その代物が姿を現したのは、農民たちが田植えを間近に控える初夏のころである。
諏訪の地の神殿、その拝殿と境内とを繋ぐ階(きざはし)の上に、一本の矢で串刺しにされた蛙の屍骸がぽつねんと転がっていたのだった。
最初にそれを見つけたのは神官を務める壮年の男であったが、このいかにも神前に捧げられた供物のような態の屍骸を、用意せよと命じた憶えはまったくない。彼は、儀式の際に神に捧げる贄として、獣の首を落としてその肉を捌くという仕事は幾度となくこなしてきたし、実際に蛙を捧げる神事もあれど、それでも、斯様にただ一匹ばかりの蛙を矢で乱暴に貫いて放っておくやり方など聞いたことがなかった。
時は早朝、未だ朝靄も晴れぬ頃合いだったが、彼は引き連れていた神人(じにん)たちへ早口に命じて、周辺の豪族の首長(おびと)へ使いを発した。何か切迫した事態が差し迫っているように思われたからだ。
一刻もせずに集まった十人ばかりの豪族らは、皆、諏訪とその周りの土地においては何らかの形で功成り名を遂げた者たちばかりである。中には、当の神官の家と縁組をして、その血筋を混じり合わせた親戚の顔も混じっている。この評定の場に集まった神官と豪族たちこそが、諏訪の神を推戴して政を推し進めるという首脳の立場にあった。
言うまでもなく議題は、今朝に神官が見つけた蛙の屍骸の、処遇と意味についてである。
恭しく三方に乗せられ皆の目前に供された蛙に、豪族たちは息を呑んだ。過たず胴の中心を射抜いた矢は、見るからに致命の傷として哀れな蛙を絶命に追い込んだものらしい。世の中には『白羽の矢が立つ』という言葉があるが、この言葉は、人身御供として選ばれた者の家に、神意によってどこからともなく放たれた白い尾羽の矢が突き立つ様子からできたとも言われる。豪族たちは、皆がそうした話を思い浮かべたに違いない。蛙を殺した矢の尾羽は、まさに染みひとつない白羽のそれであったのだ。
やがて、誰からともなく
「託宣である。洩矢の神の託宣である」
という意見が出た。
皆、無言でうなずいてこれに同意した。
だが、本当の問題はそこから始まった。
この蛙の屍骸が、諏訪の地にて奉られる洩矢の神からの託宣であるとして――その意味するところを読み解かねばならない。となれば、注目は否応なく神官その人へと集まった。神を祀り、その意図するところを伝えるのが彼の役目である。
洩矢の神から数えて八代の末裔(すえ)として、東風谷の氏と風祝の地位を称するこの神官は、しかし、額に脂汗を張りつかせて要領の得ないことを呟くばかりであり、到底、洩矢の神からの託宣を読み解くことなどできそうにもなかった。座を満たすうちのひとりが「ふン」と鼻を鳴らして嘲ったところでは、この東風谷の家系は代を重ねるごとに神の血が薄れており、ただの人に近づきつつある。八代も経れば、もはや何の力も持ってはいまいと。そのように公然たる嘲笑は、実のところは東風谷の神官本人に対してではなく、その父の出身地である下諏訪の首長へと向けられていた。女であった先代の東風谷を孕ませた種は、下諏訪の豪族から迎えた婿のものである。その『混ぜ物』を嫌う彼もまた、先々代の東風谷に嫁を嫁がせた佐久の一族の出であったのだが。
ともあれ、東風谷神官にも解らぬ以上、皆で頭をひねって考えるより他にはない。
昨年、諏訪は渇水に見舞われ、田畑では作物の出来も芳しくなかった。そのときも、祀りのやり方がまずかったのか、捧げるべき贄が足りなかったかと、同じ面子で議論がくり広げられたものである。
さて此度もまた、話し合いは喧々諤々の道筋をたどった。
射抜かれた蛙が託宣である以上、何かの“兆し”であるとするのが妥当であろうから。
「凶兆である」
との見方が大勢を占めていたものの、
「いやいや、瑞兆に違いない」
という考えも根強く主張された。
はたまた、
「誰かに天罰が下るということを示しているのではないか」
という意見も度々出た。
神殿に集った皆が皆、蛙の傷の深さだとか、目玉の濁り具合だとか、前後の脚の太り方だとか、あるいは矢に取りつけられた白い尾羽の裂けた向きだとか、色々な根拠を持ち出しては得意気に憶測する。だが、蛙を矢で射抜いたはずであろう当の洩矢の神様が何も言ってはこないのだから、誰の意見が正解かなど判ろうはずもない。その日は夕方まで話し合いが続いたが、結局結論が出なかったので、疲れをうやむやにするように酒盛りが始まり、皆、したたかに酔っぱらってお開きとなった。
豪族たちが顔を上気させてそれぞれの所領へと帰っていくなか、下諏訪の首長だけはそうではなかった。彼は、胸のうちにむかむかと湧き上がる怒りを同道していた下男たちにも見せなかったが、馬上にて手綱を取る手つきには明らかに苛立ちが宿っていた。諏訪での評定の際、例の佐久の豪族に一族の血を侮辱されたことが甚だ許し難かったのである。若き日に彼の最初の妻は、あの佐久者に略奪されて強引にその妻とされてしまった。諏訪の調停によって戦に及ぶ事態だけは免れたが、それ以来の遺恨が下諏訪と佐久の間には強くわだかまっているのだ。どちらの一族の血が東風谷の嫡流を繋ぐにふさわしいかなどは、そのおまけのようなものでしかない。人の心には酒で飲み下せぬ思いもあるのである。
下諏訪にある自らの館に着いて直ぐ、彼は弓と矢を携え、再び夜の闇にくり出した。
狩猟を好む彼だったが、夜中になってまで獲物を欲しようというのではない。ただ、弓の弦を弾いて夜の闇を射ることでしか落ち着きを取り戻す手段がなかったのである。
