ある日、とあるお屋敷……いや、『お屋敷』という表現も誤りと感じられるほど、それはそれは大きな館の中でのお話。
その建物と比べると幾分地味な風合いの扉が、破壊される寸前の勢いで突然開かれる。部屋の中は整然としながらも、事務用品やデスクワークに必要なあらゆる道具であふれ、小さめの机がいくつも並ぶ。主の部屋という雰囲気ではない。さしずめ使用人達の詰所、といったところだろうか。
部屋へ飛び込んだ人物は意外にも広いその部屋の中を見回すが、誰も見つからない。皆それぞれの仕事に出払っているのだろう。肩を落としつつ部屋を去ろうとした時、ちょうど戻って来たらしい使用人を見つけた。
「そこのあなた! ちょっと聞きたいことが――」
「はい、なんです……はっ!? えっ? しん」
「すとっぷ!」
声をかけてきた相手の正体に気付いたらしく、慌てて臣下の礼をとろうとする使用人。それをこれまた慌てて留める人物。
ここで大仰に礼をとられては、好ましくない状況に陥る可能性があった。例えば、今も自分を探しているであろう側近がその声を聞きつけるとか。
「私がここにいることは内緒。ナイショよ。いっつ あ しーくれっと。おーけい?」
「は、はあ。かしこまりました」
ひとまず安堵したように息を吐く。かと思うと周囲の安全を確認するかのように、辺りを見回す。
挙動不審も極まる振る舞いだが、使用人は目前の人物のそのような奇行にも、もはや慣れてしまっていた。先ほどはあまりにも唐突なエンカウント故に驚きを隠せなかったが、実際にはよくあることなのだ。側近の目を盗み、職務をほっぽりだして脱走するのがこの人物の日常である。
「……右良し、左良し。後ろも良し! 夢子ちゃんは確認できず、良し!」
「あの、お聞きになりたいこととは……」
「あら、そうだったわ。あずにゃんがどこにいるか、知ってる?」
「あずにゃ……副メイド長のことですか?」
「そう! ちょっとお願いがあって。あ、それとおみやげも頼みたいし――」
件の女性――この館で副メイド長の職に就いている女性――を使用人は目撃していた。確か、朝早く日も昇らないうちに、どこかへ出掛けると言ってこの館を出たはずである。
そのことを伝えると、目の前の人物――使用人達の主にして、この館の主でもある女性は、いかにも落胆した様子で肩を落とした。
「残念だわあ。ほんとに早い時間に行っちゃったのね」
「まさか副メイド長、ご挨拶もせずに?」
「いいえ、そんなことはないから大丈夫よ。実はね、昨日の夜には今日のことを聞いていたの。『明日は早い時間に発ちます。まだお休みと思いますので、ご挨拶差し上げませんがお許しください』って」
上司が無礼を働いたのではないと分かり、安堵する使用人。主に対して礼儀を欠くような人物でないことは十分に理解しているが、万一があれば恐ろしいことになる。
『無断欠勤(サボり)』。それはどんな呪詛よりも恐ろしい結果をもたらす言葉である。もっとも、その場合『恐ろしい』のは目の前にいる主ではなく、その側近たるメイド長のカミナリなのだが。
「でも、もう行っちゃったんだあ。どうしようかしら。届けて欲しいものがあったのに」
「お急ぎのものであれば、私が代わりにお届け致しましょうか?」
「大丈夫。急ぐものではないし、わざわざ行ってもらうには少し遠すぎるわ。あずにゃんの行き先と近いから、ついでに持って行ってもらおうかなって。急な思い付きなの」
そう言う主には、特別焦る様子も無い。今の言葉は遠慮からのものではなく、文字通りに届け先が近場には無いことを意味するのだろう。
そんなことを考えていた使用人だが、自分が肝心なことを知らないと気付いた。
「あの、副メイド長はどちらへお出掛けになったんでしょう。私達は今日一日のお休みをいただいているとしか……」
本来ならば、本人が明かさなかったことを他の人物から聞き出して良いものではない。しかし、彼の女性が職務を丸一日休んで外出するなど、未だかつて無かったことなのだ。ある種の異常事態とも言える。
問われた主は、やはりと言うべきか、眉を寄せて思案している様子である。
「しっ、失礼致しましたっ! 出過ぎたことを聞きました!」
「あっ、いえ、大丈夫よ。ただ、こういうことは個人的な事情もあるから、私も気軽には教えられないし、あなたも簡単に聞いたりしちゃダメね」
「おっしゃる通りです……」
反省してうなだれる使用人に、よろしい、と笑顔でうなずく主。そして、こう言葉を続けた。
「でも行き先くらいなら、今回はいいでしょう。あずにゃんはね――」
◇◇◇◇◇◇◇◇
――幻想郷。
外の世界(げんじつ)から忘れられたもの達のために造られた幻の郷は、今日もそれなりの平穏を保っていた。
「ふあー……」
具体的には、館の最前線に立つ、門番たる彼女が安心してあくびをかませるくらいは平穏なのだった。
今日はまだいつもの侵略者(きゃく)も現れず、居眠りすることも無い。まだ日が昇ってから早い時間ではあるが、本日の職務も順調な滑り出しである。
「……そういう時に限って、何かしらあるんですよねえ」
誰にともなく、紅い館の門番――紅 美鈴はつぶやく。嵐が来るなら、それらしく不穏な気でも漂っていればいいのに。しかし実際はといえば、こんなふうに平穏を実感しているその時を狙ったかのように、ひと騒ぎ起きるのである。
美鈴の脳裏では、今までに巻き込まれた事件や騒動の顛末が次々と浮かんでは消えていく。大きな出来事もあれば、小さな『大戦争』なんてこともあった。
そういった記憶の合間に、職務中の居眠りで館のメイド長に怒られている風景が浮かぶのも、一種のご愛嬌である。
「あのう、すみません」
「でも咲夜さんも厳しいよなぁ」
「道をお伺いしたい……って、聞こえてます?」
「私はほんっとうに、あの何秒か前まではちゃんと起きていたのに……」
「もしもーし」
「…………ぐう」
「本当に起きてますかっ!」
「はいっ!? すみません! 三秒前までは起きてましたっ! だから咲夜さん許し……あれ?」
条件反射的に頭を下げた美鈴だったが、再び頭を上げたときそこにいたのは咲夜ではなく、申し訳なさそうに苦笑している、見知らぬ女性だった。
「すみません、普段の癖でつい怒鳴ってしまいました。道を伺いたいのですが、大丈夫ですか?」
「いえ、こちらこそ。道、ですか。どちらまで?」
言葉を交わしながらも、美鈴は目の前の人物を観察する。
来客を知らせ、不審者を撃退すれば門番の仕事は終わり……ではない。門番とは館の安全を守る、最外郭の防衛ラインである。知り合いでもなく、見かけたことも無い人物が現れて、世間話をするだけで見逃して良いわけはない。先ほどは居眠りしかけていた美鈴だったが、頭の切り替えは素早いという自負があった。
それに――
「ええと、この辺りに『図書館のような建物で、本の山に埋まりそうになりながら暮らしている魔法使い』がいらっしゃると聞いて。ご存知ですか?」
「本の山に、ですか……」
――やはり。
美鈴は目の前の女性に、自身も良く知る人物に近い印象を抱いていた。誰であろう、彼女の主たる吸血鬼の姉妹である。
つまり、勘が当たっているなら、この人物は悪魔――もしくはそれに近い存在だということになる。加えて、彼女の訪ね人である。この辺りに住む『本の山に埋まりそう』な魔法使いといえば、おそらくはパチュリーのことだろう。
――悪魔がパチュリー様を訪ねてくる。どんな理由で?
例えば、過去の仕打ちに対する報復。未払いになっている対価の取り立て。どうしても、良い答えが返ってくるとは思えないのだ。
端的に言ってしまえば、この女性はパチュリーを害する目的で現れたのではないか。美鈴はそう考えるのが妥当だと判断する。
けれども、美鈴自身は相対する女性から決して悪い印象を受けたわけではなかった。
暗い赤に染まった髪が背の中程まで伸び、血の気の薄そうな白い肌を余計に青白く際立たせている。髪色よりも暗い、ほとんど黒に近い赤色の薄いコートを着込み、周囲の風景からも明らかに浮いている。およそマイナスの印象を喚起しそうな外見の人物である。
しかし、外見の陰気さを覆して余りある、溢れるほどの『陽』の気を、美鈴は感じていた。
そして、美鈴が確信していることがもうひとつ。
――もしもやり合うことになったら、私では話にならない。
目の前に立つ女性が、圧倒的な――美鈴だけではなく、美鈴『達』と比較してもなお圧倒的な力の持ち主であろうことだ。
いや、例え紅魔館全ての戦力を純粋に足し算出来たとして、対抗し得るかも怪しい。
だから――
「あの……?」
「あ、すみません。実はそれ、この館のことなんです。別館がまるごと図書館みたいになってまして」
「あら、そうだったんですか! どうりで、大きなお館だと思いました」
「今、中の者に伝えます。ご案内させますので、少々お待ちください」
――自分の目と勘と直感を信じることにした。
もちろん、自分が感じたことは全て咲夜に伝え、案内も咲夜に頼むのが良いだろう。
それでも美鈴は、これといって大変なことにはならないとも直感していた。
彼の悪魔が纏う『陽』の気が、なぜかとても馴染み深いものに感じられたからである。
◇◇◇◇◇◇◇◇
――咲夜は隣を歩む人物を観察する。
「本当に立派なお館ですね。この中に『図書館』があるというお話も納得です」
「ありがとうございます。実は正面から見えているのは本館のみなのです。図書館は、また別の棟にございます」
まあ、と驚いたように声を上げ、再び紅魔館を見上げる女性。
先ほど美鈴から応対を引き継いだ人物。
美鈴から「咲夜が直接案内するべき」との連絡があり、続けて「パチュリーを訪ねてきたとのことだが、必ずレミリアにも知らせるように」と聞いた時には、一体誰が訪れたのかと戦慄しつつ門へ向かった咲夜だったが、それも件の女性と対面するまでのことだった。
――確かに、お嬢様や妹様とよく似た雰囲気をお持ちだけど……。
咲夜には、美鈴が言うほどの注意が必要とは、とても感じられなかったのである。
――どうやら、この女性は悪魔、もしくはそれに類する存在。……同意。
――悪魔がパチュリー様を訪ねてくる。穏当な用件とは思えない。……同意。
――けれど、とても私達に害をなす意思があるとは考えられないほどの『陽』気を纏っている。……同意、したいけど判断不可。
――もしも事を構えるとなれば、私達にはなす術が無い。……異議あり。
美鈴から伝えられた印象を、当の人物を観察しながら再度確認していく。
確かに、一見しただけで尋常な存在ではないことは咲夜にも分かる。しかし、ここは紅魔館である。主たるレミリアを筆頭にフランドール、パチュリー、美鈴、そして自らを含め、尋常でない存在には事欠かない。
その面々に対し、この女性に圧倒的な優位があるとは、咲夜には思えなかったのだ。
とはいえ、だからといって相手を侮る気はなく、礼を失する理由にもなりはしない。
――さて、パチュリー様には、どんな用件で会われるのかしら。
そんなことを考えながら正面玄関の大扉を開き、来客を招き入れた咲夜。だが次の瞬間、エントランスの先、自分達を迎える位置で跪く人影を見て、凍りついた。
「……御初に御目にかかる。私が当館の主にございます。レミリア・スカーレットと申します」
レミリアだった。
咲夜は思わず小さく悲鳴のような声をあげかけるが、レミリアが一瞬飛ばしてきた眼光に、なんとか踏みとどまった。その眼光が意味するのはひとつ。
『黙っていろ』
「丁重なお出迎えに感謝します。突然訪ねてきたのはこちらですのに、お気を遣わせて申し訳ありません」
「お気になさることはございません。貴女様に当館をご訪問いただくことが既に、我が最上の栄誉でありますれば」
レミリアの姿勢、言葉、いずれにも一切の躊躇は無い。咲夜が見る限り、レミリアは本心からこの人物に敬意を表し、跪いている。
だが、そんなレミリアの言葉に対し、客人は眉根をわずかに寄せた。
「門番の彼女、ですか? 確かにきちんと私を警戒していた様子でしたが、気付いていたようには見えませんでしたよ?」
「いいえ、手掛かりも何も必要ありません。貴女ほどの方を知らずして、悪魔――眷族とはいえ、魔族を名乗れましょうか」
「……では、お気付きなのは貴女のみ、なのですね?」
「はい」
おそらくは、と付け加えながらも問いを肯定したレミリアを見て、客人はようやく緊張を解いたようだった。
そして、自らもレミリアに対し頭を垂れ、言葉を続けた。
「丁重なるお出迎え、重ねて感謝します。ですが、失礼ながら、実は私がお訪ねしたのは、貴女ではないのです」
「承知しております。私が参りましたのは、ただ貴女にご挨拶申し上げたいと望んでのこと」
ここでようやく、レミリアが立ち上がる。そして、客人の進む道を妨げないように数歩、脇へと下がった。
その顔には、例え隠そうとも隠しきれないような、誇りと喜びに溢れる表情を浮かべて。
「当館に住まう魔女を訪ね来られたとの旨、伺っております。どうぞ、ごゆるりと」
◇◇◇◇◇◇◇◇
「それでは、パチュリー・ノーレッジにご来訪を伝えて参ります。少々お待ちください」
大図書館入口の目前にあるゲストルーム。来客にソファを勧め、一礼を残して咲夜は退室する。
扉を閉じ、少しの間何かを迷うように空を見つめていたが、やがて静かに扉へ掌をあてて、つぶやいた。
「……インフレーションスクエア」
「咲夜」
突然声をかけられようと、普段ならば驚くには値しない。神出鬼没が常の主に仕えていれば、慣れるものである。
だが、先ほどから疑問だらけの挙動を見せている主の突然の登場に、わずかながら咲夜の肩は跳ね上がった。
「ここでお待ちいただいているの?」
「は、はい。"三分ほど"お待ちいただくことになるかと」
たった今、咲夜がゲストルームにかけた術には、対象の空間における経過時間を遅延させる効果がある。五、六倍程度の引き延ばしならば、中にいる人物にも気付かれることはない。本来の用途ではないが、こういう時には役に立つものだ。それに、パチュリーに状況を説明するとして、実際のところ『少々』で済むとは思えない。
「あまりおおっぴらにやらないようにね。あの方なら、お気付きになってもおかしくはない」
なおも客人の女性を目上に――それもまるで遥か雲の上にでもいる存在のように振る舞うレミリアに、咲夜はさらに疑問を募らせる。客人には礼儀を尽くし、丁重に接するのは当然である。それでも、先ほどのレミリアの態度は行き過ぎているのではないだろうか。
そんな考え事が顔にも出たらしい。ふと振り向いたレミリアは、その紅玉のような瞳で咲夜の瞳を覗き込む。あるいは、その瞳を覗かせるために、だろうか。
「なあに、その顔。不満です、ってな目しちゃって」
「いえ、そんなことは」
確かに積もる疑問に影響されて、主の前にはふさわしくない表情を見せたかもしれない。しかし、決して不満や異論があったわけではない。
そのことを正直に説明するべきか、咲夜は迷う。
けれども、再び咲夜が口を開くよりも早く、レミリアが悪戯っ子のような、それでいて少し申し訳なさそうな笑みを見せた。
「分かってる、冗談さ。悪かったわね。不思議なんだろう? 私がどうして、あんな態度をとるのか」
「……はい。正直に言わせていただくなら、そこまで強大な存在には、とても感じられません」
「力の大小じゃあない。純然たる『格』の差なんだ。あと、私の個人的な崇拝もあるかな」
力の差が理由ではない、とレミリアは言う。しかし、『個人的な崇拝』の対象であると言うのならば、それに足る存在だという意味なのだ。
やはり、咲夜の疑問は解けない。
「まあだ分からないってカオしてるわね。いいさ、それじゃあ教えてやるよ。おまえ――あの方の名を聞いたかい?」
――はて、そういえば彼女の名前はなんといっただろう?
