.1
ジェンガという物を拾った。
それは、いつものように無縁塚で珍しい物を探し歩いていた時のことだ。
季節は秋で、汗ばんだ肌にひやりと涼しい風が木々の隙間をゆったりと流れていた。
サクッサクッ、と落ち葉を踏む時の乾いた音と共に歩き慣れたコースを散策していると、視界の端にそれを見つけた。
それは一升瓶ほどの大きさの箱で、幻想郷に似つかわしくないカラフルな色合いをしていた。
どうやら外の世界からの漂流物のようだ。
箱の表面にはなにやらリアルな直方体の絵が描かれていて、その直方体の中心、ひときわ目に付く場所に『ジェンガ』という文字がデカデカと書かれていた。
なるほどと思う。これはジェンガと言うらしい。
能力を使わずともすぐに理解できた。
.2
香霖堂の一室、物置きとして使っている部屋で奇妙なものを見つけた。
ちゃぶ台の上にぽつんと置かれた、積み木のタワー。
積み木の一つひとつのピースは親指サイズほどの木製ブロックで、それが三本づつ交差させるようにしてタワー状に積み上げられていた。
はて? と思う。なんでコレがこんな場所にあるのだろうか。
それは僕が一週間ほど前に拾ってきたものだ。名前はジェンガ。珍しい物と思い拾ってみたが、どうにも使い方が分からなかった一品だ。
それはつい先日の事だから良く覚えている。
あの日、僕はジェンガを持ち帰るとさっそく見分を始めたのだが、箱の中に入っていたのは数十本もの木製ブロックで、その使い方がサッパリ分からなかった。
用途が『遊ぶ道具』であるから何か玩具であろう事は分かったが、それ以外の事は何も分からず、いくら熟考しても成果も何もないので、そのうちに興味を失って最終的に未解決のまま店棚に並べられることなった。
そう、本来ならばジェンガは店棚に並べられているはずなのだ。なのに何故かここに置かれている。
誰かイタズラだろうか?
訝しく思うものの、積み上げられたジェンガの姿は妙にしっくりくる感じがした。何かこう、収まりが良いのだ。
ブロックを三本ずつ交差させるようにしてタワー状に積み上げられたジェンガは、本来の、想定されていた形のように思える。
タワーは完全な直方体では無く中段部のブロックが一つ欠けていて、その分の余ったブロックが最上段にちょこんと置かれていた。その不自然さもジェンガを構成する一つの要素に思えるから不思議だ。
見ている内にだんだんと興味がわいてきた。
これを積み上げた誰かさんはジェンガの遊び方を知っているのだろうか。だとすると、それは一体どんな遊び方なのだろうか。このヒントがある今なら分かる気がした。
狭い四畳半の部屋でしばらくの間にらめっこを続けていたが、やがて確信に近いかたちで遊び方を理解することが出来た。
つまり、こうだろうな。
僕はジェンガタワー崩さないように手頃な位置にあるブロックを一つ抜き取り、それを最上段に加えた。
たぶん、コレを積み上げた誰かさんは霊夢か魔理沙だと思う。と言うよりその二人以外にめぼしい人物が思い浮かばない。
とりあえず、今度会ったら二人に訊いてみるとするか。そう考えながら部屋を後にした。
.3
結論から言うと、霊夢も魔理沙もジェンガの事は知らなかったようだ。
二人が香霖堂に来たのはあれから数日後の事で、出し抜けに降りはじめたにわか雨と共に彼女たちはやって来た。どうやら雨宿りに来たらしい。
乾いたタオルを渡し、落ち着いた頃合いをみてジェンガの事を尋ねたところ「知らないわよ」と霊夢が言った。
「そうか、魔理沙は?」
「さぁ知らないね。で、ジェンガってのは何だ?」
「いや、別に大したことじゃないんだが、ジェンガというのは店の商品でね。それが知らぬ間に移動していたみたいなんだ。ちょっと気になってね」
「香霖がボケてただけじゃないのか」
「そんな記憶違いはしない」
「それって、妖精のイタズラじゃない?。ほら、前にも似たようなことがあったみたいだし」
多分そうだろうね、と僕は頷いた。霊夢の言うとおりこの店は妖怪や妖精のイタズラの標的になる事がままあるのだ。
その理由は人里離れた香霖堂の立地にあるのではないかと、僕は睨んでいる。ひと気が少ないから妖の類が跋扈するのだし、おまけに魔法の森にもほど近い。
イタズラの原因が彼らだとすると僕にできる事はだいぶ少ない。下手に反応を示しても相手を楽しませるだけだ。この場合は毅然とした態度で接するのが一番いい。無反応でいれば、じきに飽きてイタズラも自然と止まる。
その事を最近になって学んだ。
しかし、いくら学んでもどうにもならない事も、時にはある。彼女たちの事だ。
「ところで霊夢。君は先ほどから何を口にしているのかな?」
「この饅頭のこと? これはさっき戸棚の奥で見つけたの。なかなか良いチョイスだと思うわ。さり気ない甘さも高評価ね」
「ああ、うん。質問が悪かった。それは僕が来客用にとっておいたんだ。つまりお客様専用の饅頭。そして君たちは客じゃあ無い。オーケー?」
「成程、客ならいいのか」と魔理沙が割り込んだ。「じゃ、私は今から客だな。銭はないけど物々交換ならできるからな。ほら見てくれ新鮮なキノコだ。私は客としてこのキノコと饅頭の取引を要求する。さもなければ饅頭を頂く。オーケー?」
そんなのは客じゃない、ただの押し売り強盗だ。思っても口には出さない。
「僕の分も残しておいてくれよ」とだけ言っておく。まだ味見もしていないのだ。
こうなると僕にできることは早く雨が止むように祈るくらいだ。雨宿りに来たのだから、きっと雨が止めば早々に帰ってくれるはずだ。
窓の外を見守っていると、そんな僕の気持ちを察したのか霊夢が「大丈夫よ」と言った。「雨はすぐに上がるから」
実際、それから程なくして雨は上がった。饅頭もほとんど無事なようだ。店を出る二人を見送りながら二つの意味で嵐は去ったのだな、と何となく思った。
それから、ふと思い立ってジェンガが置いてある部屋の様子を確認してみた。すると、また一つブロックがタワーから抜き取られ、それが最上部に置かれていた。
どうやら“また”のようだ。
最初の一回と、次に僕が抜き取った二回目、そして今回の三回目。抜き取られた計三つのブロックはタワーの高さをちょうど一段分だけ増やしていた。
なるほど、と思う。ブロックを抜いていくたびにタワーが高く、つまり難易度が上がっていくわけか。
順番から察するに次は僕の番のようだ。
少し迷ったが、僕もジェンガ遊びに付き合う事にした。タワーが倒れないよう慎重にブロックを抜き取り、それを最上部にちょこんと置いた。
.4
それからというもの、この部屋のジェンガは不定期な間隔で一ブロックずつ積み上げられるようになった。それは三日後だったり一週間後だっり、ペースはまちまちだった。
僕も誰かさんのジェンガ遊びに付き合うようにした。
誰かさんはゲームの順番をしっかり意識しているようで、僕の番が終わるまで手を進める事は一切しなかった。
その律儀さが何だか妙で可笑しく思えた。
実際のはなし、僕はこのジェンガを早々に片付けて、以前のように店棚に並べても何の問題も無かった。
だけど、そうしない理由もちゃんとあった。僕はその誰かさんと話をしてみたいと思っていたのだ。
ジェンガのルールを知っていた彼は、きっと外の道具に精通しているのかもしれない。話せば見聞を広める良い機会になりそうだ。そう考えると、ジェンガを終わらせて関係を断ち切ってしまうのは少し勿体無い気がした。
我ながら女々しいと思うが、代案もなかったのでジェンガ遊びに付き合うことにしたわけだ。
それに、何となくだけど僕はジェンガの人に親しみを感じていた。自分でも妙な事と思うが、誰かさんが現れるのを心のどこかで待ちわびていたのだ。
それは、先日のとある一件があったからかもしれない。あの一件は誰かさんに対する印象を改めるひとつの要因となった。
それは平凡な一日の平凡な昼下がりのことだった。
その日も例によって客足はスカスカで、窓の隙間から聞こえてくる木枯らしの風声とストーブの控えめな駆動音だけが店内を賑わせていた。
いつものように店のカウンターで雑誌を読みながら暇な時間を満喫していると、不意に、なにか気配を感じた。その気配はジェンガの置いてある部屋からしていた。
誰か居るのかもしれない。
気になって中を覗いてみる。――が、部屋には誰もいなかった。そのかわりに置いた覚えのない湯呑みをちゃぶ台の上に見つけた。
