「あら? お出かけですか?」
「……何?」
下界へと遊びに出かけようとする天子に話しかけたのは衣玖だった。なんだか呼び止められたように感じた天子が怪訝な顔をするが衣玖は顔色を変えない。
「輝夜のところに行くだけよ。それが何かしら?」
「いえ、別になんでもありませんが。このところよく永遠亭へ遊びに行かれるなと」
「悪い?」
「……毎日楽しんでおられるようで」
ようやく表情を崩した衣玖が笑いかけるのを天子は「ふん」と鼻を鳴らして下界へと降りて行った。
毎日が楽しい。それは自分自身にも感じている事だった。
しかし天子がどこか不機嫌なのはそんな自分を見透かされているようで面白くないのと、
「……今日もアイツ、いるかな?」
自分と同じく輝夜の元によく遊びに行く、彼女の姿を見ると楽しさと違う別のもやもやとした気持ちが湧いてくるからだ。
天子の視線の先に下界が見る見る近づいていく。
※
「アイツ……どこにいるのよ」
迷いの竹林の入り口にたどり着いた天子だったが、竹林には入らず辺りをキョロキョロと見渡して数分が過ぎていた。
天子の頭の中には永遠亭までの案内人である彼女の姿が浮かんでいた。いつも永遠亭に遊びに行くときは彼女に案内をしてもらう。
しかし天子にとって彼女は永遠亭までの案内人だけでなく輝夜と同じ遊び相手でもあった。
それだけに中々見当たらない彼女に天子はイライラした。
もう数分が過ぎたころ、ようやく天子は彼女の姿を見つけることが出来た。
まだ冷たい風が吹いているというのに彼女は冬の日を受けて竹林の傍の原っぱで横になっていた。
ほっと息が口から出た。
それを天子は自覚していない。すぐに不機嫌そうな顔に戻るとずんずん彼女に近寄っていく。
「起きろ!」
「うぉ!?」
後ろから大声で呼びかけられて彼女――妹紅は飛び上がって振り返る。
天子の顔を確認すると妹紅は深いため息を吐いた。
「あのなぁ、心臓に悪いから急に大声出すな」
「ずいぶん探したのよ。こんなところで昼寝して、もっとわかりやすいところで待っていなさいよ」
「別にお前専属の案内人じゃないけどな、私。どこで寝ていようが勝手だろ」
「うるさいわねぇ……今日は一緒に遊べそうかしら?」
「遊ぶって言ったってお前と輝夜にいじられるだけだが」
後ろ髪をボサボサとかいて妹紅が愚痴る。
もっと手入れをすれば綺麗な銀髪になるのに、と天子は妹紅に会うたびに思っていた。妹紅の顔立ちももと貴族とあってか美人に整っているというのに、そういう美容に興味を示さない妹紅にもったいないとも思っていたのだ。
「で? 今日はダメなの?」
「いや。どうやら今のところは急患もなさそうだし。それに輝夜のところのイナバが薬売りに人里へ出かけたのを見たから、ここを離れても大丈夫だろ」
妹紅は人里で人間が急な病にかかった時、永遠亭へ案内する役割を自任していた。そのため天子と一緒に輝夜と遊ぶことが出来ないこともあったが、今日は一緒に遊べると知り天子の顔に笑顔が浮かぶ。
「そう。じゃあ行きましょう。ほら、さっさと案内する」
「まったく。人に意地悪しちゃいけないって慧音が言ってたぞ」
やはり愚痴をこぼしながらも妹紅は「やれやれ」と天子を永遠亭へと案内するため、ゆっくりと歩き出した。
※
天子と輝夜が知り合ったのは博麗神社での宴会であった。
酒を酌み交わす連中の間を縫って、盃を片手に歩いている天子を輝夜が声をかけたのだった。
「今晩は。貴女、天人さんかしら?」
初めて見た輝夜の顔は天子から見ても綺麗な顔立ちだった。あそこにいるのはかつて人間たちを虜にした美女だということは宴会前に衣玖から聞いていたが、こうして真正面から見ると納得の美貌であった。
「どうも。よかったら隣いい?」
「ええ、どうぞ」
にっこりと笑う輝夜に引き込まれるようにして天子は輝夜の横に座った。
それから二人は会話を交わして急速に親しくなった。
月の姫という身分だったが都を追われ地上に舞い降りた月の住人、一方は天人ながら元は地上で暮らしていた身分で他の天人からは不良呼ばわりされている。
互いに似たような境遇だったからだろう。言葉を交わし酒を酌み交わしているうちに二人はよい友達となっていた。
「それにしても輝夜は上品ね。あ、輝夜って呼んでもいい?」
「ええ、いいわよ。私も天子って呼んでもいいかしら?」
「もちろんよ」
二人顔を見合わせてくすくす笑い合った。
そんな二人を輝夜の従者、永琳は優しく見守っていたがふと彼女に気が付いて天子に話しかけた。
「姫様のことをお上品と呼んでいただき私も嬉しいですわ……でも本性はすぐにバレるものよ」
「え?」
突然の永琳の言葉に天子はきょとんと首を傾げた。だがその意味はすぐに理解できた。