館から少し離れた鬱蒼たる茂みへ向け、ぎりり、と、弓弦は引き絞られた。そうして放たれた彼の矢は、夜の闇でもなく、寝ぼけてさ迷い出た禽獣でもない者を射抜いていた。「ぎゃあッ!」と悲鳴を上げて、地面に斃れた誰かがいる。駆け寄ってみれば、それは獣でも狐狸妖怪でもなく、紛れもなくひとりの人であった。
しかもその死に顔には見覚えがあって――驚くべきことに、彼の仇敵である、あの佐久豪族の嫡男ではないか。その手に握られた萌葱の紗が女物であることからして、おそらく、女に会いに下諏訪まで忍んできたのであろう。胸を射抜かれ着物から鮮血を滲ませる青年の骸の様子は、諏訪の神殿に現れた、あの託宣の蛙と酷似していた。
夜が明けるとともに、事態は各方面に知れ渡った。
青年を射殺した下諏訪の豪族は、遺骸を佐久まで送り届けた後は沈黙を守るばかりである。むろん、嫡男を殺された佐久の側がそれで納得できるわけがない。佐久の首長は息子の死を口実に、下諏訪の幾つかの部落を詫びとして自らの所領に寄こせと、露骨に要求したのである。これに下諏訪が何も言ってこないのを戦の準備を進めているのだと見るや、佐久はさらにその姿勢を強めた。
かくのごとき檄が、各地の豪族へと飛んだ。
曰く、
「先だって諏訪の神殿に現れた“白羽の矢で射抜かれた蛙”の託宣は、わが佐久の嫡男が卑劣なる下諏訪の手によって射殺されることを予見した、洩矢の神からの警告であったに違いない。神ならぬわが身はそうした神慮に気づくことができず、結果として手塩にかけて育ててきた愛し子を殺されることになった。なればこそ、親が子のためにしてやれるのは弔い合戦である。神が発した凶兆に基づいて戦を起こすのだから、これは私利私欲の戦いではなく、正義の戦いに他ならない。心ある人々は剣を磨き、弓矢を携え、わが力となるべきである」。
むろん、依然として、洩矢の神が蛙の屍骸で何を訴えたかったのかは解らない。
だが、事故とはいえ息子を殺された佐久豪族の言い分が、一定の正しさを伴って人々の心に響いたのは確かだった。
三日と明けず檄に応じて結集した五百の佐久勢は下諏訪豪族の館を襲撃し、わずか百人ばかりの守備兵を皆殺しにし、館に放火した挙句、蔵にあった財産を籾殻のひと粒に至るまで徹底的に略奪した。一族の子らは勝者たちの奴婢として売り買いされ、女たちは慰み者とされた。下諏訪の首長は逃げることも叶わず捕らえられると、自身の妻と娘が敵兵に代わる代わる凌辱される様を見せつけられた後、彼がかつて佐久の嫡男にそうしてしまったように、佐久の首長が放った矢で射抜かれ、処刑されたのである。
諏訪の東風谷は、目と鼻の先で行われたこうした戦いを強く非難したが、耳を貸す者は居なかった。ともすれば侮られがちな神官の言うことなど、利害と遺恨の絡んだ戦場では無意味の極みであったと言える。
落胆した彼にとっては、日々の楽しみである食事でさえもずいぶんと味気ないものに感じられる。たっぷりの強飯(こわいい)を醤(ひしお)でかき込むという彼自身の好物も、今では泥の山を食んでいるとしか思えない。浮かない顔で不味そうに飯を口に運ぶ東風谷神官の元に、大慌てで若い神人が駆け込んできた。彼がもたらした報せに、神官は思わず箸を取り落としてしまっていた。
神殿の階の上に、再び矢で射抜かれた蛙の屍骸が現れたというのである。
その日のうちに各地の豪族たちが呼び集められ、二匹目の蛙がいったい何ゆえ現れたかについて論議の場が持たれた。むろん、依然として東風谷神官が何か洩矢の神の意図について察するということはなかった。そうなると、佐久勢が下諏訪勢を滅ぼした時のように、各々が各々にとって都合の良い解釈を『神慮』『神意』と称して烈しくぶつけ合うことが始まるのみ。
最初の蛙については、『佐久豪族の嫡男が矢で射られて殺される』ことの暗喩であるという解釈が半ば公のものとなっていたから、必然としてそれに関わりを見るような論調が豪族たちの口からは出つつあった。また誰かが矢で射られる兆しではないか、洩矢の神はこれを嚆矢として新たに戦をお望みなのではないか、とも。
だが、あるひとりの豪族だけは、はっきりと違った解釈を示したのである。
上伊那一帯に勢力を張るその若い当主は、矢で射られた二匹目の蛙は凶兆ではなく『告発』であるとした。曰く、佐久と下諏訪との戦で、勝者が敗者に対してむやみに放火略奪を行ったことに、洩矢の神はお怒りだというのだ。
むろん、佐久の首長がこの意見に同意するわけがない。
そもそも彼が下諏訪に攻め込んだのは、最初の託宣を根拠にしてのものである。となれば、上伊那の首長の言い分は先だっての戦の大義名分を真っ向から否定するものに他ならない。否、そればかりか、
「何を申されるのか。下諏訪攻めの段では、上伊那からも軍勢を出したではないか」
佐久の首長の言葉ももっともである。下諏訪攻めに際しては、確かに上伊那も自身の軍勢を貸し与えた。それはこの場に居る皆が知っていることだ。だが、それでもなお上伊那の首長はにやりと不敵に笑んでいた。そして、その野心のほとばしるような口ぶりで、佐久の首長の強欲ぶりを嘲った。
佐久は下諏訪の所領と財産とを根こそぎ奪うだけでは飽き足らず、他の豪族たちに約していた恩賞の分配について不正をはたらいた。洩矢の神はそれをお許しにならぬ、ゆえに二匹目の蛙が矢で射られたのだ、と。
明け透けな物言いに皆が鼻白む。
しかしなお、その言い分にはいかばかりか妥当と言い得るところもある。
かねてより、佐久では他の郡(こおり)の豪族たちから出挙(すいこ)の原資となるべき種籾を融通してもらっていたが、昨年は渇水のため十分な量の米が取れなかった。それゆえ農民たちからの利稲(りとう)の徴収も思うに任せず、結果として諸豪族への負債が首長自身にも重くのしかかっていたのである。
