たとえば、船があったとする。
その船は、持ち主にとってとても大切な船だ。長年に渡り使い続けてきた『相棒』と言っても、過言ではないくらいに。
けれど、長年使い続けてきたが故に、船は傷つき、このままでは壊れてしまいそうだった。持ち主は慌てた。船を壊すわけにはいかない。だってこれは、大切な船だから。大事な相棒だから。
そう考えた持ち主は、船を修理することにした。傷ついた部品を、新しいものに交換し、修復するのだ。ボロボロの船は、結果的にすべての部品を交換してしまうことになったが、そうすることにより、船はまるで『新品』のように綺麗になった。
持ち主は喜んだ。これで、相棒はまた元気になった、と。
さて、ここでひとつ問題だ。
この船は、結果的にすべての部品を交換することになった。つまり、旧い部品は残っていないのである。そう、持ち主と共に水面を走った部品は、既にすべて新しいパーツへと替えられてしまっているのだ。
これを以前までの『相棒』と呼ぶことは、果たしてできるのだろうか? その『相棒』を構成する部品は、すべて見知らぬ新たなパーツに交換されてしまったのに、それは果たして本当に以前までの『相棒』なのだろうか?
——もう、部品を交換してしまった時点で、『相棒』など、幻想になってしまっているのではないか?
◆
「それってさあ」
キスメは地底の入り口付近で、今日『香霖堂』に赴いたこと、そうなった経緯、そして自分の桶についてのことを、友人のヤマメに話していた。
最初にキスメが香霖堂へ向かったのは、つい数日前のことだ。年柄年中ずうっと元気に閑古鳥が鳴いている古道具屋にキスメが向かった理由は、たったひとつ。長年使っている桶が、壊れかけてしまっていたからである。
今キスメが入っているこの桶とは、随分長い付き合いになる。それはもう、いい加減付喪神になってもおかしくないのではないかというくらいに、長い付き合いだ。キスメにとって、この桶は『相棒』と呼んで差し支えないほどの大事な大事な存在。その桶が壊れかけているというのは、キスメにとって決して見過ごすことのできない一大事だった。
それがなぜ香霖堂へ向かう理由になるのかというと、香霖堂は道具の修理も受け付けているからである。つまりは、修理を頼もうというわけだ。
おまけに香霖堂の店主とは面識があったし、ちょうど良かった。店主である森近霖之助には、「桶屋に行ったらどうだい」と言われたのだが、桶屋といえば人里にしかない。内気なキスメにとって、そんな人がたくさんいる所に向かえというのは、一種の死刑宣告のようなものでもあった。
その事を彼に説明したら、まるで呆れたようにため息をつかれたけれど、なんだかんだ言いながらもしっかりキスメの願いを聞いてくれるあたり、霖之助は優しいのだろう。キスメは、あの無愛想ながら、どこか面倒見の良い店主のことが嫌いではなかった。むしろ、どちらかといえば、好きな方だった。無論恋愛的な意味で、というわけではなく、単に一人の人物として、あの出不精道具屋にはそれなりの好意を抱いていた。
さて、そんなちょっと優しい古道具屋の店主に桶を見てもらった所、どうやら老朽化がひどいらしく、いっそ新しいものに交換した方が良いと言われた。「この道具はもう寿命だ」、と。「多分、新しいものを買った方が安いだろうね」、とも。
けれど、キスメは店主の提案を頑なに拒んだ。この桶は、ずうっとキスメが大事にしてきた『相棒』だ。いまさら新しい桶に乗り換えるなど、キスメ自身が許せなかった。たとえ買い換えた方が安価でより耐久度の高いものが手に入るのだとしても、相棒との絆は、どれだけの量のお金にも代え難いキスメの宝だ。
だから、買い換えることはしない。そのかわり、お金はちゃんと払うから、修理できるのならば、できる限りやってほしい——この想いを霖之助に伝えると、またもや呆れられるかと思いきや、意外にも彼は誠実な態度で相談に乗ってくれた。幻想郷のサヴァンに『道具屋に向かない性格』などと言われてしまっている霖之助ではあるが、それでも、道具にかける愛情や情熱というのは、さすが道具屋というだけあって人一倍強いらしい。
二人が相談した果てに出した結論は、『新しく作り直すと言った方が良いくらいの規模の修理を桶に行う』というものだった。長年道具を見てきた半妖店主の見立てによると、桶が負っているダメージはどこをどう直すかとかそういうレベルの損傷ではないらしく、やるなら徹底的にやらねばならない、とのことだった。
そして今日、ようやく桶の修理が終わり、香霖堂にもう一度赴いて新品同然にまでピカピカになった桶を受け取ったキスメは、ご機嫌な様子でそれをヤマメに語ったというわけだ。
そして話をすべて聞き終えたヤマメが言った一言が、先ほどの「それってさあ」だった。
ヤマメはいたってなんの悪気もなく、単純に疑問を抱いているといった様子で言葉を繋ぐ。
「それって、本当に『あんたの桶』なの?」
ヤマメの言っている意味がわからず、キスメは眉をひそめた。どういう意味かと聞いてみると、ヤマメはあっけらかんと答える。
「いや、だってさ、それってつまり『桶を構成する部品のほとんどを交換しちゃった』わけでしょ? だったら、あんたが今まで使ってた桶の部品のほとんどは、捨てられちゃったわけじゃん。
それって、新しい桶を買って古い桶を捨てたのと、変わらなくない?」
ヤマメの言葉が、キスメの胸を強く打った。まるで気付いてはいけないことに気付かされてしまったような感覚がキスメを襲う。
言われてみれば、たしかにそうだ。ヤマメにそう言われた途端、自分が今収まっている桶が、なんだかとても違和感のある遠いもののように思えてきて、なに食わぬ顔でそこに入っていた自分が異常に思えた。体の奥底から湧き上がる違和感で、キスメはぶるりと体を震わせる。
