家に帰ると、ワタシのベッドに天邪鬼が寝ていた。
ふむ、どうしたものかと考えながら、私は暖炉に火を熾した。
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状況が悪すぎる。
私は夕闇に隠れるようにして、林の中を疾駆する。なんとか10日間を生き延びたはいいが、あいつら本当にバカなんじゃないかと思う。まともな神経じゃない。吸血鬼だの天人だのと、寄ってたかってコケにしやがって。
針妙丸を利用したワタシの下剋上計画は博麗の巫女らによって頓挫した。頼みの綱であった打ち出の小槌は正当な所有者である針妙丸にしか使えない。現状では小槌そのものも、針妙丸の身柄も博麗の巫女によって確保されてしまっていた。それ以前の問題として針妙丸がもうワタシの計画に乗るつもりが無いという意味でこの計画は破綻してしまっている。
実際、針妙丸が中心となって始まったワタシの討伐隊によって、今ワタシはこれだけ苦労させられている。裏切られた分際でワタシを助けようなどという甘ったれた考えに虫唾が走った。そう、ヤツは私を助けようとしているのだ。呼びかけを面白がって集まったほかの連中がどう考えているか知らないが、少なくとも針妙丸はワタシに罰を受けさせることで、この幻想郷の中にワタシの居場所を作ろうとしているのだ。ヤツはワタシが考えていた以上に公明正大で、勇敢で、私の嫌いなタイプだった。誰かを助けてやろうなんて、これ以上に上から目線の発想があるだろうか。アレも所詮は強者の側だったのだ。
最後の弾幕を避けきったとき、あの妖怪の賢者はどこか満足気だった。あのしたり顔で何でも分かっていますという態度に虫唾が走る。そもそも連中の言う不可能弾幕それ自体が大変不可解なものだ。連中はスペルカードルールを違反しながら、しかしそれに準ずるある種のルールを守っているようだった。そうでなければあの面子を相手にワタシの命がここまでもっているはずが無い。ワタシは逃げ脚と悪知恵にこそ幾らか自信があるが、基本的なスペックは決して高くない。いやこれでも随分と盛った表現だ。ワタシはハッキリと弱者である。それを隠すつもりもない。強い妖怪と本気の殺し合いになれば待っているのは即死だ。
であるにも関わらず、ワタシはこうして生きている。勝者であるはずなのに、十人が見れば十人全員が敗走にしか見えないであろう有様で。八雲紫だ。奴が何かを企んでいるのは間違いない。
今は逃げるべきだ。
食料と、寝床が必要だった。
木々がまばらになり、しかしよりいっそう不気味な雰囲気になっていく。彼岸花。彼岸花。ここは無縁塚だ。ここに来たのは偶然ではなく、意図があってのこと。
無縁塚は逃亡先として必要な要件を揃えている。妖怪や人間の主要な活動拠点から距離があること。色々なものが外界から流れ着いていて、物資の補給に困らないこと。そして余りの危険度ゆえに近づくものが少ないことだ。無縁塚に近寄ってはいけない、というのは里でも常識だし、妖怪であってもよほどの変わり者か、特別な対策を持っているものでなければ、ここに来ることは無い。
無縁塚は境界が綻びやすいことで知られている。自然発生的な神隠しで別の世界や時空の狭間に突き落とされる確率が、他の場所に比べておよそ100倍、などと言われている。まあ100倍とはいっても0.00001%が0.001%になる、というぐらいの違いであって、これを高いと見るか低いと見るかはそれぞれだろう。しかし時空の狭間に閉じ込められては、いかな不死身の怪異とて助かる手段は無い。むしろその結末は不死身であればあるほど恐ろしいものだろう。
ワタシを追いかけていた連中の熱意というか温度、を鑑みるに、自分の身を危険にさらしてまでワタシを仕留めたがっている奴はいなさそうだった。強者だろうが弱者だろうが同じ確率で容赦なく飲み込むステージギミックだ。連中の首とワタシ一人の首では重みが違う。相対的にワタシが有利になるはずだった。
ここまでするのにはもちろん理由がある。ワタシは決して自殺志願者ではないし、むしろその辺の妖怪よりはるかに強く生に執着している。問題はワタシの道具たちにある。
聖人だの吸血鬼だのを相手取るには、道具の力を惜しみなく使う必要があった。限界に近い酷使。当然の帰結としてガス欠という悪夢が目前に迫っていた。連中にもそれはバレていると考えてまず間違いない。取り敢えずアイテムなしでは絶対に勝ち目のない強者が、決してこない場所に逃げる必要があったのだ。
もちろん八雲紫のことを忘れているわけではない。
境界管理者である八雲には、神隠しなど怖くないだろう。
しかしアレに襲われたらどうしようなどということを考えるのは、雪合戦に機関銃を持ち出されたらどうしようと考えるのと同じで、つまり何の意味もない。ワタシには意味のないことをのんきに考えている余裕が無いので、こうして夕暮れの無縁塚を走り回っているのである。
どんどん日が傾いて、山の稜線に半分ほど隠れ始めたころ、ワタシは一軒の掘っ立て小屋を発見した。見つかりにくい岩場なり木陰なりが見つかれば御の字だと思っていたところにこれだ。大丈夫、ワタシはまだついている。
そっと近寄って気配を確認するが、中には誰もいなようだ。息をひそめられていたら気付けないかもしれないが、それを心配するのはやり過ぎだろう。身代わり地蔵やひらり布はあと数回の使用には耐えられる。
ワタシは思ったより建てつけのいいドアのノブを握り、そっとそれを開く。玄関は靴を脱いで上がるよう一段高くなっているが、誰の靴もない。鍵がかかっていなかったから誰かいるかと思ったが、やはり無人か?
寒さ対策か、二重になっていた玄関の戸を開けると中は意外と広かった。果たしてそこは無人だった。
間取りも何もないぶち抜きの一部屋。粗大ごみとアンティークの中間に存在するようなテーブルを囲むように一人掛けのソファと、二人掛けのソファが一脚づつ置かれている。壁には暖炉があり、火は入っていない。どうやらリビングスペースらしい。暖色の絨毯が敷かれていた。その奥には左側にカウンターキッチンが、右側にはこれまた古めかしい大きなベッドがあった。
なんとなく居心地がいいと感じるような部屋だった。淡く彩度の低い落ち着いた空間で、置いてあるものがどれも古臭い。しかし住んでいるもののセンスを思わせるアンティーク調の部屋だ。
確かに誰かが住んでいる形跡がそこかしこにあって、何か盗むならさっさとしなければならない。しかしワタシはこの空間の居心地の良さの虜になりつつあった。何時家主がかえってくるかわからないのだ、ということを理性が声高に叫んでいるが、ワタシの体は欲望に素直に、ふらふらとベッドの方へ足を進めていた。あの逆さ城にはワタシの寝室があったが、考えてみるとあれ以降まともな場所で眠った覚えが無い。いやそもそもまともに睡眠をとった覚えさえなかった。体が休息を欲していた。
妖怪の賢者を含む名うての強者たちでも捉えられなかったワタシを捕まえたのは、なんだかいい香りがするベッドだった。
コーヒーの香りで暗い水の底から意識が引き上げられる。身動ぎすると毛布から片足が出てしまったが、想像した冷たさは襲ってこなかった。違和感とともに徐々にまともな思考力がワタシの中に戻ってくる。ここは…、そう名も知らぬ誰かの家だ。なんてこった。ワタシはこんなわけのわからない場所で寝てしまった、それもかなり熟睡してしまったようだった。
部屋が暖かい。暖炉に火が入っているのだと分かった。この空間にはワタシ以外の誰かがいる。恐怖感に身を縮ませるが、どちらかというと見知らぬ侵入者はワタシの方だということに気がついて、少しおかしくなる。音を立てないように慎重に顔を覗かせると、ソファに誰かが腰かけているのが見えた。本を読みながらコーヒーを啜っているらしい。優雅なもんだ、ヒトの気も知らないで、といつもなら理不尽に毒づくところだが、しっかりと眠った充足感からか、そんなマイナス感情は湧きあがらなかった。
ソファの誰かは見たところかなり小柄だった。ワタシもかなり小柄なほうだが、そいつもどっこいどっこいだろう。
そうしてみていると、視線を感じたのか、ソファに座っていたそいつが不意に口を開いた。
「おや、ようやくお目覚めかな」
ワタシは答えに窮した。どうやらそいつはワタシが寝ていることに気付いていたらしい。というか、まあ。それは気付いて当り前だろう。これだけ堂々と他人のベッドで眠っていれば分かろうというものだ。問題はどういうつもりでワタシをそのまま寝かしていたのかというところだった。
「まだ頭がハッキリしていないようだな。何度か起こしたんだよ」
どうやらワタシが気付かなかっただけのようだった。
ワタシは結構図々しい奴だという自覚があったけれど、ここまでとは思わなかった。凄いなワタシ。
そいつは鼠色のショートヘアから丸っこい耳を覗かせていた。妖獣らしい。まあただの人間が無縁塚なんぞに住みつくはずが無いとは思っていたが。
少しだけ安心できる材料として、どうやらそいつはネズミの妖獣らしかった。小動物ベースの妖獣は身体的にさほどスペックが高くない。油断は禁物だが、一方的にどうこうされることはなさそうだ。ワタシはまだついている。
「取り敢えず起きたらどうかな、そこは私の寝床だよ」
見た目に似合わぬ尊大な口調でそう声をかけられて、ふと、このベッドの香りが目の前のこの女の匂いだということを意識してしまう。カッと瞬間的に顔に血が集まるのが分かった。
「・・・ふん」
とワタシは鼻を鳴らして、ベッドから起き上がった。寝過ぎたとき特有の倦怠感が圧し掛かった。起きろ、と言われなくて良かったと思う。命令されれば逆らいたくなるのがワタシだ。これ以上あのベッドに包まれていたら、何か変な気を起こしていたかもしれない。
そいつはまだ本を読んでいて、私のことを欠片も恐れていない様子だった。いや、そもそも興味が無いのだろうか。なんとなく腹が立って、ソファのほうに歩みよる。
「おはよう寝ぼすけさん、いや、鬼人正邪」
そう突然呼びかけられて、足を止める。体が緊張で堅くなるのが分かった。
「ワタシを・・・、知っているのか」
「私は新聞を毎日読むことにしている」
目の前の妖獣には、どこか見た目に似合わない余裕を感じる。弱者なのか、強者なのか、判断が付かなかった。天狗の新聞を読んでいるなら、ワタシのことも載っていただろう。
「キミはもう少し自分が有名人だという自覚を持った方がいいな。更に言えば逃亡者であり指名手配犯であるという自覚も、持った方がいいね」
相変わらず本を読みながら語るそいつの言葉を聞いて、ワタシの緊張は最大限に高まった。
「オマエ、ワタシのことを通報したな!?」
「・・・」
ワタシに一瞥もくれず、そいつはコーヒーを啜った。
マズイ、マズイ、マズイ・・・。
自分がどのくらい眠っていたのか分からないが、この妖獣がワタシを発見してすぐに然るべき相手に通報したのなら、今すぐにでも討伐隊が群れを為して襲ってくる可能性がある。いや、ひょっとするともうこの小屋は包囲されているんじゃないか?
いやそうに違いない。こいつの落ち着きぶりは、既にここが包囲されていて、自分の身が安全だと確信しているからなのだ。しまった、まさかこんな間抜けなドジで捕まるなんて、最悪じゃないか。
どうする。どうにかしなければ。どうにかこの状況を・・・。
ワタシが思考を巡らしていると、そいつは突然笑い出した。
「クックック…」
「なんだ、何がおかしい!くそっ、やってくれたなこのドブネズミめ。雑魚のくせに粋がるなよ。絶対逃げだしてやるからな。こんなところで捕まるもんか」
「いや…くく、わら…フフッ。笑ってすまない。・・・くくく」
そいつは可笑しくてたまらない様子で、本を置くと、ようやくこちらを向いた。
「何を心配しているのかおおよそ見当は付くけれどね。何処にも通報なんかしちゃいないよ。ご期待に添えなくて申し訳ないけれど」
とっておきのジョークを言うように、そいつはワタシに告げて、また笑った。
「は…。・・・え?」
誰も、来てないのか?
一瞬思考が空白になり、安心でヌルッと体の力が抜けた。
こいつが嘘をついていて、ワタシを油断させるつもりかもしれない、という疑念もある。しかし考えてみれば、少なくともワタシはこいつがコーヒーを入れる間、それどころか冷え切った部屋が暖炉の熱でここまで温まるまでの間、無防備に寝姿をさらしていたのだ。今更ウソをついて油断させる必要などない。ワタシを害する意図があったなら、既に害されきっていなければおかしいのだ
気が付くと、ワタシは絨毯の上に座り込んでしまっていた。
「フフ、想像以上に小心者なんだな」
騙されたのだ。ワタシは。
本来なら腹を立てるべきところだが、安心感の方が勝ってしまって、どうにも締まらない。
「なんだよ、クソ。馬鹿にしやがって」
しかし好意には憎悪で返すのがアマノジャクだ。ワタシは体中から寄せ集めた悪意を抽出して、どうにかこいつにぶつけてやれないかと画策する。ワタシは誰かに助けられるのが大嫌いだ。誰かを助けるのは、強者の贅沢だからだ。ワタシは立ちあがって悪態をつく。
「いつまで笑ってんだ、チクショウ。なんでワタシを助けたんだ」
しかし、思っていたのとは違う反応が返ってきた。
「助けた?ふむ、私は特にキミを助けた覚えがないんだが」
「え・・・?」
またしても答えに窮する。
「助けるも何も、キミが勝手に上がり込んで、勝手に眠っただけだろう。何もしてやった覚えはないぞ。ああ、洋服のことならベッドが汚れるといけないから勝手に着替えさせてもらったよ」
一瞬、何を言っているのか理解できない。
・・・服?
