(一)
1. その村には大きな鐘があった。とても大きな鐘だった。とても昔からあった。どれくらい昔からあったのかはわからない。
2. 村いちばんの年寄りが子供だったころにはすでにあった。男が十人かかっても持ち上げられないようなとても大きく重い鐘で、それが村の真ん中の高台の天辺に据え付けられていた。どうやってそこに鐘を運んだのか、どうやってこんな重いものを吊るすことができたのか、誰にもわからなかった。「ほとけのわざだ」と村の住人たちは語った。住人といっても百人に満たないような小さな村で、それが海に面した小さな土地に苔が岩に張り付くようにして住み着いていた。村の男のすべてが漁師だった。
3. そのころの漁は単純なもので、まず太く長い丈夫な綱を一本つくる。その綱から枝分かれさせるようにしてもとの綱よりは幾分か細い、けれどじゅうぶんに丈夫な綱をいくつもつなぎあわせていく。細い綱の先端に鉄を押し曲げて作った尖った針をつけ、その長いひとかたまりの、網とも呼べぬ綱の一朶を舟に乗せて沖に出る。沖といっても浜から舟の上の動きが見えるような近海で、そこで綱を海におろし海底をひきずるようにして船を漕ぎ浜へ帰ってくる。運が良ければいくつかの針に魚がかかっている。
そういうことを一日に何度も繰り返していくらかの獲物を捕り、いくらかは自分らで食べ、いくらかは近隣へ売り生活をしていた。村のすべてがそんなふうだった。漁村と呼ばれたり、漁民と呼ばれたりするのはずっとあとになってからのことだ。そのころ、村に名前などなかった。ただ村の住民たちは名前などなくとも自分たちがただひとかたまりの共同体であることを知っていた。ちょうど綱がもつれて絡まるように、自分たちもそれぞれがごちゃごちゃと複雑に絡み合い、離れては生きられなかった。
4. 男たちが漁に出かけるときはかならず、子のいない女かもしくは年をとって海に出られなくなった老人がひとり鐘のある高台に居座り、沖を眺め、空と海の様子を見る役を担った。するといつか、舟よりもずっと先の空に黒雲が見える時がある。神経を尖らせて、じっと集中し、頬に張り付く潮を含んだ風の様子をたしかめる。嵐がやってくるんだ、と確信すると、見張り番は手にした撞木を力いっぱい叩きつけて鐘を鳴らす。鐘はごおん、ごおんと鳴り、その音は海の上まで届く。
5. 鐘の音が聞こえると漁師たちは仕事をやめ浜に帰った。そのあとでほんとうに嵐がやってくることもあれば、夜まで待っても嵐がやってこない時もあった。海は凪ぎ、風のひとつもなく、黒雲は遠くへ去ってしまう。けれど誰も、それが間違いだとは思わなかった。鐘を鳴らす前はたしかに嵐は近くまで迫っていて、こちらへやって来ようとしていて、けれど鐘の音がそれを追い払ったのだ。誰もがそう考えた。大きな鐘にはそういう力があると皆が信じていた。あるいは、力を持つのは、鐘ではなく音そのものだった。音が聞こえる範囲までが漁に出ていい範囲だった。大きな鐘の大きな音が聞こえる場所がその村の力の及ぶ場所で、鐘の音が聞こえる場所で生まれた者だけが自分たちの仲間だった。
6-1. 村の集落から外れた浜の海際にひとつの小屋があり、女がひとりそこに住んでいた。小屋と呼ぶにも小さく粗末な、ただ木切れで屋根を付け筵を敷いただけの場所で、女はそこで漁師たちと寝た。村の男のすべてがその女の味を知っていた。
6-2. 女が初めて男のものを受け入れたのは数えで十の齢だ。以来女はずっとそこにいて気まぐれでやってくる男たちの相手をして生きてきた。女と寝たあと、男はわずかばかりの食物を放り出すようにして去っていく。それをはじめる前も終えたあとも、男たちは女と話すことがなかった。誰も一声もかけることがなかったから、女が言葉を話せるのかどうかすら知る者がいなかった。ただ喉が潰れていたわけではなく声そのものが出ることは女の喘ぎ声で知っていた。女は稀に引き裂かれるような悲鳴を上げた。けれどそれを気にする男はいなかった。