湯呑みにはお茶が残っていて、しかもまだ暖かかった。
ジェンガの方を見やると、タワーのブロックを一手だけ進めた形跡があったので、どうやら先ほどまでここに居たようだ。
なかなか図々しいヤツだな、と湯呑みを眺めながら思う。姿は見せずともお茶だけはしっかり頂いていくようだ。そんなことを考えていると、ちょっとした好奇心が僕をくすぐった。
お茶を飲むのなら、そのお茶請けとして饅頭でも一緒に用意しておいたらどんな反応を見せてくれるのだろうか。
思いつくと、僕はさっそく饅頭を持ってきてジェンガの隣に置いた。ちゃぶ台の上の饅頭はなんだかお供え物みたいに思えた。
翌日になって部屋を確認すると意外なことに饅頭はすでに無くなっていた。どうやら昨日のうちに現れたようだ。さらに意外だったのは饅頭が置いてあった場所に飴玉が数個ほど転がっていたことだ。
これには僕も口元を緩めた。
この飴玉は饅頭のお礼のつもりなのだろうか。一つ口に含んでみると、甘くほんのりと懐かしい味がした。
なんと言うか、いい意味で期待を裏切られた気分だ。
これを切っ掛けに、誰かさんの印象が正体不明の隣人から人畜無害な遊び相手くらいには格上げされた。少なくとも敵意や悪意は感じない。
以来、気が向いた時にはお茶請けを用意するのが習慣になった。お茶請けを用意すると、時々お礼の品が置かれていた。
匿名さんの、その風変わりな点がやっぱり妙で可笑しく思えた。
.5
それから数週間が過ぎると秋もしだいに深まっていき、明け方の吐息の白さに冬の気配を感じるようになった。木々の葉が少なくなっていき、森の動物たちはすっかり冬眠の準備しはじめていた。
そんな中、僕たちのジェンガは相変わらずに続いていた。
交互にブロックを抜き取り、それを積み上げていく。そのせいで最初は堅牢で頼りがいのあったジェンガタワーも、今では骨粗しょう症の大腿骨みたいにヨボヨボになっていた。実に頼りない。
その頃になると、僕はジェンガのコツや楽しさというものを理解できるようになっていた。
このジェンガというゲームは単純そうに見えて実は奥が深い。その理由の一つは、ブロックのそれぞれの大きさが微妙に異なっている点であろうか。
最初のうちは気付かなかったが、そのせいで見た目に反してタワーの重心を見定めるのが難しい。だから実際にタワーに触れてみて、重心の位置を感じとり、取るべきブロックを慎重に見極めなくてはならない。これら全てを片手のみで切り抜けるのだ。中々にスリルがある。
なんだかんだいって僕はこのジェンガゲームを真剣に楽しんでいた。こうやってちゃぶ台の前に座っていると、年甲斐もなく、少年だったころの記憶を思い出させた。
そうは言っても、やっぱり当初の目的を忘れてはならない。僕はジェンガの人と有意義な会話をするためにゲームに付き合っているのだ。
けれど、この数週間で僕が手にした彼に関する情報は驚くほど少なかった。
正体不明の誰かさんは、依然として正体不明のままだ。
唯一、分かったことと言えば誰かさんは若い女性であると言う事だけ、それも確証がある訳ではなく、ただ偶然に聞こえたくしゃみの声からそのように判断しただけだ。
彼女の声を耳にしたのはつい先日の事だった。
その日はいつにも増して肌寒い秋風が吹いていて、僕は店のストーブの火を絶やさなかった。店内は暖かかったが、戸で仕切られているジェンガの部屋まではその暖気が届かなかったようだ。だから、彼女は思わず声を漏らしてしまったのだと思う。
くしゅん、と。
それは確かに女の子の声をしていた。どこか記憶に懐かしい声質だった。
それを聞きつけた僕は軽いノックと共に部屋の戸を開けてみたが、やはり中には誰もいなかった。部屋の冷えた空気が店内に入り込んてくるだけだ。
取りあえず、僕は部屋の戸を半分だけ空けておくことにした。気休め程度にしかならないだろうが、何もしないよりはマシに思えた。
そんな訳で、この日より誰かさんに対する三人称が“彼”から“彼女”になる事となった。
ま、それだけと言えば、それまでの事なんだけど。
.6
その日は魔理沙が来ていた。
窓の隙間から聞こえてくる木枯らしの風声とストーブの控えめな駆動音の合間に、チェスの駒をはじく音が小さく割り込んだ。
「チェックメイト、どうだ?」
「む? これ、私の負けか?」
「ああ、良く見てみろ、次のターンで魔理沙のキングは逃げ場を失うぞ」
ぬぐぐ、と負けを悟った魔理沙は机に突っ伏した。
時々だが、魔理沙は僕に勝負を挑んでくる。
その勝負は彼女たちがよくやっているような幕勝負ではなくチェスやオセロ、トランプといったごくありふれた内容で、どうやら弾幕をやらない僕に合わせてくれているみたいだった。
それは彼女にとっては勝算があっての事なのだろうが、あいにく相手が悪かった。僕はこの手のゲームが得意だ。
勝利の余韻に浸っていると、魔理沙が机に突っ伏した姿勢のまま顔をこちらに向けた。
「なぁ香霖」
「ん?」
「なんでそんな強いんだ?」
「まぁチェスは割と好みだからね、自分でも棋譜をだな」
「いや、そうじゃないんだ」
そう言うと魔理沙は上体を起こし、手に取ったキングの駒を僕に差し向けた。
「チェスも強いけど、それに限らず何でも強いだろ」
「そうか?」
「そうだ。知力勝負のチェッカーやドミノは分かるとしても、崩し将棋やビー玉なんかも強いからな。だから不思議に思ってね。何か秘訣でもあるのか」
魔理沙はキングを卓上に戻し、駒を並べ始めた。僕もそれに倣う。
強い秘訣を問われても、僕は昔からこの手の遊びは得意だった気がする。それはいつ頃からだったろうか。記憶を辿っていくと、ある一つの事を思い出した。
「ああ、そういえば僕には師匠がいたんだ」
「師匠? 私の親父のこと?」
「いや、もっと昔――僕がまだガキの頃の話だ。だから師匠と言っても、それは子供がよくやるようなごっこ遊びの稚拙な関係だけどね。その人に鍛えられた」
「へぇ、で、その師匠とやらは強かったのか」
「ああ、遊びの達人でね。何をやらせても強かった」
「なるほどな」と魔理沙が頷くのと同じタイミングで、チェスの駒を並び終えた。
「次は私の先番でいいよな」と魔理沙。僕は頷いた。
「なぁ、香霖ってどんな幼少期を過ごしたんだ?」
ニ試合目がはじまって少し経った頃に魔理沙が訊いた。
「急に、どうした?」
「好奇心だよ、香霖のそういう話を聞いたこと無かったからな」
「別段、話す事もないしな」
「そう言われると、すげー気になるんだが?」
「いい思い出が少ないんだよ。ほら、僕はハーフの人妖。それだけで色々と苦労してんだ」
「でも、その師匠とやらを思い出している時は、いい面してたぞ」
魔理沙はチェスの手を止めて、ニヤニヤとこちらを見ている。この様子だと引いてくれる気は無さそうだ。諦めて「分かったよ」と手のひらを見せた。
「子供のころは身寄りも住家も無かったから、人里で養い親を探しながら生活していたんだ。『戦で両親を失った哀れな身無し子』って設定でね」
「ほう、ヘビーだな」
「仕方なかったんだ。妖怪として生きていければそれが一番なんだろうけど、あいにく僕は半端者でね、そんな生命力は持ち合せていなかった」
コトン、とチェス駒を進めながら僕は続けた。
「勘違いされがちだけど、僕は寿命が長いだけであって成長が遅い訳では無いからね、少年期はやっぱり外見も中身もガキンチョだった。だからそれ以外の生き方が思いつかなかった。ただ、外見が人間と変わらなかったのは運が良かったね。おかげで、人間の生活に紛れ込めた」
当時の話をアレコレと一通り喋ってから、まぁこんな感じ、と最後に付け足した。
魔理沙はというと、マジマジと僕を見つめた後に「苦労してんだな」と一言。それから駒を一つ動かした。コトン。
「じゃあさ、師匠さんとの出会いはどうだったんだ?」
「それがな……」と少し言い淀む「あまり覚えていないんだ」
「そうなのか?」
「存在感の薄い人だったからね。気がついたらそこに居て、いつの間にか消えている。そんな人だった」
今にして思うと、本当に不思議な人だったなと思う。当時、嫌われ者だった僕に手を差し伸べてくれたのは、後にも先にも師匠だけだった気がする。
「その当時、僕の生活はけっこう安定してたんだ。運よく親切な老夫婦が僕を拾ってくれたからね。でも、友達を上手くつくることが出来なかった。多分、本能的に僕が妖怪だって事を悟ってたんだろうね。子供は特にそういうのに敏感だから。嫌われ者はいつも孤独だった。そんな時、一人だけ僕と遊んでくれる人がいたんだ――」
