「ゆく河の流れが絶えぬは良いが、もとの水をただ留めるは悪し」と。
そんな事を言われても困る。
彼だって望んで不死でいるわけではないのである。
「まぁーう」
紅魔館の裏庭で咲夜に背中を流してもらいながら、先輩はそんなことをのんびりと考える。
この、水牛。皆に先輩と呼ばれるこの水牛には誰にも言えない秘密があった。
もっとも彼が「己は魔王打倒を運命付けられた勇者である」と言ったところで信じる者などいないだろうが。
~~牛、もしくは先達の話~~
皆に先輩と呼称されるその水牛がいつから紅魔館に所属しているのか、彼自身も含めて覚えているものは皆無である。
一応、本をただせば彼は紅魔館がまだ外界にあったころに美鈴が飼育していた食用、農業用の家畜である、というところまでは遡れるのだが。
ちなみになぜホルスタイン牛や和牛ではなくあえて水牛なのか、は飼育者である美鈴の好みであろうと先輩自身は推測しているが、真実は不明である。
体長およそ3m。体重およそ1.2t。
貨物運搬役である彼は、咲夜がメイドとして一歩を踏み出すよりも早く紅魔館と人里を結ぶ便として、紅魔館を支える労働に従事していた。
故に咲夜にとっては一応「先輩」にあたるため、咲夜が紅魔館を取り仕切るようになって以降、その名が定着してしまっている。
「妖精たちより牛のほうがマシっていうのは泣けてくるわね」
「まぁーう」
そんな紅魔館の面々はそれぞれ皆数奇な運命に導かれた者たちの集まりであるが、彼もまた例外ではない。
運命というものには、ある種の結びつきがあるのだ。
光が当たれば、その裏には影がさすように。
美しい桜の樹の下には、おぞましくも腐敗した死体が埋まっているように。
盗人がいれば、その前には警察機構が立ちはだかるように。
魔王がいたならば、それを打ち倒すことを定められた勇者もまた必ず存在するというように。
そしてデーモンロードたるレミリア・スカーレットを打ち破る勇者としての運命を与えられたのが彼、先輩なのであった。
そんなことは先輩以外露とも知らぬ現状、先輩は咲夜にシャワーリングしてもらった後であれば、紅魔館内を闊歩しても誰にも文句は言われることはない。
つまるところいつでも宿敵に挑める状態なわけであるのだ。
が、咲夜に肌の水分をタオルで拭ってもらった後、のんびりと裏口から紅魔館内に踏み込んだ先輩は、「どうしてこんなことになってしまったんだろう」。
そんな事を漫然と考えながら二階――レミリアの自室へ続く階段を無視してゆっくりと地下大図書館を目指す。
水牛、が勇者であることを疑問に思う者もいるかもしれない。
だがそれは失礼ながらある種の思い上がりに近い思考である。僕らはみんな生きていて、そして運命の操り手からすればその生命に貴賎はない。
ただ、大小が在るだけである。
無論、魔王と相対する勇者に選ばれるのは魔王と対峙することが出来る器を持つものに限られる。
その観点で言えば、水牛はむしろ人間よりはるかに膂力がある力自慢。すなわち運命によって勇者に選ばれるに不足はないのである。
加えて先輩は水牛の中ではかなり頭のよいほうであったし、紅魔館の濃密な魔力に触れ続けて半ば妖怪化しつつあった先輩は人語を理解する程度の知識は既に蓄えていた。
「まぁーう」
もっとも把握できたとてその言語を口にできるか、というのはまた別の話であるが。
紅魔館地下大図書館へ続く階段をまったりと下った先輩は目の前にある大扉。それに拵えられた先輩用の取っ手を咥えると、ゆっくりと扉を開く。
悲鳴を想像させる――もっとも実際には悲鳴とは程遠いのであるが――軋みと共に先輩へと道を開いた大扉を潜り抜けた先輩は、
「あら、いらっしゃい」
所狭しと周囲を埋め尽くす本棚の密林を突き進んだ先、書生のデスクの横にのっそりとうずくまった。
勇者として運命付けられたものが他者と異なる点は一体何か?
