Coolier - 新生・東方創想話

閻魔禁止

2015/01/06 21:58:59
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 §


 講堂ほどの広さがある、ドーム状の部屋。

「幻想の閻魔、四季映姫よ。おぬしを一週間の謹慎処分とする」
「なぜです!?」

 四季映姫・ヤマザナドゥは我を忘れて柵を叩く。しかし、それ以上の言葉を継げなかった。
 周囲には、映姫の数倍はあろう巨漢が全部で十人。
 いずれも真っ赤な顔に口をへの字に曲げて、吊り上がった眼差しで映姫を見下ろしている。
 彼らの巨体を支える椅子の頭上には、表札じみた看板。
 記された名は右から順に、秦広王、初江王、中略、五道転輪王「端折るなや」
 映姫が現在いる場所は、十王会議室。その名に違わず、亡者を裁く始祖の十尊による会議だ。
 そして、是非曲直庁の全てが恐れおののく最高決定機関でもある。
 映姫は今日、その十王会議から突然の呼び出しを受けた。
 十王から地方閻魔への直接通達など、ありえないことだ。
 業務指示なら上役を介せばいい。人事なら書面で伝えればいい。
 つまり――大事である。映姫は多大な不安を胸に秘めて、十王会議に馳せ参じた。
 そこで有無を言わさず告げられたのが、これである。

「受け入れられぬてか。我ら十王の処断なるぞ」

 秦広王の威厳と威圧に満ち溢れた言葉が、映姫をも萎縮させた。
 相手は有史の頃から死者を裁いてきた存在だ。彼女とは格が違い過ぎる。
 だが、踏み止まった。恐縮したい衝動をこらえて、十王たちを見据える。

「恐れながら、納得のいく説明をいただければと思います」
「ほう、では今までのおぬしの振る舞いに一片の落ち度もないと言うのか?」

 十王の三、宋帝王の問いに口ごもらざるを得なくなった。

「た、多少は無きにしも」
「では、心当たりを申してみよ。無論、浄玻璃の審判がなくとも答えられようぞ」
「わ、渡し守の仕事はどうにか矯正させますので。どうかあの娘には、寛大な措置を!」
「全然違ぇよ、馬鹿者。ヒラ死神の振る舞いに、我らがいちいち目くじらを立てると思うてか」

 柵に身を乗り出した体勢で、しばし凍りつく。
 その様子を眺める十王たちの一部が、天井を見上げる。会議室に満ちる、呆れの空気。

「しかもその様子では、本当の理由に気づいていないと見える」

 全身の汗腺が噴水に変わったような気分を、映姫は味わう。
 自身の落ち度、及び目下最大の頭痛のタネ。
 毎度お馴染み三途のサボリ魔・小野塚小町以外に思いつくものがなかった。

「では何ゆえに――当月の地獄行きは三人――ゼロが理想ではありますが――」
「そう、まさしくそれよ四季映姫!」

 木槌を打つ音が会議場に鳴り響く。発言したのは十王の五、閻魔王であった。
 十尊の中でも随一の発言力を持つ王。映姫の直接の師でもある。
 そして現在の閻魔制度の大半を定義し、是非曲直庁の基礎を作った存在。

「裁きは我らが原罪である。ゆえに、おぬしの考えはいたって正常だ」

 金属同士が擦られ合う音。
 会議室の中央に、鎖に吊られて何かが降りてきた。
 姿見と呼ぶにはあまりに巨大な鏡。浄玻璃鏡、そのオリジナルだ。

「しかし少々それに固執しすぎて、視野が狭くなっておるようだ。まずはこれを見るがいい」
「私の罪を、映すというのですか」
「左様、とくと見よ。これがおぬしの、幻想の閻魔の罪よ」

 鏡像が歪み、映姫の過去を鏡面に結び出す。
 映姫は息を飲んで、その変化を凝視した――


 §


 わずかな蝋燭の光のみに照らされた、薄暗い室内。

「まったく、あなたもよくよく懲りていない」
「残念ながら。閻魔様の前では、どんな完璧主義者だって懲りない面々になってしまいますわ」

 剣呑なやり取りの後に、映姫は手にしたティーカップで軽く口を潤した。
 微かな湯気が、彼女の鼻先で揺らめく。
 それにくすぐられたのか、映姫は軽く瞬きをした。

「しかも重箱の隅を突き過ぎる自らの言動を、十分に自覚しておいでのようで」

 丸テーブルを隔てて映姫と対しているのは、不気味な少女であった。
 外見こそ少々癖のある髪の毛を持つ、年端もいかない娘子と変わらない。
 異様なのは心臓のあたりに浮かんでいる、拳大ほどの球体。
 眼球が埋め込まれており、少女の視線に合わせてギョロギョロと蠢く。
 それが球体の上下から伸びる六本のチューブによって、少女の体に絡みついていた。

「だのに、ご自分は口うるさいくらいで丁度いいとすら思っていらっしゃる」
「誰しも死ねば口なしです。彼岸の裁きの場に立てば、反論する余地すらない」

 合計三つの目が、映姫の茶を飲む姿をまじまじと眺めている。

「それに、生きているうちから我慢できなくて何としますか」
「その辺はもう、聞き飽きるほど聞いております」

 すかさずの切り返し。映姫は渋い表情を隠さない。

「しかしですね、生きながらにして閻魔様のお説教が聞けるのは幻想郷くらいなものでして。
 『ヤマザナドゥ』のお考えはいくぶん奇矯なのではありませんか?」
「多くの閻魔が、多かれ少なかれ実行していることです――なんですか、そんな顔をして」

 映姫は顔を顰め、微笑する少女の顔を眺めた。

「私がちゃんと本心から言ってることくらい、あなたにはわかるでしょう?」
「それはもう。ただ、閻魔様自らが現場に赴いているのは、あなた一人のように思えます」

 閻魔が不機嫌そうに、ティーカップを再び持ち上げる。

「仮定の話をしてもよろしいでしょうか?」
「どうぞ、言いたいことがあるならはっきり言ってください」
「それでは。閻魔様、彼岸では孤立しておいでではないです?」

 映姫が口に含んだ紅茶を噴き出しかけた。

「――いきなり何を言い出すんですか、あなたは」
「はっきり言っていいと許可はいただけましたもので」

 ナプキンを手に少女が立ち上がりかける。
 対する映姫は、自分のハンカチを取り出しながら手でそれを拒絶。
 再び腰を下ろす少女。

「閻魔様は死神を引き回している時くらいしか、お連れを同伴させることがありませんので」
「職員は基本的に多忙なんです。
 ええ、確かに昼食は一人で食べていますし、飲みに誘われることはありませんとも。
 しかしそれを疑問に思ったことは一度もない」
「でも、たった今思いましたよね?」

 映姫がテーブルに置いたティーカップが、少し大きな音を立てた。

「もしかして部下とのコミュニケーション上手く取れてなくね? って思いましたよね?」
「やめなさい」
「厳格であることが、かえって部下たちを遠ざけているのではないかとも考えておられます」
「やめて」
「ああ、これはまずい。こんなことでは目の前の妖怪に堂々と説教することなど」
「やめろっつってんだろこの野郎。ていうか、そんなことまで考えてない」

 テーブルを拳で叩いた衝撃で、ティーカップが軽く揺れる。
 その体勢のまま、しばし固まる映姫。
 笑う少女。

「――すみませんね。私も少し調子に乗ってしまいました」
「少し慎ましくしたらどうですか。
 そんな風に他者の心を弄ぶから、この館には誰も訪れない」
「その誰も訪れない館に月に一度は説教に訪れるのは、どこのどちら様でしょうかね」

 大きく、深く息を吐き出す。

「あなたとのやり取りは、いつも調子が狂う」
「一応、感謝はしているのですよ?」

 映姫は少女の言葉を意に介さない。傍の制帽を手に取る。

「こんな館の主にまで慈悲を与えようと欲するあなたの献身。それが少々嬉しくて」
「長居しているわけにはまいりませんので、そろそろお暇します。今日も周りたい場所は多い」
「そうでしょうね。非番の時間は有効に使わないと。ああ、それからもう一つ」

 椅子から立ち上がりかけた映姫の姿を、少女が見上げる。

「何か抱え込むようなことがあれば、またお越しください。あなたは全ての咎人のお味方。
 それらの悩みを全部背負おうとするがゆえに、自分のことにまで気が回らないご様子」

