その身の内に境界を宿し、身の外の境界を渡り行く。
この世に生きるもの、全てに通ずる理である。
草花であっても、魚であっても、鳥であっても、獣であっても、人であっても、妖であっても。
陰と陽、昼と夜、天と地、幻と現……この世界に存在する、ありとあらゆる境界のどこかに属しながら、時に越えてゆくものだ。
では、境界そのものを操る能力を有する、八雲紫であれば?
実は彼女もその法則から遊離してはおらず、この世に誕生して以来、異なる世界を行き来する日々を楽しんでいる。
例えば、紫が好んで渡る境界の一つに、自宅の玄関口があった。
現世と異界の隙間に建てられた八雲の屋敷。
古今はおろか、まだ人間界に流布していない様式が混在していながら、外観だけなら不思議と調和している造りになっている。
紫は帰った際にはいつも、スキマを使うことなく、その玄関の戸から敷居をまたいで、中に入ることにしていた。
それは時にどうしようもなく血生臭くなる日常から、もう一人の己を取り戻すための、ある種の儀礼的行為なのだ。
そして今日も、外界の偵察を終えて屋敷に帰ってきた紫は、やはり玄関を通って中に入った。
いつも決まって帰りを待っている幼い獣が、金色の尾を揺らして駆け寄ってくる音を聞きながら……
「……あら?」
閑散とした廊下を前にして、紫はまばたきをする。
いつもなら何を置いても我先にと大慌てで飛んでくる狐の姿がない。
少し待ってみたものの、やはりモフモフの尻尾の持ち主が現れる様子はなかった。
「藍?」
名前を呼んでみても、音沙汰なし。
屋敷の中はしん、と静まり返っていて、時間と空間の境界に立っているような気にさせられる。
紫は履物を脱いで玄関に上がりつつ、もう一度式の名を呼んだ。
「ら~ん~? 今帰ったわよー。どこにいるのー?」
廊下を歩きながら、部屋の一つ一つに顔を出す。
まずは六畳一間の居間。
後に人間社会に根付くことになるだろう畳が床に敷かれていて、ちょうど二人が囲むことのできるちゃぶ台もある。
しかし、何の姿も気配もなかった。
続いて、流し台と水道、かまど付きの台所。
ここには式のいた痕跡があった。
紫があらかじめ用意していったの食器が、きちんと流し台に片づけられていたのだ。
けれども、肝心の狐の姿はなかった。
この時代には珍しい水洗式の厠の戸の前に立ったが、奥に式がいる気配はなかった。
まさかとは思いつつ、風呂場の方も覗いてみたが、いた痕跡はおろか、水気すら残っていなかった。
紫は腕組みをする。
留守中の幼い九尾に何か異常があれば、紫はどこにいてもすぐに察知することができる。
無事な状態でいることは間違いないのだが、それならなぜ出てこないのだろう。
主人を相手に隠れん坊でもしているつもりなのだろうか。
紫は己の足で探すのを諦め、両目を閉じ、全方位に感覚野を広げた。
屋敷の天井裏から床下まで、隅々に。より意識を集中させて気配を探ってみる。
するとまもなく、広げた意識の中に式の影を発見した。
そこは、
――寝室?
紫はスキマを開き、屋敷の裏手にあるその部屋に移動した。
ここも畳が敷かれている。
布団は朝のうちに片づけられており、すだれの他には物らしき物が置かれていない。
南に面した縁側から、正午の光が差し込んでいる。
式の姿はなかった……が。
紫の足が、押し入れの方へと向いた。
もしや、と思って戸を開けてみると、
「………………」
いた。
薄暗い押し入れの中、重ねられた布団の上に、金色の変わった毛布が乗っていた。
正確には、すやすやと寝息を立てている九尾の獣が。
尾や耳などの部位を除けば、その姿は十に届かぬ人間の少女の姿に近い。
横顔が隠れる程度に切りそろえられた髪が、白くて一つのくすみもない頬を隠し、柔らかな瞼はつぶらな瞳を優しく覆っている。
尻尾が多いこの生き物は、他の四つ足の獣と同じく、仰向けよりもうつ伏せで寝ることを好むようで、今も尾の一つを枕代わりに抱きかかえていた。
彼女こそ、この屋敷にて紫と同居している式見習いの妖狐、藍であった。
金色の小さな山脈が、呼吸のたびに上下している様子を、紫は目を細めて眺める。
暗くて狭い場所を好むのは狐の習性だ。なおかつひんやりとしたこの場所は、この子にとって最高のお昼寝場所だったのだろう。
それにしても可憐な寝顔である。その上、光を受けてきらめく金の耳と尾が、ある種の神々しさを与えている。
すでに望月に自慢しても恥ずかしくないほどの容姿なのだから、このまま育てば大変な美女となることに違いない。
主人に似て。
しばらくその寝姿を眺めていようかと考えていた紫であったが、ふと我に返った。
どれだけ昼寝が気持ちよかったとしても、またその寝顔が可愛くとも、主の呼び声に応えないというのは、式としては減点対象だ。
これは軽いお仕置きが必要なのではあるまいか。
――ちょっとイタズラしてみましょうか。
そんなことを思いついた紫は、藍を起こさぬよう、静かに襖を閉め直した。
口元に浮かんでいるのは、先程までの子を慈しむ親の微笑ではない。
まさしく、悪巧みする大妖怪の邪笑である。
――とりあえず、『二つ』で十分かしら。
紫は閉じた扇を筆の如く扱い、宙に字を描く。
梵字と漢字が組み合わされたような朱色の字は、紫が書き終えると空間に停止した後、襖に吸い付くように移動した。
それから一度輝き、一筋の煙を残して消失した。
これで準備は万端。襖はこの瞬間、難攻不落の城壁に等しい強度を手に入れた。
仕上げに紫は、藍に付けている式を通じて、彼女の意識を強制的に覚醒させる。
襖の向こうから、かすかに物音がした。
さらに、布団の上でごそごそと姿勢を変えるような音がする。
寝坊助の九尾が、目を覚ましたのだ。
やがて、襖がガタガタと揺れ始めた。
だが開かない。当然である。特別性の結界が二重にかけられているのだから。
そのうち奥の存在は閉じ込められてしまったことに気付いたらしく、ドンドン、と内側から戸を叩き始めた。
何やら主の名を呼ぶ泣き声のようなものも聞こえてくる。
しかし式の困る姿を、彼女が笑う姿と同じくらい好む八雲紫は、ほくそ笑むだけで静観していた。
とにかく泣いて喚いても、この結界を破ることは不可能だ。
外に出るためには、向こう側からこの術を解かなくてはいけない。
知恵を働かせ、正しい手順に則り、知恵の輪を外すように。未熟な妖狐の実力では一つでも攻略できれば大したものだ。
そして、力業で無理やり破れるような代物では断じてない。
――まぁ、鬼に匹敵する怪力を持っていれば、分からないけどね。
ドカン
爆発音がした。
刹那、高速で飛んできた襖が、紫の視界を遮った。
「……ゆかりさま~」
顔を泣き腫らした九尾の狐が、押入れからとことこと小走りに出てくる。
それから、微動だにしないスキマ妖怪の服に、ひしっとしがみつき、
「……ふすまがきゅうに開かなくなって……もう出られないかと思って……」
「藍……」
「こわかったです~、ゆかりさまぁ」
「藍」
紫は半眼で、泣きつく己の式を見下ろしながら言った。
「この私の顔を見て、何か言うことはない?」
その眉をひそめても尚美しい顔の中心に、赤くすりむけた鼻があった。
一方、おチビさんは自分の危機のことで頭がいっぱいだったのか、涙に濡れた目をぱちくりさせる。
それからニッコリ笑って言った。
「おかえりなさい! ゆかりさま!」
モフモフモフ、と九つの尾が揺れ動いて、彼女の喜びを表わす。
ふっ、と紫は笑って……
「大間違いっ!!」
「あなやー!?」
式は思いっきり、スキマへとぶん投げられた。
~ ずっと、ずっと ~
空は黒に近い灰色、大地は白に近い灰色。
三方は網膜が砂で出来ていたとしても、映る景色にさほど変わりがないような、草木のほとんど生えていない荒涼とした平地。
そして唯一の方角に、大峡谷といっていい規模の谷が口を開けていた。
両端は地平の彼方まで続いていて、地上からは到底規模を測ることはできない。幅は翼を持たない獣であれば、決して渡ることのできない長さ。
深さは奈落の如し。土埃の混じった風が、絶えず呻き声を発している。
老いた大地の神が薄く口を開けているような、すさまじい光景であった。
そんな世界にあって、青と白の道服を着た幼い九尾の式と、紫と白の道服を着たスキマ妖怪の主の姿は浮いていた。
「ゆかりさま、ここはどこですか?」
藍はキョロキョロと辺りを見渡しながら言う。
「千尋の谷、そう呼ばれているわ」
紫は周囲の光景をそのまま写し取ったような、ほの暗い声で答えた。
その顔には表情らしい表情が浮かんでいない。赤く擦りむけた鼻は、いつの間にやら元に戻っていた。
「藍。どうして私がここに貴方を連れて来たかわかるかしら?」
九尾の小狐は、小首を傾げる。あどけない顔に、無垢な表情が浮かべて。
昼寝から覚めて、いきなり有無を言わさずスキマに放り込まれだけでも唐突だというのに、来た場所がいつも連れてきてもらっている楽しそうな所とは全然趣が違っているので、何が何だかわかっていない様子だった。
昨日までの紫は、その愛らしい容貌と仕草に一切の疑いを抱かず、共に日々を過ごしてきた。
が、もう騙されるつもりはない。
「簡単に言うなら、ここは貴方にとっての試練の舞台よ。貴方には早急にそれが必要だと、私が判断したから」
「……よくわかりません」
「要するに、私が襖にかけた二重結界を、貴方が解いてしまったから、ここに連れてきたのよ」
「…………ええっ!? じゃあさっき、ふすまが開かなくなったのは、ゆかりさまのせいだったんですか!?」
藍はその事実を知って、大変ショックを受けた様子だった。
一方、紫は平然と肯定する。
「そう」
「らんが、おひるねしちゃいけない場所でおひるねしてたからですか……?」
「正確には少し違うけど、まぁお仕置きだったことには変わりないわね。それよりも聞きたいことがあるわ藍。貴方はあの時、何を考えて戸を叩いていたの?」
「えっ? えっと、らんは……」
藍は宙の一点を見つめて、その時の状況を一生懸命思い返すように呟く。
「ごはんを食べて、おしいれの中が気持ちよさそうだったから、そこでおひるねしてたんですけど、目がさめちゃって、そうしたら、ふすまが開かなくなってて……暗い中に閉じ込められて……」
やがて口元がわななき、説明する声が鼻声になっていく。
「もうゆかりさまに会えないんじゃないかって思ったら、すごくこわくなって……何とか出ようとして……」
「それで無我夢中で戸にぶつかっていったのね」
涙目でこくりとうなずく式の説明を、紫は受け入れた。
おそらく危機に追い詰められたことで、九尾の潜在的な力が発揮されたのだろう。
一方、あの強固な結界を力尽くで粉砕したという自覚は、当人にはないようだった。
「藍。貴方は自分にどうして尾が九つもあるか、考えたことがあるかしら」
「えっと……まくらにできるからですか?」
「なわけないでしょう」
日頃と変わらぬ生ぬるい発想に、紫は力が抜けそうになる。
「第一、枕にするなら一本でも十分じゃないの」
「でも、ゆかりさまも、らんのしっぽをまくらにしてます。あと、おふとんにもしてます。だから一つじゃ足りません」
「……いいこと? 藍」
と話の軌道を修正し、紫は藍に今回の試練の意義を簡単に説明することにした。
「普通であれば、貴方程度の齢でそれだけの数の尾を持つ妖狐というのは存在しないの。本来、妖狐は齢を重ねるにつれて尾の数を増やしていくもので、九尾はその完成形とも言われている。生まれた時から九つ尾が揃っているなんて、妖狐としては世にも珍しい類まれな存在なのよ」
「そうなんですか?」
「ええ。つまり貴方は現時点でも、潜在的に恐るべき力を秘めている可能性が高い。それがどの程度のものなのかを、これから測ろうとしてるわけ」
先刻の一件については、正直、紫もあなどっていたきらいはあった。
普段の藍の振る舞いは、妖怪というより平和の使者のそれであり、加えて野生の子ぎつねと変わらず無防備で未熟だったから。
しかし彼女は幼くとも、まぎれもなく九尾の妖狐なのだ。
古来より語り継がれてきた神獣としての一面と、殷や天竺で暴れまわった凶悪な妖怪としての一面を持つ種族。
それらと同じ血を持つ妖怪なのである。
「私の壮大な夢のためには、これから先、有能な『式』がどうしても必要になってくるわ。絶大な妖力、そして有り余るそれを制御する技、さらにそれらをより効果的に導く知恵。これらを兼ね備えた、完璧な式がね。貴方がそんな式になれるかどうか、改めて試験してみることにしたの」
とは言ってみるものの、紫が求める式の素材として、九尾ほど優秀なものは他に考えにくい。
実際、二重にかけた結界を破ってしまった藍のあの力は、その期待を裏付けるのに十分すぎるほどだった。
というわけで紫は、藍が持つ可能性に大きな興味を抱き、もう一度正しくその力を測る必要性に気付いたのである。
もっとも油断があったとはいえ、こんな純度百パーセントの蜂蜜のような幼い狐に、他の妖怪連中からも畏れられている自分が、あそこまでものの見事に化かされたことと、あんな粗野で出鱈目な手順で自慢の結界を破られたことに、大妖怪としてのプライドが多少刺激されたことも理由には入っていたが。
さすがに、本格的な式を打つのはまだ当分先のことになるだろう。
とはいえ現時点でどれほどの能力があるのか知っておいて損はない。
結果次第では、今後の計画を大きく短縮することもできるかもしれないから。
しかし、
「………………」
予想通りというべきか、温室育ちで遊びたい盛りの式見習いは、試練にあまり気が乗らないようだった。
無言で両眉の端を困ったように垂らし、ぶかぶかの袖を握りしめている。
その鼻先に、紫は餌をぶら下げてみた。
「上手にできたら、ご褒美にあぶりゃーげ料理の山をこさえてあげるわ」
「あぶりゃーげの山!」
瞬時に藍は両目をきらめかせる。
背後の九つの尾はモフモフを超えて、ボフボフという擬音が似合うほどの動きを見せた。
が、
「そのかわり、私の満足のいかない結果になった場合は、油揚げを一週間禁じます」
「えぇー!?」
藍は絶望的な表情になり、尾は全て刈り残した稲穂に変わった。
しかし紫は無表情。
そもそも正しい式であれば、エサで釣らずとも主の命じることに逐一従わなくてはならないのだ。
この程度のことで「えー」だの「やだー」だの言われても、耳を貸すつもりは一切ない。
「それじゃあ、試験の内容を説明するわ」
紫は手にした扇で、峡谷の対岸を示した。
「今から向こう側に行きなさい」
「え……でも」
藍は視線を右に向け、それから左に向ける。
「橋が見当たりません」
「そんなものがあったら試験にならないでしょ。渡る手段は貴方の自由。まぁ飛び越えられる距離ではないでしょうけどね」
九尾の狐は目を真ん丸にして、紫の言うことを聞いていた。
それから崖の近くに忍び足で移動し、恐る恐るといった態で見下ろす。
谷底を流れる川は、相当の幅があるはずなのに、ここからだと絹糸のように見えるほど小さい。
立った縁からこぼれた石の欠片が、パラパラとそこに吸い込まれていき、下まで落ちきる前に見えなくなってしまった。
慌てて藍は身を引いて、紫の方を振り返る。
「ゆかりさま、すごく高いです」
「そうね。この高さから落ちれば、頭を打って死ぬでしょうね」
「………………」
「私は一切の手助けをしないわ。そんな顔をしても無駄」
「………………」
「言っておくけど、どれだけ速く達成できたかも、試験の結果に影響するわよ」
そう紫が伝えると、心細そうに袴をぎゅっと握っていた半べその式は、慌てて行動を始めた。
断崖はどこもほとんど垂直といってもいいくらい急になっているが、自然の造形物なだけあって、所々で傾斜が変わっている。
その中でも緩やかで突起の多い壁面を見つけた九尾の式は、四つん這いになって、足をそろりそろりと下ろし、崖を降り始めた。
「うんしょ……よいしょ……」
吹き荒れる大風の音に、幼い声が紛れていく。
紫は藍の様子を監視するためのスキマを開きつつ、今後起こりうる結果について考えを巡らせた。
先ほどああは言ったものの、九尾が持つ生命力を考えれば、この高さの断崖であっても命を奪うには足りないだろう。
しかし、彼女自身がこの試練を脅威に感じている。そこが極めて重要な点である。
屋敷にて藍は、襖の中に永久に閉じ込められてしまうかも、という恐怖を呼び水にして、己が体に眠る力を発動させた。
ということは、危機的な状況こそが、九尾の力を発動させる条件なのだという風にまず推測できた。
逆に言えば、あの屋敷のような生易しい環境に置きっぱなしでは、場合によっては式として成長する上で悪影響となるかもしれない。
鳥は育った環境で、己の飛ぶ高さを本能的に定める。そして九尾という鳥は、天蓋を与えなければ、どこまでも高く飛ぶ可能性を秘めているのだ。
――さて、この試練を前にして、あの子の中の血はどんな回答を出すかしら?
