしていなかったのよ。あなたも知っていると思うけど、中国では随分長い間、足の小さい女性が美しいとされる価値観があった。それで纏足といって、幼いころから足を縛って小さな靴を履かせ、足の成長を妨げていたのよ。この風習は中国全土に見られるものだけど、歴史的には隋代の少し前あたりから始まったらしいから、唯が生まれ育った辺境にはまだ普及していなかったのでしょう。さて、唯以外の三人は纏足をしていたのだけど、当然、そんなことをしたらうまく歩けなくなるわ。そのうまく歩けないということ自体が、昔は美しさ、かわいらしさとしてみなされていたという話もある。美しさや可愛らしさは青娥も芳香に求めていたけど、旅に連れていくのにうまく歩けない足を選ぶはずがないわよね。それに、後の戦いで青娥は芳香を盾のように扱うこともあったみたい。戦える従者を作るなら、必然的に唯の足でなければならなかったのよ」
教授は下半身も丸で囲った。残りは、胸部……芳芳が使われた箇所だけだ。
教授は一息つくと、私の方へ向き直った。
「さぁ……最後くらいは自分で考えられるかしら。あなた、さっき気にしていたじゃない。なぜ、芳芳が選ばれたのかって」
「……まぁ、な」
「わかる? どうして青娥は芳芳をも芳香に組み込んだのか。何の長所もないと、あなたも言っていた芳芳を」
そう、確かに芳芳には何の長所もない。
けれど、先ほどから教授と共に青娥の考え方をなぞってきた私には、その答えが既におぼろげながら見えていた。
「多分」
私はベッドの上に座ったまま答える。
「消去法なんじゃないか」
「というと?」
「肺、だと思うんだ。芳芳が選ばれるとしたら、肺くらいしか思いつかない」
教授は、私の顔をじっと見、満足げに頷いた。
「えぇ……。その通り。胸を選んだのじゃない。青娥は芳芳の肺がほしかったのよ。あなたも調べていたわね、キョンシーとは魂魄のうち魂が抜け落ち魄だけになった状態のものだと。風水や道教では、この魄と呼ばれる気は肺に宿るとされている。キョンシーを動かすのに最も根源的な役割を果たすのが肺にある魄だとしたら、当然、青娥は最も状態のいい肺を選んだでしょう。まず迅は論外ね。肺を患っていると彼女は自己申告した。何の病気かは知らないけど、あれほど頻繁に咳き込む人間の肺なんて、到底使えたものではないわ。小伊も駄目だった。彼女は煙草の常習者だったから、煙が彼女の肺にどんな影響を与えているかわかったものではない。唯はというと、彼女の出身は砂漠の近くだと言っていた。身体能力に長けた唯の肺を青娥が選ばなかったのは、砂漠の砂を吸って育ったために正常な人よりも肺が弱いのではないかと懸念したからでしょう。実際、日本ではそこまで問題にならないけど、中国の黄砂のひどい地域では、砂塵は健康被害をもたらすものとして疎まれている。えぇそうね、あなたの言うように、芳芳が選ばれたのは完全に消去法だった。肺が健康であることを長所と呼べるなら、彼女もまた長所を摘み取られた形なのかもしれないけれど」
教授は言葉を切り、ポケットから水の入ったペットボトルを取り出して口に含んだ。大学教授らしい仕草だ。教授は窓辺にもたれかかり、私の方を見る。
「さぁ、全て明かしたわ。私はこれで余さず説明したつもりよ、私が何に不快感を抱いていたのか。……霍青娥は、表面上は全く正常な人間そのもので、もっと言えば俗物のようにすら見える。けれど彼女は確実に異常者だった。私たち人間から見ればね。もし、全てを兼ね備えた圧倒的に優秀な候補者が一人いたら、彼女は誰も殺さずその子を日本へ連れて行ったでしょう。けれど彼女にとって、生身の人間を連れていくのも、人を殺してキョンシーにして連れていくのも、……四人全員を殺してばらばらにし、いいところだけつなぎ合わせて新たなキョンシーを作るのも、手間の違い以外の差はなかったのよ。彼女にしてみれば、ただの人間を殺すなんて赤子の手をひねるようなものだったでしょう。元々生きる気力の希薄だった迅は、素直に殺されたわ。唯は最後まで青娥を疑わず、何かの間違いだと唱えながら混乱のさなか死んでいった。けれど小伊は猛烈に歯向かったわ、剣を抜いて青娥の手から逃れようと抵抗した。でも、どれだけ小伊が優れていても、仙人にはかなわない。青娥は眉ひとつ動かさずに仙術で小伊を屠っていたわ。全く、こんなサイコパスと同一視された身にもなってみなさい」
……あぁ、なるほど。だから教授は……。
それは確かに、怒りもするだろう。私はようやく合点がいった。そういうことか。
「あなたは、私のことをマッドサイエンティストか何かだと思っているみたいだけど、私は本当はかなりまともな人間なのよ。私なら青娥の様な行動はとらないわ。たとえ彼女と全く同じ能力を持ち、全く同じ境遇にいたとしてもね。全員を殺して長所だけをつなぎ合わせるだなんて、どうかしている……。人というものは、それが人であり人として行動しているからこそ価値があるのよ。ある人の行動は、その人の中で完結している。それが物質と人との最も大きな差異であって、人が面白い最大の理由よ。それを自分の都合のために切り刻んでいいところだけ取り出すだなんて、ごみを集めて人形を作った方がまだましだわ、血で服が汚れないだけね。……ちゆり」
教授は私の顔を真っすぐに覗き込んで言う。
「あなたにどんな長所があるか、どんな短所があるか、それは私の知ったことではないわ。それはあなたが勝手に見つけて勝手に生かしてもらえればいい。けれど私は、あなたが一人の人間でいる限りあなたに興味を持っている。原理的には、宇佐見蓮子に対しても、その友達に対しても興味を抱いているけど、その興味はあなたに対するそれとはまったく別種のものなのよ。だから、自分は誰よりも劣っているだとか誰よりも優れているだとか、そんな考え方で自分を評価してもらおうとするのはやめなさい」
「ん……うん、まぁ」
相変わらず教授の言っていることの半分は私の知っている日本語の使い方ではなかったが、なんとなく、気にするな、というようなことを言われているような気がして、私は曖昧に頷いた。
まぁつまるところ、私が思っている以上に、今回の件で教授は私に気をもんでいた、ということだろうか。それに対して、素直に申し訳ない、と謝れるような関係はまだ築けていない気がする。だが、それでも何かが前へ進んだような気もしないではない。
けれど。
全てが終わって、私も回復し研究室へ復帰した今でも、一つだけ喉奥の小骨のように引っ掛かることがある。
あの病室の講義の中で、教授は青娥の行為を否定した。
青娥のやったことは誰から見ても非人道的で、到底容認できるものではない、と私なら考える。
けれど教授は、一度もそれが人道に反するからだとか、倫理的な非難は口にしなかった。
彼女の口ぶりは、まるで「青娥は人間の扱い方が間違っている」とでも言わんばかりだった。
――もし。
もしも、だ。
教授の興味の対象が、人間性のもっと奥深いところにまで突き進んでいき、それを解明するために……例えば、誰かの命を犠牲にする必要が生じたとき。
果たして教授は、それを躊躇うだろうか。
子供の頃は神童と呼ばれ(実際に呼ばれたわけではないが、要はそういう扱いを受けていた)、中学へは一つ、高校へは二つ飛び級をして進んだ。正確には、進まされた、というべきか。私としては、別に人より早く学業を進めることを望んでいたわけではなかった。けれど周りの人間が――主に両親が――自分のレベルに見合った場所で学ぶべきだと強く主張し、私は半ば押し流されるようにして目まぐるしく学問を修めていった。
同級生も学び舎も、矢継ぎ早に私の横を通り過ぎて行った。同年代の友人がなかなかできないことを不満に思う気持ちがなかったわけではない。けれど、私は両親の教育方針には抗わなかった。彼らの思惑はよくわかっていたから。
まぁ、有り体に言えば北白河家のステータスとして扱われていたんだ、私の学問への素質は。代々続くしがない船工場を、一代で巨大な造船会社にまで仕立て上げたという経歴を持つ父は、何につけても貪欲な人だった。一人娘である私が、とにかく何かの分野で一流になることを彼は望んでいた。異例の若さで有名な大学へ入ったときは、これ以上ない学歴だと満面の笑みで私をほめたたえたものだ。だから私は、所属している研究室がオカルトまがいの、いやオカルトそのものといっていいような分野を扱うことがあるということは、両親には話していない。物理学界に対するわが研究室の貢献を差し引いても、常識的な人間ならきっと眉を潜めるだろう。
けれど、私にとってこの研究室は重要な場所なのだ。いや、この研究室がというよりもここの主、岡崎夢美という人物は。彼女こそは、私の早送りのような人生を初めて一時停止せしめた唯一の存在なのだ。
流れに抗うことなく、自分に与えられた学問への資質に安穏と身を委ねていた私に、彼女はある当たり前のことを教えてくれた。
即ち、「上には上がいる」ということを――
『あるいは古代のプロメテウス』
岡崎夢美という人間はひどい気分屋で、そのテンションは時と場合によって大きく上下する。単に上機嫌と不機嫌の差が激しいということではない。ある程度彼女と接した人間なら誰でも気づくのだが、彼女の場合は興味の有無の差がその日の気分を決めているのだ。
「これなんだけど」
その日、研究室で私に論文を突き返した教授は、ひどく興味の失せた目をしていた。何となく嫌な予感を覚えながら、私は教授から十数枚の紙束を受け取る。
「もうちょっと何とかならない?」
「何とかって?」
「だから、何とかよ」
それは先ごろから学会を賑わせている、ある物理実験の結果に対する私の見解を述べたものだった。教授に目を通してもらってから学会誌に投稿しようと思っていたのだが、まぁこういう場合この人のチェックがすんなり通ることはまずない。まずはどこがお気に召さなかったのか探るところからだ。
「んー……まぁ、私もそんなに自信があるわけじゃないけど、筋は通ってるだろ? あの実験結果を説明するには十分だと思うぜ」
「そうね。とりあえず説明はできているわ」
「ならどこが不満なんだ」
私の態度がいけ好かなかったのか、教授は憮然と眉をしかめる。
「そうね……一言で言えば面白くないのよ」
「はぁ。確かに自分でも、機知に富んだ文章だとは思わないけど」
「そうじゃなくて、これ以上興味がわかないって意味よ。確かにあなたは既に分かっている事実をうまく組み合わせて理論を構築しているわ。けれど、そこから先が見えないのよ。その理論はそこからどう発展して、何にたどり着くと思っているのか。もっと言えば、あなたが何を目的としてこの問題に取り組んだのかが見えてこない」
教授の口調はどうにも頭ごなしで、私は少しむっとする。
「目的って言われても……これが将来何の役に立つかとか、そういうこと? それなら正直何の実用性もないぜ。少なくとも現段階ではさ。でも、それは教授だって実験家だってみんな承知してるだろ。それとも何か、この国を守る価値のある国にするとでも書き添えておけばよかったのか?」
言ってから、我ながら生意気な引用だと思ったが、教授はさもつまらなそうに片眉を上げるだけだった。
「実用性の話はしてないわ。展望のことを言っているのよ。そうね、あなた自身の積極性の問題でもあるわ。……そう、例えば」
教授は彼女の三番目の机の上に積まれた書類の山に手を突っ込み、ごそごそと何かを探した。ちなみに整理整頓を忌み嫌う教授は、机の上が荷物でいっぱいになるとそれを放置して新しい机を買うため、この研究室にはゴミ集積所のような過去の教授の机がいくつも並んでいる。
「あった。例えばこのレポートだけど」
教授は書類の山から探し当てたレポートを私に差し出す。それには私も見覚えがあった。数週間前に提出された学部生の実験レポートで、私が採点の手伝いをしたものだったからだ。
「この子は、学習の段階で言えばまだまだあなたよりもずっと後ろにいるけど、展望はあなたよりもしっかりしているわ。この子が次に何を望んでいるか、それをどう伝えようとしているか。これを読んでいて、この子の積極性が伝わってこない?」
私は渋々レポートに目を通す。以前採点のために読んだ時は、こちらが求めている以上のことまであれこれ書いてあって面倒だな、くらいにしか思わなかったが、改めて見ると教授の言わんとしていることはなんとなくわかる。その物理実験によって得られた結果が何を示唆しているのかだけでなく、その実験を学生にやらせた教員の意図まで推察しているのは、まぁ積極的と言えば積極的なのだろう。
「まぁだから、うーん……。積極性、なぁ。なんだか性格的な問題のような気がするけど」
「そうね」
「そうなのか……はぁ。とにかくわかった。一応それを踏まえて書き直してみるけど、ご主人様の期待通りにできるかどうかは保証しないぜ」
「え? 今更?」
「今更って、駄目出ししてきたのはそっちだろ」
「でももう投稿しちゃったわよ?」
は?
