「ねぇ、てゐ。私にはキスしてくれないの?」
思えばこの鈴仙の一言が始まりだった。
三十分ほど前。
永遠亭の一室にて輝夜を中心に永琳、鈴仙、てゐの四人がおしゃべりをしていた。
話題は体のどこにキスをするかで意味が変わってくるという話だった。輝夜が三人に教えるような形で、永琳と鈴仙が真剣に耳を傾ける。どうやら月の頭脳もそっち方面の話には疎いようで。そしててゐは自分は興味ないという風をしているが、それでいてちらちらと耳を動かすあたりはやっぱり興味を持っているのだろう。
「へぇー、頬とか手の甲とかで意味が変わってくるのですねー」
輝夜の話を聞いた鈴仙は一人うんうんと頷くのをてゐは横目で見ていた。
そして三十分後。
てゐが庭を歩いていると鈴仙が呼び止めたのだった。
「てゐってさ。他のイナバたちにはキスするじゃない?」
「え?」
「ほら、ほっぺにキスしてあげたりとかさ」
「ああ、挨拶みたいなものだけど? それがどうかしたの?」
怪訝な顔で聞き返すと鈴仙は表情を変えずさらりと言ったのだ。私にはキスしてくれないの? と。
「……は?」
目を丸くするてゐだが鈴仙はどこか拗ねている子供のような顔をしている。
「だって今まで私にはキスしてくれないじゃない。私ばっかり」
ああ、コイツは……。
てゐの顔が赤くなる。それを悟られまいと顔を横にプイッと向けた。
「……だって鈴仙、私の部下でもないし、それに――」
「じゃあ私がてゐにキスしてあげようか!」
もう頭が痛くなるのを覚える。ちらりと鈴仙を見ると彼女は胸を張ってふふんと笑っていた。
このお子ちゃま……バカ。
諦めのため息が出た。
「はいはい。お好きにどうぞ」
黙って鈴仙にされるがままにしようとその場で気を付けをする。鈴仙が顔を寄せてきた。
別に鈴仙にキスをされるのは嫌ではないが……いやそれよりも。
鈴仙の吐息が感じられる距離にまでになって。
そして口づけられた。
「ちょっ!?」
「え? 何!?」
てゐが片耳を押さえて勢いよく振り向いた。鈴仙が目を丸くして驚く。
鈴仙がキスした場所はてゐの耳――耳へのキスは「誘惑」を現す。
わ、わかっててやっているのか?
心臓がドキドキと鼓動を速めていた。顔はすでに真っ赤になっていた。
「あ、ゴメン。嫌だった? 本当にゴメン……」
しかしてゐが怒っていると勘違いした鈴仙はしょんぼりとうな垂れる。その顔を見ててゐは「あー! もう!」と声にしそうになるのを抑えるのがやっとだった。
さっき姫様に教えてもらったんじゃないの? ……あー、可愛いなぁ鈴仙は!
「……別に怒ってないから」
小さく呟くようにてゐが弁明をする。鈴仙には聞こえなかったようだ、「え?」と上目づかいにてゐの顔を見つめる。それがまたいけなかった。
ドキリと心臓が高鳴って、もうこれ以上いられないとてゐは自分の部屋へと走り出して、庭に鈴仙が一人残された。
「どうかしたの? 二人とも」
夕刻。
永遠亭に美味しそうな匂いが漂っていた。
ご飯は必ず四人そろって食べること。これを決めたのは輝夜であった。皆がいてこその永遠亭、皆は家族だからという想いからで、今まで一人でも欠けた食事は一度もなかった。
ところがいつもなら楽しく会話が飛び交う食事の時間なのに、二人のイナバの元気がない。鈴仙は困ったような顔をしてちらちらとてゐの方を見て、てゐはご飯に食べることに集中してそんな鈴仙に視線を移そうとしない。食卓が普段よりも静かなものに輝夜も永琳も気が付いた。
「喧嘩でもしたの?」
輝夜と永琳が首を傾げて二人に訊ねる。
「え? いや、その……」
鈴仙が戸惑って伏し目がちになる。やっとてゐがちらりと鈴仙の横顔を見た。
「いやぁ。別に鈴仙と喧嘩なんてしてないよ?」
「そう。なんだか二人の間で距離を感じるのだけど」
「お師匠様の気のせいだよ。はい、ごちそうさま」
なおも疑問を抱く永琳の話を遮るようにてゐは箸を茶碗の上に置くと、そそくさと部屋を出て行ってしまう。てゐのお皿にはおかずがかなり残っていた。
鈴仙がため息を吐く。
「……すみません師匠。私がどうやらてゐを怒らせてしまったみたいで」
「そうなの。早く仲直りができるといいわね」
「はい」
