「うぅーん……」
すっかり日が昇ったある日、人里のハクタク先生こと慧音は目を擦りながら頭を動かした。
体中がとてもだるかった。
「ああ……もうこんな時間」
布団の中からゆっくり頭を起こして、重たい瞼を柱時計に向けるとすでに十時を指していた。
そうだ、妹紅はどうしただろうと辺りを見渡すもどうやら家に帰ったらしい。
慧音の頭の中で昨晩のことが思い出される。
寺子屋の授業と歴史の編纂作業に追われてこのところ多忙だった慧音。ようやく明日は一日休めると思ったところで妹紅がお酒を持って遊びにやって来た。疲れを労わってくれる妹紅に感謝して昨晩は二人で楽しくお酒を飲んでいた。
しかし慧音の体はひどく疲れていたのだろう、一時間程で酒が体中に回り、慧音の顔は真っ赤に染まり目もとろんと重たくなった。
妹紅は無理に酒をすすめることはしないで慧音の為に布団を敷き、枕元に水が入った魔法瓶を用意してくれた。
せっかくの二人きりの酒宴を早々に切り上げる形となって申し訳なかったが、体の動きまで酒のせいでよろけていて慧音も甘えるように布団に入った。
思い出せるのはそこまでだった。
どうやらそのまま寝てしまったらしい。
「さて……今日はどうしようかな」
布団の中で呟くも元々今日の予定は何もない。ボーっとしながら考えるも何も思いつかず、気が付けば二十分が過ぎていた。
妹紅のところへ行こうか。
しかし昨晩彼女が「明日は家でゆっくり休みなよ」と言ったのを思い出すと、心配をかけるかもしれないと出かける気が削がれてしまう。
どうしようか。
そう思う間にさらに二十分が過ぎる。
「……今日は一日寝てもいいだろう」
誰かに言い訳をするように慧音は独り言を漏らして、うんうんと頷いた。
昨日まで多忙だったのだ。明日からまた寺子屋に子どもたちがやって来る。疲れた顔は見せられない。今日一日疲れた体を休めることに決めた。
さて一日家にいることを決めるとお腹が空いたので、ゆっくり布団から立ち上がると台所で簡単なご飯を作る。
肩が重くていつもの家事が面倒に思えた。
さっさと食事を済ませて、ようやく自分の恰好に気が付く。
横になる前に寝巻には着替えたのだが、お風呂がまだだった。しかし湯を張るのが面倒だ。
「どうせ夜にまた入るし……」
そう呟くと横髪を撫でながら再び布団へと入る。布団の中はまだ自分の体温で温かい。肩まで掛布団をかけると慧音は幸せそうな顔を浮かべる。
「ま、こんな日もあってもいいだろう」
いつもは生真面目な性格の慧音だったが、ちょっぴり悪戯をしているような気分になってなんだかわくわくする。
ご飯を食べてすぐ横になると牛になると言うが今日は気にしない。
人里のハクタク先生は今日ばかりはお休み。
その日、夕方まで慧音は布団の中で横になりながら本を読んで過ごしたのだった。
思えばこの日が始まりであった。
※
翌日。
また忙しい一日が始まった。
寺子屋の中では子どもたちの明るい声が響き、教壇の前にはいつものように慧音が本を片手に授業を進めていた。
疲れが取れたのか重たかった体が軽く慧音の表情は明るい。
「さて、このとき聖徳道士は冠位制度を設けることになる。これを冠位十二階と呼んだ。まぁ、詳しいことは神霊廟にいるご本人に話を伺えば教えてくれるだろうが」
黒板に白墨で一つ一つ丁寧な文字で書いていく。何人か子どもたちが寝てしまっているがいつものことである。あとで頭突きをしておこう。
上から書いていき徐々に下へと文字を書いていって慧音は腰を屈める。
その時。
「痛っ!」
突然の声に真面目に勉強をしていた子どもたちも寝ていた子どもたちも驚いた顔を上げた。
声の主は目の前にいる先生からだった。
「……あー」
慧音は顔を歪ませて腰を撫でていた。
腰を屈めたところで鋭い痛みが走ったのだ。思わず立ち上がった慧音だがまっすぐ立つと痛みはすぅーっと消える。
「先生?」
「大丈夫?」
背中を見せているので子どもたちに顔は見られていない。すぐに笑顔を作って振り返った。
「ああ、すまない。大丈夫だ」
そう言って子どもたちを安心させておいて再び慧音は黒板に向かう。
今度はゆっくりと腰を屈める。
すると頭が胸より少し下の辺りにまで来るように屈むと今度は少しずつ痛みが腰に走った。
腰痛だ。
心の奥でため息を漏らす。
一日黒板に向かって白墨を動かしていると上の方に書こうとして背筋を伸ばすことになる。また下の方に書こうとすれば屈まなければいけない。授業というのは腰にくるものだな、と改めて思った。さらに歴史の編纂作業では一日机に向かって筆を動かす。もしかしたら姿勢が崩れてしまっていたかもしれない。
自分自身に反省をしながら慧音はその日気丈に一日の授業を終えたのだった。
授業を終えて子どもたちが帰った後、慧音は夕食を作ろうと台所に立つがやはり少し屈むと痛みが走る。
「うー、いかんいかん。ゆっくり休まないと」
昨日は一日休んでいたのだがどうやら疲れはまだ取れていなかったらしい。それよりもかなり腰に負担をかけていたのだろうか。
妹紅が知ったら心配するだろう。