「そこで師匠の登場だな」と魔理沙が割り込む、「そうだ」と僕。
コトン。
「師匠は、なんて言うか掴みどころのない人だったね。散歩が好きでさ、つい目を離すとすぐにどっか行っちゃうんだ。僕はそんな背中をいつも追いかけてた気がする。刷り込み済みのアヒルの子みたいにね」
「ずいぶんと懇意にしてたんだな」
「そりゃそうさ、僕にしてみればはじめての友達で、はじめての頼れる存在だったんだ。憧れの対象だったし、今にして思えば――」
初恋だったのかもしれない。
その言葉は胸に留めておく。
魔理沙が「どうした?」と訊くが「何でも無い」と誤魔化して、チェスの駒を動かす。卓上は今のところ僕の優勢だ。トンッ、と魔理沙が強気の一手を返す。
「しかし以外だよな」
「何がだ?」
「香霖にそんな相手が居たって事だよ。まだ会えるのか?」
「まさか」と首を振る「もう何十年も前の話だ。運が悪ければ墓の中だろうな。それに今となっては顔も名前も覚えていないんだ。町ですれ違ったとしても気付かないと思う」
「忘れたか、そりゃ少し寂しいな」
「大丈夫だ、ちゃんと覚えてる事もある。そのおかげで魔理沙に勝てる」
言ってろ、と魔理沙は僕の挑発を軽く受け流す。その声を片耳で聞きながら、僕が忘れてしまった師匠との思い出について考えた。記憶とは、まことに幽けきものである、と。
教えてもらった遊びやゲームとその必勝法。
散歩した先で見た清澄な景色。
無意味な自慢話にくだらない冗談。
彼女がいつも持ち歩いてた飴玉の味。
そのどれもが少しずつセピア色に染まっていくような感覚で、いずれ風化し、やがて消滅してしまうのだろうと思う。それが生きる上ではごく自然な営みだと分かっていても、やはり物寂しい気分にさせられる。
そういえば、と記憶の中に少しだけ気になる点を見つけた。彼女がいつも持ち歩いてた飴玉、その味をここ最近になって口にした覚えがある。はて、それはいつのことだったろうか。
物思いにふけっていると魔理沙が呼んだ。
「なぁ、次。次は香霖の番だぞ」
「ああ、悪い」と、コトン。
「そういやさ」と魔理沙は店内の奥を指差した。「なんであの部屋の戸は半分だけ開いてるんだ? せっかくストーブを焚いてるのに熱気が逃げちゃうだろ」
魔理沙が指差したのはジェンガの置いてある部屋だ。
「あれは開けたままでいいんだ」と僕。
「へえ、何か理由でもあるのか?」
「部屋に誰かいたら、寒くて可哀想だろ?」
「ん?」と魔理沙が怪訝な顔をする「誰かいるのか」
「いや、誰もいない……はずだが……」
自分でも何か変なことを言っている自覚はあった。
いつからか、あの部屋の戸は半分だけ開けるようにしていた。それにはちゃんと理由があったはずだが、どうしても思い出せない。
「なぁ香霖、言っていることが変だぞ」
「ああ、自分でも良く分からん」
困り顔で答えると、僕の気持ちを汲んだのかそれ以上の追及はしてこなかった。単に目の前のゲームに集中しようとしているだけかも知れない。チェスはもう終盤戦に差し掛かっていて、ここからは集中力に任せた読み深さで勝敗が決まる。そして戦況は五分五分だ。
僕も集中しなければと思う。色々と疑問な点は残っているが、今はそれよりも卓上の六十四マスの方が大事だ。分からない点は後で考えよう。
よしっ、と心の中で呟いて、終盤戦にむけての第一手を繰り出した。
.7
秋口から続くこのジェンガゲームは、もう最終局面に達しようとしていた。
積み上げられたタワーは、作りかけのキャンプファイヤーの骨組みみたいに中身がスカスカで、杖を失った盲目のお爺さんのように今にも倒れそうで、とにかく、細心の注意を払わなければならない程になっていた。どのブロックを引き抜こうとしても、崩れ落ちるイメージが容易に想像できてしまう。
その中でも、今、僕が引き抜こうとしているブロックは比較的マシだと思う。それでも困難であることは変わりないけれど。
タワーの中段ほどの高さにブロックが三つ並んだ手つかずの階層がある。その階層の真ん中のブロックを僕は取ろうとしていた。
終盤のこの場面で、なぜブロックが三つも並んだ階層が未だに残っているかと言うと、その原因は一つ上の階層のブロックにあった。思わずニュートンに文句を言いたくなるような緻密な重力制御で、直下のブロックが抜かれる事を頑なに拒んでいるのだ。そのせいで、僕も対戦相手もこの層のブロックに手を出せずにいた。
そのような高いリスクを持つブロックを抜こうとしているのは至極単純な理由で、他に取れそうな場所が無いからだ。
つまりここは正念場だ。ここを潜り抜ければグッと勝利に近づく。
僕は目当てのブロックを爪の先で慎重に叩いた。
真ん中のブロックは左右が障害物に阻まれているため、引き抜くための取っかかりが無い。だからこうして叩いて、少しずつ押し込み、後ろ側が付き出たところを、掴んで引き抜くのが常套手段だ。
コツ……コツ……、
と僕の人差し指は、メトロノームによる特殊訓練を受けたキツツキのように正確無比な力加減とリズムで、ブロックを押し出そうとする。
少しずつ、少しずつ、時間を削り取るように、ゆっくりと動かす。
コツ……コツ……。
ある程度ブロックを押し出したことを確認すると、小さな深呼吸とともに手を止めた。
後は、付き出されたブロックの後ろ側を掴んで引き抜くだけだ。
しかし油断してはいけない。対象のブロックはここまで残り続けた、云わば歴戦の戦士だ。そう易々と捕らせてはくれないだろう。
再び集中する。手を差し出し、慎重に掴む。
僕はこのジェンガタワーを爆弾だと思う事にした。振動感知式の時限爆弾だ。少しの手の震えも許されない。
掴んだ手に、ゆっくりと力を加える。注意深く、慎重に。
集中とともに鼓動の音が遠くなる、遠くなるにつれて指先に神経が集中する。足の感覚が無くなり、胴体の感覚が消えていく。世界から音が消え失せ、指先だけの存在になる。
何も存在しない世界で、ただブロックを抜き取ることだけに集中する。
取った。
全身の感覚がすーっと戻り、世界が再び動き出す。
タワーを見やる。倒れていない。グラついてもいない。指先にはしっかりとブロックが握られている。
どうやら危ない橋を渡りきったようだ。安心感に胸をなでおろす。
ふぅ、と深呼吸。
ゆっくりと興奮を覚ましていき、落ち着いたところで手の中のブロックをもう一度、ギュっと握りしめた。
後はこのブロックをタワーの最上部に置くだけだ。
ブロックを持ち替えようとしたところで、ふとタワーの隙間に目が行った。それは、今しがた僕がブロックを抜き取ってできた窪みだった。
この小さい隙間をよく抜き取ったものだ、と改めて思う。何気なくその隙間を覗き込むと、目が合った。
正確には、ちゃぶ台の向かい側に座っている少女と、ジェンガのトンネル越しに視線がぶつかった。
えっ
と思う頃にはもう遅かった。驚いた拍子に触れてしまい、タワーが崩れる。けれど、そんなことは気にしなかった。崩れゆく塔の背景に写る少女をただ呆然と見続けていた。
視界はスローで、バラバラになった木片が一つずつ落下していく。
僕はこの少女を知っている。今思い出した。崩れる塔と呼応するかのように、僕の記憶がよみがえてきた。
木片がゆっくりと床上に着地するたびに、乾いた音が鼓膜に響いた。
目の前の少女は、思い出した記憶の中の彼女と瓜二つだ。
その目も、鼻も、口も、顔の輪郭も、そして、トレードマークと言える胸元の『閉じた目』も。
パタリ……、と最後のブロックが倒れる頃には、すっかり思い出していた。
少女は、僕がかつて師匠と呼び親しんだ彼女そのものだった。
しばしのあいだ呆然としていると、彼女は少し困ったような顔をした。
「あらら、その反応は、忘れちゃってるみたい? かな」
「……いや、大丈夫」
僕は――、見知った顔を急に思い出せたことに戸惑いを感じていたが、頭は妙に冴えていた。まるでこの状況に慣れているかのように。
戸惑いはむしろ、先ほどから感じている強烈な既視感の方にあった。なにか大切な事を思い出せずにいるような感覚がする。
「ええと、キミの名前は、古明地こいし、であってるよね」
「あってるよ。貴方の名前は森近霖之助で、ここの店主さん」
「そうだよ」と頷く。「一つ訊きたいんだが、僕はキミと何度か会っていないか? 僕が忘れているだけで」