「かぐやー! 勝負しろ!」
天子の目の前に突然割り込んできた一人の少女。
十分に手入れしていない銀髪が乱暴に宙に舞う。驚く天子の前で輝夜は頬を膨らませる。
「ちょっと! 妹紅! 今、新しい友達と知り合えて貴女なんかに構っている暇はないんだけど」
「ふん! 早くも逃げる口実か。本当に最近お前弱っちくなったな」
「なんですって! いいわ! 勝負受けて立つわ!」
バチバチと火花を立てて睨み合う輝夜と妹紅に天子はただぽかんと見つめているばかりであった。
「はいはい。あんまり飲み過ぎないようにね」
永琳がそう言うと二人は互いの盃に並々と酒を注いで、飲み勝負を始めた。
「今日こそは酔いつぶしてやるわ!」
「お前こそ飲み過ぎて吐いても知らないからな!」
ぐいぐいと盃を次から次へと飲み干していく輝夜。先ほどまで天子と会話していたような言葉遣いでなく、乱暴で汚くて、そして親し気な言葉だった。
「驚いた? あの二人昔からああなのよ」
「……昔から?」
「そう。昔は殺し合う仲だったけどね。でも今はこうして馬鹿な事をし合えるほどにまでなったわ。ほら、喧嘩するほど仲がいいって言うじゃない」
永琳の言葉に天子は「ふーん」と相槌を打ちながらその表情は面白くなかった。
嫉妬していた。
せっかく仲良くなった輝夜を横取りされたような気がしたからだ。
二人は天子を余所に飲み比べを続けている。
自分も参加するように天子は並々と酒を自分の盃に注ぐと一気に飲み干した。
※
「それにしてもお前本当によく永遠亭に遊びに行くなぁ」
「いいでしょ。どうせ暇なのよ。貴女こそよく輝夜のところに行くんじゃないの?」
「まぁ……あいつに呼ばれるからな」
迷いの竹林の中。
妹紅に連れられるようにして天子は歩いていた。永遠亭まで二人で飛んだ方が早く着くのだが、いつも輝夜のところへ遊びに行く時こうして歩いているのは妹紅が人間を案内するとき徒歩である癖がついてしまっているのと、天子が妹紅からもっと輝夜の話を聞きたいと思っているからだった。
「よく遊びに行くの? 私抜きで?」
「なんだよその言い方。お前こそ毎日のように輝夜のところに遊びに行っているじゃないか。私が慧音のお手伝いとかで行けない時とか」
「ま、まぁそうだけど」
妹紅に突っ込まれて胸が一つ高鳴った。それを隠そうと天子は思いついたまま妹紅に反撃する。
「もしかして、嫉妬しているの?」
「そんなわけあるか。ほら、着いたぞ」
二人の目の前に永遠亭が姿を現した。
会話が途切れて天子はほっとした。そしてそんな自分に気が付いた。
なんで私、ほっとしたんだろう、と。
嫉妬していたから。
しかし、それは誰に?
永遠亭の門をくぐると妹紅が声をあげて輝夜を呼ぶと、すぐに縁側に出てくる影があった。
「あら。いらっしゃい天子。すぐに永琳にお茶を出させるわ。妹紅の分はないけどね」
「なんだよ、その対応。せっかくお前の友達をここまで連れてきてやったんだぞ」
ぶすっとした表情で妹紅は輝夜の隣に腰を下ろす。慌てて妹紅の隣に天子も腰を下ろした。
「今日は仕事じゃないの?」
「ああ。今日は暇そうだし、一緒に遊んでやるよ。さて何して遊ぼうか」
「妹紅がそういうと物騒な感じがするわ。天子もそう思わない?」
「え? ああ、そうかも」
言葉を交わす二人を見つめていた天子は急に輝夜に話しかけられてどきまぎしてしまう。
そんな天子に妹紅が「ふん!」と鼻を鳴らした。
「はいはい。どうせ私は物騒だよ。なんなら久しぶりに弾幕勝負してもいいけど」
妹紅が自信満々に輝夜に話しかけると「あのさ!」と遮ったのは天子だった。
妹紅と輝夜が振り返る。
「今日はさ、三人でやってみたいことがあるんだけど」
「あら? 何かしら?」
「……お化粧し合わない?」
※
「やっぱり輝夜は綺麗よね。さすがかぐや姫って言ったところかしら」
「あら? 天子だって綺麗よ。綺麗と言うより可愛いわ」
数十分後。
永遠亭の一室は化粧道具の匂いに包まれていた。
天子と輝夜が互いに見合ってはしゃいでいた。
輝夜は珍しく髪を後ろで一つに縛っていた。唇には薄い紅の唇が塗られてより魅力が高まっているように天子には思えた。肌に白粉を塗ってみようかと言う輝夜を押しとどめたのは逆に輝夜の肌の美しさを失われそうに思えたからだった。
一方で天子は髪を三つ編みにしていた。「一度永琳みたいにしてみたい」と輝夜が編んだのだ。右肩から垂れる自分の髪を見て、綺麗になったかなと何度も鏡を覗きこむ。
そんな二人を面白くなさそうに妹紅は兎の頭を撫でながら見つめていた。
「化粧だなんて、無駄だと思うけどなぁ。何がそんなに面白いのやら」
天子の方を見ないでぶっきらぼうに話す妹紅の言葉に天子の胸が小さく痛んだ。
何故?