しょぼーんとして、ヘタレ耳がさらにヘタレる鈴仙。
「……ん?」
そんな鈴仙を見て、先ほどのてゐの顔を思い起こして、輝夜はいたずらっ子のように笑みを浮かべた。
月が夜空の上で輝いていた。
すでに輝夜も永琳も寝室へと入って永遠亭の一日が終わろうとしていた。
てゐも自室に入って寝床に入っていたが中々寝付けない。
そっと手を伸ばして自分の耳に触れてみる。
鈴仙がキスした場所。
子どもっぽい顔をした鈴仙。
上目づかいになって涙目の鈴仙。
昼間の事を思い出しててゐの顔が赤くなる。すぐに手を布団の中へ引っ込めた。
「……バカ、どうしてくれるんだよ」
胸の中がうずく。何か溜まっていたものが絞り出されようとしているみたいだ。もちろん、その何かを知っていたわけだが、まさか鈴仙によって開けられるとは思わなかった。
まだ傍にいるだけでいい。まだいたずらして、怒らして、そうして一緒に遊んで笑い合う仲でよかったのだが。
「明日からどんな顔をすればいいのよ」
小さく呟いていると障子からの月明かりが影に隠れる。
途切れた月明かりにてゐが少し顔を上げると、そこには障子紙を通してヘタレ耳を持つ彼女のシルエットが映し出されていた。
「てゐ? まだ起きてる?」
鈴仙が部屋の中のてゐに話しかける。
まさか鈴仙が部屋に来るとは思っていなかったてゐは、とっさに返事をすることが出来なくて、しかし寝たふりをすることもなくただ鈴仙が入って来るのを見つめていた。
「入るよー……あ、まだ起きてたんだ」
「……うん」
鈴仙は枕を抱えて布団に近づくと「入ってもいい?」と声をかける。てゐは今度はすぐに鈴仙のスペースを空けてあげる。
「ありがと」
ゆっくりと鈴仙がてゐの横に入る。てゐは背中を向けて鈴仙の体温を感じていた。
二人が一緒に寝るのはこれが初めてではない。いつからだったか二人とも忘れたが確か鈴仙から「一緒に寝よう」と笑いながら枕を持ってきたことは覚えている。
お子ちゃまだなー、もう。
そんなことを思いながらも結局は布団に入れてやり、しばらく布団の中でおしゃべりをしていた。それからというものの、今では二、三日に一回の数で鈴仙がてゐの部屋に来たり、時折逆にてゐが鈴仙の部屋に行って鈴仙と一緒に寝ることになっていた。
互いに寝る前のおしゃべりが楽しみだったというものあるが、てゐにとっては鈴仙の体の温もりを独り占めにできる嬉しさもあった。
今ではてゐの方が体温が高いのだが。
「てゐ、ゴメンね」
「何の事?」
「やっぱり怒っているでしょ?」
「怒ってない」
「ウソ……だって目を合わせてくれないし」
声がどんどん小さくなる。放っておいたら泣き出しそうだ。
「ご飯のときもお話してくれないし。先に部屋に帰っちゃうし、お風呂も一緒に入ってくれないし、あと――」
指を折って数えるように訴える鈴仙にさすがのてゐも振り返る。
なんだか自分が悪者扱いされているみたいだ。
「あー! もう! 鈴仙のバカ!」
突然振り返ったてゐに鈴仙は驚いていてやっぱり涙目になっていた。
両手を伸ばして鈴仙の顔を引き寄せる。
「ん!」
「んん?」
十秒も経たずして二人の唇が離れる。
てゐの顔は真っ赤に染まっていた。
「それじゃあお休み!」
そう言って再び背中を見せると布団に倒れ込むように横になるてゐ。
「……え? ウソ……」
鈴仙も顔を真っ赤にさせて唇を指で撫でていた。
「二人ともまだ仲直りしてないの?」
数日後。
顔を見合わせたり言葉を交わすくらいにはなったが、どこかぎこちなくて会話もすぐに途切れて顔を背ける二人に永琳が困ったように話しかける。
「え? いやいや別に鈴仙と喧嘩なんてしてないから」
「ほ、本当ですよ師匠。仲直りはその、一応出来たのかな……?」
顔をちらりとてゐに向けるとてゐはすぐにそっぽを向いた。
「ほら! そうしてそっぽ向いてばかり。さぁ何があったのか聞いてあげるから、ちゃんと話しなさい」
「はい!?」
「そ、それはちょっと!?」
「何よ、私には秘密な話なの?」
てゐと鈴仙はゆっくりと顔を見合わせて「あはは」と笑った。
「? まぁ喧嘩していないならいいのだけど」
顔を背け合ったと思ったら見合わせて笑う二人に永琳の頭の上で「?」が浮かぶ。