「……この論文を?」
教授はこともなげに首肯する。言われて私の論文を見返すと、所々の文言が修正されていることに気づく。
「なんだよ、じゃぁ今の問答は何だったんだ……」
「単に心構えの話よ。もっと視点を高く持たないと新しい展望は開かれないっていう。まぁあなたは元々受動的なところがあるし、そういう人間なんでしょう。だからといって何の役にも立たないってわけでもないけれど、この私の助手なら太平洋に伝説の大陸を発見するくらいの心構えでいてほしいわ」
「悪いけど、オカルトにはそんなに興味はないんだ。ご主人様と違ってね」
「でしょうね」
教授は私の言葉をおざなりに受け流すと、キャスターつきの椅子に座ったまま研究室の床を滑り、テレビの電源を入れた。ただのテレビではない。これは、幻想世界へとつながっている特殊な実験装置だ。顕微鏡で微小な世界を覗き込んだり、望遠鏡で遠大な宇宙を仰ぎ見たりするのと同じように、この装置は幻想の世界を垣間見ることができる。
「さて、雑務も片付いたところで。次の仕事に取り掛かかってもらいましょう、って言いたいところだけど、今ちょっと私の方も手が離せなくてね」
「あぁ、そういえばご主人様も何か論文書いてるんだっけ? 手伝おうか?」
私の提案に、教授はテレビのダイヤル式チャンネルを回しながら「うーん……」と唸る。
「今のところあなたに手伝ってもらう場所はないのよね……。締め切りまであんまり時間もないし……」
「時間がないから手伝ってもらう場所がないってことは、要するに自分でやった方が早いってことか」
「そうね」
私は口を噤む。そこまではっきり言われると、流石に……。
実際私は教授の仕事内容の全てを理解できているわけではない。そうしようと努力してはいるのだが、教授の論文を読むなり文献を漁るなりしてどうにか私の理解が及んだ時には、この人は既に遥か先のことを考えているか、あるいはその分野への興味を失って全く別の方面へ首を突っ込んでいる。人よりもずっと速く、駆け足で生きてきた私だが、この人には追いつける気がしない。そんなことは、ずっと前からわかっていたのだけど。
「さて、というわけで」
などと煩悶する私の心中を他所に、教授は幻想郷の映像が映し出されたテレビの横に立った。
「私の仕事が片付くまで、あなたには課題をやってもらうわ」
「課題?」
「ほら、そんな不貞腐れてないでこっちに来なさい」
私は意識した以上に声に感情を込めてしまっていたらしい。いかんいかん、この気分は一旦振り払おう。落ち込むのは後に回そう。
「課題っていうと強制しているみたいだけど、自由研究みたいなものね。よく考えたら私、あなたがどんなことに興味を抱くのかよく知らないのよ。だから今回は実験的に、あなた自身に研究対象を探してもらおうと思うの」
「はぁ。そのテレビを使って?」
「ええ。何でもいいわ、幻想郷に住む住人たちを観察して、あなたが興味を持つ人物を一人、研究対象に選ぶ。それから、その住人についてあなたが調べたことをレポートにまとめてもらう」
「興味を持つ人物、ねぇ」
なんだか、研究がどうとか以前の部分を求められている気がする。あなたはどんなことに興味がありますか? って、学生の職業研究じゃないんだから。まぁ私がそう見られているってことなんだろうけど。なんだか微妙な気分だ。
「まぁ、我が岡崎研究室としても、今後幻想郷の住人を使ってやりたいことはいろいろ考えているから、住人たちの人となりに慣れ親しんでもらうって意味でも時間の無駄ではないでしょう。この機械の操作に慣れてほしいっていうのもあるし」
教授はそう言ってぼろぼろの取扱説明書を私に手渡すと、くるりと私に背を向けた。
「じゃ、頑張ってね。期待しているわ」
去り際にそう言う彼女の声からは、期待感の微塵も感じられなかった。
要するに、大事な仕事は任せられないが手持ち無沙汰にさせておくのもなんだから、適当な時間潰しをやらせておこう、……ってことなんだろう、多分。ネガティブに考えすぎかもしれないが、さばさばした性格のあの人のことだ、私が若干凹んでいることなど気づいていないだろう。気づいていたとしても、いちいちそれを気にかけるようなたまじゃない。
ならばここは一つ面白いレポートを書いて彼女を見返してやろう、という気概も湧かないまま、私はがちゃがちゃとチャンネルを回しながらめぼしい住人を探し回った。
さて、私の興味の対象とは一体何なのだろう。厄介なことに、私は自分でも自分の興味の方向性が見えていないのだった。
「どう? 何か考えてる?」
教授の声に私は顔を上げた。見ると、荷物の積載量がそろそろキャパシティを超えそうな現在の机の前に教授は座り、悠々とイチゴのショートケーキを食べている。どうやら彼女の仕事はもう済んだらしい。
「まぁ、なんとなくは」
「ふぅん」
教授はフォークをケーキの皿に置くと、立ち上がってテレビの前までやってきた。画面に映し出されている少女たちの姿を見て、あら、と呟く。
「神霊廟? あなたにしては意外ね」
「そうか?」
テレビに映っているのはどこかの座敷で、ヘッドホンをした少女、豊聡耳神子と彼女を取り巻く部下の少女たちが談笑している。私が画面上の神子の姿をこんこんと指で叩くと、神子に関する情報が画面に表示される。
「豊聡耳神子。こんな女の子が聖徳太子の生まれ変わり……じゃなくて、千年以上の時を経て蘇った聖徳太子ご本人だってさ。で、こっちのちんちくりんが一緒に眠りについていた部下の物部布都、こっちの半幽霊みたいなのが蘇我屠自古、と」
「ちんちくりんって、体型的にはあなたとそんなに変わらなくない?」
「そこはいいだろ、突っ込まなくても。……とにかく、他の妖怪だか幽霊だかに比べると、この神子の周りの連中はみんな実在の人物だ。過去の秘密には事欠かない気がして、今ちょっと見てたところなんだよ」
ふむ、と教授は満足げに腕を組む。
「いいところに目をつけたじゃない。私もね、この一派は面白そうだと思っていたのよ。それで? 結局誰を研究対象にするの? 布都ちゃん?」
「あ、いや。こっちなんだけど」
私は画面の下のボタンを操作し、場面を切り替える。あまり見慣れない異国風の造りの門の前を、妖艶な雰囲気を漂わせる女性が歩いている。その後ろを、くすんだ肌の色をした少女が、腕を前に突き出した姿勢のままぴょこぴょことついて行く。
私はまず先を行く女性の情報を表示させた。
「霍青娥。古代に中国から日本へ渡ってきた女仙で、神子に仙人になるよう勧めた張本人だ。神子の部下ってわけでもなさそうだが、まぁ神霊廟関係者の一人だな。で、ここまでは説明文に書いてあるんだけどさ」
私は青娥の情報画面を閉じ、青娥の後ろを歩く少女を叩いた。ところが。
「あら?」
教授は首を傾げる。画面は少女の個人情報画面に移行したのだが、彼女に関する説明は一切表示されていなかった。神子や青娥のときのような詳細な生い立ちの説明はおろか、名前すら空白だ。
「な? なんでか知らないけど、こいつに関する情報は全く出てこないんだ。最初はテレビが壊れてるのかと思ったんだけど、こいつらの話を聞いていたらなんとなく事情が見えてきてさ。この、宮古芳香って子について」
それに関してはなかなか地道な調査が要された。青娥は神霊病付近に住んでいるものの、神子たちとは一線を隔てた関係らしく、顔を合わせてもそれほど親しく世間話をするという感じではない。芳香に至っては、これまでのところ青娥以外の住人と話しているのを見たことがない。両人の挙動から、どうも青娥は芳香の主人であり、芳香のことを非常に可愛がっているというのはわかるのだが。
「結局しばらく観察しているうちに新聞記者みたいなのが神霊廟にやってきてさ。神霊廟の内部取材だとか言って。そこで関係者のことを布都があれこれ記者に紹介してるうちに、青娥たちのことも話題に上がったんだ。そこで初めて、宮古芳香って名前だとか、青娥が昔から使役してるキョンシーなんだってことがわかったんだ。ただ、布都もそれ以上のことは知らなかった。いつから青娥と一緒にいるのかとか、キョンシーなんだから元は人間なんだろうけど、いつの時代のどこの誰だったか、とか。そこらへんが全部謎に包まれてる」
ちなみに布都はその後で不必要に外部へ情報を漏らしたことを神子に窘められ、しゅんとしていた。見た目相応に子供っぽい部下らしい。
「なるほどね。それで、この子の出自に興味を抱いたと。確かに、何も情報が出てこないのは妙といえば妙ね」
「そうだろ?」
と言って私は教授の顔を振り向いたが、教授は何やら神妙な表情を浮かべていた。
「いいんじゃない? 彼女について調べてみるのも。そこらへんの墓場から適当な名もない死人をキョンシーとして蘇らせたから、生前のことは青娥にもわからないっていう、さして面白くもない真相が待っているかもしれないけど」
「それでも謎は謎だろ? 宮古芳香は何者だったのか、どういう事情で霍青娥と一緒にいるのか」
「えぇ、そうね……」
呟きつつ、教授は画面下のボタンを操作した。場面が切り替わり、先ほどの神子たちが映し出される。
「あなたにはあなた自身の興味に従って、宮古芳香の正体を解き明かしてもらえれば結構。でも、これはただの参考意見として聞いてもらいたいんだけど……私なら、彼女の方が気になるわね」
「彼女って、神子か?」
「いいえ。布都ちゃんの方よ」
「え、そっち? 物部布都……ねぇ。何が気になるんだ?」
「あなた、この子の説明を読んだでしょう。聖徳太子に取り入って、物部氏滅亡の手引きをしたって」
「あぁ、確かそんなことが書いてあったな」
「この子の言動を見ていて、そんなことをしそうな人間に見えたかしら?」
「……まぁ、そりゃ確かに、こんな見た目も頭脳も子供みたいな奴が、奸計に長けた謀略家だったって言われたら違和感はあるけど」
でもそんなことを言ったら、幻想郷という不確かな世界観の色々な綻びを認めないといけなくなってしまう気がする。なんとなく、そこんところ――人物像の説明と実際の性格の乖離――に突っ込むのは野暮なんじゃないかという気もしないではない。
「んー……例えば、あれじゃないか? 布都は悪いやつだったんだけど、何しろ千年以上眠っていたんだ。まだ寝ぼけてるだけなのかもしれないぜ?」
「えぇ、それも解の一つでしょう。あるいはこの子供っぽい性格がフェイクだとか、裏の人格を持っているとか、物部氏滅亡の手引きをしたのは彼女以外に黒幕がいたとか……色々考えられるわ。でもいずれにせよ、彼女の人間性は矛盾を孕んでいる」
「ん、うーん……そうか、まぁあれだな、興味は人それぞれってことかな」
考えることをやめた私の発言に、教授はふふっと笑った。なんとなく、私に対して何か感想を持ったような笑い方だった気がしたが、教授の内心を窺い知るすべなど私は持っていない。
幻想テレビ。教授がどこからか持ってきた、幻想郷を観察する装置。これまで何度か教授の奇妙な実験のためにこの装置を操作することがあったが、結局これが何なのか、どういう原理で動いているのか、私は今だに理解できないでいた。
宮古芳香の情報を調べるため、私は改めて取扱説明書に目を通しているのだが、分厚いくせに操作説明がやたらと雑でどう扱っていいのかよくわからない。さしあたり理解出来たのは、この装置を使えば現在の幻想郷のことだけでなく過去の映像も見られる、ということか。但し、古今東西あらゆる場面が映し出せるわけではない。過去を見るためには誰か一人住人を指定する必要があり、その人物の過去を辿るといった操作になる。この前舟幽霊について調べたときのように住人の過去を直接見ることはできても、それ以外の情報、例えば村紗が溺死したときに海上で行われていたことなどは見ることができないのだ。