スキマから監視していた藍の動きが、崖の中腹辺りで止まっていた。
彼女が選んだルートは、始めの方は緩やかだったものの、途中から勾配が内側に入り込む形になっていたのだ。
そのまま進めば、斜めになった壁の裏を攻略しなくてはいけない。降りる当人はそこまで計算していなかったようである。
灰色の峡谷の中で途方に暮れているその姿は、引き潮に放置された金の人手に見えなくもなかった。
だが紫は静観。これこそ待ち望んでいた展開だ。
このピンチを前にして、彼女の力がどのように発揮されるのか、お手並み拝見である。
……と、藍が崖から手を離した。
「なっ……!!」
紫は思わず目を見開いた。
やあああああ、という悲鳴と共に、藍の小さな体は谷底に落下していく。
恐怖の余り血迷ったのか、それとも手足に力が入らず体を支えられなくなったのか。
ともかく紫は慌てて、救出用のスキマを開く準備をした。
が、その直後、紫にとってさらに信じられないことが起こった。
遠ざかっていた藍の叫びが、ゃぁああああ、と再び谷底を駆け上ってきたのだ。
紫は目の前の光景に、腰を抜かしかけた。
藍が両手両足を大きく広げ、ムササビのような姿で『飛んでいる』。
そのまま彼女は、難なく滑空しながら対岸へと渡ってしまった。
そして紫が呆気に取られているうちに、崖を不恰好ながらも素早くよじよじと登り、指定した地点にたどり着いてしまった。
藍は振り返り、こちらに向かって両手を振る。
――ゆかりさま-! 着きましたー!
大風の上を飛び石のように跳ねて、その声は紫の元まで届いた。
◆◇◆
「ゆかりさま! とうちゃくしましたー!」
幼い九尾は、先ほどの怯えっぷりが嘘だったかのごとく、満面の笑みで主を迎えた。
スキマを通り抜けて対岸にやってきた紫は、渋い顔で肯定する。
「そうね……」
「らんは上手にできましたか?」
「……ええ」
「わーい! よかっ……」
「それよりも! 藍、聞きたいことがあるわ」
紫は腕を組んで言う。
主人の険のある声に、跳ねていた藍は首をすくめ、振り返る。
「な、なんですか」
「なんですかじゃないわよ。貴方、いつ飛べるようになったの。どうして今日まで私に隠してたの」
「かっ、隠してません」
「嘘おっしゃい」
「ホントです! らんは……さっき飛んだのが初めてです」
「………………」
紫は全く信じることなく、式に疑いの眼差しを向ける。
初めて飛んだ? そんなはずがない。
飛ぶというのは、妖怪であっても決して容易いことではないのだ。
妖怪にとって力の源である、『幻想の力』が十分に働いている場所であれば、飛べる者も多い。
が、こんな殺風景で人間はおろか生き物もろくにいない荒野のど真ん中では、そうはいかない。
仮に百歩譲って、偶然飛ぶことを覚えたとしてもだ。
「それなら藍。どうして飛ぼうと思ったわけ? 谷底に落ちて、ぺちゃんこになることは考えなかったの? そうなりたかったの?」
「いいえ……でも、飛べると思ったから」
「それは……」
愚者の試みよ、と叱りかけた主は、思いとどまった。
普通の妖怪ならば、間違いなく紫の理屈が正しい。
飛べる保証はおろか、生まれて一度も飛んだことすらない者が、そんな危険な賭けをするのは愚か極まりない。
式として相応しくない選択であるし、厳しく戒めて然るべきだ。
しかし、九尾の妖狐ならば?
藍は飛べると思ったから、崖から飛んだ。
それが、彼女の種族からすれば正しい行動だったのだとしたら?
孵化したばかりの稚魚が水中へと飛び出そうとするのを、愚かと言えるだろうか?
もしかすると、襖の中に閉じ込めた時と、同じことが起こったのかもしれない。
九尾の血は、持ち主の危機に応じて、その中に眠っている力を具現させる。その者の意思に関わらず、本能的に。
そうしてあらゆる苦難を乗り越えていく力が、その身に秘められているのだとすれば、
――とんでもない生き物ね……。
百戦錬磨のスキマ妖怪も、これには戦慄する。
一方、九尾の小狐はくりくりのおめめを向けて、評価を待っていた。
ともかく、藍は紫が想定した結果を覆し、なおかつ条件をクリアしてしまった。それは事実だ。
褒めるべきか呆れるべきか分からずに佇んでいた紫は、しばらくして、
「……ま、よくやったわ」
とだけ声をかけてやった。
すると藍は再び顔に笑みを盛りつけ、小さな拳を二つ作って跳躍する。
「わーい! じゃあ、ゆかりさま! 帰ったら、あぶりゃーげの山!」
「いいえ」
紫は首を振り、頬に薄く笑みを刻む。
「試練は貴方の尾の数だけ用意してあるのよ」
「ふえぇ……」
この時になって初めて藍も、九尾という業の重みの一端を味わったようだった。
◆◇◆
空は灰色から、のっぺりとした青へと。
乾いてひび割れた大地は、白い土と丈の低い草、おしとやかな花の咲いた平野に。
さらに、深いブルーに彩られた海からは、穏やかな潮風と波の音が絶えず流れてきており、爽やかかつのどかな雰囲気が。
というわけで、続いて紫が藍を連れてきた場所は、地中海沿いの草原だった。
先ほどの試練の舞台と比べると、光景だけなら天国と地獄の差があるといってよい。
が、その一見平和そうな白と緑の平野の真ん中に、怪しげな四角い建造物が鎮座していた。
柱も窓も一切なく、正面に入り口が一つあるだけの、黒い建物だ。
「ゆかりさま、あれは何ですか?」
藍は目をしばたいて、謎めいた建造物について尋ねる。
「クノッソスの亡霊、とでも言っておきましょうか」
紫はそう答えてやった。
建物らしい建物が他にない平地において、それは異質といえる建造物だった。
中で千人程が暮らせるのでは、と思わせるほどの大きさにも関わらず、住人の気配は全くなく、生活感もない。
出入りする場所が一つしか見当たらないため、石造りの牢獄にも見える。
周囲の光景が爽やかなだけに、なおさら不気味な雰囲気を醸し出していた。
「スキマを使って、私が貴方をあの中に転送するわ。貴方は今見えてるあの入り口から、ここに戻ってくること。それが第二の試練」
「え、入って出てくるだけでいいんですか?」
拍子抜けしたように藍は言う。
もちろんそうは問屋が卸さない。
「ええ。けれども、あの中はとても複雑な迷路になっているから、一生出てこられないかもしれないわ」
「………………」
「それだけじゃなくて、とても恐ろしい怪物も棲んでるから、食べられちゃうかもしれないわね」
「……………………」
「そんな顔をしても助けてはあげない、ってさっき言ったでしょう」
紫はあくまで、冷厳な態度を崩さなかった。
空間にスキマを開き、有無を言わさず小さな妖狐を送り出す。
「さぁ、行ってらっしゃい藍」
不安げに縮こまる九つの尾が、裂けた空間の奥へと消えていった。
一人になった紫は、テーブルと椅子、そして日傘を用意し、最後に葡萄酒の瓶を取り出す。
――さぁて、何時間かかるかしらね。
紫は日傘の陰から、迷宮の方を見やる。
あれは、かつて外界にあった物とは異なり、幻想化したラビリントスに紫が手を加えて復元したものだ。
人間にとっては命を落としかねない代物かもしれないが、妖怪にとってはさほどの脅威にはならない。
とはいえ、外に出られないという不安は、藍に先刻襖の中で起こったような変化をもたらしてくれる可能性があった。
舌の上で高貴な葡萄の血を堪能ながら、紫はその瞬間をじっくりと待つことにした。
それにしてもいい味だ。現地の風が、この土地のお酒の味わいをさらに深めてくれている。
あと二、三本開けて、それぞれ飲み比べしてみるのもいいかもしれない。
しかし、まさに紫が二杯目に口をつけたその時、
「ゆかりさまー!」
出口から式の声が聞こえてきて、思わず主はワインを吹きそうになった。
「出てこられましたよー!」
迷宮の前で、嬉しそうに手を振っているのは、まぎれもなくさっき送り出した九尾の仔狐であった。
思わず紫は我が目をこする。そんな馬鹿な。日が暮れるまで待つ心づもりでもあったというのに。
ひとまず、テーブルやら日傘やらを手早くスキマの中に収納し、紫は藍の元へと向かった。
にー、と得意げに笑う式を前にして、軽く咳払い。
「こほん、早かったわね藍」
「はい!」
「ずいぶんあっさりと迷宮をクリアしたようだけど、どんな手段を使ったのかしら」
「ゆかりさまの匂いをたどって、ここに着きました!」
「………………」
「さいしょは真っ暗で何もわからなかったけど、ゆかりさまの好きなワインの匂いがしたから……」
「ワイン……」
思わず自分の腕に鼻を当てていた紫は、そのことに気づき、愕然となった。
複雑極まりない迷宮。
中央から出口まで迷わずたどり着ける正しい道筋は一つしかなく、脱け出す難易度は極めて高い。
だがその唯一の出口から、この貴腐ワインの香りが知らず入り込んでいたとしたら……。
優れた嗅覚を持つこの狐にしてみれば、かつて勇者が用いたという毛糸玉に匹敵する手がかりになったのではあるまいか。
もっともこの場合は、試験監督の意地汚さが原因といえたが。
飲兵衛のスキマ妖怪は人間でもないのに、自分の首が熱くなるのを感じた。
だがそんな態度は表に出さないようにして、冷静に分析する。
「それで真っ直ぐ出てこられたってわけね……。怪物にも出会わなかったのは、強運の為せる業かしら」
「こわいかいぶつさんはいませんでしたけど、牛さんがいましたよー」
「牛さん?」
「はい! 牛の妖怪さんです! 二人で一緒にここに来たんです。ほら!」
藍が嬉しそうに振り返り、迷宮の入り口を指さす。
そこでは、牛の頭を持った腰巻き一丁の大男が筋肉質の両腕を突き上げ、天に向かって吠えていた。
「ブモオオオオオオ!!(やったどー! オラは自由だどー!)」
いまだかつてない脱力感を覚えた紫は、スキマにもたれかかるように崩れ落ちた。
「ブモオオオ!! ブモオオオ!! (ありがとう我が天使よ! オラのこと忘れねぇでくんろー!)」
牛の怪物は牛語で叫びながら、猛スピードで草原を走り去って行った。
藍はそれを指を咥えて、寂しそうに見送る。
「牛さんが行っちゃった……」
「数百年ぶりに自由になれたんだから、そっとしておきなさい。縁があれば、そのうちまた会えるでしょう」
「……はい!」
ニッコリ笑う九尾を前にして、紫は第一の試練と同じく、かける言葉を見失っていた。
まさか迷宮を怖がることなく、あっさり脱け出てきてしまうとは。しかも怪物を手懐けまでして。
正直、建物ごと破壊して出てくるような凶悪な結果を期待していたのだが、今回はある意味洗練性においてそれを超える成績といえる。
とはいえ、何の参考にもなりそうになかったが。
「ゆかりさま。次は何をすればいいですか?」
そう言って期待するかのように見上げてくる九尾の瞳は、いい加減スキマ妖怪のプライドを逆撫でするのに充分だった。
第一の試練が終わった時と同じく、紫はうっすらと笑みを浮かべ……しかし、こめかみは引きつらせ、
「覚悟なさい藍。残りの試練は、決して甘くはなくてよ」
と無慈悲に宣告した。
◆◇◆
水平線に四方を囲まれた、海と見まがうほど広大な湖。
その真ん中で、九尾の狐が溺れている。
「ゆかっ……ゆっ……ゆかりさまーっ……!」
「しっかり手足を動かさないと、底まで沈んで二度と戻って来られないわよ」
紫はスキマに腰掛けて、彼女がもがく様を平然と見下ろす。