6-3. どうして女がそういう生き方をすることになったのか、わからない。ただ女はそういうふうに生まれ、そういうふうに育ってしまった、というだけのことだった。誰が決めたわけでもなかった。女は両親を失っていた。親がどうして、いつ死んだのか、昔は誰かが知っていたのかもしれない。けれどそれを伝える者がいなかったから、いつしか記憶は失われていった。村の男の誰が最初に女と寝たのかもわからない。誰もそんな話をしなかったからだ。女が初めて孕んだ子の、そして初めて流した子の父親も、誰だかわからない。
6-4. 女は一年中そうして暮らし、度々病気になった。病気のあいだは誰もそこによりつかなかった。女は痩せ細り、けれど腹だけはいつも膨らんでいて、皮膚は赤黒く、乳房を舐めると潮と砂と垢の味がした。何年か前に気が向いた誰かが女を丸坊主にした。前髪がなくなると暗く濁った脂だらけの汚い瞳があらわになった。もとより美しい女ではなかったが、生きるほどに女は醜さを際限なく溜め込んでいった。
7. ある日村の男たちが総出で女のもとへやってきた。女はその日、数十度も続けて交合した。いつも女のところに来る壮年の漁師たちはひとりも欠けずに姿を見せたし、もう年をとってそのことには興味がなくなったような年寄りもやってきたし、女が初めて顔を見るまだ少年とも呼べないような子供もやってきた。その全員が女の中に子種をぶち撒けた。朝から夕までそれは繰り返し行われた。それが終わると、女は村でいちばん小さく、いちばん古い舟に乗せられて沖に出された。
8. 自分を海まで連れてきた男が舟から降り、泳いで村へ帰っていくのを見ると、女は自分が村から捨てられて、ここで死ぬのだ、ということがわかった。女は舟を漕げなかったし、もうくたくたに疲れていて、わずかに体を動かすだけの体力もなかった。女は舟の底にあお向けになり少しずつ沈んていく太陽を見た。女は丸裸で、自分の中に注ぎ込まれた村じゅうの男たちの子種が幾分かは自分の股から染み出し、幾分かは自分の中に残りつづけるのを感じた。やがて村の中心の高台から、ごおん、ごおん、と鐘の音が聞こえてきた。
9. 生まれてから死ぬまで毎日聞いていた音だった。女は少しだけ動いて村を見た。自分の住処からこんなに離れたことは初めてで、村をこうして外側から見るのも初めてだった。鐘を鳴らす理由については知っていた。鐘が鳴ると男たちが海から帰ってくるのを知っていた。
10. 嵐を遠ざけるのと同じように、自分を村から遠ざけようとしているのだ。女はひらめくようにそう理解した。すると突然、女の中にこれまでなかった新しい視点が生まれた。女は初めて村と、そして自分を外側から見つめた。そして自分自身をかわいそうだと思った。
11-1. 妖怪が生まれたのはこの時だ。
11-2. 女は自分が声を上げているのを知った。胸がふくらみ、喉がふるえ、口から、あるいは体全体から驚くような音が発されて響き渡った。女は自分があの鐘と同じようになってしまったと思った。力がものに突き当たり、音になる。同じだけれど、正反対のものでもある。女は村に呪いをもたらすものだった。ごおん、ごおん、という鐘の音が女の体から響く音にかき消されて古木のように朽ちていった。日が暮れる前に女は死んだ。死ぬ前に女は、あの村には自分と同じような女がいままでに何人もいたんだろう、ということに気づいた。そして自分が死んだあとは次の誰かが自分の役目を引き継ぐのだろう。運の悪い誰かが。舟が波に運ばれ、いつか転覆して女の死体は海に沈み、魚に食われた。けれど女の視線だけは外側に残った。やがて村から鐘の音が聞こえると、女はその音に声を返すようになった。ある日ひとつの舟が沈んだ。次にふたつの舟が沈んだ。もう村人は漁に出ることができなくなってしまった。
