――椛さんのこと、嫌いなんですか?
ふと文の頭によぎるのは。「文さん」と呼びかける綺麗な笑顔の彼女だった。
※
「いやぁー、パラパラと降ってきましたねー。早苗さん」
「文さん、タオル持ってきました。風邪を引かないうちにどうぞ使ってください」
「あやや。これはありがとう」
この日、幻想郷には新年の小雨が降っていた。しかし見上げれば雲を透かして太陽が顔を覗かしている。どうやら通り雨のようだ。
守矢神社の住居スペース。文と早苗は並んで縁側に腰を下ろしながら言葉を交わしていた。射命丸文は髪を適当に拭くと愛用のカメラが塗れていないか確認しはじめる。
「ふふ、鴉天狗さん。今日はどういったご用件で?」
そんな文の姿に東風谷早苗は目を細めていた。
「そりゃあ、もちろん取材ですよ。さぁかわいい早苗さん、何か面白い話題はないですか?」
文は笑うとカメラのレンズを早苗に構えるふりをする。「やだ」と早苗が笑った。
早苗たちが幻想郷にやってきてから半年近くが経っていた。当初妖怪の山に突如現れた守矢神社に警戒していた天狗や山の妖怪たちも、今では友好関係を結んでいる。文と早苗も今では親しい仲だ。文はたびたび守矢神社を訪れては主に早苗と楽しい会話に花を咲かせていた。
「もう、文さんったら。そうやって皆をたぶらかせているんでしょ? キライです」
「あやや。それはとんだ誤解ですよ。早苗さんがかわいいのは本音ですよ」
文はカメラを下すと片手で自分の髪をくしゃっと撫でる。そんな文の顔を見つめる早苗の頬が赤く染まる。そうしてさりげなく少し文に寄る。
「お世辞が得意なのですね」
「さっきから酷い言われ様ですね。ささ、この清く正しい射命丸にネタを提供してくださいな」
「……そうですね」
早苗は視線を空へと向ける。雲が途切れ途切れになっていた。すぐに雨も止むだろう。
少し言いよどんで、「あまり面白くありませんよ」と断りを入れてから話し出す。
「実は明後日、ここで宴会を開こうと神奈子様と諏訪子様がおっしゃるのですよ」
「ほうほう。新年ですからね」
「……あまり面白い話ではありませんね」
「いやいや! お酒で顔を火照らす早苗さんの写真が撮れたら読者も食いつくと思いますよ。早苗さん美人ですから」
「文さん、さっきからバカにしてませんか?」
早苗が笑いながらポカポカと文の肩を叩く。文は「これは痛い」と冗談めかして笑ったあと、
「それで宴会には早苗さんとお二神様だけですか?」
すると早苗の表情が変わり笑顔が消える。視線を文から逸らす。その目に迷いが宿っていた。文も顔から笑みがなくなり「早苗さん?」と首を傾げた。
早苗はあちらこちら視線を移しておそるおそる言いにくそうに口を開く。
「……来られるのは、えーと、はたてさん」
「はたて?」
姫海棠はたてとは文と同じ鴉天狗であり、互いに自作の新聞を競い合うライバルの関係だ。早苗はそんな二人のことを知っている。
(ははぁ。はたてもすでに早苗さんに取材を申し込んでいたのですね。それで早苗さん、言いにくそうにされていたのか。でも、この射命丸。そんなことで焼きもちを焼いたりはしませんよ)
文は「なるほど」と頷いてみせた。
「そうですか、はたてですか。それでは私も参加させていただきましょう」
そう言って手帳を取り出すと筆で書き込みを始める。そんな文に早苗が戸惑った顔を浮かべる。
「あ、文さん。別にはたてさんに取材を申し込まれた訳ではないんです」
「それでも射命丸は早苗さんの写真を撮るため参加します。えーと……山の巫女、新年の宴会、と」
筆を動かす文に早苗はますます言いにくそうな表情を浮かべる。やがてバツが悪そうな顔を浮かべて、ぼそりと文に話しかける。
「……来られるのははたてさんだけじゃないんです」
「へー、あと誰が来るんです?」
「……椛さんです」
椛。
その名前を聞いて文の目が見開いた。筆を動かしていた手が止まる。
沈黙が二人を包む。
取り囲む空気が急に重く苦しいものに変わってしまう。
早苗がじっと見守る中、文は固まったままだ。視線は手帳に向けられているが、今書いたばかりの文章は文の目に入っていない。
「……あー、そうですか」
沈黙を破るように文が口を開く。が、文は筆をしまい手帳をパタンと閉じてしまう。
「早苗さん。実は鴉天狗による集会というものがあるんですよ」
「はい?」
突然話し出した文に早苗が首を傾げる。しかし文はそんな早苗に構わずどんどん言葉を投げかける。
「つまり新聞の批評会ですね。我々鴉天狗はよりよい新聞を作るために互いに競い合っているんです。努力を重ねたその結果を比べ合う機会が、その集会なのです」
文は視線を彷徨わせながら口を動かし続ける。早苗からは見えないが背中に汗がだらだらと流れていた。その気持ち悪さを拭うように文は話し続ける。
「しかし困ったことにこの集会、新年には必ず開催されまして。早苗さん、是非とも参加させていただきたかったのですが、当日行けなくなるかもしれません。そのときはどうかご勘弁を――」
「文さん! ……椛さんのこと、嫌いなんですか?」
早苗が大きな声を出して文が驚いて口を閉ざす。
顔を向けると早苗は怒っているように文を真正面からじっと見つめていた。
「……夏の交流会、秋の豊作祈願の宴会の席の時も椛さんが来られると聞いて文さんは欠席しましたよね? 十分新聞のネタになるにも関わらず」
「…………」
「先週もここで天狗さんたちと忘年会をやった時、後から椛さんが来られたのを見て文さんは入れ違いに帰ってしまった」
「……あやや。さすが早苗さん、よく見てますねー。うん、山の巫女は霊夢さんと同じくらいに勘が――」
「誤魔化さないでください!!」
早苗に一喝されて文が再び口を閉ざす。
「ねぇ……どうしてですか? なんで椛さんをそんなに嫌うんですか? 文さん」
その声が弱弱しいものに変わる。目に涙が浮かぶ。早苗は椛とも親しくしている。親しい文と椛、その二人がいがみ合って顔も合わさない、口も利かない。そんな二人を今まで悲しく見つめていたがとうとう積りに積もった思いが爆発したのだ。
「嫌い、ではありませんよ……」
文がぼそりと呟く。
「え?」
声が小さくて早苗にはよく聞こえなかった。文にもう一度訊ねようとした。
その時。強い突風が早苗を襲う。
「きゃっ!?」
「おや? どうやら雨が止んだようですね。それでは射命丸、これにて失礼いたします」
いつの間にか小雨は止んでいた。
早苗の目の前で文は今にも飛び立とうとしていた。
「あ、文さ――」
「また来ます」
そう笑顔で言い残して。早苗が引き留めようとする手をするりと抜けて、文は晴れ上がった空へ飛びだして行った。
「…………」
どんどん小さくなる文の姿を見て、早苗がぼそりと呟く。
「文さんの、バカ」
※
「もしもーし。にとりさん、おられますかー?」
守矢神社を飛び出した文。しばらく幻想郷中を縦横無尽に飛び続けてやがて河童の工房の前に立っていた。
扉をトントンと叩くと中から「はいはーい」と返事が聞こえてくる。
やがて中から河城にとりが顔を出した。
「どちらさまー? ……ひゅい!? しゃ、射命丸さん!?」
「どうも清く正しい射命丸です。先日修理に出した予備のカメラを取りに伺いましたよ」
文がにっこり笑うと、にとりは外へ出るとすぐに扉を背中で閉じてしまう。そうして慌てて作り笑いを浮かべた。
「え、ああっ! カメラ! カメラですね! すでに修理できてますよ! と、取ってきますのでここでお待ちください!」
(ん?)
背中で工房の扉を守るようにして、「あ、あはは」と苦笑いを浮かべるにとり。そんな彼女を見て文はニヤリと笑った。
(これは何か隠していますね……)
ネタの匂いに文の記者としての本能が疼きだす。
(ちょうどよかった……今の気分を紛らわすためににとりさん、ネタになっていただきますよ!)