今日はテストもなかったので採点をする必要はなかった。
編纂作業も今晩はやめておこう。
そう決めた慧音は夕食後、お風呂に浸かりながらゆっくりと腰を揉んで早々に布団に入って就寝することにした。
※
だが腰痛は悪化していた。
翌朝目が覚めて上半身を起こすとそれだけで痛みが鋭く突き刺さった。
残っていた眠気が一気に吹き飛んでしまう。
「いったたた……」
涙目で腰をさすると痛む箇所が広がっているように思えた。背骨だけでなくその左右にまで痛みを覚えたのだ。
ゆっくりと立ち上がる。
すると少しずつであるが痛みはすっと消えていく。
「そう簡単には痛みは取れないか」
痛みで顔を歪ませながら慧音はふと永琳の顔を思い浮かべた。
妹紅が輝夜と仲良くなってからというものの、今では永遠亭の面々とは親しい付き合いをしていた。永琳に診てもらおうかと思ったのだ。
しかしあと何か月もすれば寺子屋を卒業する子どもたちもいる。今はその子たちとの時間を大事にしたい。
永遠亭に行くのは次の休みの日にしよう。
そう思い慧音は朝食を作りに台所へと向かう。
その日の授業中。
慧音は昨日よりも鋭い痛みに悩まされた。
昨日よりも少し屈んだだけで腰の痛みが刺さってくる。
子どもたちに心配はかけたくないと表情こそは何ともないように振る舞うが、ついつい黒板の上下の端に白墨で書くのをためらう先生に子どもたちは怪訝な表情を浮かべる。
子どもたちが筆を動かしている間や授業と授業の間のわずかな休憩時間に、いつもなら教壇横に置かれた専用の席に着いているはずの慧音だがこの日はずっと立ったままだった。またお昼休みにお弁当の時間になるとさすがに立って食べるわけにはいかないので慧音は自分の席に着くのだが、まるで座り損ねると椅子が爆発するかのように慎重にゆっくりと座る慧音に子どもたちは首を傾げてしまう。
「さぁ! 皆、お弁当を食べるぞ。食べ終わった者から外で遊んでいいからな」
そんな子どもたちに、今日は珍しく誰一人授業中に寝る子はいないのに、どうやら慧音はまったく気が付いていないようだ。
にっこりと笑ってみせる慧音に子どもたちは口では「はーい」と元気よく返事をしてくれるが、陰で様子のおかしいハクタク先生のことをこそこそと話し合ったのだった。
一方で慧音は子どもたちの様子に気が付く余裕はなかった。
座っているだけでじんじんと腰が痛んでくる。
ふと強く痛むのは背骨ではなくて背骨の左右の辺りであることに気が付いていた。
腰痛、だろうか。
この時慧音の頭に不安がよぎった。
「……ダメだな」
その日の夜。
結局腰の痛みは朝からずっと続いている。
慧音は卓上に肩肘をつきながらもう片方の手で腰の辺りを擦っていた。
やっぱり永遠亭に行かないとダメか。
しかし立てないわけではないのだ。姿勢に気をつけてなるべく腰に負担をかけないようにしていれば痛みはすっと引いていく。
このところの疲れと姿勢の悪さが腰を痛めたのだ、と思った。
「なるべく姿勢に気をつけないと」
そう呟いて慧音は今度の休みこそ絶対に永遠亭に行こうと決意した。
ふと。
もしただの腰痛じゃなかったら。
もっと悪い病気だったら。
慧音はぶんぶんと頭を振って悪い想像を払いのける。
今晩も妹紅は遊びには来なかった。
輝夜のところでお泊りでもしているのだろう、今の自分を妹紅に見られなくて慧音はほっとしていたのだ。
自分のことには無頓着なのに人のことには心配性な妹紅の顔を浮かべて慧音はくすりと笑った。
そして早いところ治りますようにと願いながら慧音は布団に入って就寝した。
※
目が覚めるとやはり腰が少し痛んだ。
しかし立ち上がると痛みはすっと完全に消えた。
「お?」
立ったまま腰を擦ってみるもやはり痛みはない。
おそるおそる屈んでみると少し痛みが走った。それでも一昨日や昨日と比べると全然マシである。
慧音はほっと安堵の息を漏らした。
やっぱり疲れていたんだ。
痛みのない体に感謝しながら慧音は今までの生活を少し反省した。
「これからはあまり無理をかけないようにしないとな」
それでも腰痛が引いたことに嬉しくてつい鼻歌が口から漏れた。
今日は授業に集中できる。
そう思い慧音は朝食を済ませると寺子屋へと出かける。
その日。
黒板の上下に白墨を走らせても腰痛は少し痛むだけだ。
安心して慧音は子どもたちを相手に授業をすすめる。
子どもたちも昨日とは様子の違うハクタク先生に驚き、ほっと安心しているようでもあった。
「そして『信貴山縁起』も平安時代の末期に書かれた日本四大絵巻物の一つであり三巻から成っている。まぁ、詳しいことは命蓮寺にいるご本人に話を伺えば教えてくれるだろうが」
健康な体で行う授業はやはり楽しいものだ。
いつもよりも生き生きと慧音は授業をすすめていった。
子どもたちが慧音が黒板に書いた文字を写していく。
その様子をニコニコと眺めながら慧音は軽く背筋を伸ばす。
ズキリ。
痛みが今までにない鋭さで慧音を襲った。
気が付いたときには慧音は黒板の前に倒れていた。口から言葉にならないうめき声が思わず叫び出ていた。