答えは「死」が単なる一時的な状態異常と等しく扱われる、ということである。
峻峰の如く世界に君臨する魔王へ挑む勇者には、常に危険が付きまとう。
万難を排し、魔王という超越者へと相対するだけでも一苦労。ならば一回や二回死んだくらいで死んでなんていられないのだ。
敵を討ち、鬱蒼と茂る森を抜け、時に嵐の海を渡り、大氷原を踏破し。
幾多の苦労を、強敵との戦を己が力と変えて魔王へと挑む勇者へ与えられし祝福――もしくは呪いが、その不死性だ。
世界に平和を望む心がある限り、勇者は何度だって不死鳥のように蘇るのである。
魔王を打ち破り、世界に平和をもたらすその日が来るまでは何度でも、何度でもだ。
どうしてこんなことになってしまったんだろう。
パチュリーがページを捲る音を子守唄に、先輩はボーっとそんな事を考える。
元々は彼とてただ一匹、どこにでもいる水牛の一匹に過ぎなかった。
そんな彼が己の運命を知ったのは、紅い日。
視界を遮り日光を妨げる紅い濃霧が幻想郷中を覆い尽くした、あの日のことであった。
魔王はただ在るだけでは魔王足りえぬ。魔王たるに相応しい力量を持ち、そしてその力で以って他者を脅かして初めて魔王は魔王足りえるのである。
レミリア・スカーレットは貴族であり支配者であったがしかし、その日まではただ静かに館へ閉じこもり雌伏する悪魔の一人に過ぎなかった。
だが紅霧異変において人里の農作、生活に多大な被害を与えたその瞬間、彼女は一人の悪魔からデーモンロードへと至ったのである。
そしてその瞬間に平和を求める人々の祈りの声に応えるべく、運命は彼を勇者と化したのである。
何故彼が選ばれたのかは定かではない。しいて言うならば、そういう運命だったのだ。
とは言え、
『楽しい夜になりそうね』
『永い夜になりそうね』
先輩にとって誤算だったのは、幻想郷には異変解決を専門とする妖怪退治のスペシャリストがいたことであった。
「そろそろ旅にでも出てレベルアップしようか」。
そんな事を考えていた矢先にあれよ、デーモンロードはあっさりと退治されてしまっていた。
その間先輩がやったことといえばせいぜい、巫女に敗北して本棚の下敷きになっていたむきゅー。彼女を本の山から掘り出した程度である。
基本、勇者としては何もやっていないと言ってよい。
かくてデーモンロードは退治された。
だがレミリアは未だ紅魔館にあり、そしてデーモンロードのままである。
当然、先輩も魔王を退治すべく運命付けられた勇者のままである。
そして勇者であるが故に、先輩はたとえ死すとも何度でも蘇るのである。
幾度も復活するのは先輩の趣味ではない。だが運命に抗うことができないので如何ともしがたいのが現状なのだ。
そんな事をうとうと考えていると、
「おっ! 今日は座椅子があるじゃないか!」
いつの間にこの図書館を訪れていたのだろうか? 天駆ける箒がキキッと空中で急制動して「ヨッと!」 ひらりと着地。
金髪の子が先輩の背中に寄りかかって読書を開始したので、今日の先輩の予定は金髪の女の子のための座椅子になった。
続いて、遠方から聞こえてくるゼイゼイという荒い息。
本棚の向こうからよろよろと姿を現したパチュリーが先輩の横っ腹をじろりと睨みつけてくるあたり、実はもう一幕繰り広げられた後なのかもしれない。
先輩は一切気がつかなかったが。
フン、と鼻を鳴らしたパチュリーもまた己のデスクに戻り、読書を再開した。
静かで結構なことである。先輩は沈黙を愛する性質であった。
先輩は結局その日、金髪の子が「じゃあな、先輩!」夜更けに帰るまで座椅子であり続けた。
今日も勇者として活動する時間などほとんどなかったが、致し方あるまい。
なんだかんだで先輩はこの金髪の女の子が嫌いではなかったし、なにより先輩はのんびり屋なのである。
◆
以上のように先輩は水牛であり、また水牛は紅魔館の家畜であり商品でもある。
つまるところ水牛は一定間隔で一定数が食肉処分されてしまうわけであるからして、これを踏まえて先輩に、
「なぜレミリアを打倒して自由と尊厳、そして同胞の命を守ろうとしないのか?」
と疑問に思われる方も少なくはないだろう。実際一度は先輩もそのようなことを考えたことはあるのだ。
もっとも、考えただけで終わってしまったのであるが。
無論、これは先輩がのんびり屋だからではない。
仮にレミリアを打倒したとて、現状よりも状況が改善されるとは先輩にはどうにも思えなかったからである。
なるほど確かに多くの水牛たちは天寿を全うせずに食肉加工されてその一生を終える。
だが同時にレミリアの圧倒的な魔力に害獣たちが気圧されているため、水牛たちは紅魔館周辺で平和な日常を謳歌できるというのもまた事実なのだ。
ここでレミリアが倒れた場合を考えてみればいい。
他の妖怪、肉食獣たちが大挙して紅魔館周辺に押し寄せ、あっという間に水牛たちは全滅の憂き目にあってしまう事は疑いあるまい。
妖怪たちが幻想郷の外で生きられないように。
幻想郷の人間たちが人里の外で安全を確保できないように。
水牛たちは紅魔館に所属することなしに仮初の自由を手にすることができないのである。
結局は皆、同じ穴の狢なのだ。ただ檻の広さが違うだけで。
それに美鈴に付き従って田畑の農耕に真面目に従事していれば、乳牛でなくてもそれなりに長生きはできるものだ。
門番と平行して家畜の飼育を担っている美鈴は変なところで優秀であり、どの牛が勤勉でどの牛が怠惰なのかをきっちり正確に把握しているのである。
結果、怠惰な奴からお肉になる。これは疑いのない事実であった。
長生きしたければ真面目に働けばいい。つまりはそれだけのことである。
先輩自身そうやって荷物運搬役を勤めてきたからこその、いまの生活なのである。無論、勇者になってしまったのは想定外であったが。
ところで、自由に憧れる牡牛仔牛たちが出奔することもまぁ、時折ある。
何せ紅魔館の家畜は基本放牧なので、逃げ出すも旅立つも己の自由であるのだから。
無論それらの牛たちの大半は妖怪や肉食獣の餌食となってしまうのだが、ごく稀にその膂力の高さで以って生き延びる者がいたりもすることを先輩は知っている。
妖怪になったのか、はたまた仙人になったのか。
極々稀にだが、ふわふわと空を飛ぶ牛やら馬やらを目にすることが可能なのが、幻想郷という土地なのである。
空を飛ぶのは鳥類や人型に限った話ではないのだ。
いずれは自分も空を飛ぶようになり、レミリアと大空にて相対するのだろうか?