12. 村は滅び、すると鐘のことも、女のことも知るものがいなくなった。女は少しずつ海を移動した。声を出すこと、自分を――自分たちを人間から遠ざけたあの鐘の音を真似し、そして絶やすことが妖怪の目的になった。
(二)
13-1. その僧侶を知ったのは村紗が自分の出自を忘れてしまったころで、人間たちから自分が舟幽霊と呼ばれているのを知ったころだった。いくつの舟を沈めたのか覚えていなかった。村紗はただ海を漂い、舟を見つけては声を上げた。重く響く鐘のような音。喉が引き裂かれるような高い音。幾つもの倍音が重なりあったそれが舟にぶつかり耳に届くと、誰もがどうしようもなく水の底に引きこまれ死んだ。村紗はいつか退治すべき化け物として知られた。村紗が海の上を歩くときその姿にぼうとした光が宿った。光が舟に当たると影ができた。
13-2. 僧侶の名は聖白蓮といった。名僧と呼ばれた命蓮の姉で、若くして死んだ弟の後を継ぐようにして妖怪退治を請け負っていた。もう相当の齢になっているが若い女のように美しかった。大変な法力を持ち、この尼僧に相対した妖怪はそのすべてが滅ぼされたという。そういうことを、幾人もの舟乗りが言い残して死んだ。はじめは記憶に残らなかったが、何度も聞かされるうちに聖白蓮の名前が村紗の胸に傷のように残った。
13-3. 村紗はいつか、聖の話を聞くのを楽しみにするようになった。
13-4. 僧侶の話を知っているものが舟乗りのうちにいれば、村紗はそれを最後に殺した。
13-5. 見たこともない聖の姿を、村紗は想像しようとしたが、うまくいかなかった。断片的な話からではそれは難しかったこともある。けれど、それよりもなにか、聖のことを考えると頭にかすみがかかるようにぼやけて、一切の思考がまとまらず、とりとめをなくして散っていくような、不思議な気分になるのだった。
海の青を透かして、村紗は陸の方向を見た。聖がいるほう、いつか聖がそちらからやってくる方向になにかがあるような気がしていた。
14. なにかの媒質が自分と聖の間に満たされていてそれがふるえ和音が生じ、けれどその音は波の向こうに見える光のようにぼやけている。
15. このころの村紗の気持ちに、無理矢理に言葉をあたえれば、こういうふうになるだろう。村紗は聖に興味を持った。自分を退治しにくる僧侶は初めてではない。けれど女の僧侶は初めてだった。
最後の舟を沈めた時、村紗はひときわ大きな声を上げた。ごおん、ごおん、ごおん。鳴り響く音が嵐をつらぬいて人間たちの耳に届いた。誰もが手もなく死んだ。声が終わると村紗は沈黙し、すると嵐が止んで静寂が訪れた。静寂のなか村紗は考えた。
きっと自分は聖を憎んでいる。女の身で高僧になりおおせ、自分たち化け物を退治して回る人間。村紗はそいつに特別な殺意と、それから嫉妬を覚えている。でも、それだけではなかった。自分は彼女を誘惑したいと考えている。誘惑し、屈服させ、辱めた上で殺してしまいたいと考えている。村紗はそう思った。それは彼女があやかしになってから初めて胸に浮かんだたしかな考えだった。
16. 幾日か経った。昼と夜が交互に海に落ち、波の立てる水音が村紗を通り抜けていった。聖を待つあいだ、村紗は幾度か声を上げて、それが自分自身にどう聞こえるかたしかめてみた。自分の声の中には昔自分が持っていたはずのなにかがあると思った。
目を閉じると繰り返す波の音が聞こえて、いつかそれはわずらわしい雑音になった。自分の喉が、胸が立てる音を村紗は聞いていた。雑音をさえぎろうとすると自分から意識が離れて浮かび、声だけが海に満ちているような気持ちになれた。とても昔に、こういう経験をしたことがあると思った。まるで夢をみているようだった。