「あれ? 覚えてるの?」
「ん……その反応はそうか。いや残念ながら覚えていないようだ」
そう、と彼女は少し残念そうにつぶやく。その応答で点と点がつながった気がした。
「ちょっと待って」と僕は言う。「今、状況を整理するから」
彼女の返事も聞かずに考え始める。聞かずとも彼女が頷いてくれる事は何となく分かった。
記憶の整理。
次々と浮かび上がっては消えていく疑問を一つひとつ手にとって頭の中にはめ込んでいく。それは動く絵のジグソーパズルを組み上げていくような感覚で、酷く時間のかかる作業だったが、そのあいだ彼女はずっと待っていてくれたようだ。彼女は暇そうにしながらも散らばったジェンガを立てたり倒したりして時間を潰していた。
僕が向き合うと、彼女も視線を合わせてくれた。
「キミに確認というか、訊きたいことが幾つかあるのだけれど、構わないかな?」
「答え合わせだね。うん、構わないよ」
答え合わせか。確かにこれは、質問と言うより僕の予想の“答え合わせ”と言い換えた方がニュアンス的に近いかもしれない。
「まず、僕にジェンガの遊び方を教えてくれたのは、キミだよね」
「そうだよ」
「そうか……、では、この風変りなジェンガゲームを提案したのは僕だ。それで合ってるかな?」
「あれ? ひょっとして覚えてたり、する?」
「いや、ほとんど覚えてない……と思う。記憶の残るかすかな違和感を想像力で繋ぎあわせただけの、ただの妄想だよ」
それを聞いた彼女は少しだけ驚いた表情をして「すごいね」と言った。「最初に比べれば、なかなかの進歩だよ」
僕にはその“最初”の記憶すらない。けれど、推理の方向性は間違ってないようだ。
「ところで、僕は一体どのような口説き文句でキミをこのゲームに誘ったのだろうか?」
「むー」と顔を膨らませた「それを私に聞いちゃうの?」
「申し訳ないが覚えていないんだ、それとも、口にできないような台詞を僕は言ったのか?」
「しょうがないな」と彼女はポーズを決めた「もう二度とキミを忘れたくないんだ。この紫苑の花言葉のように」
少し吹き出してしまった。「それはさすがに嘘だろう」
「えへへ、バレバレだね。でも、ニュアンスはこんな感じだよ」
「まぁ、何となく分かってた。でもこれで大体のピースは揃ったな」
「いいね、聞かせてよ」
彼女はそう言うと、姿勢を正して聞く姿勢をとった。
そうまじまじ見られると逆に話しづらいのだが、まぁ、それだけ僕の回答に期待しているのだろう。コホンと咳払いをした。
「まず、このジェンガゲームは僕が忘れないようにする為の、ちょっとした試みだったんだね」
「うん」
「元となった原因は、僕がキミの事をすぐに忘れてしまう事あった。多分、今のこの問答も僕が覚えていないだけで、実はもう何回も繰り返しているかも知れない。実際そうだろう?」
「ほぼその通りだね」と彼女は嬉しそうに言った。「ただ、自力でここまでたどり着いたのは今回が初めてなんだ。だから期待している」
「了解」と笑みを返し、話を本題に戻した。「キミは以前から何度かこの香霖堂に遊びに来ていたんだと思う。僕がジェンガを見つけるもっと以前からね。でも僕はそれに気付かなかった。というより、忘れていた。ただ、それは完璧に忘れるわけでは無く、無意識下ではその痕跡が残っていたんだと思う。そしてそれは、違和感やデジャブといった形で顕現化されることになる。実際、今回の僕はこの既視感のおかげでジェンガゲームの目的に気付いた事だしね」
言葉をいったん区切って彼女を見る。目が合うと彼女は頷いた。オーケーのサインらしい。今のところ大きな間違えはないようだ。
「物語が始まるのはここからだ。それは僕がこの部屋でジェンガのタワーを最初に見つけた日の事だ。そこで実際の過去と、僕が覚えている過去が食い違った。実際はこの日、キミが来ていたんだ。けれどその事実はキミの能力の影響によって忘却の彼方へ消えてしまった。そして、後に残ったのはジェンガのタワーを偶然に見つけたという結果だけだった。
もちろん僕は、忘却された時間の中で何があったのか覚えていない。けれど推測は出来る。多分、こんな感じだと思う。
本当はその日、僕は偶然にもジェンガ遊びをしているキミを見つけたんだ。僕は驚いた。それと同時に、ある種の既視感を覚えた。もしかしたら、キミの口添えもあったかもしれない。まぁとにかく、その既視感を切っ掛けにして、僕はキミを何度も忘れているという事実に気付いた訳だ。そして次に僕はこう考えた『どうにかして記憶を維持する方法は無いのだろうか』その方法として目を付けたのが、キミが遊んでいたジェンガだった」
ふぅと小さく息を吐く。
忘れた事とはいえ、自分の行動を代弁するのは妙な感じだ。
「ここまでで質問はあるかい?」
「ううん、大丈夫」
「ここからは想像の色がだいぶ濃くなるけど、構わないよね」
「おっけー」
「それは良かった。で、続きだが、僕はジェンガに少し変わったルールを付けたしてキミと遊ぶことにしたんだ。そのルールの詳細までは分からないけど、一手ごとに数日の待ち時間を設ける事。こんな感じだと思う。何故こんな決まりを付け足したかと言うと、理由はキミに何度も会うためだ。忘れたとしても、ジェンガをしに店に訪れたキミに会えばまた思い出せる。それを繰り返せば記憶が強化されると思ったんだろうね。記憶術の反復法みたいにさ。それがこの風変りなジェンガゲームの目的。平たく言うと、キミを忘れない為の記憶のトレーニングだった。」
どうだい? と最後に付け加えた。
「やるね」彼女は笑顔で言った。「細部までとはいかなくても、話の大筋はピッタリ合ってるよ」
「ほう、それは良かった」
「補足するとね。店主さんが記憶の喪失に気付いたのは、私が教えたからなの。だってね、店主さんは私に会うたびに凄く驚くんだよ。それって実は不思議な事なの。普通なら私の事を忘れちゃうってるから、驚くことすらしない、大人の場合は特にね。ニュートラルな反応が普通。だけど店主さんは違った。それで気になって、私は正体を明かすことにしたんだ」
「そんなことがあったのか」
確かに、ありそうな展開ではある。
「それでね、なんで私を覚えているの? って理由を聞いたんだ。そしたら『子供の頃に大きな恩義があるんだ』って。まぁ納得ね。子供の頃の記憶ならその印象が強ければ記憶に残る事は珍しくないから。その後で店主さんは、記憶を維持する方法はについて私に尋ねたんだよ。それで何でって訊き返したら、『キミを忘れたくないんだ』ってそんな台詞を店主さんが口にしたの。覚えてる?」
「いや」僕は首を横に振った。「覚えていない」
「んー残念。私ね、その台詞に少しときめいちゃってね。それで店主さんにに協力することにしたんだよ」
既に忘れてしまった自分の台詞に『ときめいた』と打ち明けられても、正直、反応に困る。まぁ彼女は嬉しそうなのだから、それでいいのだろう。
「その後のことは、店主さんの話と大体同じ。違った点は私が積極的に協力したってことだね。店主さんは私のアドバイスを参考にして色々と決めたんだよ。ジェンガを利用する事とか、追加したルールに関する事とか。ね、偉いでしょう?」
「ああ、うん。偉いぞ」取りあえず褒めた。「ところで、なんで僕はこんな回りくどい方法をとったのだろうか? 置き手紙でも残して置く方が、よっぽど手っ取り早いと思うけど」
「駄目だったの」彼女は首を振った。
「と、言うと?」
「店主さんは忘れてるけど、実は三種類の作戦を実行してたんだ。ジェンガと置き手紙と写真。この三つね。でも店主さん、手紙と写真はすぐに無くしちゃたみたい」
「ああ」と頷く。「それはすまない」
「気にしない、気にしない」彼女は気軽に言った。「写真と手紙はダメ元でやってみたようなものだから、本命はジェンガだったし」
「本命のジェンガも、どうやら失敗だったみたいだけどね」
ちゃぶ台に散らばったジェンガを一瞥する。結局、僕は自力で彼女を思い出すことは出来なかった。
「んー、何とも言えないなぁ。一応は効果はあったみたいだよ。なにせ、自分が忘却していることに気付いて、この推理を構築できる程になったんだから。このまま続けていたら“もしかしたら”って思えるよ」
「そう言ってくれるのは有りがたいね」と僕は声を落とした。「だけど、それももう終わりのようだ。ジェンガも崩れてしまったしね。キミとの約束は、ジェンガが終るまでだったんだろう?」