斯様な状況で戦を起こし、下諏訪の土地と財産を奪い取るのであれば、それはまさに略奪によって己の困窮を解消せんとする目論見だ。その考えに思い至ったからこそ、幾人かの豪族たちがぽつぽつと手を挙げ始めた。下諏訪の土地をどれくらいやるとか、水の手の配分についていかほど利権を任せるとか、先の戦の際に約された、そういう話が未だおろそかになっている。よもや、全てを曖昧にして、何もかも佐久の懐に入れてしまう気ではないのか……と。
神の奇しき(くすしき)御目は、人の不正などたちまち見通してしまうものである。
東風谷神官もまた、諏訪を通して洩矢の神に納めるべき初穂量(はつほりょう)が蔑ろになっている旨、佐久には幾度も伝えてきたと言い出した。そのような中で戦を起こしたのである。これはもはや、洩矢の神の託宣を騙った私戦でしかない。神は、自らの御名を僭する者を決してお許しにはならぬ。それゆえ、矢で射られた蛙の託宣を、二度に渡って行ったのだと。
満座の中で何も反論できなかった佐久の首長は、体調が優れぬと訴えて、退出してしまった。彼が死んだのはそれからわずか数日後のことであった。領内を視察していた折、利稲の支払いを帳消しにしたかったある農民に襲われ、鎌で首筋を切られてしまったという。嫡男と当主を相次いで喪ったこの豪族の血筋は途絶え、次第に衰退していくのであろう。
下諏訪と佐久のそれぞれの首長は、こうして滅びた。
ひと月のうちに周辺で二度も血なまぐさい事件が起こった諏訪では、止むを得ざる形でと言うべきか、その朝政について執り行う者の顔触れにも幾分かの変化が見られた。
新たに台頭してきたのは、二度目の蛙の託宣が『告発』であると読み解いた、あの上伊那の若い首長である。論議の場で東風谷神官が彼の意見に賛同したこともあって、若いながらも豪族たちからはその慧眼に一目置かれていた人物だ。いつしか、かつて下諏訪と佐久、それぞれの勢力に組み入れられていた小豪族たちは、皆こぞって上伊那の藩屏(はんぺい)として追従を始めたのだった。
生来、彼の才覚は天稟であった。
小競り合いをくり返す上伊那の豪族たちを一代で自らの元にまとめ上げた王器は、もし神の血筋がなければ、諏訪の東風谷さえも易々と凌ぐほどであっただろうという世人の噂だ。加えて、その才に見合うようにして野心満々たる男でもある。己が諏訪の朝政を握る上での邪魔者であった下諏訪と伊那、それぞれの首長が滅びた後、彼が次の手駒に選んだのは、自らの子。
当年五歳になる己の息子を、東風谷の跡取りである四歳の娘に嫁がせたいと提案したのである。
これまで東風谷の血に立ち入ってきたのは、下諏訪と佐久の二族だ。
いわば神の血筋に混ざることで言祝ぎを受けたような者たちであったが、今や世の転変は彼らを跡形もなく押し流した。その代わりに諏訪と上伊那の血を享けた子さえ産まれれば、永年に渡って自らの一族が諏訪朝政を牛耳る一歩となる。
元より、東風谷の側にこれを拒むことはできなかった。
尊ぶべき血族の流れを断絶させることこそが、遠祖たる洩矢の神に対するもっとも巨大な罪悪なのだから。
かくしてふたりの父は、やがて婚姻を結ぶであろうそれぞれの子を、諏訪神殿において引き合わせた。食事と菓子が振る舞われ、巫(かんなぎ)による演舞が催された。少年と少女は、互いの父親が自分たちをどうしようとしているのかについては未だよく解っていない風で、ただ親しい者同士の会合であろうという顔をするばかりである。
再びの異変が訪れたのは、この会合が終わった直後のことである。
上伊那の首長が、東風谷神官と二言三言の別れのあいさつを交わしているとき、首長の息子がにこにこしながらやって来た。階の上で面白いものを見つけたという。何であろうかと父親たちが顔を見合わせると、その子の手には、矢で射られた蛙の屍骸が握られていた。
首長は、喉を詰まらせたように無言となった。
次いで血相を変えた彼は、会合の場で演じていたにこやかさなどとうに棄てたかのように、あれほど愛しんでいた自らの子を殴りつけてしまったのである。父の豹変の意味を理解できずに泣き出す少年の手から、蛙の屍骸がぽとりと落ちた。東風谷神官は弱々しく唇を開き、悲嘆とも怒りともつかない溜め息を吐くので精一杯であった。
この三度目の託宣から、洩矢の神は何を言わんとしているのか。
連日に渡って神官と豪族たちによって論議が行われたが、ただ悩み唸っているばかりでいっこうに結論が出ない。北方の越(こし)の国に、八坂と称する軍神(いくさかみ)を奉ずる一団が跳梁して南下の兆しを見せているという話も届いており、この外敵との戦いに備えよという意味ではないかという者もあった。だが、それならば先の二度に渡る託宣が、諏訪周辺の権力争いに繋がる意味が解らない。なぜ洩矢の神は、それぞれ違う事柄について報せるに当たり、三度に渡ってまったく同じような形式の託宣を下したのかが。
命に限りある人の身では、到底、神の意思は計りがたいものである。
上伊那の首長は、いつしか、洩矢の神の御目が常に自分を見つめているかのような恐怖にとらわれていた。食事のときでも、子らに弓や剣の稽古をつけているときでも、女を抱いているときでも、人間には何百年かかっても理解できぬであろう叡慮を秘めた神の御目が、一瞬たりとも途切れることなく自分を睨みつけているような気がする。取りも直さず、それは自身の子を駒として東風谷の血を恣(ほしいまま)とし、朝政を握らんとすることを神が認めていない証ではないか。三度目の託宣は、その意を伝えんとしたのではないか。そういう怖れの表れであった。