 映姫が薄笑いを浮かべた少女の顔を凝視。

「孤高は時として心を病みますわ」


 §


 浄玻璃鏡に映る光景を眺めながら、映姫が硬直している。

「――これが、罪であると?」
「いかにも」

 閻魔王の短く簡潔な肯定。
 映姫の顔を流れ伝う汗の勢いは止まらない。

「あれは怨霊管理を委託する古明地さとりではありませんか。
 妖怪同士でも慣れ合わず他者を拒絶する罪人ゆえ、時折ああして説教を」
「知っておる」

 映姫の目が泳いだ。

「よもやあれの住処で茶を共にすることに問題があるとお考えですか」
「庁の嘱託妖怪とのやりとりなどは、氷山の一角に過ぎん」

 もはや明滅と呼べるレベルで、目の白黒が切り替わる。

「問題は、おぬしがサトリ妖怪と茶を嗜んでいる『時』にあるのだ。
 是非曲直庁内規第十七条、まさか忘れたわけではあるまいよ」

 映姫は想起した。
 彼女の白黒はっきりつける能力は、否応なしに記憶野から自動装置じみて内規を紡ぎ出す。

「閻魔の労働状態を鑑みて、閻魔は一担当箇所につき二名以上を配置する。
 各閻魔は、各々の担当時間を協議の上決定する――この規則が、何か」
「では、おぬしがサトリ妖怪に説法たれとる時間はなんだ」
「え」

 それ以上の言葉を失う。
 浄玻璃には新たな映像。
 人里で、神社で、街道で、草原で、湖畔で、山岳で、妖怪の拠点で。
 幻想郷のありとあらゆる場所で、人妖の悪行を咎める映姫の姿。

「まさか。いや、しかし、あれは」
「その、まさかだ。おぬしの非番中に説教しに向かうのが大問題なのだ!」

 映姫の顎が、カクンと落ちた。

「労働は美徳。だが非番の時間をそれに充てる行為は、いささかやり過ぎであるぞ。
 わしらが何ゆえに是非曲直庁を設け、閻魔の尊格をおぬしらに与えていると思う?」
「それは裁判の負荷を減らすためでありますが。しかし私は決して無理などしてはおりません」
「おぬしがそうではなくとも!」

 ガンガンガンガンガンガンと閻魔王が一文字ごとに木槌を叩く。

「おぬしの振る舞いがさも当然となり、皆が真似をするようになるのはまずいのだ。
 ブラック企業いうのが流行りのご時世、生者の終着地たる我々がその見本となってはならん」

 呆気にとられる。
 自らの能力を以ってしても、自らが犯した悪行に気付けなかった理由がこれか。
 それは時代の流れ。ファッキン根性論。

「よって十王会議はこの事実を重く捉え、おぬしに強制で休暇をとらせねばならんと判断した。
 よいな映姫、これは決定事項だ。反発は許されまいぞ――浄玻璃と悔悟の棒を出すがよい」

 映姫はしばし、逡巡した。
 しかし、十王会議の決定は絶対である。
 観念してポケットより八角形の手鏡、そして卒塔婆のような形状の笏を取り出す。

「それらは謹慎期間中、十王が預かるものとする」

 映姫の左右から、庁の職員が進み出た。
 彼女に慇懃な一礼の後、浄玻璃鏡と悔悟棒を回収。
 映姫としては、名残惜しくそれらを見送る以外にない。
 再び閻魔王の声がする。

「謹慎と言うたが、慎ましくあれば蟄居しておる必要はない。
 ただし庁施設への立ち入りその他、職務に類すると判断される行為は一切禁止する。
 それらの行為はどんな場所で行われようと、我らの目から逃れられぬと心せよ」
「はあ、それでは、しかし」
「なんだ、まだ何か異論があるのか」

 勇気を振り絞り、声を震わせる。

「そ、それらのことを封じられて――私は謹慎期間中何をしていればよろしいのでしょうか!」

 轟音と共に、十王全員が椅子から転がり落ちた。
 体勢を立て直すこと、しばし。

「モノホンのワーカーホリックか、貴様! 職員のプライベートまでいちいち指図しとうない。
 庁の職務に類する行為、それ以外! そこから先は自分で考えんかい!」
「職務以外」
「そうだ! 我らからの話はここまで。退室を許可する。て言うか、とっとと行けい!」

 その、瞬間。
 十王たちは内心、映姫の姿に慄然とする。
 見よ――ありとあらゆる希望を失った罪人もかくやの、その立ち姿を。
 見よ――濁ったガラス玉を思わせる、その瞳を。

「わかりました、やってみます――職務以外――はあ、職務以外とは――」

 刑場に向かう亡者の足取りで、彼女は会議室を後にする。
 彼女の背中を、十王たちは無言で見送った。


 §


「あっはっはっはっはっ!」

 小町は酎ハイのグラスを手に抱えたまま、映姫の相談を豪快に笑い飛ばした。
 その笑顔を見ていると、ツーサイドアップに結い上げた頭をしばき倒したい衝動に駆られる。
 だが、謹慎期間中につき辛うじて堪えた。そもそも今の映姫の手には、悔悟棒がない。

「笑い事ではありません。私にとっては重大な問題なんです」

 重苦しい言葉。
 愚痴りながら、爪楊枝に刺さった蒟蒻玉で皿の上の味噌を攪拌する。

「いくら重大だ、つってもねえ。
 余暇の使い方を教授してもらいたい、なんて相談持ちかけてくるのは映姫様くらいですって。
 有給、全然使ってないでしょ? あたいとしちゃ、分けてもらいたいくらいで」
「半年も経たずに休暇を使い果たす子に分けたら、休みが可哀想だわ」

 もぎゅもぎゅもぎゅもぎゅと時間をかけて蒟蒻玉を咀嚼。

「あなた、サボタージュにかけては天才的でしょうに。ひねり出した余暇を何に使ってるの。
 もー、こういう時くらい頼りになるところをお見せなさいよ」
「褒められてんだか貶されてんだかわからん評価ですな、そりゃ」

 カウンター向こうの居酒屋店主に、小町が追加の酎ハイをオーダーする。

「あたいのことよりも、映姫様ご自身がどうであるかが問題じゃないですかね、こういうのは。
 なんか、趣味とかお持ちでないんですか」
「趣味」

 映姫は新たな蒟蒻玉に、爪楊枝を突き立てた。
 味噌を塗る。
 もぎゅもぎゅもぎゅもぎゅ。
 嚥下。

「つ、通勤路にポイ捨てされてる空き缶ゴミを拾った数をカウントすることとか」
「趣味じゃねーっす、それ。業務の延長線上の何かだ、間違いなく」
「一介の地蔵菩薩だった頃から、ろくな享楽など持ち合わせていませんでしたとも。
 あの頃は、ただ立ってるのが仕事みたいなものでしたし」

 小町は渋い顔で、酎ハイに沈んだ梅の実をつつき回す。

「なかなか重症だなあ。そうだ、映画鑑賞とかどうですか。
 見るのが仕事だったってんなら、見る遊びを選ぶってのも手かもしれない」
「映画ですか。ああいうの見るとだいたい登場人物の粗探しになるんですよね」
「だから、そーゆーのは禁止なんじゃないんですか。
 映姫様ならはっきりした悪党のいない、ドキュメンタリーとかコメディとかでどうですか。
 そうと決まりゃ話は早い。親父、お愛想頼むわ」

 へい、と返事する店主。
 彼と小町とを、映姫は交互に見た。

「え、今から? オールナイトとか勘弁ですよ」
「何も、映画館に行くとは言ってないでしょうに。レンタルですよ。
 まさか、家にDVDも置いてないとかじゃないでしょうね?」
「ば、馬鹿にしないでくださいよ。それくらいは」
「じゃ、早いとこいきましょうや。多少ならお勧めの奴を紹介できますし――」

 と、笑顔で懐に手を突っ込んで、硬直。そのまま映姫を見ることしばし。
 映姫は彼女の意図を、容易に察知した。

「勘定は私がもちます。相談料です」
「さっすが映姫様、太っ腹だぁ」
「クッソわっかりやすいシグナル送っといて何言ってるのかしらね、この子は」


 §


 数時間後。映姫は是非曲直庁職員寮に帰還した。
 手に抱えているのは小町推薦の映画DVD数本、それから缶ビールの入ったビニール袋。

(結局小町に頼りきりになってしまったわ。できない部下も使いようってところかしら)

