人は生まれながらに罪を背負っているのだという。
そんな身に覚えのない罪など知ったことかと、そう言えるものは強い。
時に、その罪に耐えられないものもいる。
自分が罪を犯すことを許せないものがいる。
しかし、無罪性の追求は罪だ。
潔白であろうとするものは罪深く、勇敢であろうとするものは臆病で、公平であろうとするものは偏っている。
正しくあろうとするならば、理想郷に背を向けて歩み去るよりほかないのだ。
執務室で書類作業をしていると、ドアがノックされた。
「入れ」
短く命ずると、妖精メイドが入ってきた。
「お嬢様、面会をご希望の方がいらしてます」
いささか緊張気味に答えた妖精の言に、頭の中で今日のスケジュールを読み返す。来客の予定はなかったはずだ。突然の来訪に対して、私まで報告を上げるということは、恐らくは本業の方の客だろう。
「分かった、すぐに行くから第三応接間に御通しして」
そう告げると、妖精メイドはしゃちほこばったお辞儀をして、急いで部屋を出ていった。今日中に片づけておきたい書類がいくつもあったのだけれど、こればかりは仕方が無い。イライラしていては礼を失することにもなるし、気持ちを切り替える意味も込めて大きく伸びをした。
明日できることは明日やってもいい。気を抜くとせっかちになるのは私の悪い癖だった。来客用の上着は下ろしてあったはずよね。
第三応接間は紅魔館の正面側、大ホールを擁するメイン棟の2階にある。大事な客人を迎える第一応接間よりはちょっとランクが低く、しかし出入り業者用の玄関ホール横にある第二応接間よりは上等な、つまりは無難な応接間だ。
扉の前には使用人のホフゴブリンが控えていた。顎で合図をすると、音もなく扉を開く。こういうところは妖精よりやはりいい仕事をするな、と改めて思う。外観はやはり劣るけども。
「お待たせして申し訳ない。指定妖怪等団体法人『紅魔館』代表理事館主のレミリア・スカーレットよ。名刺は・・・要らない?そう、結構」
下がっていいわよと言うと、ゴブリンは頭を下げ、扉を閉めた。
ソファに腰掛けて客人を観察すると、見たところ14~5歳の少年であった。洋装で、麻のシャツにカーキ色のスラックス。里では和装と洋装が7対3程度だったはず。比較的裕福な家の出か、あるいは少し特殊な職に就いているのか。魔力を感じないから純正の人間で、しかしこちらの魔力に怯んでいない。ここまで一人で来たことも加味すると・・・
「職業魔法使い・・・」
表情に変化なし。
「いや、職業錬金術師かな?」
そういうと、目の前の少年は大きく狼狽して
「え、何でわか・・・、ゲホッ、何でわかったん、です…か?」
と言った。
分かっていたわけではないが、今の態度で良く分かった、とはもちろん言わない。
「仕事柄そういう人間と接する機会が多いからね。しかしこの運命を操る吸血鬼を持ってしても、名前まで見破れるわけではない。お名前と用件を教えていただけるかな」
まず相手より精神的優位に立つ。吸血鬼と言うよりむしろ人間お得意の芸当だろう。最も、そこまでする必要がある相手ではなさそうだけれども。
「ぼ、いや私・・・は、トキオ、といいます。名字はありませんが、鍋屋のトキオって呼ばれてます」
少年=トキオは吸血鬼を前に緊張しているのか、つっかえながら名乗った。幻想郷は外界日本のように戸籍制度が厳密ではない。そのため、このトキオ少年のように名字が無いものも少なくない。そういったものが必要な時には、名前の前に住所、あるいは生業をつけて呼ぶのが通例だ。
「錬金通りで調理器具の表面加工をしています。あ、していました」
トキオはあえて言いなおした。
していました、と。それはつまり、今は違うということだ。私は彼がここに来た理由におおよそ思い当たった。
「ふむ、鍋屋トキオくん。それでこの紅魔館にどのようなご用命かな」
そう聞くと、トキオは口を開き、いったん閉じ、もういちど息を吸い込んでこういった。
「お金、・・・お金を貸していただきたいのです」
紅魔館がそもそもどのようにこの幻想郷と関わっているか、それをご存じでなければ説明しておく必要があるだろう。
スカーレット家は、外界に於いて貴種と呼ばれる妖怪であった。貴種、あるいは貴族妖怪、そう呼ばれる妖怪は、居城をかまえ、所領を経営し、しもべを率き従えるものたちである。ひたすら流れ続ける一部の妖怪を除けば、どんな妖怪もねぐらを持ち、縄張りを持っているものだが、貴種はその縄張りを公然と維持し、内外に認めさせているモノを言う。
吸血鬼の貴種はその辺の人間を突然襲うことはない。領土内の人間に命じて、居城まで呼びつけるのである。圧倒的畏怖と幾らかの見返り(例えば狼や他の妖魔からの保護など)によって領土をつなぎとめ、経営するのが仕事である。スカーレット家もその例にもれず、ヨーロッパの山間の隠れ里をスカーレット領として経営していた。人はパンのみにて生きるにあらず、と言うが吸血鬼もまた血だけで生きていくわけではない。領土があってこそ食料を得、財産を築くことができるのである。
しかし、ご存じのとおり紅魔館はこの幻想郷にやってきた。その際のいざこざはここでは多くを語らないが、そこで私と現行の紅魔館は多くの摩擦を生み、賢者たちの寛大なる温情を持って転居を許されたのである。実際のところ、幻想郷に覇を唱えんとした吸血鬼異変の実行犯、母を失って以後正気ではなかった父=先代スカーレットと、彼を利用して利権をむさぼっていた奸臣たちは、凄絶な戦闘の末皆殺しにあっている。妹や腹心とともに地下室に閉じこもっていた私たちだけは、穏健派の賢者たちのとりなしによって許されたのだ。
もちろん面子をつぶされた賢者たちはそのまま紅魔館を許すことはなかった。異変の講和条約である吸血鬼条約によって紅魔館は領地の保有を永久に禁止されたのである。私としては愛する家族(父は愛して“いた”家族なので除く)とわずかに残った忠臣、そして親友を守ることができただけで万々歳だったのだが、吸血鬼は血のみにて生きるにあらず、何らかの方法で日々の糧を得る必要が出てきたのである。
遠回りして申し訳ないが、ここで話を戻そう。現在の紅魔館は、信用、保険、安全保障事業によって利益を得る法人なのである。信用事業とは簡単にいえば銀行のような仕事だ。お金を預かって、それを別のところに貸す。貨幣経済がさほど発達していなこの幻想郷で、こういった事業が成り立つのは、相手が里の外の人間だからである。里から離れた場所に住む一部の人間は、夜盗や妖怪から自分の生命や財産を、自分で守らなければならない。こういう人間にとっては、人間よりもむしろ妖怪の方が頼りになる。彼らの財産を守るのは、預かり手の妖怪としての格とプライドだ。つまり紅魔館は、吸血鬼レミリア・スカーレットの名前を看板に、財産を預かっているのである。
保険事業については説明の必要はないだろう。安全保障事業と言うのは、まさしく安全を保証する仕事。この人間は紅魔館の取引相手ですよ、と示すことで紅魔館より格下の妖怪からはかなり襲われづらくなるのである。全て里の外で生活する人間を相手にした商売だ。だからこそ、紅魔館の戸を叩くものはだいたいそういう人間である。
「さて、いくらぐらい必要かな?」
だから目の前に座るトキオ少年の望みもだいたい見当がついていた。里抜けしてきたのだろう。トキオは、その年齢からすればいささか以上に過分な額を要求した。恐らくは彼の年収に倍する金額だ。
「ふむ、大きく出たわね。返すあてはあるのかしら?」
そう聞くと、トキオは暫く黙って、しかしはっきりとした口調で
「・・・あります」
と答えた。
「わざわざ妖怪からお金を借りようなどと言う人間はだいたい2種類に分けられる」
私はトキオから目を離さずに言う。
「まず一つには、人間の法を犯し、人間から借りられなくなった人間だ」
トキオの表情に変化はない。
「そうでなければ、無資力な人間。分かるね?無資力とはすなわち資産を持たないこと。担保となる土地や機械を持たない人間だ。君のように」
トキオは視線をわずかに下げてじっと聞いている。緊張で肩が少しこわばっているのが良く分かる。彼は、よく分かった上でここに来たのだと察せられた。
「しかしわが紅魔館は人間の金貸しからは無資力と判断される人間にも融資を行っている。何故なら私から見ればみんな十分に担保を持っているからよ」
私はそこで言葉を切った。
霧に姿を変えると一瞬でテーブルを通り抜け、トキオの対面から横に座り直す。彼の体が硬直し、うなじに冷や汗が流れるさまが見えた。
「そう、君の、血と・・・」
耳元に顔を寄せる。
「魂だ」
少し嗜虐的な気分も相まって脅かしすぎたか、と思うほどトキオは震え始めた。職業魔法使いや職業錬金術師という連中は、なまじ知識があるせいでこういった脅しが効きやすいな、と改めて感じる。それでも脅しをやめる気はない。ここでビビって逃げ出すような人間が相手では、往々にして回収不能の債権を抱え込むことになる。それはお互いにとって不幸だ。
トキオは体の震えを必死で押さえながら。
「も、もちろん、わ、わ、わ、分かっ…ってる、…分かっています!」
と答えた。
合格だ。
私は今度は普通に歩いて対面のソファに戻る。トキオはまだ震えが収まらない様子だ。やはり脅かしすぎただろうか。
「ならば結構。ところで仕事のあてはあるのでしょうね」
考えが無いということはあるまい。先ほど彼が提示した金額は、多額ではあったが、私の目から見ても妥当だと思える額だった。里抜けした人間が生活を軌道に乗せるまでには相当の金がかかる。恐らく相場に当たりをつけて来たのだろう。全く無計画の家出というわけでもなさそうである。
「ひょ、表面加工では持ち込みが無いと成り立たないので、け、軽銀を卸そうかと・・・」
「なるほど、結構難しいんでしょう?できるのかしら」
軽銀とはアルミニウムのことだ。幻想郷に於いて、科学的手法ではまだ生成できない金属にも一定の需要はある。そうした金属や樹脂、ゴムなどはほとんどが彼のような職業錬金術師によって産出されている。もっとも錬金術も万能ではないし、材料費もばかにならない。それにスキルのある術師の絶対数が少ないこともあって、そうした品々はやはり稀少だ。
アルミは里でも一部使われているし、河童の里で常に一定の需要がある。錬成できるのならば返済は十分可能だろう。
「お、お詳しいんですね」
「詳しいってことはないよ。ただウチにはお抱えの魔女がいるからね。錬金術は専門外だそうだけど」
わが愛しき親友パチュリーの専門分野は精霊魔術だ。錬金術は苦手、と言うより結構体に負担がかかるので控えているそうだ。水銀などの有害な重金属を使うことも多いのが錬金術の難しいところで、職業錬金術師の絶対数が不足しているのもこれが原因らしい。
「もちろん知ってます!パチュリー・ノーレッジさんですよね。賢者の石レプリカに関する論文を読ませていただきました。僕は魔術はほとんど専門外なんですけど、精霊魔術的アプローチを極めた結果、錬金術に於いても極めて難しい賢者の石の超高効率錬成効果を疑似的に再現できたというのは、全く驚きに値します!錬成術式を五つの異なる属性精霊間で高速循環させてニコラス現象を引き起こし、精霊励起係数をオーバーフローさせることでエリクス崩壊を抑制するというプロセスがどうしても錬金術的アプローチでは再現しきれないのが残念なんですけど。そもそも過程が違う以上全く別の現象だっていうのが学界の見解で、でも職業錬金術師の目標は真理の探究ではなく実利なわけで、結果が同じであるならそこにこだわる必要は・・・」
なんかすごい勢いで語り始めてしまった。あーこういうタイプか。先ほどのおびえも何処へやら、延々とまくしたてるトキオは少し出会った頃の親友に似ていた。
「もう結構よ。私はあまり詳しくないから聴いても分からないのだけれど」
私がそういうと、彼はしまったという顔をしてまた怯え始めた。忙しい少年だ。
「まあ熱心なのは結構。しっかり働いて返してくれるなら融資するのも吝かではないよ」
私は持ってきたブリーフケースから書類を取り出し、トキオの前に並べた。
「では契約に当たっての必要事項を説明するから良く聞きなさい」
トキオが書類を読んでいる間に私は執務室に戻ってきた。紅魔館では現金で当日融資が基本だ。はたして彼がどのような事情から里を出たのかは分からない。いずれきちんと調べなければいけないだろうが、不真面目な人間でないことはすぐに分かった。信用に値する人間だろうと思う。
執務室の壁に掛けられた一枚の油絵に歩み寄る。古めかしい金庫の上に金髪の8歳くらいの幼女が座っている趣味がいいのか悪いのか分からないこの絵は、先代スカーレットの時代に御抱え魔術師に描かせた「金庫番のマーガレット」という絵だ。
「はぁいマギー、調子はどう?」
と、私はその絵に声をかける。
「・・・」
「ちょっと、なんか返事しなさいよ」
私の頭がおかしくなったわけではない、と言い訳をさせてほしい。その証拠に、絵の中の幼女マーガレットは、不満そうな顔をしながらも金庫から降りた。ジト目でこっちを睨むのは勘弁してほしいが。
「仮にも館主に対してその態度は無いんじゃない?」
という私の悪態に対して、絵の中の幼女が口を開く。
「は?私の方がこの館では古株なんですけど。あとそっちも見た目殆ど幼女だから」
「こ、心の声を読むなよ・・・」
ウチの金庫番は何故こんなにも口が悪いのだろう。そもそもなぜ幼女なんだ。これを描いた魔術師の趣味なのか、描かせた先代の趣味なのか。・・・前者であることを願う。自分の父親が幼女に罵られて興奮するような奴だったとは思いたくない。
「い、良いから金庫を開けなさいよ」
さっさと用事を済ませるべく、金額を伝える。
「開けなさいよォ?そんな口のきき方ある?」
何故かいつにもましてマーガレットの機嫌は悪いようだった。
「あ、開けてちょうだ・・・、開けて下さい。マギーさん」
「マギー様」
「あ?」
こンの幼女・・・。
「開けて下さいマギー様、でしょ」
「客を待たせてるんだからさっさと・・・」
「あ、もういいも―ン。そういう態度とるならお金出してあーげない。ついでに咲夜ちゃんにアンタがここであの半人前の魔女と何してたかおーしえちゃう。それから…」
「どうか開けて下さい美しいマーガレットお嬢様ァ!!」