ハテなんのことやら、と腕を組む。そこでふと自分の来ている服の袖が目に入った。覚えのない紺色の袖。
「あ!・・・え?」
慌てて自分の姿を見渡すと、ワタシは全く覚えのない紺色の長そでのTシャツを着ていた。どうにかすると肩が出るほど大きめのサイズで、裾も長めで・・・。
・・・というか裾がワンピースみたいになっていて気付かなかったが、ワタシはボトムスを履いていなかった。下着の上にTシャツを一枚着ただけだ。
「ふゅぁっ!!」
慌てて裾を掴んでその場にまた座り込んでしまう。というか混乱して変な声でたクソ。
「な、な、な、なん…」
「何で寝る前と違う服になっているのか?」
「そ、それ!」
「だから言ったろう?キミの服は汚れていたし、随分と痛んでいたからね。私が脱がせたんだ。それは私の寝巻だよ。キミの服は結構凝ったデザインだったから一点ものだと思ったんだが、あちこちボロボロだったから捨てたよ」
「す、捨てたの?」
「ああ、まずかったかい?お裁縫の得意なオトモダチに直してもらう予定だったなら悪かったよ」
「ち、違う!す、捨てられちゃったらワタシは何を着ればいいんだ」
一張羅、というわけでこそなかったが、逃亡生活のさなか、余計な荷物を持ち歩く余裕はなかったし、ほとんど戦闘でダメになってしまっていた。無縁塚に来た目的の一つは、そのへんの死体から洋服を拝借することでもあったのだ。
「ふん。キミが裸で出て行っても私は一向に構わないけどね。私の着替えならそっちの棚だ」
ワタシはそいつが指差した棚にいそいそと近づくと、中を物色する。
地味な服が多い。その中からもともと私が来ていたものに近い、白いワンピースを取りだした。
信じられない。眠っている間に着替えさせられたなんて。ソファに座る小柄な女を横目で見て、また顔が熱くなるのを感じた。クソ。
ワンピースにそでを通すと、ようやく気持ちが落ち着いてきた。それに伴って、掌の上で転がされたことに無性に腹が立ってきた。ワタシは断りもせず、もう一つのソファに座り、両足をテーブルのうえに投げ出した。
「生傷が目立つが、なかなか綺麗な足だ」
やっぱり足はテーブルの下に下ろした。ワタシは礼儀正しい妖怪だからな。・・・くそ。
「いい加減名前を教えてもらおうか、ネズミ女」
「うん。逃亡犯に名乗る名は無い、ということにしてもいいが、ネズミ女も癪に触るな。私の名前はナズーリンだよ。ただのナズーリンだ」
ナズーリン、ナズーリン・・・。どこかで聞いたことがある名だ。なんだったかな。
そこでワタシはふと幻想郷縁起を思い出した。異変を起こす前、情報収集のために斜め読みした中にその名前はあったはずだ。
「ナズー、リン。・・・!オマエ、命蓮寺の妖怪じゃないか!」
ナズーリンといえばあの憎きくそ尼、聖白蓮を担ぐ妖怪集団の一員で、毘沙門天の関係者だ。
「やっぱりワタシを捕まえる気だな、クソォ」
ワタシは素早く立ちあがって、何時でも動けるように構えを取った。
「随分と元気がいいな。そのままずっと立っていてもいいぞ?」
なんとなく癪に障るのでソファにまた座ることにした。
さっき自分で思ったばかりじゃないか。ワタシをどうこうするつもりなら、寝ている間にどうとでもできたはずだ。
「結局答えを聞いてないぞ、何でワタシを助けるんだ」
「だからさっきも言ったけど、ワタシはキミを助けていない。全部君が勝手にやったことじゃないか」
ナズーリンは物分かりの悪い子どもを諭すように言った。無性にイラッとするが、今はそこじゃない。
何もしていないから助けていないというのは理屈に合っていない。何もしていないことによって私は今まさに助かっているのだから。通報されなかったことについては、先ほどまでは社交性のない妖怪なのだろうと思っていた。起きるのを待って追い出すつもりかと思えた。しかしこいつが命蓮寺のナズーリンだと分かった今、それでは理屈が通らない。
「オマエ命蓮寺の妖怪だろう。何で仲間に通報しないんだ」
「通報されたいのかい?」
「そうじゃない。ただ憐れみで助けられるのは我慢ならない」
「うーん、面倒くさい奴だなあ。言っておくが私は別に命蓮寺の妖怪ではないし、聖の部下でもないぞ」
どういうことだろうか、とワタシは思う。
こいつは確かに命蓮寺の妖怪のはずだ。命蓮寺は聖白蓮を中心に強い結束力を持つ妖怪の集団だという話だった。
「現に私は命蓮寺から離れて、ここで生活している。私は毘沙門天様の使いとして、毘沙門天代理のお目付け役をやっているだけだ。言うなれば監査役さ。監査対象と一緒に住んで、仲良しこよしじゃあ可笑しいだろう?一応名目上は部下だから、ご主人様なんて呼んで、仕事をしたりもするけどね。その結果として聖白蓮を利するように動くこともあるが、彼女にそれほど思い入れは無いよ。立派な人間だとは思うがそれだけだ」
ナズーリンは冷めきった目をしていて、その表情は少し怖かった。連中には連中の関係があるらしい。どうでもいいことだが、取り敢えずワタシにとっては好都合だ。
「だから命じられてもいないのにわざわざ命蓮寺までキミを連れていったりはしない。疲れるからね。不法侵入については遺憾に思うけれど、この通りの仮住まいだ。私の資産はほとんど余所に預けているし、盗んでいくようなものはここにはないよ。それからキミ自身のことだけど、力ずくで追い出すのも面倒だ。私単体のスペックでは苦労しそうだし、毘沙門天様の眷属としての神性を発揮するのはもっと面倒だ」
こいつどんだけめんどくさがりだ。
どうやらナズーリンはワタシのことを現状なんとも思っていない、というか興味が無いようだ。
「これから晩御飯にしようと思うのだけれど、キミはまだ出ていかないようだね」
ナズーリンは鼻歌を歌いながら緑色のエプロンをつけてキッチンに立った。実用重視で可愛げも何もないシンプルなエプロンだ。私は二人掛けのソファに寝転がってナズーリンを見ていた。
ナズーリンはこれまでワタシが出会ったことのないタイプだった。人間も妖怪も含めてだ。大抵の奴はワタシに対してもう少し色々な感情を向けてくる。大抵は憎悪や侮蔑、怒りといった感情だ。あるいは時々、好意や同情、愛情などを向けてくる変わったやつもいる。憎悪は喜びだ。侮蔑には反抗し、怒りは笑い飛ばす。好意には悪意を。向けられたベクトルを反転して返すのがアマノジャクだ。そういう意味で、ワタシは関係性を悩むということがあまりない。やるべきことは常にハッキリしていた。これまでは。
しかしナズーリンからはワタシに対して何のベクトルも向けられていない。ゼロベクトルだ。ワタシに対して何も向けてこないナズーリンに対して、ワタシはどうすればいいのだろう。それはワタシにとって大きな不安であり、少しの楽しみであった。本能に突き動かされるままに、甘言を弄したり、暴言を吐き捨てたりする必要はないらしかった。自分の言葉で話すとはどういうことだろう。
ソファに寝転がっていると、ナズーリンがテーブルに食事を運んできた。私の分もあった。
「ぺペロンチーノとカプレーゼだ。食べたければ食べるがいい」
ナズーリンは食べろとも食べるなとも言わない。
ワタシはお腹が空いているので、それを食べることにした。
いざ食事を前にすると、自分がどれだけ空腹だったのかに気付く。これでもワタシは妖怪だから、少々食べなくったって何ともない。そしてこの10日間、ゆっくり食事を取るような余裕はほとんどなかった。ペペロンチーノの強いにんにくの香りは、今のワタシにとって殆ど猛毒に等しい。口中に唾液が溜まる。フォークを手にすると、巻く時間も惜しく、そのままひっかけて口に運んだ。
ずる、ずるずるっ!
マナーなど知ったことではない。茹でたてアルデンテ、オイルで滑るつるりとしたパスタを、にんにくの香りごと一息に吸い込んだ。
「うっま!」
クソ。他人を手放しに賞賛してしまった。アマノジャクの本能から瞬時に不快感が汲み出されるが、空腹を前にしたにんにくの暴力に為すすべもなく叩きのめされる。
「うまっ!うんめぇ!」
ずるずるっ、ずるずるずるずるっ!!
口の中がパスタでいっぱいになってしまったところで、カプレーゼがワタシを呼んでいることに気付いた。宝石のように輝くトマトと、もう食べるまでもなく美味いと分かる真っ白なモッツァレラチーズ。ワタシは導かれるままにその二つの輝きをフォークで刺し貫き、まとめて口に叩き込む。
「・・・!・・・・・・!!」
言葉にならないとはこのことだ。何が食べるまでもなく美味い、だ。ワタシはこのチーズの美味さを100分の一も理解してはいなかった。鬼人正邪愚かなり!
「そ、そんなに空腹だったのか。もう少し作ってこようか?」
そうナズーリンに声をかけられるまで、ワタシはその存在をすっかり忘れていた。くそったれ。めっちゃ恥ずかしい。ナズーリンの見ている前でグルメ評論家並みのリアクションを繰り広げてしまった。
・・・それはそれとしてワタシはその発言に甘えることにした。2回おかわりした。
食後。
コーヒーでも飲みたまえ、というナズーリンの勧めを丁重に固辞(アマノジャク)したワタシは久しく感じることが無かった安堵感と、充足感に酔いしれていた。ワタシはアマノジャクでありながら、一妖怪でもある。自分に正直に生きることが常にワタシの幸せではあるけれど、そのことに疲れないなんてことは無いのだ。下剋上なんてやめて、気楽で安穏とした生活を送りたい、そう思わないわけでもない。しかし、その声に身をゆだねた瞬間、ワタシはアマノジャクとして死んでしまうのだ。アマノジャクとしてこの世にある以上、ワタシはすべてに叛逆(アマノジャク)していたい。
そう、だからこれはあくまで準備期間でしかない。休みたくて休んでいるのではない。妖力と体力を回復しつつ、ほとぼりが冷めるのを待っているのだ。これは叛逆の布石なのだ。
「決して楽な方に流されているのではムニャムニャ・・・」
少しづつ部屋が暗くなっているようだ。
「キミの瞼が閉じそうなだけだよ」
ナズーリンが何か言っている。
もう少しだけ意識をはっきりさせないと。これは聞いておかないと。
「おいナズーリン」
「なんだい」
「ワタシは当分ここに潜伏するぞ。ここにずっといてやる!」
ワタシはワタシの望みを言った。ナズーリンが矢印を向けてこないのなら、ワタシが先に何か言わなくちゃいけない。ワタシが言ったことにナズーリンはどう反応するだろう。
断れ、断れ、断れ、断れ・・・!
「ふむ、ずっとは困るな。さっさと出て行ってくれたまえ」
やった。
あーしょうがないなー。
ワタシはアマノジャクだからなー。
「出ていけと言われたので当分御厄介に・・・グー」
「喋ってる途中で寝る奴があるか。子どもかい君は」
C・プ
・・・・・・・・・・・・・・\( )
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侵入者が家にいることは、帰宅の前に分かっていた。我が家のセキュリティは優秀だ。鬼人正邪が家に上がり込んでのんきに寝ている、という配下のネズミからの報告には流石に驚いたが、その報告には何の誤りもなかった。
ネズミにそんなことができるのか、と思う人間もいるかもしれないが、ネズミは人間が考えているよりずっと優秀だ。そもそもネズミには大きく分けると2種類いる。ハツカネズミなど、手のひらサイズの所謂マウス。多くの人間がネズミと聞いて思い浮かべるのは主にこっちだ。そしてドブネズミなど大型、いわゆるラットだ。ラットはあまり人間の前に出てこないし、ドブネズミ、というような名前のとおり、あまり人間には好かれない。しかしラットは小型犬なみの知能を持ち、人間の顔も判別できる。ハムスターなどに比べれば、ペットとしては優秀だろうに。
ま、私の配下のネズミはほとんど妖獣一歩手前であるからして、そのへんの野生種より更に優秀なのだけれど。
ともかく、私は心の準備をしたうえで帰宅したわけだ。
しかし蓋を開けてみればどうだ。本当にただ寝ているだけじゃないか。そのあまりに無防備な寝姿に思わず笑ってしまった。放り出すのもばかばかしくて、ついつい餌付けしてしまった。
私の目の前のソファでは、正邪がまたも無防備に眠っている。鼻をつまんでやるとふがふが言ってなかなか面白い。どうして私はこいつを置いてやる気になっているのだろうか。不思議なものだ。常識的に考えれば、拘束して命蓮寺まで連行するべきだ。命令を受けていないとはいえ、指名手配中の妖怪である。ましてや相手は天邪鬼だ。毘沙門天の使いとして、誅すべき存在ではないか。
自分の行動にいろんな理由を求めてみる。むしゃくしゃしてペット買ってきちゃった、みたいな感じだろうか。なんとなくそれは近いかもしれない。聖の救出に成功し、もう長らく私の力を使う機会も減ってしまった。前ほど多くを求められなくなった。そう考えるとなんだか結婚できない女の典型例のようで、自分で少し自嘲する。野良犬を可愛がっているようなものだろうか。いや、こいつの気まぐれさはむしろ野良猫か。懐く様子が想像できないし。
まあ、私か、彼女が飽きるまで、ここに置いてやるのもきっと楽しいだろう。
そう思った。
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目を覚ますと、家の中にナズーリンの気配がなかった。
出かけたのだろうか。ソファから身を起こすと、大きく伸びをする。やはりベッドに比べればその寝心地は大きく劣る。野宿同然のこれまでに比べれば、このソファでもはるかにいい筈なのだが。やはり贅沢は際限が無い。ふとテーブルを見ると書き置きがあった。
「なになに、外にシャワーがあるので入ること、服は洗濯すること、部屋を汚さないこと、か。ふっふっふ、やーなこった」
ワタシは命令だの指示だのと言ったものには従わないと決めている。むしろこんなことを書かれてしまってはその逆をやらざるを得ない。そうして帰宅したナズーリンがそれに気付いて怒るところを想像すると愉快で仕方ない。
しかし。
そうなればいよいよここを追い出されるだろう。基本スペックがかりに互角だとしても、本気を出されては毘沙門天の神性に敵うはずが無い。この場所は今すぐ出ていくには惜しい場所だった。
「うーむむむ。・・・お?」
唸っていると、書き置きの裏側に文字が透けているのに気づいた。
「裏返すと・・・、なになに。追伸、この書き置きの指示には必ず従わないこと」
思わず笑ってしまった。表に書かれた3つの指示はナズーリンが考える最低限の居候の条件、ということなのだろう。私は別に言われたことの逆を何でもやる機械ではないので、自分に不利なことの反対を言われたからといって、そういうものに従ったりはしない。この追伸は明らかにアマノジャクであるワタシを操ろうという意思が透けて見えて腹立たしい。
腹立たしいがしかし、
「しょーがないなあ、従うな、なんて言われたら従うしかないじゃないか、もー」
私は寝床とおいしい食事が恋しかった。くそ。
ほ、ほとぼりが冷めるまでなんだからね!
シャワーはシャワー室と脱衣所がセットになった小さな建物で、一度外に出ないといけないようになっていた。ナズーリンの服からいくつか見つくろってタオルを持ってシャワーへ。さっき気付いたけれど、ワタシとナズーリンは体形が似ているらしく、ほとんどの服が着られそうだ。
シャワーは裏手の井戸から水を引いているようだ。キッチンやトイレも同様だろう。お湯はボイラーで沸かしているみたい。シャワーの裏手を覗くと、小型犬並みのバカでかいネズミが薪を運んでいた。ワタシが覗いていることに気が付くとネズミはこっちを向いて、小さく会釈した。見なかったことにしてシャワーを浴びた。
気分がさっぱりする。久しくなかった感覚だ。思考が鋭く動き出すような感覚がした。
ただ、身体を包んでいるのが全身ナズーリンの服というのが精神衛生上よろしくない。そこのところはあんまり考えないようにして、私は部屋へと戻った。
この家には本が多い。基本的に全ての壁は本棚になっていて、様々な本がぎっしり詰まっている。歴史書の横にレシピ集があるかと思えば、旅行記と数学書が並んでいる。ワタシは秩序を嫌い混沌を好むアマノジャクであるからして、こういう適当な収納には好感を覚える。
ワタシは本が好きだ。きわめて原始的なレベルで言えば、ページをひっくり返すあの感覚が心地いい、というのもあるが、重要なのは知識と言葉だ。他人を動かすのに必要なものは力のある言葉だ。弱者が小手先で振るえるもっとも大きな力が知識だ。革命にはいつも大義名分が必要で、その言い訳を考えるのがアマノジャク。暴動やパニックにも、屁理屈を与えればそれは革命になる。怒りや空腹、イライラなど、雑多な感情の発露でしかないそれらに誰かがもっともらしい高尚な言葉を与えれば聖なる戦いに変化する。
人間は自らが生み出した言葉によって支配されている。そのことをいつも意識しているワタシはだから、本を読むのも好きなのだ。
本棚を物色していると、面白そうな文庫本があったのでソファに寝そべって読むことにする。
半分ほど読み進めたところで、ふと喉の渇きが気になった。
キッチンへ。
誰もいないナズーリンの家を我が物顔で闊歩していると不思議な気分になる。ここはひょっとしてワタシの家なんじゃないだろうか。違うけど。違うけどそうじゃないだろうかという面白味があるのだ。
キッチンには彩度の低い家の中で唯一目を引く黄色いケトルがあった。そう言えばナズーリンは昨日コーヒーを飲んでいたっけ。これを使ったのだろう。コーヒーなんて高級品を常飲しているとは、随分と高貴な暮らしじゃないか。家に資産はおいてないといっていたが、結構金持なのだろうと思う。
食糧庫と思しき扉を開けると、様々な食材が常備されていた。その一角にコーヒー豆が入った袋がいくつか置かれている。種類も量も豊富だ。これだけあれば何処かへ持って行って転売するだけでも暫く困らない程度の金になる。
この手の幻想郷の外でしか手に入らないものは、妖怪の賢者、中でも結界を管理する八雲と、経済を握る錬金術師組合が組織する渉外購買部によって外界から持ち込まれる。品目によって細かく取り決められた量が人間の里や妖怪の山に卸売されているはずだ。塩や魚、砂糖といった生活物資はそれなりの量が安価に流通しているが、嗜好品となるとその金額は跳ね上がる。コーヒー豆も推して知るべし。
しかしワタシは折角のコーヒーに興味はない。ワタシはコーヒーが好きではないのだ。嗜好品としての飲料ならば専ら紅茶党である。食糧庫を数分ひっかきまわすと、はたして缶入りの紅茶が見つかった。ティーポットは無かったが別に緑茶の急須で間に合う。茶濾しは外した方がいいけれど。
ケトルのお湯が湧くのをじっと待っている。ワタシがコーヒーを嫌いな理由は、上から注いだお湯が、重力に逆らうこともなく、粛々と下へ下へと滴り落ちていく様が気に入らないからだ。粉の中を通過しながら徐々に濁ってサーバーへたどり着く液体を、どうにも口にしたいと思わない。