背筋を伸ばした瞬間、鋭い痛みに左足の力が抜けたのだ。
「痛い、痛い、いたたたた」
大きく顔を歪ませて腰――背骨よりも左の辺りに手を当てて慧音は必死に痛みに堪えようとしていたが我慢できるものではなかった。
やっとのことで顔を上げると子どもたちが慧音の周りに集まっていた。
「先生!」
「先生、大丈夫!?」
「誰かもこーを呼んできて!」
心配そうに慧音に寄り添ってくる子どもたちに慧音は「大丈夫」と言おうとした。
しかし腰に襲ってくる痛みがそんな慧音を嗤っているかのように、ますます鋭さを増していく。
※
「えーりん! 大変だ! 慧音が、慧音が!」
数十分後。
妹紅に背負われて慧音が永遠亭に到着すると妹紅が必死に永琳の名前を呼ぶ。
その声に驚いた永琳と鈴仙が目を丸くして飛び出してきた。
妹紅の背中の慧音は痛みで激しく顔が歪んでいる。
「どうしたの!?」
「慧音が寺子屋で倒れたんだ! 腰がすごく痛いって!」
ひどく慌てている妹紅の背中で慧音が目で痛みを訴えた。
「わかったわ。さ、診療室へ」
永琳の後に続く形で慧音は診察室に入った。
妹紅の背中から下ろされて立つことは出来るが椅子に座るとまた鋭い痛みが腰を襲う。
「痛い! いたたた……」
診察が始まった。
「慧音。いつから痛いの?」
「一昨日からだ。授業中に腰を屈めた時に」
「ずっと痛いの?」
「いや。最初は屈むと痛いくらいだった。昨日は一日何をしても痛かったが、今日は痛みがマシだったんだ。だけど背伸びしたら……」
「うどんげ。Ⅹ線の準備をしてちょうだい」
「はい、わかりました」
鈴仙が先に立って別室へと向かう。永琳が慧音を支えるようにしておそらくⅩ線撮影の部屋へと案内した。
「慧音……」
「大丈夫よ、妹紅」
心配そうに背中を見つめる妹紅の横に輝夜が立っていた。
「永琳に治せない病気はないわ。だって月の頭脳よ。私の自慢の従者。きっと慧音もよくなるわ」
「で、でも」
「まったく」
そう言って輝夜は人差し指で妹紅の鼻を軽く突いた。
「貴女も永琳にその心配性を治してもらえば」
「……もう!」
不機嫌そうに輝夜を睨む妹紅だがその顔から少し不安げな様子が消えていた。
その顔を見て輝夜は「もう」はこっちよ、かわいいなとくすくす微笑んだ。
すぐに慧音の背骨のレントゲン写真が焼きあがった。
正面からと側面からの二枚が撮られた。
永琳は照明に透かしながら二枚の写真を見つめる。
高度の技術と噂されるⅩ線撮影の写真を初めてみる妹紅は興味津々といった風に眺めていた。
一方で慧音はそれどころではなかった。
初めて見る自分の背骨の写真を見て何か悪い病気にかかっているのではないか、そんな不安が心を埋め尽くしていた。自分では写真を見ただけではどこか悪いのかがわからない。不安げな表情のまま永琳の言葉を待った。
「慧音。ちょっとそこに横になってもらえるかしら。仰向きにね」
永琳に言われて慧音は素直に診察室のベットに横になる。
ベットに上がる際も痛みが襲う。
あぁ、自分の思い過ごしでありますように。
目を閉じてひたすら願う慧音。
永琳は横になった慧音の傍によると足のつま先を強く抑え始めた。
「どう? 痛い?」
「い、いや。痛くない……」
「うん。じゃあ、ここは?」
今度は太ももを抑える。しかし痛みは起きない。慧音は首を振った。
次に永琳は治療用のハンマーを取り出すと慧音のひざ下を軽く叩いた。コツコツと叩かれる感触はあったが痛いほどではない。
「うん。違うわね」
そして永琳は慧音の左足を持つと、ゆっくりと高く上げた。
「痛ぁーい! 痛い! 痛いって!」
するとベットの上で慧音が身をよじらせた。
寺子屋で倒れた時と同じ鋭い痛みが慧音の腰に、いや背骨より左側に強く走った。
「ちょ、慧音!?」
つられて妹紅も大声を出すが永琳は「うん」と頷いてゆっくりと左足を下ろした。
「じゃあ、右足はどうかしら?」
今度は右足を上げる永琳だったが痛みはそれほどにはなかった。というよりも左の腰の痛みがはるかに右側よりも上回っていた。
「え、永琳!? わ、わかったか?」
「ええ。わかったわ」
慧音の問いにニッコリ微笑むと永琳は診察室の椅子に座った。
ゴクリの慧音の喉が鳴った。
「Ⅹ線撮影をしても背骨には異常は見られなかったわ。内臓器官にも異常はないみたいだし。どうやら腰回りの筋肉が拘縮してしまっているみたいね」
診断終了。
病名、筋性腰痛症。
「筋性腰痛症?」
「ようするに腰の周りの筋肉が伸びなくなっちゃってそれで腰痛を起こしているの。まぁ多忙のせいもあるんだけど」
慧音に説明をする永琳の顔がいたずらっ子のような顔になる。
「慧音。このところ一日家で寝てばっかりした日があったんじゃないの?」
「え? ……あ」
永琳に指摘されて慧音は腰痛が始まる前の日を思い出した。
体を休めようと朝から夕方まで一日布団の中にいたのだ。
「疲れていても休日適度に体を動かさないと筋肉が収縮してしまって翌日腰痛を起こすことがあるの。慧音の場合はそれね」
くすくすと笑う永琳。
後ろでは「なーんだ」と呟きながら妹紅がじっと慧音の背中を見つめていた。