気をよくしたマギーは金庫を開けて中から無造作に札束を掴みとり、こちらに歩いてくる。絵からニュっと突出された手から札束をひったくると、数を確認する。
何でこの館のトップである吸血鬼の、このレミリアが絵に描いた幼女相手に頭を下げなくてはならないのか。咲夜にさえこの絵が動くことは伝えていないから、誰にも愚痴ることすらできない。執務室を監視されるのが嫌で場所を移動しようとしたこともあるが、どんな魔術を使ったのか、どうあってもこの絵は外せなかった。苛立たしいが、今まで一度も盗まれたことのない紅魔館で最も安全なセキュリティなので、使わざるを得ないのだ。
「待ってなさいよ。今にパチェがあんたより優秀な金庫を開発して、あんたなんかすぐにお払い箱にしてやるんだからね」
「そのときはあの魔女に八雲ナントカって女とここで良く話してること教えちゃうから」
「・・・」
もうヤダ。
応接間に戻るとトキオは書類を読み終わったのか、手持無沙汰にしていた。
「あー、待たせて悪かったね」
と詫びを入れながらソファに座る。
「なんだか顔色が優れないようですが」
見て分かるほどか。はあとため息をひとつついて気持ちを切り替える。
「いや、心配には及ばないわ。それより、意思は変わらないのね?」
そう最終確認をすると、トキオはしっかりとうなづいて
「はい、お願いします」
と言った。
説明をしながら契約書にサインをさせる。悪魔との契約は絶対だ。私もトキオといっしょに、一字一句確認しながら書類を作成する。
「ふむ、これで書類は完成だ。あとは君に契約刻印を施す。右手を出して」
「は、はい」
私はトキオの右手をとって、掌を上に向けて開かせる。指先から前腕の中ほどまで触って、魔力耐性を確認する。契約刻印は魔法によって契約を履行させる術式だ。契約が履行されなかった場合、トキオの血と魂は、私のものになる。
魔力を込めて術式を流し込むと、肌に一瞬それが浮かび上がり、すぐに消えた。
「もう済んだよ」
トキオは注射をされる小学生のように顔を背けて目を瞑っていた。痛みは無いと事前に説明したのに。赤くなっているのを見ると少しおかしい。
「さあ、これで契約は成立した」
そう言って私はアタッシュケースに入れたお金をトキオに渡した。
「君がどんな事情で、どうこのお金を使うか、紅魔館は一切関知しない。但し、契約はつながりであり、絆だ。何か困ったことがあればいつでも紅魔館の門を叩きなさい。何時でも私たちはあなたの味方だから」
「・・・はい、ありがとうございます」
それからしばらく平穏な日々が過ぎた。それはそれで面倒なものだが、何も起きない普通の日があるからこそ非日常は輝くものであり、毎日がスペシャルなら、最早それはスペシャルたりえない。
しかし和やかな日常の裏で粛々と進む出来事もある。
私が荷物持ちの妖精メイド、しいたけ(命名私)とともに外回りから紅魔館に戻ると、ちょうど美鈴が交代要員とバトンタッチしているところであった。頭の中でスタッフのシフト表をめくる。
「あら、美鈴。今シフト上がりかしら」
「おやお嬢様、お帰りなさいませ。私はちょうど引き継ぎを終えたところです」
うーんと伸びをする美鈴を見ていると、なんとなく清々しい気分になるのはなぜだろう。今は夕方少し前。ちょっとした懸案事項もあったので、食事に誘うことにする。
「この後何か予定ある?」
「へ?いえ、少し寝てから散歩にでも行こうかと思っていたぐらいですが」
「そう。食事でもどうかと思ってね」
美鈴とは時間があれば極力コミュニケーションを取るようにしているが、やはりデスクワークの多い私と外勤スタッフのまとめ役である美鈴とでは、擦れ違うことも多い。
「良いですねえ。久しぶりのような気もしますし、是非」
色よい返事が得られた。
「しいたけ。荷物はもういいからちょっと厨房に行って、東塔の4階の部屋に食事を二人分用意させてきなさい」
しいたけから荷物を受け取ると、彼女ははーいと間延びした返事をしてすっ飛んで行った。横で聞いていた美鈴は少しおや、という表情を浮かべていた。
着替えを済ませて指定した東塔まで行くと、食事の準備は万事整い、美鈴が待っていた。
「悪いね、待たせた?」
「いえ、それほどでは」
こういうとき待っていませんとは言わないのが美鈴のいいところだ。彼女はグレーのタートルネックにデニムのボトムスという非常にラフな出で立ちだった。咲夜ならもっとかっちりした服装だろうし、パチェはもう少し気合の入った服装で来るだろう。勤務時間外に食事に誘っているのだから、これは友人としての会食である。そのあたり力の抜き加減をわきまえている美鈴はやはり優秀だと思う。
「さあ、冷めないうちに食べ始めよう」
「ええ」
サーブは付けていない。妖精メイドたちは食事の準備を済ませたら、指示があるまで片づけにもこない。今この東塔には私と美鈴しかいないはずだ。それがここで食事をするときのルールだからだ。
「何かあったんですか?」
美鈴が気遣わしげに声をかけてくる。というのもここで食事をするときは、決まって何か私から彼女への相談や頼みごとがあるときだからだろう。メイン棟から少し離れた位置にあるこの東塔の4階は、美鈴が使用人として紅魔館に勤めるより以前に、彼女の私室としてあてがわれていた部屋である。
私も物心ついていない頃、母が健在であった頃のことであるから事情はほとんど知らないが、彼女は元々従者ではなく客分としてこの紅魔館に身を寄せていたという。ちょうど今のパチュリーのように。そのせいか、ここにいると美鈴が幾らかリラックスしているように見えるのだ。それに気付いて以来、彼女との私的な食事にはここを使うようにしていた。
「いや、大した話じゃあないんだけれどね。さっきまでミキヒサ爺さんのところの畑を見に行ってたんだけどさ」
ミキヒサ爺さんは、もうこの20年ほど紅魔館と取引がある農家だ。
「ああ、最近イノシシの被害が増えたとかって言っていたあの件ですか」
「そうそう。やっぱ自分で確認しないと気が済まなくってね。見たところ現状ではそこまでの被害ではなかったんだけれど、この先増えるようならあの辺一体で対策もとらんといかんし。それについては里の猟友会と今度打ち合わせることになって、ひとまずは良いんだけれど・・・」
本題はその後、実地検分から戻ってミキヒサ爺さんと茶飲み話をしていた時のことだ。
「爺さん、少し気になることを言ってたんだよね。なんだか夜中に人の気配がするって」
「人の気配、ですか」
そう、人の気配だ。真夜中、妖怪の時間帯に、何者かが畑の方から雑木林に向かっていったり来たりしている影が見えた、というのだ。
「場所が気になるんだ。ミキヒサ爺さんの畑はウチの管轄してる範囲の中でも一番はずれ、森に近い場所だからねえ。取り締まりも強めて、夜盗の類もほとんど出なくなって久しいし、どうも物盗りではない気がするんだよ」
「そこまで気にかかることでしょうか」
美鈴にきょとんとした顔で問われると、こちらとしても気にし過ぎだろうかというような気分になってしまうのが困ったところだ。しかし私が若輩の経営者でありながら、ここまで今の紅魔館を軌道に乗せられたのは、この嫌な予感、というものを大事にしてきたからである。
「一言でいえば気になる」
「では何かあるんでしょう」
うんうんと何か分かったような顔で美鈴が頷く。もう少し私のことを疑ってくれてもいいんじゃないかと思うことが多々ある。私よりだいぶ年上のはずだが、どことなくレトリーバーのような、大型犬っぽい雰囲気があって、そこが彼女の魅力だろう。というのはおいておいて。
「時期がね」
「時期・・・がどうかしました?」
そう、問題はその人影を見るようになった時期。
「先月末からなんだそうだ、その気配が出没したのが。どうにも気にかかったから、他にもあのあたりで新田牧場のトシヒロのところや、陶芸工房のアキコさんのとこにも聴きにいってみたんだけど、同じ時期に何かしら気になることがあった、ってみんな言っていてね」
先月末から今週の半ばまで人の気配は移動していたという。里の外で暮らす連中というのは自然、仙人じみてくるもので、そういった気配には敏感だ。それ以降、つまり直近の2,3日は誰も人影を見ていない。
「何か目的は果たしてしまったんですかね。これ以降出てこないとしたら、もう見つけようがないですが」
美鈴の言う懸念もそうなのだが、今私が気にしているのはそこではない。
「先月末何があった?」
「え、先月末ですかあ。・・・う~ん。うむむむむ」
悩んでいる美鈴を見ていると何となく和むが、このままでは埒があきそうにない。
「新しく顧客が増えた、だろう?」
「むむむむ。・・・へ?ああ、えーと。そう、トキオくん?でしたっけ?」
そう、私の懸念はそれだ。ちょうどその頃、新たに里から出て暮らし始めた鍋屋トキオの存在。紅魔館の管轄で生きる人間たちは、元々里とのつながりから距離を取った存在であるからして、辺境に住んでいながらあまり力を合わせるということをしない。独立独歩の気風が強く、同じ人間同士であっても没交渉の傾向がある。実際、今日それとなく水を向けてみたが、誰も新たな里抜けモノの存在を認識していないようだった。しかしこちらはそうはいかない。何か問題があるのなら把握しておく責任がある。
「ちょうど経営状態とか、普段の様子とかについて調査を出す時期ではあったんだけど、それも込みであなたにお願いしたいのだけれど」
いつもなら調査部の妖精や悪魔を向かわせるところだが、不測の事態に備えて美鈴に任せたい。
「少し気をつけてみてやってほしい。もちろんその間の通常シフトについては負担が出ないようにこちらで調整しておく」
「もちろんお嬢様に頼まれれば否やはありません」
よし。これで胸のつかえが一つ取れたような心地だ。むろん現時点ではまだ何も解決していないわけだが、私の中では美鈴に任せるのはほとんど解決と同等の安心材料になるようだった。
「ところで私からも一つ聞いていいですか」
「ええ、なにかしら」
「前々から気になってたんですが、融資先の身辺調査を融資後にするのって変じゃないですか?」
もっともである。その辺率直な意見交換は大事だ。
「私は自分の第一印象を信じることにしている。融資に当たっての審査は自分の直感に一任しているんだ。我ながらどうかと思うけれど、少なくともこれまで外したことはない」
これまで紅魔館は悪意の不良債権を抱えたことが無い。その点は率直に誇るべきだと思っている。
「じゃあその後の調査は何なのかというと、これは融資前の審査とは全然性格が違うものなの。融資前の調査は、相手を疑い、返済の意思及び能力が本当にあるかどうかを見極めるためのもの。そして融資後の調査は、融資先を助けるための調査」
「助ける?」
「そう。医者が治療の前に診察を行うように、私たちも顧客が何を必要としているのかをきちんと把握しなければならないもの」
「必要があれば向こうから言ってくるのでは?」
美鈴の疑問は概ね正しい。こっちからわざわざ調べたりしなくても、何か困ったことがあれば顧客は相談に来る。しかし、
「もちろんそうよ、顧客がそれを自覚していればね。でも実際には顧客は自分が何に困っているのかを分かっていない場合が少なくない。更に言えば、自分が困っていることをそもそも分かっていないことが往々にしてある。問題がどこにあるのか、それをどう解決するのか、それが分かっているのなら、こちらが口を出すことは何もない。プロとしての私たちに求められるものは、それ以上のサービスだと、私はそう思っているわ」
そうでしょ?と答えれば美鈴はまたうんうんと頷いていた。癒される。
「だから今回の件についても、疑いの目を持って鍋屋トキオを調査してほしいわけではない。彼が何か困っていないか、気にかけてやって欲しいだけなの。いいわね?」
「はい、よく分かりました」
それからはくだらない雑談をしながら食事を済ませた。部屋を出るときに美鈴がぼそりと言ったことが耳に残った。
「お嬢様はお若いころの御父上に似てこられましたね」
美鈴、あなたはいったいいくつなのよ。
また数週間が過ぎた。美鈴からは定期的に報告が上がっているが、今のところトキオの様子に不審な点は無いようだった。軽銀の錬成は順調のようで、時折里や河童の集落までインゴットにした軽銀を運ぶ様がみられたそうだ。気になってパチェに確認してみたが、やはり軽銀の錬成は難度の高い錬金術だということだ。順調に経営してくれれば返済に困ることはない、どころか、大口の預金客になる見込みもある。紅魔館の取引映手には何軒かそういった大口の預金者がいる。話に出たミキヒサ爺さんもその一人で、秘密の農法で作られた様々な野菜は、里の高級料亭に高額で納入されている。少々皮算用気味だが、期待を込めてトキオの経営予測を資産部に計算させることにした。
不審な人影についてもあれ以降すっかり無くなってしまったようだ。勝手にいなくなられると目的が何だったのかも分からないし、何とも言えない気持ちの悪さが残るのだが、現れないならそれはそれでいい。今日も紅魔館は順調に経常利益を積み上げていた。
それからさらに数日、ついに美鈴からの報告によって事態が進展した。
執務室に人払いをかけ、美鈴から報告を聞く。
「人影は確かにトキオだった、ということか?」
「いえ、順序から言えばトキオくんが人影だったということです。同じ事ですが」
美鈴が言いたいのは、人影の調査の結果その正体がトキオだと判明したのではなく、トキオの調査を行う過程で彼が人影だと気付いた、ということだろう。同じことのようで両者には差がある。紅魔館としては、顧客から相談のあった安全保障マターについてその原因を発見したのではなく、信用事業マターとしての身辺調査中に懸念事項の報告があっただけだ。問題は小さくできるならそれに越したことは無い。
「調査中、顧客=鍋屋トキオが食事を準備し、日中に仮眠をとったことを確認しました。夜間に行動する可能性があるものとして、24時間の張り込み調査に移行しました。その後、深夜2時、自宅を出発する顧客を確認。追跡を開始しました。その際の服装や背恰好から、目撃されていた不審な影との類似点が多かったことも申し添えます。顧客は二本木原から佐山農場を抜けて、雑木林へと入りました。その後顧客は雑木林の中で身元不明の人物と接触しました」
「身元不明の人物・・・?」
深夜の森の中で密会とは穏やかではない。