ケトルのお湯が湧いた。急須にお湯を少し注いで捨てる。ワタシは違いの分かるアマノジャクであるからして、余裕があれば細部にもこだわる。ティースプーンで紅茶を投入し、お湯を注ぎ込む。おいしい紅茶を入れるには、お湯の中で紅茶が舞うように動くジャンピングが重要だと言われている。対流が起きて混沌とする急須の内部を想像しながら待っていると、自然と心が湧きたつ。何事も混沌が望ましい。混ざっていなくては。
下剋上をするというワタシに、いろんな奴がいろんなことを言ったが、その中で特に多かった台詞は
「弱者と強者が入れ替わっても、また新たな弱者と強者が生まれるだけだ」
と。
ちゃんちゃら可笑しいと言わざるを得ない。そんなことは百も承知だ。そうなったらそうなったで、また新しい弱者を焚きつけて下剋上させればいいのだ。ヒエラルキーが入れ替わり続ける。人類の歴史を見ても健全な状態だ。連中が何を勘違いしたのか分からないが、ワタシは別に平等な社会など求めていない。むしろそれはワタシの最も嫌いなものだ。全てが混ざり切って均質で、安定している。そんなものになんの面白みがあるというのか。ワタシは何度でもひっくり返す。死ぬまでひっくり返す。
茶葉が熱い湯の中で動き回っている。
わくわくしながら数分待って、カップを用意する。さっき取り出した茶濾しをカップの縁に付けて、そこに急須から紅茶を注ぐ。澄んだ琥珀色の液体が流れ出る。全てが激しく行きかう混沌の中で生成された香りと深みだ。これこそこのアマノジャクにふさわしい。
ナズーリンがどれだけコーヒーを愛しているか知らないが、これを飲めばきっと気も変わるだろう。あれはきっと上から下に落ち切って、冷えつつあるのだろうと思う。
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帰宅すると正邪はソファでさかさまになって本を読んでいた。背もたれに足をかけ、そっくりかえっている。かえって疲れそうだが本人はいたってリラックスしたようすだ。まあいいか。正邪が読書していることは意外ではあった。こいつは如何にも教養のない小悪党という感じで、実際おおむねその通りではあるのだが、しかし読書を楽しむような知性もあるわけだ。
部屋を見渡したところ、正邪は思惑通り書き置きの指示に従わなかったようだ。しばらくここにいる意思があるのだろう。
そうしていると突然、声をかけられた。
「おお、おかえり」
それは完全に不意打ちであった。さかさまのままの正邪の口からそれは放たれた。暫く聞いていない言葉。ここに家を建てて以来、帰宅時に初めて聞く言葉だ。
「帰ってきた家に誰かいるのはいいもんだ」
と思う。
「あ?なんで?」
つい口から洩れてしまった言葉に正邪は疑問符を投げかけてきた。
「暖炉が部屋を暖めるまで、待たなくて済むからさ」
「あ、っそう。晩飯何?」
正邪にとっては大した質問ではなかったらしい。
「今日はリゾットとコンソメスープだ。食べなくていいぞ」
「じゃ食べる」
こいつとは二度目の食事だが、正邪は本当によく食べる。この細い体のどこにそれだけの量が入るのかと疑問を感じるほどだ。昨日は久々の食事というのもあっただろうから、それも納得できたのだが、彼女の食欲は一晩経っても全く衰えていないようである。
エネルギーを使って生きているからだろうか。幻想郷中の話題をこれだけの短期間にかっさらい、とても正気とは思えないほどたくさんの妖怪や人間を敵に回して、暴れまわっているから、それだけ食べないとやっていけないのかもしれない。食事のマナーもあったものではないが、淡々とまずそうに食べるよりは美味そうに頬張ってくれた方が、まあ作りがいがあるだろう。
私はよく不味そうに食事をする、と評されることがある。別にそんな風に思っているわけではないのだけれど。私は食事というものにそれほどこだわっていないから、それが態度に顕れるのだろうか。美味しいに越したことは無いと思うけれど、味気なくたって腹にたまれば同じだ。
料理の腕は寅丸星と長く潜伏していたころに自然に身に付いたものだ。料理に心を落ち着かせる力があることは承知していた。彼女の精神は長く不安定であったから、必要にかられて習得したまでのことだ。習慣で今でもこうして毎食自分で作っているけれど、あり合わせでも構わない。
正邪は違うのだろうな。
ほっぺたにご飯粒をつけたままリゾットをかきこんでいるこの妖怪は。
「なんだよ、私の顔に何かついてるか?」
正邪は不審そうに私を見返した。面白かったから何でもないと答えてそのままにしておいた。
欲望に対して素直なんだろう。自分の本能に逆らえない奴を、私は愚か者だと断じてきた。理性によって自分を律して、自分の欲望をコントロールする。それが理性ある生き物のあるべき姿だろう。しかし目の前で人が作った食事をむさぼり食うこの妖怪は、まあ愚か者には違いないけれど、しかし見下す気には少しもならない。こいつは全身から、生きている、って実感をみなぎらせている。
省エネを信条にしている私は、だから冷たい奴だと思われるのだろうか。命蓮寺でも新顔の響子やぬえが、私をあまり好いていないことには気付いていた。それを別段気にもしていない。しかし、それも仕方が無いのかもしれない。正邪を見ているとそういう気がした。
だって友人にするなら、私だって私みたいに仏頂面よりも、正邪を友人にしたい。
私は正邪が二杯目のリゾットをからにするまで、彼女のことをずっと見つめていた。
食事を終えた正邪は、ソファでうつらうつらし始めた。
まるで命蓮寺の近所で遊んでいる悪ガキのようだ。好き放題して、おなかいっぱい食べて、眠くなったら寝る。子どものような振る舞い。しかし私はその姿に不快感を覚えはしなかった。むしろ好ましい、と。
そこまで考えて私は自分の思考の暴走に歯止めをかける。天邪鬼に騙される奴なんてのは馬鹿だ。
しかしそんな馬鹿の気持ちが私にはよく分かった。こんなにも非力で、破滅的な性格、本能に忠実な生き方、浅知恵。どうしてこんな奴がここまで生きてこられたのか。その答えに私は気付きつつあった。薄汚く、ちっとも懐かない野良猫に、こうして餌付けしてしまう、愚か者がいるからだ。
間抜け面を晒してとうとう本格的に寝入り始めた正邪をソファに横たえさせ、クローゼットから毛布を持ってくる。新聞で見た少名針妙丸とかいうやつは、どうだったのだろうか。騙され、裏切られ、捨てられた今も、針妙丸は正邪を心の底から嫌ってはいないだろう。何故かそんな気がした。
「ゆっくりお休み、鬼人正邪」
彼女が聞いていなければ、好きなように声をかけられる。
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ワタシがここにきて5日が経とうとしていた。相も変わらず悠々自適な毎日を送っている。上げ膳下げ膳、毎日ご飯はおいしいし、どこに行っているのか知らないが、ナズがいない日中は本を読んだり新たな下剋上の計画を練ったり。肝心の計画には全く身が入らないけれど。
ワタシの仕事は毎日、洗濯をすることだけ。といってもこの家にはナズのやつがナントカいう古道具屋から買ってきた洗濯機なるハイテク機器が設置してあるから、ワタシの仕事はあまりない。この洗濯機というやつは、でかい筒に洗濯ものと水、洗濯石鹸を入れると勝手に掻きまわして洗濯してくれるという優れものだ。里の一般家庭には置いていないからきっと高級品だろう。動力は雷を瓶詰めにした電気とかいうものらしい。本で読んだのとは少し違うような気がするが、昨日ナズが買ってきた電気を見せてくれた。お徳用の大きな瓶詰で、洗濯機に与えると、美味そうにむしゃむしゃと食べていた。
ワタシはこの洗濯機がいたく気に入ってしまった。ぐるんぐるんとかき回される洗濯ものは何時間見ていても飽きない。後は洗い終わった洗濯ものを二本の筒の間にぐるぐる通して脱水し、外に干したらワタシの仕事はおしまい。楽なもんだ。
そしてワタシはナズがいつも漂わせているいい香りの正体が、この洗濯石鹸にあることも突き止めた。決してわざとらしくない僅かに甘い香り。強い香りをつけないのは妖獣だから嗅覚が鋭いせいだろうと思う。ナズの服やベッドの甘い香りはこれだったのだろう。
しかし考えてみると今はワタシも同じ服を着ている。自分の匂いを嗅ぐと確かによく似た甘い香りがするのだけれど、ナズのベッドの香りとは少し違う気がする。
ワタシは真相を突き止めるべく、洗濯ものを取り込んだ後、家の中へと戻る。ナズはいつも7時ごろに帰って来るので、まだ時間は結構あるはずだ。ナズのベッドに近付くと、洗濯石鹸の淡い匂いがする。自分がいま着ている服の袖を引っ張って嗅いでみる。やはり少し違う気がする。
不思議なものだ。元は同じ匂いのはずなのに。
「もう少し詳しく調べる必要がある」
誰に対する報告なのか分からないが、ワタシはそう言って、布団をめくった。ほんの少しだけ匂いが強くなる。たぶん気のせいの範疇だろう。より詳細な調査の必要性を感じて、枕のあたりに顔を近づける。頭の中の冷静なアマノジャクが、お前はいったい何をやっとるんだという冷たい目でワタシを見ている。違うんだ。これは違うの。
そう、ワタシはこのベッドの心地良さに負けて、無防備にも眠ってしまったのだ。もしもこの先、ワタシを追いかける賞金稼ぎの類が、これと似たような罠を仕掛けていたら危険だろう。だからこれはやむを得ない、必要な調査活動である。
更に言えばどうだろう、誰しも自分の寝床を他人にかぎまわられたらいい気はしない。きっとナズも嫌がるはずだ。つまり
「つまりこれは正当なアマノジャク活動っ・・・!」
圧倒的正当性と脳内世論の後ろ盾を得た今の私は支持率100%。
ナズの枕におずおずと顔を押し付けると、ゆっくりと息を吸い込む。
「・・・!!」
ワタシを甘やかすナズの柔らかな存在感が鼻腔から脳へ浸食を開始し、ワタシの脳はナズーリンに乱暴に乱暴される。これは完全に麻薬。然るべき機関に通報して然るべき措置を講じて然るべきだ。
「これはナズが悪いのであって、ワタシの無罪は約束されたようなもの・・・!」
精神鑑定を要求しよう。判断能力皆無。鬼人正邪被告は無罪。無罪です。
うおおお。
「正邪・・・?」
フリーズ。
完全に時が止まった。
背後から聞こえた声は常識的に考えてナズーリン。しかしながらこの完全に凍りついた空気を鑑みるに十六夜咲夜、あるいはチルノである可能性が濃厚である。
恐る恐る振り返ると、はたしてナズーリンがそこにいた。
現行犯だ。
ナズーリンは警察ではないが、現行犯逮捕は一般市民にも可能。
満身創痍!負け犬・・・!
「なんだ、変な時間に眠くなったんだね。私も今日はなんだか疲れたよ」
ナズは目をこすりながらこちらに近づいてくる。
後ろめたさが勝って道を譲ると、ナズは倒れ込むようにベッドに入り、そのまま寝息を立て始めた。
「せ、セーフ!」
やはりここ最近のワタシはついている。
そして分かったことが一つ。コレ、ナズーリン自身の体臭だ。
閑話休題ってことでひとつ勘弁して。
居候先で家主の体臭を嗅いでヘブン状態になっていたアマノジャクはいなかった。
いいね?
それはそうと、ナズの帰宅時間は思ったほど早いわけではなかった。むしろワタシがナズのベッドに突っ伏していた時間が長かった。やっぱり麻薬だよこれ。くそ。
ナズはなんだか疲れていたようで、着替えもせずにベッドで寝息を立てている。ナズが日中何をしているのかは、あまり詳しく聞いたことが無い。てっきり命蓮寺の仕事をしているのかと思ったが、必ずしもそうではないようだった。
「場末の探偵のやるようなしごとさ」
とナズは言っていた。失踪した飼い犬の捜索とか?
とにかくナズはお疲れモードで、すぐには起きそうにない。問題は、今日の晩御飯をどうするかということだった。逃亡中は2、3日絶食してもへっちゃらだったのに、慣れというのは怖いもので、毎日同じ時間に夕食を食べることを、ワタシの体は既に当たり前だと感じているらしかった。空腹である。
ナズを無理やりたたき起こして作ってもらってもいいのだけれど、ワタシにその勇気はなかった。無防備に眠るナズーリンに近づくことを想像すると、明らかにまたヘブン状態に突入してしまうだろうという確信があった。自分への信頼感が凄い。どう考えても良くないことになりそうなので、その案は却下である。計画のためには時に欲望をコントロールすることが必要だ。これまでも様々な計画の中で、ハメをはずして台無しにしてしまったことがあるのがワタシ。針妙丸が追手を差し向けてきたのだって、私怨が混じっている可能性が無いとは言えない、もといその可能性が高いのだから。
とにかく夕食はナズが起きるまで待つか、さもなければ自分で調達するしかない。
食糧庫を物色しながらワタシはため息をつく。
料理なんてほとんどしたことが無いのだ。自分で時間をかけておいしいものを作るくらいなら、他人が作ったものを横から頂く方が手っ取り早いし、気分がいい。これまでなんだかんだで食事を作ってもらえる機会が多かったこともあり、本格的に料理を練習しようとしたこともない。何でか知らないが私は食事を作ってもらいやすい体質?らしい。針妙丸が作る和食もなかなか美味かったしなあ。ナズの食事と甲乙つけがたい。
おっと、今はワタシが何を作るかの話だった。
「ワタシに作れる料理なんて・・・」
戸棚にあるものを見つけて、ふと思いつく。
確かにこれなら作ることができる。ただ、これは夕食としてはどうだろう。いやどうだろうというか、これは無いだろう。しかし他に思いつくものもないし。
これは、針妙丸に出会うよりさらに前、小人の姫を誘拐するためにある妖怪を騙して一緒に行動していた時だ。なんでもひっくり返すのが好きだというワタシにそいつはだったらコレを作ってよ、とレシピを教えてもらったのだ。
これがあるってことはナズも嫌いではないのだろう。その点は大丈夫だ。
そこでふと、自分がナズの分も作ろうとしていることに気付く。何を考えているのだ。ワタシがお腹が空いたから作るだけであって、ナズの分までワタシが作ってやる義理は無い。恩には仇で返すのがアマノジャクじゃないか。だからナズの分は作ってやらない。
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ふと目を覚ますと、何やら甘い匂いが部屋に充満していた。
食欲が刺激され、急速に意識が覚醒し始める。
「う、うーん」
私は寝てしまっていたようだ。着替えもしないでベッドに直行してしまうとは。これまでならあまりなかったことだ。一人で暮らしているときは、帰ってきても部屋は冷えているし、誰にも起こしてもらえない。起きても食事もないのだから、疲れていても眠りはしなかった。
ベッドから身を起こすと、正邪がキッチンにいるのが見えた。私のエプロンをしている。
「あ、お、おはよう」
正邪はどうしてか、顔を赤らめ、俯いたまま声をかけてきた。
「ん?ああ、おはよう。すまない寝てしまったようだ」
「別に謝ることないだろ。ナズがナズの家でいつ寝ようがワタシには関係ない」
なんだかいつもより素直で、少しかわいらしい。こんな正邪は初めて見る。
「どうかしたのかい?」
と聞いても、
「な、なんでもない!」
というだけで、そのまま黙ってしまった。
どうやら正邪は何かを作っているようだった。まあキッチンにいるのだから料理しているのは自然なことだ。しかし料理ができそうには見えなかったが、。天邪鬼は見た目には寄らないのか、おいしそうな甘い香りがしている。私がテーブルに着くと正邪は皿を2枚持ってキッチンからやってきた。私の分と正邪の分。
「ああ、夕食を作ってくれたのか?」
皿に乗っていたのはホットケーキだった。棚にあったホットケーキミックスを見つけたのだろうか。
「お、恩返しとかじゃないぞ。恩には仇で返すのがアマノジャクだからな。でも良く考えたら私は勝手にナズの家に潜伏して、ナズの作る飯も勝手に横取りして食べているだけだから、特に恩を感じる必要もないって気付いただけだからな。このホットケーキは、そのぅ、もっと焦がしたりしてダメにすると思ったから多めに作ったら、予想以上に美味くいって食べきれなくなったやつを、くれてやるだけだぞ!」
正邪はそこまで一息に言いきると、不機嫌そうにドスンと座り、ホットケーキを食べ始めた。
うちの居候がかわいすぎる問題だ。とんだ夜更かしになってしまう。
「そうか、じゃあ勝手にいただくことにしよう」
夕食にホットケーキという不可解な献立は、正邪がこれしかまともに作れる料理が無いからではないかということに気付いたとき、自然と口角が上がるのを押さえられなかった。
シロップのよく染みたホットケーキは、噛むと熱い液体で口中を満たし、疲れた体に浸透していった。
「そう言えば正邪、私が帰ってきたときベッドに寝ていたね」
私がふとそういった瞬間
「うぐっ、ぐ、ゲホッ、…!……!!」
と正邪は盛大に咳き込んで目を白黒させ始めた。
ホットケーキをのどに詰まらせたらしい。慌てて食べるからだ。
水を飲ませてやり、背中をさすっていると、よほど苦しかったのか顔を真っ赤にした正邪が、涙目で私の手を振り払った。
「も、もういいよ!」
「ふむ、ひと口であんまりいっぱい食べるからだよ」
正邪は恨めしそうに私を見ていた。なんだというのか。
「えーと、そうそう。ベッドの話だ。やはりソファでは寒いんじゃないか?」
「別にそんなことないけど…」
正邪はそういうが、わざわざベッドで寝ていたのだから
「ああ、寝心地の問題かな。ソファは少し柔らかすぎるからね」
なにかしらの理由で、正邪がベッドで寝たがっているのは明白である。
しかしながらここでベッドで寝ろというと、またぞろこの天邪鬼は固辞しそうだし、どうにかすると絨毯の上で寝たりしかねない。だからこういう。
「まあキミがどんなにベッドで眠りたくても私は許可しないよ。キミはこれまで通りソファで寝てくれたまえ。絶対にベッドに入ってきてはいけないよ?」
私がそういうと、何故か正邪は赤くなって睨めつけてきた。
天邪鬼の本能を利用して命令をされたのがお気に召さなかったのだろうか。怒っているのだろう。
「わ、ワタシはアマノジャクだから、そんなことを言うとベベベ、ベッドに入って寝てやるぞ」
「だから入ってくるなといってるじゃないか」
「知らないぞ、どうなっても知らないからな」
「…?」
正邪は謎の捨て台詞を吐くと、食器を下げにいってしまった。
ひっくり返す天邪鬼だけに、寝相でも悪いのだろうか。
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ナズのアホが変なことを言い始めたせいで、ナズと一緒に寝る羽目になってしまった。くそ。
私は決して、天地神明に誓って言うが、ナズと一緒に眠りたいなんて思っていない。だいたいあの匂いに包まれては興奮して眠るどころじゃゲフンゲフン。ただナズが絶対に入ってくるなといって嫌がるので、一緒に眠って困らせてやりたいだけだ。ナズの奴、さぞ嫌がるだろう。
…嫌がるか?