そんな三人を輝夜はニコニコと見守っていた。
「もう師匠ったら」
永遠亭の庭にて鈴仙は一人歩いていた。両腕を組んで何か考え事をしているようだ。
「こんなの話せないよ……私、てゐのこと」
数日前。
てゐに唇にキスされた夜のことを思い出す。
柔らかな感触がまだ唇に残っていた。そっと指で撫でて、慌てて離す。顔が真っ赤になる。
あの時のてゐも顔が真っ赤だったな……てゐ、私のこと……。
そう思った時だ。
体が一瞬浮いたと思うと重力に引っ張られて落ちていく。
「え!? ちょっ!」
見慣れた庭が土色一色になって、やがて鈴仙は尻餅をついた。
「いたた……痛くない」
そこは落とし穴の底。よく落とされるてゐのイタズラだった。
しかし何やら違和感を覚える。視線を落とすと自分の体の下には大量の座布団が敷かれていた。まるで鈴仙のお尻が痛くならないようにと。
これって師匠に叱られるんじゃ、と思っていると穴の入り口から差し込む日の光が影に遮られる。
「…………」
てゐだった。
いつものような悪戯兎の顔ではなくてじっと上から鈴仙を見下ろしていた。
「もうてゐったら。師匠に叱られるわよ。こんなに座布団汚しちゃって」
てゐは何も答えない。じっと鈴仙を見つめているが逆光でその表情ははっきりとしない。
ピョンとてゐが飛んだ。
「えっ!?」
鈴仙目がけでてゐが飛び降りてくる。慌てて受け止めようと鈴仙が構えるが、ぶつかる直前にてゐの体が止まる。そしてふわふわとゆっくり鈴仙の体に乗っかった。妖怪は皆飛べるのだ。一部飛べる人間もいるのだが。
「お、驚かさないでよ。てゐ……」
自分の体の上に馬乗りになるてゐの顔を見て、鈴仙は言葉を失った。
てゐの顔は真っ赤だ。
じっと鈴仙の顔を見つめる。視線が絡み合って鈴仙も顔が紅潮していくのがわかった。
「……ん」
目を閉じててゐが唇を突き出す。
キスの催促だった。
「え……そんな、ここで?」
「うん」
「……恥ずかしいわよ」
「大丈夫。誰も見てないよ」
「…………」
唇と唇が合わされるだけの簡単なキス。
落とし穴の中で二人はほんの一瞬だが、互い顔を一つにさせた。
「永琳、えーりん」
「なぁに輝夜」
「キスして」
「……はい?」
二人のイナバが出て行って部屋に残った輝夜と永琳。輝夜は永琳に話しかけると自分の頬をちょんちょんと指した。永琳の顔が赤くなる。
「ちょっと、妹紅が嫉妬するわよ」
「いいじゃない。昔よくしてくれたじゃない。ほら早く早く」
「はぁ……輝夜もイナバたちもどうしちゃったのかしら?」
永琳がため息を吐いて輝夜に近づく。
そっと顔を寄せると輝夜の頬に短くキスをした。
ふふふ、と輝夜が微笑む。
「あの二人を見ていたら我慢できなくて」
「……はあ?」
「もうそんなんじゃ慧音に愛想つかれるわよ」
「な! そ、そんなことありません!」
真っ赤になる永琳に輝夜は面白そうにお腹をかかえて大笑いした。
「それでは師匠。行ってまいります」
今日はお薬売りの日。
薬箱を背負って鈴仙は永遠亭を出ようとした。とそこへ来客が。
「お、鈴仙か。今日も仕事か」
「や。輝夜はいるか?」
慧音と妹紅だった。鈴仙は頭を下げた。
「おはようございます、慧音さん。妹紅さん。師匠なら診察室に、姫様ならそちらにいらっしゃいますよ」
鈴仙の指した先には縁側でじっと妹紅を見つめる輝夜が座っていた。
「よっ」
長い銀髪を揺らしながら妹紅が輝夜のもとへ歩いていく。
「私もお邪魔させていただくぞ」
慧音も永遠亭の中へと入っていく。それと入れ違いに玄関から出てきたのはてゐ。何なら手にしながら鈴仙に駆け寄った。
「どうしたの?」
「これ」
そうしててゐが差し出したのは、てゐがいつも首から下げている同じ人参のネックレスだった。
「あげる。持って行って」
「えっと……お、おそろい?」
こくんとてゐが頷いた。
「いや?」
「ううん。嬉しい……」
二人は向き合って鈴仙が受け取ったネックレスをじっと見つめていた。
「なんだあの二人」
縁側で輝夜と並んで腰をかけた妹紅が、二人のイナバを見て呟いた。そんな妹紅の腕を輝夜が引っ張る。
「もう妹紅まで。まったく乙女心のわからず屋さんが多いこと」