そうした首長の感覚が本当のことだったのか、あるいはただの妄想に過ぎなかったのかは、今もってはっきりとしない。だが、四方の大気が壁となって押し寄せるような絶え間ない恐怖心は、彼の心身を日一日と憔悴させ続けた。そしてついには、諏訪神殿へ出仕するため上伊那より発たねばならぬという日、疝気(せんき)に倒れて床に伏してしまったのだ。程なくして、上伊那の首長は幼いわが子を残して亡くなった。彼の野心は、洩矢の神の崇り――かも知れぬ何かよって、未然にしてくじかれてしまうことになったのである。
諏訪朝政に携わっていた有力な豪族たちが、洩矢の神の三度に渡る託宣をきっかけにして、ことごとく滅びていった。民百姓は、皆、この『崇り』を怖れ、洩矢の御神を畏れた。今年は昨年以上の渇水になるという風説が人々の間に流れ、それを間に受けた者たちは身分の上下に関わりなく、こぞって諏訪へと供物を捧げた。同時に東風谷の家は、朝政の首脳らが度重なる不運に見舞われたことにより、彼らが握っていた利権や事業を吸収して、代わりに担わざるを得なくなった。皮肉にも、凶事が東風谷の権勢を拡大させ、富み栄えさせたのだ。
当代の風祝たる東風谷神官が政に長けた人物であれば、この機を逃さずさらなる力を行使して、諏訪の支配を強めんと考えたことだろう。だが、幸か不幸か彼は気弱な性質(たち)である。東風谷の血を受け継ぎながら、見神の才もまったく持たない。けれど自らの立場と重責をよく理解した、善良な男であった。矢で射られた蛙から始まる幾つもの凶事を取り除くためには、今度こそ自分が起たねばならぬと、彼はついに決意した。
洩矢の神は、贄を好む血の気の多い神。
ならば捧げられる代物は、より貴い出自であるほど喜ばれるはずだ。
ひと月に渡って斎戒沐浴を済ませた神官は、自らの娘を呼んで、伝えた。諏訪の祭祀と朝政とを任せると。決して神慮を蔑ろにしてはならないと。これから行うことが、私の娘であるお前の、風祝としての最初の仕事になるのだと。
そして、神官は諏訪の民のうちもっとも信仰篤き剛勇の士を呼び寄せると、彼に自らの首を刎ねさせた。神の怒りを鎮めるべく、われとわが命を生贄として捧げた父の首を神前に奉ることが、次代の風祝が成し遂げた最初の仕事になったのである。
人々は東風谷神官の気高き志に涙し、父の死を前にしても気丈に風祝の使命を成し遂げたその娘に、大きな称賛を送った。諏訪への信仰は以前にも増して高まった。そして各地の豪族たちによる連合政権としての色彩が強かった諏訪は、今や洩矢の神と東風谷の風祝を頂点とする、確固たる統一王国としての時代を迎えつつあったのである。
――――――
さて、神慮というものがはっきりとした言葉では伝えられず、人間が努めて神の言い分を解釈せねばならぬのだとしたら――人々が信じ切っている神の意思とか託宣による何かの兆しというものは、実はまったくの見当違いだったということも、考えようによっては十分にあり得るはずである。
諏訪が、名実ともに洩矢の王国として脱皮を成し遂げた頃。
ひとりの少年が、おもちゃの弓矢を持って遊びに出かけようとしていた。
家の中で繕い物をしていた母は、どこか心配そうな顔で愛し子の背中を見送っている。
彼女の子は昔から勘が鋭く、人の気づかないことによく気づく。
雨が降る降らぬを予見して農民たちに重宝がられたり、どこそこの河の堤が切れそうだから土を盛った方が良いと助言して、水害を食い止めたり。まるで大人が幾人も集まって出すべき智恵を、少年ひとりですべて賄ってしまうようなものだ。
少年の父は諏訪の人のなかでもとりわけ信仰に篤く、先代の風祝が自らを供物として洩矢の神に捧げる際は、その首を剣で斬る役を賜った。そういう人物の子であるから、特別に洩矢の神の加護を得てでもいるのだろうか。
そんな考えは、他人に話せば一笑に付されるだろう。
それでも彼女は、わが子が普通ではない“何か”を持っているのではないかと思われてならないのだった。それが親の贔屓目なのか、それとも得体の知れない力に対する怖れなのか。自分でもよく解らない。
しかし、それでもかわいいわが子であることには変わりない。
当年五歳になる少年に、母は「おまえはたまに弓矢を持って、誰かと遠くに遊びに行っているようですけれど。いったい何をしているのです」と問うた。
今年の田植えの少し前からであろうか、少年が女の子らしい誰かとともに、おもちゃの弓矢で遊んでいるのは。その誰かを母は知らない。わが子は色気づく歳でも未だないが、それでも心配な親心と興味とに後押しされての問いである。
少年は母を振り返ると、にっこりと笑んだ。快活な笑みである。
「はい。諏訪子さまという方と一緒に、蛙を捕まえに行っています」
諏訪子――というのは、母には聞いたことのない名だ。
呼び捨てにしていないところを見ると、どこかの領主の娘であろうか。
思案げな母をよそに、少年はなお得意げに語るのだった。
「父様たちが仰るには、毎年、諏訪子さまには蛙を串刺しにしてお供えしているというではありませんか。ですから、わたしもそれを真似て、白羽の矢で射った蛙を神殿にお供えしております。そうすると、諏訪子さまはことのほか喜んでくださいますので、何度もそうやってお供え物をしてきたのです。……――――」
諏訪の地の神殿、その拝殿と境内とを繋ぐ階(きざはし)の上に、一本の矢で串刺しにされた蛙の屍骸がぽつねんと転がっていたのだった。
