紅魔館にて紅い悪魔に従事する十六夜咲夜には先輩がいる。無論、人間ではないが。
と、記載すると多くの方が赤毛の門番を想像するであろうが、彼女を咲夜の先輩と言うものは紅魔館にはいない。
確かに美鈴は紅魔館のいろはを咲夜に伝授した先輩というべき立場ではあるが、万事に気を使う彼女は風を吹かすような肩書きをあまり好まないのである。
「まぁーう」
先輩の非難するような鳴き声が紅魔館の裏庭に響きわたる。
その声に「今日の献立は何にしようか」なんて思考を中断させられた咲夜は、ホース片手に先輩のシャワーリングを再開した。
~~先輩、もしくは牛の話~~
先輩と呼称されるその水牛がいつから紅魔館に所属しているのか、来歴を正確に覚えているものは誰もいない。
一応、本をただせば水牛は美鈴が飼育をしていた食用、農業用の畜産である。
なぜホルスタイン牛や和牛ではなくあえて水牛なのかというと、それはひとえに水牛がお財布におやさしい家畜であるからだ。
湖畔や川縁の雑草、もしくは麦畑の残渣といった低栄養価の飼料でも飼育可能で、最終的には1tに迫る巨体にまで成長する。
巨大であり食肉が可能、しかも乳も取れる水牛は経済的に非常に優れた牧畜であり、収入の少ない紅魔館にとってはありがたい存在である。
肉質や乳の味が幻想郷民の好みにはやや合わないということもあるにはあったが、それでも里の和牛とは異なる嗜好として一定の需用があり、紅魔館の財政を支えてくれる収入であった。
無論、その巨体ゆえ労働力としても有用である。
体長およそ3m。体重およそ1.2t。
貨物運搬役である彼は、咲夜がメイドとして一歩を踏み出すよりも早く紅魔館と人里を結ぶ便として、紅魔館を支える労働に従事していた。
だから咲夜にとっては一応「先輩」にあたる。
「まぁーう」
この、先輩。
こいつの扱いには咲夜は随分と頭を悩まされた。
何せ先輩は平然と館内をわがもの顔で闊歩するもので、だのに先輩のこのふるまいをレミリアやパチュリーといった面々は気にもとめなかったのだ。
「私の寝室に踏み込んでこないならば、咎めだてする必要もあるまいよ」
紅魔館の主は己の敵には一切の容赦をしないが、己が配下に対しては常に寛大であった。
きちんと業務をこなすならばあとは自由にすればよい。従者の立ち居ふるまいを制限するつもりはない。
それが紅魔館の支配者にして貴族たるレミリアの一貫した態度であった。
であるが故に咲夜が白黒ネズミを庇い立てしたり、お茶を振舞ったりするのもお目こぼしされているのである。咲夜としても強く反対することなどできようはずもない。
そして先輩のほうもわきまえているのか、はたまた美鈴に仕込まれたのか。レミリアの私室に足を踏み入れることはないのである。
「本を傷めないなら好きにすればいいわ」
先輩は時おり地下大図書館にも足を踏み入れるが、そこで何かをするわけではない。
女子供の喧騒を避けてただ静かに在りたいのだ、とでも言うようにパチュリーのデスクの傍にうずくまって目を閉じるばかりである。
そしてそれは、別段パチュリーにとって排除すべき存在とは映らないようであった。
本を奪ったり傷つけたり、もしくは己が読書の邪魔をする存在以外にはパチュリーもまた寛大である。
むしろ彼が大図書館にいる場合、
「おっ! 今日は座椅子があるじゃないか!」
白黒が本を持ち帰らずに座り込み、先輩の背中に寄りかかって読書を始めたりする分だけパチュリーにとってはこれネズミホイホイ。益獣であるようであった。
これまた美鈴に仕込まれたか、先輩はその風格で以って館内で粗相をすることもなく、だからあえて追い出す必要性を感じないということらしい。
無論、それらは先輩の身体が清潔であることを前提とした話ではあるのだが。
そして先輩の体を清潔に保つのは、ほかでもない咲夜の仕事ではあるのだが。
◆ ◆ ◆
以前、と言うか咲夜が紅魔館で働き始めて間もないころの話である。先輩の身の回りの手入れを咲夜は意図的に放置したことがあった。
水牛の分際で主たちから温情を得、館内を我が物顔で闊歩する様に不快感を覚えたゆえである。咲夜は否定するだろうが拙い嫉妬と言いかえてもよい。