そこまで考えて、咲夜はありえない異常に気付いた。
名も知らぬ人物を、一度も名前を尋ねることなく、迎え入れてしまっている。美鈴が気付かず、自らも気付かず、レミリアに指摘されなければ、このままパチュリーと対面させていただろう。
さらに異常なことには、そう気付いたにも関わらず、『名前を尋ねる』ことの必要性を未だに感じられないのだ。
扉の向こうにいる女性に、それでも何かを感じるわけではないが、その『無感覚』が徐々に『得体の知れなさ』へと変わっていく。
「やっと分かったね。気にすることはないさ。彼女はそういうレベルの存在なんだ。決して『名無し』ではないが、名前という自己証明のための『代用物』も必要とはしない」
「『代用物』……いえ、そうではなく。彼女は、一体……?」
「さっきのやりとりでもあっただろう。あの方は、自らの正体を明かすことはお望みでない。それをないがしろにするつもりはないよ」
そうして、咲夜をパチュリーのもとへと向かわせ、一人になったレミリアは、件の人物がいる部屋の扉を見つめて口をとがらせる。
「ちぇっ。うらやましいなあ、パチェのやつ。なんで私じゃあないんだよう」
そうこぼしながらも、その足取りは軽い。ようやく本調子の陽光が射し込む館の中を、その光にも負けない高揚を心に秘めて、館の主は自室へと戻っていった。
◇◇◇◇◇◇◇◇
「――というわけなんです」
「どういうことよ……」
半ば涙目の咲夜から来客の知らせと、その客人にまつわる事情を聞いたパチュリーは、頭を抱えるしかなかった。
「名前がどうのこうのっていうのは、とりあえず置いておきましょう。そんなことより、レミィが……?」
「はい。その方をご存知のようで。個人的に崇拝されているとか」
パチュリーはやはり、悩むしかない。いや悩むまでもなく、そんな知人はいないと断言出来る。だいたい、レミリアが『崇拝』するというような相手など、知り合う術すらない。
「昔、立て続けに高位の悪魔を召喚された時期があったと、お聞きしましたが……」
「高位と言ったって知れてるわ。私程度の『格』じゃレミィを御せるかさえも怪しいのに、そのレミィが迷わず跪くような怪物を喚べるはずがないじゃないの」
「『格』、ですか。そういえば、お嬢様もそのようなことをおっしゃっておられました。『純然たる格の差』があるのだ、と」
「そうよ。力の大小とは別に『格』という尺度がある。魂の強度や重量と言い換えてもいいわ。誰かを使役するということは、使役する相手の魂を自らの魂で背負うことに等しいの。当然、自らの魂を超える容量を持った魂を背負うなんて不可能。だから私がいくら膨大な魔力を用意したって、私の『格』に見合わないような高位の存在には見向きもされな――」
そこで突然言葉を切り、パチュリーは無言で考え込み始めた。今の自らの言葉に、何か引っかかるものがあったのか。
だが、咲夜としてはいつまでも客人を待たせるわけにもいかない。時間を引き延ばしているとはいえ、そろそろ刻限である。
「ではパチュリー様、いかが致しましょう。……お引き取りいただきましょうか?」
「……いえ、お通ししてちょうだい。少し、気になることがあるから」
咲夜を客人のもとへ送り出した後、パチュリーは自らの使い魔を呼び寄せる。
今日はその使い魔に、閉架してある書庫の整理を命じていた。かつてそこに仕舞い込んだ本を探してもらうついでに、ホコリだらけになっているだろう本棚の掃除も頼んだ、というところである。
並び立つ本棚の向こうから姿を現した使い魔は、体にかかった粉っぽいホコリを払い落としてから、主に歩み寄った。
「すみません。三十四番の整理を終えたところなんですが、お探しの書はまだ――」
「ん、分かった。ありがとう。そっちは一旦止めにしましょう。ちょっと聞きたいことがあるの」
なんでしょう、と使い魔は首を傾げる。
「貴女の知り合い……じゃないわね、親戚にすっごい高位の悪魔なんていたりする?」
この質問は、パチュリーのとある閃きを補強するためのものだった。普通ならば接触も出来ないような存在が、自分を訪ねてくる。その異常を成り立たせる可能性がある閃き。
一方、問われた使い魔はまず苦笑を漏らし、頬を掻きながら口を開いた。
「あー……。実はですね、私の母なんですが」
「お母様? 貴女のお茶の師匠だっていう?」
パチュリーの使い魔である小悪魔は、紅茶全般に詳しいのだが、それを教えたのが彼女の母だという。パチュリーは以前にも、その話を聞いたことがあった。
「私はこの通りの小悪魔なんですけど、母は嘘みたいにド高位の悪魔なんですよ。自慢じゃありませんがー」
「……なるほど。確かにそうみたいね。レミィが崇拝するっていうくらいだから」
「……はい? それは、どういう……お嬢様とウチの母に面識はないはずですよ?」
「そうね。今日が初対面だったみたいだし」
普段からただでさえ静かな図書館を、さらなる静寂が一瞬だけ支配する。
そして、ようやくパチュリーの言葉の意味するところを理解したらしく、小悪魔はかぶりつくようにして、パチュリーを問い詰める。
「どっ! どういうことですか!? どういうことですか!?」
「……だから、正体不明の悪魔が一人訪ねてきてて、レミィは跪くわ、咲夜は涙目だわで大変って話。現在進行形で」
「んなあっ……まさか、それが……」
「さあて、どうなんでしょう。まあ、もうすぐ咲夜が案内してくるから、それではっきりするわね」
「ちょっ、ちょま、まってくださ――」
騒がしくなりつつあった図書館において、そのノックの音は不思議なほどによく響き渡った。
打ち鳴らされた扉を、パチュリーは何事も無く、小悪魔はあまりに落ち着かない所作で見やる。
「お客様をお連れ致しました。入室してもよろしいでしょうか」
「ああうぁうぁぁ……」
「しゃんとしてなさい。人違いの可能性もあるんだから。……どうぞ、お通ししてちょうだい」
にぶく軋みながら、入口の大扉が開く。
まず咲夜が入室し、後に続く客人の道を開けるため、一礼しつつ横に下がる。
失礼致します、とこちらも一礼して――咲夜の後ろから現れたのは、意外に小柄な赤髪の女性だった。
パチュリーの背後では、直立した姿勢で硬直した小悪魔が、口は開けないままで小さく呻いている。
「はじめまして、名も知らぬ方。ようこそ我が図書館へ。どうやら当たり、みたいね」
「はじめまして、図書館の魔法使い。はい。お察しの通り、その娘の母親です」
話について来ていない咲夜と、未だショックから回復しない小悪魔を見交わして、悪魔と魔法使いは小さな笑みをこぼした。
◇◇◇◇◇◇◇◇
いつもの椅子は散らかっているからと、パチュリーは自らの定位置から少し離れたところに、二人分の席を用意させた。
茶菓子は咲夜の用意したもの、そしてそれに合う紅茶を小悪魔が淹れてくる、はずだったのだが……。
「……」
「……」
小悪魔の持ってきた紅茶を口にした二人は、揃って無言を返した。紅茶自体は美味しいのだが、なぜか茶菓子と致命的に合わないのである。
パチュリーは斜め後ろに控える小悪魔をちらりと盗み見る。
「……」
一見、普段と変わり無いように見えるが、顔色がおかしい。それに、眼がぐるぐるとゆらぎ、焦点が合っていない。
「こあ」
「ふあい!」
反応は思ったよりもすぐに返ってきたが、やはり明らかに普通ではない。
「こっちはいいから、さっきの続きをお願い」
「は、はいっ! ですが……」
「それとも、このまま三者面談する?」
「行ってきます!」
言うが早いか、小悪魔は書架の向こうへ消えた。
あの状態で書庫の整理が出来るのか。パチュリーは不安でもあったが、小悪魔をこの場から下がらせる方法が他には思いつかなかったのである。あとは、適当に自己管理してもらうしかない。
パチュリーが再び客人のほうへ向き直ると、客人は小さな肩をさらに縮ませて、申し訳ないと頭を下げた。
「お気を遣わせてしまって……」
「こちらこそ、申し訳ないわ。本当なら私こそ席を外すべきなのに。久々の親子対面を邪魔してしまって」
「いえ、私がお訪ねしたのはあの娘ではなく、貴女なんです。それに、娘と会うのも久しぶりではありますが、手紙のやりとりはありましたので」
「あら、たまに手紙を書いているのは知っていたけど、貴女に出していたのね」
パチュリーが何気なく言った一言は、しかし悪魔にとっては驚くべきものだったようだ。
「自由にさせているんですか?」
「え? いや、自由というか……プライバシーっていうんじゃないけれど、そこまで踏み込んでも仕方ないもの」
「いえ、そういった意味ではなく……主従関係というより、雇用主と従業員のような関係ですね」
なるほど、と何か納得したように、一人つぶやく悪魔。
「……何か変なこと言ったかしら、私」
「娘はあの通りの性格ですから、誰かに仕えるようなことは難しいと思っていたんです。それが、貴女とはもうすぐ百年近くなりますよね。大分自分を抑えているのかとも思ったのですが」
「初めはそうだったのかもしれないわね。誰に対しても常におどおどしていて、自分自身に対しても何か怒りを抱いているような」
話していると、当時のことが次々に思い出されてくる。そのうち、確かに自分達の関係は通常の『使役』とはどこか違うかも、とパチュリーにも思えてきた。
「喚び出してからしばらくは仮契約だったのよ、私達。それで、本契約にしようかって切り出したら、あの娘怒っちゃって」
「怒った……?」
「『維持も楽ではないって言ってたじゃないですか。私なんかを置いておくくらいなら、もっとマシなのを喚べばいいでしょう。同情なら今すぐ送り返して』って」
母たる悪魔は、しばらく呆然と視線を惑わせるばかりだった。
語るエピソードを間違えたかと、パチュリーは今になって後悔した。彼女と小悪魔の間では良い思い出なのだが、考えてみればその母親にとっては衝撃的では済まないかもしれない。
「……理由は、なんだったんですか」
「理由?」
「はい。あの娘を置いておきたいと思った理由です。それに――私が言えたことではありませんが――そもそも、なぜあの娘を喚んだのですか?」
それなら、答えられないことではないし、母親には答えても構わないだろう。実際、小悪魔も同じことを問い、その答えに納得したからこそ、今もこの場所にいるのである。
「置いておきたいと思ったのは……そうね、私の特性に合っていたのがひとつ」
「特性、ですか」
「そう。私はこの通り、年中本に埋まっているのが研究スタイルでもあり、生活スタイルでもある。だから、私に必要なのは『悪魔』というより事務処理の出来るパートナー。もっとも、私の生活に合わせるとなったら、人間では務まらないでしょうけど」
パチュリーの言葉を聞いていた悪魔は、ある程度は納得したような、それでもなお釈然としないといった表情を浮かべている。それも当然だろう。今の理由なら確かに小悪魔にも当てはまるが、『あの』小悪魔である理由にはなっていない。
向かいに座る悪魔の心境を推し測りながら、パチュリーは目の前のティーカップに手を伸ばす。
「もうひとつの理由が、これ」
「……紅茶?」
「そう。いや、すごいものなのよ? コーヒー派だった私が鞍替えするくらい」
悪魔がパチュリーに向ける視線は、もはや疑念という程度を通り越し、目の前の人物が正気かどうか計りかねる、という意味に近い困惑を含んでいる。
その視線に、パチュリーは懐かしいものを感じて苦笑した。
「……なんというか、やっぱり親子なのね、貴女達は」
「それは、どういう……」
「いえね、あの娘に問い詰められた時にも同じように答えたのだけれど、今の貴女と同じ顔をしていたと思って。あの時は続けて『正気ですか?』って聞かれたから『秘密を知られて、帰す訳にはいかなくなった』ことにしてもいいって言ったんだけど」
「……信じられない。嘘みたいですね。そちらの理由のほうこそ妥当ですのに」
「『そりゃ、嘘だもの』ってね、あの時は答えたわ。あの娘はそれで納得してくれたのだけど、貴女は納得してくれるかしら」
悪魔の浮かべる表情は、何時しか憤りに近いものへと変わっていた。
しかし、それは誰に向けられたものでもない。言わば、問答無用で突き付けられた『理不尽』を受け入れることに付随して現れる苦悶に対する怒りのような感情。
従って、『理不尽』を飲み込むことが出来れば、その怒りも共に消え去る。
「……ええ。まだ理解は出来ませんが、納得するしかありません。やはり、あの娘が変わったのではなく、貴女が既に『変わっている』のですね」
「魔法使いに『普通』を求めないでちょうだい。……いや、それにしたって『変人』、かもしれないけれど」
「はい、十分に。では、本当にこの……」
「言い切ったわね……。そう。だから、あの娘が今ここにいるのは、貴女のおかげでもあるのでしょうね」
カップの中でほとんど冷めてしまった紅茶。パチュリーはもう一度、確認するように口をつけたが、やはり何とも言い難い表情でカップを下ろした。
「……今日はちょっと例外、かしら」
「煮出しの時に置きすぎたようですね。本人も気付いているのでしょうけど」
「やっぱり分かるのね」
「そうですね。一応、一通りのことを教えたのは私なので。……それくらいしか、与えてあげられなかったものですから」
目を瞑り、何を思い浮かべているのか、神妙な面持ちとなる悪魔。
一方パチュリーは、今の悪魔の言葉からある推測を得ていた。
パチュリーの使い魔の小悪魔は、本人も自称するように文字通りの『小悪魔』である。実際の仕事ぶりを除外して考えれば、悪魔としての力は無きに等しく、『格』という観点からも低位と言って差し支えない存在だろう。
しかし、目の前に座る悪魔の『娘』となれば、話は少し違ってくる。
力が小悪魔へと引き継がれなかったのは一目瞭然だが、もしもその『格』が――この場合は悪魔としての名前が引き継がれていたら、パチュリーには小悪魔を使役出来ないはずなのだ。例えどんなにか弱いとしても、『格』が自らを上回る存在を御すのは容易ではない。
――だとするなら。長年の疑問が解けるかもしれない。
「……何故あの娘を喚んだのか。それも答えられる、かもしれないわ」
「かもしれない、とは……?」
突然の、それでいて曖昧な魔法使いの言葉に、悪魔は首を傾げる。
「実は、私のほうにあの娘を喚んだ理由は無いのよ。喚ばれた理由だって無いものと思ってた。ただ単に儀式に失敗したんだと。……貴女が現れるまではね」
「儀式に失敗した、とはどういった意味なんでしょうか」
「そのままの意味よ。そのころの私は、ただひたすら高位の使い魔が欲しくて、喚んでは送り返しを繰り返してた。そんな時にありったけの魔力を注ぎ込んでやった儀式で出てきたのがあの娘なの」
その時の光景をパチュリーは今でも鮮明に記憶していた。
魔力の足しにしようと積み上げた本の山は総崩れ。小悪魔を巻き添えに自らも生き埋め。圧死は免れたが、小悪魔の意識が中々戻らず、契約初日は使い魔の介抱をして終わった。
今になって考えれば何かおかしい気もするが、その時は本当に必死だったことも憶えている。
「あれだけの魔力を注ぎ込んで、出てきたのがあの娘。あの時、あの娘を直接喚ぶのに必要な魔力より、桁三つくらいは多く用意していたはず。だから、単純な儀式の失敗だったと思ってたのよ。……だけど、もしかしたらあの儀式は成功していたんじゃないかしら」
「どういうことです?」
続きを促しながらも、悪魔にはパチュリーの言わんとすることがほぼ分かっているようである。パチュリーは、何か教師と答えあわせでもやっているような錯覚を感じる。
「つまりね、あの時の儀式は、魔力の点だけを見れば貴女に届いていたんじゃないかと思って。けれど、私の『格』は貴女には届かない。私の魂では貴女を背負うことが出来ない。だから……」
「私にごく近い存在である娘が、代わりに召喚の対象となった、ということですか」
「……そんなところなんでしょうね。まあ、目論見が外れたという意味では、大失敗だったんだけど」
でもね、と魔法使いは一度言葉を切り、居住まいを正して悪魔へと向き直る。
「失敗はそこまでよ。その次の瞬間から今に至るまで、全て私の意思で選んだの。あの娘と共に居ること、これからも含めて何も失敗は無いわ」
そう、まるで目の前の女性に宣誓するかのごとく、高らかに言い切った。
一方、宣言された悪魔は――
「…………」
ただ唖然と、魔法使いを見つめるばかりだった。
「……あれ。もしかしてとんでもなく外したかしら。その、これくらい言っておかないと安心してもらえないかと思って。そう簡単に娘さんを放り出したりはしませんよ、ってことで、ええと……」
慌てて言葉を積み足していくパチュリーを見ているうち、悪魔は肩を震わせ始めた。その揺れは見る間に大きくなっていく。
「……笑ってる? もしかしなくても笑ってるでしょ、貴女」
「あなた、こそ……ほんとうに……魔法、使い、ですか……!」
顔を伏せているため、パチュリーには女性の表情は分からない。しかし、肩の揺れに合わせて、くくく……という声が聞こえてくる。明らかに笑いを堪えきれない様子である。
「私が真面目なこと言うと、なんでか不思議な顔されたり笑われたりするのよね。悪かったわね、柄でもないこと言って」
「……ええ、本当に。使い魔を労るならともかく、他者に対してその待遇を保証する魔法使いなんて。いいえ、それが貴女の人柄なのでしょうね」
「他者、と言っていいのかしら。他でもない母親を」
「当然です。主と使い魔の関係は完全な一対一のもの。そこに第三者の情が入り込む余地なんて初めからありません。本来なら、私がこうして貴女を訪ねることだって非常識でしかない」
でも、と言葉を切った悪魔は、今一度パチュリーを見定めるように――その根底にあるものを透かし見ようとするがごとく、無感情な視線を浴びせかける。
……が、幾秒もしないうちに、諦めの念を感じさせる苦笑と共に、首を横に振った。
「……確かに、私はその言葉が欲しかったようです。ですが、貴女にお会いした時点で必要無くなっていたのですよ」
「やっぱり、余計だった?」
気まずそうなパチュリーの問いを、悪魔は笑顔で否定する。
「娘と今まで付き合ってきた方ですから。そんな方が、当たり前の人格であるはずがありませんよね」
「……勝手が分かれば遠慮無しってのも、遺伝なの?」
――誉め言葉なんですよ?