非情なようだが、こうでもしない限り、望む結果は手に入らない。
九尾の血が目覚め、その力を思う存分に振るう瞬間を、紫は待った。
しかし五分後……。
「ゆかりさまー、尻尾を上手く使うと速く泳げますー」
「……そうらしいわね」
あっさり藍は泳いでいた。
◆◇◆
雲海の底はひび割れと再生を絶え間なく繰り返し、大地を音だけで鳴動させていた。
稲光が闇を打ち払い、強風に昂ぶる波浪を照らし出す。
「ゆかりさまー! すごくうるさいですー!」
藍が目を閉じ、耳を塞いで喚いている。
その横で傘を差し、しっかり耳に詰め物をしている紫は、何食わぬ顔をして、
『次は雷の試練よ。あそこにある旗に手が触れたら合格』
念話でそう伝えつつ、岬の方を指で示す。
荒れる海に向かって突き出されたその岬に、黒雲の下でも目立つ白い旗が立っていた。
雨がないのは幸いだった。小降りであってもこの風の中では、水の礫が襲い掛かることだろう。
その代わり、より物騒な稲妻の剣が、荒れ狂う海面に何度も突き立てられていたが。
雷は神々に許された武器であり、人間だけではなく、普通は妖怪にとっても畏怖の対象となる。
しかし九尾の狐であれば、紫の想像を絶する答えを導き出すかもしれない。
例えば、稲妻を全て弾き返してしまうか、あるいは掌握してしまうか……。
「……………………」
紫の点になった目が見つめる先で、金色の大きなお団子が、岬に向かって転がって行く。
その正体は、我が身を尻尾で包み込み、騒音をかいくぐって前転する藍であった。
嵐の中をころころと移動する金のお団子は、やがて目的地まで到達してしまった。
変身を解いた藍は、旗にしがみついて叫ぶ。
「ゆかりさまー! 触りましたー! これでいいですかー!」
紫は眉間をつまみつつ、指を鳴らし、次の試練の場へと移動するスキマを開いた。
◆◇◆
「きゃー! やだー! こわいー!」
炎の渦に取り囲まれて、狭い岩場を逃げ惑う幼い狐。
まさに目を覆いたくなるような地獄絵図……のはずなのだが。
「ふふふ、ようやくいい反応が見られたわね」
上空から今日一番の悲鳴を上げる妖狐を見て、スキマ妖怪は満足げな笑みを湛えていた。
何を隠そう、荒れ狂う炎を操っているのは、試験官の紫であった。
万を超す術を会得している紫にとっては、大火傷しない程度に炎を動かすことなど朝飯前。
もちろん、藍には一切そのことを知らせていない。
水責めや雷責めが効かぬなら、今度は火責めである。
それに妖狐といえば、本来はその尾でもって火を従える妖怪といわれている。
追い詰められた藍は恐らく本気になって、炎を御することに違いない……が、
「………………あら?」
紫は眉をひそめた。
今まで術者の思念に従順だった炎が、妙に重たく、頑固になってきたのだ。
上から眺めると、炎が藍を避けるように退いているように見えなくもない。
一体どういうことだろう、と紫は術を使って、炎の精霊達の声に耳を傾けた。
すると、
(九尾様じゃー!)
(ものども、ひれ伏せー!)
(ありがたやー!)
「……………………」
地獄絵図は忘却の彼方。
もはや紫の目には、歓声を上げて湧き立つ炎の精と、それに気づかず逃げ惑う九尾という、お間抜けな構図しか映っていなかった。
◆◇◆
この大陸を牝牛とするなら、その乳房の付け根ともいえる場所に、その山脈は存在していた。
顕界にてもっとも高く聳えるその山並みは、さながら空の神へと捧げる祭壇を思わせる。
そうでなくとも、天地いずれから眺めても畏敬の念を抱かせる、荘厳な空気をまとっていた。
しかしながら、その麓に広がる山林は、さながら緑の地獄と呼んでもいい魔境だった。
濃密な妖気が立ち込め、ありとあらゆる動植物が太古の姿のままで生息しており、獣の範疇を逸脱した怪物が跋扈している。
外から異物が入り込めば、たちどころにその歪な生態系のどこかに呑みこまれ、跡形もなく消化されてしまう世界であった。
そんな森の奥深くこそが、八雲紫が八番目に選んだ試験場だった。
そしてそこには度重なる厳しい試練の末に、憔悴してしまった幼い狐の姿が……。
「待って待って~、こっちにおいで~」
……ではなく、花の茎を手に持って蝶々を追いかける、楽しげな妖狐がいた。
そして、彼女の様子を見つめているのは、スキマ妖怪八雲紫。
その美貌を曇らせている疲労の影は、己の能力を駆使し、わずか数時間の内に世界中を旅してまわってきたから……ではない。
修行開始からおよそ半日、真剣にやろうとしている己の足をすくうような結果に、辟易としているのが原因だった。
峡谷を渡る風の試練……それは藍が飛ぶことによってあっさり乗り越えられた。
迷宮をくぐり抜ける土の試練……それは紫のワインによってあっさり脱出された。
足場のない深い湖に落とされる水の試練……それは藍が尾を櫂代わりにすることで、克服された。
稲妻が降り注ぐ岸壁で行われた雷の試練……それはやはり藍が尾で身を守ることによって切り抜けられた。
炎の渦が襲い掛かる火の試練……それは九尾の持つ血によって、炎の精の方が屈伏してしまった。
他には、大氷原に放置される氷の試練……その時は尾で自らの身体を包む藍を見ている紫の方が、むしろ凍えそうであった。
飢えた狼の群れの中に放つ獣の試練……しかしむしろ狼の方が九尾に委縮してしまい、藍は紫に彼らに食べ物を分けてあげるよう提案をする始末。
そして今行われている、森の試練……いや、これはもはや試練ではない。
山林に着いた途端、九尾の子ぎつねは連れてこられた目的のことなど頭から放り出して、そのままずっと飽きずに遊んでいるのだから。
藍自身は知らないが、実はここは彼女の生まれ故郷に程近い場所なのだ。
潤沢な妖気を含むこの森の空気が、肌に合っていると見える。
あれだけ楽しそうに過ごしている式に、今さらこの森の恐ろしさを味わえと告げるのは、さすがに馬鹿馬鹿しすぎた。
これまでに何の成果もなかったわけではない。
藍は初めて飛ぶことを覚え、泳ぐことも覚え、他にも彼女なりに知恵を働かせて、己の能力を示して見せたのだから。
だが、どれも紫が欲した結果とは程遠かったし、魚釣りに来たのにキノコが一株手に入ったような、奇妙な手応えがあった。
――あれは、まぐれだったのかしら。
紫は藍を襖に閉じ込めた時のことを思い返す。
常識的に考えれば、まぐれでは二重結界を破ることはできない。子犬がまぐれで、鋼鉄の檻を噛み裂くことができぬように。
でもやはりそうなのでは、と思わせるほど、幼い九尾は隠し持った爪を見せることなく、むしろ肉球程度のものしか見せてくれずにいる。
紫としては、それなりに厳しい試練を選んでいるつもりではあるのだが、いかんせん藍を心底追い詰めるには至っていないのも問題だった。
万が一、本当に命を落としてしまえば元も子もないので、ギリギリの境界を見極めるのも困難なのである。
それに、
「ゆかりさまー、おっきなミミズさんがいましたー」
「わざわざそんなの報せなくてもいいわ。どうせならもっと気持ちのいいものを見つけてきてちょうだいな」
「でも、らんのしっぽと同じくらい大きくてすごいですー」
「……それはミミズじゃないわよ、藍」
樹に巻き付くニシキヘビの姿を間近で観察する九つの尾に、紫は忠告してやった。
大きさだけなら藍を呑みこめるサイズであるが、いかんせん妖怪を相手にしたくはないらしく、蛇は迷惑そうに枝から枝へと離れていく。
そんなウワバミの気持ちを察しているのかいないのか、藍は生まれて初めて見る生き物に興味津々な顔つきで、ちょっかいを出すことなくじっと視線を注いでいた。
――全く……。
紫は苦笑を浮かべて、式に言う。
「藍。もう少しその辺で遊んでいていいわ。けどあまり遠くへ行ってはダメよ」
「はーい」
主の許しを得た藍は、蛇の観察を止め、山林の奥へと駆けて行った。
紫は目を細めて、緑の中でも目立つ金の尾を見送る。
ああなると天才は天才でも、主を和ませる天才といってもいい。
本来紫が求めていた式の役割とは大きく異なっている。
では全く必要がないかと言われれば……そうとも言い難い。だからこそ困るのだ。
「奇妙な問いを突き付けられたわね……」
実際、冷静に振り返ってみて、すでに藍は多くの物を与えてくれている。
あるいは、藍によって紫自身が大きく変化してしまったと言えるかもしれない。
誰一人として信用することなく、己の計算のみを頼りに動いてきたスキマ妖怪の自分が、こんな感情を覚える日が来るとは思わなかった。
今となっては、家に帰った際、笑顔で迎えてくれる存在がいるというのは――それが一時のままごとに過ぎないと分かっていても――失い難いのだ。
あの小さな妖狐が安心して暮らせるような、平和でのんびりした妖怪のための世界が、いつか築けるといいのだけど。
そんなささやかな夢まで胸の内に生じているのだから、いよいよ重症である。
「……ま、元々そこまで急く話でもないしね」
そう独り言ちながら、紫は肩の力を抜いた。
焦ることはない。
あの九尾はまだほんの子ぎつねで、本来であれば妖怪とも呼べぬほどのちっぽけな存在なのだから。
ほんのわずかであっても確かな可能性を目にすることができただけで満足しておくべきかもしれない。
試練はここまでにして、明日からは普通に遊びの場に連れて行ってやろう。
とそこで頭上を、そよ風が梢を揺らして通り過ぎていき、
「………………?」
紫の微笑が消えた。
風が来た方へと顔を向け、眉をひそめる。
紫はこの山林に到着した際、用心のために広範囲の結界を張っている。
故に結界内で起きている出来事は、すべて掌握している。
にも関わらず、今の風は、こちらの不意をついたような形でやってきたのだ。
今のところ、周囲の光景に変化はない。
しかし何か違和感があった。
考え過ぎかと思いつつ、紫は結界の外を探るため、スキマを開いて……。
「…………!」
開いた空間の裂け目から、おびただしい数の羽虫が溢れ出た。
紫の顔が強張る。
呪いだ。
そう察知した時には、すでに紫は己の腕が食い荒らされる寸前、スキマを封じ込めにかかっていた。
羽虫の姿を象った呪いは、周囲の空間ごときしむような音を上げて渦を巻き、閃光と共に消失する。
後には、ちぎれたスキマのリボンがひらひらと漂っていた。
紫はほぞを噛む。致命的なダメージにはならなかったが、能力を封じられた。しかし誰の仕業だ?
「ら……!」
式を呼ぼうとする間もなく、結界に山一つが崩れ落ちてきたがごとき猛烈な圧力が加わった。
何者かが外から襲撃しているのだ。
まずい。
襲撃者の正体は不明だが、このままスキマの能力が復活する前に結界を破られれば、危ういことになる。
紫は瞬時の判断の後、結界を強化するのではなく、敢えて一つ穴を生じさせた。
外の存在が気づき、なおかつすぐには攻めることのできない位置にある場所に。
目論見通り、襲撃者の気配はその穴の近辺へと移動した。
直後、紫は術を発動させる。
念のため結界の外に仕掛けておいた対魔用のトラップだ。
術者の力量がそのまま効果に繋がるタイプのもので、シンプルな力業ながら、大妖怪にとっては使い勝手のよい罠の一つである。
結界の外にいた複数の気配が霧散した。
残りは三つ。すべて仕留められるかと踏んでいたが、いくつかは逃れたらしい。
かなりの相手と見える。
結界への攻撃が再び始まった。
――藍っ!