でもまぁ、結局のところ私が知りたいのは芳香の出自なのだから、彼女の過去を辿っていけばいいだろう、と当初は気軽に構えていたのだが、ことはそう簡単には進まなかった。
私はテレビを操作し、宮古芳香のこれまでの足跡を辿っていった。ちょうど動画を巻き戻すように、一本の時間軸をシークするように。だが、どこまで巻き戻っても芳香の過去にはたどり着けなかった。というのも、芳香はいつの時代も主人である青娥と共にいて、ただ青娥に命じられたままに活動しているだけだったからだ。キョンシーである以上元は人間だったはずだが、江戸時代、室町時代、鎌倉時代と時代を巻き戻しても二人は何も変わらなかった。青娥は幻想郷に来る前はどこかの山奥に居を構え、そこでまさに仙人のような暮らしをしていたらしい。時代に合わせて住居は点々としていたが、青娥の傍らには常に芳香がいた。
飛鳥時代に差し掛かっても、二人の関係は変わらなかった。この頃青娥は神子と接触していたはずだが、芳香の前に豪族たちは姿を現さなかった。というより、神子に取り入るため宮中に出かけるときは、青娥は芳香を連れて行かなかったようだ。豪族たちと芳香の間になんらかの繋がりがあるのではと予想していたのだが、ここでも芳香の素性は明らかにならなかった。主人の留守の間、芳香は青娥の庵で何もせずに一人でじっと佇んでいた。
ふむ、神子一派は関係なかったのか……。
そして時代はさらに遡り――と、飛鳥時代を抜けようというところで突然芳香の周囲の景色がめまぐるしく移り変わった。何が起きたのかと驚く間も無く、ぶつっという音と共に巻き戻しが止まった。何だ、どうしたんだ。
テレビの中で誰かの声がする。中国語のようだ。と同時に、日本語の字幕が画面の下に表示される。この装置、前世紀の遺物のような見かけの癖に、自動翻訳機能がついているらしい。
『お目覚めかしら?』
話しているのは中国語だったが、恐らく青娥の声だ。これは……。
『おはよう。気分はどう? 芳香』
テレビには、狭く薄暗い座敷の中央に横たわる芳香と、にこにこしながら芳香の顔を覗き込む青娥の姿が映っている。
『初めまして。私がわかる? あなたの主人、霍青娥よ』
会話の内容からすると、どうやらこれは芳香が青娥の手によって蘇った場面らしい。宮古芳香の来歴の一番最初まで巻き戻って、そこから再生されている、という感じだろうか。ええと、時は西暦五九一年、場所は中国の、現在で言うところの広東省広州市か……。その後も何度か巻き戻しを試みたが、この場面より過去へ遡ることはできないようだった。つまり、ここが宮古芳香の歴史のスタート地点ということになっているわけだ。
『起き上がれる? そうよ、ゆっくり……あぁ、無理はしないでいいのよ』
青娥は芳香を慎重に起き上がらせ、自分の前に立たせた。ぽかんとした表情を浮かべる芳香を、青娥はうっとりとした恍惚の目で眺める。
『あぁ……素晴らしいわ……』
う……。何なんだこの奇妙な空間は。
その後しばらく青娥たちを観察してみたが、青娥はただひたすら芳香を可愛がるだけで、その会話からは芳香に関する情報は一切読み取ることができなかった。まぁ会話といっても、芳香の方は「あー」とか「んー?」とかうめき声を上げるだけで、青娥が一方的に芳香を褒め称えるという妙な状況なのだが。
しかし、ふーむ……。結局ほとんど何もわかっていない。私はテレビをつけたまま考え込む。やはり教授の言うように、適当な墓を暴いて適当な死体を調達し、仙術で蘇らせたのだろうか。そうかもしれないが、それにしては異様なほど青娥は芳香を可愛がっている。その様子は、もしかして青娥は生前の芳香のことを深く知っているのではないか、と私に思わせた。
そうだ、きっと青娥にとって芳香は何かしら意味のある存在なんだ、行きずりの死体などではなく。だったら、芳香ではなく、最初から青娥の過去を辿るべきだったんじゃないか。
私は時代を一度現代へと戻し、改めて青娥の足跡を辿り始めた。基本的には芳香のときと何も変わらない。二人は気の遠くなるほど多くの時間を共に過ごしてきたらしい。唯一先ほどと違うのは、途中で青娥が神子と会う場面があったことだが、彼女たちの間に協力関係があったことは既に知っている。神子の近くには布都や屠自古の姿がなかったが、まぁ、今そこは重要ではないだろう。
そして先ほど追跡が途絶えた六世紀半ばに差し掛かり、青娥の周りの風景が一変した。私は慌てて巻き戻しをやめ、時間を再生する。どうやら芳香を起こすシーンを通り過ぎ、さらに過去まで巻き戻ってしまったらしい。画面に映し出されているのは中国風の豪奢な書斎と、その窓際に一人で腰かけている青娥の姿だった。物憂げな表情で窓の外を見ていた青娥は、ふと何かに気付いて書斎の入り口の方へ視線を動かした。
『あぁ、いらっしゃい』
紅を引いた艶やかな唇が言葉を紡ぐ。その言葉は、書斎の入り口に立っていた小柄な少女に向けられたものだった。
『歓迎するわ。ようこそ、私の園へ。これからよろしくね。……芳芳』
◆
ようやく。
ようやくこの日が来たのだ。
「これからよろしくね。芳芳」
あの人の美しい唇が、私の名前を呼んだ。たったそれだけで、私の心は舞い上がってしまいそうになる。けれど、調子に乗って何か粗相でもしたらこれまでの苦労が水の泡だ。
「はい、青娥様」
胸の奥の感慨と興奮を抑えながら、私はそれだけ言って頭を下げる。そう、ここまで来て下手は打てない。まだ気を抜くわけにはいかない。肝心なのはここからなのだ。
「あら、そんなに硬くならないでいいのよ」
跪く私の前に青娥は屈みこみ、優しく微笑みかける。自分の心臓が早鐘を打つ音が聞こえるようだ。あぁ、こんな間近にこの人の顔があるなんて。途方もなく憧れてやまなかった、あの霍青娥の顔が。
私のそんな内心を見透かすように彼女はくすくすと笑うと、私の手を取って私を立ち上がらせた。
「といっても、最初は戸惑うことばかりかもしれないわね。ひとまず、ほかの子たちにも顔を合わせてもらいましょう」
ついてきて、と言われるがままに、私は青娥の後に続いて書斎を後にする。朱塗りの艶やかな廊下を、青娥は着物の裾をこすりながら歩いていく。丸窓から覗く庭園は手入れが行き届いており、ふと立ち止まって眺め入ってしまいそうになるほど明媚だった。これだけ広大で豪奢な屋敷でありながら、使用人の姿はどこにも見当たらない。それもそのはず、この屋敷の主人――霍青娥にはそんなものは必要ないのだ。何故なら、彼女は仙人なのだから。
「さぁ、ついたわ。もうみんな揃っているから」
青娥はある扉の前で足を止め、私を振り返った。
「……最初に言っておきたいのだけど」
「はい」
「現時点では、私にとってあなたは可でも不可でもない。それはあなた以外の子も同じよ。だから、あなたは気後れしないでことに臨んでほしいの。実際のところ、あなたは年齢も身分も一番低いわ。けれど、だからと言って不必要に力むことはないのよ」
「……心得ております」
青娥は、「そう」と頷き、扉を開けた。
その広い講堂のような部屋には、三人の娘たちがいた。みな一斉に顔を上げ、入り口の青娥と私の方を見る。
「みんな集まっているわね」
青娥は講壇の前に立ち、よく通る声で言う。
「紹介するわ。この子が最後の候補者よ。艾芳芳、字は清額。みんな、仲良くしてあげてね」
幼い頃から、私は本を読むのが好きだった。
私の生家は書庫の管理を生業としていて、父はよく安く買い叩いた書物を持ち帰った。そのため、家には貧しさの割に多くの蔵書があった。
その環境もさることながら、私は生来知識そのものに対する憧れのようなものを強く持っていた。何か新しいことを知るたびに、自分の中の世界が広がって行くような気がして、私は書と学問に浴して育った。長じるにつれ、蓄えたその知識を何かに生かしたいという思いが強くなっていったのは自然なことだったろう。
だが、私は幼いながらに理解していた。この国の、この社会の一員として生きて行く以上、女である私にとって学識など何の役にも立たない。ましてや、二代前の先祖も辿れないような家に生まれたとあれば、男であったとしても出世は望むべくもない。
世界はこんなにも驚きで満ちているというのに、わたしはこんなにも多くのことを知っているというのに、いつの日かまるで水泡が弾けるように、私という人間は死にゆくのか。順当に、何事もなかったかのように……。私はそんな思いを胸に抱きながら、悶々と日々をやり過ごしていた。
あの日、生まれて初めて仙人というものを目の当たりにするまでは。
「ね、あなた、芳芳さん」
夕日に包まれた庭園を歩いていた私を、張りのある女の声が呼び止めた。振り向くと、先ほど青娥に紹介された候補者の娘の一人がにこにこと陽気な笑みを浮かべている。名前は確か――
「はい。なんでしょう。唯さん」
「まぁ、もう私の名前を覚えてくださったの?」
彼女――武唯は手をたたいて喜ぶ。私は最年少だから、唯は少なくとも十七より上のはずだが、その笑顔は子供のように無垢だった。
「芳芳さんは、お散歩中だったのかしら?」
私は唯と庭園を歩きながら言葉を交わす。
「はい。しばらく屋敷の中を歩いて慣れるようにと、青娥様が」
「そう。綺麗なところでしょう。あの方にふさわしいお庭だわ。……私、初めて来たときは、あの方にお会いできた感動とこのお屋敷の美しさで、立ちすくんで動けなくなってしまったのよ」
私はちらりと隣を歩く唯の顔を見た。顔立ちはそれほど美人というわけでもなかったが、日に焼けた健康そうな肌の色と、はきはきとした声色からは、明朗で行動的な印象を受ける。
「唯さんは、……西方のご出身ということでしたが」
「えぇ。ここよりずっと西の辺境の、砂漠みたいなところで生まれたわ。一応、その一帯の領主の娘として。といっても、うちはどうにも昔から武家の気風が強くて、都の貴族の方々のような教養や品性は備わっていないけれど」
と、唯は悪びれもせずに言う。確かに、唯は足も大きくて肩や腰はがっしりとしており、青娥のようなたおやかさは感じられない。けれど彼女は、砂嵐の中を猛然と馬を駆って走り抜ける絵が似合いそうな、ある種の風格を漂わせていた。
「……あの、もし失礼でなければ教えていただきたいのですが。唯さんは何故、ここへいらしたのですか?」
私が見たところ、黄砂も届かない雲上にある仙人の屋敷は、唯のような人間の居場所として不似合に思える。だが、彼女の答えは明確だった。
「それはきっとあなたと同じよ。仙人になりたいからというより、あの人のお傍にいたいの。この人の傍らにいたい、私にそう思わせた唯一の人が、青娥様だった」
「……なるほど、わかる気がします」
「嬉しいわ、あなたとは楽しくやって行けそうだわ。これからよろしく」
「え、えぇ」
素直に頷いていいものだろうか。私も彼女も候補者の一人だ。悪く言えば敵同士のはずなのに。
私の躊躇は唯に悟られてしまったらしく、唯はばつが悪そうに一歩身を引く。
「ごめんなさい、ちょっと馴れ馴れしかったかもしれないわね。けれど、短い期間とはいえ共に過ごす間柄なのだから、仲良くしてもらえたらと思ったの」
私はぽかんとした顔をしていたらしい。唯は、あぁ、と付け加えるように言う。
「もちろん……競い合いこそすれど、ね」
邸内の菜園で採った薬草を、私たちは青娥の指示で作業机の上に並べた。青娥は薬草を一つ二つ手に取り、満足げに頷く。
「それでは、作業に取り掛かってもらおうかしら。今回出来上がった薬は動物に与えて効能を試すから、失敗を恐れる必要はないわ。資料は書庫から自由に持ち出していいけれど、汚さないようにね。それと」
青娥は私たち四人の娘の顔を見回す。
「四人での演習はこれが最初だから、まずは肩慣らしとお互いを知るところから始めましょう。知識量の差もあるでしょうし、必要であればお互いに協力して作業にあたってちょうだい」