そう言って悪魔は、パチュリーもよく知る誰かそっくりに微笑んだ。
◇◇◇◇◇◇◇◇
およそ語ることも尽きた魔法使いと悪魔は、連れ立って閉架書庫を訪れた。
小悪魔の仕事ぶりを見せるという体であるが、パチュリーとしては先ほど追い出した後の小悪魔が心配という理由もあった。おもに、今も整理に取り組んでいるだろう本棚の安否とか。むしろ小悪魔のほうが本の餌食になっていないか、とか。
とはいえ、パチュリー自身も心配のしすぎだと自覚はしていた。実際、二人が書庫に行き着くと、並び立つ本棚を前に何かをチェックしている小悪魔と出会った。服が少し汚れている以外におかしなところも無く、本人にも先ほどのような混乱した様子は無い。
二人の姿に気がつくと、小悪魔はいたって落ち着いた動作で一礼した。
「……先ほどは申し訳ありませんでした。ここも……って、パチュリー様、この場所は空気が……!」
「あまり良くないんだけどね。まあ、マスク代わりにスカーフ巻いてきたし、少しくらいは平気。進み具合はどんな感じ?」
「そちらも、ですね……すみません。さっぱり進まず、です。なんとか一列は終えたのですが……」
すみません、と今一度頭を下げる小悪魔。見れば小悪魔の前に並ぶ棚は『XXXV』とナンバリングされている。
「まあ、作業が進まないくらいで済んでいて良かったわ。……というか、何かあったら一目見て分かるような惨状になってるはずだし」
「……はい?」
「いや、たった今思い出したんだけど。三十番過ぎた辺りから『取り扱い超要注意』のが何冊か放り込んであったはずで……」
「ほああっ!?」
急激に不穏さを増したパチュリーの言葉に、ずささっという音でも聞こえてきそうな動きで本棚から飛びすさる小悪魔。
その母親も動きこそしないものの、頬がわずかに引きつっている。
「……あの、パチュリーさん。そんな品もあるような場所を、娘が扱ってもよろしいのですか?」
「ごめんなさい。あんな大見得切ったばかりなのに……。どうしてこう肝心な部分で抜けてるかしら、私」
「いえ、そういう意味ではなくて」
どこかズレた主と母親の会話。残された使い魔は、諦めるしかないことを知っていた。
「母さん。パチュリー様ってこういう方だから、『普通』の返答は多分出てこないと思う」
「だから、悪かったって。お母様に貴女の身の保証をしておきながら、危険の真っ只中に放り込んだりして……」
「――こういうご主人様(マスター)ですから!」
苦笑の中に喜びを滲ませた、不思議な笑顔で小悪魔は断言する。それを見た母親も、苦笑いのような表情でひとつ息を吐く。
「さっきまでのお話で分かったつもりになっていたのだけれど。正直、ここまで貴女の言っていた通りだなんて思わなかった。まだちょっと動揺してるかも」
「パチュリー様に魔法使いとしての『普通』は当てはまりません。私も最初は驚いてばかりだったけど」
「そうね。母さんも心底驚かせていただきました」
「……貴女達ね、ひとを親子で挟んで言いたい放題しないでくれる?」
今度は主を取り残して、盛り上がる使い魔とその母親。
「いえ、本当に驚いたんですよ? そもそも迎え入れていただけるかも、私は難しいと思っていたんですから。娘の手紙に書いてあることだって、使い魔としてのバイアスがかかっているものとばかり」
「どっち向きかは別として、あること無いこと書いてそうよね」
「はい。そういうところもある子なので」
「二人揃って……少しは信用してくださいよう」
母と主の意見に、ふにゃっと表情が崩れる小悪魔。ぶーぶーとでも言うように唇だけをとがらせている。
しかしそれほどのダメージでもないようで、幾秒もせずにしゃっきりと復活した。
「そういえば、お二人でどんなお話をされていたんですか?」
「そうねえ。貴女の普段の様子だとか、召喚されてすぐのころのお話も聞かせていただきました」
「……えっ。召喚されてすぐ、ってアレですか。私がダウナー系だった時期ですか。あの、ちなみにパチュリー様、どの辺までお話になられちゃいました?」
「ふがふがふ……」
「都合悪くなった途端に喋れなくならないでください! というか、私が知ったら気まずいようなところまで話しちゃったんですか!? あの時私が言ったこととか!」
スカーフで口元をぐるぐる巻きにしていることを利用して、とぼけ通そうとする主。対して小悪魔はパチュリーに詰め寄りこそするが、その身体に触れることもしない。ただでさえ空気の悪い環境の中、主の身を気遣ってのことである。
もっとも、その脳内では砲丸投げさながらに主を振り回しているのだが。
「そうそう。貴女、すごい啖呵切ったって聞いたわよ。せっかく召喚されたのに、『同情なら送り返せ』なんて」
「ううう……そっちも出来れば知られたくなかったけど。なんとか結果オーライ……」
「そっち『も』? 他にも何か言ったの?」
「言ってないです! なーんにも言って――」
「『ずっと貴女のお側に置いてくださ』」
「やっぱり喋れるじゃないですかあああぁぁ! パチュリーさまあああああぁぁぁ!」
あまり知られたくない過去の発言を母親に暴露される。それも目の前で。
今すぐにでも主に掴み掛かりたい小悪魔だったが、自身のかろうじて冷静な部分がそれを制し、脳内でパチュリーをホームランするに留めた。
「……『こあ』?」
「ひゃいっ!?」
普段なら呼ばれ慣れた自らの愛称。だが、それが聞き慣れない声で、意外な人物の口から発せられる。
困惑しながら小悪魔が声の元へ振り向くと、少し照れたように笑う母親がいた。
「……って呼ばれてるのよね」
「うん、そう。パチュリー様が――」
「毎度毎度『小悪魔』なんて呼ぶのもなんだか変な気がしたから。あたま二音だけとって『こあ』にしようかなって」
「――とのことです」
「そうなんですか……」
今まで何かと会話の絶えなかった三人の間を、唐突に静けさが漂い始める。悪魔がパチュリーの答えを聞いたきり、口をつぐんでしまったからである。
その顔には、残念さと、安心と、少しの迷いを含んだようにも見える、複雑な表情を浮かべて。
主と使い魔も、揃って言いかけた言葉を飲み込んでしまう。しかし、パチュリーが――埒があかないと思ってか――再び口を開く。
「それが、何か? あくまで『呼称』であって、『名付ける』ようなことはしてないわよ?」
『命名』かどうかを心配しているのかと、パチュリーは考えた。
使役関係にある使い魔を『名付ける』ということもしばしば行なわれる。対象が『名無し』ならば、珍しいことではない。
しかし、それは『愛称で呼ぶ』ことには留まらない。使役対象を『名付ける』ということは繋がりの強化、つまりは上下関係の強化を意味する。それはもはや上下関係の『固着』と言ってもいいものだ。
パチュリーはそれを嫌い、あえて『命名』をしなかったのである。
だが悪魔は、その言葉にこそ驚いたようだった。
「……パチュリーさん。お言葉ですが、如何に娘に力が無いとはいえ、いつ逃げられるか分かりませんよ?」
「まあた心にも無いこと言って。……まあ、その時は、その時……だから」
「しません! 居なくなったりしませんから! 泣かないでください! そこの悪魔も余計なこと言わない!」
「ないて、なんかない、からぁ。わたし、あなたがいなくても……がん……ばる……」
「ほら! パチュリー様は冗談が1モナドも通じないんだから!」
「聞いてはいたけれど、あの、ここまでとは……。その、ごめんなさい」
◇◇◇◇◇◇◇◇
さすがにこれ以上居るには環境が悪すぎるということで、三人はもといた席に戻ってきていた。そこに小悪魔も参加することになり、ついに三者面談になったわね、とはパチュリーの言である。
今度こそきちんと淹れられた紅茶で落ち着きを取り戻したパチュリーは、早速先ほどの会話の続きに入る。
「……それで、さっき妙な顔をしたのはどうして?」
「さっき、とは?」
「私がこの娘をこあ、って呼ぶ理由を聞いたとき。貴女、残念なんだか安心したのか分からないような顔をしてたわ」
「そのことですか。それは……」
言葉を濁す悪魔。その視線もどこか別の場所を見つめているような、遠いものとなっている。
「……私の、名に関することなんです。あまり詳しくはお話できませんが、『こあ』という響きが、遠回しに私の名を知っているという意味合いにも解釈出来たので。これはもしや、と。ですが、的外れだったようですね」
「申し訳ないけれど、貴女の名前なんて分からないわよ。レミィが聞いたら怒るかしら」
「彼女が私のことを知っていたのは全くの予想外でした。私も仕える主を持つ身ですから、簡単に名を知られて良いものではありませんし」
悪魔の言葉に、パチュリーはとりあえず納得した。
悪魔は他人に名を知られることを好まない。伝説や噂として広まるならともかく、本体――もしくは実体と名を結びつけられるのは、命運を握られるに等しいからである。
だから、『こあ』という呼び名が自身の名に関係しないと分かり、安堵したのだろう。
……では、残念そうな表情はなにを意味していたのか。
「……『暴露心理』というものがあってね」
「暴露、ですか」
「そう。何があっても隠し通さなければいけない、そんな秘密を持つ人にありがちな心理的傾向。必死で隠そうとしながらも、逆にその秘密が知られることを無意識に望んでしまう」
「……なるほど、あるかもしれません。私は名を知られたくないけれど、貴女になぜか『知られている』ことを望んでいた、と。いえ、ご存知でもおかしくはありませんね。他ならぬ、我が娘の主である貴女ならば」
「いくら私でも、勝手に他の悪魔の情報流したりはしませんよ?」
小悪魔がいかにも不本意だというふうに、母親に向かって口をとがらせる。だが、悪魔はそれを気にする様子も無く、パチュリーに対して言葉を続ける。
「まさか興味が無い、とおっしゃるわけではありませんよね?」
「それこそまさかでしょ。いくらなんでも、私もそこまで枯れてないわ。知りたい、すごく知りたい、けど……」
パチュリーはちらりちらりと小悪魔に視線を送る。
それに気付いた小悪魔は心得たとばかりに、ぐっとこぶしを握る。
「『言うなよ? 絶対言うなよ!?』の逆ですね!」
「……こういう娘だから」
「それを押し切る術もご存知でしょう?」
つまり、強制的に言わせることも出来るだろう、という意味だ。確かに、使役関係にあるならば、その程度の強制はあっさりと可能である。
でも、とパチュリーは空を仰ぐ。
「そうねえ……貴重な使い魔一人潰してまで、知りたいとは思わない、かな」
「……そうおっしゃると思いました」
悪魔は、もはや諦めたとでも言いたげに、首を横に振った。そして、ふとそばにある柱を見上げ、気付いたようにこう続けた。
「あら、もうこんな時間に……」
「ウチのことだったら気にしないで。当主がアレだから、不夜城みたいなものだし」
「すみません。有難いのですが、今日のうちに戻らなければいけないことになっていまして」
「そうなの。残念。館の全員集めてこの娘の暴露大会でもやろうかと思ったのに」
「なんで私の限定なんですか!?」
信じられないほど優しい反面、お茶目も一流な主の発言に戦慄する小悪魔。
悪魔はそんな主従を見て、屈託の無い笑みをこぼした。
「では、それはまたの機会に」
「させませんよ!?」
「ですが……お暇する前に、今日お話いただいたことに対価を支払わなければ」
「『対価』? 今日話したくらいのことに礼なんていいわよ。母親が娘の様子を見に来ただけなんだし。……それに『悪魔の贈り物』を受け取らないぐらいの『常識』は持っているもの。それを気遣って、貴女は土産も何も持たなかった」
「ええ、ですから物品ではなく……私の名を知りたくはありませんか?」
「知りたい」
魔法使いの食い付きに、餌を投げた本人も苦笑する。パチュリーも反射的に答えてしまったことに気付き、ばつが悪そうに顔を反らした。
「まさに『悪魔の誘惑』よね。……というか、それはまず絶対に出せないでしょう?」
「はい。出せません。……なので――
◇◇◇◇◇◇◇◇
悪魔が館を去った直後から、レミリアが図書館に押し掛けていた。
読書に戻ろうとしていたパチュリーと、すでに普段の仕事に戻っていた小悪魔を相手に始まったのは自慢大会である。と言っても、それは自らの自慢話ではなく、つい先ほど帰ったばかりの、あの悪魔の話だった。
ひとしきり話したレミリアは、空を見つめてため息をもらした。紅潮した頬が興奮の激しさを物語る。
「彼女のことを考えていると、自分が何者なのか忘れてしまいそう……。ただの女子にでもなったような気分だよ」
「大丈夫。憧れる理由とか、いろんな意味でまさに悪魔だから」
「んでさ。なんで私の大好きなあの方がパチェを訪ねてやってくるわけ? なんで?」
「……私、というより、こあを訪ねてきたみたいだったけど」
本棚の向こうから「ほゃっ!?」という声だけが聞こえてくる。まさかこのタイミングで自分に話を振られるとは思っていなかったのだろう。
声のした方向へ、レミリアはかぶりつくような勢いで振り向いた。目がすわっている。
「おまえ、後で私の部屋に来い。な?」
「ひゃい!? あの、あの、ご遠慮させてはいただけないでしょうかっ!?」
「なにびくついてんのさ。何もしやしないって。彼女の話を聞かせて欲しいだけだよ。おまえさ、あの方の親類かなにかなんだろう? ……いや、わざわざ訪ねてくるくらいだから、もっと――」
腕組みをして、考え込みそうになったレミリアだったが、幾秒もしないうちにあっさりと、その思考を捨て去った。
「うん、やめよ。私が詮索してどうなるものでもないし。パチェは分かってるのよね?」
「ええ」
「ならいいや。ていうか小悪魔、私の誘いを断るのは構わないけどさ、後で間違いなくフランに拉致されるね。八つ当たり目的で。あいつ、あの方の気配に相当ビビってたから」
本棚の向こうからまたも「ぴゃっ!?」という叫び声。
レミリアの誘いはともかく、フランの拉致に対しては助け船を出してやろうかと思うパチュリー。
「そういえば、今日はフランを見てない気がするけど、あの娘どうかしたの?」
「どうかしたも何も、熊隠れってやつさ。あの方がウチの敷地に踏み入るかどうかって時に、真っ青な顔で私の部屋に飛び込んできてね。あとは人のベッドで丸くなったきり――」
「ビビってなんかないし! お姉さまこそ早口で挨拶の練習始めたりして、超バカみたいだったよね!」
静かな館内に突如響き渡る、聞き慣れた声。
パチュリーとレミリアは声のした方向を見やるが、そこに件の吸血鬼妹の姿は無い。
代わりに巨大な大福のような何かが蠢いていた。
「……あんたね。喧嘩売りたいなら、まずソレから出て来なさいよ」
