「あのさ……」
メリーは対面に座る宇佐見蓮子におずおずと問いかけた。
「何?」
「煙草、やめてくれない」
渋い顔をした蓮子は、名残惜しそうに半分以上残った煙草を灰皿に押し付けた。
「せっかく喫煙席とったのに」
とある喫茶店での事だ。全面禁煙が当たり前となった今でも、この店では分煙を進めているとはいえ、喫煙を許可されている。
「あんまりいい見かけじゃないわ。咥え煙草なんて煤けたおじさんじゃないと似合わないわよ」
なんとなく口角を緩めてそう言うが、蓮子は不満そうに注文したアイスコーヒーを口元に持って行った。
「似合う、似合わないじゃないわよ。吸いたいから吸っているだけ。というか、皆気にし過ぎよ」
頬を膨らませて、ノートに何か書き込む。
この喫茶店は蓮子とメリーが創った大学非公認サークル、秘封倶楽部の活動拠点である。碁盤のように整った京都でも屈指の小路の奥底にあるのでこの二人以外にめったに客が来ることはない。それが何となく居心地が良かった。まるで秘密基地みたいでワクワクするではないか。自分でもおっとりしていると思うメリーにしても、隠れ家的なお店というのは素敵なものなのだ。
無口な店主が、メリーのコーヒーを持ってくる。苦い。机に備え付けられたミルクに思わず手が伸びた。何というかここのコーヒーは濃すぎるのだ。蓮子のように美味しそうに飲むことなんてとても出来ない。
「こんなおいしいコーヒーをミルクで中和するなんて、もったいないわねえ」
同性すら魅了する笑顔で、蓮子はそう言う。そう言った後、シガレットケースから煙草を取り出そうとした。
「蓮子」
「あ、ごめんごめん。いやァ、つい、ね。仕方ないんですよメリーさん。美味しいコーヒーと煙草は縁深き、ってね」
「苦いものに苦いもの兼ね合わせてどうするのよ」
「甘いものに甘いものかぶせるのはメリーだって良くやるじゃない」
言葉に詰まる。確かに甘い紅茶にシロップをかけたパンケーキを頼むことはメリーも良くやる。しかし甘いものに甘いものを兼ね合わせるのは、それはそれでいいのだ。
苦いのは昔から苦手だった。大学に入学して蓮子に合わせるようになって、何とかブラックコーヒーには慣れた。それでもミルクが欲しくなる。
「というかね。皆気にし過ぎよ。健康に悪い?お酒だって悪いじゃない」
「女の子らしくない、とか?」
蓮子は溜息を吐いてメリーの前に人差指を差しだす。いつの間にかまた煙草を咥えていた。
「あのね。私そーいうのが一番嫌いなの。女の子らしい、って何?マスカラやってお手手に装飾施すのが女の子らしいっての?」
「そ、そういうのじゃないわよ。単におじさん臭いっていうか」
「勝手にいえば良いし、言わせとけばいいわよ。周りに迷惑?副流煙が体に悪い?ハッ、飲んだくれ親父のアルコールハラスメントの方がよっぽど迷惑だっての。わざわざ吸っていいところまでいって吸うんだから、文句言わないでっての」
「……何かあったの?さっきから随分お酒に文句言っているけど」
蓮子の形の良い眉がひそむ。煙草を一吸いした後、手で持って顔を伏せた。
「……バイト先でね。接客態度が悪いってクビよ。飲み過ぎを注意しただけだったのに」
「ああ、成程……」
確かに蓮子は、人当たりが良いだが距離感が近すぎるというか。要は馴れ馴れしいのだ。接客業には向いている人材だろうが、接客マナーが良いとまでは言いづらい。
「収入源無くなった上に最近煙草増税でしょ?もう辞めちゃおうかな、煙草」
「良い事じゃない。やめちゃいなさいよ」
「そういわれると辞めたくなくなる。あーあ辞めちゃおっかな」
「どっちなのよ」
蓮子がグダ~ッと机に突っ伏す。やめるやめると言いはするが、手先にはまだ煙が立って間もない煙草が握られているあたり口だけで辞めると言っているだけなのだろう。
「そんなに未練が残るなら辞めなきゃいいじゃない。バイトだってすぐ見つかるわよ。蓮子なら」
これは本音だ。蓮子ほどフットワークが軽ければなんだってやれるはずだし、その上この人当たりの良さだ。
「……ならメリー、面倒見てよ」
蓮子が不貞腐れたように突っ伏して、じっとりとした半開きにした目をこちらに向けた。
「……紅茶のお代わりお願いしまーす」
蓮子はああもうと言って椅子の背もたれに寄り掛かった。