最初にそれを見つけたのは神官を務める壮年の男であったが、このいかにも神前に捧げられた供物のような態の屍骸を、用意せよと命じた憶えはまったくない。彼は、儀式の際に神に捧げる贄として、獣の首を落としてその肉を捌くという仕事は幾度となくこなしてきたし、実際に蛙を捧げる神事もあれど、それでも、斯様にただ一匹ばかりの蛙を矢で乱暴に貫いて放っておくやり方など聞いたことがなかった。
時は早朝、未だ朝靄も晴れぬ頃合いだったが、彼は引き連れていた神人(じにん)たちへ早口に命じて、周辺の豪族の首長(おびと)へ使いを発した。何か切迫した事態が差し迫っているように思われたからだ。
一刻もせずに集まった十人ばかりの豪族らは、皆、諏訪とその周りの土地においては何らかの形で功成り名を遂げた者たちばかりである。中には、当の神官の家と縁組をして、その血筋を混じり合わせた親戚の顔も混じっている。この評定の場に集まった神官と豪族たちこそが、諏訪の神を推戴して政を推し進めるという首脳の立場にあった。
言うまでもなく議題は、今朝に神官が見つけた蛙の屍骸の、処遇と意味についてである。
恭しく三方に乗せられ皆の目前に供された蛙に、豪族たちは息を呑んだ。過たず胴の中心を射抜いた矢は、見るからに致命の傷として哀れな蛙を絶命に追い込んだものらしい。世の中には『白羽の矢が立つ』という言葉があるが、この言葉は、人身御供として選ばれた者の家に、神意によってどこからともなく放たれた白い尾羽の矢が突き立つ様子からできたとも言われる。豪族たちは、皆がそうした話を思い浮かべたに違いない。蛙を殺した矢の尾羽は、まさに染みひとつない白羽のそれであったのだ。
やがて、誰からともなく
「託宣である。洩矢の神の託宣である」
という意見が出た。
皆、無言でうなずいてこれに同意した。
だが、本当の問題はそこから始まった。
この蛙の屍骸が、諏訪の地にて奉られる洩矢の神からの託宣であるとして――その意味するところを読み解かねばならない。となれば、注目は否応なく神官その人へと集まった。神を祀り、その意図するところを伝えるのが彼の役目である。
洩矢の神から数えて八代の末裔(すえ)として、東風谷の氏と風祝の地位を称するこの神官は、しかし、額に脂汗を張りつかせて要領の得ないことを呟くばかりであり、到底、洩矢の神からの託宣を読み解くことなどできそうにもなかった。座を満たすうちのひとりが「ふン」と鼻を鳴らして嘲ったところでは、この東風谷の家系は代を重ねるごとに神の血が薄れており、ただの人に近づきつつある。八代も経れば、もはや何の力も持ってはいまいと。そのように公然たる嘲笑は、実のところは東風谷の神官本人に対してではなく、その父の出身地である下諏訪の首長へと向けられていた。女であった先代の東風谷を孕ませた種は、下諏訪の豪族から迎えた婿のものである。その『混ぜ物』を嫌う彼もまた、先々代の東風谷に嫁を嫁がせた佐久の一族の出であったのだが。
ともあれ、東風谷神官にも解らぬ以上、皆で頭をひねって考えるより他にはない。
昨年、諏訪は渇水に見舞われ、田畑では作物の出来も芳しくなかった。そのときも、祀りのやり方がまずかったのか、捧げるべき贄が足りなかったかと、同じ面子で議論がくり広げられたものである。
さて此度もまた、話し合いは喧々諤々の道筋をたどった。
射抜かれた蛙が託宣である以上、何かの“兆し”であるとするのが妥当であろうから。
「凶兆である」
との見方が大勢を占めていたものの、
「いやいや、瑞兆に違いない」
という考えも根強く主張された。
はたまた、
「誰かに天罰が下るということを示しているのではないか」
という意見も度々出た。
神殿に集った皆が皆、蛙の傷の深さだとか、目玉の濁り具合だとか、前後の脚の太り方だとか、あるいは矢に取りつけられた白い尾羽の裂けた向きだとか、色々な根拠を持ち出しては得意気に憶測する。だが、蛙を矢で射抜いたはずであろう当の洩矢の神様が何も言ってはこないのだから、誰の意見が正解かなど判ろうはずもない。その日は夕方まで話し合いが続いたが、結局結論が出なかったので、疲れをうやむやにするように酒盛りが始まり、皆、したたかに酔っぱらってお開きとなった。
豪族たちが顔を上気させてそれぞれの所領へと帰っていくなか、下諏訪の首長だけはそうではなかった。彼は、胸のうちにむかむかと湧き上がる怒りを同道していた下男たちにも見せなかったが、馬上にて手綱を取る手つきには明らかに苛立ちが宿っていた。諏訪での評定の際、例の佐久の豪族に一族の血を侮辱されたことが甚だ許し難かったのである。若き日に彼の最初の妻は、あの佐久者に略奪されて強引にその妻とされてしまった。諏訪の調停によって戦に及ぶ事態だけは免れたが、それ以来の遺恨が下諏訪と佐久の間には強くわだかまっているのだ。どちらの一族の血が東風谷の嫡流を繋ぐにふさわしいかなどは、そのおまけのようなものでしかない。人の心には酒で飲み下せぬ思いもあるのである。
下諏訪にある自らの館に着いて直ぐ、彼は弓と矢を携え、再び夜の闇にくり出した。
狩猟を好む彼だったが、夜中になってまで獲物を欲しようというのではない。ただ、弓の弦を弾いて夜の闇を射ることでしか落ち着きを取り戻す手段がなかったのである。
館から少し離れた鬱蒼たる茂みへ向け、ぎりり、と、弓弦は引き絞られた。そうして放たれた彼の矢は、夜の闇でもなく、寝ぼけてさ迷い出た禽獣でもない者を射抜いていた。「ぎゃあッ!」と悲鳴を上げて、地面に斃れた誰かがいる。駆け寄ってみれば、それは獣でも狐狸妖怪でもなく、紛れもなくひとりの人であった。