「うん」と彼女は小さく頷いた。「残念だけどね、コレで終わり。それとも、もう一回チャレンジしてみる?」
「いや、遠慮しておくよ。これ以上続けてもキミに負担をかけるだけだし、元々は僕の我儘が発端だったからね。ここが引き上げ時だよ」
「そっかぁ。じゃさ、最後に一つだけ教えてほしい事があるの」
そう言うと彼女は僕に向き合った。なにやら重要な事のようだ。僕も彼女に合わせた。
「店主さんは何故こうまでして私の記憶を無くしたくないと思ったの?」
「そうだな」と言葉を選びながら言った。「キミには子供の頃に大きな恩があったんだ。その恩を忘れて、気付かないままに生活をするのはどうしても忍びない気がしてね。それで忘れたくないと思ったんだ」
「むー」と彼女は眉をひそめた。「それはウソ。というより本当の事を言ってない。私分かるんだよ。店主さんは忘れているだろうけど、前にも同じ質問をしたの、そうしたら最後になったら本当の事を教えてくれるって。そう約束してくれた。約束は守るべき」
「えーと……」それは予想外だ。「本当に?」
「うん。本当に」
「僕は覚えてないんだけれど?」
「私は覚えてるよ」
どうやら言い逃れは出来ないようだ。そのちっとも笑ってない笑顔は怖いからやめてほしい。「分かったよ」と言った。「正直に話す」
過去の僕はなんでこんな約束をしてしまったのだろうか。悔しいのは、悔やんでも何も覚えてないと言うことだ。
小さく息を吸って、彼女に向き合った。
「こいしちゃんの事が好きだったんだ。子供の頃の話だけどね。キミに恋をしていた。更に言うと初恋だった。何て言うかさ、それを忘れたくなかったんだよ。分かるだろう? そういう気持ち」
それを聞くと彼女は少しだけ頬を赤らめた。そういう反応をされるとこっちまで気恥ずかしくなるからやめてほしい。
「いいね」と彼女は顔を輝かせた。「いいよ。凄くいい」
「どうも、お気に召したようで……」
「分かるよ、うん、凄い分かる、その気持ち。忘れたくないよね、初恋。んんー甘美な響き。ついでにロマンティック」
よほど衝撃的だったのか彼女は身悶えはじめた。そのままトリップしてしまいそうだ。
まったく、なんの羞恥プレイか。
「おーい」と僕は声を上げた。「正気に戻ってくるんだ」
「ぬぅ?」
「少し落ちついてくれ。聞いてると僕まで気恥ずかしくなるんだよ」
「ん、ゴメンね」と悪びれなく言った。「まさかの告白に舞い上がっちゃった」
「子供の頃の話だがな」と僕は念を押すように言った。
「分かってるよ。それでも嬉しいことは嬉しいの」
彼女はそう言って立ち上がり、部屋の戸の前まで移動した。
「それじゃあ、最後の疑問が解けた事だし、私は帰るね」
「あ、待った」
「なに?」
「気が向いたら、また香霖堂に遊びに来るといい。未来の僕は覚えていないかも知れないけど、歓迎することを約束するよ」
彼女は無邪気な笑みで頷くと、そのまま音もなく消えた。あまりにも自然に消えたため、消えた事に一瞬気付けなかった。
しばらくのあいだ彼女が消えた場所を眺めていたが、窓からの斜光を受けたホコリがきらきらと漂っているだけだった。じきに飽きて視線をちゃぶ台の上に散らばったジェンガに向けた。
今にして思えば、このジェンガも過去の僕が残した隠れたメッセージだった。
メッセージの鍵は記憶の不整合だ。
僕は元々、ジェンガのルールを知らなかった。最初に知ったのは彼女から教わった時だ。しかし僕は彼女に会った記憶を失ってしまう。すると、僕は知らないはずのルールを何故か知っていた事になる。その矛盾点に気付いて欲しかったからこそ、ジェンガをカラクリに組み込んだのだろう。
けれど、あの時の僕はそれに気付けなかった。
僕は無意識のうちに矛盾の辻褄合わせをしてしまっていたようだ。発見したジェンガタワーをヒントにして、偶然にも遊び方を理解できたと勘違いしてしまっていた。
あの時の事を思い出すと、今さらながらおかしい事に気付く。
タワーを見ただけで遊び方を理解するなんて、なかなか難しい注文だ。百歩譲って理解出来たとしても、『片手のみ使用可』なんて限定的なルールを理解するのは、まず無理に決まってる。
その矛盾点に気付いていれば、結果は変わっていたかもしれない。
ま、今さら嘆いても仕方のない事なのだけれど。
ふう、とため息をひとつ吐いた。そのあとで、大きく伸びをした。
今日は妙に疲れた、主に前頭葉が。
思いがけない再開に、風変りなジェンガゲームの推理、そして終いには、あの辱めだ。色々な事が立て続けに起こったそのせいで、未だに戸惑いが抜けきらない感じがする。
取りあえず水を飲もうと思った。こういう時は、水を飲んで気持ちをリセットするのが一番いい。
そう考え、部屋を出たところでふっと気付いた。
はて、僕は何をしようとしていたんだろうか?
前後の記憶があやふやだった。ちょうど夢から覚めたときのように。
えーと、状況は?
店内を見回してみるが、いつもと変わらず店の商品が静かに佇んでいるばかりで、特に変化は見られない。ストーブがさして興味もなさそうに唸っているだけだ。
当てもなく振り返ってみると、部屋の奥、ちゃぶ台の上にジェンガが散らばっているのを見つけた。
それで思い出した。
あーそう言えば、僕はジェンガをしていたんだ。
一つ思い出すと、あとは芋づる式に思い出せた。
ジェンガの遊び方が分かったので、その検証のためにあの部屋で一人遊んでいたのだ。それで一通りの検証をやり終えたので、小休憩として水を飲みに部屋を出たところだったな。
そう思い出すと、それは確かな事実のように思えた。
取りあえず水を飲み、その後で部屋に散らばったジェンガの片づけを始めた。片づけている間、僕は小さな熱を身体の内側に感じていた。その熱はかすかな痛みを胸の奥に残していたが、あいにく、その痛みの原因に心当たりはなかった。
片付けが終ると、カウンターに戻り雑誌を読み始めた。いつもと変わらない風景、いつもと変わらない日常が戻ってくる。
ふと窓を見ると外では雪が降っていた。どうやら初雪のようだ。
道理で今日は冷える訳だ、と一人納得し、ストーブのつまみを中から強へ回した。
雪が止んだら散歩でもしようかと思った。この冷えた空気に当たれば、胸中で燻ぶる熱も少しは薄らいでくれるだろう。
そういえば彼女も散歩が好きだったな、と思いだす。
とくに真っ白な雪のじゅうたんに足跡を残す遊びがお気に入りだったっけな。
はて?
ところで彼女とは一体誰のことだろうか?
窓の外ではしんしんと雪が降り続いていた。
了
ジェンガという物を拾った。
それは、いつものように無縁塚で珍しい物を探し歩いていた時のことだ。
季節は秋で、汗ばんだ肌にひやりと涼しい風が木々の隙間をゆったりと流れていた。
サクッサクッ、と落ち葉を踏む時の乾いた音と共に歩き慣れたコースを散策していると、視界の端にそれを見つけた。
それは一升瓶ほどの大きさの箱で、幻想郷に似つかわしくないカラフルな色合いをしていた。
どうやら外の世界からの漂流物のようだ。
箱の表面にはなにやらリアルな直方体の絵が描かれていて、その直方体の中心、ひときわ目に付く場所に『ジェンガ』という文字がデカデカと書かれていた。
なるほどと思う。これはジェンガと言うらしい。
能力を使わずともすぐに理解できた。
.2
香霖堂の一室、物置きとして使っている部屋で奇妙なものを見つけた。
ちゃぶ台の上にぽつんと置かれた、積み木のタワー。
積み木の一つひとつのピースは親指サイズほどの木製ブロックで、それが三本づつ交差させるようにしてタワー状に積み上げられていた。
はて? と思う。なんでコレがこんな場所にあるのだろうか。
それは僕が一週間ほど前に拾ってきたものだ。名前はジェンガ。珍しい物と思い拾ってみたが、どうにも使い方が分からなかった一品だ。
それはつい先日の事だから良く覚えている。
あの日、僕はジェンガを持ち帰るとさっそく見分を始めたのだが、箱の中に入っていたのは数十本もの木製ブロックで、その使い方がサッパリ分からなかった。
用途が『遊ぶ道具』であるから何か玩具であろう事は分かったが、それ以外の事は何も分からず、いくら熟考しても成果も何もないので、そのうちに興味を失って最終的に未解決のまま店棚に並べられることなった。
そう、本来ならばジェンガは店棚に並べられているはずなのだ。なのに何故かここに置かれている。
誰かイタズラだろうか?