どうして気付かなかったのだろうか。桶を構成するほぼすべての部品を交換してしまったのであれば、それが以前の桶と同一の存在であると言い切れるはずがない。むしろ、別の桶と言ってしまってもおかしくないだろう。修理した、などと言っても、実際の所桶を丸ごと交換したのと、一緒ではないか。
「まあ、あんたが良いって言うなら、それで良いんだろうけどさ……って、ちょっと、キスメ!?」
キスメは、なにかに急き立てられるような焦りを感じた。一刻も早く香霖堂に向かわなければいけないと思った。そして霖之助に交換された古いパーツを集めてもらって、それを元にもう一度桶を作ってもらうよう、頼んでみようと考えた。きっとそれこそが、真のキスメの相棒に違いない。たとえボロボロであろうと、それこそが、前からずっとつるべ落としとしての苦楽を共にしてきた相棒なのだ。
ヤマメから背を向けたキスメは、ヤマメの驚いたような声に構わず、全力で香霖堂へと駆けた。
「……なるほど。で、僕の所に大慌てでやってきた、と。とにかく、飲み物でも飲んだらどうかな。息切れが凄いよ」
香霖堂のドアをぶち破らんばかりの勢いで来店したキスメは、すっかりばててしまった体で、しかし一生懸命に事情を説明すると、すぐに交換した古いパーツを集めてもらうよう霖之助に要求した。
しかし、ぜえはあと息を荒くするキスメとは裏腹に、彼は冷静に赤いラベルが巻かれたペットボトルをキスメに差し出す。中には黒い液体が入っていた。
こんなことをしている場合じゃないのに、と思いながらも、これを飲まなければ彼は話を聞いてくれないだろうな、となんとなく予想したキスメは、喉も渇いていたことだし、素直にそのペットボトルを受け取ると中の液体を飲んだ。
「!?」
その瞬間、ピリッとした刺激が口内に広がって、キスメは目を丸くする。毒か、と一瞬思ってしまったが、しかしそういうわけでもなさそうで、むしろ逆に慣れてくるとこの刺激がクセになりそうだった。
「驚いたかい? 『外』の飲み物で、『コーラ』っていうのさ」
まるでイタズラに成功した少年のように微笑をたたえる霖之助を見て、一杯食わされた、とキスメは気付いた。
ぷくっ、と頰を膨らませて、半目で霖之助を睨むと、彼は苦笑しつつ「悪い悪い」と手を見せながら、
「でも、落ち着いただろう?」
そう言って笑った。
確かに、未知の飲み物を飲んだ驚きで、すっかりキスメは普段の様子を取り戻していた。先ほどの息切れも、どうやら精神的な焦燥によるものが大きかったらしく、今ではもう元通りだ。
霖之助の言葉に、キスメはジト目を維持したまま、こくんと頷くと、『こーら』というらしい飲み物をまた口に含む。一度どういう飲み物かを知ってしまえば、ピリッと辛いような刺激も大したことはない。むしろ、しゅわしゅわとした刺激が心地良かった。
「気に入ったのならあげるよ。それよりも」
霖之助は香霖堂のカウンターに座ったまま、頬杖をつく。
「桶について、話そうか」
キスメはコーラを飲みながら頷いた。もともと香霖堂にやってきた理由は、それなのだ。
キスメは改めて、落ち着きのある口調で経緯を話した。そして、交換してしまった古いパーツを集めてほしい、とも。
霖之助はそれに口を挟むこともなく、目を閉じて静かに頷きながら聞いていたが、キスメがすべてを話し終わったあと、瞳を開く。
「……昔にも、君みたいな悩みを抱えた人間がいた。遠い遠い、昔の物語だ」
キスメはいきなりなにをと思ったが、しかしきっとこれは意味のある話なのだと思い直し、黙って耳を傾ける。
「テセウス、とか言ったかな。そんな人間だ。その人間も、自分の船を持っててね。今の君と、まったく同じ状況に陥っていたらしいんだ。つまり、船の部品を交換してしまったら、それはもう元の船ではないんじゃないか、という悩みを抱いていたのさ。
そのテセウスの船に対して、いろんな人物が、自分の考えをぶつけた。部品を交換してしまった船は、もう元の船ではないという人間。部品を交換しても、それは元の船だ、という人間……。どちらの主張も、しっかりとした根拠があって、決してどっちも間違いじゃなかった。少なくとも、僕はそう思ってる」
キスメは驚いた。聞いたことがないような名前だが、かつて、自分と同じような葛藤を抱いていた人間がいたことに。そして、一刻も早く、霖之助が語っている話の終わりを聞きたくなった。そのテセウスという人間が、いったいどちらを選んだのか、キスメは気になってしまったのだ。
キスメは霖之助に尋ねる。キスメと同じ悩みを抱いた人間は、いったい自分の船をどうしたのか。この言いようのない不気味さを、どうやって晴らしたのか。
しかし、そんな期待に満ちたキスメの視線を受けた霖之助は、眉の端を下げながら、苦々しく笑った。
「それがね、まだ、明確な答えは出ていないんだ。おかしいと思うだろう? そのテセウスという人間は、とっくの昔に死んでしまっているのに、未だに答えは出ていない。——キスメ。今君が抱えている悩みっていうのは、それほどの難問なんだ」
霖之助は瞼を降ろしながら、穏やかに続けた。
「でも、それに対して、僕はそれなりに考え抜いた自信のある答えを、持ってるつもりだよ」
霖之助は、一息呑んで、キスメの目をまっすぐに見る。
「……僕は、どちらの主張も、正しいと思う」
キスメは黙って霖之助の話を聞いていた。
霖之助がこんな時にあやふやな結論をキスメに示し、はぐらかそうとする人間ではないことは、なんとなくわかる。だから、目の前にいる哲学者みたいな一面を持ったおかしな半妖は、きっと本当に両方の主張とも正しいと思っているのだろう。