大福のような何かはレミリアのツッコミも気にせず、もしょもしょと動いている。
よく見ればそれは白い毛布の塊で、頂点の辺りからは特徴的な翼が飛び出していた。
「てか、ソレ私の毛布でしょ。汚さないうちに戻しときなさいね」
「やだ!」
「やだじゃねーよ」
レミリアの指摘も全く意に介することなく、フラン大福はそのままの姿で本棚の陰へと消えた。
気に入ったのだろうか。
「……ったく」
「ああいうところもあるのよね」
「そうだね。普段からああなら、可愛いもんだってのに」
眉間に皺を寄せながらも、どこか優しい目でフラン大福の消えた方向を眺めるレミリア。吸血鬼でもなく、憧れに心融かす少女でもなく、ただの姉がそこにいた。
そんなレミリアを横目に、パチュリーは傍らに作った本の山へと手を伸ばす。
「じゃあ、彼女の自慢話は終わったわね。読書に戻ってもいい?」
「えー……貴女もそっけないと言うか、確かに彼女の話は大体終わったけどさ、もう少し……パチェ、ちょっと待った」
レミリアの顔が、また一変した。今度は夜の王たる吸血鬼の顔に。目はパチュリーが手にした本に釘付けとなっている。
レミリアの反応を見て、パチュリーは自らの推測が当たっていることを確信した。だが、そんな素振りは見せず、いかにも驚いたふりをしながら聞き返す。
「なによレミィ、急に」
「なによ、じゃない。なんでその本を手に取った? 偶然か? それとも――」
「偶然じゃない、としたら?」
「あの方が名乗ったって言うのか!? そんなのありえない……」
「そうね。実際、彼女はそんなことしていないもの。私はヒントをもらっただけ」
レミリアはぽかんとした表情のまま、しばらく固まっていた。しかし、事態を把握していくにつれて、普段から白い肌がさらに青白く、色を失っていく。
「その反応からすると、これが『正解』ってことよね」
「そんな、パチェ、あのね、それはね……」
「だいたいの自信はあったのだけど、答えあわせがしたかったの。こあはこの手のブラフにはかかってくれないから。ごめんなさいね」
「うう、うううううぅぅぅぅぱちぇええぇぇ……」
悲壮感あふれる呻き声と共に、レミリアはテーブルの上に倒れ伏した。両手でぽてぽてと天板を叩いているが、普段のような力は全く無い。
そんな親友の惨状はさておいて、パチュリーは手にした本のページをめくり始めた。
◇◇◇◇◇◇◇◇
――ひとつ、昔話をしましょうか」
唐突に、そう言った悪魔。
いや、本当は唐突でもなんでもないのだろう。分かっていながらも、パチュリーはしれっと言い返した。
「ずいぶん唐突ね」
「そうですか?」
「そうよ。唐突な話の転換ではないとすれば、どんな意味を持つと思うの」
「……確かにそれはそうですね。では、『唐突に』私の名とは関係の無い話となりますが、しばしお付き合いを――
――昔、まだ戦争による土地の奪い合いが盛んに行われていた時代。
ある国に一人の若者がいました。彼は戦士で、まだ成り立てではありましたが、腕に覚えがあり、将来を嘱望されていました。
ところで、若者の住む国は内政も安定し、一応の平和を保っていましたが、周囲を敵対する国に囲まれ、いつ戦争になるかも分からない状況でした。幸運なことにその国の軍隊は強力で、周囲からの侵略を防ぎ、極力攻勢にも出ないことで国の安定を保っていたのです。
ところが、周囲のいくつかの国が同盟を組み、若者の国を攻める計画をたて始めました。国中はその話題で騒然となり、当然若者のもとにもその知らせがやってきました。
若者は思い悩みます。彼には守りたいものが、人が、国がありました。しかし、敵は未だかつてないほど強力です。彼らの軍隊でも敵うか分からず、政治家の中には降伏を考える者まで出てきます。
腕に覚えありとはいえ、若者の力にも限りがあります。
「皆を守れるよう、もっと自分に力があれば」
そんな想いを若者が抱き始めた、ちょうどその頃。彼の前に奇妙な男が現れました。
「どんな『敵』をも撃ち破る強大な力、欲しくはないか」
その男は魔術師を名乗り、与える力でこの国を守って欲しいと語りました。
若者は願ってもないことだと、大喜びでその『力』を受け取り、戦場へ赴きます。『力』は本当に強大でした。身体は信じられないほどによく動き、手に持つ剣は若者が考えるよりも速く敵を葬っていきます。若者の活躍もあって、初戦は勝利に終わりました。
一方、味方の軍の中で、若者のあまりの活躍に恐怖を感じる者が現れます。その恐怖は次第に不信感へと変わり、遂には若者の暗殺部隊が秘密裡に結成されます。通常の部隊に紛れ、同士討ちを装って彼を殺す、というのがその計画でした。
そして、暗殺計画は実行されました。しかし、若者の持つ『力』がその害意に反応し、暗殺者を切り伏せてしまいます。味方を装った暗殺者を全て。何も知らない味方からすれば反逆、もしくは気が狂ったようにでも見えたでしょう。ただちに他の部隊も彼を止めようと、彼に挑みかかります。
いつしか国と国の戦争は、敵味方を問わず、若者ただ一人を倒すためだけの戦いに変わっていました。守りたかったはずの人々からも敵意を向けられ、若者は絶望します。しかし、それにも関わらず剣は『敵』を切り続けました。若者に害を為そうとする『敵』を。
そして、立っている者は遂に若者だけとなってしまいました。
その後も双方の国は様々な手段で彼を殺そうと試みます。圧倒的な人数での物量作戦、遠距離からの狙撃、陣地へ誘い込み謀殺……。しかし、結果はいつも同じでした。若者は――いえ、若者の『力』が全ての悪意を察知し、防いでしまうのです。もはや若者に生きる意思はありませんでしたが、『力』は自害すらも防いでしまいます。
国はとうとう若者の殺害を諦め、呼び戻すことを決めました。彼は国に残っていた家族や知人の呼びかけに応じて戻り、そしてその人達の手によって、老いて死ぬまで幽閉されました。
◇◇◇◇◇◇◇◇
本の文章に目を走らせながら、パチュリーは悪魔の語った『昔話』を思い返していた。
力を求め手にするも、手に入れた力のために悲惨な結末を迎えるという物語は太古から世界中にあるもの。だが、それを彼女が語ったことに意味がある。
例えば、戦争をスポーツに、戦士を選手に、切り伏せた人数を得点に置き換えたなら――
「ぱああちえええええ……」
地の底から響くような声で呼ばれ、パチュリーは本から顔を上げた。
「あら、レミィ。もう復活したの」
「あらレミィ、じゃないわよ。なんだか私が馬鹿みたいじゃないか。彼女の話する時も具体的なことを言わないように必死だったのにさ」
確かに、とパチュリーは思う。レミリアの話はやたらと長く派手だったが、形容詞ばかりが多くて肝心の内容は何を言っているのかさっぱり分からなかったのだ。
「努力は私が買ってあげる」
「じゃ、そのままあの方に差し上げてくれ」
「また今度ね」
――また機会があったら。
あの悪魔もそんなことを言っていたが、彼女がここを訪れることはもう無いかもしれない。パチュリーはそう考えている。
小悪魔との文通は続けるのだろうが、直接訪問するのは、ルール違反と言えば違反だ。パチュリーは気にしないが、あの悪魔はルール違反を気軽に続けるような性格ではないだろう。
あれはきっと、最初で最後の出会いだったのだ。
「それじゃあレミィ。気にせず話せるとなったら、何を話すのかしら」
特に何も考えず口にした言葉は、五分後にはパチュリーを後悔のどん底へ突き落としていた。パチュリーの言葉に目を輝かせたレミリアが、今度は自身に課する限定も何も無い状態で話し始めたからである。
再開された自慢大会はその主が不在のまま、夜明けまで続けられたそうな。
◇◇◇◇◇◇◇◇
吸血鬼の館を後にして数刻。諸々の用件を済ませて、悪魔は自身の住む世界へ戻っていた。
それを確かめるように数回深呼吸をして、気がついた。あれほど大量の本に囲まれていながら、あの図書館には澄んだ空気が流れていた、と。
住人の魔法使いはあまり身体が丈夫ではないようだったから、そのためもあるのかもしれない。小悪魔や館を案内してくれたメイドが管理しているのだろう。
だが、一番の理由は人の出入りが多いから、ではないだろうか。
自身があまりにもすんなりと迎え入れられたことから、悪魔はそう結論した。
『交友関係の広い魔法使い』
様々な意味で『普通』ではなかった魔法使いに、またもそれらしからぬ一面を見出だしてしまった。悪魔は再び込み上げてくるおかしさとの戦いを強いられる。が、目的地を前に、自然とそれも治まっていった。
職場の中をにやつきながら歩くわけにはいかないのである。
職場であり、今現在の住処でもある館の前で、悪魔は出迎えを受けた。
「おかえりなさい、副メイド長。休暇はいかがでしたか」
「只今戻りました。楽しかったわ、色々とね」
声の主は、この館で同じく使用人として働く人物。彼女も悪魔であり、館の中では部下でもある。もっとも、二人の関係は魔界にて始まったものでもないのだが。
タイミングの良い出迎えは帰還を察知してのことかと言うと、そうでもないらしい。なんとなしに窓の外を眺めていたら、帰ってくる姿が目に入ったのだという。
二人は建物裏にある使用人の出入口――と言っても、館の主が使うこともよくある裏口――から中へ入り、使用人室に向かいながら留守中の状況などを確認する。
「メイド長が泡吹いてましたよ。ただでさえ手数が足りないところに、神綺様がそれを狙ってくるそうで」
「夢子さんもたまには『気にしない日』を作ればいいのに……。丸一日空けてた奴に言えたことじゃないけど」
主の脱走癖とそれを阻止せんとする側近の戦いは、もはや意地の張り合いになっている。メイド長の世界に『諦め』という言葉は無いのだ。
「それから、お出掛けになった直後に神綺様が副メイド長を探されていたそうです。なんでも、持って行って欲しいものがあったとか」
「あら、それは失敗したわ。多分アリスさん宛ての荷物だったんじゃないかしら。ちょうどお会いしてきたのに」
「アリスさんに会うためのお出掛けだったんですか?」
「それは違うんだけど、帰り道で偶然ね。そうだ、皆にってお土産もいただいたのよ」
アリスから受け取ったものはそれだけではない。主と夢子、それぞれに宛てた土産も預かっていた。
そういえば、と悪魔はあることを思い出す。アリスもあの館へ向かう道を歩いていたが……。もしそうだとすると、本当に世界とは狭いものなのかもしれない。
その後も、今日館で起きたこと、明日からの予定、今日の神綺VS夢子の詳細など、あれこれと話しているうちに、二人の悪魔は使用人室の目前まで来ていた。
その時。
突如として、薄い魔力が館全体をコーティングするように被い尽くし、続けて耳障りな警報音が鳴り響く。
二人はすぐに思い至る。
館にはいくつかの警報システムが敷設されている。火災などの事故を知らせるための警報、侵入者を知らせるための警報。
しかし、今作動しているのはそのどちらでもない。館がもっと危険な状態であることを示すものである。
「『敵襲』!? そんな、神綺様が冗談半分で作った警報がなぜ……!」
そう、この警報の意味することは『敵襲』、そして『全戦力の戦闘準備』。
とはいえ、この世界の創造神を襲撃する輩などいるかは怪しい。加えて、この館で戦力に数えられる人物はわずかしかおらず、それも館の主と比較すれば無いようなものである。
だから、神綺がそれを設置した時、館の中はメイド長以下全員の苦笑いに包まれたのだ。
その警報が今、作動している。
「……っ! 考えてる場合じゃないわね。まずは皆と合流しましょう」
「はい!」
もはや地を歩いている余裕は無い。悪魔二人はすぐさまその場から飛び立ち、すでに見えている詰所の扉へ向かう。そして、ノブが回るか回らないかのうちに扉を押し開け、使用人達の集う部屋へと飛び込んだ。
部屋の中では数人の使用人達が突然の警報に立ち尽くしていたが、続いて入室した人物を見て、いくらか落ち着きを取り戻したようだ。あからさまに安堵のため息を吐く者もいる。
「副メイド長! よかった……おかえりなさいませ」
「ただいま。それより、現在の状況を把握している者は? 襲撃者、被害状況、なんでもいいから」
使用人達が互いを見やるが、結局は全員が首を横に振った。代表して一人が口を開く。
「分かりません。私達はこの数分ここにいましたし、それ以前にも特に異常は……」
「そうよね、ごめんなさい。ここからじゃ外の様子は分からない。……なら、神綺様とメイド長、どちらにいらっしゃるか分かる?」
「お待ちを。聞いていかがなさるおつもりですか」
背後に控えていた悪魔が、突如として口を挟む。
自らの実力を最もよく知るはずの部下に制止され、副メイド長は戸惑う。
「本当に戦闘状態なら、貴女達はともかく私が行かないわけには……! 少しでも足しになる可能性があるのは私だけでしょう?」
「一体いつの話をしておられる! 今の貴女の力はこの館に仕える他の悪魔達とほぼ変わりないのですよ!」
容赦無く叱咤され、悪魔は自らも冷静さを失っていたことに気付いた。今の自分の力を忘れていたのだ。
今の彼女に、かつて持っていたような強大な力は無い。失われたのではなく、他の場所に移ったのである。故に即刻取り戻す術が無いわけではない。しかし、それはあまりにもありえない方法なのだ。
「……分かった。でも、お二人の位置は把握しておかないと」
「はい。メイド長はともかく神綺様の居場所でしたら――」
『……あら、押すところ間違えちゃったかしら。でも全館放送には違いないわよね』
張り詰めた空気の中に、遠慮無く放り込まれる能天気な声。部屋にいた全員が、思わず「は?」とでも言うような表情で天井を見上げる。
『こほん。えーと、お知らせします。あずにゃんは今すぐに私の部屋へ来てね! もし帰ってきてなかったら、周りの人があとで教えてあげてください。繰り返します――』
なおも自分を呼び出す声。その危機感など微塵も感じられない調子に、先ほどの警報こそが間違いだったのだと、悪魔は悟る。
間違いで良かったと思う一方、何をしているのかという怒りが無いではないが、一気に脱力した身体は感情に任せた行動を許してくれない。
とりあえず土産の品々を机の上に置き、あとは身体がくずおれるままに、床に仰向けとなる。
極度の緊張からいきなり解放され、幾分朦朧とする意識の中で、悪魔はまたあることに気付いた。
娘の主を普通ではないと評価し、その変人ぶり――あるいはまともさ――にも散々驚かされた。しかし、それも当然のことだったのかもしれない。
母親の仕える主がこの調子なのだ。その娘の主がどんなに『普通』じゃないとしても、何の不思議があるだろう?