主の念話に、九尾の妖狐から無意識の反応がくる。
それを手掛かりに、紫は結界内にまだ式がいることを確認すると共に位置を把握し、そこを中心にもう一度、より小規模かつ強力な結界を張り直した。
そして自らは、敵の注意を自分に引きつけるため、敢えて砂上の楼閣と化した結界の外へと飛び出した。
一見、結界の内と外はよく似た眺めだったものの、その妖気の濃度の差は歴然としている。
地べたには罠にかかった妖怪の骸が、黒煙を上げて伏していた。
そして、紫が察知した気配の主は、森の三方向にそれぞれ佇んでいた。
右手に聳え立っているのは、全身を糸杉を思わせる毛で覆った、巨大な怪物だった。
鼻を失くした巨象の顔に毛皮をかぶせ、短い手足を取り付けたような異形の姿である。
妖怪……いや、堕ちた獣の神らしい。
毛に隠れた眼球には虚ろな光が宿っており、その重苦しい呼吸音には、猛烈な飢えの気配が染みついている。
左にいるのは、青黒い炎を体にまとった物体だった。
遠目には空中を泳ぐ魚の群れのようだが、目を凝らしてみれば髑髏を髑髏で洗うような不気味な中身である。
その正体は怨念や呪術が複雑に絡み合った、合成怨霊とも名づけるべき怪物であった。
地元の民からは悪霊と呼ばれて恐れられているもので、用事がなければ妖怪であっても関わりたくない類の相手だ。
そして、正面に立っているのは、小柄なものの、やはり異形だった。
頭には絡みつく蛇のような髪が生えており、塞がった両目、そして額には真っ赤な一つ目。
半裸の肉体を宝石と小さな骨で飾っていて、右手に黒光りする水晶玉を携えていた。
こちらは本物の妖怪だ。そう。紫と同じく、魑魅魍魎ではない、本物の。
そして他の二つに劣らぬどころか、それを凌ぐほどの強大な妖気を発している。
「あいにくですが……」
紫は落ち着いた口ぶりで、この地方の言葉に載せて、己の意志を三種の化け物に伝えた。
「貴方がたに差し上げられるものは、何一つありませんわ。どうぞ、お引き取りくださいな」
反応を待つ。
いずれの怪物も口を利かず、動こうともしなかった。
察するに、三者は仲間というわけではないらしい。
紫との間合いだけではなく、横にいる者達との間合いも測っているように見える。
たまたま、己らが干渉し合う猟場に、紫が現れたことに気付き、ここに現れたのだろうか。
しかし、狙いは自分ではない。言葉を交わさずとも、紫にはそれがわかった。
蛇の冠を戴いた妖怪が、わずかに微笑んだ。
『見逃してやる、お前は』
対峙する紫の頭の中に、そんな声が響く。
反射的に、妖怪の挑発じみた表情を、紫は視線の槍で射抜いていた。
――心外ね。
どうやら自分は、彼らと同じ穴の貉だと思われているらしい。
痛い目に遭わせてやらねば気が収まらないが、紫はその感情を押し殺し、冷静となった。
さてどうするか。
一対一なら、あしらえる自信がある。
しかしこの三体を相手に、守るべき結界を背負って戦うとなると、話はまるで違ってくる。
さらにスキマの力が回復しない限り、この場を退散するという手段も使えない。
日傘を手慣れた、隙の無い仕草で下ろす。それは虚空に溶けて、何処へと失せた。
次いで、垂らしていた両腕をわずかに持ち上げ、内に秘めた力を一つ一つ解いていく。
その妖気に呼応するように、三つの化け物も各々の態勢を変え始めた。
巨獣は頭を下げ、唸りと共に前足で地面を踏み鳴らす。
怨霊の姿は四つに裂け、中で蠢く髑髏の速さが上昇していった。
そして小柄な妖怪は手にしていた水晶玉を宙に浮かばせる。それは白から赤へと色相を変じ、瘴気を帯び始めた。
同時に相手するとなると、多少の手傷は覚悟しなくてはならない。が、紫はすでに腹を決めていた。
渡してなるものか。
彼らはこちらが持つ物の価値を知らない。そしてもし知っているならば、なおさら渡すわけにはいかない。
紫が先手を打つため、袖の中に忍ばせた札の術を発動させようとした、その瞬間、
全身を寒気が貫いた。
「っ……!?」
紫は思わず、たった今命のやり取りをしようとしている三種の妖怪達に、『背を向けていた』。
それほどまでに、背後に出現した気配は尋常ならざるものだったのだ。
しかもその妖気が強大なだけではなく、前触れもなく出現したことに、紫は度肝を抜かれたのである。
森の生き物が全て逃げ出した。立ち並ぶ木々が悲鳴を上げた。
そして三つの妖怪は、紫に遅れて、彼らにとっての最良の判断を下した。
逃走したのだ。
悲鳴にも似た甲高い異音を残して、いずれも先を争うように、あっという間に姿を消してしまった。
しかし、紫は踏みとどまった。
どんな相手でも、引くことはない。
己の目指す理想の前に立ちふさがる者は、誰であろうと容赦はしない。
――来るなら来てみなさい!
紫は全力で挑む心づもりで、妖気を盾に身構えた。
しかしながら、突如出現した妖気の火勢は収束に向かっていた。
時の流れを逆さにしたかのように、急速に小さくなっていく。
そして最後には森の中に紛れてしまうほどの、何ともちっぽけで、取るに足らない気配になっていた。
そして、その小さな気配の主を、紫は誰よりも知っていた。
「藍……」
紫は呆然として呟く。
茂みの中から現れたのは、まさしく紫自身が結界内に囲い込んでいたはずの、幼き妖狐だった。
金色の耳を髪の上に寝かせ、申し訳なさそうに頭を垂れている。
――今のは、貴方?
他に妖怪らしい妖怪の気配はない。
それでも紫は、状況を受け入れられずにいた。
先ほど感じた力は、あの襖にかけた結界を破った時以上に強く、荒々しいものだったから。
「どうして出てきたの……?」
紫は式を見下ろして言った。
藍はこちらの顔色を窺うような仕草で、恐る恐る顔を上げ、
「ゆかりさまが、やられちゃうかもしれないと思ったから……」
そう、蚊の鳴くような声で言う。
式の告白に、紫は呆気にとられた。そして場違いながらも、吹き出しそうになった。
結局、大きなため息を吐いてごまかし、
「バカね。何を言っているの。あの程度の奴らに、私がやられるわけがないでしょう」
「ホントですか?」
「ええ。なぜなら私は、最強にして万能の能力を持つ妖怪だから。私を倒せる者は、この世に存在しないわ」
――今はまだ、ね……。
と紫は心の中で付け加える。
すると藍は、ようやく安心したようにホッと息を吐く。顔に浮かんだ不安も、湯に溶けるように消えていった。
「あ、あれ……?」
藍がよろよろと、尻もちをつく。
彼女はそのまま身を丸くして起き上がろうとして、またころんと転がり、困ったように紫の方を見上げてくる。
「……ゆ、ゆかりさま、おかしいです……。らんの足が動かなくなっちゃった……」
「ま、そうなるでしょうね」
慣れないレベルの力の放出に、反動が来たのだろう。
紫はうろたえている子ぎつねに手を貸して起こしてやるついでに、その体を抱き上げた。
すると藍は嬉しそうに、紫の肩に顔をうずめ、
「……やっと、ゆかりさまに抱っこしてもらいました」
「そういえば、今日帰った時はこうしてあげなかったわね」
「はい」
藍は嬉しそうに言う。
紫は慣れ親しんだその重みを支えつつも、心の中に生じた曇りを、拭い去ることができなかった。
九尾を奪おうと、その力にあやかろうと思って寄ってくる輩は、きっとこれからも後を絶たない。
藍を式にする上で、それは決して避けては通れぬ障害だ。
そしてそれさえ凌ぎきることができれば、目的はほぼ達成できると思い込んでいたのに。
ずっと、自分は根本的な問題を見誤っていたのかもしれない。
いや、承知しつつも、それを無視する方向に甘んじていたのだろうか。
紫は抱き上げていた体を静かに下ろし、
「さてと藍。残った最後の試練のことだけど……」
そう切り出すと、息を呑んだ九尾の妖狐は、慌てた様子でピタッと気を付けをした。
カチコチに強張ったその小さな体の内では、ドキドキドキ、とやはり小さな心臓が早鐘を打っているに違いない。
しかし、紫は肩をすくめて言った。
「今日はもう遅いし、ちょっと思うところがあるから、ここまでにするわ」
「え、もう終わりですか?」
「次の機会に回すだけ。貴方に式として、最も重要な素質が備わっているかどうか、それを見極める必要があるからね」
「……そうですか」
合格の報せを待っていたのであろう九尾の妖狐は、耳を横に寝かせて、小さく息を吐いた。
もしかすると、今夜のうちにご褒美がもらえることを期待していたのかもしれない。
「ま、今日は藍も頑張ったから……」
紫はそう言って指を鳴らし、復活したスキマを開く。
「いいものをあげましょう」
続いて紫が取り出した物は、藍の期待に反して、食べ物ではなかった。
けれども、主人からの贈り物を幼い九尾が気に入るのに、さほど時間はかからなかった。
◆◇◆
八雲の屋敷の庭に、穏やかな日差しが注がれている。
近くからだと雑草を生やし放題にしているようにも見える庭は、遠目に眺めると野の花がそれぞれの間合いを守って咲いているのがわかる。
結果的に手入れがされているようにも見えなくもなく、家主の性格がよく表れていた。
そんな庭の中心に、陽光を浴びて金色に輝く、一際大きな花が咲いていた。
「こーしてー、こーしてー、あとはこっちでー♪」
幼い妖狐、藍は茣蓙の上でうつぶせになり、もこもこと尾を動かして作業していた。
手元には、掌サイズの色づけされた上質な紙が五つ。藍は指に墨をつけて、そこに字を書きこんでいる。
漢字とも梵字とも、絵とも見て取れそうなその字は、主の紫が扱う物とよく似ていた。
やがて、すべての紙に書き終えた藍は、茣蓙から起きあがって、
「飛んでけー!」
両腕を思いっきり天に向かって広げる。
五つの紙は風に乗って空に舞いあがるさなかに、それぞれが鳥の形に変じた。
輪を描き、渦を描き、鳥達は蒼穹の空を五色の軌跡で彩った後、やがて霞となって散じた。
そして、仰向けになってそれを眺めていた藍の元に、ひらひらと紙が落ちてくる。
それらは全て、天に向かって伸ばした小さな手に収まった。
ぴったり、計算通りに。
「また一つでーきた♪」
藍は口ずさみながら寝転がり、今日覚えた新しい術をまた頭の中に大事に記憶しておく。
「次はどんなの作ろうかなー」
空想にふけりながら、藍は残りの紙を見つめた。
これは昨日紫からもらった、術を扱うための特別な紙である。
字を書いて札として扱うことで、術者のイメージの具体化を手助けするものだ。
主の紫は今日まで、藍のために色んな遊具を用意してくれたが、昨日くれたこの紙はその中のどんなものよりも魅力的で奥深かった。
藍は昨日の夜から、寝ている時とご飯を食べている時以外は、全てこの札で術を創ることに時間を割いていた。
面白いだけではなく、主の色々な術を見て育ったからか、札を手にするだけでイメージが湧いてきて、手が追い付かないのだ。
庭に花を咲かせたり、短い時間雨を降らせたり、風を起こしたり……突然空中に火がついた時はどうなるかと思ったけど。
たまに頭で考えたものが、望まない結果になって失敗してしまうところも難しくてやりがいのあるところだった。
とはいえ、今の鳥を生み出す術は今までで一番上手くいった気がする。
見たら主も褒めてくれるのでは、と期待したくなる出来栄えだった。
――でもきっと、ゆかりさまは、もっとすごい術をたくさん使えるんだろうな。
藍はしばらくぶりに札とのにらめっこを止め、物心がついた時からの自分の遊び場の方に視線を移動させる。
この庭はいつも同じではない。
色んな虫や、あるいは動物たちが毎日違う顔ぶれで現れ、自分が見ていない間に位置が変わっていたり、新しいものが増えたり、時には無くなったりしている。
実は奥には川も流れていて、その幅も日々変わっており、時々すごく大きな魚が流れてくることまであるのだ。
それらがすべて、主の術の働きによるものだということを、藍は知っている。
けれど、彼女はそれを御札を使うことなく、いつも指をパチンと鳴らすだけでやってしまう。式である自分の方は、そもそも指をただ鳴らすことさえもできないのに。
「でも、まだホントの式じゃないんだっけ……」
口にしてみて、藍は少し寂しい気持ちになった。
以前から、主の紫には式が必要であり、藍はそのためにここに住ませてもらっているということを聞いていた。
自分には敵が多く、味方が少ない。だから、いずれ共に戦ってくれる式が必要になるのだと。
そのことを聞いた時、藍にはよく意味がわからなかった。
主にとっての敵というものに対して、具体的なイメージが湧かなかったのだ。
紫は藍の頭では追い付かないくらい凄くて、この屋敷の中でも外でも、できないことなんて何もないように思えたから。
けれども昨日、藍は初めてその『敵』を見た気がした。
森の中で一人で遊んでいた時、突然すきま風が胸を通り抜けるような気持ちにとらわれ、主の元へと急ぐと、見たこともない妖怪を三つ発見した。