そんな事を考えながら今日も先輩は霧の湖をざばんざばんと闊歩するのである。
「うん? 散歩ですか先輩」
「まぁーう」
「ですかー。でもこの舟からは離れててくださいね。魚が逃げちゃいますから」
門番の業務はいいのだろうか、と一瞬考えはしたものの、結局どうでもよくなった先輩は美鈴の釣り小舟から静かに離れていった。
先輩はあまり細かいことを気にしない性質である。
◆
「お嬢様、お嬢様がそのようなことをなさる必要はありません」
またか、と咲夜の短慮を嘆いた先輩は内心で溜息をついた。
「しかし、そうは言うがな」
「お嬢様はごゆっくり、お部屋で読書でもなさっていてください」
「いや、しかしだな」
「このような雑用をお嬢様自らなさられては他の者たちに示しがつきません。体面を保つためとお考えください」
咲夜にブラシとシャワーを奪われたレミリアは一度頷くと、
「……そうだな」
少しばかり残念そうな表情で裏口から紅魔館内へと戻っていった。
それを見守っていた咲夜はその後姿が見えなくなると、先輩とは異なり深々とした溜息をついた。
「まったく、お嬢様のお手を煩わせるなんて。何を考えているのかしらね、貴方は」
ギロリと睨みつけてくる咲夜を目にして、先輩は分かってないなぁ、と軽く首を振った。
先輩の見るところによればレミリアの人となりは静ではなく、動であった。
思考の人ではなく行動の人であり、受動の士ではなく常に能動の士であると。
城を建て、鎧をまとい専守防衛に努めるよりも、槍を片手に縦列突撃で敵陣へ飛び込むをこそ愛する性格。
ただ玉座に座して不動の王を気取るのはレミリアの性分ではない。
レミリア・スカーレットは現在の紅魔館を愛していたし、その繁栄のためにこそ自ら率先して働きたいはずなのである。
働かせてやればいいじゃないか。先輩はそう思うのだが、
「まぁーう」
「うるさい」
乱暴に当てられるブラシの圧力でもって、咲夜はそれを一蹴する。
まあ、咲夜が先輩に優しくするなどあろう筈もないので、結局先輩は黙って洗われるがままだ。
どうにものんびり屋の先輩と電光石火でそつがない咲夜とでは相性が悪いのである。
「ゆく河の流れが絶えぬは良いことでしょうけどね、もとの水がただ留まり続けるは悪よ」
ふと咲夜がもらした呟きに、困りながらも「確かにそうだろうなぁ」と内心で頷く。
先輩もそれには全面的に賛成であった。生物は死ぬから生き物なのである。
生きていればそりが合わない相手になんていくらでも出会うし、嫌でもそいつと付き合っていかなければいけないこともある。
終わりがあるからこそ、そんな日々にも耐えられる。
良き日も悪しき日もいずれは等しく過去のモノとなりゆくからこそ、世界は廻っていくのである。
咲夜は先輩を嫌っているようであった。だが先輩は沈黙を愛する性質だったので、黙々と仕事をこなす咲夜を嫌ってはいなかった。
だから咲夜は幸せになればいいだろう、とは漠然と考えている。
だからやはり自分もいずれは老いて死んでやるべきだろう、とも思っているのであるが。
にしても、八方塞である。
先輩が死を取り戻すにはレミリアを討たねばならない。
だがそれでは他の水牛たちの未来が失われるし、ましてやレミリアを討つことが咲夜の幸せのためになるかと言えばむしろ逆なような気もする。
じゃあ咲夜の為に紅魔館を出て行くか? と考えると先輩がそこまでしてやらなきゃいけない義理もないような気もする。
「はい、終わり。すぐに泥を被らないようにね」
咲夜にぺしりと背中を叩かれるが、泥浴びは水牛の生活習慣だ。
先輩はそれを止めるつもりは無かったし、咲夜も咲夜でそう言って先輩が聞くともこれっぽっちも思っていないのである。
――まあ、彼女が生きている間に魔王退治に挑む必要もあるまい。
そんなことをボーっと考えながら先輩は紅魔館の裏口を潜ると一路大図書館を目指し、パチュリーの横で小さ――大きく蹲るのである。
「おっ! ようやく私専用の座椅子がいらっしゃったぜ!」
焦る必要はない。先輩はのんびり屋なのである。
◇ ◇ ◇
「……っていうわけなのよ!」「ひどいと思わない?」
思いません、と先輩は言いたかったが、口をついてでてきたのはやはり、「まぁーう」という間延びした鳴き声であった。
だがそんな返答をも肯定的に捉えるのが何かと陽気で姦しい妖精という種族である。
「あ、やっぱりやっぱり?」「そうだよねぇ! だからさ、私たち言ってあげたのよ」「そんなんだから貴女は孤立しちゃうんだよって!」「そしたらね――」
勘弁してくれ、と先輩は唸った。シャワーリングの最中に延々と続けられる無駄話。しかも二人分だ。
昨今先輩の背中を流す任を与えられている、この二体の妖精メイド。青髪のセミロング、まったく同一の容姿を持つこの双子の妖精は水属性。
つまるところ能力でいくらでも水を補給できるがために最適と割り振られたこの人選は、先輩にとっては最悪であった。
「咲夜が生き返ってくれないかなぁ」。そんな埒もない思考に先輩が囚われてしまうのも致し方ないと言える。
先輩は沈黙を愛する性質なのである。
十六夜咲夜は天寿を全うした。齢七十を超える大往生であった。
こまめに時を止めていた間の経過をも考慮すると、実際は百年以上生きていたと仮定してもなんらおかしくはあるまい。
だのに見た目の容姿が三十代からずっと死ぬまで変わらないとあって、
「実は吸血鬼なんじゃ……?」
説が妖精メイドや魔理沙たちの間でそこはかとなく流れたりもしていたが、一応死ぬには死んだので多分人間だったのだろう。
「もとの水がただ留まり続けるは悪よ」という言葉を覆すことなく、多分老衰で死去し、妖精メイドたちに後を譲ったのである。