「あ、接触と言いましたが、両者想定通りの合流というより、移動中の身元不明人物、仮にAとしますが、そのAを顧客が探していたような様子でした。またAは服装が所謂ジャージで、携帯電話らしきものを取り出していた様子から察するに、神隠しにあった外来人である可能性が高いかと思われます」
「ふむ…。あなたは鍋屋トキオが件のAを保護した、と考えているわけね?」
「ええ、恐らくは。その後顧客は妖怪よけの反応剤らしきものを使用したうえでAを伴って帰宅しました。翌朝、Aは一人で顧客宅を出発し、人間の里方面へ向かいました。顧客に動きが無かったため張り込み調査を終了しました」
美鈴の話からこの件のおおよその全体像がおぼろげながら掴めてきた。
「Aのその後は?」
「はい、調査部からの聞き込み調査の報告によれば、Aは里に到着。行政組織である人里互助会に保護された模様です。その際Aは顧客の件については語らず、一晩森の中をさまよっていて、里には偶然たどり着いた、と主張していたとのことです」
「うむ、大体分かったわ。報告ご苦労様。通常業務に戻りなさい」
「はい」
美鈴は何も聞かずに退室した。本当に優秀な部下を持って助かる。色々解決したら事情を説明してやる必要がある。
「咲夜」
「は」
呼べば既にそこにいる従者は、いつも通り、瀟洒で完璧なたたずまいだ。
「3日後の定例パーティ、準備は進んでる?」
「滞りなく進展しております」
定例パーティとは、四半期に一度、紅魔館のステークホルダーを集めて行う業績報告会兼懇親会のことだ。外部監査役である天魔の名代なども来る頭の痛いイベントではあるが、今期これといった問題も発生していない。時期的にも素晴らしいタイミングだ。
「顧客登録番号○○一○八三番の鍋屋トキオ氏に招待状を出しておいて」
「畏まりました」
せっかくの機会を有効利用しない手はない。頭の痛い問題をまとめて解決して、平穏退屈な日常業務を取り戻そうではないか。
さて、パーティ当日。
昼食をはさんで行われた長い長い業績報告を終え、日も沈み、漸く懇親会へと移る段となった。いつもならここで一息ついて、あとは挨拶回りなのだが、今日はこの後もう一つの山場が控えている。近づくたびにゴールが遠ざかるマラソンのような疲労感に心が萎えそうになるが、面倒なことは一気に片付けるに限る。あと一息だと自分に発破をかけた。
「さて、既にお願いはしていたけれど、今日は挨拶回りをお願いするわね紫」
そう頼む私の視線の先には、いつもの印象とは一転、深紅のドレスを身にまとう八雲紫がいる。細かく説明すると長くなるので割愛するが、紅魔館は賢者たちの定める法の上では指定妖怪等団体法人というものに分類される。この法人には要件として、外部理事を一名以上設置しなければならないという決まりがある。それも、明文化はされていないが、慣習上妖怪の賢者の一角でなければならない。
何故こんなめんどくさい決まりがあるのかというと、指定妖怪のお目付け役、という機能が期待されているからである。この指定妖怪等、というのは敵対的幻想入りをおこなったものたちを指し、例えば守谷神社も分類上は指定妖怪等宗教法人である。吸血鬼異変を起こした紅魔館も当然この指定を受けている。要するに厄介者の集団であり、徒党を組んで何かするなら最低でも一名の妖怪の賢者を味方につけなければならないのだ。
問題が発生すると当然外部理事も責任を取らされるので、このなり手を見つけるのが非常に難しい。守谷神社で言えば妖怪の山の天魔がこれにあたり、紅魔館に於いては八雲紫が外部理事である。
「全く、滅多に呼ばれない定例パーティに招待があったから何かと思ってきてみれば・・・。まさかあなたの名代をさせられるとは思わなかったですわ」
紫は非常に不機嫌そうにそういった。彼女の忙しさは重々承知であるだけに心苦しい。
「だから何度も謝っているでしょう。他の勢力の重役も結構きているの、私よりも格下を名代に出すわけにいかないのよ、分かってちょうだい」
紅魔館における私の次の肩書付きとなると、総務人事管理部長兼参事の咲夜になってしまう。彼女は使用人のトップであって役員ではないし、メイドとしての印象が強すぎて私の名代としてはふさわしくない。
「ま、不満はあるけれど珍しく私を頼ったあなたに免じて引き受けますわ。何やら面倒事を抱えているみたいだけれど、取り返しがつかなくなる前に報告して頂戴」
そういうと紫はパーティー会場へと颯爽と姿を消した。紅魔館の理事としてパーソナルカラーの紫を封印してくれた紫の心遣いに改めて感謝しつつ、私は用意させた別室に急いだ。
移動した先は紅魔館西棟3階のスモーキングルームだ。ホールから適度に離れていて静かだし、バルコニーから立食形式のテーブルが出ている中庭が見えるようになっている。グラスに注いだブランデーで口を示しているとドアがノックされた。
「失礼します。御客様をお連れしました」
「ありがとう咲夜、ホールの方はよろしくね」
そういうと咲夜は優雅に一礼し、ホールへ戻っていった。後にはその後ろに立っていた鍋屋トキオだけが残された。
「どうぞ、御入りなさい」
私が声をかけると、トキオはおずおずと部屋へ入ってきた。
「失礼、します」
そう言ってトキオはソファに腰を下ろした。特別気負った様子はなく、これから話されることへの見当もついていないようだった。しかし突然別室に呼ばれたことに対する純粋な疑問が表情に顕れていた。
「パーティは楽しめてる?」
「ええ、はい。こんな豪華なパーティ初めてです」
「それは良かった、お酒は?そう、飲まないのね」
そこで一息入れ、
「外来人を、」
トキオの目がぐるりと泳ぐ。
「助けているそうね?」
直球勝負だ。
トキオの反応は大きかった。明らかに狼狽し、困惑している様子だった。
「な、なん、・・・なんで、そっ、そっ、そっ…」
「何でそれを知っているのか?」
私が言葉を引き継ぐと、トキオはがくがくと頷いた。
「後で教えてあげてもいいけど、今それは大事なことではないわ。重要なことは、私がそれを知っているということ、そうでしょ」
そう、今はそれを論じたいのではなかった。
「み、見てたんですか?」
トキオの混乱はまだおさまらない様子だが、私はその問いには答えない。何故ならこちらが問いかける番だからだ。
「あなたの生命にかかわる問題よ、どうしてあんなことを?」
「・・・」
トキオは黙して答えず、ただ俯いた。
「私が以前言った言葉を覚えているかしら。契約は、つながりであり、絆であると。紅魔館はあなたの味方であると。そう言わなかったかしら。私はあなたの行いを責めているのではない。問題を正確に理解し、その答えを一緒に探そうとしているの。それが紅魔館の仕事よ」
そう言ってまた一息入れる。
私の言葉がトキオに浸透していくのを根気強く待った。トキオは長い沈黙の中で、私の言葉を吟味し、咀嚼し、判断しているようだった。
数分間の沈黙ののち、漸く彼は口を開いた。
「逆に・・・、聞きます。・・・何故みんな、彼らを、・・・助けないのでしょうか」
ここで、この問答の意味が分からないという諸兄に謝らねばならない。その説明が必要である可能性をすっかり失念していた私の落ち度である。
外来人を助ける彼の行動は、一般的な価値観に照らせば、決して間違っていない、どころか賞賛されるべき善行であろう。それは間違いない。しかし、この彼の行動は幻想郷のルールにハッキリと反しているのである。それが人里と妖怪の契約であるがゆえに。
「人間の里は妖怪と契約を結び、外来人を積極的に保護しないことを誓った。その誓いの上にあるのがいまの人間の里の繁栄でしょう。それを分かって里を出たのではないの?」
この幻想郷という土地はのんきでお気楽な土地柄ではあるが、一方できわめて繊細なバランスの上に成り立つ奇跡の楽園である。
妖怪は人を襲い、驚かし、畏怖させ、そして食い、殺す。その妖怪的行いによって妖怪はその存在を保っている。それ故に襲うべき人間のいない場所では妖怪は存在を維持できない。この閉鎖された結界の内側で、人を襲えば、どうなるか。人間はどんどんその数を減らし、里は消滅するだろう。
これは単なる予想ではなく歴史。幻想郷は一度、その危機に直面したことがある。人間の里の崩壊は、そのまま妖怪の崩壊でもあった。その結果、賢者たちの合議の末、人間の里を襲うことを禁ずることが決定された。今に至るまで残る幻想郷を生きるすべての人間にとって最も重要な法、里不可侵協定である。むろんそれだけでは妖怪が存在を維持できない。賢者たちは代替案として、結界の外から人間の肉を調達する案を実行した。未だその全容が明かされていない幻想郷のブラックボックス。人肉の調達加工のプロセスは、八雲と妖怪の山、そして種族魔法使い教会によって運営されている。
しかし、精神的には里の人間を襲い、物理的には供給された肉を食べた妖怪たちであったが、妖怪全体のパワーダウンからそれでは不十分であることがハッキリした。少量でもいいから生きた人間を、妖怪が自ら狩り、その肉や魂を直接食らうことが絶対に必要だったのだ。そこで次に賢者たちが目を付けたのが、そう、神隠しである。
「以前から不定期に発生していた神隠し。妖怪の賢者たちはこれを一定の周期で発生させることによって、獲物の供給に成功した」
だからこそこの外来人は保護してはならない。彼らの犠牲の上に里の人間は里の中での安全を保障されているのだ。供給量は妖怪によって計算され、コントロールされている。1回や2回の狂いでどうにかなるようなヤワなシステムではないが、人間が積極的に彼らを保護した場合話は変わってくる。それは許されざる裏切りであると同時に、救い難い愚行である。
「絶対に助けてはならない、とは規定されていない。偶然なり、実力なり、里までたどり着いたもの、朝まで生き延びたものは保護し、助けても良いとされている。彼らはそれによって里の人間と同等の安全保障を受け、里人として定住するなり、外界に帰るなりが選べる」
おそらくトキオはこのことを知っているはずだ。
「君も分かっているはずだよ。だからこそ里を出たんだろう。これは里の掟であって、里抜けをした今の君には守る義務が無い」
「ええ、そう聞きました。だからこそ僕の行動には落ち度はない。何にもルールを破ってないじゃないですか」
その通り。鍋屋トキオは、
「ルールを守らなくてよくなり、またルールに守られることもなくなった。私たちは安全保障も仕事のうちだから、対価を受ければ妖怪から身の安全を守る。しかしそれは一方的な被害から守るというだけで、君が妖怪に喧嘩を売るなら話は別だ」
妖怪の獲物を横取りするということは、明確に妖怪に敵対する行為だ。人間相手の商売をしてはいても紅魔館も基本的には妖怪側の組織だ。そのような人間を守っていれば、理解を得られない。
「つまりだ、私はこう言っている。このままそんなことを続ければ、遠からず君は死ぬ、と」
トキオには幾らか心得があるようだが、妖怪との本気の殺し合いでどうにかなるレベルには到底達していない。ハッキリ言って自殺行為だった。
「もう一度聞こう。なぜこんなことを?」
トキオは唇をかみしめ、ゆっくりと語り始めた。
「始まりは去年の暮れでした・・・」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
僕、いえ私は、その日夜中に里の外に出ていました。包丁の表面加工に使う錬金術の材料を採取しに言っていたんです。それは夜に採取しなければ効果を発揮しない植物です。私は近所に住んでいた、4つ年上で職業魔法使いのケンイチ兄さんといっしょでした。ケンイチ兄さんは、弱い妖獣なら一人で退治できるほど腕が良く、夜中の採取の時にはいつもついてきてもらっていました。恰好よくて、近所のみんなの憧れで・・・。私も実の兄のように慕っていました。
いつものように採集ポイントで採集をしていると、視界の端で何かが動くのに気づいた私は顔を上げました。はるか遠くに、小さく人影が見えたんです。見慣れない格好をしていたから、あれが噂に聞く外来人だとすぐに分かりました。神隠しにあったのだろうと思って声をかけようとしたそのとき、私はケンイチ兄さんに口を塞がれました。驚いて横目で見ると、ケンイチ兄さんは、小声で黙っているようにと言いました。
ケンイチ兄さんはいつも正しかったし、夜の森では危ないから、必ず彼の指示に従うように言われていたんです。私たちの使っていた照明はケンイチ兄さんが用意した魔法のランプでした。これは妖獣や野生動物を刺激しないように、こちらからは見えるけれど、照らされた側からは光を感じないように仕掛けが施されたランプだったんです。だからその外来人がこちらに近づいてきても彼は私たちには気付いていませんでした。そのまま声をひそめてみていると、ガサガサと何かが蠢く音が聞こえました。それは妖獣の足音でした。
熊のように大きく四足の妖獣が、ちょうど私たちとその外来人の間に入るように現れました。私はアッと声を上げましたが、その声はケンイチ兄さんに塞がれて漏れることはありませんでした。私はそこで、ケンイチ兄さんが最初からこの妖獣に気付いていたんだと分かりました。そして隠れて背後にまわり、不意打ちで退治する気だと。本当に信じていたんです。次の瞬間にはケンイチ兄さんが妖獣を格好良くやっつけて、外来人を助け出すって。
だから私は最後のその瞬間までケンイチ兄さんの言いつけを守って黙って見ていました。最後の、その瞬間まで。
外来人はその妖獣に食い殺されました。当たり前ですよね、何もせずに見ていたんだから、当然です。でも当時の私には何が何だか分かりませんでした。ケンイチ兄さんは私の口を塞いでいた手を離すと、今見たことは忘れろと、ただ一言だけ言ったんです。
信じられなかった。
里に戻って問い詰めると、人間の里の掟について話されました。本当は16歳になったときに教えられるんだそうです。16歳になった里の人間全員に教えるそうです。そんなのおかしいでしょう?だって、里の大人体はみんな知ってたんだ。こんなことを知っていて、よくのうのうと里で生活できるなって、驚いたんです。だってそうでしょう、のんきに里で生活してる連中は残らず全員、どこかで外来人が、神隠しにあった何の罪もない人が、むごたらしく食い殺されているおかげで生きているんだって、知ってたんですよ?