「はぁ? なんだよそれ。あの二人と乙女心ってどう繋がっているんだよ」
呆れて妹紅の顔を見つめる。
鈍感……でもまぁそんなところが好きなのだけど。
すぐに「ふふふ」と笑うと、輝夜は大きく妹紅に抱き着いた。
そして妹紅の唇にキスをしてやる。
「こういうことよ」
唇を離すと妹紅は頭の上から湯気を立てていた。
「って輝夜ったら言うのよ」
「まったく。私が永琳に愛想を尽かすわけがないじゃないか」
永琳の診察室。今日はまだ誰も患者さんは来ていない。椅子に座って二人は向き合っていた。
「イナバたちも輝夜も、一体どうしちゃったのかしら」
「まぁ輝夜がそう言うのなら深刻なことではないのだろう。大丈夫だ」
そう言って慧音はゆっくりと立ち上がる。そして永琳に近寄った。
「え? 慧音?」
「永琳。あの、そろそろだな……うん」
顔を赤くさせて視線をキョロキョロ彷徨わせる慧音。やがて永琳の顔を見つめると唇を尖らせる。やや不自然だが。
「ちょっと慧音」
「嫌か?」
「……もう朝早くから」
観念したのか永琳も唇を不自然に尖らせて慧音の顔に近づける。
二人とも、目を開けたまま。
少し近づいて鼻と鼻が触れ合おうとしたとき――永琳が両腕で慧音の顔を離す。
「やっぱりダメ! まだ、まだ早いわ」
「ん! そ、そうか! まだ早いか! それなら仕方がない!」
「ね、ねぇ。慧音、焦ることはないわ。もっとゆっくり、その時間をかけてから……キスしましょう?」
「そうだな! すまなかった!」
「いえ! わ、私こそゴメンナサイ」
付き合い始めて数か月。
未だキスを交わしたことのない初心な恋人同士。
「妹紅もまだ輝夜とはそこまで進んでないだろう」
「ええ。ウドンゲもまだまだ子どもだからねぇ。私たちが焦ることはないわよ」
顔を赤くしたまま笑い合う二人。
残念でした。
「ねぇ。てゐ」
その夜。
今晩も鈴仙は枕を持っててゐの部屋に訪れていた。
「いいよ」
横になったままてゐが答えると鈴仙は飛び込むようにてゐの横に滑り込む。
「えへへ。お邪魔します」
「お邪魔されます」
顔を見合わせて二人笑い合う。しかしすぐに笑顔が消えてじっと互いの顔を見つめ合う。視線を逸らそうとせず真正面から。
鈴仙は覚悟を固めていた。あの夜から、二人は隠れるようにしてキスを交わしていた。言葉もなく、短い一瞬にただ唇を合わせて。鈴仙の胸にこみ上げるものが溢れようとしていた。 まだお互いに伝えていない。自分の気持ちを。
それはてゐにも同じことだった。
「あのね」
「あのさぁ」
口に出したのは同時だった。口を閉ざしてまた顔を見合す二人。
「あの、てゐからどうぞ」
「いや鈴仙から言いなよ」
譲り合って黙り込んでしまう。障子紙から月明かりが透けて二人を照らしていた。
「……てゐ、好きです」
口を開いたのは鈴仙だった。伏し目がちに消え入りそうな声で自分の想いを告白した。
てゐは黙って告白を聞いた。
返事はすぐに来ない。鈴仙は目を伏せたまま待った。
「私も……」
「え?」
「返事、したよ」
「ちょっと聞こえなかった」
「もう! 恥ずかしいから言わせないでよ」
「だって聞こえなかったんだからしょうがないじゃない!」
布団の中でキャンキャン言い合う二人。
「あー! もう!」
てゐが叫ぶようにして鈴仙の上に馬乗りになる。じっと鈴仙の顔を見つめる。鈴仙も黙って見つめ返した。
そっとてゐの顔が鈴仙に近づく。
「待ってよ」
近づくてゐの顔が止まった。
「お願いだから……もう一度、言ってよ」
顔を赤くして、涙目で話す鈴仙の顔。それはてゐがもっとも苦手な顔だった。
こんな顔をされたらお願い事を聞かないといけないじゃないか。
お腹に力を込めた。大きく息を吸った。
「鈴仙! はっきり言うからね! ……鈴仙のことが、大大大好き!!」
そうして唇を鈴仙のそれに重ねる。
触れ合って、すぐに離れる。
「……もっと」
「もっと?」
「キスして」
もう一度鈴仙の唇にキスを落した。唇を離すと鈴仙がてゐを自分の体の上から下ろす。横になって二人並んだ。
「てゐ」
「ん」
その晩。
二人は何度も何度も唇を合わせた。
相手の唇の感触を確かめるように。
自分の想いを伝えるように。
そうして気が付いた時には二人抱き合って深い幸せな眠りについていた。