だが、そんな咲夜の抵抗も長くは続かなかった。
咲夜が表皮を洗浄しておらず、先輩の身が不潔で在ることに気がついたレミリアとパチュリーの選択。
彼を庭へ連れ出し、自らブラシを手にとってその背を洗い始めたレミリアは、肩をすくめて咲夜にこう言った。
「我が従者を悪臭に塗れた姿で放置しておくわけにはいくまい?」
魔法で作り出した大渦水に水牛を放り込んで全自動洗濯する魔女の言はこうであった。
「来館者を清潔、不潔で選別することはできないの。此処が私個人の書庫ではなく、開かれた図書館であるがための悲しい定めね」
つまるところ咲夜は主や賓客の手を煩わせるわけにはゆかず、以後先輩を清潔に保つことは咲夜の任となったのである。
とは言え先輩は1tを超える巨体の持ち主であり、こいつの洗浄となると中々に骨が折れる。幻想郷は蛇口を捻ればシャワーが出るような土地ではないのだ。
夏ならばよい。霧の湖に連れていって自分も腰まで水に浸かりながらザブザブやればよい。だが冬となるとそうはゆかぬ。
桶に水を張ってブラシでごしごし。最後の流し用も含めて幾つも、ないしは何度も水源から水を桶で汲み上げるは、あくまで少女の腕力しか持たぬ咲夜には結構な重労働なのである。
結局疲れはてた幼き日の咲夜は、人里における数少ない知己である朝倉時計店の次期四代目にシャワーの設置を依頼したのであった。
しかしながら蛇口を捻れば水が出る、を可能としてくれるポンプは当然電動であり、そして電気は当然発電機を廻さなければ発生しない。
ゆえに誰かが肉体労働をせねばシャワーを使うことはできないという本末転倒なジレンマがある。
……のだが、この問題を科学者の卵、朝倉理香子は実に華麗な方法でクリアしたのだ。
「妖精に走ってもらいましょ」
いわゆるランニングマシンである。回り車の中をせっせと走るあれである。
結果妖精のお仕事に「交代で一定時間馬車馬のように走る」という馬鹿げた仕事が追加されたわけだが、意外にも妖精たちからはただの一つも苦情が上がらなかった。
というのもこのランニングマシンには一定量発電後に最高速度、安定速度の維持、リズム感などを個別に採点し、結果をランキングとして表示、保持する機能が実装されていたからである。
蓄電池は常にフル充電状態だった。時間経過による放電を上回る充電が成されているがためである。
つまるところこれはお仕事をゲームにしてしまった結果なわけで、咲夜からすれば目から鱗が落ちる思いであった。
「さっちんにはさ」
しかも妖精の忘れっぽさを逆手にとって、一定期間の経過で古いログが消えていくなんて酷い小細工を平然と追加した(これによりランキング上位がこまごまと入れ替わるため、妖精たちのやる気が維持されるのである。実に小賢しい)理香子はこううそぶくのである。
「もうちょいユーモアのセンスが欲しいわね。四角いシゴトを丸ぁーるいオモチャにする思考が」
なるほどもっともである、と幼き日の咲夜は知己の助言に素直に頷いた。
以降、咲夜はせっせと主のおやつや紅茶に謎のレア度を混入することに勤しむわけであるが、それは理香子にとってはどうでもよい話であった。
「まぁーう」
無論、先輩にとってもどうでもよい話である。
むしろどうでもよくないのはポンプや浄水設備及びヒーターの設置、試運転を済ませてくれた後の理香子の言であった。
苦笑と共に放たれたその言葉を、咲夜は未だに忘れることができぬ。
「いやはや、まさかお嬢様より先に牛のためにシャワーを設置することになるとはね」
◆ ◆ ◆
さて、先輩が先輩である所以として、やはり先輩にもお仕事がある。
荷車の牽引である。
森閑とした雑木林を切り裂く様に延びる小川に沿って、川縁の田舎道をゴトゴト、ゴトゴト。
荷物と一人を揺すりすりすり先輩が人里までの旅路を行く。
「はぁ」
荷車に拵えられた御者台の上で、咲夜は大きな溜息をついた。
呪い、いや鈍い、のろすぎると。
先輩はその巨大な見た目通りに優れた牽引力を備えていた。
しかし先輩は他に類を見ないのんびり屋でもあった。