何故痛むのか自分でもわからなかった。
「あら? 私綺麗になってないの?」
痛みを隠すようにして天子が不満げに話しかけると妹紅は「え?」と動揺して視線をあちらこちらに移す。
「い、いや! そういう訳はないけど、そのだな、化粧なんかしなくても綺麗なものは綺麗だって話で」
しどろもどろの妹紅の反応を見て天子と輝夜は顔を見合わせて笑った。
「な、なんだよ!」
妹紅が不機嫌そうに怒り出したのを輝夜が抑える。
「まぁまぁ。妹紅だって化粧したらもっと綺麗になると思うわよ」
「いっ!?」
「ねぇ、天子だってそう思うでしょ?」
輝夜に振られて天子は大きく頷いた。
きっと綺麗になるに違いない。
化粧をした妹紅の顔を思い浮かべて天子は期待で胸が大きく高鳴った。
天子と輝夜がゆっくりと妹紅に近寄っていく。
妹紅は困惑した顔で体を固くしていた。
「い、いや。私は結構……ちょ、ちょっと待って!」
「ちょっと白粉を塗ってみましょうか」
「髪も無造作にしないで束ねてみましょうか」
「いいって! もういいって!」
「さぁ、妹紅。終わったわよ」
「やっぱり綺麗じゃない」
数十分後。
天子と輝夜の玩具にされた妹紅が恥ずかしそうに手鏡を覗き込んでいた。
ボサボサだった髪は油で整えられて、薄ら汚れた肌は丁寧に拭かれて輝きを取り戻していた。
それだけでも元々整った妹紅の顔立ち。天子の目には数倍綺麗になった彼女が映っていた。
「恥ずかしい……」
顔を赤く染めて妹紅が二人に振り返る。
「あらあら。まるで子どもみたいね」
「うるせぇ。化粧なんてめったにしないからさ」
「でも化粧は覚えておいた方がいいわよ」
「いや、使わないって。私みたいなのが綺麗になったって意味ないって。天子もそう思うだろ? ……天子?」
天子はじっと妹紅の顔を見つめていた。妹紅に話しかけられても妹紅と同じく頬を赤く染めて。
妹紅と輝夜が天子の顔を不思議そうに覗きこむ。
「天子? どうしたの?」
「え? ああ! なんでもないわ!」
ようやく自分を取り戻して、妹紅の顔を穴が空くほど見つめていた自分が恥ずかしく思えた。
「そうね。まったく別人みたいだわ」
「ふん……どうせ私には化粧なんて似合わないよ」
とっさに口に出した言葉に妹紅が拗ねたように口を尖らせる。
しまった、と思った。
もっと気の利いたことを言えばよかった。でも相手は妹紅じゃないか。
どうして妹紅に気兼ねしないといけないのか、とも思った。
「でも、たまにはこういうのもいいかもな」
そう言って妹紅は再び手鏡を覗き込む。
その言葉に天子はほっとした。
自分は別に妹紅を馬鹿にしているわけではない。本心から綺麗だと思ったから。手鏡を相手に色んな視点から自分の顔を見つめる妹紅が可愛く思えて、天子は再び妹紅の顔を見つめてしまう。
ふと、今の自分と今の妹紅が並んだらどう見えるだろうか。
そう想像すると天子の胸がますます高鳴った。
まるで化粧をした二人が並んで歩くのを期待するように。
しかし。
その期待はすぐに打ち破られた。
「妹紅」
輝夜が妹紅に話しかけるとそっと傍によった。妹紅が顔を上げる。
「口紅。塗ってみたら?」
そう言うと人差し指に付けた口紅を丁寧に妹紅の唇に塗っていく。
あ、と思った。
しかし輝夜の指は止まらない。
妹紅も身を任せるままにじっとしていた。
その光景を天子はただ見つめていた。
胸がぎゅっと締め付けられるようだった。
「はい、終了。増々綺麗になったわ」
「さんきゅー」
唇には輝夜と同じ薄い紅色の口紅。それを妹紅はまた手鏡で覗き込む。
「口紅って意味あるのか?」
「そんなんだから妹紅は妹紅のままなのよ」
「なんだよ、それ」
二人して笑い合う。
しかし天子の目にはそんな二人は映らなかった。
目には輝夜の指が。
妹紅の唇に沿わせる輝夜の指だけが映っていた。
触れたかった。
自分の指で妹紅の唇に触れたかった。
だけど妹紅の唇に触れたのは輝夜の指だった。
私よりも輝夜の方が仲良しなんだ。
そう思うと胸がぎゅっと強く締め付けられた。苦しくなった。
「天子?」
「どうした?」
気が付いたら天子は立ち上がっていた。
「あ……ごめんなさい。今日はそろそろ帰らないと」
「え? そうなのか。じゃあ、送っていくよ」
「いい! 帰りぐらい自分一人で帰れるわよ」
そう言い残して天子は庭へと飛び出した。
竹林へと走っていく。
走りながら化粧を乱暴に腕で拭った。
痛いのを感じないみたいに髪も乱暴にほどいた。
ただ走った。
目に涙が溢れてくる。
※
博麗神社での宴会から数日後。
輝夜に誘われて初めて永遠亭へ遊びに行った時のことだ。
天子が迷いの竹林に着くと竹林への入り口に妹紅が立っていた。
「あら。あんたあの時の」
「ん? ……誰だっけ?」
きょとんと首を傾げる妹紅に天子はがくっと脱力した。
あの日輝夜も妹紅もかなり酔いつぶれていた。どうやら記憶が曖昧なようだ。
「別に。なんでもないわ。私輝夜に用があるから」
そう言って無視するように竹林に足を踏み入れようとする天子を妹紅が呼び止める。
「ちょっと待てよ。この先下手に足を踏み入れると迷子になるぞ」
「はぁ? ああ、そう言えば輝夜も言っていたっけ」
宴会での輝夜の話を思い出すと天子は「はぁ」とため息を漏らした。