訝しく思うものの、積み上げられたジェンガの姿は妙にしっくりくる感じがした。何かこう、収まりが良いのだ。
ブロックを三本ずつ交差させるようにしてタワー状に積み上げられたジェンガは、本来の、想定されていた形のように思える。
タワーは完全な直方体では無く中段部のブロックが一つ欠けていて、その分の余ったブロックが最上段にちょこんと置かれていた。その不自然さもジェンガを構成する一つの要素に思えるから不思議だ。
見ている内にだんだんと興味がわいてきた。
これを積み上げた誰かさんはジェンガの遊び方を知っているのだろうか。だとすると、それは一体どんな遊び方なのだろうか。このヒントがある今なら分かる気がした。
狭い四畳半の部屋でしばらくの間にらめっこを続けていたが、やがて確信に近いかたちで遊び方を理解することが出来た。
つまり、こうだろうな。
僕はジェンガタワー崩さないように手頃な位置にあるブロックを一つ抜き取り、それを最上段に加えた。
たぶん、コレを積み上げた誰かさんは霊夢か魔理沙だと思う。と言うよりその二人以外にめぼしい人物が思い浮かばない。
とりあえず、今度会ったら二人に訊いてみるとするか。そう考えながら部屋を後にした。
.3
結論から言うと、霊夢も魔理沙もジェンガの事は知らなかったようだ。
二人が香霖堂に来たのはあれから数日後の事で、出し抜けに降りはじめたにわか雨と共に彼女たちはやって来た。どうやら雨宿りに来たらしい。
乾いたタオルを渡し、落ち着いた頃合いをみてジェンガの事を尋ねたところ「知らないわよ」と霊夢が言った。
「そうか、魔理沙は?」
「さぁ知らないね。で、ジェンガってのは何だ?」
「いや、別に大したことじゃないんだが、ジェンガというのは店の商品でね。それが知らぬ間に移動していたみたいなんだ。ちょっと気になってね」
「香霖がボケてただけじゃないのか」
「そんな記憶違いはしない」
「それって、妖精のイタズラじゃない?。ほら、前にも似たようなことがあったみたいだし」
多分そうだろうね、と僕は頷いた。霊夢の言うとおりこの店は妖怪や妖精のイタズラの標的になる事がままあるのだ。
その理由は人里離れた香霖堂の立地にあるのではないかと、僕は睨んでいる。ひと気が少ないから妖の類が跋扈するのだし、おまけに魔法の森にもほど近い。
イタズラの原因が彼らだとすると僕にできる事はだいぶ少ない。下手に反応を示しても相手を楽しませるだけだ。この場合は毅然とした態度で接するのが一番いい。無反応でいれば、じきに飽きてイタズラも自然と止まる。
その事を最近になって学んだ。
しかし、いくら学んでもどうにもならない事も、時にはある。彼女たちの事だ。
「ところで霊夢。君は先ほどから何を口にしているのかな?」
「この饅頭のこと? これはさっき戸棚の奥で見つけたの。なかなか良いチョイスだと思うわ。さり気ない甘さも高評価ね」
「ああ、うん。質問が悪かった。それは僕が来客用にとっておいたんだ。つまりお客様専用の饅頭。そして君たちは客じゃあ無い。オーケー?」
「成程、客ならいいのか」と魔理沙が割り込んだ。「じゃ、私は今から客だな。銭はないけど物々交換ならできるからな。ほら見てくれ新鮮なキノコだ。私は客としてこのキノコと饅頭の取引を要求する。さもなければ饅頭を頂く。オーケー?」
そんなのは客じゃない、ただの押し売り強盗だ。思っても口には出さない。
「僕の分も残しておいてくれよ」とだけ言っておく。まだ味見もしていないのだ。
こうなると僕にできることは早く雨が止むように祈るくらいだ。雨宿りに来たのだから、きっと雨が止めば早々に帰ってくれるはずだ。
窓の外を見守っていると、そんな僕の気持ちを察したのか霊夢が「大丈夫よ」と言った。「雨はすぐに上がるから」
実際、それから程なくして雨は上がった。饅頭もほとんど無事なようだ。店を出る二人を見送りながら二つの意味で嵐は去ったのだな、と何となく思った。
それから、ふと思い立ってジェンガが置いてある部屋の様子を確認してみた。すると、また一つブロックがタワーから抜き取られ、それが最上部に置かれていた。
どうやら“また”のようだ。
最初の一回と、次に僕が抜き取った二回目、そして今回の三回目。抜き取られた計三つのブロックはタワーの高さをちょうど一段分だけ増やしていた。
なるほど、と思う。ブロックを抜いていくたびにタワーが高く、つまり難易度が上がっていくわけか。
順番から察するに次は僕の番のようだ。
少し迷ったが、僕もジェンガ遊びに付き合う事にした。タワーが倒れないよう慎重にブロックを抜き取り、それを最上部にちょこんと置いた。
.4
それからというもの、この部屋のジェンガは不定期な間隔で一ブロックずつ積み上げられるようになった。それは三日後だったり一週間後だっり、ペースはまちまちだった。
僕も誰かさんのジェンガ遊びに付き合うようにした。
誰かさんはゲームの順番をしっかり意識しているようで、僕の番が終わるまで手を進める事は一切しなかった。
その律儀さが何だか妙で可笑しく思えた。
実際のはなし、僕はこのジェンガを早々に片付けて、以前のように店棚に並べても何の問題も無かった。
だけど、そうしない理由もちゃんとあった。僕はその誰かさんと話をしてみたいと思っていたのだ。
ジェンガのルールを知っていた彼は、きっと外の道具に精通しているのかもしれない。話せば見聞を広める良い機会になりそうだ。そう考えると、ジェンガを終わらせて関係を断ち切ってしまうのは少し勿体無い気がした。
我ながら女々しいと思うが、代案もなかったのでジェンガ遊びに付き合うことにしたわけだ。
それに、何となくだけど僕はジェンガの人に親しみを感じていた。自分でも妙な事と思うが、誰かさんが現れるのを心のどこかで待ちわびていたのだ。
それは、先日のとある一件があったからかもしれない。あの一件は誰かさんに対する印象を改めるひとつの要因となった。
それは平凡な一日の平凡な昼下がりのことだった。
その日も例によって客足はスカスカで、窓の隙間から聞こえてくる木枯らしの風声とストーブの控えめな駆動音だけが店内を賑わせていた。
いつものように店のカウンターで雑誌を読みながら暇な時間を満喫していると、不意に、なにか気配を感じた。その気配はジェンガの置いてある部屋からしていた。
誰か居るのかもしれない。
気になって中を覗いてみる。――が、部屋には誰もいなかった。そのかわりに置いた覚えのない湯呑みをちゃぶ台の上に見つけた。
湯呑みにはお茶が残っていて、しかもまだ暖かかった。
ジェンガの方を見やると、タワーのブロックを一手だけ進めた形跡があったので、どうやら先ほどまでここに居たようだ。
なかなか図々しいヤツだな、と湯呑みを眺めながら思う。姿は見せずともお茶だけはしっかり頂いていくようだ。そんなことを考えていると、ちょっとした好奇心が僕をくすぐった。
お茶を飲むのなら、そのお茶請けとして饅頭でも一緒に用意しておいたらどんな反応を見せてくれるのだろうか。
思いつくと、僕はさっそく饅頭を持ってきてジェンガの隣に置いた。ちゃぶ台の上の饅頭はなんだかお供え物みたいに思えた。
翌日になって部屋を確認すると意外なことに饅頭はすでに無くなっていた。どうやら昨日のうちに現れたようだ。さらに意外だったのは饅頭が置いてあった場所に飴玉が数個ほど転がっていたことだ。
これには僕も口元を緩めた。
この飴玉は饅頭のお礼のつもりなのだろうか。一つ口に含んでみると、甘くほんのりと懐かしい味がした。
なんと言うか、いい意味で期待を裏切られた気分だ。
これを切っ掛けに、誰かさんの印象が正体不明の隣人から人畜無害な遊び相手くらいには格上げされた。少なくとも敵意や悪意は感じない。
以来、気が向いた時にはお茶請けを用意するのが習慣になった。お茶請けを用意すると、時々お礼の品が置かれていた。
匿名さんの、その風変わりな点がやっぱり妙で可笑しく思えた。
.5
それから数週間が過ぎると秋もしだいに深まっていき、明け方の吐息の白さに冬の気配を感じるようになった。木々の葉が少なくなっていき、森の動物たちはすっかり冬眠の準備しはじめていた。
そんな中、僕たちのジェンガは相変わらずに続いていた。
交互にブロックを抜き取り、それを積み上げていく。そのせいで最初は堅牢で頼りがいのあったジェンガタワーも、今では骨粗しょう症の大腿骨みたいにヨボヨボになっていた。実に頼りない。
その頃になると、僕はジェンガのコツや楽しさというものを理解できるようになっていた。
このジェンガというゲームは単純そうに見えて実は奥が深い。その理由の一つは、ブロックのそれぞれの大きさが微妙に異なっている点であろうか。
最初のうちは気付かなかったが、そのせいで見た目に反してタワーの重心を見定めるのが難しい。だから実際にタワーに触れてみて、重心の位置を感じとり、取るべきブロックを慎重に見極めなくてはならない。これら全てを片手のみで切り抜けるのだ。中々にスリルがある。
なんだかんだいって僕はこのジェンガゲームを真剣に楽しんでいた。こうやってちゃぶ台の前に座っていると、年甲斐もなく、少年だったころの記憶を思い出させた。
