空を見上げると曇天が垂れこめていた。
ぽつりと私の頬に雫が当たった。
雨が降ってきた。ここは駅のホームの端っこで屋根も何も無い吹き曝し、濡れる事を防ぐ手段は無い。辺りを見回すと、他の人達は皆屋根のある、ホームの中央へと逃げていた。
雨の勢いはまだ弱い。いける。時間を確認すると電車の到着まで後五分。これなら耐えられる。屋根のあるホームの中央へ行ってしまうと、混雑に巻き込まれる。電車の混雑程、嫌なものは無い。それを逃れる為に、いつも早起きして登校しているのに。どうしてこんな日に限って寝坊してしかも傘を忘れてしまうのかと自分の迂闊さを呪いたくなる。
一緒に登校する友達が居ればそっちが傘を持っていてくれたかもしれないと思う。そんな事を考えた弱い自分を呪いたくなる。友達の居ない私に、誰が応えてくれるのだろう。信心の無い人間の神頼みだ。そんな奴の願い神様は叶えてくれない。私の願いなんて一度だって叶った事なんて無い。神様すら叶えてくれないのに、いわんや友達をやだ。
朝から憂鬱な事を考えて、頭上の暗雲も暗愁極まり無く、その上雨まで降っている。最悪の一日だ。こんな日は早く終わって欲しい。
肌に張り付く雨滴を鬱陶しく思いながら今日という日に嫌気が差していると、不意に雨が途絶えた。止んだのかと言うとそうではない。ぱらぱらと雨の降る音は続いている。頭上からも布を叩く雨の音が響いている。まるで傘を差しているかの様に。
思わず空を見上げると、真っ黒に塗れていた。誰かの傘だ。更に体を反らして後ろを見ると、私を覗き込んでいる者が居た。その真っ黒で美しい秋波に私は息を飲む。
私はその眼を知っている。同じ高校の制服を着たその男子を、私は知っている。宇佐見蓮子。日に何度その名前を思い浮かべるだろう。毎日どれだけの間、この男子の事を見つめているだろう。私と同じクラス。私の席が窓際一番後ろなのに対して、宇佐見蓮子はその対角。暗い私と正反対に、明るくて、人好きされる性格で、友達も多くいつも人の輪の中心に居る。勉強も運動も出来て、テストは学年でトップ、サッカーでもこの間県大会で優勝していた。学校中の女子の憧れで、他校から見学に来る者も居る。ファンクラブもあるとか無いとか。
「大丈夫?」
一気に現実感が戻ってきて、目の前まで迫っていた宇佐見蓮子の顔に気が付き、私は仰け反った。
「あの」
「何か返事無かったけど。もしかして風邪?」
「違う!」
突然額に手を当てられて、私は思わずその手を払いのけた。
宇佐見蓮子は痛みに顔を顰めて手を押さえた。
見れば、爪で引っ掻いてしまったのか、血の浮いているのが見えた。
「あ、ごめん」
自分の仕出かした事に気が遠くなる。
折角話す事が出来たのに。あれだけ憧れて、毎日遠くから見つめて、いつか話が出来たらと願っていたのに。叶った瞬間にこれだ。心配して熱を計ろうとしてくれただけなのに、それを振り払い怪我をさせてしまった。仲良くなるどころか、一瞬で嫌われる事をしてしまった。
もう駄目だと泣きそうになる。
怒られる事を覚悟して身を固くしていると、宇佐見蓮子が言った。
「もしかして男と話すの怖い?」
思わぬ質問に、私は首を横に振る。
「違うの。ただ」
「あ、違うんだ。じゃあ、男と話すの苦手?」
その通りだ。というより、男子だけでなく人間と話すのが苦手だ。学校で一言も話さない日すらある。
私が頷くと、宇佐見蓮子が笑った。その笑みは、日を射す太陽に見えた。
「良かったぁ。もしかしたらいきなり嫌われちゃったかなって思って」
「何で? 嫌う訳無いよ」
むしろ好きだもん、と言う言葉が出掛かって慌てて飲み込んだ。話すのに慣れていないからか、思った事がそのまま言葉になろうとする。
話すのは危険だ。
だが話したい。
どうすれば良いのか悩んでいると、そこに電車がやってきた。電車の起こす風の所為で、雨に横殴られ服が濡れる。だが気にならない。今はただただ自分の隣に立つ存在が気になって仕方無い。
電車に乗り込んで、まずは傘のお礼を言った。私にとってそれは酷く勇気の要る事だった。散散逡巡してから、私はありがとうと一言だけ言った。それすらも扉の閉まる音と重なって、本当に彼へ届いたのかどうか分からない。相手の反応が無い事を考えると、もしかしたら声が小さ過ぎて聞こえなかった可能性が高い。
そうして沈黙が降りた。
電車が動き出す。
車両には私達しか居ない。
静かだ。線路に跳ねる車輪の音だけが響く。
外は雨で、靄掛かり、景色は掠れて良く見えない。白い壁に覆われている様だ。この車両に、私と彼の二人で閉じ込められてしまった様な気がしてくる。もしも本当にそうなったら、それはどれだけ嬉しい事だろう。
何か話さなくちゃいけない。そう思うのだが、何の話題も思いつかない。さっきのお礼が聞こえていなかったのならもう一度言った方が良いのかもしれないと思う。だが聞こえていたらそれは無駄で、変な事だ。挨拶をした方が良いのだろうかと思う。だが今更だし、大して仲良くない私に言われても困惑されてしまう気がする。なら天気の話をしようかと思う。だが雨が降っている事は分かり切っていて、驚きも何も無い。どうやってそんな当たり障りの無い事柄から話を広げられるのか想像出来無い。
「さっきの話だけど」
顔を上げると、宇佐見蓮子が私の事を見つめていた。ただ目が合っただけなのに、見惚れて、意識が遠のきそうになる。ずっと憧れていた。それが叶ったんだ。しっかりしろ。と自分に叱咤を入れてみるが、情けない私は気を失わない様に立っているのがやっとで、言葉を発する事が出来無い。
「ハーンさんって」
私の苗字を呼ばれて、体が跳ねた。
「どうして?」
思わず言葉が漏れる。宇佐見蓮子が不思議そうに言葉を止めた。
「どうして私の名前知っているの?」
「どうしてって、同じクラスじゃん」
その時、私は本当に今この瞬間に死んでしまっても良いと思った。自分の事なんて覚えていてくれる訳が無いと思った。クラスの中で空気よりも薄い存在として日日生きている私の名前を、私に用事があってやって来た人が一瞬名前を思い出せず固まってしまう事すらあるというのに、まさか宇佐見蓮子が覚えていてくれるなんて、想像した事すら無かった。
「あ? もしかして俺が同じクラスって気付いて無かった? あんま話した事無いもんね」
宇佐見蓮子は頭を掻いて乾いた笑いを漏らす。
私の心臓が凍る。
宇佐見蓮子は勘違いをしている。私が宇佐見蓮子の事を知らなかったと勘違いしている
そんな事は無い。
ずっとずっと憧れて見つめていた。
それなのに、私が宇佐見蓮子の事に気が付かなかっただなんて、それだけは駄目だ。そんな違いだけは絶対に駄目だ。それは自分の今までの思い全てが否定される誤解だ。
「ちなみに俺の名前は」
「宇佐見蓮子!」
気が付くと叫んでいた。
「気が付いていたよ。勿論。知っていたよ。最初から。ただそっちが私の事知っていると思わなくて」
「え? あ、そう? でも、俺はハーンさんの名前知っているよ、そりゃ。だって良く目が合うじゃん俺達」
え?
目が合う?