「じゃあ、ここで迎えが来るのを待てばいいのね」
「いや、私が送っていくのだが」
「え?」
「だから。永遠亭までの案内人は私なんだ」
妹紅がにっと笑った。
妹紅に連れられるようにして天子は面白くなさそうに竹林を歩いていた。
「貴女が輝夜の僕のようには見えないわね。この前の宴会だって輝夜に喧嘩を売っていたし」
「別にあいつの僕なんかじゃないよ。というより絶対嫌だね。なんであいつの僕なんだよ」
「じゃあ、なんで案内人なんかしているのよ」
「うーん。なんでだろうな」
妹紅の返事に天子はまたため息を漏らした。
なんだこいつ。あの日、輝夜と火花散らしていたのに、昔輝夜と殺し合いをしたほどの間柄なのにどうして永遠亭への案内人をやっているのだろう。バッカみたい。
心の奥で軽蔑していると妹紅が話を繋げた。
「お前と同じかもな」
「え?」
「お前と同じで、私もあいつと友達になりたかったのかも。あいつには恨みがあった。心の底から憎んでいた。でも長い年月がその憎しみを消し去った。そうしたらさ、あいつも好きで父上を貶めたわけじゃないって気が付いた。あいつなりに今まで私と同じで人間から隠れるように暮らしていたんだと思うと、急に恨んでいたのが馬鹿らしくなってさ。今では殺し合いなんか止めてしまって、なんとも言えない関係になってしまったよ」
そこまで話して妹紅は足を止めて振り返る。
ドキッとして天子はその顔を見つめた。
「お前。輝夜と友達になったんだっけ? 少しずつだけど思い出した」
「そ、そうよ。それが?」
妹紅は笑った。
天子が初めて見る彼女の笑顔だった。
「私も輝夜と友達になりたいんだ。よかったら私とも友達になってくれないかい?」
天子は息を飲んだ。
妹紅は人間だ。
天人でも元地上の出身というだけで天人たちには不良と馬鹿にされてきた。だけど自分は地上の人間でもない、曖昧な存在。
そんな不良天人に地上の人間が友達になってくれ、と言うなんて天子には初めてのことだった。
じっと妹紅の顔を見つめる。
彼女は人間なのに綺麗な顔をしていた。
無意識に天子は頷いていた。
※
「有頂天になっていたのね……」
薄暗くなった竹林の中、天子は一人で佇んでいた。
天界へ帰るわけでもなく、ただ竹林の中を彷徨っていた。
天子の頭の中には妹紅と知り合った時のことが思い出される。
宙を仰いで天子は目を閉じた。
私は、知らず知らずに妹紅に恋をしていたんだ。
人間なのに月の姫だった輝夜や、私にみたいな不良天人にも、身分を気にせず接してくれる妹紅に惹かれていたんだと思った。
輝夜は友達の一人。しかし妹紅は天子にとってそれ以上の存在だったのだ。輝夜と一緒に、妹紅と遊ぶのが楽しみだったのだ。それで彼女が仕事で一緒に遊べないかと気に病んでいた。
妹紅が傍にいれば嬉しかった。
ずっとこれからは友達でいられると、いやそれ以上の関係を望んで有頂天になっていた。
でも妹紅と輝夜は、自分以上に深い仲だったのだ。二人の様子を見てやっとはっきりとわかった。二人はすでに憎しみ合いを越えて深い仲になっているということを。すでに自分が入り込む余地がないってことも。
「はは。仕方がないことじゃない。しょうがないじゃない」
目の前が涙でぼやける。
それを強引に腕で拭う。
思い上がりはやめよう。これからは妹紅と輝夜のただの親友であろう。だが心の奥でそれをよしとしない自分がいた。腹が立った。何度も何度も涙を拭っても溢れてくる。そんな自分が嫌になる。
月が出て天子を眩しく照らした。
「……帰ろう」
そう呟く天子を抱き寄せた者がいた。
急に引っ張られて天子が驚いていると聞きなれた声が聞こえてきた。
「ったく。何やってんのさ」
妹紅だった。
天子が顔を上げると妹紅の顔はすでに化粧は落ちて、口紅も綺麗に拭わられていた。よく見る妹紅の、綺麗な素顔だった。
「どうして?」
「どうしてって。お前が飛び出すからだろ。心配したんだからな」
「……本当に?」
「本当にって……お、おい!?」
妹紅の胸に天子は顔を押し付けた。
突然の天子の行動に妹紅は戸惑った。視線を彷徨わせてそれでも天子に話しかける言葉が見つからず、ただずっと身を任せていた。
しばらく沈黙が走ってから天子が話しかけた。
「ねぇ、妹紅」
「な、なんだよ」
「私と輝夜、どっちが大切?」
再び沈黙が走った。
妹紅の胸に顔を預けているので妹紅の表情を窺うことができない。それでも天子はただ妹紅の胸に顔を埋めていた。肩が緊張で固くなった。
我ながら思い切ったことを言ったものだ、と思った。
「……どっちかなんて決められないよ」
やがて妹紅が静かに話し始めた。
天子はじっと耳を傾けていた。
「でもな! お前が何を考えているかはわからないけど、輝夜もお前も私にとって大事な友達だからな!」
ようやく天子は顔を上げた。妹紅はじっと天子を見つめていた。
「本当?」
「嘘つくわけねぇだろ」
妹紅の言葉に天子は目を丸くした。
「そう……本当なのね」
「だから本当だって……おい!?」
力いっぱい妹紅を抱きしめた。
「な、なんだよ? 大丈夫か?」
心配そうに妹紅が覗き込むと天子はにっと笑ってみせた。その目尻は涙で濡れていた。
「そう……じゃあ、まだ私が入り込む隙間はあるのね」