青娥の言葉を聞いて、私の隣に立っていた、私の次に幼そうな少女が手を挙げた。人形のように整った顔立ちの、思わず見とれてしまうような少女。確か、範小伊という名前だったか。
「青娥様、一つよろしいでしょうか?」
「なぁに?」
「青娥様が選ばれるのは私たちの中で一人だけと聞いております。それなのに、その選抜の場で互助を推奨されるのですか?」
小伊は玉を転がすような美しい声でなかなか容赦のないことを尋ねた。
「助け合いを推奨するというより、基本的には自由にやってもらって構わないわ。今、私はただ、あなたたちに薬を煎じてほしいとお願いしているだけよ。私はその過程や結果を見て、従者選びの参考にさせてもらうけど、それを気にしすぎて成果がおろそかになるようでは、今後近くに置きたいとは思わないでしょうね」
「わかりました」
小伊は柔らかな物腰で礼をする。彼女は私たちの中でも最も身分が高く、そして最も美しかった。皇族に連なる血筋の出身でありながら、青娥に憧れて単身家を飛び出たという行動力の持ち主でもある。
そう、私たち四人の娘は皆、同じ目的を持ってこの屋敷に集まった。
私自身について言えば、ここへ来た事情はごくごく単純だ。私は、その身分に不相応なほどの学識を持て余しつつ、先の見えない鬱屈とした日々を送っていた。そんなある日、私の住む街に霍青娥は風のように現れた。大通りで青娥が術を人に披露しているのを最初に見かけたときは、大道芸人の類かと思った。その頃の私の認識では、仙人とは見世物小屋で働く奇術使いであり、怪しげな術で人々を誑かし少ない金銭を巻き上げていく詐欺師まがいの輩に過ぎなかった。だが、やっていることは辻芸人と変わらないとしても、霍青娥の持つ輝きは私の目を奪った。彼女の術は私の常識を覆すものばかりで、私は自分の知っている世界がいかに狭かったかということを思い知らされた。仙術だけでない。この世の全てを見透かしたかのような青娥の眼差しは、私に自身の卑小さを痛感させた。
あそこだ。私はあの場所を目指すべきなのだ。私に与えられた、一生の全てを費やしてでも。私はそう心に誓ったのだった。
私は仙人や仙術について書を漁った。青娥が邪仙と呼ばれていることも知った。だが彼女の悪行にまつわる巷説は全て、彼女の能力の素晴らしさの裏返しでもあった。
やがて、私はある噂に行き着いた。あの邪仙、霍青娥が弟子を一人とろうとしているというのだ。詳しく調べたところ、どうやら青娥は海を渡って日本へ移り住む気でいるらしく、その旅程に付き従う御伴を探しているらしい。青娥は隋の方々を渡り歩きながら、各地の学府を訪れては人材を見繕っているのだという。
私は、腹を決める時がやってきたと思った。旅の従者というのは弟子とは違うのかもしれない。けれど、仙人に、そして霍青娥に近づくために、これ以上の機会は今後一生訪れないような気がした。
私は、父の仕事を手伝って得たわずかばかりの給金を手に、両親に黙って家を飛び出した。悔いはない。無事に青娥の屋敷へたどり着けるかはわからないし、たどり着けたとしても、青娥は私のような何者でもない小娘になど目もくれないかもしれない。それならそれで構わない、そのときはのたれ死ぬまでだ。旅先で一人無念に倒れようが、このまま老いて襤褸きれの上で隙間風にさらされながら無為の一生を終えようが、本質的には何も変わりはしないのだから。
平易な旅路ではなかったが、結果として私は青娥の元へとたどり着くことができた。青娥は私を見、その出自と仙道への想いを聞いて、何か興味をそそられたような顔をした。そして私に驚くべきことを告げたのだ。
――ちょうど締め切ろうと思っていたところなのよ。世間での私の悪名の割には、まあまあの人材が集まってきたところだったから。そうね、そこに一人くらい、あなたのような子を交えて見るのも一興でしょう。……今、この屋敷にはあなたを含めて四人の娘が集まっている。けれど、日本へ連れて行くのは一人と決めているのよ。これからその一人を選ばなければならない。そこで、あなたたちには半年間、この屋敷で寝食を共にしながら、私が課す課題や修行、それに屋敷での雑務をやってもらおうと思うの。私はその間、あなたたちをずっと見ているわ。そして半年後に、私の旅の同伴者を選ばせてもらう。
青娥のその言葉を聞いた瞬間に、旅の疲れはどこかへ消し飛んでしまった。目もくれないどころか、こんな私にも契機を与えるというのだ。
候補者は四人。選ばれるのは一人。
あの霍青娥の館で暮らすことができるからといって、浮かれている暇はない。
選ばれなければ元も子もないのだ。私は、この半年に、私の全てを費やさなければならない。
「あの方は、どうお考えなのかしら」
煮立った鍋の中をのぞき込みながら、細身の娘、迅がか細い声で言う。
私は顔を上げ、部屋の隅で何か書き物をしている青娥の方を見た。迅の声は聞こえているのだろうか。
「私たちを競わせるつもりなのか、それとも……」
彼女の言葉尻は小さくなっていき、鍋から顔を背けて小さく咳き込む。迅は私たちの中では最年長で、宮仕えの占星術師として高名な、あの温一族の出身らしい。私からしてみればうらやましい環境だが、迅はどうやら病弱なようで、いつも青い顔をしていた。
「あの方の思惑なんて、私たちに推し量れるできるものではないわ。ただあの方が望まれたことをやるまでよ」
小伊は彼女らしく割り切ったことを言い、さて、と椅子から立ち上がって鍋を持ち上げた。
「私はお先に失礼するわ」
「あら、小伊はもうできたの? 早いわねぇ」
唯は素直に感心したようにそう言った。小伊はそんな唯を冷たい目で見下ろすと、青娥の方へ鍋を持って行った。
結局私たちは個々人で作業を進めていた。薬草を四等分し、各々が自分の担当分の責任を持つことになったのだ。周りに後れを取るまいと私は必死に取り組んだが、彼女らも仙人を志すだけあってこの手の作業は軽々とこなしている。書を読むだけだった自分の生き方が、今になって悔やまれる。
だがまだまだ始まったばかりだ。くよくよしていても仕方がない。
……青娥は、明らかに私には期待していない。自分でも、期待してもらえそうな要素を持ち合わせているとは思っていない。私が乗り越えなければならない壁は高いが、泣き言を言っている場合ではない。
青娥の館での生活は、表面上は静かに過ぎていった。ここには本当に青娥と私たち四人の娘しかいないらしく、山奥にあるため人の往来もない。あまりに世俗からかけ離れていて、雑念を挟む余地がない環境なのだった。寝ても覚めても、私の頭に浮かぶのは何としてでも自分が選ばれなければならないということばかりだった。
炊事洗濯や館内の掃除などは候補者たちの仕事だった。私たちは交代で青娥の身の回りの世話にあたった。それ以外の多くの時間は、青娥の出す課題に取り組んだ。青娥の出す課題は多岐に渡り、古典教養の筆記試験のようなものもあれば、穴を掘って埋めるような全く目的のわからないものもあった。
時には講義のような形で、青娥が私たちに教鞭をとることもあった。
「人を動かしている気は二つの要素に分けられるわ。魂魄……つまり、肝に宿る『魂』と肺に宿る『魄』ね。誰か、それぞれの役割を覚えているかしら」
この手のことは私の得意分野だ。私は手を上げて答えようとしたが、それよりも早く小伊が答える。
「魂は私たちの精神を司る気です。感情や思考、情動などは魂の強さの影響を受けます。魄は肉体を操る気です。魄の強い者は体が丈夫で、永く健康であるとされます」
青娥はにこりと微笑んだ。
「えぇ、その通り。さすがは宮圓。その二つは、生者なら誰しも持ち合わせている基本的な力なのだけど、人が死んだときは――」
総合的に見て、私たちの中では小伊が最も優れていた。彼女は器量だけでなく要領もよく、なんでもそつなくこなす。筆記や知識量では私も決して引けを取らなかったが、小伊は貴族でありながら騎馬や狩猟、果ては剣術までも心得があるようだった。
青娥の言いつけで近くの山へ猪狩りへ行ったときも、最終的に猪を矢で射止めたのは小伊だった。
「うーん、狩りなら負けないと思ったのだけど、小伊は何でもできるのねぇ」
普段は対抗意識の低い唯が、その日は珍しく悔しがっていた。
「なんでもできるわけではないわ。私のような年代の娘ができることは、全て試してみただけよ」
小伊は紫煙を燻らせながら、当然のようにそう言った。まだ幼さの残る顔立ちでありながら、煙管を指先で弄ぶ彼女の仕草は不思議と様になっていて、既に女仙の風格を漂わせているように思えた。
「私はただ、何につけても興味があっただけ。仙術というものに対してもね」
「それでうまくできるんだから、嫌になっちゃうわ。はぁ、私も頑張らなくちゃ」
唯は率直な感想を零す。
けれど、唯は唯で得意分野というものがあった。
私が館へ来て一月ほど経った頃、青娥はどこからともなく見たこともないほどの大きさの鷲を連れてきた。
「誰かこれに乗ってみて。大丈夫、躾はしてあるから」
それまでの青娥の要求は、比較的常識の範囲に収まる内容だったため、これには面食らった。小伊ですら最初は尻込みしていたのだが、この要求に唯は
「私に! 私にやらせてください!」
と目を輝かせて手を上げた。
武家の気風が強いとは唯自身の言だったが、どうやら動物の扱いにも長けていたらしく、唯は初めてとは思えないほどに巧みに大鷲を手なずけて見せた。私たちも続いて挑戦してみたのだが、なかなか彼女のようにうまく言うことを聞かない。私はなんとか最後までしがみついたが、迅に至っては空中で振り落とされ、単身で空を飛べる青娥に危ういところで助けられていた。
青娥は、楽しそうに大鷲を乗り回す唯を見上げて
「思っていた以上に上手ね。それに、様になっているわ」
と呟いた。私は思わずどきりとする。青娥が私たちの誰かを褒めることなど、滅多に無いからだ。青娥はいつも私たちの活動を少し離れたところから見ていて、声をかけることすら稀だった。
「青娥様のように自分自身が空を飛べるようになったら、獣に跨る必要なんてなくなるのに」
小伊は、彼女にしては珍しく感情的にそうぼやいた。
「あら、負け惜しみかしら?」
と青娥はくすくすと笑いながら小伊の顔を覗き込む。
「あれはあれで役に立つのよ。何しろ派手だから、自分で飛ぶよりも衆目を集められるの。それに、私に選ばれずに国へ帰ることになったとき、ああいう芸当は覚えておくときっと役に立つわ。あの程度の一芸だけでも、食い扶持くらいは稼げるでしょうから」
青娥は私たちの不安を煽るようなことを口にする。多分、わざとそうしているのだろう。けれど小伊の自信はその程度では揺るがない。
「では、唯には国へ帰って大鷲乗りになってもらいましょう。その方が彼女のためになります」
他でもない青娥の前でこんなことを言うなんて、どれだけ太い神経の持ち主なんだと私ははらはらしたが、青娥はただ面白そうに小伊の顔を眺めるだけだった。
しばらくここで暮らしていて気付いたことがある。
霍青娥という人物は、こんな世俗と隔絶された山奥に居を構えていながら、ひどく俗っぽい側面を持っているのだ。私が仙人というものに対して抱いていた、見世物小屋の奇術師というような先入観を地で行く印象すらある。それが邪仙と呼ばれる所以なのかもしれない。
そもそも彼女が語った日本へ行く理由というのが、
「この国の人は、もうちょっとやそっとじゃ驚かなくなっちゃったの。私以外に力のある仙人も多いしね。だから日本へ行くのよ。海を渡ったら、きっと私は唯一の存在として認められるでしょう?」
というのだから、贔屓目に見ても高尚な思想の持ち主であるとは言い難い。