流石のワタシもナズがワタシをベッドで寝せるためにあんなことを言ったことぐらい分かっている。私は別に馬鹿じゃない。ワタシがベッドに入っていったってナズは何にも気にしないだろう。嫌がらせになんかなるはずない。
だというのにどうしてナズはあんなことを言うのだろう。もっと分からないのは、それを分かっていながら、流されるままにナズと一緒に寝ようとしているワタシ自身だ。さっぱり分からない。私は何だか心細くなってきた。この家を見つけたときワタシは凄くついていて、ラッキーだと思っていたけれど、それは違ったのではないか。あのナズーリンという妖怪に、ワタシはペースを崩され続けている。ワタシはこのままアマノジャクではなくなってしまうんじゃないだろうか。何より恐ろしいのは、ワタシがそのことを思ったほど恐れていないということだった。
なんとなく先に寝ている気になれなくて、ベッドの端に腰かけていると、ナズがシャワーを浴びて戻ってきた。
「先に寝ていてよかったのに」
なんて、バカなことを言う。そんなことできっこない。
なんとなく何も言い返せなくて、ナズがベッドに入るのに合わせれ、ワタシも布団をかぶる。何を間違ってこんなことになってしまったんだろう。命をかけたあの逃飛行の日々から、まだ5日しかたっていないのに、ワタシは何をやってるんだろう。落差が激しすぎて、感覚が追いついてこなかった。
なんとなくナズには背を向けて、キッチンの方を向いて眠る。寝床に自分以外の誰かがいるのはいつ振りだろう。さっさと眠ってしまおうと目を閉じるけれど、視覚が遮断されたことでいっそう嗅覚が鋭敏になる。ナズーリンに全身を抱きすくめられているような錯覚になる。こいつは小柄だから、そんなことできっこないのに。ワタシは優しさに飢えた意地っ張りで、ここは牢獄だ。
突然、後ろからナズが腕を回してきた。余りのことに息が止まってしまう。
「キミは体温が高いな。寝苦しいから離れてくれ」
そんなことを、言う。他意は無いのだ。こいつに他意はない。
ばかばかしい。ワタシを湯たんぽか何かと勘違いしているのだ。このネズミは。
ワタシの中に理性などという高尚なものがあったとして、仮にあったとして、それはこの瞬間に完全に失われてしまった。自分の体が自分のコントロール下を離れるのがハッキリと分かった。
ワタシは勢いに任せて振り返ると、そのままナズの上に覆いかぶさる形になった。
「この馬鹿ネズミめ。このアマノジャクを閨に誘い込んで、ただで済むと思うなよ」
暗くてほとんど何も見えないが、ワタシの下でナズーリンが困惑しているのが分かった。そのまま肩を押さえこむ。大した重みもないワタシの全体重をかけると、それでも小柄なナズは息が詰まったようだ。
「くそ、お前のせいだぞ、お前がこんな…」
ワタシが愚にもつかないような言葉を並べていると、体の下のナズがうめき声を小さく上げた。
はっとして少し力を緩めるとナズは、
「げほっ、突然何をするんだ。全く。息苦しいからさっさと離れ…て…。…!」
ナズが失言に気付いて小さく息をのむのが分かった。
「い、今のなし!取り消…んむ!」
ワタシはそのままナズの唇を塞いだ。
何もかも失った野良妖怪を住まわせたりするのが間違いなんだ。飯を食わせてやったり、ベッドに入れてやったりして、全部こいつのせいだ。こいつが悪い。こいつが…。
どれだけ思考を巡らせても無駄だった。
そんなものは何の足しにもならない。ナズにどれだけ非があっても、それでワタシの非が軽減されたりはしないのだ。傷つけたくないものほど傷つけ、好かれたい相手ほど嫌われる。それがアマノジャクの、ワタシのあり方だ。
「んー、んむーむー!!」
ナズがワタシの体を非力な腕で押し、叩いてくる。
やめろ、それは逆効果だ。
抵抗されたことによってワタシの中のアマノジャクが異状興奮し、ワタシの意識は風前のともしびになる。ワタシは制限された僅かな思考領域で必死でそれに抵抗し、自分で自分の頭をぶったたいた。
反射で頭をのけぞらせ、ナズーリンが一瞬、解放される。
激しくせき込み、見上げてくるナズに伝えるべき言葉は一つだ。
「お願いだから抵抗するな。頼むから、どうか、…受け入れて」
息切れてナズの目に浮かんだ涙が光るのが見えた。その瞳にはまだ理性が見て取れた。
無茶苦茶で、理不尽なことを言っている。それは分かっている。
それでもナズは、ワタシの言葉を理解してくれたようで、体の力を抜いて、ワタシの下で大人しくなった。
ワタシは卑怯(アマノジャク)で、理不尽(アマノジャク)で、愚か者(アマノジャク)だ。
今ほどそれを疎ましく思ったことは、無い。
それから1カ月近く、ワタシとナズの共同生活は続いた。
あの翌朝、どうしてナズがワタシを追い出さなかったのかは分からない。ナズはあの晩のことをすっかり忘れたかのように振る舞った。卑怯なワタシは、やっぱり何にもなかったかのように振る舞った。
それでも何も変わらなかったわけではなかった。ワタシはあれ以来ベッドには近づいていない。ソファで寝るようになっていた。ナズはワタシがいるところで不用意に着替えたりしなくなった。
この1カ月はワタシにとって余りに居心地がいい日々だった。ナズはいいやつだ。間違いない。この場所で本を読んだり、ナズとくだらない話をして、おいしい食事を食べて。ずっとそうやっていられたらいい。そう思うのだけれど。やっぱりワタシはアマノジャクだから。そうはならないのだろう。きっと。
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力によって屈服させられたのは、知性と理性を尊ぶ私にとって屈辱的なことだった。油断大敵。全く持って自分の不明が嘆かわしい。餌付のつもりがひっかかれるなんて。自分がこんなに愚かだとは思わなかった。
正邪に、否、正邪の中の天邪鬼に蹂躙され、奪われた夜を思い出すと、私は屈辱と羞恥、そして怒りで頭がどうにかなりそうになる。心身に凌辱を受けたことはしかし、元をただせば自分の不注意が原因であることは明白だ。正邪は何度も警告をしていた。しかし私がそれを見落としていたのだ。私は正邪を、それこそペットか何かと勘違いをしていたのだ。そんな自分の身から出たさびであるからこそ、余計に腹立たしいのである。
正邪にも悪いことをしてしまった。あれ以来彼女は私に対して過剰に気遣わしげだ。あの一件は8割がた私のせいであると思うのだが、正邪はそうは思っていないようだった。
あのとき、必死で声をかけてくれた正邪の、苦しそうな顔を見て私は気付いてしまった。
鬼人正邪は、私たちが思っている以上に天邪鬼なのだ。
鳥が鳥であるように、人が人であるように、正邪は天邪鬼なのだ。
彼女は非常に悪辣で、卑怯で、薄情な妖怪であるが、言い換えればそれは、天邪鬼としての自分のあり方に対してそれだけ誠実だということでもある。吸血鬼が血を吸わずにいられないように、鬼が戦わずにはいられないように、正邪は天邪鬼であらずにはいられない。
正邪は自分と向き合い、自分に誠実であり、そして時にはそんな自分と戦い、苦しみもする。そのことに気がついてしまって、私はもう正邪のことを野良猫のようには扱えなくなってしまった。
正邪がいつでも活発で、何時でも貪欲で、その様が時にカッコよく、愛おしく思えるのは、彼女が一生懸命だからなのだと分かってしまった。食事して、寝て、そんな彼女をいつだったか子どものようだと評したが、その理解ではまだ浅かった。子どもが、悪ガキでさえも、ほほえましいのは、彼らが精一杯生きていて、自分について真剣に考えているからだ。そうしてその魅力が鬼人正邪にも溢れていた。
それは私がもう随分と前に忘れてしまっていたことだった。妖怪としてどう生きるのか、私はもう長らくそんなことを考えていない。
いま思えば、私が当初正邪をかくまっていた理由は、私が酷く退屈していたからなのだろう。
私は自分の知性や能力を出し惜しみせず、試すことができる環境を欲してきた。毘沙門天に使えているのも、連中から提示される無理難題と言うべき任務の数々を、己の才覚で処理するのが楽しいだけ。毘沙門天も私のそういう気質を分かった上で使っているにすぎない。
命蓮寺にもさほどの帰属意識を持つことができないでいた。聖白蓮は、追い求めているうちこそ何物にも代えがたい存在であったが、手に入れてしまえばもうそれ以上心には響かなかった。温厚な寅丸星の下では、この先緊張と恐怖で痺れるような任務を得ることもないだろう。
自分の薄情さに辟易とすることが増えていた。たった二人で人間たちから身を隠し、意識を削るような諜報活動と、綿密な計画。寅丸星との潜伏生活はスリルに満ち満ちていた。あの頃の彼女は今とは違って、抜き身の槍のような雰囲気を身にまとっていた。私以上の思考の冴えを見せるときもあれば、圧倒的力で敵をねじ伏せることもあった。私は確かにアレを尊敬していたし、今もそのはずだ。互いに誰よりも信頼し合っていた。今はそうだろうか。
白蓮を取り戻した彼女は、相棒としての私を必要とはしていない。優秀な部下として、あるいは付き合いの長い友人として、求めることはあっても。
そうこれは極めて幼稚なシナリオから始まったことだ。寅丸星と毘沙門天への小さな裏切り。これは退屈を忘れるための浮気だったのだ。今思えば。
しかし今私はその思いつきを恥じている。
正邪のひたむきさ、一生懸命さを見たいま、彼女を私のくだらない感傷で縛り付けておくのは間違いだったと思う。同時に、彼女と出会えたこと自体は幸運であったとも思う。
私にとって正邪はもう慰めを与えてくれる野良猫なんかではない。もっと掛け替えのないなにか。
バカな私のために、自分(アマノジャク)と戦ってくれた正邪の、あの泣きそうな、苦しそうな目を思い出すたび、再び彼女を、今度こそ心から抱きしめたいと願う自分のはしたなさを、全く笑うに笑えない。
彼女に何かを望んではいけない。そんなこと分かっていたのに。
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「今日はベッドで寝ないでくれ」
なんて突然ナズが言ってきたとき、私はもう終わりが近いのだと思った。
ナズはずっと私に無関心だった。何かを望むこともなく、何かを拒むこともなかった。それは全てを失ってここにたどり着いた私にとって、余りにも居心地のいい場所だった。ずっとここにいられたらいいのにって、そう思ってしまうくらいに。
でも、終わりの気配は近付いてきた。
ふと気付いたとき、ナズがワタシを、すごく優しい目で見ていることが増えた。
ワタシを、アマノジャクとしてのワタシを、よく分かってくれて、気を使ってくれた。
あんなにも酷いことをしたのに、彼女はワタシを責めることも、許すこともしないでいてくれた。
言動の端々に、彼女からの暖かい好意を感じるようになっていた。
それが泣くほどうれしく、泣くほどつらかった。
ワタシは生まれついてのアマノジャク。
完全無欠にアマノジャクだ。
これまでも、そしてこれからも。
たくさんのものを裏切ってきた。
たくさんの好意を踏みにじってきた。
だから今更それを受け取ることはできないんだ。
ねえ、ナズ。気付いているはずなのにどうして。
もう少し、ここにいたかった。
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灯りを消してベッドに入り込む。
少し遅れて正邪もベッドに入ってきた。空気が張り詰めていて、なんだか息苦しい。この1カ月、この家は何時だって穏やかで、居心地のいい空気だったのに。それも今日まで。
正邪は私が何を言おうとしているのか、気付いているのだろう。
愚かなことをしようとしている。それは分かっている。正邪がそれを望んでいないことも分かっている。私にだって決して理想的な結末じゃない。それでも告げずにはいられない言葉がある。伝えずにはいられない思いがあるんだ。それをキミが分かってくれるといいけれど。
私は結局終わりのそのときが惜しくて、ぐずぐずとしてしまう。
私と正邪は、天井を見つめながらずっと黙っていた。
このまま眠って何事もなかったように、また明日から始めようか。新しく始めてまたこうして、ずっとずっとここで一緒に暮らそうか。そんな思いが脳裏にちらつく。
でもそんなのは一時しのぎにしかならない。
言葉には出さなくったって、正邪もきっと気付いているはずだから。そうして引き延ばしている間に、突然終わってしまうのはもっと悲しいことだから。
だから言おう。
キミに告げよう。
少しだけ、力を貸してほしい。
私が正邪の方を向くと、正邪もおずおずと私の方を向いた。
今度は背中からじゃなく、正面から彼女を抱きしめる。正邪の体が一瞬こわばって、だけどそれを受け入れてくれた。彼女の腕が背中側に回された。今こんなにも幸せだ。
なのにそれを今から手放そうとしているのだ。私は。
だって仕方が無いだろう。
誇り高く、自分(アマノジャク)と生きるキミを好きになったんだからね。
「なあ正邪、私はキミを愛しているよ」
言ってしまった。
もう後には引けないんだ。
涙が静かにこぼれた。
「ずっとここに居て欲しい。すっと一緒にいたい」
張り裂ける胸の痛みは、いつかきっと癒えるから。
「毎日一緒に食事しよう。毎晩一緒にここで眠ろう」
だから今は言え。言ってしまえ。全てがキミに伝わるように。
キミが持って行けるように。
「ねえ正邪、好きだ。ずっとここで一緒に暮らそう」
全部言いきって正邪を見た。
真っ暗な部屋の中でも額を押し付けるほど近づけば、彼女の顔が見えた。
正邪は一瞬泣きそうな顔をして、こらえて、結局涙を流した。
でも顔を伏せ、あげたときには、見とれるくらいかっこいい笑みを浮かべていた。
「残念だったな。ワタシはおまえが大嫌いだ。出ていくよ、ナズ。二度とここには来ない」
ああ、その言葉が聞きたかったんだよ。
目を覚ますと部屋には私一人だった。
ベッドにも、ソファにも、私の他には誰も眠っていなかった。
私たちの恋は昨夜、確かに実り、そして終わった。
そのことを自覚すると、じわっと、熱い涙がこぼれた。
こんな泣き虫は私じゃない。
自分のありように驚いてしまう。
私はこんなにも真剣に誰かを愛せるし、それはこの先もずっと。
起きると、テーブルに何か置いてあるのが分かった。
ホットケーキとミルクティーだった。
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全ては終わってしまった。
始まって、すぐに終わってしまった。
だけどそれが無駄だったとはちっとも思わない。ワタシの胸にはたくさんの思いが残ったし、ナズにも何かが残っているとしたら嬉しい。
出がけにホットケーキを焼いてきた。
途中でナズが起きてきたら台無しだから、音を立てないように随分とひやひやしたけれど。
ワタシが振る舞って以来、ナズはホットケーキが好物になったようだった。だからホットケーキを置いてきた。あれはワタシがナズに残していくものだ。これからナズがホットケーキを作るとき、あれをひっくり返すたびに私のことを思い出すはずだ。…たぶん。そうして泣くだろう。泣いてくれると嬉しい。ワタシはアマノジャクだからな。
そして、食糧庫のコーヒー豆は全部いただいてきた。ナズの家を出て、これから当分身を隠す潜伏場所が必要だ。これだけ全部売り払えば、当座の資金には足りるだろう。
ついでにナズが紅茶の美味しさに目覚めてくれれば御の字だ。
晴れやかな気分で空を見上げる。
私はきっとこれからも、こういうことを繰り返して生きていくんだろう。
紅茶の茶葉がティーポットの中をぐるぐると回るように、ぶつかり合って、いろんなものと混ざって、混沌として。望んでも二度と再び起こり得ないたくさんの出会いと別れの中で、抽出された暖かいものが、香り高く、澄んでいるだろう。
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ふむ、どうしたものかと考えながら、私は暖炉に火を熾した。
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状況が悪すぎる。
私は夕闇に隠れるようにして、林の中を疾駆する。なんとか10日間を生き延びたはいいが、あいつら本当にバカなんじゃないかと思う。まともな神経じゃない。吸血鬼だの天人だのと、寄ってたかってコケにしやがって。
針妙丸を利用したワタシの下剋上計画は博麗の巫女らによって頓挫した。頼みの綱であった打ち出の小槌は正当な所有者である針妙丸にしか使えない。現状では小槌そのものも、針妙丸の身柄も博麗の巫女によって確保されてしまっていた。それ以前の問題として針妙丸がもうワタシの計画に乗るつもりが無いという意味でこの計画は破綻してしまっている。
実際、針妙丸が中心となって始まったワタシの討伐隊によって、今ワタシはこれだけ苦労させられている。裏切られた分際でワタシを助けようなどという甘ったれた考えに虫唾が走った。そう、ヤツは私を助けようとしているのだ。呼びかけを面白がって集まったほかの連中がどう考えているか知らないが、少なくとも針妙丸はワタシに罰を受けさせることで、この幻想郷の中にワタシの居場所を作ろうとしているのだ。ヤツはワタシが考えていた以上に公明正大で、勇敢で、私の嫌いなタイプだった。誰かを助けてやろうなんて、これ以上に上から目線の発想があるだろうか。アレも所詮は強者の側だったのだ。
最後の弾幕を避けきったとき、あの妖怪の賢者はどこか満足気だった。あのしたり顔で何でも分かっていますという態度に虫唾が走る。そもそも連中の言う不可能弾幕それ自体が大変不可解なものだ。連中はスペルカードルールを違反しながら、しかしそれに準ずるある種のルールを守っているようだった。そうでなければあの面子を相手にワタシの命がここまでもっているはずが無い。ワタシは逃げ脚と悪知恵にこそ幾らか自信があるが、基本的なスペックは決して高くない。いやこれでも随分と盛った表現だ。ワタシはハッキリと弱者である。それを隠すつもりもない。強い妖怪と本気の殺し合いになれば待っているのは即死だ。
であるにも関わらず、ワタシはこうして生きている。勝者であるはずなのに、十人が見れば十人全員が敗走にしか見えないであろう有様で。八雲紫だ。奴が何かを企んでいるのは間違いない。
今は逃げるべきだ。
食料と、寝床が必要だった。
木々がまばらになり、しかしよりいっそう不気味な雰囲気になっていく。彼岸花。彼岸花。ここは無縁塚だ。ここに来たのは偶然ではなく、意図があってのこと。
無縁塚は逃亡先として必要な要件を揃えている。妖怪や人間の主要な活動拠点から距離があること。色々なものが外界から流れ着いていて、物資の補給に困らないこと。そして余りの危険度ゆえに近づくものが少ないことだ。無縁塚に近寄ってはいけない、というのは里でも常識だし、妖怪であってもよほどの変わり者か、特別な対策を持っているものでなければ、ここに来ることは無い。
無縁塚は境界が綻びやすいことで知られている。自然発生的な神隠しで別の世界や時空の狭間に突き落とされる確率が、他の場所に比べておよそ100倍、などと言われている。まあ100倍とはいっても0.00001%が0.001%になる、というぐらいの違いであって、これを高いと見るか低いと見るかはそれぞれだろう。しかし時空の狭間に閉じ込められては、いかな不死身の怪異とて助かる手段は無い。むしろその結末は不死身であればあるほど恐ろしいものだろう。
ワタシを追いかけていた連中の熱意というか温度、を鑑みるに、自分の身を危険にさらしてまでワタシを仕留めたがっている奴はいなさそうだった。強者だろうが弱者だろうが同じ確率で容赦なく飲み込むステージギミックだ。連中の首とワタシ一人の首では重みが違う。相対的にワタシが有利になるはずだった。
ここまでするのにはもちろん理由がある。ワタシは決して自殺志願者ではないし、むしろその辺の妖怪よりはるかに強く生に執着している。問題はワタシの道具たちにある。
聖人だの吸血鬼だのを相手取るには、道具の力を惜しみなく使う必要があった。限界に近い酷使。当然の帰結としてガス欠という悪夢が目前に迫っていた。連中にもそれはバレていると考えてまず間違いない。取り敢えずアイテムなしでは絶対に勝ち目のない強者が、決してこない場所に逃げる必要があったのだ。
もちろん八雲紫のことを忘れているわけではない。
境界管理者である八雲には、神隠しなど怖くないだろう。
しかしアレに襲われたらどうしようなどということを考えるのは、雪合戦に機関銃を持ち出されたらどうしようと考えるのと同じで、つまり何の意味もない。ワタシには意味のないことをのんきに考えている余裕が無いので、こうして夕暮れの無縁塚を走り回っているのである。
どんどん日が傾いて、山の稜線に半分ほど隠れ始めたころ、ワタシは一軒の掘っ立て小屋を発見した。見つかりにくい岩場なり木陰なりが見つかれば御の字だと思っていたところにこれだ。大丈夫、ワタシはまだついている。
そっと近寄って気配を確認するが、中には誰もいなようだ。息をひそめられていたら気付けないかもしれないが、それを心配するのはやり過ぎだろう。身代わり地蔵やひらり布はあと数回の使用には耐えられる。
ワタシは思ったより建てつけのいいドアのノブを握り、そっとそれを開く。玄関は靴を脱いで上がるよう一段高くなっているが、誰の靴もない。鍵がかかっていなかったから誰かいるかと思ったが、やはり無人か?