 思いもよらなかった。ここまで休暇について、真剣に考えさせられる羽目になるとは。
 認めたくはないが、小町がいなかったら今頃思考停止に陥っていたに違いない。

(こういうことに関しては、白黒はっきりつけるのが難しいのかな)

 一抹の不安を感じながら、リビングに入る。
 モデルルームのように片付いた部屋の最奥に、小型液晶テレビとDVDデッキ。
 買い物袋は、フローリングの片隅に追いやった。
 機器の電源を入れる。

(小町に紹介してもらった映画を全部見ても、六時間に足らず。なお謹慎期間は六日を余す。
 その後は、どうする? 新しい映画を借りに行く? それとも――)

 デッキの脇に安置していた取扱説明書を手に取り、保護袋から取り出す。
 手を動かしながらなお、映姫は馬鹿馬鹿しいほど冷徹な思考を巡らせ続けていた。
 こういう性分だ。考えることを放棄するのは閻魔を放棄するにも等しい。

(まあ、今から悩んでいても仕方がないわ。まずは小町のアドバイス通りに行動してみよう。
 意外といい気分転換になるかもしれないし)

 映姫は前向きな思考を持つことを試みた。
 デッキに円盤を押し込む。

 §

 結論から言えば、三時間ほどで限界がきた。
 傍には空になった缶ビール。敗残兵じみて侘しく整列する。
 薄暗い部屋の光源は唯一、明滅する液晶テレビの映像のみ。
 その明かりが、シャツをルーズに着崩して体育座りした映姫を照らし出す。
 彼女は据わり切った目で、呪文みたいな譫言を呟いていた。

「人物考証が大雑把過ぎるわ――世の男女がこんな安直な思考に基づいて行動するわけがない。
 こんなものを見て、大衆はいちいち感動するというの――嘆かわしい――」

 ごろり。両腕を広げて、フローリングに寝転がる。

「やっぱ駄目――見るもの全てにうっかり白黒はっきりつけてしまう――
 こんなこと一週間も続けるなんてとても無理――無理ゲー――」

 淀んだ目に映るのは白い天井。すぐに顔を背ける。
 わずかなシミすら黒く見えてしまいそうだった。

「小町のチョイスがいけないのよ――もっとリアリティに拘るものを選ぶべきだったわ――
 あいつの難解極まる小説だったら、もっとこう――」

 押し黙る。
 しばらく、硬直。
 ややあって、両頬の温度がみるみる上昇していく自分自身を感じた。

「だあっ!」

 自分への喝を一発。法廷を彷彿とさせる機敏な所作でリモコンを振り上げ停止ボタンを押す。
 真っ暗になったリビングの中心で、大汗を流しながら肩を上下に。

「なんでまた――あの性悪妖怪のことなんか思い出すのよ」

 視界がきかないので、片付けは早々に諦めた。
 背後のベッドによじ登る。

(こんな生活、あと六日も続けられるわけがないじゃないの。
 でも、小町の提案を棄却したところで他に何かやることなんて――)

 アルコールが脳に回ってもなお、目は冴えていた。
 そのまま思案に耽る。

(部屋に籠る? 心乱す要因となる何物をも見ずに? 聞かずに?
 ただロボットのように、日常の家事を淡々とこなして残りの謹慎期間を消化する?
 冗談! そんな生活続けてたら、確実に心が壊れる! それでは外――外か――)
 今さらながら閻魔王の言葉を思い出す。
 蟄居している必要はない、と。
 なぜなら、彼らも浄玻璃で映姫の行動を常に確認できるからだ。

(そうだ、外に出よう――雑念を捨て、自然物を眺めて癒されよう、そうしよう――)

 目を閉じる。
 悩みが消えれば、切り変わりも早い。
 十分。
 二十分。
 目を、開く。

(外に出て――いったいどこに?)


 §


 小町は眼前に立つ客人の存在理由を見出すのに、数十秒を要する羽目になった。
 その上で一言、その客人に告げる。

「視察は拙いんじゃないすか、今は」
「違います」

 きっぱりと言い放つ。
 そんな映姫の目は、少々血走っていた。明らかに寝ていない。
 そして今の彼女は、見慣れた是非曲直庁の制式閻魔服ではない。
 モノトーンを基調とした、地味なパーカーとインナー。
 彼女をよく知らない者が見たら、とても閻魔とは気づくまい。

「私人として、此岸まで渡してもらいたいのですが。当然、所定の渡し賃は払います」
「有り金全額が相場なんすけどねえ。まあ、縁故割引ってことでサービスしときますよ。
 でもまたどうして普段見回ってる幻想郷に?」
「手近にある自然が残った場所を探したら、心当たりがあそこしかなかったんですよ」

 背後に広がるのは、三途の川。絶えず立ち込める川霧で、対岸は見えない。
 小町は映姫を手招きする。目指す先は、桟橋に舫いだ渡し船。

「まあ映姫様の判断ですから、間違ってるとは思いませんが。
 悔悟の棒も、浄玻璃の鏡もなしで大丈夫なんですか。あすこは妖怪の巣窟ですよ」
「護身程度なら手ぶらでもなんとかなります。危険な場所に出向くつもりもありませんしね」
「まあ、そこまで言うなら止めやしませんがね」

 小町は映姫を船に乗せると沖へ漕ぎ出し――小川を渡るかのような早さで対岸に辿り着いた。

「さすがは映姫様、三途も空気読みますやな――」

 まずは映姫が下船する。
 続いて、小町が桟橋によじ登る。
 そこで映姫は、小町を手で制した。

「着いてこなくて結構ですよ」
「いや、でも、危なくないすか」
「謹慎を言い渡されたのは私だけ。あなたはそうではない」

 映姫は、賽の河原の一角を指し示した。
 そこには桟橋から続き、河原の果てまで延々と続く亡者の列。

「――あー」
「謹慎が明けるまでの間に、渡河待ちの行列がどれだけ減っていることかしらね」

 脂汗を流した。
 映姫の言葉には、言外の意味が宿っている。

「わかりました――何とかしときます」
「何をどうするかは、あなたの裁量次第です。私には、あなたの仕事を指示する権限がない」

 映姫は亡者の列とは逆の方向に歩きだす。
 その背は振り返らない。そして、徐々に小さくなっていく。
 小町には無言で見送る以外、できることがなかった。


 §


 三途へと向かう中有の道は、道の両脇に屋台が出て縁日の様相である。
 死者の魂がここで足を止めて、賑わいへと誘引されていく。
 彼らの脇を通る映姫の歩調は、知らず早まっていた。

(ここはお祭り騒ぎだけれど、早く通り抜けてしまった方が良さそうね)

 屋台を切り盛りしているのは、一度地獄に落ちて懲らしめを受けた罪人たちだ。
 是非曲直庁は、刑期を終えた彼らが転生後の衆生を真っ当に生きられるかどうか試している。
 だが、それは建て前。屋台は庁の財源を確保する手段の一つ。それでも収支は常に火の車だ。
 そしてその性質上、屋台を経営しているのは前世で悪人だった者ばかりである。

「ひいいっ!」

 目の前の屋台から、霊が一人転がり出てくる。
 彼の懐には、三途の渡し賃が入った財布。
 映姫は非常に嫌な予感がした。トラブルだ。

「手前ぇ、払えねえとはどういうことだぁ!? ウチの品物に落ち度があるってえのか!」

 続いて、大柄な霊が屋台の奥から現れた。
 ありふれた構図。映姫は頭痛を覚える。

「だ、だって、甘酒一杯で十銭だなんて、ぼったくりもいいとこじゃないか!
 そんなに払わされたら、渡し賃がなくなってしまうよ!」
「そんなこと知るか! 値札はきちんと出してんだ、見てない奴が悪い」