しかもその死に顔には見覚えがあって――驚くべきことに、彼の仇敵である、あの佐久豪族の嫡男ではないか。その手に握られた萌葱の紗が女物であることからして、おそらく、女に会いに下諏訪まで忍んできたのであろう。胸を射抜かれ着物から鮮血を滲ませる青年の骸の様子は、諏訪の神殿に現れた、あの託宣の蛙と酷似していた。
夜が明けるとともに、事態は各方面に知れ渡った。
青年を射殺した下諏訪の豪族は、遺骸を佐久まで送り届けた後は沈黙を守るばかりである。むろん、嫡男を殺された佐久の側がそれで納得できるわけがない。佐久の首長は息子の死を口実に、下諏訪の幾つかの部落を詫びとして自らの所領に寄こせと、露骨に要求したのである。これに下諏訪が何も言ってこないのを戦の準備を進めているのだと見るや、佐久はさらにその姿勢を強めた。
かくのごとき檄が、各地の豪族へと飛んだ。
曰く、
「先だって諏訪の神殿に現れた“白羽の矢で射抜かれた蛙”の託宣は、わが佐久の嫡男が卑劣なる下諏訪の手によって射殺されることを予見した、洩矢の神からの警告であったに違いない。神ならぬわが身はそうした神慮に気づくことができず、結果として手塩にかけて育ててきた愛し子を殺されることになった。なればこそ、親が子のためにしてやれるのは弔い合戦である。神が発した凶兆に基づいて戦を起こすのだから、これは私利私欲の戦いではなく、正義の戦いに他ならない。心ある人々は剣を磨き、弓矢を携え、わが力となるべきである」。
むろん、依然として、洩矢の神が蛙の屍骸で何を訴えたかったのかは解らない。
だが、事故とはいえ息子を殺された佐久豪族の言い分が、一定の正しさを伴って人々の心に響いたのは確かだった。
三日と明けず檄に応じて結集した五百の佐久勢は下諏訪豪族の館を襲撃し、わずか百人ばかりの守備兵を皆殺しにし、館に放火した挙句、蔵にあった財産を籾殻のひと粒に至るまで徹底的に略奪した。一族の子らは勝者たちの奴婢として売り買いされ、女たちは慰み者とされた。下諏訪の首長は逃げることも叶わず捕らえられると、自身の妻と娘が敵兵に代わる代わる凌辱される様を見せつけられた後、彼がかつて佐久の嫡男にそうしてしまったように、佐久の首長が放った矢で射抜かれ、処刑されたのである。
諏訪の東風谷は、目と鼻の先で行われたこうした戦いを強く非難したが、耳を貸す者は居なかった。ともすれば侮られがちな神官の言うことなど、利害と遺恨の絡んだ戦場では無意味の極みであったと言える。
落胆した彼にとっては、日々の楽しみである食事でさえもずいぶんと味気ないものに感じられる。たっぷりの強飯(こわいい)を醤(ひしお)でかき込むという彼自身の好物も、今では泥の山を食んでいるとしか思えない。浮かない顔で不味そうに飯を口に運ぶ東風谷神官の元に、大慌てで若い神人が駆け込んできた。彼がもたらした報せに、神官は思わず箸を取り落としてしまっていた。
神殿の階の上に、再び矢で射抜かれた蛙の屍骸が現れたというのである。
その日のうちに各地の豪族たちが呼び集められ、二匹目の蛙がいったい何ゆえ現れたかについて論議の場が持たれた。むろん、依然として東風谷神官が何か洩矢の神の意図について察するということはなかった。そうなると、佐久勢が下諏訪勢を滅ぼした時のように、各々が各々にとって都合の良い解釈を『神慮』『神意』と称して烈しくぶつけ合うことが始まるのみ。
最初の蛙については、『佐久豪族の嫡男が矢で射られて殺される』ことの暗喩であるという解釈が半ば公のものとなっていたから、必然としてそれに関わりを見るような論調が豪族たちの口からは出つつあった。また誰かが矢で射られる兆しではないか、洩矢の神はこれを嚆矢として新たに戦をお望みなのではないか、とも。
だが、あるひとりの豪族だけは、はっきりと違った解釈を示したのである。
上伊那一帯に勢力を張るその若い当主は、矢で射られた二匹目の蛙は凶兆ではなく『告発』であるとした。曰く、佐久と下諏訪との戦で、勝者が敗者に対してむやみに放火略奪を行ったことに、洩矢の神はお怒りだというのだ。
むろん、佐久の首長がこの意見に同意するわけがない。
そもそも彼が下諏訪に攻め込んだのは、最初の託宣を根拠にしてのものである。となれば、上伊那の首長の言い分は先だっての戦の大義名分を真っ向から否定するものに他ならない。否、そればかりか、
「何を申されるのか。下諏訪攻めの段では、上伊那からも軍勢を出したではないか」
佐久の首長の言葉ももっともである。下諏訪攻めに際しては、確かに上伊那も自身の軍勢を貸し与えた。それはこの場に居る皆が知っていることだ。だが、それでもなお上伊那の首長はにやりと不敵に笑んでいた。そして、その野心のほとばしるような口ぶりで、佐久の首長の強欲ぶりを嘲った。
佐久は下諏訪の所領と財産とを根こそぎ奪うだけでは飽き足らず、他の豪族たちに約していた恩賞の分配について不正をはたらいた。洩矢の神はそれをお許しにならぬ、ゆえに二匹目の蛙が矢で射られたのだ、と。
明け透けな物言いに皆が鼻白む。
しかしなお、その言い分にはいかばかりか妥当と言い得るところもある。
かねてより、佐久では他の郡(こおり)の豪族たちから出挙(すいこ)の原資となるべき種籾を融通してもらっていたが、昨年は渇水のため十分な量の米が取れなかった。それゆえ農民たちからの利稲(りとう)の徴収も思うに任せず、結果として諸豪族への負債が首長自身にも重くのしかかっていたのである。