思わぬ事言われて、私は日日の事を考えた。
確かに目が合った様な気がする事はあった。特にここ最近はこちらの事を見たのかなと思う事が。でもそんな事勘違いだと思っていた。こっちの事を見る筈なんて無いから。偶偶窓の外を見た視線に私が入っていただけだと思っていた。
「だからいっつも、やべぇ何か睨まれる事しちゃったかなぁって不安で。さっきもその所為で嫌われてたのかなって焦って」
「嫌ってないよ!」
「うん、聞いた。だから良かったって」
その時突然電車が揺れた。目的の駅に着く為に速度を落とした所為だ。私はその勢いに耐え切れず呆気無くバランスを崩し、あろう事か彼の胸に飛び込んでいた。
「おわ! 大丈夫?」
「大丈夫!」
慌てて離れたが過去を消す事は出来無い。私は確かに彼に抱き止められた。一瞬で顔が火照る。自分の顔が赤らみ酷い顔になっている事は自分で分かる。思わず俯くと、彼はごめんねと言った。その謝罪の意味が分からず、顔を上げると、電車の扉が開く。外は快晴だった。
「ああ、こっちの駅までは降ってない。良かったね」
彼が電車を降りる。
「もう傘忘れちゃ駄目だよ。忘れたら、また今日みたいに俺が後ろから差しちゃうからね」
宇佐見蓮子が行ってしまう。
私が慌てて電車を降りた時にはもう、目の前の階段を駆け上って、追い縋る事が出来無い存在になっていた。
たったの十分。
電車の駅と駅が近い事をこれ程まで呪った事は無い。
その日はもう生活にならなかった。
あまりの恥ずかしさに、彼を見つめるという日課も出来ず、電車での出来事を思い出すと当然授業にだって身が入らず、気が付くと家に帰っていたし、気が付くと布団に入って、今日の事を思い出していた。また雨が降ったら良いのにと思って布団に包まりながら天気予報を確認する。
天気予報で、翌日は雨だった。
予報の通り、翌日は雨だった。
その日玄関を出る時、本当に悩んだ。傘を差すべきか差さないべきか。でも結局、傘を差して外に出た。傘を差さなければ、また宇佐見蓮子が傘を差してくれるかもしれない。また話が出来るかもしれない。でもそれは自分に過ぎた事だと思った。何より迷惑だ。宇佐見蓮子には宇佐見蓮子の生活があって、私に時間を割けばそれだけ彼の時間が削られる事になる。結局私と要る時間は無駄になるのだから、出来るだけ私は他人に関わらない方が良い。まして自分の憧れの彼には、自分となんか一切関わらず自分の時間を大切にしてもらいたい。
そんな偉そうな事を考えて、駅に辿り着いたのだが、駅のホームに立った私は抗いがたい誘惑に耐えかねて、傘を閉じて空を仰いでいた。ああ、駄目な奴だと自分を嘆く。家を出る時には格好良く彼の為に関わらない様にしようと思ったのに、ホームについてはっきりと昨日の事を意識した途端、誘惑に負けて傘を閉じ、雨に濡れてしまっている。空には薄っすらと暗い空が広がっている。重たく立ち込めて、地上へ少しずつ降りてきている様に見える。しとしとと水を垂らす重たい空は何だか気味が悪い。少しずつ閉じ込められている様な気分になった。
昨日の出来事があった今日、またこうして濡れていたら、相手にこちらの意図が筒抜けだ。それはあまりにも恥ずかしい。
まあ、昨日とは時間が違うし、彼が来るとは思えないから、ただ期待して待っている位、良いか。
そんな事を考えて空を見上げる視界を、黒い帳が遮った。
「またこんなに濡れて」
ああまさかと驚いて振り返ると、宇佐見蓮子が立っていた。傘を私の上に掲げて呆れた様な顔をしている。
「風邪ひきたいの?」
また自分に話しかけてくれた事が嬉しくて、けれどそれが申し訳無くて、彼の親切心に付け込んでいる自分が情けなくて、涙が出そうになる。それを堪えて俯きながら、私はせめてこの時間、彼に詰まらない思いはさせない様にしようと誓った。
「折角傘を持っているんだから差さないと」
私は手の中の傘に目を落とし、箸よりも重い物は持てないからという冗談を考えて、打ち消した。何か言わなくちゃいけないが、何を言えば良いのか分からない。
「ここにも屋根があれば良いのに」
考えあぐねた結果、そんな心にも無い事を言った。屋根の無いこの辺りやって来る者は居らず、私と彼だけが立っている。今私達が二人きりでいられるのは、ここに屋根が無いお陰だ。
「俺達が屋根のある方に行けば良いじゃん」
そう言って、宇佐見蓮子が屋根のある方を指差した。丁度その時、指差す方向から電車がやって来て、わざとらしい警笛を鳴らした。
私達が車両に乗り込んで最初の数秒は空いていたが、すぐに駆け込んできたのや、別の車両から移ってきたのが増えて、あっという間に人で一杯になり酷い混雑となった。仕方無く、私は宇佐見蓮子に触れるか触れないかまで寄り添う。彼を間近に感じて緊張しながらも、彼を楽しませなくちゃいけないと考える私は、必死で話す内容をあれこれ思い浮かべてから、混んでるねと言ってみた。するとそうだねと返ってきた。それが、嬉しかった。気が付くと、喉が乾いている。何だか心臓の高鳴りが全身に行き渡って落ち着いていられない。目が冴え渡り眩しい。緊張しているのが自分で良く分かった。
「さっきの続きだけど、どうして傘を差さないの?」
「何となく」
「何だそれ」
宇佐見蓮子が笑う。
私の言葉で笑ってくれた事が堪らなく嬉しかった。
「それにしたって、濡れる事ないじゃん。屋根のある方で待っていれば」
「この車両が次の駅の階段に一番近いから」
「そんなに急ぐ必要無いと思うけど。授業が始まるまでは余裕があるよ?」
他愛の無い会話をしている事で嬉しくなる。頬が火照る。近くに居る彼の体温と混じって燃えるんじゃないかと心配になる。今、夢にまで見た願いが今こうして叶っている。
「早いに越した事は良いでしょ?」
「生き急いでも仕方無い。時間は幾らでもあるんだから」
そんな事は無い。時間は有限だ。だから必死で追い求めなくちゃいけない。彼と話す為にどれだけ焦がれたか。昨日は同じ電車で殆ど話す事が出来なかった。気が付くと十分が過ぎて到着していた。だが今日は、今日こそは彼と会話を続けたい。
だから何か話を。
そう思う。
昨日布団の中で沢山考えた。
何を話そうか。
どうやって話そうか。
それなのに中中言葉が出てこない。
「宇佐見さん」
決死の思いで名前を呼んでみた。その名前を呼んだだけで、私は思考が真っ白になり液状になって溶け崩れそうになる。
「良いよ。蓮子で」
ああ、想像していた。そう言ってくれるんじゃないかと期待していた。そうやって計算していた自分が浅ましく、その計算通りに運んだ事が嬉しい。
「じゃあ、私も」
「マエリベリー?」
涙が出そうになる。憧れの存在が自分の名前を呼んでくれた。一生訪れないと思っていた幸運に、きっと今日が人生の絶頂期だと確信する。
「でもマエリベリーさんて、長くて言い難いよね」
「じゃあ、ハーンで良い」
「それも他人行儀だし。メリーさんはどう?」
「え?」
「駄目? 昨日名前が呼びづらい事に気が付いて、何か呼びやすい愛称無いかなって考えて、メリーさん良いじゃん! って思っただけど。可愛いし」
「良い! メリーさんで良い。今日からメリーさんになる!」
私の為に愛称を考えてくれるなんて。
興奮と喜びで、体が震えてきた。足が笑い出す。
こんなにも嬉しいのに。
こんなにも好きなのに。
この思いを伝える事が出来ないのが歯痒くてしょうがない。
「メリーさんって言うと、メリーさんの羊思い出すよねぇ」
私はそれを知らなかった。
当たり前の様に語られた内容を知らないなんて失望させてしまうかもしれない。
焦りが生まれる。
「何だったっけ?」
「え? 知らない? ほら羊の歌の。外国の童謡だと思ったけど」
私はほっと安堵した。それなら知っている。海外の歌が日本語になると内容が少し変わるという話を聞いた事がある。だから今回もそれなのだろう。私が知っている羊の歌は、メリーなんていう登場人物は出てこない。
「分かった。あの眠る時に羊を数える歌だよね」
途端に蓮子が大きな声で笑い出した。周りの視線を受けても気にせず、本当におかしそうに笑う。
何か変な事を言った様だが分からない。
彼はしばらく笑い続けてから、私に向かって頷いた。
「そう、その歌」
絶対違う!
確信した。きっと私は何か勘違いして変な事を口走ったのだ。
だがそれが何か分からない。
「私、何処が変だった?」
「いや、変じゃないよ。メリーさんはそのままのメリーさんで居て」
「嘘だ。何処が変だった?」
「そうそう眠るって言えば、昨日変な夢見てさ」
「ちょっと!」
「まあ、聞いて。怖いっていうか変な夢で」
彼は明らかに私の勘違いをはぐらかそうと、昨日の夢を語りだした。
目を覚ますと私は真っ暗な中に居た。
酷く窮屈で狭っ苦しい場所で、地面にお尻を突き、膝を折り曲げ、頭を垂れ下げて座っていないと壁に体が当たってしまう。立ち上がる事すら出来ず、少しでも体を動かすと壁にぶつかるから動く事すら殆ど出来無い。手で壁に触れてみると細長い木の板を何枚も貼りあわせた壁が私を中心に円の様に囲っていた。床と天井に触れてみると平らな木の板が塞いでいた。
何故こんな場所に居るのか理解が出来無い。ここが何処かも分からない。
壁や天井を思いっきり押してみたがびくともしない。足で蹴っても鈍い音がするだけだ。何度も叩いたり押したりしてみたが、壁はあまりにも頑丈でどうにもならない。他に開ける方法は無いものかと、今度は自分を囲う壁に手を這わせてみる。自分の前を触り、上へ下へと手を這わせ、横へ、苦心しながら背後にも触れ、天井と床、板と板の継ぎ目、天板との繋ぎ目、あらゆる場所に触れてみたが、私を囲う壁が開く気配は全く無い。隙間の無いこの部屋は、明らかに内側から開く構造になっていなかった。
ようやく私は自分が閉じ込められている事に気が付いた。
だがどうして。誰が。浮かぶ疑問に答えは出せない。記憶を辿ってみても、いつもの日常ばかりが思い浮かび、確かこうなる前は布団に入って寝た気がする、こんな状況に陥る様な心当たりはまるで無い。
辺りに誰か居ないものか、耳を済ませてみる。だが静かなもので、人の気配や話し声どころか、風の吹く音一つ聞こえない。
じっとしていると、辺りの黴びた臭いに気がついた。その臭いは甘ったるく清涼で埃臭く鼻につく。今まで嗅いだ事も無かったが、何故か脳裏に墓場の光景が浮かんだ。誰も居ないうら寂れた墓場の臭いだ。そう直感した。その光景が恐ろしさをかき立てる。しんと静まり返ったこの場所が墓場の地下である様な気がしてならなかった。死者達が眠る中に、自分も葬られてしまったのではないだろうか。早すぎる埋葬という言葉が思い浮かぶ。人を生きたまま棺桶の中に詰め込み、そのまま土の中に埋めてしまう恐るべき所業に、巻き込まれてしまったのかもしれない。その悍ましい不慮に巻き込まれた者は、外に出ようともがき、棺桶の壁面に引っかき傷を付けながら、苦悶の表情で死んでいく。私もその汚らわしい拷問に曝されているのかもしれない。