「なんの話だ?」
首を傾げる妹紅の顔をじっと見つめる。
妹紅。
貴女のことが好き。
「おい、なんの話だよ?」
「妹紅。これから二人で飲みに行かない?」
「え?」
目を丸くする妹紅に天子はにっと笑ってその腕を引っ張った。
「今日は二人きりで飲んでみたい。ね、お願いだから」
「これから? え?」
戸惑う妹紅に構わず天子が歩き出して、妹紅は引っ張られるようにして歩き出す。
いつも永遠亭へと遊びに行く時とは逆だ。
天子の顔は先ほどとはうって変わって晴れ晴れとしていた。
まだこの想いを妹紅に伝えられる。
妹紅に私のこの想いを。
そう思うと天子の気持ちが弾んだ。
戸惑う妹紅をずんずん引っ張っていく。
今日こそは二人きりで過ごしたい。
そんな天子を月明かりが照らしていた。
私の恋人になってほしい。
貴女は私の気持ちなんて知らないでしょうけど。
それでも今夜だけは浮かれさせて。
貴女への想いにこの体を満たさせて。
いつか。
私に振り返ってくれることを、この体いっぱいに願わせて。
「……何?」
下界へと遊びに出かけようとする天子に話しかけたのは衣玖だった。なんだか呼び止められたように感じた天子が怪訝な顔をするが衣玖は顔色を変えない。
「輝夜のところに行くだけよ。それが何かしら?」
「いえ、別になんでもありませんが。このところよく永遠亭へ遊びに行かれるなと」
「悪い?」
「……毎日楽しんでおられるようで」
ようやく表情を崩した衣玖が笑いかけるのを天子は「ふん」と鼻を鳴らして下界へと降りて行った。
毎日が楽しい。それは自分自身にも感じている事だった。
しかし天子がどこか不機嫌なのはそんな自分を見透かされているようで面白くないのと、
「……今日もアイツ、いるかな?」
自分と同じく輝夜の元によく遊びに行く、彼女の姿を見ると楽しさと違う別のもやもやとした気持ちが湧いてくるからだ。
天子の視線の先に下界が見る見る近づいていく。
※
「アイツ……どこにいるのよ」
迷いの竹林の入り口にたどり着いた天子だったが、竹林には入らず辺りをキョロキョロと見渡して数分が過ぎていた。
天子の頭の中には永遠亭までの案内人である彼女の姿が浮かんでいた。いつも永遠亭に遊びに行くときは彼女に案内をしてもらう。
しかし天子にとって彼女は永遠亭までの案内人だけでなく輝夜と同じ遊び相手でもあった。
それだけに中々見当たらない彼女に天子はイライラした。
もう数分が過ぎたころ、ようやく天子は彼女の姿を見つけることが出来た。
まだ冷たい風が吹いているというのに彼女は冬の日を受けて竹林の傍の原っぱで横になっていた。
ほっと息が口から出た。
それを天子は自覚していない。すぐに不機嫌そうな顔に戻るとずんずん彼女に近寄っていく。
「起きろ!」
「うぉ!?」
後ろから大声で呼びかけられて彼女――妹紅は飛び上がって振り返る。
天子の顔を確認すると妹紅は深いため息を吐いた。
「あのなぁ、心臓に悪いから急に大声出すな」
「ずいぶん探したのよ。こんなところで昼寝して、もっとわかりやすいところで待っていなさいよ」
「別にお前専属の案内人じゃないけどな、私。どこで寝ていようが勝手だろ」
「うるさいわねぇ……今日は一緒に遊べそうかしら?」
「遊ぶって言ったってお前と輝夜にいじられるだけだが」
後ろ髪をボサボサとかいて妹紅が愚痴る。
もっと手入れをすれば綺麗な銀髪になるのに、と天子は妹紅に会うたびに思っていた。妹紅の顔立ちももと貴族とあってか美人に整っているというのに、そういう美容に興味を示さない妹紅にもったいないとも思っていたのだ。
「で? 今日はダメなの?」
「いや。どうやら今のところは急患もなさそうだし。それに輝夜のところのイナバが薬売りに人里へ出かけたのを見たから、ここを離れても大丈夫だろ」
妹紅は人里で人間が急な病にかかった時、永遠亭へ案内する役割を自任していた。そのため天子と一緒に輝夜と遊ぶことが出来ないこともあったが、今日は一緒に遊べると知り天子の顔に笑顔が浮かぶ。
「そう。じゃあ行きましょう。ほら、さっさと案内する」
「まったく。人に意地悪しちゃいけないって慧音が言ってたぞ」
やはり愚痴をこぼしながらも妹紅は「やれやれ」と天子を永遠亭へと案内するため、ゆっくりと歩き出した。
※
天子と輝夜が知り合ったのは博麗神社での宴会であった。
酒を酌み交わす連中の間を縫って、盃を片手に歩いている天子を輝夜が声をかけたのだった。
「今晩は。貴女、天人さんかしら?」
初めて見た輝夜の顔は天子から見ても綺麗な顔立ちだった。あそこにいるのはかつて人間たちを虜にした美女だということは宴会前に衣玖から聞いていたが、こうして真正面から見ると納得の美貌であった。
「どうも。よかったら隣いい?」
「ええ、どうぞ」
にっこりと笑う輝夜に引き込まれるようにして天子は輝夜の横に座った。
それから二人は会話を交わして急速に親しくなった。
月の姫という身分だったが都を追われ地上に舞い降りた月の住人、一方は天人ながら元は地上で暮らしていた身分で他の天人からは不良呼ばわりされている。
互いに似たような境遇だったからだろう。言葉を交わし酒を酌み交わしているうちに二人はよい友達となっていた。
