「霊夢って、コスモスみたいよね」
私はその発言にふと箸を止めた。
目の前には紫が用意してくれた朝食があって、テーブルを挟んで向こう側にはやっぱり紫がいる。
紫はたまにこうして朝食やら夕食を作りに来ることがある。なぜかと訊いてみると、ただの気まぐれよ、と返してくるから、自分で料理する手間が省けるわ、って私は言い返す。
紫の料理の腕の方はそこそこだ。
さて、私は紫がいま発言したことについて考えてみる。
コスモスと言えば秋に咲く可愛らしい花のことだ。花言葉は確か乙女の真心とかそんな感じだったと思う。
やれやれ紫もやっとこの私の魅力がわかってきたか。もしそう思っているのなら、大事にとっておいた羊羹を出してやるのもやぶさかではない。
などと考えていると、紫が続きを話し始める。
「コスモスってね、すごく綺麗で儚くて弱々しいイメージがあるでしょ? でも本当は、茎の途中で折れてもそこからまた根を生やして立ち上がるくらい強いのよ。そんなしぶとい生命力を持ってるところがそっくりじゃない」
訂正する。羊羹は絶対に出してやらない。しぶとい生命力ってなんだあれのことを言っているのか。お茶も出涸らしのやつだけしか出してやらない。絶対に。
そんな風に心の中で固い決意をしている私に、紫が視線を送って来る。
「怒った?」
「怒るようなことを言った覚えはあるのね」
「さあ」
私はため息をつきながらご飯を口に運ぶ。紫はにこにこと嬉しそうだった。人を小馬鹿にすることが好きなのだ。まったく本当にいい性格をしている。料理が美味しいのも何だか余計に憎らしい。
朝食を食べ終え片付けをした後、縁側に座ってのんびりとお茶を啜りながら一日の始まりを感じる。紫は隣に座って、私が出してやったお茶にそっと息を吹きかけている。
ふと庭の方へ視線を向けると、そこにはひっそりとコスモスが一輪咲いていた。薄ピンク色の花びらを空に向けて広げている姿は可愛らしくて、真っ直ぐな健気さがあった。なるほど、紫はこれを見てあんなことを言ったのかと一人納得する。
季節はもうすっかり秋だった。風には肌寒さも感じ、木々は色めき始めている。つい最近まで暑さにうなされていたと思ったら、気がつけばもう遠い過去のように涼しげな気候になっている。季節はすぐに過ぎて行く。冬もすぐにやって来るのだろう。
そういえば、と私は思い出す。
「紫、あんたいつ冬眠するの?」
この大妖怪様は冬の間は寝て過ごすのだ。まるで熊のように。本人にそう言ったら、きっと怒るだろうけれど。
「んー、そうねえ。今月いっぱいまでは起きているつもりだけど」
「そう」
そっとつぶやいてお茶を啜る。お茶のほんのりとした温かさが心地良く感じられる。
「なあに霊夢。もしかして寂しいの? 私にしばらく会えないのが」
「別に」
「ひどーい。寂しいって言ってくれてもいいじゃない」
まるで子供のように頬をふくらませる紫。私は無視をして再びお茶を飲む。彼女の動作の一つ一つに付き合っていたらこっちの身が持たない。面倒なときは見てないふりをするのが一番。
私が無視を続けていると、紫はあきらめたのかそっと前に向き直った。
しばらく黙ってそうしていると急に脇腹の辺りを軽く小突かれた。何だろうと思い視線を向けてみると、紫が手に持っていた扇子でつっつきながら、
「ねえねえ霊夢。私、お茶請けが欲しいですわ」
「ないわよ。そんなもの」
すると紫はにやりと不気味な笑みを見せる。嫌な予感がした。
「ふふん。嘘はいけないわね。タンスの奥、『儀式用小道具』って書かれた箱の中に、大事にしまってあるのはわかっているのよ」
「ちょっと、なんで知ってるのよ!」
私は声を上げて訴える。紫の言うとおり、そこには羊羹がしまってある。儀式用小道具と書かれた箱に入れたのは、誰かが勝手にタンスを荒らしても絶対にばれないようにするためだ。
「私はね、霊夢のことなら何でも知っているのよ」
飄々とそんなことを言う。
「不気味なことを言わないでちょうだい」
ねえ早く早く、とせがむ紫に私は折れるしかなかった。しぶしぶ立ち上がって居間に戻ると、年季が入って引き出しを動かす度に軋んだ音を立てるタンスの奥から、儀式用小道具と書かれた箱を取り出す。良いアイデアだと思ったのだけど、紫には通用しないようだった。思い返してみると、私が自分だけの秘密にしておこうと決めたものだったり出来事だったりを、紫はことごとく見抜いてきた。一体どうやっているのだろう。
羊羹を取り出し、箱を戻そうと引き出しを覗き込んだ。
と、そこで引き出しの奥に懐かしい物を見つけて、私は思わず顔がほころぶのを感じた。
手を突っ込んで引っ張り出すと、多少汚れてはいるものの、それは当時のままの姿を現した。
ぬいぐるみだった。
小さい頃にとても大切にしていたもので、ネコのような顔をしているのに体はタヌキにしか見えないし、尻尾は大福がくっついてるみたい。何とも不思議な見た目をしている。本当ならお腹の部分には大きなボタンのおへそが付いていたのだけど、それはずっと昔に魔理沙にあげてしまった。
長い間このタンスの引き出しにしまっておいて忘れていたようだ。端っこの方へ押しやられていたから、まったく気がつかなかったのだろう。あまりにも懐かしくて色々な記憶が蘇ってくる。
私は羊羹を二人分切り分けるとそれをお盆に載せて、おまけにさっき見つけたぬいぐるみも載せて、紫の許へ戻った。
「持ってきてあげたわよ」
「ん、ありがと」
紫はさっそく羊羹をつまみ上げると口の中に放り込んだ。
「あら、美味しい。良い物を持ってるじゃない。……ところで、それは何かしら?」
彼女は羊羹に舌鼓を打ちながら私が持ってきたぬいぐるみに視線を向けた。
「これはね、私がずっと小さいときに、お祭りの射的で取ったやつなのよ」
「ふうん。変な見た目」
彼女はそう言うと、ぬいぐるみの顔の部分を人差し指でつっついた。
確かに変な見た目だった。だけど、小さい頃の私は射的屋でこれを一目見て、どうしても欲しいと思ったのだった。
一度では当然ながら取れなかった。だけど何度か失敗し、その度にコツをつかんでいった私は、狙い澄ましてネコの額の部分を打ち抜いた。うまい具合に当たったらしく、ぬいぐるみがバランスを崩して倒れた時、私は思わず叫び、手を叩いて喜んだ。おめでとう、と射的屋の人にぬいぐるみを渡されて、周りにいた人たちに私が取ったのよすごいでしょ、なんて自慢したのを憶えている。いま思い出すとちょっとだけ恥ずかしいけれど、とにかく当時の私はぬいぐるみを取ったことが嬉しくてとても興奮したのだ。
ずっとずっと小さい時の思い出。だけど、一度思い出したらあの時の記憶が引っ張り上げられるように、次々と色々な場面が浮かび上がってくる。
「そう言えば、その時のお祭りでね」
と私は話を切り出す。
「私は何人かの子供たちといっしょに楽しんでたの。確か魔理沙もいっしょだったかな。年頃はほとんどバラバラだったけど、一番上の子がみんなをうまくまとめてた。周りには人がいっぱいいて歩くのも大変なくらいだったわ。屋台もたくさんあって、辺りに食べ物のいい匂いが漂っていて、次は何を食べよう、何をしようって私はすごく楽しくてはしゃいでた。でも、屋台に気を取られているうちに途中で私だけはぐれちゃったの」
隣で「はぐれいむ」と言う声が聞こえたけど、無視する。
「それでまずはみんなを探さなくちゃって思って、いろんなところを歩き回って、人にも訊いたりして、頑張って探したの。だけど全然見つからなくてね。どうしようってすごく困ったの。どうしたらいいか必死に考えてみるんだけど、全然いい考えが思いつかなくて、もう何がなんだかわからなくなって、とにかく寂しくなってね。もしかしたら、もう二度とみんなに会えないんじゃないかなんて考えもして。いま思えば笑っちゃうんだけど、その時はどうしようもなく心細くて、途方に暮れてたの。気がついたら、目からいっぱい涙を流してた。歩くのも疲れて、道の端っこでうずくまって一人泣いてたわ」
小さい頃の話をするというのは、なんだかむずがゆい。それでも私は話を続ける。
「そうしたら、どうしたんだお嬢ちゃんって声を掛けられたの。顔を上げたら、頭にはちまきを巻いたおじちゃんが立ってて、大丈夫かい? って私の顔を心配そうに覗き込んでた。おじちゃんに事情を説明したら、そうかそうか、大変だったな、って私を慰めてくれて、その後に、これを食べれば元気が出るからとにかく食べな、って焼きそばを私に差し出してくれたの。歩き回ってすごくお腹空いてたから、その焼きそばが本当に美味しく感じられたの」
紫は何も言わずに、そっと耳を傾けている。
「焼きそばを食べ終えてから、私はそのおじちゃんに、みんなとまた会えるかどうか訊いてみたの。おじちゃんが知ってるはずないんだけど、不安だったから訊かずにはいられなかったんだと思う。でね、おじちゃんに訊いたら、なんて答えたと思う?」
紫は黙って首を横に振ったので、私は続きを話す。
「さっき食った焼きそばはうまかったか? って訊いてきてね、それで、うん、おいしかったって私が答えたら、そうかそうか、なら平気だよ、心配することはないって満足気に言ってきたの。私がどうしてそう思うの? って訊ねたらそのおじちゃんが自信満々にこう言ったのよ」
私はそこで一呼吸置いてから、記憶にある声を真似して言った。
「『オレの作った焼きそばを食って、うまいと感じられるうちは絶対に大丈夫だ!』って」
そこで紫が声を出して笑った。
「すごい理屈ね」
「でしょ? どんな理屈よって思うじゃない、普通。でも、その言葉を聞いたらなんだか本当に大丈夫な気がしたの。ああ、なんだ、大丈夫なのかって。実際、その後すぐに私のところにみんなが来てくれたから、本当に大丈夫だったんだけどね。それで、そのおじちゃんはみんなにも焼きそばごちそうしてくれたのよ。良い話でしょ」
「ええ、良い話ね」
「たぶん、この思い出はずっと忘れないと思う」
私がまだまだ幼い頃のちょっとした出来事。そのおじちゃんとはあの時の一回しか会ったことがないけど、頭にはちまきを巻いたその姿と私に元気をくれたあの声は、今でもはっきりと思い出すことができた。
隣に座る紫は先ほどまで見せていたふざけた様子はまったくなくなって、ほんの少し微笑むような、優しげな表情を浮かべていた。
紫は時々、こういう表情を見せる時がある。
私はその顔が嫌いじゃなかった。その表情を見ていると何だかほっとする。
「ねえ、紫も何か忘れられない思い出とかある?」
思えば、紫とこうして話をすることはそれなりにあるけれど、昔の話を聞いたことは少なくとも私の記憶にはなかった。私よりもずっとずっと長く生きている彼女が、一体どんな思い出を持っているのか、気になるのはごく当たり前のこと。
私が訊くと、紫は「そうねえ」と少し考えるような仕草を見せ、しばらく黙った後に、
「特にないわねえ」
「ほんとに?」
私は少し驚いて聞き返した。すると紫はあっけらかんとこう答えたのだ。
「妖怪は過去にこだわらないのよ。だから、すぐに忘れていくの。長く生きてると、そっちの方が何かと都合がいいのよ」
そっか。
紫はそう思ってるんだ。
私はゆっくりとした動作でお茶を飲む。
残念だと思う。紫が思い出は特にないと言ったこと。私だって特別過去を大切にしているわけじゃないけれど、それでも過去の思い出は良いものだと思う。あの時のお祭りの記憶だってそう。出会ってきたたくさんの人だったり、出来事だったり、そういったことを振り返るのは気恥ずかしさもあるけど、やっぱり楽しいものだと思う。
今を生きて、それが過去になり、思い出になる。私たちの生活というのは、言ってしまえばそういうことの繰り返しなのだ。だから、今と同じように過去にも価値があると私は思う。
だけど、紫が思っていることは違う。紫はたぶん今にこそ価値を見いだしているのだ。今が宝石のように輝いている時間で、過ぎ去ってしまったそれらは魔法の解けた石ころのようなものなのだ。ただの石ころになってしまえば、もはや興味なんて抱かない。そして、未来はいつか輝くときを待っている原石なのだろう。彼女は常に今現在を生きている。そしてこれからやってくる未来を生きて行くのだろう。
人間同士ですら感覚や考え方はそれぞれなのだから、人間と妖怪のそれはもっと違うのだと思う。
仕方がないことだし、気にするような事でもないはずだ。
だけど、ちょっとだけ。
私とこうして一緒にいたことも忘れちゃうのかなって思ったら、ちょっとだけ寂しかった。
陽の光が縁側を照らし、私は眩しくて手で影を作った。空はどこまでも晴れ渡って清々しいほどの群青色をしていた。その下で先ほどのコスモスがそよ風に揺らされて、静かに体を震わせていた。
と、そこで紫が「あ、そう言えば」と声を上げた。
右手を持ち上げて、すっと人差し指で上の方を指し示した。
「上に何かあるの?」
「空をね、見たのよ。この幻想郷という場所が完成した時のことよ」
紫は目を細めて、上空を眺めた。
「幻想郷に結界を張る作業は本当に大仕事だった。事前に万全の準備をしておいたつもりだったけど、それでも不備というものが出てきてしまうもので、あっちに行ったりこっちに行ったり、大忙しだったわね。それでも、何とか結界を張り終えて、外と中を完全に隔てることができた時に、疲れと安心感からその場に倒れ込んで、そのまま目を閉じたの。あなたにはわからないかもしれないけれど、想像を絶するほどの苦労をしたんだから」
私は「へえ」とも「ふうん」とも聞こえる曖昧な返事をした。
「それで目を閉じて、しばらくしてから目を開けたの。そしたらすっかり夜になっていて、そこには本当に綺麗な星空が広がっていたわ。もしかしたら、あの時に見た星空は忘れないのかもしれないわね」
上空を眺める紫の顔は、その時に見た星空を眺めているかのように、今私たちの上にある空よりもずっと遠くへ向けられていた。
それが一体どんなものだったのか私にはわからない。だけど、きっと本当に綺麗だったのだろう。そして、そんな思い出を忘れて欲しくないと思う自分がいる。
「それが紫の思い出なのね」
「ええ、そうね」
「忘れちゃだめよ」
「何でかしら?」
「何となく、そんな気がするから」
「そう」
「忘れちゃだめよ絶対」
私が言うと、紫は「はいはい」と答えた。私はもう一度、念を押すように、
「絶対よ」
「ええ、絶対」
紫はそっと微笑んだ。
私たちの上空には、どこまでも晴れ渡った秋の空が広がっていた。
翌日、襖の隙間から差し込んできた朝日がまぶしくて目を覚ますと、うーんと伸びをしながら身体を起こした。
今日は紫は来ていないようだった。
昨日のように台所から漂ってくる匂いも誰かがいるような気配もない。辺りはとても静かで、この神社にいるのが私一人だけだとすぐにわかる。
布団から抜け出すと、さっそく朝食の準備に取りかかる。
水を汲み、火をおこして、お釜でご飯を炊く。ご飯が炊けるまでにおかずを用意する。今までに何度もやってきたのでもはや手慣れたものだ。
出来上がったものを居間のテーブルに並べると、いただきますと手を合わせて言う。
一人での食事。私にとってはこれが普通なのだ。今までずっとそうだった。夜、心細さに一人で泣いたのはもう遠い昔。人間というのはなんだかんだで置かれた状況に慣れるものなのだなとしみじみ思う。寂しさなんて感じない。すっかり快適に暮らしている。
そんなわけで私は朝食を済ませて食後の一服を楽しむ。縁側に座って、お日様の光を浴びながらゆったりとした時間を過ごす。
昨日、紫が帰り際に言ってきたことを思い出した。私がお祭りの話をしたせいか、紫はお祭りに行ってみたいと言い出したのだ。
それならちょうど今月の終わり頃に秋祭りがあると教えると、紫はじゃあそれに行きましょうとすぐに決断した。もちろん付き合ってくれるわよね? とこちらに視線を送りながら。
思い返してみると紫と二人で出かけたりなんて機会、今まであまりなかった。
私はいいわよ、と答えた。紫は満足そうに頷いた。
紫はおそらくお祭りが終わったら眠りに就くのだろう。春になるまでちょっとの間お別れだ。せっかくの機会なのだから楽しもうと思う。
食後の一服を終え、そろそろ掃除でもするかと思っていると郵便が届いた。こんな辺鄙な地でもちゃんと郵便が届くあたり、郵便屋さんには感謝しないといけない。
受け取って確認すると、それは手紙だった。
差出人は魔理沙のお母さん。時々、こうして彼女は私の許へ手紙を送ってくるから、内容は大体予想が付く。
魔理沙はまた一人で無茶をしてないか。風邪を引いていないか。霊夢ちゃんに迷惑を掛けていないか。それから、あんな娘だけどよろしくお願いします。霊夢ちゃんも体に気をつけて。そんな感じ。
届いた手紙を読むと、やっぱり予想通り。
ふふ、と笑い声が漏れる。魔理沙のお母さんも大変だなあ、と思う。あんな自由奔放な娘を持ったら、気苦労が絶えないだろう。
それから、魔理沙のことがちょっぴり羨ましいとも思える。
こんなに心配してくれる人がいるなんて。どんなに離れていても、やっぱり親というものは子をいつも思っているのだ。忘れることなんてない。できないのだ、絶対に。
手紙を大事に仕舞うと、返事を書いた。今度、人里の郵便屋に出しに行こう。もしくは、魔理沙のお母さんに顔を見せに行くのもいいかもしれない。あと魔理沙がここに来たら、実家に顔を見せなさいとでも言っておこう。
そんなことを考えていると、その日の内に魔理沙はやって来た。
お昼を過ぎ、私が掃除を終えて居間でぼーっと座っていた時だった。
「おう、霊夢。ここにいたか」
魔理沙はやって来るなり、まるで自分の家のようにずかずかと部屋に入って来て、どかっと座布団の上に腰を下ろした。
「どうした。ぼーっとして。思春期か」
「年齢的にはそうね。アンタもそうでしょう」
「そうだな。悩み多き年頃だ」
「悩みねえ……」
「何だその反応は。私には悩みなんてないと思ったのか。こう見えても、結構色々と抱えているんだぞ」
それは意外だ。魔理沙はあまり悩んだりしないタイプなのかと思っていた。もしかしたらあまり人前ではそういう一面を見せないだけなのかもしれない。案外、自分一人で抱えこむタイプだったり。私もどちらかと言えばそういうタイプだし、魔理沙も違うとは言い切れない。彼女の言っていることが本当なら、だけど。
と、そこで魔理沙が、
「お、懐かしいな」
視線の先には、昨日見つけたぬいぐるみがあった。タンスの横にちょこんと座っている。
「昨日、タンスの引き出しの奥で見つけたの」
「そうかあ。いや、本当に懐かしい。霊夢、このぬいぐるみをすごく大切にしてたもんな」
魔理沙はそれを手にとってしげしげと眺めると、
「ずっと昔のことだけどさ、霊夢、いっつも腕にこのぬいぐるみを抱えてたよな。どこに行くのも一緒で、自分以外の誰かに触られるのも嫌がってたっけ」
そして彼女はふっと笑みを浮かべて、
「一度ぬいぐるみをなくして、大泣きしてたことがあったよな。それで、みんなで一生懸命探してさ。それでもなかなか見つからなかったんだけど、でも結局、霊夢が使ってた毛布の中にくるまってたんだよな」
そう言って魔理沙はケラケラと声を上げて笑った。
「そ、そうだったかしら。憶えてないわ」
私は目をそらす。と、そこで私はある場面を思い出す。
「そう言う魔理沙だって、私が博麗の巫女になるのが決まって、博麗神社に行く日に、大泣きしてたじゃない。嫌だ、行かないでくれ! 会えなくなるのはやだ! って。それで私も周りにいた大人の人たちも困っちゃって。それで私がぬいぐるみのおへその部分にあったボタンを外して、それを魔理沙にあげたのよね。これを持ってたら、絶対また会えるから、とか何とか言ったんだったかしら。それでやっと泣きやんで、納得してくれたのよね」
私は大切にしていたぬいぐるみについていた大きなボタンをあげた。魔理沙は泣きやんで、小さく微笑むと、うん、と頷いてくれたのだった。
しかしこの話をすると、今目の前にいる魔理沙は、
「ああん? そんなことあったっけ?」
憶えていないようだった。
そっか、と思う。そっか、魔理沙は憶えていないのか。
あの時、魔理沙はぬいぐるみのボタンを受け取ってくれた。うん、と頷いて、「ありがとう」って言ってくれた魔理沙。「ありがとう。宝物にする。お前がこれをくれたことは、ぜったい忘れない」。確かにそう言ってくれたのに。
自分だけ憶えていて、相手が憶えていない。記憶は消えていくものだし、仕方ないこととはわかっているもののやはり寂しいものは寂しい。
魔理沙がお茶を所望してきたので私は仕方なく立ち上がる。お茶の準備をしながら昔の記憶をなぞっていくと、ふとまた別の記憶が蘇る。
熱々のお茶が入った湯飲みを持って居間に戻ってきた私は、魔理沙にこんなことを訊く。
「ねえ、魔理沙。遭難ごっこって憶えてるでしょ?」
「おお、憶えてるぜ。それも懐かしい。子供の時、良くやったな」
遭難ごっこ。
鬼ごっことかかくれんぼとか、子供がやる遊びはたくさんあって、遭難ごっこもその内のひとつだった。幻想郷には海がないから遭難できない。というのは山があるからそんな事はないのだけど、船が座礁してロビンソン・クルーソーよろしく孤島に取り残されたりする事はできない。幻想郷で生まれた人は当然ながら海を見たことがない人がほとんどで、海に憧れを持つ人は多い。特に子供はその傾向が顕著だった。
そんなわけで、誰が思いついたのかよくわからないのだけど、孤島に取り残された人が近くを通りがかった船に、自分はここにいるぞ、と知らせようとする所を遊びにしてみたものが、遭難ごっこだ。
ポイントを競う遊びで、まず捜索側と遭難側に分かれる。遭難側になった場合、自分の遭難場所を決める。そして、捜索側は遭難側を探すのだ。かくれんぼを想像すればわかりやすい。ただし、かくれんぼと根本的に違うのは、遭難側は自分を見つけてもらうことが目的ということだ。自分が遭難場所として選んだ所が、捜索側に見つかりやすい場所だった場合、それだけ得られるポイントも低く、逆になかなか見つかりそうもない場所だった場合、ポイントはそれだけ高くなる。つまり、ぎりぎり見つけて貰えるけれど、そう簡単には見つからない、遭難側はそんな場所を探さなければいけないのだ。そして、捜索側は遭難側を見つけて、点数を付けてあげる。君はわかりやすかったから、十点。君はとても面白い場所にいたから、五十点。そんな感じ。点数は完全に捜索側の裁量だ。