寒さ対策か、二重になっていた玄関の戸を開けると中は意外と広かった。果たしてそこは無人だった。
間取りも何もないぶち抜きの一部屋。粗大ごみとアンティークの中間に存在するようなテーブルを囲むように一人掛けのソファと、二人掛けのソファが一脚づつ置かれている。壁には暖炉があり、火は入っていない。どうやらリビングスペースらしい。暖色の絨毯が敷かれていた。その奥には左側にカウンターキッチンが、右側にはこれまた古めかしい大きなベッドがあった。
なんとなく居心地がいいと感じるような部屋だった。淡く彩度の低い落ち着いた空間で、置いてあるものがどれも古臭い。しかし住んでいるもののセンスを思わせるアンティーク調の部屋だ。
確かに誰かが住んでいる形跡がそこかしこにあって、何か盗むならさっさとしなければならない。しかしワタシはこの空間の居心地の良さの虜になりつつあった。何時家主がかえってくるかわからないのだ、ということを理性が声高に叫んでいるが、ワタシの体は欲望に素直に、ふらふらとベッドの方へ足を進めていた。あの逆さ城にはワタシの寝室があったが、考えてみるとあれ以降まともな場所で眠った覚えが無い。いやそもそもまともに睡眠をとった覚えさえなかった。体が休息を欲していた。
妖怪の賢者を含む名うての強者たちでも捉えられなかったワタシを捕まえたのは、なんだかいい香りがするベッドだった。
コーヒーの香りで暗い水の底から意識が引き上げられる。身動ぎすると毛布から片足が出てしまったが、想像した冷たさは襲ってこなかった。違和感とともに徐々にまともな思考力がワタシの中に戻ってくる。ここは…、そう名も知らぬ誰かの家だ。なんてこった。ワタシはこんなわけのわからない場所で寝てしまった、それもかなり熟睡してしまったようだった。
部屋が暖かい。暖炉に火が入っているのだと分かった。この空間にはワタシ以外の誰かがいる。恐怖感に身を縮ませるが、どちらかというと見知らぬ侵入者はワタシの方だということに気がついて、少しおかしくなる。音を立てないように慎重に顔を覗かせると、ソファに誰かが腰かけているのが見えた。本を読みながらコーヒーを啜っているらしい。優雅なもんだ、ヒトの気も知らないで、といつもなら理不尽に毒づくところだが、しっかりと眠った充足感からか、そんなマイナス感情は湧きあがらなかった。
ソファの誰かは見たところかなり小柄だった。ワタシもかなり小柄なほうだが、そいつもどっこいどっこいだろう。
そうしてみていると、視線を感じたのか、ソファに座っていたそいつが不意に口を開いた。
「おや、ようやくお目覚めかな」
ワタシは答えに窮した。どうやらそいつはワタシが寝ていることに気付いていたらしい。というか、まあ。それは気付いて当り前だろう。これだけ堂々と他人のベッドで眠っていれば分かろうというものだ。問題はどういうつもりでワタシをそのまま寝かしていたのかというところだった。
「まだ頭がハッキリしていないようだな。何度か起こしたんだよ」
どうやらワタシが気付かなかっただけのようだった。
ワタシは結構図々しい奴だという自覚があったけれど、ここまでとは思わなかった。凄いなワタシ。
そいつは鼠色のショートヘアから丸っこい耳を覗かせていた。妖獣らしい。まあただの人間が無縁塚なんぞに住みつくはずが無いとは思っていたが。
少しだけ安心できる材料として、どうやらそいつはネズミの妖獣らしかった。小動物ベースの妖獣は身体的にさほどスペックが高くない。油断は禁物だが、一方的にどうこうされることはなさそうだ。ワタシはまだついている。
「取り敢えず起きたらどうかな、そこは私の寝床だよ」
見た目に似合わぬ尊大な口調でそう声をかけられて、ふと、このベッドの香りが目の前のこの女の匂いだということを意識してしまう。カッと瞬間的に顔に血が集まるのが分かった。
「・・・ふん」
とワタシは鼻を鳴らして、ベッドから起き上がった。寝過ぎたとき特有の倦怠感が圧し掛かった。起きろ、と言われなくて良かったと思う。命令されれば逆らいたくなるのがワタシだ。これ以上あのベッドに包まれていたら、何か変な気を起こしていたかもしれない。
そいつはまだ本を読んでいて、私のことを欠片も恐れていない様子だった。いや、そもそも興味が無いのだろうか。なんとなく腹が立って、ソファのほうに歩みよる。
「おはよう寝ぼすけさん、いや、鬼人正邪」
そう突然呼びかけられて、足を止める。体が緊張で堅くなるのが分かった。
「ワタシを・・・、知っているのか」
「私は新聞を毎日読むことにしている」
目の前の妖獣には、どこか見た目に似合わない余裕を感じる。弱者なのか、強者なのか、判断が付かなかった。天狗の新聞を読んでいるなら、ワタシのことも載っていただろう。
「キミはもう少し自分が有名人だという自覚を持った方がいいな。更に言えば逃亡者であり指名手配犯であるという自覚も、持った方がいいね」
相変わらず本を読みながら語るそいつの言葉を聞いて、ワタシの緊張は最大限に高まった。
「オマエ、ワタシのことを通報したな!?」
「・・・」
ワタシに一瞥もくれず、そいつはコーヒーを啜った。
マズイ、マズイ、マズイ・・・。
自分がどのくらい眠っていたのか分からないが、この妖獣がワタシを発見してすぐに然るべき相手に通報したのなら、今すぐにでも討伐隊が群れを為して襲ってくる可能性がある。いや、ひょっとするともうこの小屋は包囲されているんじゃないか?
いやそうに違いない。こいつの落ち着きぶりは、既にここが包囲されていて、自分の身が安全だと確信しているからなのだ。しまった、まさかこんな間抜けなドジで捕まるなんて、最悪じゃないか。
どうする。どうにかしなければ。どうにかこの状況を・・・。
ワタシが思考を巡らしていると、そいつは突然笑い出した。
「クックック…」
「なんだ、何がおかしい!くそっ、やってくれたなこのドブネズミめ。雑魚のくせに粋がるなよ。絶対逃げだしてやるからな。こんなところで捕まるもんか」
「いや…くく、わら…フフッ。笑ってすまない。・・・くくく」
そいつは可笑しくてたまらない様子で、本を置くと、ようやくこちらを向いた。
「何を心配しているのかおおよそ見当は付くけれどね。何処にも通報なんかしちゃいないよ。ご期待に添えなくて申し訳ないけれど」
とっておきのジョークを言うように、そいつはワタシに告げて、また笑った。
「は…。・・・え?」
誰も、来てないのか?
一瞬思考が空白になり、安心でヌルッと体の力が抜けた。
こいつが嘘をついていて、ワタシを油断させるつもりかもしれない、という疑念もある。しかし考えてみれば、少なくともワタシはこいつがコーヒーを入れる間、それどころか冷え切った部屋が暖炉の熱でここまで温まるまでの間、無防備に寝姿をさらしていたのだ。今更ウソをついて油断させる必要などない。ワタシを害する意図があったなら、既に害されきっていなければおかしいのだ
気が付くと、ワタシは絨毯の上に座り込んでしまっていた。
「フフ、想像以上に小心者なんだな」
騙されたのだ。ワタシは。
本来なら腹を立てるべきところだが、安心感の方が勝ってしまって、どうにも締まらない。
「なんだよ、クソ。馬鹿にしやがって」
しかし好意には憎悪で返すのがアマノジャクだ。ワタシは体中から寄せ集めた悪意を抽出して、どうにかこいつにぶつけてやれないかと画策する。ワタシは誰かに助けられるのが大嫌いだ。誰かを助けるのは、強者の贅沢だからだ。ワタシは立ちあがって悪態をつく。
「いつまで笑ってんだ、チクショウ。なんでワタシを助けたんだ」
しかし、思っていたのとは違う反応が返ってきた。
「助けた?ふむ、私は特にキミを助けた覚えがないんだが」
「え・・・?」
またしても答えに窮する。
「助けるも何も、キミが勝手に上がり込んで、勝手に眠っただけだろう。何もしてやった覚えはないぞ。ああ、洋服のことならベッドが汚れるといけないから勝手に着替えさせてもらったよ」
一瞬、何を言っているのか理解できない。
・・・服?
ハテなんのことやら、と腕を組む。そこでふと自分の来ている服の袖が目に入った。覚えのない紺色の袖。
「あ!・・・え?」
慌てて自分の姿を見渡すと、ワタシは全く覚えのない紺色の長そでのTシャツを着ていた。どうにかすると肩が出るほど大きめのサイズで、裾も長めで・・・。
・・・というか裾がワンピースみたいになっていて気付かなかったが、ワタシはボトムスを履いていなかった。下着の上にTシャツを一枚着ただけだ。
「ふゅぁっ!!」
慌てて裾を掴んでその場にまた座り込んでしまう。というか混乱して変な声でたクソ。
「な、な、な、なん…」
「何で寝る前と違う服になっているのか?」
「そ、それ!」
「だから言ったろう?キミの服は汚れていたし、随分と痛んでいたからね。私が脱がせたんだ。それは私の寝巻だよ。キミの服は結構凝ったデザインだったから一点ものだと思ったんだが、あちこちボロボロだったから捨てたよ」
「す、捨てたの?」
「ああ、まずかったかい?お裁縫の得意なオトモダチに直してもらう予定だったなら悪かったよ」
「ち、違う!す、捨てられちゃったらワタシは何を着ればいいんだ」
一張羅、というわけでこそなかったが、逃亡生活のさなか、余計な荷物を持ち歩く余裕はなかったし、ほとんど戦闘でダメになってしまっていた。無縁塚に来た目的の一つは、そのへんの死体から洋服を拝借することでもあったのだ。
「ふん。キミが裸で出て行っても私は一向に構わないけどね。私の着替えならそっちの棚だ」
ワタシはそいつが指差した棚にいそいそと近づくと、中を物色する。
地味な服が多い。その中からもともと私が来ていたものに近い、白いワンピースを取りだした。
信じられない。眠っている間に着替えさせられたなんて。ソファに座る小柄な女を横目で見て、また顔が熱くなるのを感じた。クソ。
ワンピースにそでを通すと、ようやく気持ちが落ち着いてきた。それに伴って、掌の上で転がされたことに無性に腹が立ってきた。ワタシは断りもせず、もう一つのソファに座り、両足をテーブルのうえに投げ出した。
「生傷が目立つが、なかなか綺麗な足だ」
やっぱり足はテーブルの下に下ろした。ワタシは礼儀正しい妖怪だからな。・・・くそ。
「いい加減名前を教えてもらおうか、ネズミ女」
「うん。逃亡犯に名乗る名は無い、ということにしてもいいが、ネズミ女も癪に触るな。私の名前はナズーリンだよ。ただのナズーリンだ」
ナズーリン、ナズーリン・・・。どこかで聞いたことがある名だ。なんだったかな。
そこでワタシはふと幻想郷縁起を思い出した。異変を起こす前、情報収集のために斜め読みした中にその名前はあったはずだ。
「ナズー、リン。・・・!オマエ、命蓮寺の妖怪じゃないか!」
ナズーリンといえばあの憎きくそ尼、聖白蓮を担ぐ妖怪集団の一員で、毘沙門天の関係者だ。
「やっぱりワタシを捕まえる気だな、クソォ」
ワタシは素早く立ちあがって、何時でも動けるように構えを取った。
「随分と元気がいいな。そのままずっと立っていてもいいぞ?」
なんとなく癪に障るのでソファにまた座ることにした。
さっき自分で思ったばかりじゃないか。ワタシをどうこうするつもりなら、寝ている間にどうとでもできたはずだ。
「結局答えを聞いてないぞ、何でワタシを助けるんだ」
「だからさっきも言ったけど、ワタシはキミを助けていない。全部君が勝手にやったことじゃないか」
ナズーリンは物分かりの悪い子どもを諭すように言った。無性にイラッとするが、今はそこじゃない。
何もしていないから助けていないというのは理屈に合っていない。何もしていないことによって私は今まさに助かっているのだから。通報されなかったことについては、先ほどまでは社交性のない妖怪なのだろうと思っていた。起きるのを待って追い出すつもりかと思えた。しかしこいつが命蓮寺のナズーリンだと分かった今、それでは理屈が通らない。
「オマエ命蓮寺の妖怪だろう。何で仲間に通報しないんだ」
「通報されたいのかい?」
「そうじゃない。ただ憐れみで助けられるのは我慢ならない」
「うーん、面倒くさい奴だなあ。言っておくが私は別に命蓮寺の妖怪ではないし、聖の部下でもないぞ」
どういうことだろうか、とワタシは思う。
こいつは確かに命蓮寺の妖怪のはずだ。命蓮寺は聖白蓮を中心に強い結束力を持つ妖怪の集団だという話だった。
「現に私は命蓮寺から離れて、ここで生活している。私は毘沙門天様の使いとして、毘沙門天代理のお目付け役をやっているだけだ。言うなれば監査役さ。監査対象と一緒に住んで、仲良しこよしじゃあ可笑しいだろう?一応名目上は部下だから、ご主人様なんて呼んで、仕事をしたりもするけどね。その結果として聖白蓮を利するように動くこともあるが、彼女にそれほど思い入れは無いよ。立派な人間だとは思うがそれだけだ」
ナズーリンは冷めきった目をしていて、その表情は少し怖かった。連中には連中の関係があるらしい。どうでもいいことだが、取り敢えずワタシにとっては好都合だ。
「だから命じられてもいないのにわざわざ命蓮寺までキミを連れていったりはしない。疲れるからね。不法侵入については遺憾に思うけれど、この通りの仮住まいだ。私の資産はほとんど余所に預けているし、盗んでいくようなものはここにはないよ。それからキミ自身のことだけど、力ずくで追い出すのも面倒だ。私単体のスペックでは苦労しそうだし、毘沙門天様の眷属としての神性を発揮するのはもっと面倒だ」
こいつどんだけめんどくさがりだ。
どうやらナズーリンはワタシのことを現状なんとも思っていない、というか興味が無いようだ。
「これから晩御飯にしようと思うのだけれど、キミはまだ出ていかないようだね」
ナズーリンは鼻歌を歌いながら緑色のエプロンをつけてキッチンに立った。実用重視で可愛げも何もないシンプルなエプロンだ。私は二人掛けのソファに寝転がってナズーリンを見ていた。
ナズーリンはこれまでワタシが出会ったことのないタイプだった。人間も妖怪も含めてだ。大抵の奴はワタシに対してもう少し色々な感情を向けてくる。大抵は憎悪や侮蔑、怒りといった感情だ。あるいは時々、好意や同情、愛情などを向けてくる変わったやつもいる。憎悪は喜びだ。侮蔑には反抗し、怒りは笑い飛ばす。好意には悪意を。向けられたベクトルを反転して返すのがアマノジャクだ。そういう意味で、ワタシは関係性を悩むということがあまりない。やるべきことは常にハッキリしていた。これまでは。
しかしナズーリンからはワタシに対して何のベクトルも向けられていない。ゼロベクトルだ。ワタシに対して何も向けてこないナズーリンに対して、ワタシはどうすればいいのだろう。それはワタシにとって大きな不安であり、少しの楽しみであった。本能に突き動かされるままに、甘言を弄したり、暴言を吐き捨てたりする必要はないらしかった。自分の言葉で話すとはどういうことだろう。
ソファに寝転がっていると、ナズーリンがテーブルに食事を運んできた。私の分もあった。
「ぺペロンチーノとカプレーゼだ。食べたければ食べるがいい」
ナズーリンは食べろとも食べるなとも言わない。
ワタシはお腹が空いているので、それを食べることにした。
いざ食事を前にすると、自分がどれだけ空腹だったのかに気付く。これでもワタシは妖怪だから、少々食べなくったって何ともない。そしてこの10日間、ゆっくり食事を取るような余裕はほとんどなかった。ペペロンチーノの強いにんにくの香りは、今のワタシにとって殆ど猛毒に等しい。口中に唾液が溜まる。フォークを手にすると、巻く時間も惜しく、そのままひっかけて口に運んだ。
ずる、ずるずるっ!