「しゃ、射命丸さん。ど、どうしたんですか? 笑顔が怖いですよ」
そんな文の雰囲気を察してか、にとりは警戒を始める。しかしそんなことはお構いなしに文は訊ねた。
「いやー、にとりさん。このところどうですか? 新しい発明品はできましたか?」
「え? あ、いやぁー。ここのところはさっぱりで、まだ何も浮かんでないですよー」
「本当ですか? 何か、隠していませんか?」
文の追及ににとりが体をびくりと震わした。やっぱり、何か隠している。文は確信した。
「ちょーっと中を覗かしても?」
「いやいやいや! 何もありません! まったくありません! 私の余裕もありません! とにかくありません!」
首と片手をぶんぶん千切れる勢いで振るにとり。「ふぅーん」と文が肩をすくめてみせる。一歩引いた文ににとりはほっと息を吐く。
が、文はふいと顔を右に向けて「あ」と言葉を漏らした。
「あれは……雛さんですね。にとりさんに用事でもあるんでしょうか?」
「えっ!? ひ、雛!?」
文の視線に釣られてにとりも顔を向ける。しかし、そこににとりが恋する厄神様の姿はどこにもない。
その隙に文はにとりの工房の中へと滑り込んでいた。
「だ、騙したなぁー!!」
「あははは! さぁ、にとりさん! 河童の最新鋭の発明品、見せてもらいま――」
後ろでにとりが顔を真っ赤にするのをよそに文は滑り込んだ工房内で愛用のカメラを構える。だがレンズに映りこんだ影を見て文の言葉は急に失われる。
工房内はいろいろな部品で散らばっていた。新発明のものなどどこにもない。
一角に設けられた休息スペース。
そこに置かれた大将棋盤を前にして彼女――犬走椛が座っていた。
「…………」
椛はちらりと文を見るとすぐに将棋盤に視線を戻した。その表情に感情はまったくこもっていない。まるで文など視界に入っていないようにも見えた。
河童の工房にもまた重苦しい空気が流れてきたのを文は感じた。守矢神社で早苗に言い詰められた時よりも、もっと息詰まる空気。
後ろで「あちゃー」と片手で両目を塞ぎながら天井を仰ぐにとりに文は話しかけた。
「……おやおや。いつもは滝の裏でしていたのでは?」
「え? あ、あぁ今日は天気がよくないんで、私の工房でしようということになりまして」
「そうでしたか……」
文とにとりが言葉を交わしても椛の表情はまったく変わらない。口を挟むことなく盤上を見つめたままだ。
「どうもお邪魔だったようですね。それでは私はこのへんで……」
「え? あ、そうですか! どうもお構いもなくすみません! は、はい! こちらカメラです!」
無理に笑いながらにとりが文の予備のカメラを手渡す。文はいつもならその場でカメラの調子を確認するのだが、そのままカバンに仕舞った。
「にとりさん、ありがとうございます。強引にお邪魔してすみませんでした」
「いやいや! ま、またカメラの調子が悪かったら持って来てください!」
文が「では」と工房を後にしようとする。扉に手をかけた。
「……変わらないですね。貴女は」
呟かれた言葉。
文の足が止まり振り返る。椛は将棋盤を見つめたまま話す。
「相手の迷惑を顧みず押しかける。昔からまったく変わっていない」
椛の言葉に文が無表情のまま椛に鋭い視線を送る。椛は動じない。にとりだけが「あわわ」と冷や汗を流していた。
「……明るみに出ていない真実を報道する。それが鴉天狗の性分でして」
「そうですか」
文の言葉に椛は少しも視線を移さず淡々と答える。そんな椛をしばらく見つめてから文は早足に工房から出ると再び空へ舞い戻った。
あっという間に文の姿が見えなくなる。
「ふぅ……もう。まったくお二人さん、いい加減にしてほしいな。椛たちのために私ら、どんだけ気をつかっていると思っているの?」
文が去ってほっと安堵したにとりが苦々しい表情で椛に振り返って悪態を吐く。
「そろそろまともな言葉を交わすぐらいには仲直りをしてほし――」
「ごめん」
口を挟むように椛が謝罪の言葉を口にした。
「にとりたちには、いつも迷惑かけてる……本当に、ごめん」
椛は悲しい、遠い昔を思い出しているような目をしていた。その目を少し眺めてにとりは「やれやれ」と肩をすかした。
「まぁ、椛たちの事情はよく知っているからあんまり強く言えないけど。私もキツイこと言ってごめん。さ、続きしよう」
にとりの言葉に椛は小さく頷いた。
※
「文と椛の仲が悪い理由?」
「そうです。はたてさんなら知っていますよね?」
文が守矢神社を飛び出してから少しして、今度ははたてが守矢神社を訪れていた。明後日の新年会の時間の確認のためだ。打ち合わせた後、早苗がはたてに切り出したのだった。
「ずいぶん唐突だね。早苗、何かあったの?」
「……いえ。ただ文さんも椛さんもお互い顔も合わさないじゃないですか。その、気になって……」
先ほどの文とのやりとりは口にしなかった。俯く早苗にはたてが笑みを浮かべる。
「そっか。そりゃ好きな人のことは気になるよねー。わかる」
「わ、私は真面目です!」
はたてにからかわれた早苗が睨む。しかし頬を赤く染める早苗の顔はちっとも怖くない。はたてはニヤニヤと笑ってからふと遠くを見つめた。
「うん、知ってるよ。私だけじゃない。この山にいる妖怪たちなら二人のことをよく知っているよ。早苗はまだここに来たばかりだから知らないでしょうけど」
「教えてください! 文さんと椛さんに何があったんですか!?」
詰め寄る早苗にはたてが「うーん」と困った顔をして、やがて早苗に向き直る。その表情は真剣だった。
「先にいっておくよ。聞いて後悔しない? 早苗には辛い話だよ」
重い口調のはたてに、早苗はゆっくり頷いた。
「大丈夫です。すでに想像はついていますから……文さんと椛さん、付き合っていたんですね」
最後の方は小さな声になっていた。早苗が目を伏せる。
――椛さんは文さんの元彼女。
薄々そう感じていた早苗は覚悟を固めて、はたての言葉を待った。しかしはたては目を丸めてから「これはまた困った」と苦笑いを浮かべた。
「どういうことです?」
「早苗。やっぱりこの話、辛いよ。それでもいい?」
話が見えない。でも真相を知りたい。早苗は再びゆっくりと頷いた。はたてが大きくため息を吐く。
「あの二人は――昔、夫婦だったんだよ。今は離婚しているけど」
※
五年ほど前のことだ。
文が文々。新聞の発刊に忙しい日を送っていた頃。
ある日、天狗たちの宴会が開かれ文は何気もなく参加した。
宴会は大きく盛り上がった。
「射命丸さん。今度の新聞も出来がよかったですね」
「あやや。褒められたら照れちゃいますよ」
仲間の鴉天狗に酒を注がれて、文は頭を掻きながら嬉しさを隠せないでいた。注がれた酒を一気に飲み干す。
「今年は白狼天狗にも有望な新人が出てよかったよ」
「え? 有望な新人って」
文が訊ねると仲間の鴉天狗は顔を赤らめて答えた。
「そら、あそこにいるやつだよ」
仲間の鴉天狗が顎で示す。文が視線をその先に移すとそこに一人の白狼天狗が、少し輪から離れて静かに盃を傾けていた。
人づきあいが苦手なのだろうか。先輩の白狼天狗が話しかけても彼女は口数少なく返事するだけで、また一人で酒を飲んでいた。
しばらく彼女を見つめて好奇心にかられた文はゆっくりと彼女の傍に寄った。
「こんばんは。有望な白狼天狗の新人さんとは貴女のことですね」
「え?」
文に声をかけられて彼女は驚いたように見つめ返した。文はにっこりと笑ってみせた。
「鴉天狗たちの間でも貴女のことで話題になっていますよ。ところで静かに飲んでいるんですね」
白狼天狗は戸惑ったように目を動かして弁解するように返事した。
「あ、あまりこういう場に慣れていなくて……知らない人もいますし、こんなに先輩たちに囲まれたら、き、緊張してしまって」
顔を赤らめてもじもじとさせる彼女。文はそんな彼女を見て目を細めた。
(……可愛らしい子ですね)
文は彼女の横に腰を下ろした。白狼天狗の彼女はドキッと体を震わせた。まだ緊張が解けていないようだ。
「私、射命丸文といいます。どうやら皆期待しているそうですよ。これから力を合わせて頑張りましょうね」
文が笑いかけると彼女はしばらく文を見つめた。そして優しく微笑んだ。
「……はいっ!」
その表情からようやく緊張がほぐれたようだ。文はうんうんと頷いて、彼女に訊ねる。
「そういえばまだお名前を聞いていませんでしたね? うかがってもよろしいですか?」
「……椛。犬走椛、です」
初めてにっこりと笑った椛の顔に、文はたちまち引き込まれた。
文と椛はその日から親しい間柄になった。
お互いに仕事を終えて、たまに会うと必ずどちらからともなしに話しかけるようになった。
「文さん、お疲れ様です。今度の新聞は力作だったようですね」
「いやいや。椛たちが私たちを守ってくれるからこそ、新聞作りに力が出るのです。椛のおかげでもあるんですよ」
「そんなぁ、文さんがすごいからですよ」
顔を見合わせれば自然と笑顔がこぼれる。言葉を交わせれば楽しく思える。周りから見ると彼女たちは仲睦まじい様子に見えた。
そんなある日。
文が仕事終わりの椛を人気のない山奥へと誘った。椛は首を傾げながら「文さん。話ってなんですか?」と訊ねるが、文は「後でお話しします」と答えるばかりだ。
やがて切り開かれた場にたどり着いた。
文は「ここでいいでしょう」と呟いて、椛に向き直る。
「椛。実は貴女に大事な話があるんです?」
「大事な、話?」
周りに気配がないのを確認して、文はすぅーっと深呼吸をする。そして椛の目を見つめた。
「貴女のことが……好きです。心から愛しています。よろしければ、私とお付き合いしてくれませんか」
文が顔を赤くして告白する。
椛も文の言葉を何度も頭の中で繰り返して、急に頬が朱に染まった。
「あ、文さん。本当に……本当に私のこと……?」
文はゆっくり頷いた。すると椛の目に涙が溢れてくる。
「……ダメですか」
「そんなことありません! 私も、文さんのこと、好きでした……私でよかったら」
涙を零しながら椛は微笑んだ。文は椛を見つめると、ゆっくり近づいて椛を力いっぱい抱きしめた。
「そうか。結婚するのか」
「はい、大天狗様。私と椛は夫婦になろうと思います」
椛と恋人同士になったことは天狗たちの間ではすでに知られていた。寄り添い合う二人に周りの天狗たちは冷やかしたりしながら温かく見守っていた。
そんな日々が続く内に、文は椛との結婚の意思を固めた。そしてこの日、椛と一緒に大天狗の元へ足を運んだのだ。
「どうか、私たちの結婚を許してください」
椛が懇願するように言うと、大天狗は「そんなに深刻な顔をするな」と椛を宥める。
「皆に知られているくらい仲のよいお前たちだ。ここで反対したら皆に何を言われたものか堪ったものじゃない。結婚を認めよう。末永く幸せにな」
大天狗は二人に優しく微笑んでみせた。その顔を見て、文と椛は顔を見合わせて喜びを表情に表した。
「さて、そろそろ寝ましょうか。椛」
「あ、はい……」
天狗たちに祝福されて、晴れて夫婦となった文と椛。
その夜。二人のための新居の寝室に、文と椛は布団の上に並んで座っていた。
布団は一組。そして枕は二つ。
二人は顔を真っ赤にしながら、視線を反対に向けていた。
「み、皆私たちを祝福してくれましたね!」
「え、ええっ! 文さんが綺麗って言ってくれる白狼天狗もいましたよ」
ドキドキ心臓を鳴らしながら、やがて二人は向き合った。じっとお互いの目を見つめ合う。
「不束者ですが、よろしくお願いいたします」
「こ、こちらこそ! 椛、よろしくお願いいたします!」
深々と頭を下げ合う二人。しばらく沈黙して二人の笑い声が響いた。
「……文さん」
椛が目を細めて文を見つめる。文も黙ったまま椛を見つめ返す。
そして文は椛に寄り添うと、彼女の体を優しく布団に押し倒した。
「文さん、それじゃあ仕事にいってきますね」
「あ、椛。お弁当忘れていますよ!」
玄関から出ようとする椛を文が呼び止める。振り返った椛に風呂敷に包まれた弁当箱を渡すと、二人の間に笑顔が浮かんだ。
「文さん。いつも作ってくれてありがとうございます」
「いやいや。私は今日は家で新聞作りをしますから。今日は家事のことは任せてくださいよ」
「ふふ。本当にありがとう。文さん、大好きですよ」
「私こそ。椛のことが大好きですよ」
そう言うと文は唇を椛に近づける。椛も目を閉じた。
お出かけ前の口づけ。二人が出かける時の恒例の儀式だ。五秒、十秒と唇を重ね合わして、やがてゆっくり顔を離す。
「いってらっしゃい、椛」
「いってきます。文さん」
笑顔で椛は家を出る。そんな彼女の姿が見えなくなるまで文は玄関から見つめていた。やがて椛の姿が見えなくなると、文は一つ背伸びをした。
「うーん……さぁ、今日も頑張りますかね」
そう言って扉を閉めて、家へと入る。
文も椛も、幸せだった。
その幸せが、ずっと続くものだと思っていた。
結婚生活がしばらく続いたある日のことだった。
文々。新聞の評価をもっとよくするために文は新聞作りに没頭するようになっていた。
「……ただいま」
文が作業室で筆を動かしていると、玄関から椛の声が聞こえてきた。筆を置いて玄関へ足を運ぶと、そこには仕事に疲れたのだろう椛がため息を吐いていた。
「お疲れ様。仕事、大変でした?」
「ええ。今日は低級な妖怪が押し寄せてきたんですよ。弱かったのですがなにしろ数が多くて疲れちゃいました……」
「まぁ、ゆっくりお休みなさい。何か飲みますか?」
「そうですね。お茶が欲しいです」
二人は微笑みながら台所が見える居間へと足を向けた。居間に入ると、文は椛に座るように促す。
「すぐにお茶を淹れますから、待ってくださいね」
しかし椛は座らず、その視線を台所へと向けていた。その表情から笑顔が消えている。
「……洗い物」
「え? ……あ」
椛の視線の先を見て、文の言葉が失われる。
そこには二人の朝食に使われた食器類が、椛が出かけた時と同じように山を作っていた。新聞作りに熱中し過ぎたせいで文はすっかり忘れていた。
「あ、ああ。すみません、すっかり忘れていましたよ。どうもこの所、集中し過ぎてしまって――」
「洗濯物は畳んでありますか?」
「せ、洗濯物?」
突然、椛に訊ねられて文が振り返ると窓の外の洗濯棒には、また今朝とそっくり同じまま服がかけられていた。
「いやぁ、これはまたうっかりしていました。今日はどうもダメですねぇ」
文が「あはは」と笑う。だが、椛は重くため息を吐いて洗濯物を取り込もうとする。
「あ、椛。いいですよ、私がやります。椛はゆっくり休ん――」
「一日家にいるんでしたら、少しくらい家事をしてくださいよ!!」
「……え?」
文が目を丸くして椛を見つめる。椛もはっと気が付いたように文に向き直る。
「……ごめんなさい。私、ちょっと疲れています」
椛が申し訳なさそうに呟くと、文は笑顔を作って椛に話しかける。
「あ、そうですね! お仕事大変でしたからね。さ、椛。洗濯物も洗い物も私がしますから、ゆっくりしてください。今お茶を淹れますから――」
「いえ。疲れているので休みます。文さんも無理をしないでくださいね」
そう言い残すと椛は居間から出ていってしまう。寝室のドアが開けられ、閉める音が響いた。
「……あやや」
居間に取り残された文は「ふぅ」と息を吐いた。そして先ほどの椛の棘のある言葉を思い起こしていた。
(……そういえばこのところ椛に家事を任せきりでしたね。椛ばかりに苦労はかけられませんね。しっかりしないと)
そうしてまずは洗濯物を取り込もうと文は動き出す。
しかし文の心には棘が刺さったままだった。
二人の幸せだった結婚生活。
その歯車が狂い出そうとしていた。
いつの間にか二人の間に溝が生まれていた。
「椛。お弁当忘れていますよ」
「今日は急いで出勤しないといけないんです。ごめんなさい」
そう言って椛は朝食も採らず家をいそいそと出て行ってしまう。お出かけ前の口づけを交わさなくなったのは、いつのことだったか文には思い出せない。
連日、妖怪たちがこの天狗の里に押しかけて、緊迫している状況は文も知っていた。
(椛も大変ですね……でも、お弁当くらい受け取ってもいいじゃないですか!!)