そんな青娥と共に暮らしていながら、幻滅するどころか以前より強く惹かれている私は、彼女の術中にはまっているのだろうか。未だに、彼女には何かしら得体のしれないところがあった。どれだけ俗っぽい考えを口にしても、彼女が私やほかの俗人と同じ地平で物事を考えているとはどうしても思えないのだ。
青娥は、基本的には常に私たちのやることなすことを余さず見ていた。だが、彼女が何を基準に御伴を選ぶ気でいるのか、私たちの行動の一体どこを見ているのか、私にはさっぱりわからなかった。ただ漠然とした焦りと、何に焦ればいいのかわからないという不安だけが降り積もっていく毎日だった。
その日、炊事当番を唯と小伊に任せた私は、部屋で靴を脱いで足を洗っていた。青娥の評価基準に外見や身だしなみが入っているかどうかはわからなかったが、できることはなんでもやっておかなければ気が済まなかった。
ふと窓の外を見ると、中庭の木々の合間に人影がいるのに気がついた。あれは、迅だ。切り株に腰を下ろし、夕日の差し込む庭園で一人、頭上の梢をぼんやりと見上げている。何をやっているのだろう。
私は靴を履き、そっと中庭へと出た。私たちは皆競い合う関係ではあったが、寝食をともにしているうちに私は彼女たちとそれなりに打ち解けていた。
「何をやっているんですか?」
私が話しかけると、迅は振り向いて
「あぁ、芳芳さん」
と薄い笑みを浮かべた。夕日で影の差したその顔があまりにやつれているように見えて、私はぎくりとした。彼女は第一印象からして不健康そうだったが、その生気は日に日に衰えているように感じられる。
「その……大丈夫ですか?」
「え?」
「あぁすみません、その、思わず……お疲れなのではと思って」
「あぁ、大丈夫よ。元々、大丈夫ではないのだから。私は……」
迅はそこで言葉を切り、失礼、と顔を背けて咳き込んだ。
「……思っていたよりも、私の体って、脆かったみたいね。半年くらいなら、やり過ごせると思っていたのだけど……」
やり過ごせる、というのは……。もしかして。
迅は私の顔を見て頷いた。
「肺を、患っていてね。お医者様の話だと、年明けまではもつだろうってことだったから、この半年はなんとか持ちこたえられると思っていたけど……。元々、私の家は同じような病気で亡くなる人が多かったから、私としては、その……それほど意外でもないのよ。まぁ、うちの人からしたら、余命を宣告された最後の一年だというのに、何も言わず仙人の館に修行に出てしまうなんて、意外も意外だったでしょうけど……」
「そう……だったんですか……」
私も伸るか反るかの一大決心をして家を出たつもりだが、彼女ほどの覚悟と決意を持っていただろうか。
「あぁ、そんな顔しないで、芳芳。仙人になって生きながらえるのが私の目的だけど、たとえ青娥様に選ばれなかったとしても、あるべき運命の流れに戻るだけなのだから。それに、安静に過ごしながら最期を待っていた頃よりも、今の生活はずっと楽しいもの」
……なんと声をかければいいのだろう。私は言葉を失って視線を彷徨わせ、ふと迅が手に筆を持っていることに気付いた。彼女の足元には、数枚の紙束が置かれている。
「……歌を詠んでいたんですか?」
「あぁ、これ? えぇ、ほんの手遊び程度に」
「その、ちょっと見てみてもいいですか?」
えぇ、どうぞ、と迅はやや恥ずかしそうに自作の詩を差し出した。
それは会話のやり場に困った私の話題逸らしだったのだが、最初の二、三作に目を通しただけで私は息を呑んだ。
「……これは……」
私も、読書量だけは自ら負うところがあるため、詩歌に関してもそれなりの知識とある程度までの審美眼を持っているつもりだ。けれど、迅の詩はそんなものがなくてもはっきりとわかるほど、素晴らしいものだった。山奥での奇妙な共同生活を美しい修辞を交えて描きながら、病に侵されていく自らの境遇への嘆きをそっと行間に忍ばせている。これまでは注意を払っていなかったが、迅は書の腕も達者で、流れるような筆の運びはそれだけで鑑賞に値するほどのものだった。
「あの、そろそろ……」
気が付けば私は、会話を続けるのも忘れて彼女の作品に耽っていた。はっとして顔を上げると、既に庭園は暗くなり始めていた。
「ごめんなさい、ちょっとぼんやりしていて……」
私は笑ってごまかしつつ、迅と食堂へ向かった。
迅の詩から受けた最初の感動が収まるにつれ、私の心の中では別の不穏な感情が頭をもたげ始めた。それは、迅にあれほどの芸術の才があったことに対する、自分自身への焦りだった。
そうだ、私は心のどこかで、自分にはまだ可能性があると考えていた。
課題の成績ははっきりと点数化されていたわけではなかったが、小伊はともかく、ほかの娘には決して後れを取っていないと思っていた。いや、それどころか、控えめでいつも目立たない迅に対してはいくらかの優越感すら覚えていたのだ。小伊ほどの才覚や唯のような活力は自分は持ち合わせていないが、少なくとも迅には優っていると、私は心のどこかで迅を見下していた。
けれど、そんな迅にも飛びぬけて優れた能力があることを私は知ってしまった。
青娥が何を基準にしているのかはわからない。彼女は従者に芸術的才能など求めていないかもしれない。
けれど、ずっと私の奥底に流れていた漠然とした不安が今また息を吹き返し。
私の心には、暗雲が立ち込めつつあった。
◆
……私はふと顔を上げた。テレビに夢中になっているうちに、研究室は夕闇に包まれていた。こんな暗い部屋で画面を凝視していたのか、私は。この研究に従事していると目が悪くなりそうだ。
宮古芳香の調査を始めてからここ数日というもの、私は研究室へ来てはテレビをつけ、日がな一日少女たちの研鑽する姿を観察するというよくわからない毎日を送っていた。青娥の隣に芳香が現れた時期を考えると、恐らくこの四人のうちの誰かが後の芳香なのだろう。早送りして誰が選ばれるのかだけ確認してもいいのだが、それでは芳香に関する情報が十分に得られない。私が今追っているのはあくまで青娥の来歴であるため、候補者たちが青娥と出会う前までは見ることができない。つまり、芳香の過去や出自については、青娥の近くで語られる候補者たちの人となりしか手がかりがないのだ。そんなわけで、私は半年分の彼女たちの奇妙な共同生活を、適度に早送りしながら追いかけているのだった。
椅子から立ち上がり、背伸びをする。テレビ内の日時を確認すると、芳芳が館へやってきてから既に二ヶ月が経過していた。このペースなら、今週中には結末まで見られるだろう。
一応ずっと録画はしているし、全ての字幕の内容は自動的に文書化し保存するように設定してある。それでもやはり自分の目で見たほうがいい。その方が面白いし。
そう、これはなかなか興味深い物語映像だった。
芳香はキョンシーである上にいつも顔を札で隠していたため、少女たちの顔からは誰が芳香になったのか判別できない。
青娥は誰を選んだのだろう。
高慢で自信家な万能美少女、小伊か。
素朴で人好きのする愛嬌の持ち主、唯か。
詩作と書の才を持つ薄命の娘、迅か。
それとも――決定的な長所を持たない努力家、芳芳か。
……まだ、時間はあるか。教授はもう帰ってしまったが、私は家に帰っても特にやることがない。コンビニで弁当でも買って、ここで夕食を食べながら、もう少し彼女たちの奮闘を見てみよう。
……あ、あれ。
誰かが私の肩を揺さぶっている。私の名前を呼んで……。
「……っと……ちょっと、起きなさい、ちゆり!」
はっと私は目を覚ました。隋の代、仙人の館、青娥に憧れて集まった四人の娘たち、……目の前に浮かんでいた古代の世界の情景が、霧が晴れるように遠ざかって行く。
……テレビをつけたまま寝ていたのか、私は。ついさっきまで青娥の館で修行に励んでいた気がするが、あれは夢だったのか、それともテレビの内容なのか……。
目の前で呆れ顔の教授が、
「うわぁ……」
と顔を引きつらせている。
何かと思って起き上がろうとすると、頬にべたつく感触がした。げ……。テレビの前の机に突っ伏して寝ていた私の顔の下には、よだれにまみれた私の実験ノートがあった。
「うわ、きったね……」
「自分でやったんでしょうが。早く顔洗って来なさい。全く、一晩中テレビを見ていたなんて……こうなるともうただのテレビっ子じゃない」
「う、んー……」
私はよろよろと研究室備え付けの洗面所へ向かう。机で寝たせいか、体の節々が痛んだ。
冷たい水で顔を洗うと、さすがに眠気も晴れ、ようやく正常な思考が回り始める。鏡を見ると、髪は乱れ、襟元はよだれで濡れている。とても人前に出られる格好ではない。……私にしては、いつになく夢中になっているな。この調査。自分が興味を持った対象を調べているため、身が入りやすいのだろうか。
私が身だしなみをなんとか整えて洗面所から出ると、研究室の方から人の話し声が聞こえた。片方は教授だが、話し相手は誰だろう……?
「あぁ、おかえり、ちゆり。そのべっとべとの実験ノート、なんとかしておきなさいよ」
部屋へ戻った私に教授はそれだけ言うと、部屋にいた女学生に向き直る。誰だ、見覚えはある気がするが……。
「そう、なかなか広くアンテナを張っているのね。先日あの雑誌に私が書いた記事は読んだ?」
「はい! とても面白かったです。ああいう都市伝説に対する斬新な調査方法は、もっと他の現象にも適応できるのではないでしょうか?」
「どうかしら、あれはあの調査のためだけに作った装置だったから。宇佐見さんなら、どうやって調査したかしら?」
「そうですね、私ならまず現地に行って……」
宇佐見さん、と教授は彼女を呼んだ。そうだ、思い出した。彼女は物理学科の学部生の宇佐見蓮子だ。以前教授の講義の手伝いをしたとき、最前列に座って熱心に講義を聞いていたから覚えている。それについ先日、教授が私に自由課題を出したとき、引き合いに出したあの学部生のレポート。あれを書いたのも宇佐見蓮子だった。
……要するに、教授のお気に入りの学生、ってことになるのか。二人の話を聞いていると、どうやら宇佐見は論理物理学に興味があるだけでなく、オカルトの世界に対しても一家言あるようだった。その双方で教授と話が合う人なんて、初めて見た。
「そういえば、そろそろ所属する研究室を考える時期じゃない? あなたはどう考えているの?」
教授は宇佐見にわかりやすく水を向けた。私も、雑巾で机を拭きながら耳をそばだてる。
実はこれは私にとってなかなか切実な問題で、我が岡崎研究室にも毎年数人の学部生が入ってくるのだが、大抵はやる気のない学生ばかりなのだ。ちゃんと勉学に取り組んでいて情報収集を怠らない学生は、教授が疑似科学者と揶揄されることもあると知っているからだ。教授も教授で学生の指導に熱心な方ではないため、ここへ入った学生たちはいつしか離れていき、度重なる留年の果てに退学していたり、いつの間にか別の研究室に所属しなおしていたりする。
そんなわけで、今現在この研究室に所属しているのは私と教授の二人だけなのだ。それはつまり、教授の奇怪な研究の手伝いをやらされるのが私一人だけということでもある。
「そうですね、まだ決めていません。今は色々な研究室を見学させていただいているところです」
「ふぅん。うちは候補に入っているのかしら?」
「あぁ、ええと、その」
宇佐見は目をそらす。うむ、嫌そうだな。先ほどは二人してオカルト話に花を咲かせていたが、彼女にとって趣味と研究は別物らしい。ちっ、こいつも常識人だったか。
「面白そうだな、って思っています」
「そう」
と教授は気にした風もない。
「あなたみたいな優秀な学生がいたら、うちとしても大助かりだったんだけど」
え?
机を拭く私の手が止まる。
今、教授は何と言った。――あなたみたいな優秀な学生……?