マナーなど知ったことではない。茹でたてアルデンテ、オイルで滑るつるりとしたパスタを、にんにくの香りごと一息に吸い込んだ。
「うっま!」
クソ。他人を手放しに賞賛してしまった。アマノジャクの本能から瞬時に不快感が汲み出されるが、空腹を前にしたにんにくの暴力に為すすべもなく叩きのめされる。
「うまっ!うんめぇ!」
ずるずるっ、ずるずるずるずるっ!!
口の中がパスタでいっぱいになってしまったところで、カプレーゼがワタシを呼んでいることに気付いた。宝石のように輝くトマトと、もう食べるまでもなく美味いと分かる真っ白なモッツァレラチーズ。ワタシは導かれるままにその二つの輝きをフォークで刺し貫き、まとめて口に叩き込む。
「・・・!・・・・・・!!」
言葉にならないとはこのことだ。何が食べるまでもなく美味い、だ。ワタシはこのチーズの美味さを100分の一も理解してはいなかった。鬼人正邪愚かなり!
「そ、そんなに空腹だったのか。もう少し作ってこようか?」
そうナズーリンに声をかけられるまで、ワタシはその存在をすっかり忘れていた。くそったれ。めっちゃ恥ずかしい。ナズーリンの見ている前でグルメ評論家並みのリアクションを繰り広げてしまった。
・・・それはそれとしてワタシはその発言に甘えることにした。2回おかわりした。
食後。
コーヒーでも飲みたまえ、というナズーリンの勧めを丁重に固辞(アマノジャク)したワタシは久しく感じることが無かった安堵感と、充足感に酔いしれていた。ワタシはアマノジャクでありながら、一妖怪でもある。自分に正直に生きることが常にワタシの幸せではあるけれど、そのことに疲れないなんてことは無いのだ。下剋上なんてやめて、気楽で安穏とした生活を送りたい、そう思わないわけでもない。しかし、その声に身をゆだねた瞬間、ワタシはアマノジャクとして死んでしまうのだ。アマノジャクとしてこの世にある以上、ワタシはすべてに叛逆(アマノジャク)していたい。
そう、だからこれはあくまで準備期間でしかない。休みたくて休んでいるのではない。妖力と体力を回復しつつ、ほとぼりが冷めるのを待っているのだ。これは叛逆の布石なのだ。
「決して楽な方に流されているのではムニャムニャ・・・」
少しづつ部屋が暗くなっているようだ。
「キミの瞼が閉じそうなだけだよ」
ナズーリンが何か言っている。
もう少しだけ意識をはっきりさせないと。これは聞いておかないと。
「おいナズーリン」
「なんだい」
「ワタシは当分ここに潜伏するぞ。ここにずっといてやる!」
ワタシはワタシの望みを言った。ナズーリンが矢印を向けてこないのなら、ワタシが先に何か言わなくちゃいけない。ワタシが言ったことにナズーリンはどう反応するだろう。
断れ、断れ、断れ、断れ・・・!
「ふむ、ずっとは困るな。さっさと出て行ってくれたまえ」
やった。
あーしょうがないなー。
ワタシはアマノジャクだからなー。
「出ていけと言われたので当分御厄介に・・・グー」
「喋ってる途中で寝る奴があるか。子どもかい君は」
C・プ
・・・・・・・・・・・・・・\( )
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侵入者が家にいることは、帰宅の前に分かっていた。我が家のセキュリティは優秀だ。鬼人正邪が家に上がり込んでのんきに寝ている、という配下のネズミからの報告には流石に驚いたが、その報告には何の誤りもなかった。
ネズミにそんなことができるのか、と思う人間もいるかもしれないが、ネズミは人間が考えているよりずっと優秀だ。そもそもネズミには大きく分けると2種類いる。ハツカネズミなど、手のひらサイズの所謂マウス。多くの人間がネズミと聞いて思い浮かべるのは主にこっちだ。そしてドブネズミなど大型、いわゆるラットだ。ラットはあまり人間の前に出てこないし、ドブネズミ、というような名前のとおり、あまり人間には好かれない。しかしラットは小型犬なみの知能を持ち、人間の顔も判別できる。ハムスターなどに比べれば、ペットとしては優秀だろうに。
ま、私の配下のネズミはほとんど妖獣一歩手前であるからして、そのへんの野生種より更に優秀なのだけれど。
ともかく、私は心の準備をしたうえで帰宅したわけだ。
しかし蓋を開けてみればどうだ。本当にただ寝ているだけじゃないか。そのあまりに無防備な寝姿に思わず笑ってしまった。放り出すのもばかばかしくて、ついつい餌付けしてしまった。
私の目の前のソファでは、正邪がまたも無防備に眠っている。鼻をつまんでやるとふがふが言ってなかなか面白い。どうして私はこいつを置いてやる気になっているのだろうか。不思議なものだ。常識的に考えれば、拘束して命蓮寺まで連行するべきだ。命令を受けていないとはいえ、指名手配中の妖怪である。ましてや相手は天邪鬼だ。毘沙門天の使いとして、誅すべき存在ではないか。
自分の行動にいろんな理由を求めてみる。むしゃくしゃしてペット買ってきちゃった、みたいな感じだろうか。なんとなくそれは近いかもしれない。聖の救出に成功し、もう長らく私の力を使う機会も減ってしまった。前ほど多くを求められなくなった。そう考えるとなんだか結婚できない女の典型例のようで、自分で少し自嘲する。野良犬を可愛がっているようなものだろうか。いや、こいつの気まぐれさはむしろ野良猫か。懐く様子が想像できないし。
まあ、私か、彼女が飽きるまで、ここに置いてやるのもきっと楽しいだろう。
そう思った。
↑↓↑↓↑↓↑↓↑↓↑↓↑↓↑↓↑↓↑↓↑↓↑↓↑↓↑↓↑↓↑↓↑↓↑↓↑↓↑↓↑↓↑↓↑↓↑↓
目を覚ますと、家の中にナズーリンの気配がなかった。
出かけたのだろうか。ソファから身を起こすと、大きく伸びをする。やはりベッドに比べればその寝心地は大きく劣る。野宿同然のこれまでに比べれば、このソファでもはるかにいい筈なのだが。やはり贅沢は際限が無い。ふとテーブルを見ると書き置きがあった。
「なになに、外にシャワーがあるので入ること、服は洗濯すること、部屋を汚さないこと、か。ふっふっふ、やーなこった」
ワタシは命令だの指示だのと言ったものには従わないと決めている。むしろこんなことを書かれてしまってはその逆をやらざるを得ない。そうして帰宅したナズーリンがそれに気付いて怒るところを想像すると愉快で仕方ない。
しかし。
そうなればいよいよここを追い出されるだろう。基本スペックがかりに互角だとしても、本気を出されては毘沙門天の神性に敵うはずが無い。この場所は今すぐ出ていくには惜しい場所だった。
「うーむむむ。・・・お?」
唸っていると、書き置きの裏側に文字が透けているのに気づいた。
「裏返すと・・・、なになに。追伸、この書き置きの指示には必ず従わないこと」
思わず笑ってしまった。表に書かれた3つの指示はナズーリンが考える最低限の居候の条件、ということなのだろう。私は別に言われたことの逆を何でもやる機械ではないので、自分に不利なことの反対を言われたからといって、そういうものに従ったりはしない。この追伸は明らかにアマノジャクであるワタシを操ろうという意思が透けて見えて腹立たしい。
腹立たしいがしかし、
「しょーがないなあ、従うな、なんて言われたら従うしかないじゃないか、もー」
私は寝床とおいしい食事が恋しかった。くそ。
ほ、ほとぼりが冷めるまでなんだからね!
シャワーはシャワー室と脱衣所がセットになった小さな建物で、一度外に出ないといけないようになっていた。ナズーリンの服からいくつか見つくろってタオルを持ってシャワーへ。さっき気付いたけれど、ワタシとナズーリンは体形が似ているらしく、ほとんどの服が着られそうだ。
シャワーは裏手の井戸から水を引いているようだ。キッチンやトイレも同様だろう。お湯はボイラーで沸かしているみたい。シャワーの裏手を覗くと、小型犬並みのバカでかいネズミが薪を運んでいた。ワタシが覗いていることに気が付くとネズミはこっちを向いて、小さく会釈した。見なかったことにしてシャワーを浴びた。
気分がさっぱりする。久しくなかった感覚だ。思考が鋭く動き出すような感覚がした。
ただ、身体を包んでいるのが全身ナズーリンの服というのが精神衛生上よろしくない。そこのところはあんまり考えないようにして、私は部屋へと戻った。
この家には本が多い。基本的に全ての壁は本棚になっていて、様々な本がぎっしり詰まっている。歴史書の横にレシピ集があるかと思えば、旅行記と数学書が並んでいる。ワタシは秩序を嫌い混沌を好むアマノジャクであるからして、こういう適当な収納には好感を覚える。
ワタシは本が好きだ。きわめて原始的なレベルで言えば、ページをひっくり返すあの感覚が心地いい、というのもあるが、重要なのは知識と言葉だ。他人を動かすのに必要なものは力のある言葉だ。弱者が小手先で振るえるもっとも大きな力が知識だ。革命にはいつも大義名分が必要で、その言い訳を考えるのがアマノジャク。暴動やパニックにも、屁理屈を与えればそれは革命になる。怒りや空腹、イライラなど、雑多な感情の発露でしかないそれらに誰かがもっともらしい高尚な言葉を与えれば聖なる戦いに変化する。
人間は自らが生み出した言葉によって支配されている。そのことをいつも意識しているワタシはだから、本を読むのも好きなのだ。
本棚を物色していると、面白そうな文庫本があったのでソファに寝そべって読むことにする。
半分ほど読み進めたところで、ふと喉の渇きが気になった。
キッチンへ。
誰もいないナズーリンの家を我が物顔で闊歩していると不思議な気分になる。ここはひょっとしてワタシの家なんじゃないだろうか。違うけど。違うけどそうじゃないだろうかという面白味があるのだ。
キッチンには彩度の低い家の中で唯一目を引く黄色いケトルがあった。そう言えばナズーリンは昨日コーヒーを飲んでいたっけ。これを使ったのだろう。コーヒーなんて高級品を常飲しているとは、随分と高貴な暮らしじゃないか。家に資産はおいてないといっていたが、結構金持なのだろうと思う。
食糧庫と思しき扉を開けると、様々な食材が常備されていた。その一角にコーヒー豆が入った袋がいくつか置かれている。種類も量も豊富だ。これだけあれば何処かへ持って行って転売するだけでも暫く困らない程度の金になる。
この手の幻想郷の外でしか手に入らないものは、妖怪の賢者、中でも結界を管理する八雲と、経済を握る錬金術師組合が組織する渉外購買部によって外界から持ち込まれる。品目によって細かく取り決められた量が人間の里や妖怪の山に卸売されているはずだ。塩や魚、砂糖といった生活物資はそれなりの量が安価に流通しているが、嗜好品となるとその金額は跳ね上がる。コーヒー豆も推して知るべし。
しかしワタシは折角のコーヒーに興味はない。ワタシはコーヒーが好きではないのだ。嗜好品としての飲料ならば専ら紅茶党である。食糧庫を数分ひっかきまわすと、はたして缶入りの紅茶が見つかった。ティーポットは無かったが別に緑茶の急須で間に合う。茶濾しは外した方がいいけれど。
ケトルのお湯が湧くのをじっと待っている。ワタシがコーヒーを嫌いな理由は、上から注いだお湯が、重力に逆らうこともなく、粛々と下へ下へと滴り落ちていく様が気に入らないからだ。粉の中を通過しながら徐々に濁ってサーバーへたどり着く液体を、どうにも口にしたいと思わない。
ケトルのお湯が湧いた。急須にお湯を少し注いで捨てる。ワタシは違いの分かるアマノジャクであるからして、余裕があれば細部にもこだわる。ティースプーンで紅茶を投入し、お湯を注ぎ込む。おいしい紅茶を入れるには、お湯の中で紅茶が舞うように動くジャンピングが重要だと言われている。対流が起きて混沌とする急須の内部を想像しながら待っていると、自然と心が湧きたつ。何事も混沌が望ましい。混ざっていなくては。
下剋上をするというワタシに、いろんな奴がいろんなことを言ったが、その中で特に多かった台詞は
「弱者と強者が入れ替わっても、また新たな弱者と強者が生まれるだけだ」
と。
ちゃんちゃら可笑しいと言わざるを得ない。そんなことは百も承知だ。そうなったらそうなったで、また新しい弱者を焚きつけて下剋上させればいいのだ。ヒエラルキーが入れ替わり続ける。人類の歴史を見ても健全な状態だ。連中が何を勘違いしたのか分からないが、ワタシは別に平等な社会など求めていない。むしろそれはワタシの最も嫌いなものだ。全てが混ざり切って均質で、安定している。そんなものになんの面白みがあるというのか。ワタシは何度でもひっくり返す。死ぬまでひっくり返す。
茶葉が熱い湯の中で動き回っている。
わくわくしながら数分待って、カップを用意する。さっき取り出した茶濾しをカップの縁に付けて、そこに急須から紅茶を注ぐ。澄んだ琥珀色の液体が流れ出る。全てが激しく行きかう混沌の中で生成された香りと深みだ。これこそこのアマノジャクにふさわしい。
ナズーリンがどれだけコーヒーを愛しているか知らないが、これを飲めばきっと気も変わるだろう。あれはきっと上から下に落ち切って、冷えつつあるのだろうと思う。
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帰宅すると正邪はソファでさかさまになって本を読んでいた。背もたれに足をかけ、そっくりかえっている。かえって疲れそうだが本人はいたってリラックスしたようすだ。まあいいか。正邪が読書していることは意外ではあった。こいつは如何にも教養のない小悪党という感じで、実際おおむねその通りではあるのだが、しかし読書を楽しむような知性もあるわけだ。
部屋を見渡したところ、正邪は思惑通り書き置きの指示に従わなかったようだ。しばらくここにいる意思があるのだろう。
そうしていると突然、声をかけられた。
「おお、おかえり」
それは完全に不意打ちであった。さかさまのままの正邪の口からそれは放たれた。暫く聞いていない言葉。ここに家を建てて以来、帰宅時に初めて聞く言葉だ。
「帰ってきた家に誰かいるのはいいもんだ」
と思う。
「あ?なんで?」
つい口から洩れてしまった言葉に正邪は疑問符を投げかけてきた。
「暖炉が部屋を暖めるまで、待たなくて済むからさ」
「あ、っそう。晩飯何?」
正邪にとっては大した質問ではなかったらしい。
「今日はリゾットとコンソメスープだ。食べなくていいぞ」
「じゃ食べる」
こいつとは二度目の食事だが、正邪は本当によく食べる。この細い体のどこにそれだけの量が入るのかと疑問を感じるほどだ。昨日は久々の食事というのもあっただろうから、それも納得できたのだが、彼女の食欲は一晩経っても全く衰えていないようである。
エネルギーを使って生きているからだろうか。幻想郷中の話題をこれだけの短期間にかっさらい、とても正気とは思えないほどたくさんの妖怪や人間を敵に回して、暴れまわっているから、それだけ食べないとやっていけないのかもしれない。食事のマナーもあったものではないが、淡々とまずそうに食べるよりは美味そうに頬張ってくれた方が、まあ作りがいがあるだろう。
私はよく不味そうに食事をする、と評されることがある。別にそんな風に思っているわけではないのだけれど。私は食事というものにそれほどこだわっていないから、それが態度に顕れるのだろうか。美味しいに越したことは無いと思うけれど、味気なくたって腹にたまれば同じだ。