道行く荷車の速度は驢馬よりはまぁ、といった程度で、時間がいくらあっても足りない咲夜からすれば自分で歩いた方がマシである。
咲夜があえて荷車から降りて歩かないのは、御者台に咲夜が乗っていようがいまいが先輩の速度は変わらないからだ。
「飛びたい……」
眼前の樹木から頭上に広がる青い空へと視線を移して、溜息。飛べばものの一時間とかからぬ行程も、先輩と行けば六時間以上だ。
レミリアなどは「息抜きになるだろう?」などと言ってくるが冗談じゃない。
咲夜は自他共に認める猟奇的ワーカホリックなのだ。間に休みを挟みつつ丸一日24時間戦えますかなのが十六夜咲夜という女なのだ。
じゃあそんな咲夜が何でのったりべったり地上を這いつくばっているかといえば、単純に咲夜が一人で何度往復しても運べる荷物などたかが知れているからだ。
つまりこれ以上効率的に大量の荷を運搬する術が他に無いからであった。
とは言え咲夜にとってこの仕打ちは、あたかもじっくり寝かせた熟成肉が熟成を越えて腐り始めるのをただ黙って見守るに等しき拷問である。
だからとて妖精メイドたちに「やれ肉はこの店に、チーズはあっち、角はそこの細工店」などと言添えてお使いに出すのはこれ、じっくり寝かせた熟成肉を崖から全力で投げ捨てるに等しい。
結局咲夜がやるしかないわけである。
「瞬間移動、できないかなぁ」
一度、パチュリーに懇願してみたことはあったのであるが、
「精霊魔術では無理ね。寧ろそれは貴女の分野でしょう、時空間奏者? 頑張りなさいな」
と、にべもない返事を頂いたのみに留まった。
この、空虚な時間。揺れる御者台の上では読書もできぬ。できぬことはないが目が疲れる。
居眠りをしていては、里に売りさばく品々を通りすがりの半ば妖怪化した獣や野鳥に掻っ攫われるやも知れぬ。
結局、意識を保ったままボーっとしているしかないわけである。
「貴方は悩みがなさそうでいいわね」
そう呟いた咲夜に先輩は「まぁーぅ」と一言、返事を返してきた。
咲夜は溜息をついた。ままならぬものだ。
◆
里の方々を廻って紅魔館から運び込んだ荷をあらかた売り払い、それで得た対価を今度は反物や調味料、穀物などへ変える。
その後朝倉時計店にて愛用の懐中時計を微調整してもらいつつ、理香子と歯車がいかにロックかで意気投合していると、気付けば八つ時である。
そろそろ里を辞さねばお嬢様の朝食に間に合うまい。
来月に紅魔館時計塔のメンテナンスをとりつけて友人のもとを去り、大通りへと足を進める。
そのまま衣装と銀髪に向けられる奇異なる視線を作り笑顔で受け流しつつ、饅頭屋「焼きもち」の前で足を止め、
「あら野沢菜ちゃん、お久しぶりねぇ。いつも通り八つでいいの?」
「はい。お代はここに」
「はいはい、まいどどうもね」
野沢菜のおやきを八つ購入する。すっかり毎度のことになってしまっているため、今じゃここの老店主夫婦にとって咲夜は「野沢菜ちゃん」である。
軽く表面が炙られた後、笹巻に包まれたおやきを、
「いつもありがとねぇ」
「……いえ、こちらこそ」
受け取り、苦労と皺をその顔に刻み込んだ老婆に頭を下げて。足早に咲夜は朝倉時計店脇の先輩のもとへと戻る。
「何も盗まれてないわね?」
「まぁーう」
先輩がそう応えるが、咲夜は当然のように積荷をその眼でちゃんと確認する。
なにせ万が一を考えて一応軛を外し、先輩に自由を与えてあるとはいえである。
どこをどう考えても、この温厚を通り越して鈍重な先輩が積荷を守るために盗人と相対してくれるとは思えないのだ。
だから咲夜は人里を訪れた時、荷車を朝倉時計店の脇に留めておくのである。
人里では珍しい、小さいながらも時計塔を備えた洋風建築は人の視線をよく集め、そして人目こそが防犯の基本であることを咲夜はよく知っていた。
もっとも、噂に名高い悪魔の狗から物を盗もうと考える輩など、あろうはずもないのだが。
「とりあえずはお疲れさま。帰りも頼むわね」
笹巻を解いていまだほんのり湯気をたてるおやきを先輩の口元に寄せると、ぺろり。
普段の挙動からは考えられないほどの素早さで舌が伸びて、咲夜の手からおやきを絡め取っていく。