17. 舟には聖の他十数人の人間が乗っていた。男たちが櫂を使い舟を進ませた。聖はその中央に立っていた。まだ舟が遠くにあるうちから村紗はそれを眺め、自分のほうに近づいてくるのを待った。自分の声が届く範囲、声がその力をふるえるところへ。
18. 村紗は昂揚していた。生きているあいだも死んでからを含めても、こんなにも感情が高まったのは初めてだった。
19. 少しずつ大きくなる舟を、村紗はじっと見ていた。ところが聖を見た瞬間、村紗は自分の力が無力であることを悟った。自分の声はこの女には届かない、という確信がどこからともなくあっさりと落ちてきた。
20. 聖の乗った舟が水をかき分けるその動きが波になって村紗の体に伝わった。一方こちらが立てる動きはそれが水であれ音であれ聖を通り抜けてしまい、彼女をおびやかすことは決してできないだろう。
21. 村紗が海の上に姿をあらわすと、男たちは村紗を見て恐慌に陥った。飽きるほど見てきた眺めだった。
聖が村紗を見た。自分自身を信じきっている顔だ、と村紗は思った。僧侶は安らかな笑みを浮かべていた。もし他の人間がすべて死んだとしても、自分だけは安全であることを信じて疑わないのだと思った。そしてそれが真実であることが村紗にもわかった。
村紗はそれでも声を上げようとした。いままでそうしてきたのと同じように。舟幽霊の喉がふるえ、胸がふくらみ、口が半ばひらいたのを、聖は見た。このときたしかに僧侶は化け物に目を留めたのだ。
22. けれど次の瞬間、聖の視野からすべてが消えていた。僧侶はもう村紗を見ていなかった。彼女の瞳ははるか彼方へ向けられ、その先へ、村紗を越えたはるか遠くへ一心不乱に目を据えていた。村紗は理解した。目線は自分のほうを向いている。瞳はたしかに自分をとらえている。けれどもこの女はもう自分のことなど念頭にないのだ。村紗の眼から涙があふれた。
23. そしてこの瞬間ほど、村紗が美しかったことはなかった。村紗は伸び上がり、吹き渡る風に髪をなびかせ、舟に爪を立てて半ば乗り上がり、いくらかでも聖に近づこうとした。もう、彼女を誘惑しようなどとは考えていなかった。ただできるだけ近くで、なるたけ長く、陶然とした聖の瞳を見つめていたかった。
24. 村紗を前にして舟は止まり、舳先まで歩いてきた聖が村紗に手を伸ばした。屈んだ女の手が自分の頬に揺れるのを村紗は感じた。けれどその手は既に自分を通りすぎておりもう戻ってくることはないのだ。
25. 「ここにいる全員を殺しなさい。わたしを除いて。わたし以外の誰にもあなたを知られないように」聖がそう言った。
26. 村紗はそのようにした。
27. 聖を除く全員を溺れ殺したあと、村紗は聖が念仏を唱えるのを聞いた。それは村紗の知らない言葉で、けれどその歌のような呪文によりいま溺れ死んだ彼らが自分のような化け物になることはないのだと思った。
もう村紗は声を上げない。彼女が舟を沈めることはもうないだろう。けれど村紗の内側に、鐘のような、悲鳴のような音は残り続けた。それはいまでも彼女の内で鳴り響いている。――SOUND 力がものにつきあたること。聲ナリ。心ニ生ジ、外ニ節アル、コレヲ音トイフ。
1. その村には大きな鐘があった。とても大きな鐘だった。とても昔からあった。どれくらい昔からあったのかはわからない。
2. 村いちばんの年寄りが子供だったころにはすでにあった。男が十人かかっても持ち上げられないようなとても大きく重い鐘で、それが村の真ん中の高台の天辺に据え付けられていた。どうやってそこに鐘を運んだのか、どうやってこんな重いものを吊るすことができたのか、誰にもわからなかった。「ほとけのわざだ」と村の住人たちは語った。住人といっても百人に満たないような小さな村で、それが海に面した小さな土地に苔が岩に張り付くようにして住み着いていた。村の男のすべてが漁師だった。