家に残された文が歯ぎしりをする。そうして作業室へと閉じこもる。昼に椛のために作ったお弁当を自分で食べる。ちっとも美味しくなかった。
ある日の事。
すっかり夜も更けた遅い時間に、文が酒に酔い顔を赤くしながら家に帰ってきた。
「今、帰りましたよ……」
「……おかえりなさい」
居間に入ってきた文を椛が冷たい目で返す。
「こんな遅い時間まで仕事していたのですか」
「ええ。取材に時間がかかったのでね」
「……それでもお酒は飲んでくるんですね」
机の上には椛が作った夕食が並べられていた。文はそれをちらりと見るが、まったく気にしない。
「ええ、そうですよ。それが? なんですか、居酒屋でお酒を飲んじゃダメですか? 寄っちゃダメなんですか!? 仕事上がりに仲間と飲んじゃいけないと言うんですか!!?」
椛は何も答えない。視線を机の上に並べられた料理に移して、ゆっくりと腰を上げた。
「……作り直します。待ってください」
「いりません」
そう言い残すと文は居間を後にする。そして作業室に入ると乱暴に音を立ててドアを閉める。
もう二人が寝室で布団を並べて寝ることはなかった。
すでに文は自分の布団を作業室に持ち込んで、そこで寝ることになっていた。
椛が「はぁ」とため息を吐いて、目の前にある料理の器を手にする。そうして台所に持っていくと、流し台に全部ぶちまけた。
「……妻をこんな遅くまで一人にさせて、平気なんですね」
大宴会が行われた。
恒例の天狗たちによる宴会だ。皆、酒に酔い笑い声をあげていた。
その隅で文と椛は表情を殺して座っていた。
二人の間に言葉が交わることがない。顔すら合わさない。文はただ目の前の酒をちびりちびりと飲む。まったく酔えなかった。椛も少しずつ料理を口に運ぶだけだ。
鴉天狗や白狼天狗が文や椛の元に寄って声をかける。しかし、二言三言ですぐに二人から離れる。
一人の鴉天狗が文に話しかけた。やはり少しだけ会話を交わして、すぐに立とうとする。
「ちょっと待ってくださいよ。もう少しおしゃべりしましょうよ」
するとその鴉天狗はニヤニヤと笑って、文に諭すように話す。
「そういうわけにはいかないだろ?」
「え?」
「話し込んじゃ、奥さんに悪いだろ。じゃね」
再び賑やかな輪へ戻っていく鴉天狗の背中を見つめて、文の背中が急に冷えていくのがわかった。
横目で椛を見る。椛は箸を止めて、ただ目の前の料理を見つめていた。
文は思った。もはや椛は妻ではなかった。
――ただの足枷だ。
そんな酷い言葉を浮かべ、やがてそんなことを思う自分が嫌になって、文は徳利を手にしてそのまま酒をかっ食らう。それでも酔えない。
椛は行儀の悪い妻を窘めることなく、すっかり冷たくなってしまった料理に視線を落としていた。
ついに。その日がやってきた。
朝から文は作業室に閉じこもって新聞作りに励んでいた。昼食もそこそこにしてすぐ作業に戻ると、やがて夜までせっせと筆を動かしていた。
やがて玄関が開く音がして、居間へと足音が向かうのが聞こえた。文は一瞬、筆を止めたがすぐにまた動かす。
すると今度は水道を流す音が響く。さすがの文も筆を置き、居間へと向かう。
そこで椛は背中を見せて朝と昼に文が使った食器を洗っていた。
「……私が使ったんですから置いてください」
文が冷ややかに言葉を投げる。しかし椛は聞こえていないのか、無視しているのか食器洗いを止めない。
「……食器を置きなさい!!」
今度は怒鳴るように言ったがやはり椛は返事すらしない。ひたすら洗い続ける。
「あー、もう!!」
文は苛立ちを覚え椛に詰め寄る。そしてその肩を掴んで強引に振り向かせる。
「置きなさい、って言っているでしょうが!!」
パン!
文の左頬に衝撃が響いた。やがてじわじわと痛みが込み上げてくる。
いつの間にか顔が右に向いていた。何が起きたのかわからず椛に視線を戻すと、椛が右腕を体の左側に振り終えていた。
平手打ちされたのだ。
そう理解すると文の体の中で何かが爆発した。
そして右腕をすっと大きく振りかぶると、掌を椛の左頬に目がけて強く振り降ろした。
気が付いた時には、文の前で椛がうずくまっていた。自分の呼吸がかなり乱れているのもわかった。
「……うぅ…………ひっく」
椛の体が震えていた。
そんな椛を見て、自分の体が急速に冷えていくのがわかった。とんでもないことをしてしまった。文は呆然と椛を見つめて静かに声をかけた。
「……椛?」
しかし椛は返事をしない。体は震えたままだ。
文はしゃがみ込み椛の顔を覗きこむ。
「…………ぐすっ、すん……ひっく……」
頬は痛々しく赤く腫れていた。椛は目に大量の涙を溢れさせていた。それを零すまいと、少しの嗚咽も漏らすまいと必死に歯を食いしばっていた。
文は「あ」と思った。そうしてしばらく見つめていると、自分自身がいたたまれなくなった。そう感じた時には文は家を飛び出してしまった。
朝まで文は居酒屋で酒を飲んでいた。何杯も注文する。どれだけ酔っても文の中では罪悪感が巣食ってどんどん大きくなっていった。それを必死に隠そうと文は酒を煽る。
やがて居酒屋が閉店時間を迎えてしまい追い出された文はふらふらと家へと帰る。
まだ椛は泣いているのだろうか。もう寝てしまったのだろうか……謝ろう。きちんと謝ろう。そう思い家へ上がる。
「椛……?」
小さく呼んでも返事はない。文はゆっくり居間を覗き込む。しかし椛の姿はなかった。
寝てしまったのか。そう思い久方ぶりに寝室へ足を踏み入れた。そして驚愕した。
部屋は空き巣にでも入られたかのような惨状だった。衣装籠という衣装籠は全てひっくり返っている。床には文の服が散乱していた。
「椛!?」
ふらつく体で文は大声で妻の名を呼びながら自身の作業部屋を覗く。そこにも椛の姿は見えなかった。再び居間へと向かう。
「……椛?」
そこで文が見つけたのは机の上に置かれた一枚の紙。ゆっくりと手にして酔いで視線が定まらないのを必死に固定する。
自分だけが忙しいと
勘違いしている貴女に
もう、合わせられません
震える手で書いたのだろう、字はかなり歪んでいた。紙には数滴の滴が零れ堕ちた跡も残っていた。
短い手紙を読み終えて文は壁に背をもたれて座り込んだ。ふぅーと酒臭い息を吐く。
涙はまったく出なかった。
何も考えられなかった。
昨晩の出来事も、家を飛び出す前の椛の泣き顔も歪なものになりはっきり思い出せない。
ただ、空しい。そんな気分だけが文を包んだ。
「……あー」
遠くなる意識の中で、文は「そっか。終わっていたんだ。私たち」と声にならない声で呟いた。
「……離婚、と言ったのか?」
「はい。射命丸文は犬走椛と離婚いたします」
翌日。文は大天狗の元を訪れていた。
「何があったんだ? 話なら聞くぞ」
「いえ。自分たちの問題ですから……大天狗様も、皆も祝福してくださったのに、こういう結果になってしまって申し訳ありません」
文が深々と頭を下げる。
彼女が結婚したいとここに申し出た時には隣に椛がいた。しかし今の文の隣には誰もいない。
「……射命丸の言い分だけを聞いても仕方がない。犬走と話がしたい。また今度、二人で来てくれないか」
「いえ。申し訳ありません」
文は頭を下げたまま話を繋げた。
「もう彼女の顔は見たくありませんので……」
文の言葉に大天狗は上を見上げて目を閉じる。そして深いため息を吐いた。
後日、椛も大天狗の元へ訪れて文との離婚を申し出た。大天狗は何も言わず静かに頷いた。
ここに二人の結婚生活は終わりを迎えてしまった。
※
「……ただいま」
すっかり夜になっていた。居酒屋で酒を飲んでから文は暗い家へと帰った。玄関先で小さく呟いてみるも今では返事をしてくれる者は家の中にいなかった。
居間に入って畳の上に寝っ転がる。灯りをつけないまま「あー」と酒臭い息を吐いて天井を見上げた。もう文に注意するものも小言を言う者はいない。自分の思うままに過ごせる。
「なのに胸に押し寄せるこれはなんでしょうね……」
今日一日の出来事が頭に浮かんで胸が痛かった。
守矢神社での早苗さんの顔。
河童の工房で見た椛の横顔。
その椛の言葉。
ふと。
椛の笑顔が浮かんだ。
二人で暮らし始めた時の、二人が付き合い始めた時、初めて出会った時の綺麗な笑顔が。
彼女はゆっくりと振り向くと文に笑いかけた。
上半身を起こした。文の顔が驚きに満ちていた。
何だ今のは。なぜ椛の笑顔が浮かぶのか。こうなることを望んでいたのではなかったのか。彼女と別れてよかったのではないか。
自分でもわからなかった。額に手を当てて前髪をくしゃくしゃをかいた。
家の前に気配がした。文がそれに気が付いたときにはその気配は宙へと飛び去っていったようだ。
ふらふらと文が玄関に向かう。心臓がドキドキした。頭の中でまた椛の笑顔が浮かぶ。
しかし外には誰もいなかった。辺りを見渡して宙を見上げて誰もいないことに文は肩の力を落した。
まただ。残念に思う自分が、椛ではないかと思う自分がいる。
頭の中で自分に問いかけながらドアを閉めようとした。ふと視線を落とすとそこに一枚の便箋が不自然に置かれていた。先ほどの気配の持ち主が置いていったものだろう。ゆっくり腰をかがめて便箋を拾い上げた。
明日、守矢神社に来てください。
必ず。
東風谷早苗
見覚えのある早苗の字だった。酔った頭に叩き込むように何度も読み返して文は苦い顔をする。昼間の出来事が思い出される。怒っているのだろうか。
しかし行こうか行かないか迷うことはなかった。早苗が自分に気があることは見抜いていたのだが、それでいて知らない風を装っていたのだ。
自分に好意を寄せてくれる早苗と疎遠になってしまうのは避けたかった。今までのように仲のいい関係でありたい。
そこで文は思考を止めた。
なぜ自分は彼女の想いを受け止めようとしないのか。今は独り身である。早苗とお付き合いしてもいいのに、なぜ恋愛事から遠ざかろうとするのだろうか。
そんな疑問が浮かんだが頭に答えが出る前に頭を大げさに振る。
とにかく明日、守矢神社へ行かねばいけない。
家の中へ入り今は自分一人だけの寝室に布団を乱暴に敷いて横になった。
酔いはすでに醒めて中々寝付けなかった。
※
「おはようございます。早苗さんにご用があって来たのですが」
翌日。今日はよく晴れていた。
あまり寝られなかった頭は少しボーっとしていた。しかし文は起きると朝食もそこそこに守矢神社にやって来たのだった。境内にいたのは諏訪子だった。
「おはよう。早苗なら神社の裏手にある湖の方に行ったよ。『文さんが来たら湖に来るように言ってください』ってさ」
「あややや……」
諏訪子はニッコリ笑って湖の方を指差した。早苗から話を聞いて諏訪子と神奈子に問い詰められると思っていたがその心配は杞憂だったようだ。しかし肝心の早苗がここではなく人目を避けた場所に呼び出すとなると、やはり怒っているのか。
ありがとうございます、とお礼を言ってから文は湖へと向かった。
諏訪子と別れて湖へと向かう文を神社を囲む雑木林の影から早苗とはたてが見つめていた。早苗は心配そうに、はたてはどこか不満げな表情を浮かべていた。