ならば、次は自分が死ぬべきであろうか。漫然と、先輩はそんなことを考える。
レミリアを愛し、また愛された咲夜は彼女へと捧げられる数多の涙を伴にこの世を旅立った。ならばもう先輩がレミリア打倒を躊躇う理由はもうどこにもないはずである。
パチュリーはレミリアが死んでも生きていけるだろう。妖精メイドとて然り。紅魔館が無くなろうと妖精が路頭に迷うこともあるまい。そもそも妖精が労働に従事すること自体が普通でないのだから。
なれば、
「おっしまーい! 先輩ピッカピカー!」「背中乗っていーい? 乗るよー! ハイヨォオー先輩!」
――レミリア・スカーレットを討つ。
先輩はそう決意しつつ、まずは大図書館に潜りパチュリーのデスク横で丸くなった。
無論これは先輩がのんびり屋だから――ではなく、大図書館に来ると背中の妖精たちが沈黙に飽きて去っていってくれるからであるが、誤算もあった。
「おいおい遅いぜ座椅子。待ちかねたぞ?」
そろそろレベルアップに取り組まねばなるまい。そんな決意を胸に抱きながら、今日の先輩は金髪の女の子の座椅子であった。
明日から頑張ろう。
と、先輩は思っていたのだが、運命というのはなかなか一筋縄ではいかぬものであったようである。
「と、まあこんな感じだ。やってみろ」
「は、はい……その、『先輩』がこの子の名前なんですか?」
「この子、はやめておけ。お前よりはるかに長く生きているし、もしかしたら日本語もある程度は理解しているかもしれん」
翌日、泥浴びしていたところをレミリアに呼ばれて紅魔館の裏庭に回ってみれば、はて。
そこで先輩を待っていたのは、齢十かそこいらの、どこか黒髪の裏に隠れた瞳に陰を湛えた血色の悪い少女である。
多分、人間なのだろう。
妖精ならば形状の如何によらず存在するはずの薄羽が見当たらないし、妖気の類もこれっぽっちも発してはいない。
先輩に向き直った少女はレミリアの陰で「牛がそんなに頭良いはずないじゃん」という呆れを顔に浮かべ、軽くお辞儀をした。
「えっと、今週から紅魔館付けのメイドとなりました見習いの睦月初夜です。よろしくお願いします」
……先輩にはレミリアが理解できぬ。
ただ一つだけ、「それは子供につけるに向いた名前ではないのでは」と。
混乱する頭でそんな風に考えた。
◆
レミリア監修の元、たどたどしい手つきの睦月とやら(下の名前で呼ぶのは少し憚られた)にたっぷり三十分もかかって背中を流してもらった後。
裏口から関内へ入ろうとする先輩の尻尾が一度、ひょいと引っ張られる。
先輩は察しがついた。睦月とやらを「メイド長の元へ行っていろ」と追い払った後、レミリアがひらりと先輩の背に腰掛ける。
ぽくり、ぽくりと。
先輩が主にして宿敵を背に乗せて、静かな湖畔を闊歩する。
湖周辺を常に覆っている霧の暗幕はまるで白雪のように音を吸収し、だから歩み行く先輩たちを優しく静寂で包み込んでくれる。
紅魔館から程々に距離をとった頃に、
「意外か? 私が、再び人間を雇い入れたことが」
先輩は返事を返さなかった。
無論、先輩からすれば意外であるのは間違いなかった。
人間、十六夜咲夜の死に際して最も多くの悲しみを涙と流したのが彼女であったのだから。
再三求めた不死者への変生を拒み、最期まで人としての死を選んだ咲夜である。裏切られた、とレミリアが感じてもおかしくはないだろう。疑問に思うのはもっともである。
だが先輩は返事を返さなかった。
レミリアはただそれを語る機会をこそ求めているのであり、会話を求めているわけではない。
単純に壁よりマシな存在として己が選ばれただけなのだと、先輩はよく知っていた。
「若芽と古木、花咲と散花、出会いと別れだそうだ」
先輩の背中で両足をぶらぶらさせながら、レミリアはそう口にした。
「変化を、流転を楽しむのだという。別れの苦しみ、哀しみ、嘆きを恐れるなと。忘れて、失ってもよいのだと。今をこそ楽しむのだと。そのために私たちは出会うのだと」
咲夜らしいな、と先輩は思った。
それが咲夜の言であるとはレミリアは言わなかったが、そうであろうと疑いなく、そう思えた。
「お前も、そう思うか? 毎朝咲夜が私の望む朝食を用意してくれた毎日も、永遠に続けば価値のないものだと、そう思うのか?」
「まぁーう」
此度は先輩は返事を返した。今日はスクランブルエッグ。明日は半熟ゆで卵。次の日は趣向を変えて納豆にきざみ海苔。
毎朝レミリアの機微を読み取って最良の朝食を用意してくれる変化に満ちた朝食は――しかし「最良が永遠に続く」という変化のない朝食だ。
幸せな今日。幸せな明日。幸せな明後日に幸せな来年。幸せな幸せな幸せな幸せな幸せな幸せなせなせなせな毎日はしかし、それはただの永遠に過ぎない。
十六夜咲夜はレミリア・スカーレットという名の永遠の一部ではなく、紅魔館の歴史の一部たるを望んだのだ。
レミリアは苦笑した。
「即答か。やはり仲が良かったのだな、お前たちは。咲夜はお前のシャワーを決して他者に譲らなかったものなぁ」
今度は先輩が苦笑する番だった。
即断即決な咲夜がのんびり屋の先輩を好くなどありえるはずもない。
シャワーを他人に譲らなかったのはあくまでお屋敷が汚れるのを嫌ってのこと。妖精メイドの洗浄力を信じていなかっただけのことであるというに。
「だが、私には未だわからんよ。失われ、忘れられ、残響として世界から薄れゆくを望む心情は。他人の心に平然と居場所を作ったくせに、そこに痛みだけを残して去っていく冷酷さは。完成された美は、ただただ美しい形を永遠に維持すればよかろうに」
ゆらり、ゆらりと。
先輩の背の上で揺られながら彼方の山に視線を投じたレミリアは、そう述懐した。
だが、ならば、何故?