そうは言っても、やっぱり当初の目的を忘れてはならない。僕はジェンガの人と有意義な会話をするためにゲームに付き合っているのだ。
けれど、この数週間で僕が手にした彼に関する情報は驚くほど少なかった。
正体不明の誰かさんは、依然として正体不明のままだ。
唯一、分かったことと言えば誰かさんは若い女性であると言う事だけ、それも確証がある訳ではなく、ただ偶然に聞こえたくしゃみの声からそのように判断しただけだ。
彼女の声を耳にしたのはつい先日の事だった。
その日はいつにも増して肌寒い秋風が吹いていて、僕は店のストーブの火を絶やさなかった。店内は暖かかったが、戸で仕切られているジェンガの部屋まではその暖気が届かなかったようだ。だから、彼女は思わず声を漏らしてしまったのだと思う。
くしゅん、と。
それは確かに女の子の声をしていた。どこか記憶に懐かしい声質だった。
それを聞きつけた僕は軽いノックと共に部屋の戸を開けてみたが、やはり中には誰もいなかった。部屋の冷えた空気が店内に入り込んてくるだけだ。
取りあえず、僕は部屋の戸を半分だけ空けておくことにした。気休め程度にしかならないだろうが、何もしないよりはマシに思えた。
そんな訳で、この日より誰かさんに対する三人称が“彼”から“彼女”になる事となった。
ま、それだけと言えば、それまでの事なんだけど。
.6
その日は魔理沙が来ていた。
窓の隙間から聞こえてくる木枯らしの風声とストーブの控えめな駆動音の合間に、チェスの駒をはじく音が小さく割り込んだ。
「チェックメイト、どうだ?」
「む? これ、私の負けか?」
「ああ、良く見てみろ、次のターンで魔理沙のキングは逃げ場を失うぞ」
ぬぐぐ、と負けを悟った魔理沙は机に突っ伏した。
時々だが、魔理沙は僕に勝負を挑んでくる。
その勝負は彼女たちがよくやっているような幕勝負ではなくチェスやオセロ、トランプといったごくありふれた内容で、どうやら弾幕をやらない僕に合わせてくれているみたいだった。
それは彼女にとっては勝算があっての事なのだろうが、あいにく相手が悪かった。僕はこの手のゲームが得意だ。
勝利の余韻に浸っていると、魔理沙が机に突っ伏した姿勢のまま顔をこちらに向けた。
「なぁ香霖」
「ん?」
「なんでそんな強いんだ?」
「まぁチェスは割と好みだからね、自分でも棋譜をだな」
「いや、そうじゃないんだ」
そう言うと魔理沙は上体を起こし、手に取ったキングの駒を僕に差し向けた。
「チェスも強いけど、それに限らず何でも強いだろ」
「そうか?」
「そうだ。知力勝負のチェッカーやドミノは分かるとしても、崩し将棋やビー玉なんかも強いからな。だから不思議に思ってね。何か秘訣でもあるのか」
魔理沙はキングを卓上に戻し、駒を並べ始めた。僕もそれに倣う。
強い秘訣を問われても、僕は昔からこの手の遊びは得意だった気がする。それはいつ頃からだったろうか。記憶を辿っていくと、ある一つの事を思い出した。
「ああ、そういえば僕には師匠がいたんだ」
「師匠? 私の親父のこと?」
「いや、もっと昔――僕がまだガキの頃の話だ。だから師匠と言っても、それは子供がよくやるようなごっこ遊びの稚拙な関係だけどね。その人に鍛えられた」
「へぇ、で、その師匠とやらは強かったのか」
「ああ、遊びの達人でね。何をやらせても強かった」
「なるほどな」と魔理沙が頷くのと同じタイミングで、チェスの駒を並び終えた。
「次は私の先番でいいよな」と魔理沙。僕は頷いた。
「なぁ、香霖ってどんな幼少期を過ごしたんだ?」
ニ試合目がはじまって少し経った頃に魔理沙が訊いた。
「急に、どうした?」
「好奇心だよ、香霖のそういう話を聞いたこと無かったからな」
「別段、話す事もないしな」
「そう言われると、すげー気になるんだが?」
「いい思い出が少ないんだよ。ほら、僕はハーフの人妖。それだけで色々と苦労してんだ」
「でも、その師匠とやらを思い出している時は、いい面してたぞ」
魔理沙はチェスの手を止めて、ニヤニヤとこちらを見ている。この様子だと引いてくれる気は無さそうだ。諦めて「分かったよ」と手のひらを見せた。
「子供のころは身寄りも住家も無かったから、人里で養い親を探しながら生活していたんだ。『戦で両親を失った哀れな身無し子』って設定でね」
「ほう、ヘビーだな」
「仕方なかったんだ。妖怪として生きていければそれが一番なんだろうけど、あいにく僕は半端者でね、そんな生命力は持ち合せていなかった」
コトン、とチェス駒を進めながら僕は続けた。
「勘違いされがちだけど、僕は寿命が長いだけであって成長が遅い訳では無いからね、少年期はやっぱり外見も中身もガキンチョだった。だからそれ以外の生き方が思いつかなかった。ただ、外見が人間と変わらなかったのは運が良かったね。おかげで、人間の生活に紛れ込めた」
当時の話をアレコレと一通り喋ってから、まぁこんな感じ、と最後に付け足した。
魔理沙はというと、マジマジと僕を見つめた後に「苦労してんだな」と一言。それから駒を一つ動かした。コトン。
「じゃあさ、師匠さんとの出会いはどうだったんだ?」
「それがな……」と少し言い淀む「あまり覚えていないんだ」
「そうなのか?」
「存在感の薄い人だったからね。気がついたらそこに居て、いつの間にか消えている。そんな人だった」
今にして思うと、本当に不思議な人だったなと思う。当時、嫌われ者だった僕に手を差し伸べてくれたのは、後にも先にも師匠だけだった気がする。
「その当時、僕の生活はけっこう安定してたんだ。運よく親切な老夫婦が僕を拾ってくれたからね。でも、友達を上手くつくることが出来なかった。多分、本能的に僕が妖怪だって事を悟ってたんだろうね。子供は特にそういうのに敏感だから。嫌われ者はいつも孤独だった。そんな時、一人だけ僕と遊んでくれる人がいたんだ――」
「そこで師匠の登場だな」と魔理沙が割り込む、「そうだ」と僕。
コトン。
「師匠は、なんて言うか掴みどころのない人だったね。散歩が好きでさ、つい目を離すとすぐにどっか行っちゃうんだ。僕はそんな背中をいつも追いかけてた気がする。刷り込み済みのアヒルの子みたいにね」
「ずいぶんと懇意にしてたんだな」
「そりゃそうさ、僕にしてみればはじめての友達で、はじめての頼れる存在だったんだ。憧れの対象だったし、今にして思えば――」
初恋だったのかもしれない。
その言葉は胸に留めておく。
魔理沙が「どうした?」と訊くが「何でも無い」と誤魔化して、チェスの駒を動かす。卓上は今のところ僕の優勢だ。トンッ、と魔理沙が強気の一手を返す。
「しかし以外だよな」
「何がだ?」
「香霖にそんな相手が居たって事だよ。まだ会えるのか?」
「まさか」と首を振る「もう何十年も前の話だ。運が悪ければ墓の中だろうな。それに今となっては顔も名前も覚えていないんだ。町ですれ違ったとしても気付かないと思う」
「忘れたか、そりゃ少し寂しいな」
「大丈夫だ、ちゃんと覚えてる事もある。そのおかげで魔理沙に勝てる」
言ってろ、と魔理沙は僕の挑発を軽く受け流す。その声を片耳で聞きながら、僕が忘れてしまった師匠との思い出について考えた。記憶とは、まことに幽けきものである、と。
教えてもらった遊びやゲームとその必勝法。
散歩した先で見た清澄な景色。
無意味な自慢話にくだらない冗談。
彼女がいつも持ち歩いてた飴玉の味。
そのどれもが少しずつセピア色に染まっていくような感覚で、いずれ風化し、やがて消滅してしまうのだろうと思う。それが生きる上ではごく自然な営みだと分かっていても、やはり物寂しい気分にさせられる。
そういえば、と記憶の中に少しだけ気になる点を見つけた。彼女がいつも持ち歩いてた飴玉、その味をここ最近になって口にした覚えがある。はて、それはいつのことだったろうか。
物思いにふけっていると魔理沙が呼んだ。
「なぁ、次。次は香霖の番だぞ」
「ああ、悪い」と、コトン。
「そういやさ」と魔理沙は店内の奥を指差した。「なんであの部屋の戸は半分だけ開いてるんだ? せっかくストーブを焚いてるのに熱気が逃げちゃうだろ」
魔理沙が指差したのはジェンガの置いてある部屋だ。
「あれは開けたままでいいんだ」と僕。
「へえ、何か理由でもあるのか?」
「部屋に誰かいたら、寒くて可哀想だろ?」
「ん?」と魔理沙が怪訝な顔をする「誰かいるのか」
「いや、誰もいない……はずだが……」
自分でも何か変なことを言っている自覚はあった。
いつからか、あの部屋の戸は半分だけ開けるようにしていた。それにはちゃんと理由があったはずだが、どうしても思い出せない。
「なぁ香霖、言っていることが変だぞ」
「ああ、自分でも良く分からん」
困り顔で答えると、僕の気持ちを汲んだのかそれ以上の追及はしてこなかった。単に目の前のゲームに集中しようとしているだけかも知れない。チェスはもう終盤戦に差し掛かっていて、ここからは集中力に任せた読み深さで勝敗が決まる。そして戦況は五分五分だ。
僕も集中しなければと思う。色々と疑問な点は残っているが、今はそれよりも卓上の六十四マスの方が大事だ。分からない点は後で考えよう。