私は壁を叩き、大声を出した。
まだ近くに誰か居るかもしれない。墓穴の上で私を弔っているかもしれない。
何度も壁を叩き、助けを呼ぶ。
誰かが私に気が付いてくれるかもしれない。墓を掘り返して、私を助け出してくれるかもしれない。
だが助けは来なかった。
痛みで手の触覚が消える程壁を叩き、枯れて声が出なくなるまで叫んでも、外から反応が無い。
声が枯れても尚叫び、感覚の無い手で壁を叩き続けても、外は静寂に満ちたまま何の変化も無い。
やがて体が動かなくなり、息苦しさを感じた。すでに空気が尽きかけている。このまま死ぬ以外の道は無い。涙が溢れてくる。自分の口から掠れた嗚咽がこぼれる。
辺りは静寂に満ちている。辺りは黴臭さに満ちている。その中に自分は閉じ込められている。生きたまま窮屈な部屋に押し込められ、地中に埋められて、二度と出る事が出来無い。次第に酸素が無くなり、酸欠によって思考能力と理性が失われ狂乱しながら外を渇望し壁に引っかき傷を付け、そして恐怖の表情を浮かべながら死ぬだろう。昔から言い伝えられている通り。
怖さで暴れだしたくなった。だが狭い棺桶は自由をくれず、私は相も変わらず頭を垂れ、身を縮こまらせ、涙を流す事しか出来無い。
最早抗う気力も無くなって、じっとしていると、不意に外から足音が聞こえた。
確かに硬い床の上を歩く硬質な足音が外からはっきりと聞こえてくる。
何か懐かしさを思い起こさせる心地良い足音だ。
これが最後だ。これを逃せばもう後は無いだろう。
私は全ての気力を使って叫び、壁を叩いた。通り過ぎようとする足音が気付いてくれる様に、必死になって助けを呼んだ。止まってくれる様に叫び続けた。
その叫びが届いたのか、足音が立ち止まる。
その瞬間、私の心に希望が満ちた。
助かる。
そう信じて、止まってくれた足音に向けて更に強く呼びかける。
だが上手くいかなかった。
足音が再び聞こえ出した時、それは明らかに私から離れていこうとしていた。
心臓が凍り付く。
今ここで足音に逃げられたらもう私はこの棺桶の中から出られない。
私は自分でも何をしているのか分からない位に、全身を使って壁を叩きまくり、声を張り上げ続けた。だが足音は離れ、そして聞こえなくなった。
私の体から一気に力が抜ける。絶望が辺りを浸していた。
蓮子はお茶に口をつける。
語り終えると、急に現実感が戻ってきた。お茶の温かさによりはっきりとした現実となる。世界から音も戻ってきて、周囲の席の話し声や辺りを歩く給仕の足音が聞こえてくる。
「それでお終い?」
「そう、目が覚めた」
メリーが笑いを漏らす。
「私だったら気が付いてあげられたのに」
「どうかしら? 案外あの足音はメリーだったのかも。っていうか、私を埋めたのだってメリーかもしれない」
「何で私がそんな事をしなくちゃいけないのよ」
「いや、でもあの足音、能く能く思い出してみるとメリーのだったかも」
再びメリーは笑った。お団子を口に放り、にこにこと笑いなが咀嚼して、飲み下す。
「素敵な初夢じゃない」
「何処が。悪夢だったわ」
「あら、知らないの? 初夢の時にね、私が出てくるとその年一年幸せになれるのよ。一マエ二ベリ三メリーって言うでしょ?」
「言わん。一富士二鷹三茄子でしょうが」
「私の場合は、蓮子ね。一ウサ二ウサ三蓮子。まあ初夢に限らす、いつだって蓮子が出てきたら幸せだけどね。どんな夢でも蓮子が出てくるだけで、素敵な夢に早変わり」
「きもい」
「そして私の夢には毎日蓮子が出てくるからいつだって私の夢は素敵なの」
「とってもきもい」
蓮子は恨めしそうにメリーを睨みながら、カステラを切り分ける。
「あんたも見たの? 初夢」
「勿論」
「折角だから聞いてあげましょう。私がどんな風にあんたの夢の中で大暴れしたのか」
「夢の中の蓮子はちゃんとお行儀良くしていたわ」
蓮子はカステラを口に運ぼうとして、手を止まる。
「ちなみに聞いておくけど、その夢の中で私がお墓に入ったなんて事は無いわよね?」
「当然。私が蓮子にそんな事をさせると思う?」
メリーは皮肉気に口の端を釣り上げてから、安堵させる様な表情になった。
「安心して。蓮子の悪夢にリンクする様な内容じゃないから」
メリーは語り出した。
「どう? 変な夢でしょ? それにちょっと怖くない?」
怖い、のだろう。それは。実際に、生きたままお墓に埋められたらきっと恐怖でおかしくなるに違いない。ただやはり伝聞ではその恐怖の十分の一も伝わってこない。きっと棺に収められた閉塞感は実地に体験してみなければ分からない。
それを夢の中で体験した蓮子を、私は少し羨ましいと思った。
「やっぱり引いた? 自分でもこんな夢見る自分やばいなって思うけど」
「ううん、思わない」
ようやく話題が出来た。これで話を広げて行こう。
「蓮子って、小説好き?」
「結構読むよ。あ、やっぱり分かった? 寝る前に読むものじゃないね」
「羨ましい。私も小説の世界を夢で見てみたい」
「いや、世界によるでしょ。怪奇物は嫌だわ」
一度話が進みだすと、後は自然と会話が続く。
意外に趣味が合うのかもしれない。
話していて楽しいし、向こうも楽しんでくれている。
こんなにも上手く行くなんて思わなかった。
憧れて、望んでいたものを手に入れられるなんて思わなかった。
そして一度、憧れを掴んでしまうと際限無く欲求が溢れてくる。
もっと、もっと、と願望が這い出てくる。
「さっきの夢だけど」
気が付くと聞いていた。
「もしも本当にそうなったらどうする?」
「どうするって考えたくもないね。一人寂しく生き埋めでしょ? 死ぬ。無理。発狂する」
「なら私が一緒に埋まってあげる」
「マジで? 助かるわぁ」
蓮子が笑う。
「だから私が埋まる時は蓮子も一緒にお墓に入ってくれない?」
「オッケー。そしたら寂しくないねって。あはは、同じお墓に入るって、何かプロポーズみたいじゃん。嬉しいなぁ」
蓮子が笑っている。
冗談だと思っているのだろう。でもこっちは本気だ。
だってその墓場に入るという未来は、現実感を伴って私に迫って来ているのだから。
「どうせ私はもうすぐ病気で死んじゃうから」
「え?」
急に蓮子が不安そうな顔をした。
「治らない病気でもう助からないから」
蓮子の顔が劇的に歪む。
「あの、えっとマジで? もしそうなら、悪い」
蓮子が笑っているんだか申し訳無く思っているんだか分からない顔で謝ってきた。
本気か判別つきかねているのだろう。
どちらでも良いけれど。
「だからね、ありがとう」
「何が?」
「一緒にお墓に入ってくれて」
「いや、それは」
急に足元が揺れた。私はバランスを崩して蓮子の胸に飛び込んだ。蓮子の体が緊張で固まっている。まるで死後硬直したみたいだと思った。
音が消える。さっきまで鳴っていた車輪の音も聞こえない。
「あれ? 止まった?」
蓮子が不思議そうに言った。
「でもまだ駅着いてないのに」
外を見ると、雨が降っている。雨に烟り、外は何も見えない。まるで真っ白な壁の様。
「っていうか、さっきまで結構混んでたよね? 何で誰も」
辺りを見ると、誰も居ない。私と蓮子の二人だけがここに居る。
「何かおかしくない?」
蓮子の不安気な声。
森閑と静まり返った中で良く響く。
「ねえ、メリーさん、何か俺怖くなってきたんだけど」
「メリーって呼んで」
「へ?」
「メリーって呼んで」
蓮子が震える息を吐きながら、掠れた声でメリーと言ってくれた。震える程嬉しかった。
やっぱり今日は人生の絶頂期だと思う。
余命はまだ一年残っているが、何も無い一年に意味なんてない。どうせ死んでしまうからと蓮子に告白する事すら出来無い人生に何の意味もない。
それよりは例え早すぎる埋葬であろうとも、蓮子と添い遂げられる方が良い。
「ねえ、もう一回呼んで」
私を抱き締めながら、蓮子は掠れる声でメリーと呼んでくれた。
「やっぱり埋葬されてるじゃねえか!」
私が思いっきり机を叩くと、前に座るメリーが怯えた様子で体を震わせた。
「あ、ごめんなさい」
そう言って、頭を下げてきた。
目の前に座っていたのは、確かにメリーだが、知らない人だった。
人違いだ。
慌てて私も頭を下げる。
「こちらこそすみません」
メリーは気味悪そうな顔で席を立つと、丁度通りかかった蓮子と一緒に去っていった。
何かおかしな気がした。
とにかくメリーは何処だと立ち上がって辺りを見回すが、カフェの店内にメリーの姿は無い。さっきまで一緒に話していたのに、いつの間に何処へ行ったのか。トイレでも行ったのかと訝っていると、道路に面した壁一杯の窓の向こうにメリーが居た。嬉しそうに手を振っている。
あいつ勝手に出て行きやがった。
いつの間にか外に出ていたメリーに呆れながら会計を済ませて外に出る。メリーは私の元に来るなり遅れてごめんと言った。意味が分からない。
「何してんのよ」
「電車が止まっちゃって」
「いや、そうじゃなくて、今カフェの外に出てたのが」
メリーが不思議そうに首を傾げた。
もういいや。
「さて遅れといて難だけど、もう時間が無いわ。早く会場に行きましょう」
会場て何の会場だっけと思ったが、メリーが急かしてくるので、能く分からないままメリーの言う会場へ向かって歩き出した。
「そうそう。遅れたのは電車が止まっていのもそうなんだけど、実はちょっと寝坊もしていたのよね」
「おい」
「でも仕方無いのよ。あんな素敵な初夢を見たら、夢の世界で暮らしたくなっちゃう」
勿論最終的には本物の蓮子が居る現実を選んだけどね、とウィンクをしてきた。知らんがな。
「どういう夢だったのかって言うと」
歩きながら、メリーは興奮気味に今日見た初夢について語った。私とメリーが少女漫画の一場面をなぞるという頭の痛くなる内容で、語り終えた後に素晴らしかっただろうと同意を求められたが、頭痛がすると答えておいた。不満気に可愛らしく口を尖らせてきたが、そんな反応をされても困る。ただ、こんな出会いをしたかったと言うメリーの夢見る様な言葉には、頷かないまでも同意出来なくも無い。小学校の高学年で引っ越してきたメリーがホームルームの自己紹介で私を見るなり、運命の人だといきなり抱きついてきた事に端を発し、中高とからかわれ続けた苦い過去が消えるからだ。
「ねえ、蓮子」
「え? あ、何? ごめん、聞いてなかった」
ぼうっとしていた。
「もう、式の前なのに。もしかしてマリッジブルー?」
式?