声を出したり大きな音を立てるのはルール違反だったけれど、その場にある物を使うのはよかったから、みんな色々な物を掲げたり振ったりして、自分の事をアピールしたものだ。どんなに探してもたまに見つからないことがあったけれど、そういう場合は仕方がない。あきらめる。遭難する方も、自分が見つからない事に気付いて、自然と捜索する方へ回る。
今でも里に行けば、子供達がやっている姿を目にすることがある。遭難ごっこはなかなか人気のある遊びだ。ただ、中にはこの遊びに疑問を持つ子もいる。捜索する方が地面を歩いているんじゃ、全然海と関係ないじゃないか。これじゃ山で遭難してるのと何ら変わらないじゃないか、と。そういう子供たちはどうするのかと言うと、自分たちで船を作っては、それを川に浮かべて、航海する気分を味わいながら遭難ごっこをする。基本的に遭難する方に人気が偏るのだけど、こういう場合はみんな捜索する方になりたがっては、見事に沈没して自分が遭難する方になるという、お約束まであるほどだ。
男の子はもちろん、女の子もみんな良くやっていた。だから、私も当然子供の頃はよくやったものだ。
そして、魔理沙は遭難ごっこの達人だった。
彼女には遭難する才能があった。当時の私たちはみんなそう思っていた。あっと驚くような場所に遭難しては、私たちを良く驚かせたものだ。
今でも憶えているのが、ある時男の子のグループに私たち女の子のグループがいちゃもんを付けられ、ちょっとした喧嘩になった時のことだ。それで、じゃあ決着は遭難ごっこで決めようとなったのだ。どういう理由だったかは忘れたけれど、とにかくそうなった。
両陣営から半分ずつ、捜索側と遭難側に分かれた。私は捜索する方で、魔理沙は遭難側になった。
負けたくはなかった。男の子なんかに負けてたまるか、とみんな思っていた。だけど、木に登ったり、屋根の上に登ったりと、そう言う女の子にはなかなか行けない所に行ける分、男の子の方に分があった。ポイントは圧倒的にリードされた。
最後に残ったのは魔理沙だった。
男の子は勝利を確信していた。私たちはみんな押し黙っていた。口には出さなかったけれど、もう勝てないと誰もが思っていた。それだけ点数を離されていた。
魔理沙はなかなか見つからなかった。男の子たちからもう見つからないからあきらめようという声まで出始めた。それも仕方がないと思った。すでに時刻は夕方だった。そろそろ帰る時間だ。
まったく、どこに行ったのよ魔理沙。私は心の中でそう思いながら、赤く染まった空を見上げた。
と、そこで視界の端に何か動く物体を見つけた。
それを見つけたのは本当にたまたまだ。
大きく手を振っている誰かを見つけた。
それが魔理沙だと気付くのに、時間がかかった。
「いた!」
と私は興奮した声で言った。
魔理沙がいた場所は。もうずっと使われていない見張り台だった。ぼろぼろになってすでに登ることは禁止されている。大人が登るのも一苦労するほどの高さで、落ちたら当然ながら無事では済まない。梯子だって錆び付いてかなり弱くなっているから、いくら好奇心の強い子供と言えど、誰も登ろうとは思わなかった。だから、そんな所にいるなんて思いもしなかった。
魔理沙は見張り台の上で、帽子を手に持って、必死にそれを振っていた。私はここにいるぞ。早く見つけてくれ。そんな感じだった。
男の子も女の子も、みんな呆気に取られて、それから自然と笑い出した。なんであんな場所にいるんだよ。おかしいだろう。そんな風に、みんな笑った。
勝負の結果は、女の子側の逆転勝利だった。
この話をすると魔理沙は声を上げて笑った。
「そんなこともあったなあ。懐かしい」
「あれは伝説になったわよね」
「ふふん。遭難ごっこで私に敵う奴はいなかったな」
「確かにそうだったわね。弾幕ごっこでは私が勝っているけれど」
私が言うと、魔理沙はため息をつきながら首を振った。
「天は二物を与えず、ってことだ」
私も声を出して笑った。
「なかなか見つけて貰えなかったから苦労したよ。必死に帽子を振ってさ。頼む、私はここにいるぞ、見つけてくれーって心の中で叫んでさ。そしたら霊夢が見つけてくれたから、良かった」
「あんな所にいるなんて、普通思わないわよ」
「だよなあ。でも、今だったらもっとわかりにくい場所を選んでも、見つけて貰える自信はあるぜ。魔法を使うのは別にルール違反じゃないだろう? たぶん、地球の裏側の相手にだって見つけて貰えるだろうな」
「大げさな」
魔理沙は足を投げ出し、後ろに手をつくと、昔を思い出すかのように上の方を見た。
「しかし、あの後こっぴどく怒られたんだよな。大変だった」
懐かしそうに彼女は笑った。
「たまに、子供の時にやった遊びを今でもやりたくなることがあるよな。遭難ごっこなんか特に」
「そう? 魔理沙だけじゃない」
「む、なんだそれは。私がまだ子供だと言いたいのか」
「大人からしたら、私たちなんてまだまだ子供だけどね」
「確かに、違いない」
とは言うものの、笑顔をこちらに見せる魔理沙の顔は、あの時よりも当然ながらずっと大人へと近づいている。少しずつだけど、でも着実に私たちは成長して行く。背は伸びたし、胸だってほらご覧の通り、膨らんできた。魔理沙の胸の方は……まだ控えめだけれど、おしりの方は丸みを帯びて随分と女性らしくなったように見える。
時間は私たちの思いとは関係なく流れ続ける。
「それにしても、良く憶えてたな。私は言われるまですっかり忘れてたよ」
「それだけ印象的な出来事だったからよ」
その言葉に偽りはない。あの時の記憶を今もはっきりと憶えているのはかなり印象的な出来事だったからだ。でも、本当はそれだけじゃない。魔理沙にはきっとわからない。
私には、――私だからこそ、どうしても忘れられない光景がある。
散々お母さんに怒られた魔理沙はその後、そのまま手を引かれて帰って行った。夕日が二人を照らして、地面に不揃いの影を描いていた。右手を引かれながら、一度こちらを振り向いた魔理沙は、左手でばいばいって手を振ってきた。それからお母さんが何か魔理沙に話しかけた。何を言ったのかはわからないけど、魔理沙はお母さんの顔を見上げると、嬉しそうに笑顔を見せた。
ゆっくりと遠ざかる二人の背中。夕暮れの陽射しに浮かぶ二つの影。
私にはその光景が、まるで一枚の鮮明な写真のように、今でもしっかりと脳裏に焼き付いている。
私には親がいなかった。
お母さんと手を繋いだ時のその手の温かさも、お父さんに抱っこされた時のその腕の力強さも、私は知らずに育った。
それが不幸な事なのかはわからない。普通は親がいるものだし、それがきっと当たり前なのだろうけど、私にとってはいないのが当たり前で、当たり前の事を不幸だと思う感覚はなかった。
ただ、ちょっとだけ。お母さんに手を引かれて帰る魔理沙が羨ましかった。
「魔理沙」
「ん?」
「たまには実家に帰りなさいよ」
「どうしたんだいきなり」
「別に。何となくそう思っただけよ」
「変な霊夢だ。思春期か? それとも物思いにふける秋のせいか?」
「そうねえ。秋のせいかもしれない」
私が言うと、魔理沙はくっくっと笑った。
「秋深き、隣は何を、する人ぞ」
彼女は柄にもなくそんなことを言う。
ふと紫の顔が思い浮かんだ。
今頃あいつは何をやっているんだろう。そんなことを思った。
木々は色めき、すっかり秋めいてきた。
一日一日と美しさを増す自然の風景は、私を愉快にさせてくれると同時に何とも言えない切なさのような気持ちも運んでくる。
つい一ヶ月ほど前は暑くて死ぬような思いをしたことを思えば、今の過ごしやすい気候というのはありがたいのだけど、あの暑さもこうして過ぎ去ってしまった後では、あれはあれで良かったと思えてくるから不思議だ。
木々が色付けば色付くほど、気候が涼しくなればなるほど、新しくやって来る秋への期待と、過ぎ去った夏への名残惜しさがない交ぜになって複雑な気持ちになる。
この気持ちもきっと一週間もすれば忘れているのだろう。人の気持ちなんてそんなもんだ。秋は美味しい食べ物がいっぱいだから、その楽しみもある。栗とかサツマイモとかその他諸々。
季節が移り行くように、人の心も移り行く。それが自然なこと。
私はちょっとした用があり人里に出かけた。空を飛んでしまえば博麗神社から人里まではそれほどの距離でもない。用事は何事もなくすぐに片付いて、それ以外に特にすることもなかったので私は真っ直ぐに帰宅した。
庭に降り立ち、縁側から居間に直行しようとした。
だがそこで私の行動を読んでいたかのように、ある物が立ちはだかった。
縁側の上にナスをいっぱいに入れた籠が置かれていた。出かける前にはなかったから、私が出かけている最中に誰かが置いていったのだろう。
近づいて確認してみると、ナスの上にメモがそっと置かれていることに気付く。手にとって読んでみると、そこには「約束、忘れてないわよね?」とそれだけ書かれていた。
誰が置いていったかすぐにわかる。紫のやつだ。
紫と約束した秋祭りは、三日後に迫っていた。随分と早いものだ。
メモをひっくり返してみた。小さくだけど、「風邪引かないように」と書かれていた。
それだったらもっと栄養のある野菜を持ってきなさいよと思ったけれど、ナスは美味しいので文句は言わないことにした。
私はメモをくしゃっと丸めて、それを居間のくず入れに投げてみたけれど、思い通りの軌道を描かずに見当外れの場所で落ちた。
それから籠に入れられたたくさんのナスをしばらく見つめて、今夜は焼きナスにしようと決めた。
午後は神社に訪問者もなく、私は特にすることもなかったから、ぼーっとして過ごした。ぼーっと過ごしているだけだけどこれはこれで悪くない。
日が傾き始めた頃、私は夕飯の準備に取りかかった。
紫から貰ったナスを二等分にして、それらを水に浸してあく抜きをする。水に浮かぶ半分にされたナスを眺めていると、ふと昔のことを思い出した。
あれは私がまだこの博麗神社に来る前、私と同じような境遇の子供達が集まる施設に住んでいた時の事だ。
料理はその施設の運営をしている大人が作ってくれるのだけど、必ず数人の子供が手伝いに回される。私がその手伝いの当番の日に、近くの親切な農家の人が施設にたくさんのナスを届けてくれた。というわけでその日の夕飯はナス料理に決まり、私もナスを切り分ける手伝いをした。
その時にいた大人の人は女性でとても優しくて子供達からも人気があったお民さんという人で、「秋ナスは嫁に食わすな、なんてことわざがあるけど、子供に食べさせるのはいいわよね」とか何とか言っていたのは憶えている。
私の他にもう一人、手伝いとして男の子がいた。その子は不器用であまり料理が得意ではなかったので、私が切り分けたナスを片っ端から水を入れた桶の中に入れる係をしていた。
料理をしている最中、味付けのための味噌がない事に気付いた。仕方なくお民さんが買いに行くというので、私と男の子は台所で待つことになった。
すぐに帰ってくるのかと思ったけれど、お民さんはなかなか帰ってこなくて、私たち二人は特にすることもなくて、遅いねなんて言いながら、水に浮かぶナスを眺めていた。
「なあ、霊夢」
と男の子が私を呼んだ。お民さんが出て行ってから確か二刻近く経っていたと思う。
「なに?」
「いくら何でも遅過ぎじゃないか。味噌なんかを買いに行くのにこんなに時間がかかるわけない」
男の子が言う。
「何か急用でも入ったんじゃないの」
「急用って何だよ」
「知らないわよ」
「お民さん、俺たちのこと忘れてんじゃねえの」
私は首を横に振って、
「そんなことあるわけないじゃない」
「何で言い切れるんだよ」
「だって、ちょっと待っててね、って言ってたじゃない」
「もうちょっとの範囲過ぎてるよ」
そこで男の子はふて腐れるようにこう言った。
「親もそうだよ。俺のこと忘れてるんだ。だから俺はここにいるんだ」
その言葉はなぜかすっと私の中へ入ってきた。
そっか、と思う。私たちに親がいないのは忘れられているからなのか、と。
結局、お民さんはその話をした後すぐに帰ってきた。私の言ったとおり、何かの用事が入って遅くなってしまったらしい。アク抜きをするために水に入れっぱなしで放っておいたまま、すっかり忘れていたナスがふにゃふにゃになっていた。
あの時の男の子が言った事は、今でもしっかりと憶えている。男の子の顔は憤っているようにも見えたし、悲しんでいるようにも見えた。そして、その目にはどこかあきらめたような暗い印象があった。
私は水につけたおいたナスを取り出す。良い感じにアクが抜けて、食べやすくなっているはずだ。
あの男の子が今何をしているのか、私は知らない。私は博麗の巫女に選ばれてあの場所を離れたし、男の子もきっと今頃はあの場所を離れて生活しているだろう。どんな生活を送っているかわからないけれど、男の子が幸せであってくれたら良いと思う。ただそう思う。
その日の夜、私は自分で料理した焼き茄子を食べた。味はもちろん満足のいくもので、誰が食べても美味しいと言うだろう。せっかくなのだから紫も食べに来れば良いのにと思ったけれど、彼女は本当に気まぐれな性格をしているから、いつ現れるのかはまったく予想ができない。ふっと現れてはふっといなくなる。
「三日後か」
紫と一緒に行こうと約束した秋祭り。カレンダーにつけられた丸印を眺めながら一人呟いた。
三日間はあっという間に過ぎ、約束の日を迎えた。
その日は午前中、空に雲が多くかかっていて不安になったけれど、午後にはすっかり晴れ渡り、私の心配はなくなった。
紫がやって来たのは夕暮れ時だった。
「さあ、行きましょうか」
彼女は私の顔を見るなり、すぐにそんなことを言った。私は特に準備することもなかったので、
「うん」
と答えた。
人里までは飛んでいくことにした。
赤く染まった景色に溶け込むように、二人で上空に舞い上がる。冷たい空気が襲ってきて思わず顔をしかめる。紫は何も感じていないのか、まったく動じる気配はない。人間と妖怪の感覚の違いなんて知らないけれど、比べてみればきっと色々と違うのだろう。ちょっとだけ恨めしく思う。
空には鮮やかな赤色と紺色、それからあかね色とでも言うのだろうか。それぞれのくっきりとしたコントラストが綺麗だった。まだ日は沈みきっていないというのに気の早い星たちがいくつか輝きを放っていた。ずっと先の地平線にオレンジ色の夕日が見える。
「お祭りなんて、いつ以来かしら」
紫がそんな事をつぶやく。
「前にいつ行ったかも、忘れちゃったわけ?」
「それだけ久しぶりなのよ」
「単にボケて忘れてるだけじゃないの」
「失礼な」
「じゃあ、一昨日の晩ご飯は何食べたか憶えてる?」
「一昨日は、えーと、……何だったかしら」
「ほら、ボケて来てるじゃないの」
「そんな些細なこと、一々憶えてる必要がないだけよ」
些細なこと。
確かに晩ご飯なんて私にとっても些細なことだ。でも、紫にとっての些細なことの範囲って、一体どのくらいなのだろう。
ふと私はそんなことを考える。
人里は暖かな灯りに包まれていた。数え切れないほどの提灯が里を照らし出している。
私と紫は人影の少ない場所に降り立った。そこから祭りの中心地へと向けて歩く。しばらく歩くと、徐々に人の数が増えてくる。賑やかさも増してくる。所々に掲げられた提灯の数も増えてくる。
私の横を、子供が一人駆けていった。かと思ったら、今度はその子を追いかけるようにもう一人が紫の横を走り抜けていく。急げ急げ置いていくぞ。おい待てよ。そんなやり取りをしながら、あっという間に二人の影は遠くへ過ぎていく。
思わず口元が緩んだ。だって、あの二人の気持ちが私にはよくわかったから。お祭りなんて年に数えられる程度しかない大きなイベントだ。そんな特別な日に気持ちを抑えろと言う方が無理な話。子供の頃の私とまったく一緒。
おい早くしろよ霊夢、置いていくぞ。そう言って男の子顔負けの速さで駆けていく魔理沙を、ちょっと待ちなさいよ、と文句を言いながらも追いかける私。あれはいつの時のお祭りだったっけ。
そんな事を考えていると、私たちは大通りに出た。
「すごい人の数」
紫がつぶやく。通りの両端は屋台がずらりと並んでいて、それがずっと続いているものだから、通りはかなりの混雑具合を見せている。なかなか迫力のある光景だ。
「これだけ人が多いと、はぐれたら大変ね」
「私から離れないようにしなさいよ、紫」
「はいはい。あなたを見失わないように、ちゃーんと見ておきますわ」
「違う! あんたが勝手にどっか行ったりするなってことよ」
「そうは言っても、あなた、ちょっと目を離すといなくなってたりすることがあるのよ。自覚ないの?」
「う、そう言われれば、小さいときにみんなとはぐれたりしたこともあるけど……」
「霊夢はどこかふわふわしたところがあるから、そのせいね。ひもで繋いでおかないと勝手にどこかへ行こうとする」
「何よそれ。人を風船みたいに」
「風船とは上手いこと言ったわね。あなたのイメージにぴったり」
文句を言ってやろうと思ったけれど、紫は何かを見つけたらしく私を手招きすると、背を向けて歩き出してしまったので、言うタイミングを逃してしまった。
「ほら、これを飲んで少し温まりましょう」
甘酒を売っている出店の前で歩みを止めた紫が言う。
悪くない。彼女はすぐに二人分の甘酒を買って、一つを私によこしてきた。
二人で甘酒を飲みながら、これからどうしようかと話をする。
「お祭りに来たいなんて言ったんだから、なにかやりたいことあるんじゃないの?」
「いいえ、特にはないわよ。ただ単純にお祭りが楽しそうだったから」
「そう。じゃあ、適当にぶらぶら回ってみる?」
「ええ、そうしましょう」
人里には二つの大通りがあって、その二つが交差する場所は大きな広場になっている。だからこういうお祭りなどのイベント時には、そこがメインとなる。
私たちが広場に着くと、そこは人がごった返していた。里中の住民が集まったのではないかと思えるほどだ。広場の中心には櫓が組まれていて、その周りで太鼓やら笛やらを演奏している。愉快げな音が聞こえる。
櫓の周りは人だらけで、隙間なくぎっしりと埋まってしまっている。あれだと近づくことはできそうにない。
私たちは一度広場を離れ、今度は先ほどと違う大通りへと歩を進めた。こちらも同じように両脇にぎっしりと屋台がひしめいている。食べ物の良い匂いがあちこちから流れてきて、食欲がそそられる。
子供達の長い行列ができている綿菓子屋の前を通り過ぎる。独特のザラメの甘い匂いを嗅ぐと、やっぱりお祭りに来たんだなって実感する。白くてふわふわした綿あめを受け取った子供が嬉しそうにはしゃいでいた。
綿菓子屋の数軒隣にお面屋があって、その前にもやっぱり子供達が集団を作っている。並べられているひょっとこの面を指差して、無邪気な笑みをこぼしている。
ふと紫が足を止めたので、私も立ち止まる。
「どうしたの?」
私が訊くと、彼女は黙って右手を持ち上げて指を指した。その先にあったのはリンゴ飴の屋台だった。リンゴ飴と書かれた看板が掲げられていて、お世辞にも絵のセンスがあるとは言えないリンゴの絵が、リンゴ飴の文字の前後にでかでかと描かれている。
「食べたいの、リンゴ飴?」
紫はそっと微笑んでこくりと頷いた。
そんなわけで私たちはリンゴ飴を買うことにした。店主にお金を払うと、好きな物を持って行っていいよ、と言われたので私たちはどれにしようかと話し合った。紫はあのでっかいのが良いんじゃない。霊夢はそっちの小さくもない大きくもないやつが良いんじゃないかしら、なんて。
結局、紫は私が言ったやつを、私は紫が言ったやつを選んだ。
二人でリンゴ飴を片手に再び歩き出す。
「リンゴ飴って食べ方に困らないかしら?」
と紫が言うので、私は首を傾げて、
「そう?」
「ええ。だって、飴って言うくらいなのだから、やっぱり舐めるものだと思うの。でも、囓った方が食べやすい気もするし」
紫は手に持ったリンゴ飴をしげしげと見つめて、無理難題を押しつけられたかのような表情を浮かべた。私は何だかその様子が可笑しくて、ついつい笑ってしまった。すると紫はこっちを向いて、
「あら霊夢。私が困っているのに、何を笑っているの」
「紫にも困ることがあるんだなーって」
「もちろん、あるわよ。私の周りにはいつだって困った事ばかり。むしろ困っていない時の方が珍しいわ。霊夢にも私の苦労を理解して欲しいものね」
「はいはい」
私が適当に返事をすると、
「まったく、霊夢はいつからこんなに可愛くなくなったのかしら。困ったわ」
そう呟くと、紫はリンゴ飴を持っていない方の手を頬に当ててため息を吐いた。
私は声を上げて笑った。
「ところでリンゴ飴の食べ方だけど、私の場合は囓っちゃうなあ」
私はリンゴ飴にかじりついた。甘酸っぱさが口の中に広がって、リンゴのしゃりしゃりとした食感と飴のばりばりとした食感が混ざり合う。私に囓られたリンゴ飴は満月から三日月の形に近づいた。
「随分と豪快にいくのね」
紫は感心したような視線を寄こしてくる。それから視線を自分のリンゴ飴へと移した。紫は私と同じように囓りつこうと思ったようだったけれど、口を開いてリンゴ飴を自分の口の前へ持ってきたところで、思ったよりも大きいということに気がつき、一瞬逡巡した後、
「私はやっぱりゆっくりと舐めることにするわ」
と言って、コーティングされた飴の部分を小さく出した舌で舐めた。
その仕草はとても可愛らしくて、私は心の中でくすくすと笑った。
私たちは歩く。提灯の赤く暖かい明かりに導かれるように。
二人並んで、おんなじ歩幅で。
普段、通り慣れた道であるはずなのに、いつもまったく違う道のように感じられるのは、飾られた提灯や出店といったもののせいだろうか。もしくはお祭りの雰囲気に浮かれた人々の喧噪が私にそう思い込ませているのかもしれない。
それとも紫と一緒にいるから?