そう問う代わりに足を止めた、
「私が選んだ私の従者が、貫いた意見だ。無視するわけにもいくまいよ」
先輩の腹を、レミリアは笑って踵でポンと叩いた。背後の紅魔館を見やって、
「あれは所詮、人里で――人の社会で生きられなかった半端者だ。ろくでなしではあろうが無能とは限らん。使えなければ切り捨てるが、暫くは面倒をみてやってくれ」
先輩は頷いた。
紅魔館は再び変化を受け入れたのだ。
ならば、如月を迎えられればよいなと、そう思った。
「まぁーう」
◇ ◇ ◇
春が来た。
麗らかな風が吹きぬける紅魔館の墓地に、一つの棺が埋葬された。
棺の中にはただ、花だけが詰め込まれている。
神社周辺へ外界からの漂流物を漁りに行った睦月の遺体は、結局見つからなかった。
かつては少女だった睦月だが、今や還暦を間近に控えた老体であった。力及ばす妖怪に食われたのだとも、外の世界へ旅立ったのだとも囁かれたが、真相は定かではない。
ただ、睦月がもう紅魔館に戻らないであろう事だけは、誰もがなんとなく理解していた。
この日を以って睦月がこれまで注力して育てていた如月が、新たなメイド長となった。
◇ ◇ ◇
春が来た。
麗らかな風が吹きぬける紅魔館の墓地に、一つの棺が埋葬された。
棺の中にはまだ小さな、成人とも呼べぬ遺体が眠っている。
元より持病持ちで短命を予言されていたから、と里を――両親の元を去り紅魔館を訪れた娘である。
二十歳に至らずのこの急逝はしかし、誰も驚くことのない結末であった。
だがらとて、悲しみが薄れるというものでもない。
メイドを纏め上げるに相応しい人材がいなくなったため、かつて十六夜咲夜がじきじきにテンパランスと命名した妖精。
睦月の前にメイド長を務め、しかし今は半ば引退しかけていた古株の妖精メイドが再びメイド長に返り咲いた。
◇ ◇ ◇
花咲き乱れる春が来た。
麗らかな風が吹きぬける紅魔館の墓地に、一つの棺が埋葬された。
棺の中には老いてなお美しさを印象付ける老婆が眠っている。
四人目の人間メイド長、夜宵は実に長命だった。
あまりに長く生き過ぎたもので、五人目になるはずだった卯月のほうが――無論、卯月が短命だったこともあるが――先に死んでしまった位である。
このことを夜宵は酷く後悔したようであり、卯月の後を追うように卯月の命日の、狙い済ましたかのように一年後ぴったりにこの世を去った。
こうしてまたしても後継がいなくなり、今度は件の二人組かしまし水属性妖精メイド。
同じくかつて咲夜にラバーズと命名されていた古株妖精メイドが二人でメイド長となった。
この間は先輩にとって地獄の期間であった。先輩は沈黙を愛する性質であったからだ。
◇ ◇ ◇
ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。
春の日を境に、紅魔館は巡り回って行く。
誰もが春の日に旅立ちを迎えるのを先輩は不思議に思っていたが、多分レミリアが運命を操作しているのだろうと、ある時に気がついた。
願わくは花の下にて春死なん、という、それは日本人に対するレミリアなりの配慮なのだろう。
他人の死期をそのように操ることがはたして善か悪かは、正直先輩にはよく分からなかったが。
様々な理由で里で生きられなくなった者、群れで生きられなくなった者。
他人に厭われし者、自己の運命を厭う者。
そういった寄る辺無き者たちの受け皿の一つとして、紅魔館は廻っていった。
無論、その中には悪意を以って紅魔館に近づくものもあり、レミリアに粛清された者も少なからず居るには居ったのだが。
五人目の皐月をメイド長に迎えるころには、先輩はもうレミリアを討とうという志を完全に放棄していた。
無論、先輩がのんびり屋だからではない。
紅魔館はどこよりもせわしなく淀みなく、変化を孕んで刻々と時を流れていったからだ。
紅魔館はいつだって華やかで、そしてトラブルの絶えない場所であった。
あまりに問題が頻出するものだから、あの八雲紫が個人としてではなく妖怪の賢者として直々に忠告に来たのも先輩の記憶に新しい。
主だったメンバーを食堂に集めて「貴女がたの功績、役割は確かに評価すべき点も多々ありますが、しかし――」云々かんぬん。
これまた延々としゃべり続けるものであるから頭にきた先輩はそっと八雲紫の背後に歩み寄って、その形のよいお尻を角で盛大に突っついてやったものだ。
先輩は沈黙を愛する性質であるがゆえに。
ちなみにこれはレミリア含む紅魔館メンバーには非常に馬鹿ウケし、先輩はレミリアからお褒めの言葉を頂いたのだが。
のだが、後日に九尾が報復に来たのは実にいただけなかった。
油断していた所をあやうくちょん切られそうに(何をかは言うまい)なったため、以後先輩は身をわきまえることとなった。
むやみにぱふぱふについていってはいけない。
斯様に変化を巻き込んで歩み続ける紅魔館が引き起こす騒動たるや、僧侶や聖人が住まう庵とは比較にすらならぬ。
たびたび巫女の襲撃を受け、されどその魂の一片たりとも戒めを受け入れることなきうねりの中。
寄せては返す波のように絶えることなき悲喜交々の中でレミリアは大いに泣き、嘆き、哀しみ――そして大いに笑った。
これほど邪気もなく屈託もなく朗らかに笑う魔王などほかにはあるまい、と先輩は思う。