メリーは今、古本屋でバイトをしている。おっとりしている自分でもなんとかやれるほどにのんびりしたバイトだったし、仕送りもあるから金銭的に困っているわけでもない。
ただし蓮子の面倒が見れるほど裕福ではないし、高級なバイトを紹介できるほどの人脈があるわけでもない。
「ごめん、言ってみただけ。でもさ、きっついわ。愛煙家に厳しくない?最近」
「あんまり実感ないけど……」
「そりゃ吸わなければ実感はないでしょうけど、やっぱり酷くない?高くなるわ喫煙スペースに追いやられるわで肩身が狭いッたらありゃしない」
頻繁に吸ったり吐いたりするものだから、蓮子の煙草はすぐに無くなる。フィルターギリギリまで吸って、惜しげに見た後灰皿に押し付けた。
「一服後に飲むコーヒーがたまらないのよ」
「苦くて苦くてやれないわ」
想像しただけで、苦々しい。
「甘いアップルパイに砂糖たっぷりの紅茶。これが身体に良いとでも」
「良いから食べて飲んでるんじゃないのよ」
「ほーら、これも一緒。だから良いの」
蓮子は煙草に火をつけた。ライターを机の上において、実においしそうにふかす。煙たいが、喫煙席だから文句を言われる筋合いはないというわけだ。
「まあ、諦めたわ。どうぞご自由にお吸いになって」
「あら、これはこれは……なんてね。私も甘いものが食べたくなったわ。すみませーん、ブラウニーくださーい」
メリーの席から、店主が頷いたのが見えた。腰をあげて、満足げにティーカップを片手にこちらに向かってくる。
「紅茶です。ブラウニーはもう少しかかりますが」
ほう、とメリーは思った。この店主の声を聴いたのは初めてだ。何回もこの店に通っているものの、店主は、頷きはするものの返答を言葉にすることはなかった。
「あ、ど、どうも」
「ごゆっくり……」
店主はまたカウンターの向こうへと引き下がった。カップを傾けて、紅茶を飲む。仄かな香りが鼻腔をくすぐった。
前から視線を感じた。蓮子が笑っている。
「美味しそうに飲むわね。マスターが声をかけたくなるのも分かるわ」
「え、あ、やだ。そんな顔してる?」
「深く煙草を吸いこんだ時の私みたいな顔してる」
「うわー」
頬が熱くなるのを感じた。
「あんまり見ないでよ。恥ずかしいじゃない」
「別にいいでしょう……ふぅー」
蓮子が上を向いて、煙を吐き出した。
あまりにおいしそうに煙草をくゆらす蓮子を見て、少し興味が湧いた。
「ねえ」
「んー?」
蓮子の形の良い唇で咥えた煙草から紫煙がのぼっている。
「そんなおいしいの、それ」
「それってこのコーヒー?頼めばいいじゃん」
「違うって。咥えてるの」
驚いたという風に目が見開かれる。
「それってこれ?」
「それ以外のどれがあるのよ」
「いやいやいや、やめときなさいって。メリーが言ったんじゃないの。いい見かけじゃないって」
「きわめて学術的にして、高尚な試みよ。古来より娯楽として連綿として続いている喫煙という行為をやろうという」
「いや吸いたいって言いなさいよ素直に」
そういうものの、蓮子はあまり気乗りしない顔だ。まあ仕方がない。そもそも一箱の単価が高い上にメリーは喫煙素人だ。そこそこも吸わないうちに捨てられたらたまったものではないのだろう。
「これ結構高い上に、強いのよ?ニコチン量多いし、一服したら確実に寿命が縮まるわね。だからやめておきなさい」
「愚問ね蓮子。そもそも人間の寿命というのは日々暮らしているうちに縮んでいくものなの。知ってる?脳というものは百五十年分の記憶が可能なのよ。だからこそ、人間の限界寿命はそれだけあるという説もあるくらいなの」
「その説を知らない訳じゃないけど、あんま無理することでもないんじゃない?それに古代はあまり娯楽が無かったから流行ったかもだけど今じゃ褒められることほとんど無いわよ」
「ほめられたいから娯楽をやるという事はないでしょう?あなたは秘封倶楽部を主催した訳?」
グッと言葉を詰まらせたのは、それが図星だったからだろう。
そもそも蓮子は、こんな非公認サークルを主催するような人間ではないはずだ。帰国子女のメリーは詳しくは知らないものの高校陸上競技をやっていた人間で、東京が生んだ稀代のスプリンターだった宇佐見蓮子の名前を知らない人間などいない。