なんて。そんなわけない。
紫はいつだって唐突に神社へ上がり込んできては、私の都合には無関心に好き勝手していって私を困らせる。私がお茶を淹れてやるとお茶菓子が欲しいとせがんでくるし、そのくせ自分はそういう嗜好品は全然持ってこないで人の羊羹を食べるだけ食べたら満足して帰って行くし、本当に困った存在だ。
でも、なぜだろう。
そういう何気ない日常が、紫と一緒に過ごした時間が、すごく満ち足りたものに感じる。こうして振り返ってみると、そうした何でもないはずの日常でさえも、私にとって何よりも大切な日々であるようにすら思える。
今、紫と一緒に歩いているのもきっと、そう。こうしてリンゴ飴を片手に、一緒にお祭りの雰囲気を味わいながら、あれこれ見て回った思い出は私の中に残り続けて、時間が経てば立つほど魅力的な輝きを増していくんだと思う。
ねえ、紫。あんたはどう思ってるの?
彼女の横顔をちらりと見てみるけれど、その表情からは何を考えているのかは読み取れない。
妖怪は忘れていく生き物だと、彼女は言った。
一緒にお祭りに来た記憶も、いつか忘れてしまうのだろうか。
異変に一緒に解決に出かけた事も、気まぐれで朝ご飯を作りに来てくれた事も、縁側で一緒にお茶を飲んだことも、なにもかも……。
私は空を仰ぎ見た。空には何もかも飲み込みそうなほど暗い闇が広がっている。いつもの人里とは違い、多くの明かりが灯されているせいだろうか。本来あるはずの星の光が、ここからだとあまり確認することができなかった。
それからどれくらい歩いただろうか。隙間なく軒を連ねていた屋台も途切れて、人の数もまだらになった所で、私たちはもと来た道を引き返すことにした。
里の中央にある広場へ向けて戻っていると、来た時には見落としていた射的屋を目にして、私の中の子供心に火がついた。
「ねえ、紫! 見てあそこ。射的! 射的屋さんある! やっていきましょ」
「あらあら、随分とはしゃいじゃって。射的には霊夢を魅了する何かがあるのかしら」
紫はそう言って苦笑した。
私は気にせずに紫を射的屋の前まで引っ張っていくと、射的用の銃が置かれた台座の前に陣取って、棚の上に並べられた商品を右から左へと眺めた。小さく比較的とりやすいものから、あんなのどうやってとるんだろうと首を傾げたくなるものまで様々。そんな中で私は目当ての物を見つけて興奮が最高潮に達した。
頭はネコに胴体はタヌキ。おへその部分はやっぱり大きなボタンが縫いつけてある。私が子供の頃に取ったあのぬいぐるみとそっくりなものが、棚の上に鎮座している。
「あのぬいぐるみ、取るしかないわね」
「ふうん。あれが欲しいの?」
「悪い?」
「悪くはないけど、あれを取ろうと思う人は少なそうだけど……」
「私は欲しいの!」
「結構難しそうよ。取れるの霊夢?」
紫の言葉に、私はふふんと鼻を鳴らして、
「私の射的の腕前を舐めて貰っちゃ困るわね。まあ、見てなさい」
そう豪語するとさっそく私は店主にお金を払って、置いてあった銃を手に取る。と、そこで紫もお金を払って、横にあった銃を手にした。
「なに、あんたもやるの? どれ狙うわけ」
「さあどうしましょうか。とりあえず霊夢がやるのを見てからやりますわ」
紫は言ってから、一歩後ろに下がった。
私は銃を構えて、獲物を良く見つめる。それから台の上に片手をつき、前のめりになりできる限り腕を伸ばして、目標物との距離を可能な限りつめる。片目を閉じて銃の照準をぬいぐるみの額に合わせると、私は一呼吸置いてから銃の引き金を引こうとした。
と、その時にポンという音と共に私の後頭部に何かが当たった。こつんとした衝撃があり、ちょっと痛かった。後ろを振り向くと、そこには私に向かって銃を構えている紫の姿があった。弾として使われているコルクはその銃にはついてなかった。つまりは私に向けて発射したのだ。
私と視線が合った紫は悪びれる様子もなく、
「あら、ごめん遊ばせ」
とだけ言って微笑んだ。
私は紫をにらみつけて、
「もう一度遊ばせてご覧なさい。ひねるわよ」
「まあ、怖い」
可笑しそうに笑う紫を尻目に、私は気を取り直してもう一度銃を構え直す。今度は邪魔が入ることもなく、私が持つ銃の先からコルクが発射された。狙った位置とは少しずれたが、目標物の胴体には当たった。だけど、わずかに後ろに動いただけで倒れる気配はまったくなかった。
一回の挑戦で二発まで撃つ事ができるので、私は再び狙いを定める。一回目の弾の軌道から予測して、もう少し上を狙う。
発射音と共に勢いよく撃ち出された弾が、今度は狙い通りの位置に当たった。完璧だと思った。ぬいぐるみが後方に傾く。だけど、途中まで傾いたぬいぐるみはそのまま後ろへ倒れることはなく、再び元の位置へと何事もなかったかのように戻った。
むう、と私は唸る。狙いは完璧だったのだけど、そう簡単には倒れてくれないようだ。当然ここであきらめる気はない。もう一度お金を払ってやり直す。隣では紫が涼しい顔で小物を打ち落としていた。
さて、どうするか。狙いは決して間違っていないと思う。子供の頃に取った時もあの位置に当てて倒したのだから。ならばもう一度やってみよう。
銃を構え、二発目と同じ要領で弾を放つ。狙い通り、それはぬいぐるみの額へと当たった。だがやはり傾きはするものの倒れることはなかった。
「うーん、倒れないわねえ」
「苦戦しているようね。手助けしてあげましょうか」
「何か考えがあるの?」
「もちろん。霊夢は今と同じようにやってくれればいいわ」
どうするのかわからないがとりあえず紫の言うことに従う事にする。紫が私のやや後ろに立ち位置を変えたのでちょっと警戒しつつ、私は目標に向かって弾を発射する。もうすでに慣れたもので狙った位置から外れる事はない。弾はぬいぐるみの額に吸い込まれるように当たった。と、その瞬間後ろにいた紫が銃の引き金を引いた。私の発射した弾が当たり傾いた所に今度は紫が撃った弾が当たる。ぬいぐるみはひっくり返るようにして倒れた。
「すごい、やるじゃない紫」
「ふふん。そうでしょう。尊敬しなさい」
「する、する。します。尊敬します」
店主から渡されたぬいぐるみを受け取る。ネコの頭にタヌキの胴体。ずんぐりむっくりとした体型。やっぱり変な見た目だ。でも可愛い。
広場へと戻る道を進みながら、私は獲得したぬいぐるみをしげしげと眺める。私がこの前タンスの引き出しから発見したぬいぐるみとよく似ているが、所々で違う部分がある。どこで作っているのか知らないけれど、改良されているようだった。
「そんなに気に入ったの?」
紫が言う。
「気に入ったというより、懐かしいなー、って思って。小さい時の私は、射的で取ったぬいぐるみをすっごく大事にしてたから」
「そう。じゃあ、それも大事にしなさい」
「うん」
私は短くそう答えて、そのぬいぐるみをぎゅっと両腕に抱え込んだ。
すると紫は笑顔を作って、
「本当、あなたはコスモスみたい」
などと突然そんな事を言い出す。
「ちょっとそれってどういう意味よ」
私が問いただしても、紫はただ微笑むだけで何も言ってこなかった。
私たちは広場へと戻ってきた。人の数は相変わらずだった。太鼓や笛の音も鳴り響いている。櫓を取り囲む人々の熱気はまだまだ冷めやる気配は感じられない。むしろこれから本番だと言わんばかりに、さっきよりもずっと活気があるようにすら感じられる。
たくさんの人々。その数だけ表情があって、その多くは笑っていた。みんなやっぱりこの雰囲気で浮かれているのかもしれない。周りの人の会話から、もう少ししたら櫓の上で演舞が始まるという情報を知った。せっかくだし見ていかないかと私は紫に言うと、紫はいいわよと返答した。
紫はこのお祭りを楽しんでいる様子だった。自分から誘っておいたのだから当然と言えば当然なのだけど、ちょっとだけ安心する。私一人が楽しんでいるだけなんて、そんなのは嫌だったから。
ほどなくして数人の踊り子達が櫓のステージに上がり込んできた。期待をふくんだ周囲の人の目が一点に集中する。太鼓と笛の音が止み、人々のざわざわという声も次第に少なくなって、ほんの一瞬静寂に包まれる。
静寂をそっと優しく押し出すかのように、柔らかい笛の音が響く。するとその音色に合わせて踊り子達がゆったりとした動作で動き出す。あくまでゆっくりと、先ほどまでの空気を壊さないように、自然に流れるような動作で体を動かしていく。
わずかな時間を見ただけでも、あの櫓の上で踊っている人達が、素晴らしい技術を持っているのがわかる。私は踊りにはあまり詳しくないし、まあ多少は舞とかはできなくもないけど、それでも得意というわけではない。だから何がどうすごいのかを説明することはできないのだけど、とにかく踊り子達の動きの一つひとつが人を惹きつける力があるというのはわかる。
だって、私と同じように他の人達の視線も櫓に真っ直ぐ向けられているのだから。
しばらく眺めていると、じわりと懐かしさが込み上げてきた。
小さい頃、お祭りの度にこうやって櫓の周りから踊り子達の姿を眺めたものだ。今よりもっともっと小さい時。身長だって大人の半分くらいしかなかったから、人の背が邪魔をしてなかなか見れなくて、場所取りに苦労した。何とか見える位置を確保して、小さい背を目一杯伸ばして、櫓の上で繰り広げられる踊りに目を輝かせていた当時の記憶がふいに思い起こされる。
いつの間にかお祭りというイベントにあまり足を運ばなくなってしまっていたけれど、でも実際こうやって来てみるとやっぱり楽しくて、来て良かったと思う。
踊り子達の踊りはとても優雅で、私の視線を離してはくれない。彼らの動きに合わせるかのように、私の心も揺れ動く。胸の奥で高揚感が増していく。
高揚感が増していくにつれ、私は過去の色々な場面の記憶がフラッシュバックする。何人かと一緒にお祭りに来て綿菓子を買ったこと。その綿菓子を魔理沙が半分くらいちぎって食べてしまったこと。一緒にいた年上の女の子が自分の綿菓子をちぎって分けてくれたこと。金魚すくいをして、一匹すら取れずに悔しい思いをしたこと。一匹も取れないことに怒った魔理沙が素手で金魚をつかもうとしてお店の人に怒られたこと。みんなで一緒に焼きそばを食べて、美味しいねって言い合ったこと。
そのどれもが私にとって大切な思い出。じわりと胸の奥に熱が帯びて、私はそっとため息を吐いた。
踊りはクライマックスに入り、音楽の演奏にも熱が入る。その熱は空気を通して伝播してくる。観客の熱気がさらに高まるのを感じる。
不思議な気持ち。今この場で実際に体験しているはずなのに、何だか思い出の中にいるような感覚。今にも小さい頃の魔理沙が突然現れて、あの舌っ足らずな、それでいて今と変わらない男口調で「なあ霊夢。もっと近くに行ってみようぜ」なんて言って、私の手を引いて駆け出しそうな気さえしてくる。
などと考えていると、記憶の中にある小さな魔理沙が私の前に姿を現す。その魔理沙は私の方を見て、短い腕をいっぱいに伸ばしてくる。私は彼女に向かって手を伸ばそうとしたのだけれど、その前に小さい頃のわたしがその手をつかんだ。
わたしの手をつかんだ魔理沙は、無邪気な笑みを浮かべて駆け出す。わたしは引っ張られるようにその背についていく。
私がその小さな二人の姿を見送っていると、ふいにわたしが足を止めてこちらを振り返った。くりっとした目を真っ直ぐ私の方へ向けると、可愛らしい口を大きく開けて訊いてくる。
「ねえ、いま楽しい?」
私は彼女の質問に答える。
「もちろん」
すると彼女はにっこりと満足そうに頷いて、
「よかった」
そう言って彼女は魔理沙の後を追って人混みの中へ消えていった。
拍手が巻き起こって、私は現実の世界へと引き戻される。踊りが終わり、拍手に応えるように踊り子達がステージの上で頭を下げた。
私もその姿に拍手を送った。
興奮した気持ちを落ち着けようと、私は一度ほうとため息を吐いた。
それから、何か言いたくて私はそっと口を開いて、
「すごく良かったわね。ねえ、ゆか……」
紫、と名前を呼ぼうとして、最後まで言うことができなかった。隣を向いた私は、そこにいるはずの人物がいなくなっていることに気付いてしまった。
紫が先ほどまで立っていた場所は、そこだけがぽっかりと一人分の空間を作り出している。
心臓の鼓動がわずかに速くなる。
すぐに辺りを見渡してみるけれど、それらしい姿は見あたらない。
人の波が押し寄せる。踊りが終わって思い思いに動き出した人々が私の視界を遮る。
「紫!」
私は叫ぶ。
反応はない。
近くにいた数人の人達がこちらを振り向いたけれど、すぐに元の位置に向き直った。
もう一度、今度はさっきよりも大きな声で叫んでみる。私の声は人々のざわめきにかき消されて、遠くまでは届かないようだった。
何度か紫の名前を呼んでみたけれど、紫が私の前に姿を現せることはなかった。
どこに行ったのよ紫。私は独りごちる。
なんで急にいなくなっちゃうのよ。
どうしようかと思った。ここで待っているべきなのかもしれない。そうしたらひょっこり何事もなかったかのような顔で、甘酒でも片手に「あら、霊夢どうしたの?」なんて言って戻ってくるかもしれない。
でも、私は探すことにした。紫が戻ってくるような気はしなかったし、ただ待つだけというのは落ち着かなかった。
私は歩き出す。まずはこの広場から。櫓を中心にぐるりと回って探すことにする。
文句を言ってやりたい。自分から誘っておいて勝手にいなくなるなんて、まったく本当に自分勝手なやつだと思う。
広場の周囲を取り囲むように立ち並ぶ屋台に目をやりながら、人の影を一人一人見落とさないように注意しながら進んでいく。紫色の服を着た人なんてそんなにいないから目立つはずだけれど、ちょっとした暗がりに入ると黒っぽい色と見分けがつかなくなってしまう。
いくつもの屋台を通り過ぎ、いくつもの人とすれ違う。似たような姿を見つけては鼓動が高鳴り、その度に落胆する。
気がついたら私の中にあった高揚感はどこかへ行ってしまっていた。あれだけ心地良かったお祭りの雰囲気も、なぜか物寂しくすら感じてくる。
不安と焦燥感がない交ぜになって私の心を圧迫する。なぜだろうと自分で思う。どうしてこんなに不安なんだろう。
たかが紫がいなくなっただけ。いつだって彼女は神出鬼没で、気まぐれで突然現れたりいなくなったり、そんなの当たり前のこと。
なのに私はどうしようもなく寂しくて、いなくなった紫の姿を必死に探している。
ぐるりと広場を一周しても紫の姿を見つけることはできなかった。仕方なく私は大通りの方にまで足を向ける。これだけ人が多い中で、四方向に伸びる大通りまで調べるとなると見つけられる可能性はずっと低くなる。そもそも彼女がここにいるとも限らない。能力でどこにだって自由自在に行き来ができるのだから、今頃家に帰っているということもあり得る。
それでも私は紫のことを探す。
せっかくのお祭りなのに、せっかく二人で楽しい思い出を作る良い機会だったのに、こんな中途半端な形で終わるのは嫌だった。
私はそれから散々歩き回った。一つの大通りを往復して今度は別の大通りへ。歩いて、歩いて、歩き続ける。次第に疲れが溜まってきて、足に鈍い痛みがじわじわと先の方から広がってくる。
片手で抱きかかえるように持っていたぬいぐるみが腕からこぼれて落っこちた。私はすぐにそれを拾い上げて、土で汚れた部分を手で払った。そしてため息を一つ。
自分でも無駄なことをしているってわかってる。本当、馬鹿みたいだ。一つのことにこだわるなんて自分らしくないとも思う。
何だか虹の根本でも追いかけているかのよう。決して届かないと理解していても、もしかしたらたどり着けるかもしれないと淡い期待を抱いている。そんな感じ。
お祭りが始まってからだいぶ時間が経ち、いつもの人里ならとっくに静まりかえっている頃だったけれど、特別な夜はまだまだ終わる気配はない。
たくさんの人が行き交う。無邪気にはしゃぎ回っている子供達、何かの資材を抱えている男性、浴衣姿がとても似合っている綺麗な少女。そして、手を繋いで歩く親子。
小さな手をお母さんに引かれて歩く女の子は、端から見ても幸せなんだろうなってわかるくらい満足そうな顔をしていた。
二人が急に立ち止まって、お母さんはしゃがみ込んで女の子と同じ目線で何やら話しかける。女の子はお母さんの話を聞いた後、大きな動作で頷いた。それを見たお母さんがにっこりと笑って女の子の頭を優しく撫でた。
ふいに私は何だか胸が締め付けられるような感覚に襲われる。
何でこんな時に思い出すんだろう。
頭の片隅に埋もれていた記憶が引っ張り上げられる。
いつだったか、私がひどい風邪を引いて熱に浮かされていた時のことだ。
どうしようもないほど体が重くって、おまけに寒気でふるえが止まらなかった私は布団にくるまって横になっていた。
食欲は失ってはいなかったからお腹は空いたのだけど、わずかに体を動かすことさえも億劫だったから料理なんてする気はまったく起きなかった。結局、空腹を我慢しながら寝て過ごすことにした。
そんな時に紫はやって来た。
「あらあら、とてもつらそうね。大丈夫?」
声がして目を開くと、紫が私の顔を覗き込むように見下ろしていた。よほど私が具合を悪そうにしていたせいか、彼女の顔にはいつものとぼけたような笑みはなくて、心配そうに私のことを見つめていた。
お腹空いた、と私はその目を見つめ返して言う。
「何か食べたいものある?」
と紫は言ったので私は正直に答えた。
「肉が食べたい。ものすごく高いやつ」
紫は笑った。
「そんなに具合悪そうなのに、よく言うわ」
「……しょうがないでしょう。食べたいものは食べたいんだから」
「だめよ。もっと消化にいいものにしましょう。定番だけど、おかゆにでもしましょうか」
「えー」
「えー、じゃありません」
「……けち。こんな時なんだから、わがままくらい聞いてくれてもいいのに」
「一回くらいはわがまま聞いてあげてもいいけれど、それは今じゃないわ」
そう言うと彼女は部屋から出て行った。目を閉じてしばらく待っていると、お盆を携えて戻ってきた。お盆の上に載せられていたのは何の変哲もない卵の入ったおかゆだったけれど、空腹だった私はすぐにそれを食べる。
見た目も普通だったし、味も至って普通だった。
私がおかゆを口にしている時、紫はずっと黙っていた。美味しい? とも訊いてこなかったし、食べさせてあげましょうか? とも言ってこなかった。彼女はただ私の近くに座っていただけ。でも、それがなんだか私にとってはありがたかった。
どうやら精神的にもかなり弱っていたらしい。自分を気に掛けてくれる人がいるということがすごく嬉しくて、心がじんわりと熱を帯びていくのを感じる。
おかゆを食べ終えると、紫はお薬をどうぞと言って、紙に包まれた薬を差しだしてきた。ひどく苦かったけれど言われるままに飲み干した。
その後すぐに眠気が襲ってきて私は横になった。段々とまどろんでいく意識にほんの少しあらがい、紫に声をかける。
「ねえ、紫。さっき一回くらいはわがままを聞いてくれてもいいって言ったわよね」
「ん、まあ、言ったわね」
「それ忘れないでよ」
「はいはい。とりあえずあなたは風邪を治しなさい」
彼女は右手を私のおでこにそっと置いた。綺麗な手だと思った。柔らかくて、ひんやりとしていて気持ち良かった。不思議と心が落ち着いて目を閉じる。
心なしか風邪の症状が少し和らいだ気がする。今までにないほどの眠気が襲ってくる。
今にも眠ってしまいそうなまどろみの中で、私はそっと薄目を開けて紫の顔を確認する。彼女は優しく細めた目で静かに私のことを見ていた。私はすっかり安心して、再び目を閉じた。
私がはっきり憶えているのはここまで。きっとその後すぐに眠ってしまったのだろう。そして次の日になって目が覚めた私は、昨日までの体調の悪さが嘘のように快復していた。
私は今でもあの時のことを感謝している。
思えば紫が私の家に来て料理を作ってくれるようになったのも、あの日以降から始まったはず。
ねえ、紫。
何で料理作ってくれるのって訊いたら、ただの気まぐれよ、なんてアンタは答えるけれど、本当は私のことを気に掛けてくれてるの知ってるよ。
自分で料理する手間が省けるわ、なんて私は誤魔化すけれど、本当はすごく嬉しいよ。面と向かってありがとうなんて言えないけれど、私は心の中ではとっても感謝してるんだから。
いつからかな。紫と一緒にいると、何だか安心できるようになったのは。ただ一緒にお茶を飲むだけでも、悪くないなって思えるようになったのは。
最初は博麗の巫女と妖怪という関係だったはず。それがいつの間にか私の中で紫の存在が大きくなっていって、気がついてみたら私にとって大切な存在になっていた。
紫が神社にやって来るのは私のことを心配してくれてるからなんでしょう。アンタは頭が良いからきっとわかってるんだと思う。私の心の中にずっと長い間空いていた隙間に気がついて、それを埋めようとしてくれてるんだよね。
何となく気がついてた。
気がついてたけどそれを言うのも何だか気恥ずかしくて、気が付いてないようなふりをしてた。アンタはきっとそれすらも気付いているんでしょう。気付いていながら、私と同じように気が付いてないような態度を取ってる。
本当に、お互い素直じゃないね。
ねえ、紫。
一度だけわがままを聞いてもいいって言ってたよね。あれさ、今じゃだめかな。特別でも何でもなくていいから、ずっと忘れられない思い出を作ろう。私がもしいなくなった後も、ずっとずっとその後になっても忘れらないような思い出を。そして時々でいいから、そういえばあのとき霊夢とこんなことしたなって、ふとした拍子に思い出して笑ってくれたらいい。
ねえ、だめかな?