 屋台主が屋台の値札を親指で指し示す。「一杯10銭」の字。
 わざわざローマ数字を使って横書きにするとは、実に分かりやすい。
 目眩も感じた。

「ふざけんな、マルを一つずっと隠してやがったじゃないか!」
「なんだ難癖つけようってのか、ああ!?」

 ベタベタな手口。断言はできないが、明らかに黒である。
 一度地獄に落ちてしまえば、もう浄玻璃の裁きなどない。
 だから、詐欺商売で金銭を稼ぎ獄吏の覚えをよくしようと考える罪人は少なからずいる。
 対応する獄吏の側もまた、激務に追われて監視が行き届かない。
 不届きにも、賄賂を受け取る獄吏までいる始末だ。
 さておき映姫は、一瞬だけ判断を迷った。
 閻魔としてこの場に居合わせれば、容赦なく屋台主をどつき倒しているだろう。
 しかし、今は謹慎中だ。この場での出来事は、後で庁に報告すれば済む。
 済むのだけれど。

「死んでるくせに往生際の悪い野郎だ。さあ、とっとと出すもの出しやがれ!」
「畜生理不尽な。誰か、誰か助けてくれ!」

 霊の叫びが、虚しく中有の道に響いた。
 他の者たちは、何事もないかのようにその場を通り過ぎていく。
 巻き込まれたくはないだろう。彼らを責めることはできない。
 このままでは、渡し賃を根こそぎ奪われるのも時間の問題だ。
 見捨てるのは、映姫にとって道義に悖る行為だった。

「まあ、待ちなさい」

 霊に掴みかかろうとしていた屋台主の前に、割って入る。

「何があったかはわかりませんが、店主が客に乱暴を働くとは穏やかではありません。
 ここは通りすがった私に免じて、引いてはもらえないものでしょうか」
「なんだ姉ちゃん、じゃああんたが代金を立て替えてくれるってのかよ」

 屋台主は、私服の映姫が閻魔だと全く気がついていない。
 映姫は誓う。こいつは後日念入りに裁き倒す、と。

「幾らになりますか」
「甘酒二杯、二十銭だよ」

 映姫は客に向き直った。

「では、一割の二銭をあなたが払いなさい。残りの十八銭は私が払います」
「あ、ありがとうございます」
「ご遺族の方が託してくれた渡し賃です。これ以上の無駄遣いはいけませんよ」

 頭を下げる客をほとんど無視。
 そして屋台主へ残りの金額を支払い、足早に立ち去る。
 少なくとも映姫にとっては、これが最も妥当な解法だった。

(手元に浄玻璃があればより公平に裁けたけれど――いや、考えるまい)

 様子を観察した限りでは、悪いのは明らかに屋台主である。
 しかし、あくまでも主観だ。
 映姫は、屋台主と客とのやり取りを全て目撃したわけではない。
 また、客の方にも過失があった可能性がある。
 単に、値札を見落としていたのかもしれない。例えそれが、法外な値段だとしても。
 何より、三途の渡し賃をこんな場所で使うとは何事か。

(せめてあの二人が何を考えているのかわかればね。
 この場に居合わせたのが私ではなく、そう、あいつならば――っと!)
「何者だい、あの生者」
「こんな場所に生きたまま来るんなら、余程の物好きだが」

 道行く霊たちの囁きが聞こえた。
 そのせいで、思考を中断せざるを得なくなる。注目を浴びすぎた。
 別に、お忍びで来ているわけではない。閻魔だとばれても問題はない。
 だが、騒ぎになるのは好ましくない。
 より早いピッチで、中有の道を抜ける。やり過ごした、と思った。
 しかし映姫が予測していた以上に、彼女を取り巻く事態は劇的であった。
 そのことを彼女は、上空を巻いた強風によって思い知らされることになる。

「そういやこの辺りは、妖怪の山にも近かったんでしたっけねえ」
「さすが閻魔様は、ご明察でいらっしゃる」

 目の前に降り立ったのは、赤い烏帽子の鴉天狗。
 今最も顔を合わせたくない、幻想郷のマスゴミだ。

「そちら様こそ、よく私だと気がつきましたね」
「中有の道をうろつく生きた者を、山に立ち入らせないように見守る義務が我々にはあります。
 そして、うちの哨戒天狗たちは皆目がいいのですよ」
「そりゃまた、勤労精神に満ち溢れて結構なことです」

 鴉天狗・射命丸文を半ば無視して歩き出す。
 当然のように、彼女は追随してきた。

「私服でいらっしゃった理由を伺っても?」
「答える義理はありませんね」
「だとするなら、私の推測で記事を書くことになりますが」
「どっちにしても記事にはするのね――」

 冷徹な眼差しを、文に向ける。薄ら笑いを浮かべた顔。

「いつぞやの説法を、あなたはまだ理解していないようです」
「当然、理解してますとも。あれ以来、記事作りには強い責任を感じながら取り組んでいます」
「私には、とてもそうは見えないけれどねえ。
 あなたが記事を書くたび、多かれ少なかれ新たな罪が起こり、蓄積します。
 それらはいつか必ずや、あなたの頭上に降りかかってきますよ?」
「当然、覚悟の上です。ここの住人は皆そうやって生を謳歌しています。
 自らの罪を理解している者も、そうでない者も」

 文の言葉に含みを感じた。それを示す何かを、映姫は察知する。
 山道を囲む、多数の気配。道行く者目当ての有象無象に違いない。
 歩いているのが閻魔だと気がつくだけの知性を持ち合わせていないか。
 あるいは、霊たちのようにまだ気がついていないのか。
 幸い、それらの妖気は希薄だ。映姫一人でも、身を守れないことはないだろう。
 ただ、悔悟棒もない身で相手をするには数が多い。骨折りになりそうだ。
 それを察したかのような、文の声。

「安全な麓に辿り着くまで、私が同伴した方がよろしいかと思いますが」
「そのようですね。残念ながら」
「道すがら、今回の趣旨を聞かせていただいてもよろしいです?」

 映姫は深く息を吐き出す。
 文を邪険に扱う道は、早々に諦めることにした。

「あまり面白い話じゃありませんがね――」


 §


「――それで、ブン屋にいつまでも護衛されてるのも面白くない。
 それなら妖怪の近寄らないような場所がいい。ってことで、ここに来たわけね?」
「そういうことです」

 博麗霊夢から受け取った湯呑み茶碗を傾ける。
 熱い緑茶には、少々強い苦味があった。
 面倒臭い相手に対する態度が、実に分かりやすい。
 一瞬、某所で出されるローズティーを思い出し、そして全力で忘却に努めた。

「――別に今日は説教しに来たわけではないので、ご安心を」
「安心って言ってもねえ」

 神社の拝殿に隣接する、母屋の軒先。
 霊夢は映姫の隣。やや引け腰になりながら、茶を啜っている。

「あんた普段から、歩く説教製造マシーンみたいに振る舞ってるじゃないの。
 それが今日に限って『謹慎だから説教しない』だなんて、説得力の欠片もないわ」
「私たちの裁きは憶測を交えてはならないことが大原則です。
 浄玻璃がなければ、正確な罪の情報がなければ正しい判断を下せません」
「閻魔様は、こういう時ですら融通がききませんわ。
 謹慎期間中くらい、白黒はっきりつけることを止めてしまえばよろしいのに」

 映姫と霊夢が、どんよりした眼差しを一斉に母屋の中へ向ける。
 返答者は、霊夢ではない。
 居間でかしこまって茶を飲んでいる、白いドレスの貴婦人然とした女だ。

「――何よりあいつが堂々と私の前に姿を現しているのが、何よりの証拠です」
「――もうなんと言うか、反論不可能なレベルで納得できたわ」
「二人して失礼ねえ。人をこそ泥か何かみたいに」

 八雲紫はしゃあしゃあと言い放つ。
 そして今度は、卓袱台の上の煎餅に手をつけだした。

「現在進行形で人の家に上がり込んだ挙句、お茶まで飲んでる奴が何を言っているのかしら」
「でも、大半はもらい物ですわ」
「それで、わざわざ隙間から出てきた用件は何です。冷やかしですか?」

 警戒過多な映姫の問い。しかし紫は動じない。

「まあ、そうつんけんなさらないで。確かに冷やかしもありますけれども。
 素敵な幻想に逃避しても心休まらない閻魔様に、少しご助言をと思いまして」
「助言?」

 反芻した。浄玻璃鏡なしでは、およそ意図の読めない相手だ。
 紫は涼しい顔で扇を取り出し、一振りする。
 映姫の頭上の空間に、ジッパーみたいな隙間が開く。落ちてきたのは、折った新聞紙。
 見出しを見ずとも、中身は推察できた。