何の?
辺りを見回すと白い壁に囲まれていた。
自分の体を見下ろすと純白のドレスを着ていた。ウェディングドレスの様に見えた。
なら相手は?
顔を上げるとメリーが私の顔を覗きこんでいた。
「さっき、旦那さん見たけど、結構格好良かったじゃない」
蓮子の方が格好良いけどと言って、メリーが笑う。
何かおかしな気がした。
「私の選んだ人なんだから格好良くて当然でしょ」
知らぬ間に私の口から言葉が漏れた。
それもそうねとメリーがまた笑い、一歩下がって私のウェディングドレス姿を眺めた。
「本当に綺麗。そのまま永久保存したいわ」
「ありがとう、って言って良いの? それ褒め言葉?」
「勿論。素敵なお人形みたいよ」
何故かあまり褒められている気がしない。
「ところで、メリー、その手に持っているのは何?」
自分の口からまた勝手に言葉が漏れた。自分の言葉に促されてメリーの手を見ると、確かに何かを持っていた。けれどそれが何かは分からない。
「あら?」
メリーが困った様に笑い首を傾げた。
「本当だ。気が付かなかったわ」
そう言って私に近寄ってきた。
何かを持って。
それが何かは分からない。
私は後退る。だがすぐ後ろは壁で、逃げる事は叶わなかった。
「メリーって呼んで」
何の事か分からない。
震える口からメリーという言葉が漏れた。
そうして私の視界が暗転し、気が付くと真っ白な中に居た。天井の照明がぎらぎらと照っていた。眩しくて仕方が無かった。自分の頬に液体がへばりついているのを感じた。体が鈍と重くて動けない。
眩しい中にメリーの優し気な笑みが見えた。気がした。視界が眩めいて良く分からない。
辺りは真っ白で、静謐だ。教会の様だと思った。
もしかしたらここはカタコンベかもしれないと思った。
早過ぎるとは思えない、むしろお互い丁度良い年だと、何処からか声が聞こえた。
私が棺の中で足掻くのをやめてから随分と時間が立った。体が少しずつ衰弱していくのが分かる。もう逃れられる手段は無く、後は死ぬしか無い。もう諦めた。散散壁を叩いて無駄だったのだから諦めるしかない。だがこの酷く狭苦しい姿勢だけはどうにも駄目だ。息が詰まって不快で不快でしょうがない。特に首を捻じ曲げていなければならないのが、最悪だった。何とか首の位置を直せないかと試行錯誤しているが、殆ど動く事が出来無いから、どうしようもない。
無駄と知りつつ何度目か体の位置をずらそうとした時、いつの間にか天井が外れている事に気が付いた。驚いて顔を出すと、仄かな明かりの灯る部屋が見えた。
出られた?
あれだけ散散暴れて駄目だったのに、どうして今になって開いたのか分からない。這い出てみると、棺は日本式の桶で、当然生きた人間を入れる様な大きさではない。こんな物の中に入っていたのかと、改めて不快感と恐ろしさが湧き出てきた。棺桶の安置されていた部屋は、真っ白な壁で出来た小ぢんまりとした部屋で、壁に掛かった松明がぱちぱちと大きな音を立てて爆ぜていた。
一体どうして自分が棺桶に納められていたのかは分からない。気になるがそれを考えている余裕は無い。外に逃げ出す事が先決だ。
部屋には木戸が在って、それを開くと長い廊下に出た。西洋式の廊下で赤い絨毯が敷かれている。壁には等間隔で蝋燭が掛かり、仄かに廊下を照らしている。それが何処までも伸びていた。窓は無い。外からの光も見当たらない。
一体ここは何処だろうと恐る恐る廊下を進む。本来なら入って来れた以上、何処かに出口がある筈だ。だがもしも王様の墓の様に後から出口を潰されていたら。その嫌な想像を振り払い、歩く。
自分の足音が辺りに響くのが怖かった。下に絨毯が敷かれているのに、まるで役に立っていない。絨毯なんて無いのと同じ様に、硬質な足音が辺りに響く。この足音が自分をあの棺に押し込めた悪意に気が付かれるんじゃないか。自分の足音が響く度、不安が大きくなる。
いつまで歩いても出口が見えない。
好い加減疲れてきたが、それでも廊下に何の変化も無い。何処までも先へ続いている。一体ここがどんな建物なのか見当もつかない。
さっき棺の中で聞こえた足音を思い出す。あの足音の主もこの建物の中に居る筈だ。あの足音からは懐かしく嬉しい気配を感じた。あの足音なら自分を救ってくれる。そんな根拠の無い確信があった。
その時、何処からか自分のものとは違う足音が聞こえた気がした。
道の先に道の先に分かれ道があった。まっすぐ何処までも続く道と、右へ折れ曲がる道。足音は右手から聞こえてきた気がする。
あの人の足音かもしれない。
救いが現れた気がして、私は思わず駈け出した。
だが次の瞬間、凄まじく嫌な予感がして、私は足を止めた。
怖気の走る足音が聞こえたのだ。その足音に出会えば、自分の身に死ぬよりも埋葬されるよりも酷い結末が訪れる。そんな予感を孕んだ足音だった。
根拠の無い恐怖が、私の中で際限無く広がっていった。
気が付くと、手足が震えていた。呼吸が苦しくなっていた。心臓の鼓動が早くなっていた。喉が乾いていた。目の前が狭まっていく。分かれ道が恐ろしく見える。足音が近付いてくる。破滅が顔を覗かせようとしている。
私は悲鳴が出そうになるのを口を押さえた。
危険信号が頭の中で明滅している。足音がもうそこまでやって来ている。
緊張が胃の腑からせり上ってくるのに耐えつつ、注意して足音を聞く。曲がり角のそこに差し掛かった時、まるで少しでもこちらの恐怖を長引かせようとしているかの様に、姿を現す寸前でそれは立ち止まった。
だがそれも一瞬の事で、それは再び足音を響かせ、ぬっと手を掛けてこちらへ顔を覗かせた。
その瞬間、私は堪え切れず悲鳴を上げて、来た道を駆け戻った。一瞬見えた何か、それが何なのか分からないまま、とにかく恐怖に突き動かされて足を動かした。
真っ直ぐ伸びていた道の筈なのに、帰りは捻くれて折れ曲がっていた。駆けながら、道に従って右へ左へ体を傾かせると、幻惑的な感覚に吐き気を催した。何が発しているのか分からない暴力的な音が周囲から聞こえてくる。それが鼓膜を突き破って頭の中で反響する。腹の辺りから発した熱がまるで虫の様に這いずりながら体中に広がり、自分の中身を貪っていく。背後から嫌な予感が迫ってくる。あの足音の正体が何なのか気になったが、振り返る気にはなれない。振り返ったが最後、自分の中にある自分という存在を残らず抜き取られて、何か別の、自分に似たどろどろとした粘液を押し詰められてしまう予感があった。
やがて元の部屋が見えた。私は深く考えずに、そこへ逃げ込んだ。
慌てて木戸を閉めてから、部屋を見回し、そして呻き声が自分の口から漏れる。この部屋は今入ってきた扉しか無く、他に逃げる場所が無い。あるのはただ部屋の中央に置かれた棺桶だけ。この部屋に足音がやって来たらもう逃げられない。
私はどうすれば良いのか分からないまま棺桶に歩み寄ってその縁に手を掛けた。その瞬間、棺桶が妙に私を安心させてくれた。棺桶を見つめているだけで、何か救われた様な気分になった。足音が近付いてくる。私はその足音を何処か遠くに聞きながら、棺桶に入り、体を折り曲げて、蓋を閉じた。そうするともう蓋は動かなくなって、私は完全に納められた。優しい温かさが棺桶の中に満ちていた。
耳を澄ますと、足音が遠ざかっていく。