思えばこの鈴仙の一言が始まりだった。
三十分ほど前。
永遠亭の一室にて輝夜を中心に永琳、鈴仙、てゐの四人がおしゃべりをしていた。
話題は体のどこにキスをするかで意味が変わってくるという話だった。輝夜が三人に教えるような形で、永琳と鈴仙が真剣に耳を傾ける。どうやら月の頭脳もそっち方面の話には疎いようで。そしててゐは自分は興味ないという風をしているが、それでいてちらちらと耳を動かすあたりはやっぱり興味を持っているのだろう。
「へぇー、頬とか手の甲とかで意味が変わってくるのですねー」
輝夜の話を聞いた鈴仙は一人うんうんと頷くのをてゐは横目で見ていた。
そして三十分後。
てゐが庭を歩いていると鈴仙が呼び止めたのだった。
「てゐってさ。他のイナバたちにはキスするじゃない?」
「え?」
「ほら、ほっぺにキスしてあげたりとかさ」
「ああ、挨拶みたいなものだけど? それがどうかしたの?」
怪訝な顔で聞き返すと鈴仙は表情を変えずさらりと言ったのだ。私にはキスしてくれないの? と。
「……は?」
目を丸くするてゐだが鈴仙はどこか拗ねている子供のような顔をしている。
「だって今まで私にはキスしてくれないじゃない。私ばっかり」
ああ、コイツは……。
てゐの顔が赤くなる。それを悟られまいと顔を横にプイッと向けた。
「……だって鈴仙、私の部下でもないし、それに――」
「じゃあ私がてゐにキスしてあげようか!」
もう頭が痛くなるのを覚える。ちらりと鈴仙を見ると彼女は胸を張ってふふんと笑っていた。
このお子ちゃま……バカ。
諦めのため息が出た。
「はいはい。お好きにどうぞ」
黙って鈴仙にされるがままにしようとその場で気を付けをする。鈴仙が顔を寄せてきた。
別に鈴仙にキスをされるのは嫌ではないが……いやそれよりも。
鈴仙の吐息が感じられる距離にまでになって。
そして口づけられた。
「ちょっ!?」
「え? 何!?」
てゐが片耳を押さえて勢いよく振り向いた。鈴仙が目を丸くして驚く。
鈴仙がキスした場所はてゐの耳――耳へのキスは「誘惑」を現す。
わ、わかっててやっているのか?
心臓がドキドキと鼓動を速めていた。顔はすでに真っ赤になっていた。
「あ、ゴメン。嫌だった? 本当にゴメン……」
しかしてゐが怒っていると勘違いした鈴仙はしょんぼりとうな垂れる。その顔を見ててゐは「あー! もう!」と声にしそうになるのを抑えるのがやっとだった。
さっき姫様に教えてもらったんじゃないの? ……あー、可愛いなぁ鈴仙は!
「……別に怒ってないから」
小さく呟くようにてゐが弁明をする。鈴仙には聞こえなかったようだ、「え?」と上目づかいにてゐの顔を見つめる。それがまたいけなかった。
ドキリと心臓が高鳴って、もうこれ以上いられないとてゐは自分の部屋へと走り出して、庭に鈴仙が一人残された。
「どうかしたの? 二人とも」
夕刻。
永遠亭に美味しそうな匂いが漂っていた。
ご飯は必ず四人そろって食べること。これを決めたのは輝夜であった。皆がいてこその永遠亭、皆は家族だからという想いからで、今まで一人でも欠けた食事は一度もなかった。
ところがいつもなら楽しく会話が飛び交う食事の時間なのに、二人のイナバの元気がない。鈴仙は困ったような顔をしてちらちらとてゐの方を見て、てゐはご飯に食べることに集中してそんな鈴仙に視線を移そうとしない。食卓が普段よりも静かなものに輝夜も永琳も気が付いた。
「喧嘩でもしたの?」
輝夜と永琳が首を傾げて二人に訊ねる。
「え? いや、その……」
鈴仙が戸惑って伏し目がちになる。やっとてゐがちらりと鈴仙の横顔を見た。
「いやぁ。別に鈴仙と喧嘩なんてしてないよ?」
「そう。なんだか二人の間で距離を感じるのだけど」
「お師匠様の気のせいだよ。はい、ごちそうさま」
なおも疑問を抱く永琳の話を遮るようにてゐは箸を茶碗の上に置くと、そそくさと部屋を出て行ってしまう。てゐのお皿にはおかずがかなり残っていた。
鈴仙がため息を吐く。
「……すみません師匠。私がどうやらてゐを怒らせてしまったみたいで」
「そうなの。早く仲直りができるといいわね」
「はい」
しょぼーんとして、ヘタレ耳がさらにヘタレる鈴仙。