3. そのころの漁は単純なもので、まず太く長い丈夫な綱を一本つくる。その綱から枝分かれさせるようにしてもとの綱よりは幾分か細い、けれどじゅうぶんに丈夫な綱をいくつもつなぎあわせていく。細い綱の先端に鉄を押し曲げて作った尖った針をつけ、その長いひとかたまりの、網とも呼べぬ綱の一朶を舟に乗せて沖に出る。沖といっても浜から舟の上の動きが見えるような近海で、そこで綱を海におろし海底をひきずるようにして船を漕ぎ浜へ帰ってくる。運が良ければいくつかの針に魚がかかっている。
そういうことを一日に何度も繰り返していくらかの獲物を捕り、いくらかは自分らで食べ、いくらかは近隣へ売り生活をしていた。村のすべてがそんなふうだった。漁村と呼ばれたり、漁民と呼ばれたりするのはずっとあとになってからのことだ。そのころ、村に名前などなかった。ただ村の住民たちは名前などなくとも自分たちがただひとかたまりの共同体であることを知っていた。ちょうど綱がもつれて絡まるように、自分たちもそれぞれがごちゃごちゃと複雑に絡み合い、離れては生きられなかった。
4. 男たちが漁に出かけるときはかならず、子のいない女かもしくは年をとって海に出られなくなった老人がひとり鐘のある高台に居座り、沖を眺め、空と海の様子を見る役を担った。するといつか、舟よりもずっと先の空に黒雲が見える時がある。神経を尖らせて、じっと集中し、頬に張り付く潮を含んだ風の様子をたしかめる。嵐がやってくるんだ、と確信すると、見張り番は手にした撞木を力いっぱい叩きつけて鐘を鳴らす。鐘はごおん、ごおんと鳴り、その音は海の上まで届く。
5. 鐘の音が聞こえると漁師たちは仕事をやめ浜に帰った。そのあとでほんとうに嵐がやってくることもあれば、夜まで待っても嵐がやってこない時もあった。海は凪ぎ、風のひとつもなく、黒雲は遠くへ去ってしまう。けれど誰も、それが間違いだとは思わなかった。鐘を鳴らす前はたしかに嵐は近くまで迫っていて、こちらへやって来ようとしていて、けれど鐘の音がそれを追い払ったのだ。誰もがそう考えた。大きな鐘にはそういう力があると皆が信じていた。あるいは、力を持つのは、鐘ではなく音そのものだった。音が聞こえる範囲までが漁に出ていい範囲だった。大きな鐘の大きな音が聞こえる場所がその村の力の及ぶ場所で、鐘の音が聞こえる場所で生まれた者だけが自分たちの仲間だった。
6-1. 村の集落から外れた浜の海際にひとつの小屋があり、女がひとりそこに住んでいた。小屋と呼ぶにも小さく粗末な、ただ木切れで屋根を付け筵を敷いただけの場所で、女はそこで漁師たちと寝た。村の男のすべてがその女の味を知っていた。
6-2. 女が初めて男のものを受け入れたのは数えで十の齢だ。以来女はずっとそこにいて気まぐれでやってくる男たちの相手をして生きてきた。女と寝たあと、男はわずかばかりの食物を放り出すようにして去っていく。それをはじめる前も終えたあとも、男たちは女と話すことがなかった。誰も一声もかけることがなかったから、女が言葉を話せるのかどうかすら知る者がいなかった。ただ喉が潰れていたわけではなく声そのものが出ることは女の喘ぎ声で知っていた。女は稀に引き裂かれるような悲鳴を上げた。けれどそれを気にする男はいなかった。
6-3. どうして女がそういう生き方をすることになったのか、わからない。ただ女はそういうふうに生まれ、そういうふうに育ってしまった、というだけのことだった。誰が決めたわけでもなかった。女は両親を失っていた。親がどうして、いつ死んだのか、昔は誰かが知っていたのかもしれない。けれどそれを伝える者がいなかったから、いつしか記憶は失われていった。村の男の誰が最初に女と寝たのかもわからない。誰もそんな話をしなかったからだ。女が初めて孕んだ子の、そして初めて流した子の父親も、誰だかわからない。