「それにしても輝夜は上品ね。あ、輝夜って呼んでもいい?」
「ええ、いいわよ。私も天子って呼んでもいいかしら?」
「もちろんよ」
二人顔を見合わせてくすくす笑い合った。
そんな二人を輝夜の従者、永琳は優しく見守っていたがふと彼女に気が付いて天子に話しかけた。
「姫様のことをお上品と呼んでいただき私も嬉しいですわ……でも本性はすぐにバレるものよ」
「え?」
突然の永琳の言葉に天子はきょとんと首を傾げた。だがその意味はすぐに理解できた。
「かぐやー! 勝負しろ!」
天子の目の前に突然割り込んできた一人の少女。
十分に手入れしていない銀髪が乱暴に宙に舞う。驚く天子の前で輝夜は頬を膨らませる。
「ちょっと! 妹紅! 今、新しい友達と知り合えて貴女なんかに構っている暇はないんだけど」
「ふん! 早くも逃げる口実か。本当に最近お前弱っちくなったな」
「なんですって! いいわ! 勝負受けて立つわ!」
バチバチと火花を立てて睨み合う輝夜と妹紅に天子はただぽかんと見つめているばかりであった。
「はいはい。あんまり飲み過ぎないようにね」
永琳がそう言うと二人は互いの盃に並々と酒を注いで、飲み勝負を始めた。
「今日こそは酔いつぶしてやるわ!」
「お前こそ飲み過ぎて吐いても知らないからな!」
ぐいぐいと盃を次から次へと飲み干していく輝夜。先ほどまで天子と会話していたような言葉遣いでなく、乱暴で汚くて、そして親し気な言葉だった。
「驚いた? あの二人昔からああなのよ」
「……昔から?」
「そう。昔は殺し合う仲だったけどね。でも今はこうして馬鹿な事をし合えるほどにまでなったわ。ほら、喧嘩するほど仲がいいって言うじゃない」
永琳の言葉に天子は「ふーん」と相槌を打ちながらその表情は面白くなかった。
嫉妬していた。
せっかく仲良くなった輝夜を横取りされたような気がしたからだ。
二人は天子を余所に飲み比べを続けている。
自分も参加するように天子は並々と酒を自分の盃に注ぐと一気に飲み干した。
※
「それにしてもお前本当によく永遠亭に遊びに行くなぁ」
「いいでしょ。どうせ暇なのよ。貴女こそよく輝夜のところに行くんじゃないの?」
「まぁ……あいつに呼ばれるからな」
迷いの竹林の中。
妹紅に連れられるようにして天子は歩いていた。永遠亭まで二人で飛んだ方が早く着くのだが、いつも輝夜のところへ遊びに行く時こうして歩いているのは妹紅が人間を案内するとき徒歩である癖がついてしまっているのと、天子が妹紅からもっと輝夜の話を聞きたいと思っているからだった。
「よく遊びに行くの? 私抜きで?」
「なんだよその言い方。お前こそ毎日のように輝夜のところに遊びに行っているじゃないか。私が慧音のお手伝いとかで行けない時とか」
「ま、まぁそうだけど」
妹紅に突っ込まれて胸が一つ高鳴った。それを隠そうと天子は思いついたまま妹紅に反撃する。
「もしかして、嫉妬しているの?」
「そんなわけあるか。ほら、着いたぞ」
二人の目の前に永遠亭が姿を現した。
会話が途切れて天子はほっとした。そしてそんな自分に気が付いた。
なんで私、ほっとしたんだろう、と。
嫉妬していたから。
しかし、それは誰に?
永遠亭の門をくぐると妹紅が声をあげて輝夜を呼ぶと、すぐに縁側に出てくる影があった。
「あら。いらっしゃい天子。すぐに永琳にお茶を出させるわ。妹紅の分はないけどね」
「なんだよ、その対応。せっかくお前の友達をここまで連れてきてやったんだぞ」
ぶすっとした表情で妹紅は輝夜の隣に腰を下ろす。慌てて妹紅の隣に天子も腰を下ろした。
「今日は仕事じゃないの?」
「ああ。今日は暇そうだし、一緒に遊んでやるよ。さて何して遊ぼうか」
「妹紅がそういうと物騒な感じがするわ。天子もそう思わない?」
「え? ああ、そうかも」
言葉を交わす二人を見つめていた天子は急に輝夜に話しかけられてどきまぎしてしまう。
そんな天子に妹紅が「ふん!」と鼻を鳴らした。
「はいはい。どうせ私は物騒だよ。なんなら久しぶりに弾幕勝負してもいいけど」
妹紅が自信満々に輝夜に話しかけると「あのさ!」と遮ったのは天子だった。
妹紅と輝夜が振り返る。
「今日はさ、三人でやってみたいことがあるんだけど」
「あら? 何かしら?」
「……お化粧し合わない?」
※
「やっぱり輝夜は綺麗よね。さすがかぐや姫って言ったところかしら」
「あら? 天子だって綺麗よ。綺麗と言うより可愛いわ」
数十分後。
永遠亭の一室は化粧道具の匂いに包まれていた。
天子と輝夜が互いに見合ってはしゃいでいた。
輝夜は珍しく髪を後ろで一つに縛っていた。唇には薄い紅の唇が塗られてより魅力が高まっているように天子には思えた。肌に白粉を塗ってみようかと言う輝夜を押しとどめたのは逆に輝夜の肌の美しさを失われそうに思えたからだった。
一方で天子は髪を三つ編みにしていた。「一度永琳みたいにしてみたい」と輝夜が編んだのだ。右肩から垂れる自分の髪を見て、綺麗になったかなと何度も鏡を覗きこむ。
そんな二人を面白くなさそうに妹紅は兎の頭を撫でながら見つめていた。
「化粧だなんて、無駄だと思うけどなぁ。何がそんなに面白いのやら」
天子の方を見ないでぶっきらぼうに話す妹紅の言葉に天子の胸が小さく痛んだ。
何故?