どうやら私がここに隠れた事に気が付かず、行ってしまったらしい。
助かったと、私は息を吐く。
棺桶の中の温かさに誘われて、次第に眠気がやって来た。
私は安堵に包み込まれて目を閉じる。
窮屈な棺の中は酷く心地良かった。
本当の自分に戻っていく気がした。
ぽつりと私の頬に雫が当たった。
雨が降ってきた。ここは駅のホームの端っこで屋根も何も無い吹き曝し、濡れる事を防ぐ手段は無い。辺りを見回すと、他の人達は皆屋根のある、ホームの中央へと逃げていた。
雨の勢いはまだ弱い。いける。時間を確認すると電車の到着まで後五分。これなら耐えられる。屋根のあるホームの中央へ行ってしまうと、混雑に巻き込まれる。電車の混雑程、嫌なものは無い。それを逃れる為に、いつも早起きして登校しているのに。どうしてこんな日に限って寝坊してしかも傘を忘れてしまうのかと自分の迂闊さを呪いたくなる。
一緒に登校する友達が居ればそっちが傘を持っていてくれたかもしれないと思う。そんな事を考えた弱い自分を呪いたくなる。友達の居ない私に、誰が応えてくれるのだろう。信心の無い人間の神頼みだ。そんな奴の願い神様は叶えてくれない。私の願いなんて一度だって叶った事なんて無い。神様すら叶えてくれないのに、いわんや友達をやだ。
朝から憂鬱な事を考えて、頭上の暗雲も暗愁極まり無く、その上雨まで降っている。最悪の一日だ。こんな日は早く終わって欲しい。
肌に張り付く雨滴を鬱陶しく思いながら今日という日に嫌気が差していると、不意に雨が途絶えた。止んだのかと言うとそうではない。ぱらぱらと雨の降る音は続いている。頭上からも布を叩く雨の音が響いている。まるで傘を差しているかの様に。
思わず空を見上げると、真っ黒に塗れていた。誰かの傘だ。更に体を反らして後ろを見ると、私を覗き込んでいる者が居た。その真っ黒で美しい秋波に私は息を飲む。
私はその眼を知っている。同じ高校の制服を着たその男子を、私は知っている。宇佐見蓮子。日に何度その名前を思い浮かべるだろう。毎日どれだけの間、この男子の事を見つめているだろう。私と同じクラス。私の席が窓際一番後ろなのに対して、宇佐見蓮子はその対角。暗い私と正反対に、明るくて、人好きされる性格で、友達も多くいつも人の輪の中心に居る。勉強も運動も出来て、テストは学年でトップ、サッカーでもこの間県大会で優勝していた。学校中の女子の憧れで、他校から見学に来る者も居る。ファンクラブもあるとか無いとか。
「大丈夫?」
一気に現実感が戻ってきて、目の前まで迫っていた宇佐見蓮子の顔に気が付き、私は仰け反った。
「あの」
「何か返事無かったけど。もしかして風邪?」
「違う!」
突然額に手を当てられて、私は思わずその手を払いのけた。
宇佐見蓮子は痛みに顔を顰めて手を押さえた。
見れば、爪で引っ掻いてしまったのか、血の浮いているのが見えた。
「あ、ごめん」
自分の仕出かした事に気が遠くなる。
折角話す事が出来たのに。あれだけ憧れて、毎日遠くから見つめて、いつか話が出来たらと願っていたのに。叶った瞬間にこれだ。心配して熱を計ろうとしてくれただけなのに、それを振り払い怪我をさせてしまった。仲良くなるどころか、一瞬で嫌われる事をしてしまった。
もう駄目だと泣きそうになる。
怒られる事を覚悟して身を固くしていると、宇佐見蓮子が言った。
「もしかして男と話すの怖い?」
思わぬ質問に、私は首を横に振る。
「違うの。ただ」
「あ、違うんだ。じゃあ、男と話すの苦手?」
その通りだ。というより、男子だけでなく人間と話すのが苦手だ。学校で一言も話さない日すらある。
私が頷くと、宇佐見蓮子が笑った。その笑みは、日を射す太陽に見えた。
「良かったぁ。もしかしたらいきなり嫌われちゃったかなって思って」
「何で? 嫌う訳無いよ」
むしろ好きだもん、と言う言葉が出掛かって慌てて飲み込んだ。話すのに慣れていないからか、思った事がそのまま言葉になろうとする。
話すのは危険だ。
だが話したい。
どうすれば良いのか悩んでいると、そこに電車がやってきた。電車の起こす風の所為で、雨に横殴られ服が濡れる。だが気にならない。今はただただ自分の隣に立つ存在が気になって仕方無い。
電車に乗り込んで、まずは傘のお礼を言った。私にとってそれは酷く勇気の要る事だった。散散逡巡してから、私はありがとうと一言だけ言った。それすらも扉の閉まる音と重なって、本当に彼へ届いたのかどうか分からない。相手の反応が無い事を考えると、もしかしたら声が小さ過ぎて聞こえなかった可能性が高い。
そうして沈黙が降りた。
電車が動き出す。
車両には私達しか居ない。
静かだ。線路に跳ねる車輪の音だけが響く。
外は雨で、靄掛かり、景色は掠れて良く見えない。白い壁に覆われている様だ。この車両に、私と彼の二人で閉じ込められてしまった様な気がしてくる。もしも本当にそうなったら、それはどれだけ嬉しい事だろう。
何か話さなくちゃいけない。そう思うのだが、何の話題も思いつかない。さっきのお礼が聞こえていなかったのならもう一度言った方が良いのかもしれないと思う。だが聞こえていたらそれは無駄で、変な事だ。挨拶をした方が良いのだろうかと思う。だが今更だし、大して仲良くない私に言われても困惑されてしまう気がする。なら天気の話をしようかと思う。だが雨が降っている事は分かり切っていて、驚きも何も無い。どうやってそんな当たり障りの無い事柄から話を広げられるのか想像出来無い。
「さっきの話だけど」
顔を上げると、宇佐見蓮子が私の事を見つめていた。ただ目が合っただけなのに、見惚れて、意識が遠のきそうになる。ずっと憧れていた。それが叶ったんだ。しっかりしろ。と自分に叱咤を入れてみるが、情けない私は気を失わない様に立っているのがやっとで、言葉を発する事が出来無い。
「ハーンさんって」
私の苗字を呼ばれて、体が跳ねた。
「どうして?」
思わず言葉が漏れる。宇佐見蓮子が不思議そうに言葉を止めた。
「どうして私の名前知っているの?」
「どうしてって、同じクラスじゃん」
その時、私は本当に今この瞬間に死んでしまっても良いと思った。自分の事なんて覚えていてくれる訳が無いと思った。クラスの中で空気よりも薄い存在として日日生きている私の名前を、私に用事があってやって来た人が一瞬名前を思い出せず固まってしまう事すらあるというのに、まさか宇佐見蓮子が覚えていてくれるなんて、想像した事すら無かった。
「あ? もしかして俺が同じクラスって気付いて無かった? あんま話した事無いもんね」
宇佐見蓮子は頭を掻いて乾いた笑いを漏らす。
私の心臓が凍る。
宇佐見蓮子は勘違いをしている。私が宇佐見蓮子の事を知らなかったと勘違いしている
そんな事は無い。
ずっとずっと憧れて見つめていた。
それなのに、私が宇佐見蓮子の事に気が付かなかっただなんて、それだけは駄目だ。そんな違いだけは絶対に駄目だ。それは自分の今までの思い全てが否定される誤解だ。
「ちなみに俺の名前は」
「宇佐見蓮子!」
気が付くと叫んでいた。
「気が付いていたよ。勿論。知っていたよ。最初から。ただそっちが私の事知っていると思わなくて」
「え? あ、そう? でも、俺はハーンさんの名前知っているよ、そりゃ。だって良く目が合うじゃん俺達」
え?
目が合う?