6-4. 女は一年中そうして暮らし、度々病気になった。病気のあいだは誰もそこによりつかなかった。女は痩せ細り、けれど腹だけはいつも膨らんでいて、皮膚は赤黒く、乳房を舐めると潮と砂と垢の味がした。何年か前に気が向いた誰かが女を丸坊主にした。前髪がなくなると暗く濁った脂だらけの汚い瞳があらわになった。もとより美しい女ではなかったが、生きるほどに女は醜さを際限なく溜め込んでいった。
7. ある日村の男たちが総出で女のもとへやってきた。女はその日、数十度も続けて交合した。いつも女のところに来る壮年の漁師たちはひとりも欠けずに姿を見せたし、もう年をとってそのことには興味がなくなったような年寄りもやってきたし、女が初めて顔を見るまだ少年とも呼べないような子供もやってきた。その全員が女の中に子種をぶち撒けた。朝から夕までそれは繰り返し行われた。それが終わると、女は村でいちばん小さく、いちばん古い舟に乗せられて沖に出された。
8. 自分を海まで連れてきた男が舟から降り、泳いで村へ帰っていくのを見ると、女は自分が村から捨てられて、ここで死ぬのだ、ということがわかった。女は舟を漕げなかったし、もうくたくたに疲れていて、わずかに体を動かすだけの体力もなかった。女は舟の底にあお向けになり少しずつ沈んていく太陽を見た。女は丸裸で、自分の中に注ぎ込まれた村じゅうの男たちの子種が幾分かは自分の股から染み出し、幾分かは自分の中に残りつづけるのを感じた。やがて村の中心の高台から、ごおん、ごおん、と鐘の音が聞こえてきた。
9. 生まれてから死ぬまで毎日聞いていた音だった。女は少しだけ動いて村を見た。自分の住処からこんなに離れたことは初めてで、村をこうして外側から見るのも初めてだった。鐘を鳴らす理由については知っていた。鐘が鳴ると男たちが海から帰ってくるのを知っていた。
10. 嵐を遠ざけるのと同じように、自分を村から遠ざけようとしているのだ。女はひらめくようにそう理解した。すると突然、女の中にこれまでなかった新しい視点が生まれた。女は初めて村と、そして自分を外側から見つめた。そして自分自身をかわいそうだと思った。
11-1. 妖怪が生まれたのはこの時だ。
11-2. 女は自分が声を上げているのを知った。胸がふくらみ、喉がふるえ、口から、あるいは体全体から驚くような音が発されて響き渡った。女は自分があの鐘と同じようになってしまったと思った。力がものに突き当たり、音になる。同じだけれど、正反対のものでもある。女は村に呪いをもたらすものだった。ごおん、ごおん、という鐘の音が女の体から響く音にかき消されて古木のように朽ちていった。日が暮れる前に女は死んだ。死ぬ前に女は、あの村には自分と同じような女がいままでに何人もいたんだろう、ということに気づいた。そして自分が死んだあとは次の誰かが自分の役目を引き継ぐのだろう。運の悪い誰かが。舟が波に運ばれ、いつか転覆して女の死体は海に沈み、魚に食われた。けれど女の視線だけは外側に残った。やがて村から鐘の音が聞こえると、女はその音に声を返すようになった。ある日ひとつの舟が沈んだ。次にふたつの舟が沈んだ。もう村人は漁に出ることができなくなってしまった。
12. 村は滅び、すると鐘のことも、女のことも知るものがいなくなった。女は少しずつ海を移動した。声を出すこと、自分を――自分たちを人間から遠ざけたあの鐘の音を真似し、そして絶やすことが妖怪の目的になった。
(二)