「……ん?」
そんな鈴仙を見て、先ほどのてゐの顔を思い起こして、輝夜はいたずらっ子のように笑みを浮かべた。
月が夜空の上で輝いていた。
すでに輝夜も永琳も寝室へと入って永遠亭の一日が終わろうとしていた。
てゐも自室に入って寝床に入っていたが中々寝付けない。
そっと手を伸ばして自分の耳に触れてみる。
鈴仙がキスした場所。
子どもっぽい顔をした鈴仙。
上目づかいになって涙目の鈴仙。
昼間の事を思い出しててゐの顔が赤くなる。すぐに手を布団の中へ引っ込めた。
「……バカ、どうしてくれるんだよ」
胸の中がうずく。何か溜まっていたものが絞り出されようとしているみたいだ。もちろん、その何かを知っていたわけだが、まさか鈴仙によって開けられるとは思わなかった。
まだ傍にいるだけでいい。まだいたずらして、怒らして、そうして一緒に遊んで笑い合う仲でよかったのだが。
「明日からどんな顔をすればいいのよ」
小さく呟いていると障子からの月明かりが影に隠れる。
途切れた月明かりにてゐが少し顔を上げると、そこには障子紙を通してヘタレ耳を持つ彼女のシルエットが映し出されていた。
「てゐ? まだ起きてる?」
鈴仙が部屋の中のてゐに話しかける。
まさか鈴仙が部屋に来るとは思っていなかったてゐは、とっさに返事をすることが出来なくて、しかし寝たふりをすることもなくただ鈴仙が入って来るのを見つめていた。
「入るよー……あ、まだ起きてたんだ」
「……うん」
鈴仙は枕を抱えて布団に近づくと「入ってもいい?」と声をかける。てゐは今度はすぐに鈴仙のスペースを空けてあげる。
「ありがと」
ゆっくりと鈴仙がてゐの横に入る。てゐは背中を向けて鈴仙の体温を感じていた。
二人が一緒に寝るのはこれが初めてではない。いつからだったか二人とも忘れたが確か鈴仙から「一緒に寝よう」と笑いながら枕を持ってきたことは覚えている。
お子ちゃまだなー、もう。
そんなことを思いながらも結局は布団に入れてやり、しばらく布団の中でおしゃべりをしていた。それからというものの、今では二、三日に一回の数で鈴仙がてゐの部屋に来たり、時折逆にてゐが鈴仙の部屋に行って鈴仙と一緒に寝ることになっていた。
互いに寝る前のおしゃべりが楽しみだったというものあるが、てゐにとっては鈴仙の体の温もりを独り占めにできる嬉しさもあった。
今ではてゐの方が体温が高いのだが。
「てゐ、ゴメンね」
「何の事?」
「やっぱり怒っているでしょ?」
「怒ってない」
「ウソ……だって目を合わせてくれないし」
声がどんどん小さくなる。放っておいたら泣き出しそうだ。
「ご飯のときもお話してくれないし。先に部屋に帰っちゃうし、お風呂も一緒に入ってくれないし、あと――」
指を折って数えるように訴える鈴仙にさすがのてゐも振り返る。
なんだか自分が悪者扱いされているみたいだ。
「あー! もう! 鈴仙のバカ!」
突然振り返ったてゐに鈴仙は驚いていてやっぱり涙目になっていた。
両手を伸ばして鈴仙の顔を引き寄せる。
「ん!」
「んん?」
十秒も経たずして二人の唇が離れる。
てゐの顔は真っ赤に染まっていた。
「それじゃあお休み!」
そう言って再び背中を見せると布団に倒れ込むように横になるてゐ。
「……え? ウソ……」
鈴仙も顔を真っ赤にさせて唇を指で撫でていた。
「二人ともまだ仲直りしてないの?」
数日後。
顔を見合わせたり言葉を交わすくらいにはなったが、どこかぎこちなくて会話もすぐに途切れて顔を背ける二人に永琳が困ったように話しかける。
「え? いやいや別に鈴仙と喧嘩なんてしてないから」
「ほ、本当ですよ師匠。仲直りはその、一応出来たのかな……?」
顔をちらりとてゐに向けるとてゐはすぐにそっぽを向いた。
「ほら! そうしてそっぽ向いてばかり。さぁ何があったのか聞いてあげるから、ちゃんと話しなさい」
「はい!?」
「そ、それはちょっと!?」
「何よ、私には秘密な話なの?」
てゐと鈴仙はゆっくりと顔を見合わせて「あはは」と笑った。
「? まぁ喧嘩していないならいいのだけど」
顔を背け合ったと思ったら見合わせて笑う二人に永琳の頭の上で「?」が浮かぶ。
そんな三人を輝夜はニコニコと見守っていた。
