夕暮れの朱色が竹林に影を差していた。天は赤く、地は青い。地平線から明暗がはっきりと分かれており、秋暮れを実感させる。
晩秋にしては暖かく、自宅の縁側に横になったままおよそ半刻、藤原妹紅は巌のように身動き一つせず、宅を囲んで群生する竹林の足元を眺めていた。
だいぶ青味も薄らいだ竹の根本近くに尾長が一羽止まり、尻上がりの可愛らしい声で鳴いていた。番いを探す声だ。小さくも機敏な動きで土塊の上を右往左往している様子を、妹紅は飽きることなく観察していた。
それがしばらく続き、尾長が声を止めた。鳴くことに飽きたか、人気を感じたからか、羽ばたき飛んで行く。その様を目で追いながら、妹紅は玄関の戸外に気配を察した。
「お邪魔するよ」
戸が開かれる。親しさを感じる声色だが、口調には生来の生真面目さがある。
妹紅は肘枕から頭を上げ、体を捩じって背後を振り返る。確認するまでもなく、見知った姿があった。友人である上白沢慧音が玄関の土間に立ち、戸を丁寧に、きっちりと閉めていた。慧音らしいと、妹紅は目尻を下げる。
「あれ、今日は早いね。非番?」
「うん。まあ、そんなところ。ところで妹紅、夕飯の予定なんかは決まってるかな」
「いや、まだだけど」
夕飯には少し早い時間だった。陽も沈みきってから考える妹紅にとって、その誘いは僥倖だ。
「もし良ければ一緒にでもと思って寄らせてもらったんだ。どうかな」
慧音は上がらず、板張りの玄関床に腰掛けた。妹紅と同じように体を捻って上半身だけ向けている。その表情はどこか緩んでおり、理知的な慧音にしては珍しい、子供っぽい含み笑いを隠しきれていない。
妹紅は何かあるなと容易に察した。
「それはいいけど。何々、何を企んでるのさ」
「企んでるとは人聞きの悪い。いや、ちょっと珍しいものを手に入れたんだ」
そう言って慧音は、いつのまにか土間に置いていた細長く平たい木箱を重そうに抱え、ようやく室内に上がった。木箱は慧音の背丈の半分はありそうな長さで、それなりの厚みもあった。思わず妹紅も立ち上がる。
「何それ」
縁側から居間を横切って歩み寄る妹紅を待たずに、慧音は玄関に置いた木箱の蓋を開けた。かすかに生臭い匂いが漂った。
中を覗いてみれば、一杯に詰め込まれた氷と、どっぷりとした腹で特徴的な見た目の魚が一匹、間抜けな顔をして横たわっている。
「あれ、鱈だ」
背中は斑点のような模様が並び、対して膨れた腹は雪のように白い。頭は小さいくせに口は大きい。全長は三尺に届かない程の小振りだが、まごうことなき真鱈である。
「知っているのか妹紅」
「大昔に、外で暮らしてたときにさ。しかし、よく幻想郷で獲れたね」
「河童さ。偶然迷い込んだのを養殖しているらしい。川魚と違って勝手が分からないから苦労してると言ってたよ」
「そりゃ海水魚だからね。……ん、なんで海のない幻想郷に海水魚が迷い込むんだ」
「空から降ってきたらしい」
「へえ。不思議なこともあるもんだ」
冗談のようだが慧音の真顔を見る分に事実らしい。幻想郷ではよくあることだ。妹紅は素直に納得し、改めて氷に埋まっている鱈を見た。目が濁っておらず、体表の色艶も良い。
「いい色してるね。いかにも新鮮だ」
「うん。河童が言うには見てくれは悪いが味は良いらしい」
「せっかく新鮮なんだし、さっさと捌いちゃうか。慧音はどうやって食べたい?」
「そうだな。最近めっきり冷えてきたし、鍋なんかいいと思う」
「あーそれはいい。そうしよう。ついでにこれを肴に熱燗で一杯とかやったら最高」
「飲み過ぎてしまうぞ」
「まあいいじゃん。たまには飲んだ暮れたって罰は当たらないよ。そもそも幻想郷で飲んだくれに罰が当たったら、そこら中で天罰が下ってるさ」
「妖怪や鬼を中心に下る罰だ」
「違いない」
二人揃って顔を突き合わせ、くっくっと笑う。
シャツの袖を捲り上げた妹紅が氷の中に手を突っ込み、鱈の尻尾を摑んで持ち上げた。身がぬるぬるとしており、持ち難い。ずっしりとした重さと大きさに感心しつつ、玄関の横にある台所に鱈を運び、流し台の中に置く。妹紅宅の台所は水回りが床上で、竈のみ土間に置かれており、それが隣り合って並んでいる。
流し台の正面は明り取りが嵌められ、西日が手元をまばゆく照らしていた。
「とりあえず洗わないと。慧音はそこら辺の野菜、適当に具材にしておいて」
「分かった」
土間にある籠の中から慧音は葱や大根といった、鍋に入れられそうな野菜を適当に選んで流し台へと運ぶ。鱈を洗う妹紅の隣で、慧音は泥のついた野菜を洗った。妹紅が使っている水桶の水を共用する。
一方、妹紅は縄たわしを使って、鱈を傷つけない程度の力加減で擦る。何度か繰り返すと表面の嫌な感触は無くなり、身の弾力がよく分かる。流し台の隣は調理台で、まな板の上に鱈を置く。
たわしを包丁に持ち替え、妹紅は唸った。
「普通に三枚卸しでいいのかな」
「まあ魚だし、無難だとおもうよ。妹紅は食べたことあるの、鱈」
「むかーし食べたはずだけど、味は忘れた。多分美味しかったと思う」
「それはまあ、なんとも」
慧音の苦笑いを受けながら、妹紅は慣れた手付きで包丁の背を使い、鱈の鱗を尾から頭に向かって引いていく。両面共に処理を終え、改めて妹紅は考えた。
これがただの川魚なら迷うことなく包丁を入れるのだが、相手は捌いたことのない海魚。果たしてこのまま包丁を入れて良いものか。謎の寄生虫に寄生されており、腹を開けた瞬間襲いかかって来るのではないだろうか。いっそのこと丸焼きにしてしまう方が良いのではと、馬鹿らしいことを真剣に考えていた。
「妹紅、そんな険しい顔をしなくても、普通に卸せばいいと思うよ」
目を細めて微笑んでいる慧音に、妹紅ははっとした。
「え、ああ、うん。そんな顔してた?」
「今にも消し炭にしそうな顔だったよ」
「とりあえず焼く癖はイカンな、我ながら」
自分に呆れるようなしかめっ面を浮かべてから、妹紅は表情を引き締めた。神経を使う仕事のように、神妙な面持ちで包丁の刃先を鱈のエラの根本に入れ。
「よし、行くぞ」
身に一刺し。包丁を動かしやすいように妹紅は左手でエラを持ち上げる。赤い中身が見えた。
妹紅の隣で覗き込んで見守っていた慧音が息を飲む。
「……なんだろう。魚は捌きなれてるのに、妙に緊張する」
「う、うーん」
言葉を濁してはいるが、慧音の眉間に寄った皺が妹紅と同感であることを如実に物語っている。二人の胸中には、本当に美味いのだろうかという疑念がわき始めていた。
妹紅は前後に包丁を動かしエラとカマが繋がっている部分を、なかなかに弾力のある身に苦戦しつつも切り離した。反対側も同様に切断する。
一旦鱈を置き、早くも妹紅は一息吐く。同調するように慧音も大きな溜息を吐いた。胸のつかえが取れたかのような深い息だ。
「くっ、本当に謎の寄生虫が出てきそうな気がしてきたぞ」
「私もちょっと怪しくなってきた。なんなんだこの緊張感は」
「もう魚屋に持って行って捌いてもらった方がいい気がする」
「駄目だ駄目だ、弱気になるな妹紅。人間、探求心を失くしてしまったらお仕舞いだ」
「じゃあ先生。ここは一つお手本を」
「私はあくまで教え導く者。一歩を踏み出すは私の役目に在らず、だ」
両手に人参を持ったまま力強く頷く慧音に、妹紅は返す言葉を諦めた。舌戦で勝てる気もしないし、そうそう屁理屈で言い含められる相手でもないことは重々承知していた。