「私の場合は仕方なかったの。足の腱切っちゃったらスプリンターなんて廃業よ。まあ、持ち上げられた割には大した選手じゃなかったからかまわないけど」
「インハイで二位が大したことないねえ?」
「あんなの運よ。みんな大体あそこまでいけば大した差はないの」
あんまりその話題を続けたくないらしく、蓮子はシガレットケースから一本煙草を取り出した。
「ま、いいわ。上げるわよ。もう自己責任の世界だしね。ただ吸う以上は最後まで吸ってよね」
「はいはい。ん……で、どうやって吸うの?」
「知らないで吸おうとしたわけ?……ほら」
蓮子がライターの火をつけて、メリーの咥えた煙草のすぐそばまで持っていく。
「吸い込みながらつけなきゃ火ィつかないかんね」
「あ、聞いたことあるわね、そういうの」
「あー、良かった言っといて。下手すれば一本無駄になってたわ」
「まあまあ……ん、ふうー……っ」
少しだけ吸い込んで、喉元まで食い込んで来ていた煙を一気に吐き出す。成程、苦い。が、この与えられた閉塞感が一気になくなる感覚というのは言うほど悪いものではない。
「へえ、こんなもの」
「はいな。こんなものよ」
蓮子も、同調するかのように煙を吐き出した。紫煙が薄ら登って、蛍光灯の光を少し遮る。
「確かにあまり身体に良いとは思えないわね」
「良くないに決まってんでしょう、って煙草自身が言い返すわよ。パッケージにもしっかり書いてる」
「じゃあなんで吸うの?」
「吸いたい以外に理由がないわね」
サバサバした調子で言い返すうちに、奥に引きこもっていた店主が、こちらに向かってきていた。
「ブラウニーです」
「んあ、どうも」
それだけ言葉を交わすと、店主は引っ込んでしまう。サバサバしたやり取りなのに、何となく気心が知れているようにも思えた。
「美味しいのよね。ここのブラウニー」
「蓮子はここの常連だったっけ」
「そう、大学入学の時からずっとね。だいたい本を持ち込んだりして」
想像してみるが、外見からして活発な蓮子が大人しく文庫本を開いているというのが、どうにも違和感だらけで無理だった。
「うちの学校って、部活に力入れてる割に学業も捨てないタイプの学校でさ。何回赤点すれすれの目にあったか。だからこんな店で勉強する子が結構いたの。懐かしいわね」
へえ、と思った。今の時間帯がそうでないだけで、この静かな店にも騒がしい時間があるのかと思ってしまう。
居心地、いいだろうな。と自然に思える貴重な店だ。皆重宝するのだろう。
「ここに来ちゃうとは思わなかったけどね。パツキンの帰国子女と」
それに関しては苦笑いしか返せない。
金髪碧眼。そんな外見をしていても、メリー自身の出自は日本だ。
日本で生まれて日本で育ち、中学に上がると同時に子供のいなかったドイツの母方の親戚の元に養子に出された。
だから大学に入って日本に帰って来ても、何となくギクシャクしてしまう。中学まではちゃんと日本式の苗字だったのに、今ではマエリベリー・ハーンという名前に外見が相まってどこからどう見ても外国人だ。
「初めて会った時にハロー、ナイスチュミーツーなんて下手くそな英語で挨拶されたのは忘れられないわ」
「む、言うじゃないの。誰にも声かけてもらえなくて凹んでたくせに」
今度はメリーが黙る番だった。確かにこのただでさえ浮く容姿のせいで、クラスでは浮くし、日本語で話しかけているのにI cannot speak Englishといわれるのは流石に心が折れそうになった。何が私は英語が喋れません、だ。しっかり喋れているではないか。
「それにマエリベリーをメリーと呼ばれたのも初めてかも。大体ハーンで通していたし」
「よそよそしくてなんか嫌じゃない。それにま、ま、マエリェベリーなんて言いづらいし」
「マエリベリー」
訂正する。そんなに難しい発音じゃないはずなのに、大抵このように蓮子は噛んでしまう。だからかは分からないがメリーという呼び名を定着させられた。顔の広い蓮子のせいで、今ではむしろこちらの方がしっくりきてしまっている感すらある。
「で、メリー。それまだ吸うの?」
蓮子が、メリーの口元を指差す。
「? ええ、そのつもりだけど」
「なんだ。もらうつもりだったんだけど」
「いやいや。でも案外言われているほど、身体に悪い感じはしないわね」
「言ったわね。身体動かしてみたら分かるわよ。どのくらいしんどいかが」