「あの新聞記者ったら、まだ別れてから一刻も経ってないというのに――」

 開いてみれば案の定、文の発行する「文々。新聞」の号外紙であった。
 紙面でまず目に止まるのは、中有の道を歩く映姫の写真。
 その隣には、扇情的な見出し文字が躍っている。
 曰く「閻魔の過剰労働にメス 是非曲直庁の闇を追う」。こんなことを答えた覚えはない。
 呆れを通り越して、乾いた笑いが漏れるばかりだ。そこに紫の声。

「わかっておいでとは思われますが、天狗の記事がいい加減なのは皆先刻承知です。
 本当に重要なのは、あなたが目下謹慎中であるということ。
 そしてその事実が、爆発的速度で幻想郷に知れ渡っているということですわ。ネット並みね」

 網の何が速いってのよ、と霊夢が首を傾げている。
 それを他所に、映姫がもう一つ呆れていたのが天狗の足の速さだった。
 記事書いて構成してガリ版作って印刷して配るまで、どれだけ速いんだという話である。
 しかし、まだ冷静さを失う時間ではない。

「所詮は、一時的な謹慎です。一週間後には閻魔に戻る相手を邪険に扱う者など」
「果たして、本当にそうと言い切れまして?」

 引きつった顔で、紫を見る。

「ご存知でしょうに。この界隈は、悪びれない連中ばかり。
 自らが背負った罪を認識し、その上で楽しく生きているのですわ。
 あなた様はそんな奴らを常日頃からド正論と因果応報弾幕でねじ伏せています。
 それが今に限って説教もしない弾幕もろくに撃てないと知ったら、果たしてどうなるかしら。
 しかも、彼女たちに与えられた期間は一週間しかないのです」
「そんな大人気ない連中が、そう何人もいるとは――」

 空気が、ずしり、と音を立てそうなほど重くなったのはまさにその瞬間だった。
 映姫が真顔になって、霊夢と顔を見合わせる。
 ――ところで、現在映姫がいる場所は博麗神社。
 幻想郷最強にして最悪の異変請負人、博麗の巫女が暮らす神社である。
 強固な結界に守られ、また霊夢自身も有数の妖怪退治屋だ。
 そんな神社を訪れる妖怪には、概して二種類ほど存在する。
 第一は、神社の重要性堅牢性を知らない大うつけか新参者。
 第二は、博麗の巫女に匹敵する実力を持つ歴戦の古強者。
 そしてたった今境内に現れた気配はというと。
 間違いなく、酷く大人気のない後者であった。

「え・い・き・ちゃーん、あーそーびーまーしょー」

 滅茶苦茶に弾んだ声が、表から聞こえてくる。
 その瞬間、映姫の対応はすでに決定していた。
 無言で湯呑みを置き、縁側から立ち上がって霊夢を見る。

「裏手よりお暇します。お邪魔しました」
「うん。それが一番賢明な選択だと思うわ」

 足早に立ち去る映姫。
 入れ替わるように、白い日傘をさした女が縁側に顔を出した。
 鼠を追い詰める猫のような、ゆっくりとした足取りで。

「あら。映姫ちゃんはどこに行ったのかしら?」
「逃げましたわ。極めて合理的な判断で」

 風見幽香は紫の言葉を聞くと、日傘を閉じながら唇を尖らせた。

「なんだつまらない。閻魔をいじめ倒せるなんて、千年に一度あるかどうかもわからないのに」
 幽香がにこやかな顔のまま、殺人的な速度で日傘を振り回す。
 彼女の姿を、霊夢が細い目で眺めた。

「あんたってば、実にわかりやすいわ」
「単純明快も極めると美しく咲くものよ。それで、ただの映姫ちゃんはどこに逃げたのかしら」
「そうねえ」

 映姫が去った裏手を、霊夢が見る。

「あんたみたいな妖怪がこぞって仕返しに来ると知ったら、逃げる先は一つでしょうね」


 §


「それで、結局地上の連中が恐れて降りて来んここまでやって来たと。まあ、飲め」

 大鍋のごとき杯に並々と注がれる透明な液体。それはまさに味の暴力、粋の大洪水。
 映姫は泥濘と化した目で、その大海を見下ろした。
 なお周囲には、我を忘れて浮かれ騒ぐ角つきの巨漢が大量にいる。
 逃げ場はない。

「鬼の酒は強すぎるから勘弁してもらいたいんですがね」
「十分勘弁してるさ。日頃の働きに免じて、我らが宴に付き合えば赦免してやろうってな」

 星熊勇儀は、震える手で杯を支える映姫を眺める。自らもまた、手にした杯を煽った。
 旧地獄、地底妖怪の都の中。無数にある酒屋の一つに、映姫はいた。

「どこへ行っても絡んでくる連中ばかり。幻想郷には尊敬の心がないのかしら」
「我らが敬うのは喧嘩の強い者だけだな。今のあんたと殴り合っても面白くない。
 ここまで降りてくるのも、一苦労だったんじゃないのかい?」
「そりゃもう土蜘蛛やら橋姫やらウザ絡みされましたわ。
 はあ、成り行きでこんなとこまで来ちゃったけれど、どうやって帰ればいいかしら」

 どうにか受け持ちを減らすべく杯を啜る。
 とても辛い。

「現地獄に通じるいつもの通用門を使えば済む話じゃあないのかい」
「使用権限があるのは是非曲直庁の職員だけです。そして私は謹慎中」
「なら、あれだ。地霊殿にでも泊めてもらえばよかろう」

 むせた。
 すんでのところで杯をひっくり返すのは阻止。畳に置いたあと一頻り咳き込んだ。
 勇儀が崩し胡座を組み替えながら、けたけた笑う。

「おいおい、そんなにびっくりすることでもあるまいよ」
「な、何が楽しくてあの性悪妖怪のところなんかに」

 一角の鬼は、映姫を見たまま目を丸くする。

「そんなに嫌かね? あんたはよくあそこに通ってるじゃないか。
 我らはあんな辛気臭い場所、とても近づく気にはならんというのに」
「それはあそこの家主が札付きの罪人で、しかも怨霊の管理を時折怠るからです!
 業務上の必要でもなければ、誰がサトリ妖怪のところになんか」
「そうかい? 界隈では評判だよ。閻魔の説教は長いが、地霊殿に出向く時間は中でも格段だ。
 閻魔が地霊殿に向かったことを知れば、どいつでも胸を撫で下ろすもんさ」
「それは――罪の重さに応じて説教も長くなるってだけで――」

 顔を歪め、口ごもった。
 あくまでも地霊殿を訪れるのは、閻魔としての責務の範疇。そのはずなのだ。
 なのにあのサトリ妖怪ときたら、最近ではすっかり開き直っている。
 悪業を改めるつもりすらなく、説教を受け流すことに終始する有様だ。
 あんな人の話を聞かない、というか聞く必要のない。
 ともすればこちらの考えを一方的に朗読し、喋らせるつもりすらない。
 おまけに、趣味の小説はやたらと描写に粗が多い。
 ――でも、振舞うローズティーは庁舎食堂のコーヒーに比べたら別格の清々しさで。
 手製のクッキーは訪問日に合わせて準備しており、焼き立てで。
 ペットたちに対してだけは慈母のような微笑みを向ける、あいつのことなど。

「まあ、お前さんがあの館で何をしようが我らの知ったことではないが。
 もし旧都に滞在するのなら、その間は私の酌に付き合ってもらうことになるよ」

 映姫は正直卒倒しそうになった。


 §


 そして。
(結局来てしまった――)
 目の前にそびえる石造りの洋館を眺め、しばし立ち尽くす。
 平屋建築に切妻の屋根を思わせる造り、静謐とした佇まいは、どことなく神社を思わせる。
 旧都の真ん中に建つにも関わらず、地霊殿の周囲は人っ子一人通る気配がない。
 住人たちも、サトリ妖怪であるこの館の主人には誰も近づきたがらないのだ。
 鬼の酒を大量にかっ食らわされて、酩酊に近い状態。
 それでもなお、映姫はこの場所までやってきてしまった理由の分析を試みる。