なぜか未だかつて無い爽快感を感じる悪魔。仰向けになったその顔の上に、部下の悪魔が顔を覗かせる。
「……呼んでますよ、アザゼルさん」
「これ、行かなきゃ駄目かしら?」
「神綺様がお呼びですから、副メイド長」
「……あと五分」
仕方ないですね、と苦笑しながら引き下がる部下。
副メイド長の彼女としても、呼び出しを無視するつもりなど無かった。そもそも帰還の報告をしなければならない。それに、アリスから預かった品を渡すためにも、主の元へ赴く必要がある。
それでも、今は動く気がしなかった。
今にも自分を落としそうな睡魔と戦いながら、悪魔は今日一日を思い返す。
久しぶりに見た娘の笑顔。
その主である魔法使いの、はにかむような不器用な笑顔。
我が主の娘にあたる人の、理性的ながら溌剌とした笑顔。
そして我が主の、いつだって変わらない、太陽のような笑顔。
ああ、それにしても――
「――ほんっと一発殴りたいわ、あの笑顔」
「……今ごろメイド長がやってくれてますよ、きっと」
その建物と比べると幾分地味な風合いの扉が、破壊される寸前の勢いで突然開かれる。部屋の中は整然としながらも、事務用品やデスクワークに必要なあらゆる道具であふれ、小さめの机がいくつも並ぶ。主の部屋という雰囲気ではない。さしずめ使用人達の詰所、といったところだろうか。
部屋へ飛び込んだ人物は意外にも広いその部屋の中を見回すが、誰も見つからない。皆それぞれの仕事に出払っているのだろう。肩を落としつつ部屋を去ろうとした時、ちょうど戻って来たらしい使用人を見つけた。
「そこのあなた! ちょっと聞きたいことが――」
「はい、なんです……はっ!? えっ? しん」
「すとっぷ!」
声をかけてきた相手の正体に気付いたらしく、慌てて臣下の礼をとろうとする使用人。それをこれまた慌てて留める人物。
ここで大仰に礼をとられては、好ましくない状況に陥る可能性があった。例えば、今も自分を探しているであろう側近がその声を聞きつけるとか。
「私がここにいることは内緒。ナイショよ。いっつ あ しーくれっと。おーけい?」
「は、はあ。かしこまりました」
ひとまず安堵したように息を吐く。かと思うと周囲の安全を確認するかのように、辺りを見回す。
挙動不審も極まる振る舞いだが、使用人は目前の人物のそのような奇行にも、もはや慣れてしまっていた。先ほどはあまりにも唐突なエンカウント故に驚きを隠せなかったが、実際にはよくあることなのだ。側近の目を盗み、職務をほっぽりだして脱走するのがこの人物の日常である。
「……右良し、左良し。後ろも良し! 夢子ちゃんは確認できず、良し!」
「あの、お聞きになりたいこととは……」
「あら、そうだったわ。あずにゃんがどこにいるか、知ってる?」
「あずにゃ……副メイド長のことですか?」
「そう! ちょっとお願いがあって。あ、それとおみやげも頼みたいし――」
件の女性――この館で副メイド長の職に就いている女性――を使用人は目撃していた。確か、朝早く日も昇らないうちに、どこかへ出掛けると言ってこの館を出たはずである。
そのことを伝えると、目の前の人物――使用人達の主にして、この館の主でもある女性は、いかにも落胆した様子で肩を落とした。
「残念だわあ。ほんとに早い時間に行っちゃったのね」
「まさか副メイド長、ご挨拶もせずに?」
「いいえ、そんなことはないから大丈夫よ。実はね、昨日の夜には今日のことを聞いていたの。『明日は早い時間に発ちます。まだお休みと思いますので、ご挨拶差し上げませんがお許しください』って」
上司が無礼を働いたのではないと分かり、安堵する使用人。主に対して礼儀を欠くような人物でないことは十分に理解しているが、万一があれば恐ろしいことになる。
『無断欠勤(サボり)』。それはどんな呪詛よりも恐ろしい結果をもたらす言葉である。もっとも、その場合『恐ろしい』のは目の前にいる主ではなく、その側近たるメイド長のカミナリなのだが。
「でも、もう行っちゃったんだあ。どうしようかしら。届けて欲しいものがあったのに」
「お急ぎのものであれば、私が代わりにお届け致しましょうか?」
「大丈夫。急ぐものではないし、わざわざ行ってもらうには少し遠すぎるわ。あずにゃんの行き先と近いから、ついでに持って行ってもらおうかなって。急な思い付きなの」
そう言う主には、特別焦る様子も無い。今の言葉は遠慮からのものではなく、文字通りに届け先が近場には無いことを意味するのだろう。
そんなことを考えていた使用人だが、自分が肝心なことを知らないと気付いた。
「あの、副メイド長はどちらへお出掛けになったんでしょう。私達は今日一日のお休みをいただいているとしか……」
本来ならば、本人が明かさなかったことを他の人物から聞き出して良いものではない。しかし、彼の女性が職務を丸一日休んで外出するなど、未だかつて無かったことなのだ。ある種の異常事態とも言える。
問われた主は、やはりと言うべきか、眉を寄せて思案している様子である。
「しっ、失礼致しましたっ! 出過ぎたことを聞きました!」
「あっ、いえ、大丈夫よ。ただ、こういうことは個人的な事情もあるから、私も気軽には教えられないし、あなたも簡単に聞いたりしちゃダメね」
「おっしゃる通りです……」
反省してうなだれる使用人に、よろしい、と笑顔でうなずく主。そして、こう言葉を続けた。
「でも行き先くらいなら、今回はいいでしょう。あずにゃんはね――」
◇◇◇◇◇◇◇◇
――幻想郷。
外の世界(げんじつ)から忘れられたもの達のために造られた幻の郷は、今日もそれなりの平穏を保っていた。
「ふあー……」
具体的には、館の最前線に立つ、門番たる彼女が安心してあくびをかませるくらいは平穏なのだった。
今日はまだいつもの侵略者(きゃく)も現れず、居眠りすることも無い。まだ日が昇ってから早い時間ではあるが、本日の職務も順調な滑り出しである。
「……そういう時に限って、何かしらあるんですよねえ」
誰にともなく、紅い館の門番――紅 美鈴はつぶやく。嵐が来るなら、それらしく不穏な気でも漂っていればいいのに。しかし実際はといえば、こんなふうに平穏を実感しているその時を狙ったかのように、ひと騒ぎ起きるのである。
美鈴の脳裏では、今までに巻き込まれた事件や騒動の顛末が次々と浮かんでは消えていく。大きな出来事もあれば、小さな『大戦争』なんてこともあった。
そういった記憶の合間に、職務中の居眠りで館のメイド長に怒られている風景が浮かぶのも、一種のご愛嬌である。
「あのう、すみません」
「でも咲夜さんも厳しいよなぁ」
「道をお伺いしたい……って、聞こえてます?」
「私はほんっとうに、あの何秒か前まではちゃんと起きていたのに……」
「もしもーし」
「…………ぐう」
「本当に起きてますかっ!」
「はいっ!? すみません! 三秒前までは起きてましたっ! だから咲夜さん許し……あれ?」
条件反射的に頭を下げた美鈴だったが、再び頭を上げたときそこにいたのは咲夜ではなく、申し訳なさそうに苦笑している、見知らぬ女性だった。
「すみません、普段の癖でつい怒鳴ってしまいました。道を伺いたいのですが、大丈夫ですか?」
「いえ、こちらこそ。道、ですか。どちらまで?」
言葉を交わしながらも、美鈴は目の前の人物を観察する。
来客を知らせ、不審者を撃退すれば門番の仕事は終わり……ではない。門番とは館の安全を守る、最外郭の防衛ラインである。知り合いでもなく、見かけたことも無い人物が現れて、世間話をするだけで見逃して良いわけはない。先ほどは居眠りしかけていた美鈴だったが、頭の切り替えは素早いという自負があった。
それに――
「ええと、この辺りに『図書館のような建物で、本の山に埋まりそうになりながら暮らしている魔法使い』がいらっしゃると聞いて。ご存知ですか?」
「本の山に、ですか……」
――やはり。
美鈴は目の前の女性に、自身も良く知る人物に近い印象を抱いていた。誰であろう、彼女の主たる吸血鬼の姉妹である。
つまり、勘が当たっているなら、この人物は悪魔――もしくはそれに近い存在だということになる。加えて、彼女の訪ね人である。この辺りに住む『本の山に埋まりそう』な魔法使いといえば、おそらくはパチュリーのことだろう。
――悪魔がパチュリー様を訪ねてくる。どんな理由で?
例えば、過去の仕打ちに対する報復。未払いになっている対価の取り立て。どうしても、良い答えが返ってくるとは思えないのだ。
端的に言ってしまえば、この女性はパチュリーを害する目的で現れたのではないか。美鈴はそう考えるのが妥当だと判断する。
けれども、美鈴自身は相対する女性から決して悪い印象を受けたわけではなかった。
暗い赤に染まった髪が背の中程まで伸び、血の気の薄そうな白い肌を余計に青白く際立たせている。髪色よりも暗い、ほとんど黒に近い赤色の薄いコートを着込み、周囲の風景からも明らかに浮いている。およそマイナスの印象を喚起しそうな外見の人物である。
しかし、外見の陰気さを覆して余りある、溢れるほどの『陽』の気を、美鈴は感じていた。
そして、美鈴が確信していることがもうひとつ。
――もしもやり合うことになったら、私では話にならない。
目の前に立つ女性が、圧倒的な――美鈴だけではなく、美鈴『達』と比較してもなお圧倒的な力の持ち主であろうことだ。
いや、例え紅魔館全ての戦力を純粋に足し算出来たとして、対抗し得るかも怪しい。
だから――
「あの……?」
「あ、すみません。実はそれ、この館のことなんです。別館がまるごと図書館みたいになってまして」
「あら、そうだったんですか! どうりで、大きなお館だと思いました」
「今、中の者に伝えます。ご案内させますので、少々お待ちください」
――自分の目と勘と直感を信じることにした。
もちろん、自分が感じたことは全て咲夜に伝え、案内も咲夜に頼むのが良いだろう。
それでも美鈴は、これといって大変なことにはならないとも直感していた。
彼の悪魔が纏う『陽』の気が、なぜかとても馴染み深いものに感じられたからである。
◇◇◇◇◇◇◇◇
――咲夜は隣を歩む人物を観察する。
「本当に立派なお館ですね。この中に『図書館』があるというお話も納得です」
「ありがとうございます。実は正面から見えているのは本館のみなのです。図書館は、また別の棟にございます」
まあ、と驚いたように声を上げ、再び紅魔館を見上げる女性。
先ほど美鈴から応対を引き継いだ人物。
美鈴から「咲夜が直接案内するべき」との連絡があり、続けて「パチュリーを訪ねてきたとのことだが、必ずレミリアにも知らせるように」と聞いた時には、一体誰が訪れたのかと戦慄しつつ門へ向かった咲夜だったが、それも件の女性と対面するまでのことだった。
――確かに、お嬢様や妹様とよく似た雰囲気をお持ちだけど……。
咲夜には、美鈴が言うほどの注意が必要とは、とても感じられなかったのである。
――どうやら、この女性は悪魔、もしくはそれに類する存在。……同意。
――悪魔がパチュリー様を訪ねてくる。穏当な用件とは思えない。……同意。
――けれど、とても私達に害をなす意思があるとは考えられないほどの『陽』気を纏っている。……同意、したいけど判断不可。
――もしも事を構えるとなれば、私達にはなす術が無い。……異議あり。
美鈴から伝えられた印象を、当の人物を観察しながら再度確認していく。
確かに、一見しただけで尋常な存在ではないことは咲夜にも分かる。しかし、ここは紅魔館である。主たるレミリアを筆頭にフランドール、パチュリー、美鈴、そして自らを含め、尋常でない存在には事欠かない。
その面々に対し、この女性に圧倒的な優位があるとは、咲夜には思えなかったのだ。
とはいえ、だからといって相手を侮る気はなく、礼を失する理由にもなりはしない。
――さて、パチュリー様には、どんな用件で会われるのかしら。
そんなことを考えながら正面玄関の大扉を開き、来客を招き入れた咲夜。だが次の瞬間、エントランスの先、自分達を迎える位置で跪く人影を見て、凍りついた。
「……御初に御目にかかる。私が当館の主にございます。レミリア・スカーレットと申します」
レミリアだった。
咲夜は思わず小さく悲鳴のような声をあげかけるが、レミリアが一瞬飛ばしてきた眼光に、なんとか踏みとどまった。その眼光が意味するのはひとつ。
『黙っていろ』
「丁重なお出迎えに感謝します。突然訪ねてきたのはこちらですのに、お気を遣わせて申し訳ありません」
「お気になさることはございません。貴女様に当館をご訪問いただくことが既に、我が最上の栄誉でありますれば」
レミリアの姿勢、言葉、いずれにも一切の躊躇は無い。咲夜が見る限り、レミリアは本心からこの人物に敬意を表し、跪いている。
だが、そんなレミリアの言葉に対し、客人は眉根をわずかに寄せた。
「門番の彼女、ですか? 確かにきちんと私を警戒していた様子でしたが、気付いていたようには見えませんでしたよ?」
「いいえ、手掛かりも何も必要ありません。貴女ほどの方を知らずして、悪魔――眷族とはいえ、魔族を名乗れましょうか」
「……では、お気付きなのは貴女のみ、なのですね?」
「はい」
おそらくは、と付け加えながらも問いを肯定したレミリアを見て、客人はようやく緊張を解いたようだった。
そして、自らもレミリアに対し頭を垂れ、言葉を続けた。
「丁重なるお出迎え、重ねて感謝します。ですが、失礼ながら、実は私がお訪ねしたのは、貴女ではないのです」
「承知しております。私が参りましたのは、ただ貴女にご挨拶申し上げたいと望んでのこと」
ここでようやく、レミリアが立ち上がる。そして、客人の進む道を妨げないように数歩、脇へと下がった。
その顔には、例え隠そうとも隠しきれないような、誇りと喜びに溢れる表情を浮かべて。
「当館に住まう魔女を訪ね来られたとの旨、伺っております。どうぞ、ごゆるりと」
◇◇◇◇◇◇◇◇
「それでは、パチュリー・ノーレッジにご来訪を伝えて参ります。少々お待ちください」
大図書館入口の目前にあるゲストルーム。来客にソファを勧め、一礼を残して咲夜は退室する。
扉を閉じ、少しの間何かを迷うように空を見つめていたが、やがて静かに扉へ掌をあてて、つぶやいた。
「……インフレーションスクエア」
「咲夜」
突然声をかけられようと、普段ならば驚くには値しない。神出鬼没が常の主に仕えていれば、慣れるものである。
だが、先ほどから疑問だらけの挙動を見せている主の突然の登場に、わずかながら咲夜の肩は跳ね上がった。
「ここでお待ちいただいているの?」
「は、はい。"三分ほど"お待ちいただくことになるかと」
たった今、咲夜がゲストルームにかけた術には、対象の空間における経過時間を遅延させる効果がある。五、六倍程度の引き延ばしならば、中にいる人物にも気付かれることはない。本来の用途ではないが、こういう時には役に立つものだ。それに、パチュリーに状況を説明するとして、実際のところ『少々』で済むとは思えない。
「あまりおおっぴらにやらないようにね。あの方なら、お気付きになってもおかしくはない」
なおも客人の女性を目上に――それもまるで遥か雲の上にでもいる存在のように振る舞うレミリアに、咲夜はさらに疑問を募らせる。客人には礼儀を尽くし、丁重に接するのは当然である。それでも、先ほどのレミリアの態度は行き過ぎているのではないだろうか。
そんな考え事が顔にも出たらしい。ふと振り向いたレミリアは、その紅玉のような瞳で咲夜の瞳を覗き込む。あるいは、その瞳を覗かせるために、だろうか。
「なあに、その顔。不満です、ってな目しちゃって」
「いえ、そんなことは」
確かに積もる疑問に影響されて、主の前にはふさわしくない表情を見せたかもしれない。しかし、決して不満や異論があったわけではない。
そのことを正直に説明するべきか、咲夜は迷う。
けれども、再び咲夜が口を開くよりも早く、レミリアが悪戯っ子のような、それでいて少し申し訳なさそうな笑みを見せた。
「分かってる、冗談さ。悪かったわね。不思議なんだろう? 私がどうして、あんな態度をとるのか」
「……はい。正直に言わせていただくなら、そこまで強大な存在には、とても感じられません」
「力の大小じゃあない。純然たる『格』の差なんだ。あと、私の個人的な崇拝もあるかな」
力の差が理由ではない、とレミリアは言う。しかし、『個人的な崇拝』の対象であると言うのならば、それに足る存在だという意味なのだ。
やはり、咲夜の疑問は解けない。
「まあだ分からないってカオしてるわね。いいさ、それじゃあ教えてやるよ。おまえ――あの方の名を聞いたかい?」
――はて、そういえば彼女の名前はなんといっただろう?