あまり、分からない。また煙草に口をつけて、吸う。先端が赤く光って煙が口の中に充満した。
少しだけせき込んだ。ちょっと呑み込み過ぎた。
「けほっ……まあ、癖になるっていうのは分からなくはないわね」
背もたれに背を預けて、煙草を灰皿に置いた。紫煙が立ち上って、灯りをぼかす。
「なんでこんなの吸い始めたの?」
「美味しいから、じゃダメ?」
初めて吸って、旨いと思えるほど、この煙草は初心者向けとは思えない。深く吸い込んだら即座にせき込んでしまうだろう。
「別にそれでもいいけど。それにしては強すぎるんじゃない?」
「最初っからこんなの吸わないわよ。高校の春休みに吸い始めた時はもっと弱いの。それから段階的に強くしていって、今これ」
煙草のパッケージをふって見せる。ニコチン量を示す9という数字。
「興味本位っていうのがよく聞くわね。煙草を吸う理由って」
「そんな馬鹿大学生のありがちな理由みたいなのやめてほしいわ。お酒は酒豪とかいってカッコイイ称号じみたものがあって羨ましいわよ」
「ヘビースモーカー……」
「それ不摂生の代名詞みたいだから嫌いなんだけど」
「仕方ないじゃない。お酒は身体に悪いけど、煙草は周囲に悪いんだから」
「その明快なデータは?」
「そんなのあったらもっとダメになるんじゃない。偏差値調べられたらもっとダメ出しされたりして。煙草が脳の血管縮めて頭悪くなります、とかコメンテーターがしたり顔で言うわよ」
蓮子が吹き出す。
「裏で灰皿山盛りだったりね、ははは」
お互い紅茶とコーヒーをお代わりし、メリーはパンケーキ、蓮子はショコラワッフルを頼んだ。煙草はもはや灰皿に山盛りになっている。
「長居しちゃうのよね、このお店。時間が早く過ぎちゃう感覚」
「壁紙が寒色系だもの。落ち着いてのんびりできるわよ」
「煙草も山盛り、健康には良くないわね」
ひいふうみいよお、ああ、数えるのも馬鹿馬鹿しい。少なくとも言えることは、この何時間かで二人の寿命が相当縮まったという事だ。酒のように酩酊して訳の分からない状態になってくれたらそこまで気が回らないのだろうが、煙草だとダイレクトな倦怠感が来て、成程これは健康に悪いであろうというのが、容易に想像できる。
「どっかの作家が言ってたわね。煙草を吸うために、他を健康的にしたって」
「そこまでやって煙草を吸うのは何故?」
「ただそこに目的もなくたっている人が、煙草を吸うという目的のために立っている事になるからだって」
「……ごめん、なに言ってるのその人」
「さあ?」
どうにも分からない事だ。が、作家たるものは往々にしてこんなものなのだろう。
「気持ちだけなら、分かるかな。純粋に吸いたい時とかあるんじゃない?だってストレスの多い仕事だし作家なんて」
「蓮子にも?」
「しつこいなあ」
「探求心の塊なの、私」
煙草を咥えたまま、蓮子は切り出した。とつとつとした調子だった。
「知ってる?私、推薦入学だったのよ。しかも陸上の」
「初耳だわ」
「でしょうね。言ってないもの。インハイで二位ってのは、結構なモノらしくてね。でも、入学早々足の腱を切っちゃって、オン出されたのよ」
「悲劇ね」
「なんか話したくなくなるな、その反応。割とショックだったのに」
メリーは半分以下になってしまった紅茶をティースプーンで弄っていたが、もう溶ける砂糖もミルクもなかった。
「もう分かっちゃったもの。貴女の煙草を吸う理由」
「へえ?で、何だと思う?」
メリーは、考えるふりすらせず答えた。
「逃避、かな。煙草なんて吸う人が陸上なんてやらないもの。そのままの状態じゃ、未練が残る。なら煙草を吸う事で未練を断ち切ろう―――そんなところかしらね」
「……意外としんどいのよ。今まで全力を投じていたことを捨てるってのは」
「今は?」
「……私は、こんな静かに探究する日常も悪くないと思ってるわよ」
店主が、タイミングを見計らっていたのだろう。少しだけ間が空いたのを見て、注文していたパンケーキとショコラワッフルを机に置いた。
「来た来た。ね、メリー。半分分けっこしましょう?」
「ええ」
半分になったショコラワッフルを切り分け、口に入れる。煙草のせいだろうか、いつもなら甘さと苦さの同居するワッフルが、苦く感じた。
メリーは対面に座る宇佐見蓮子におずおずと問いかけた。
「何?」