どれもこれも、寝物語に聞いていた怪物よりもおっかなくて、見てるだけで体が冷たくなった。
そして主はたった一人で、三つの妖怪に立ち向かおうとしていたのだ。
このままだと紫様が危ない、助けなきゃ。
そう思った時、急に尻尾が熱くなり、体が大きくなったようになり、意識が遠のいて……
気づけば妖怪達は消えており、主だけになっていて、藍はようやく安心することができたのだった。
だけど、
「ゆかりさま……なんで哀しそうだったのかな……」
藍は自分を抱きしめてくれた時の、主の顔を思い出す。
主は笑ってはいたけれど、何か不安そうな、寂しそうな……とにかくよくない顔をしていた。
試験が途中で終わってしまったのも、せっかくそれまで上手にできていたと思っていた藍にとっては、残念なことだった。
いや、自分がそう思っていただけで、本当は全然ダメだったのかもしれない。
でも主に直接尋ねるのは怖かった。
期待に応えられなければ、見捨てられてしまうのでは。そんな小さな不安が、藍の中にいつも残っていて、時々ささやきかけてくる。
式になるための一番大事な素質。
それを確かめなければいけないと、主は言っていた。
けど肝心のそれが何なのかを、まだ教わっていない。
藍は雲を眺めながら、試しに一番大事な資質というのを考えてみることにした。
たくさんの術が使えるけど、それだけじゃ間に合わないかもしれないくらい敵の多い主。
でももし、主ほどじゃなくても、主の半分だけでも術が使えるようになれば、きっと助けになるはず。
この御札をくれたのも、そういう意味なのだとしたら、
「……うん」
藍は身を起こした。
なら、もっとすごい術を考えて、帰ってきた紫様をビックリさせてあげよう。
そうしたら、きっと哀しい顔にならず、もっと嬉しそうな顔を見せてくれるだろうし、藍が式として立派にできるということを認めてくれるかもしれない。
最後の試練をやることもなく、合格がもらえるかもしれない。
もしそれができたなら、
「あぶりゃーげの山……!」
昨日約束されたご褒美を想像するだけで、藍は両足が地面から浮きそうになった。
「……あ」
下を見ると、本当に浮いていた。
飛ぶのを覚えたのはつい最近なので、気を抜くとこういう事がよく起こってしまう。
それはさておき、早速、藍は新しい術の作成に取り掛かった。
とりあえず、今まで完成させたものをすべて頭の中で並べてみる。
これらをまとめたら、何ができるかわからないけど、きっとすごいものができるはずだ。
再び茣蓙の上に座り込み、藍は指に墨を塗りつけた。
「鳥さんの術と、火が出る術と、お花が咲く術と……あとは牛さんも入れてあげて……」
もしこの光景を巷の陰陽師などが見れば、そのほとんどが目をこすり、口を開き、あるいは気を失うかもしれない。
主の紫であってもなお、舌を巻くことになるかもしれない。
遊び感覚で頭の中にある術を組み合わせ、札に次々と字を書きこんでいく九尾の妖狐。
やっていることは地味ながらも、そのスケールはまさしく妖怪のそれであり、しかも並外れていた。
やがて、頭に思い描いた複雑な立体迷路の図案が、札に字の形で記録され、
「できたー!」
藍は札の束を掲げて、歓声をあげた。
さっそく目を閉じて、念を込めてみる。と、足がぐらりと揺れて、倒れそうになった。
『重い』。
頭に漬物石を載せたみたいだ。もちろん、載せたことはないけど。とにかく、今まで作った術とは比べ物にならない大きさであることがわかる。
けど、できる。これならきちんと発動することができる。
両手を頭上に向かって掲げ、頭に載った架空の石に向かって、より大きな力を込める。
すると重いだけだった術が空気が吹き込まれたかのごとく軽くなり、妖気をぐんぐんと取り込んで活性化していった。
藍は瞼を開ける。
空は晴れているのに周囲はいつの間にか暗くなっていて、頭上の一点に眩しくなるほど強い光が集中していた。
そして、藍が最後のひと押しを込めると、ついに術が発動する。
「やったぁ!」
思い描いた通りのイメージが形を結んだ。
仏陀が腰をかけていそうなほど立派な蓮の花に、鶴と思しき鳥が腰を据えている。
さらに翼を彩っている白い炎が、さらに優美な質感を与えていた。
ただし、蓮の花の下側には、雄々しい筋肉質の足が、にょっきりと二つ生えていた。
結果として、蓮のスカートを穿き、鳥の剥製をかぶった変質者のような造形になってしまっている。
もっとも、創った当人は術の出来栄えに胸を張っていた。
なんとなく強そうだし、実際込められているパワーも、これまで試した術の全てを上回っているのを感じる。
これならきっと、主の敵を倒してくれそうな気がする。
だがそう満足していたのも、つかの間のこと。
なんと、術は藍の指示を待たずに発動してしまい……
「ああっ!? 待って! そっちに行っちゃダメ―!」
慌てて藍は、両手を伸ばして術を追いかける。
だが光の鶴もどきはどんどん加速していきながら、ドスドスドスドス、庭を真っ直ぐ太い脚で駆けていく。
藍は走りながら、心の内で青ざめた。
鶴が向かっている先には、大きな蔵がある。
そこは大切なものがたくさん保管されているらしく、近づいたり遊びに入ってはいけないと紫から忠告されていた。
早く止めなきゃ、と藍は懸命に追いかけたが、
「あっ……!」
と、庭の石に蹴つまずいて転んでしまう。
べたん、と藍が地面に腹ばいになった直後、
ズガゴワッシャオァ~ン
耳をつんざく、凄まじい音がした。
藍は痛みも忘れて顔を上げる。
光の鳥が爆発し、火焔を吹き、花火を咲かせ、大風を巻き起こすという、とんでもない映像が目に飛び込んできた。
そして靄が去った後には……
「ああ……」
ぺたん、と座り込んだまま、藍は動けなかった。
あってはならない光景が、現実になってしまっていたのだ。
蔵の上半分が、ものの見事に吹き飛んでいた。
周辺にはバラバラに壊れた屋根やら、中にしまわれていたものであろう壺やら巻物やらの残骸が散乱していた。
もちろん初めからそんな状態で収納されていたはずがない。
今の術によって、蔵は中身ごと滅茶苦茶にされてしまったのだった。
時間が経つにつれて、自分がやってしまったことの大きさに気づき、藍は慌て始めた。
主はきっと、日が暮れる頃に帰ってくるだろう。
そしてこの有様を見たら、きっと怒るどころじゃすまないだろう。
蔵の近くで遊ばないようにと、そして札はきちんと気をつけて扱えと言われていたのだから。
このままでは、あぶりゃーげどころかお仕置きの山が待っているかもしれない。
その時のことを考えると、藍は泣きたいやら隠れたいやら逃げ出したいやらで、頭がこんがらがりそうになった。
「そ、そうだ!」
術で壊してしまったのなら、術で直すこともできるんじゃないだろうか。
藍はすぐさま、残りの紙の束を持ってきて、地面に並べて知恵を絞った。
「えーと、こうやってこうやってこうやって……」
先ほどと同レベルの複雑な構成の術が、みるみるうちに組み立てられていく。
動機はともかく、やっていることは相変わらず天賦の才としか言いようのないものであった。
しかし、レベルが高くとも、正しい方向に働いてくれるかどうかはまた別の話である。
「できたー!」
完成させた術を、藍はすぐに具現化させた。
すると今度はまさしく、ついさっき創ったものとは逆のイメージを伴った媒体が出現した。
今度は大きな蓮の花から、牛の頭をした怪物の上半身が生え、炎を背負った状態でポーズを取っていた。
そして蓮の下には鶴の……というにはごつくて太すぎる、猛禽類的な足が突き出ていた。
時代を超えた表現が許されるのであれば、まさにミノタウロスのバレリーナ。
造形的にはどっこいどっこい、いやむしろ悪化しているといってよい。
だが藍は急くあまり、それをよく確かめずに発動させてしまう。
「元に戻してー!」
瞬時に、先ほどと同じ効果が表れた。
結果……蔵は半壊から全壊となった。
もはやかつての姿など、見る影もない。おまけにまだ無事に保管されていた物まで、辺りに散乱してしまっていた。
「…………ぐすん…………」
瓦礫の山の中心で、藍は涙をこぼし、しょんもりと尻尾を垂れる。
さっきまではあんなに幸せな気分で遊んでいたのに。
そしてせっかく、紫様に褒めてもらうために頑張ったのに、どうしてこんなことになっちゃったんだろう……。
「……あれ?」
藍は目をこすって、小鼻を動かした。
何だか嗅ぎ覚えのある甘い香りがしている。
くんくん、と匂いの元をたどると、足元に転がっている壺に視線が止まった。
ちょうど自分でも抱えられそうな大きさの壺だ。その蓋が外れ、中身がこぼれていた。
そして、壺に貼られた紙に書かれている一字に、藍はギョッとなった。
「毒」と書かれていたのだ。
「わわ……」
思わず自分の鼻と口を手で覆い隠す。
どんな毒かわからないが、吸い込んだり触ったりしたら大変なことになるかもしれない。
もうすでにちょっと匂いを嗅いでしまっているし、これ以上近づくと毒に侵されてしまうかも。
心配になった藍は、そのまま後ずさりしてその場を離れようとしたが……
けれども、何だかその匂いには覚えがあることに気づいた。
藍は近くに寄って、その毒の匂いをもう一度嗅いでみた。
それから、ちょっと指で触ってみて、口に含んでみる。
やはり間違いない。これは藍の記憶にあるものだった。
しかし、どうして『黒砂糖』が、「毒」と書かれたツボに入っているのだろう。
もしかすると、自分が勝手に食べてしまわないように、主が内緒でここにしまったのかもしれない。
少なくとも藍の頭では、黒砂糖がこんな風に保管されていた理由が、他に思いつかなかった。
「あっ、そうだ!」
藍は一人で大きな声をあげた。
この「毒」を使って、主人の怒りを鎮める方法を閃いたのだ。
早速準備に取り掛かるため、藍はその壺をうんしょ、と持ち上げて、屋敷の中に戻った。
◆◇◆
「これは一体どういうことかしら……藍」
日がとうに落ち、西の空も夕闇に染まった頃。
外界での謀略の下準備を終えて、八雲紫は自らの屋敷に帰ってきた。
そこで彼女がまず目にしたものは、無残にも倒壊した屋敷の蔵。
続いて……
「うぇ~ん」
玄関にて、袖で目をこすっている、幼い九尾の妖狐だった。
紫が片眉を持ち上げて、その様を見ていると、
「ゆかりさま……」
藍はか細い声で言う。
「おうちの大切なくらを、らんがこわしてしまいました~」
「壊した? どうやって?」
「らんが考えた術を全部合わせたら、かってに動いて……」
午後に起きた事の顛末を、藍は涙ながらに語った。
もらった札を使って色々な術を創ってみたまではよかったが、熱中するあまり制御できないものまで創ってしまったこと。
さらに、術で壊した蔵を術で直そうとしてみたら、もっとひどいことになってしまったことまで。
説明を聞いていた紫の瞼は、だんだんと剣呑な感じに眼光を集束させていく。
「藍。私は貴方に、一人で蔵の近くで遊んだりしないように。それと、術はくれぐれも気をつけて、庭の中だけで遊ぶように言いつけておいたはずだったけど?」
「はい……らんはわるい子です。だから、これをなめました」
紫は半眼で、式の指す壺を見た。
もちろん、持ち主である彼女は、その詳細について知っている。
「この毒をなめて、死んでおわびしようと思いました。でも、いくらなめても死ねないから、かなしくてかなしくて……」
めそめそと藍は語る。
その実、顔の前で重ねた袖の合間から、ちらりちらりと目が見え隠れしていた。
誰がどう見ても、泣いているふりをしつつ主人の表情を窺っているようなのだが、本人は真剣に演技しているつもりのようだ。
やがて、紫は微笑みを浮かべて言った。
「それなら心配することはないわよ、藍」
いつもの優しい声が、式の耳を撫で上げる。
すると藍は安心し、顔から両袖を下ろして、にっこりと笑った。
だが、
「その毒は、だいぶ遅れて効き目が出てくるから」
幼き九尾の式は、幼き九尾の石と化した。
「それは『附子』というんだけど、一見、黒砂糖によく似ていて、味も黒砂糖そっくりだけど猛毒なのよ。効き目が遅いから、暗殺などに用いられることも多いわ。うっかり一口でも舐めてしまったら、もう大変。まずもって命が助かる見込みはない」
淡々と説明する主の前で、藍は美味しかったので一口どころか十口は舐めてしまったことを思い出していた。
紫は口元に笑みを貼り付けたままだ。
同じく笑みの形に細められた目が薄く開き、鈍く妖しい光を湛える。
「そろそろお腹が痛くなってきたんじゃない? ズキズキって」
藍はハッとして、自分のお腹に手を伸ばす。
そういえば、なんだか痛い気がする。それもズキズキと内側から広がるような痛みだ。
「息が苦しくなってきたりしていない?」
「…………!」
確かに、息がうまくできない気がする!