(ここなら旧都の喧騒から無縁でいられるから、立ち寄っただけ。
 頭を冷やしたらとっとと離れて――でも是非曲直庁の通用門は使えない――どうする――)

 勇儀の何気ない提案が頭をちらつく。
 が、映姫は首を振り回し、アルコールにより停滞した脳の血流もろともそれを振り払った。
 主はあの古明地さとりである。
 心の弱さを突くのを大の得意とする妖怪である。
 そんな妖怪に会ったら、今日の出来事を容易く読み取ってしまうだろう。
 謹慎を食らった上に安易に幻想郷へ踏み込んだこと。
 天狗に根掘り葉掘り事情を聞かれたこと。
 それがあっという間に広まり、仕返しに訪れた凶悪妖怪から逃げ回ったこと。
 鬼の付き合い酒まで飲まされたこと。
 それらの恥ずかしい記憶を、後日にわたりネチネチ突いてくるに違いないのだ。

(やはり、こんな場所にいては駄目だ。ペナルティを受けるのは覚悟の上で通用門を――)
「あれ、閻魔様じゃないっすか? もしかして」

 若干芝居がかった感じのする声。タイミングが絶妙だった。
 声の主には、映姫にも心当たりがある。
 軋みを立てそうな重苦しさをもて振り向いた。
 そこには案の定、猫車を両手で支えた火焔猫燐が立っている。
 地霊殿で飼われる妖怪ペットの一人。そして、死体を持ち去る火車でもある。

「どうも。仕事帰りですか? また性懲りもなく――」
「おっと、勘違いしてもらっちゃ困りますよ?
 三途を渡り損ねた大馬鹿者だけを、きちんといただいておりますんでね。
 疑うんなら、ご自分で検分してみりゃよろしい」

 と、猫耳を生やした半獣人が幌を被せた猫車を誇って見せる。
 中身は言わずもがな「仕事」の成果物だ。
 不用心な葬儀前の遺体を掠め取ってきたか。あるいは、彼女の言う通り――
 幌の隙間から覗く屍肉を見て、嫌な予感がしたのはその時だ。

「まさか――」

 軽く仏を一拝。その後、幌を退けて死に顔を見る。
 そして、天井を仰いだ。
 猫車に乗せられていたのは、紛れもなく先ほど中有の道で助けた霊の遺体だった。
 全くの推測だが。彼は元々多くの渡し賃を持てるほど、人徳がなかったのだ。
 金銭の無駄遣いを重ね、露天商の詐欺にまでひっかかるろくでなし。と、そんなところか。

「閻魔自ら慈悲を施してやった奴が焦熱地獄の燃料に変わるのは、どんな気分です?」

 背後から聞こえる燐の、粘っこい声。それだけで全てを理解する。

(この性悪猫め。飼い主が飼い主ならペットもペットだわ)

 映姫は、遺体に幌をかぶせ直した。

「――最低ですわ。仕事から離れると、ろくなことがない」
「閻魔様の落ち度をさとり様が知ったら、どう思われるか見ものですね?
 あたいの言う言わないに関わらず、あの方は全部読み取っちまいますんで」

 この燐の言葉が、妙に癇に障った。
 尋常ならざる酒に酔って、感情が短絡的になっている。映姫の冷徹な部分が、そう判断した。

「冷やかしにしても、言葉は選びなさい。それとも、私が脅迫に屈するとでも?」
「いやいやそんな大それたこと。ただ、あたいとしちゃさとり様の享楽が至上の喜びでして」

 妖怪の倫理観と、真面目に口喧嘩する方が間違っている。映姫は早々に結論づけた。
 踵を返す。

「下らない」
「あれ、寄ってかないんです? そのためにここまで来たんじゃ」
「あいにく、今の私は閻魔ではありません。家主と会話する理由は皆無ですよ。
 たまたま館の前に立ち寄っただけです。お邪魔しました」

 歩調を早める。早めようとした。酒が全身に行き渡り、足取りはかなりおぼつかない。
 通用門にたどり着くまでどれほど時間がかかり、妖怪に因縁をつけられるかは不明だ。
 しかしこの胸糞悪い場所にとどまるよりか、それらのトラブルの方がましだと思えてきた。
 背後で何か、重たいものが落ちるような音がする。
 次の瞬間。

「なっ」

 膝の裏に、硬いものが高速で叩きつけられる。
 映姫はあっという間に、なけなしの平衡感覚を奪われた。
 なす術もなく、後頭部から地面に叩きつけられる――と思われた瞬間。
 彼女の景色は突如として、後方へとスライドを開始する。

「ちょっ、えっ、ええ?」
「あー口開かん方がよろしい。舌噛みますよー?」

 燐の声。
 同時に映姫を乗せた猫車が、鋭いコーナリングを見せる。
 視界が横にずれることであるものが視界に入ってきた。
 映姫が目を剥く。
 中途半端なでんぐり返りのポーズをとって固まる、人間の身体が一つ。
 首が九十度ほど横にひん曲がったままである。

「あ、あ、あなた御仏となった者に何てことを!」
「心配せんでも、あれは手下どもが運んどきますよ。
 それに焦熱地獄の炎で焼かれりゃあ、どんな仏も立派な怨霊になりますよって」
「そういう問題じゃありません。ていうか降ろしなさい!」
「あーあー、聞こえなーい聞こえなーい」

 猫車が地霊殿の門を通過する。
 一方、映姫の胴体は荷台にすっぽり嵌り込んでいた。
 両手両足が遊んでしまい、猫車から抜け出せない。

「ちょっと、どこへ連れてくつもりですか!?」
「んー、珍しい恰好のお姉さんを見つけたんで、さとり様に見せびらかそうかと」

 左右から青白い化粧を施したゾンビフェアリーたちが、映姫たちに先行。
 彼女らはエントランスに続く館正面の大扉に取りつき、押し開ける。

「私は会う気はないと言ってるんです。何考えてんですか、いったい」
「強いて挙げれば、閻魔様の態度が気に食わなかったってところですかねえ。
 つれないお人を見ると、あたいはついついちょっかいを出したくなっちまうんですわ」
「そ、そんな身勝手な――!」

 開かれた扉を通過。
 エントランスは、地霊殿で飼われるペットたちの遊び場だ。
 猫たちが猫車の突撃に驚いて、左右に散っていく。

(このままでは拙い。なんとか逃げ出さないと本当に――)

 姿勢を変えて、手がかりを作る。揺れる荷台の中で、徐々に重心を移動。
 そして、荷台から映姫の背中が離れたその瞬間。

「騒がしいわ。何をしているの?」「あ、さとり様」「うわあああああ!」

 ほとんど同時に、いろいろなことが起こった。
 エントランスの奥に、さとりの姿が見える。
 燐が猫車に急ブレーキをかける。
 そして映姫は、不安定な姿勢から慣性に逆らうことができなかった。

「あああああああああああ」

 悲鳴を上げながら、三連続前方展開を決める。
 そこで、映姫の体はようやく静止した。

「――もう、散々だわ。なんなのかしら」

 首を振って頭を上げる、と。
 目の前に三つ目の妖怪がいた。
 尻餅の姿勢でさとりを見上げて固まる映姫。
 無表情のままそれを見下ろすさとり。
 絵画のような沈黙が、数秒続いた。
 そして。

「ぷ」
「笑った! 笑いやがった!
 この恰好およびここまで来るに至る道程を全て見て読んだ上で、
 この女その感想をたった一文字に取りまとめやがった!」
「まあまあ」

 身を乗り出して怒り狂う映姫をなだめる。
 次いでさとりは広間を眺め、手を叩いた。

「誰かありますか、お客様ですよ。客間を一つ整えてくださいな。
 浴衣を何種か、色味を違えたものを準備しておいて。それからお燐」
「はいな」

 燐が空になった猫車を引いてやって来る。
 それを、さとりが一瞥して。

「猫車を引いて館内を走っては駄目でしょう? お客様を粗末に扱うし。
 罰として、三日分のお給料を二割カットします。よいですね?」
「ちぇー」
「早く外に放置した燃料を回収しておいでなさい」

 膨れっ面を作ってUターンする燐。
 彼女を尻目に、映姫はさとりを睨んだ。

「私は別に宿泊を望んでいません。何を勝手に決めてくれてんですかね」
「でも、他に行き場がなかったのは事実では?」

 口ごもる映姫。
 さとりは彼女に笑いかけた。

「四の五の言わず、好意には縋っておいでなさい。
 お燐もあなたに意地悪をしたくてやったわけではないのですから、汲んであげてくださいな」
「――はあ」
「少々疲れておいででしょう? まずはお風呂に入って、汗をお流しあそばせ。
 服は洗濯しておきます。好きな色の浴衣にお着替えくださいね。
 誰か、お客様を案内して頂戴」

 スリッパをぱたぱた鳴らして、さとりがその場を辞する。
 映姫は彼女の背中を目で追いかけた。肩を若干怒らせた後ろ姿は、かなり浮かれて見える。
 そんなさとりの様子に、映姫は果てしない違和感を覚えるのだった。
(――え?)