どうしてこんな時にいなくなっちゃうのよ紫。どこに行ったのよ、……ばか、ばか。
妖怪は忘れていく生き物、なんてアンタが言うから私はこんなに苦しい思いをしてる。いつか私のことを忘れてしまうんじゃないかって思ったら不安でいっぱいになる。
このお祭りが今年最後のチャンスだった。冬の間、紫は眠ってしまうから。だから今日せめて気休めでもいいから、楽しい思い出を残せたら良いって思ったのに……。
どうせ来年の春になったら何事もなく寝ぼけた顔でやって来るのはわかってる。これからいくらでも思い出を残すチャンスはある。でも私は今がいい。このまま心にもやもやとしたものを抱えながら、この冬を越すのはまっぴらごめんだ。
ねえ、紫。私はもう忘れられたくないよ……。
散々歩き倒して、すっかりくたくたになっていた。
もう疲れた。歩きたくない。
通りの隅で立ち止まった私は、目の前を通り過ぎていく人々を見送った。里にはたくさんの人が住んでいるんだなって改めて思う。こんなにたくさんの人がいるのに、私は独りぼっちで、寂しさが込み上げてくる。
こんなに探し回っても見つからないのだ。きっとこれ以上探したって無駄だと思う。
もうあきらめてしまおう。
残念だけど、ここまで。
そう思うと余計に胸が苦しくなって、私はその場でしゃがみ込んで必死に堪えた。目の奥が熱くなるのを感じる。今にも自分の心が雫となってこぼれ落ちそうになるのを我慢する。
まったく情けない。
こんなつまらない事で泣きたくなるなんて、ほんと情けない。
いつまでもこんな所でしゃがみ込んでいても仕方がなかった。神社に帰ろうと思った。一度大きく息を吸い込んで、ゆっくりと吐き出してから、私は立ち上がろうとした。
その時だった。
「ひょっとして博麗の巫女様じゃないかい。どうしたんだ、こんな所でうずくまって」
野太い男の人の声が上から降りかかって来て、私は顔だけをそちらに向ける。頭にはちまきを巻いた男の人が私の事を見下ろしていた。
その顔を見てはっとした。見覚えのある顔だった。
「大丈夫かい?」
と彼は尋ねてくる。
私は「うん」と一言だけ返した。それから「大丈夫」と付け加えた。
男の人は「そうか」とだけ言って、半袖から覗かせるごつい腕を組みながら神妙な面持ちで私の事を見ていた。
それから、よしと声を上げて、
「ちょっとそこで待ってな。すぐ戻ってくるからよ」
と言って背を向けて歩いて行った。数分もしないうちに彼は戻って来た。手には焼きそばの入った器を持っていた。その器を私の方へ押しつけるように差し出すと、
「ほら、食いな。オレにはよくわからねえが、元気なさそうに見えたからよ。とりあえずこれ食えば元気は出るはずだ」
そう言って笑った。
私は黙ってそれを受け取って、手に収まる焼きそばをちょっとだけ見つめてから、ゆっくりと食べ始めた。
お腹が空いていたというのもあるのかもしれない。その焼きそばはとても美味しくて、食べ始めたら止まらなかった。それになぜだか食べるにつれて少しずつだけど、元気が湧いてくるようだった。
男の人は私の横で地べたに座り込んで、私が焼きそばを食べる所をじっと眺めていた。
私が食べ終えると、彼は明るい声を上げて、
「どうだい、オレの焼きそばは? うまかったか?」
「うん」
「そうか、それは良かった」
少しの沈黙。
それから、
「何か困ったことでもあるのかい?」
わずかの沈黙の後、私は小さく、
「……うん」
男の人はそうかあと呟いた。そして、こんな事を言った。
「何に困ってるのか知らないけどよ、大丈夫だよ。オレの作った焼きそばを食って、うまいと感じられるうちは絶対に大丈夫だ」
懐かしい言葉だった。昔、同じようなことを言われた。
大きく笑った男の人の顔は、私の記憶の中にあった顔よりも当然ながら年を重ねていたけれど、この自信に満ちあふれた声はまったく一緒だった。
ただ、彼はその後、私がまったく予想していなかった事を言う。
「あの時だって大丈夫だったろ、なあお嬢ちゃん」
ああ、この人は――このおじちゃんは私の事を憶えていてくれたんだ。ずっと昔、私が小さい時にみんなとはぐれて困っていた時に助けてくれた、あの時の事を憶えていてくれたんだ。
冷えていた心に再び熱が戻ってくる。
すっかり折れかけていた気持ちが、その言葉によって打ち直されたかのように、より強くなって戻ってくる。
大丈夫だ。もう大丈夫。この人がまた助けてくれた。あの時と同じように。だから大丈夫。
あきらめるのはまだ早い。まだお祭りは終わりじゃない。
私は空になった容器をおじちゃんに返すと、勢いよく立ち上がる。
「ありがとう。元気出た。私、行かなきゃ」
私が言うと、彼は、
「おう。頑張れよ」
私の背を押してくれるように元気な声で答えてくれた。
私は駆け出す。
目指す場所は広場。すっかりくたくたになっていた足にも力が戻っている。
人の隙間を縫うように私は駆け抜ける。
紫を探すのはもう止めた。探したってどうせ見つからない。だから、私は別の方法をとることにする。
探してだめなら、見つけてもらう。それならやることは一つ。
と、私は見慣れた格好をした姿を視界に捉えて足を止めた。とんがり帽子に白と黒を基調とした服。彼女は屋台の前にできている列に並んでいた。
「魔理沙!」
私が叫ぶと、彼女は振り向いた。
「おお、霊夢じゃないか。何だよ、お前も来てたのか」
私は魔理沙に歩み寄る。魔理沙は嬉しそうな表情を浮かべて、
「あのな霊夢、見てくれよ。リンゴ飴とチョコバナナの屋台が並んでるだろ。それで私どっちを食べようかなって迷ったんだよ。んで、ちょっと迷ってじゃあどっちも食べればいいやってなったんだけど、問題はどっちを先に食べるかって事になったわけだ。どうしようかなーって考えたあげく、結局チョコバナナを……、って霊夢どうしたんだ、そんな真剣な顔して」
彼女はいつもと違う私の雰囲気を感じ取って、真面目な顔つきになる。チョコバナナの屋台の前で、私は荒くなった呼吸を一度落ち着けると魔理沙に向かって言い放つ。
「魔理沙。遭難ごっこやるわよ」
突然こんな事を言われたら誰だって困惑するだろう。魔理沙も案の定そういう表情を浮かべた。
「何だよ、霊夢」
と彼女は言った。突然何を言い出すんだ、とか、どういう理由か説明しろ、なんて言うのが普通だと思うし、魔理沙もここまでは普通の反応を見せた。だけど、この霧雨魔理沙という少女を舐めてもらっては困る。
魔理沙は一瞬困惑したような表情を浮かべたものの、すぐにその表情を柔らかくして、
「何だよ、やっぱりお前もやりたかったんじゃないか」
そう言って笑った。
私は魔理沙を引き連れて広場まで戻ってきた。
踊り子達がいた櫓のステージには今は誰の姿もない。太鼓や笛の音もなくて、お祭りを楽しんでいる人々の声だけがこだましている。
櫓に誰もいないのはちょうど良かった。あの場所を使おうと思っていたから。
これからやろうと思っている事を魔理沙に説明して、手伝ってくれと言ったら、彼女は「おういいぜ」と二つ返事で引き受けてくれた。結局、どういう事情なのかは言わなかったし、魔理沙も訊いてこなかった。なんだかんだ言って魔理沙との付き合いも長いから何となくわかっているのかもしれない。ただ単純に面白そうだから、と思っている可能性もあるけれど。
「所でさ、その手に持ってるの、射的で取ったのか?」
魔理沙は私が腕に抱えていたぬいぐるみを指差して訊いてきた。
「ああ、これ。うん、そうよ。さっき射的で景品になっているのを見つけたから、取ってきたの」
「ふうん。やっぱり変な見た目だな」
「変だけど可愛いでしょ」
「まあ、お前が気に入っているならそれでいいや」
魔理沙は苦笑した。失礼な、こんなに可愛いのに。ネコの頭にタヌキのような体。丸っこい大福みたいな尻尾。お腹に付いてるおへそ代わりの大きなとってもボタンがチャーミング。
私がそのボタンを指でつついていると魔理沙が、
「あのさ霊夢。この前、話したよな。ずっと小さい頃に、霊夢が博麗の巫女になるのが決まって、私が大泣きしたってやつ」
「うん。すっごい泣き叫んでたわよ。嫌だ嫌だ、霊夢が行っちゃうのは嫌だ、って地面に寝転んでずっと駄々こねてたのよね」
「いいんだよその時の鮮明な描写は口に出さなくて。それよりも、この前は霊夢がぬいぐるみに付いてたボタンをくれた事、私は憶えてないみたいな態度だっただろ。あれさ」
そこで魔理沙は片手で頭を掻きながら、
「嘘だよ。今でもしっかり憶えてる。お前があの時くれたボタンはちゃんと大切にとってあるよ」
そう言って彼女は恥ずかしそうにうつむいた。
ずるいと思う。このタイミングでそんな事を言うのはずるい。
嬉しかった。魔理沙がちゃんとあの時の事を憶えていてくれて。その事が本当に嬉しくて、自然と笑みがこぼれた。
「これからもずっと持っておきなさいよ」
魔理沙も同じように笑みを浮かべて、
「ああ、わかったよ。さてじゃあそろそろ行ってこいよ霊夢。サポートは任せろ」
そう言って魔理沙は私の背中を押してくれた。私はそのまま空へ舞い上がると、櫓のステージの上に降り立った。
櫓の上から見る広場の景色はまた違ったものだ。ここからだと、人の流れが良く見える。提灯の明かりに照らされた顔が夜の暗さの中にくっきりと浮かび上がっている。
さて、始めようか。遭難ごっこ。
子供の頃に良くやった遊び。誰が思いついたのか知らないけれど馬鹿馬鹿しい遊びだと思う。でもそんな馬鹿馬鹿しさが面白くて、幻想郷に生まれた人間は誰だって一度はやったことがあるくらい人気の遊び。
ルールは至ってシンプル。相手に見つけてもらえばいい。
私の立っている場所が明るくライトアップされる。いくつもの光の筋が集まる。それは魔理沙の魔法。櫓が色鮮やかに照らし出された。
櫓の周辺にいた人達が、何か始まるのかと期待するような視線を送ってくる。
遭難ごっこでは相手に見つけてもらうためのアピールを色々と工夫をする。声を出して相手を呼ぶのはズルだから、それ以外で色々とやった。棒きれに布を巻き付けてそれを振ったり、何かを燃やして煙を上げたり――当然そんな事をすると大人に怒られるんだけど――と、まあ色々だ。
今日はお祭り。せっかくなのだから、その雰囲気に合うものにしよう。
というわけで私はぬいぐるみを隅っこの方へ置いて、ステージの中央に陣取った。
先ほどの踊り子が見せた踊りのように、あんなにすごいのはできないけれど、私だって巫女なのだから舞の一つや二つくらいできる。
櫓の周辺でざわざわという声が大きくなる。博麗の巫女がステージの上にいたら、期待してしまうのも無理はないのかもしれない。でも残念。私がこれからやるのは遭難ごっこで、すごく個人的なもの。みんなに見せるためのものじゃないし、私が自分のためにやるもの。
遭難ごっこのルールでは例え相手に見つけてもらえたとしても、その場所が目立つ所だった場合、点数は入らないんだけど、今日は特別。
紫、アンタが今どこにいるか知らないけれど、私はここにいるわよ。
そうして私は静かに舞を始める。
踊りのような激しさはない。腕や指先の細かな動きをゆったりとした動作で見せる。
腕を伸ばし指先にまで注意を払って、水が流れるようなイメージで動いていく。
多くの視線が集まるのを感じる。
舞というのは本来、神様に奉納するためのものだ。きっとみんな私が神事を行っているのだと思っているだろう。まさか目立つから、という理由で舞っているなんて誰も思わないはず。
舞台の上にいると何だか外側と切り離されているような気がする。まるで孤島だ。私はその上で遭難してる。大切な人とはぐれて必死にSOS信号を送ってる。
私が舞っていると、いつの間にか笛の音が聞こえてきた。私の動きに合わせるように凛とした音が空気に乗って響き渡る。
広場にいる多くの人が私の方へ顔を向けている。ねえ、紫。アンタはこの中にいる? それともどこか別の場所にいるの? どこにいてもいいから早く私のことを見つけなさいよ。
子供の頃、魔理沙が見張り台の上から必死に帽子を手に持って振っていた姿を思い出す。私はここだ、見つけてくれ、って必死に訴えかけていたのを見つけたのは私だった。
あの時の魔理沙のように私は必死に祈る。
私はここにいるよ、って。
お願いだから見つけて、って。
私はただ祈りながら舞う。
秋の日の特別な夜。
大人も子供も、今日という日は夜遅くまで活発に動き回る。人里は暖かい光に包まれて、寝静まることを忘れた人々で埋め尽くされる。まるでいつまでもこの時間が続いていくかのように。
そう言えば、紫と初めて一緒に異変解決に乗りだしたのも夜だった。欠けた月の謎を追い求めて、明けることのない夜を二人で飛び回った。
今まで誰かと一緒に異変を解決するなんてことはなかったから、あの日の出来事は良く憶えている。はっきり言って異変なんて面倒以外の何ものでもないし、さっさと解決してしまいたいというのは、あの夜も同じだった。
けれど、あの夜に二人で一緒に夜を飛び回った時間は、今となってはやっぱり悪くなかったって思える。それに紫が私のことを頼ってくれたのはちょっぴり嬉しかった。
紫は私にとって特別。魔理沙なんかも小さい頃からずっと友達だし特別な存在ではあるのだけど、紫の場合はまたそれとは違ったものだ。
何がどう特別なのか安易に言葉にはしたくない。この心に秘めた思いを口に出そうなんて、それこそ私らしくない。
ねえ、紫。それでもこれだけは言わせなさいよ。
私はここにいるから、早く迎えに来て。
そして、私の舞は終結へと向かう。
舞台の上を弧を描くように歩いて再び最初の位置に戻ってくる。伸ばした腕を折りたたんで、最後に一礼。
下げた頭をゆっくりと上げると、拍手が飛び交った。それは打ち寄せる波が弾ける音に似ていた。
どうだったのだろう。私の思いは、届いたのかな。
ぼんやりとそんな思う。
ふうと息を吐いて、私はそっと空を見上げようとした。
その時だった。
不意に体が無重力に包まれる。周りの景色が一瞬にして暗闇に塗り変わる。自分が落下している事に気付いたのは、不自然に空いた空間が目に入ったからだった。
誰の仕業かすぐに理解する。
私が立っていたすぐ足下の空間を開いて即席の落とし穴を作り上げたのだ。
開いていた空間が閉じると何も見えなくなった。私は目を閉じた。
落下はすぐに止まった。背中が地面に着いたのを感じた。痛みはなかった。虫の鳴き声が聞こえる。土の匂いがする。草が首元をくすぐっているのがわかった。
私はそっと目を開いた。
そこにはずっと探していた人物の顔。いつものように絵画の中にいる女性のような微笑みをたたえた彼女は、私の事を見下ろしていた。
「……紫」
「うん、何かしら?」
まるでさっきからずっと一緒にいたかのように、その口調は普段通りだった。
自分でもわからない感情が浮かび上がってきた。ひどく腹が立ったし、ひどく安心もした。何を口にしようか迷って、私は結局、
「……ばか」
と一言だけ。
「ええ、そうね。悪かったわ。ごめんね霊夢」
と彼女は素直に謝った。それから、
「あなたに見せたいものがあったのだけど、この場所を見つけるのに時間がかかっちゃってね。すっかり様変わりしてるんだもの。それで今度は霊夢を探そうと思ったのだけど、目立つ場所にいてくれたから助かったわ」
草の上に寝転んでいた私は身体を起こした。そこは小高い丘の頂上だった。明かりはなく、月の光だけが私たちを照らしている。
斜面の下に目をやると、そこにはたくさんのコスモスが咲いていた。この丘を取り囲むように背の高いコスモスの花が一面に咲き乱れている。月の光に照らされた花畑はとても幻想的な風景だった。
「このコスモスの花が見せたいもの?」
私が訊くと、紫は静かに首を横に振った。
「この幻想郷に結界を張り終えた後、本当に綺麗な星空が広がっていた、って言ったでしょ。あの時に見た空をあなたにも見て欲しくてね。ほら、ちょうどこの丘の上から眺めたのよ」
紫はそう言うと上を向いた。私も真似をして上を仰ぎ見る。
息を呑んだ。
その光景があまりにも綺麗だったから。
濃淡のある夜空がどこまでも伸び広がっている。濃紺色の空はずっと深い海の底を思わせた。
そんな深い色合いの中で、圧倒的な数の星々が自分の存在を示しているかのように光り輝いている。光の揺らめきすら感じられる。まるで星が呼吸しているみたい。一つひとつの星の呼吸が、いつもよりもずっとずっと星との距離が近くなっているようにすら思わせる。雨が突然降り出したタイミングで時間を止めて、雨の粒を光らせたらきっとこんな風になると思う。
この光景がどこまでも続いているのだから、これを見て何も思わないなんてどうかしてる。
今まで見た星空の中で、一番綺麗だった。
本当にただただ綺麗で、私は黙ってその空を眺め続けた。
しばらくしてから私は空を眺めたまま、そっと口を開いた。
「これが紫の思い出なのね」
「ええ、そうよ」
「忘れちゃダメよ、絶対に」
「これだけ綺麗な星空、忘れられるかしら?」
紫の言葉に、私は黙って首を振った。
忘れられない。忘れられるわけない。
こんなに素敵な星空を、忘れるなんてできるわけないと思う。私の心にはもうすでにこの光景が焼き付いている。
と、紫が何かを投げて寄こしたのに気が付いて、私はとっさにそれを受け取った。射的で取ったぬいぐるみだった。
「大事にしておくんでしょ?」
私は頷いた。それからあることを思い出す。
「ねえ紫。ずっと前、私が風邪を引いた時に看病してくれたことがあったでしょ。あの時に言ってくれたわよね。一度くらいはわがままを聞いてくれてもいいって」
「……そうね。言ったかもしれないわね」
「じゃあさ、はいこれ」
ぬいぐるみのお腹に付いていたボタンを抜き取って、それを紫に手渡す。
「何これ?」
「いいから。それ大事にとっておいて。それが私のわがまま」
魔理沙が憶えていてくれたように、紫も憶えていてくれたらいい。私がこのボタンを渡したこと。
それだけじゃない。今日ここで一緒に星空を眺めたこと。一緒にお祭りを楽しんだこと。それ以外にいっぱいいっぱい色々なことをしたこと。ずっと時間が経って私がいなくなった後も、そのボタンを見て、博麗霊夢という存在がいたことを思い出してくれたらいい。そんな願いを込めて。
受け取った紫は不思議そうにそのボタンを眺めていた。それからふっと表情を柔らかくすると、私の方に顔を向けた。いつもの胡散臭い笑みじゃなくて、人を安心させるようなすごく自然な笑みだった。
「ねえ霊夢。こんな風に星が数え切れないほどあるのは、何でか考えたことある?」
突然の質問に私は首を横に振った。
「私はね、世界というシステムを維持するために存在してるんだって思ってるの。人間の体が小さな細胞からできているように、ね。細胞と同じように、この世界のどこかで星は生まれて、そして死んでいく。それを繰り返して、私たちの世界は成り立っている。そう思うと、この風景がより美しく見えて、何だか素敵でしょう」
「ロマンティックね」
私がのんきにそんな返事をすると、紫は星空へ向けて手を伸ばした。
その時の私は、はっきり言って油断していた。すっかり失念していた。紫が私のことに関しては何でもお見通しだってこと。だから、紫が次に発した一言は私に大きな衝撃を与えた。
「こんな風に世界が美しく成り立っている様を、ギリシャ語で『コスモス』って言うのよ」
涙がこぼれた。
ずっと我慢していたのに、その一言で全てが崩れ去った。
だって、紫が何を伝えようとしているのか、わかってしまったから。
まったくずるいと思う。こんなの我慢できるわけがない。抑えようとしても涙は私の意志に反して次から次へと溢れてくる。視界が涙でぼやけてはっきりとしない。私はその場でずっとすすり泣いた。
紫はその間、何も言わないでただ傍に寄り添ってくれていた。
どれくらい泣いたかわからない。きっと鏡を見たらひどい事になってると思う。目だってたぶん真っ赤だし、涙の筋がくっきりと跡になっているはずだ。でも、紫はそんな私のことを茶化したりしなかった。
ひとしきり泣いて落ち着いた頃、私たちは地面に座り込んでまた一緒に星空を眺めた。ただ一緒に星を眺めているだけでよかった。いつまででもこうしていられるような気がした。流れ星を見つけた私が声を上げて指差すと、紫が顔を寄せて、どこかしら? と訊いてきた。ほらあそこ、と私が言った頃には流れ星は消えていた。
たくさんの星の下で私たちは色々な会話をした。流れ星にお願いをしたら本当に願いが叶うのかな。この場所からあの星までどれくらい距離があるのかな。ここから見える星のどこかに、私たちと同じように星を眺めている人がいるのかな。もしいたとしたら、私たちのいる星も綺麗に見えていたらいいな、なんて。
話したいことを話し終えた後、私たちは黙った。沈黙も心地良かった。
それからしばらくの間、そうして星を眺めていたけれど、もうそろそろ帰る時間よ、と紫が言ったので仕方なく帰ることにした。
帰り際、紫はこんなことを言ってきた。
「ねえ霊夢。一昨日の晩ご飯、何だったか憶えてる?」
私はふっと息を吐いて、
「そんなの忘れたわよ」
私たちは目を見合わせて、それから二人で大きな声で笑い合った。
秋の夜の二人だけの思い出。
私はその発言にふと箸を止めた。
目の前には紫が用意してくれた朝食があって、テーブルを挟んで向こう側にはやっぱり紫がいる。
紫はたまにこうして朝食やら夕食を作りに来ることがある。なぜかと訊いてみると、ただの気まぐれよ、と返してくるから、自分で料理する手間が省けるわ、って私は言い返す。
紫の料理の腕の方はそこそこだ。
さて、私は紫がいま発言したことについて考えてみる。
コスモスと言えば秋に咲く可愛らしい花のことだ。花言葉は確か乙女の真心とかそんな感じだったと思う。