私は恐ろしくなりました。自分もまたその犠牲の上に今まで生きてきたと、そう知ったとき、これまでの人生は何だったんだろうって、そう思ったんです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「ねえレミリアさん、私は間違っていますか?」
トキオは唇を震わせて私にそう問うた。
間違っているか間違っていないかで言えば、
「君は間違っていない」
そう答えるよりほかない。彼は罪を背負って生きることを拒否し、里の安寧を捨てた。里を離れることでルールを破ることなく、堂々と外来人を助けることができる。
なにも間違っていない。
目撃されていた人影はトキオだった。彼はあちこちに、人間の接近を感知する特殊な魔法石を埋めて回っていたのだ。そして実際にその周囲を歩くことによって、その感度を調節していた。そして独自に計算した周期予測に従って、神隠しに備えていたのだ。
恐ろしい執念だ。なにも間違っておらず、ハッキリと正しかった。
それでも、彼の行為を私は決して賞賛しない。
「君は間違っていないし、正しい。そうだろう。でもその正しさに何の意味がある?」
その疑問を私は捨てきれないのだ。彼を非難したいのでもなく、否定したいのでもないけれど、しかし彼を肯定したくないのだ。
「君がこの幻想郷のシステムそのものを作り替え、犠牲者の出ない正しい社会を作るのだとしたら、私はもろ手を挙げて賛同しよう。でもそうじゃない。君がやっているのは、ただ間違っていたくない、正しくありたいという執念から、ほんの数名の命を助けながら自らの命を落とそうとしているだけだ」
トキオの目にハッキリと怒りの色が浮かんだ。
「あなたはじゃあ無意味だっていうんですか。そのあなたの言うほんの数名の命を尊いとは思わないのですか?」
「いいえ、尊いと思うわ。君が先日救った外来人の命は何物にも代えがたい尊い命だ。彼の今後の人生全て、そして彼がその人生の中で救うであろう全ての人を君は救った、それは尊いでしょう。でも尊かったら何なの?尊さのために全てを捨てることは尊いの?正しさのために命を失うことは正しいの?あなたの考えもあるでしょうけれど、少なくとも私はそうは思わない。ねえ、だったら聞くけれど、あなたが犠牲にしようとしているそのあなたの命は尊くないの?それを犠牲にすることは正しいのかしら」
私はただ思っていることをぶちまけただけだ。上手く、ずる賢く、彼を言いくるめる方法が無いわけではないだろうけれど、それが必要なことかどうかは分からなかった。
トキオは私の問いかけには答えず、黙ったままだ。
「あなたが初めてこの紅魔館の門を叩いた日を覚えている?錬金術について熱く語る君を私はあっさりと遮ってしまったけれど、私はあの時、出会ったばかりの頃の私の親友を思い出していたの。そうして思った。君はこれからどんな風に成長していくんだろう、どんな大人になっていくんだろうって。そしてわが紅魔館があなたとどう関わっていけるかって、それを楽しみにしていたのよ」
トキオはまだ黙っている。
「正しくあるために死ななくってはいけないのだとしたら、正しくある必要はどこにあるの。その正しさは正しいの?何度も言うけれど、あなたが間違っているとは思わない。でも里に暮らす人間たちが自らの罪を裁かれ、里から歩み去ることが正しいとも、やっぱり思えない」
「例え誰かを犠牲にしていても、ですか?」
「誰かを犠牲にしないために、自分を犠牲にするよりも、そうね」
「・・・」
トキオは納得をしていない表情であったが、私の言葉を否定もしなかった。
「君は私の知る限りどんな人間よりも勇敢で、ある意味誰よりも臆病よ。それは正しさのためにどんな危険も顧みず、戦えるということであり、自分の知らないところで誰かが傷つくのに耐えられず、僅かにも罪を犯したくないという弱さでもある」
非難、・・・に聞こえるだろうか。
「私は悪魔だからこんなことを言うのかもしれないけれど、悪くないことが、非の無い人間でいることが、そんなに大事なことだとは思えないの。自分が幸せであるために、自分の罪に対して鈍感であることは、道徳的には許されなかったとしても、生き物としては正しいはずよ。聖人君子であるために幸せを捨てる人間は、どんなに正しくっても、生き物としては失格、っていったら、怒られてしまうかしら」
これは私の偽らざる気持ちだ。私はそれだけを彼に伝えたかった。
「論理的に話せなくってごめんなさいね。私が言いたいことは結局一つだけで、私はみんなに幸せになってほしい。私の名前とプライドに掛けて、その為の手伝いなら喜んでするわ。それを覚えておいて」
これ以上言うべき言葉は見つからなかった。あとはトキオが決めることだ。
「それじゃ。是非パーティも楽しんでいってちょうだいな」
私は彼を置いて部屋を後にした。結局パーティには戻らず、執務室に戻った。
「ねえ、結局最後まで顔を出さないってどういうことかしら。締めの挨拶までさせられたのよ私。ねえ、聞いてるの?」
帰る前に執務室に寄った紫は、パーティの前よりもさらに不機嫌になっていた。
「御免なさい。ちょっと戻る気力が湧かなくって」
「気力ぅ?気力ですって?あきれた。私がどれだけ苦労して・・・」
「あーもう悪かったって言ってるでしょう?この埋め合わせは必ずするからさ」
私がそういった瞬間、紫の目がきらりと光った。マズったか
「そう、ならいいわ。ゆかりんゆるす。何をしてもらおうかしら、胸が躍るわ」
また余計なことを言ってしまったが、今回は本当に紫に助けてもらったわけで、その埋め合わせはきっちりするしかない。
そもそも本音を言えば埋め合わせなんてなくても、私は極力八雲紫の望むとおりにしたいと思っているのだ。なんてことを誰かに聞かれたらまずいので決して口には出さないけれど。吸血鬼異変のとき、強硬派の筆頭だった紫が折れた御蔭で、紅魔館は存続の希望をつないだのだ。聞いてみれば強硬派にいたのは最初からフリで、恩を売ってコマにするつもりだったそうだが。
まんまと思惑にはまった私は、しかしそれでも感謝の念を失いはしなかった。表面上はやや敵対寄りの中立に振る舞ってはいるが、紫がスペルカードルールを普及させたいといえば紅霧で耳目を集めて初のスペカ採用大規模異変を起こしたし、月に攻め入るといえばパチェの尻を叩いてロケットだって作る。
私は幻想郷に来て幸せになれたと思っている。愛する妹、家族といっしょに過ごせる故郷を得ることができた。だから、他の誰かにも幸せになってほしいし、この八雲紫という女が誰よりもみんなを幸せにしようと思っているから、何だって協力するのだ。
「ねえ紫」
「なあに?」
「罪人は幸せになってはいけないのかしら」
「突然何の話?」
紫は怪訝な顔をするが、私の顔を見て、何かを察したのか真面目に答えてくれた。
「何を持って罪とするか、それが分からなければ判断のしようが無いわ。それでもあえて言うなら、いいんじゃない?」
紫は笑っていった。
「そもそも幸せになっていいとか、いけないとか、誰が決めるのよ。大事なのは幸せになりたいかどうか、そうでしょ?ちなみに私は幸せになりたいわ」
「私はもう幸せ。でも紫が幸せならもっと幸せよ」
だってこいつの幸せは、幻想郷の幸せだから。
紫は何か不気味なものでも見るような目で私を見て
「大丈夫?悪いものでも食べた?」
と言った。
部屋の壁にかかった油絵から、幼女の笑い声が聞こえた。
そんな身に覚えのない罪など知ったことかと、そう言えるものは強い。
時に、その罪に耐えられないものもいる。
自分が罪を犯すことを許せないものがいる。
しかし、無罪性の追求は罪だ。
潔白であろうとするものは罪深く、勇敢であろうとするものは臆病で、公平であろうとするものは偏っている。
正しくあろうとするならば、理想郷に背を向けて歩み去るよりほかないのだ。
執務室で書類作業をしていると、ドアがノックされた。
「入れ」
短く命ずると、妖精メイドが入ってきた。
「お嬢様、面会をご希望の方がいらしてます」
いささか緊張気味に答えた妖精の言に、頭の中で今日のスケジュールを読み返す。来客の予定はなかったはずだ。突然の来訪に対して、私まで報告を上げるということは、恐らくは本業の方の客だろう。
「分かった、すぐに行くから第三応接間に御通しして」
そう告げると、妖精メイドはしゃちほこばったお辞儀をして、急いで部屋を出ていった。今日中に片づけておきたい書類がいくつもあったのだけれど、こればかりは仕方が無い。イライラしていては礼を失することにもなるし、気持ちを切り替える意味も込めて大きく伸びをした。
明日できることは明日やってもいい。気を抜くとせっかちになるのは私の悪い癖だった。来客用の上着は下ろしてあったはずよね。
第三応接間は紅魔館の正面側、大ホールを擁するメイン棟の2階にある。大事な客人を迎える第一応接間よりはちょっとランクが低く、しかし出入り業者用の玄関ホール横にある第二応接間よりは上等な、つまりは無難な応接間だ。
扉の前には使用人のホフゴブリンが控えていた。顎で合図をすると、音もなく扉を開く。こういうところは妖精よりやはりいい仕事をするな、と改めて思う。外観はやはり劣るけども。
「お待たせして申し訳ない。指定妖怪等団体法人『紅魔館』代表理事館主のレミリア・スカーレットよ。名刺は・・・要らない?そう、結構」
下がっていいわよと言うと、ゴブリンは頭を下げ、扉を閉めた。
ソファに腰掛けて客人を観察すると、見たところ14~5歳の少年であった。洋装で、麻のシャツにカーキ色のスラックス。里では和装と洋装が7対3程度だったはず。比較的裕福な家の出か、あるいは少し特殊な職に就いているのか。魔力を感じないから純正の人間で、しかしこちらの魔力に怯んでいない。ここまで一人で来たことも加味すると・・・
「職業魔法使い・・・」
表情に変化なし。
「いや、職業錬金術師かな?」
そういうと、目の前の少年は大きく狼狽して
「え、何でわか・・・、ゲホッ、何でわかったん、です…か?」
と言った。
分かっていたわけではないが、今の態度で良く分かった、とはもちろん言わない。
「仕事柄そういう人間と接する機会が多いからね。しかしこの運命を操る吸血鬼を持ってしても、名前まで見破れるわけではない。お名前と用件を教えていただけるかな」
まず相手より精神的優位に立つ。吸血鬼と言うよりむしろ人間お得意の芸当だろう。最も、そこまでする必要がある相手ではなさそうだけれども。
「ぼ、いや私・・・は、トキオ、といいます。名字はありませんが、鍋屋のトキオって呼ばれてます」
少年=トキオは吸血鬼を前に緊張しているのか、つっかえながら名乗った。幻想郷は外界日本のように戸籍制度が厳密ではない。そのため、このトキオ少年のように名字が無いものも少なくない。そういったものが必要な時には、名前の前に住所、あるいは生業をつけて呼ぶのが通例だ。
「錬金通りで調理器具の表面加工をしています。あ、していました」
トキオはあえて言いなおした。
していました、と。それはつまり、今は違うということだ。私は彼がここに来た理由におおよそ思い当たった。
「ふむ、鍋屋トキオくん。それでこの紅魔館にどのようなご用命かな」
そう聞くと、トキオは口を開き、いったん閉じ、もういちど息を吸い込んでこういった。
「お金、・・・お金を貸していただきたいのです」
紅魔館がそもそもどのようにこの幻想郷と関わっているか、それをご存じでなければ説明しておく必要があるだろう。
スカーレット家は、外界に於いて貴種と呼ばれる妖怪であった。貴種、あるいは貴族妖怪、そう呼ばれる妖怪は、居城をかまえ、所領を経営し、しもべを率き従えるものたちである。ひたすら流れ続ける一部の妖怪を除けば、どんな妖怪もねぐらを持ち、縄張りを持っているものだが、貴種はその縄張りを公然と維持し、内外に認めさせているモノを言う。
吸血鬼の貴種はその辺の人間を突然襲うことはない。領土内の人間に命じて、居城まで呼びつけるのである。圧倒的畏怖と幾らかの見返り(例えば狼や他の妖魔からの保護など)によって領土をつなぎとめ、経営するのが仕事である。スカーレット家もその例にもれず、ヨーロッパの山間の隠れ里をスカーレット領として経営していた。人はパンのみにて生きるにあらず、と言うが吸血鬼もまた血だけで生きていくわけではない。領土があってこそ食料を得、財産を築くことができるのである。