思わぬ事言われて、私は日日の事を考えた。
確かに目が合った様な気がする事はあった。特にここ最近はこちらの事を見たのかなと思う事が。でもそんな事勘違いだと思っていた。こっちの事を見る筈なんて無いから。偶偶窓の外を見た視線に私が入っていただけだと思っていた。
「だからいっつも、やべぇ何か睨まれる事しちゃったかなぁって不安で。さっきもその所為で嫌われてたのかなって焦って」
「嫌ってないよ!」
「うん、聞いた。だから良かったって」
その時突然電車が揺れた。目的の駅に着く為に速度を落とした所為だ。私はその勢いに耐え切れず呆気無くバランスを崩し、あろう事か彼の胸に飛び込んでいた。
「おわ! 大丈夫?」
「大丈夫!」
慌てて離れたが過去を消す事は出来無い。私は確かに彼に抱き止められた。一瞬で顔が火照る。自分の顔が赤らみ酷い顔になっている事は自分で分かる。思わず俯くと、彼はごめんねと言った。その謝罪の意味が分からず、顔を上げると、電車の扉が開く。外は快晴だった。
「ああ、こっちの駅までは降ってない。良かったね」
彼が電車を降りる。
「もう傘忘れちゃ駄目だよ。忘れたら、また今日みたいに俺が後ろから差しちゃうからね」
宇佐見蓮子が行ってしまう。
私が慌てて電車を降りた時にはもう、目の前の階段を駆け上って、追い縋る事が出来無い存在になっていた。
たったの十分。
電車の駅と駅が近い事をこれ程まで呪った事は無い。
その日はもう生活にならなかった。
あまりの恥ずかしさに、彼を見つめるという日課も出来ず、電車での出来事を思い出すと当然授業にだって身が入らず、気が付くと家に帰っていたし、気が付くと布団に入って、今日の事を思い出していた。また雨が降ったら良いのにと思って布団に包まりながら天気予報を確認する。
天気予報で、翌日は雨だった。
予報の通り、翌日は雨だった。
その日玄関を出る時、本当に悩んだ。傘を差すべきか差さないべきか。でも結局、傘を差して外に出た。傘を差さなければ、また宇佐見蓮子が傘を差してくれるかもしれない。また話が出来るかもしれない。でもそれは自分に過ぎた事だと思った。何より迷惑だ。宇佐見蓮子には宇佐見蓮子の生活があって、私に時間を割けばそれだけ彼の時間が削られる事になる。結局私と要る時間は無駄になるのだから、出来るだけ私は他人に関わらない方が良い。まして自分の憧れの彼には、自分となんか一切関わらず自分の時間を大切にしてもらいたい。
そんな偉そうな事を考えて、駅に辿り着いたのだが、駅のホームに立った私は抗いがたい誘惑に耐えかねて、傘を閉じて空を仰いでいた。ああ、駄目な奴だと自分を嘆く。家を出る時には格好良く彼の為に関わらない様にしようと思ったのに、ホームについてはっきりと昨日の事を意識した途端、誘惑に負けて傘を閉じ、雨に濡れてしまっている。空には薄っすらと暗い空が広がっている。重たく立ち込めて、地上へ少しずつ降りてきている様に見える。しとしとと水を垂らす重たい空は何だか気味が悪い。少しずつ閉じ込められている様な気分になった。
昨日の出来事があった今日、またこうして濡れていたら、相手にこちらの意図が筒抜けだ。それはあまりにも恥ずかしい。
まあ、昨日とは時間が違うし、彼が来るとは思えないから、ただ期待して待っている位、良いか。
そんな事を考えて空を見上げる視界を、黒い帳が遮った。
「またこんなに濡れて」
ああまさかと驚いて振り返ると、宇佐見蓮子が立っていた。傘を私の上に掲げて呆れた様な顔をしている。
「風邪ひきたいの?」
また自分に話しかけてくれた事が嬉しくて、けれどそれが申し訳無くて、彼の親切心に付け込んでいる自分が情けなくて、涙が出そうになる。それを堪えて俯きながら、私はせめてこの時間、彼に詰まらない思いはさせない様にしようと誓った。
「折角傘を持っているんだから差さないと」
私は手の中の傘に目を落とし、箸よりも重い物は持てないからという冗談を考えて、打ち消した。何か言わなくちゃいけないが、何を言えば良いのか分からない。
「ここにも屋根があれば良いのに」
考えあぐねた結果、そんな心にも無い事を言った。屋根の無いこの辺りやって来る者は居らず、私と彼だけが立っている。今私達が二人きりでいられるのは、ここに屋根が無いお陰だ。
「俺達が屋根のある方に行けば良いじゃん」
そう言って、宇佐見蓮子が屋根のある方を指差した。丁度その時、指差す方向から電車がやって来て、わざとらしい警笛を鳴らした。
私達が車両に乗り込んで最初の数秒は空いていたが、すぐに駆け込んできたのや、別の車両から移ってきたのが増えて、あっという間に人で一杯になり酷い混雑となった。仕方無く、私は宇佐見蓮子に触れるか触れないかまで寄り添う。彼を間近に感じて緊張しながらも、彼を楽しませなくちゃいけないと考える私は、必死で話す内容をあれこれ思い浮かべてから、混んでるねと言ってみた。するとそうだねと返ってきた。それが、嬉しかった。気が付くと、喉が乾いている。何だか心臓の高鳴りが全身に行き渡って落ち着いていられない。目が冴え渡り眩しい。緊張しているのが自分で良く分かった。
「さっきの続きだけど、どうして傘を差さないの?」
「何となく」
「何だそれ」
宇佐見蓮子が笑う。
私の言葉で笑ってくれた事が堪らなく嬉しかった。
「それにしたって、濡れる事ないじゃん。屋根のある方で待っていれば」
「この車両が次の駅の階段に一番近いから」
「そんなに急ぐ必要無いと思うけど。授業が始まるまでは余裕があるよ?」
他愛の無い会話をしている事で嬉しくなる。頬が火照る。近くに居る彼の体温と混じって燃えるんじゃないかと心配になる。今、夢にまで見た願いが今こうして叶っている。
「早いに越した事は良いでしょ?」
「生き急いでも仕方無い。時間は幾らでもあるんだから」
そんな事は無い。時間は有限だ。だから必死で追い求めなくちゃいけない。彼と話す為にどれだけ焦がれたか。昨日は同じ電車で殆ど話す事が出来なかった。気が付くと十分が過ぎて到着していた。だが今日は、今日こそは彼と会話を続けたい。
だから何か話を。
そう思う。
昨日布団の中で沢山考えた。
何を話そうか。
どうやって話そうか。
それなのに中中言葉が出てこない。
「宇佐見さん」
決死の思いで名前を呼んでみた。その名前を呼んだだけで、私は思考が真っ白になり液状になって溶け崩れそうになる。
「良いよ。蓮子で」
ああ、想像していた。そう言ってくれるんじゃないかと期待していた。そうやって計算していた自分が浅ましく、その計算通りに運んだ事が嬉しい。
「じゃあ、私も」
「マエリベリー?」
涙が出そうになる。憧れの存在が自分の名前を呼んでくれた。一生訪れないと思っていた幸運に、きっと今日が人生の絶頂期だと確信する。
「でもマエリベリーさんて、長くて言い難いよね」
「じゃあ、ハーンで良い」
「それも他人行儀だし。メリーさんはどう?」
「え?」
「駄目? 昨日名前が呼びづらい事に気が付いて、何か呼びやすい愛称無いかなって考えて、メリーさん良いじゃん! って思っただけど。可愛いし」
「良い! メリーさんで良い。今日からメリーさんになる!」
私の為に愛称を考えてくれるなんて。
興奮と喜びで、体が震えてきた。足が笑い出す。
こんなにも嬉しいのに。
こんなにも好きなのに。
この思いを伝える事が出来ないのが歯痒くてしょうがない。
「メリーさんって言うと、メリーさんの羊思い出すよねぇ」
私はそれを知らなかった。
当たり前の様に語られた内容を知らないなんて失望させてしまうかもしれない。
焦りが生まれる。
「何だったっけ?」
「え? 知らない? ほら羊の歌の。外国の童謡だと思ったけど」
私はほっと安堵した。それなら知っている。海外の歌が日本語になると内容が少し変わるという話を聞いた事がある。だから今回もそれなのだろう。私が知っている羊の歌は、メリーなんていう登場人物は出てこない。
「分かった。あの眠る時に羊を数える歌だよね」
途端に蓮子が大きな声で笑い出した。周りの視線を受けても気にせず、本当におかしそうに笑う。
何か変な事を言った様だが分からない。
彼はしばらく笑い続けてから、私に向かって頷いた。
「そう、その歌」
絶対違う!
確信した。きっと私は何か勘違いして変な事を口走ったのだ。
だがそれが何か分からない。
「私、何処が変だった?」
「いや、変じゃないよ。メリーさんはそのままのメリーさんで居て」
「嘘だ。何処が変だった?」
「そうそう眠るって言えば、昨日変な夢見てさ」
「ちょっと!」
「まあ、聞いて。怖いっていうか変な夢で」
彼は明らかに私の勘違いをはぐらかそうと、昨日の夢を語りだした。
目を覚ますと私は真っ暗な中に居た。
酷く窮屈で狭っ苦しい場所で、地面にお尻を突き、膝を折り曲げ、頭を垂れ下げて座っていないと壁に体が当たってしまう。立ち上がる事すら出来ず、少しでも体を動かすと壁にぶつかるから動く事すら殆ど出来無い。手で壁に触れてみると細長い木の板を何枚も貼りあわせた壁が私を中心に円の様に囲っていた。床と天井に触れてみると平らな木の板が塞いでいた。
何故こんな場所に居るのか理解が出来無い。ここが何処かも分からない。
壁や天井を思いっきり押してみたがびくともしない。足で蹴っても鈍い音がするだけだ。何度も叩いたり押したりしてみたが、壁はあまりにも頑丈でどうにもならない。他に開ける方法は無いものかと、今度は自分を囲う壁に手を這わせてみる。自分の前を触り、上へ下へと手を這わせ、横へ、苦心しながら背後にも触れ、天井と床、板と板の継ぎ目、天板との繋ぎ目、あらゆる場所に触れてみたが、私を囲う壁が開く気配は全く無い。隙間の無いこの部屋は、明らかに内側から開く構造になっていなかった。
ようやく私は自分が閉じ込められている事に気が付いた。
だがどうして。誰が。浮かぶ疑問に答えは出せない。記憶を辿ってみても、いつもの日常ばかりが思い浮かび、確かこうなる前は布団に入って寝た気がする、こんな状況に陥る様な心当たりはまるで無い。
辺りに誰か居ないものか、耳を済ませてみる。だが静かなもので、人の気配や話し声どころか、風の吹く音一つ聞こえない。
じっとしていると、辺りの黴びた臭いに気がついた。その臭いは甘ったるく清涼で埃臭く鼻につく。今まで嗅いだ事も無かったが、何故か脳裏に墓場の光景が浮かんだ。誰も居ないうら寂れた墓場の臭いだ。そう直感した。その光景が恐ろしさをかき立てる。しんと静まり返ったこの場所が墓場の地下である様な気がしてならなかった。死者達が眠る中に、自分も葬られてしまったのではないだろうか。早すぎる埋葬という言葉が思い浮かぶ。人を生きたまま棺桶の中に詰め込み、そのまま土の中に埋めてしまう恐るべき所業に、巻き込まれてしまったのかもしれない。その悍ましい不慮に巻き込まれた者は、外に出ようともがき、棺桶の壁面に引っかき傷を付けながら、苦悶の表情で死んでいく。私もその汚らわしい拷問に曝されているのかもしれない。