やれやれ紫もやっとこの私の魅力がわかってきたか。もしそう思っているのなら、大事にとっておいた羊羹を出してやるのもやぶさかではない。
などと考えていると、紫が続きを話し始める。
「コスモスってね、すごく綺麗で儚くて弱々しいイメージがあるでしょ? でも本当は、茎の途中で折れてもそこからまた根を生やして立ち上がるくらい強いのよ。そんなしぶとい生命力を持ってるところがそっくりじゃない」
訂正する。羊羹は絶対に出してやらない。しぶとい生命力ってなんだあれのことを言っているのか。お茶も出涸らしのやつだけしか出してやらない。絶対に。
そんな風に心の中で固い決意をしている私に、紫が視線を送って来る。
「怒った?」
「怒るようなことを言った覚えはあるのね」
「さあ」
私はため息をつきながらご飯を口に運ぶ。紫はにこにこと嬉しそうだった。人を小馬鹿にすることが好きなのだ。まったく本当にいい性格をしている。料理が美味しいのも何だか余計に憎らしい。
朝食を食べ終え片付けをした後、縁側に座ってのんびりとお茶を啜りながら一日の始まりを感じる。紫は隣に座って、私が出してやったお茶にそっと息を吹きかけている。
ふと庭の方へ視線を向けると、そこにはひっそりとコスモスが一輪咲いていた。薄ピンク色の花びらを空に向けて広げている姿は可愛らしくて、真っ直ぐな健気さがあった。なるほど、紫はこれを見てあんなことを言ったのかと一人納得する。
季節はもうすっかり秋だった。風には肌寒さも感じ、木々は色めき始めている。つい最近まで暑さにうなされていたと思ったら、気がつけばもう遠い過去のように涼しげな気候になっている。季節はすぐに過ぎて行く。冬もすぐにやって来るのだろう。
そういえば、と私は思い出す。
「紫、あんたいつ冬眠するの?」
この大妖怪様は冬の間は寝て過ごすのだ。まるで熊のように。本人にそう言ったら、きっと怒るだろうけれど。
「んー、そうねえ。今月いっぱいまでは起きているつもりだけど」
「そう」
そっとつぶやいてお茶を啜る。お茶のほんのりとした温かさが心地良く感じられる。
「なあに霊夢。もしかして寂しいの? 私にしばらく会えないのが」
「別に」
「ひどーい。寂しいって言ってくれてもいいじゃない」
まるで子供のように頬をふくらませる紫。私は無視をして再びお茶を飲む。彼女の動作の一つ一つに付き合っていたらこっちの身が持たない。面倒なときは見てないふりをするのが一番。
私が無視を続けていると、紫はあきらめたのかそっと前に向き直った。
しばらく黙ってそうしていると急に脇腹の辺りを軽く小突かれた。何だろうと思い視線を向けてみると、紫が手に持っていた扇子でつっつきながら、
「ねえねえ霊夢。私、お茶請けが欲しいですわ」
「ないわよ。そんなもの」
すると紫はにやりと不気味な笑みを見せる。嫌な予感がした。
「ふふん。嘘はいけないわね。タンスの奥、『儀式用小道具』って書かれた箱の中に、大事にしまってあるのはわかっているのよ」
「ちょっと、なんで知ってるのよ!」
私は声を上げて訴える。紫の言うとおり、そこには羊羹がしまってある。儀式用小道具と書かれた箱に入れたのは、誰かが勝手にタンスを荒らしても絶対にばれないようにするためだ。
「私はね、霊夢のことなら何でも知っているのよ」
飄々とそんなことを言う。
「不気味なことを言わないでちょうだい」
ねえ早く早く、とせがむ紫に私は折れるしかなかった。しぶしぶ立ち上がって居間に戻ると、年季が入って引き出しを動かす度に軋んだ音を立てるタンスの奥から、儀式用小道具と書かれた箱を取り出す。良いアイデアだと思ったのだけど、紫には通用しないようだった。思い返してみると、私が自分だけの秘密にしておこうと決めたものだったり出来事だったりを、紫はことごとく見抜いてきた。一体どうやっているのだろう。
羊羹を取り出し、箱を戻そうと引き出しを覗き込んだ。
と、そこで引き出しの奥に懐かしい物を見つけて、私は思わず顔がほころぶのを感じた。
手を突っ込んで引っ張り出すと、多少汚れてはいるものの、それは当時のままの姿を現した。
ぬいぐるみだった。
小さい頃にとても大切にしていたもので、ネコのような顔をしているのに体はタヌキにしか見えないし、尻尾は大福がくっついてるみたい。何とも不思議な見た目をしている。本当ならお腹の部分には大きなボタンのおへそが付いていたのだけど、それはずっと昔に魔理沙にあげてしまった。
長い間このタンスの引き出しにしまっておいて忘れていたようだ。端っこの方へ押しやられていたから、まったく気がつかなかったのだろう。あまりにも懐かしくて色々な記憶が蘇ってくる。
私は羊羹を二人分切り分けるとそれをお盆に載せて、おまけにさっき見つけたぬいぐるみも載せて、紫の許へ戻った。
「持ってきてあげたわよ」
「ん、ありがと」
紫はさっそく羊羹をつまみ上げると口の中に放り込んだ。
「あら、美味しい。良い物を持ってるじゃない。……ところで、それは何かしら?」
彼女は羊羹に舌鼓を打ちながら私が持ってきたぬいぐるみに視線を向けた。
「これはね、私がずっと小さいときに、お祭りの射的で取ったやつなのよ」
「ふうん。変な見た目」
彼女はそう言うと、ぬいぐるみの顔の部分を人差し指でつっついた。
確かに変な見た目だった。だけど、小さい頃の私は射的屋でこれを一目見て、どうしても欲しいと思ったのだった。
一度では当然ながら取れなかった。だけど何度か失敗し、その度にコツをつかんでいった私は、狙い澄ましてネコの額の部分を打ち抜いた。うまい具合に当たったらしく、ぬいぐるみがバランスを崩して倒れた時、私は思わず叫び、手を叩いて喜んだ。おめでとう、と射的屋の人にぬいぐるみを渡されて、周りにいた人たちに私が取ったのよすごいでしょ、なんて自慢したのを憶えている。いま思い出すとちょっとだけ恥ずかしいけれど、とにかく当時の私はぬいぐるみを取ったことが嬉しくてとても興奮したのだ。
ずっとずっと小さい時の思い出。だけど、一度思い出したらあの時の記憶が引っ張り上げられるように、次々と色々な場面が浮かび上がってくる。
「そう言えば、その時のお祭りでね」
と私は話を切り出す。
「私は何人かの子供たちといっしょに楽しんでたの。確か魔理沙もいっしょだったかな。年頃はほとんどバラバラだったけど、一番上の子がみんなをうまくまとめてた。周りには人がいっぱいいて歩くのも大変なくらいだったわ。屋台もたくさんあって、辺りに食べ物のいい匂いが漂っていて、次は何を食べよう、何をしようって私はすごく楽しくてはしゃいでた。でも、屋台に気を取られているうちに途中で私だけはぐれちゃったの」
隣で「はぐれいむ」と言う声が聞こえたけど、無視する。
「それでまずはみんなを探さなくちゃって思って、いろんなところを歩き回って、人にも訊いたりして、頑張って探したの。だけど全然見つからなくてね。どうしようってすごく困ったの。どうしたらいいか必死に考えてみるんだけど、全然いい考えが思いつかなくて、もう何がなんだかわからなくなって、とにかく寂しくなってね。もしかしたら、もう二度とみんなに会えないんじゃないかなんて考えもして。いま思えば笑っちゃうんだけど、その時はどうしようもなく心細くて、途方に暮れてたの。気がついたら、目からいっぱい涙を流してた。歩くのも疲れて、道の端っこでうずくまって一人泣いてたわ」
小さい頃の話をするというのは、なんだかむずがゆい。それでも私は話を続ける。
「そうしたら、どうしたんだお嬢ちゃんって声を掛けられたの。顔を上げたら、頭にはちまきを巻いたおじちゃんが立ってて、大丈夫かい? って私の顔を心配そうに覗き込んでた。おじちゃんに事情を説明したら、そうかそうか、大変だったな、って私を慰めてくれて、その後に、これを食べれば元気が出るからとにかく食べな、って焼きそばを私に差し出してくれたの。歩き回ってすごくお腹空いてたから、その焼きそばが本当に美味しく感じられたの」
紫は何も言わずに、そっと耳を傾けている。
「焼きそばを食べ終えてから、私はそのおじちゃんに、みんなとまた会えるかどうか訊いてみたの。おじちゃんが知ってるはずないんだけど、不安だったから訊かずにはいられなかったんだと思う。でね、おじちゃんに訊いたら、なんて答えたと思う?」
紫は黙って首を横に振ったので、私は続きを話す。
「さっき食った焼きそばはうまかったか? って訊いてきてね、それで、うん、おいしかったって私が答えたら、そうかそうか、なら平気だよ、心配することはないって満足気に言ってきたの。私がどうしてそう思うの? って訊ねたらそのおじちゃんが自信満々にこう言ったのよ」
私はそこで一呼吸置いてから、記憶にある声を真似して言った。
「『オレの作った焼きそばを食って、うまいと感じられるうちは絶対に大丈夫だ!』って」
そこで紫が声を出して笑った。
「すごい理屈ね」
「でしょ? どんな理屈よって思うじゃない、普通。でも、その言葉を聞いたらなんだか本当に大丈夫な気がしたの。ああ、なんだ、大丈夫なのかって。実際、その後すぐに私のところにみんなが来てくれたから、本当に大丈夫だったんだけどね。それで、そのおじちゃんはみんなにも焼きそばごちそうしてくれたのよ。良い話でしょ」
「ええ、良い話ね」
「たぶん、この思い出はずっと忘れないと思う」
私がまだまだ幼い頃のちょっとした出来事。そのおじちゃんとはあの時の一回しか会ったことがないけど、頭にはちまきを巻いたその姿と私に元気をくれたあの声は、今でもはっきりと思い出すことができた。
隣に座る紫は先ほどまで見せていたふざけた様子はまったくなくなって、ほんの少し微笑むような、優しげな表情を浮かべていた。
紫は時々、こういう表情を見せる時がある。
私はその顔が嫌いじゃなかった。その表情を見ていると何だかほっとする。
「ねえ、紫も何か忘れられない思い出とかある?」
思えば、紫とこうして話をすることはそれなりにあるけれど、昔の話を聞いたことは少なくとも私の記憶にはなかった。私よりもずっとずっと長く生きている彼女が、一体どんな思い出を持っているのか、気になるのはごく当たり前のこと。
私が訊くと、紫は「そうねえ」と少し考えるような仕草を見せ、しばらく黙った後に、
「特にないわねえ」
「ほんとに?」
私は少し驚いて聞き返した。すると紫はあっけらかんとこう答えたのだ。
「妖怪は過去にこだわらないのよ。だから、すぐに忘れていくの。長く生きてると、そっちの方が何かと都合がいいのよ」
そっか。
紫はそう思ってるんだ。
私はゆっくりとした動作でお茶を飲む。
残念だと思う。紫が思い出は特にないと言ったこと。私だって特別過去を大切にしているわけじゃないけれど、それでも過去の思い出は良いものだと思う。あの時のお祭りの記憶だってそう。出会ってきたたくさんの人だったり、出来事だったり、そういったことを振り返るのは気恥ずかしさもあるけど、やっぱり楽しいものだと思う。
今を生きて、それが過去になり、思い出になる。私たちの生活というのは、言ってしまえばそういうことの繰り返しなのだ。だから、今と同じように過去にも価値があると私は思う。
だけど、紫が思っていることは違う。紫はたぶん今にこそ価値を見いだしているのだ。今が宝石のように輝いている時間で、過ぎ去ってしまったそれらは魔法の解けた石ころのようなものなのだ。ただの石ころになってしまえば、もはや興味なんて抱かない。そして、未来はいつか輝くときを待っている原石なのだろう。彼女は常に今現在を生きている。そしてこれからやってくる未来を生きて行くのだろう。
人間同士ですら感覚や考え方はそれぞれなのだから、人間と妖怪のそれはもっと違うのだと思う。
仕方がないことだし、気にするような事でもないはずだ。
だけど、ちょっとだけ。
私とこうして一緒にいたことも忘れちゃうのかなって思ったら、ちょっとだけ寂しかった。
陽の光が縁側を照らし、私は眩しくて手で影を作った。空はどこまでも晴れ渡って清々しいほどの群青色をしていた。その下で先ほどのコスモスがそよ風に揺らされて、静かに体を震わせていた。
と、そこで紫が「あ、そう言えば」と声を上げた。
右手を持ち上げて、すっと人差し指で上の方を指し示した。
「上に何かあるの?」
「空をね、見たのよ。この幻想郷という場所が完成した時のことよ」
紫は目を細めて、上空を眺めた。
「幻想郷に結界を張る作業は本当に大仕事だった。事前に万全の準備をしておいたつもりだったけど、それでも不備というものが出てきてしまうもので、あっちに行ったりこっちに行ったり、大忙しだったわね。それでも、何とか結界を張り終えて、外と中を完全に隔てることができた時に、疲れと安心感からその場に倒れ込んで、そのまま目を閉じたの。あなたにはわからないかもしれないけれど、想像を絶するほどの苦労をしたんだから」
私は「へえ」とも「ふうん」とも聞こえる曖昧な返事をした。
「それで目を閉じて、しばらくしてから目を開けたの。そしたらすっかり夜になっていて、そこには本当に綺麗な星空が広がっていたわ。もしかしたら、あの時に見た星空は忘れないのかもしれないわね」
上空を眺める紫の顔は、その時に見た星空を眺めているかのように、今私たちの上にある空よりもずっと遠くへ向けられていた。
それが一体どんなものだったのか私にはわからない。だけど、きっと本当に綺麗だったのだろう。そして、そんな思い出を忘れて欲しくないと思う自分がいる。
「それが紫の思い出なのね」
「ええ、そうね」
「忘れちゃだめよ」
「何でかしら?」
「何となく、そんな気がするから」
「そう」
「忘れちゃだめよ絶対」
私が言うと、紫は「はいはい」と答えた。私はもう一度、念を押すように、
「絶対よ」
「ええ、絶対」
紫はそっと微笑んだ。
私たちの上空には、どこまでも晴れ渡った秋の空が広がっていた。
翌日、襖の隙間から差し込んできた朝日がまぶしくて目を覚ますと、うーんと伸びをしながら身体を起こした。
今日は紫は来ていないようだった。
昨日のように台所から漂ってくる匂いも誰かがいるような気配もない。辺りはとても静かで、この神社にいるのが私一人だけだとすぐにわかる。
布団から抜け出すと、さっそく朝食の準備に取りかかる。
水を汲み、火をおこして、お釜でご飯を炊く。ご飯が炊けるまでにおかずを用意する。今までに何度もやってきたのでもはや手慣れたものだ。
出来上がったものを居間のテーブルに並べると、いただきますと手を合わせて言う。
一人での食事。私にとってはこれが普通なのだ。今までずっとそうだった。夜、心細さに一人で泣いたのはもう遠い昔。人間というのはなんだかんだで置かれた状況に慣れるものなのだなとしみじみ思う。寂しさなんて感じない。すっかり快適に暮らしている。
そんなわけで私は朝食を済ませて食後の一服を楽しむ。縁側に座って、お日様の光を浴びながらゆったりとした時間を過ごす。
昨日、紫が帰り際に言ってきたことを思い出した。私がお祭りの話をしたせいか、紫はお祭りに行ってみたいと言い出したのだ。
それならちょうど今月の終わり頃に秋祭りがあると教えると、紫はじゃあそれに行きましょうとすぐに決断した。もちろん付き合ってくれるわよね? とこちらに視線を送りながら。
思い返してみると紫と二人で出かけたりなんて機会、今まであまりなかった。
私はいいわよ、と答えた。紫は満足そうに頷いた。
紫はおそらくお祭りが終わったら眠りに就くのだろう。春になるまでちょっとの間お別れだ。せっかくの機会なのだから楽しもうと思う。
食後の一服を終え、そろそろ掃除でもするかと思っていると郵便が届いた。こんな辺鄙な地でもちゃんと郵便が届くあたり、郵便屋さんには感謝しないといけない。
受け取って確認すると、それは手紙だった。
差出人は魔理沙のお母さん。時々、こうして彼女は私の許へ手紙を送ってくるから、内容は大体予想が付く。
魔理沙はまた一人で無茶をしてないか。風邪を引いていないか。霊夢ちゃんに迷惑を掛けていないか。それから、あんな娘だけどよろしくお願いします。霊夢ちゃんも体に気をつけて。そんな感じ。
届いた手紙を読むと、やっぱり予想通り。
ふふ、と笑い声が漏れる。魔理沙のお母さんも大変だなあ、と思う。あんな自由奔放な娘を持ったら、気苦労が絶えないだろう。
それから、魔理沙のことがちょっぴり羨ましいとも思える。
こんなに心配してくれる人がいるなんて。どんなに離れていても、やっぱり親というものは子をいつも思っているのだ。忘れることなんてない。できないのだ、絶対に。
手紙を大事に仕舞うと、返事を書いた。今度、人里の郵便屋に出しに行こう。もしくは、魔理沙のお母さんに顔を見せに行くのもいいかもしれない。あと魔理沙がここに来たら、実家に顔を見せなさいとでも言っておこう。
そんなことを考えていると、その日の内に魔理沙はやって来た。
お昼を過ぎ、私が掃除を終えて居間でぼーっと座っていた時だった。
「おう、霊夢。ここにいたか」
魔理沙はやって来るなり、まるで自分の家のようにずかずかと部屋に入って来て、どかっと座布団の上に腰を下ろした。
「どうした。ぼーっとして。思春期か」
「年齢的にはそうね。アンタもそうでしょう」
「そうだな。悩み多き年頃だ」
「悩みねえ……」
「何だその反応は。私には悩みなんてないと思ったのか。こう見えても、結構色々と抱えているんだぞ」
それは意外だ。魔理沙はあまり悩んだりしないタイプなのかと思っていた。もしかしたらあまり人前ではそういう一面を見せないだけなのかもしれない。案外、自分一人で抱えこむタイプだったり。私もどちらかと言えばそういうタイプだし、魔理沙も違うとは言い切れない。彼女の言っていることが本当なら、だけど。
と、そこで魔理沙が、
「お、懐かしいな」
視線の先には、昨日見つけたぬいぐるみがあった。タンスの横にちょこんと座っている。
「昨日、タンスの引き出しの奥で見つけたの」
「そうかあ。いや、本当に懐かしい。霊夢、このぬいぐるみをすごく大切にしてたもんな」
魔理沙はそれを手にとってしげしげと眺めると、
「ずっと昔のことだけどさ、霊夢、いっつも腕にこのぬいぐるみを抱えてたよな。どこに行くのも一緒で、自分以外の誰かに触られるのも嫌がってたっけ」
そして彼女はふっと笑みを浮かべて、
「一度ぬいぐるみをなくして、大泣きしてたことがあったよな。それで、みんなで一生懸命探してさ。それでもなかなか見つからなかったんだけど、でも結局、霊夢が使ってた毛布の中にくるまってたんだよな」
そう言って魔理沙はケラケラと声を上げて笑った。
「そ、そうだったかしら。憶えてないわ」
私は目をそらす。と、そこで私はある場面を思い出す。
「そう言う魔理沙だって、私が博麗の巫女になるのが決まって、博麗神社に行く日に、大泣きしてたじゃない。嫌だ、行かないでくれ! 会えなくなるのはやだ! って。それで私も周りにいた大人の人たちも困っちゃって。それで私がぬいぐるみのおへその部分にあったボタンを外して、それを魔理沙にあげたのよね。これを持ってたら、絶対また会えるから、とか何とか言ったんだったかしら。それでやっと泣きやんで、納得してくれたのよね」
私は大切にしていたぬいぐるみについていた大きなボタンをあげた。魔理沙は泣きやんで、小さく微笑むと、うん、と頷いてくれたのだった。
しかしこの話をすると、今目の前にいる魔理沙は、
「ああん? そんなことあったっけ?」
憶えていないようだった。
そっか、と思う。そっか、魔理沙は憶えていないのか。
あの時、魔理沙はぬいぐるみのボタンを受け取ってくれた。うん、と頷いて、「ありがとう」って言ってくれた魔理沙。「ありがとう。宝物にする。お前がこれをくれたことは、ぜったい忘れない」。確かにそう言ってくれたのに。
自分だけ憶えていて、相手が憶えていない。記憶は消えていくものだし、仕方ないこととはわかっているもののやはり寂しいものは寂しい。
魔理沙がお茶を所望してきたので私は仕方なく立ち上がる。お茶の準備をしながら昔の記憶をなぞっていくと、ふとまた別の記憶が蘇る。
熱々のお茶が入った湯飲みを持って居間に戻ってきた私は、魔理沙にこんなことを訊く。
「ねえ、魔理沙。遭難ごっこって憶えてるでしょ?」
「おお、憶えてるぜ。それも懐かしい。子供の時、良くやったな」
遭難ごっこ。
鬼ごっことかかくれんぼとか、子供がやる遊びはたくさんあって、遭難ごっこもその内のひとつだった。幻想郷には海がないから遭難できない。というのは山があるからそんな事はないのだけど、船が座礁してロビンソン・クルーソーよろしく孤島に取り残されたりする事はできない。幻想郷で生まれた人は当然ながら海を見たことがない人がほとんどで、海に憧れを持つ人は多い。特に子供はその傾向が顕著だった。
そんなわけで、誰が思いついたのかよくわからないのだけど、孤島に取り残された人が近くを通りがかった船に、自分はここにいるぞ、と知らせようとする所を遊びにしてみたものが、遭難ごっこだ。
ポイントを競う遊びで、まず捜索側と遭難側に分かれる。遭難側になった場合、自分の遭難場所を決める。そして、捜索側は遭難側を探すのだ。かくれんぼを想像すればわかりやすい。ただし、かくれんぼと根本的に違うのは、遭難側は自分を見つけてもらうことが目的ということだ。自分が遭難場所として選んだ所が、捜索側に見つかりやすい場所だった場合、それだけ得られるポイントも低く、逆になかなか見つかりそうもない場所だった場合、ポイントはそれだけ高くなる。つまり、ぎりぎり見つけて貰えるけれど、そう簡単には見つからない、遭難側はそんな場所を探さなければいけないのだ。そして、捜索側は遭難側を見つけて、点数を付けてあげる。君はわかりやすかったから、十点。君はとても面白い場所にいたから、五十点。そんな感じ。点数は完全に捜索側の裁量だ。