斯様な状況で戦を起こし、下諏訪の土地と財産を奪い取るのであれば、それはまさに略奪によって己の困窮を解消せんとする目論見だ。その考えに思い至ったからこそ、幾人かの豪族たちがぽつぽつと手を挙げ始めた。下諏訪の土地をどれくらいやるとか、水の手の配分についていかほど利権を任せるとか、先の戦の際に約された、そういう話が未だおろそかになっている。よもや、全てを曖昧にして、何もかも佐久の懐に入れてしまう気ではないのか……と。
神の奇しき(くすしき)御目は、人の不正などたちまち見通してしまうものである。
東風谷神官もまた、諏訪を通して洩矢の神に納めるべき初穂量(はつほりょう)が蔑ろになっている旨、佐久には幾度も伝えてきたと言い出した。そのような中で戦を起こしたのである。これはもはや、洩矢の神の託宣を騙った私戦でしかない。神は、自らの御名を僭する者を決してお許しにはならぬ。それゆえ、矢で射られた蛙の託宣を、二度に渡って行ったのだと。
満座の中で何も反論できなかった佐久の首長は、体調が優れぬと訴えて、退出してしまった。彼が死んだのはそれからわずか数日後のことであった。領内を視察していた折、利稲の支払いを帳消しにしたかったある農民に襲われ、鎌で首筋を切られてしまったという。嫡男と当主を相次いで喪ったこの豪族の血筋は途絶え、次第に衰退していくのであろう。
下諏訪と佐久のそれぞれの首長は、こうして滅びた。
ひと月のうちに周辺で二度も血なまぐさい事件が起こった諏訪では、止むを得ざる形でと言うべきか、その朝政について執り行う者の顔触れにも幾分かの変化が見られた。
新たに台頭してきたのは、二度目の蛙の託宣が『告発』であると読み解いた、あの上伊那の若い首長である。論議の場で東風谷神官が彼の意見に賛同したこともあって、若いながらも豪族たちからはその慧眼に一目置かれていた人物だ。いつしか、かつて下諏訪と佐久、それぞれの勢力に組み入れられていた小豪族たちは、皆こぞって上伊那の藩屏(はんぺい)として追従を始めたのだった。
生来、彼の才覚は天稟であった。
小競り合いをくり返す上伊那の豪族たちを一代で自らの元にまとめ上げた王器は、もし神の血筋がなければ、諏訪の東風谷さえも易々と凌ぐほどであっただろうという世人の噂だ。加えて、その才に見合うようにして野心満々たる男でもある。己が諏訪の朝政を握る上での邪魔者であった下諏訪と伊那、それぞれの首長が滅びた後、彼が次の手駒に選んだのは、自らの子。
当年五歳になる己の息子を、東風谷の跡取りである四歳の娘に嫁がせたいと提案したのである。
これまで東風谷の血に立ち入ってきたのは、下諏訪と佐久の二族だ。
いわば神の血筋に混ざることで言祝ぎを受けたような者たちであったが、今や世の転変は彼らを跡形もなく押し流した。その代わりに諏訪と上伊那の血を享けた子さえ産まれれば、永年に渡って自らの一族が諏訪朝政を牛耳る一歩となる。
元より、東風谷の側にこれを拒むことはできなかった。
尊ぶべき血族の流れを断絶させることこそが、遠祖たる洩矢の神に対するもっとも巨大な罪悪なのだから。
かくしてふたりの父は、やがて婚姻を結ぶであろうそれぞれの子を、諏訪神殿において引き合わせた。食事と菓子が振る舞われ、巫(かんなぎ)による演舞が催された。少年と少女は、互いの父親が自分たちをどうしようとしているのかについては未だよく解っていない風で、ただ親しい者同士の会合であろうという顔をするばかりである。
再びの異変が訪れたのは、この会合が終わった直後のことである。
上伊那の首長が、東風谷神官と二言三言の別れのあいさつを交わしているとき、首長の息子がにこにこしながらやって来た。階の上で面白いものを見つけたという。何であろうかと父親たちが顔を見合わせると、その子の手には、矢で射られた蛙の屍骸が握られていた。
首長は、喉を詰まらせたように無言となった。
次いで血相を変えた彼は、会合の場で演じていたにこやかさなどとうに棄てたかのように、あれほど愛しんでいた自らの子を殴りつけてしまったのである。父の豹変の意味を理解できずに泣き出す少年の手から、蛙の屍骸がぽとりと落ちた。東風谷神官は弱々しく唇を開き、悲嘆とも怒りともつかない溜め息を吐くので精一杯であった。
この三度目の託宣から、洩矢の神は何を言わんとしているのか。
連日に渡って神官と豪族たちによって論議が行われたが、ただ悩み唸っているばかりでいっこうに結論が出ない。北方の越(こし)の国に、八坂と称する軍神(いくさかみ)を奉ずる一団が跳梁して南下の兆しを見せているという話も届いており、この外敵との戦いに備えよという意味ではないかという者もあった。だが、それならば先の二度に渡る託宣が、諏訪周辺の権力争いに繋がる意味が解らない。なぜ洩矢の神は、それぞれ違う事柄について報せるに当たり、三度に渡ってまったく同じような形式の託宣を下したのかが。
命に限りある人の身では、到底、神の意思は計りがたいものである。
上伊那の首長は、いつしか、洩矢の神の御目が常に自分を見つめているかのような恐怖にとらわれていた。食事のときでも、子らに弓や剣の稽古をつけているときでも、女を抱いているときでも、人間には何百年かかっても理解できぬであろう叡慮を秘めた神の御目が、一瞬たりとも途切れることなく自分を睨みつけているような気がする。取りも直さず、それは自身の子を駒として東風谷の血を恣(ほしいまま)とし、朝政を握らんとすることを神が認めていない証ではないか。三度目の託宣は、その意を伝えんとしたのではないか。そういう怖れの表れであった。