この人は宇佐見を褒めたのか。
岡崎夢美は、お世辞や社交辞令を言う人ではない。思っていないことを口にする人ではない。そして、だからこそ、滅多なことでは他人を褒めたりしない。自分がこの世の誰よりも優秀だと信じているから、およそ他人を認めるという感覚を知らない人だと思っていた。
そこそこの時間を教授と同じ研究室で共有してきたこの私でも、彼女が誰かを認めるような発言をするのを聞いたことがない。
その教授が……。
「あ、ありがとうございます。岡崎先生にそう言っていただけるなんて、光栄です。でも、やっぱり自分のやりたいことや得意分野を勘案して、自分で決めたいので」
宇佐見は恐縮しながらも、はっきりと自分の意見を述べた。
「そう。あなたは方向性がはっきりしていてわかりやすいわね」
それは、教授にしてみればただの感想だったのかもしれない。皮肉とか当てこすりとか、そういう分かりやすい嫌味は言わない人だ。だから、……方向性がはっきりしていない子を抱えると面倒なのよ、あの子みたいにね――だなんて、そんな含みを持たせた発言ではないのだろうけど。
何だろう、落ち着かない。胸の奥がちくちくする。
研究室所属の話はそれで流れたらしく、教授と宇佐見はまた別の話題に移行していた。今度は教授の研究のテーマ(オカルトではなく論理物理学の方面だ)について、宇佐見に概要を話して聞かせているらしい。
……あまり、聞いていたくない。
けれど、研究室はそれほど広くはない。教授の産廃机のせいで、私は逃げ場がなかった。仕方なくヘッドホンを取り出し、テレビにつなげて電源を入れる。教授たちの会話が遠ざかり、私は再び古代中国へと没入していく。
なにくそ、この調査で教授をあっと言わせてやれ、という反骨精神の持ち主ではない。私は。この研究テーマだって教授に言われたから探し出したものだ、自主的な研究とは言えない。最後まで物語を見終えたところで、さしたる達成感は得られないだろう。
それでも私はテレビを見た。
それが今の私の仕事なのだからと、現実から目を背けるように。
芳芳たちの生活は、すでに折り返し地点を過ぎていた。しばらくは平穏に時間が流れていたのだが、修行期間の終わりが近づくにつれ、娘たちの間には少しずつぴりぴりした空気が流れ始める。
見たところ、彼女たちの成績に大きな変化は現れていなかった。それに一番焦りをあらわにしていたのが、芳芳だった。このままでは自分は選ばれないという焦燥感から、彼女は毎日遅くまで書庫で自習に励んでいた。
『芳芳、もう明かりを落とすわよ。まだ部屋に帰らないの?』
そんな芳芳に、小伊が呆れたように声をかける。
『ええ、まだ少し気になることがあって。おやすみなさい』
そう言って芳芳は今日も夜更かしをするのだ。
私は次第に、娘たちの中でも特に芳芳に対して共感を覚えるようになっていった。
私と芳芳は決して同じタイプの人間というわけではない。私も楽々とここまで歩んできたわけではないにせよ、芳芳ほどの努力家とは言えなかった。けれど、どうしてだか芳芳の頑張る姿は私に親近感を抱かせる。
環境には恵まれなかった芳芳だが、同年代の一般の少女の中では飛びぬけて深い教養を彼女は持っていた。けれど、結局彼女はそれだけなのだ。唯や迅のように、特別な身体能力や芸術の才は持っていない。学識・教養でいっても小伊にはかなわない。青娥の従者選びの基準がどこにあるとしても、このままでは自分は選ばれない……その不安が、芳芳を駆り立てている。
どれだけ知識を詰め込んだところで、どれだけ勉強ができたところで、それ自体には何の意味もない。それだけでは人を振り向かせられない。
私はどうだろう。自分では何も始められない。ただ人についていくことしかできない。
けれど、あの人はそんな人間を求めていない。それはきっと霍青娥も同じだ。
だから、私は芳芳に自分を重ねてしまうのだろうか。
だから私は、彼女だけを応援してしまうのだろうか。ことがうまく運んで、芳芳が霍青娥の従者に選ばれて欲しい、と……。
――だが、私は知っている。霍青娥が日本に連れて行ったのは、生身の人間でも仙人でもない。
彼女が秘術によって蘇らせた、宮古芳香という名のキョンシーなのだ。
キョンシーについて調べてみると、それは人が死んだ後、精神を司っていた魂が散じて、身体を司る魄だけがその身に残った状態なのだという。仙術によってその魄を駆動し、術者の意のままに肉体を操られている状態、それがキョンシー――即ち宮古芳香なのだ。
つまり、初めからわかり切ったことだが、それは若い娘の死体なのだ。
私は知っている。青娥に選ばれた者は……何らかの理由によって、遠からず命を落とすことになるということを。
◆
不意に書面がぼやけ、私は文机から顔を上げた。目を閉じ、眉間をもみほぐす。少し、根詰め過ぎてしまったらしい。あまり夜遅くまで頑張るのは良くない。目が悪くなる。
けれど、そうでもしない限り。いや、そうしていないことには、私はこの不安からは逃れられない。
既に修行の期間は残り二か月を切っている。これまで青娥は色々な課題を私たちにやらせてきた。多少人間業の域を超えた術も教えてもらったし、武術の初歩に取り組むこともあった。けれど、それらの修行を通してわかったことは、私という人間はとことん凡庸な俗輩だということだけだった。何一つとして特別秀でた才はない。
……選ばれる理由が、自分でも見当たらない。
「……はぁ」
白いため息が、目の前でかすんでいく。
選ばれなかったとき……私は、一体どうなるのだろう。
青娥の隣に立つという輝ける目標を失ったとき、私はどこへ向かうのだろう。
ひたすら努力を重ねることでその不安を追い払うのも、そろそろ限界だ。体力にも限りというものがある。私は立ち上がり、明かりを持って書庫を後にしようとした。
この館の蔵書量は相当なもので、半年をここで過ごしたというのに、私は未だにその一割も目を通せていなかった。私は未知の知識の詰まった書棚の間を通り、ふと、書庫の奥にある書棚が気になって立ち止まった。確か、医学に関する資料が保管されていたはずだが、そこにある巻物の一つが棚の中に倒れていたのだ。
明かりを灯台に置き、その巻物に手を伸ばす。どうやら最近ひも解かれたらしいその巻物は、死者を使役する術に関して記述したものだった。
その術は、話には聞いたことがあった。魂の抜けた人の死体を意のままに操る、便利だが高度な技量を要する仙術だ。
この書庫は私たち候補者もよく利用するが、この書棚を参照するような課題は出された記憶がない。となると、この巻物をひも解いたのは青娥なのだろうか。
……なぜこの術を、見ようと思ったんだ……?
ぞくりと背筋が震える。いけない、ここは夜は底冷えがするのだ。早く寝所へ戻って、明日に備えなければ。
私は巻物を棚に戻し、書庫を後にした。
いよいよ、その日が訪れようとしていた。
数日前から青娥の姿は見えなかった。館には候補者が立ち入りを禁じられている場所も多い。そのどこかにこもって、何かをやっているらしい。この修行が終わったらすぐに日本へ旅立つと彼女は言っていたから、旅支度ではないかと私たちは話していた。
従って、期日の前一週間ほどは、私たちは完全に自由に過ごした。青娥は最早私たちを見ていない。ということは、誰を従者にするか彼女の中ではすでに決めている可能性が高い。
けれど私は、半年の間に体に染みついた習慣に従って、まだ一日中書庫に通い、詰め込めるだけの知識を頭に詰め込んでいた。他の娘たちもそわそわして落ち着かず、館の中に会話はほとんどなかった。
「……いよいよ、明日、ね」
その晩、夕食の席で唯がようやく口を開いた。
そう、明日。青娥が、半年の間あなたたちを見させてもらうと言ったあの日から、明日でちょうど半年が経つのだ。
「えぇ、明日でもう、あなたたちとはお別れね」
小伊はさらりとそう言った。誰が選ばれたとしても私たちは別れることになるのだろうが、小伊が言っているのは勿論、彼女が選ばれるに決まっている、という意味だった。あぁ、そうかもしれない。自分が選ばれて当然という小伊の自信には、私は反論できない。
「これでお別れと思うと、寂しくなるわ。せっかく仲良くなれたのに」
唯はそう言って食卓の顔ぶれを見回す。彼女とて選考結果で頭がいっぱいだろうに、この期に及んでも私たちの和を取り持とうとする。私が従者を選べる立場だったら、きっと私は唯を選んだだろう。彼女は、そう思わせる人柄の持ち主だった。
迅はこの席では一言も言葉を発しなかった。彼女は今日にいたるまで一見平静な日常生活を送っていたが、病状は確実に進行しており、もう話すのも大儀らしい。だが、声を封じた代わりに彼女が多くの詩を書きためていることを私は知っている。
私は改めて三人の顔を見回した。もう明日ですべてが終わると思うと、自然とため息がこぼれる。
「……はぁ……」
肩の力が抜けていく。私はその時、何だか不思議な気分になっていた。
結局、私は彼女たちに内心を打ち明けないまま、就寝のあいさつをして自室へと戻った。寝台に潜り込み、安らかな気持ちで目を閉じる。
そう、私は最後の夕餉の席で悟ったのだ。もう、無理をして力む必要はないのだと。
結局私は、半年かけても彼女たちには勝てなかった。それはみんなわかっていただろう。青娥の選ぶ一人が誰であれ、それは私ではないのだ。
全力を尽くしたとは思う。けれど、努力ではどうにもならない壁があったのだ。
それが何かはわからない。身分や境遇でないことは確かだが、答えが出たところで……青娥が、私たちの何を見ていたのか教えてくれたところで、やはり私は諦めただろう。自らの身の程を知って、もう何も言わずに館を去るのだろう。
そう思った瞬間にどっと押し寄せた半年分の疲労と、そして心地よい虚脱感に包まれて、私は眠りに落ちていった。
その日は、朝から何をすればいいのかわからなかった。
誰も部屋から出ていないようだった。
青娥が誰かを選ぶなら、その者の部屋へ直接言ってそう告げるだろう。
昼を過ぎた頃、私の寝所の前の廊下に、何者かが現れた気配があった。あの裾のこすれる音、間違いない、青娥だ。
私は呼吸を止めた。そんな、まさか。
いや、私であるはずが……。
「ちょっといいかしら?」
すぐ近くで、あの人の声がした。
はっと気が付くと、青娥は私の目の前に立っていた。いつもと変わらない、掴みどころのない笑顔を浮かべて。
そうだ、この人は自由に壁を抜けることができるのだった。なんといったって、彼女は仙人なのだから。
「あ……」
私は椅子に座ったまま、言葉を失ってただただ青娥を見上げていた。
「お疲れ様、芳芳。随分頑張ったわね、この半年間」
青娥はそっと私の肩に両手を乗せる。彼女の手のぬくもりが、私に伝わってくる。
「あ、あの……」
言葉に詰まる私を見て、青娥はおかしそうな顔をする。
「あなたが今何を考えているか、この半年間何を考えていたか、私にはわかっているわ。あなたはきっと、候補者の中で最も思いつめていたでしょう。選ばれたいという思いと同時に、他の子はあんなにも優れているのに自分はどうして何も長所がないのかって。そう、あなたはね、芳芳。四人の中で唯一、そういうまっとうな劣等感を抱ける人間だったのよ。それはきっと、精神的に余裕のない身分に生まれたことによるところが大きいのでしょうね」
「は……はい」
はい、としか言いようがない。彼女が何を言おうとしているのか、私はまだその真意を測りかねていた。
が、私が戸惑っていることも青娥には筒抜けだった。青娥は悪戯っぽく小首を傾げ、
「あら、まだわからないの? あなたにする、と言っているのよ」
笑顔でそう告げた。
その瞬間の私は、呼吸どころか、心臓すら停まっていたかもしれない。
「……私に、する……と、いうのは……」
「そのままの意味よ」
青娥の両手が私の肩を滑り、妖艶な仕草で私の両の頬を挟み込む。そして、吐息がかかるほどに顔を近づけて、
「あなたが、必要なの」
眩暈がするほどに甘い声でそう言った。
私が、選ばれた……? この、何一つとりえのない私が……?
「……本当に……?」
一体……。
「えぇ、本当よ」
一体、何故私を……?