「煙草、やめてくれない」
渋い顔をした蓮子は、名残惜しそうに半分以上残った煙草を灰皿に押し付けた。
「せっかく喫煙席とったのに」
とある喫茶店での事だ。全面禁煙が当たり前となった今でも、この店では分煙を進めているとはいえ、喫煙を許可されている。
「あんまりいい見かけじゃないわ。咥え煙草なんて煤けたおじさんじゃないと似合わないわよ」
なんとなく口角を緩めてそう言うが、蓮子は不満そうに注文したアイスコーヒーを口元に持って行った。
「似合う、似合わないじゃないわよ。吸いたいから吸っているだけ。というか、皆気にし過ぎよ」
頬を膨らませて、ノートに何か書き込む。
この喫茶店は蓮子とメリーが創った大学非公認サークル、秘封倶楽部の活動拠点である。碁盤のように整った京都でも屈指の小路の奥底にあるのでこの二人以外にめったに客が来ることはない。それが何となく居心地が良かった。まるで秘密基地みたいでワクワクするではないか。自分でもおっとりしていると思うメリーにしても、隠れ家的なお店というのは素敵なものなのだ。
無口な店主が、メリーのコーヒーを持ってくる。苦い。机に備え付けられたミルクに思わず手が伸びた。何というかここのコーヒーは濃すぎるのだ。蓮子のように美味しそうに飲むことなんてとても出来ない。
「こんなおいしいコーヒーをミルクで中和するなんて、もったいないわねえ」
同性すら魅了する笑顔で、蓮子はそう言う。そう言った後、シガレットケースから煙草を取り出そうとした。
「蓮子」
「あ、ごめんごめん。いやァ、つい、ね。仕方ないんですよメリーさん。美味しいコーヒーと煙草は縁深き、ってね」
「苦いものに苦いもの兼ね合わせてどうするのよ」
「甘いものに甘いものかぶせるのはメリーだって良くやるじゃない」
言葉に詰まる。確かに甘い紅茶にシロップをかけたパンケーキを頼むことはメリーも良くやる。しかし甘いものに甘いものを兼ね合わせるのは、それはそれでいいのだ。
苦いのは昔から苦手だった。大学に入学して蓮子に合わせるようになって、何とかブラックコーヒーには慣れた。それでもミルクが欲しくなる。
「というかね。皆気にし過ぎよ。健康に悪い?お酒だって悪いじゃない」
「女の子らしくない、とか?」
蓮子は溜息を吐いてメリーの前に人差指を差しだす。いつの間にかまた煙草を咥えていた。
「あのね。私そーいうのが一番嫌いなの。女の子らしい、って何?マスカラやってお手手に装飾施すのが女の子らしいっての?」
「そ、そういうのじゃないわよ。単におじさん臭いっていうか」
「勝手にいえば良いし、言わせとけばいいわよ。周りに迷惑?副流煙が体に悪い?ハッ、飲んだくれ親父のアルコールハラスメントの方がよっぽど迷惑だっての。わざわざ吸っていいところまでいって吸うんだから、文句言わないでっての」
「……何かあったの?さっきから随分お酒に文句言っているけど」
蓮子の形の良い眉がひそむ。煙草を一吸いした後、手で持って顔を伏せた。
「……バイト先でね。接客態度が悪いってクビよ。飲み過ぎを注意しただけだったのに」
「ああ、成程……」
確かに蓮子は、人当たりが良いだが距離感が近すぎるというか。要は馴れ馴れしいのだ。接客業には向いている人材だろうが、接客マナーが良いとまでは言いづらい。
「収入源無くなった上に最近煙草増税でしょ?もう辞めちゃおうかな、煙草」
「良い事じゃない。やめちゃいなさいよ」
「そういわれると辞めたくなくなる。あーあ辞めちゃおっかな」
「どっちなのよ」
蓮子がグダ~ッと机に突っ伏す。やめるやめると言いはするが、手先にはまだ煙が立って間もない煙草が握られているあたり口だけで辞めると言っているだけなのだろう。
「そんなに未練が残るなら辞めなきゃいいじゃない。バイトだってすぐ見つかるわよ。蓮子なら」
これは本音だ。蓮子ほどフットワークが軽ければなんだってやれるはずだし、その上この人当たりの良さだ。
「……ならメリー、面倒見てよ」
蓮子が不貞腐れたように突っ伏して、じっとりとした半開きにした目をこちらに向けた。
「……紅茶のお代わりお願いしまーす」
蓮子はああもうと言って椅子の背もたれに寄り掛かった。
メリーは今、古本屋でバイトをしている。おっとりしている自分でもなんとかやれるほどにのんびりしたバイトだったし、仕送りもあるから金銭的に困っているわけでもない。
