「咲夜、もういいわ。今日はゆっくり休みなさい」
時刻は十時を指そうとしていた。紅魔館の年越しパーティーもそろそろ終わろうとしていた。眠そうに目をこすって自室へ帰る者、すっかり酔いつぶれた者、まだまだ飲もうとする者と妖精メイドたちは各々年を迎えようとしていた。
お開きになろうとする頃合いを見てお嬢様は傍に控える私に声をかけた。
「いえ、私はお嬢様のお傍にいますわ。まだ眠たくはありません」
「いや。私はパチェとフランでゆっくり過ごすことにするわ」
お嬢様はそう言うと膝元に甘えるように「すぅー、すぅー」と可愛らしい寝息を立てている妹様の髪を優しく撫でられた。パーティーの間、妹様はずっとお嬢様の傍におられて仲睦まじい時を過ごされた。その様子に私も微笑ましく妹様の邪魔にならないよう少しお嬢様と距離を置いたほどだ。
そんなこともあってか私を下げさせようとするお嬢様の言葉が少し、寂しく思えたのだった。
だがお嬢様は私に気を遣ってくださったのか、笑みを浮かべられる。
「今年もお疲れ様。来年も咲夜を頼りにしているから、今晩はゆっくり休みなさい」
ようやくお嬢様のお心遣いに気が付いて私は深々と頭を下げ、失礼しようとした。
「よかったら美鈴と新年を迎えたらどうかしら? あの子まだ眠たくはないみたいだから」
後ろへ下がろうとする私をパチュリー様が声をかけた。振り向くとパチュリー様が意地の悪い笑みを浮かべておられた。顔が赤くなるのを覚えた。
「そうね。それがいいわ……美鈴!」
「はい、なんでしょうか?」
お嬢様の声に美鈴がゆっくりと部屋の向こうから歩いて来た。妖精メイドたちとお酒を飲んでいたはずだが美鈴の顔は少しも赤くない。美鈴はお酒に強いのだ。
自分の顔を見られたくなくて顔を背けると、美鈴はすぐに私の様子に気が付いたようで顔を覗こうとする。この馬鹿。
「美鈴。咲夜は少し酔ってしまっているようだわ。部屋へ連れていってあげて」
「あ、そうですか。わかりました。咲夜さん、お部屋へ案内しますよ」
驚いてお嬢様の顔を見るとお嬢様もパチュリー様と同じく意地の悪い顔をされていた。すっかり私の心の底を見透かされておられるようだ。
思いもよらない事に私の中で弁明の言葉が浮かんだが、それを口にすることはしなかった。私自身、こうなることを期待していたからだ。
「咲夜さん、お部屋へ行きましょうか。お嬢様、パチュリー様お休みなさいませ」
「ええ、おやすみ。咲夜、美鈴」
「ゆっくりおやすみなさい」
美鈴は寝息を立てる妹様の耳元に口を寄せて「おやすみなさい。よいお年を」と小さく言葉をかけてから、お嬢様とパチュリー様に頭を下げて私の手を取った。美鈴に手を取られながら私も頭を下げて、部屋を出た。
「咲夜さん、大丈夫ですか。お水用意しましょうか?」
「いいわ。大丈夫よ」
自室にて。
水が入った魔法瓶を手に美鈴が笑いながら話しかけるのを私は背中を向けたまま手を振り、椅子に座った。
窓の外は黒い夜の中で真っ白な粉雪が降り注いでいた。
もうすぐ新しい年がやって来る。しかし年という数字が変わっても何のことはない、またお嬢様の傍に仕える明日がやって来るだけだ。お嬢様がいて、妹様がいて、パチュリー様と小悪魔、そして美鈴で過ごす変わらない日々がやって来るだけだ。
いや、それは違う。
変わろうとしなかっただけだ。
春が来ても、夏が着ても、秋も冬も、そして大みそかになっても、私は未だこの想いを打ち上げられないまま。
一年が過ぎても変わらないのはこの自分のせいだと知っていた。
私はそっと化粧台に視線を向ける。
一番上の引き出しに入った紙切れを思い起こす。
何度手にしたか。何度美鈴に見せようと思ったか。結局尻込みしてしまって、とうとう渡せなくてしわくちゃになった紙切れを。
きっと美鈴に見せたら困惑するだろう。
きっとお嬢様は笑うだろう。
なんて子どもじみた真似事。
私が尻込みをしてしまう原因だった。
それでも私にとってその紙切れは大事なのだ。
今まで美鈴と過ごした時を変えてしまう、そして新しい時間を美鈴と過ごすことを約束する誓約書。
大事故に私は尻込みをする。