キスメが急かす必要もなく、霖之助は淀みなく続けていく。
「道具と持ち主っていうのは、持ち主からの『想い』で繋がってると、僕は思うんだ。よく道具の心臓部、なんていうけれど、僕の考えでは、真の道具の心臓部っていうのは、持ち主の想いなんじゃないかなって思うのさ」
そこで霖之助は一拍置くと、キスメを見据える。
「キスメ。君は今、その桶を『相棒』だと思っているかい? 古くからの付き合いである、相棒だと思うかい? もう一度、胸に手を当てて、考えてみるんだ」
キスメは今自分が収まっている桶を見下ろすと、言われた通り、胸に手を当てた。
不思議な感覚だ。こうして考えていると、先ほどまで感じていたはずの違和感が消え去っていくのがわかる。けれど、あの『相棒』特有の馴染み深い感覚が戻ってきたか、というと、そうではなくて。ただ、違和感もなければ馴染みもない、まっさらな気配をこの桶から感じた。
「たとえば、の話だけど。その桶が昔の相棒であるかそうでないかなんていう悩みを君が抱えていなかったなら、君はその桶を相棒だと思い続けられたはずだ」
そうだ。ヤマメに言われるまで、確かにキスメは違和感なんて感じていなかった。むしろ、馴染み深い感覚が戻ってきていたとも感じていた。
「……それが答えだよ」
ここにきて、ようやくキスメは霖之助の言いたいことが理解できた。
つまりは——
「全部、自分次第なんだ。自分の『想い』次第なんだ。
君がその桶を相棒だと想い続けるなら、その桶は相棒さ。持ち主から寄せられる『想い』こそが、道具の本体。部品やパーツなんて、ただの上っ面だよ。例え部品をすべて交換したとしても、持ち主がそれを昔から使い続けてきた相棒だと想うなら、それは紛れもなく、その相棒だ。
部品が替わったとか、パーツが違うとか、そんなことは些細な問題に過ぎない。蛇が脱皮したからといって、脱皮した後の蛇と脱皮する前の蛇が別個体なはずがないだろう?
持ち主の『想い』さえあれば、道具における部品の重要度なんか、所詮その程度なのさ」
ああ、そうか、と、キスメは自分が納得していくのを感じた。
自分がこの桶を『相棒』だと想い続けるのならば、これは間違いなく、紛れもなく、自分の愛しい相棒だ。間違いない。絶対にそうだ。
けれど——
「逆もまた然り。君がその桶をどうしても『相棒』だと想えないのなら、それはあの相棒じゃない。まったく新しい、新品の桶さ。かつての相棒よりも、そっちを選んでみるのも、アリだろう。
きっと、君の『相棒』だってわかってくれる。しっかり供養して、相棒を休ませてやるのも、悪い選択じゃないと僕は思うよ」
キスメは自分の桶を、じっと見つめた。なんだか、二つの視線がキスメを見つめているような気がした。
一つは、懐かしい視線。相棒だ。ずうっと長い年月を共にしてきた相棒の桶の視線だ。不思議なことに、今ならそれがしっかりと感じ取れた。
二つ目は、まるで今芽吹いた植物のように爽やかな視線。純朴な子どものように清々しい視線だった。相棒ではない。これは——自分の相棒への疑念が生んだ、この新しい桶の、視線だろうか。
夢? 幻? 未だ付喪神にもなっていない道具の視線を感じるだなんて、初めての体験だし、聞いたこともなかった。
けれど、きっと夢でも幻でもないのだろうなとキスメは思う。確固たる根拠はない。ただ、なんとなくだ。だけれど、今までの中で一番信頼できる『なんとなく』だった。
「さあ、キスメ。決断の時だ。その桶は、もう君のもの。どちらの選択も、僕は尊重するよ。そして、できる限り、力を貸そう。それが君の桶を生まれ変わらせた僕の義務だろうしね」
……私は——。
◇
「邪魔するよ」
おや、と霖之助は香霖堂の扉を開けた人物を見て、にわかに片眉を吊り上げた。
「これまた、珍しいお客さんだね。ようこそ香霖堂へ」
「ああ、いや、ね。ちょっとお礼をと思って」
そう言って、来客——黒谷ヤマメは、笑いながら金色のポニーテールをわしわしと掻いた。
そして、笑顔のままに、霖之助の顔をじっと見つめる。
「あいつの桶のことさ。キスメになんだかんだアドバイスしてやったのは、あんたでしょ?」
「……ああ、あれか」
霖之助は昨日やってきたつるべ落としの少女と、彼女から相談された悩みのことを思い出す。
そして、肩を竦めてふっと笑った。
「アドバイス、だなんてとんでもない。僕はあくまで、自分の考えを語っただけさ」
「……ふーん」
ヤマメは微笑みを消して、じいっと霖之助を見つめていたが、やがて「まあ良いや」と明るい声で話す。
「ともかく、あんたがいろいろと世話を焼いてくれたおかげで、あいつもすっかり元気を取り戻したよ。ありがとね」
「そうかい。まあ、役に立てたならなによりだよ。……それはともかくとして」
霖之助はそこで一拍置くと、キスメ本人から聞く予定だったことを、代わりにヤマメへ尋ねた。
「キスメは結局、どっちを選んだのかな」
ヤマメはきょとんとする。
「んぁ? なに、聞いてないの?」
「いや、あの後キスメは『一度地底に戻ってゆっくり考える』って言って帰ったから、僕はキスメがどっちを選んだのか未だにわからないんだ」
「ははぁ……なるほどね。それであいつ、昨日戻ってきた時には妙に元気がなかったわけか」
合点がいったように顎を指で撫でる彼女は、しかし次の瞬間に「今日にはころりといつも通りの様子になってたけどね」と笑った。彼女は地底のアイドルなどと呼ばれているそうだが、なるほど、ころころとよく笑う彼女の笑顔には朗らかな魅力がある。アイドル、というのも頷ける話だ。
しかしその後、ヤマメはその笑顔を意地悪そうなニヤリとした笑みに変えると、霖之助を流し目で見た。