なんだか怠けていたように感じられて恥ずかしさで顔を赤くしながら慧音が訊ねた。
「そ、それでだな。治るのか」
「ええ、治るわ。これからは休みの日でも少しは体を動かしなさい。ストレッチでも効果あるわよ。今日は痛み止めと湿布を出しておくから、まだ痛むようなら来なさい」
「そうか」
どうやら自分が想像していた以上に病気は軽いようだ。
ほっと安堵の息が漏れた。
すると慧音の目の前に心配そうな顔をしていた子どもたちの顔が浮かんだ。
皆で慧音に声をかけて、中には妹紅に知らせようとした子もいた。
たまたま人里で妹紅に会うことが出来たのだが、もし妹紅が迷いの竹林の中にいたら子どもたちはどうしただろうか。迷いの竹林に足を踏み入れたのだろうか。そう思うと申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
「慧音。人間のために子どもたちのために尽くす慧音は私から見てすごく恰好いいけど、体は大事にしないとな」
妹紅が優しく微笑んだ。
いつもは慧音が説教をする方だが今日ばかりは説教される方だ。妹紅にも心配をかけてしまった。
「すまない」
「いいよ。子どもたちも安心してくれるさ。だけどきちんと謝っておくんだぞ」
慧音は微笑んで頷き返した。
そしてベットから降りようとする。
「あ、慧音。まだよ。横になってて。うどんげ、注射の用意をして」
そんな慧音を呼び止めて永琳は鈴仙に声をかける。
思いもよらない永琳の言葉に――単語に慧音の顔から血の気が引いていく。
「永琳? 今なんて言ったのかな?」
「注射」
鈴仙が何かを用意して永琳に手渡す。その手には細く鋭い針が差し込まれた注射器が握られていた。軽く指でピンピンと注射器を弾いて中の空気を抜く永琳。
すると。
ベットの上の慧音が突然跳ね上がったように上半身を起こした。
だが腰痛ですぐにベットの上で大きくよじろぐ。
そんな慧音を見て妹紅が呆気にとられる。何してるんだコイツ。
「な、ななななんでちゅちゅちゅちゅう注射!?」
痛みに耐えながら必死に訊ねる慧音に永琳が困ったように話しかける。
「なんでってそんなに痛むんだからすぐに麻酔薬を打たないと」
今回永琳先生が行うのはトリガーポイント注射という治療法だ。
トリガーポイントと呼ばれる筋肉のツボに局部麻酔薬を注射で打ち込み痛みを和らげる方法である。
「さ、慧音。治療はまだ終わってないわよ。横になって」
「やだ!」
先ほどまで鋭い腰痛に泣かなかった慧音だが今では薄らと涙目になっていた。
「やだやだやだ! やだ! ちゅうしゃやだ!」
実は人里のハクタク先生には大嫌いなものがあった。
注射である。
肌に針を刺すなんてまるで地獄の拷問ではないか。
くちゅん。
どこかで地獄の閻魔がくしゃみをしたように思えたがこの際気にしない。それどころではない。
「さ、横になって。お注射しましょうね」
「やだやだやだ!」
注射器を持った永琳がゆっくりと慧音に近づいていく。
しかし慧音は壁に背中を押し付けて必死に抵抗をする。
「はぁ……困ったわね」
あきれ返って永琳がくるりと背中を見せて、ほっと慧音が胸をなで下ろす。
治るのが遅れてもいいから注射だけは、注射だけは嫌だと必死のハクタク先生であったがどうやら注射はせずに済みそうだ。
薬や湿布だけでなんとかならないか、そう永琳に話しかけようとしたときだ。
「え?」
体をベットに押し付けられる。
振り返ると申し訳なさそうな顔をする鈴仙と真顔の妹紅が慧音の両肩を抑えていた。
「ちょっと! 妹紅!?」
「もうさぁ慧音。体は大事にしないといけないって。よくなるんだから注射してもらいなよ」
「いやだ! というより患者を押さえつけるな!」
「いい大人なんだから聞き分けなよ。みっともない」
必死に抵抗しようとも腰痛が激しくなってくる。もう動かすことが苦痛になっていた。
「はーい、慧音。そのままじっとしててね。動くとやり直しだから」
ふと慧音の視線の端にいつの間にか再び慧音に向き直った永琳が立っていた。
その顔は慈悲に満ちた笑顔だった。
永琳の右手がゆっくり近づいてくる。
その手の先には鋭い針が刺された注射器が。
「あ……あ……」
慧音の目にみるみる涙が溢れてくる。
「はい。お注射しますねー」
※
「ウサギ体操第一ぃ」
永遠亭の庭にて。
てゐが妖怪兎たちと一緒にラジオ体操をしていた。
健康を大事にするてゐは毎日三回も庭で体操をするのが日課となっている。
「いっちに、さんし」
てゐに合わせて妖怪兎たちも体を動かしていく。
ちなみにラジオ体操は効率のよい全身運動でありストレッチには最適なのだとか。
そんな彼女たちの背中、永遠亭の中から慧音の悲鳴が上がった。
驚いて何匹かの妖怪兎たちが悲鳴の出所に顔を向けたがてゐは涼しい顔で体を動かし続ける。
ぼそっとてゐが呟く。
「健康って大事」
すっかり日が昇ったある日、人里のハクタク先生こと慧音は目を擦りながら頭を動かした。
体中がとてもだるかった。
「ああ……もうこんな時間」