はぁ、と零れる吐息。
元々、外界で美鈴が世話をしていた時代の名残なのだろう。
美鈴曰く、
「帰りにはあったかい饅頭をご馳走してあげないと、歩みが目に見えて遅くなるんですよね、この子」
らしい。
もっとも、それを受けた咲夜が餡饅頭を与えてみたところ彼は二つ目を所望しなかったので、どうやらこの饅頭というのは肉饅頭のことであるらしい。
無論、美鈴が与えていた饅頭の肉が何の肉だったかは咲夜は尋ねないことにしているが。
寧ろ問題となるのは肉の種類如何によらず、人里には肉饅頭というものがそもそも存在していないことであった。
だから咲夜が買出しを請け負うようになった当初、帰り道の先輩は文字通りの牛歩戦術で咲夜を苦しめてくれた。
鞭で打てば、もしかしたら「まぁーう」と不平を洩らしながらも先輩はいつも通りの速度で歩むのかもしれないが。
だが、咲夜は鞭で他者を打つという行為をこの世でもっとも下賎な行為として毛嫌いしていた。
たとえ相手が人間ではなく、言葉を解さない動物であっても、だ。鞭打ちはただ相手に苦痛を与えるためだけの行為であると。
故に先輩の牛歩的反逆に四苦八苦しつつも幾つかのお土産を試行錯誤し、ようやく先輩の興味を惹くことができたのが何故か件の野沢菜おやきであった。
結果、咲夜は野沢菜ちゃんである。
八つのおやきをぺろりと平らげた先輩は心なしか軽い足取りで、咲夜を乗せた荷車を引いて人里を後にする。
「畜生のくせに生意気なのよ」
そんなことを言われて気にする先輩ではなかった。
「まぁーう」
満天の星空に彩られた帰り道に、先輩の間延びした鳴き声が響く。
冷たく、透き通って乾いた空に輝く、冬の大三角系は美しい。
ガタゴトと揺れる御者台の上で天を仰いでいた咲夜は、ふと満天の星空に鎮座ましますおうし座を見つけてしまい、更に不機嫌になった。
「時間、もったいないなぁ」
◆
斯様に咲夜と先輩の関係は両者の性格上あまり良好とは言えず(咲夜が一方的に嫌っているだけとも言うが)、咲夜としては「こいつめ、いつかローストしてくれるぞ」と内心では目論んでいたわけであるが、中々にその機会は訪れぬ。
先輩は皆に愛されていたからだ。
先輩は魔理沙のお気に入りであった。魔理沙が寄りかかって本を読んでいる間は先輩は決して立ち上がったり移動したりせず、魔理沙の座椅子に甘んじている。
雄というものに僅かな偏見を抱いている咲夜はそんな先輩を「こいつは小児性愛者なのではないか」と疑っており、そう魔理沙に説いているのだが、結果は芳しくない。
なにせ、獣と人の話である。魔理沙が聞く耳を持つはずもない。当然ではあるが。
先輩はブンヤのお気に入りでもあった。彼と湖(と咲夜)を被写体にした、いつ撮影されたのかも分からぬ写真。
題して「水牛とブラウスと私」が「天狗の選ぶ幻想郷の生活百選」金賞を受賞したとかで、その後しばらく文はまるで天狗のように鼻高々であったものだ。
以降も水面に波紋を描いて湖を闊歩する先輩は格好の被写体となってしまっているようで、先輩の排除は文の反感を買う怖れがあるのである。
別に咲夜が文のご機嫌を伺う必要はないのだが、お山にそれなりに顔が利く相手は伝手として手札に加えておきたいのだ。
メイド妖精たちにも彼は人気があった。基本、妖精という存在は自然の体現であり、自然のままの環境をこそ愛し、自然の隙間に居を構える種族である。
対して紅魔館は豪奢な調度品で調えられた色調高い非自然環境であり、妖精にとってはいささかすわりが悪いのである。
そこに動物がのっそり通りかかるとなんだか落ち着くとのことらしく、また他の水牛たちは館内に入ってこないから、ひっきょう彼に人気が集まるわけである。
もっとも先輩のほうは態度には出さないが、姦しい妖精たちをちょっと苦手としているようにも咲夜には見受けられた。
先輩は咲夜を除く皆に愛されていたし、先輩のほうも紅魔館の住人とそこを訪れる来客たちを好ましく思っているようであった。
唯一、霊夢に対してだけは先輩は極力顔を合わせないように行動しているのが咲夜には不思議であったが、その疑問は魔理沙が氷解してくれた。