 §

 皿を覆ったドームカバーが取り外される。
 溶けたバターの香りが、映姫の目の前いっぱいに広がった。
 奔走に疲れ果てた彼女の食欲が刺激される。
 なお今の彼女は、さとりから貸し与えられた白黒矢紋柄の浴衣を着けていた。

「地底野菜のリゾットでございます。
 臓腑が、鬼の酒でかなりまいっておいでのようで。
 多少は消化に良いものをと思い、余分に煮立てて芯を抜いてあります」
「――どうも」

 皿の上に盛られた白と緑と赤の彩りを観察する。
 水気の多い状態で出された、米の小山脈。充分に旨味を抽出した野菜スープで煮たと見える。
 味覚を経ずとも「白」と判断せざるを得ない。
 というか、地霊殿で出される飲み物、食事が外れだった試しがない。

「別に毒など入っておりませんよ?」
「ええ、そうでしょうね、そうでしょうよ、多分」
「それから、私どもは夕食を済ませてしまいました。だから邪魔など入る心配はありませんよ。
 何より館で一番のいたずら者は、ことに閻魔様へ近寄りたがらないものですから」
「妹君は相変わらずですね――」
「まあまあ、愚痴なら考えるだけでも結構ですわ。冷めないうちにお食べくださいな」
 観念して、フォークを手に取ることにした。米粒を入念に掬い取り、口に含む。
 舌の上でそれらがとろけて、ブイヨンとオリーブオイルの風味が口いっぱいに広がった。
 やはり。

「口に合いましたようで、何よりですわ。お続けください」

 サトリ妖怪のコミュニケーションは特殊だ。言葉がなくとも会話が成り立つ。
 そのためか、相手が喋れない状況を作ることを特に好む。
 食事中などまさにうってつけの場である。

(さて、私はどう料理されてしまうのですかね)

 リゾットを口に運びながら、さとりの次の言葉を警戒した。
 先ほどの「ぷ」の時点で、映姫の地霊殿に至るまでの経緯は理解されているだろう。

「それで、本日は泊まっていくとして。謹慎期間中はいかがなさいますか?
 地上に戻るのも、面倒でしょう。謹慎が明けるまで、こちらに滞在なさっては?」
(それではそちらに迷惑がかかります。今はさしたる持ち合わせもありませんし)
「よいのですよ。こんな時くらいしかトイレタリーを消費する機会がないのですから。
 小説の批評代、ということでご破算にしておきましょう」
(そんなの、割に合いません)
「では、臨時のアルバイトなどやってみませんか? ペットたちの世話を手伝うとか」
(ペットの世話。動物園が開けるレベルのここのペットをですか)
「そう。何人飼育係がいても足りないくらい。
 アニマルセラピーはいいものですよ? 彼らは本能に忠実に生きていますから。
 不純な裏表が一切ありません――白黒つける必要もないくらいに」
(はっ――?)

 無意識にペースアップしていたフォークの動きが、止まる。

「あら、今日の私の何がおかしいと仰るのかしら?」
「だ、だってそうじゃないですか。こんな時真っ先に弱ってるのを突いてきそうなあなたが。
 私には及びもつかなかった提案をしてくるなんて。キャラに合いませんよ」
「あらあら。そこそこ付き合いは長いと思ってましたが、意外と人を見る目がありませんわ。
 浄玻璃がないとここまでヘタレるなんて」
「悪うございましたね!」

 サトリ妖怪はテーブルに両肘を突いて、溜め息を吐く。

「簡単な理屈ですわ。その必要がないからです。
 いつも仰っているじゃないですか。因果応報です」
「どんな因果が私に巡ると?」
「そりゃ普段の説教がですよ。誰しも苛烈な責め苦には反攻したくなるものです。
 今のあなたには、それがない。楯突く必要も感じない」

 リゾット皿の上で、フォークがカタンと音を立てた。思わずそれを見下ろす。
 慌ただしくフォークを持ち上げる映姫の耳に、さとりのさらなる声が届いた。

「私の説教に誤りなどない、ですか。そうです、浄玻璃を持ったあなたの裁判は確かに正しい。
 問題は――正しいだけだってことです」

 絶句したまま、さとりを見る。
 今の彼女には、表情がなかった。

「あなたの裁きを受ける者は、あなたの慈悲を知らない。
 罪人を地獄に落とさねばならない、あなたの苦悩を知らない。
 そして――正しいだけでは人の心は動かせない。
 幻想郷の懲りない面々が相変わらずなのは、せめてものあなたに対する反攻なのです」

 映姫は、反論を迷った。

(正論だけでは人は動かない。それは確かに正しいけれど)
(同時に、迷わねばならない)
(何をもって善行となすかは、誰かによって押し付けられるものであってはならない)
(そして私も、今も悩み続け――)
「食事が冷めてしまいわすわ、映姫さん」

 我に返った。再び正面を見る。
 映姫を眺めるさとりの顔は、微かに笑っていた。

「そういうの、せめて謹慎中はなしにしませんこと。
 やはりあなたには、セラピストが必要に思えますわ。
 その悩み、断ち切って差し上げましょう」
「断ち切る?」
「ええ、悩む暇もない程度の多忙によって。
 今夜は可能な限り、疲れをとっておくことをお勧めします。
 宿代に匹敵する働きを期待しておりますよ?」
「――はあ」

 生返事を返す以外にない。
 対するさとりは椅子から立ち上がりかけたところで、一言。

「だからそういうキャラじゃねーだろアンタ、とか考えないように!」


 §


「いいんすか、あれ。あの程度で許しちゃって」

 食堂を辞したさとりに燐が声をかける。

「今まいってるうちに叩きのめしといた方がよくないか、ですって?
 物騒ですこと。そんな刹那的な発想は、地上の連中にでも任せておけばよいのです」
「でも毎度のようにやりこめられて、悔しい思いをなすっているんじゃないですか?」

 さとりは大げさに肩をすくめる。

「形骸化してはいますが、それでも私が是非曲直庁の嘱託であることには変わりがないのです。
 本気でやっつけてしまったら、私もペットもどんなお咎めを受けることになるやら。
 それに、説教の見返りなら十分にいただいているのですよ」
「へえ、それはどんな?」
 人差し指を静かに立てて、唇に当てた。
「内緒です」
「えー? それは狡い、教えてくれたっていいじゃないですか。
 あたいらはさとり様と違って、心を読むことなんかできないんですから」
「お生憎様、サトリ妖怪とはそういうとても狡い生き物なのですよ。
 長年ペットをやってきて、気がつかなかったのかしら?」

 むくれる燐を捨て置いて、さとりは内心ほくそ笑む。

(そう。こんな素敵な玩具、誰かに教えられるものですか)
(四季映姫。どんな幻想よりも自らの役割に忠実で、それゆえに誰よりも苦悩する存在)
(死者を裁き、地獄に落とし――その重圧に誰よりも苦しんでいるのは他ならぬあの方自身)
(その深い深ぁい悩みを手中にできるのは――私一人の特権です)

 背後、食堂の方角を見る。第三の眼を通して、映姫の心の声が伝わってきた。
 彼女の心は、未だモノローグの渦中だ。

(だから、どうか――存分にお頼りくださいね?)