「まあ、そいつは本人から聞いてみたらどうだい?」
「む……」
「他人から聞いても、面白くないでしょ。あいつはああ見えて義理堅い奴だから、数日後になればきっと礼を言いに来ると思うよ。
今は多分、『昔の相棒』と再会できた喜びを噛み締めてるか、『新しい相棒』に一刻も早く馴染めるようにキスメも努力してるだろうから、ちょっとくらい、見逃してあげてよ」
言われてみれば、それもそうかもしれない。他人から聞くよりも、他でもないキスメ本人からどちらを選択したのか告げられた方が、良い気がする。
ヤマメは言葉に詰まった霖之助を見てから、腕を組み、瞼を閉じると、うんうんと自分で納得するかのように頷いた。
そして彼女は霖之助に背を向けると、顔だけをこちらに向ける。
「まあ、そういうわけだから。ありがとね、店主」
「ん、ああ、どういたしまして。ところでなにか買っていってはくれないのかな」
霖之助が苦笑しながらヤマメを見ると、彼女は清々しい声で、
「また今度ね」
「……」
その言葉を聞いた霖之助は直感で察した。これは、あれだ。ヤマメのそれは、霖之助が宴会に誘われた際に使う『行けたら行く』と同じニュアンスだ。多分、目の前の土蜘蛛が買い物目的で香霖堂に来ることはないだろう。
霖之助がじとっとした半目で見ているのを知ってか知らずか、ヤマメは鼻歌でも歌いだしそうな雰囲気を醸し出しながら、ポニーテールを揺らして今度こそ香霖堂から出ていった。
(やれやれ……)
彼女の気配が消えた後、霖之助は香霖堂のカウンターに肘をつくと、面白くなさそうな表情になる。
暇になってしまったし、本でも読もうか——そんなことを考えていた時、扉の向こうから声が聞こえた。
「……お? キスメじゃん。あんたもここに来ようと思ってたの? あははっ、ごめんごめん。いや、あんたがあんまりにもその桶に集中してたからさ、誘わない方が良いかなって……」
間に香霖堂を挟んでいるために、その声は遠くて聞こえにくかったが、それでもヤマメとキスメの声であることはなんとなくわかった。
(噂をすれば影、か)
霖之助は仄かに笑うと、香霖堂の外で行われている会話に耳を傾ける。
「……ふむ、キスメは店主に自分の答えを言いに来たってことね。じゃあせっかくだし今から一緒に店主に言ってこよっか。いや、奇遇だね、さっきまで店主とあんたのことを話してたんだよ。店主も気になってたみたいだよ、あんたの桶について」
二人の会話を聞いた霖之助は、顔に浮かべた笑みを、もうちょっとだけ強くした。
これは、どうやらキスメの答えを知るのは、予想よりずっとずっと早くなりそうだ。数日後どころか、すぐではないか。
だが、キスメにも言った通り、キスメがどちらの選択をしていても、霖之助はそれを尊重するつもりだった。
キスメがそのまま新品の桶を買っていたら、彼女がこんな悩みを抱えることもなかったのだろう。新品を自分で買っておいて、これが昔からの相棒だなんて思えるはずがないのだから。
けれど、キスメはかつての相棒を生かすために、修理という選択をした。だからこそ生まれた葛藤。悩み。パラドックス。
キスメが抱えていた悩みというのは、実の所『外』でも扱われている——哲学として。霖之助も、その『テセウスの船』と呼ばれるパラドックスに対して、長い間考え続けてきた。外の哲学者たちは、科学的な根拠を示し、テセウスの船に対して答えを見出していたようだが、霖之助は違った。
霖之助は哲学者としてではなく——『道具屋』として、幻想に生きる古道具屋として、テセウスの船に答えを出した。それが、キスメに語った論だ。
仮にもし、霖之助が今までテセウスの船に挑んでいった哲学者たちと語り合う機会があったとして、この論を彼らに語ったとすれば、どういう反応を彼らは示すだろうか。失笑するだろうか。噴飯するだろうか。非科学的だと、笑うだろうか。
けれど、霖之助は自分の答えにある種の満足感を得ていた。正しくなくても良い。笑われても良い。自分の胸に、一番しっくりすとんと落ちたのが、この結論だったのだから。
再び、香霖堂の扉が開く。扉を開けたヤマメの隣には、桶に収まった、緑髪ツインテールの小さな少女の姿。
それを見た霖之助は、ふっと微笑んで、彼女たちを迎え入れた。『テセウスの船』ならぬ、『キスメの桶』——そしてキスメが選んだその答えは、果たして如何なるものだろうか。
「ようこそ、香霖堂へ。さて、『キスメの桶』は、どうなったのかな——」
香霖堂に、胸を張る誇らしげな顔をしたキスメの声が、響き渡った。
その船は、持ち主にとってとても大切な船だ。長年に渡り使い続けてきた『相棒』と言っても、過言ではないくらいに。
けれど、長年使い続けてきたが故に、船は傷つき、このままでは壊れてしまいそうだった。持ち主は慌てた。船を壊すわけにはいかない。だってこれは、大切な船だから。大事な相棒だから。
そう考えた持ち主は、船を修理することにした。傷ついた部品を、新しいものに交換し、修復するのだ。ボロボロの船は、結果的にすべての部品を交換してしまうことになったが、そうすることにより、船はまるで『新品』のように綺麗になった。
持ち主は喜んだ。これで、相棒はまた元気になった、と。
さて、ここでひとつ問題だ。
この船は、結果的にすべての部品を交換することになった。つまり、旧い部品は残っていないのである。そう、持ち主と共に水面を走った部品は、既にすべて新しいパーツへと替えられてしまっているのだ。
これを以前までの『相棒』と呼ぶことは、果たしてできるのだろうか? その『相棒』を構成する部品は、すべて見知らぬ新たなパーツに交換されてしまったのに、それは果たして本当に以前までの『相棒』なのだろうか?