魔理沙は先輩の背中の上で腹を抱えて爆笑しながら(当然その後に図書館の主に殴られ、ドロワ丸見えで先輩の背から転げ落ちたが)こう言ったのである。
「そりゃあお前、喰われると思ってるんだろうさ!!」
なるほど、と咲夜は頷いた。
温厚で鈍重なる先輩にも一応まともな危険察知能力があるようである。
どうやら霊夢は己の味方に引き込めそうだ、と考えた咲夜はそこではたと気がついた。
「貴方、私を避けないのはなんで?」
「まぁーう」
咲夜には先輩が理解できぬ。
◆ ◆ ◆
そんなこんなである日、いつも通り「こいつめ、いつか炭火焼にしてくれるぞ」と館内の廊下をのっそり歩く先輩を睨みつけていた、
「ふむ?」
咲夜は気がついた。
どうにも先輩の歩みが遅い。
いや遅いは普段も遅いのだけど、普段よりも僅かに遅いような気がするのである。
誰か他に――と思いもしたが、妖精に聞いても多分分かるまい。
一見して怪我をしているようにも見えず、呼吸もいつもと変わりない。
ならば気にすることもあるまいか、と咲夜は踵を返した。
先輩の挙動なんぞよりもよっぽど、お嬢様のための献立に頭を悩ましたほうが有用である。
そう、思っていたのだが。
日を追うごとに先輩の所作は少しずつ鈍くなっていった。
足を運ぶ様は――以前とて軽快ではなかったが、今では重たい枷を引きずるかのように辛うじて蹄が絨毯から離れる程度。
声をかけても以前のように「まぁーう」と間延びした返事を返すこともなく、光のない瞳で咲夜をちらと眺めやるのみ。
そしてとうとうある日、先輩は普段使われることのない客室の一つに篭ってうずくまったまま、咲夜が近づいても目蓋すら開かなくなってしまっていた。
その背中にトンと手を触れてみると、がさがさの肌はハリを失っていて、僅かに冷たい。
そこでようやく咲夜は己が意識もしていなかったある事実に辿り着いた。
咲夜がメイドになる前からずっと、先輩はこの紅魔館で働いていたのである。
ならば、そろそろ先輩に寿命が訪れてもなんらおかしい事はないだろうに。
それに気がついた時、咲夜はふと感傷のような苦味が胸の内に淀んでいるのを自覚した。
無限に再生できる妖精。妖怪たる同僚、不老を手にした魔法使い。
そして、ノスフェラトゥ。
この紅魔館で最も早く鬼籍に入るのは己だと、そう信じて疑わなかったというのに。
「……先を越されたか」
視線も、言葉も返さずうずくまる小山の傍に腰を下ろし、寄りかかって体重を預けた咲夜は小さく、そう呟いた。
背中越しに感じる冷え切った先輩の脈動はいまや、集中すれば辛うじて感じ取れる程度に小さくか細い。
「貴方、私を避けなかったのはなんで?」
そう口にして、しかし応えはなく。
しかし咲夜の脳内に唐突に、まるで天啓の如くにその答えが翻った。
こんな、使われることのない客室に引き篭もって、一人。
己の最後の時を迎えようとしている先輩は、そういえば。
「喧騒よりも静寂を愛する性質だったわね、貴方」
なるほど。よく考えてみれば咲夜はこの先輩と相対するときにほとんど口を開くことはなかった。
里への道のりを往復する間も同様。御互いにほぼ黙ったままで、会話も愚痴もろくに口にすることなく時間を共有していた。
故に先輩は咲夜の存在を好意を以って迎え入れていたのだろう。
そんな、ちぐはぐな現実に思わず咲夜は笑い出してしまった。
ただ単純に咲夜は先輩が嫌いだから口を閉ざしていただけだというに。
忠臣の最期である。お嬢様やパチュリー様を呼んでこようか。
そんな事を一瞬考えたりもしたが、やめた。彼はただ静かに眠りたいのだ。
あの二人が大仰に騒いだりするはずもないだろうが、こうして彼が誰もいない場所を選んで腰を据えたのは、つまりはそういうことだ。
ならば静かに眠らせてあげるがよいだろう。
カーテンの閉じられた、灯りの無い薄暗い部屋。普段魔理沙が図書館でそうしているように先輩に寄りかかった姿勢のまま、咲夜はそっと目を閉じる。
もしかしたら先輩は一人でいたいのかもしれないが、咲夜にとってそれはどうでもよいことだった。
咲夜は先輩のことが好きではなかったので、別に彼の意思を何もかも尊重してやりたいとは思わないのである。