しかし、ご存じのとおり紅魔館はこの幻想郷にやってきた。その際のいざこざはここでは多くを語らないが、そこで私と現行の紅魔館は多くの摩擦を生み、賢者たちの寛大なる温情を持って転居を許されたのである。実際のところ、幻想郷に覇を唱えんとした吸血鬼異変の実行犯、母を失って以後正気ではなかった父=先代スカーレットと、彼を利用して利権をむさぼっていた奸臣たちは、凄絶な戦闘の末皆殺しにあっている。妹や腹心とともに地下室に閉じこもっていた私たちだけは、穏健派の賢者たちのとりなしによって許されたのだ。
もちろん面子をつぶされた賢者たちはそのまま紅魔館を許すことはなかった。異変の講和条約である吸血鬼条約によって紅魔館は領地の保有を永久に禁止されたのである。私としては愛する家族(父は愛して“いた”家族なので除く)とわずかに残った忠臣、そして親友を守ることができただけで万々歳だったのだが、吸血鬼は血のみにて生きるにあらず、何らかの方法で日々の糧を得る必要が出てきたのである。
遠回りして申し訳ないが、ここで話を戻そう。現在の紅魔館は、信用、保険、安全保障事業によって利益を得る法人なのである。信用事業とは簡単にいえば銀行のような仕事だ。お金を預かって、それを別のところに貸す。貨幣経済がさほど発達していなこの幻想郷で、こういった事業が成り立つのは、相手が里の外の人間だからである。里から離れた場所に住む一部の人間は、夜盗や妖怪から自分の生命や財産を、自分で守らなければならない。こういう人間にとっては、人間よりもむしろ妖怪の方が頼りになる。彼らの財産を守るのは、預かり手の妖怪としての格とプライドだ。つまり紅魔館は、吸血鬼レミリア・スカーレットの名前を看板に、財産を預かっているのである。
保険事業については説明の必要はないだろう。安全保障事業と言うのは、まさしく安全を保証する仕事。この人間は紅魔館の取引相手ですよ、と示すことで紅魔館より格下の妖怪からはかなり襲われづらくなるのである。全て里の外で生活する人間を相手にした商売だ。だからこそ、紅魔館の戸を叩くものはだいたいそういう人間である。
「さて、いくらぐらい必要かな?」
だから目の前に座るトキオ少年の望みもだいたい見当がついていた。里抜けしてきたのだろう。トキオは、その年齢からすればいささか以上に過分な額を要求した。恐らくは彼の年収に倍する金額だ。
「ふむ、大きく出たわね。返すあてはあるのかしら?」
そう聞くと、トキオは暫く黙って、しかしはっきりとした口調で
「・・・あります」
と答えた。
「わざわざ妖怪からお金を借りようなどと言う人間はだいたい2種類に分けられる」
私はトキオから目を離さずに言う。
「まず一つには、人間の法を犯し、人間から借りられなくなった人間だ」
トキオの表情に変化はない。
「そうでなければ、無資力な人間。分かるね?無資力とはすなわち資産を持たないこと。担保となる土地や機械を持たない人間だ。君のように」
トキオは視線をわずかに下げてじっと聞いている。緊張で肩が少しこわばっているのが良く分かる。彼は、よく分かった上でここに来たのだと察せられた。
「しかしわが紅魔館は人間の金貸しからは無資力と判断される人間にも融資を行っている。何故なら私から見ればみんな十分に担保を持っているからよ」
私はそこで言葉を切った。
霧に姿を変えると一瞬でテーブルを通り抜け、トキオの対面から横に座り直す。彼の体が硬直し、うなじに冷や汗が流れるさまが見えた。
「そう、君の、血と・・・」
耳元に顔を寄せる。
「魂だ」
少し嗜虐的な気分も相まって脅かしすぎたか、と思うほどトキオは震え始めた。職業魔法使いや職業錬金術師という連中は、なまじ知識があるせいでこういった脅しが効きやすいな、と改めて感じる。それでも脅しをやめる気はない。ここでビビって逃げ出すような人間が相手では、往々にして回収不能の債権を抱え込むことになる。それはお互いにとって不幸だ。
トキオは体の震えを必死で押さえながら。
「も、もちろん、わ、わ、わ、分かっ…ってる、…分かっています!」
と答えた。
合格だ。
私は今度は普通に歩いて対面のソファに戻る。トキオはまだ震えが収まらない様子だ。やはり脅かしすぎただろうか。
「ならば結構。ところで仕事のあてはあるのでしょうね」
考えが無いということはあるまい。先ほど彼が提示した金額は、多額ではあったが、私の目から見ても妥当だと思える額だった。里抜けした人間が生活を軌道に乗せるまでには相当の金がかかる。恐らく相場に当たりをつけて来たのだろう。全く無計画の家出というわけでもなさそうである。
「ひょ、表面加工では持ち込みが無いと成り立たないので、け、軽銀を卸そうかと・・・」
「なるほど、結構難しいんでしょう?できるのかしら」
軽銀とはアルミニウムのことだ。幻想郷に於いて、科学的手法ではまだ生成できない金属にも一定の需要はある。そうした金属や樹脂、ゴムなどはほとんどが彼のような職業錬金術師によって産出されている。もっとも錬金術も万能ではないし、材料費もばかにならない。それにスキルのある術師の絶対数が少ないこともあって、そうした品々はやはり稀少だ。
アルミは里でも一部使われているし、河童の里で常に一定の需要がある。錬成できるのならば返済は十分可能だろう。
「お、お詳しいんですね」
「詳しいってことはないよ。ただウチにはお抱えの魔女がいるからね。錬金術は専門外だそうだけど」
わが愛しき親友パチュリーの専門分野は精霊魔術だ。錬金術は苦手、と言うより結構体に負担がかかるので控えているそうだ。水銀などの有害な重金属を使うことも多いのが錬金術の難しいところで、職業錬金術師の絶対数が不足しているのもこれが原因らしい。
「もちろん知ってます!パチュリー・ノーレッジさんですよね。賢者の石レプリカに関する論文を読ませていただきました。僕は魔術はほとんど専門外なんですけど、精霊魔術的アプローチを極めた結果、錬金術に於いても極めて難しい賢者の石の超高効率錬成効果を疑似的に再現できたというのは、全く驚きに値します!錬成術式を五つの異なる属性精霊間で高速循環させてニコラス現象を引き起こし、精霊励起係数をオーバーフローさせることでエリクス崩壊を抑制するというプロセスがどうしても錬金術的アプローチでは再現しきれないのが残念なんですけど。そもそも過程が違う以上全く別の現象だっていうのが学界の見解で、でも職業錬金術師の目標は真理の探究ではなく実利なわけで、結果が同じであるならそこにこだわる必要は・・・」
なんかすごい勢いで語り始めてしまった。あーこういうタイプか。先ほどのおびえも何処へやら、延々とまくしたてるトキオは少し出会った頃の親友に似ていた。
「もう結構よ。私はあまり詳しくないから聴いても分からないのだけれど」
私がそういうと、彼はしまったという顔をしてまた怯え始めた。忙しい少年だ。
「まあ熱心なのは結構。しっかり働いて返してくれるなら融資するのも吝かではないよ」
私は持ってきたブリーフケースから書類を取り出し、トキオの前に並べた。
「では契約に当たっての必要事項を説明するから良く聞きなさい」
トキオが書類を読んでいる間に私は執務室に戻ってきた。紅魔館では現金で当日融資が基本だ。はたして彼がどのような事情から里を出たのかは分からない。いずれきちんと調べなければいけないだろうが、不真面目な人間でないことはすぐに分かった。信用に値する人間だろうと思う。
執務室の壁に掛けられた一枚の油絵に歩み寄る。古めかしい金庫の上に金髪の8歳くらいの幼女が座っている趣味がいいのか悪いのか分からないこの絵は、先代スカーレットの時代に御抱え魔術師に描かせた「金庫番のマーガレット」という絵だ。
「はぁいマギー、調子はどう?」
と、私はその絵に声をかける。
「・・・」
「ちょっと、なんか返事しなさいよ」
私の頭がおかしくなったわけではない、と言い訳をさせてほしい。その証拠に、絵の中の幼女マーガレットは、不満そうな顔をしながらも金庫から降りた。ジト目でこっちを睨むのは勘弁してほしいが。
「仮にも館主に対してその態度は無いんじゃない?」
という私の悪態に対して、絵の中の幼女が口を開く。
「は?私の方がこの館では古株なんですけど。あとそっちも見た目殆ど幼女だから」
「こ、心の声を読むなよ・・・」
ウチの金庫番は何故こんなにも口が悪いのだろう。そもそもなぜ幼女なんだ。これを描いた魔術師の趣味なのか、描かせた先代の趣味なのか。・・・前者であることを願う。自分の父親が幼女に罵られて興奮するような奴だったとは思いたくない。
「い、良いから金庫を開けなさいよ」
さっさと用事を済ませるべく、金額を伝える。
「開けなさいよォ?そんな口のきき方ある?」
何故かいつにもましてマーガレットの機嫌は悪いようだった。
「あ、開けてちょうだ・・・、開けて下さい。マギーさん」
「マギー様」
「あ?」
こンの幼女・・・。
「開けて下さいマギー様、でしょ」
「客を待たせてるんだからさっさと・・・」
「あ、もういいも―ン。そういう態度とるならお金出してあーげない。ついでに咲夜ちゃんにアンタがここであの半人前の魔女と何してたかおーしえちゃう。それから…」
「どうか開けて下さい美しいマーガレットお嬢様ァ!!」
気をよくしたマギーは金庫を開けて中から無造作に札束を掴みとり、こちらに歩いてくる。絵からニュっと突出された手から札束をひったくると、数を確認する。
何でこの館のトップである吸血鬼の、このレミリアが絵に描いた幼女相手に頭を下げなくてはならないのか。咲夜にさえこの絵が動くことは伝えていないから、誰にも愚痴ることすらできない。執務室を監視されるのが嫌で場所を移動しようとしたこともあるが、どんな魔術を使ったのか、どうあってもこの絵は外せなかった。苛立たしいが、今まで一度も盗まれたことのない紅魔館で最も安全なセキュリティなので、使わざるを得ないのだ。
「待ってなさいよ。今にパチェがあんたより優秀な金庫を開発して、あんたなんかすぐにお払い箱にしてやるんだからね」
「そのときはあの魔女に八雲ナントカって女とここで良く話してること教えちゃうから」
「・・・」
もうヤダ。
応接間に戻るとトキオは書類を読み終わったのか、手持無沙汰にしていた。
「あー、待たせて悪かったね」
と詫びを入れながらソファに座る。
「なんだか顔色が優れないようですが」
見て分かるほどか。はあとため息をひとつついて気持ちを切り替える。
「いや、心配には及ばないわ。それより、意思は変わらないのね?」
そう最終確認をすると、トキオはしっかりとうなづいて
「はい、お願いします」
と言った。
説明をしながら契約書にサインをさせる。悪魔との契約は絶対だ。私もトキオといっしょに、一字一句確認しながら書類を作成する。
「ふむ、これで書類は完成だ。あとは君に契約刻印を施す。右手を出して」
「は、はい」
私はトキオの右手をとって、掌を上に向けて開かせる。指先から前腕の中ほどまで触って、魔力耐性を確認する。契約刻印は魔法によって契約を履行させる術式だ。契約が履行されなかった場合、トキオの血と魂は、私のものになる。
魔力を込めて術式を流し込むと、肌に一瞬それが浮かび上がり、すぐに消えた。
「もう済んだよ」
トキオは注射をされる小学生のように顔を背けて目を瞑っていた。痛みは無いと事前に説明したのに。赤くなっているのを見ると少しおかしい。
「さあ、これで契約は成立した」
そう言って私はアタッシュケースに入れたお金をトキオに渡した。
「君がどんな事情で、どうこのお金を使うか、紅魔館は一切関知しない。但し、契約はつながりであり、絆だ。何か困ったことがあればいつでも紅魔館の門を叩きなさい。何時でも私たちはあなたの味方だから」
「・・・はい、ありがとうございます」
それからしばらく平穏な日々が過ぎた。それはそれで面倒なものだが、何も起きない普通の日があるからこそ非日常は輝くものであり、毎日がスペシャルなら、最早それはスペシャルたりえない。
しかし和やかな日常の裏で粛々と進む出来事もある。
私が荷物持ちの妖精メイド、しいたけ(命名私)とともに外回りから紅魔館に戻ると、ちょうど美鈴が交代要員とバトンタッチしているところであった。頭の中でスタッフのシフト表をめくる。
「あら、美鈴。今シフト上がりかしら」
「おやお嬢様、お帰りなさいませ。私はちょうど引き継ぎを終えたところです」
うーんと伸びをする美鈴を見ていると、なんとなく清々しい気分になるのはなぜだろう。今は夕方少し前。ちょっとした懸案事項もあったので、食事に誘うことにする。
「この後何か予定ある?」
「へ?いえ、少し寝てから散歩にでも行こうかと思っていたぐらいですが」
「そう。食事でもどうかと思ってね」