無理に空気を吸おうとすると、しゃっくりが出そうになった。
「毒が効いてきたようね。そこからは手足がしびれて、水分が抜けて、全身が固まって、やがて石のようになっちゃうのよ。そして心臓も止まって……最後には……」
「…………! …………!」
主の説明の通りになってしまう自分を、藍は想像してしまった。
「そうねえ。あと一時間くらいかしら。藍の亡骸が拝めるのは」
紫はのんびりとほのめかす。
その一言で、ついに九尾の拙い演技は粉々に打ち砕かれた。
「ゆかりさま~!!」
「さようなら、藍。あの世に行っても元気でね。時々お線香をあげてあげるわ」
「ゆ゛がり゛じゃま゛ぁ~」
びぇ~ん、と藍は大泣きし、主の服にしがみつく。
「じにだぐないでず。らんはゆがりじゃまとじゅっといっじょれす。だじゅげでぐだじゃい~(死にたくないです。藍は紫様とずっと一緒です。助けてください)」
「あら、藍が勝手に毒を飲んで始末をつけてくれるんだから、私は手がかからなくて助かったくらいよ。これから新しい式を見つけてくるから、貴方は邪魔にならないところで死んでなさいね」
「びひぇーん」
藍は顔をぐじゃぐじゃにして、もはや言葉にならない喚き声を上げる。
紫の方はといえば、しばらくそんな式の姿がまるで視界に入っていないかのように振る舞っていたが、
「あらあ? そういえば確か、あの毒を治療する作法があったような……」
「…………!!」
狐の両耳がピーンと立った。
紫は指を顎に当てて、うーん、と考え込む。
「どうだったかしら。思い出せそうで思い出せないわねぇ。まぁ藍が死にたいんなら、別にわざわざ思い出す必要もないんだけど」
藍は主の裾にしがみついたまま、ブンブンブンと首を振る。
紫は相変わらず、先週食べた献立を思い出すようなのんびりとした口調と仕草で、
「えーと、ああそうだったわ。まず雑巾と水の入った桶を用意して……」
どひゅーん、と音を立てそうな勢いで、紫の前から金色の姿が消えた。
およそ二十秒後に、血走った目をした式が、縁に雑巾を引っかけた水桶を抱え、走って戻ってきた。
紫は独り言を続ける。
「それから雑巾を水で濡らして、固く絞って……」
藍はかつてない素早さで、水を勢いよくはねさせながら、紫の言う通りに動く。
「そのまま廊下を、綺麗に万遍なく拭くんだったわね」
ギュオーン、と音が鳴りそうなくらいの勢いで、藍は廊下の雑巾がけを始めた。
紫の視界の端から端へと、金色の影が高速で移動していく。
やがて五往復ほどした後、必死な形相の式が戻ってきた。
「終わりましたゆかりさま!」
「えーと、確かその次は洗濯物を取り込んで……」
ピョイピョイピョイ~ン、と藍はまさしく金色の鞠のごとき動きで、庭へと跳ねていく。
そして、物干しざおにかかっていた洗濯物を、次から次へと網籠にしまい始めた。
またもや必死の形相で戻ってきた式に、紫は変わらずとぼけた声で告げる。
「その洗濯物をしっかり全部畳むと、毒が抜けるのが早まったはずよ」
紫の台詞が終わる前に、藍はてきぱきと服を畳み始めていた。
すでに何度も手伝いをしているだけに、なかなかの手際だ。
作業を終えた藍が、再び主の前に立つ。
「終わりましたゆかりさま!」
「次は……そうそう。主人の肩を叩いたり揉んだりしないといけないんだったわ」
藍は一陣の風を伴って、紫の後ろに回る。
「あ、強く叩くと、むしろ毒が強まってしまうはずだったから、丁寧にね」
言われた通りに幼い狐は、主人の肩をとんとんと叩き始めた。
構図だけならほのぼのとしているが、「うわぁ~ん」と嘆きながら手を動かしている方の顔は悲惨な有様だった。
主人がのほほんとしているだけに、ことさら奇怪な眺めになっている。
「ああそこ、もう少し強くてもいいわ。じゃあ次は腰を揉んでもらおうかしら」
畳の上でごろんと横になるスキマ妖怪。
藍は疑うことなく、もみもみぎゅっぎゅと、その腰をさすり始めた。
「えーと次は何だったかしら。他に掃除してないところといえばー、台所は片付いているしー、縁側の雑巾がけは最近したばっかりだしー、気持ちいいからこのまましばらく腰を揉んでてもらおうかしらね」
「………………」
ぴた、とそれまで馬鹿正直に動いていた藍が、初めて手を止めた。
「ゆかりさま、変です。ほんとにこれで治るんですか」
ここにきて、きわめて当然の疑問を口にする。
すると紫は身を起こして、式の方を振り返り、
「さすがに気付いたようね。あれは毒でもなんでもなくて、ただの黒砂糖よ。たまたまあれの元々の持ち主である人間が、あんな悪ふざけの札を貼っていただけ」
「む~!!」
藍は目じりに涙を浮かべ、頬を膨らませる。
それは未熟な式が、主に対してできる精一杯の抗議だったのだが、
「何を怒ってるの藍。騙されたことに怒ってるわけ? 貴方に怒る資格があるとでもいうのかしら?」
式を睨み付ける主の眼光には、比較にならないほどの圧力が込もっていた。
直後、怯んだ藍の前で、屋敷ごと吹き飛ばすのではと思うほどの爆発的な妖気が、紫の体から発せられた。
「自分がどれくらい馬鹿なことをしたのか分かってる? 留守中にいいつけを守らず、蔵を壊しただけに飽きたらず、偽の毒で主人を欺こうとした。もしあれが本当に毒だったとしたら、どうするつもりだったの? この世には貴方でも見分けがつかない砂糖菓子そのものに似せた毒物だって作ることのできる妖怪がいるのよ。そうしたら貴方は私が帰ってくる前に、とうに息の根が止まっているわ」
妖気の風が荒れ狂う中、紫は凄みのある声で告げる。
藍は舌はおろか、指の先まで全く動かせなくなった。
凝縮された極低温の怒りに触れ、息を呑んだまま停止する。
「そもそも失敗を自らの死で償うような身勝手な式なんて、私は必要としていない。それで事態が何か解決するわけ? 貴方が死ねば蔵の中身が元通りになるとなると思ったわけ? 違うわよね。貴方はただ、私の許しを得たかっただけ。これがもし、命のかかった戦いの場だとすれば? 仮に私が貴方に綺麗に騙されたとすれば、敵にその欠陥をつかれ、二人ともあの世行きは必至だわ。私の計画も水泡に帰す。愚かな式に足を引っ張られてしまったせいで」
「………………」
「式に第一に求められる資質は、力でも知恵でもない。主人の命令を聞き、その意図を深淵までくみ取り、正しく遂行する。それこそが大前提。上辺だけの評価を得ようとする愚かな式を持てば、主の方が窮地に立たされるのは火を見るよりも明らか。そのことにどうして気付かなかったの?」
立て続けに落ちる氷の稲妻に、藍は体の芯まで打ちのめされた。
今になって自分が本当の意味で大失敗をしてしまったことを、ようやく理解したのだ。
すごく恥ずかしくなり、申し訳なくなり、立っていられなくなった。
両膝をつき、両手を床につけ、頭を下げ、
「……ごめんなさい、ゆかりさま」
藍は心の底から謝った。
しかし、主の声色は変わらなかった。
「貴方のしでかしたことは、その程度で償えるものではないわ。未来のことを考えると、とてもじゃないけど私の式として働かせられないわね」
その言葉が、藍の胸にざっくりと突き刺さった。
涙をこぼしながら、主に許しを請う。
「らんは……ゆかりさまに逆らうつもりはありませんでした!」
「つもりがなくても、私を欺こうとしたことは事実よ」
「ゆかりさまの式でいたいです……」
「じゃあどうしてあんなことをしたの」
藍には答えられなかった。
どんなに考えても、主が許してくれそうな答えが見つからなかった。
そして、こうして泣いていても、主の怒りが冷めないことが分かっていただけに、なおのことやる瀬がなかった。
部屋を圧迫していた妖気が、次第に穏やかになっていく。
後には台風が去った後の森のような、殺伐とした静寂が残った。
「とりあえず、貴方の処遇についてはもう少し考えてみるわ。今日は一人で反省してなさい。己のしたことを今一度、じっくり見つめ直すことね」
紫は冷たく言い残し、居間から出て行った。
おそらく蔵の様子を見に行ったのだろう。
その姿を見送った藍は、一人うなだれて呟く。
「いたい……」
胸が痛かった。
お仕置きでお尻をぶたれるのよりも、ずっと痛い。
そしてすごく寂しかった。
主が帰ってきたのに、こんなに近くにいるのに、今日の出来事で、今までで一番遠ざかってしまったようで。
「ごめんなさい、ゆかりさま……ごめんなさい……」
呪文のように唱える。
けれども痛みは取れず、内側から体に広がって、重くかぶさってくる。
心は晴れず、むしろ深い闇の底に入っていくような気持ちになっていく。
深い深い、この屋敷に来てから一度も感じたことのない深い闇に、藍は落ちていった。
◆◇◆
闇。
そこは光を極限まで排した、前後も左右も、上下さえもはっきりとしない黒闇の世界だった。
松明が一つあったとしても、そこがいかなる場所か判別できぬであろう空間。
だがもし、千の松明を用意することができれば、広大な洞穴であるということが分かるだろう。
無明の世界は、無音の世界でもあった。
生き物の発する音は勿論のこと、地下水が壁を伝う音もなく、ただ動かぬ闇があるのみ。
その闇の一点に、小さな揺らぎが起こる。
空虚そのものといっていい洞穴にあってそれは、深海の底にクジラの骨が降りたような、大きな変化だった。
燐光が灯り、闇の中に白と紫の道服を身にまとった、金髪の女性の姿が浮かび上がった。
洞穴にそぐわぬ格好であるばかりではなく、闇とむしろ調和しているかのごとき、ある種の禍々しさを身にまとっている。
その正体はまぎれもなく妖怪であり、そして妖怪の中の妖怪ともいえる孤高の存在だった。
妖怪は湖底を揺蕩う砂のごとき遅々とした移動を始めた。
やがて、彼女は洞穴の最深部に到達し、その場に降り立つ。
相も変わらず無明、無音。しかし無臭ではない。
濃密な鉄サビの匂いが、辺り一体の空気を汚している。
「貴方と言葉を交わすのは、百年ぶりかしら」
闇の中で、八雲紫は囁く。
すると、それに呼応するかのように、黒い壁に赤い星が二つ生まれた。
「しばらくぶりね、キツネさん」
直後、唸り声と共に殺気が迸った。
洞穴内にはびこる微生物、空気、さらには闇すらも怯えて逃げ惑うような、圧倒的な気配だった。
八雲紫はその殺気を正面から浴びながら、艶然と微笑む。
「報せは受け取ってくれたかしら。小さな鳥の形をしていたはずだけど」
「……読まずに噛み潰してやった」
「あらそう。でも、こちらの要件には、察しがついてるでしょう」
「………………」
「九尾の血が絶えるのは、私としても忍びない。生き死にの境にある貴方より、私に預けた方が安全よ」
「……式に使うつもりであろ」
「ええ」
稀代の策士である八雲紫は、悪びれることなくうなずく。
「利用価値がある限り、私は道具を捨てたりはしない。それが九尾ほどの優れた道具であれば、長久の庇護は約束されたも同然。憐れみが故と誤魔化すよりも、よほど信用してもらえると思って」
「相変わらず、口賢しいことよ」
咆哮が洞穴内の空気を震わせた。
往ねっ!!
闇の世界が一転、白に染まる。
炎の槍が空気を食い荒らし、紫の喉元まで迫った。
血の滴る口を広げ、牙を剥いて威嚇する九尾の妖狐がそこにいた。
手負いの獣の発する力は尋常ではない。ましてや子連れとあらば尚のこと。
さらに、最強の魔獣として人間妖怪問わず畏れられる九尾であれば、怒りだけで大地も震えあがる。
「我が一族の血は、我々自身の手によって守らねばならぬ! 尾を持たぬ輩に預けるなど、末代までの恥!」
「末代を目前にしてよく言えたものね」
紫は立ちふさがる殺気を、氷の一刀で両断する。
時には力よりも、言葉の方が物事の解決を早めることを、彼女は知っていた。
「一番乗りは私だったけど、直にここにたくさんの連中が集まってくるわ。九尾を腹の内に納めようと舌なめずりしている奴らが山ほどね。貴方とその子で血を絶やすか、それとも私の描く未来の可能性に賭けてみるか。さっさと決めてちょうだいな」
互いに一歩も引かぬ張りつめた空気の中で対峙する二つの大妖怪。
しかし、洞穴内を圧迫していた殺気は唐突に霧散した。
長い溜息を吐いたのは、九尾の妖狐の方だった。
「族長の形見を、よりにもよって貴様に託さねばならぬとは……」
「確かに、奇妙な話よね」
己にまとわりつく悪名を自覚するスキマ妖怪は、苦笑して認めた。
「でもこの穴で屍になるよりは、ましな暮らしをその子にさせてあげる」
紫がそう言うと、九尾はまた諦観のこもった息を吐く。
呼吸するたびに、その体が一回り小さくなっていくようにも見えた。
血まみれの妖狐は、僅かに体を傾ける。
「よかろう。手なずけられるものなら、手なずけてみよ」
九尾の眼光が、紫の目を射抜いた。
「しかし覚えておけ八雲。九尾は知恵で御すことも、恐怖で御すこともできぬ。その血の威を、やがてその身をもって知るがいい」
笑い声を断末魔に変えて、地上にその悪名を轟かせた一族の生き残りは、その生涯に血染めの幕を下ろした。
亡骸が煙となって消えるのを待ってから、紫は足を踏み出した。
洞穴の行き止まりに向かって、優しく声をかける。
「はじめまして、おちびさん」
深い闇の底に、新しく二つの小さな星が生まれた。
◆◇◆
「……死んだ狐からの忠告かしら」
午睡から覚めた紫は、そう呟いた。
まだ少し気怠さが残っている。ここのところ、昼間に画策しなくてはいけない案件が多く、妖怪にとっては嬉しくない日が続いていたからかもしれない。
布団の中に入ったまま、虚空をなでるように指を動かす。スキマが開き、屋敷の外の様子が映った。
灰色の分厚い雲が、空にぴったりと蓋をしている。
降りそうで降らないぐずついた天気は、紫の好むところでもあった。
白でもあり、黒でもある。そこに豊かさが生まれるというのが、スキマ妖怪の持論である。
とはいえ哀しいことに、はっきりと決めなければいけない物事も、世にはあった。
倒壊した蔵の側で、九尾の狐がのろのろと働いていた。
壊れた瓦礫を一か所にまとめたり、割れた壺とそうでないものをより分けたり、汚れた巻物を整理したりしている。
罪滅ぼしをしたいという気持ちがあったらしく、こちらが命じたわけでもないのに、彼女はああして自ずから片づけを始めていた。
紫は特にねぎらいの言葉をかけず、無事な箱を勝手に開けたりしないよう簡単に指示しただけで、あとは式のやるように任せていた。
式……まだ藍に対するそういう意識が自分に残っていることを、紫は確認した。
言いつけには素直に従う。文句も言わずに、よく働く。
そして、わずかに手助けしただけで、結界で守っていたはずの蔵を破壊するほどの強力な術まで見事に創造してしまった。
今後の成長は天井知らず。誰も手中に納めたことのない最強の式は、ほぼ間違いなく手に入るに違いない。
しかし、それらの売り文句は全て、式を式たらしめる大前提がなければ、やはり無意味でしかないことにも、紫は気づいてしまっていた。
実際、昨晩藍にかけた言葉は、決して脅しではない。
問題の根の深さは、紫の頭と力を持ってしても難儀であり、いまだに最適な判断を下せずにいた。
これまでは違った。
紫が藍を育てるにあたって最も懸念していたのは、他の妖怪から奪われるリスクだった。
極上の餌、あるいは生け贄。どんな用途であっても、九尾というのは計り知れない価値を持つ。
紫が外界ではなく、自らの屋敷にて彼女をかくまっているのも、そのことが理由である。
外のどこへ連れて行ったとしても、一昨日の山林で遭遇したような狩人達がその匂いを嗅ぎつけ、挑戦してくるだろう。
しかしそもそも古来より、九尾を殺したものはいても、手なずけることができたものはいないとされている。
妖怪であろうと人であろうと、あるいは神であっても。
国を傾け、人の歴史を狂わせ、種族を問わずに己の胃袋の中に葬った魔獣。それは迂闊に手を出せぬ禁忌であった。
だからこそ、九尾を手なずけることができた最初の妖怪。それは八雲紫に、比類なき名誉を与えてくれるはずだった。
同時に、自らの理想郷を創る上での敵を追いやるための、最強の道具を手に入れることになるはずだった。
しかし、できなかったら? もし失敗したら?