私は壁を叩き、大声を出した。
まだ近くに誰か居るかもしれない。墓穴の上で私を弔っているかもしれない。
何度も壁を叩き、助けを呼ぶ。
誰かが私に気が付いてくれるかもしれない。墓を掘り返して、私を助け出してくれるかもしれない。
だが助けは来なかった。
痛みで手の触覚が消える程壁を叩き、枯れて声が出なくなるまで叫んでも、外から反応が無い。
声が枯れても尚叫び、感覚の無い手で壁を叩き続けても、外は静寂に満ちたまま何の変化も無い。
やがて体が動かなくなり、息苦しさを感じた。すでに空気が尽きかけている。このまま死ぬ以外の道は無い。涙が溢れてくる。自分の口から掠れた嗚咽がこぼれる。
辺りは静寂に満ちている。辺りは黴臭さに満ちている。その中に自分は閉じ込められている。生きたまま窮屈な部屋に押し込められ、地中に埋められて、二度と出る事が出来無い。次第に酸素が無くなり、酸欠によって思考能力と理性が失われ狂乱しながら外を渇望し壁に引っかき傷を付け、そして恐怖の表情を浮かべながら死ぬだろう。昔から言い伝えられている通り。
怖さで暴れだしたくなった。だが狭い棺桶は自由をくれず、私は相も変わらず頭を垂れ、身を縮こまらせ、涙を流す事しか出来無い。
最早抗う気力も無くなって、じっとしていると、不意に外から足音が聞こえた。
確かに硬い床の上を歩く硬質な足音が外からはっきりと聞こえてくる。
何か懐かしさを思い起こさせる心地良い足音だ。
これが最後だ。これを逃せばもう後は無いだろう。
私は全ての気力を使って叫び、壁を叩いた。通り過ぎようとする足音が気付いてくれる様に、必死になって助けを呼んだ。止まってくれる様に叫び続けた。
その叫びが届いたのか、足音が立ち止まる。
その瞬間、私の心に希望が満ちた。
助かる。
そう信じて、止まってくれた足音に向けて更に強く呼びかける。
だが上手くいかなかった。
足音が再び聞こえ出した時、それは明らかに私から離れていこうとしていた。
心臓が凍り付く。
今ここで足音に逃げられたらもう私はこの棺桶の中から出られない。
私は自分でも何をしているのか分からない位に、全身を使って壁を叩きまくり、声を張り上げ続けた。だが足音は離れ、そして聞こえなくなった。
私の体から一気に力が抜ける。絶望が辺りを浸していた。
蓮子はお茶に口をつける。
語り終えると、急に現実感が戻ってきた。お茶の温かさによりはっきりとした現実となる。世界から音も戻ってきて、周囲の席の話し声や辺りを歩く給仕の足音が聞こえてくる。
「それでお終い?」
「そう、目が覚めた」
メリーが笑いを漏らす。
「私だったら気が付いてあげられたのに」
「どうかしら? 案外あの足音はメリーだったのかも。っていうか、私を埋めたのだってメリーかもしれない」
「何で私がそんな事をしなくちゃいけないのよ」
「いや、でもあの足音、能く能く思い出してみるとメリーのだったかも」
再びメリーは笑った。お団子を口に放り、にこにこと笑いなが咀嚼して、飲み下す。
「素敵な初夢じゃない」
「何処が。悪夢だったわ」
「あら、知らないの? 初夢の時にね、私が出てくるとその年一年幸せになれるのよ。一マエ二ベリ三メリーって言うでしょ?」
「言わん。一富士二鷹三茄子でしょうが」
「私の場合は、蓮子ね。一ウサ二ウサ三蓮子。まあ初夢に限らす、いつだって蓮子が出てきたら幸せだけどね。どんな夢でも蓮子が出てくるだけで、素敵な夢に早変わり」
「きもい」
「そして私の夢には毎日蓮子が出てくるからいつだって私の夢は素敵なの」
「とってもきもい」
蓮子は恨めしそうにメリーを睨みながら、カステラを切り分ける。
「あんたも見たの? 初夢」
「勿論」
「折角だから聞いてあげましょう。私がどんな風にあんたの夢の中で大暴れしたのか」
「夢の中の蓮子はちゃんとお行儀良くしていたわ」
蓮子はカステラを口に運ぼうとして、手を止まる。
「ちなみに聞いておくけど、その夢の中で私がお墓に入ったなんて事は無いわよね?」
「当然。私が蓮子にそんな事をさせると思う?」
メリーは皮肉気に口の端を釣り上げてから、安堵させる様な表情になった。
「安心して。蓮子の悪夢にリンクする様な内容じゃないから」
メリーは語り出した。
「どう? 変な夢でしょ? それにちょっと怖くない?」
怖い、のだろう。それは。実際に、生きたままお墓に埋められたらきっと恐怖でおかしくなるに違いない。ただやはり伝聞ではその恐怖の十分の一も伝わってこない。きっと棺に収められた閉塞感は実地に体験してみなければ分からない。
それを夢の中で体験した蓮子を、私は少し羨ましいと思った。
「やっぱり引いた? 自分でもこんな夢見る自分やばいなって思うけど」
「ううん、思わない」
ようやく話題が出来た。これで話を広げて行こう。
「蓮子って、小説好き?」
「結構読むよ。あ、やっぱり分かった? 寝る前に読むものじゃないね」
「羨ましい。私も小説の世界を夢で見てみたい」
「いや、世界によるでしょ。怪奇物は嫌だわ」
一度話が進みだすと、後は自然と会話が続く。
意外に趣味が合うのかもしれない。
話していて楽しいし、向こうも楽しんでくれている。
こんなにも上手く行くなんて思わなかった。
憧れて、望んでいたものを手に入れられるなんて思わなかった。
そして一度、憧れを掴んでしまうと際限無く欲求が溢れてくる。
もっと、もっと、と願望が這い出てくる。
「さっきの夢だけど」
気が付くと聞いていた。
「もしも本当にそうなったらどうする?」
「どうするって考えたくもないね。一人寂しく生き埋めでしょ? 死ぬ。無理。発狂する」
「なら私が一緒に埋まってあげる」
「マジで? 助かるわぁ」
蓮子が笑う。
「だから私が埋まる時は蓮子も一緒にお墓に入ってくれない?」
「オッケー。そしたら寂しくないねって。あはは、同じお墓に入るって、何かプロポーズみたいじゃん。嬉しいなぁ」
蓮子が笑っている。
冗談だと思っているのだろう。でもこっちは本気だ。
だってその墓場に入るという未来は、現実感を伴って私に迫って来ているのだから。
「どうせ私はもうすぐ病気で死んじゃうから」
「え?」
急に蓮子が不安そうな顔をした。
「治らない病気でもう助からないから」
蓮子の顔が劇的に歪む。
「あの、えっとマジで? もしそうなら、悪い」
蓮子が笑っているんだか申し訳無く思っているんだか分からない顔で謝ってきた。
本気か判別つきかねているのだろう。
どちらでも良いけれど。
「だからね、ありがとう」
「何が?」
「一緒にお墓に入ってくれて」
「いや、それは」
急に足元が揺れた。私はバランスを崩して蓮子の胸に飛び込んだ。蓮子の体が緊張で固まっている。まるで死後硬直したみたいだと思った。
音が消える。さっきまで鳴っていた車輪の音も聞こえない。
「あれ? 止まった?」
蓮子が不思議そうに言った。
「でもまだ駅着いてないのに」
外を見ると、雨が降っている。雨に烟り、外は何も見えない。まるで真っ白な壁の様。
「っていうか、さっきまで結構混んでたよね? 何で誰も」
辺りを見ると、誰も居ない。私と蓮子の二人だけがここに居る。
「何かおかしくない?」
蓮子の不安気な声。
森閑と静まり返った中で良く響く。
「ねえ、メリーさん、何か俺怖くなってきたんだけど」
「メリーって呼んで」
「へ?」
「メリーって呼んで」
蓮子が震える息を吐きながら、掠れた声でメリーと言ってくれた。震える程嬉しかった。
やっぱり今日は人生の絶頂期だと思う。
余命はまだ一年残っているが、何も無い一年に意味なんてない。どうせ死んでしまうからと蓮子に告白する事すら出来無い人生に何の意味もない。
それよりは例え早すぎる埋葬であろうとも、蓮子と添い遂げられる方が良い。
「ねえ、もう一回呼んで」
私を抱き締めながら、蓮子は掠れる声でメリーと呼んでくれた。
「やっぱり埋葬されてるじゃねえか!」
私が思いっきり机を叩くと、前に座るメリーが怯えた様子で体を震わせた。
「あ、ごめんなさい」
そう言って、頭を下げてきた。
目の前に座っていたのは、確かにメリーだが、知らない人だった。
人違いだ。
慌てて私も頭を下げる。
「こちらこそすみません」
メリーは気味悪そうな顔で席を立つと、丁度通りかかった蓮子と一緒に去っていった。
何かおかしな気がした。
とにかくメリーは何処だと立ち上がって辺りを見回すが、カフェの店内にメリーの姿は無い。さっきまで一緒に話していたのに、いつの間に何処へ行ったのか。トイレでも行ったのかと訝っていると、道路に面した壁一杯の窓の向こうにメリーが居た。嬉しそうに手を振っている。
あいつ勝手に出て行きやがった。
いつの間にか外に出ていたメリーに呆れながら会計を済ませて外に出る。メリーは私の元に来るなり遅れてごめんと言った。意味が分からない。
「何してんのよ」
「電車が止まっちゃって」
「いや、そうじゃなくて、今カフェの外に出てたのが」
メリーが不思議そうに首を傾げた。
もういいや。
「さて遅れといて難だけど、もう時間が無いわ。早く会場に行きましょう」
会場て何の会場だっけと思ったが、メリーが急かしてくるので、能く分からないままメリーの言う会場へ向かって歩き出した。
「そうそう。遅れたのは電車が止まっていのもそうなんだけど、実はちょっと寝坊もしていたのよね」
「おい」
「でも仕方無いのよ。あんな素敵な初夢を見たら、夢の世界で暮らしたくなっちゃう」
勿論最終的には本物の蓮子が居る現実を選んだけどね、とウィンクをしてきた。知らんがな。
「どういう夢だったのかって言うと」
歩きながら、メリーは興奮気味に今日見た初夢について語った。私とメリーが少女漫画の一場面をなぞるという頭の痛くなる内容で、語り終えた後に素晴らしかっただろうと同意を求められたが、頭痛がすると答えておいた。不満気に可愛らしく口を尖らせてきたが、そんな反応をされても困る。ただ、こんな出会いをしたかったと言うメリーの夢見る様な言葉には、頷かないまでも同意出来なくも無い。小学校の高学年で引っ越してきたメリーがホームルームの自己紹介で私を見るなり、運命の人だといきなり抱きついてきた事に端を発し、中高とからかわれ続けた苦い過去が消えるからだ。
「ねえ、蓮子」
「え? あ、何? ごめん、聞いてなかった」
ぼうっとしていた。
「もう、式の前なのに。もしかしてマリッジブルー?」
式?