「あとは文さん。ご自分の気持ち次第ですからね」
「はぁ。早苗、話を聞いて私も協力したけどさ。文の家に手紙届けたし。でもね」
ため息を吐いてからはたてが話しかける。早苗が振り返ると怖い顔をしていた。
「もう一度言うけど椛を傷つけるようなことになったら、私許さないからね」
真剣な眼差しのはたてに早苗は小さく微笑んで頷いた。
「大丈夫ですよ。あのお二人なら、きっと」
「自信あるのね」
喉元に「巫女の勘です」と出かかったがそれは口に出さず、早苗は微笑んだままだった。
「さて、早苗さんはどこでしょうか?」
神社と共に幻想郷へやって来た湖は太陽の光を反射して輝いていた。それがやけに眩しく思えた。
辺りを見渡すも早苗の姿はどこにも見当たらない。騙されたように思えて文は少しイライラした。
「あんまりからかうものじゃないですよ――」
悪態を吐いてもう一度辺りを見渡す。
文の口から言葉が形を失い消えていく。
「…………」
目の前に椛が立っていた。
何も考えていないというように、無表情な顔で文をじっと見つめていた。
文の頭の中が真っ白になる。辺りの物音がすぅーっと遠ざかるように聞こえなくなる。自分の鼓動だけがやけに耳を突いた。
昨日と同じ椛の、かつて自分に見せてくれた彼女の笑顔が浮かんだ。
目の前の彼女はもうその笑顔を見せてくれない。
「……何か用ですか、椛?」
「いえ。何も」
椛が短く答えると文も「そう」と一言だけ返事をした。鼓動が早くなる。逃げ出したい、そう思うようになった。
「私は早苗さんに呼ばれて来たのですが、どうやらいないようですね。では」
そう言って背中をみせる。その背中に椛が話しかける。
「私もはたてさんに呼ばれてきたんです。神社へ行ったら神奈子さんが『湖にいるから来るように』とはたてさんの伝言を話してくれたんですよ」
立ち止まってゆっくり振り返る。椛はまだ無表情のままだ。
「でもどこにもはたてさんはいなくて、ここで待っていたら貴女が来たんです。貴女も早苗さんに同じことを言われたのでは?」
文は驚いた。
早苗に騙されたことよりも、こうして一言二言ではなく長々と話す彼女に。自分の前でこんなに話す椛を見たのは何年振りであろうか。そう思う文に構わず椛は横になった枯れ木に腰を下ろして文に話しかけ続ける。
「私はここではたてさんを待ちますが、貴女は?」
椛の表情が少し動いた。それに誘われるように文は無言のまま椛から離れて同じ枯れ木に座った。
静かだった。
二人は黙ったまま湖を眺めていた。
ようやく頭が働いて風が枯れ木の枝を揺らす音が耳に入ってくる。そしてやはり早苗に騙されたことを知った。椛とこうして二人きりにさせる、その意図すら読むことができた。
ちらりと椛の横顔を盗み見た。椛は黙って湖を見つめたままだ。
あの日、赤く腫れた――自分が傷つけた左頬はすでに治っている。しかし文の心には未だ罪悪感が刺さったまま抜け落ちない。あの日からずっと。
今度は体を向けて真正面から椛の横顔を見つめた。
そうして知ったのだ。
終わっていなかったからだ。
自分に好意を寄せる早苗の想いを知らないふりをしていたのも、恋愛事から遠ざかっていたのも、まだ終わっていなかったからだ。
文の頭に話したい言葉が浮かんだ。
だがこうして椛と二人きりになるのはあの日以来だ。
ずっと避け続けてきた。その年月が文を躊躇させた。今頃どうやって伝えればいいのか。その術が浮かばない。
文が視線を落とした。
「こうして二人きりになるのは久しぶりですね。文さん」
先に話しかけたのは椛だった。視線をようやく湖から移して文を見つめる。無表情のままだったがその顔に力が入っていた。
「……そうですねぇ」
「あの頃はお互いに忙しくてこうして出かけることも少なかったし」
「……ええ」
どちらかと言うと椛の方が言葉少ないのだが、今は文の方が椛の言葉に答えるので精一杯だった。椛の話にあの頃の事が頭によみがえる。
すれ違った自分たちの事を。
言い争った日々の事を。
そして椛を泣かせたあの日の事が。
ますます文の中で罪悪感が強くなる。
伝えなければいけない。
「……ごめんなさい」
口にしたのは椛だった。
文が目を丸くして椛を見つめる。そこには無表情だが、片目から涙を零す彼女がいた。
しばらく言葉に出来なかった。
じっと互いに見つめ合っていた。
「今まで……ずっと伝えたかったです。私が意固地でした。あの頃、文さんも忙しい事を知っていたのに、まるで自分の方が忙しいと思い込んでいてそれが文さんの足枷になっていたのでした。文さんと別れてから、ずっと罪悪感を覚えていました。一言謝りたいのに、やはり意固地な私は伝えられぬまま……こうしてはたてさんたちに迷惑をかけないと伝えられなかった。でも、今日はっきりと言います。文さん、ごめんなさい……」
両目から次から次へと涙が零れ堕ちる。しかし拭おうとせず椛は文に頭を下げた。
思いもよらない言葉に文の頭はしっかり働いてくれない。必死に椛の言葉を頭に入れて、理解した時には椛の顔が滲んでしまった。
文の中で何かが吹っ切れた。
涙を拭うことも忘れて文も深く頭を下げた。
「私です! 謝らなければいけないのは、私です。ずっと椛のことを傷つけて、悪いのは私でした。すみませんでした。許してくださいとは言える身ではありませんが、それでも言いたかった。ごめんなさい!」
それはずっと伝えたかった言葉。
離れ離れになっても椛と最後の最後まで繋げていた文の気持ちだった。
しばらく二人の鼻をすする音が湖に響いた。お互いに顔を伏せて、長い間胸に膨らんでいた気持ちが溢れ出る。
泣きながら文の脳裏に映ったのは、もはや椛とすれ違い、喧嘩し、そうして頬を打った日々のことではなかった。
二人で作った夕食。
寝床に並んで横になりながら遅くまで語り合った夜。
椛が仕事場へ出かけるときに交わした口づけ。
忘れてしまっていた椛との楽しい生活の日々が、記憶の中で埋もれていた椛との思い出がはっきりと思い出された。
一つ一つ頭の中に浮かんで文は思った。
私はこの人のことは嫌いじゃない。今では愛おしい。その体に甘えたくなった。
「……お互いに思っていたことは同じだったのですね」
椛の言葉に文は顔を上げた。
彼女の目からは涙が未だ溢れている。その顔は小さく微笑んでいた。しかし、かつて文に見せてくれた綺麗な笑顔ではなかった。
「よかった……目も合わせられないまま過ぎていくのかと思うと、怖かったです。でも、ようやく自分の気持ちを言えて、本当によかった……」
「椛……」
「文さん」
椛は少し文に近寄って、そしてはっきりと告げたのだった。
「私と別れてください」と。
「……やっぱり、そうなりますよね」
「私には今、好きな人がいるんです。その人は私のことを本当に好きでいてくれています。でも文さんのことを思うと、その人の気持ちに答えるとこうして文さんに謝る機会が失われるような気がして……」
「そうですか」
文は目を閉じて頷いた。
やはり終わっていたのだ。それでも椛の「ごめんなさい」という言葉を聞いて、ふいと期待してしまった自分を殴りつけたくなる。自分に好意を寄せてくれる早苗さんを騙し続けてそうして知らぬふりをしたまま復縁を期待していた自分を。
「早苗さん、文さんに気にしているようですよ」
「知っていたのですか?」
「ええ。はたてさんから聞きましたから」
椛はニッコリと笑った。それでも文の脳裏に浮かぶ椛の笑顔ではなかった。あの笑顔はもう自分には向けてくれないのだろう。そう思ってようやく未練を絶つことが出来た。
「椛のお相手ははたてでしょう?」
「はい。文さんも知っていたのですか?」
「いえ。なんとなく勘です。早苗さんのように感じたのです」
二人は顔を見合わせて笑った。
もう二人は愛し合った仲ではない。
同じ天狗仲間でもこれからは他人だ。
「それではこれで」
「行くのですか?」
「ええ。どこかではたてさんがいるはずですから……それでは文さん。明日は一緒に宴会に参加しましょう」
「……ええ。はたてとお幸せに」
文の言葉に頷いて椛はゆっくりと歩き出す。その背中を文はじっと見つめていると、やがて遠くなり椛の姿が見えなくなった。
「……あー。終わりましたねぇ」
誰かに話しかけるように文は大きく背伸びをして呟いた。
さてどうしようか。きっと早苗さんも近くにいるにちがいない。迷惑をかけたことを謝ろう。にとりさんにも頭を下げに行かないと。終わったのだ。椛との全てが、終わったのだ。これからは早苗さんの気持ちを真剣に受け取らないと。
だが文の喉奥から嗚咽が込み上げてくる。また目から涙が溢れてきた。先ほどとは比べ物にならない量の涙が。
胸が苦しくなる。
堪えきれないほどの後悔の気持ちが高波となって文の心にぶつかった。
終わった。終わった。全て終わりを迎えた。
「文さん。今日は煮物を作ってみましたよ」
ニッコリと笑う椛がゆっくりと文の目の前に振り返った。
「……あぁ……ひっく、うわぁぁああああ!」
湖に一人残された文は大きな声で泣いた。
それでも――もう彼女には戻れない。
ふと文の頭によぎるのは。「文さん」と呼びかける綺麗な笑顔の彼女だった。
※
「いやぁー、パラパラと降ってきましたねー。早苗さん」
「文さん、タオル持ってきました。風邪を引かないうちにどうぞ使ってください」
「あやや。これはありがとう」
この日、幻想郷には新年の小雨が降っていた。しかし見上げれば雲を透かして太陽が顔を覗かしている。どうやら通り雨のようだ。
守矢神社の住居スペース。文と早苗は並んで縁側に腰を下ろしながら言葉を交わしていた。射命丸文は髪を適当に拭くと愛用のカメラが塗れていないか確認しはじめる。
「ふふ、鴉天狗さん。今日はどういったご用件で?」
そんな文の姿に東風谷早苗は目を細めていた。
「そりゃあ、もちろん取材ですよ。さぁかわいい早苗さん、何か面白い話題はないですか?」
文は笑うとカメラのレンズを早苗に構えるふりをする。「やだ」と早苗が笑った。
早苗たちが幻想郷にやってきてから半年近くが経っていた。当初妖怪の山に突如現れた守矢神社に警戒していた天狗や山の妖怪たちも、今では友好関係を結んでいる。文と早苗も今では親しい仲だ。文はたびたび守矢神社を訪れては主に早苗と楽しい会話に花を咲かせていた。
「もう、文さんったら。そうやって皆をたぶらかせているんでしょ? キライです」
「あやや。それはとんだ誤解ですよ。早苗さんがかわいいのは本音ですよ」
文はカメラを下すと片手で自分の髪をくしゃっと撫でる。そんな文の顔を見つめる早苗の頬が赤く染まる。そうしてさりげなく少し文に寄る。
「お世辞が得意なのですね」
「さっきから酷い言われ様ですね。ささ、この清く正しい射命丸にネタを提供してくださいな」
「……そうですね」
早苗は視線を空へと向ける。雲が途切れ途切れになっていた。すぐに雨も止むだろう。
少し言いよどんで、「あまり面白くありませんよ」と断りを入れてから話し出す。