布団の中からゆっくり頭を起こして、重たい瞼を柱時計に向けるとすでに十時を指していた。
そうだ、妹紅はどうしただろうと辺りを見渡すもどうやら家に帰ったらしい。
慧音の頭の中で昨晩のことが思い出される。
寺子屋の授業と歴史の編纂作業に追われてこのところ多忙だった慧音。ようやく明日は一日休めると思ったところで妹紅がお酒を持って遊びにやって来た。疲れを労わってくれる妹紅に感謝して昨晩は二人で楽しくお酒を飲んでいた。
しかし慧音の体はひどく疲れていたのだろう、一時間程で酒が体中に回り、慧音の顔は真っ赤に染まり目もとろんと重たくなった。
妹紅は無理に酒をすすめることはしないで慧音の為に布団を敷き、枕元に水が入った魔法瓶を用意してくれた。
せっかくの二人きりの酒宴を早々に切り上げる形となって申し訳なかったが、体の動きまで酒のせいでよろけていて慧音も甘えるように布団に入った。
思い出せるのはそこまでだった。
どうやらそのまま寝てしまったらしい。
「さて……今日はどうしようかな」
布団の中で呟くも元々今日の予定は何もない。ボーっとしながら考えるも何も思いつかず、気が付けば二十分が過ぎていた。
妹紅のところへ行こうか。
しかし昨晩彼女が「明日は家でゆっくり休みなよ」と言ったのを思い出すと、心配をかけるかもしれないと出かける気が削がれてしまう。
どうしようか。
そう思う間にさらに二十分が過ぎる。
「……今日は一日寝てもいいだろう」
誰かに言い訳をするように慧音は独り言を漏らして、うんうんと頷いた。
昨日まで多忙だったのだ。明日からまた寺子屋に子どもたちがやって来る。疲れた顔は見せられない。今日一日疲れた体を休めることに決めた。
さて一日家にいることを決めるとお腹が空いたので、ゆっくり布団から立ち上がると台所で簡単なご飯を作る。
肩が重くていつもの家事が面倒に思えた。
さっさと食事を済ませて、ようやく自分の恰好に気が付く。
横になる前に寝巻には着替えたのだが、お風呂がまだだった。しかし湯を張るのが面倒だ。
「どうせ夜にまた入るし……」
そう呟くと横髪を撫でながら再び布団へと入る。布団の中はまだ自分の体温で温かい。肩まで掛布団をかけると慧音は幸せそうな顔を浮かべる。
「ま、こんな日もあってもいいだろう」
いつもは生真面目な性格の慧音だったが、ちょっぴり悪戯をしているような気分になってなんだかわくわくする。
ご飯を食べてすぐ横になると牛になると言うが今日は気にしない。
人里のハクタク先生は今日ばかりはお休み。
その日、夕方まで慧音は布団の中で横になりながら本を読んで過ごしたのだった。
思えばこの日が始まりであった。
※
翌日。
また忙しい一日が始まった。
寺子屋の中では子どもたちの明るい声が響き、教壇の前にはいつものように慧音が本を片手に授業を進めていた。
疲れが取れたのか重たかった体が軽く慧音の表情は明るい。
「さて、このとき聖徳道士は冠位制度を設けることになる。これを冠位十二階と呼んだ。まぁ、詳しいことは神霊廟にいるご本人に話を伺えば教えてくれるだろうが」
黒板に白墨で一つ一つ丁寧な文字で書いていく。何人か子どもたちが寝てしまっているがいつものことである。あとで頭突きをしておこう。
上から書いていき徐々に下へと文字を書いていって慧音は腰を屈める。
その時。
「痛っ!」
突然の声に真面目に勉強をしていた子どもたちも寝ていた子どもたちも驚いた顔を上げた。
声の主は目の前にいる先生からだった。
「……あー」
慧音は顔を歪ませて腰を撫でていた。
腰を屈めたところで鋭い痛みが走ったのだ。思わず立ち上がった慧音だがまっすぐ立つと痛みはすぅーっと消える。
「先生?」
「大丈夫?」
背中を見せているので子どもたちに顔は見られていない。すぐに笑顔を作って振り返った。
「ああ、すまない。大丈夫だ」
そう言って子どもたちを安心させておいて再び慧音は黒板に向かう。
今度はゆっくりと腰を屈める。
すると頭が胸より少し下の辺りにまで来るように屈むと今度は少しずつ痛みが腰に走った。
腰痛だ。
心の奥でため息を漏らす。
一日黒板に向かって白墨を動かしていると上の方に書こうとして背筋を伸ばすことになる。また下の方に書こうとすれば屈まなければいけない。授業というのは腰にくるものだな、と改めて思った。さらに歴史の編纂作業では一日机に向かって筆を動かす。もしかしたら姿勢が崩れてしまっていたかもしれない。
自分自身に反省をしながら慧音はその日気丈に一日の授業を終えたのだった。
授業を終えて子どもたちが帰った後、慧音は夕食を作ろうと台所に立つがやはり少し屈むと痛みが走る。
「うー、いかんいかん。ゆっくり休まないと」
昨日は一日休んでいたのだがどうやら疲れはまだ取れていなかったらしい。それよりもかなり腰に負担をかけていたのだろうか。
妹紅が知ったら心配するだろう。
今日はテストもなかったので採点をする必要はなかった。
編纂作業も今晩はやめておこう。
そう決めた慧音は夕食後、お風呂に浸かりながらゆっくりと腰を揉んで早々に布団に入って就寝することにした。