何の?
辺りを見回すと白い壁に囲まれていた。
自分の体を見下ろすと純白のドレスを着ていた。ウェディングドレスの様に見えた。
なら相手は?
顔を上げるとメリーが私の顔を覗きこんでいた。
「さっき、旦那さん見たけど、結構格好良かったじゃない」
蓮子の方が格好良いけどと言って、メリーが笑う。
何かおかしな気がした。
「私の選んだ人なんだから格好良くて当然でしょ」
知らぬ間に私の口から言葉が漏れた。
それもそうねとメリーがまた笑い、一歩下がって私のウェディングドレス姿を眺めた。
「本当に綺麗。そのまま永久保存したいわ」
「ありがとう、って言って良いの? それ褒め言葉?」
「勿論。素敵なお人形みたいよ」
何故かあまり褒められている気がしない。
「ところで、メリー、その手に持っているのは何?」
自分の口からまた勝手に言葉が漏れた。自分の言葉に促されてメリーの手を見ると、確かに何かを持っていた。けれどそれが何かは分からない。
「あら?」
メリーが困った様に笑い首を傾げた。
「本当だ。気が付かなかったわ」
そう言って私に近寄ってきた。
何かを持って。
それが何かは分からない。
私は後退る。だがすぐ後ろは壁で、逃げる事は叶わなかった。
「メリーって呼んで」
何の事か分からない。
震える口からメリーという言葉が漏れた。
そうして私の視界が暗転し、気が付くと真っ白な中に居た。天井の照明がぎらぎらと照っていた。眩しくて仕方が無かった。自分の頬に液体がへばりついているのを感じた。体が鈍と重くて動けない。
眩しい中にメリーの優し気な笑みが見えた。気がした。視界が眩めいて良く分からない。
辺りは真っ白で、静謐だ。教会の様だと思った。
もしかしたらここはカタコンベかもしれないと思った。
早過ぎるとは思えない、むしろお互い丁度良い年だと、何処からか声が聞こえた。
私が棺の中で足掻くのをやめてから随分と時間が立った。体が少しずつ衰弱していくのが分かる。もう逃れられる手段は無く、後は死ぬしか無い。もう諦めた。散散壁を叩いて無駄だったのだから諦めるしかない。だがこの酷く狭苦しい姿勢だけはどうにも駄目だ。息が詰まって不快で不快でしょうがない。特に首を捻じ曲げていなければならないのが、最悪だった。何とか首の位置を直せないかと試行錯誤しているが、殆ど動く事が出来無いから、どうしようもない。
無駄と知りつつ何度目か体の位置をずらそうとした時、いつの間にか天井が外れている事に気が付いた。驚いて顔を出すと、仄かな明かりの灯る部屋が見えた。
出られた?
あれだけ散散暴れて駄目だったのに、どうして今になって開いたのか分からない。這い出てみると、棺は日本式の桶で、当然生きた人間を入れる様な大きさではない。こんな物の中に入っていたのかと、改めて不快感と恐ろしさが湧き出てきた。棺桶の安置されていた部屋は、真っ白な壁で出来た小ぢんまりとした部屋で、壁に掛かった松明がぱちぱちと大きな音を立てて爆ぜていた。
一体どうして自分が棺桶に納められていたのかは分からない。気になるがそれを考えている余裕は無い。外に逃げ出す事が先決だ。
部屋には木戸が在って、それを開くと長い廊下に出た。西洋式の廊下で赤い絨毯が敷かれている。壁には等間隔で蝋燭が掛かり、仄かに廊下を照らしている。それが何処までも伸びていた。窓は無い。外からの光も見当たらない。
一体ここは何処だろうと恐る恐る廊下を進む。本来なら入って来れた以上、何処かに出口がある筈だ。だがもしも王様の墓の様に後から出口を潰されていたら。その嫌な想像を振り払い、歩く。
自分の足音が辺りに響くのが怖かった。下に絨毯が敷かれているのに、まるで役に立っていない。絨毯なんて無いのと同じ様に、硬質な足音が辺りに響く。この足音が自分をあの棺に押し込めた悪意に気が付かれるんじゃないか。自分の足音が響く度、不安が大きくなる。
いつまで歩いても出口が見えない。
好い加減疲れてきたが、それでも廊下に何の変化も無い。何処までも先へ続いている。一体ここがどんな建物なのか見当もつかない。
さっき棺の中で聞こえた足音を思い出す。あの足音の主もこの建物の中に居る筈だ。あの足音からは懐かしく嬉しい気配を感じた。あの足音なら自分を救ってくれる。そんな根拠の無い確信があった。
その時、何処からか自分のものとは違う足音が聞こえた気がした。
道の先に道の先に分かれ道があった。まっすぐ何処までも続く道と、右へ折れ曲がる道。足音は右手から聞こえてきた気がする。
あの人の足音かもしれない。
救いが現れた気がして、私は思わず駈け出した。
だが次の瞬間、凄まじく嫌な予感がして、私は足を止めた。
怖気の走る足音が聞こえたのだ。その足音に出会えば、自分の身に死ぬよりも埋葬されるよりも酷い結末が訪れる。そんな予感を孕んだ足音だった。
根拠の無い恐怖が、私の中で際限無く広がっていった。
気が付くと、手足が震えていた。呼吸が苦しくなっていた。心臓の鼓動が早くなっていた。喉が乾いていた。目の前が狭まっていく。分かれ道が恐ろしく見える。足音が近付いてくる。破滅が顔を覗かせようとしている。
私は悲鳴が出そうになるのを口を押さえた。
危険信号が頭の中で明滅している。足音がもうそこまでやって来ている。
緊張が胃の腑からせり上ってくるのに耐えつつ、注意して足音を聞く。曲がり角のそこに差し掛かった時、まるで少しでもこちらの恐怖を長引かせようとしているかの様に、姿を現す寸前でそれは立ち止まった。
だがそれも一瞬の事で、それは再び足音を響かせ、ぬっと手を掛けてこちらへ顔を覗かせた。
その瞬間、私は堪え切れず悲鳴を上げて、来た道を駆け戻った。一瞬見えた何か、それが何なのか分からないまま、とにかく恐怖に突き動かされて足を動かした。
真っ直ぐ伸びていた道の筈なのに、帰りは捻くれて折れ曲がっていた。駆けながら、道に従って右へ左へ体を傾かせると、幻惑的な感覚に吐き気を催した。何が発しているのか分からない暴力的な音が周囲から聞こえてくる。それが鼓膜を突き破って頭の中で反響する。腹の辺りから発した熱がまるで虫の様に這いずりながら体中に広がり、自分の中身を貪っていく。背後から嫌な予感が迫ってくる。あの足音の正体が何なのか気になったが、振り返る気にはなれない。振り返ったが最後、自分の中にある自分という存在を残らず抜き取られて、何か別の、自分に似たどろどろとした粘液を押し詰められてしまう予感があった。
やがて元の部屋が見えた。私は深く考えずに、そこへ逃げ込んだ。
慌てて木戸を閉めてから、部屋を見回し、そして呻き声が自分の口から漏れる。この部屋は今入ってきた扉しか無く、他に逃げる場所が無い。あるのはただ部屋の中央に置かれた棺桶だけ。この部屋に足音がやって来たらもう逃げられない。
私はどうすれば良いのか分からないまま棺桶に歩み寄ってその縁に手を掛けた。その瞬間、棺桶が妙に私を安心させてくれた。棺桶を見つめているだけで、何か救われた様な気分になった。足音が近付いてくる。私はその足音を何処か遠くに聞きながら、棺桶に入り、体を折り曲げて、蓋を閉じた。そうするともう蓋は動かなくなって、私は完全に納められた。優しい温かさが棺桶の中に満ちていた。
耳を澄ますと、足音が遠ざかっていく。
どうやら私がここに隠れた事に気が付かず、行ってしまったらしい。
助かったと、私は息を吐く。
棺桶の中の温かさに誘われて、次第に眠気がやって来た。
私は安堵に包み込まれて目を閉じる。
窮屈な棺の中は酷く心地良かった。
本当の自分に戻っていく気がした。
そうすればとりあえず楽しいし
嘘です、楽しくないです、怖かったです