ただし蓮子の面倒が見れるほど裕福ではないし、高級なバイトを紹介できるほどの人脈があるわけでもない。
「ごめん、言ってみただけ。でもさ、きっついわ。愛煙家に厳しくない?最近」
「あんまり実感ないけど……」
「そりゃ吸わなければ実感はないでしょうけど、やっぱり酷くない?高くなるわ喫煙スペースに追いやられるわで肩身が狭いッたらありゃしない」
頻繁に吸ったり吐いたりするものだから、蓮子の煙草はすぐに無くなる。フィルターギリギリまで吸って、惜しげに見た後灰皿に押し付けた。
「一服後に飲むコーヒーがたまらないのよ」
「苦くて苦くてやれないわ」
想像しただけで、苦々しい。
「甘いアップルパイに砂糖たっぷりの紅茶。これが身体に良いとでも」
「良いから食べて飲んでるんじゃないのよ」
「ほーら、これも一緒。だから良いの」
蓮子は煙草に火をつけた。ライターを机の上において、実においしそうにふかす。煙たいが、喫煙席だから文句を言われる筋合いはないというわけだ。
「まあ、諦めたわ。どうぞご自由にお吸いになって」
「あら、これはこれは……なんてね。私も甘いものが食べたくなったわ。すみませーん、ブラウニーくださーい」
メリーの席から、店主が頷いたのが見えた。腰をあげて、満足げにティーカップを片手にこちらに向かってくる。
「紅茶です。ブラウニーはもう少しかかりますが」
ほう、とメリーは思った。この店主の声を聴いたのは初めてだ。何回もこの店に通っているものの、店主は、頷きはするものの返答を言葉にすることはなかった。
「あ、ど、どうも」
「ごゆっくり……」
店主はまたカウンターの向こうへと引き下がった。カップを傾けて、紅茶を飲む。仄かな香りが鼻腔をくすぐった。
前から視線を感じた。蓮子が笑っている。
「美味しそうに飲むわね。マスターが声をかけたくなるのも分かるわ」
「え、あ、やだ。そんな顔してる?」
「深く煙草を吸いこんだ時の私みたいな顔してる」
「うわー」
頬が熱くなるのを感じた。
「あんまり見ないでよ。恥ずかしいじゃない」
「別にいいでしょう……ふぅー」
蓮子が上を向いて、煙を吐き出した。
あまりにおいしそうに煙草をくゆらす蓮子を見て、少し興味が湧いた。
「ねえ」
「んー?」
蓮子の形の良い唇で咥えた煙草から紫煙がのぼっている。
「そんなおいしいの、それ」
「それってこのコーヒー?頼めばいいじゃん」
「違うって。咥えてるの」
驚いたという風に目が見開かれる。
「それってこれ?」
「それ以外のどれがあるのよ」
「いやいやいや、やめときなさいって。メリーが言ったんじゃないの。いい見かけじゃないって」
「きわめて学術的にして、高尚な試みよ。古来より娯楽として連綿として続いている喫煙という行為をやろうという」
「いや吸いたいって言いなさいよ素直に」
そういうものの、蓮子はあまり気乗りしない顔だ。まあ仕方がない。そもそも一箱の単価が高い上にメリーは喫煙素人だ。そこそこも吸わないうちに捨てられたらたまったものではないのだろう。
「これ結構高い上に、強いのよ?ニコチン量多いし、一服したら確実に寿命が縮まるわね。だからやめておきなさい」
「愚問ね蓮子。そもそも人間の寿命というのは日々暮らしているうちに縮んでいくものなの。知ってる?脳というものは百五十年分の記憶が可能なのよ。だからこそ、人間の限界寿命はそれだけあるという説もあるくらいなの」
「その説を知らない訳じゃないけど、あんま無理することでもないんじゃない?それに古代はあまり娯楽が無かったから流行ったかもだけど今じゃ褒められることほとんど無いわよ」
「ほめられたいから娯楽をやるという事はないでしょう?あなたは秘封倶楽部を主催した訳?」
グッと言葉を詰まらせたのは、それが図星だったからだろう。
そもそも蓮子は、こんな非公認サークルを主催するような人間ではないはずだ。帰国子女のメリーは詳しくは知らないものの高校陸上競技をやっていた人間で、東京が生んだ稀代のスプリンターだった宇佐見蓮子の名前を知らない人間などいない。
「私の場合は仕方なかったの。足の腱切っちゃったらスプリンターなんて廃業よ。まあ、持ち上げられた割には大した選手じゃなかったからかまわないけど」