願わくば、この悪魔の居城に平和と祝福のあらんことを。
◇ ◇ ◇
「応答、反応ともに無し。生存者はゼロか……」
レミリアの呟きが、広大な空間に木霊する。
ログによると、ここが拡張された最後の区画だった。最新の開発区画ならばあるいは、と思われたここもただ単に自動修復機能に基づき再建されたに過ぎないようである。
眼下に広がる無人の市街地を寂しげに見下ろして、レミリアは小さくかぶりを振った。
「帰ろう、先輩」
「まぁーう」
何気なくを装って先輩の背にひょいと腰をおろしたレミリアだったが、流石に落胆の色は隠しきれてはいないようだった。
何も言わず先輩は踵を返した。もはや何本あるかも分からぬ無数の尻尾を揺らしながら、都市と外界とを隔てるゲート目指して歩き始める。
二人が最後に人間を見てから既に千年以上が経過していた。
その間両者は一度も生身の生物にお目にかかっておらず、そして今日、この数字が今後永遠に加算され続けることがほぼ確定してしまった。
全世界全ての都市を見て廻ったのだ。レミリアたちのように放浪を続ける者がいる可能性もゼロではなかろうが、恐らくその確率は分母が天文学的な数字になるだろう。
もうこの地球表面上に、生存者はいないのだ。
幾多の年月が経過した。
フランドールは独立し、己の館を建てて一国一城の主となった。その後の経歴を先輩は知らない。
未だ何がしかの形で存命なのかもしれないし、もしかしたら一人の魔王として、己が勇者に討たれたのかもしれない。
美鈴の行方もまた先輩は知らない。レミリアから許しを得て期待を胸に外宇宙へと旅立ったとのことであるが、やはりその後の消息は不明だ。
パチュリーは地球上におけるあらゆる書物、あらゆるテキストを収集し終え、満足のうちに眠りについた。本と共にあるのが彼の知識の魔女の在り方であった。
様々な人、妖怪妖魔、天使に悪魔や動物、人工知性体。
それらをサラダボールのように受け入れて定まらぬ在り方を続けてきた栄光の紅魔館も、今や二名を残してすべてが過去の残滓となった。
そしてこの両者こそが太陽系第三惑星上で生きる最後の生命である。
他にはもう、誰も残ってはいない。
「外に飛び立った連中は、元気にやっているだろうか?」
必要最小限――以下までに照明が抑えられた薄暗い通路を歩きながらレミリアがそう問うてくるが、先輩には返事の仕様が無い。
分かるわけが無いのだ。レミリアの知らないことは、先輩の知らないことであるのだから。
無言で歩みを進めて、他の照明よりも若干明るい誘導灯の下にある扉を潜る。
ちょっと進んで、また扉。遮蔽性の高さを伺わせる構造の建築物内を進む。
数多の通路と扉、そして足下どころか先輩の上に座すレミリアすらも隠れてしまうほど乱雑に生え狂う緑に支配された明るいドームを抜けて、また通路と扉。繰り返し。
伽藍堂の住居区を抜け、これまた緑に支配された水耕栽培プラントを横切り、そして数多の扉の総元締めとも言わんばかりの巨大な扉。
メキシコシティ第十八最外殻開閉式装甲板のロックを解除して、目の前に開けた世界。
真っ暗闇。
闇を見通す妖怪の眼に映るは、見渡す限りの大氷河と、荒れ狂う猛吹雪。
惑星全表面を氷に覆われ、さらにその周りを分厚い塵芥の雲に覆われた暗黒の星。
これが、今の地球の姿だ。
◆
地球を百回破壊してもおつりがくるであろう大規模流星群の直撃が回避不能と判明した過去、人類は二つの道に分かれた。
すなわち、迎撃と離脱である。
残念なことに地球人類全てが脱出できるほどの恒星間移動船を作製する技術を、当時の地球は持ち得なかった。
いや、例え搭乗員を数十万、いや数万に絞ったとて同様である。
恒星間移動船を作成することそれ自体は可能であったが、恒星間を移動する間、人類を生きながらえさせるライフシステムの構築が不可能だった。
生きた人間を生かしたまま、どこにあるかも分からぬ住居可能惑星まで送り届ける目処が立たなかったのだ。
だが、ならば。
生命維持機能の一切を無視すれば、なにも問題はない。
当時の技術でも、電脳空間に己の完全なるコピーを「演算として」作り出すことは可能であった。
電脳空間におけるコピーは完全に本人を模写しており、電脳空間上での「妊娠及び出産」すらも問題なく可能とする、まさに完全な肉体の再現度を誇っていたのだ。
ならば、答えはひとつしかないだろう。
こうして恒星間航行機能と自律、自己修復機能、そして数多の演算機を満載した船団が外宇宙へと旅立って行った。
肉体を捨てた、数多の旅人たちを乗せて。
地球に残ることを選んだ人々は生きる為に全力を尽くした。
だが飛来する隕石を完全に破壊しきることは不可能、との解以外をシミュレーションから引き出すことはできなかった。
間違いなく撃ち洩らした隕石は地上へと落下。数多の土砂を大気圏外まで巻き上げ、そして世界を闇で覆いつくすだろう、と。
それでも、やるより他はない。
ある国は強固な外殻を持つ大型積層都市構造体を。
また別の国はただひたすらに地下を掘り進んでの地下都市を。
並列して矛たる無数の核ミサイルをオービタルリングの各中継基地に配備、さらに流星群の予想進路上に核機雷を満遍なく放出、敷設して、そして。
最後にシェルターと住居区を兼ねた狭い砦にもぐりこんで、世界は闇に覆われた。