そうした首長の感覚が本当のことだったのか、あるいはただの妄想に過ぎなかったのかは、今もってはっきりとしない。だが、四方の大気が壁となって押し寄せるような絶え間ない恐怖心は、彼の心身を日一日と憔悴させ続けた。そしてついには、諏訪神殿へ出仕するため上伊那より発たねばならぬという日、疝気(せんき)に倒れて床に伏してしまったのだ。程なくして、上伊那の首長は幼いわが子を残して亡くなった。彼の野心は、洩矢の神の崇り――かも知れぬ何かよって、未然にしてくじかれてしまうことになったのである。
諏訪朝政に携わっていた有力な豪族たちが、洩矢の神の三度に渡る託宣をきっかけにして、ことごとく滅びていった。民百姓は、皆、この『崇り』を怖れ、洩矢の御神を畏れた。今年は昨年以上の渇水になるという風説が人々の間に流れ、それを間に受けた者たちは身分の上下に関わりなく、こぞって諏訪へと供物を捧げた。同時に東風谷の家は、朝政の首脳らが度重なる不運に見舞われたことにより、彼らが握っていた利権や事業を吸収して、代わりに担わざるを得なくなった。皮肉にも、凶事が東風谷の権勢を拡大させ、富み栄えさせたのだ。
当代の風祝たる東風谷神官が政に長けた人物であれば、この機を逃さずさらなる力を行使して、諏訪の支配を強めんと考えたことだろう。だが、幸か不幸か彼は気弱な性質(たち)である。東風谷の血を受け継ぎながら、見神の才もまったく持たない。けれど自らの立場と重責をよく理解した、善良な男であった。矢で射られた蛙から始まる幾つもの凶事を取り除くためには、今度こそ自分が起たねばならぬと、彼はついに決意した。
洩矢の神は、贄を好む血の気の多い神。
ならば捧げられる代物は、より貴い出自であるほど喜ばれるはずだ。
ひと月に渡って斎戒沐浴を済ませた神官は、自らの娘を呼んで、伝えた。諏訪の祭祀と朝政とを任せると。決して神慮を蔑ろにしてはならないと。これから行うことが、私の娘であるお前の、風祝としての最初の仕事になるのだと。
そして、神官は諏訪の民のうちもっとも信仰篤き剛勇の士を呼び寄せると、彼に自らの首を刎ねさせた。神の怒りを鎮めるべく、われとわが命を生贄として捧げた父の首を神前に奉ることが、次代の風祝が成し遂げた最初の仕事になったのである。
人々は東風谷神官の気高き志に涙し、父の死を前にしても気丈に風祝の使命を成し遂げたその娘に、大きな称賛を送った。諏訪への信仰は以前にも増して高まった。そして各地の豪族たちによる連合政権としての色彩が強かった諏訪は、今や洩矢の神と東風谷の風祝を頂点とする、確固たる統一王国としての時代を迎えつつあったのである。
――――――
さて、神慮というものがはっきりとした言葉では伝えられず、人間が努めて神の言い分を解釈せねばならぬのだとしたら――人々が信じ切っている神の意思とか託宣による何かの兆しというものは、実はまったくの見当違いだったということも、考えようによっては十分にあり得るはずである。
諏訪が、名実ともに洩矢の王国として脱皮を成し遂げた頃。
ひとりの少年が、おもちゃの弓矢を持って遊びに出かけようとしていた。
家の中で繕い物をしていた母は、どこか心配そうな顔で愛し子の背中を見送っている。
彼女の子は昔から勘が鋭く、人の気づかないことによく気づく。
雨が降る降らぬを予見して農民たちに重宝がられたり、どこそこの河の堤が切れそうだから土を盛った方が良いと助言して、水害を食い止めたり。まるで大人が幾人も集まって出すべき智恵を、少年ひとりですべて賄ってしまうようなものだ。
少年の父は諏訪の人のなかでもとりわけ信仰に篤く、先代の風祝が自らを供物として洩矢の神に捧げる際は、その首を剣で斬る役を賜った。そういう人物の子であるから、特別に洩矢の神の加護を得てでもいるのだろうか。
そんな考えは、他人に話せば一笑に付されるだろう。
それでも彼女は、わが子が普通ではない“何か”を持っているのではないかと思われてならないのだった。それが親の贔屓目なのか、それとも得体の知れない力に対する怖れなのか。自分でもよく解らない。
しかし、それでもかわいいわが子であることには変わりない。
当年五歳になる少年に、母は「おまえはたまに弓矢を持って、誰かと遠くに遊びに行っているようですけれど。いったい何をしているのです」と問うた。
今年の田植えの少し前からであろうか、少年が女の子らしい誰かとともに、おもちゃの弓矢で遊んでいるのは。その誰かを母は知らない。わが子は色気づく歳でも未だないが、それでも心配な親心と興味とに後押しされての問いである。
少年は母を振り返ると、にっこりと笑んだ。快活な笑みである。
「はい。諏訪子さまという方と一緒に、蛙を捕まえに行っています」
諏訪子――というのは、母には聞いたことのない名だ。
呼び捨てにしていないところを見ると、どこかの領主の娘であろうか。
思案げな母をよそに、少年はなお得意げに語るのだった。
「父様たちが仰るには、毎年、諏訪子さまには蛙を串刺しにしてお供えしているというではありませんか。ですから、わたしもそれを真似て、白羽の矢で射った蛙を神殿にお供えしております。そうすると、諏訪子さまはことのほか喜んでくださいますので、何度もそうやってお供え物をしてきたのです。……――――」
こういうの大好きです。
諏訪子本人は登場しないのにその気配は常に存在する
お見事でした
それだけに後段の無邪気さが、つらい。
翻弄される人々の様子が、鮮明に眼下に映し出されるかのようでした。
とても面白かったです。
とても面白かったです
神の御意なぞ人にはわからぬもので……。