例え藍にその気がなくても、彼女が判断を間違えてしまったら? その強大な力が、主が望む方向に向かわなければ?
その時、自分は式そのものに殺されるか、あるいは墓穴を掘られる羽目になるだろう。
宿願は泡沫となり、妖怪としての恥ずべき汚名を世に広げた挙げ句、この舞台から去ることになる。
決して受け入れることのできぬ最悪の結果だ。
さらに、藍が式として働く上で、最も重要な問題も一ついまだに残っている。
それは藍自身の課題というよりも、紫にとっての、もしくはスキマ妖怪にとってのジレンマであり、やはり無視して通ることのできぬものだった。
天秤に乗っている材料は、どちらもとてつもなく重い。
しかしながら、決断しなくてはならない時間は迫っており、その期限がいつなのかも判断できない。
今後も式として教育を続けていくか、それとも……。
「仕方ない……か」
実のところ、紫の頭はとうに答えを弾き出していた。
あとは己の心が、それについていけるかどうかの話だったが。
「そう……仕方のない話よね」
諦めた表情で、世界で最も長く孤独な時間を過ごした妖怪は呟いた。
◆◇◆
「藍。ここに来なさい」
日が暮れて、瓦礫の片付けがあらかた終わった頃、紫は居間に九尾の仔を呼んだ。
戸口に現れた藍は、しずしずと歩み、主の前に置かれた座布団の上に正座した。
ひどい姿だ。
いまだその表情だけではなく、身にまとう空気も萎びており、金の尾の毛並もツヤが失われている。まるで野良で拾った妖狐に服を着せたようだった。
獣とはいえ、この子狐もれっきとした妖怪。精神のダメージからくる外見の変化は著しいものがあるとみえる。
しかし紫は、彼女の調子を気遣うことなく、無慈悲な声で告げた。
「これから最後の試練を始めるわ」
びくっ、と藍の背中が一度揺れ動く。
さらに、寒さに耐えるかのように、彼女の身体はぶるぶると震えだした。
「承知しているでしょうけど、この試練は、貴方が私の式にふさわしいかどうか、それを見極めるためのもの。その結果次第で、貴方の今後の未来が決まる。それを肝に銘じて臨むことね」
「…………はい」
氷柱の先から滴る雫のような声で、藍は答える。
正座する小さな膝の上で、やはり小さな手がギュッと拳を作っていた。
「では今から、一品だけでいいから、料理を作りなさい」
ずっと横になっていた両の獣耳が、初めて持ち上がった。
虚を突かれた顔の上で、金の瞳が何度か瞬きする。
「お料理ですか……?」
「ええ。献立はなんでも構わない。場所はうちの台所。あるものは何でも使って構わないわ。貴方は今日まで、私が料理を作るところを何度も見てきたわね。その中には、今の貴方でも作れるものも多い」
今までの試練とは、一味違うどころではない。
簡単そうに聞こえる一方で、何か裏があるのでは、と藍の表情が疑いを抱いていた。
実際、向かいに座る紫も、一片の笑みも浮かべてはいなかった。
扇を開いて口元を隠し、厳かに命じる。
「その料理を見て、貴方が私の式にふさわしい器かどうか、その資質があるかどうかを判断します。ただし、これまでと同じく、私は一切の助言をしない。わかったかしら?」
藍は首を縦に動かした。
彼女には――いや式を志す者であれば、そうする以外に他に道はない。
例えその先に、己の破滅が待ち受けている可能性があったとしても、今の藍には残されたわずかな希望にすがることしかできなかった。
「それじゃ、早速取りかかりなさい」
スキマの大妖怪はそう言って、九尾の仔を最後の試練へと送り出した。
◆◇◆
入り口に立つと、まず正面奥にある立派な調理台が目に入る。
その左隣には流し台があって、自動的に管から水が供給される仕組みになっている。
右隣には、風格さえ漂う立派なかまど。その近くにある壁には、たくさんの釜や鍋がきちんと並べられていた。
さらに部屋の角には、食材が貯蔵されている冷暗所へと通じる戸口がある。
いつもは札で封をされているが、今は取り除かれているのが見て取れた。
「お台所って、こんなに広かったけ……」
藍は我知らず、そう呟いていた。
広いだけじゃなく、何だか静かで肌寒い。
留守番の時は、主が料理をしていない台所をよく見ていたはずなのに、今はいつもと様子が違って見えた。
一人で黙って立っていると、千尋の谷や真っ暗な迷宮、それらに挑戦した時と同じような心細さが湧き上がってくる。
藍は首を振ってその気持ちを消し、これからの段取りを考えた。
「えっと……まずは手を洗って……」
暗誦しながら、水桶から柄杓で水をすくって、自分の手を清める。
調理の前の大事な作法であり、主も欠かさず行っていたことだった。
さて調理台の前に立とうとして、
「……届かない」
藍は主がいつも自分専用に出してくれる踏み台のことを思い出す。
今は何もかも、己で用意して、己で決めて、己で取り組まないといけないのだ。
でも手を洗ったばかりでもったいなかったので、藍はとりあえず、台が無くてもできることをやることにした。
とりあえず、まな板と包丁を準備する。
そして並んでいる窯の端にある、火術のための札がしまわれた鉄製の箱を探し当てた。
藍は試しに、その中から一枚を取り出して、火をつけてみた。
これができるようになったのは、つい昨日のことだ。もし覚えていなかったら、何もできずに終わっていたことだろう。
けれども何を作ればいいのだろう。
小さく燃える火を見つめながら、藍は思いにふける。
「ゆかりさまが考えたことのないような、すごい料理とか……」
しかし、そんなものは到底思いつきそうにないし、仮に思いついたとしても、本当に主が知らないとは限らない。
第一、作ったことのないものを作ろうとすれば、失敗してしまうかもしれない。
実際、背伸びして創った術を扱いきれずに蔵を壊してしまったばかりなのだから。
そこまで考えて、藍は主が言っていたことを思い出した。
『今日まで、私が料理を作るところを何度も見てきたわね。その中には、今の貴方でも作れるものも多い』
それはつまり、藍が調理の仕方を知っているものの中から、一人できちんとした料理を作りなさい、ということに違いない。
いや、本当にそれだけでいいのだろうか。
もっとよく考えないといけない。
昨日、紫から授かった教えを、藍は今一度、頭の中で繰り返す。
『式に第一に求められる資質は、力でも知恵でもない。
主人の命令を聞き、その意図を深淵までくみ取り、正しく遂行する。それこそが大前提。
上辺だけの評価を得ようとする愚かな式を持てば、主の方が窮地に立たされるのは火を見るよりも明らか』
つまり、決して誤魔化したりしてはいけないし、真剣に考えて作らなければいけない。
真剣に、真剣に、真剣に。主人のことを考えて作らなければ。
主の紫は怒っている。あるいは昨日藍がしてしまったことに、ガッカリしている。
その評価を取り戻すには、どうすればいいか。
もし自分だったら? そういう時には、どんなものが食べたくなる?
どんなに怒ってても心が落ち着いて、安心できるような食べ物……。
藍の頭に、一つの献立が浮かんだ。
「……うん。あれにしよう」
心を決めた藍は、早速準備に取り掛かった。
◆◇◆
「ご用意できました、ゆかりさま」
戸を開けた藍はそう断って、主の待つ居間に入った。
卓の前で静かに座していた紫は、両の瞼を閉じたまま、一言も発することなくうなずく。
藍はお盆を持ち、しずしずと歩み、彼女の前に差し出す。
その真ん中にお椀が一つだけ、箸を添えられて載っていた。
「おみそしるです」
それが、藍の選択した料理だった。
彼女にとってもっとも慣れ親しんだ料理であり、今まで主が作っているところを一番見てきた料理だった。
これならば、主の怒りを鎮めることができるのでは、と藍は信じて作ったが、果たして。
紫は何も言わずに、椀の蓋を開けた。
いつものごとく上品な仕草で、そのお椀を持ち上げ、静かに口をつける。
どんな評価が下されるのか。
藍は目をつむって待とうとした。が、
「ダメね」
瞼を閉じる暇すら与えられなかった。
紫は一口飲むなり、即座に評価を下してしまったのだ。
あまりの早さに、藍は動揺してたずねる。
「ど、どこがいけませんでしたか!」
すると紫は味噌汁の具を箸でつまみ上げ、冷静に評した。
「まず第一に……油揚げの量が多すぎるわ。これでは味が濁ってしまう」
その言葉に、藍はさらに狼狽した。そしてすぐに反論する。
「で、でも、ゆかりさまがらんに作ってくれるおみそ汁は、いつもこれくらい油揚げが入ってます!」
「そうね」
紫はそう肯定してから、
「でもそれはいつも、私が貴方の好みに合わせていたから。これは誰が食べるためのものだった?」
あっ、と藍は言葉に詰まる。
主はそこまで油揚げが好きなわけではなく、いつも自分の分は少なめによそっていたということを、今更ながら思い出したのだった。
「用管窺天。天のごとく広き万事を、己の持つ細き管で覗き込み、判断してしまう。貴方の欠点の一つね」
小さな頭にその言葉が重くのしかかった。
紫はさらに批評を続ける。
「そして、この風味のなさ。味噌を溶いた状態で火にかけていたのね」
「そ、それは……」
藍もそれが、やってはいけないということだと分かっていた。
火術の制御が安定しなかったため、ほんの数十秒ほど煮え立たせてしまったのだ。
でもそこまで厳しく評されるとは考えていなかった。
「累卵之危。卵を積み重ねたかのごとく不安定で危険な状態。まさに制御できていない貴方の力のこと。私なら暴走するかもしれない道具なんて、危なくて使えないわね」
再び、藍の頭にその言葉分の重量が追加された。
「しかもそのことを知りながら軽視し、あわよくば見逃してもらおうと考えた。そうよね?」
「……はい」
事実であったため、そう認める他ない。
「一点一画の微に至るまで、けして軽んじることなかれ。なぜなら、小さなヒビ一つによって決壊してしまうものも世には多いのだから。主が丹念に練った計略を、式の小さな失敗で壊されてしまったら、誰が責任を取るのかしら?」
「……………………はい」
藍はもう顔を上げていられなかった。
重たいどころの話ではない。
部屋の天井が落ちてきて、それを自分の頭で支えなければいけなくなったような感じだった。
しかしながら、紫の酷評はさらに続いた。
そのどれもが正しく、作り手の急所を狙うような容赦のない一撃。
藍は多くの言葉と訓戒を、短い時間の内に刻み込まれた。
一方で、ここに至るまでにあったわずかな自信は、もう欠片も残っていなかった。
これ以上何か言われたら、今自分が座っている座布団くらい平べったい狐になってしまうのでは、というくらいまで追い詰められてから、
「……というわけよ。この味噌汁を通じて貴方を評価するとすれば、そんなところになるわね」
紫はそう締めくくる。
藍は返事をせずに涙を呑んだ。
次に来るであろう、主の一言を待つのが怖い。
短いながら、小さな妖狐にとって永遠とも呼べる時間が訪れる。
「けれども、私はこの味を、生涯忘れはしないわ」
「…………?」
藍は顔を上げる。
主はすました顔で、ずずず、と味噌汁を飲んでいた。
「藍。前に私は貴方に強い妖怪になりなさい、と言ったわね。いずれ、私の側で支え、敵と戦う日のために」
「は、はい」
藍は鼻をすすりながらうなずき、今一度居住まいを正して、話を聞く姿勢となる。
「けれども、それは諦めたわ」
「え……」
「いくつか理由があるの。まず貴方は私と違って丸い性格をしていて、とてもじゃないけど戦いに向いてそうにないということ。そして貴方の中に眠る強大な力が、正しい方向に向かうかどうかがいまだ未知数であること。そして……」
「でも……!」
主の言葉を藍は遮った。
捨てられたくない一心で、必死に訴える。
「らんは、ゆかりさまをお守りするために、強くなりたいと思ってます! それはウソじゃないです!」
それは間違いなく、本当のことだ。
あの時、主が一人で戦っている姿に耐えられず、自分も、と思った気持ちは偽りじゃない。
蔵を壊してしまった術だって、何とかして役に立てることを証明したいと思ったからに他ならない。
それを主に否定されてしまうなんて……。
けれども、
「ええ、知ってるわ」