闇黒と放射性物資に覆われた世界でしかし、数十のシェルター都市はどうにか全壊を免れ人類の生存を可能とした。
だが、続く未来は離脱組と同じことだった。地球に落ちた隕石の数が予想をはるかに上回ったのだ。
地球を覆う塵芥の雲はどこまでも分厚く、それが消え去るまでを人類が生存したまま乗り切るは不可能。それがシミュレータが出した結論であった。
太陽光、熱発電で地球の電力を支えていたオービタルリングと二基の軌道エレベータは流星群により崩壊した。
核燃料もいつかは尽き、凍てつく大地では風力、水力には頼れず。無尽蔵に使用できるエネルギーは地熱のみだが、発電量には限界がある。
これだけでは都市に逃れた人々が生き延びるための電力を賄えなかったのである。
かくて貧困と飢えに苦しむ大多数の人間が肉体を捨てて電子の存在となった。
電脳世界であれば飢えや寒さに苦しまずにすむのだ。それをやらない道理はあるまい。
斯様に世界は電脳世界へと姿を変えていき。
そしてそれは妖怪たちに思わぬ福音をもたらした。
電脳世界では人は生身の己を丸々コピーすることができたが、同時に肉体を書き換えることにより「生身の人間では不可能なこと」すらもそこでは可能であるのだ。
それすなわち、「超常たる存在が許される世界」を意味していることに他ならない。
世界は再び統一された。
幻想と現実は再び交じり合い、一つになった。
数多の妖怪たちもまた、人間と正面から向き合える電脳世界の住人となるを望み。
かくて幻想郷はその役目を静かに果たし終えた。
世界は緩やかに生身の人口を減らしていき。
そして、たどり着いた今日である。
◇ ◇ ◇
己がホームとでも言うべき大型積層都市構造体「信濃」に両者が帰還したのは、メキシコシティを発ってから二年後のことであった。
一枚の巨大な海氷と化した太平洋を徒歩で横断しての帰路である。
凍てつく外気も放射性物質も既に妖怪と化した先輩とレミリアにとっては致命とならないなら、別段急いで帰る理由もない。
氷結した積雪による圧壊を回避するためだろう。無数の工作機械が絶えず外郭上を這い回って氷をこそぎ落としている信濃の外見は、メキシコシティのそれと大差はない。
それでも入り口の前に立てば、奇妙な懐かしさと安堵を覚えるものである。
管理者権限で信濃の第三最外殻開閉式装甲板を開き、中へと身を滑り込ませてそれを閉じると、最外殻区画にもかかわらずほんのりと暖かい。
火山帯の真上にある信濃は若干ではあるが、他の都市に比べて電力に余裕があるのだ。
だがその信濃ですら、今は無人。
メキシコシティと似たりよったりの多重隔壁構造を通り抜け、都市の中央、最下層。
地下地熱発電システムの直上に位置する都市の心臓。
中央制御管制室の扉を開き、部屋の隅。専用配電盤のブレーカーを押し上げ、
「Knowledge」
一言呟くと、レミリアの正面にかつての友の姿が浮かび上がった。
『お帰り、レミィ』
「ああ、ただいま、パチェ。やはり生存者はいなかったよ」
『ほら、私が言ったとおりだったでしょう? この地球上で私が知らないことなんてないっていうのに、無駄なことをするのね』
「海――氷底ケーブル網が経年劣化して海向こうの状況が正確には分からなくなった、と言ったのはパチェだろうに」
『で? 私が出発前に示してあげたシミュレートモデルとなにか差分はあったのかしら』
「……それでも、自分の眼で確かめたいこともあるさ」
ふぅん、とつまらなげな視線をレミリアに向けた半透明のパチュリーだったが、察しの良い彼女のことである。
すぐにレミリアの内心を把握したようであった。
『……終わりにするのね?』
「ああ」
『スキャンは?』
「するな。やればサーバを破壊する」
『これもまた、一つの生の形よ?』
「そうかも知れん。だが、ただ形ばかりの永遠となる気は毛頭ない」
『レミィは人間に感化されすぎたのよ。だからそんな人とも妖ともつかぬ生を送る羽目になるんだわ』
「そうかもしれん。だが、生きるということは変わっていくことだ」
『電脳世界はこの世の続き。きちんと移ろいでいくわ。そも肉体に依るというその思考自体が人間に――いえ、止めましょう。最期ぐらいは、』
「ああ、笑顔で別れよう。サーバの電源は落としたままで構わないのだな?」
『ええ、都市の電源が生きていれば補修用機器は動くもの。それで十分。本は自ら動くものではないからね』
「最期までパチェはパチェだったな」
『当たり前よ。文字列こそ我が血潮、記録こそ我が肉体。愚者へ行く道を知識で示すが我らノリッジの宿命。私はパチュリー・ノーレッジよ。最初から最後までね』
「パチェらしい……お前の智慧を求める、次なる者がこの場に現れることを祈っている」
『ありがとう。さようなら、愛しき親友』
「さようなら、愛し我が親友よ」
ポンという小さい通知音と共に、パチュリーの姿が掻き消える。
それを確認したレミリアは再度配電盤のブレーカーを落とした。
『knowledge』
そう銘が刻まれた、パチュリー・ノーレッジただ一人だけのコピーと、彼女が収集した莫大な資料を納めた専用サーバ。
それが、レミリアの前で再び眠りについた。
パチュリーは電脳世界での生の謳歌を望まない。彼女は本であり、求めに応じてのみ開かれる存在だからだ。