13-1. その僧侶を知ったのは村紗が自分の出自を忘れてしまったころで、人間たちから自分が舟幽霊と呼ばれているのを知ったころだった。いくつの舟を沈めたのか覚えていなかった。村紗はただ海を漂い、舟を見つけては声を上げた。重く響く鐘のような音。喉が引き裂かれるような高い音。幾つもの倍音が重なりあったそれが舟にぶつかり耳に届くと、誰もがどうしようもなく水の底に引きこまれ死んだ。村紗はいつか退治すべき化け物として知られた。村紗が海の上を歩くときその姿にぼうとした光が宿った。光が舟に当たると影ができた。
13-2. 僧侶の名は聖白蓮といった。名僧と呼ばれた命蓮の姉で、若くして死んだ弟の後を継ぐようにして妖怪退治を請け負っていた。もう相当の齢になっているが若い女のように美しかった。大変な法力を持ち、この尼僧に相対した妖怪はそのすべてが滅ぼされたという。そういうことを、幾人もの舟乗りが言い残して死んだ。はじめは記憶に残らなかったが、何度も聞かされるうちに聖白蓮の名前が村紗の胸に傷のように残った。
13-3. 村紗はいつか、聖の話を聞くのを楽しみにするようになった。
13-4. 僧侶の話を知っているものが舟乗りのうちにいれば、村紗はそれを最後に殺した。
13-5. 見たこともない聖の姿を、村紗は想像しようとしたが、うまくいかなかった。断片的な話からではそれは難しかったこともある。けれど、それよりもなにか、聖のことを考えると頭にかすみがかかるようにぼやけて、一切の思考がまとまらず、とりとめをなくして散っていくような、不思議な気分になるのだった。
海の青を透かして、村紗は陸の方向を見た。聖がいるほう、いつか聖がそちらからやってくる方向になにかがあるような気がしていた。
14. なにかの媒質が自分と聖の間に満たされていてそれがふるえ和音が生じ、けれどその音は波の向こうに見える光のようにぼやけている。
15. このころの村紗の気持ちに、無理矢理に言葉をあたえれば、こういうふうになるだろう。村紗は聖に興味を持った。自分を退治しにくる僧侶は初めてではない。けれど女の僧侶は初めてだった。
最後の舟を沈めた時、村紗はひときわ大きな声を上げた。ごおん、ごおん、ごおん。鳴り響く音が嵐をつらぬいて人間たちの耳に届いた。誰もが手もなく死んだ。声が終わると村紗は沈黙し、すると嵐が止んで静寂が訪れた。静寂のなか村紗は考えた。
きっと自分は聖を憎んでいる。女の身で高僧になりおおせ、自分たち化け物を退治して回る人間。村紗はそいつに特別な殺意と、それから嫉妬を覚えている。でも、それだけではなかった。自分は彼女を誘惑したいと考えている。誘惑し、屈服させ、辱めた上で殺してしまいたいと考えている。村紗はそう思った。それは彼女があやかしになってから初めて胸に浮かんだたしかな考えだった。
16. 幾日か経った。昼と夜が交互に海に落ち、波の立てる水音が村紗を通り抜けていった。聖を待つあいだ、村紗は幾度か声を上げて、それが自分自身にどう聞こえるかたしかめてみた。自分の声の中には昔自分が持っていたはずのなにかがあると思った。
目を閉じると繰り返す波の音が聞こえて、いつかそれはわずらわしい雑音になった。自分の喉が、胸が立てる音を村紗は聞いていた。雑音をさえぎろうとすると自分から意識が離れて浮かび、声だけが海に満ちているような気持ちになれた。とても昔に、こういう経験をしたことがあると思った。まるで夢をみているようだった。
17. 舟には聖の他十数人の人間が乗っていた。男たちが櫂を使い舟を進ませた。聖はその中央に立っていた。まだ舟が遠くにあるうちから村紗はそれを眺め、自分のほうに近づいてくるのを待った。自分の声が届く範囲、声がその力をふるえるところへ。
18. 村紗は昂揚していた。生きているあいだも死んでからを含めても、こんなにも感情が高まったのは初めてだった。
19. 少しずつ大きくなる舟を、村紗はじっと見ていた。ところが聖を見た瞬間、村紗は自分の力が無力であることを悟った。自分の声はこの女には届かない、という確信がどこからともなくあっさりと落ちてきた。