声を出したり大きな音を立てるのはルール違反だったけれど、その場にある物を使うのはよかったから、みんな色々な物を掲げたり振ったりして、自分の事をアピールしたものだ。どんなに探してもたまに見つからないことがあったけれど、そういう場合は仕方がない。あきらめる。遭難する方も、自分が見つからない事に気付いて、自然と捜索する方へ回る。
今でも里に行けば、子供達がやっている姿を目にすることがある。遭難ごっこはなかなか人気のある遊びだ。ただ、中にはこの遊びに疑問を持つ子もいる。捜索する方が地面を歩いているんじゃ、全然海と関係ないじゃないか。これじゃ山で遭難してるのと何ら変わらないじゃないか、と。そういう子供たちはどうするのかと言うと、自分たちで船を作っては、それを川に浮かべて、航海する気分を味わいながら遭難ごっこをする。基本的に遭難する方に人気が偏るのだけど、こういう場合はみんな捜索する方になりたがっては、見事に沈没して自分が遭難する方になるという、お約束まであるほどだ。
男の子はもちろん、女の子もみんな良くやっていた。だから、私も当然子供の頃はよくやったものだ。
そして、魔理沙は遭難ごっこの達人だった。
彼女には遭難する才能があった。当時の私たちはみんなそう思っていた。あっと驚くような場所に遭難しては、私たちを良く驚かせたものだ。
今でも憶えているのが、ある時男の子のグループに私たち女の子のグループがいちゃもんを付けられ、ちょっとした喧嘩になった時のことだ。それで、じゃあ決着は遭難ごっこで決めようとなったのだ。どういう理由だったかは忘れたけれど、とにかくそうなった。
両陣営から半分ずつ、捜索側と遭難側に分かれた。私は捜索する方で、魔理沙は遭難側になった。
負けたくはなかった。男の子なんかに負けてたまるか、とみんな思っていた。だけど、木に登ったり、屋根の上に登ったりと、そう言う女の子にはなかなか行けない所に行ける分、男の子の方に分があった。ポイントは圧倒的にリードされた。
最後に残ったのは魔理沙だった。
男の子は勝利を確信していた。私たちはみんな押し黙っていた。口には出さなかったけれど、もう勝てないと誰もが思っていた。それだけ点数を離されていた。
魔理沙はなかなか見つからなかった。男の子たちからもう見つからないからあきらめようという声まで出始めた。それも仕方がないと思った。すでに時刻は夕方だった。そろそろ帰る時間だ。
まったく、どこに行ったのよ魔理沙。私は心の中でそう思いながら、赤く染まった空を見上げた。
と、そこで視界の端に何か動く物体を見つけた。
それを見つけたのは本当にたまたまだ。
大きく手を振っている誰かを見つけた。
それが魔理沙だと気付くのに、時間がかかった。
「いた!」
と私は興奮した声で言った。
魔理沙がいた場所は。もうずっと使われていない見張り台だった。ぼろぼろになってすでに登ることは禁止されている。大人が登るのも一苦労するほどの高さで、落ちたら当然ながら無事では済まない。梯子だって錆び付いてかなり弱くなっているから、いくら好奇心の強い子供と言えど、誰も登ろうとは思わなかった。だから、そんな所にいるなんて思いもしなかった。
魔理沙は見張り台の上で、帽子を手に持って、必死にそれを振っていた。私はここにいるぞ。早く見つけてくれ。そんな感じだった。
男の子も女の子も、みんな呆気に取られて、それから自然と笑い出した。なんであんな場所にいるんだよ。おかしいだろう。そんな風に、みんな笑った。
勝負の結果は、女の子側の逆転勝利だった。
この話をすると魔理沙は声を上げて笑った。
「そんなこともあったなあ。懐かしい」
「あれは伝説になったわよね」
「ふふん。遭難ごっこで私に敵う奴はいなかったな」
「確かにそうだったわね。弾幕ごっこでは私が勝っているけれど」
私が言うと、魔理沙はため息をつきながら首を振った。
「天は二物を与えず、ってことだ」
私も声を出して笑った。
「なかなか見つけて貰えなかったから苦労したよ。必死に帽子を振ってさ。頼む、私はここにいるぞ、見つけてくれーって心の中で叫んでさ。そしたら霊夢が見つけてくれたから、良かった」
「あんな所にいるなんて、普通思わないわよ」
「だよなあ。でも、今だったらもっとわかりにくい場所を選んでも、見つけて貰える自信はあるぜ。魔法を使うのは別にルール違反じゃないだろう? たぶん、地球の裏側の相手にだって見つけて貰えるだろうな」
「大げさな」
魔理沙は足を投げ出し、後ろに手をつくと、昔を思い出すかのように上の方を見た。
「しかし、あの後こっぴどく怒られたんだよな。大変だった」
懐かしそうに彼女は笑った。
「たまに、子供の時にやった遊びを今でもやりたくなることがあるよな。遭難ごっこなんか特に」
「そう? 魔理沙だけじゃない」
「む、なんだそれは。私がまだ子供だと言いたいのか」
「大人からしたら、私たちなんてまだまだ子供だけどね」
「確かに、違いない」
とは言うものの、笑顔をこちらに見せる魔理沙の顔は、あの時よりも当然ながらずっと大人へと近づいている。少しずつだけど、でも着実に私たちは成長して行く。背は伸びたし、胸だってほらご覧の通り、膨らんできた。魔理沙の胸の方は……まだ控えめだけれど、おしりの方は丸みを帯びて随分と女性らしくなったように見える。
時間は私たちの思いとは関係なく流れ続ける。
「それにしても、良く憶えてたな。私は言われるまですっかり忘れてたよ」
「それだけ印象的な出来事だったからよ」
その言葉に偽りはない。あの時の記憶を今もはっきりと憶えているのはかなり印象的な出来事だったからだ。でも、本当はそれだけじゃない。魔理沙にはきっとわからない。
私には、――私だからこそ、どうしても忘れられない光景がある。
散々お母さんに怒られた魔理沙はその後、そのまま手を引かれて帰って行った。夕日が二人を照らして、地面に不揃いの影を描いていた。右手を引かれながら、一度こちらを振り向いた魔理沙は、左手でばいばいって手を振ってきた。それからお母さんが何か魔理沙に話しかけた。何を言ったのかはわからないけど、魔理沙はお母さんの顔を見上げると、嬉しそうに笑顔を見せた。
ゆっくりと遠ざかる二人の背中。夕暮れの陽射しに浮かぶ二つの影。
私にはその光景が、まるで一枚の鮮明な写真のように、今でもしっかりと脳裏に焼き付いている。
私には親がいなかった。
お母さんと手を繋いだ時のその手の温かさも、お父さんに抱っこされた時のその腕の力強さも、私は知らずに育った。
それが不幸な事なのかはわからない。普通は親がいるものだし、それがきっと当たり前なのだろうけど、私にとってはいないのが当たり前で、当たり前の事を不幸だと思う感覚はなかった。
ただ、ちょっとだけ。お母さんに手を引かれて帰る魔理沙が羨ましかった。
「魔理沙」
「ん?」
「たまには実家に帰りなさいよ」
「どうしたんだいきなり」
「別に。何となくそう思っただけよ」
「変な霊夢だ。思春期か? それとも物思いにふける秋のせいか?」
「そうねえ。秋のせいかもしれない」
私が言うと、魔理沙はくっくっと笑った。
「秋深き、隣は何を、する人ぞ」
彼女は柄にもなくそんなことを言う。
ふと紫の顔が思い浮かんだ。
今頃あいつは何をやっているんだろう。そんなことを思った。
木々は色めき、すっかり秋めいてきた。
一日一日と美しさを増す自然の風景は、私を愉快にさせてくれると同時に何とも言えない切なさのような気持ちも運んでくる。
つい一ヶ月ほど前は暑くて死ぬような思いをしたことを思えば、今の過ごしやすい気候というのはありがたいのだけど、あの暑さもこうして過ぎ去ってしまった後では、あれはあれで良かったと思えてくるから不思議だ。
木々が色付けば色付くほど、気候が涼しくなればなるほど、新しくやって来る秋への期待と、過ぎ去った夏への名残惜しさがない交ぜになって複雑な気持ちになる。
この気持ちもきっと一週間もすれば忘れているのだろう。人の気持ちなんてそんなもんだ。秋は美味しい食べ物がいっぱいだから、その楽しみもある。栗とかサツマイモとかその他諸々。
季節が移り行くように、人の心も移り行く。それが自然なこと。
私はちょっとした用があり人里に出かけた。空を飛んでしまえば博麗神社から人里まではそれほどの距離でもない。用事は何事もなくすぐに片付いて、それ以外に特にすることもなかったので私は真っ直ぐに帰宅した。
庭に降り立ち、縁側から居間に直行しようとした。
だがそこで私の行動を読んでいたかのように、ある物が立ちはだかった。
縁側の上にナスをいっぱいに入れた籠が置かれていた。出かける前にはなかったから、私が出かけている最中に誰かが置いていったのだろう。
近づいて確認してみると、ナスの上にメモがそっと置かれていることに気付く。手にとって読んでみると、そこには「約束、忘れてないわよね?」とそれだけ書かれていた。
誰が置いていったかすぐにわかる。紫のやつだ。
紫と約束した秋祭りは、三日後に迫っていた。随分と早いものだ。
メモをひっくり返してみた。小さくだけど、「風邪引かないように」と書かれていた。
それだったらもっと栄養のある野菜を持ってきなさいよと思ったけれど、ナスは美味しいので文句は言わないことにした。
私はメモをくしゃっと丸めて、それを居間のくず入れに投げてみたけれど、思い通りの軌道を描かずに見当外れの場所で落ちた。
それから籠に入れられたたくさんのナスをしばらく見つめて、今夜は焼きナスにしようと決めた。
午後は神社に訪問者もなく、私は特にすることもなかったから、ぼーっとして過ごした。ぼーっと過ごしているだけだけどこれはこれで悪くない。
日が傾き始めた頃、私は夕飯の準備に取りかかった。
紫から貰ったナスを二等分にして、それらを水に浸してあく抜きをする。水に浮かぶ半分にされたナスを眺めていると、ふと昔のことを思い出した。
あれは私がまだこの博麗神社に来る前、私と同じような境遇の子供達が集まる施設に住んでいた時の事だ。
料理はその施設の運営をしている大人が作ってくれるのだけど、必ず数人の子供が手伝いに回される。私がその手伝いの当番の日に、近くの親切な農家の人が施設にたくさんのナスを届けてくれた。というわけでその日の夕飯はナス料理に決まり、私もナスを切り分ける手伝いをした。
その時にいた大人の人は女性でとても優しくて子供達からも人気があったお民さんという人で、「秋ナスは嫁に食わすな、なんてことわざがあるけど、子供に食べさせるのはいいわよね」とか何とか言っていたのは憶えている。
私の他にもう一人、手伝いとして男の子がいた。その子は不器用であまり料理が得意ではなかったので、私が切り分けたナスを片っ端から水を入れた桶の中に入れる係をしていた。
料理をしている最中、味付けのための味噌がない事に気付いた。仕方なくお民さんが買いに行くというので、私と男の子は台所で待つことになった。
すぐに帰ってくるのかと思ったけれど、お民さんはなかなか帰ってこなくて、私たち二人は特にすることもなくて、遅いねなんて言いながら、水に浮かぶナスを眺めていた。
「なあ、霊夢」
と男の子が私を呼んだ。お民さんが出て行ってから確か二刻近く経っていたと思う。
「なに?」
「いくら何でも遅過ぎじゃないか。味噌なんかを買いに行くのにこんなに時間がかかるわけない」
男の子が言う。
「何か急用でも入ったんじゃないの」
「急用って何だよ」
「知らないわよ」
「お民さん、俺たちのこと忘れてんじゃねえの」
私は首を横に振って、
「そんなことあるわけないじゃない」
「何で言い切れるんだよ」
「だって、ちょっと待っててね、って言ってたじゃない」
「もうちょっとの範囲過ぎてるよ」
そこで男の子はふて腐れるようにこう言った。
「親もそうだよ。俺のこと忘れてるんだ。だから俺はここにいるんだ」
その言葉はなぜかすっと私の中へ入ってきた。
そっか、と思う。私たちに親がいないのは忘れられているからなのか、と。
結局、お民さんはその話をした後すぐに帰ってきた。私の言ったとおり、何かの用事が入って遅くなってしまったらしい。アク抜きをするために水に入れっぱなしで放っておいたまま、すっかり忘れていたナスがふにゃふにゃになっていた。
あの時の男の子が言った事は、今でもしっかりと憶えている。男の子の顔は憤っているようにも見えたし、悲しんでいるようにも見えた。そして、その目にはどこかあきらめたような暗い印象があった。
私は水につけたおいたナスを取り出す。良い感じにアクが抜けて、食べやすくなっているはずだ。
あの男の子が今何をしているのか、私は知らない。私は博麗の巫女に選ばれてあの場所を離れたし、男の子もきっと今頃はあの場所を離れて生活しているだろう。どんな生活を送っているかわからないけれど、男の子が幸せであってくれたら良いと思う。ただそう思う。
その日の夜、私は自分で料理した焼き茄子を食べた。味はもちろん満足のいくもので、誰が食べても美味しいと言うだろう。せっかくなのだから紫も食べに来れば良いのにと思ったけれど、彼女は本当に気まぐれな性格をしているから、いつ現れるのかはまったく予想ができない。ふっと現れてはふっといなくなる。
「三日後か」
紫と一緒に行こうと約束した秋祭り。カレンダーにつけられた丸印を眺めながら一人呟いた。
三日間はあっという間に過ぎ、約束の日を迎えた。
その日は午前中、空に雲が多くかかっていて不安になったけれど、午後にはすっかり晴れ渡り、私の心配はなくなった。
紫がやって来たのは夕暮れ時だった。
「さあ、行きましょうか」
彼女は私の顔を見るなり、すぐにそんなことを言った。私は特に準備することもなかったので、
「うん」
と答えた。
人里までは飛んでいくことにした。
赤く染まった景色に溶け込むように、二人で上空に舞い上がる。冷たい空気が襲ってきて思わず顔をしかめる。紫は何も感じていないのか、まったく動じる気配はない。人間と妖怪の感覚の違いなんて知らないけれど、比べてみればきっと色々と違うのだろう。ちょっとだけ恨めしく思う。
空には鮮やかな赤色と紺色、それからあかね色とでも言うのだろうか。それぞれのくっきりとしたコントラストが綺麗だった。まだ日は沈みきっていないというのに気の早い星たちがいくつか輝きを放っていた。ずっと先の地平線にオレンジ色の夕日が見える。
「お祭りなんて、いつ以来かしら」
紫がそんな事をつぶやく。
「前にいつ行ったかも、忘れちゃったわけ?」
「それだけ久しぶりなのよ」
「単にボケて忘れてるだけじゃないの」
「失礼な」
「じゃあ、一昨日の晩ご飯は何食べたか憶えてる?」
「一昨日は、えーと、……何だったかしら」
「ほら、ボケて来てるじゃないの」
「そんな些細なこと、一々憶えてる必要がないだけよ」
些細なこと。
確かに晩ご飯なんて私にとっても些細なことだ。でも、紫にとっての些細なことの範囲って、一体どのくらいなのだろう。
ふと私はそんなことを考える。
人里は暖かな灯りに包まれていた。数え切れないほどの提灯が里を照らし出している。
私と紫は人影の少ない場所に降り立った。そこから祭りの中心地へと向けて歩く。しばらく歩くと、徐々に人の数が増えてくる。賑やかさも増してくる。所々に掲げられた提灯の数も増えてくる。
私の横を、子供が一人駆けていった。かと思ったら、今度はその子を追いかけるようにもう一人が紫の横を走り抜けていく。急げ急げ置いていくぞ。おい待てよ。そんなやり取りをしながら、あっという間に二人の影は遠くへ過ぎていく。
思わず口元が緩んだ。だって、あの二人の気持ちが私にはよくわかったから。お祭りなんて年に数えられる程度しかない大きなイベントだ。そんな特別な日に気持ちを抑えろと言う方が無理な話。子供の頃の私とまったく一緒。
おい早くしろよ霊夢、置いていくぞ。そう言って男の子顔負けの速さで駆けていく魔理沙を、ちょっと待ちなさいよ、と文句を言いながらも追いかける私。あれはいつの時のお祭りだったっけ。
そんな事を考えていると、私たちは大通りに出た。
「すごい人の数」
紫がつぶやく。通りの両端は屋台がずらりと並んでいて、それがずっと続いているものだから、通りはかなりの混雑具合を見せている。なかなか迫力のある光景だ。
「これだけ人が多いと、はぐれたら大変ね」
「私から離れないようにしなさいよ、紫」
「はいはい。あなたを見失わないように、ちゃーんと見ておきますわ」
「違う! あんたが勝手にどっか行ったりするなってことよ」
「そうは言っても、あなた、ちょっと目を離すといなくなってたりすることがあるのよ。自覚ないの?」
「う、そう言われれば、小さいときにみんなとはぐれたりしたこともあるけど……」
「霊夢はどこかふわふわしたところがあるから、そのせいね。ひもで繋いでおかないと勝手にどこかへ行こうとする」
「何よそれ。人を風船みたいに」
「風船とは上手いこと言ったわね。あなたのイメージにぴったり」
文句を言ってやろうと思ったけれど、紫は何かを見つけたらしく私を手招きすると、背を向けて歩き出してしまったので、言うタイミングを逃してしまった。
「ほら、これを飲んで少し温まりましょう」
甘酒を売っている出店の前で歩みを止めた紫が言う。
悪くない。彼女はすぐに二人分の甘酒を買って、一つを私によこしてきた。
二人で甘酒を飲みながら、これからどうしようかと話をする。
「お祭りに来たいなんて言ったんだから、なにかやりたいことあるんじゃないの?」
「いいえ、特にはないわよ。ただ単純にお祭りが楽しそうだったから」
「そう。じゃあ、適当にぶらぶら回ってみる?」
「ええ、そうしましょう」
人里には二つの大通りがあって、その二つが交差する場所は大きな広場になっている。だからこういうお祭りなどのイベント時には、そこがメインとなる。
私たちが広場に着くと、そこは人がごった返していた。里中の住民が集まったのではないかと思えるほどだ。広場の中心には櫓が組まれていて、その周りで太鼓やら笛やらを演奏している。愉快げな音が聞こえる。
櫓の周りは人だらけで、隙間なくぎっしりと埋まってしまっている。あれだと近づくことはできそうにない。
私たちは一度広場を離れ、今度は先ほどと違う大通りへと歩を進めた。こちらも同じように両脇にぎっしりと屋台がひしめいている。食べ物の良い匂いがあちこちから流れてきて、食欲がそそられる。
子供達の長い行列ができている綿菓子屋の前を通り過ぎる。独特のザラメの甘い匂いを嗅ぐと、やっぱりお祭りに来たんだなって実感する。白くてふわふわした綿あめを受け取った子供が嬉しそうにはしゃいでいた。
綿菓子屋の数軒隣にお面屋があって、その前にもやっぱり子供達が集団を作っている。並べられているひょっとこの面を指差して、無邪気な笑みをこぼしている。
ふと紫が足を止めたので、私も立ち止まる。
「どうしたの?」
私が訊くと、彼女は黙って右手を持ち上げて指を指した。その先にあったのはリンゴ飴の屋台だった。リンゴ飴と書かれた看板が掲げられていて、お世辞にも絵のセンスがあるとは言えないリンゴの絵が、リンゴ飴の文字の前後にでかでかと描かれている。
「食べたいの、リンゴ飴?」
紫はそっと微笑んでこくりと頷いた。
そんなわけで私たちはリンゴ飴を買うことにした。店主にお金を払うと、好きな物を持って行っていいよ、と言われたので私たちはどれにしようかと話し合った。紫はあのでっかいのが良いんじゃない。霊夢はそっちの小さくもない大きくもないやつが良いんじゃないかしら、なんて。
結局、紫は私が言ったやつを、私は紫が言ったやつを選んだ。
二人でリンゴ飴を片手に再び歩き出す。
「リンゴ飴って食べ方に困らないかしら?」
と紫が言うので、私は首を傾げて、
「そう?」
「ええ。だって、飴って言うくらいなのだから、やっぱり舐めるものだと思うの。でも、囓った方が食べやすい気もするし」
紫は手に持ったリンゴ飴をしげしげと見つめて、無理難題を押しつけられたかのような表情を浮かべた。私は何だかその様子が可笑しくて、ついつい笑ってしまった。すると紫はこっちを向いて、
「あら霊夢。私が困っているのに、何を笑っているの」
「紫にも困ることがあるんだなーって」
「もちろん、あるわよ。私の周りにはいつだって困った事ばかり。むしろ困っていない時の方が珍しいわ。霊夢にも私の苦労を理解して欲しいものね」
「はいはい」
私が適当に返事をすると、
「まったく、霊夢はいつからこんなに可愛くなくなったのかしら。困ったわ」
そう呟くと、紫はリンゴ飴を持っていない方の手を頬に当ててため息を吐いた。
私は声を上げて笑った。
「ところでリンゴ飴の食べ方だけど、私の場合は囓っちゃうなあ」
私はリンゴ飴にかじりついた。甘酸っぱさが口の中に広がって、リンゴのしゃりしゃりとした食感と飴のばりばりとした食感が混ざり合う。私に囓られたリンゴ飴は満月から三日月の形に近づいた。
「随分と豪快にいくのね」
紫は感心したような視線を寄こしてくる。それから視線を自分のリンゴ飴へと移した。紫は私と同じように囓りつこうと思ったようだったけれど、口を開いてリンゴ飴を自分の口の前へ持ってきたところで、思ったよりも大きいということに気がつき、一瞬逡巡した後、
「私はやっぱりゆっくりと舐めることにするわ」
と言って、コーティングされた飴の部分を小さく出した舌で舐めた。
その仕草はとても可愛らしくて、私は心の中でくすくすと笑った。
私たちは歩く。提灯の赤く暖かい明かりに導かれるように。
二人並んで、おんなじ歩幅で。
普段、通り慣れた道であるはずなのに、いつもまったく違う道のように感じられるのは、飾られた提灯や出店といったもののせいだろうか。もしくはお祭りの雰囲気に浮かれた人々の喧噪が私にそう思い込ませているのかもしれない。
それとも紫と一緒にいるから?