美鈴とは時間があれば極力コミュニケーションを取るようにしているが、やはりデスクワークの多い私と外勤スタッフのまとめ役である美鈴とでは、擦れ違うことも多い。
「良いですねえ。久しぶりのような気もしますし、是非」
色よい返事が得られた。
「しいたけ。荷物はもういいからちょっと厨房に行って、東塔の4階の部屋に食事を二人分用意させてきなさい」
しいたけから荷物を受け取ると、彼女ははーいと間延びした返事をしてすっ飛んで行った。横で聞いていた美鈴は少しおや、という表情を浮かべていた。
着替えを済ませて指定した東塔まで行くと、食事の準備は万事整い、美鈴が待っていた。
「悪いね、待たせた?」
「いえ、それほどでは」
こういうとき待っていませんとは言わないのが美鈴のいいところだ。彼女はグレーのタートルネックにデニムのボトムスという非常にラフな出で立ちだった。咲夜ならもっとかっちりした服装だろうし、パチェはもう少し気合の入った服装で来るだろう。勤務時間外に食事に誘っているのだから、これは友人としての会食である。そのあたり力の抜き加減をわきまえている美鈴はやはり優秀だと思う。
「さあ、冷めないうちに食べ始めよう」
「ええ」
サーブは付けていない。妖精メイドたちは食事の準備を済ませたら、指示があるまで片づけにもこない。今この東塔には私と美鈴しかいないはずだ。それがここで食事をするときのルールだからだ。
「何かあったんですか?」
美鈴が気遣わしげに声をかけてくる。というのもここで食事をするときは、決まって何か私から彼女への相談や頼みごとがあるときだからだろう。メイン棟から少し離れた位置にあるこの東塔の4階は、美鈴が使用人として紅魔館に勤めるより以前に、彼女の私室としてあてがわれていた部屋である。
私も物心ついていない頃、母が健在であった頃のことであるから事情はほとんど知らないが、彼女は元々従者ではなく客分としてこの紅魔館に身を寄せていたという。ちょうど今のパチュリーのように。そのせいか、ここにいると美鈴が幾らかリラックスしているように見えるのだ。それに気付いて以来、彼女との私的な食事にはここを使うようにしていた。
「いや、大した話じゃあないんだけれどね。さっきまでミキヒサ爺さんのところの畑を見に行ってたんだけどさ」
ミキヒサ爺さんは、もうこの20年ほど紅魔館と取引がある農家だ。
「ああ、最近イノシシの被害が増えたとかって言っていたあの件ですか」
「そうそう。やっぱ自分で確認しないと気が済まなくってね。見たところ現状ではそこまでの被害ではなかったんだけれど、この先増えるようならあの辺一体で対策もとらんといかんし。それについては里の猟友会と今度打ち合わせることになって、ひとまずは良いんだけれど・・・」
本題はその後、実地検分から戻ってミキヒサ爺さんと茶飲み話をしていた時のことだ。
「爺さん、少し気になることを言ってたんだよね。なんだか夜中に人の気配がするって」
「人の気配、ですか」
そう、人の気配だ。真夜中、妖怪の時間帯に、何者かが畑の方から雑木林に向かっていったり来たりしている影が見えた、というのだ。
「場所が気になるんだ。ミキヒサ爺さんの畑はウチの管轄してる範囲の中でも一番はずれ、森に近い場所だからねえ。取り締まりも強めて、夜盗の類もほとんど出なくなって久しいし、どうも物盗りではない気がするんだよ」
「そこまで気にかかることでしょうか」
美鈴にきょとんとした顔で問われると、こちらとしても気にし過ぎだろうかというような気分になってしまうのが困ったところだ。しかし私が若輩の経営者でありながら、ここまで今の紅魔館を軌道に乗せられたのは、この嫌な予感、というものを大事にしてきたからである。
「一言でいえば気になる」
「では何かあるんでしょう」
うんうんと何か分かったような顔で美鈴が頷く。もう少し私のことを疑ってくれてもいいんじゃないかと思うことが多々ある。私よりだいぶ年上のはずだが、どことなくレトリーバーのような、大型犬っぽい雰囲気があって、そこが彼女の魅力だろう。というのはおいておいて。
「時期がね」
「時期・・・がどうかしました?」
そう、問題はその人影を見るようになった時期。
「先月末からなんだそうだ、その気配が出没したのが。どうにも気にかかったから、他にもあのあたりで新田牧場のトシヒロのところや、陶芸工房のアキコさんのとこにも聴きにいってみたんだけど、同じ時期に何かしら気になることがあった、ってみんな言っていてね」
先月末から今週の半ばまで人の気配は移動していたという。里の外で暮らす連中というのは自然、仙人じみてくるもので、そういった気配には敏感だ。それ以降、つまり直近の2,3日は誰も人影を見ていない。
「何か目的は果たしてしまったんですかね。これ以降出てこないとしたら、もう見つけようがないですが」
美鈴の言う懸念もそうなのだが、今私が気にしているのはそこではない。
「先月末何があった?」
「え、先月末ですかあ。・・・う~ん。うむむむむ」
悩んでいる美鈴を見ていると何となく和むが、このままでは埒があきそうにない。
「新しく顧客が増えた、だろう?」
「むむむむ。・・・へ?ああ、えーと。そう、トキオくん?でしたっけ?」
そう、私の懸念はそれだ。ちょうどその頃、新たに里から出て暮らし始めた鍋屋トキオの存在。紅魔館の管轄で生きる人間たちは、元々里とのつながりから距離を取った存在であるからして、辺境に住んでいながらあまり力を合わせるということをしない。独立独歩の気風が強く、同じ人間同士であっても没交渉の傾向がある。実際、今日それとなく水を向けてみたが、誰も新たな里抜けモノの存在を認識していないようだった。しかしこちらはそうはいかない。何か問題があるのなら把握しておく責任がある。
「ちょうど経営状態とか、普段の様子とかについて調査を出す時期ではあったんだけど、それも込みであなたにお願いしたいのだけれど」
いつもなら調査部の妖精や悪魔を向かわせるところだが、不測の事態に備えて美鈴に任せたい。
「少し気をつけてみてやってほしい。もちろんその間の通常シフトについては負担が出ないようにこちらで調整しておく」
「もちろんお嬢様に頼まれれば否やはありません」
よし。これで胸のつかえが一つ取れたような心地だ。むろん現時点ではまだ何も解決していないわけだが、私の中では美鈴に任せるのはほとんど解決と同等の安心材料になるようだった。
「ところで私からも一つ聞いていいですか」
「ええ、なにかしら」
「前々から気になってたんですが、融資先の身辺調査を融資後にするのって変じゃないですか?」
もっともである。その辺率直な意見交換は大事だ。
「私は自分の第一印象を信じることにしている。融資に当たっての審査は自分の直感に一任しているんだ。我ながらどうかと思うけれど、少なくともこれまで外したことはない」
これまで紅魔館は悪意の不良債権を抱えたことが無い。その点は率直に誇るべきだと思っている。
「じゃあその後の調査は何なのかというと、これは融資前の審査とは全然性格が違うものなの。融資前の調査は、相手を疑い、返済の意思及び能力が本当にあるかどうかを見極めるためのもの。そして融資後の調査は、融資先を助けるための調査」
「助ける?」
「そう。医者が治療の前に診察を行うように、私たちも顧客が何を必要としているのかをきちんと把握しなければならないもの」
「必要があれば向こうから言ってくるのでは?」
美鈴の疑問は概ね正しい。こっちからわざわざ調べたりしなくても、何か困ったことがあれば顧客は相談に来る。しかし、
「もちろんそうよ、顧客がそれを自覚していればね。でも実際には顧客は自分が何に困っているのかを分かっていない場合が少なくない。更に言えば、自分が困っていることをそもそも分かっていないことが往々にしてある。問題がどこにあるのか、それをどう解決するのか、それが分かっているのなら、こちらが口を出すことは何もない。プロとしての私たちに求められるものは、それ以上のサービスだと、私はそう思っているわ」
そうでしょ?と答えれば美鈴はまたうんうんと頷いていた。癒される。
「だから今回の件についても、疑いの目を持って鍋屋トキオを調査してほしいわけではない。彼が何か困っていないか、気にかけてやって欲しいだけなの。いいわね?」
「はい、よく分かりました」
それからはくだらない雑談をしながら食事を済ませた。部屋を出るときに美鈴がぼそりと言ったことが耳に残った。
「お嬢様はお若いころの御父上に似てこられましたね」
美鈴、あなたはいったいいくつなのよ。
また数週間が過ぎた。美鈴からは定期的に報告が上がっているが、今のところトキオの様子に不審な点は無いようだった。軽銀の錬成は順調のようで、時折里や河童の集落までインゴットにした軽銀を運ぶ様がみられたそうだ。気になってパチェに確認してみたが、やはり軽銀の錬成は難度の高い錬金術だということだ。順調に経営してくれれば返済に困ることはない、どころか、大口の預金客になる見込みもある。紅魔館の取引映手には何軒かそういった大口の預金者がいる。話に出たミキヒサ爺さんもその一人で、秘密の農法で作られた様々な野菜は、里の高級料亭に高額で納入されている。少々皮算用気味だが、期待を込めてトキオの経営予測を資産部に計算させることにした。
不審な人影についてもあれ以降すっかり無くなってしまったようだ。勝手にいなくなられると目的が何だったのかも分からないし、何とも言えない気持ちの悪さが残るのだが、現れないならそれはそれでいい。今日も紅魔館は順調に経常利益を積み上げていた。
それからさらに数日、ついに美鈴からの報告によって事態が進展した。
執務室に人払いをかけ、美鈴から報告を聞く。
「人影は確かにトキオだった、ということか?」
「いえ、順序から言えばトキオくんが人影だったということです。同じ事ですが」
美鈴が言いたいのは、人影の調査の結果その正体がトキオだと判明したのではなく、トキオの調査を行う過程で彼が人影だと気付いた、ということだろう。同じことのようで両者には差がある。紅魔館としては、顧客から相談のあった安全保障マターについてその原因を発見したのではなく、信用事業マターとしての身辺調査中に懸念事項の報告があっただけだ。問題は小さくできるならそれに越したことは無い。
「調査中、顧客=鍋屋トキオが食事を準備し、日中に仮眠をとったことを確認しました。夜間に行動する可能性があるものとして、24時間の張り込み調査に移行しました。その後、深夜2時、自宅を出発する顧客を確認。追跡を開始しました。その際の服装や背恰好から、目撃されていた不審な影との類似点が多かったことも申し添えます。顧客は二本木原から佐山農場を抜けて、雑木林へと入りました。その後顧客は雑木林の中で身元不明の人物と接触しました」
「身元不明の人物・・・?」
深夜の森の中で密会とは穏やかではない。
「あ、接触と言いましたが、両者想定通りの合流というより、移動中の身元不明人物、仮にAとしますが、そのAを顧客が探していたような様子でした。またAは服装が所謂ジャージで、携帯電話らしきものを取り出していた様子から察するに、神隠しにあった外来人である可能性が高いかと思われます」
「ふむ…。あなたは鍋屋トキオが件のAを保護した、と考えているわけね?」
「ええ、恐らくは。その後顧客は妖怪よけの反応剤らしきものを使用したうえでAを伴って帰宅しました。翌朝、Aは一人で顧客宅を出発し、人間の里方面へ向かいました。顧客に動きが無かったため張り込み調査を終了しました」
美鈴の話からこの件のおおよその全体像がおぼろげながら掴めてきた。
「Aのその後は?」
「はい、調査部からの聞き込み調査の報告によれば、Aは里に到着。行政組織である人里互助会に保護された模様です。その際Aは顧客の件については語らず、一晩森の中をさまよっていて、里には偶然たどり着いた、と主張していたとのことです」
「うむ、大体分かったわ。報告ご苦労様。通常業務に戻りなさい」
「はい」
美鈴は何も聞かずに退室した。本当に優秀な部下を持って助かる。色々解決したら事情を説明してやる必要がある。
「咲夜」
「は」
呼べば既にそこにいる従者は、いつも通り、瀟洒で完璧なたたずまいだ。
「3日後の定例パーティ、準備は進んでる?」
「滞りなく進展しております」
定例パーティとは、四半期に一度、紅魔館のステークホルダーを集めて行う業績報告会兼懇親会のことだ。外部監査役である天魔の名代なども来る頭の痛いイベントではあるが、今期これといった問題も発生していない。時期的にも素晴らしいタイミングだ。