「もう師匠ったら」
永遠亭の庭にて鈴仙は一人歩いていた。両腕を組んで何か考え事をしているようだ。
「こんなの話せないよ……私、てゐのこと」
数日前。
てゐに唇にキスされた夜のことを思い出す。
柔らかな感触がまだ唇に残っていた。そっと指で撫でて、慌てて離す。顔が真っ赤になる。
あの時のてゐも顔が真っ赤だったな……てゐ、私のこと……。
そう思った時だ。
体が一瞬浮いたと思うと重力に引っ張られて落ちていく。
「え!? ちょっ!」
見慣れた庭が土色一色になって、やがて鈴仙は尻餅をついた。
「いたた……痛くない」
そこは落とし穴の底。よく落とされるてゐのイタズラだった。
しかし何やら違和感を覚える。視線を落とすと自分の体の下には大量の座布団が敷かれていた。まるで鈴仙のお尻が痛くならないようにと。
これって師匠に叱られるんじゃ、と思っていると穴の入り口から差し込む日の光が影に遮られる。
「…………」
てゐだった。
いつものような悪戯兎の顔ではなくてじっと上から鈴仙を見下ろしていた。
「もうてゐったら。師匠に叱られるわよ。こんなに座布団汚しちゃって」
てゐは何も答えない。じっと鈴仙を見つめているが逆光でその表情ははっきりとしない。
ピョンとてゐが飛んだ。
「えっ!?」
鈴仙目がけでてゐが飛び降りてくる。慌てて受け止めようと鈴仙が構えるが、ぶつかる直前にてゐの体が止まる。そしてふわふわとゆっくり鈴仙の体に乗っかった。妖怪は皆飛べるのだ。一部飛べる人間もいるのだが。
「お、驚かさないでよ。てゐ……」
自分の体の上に馬乗りになるてゐの顔を見て、鈴仙は言葉を失った。
てゐの顔は真っ赤だ。
じっと鈴仙の顔を見つめる。視線が絡み合って鈴仙も顔が紅潮していくのがわかった。
「……ん」
目を閉じててゐが唇を突き出す。
キスの催促だった。
「え……そんな、ここで?」
「うん」
「……恥ずかしいわよ」
「大丈夫。誰も見てないよ」
「…………」
唇と唇が合わされるだけの簡単なキス。
落とし穴の中で二人はほんの一瞬だが、互い顔を一つにさせた。
「永琳、えーりん」
「なぁに輝夜」
「キスして」
「……はい?」
二人のイナバが出て行って部屋に残った輝夜と永琳。輝夜は永琳に話しかけると自分の頬をちょんちょんと指した。永琳の顔が赤くなる。
「ちょっと、妹紅が嫉妬するわよ」
「いいじゃない。昔よくしてくれたじゃない。ほら早く早く」
「はぁ……輝夜もイナバたちもどうしちゃったのかしら?」
永琳がため息を吐いて輝夜に近づく。
そっと顔を寄せると輝夜の頬に短くキスをした。
ふふふ、と輝夜が微笑む。
「あの二人を見ていたら我慢できなくて」
「……はあ?」
「もうそんなんじゃ慧音に愛想つかれるわよ」
「な! そ、そんなことありません!」
真っ赤になる永琳に輝夜は面白そうにお腹をかかえて大笑いした。
「それでは師匠。行ってまいります」
今日はお薬売りの日。
薬箱を背負って鈴仙は永遠亭を出ようとした。とそこへ来客が。
「お、鈴仙か。今日も仕事か」
「や。輝夜はいるか?」
慧音と妹紅だった。鈴仙は頭を下げた。
「おはようございます、慧音さん。妹紅さん。師匠なら診察室に、姫様ならそちらにいらっしゃいますよ」
鈴仙の指した先には縁側でじっと妹紅を見つめる輝夜が座っていた。
「よっ」
長い銀髪を揺らしながら妹紅が輝夜のもとへ歩いていく。
「私もお邪魔させていただくぞ」
慧音も永遠亭の中へと入っていく。それと入れ違いに玄関から出てきたのはてゐ。何なら手にしながら鈴仙に駆け寄った。
「どうしたの?」
「これ」
そうしててゐが差し出したのは、てゐがいつも首から下げている同じ人参のネックレスだった。
「あげる。持って行って」
「えっと……お、おそろい?」
こくんとてゐが頷いた。
「いや?」
「ううん。嬉しい……」
二人は向き合って鈴仙が受け取ったネックレスをじっと見つめていた。
「なんだあの二人」
縁側で輝夜と並んで腰をかけた妹紅が、二人のイナバを見て呟いた。そんな妹紅の腕を輝夜が引っ張る。
「もう妹紅まで。まったく乙女心のわからず屋さんが多いこと」
「はぁ? なんだよそれ。あの二人と乙女心ってどう繋がっているんだよ」