そこまで考えて、咲夜はありえない異常に気付いた。
名も知らぬ人物を、一度も名前を尋ねることなく、迎え入れてしまっている。美鈴が気付かず、自らも気付かず、レミリアに指摘されなければ、このままパチュリーと対面させていただろう。
さらに異常なことには、そう気付いたにも関わらず、『名前を尋ねる』ことの必要性を未だに感じられないのだ。
扉の向こうにいる女性に、それでも何かを感じるわけではないが、その『無感覚』が徐々に『得体の知れなさ』へと変わっていく。
「やっと分かったね。気にすることはないさ。彼女はそういうレベルの存在なんだ。決して『名無し』ではないが、名前という自己証明のための『代用物』も必要とはしない」
「『代用物』……いえ、そうではなく。彼女は、一体……?」
「さっきのやりとりでもあっただろう。あの方は、自らの正体を明かすことはお望みでない。それをないがしろにするつもりはないよ」
そうして、咲夜をパチュリーのもとへと向かわせ、一人になったレミリアは、件の人物がいる部屋の扉を見つめて口をとがらせる。
「ちぇっ。うらやましいなあ、パチェのやつ。なんで私じゃあないんだよう」
そうこぼしながらも、その足取りは軽い。ようやく本調子の陽光が射し込む館の中を、その光にも負けない高揚を心に秘めて、館の主は自室へと戻っていった。
◇◇◇◇◇◇◇◇
「――というわけなんです」
「どういうことよ……」
半ば涙目の咲夜から来客の知らせと、その客人にまつわる事情を聞いたパチュリーは、頭を抱えるしかなかった。
「名前がどうのこうのっていうのは、とりあえず置いておきましょう。そんなことより、レミィが……?」
「はい。その方をご存知のようで。個人的に崇拝されているとか」
パチュリーはやはり、悩むしかない。いや悩むまでもなく、そんな知人はいないと断言出来る。だいたい、レミリアが『崇拝』するというような相手など、知り合う術すらない。
「昔、立て続けに高位の悪魔を召喚された時期があったと、お聞きしましたが……」
「高位と言ったって知れてるわ。私程度の『格』じゃレミィを御せるかさえも怪しいのに、そのレミィが迷わず跪くような怪物を喚べるはずがないじゃないの」
「『格』、ですか。そういえば、お嬢様もそのようなことをおっしゃっておられました。『純然たる格の差』があるのだ、と」
「そうよ。力の大小とは別に『格』という尺度がある。魂の強度や重量と言い換えてもいいわ。誰かを使役するということは、使役する相手の魂を自らの魂で背負うことに等しいの。当然、自らの魂を超える容量を持った魂を背負うなんて不可能。だから私がいくら膨大な魔力を用意したって、私の『格』に見合わないような高位の存在には見向きもされな――」
そこで突然言葉を切り、パチュリーは無言で考え込み始めた。今の自らの言葉に、何か引っかかるものがあったのか。
だが、咲夜としてはいつまでも客人を待たせるわけにもいかない。時間を引き延ばしているとはいえ、そろそろ刻限である。
「ではパチュリー様、いかが致しましょう。……お引き取りいただきましょうか?」
「……いえ、お通ししてちょうだい。少し、気になることがあるから」
咲夜を客人のもとへ送り出した後、パチュリーは自らの使い魔を呼び寄せる。
今日はその使い魔に、閉架してある書庫の整理を命じていた。かつてそこに仕舞い込んだ本を探してもらうついでに、ホコリだらけになっているだろう本棚の掃除も頼んだ、というところである。
並び立つ本棚の向こうから姿を現した使い魔は、体にかかった粉っぽいホコリを払い落としてから、主に歩み寄った。
「すみません。三十四番の整理を終えたところなんですが、お探しの書はまだ――」
「ん、分かった。ありがとう。そっちは一旦止めにしましょう。ちょっと聞きたいことがあるの」
なんでしょう、と使い魔は首を傾げる。
「貴女の知り合い……じゃないわね、親戚にすっごい高位の悪魔なんていたりする?」
この質問は、パチュリーのとある閃きを補強するためのものだった。普通ならば接触も出来ないような存在が、自分を訪ねてくる。その異常を成り立たせる可能性がある閃き。
一方、問われた使い魔はまず苦笑を漏らし、頬を掻きながら口を開いた。
「あー……。実はですね、私の母なんですが」
「お母様? 貴女のお茶の師匠だっていう?」
パチュリーの使い魔である小悪魔は、紅茶全般に詳しいのだが、それを教えたのが彼女の母だという。パチュリーは以前にも、その話を聞いたことがあった。
「私はこの通りの小悪魔なんですけど、母は嘘みたいにド高位の悪魔なんですよ。自慢じゃありませんがー」
「……なるほど。確かにそうみたいね。レミィが崇拝するっていうくらいだから」
「……はい? それは、どういう……お嬢様とウチの母に面識はないはずですよ?」
「そうね。今日が初対面だったみたいだし」
普段からただでさえ静かな図書館を、さらなる静寂が一瞬だけ支配する。
そして、ようやくパチュリーの言葉の意味するところを理解したらしく、小悪魔はかぶりつくようにして、パチュリーを問い詰める。
「どっ! どういうことですか!? どういうことですか!?」
「……だから、正体不明の悪魔が一人訪ねてきてて、レミィは跪くわ、咲夜は涙目だわで大変って話。現在進行形で」
「んなあっ……まさか、それが……」
「さあて、どうなんでしょう。まあ、もうすぐ咲夜が案内してくるから、それではっきりするわね」
「ちょっ、ちょま、まってくださ――」
騒がしくなりつつあった図書館において、そのノックの音は不思議なほどによく響き渡った。
打ち鳴らされた扉を、パチュリーは何事も無く、小悪魔はあまりに落ち着かない所作で見やる。
「お客様をお連れ致しました。入室してもよろしいでしょうか」
「ああうぁうぁぁ……」
「しゃんとしてなさい。人違いの可能性もあるんだから。……どうぞ、お通ししてちょうだい」
にぶく軋みながら、入口の大扉が開く。
まず咲夜が入室し、後に続く客人の道を開けるため、一礼しつつ横に下がる。
失礼致します、とこちらも一礼して――咲夜の後ろから現れたのは、意外に小柄な赤髪の女性だった。
パチュリーの背後では、直立した姿勢で硬直した小悪魔が、口は開けないままで小さく呻いている。
「はじめまして、名も知らぬ方。ようこそ我が図書館へ。どうやら当たり、みたいね」
「はじめまして、図書館の魔法使い。はい。お察しの通り、その娘の母親です」
話について来ていない咲夜と、未だショックから回復しない小悪魔を見交わして、悪魔と魔法使いは小さな笑みをこぼした。
◇◇◇◇◇◇◇◇
いつもの椅子は散らかっているからと、パチュリーは自らの定位置から少し離れたところに、二人分の席を用意させた。
茶菓子は咲夜の用意したもの、そしてそれに合う紅茶を小悪魔が淹れてくる、はずだったのだが……。
「……」
「……」
小悪魔の持ってきた紅茶を口にした二人は、揃って無言を返した。紅茶自体は美味しいのだが、なぜか茶菓子と致命的に合わないのである。
パチュリーは斜め後ろに控える小悪魔をちらりと盗み見る。
「……」
一見、普段と変わり無いように見えるが、顔色がおかしい。それに、眼がぐるぐるとゆらぎ、焦点が合っていない。
「こあ」
「ふあい!」
反応は思ったよりもすぐに返ってきたが、やはり明らかに普通ではない。
「こっちはいいから、さっきの続きをお願い」
「は、はいっ! ですが……」
「それとも、このまま三者面談する?」
「行ってきます!」
言うが早いか、小悪魔は書架の向こうへ消えた。
あの状態で書庫の整理が出来るのか。パチュリーは不安でもあったが、小悪魔をこの場から下がらせる方法が他には思いつかなかったのである。あとは、適当に自己管理してもらうしかない。
パチュリーが再び客人のほうへ向き直ると、客人は小さな肩をさらに縮ませて、申し訳ないと頭を下げた。
「お気を遣わせてしまって……」
「こちらこそ、申し訳ないわ。本当なら私こそ席を外すべきなのに。久々の親子対面を邪魔してしまって」
「いえ、私がお訪ねしたのはあの娘ではなく、貴女なんです。それに、娘と会うのも久しぶりではありますが、手紙のやりとりはありましたので」
「あら、たまに手紙を書いているのは知っていたけど、貴女に出していたのね」
パチュリーが何気なく言った一言は、しかし悪魔にとっては驚くべきものだったようだ。
「自由にさせているんですか?」
「え? いや、自由というか……プライバシーっていうんじゃないけれど、そこまで踏み込んでも仕方ないもの」
「いえ、そういった意味ではなく……主従関係というより、雇用主と従業員のような関係ですね」
なるほど、と何か納得したように、一人つぶやく悪魔。
「……何か変なこと言ったかしら、私」
「娘はあの通りの性格ですから、誰かに仕えるようなことは難しいと思っていたんです。それが、貴女とはもうすぐ百年近くなりますよね。大分自分を抑えているのかとも思ったのですが」
「初めはそうだったのかもしれないわね。誰に対しても常におどおどしていて、自分自身に対しても何か怒りを抱いているような」
話していると、当時のことが次々に思い出されてくる。そのうち、確かに自分達の関係は通常の『使役』とはどこか違うかも、とパチュリーにも思えてきた。
「喚び出してからしばらくは仮契約だったのよ、私達。それで、本契約にしようかって切り出したら、あの娘怒っちゃって」
「怒った……?」
「『維持も楽ではないって言ってたじゃないですか。私なんかを置いておくくらいなら、もっとマシなのを喚べばいいでしょう。同情なら今すぐ送り返して』って」
母たる悪魔は、しばらく呆然と視線を惑わせるばかりだった。
語るエピソードを間違えたかと、パチュリーは今になって後悔した。彼女と小悪魔の間では良い思い出なのだが、考えてみればその母親にとっては衝撃的では済まないかもしれない。
「……理由は、なんだったんですか」
「理由?」
「はい。あの娘を置いておきたいと思った理由です。それに――私が言えたことではありませんが――そもそも、なぜあの娘を喚んだのですか?」
それなら、答えられないことではないし、母親には答えても構わないだろう。実際、小悪魔も同じことを問い、その答えに納得したからこそ、今もこの場所にいるのである。
「置いておきたいと思ったのは……そうね、私の特性に合っていたのがひとつ」
「特性、ですか」
「そう。私はこの通り、年中本に埋まっているのが研究スタイルでもあり、生活スタイルでもある。だから、私に必要なのは『悪魔』というより事務処理の出来るパートナー。もっとも、私の生活に合わせるとなったら、人間では務まらないでしょうけど」
パチュリーの言葉を聞いていた悪魔は、ある程度は納得したような、それでもなお釈然としないといった表情を浮かべている。それも当然だろう。今の理由なら確かに小悪魔にも当てはまるが、『あの』小悪魔である理由にはなっていない。
向かいに座る悪魔の心境を推し測りながら、パチュリーは目の前のティーカップに手を伸ばす。
「もうひとつの理由が、これ」
「……紅茶?」
「そう。いや、すごいものなのよ? コーヒー派だった私が鞍替えするくらい」
悪魔がパチュリーに向ける視線は、もはや疑念という程度を通り越し、目の前の人物が正気かどうか計りかねる、という意味に近い困惑を含んでいる。
その視線に、パチュリーは懐かしいものを感じて苦笑した。
「……なんというか、やっぱり親子なのね、貴女達は」
「それは、どういう……」
「いえね、あの娘に問い詰められた時にも同じように答えたのだけれど、今の貴女と同じ顔をしていたと思って。あの時は続けて『正気ですか?』って聞かれたから『秘密を知られて、帰す訳にはいかなくなった』ことにしてもいいって言ったんだけど」
「……信じられない。嘘みたいですね。そちらの理由のほうこそ妥当ですのに」
「『そりゃ、嘘だもの』ってね、あの時は答えたわ。あの娘はそれで納得してくれたのだけど、貴女は納得してくれるかしら」
悪魔の浮かべる表情は、何時しか憤りに近いものへと変わっていた。
しかし、それは誰に向けられたものでもない。言わば、問答無用で突き付けられた『理不尽』を受け入れることに付随して現れる苦悶に対する怒りのような感情。
従って、『理不尽』を飲み込むことが出来れば、その怒りも共に消え去る。
「……ええ。まだ理解は出来ませんが、納得するしかありません。やはり、あの娘が変わったのではなく、貴女が既に『変わっている』のですね」
「魔法使いに『普通』を求めないでちょうだい。……いや、それにしたって『変人』、かもしれないけれど」
「はい、十分に。では、本当にこの……」
「言い切ったわね……。そう。だから、あの娘が今ここにいるのは、貴女のおかげでもあるのでしょうね」
カップの中でほとんど冷めてしまった紅茶。パチュリーはもう一度、確認するように口をつけたが、やはり何とも言い難い表情でカップを下ろした。
「……今日はちょっと例外、かしら」
「煮出しの時に置きすぎたようですね。本人も気付いているのでしょうけど」
「やっぱり分かるのね」
「そうですね。一応、一通りのことを教えたのは私なので。……それくらいしか、与えてあげられなかったものですから」
目を瞑り、何を思い浮かべているのか、神妙な面持ちとなる悪魔。
一方パチュリーは、今の悪魔の言葉からある推測を得ていた。
パチュリーの使い魔の小悪魔は、本人も自称するように文字通りの『小悪魔』である。実際の仕事ぶりを除外して考えれば、悪魔としての力は無きに等しく、『格』という観点からも低位と言って差し支えない存在だろう。
しかし、目の前に座る悪魔の『娘』となれば、話は少し違ってくる。
力が小悪魔へと引き継がれなかったのは一目瞭然だが、もしもその『格』が――この場合は悪魔としての名前が引き継がれていたら、パチュリーには小悪魔を使役出来ないはずなのだ。例えどんなにか弱いとしても、『格』が自らを上回る存在を御すのは容易ではない。
――だとするなら。長年の疑問が解けるかもしれない。
「……何故あの娘を喚んだのか。それも答えられる、かもしれないわ」
「かもしれない、とは……?」
突然の、それでいて曖昧な魔法使いの言葉に、悪魔は首を傾げる。
「実は、私のほうにあの娘を喚んだ理由は無いのよ。喚ばれた理由だって無いものと思ってた。ただ単に儀式に失敗したんだと。……貴女が現れるまではね」
「儀式に失敗した、とはどういった意味なんでしょうか」
「そのままの意味よ。そのころの私は、ただひたすら高位の使い魔が欲しくて、喚んでは送り返しを繰り返してた。そんな時にありったけの魔力を注ぎ込んでやった儀式で出てきたのがあの娘なの」
その時の光景をパチュリーは今でも鮮明に記憶していた。
魔力の足しにしようと積み上げた本の山は総崩れ。小悪魔を巻き添えに自らも生き埋め。圧死は免れたが、小悪魔の意識が中々戻らず、契約初日は使い魔の介抱をして終わった。
今になって考えれば何かおかしい気もするが、その時は本当に必死だったことも憶えている。
「あれだけの魔力を注ぎ込んで、出てきたのがあの娘。あの時、あの娘を直接喚ぶのに必要な魔力より、桁三つくらいは多く用意していたはず。だから、単純な儀式の失敗だったと思ってたのよ。……だけど、もしかしたらあの儀式は成功していたんじゃないかしら」
「どういうことです?」
続きを促しながらも、悪魔にはパチュリーの言わんとすることがほぼ分かっているようである。パチュリーは、何か教師と答えあわせでもやっているような錯覚を感じる。
「つまりね、あの時の儀式は、魔力の点だけを見れば貴女に届いていたんじゃないかと思って。けれど、私の『格』は貴女には届かない。私の魂では貴女を背負うことが出来ない。だから……」
「私にごく近い存在である娘が、代わりに召喚の対象となった、ということですか」
「……そんなところなんでしょうね。まあ、目論見が外れたという意味では、大失敗だったんだけど」
でもね、と魔法使いは一度言葉を切り、居住まいを正して悪魔へと向き直る。
「失敗はそこまでよ。その次の瞬間から今に至るまで、全て私の意思で選んだの。あの娘と共に居ること、これからも含めて何も失敗は無いわ」
そう、まるで目の前の女性に宣誓するかのごとく、高らかに言い切った。
一方、宣言された悪魔は――
「…………」
ただ唖然と、魔法使いを見つめるばかりだった。
「……あれ。もしかしてとんでもなく外したかしら。その、これくらい言っておかないと安心してもらえないかと思って。そう簡単に娘さんを放り出したりはしませんよ、ってことで、ええと……」
慌てて言葉を積み足していくパチュリーを見ているうち、悪魔は肩を震わせ始めた。その揺れは見る間に大きくなっていく。
「……笑ってる? もしかしなくても笑ってるでしょ、貴女」
「あなた、こそ……ほんとうに……魔法、使い、ですか……!」
顔を伏せているため、パチュリーには女性の表情は分からない。しかし、肩の揺れに合わせて、くくく……という声が聞こえてくる。明らかに笑いを堪えきれない様子である。
「私が真面目なこと言うと、なんでか不思議な顔されたり笑われたりするのよね。悪かったわね、柄でもないこと言って」
「……ええ、本当に。使い魔を労るならともかく、他者に対してその待遇を保証する魔法使いなんて。いいえ、それが貴女の人柄なのでしょうね」
「他者、と言っていいのかしら。他でもない母親を」
「当然です。主と使い魔の関係は完全な一対一のもの。そこに第三者の情が入り込む余地なんて初めからありません。本来なら、私がこうして貴女を訪ねることだって非常識でしかない」
でも、と言葉を切った悪魔は、今一度パチュリーを見定めるように――その根底にあるものを透かし見ようとするがごとく、無感情な視線を浴びせかける。
……が、幾秒もしないうちに、諦めの念を感じさせる苦笑と共に、首を横に振った。
「……確かに、私はその言葉が欲しかったようです。ですが、貴女にお会いした時点で必要無くなっていたのですよ」
「やっぱり、余計だった?」
気まずそうなパチュリーの問いを、悪魔は笑顔で否定する。
「娘と今まで付き合ってきた方ですから。そんな方が、当たり前の人格であるはずがありませんよね」
「……勝手が分かれば遠慮無しってのも、遺伝なの?」
――誉め言葉なんですよ?