料理の腕は寅丸星と長く潜伏していたころに自然に身に付いたものだ。料理に心を落ち着かせる力があることは承知していた。彼女の精神は長く不安定であったから、必要にかられて習得したまでのことだ。習慣で今でもこうして毎食自分で作っているけれど、あり合わせでも構わない。
正邪は違うのだろうな。
ほっぺたにご飯粒をつけたままリゾットをかきこんでいるこの妖怪は。
「なんだよ、私の顔に何かついてるか?」
正邪は不審そうに私を見返した。面白かったから何でもないと答えてそのままにしておいた。
欲望に対して素直なんだろう。自分の本能に逆らえない奴を、私は愚か者だと断じてきた。理性によって自分を律して、自分の欲望をコントロールする。それが理性ある生き物のあるべき姿だろう。しかし目の前で人が作った食事をむさぼり食うこの妖怪は、まあ愚か者には違いないけれど、しかし見下す気には少しもならない。こいつは全身から、生きている、って実感をみなぎらせている。
省エネを信条にしている私は、だから冷たい奴だと思われるのだろうか。命蓮寺でも新顔の響子やぬえが、私をあまり好いていないことには気付いていた。それを別段気にもしていない。しかし、それも仕方が無いのかもしれない。正邪を見ているとそういう気がした。
だって友人にするなら、私だって私みたいに仏頂面よりも、正邪を友人にしたい。
私は正邪が二杯目のリゾットをからにするまで、彼女のことをずっと見つめていた。
食事を終えた正邪は、ソファでうつらうつらし始めた。
まるで命蓮寺の近所で遊んでいる悪ガキのようだ。好き放題して、おなかいっぱい食べて、眠くなったら寝る。子どものような振る舞い。しかし私はその姿に不快感を覚えはしなかった。むしろ好ましい、と。
そこまで考えて私は自分の思考の暴走に歯止めをかける。天邪鬼に騙される奴なんてのは馬鹿だ。
しかしそんな馬鹿の気持ちが私にはよく分かった。こんなにも非力で、破滅的な性格、本能に忠実な生き方、浅知恵。どうしてこんな奴がここまで生きてこられたのか。その答えに私は気付きつつあった。薄汚く、ちっとも懐かない野良猫に、こうして餌付けしてしまう、愚か者がいるからだ。
間抜け面を晒してとうとう本格的に寝入り始めた正邪をソファに横たえさせ、クローゼットから毛布を持ってくる。新聞で見た少名針妙丸とかいうやつは、どうだったのだろうか。騙され、裏切られ、捨てられた今も、針妙丸は正邪を心の底から嫌ってはいないだろう。何故かそんな気がした。
「ゆっくりお休み、鬼人正邪」
彼女が聞いていなければ、好きなように声をかけられる。
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ワタシがここにきて5日が経とうとしていた。相も変わらず悠々自適な毎日を送っている。上げ膳下げ膳、毎日ご飯はおいしいし、どこに行っているのか知らないが、ナズがいない日中は本を読んだり新たな下剋上の計画を練ったり。肝心の計画には全く身が入らないけれど。
ワタシの仕事は毎日、洗濯をすることだけ。といってもこの家にはナズのやつがナントカいう古道具屋から買ってきた洗濯機なるハイテク機器が設置してあるから、ワタシの仕事はあまりない。この洗濯機というやつは、でかい筒に洗濯ものと水、洗濯石鹸を入れると勝手に掻きまわして洗濯してくれるという優れものだ。里の一般家庭には置いていないからきっと高級品だろう。動力は雷を瓶詰めにした電気とかいうものらしい。本で読んだのとは少し違うような気がするが、昨日ナズが買ってきた電気を見せてくれた。お徳用の大きな瓶詰で、洗濯機に与えると、美味そうにむしゃむしゃと食べていた。
ワタシはこの洗濯機がいたく気に入ってしまった。ぐるんぐるんとかき回される洗濯ものは何時間見ていても飽きない。後は洗い終わった洗濯ものを二本の筒の間にぐるぐる通して脱水し、外に干したらワタシの仕事はおしまい。楽なもんだ。
そしてワタシはナズがいつも漂わせているいい香りの正体が、この洗濯石鹸にあることも突き止めた。決してわざとらしくない僅かに甘い香り。強い香りをつけないのは妖獣だから嗅覚が鋭いせいだろうと思う。ナズの服やベッドの甘い香りはこれだったのだろう。
しかし考えてみると今はワタシも同じ服を着ている。自分の匂いを嗅ぐと確かによく似た甘い香りがするのだけれど、ナズのベッドの香りとは少し違う気がする。
ワタシは真相を突き止めるべく、洗濯ものを取り込んだ後、家の中へと戻る。ナズはいつも7時ごろに帰って来るので、まだ時間は結構あるはずだ。ナズのベッドに近付くと、洗濯石鹸の淡い匂いがする。自分がいま着ている服の袖を引っ張って嗅いでみる。やはり少し違う気がする。
不思議なものだ。元は同じ匂いのはずなのに。
「もう少し詳しく調べる必要がある」
誰に対する報告なのか分からないが、ワタシはそう言って、布団をめくった。ほんの少しだけ匂いが強くなる。たぶん気のせいの範疇だろう。より詳細な調査の必要性を感じて、枕のあたりに顔を近づける。頭の中の冷静なアマノジャクが、お前はいったい何をやっとるんだという冷たい目でワタシを見ている。違うんだ。これは違うの。
そう、ワタシはこのベッドの心地良さに負けて、無防備にも眠ってしまったのだ。もしもこの先、ワタシを追いかける賞金稼ぎの類が、これと似たような罠を仕掛けていたら危険だろう。だからこれはやむを得ない、必要な調査活動である。
更に言えばどうだろう、誰しも自分の寝床を他人にかぎまわられたらいい気はしない。きっとナズも嫌がるはずだ。つまり
「つまりこれは正当なアマノジャク活動っ・・・!」
圧倒的正当性と脳内世論の後ろ盾を得た今の私は支持率100%。
ナズの枕におずおずと顔を押し付けると、ゆっくりと息を吸い込む。
「・・・!!」
ワタシを甘やかすナズの柔らかな存在感が鼻腔から脳へ浸食を開始し、ワタシの脳はナズーリンに乱暴に乱暴される。これは完全に麻薬。然るべき機関に通報して然るべき措置を講じて然るべきだ。
「これはナズが悪いのであって、ワタシの無罪は約束されたようなもの・・・!」
精神鑑定を要求しよう。判断能力皆無。鬼人正邪被告は無罪。無罪です。
うおおお。
「正邪・・・?」
フリーズ。
完全に時が止まった。
背後から聞こえた声は常識的に考えてナズーリン。しかしながらこの完全に凍りついた空気を鑑みるに十六夜咲夜、あるいはチルノである可能性が濃厚である。
恐る恐る振り返ると、はたしてナズーリンがそこにいた。
現行犯だ。
ナズーリンは警察ではないが、現行犯逮捕は一般市民にも可能。
満身創痍!負け犬・・・!
「なんだ、変な時間に眠くなったんだね。私も今日はなんだか疲れたよ」
ナズは目をこすりながらこちらに近づいてくる。
後ろめたさが勝って道を譲ると、ナズは倒れ込むようにベッドに入り、そのまま寝息を立て始めた。
「せ、セーフ!」
やはりここ最近のワタシはついている。
そして分かったことが一つ。コレ、ナズーリン自身の体臭だ。
閑話休題ってことでひとつ勘弁して。
居候先で家主の体臭を嗅いでヘブン状態になっていたアマノジャクはいなかった。
いいね?
それはそうと、ナズの帰宅時間は思ったほど早いわけではなかった。むしろワタシがナズのベッドに突っ伏していた時間が長かった。やっぱり麻薬だよこれ。くそ。
ナズはなんだか疲れていたようで、着替えもせずにベッドで寝息を立てている。ナズが日中何をしているのかは、あまり詳しく聞いたことが無い。てっきり命蓮寺の仕事をしているのかと思ったが、必ずしもそうではないようだった。
「場末の探偵のやるようなしごとさ」
とナズは言っていた。失踪した飼い犬の捜索とか?
とにかくナズはお疲れモードで、すぐには起きそうにない。問題は、今日の晩御飯をどうするかということだった。逃亡中は2、3日絶食してもへっちゃらだったのに、慣れというのは怖いもので、毎日同じ時間に夕食を食べることを、ワタシの体は既に当たり前だと感じているらしかった。空腹である。
ナズを無理やりたたき起こして作ってもらってもいいのだけれど、ワタシにその勇気はなかった。無防備に眠るナズーリンに近づくことを想像すると、明らかにまたヘブン状態に突入してしまうだろうという確信があった。自分への信頼感が凄い。どう考えても良くないことになりそうなので、その案は却下である。計画のためには時に欲望をコントロールすることが必要だ。これまでも様々な計画の中で、ハメをはずして台無しにしてしまったことがあるのがワタシ。針妙丸が追手を差し向けてきたのだって、私怨が混じっている可能性が無いとは言えない、もといその可能性が高いのだから。
とにかく夕食はナズが起きるまで待つか、さもなければ自分で調達するしかない。
食糧庫を物色しながらワタシはため息をつく。
料理なんてほとんどしたことが無いのだ。自分で時間をかけておいしいものを作るくらいなら、他人が作ったものを横から頂く方が手っ取り早いし、気分がいい。これまでなんだかんだで食事を作ってもらえる機会が多かったこともあり、本格的に料理を練習しようとしたこともない。何でか知らないが私は食事を作ってもらいやすい体質?らしい。針妙丸が作る和食もなかなか美味かったしなあ。ナズの食事と甲乙つけがたい。
おっと、今はワタシが何を作るかの話だった。
「ワタシに作れる料理なんて・・・」
戸棚にあるものを見つけて、ふと思いつく。
確かにこれなら作ることができる。ただ、これは夕食としてはどうだろう。いやどうだろうというか、これは無いだろう。しかし他に思いつくものもないし。
これは、針妙丸に出会うよりさらに前、小人の姫を誘拐するためにある妖怪を騙して一緒に行動していた時だ。なんでもひっくり返すのが好きだというワタシにそいつはだったらコレを作ってよ、とレシピを教えてもらったのだ。
これがあるってことはナズも嫌いではないのだろう。その点は大丈夫だ。
そこでふと、自分がナズの分も作ろうとしていることに気付く。何を考えているのだ。ワタシがお腹が空いたから作るだけであって、ナズの分までワタシが作ってやる義理は無い。恩には仇で返すのがアマノジャクじゃないか。だからナズの分は作ってやらない。
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ふと目を覚ますと、何やら甘い匂いが部屋に充満していた。
食欲が刺激され、急速に意識が覚醒し始める。
「う、うーん」
私は寝てしまっていたようだ。着替えもしないでベッドに直行してしまうとは。これまでならあまりなかったことだ。一人で暮らしているときは、帰ってきても部屋は冷えているし、誰にも起こしてもらえない。起きても食事もないのだから、疲れていても眠りはしなかった。
ベッドから身を起こすと、正邪がキッチンにいるのが見えた。私のエプロンをしている。
「あ、お、おはよう」
正邪はどうしてか、顔を赤らめ、俯いたまま声をかけてきた。
「ん?ああ、おはよう。すまない寝てしまったようだ」
「別に謝ることないだろ。ナズがナズの家でいつ寝ようがワタシには関係ない」
なんだかいつもより素直で、少しかわいらしい。こんな正邪は初めて見る。
「どうかしたのかい?」
と聞いても、
「な、なんでもない!」
というだけで、そのまま黙ってしまった。
どうやら正邪は何かを作っているようだった。まあキッチンにいるのだから料理しているのは自然なことだ。しかし料理ができそうには見えなかったが、。天邪鬼は見た目には寄らないのか、おいしそうな甘い香りがしている。私がテーブルに着くと正邪は皿を2枚持ってキッチンからやってきた。私の分と正邪の分。
「ああ、夕食を作ってくれたのか?」
皿に乗っていたのはホットケーキだった。棚にあったホットケーキミックスを見つけたのだろうか。
「お、恩返しとかじゃないぞ。恩には仇で返すのがアマノジャクだからな。でも良く考えたら私は勝手にナズの家に潜伏して、ナズの作る飯も勝手に横取りして食べているだけだから、特に恩を感じる必要もないって気付いただけだからな。このホットケーキは、そのぅ、もっと焦がしたりしてダメにすると思ったから多めに作ったら、予想以上に美味くいって食べきれなくなったやつを、くれてやるだけだぞ!」
正邪はそこまで一息に言いきると、不機嫌そうにドスンと座り、ホットケーキを食べ始めた。
うちの居候がかわいすぎる問題だ。とんだ夜更かしになってしまう。
「そうか、じゃあ勝手にいただくことにしよう」
夕食にホットケーキという不可解な献立は、正邪がこれしかまともに作れる料理が無いからではないかということに気付いたとき、自然と口角が上がるのを押さえられなかった。
シロップのよく染みたホットケーキは、噛むと熱い液体で口中を満たし、疲れた体に浸透していった。
「そう言えば正邪、私が帰ってきたときベッドに寝ていたね」
私がふとそういった瞬間
「うぐっ、ぐ、ゲホッ、…!……!!」
と正邪は盛大に咳き込んで目を白黒させ始めた。
ホットケーキをのどに詰まらせたらしい。慌てて食べるからだ。
水を飲ませてやり、背中をさすっていると、よほど苦しかったのか顔を真っ赤にした正邪が、涙目で私の手を振り払った。
「も、もういいよ!」
「ふむ、ひと口であんまりいっぱい食べるからだよ」
正邪は恨めしそうに私を見ていた。なんだというのか。
「えーと、そうそう。ベッドの話だ。やはりソファでは寒いんじゃないか?」
「別にそんなことないけど…」
正邪はそういうが、わざわざベッドで寝ていたのだから
「ああ、寝心地の問題かな。ソファは少し柔らかすぎるからね」
なにかしらの理由で、正邪がベッドで寝たがっているのは明白である。
しかしながらここでベッドで寝ろというと、またぞろこの天邪鬼は固辞しそうだし、どうにかすると絨毯の上で寝たりしかねない。だからこういう。
「まあキミがどんなにベッドで眠りたくても私は許可しないよ。キミはこれまで通りソファで寝てくれたまえ。絶対にベッドに入ってきてはいけないよ?」
私がそういうと、何故か正邪は赤くなって睨めつけてきた。
天邪鬼の本能を利用して命令をされたのがお気に召さなかったのだろうか。怒っているのだろう。
「わ、ワタシはアマノジャクだから、そんなことを言うとベベベ、ベッドに入って寝てやるぞ」
「だから入ってくるなといってるじゃないか」
「知らないぞ、どうなっても知らないからな」
「…?」
正邪は謎の捨て台詞を吐くと、食器を下げにいってしまった。
ひっくり返す天邪鬼だけに、寝相でも悪いのだろうか。
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ナズのアホが変なことを言い始めたせいで、ナズと一緒に寝る羽目になってしまった。くそ。
私は決して、天地神明に誓って言うが、ナズと一緒に眠りたいなんて思っていない。だいたいあの匂いに包まれては興奮して眠るどころじゃゲフンゲフン。ただナズが絶対に入ってくるなといって嫌がるので、一緒に眠って困らせてやりたいだけだ。ナズの奴、さぞ嫌がるだろう。
…嫌がるか?