——もう、部品を交換してしまった時点で、『相棒』など、幻想になってしまっているのではないか?
◆
「それってさあ」
キスメは地底の入り口付近で、今日『香霖堂』に赴いたこと、そうなった経緯、そして自分の桶についてのことを、友人のヤマメに話していた。
最初にキスメが香霖堂へ向かったのは、つい数日前のことだ。年柄年中ずうっと元気に閑古鳥が鳴いている古道具屋にキスメが向かった理由は、たったひとつ。長年使っている桶が、壊れかけてしまっていたからである。
今キスメが入っているこの桶とは、随分長い付き合いになる。それはもう、いい加減付喪神になってもおかしくないのではないかというくらいに、長い付き合いだ。キスメにとって、この桶は『相棒』と呼んで差し支えないほどの大事な大事な存在。その桶が壊れかけているというのは、キスメにとって決して見過ごすことのできない一大事だった。
それがなぜ香霖堂へ向かう理由になるのかというと、香霖堂は道具の修理も受け付けているからである。つまりは、修理を頼もうというわけだ。
おまけに香霖堂の店主とは面識があったし、ちょうど良かった。店主である森近霖之助には、「桶屋に行ったらどうだい」と言われたのだが、桶屋といえば人里にしかない。内気なキスメにとって、そんな人がたくさんいる所に向かえというのは、一種の死刑宣告のようなものでもあった。
その事を彼に説明したら、まるで呆れたようにため息をつかれたけれど、なんだかんだ言いながらもしっかりキスメの願いを聞いてくれるあたり、霖之助は優しいのだろう。キスメは、あの無愛想ながら、どこか面倒見の良い店主のことが嫌いではなかった。むしろ、どちらかといえば、好きな方だった。無論恋愛的な意味で、というわけではなく、単に一人の人物として、あの出不精道具屋にはそれなりの好意を抱いていた。
さて、そんなちょっと優しい古道具屋の店主に桶を見てもらった所、どうやら老朽化がひどいらしく、いっそ新しいものに交換した方が良いと言われた。「この道具はもう寿命だ」、と。「多分、新しいものを買った方が安いだろうね」、とも。
けれど、キスメは店主の提案を頑なに拒んだ。この桶は、ずうっとキスメが大事にしてきた『相棒』だ。いまさら新しい桶に乗り換えるなど、キスメ自身が許せなかった。たとえ買い換えた方が安価でより耐久度の高いものが手に入るのだとしても、相棒との絆は、どれだけの量のお金にも代え難いキスメの宝だ。
だから、買い換えることはしない。そのかわり、お金はちゃんと払うから、修理できるのならば、できる限りやってほしい——この想いを霖之助に伝えると、またもや呆れられるかと思いきや、意外にも彼は誠実な態度で相談に乗ってくれた。幻想郷のサヴァンに『道具屋に向かない性格』などと言われてしまっている霖之助ではあるが、それでも、道具にかける愛情や情熱というのは、さすが道具屋というだけあって人一倍強いらしい。
二人が相談した果てに出した結論は、『新しく作り直すと言った方が良いくらいの規模の修理を桶に行う』というものだった。長年道具を見てきた半妖店主の見立てによると、桶が負っているダメージはどこをどう直すかとかそういうレベルの損傷ではないらしく、やるなら徹底的にやらねばならない、とのことだった。
そして今日、ようやく桶の修理が終わり、香霖堂にもう一度赴いて新品同然にまでピカピカになった桶を受け取ったキスメは、ご機嫌な様子でそれをヤマメに語ったというわけだ。
そして話をすべて聞き終えたヤマメが言った一言が、先ほどの「それってさあ」だった。
ヤマメはいたってなんの悪気もなく、単純に疑問を抱いているといった様子で言葉を繋ぐ。
「それって、本当に『あんたの桶』なの?」
ヤマメの言っている意味がわからず、キスメは眉をひそめた。どういう意味かと聞いてみると、ヤマメはあっけらかんと答える。
「いや、だってさ、それってつまり『桶を構成する部品のほとんどを交換しちゃった』わけでしょ? だったら、あんたが今まで使ってた桶の部品のほとんどは、捨てられちゃったわけじゃん。
それって、新しい桶を買って古い桶を捨てたのと、変わらなくない?」
ヤマメの言葉が、キスメの胸を強く打った。まるで気付いてはいけないことに気付かされてしまったような感覚がキスメを襲う。
言われてみれば、たしかにそうだ。ヤマメにそう言われた途端、自分が今収まっている桶が、なんだかとても違和感のある遠いもののように思えてきて、なに食わぬ顔でそこに入っていた自分が異常に思えた。体の奥底から湧き上がる違和感で、キスメはぶるりと体を震わせる。
どうして気付かなかったのだろうか。桶を構成するほぼすべての部品を交換してしまったのであれば、それが以前の桶と同一の存在であると言い切れるはずがない。むしろ、別の桶と言ってしまってもおかしくないだろう。修理した、などと言っても、実際の所桶を丸ごと交換したのと、一緒ではないか。
「まあ、あんたが良いって言うなら、それで良いんだろうけどさ……って、ちょっと、キスメ!?」