なんて。そんなわけない。
紫はいつだって唐突に神社へ上がり込んできては、私の都合には無関心に好き勝手していって私を困らせる。私がお茶を淹れてやるとお茶菓子が欲しいとせがんでくるし、そのくせ自分はそういう嗜好品は全然持ってこないで人の羊羹を食べるだけ食べたら満足して帰って行くし、本当に困った存在だ。
でも、なぜだろう。
そういう何気ない日常が、紫と一緒に過ごした時間が、すごく満ち足りたものに感じる。こうして振り返ってみると、そうした何でもないはずの日常でさえも、私にとって何よりも大切な日々であるようにすら思える。
今、紫と一緒に歩いているのもきっと、そう。こうしてリンゴ飴を片手に、一緒にお祭りの雰囲気を味わいながら、あれこれ見て回った思い出は私の中に残り続けて、時間が経てば立つほど魅力的な輝きを増していくんだと思う。
ねえ、紫。あんたはどう思ってるの?
彼女の横顔をちらりと見てみるけれど、その表情からは何を考えているのかは読み取れない。
妖怪は忘れていく生き物だと、彼女は言った。
一緒にお祭りに来た記憶も、いつか忘れてしまうのだろうか。
異変に一緒に解決に出かけた事も、気まぐれで朝ご飯を作りに来てくれた事も、縁側で一緒にお茶を飲んだことも、なにもかも……。
私は空を仰ぎ見た。空には何もかも飲み込みそうなほど暗い闇が広がっている。いつもの人里とは違い、多くの明かりが灯されているせいだろうか。本来あるはずの星の光が、ここからだとあまり確認することができなかった。
それからどれくらい歩いただろうか。隙間なく軒を連ねていた屋台も途切れて、人の数もまだらになった所で、私たちはもと来た道を引き返すことにした。
里の中央にある広場へ向けて戻っていると、来た時には見落としていた射的屋を目にして、私の中の子供心に火がついた。
「ねえ、紫! 見てあそこ。射的! 射的屋さんある! やっていきましょ」
「あらあら、随分とはしゃいじゃって。射的には霊夢を魅了する何かがあるのかしら」
紫はそう言って苦笑した。
私は気にせずに紫を射的屋の前まで引っ張っていくと、射的用の銃が置かれた台座の前に陣取って、棚の上に並べられた商品を右から左へと眺めた。小さく比較的とりやすいものから、あんなのどうやってとるんだろうと首を傾げたくなるものまで様々。そんな中で私は目当ての物を見つけて興奮が最高潮に達した。
頭はネコに胴体はタヌキ。おへその部分はやっぱり大きなボタンが縫いつけてある。私が子供の頃に取ったあのぬいぐるみとそっくりなものが、棚の上に鎮座している。
「あのぬいぐるみ、取るしかないわね」
「ふうん。あれが欲しいの?」
「悪い?」
「悪くはないけど、あれを取ろうと思う人は少なそうだけど……」
「私は欲しいの!」
「結構難しそうよ。取れるの霊夢?」
紫の言葉に、私はふふんと鼻を鳴らして、
「私の射的の腕前を舐めて貰っちゃ困るわね。まあ、見てなさい」
そう豪語するとさっそく私は店主にお金を払って、置いてあった銃を手に取る。と、そこで紫もお金を払って、横にあった銃を手にした。
「なに、あんたもやるの? どれ狙うわけ」
「さあどうしましょうか。とりあえず霊夢がやるのを見てからやりますわ」
紫は言ってから、一歩後ろに下がった。
私は銃を構えて、獲物を良く見つめる。それから台の上に片手をつき、前のめりになりできる限り腕を伸ばして、目標物との距離を可能な限りつめる。片目を閉じて銃の照準をぬいぐるみの額に合わせると、私は一呼吸置いてから銃の引き金を引こうとした。
と、その時にポンという音と共に私の後頭部に何かが当たった。こつんとした衝撃があり、ちょっと痛かった。後ろを振り向くと、そこには私に向かって銃を構えている紫の姿があった。弾として使われているコルクはその銃にはついてなかった。つまりは私に向けて発射したのだ。
私と視線が合った紫は悪びれる様子もなく、
「あら、ごめん遊ばせ」
とだけ言って微笑んだ。
私は紫をにらみつけて、
「もう一度遊ばせてご覧なさい。ひねるわよ」
「まあ、怖い」
可笑しそうに笑う紫を尻目に、私は気を取り直してもう一度銃を構え直す。今度は邪魔が入ることもなく、私が持つ銃の先からコルクが発射された。狙った位置とは少しずれたが、目標物の胴体には当たった。だけど、わずかに後ろに動いただけで倒れる気配はまったくなかった。
一回の挑戦で二発まで撃つ事ができるので、私は再び狙いを定める。一回目の弾の軌道から予測して、もう少し上を狙う。
発射音と共に勢いよく撃ち出された弾が、今度は狙い通りの位置に当たった。完璧だと思った。ぬいぐるみが後方に傾く。だけど、途中まで傾いたぬいぐるみはそのまま後ろへ倒れることはなく、再び元の位置へと何事もなかったかのように戻った。
むう、と私は唸る。狙いは完璧だったのだけど、そう簡単には倒れてくれないようだ。当然ここであきらめる気はない。もう一度お金を払ってやり直す。隣では紫が涼しい顔で小物を打ち落としていた。
さて、どうするか。狙いは決して間違っていないと思う。子供の頃に取った時もあの位置に当てて倒したのだから。ならばもう一度やってみよう。
銃を構え、二発目と同じ要領で弾を放つ。狙い通り、それはぬいぐるみの額へと当たった。だがやはり傾きはするものの倒れることはなかった。
「うーん、倒れないわねえ」
「苦戦しているようね。手助けしてあげましょうか」
「何か考えがあるの?」
「もちろん。霊夢は今と同じようにやってくれればいいわ」
どうするのかわからないがとりあえず紫の言うことに従う事にする。紫が私のやや後ろに立ち位置を変えたのでちょっと警戒しつつ、私は目標に向かって弾を発射する。もうすでに慣れたもので狙った位置から外れる事はない。弾はぬいぐるみの額に吸い込まれるように当たった。と、その瞬間後ろにいた紫が銃の引き金を引いた。私の発射した弾が当たり傾いた所に今度は紫が撃った弾が当たる。ぬいぐるみはひっくり返るようにして倒れた。
「すごい、やるじゃない紫」
「ふふん。そうでしょう。尊敬しなさい」
「する、する。します。尊敬します」
店主から渡されたぬいぐるみを受け取る。ネコの頭にタヌキの胴体。ずんぐりむっくりとした体型。やっぱり変な見た目だ。でも可愛い。
広場へと戻る道を進みながら、私は獲得したぬいぐるみをしげしげと眺める。私がこの前タンスの引き出しから発見したぬいぐるみとよく似ているが、所々で違う部分がある。どこで作っているのか知らないけれど、改良されているようだった。
「そんなに気に入ったの?」
紫が言う。
「気に入ったというより、懐かしいなー、って思って。小さい時の私は、射的で取ったぬいぐるみをすっごく大事にしてたから」
「そう。じゃあ、それも大事にしなさい」
「うん」
私は短くそう答えて、そのぬいぐるみをぎゅっと両腕に抱え込んだ。
すると紫は笑顔を作って、
「本当、あなたはコスモスみたい」
などと突然そんな事を言い出す。
「ちょっとそれってどういう意味よ」
私が問いただしても、紫はただ微笑むだけで何も言ってこなかった。
私たちは広場へと戻ってきた。人の数は相変わらずだった。太鼓や笛の音も鳴り響いている。櫓を取り囲む人々の熱気はまだまだ冷めやる気配は感じられない。むしろこれから本番だと言わんばかりに、さっきよりもずっと活気があるようにすら感じられる。
たくさんの人々。その数だけ表情があって、その多くは笑っていた。みんなやっぱりこの雰囲気で浮かれているのかもしれない。周りの人の会話から、もう少ししたら櫓の上で演舞が始まるという情報を知った。せっかくだし見ていかないかと私は紫に言うと、紫はいいわよと返答した。
紫はこのお祭りを楽しんでいる様子だった。自分から誘っておいたのだから当然と言えば当然なのだけど、ちょっとだけ安心する。私一人が楽しんでいるだけなんて、そんなのは嫌だったから。
ほどなくして数人の踊り子達が櫓のステージに上がり込んできた。期待をふくんだ周囲の人の目が一点に集中する。太鼓と笛の音が止み、人々のざわざわという声も次第に少なくなって、ほんの一瞬静寂に包まれる。
静寂をそっと優しく押し出すかのように、柔らかい笛の音が響く。するとその音色に合わせて踊り子達がゆったりとした動作で動き出す。あくまでゆっくりと、先ほどまでの空気を壊さないように、自然に流れるような動作で体を動かしていく。
わずかな時間を見ただけでも、あの櫓の上で踊っている人達が、素晴らしい技術を持っているのがわかる。私は踊りにはあまり詳しくないし、まあ多少は舞とかはできなくもないけど、それでも得意というわけではない。だから何がどうすごいのかを説明することはできないのだけど、とにかく踊り子達の動きの一つひとつが人を惹きつける力があるというのはわかる。
だって、私と同じように他の人達の視線も櫓に真っ直ぐ向けられているのだから。
しばらく眺めていると、じわりと懐かしさが込み上げてきた。
小さい頃、お祭りの度にこうやって櫓の周りから踊り子達の姿を眺めたものだ。今よりもっともっと小さい時。身長だって大人の半分くらいしかなかったから、人の背が邪魔をしてなかなか見れなくて、場所取りに苦労した。何とか見える位置を確保して、小さい背を目一杯伸ばして、櫓の上で繰り広げられる踊りに目を輝かせていた当時の記憶がふいに思い起こされる。
いつの間にかお祭りというイベントにあまり足を運ばなくなってしまっていたけれど、でも実際こうやって来てみるとやっぱり楽しくて、来て良かったと思う。
踊り子達の踊りはとても優雅で、私の視線を離してはくれない。彼らの動きに合わせるかのように、私の心も揺れ動く。胸の奥で高揚感が増していく。
高揚感が増していくにつれ、私は過去の色々な場面の記憶がフラッシュバックする。何人かと一緒にお祭りに来て綿菓子を買ったこと。その綿菓子を魔理沙が半分くらいちぎって食べてしまったこと。一緒にいた年上の女の子が自分の綿菓子をちぎって分けてくれたこと。金魚すくいをして、一匹すら取れずに悔しい思いをしたこと。一匹も取れないことに怒った魔理沙が素手で金魚をつかもうとしてお店の人に怒られたこと。みんなで一緒に焼きそばを食べて、美味しいねって言い合ったこと。
そのどれもが私にとって大切な思い出。じわりと胸の奥に熱が帯びて、私はそっとため息を吐いた。
踊りはクライマックスに入り、音楽の演奏にも熱が入る。その熱は空気を通して伝播してくる。観客の熱気がさらに高まるのを感じる。
不思議な気持ち。今この場で実際に体験しているはずなのに、何だか思い出の中にいるような感覚。今にも小さい頃の魔理沙が突然現れて、あの舌っ足らずな、それでいて今と変わらない男口調で「なあ霊夢。もっと近くに行ってみようぜ」なんて言って、私の手を引いて駆け出しそうな気さえしてくる。
などと考えていると、記憶の中にある小さな魔理沙が私の前に姿を現す。その魔理沙は私の方を見て、短い腕をいっぱいに伸ばしてくる。私は彼女に向かって手を伸ばそうとしたのだけれど、その前に小さい頃のわたしがその手をつかんだ。
わたしの手をつかんだ魔理沙は、無邪気な笑みを浮かべて駆け出す。わたしは引っ張られるようにその背についていく。
私がその小さな二人の姿を見送っていると、ふいにわたしが足を止めてこちらを振り返った。くりっとした目を真っ直ぐ私の方へ向けると、可愛らしい口を大きく開けて訊いてくる。
「ねえ、いま楽しい?」
私は彼女の質問に答える。
「もちろん」
すると彼女はにっこりと満足そうに頷いて、
「よかった」
そう言って彼女は魔理沙の後を追って人混みの中へ消えていった。
拍手が巻き起こって、私は現実の世界へと引き戻される。踊りが終わり、拍手に応えるように踊り子達がステージの上で頭を下げた。
私もその姿に拍手を送った。
興奮した気持ちを落ち着けようと、私は一度ほうとため息を吐いた。
それから、何か言いたくて私はそっと口を開いて、
「すごく良かったわね。ねえ、ゆか……」
紫、と名前を呼ぼうとして、最後まで言うことができなかった。隣を向いた私は、そこにいるはずの人物がいなくなっていることに気付いてしまった。
紫が先ほどまで立っていた場所は、そこだけがぽっかりと一人分の空間を作り出している。
心臓の鼓動がわずかに速くなる。
すぐに辺りを見渡してみるけれど、それらしい姿は見あたらない。
人の波が押し寄せる。踊りが終わって思い思いに動き出した人々が私の視界を遮る。
「紫!」
私は叫ぶ。
反応はない。
近くにいた数人の人達がこちらを振り向いたけれど、すぐに元の位置に向き直った。
もう一度、今度はさっきよりも大きな声で叫んでみる。私の声は人々のざわめきにかき消されて、遠くまでは届かないようだった。
何度か紫の名前を呼んでみたけれど、紫が私の前に姿を現せることはなかった。
どこに行ったのよ紫。私は独りごちる。
なんで急にいなくなっちゃうのよ。
どうしようかと思った。ここで待っているべきなのかもしれない。そうしたらひょっこり何事もなかったかのような顔で、甘酒でも片手に「あら、霊夢どうしたの?」なんて言って戻ってくるかもしれない。
でも、私は探すことにした。紫が戻ってくるような気はしなかったし、ただ待つだけというのは落ち着かなかった。
私は歩き出す。まずはこの広場から。櫓を中心にぐるりと回って探すことにする。
文句を言ってやりたい。自分から誘っておいて勝手にいなくなるなんて、まったく本当に自分勝手なやつだと思う。
広場の周囲を取り囲むように立ち並ぶ屋台に目をやりながら、人の影を一人一人見落とさないように注意しながら進んでいく。紫色の服を着た人なんてそんなにいないから目立つはずだけれど、ちょっとした暗がりに入ると黒っぽい色と見分けがつかなくなってしまう。
いくつもの屋台を通り過ぎ、いくつもの人とすれ違う。似たような姿を見つけては鼓動が高鳴り、その度に落胆する。
気がついたら私の中にあった高揚感はどこかへ行ってしまっていた。あれだけ心地良かったお祭りの雰囲気も、なぜか物寂しくすら感じてくる。
不安と焦燥感がない交ぜになって私の心を圧迫する。なぜだろうと自分で思う。どうしてこんなに不安なんだろう。
たかが紫がいなくなっただけ。いつだって彼女は神出鬼没で、気まぐれで突然現れたりいなくなったり、そんなの当たり前のこと。
なのに私はどうしようもなく寂しくて、いなくなった紫の姿を必死に探している。
ぐるりと広場を一周しても紫の姿を見つけることはできなかった。仕方なく私は大通りの方にまで足を向ける。これだけ人が多い中で、四方向に伸びる大通りまで調べるとなると見つけられる可能性はずっと低くなる。そもそも彼女がここにいるとも限らない。能力でどこにだって自由自在に行き来ができるのだから、今頃家に帰っているということもあり得る。
それでも私は紫のことを探す。
せっかくのお祭りなのに、せっかく二人で楽しい思い出を作る良い機会だったのに、こんな中途半端な形で終わるのは嫌だった。
私はそれから散々歩き回った。一つの大通りを往復して今度は別の大通りへ。歩いて、歩いて、歩き続ける。次第に疲れが溜まってきて、足に鈍い痛みがじわじわと先の方から広がってくる。
片手で抱きかかえるように持っていたぬいぐるみが腕からこぼれて落っこちた。私はすぐにそれを拾い上げて、土で汚れた部分を手で払った。そしてため息を一つ。
自分でも無駄なことをしているってわかってる。本当、馬鹿みたいだ。一つのことにこだわるなんて自分らしくないとも思う。
何だか虹の根本でも追いかけているかのよう。決して届かないと理解していても、もしかしたらたどり着けるかもしれないと淡い期待を抱いている。そんな感じ。
お祭りが始まってからだいぶ時間が経ち、いつもの人里ならとっくに静まりかえっている頃だったけれど、特別な夜はまだまだ終わる気配はない。
たくさんの人が行き交う。無邪気にはしゃぎ回っている子供達、何かの資材を抱えている男性、浴衣姿がとても似合っている綺麗な少女。そして、手を繋いで歩く親子。
小さな手をお母さんに引かれて歩く女の子は、端から見ても幸せなんだろうなってわかるくらい満足そうな顔をしていた。
二人が急に立ち止まって、お母さんはしゃがみ込んで女の子と同じ目線で何やら話しかける。女の子はお母さんの話を聞いた後、大きな動作で頷いた。それを見たお母さんがにっこりと笑って女の子の頭を優しく撫でた。
ふいに私は何だか胸が締め付けられるような感覚に襲われる。
何でこんな時に思い出すんだろう。
頭の片隅に埋もれていた記憶が引っ張り上げられる。
いつだったか、私がひどい風邪を引いて熱に浮かされていた時のことだ。
どうしようもないほど体が重くって、おまけに寒気でふるえが止まらなかった私は布団にくるまって横になっていた。
食欲は失ってはいなかったからお腹は空いたのだけど、わずかに体を動かすことさえも億劫だったから料理なんてする気はまったく起きなかった。結局、空腹を我慢しながら寝て過ごすことにした。
そんな時に紫はやって来た。
「あらあら、とてもつらそうね。大丈夫?」
声がして目を開くと、紫が私の顔を覗き込むように見下ろしていた。よほど私が具合を悪そうにしていたせいか、彼女の顔にはいつものとぼけたような笑みはなくて、心配そうに私のことを見つめていた。
お腹空いた、と私はその目を見つめ返して言う。
「何か食べたいものある?」
と紫は言ったので私は正直に答えた。
「肉が食べたい。ものすごく高いやつ」
紫は笑った。
「そんなに具合悪そうなのに、よく言うわ」
「……しょうがないでしょう。食べたいものは食べたいんだから」
「だめよ。もっと消化にいいものにしましょう。定番だけど、おかゆにでもしましょうか」
「えー」
「えー、じゃありません」
「……けち。こんな時なんだから、わがままくらい聞いてくれてもいいのに」
「一回くらいはわがまま聞いてあげてもいいけれど、それは今じゃないわ」
そう言うと彼女は部屋から出て行った。目を閉じてしばらく待っていると、お盆を携えて戻ってきた。お盆の上に載せられていたのは何の変哲もない卵の入ったおかゆだったけれど、空腹だった私はすぐにそれを食べる。
見た目も普通だったし、味も至って普通だった。
私がおかゆを口にしている時、紫はずっと黙っていた。美味しい? とも訊いてこなかったし、食べさせてあげましょうか? とも言ってこなかった。彼女はただ私の近くに座っていただけ。でも、それがなんだか私にとってはありがたかった。
どうやら精神的にもかなり弱っていたらしい。自分を気に掛けてくれる人がいるということがすごく嬉しくて、心がじんわりと熱を帯びていくのを感じる。
おかゆを食べ終えると、紫はお薬をどうぞと言って、紙に包まれた薬を差しだしてきた。ひどく苦かったけれど言われるままに飲み干した。
その後すぐに眠気が襲ってきて私は横になった。段々とまどろんでいく意識にほんの少しあらがい、紫に声をかける。
「ねえ、紫。さっき一回くらいはわがままを聞いてくれてもいいって言ったわよね」
「ん、まあ、言ったわね」
「それ忘れないでよ」
「はいはい。とりあえずあなたは風邪を治しなさい」
彼女は右手を私のおでこにそっと置いた。綺麗な手だと思った。柔らかくて、ひんやりとしていて気持ち良かった。不思議と心が落ち着いて目を閉じる。
心なしか風邪の症状が少し和らいだ気がする。今までにないほどの眠気が襲ってくる。
今にも眠ってしまいそうなまどろみの中で、私はそっと薄目を開けて紫の顔を確認する。彼女は優しく細めた目で静かに私のことを見ていた。私はすっかり安心して、再び目を閉じた。
私がはっきり憶えているのはここまで。きっとその後すぐに眠ってしまったのだろう。そして次の日になって目が覚めた私は、昨日までの体調の悪さが嘘のように快復していた。
私は今でもあの時のことを感謝している。
思えば紫が私の家に来て料理を作ってくれるようになったのも、あの日以降から始まったはず。
ねえ、紫。
何で料理作ってくれるのって訊いたら、ただの気まぐれよ、なんてアンタは答えるけれど、本当は私のことを気に掛けてくれてるの知ってるよ。
自分で料理する手間が省けるわ、なんて私は誤魔化すけれど、本当はすごく嬉しいよ。面と向かってありがとうなんて言えないけれど、私は心の中ではとっても感謝してるんだから。
いつからかな。紫と一緒にいると、何だか安心できるようになったのは。ただ一緒にお茶を飲むだけでも、悪くないなって思えるようになったのは。
最初は博麗の巫女と妖怪という関係だったはず。それがいつの間にか私の中で紫の存在が大きくなっていって、気がついてみたら私にとって大切な存在になっていた。
紫が神社にやって来るのは私のことを心配してくれてるからなんでしょう。アンタは頭が良いからきっとわかってるんだと思う。私の心の中にずっと長い間空いていた隙間に気がついて、それを埋めようとしてくれてるんだよね。
何となく気がついてた。
気がついてたけどそれを言うのも何だか気恥ずかしくて、気が付いてないようなふりをしてた。アンタはきっとそれすらも気付いているんでしょう。気付いていながら、私と同じように気が付いてないような態度を取ってる。
本当に、お互い素直じゃないね。
ねえ、紫。
一度だけわがままを聞いてもいいって言ってたよね。あれさ、今じゃだめかな。特別でも何でもなくていいから、ずっと忘れられない思い出を作ろう。私がもしいなくなった後も、ずっとずっとその後になっても忘れらないような思い出を。そして時々でいいから、そういえばあのとき霊夢とこんなことしたなって、ふとした拍子に思い出して笑ってくれたらいい。
ねえ、だめかな?