流石のワタシもナズがワタシをベッドで寝せるためにあんなことを言ったことぐらい分かっている。私は別に馬鹿じゃない。ワタシがベッドに入っていったってナズは何にも気にしないだろう。嫌がらせになんかなるはずない。
だというのにどうしてナズはあんなことを言うのだろう。もっと分からないのは、それを分かっていながら、流されるままにナズと一緒に寝ようとしているワタシ自身だ。さっぱり分からない。私は何だか心細くなってきた。この家を見つけたときワタシは凄くついていて、ラッキーだと思っていたけれど、それは違ったのではないか。あのナズーリンという妖怪に、ワタシはペースを崩され続けている。ワタシはこのままアマノジャクではなくなってしまうんじゃないだろうか。何より恐ろしいのは、ワタシがそのことを思ったほど恐れていないということだった。
なんとなく先に寝ている気になれなくて、ベッドの端に腰かけていると、ナズがシャワーを浴びて戻ってきた。
「先に寝ていてよかったのに」
なんて、バカなことを言う。そんなことできっこない。
なんとなく何も言い返せなくて、ナズがベッドに入るのに合わせれ、ワタシも布団をかぶる。何を間違ってこんなことになってしまったんだろう。命をかけたあの逃飛行の日々から、まだ5日しかたっていないのに、ワタシは何をやってるんだろう。落差が激しすぎて、感覚が追いついてこなかった。
なんとなくナズには背を向けて、キッチンの方を向いて眠る。寝床に自分以外の誰かがいるのはいつ振りだろう。さっさと眠ってしまおうと目を閉じるけれど、視覚が遮断されたことでいっそう嗅覚が鋭敏になる。ナズーリンに全身を抱きすくめられているような錯覚になる。こいつは小柄だから、そんなことできっこないのに。ワタシは優しさに飢えた意地っ張りで、ここは牢獄だ。
突然、後ろからナズが腕を回してきた。余りのことに息が止まってしまう。
「キミは体温が高いな。寝苦しいから離れてくれ」
そんなことを、言う。他意は無いのだ。こいつに他意はない。
ばかばかしい。ワタシを湯たんぽか何かと勘違いしているのだ。このネズミは。
ワタシの中に理性などという高尚なものがあったとして、仮にあったとして、それはこの瞬間に完全に失われてしまった。自分の体が自分のコントロール下を離れるのがハッキリと分かった。
ワタシは勢いに任せて振り返ると、そのままナズの上に覆いかぶさる形になった。
「この馬鹿ネズミめ。このアマノジャクを閨に誘い込んで、ただで済むと思うなよ」
暗くてほとんど何も見えないが、ワタシの下でナズーリンが困惑しているのが分かった。そのまま肩を押さえこむ。大した重みもないワタシの全体重をかけると、それでも小柄なナズは息が詰まったようだ。
「くそ、お前のせいだぞ、お前がこんな…」
ワタシが愚にもつかないような言葉を並べていると、体の下のナズがうめき声を小さく上げた。
はっとして少し力を緩めるとナズは、
「げほっ、突然何をするんだ。全く。息苦しいからさっさと離れ…て…。…!」
ナズが失言に気付いて小さく息をのむのが分かった。
「い、今のなし!取り消…んむ!」
ワタシはそのままナズの唇を塞いだ。
何もかも失った野良妖怪を住まわせたりするのが間違いなんだ。飯を食わせてやったり、ベッドに入れてやったりして、全部こいつのせいだ。こいつが悪い。こいつが…。
どれだけ思考を巡らせても無駄だった。
そんなものは何の足しにもならない。ナズにどれだけ非があっても、それでワタシの非が軽減されたりはしないのだ。傷つけたくないものほど傷つけ、好かれたい相手ほど嫌われる。それがアマノジャクの、ワタシのあり方だ。
「んー、んむーむー!!」
ナズがワタシの体を非力な腕で押し、叩いてくる。
やめろ、それは逆効果だ。
抵抗されたことによってワタシの中のアマノジャクが異状興奮し、ワタシの意識は風前のともしびになる。ワタシは制限された僅かな思考領域で必死でそれに抵抗し、自分で自分の頭をぶったたいた。
反射で頭をのけぞらせ、ナズーリンが一瞬、解放される。
激しくせき込み、見上げてくるナズに伝えるべき言葉は一つだ。
「お願いだから抵抗するな。頼むから、どうか、…受け入れて」
息切れてナズの目に浮かんだ涙が光るのが見えた。その瞳にはまだ理性が見て取れた。
無茶苦茶で、理不尽なことを言っている。それは分かっている。
それでもナズは、ワタシの言葉を理解してくれたようで、体の力を抜いて、ワタシの下で大人しくなった。
ワタシは卑怯(アマノジャク)で、理不尽(アマノジャク)で、愚か者(アマノジャク)だ。
今ほどそれを疎ましく思ったことは、無い。
それから1カ月近く、ワタシとナズの共同生活は続いた。
あの翌朝、どうしてナズがワタシを追い出さなかったのかは分からない。ナズはあの晩のことをすっかり忘れたかのように振る舞った。卑怯なワタシは、やっぱり何にもなかったかのように振る舞った。
それでも何も変わらなかったわけではなかった。ワタシはあれ以来ベッドには近づいていない。ソファで寝るようになっていた。ナズはワタシがいるところで不用意に着替えたりしなくなった。
この1カ月はワタシにとって余りに居心地がいい日々だった。ナズはいいやつだ。間違いない。この場所で本を読んだり、ナズとくだらない話をして、おいしい食事を食べて。ずっとそうやっていられたらいい。そう思うのだけれど。やっぱりワタシはアマノジャクだから。そうはならないのだろう。きっと。
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力によって屈服させられたのは、知性と理性を尊ぶ私にとって屈辱的なことだった。油断大敵。全く持って自分の不明が嘆かわしい。餌付のつもりがひっかかれるなんて。自分がこんなに愚かだとは思わなかった。
正邪に、否、正邪の中の天邪鬼に蹂躙され、奪われた夜を思い出すと、私は屈辱と羞恥、そして怒りで頭がどうにかなりそうになる。心身に凌辱を受けたことはしかし、元をただせば自分の不注意が原因であることは明白だ。正邪は何度も警告をしていた。しかし私がそれを見落としていたのだ。私は正邪を、それこそペットか何かと勘違いをしていたのだ。そんな自分の身から出たさびであるからこそ、余計に腹立たしいのである。
正邪にも悪いことをしてしまった。あれ以来彼女は私に対して過剰に気遣わしげだ。あの一件は8割がた私のせいであると思うのだが、正邪はそうは思っていないようだった。
あのとき、必死で声をかけてくれた正邪の、苦しそうな顔を見て私は気付いてしまった。
鬼人正邪は、私たちが思っている以上に天邪鬼なのだ。
鳥が鳥であるように、人が人であるように、正邪は天邪鬼なのだ。
彼女は非常に悪辣で、卑怯で、薄情な妖怪であるが、言い換えればそれは、天邪鬼としての自分のあり方に対してそれだけ誠実だということでもある。吸血鬼が血を吸わずにいられないように、鬼が戦わずにはいられないように、正邪は天邪鬼であらずにはいられない。
正邪は自分と向き合い、自分に誠実であり、そして時にはそんな自分と戦い、苦しみもする。そのことに気がついてしまって、私はもう正邪のことを野良猫のようには扱えなくなってしまった。
正邪がいつでも活発で、何時でも貪欲で、その様が時にカッコよく、愛おしく思えるのは、彼女が一生懸命だからなのだと分かってしまった。食事して、寝て、そんな彼女をいつだったか子どものようだと評したが、その理解ではまだ浅かった。子どもが、悪ガキでさえも、ほほえましいのは、彼らが精一杯生きていて、自分について真剣に考えているからだ。そうしてその魅力が鬼人正邪にも溢れていた。
それは私がもう随分と前に忘れてしまっていたことだった。妖怪としてどう生きるのか、私はもう長らくそんなことを考えていない。
いま思えば、私が当初正邪をかくまっていた理由は、私が酷く退屈していたからなのだろう。
私は自分の知性や能力を出し惜しみせず、試すことができる環境を欲してきた。毘沙門天に使えているのも、連中から提示される無理難題と言うべき任務の数々を、己の才覚で処理するのが楽しいだけ。毘沙門天も私のそういう気質を分かった上で使っているにすぎない。
命蓮寺にもさほどの帰属意識を持つことができないでいた。聖白蓮は、追い求めているうちこそ何物にも代えがたい存在であったが、手に入れてしまえばもうそれ以上心には響かなかった。温厚な寅丸星の下では、この先緊張と恐怖で痺れるような任務を得ることもないだろう。
自分の薄情さに辟易とすることが増えていた。たった二人で人間たちから身を隠し、意識を削るような諜報活動と、綿密な計画。寅丸星との潜伏生活はスリルに満ち満ちていた。あの頃の彼女は今とは違って、抜き身の槍のような雰囲気を身にまとっていた。私以上の思考の冴えを見せるときもあれば、圧倒的力で敵をねじ伏せることもあった。私は確かにアレを尊敬していたし、今もそのはずだ。互いに誰よりも信頼し合っていた。今はそうだろうか。
白蓮を取り戻した彼女は、相棒としての私を必要とはしていない。優秀な部下として、あるいは付き合いの長い友人として、求めることはあっても。
そうこれは極めて幼稚なシナリオから始まったことだ。寅丸星と毘沙門天への小さな裏切り。これは退屈を忘れるための浮気だったのだ。今思えば。
しかし今私はその思いつきを恥じている。
正邪のひたむきさ、一生懸命さを見たいま、彼女を私のくだらない感傷で縛り付けておくのは間違いだったと思う。同時に、彼女と出会えたこと自体は幸運であったとも思う。
私にとって正邪はもう慰めを与えてくれる野良猫なんかではない。もっと掛け替えのないなにか。
バカな私のために、自分(アマノジャク)と戦ってくれた正邪の、あの泣きそうな、苦しそうな目を思い出すたび、再び彼女を、今度こそ心から抱きしめたいと願う自分のはしたなさを、全く笑うに笑えない。
彼女に何かを望んではいけない。そんなこと分かっていたのに。
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「今日はベッドで寝ないでくれ」
なんて突然ナズが言ってきたとき、私はもう終わりが近いのだと思った。
ナズはずっと私に無関心だった。何かを望むこともなく、何かを拒むこともなかった。それは全てを失ってここにたどり着いた私にとって、余りにも居心地のいい場所だった。ずっとここにいられたらいいのにって、そう思ってしまうくらいに。
でも、終わりの気配は近付いてきた。
ふと気付いたとき、ナズがワタシを、すごく優しい目で見ていることが増えた。
ワタシを、アマノジャクとしてのワタシを、よく分かってくれて、気を使ってくれた。
あんなにも酷いことをしたのに、彼女はワタシを責めることも、許すこともしないでいてくれた。
言動の端々に、彼女からの暖かい好意を感じるようになっていた。
それが泣くほどうれしく、泣くほどつらかった。
ワタシは生まれついてのアマノジャク。
完全無欠にアマノジャクだ。
これまでも、そしてこれからも。
たくさんのものを裏切ってきた。
たくさんの好意を踏みにじってきた。
だから今更それを受け取ることはできないんだ。
ねえ、ナズ。気付いているはずなのにどうして。
もう少し、ここにいたかった。
C・プ
・・・・・・・・・・・・・・\( )
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灯りを消してベッドに入り込む。
少し遅れて正邪もベッドに入ってきた。空気が張り詰めていて、なんだか息苦しい。この1カ月、この家は何時だって穏やかで、居心地のいい空気だったのに。それも今日まで。
正邪は私が何を言おうとしているのか、気付いているのだろう。
愚かなことをしようとしている。それは分かっている。正邪がそれを望んでいないことも分かっている。私にだって決して理想的な結末じゃない。それでも告げずにはいられない言葉がある。伝えずにはいられない思いがあるんだ。それをキミが分かってくれるといいけれど。
私は結局終わりのそのときが惜しくて、ぐずぐずとしてしまう。
私と正邪は、天井を見つめながらずっと黙っていた。
このまま眠って何事もなかったように、また明日から始めようか。新しく始めてまたこうして、ずっとずっとここで一緒に暮らそうか。そんな思いが脳裏にちらつく。
でもそんなのは一時しのぎにしかならない。
言葉には出さなくったって、正邪もきっと気付いているはずだから。そうして引き延ばしている間に、突然終わってしまうのはもっと悲しいことだから。
だから言おう。
キミに告げよう。
少しだけ、力を貸してほしい。
私が正邪の方を向くと、正邪もおずおずと私の方を向いた。
今度は背中からじゃなく、正面から彼女を抱きしめる。正邪の体が一瞬こわばって、だけどそれを受け入れてくれた。彼女の腕が背中側に回された。今こんなにも幸せだ。
なのにそれを今から手放そうとしているのだ。私は。
だって仕方が無いだろう。
誇り高く、自分(アマノジャク)と生きるキミを好きになったんだからね。
「なあ正邪、私はキミを愛しているよ」
言ってしまった。
もう後には引けないんだ。
涙が静かにこぼれた。
「ずっとここに居て欲しい。すっと一緒にいたい」
張り裂ける胸の痛みは、いつかきっと癒えるから。
「毎日一緒に食事しよう。毎晩一緒にここで眠ろう」
だから今は言え。言ってしまえ。全てがキミに伝わるように。
キミが持って行けるように。
「ねえ正邪、好きだ。ずっとここで一緒に暮らそう」
全部言いきって正邪を見た。
真っ暗な部屋の中でも額を押し付けるほど近づけば、彼女の顔が見えた。
正邪は一瞬泣きそうな顔をして、こらえて、結局涙を流した。
でも顔を伏せ、あげたときには、見とれるくらいかっこいい笑みを浮かべていた。
「残念だったな。ワタシはおまえが大嫌いだ。出ていくよ、ナズ。二度とここには来ない」
ああ、その言葉が聞きたかったんだよ。
目を覚ますと部屋には私一人だった。
ベッドにも、ソファにも、私の他には誰も眠っていなかった。
私たちの恋は昨夜、確かに実り、そして終わった。
そのことを自覚すると、じわっと、熱い涙がこぼれた。
こんな泣き虫は私じゃない。
自分のありように驚いてしまう。
私はこんなにも真剣に誰かを愛せるし、それはこの先もずっと。
起きると、テーブルに何か置いてあるのが分かった。
ホットケーキとミルクティーだった。
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全ては終わってしまった。
始まって、すぐに終わってしまった。
だけどそれが無駄だったとはちっとも思わない。ワタシの胸にはたくさんの思いが残ったし、ナズにも何かが残っているとしたら嬉しい。
出がけにホットケーキを焼いてきた。
途中でナズが起きてきたら台無しだから、音を立てないように随分とひやひやしたけれど。
ワタシが振る舞って以来、ナズはホットケーキが好物になったようだった。だからホットケーキを置いてきた。あれはワタシがナズに残していくものだ。これからナズがホットケーキを作るとき、あれをひっくり返すたびに私のことを思い出すはずだ。…たぶん。そうして泣くだろう。泣いてくれると嬉しい。ワタシはアマノジャクだからな。
そして、食糧庫のコーヒー豆は全部いただいてきた。ナズの家を出て、これから当分身を隠す潜伏場所が必要だ。これだけ全部売り払えば、当座の資金には足りるだろう。
ついでにナズが紅茶の美味しさに目覚めてくれれば御の字だ。
晴れやかな気分で空を見上げる。
私はきっとこれからも、こういうことを繰り返して生きていくんだろう。
紅茶の茶葉がティーポットの中をぐるぐると回るように、ぶつかり合って、いろんなものと混ざって、混沌として。望んでも二度と再び起こり得ないたくさんの出会いと別れの中で、抽出された暖かいものが、香り高く、澄んでいるだろう。
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シメの、風呂上がりの一杯みたいな余韻と雰囲気が良いですね
>悠々自適な毎日を送っている。上げ膳下げ膳、毎日ご飯はおいしいし
この文章で、こいつ人生楽しそうで羨ましいなあと素直に思った
こりゃ餌付けもしたくなるわ
非常に可愛らしい正邪。それでいて賢明で懸命なナズ。
きづいたらナズーリン呼びがナズになってたりもしますね
非常に良い物を読めました
読み終えてしまうのが残念なくらい大変素晴らしい時間でした。
自分の中の正邪像が広がった気がする
でも私には図書屋he-sukeさんのブックマークが残りました
だがそれがいい
キャラが生き生きとして素敵でした。
非常に面白かったのですが、そこだけ引っかかってしまって…
既に評価したので無評価です。
二人の生活を通して、それぞれの心情が細かく鮮やかに描かれていたのは素晴らしい。キャラクター『らしさ』が光っていたと思います。ここまでキャラクターを深く掘り下げて、それをストーリーに昇華するのはそう簡単にできることではないと思います。大変感服いたしました。
特にナズーリンが自分の心情を告白するシーンは、ぐっとくるものがあります。どういう結末が待っているのかわかっていながらそう言わざるを得なかった彼女と、そしてその言葉をすんなりと受け入れるわけにはいかない正邪、その二人の心情を考えると本当に胸が苦しくなります。
だからこそ、この終わり方は本当に美しいと思います。私的にはこれ以上ないというほど良かったです。実に私好みなストーリーでした。文句なしに面白かったです。
これからも貴方の作品に期待しております。
甘かったはずなのにほろ苦く
軽いようでしっかりとした読後感
こういう作品は、書こうと思ってもなかなか書けるものではないと思います
リスペクト
三頁目までは、「捨てちゃったの?」とか正邪かわええの嵐で御座いましたが、最後の最後で切なさの嵐が吹き荒ぶ。しかしどこか晴れやかな気分でもある。そんなジュブナイルな心境になりました。
クールな出来る女の有情の素顔と、生まれついてのデマゴーゴスたらんとするかわいすぎる居候の組み合わせが、こんな魅力的だったとは。東方の掛け算には無限の可能性があるのだということを再認識いたしました。
正邪という非常に特殊な性質を持つキャラで真剣に恋愛描写をするならどうなるのか?という事の答えの一つだと思います
壊れることのない平穏な暮らしよりも、正邪が天邪鬼らしくあることをナズーリンは望んだということでしょうか
本当によかった
情景が脳ミソに噛んで含ませなくても勝手に浮かぶのは、味がちゃんとするというのはまるでステーキを食べてるようで、幸せだなあ
誰かに何かをさせる気概を与える作品、これは最上級の力を持った何かだと思います。
そんな作品を作り出してくれて、ありがとうございます。