20. 聖の乗った舟が水をかき分けるその動きが波になって村紗の体に伝わった。一方こちらが立てる動きはそれが水であれ音であれ聖を通り抜けてしまい、彼女をおびやかすことは決してできないだろう。
21. 村紗が海の上に姿をあらわすと、男たちは村紗を見て恐慌に陥った。飽きるほど見てきた眺めだった。
聖が村紗を見た。自分自身を信じきっている顔だ、と村紗は思った。僧侶は安らかな笑みを浮かべていた。もし他の人間がすべて死んだとしても、自分だけは安全であることを信じて疑わないのだと思った。そしてそれが真実であることが村紗にもわかった。
村紗はそれでも声を上げようとした。いままでそうしてきたのと同じように。舟幽霊の喉がふるえ、胸がふくらみ、口が半ばひらいたのを、聖は見た。このときたしかに僧侶は化け物に目を留めたのだ。
22. けれど次の瞬間、聖の視野からすべてが消えていた。僧侶はもう村紗を見ていなかった。彼女の瞳ははるか彼方へ向けられ、その先へ、村紗を越えたはるか遠くへ一心不乱に目を据えていた。村紗は理解した。目線は自分のほうを向いている。瞳はたしかに自分をとらえている。けれどもこの女はもう自分のことなど念頭にないのだ。村紗の眼から涙があふれた。
23. そしてこの瞬間ほど、村紗が美しかったことはなかった。村紗は伸び上がり、吹き渡る風に髪をなびかせ、舟に爪を立てて半ば乗り上がり、いくらかでも聖に近づこうとした。もう、彼女を誘惑しようなどとは考えていなかった。ただできるだけ近くで、なるたけ長く、陶然とした聖の瞳を見つめていたかった。
24. 村紗を前にして舟は止まり、舳先まで歩いてきた聖が村紗に手を伸ばした。屈んだ女の手が自分の頬に揺れるのを村紗は感じた。けれどその手は既に自分を通りすぎておりもう戻ってくることはないのだ。
25. 「ここにいる全員を殺しなさい。わたしを除いて。わたし以外の誰にもあなたを知られないように」聖がそう言った。
26. 村紗はそのようにした。
27. 聖を除く全員を溺れ殺したあと、村紗は聖が念仏を唱えるのを聞いた。それは村紗の知らない言葉で、けれどその歌のような呪文によりいま溺れ死んだ彼らが自分のような化け物になることはないのだと思った。
もう村紗は声を上げない。彼女が舟を沈めることはもうないだろう。けれど村紗の内側に、鐘のような、悲鳴のような音は残り続けた。それはいまでも彼女の内で鳴り響いている。――SOUND 力がものにつきあたること。聲ナリ。心ニ生ジ、外ニ節アル、コレヲ音トイフ。
ただ、聖についてもう少し掘り下げて欲しかった。
少し物足りなさを感じたのでこの点数に。
なんだかなあ
しかし妖怪を救うために人を皆殺しにするあたり何かを救うという意味の極限がわかる気がします
奴隷解放のリンカーン大統領を今思い出しましたが救うということは結局味方になってそいつの敵を加虐すること
救うためには救わない覚悟がいるし、逆にそれが嫌なら最初から救わない覚悟がいるってこと つまり結局は敵味方の問題ってことなんでしょう
だから生前のムラサを誰も救おうとしなかったし、ムラサを救おうとした聖は船に乗ってた人間を誰も救わなかった ムラサとムラサを救う自分を救うために
人を救おうとする優しさなんて突き詰めたら自分勝手で冷酷なものかも知れません 誰かの味方になるということは誰かは勿論誰かの味方をしている自分も救わないといけないわけだし、つくづく優しくては優しくなれないって思います
まあ暴力ありの世界での優しさですけど
だから題名が力がものにつきあたるということなんですかね
暴力ありの世界じゃ優しさとは冷酷で狂ってないといけないかもしれません
暴力の世界じゃ優しさもまた暴力
でも村紗と白蓮の過去話としては非常に面白かったです