どうしてこんな時にいなくなっちゃうのよ紫。どこに行ったのよ、……ばか、ばか。
妖怪は忘れていく生き物、なんてアンタが言うから私はこんなに苦しい思いをしてる。いつか私のことを忘れてしまうんじゃないかって思ったら不安でいっぱいになる。
このお祭りが今年最後のチャンスだった。冬の間、紫は眠ってしまうから。だから今日せめて気休めでもいいから、楽しい思い出を残せたら良いって思ったのに……。
どうせ来年の春になったら何事もなく寝ぼけた顔でやって来るのはわかってる。これからいくらでも思い出を残すチャンスはある。でも私は今がいい。このまま心にもやもやとしたものを抱えながら、この冬を越すのはまっぴらごめんだ。
ねえ、紫。私はもう忘れられたくないよ……。
散々歩き倒して、すっかりくたくたになっていた。
もう疲れた。歩きたくない。
通りの隅で立ち止まった私は、目の前を通り過ぎていく人々を見送った。里にはたくさんの人が住んでいるんだなって改めて思う。こんなにたくさんの人がいるのに、私は独りぼっちで、寂しさが込み上げてくる。
こんなに探し回っても見つからないのだ。きっとこれ以上探したって無駄だと思う。
もうあきらめてしまおう。
残念だけど、ここまで。
そう思うと余計に胸が苦しくなって、私はその場でしゃがみ込んで必死に堪えた。目の奥が熱くなるのを感じる。今にも自分の心が雫となってこぼれ落ちそうになるのを我慢する。
まったく情けない。
こんなつまらない事で泣きたくなるなんて、ほんと情けない。
いつまでもこんな所でしゃがみ込んでいても仕方がなかった。神社に帰ろうと思った。一度大きく息を吸い込んで、ゆっくりと吐き出してから、私は立ち上がろうとした。
その時だった。
「ひょっとして博麗の巫女様じゃないかい。どうしたんだ、こんな所でうずくまって」
野太い男の人の声が上から降りかかって来て、私は顔だけをそちらに向ける。頭にはちまきを巻いた男の人が私の事を見下ろしていた。
その顔を見てはっとした。見覚えのある顔だった。
「大丈夫かい?」
と彼は尋ねてくる。
私は「うん」と一言だけ返した。それから「大丈夫」と付け加えた。
男の人は「そうか」とだけ言って、半袖から覗かせるごつい腕を組みながら神妙な面持ちで私の事を見ていた。
それから、よしと声を上げて、
「ちょっとそこで待ってな。すぐ戻ってくるからよ」
と言って背を向けて歩いて行った。数分もしないうちに彼は戻って来た。手には焼きそばの入った器を持っていた。その器を私の方へ押しつけるように差し出すと、
「ほら、食いな。オレにはよくわからねえが、元気なさそうに見えたからよ。とりあえずこれ食えば元気は出るはずだ」
そう言って笑った。
私は黙ってそれを受け取って、手に収まる焼きそばをちょっとだけ見つめてから、ゆっくりと食べ始めた。
お腹が空いていたというのもあるのかもしれない。その焼きそばはとても美味しくて、食べ始めたら止まらなかった。それになぜだか食べるにつれて少しずつだけど、元気が湧いてくるようだった。
男の人は私の横で地べたに座り込んで、私が焼きそばを食べる所をじっと眺めていた。
私が食べ終えると、彼は明るい声を上げて、
「どうだい、オレの焼きそばは? うまかったか?」
「うん」
「そうか、それは良かった」
少しの沈黙。
それから、
「何か困ったことでもあるのかい?」
わずかの沈黙の後、私は小さく、
「……うん」
男の人はそうかあと呟いた。そして、こんな事を言った。
「何に困ってるのか知らないけどよ、大丈夫だよ。オレの作った焼きそばを食って、うまいと感じられるうちは絶対に大丈夫だ」
懐かしい言葉だった。昔、同じようなことを言われた。
大きく笑った男の人の顔は、私の記憶の中にあった顔よりも当然ながら年を重ねていたけれど、この自信に満ちあふれた声はまったく一緒だった。
ただ、彼はその後、私がまったく予想していなかった事を言う。
「あの時だって大丈夫だったろ、なあお嬢ちゃん」
ああ、この人は――このおじちゃんは私の事を憶えていてくれたんだ。ずっと昔、私が小さい時にみんなとはぐれて困っていた時に助けてくれた、あの時の事を憶えていてくれたんだ。
冷えていた心に再び熱が戻ってくる。
すっかり折れかけていた気持ちが、その言葉によって打ち直されたかのように、より強くなって戻ってくる。
大丈夫だ。もう大丈夫。この人がまた助けてくれた。あの時と同じように。だから大丈夫。
あきらめるのはまだ早い。まだお祭りは終わりじゃない。
私は空になった容器をおじちゃんに返すと、勢いよく立ち上がる。
「ありがとう。元気出た。私、行かなきゃ」
私が言うと、彼は、
「おう。頑張れよ」
私の背を押してくれるように元気な声で答えてくれた。
私は駆け出す。
目指す場所は広場。すっかりくたくたになっていた足にも力が戻っている。
人の隙間を縫うように私は駆け抜ける。
紫を探すのはもう止めた。探したってどうせ見つからない。だから、私は別の方法をとることにする。
探してだめなら、見つけてもらう。それならやることは一つ。
と、私は見慣れた格好をした姿を視界に捉えて足を止めた。とんがり帽子に白と黒を基調とした服。彼女は屋台の前にできている列に並んでいた。
「魔理沙!」
私が叫ぶと、彼女は振り向いた。
「おお、霊夢じゃないか。何だよ、お前も来てたのか」
私は魔理沙に歩み寄る。魔理沙は嬉しそうな表情を浮かべて、
「あのな霊夢、見てくれよ。リンゴ飴とチョコバナナの屋台が並んでるだろ。それで私どっちを食べようかなって迷ったんだよ。んで、ちょっと迷ってじゃあどっちも食べればいいやってなったんだけど、問題はどっちを先に食べるかって事になったわけだ。どうしようかなーって考えたあげく、結局チョコバナナを……、って霊夢どうしたんだ、そんな真剣な顔して」
彼女はいつもと違う私の雰囲気を感じ取って、真面目な顔つきになる。チョコバナナの屋台の前で、私は荒くなった呼吸を一度落ち着けると魔理沙に向かって言い放つ。
「魔理沙。遭難ごっこやるわよ」
突然こんな事を言われたら誰だって困惑するだろう。魔理沙も案の定そういう表情を浮かべた。
「何だよ、霊夢」
と彼女は言った。突然何を言い出すんだ、とか、どういう理由か説明しろ、なんて言うのが普通だと思うし、魔理沙もここまでは普通の反応を見せた。だけど、この霧雨魔理沙という少女を舐めてもらっては困る。
魔理沙は一瞬困惑したような表情を浮かべたものの、すぐにその表情を柔らかくして、
「何だよ、やっぱりお前もやりたかったんじゃないか」
そう言って笑った。
私は魔理沙を引き連れて広場まで戻ってきた。
踊り子達がいた櫓のステージには今は誰の姿もない。太鼓や笛の音もなくて、お祭りを楽しんでいる人々の声だけがこだましている。
櫓に誰もいないのはちょうど良かった。あの場所を使おうと思っていたから。
これからやろうと思っている事を魔理沙に説明して、手伝ってくれと言ったら、彼女は「おういいぜ」と二つ返事で引き受けてくれた。結局、どういう事情なのかは言わなかったし、魔理沙も訊いてこなかった。なんだかんだ言って魔理沙との付き合いも長いから何となくわかっているのかもしれない。ただ単純に面白そうだから、と思っている可能性もあるけれど。
「所でさ、その手に持ってるの、射的で取ったのか?」
魔理沙は私が腕に抱えていたぬいぐるみを指差して訊いてきた。
「ああ、これ。うん、そうよ。さっき射的で景品になっているのを見つけたから、取ってきたの」
「ふうん。やっぱり変な見た目だな」
「変だけど可愛いでしょ」
「まあ、お前が気に入っているならそれでいいや」
魔理沙は苦笑した。失礼な、こんなに可愛いのに。ネコの頭にタヌキのような体。丸っこい大福みたいな尻尾。お腹に付いてるおへそ代わりの大きなとってもボタンがチャーミング。
私がそのボタンを指でつついていると魔理沙が、
「あのさ霊夢。この前、話したよな。ずっと小さい頃に、霊夢が博麗の巫女になるのが決まって、私が大泣きしたってやつ」
「うん。すっごい泣き叫んでたわよ。嫌だ嫌だ、霊夢が行っちゃうのは嫌だ、って地面に寝転んでずっと駄々こねてたのよね」
「いいんだよその時の鮮明な描写は口に出さなくて。それよりも、この前は霊夢がぬいぐるみに付いてたボタンをくれた事、私は憶えてないみたいな態度だっただろ。あれさ」
そこで魔理沙は片手で頭を掻きながら、
「嘘だよ。今でもしっかり憶えてる。お前があの時くれたボタンはちゃんと大切にとってあるよ」
そう言って彼女は恥ずかしそうにうつむいた。
ずるいと思う。このタイミングでそんな事を言うのはずるい。
嬉しかった。魔理沙がちゃんとあの時の事を憶えていてくれて。その事が本当に嬉しくて、自然と笑みがこぼれた。
「これからもずっと持っておきなさいよ」
魔理沙も同じように笑みを浮かべて、
「ああ、わかったよ。さてじゃあそろそろ行ってこいよ霊夢。サポートは任せろ」
そう言って魔理沙は私の背中を押してくれた。私はそのまま空へ舞い上がると、櫓のステージの上に降り立った。
櫓の上から見る広場の景色はまた違ったものだ。ここからだと、人の流れが良く見える。提灯の明かりに照らされた顔が夜の暗さの中にくっきりと浮かび上がっている。
さて、始めようか。遭難ごっこ。
子供の頃に良くやった遊び。誰が思いついたのか知らないけれど馬鹿馬鹿しい遊びだと思う。でもそんな馬鹿馬鹿しさが面白くて、幻想郷に生まれた人間は誰だって一度はやったことがあるくらい人気の遊び。
ルールは至ってシンプル。相手に見つけてもらえばいい。
私の立っている場所が明るくライトアップされる。いくつもの光の筋が集まる。それは魔理沙の魔法。櫓が色鮮やかに照らし出された。
櫓の周辺にいた人達が、何か始まるのかと期待するような視線を送ってくる。
遭難ごっこでは相手に見つけてもらうためのアピールを色々と工夫をする。声を出して相手を呼ぶのはズルだから、それ以外で色々とやった。棒きれに布を巻き付けてそれを振ったり、何かを燃やして煙を上げたり――当然そんな事をすると大人に怒られるんだけど――と、まあ色々だ。
今日はお祭り。せっかくなのだから、その雰囲気に合うものにしよう。
というわけで私はぬいぐるみを隅っこの方へ置いて、ステージの中央に陣取った。
先ほどの踊り子が見せた踊りのように、あんなにすごいのはできないけれど、私だって巫女なのだから舞の一つや二つくらいできる。
櫓の周辺でざわざわという声が大きくなる。博麗の巫女がステージの上にいたら、期待してしまうのも無理はないのかもしれない。でも残念。私がこれからやるのは遭難ごっこで、すごく個人的なもの。みんなに見せるためのものじゃないし、私が自分のためにやるもの。
遭難ごっこのルールでは例え相手に見つけてもらえたとしても、その場所が目立つ所だった場合、点数は入らないんだけど、今日は特別。
紫、アンタが今どこにいるか知らないけれど、私はここにいるわよ。
そうして私は静かに舞を始める。
踊りのような激しさはない。腕や指先の細かな動きをゆったりとした動作で見せる。
腕を伸ばし指先にまで注意を払って、水が流れるようなイメージで動いていく。
多くの視線が集まるのを感じる。
舞というのは本来、神様に奉納するためのものだ。きっとみんな私が神事を行っているのだと思っているだろう。まさか目立つから、という理由で舞っているなんて誰も思わないはず。
舞台の上にいると何だか外側と切り離されているような気がする。まるで孤島だ。私はその上で遭難してる。大切な人とはぐれて必死にSOS信号を送ってる。
私が舞っていると、いつの間にか笛の音が聞こえてきた。私の動きに合わせるように凛とした音が空気に乗って響き渡る。
広場にいる多くの人が私の方へ顔を向けている。ねえ、紫。アンタはこの中にいる? それともどこか別の場所にいるの? どこにいてもいいから早く私のことを見つけなさいよ。
子供の頃、魔理沙が見張り台の上から必死に帽子を手に持って振っていた姿を思い出す。私はここだ、見つけてくれ、って必死に訴えかけていたのを見つけたのは私だった。
あの時の魔理沙のように私は必死に祈る。
私はここにいるよ、って。
お願いだから見つけて、って。
私はただ祈りながら舞う。
秋の日の特別な夜。
大人も子供も、今日という日は夜遅くまで活発に動き回る。人里は暖かい光に包まれて、寝静まることを忘れた人々で埋め尽くされる。まるでいつまでもこの時間が続いていくかのように。
そう言えば、紫と初めて一緒に異変解決に乗りだしたのも夜だった。欠けた月の謎を追い求めて、明けることのない夜を二人で飛び回った。
今まで誰かと一緒に異変を解決するなんてことはなかったから、あの日の出来事は良く憶えている。はっきり言って異変なんて面倒以外の何ものでもないし、さっさと解決してしまいたいというのは、あの夜も同じだった。
けれど、あの夜に二人で一緒に夜を飛び回った時間は、今となってはやっぱり悪くなかったって思える。それに紫が私のことを頼ってくれたのはちょっぴり嬉しかった。
紫は私にとって特別。魔理沙なんかも小さい頃からずっと友達だし特別な存在ではあるのだけど、紫の場合はまたそれとは違ったものだ。
何がどう特別なのか安易に言葉にはしたくない。この心に秘めた思いを口に出そうなんて、それこそ私らしくない。
ねえ、紫。それでもこれだけは言わせなさいよ。
私はここにいるから、早く迎えに来て。
そして、私の舞は終結へと向かう。
舞台の上を弧を描くように歩いて再び最初の位置に戻ってくる。伸ばした腕を折りたたんで、最後に一礼。
下げた頭をゆっくりと上げると、拍手が飛び交った。それは打ち寄せる波が弾ける音に似ていた。
どうだったのだろう。私の思いは、届いたのかな。
ぼんやりとそんな思う。
ふうと息を吐いて、私はそっと空を見上げようとした。
その時だった。
不意に体が無重力に包まれる。周りの景色が一瞬にして暗闇に塗り変わる。自分が落下している事に気付いたのは、不自然に空いた空間が目に入ったからだった。
誰の仕業かすぐに理解する。
私が立っていたすぐ足下の空間を開いて即席の落とし穴を作り上げたのだ。
開いていた空間が閉じると何も見えなくなった。私は目を閉じた。
落下はすぐに止まった。背中が地面に着いたのを感じた。痛みはなかった。虫の鳴き声が聞こえる。土の匂いがする。草が首元をくすぐっているのがわかった。
私はそっと目を開いた。
そこにはずっと探していた人物の顔。いつものように絵画の中にいる女性のような微笑みをたたえた彼女は、私の事を見下ろしていた。
「……紫」
「うん、何かしら?」
まるでさっきからずっと一緒にいたかのように、その口調は普段通りだった。
自分でもわからない感情が浮かび上がってきた。ひどく腹が立ったし、ひどく安心もした。何を口にしようか迷って、私は結局、
「……ばか」
と一言だけ。
「ええ、そうね。悪かったわ。ごめんね霊夢」
と彼女は素直に謝った。それから、
「あなたに見せたいものがあったのだけど、この場所を見つけるのに時間がかかっちゃってね。すっかり様変わりしてるんだもの。それで今度は霊夢を探そうと思ったのだけど、目立つ場所にいてくれたから助かったわ」
草の上に寝転んでいた私は身体を起こした。そこは小高い丘の頂上だった。明かりはなく、月の光だけが私たちを照らしている。
斜面の下に目をやると、そこにはたくさんのコスモスが咲いていた。この丘を取り囲むように背の高いコスモスの花が一面に咲き乱れている。月の光に照らされた花畑はとても幻想的な風景だった。
「このコスモスの花が見せたいもの?」
私が訊くと、紫は静かに首を横に振った。
「この幻想郷に結界を張り終えた後、本当に綺麗な星空が広がっていた、って言ったでしょ。あの時に見た空をあなたにも見て欲しくてね。ほら、ちょうどこの丘の上から眺めたのよ」
紫はそう言うと上を向いた。私も真似をして上を仰ぎ見る。
息を呑んだ。
その光景があまりにも綺麗だったから。
濃淡のある夜空がどこまでも伸び広がっている。濃紺色の空はずっと深い海の底を思わせた。
そんな深い色合いの中で、圧倒的な数の星々が自分の存在を示しているかのように光り輝いている。光の揺らめきすら感じられる。まるで星が呼吸しているみたい。一つひとつの星の呼吸が、いつもよりもずっとずっと星との距離が近くなっているようにすら思わせる。雨が突然降り出したタイミングで時間を止めて、雨の粒を光らせたらきっとこんな風になると思う。
この光景がどこまでも続いているのだから、これを見て何も思わないなんてどうかしてる。
今まで見た星空の中で、一番綺麗だった。
本当にただただ綺麗で、私は黙ってその空を眺め続けた。
しばらくしてから私は空を眺めたまま、そっと口を開いた。
「これが紫の思い出なのね」
「ええ、そうよ」
「忘れちゃダメよ、絶対に」
「これだけ綺麗な星空、忘れられるかしら?」
紫の言葉に、私は黙って首を振った。
忘れられない。忘れられるわけない。
こんなに素敵な星空を、忘れるなんてできるわけないと思う。私の心にはもうすでにこの光景が焼き付いている。
と、紫が何かを投げて寄こしたのに気が付いて、私はとっさにそれを受け取った。射的で取ったぬいぐるみだった。
「大事にしておくんでしょ?」
私は頷いた。それからあることを思い出す。
「ねえ紫。ずっと前、私が風邪を引いた時に看病してくれたことがあったでしょ。あの時に言ってくれたわよね。一度くらいはわがままを聞いてくれてもいいって」
「……そうね。言ったかもしれないわね」
「じゃあさ、はいこれ」
ぬいぐるみのお腹に付いていたボタンを抜き取って、それを紫に手渡す。
「何これ?」
「いいから。それ大事にとっておいて。それが私のわがまま」
魔理沙が憶えていてくれたように、紫も憶えていてくれたらいい。私がこのボタンを渡したこと。
それだけじゃない。今日ここで一緒に星空を眺めたこと。一緒にお祭りを楽しんだこと。それ以外にいっぱいいっぱい色々なことをしたこと。ずっと時間が経って私がいなくなった後も、そのボタンを見て、博麗霊夢という存在がいたことを思い出してくれたらいい。そんな願いを込めて。
受け取った紫は不思議そうにそのボタンを眺めていた。それからふっと表情を柔らかくすると、私の方に顔を向けた。いつもの胡散臭い笑みじゃなくて、人を安心させるようなすごく自然な笑みだった。
「ねえ霊夢。こんな風に星が数え切れないほどあるのは、何でか考えたことある?」
突然の質問に私は首を横に振った。
「私はね、世界というシステムを維持するために存在してるんだって思ってるの。人間の体が小さな細胞からできているように、ね。細胞と同じように、この世界のどこかで星は生まれて、そして死んでいく。それを繰り返して、私たちの世界は成り立っている。そう思うと、この風景がより美しく見えて、何だか素敵でしょう」
「ロマンティックね」
私がのんきにそんな返事をすると、紫は星空へ向けて手を伸ばした。
その時の私は、はっきり言って油断していた。すっかり失念していた。紫が私のことに関しては何でもお見通しだってこと。だから、紫が次に発した一言は私に大きな衝撃を与えた。
「こんな風に世界が美しく成り立っている様を、ギリシャ語で『コスモス』って言うのよ」
涙がこぼれた。
ずっと我慢していたのに、その一言で全てが崩れ去った。
だって、紫が何を伝えようとしているのか、わかってしまったから。
まったくずるいと思う。こんなの我慢できるわけがない。抑えようとしても涙は私の意志に反して次から次へと溢れてくる。視界が涙でぼやけてはっきりとしない。私はその場でずっとすすり泣いた。
紫はその間、何も言わないでただ傍に寄り添ってくれていた。
どれくらい泣いたかわからない。きっと鏡を見たらひどい事になってると思う。目だってたぶん真っ赤だし、涙の筋がくっきりと跡になっているはずだ。でも、紫はそんな私のことを茶化したりしなかった。
ひとしきり泣いて落ち着いた頃、私たちは地面に座り込んでまた一緒に星空を眺めた。ただ一緒に星を眺めているだけでよかった。いつまででもこうしていられるような気がした。流れ星を見つけた私が声を上げて指差すと、紫が顔を寄せて、どこかしら? と訊いてきた。ほらあそこ、と私が言った頃には流れ星は消えていた。
たくさんの星の下で私たちは色々な会話をした。流れ星にお願いをしたら本当に願いが叶うのかな。この場所からあの星までどれくらい距離があるのかな。ここから見える星のどこかに、私たちと同じように星を眺めている人がいるのかな。もしいたとしたら、私たちのいる星も綺麗に見えていたらいいな、なんて。
話したいことを話し終えた後、私たちは黙った。沈黙も心地良かった。
それからしばらくの間、そうして星を眺めていたけれど、もうそろそろ帰る時間よ、と紫が言ったので仕方なく帰ることにした。
帰り際、紫はこんなことを言ってきた。
「ねえ霊夢。一昨日の晩ご飯、何だったか憶えてる?」
私はふっと息を吐いて、
「そんなの忘れたわよ」
私たちは目を見合わせて、それから二人で大きな声で笑い合った。
秋の夜の二人だけの思い出。
それはともかく、心温まる良いお話でした。ゆかれいむ最高!
ドラえもn(ry
私は凛々しさ繊細さ優しさを描かれる事の多い創想話霊夢がとても好き