気を取り直すように一息吐いて、妹紅は再び鱈と対峙する。喉元辺りから腹の中央へ沿うように包丁の刃先を当てた。
「ええい、南無三!」
尻尾に向かって腹を割く。が、なかなか固い皮に阻まれ、思うように刃が進まない。妹紅は勢い良く、力任せに腹を一文字に掻っ捌いた。鱈の腹から白い臓物が大量に、でろりと溢れ出した。
「う、うわああ!」
妹紅と慧音は同時に間の抜けた悲鳴を上げ、反射的に飛び退き、固まった。
時の止まった二人を置いて、鱈の臓物はでろでろと流れ出る。まな板の上から逃げ、そのまま床に落ちそうになった頃、ようやく我に返った妹紅が叫んだ。
「うわ、うわわ、慧音、落ちる落ちる!」
「ふぇ、あ、いかんいかん!」
人参を放り、手近な皿を取った慧音は金縛りから一転、機敏な動きで流し台の前にしゃがみ込む。両手で持った皿に零れた臓物を、墜落の寸前に受け止めた。安堵の息を漏らす。
妹紅は包丁を持ったまま、両手で鱈の腹を押さえこれ以上の流出を防いだ。両手に伝わる臓物の、妙に柔らかでぬるついた感触に、妹紅は顔を顰めて「うへえ」と呻いた。
「な、な、なんなんだ妹紅これは。こんなもの魚の腹から出るのか」
慧音は以前に文献で読んだ、猿の脳みそを使った料理の記述を思い出していた。動揺が皿の上の臓物にも伝わり、ぷるぷると振動している。菊の花のように房状の、皺くちゃで凹凸だらけの不気味な見た目が震えている絵面は、あまり気持ちの良いものではない。
「……あー思い出した。これ白子だ」
「白子? 馬鹿な、白子はもっと細長い、指のようなものだろう」
「鱈の白子は大きいんだよ」
「こ、これが白子……」
息を飲み、慧音は皿に乗っている白子をふるふると揺らした。
「うわ、キモ! それやめて慧音、てか、皿から落ちる」
「うん、気持ち悪いな」
「なんでそれを改めて確認しようとしたのさ」
慧音は答えず、皿の白子をまな板に移した。その横顔にかすかな満足感が見え、妹紅は思わず右目を細め、左目を見開く左右非対称な奇妙な顔になる。
「さあ妹紅、続けよう。なんだかんだまだ腹しか切ってない」
「う、うーん」
何故か慧音の顔は、先程とは打って変わって晴れやかな、楽しげなものになっていた。探求心が勝ったのか、あれを見て食指が動いたのかは分からない。
捌くのは私なんだけどなあと、腑に落ちない気持ちを飲み込み、妹紅は押さえていた手を放した。白子が零れ落ちないように鱈を置き直した。
白子を含めた諸々の臓物はまだ身と繋がったままなので、手を使って中身を掻き出し、接合部分を包丁で切り離して水桶に入れる。興味深そうに慧音が横から観察していた。
「おお、胆のうが緑色だ」
「胆のうは苦いから除いておこうか」
「これは肝かな? また大きいな」
「胃袋もやけに大きい。よく食べる魚だなあ」
「こいつ、なんで内側の皮がまっ黒なんだ」
「ところで慧音、野菜切った?」
「……まだだ」
洗い終わった人参と包丁を手に、慧音が慣れた手付きで皮を剥きだした。平静を装ってはいるが、慌てているのが一目で分かる程に手が素早く動いている。自身の鼻先で人参を回している目は真剣で、まさに一生懸命と言った様子だった。
夕日の残光に薄く照らされた横顔は美しいが、人参に相対する真剣さが子供っぽく見え、そういった差を見せられる度に妹紅は笑みを隠せなかった。手早く野菜を処理していく慧音を見守りながら思わず声を掛けてしまう。
「指を切らないように気を付けてね」
「うん、大丈夫」
人参から目を逸らさずに慧音は答えた。その手元にも横顔にも影が差してくる。
妹紅が指を弾き鳴らすと、部屋の行燈に火が灯る。台所の蝋燭にも点き、二人を淡く照らした。
「あれ、妹紅、この大根傷んでるな」
流し台の上にまな板を敷き、その上で細めの大根を切っていた慧音の手が止まる。
鱈の白身を切り分けていた妹紅は包丁を止めずに横目で確認した。
「あ、本当だ。古かったかなあ。他のは」
「大丈夫だと思うけど」
「駄目そうなのは除けておいて。後で畑に撒いとくから」
「食べ物の管理はしっかりしておかないと。傷んだものを食べたら大変だ」
「いやあ、気を付けてるようでなおざりにしちゃうからなあ、どうも」
特に気にした風もなく気軽い声で妹紅は言うが、慧音は笑い話としては受け取らずに少し強い声で言った。
「下手なものを食べて身体を壊してしまうぞ」
「んー、腐ってても死にはしないけど、後々大変だからねえ。昔腐った毒きのこを食べて、それはもう七転八倒したさ」
「私が知らない話だ。それっていつ?」
「もうだいぶ昔だよ。幻想郷に来る前か、幻想郷の結界が閉じてからか。慧音が生まれる前かもしれない」
「……そうか。妹紅は知ってるんだな、色々と」
「何言ってるのさ、慧音の方がよっぽど物知りじゃない」
「いや、そんなことはないよ。私が知ってるのは幻想郷の歴史だけ、私の手が届くところにある時間だけだ」
「そういう難しいことじゃなくて、単純な知識の話だよ」
不意に見た慧音の表情に、妹紅は言葉を飲んだ。
それまで野菜と向き合っていた慧音は真っ直ぐに妹紅を見つめ、泣いているのか笑っているのか分からない曖昧な表情を浮かべていた。
妹紅は呼吸を忘れ、見入った。慧音の赤みを帯びた瞳に淀みはなく、引き込まれそうな美しさを感じ、しかしそのまま魅せられることに躊躇いを覚えた。
「どんなに知識があろうと、歴史を知ろうと、私は貴女の時間を知らない。貴女だけの時間を知ることが出来ない。貴女と私の時間は違うから。当然のことだけれど、時々それが、とても悲しいことのように思えてしまうのです。ただ、それだけ」
そう言って慧音は笑った。彼女らしい他者を慈しむ笑みだったが、妹紅はその顔を見ても心躍ることはなかった。
返す言葉が見つからず、妹紅は溜息のような返事をして調理に戻った。慧音も残りの野菜を切る。
美しいけど、彼女にあんな顔はしてほしくない。そう思いながら何も出来ず、妹紅は包丁を動かした。
全ての下準備を終え、鍋に火を掛けた頃にはすっかり日も落ちていた。光源は行燈程度だが、妹紅の火はそこらの火よりもずっと明るく、暖かみのある優しい輝きを放っていた。そのため、夜中でも妹紅宅は光に不自由がない。
鍋は味噌にした。慧音が切った野菜と湯通し等の下準備をしておいた鱈の白身と白子を入れ、土間の竈であらかじめ一煮立ちさせておいてから蓋を閉じておいた。
「慧音、鍋持って行くよ」
「ああ、大丈夫だ」
「いい匂い。美味しそう」
「味噌にして正解だったな」
いつもと変わらない調子の会話なのに、何か腑に落ちない、小骨のような引っ掛かりを感じながら、それをあえて忘れ、妹紅は布で包んだ鍋の取っ手を持った。空いている片手で器用に重ねた小鉢とお玉と箸を持つ。
妹紅は中身が並々と詰まった鍋を手に居間へ向かう。食卓代わりのちゃぶ台は片づけられ、代わりに五徳の乗った火鉢が鎮座していた。その上に妹紅は鍋を置く。少し火力が足りないが、火源はどうにでも出来る。
「慧音、ちょっと熱燗取ってきて。もういい具合だと思うから」
「分かった」
慧音に言いつつ、妹紅は火鉢の前に胡坐をかく。五徳の隙間から指先を突っ込み、火加減を調整する。
「妹紅、徳利が四本入ってたんだが」
盆の上に陶磁器製の燗徳利四本と猪口を二つ乗せた慧音が、呆れたような声で言いながら居間へ戻って来る。慧音もまた、先程の言葉を忘れたかのようにいつもと変わらない振る舞いだった。