※
だが腰痛は悪化していた。
翌朝目が覚めて上半身を起こすとそれだけで痛みが鋭く突き刺さった。
残っていた眠気が一気に吹き飛んでしまう。
「いったたた……」
涙目で腰をさすると痛む箇所が広がっているように思えた。背骨だけでなくその左右にまで痛みを覚えたのだ。
ゆっくりと立ち上がる。
すると少しずつであるが痛みはすっと消えていく。
「そう簡単には痛みは取れないか」
痛みで顔を歪ませながら慧音はふと永琳の顔を思い浮かべた。
妹紅が輝夜と仲良くなってからというものの、今では永遠亭の面々とは親しい付き合いをしていた。永琳に診てもらおうかと思ったのだ。
しかしあと何か月もすれば寺子屋を卒業する子どもたちもいる。今はその子たちとの時間を大事にしたい。
永遠亭に行くのは次の休みの日にしよう。
そう思い慧音は朝食を作りに台所へと向かう。
その日の授業中。
慧音は昨日よりも鋭い痛みに悩まされた。
昨日よりも少し屈んだだけで腰の痛みが刺さってくる。
子どもたちに心配はかけたくないと表情こそは何ともないように振る舞うが、ついつい黒板の上下の端に白墨で書くのをためらう先生に子どもたちは怪訝な表情を浮かべる。
子どもたちが筆を動かしている間や授業と授業の間のわずかな休憩時間に、いつもなら教壇横に置かれた専用の席に着いているはずの慧音だがこの日はずっと立ったままだった。またお昼休みにお弁当の時間になるとさすがに立って食べるわけにはいかないので慧音は自分の席に着くのだが、まるで座り損ねると椅子が爆発するかのように慎重にゆっくりと座る慧音に子どもたちは首を傾げてしまう。
「さぁ! 皆、お弁当を食べるぞ。食べ終わった者から外で遊んでいいからな」
そんな子どもたちに、今日は珍しく誰一人授業中に寝る子はいないのに、どうやら慧音はまったく気が付いていないようだ。
にっこりと笑ってみせる慧音に子どもたちは口では「はーい」と元気よく返事をしてくれるが、陰で様子のおかしいハクタク先生のことをこそこそと話し合ったのだった。
一方で慧音は子どもたちの様子に気が付く余裕はなかった。
座っているだけでじんじんと腰が痛んでくる。
ふと強く痛むのは背骨ではなくて背骨の左右の辺りであることに気が付いていた。
腰痛、だろうか。
この時慧音の頭に不安がよぎった。
「……ダメだな」
その日の夜。
結局腰の痛みは朝からずっと続いている。
慧音は卓上に肩肘をつきながらもう片方の手で腰の辺りを擦っていた。
やっぱり永遠亭に行かないとダメか。
しかし立てないわけではないのだ。姿勢に気をつけてなるべく腰に負担をかけないようにしていれば痛みはすっと引いていく。
このところの疲れと姿勢の悪さが腰を痛めたのだ、と思った。
「なるべく姿勢に気をつけないと」
そう呟いて慧音は今度の休みこそ絶対に永遠亭に行こうと決意した。
ふと。
もしただの腰痛じゃなかったら。
もっと悪い病気だったら。
慧音はぶんぶんと頭を振って悪い想像を払いのける。
今晩も妹紅は遊びには来なかった。
輝夜のところでお泊りでもしているのだろう、今の自分を妹紅に見られなくて慧音はほっとしていたのだ。
自分のことには無頓着なのに人のことには心配性な妹紅の顔を浮かべて慧音はくすりと笑った。
そして早いところ治りますようにと願いながら慧音は布団に入って就寝した。
※
目が覚めるとやはり腰が少し痛んだ。
しかし立ち上がると痛みはすっと完全に消えた。
「お?」
立ったまま腰を擦ってみるもやはり痛みはない。
おそるおそる屈んでみると少し痛みが走った。それでも一昨日や昨日と比べると全然マシである。
慧音はほっと安堵の息を漏らした。
やっぱり疲れていたんだ。
痛みのない体に感謝しながら慧音は今までの生活を少し反省した。
「これからはあまり無理をかけないようにしないとな」
それでも腰痛が引いたことに嬉しくてつい鼻歌が口から漏れた。
今日は授業に集中できる。
そう思い慧音は朝食を済ませると寺子屋へと出かける。
その日。
黒板の上下に白墨を走らせても腰痛は少し痛むだけだ。
安心して慧音は子どもたちを相手に授業をすすめる。
子どもたちも昨日とは様子の違うハクタク先生に驚き、ほっと安心しているようでもあった。
「そして『信貴山縁起』も平安時代の末期に書かれた日本四大絵巻物の一つであり三巻から成っている。まぁ、詳しいことは命蓮寺にいるご本人に話を伺えば教えてくれるだろうが」
健康な体で行う授業はやはり楽しいものだ。
いつもよりも生き生きと慧音は授業をすすめていった。
子どもたちが慧音が黒板に書いた文字を写していく。
その様子をニコニコと眺めながら慧音は軽く背筋を伸ばす。
ズキリ。
痛みが今までにない鋭さで慧音を襲った。
気が付いたときには慧音は黒板の前に倒れていた。口から言葉にならないうめき声が思わず叫び出ていた。
背筋を伸ばした瞬間、鋭い痛みに左足の力が抜けたのだ。
「痛い、痛い、いたたたた」
大きく顔を歪ませて腰――背骨よりも左の辺りに手を当てて慧音は必死に痛みに堪えようとしていたが我慢できるものではなかった。