どんな運命が待ちうけようと、もう今までのような美鈴と過ごした日々はなくなるのだから。
「本当に大丈夫ですか?」
「えっ?」
ふと気が付くと背中から美鈴が心配そうに私の顔を覗きこんでいた。
慌てて顔を背ける。
いけない。ボーっとしてしまったようだ。こんな顔、美鈴に見せたくはないのに。
「大丈夫よ、心配しないで。私は大丈夫だから」
私がそう言うと美鈴は「そうですか」と小さく返事をした。
あぁ、また私は美鈴を突っぱねてしまう。
怖い。
美鈴に嫌われるのが怖い。いや、気の優しいこの子は嫌ったりはしない。でも今まで過ごした日々が変わってしまうのが怖いのだ。
臆病な私が独りで俯いていると、視線の先で動く影があった。顔を上げると美鈴が大胆にも私のベットに腰をかけていた。今まで私以外に横になった者がいないベッド。
美鈴はにっこりと笑ってみせた。
「咲夜さん、変わりましたね」
それはまったく思いもよらない言葉だった。
返す言葉がとっさに見つからず、まじまじと見つめ返す私に美鈴は笑いながら話を続ける。
「咲夜さんは綺麗です。私から見てもとっても綺麗なお人だと思います。それでいて仕事を完璧にこなして。でもこの一年、咲夜さんは変わったように思えます」
「……私が、変わった?」
やっと返す言葉を見つけてそれを口に出す。
美鈴が頷いた。
「だって咲夜さん、私のことをあんまり怒らなくなったじゃないですか」
その言葉に私は拍子抜けした。そんな私に気にせず美鈴は笑顔のままだ。
「私がお昼寝をしていても以前のようにナイフを投げてきたりしませんし、私が夜通し門番の仕事をしていると差し入れを持ってきてくださるようになりましたし。なんというか、優しくなりましたね!」
私は呆れてしまった。
「……そう。じゃあ来年こそは美鈴がサボっていたらナイフを投げて差し上げようかしら? 以前よりも多めに」
「ああー! 勘弁してくださいよー」
両手を合わせて頭を深々と下げる美鈴に、私ははっとした。
私は変わりたい。
怖いけど、美鈴との関係を変えたい。
でも美鈴はそれを望んでいないのではないか。
美鈴は今まで通りの私たちの関係であることを望んでいるのではないか。
私は笑った。
「そうね。サボっているばかりの貴女に付き合っていると私も変わるわよ。貴女は変わらないんだから」
それは本心からの言葉ではなかった。諦めだった。
私のこの想いを美鈴に伝えるのはまだ早いのだ。
私がどんなに焦ろうと、焦っているのは私だけなのだ。
私独りがこの胸の想いをくすぶらせているだけなのだ。
視線を化粧台の引き出しに向ける。
そこには子どもじみた誓約書が入っている。
捨ててしまおう、そう思った時だった。
「咲夜さん。実は私もこう見えて変わったんですよ」
振り向くと美鈴が私の目の前まで寄ってきていた。
驚く私の両手を掴むと美鈴はにっこりと笑った。
「咲夜さんも変わることを望んでいるんですよね? ……あの引き出しに何が入っているんです?」
背中に冷や汗が流れた。
ちらちらと私が化粧台に視線を向けていたのを美鈴は見抜いていたのだ。
私はとっさにポケットに入っている懐中時計を掴もうとした。しかしそれをすでに掴んでいる美鈴の手が遮る。
「逃げないでください。私も逃げませんから」
美鈴の目は真剣だった。
その目に射抜かれたように、私は動きを止めた。
そんな私ににっこりと笑みを浮かべると、美鈴は化粧台へと近寄っていく。
引き出しが開かれる。
時間と止めてその紙切れを千切ろうとすれば出来た。
しかし、私はしなかった。
私は変わりたいのだ。
引き出しからそれを手にした美鈴はまじまじと見つめて、私に振り返った。
レミリア・スカーレット様
私たち二人はこれからは『めおと』として過ごしたく存じます
どうか私たち二人を温かく見守ってくださいませ
十六夜咲夜
美鈴が手にしているのは手製の婚約届だった。
短い文章で綴られた文章の片隅にはすでに私のサインがしてあった。
今まで私が美鈴に見せたかった、サインして欲しかった子どもじみた紙切れ。
それでも私にとっては大事な、美鈴にサインして欲しかった婚約届だ
ついに見られてしまった。
私の想いも、ついに美鈴に知られてしまったのだ。