何故痛むのか自分でもわからなかった。
「あら? 私綺麗になってないの?」
痛みを隠すようにして天子が不満げに話しかけると妹紅は「え?」と動揺して視線をあちらこちらに移す。
「い、いや! そういう訳はないけど、そのだな、化粧なんかしなくても綺麗なものは綺麗だって話で」
しどろもどろの妹紅の反応を見て天子と輝夜は顔を見合わせて笑った。
「な、なんだよ!」
妹紅が不機嫌そうに怒り出したのを輝夜が抑える。
「まぁまぁ。妹紅だって化粧したらもっと綺麗になると思うわよ」
「いっ!?」
「ねぇ、天子だってそう思うでしょ?」
輝夜に振られて天子は大きく頷いた。
きっと綺麗になるに違いない。
化粧をした妹紅の顔を思い浮かべて天子は期待で胸が大きく高鳴った。
天子と輝夜がゆっくりと妹紅に近寄っていく。
妹紅は困惑した顔で体を固くしていた。
「い、いや。私は結構……ちょ、ちょっと待って!」
「ちょっと白粉を塗ってみましょうか」
「髪も無造作にしないで束ねてみましょうか」
「いいって! もういいって!」
「さぁ、妹紅。終わったわよ」
「やっぱり綺麗じゃない」
数十分後。
天子と輝夜の玩具にされた妹紅が恥ずかしそうに手鏡を覗き込んでいた。
ボサボサだった髪は油で整えられて、薄ら汚れた肌は丁寧に拭かれて輝きを取り戻していた。
それだけでも元々整った妹紅の顔立ち。天子の目には数倍綺麗になった彼女が映っていた。
「恥ずかしい……」
顔を赤く染めて妹紅が二人に振り返る。
「あらあら。まるで子どもみたいね」
「うるせぇ。化粧なんてめったにしないからさ」
「でも化粧は覚えておいた方がいいわよ」
「いや、使わないって。私みたいなのが綺麗になったって意味ないって。天子もそう思うだろ? ……天子?」
天子はじっと妹紅の顔を見つめていた。妹紅に話しかけられても妹紅と同じく頬を赤く染めて。
妹紅と輝夜が天子の顔を不思議そうに覗きこむ。
「天子? どうしたの?」
「え? ああ! なんでもないわ!」
ようやく自分を取り戻して、妹紅の顔を穴が空くほど見つめていた自分が恥ずかしく思えた。
「そうね。まったく別人みたいだわ」
「ふん……どうせ私には化粧なんて似合わないよ」
とっさに口に出した言葉に妹紅が拗ねたように口を尖らせる。
しまった、と思った。
もっと気の利いたことを言えばよかった。でも相手は妹紅じゃないか。
どうして妹紅に気兼ねしないといけないのか、とも思った。
「でも、たまにはこういうのもいいかもな」
そう言って妹紅は再び手鏡を覗き込む。
その言葉に天子はほっとした。
自分は別に妹紅を馬鹿にしているわけではない。本心から綺麗だと思ったから。手鏡を相手に色んな視点から自分の顔を見つめる妹紅が可愛く思えて、天子は再び妹紅の顔を見つめてしまう。
ふと、今の自分と今の妹紅が並んだらどう見えるだろうか。
そう想像すると天子の胸がますます高鳴った。
まるで化粧をした二人が並んで歩くのを期待するように。
しかし。
その期待はすぐに打ち破られた。
「妹紅」
輝夜が妹紅に話しかけるとそっと傍によった。妹紅が顔を上げる。
「口紅。塗ってみたら?」
そう言うと人差し指に付けた口紅を丁寧に妹紅の唇に塗っていく。
あ、と思った。
しかし輝夜の指は止まらない。
妹紅も身を任せるままにじっとしていた。
その光景を天子はただ見つめていた。
胸がぎゅっと締め付けられるようだった。
「はい、終了。増々綺麗になったわ」
「さんきゅー」
唇には輝夜と同じ薄い紅色の口紅。それを妹紅はまた手鏡で覗き込む。
「口紅って意味あるのか?」
「そんなんだから妹紅は妹紅のままなのよ」
「なんだよ、それ」
二人して笑い合う。
しかし天子の目にはそんな二人は映らなかった。
目には輝夜の指が。
妹紅の唇に沿わせる輝夜の指だけが映っていた。
触れたかった。
自分の指で妹紅の唇に触れたかった。
だけど妹紅の唇に触れたのは輝夜の指だった。
私よりも輝夜の方が仲良しなんだ。
そう思うと胸がぎゅっと強く締め付けられた。苦しくなった。
「天子?」
「どうした?」
気が付いたら天子は立ち上がっていた。
「あ……ごめんなさい。今日はそろそろ帰らないと」
「え? そうなのか。じゃあ、送っていくよ」
「いい! 帰りぐらい自分一人で帰れるわよ」
そう言い残して天子は庭へと飛び出した。
竹林へと走っていく。
走りながら化粧を乱暴に腕で拭った。
痛いのを感じないみたいに髪も乱暴にほどいた。
ただ走った。
目に涙が溢れてくる。
※
博麗神社での宴会から数日後。
輝夜に誘われて初めて永遠亭へ遊びに行った時のことだ。
天子が迷いの竹林に着くと竹林への入り口に妹紅が立っていた。
「あら。あんたあの時の」
「ん? ……誰だっけ?」
きょとんと首を傾げる妹紅に天子はがくっと脱力した。
あの日輝夜も妹紅もかなり酔いつぶれていた。どうやら記憶が曖昧なようだ。
「別に。なんでもないわ。私輝夜に用があるから」
そう言って無視するように竹林に足を踏み入れようとする天子を妹紅が呼び止める。
「ちょっと待てよ。この先下手に足を踏み入れると迷子になるぞ」
「はぁ? ああ、そう言えば輝夜も言っていたっけ」
宴会での輝夜の話を思い出すと天子は「はぁ」とため息を漏らした。
「じゃあ、ここで迎えが来るのを待てばいいのね」
「いや、私が送っていくのだが」
「え?」
「だから。永遠亭までの案内人は私なんだ」
妹紅がにっと笑った。
妹紅に連れられるようにして天子は面白くなさそうに竹林を歩いていた。
「貴女が輝夜の僕のようには見えないわね。この前の宴会だって輝夜に喧嘩を売っていたし」
「別にあいつの僕なんかじゃないよ。というより絶対嫌だね。なんであいつの僕なんだよ」
「じゃあ、なんで案内人なんかしているのよ」