「実は明後日、ここで宴会を開こうと神奈子様と諏訪子様がおっしゃるのですよ」
「ほうほう。新年ですからね」
「……あまり面白い話ではありませんね」
「いやいや! お酒で顔を火照らす早苗さんの写真が撮れたら読者も食いつくと思いますよ。早苗さん美人ですから」
「文さん、さっきからバカにしてませんか?」
早苗が笑いながらポカポカと文の肩を叩く。文は「これは痛い」と冗談めかして笑ったあと、
「それで宴会には早苗さんとお二神様だけですか?」
すると早苗の表情が変わり笑顔が消える。視線を文から逸らす。その目に迷いが宿っていた。文も顔から笑みがなくなり「早苗さん?」と首を傾げた。
早苗はあちらこちら視線を移しておそるおそる言いにくそうに口を開く。
「……来られるのは、えーと、はたてさん」
「はたて?」
姫海棠はたてとは文と同じ鴉天狗であり、互いに自作の新聞を競い合うライバルの関係だ。早苗はそんな二人のことを知っている。
(ははぁ。はたてもすでに早苗さんに取材を申し込んでいたのですね。それで早苗さん、言いにくそうにされていたのか。でも、この射命丸。そんなことで焼きもちを焼いたりはしませんよ)
文は「なるほど」と頷いてみせた。
「そうですか、はたてですか。それでは私も参加させていただきましょう」
そう言って手帳を取り出すと筆で書き込みを始める。そんな文に早苗が戸惑った顔を浮かべる。
「あ、文さん。別にはたてさんに取材を申し込まれた訳ではないんです」
「それでも射命丸は早苗さんの写真を撮るため参加します。えーと……山の巫女、新年の宴会、と」
筆を動かす文に早苗はますます言いにくそうな表情を浮かべる。やがてバツが悪そうな顔を浮かべて、ぼそりと文に話しかける。
「……来られるのははたてさんだけじゃないんです」
「へー、あと誰が来るんです?」
「……椛さんです」
椛。
その名前を聞いて文の目が見開いた。筆を動かしていた手が止まる。
沈黙が二人を包む。
取り囲む空気が急に重く苦しいものに変わってしまう。
早苗がじっと見守る中、文は固まったままだ。視線は手帳に向けられているが、今書いたばかりの文章は文の目に入っていない。
「……あー、そうですか」
沈黙を破るように文が口を開く。が、文は筆をしまい手帳をパタンと閉じてしまう。
「早苗さん。実は鴉天狗による集会というものがあるんですよ」
「はい?」
突然話し出した文に早苗が首を傾げる。しかし文はそんな早苗に構わずどんどん言葉を投げかける。
「つまり新聞の批評会ですね。我々鴉天狗はよりよい新聞を作るために互いに競い合っているんです。努力を重ねたその結果を比べ合う機会が、その集会なのです」
文は視線を彷徨わせながら口を動かし続ける。早苗からは見えないが背中に汗がだらだらと流れていた。その気持ち悪さを拭うように文は話し続ける。
「しかし困ったことにこの集会、新年には必ず開催されまして。早苗さん、是非とも参加させていただきたかったのですが、当日行けなくなるかもしれません。そのときはどうかご勘弁を――」
「文さん! ……椛さんのこと、嫌いなんですか?」
早苗が大きな声を出して文が驚いて口を閉ざす。
顔を向けると早苗は怒っているように文を真正面からじっと見つめていた。
「……夏の交流会、秋の豊作祈願の宴会の席の時も椛さんが来られると聞いて文さんは欠席しましたよね? 十分新聞のネタになるにも関わらず」
「…………」
「先週もここで天狗さんたちと忘年会をやった時、後から椛さんが来られたのを見て文さんは入れ違いに帰ってしまった」
「……あやや。さすが早苗さん、よく見てますねー。うん、山の巫女は霊夢さんと同じくらいに勘が――」
「誤魔化さないでください!!」
早苗に一喝されて文が再び口を閉ざす。
「ねぇ……どうしてですか? なんで椛さんをそんなに嫌うんですか? 文さん」
その声が弱弱しいものに変わる。目に涙が浮かぶ。早苗は椛とも親しくしている。親しい文と椛、その二人がいがみ合って顔も合わさない、口も利かない。そんな二人を今まで悲しく見つめていたがとうとう積りに積もった思いが爆発したのだ。
「嫌い、ではありませんよ……」
文がぼそりと呟く。
「え?」
声が小さくて早苗にはよく聞こえなかった。文にもう一度訊ねようとした。
その時。強い突風が早苗を襲う。
「きゃっ!?」
「おや? どうやら雨が止んだようですね。それでは射命丸、これにて失礼いたします」
いつの間にか小雨は止んでいた。
早苗の目の前で文は今にも飛び立とうとしていた。
「あ、文さ――」
「また来ます」
そう笑顔で言い残して。早苗が引き留めようとする手をするりと抜けて、文は晴れ上がった空へ飛びだして行った。
「…………」
どんどん小さくなる文の姿を見て、早苗がぼそりと呟く。
「文さんの、バカ」
※
「もしもーし。にとりさん、おられますかー?」
守矢神社を飛び出した文。しばらく幻想郷中を縦横無尽に飛び続けてやがて河童の工房の前に立っていた。
扉をトントンと叩くと中から「はいはーい」と返事が聞こえてくる。
やがて中から河城にとりが顔を出した。
「どちらさまー? ……ひゅい!? しゃ、射命丸さん!?」
「どうも清く正しい射命丸です。先日修理に出した予備のカメラを取りに伺いましたよ」
文がにっこり笑うと、にとりは外へ出るとすぐに扉を背中で閉じてしまう。そうして慌てて作り笑いを浮かべた。
「え、ああっ! カメラ! カメラですね! すでに修理できてますよ! と、取ってきますのでここでお待ちください!」
(ん?)
背中で工房の扉を守るようにして、「あ、あはは」と苦笑いを浮かべるにとり。そんな彼女を見て文はニヤリと笑った。
(これは何か隠していますね……)
ネタの匂いに文の記者としての本能が疼きだす。
(ちょうどよかった……今の気分を紛らわすためににとりさん、ネタになっていただきますよ!)
「しゃ、射命丸さん。ど、どうしたんですか? 笑顔が怖いですよ」
そんな文の雰囲気を察してか、にとりは警戒を始める。しかしそんなことはお構いなしに文は訊ねた。
「いやー、にとりさん。このところどうですか? 新しい発明品はできましたか?」
「え? あ、いやぁー。ここのところはさっぱりで、まだ何も浮かんでないですよー」
「本当ですか? 何か、隠していませんか?」
文の追及ににとりが体をびくりと震わした。やっぱり、何か隠している。文は確信した。
「ちょーっと中を覗かしても?」
「いやいやいや! 何もありません! まったくありません! 私の余裕もありません! とにかくありません!」
首と片手をぶんぶん千切れる勢いで振るにとり。「ふぅーん」と文が肩をすくめてみせる。一歩引いた文ににとりはほっと息を吐く。
が、文はふいと顔を右に向けて「あ」と言葉を漏らした。
「あれは……雛さんですね。にとりさんに用事でもあるんでしょうか?」
「えっ!? ひ、雛!?」
文の視線に釣られてにとりも顔を向ける。しかし、そこににとりが恋する厄神様の姿はどこにもない。
その隙に文はにとりの工房の中へと滑り込んでいた。
「だ、騙したなぁー!!」
「あははは! さぁ、にとりさん! 河童の最新鋭の発明品、見せてもらいま――」
後ろでにとりが顔を真っ赤にするのをよそに文は滑り込んだ工房内で愛用のカメラを構える。だがレンズに映りこんだ影を見て文の言葉は急に失われる。
工房内はいろいろな部品で散らばっていた。新発明のものなどどこにもない。
一角に設けられた休息スペース。
そこに置かれた大将棋盤を前にして彼女――犬走椛が座っていた。
「…………」
椛はちらりと文を見るとすぐに将棋盤に視線を戻した。その表情に感情はまったくこもっていない。まるで文など視界に入っていないようにも見えた。
河童の工房にもまた重苦しい空気が流れてきたのを文は感じた。守矢神社で早苗に言い詰められた時よりも、もっと息詰まる空気。
後ろで「あちゃー」と片手で両目を塞ぎながら天井を仰ぐにとりに文は話しかけた。
「……おやおや。いつもは滝の裏でしていたのでは?」
「え? あ、あぁ今日は天気がよくないんで、私の工房でしようということになりまして」
「そうでしたか……」
文とにとりが言葉を交わしても椛の表情はまったく変わらない。口を挟むことなく盤上を見つめたままだ。
「どうもお邪魔だったようですね。それでは私はこのへんで……」
「え? あ、そうですか! どうもお構いもなくすみません! は、はい! こちらカメラです!」
無理に笑いながらにとりが文の予備のカメラを手渡す。文はいつもならその場でカメラの調子を確認するのだが、そのままカバンに仕舞った。
「にとりさん、ありがとうございます。強引にお邪魔してすみませんでした」
「いやいや! ま、またカメラの調子が悪かったら持って来てください!」
文が「では」と工房を後にしようとする。扉に手をかけた。
「……変わらないですね。貴女は」
呟かれた言葉。
文の足が止まり振り返る。椛は将棋盤を見つめたまま話す。
「相手の迷惑を顧みず押しかける。昔からまったく変わっていない」
椛の言葉に文が無表情のまま椛に鋭い視線を送る。椛は動じない。にとりだけが「あわわ」と冷や汗を流していた。
「……明るみに出ていない真実を報道する。それが鴉天狗の性分でして」
「そうですか」
文の言葉に椛は少しも視線を移さず淡々と答える。そんな椛をしばらく見つめてから文は早足に工房から出ると再び空へ舞い戻った。
あっという間に文の姿が見えなくなる。
「ふぅ……もう。まったくお二人さん、いい加減にしてほしいな。椛たちのために私ら、どんだけ気をつかっていると思っているの?」
文が去ってほっと安堵したにとりが苦々しい表情で椛に振り返って悪態を吐く。
「そろそろまともな言葉を交わすぐらいには仲直りをしてほし――」
「ごめん」
口を挟むように椛が謝罪の言葉を口にした。
「にとりたちには、いつも迷惑かけてる……本当に、ごめん」
椛は悲しい、遠い昔を思い出しているような目をしていた。その目を少し眺めてにとりは「やれやれ」と肩をすかした。
「まぁ、椛たちの事情はよく知っているからあんまり強く言えないけど。私もキツイこと言ってごめん。さ、続きしよう」
にとりの言葉に椛は小さく頷いた。
※
「文と椛の仲が悪い理由?」
「そうです。はたてさんなら知っていますよね?」
文が守矢神社を飛び出してから少しして、今度ははたてが守矢神社を訪れていた。明後日の新年会の時間の確認のためだ。打ち合わせた後、早苗がはたてに切り出したのだった。
「ずいぶん唐突だね。早苗、何かあったの?」
「……いえ。ただ文さんも椛さんもお互い顔も合わさないじゃないですか。その、気になって……」
先ほどの文とのやりとりは口にしなかった。俯く早苗にはたてが笑みを浮かべる。
「そっか。そりゃ好きな人のことは気になるよねー。わかる」
「わ、私は真面目です!」
はたてにからかわれた早苗が睨む。しかし頬を赤く染める早苗の顔はちっとも怖くない。はたてはニヤニヤと笑ってからふと遠くを見つめた。