紫はそう言って、扇をパチンと閉じた。
途端にちゃぶ台の上に、芳しい湯気が溢れかえる。
藍は両目を真ん丸にして、そこを凝視した。
ほんの一瞬の間に、卓上にたくさんの料理の皿が並んでいたのだ。
しかも、そのどれもこれも具材は、
「あぶりゃーげ……」
「そうよ。試験の成績が良かったら……って約束してたでしょう」
「で、でも……らんは不合格だったんじゃ」
「そんなこと言った覚えはないわ」
「……………………」
「何をぽけーっとしてるの。食べる前は『いただきます』でしょ」
「は、はい! いただきます!」
主人の許しを得た藍は、大急ぎでお箸を手にして、お皿に卵入りの油揚げを載せ、口に運ぶ。
口の中いっぱいに広がる、何度味わっても飽きない、安心できるおいしさ。
きゅ~、と藍は喉を鳴らして呑みこみ――それから本当に泣き出した。
「ゆかりさまぁ~おいしいです~」
「泣きながらおかずを頬張るんじゃないの。見てるこっちがしょっぱくなっちゃうじゃない」
「だってぇ~」
「将来的には、貴方もこれくらいのものを作れるようになりなさいね」
こくこく、と小刻みに藍はうなずき、袖で目をこする。
それからしばらく、無言の食事が続いた。
お腹がペコペコだった藍は食べるのに夢中だったが、次第に落ち着いてきて、先ほどの主の言葉について考え始めていた。
箸を止め、お茶碗から顔を上げる。
「ゆかりさま、あの……」
「まだ、貴方を式にできない理由について話し終えてなかったわね」
紫は落ち着いた口調で語り始める。
藍は一言一句聞きもらさぬよう、真剣に耳をそばだてた。
「貴方を戦うための式にできない、一番の理由があるの。私は今まで、誰一人として心から信用せず、期待もせずに生きてきた。なぜかといえば、心を許すことは私にとって、いいえ、多くの妖怪にとっては己に致命的な隙を生んでしまうものだから。だからこそ貴方は今後、私にとって唯一の弱点になりうる可能性がある。どれだけ強くても、どれだけ優れていたとしても、貴方は決して強味だけの存在にはならない。それは貴方がどう頑張っても、仕方のないことなのよ」
「……………………」
それは藍にとっては、噛んで呑みこむには難しくて複雑すぎる話だった。
主に大切に思ってもらえるのは、この上なく安心できるし、ずっとそうであってほしいと思う。
けれどもそのせいで主の足を引っ張り、役に立てないというのなら、藍は永遠に不合格ということになってしまう。
どうすればよいのだろう。
「けれども、貴方にしかできない役割もあるわ。それはこの家、『八雲紫が帰る場所』の守護者」
その言葉が、藍の心を強く打った。
紫は温かく、それでいて真摯な眼差しで告げる。
「私の帰る場所を守り続けてほしい。今後の私にとって、それが野望とは別の原動力となり、命綱になる可能性がある。そういう役割を持った式も、私にとって大事な式であることには変わりないわ、八雲藍」
主のその言葉に沁みこんだ深い慈愛を、藍は感じ取った。
彼女が、己が八雲紫の式であることの、本当の自覚を持った瞬間だった。
胸の内に溢れた使命感に、真っ直ぐに従い、幼い九尾は言葉を紡ぐ。
「はい。らんはゆかりさまのために、この家をちゃんと守ります」
すると紫はようやく、今日はじめての笑顔を浮かべ、
「それじゃあ、これからも『ずっと』よろしくね、藍」
その言葉が、試練に本当に合格したことを示していた。
藍もこの日はじめての笑顔と、この日一番の返事で、主に応えた。
◆◇◆
「……まさか、その『ずっと』がこんなに続くことになるなんてねぇ」
幻想郷。
八雲の屋敷内にて、紫はひとり自室で正座し、微笑んでいた。
膝の上に広げられているのは、絵巻である。かつて紫自身が、当時の藍の成長を描きしたためたものだ。
年に数度これを引っ張り出して、当時のことを思い返すのが、紫のひそかな楽しみなのである。
特に冬眠前のこの時期は、ついつい眺めたくなる気持ちを抑えられない。
九尾の妖狐の生き残り。
出会った時から、藍という名前を与えた時から、彼女は自分にとって特別な式となる予感があった。
優しくて健気で可愛くて、どれだけ紫の心が荒んでいても、たちどころに癒してくれた幼い妖獣。
己が帰る場所の守り人として、彼女ほど適した存在はいない、と確信した。
もし、あの当時のままに藍が成長していれば……。
紫は今に至るまで、何度も自問した。
自分の帰る場所を守るだけで、血塗られた世界とは無縁のままに生き続けてくれていれば。
妖怪共が織りなす狂騒の舞台に上ることなく、屋敷の中で慎ましく主の世話をする神獣。
当時の彼女は確かに、そんな平穏な道を歩もうとしていたはずだったのだ。
しかし、現実にはそうはならなかった。
それから間もなくして、藍自身がその役割を潔しとせず、紫と共に戦うことを訴えたのだ。
主が一人傷つく様を、家で待ち受けるだけの役割に、耐えられなくなったらしい。
彼女を誇りに思う一方で、式に妖怪としての限界を見破られたのは、紫にとって大変ショックな出来事で、到底忘れられそうにない苦い思い出でもあった。
でも結局は、それが己の命を救うことになったのかもしれない、と今の紫は考える。
藍は主の命を受け、ある時は雑事を解決する手足となり、ある時はあらゆる敵対者を切り払う武器となった。
九尾の式という、至高の道具を手に入れたことにより、紫は実現不可能と思われた理想を、こうして具現させることができた。
『幻想郷』という結果だけを思えば、これ以上望むべくもない。
だが当時、自らが築き上げた妖怪の楽園を前にしても、紫は心の底から達成感に浸ることができずにいた。
なぜなら、隣にいたのは、その世界にふさわしかったあの藍ではなく、道具としての自分を完全に受け入れた、八雲藍であったから。
紫が彼女に、理想郷を前にして何を望むかを問うた時のことだ。
「紫様の剣となり、盾となり、万能の道具となって働く。それ以上のことは何も望みません」
まさしく、式として非の打ちどころのない答えだった。
しかし紫はその時、もう一つの式を失ってしまったことを痛いほど理解した。
何も望まず、何も創らず、主の命令を完璧に遂行することに磨きをかけた、機械的な妖獣。
それは確かに必要な存在だったかもしれない。だが楽園とそこに生きる多くの者のために、最も身近な存在を犠牲にしてしまった、そう何度も自戒したものだ。
だが、それらはすでに過去のこと。今となっては、紫は楽観視している。
なぜならここ数十年の間に、あの九尾の妖狐に、かつては見られなかった良い兆候を発見するようになったからだ。
果たして藍自身は、己の変化に気づいているだろうか。
微笑が深い笑みになり、時には思わぬ事態を前にして慌てふためく姿を見せたりと、感情豊かな様を毎日のように見せている自分を。
磨きぬかれた硬質の実力を保ちつつも、従来の丸い性格を取り戻し、妖怪としての深みも宿すようになった。
それはまるで、かつて諦めたはずの、もう一人の藍が徐々に戻ってきているかのようだった。
紫には予測できなかった、微笑ましい変化。
ただの道具以上の新しい可能性へと向かうその姿勢は、我が式ながら、天晴れであった。
そして、彼女にそうした変化をもたらすきっかけとなった『もう一人』の成長についても、紫は微笑ましく観察している。
「……あら?」
紫は視線を膝の上に広げた絵巻から、廊下の方へと移した。
頭に猫の耳を生やし、赤い洋服を着た少女の姿をした一匹の妖怪が、足を揃えて立っていた。
「どうしたの? 橙」
八雲の式の式、化け猫の橙である。
日ごろから有り余る元気を周囲に振りまいて、この屋敷に明るさをもたらしてくれる彼女だったが、何やら様子がおかしい。
両肩が縮こまっていて、顔も伏せがちに見える。そして何より、二つの手を背後に隠していた。
「紫様……あの……その……」
彼女はおずおずと、後ろに回していた両手を前に出す。
そこには、二つに割れた大皿があった。
「あらまぁ……」
「ちゃんと気をつけてたのに、手が滑っちゃったんです……」
橙は瞳に大粒の涙を溜めて、申し訳なさそうに報告する。
彼女は今晩、結界の見回り中の藍に代わってお手伝いをしていて、今は台所で一人洗い物をしていたところだ。
「今晩は私が紫様のお世話をします!」と張り切っていたのだが、やる気に溢れるあまり落とし穴にはまってしまったらしい。
紫は意味深な笑みを浮かべつつ、先を促す。
「それで?」
「紫様のお力で、直してくれませんか?」
「そうねぇ。確かに私の力を使えば、元通りにできるかもしれないけど……」
「………………」
「でも藍なら鋭いから、気づくかもしれないわ。そうなると、普通に叱られるよりも、橙にとってはよっぽど怖いことになるかもしれないわね」
そう脅かしてみると、橙は口元に波線を作って、うつむく。
二つの黒い尾がくねくねと絡まりあいながら、彼女の内なる葛藤を如実に表していた。
紫は思わずくすりと笑みをこぼし、
「橙。貴方にいいことを教えてあげる。昔、主に失敗を誤魔化そうとして大目玉を食った式が、この屋敷にいたの」
「え?」
「それじゃ、ちょっとお話してあげましょう。こちらへいらっしゃい」
当惑する式の式を、紫は手招きで呼び寄せ、開いたままの絵巻を見せてやる。
「あれ? これって、藍様の絵ですか?」
「ええ、そうよ。まだ小さかった頃の藍。よく描けてるでしょう」
「はい。でも……どうしてお腹を抱えて横になってるんですか?」
「ご褒美の油揚げを食べ過ぎて動けなくなってるのよ。その訳については、聞いてのお楽しみ。さて『昔々、とても美しくて素晴らしくて強いスキマ妖怪と、まだ幼くて可愛い盛りの九尾が、この屋敷に住んでました……』」
寝物語を語る調子で、紫は言葉を紡ぎ始めた。
留守中の式は、帰ってきてこの過去を式の式に明かされたことを知り、どんな顔をするだろうか。
恥ずかしがるか、困った顔になるか、あるいはプリプリと怒り出すかもしれない。
しかしそうした彼女の自然で生き生きとした仕草こそが、紫を安心させてくれるのだ。
かつての瑞々しく純真な九尾の子は消えておらず、今もその中に息づいているということを、再確認できる。
これだから主は、そして式への悪戯は……
――『ずっと』、やめられないわね。
胸の内でそう呟くスキマ妖怪は、千年来の愛情と悪戯心が混ざった、彼女だけの微笑を浮かべた。
(おしまい)
紫様の予想の斜め上を行き続ける藍様がなんとも、こう、言葉にできません
母性の塊だった
この二人は本当にずっと一緒に居るんでしょうね
親として、式として、藍の事をずっと気にするゆかりん可愛いです
ゆかりんはやっぱり母親だわあ…
久々の御登場に感謝感激雨霰です。
道具にはしたくなかった藍を、そのように育ってしまって以後は
大妖としての実力を誇示するべく、泰然と振るうしかなかった紫
の描かれなかった日々に想いを馳せています。
次回作も楽しみにしています。
何よりもエピローグが素敵でした。
やはり八雲は良いものだ
素敵なお話でした。
紫さまのお叱りが何故か私の心にまで刺さる…
文字通り現金すぎる例えですが。ともに戦いたいという藍の訴えを強行に止めていれば、しばらくは良かったかもしれない。でも結果理想郷は完成せず、彼女の(さらにはそのまた式の)安息は無かったかもしれない。
杯がなければ酒は注げない。英断だったのでしょう。
こういう小ネタにニヤっとしてしまいます
毎回ほんとに素晴らしい八雲一家を見せてくれます
次回作も楽しみにしてます
久しぶりにバックドロップを読み返してしまいました!藍は紫を驚かせたことなんて一度も無いなんて言ってましたが、子供の頃は知らないうちに手玉に取ってたんだと思うと面白いです。
いつもは飄々とした紫の思い悩む心中が描かれていて、もっと好きになりました。
藍に良い変化をもたらしてくれた橙のことも紫はたまらなく愛おしいんだろうなあ
ありがとうございます
過去に繋がる描写を見るたび、ニヤニヤしてしまう自分がいます。
とはいえそんな危なっかしい鉱石を鉄に変え、さらに粘りのある鋼に鍛造する様な人材育成。紫さんは部下を育てるのが上手ですなぁ、と感心しきり。
いや、部下じゃなくて母子だからできたのかも。そんな温かさを感じた作品でした。