「うーん。なんでだろうな」
妹紅の返事に天子はまたため息を漏らした。
なんだこいつ。あの日、輝夜と火花散らしていたのに、昔輝夜と殺し合いをしたほどの間柄なのにどうして永遠亭への案内人をやっているのだろう。バッカみたい。
心の奥で軽蔑していると妹紅が話を繋げた。
「お前と同じかもな」
「え?」
「お前と同じで、私もあいつと友達になりたかったのかも。あいつには恨みがあった。心の底から憎んでいた。でも長い年月がその憎しみを消し去った。そうしたらさ、あいつも好きで父上を貶めたわけじゃないって気が付いた。あいつなりに今まで私と同じで人間から隠れるように暮らしていたんだと思うと、急に恨んでいたのが馬鹿らしくなってさ。今では殺し合いなんか止めてしまって、なんとも言えない関係になってしまったよ」
そこまで話して妹紅は足を止めて振り返る。
ドキッとして天子はその顔を見つめた。
「お前。輝夜と友達になったんだっけ? 少しずつだけど思い出した」
「そ、そうよ。それが?」
妹紅は笑った。
天子が初めて見る彼女の笑顔だった。
「私も輝夜と友達になりたいんだ。よかったら私とも友達になってくれないかい?」
天子は息を飲んだ。
妹紅は人間だ。
天人でも元地上の出身というだけで天人たちには不良と馬鹿にされてきた。だけど自分は地上の人間でもない、曖昧な存在。
そんな不良天人に地上の人間が友達になってくれ、と言うなんて天子には初めてのことだった。
じっと妹紅の顔を見つめる。
彼女は人間なのに綺麗な顔をしていた。
無意識に天子は頷いていた。
※
「有頂天になっていたのね……」
薄暗くなった竹林の中、天子は一人で佇んでいた。
天界へ帰るわけでもなく、ただ竹林の中を彷徨っていた。
天子の頭の中には妹紅と知り合った時のことが思い出される。
宙を仰いで天子は目を閉じた。
私は、知らず知らずに妹紅に恋をしていたんだ。
人間なのに月の姫だった輝夜や、私にみたいな不良天人にも、身分を気にせず接してくれる妹紅に惹かれていたんだと思った。
輝夜は友達の一人。しかし妹紅は天子にとってそれ以上の存在だったのだ。輝夜と一緒に、妹紅と遊ぶのが楽しみだったのだ。それで彼女が仕事で一緒に遊べないかと気に病んでいた。
妹紅が傍にいれば嬉しかった。
ずっとこれからは友達でいられると、いやそれ以上の関係を望んで有頂天になっていた。
でも妹紅と輝夜は、自分以上に深い仲だったのだ。二人の様子を見てやっとはっきりとわかった。二人はすでに憎しみ合いを越えて深い仲になっているということを。すでに自分が入り込む余地がないってことも。
「はは。仕方がないことじゃない。しょうがないじゃない」
目の前が涙でぼやける。
それを強引に腕で拭う。
思い上がりはやめよう。これからは妹紅と輝夜のただの親友であろう。だが心の奥でそれをよしとしない自分がいた。腹が立った。何度も何度も涙を拭っても溢れてくる。そんな自分が嫌になる。
月が出て天子を眩しく照らした。
「……帰ろう」
そう呟く天子を抱き寄せた者がいた。
急に引っ張られて天子が驚いていると聞きなれた声が聞こえてきた。
「ったく。何やってんのさ」
妹紅だった。
天子が顔を上げると妹紅の顔はすでに化粧は落ちて、口紅も綺麗に拭わられていた。よく見る妹紅の、綺麗な素顔だった。
「どうして?」
「どうしてって。お前が飛び出すからだろ。心配したんだからな」
「……本当に?」
「本当にって……お、おい!?」
妹紅の胸に天子は顔を押し付けた。
突然の天子の行動に妹紅は戸惑った。視線を彷徨わせてそれでも天子に話しかける言葉が見つからず、ただずっと身を任せていた。
しばらく沈黙が走ってから天子が話しかけた。
「ねぇ、妹紅」
「な、なんだよ」
「私と輝夜、どっちが大切?」
再び沈黙が走った。
妹紅の胸に顔を預けているので妹紅の表情を窺うことができない。それでも天子はただ妹紅の胸に顔を埋めていた。肩が緊張で固くなった。
我ながら思い切ったことを言ったものだ、と思った。
「……どっちかなんて決められないよ」
やがて妹紅が静かに話し始めた。
天子はじっと耳を傾けていた。
「でもな! お前が何を考えているかはわからないけど、輝夜もお前も私にとって大事な友達だからな!」
ようやく天子は顔を上げた。妹紅はじっと天子を見つめていた。
「本当?」
「嘘つくわけねぇだろ」
妹紅の言葉に天子は目を丸くした。
「そう……本当なのね」
「だから本当だって……おい!?」
力いっぱい妹紅を抱きしめた。
「な、なんだよ? 大丈夫か?」
心配そうに妹紅が覗き込むと天子はにっと笑ってみせた。その目尻は涙で濡れていた。
「そう……じゃあ、まだ私が入り込む隙間はあるのね」
「なんの話だ?」
首を傾げる妹紅の顔をじっと見つめる。
妹紅。
貴女のことが好き。
「おい、なんの話だよ?」
「妹紅。これから二人で飲みに行かない?」
「え?」
目を丸くする妹紅に天子はにっと笑ってその腕を引っ張った。
「今日は二人きりで飲んでみたい。ね、お願いだから」
「これから? え?」
戸惑う妹紅に構わず天子が歩き出して、妹紅は引っ張られるようにして歩き出す。
いつも永遠亭へと遊びに行く時とは逆だ。
天子の顔は先ほどとはうって変わって晴れ晴れとしていた。
まだこの想いを妹紅に伝えられる。
妹紅に私のこの想いを。
そう思うと天子の気持ちが弾んだ。
戸惑う妹紅をずんずん引っ張っていく。
今日こそは二人きりで過ごしたい。
そんな天子を月明かりが照らしていた。
私の恋人になってほしい。
貴女は私の気持ちなんて知らないでしょうけど。
それでも今夜だけは浮かれさせて。
貴女への想いにこの体を満たさせて。
いつか。
私に振り返ってくれることを、この体いっぱいに願わせて。