「おやすみなさい」
――まぁーう。
◆ ◆ ◆
分厚いカーテンの隙間から零れる日差しを目蓋の向こうに感じ、咲夜は目を覚ました。
腰を下ろした姿勢で眠っていたために、どうにも身体が変に強張ってしまっている。
んー、と肩を揺らして小さく伸びをした、後。
横顔に妙な視線を感じた咲夜がそちらを向くと、何故か先輩と目が合った。
「……」
「……」
呆としたまま無意識の内に立ち上がろうとして先輩の背に手を着くと、はて。その背中はハリを取り戻していて普通に暖かい。
咲夜が立ち上がったのを確認すると「長時間同じ姿勢でちょっと疲れた」とばかりに首を振った先輩もまたのっそりと立ち上がる。
そのまま唖然とする咲夜を残し、何事もなかったかのように先輩はドアを頭で押し開けて部屋を後にしてしまった。
「……死んだんじゃなかったの?」
咲夜にはなにがなんだか分からない。
◆
「ああ、あいつにはね。死の運命が存在しないのよ」
自分が妙な勘違いをしていたことだけはひた隠しにしつつ、お茶の時間にそれとなく主に先輩の件を尋ねてみると、レミリアはそんな事を口にした。
「私の傍に長いこといると、どうにも運命の糸がおかしな方向に紡がれちゃうみたいでね」
ケーキの上のイチゴをフォークで突きながら仰るその内容は、流石に聞き捨てならぬ。
「お前とかパチェの運命は私がしっかり抑えているから大丈夫なんだけど、あいつのことは失念しててね」
「気付いたら運命の糸がメビウス帯を描いてて死ななくなっていたのよ」なんて。
失敗した、とばかりにやや恥じるような笑みを浮かべて、レミリアは「お代わり」とティーカップを咲夜に差し出してきた。
「パチェ曰く、ええと、なんだったかな? 『死を終局ではなく一つの生理異常として認識することにより、恒常性によって健康体に復帰することができる』らしいわ。よく分からないけど」
咲夜もいまいち理解が及ばなかったが、つまるところ、ええと、なんと言ったか? あれだ、密林の不死鳥と似たような状態なのだろうと思っておくことにした。
するとつまり、それは殺しても死なないということなのか。
ティーカップを再び熱いセイロンで満たしながらそう主に尋ねてみると、レミリアは少しだけ考え込んだ後、若干不安げに唇を歪めた。
「さあね。私が死ねば再び死ぬようになるかも。ただいずれにせよ――」
ふうふうと表面を冷ましたティーカップを唇に運んで、
「あいつを捌いた肉を食べたいとは思わないわね。なんか怖いし」
咲夜もそれにはまことに同感であった。
◆ ◆ ◆
「まぁーう」
「うるさい」
今日も咲夜は紅魔館の裏庭で先輩の背中を乱暴にゴシゴシと流している。
一年後の咲夜も同じように紅魔館の裏庭で先輩の背中を流しているだろう。
十年後も二十年後も、変わることなく同じに違いない。
つまるところ咲夜が紅魔館で働いているその間に、先輩が先んじて死去することは無く。
要するに彼は咲夜が紅魔館で働き続ける限り永遠に十六夜咲夜の先輩なのだ。
どんなに周囲から愛される者であっても、そりが合わぬ相手というのは確かに存在する。
皆に愛される先輩を咲夜が好まぬように、皆に信頼される咲夜を好まぬものもやはりいるのであろう。
然るに、咲夜はこう言うのである。
「ゆく河の流れが絶えぬは良いが、もとの水をただ留めるは悪し」と。
紅魔館だけの話にせず里や霊夢・魔理沙も少し絡めたのが良いアクセントになっていて、オリジナルである先輩のキャラもすんなりつかめました。
構成も内容も非常に整っていて魅力的であり、私的には100点満点以外ありませんね。
「牛」、先に読んだが問題無かった(当社比)
野性味あふれるワイルドナイスガイな外見でありながら、温和な性質なのが紅魔館によく似合う。
咲夜さんとの微妙な距離感が居心地よくてほのぼのしました。
大変面白かったです
面白かったです。
意外性が常識面して「何もおかしくないよ」とのんびりのたまう感じを想像した。多分、それが面白いのですな。
良い雰囲気でした。
自分的には、先輩が亡くなった方が好きな流れでしたが、十分に楽しめました。