変わろうとしていた。
臆病者の私は顔を伏せて全てを受け入れようとした。
しばらく沈黙が部屋の中を包む。
目を閉じて真っ暗な中、ペンが動く音がした。
顔をあげると美鈴が私の羽ペンを片手に婚約届を見せていた。
十六夜咲夜。
私のサインの下。
紅美鈴
彼女のサインが書かれていた。
「……嘘」
そう言うのがやっとだった。
「嘘じゃありませんよ。咲夜さん……私でよければ」
にっこりと笑う美鈴の顔。
その顔が涙で大きく滲む。
私は立ち上がると美鈴の胸元に抱きついた。
「咲夜さん。私も貴女のことを愛していました。綺麗な顔立ちで完璧に仕事こなす貴女が憧れでした。そして私に優しくしてくださる貴女のことが、好きです。結婚してください」
そう言って美鈴は体から私をゆっくり離すと、私の目を見つめる。
顔が真っ赤になるのがわかった。
現実か幻か、彷徨いながら私も見つめ返した。
美鈴の顔が大きくなる。
彼女の唇が――私の額に寄せられた。
時計の針は六時を指していた。
すでに新しい年がやってきていた。
視線を移すとベッドの上、私の傍らで美鈴が寝息を立てていた。
私は枕元に手を伸ばして、手製の婚約届を手に取った。
全て、現実だったのだ。
十六夜咲夜
紅美鈴
二人のサインが書かれた婚約届。
これから二人が変わり、寄り添うことを誓った婚約届。
彼女のサインをまじましと眺めて、私は美鈴に振り返る。
「……美鈴の馬鹿。どうして唇にキスしてくれないの」
私の悪態も知らずに美鈴は幸せそうに寝ていた。
婚約届を枕元に置いて私は美鈴に顔を寄せる。
足りなかった。
わがままな私は美鈴のサインだけでは足りなかったのだ。
唇をゆっくり近づけて――美鈴の首元に当てた。
そして力いっぱい吸った。
時間をかけて吸ってから顔を離すと、美鈴の首元に赤い点がはっきりと残された。
貴女を愛している。
美鈴は鏡を覗きこんで、私のサインをどう受け止めるだろう。
私は楽しみでつい笑みを浮かべてしまう。
空は紫色に染まり、新しい年がそこにやってきていた。
時刻は十時を指そうとしていた。紅魔館の年越しパーティーもそろそろ終わろうとしていた。眠そうに目をこすって自室へ帰る者、すっかり酔いつぶれた者、まだまだ飲もうとする者と妖精メイドたちは各々年を迎えようとしていた。
お開きになろうとする頃合いを見てお嬢様は傍に控える私に声をかけた。
「いえ、私はお嬢様のお傍にいますわ。まだ眠たくはありません」
「いや。私はパチェとフランでゆっくり過ごすことにするわ」
お嬢様はそう言うと膝元に甘えるように「すぅー、すぅー」と可愛らしい寝息を立てている妹様の髪を優しく撫でられた。パーティーの間、妹様はずっとお嬢様の傍におられて仲睦まじい時を過ごされた。その様子に私も微笑ましく妹様の邪魔にならないよう少しお嬢様と距離を置いたほどだ。
そんなこともあってか私を下げさせようとするお嬢様の言葉が少し、寂しく思えたのだった。
だがお嬢様は私に気を遣ってくださったのか、笑みを浮かべられる。
「今年もお疲れ様。来年も咲夜を頼りにしているから、今晩はゆっくり休みなさい」
ようやくお嬢様のお心遣いに気が付いて私は深々と頭を下げ、失礼しようとした。
「よかったら美鈴と新年を迎えたらどうかしら? あの子まだ眠たくはないみたいだから」
後ろへ下がろうとする私をパチュリー様が声をかけた。振り向くとパチュリー様が意地の悪い笑みを浮かべておられた。顔が赤くなるのを覚えた。
「そうね。それがいいわ……美鈴!」
「はい、なんでしょうか?」
お嬢様の声に美鈴がゆっくりと部屋の向こうから歩いて来た。妖精メイドたちとお酒を飲んでいたはずだが美鈴の顔は少しも赤くない。美鈴はお酒に強いのだ。
自分の顔を見られたくなくて顔を背けると、美鈴はすぐに私の様子に気が付いたようで顔を覗こうとする。この馬鹿。
「美鈴。咲夜は少し酔ってしまっているようだわ。部屋へ連れていってあげて」
「あ、そうですか。わかりました。咲夜さん、お部屋へ案内しますよ」
驚いてお嬢様の顔を見るとお嬢様もパチュリー様と同じく意地の悪い顔をされていた。すっかり私の心の底を見透かされておられるようだ。