やっとのことで顔を上げると子どもたちが慧音の周りに集まっていた。
「先生!」
「先生、大丈夫!?」
「誰かもこーを呼んできて!」
心配そうに慧音に寄り添ってくる子どもたちに慧音は「大丈夫」と言おうとした。
しかし腰に襲ってくる痛みがそんな慧音を嗤っているかのように、ますます鋭さを増していく。
※
「えーりん! 大変だ! 慧音が、慧音が!」
数十分後。
妹紅に背負われて慧音が永遠亭に到着すると妹紅が必死に永琳の名前を呼ぶ。
その声に驚いた永琳と鈴仙が目を丸くして飛び出してきた。
妹紅の背中の慧音は痛みで激しく顔が歪んでいる。
「どうしたの!?」
「慧音が寺子屋で倒れたんだ! 腰がすごく痛いって!」
ひどく慌てている妹紅の背中で慧音が目で痛みを訴えた。
「わかったわ。さ、診療室へ」
永琳の後に続く形で慧音は診察室に入った。
妹紅の背中から下ろされて立つことは出来るが椅子に座るとまた鋭い痛みが腰を襲う。
「痛い! いたたた……」
診察が始まった。
「慧音。いつから痛いの?」
「一昨日からだ。授業中に腰を屈めた時に」
「ずっと痛いの?」
「いや。最初は屈むと痛いくらいだった。昨日は一日何をしても痛かったが、今日は痛みがマシだったんだ。だけど背伸びしたら……」
「うどんげ。Ⅹ線の準備をしてちょうだい」
「はい、わかりました」
鈴仙が先に立って別室へと向かう。永琳が慧音を支えるようにしておそらくⅩ線撮影の部屋へと案内した。
「慧音……」
「大丈夫よ、妹紅」
心配そうに背中を見つめる妹紅の横に輝夜が立っていた。
「永琳に治せない病気はないわ。だって月の頭脳よ。私の自慢の従者。きっと慧音もよくなるわ」
「で、でも」
「まったく」
そう言って輝夜は人差し指で妹紅の鼻を軽く突いた。
「貴女も永琳にその心配性を治してもらえば」
「……もう!」
不機嫌そうに輝夜を睨む妹紅だがその顔から少し不安げな様子が消えていた。
その顔を見て輝夜は「もう」はこっちよ、かわいいなとくすくす微笑んだ。
すぐに慧音の背骨のレントゲン写真が焼きあがった。
正面からと側面からの二枚が撮られた。
永琳は照明に透かしながら二枚の写真を見つめる。
高度の技術と噂されるⅩ線撮影の写真を初めてみる妹紅は興味津々といった風に眺めていた。
一方で慧音はそれどころではなかった。
初めて見る自分の背骨の写真を見て何か悪い病気にかかっているのではないか、そんな不安が心を埋め尽くしていた。自分では写真を見ただけではどこか悪いのかがわからない。不安げな表情のまま永琳の言葉を待った。
「慧音。ちょっとそこに横になってもらえるかしら。仰向きにね」
永琳に言われて慧音は素直に診察室のベットに横になる。
ベットに上がる際も痛みが襲う。
あぁ、自分の思い過ごしでありますように。
目を閉じてひたすら願う慧音。
永琳は横になった慧音の傍によると足のつま先を強く抑え始めた。
「どう? 痛い?」
「い、いや。痛くない……」
「うん。じゃあ、ここは?」
今度は太ももを抑える。しかし痛みは起きない。慧音は首を振った。
次に永琳は治療用のハンマーを取り出すと慧音のひざ下を軽く叩いた。コツコツと叩かれる感触はあったが痛いほどではない。
「うん。違うわね」
そして永琳は慧音の左足を持つと、ゆっくりと高く上げた。
「痛ぁーい! 痛い! 痛いって!」
するとベットの上で慧音が身をよじらせた。
寺子屋で倒れた時と同じ鋭い痛みが慧音の腰に、いや背骨より左側に強く走った。
「ちょ、慧音!?」
つられて妹紅も大声を出すが永琳は「うん」と頷いてゆっくりと左足を下ろした。
「じゃあ、右足はどうかしら?」
今度は右足を上げる永琳だったが痛みはそれほどにはなかった。というよりも左の腰の痛みがはるかに右側よりも上回っていた。
「え、永琳!? わ、わかったか?」
「ええ。わかったわ」
慧音の問いにニッコリ微笑むと永琳は診察室の椅子に座った。
ゴクリの慧音の喉が鳴った。
「Ⅹ線撮影をしても背骨には異常は見られなかったわ。内臓器官にも異常はないみたいだし。どうやら腰回りの筋肉が拘縮してしまっているみたいね」
診断終了。
病名、筋性腰痛症。
「筋性腰痛症?」
「ようするに腰の周りの筋肉が伸びなくなっちゃってそれで腰痛を起こしているの。まぁ多忙のせいもあるんだけど」
慧音に説明をする永琳の顔がいたずらっ子のような顔になる。
「慧音。このところ一日家で寝てばっかりした日があったんじゃないの?」
「え? ……あ」
永琳に指摘されて慧音は腰痛が始まる前の日を思い出した。
体を休めようと朝から夕方まで一日布団の中にいたのだ。
「疲れていても休日適度に体を動かさないと筋肉が収縮してしまって翌日腰痛を起こすことがあるの。慧音の場合はそれね」
くすくすと笑う永琳。
後ろでは「なーんだ」と呟きながら妹紅がじっと慧音の背中を見つめていた。
なんだか怠けていたように感じられて恥ずかしさで顔を赤くしながら慧音が訊ねた。
「そ、それでだな。治るのか」