「うん、知ってるよ。私だけじゃない。この山にいる妖怪たちなら二人のことをよく知っているよ。早苗はまだここに来たばかりだから知らないでしょうけど」
「教えてください! 文さんと椛さんに何があったんですか!?」
詰め寄る早苗にはたてが「うーん」と困った顔をして、やがて早苗に向き直る。その表情は真剣だった。
「先にいっておくよ。聞いて後悔しない? 早苗には辛い話だよ」
重い口調のはたてに、早苗はゆっくり頷いた。
「大丈夫です。すでに想像はついていますから……文さんと椛さん、付き合っていたんですね」
最後の方は小さな声になっていた。早苗が目を伏せる。
――椛さんは文さんの元彼女。
薄々そう感じていた早苗は覚悟を固めて、はたての言葉を待った。しかしはたては目を丸めてから「これはまた困った」と苦笑いを浮かべた。
「どういうことです?」
「早苗。やっぱりこの話、辛いよ。それでもいい?」
話が見えない。でも真相を知りたい。早苗は再びゆっくりと頷いた。はたてが大きくため息を吐く。
「あの二人は――昔、夫婦だったんだよ。今は離婚しているけど」
※
五年ほど前のことだ。
文が文々。新聞の発刊に忙しい日を送っていた頃。
ある日、天狗たちの宴会が開かれ文は何気もなく参加した。
宴会は大きく盛り上がった。
「射命丸さん。今度の新聞も出来がよかったですね」
「あやや。褒められたら照れちゃいますよ」
仲間の鴉天狗に酒を注がれて、文は頭を掻きながら嬉しさを隠せないでいた。注がれた酒を一気に飲み干す。
「今年は白狼天狗にも有望な新人が出てよかったよ」
「え? 有望な新人って」
文が訊ねると仲間の鴉天狗は顔を赤らめて答えた。
「そら、あそこにいるやつだよ」
仲間の鴉天狗が顎で示す。文が視線をその先に移すとそこに一人の白狼天狗が、少し輪から離れて静かに盃を傾けていた。
人づきあいが苦手なのだろうか。先輩の白狼天狗が話しかけても彼女は口数少なく返事するだけで、また一人で酒を飲んでいた。
しばらく彼女を見つめて好奇心にかられた文はゆっくりと彼女の傍に寄った。
「こんばんは。有望な白狼天狗の新人さんとは貴女のことですね」
「え?」
文に声をかけられて彼女は驚いたように見つめ返した。文はにっこりと笑ってみせた。
「鴉天狗たちの間でも貴女のことで話題になっていますよ。ところで静かに飲んでいるんですね」
白狼天狗は戸惑ったように目を動かして弁解するように返事した。
「あ、あまりこういう場に慣れていなくて……知らない人もいますし、こんなに先輩たちに囲まれたら、き、緊張してしまって」
顔を赤らめてもじもじとさせる彼女。文はそんな彼女を見て目を細めた。
(……可愛らしい子ですね)
文は彼女の横に腰を下ろした。白狼天狗の彼女はドキッと体を震わせた。まだ緊張が解けていないようだ。
「私、射命丸文といいます。どうやら皆期待しているそうですよ。これから力を合わせて頑張りましょうね」
文が笑いかけると彼女はしばらく文を見つめた。そして優しく微笑んだ。
「……はいっ!」
その表情からようやく緊張がほぐれたようだ。文はうんうんと頷いて、彼女に訊ねる。
「そういえばまだお名前を聞いていませんでしたね? うかがってもよろしいですか?」
「……椛。犬走椛、です」
初めてにっこりと笑った椛の顔に、文はたちまち引き込まれた。
文と椛はその日から親しい間柄になった。
お互いに仕事を終えて、たまに会うと必ずどちらからともなしに話しかけるようになった。
「文さん、お疲れ様です。今度の新聞は力作だったようですね」
「いやいや。椛たちが私たちを守ってくれるからこそ、新聞作りに力が出るのです。椛のおかげでもあるんですよ」
「そんなぁ、文さんがすごいからですよ」
顔を見合わせれば自然と笑顔がこぼれる。言葉を交わせれば楽しく思える。周りから見ると彼女たちは仲睦まじい様子に見えた。
そんなある日。
文が仕事終わりの椛を人気のない山奥へと誘った。椛は首を傾げながら「文さん。話ってなんですか?」と訊ねるが、文は「後でお話しします」と答えるばかりだ。
やがて切り開かれた場にたどり着いた。
文は「ここでいいでしょう」と呟いて、椛に向き直る。
「椛。実は貴女に大事な話があるんです?」
「大事な、話?」
周りに気配がないのを確認して、文はすぅーっと深呼吸をする。そして椛の目を見つめた。
「貴女のことが……好きです。心から愛しています。よろしければ、私とお付き合いしてくれませんか」
文が顔を赤くして告白する。
椛も文の言葉を何度も頭の中で繰り返して、急に頬が朱に染まった。
「あ、文さん。本当に……本当に私のこと……?」
文はゆっくり頷いた。すると椛の目に涙が溢れてくる。
「……ダメですか」
「そんなことありません! 私も、文さんのこと、好きでした……私でよかったら」
涙を零しながら椛は微笑んだ。文は椛を見つめると、ゆっくり近づいて椛を力いっぱい抱きしめた。
「そうか。結婚するのか」
「はい、大天狗様。私と椛は夫婦になろうと思います」
椛と恋人同士になったことは天狗たちの間ではすでに知られていた。寄り添い合う二人に周りの天狗たちは冷やかしたりしながら温かく見守っていた。
そんな日々が続く内に、文は椛との結婚の意思を固めた。そしてこの日、椛と一緒に大天狗の元へ足を運んだのだ。
「どうか、私たちの結婚を許してください」
椛が懇願するように言うと、大天狗は「そんなに深刻な顔をするな」と椛を宥める。
「皆に知られているくらい仲のよいお前たちだ。ここで反対したら皆に何を言われたものか堪ったものじゃない。結婚を認めよう。末永く幸せにな」
大天狗は二人に優しく微笑んでみせた。その顔を見て、文と椛は顔を見合わせて喜びを表情に表した。
「さて、そろそろ寝ましょうか。椛」
「あ、はい……」
天狗たちに祝福されて、晴れて夫婦となった文と椛。
その夜。二人のための新居の寝室に、文と椛は布団の上に並んで座っていた。
布団は一組。そして枕は二つ。
二人は顔を真っ赤にしながら、視線を反対に向けていた。
「み、皆私たちを祝福してくれましたね!」
「え、ええっ! 文さんが綺麗って言ってくれる白狼天狗もいましたよ」
ドキドキ心臓を鳴らしながら、やがて二人は向き合った。じっとお互いの目を見つめ合う。
「不束者ですが、よろしくお願いいたします」
「こ、こちらこそ! 椛、よろしくお願いいたします!」
深々と頭を下げ合う二人。しばらく沈黙して二人の笑い声が響いた。
「……文さん」
椛が目を細めて文を見つめる。文も黙ったまま椛を見つめ返す。
そして文は椛に寄り添うと、彼女の体を優しく布団に押し倒した。
「文さん、それじゃあ仕事にいってきますね」
「あ、椛。お弁当忘れていますよ!」
玄関から出ようとする椛を文が呼び止める。振り返った椛に風呂敷に包まれた弁当箱を渡すと、二人の間に笑顔が浮かんだ。
「文さん。いつも作ってくれてありがとうございます」
「いやいや。私は今日は家で新聞作りをしますから。今日は家事のことは任せてくださいよ」
「ふふ。本当にありがとう。文さん、大好きですよ」
「私こそ。椛のことが大好きですよ」
そう言うと文は唇を椛に近づける。椛も目を閉じた。
お出かけ前の口づけ。二人が出かける時の恒例の儀式だ。五秒、十秒と唇を重ね合わして、やがてゆっくり顔を離す。
「いってらっしゃい、椛」
「いってきます。文さん」
笑顔で椛は家を出る。そんな彼女の姿が見えなくなるまで文は玄関から見つめていた。やがて椛の姿が見えなくなると、文は一つ背伸びをした。
「うーん……さぁ、今日も頑張りますかね」
そう言って扉を閉めて、家へと入る。
文も椛も、幸せだった。
その幸せが、ずっと続くものだと思っていた。
結婚生活がしばらく続いたある日のことだった。
文々。新聞の評価をもっとよくするために文は新聞作りに没頭するようになっていた。
「……ただいま」
文が作業室で筆を動かしていると、玄関から椛の声が聞こえてきた。筆を置いて玄関へ足を運ぶと、そこには仕事に疲れたのだろう椛がため息を吐いていた。
「お疲れ様。仕事、大変でした?」
「ええ。今日は低級な妖怪が押し寄せてきたんですよ。弱かったのですがなにしろ数が多くて疲れちゃいました……」
「まぁ、ゆっくりお休みなさい。何か飲みますか?」
「そうですね。お茶が欲しいです」
二人は微笑みながら台所が見える居間へと足を向けた。居間に入ると、文は椛に座るように促す。
「すぐにお茶を淹れますから、待ってくださいね」
しかし椛は座らず、その視線を台所へと向けていた。その表情から笑顔が消えている。
「……洗い物」
「え? ……あ」
椛の視線の先を見て、文の言葉が失われる。
そこには二人の朝食に使われた食器類が、椛が出かけた時と同じように山を作っていた。新聞作りに熱中し過ぎたせいで文はすっかり忘れていた。
「あ、ああ。すみません、すっかり忘れていましたよ。どうもこの所、集中し過ぎてしまって――」
「洗濯物は畳んでありますか?」
「せ、洗濯物?」
突然、椛に訊ねられて文が振り返ると窓の外の洗濯棒には、また今朝とそっくり同じまま服がかけられていた。
「いやぁ、これはまたうっかりしていました。今日はどうもダメですねぇ」
文が「あはは」と笑う。だが、椛は重くため息を吐いて洗濯物を取り込もうとする。
「あ、椛。いいですよ、私がやります。椛はゆっくり休ん――」
「一日家にいるんでしたら、少しくらい家事をしてくださいよ!!」
「……え?」
文が目を丸くして椛を見つめる。椛もはっと気が付いたように文に向き直る。
「……ごめんなさい。私、ちょっと疲れています」
椛が申し訳なさそうに呟くと、文は笑顔を作って椛に話しかける。
「あ、そうですね! お仕事大変でしたからね。さ、椛。洗濯物も洗い物も私がしますから、ゆっくりしてください。今お茶を淹れますから――」
「いえ。疲れているので休みます。文さんも無理をしないでくださいね」
そう言い残すと椛は居間から出ていってしまう。寝室のドアが開けられ、閉める音が響いた。
「……あやや」
居間に取り残された文は「ふぅ」と息を吐いた。そして先ほどの椛の棘のある言葉を思い起こしていた。
(……そういえばこのところ椛に家事を任せきりでしたね。椛ばかりに苦労はかけられませんね。しっかりしないと)
そうしてまずは洗濯物を取り込もうと文は動き出す。
しかし文の心には棘が刺さったままだった。
二人の幸せだった結婚生活。
その歯車が狂い出そうとしていた。
いつの間にか二人の間に溝が生まれていた。
「椛。お弁当忘れていますよ」
「今日は急いで出勤しないといけないんです。ごめんなさい」
そう言って椛は朝食も採らず家をいそいそと出て行ってしまう。お出かけ前の口づけを交わさなくなったのは、いつのことだったか文には思い出せない。
連日、妖怪たちがこの天狗の里に押しかけて、緊迫している状況は文も知っていた。
(椛も大変ですね……でも、お弁当くらい受け取ってもいいじゃないですか!!)