「言ったじゃん。飲んだ暮れるって。ま、もう暮れてるけどさ」
「と言うことはこの四本じゃ終わらないと」
「そう言うこと」
対面に座る慧音に、妹紅はにやりと笑って見せた。
「ふうむ、仕方ないな。たまには飲み明かそうか」
「飲んだ暮れも飲み明かしも、幻想郷の風物詩だ」
「なんて季節を無視した風物詩だ。幻想郷は四季があるのに、呑兵衛共にはそれがない。奴等は俳人には向かないな」
「じゃあ幻想郷にはいつまで経っても名人は生まれないね」
「私を奴等と一緒にしないでくれ」
「おや、慧音は名句が詠めたのか。知らなかった」
「お互いさまと言うことにしておこう」
上手い返しが見つからなかったのか、慧音は言い淀んだ。口先での遣り合いでは滅多に勝てない妹紅は少しだけ気分が良い。
火勢を見つつ、妹紅は鍋の蓋を取った。雲のような湯気と共に、味噌の良い匂いが広がる。おお、と二人揃って感嘆の声を上げた。
「ほう、いいじゃないか」
「じゃ早速」
二人前の小鉢にそれぞれ汁と具を盛り、妹紅はその一つを慧音に手渡す。次いで瑠璃釉の猪口を渡し、燗徳利で好い加減に温めた酒を注いだ。
今度は慧音が妹紅に酌をする。息の合った動きで互いに酒を満たす。乾杯の代わりに、いただきますと声を揃えて言った。
妹紅は一息で飲み干し、「うん美味い」と言いながらもう次を注いでいた。
「妹紅よ、これを肴に一杯じゃなかったのか」
酒を一口舐めてから具の盛られた小鉢を手に、慧音が言った。程良く煮込まれた銀杏切りの大根を取り、息を吹きかけ冷ます。食べて顔を綻ばせた。
「ああ、美味い」
味噌の濃さが野菜の水で丁度良い塩梅となり、まろやかとなった出汁を吸った大根がなんとも優しい味わいだ。軽く噛むだけで旨味が溢れ、その度に慧音は幸せそうに口元を緩め、意志の強さを秘める瞳も蕩けた。後光が差して見えるようだ。
「そんな鍋一つで大袈裟な」
言いつつ、妹紅は酒を置いて白菜を摘み上げた。出汁を吸ってずしりと重く、良い具合に柔らかい。口に放り込めばまず味噌の風味、甘辛くもやさしい味。噛めば芯まで柔らかく、それでいて白菜のしゃきりとした歯応えは残っている。嚥下し、酒を呷ってから熱い息を吐いた。
「何これ美味しい」
「やっぱり鍋っていいなあ」
「別に高い食材なんか使わなくたって、美味しいものは食べれるんだ。生きてるって素晴らしい」
「その素晴らしさの何割が酒に割かれてるんだろうなあ。なあ妹紅」
意地悪い声で指摘され、妹紅はすでに四杯目となる酒を注ぐ手を止めた。
酒は好きだが嗜む程度の慧音にとって、幻想郷の飲んだくれ共の飲みっぷりには呆れてしまう。
「まあまあそう言わず。まずは豆腐を食べて」
「うん。うん、美味しい」
とりあえず妹紅に言われるまま、豆腐の欠片を食べる。
「次に酒を飲んで」
流れるような指示に、慧音は釣られて自然と猪口を空けた。
「……ああー。いい」
どうしようもなく美味かった。止める者はいないのだから、止まる道理がない。二人は餅つきのように軽快な動きで食べては飲み、飲んでは食べてを繰り返し、最初に盛った分と燗徳利を一本、早々と空けた。
妹紅は二本目の燗徳利の半分程を飲んでから、新たに二杯目を小鉢へ盛ろうとして、突然動きが止まった。
「慧音さあ」
お玉を鍋の中に突っ込んだまま妹紅は声を掛けた。慧音は飾り切りにした人参に目を輝かせていた。
「なんだ」
「鱈、食べた?」
妹紅は視線を鍋から慧音へ向ける。連動するように、慧音の瞳が右へ向いた。
「妹紅先に食べていいよ。懐かしいだろ」
「いやあ、味覚えてないし、あの中身見たら自信ないよ」
「でも河童達も美味いと言っていたよ」
「河童の味覚でしょ。生魚と胡瓜を一緒に齧ってる奴らの舌の、どこに信用があるって言うんだい」
「くっ、一部の隙もない、反論の余地がない」
頭を突き合わせて、鍋を見る。味噌出汁の中、他の具材と共に顔を覗かせている鱈の白身。雪のように透けた白身は熱によって濃い乳白色に変わっていた。充分食べ頃だ。
「白身の方は普通だよなあ」
「問題は、こっちか」
二人の目は自然と一点に、白身の隣で、同じく色の濃くなった白子へ向けられる。未知の生物のような風体で浮かんでいるのだ。
「多少固くなったせいか、より形がはっきりしてきたなあ」
「珍味の意味が良く分かるよ、ほんと」
「まあ、せっかく捌いて鍋にしたんだから」
食べてみよう。通じ合うように目を合わせ、頷き合う。それでもやはり、いきなり白子には行かず白身を取った。眼前で睨む。
ひとしきり睨んでから、二人は無言のまま、合図もなく同時に口へ運ぶ。鏡写しのように一致した動きで眉間に皺を寄せ、目は空中を睨み、しばらく咀嚼して飲み込んだ。
「……うん。普通に美味いなあ、これ」
「身は柔らかいし、油は少ない分淡白で食べやすい」
二人はもう一切れ食べ、うんうんと頷き合い、首を傾げた。拍子抜けする程に普通に食べられ、しかも美味い。
「あーやっぱりいいなあ。鹿肉とかも好きだけど、魚肉の鍋はさっぱりだから食べやすいし酒も進む」
「河童にはぜひとも養殖の拡大を図ってもらいたいものだ」
妹紅は酒を空けながら深く頷く。美味いものの入手が容易になることは有難い。
「で、だ。こっちをどうするかだけど」
鱈から捌き出したもう一品、白子を見る。白身の方は見た目は普通なので抵抗も少ないが、やはり白子の方はあまりにも見た目がよろしくない。手を付けるにはなかなかの勇気がいる。
「妹紅は昔食べたんだろう。何かないのか」
「覚えてないなあ。でも死んでなかったから多分大丈夫」
「そんな基準の低い大丈夫は嫌だなあ」
「だけど身の方は美味しかったんだし、こっちもきっと」
妹紅は鍋から白子を摘み上げる。形を崩さないように慎重に、内心の不安を現すかのようにかすかに手が震え、箸先の白子が揺れた。
白身の時と同じように眼前へ運び、鱈を捌いたときと同じような眼で睨む。額から頬にかけて、一筋の汗が流れ落ちる。鍋の熱気から来るものではなかった。
心配する慧音の視線を受けながら、妹紅は腹を括り目を瞑る。
「南無三!」
気合いと共に、一口大に分けた白子を一息で食べた。ゆっくりと咀嚼し、まずは危険がないかを確認する。噛めば薄皮が破れ、とろりとした中身が溢れる。濃厚だ。淡白な白身と対照的に、こってりとしている。妹紅は俯き、しばらく無言で味わう。
様子を伺う慧音が身を乗り出して、妹紅の顔を覗き見る。
ごくりと、妹紅が飲み込んだ。箸を持つ右手が小刻みに震えている。
「……う」
「なんだ、どうした妹紅! 吐くのか、吐くのなら厠に……」
「美味い」
「なん、だと……!」
顔を上げた妹紅が極めて真面目な声で言った。慧音の表情が強張る。
「好き嫌い分かれる味だけど、私は好きだなこれ。何よりもこの味は酒に合う。飯のおかずってよりも酒の肴って感じ」
妹紅は三本目の燗徳利に手を出しながら上機嫌に言った。肴が美味ければ安酒も進む。二つ目の白子を食べて、酒を飲む。
「慧音も食べてみなよ」
「いやあ、しかし。ううむ……」
言葉を濁したまま、慧音の声がか細くなっていく。好き嫌いは良しとしないが、中々手が出せない。
言い訳がましいことを小声で呟いている慧音に痺れを切らし、妹紅は自分の箸で白子を一つ取る。
「慧音」
「ん、なんだ――」
「はい」