「インハイで二位が大したことないねえ?」
「あんなの運よ。みんな大体あそこまでいけば大した差はないの」
あんまりその話題を続けたくないらしく、蓮子はシガレットケースから一本煙草を取り出した。
「ま、いいわ。上げるわよ。もう自己責任の世界だしね。ただ吸う以上は最後まで吸ってよね」
「はいはい。ん……で、どうやって吸うの?」
「知らないで吸おうとしたわけ?……ほら」
蓮子がライターの火をつけて、メリーの咥えた煙草のすぐそばまで持っていく。
「吸い込みながらつけなきゃ火ィつかないかんね」
「あ、聞いたことあるわね、そういうの」
「あー、良かった言っといて。下手すれば一本無駄になってたわ」
「まあまあ……ん、ふうー……っ」
少しだけ吸い込んで、喉元まで食い込んで来ていた煙を一気に吐き出す。成程、苦い。が、この与えられた閉塞感が一気になくなる感覚というのは言うほど悪いものではない。
「へえ、こんなもの」
「はいな。こんなものよ」
蓮子も、同調するかのように煙を吐き出した。紫煙が薄ら登って、蛍光灯の光を少し遮る。
「確かにあまり身体に良いとは思えないわね」
「良くないに決まってんでしょう、って煙草自身が言い返すわよ。パッケージにもしっかり書いてる」
「じゃあなんで吸うの?」
「吸いたい以外に理由がないわね」
サバサバした調子で言い返すうちに、奥に引きこもっていた店主が、こちらに向かってきていた。
「ブラウニーです」
「んあ、どうも」
それだけ言葉を交わすと、店主は引っ込んでしまう。サバサバしたやり取りなのに、何となく気心が知れているようにも思えた。
「美味しいのよね。ここのブラウニー」
「蓮子はここの常連だったっけ」
「そう、大学入学の時からずっとね。だいたい本を持ち込んだりして」
想像してみるが、外見からして活発な蓮子が大人しく文庫本を開いているというのが、どうにも違和感だらけで無理だった。
「うちの学校って、部活に力入れてる割に学業も捨てないタイプの学校でさ。何回赤点すれすれの目にあったか。だからこんな店で勉強する子が結構いたの。懐かしいわね」
へえ、と思った。今の時間帯がそうでないだけで、この静かな店にも騒がしい時間があるのかと思ってしまう。
居心地、いいだろうな。と自然に思える貴重な店だ。皆重宝するのだろう。
「ここに来ちゃうとは思わなかったけどね。パツキンの帰国子女と」
それに関しては苦笑いしか返せない。
金髪碧眼。そんな外見をしていても、メリー自身の出自は日本だ。
日本で生まれて日本で育ち、中学に上がると同時に子供のいなかったドイツの母方の親戚の元に養子に出された。
だから大学に入って日本に帰って来ても、何となくギクシャクしてしまう。中学まではちゃんと日本式の苗字だったのに、今ではマエリベリー・ハーンという名前に外見が相まってどこからどう見ても外国人だ。
「初めて会った時にハロー、ナイスチュミーツーなんて下手くそな英語で挨拶されたのは忘れられないわ」
「む、言うじゃないの。誰にも声かけてもらえなくて凹んでたくせに」
今度はメリーが黙る番だった。確かにこのただでさえ浮く容姿のせいで、クラスでは浮くし、日本語で話しかけているのにI cannot speak Englishといわれるのは流石に心が折れそうになった。何が私は英語が喋れません、だ。しっかり喋れているではないか。
「それにマエリベリーをメリーと呼ばれたのも初めてかも。大体ハーンで通していたし」
「よそよそしくてなんか嫌じゃない。それにま、ま、マエリェベリーなんて言いづらいし」
「マエリベリー」
訂正する。そんなに難しい発音じゃないはずなのに、大抵このように蓮子は噛んでしまう。だからかは分からないがメリーという呼び名を定着させられた。顔の広い蓮子のせいで、今ではむしろこちらの方がしっくりきてしまっている感すらある。
「で、メリー。それまだ吸うの?」
蓮子が、メリーの口元を指差す。
「? ええ、そのつもりだけど」
「なんだ。もらうつもりだったんだけど」
「いやいや。でも案外言われているほど、身体に悪い感じはしないわね」
「言ったわね。身体動かしてみたら分かるわよ。どのくらいしんどいかが」
あまり、分からない。また煙草に口をつけて、吸う。先端が赤く光って煙が口の中に充満した。