家に残された文が歯ぎしりをする。そうして作業室へと閉じこもる。昼に椛のために作ったお弁当を自分で食べる。ちっとも美味しくなかった。
ある日の事。
すっかり夜も更けた遅い時間に、文が酒に酔い顔を赤くしながら家に帰ってきた。
「今、帰りましたよ……」
「……おかえりなさい」
居間に入ってきた文を椛が冷たい目で返す。
「こんな遅い時間まで仕事していたのですか」
「ええ。取材に時間がかかったのでね」
「……それでもお酒は飲んでくるんですね」
机の上には椛が作った夕食が並べられていた。文はそれをちらりと見るが、まったく気にしない。
「ええ、そうですよ。それが? なんですか、居酒屋でお酒を飲んじゃダメですか? 寄っちゃダメなんですか!? 仕事上がりに仲間と飲んじゃいけないと言うんですか!!?」
椛は何も答えない。視線を机の上に並べられた料理に移して、ゆっくりと腰を上げた。
「……作り直します。待ってください」
「いりません」
そう言い残すと文は居間を後にする。そして作業室に入ると乱暴に音を立ててドアを閉める。
もう二人が寝室で布団を並べて寝ることはなかった。
すでに文は自分の布団を作業室に持ち込んで、そこで寝ることになっていた。
椛が「はぁ」とため息を吐いて、目の前にある料理の器を手にする。そうして台所に持っていくと、流し台に全部ぶちまけた。
「……妻をこんな遅くまで一人にさせて、平気なんですね」
大宴会が行われた。
恒例の天狗たちによる宴会だ。皆、酒に酔い笑い声をあげていた。
その隅で文と椛は表情を殺して座っていた。
二人の間に言葉が交わることがない。顔すら合わさない。文はただ目の前の酒をちびりちびりと飲む。まったく酔えなかった。椛も少しずつ料理を口に運ぶだけだ。
鴉天狗や白狼天狗が文や椛の元に寄って声をかける。しかし、二言三言ですぐに二人から離れる。
一人の鴉天狗が文に話しかけた。やはり少しだけ会話を交わして、すぐに立とうとする。
「ちょっと待ってくださいよ。もう少しおしゃべりしましょうよ」
するとその鴉天狗はニヤニヤと笑って、文に諭すように話す。
「そういうわけにはいかないだろ?」
「え?」
「話し込んじゃ、奥さんに悪いだろ。じゃね」
再び賑やかな輪へ戻っていく鴉天狗の背中を見つめて、文の背中が急に冷えていくのがわかった。
横目で椛を見る。椛は箸を止めて、ただ目の前の料理を見つめていた。
文は思った。もはや椛は妻ではなかった。
――ただの足枷だ。
そんな酷い言葉を浮かべ、やがてそんなことを思う自分が嫌になって、文は徳利を手にしてそのまま酒をかっ食らう。それでも酔えない。
椛は行儀の悪い妻を窘めることなく、すっかり冷たくなってしまった料理に視線を落としていた。
ついに。その日がやってきた。
朝から文は作業室に閉じこもって新聞作りに励んでいた。昼食もそこそこにしてすぐ作業に戻ると、やがて夜までせっせと筆を動かしていた。
やがて玄関が開く音がして、居間へと足音が向かうのが聞こえた。文は一瞬、筆を止めたがすぐにまた動かす。
すると今度は水道を流す音が響く。さすがの文も筆を置き、居間へと向かう。
そこで椛は背中を見せて朝と昼に文が使った食器を洗っていた。
「……私が使ったんですから置いてください」
文が冷ややかに言葉を投げる。しかし椛は聞こえていないのか、無視しているのか食器洗いを止めない。
「……食器を置きなさい!!」
今度は怒鳴るように言ったがやはり椛は返事すらしない。ひたすら洗い続ける。
「あー、もう!!」
文は苛立ちを覚え椛に詰め寄る。そしてその肩を掴んで強引に振り向かせる。
「置きなさい、って言っているでしょうが!!」
パン!
文の左頬に衝撃が響いた。やがてじわじわと痛みが込み上げてくる。
いつの間にか顔が右に向いていた。何が起きたのかわからず椛に視線を戻すと、椛が右腕を体の左側に振り終えていた。
平手打ちされたのだ。
そう理解すると文の体の中で何かが爆発した。
そして右腕をすっと大きく振りかぶると、掌を椛の左頬に目がけて強く振り降ろした。
気が付いた時には、文の前で椛がうずくまっていた。自分の呼吸がかなり乱れているのもわかった。
「……うぅ…………ひっく」
椛の体が震えていた。
そんな椛を見て、自分の体が急速に冷えていくのがわかった。とんでもないことをしてしまった。文は呆然と椛を見つめて静かに声をかけた。
「……椛?」
しかし椛は返事をしない。体は震えたままだ。
文はしゃがみ込み椛の顔を覗きこむ。
「…………ぐすっ、すん……ひっく……」
頬は痛々しく赤く腫れていた。椛は目に大量の涙を溢れさせていた。それを零すまいと、少しの嗚咽も漏らすまいと必死に歯を食いしばっていた。
文は「あ」と思った。そうしてしばらく見つめていると、自分自身がいたたまれなくなった。そう感じた時には文は家を飛び出してしまった。
朝まで文は居酒屋で酒を飲んでいた。何杯も注文する。どれだけ酔っても文の中では罪悪感が巣食ってどんどん大きくなっていった。それを必死に隠そうと文は酒を煽る。
やがて居酒屋が閉店時間を迎えてしまい追い出された文はふらふらと家へと帰る。
まだ椛は泣いているのだろうか。もう寝てしまったのだろうか……謝ろう。きちんと謝ろう。そう思い家へ上がる。
「椛……?」
小さく呼んでも返事はない。文はゆっくり居間を覗き込む。しかし椛の姿はなかった。
寝てしまったのか。そう思い久方ぶりに寝室へ足を踏み入れた。そして驚愕した。
部屋は空き巣にでも入られたかのような惨状だった。衣装籠という衣装籠は全てひっくり返っている。床には文の服が散乱していた。
「椛!?」
ふらつく体で文は大声で妻の名を呼びながら自身の作業部屋を覗く。そこにも椛の姿は見えなかった。再び居間へと向かう。
「……椛?」
そこで文が見つけたのは机の上に置かれた一枚の紙。ゆっくりと手にして酔いで視線が定まらないのを必死に固定する。
自分だけが忙しいと
勘違いしている貴女に
もう、合わせられません
震える手で書いたのだろう、字はかなり歪んでいた。紙には数滴の滴が零れ堕ちた跡も残っていた。
短い手紙を読み終えて文は壁に背をもたれて座り込んだ。ふぅーと酒臭い息を吐く。
涙はまったく出なかった。
何も考えられなかった。
昨晩の出来事も、家を飛び出す前の椛の泣き顔も歪なものになりはっきり思い出せない。
ただ、空しい。そんな気分だけが文を包んだ。
「……あー」
遠くなる意識の中で、文は「そっか。終わっていたんだ。私たち」と声にならない声で呟いた。
「……離婚、と言ったのか?」
「はい。射命丸文は犬走椛と離婚いたします」
翌日。文は大天狗の元を訪れていた。
「何があったんだ? 話なら聞くぞ」
「いえ。自分たちの問題ですから……大天狗様も、皆も祝福してくださったのに、こういう結果になってしまって申し訳ありません」
文が深々と頭を下げる。
彼女が結婚したいとここに申し出た時には隣に椛がいた。しかし今の文の隣には誰もいない。
「……射命丸の言い分だけを聞いても仕方がない。犬走と話がしたい。また今度、二人で来てくれないか」
「いえ。申し訳ありません」
文は頭を下げたまま話を繋げた。
「もう彼女の顔は見たくありませんので……」
文の言葉に大天狗は上を見上げて目を閉じる。そして深いため息を吐いた。
後日、椛も大天狗の元へ訪れて文との離婚を申し出た。大天狗は何も言わず静かに頷いた。
ここに二人の結婚生活は終わりを迎えてしまった。
※
「……ただいま」
すっかり夜になっていた。居酒屋で酒を飲んでから文は暗い家へと帰った。玄関先で小さく呟いてみるも今では返事をしてくれる者は家の中にいなかった。
居間に入って畳の上に寝っ転がる。灯りをつけないまま「あー」と酒臭い息を吐いて天井を見上げた。もう文に注意するものも小言を言う者はいない。自分の思うままに過ごせる。
「なのに胸に押し寄せるこれはなんでしょうね……」
今日一日の出来事が頭に浮かんで胸が痛かった。
守矢神社での早苗さんの顔。
河童の工房で見た椛の横顔。
その椛の言葉。
ふと。
椛の笑顔が浮かんだ。
二人で暮らし始めた時の、二人が付き合い始めた時、初めて出会った時の綺麗な笑顔が。
彼女はゆっくりと振り向くと文に笑いかけた。
上半身を起こした。文の顔が驚きに満ちていた。
何だ今のは。なぜ椛の笑顔が浮かぶのか。こうなることを望んでいたのではなかったのか。彼女と別れてよかったのではないか。
自分でもわからなかった。額に手を当てて前髪をくしゃくしゃをかいた。
家の前に気配がした。文がそれに気が付いたときにはその気配は宙へと飛び去っていったようだ。
ふらふらと文が玄関に向かう。心臓がドキドキした。頭の中でまた椛の笑顔が浮かぶ。
しかし外には誰もいなかった。辺りを見渡して宙を見上げて誰もいないことに文は肩の力を落した。
まただ。残念に思う自分が、椛ではないかと思う自分がいる。
頭の中で自分に問いかけながらドアを閉めようとした。ふと視線を落とすとそこに一枚の便箋が不自然に置かれていた。先ほどの気配の持ち主が置いていったものだろう。ゆっくり腰をかがめて便箋を拾い上げた。
明日、守矢神社に来てください。
必ず。
東風谷早苗
見覚えのある早苗の字だった。酔った頭に叩き込むように何度も読み返して文は苦い顔をする。昼間の出来事が思い出される。怒っているのだろうか。
しかし行こうか行かないか迷うことはなかった。早苗が自分に気があることは見抜いていたのだが、それでいて知らない風を装っていたのだ。
自分に好意を寄せてくれる早苗と疎遠になってしまうのは避けたかった。今までのように仲のいい関係でありたい。
そこで文は思考を止めた。
なぜ自分は彼女の想いを受け止めようとしないのか。今は独り身である。早苗とお付き合いしてもいいのに、なぜ恋愛事から遠ざかろうとするのだろうか。
そんな疑問が浮かんだが頭に答えが出る前に頭を大げさに振る。
とにかく明日、守矢神社へ行かねばいけない。
家の中へ入り今は自分一人だけの寝室に布団を乱暴に敷いて横になった。
酔いはすでに醒めて中々寝付けなかった。
※
「おはようございます。早苗さんにご用があって来たのですが」