言葉が終わる前に、妹紅は慧音の口の中に白子を突っ込んだ。呻き声と共に慧音の表情が凍りつく。彼女の綺麗な顔には似合わない壮絶な表情だ。
「ほら慧音。噛んで噛んで」
口内から箸を抜いた妹紅に促され、慧音はしかめっ面から様子を伺うように片目を開け、もごもごと口だけを動かした。
始めこそ毒見のような慎重さで白子の味を確かめていたが、次第に慧音の表情が戻り、目尻が下がって頬が緩んでいく。
その変化に妹紅は満足し、釣られたように自然と笑みが浮かぶ。
「なんだこれ、美味しい! ええっ」
見た目とは反して予想外の美味。自分の口から漏れた感想に驚き、慧音の緩んでいた顔が豆鉄砲を食らったようにきょとんとしている。
百面相のように慧音の表情が変わり、妹紅は堪え切れずに吹き出した。
「え、なんだなんだ、顔に何かついてるか?」
少しだけ恥ずかしそうに慧音は自分の顔を指先で触れた。
当の本人はまるで気付いておらず、それが余計に妹紅には可笑しく、酒が零れるのも構わず腹を抱えて笑った。座っていられず、猪口を持った手だけを上に伸ばして寝ころんだ。
「なんだって言うんだ。まさかワライダケを食べたなんて言うなよ」
分からないうちに笑い者にされ、あまり面白くない慧音は頬でも膨らませそうな様子で早口に言った。今にも拗ねてしまいそうだ。
いささか子供っぽい反応に、やはり妹紅は笑いながら、それでも起き上り、目尻に溜まった涙を拭いながら答えた。
「いやー、ごめんごめん。ただ慧音が可愛いなあと思っただけだよ」
「なんだそれ。理由になってないぞ」
慧音の片眉が上がった。妹紅はありのまま、思ったままを答えたが、冗談ではぐらかされたと思った慧音は面白くないと伏し目がちに妹紅を睨み、唇を尖らせる。
「ほんとだよ。本当にそう思ったらなんだか可笑しくなっちゃったんだよ。ほら、そう膨れてないで、白子美味しかったでしょ? も一つどうぞ」
妹紅は白子を一つ取り、慧音に差し出す。
「自分で食べられる」
口を真一文字に結んだまま、自分で白子を取り、慧音は一口で食べた。顔は怒っている風を保とうとしているが、目尻は下がっている。
正直者だなと思いながら、妹紅は差し出した白子を自らの口に収め、中身の減った猪口に口をつけた。
「……しかしまあ、あれだな」
少し機嫌が戻ったのか、両手で猪口を持った慧音が躊躇いがちに言った。
うん、と先を促すように頷いてから、妹紅は燗徳利を慧音に向けた。慧音は素直に酌を受け、舐めるように飲んだ。
「いざ食べてみればこうだ。あんなに騒いで捌いてたのが馬鹿みたいに思えてくるな」
「ね。でも私は楽しかったよ。慧音が慌てる姿も見れて役得だ」
「馬鹿言うな。妹紅だって慌てふためいて、うへえだかあへえだか言ってたじゃないか」
「あへえは言ってないよ。そもそもあへえって何さ」
「どっちでもいいよ。どっちも大して変わらない」
はぐらかす様に言葉を切り、慧音は酒を飲んだ。頬が赤いのは酔っているのか照れているのか。
妹紅はやはり笑い、酒を飲んでから白身を食べた。
「まあでも、確かに楽しかったな」
独り言のように慧音は呟いた。もう表情に険はなく、少し酔いが回ったのか和やかな面持ちで手にした猪口を眺めていた。
「考え通りに調理出来るのも楽しいけど、今日みたいに四苦八苦しながらするのも楽しいな。一人だといつも簡単に済ましてしまっていけない」
「そうだね。私もちゃんと料理するのなんて慧音が来た時ぐらいだよ」
「妹紅は食事が好きなくせに、おざなりなんだ。簡単でもいいからもっと栄養なんかを考えたものをだな」
「私は飯と一汁一菜があれば十分なんだけどなあ」
「だったらちゃんと料理をやらないと。筍三昧や干し柿三昧もいいが、やっぱり手間をかけて作ったものは美味しいよ。これみたいに」
白子を取って見せる慧音に、妹紅は首肯しながら酒を飲んだ。飲みつつ、ふと思う。
「肴にするなら、焼くのも有りかなあ」
「いいなそれ。焼いたのに酢橘とか合うかも」
「あー、全部鍋にしないでちょっと残しとけば良かったかも」
「後の祭りだな。湯がいてポン酢なんかで食べたり」
「天ぷらもありかもなあ」
二人揃ってたまらんとはやし立てる。こうなったら何がなんでも河童達には養殖の拡大をしてもらわなければ収まりがつかない。
慧音が小さな声で笑った。
「何々、今度はどうしたのさ」
「いや、大したことではないよ」慧音が酒を飲み、続ける。「お互い好きなものを一緒にあれこれ考えて料理するって、楽しいなと思っただけだよ」
「そうだね。……ああ、なるほど。そういうことか」
微笑む慧音の言葉に、妹紅は思わず納得してしまった。答えを見つけた気分だった。
「私達は、確かに共通したものを共有してるじゃないか」
こんな簡単な答え、いや、考え付けば簡単だが、それを見つけるのは中々難儀なものだなと思いながら、妹紅は酒を飲んだ。
一人で満足気な笑みを浮かべる妹紅に、慧音は首を傾げる。
鍋に残っている鱈の白身を摘まみながら、妹紅は答えた。
「私達の時間は違うけどさ、こうやって同じ時を共有して、一緒に笑えるんだ。だから悲しさよりも、私は幸福に思うよ。慧音と一緒の今を大事にしたいと心から思うんだ」
ね? と笑いかける妹紅に、慧音は言葉の意味を察し、しかし答えず目を伏せる。
慧音が何を考えているのかは分からないが、妹紅は心静かに酒を呷った。最後の燗徳利だ。後でまた温めよう。
妹紅が鍋底に沈んだ豆腐の破片を口に運んでいると、慧音が閉じていた瞼を開き、妹紅とは異なる美しさを秘めた赤い瞳を露わにする。その色は先刻の夕暮れの時と変わらないが、もう悲哀の色は見られない。確かめるように頷き、口を開く。
「そう……なのかな。いや、やっぱり私はまた同じことに悩むだろうし、それは私が私である限り拭えないことなのかもしれない。でも。ああ、確かにそうだ。私は今、とても楽しい。それは確かな私の気持ち。以前に同じようなことで騒いだし、これから先も今日みたいな日は来るのだろけど、それでも。私は今、確かに幸福だよ。妹紅。妹紅と同じ時間を過ごせて楽しい」
慧音が笑った。なんの曇りもない、眩しく思えるほどに魅力的な笑み。
妹紅は魅せられ、笑い返す。ああ、いつもの慧音の笑顔だ。色々な表情をする慧音も魅力的だが、やっぱり私が一番好きな彼女は、太陽のように暖かい、春の陽気のように優しい、この顔だ。
酒の酔いとは異なる、身体を包み込むような心地好い気分に浸かり、妹紅は穏やかな心持ちで微笑む。こんな幸福はじっくりと味わなければ罰が当たる。そう思いながら妹紅はゆっくりとぬるい酒を味わった。
慧音がふと、子供っぽい含み笑いと共に口を開いた。
「妹紅は私のことを物知りなんて言うが、やっぱり妹紅の方がたくさんのことを知っているよ。私の答えを見つけてしまうんだから」
「そんな大したもんじゃないけど、忘れたのかい? 私は君よりも長生きしているからね。そんなことを想う時もあるってだけのことさ」
「ふふ、そうでした。普段が普段だから、貴女のお歳なんてすっかり忘れていました」
「歳は取ってないんだから、年寄り扱い禁止」
「失礼しました。今後は改めましょう」
「その口調もなし」
「はいはい」
受け流すような慧音の素っ気ない返事に、妹紅は何故か無性に可笑しくなってしまい大口を開けて笑った。慧音も一緒に笑い声を上げる。残った酒が零れるのも構わず、妹紅と慧音は嬉しそうに笑い合った。幻想郷の秋の終わり、夜。なんとも幸せそうな飲んだくれ二人の笑い声が響く。