そう言って悪魔は、パチュリーもよく知る誰かそっくりに微笑んだ。
◇◇◇◇◇◇◇◇
およそ語ることも尽きた魔法使いと悪魔は、連れ立って閉架書庫を訪れた。
小悪魔の仕事ぶりを見せるという体であるが、パチュリーとしては先ほど追い出した後の小悪魔が心配という理由もあった。おもに、今も整理に取り組んでいるだろう本棚の安否とか。むしろ小悪魔のほうが本の餌食になっていないか、とか。
とはいえ、パチュリー自身も心配のしすぎだと自覚はしていた。実際、二人が書庫に行き着くと、並び立つ本棚を前に何かをチェックしている小悪魔と出会った。服が少し汚れている以外におかしなところも無く、本人にも先ほどのような混乱した様子は無い。
二人の姿に気がつくと、小悪魔はいたって落ち着いた動作で一礼した。
「……先ほどは申し訳ありませんでした。ここも……って、パチュリー様、この場所は空気が……!」
「あまり良くないんだけどね。まあ、マスク代わりにスカーフ巻いてきたし、少しくらいは平気。進み具合はどんな感じ?」
「そちらも、ですね……すみません。さっぱり進まず、です。なんとか一列は終えたのですが……」
すみません、と今一度頭を下げる小悪魔。見れば小悪魔の前に並ぶ棚は『XXXV』とナンバリングされている。
「まあ、作業が進まないくらいで済んでいて良かったわ。……というか、何かあったら一目見て分かるような惨状になってるはずだし」
「……はい?」
「いや、たった今思い出したんだけど。三十番過ぎた辺りから『取り扱い超要注意』のが何冊か放り込んであったはずで……」
「ほああっ!?」
急激に不穏さを増したパチュリーの言葉に、ずささっという音でも聞こえてきそうな動きで本棚から飛びすさる小悪魔。
その母親も動きこそしないものの、頬がわずかに引きつっている。
「……あの、パチュリーさん。そんな品もあるような場所を、娘が扱ってもよろしいのですか?」
「ごめんなさい。あんな大見得切ったばかりなのに……。どうしてこう肝心な部分で抜けてるかしら、私」
「いえ、そういう意味ではなくて」
どこかズレた主と母親の会話。残された使い魔は、諦めるしかないことを知っていた。
「母さん。パチュリー様ってこういう方だから、『普通』の返答は多分出てこないと思う」
「だから、悪かったって。お母様に貴女の身の保証をしておきながら、危険の真っ只中に放り込んだりして……」
「――こういうご主人様(マスター)ですから!」
苦笑の中に喜びを滲ませた、不思議な笑顔で小悪魔は断言する。それを見た母親も、苦笑いのような表情でひとつ息を吐く。
「さっきまでのお話で分かったつもりになっていたのだけれど。正直、ここまで貴女の言っていた通りだなんて思わなかった。まだちょっと動揺してるかも」
「パチュリー様に魔法使いとしての『普通』は当てはまりません。私も最初は驚いてばかりだったけど」
「そうね。母さんも心底驚かせていただきました」
「……貴女達ね、ひとを親子で挟んで言いたい放題しないでくれる?」
今度は主を取り残して、盛り上がる使い魔とその母親。
「いえ、本当に驚いたんですよ? そもそも迎え入れていただけるかも、私は難しいと思っていたんですから。娘の手紙に書いてあることだって、使い魔としてのバイアスがかかっているものとばかり」
「どっち向きかは別として、あること無いこと書いてそうよね」
「はい。そういうところもある子なので」
「二人揃って……少しは信用してくださいよう」
母と主の意見に、ふにゃっと表情が崩れる小悪魔。ぶーぶーとでも言うように唇だけをとがらせている。
しかしそれほどのダメージでもないようで、幾秒もせずにしゃっきりと復活した。
「そういえば、お二人でどんなお話をされていたんですか?」
「そうねえ。貴女の普段の様子だとか、召喚されてすぐのころのお話も聞かせていただきました」
「……えっ。召喚されてすぐ、ってアレですか。私がダウナー系だった時期ですか。あの、ちなみにパチュリー様、どの辺までお話になられちゃいました?」
「ふがふがふ……」
「都合悪くなった途端に喋れなくならないでください! というか、私が知ったら気まずいようなところまで話しちゃったんですか!? あの時私が言ったこととか!」
スカーフで口元をぐるぐる巻きにしていることを利用して、とぼけ通そうとする主。対して小悪魔はパチュリーに詰め寄りこそするが、その身体に触れることもしない。ただでさえ空気の悪い環境の中、主の身を気遣ってのことである。
もっとも、その脳内では砲丸投げさながらに主を振り回しているのだが。
「そうそう。貴女、すごい啖呵切ったって聞いたわよ。せっかく召喚されたのに、『同情なら送り返せ』なんて」
「ううう……そっちも出来れば知られたくなかったけど。なんとか結果オーライ……」
「そっち『も』? 他にも何か言ったの?」
「言ってないです! なーんにも言って――」
「『ずっと貴女のお側に置いてくださ』」
「やっぱり喋れるじゃないですかあああぁぁ! パチュリーさまあああああぁぁぁ!」
あまり知られたくない過去の発言を母親に暴露される。それも目の前で。
今すぐにでも主に掴み掛かりたい小悪魔だったが、自身のかろうじて冷静な部分がそれを制し、脳内でパチュリーをホームランするに留めた。
「……『こあ』?」
「ひゃいっ!?」
普段なら呼ばれ慣れた自らの愛称。だが、それが聞き慣れない声で、意外な人物の口から発せられる。
困惑しながら小悪魔が声の元へ振り向くと、少し照れたように笑う母親がいた。
「……って呼ばれてるのよね」
「うん、そう。パチュリー様が――」
「毎度毎度『小悪魔』なんて呼ぶのもなんだか変な気がしたから。あたま二音だけとって『こあ』にしようかなって」
「――とのことです」
「そうなんですか……」
今まで何かと会話の絶えなかった三人の間を、唐突に静けさが漂い始める。悪魔がパチュリーの答えを聞いたきり、口をつぐんでしまったからである。
その顔には、残念さと、安心と、少しの迷いを含んだようにも見える、複雑な表情を浮かべて。
主と使い魔も、揃って言いかけた言葉を飲み込んでしまう。しかし、パチュリーが――埒があかないと思ってか――再び口を開く。
「それが、何か? あくまで『呼称』であって、『名付ける』ようなことはしてないわよ?」
『命名』かどうかを心配しているのかと、パチュリーは考えた。
使役関係にある使い魔を『名付ける』ということもしばしば行なわれる。対象が『名無し』ならば、珍しいことではない。
しかし、それは『愛称で呼ぶ』ことには留まらない。使役対象を『名付ける』ということは繋がりの強化、つまりは上下関係の強化を意味する。それはもはや上下関係の『固着』と言ってもいいものだ。
パチュリーはそれを嫌い、あえて『命名』をしなかったのである。
だが悪魔は、その言葉にこそ驚いたようだった。
「……パチュリーさん。お言葉ですが、如何に娘に力が無いとはいえ、いつ逃げられるか分かりませんよ?」
「まあた心にも無いこと言って。……まあ、その時は、その時……だから」
「しません! 居なくなったりしませんから! 泣かないでください! そこの悪魔も余計なこと言わない!」
「ないて、なんかない、からぁ。わたし、あなたがいなくても……がん……ばる……」
「ほら! パチュリー様は冗談が1モナドも通じないんだから!」
「聞いてはいたけれど、あの、ここまでとは……。その、ごめんなさい」
◇◇◇◇◇◇◇◇
さすがにこれ以上居るには環境が悪すぎるということで、三人はもといた席に戻ってきていた。そこに小悪魔も参加することになり、ついに三者面談になったわね、とはパチュリーの言である。
今度こそきちんと淹れられた紅茶で落ち着きを取り戻したパチュリーは、早速先ほどの会話の続きに入る。
「……それで、さっき妙な顔をしたのはどうして?」
「さっき、とは?」
「私がこの娘をこあ、って呼ぶ理由を聞いたとき。貴女、残念なんだか安心したのか分からないような顔をしてたわ」
「そのことですか。それは……」
言葉を濁す悪魔。その視線もどこか別の場所を見つめているような、遠いものとなっている。
「……私の、名に関することなんです。あまり詳しくはお話できませんが、『こあ』という響きが、遠回しに私の名を知っているという意味合いにも解釈出来たので。これはもしや、と。ですが、的外れだったようですね」
「申し訳ないけれど、貴女の名前なんて分からないわよ。レミィが聞いたら怒るかしら」
「彼女が私のことを知っていたのは全くの予想外でした。私も仕える主を持つ身ですから、簡単に名を知られて良いものではありませんし」
悪魔の言葉に、パチュリーはとりあえず納得した。
悪魔は他人に名を知られることを好まない。伝説や噂として広まるならともかく、本体――もしくは実体と名を結びつけられるのは、命運を握られるに等しいからである。
だから、『こあ』という呼び名が自身の名に関係しないと分かり、安堵したのだろう。
……では、残念そうな表情はなにを意味していたのか。
「……『暴露心理』というものがあってね」
「暴露、ですか」
「そう。何があっても隠し通さなければいけない、そんな秘密を持つ人にありがちな心理的傾向。必死で隠そうとしながらも、逆にその秘密が知られることを無意識に望んでしまう」
「……なるほど、あるかもしれません。私は名を知られたくないけれど、貴女になぜか『知られている』ことを望んでいた、と。いえ、ご存知でもおかしくはありませんね。他ならぬ、我が娘の主である貴女ならば」
「いくら私でも、勝手に他の悪魔の情報流したりはしませんよ?」
小悪魔がいかにも不本意だというふうに、母親に向かって口をとがらせる。だが、悪魔はそれを気にする様子も無く、パチュリーに対して言葉を続ける。
「まさか興味が無い、とおっしゃるわけではありませんよね?」
「それこそまさかでしょ。いくらなんでも、私もそこまで枯れてないわ。知りたい、すごく知りたい、けど……」
パチュリーはちらりちらりと小悪魔に視線を送る。
それに気付いた小悪魔は心得たとばかりに、ぐっとこぶしを握る。
「『言うなよ? 絶対言うなよ!?』の逆ですね!」
「……こういう娘だから」
「それを押し切る術もご存知でしょう?」
つまり、強制的に言わせることも出来るだろう、という意味だ。確かに、使役関係にあるならば、その程度の強制はあっさりと可能である。
でも、とパチュリーは空を仰ぐ。
「そうねえ……貴重な使い魔一人潰してまで、知りたいとは思わない、かな」
「……そうおっしゃると思いました」
悪魔は、もはや諦めたとでも言いたげに、首を横に振った。そして、ふとそばにある柱を見上げ、気付いたようにこう続けた。
「あら、もうこんな時間に……」
「ウチのことだったら気にしないで。当主がアレだから、不夜城みたいなものだし」
「すみません。有難いのですが、今日のうちに戻らなければいけないことになっていまして」
「そうなの。残念。館の全員集めてこの娘の暴露大会でもやろうかと思ったのに」
「なんで私の限定なんですか!?」
信じられないほど優しい反面、お茶目も一流な主の発言に戦慄する小悪魔。
悪魔はそんな主従を見て、屈託の無い笑みをこぼした。
「では、それはまたの機会に」
「させませんよ!?」
「ですが……お暇する前に、今日お話いただいたことに対価を支払わなければ」
「『対価』? 今日話したくらいのことに礼なんていいわよ。母親が娘の様子を見に来ただけなんだし。……それに『悪魔の贈り物』を受け取らないぐらいの『常識』は持っているもの。それを気遣って、貴女は土産も何も持たなかった」
「ええ、ですから物品ではなく……私の名を知りたくはありませんか?」
「知りたい」
魔法使いの食い付きに、餌を投げた本人も苦笑する。パチュリーも反射的に答えてしまったことに気付き、ばつが悪そうに顔を反らした。
「まさに『悪魔の誘惑』よね。……というか、それはまず絶対に出せないでしょう?」
「はい。出せません。……なので――
◇◇◇◇◇◇◇◇
悪魔が館を去った直後から、レミリアが図書館に押し掛けていた。
読書に戻ろうとしていたパチュリーと、すでに普段の仕事に戻っていた小悪魔を相手に始まったのは自慢大会である。と言っても、それは自らの自慢話ではなく、つい先ほど帰ったばかりの、あの悪魔の話だった。
ひとしきり話したレミリアは、空を見つめてため息をもらした。紅潮した頬が興奮の激しさを物語る。
「彼女のことを考えていると、自分が何者なのか忘れてしまいそう……。ただの女子にでもなったような気分だよ」
「大丈夫。憧れる理由とか、いろんな意味でまさに悪魔だから」
「んでさ。なんで私の大好きなあの方がパチェを訪ねてやってくるわけ? なんで?」
「……私、というより、こあを訪ねてきたみたいだったけど」
本棚の向こうから「ほゃっ!?」という声だけが聞こえてくる。まさかこのタイミングで自分に話を振られるとは思っていなかったのだろう。
声のした方向へ、レミリアはかぶりつくような勢いで振り向いた。目がすわっている。
「おまえ、後で私の部屋に来い。な?」
「ひゃい!? あの、あの、ご遠慮させてはいただけないでしょうかっ!?」
「なにびくついてんのさ。何もしやしないって。彼女の話を聞かせて欲しいだけだよ。おまえさ、あの方の親類かなにかなんだろう? ……いや、わざわざ訪ねてくるくらいだから、もっと――」
腕組みをして、考え込みそうになったレミリアだったが、幾秒もしないうちにあっさりと、その思考を捨て去った。
「うん、やめよ。私が詮索してどうなるものでもないし。パチェは分かってるのよね?」
「ええ」
「ならいいや。ていうか小悪魔、私の誘いを断るのは構わないけどさ、後で間違いなくフランに拉致されるね。八つ当たり目的で。あいつ、あの方の気配に相当ビビってたから」
本棚の向こうからまたも「ぴゃっ!?」という叫び声。
レミリアの誘いはともかく、フランの拉致に対しては助け船を出してやろうかと思うパチュリー。
「そういえば、今日はフランを見てない気がするけど、あの娘どうかしたの?」
「どうかしたも何も、熊隠れってやつさ。あの方がウチの敷地に踏み入るかどうかって時に、真っ青な顔で私の部屋に飛び込んできてね。あとは人のベッドで丸くなったきり――」
「ビビってなんかないし! お姉さまこそ早口で挨拶の練習始めたりして、超バカみたいだったよね!」
静かな館内に突如響き渡る、聞き慣れた声。
パチュリーとレミリアは声のした方向を見やるが、そこに件の吸血鬼妹の姿は無い。
代わりに巨大な大福のような何かが蠢いていた。
「……あんたね。喧嘩売りたいなら、まずソレから出て来なさいよ」
大福のような何かはレミリアのツッコミも気にせず、もしょもしょと動いている。
よく見ればそれは白い毛布の塊で、頂点の辺りからは特徴的な翼が飛び出していた。
「てか、ソレ私の毛布でしょ。汚さないうちに戻しときなさいね」
「やだ!」
「やだじゃねーよ」
レミリアの指摘も全く意に介することなく、フラン大福はそのままの姿で本棚の陰へと消えた。
気に入ったのだろうか。
「……ったく」
「ああいうところもあるのよね」