翌日。今日はよく晴れていた。
あまり寝られなかった頭は少しボーっとしていた。しかし文は起きると朝食もそこそこに守矢神社にやって来たのだった。境内にいたのは諏訪子だった。
「おはよう。早苗なら神社の裏手にある湖の方に行ったよ。『文さんが来たら湖に来るように言ってください』ってさ」
「あややや……」
諏訪子はニッコリ笑って湖の方を指差した。早苗から話を聞いて諏訪子と神奈子に問い詰められると思っていたがその心配は杞憂だったようだ。しかし肝心の早苗がここではなく人目を避けた場所に呼び出すとなると、やはり怒っているのか。
ありがとうございます、とお礼を言ってから文は湖へと向かった。
諏訪子と別れて湖へと向かう文を神社を囲む雑木林の影から早苗とはたてが見つめていた。早苗は心配そうに、はたてはどこか不満げな表情を浮かべていた。
「あとは文さん。ご自分の気持ち次第ですからね」
「はぁ。早苗、話を聞いて私も協力したけどさ。文の家に手紙届けたし。でもね」
ため息を吐いてからはたてが話しかける。早苗が振り返ると怖い顔をしていた。
「もう一度言うけど椛を傷つけるようなことになったら、私許さないからね」
真剣な眼差しのはたてに早苗は小さく微笑んで頷いた。
「大丈夫ですよ。あのお二人なら、きっと」
「自信あるのね」
喉元に「巫女の勘です」と出かかったがそれは口に出さず、早苗は微笑んだままだった。
「さて、早苗さんはどこでしょうか?」
神社と共に幻想郷へやって来た湖は太陽の光を反射して輝いていた。それがやけに眩しく思えた。
辺りを見渡すも早苗の姿はどこにも見当たらない。騙されたように思えて文は少しイライラした。
「あんまりからかうものじゃないですよ――」
悪態を吐いてもう一度辺りを見渡す。
文の口から言葉が形を失い消えていく。
「…………」
目の前に椛が立っていた。
何も考えていないというように、無表情な顔で文をじっと見つめていた。
文の頭の中が真っ白になる。辺りの物音がすぅーっと遠ざかるように聞こえなくなる。自分の鼓動だけがやけに耳を突いた。
昨日と同じ椛の、かつて自分に見せてくれた彼女の笑顔が浮かんだ。
目の前の彼女はもうその笑顔を見せてくれない。
「……何か用ですか、椛?」
「いえ。何も」
椛が短く答えると文も「そう」と一言だけ返事をした。鼓動が早くなる。逃げ出したい、そう思うようになった。
「私は早苗さんに呼ばれて来たのですが、どうやらいないようですね。では」
そう言って背中をみせる。その背中に椛が話しかける。
「私もはたてさんに呼ばれてきたんです。神社へ行ったら神奈子さんが『湖にいるから来るように』とはたてさんの伝言を話してくれたんですよ」
立ち止まってゆっくり振り返る。椛はまだ無表情のままだ。
「でもどこにもはたてさんはいなくて、ここで待っていたら貴女が来たんです。貴女も早苗さんに同じことを言われたのでは?」
文は驚いた。
早苗に騙されたことよりも、こうして一言二言ではなく長々と話す彼女に。自分の前でこんなに話す椛を見たのは何年振りであろうか。そう思う文に構わず椛は横になった枯れ木に腰を下ろして文に話しかけ続ける。
「私はここではたてさんを待ちますが、貴女は?」
椛の表情が少し動いた。それに誘われるように文は無言のまま椛から離れて同じ枯れ木に座った。
静かだった。
二人は黙ったまま湖を眺めていた。
ようやく頭が働いて風が枯れ木の枝を揺らす音が耳に入ってくる。そしてやはり早苗に騙されたことを知った。椛とこうして二人きりにさせる、その意図すら読むことができた。
ちらりと椛の横顔を盗み見た。椛は黙って湖を見つめたままだ。
あの日、赤く腫れた――自分が傷つけた左頬はすでに治っている。しかし文の心には未だ罪悪感が刺さったまま抜け落ちない。あの日からずっと。
今度は体を向けて真正面から椛の横顔を見つめた。
そうして知ったのだ。
終わっていなかったからだ。
自分に好意を寄せる早苗の想いを知らないふりをしていたのも、恋愛事から遠ざかっていたのも、まだ終わっていなかったからだ。
文の頭に話したい言葉が浮かんだ。
だがこうして椛と二人きりになるのはあの日以来だ。
ずっと避け続けてきた。その年月が文を躊躇させた。今頃どうやって伝えればいいのか。その術が浮かばない。
文が視線を落とした。
「こうして二人きりになるのは久しぶりですね。文さん」
先に話しかけたのは椛だった。視線をようやく湖から移して文を見つめる。無表情のままだったがその顔に力が入っていた。
「……そうですねぇ」
「あの頃はお互いに忙しくてこうして出かけることも少なかったし」
「……ええ」
どちらかと言うと椛の方が言葉少ないのだが、今は文の方が椛の言葉に答えるので精一杯だった。椛の話にあの頃の事が頭によみがえる。
すれ違った自分たちの事を。
言い争った日々の事を。
そして椛を泣かせたあの日の事が。
ますます文の中で罪悪感が強くなる。
伝えなければいけない。
「……ごめんなさい」
口にしたのは椛だった。
文が目を丸くして椛を見つめる。そこには無表情だが、片目から涙を零す彼女がいた。
しばらく言葉に出来なかった。
じっと互いに見つめ合っていた。
「今まで……ずっと伝えたかったです。私が意固地でした。あの頃、文さんも忙しい事を知っていたのに、まるで自分の方が忙しいと思い込んでいてそれが文さんの足枷になっていたのでした。文さんと別れてから、ずっと罪悪感を覚えていました。一言謝りたいのに、やはり意固地な私は伝えられぬまま……こうしてはたてさんたちに迷惑をかけないと伝えられなかった。でも、今日はっきりと言います。文さん、ごめんなさい……」
両目から次から次へと涙が零れ堕ちる。しかし拭おうとせず椛は文に頭を下げた。
思いもよらない言葉に文の頭はしっかり働いてくれない。必死に椛の言葉を頭に入れて、理解した時には椛の顔が滲んでしまった。
文の中で何かが吹っ切れた。
涙を拭うことも忘れて文も深く頭を下げた。
「私です! 謝らなければいけないのは、私です。ずっと椛のことを傷つけて、悪いのは私でした。すみませんでした。許してくださいとは言える身ではありませんが、それでも言いたかった。ごめんなさい!」
それはずっと伝えたかった言葉。
離れ離れになっても椛と最後の最後まで繋げていた文の気持ちだった。
しばらく二人の鼻をすする音が湖に響いた。お互いに顔を伏せて、長い間胸に膨らんでいた気持ちが溢れ出る。
泣きながら文の脳裏に映ったのは、もはや椛とすれ違い、喧嘩し、そうして頬を打った日々のことではなかった。
二人で作った夕食。
寝床に並んで横になりながら遅くまで語り合った夜。
椛が仕事場へ出かけるときに交わした口づけ。
忘れてしまっていた椛との楽しい生活の日々が、記憶の中で埋もれていた椛との思い出がはっきりと思い出された。
一つ一つ頭の中に浮かんで文は思った。
私はこの人のことは嫌いじゃない。今では愛おしい。その体に甘えたくなった。
「……お互いに思っていたことは同じだったのですね」
椛の言葉に文は顔を上げた。
彼女の目からは涙が未だ溢れている。その顔は小さく微笑んでいた。しかし、かつて文に見せてくれた綺麗な笑顔ではなかった。
「よかった……目も合わせられないまま過ぎていくのかと思うと、怖かったです。でも、ようやく自分の気持ちを言えて、本当によかった……」
「椛……」
「文さん」
椛は少し文に近寄って、そしてはっきりと告げたのだった。
「私と別れてください」と。
「……やっぱり、そうなりますよね」
「私には今、好きな人がいるんです。その人は私のことを本当に好きでいてくれています。でも文さんのことを思うと、その人の気持ちに答えるとこうして文さんに謝る機会が失われるような気がして……」
「そうですか」
文は目を閉じて頷いた。
やはり終わっていたのだ。それでも椛の「ごめんなさい」という言葉を聞いて、ふいと期待してしまった自分を殴りつけたくなる。自分に好意を寄せてくれる早苗さんを騙し続けてそうして知らぬふりをしたまま復縁を期待していた自分を。
「早苗さん、文さんに気にしているようですよ」
「知っていたのですか?」
「ええ。はたてさんから聞きましたから」
椛はニッコリと笑った。それでも文の脳裏に浮かぶ椛の笑顔ではなかった。あの笑顔はもう自分には向けてくれないのだろう。そう思ってようやく未練を絶つことが出来た。
「椛のお相手ははたてでしょう?」
「はい。文さんも知っていたのですか?」
「いえ。なんとなく勘です。早苗さんのように感じたのです」
二人は顔を見合わせて笑った。
もう二人は愛し合った仲ではない。
同じ天狗仲間でもこれからは他人だ。
「それではこれで」
「行くのですか?」
「ええ。どこかではたてさんがいるはずですから……それでは文さん。明日は一緒に宴会に参加しましょう」
「……ええ。はたてとお幸せに」
文の言葉に頷いて椛はゆっくりと歩き出す。その背中を文はじっと見つめていると、やがて遠くなり椛の姿が見えなくなった。
「……あー。終わりましたねぇ」
誰かに話しかけるように文は大きく背伸びをして呟いた。
さてどうしようか。きっと早苗さんも近くにいるにちがいない。迷惑をかけたことを謝ろう。にとりさんにも頭を下げに行かないと。終わったのだ。椛との全てが、終わったのだ。これからは早苗さんの気持ちを真剣に受け取らないと。
だが文の喉奥から嗚咽が込み上げてくる。また目から涙が溢れてきた。先ほどとは比べ物にならない量の涙が。
胸が苦しくなる。
堪えきれないほどの後悔の気持ちが高波となって文の心にぶつかった。
終わった。終わった。全て終わりを迎えた。
「文さん。今日は煮物を作ってみましたよ」
ニッコリと笑う椛がゆっくりと文の目の前に振り返った。
「……あぁ……ひっく、うわぁぁああああ!」
湖に一人残された文は大きな声で泣いた。
それでも――もう彼女には戻れない。
とても切ない、甘酸っぱい。ガンバレ文ちゃん。
文章もとても読み易かったです。
ただ、百合が当然のように認められている世界観って、どうなのかなというのが疑問。百合を完全否定はしませんが、もっとこう、背徳的であってもいいのでは。