晩秋にしては暖かく、自宅の縁側に横になったままおよそ半刻、藤原妹紅は巌のように身動き一つせず、宅を囲んで群生する竹林の足元を眺めていた。
だいぶ青味も薄らいだ竹の根本近くに尾長が一羽止まり、尻上がりの可愛らしい声で鳴いていた。番いを探す声だ。小さくも機敏な動きで土塊の上を右往左往している様子を、妹紅は飽きることなく観察していた。
それがしばらく続き、尾長が声を止めた。鳴くことに飽きたか、人気を感じたからか、羽ばたき飛んで行く。その様を目で追いながら、妹紅は玄関の戸外に気配を察した。
「お邪魔するよ」
戸が開かれる。親しさを感じる声色だが、口調には生来の生真面目さがある。
妹紅は肘枕から頭を上げ、体を捩じって背後を振り返る。確認するまでもなく、見知った姿があった。友人である上白沢慧音が玄関の土間に立ち、戸を丁寧に、きっちりと閉めていた。慧音らしいと、妹紅は目尻を下げる。
「あれ、今日は早いね。非番?」
「うん。まあ、そんなところ。ところで妹紅、夕飯の予定なんかは決まってるかな」
「いや、まだだけど」
夕飯には少し早い時間だった。陽も沈みきってから考える妹紅にとって、その誘いは僥倖だ。
「もし良ければ一緒にでもと思って寄らせてもらったんだ。どうかな」
慧音は上がらず、板張りの玄関床に腰掛けた。妹紅と同じように体を捻って上半身だけ向けている。その表情はどこか緩んでおり、理知的な慧音にしては珍しい、子供っぽい含み笑いを隠しきれていない。
妹紅は何かあるなと容易に察した。
「それはいいけど。何々、何を企んでるのさ」
「企んでるとは人聞きの悪い。いや、ちょっと珍しいものを手に入れたんだ」
そう言って慧音は、いつのまにか土間に置いていた細長く平たい木箱を重そうに抱え、ようやく室内に上がった。木箱は慧音の背丈の半分はありそうな長さで、それなりの厚みもあった。思わず妹紅も立ち上がる。
「何それ」
縁側から居間を横切って歩み寄る妹紅を待たずに、慧音は玄関に置いた木箱の蓋を開けた。かすかに生臭い匂いが漂った。
中を覗いてみれば、一杯に詰め込まれた氷と、どっぷりとした腹で特徴的な見た目の魚が一匹、間抜けな顔をして横たわっている。
「あれ、鱈だ」
背中は斑点のような模様が並び、対して膨れた腹は雪のように白い。頭は小さいくせに口は大きい。全長は三尺に届かない程の小振りだが、まごうことなき真鱈である。
「知っているのか妹紅」
「大昔に、外で暮らしてたときにさ。しかし、よく幻想郷で獲れたね」
「河童さ。偶然迷い込んだのを養殖しているらしい。川魚と違って勝手が分からないから苦労してると言ってたよ」
「そりゃ海水魚だからね。……ん、なんで海のない幻想郷に海水魚が迷い込むんだ」
「空から降ってきたらしい」
「へえ。不思議なこともあるもんだ」
冗談のようだが慧音の真顔を見る分に事実らしい。幻想郷ではよくあることだ。妹紅は素直に納得し、改めて氷に埋まっている鱈を見た。目が濁っておらず、体表の色艶も良い。
「いい色してるね。いかにも新鮮だ」
「うん。河童が言うには見てくれは悪いが味は良いらしい」
「せっかく新鮮なんだし、さっさと捌いちゃうか。慧音はどうやって食べたい?」
「そうだな。最近めっきり冷えてきたし、鍋なんかいいと思う」
「あーそれはいい。そうしよう。ついでにこれを肴に熱燗で一杯とかやったら最高」
「飲み過ぎてしまうぞ」
「まあいいじゃん。たまには飲んだ暮れたって罰は当たらないよ。そもそも幻想郷で飲んだくれに罰が当たったら、そこら中で天罰が下ってるさ」
「妖怪や鬼を中心に下る罰だ」
「違いない」
二人揃って顔を突き合わせ、くっくっと笑う。
シャツの袖を捲り上げた妹紅が氷の中に手を突っ込み、鱈の尻尾を摑んで持ち上げた。身がぬるぬるとしており、持ち難い。ずっしりとした重さと大きさに感心しつつ、玄関の横にある台所に鱈を運び、流し台の中に置く。妹紅宅の台所は水回りが床上で、竈のみ土間に置かれており、それが隣り合って並んでいる。
流し台の正面は明り取りが嵌められ、西日が手元をまばゆく照らしていた。
「とりあえず洗わないと。慧音はそこら辺の野菜、適当に具材にしておいて」
「分かった」
土間にある籠の中から慧音は葱や大根といった、鍋に入れられそうな野菜を適当に選んで流し台へと運ぶ。鱈を洗う妹紅の隣で、慧音は泥のついた野菜を洗った。妹紅が使っている水桶の水を共用する。
一方、妹紅は縄たわしを使って、鱈を傷つけない程度の力加減で擦る。何度か繰り返すと表面の嫌な感触は無くなり、身の弾力がよく分かる。流し台の隣は調理台で、まな板の上に鱈を置く。
たわしを包丁に持ち替え、妹紅は唸った。
「普通に三枚卸しでいいのかな」
「まあ魚だし、無難だとおもうよ。妹紅は食べたことあるの、鱈」
「むかーし食べたはずだけど、味は忘れた。多分美味しかったと思う」
「それはまあ、なんとも」
慧音の苦笑いを受けながら、妹紅は慣れた手付きで包丁の背を使い、鱈の鱗を尾から頭に向かって引いていく。両面共に処理を終え、改めて妹紅は考えた。
これがただの川魚なら迷うことなく包丁を入れるのだが、相手は捌いたことのない海魚。果たしてこのまま包丁を入れて良いものか。謎の寄生虫に寄生されており、腹を開けた瞬間襲いかかって来るのではないだろうか。いっそのこと丸焼きにしてしまう方が良いのではと、馬鹿らしいことを真剣に考えていた。
「妹紅、そんな険しい顔をしなくても、普通に卸せばいいと思うよ」
目を細めて微笑んでいる慧音に、妹紅ははっとした。
「え、ああ、うん。そんな顔してた?」
「今にも消し炭にしそうな顔だったよ」
「とりあえず焼く癖はイカンな、我ながら」
自分に呆れるようなしかめっ面を浮かべてから、妹紅は表情を引き締めた。神経を使う仕事のように、神妙な面持ちで包丁の刃先を鱈のエラの根本に入れ。
「よし、行くぞ」
身に一刺し。包丁を動かしやすいように妹紅は左手でエラを持ち上げる。赤い中身が見えた。
妹紅の隣で覗き込んで見守っていた慧音が息を飲む。
「……なんだろう。魚は捌きなれてるのに、妙に緊張する」
「う、うーん」
言葉を濁してはいるが、慧音の眉間に寄った皺が妹紅と同感であることを如実に物語っている。二人の胸中には、本当に美味いのだろうかという疑念がわき始めていた。
妹紅は前後に包丁を動かしエラとカマが繋がっている部分を、なかなかに弾力のある身に苦戦しつつも切り離した。反対側も同様に切断する。
一旦鱈を置き、早くも妹紅は一息吐く。同調するように慧音も大きな溜息を吐いた。胸のつかえが取れたかのような深い息だ。
「くっ、本当に謎の寄生虫が出てきそうな気がしてきたぞ」
「私もちょっと怪しくなってきた。なんなんだこの緊張感は」
「もう魚屋に持って行って捌いてもらった方がいい気がする」
「駄目だ駄目だ、弱気になるな妹紅。人間、探求心を失くしてしまったらお仕舞いだ」
「じゃあ先生。ここは一つお手本を」
「私はあくまで教え導く者。一歩を踏み出すは私の役目に在らず、だ」
両手に人参を持ったまま力強く頷く慧音に、妹紅は返す言葉を諦めた。舌戦で勝てる気もしないし、そうそう屁理屈で言い含められる相手でもないことは重々承知していた。
気を取り直すように一息吐いて、妹紅は再び鱈と対峙する。喉元辺りから腹の中央へ沿うように包丁の刃先を当てた。