驚きと嬉しさと疑問が同時に湧きあがり、脳いっぱいに絡まり合う。
青娥は一呼吸置き、
「だから」
その両手がまたすっと私の肌の上を滑る。その両手は流れるように私の首筋へ降りた。そして。
少しずつ、その手に力が込められていく。
青娥の細い指が、ゆっくりと私の首の皮膚に食い込んでいく。
青娥の表情は変わらない。それはあまりに自然で何気ない手つきだった。私が、青娥の手によって首を絞められている、という状況を理解できた頃には、既に手足の自由も効かなくなっていた。
「……がっ……は……」
少女の喉が発する音声とは思えない奇妙な音が私の喉から絞り出されるのを、私の耳が聞いている。
視界が青く染まっていく。思考が青一色に塗りつぶされていく。
最後に私の脳に届いたのは、青娥の甘く囁きかけるような一言だった。
「だから、一緒に日本へ行きましょう」
◆
「ちゆり! しっかりして、ちゆり!」
誰かが私の肩を力強く掴み、前後に揺さぶっている。随分必死な様子だ。そんなに、その人のことが大事なのだろうか。
ちゆり、とはその人の名前だろうか。
一体、誰のことだろう……。
気が付いたときには、私はふかふかの布団に仰向けに横たわっていた。
あ、あれ?
覚醒はあまりに唐突で、瞼を開いたその瞬間に眠気や夢見心地は吹き飛んでしまった。そのかわりに私の頭を支配したのは、ありったけの疑問符だった。
……ん?
あれ?
何だここは。どこだ、今はいつだ?
ええと、私は……そうだ、確かあの人に、首を絞められて……。
「……っうわぁぁぁぁぁっ!!」
弾かれたように飛び起きる。そうだ、そうだった、私は首を絞められたんだ、あんな細い指で、あんなに強い力で。首を絞めるという行為がもたらすのは、窒息だけではない。効果的に首を絞めれば、息が苦しくなるより先に脳に血が届かなくなり、意識など数秒のうちに吹き飛ぶのだ。いや、彼女の場合はそれも違う。あの手の力は、締めるという生易しいものではない。容赦のない圧力によって首の皮下組織を押し潰し骨を砕き、そのまま切断するまで、彼女は手の力を緩めなかっただろう……。
「ちょっと」
えらく不機嫌そうな声が、私の頭のすぐ横から聞こえた。
「いつまで寝ぼけてるのよ、ちゆり」
……ちゆり?
そう、ちゆり……北白河ちゆり。私の名前だ。
そして私の隣にいたのは。
「全く、とんだ助手もあった物だわ」
いつにもまして険悪な表情を浮かべる、我がご主人様こと岡崎夢美だった。
「……ええと」
猛烈な勢いで私の自我が回復するにつれて、自分の置かれた状況を把握する余裕が生まれる。ふむ。研究室でテレビを見ていたはずの私は、いつの間にか病院にあるようなベッドに寝ていた。そこは病室の様な清潔な部屋で、傍らの教授はまるで病人の見舞いに来たように椅子に座っている。彼女のしかめつらは見舞客のそれではなかったが。
「あのー……私は、っていうかここは……」
「大学の保険センターよ。あなたたち学生は健康診断の時くらいしか使わないでしょうけど、ここって学内で何か事故があったとき、そこそこの応急処置ができる施設でもあるのよ。あなたはそこに担ぎ込まれたの。まさしく事故でね」
「……事故」
「ええ。首を絞められたのよ。霍青娥に」
青娥。私はその言葉を聞いて鳥肌が立った。
「ま、首を絞められたのはテレビの中の艾芳芳だけど。あなた、私があげた説明書をちゃんと読んでいなかったでしょう。あのテレビは、ただ映像を流すだけの装置ではないのよ。こちらが指定した状況をあのブラウン管の中に再現するために、仮想幻想を筐体の中に形成している。つまり、あの画面に映し出されているのは、過去の映像でも作り物の動画でもなく、もう一つの現実、つまり幻想なのよ。そして隣り合った現実は、力の強い方が弱い方を侵食することがある。あれは、そういう危険性をはらんだ実験装置なのよ」
「……はぁ」
よくわからないが、とりあえず言うべきことを言っておこう。
「それを最初に言ってくれよ」
「こら、よくわかっていない癖に雑な文句を垂れるのはやめなさい。……とにかく、今回の場合は、向こうが神話時代でこっちが科学世紀だから、現実の力はこっちの方が強いのよ。だから基本的には、幻想世界をただ観察する分にはこちらが侵食される危険はない。けど、ちゆり」
教授はぎろりと私を睨む。
「あなたは、あなたのほうから向こうの現実に近寄ったでしょう。自分とあの芳芳を重ね合わせて、いえ、途中からはほぼ同一視していた。それで向こうに引きずり込まれたのよ、あなた一人分の現実がね」
「は……あー、ええと、……私は、テレビの中に入ってた、ってこと……?」
冗談のつもりで言ったのだが、教授は頷く。マジかよ。
「あなたとあの女の子は性格も能力も全然違うのに、よく感情移入できたわね。……それはともかく、そんなわけで芳芳があの女に首を絞められたとき、芳芳と同一化していたあなたもまた首を絞められていたの。まったく、……私が咄嗟に気付いてテレビを切ったからよかったものの……。私が忘れ物を取りに研究室に戻っていなかったら、あなた、本当に縊り殺されていたわよ。そしてきっと私が殺人容疑でしょっぴかれていたでしょうね」
「うえぇ……それって、結構……っていうか、滅茶苦茶危なかったってことか?」
「えぇ。感謝しなさい」
「はぁ……あ、ありがとう」
言われた通り感謝の言葉を述べたが、また教授に睨まれる。
「全く、どこまでものんきなんだから。……とにかく、今回のことでよくわかったわ。あなたに好き勝手にやらせていたら、私の面倒が増えて大変なことになる。これからは、勝手なことは控えてもらうわよ。特に、あの装置を使った実験については」
「ん、うーん……教授にやれって言われてやったのに、何だか理不尽な気が……いや、まぁ、不満はないぜ、っていうか不注意で死にかけたやつが言えたことじゃないよな。悪かった、今後はどんな命令でもご主人様に従う」
「それがいいわね」
そんなにすっぱり言い切るか。まぁ、そこに文句をつけられる立場ではなくなってしまったが。
「……でも……」
「何。まだ何か言いたことがあるの?」
「いや、研究の狙いとしては悪くなかったはずなんだけどな、って思ってさ。装置の使い方を熟知してなかったのは失敗だったけど、研究の目的は達成されたって言っていいだろ」
「ふぅん。つまり? 何がわかったの?」
教授は興味なさげに相槌を打つ。
「芳香は元は艾芳芳って名前の平民で、青娥の弟子になるために入山したんだが、青娥は最初から生身の人間を従者として日本に連れていく気はなかったんだ。半年の試験期間の後、青娥はその手で芳芳を殺して、何でも言うことを聞くキョンシー、宮古芳香に作り替えた。芳香は、青娥に殺されたんだ。青娥の都合だけで」
教授は何も言わなかった。ただつまらなそうに窓枠に頬杖を突き、ふぅ、と短く息を吐いただけだった。
「……でも、そういえば結局わからなかったんだよな。なんで芳芳が選ばれたのか……」
そう、芳香の出自がわかったと言っても、芳芳が選ばれた理由はわからない。私個人は芳芳を応援してはいたものの、贔屓目に見ても彼女がほかの娘より優れているようには見えなかった。
「……ねぇ、ちゆり」
「ん?」
「私は思うのだけど、あなたってあんまり頭がよくないわね」
「へ」
何だ、その突然の罵倒。
頬杖をついたまま窓の外を見る教授の眉間には、深い深い皺が寄っていた。
「だって、そう言うってことはまだ気づいていないんでしょう。私が何でこんなに不機嫌なのか。……わかる? 想像でもいいから言ってみなさい、私が何に怒っているのか」
「は、はぁ……いや、それは私が実験でへまをして、迷惑をかけたから……」
「違う。私はそのことに怒っているんじゃないの。あなたが私に対してとても失礼な見方をしていたとわかったから、今とてもイライラしているのよ」
「え、ええと……?」
話がどんどん見えなくなっていく。何が言いたいんだ、この人は。
「あのー、この際馬鹿でもいいからさ、もうちょっとストレートに言ってくれないか。あぁ、正直言って全く見当がつかないんだ、ご主人様が何を言いたのか」
「簡単よ。あなたが芳芳にあそこまで自分を投影してしまったのは、私と青娥も重ね合わせていたからでしょう。あなたはね、ちゆり。芳芳が青娥に憧れると同時に、小伊や唯、迅に対して強い劣等感や焦りを抱いている姿を見て、まるで自分と私の関係のようだと感じたのよ。あなたの嫉妬相手はさしずめ宇佐見蓮子といったところかしら?」
う……言われてみれば確かにそうだ。要するに私は、芳芳たちにとっての青娥を、自分にとっての教授のような人間として見ていたんだ。何だ、この人は何もかもお見通しだったのか。
「宇佐見さんね……。あの子は確かに学部生としては優秀だけど、別にうちへの所属を強く希望してるわけじゃないし、助手としてはあなたの方が使えるわ。それでもあなたは不安に思っていたんでしょう。自分の居場所が脅かされるようで」
「う……そ、そんな直接言わなくても……」
だんだん恥ずかしくなってきた。自分がいかに子供っぽい思考の持ち主なのか、暴かれていくようで。
教授はちらりとこちらを一瞥し、何かを諦めたように肩を落とした。
「もう一つ。こっちの方がより重要だから、よく聞いてよく考えなさい。あなたは勘違いしているわ。芳芳は芳香じゃない」
「……え?」
な、今何て?