「顧客登録番号○○一○八三番の鍋屋トキオ氏に招待状を出しておいて」
「畏まりました」
せっかくの機会を有効利用しない手はない。頭の痛い問題をまとめて解決して、平穏退屈な日常業務を取り戻そうではないか。
さて、パーティ当日。
昼食をはさんで行われた長い長い業績報告を終え、日も沈み、漸く懇親会へと移る段となった。いつもならここで一息ついて、あとは挨拶回りなのだが、今日はこの後もう一つの山場が控えている。近づくたびにゴールが遠ざかるマラソンのような疲労感に心が萎えそうになるが、面倒なことは一気に片付けるに限る。あと一息だと自分に発破をかけた。
「さて、既にお願いはしていたけれど、今日は挨拶回りをお願いするわね紫」
そう頼む私の視線の先には、いつもの印象とは一転、深紅のドレスを身にまとう八雲紫がいる。細かく説明すると長くなるので割愛するが、紅魔館は賢者たちの定める法の上では指定妖怪等団体法人というものに分類される。この法人には要件として、外部理事を一名以上設置しなければならないという決まりがある。それも、明文化はされていないが、慣習上妖怪の賢者の一角でなければならない。
何故こんなめんどくさい決まりがあるのかというと、指定妖怪のお目付け役、という機能が期待されているからである。この指定妖怪等、というのは敵対的幻想入りをおこなったものたちを指し、例えば守谷神社も分類上は指定妖怪等宗教法人である。吸血鬼異変を起こした紅魔館も当然この指定を受けている。要するに厄介者の集団であり、徒党を組んで何かするなら最低でも一名の妖怪の賢者を味方につけなければならないのだ。
問題が発生すると当然外部理事も責任を取らされるので、このなり手を見つけるのが非常に難しい。守谷神社で言えば妖怪の山の天魔がこれにあたり、紅魔館に於いては八雲紫が外部理事である。
「全く、滅多に呼ばれない定例パーティに招待があったから何かと思ってきてみれば・・・。まさかあなたの名代をさせられるとは思わなかったですわ」
紫は非常に不機嫌そうにそういった。彼女の忙しさは重々承知であるだけに心苦しい。
「だから何度も謝っているでしょう。他の勢力の重役も結構きているの、私よりも格下を名代に出すわけにいかないのよ、分かってちょうだい」
紅魔館における私の次の肩書付きとなると、総務人事管理部長兼参事の咲夜になってしまう。彼女は使用人のトップであって役員ではないし、メイドとしての印象が強すぎて私の名代としてはふさわしくない。
「ま、不満はあるけれど珍しく私を頼ったあなたに免じて引き受けますわ。何やら面倒事を抱えているみたいだけれど、取り返しがつかなくなる前に報告して頂戴」
そういうと紫はパーティー会場へと颯爽と姿を消した。紅魔館の理事としてパーソナルカラーの紫を封印してくれた紫の心遣いに改めて感謝しつつ、私は用意させた別室に急いだ。
移動した先は紅魔館西棟3階のスモーキングルームだ。ホールから適度に離れていて静かだし、バルコニーから立食形式のテーブルが出ている中庭が見えるようになっている。グラスに注いだブランデーで口を示しているとドアがノックされた。
「失礼します。御客様をお連れしました」
「ありがとう咲夜、ホールの方はよろしくね」
そういうと咲夜は優雅に一礼し、ホールへ戻っていった。後にはその後ろに立っていた鍋屋トキオだけが残された。
「どうぞ、御入りなさい」
私が声をかけると、トキオはおずおずと部屋へ入ってきた。
「失礼、します」
そう言ってトキオはソファに腰を下ろした。特別気負った様子はなく、これから話されることへの見当もついていないようだった。しかし突然別室に呼ばれたことに対する純粋な疑問が表情に顕れていた。
「パーティは楽しめてる?」
「ええ、はい。こんな豪華なパーティ初めてです」
「それは良かった、お酒は?そう、飲まないのね」
そこで一息入れ、
「外来人を、」
トキオの目がぐるりと泳ぐ。
「助けているそうね?」
直球勝負だ。
トキオの反応は大きかった。明らかに狼狽し、困惑している様子だった。
「な、なん、・・・なんで、そっ、そっ、そっ…」
「何でそれを知っているのか?」
私が言葉を引き継ぐと、トキオはがくがくと頷いた。
「後で教えてあげてもいいけど、今それは大事なことではないわ。重要なことは、私がそれを知っているということ、そうでしょ」
そう、今はそれを論じたいのではなかった。
「み、見てたんですか?」
トキオの混乱はまだおさまらない様子だが、私はその問いには答えない。何故ならこちらが問いかける番だからだ。
「あなたの生命にかかわる問題よ、どうしてあんなことを?」
「・・・」
トキオは黙して答えず、ただ俯いた。
「私が以前言った言葉を覚えているかしら。契約は、つながりであり、絆であると。紅魔館はあなたの味方であると。そう言わなかったかしら。私はあなたの行いを責めているのではない。問題を正確に理解し、その答えを一緒に探そうとしているの。それが紅魔館の仕事よ」
そう言ってまた一息入れる。
私の言葉がトキオに浸透していくのを根気強く待った。トキオは長い沈黙の中で、私の言葉を吟味し、咀嚼し、判断しているようだった。
数分間の沈黙ののち、漸く彼は口を開いた。
「逆に・・・、聞きます。・・・何故みんな、彼らを、・・・助けないのでしょうか」
ここで、この問答の意味が分からないという諸兄に謝らねばならない。その説明が必要である可能性をすっかり失念していた私の落ち度である。
外来人を助ける彼の行動は、一般的な価値観に照らせば、決して間違っていない、どころか賞賛されるべき善行であろう。それは間違いない。しかし、この彼の行動は幻想郷のルールにハッキリと反しているのである。それが人里と妖怪の契約であるがゆえに。
「人間の里は妖怪と契約を結び、外来人を積極的に保護しないことを誓った。その誓いの上にあるのがいまの人間の里の繁栄でしょう。それを分かって里を出たのではないの?」
この幻想郷という土地はのんきでお気楽な土地柄ではあるが、一方できわめて繊細なバランスの上に成り立つ奇跡の楽園である。
妖怪は人を襲い、驚かし、畏怖させ、そして食い、殺す。その妖怪的行いによって妖怪はその存在を保っている。それ故に襲うべき人間のいない場所では妖怪は存在を維持できない。この閉鎖された結界の内側で、人を襲えば、どうなるか。人間はどんどんその数を減らし、里は消滅するだろう。
これは単なる予想ではなく歴史。幻想郷は一度、その危機に直面したことがある。人間の里の崩壊は、そのまま妖怪の崩壊でもあった。その結果、賢者たちの合議の末、人間の里を襲うことを禁ずることが決定された。今に至るまで残る幻想郷を生きるすべての人間にとって最も重要な法、里不可侵協定である。むろんそれだけでは妖怪が存在を維持できない。賢者たちは代替案として、結界の外から人間の肉を調達する案を実行した。未だその全容が明かされていない幻想郷のブラックボックス。人肉の調達加工のプロセスは、八雲と妖怪の山、そして種族魔法使い教会によって運営されている。
しかし、精神的には里の人間を襲い、物理的には供給された肉を食べた妖怪たちであったが、妖怪全体のパワーダウンからそれでは不十分であることがハッキリした。少量でもいいから生きた人間を、妖怪が自ら狩り、その肉や魂を直接食らうことが絶対に必要だったのだ。そこで次に賢者たちが目を付けたのが、そう、神隠しである。
「以前から不定期に発生していた神隠し。妖怪の賢者たちはこれを一定の周期で発生させることによって、獲物の供給に成功した」
だからこそこの外来人は保護してはならない。彼らの犠牲の上に里の人間は里の中での安全を保障されているのだ。供給量は妖怪によって計算され、コントロールされている。1回や2回の狂いでどうにかなるようなヤワなシステムではないが、人間が積極的に彼らを保護した場合話は変わってくる。それは許されざる裏切りであると同時に、救い難い愚行である。
「絶対に助けてはならない、とは規定されていない。偶然なり、実力なり、里までたどり着いたもの、朝まで生き延びたものは保護し、助けても良いとされている。彼らはそれによって里の人間と同等の安全保障を受け、里人として定住するなり、外界に帰るなりが選べる」
おそらくトキオはこのことを知っているはずだ。
「君も分かっているはずだよ。だからこそ里を出たんだろう。これは里の掟であって、里抜けをした今の君には守る義務が無い」
「ええ、そう聞きました。だからこそ僕の行動には落ち度はない。何にもルールを破ってないじゃないですか」
その通り。鍋屋トキオは、
「ルールを守らなくてよくなり、またルールに守られることもなくなった。私たちは安全保障も仕事のうちだから、対価を受ければ妖怪から身の安全を守る。しかしそれは一方的な被害から守るというだけで、君が妖怪に喧嘩を売るなら話は別だ」
妖怪の獲物を横取りするということは、明確に妖怪に敵対する行為だ。人間相手の商売をしてはいても紅魔館も基本的には妖怪側の組織だ。そのような人間を守っていれば、理解を得られない。
「つまりだ、私はこう言っている。このままそんなことを続ければ、遠からず君は死ぬ、と」
トキオには幾らか心得があるようだが、妖怪との本気の殺し合いでどうにかなるレベルには到底達していない。ハッキリ言って自殺行為だった。
「もう一度聞こう。なぜこんなことを?」
トキオは唇をかみしめ、ゆっくりと語り始めた。
「始まりは去年の暮れでした・・・」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
僕、いえ私は、その日夜中に里の外に出ていました。包丁の表面加工に使う錬金術の材料を採取しに言っていたんです。それは夜に採取しなければ効果を発揮しない植物です。私は近所に住んでいた、4つ年上で職業魔法使いのケンイチ兄さんといっしょでした。ケンイチ兄さんは、弱い妖獣なら一人で退治できるほど腕が良く、夜中の採取の時にはいつもついてきてもらっていました。恰好よくて、近所のみんなの憧れで・・・。私も実の兄のように慕っていました。
いつものように採集ポイントで採集をしていると、視界の端で何かが動くのに気づいた私は顔を上げました。はるか遠くに、小さく人影が見えたんです。見慣れない格好をしていたから、あれが噂に聞く外来人だとすぐに分かりました。神隠しにあったのだろうと思って声をかけようとしたそのとき、私はケンイチ兄さんに口を塞がれました。驚いて横目で見ると、ケンイチ兄さんは、小声で黙っているようにと言いました。
ケンイチ兄さんはいつも正しかったし、夜の森では危ないから、必ず彼の指示に従うように言われていたんです。私たちの使っていた照明はケンイチ兄さんが用意した魔法のランプでした。これは妖獣や野生動物を刺激しないように、こちらからは見えるけれど、照らされた側からは光を感じないように仕掛けが施されたランプだったんです。だからその外来人がこちらに近づいてきても彼は私たちには気付いていませんでした。そのまま声をひそめてみていると、ガサガサと何かが蠢く音が聞こえました。それは妖獣の足音でした。
熊のように大きく四足の妖獣が、ちょうど私たちとその外来人の間に入るように現れました。私はアッと声を上げましたが、その声はケンイチ兄さんに塞がれて漏れることはありませんでした。私はそこで、ケンイチ兄さんが最初からこの妖獣に気付いていたんだと分かりました。そして隠れて背後にまわり、不意打ちで退治する気だと。本当に信じていたんです。次の瞬間にはケンイチ兄さんが妖獣を格好良くやっつけて、外来人を助け出すって。
だから私は最後のその瞬間までケンイチ兄さんの言いつけを守って黙って見ていました。最後の、その瞬間まで。
外来人はその妖獣に食い殺されました。当たり前ですよね、何もせずに見ていたんだから、当然です。でも当時の私には何が何だか分かりませんでした。ケンイチ兄さんは私の口を塞いでいた手を離すと、今見たことは忘れろと、ただ一言だけ言ったんです。
信じられなかった。
里に戻って問い詰めると、人間の里の掟について話されました。本当は16歳になったときに教えられるんだそうです。16歳になった里の人間全員に教えるそうです。そんなのおかしいでしょう?だって、里の大人体はみんな知ってたんだ。こんなことを知っていて、よくのうのうと里で生活できるなって、驚いたんです。だってそうでしょう、のんきに里で生活してる連中は残らず全員、どこかで外来人が、神隠しにあった何の罪もない人が、むごたらしく食い殺されているおかげで生きているんだって、知ってたんですよ?