「ええい、南無三!」
尻尾に向かって腹を割く。が、なかなか固い皮に阻まれ、思うように刃が進まない。妹紅は勢い良く、力任せに腹を一文字に掻っ捌いた。鱈の腹から白い臓物が大量に、でろりと溢れ出した。
「う、うわああ!」
妹紅と慧音は同時に間の抜けた悲鳴を上げ、反射的に飛び退き、固まった。
時の止まった二人を置いて、鱈の臓物はでろでろと流れ出る。まな板の上から逃げ、そのまま床に落ちそうになった頃、ようやく我に返った妹紅が叫んだ。
「うわ、うわわ、慧音、落ちる落ちる!」
「ふぇ、あ、いかんいかん!」
人参を放り、手近な皿を取った慧音は金縛りから一転、機敏な動きで流し台の前にしゃがみ込む。両手で持った皿に零れた臓物を、墜落の寸前に受け止めた。安堵の息を漏らす。
妹紅は包丁を持ったまま、両手で鱈の腹を押さえこれ以上の流出を防いだ。両手に伝わる臓物の、妙に柔らかでぬるついた感触に、妹紅は顔を顰めて「うへえ」と呻いた。
「な、な、なんなんだ妹紅これは。こんなもの魚の腹から出るのか」
慧音は以前に文献で読んだ、猿の脳みそを使った料理の記述を思い出していた。動揺が皿の上の臓物にも伝わり、ぷるぷると振動している。菊の花のように房状の、皺くちゃで凹凸だらけの不気味な見た目が震えている絵面は、あまり気持ちの良いものではない。
「……あー思い出した。これ白子だ」
「白子? 馬鹿な、白子はもっと細長い、指のようなものだろう」
「鱈の白子は大きいんだよ」
「こ、これが白子……」
息を飲み、慧音は皿に乗っている白子をふるふると揺らした。
「うわ、キモ! それやめて慧音、てか、皿から落ちる」
「うん、気持ち悪いな」
「なんでそれを改めて確認しようとしたのさ」
慧音は答えず、皿の白子をまな板に移した。その横顔にかすかな満足感が見え、妹紅は思わず右目を細め、左目を見開く左右非対称な奇妙な顔になる。
「さあ妹紅、続けよう。なんだかんだまだ腹しか切ってない」
「う、うーん」
何故か慧音の顔は、先程とは打って変わって晴れやかな、楽しげなものになっていた。探求心が勝ったのか、あれを見て食指が動いたのかは分からない。
捌くのは私なんだけどなあと、腑に落ちない気持ちを飲み込み、妹紅は押さえていた手を放した。白子が零れ落ちないように鱈を置き直した。
白子を含めた諸々の臓物はまだ身と繋がったままなので、手を使って中身を掻き出し、接合部分を包丁で切り離して水桶に入れる。興味深そうに慧音が横から観察していた。
「おお、胆のうが緑色だ」
「胆のうは苦いから除いておこうか」
「これは肝かな? また大きいな」
「胃袋もやけに大きい。よく食べる魚だなあ」
「こいつ、なんで内側の皮がまっ黒なんだ」
「ところで慧音、野菜切った?」
「……まだだ」
洗い終わった人参と包丁を手に、慧音が慣れた手付きで皮を剥きだした。平静を装ってはいるが、慌てているのが一目で分かる程に手が素早く動いている。自身の鼻先で人参を回している目は真剣で、まさに一生懸命と言った様子だった。
夕日の残光に薄く照らされた横顔は美しいが、人参に相対する真剣さが子供っぽく見え、そういった差を見せられる度に妹紅は笑みを隠せなかった。手早く野菜を処理していく慧音を見守りながら思わず声を掛けてしまう。
「指を切らないように気を付けてね」
「うん、大丈夫」
人参から目を逸らさずに慧音は答えた。その手元にも横顔にも影が差してくる。
妹紅が指を弾き鳴らすと、部屋の行燈に火が灯る。台所の蝋燭にも点き、二人を淡く照らした。
「あれ、妹紅、この大根傷んでるな」
流し台の上にまな板を敷き、その上で細めの大根を切っていた慧音の手が止まる。
鱈の白身を切り分けていた妹紅は包丁を止めずに横目で確認した。
「あ、本当だ。古かったかなあ。他のは」
「大丈夫だと思うけど」
「駄目そうなのは除けておいて。後で畑に撒いとくから」
「食べ物の管理はしっかりしておかないと。傷んだものを食べたら大変だ」
「いやあ、気を付けてるようでなおざりにしちゃうからなあ、どうも」
特に気にした風もなく気軽い声で妹紅は言うが、慧音は笑い話としては受け取らずに少し強い声で言った。
「下手なものを食べて身体を壊してしまうぞ」
「んー、腐ってても死にはしないけど、後々大変だからねえ。昔腐った毒きのこを食べて、それはもう七転八倒したさ」
「私が知らない話だ。それっていつ?」
「もうだいぶ昔だよ。幻想郷に来る前か、幻想郷の結界が閉じてからか。慧音が生まれる前かもしれない」
「……そうか。妹紅は知ってるんだな、色々と」
「何言ってるのさ、慧音の方がよっぽど物知りじゃない」
「いや、そんなことはないよ。私が知ってるのは幻想郷の歴史だけ、私の手が届くところにある時間だけだ」
「そういう難しいことじゃなくて、単純な知識の話だよ」
不意に見た慧音の表情に、妹紅は言葉を飲んだ。
それまで野菜と向き合っていた慧音は真っ直ぐに妹紅を見つめ、泣いているのか笑っているのか分からない曖昧な表情を浮かべていた。
妹紅は呼吸を忘れ、見入った。慧音の赤みを帯びた瞳に淀みはなく、引き込まれそうな美しさを感じ、しかしそのまま魅せられることに躊躇いを覚えた。
「どんなに知識があろうと、歴史を知ろうと、私は貴女の時間を知らない。貴女だけの時間を知ることが出来ない。貴女と私の時間は違うから。当然のことだけれど、時々それが、とても悲しいことのように思えてしまうのです。ただ、それだけ」
そう言って慧音は笑った。彼女らしい他者を慈しむ笑みだったが、妹紅はその顔を見ても心躍ることはなかった。
返す言葉が見つからず、妹紅は溜息のような返事をして調理に戻った。慧音も残りの野菜を切る。
美しいけど、彼女にあんな顔はしてほしくない。そう思いながら何も出来ず、妹紅は包丁を動かした。
全ての下準備を終え、鍋に火を掛けた頃にはすっかり日も落ちていた。光源は行燈程度だが、妹紅の火はそこらの火よりもずっと明るく、暖かみのある優しい輝きを放っていた。そのため、夜中でも妹紅宅は光に不自由がない。
鍋は味噌にした。慧音が切った野菜と湯通し等の下準備をしておいた鱈の白身と白子を入れ、土間の竈であらかじめ一煮立ちさせておいてから蓋を閉じておいた。
「慧音、鍋持って行くよ」
「ああ、大丈夫だ」
「いい匂い。美味しそう」
「味噌にして正解だったな」
いつもと変わらない調子の会話なのに、何か腑に落ちない、小骨のような引っ掛かりを感じながら、それをあえて忘れ、妹紅は布で包んだ鍋の取っ手を持った。空いている片手で器用に重ねた小鉢とお玉と箸を持つ。
妹紅は中身が並々と詰まった鍋を手に居間へ向かう。食卓代わりのちゃぶ台は片づけられ、代わりに五徳の乗った火鉢が鎮座していた。その上に妹紅は鍋を置く。少し火力が足りないが、火源はどうにでも出来る。
「慧音、ちょっと熱燗取ってきて。もういい具合だと思うから」
「分かった」
慧音に言いつつ、妹紅は火鉢の前に胡坐をかく。五徳の隙間から指先を突っ込み、火加減を調整する。
「妹紅、徳利が四本入ってたんだが」
盆の上に陶磁器製の燗徳利四本と猪口を二つ乗せた慧音が、呆れたような声で言いながら居間へ戻って来る。慧音もまた、先程の言葉を忘れたかのようにいつもと変わらない振る舞いだった。