「ええ、治るわ。これからは休みの日でも少しは体を動かしなさい。ストレッチでも効果あるわよ。今日は痛み止めと湿布を出しておくから、まだ痛むようなら来なさい」
「そうか」
どうやら自分が想像していた以上に病気は軽いようだ。
ほっと安堵の息が漏れた。
すると慧音の目の前に心配そうな顔をしていた子どもたちの顔が浮かんだ。
皆で慧音に声をかけて、中には妹紅に知らせようとした子もいた。
たまたま人里で妹紅に会うことが出来たのだが、もし妹紅が迷いの竹林の中にいたら子どもたちはどうしただろうか。迷いの竹林に足を踏み入れたのだろうか。そう思うと申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
「慧音。人間のために子どもたちのために尽くす慧音は私から見てすごく恰好いいけど、体は大事にしないとな」
妹紅が優しく微笑んだ。
いつもは慧音が説教をする方だが今日ばかりは説教される方だ。妹紅にも心配をかけてしまった。
「すまない」
「いいよ。子どもたちも安心してくれるさ。だけどきちんと謝っておくんだぞ」
慧音は微笑んで頷き返した。
そしてベットから降りようとする。
「あ、慧音。まだよ。横になってて。うどんげ、注射の用意をして」
そんな慧音を呼び止めて永琳は鈴仙に声をかける。
思いもよらない永琳の言葉に――単語に慧音の顔から血の気が引いていく。
「永琳? 今なんて言ったのかな?」
「注射」
鈴仙が何かを用意して永琳に手渡す。その手には細く鋭い針が差し込まれた注射器が握られていた。軽く指でピンピンと注射器を弾いて中の空気を抜く永琳。
すると。
ベットの上の慧音が突然跳ね上がったように上半身を起こした。
だが腰痛ですぐにベットの上で大きくよじろぐ。
そんな慧音を見て妹紅が呆気にとられる。何してるんだコイツ。
「な、ななななんでちゅちゅちゅちゅう注射!?」
痛みに耐えながら必死に訊ねる慧音に永琳が困ったように話しかける。
「なんでってそんなに痛むんだからすぐに麻酔薬を打たないと」
今回永琳先生が行うのはトリガーポイント注射という治療法だ。
トリガーポイントと呼ばれる筋肉のツボに局部麻酔薬を注射で打ち込み痛みを和らげる方法である。
「さ、慧音。治療はまだ終わってないわよ。横になって」
「やだ!」
先ほどまで鋭い腰痛に泣かなかった慧音だが今では薄らと涙目になっていた。
「やだやだやだ! やだ! ちゅうしゃやだ!」
実は人里のハクタク先生には大嫌いなものがあった。
注射である。
肌に針を刺すなんてまるで地獄の拷問ではないか。
くちゅん。
どこかで地獄の閻魔がくしゃみをしたように思えたがこの際気にしない。それどころではない。
「さ、横になって。お注射しましょうね」
「やだやだやだ!」
注射器を持った永琳がゆっくりと慧音に近づいていく。
しかし慧音は壁に背中を押し付けて必死に抵抗をする。
「はぁ……困ったわね」
あきれ返って永琳がくるりと背中を見せて、ほっと慧音が胸をなで下ろす。
治るのが遅れてもいいから注射だけは、注射だけは嫌だと必死のハクタク先生であったがどうやら注射はせずに済みそうだ。
薬や湿布だけでなんとかならないか、そう永琳に話しかけようとしたときだ。
「え?」
体をベットに押し付けられる。
振り返ると申し訳なさそうな顔をする鈴仙と真顔の妹紅が慧音の両肩を抑えていた。
「ちょっと! 妹紅!?」
「もうさぁ慧音。体は大事にしないといけないって。よくなるんだから注射してもらいなよ」
「いやだ! というより患者を押さえつけるな!」
「いい大人なんだから聞き分けなよ。みっともない」
必死に抵抗しようとも腰痛が激しくなってくる。もう動かすことが苦痛になっていた。
「はーい、慧音。そのままじっとしててね。動くとやり直しだから」
ふと慧音の視線の端にいつの間にか再び慧音に向き直った永琳が立っていた。
その顔は慈悲に満ちた笑顔だった。
永琳の右手がゆっくり近づいてくる。
その手の先には鋭い針が刺された注射器が。
「あ……あ……」
慧音の目にみるみる涙が溢れてくる。
「はい。お注射しますねー」
※
「ウサギ体操第一ぃ」
永遠亭の庭にて。
てゐが妖怪兎たちと一緒にラジオ体操をしていた。
健康を大事にするてゐは毎日三回も庭で体操をするのが日課となっている。
「いっちに、さんし」
てゐに合わせて妖怪兎たちも体を動かしていく。
ちなみにラジオ体操は効率のよい全身運動でありストレッチには最適なのだとか。
そんな彼女たちの背中、永遠亭の中から慧音の悲鳴が上がった。
驚いて何匹かの妖怪兎たちが悲鳴の出所に顔を向けたがてゐは涼しい顔で体を動かし続ける。
ぼそっとてゐが呟く。
「健康って大事」
人は見たい物しか見ない見えない
この作品は見たい慧音か?
寺子屋の部分を短くまとめて、その分を永遠亭で盛るだけでもだいぶ違うと思いました。※小説を書けない素人のたわごとかもしれませんが。
でも途中から、痛むのが背骨の左っていうから、どこか内臓が悪いんじゃないかとハラハラしながら読みました。
人間臭い(あ、一応人間か)慧音先生、お大事に。