「そうだね。普段からああなら、可愛いもんだってのに」
眉間に皺を寄せながらも、どこか優しい目でフラン大福の消えた方向を眺めるレミリア。吸血鬼でもなく、憧れに心融かす少女でもなく、ただの姉がそこにいた。
そんなレミリアを横目に、パチュリーは傍らに作った本の山へと手を伸ばす。
「じゃあ、彼女の自慢話は終わったわね。読書に戻ってもいい?」
「えー……貴女もそっけないと言うか、確かに彼女の話は大体終わったけどさ、もう少し……パチェ、ちょっと待った」
レミリアの顔が、また一変した。今度は夜の王たる吸血鬼の顔に。目はパチュリーが手にした本に釘付けとなっている。
レミリアの反応を見て、パチュリーは自らの推測が当たっていることを確信した。だが、そんな素振りは見せず、いかにも驚いたふりをしながら聞き返す。
「なによレミィ、急に」
「なによ、じゃない。なんでその本を手に取った? 偶然か? それとも――」
「偶然じゃない、としたら?」
「あの方が名乗ったって言うのか!? そんなのありえない……」
「そうね。実際、彼女はそんなことしていないもの。私はヒントをもらっただけ」
レミリアはぽかんとした表情のまま、しばらく固まっていた。しかし、事態を把握していくにつれて、普段から白い肌がさらに青白く、色を失っていく。
「その反応からすると、これが『正解』ってことよね」
「そんな、パチェ、あのね、それはね……」
「だいたいの自信はあったのだけど、答えあわせがしたかったの。こあはこの手のブラフにはかかってくれないから。ごめんなさいね」
「うう、うううううぅぅぅぅぱちぇええぇぇ……」
悲壮感あふれる呻き声と共に、レミリアはテーブルの上に倒れ伏した。両手でぽてぽてと天板を叩いているが、普段のような力は全く無い。
そんな親友の惨状はさておいて、パチュリーは手にした本のページをめくり始めた。
◇◇◇◇◇◇◇◇
――ひとつ、昔話をしましょうか」
唐突に、そう言った悪魔。
いや、本当は唐突でもなんでもないのだろう。分かっていながらも、パチュリーはしれっと言い返した。
「ずいぶん唐突ね」
「そうですか?」
「そうよ。唐突な話の転換ではないとすれば、どんな意味を持つと思うの」
「……確かにそれはそうですね。では、『唐突に』私の名とは関係の無い話となりますが、しばしお付き合いを――
――昔、まだ戦争による土地の奪い合いが盛んに行われていた時代。
ある国に一人の若者がいました。彼は戦士で、まだ成り立てではありましたが、腕に覚えがあり、将来を嘱望されていました。
ところで、若者の住む国は内政も安定し、一応の平和を保っていましたが、周囲を敵対する国に囲まれ、いつ戦争になるかも分からない状況でした。幸運なことにその国の軍隊は強力で、周囲からの侵略を防ぎ、極力攻勢にも出ないことで国の安定を保っていたのです。
ところが、周囲のいくつかの国が同盟を組み、若者の国を攻める計画をたて始めました。国中はその話題で騒然となり、当然若者のもとにもその知らせがやってきました。
若者は思い悩みます。彼には守りたいものが、人が、国がありました。しかし、敵は未だかつてないほど強力です。彼らの軍隊でも敵うか分からず、政治家の中には降伏を考える者まで出てきます。
腕に覚えありとはいえ、若者の力にも限りがあります。
「皆を守れるよう、もっと自分に力があれば」
そんな想いを若者が抱き始めた、ちょうどその頃。彼の前に奇妙な男が現れました。
「どんな『敵』をも撃ち破る強大な力、欲しくはないか」
その男は魔術師を名乗り、与える力でこの国を守って欲しいと語りました。
若者は願ってもないことだと、大喜びでその『力』を受け取り、戦場へ赴きます。『力』は本当に強大でした。身体は信じられないほどによく動き、手に持つ剣は若者が考えるよりも速く敵を葬っていきます。若者の活躍もあって、初戦は勝利に終わりました。
一方、味方の軍の中で、若者のあまりの活躍に恐怖を感じる者が現れます。その恐怖は次第に不信感へと変わり、遂には若者の暗殺部隊が秘密裡に結成されます。通常の部隊に紛れ、同士討ちを装って彼を殺す、というのがその計画でした。
そして、暗殺計画は実行されました。しかし、若者の持つ『力』がその害意に反応し、暗殺者を切り伏せてしまいます。味方を装った暗殺者を全て。何も知らない味方からすれば反逆、もしくは気が狂ったようにでも見えたでしょう。ただちに他の部隊も彼を止めようと、彼に挑みかかります。
いつしか国と国の戦争は、敵味方を問わず、若者ただ一人を倒すためだけの戦いに変わっていました。守りたかったはずの人々からも敵意を向けられ、若者は絶望します。しかし、それにも関わらず剣は『敵』を切り続けました。若者に害を為そうとする『敵』を。
そして、立っている者は遂に若者だけとなってしまいました。
その後も双方の国は様々な手段で彼を殺そうと試みます。圧倒的な人数での物量作戦、遠距離からの狙撃、陣地へ誘い込み謀殺……。しかし、結果はいつも同じでした。若者は――いえ、若者の『力』が全ての悪意を察知し、防いでしまうのです。もはや若者に生きる意思はありませんでしたが、『力』は自害すらも防いでしまいます。
国はとうとう若者の殺害を諦め、呼び戻すことを決めました。彼は国に残っていた家族や知人の呼びかけに応じて戻り、そしてその人達の手によって、老いて死ぬまで幽閉されました。
◇◇◇◇◇◇◇◇
本の文章に目を走らせながら、パチュリーは悪魔の語った『昔話』を思い返していた。
力を求め手にするも、手に入れた力のために悲惨な結末を迎えるという物語は太古から世界中にあるもの。だが、それを彼女が語ったことに意味がある。
例えば、戦争をスポーツに、戦士を選手に、切り伏せた人数を得点に置き換えたなら――
「ぱああちえええええ……」
地の底から響くような声で呼ばれ、パチュリーは本から顔を上げた。
「あら、レミィ。もう復活したの」
「あらレミィ、じゃないわよ。なんだか私が馬鹿みたいじゃないか。彼女の話する時も具体的なことを言わないように必死だったのにさ」
確かに、とパチュリーは思う。レミリアの話はやたらと長く派手だったが、形容詞ばかりが多くて肝心の内容は何を言っているのかさっぱり分からなかったのだ。
「努力は私が買ってあげる」
「じゃ、そのままあの方に差し上げてくれ」
「また今度ね」
――また機会があったら。
あの悪魔もそんなことを言っていたが、彼女がここを訪れることはもう無いかもしれない。パチュリーはそう考えている。
小悪魔との文通は続けるのだろうが、直接訪問するのは、ルール違反と言えば違反だ。パチュリーは気にしないが、あの悪魔はルール違反を気軽に続けるような性格ではないだろう。
あれはきっと、最初で最後の出会いだったのだ。
「それじゃあレミィ。気にせず話せるとなったら、何を話すのかしら」
特に何も考えず口にした言葉は、五分後にはパチュリーを後悔のどん底へ突き落としていた。パチュリーの言葉に目を輝かせたレミリアが、今度は自身に課する限定も何も無い状態で話し始めたからである。
再開された自慢大会はその主が不在のまま、夜明けまで続けられたそうな。
◇◇◇◇◇◇◇◇
吸血鬼の館を後にして数刻。諸々の用件を済ませて、悪魔は自身の住む世界へ戻っていた。
それを確かめるように数回深呼吸をして、気がついた。あれほど大量の本に囲まれていながら、あの図書館には澄んだ空気が流れていた、と。
住人の魔法使いはあまり身体が丈夫ではないようだったから、そのためもあるのかもしれない。小悪魔や館を案内してくれたメイドが管理しているのだろう。
だが、一番の理由は人の出入りが多いから、ではないだろうか。
自身があまりにもすんなりと迎え入れられたことから、悪魔はそう結論した。
『交友関係の広い魔法使い』
様々な意味で『普通』ではなかった魔法使いに、またもそれらしからぬ一面を見出だしてしまった。悪魔は再び込み上げてくるおかしさとの戦いを強いられる。が、目的地を前に、自然とそれも治まっていった。
職場の中をにやつきながら歩くわけにはいかないのである。
職場であり、今現在の住処でもある館の前で、悪魔は出迎えを受けた。
「おかえりなさい、副メイド長。休暇はいかがでしたか」
「只今戻りました。楽しかったわ、色々とね」
声の主は、この館で同じく使用人として働く人物。彼女も悪魔であり、館の中では部下でもある。もっとも、二人の関係は魔界にて始まったものでもないのだが。
タイミングの良い出迎えは帰還を察知してのことかと言うと、そうでもないらしい。なんとなしに窓の外を眺めていたら、帰ってくる姿が目に入ったのだという。
二人は建物裏にある使用人の出入口――と言っても、館の主が使うこともよくある裏口――から中へ入り、使用人室に向かいながら留守中の状況などを確認する。
「メイド長が泡吹いてましたよ。ただでさえ手数が足りないところに、神綺様がそれを狙ってくるそうで」
「夢子さんもたまには『気にしない日』を作ればいいのに……。丸一日空けてた奴に言えたことじゃないけど」
主の脱走癖とそれを阻止せんとする側近の戦いは、もはや意地の張り合いになっている。メイド長の世界に『諦め』という言葉は無いのだ。
「それから、お出掛けになった直後に神綺様が副メイド長を探されていたそうです。なんでも、持って行って欲しいものがあったとか」
「あら、それは失敗したわ。多分アリスさん宛ての荷物だったんじゃないかしら。ちょうどお会いしてきたのに」
「アリスさんに会うためのお出掛けだったんですか?」
「それは違うんだけど、帰り道で偶然ね。そうだ、皆にってお土産もいただいたのよ」
アリスから受け取ったものはそれだけではない。主と夢子、それぞれに宛てた土産も預かっていた。
そういえば、と悪魔はあることを思い出す。アリスもあの館へ向かう道を歩いていたが……。もしそうだとすると、本当に世界とは狭いものなのかもしれない。
その後も、今日館で起きたこと、明日からの予定、今日の神綺VS夢子の詳細など、あれこれと話しているうちに、二人の悪魔は使用人室の目前まで来ていた。
その時。
突如として、薄い魔力が館全体をコーティングするように被い尽くし、続けて耳障りな警報音が鳴り響く。
二人はすぐに思い至る。
館にはいくつかの警報システムが敷設されている。火災などの事故を知らせるための警報、侵入者を知らせるための警報。
しかし、今作動しているのはそのどちらでもない。館がもっと危険な状態であることを示すものである。
「『敵襲』!? そんな、神綺様が冗談半分で作った警報がなぜ……!」
そう、この警報の意味することは『敵襲』、そして『全戦力の戦闘準備』。
とはいえ、この世界の創造神を襲撃する輩などいるかは怪しい。加えて、この館で戦力に数えられる人物はわずかしかおらず、それも館の主と比較すれば無いようなものである。
だから、神綺がそれを設置した時、館の中はメイド長以下全員の苦笑いに包まれたのだ。
その警報が今、作動している。
「……っ! 考えてる場合じゃないわね。まずは皆と合流しましょう」
「はい!」
もはや地を歩いている余裕は無い。悪魔二人はすぐさまその場から飛び立ち、すでに見えている詰所の扉へ向かう。そして、ノブが回るか回らないかのうちに扉を押し開け、使用人達の集う部屋へと飛び込んだ。
部屋の中では数人の使用人達が突然の警報に立ち尽くしていたが、続いて入室した人物を見て、いくらか落ち着きを取り戻したようだ。あからさまに安堵のため息を吐く者もいる。
「副メイド長! よかった……おかえりなさいませ」
「ただいま。それより、現在の状況を把握している者は? 襲撃者、被害状況、なんでもいいから」
使用人達が互いを見やるが、結局は全員が首を横に振った。代表して一人が口を開く。
「分かりません。私達はこの数分ここにいましたし、それ以前にも特に異常は……」
「そうよね、ごめんなさい。ここからじゃ外の様子は分からない。……なら、神綺様とメイド長、どちらにいらっしゃるか分かる?」
「お待ちを。聞いていかがなさるおつもりですか」
背後に控えていた悪魔が、突如として口を挟む。
自らの実力を最もよく知るはずの部下に制止され、副メイド長は戸惑う。
「本当に戦闘状態なら、貴女達はともかく私が行かないわけには……! 少しでも足しになる可能性があるのは私だけでしょう?」
「一体いつの話をしておられる! 今の貴女の力はこの館に仕える他の悪魔達とほぼ変わりないのですよ!」
容赦無く叱咤され、悪魔は自らも冷静さを失っていたことに気付いた。今の自分の力を忘れていたのだ。
今の彼女に、かつて持っていたような強大な力は無い。失われたのではなく、他の場所に移ったのである。故に即刻取り戻す術が無いわけではない。しかし、それはあまりにもありえない方法なのだ。
「……分かった。でも、お二人の位置は把握しておかないと」
「はい。メイド長はともかく神綺様の居場所でしたら――」
『……あら、押すところ間違えちゃったかしら。でも全館放送には違いないわよね』
張り詰めた空気の中に、遠慮無く放り込まれる能天気な声。部屋にいた全員が、思わず「は?」とでも言うような表情で天井を見上げる。
『こほん。えーと、お知らせします。あずにゃんは今すぐに私の部屋へ来てね! もし帰ってきてなかったら、周りの人があとで教えてあげてください。繰り返します――』
なおも自分を呼び出す声。その危機感など微塵も感じられない調子に、先ほどの警報こそが間違いだったのだと、悪魔は悟る。
間違いで良かったと思う一方、何をしているのかという怒りが無いではないが、一気に脱力した身体は感情に任せた行動を許してくれない。
とりあえず土産の品々を机の上に置き、あとは身体がくずおれるままに、床に仰向けとなる。
極度の緊張からいきなり解放され、幾分朦朧とする意識の中で、悪魔はまたあることに気付いた。
娘の主を普通ではないと評価し、その変人ぶり――あるいはまともさ――にも散々驚かされた。しかし、それも当然のことだったのかもしれない。
母親の仕える主がこの調子なのだ。その娘の主がどんなに『普通』じゃないとしても、何の不思議があるだろう?
なぜか未だかつて無い爽快感を感じる悪魔。仰向けになったその顔の上に、部下の悪魔が顔を覗かせる。
「……呼んでますよ、アザゼルさん」
「これ、行かなきゃ駄目かしら?」
「神綺様がお呼びですから、副メイド長」
「……あと五分」
仕方ないですね、と苦笑しながら引き下がる部下。
副メイド長の彼女としても、呼び出しを無視するつもりなど無かった。そもそも帰還の報告をしなければならない。それに、アリスから預かった品を渡すためにも、主の元へ赴く必要がある。
それでも、今は動く気がしなかった。
今にも自分を落としそうな睡魔と戦いながら、悪魔は今日一日を思い返す。
久しぶりに見た娘の笑顔。
その主である魔法使いの、はにかむような不器用な笑顔。
我が主の娘にあたる人の、理性的ながら溌剌とした笑顔。
そして我が主の、いつだって変わらない、太陽のような笑顔。
ああ、それにしても――
「――ほんっと一発殴りたいわ、あの笑顔」
「……今ごろメイド長がやってくれてますよ、きっと」
でもこれ天使だった