キスメは、なにかに急き立てられるような焦りを感じた。一刻も早く香霖堂に向かわなければいけないと思った。そして霖之助に交換された古いパーツを集めてもらって、それを元にもう一度桶を作ってもらうよう、頼んでみようと考えた。きっとそれこそが、真のキスメの相棒に違いない。たとえボロボロであろうと、それこそが、前からずっとつるべ落としとしての苦楽を共にしてきた相棒なのだ。
ヤマメから背を向けたキスメは、ヤマメの驚いたような声に構わず、全力で香霖堂へと駆けた。
「……なるほど。で、僕の所に大慌てでやってきた、と。とにかく、飲み物でも飲んだらどうかな。息切れが凄いよ」
香霖堂のドアをぶち破らんばかりの勢いで来店したキスメは、すっかりばててしまった体で、しかし一生懸命に事情を説明すると、すぐに交換した古いパーツを集めてもらうよう霖之助に要求した。
しかし、ぜえはあと息を荒くするキスメとは裏腹に、彼は冷静に赤いラベルが巻かれたペットボトルをキスメに差し出す。中には黒い液体が入っていた。
こんなことをしている場合じゃないのに、と思いながらも、これを飲まなければ彼は話を聞いてくれないだろうな、となんとなく予想したキスメは、喉も渇いていたことだし、素直にそのペットボトルを受け取ると中の液体を飲んだ。
「!?」
その瞬間、ピリッとした刺激が口内に広がって、キスメは目を丸くする。毒か、と一瞬思ってしまったが、しかしそういうわけでもなさそうで、むしろ逆に慣れてくるとこの刺激がクセになりそうだった。
「驚いたかい? 『外』の飲み物で、『コーラ』っていうのさ」
まるでイタズラに成功した少年のように微笑をたたえる霖之助を見て、一杯食わされた、とキスメは気付いた。
ぷくっ、と頰を膨らませて、半目で霖之助を睨むと、彼は苦笑しつつ「悪い悪い」と手を見せながら、
「でも、落ち着いただろう?」
そう言って笑った。
確かに、未知の飲み物を飲んだ驚きで、すっかりキスメは普段の様子を取り戻していた。先ほどの息切れも、どうやら精神的な焦燥によるものが大きかったらしく、今ではもう元通りだ。
霖之助の言葉に、キスメはジト目を維持したまま、こくんと頷くと、『こーら』というらしい飲み物をまた口に含む。一度どういう飲み物かを知ってしまえば、ピリッと辛いような刺激も大したことはない。むしろ、しゅわしゅわとした刺激が心地良かった。
「気に入ったのならあげるよ。それよりも」
霖之助は香霖堂のカウンターに座ったまま、頬杖をつく。
「桶について、話そうか」
キスメはコーラを飲みながら頷いた。もともと香霖堂にやってきた理由は、それなのだ。
キスメは改めて、落ち着きのある口調で経緯を話した。そして、交換してしまった古いパーツを集めてほしい、とも。
霖之助はそれに口を挟むこともなく、目を閉じて静かに頷きながら聞いていたが、キスメがすべてを話し終わったあと、瞳を開く。
「……昔にも、君みたいな悩みを抱えた人間がいた。遠い遠い、昔の物語だ」
キスメはいきなりなにをと思ったが、しかしきっとこれは意味のある話なのだと思い直し、黙って耳を傾ける。
「テセウス、とか言ったかな。そんな人間だ。その人間も、自分の船を持っててね。今の君と、まったく同じ状況に陥っていたらしいんだ。つまり、船の部品を交換してしまったら、それはもう元の船ではないんじゃないか、という悩みを抱いていたのさ。
そのテセウスの船に対して、いろんな人物が、自分の考えをぶつけた。部品を交換してしまった船は、もう元の船ではないという人間。部品を交換しても、それは元の船だ、という人間……。どちらの主張も、しっかりとした根拠があって、決してどっちも間違いじゃなかった。少なくとも、僕はそう思ってる」
キスメは驚いた。聞いたことがないような名前だが、かつて、自分と同じような葛藤を抱いていた人間がいたことに。そして、一刻も早く、霖之助が語っている話の終わりを聞きたくなった。そのテセウスという人間が、いったいどちらを選んだのか、キスメは気になってしまったのだ。
キスメは霖之助に尋ねる。キスメと同じ悩みを抱いた人間は、いったい自分の船をどうしたのか。この言いようのない不気味さを、どうやって晴らしたのか。
しかし、そんな期待に満ちたキスメの視線を受けた霖之助は、眉の端を下げながら、苦々しく笑った。
「それがね、まだ、明確な答えは出ていないんだ。おかしいと思うだろう? そのテセウスという人間は、とっくの昔に死んでしまっているのに、未だに答えは出ていない。——キスメ。今君が抱えている悩みっていうのは、それほどの難問なんだ」
霖之助は瞼を降ろしながら、穏やかに続けた。
「でも、それに対して、僕はそれなりに考え抜いた自信のある答えを、持ってるつもりだよ」
霖之助は、一息呑んで、キスメの目をまっすぐに見る。
「……僕は、どちらの主張も、正しいと思う」
キスメは黙って霖之助の話を聞いていた。
霖之助がこんな時にあやふやな結論をキスメに示し、はぐらかそうとする人間ではないことは、なんとなくわかる。だから、目の前にいる哲学者みたいな一面を持ったおかしな半妖は、きっと本当に両方の主張とも正しいと思っているのだろう。
キスメが急かす必要もなく、霖之助は淀みなく続けていく。
「道具と持ち主っていうのは、持ち主からの『想い』で繋がってると、僕は思うんだ。よく道具の心臓部、なんていうけれど、僕の考えでは、真の道具の心臓部っていうのは、持ち主の想いなんじゃないかなって思うのさ」