少しだけせき込んだ。ちょっと呑み込み過ぎた。
「けほっ……まあ、癖になるっていうのは分からなくはないわね」
背もたれに背を預けて、煙草を灰皿に置いた。紫煙が立ち上って、灯りをぼかす。
「なんでこんなの吸い始めたの?」
「美味しいから、じゃダメ?」
初めて吸って、旨いと思えるほど、この煙草は初心者向けとは思えない。深く吸い込んだら即座にせき込んでしまうだろう。
「別にそれでもいいけど。それにしては強すぎるんじゃない?」
「最初っからこんなの吸わないわよ。高校の春休みに吸い始めた時はもっと弱いの。それから段階的に強くしていって、今これ」
煙草のパッケージをふって見せる。ニコチン量を示す9という数字。
「興味本位っていうのがよく聞くわね。煙草を吸う理由って」
「そんな馬鹿大学生のありがちな理由みたいなのやめてほしいわ。お酒は酒豪とかいってカッコイイ称号じみたものがあって羨ましいわよ」
「ヘビースモーカー……」
「それ不摂生の代名詞みたいだから嫌いなんだけど」
「仕方ないじゃない。お酒は身体に悪いけど、煙草は周囲に悪いんだから」
「その明快なデータは?」
「そんなのあったらもっとダメになるんじゃない。偏差値調べられたらもっとダメ出しされたりして。煙草が脳の血管縮めて頭悪くなります、とかコメンテーターがしたり顔で言うわよ」
蓮子が吹き出す。
「裏で灰皿山盛りだったりね、ははは」
お互い紅茶とコーヒーをお代わりし、メリーはパンケーキ、蓮子はショコラワッフルを頼んだ。煙草はもはや灰皿に山盛りになっている。
「長居しちゃうのよね、このお店。時間が早く過ぎちゃう感覚」
「壁紙が寒色系だもの。落ち着いてのんびりできるわよ」
「煙草も山盛り、健康には良くないわね」
ひいふうみいよお、ああ、数えるのも馬鹿馬鹿しい。少なくとも言えることは、この何時間かで二人の寿命が相当縮まったという事だ。酒のように酩酊して訳の分からない状態になってくれたらそこまで気が回らないのだろうが、煙草だとダイレクトな倦怠感が来て、成程これは健康に悪いであろうというのが、容易に想像できる。
「どっかの作家が言ってたわね。煙草を吸うために、他を健康的にしたって」
「そこまでやって煙草を吸うのは何故?」
「ただそこに目的もなくたっている人が、煙草を吸うという目的のために立っている事になるからだって」
「……ごめん、なに言ってるのその人」
「さあ?」
どうにも分からない事だ。が、作家たるものは往々にしてこんなものなのだろう。
「気持ちだけなら、分かるかな。純粋に吸いたい時とかあるんじゃない?だってストレスの多い仕事だし作家なんて」
「蓮子にも?」
「しつこいなあ」
「探求心の塊なの、私」
煙草を咥えたまま、蓮子は切り出した。とつとつとした調子だった。
「知ってる?私、推薦入学だったのよ。しかも陸上の」
「初耳だわ」
「でしょうね。言ってないもの。インハイで二位ってのは、結構なモノらしくてね。でも、入学早々足の腱を切っちゃって、オン出されたのよ」
「悲劇ね」
「なんか話したくなくなるな、その反応。割とショックだったのに」
メリーは半分以下になってしまった紅茶をティースプーンで弄っていたが、もう溶ける砂糖もミルクもなかった。
「もう分かっちゃったもの。貴女の煙草を吸う理由」
「へえ?で、何だと思う?」
メリーは、考えるふりすらせず答えた。
「逃避、かな。煙草なんて吸う人が陸上なんてやらないもの。そのままの状態じゃ、未練が残る。なら煙草を吸う事で未練を断ち切ろう―――そんなところかしらね」
「……意外としんどいのよ。今まで全力を投じていたことを捨てるってのは」
「今は?」
「……私は、こんな静かに探究する日常も悪くないと思ってるわよ」
店主が、タイミングを見計らっていたのだろう。少しだけ間が空いたのを見て、注文していたパンケーキとショコラワッフルを机に置いた。
「来た来た。ね、メリー。半分分けっこしましょう?」
「ええ」
半分になったショコラワッフルを切り分け、口に入れる。煙草のせいだろうか、いつもなら甘さと苦さの同居するワッフルが、苦く感じた。
お話は良かったです
面白かったです。
こういう些細な日常の風景を描いたSS好きです
メリーと蓮子の過去も新鮮でよかった
雰囲気が良かったです。