「行こう」
「まぁーう」
一人と一匹の紅魔館のまま、来た道を引き返す。殺風景な、誘導灯が亡霊のように明滅する、薄暗い廊下を。
一歩一歩、これまでの己の人生を振り返りながらまるで華やかな花道を歩むかのように、一歩ずつ、ゆっくりと踏みしめて。
幾多の出会いがあり。
幾多の別れがあり。
幾多の喜びがあり。
幾多の悲しみがあった。
レミリア・スカーレットはその生涯において数多の人を助け。
そしてまた同程度に、数多の人を殺めてきた。
「楽しき我が生涯であった。少なくとも、退屈はしなかった。そうだろう?」
「まぁーう」
運命の糸は複雑に絡み合っている。
レミリアが他者の運命を操れば、当然その結果はレミリア自身へも返ってくる。
レミリア自身が影響を受けることなしに、他者の運命を操ることなど出来はしないのだ。
感化された。パチュリーは幾許かの皮肉を込めてそう評したが、レミリアはその結果の、この選択が愚かだとは思わなかった。
彼女たちにとっての紅魔館はこの大宇宙のもとにあるものであり、あの小さな箱に押し込めてしまいたくはなかったのだ。
レミリアは変化を受け入れ続け、そしてだからこそこれ以上の変化を望まぬ。ならばこの時こそが――
第三最外殻開閉式装甲板をロックして、両者。
極寒の大地に両者、向かい合う。
レミリアが吹雪を切り裂いて舞い上がった。膨れ上がる魔力が、闇の世界を十字に切り裂いて紅く赤く染め上げる。
先輩の角が超高電圧の雷を帯びた。膨れ上がる魔方陣は精霊魔術のそれ。電脳世界を主とするこの地球でもっとも自然な力が電子のそれだ。
燃え上がる朱火。炎を纏いし右腕に、狙いし全てを容赦なく貫く真紅の槍が現れる。
数を増やす雷球。鋭い双角が精霊魔術により吸血鬼を殺す銀のそれへと鋳造される。
妖怪を恐れる者などこの地上にはいないから、もう魔王は無限の再生力を持つことはない。
平和への祈りを胸に持つ者なんていないから、もう勇者は無限の不死性を持つことはない。
最後の戦だ。
両者一度殺されれば死に至る、正真正銘最後の花火。燃えて開けば後は散るのみ。
思い残すことはない。
せいいっぱい生きてきた。
後に残す物など何一つない。
数多の想いをこの世界に遺してきた。
あとは、先達として遺された者たちに世界を譲るのみ。
万感の思いを胸に、紅蓮と白雷が衝突し。
そして弾けて吹雪の中に消えていった。
◇ ◇ ◇
この戦の結末に関しては私は口を閉ざさせてもらおうと思う。
そんなものは彼女たちが生きてきた歴史の流れの、たかが一断面にすぎぬ。
大河の一点の水を掬い上げて検分してみても、せいぜい分かるのはそこの水質程度。
それだけを把握したとて、その大河を取り巻く全てのいったいどれだけのものを理解したことになるのやら。
重要なのは、我が友レミリア・スカーレットはこう生きたのだということ。
彼女が誰と出会い、誰と分かれ、その者たちに何を与え、そして何を汲み取ったのか。
そしてその果てになぜ、永遠の命を放棄する道を選ばざるを得なくなったのか。
失礼、多分に誘導的な表現となってしまったことをお許し願いたい。
やはり語るのはここまでにしておこう。どうやら私にも感情を整理するための時間が必要なようだ。
然るに私は斯様に纏め、一度この話の幕を閉じようと思う。
「世の中にある人とすみかは、またかくのごとし」
……ああ、暫くはサーバの電源を落とさないでおいてもらえる? 少し泣くから。
先輩のただ静かにそこにあるという性質と、パチュリーが語る物語という話の性質上仕方ない部分ではあるのかもしれませんが、人物の描写が少し薄味すぎるかも?これは全く個人的嗜好ですが。
ところでテンパランスは再登場ですね。繋がってるんでしょうか。
有難う御座いました。
美鈴は何が起きてるんだ…ダライアスとして改造されたのか、バイドと化しているのか
メイド長の歴史がどんどん進んでってしんみりしてたら、まさかSFな未来にまで続いちゃったのは驚いた。
レミリアは電脳化を拒否したけど、電脳化が悪いことや愚かなことって訳じゃなく、パチュリーも肯定する人類の進歩の形でありこの世の続きっていうのがとても好き。
あくまでレミリアと先輩の生き方とは道が合わなかっただけで、どちらも間違いではないものの、一人と一頭は時代の変化についていけなかったという哀愁と、時代の変化に流されない己の生き方の力強さが合わさり、最後の最後に繰り広げられる勇者と魔王の決戦が実に美しい……本当に美しい……。少し泣く。
先輩はゆっくりしすぎですな
2作品とも一気に読みました。とても面白かったです。一つ一つなら互いに70くらいですが、二つで95点です。こちらに四捨五入していれておきます。
SFもの(?)では読者の想像の余地があると、堅苦しくなく流れるように読めますね
終わりをパチュリーに任せたのもそういう意味ではGoodです
とはいえこれだけの変化球を試みつつも綺麗にまとまっていてお見事でした
つくづく話の持って行き方が上手い。最後までおかしなことだらけだったのに全く違和感が無い。これはもう素直に凄いと言うしかないのでしょうな。
けれども、面白かったです。
特に世代交代が次々となされる部分が。
淡々とした時の流れが物凄く好みです。
やっぱりお見事ですね。