思いもよらない事に私の中で弁明の言葉が浮かんだが、それを口にすることはしなかった。私自身、こうなることを期待していたからだ。
「咲夜さん、お部屋へ行きましょうか。お嬢様、パチュリー様お休みなさいませ」
「ええ、おやすみ。咲夜、美鈴」
「ゆっくりおやすみなさい」
美鈴は寝息を立てる妹様の耳元に口を寄せて「おやすみなさい。よいお年を」と小さく言葉をかけてから、お嬢様とパチュリー様に頭を下げて私の手を取った。美鈴に手を取られながら私も頭を下げて、部屋を出た。
「咲夜さん、大丈夫ですか。お水用意しましょうか?」
「いいわ。大丈夫よ」
自室にて。
水が入った魔法瓶を手に美鈴が笑いながら話しかけるのを私は背中を向けたまま手を振り、椅子に座った。
窓の外は黒い夜の中で真っ白な粉雪が降り注いでいた。
もうすぐ新しい年がやって来る。しかし年という数字が変わっても何のことはない、またお嬢様の傍に仕える明日がやって来るだけだ。お嬢様がいて、妹様がいて、パチュリー様と小悪魔、そして美鈴で過ごす変わらない日々がやって来るだけだ。
いや、それは違う。
変わろうとしなかっただけだ。
春が来ても、夏が着ても、秋も冬も、そして大みそかになっても、私は未だこの想いを打ち上げられないまま。
一年が過ぎても変わらないのはこの自分のせいだと知っていた。
私はそっと化粧台に視線を向ける。
一番上の引き出しに入った紙切れを思い起こす。
何度手にしたか。何度美鈴に見せようと思ったか。結局尻込みしてしまって、とうとう渡せなくてしわくちゃになった紙切れを。
きっと美鈴に見せたら困惑するだろう。
きっとお嬢様は笑うだろう。
なんて子どもじみた真似事。
私が尻込みをしてしまう原因だった。
それでも私にとってその紙切れは大事なのだ。
今まで美鈴と過ごした時を変えてしまう、そして新しい時間を美鈴と過ごすことを約束する誓約書。
大事故に私は尻込みをする。
どんな運命が待ちうけようと、もう今までのような美鈴と過ごした日々はなくなるのだから。
「本当に大丈夫ですか?」
「えっ?」
ふと気が付くと背中から美鈴が心配そうに私の顔を覗きこんでいた。
慌てて顔を背ける。
いけない。ボーっとしてしまったようだ。こんな顔、美鈴に見せたくはないのに。
「大丈夫よ、心配しないで。私は大丈夫だから」
私がそう言うと美鈴は「そうですか」と小さく返事をした。
あぁ、また私は美鈴を突っぱねてしまう。
怖い。
美鈴に嫌われるのが怖い。いや、気の優しいこの子は嫌ったりはしない。でも今まで過ごした日々が変わってしまうのが怖いのだ。
臆病な私が独りで俯いていると、視線の先で動く影があった。顔を上げると美鈴が大胆にも私のベットに腰をかけていた。今まで私以外に横になった者がいないベッド。
美鈴はにっこりと笑ってみせた。
「咲夜さん、変わりましたね」
それはまったく思いもよらない言葉だった。
返す言葉がとっさに見つからず、まじまじと見つめ返す私に美鈴は笑いながら話を続ける。
「咲夜さんは綺麗です。私から見てもとっても綺麗なお人だと思います。それでいて仕事を完璧にこなして。でもこの一年、咲夜さんは変わったように思えます」
「……私が、変わった?」
やっと返す言葉を見つけてそれを口に出す。
美鈴が頷いた。
「だって咲夜さん、私のことをあんまり怒らなくなったじゃないですか」
その言葉に私は拍子抜けした。そんな私に気にせず美鈴は笑顔のままだ。
「私がお昼寝をしていても以前のようにナイフを投げてきたりしませんし、私が夜通し門番の仕事をしていると差し入れを持ってきてくださるようになりましたし。なんというか、優しくなりましたね!」
私は呆れてしまった。
「……そう。じゃあ来年こそは美鈴がサボっていたらナイフを投げて差し上げようかしら? 以前よりも多めに」
「ああー! 勘弁してくださいよー」
両手を合わせて頭を深々と下げる美鈴に、私ははっとした。
私は変わりたい。
怖いけど、美鈴との関係を変えたい。
でも美鈴はそれを望んでいないのではないか。
美鈴は今まで通りの私たちの関係であることを望んでいるのではないか。
私は笑った。