呆れて妹紅の顔を見つめる。
鈍感……でもまぁそんなところが好きなのだけど。
すぐに「ふふふ」と笑うと、輝夜は大きく妹紅に抱き着いた。
そして妹紅の唇にキスをしてやる。
「こういうことよ」
唇を離すと妹紅は頭の上から湯気を立てていた。
「って輝夜ったら言うのよ」
「まったく。私が永琳に愛想を尽かすわけがないじゃないか」
永琳の診察室。今日はまだ誰も患者さんは来ていない。椅子に座って二人は向き合っていた。
「イナバたちも輝夜も、一体どうしちゃったのかしら」
「まぁ輝夜がそう言うのなら深刻なことではないのだろう。大丈夫だ」
そう言って慧音はゆっくりと立ち上がる。そして永琳に近寄った。
「え? 慧音?」
「永琳。あの、そろそろだな……うん」
顔を赤くさせて視線をキョロキョロ彷徨わせる慧音。やがて永琳の顔を見つめると唇を尖らせる。やや不自然だが。
「ちょっと慧音」
「嫌か?」
「……もう朝早くから」
観念したのか永琳も唇を不自然に尖らせて慧音の顔に近づける。
二人とも、目を開けたまま。
少し近づいて鼻と鼻が触れ合おうとしたとき――永琳が両腕で慧音の顔を離す。
「やっぱりダメ! まだ、まだ早いわ」
「ん! そ、そうか! まだ早いか! それなら仕方がない!」
「ね、ねぇ。慧音、焦ることはないわ。もっとゆっくり、その時間をかけてから……キスしましょう?」
「そうだな! すまなかった!」
「いえ! わ、私こそゴメンナサイ」
付き合い始めて数か月。
未だキスを交わしたことのない初心な恋人同士。
「妹紅もまだ輝夜とはそこまで進んでないだろう」
「ええ。ウドンゲもまだまだ子どもだからねぇ。私たちが焦ることはないわよ」
顔を赤くしたまま笑い合う二人。
残念でした。
「ねぇ。てゐ」
その夜。
今晩も鈴仙は枕を持っててゐの部屋に訪れていた。
「いいよ」
横になったままてゐが答えると鈴仙は飛び込むようにてゐの横に滑り込む。
「えへへ。お邪魔します」
「お邪魔されます」
顔を見合わせて二人笑い合う。しかしすぐに笑顔が消えてじっと互いの顔を見つめ合う。視線を逸らそうとせず真正面から。
鈴仙は覚悟を固めていた。あの夜から、二人は隠れるようにしてキスを交わしていた。言葉もなく、短い一瞬にただ唇を合わせて。鈴仙の胸にこみ上げるものが溢れようとしていた。 まだお互いに伝えていない。自分の気持ちを。
それはてゐにも同じことだった。
「あのね」
「あのさぁ」
口に出したのは同時だった。口を閉ざしてまた顔を見合す二人。
「あの、てゐからどうぞ」
「いや鈴仙から言いなよ」
譲り合って黙り込んでしまう。障子紙から月明かりが透けて二人を照らしていた。
「……てゐ、好きです」
口を開いたのは鈴仙だった。伏し目がちに消え入りそうな声で自分の想いを告白した。
てゐは黙って告白を聞いた。
返事はすぐに来ない。鈴仙は目を伏せたまま待った。
「私も……」
「え?」
「返事、したよ」
「ちょっと聞こえなかった」
「もう! 恥ずかしいから言わせないでよ」
「だって聞こえなかったんだからしょうがないじゃない!」
布団の中でキャンキャン言い合う二人。
「あー! もう!」
てゐが叫ぶようにして鈴仙の上に馬乗りになる。じっと鈴仙の顔を見つめる。鈴仙も黙って見つめ返した。
そっとてゐの顔が鈴仙に近づく。
「待ってよ」
近づくてゐの顔が止まった。
「お願いだから……もう一度、言ってよ」
顔を赤くして、涙目で話す鈴仙の顔。それはてゐがもっとも苦手な顔だった。
こんな顔をされたらお願い事を聞かないといけないじゃないか。
お腹に力を込めた。大きく息を吸った。
「鈴仙! はっきり言うからね! ……鈴仙のことが、大大大好き!!」
そうして唇を鈴仙のそれに重ねる。
触れ合って、すぐに離れる。
「……もっと」
「もっと?」
「キスして」
もう一度鈴仙の唇にキスを落した。唇を離すと鈴仙がてゐを自分の体の上から下ろす。横になって二人並んだ。
「てゐ」
「ん」
その晩。
二人は何度も何度も唇を合わせた。
相手の唇の感触を確かめるように。
自分の想いを伝えるように。
そうして気が付いた時には二人抱き合って深い幸せな眠りについていた。