「あなたの研究ノートは読ませてもらっていたから、私もあの半年については大体把握しているわ。けど、あなたの記録からは重要な要素が抜け落ちているの。ねぇ、ちゆり。一応確認したいんだけど」
そして教授はこちらを振り向き、
「もしかして、青娥は一度も候補者たちの名前を呼んでいないんじゃない?」
「……え、……えっと、どういう意味だ?」
「そのままの意味よ。多分、あなたが見ている前では青娥は娘たちを一度も名前で呼んだことはない。芳芳は呼んでいたかもしれないけど」
「た、確かに、そもそも青娥は課題をやらせている間は基本放置だったし、それはそうかもな。私も全部の発言を追いかけたわけじゃないからわからないけど……」
「私、多分そうなんじゃないかと思って、倒れたあなたをここへ担ぎ込んだ後に確認したのよ。青娥が候補者たちの名前を呼ぶところをね。そしたら、案の定だった。青娥は、小伊のことを『宮圓』と呼んでいたわ」
「……え、何だって?」
教授は立ち上がり、手帳を取り出して私に差し出した。そこにペンで「範宮圓、小伊」という文字を書き綴った。
「小伊というのはね、彼女の字(あざな)なのよ。知っているかしら、中国の人は二つの名前を持っているの。親や目上の人から呼ばれる本当の名前、つまり諱(いみな)と、同僚や目下の人に使わせる通り名、つまり字ね。芳芳は彼女の諱で、字は清額といった。けれどこの『清額』という名前は、『青娥』と全く同じ発音だった。それに加えて彼女は候補者の中では最年少で、身分も明らかに低かったから、彼女だけは周りから諱で呼ばれていたのよ。それ以外の子は全て字で呼び合っていた。小伊や唯、迅といったように。けれど青娥は彼女たちを全員本当の名前、諱で呼んでいた……」
教授は喋りながら、手帳に彼女たちの名前を書きならべていく。
「小伊の諱は宮圓、範宮圓。迅の諱は古希、温古希。芳芳はそのまま、艾芳芳。唯の諱は香蕾、武香蕾」
私は手帳に羅列されたその四つの名前を眺め、あっ、と思わず声を上げた。
宮圓。
古希。
芳芳。
香蕾。
「……どう? だからきっとあなたは知らないと思ったのよ、この娘たちの本当の名前を。だって、あなたがどんなに頭が鈍くても、この文字の並びを見て気付かないはずがないもの。宮古芳香という名前が、この四人の名前の一部分をつなげて作られたということに。そう、ちょうど」
そして教授は、軽く頷いてから言う。
「宮古芳香の体が、四人の体の一部分をつなげて作られたのと同じようにね」
教授は保健センターの職員に無理を言い、私の病室へホワイトボードを運ばせた。病人相手に講義とは何という教授だという目線が彼女を貫いたが、そんなことを気にかけるような人ではない。
「結論から言いましょう。宮古芳香は、一人の人間の死体を蘇らせたキョンシーではない。小伊の頭部と、迅の両腕、芳芳の胸部、それに唯の腰から下をつなぎ合わせて作られたのよ。だから幻想テレビで芳香の過去の情報が何も拾えなかったんでしょうね。何しろ、宮古芳香という人間がこの地上で生きていたことなんて一度もないのだから。あなたは芳芳が殺害された時点で気を失ったから、その後にあの館で何が起きたかは知らないでしょう。もしあなたが望むなら、あの後青娥が残り三人を次々と殺していく場面も全部録画されているから、確認してもいいかもしれないわね。ただ、四人分の死体がそろった後の人体解体スプラッターショーは、見ていて決して気分のいいものではないから、あまりおすすめはしないけど」
教授は淡々とホワイトボードに図を書いていく。簡易な人体図を頭部、胸部、両腕、そして下半身の四つに区切り、それぞれに元持ち主の名前を書き沿える。
「きっと一番最初はこんなことをするつもりはなかったのよ、霍青娥は。彼女は普通に候補者の中から誰か一人を選び、人間のまま従者として日本へ連れていく気だった。最初のうちは、選ばれなかった三人へのその後のアドバイスをしているくらいだしね。けれど四人の娘たちを見ているうちに、青娥の中にある考えが芽生えた。四人はそれぞれ異なる長所を持っている。この中から誰か一人を選ぼうとすると、ほかの子の持つ長所をみすみす捨てることになる。それはもったいない、であればそれぞれが持つ長所をつなぎ合わせればいい、と。死体をキョンシーとして使役する術があるのなら、フランケンシュタイン博士のように複数の人体のパーツを繋ぎ合わせて新たな人間を作り出すことができたとしても、それほど突飛とは思えないわ。さて、一応あなたもさっき気にしていたことだし、疑問は全て解決しておきましょうか。なぜ選ばれたのか、という疑問をね。
「まず頭部。小伊を選んだのは、これは単純に彼女が美しかったからでしょう。唯はそれほど器量よしではなかったし、迅は病気で痩せこけていた。芳芳は貧民層出身ということもあって肉付きはよくなかったわ。後の青娥と芳香の関係を見ていると、青娥は芳香を愛玩動物のように扱っている節があるわ。可愛がるのに最も適していたのは、可愛い顔だったというわけね」
教授はホワイトボードの頭部を丸で囲んだ。
「次に両腕。青娥は迅の腕を欲しがった。最も体が弱っていたはずの迅の腕をね。それは、彼女が書道と詩作の才能に恵まれていたからよ。青娥は自分の作品である芳香に、芸術的素養を添えたいと考えた。キョンシーとなった宮古芳香はもはや自律的に考えて行動するということはないわ。けれど、芸術というものは心を失っても体が覚えているもので、その儚い生涯のうちの多くの時間を書に費やした迅の腕は、青娥が従者に求める素養を実現するための大切なパーツだった。実際、千年以上経った現在の幻想郷でも、芳香は時々一人で歌を詠むことがあるみたいね。その歌は、もう頭で考えて作られたものではないのでしょうけど」
確かに、そのような光景をテレビで見た気がする。歌の内容までは見られなかったが。
教授は両腕を丸で囲い、話を次に進める。
「さて、次は下半身、唯に移りましょう。これは少し気付きにくい理由だけど、わかるかしら?」
「え……。ええと、やっぱり唯が身体能力に長けていたから、とか……?」
尋ねられてそう答えはしたが、答えてからなんだか胸の奥が気持ち悪くなってきた。私は今、人体解体からの再構成という、およそ常人のモラルからはかけ離れた議論をしているはずなのに、こんなに冷静にパーツの効用について推測していても大丈夫なのだろうか。私の倫理観は、教授に引きずられておかしくなっていはいないか。
私の心配をよそに、教授は、そうね、と頷いた。
「身体能力から唯を選んだ、というのは間違いではないわ。でももっと明確な選定基準があった。見た目から明らかなのだけど、あなたは気付かなかったかしら。唯だけ、娘たちの中で靴が大きいことに。……そう、候補者の中で唯だけが、纏足をしていなかったのよ。あなたも知っていると思うけど、中国では随分長い間、足の小さい女性が美しいとされる価値観があった。それで纏足といって、幼いころから足を縛って小さな靴を履かせ、足の成長を妨げていたのよ。この風習は中国全土に見られるものだけど、歴史的には隋代の少し前あたりから始まったらしいから、唯が生まれ育った辺境にはまだ普及していなかったのでしょう。さて、唯以外の三人は纏足をしていたのだけど、当然、そんなことをしたらうまく歩けなくなるわ。そのうまく歩けないということ自体が、昔は美しさ、かわいらしさとしてみなされていたという話もある。美しさや可愛らしさは青娥も芳香に求めていたけど、旅に連れていくのにうまく歩けない足を選ぶはずがないわよね。それに、後の戦いで青娥は芳香を盾のように扱うこともあったみたい。戦える従者を作るなら、必然的に唯の足でなければならなかったのよ」
教授は下半身も丸で囲った。残りは、胸部……芳芳が使われた箇所だけだ。
教授は一息つくと、私の方へ向き直った。
「さぁ……最後くらいは自分で考えられるかしら。あなた、さっき気にしていたじゃない。なぜ、芳芳が選ばれたのかって」
「……まぁ、な」
「わかる? どうして青娥は芳芳をも芳香に組み込んだのか。何の長所もないと、あなたも言っていた芳芳を」
そう、確かに芳芳には何の長所もない。
けれど、先ほどから教授と共に青娥の考え方をなぞってきた私には、その答えが既におぼろげながら見えていた。
「多分」
私はベッドの上に座ったまま答える。
「消去法なんじゃないか」
「というと?」
「肺、だと思うんだ。芳芳が選ばれるとしたら、肺くらいしか思いつかない」
教授は、私の顔をじっと見、満足げに頷いた。
「えぇ……。その通り。胸を選んだのじゃない。青娥は芳芳の肺がほしかったのよ。あなたも調べていたわね、キョンシーとは魂魄のうち魂が抜け落ち魄だけになった状態のものだと。風水や道教では、この魄と呼ばれる気は肺に宿るとされている。キョンシーを動かすのに最も根源的な役割を果たすのが肺にある魄だとしたら、当然、青娥は最も状態のいい肺を選んだでしょう。まず迅は論外ね。肺を患っていると彼女は自己申告した。何の病気かは知らないけど、あれほど頻繁に咳き込む人間の肺なんて、到底使えたものではないわ。小伊も駄目だった。彼女は煙草の常習者だったから、煙が彼女の肺にどんな影響を与えているかわかったものではない。唯はというと、彼女の出身は砂漠の近くだと言っていた。身体能力に長けた唯の肺を青娥が選ばなかったのは、砂漠の砂を吸って育ったために正常な人よりも肺が弱いのではないかと懸念したからでしょう。実際、日本ではそこまで問題にならないけど、中国の黄砂のひどい地域では、砂塵は健康被害をもたらすものとして疎まれている。えぇそうね、あなたの言うように、芳芳が選ばれたのは完全に消去法だった。肺が健康であることを長所と呼べるなら、彼女もまた長所を摘み取られた形なのかもしれないけれど」
教授は言葉を切り、ポケットから水の入ったペットボトルを取り出して口に含んだ。大学教授らしい仕草だ。教授は窓辺にもたれかかり、私の方を見る。
「さぁ、全て明かしたわ。私はこれで余さず説明したつもりよ、私が何に不快感を抱いていたのか。……霍青娥は、表面上は全く正常な人間そのもので、もっと言えば俗物のようにすら見える。けれど彼女は確実に異常者だった。私たち人間から見ればね。もし、全てを兼ね備えた圧倒的に優秀な候補者が一人いたら、彼女は誰も殺さずその子を日本へ連れて行ったでしょう。けれど彼女にとって、生身の人間を連れていくのも、人を殺してキョンシーにして連れていくのも、……四人全員を殺してばらばらにし、いいところだけつなぎ合わせて新たなキョンシーを作るのも、手間の違い以外の差はなかったのよ。彼女にしてみれば、ただの人間を殺すなんて赤子の手をひねるようなものだったでしょう。元々生きる気力の希薄だった迅は、素直に殺されたわ。唯は最後まで青娥を疑わず、何かの間違いだと唱えながら混乱のさなか死んでいった。けれど小伊は猛烈に歯向かったわ、剣を抜いて青娥の手から逃れようと抵抗した。でも、どれだけ小伊が優れていても、仙人にはかなわない。青娥は眉ひとつ動かさずに仙術で小伊を屠っていたわ。全く、こんなサイコパスと同一視された身にもなってみなさい」
……あぁ、なるほど。だから教授は……。
それは確かに、怒りもするだろう。私はようやく合点がいった。そういうことか。
「あなたは、私のことをマッドサイエンティストか何かだと思っているみたいだけど、私は本当はかなりまともな人間なのよ。私なら青娥の様な行動はとらないわ。たとえ彼女と全く同じ能力を持ち、全く同じ境遇にいたとしてもね。全員を殺して長所だけをつなぎ合わせるだなんて、どうかしている……。人というものは、それが人であり人として行動しているからこそ価値があるのよ。ある人の行動は、その人の中で完結している。それが物質と人との最も大きな差異であって、人が面白い最大の理由よ。それを自分の都合のために切り刻んでいいところだけ取り出すだなんて、ごみを集めて人形を作った方がまだましだわ、血で服が汚れないだけね。……ちゆり」
教授は私の顔を真っすぐに覗き込んで言う。
「あなたにどんな長所があるか、どんな短所があるか、それは私の知ったことではないわ。それはあなたが勝手に見つけて勝手に生かしてもらえればいい。けれど私は、あなたが一人の人間でいる限りあなたに興味を持っている。原理的には、宇佐見蓮子に対しても、その友達に対しても興味を抱いているけど、その興味はあなたに対するそれとはまったく別種のものなのよ。だから、自分は誰よりも劣っているだとか誰よりも優れているだとか、そんな考え方で自分を評価してもらおうとするのはやめなさい」
「ん……うん、まぁ」
相変わらず教授の言っていることの半分は私の知っている日本語の使い方ではなかったが、なんとなく、気にするな、というようなことを言われているような気がして、私は曖昧に頷いた。
まぁつまるところ、私が思っている以上に、今回の件で教授は私に気をもんでいた、ということだろうか。それに対して、素直に申し訳ない、と謝れるような関係はまだ築けていない気がする。だが、それでも何かが前へ進んだような気もしないではない。
けれど。
全てが終わって、私も回復し研究室へ復帰した今でも、一つだけ喉奥の小骨のように引っ掛かることがある。
あの病室の講義の中で、教授は青娥の行為を否定した。
青娥のやったことは誰から見ても非人道的で、到底容認できるものではない、と私なら考える。
けれど教授は、一度もそれが人道に反するからだとか、倫理的な非難は口にしなかった。
彼女の口ぶりは、まるで「青娥は人間の扱い方が間違っている」とでも言わんばかりだった。
――もし。
もしも、だ。
教授の興味の対象が、人間性のもっと奥深いところにまで突き進んでいき、それを解明するために……例えば、誰かの命を犠牲にする必要が生じたとき。
果たして教授は、それを躊躇うだろうか。
教授とちゆりに、蓮子が関連する設定は割りとありがちだけど興味をそそられるし、
そこに青娥と芳香の過去を予測するパートが重なって物語の深みと魅力が何倍にも増した。
原作や口授で僅かしか語られてない芳香の設定は、妄想の幅が広がりますな。
ただ、原作では「青娥に蘇生させられた日本古代の死体」とあるから芳香は中国娘じゃないかも知れない。
四人のだれが選ばれるのか気になりながら読んで、
一番ありそうな芳芳だろうけどもうひとひねりあるかと思ったらこの展開
幻想テレビを使っての課題がちゆりに出され、その課題に向かっていって、最後に教授の解答シーン
そしてなにより東方キャラたち話をとおして教授とちゆりのキャラクターにどんどん興味がわいてくる
このシリーズが続くのでしたら教授とちゆりがどうなっていくのか楽しみです