そこで霖之助は一拍置くと、キスメを見据える。
「キスメ。君は今、その桶を『相棒』だと思っているかい? 古くからの付き合いである、相棒だと思うかい? もう一度、胸に手を当てて、考えてみるんだ」
キスメは今自分が収まっている桶を見下ろすと、言われた通り、胸に手を当てた。
不思議な感覚だ。こうして考えていると、先ほどまで感じていたはずの違和感が消え去っていくのがわかる。けれど、あの『相棒』特有の馴染み深い感覚が戻ってきたか、というと、そうではなくて。ただ、違和感もなければ馴染みもない、まっさらな気配をこの桶から感じた。
「たとえば、の話だけど。その桶が昔の相棒であるかそうでないかなんていう悩みを君が抱えていなかったなら、君はその桶を相棒だと思い続けられたはずだ」
そうだ。ヤマメに言われるまで、確かにキスメは違和感なんて感じていなかった。むしろ、馴染み深い感覚が戻ってきていたとも感じていた。
「……それが答えだよ」
ここにきて、ようやくキスメは霖之助の言いたいことが理解できた。
つまりは——
「全部、自分次第なんだ。自分の『想い』次第なんだ。
君がその桶を相棒だと想い続けるなら、その桶は相棒さ。持ち主から寄せられる『想い』こそが、道具の本体。部品やパーツなんて、ただの上っ面だよ。例え部品をすべて交換したとしても、持ち主がそれを昔から使い続けてきた相棒だと想うなら、それは紛れもなく、その相棒だ。
部品が替わったとか、パーツが違うとか、そんなことは些細な問題に過ぎない。蛇が脱皮したからといって、脱皮した後の蛇と脱皮する前の蛇が別個体なはずがないだろう?
持ち主の『想い』さえあれば、道具における部品の重要度なんか、所詮その程度なのさ」
ああ、そうか、と、キスメは自分が納得していくのを感じた。
自分がこの桶を『相棒』だと想い続けるのならば、これは間違いなく、紛れもなく、自分の愛しい相棒だ。間違いない。絶対にそうだ。
けれど——
「逆もまた然り。君がその桶をどうしても『相棒』だと想えないのなら、それはあの相棒じゃない。まったく新しい、新品の桶さ。かつての相棒よりも、そっちを選んでみるのも、アリだろう。
きっと、君の『相棒』だってわかってくれる。しっかり供養して、相棒を休ませてやるのも、悪い選択じゃないと僕は思うよ」
キスメは自分の桶を、じっと見つめた。なんだか、二つの視線がキスメを見つめているような気がした。
一つは、懐かしい視線。相棒だ。ずうっと長い年月を共にしてきた相棒の桶の視線だ。不思議なことに、今ならそれがしっかりと感じ取れた。
二つ目は、まるで今芽吹いた植物のように爽やかな視線。純朴な子どものように清々しい視線だった。相棒ではない。これは——自分の相棒への疑念が生んだ、この新しい桶の、視線だろうか。
夢? 幻? 未だ付喪神にもなっていない道具の視線を感じるだなんて、初めての体験だし、聞いたこともなかった。
けれど、きっと夢でも幻でもないのだろうなとキスメは思う。確固たる根拠はない。ただ、なんとなくだ。だけれど、今までの中で一番信頼できる『なんとなく』だった。
「さあ、キスメ。決断の時だ。その桶は、もう君のもの。どちらの選択も、僕は尊重するよ。そして、できる限り、力を貸そう。それが君の桶を生まれ変わらせた僕の義務だろうしね」
……私は——。
◇
「邪魔するよ」
おや、と霖之助は香霖堂の扉を開けた人物を見て、にわかに片眉を吊り上げた。
「これまた、珍しいお客さんだね。ようこそ香霖堂へ」
「ああ、いや、ね。ちょっとお礼をと思って」
そう言って、来客——黒谷ヤマメは、笑いながら金色のポニーテールをわしわしと掻いた。
そして、笑顔のままに、霖之助の顔をじっと見つめる。
「あいつの桶のことさ。キスメになんだかんだアドバイスしてやったのは、あんたでしょ?」
「……ああ、あれか」
霖之助は昨日やってきたつるべ落としの少女と、彼女から相談された悩みのことを思い出す。
そして、肩を竦めてふっと笑った。
「アドバイス、だなんてとんでもない。僕はあくまで、自分の考えを語っただけさ」
「……ふーん」
ヤマメは微笑みを消して、じいっと霖之助を見つめていたが、やがて「まあ良いや」と明るい声で話す。
「ともかく、あんたがいろいろと世話を焼いてくれたおかげで、あいつもすっかり元気を取り戻したよ。ありがとね」
「そうかい。まあ、役に立てたならなによりだよ。……それはともかくとして」
霖之助はそこで一拍置くと、キスメ本人から聞く予定だったことを、代わりにヤマメへ尋ねた。
「キスメは結局、どっちを選んだのかな」
ヤマメはきょとんとする。
「んぁ? なに、聞いてないの?」
「いや、あの後キスメは『一度地底に戻ってゆっくり考える』って言って帰ったから、僕はキスメがどっちを選んだのか未だにわからないんだ」
「ははぁ……なるほどね。それであいつ、昨日戻ってきた時には妙に元気がなかったわけか」
合点がいったように顎を指で撫でる彼女は、しかし次の瞬間に「今日にはころりといつも通りの様子になってたけどね」と笑った。彼女は地底のアイドルなどと呼ばれているそうだが、なるほど、ころころとよく笑う彼女の笑顔には朗らかな魅力がある。アイドル、というのも頷ける話だ。