 §


 大扉を断続的に叩く音。
 寝ぼけ眼をこすりながら、燐が歩み寄る。
「はーいどちら様。鍵なら開いてますよ――あ」

 大鎌を肩に担いだ長身の女が、仏頂面で右手を上げる。

「よー泥棒猫。またお前賽の河原をうろついてたろう?」
「客の選別が楽でよろしかろうよ、サボリ魔死神。
 安心しな、あたいが持ってったのは極悪人ばっかりさ。こう見えてグルメだ」

 小町は燐の軽口を、鼻で笑い飛ばした。

「ものには順序とタイミングってもんがあんのさ。無粋な地底暮らしにゃわからんだろうが。
 それで、うちの上司殿はまだご逗留かい? 帰るにも難儀だろうって迎えによこされたが」
「さすがは閻魔様の根城だねえ。いるにはいるが、ありゃ出てこられるかどうか」

 小町が眉を寄せる。
 すると、エントランスの奥から喧騒が近づいてきた。

「あーはいはいはいはい、もう面倒は見られないんです察してくださいって! そう、あなた方は少し誰彼構わずなつき過ぎる」

 映姫の声の後に続くのは、様々な鳥獣の鳴き声や足音羽音の数々。
 当人は別れた時と同じパーカー姿で、ペットたちに追われながら入り口までやってきた。

「――いつの間にブリーダーになられたんですか、映姫様」
「あら小町。また性懲りもなく、こんなところまで遊びに来ているのかしら?」
「仕事ですって。十王さん方が謹慎を解くそうで、いろいろ預かってきました。
 仕事が山積みなんで、すぐ登庁してもらいたいそうですよ」

 小町が風呂敷包みを差し出す。
 中身は十王から預かった悔悟棒と浄玻璃鏡、そして制服。
 映姫はわかりきったように、それを受け取った。

「ご苦労様――私一人がいなくなるだけで山積みになる仕事って、どうなのかしらね」

 包みを紐解いて、中身を取り出す。
 まずは、悔悟棒を右手に。
 そして、浄玻璃鏡を左手に。
 それだけで、映姫の周囲だけ空気が重くなったように感じられた。
 つきまとっていたペットたちが、恐れおののいたように距離を取る。

「うん。やはりこれらを手元に置いていないと落ち着かないわ」
「あら、もうお帰りですか」

 逃げ去るペットたちと入れ替わるように現れたのは、さとりである。

「いろいろとお世話になりました。宿賃はおいおい」
「いいですってば」
「なあなあで済ますのは、私のポリシーに反します」

 手に制服を抱え、さとりに背を向ける。

「この性分は、やはり改められません。改めるとしたら恐らく閻魔の座を辞した後でしょう」
「そうですか」
「ですが――悩み疲れた時にこちらの門を叩くというのも、悪くはない選択かと思います」
「そうですね」
「では失礼を――ほら小町。あなたももたもたしてちゃ駄目じゃない」

 映姫が軽く手を挙げ、歩き出す。
 小町は彼女を急いで追いかけた。

「パシらされてるついでに、更生管理局まで言伝を頼みたいのですがね」
「あたいの本職を思い出してもらいたいんですが?」
「その本職を正しく全うしてから言いなさいね。
 私の謹慎中に、ちゃあんと渡航待ちの死者は彼岸に運び終えたのでしょうね?」
「そりゃあ、もう。多分、もう」
「まあそれは後でみっちりチェックするとして。
 言伝の内容ですが、中有の道で働いてる連中のことです。ぼったくりの容疑者がいるわ」
「あいつらも懲りませんねえ。あたいが通りがかる時はまともな商売してんのに」
「それはあなたが度々店の前を通るから、連中が見慣れているせいでしょうが。
 結局それらについても、あなたのサボタージュが遠因してるんですよ!」
「――えらいすんません」

 映姫に頭を下げるのに躍起になる。
 そのうちに、小町は一つのことを聞きそびれてしまった。
 そのまま忘却の彼方へと、疑問が追いやられていく。
 地霊の館で、映姫はサトリ妖怪とどんなやり取りをしたのか――。

 §

 同時刻の会議室。
 十王たちは浄玻璃鏡を通し、小町と同じ光景を眺めていた。

「――幻想のは、これでちぃとは気分転換ができたと思うか?」
「感想を拒否する。おぬしの秘蔵っ子だろうが、自分で判断せい」

 閻魔王の問いに対し、転輪王の返しは辛辣だった。
 しかめ面の鬼神が決まり悪く頭を掻く。

「まあ、おいおい彼奴が悩みから解放されるきっかけにはなりましょう。
 それがサトリ妖怪の手によってもたらされるとは、少々意外でありましたが」

 秦広王のフォロー。閻魔王は軽く頷いた。
 初七日の死者を漏れなく裁くという激務をこなしていたのが、彼である。
 それは時に「ヒヨコの選り分け作業を二十四時間ぶっ通しでやるよりキツイ」と形容される。
 秦広王が心身ともに追い詰められたことが、是非曲直庁の創設に至るきっかけだ。

「彼奴は、自身を追い詰めすぎるきらいがある。
 自らの役務に悩み果てるのは悪くはないが、たまにはガス抜きせんと精神をやるからな」

 閻魔王の前に、白い耐熱スーツを着た職員たちが現れる。
 彼らが四人がかりで慎重に運んできたものは、湯呑みが一つ。
 あるいは、赤熱したドラム缶のような何か。
 閻魔王はそれを臆せず手に取った。熱がる素振りすらない。
 彼はそのまま、中身の真っ赤に泡立つ流動物を口に流し込んだ。

「ふんぬぬぬぬぬぬ」

 彼は空いた方の片手を血管が浮くほど握りしめる。鼻から炎の吐息を吹き出すこと頻り。
 湯呑みを傍らに置き、額に浮いた汗を拭い取った。

「やはり効くのう、溶解鉛のエスプレッソは。全身焼け爛れるかのごとき苦味じゃわい」
「わしらの責苦も、昔に比べたらだいぶエレガントになったよね」
「十王とて、死者を地獄に落とすのには引け目がある。
 せっかく、責苦を分散することを思いついたのだ。
 若い閻魔たちには潰されずに頑張ってもらわねばなあ」

 身の毛もよだつ風貌の男たちは、呵呵と笑い合った。

(閻魔禁止 了)
【在りし日・秦広王の裁判風景】

「有罪」
「無罪」
「無罪」
「有罪」
「無罪」

「――――――――――審議」
「誰とだ」
FALSE
http://false76.seesaa.net
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コメント



0.860簡易評価
1.70名前が無い程度の能力削除
面白いのは面白いんですが…
肝心の地霊殿でのえーき様あれやこれやの謹慎生活がほとんど無いじゃないすか!やだー!
6.100名前が無い程度の能力削除
 原作設定がほど好く採り入れられていて、楽しめました。
 映姫様には無自覚という言葉が似合うと、この話を読んで思いました。
7.80名前が無い程度の能力削除
アイデアは俊逸だが我らが愛すべき裁判長の内面描写がやや足りない
あと30分アニメの如く場面転換が多すぎて話が地についてない
9.無評価FALSE削除
作者でございます
若干思う所あり多少文章に手を入れました。
ご評価いただき恐縮です。前の方が良かったという方もいらっしゃるかもしれませんので、前のバージョンはテキストデータとして当方のブログにアップロードしております:
false76.up.seesaa.net/image/enma_kinshi_v1.txt
ご指摘いただけました点につきましては後々の作品で修正していければと思います。
11.80絶望を司る程度の能力削除
面白かったです。十王がさらっと砕けていて笑いましたw
14.80とーなす削除
面白かった。
さとりもお燐も、さすが嫌われ者妖怪なだけあっていいキャラしてる。
ただ、他の部分に気合が入っていた分、描かれなかったペットシッター映姫の奮闘記がないのは物足りないというか、成長譚としては片手落ち感が否めないかな、という気はします。
15.80大根屋削除
他の感想の方とほぼ同意見です。やはり映姫様の休日の内容は欲しかったなー
面白いと思える作品なだけに、尚更そこが残念!
17.90名前が無い程度の能力削除
悩んで悔やみながらも正しいことが出来るってかっこいいなぁ
しかし映姫様、年上の人妻に手玉にされるエリート公務員みたいだな
18.80ばかのひ削除
とても面白い長編の冒頭を読んだ気分です
もっといちゃいちゃ(?)する二人が見たいなと感じました
24.100名前が無い程度の能力削除
お燐の動きがとてもらしくて敢闘賞だわ
正しい故反撥される映姫様と、少し意地悪だけど優しいさとり様が素敵でした