「言ったじゃん。飲んだ暮れるって。ま、もう暮れてるけどさ」
「と言うことはこの四本じゃ終わらないと」
「そう言うこと」
対面に座る慧音に、妹紅はにやりと笑って見せた。
「ふうむ、仕方ないな。たまには飲み明かそうか」
「飲んだ暮れも飲み明かしも、幻想郷の風物詩だ」
「なんて季節を無視した風物詩だ。幻想郷は四季があるのに、呑兵衛共にはそれがない。奴等は俳人には向かないな」
「じゃあ幻想郷にはいつまで経っても名人は生まれないね」
「私を奴等と一緒にしないでくれ」
「おや、慧音は名句が詠めたのか。知らなかった」
「お互いさまと言うことにしておこう」
上手い返しが見つからなかったのか、慧音は言い淀んだ。口先での遣り合いでは滅多に勝てない妹紅は少しだけ気分が良い。
火勢を見つつ、妹紅は鍋の蓋を取った。雲のような湯気と共に、味噌の良い匂いが広がる。おお、と二人揃って感嘆の声を上げた。
「ほう、いいじゃないか」
「じゃ早速」
二人前の小鉢にそれぞれ汁と具を盛り、妹紅はその一つを慧音に手渡す。次いで瑠璃釉の猪口を渡し、燗徳利で好い加減に温めた酒を注いだ。
今度は慧音が妹紅に酌をする。息の合った動きで互いに酒を満たす。乾杯の代わりに、いただきますと声を揃えて言った。
妹紅は一息で飲み干し、「うん美味い」と言いながらもう次を注いでいた。
「妹紅よ、これを肴に一杯じゃなかったのか」
酒を一口舐めてから具の盛られた小鉢を手に、慧音が言った。程良く煮込まれた銀杏切りの大根を取り、息を吹きかけ冷ます。食べて顔を綻ばせた。
「ああ、美味い」
味噌の濃さが野菜の水で丁度良い塩梅となり、まろやかとなった出汁を吸った大根がなんとも優しい味わいだ。軽く噛むだけで旨味が溢れ、その度に慧音は幸せそうに口元を緩め、意志の強さを秘める瞳も蕩けた。後光が差して見えるようだ。
「そんな鍋一つで大袈裟な」
言いつつ、妹紅は酒を置いて白菜を摘み上げた。出汁を吸ってずしりと重く、良い具合に柔らかい。口に放り込めばまず味噌の風味、甘辛くもやさしい味。噛めば芯まで柔らかく、それでいて白菜のしゃきりとした歯応えは残っている。嚥下し、酒を呷ってから熱い息を吐いた。
「何これ美味しい」
「やっぱり鍋っていいなあ」
「別に高い食材なんか使わなくたって、美味しいものは食べれるんだ。生きてるって素晴らしい」
「その素晴らしさの何割が酒に割かれてるんだろうなあ。なあ妹紅」
意地悪い声で指摘され、妹紅はすでに四杯目となる酒を注ぐ手を止めた。
酒は好きだが嗜む程度の慧音にとって、幻想郷の飲んだくれ共の飲みっぷりには呆れてしまう。
「まあまあそう言わず。まずは豆腐を食べて」
「うん。うん、美味しい」
とりあえず妹紅に言われるまま、豆腐の欠片を食べる。
「次に酒を飲んで」
流れるような指示に、慧音は釣られて自然と猪口を空けた。
「……ああー。いい」
どうしようもなく美味かった。止める者はいないのだから、止まる道理がない。二人は餅つきのように軽快な動きで食べては飲み、飲んでは食べてを繰り返し、最初に盛った分と燗徳利を一本、早々と空けた。
妹紅は二本目の燗徳利の半分程を飲んでから、新たに二杯目を小鉢へ盛ろうとして、突然動きが止まった。
「慧音さあ」
お玉を鍋の中に突っ込んだまま妹紅は声を掛けた。慧音は飾り切りにした人参に目を輝かせていた。
「なんだ」
「鱈、食べた?」
妹紅は視線を鍋から慧音へ向ける。連動するように、慧音の瞳が右へ向いた。
「妹紅先に食べていいよ。懐かしいだろ」
「いやあ、味覚えてないし、あの中身見たら自信ないよ」
「でも河童達も美味いと言っていたよ」
「河童の味覚でしょ。生魚と胡瓜を一緒に齧ってる奴らの舌の、どこに信用があるって言うんだい」
「くっ、一部の隙もない、反論の余地がない」
頭を突き合わせて、鍋を見る。味噌出汁の中、他の具材と共に顔を覗かせている鱈の白身。雪のように透けた白身は熱によって濃い乳白色に変わっていた。充分食べ頃だ。
「白身の方は普通だよなあ」
「問題は、こっちか」
二人の目は自然と一点に、白身の隣で、同じく色の濃くなった白子へ向けられる。未知の生物のような風体で浮かんでいるのだ。
「多少固くなったせいか、より形がはっきりしてきたなあ」
「珍味の意味が良く分かるよ、ほんと」
「まあ、せっかく捌いて鍋にしたんだから」
食べてみよう。通じ合うように目を合わせ、頷き合う。それでもやはり、いきなり白子には行かず白身を取った。眼前で睨む。
ひとしきり睨んでから、二人は無言のまま、合図もなく同時に口へ運ぶ。鏡写しのように一致した動きで眉間に皺を寄せ、目は空中を睨み、しばらく咀嚼して飲み込んだ。
「……うん。普通に美味いなあ、これ」
「身は柔らかいし、油は少ない分淡白で食べやすい」
二人はもう一切れ食べ、うんうんと頷き合い、首を傾げた。拍子抜けする程に普通に食べられ、しかも美味い。
「あーやっぱりいいなあ。鹿肉とかも好きだけど、魚肉の鍋はさっぱりだから食べやすいし酒も進む」
「河童にはぜひとも養殖の拡大を図ってもらいたいものだ」
妹紅は酒を空けながら深く頷く。美味いものの入手が容易になることは有難い。
「で、だ。こっちをどうするかだけど」
鱈から捌き出したもう一品、白子を見る。白身の方は見た目は普通なので抵抗も少ないが、やはり白子の方はあまりにも見た目がよろしくない。手を付けるにはなかなかの勇気がいる。
「妹紅は昔食べたんだろう。何かないのか」
「覚えてないなあ。でも死んでなかったから多分大丈夫」
「そんな基準の低い大丈夫は嫌だなあ」
「だけど身の方は美味しかったんだし、こっちもきっと」
妹紅は鍋から白子を摘み上げる。形を崩さないように慎重に、内心の不安を現すかのようにかすかに手が震え、箸先の白子が揺れた。
白身の時と同じように眼前へ運び、鱈を捌いたときと同じような眼で睨む。額から頬にかけて、一筋の汗が流れ落ちる。鍋の熱気から来るものではなかった。
心配する慧音の視線を受けながら、妹紅は腹を括り目を瞑る。
「南無三!」
気合いと共に、一口大に分けた白子を一息で食べた。ゆっくりと咀嚼し、まずは危険がないかを確認する。噛めば薄皮が破れ、とろりとした中身が溢れる。濃厚だ。淡白な白身と対照的に、こってりとしている。妹紅は俯き、しばらく無言で味わう。
様子を伺う慧音が身を乗り出して、妹紅の顔を覗き見る。
ごくりと、妹紅が飲み込んだ。箸を持つ右手が小刻みに震えている。
「……う」
「なんだ、どうした妹紅! 吐くのか、吐くのなら厠に……」
「美味い」
「なん、だと……!」
顔を上げた妹紅が極めて真面目な声で言った。慧音の表情が強張る。
「好き嫌い分かれる味だけど、私は好きだなこれ。何よりもこの味は酒に合う。飯のおかずってよりも酒の肴って感じ」
妹紅は三本目の燗徳利に手を出しながら上機嫌に言った。肴が美味ければ安酒も進む。二つ目の白子を食べて、酒を飲む。
「慧音も食べてみなよ」
「いやあ、しかし。ううむ……」
言葉を濁したまま、慧音の声がか細くなっていく。好き嫌いは良しとしないが、中々手が出せない。
言い訳がましいことを小声で呟いている慧音に痺れを切らし、妹紅は自分の箸で白子を一つ取る。
「慧音」
「ん、なんだ――」
「はい」
言葉が終わる前に、妹紅は慧音の口の中に白子を突っ込んだ。呻き声と共に慧音の表情が凍りつく。彼女の綺麗な顔には似合わない壮絶な表情だ。