しかしその後、ヤマメはその笑顔を意地悪そうなニヤリとした笑みに変えると、霖之助を流し目で見た。
「まあ、そいつは本人から聞いてみたらどうだい?」
「む……」
「他人から聞いても、面白くないでしょ。あいつはああ見えて義理堅い奴だから、数日後になればきっと礼を言いに来ると思うよ。
今は多分、『昔の相棒』と再会できた喜びを噛み締めてるか、『新しい相棒』に一刻も早く馴染めるようにキスメも努力してるだろうから、ちょっとくらい、見逃してあげてよ」
言われてみれば、それもそうかもしれない。他人から聞くよりも、他でもないキスメ本人からどちらを選択したのか告げられた方が、良い気がする。
ヤマメは言葉に詰まった霖之助を見てから、腕を組み、瞼を閉じると、うんうんと自分で納得するかのように頷いた。
そして彼女は霖之助に背を向けると、顔だけをこちらに向ける。
「まあ、そういうわけだから。ありがとね、店主」
「ん、ああ、どういたしまして。ところでなにか買っていってはくれないのかな」
霖之助が苦笑しながらヤマメを見ると、彼女は清々しい声で、
「また今度ね」
「……」
その言葉を聞いた霖之助は直感で察した。これは、あれだ。ヤマメのそれは、霖之助が宴会に誘われた際に使う『行けたら行く』と同じニュアンスだ。多分、目の前の土蜘蛛が買い物目的で香霖堂に来ることはないだろう。
霖之助がじとっとした半目で見ているのを知ってか知らずか、ヤマメは鼻歌でも歌いだしそうな雰囲気を醸し出しながら、ポニーテールを揺らして今度こそ香霖堂から出ていった。
(やれやれ……)
彼女の気配が消えた後、霖之助は香霖堂のカウンターに肘をつくと、面白くなさそうな表情になる。
暇になってしまったし、本でも読もうか——そんなことを考えていた時、扉の向こうから声が聞こえた。
「……お? キスメじゃん。あんたもここに来ようと思ってたの? あははっ、ごめんごめん。いや、あんたがあんまりにもその桶に集中してたからさ、誘わない方が良いかなって……」
間に香霖堂を挟んでいるために、その声は遠くて聞こえにくかったが、それでもヤマメとキスメの声であることはなんとなくわかった。
(噂をすれば影、か)
霖之助は仄かに笑うと、香霖堂の外で行われている会話に耳を傾ける。
「……ふむ、キスメは店主に自分の答えを言いに来たってことね。じゃあせっかくだし今から一緒に店主に言ってこよっか。いや、奇遇だね、さっきまで店主とあんたのことを話してたんだよ。店主も気になってたみたいだよ、あんたの桶について」
二人の会話を聞いた霖之助は、顔に浮かべた笑みを、もうちょっとだけ強くした。
これは、どうやらキスメの答えを知るのは、予想よりずっとずっと早くなりそうだ。数日後どころか、すぐではないか。
だが、キスメにも言った通り、キスメがどちらの選択をしていても、霖之助はそれを尊重するつもりだった。
キスメがそのまま新品の桶を買っていたら、彼女がこんな悩みを抱えることもなかったのだろう。新品を自分で買っておいて、これが昔からの相棒だなんて思えるはずがないのだから。
けれど、キスメはかつての相棒を生かすために、修理という選択をした。だからこそ生まれた葛藤。悩み。パラドックス。
キスメが抱えていた悩みというのは、実の所『外』でも扱われている——哲学として。霖之助も、その『テセウスの船』と呼ばれるパラドックスに対して、長い間考え続けてきた。外の哲学者たちは、科学的な根拠を示し、テセウスの船に対して答えを見出していたようだが、霖之助は違った。
霖之助は哲学者としてではなく——『道具屋』として、幻想に生きる古道具屋として、テセウスの船に答えを出した。それが、キスメに語った論だ。
仮にもし、霖之助が今までテセウスの船に挑んでいった哲学者たちと語り合う機会があったとして、この論を彼らに語ったとすれば、どういう反応を彼らは示すだろうか。失笑するだろうか。噴飯するだろうか。非科学的だと、笑うだろうか。
けれど、霖之助は自分の答えにある種の満足感を得ていた。正しくなくても良い。笑われても良い。自分の胸に、一番しっくりすとんと落ちたのが、この結論だったのだから。
再び、香霖堂の扉が開く。扉を開けたヤマメの隣には、桶に収まった、緑髪ツインテールの小さな少女の姿。
それを見た霖之助は、ふっと微笑んで、彼女たちを迎え入れた。『テセウスの船』ならぬ、『キスメの桶』——そしてキスメが選んだその答えは、果たして如何なるものだろうか。
「ようこそ、香霖堂へ。さて、『キスメの桶』は、どうなったのかな——」
香霖堂に、胸を張る誇らしげな顔をしたキスメの声が、響き渡った。
素敵なお話でした。
話を終えるタイミングも絶妙だった!
魔理沙が壊れてしまった相棒の箒をなんとか復活させようと悩む話はあったかも
少し違うが
八雲紫により新たな博麗霊夢が用意される話
アリスとパチュリーが魔理沙の復活を模索する話
魔理沙を××してしまったルーミアが後悔から魔理沙を演じ続ける話
魔理沙の意思を継いだフランが新たな魔理沙となる話、は読んだ事がある
>山や谷
地の文でのキスメの切実さをもっと現せれば良かったかも。走れメロスを例に
果たして結論は何だったのか、気になりますね!