私は恐ろしくなりました。自分もまたその犠牲の上に今まで生きてきたと、そう知ったとき、これまでの人生は何だったんだろうって、そう思ったんです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「ねえレミリアさん、私は間違っていますか?」
トキオは唇を震わせて私にそう問うた。
間違っているか間違っていないかで言えば、
「君は間違っていない」
そう答えるよりほかない。彼は罪を背負って生きることを拒否し、里の安寧を捨てた。里を離れることでルールを破ることなく、堂々と外来人を助けることができる。
なにも間違っていない。
目撃されていた人影はトキオだった。彼はあちこちに、人間の接近を感知する特殊な魔法石を埋めて回っていたのだ。そして実際にその周囲を歩くことによって、その感度を調節していた。そして独自に計算した周期予測に従って、神隠しに備えていたのだ。
恐ろしい執念だ。なにも間違っておらず、ハッキリと正しかった。
それでも、彼の行為を私は決して賞賛しない。
「君は間違っていないし、正しい。そうだろう。でもその正しさに何の意味がある?」
その疑問を私は捨てきれないのだ。彼を非難したいのでもなく、否定したいのでもないけれど、しかし彼を肯定したくないのだ。
「君がこの幻想郷のシステムそのものを作り替え、犠牲者の出ない正しい社会を作るのだとしたら、私はもろ手を挙げて賛同しよう。でもそうじゃない。君がやっているのは、ただ間違っていたくない、正しくありたいという執念から、ほんの数名の命を助けながら自らの命を落とそうとしているだけだ」
トキオの目にハッキリと怒りの色が浮かんだ。
「あなたはじゃあ無意味だっていうんですか。そのあなたの言うほんの数名の命を尊いとは思わないのですか?」
「いいえ、尊いと思うわ。君が先日救った外来人の命は何物にも代えがたい尊い命だ。彼の今後の人生全て、そして彼がその人生の中で救うであろう全ての人を君は救った、それは尊いでしょう。でも尊かったら何なの?尊さのために全てを捨てることは尊いの?正しさのために命を失うことは正しいの?あなたの考えもあるでしょうけれど、少なくとも私はそうは思わない。ねえ、だったら聞くけれど、あなたが犠牲にしようとしているそのあなたの命は尊くないの?それを犠牲にすることは正しいのかしら」
私はただ思っていることをぶちまけただけだ。上手く、ずる賢く、彼を言いくるめる方法が無いわけではないだろうけれど、それが必要なことかどうかは分からなかった。
トキオは私の問いかけには答えず、黙ったままだ。
「あなたが初めてこの紅魔館の門を叩いた日を覚えている?錬金術について熱く語る君を私はあっさりと遮ってしまったけれど、私はあの時、出会ったばかりの頃の私の親友を思い出していたの。そうして思った。君はこれからどんな風に成長していくんだろう、どんな大人になっていくんだろうって。そしてわが紅魔館があなたとどう関わっていけるかって、それを楽しみにしていたのよ」
トキオはまだ黙っている。
「正しくあるために死ななくってはいけないのだとしたら、正しくある必要はどこにあるの。その正しさは正しいの?何度も言うけれど、あなたが間違っているとは思わない。でも里に暮らす人間たちが自らの罪を裁かれ、里から歩み去ることが正しいとも、やっぱり思えない」
「例え誰かを犠牲にしていても、ですか?」
「誰かを犠牲にしないために、自分を犠牲にするよりも、そうね」
「・・・」
トキオは納得をしていない表情であったが、私の言葉を否定もしなかった。
「君は私の知る限りどんな人間よりも勇敢で、ある意味誰よりも臆病よ。それは正しさのためにどんな危険も顧みず、戦えるということであり、自分の知らないところで誰かが傷つくのに耐えられず、僅かにも罪を犯したくないという弱さでもある」
非難、・・・に聞こえるだろうか。
「私は悪魔だからこんなことを言うのかもしれないけれど、悪くないことが、非の無い人間でいることが、そんなに大事なことだとは思えないの。自分が幸せであるために、自分の罪に対して鈍感であることは、道徳的には許されなかったとしても、生き物としては正しいはずよ。聖人君子であるために幸せを捨てる人間は、どんなに正しくっても、生き物としては失格、っていったら、怒られてしまうかしら」
これは私の偽らざる気持ちだ。私はそれだけを彼に伝えたかった。
「論理的に話せなくってごめんなさいね。私が言いたいことは結局一つだけで、私はみんなに幸せになってほしい。私の名前とプライドに掛けて、その為の手伝いなら喜んでするわ。それを覚えておいて」
これ以上言うべき言葉は見つからなかった。あとはトキオが決めることだ。
「それじゃ。是非パーティも楽しんでいってちょうだいな」
私は彼を置いて部屋を後にした。結局パーティには戻らず、執務室に戻った。
「ねえ、結局最後まで顔を出さないってどういうことかしら。締めの挨拶までさせられたのよ私。ねえ、聞いてるの?」
帰る前に執務室に寄った紫は、パーティの前よりもさらに不機嫌になっていた。
「御免なさい。ちょっと戻る気力が湧かなくって」
「気力ぅ?気力ですって?あきれた。私がどれだけ苦労して・・・」
「あーもう悪かったって言ってるでしょう?この埋め合わせは必ずするからさ」
私がそういった瞬間、紫の目がきらりと光った。マズったか
「そう、ならいいわ。ゆかりんゆるす。何をしてもらおうかしら、胸が躍るわ」
また余計なことを言ってしまったが、今回は本当に紫に助けてもらったわけで、その埋め合わせはきっちりするしかない。
そもそも本音を言えば埋め合わせなんてなくても、私は極力八雲紫の望むとおりにしたいと思っているのだ。なんてことを誰かに聞かれたらまずいので決して口には出さないけれど。吸血鬼異変のとき、強硬派の筆頭だった紫が折れた御蔭で、紅魔館は存続の希望をつないだのだ。聞いてみれば強硬派にいたのは最初からフリで、恩を売ってコマにするつもりだったそうだが。
まんまと思惑にはまった私は、しかしそれでも感謝の念を失いはしなかった。表面上はやや敵対寄りの中立に振る舞ってはいるが、紫がスペルカードルールを普及させたいといえば紅霧で耳目を集めて初のスペカ採用大規模異変を起こしたし、月に攻め入るといえばパチェの尻を叩いてロケットだって作る。
私は幻想郷に来て幸せになれたと思っている。愛する妹、家族といっしょに過ごせる故郷を得ることができた。だから、他の誰かにも幸せになってほしいし、この八雲紫という女が誰よりもみんなを幸せにしようと思っているから、何だって協力するのだ。
「ねえ紫」
「なあに?」
「罪人は幸せになってはいけないのかしら」
「突然何の話?」
紫は怪訝な顔をするが、私の顔を見て、何かを察したのか真面目に答えてくれた。
「何を持って罪とするか、それが分からなければ判断のしようが無いわ。それでもあえて言うなら、いいんじゃない?」
紫は笑っていった。
「そもそも幸せになっていいとか、いけないとか、誰が決めるのよ。大事なのは幸せになりたいかどうか、そうでしょ?ちなみに私は幸せになりたいわ」
「私はもう幸せ。でも紫が幸せならもっと幸せよ」
だってこいつの幸せは、幻想郷の幸せだから。
紫は何か不気味なものでも見るような目で私を見て
「大丈夫?悪いものでも食べた?」
と言った。
部屋の壁にかかった油絵から、幼女の笑い声が聞こえた。
創作物の主人公なら少年の行動が正しいだろうし、現実ならレミリアでしょうか
ゆかりんとレミリアのからみは珍しいような
個人的には120点くらい差し上げたいです
カリスマがあり、しかしどっかでカリスマの無さを露呈させるおぜう(しいたけと言うネーミング、魔具の絵に手玉にとられる、)
おぜうと付き合いの良さ、と言うか友達っぽさが良く出てる美鈴と紫、
雑誌モーニングとかにありそうな会社(組織)経営の小噺などが丁寧に語られている事など、
全てが自分の好きなオカズで構成された弁当みたいで非常に満足しました
おぜうの理屈が自分の志向に合っていた、と言うのも満足の一因です
正しい事が全て良い事だとは限らない、その逆も然り、と言う感じですね
融資を取り計らう面接の際も、情報は二の次で、相対した際の「直感」で決めていると言うのがいかにも運命を重視しているのを感じさせると共に、常識の理ではおかしくても、おぜうの理ならばと言う奇妙な納得を感じさせられました
東方二次創作では様々な商売を見ましたが、保険業と言うのも目新しくて面白いです
良心的なのもマル
ある程度の安全保障をし、それでも尚危険な目に合って怪我とかしたら保険金が降りるみたいな感じでしょうか
プラス銀行業、寺の居候のタヌキの方だとヤミ金のイメージが強いですが、この紅魔館は正統派の金貸しっぽいですね
丈夫な金庫を手数料取って他人に使わせた銀行のルーツに従ってますし、面白い金庫番もいてグッド
長い感想ですんませんでした
>種族魔法使い教会
協会っすかね?
いろんなタイプを見てきたけど、経営者がここまではまるとは思わなかった
人類の幸福のためには、自分が美味いものを食べ、気持ち良く眠り、末永く健やかに過ごすことが不可欠、と人々の大多数がそう思うのが正しい。
ただ、個人的に改行(?)が多くてスキマだらけでちょっと見辛い感じがありますん
卑怯なエゴイストは言う「多くの市民の安全のために、多少の犠牲はやむなしだ」
我(エゴ)を剥き出しにするか、自己正当性の為の方便とするかの違い
自覚有るようだが作者は卑怯なエゴイスト。ああ是非こう云う人を犠牲にしたい!
素晴らしい。
設定も好きならテーマも好き。
特にテーマは、同じようなことを最近ずっと考えてました。答えは出ないですねえ。
以下はひとりごとみたいなものですが……
現代においても、冤罪によって罰を受けている人は間違いなくいる。死刑ですらも冤罪はある。
しかし、私を含めほとんどの人は見て見ぬふりをしている。もしくは考えないようにしているか、気づいてすらいない。
社会秩序や市民の心の安寧のためには『犯人』が挙げられることが必要だからと自らを納得させている人もいれば、
納得はいかないが諦めて現実を受け入れている人、そもそも無自覚な人、無関心な人、いろいろいるとは思うが、
罪のない人間なんていないと思う。
もちろん、だからといって全ての罪を許すべきだなどという極論を主張するつもりはさらさらなくて、もしも自分が他人の罪を糾弾する時があれば、自分にも罪があることに自覚的でありたいと思う。難しいけれど。
もっとこの世界のお話を読みたいです
人間も家畜の肉食べてるし仕方ないね。
だからと言って牛や豚に同情しない訳じゃないし、家畜を犠牲にしない食生活が出来るならそれに越した事は無いんだけど。
罪とか正義の概念は飽くまで人間(妖怪もかな?)が効率的に生きていく為の道具でしか無いのに
正義の為に命を捨てるのは道徳的には正しくても生き物として失格。
最大多数の最大幸福を望むなら多少の犠牲は仕方ないと。
なるほど、確かにそうなのかもしれない。
でもオリキャラが居ると気づかずに開いてしまったので-10で。
尊いから何?という考え方はいかにも悪魔らしくて好きです。
レミリアの発言は警告を意図していた部分もあるのでしょうが、自らの正義を重んじるトキオは半ば脅迫染みた正義の主張と解してきっと納得しないであろうと思いました。
その後が気になります。
精神とともに死ぬ発想が幻想郷においても(少なくともレミリアには)受け入れられないのはちょっぴり悲しいですが、たとえ少数派が心から正義だと信じていても結局黙殺される意味では、幻想郷も妖怪やらファンタジーが鏤められているだけで我々現実の世界と何ら変わるものなどないのでしょう。
面白い作品をありがとうございました。
とても興味深く面白かったです