「ほら慧音。噛んで噛んで」
口内から箸を抜いた妹紅に促され、慧音はしかめっ面から様子を伺うように片目を開け、もごもごと口だけを動かした。
始めこそ毒見のような慎重さで白子の味を確かめていたが、次第に慧音の表情が戻り、目尻が下がって頬が緩んでいく。
その変化に妹紅は満足し、釣られたように自然と笑みが浮かぶ。
「なんだこれ、美味しい! ええっ」
見た目とは反して予想外の美味。自分の口から漏れた感想に驚き、慧音の緩んでいた顔が豆鉄砲を食らったようにきょとんとしている。
百面相のように慧音の表情が変わり、妹紅は堪え切れずに吹き出した。
「え、なんだなんだ、顔に何かついてるか?」
少しだけ恥ずかしそうに慧音は自分の顔を指先で触れた。
当の本人はまるで気付いておらず、それが余計に妹紅には可笑しく、酒が零れるのも構わず腹を抱えて笑った。座っていられず、猪口を持った手だけを上に伸ばして寝ころんだ。
「なんだって言うんだ。まさかワライダケを食べたなんて言うなよ」
分からないうちに笑い者にされ、あまり面白くない慧音は頬でも膨らませそうな様子で早口に言った。今にも拗ねてしまいそうだ。
いささか子供っぽい反応に、やはり妹紅は笑いながら、それでも起き上り、目尻に溜まった涙を拭いながら答えた。
「いやー、ごめんごめん。ただ慧音が可愛いなあと思っただけだよ」
「なんだそれ。理由になってないぞ」
慧音の片眉が上がった。妹紅はありのまま、思ったままを答えたが、冗談ではぐらかされたと思った慧音は面白くないと伏し目がちに妹紅を睨み、唇を尖らせる。
「ほんとだよ。本当にそう思ったらなんだか可笑しくなっちゃったんだよ。ほら、そう膨れてないで、白子美味しかったでしょ? も一つどうぞ」
妹紅は白子を一つ取り、慧音に差し出す。
「自分で食べられる」
口を真一文字に結んだまま、自分で白子を取り、慧音は一口で食べた。顔は怒っている風を保とうとしているが、目尻は下がっている。
正直者だなと思いながら、妹紅は差し出した白子を自らの口に収め、中身の減った猪口に口をつけた。
「……しかしまあ、あれだな」
少し機嫌が戻ったのか、両手で猪口を持った慧音が躊躇いがちに言った。
うん、と先を促すように頷いてから、妹紅は燗徳利を慧音に向けた。慧音は素直に酌を受け、舐めるように飲んだ。
「いざ食べてみればこうだ。あんなに騒いで捌いてたのが馬鹿みたいに思えてくるな」
「ね。でも私は楽しかったよ。慧音が慌てる姿も見れて役得だ」
「馬鹿言うな。妹紅だって慌てふためいて、うへえだかあへえだか言ってたじゃないか」
「あへえは言ってないよ。そもそもあへえって何さ」
「どっちでもいいよ。どっちも大して変わらない」
はぐらかす様に言葉を切り、慧音は酒を飲んだ。頬が赤いのは酔っているのか照れているのか。
妹紅はやはり笑い、酒を飲んでから白身を食べた。
「まあでも、確かに楽しかったな」
独り言のように慧音は呟いた。もう表情に険はなく、少し酔いが回ったのか和やかな面持ちで手にした猪口を眺めていた。
「考え通りに調理出来るのも楽しいけど、今日みたいに四苦八苦しながらするのも楽しいな。一人だといつも簡単に済ましてしまっていけない」
「そうだね。私もちゃんと料理するのなんて慧音が来た時ぐらいだよ」
「妹紅は食事が好きなくせに、おざなりなんだ。簡単でもいいからもっと栄養なんかを考えたものをだな」
「私は飯と一汁一菜があれば十分なんだけどなあ」
「だったらちゃんと料理をやらないと。筍三昧や干し柿三昧もいいが、やっぱり手間をかけて作ったものは美味しいよ。これみたいに」
白子を取って見せる慧音に、妹紅は首肯しながら酒を飲んだ。飲みつつ、ふと思う。
「肴にするなら、焼くのも有りかなあ」
「いいなそれ。焼いたのに酢橘とか合うかも」
「あー、全部鍋にしないでちょっと残しとけば良かったかも」
「後の祭りだな。湯がいてポン酢なんかで食べたり」
「天ぷらもありかもなあ」
二人揃ってたまらんとはやし立てる。こうなったら何がなんでも河童達には養殖の拡大をしてもらわなければ収まりがつかない。
慧音が小さな声で笑った。
「何々、今度はどうしたのさ」
「いや、大したことではないよ」慧音が酒を飲み、続ける。「お互い好きなものを一緒にあれこれ考えて料理するって、楽しいなと思っただけだよ」
「そうだね。……ああ、なるほど。そういうことか」
微笑む慧音の言葉に、妹紅は思わず納得してしまった。答えを見つけた気分だった。
「私達は、確かに共通したものを共有してるじゃないか」
こんな簡単な答え、いや、考え付けば簡単だが、それを見つけるのは中々難儀なものだなと思いながら、妹紅は酒を飲んだ。
一人で満足気な笑みを浮かべる妹紅に、慧音は首を傾げる。
鍋に残っている鱈の白身を摘まみながら、妹紅は答えた。
「私達の時間は違うけどさ、こうやって同じ時を共有して、一緒に笑えるんだ。だから悲しさよりも、私は幸福に思うよ。慧音と一緒の今を大事にしたいと心から思うんだ」
ね? と笑いかける妹紅に、慧音は言葉の意味を察し、しかし答えず目を伏せる。
慧音が何を考えているのかは分からないが、妹紅は心静かに酒を呷った。最後の燗徳利だ。後でまた温めよう。
妹紅が鍋底に沈んだ豆腐の破片を口に運んでいると、慧音が閉じていた瞼を開き、妹紅とは異なる美しさを秘めた赤い瞳を露わにする。その色は先刻の夕暮れの時と変わらないが、もう悲哀の色は見られない。確かめるように頷き、口を開く。
「そう……なのかな。いや、やっぱり私はまた同じことに悩むだろうし、それは私が私である限り拭えないことなのかもしれない。でも。ああ、確かにそうだ。私は今、とても楽しい。それは確かな私の気持ち。以前に同じようなことで騒いだし、これから先も今日みたいな日は来るのだろけど、それでも。私は今、確かに幸福だよ。妹紅。妹紅と同じ時間を過ごせて楽しい」
慧音が笑った。なんの曇りもない、眩しく思えるほどに魅力的な笑み。
妹紅は魅せられ、笑い返す。ああ、いつもの慧音の笑顔だ。色々な表情をする慧音も魅力的だが、やっぱり私が一番好きな彼女は、太陽のように暖かい、春の陽気のように優しい、この顔だ。
酒の酔いとは異なる、身体を包み込むような心地好い気分に浸かり、妹紅は穏やかな心持ちで微笑む。こんな幸福はじっくりと味わなければ罰が当たる。そう思いながら妹紅はゆっくりとぬるい酒を味わった。
慧音がふと、子供っぽい含み笑いと共に口を開いた。
「妹紅は私のことを物知りなんて言うが、やっぱり妹紅の方がたくさんのことを知っているよ。私の答えを見つけてしまうんだから」
「そんな大したもんじゃないけど、忘れたのかい? 私は君よりも長生きしているからね。そんなことを想う時もあるってだけのことさ」
「ふふ、そうでした。普段が普段だから、貴女のお歳なんてすっかり忘れていました」
「歳は取ってないんだから、年寄り扱い禁止」
「失礼しました。今後は改めましょう」
「その口調もなし」
「はいはい」
受け流すような慧音の素っ気ない返事に、妹紅は何故か無性に可笑しくなってしまい大口を開けて笑った。慧音も一緒に笑い声を上げる。残った酒が零れるのも構わず、妹紅と慧音は嬉しそうに笑い合った。幻想郷の秋の終わり、夜。なんとも幸せそうな飲んだくれ二人の笑い声が響く。