「そうね。サボっているばかりの貴女に付き合っていると私も変わるわよ。貴女は変わらないんだから」
それは本心からの言葉ではなかった。諦めだった。
私のこの想いを美鈴に伝えるのはまだ早いのだ。
私がどんなに焦ろうと、焦っているのは私だけなのだ。
私独りがこの胸の想いをくすぶらせているだけなのだ。
視線を化粧台の引き出しに向ける。
そこには子どもじみた誓約書が入っている。
捨ててしまおう、そう思った時だった。
「咲夜さん。実は私もこう見えて変わったんですよ」
振り向くと美鈴が私の目の前まで寄ってきていた。
驚く私の両手を掴むと美鈴はにっこりと笑った。
「咲夜さんも変わることを望んでいるんですよね? ……あの引き出しに何が入っているんです?」
背中に冷や汗が流れた。
ちらちらと私が化粧台に視線を向けていたのを美鈴は見抜いていたのだ。
私はとっさにポケットに入っている懐中時計を掴もうとした。しかしそれをすでに掴んでいる美鈴の手が遮る。
「逃げないでください。私も逃げませんから」
美鈴の目は真剣だった。
その目に射抜かれたように、私は動きを止めた。
そんな私ににっこりと笑みを浮かべると、美鈴は化粧台へと近寄っていく。
引き出しが開かれる。
時間と止めてその紙切れを千切ろうとすれば出来た。
しかし、私はしなかった。
私は変わりたいのだ。
引き出しからそれを手にした美鈴はまじまじと見つめて、私に振り返った。
レミリア・スカーレット様
私たち二人はこれからは『めおと』として過ごしたく存じます
どうか私たち二人を温かく見守ってくださいませ
十六夜咲夜
美鈴が手にしているのは手製の婚約届だった。
短い文章で綴られた文章の片隅にはすでに私のサインがしてあった。
今まで私が美鈴に見せたかった、サインして欲しかった子どもじみた紙切れ。
それでも私にとっては大事な、美鈴にサインして欲しかった婚約届だ
ついに見られてしまった。
私の想いも、ついに美鈴に知られてしまったのだ。
変わろうとしていた。
臆病者の私は顔を伏せて全てを受け入れようとした。
しばらく沈黙が部屋の中を包む。
目を閉じて真っ暗な中、ペンが動く音がした。
顔をあげると美鈴が私の羽ペンを片手に婚約届を見せていた。
十六夜咲夜。
私のサインの下。
紅美鈴
彼女のサインが書かれていた。
「……嘘」
そう言うのがやっとだった。
「嘘じゃありませんよ。咲夜さん……私でよければ」
にっこりと笑う美鈴の顔。
その顔が涙で大きく滲む。
私は立ち上がると美鈴の胸元に抱きついた。
「咲夜さん。私も貴女のことを愛していました。綺麗な顔立ちで完璧に仕事こなす貴女が憧れでした。そして私に優しくしてくださる貴女のことが、好きです。結婚してください」
そう言って美鈴は体から私をゆっくり離すと、私の目を見つめる。
顔が真っ赤になるのがわかった。
現実か幻か、彷徨いながら私も見つめ返した。
美鈴の顔が大きくなる。
彼女の唇が――私の額に寄せられた。
時計の針は六時を指していた。
すでに新しい年がやってきていた。
視線を移すとベッドの上、私の傍らで美鈴が寝息を立てていた。
私は枕元に手を伸ばして、手製の婚約届を手に取った。
全て、現実だったのだ。
十六夜咲夜
紅美鈴
二人のサインが書かれた婚約届。
これから二人が変わり、寄り添うことを誓った婚約届。
彼女のサインをまじましと眺めて、私は美鈴に振り返る。
「……美鈴の馬鹿。どうして唇にキスしてくれないの」
私の悪態も知らずに美鈴は幸せそうに寝ていた。
婚約届を枕元に置いて私は美鈴に顔を寄せる。
足りなかった。
わがままな私は美鈴のサインだけでは足りなかったのだ。
唇をゆっくり近づけて――美鈴の首元に当てた。
そして力いっぱい吸った。
時間をかけて吸ってから顔を離すと、美鈴の首元に赤い点がはっきりと残された。
貴女を愛している。
美鈴は鏡を覗きこんで、私のサインをどう受け止めるだろう。
私は楽しみでつい笑みを浮かべてしまう。
空は紫色に染まり、新しい年がそこにやってきていた。
いまさら誤字の指摘も何ですがせっかくですので。
”想いを打ち上げられ”→打ち明けられ
”時間と止めて”→時間を止めて