よしっ、と心の中で呟いて、終盤戦にむけての第一手を繰り出した。
.7
秋口から続くこのジェンガゲームは、もう最終局面に達しようとしていた。
積み上げられたタワーは、作りかけのキャンプファイヤーの骨組みみたいに中身がスカスカで、杖を失った盲目のお爺さんのように今にも倒れそうで、とにかく、細心の注意を払わなければならない程になっていた。どのブロックを引き抜こうとしても、崩れ落ちるイメージが容易に想像できてしまう。
その中でも、今、僕が引き抜こうとしているブロックは比較的マシだと思う。それでも困難であることは変わりないけれど。
タワーの中段ほどの高さにブロックが三つ並んだ手つかずの階層がある。その階層の真ん中のブロックを僕は取ろうとしていた。
終盤のこの場面で、なぜブロックが三つも並んだ階層が未だに残っているかと言うと、その原因は一つ上の階層のブロックにあった。思わずニュートンに文句を言いたくなるような緻密な重力制御で、直下のブロックが抜かれる事を頑なに拒んでいるのだ。そのせいで、僕も対戦相手もこの層のブロックに手を出せずにいた。
そのような高いリスクを持つブロックを抜こうとしているのは至極単純な理由で、他に取れそうな場所が無いからだ。
つまりここは正念場だ。ここを潜り抜ければグッと勝利に近づく。
僕は目当てのブロックを爪の先で慎重に叩いた。
真ん中のブロックは左右が障害物に阻まれているため、引き抜くための取っかかりが無い。だからこうして叩いて、少しずつ押し込み、後ろ側が付き出たところを、掴んで引き抜くのが常套手段だ。
コツ……コツ……、
と僕の人差し指は、メトロノームによる特殊訓練を受けたキツツキのように正確無比な力加減とリズムで、ブロックを押し出そうとする。
少しずつ、少しずつ、時間を削り取るように、ゆっくりと動かす。
コツ……コツ……。
ある程度ブロックを押し出したことを確認すると、小さな深呼吸とともに手を止めた。
後は、付き出されたブロックの後ろ側を掴んで引き抜くだけだ。
しかし油断してはいけない。対象のブロックはここまで残り続けた、云わば歴戦の戦士だ。そう易々と捕らせてはくれないだろう。
再び集中する。手を差し出し、慎重に掴む。
僕はこのジェンガタワーを爆弾だと思う事にした。振動感知式の時限爆弾だ。少しの手の震えも許されない。
掴んだ手に、ゆっくりと力を加える。注意深く、慎重に。
集中とともに鼓動の音が遠くなる、遠くなるにつれて指先に神経が集中する。足の感覚が無くなり、胴体の感覚が消えていく。世界から音が消え失せ、指先だけの存在になる。
何も存在しない世界で、ただブロックを抜き取ることだけに集中する。
取った。
全身の感覚がすーっと戻り、世界が再び動き出す。
タワーを見やる。倒れていない。グラついてもいない。指先にはしっかりとブロックが握られている。
どうやら危ない橋を渡りきったようだ。安心感に胸をなでおろす。
ふぅ、と深呼吸。
ゆっくりと興奮を覚ましていき、落ち着いたところで手の中のブロックをもう一度、ギュっと握りしめた。
後はこのブロックをタワーの最上部に置くだけだ。
ブロックを持ち替えようとしたところで、ふとタワーの隙間に目が行った。それは、今しがた僕がブロックを抜き取ってできた窪みだった。
この小さい隙間をよく抜き取ったものだ、と改めて思う。何気なくその隙間を覗き込むと、目が合った。
正確には、ちゃぶ台の向かい側に座っている少女と、ジェンガのトンネル越しに視線がぶつかった。
えっ
と思う頃にはもう遅かった。驚いた拍子に触れてしまい、タワーが崩れる。けれど、そんなことは気にしなかった。崩れゆく塔の背景に写る少女をただ呆然と見続けていた。
視界はスローで、バラバラになった木片が一つずつ落下していく。
僕はこの少女を知っている。今思い出した。崩れる塔と呼応するかのように、僕の記憶がよみがえてきた。
木片がゆっくりと床上に着地するたびに、乾いた音が鼓膜に響いた。
目の前の少女は、思い出した記憶の中の彼女と瓜二つだ。
その目も、鼻も、口も、顔の輪郭も、そして、トレードマークと言える胸元の『閉じた目』も。
パタリ……、と最後のブロックが倒れる頃には、すっかり思い出していた。
少女は、僕がかつて師匠と呼び親しんだ彼女そのものだった。
しばしのあいだ呆然としていると、彼女は少し困ったような顔をした。
「あらら、その反応は、忘れちゃってるみたい? かな」
「……いや、大丈夫」
僕は――、見知った顔を急に思い出せたことに戸惑いを感じていたが、頭は妙に冴えていた。まるでこの状況に慣れているかのように。
戸惑いはむしろ、先ほどから感じている強烈な既視感の方にあった。なにか大切な事を思い出せずにいるような感覚がする。
「ええと、キミの名前は、古明地こいし、であってるよね」
「あってるよ。貴方の名前は森近霖之助で、ここの店主さん」
「そうだよ」と頷く。「一つ訊きたいんだが、僕はキミと何度か会っていないか? 僕が忘れているだけで」
「あれ? 覚えてるの?」
「ん……その反応はそうか。いや残念ながら覚えていないようだ」
そう、と彼女は少し残念そうにつぶやく。その応答で点と点がつながった気がした。
「ちょっと待って」と僕は言う。「今、状況を整理するから」
彼女の返事も聞かずに考え始める。聞かずとも彼女が頷いてくれる事は何となく分かった。
記憶の整理。
次々と浮かび上がっては消えていく疑問を一つひとつ手にとって頭の中にはめ込んでいく。それは動く絵のジグソーパズルを組み上げていくような感覚で、酷く時間のかかる作業だったが、そのあいだ彼女はずっと待っていてくれたようだ。彼女は暇そうにしながらも散らばったジェンガを立てたり倒したりして時間を潰していた。
僕が向き合うと、彼女も視線を合わせてくれた。
「キミに確認というか、訊きたいことが幾つかあるのだけれど、構わないかな?」
「答え合わせだね。うん、構わないよ」
答え合わせか。確かにこれは、質問と言うより僕の予想の“答え合わせ”と言い換えた方がニュアンス的に近いかもしれない。
「まず、僕にジェンガの遊び方を教えてくれたのは、キミだよね」
「そうだよ」
「そうか……、では、この風変りなジェンガゲームを提案したのは僕だ。それで合ってるかな?」
「あれ? ひょっとして覚えてたり、する?」
「いや、ほとんど覚えてない……と思う。記憶の残るかすかな違和感を想像力で繋ぎあわせただけの、ただの妄想だよ」
それを聞いた彼女は少しだけ驚いた表情をして「すごいね」と言った。「最初に比べれば、なかなかの進歩だよ」
僕にはその“最初”の記憶すらない。けれど、推理の方向性は間違ってないようだ。
「ところで、僕は一体どのような口説き文句でキミをこのゲームに誘ったのだろうか?」
「むー」と顔を膨らませた「それを私に聞いちゃうの?」
「申し訳ないが覚えていないんだ、それとも、口にできないような台詞を僕は言ったのか?」
「しょうがないな」と彼女はポーズを決めた「もう二度とキミを忘れたくないんだ。この紫苑の花言葉のように」
少し吹き出してしまった。「それはさすがに嘘だろう」
「えへへ、バレバレだね。でも、ニュアンスはこんな感じだよ」
「まぁ、何となく分かってた。でもこれで大体のピースは揃ったな」
「いいね、聞かせてよ」
彼女はそう言うと、姿勢を正して聞く姿勢をとった。
そうまじまじ見られると逆に話しづらいのだが、まぁ、それだけ僕の回答に期待しているのだろう。コホンと咳払いをした。
「まず、このジェンガゲームは僕が忘れないようにする為の、ちょっとした試みだったんだね」
「うん」
「元となった原因は、僕がキミの事をすぐに忘れてしまう事あった。多分、今のこの問答も僕が覚えていないだけで、実はもう何回も繰り返しているかも知れない。実際そうだろう?」
「ほぼその通りだね」と彼女は嬉しそうに言った。「ただ、自力でここまでたどり着いたのは今回が初めてなんだ。だから期待している」
「了解」と笑みを返し、話を本題に戻した。「キミは以前から何度かこの香霖堂に遊びに来ていたんだと思う。僕がジェンガを見つけるもっと以前からね。でも僕はそれに気付かなかった。というより、忘れていた。ただ、それは完璧に忘れるわけでは無く、無意識下ではその痕跡が残っていたんだと思う。そしてそれは、違和感やデジャブといった形で顕現化されることになる。実際、今回の僕はこの既視感のおかげでジェンガゲームの目的に気付いた事だしね」
言葉をいったん区切って彼女を見る。目が合うと彼女は頷いた。オーケーのサインらしい。今のところ大きな間違えはないようだ。
「物語が始まるのはここからだ。それは僕がこの部屋でジェンガのタワーを最初に見つけた日の事だ。そこで実際の過去と、僕が覚えている過去が食い違った。実際はこの日、キミが来ていたんだ。けれどその事実はキミの能力の影響によって忘却の彼方へ消えてしまった。そして、後に残ったのはジェンガのタワーを偶然に見つけたという結果だけだった。
もちろん僕は、忘却された時間の中で何があったのか覚えていない。けれど推測は出来る。多分、こんな感じだと思う。
本当はその日、僕は偶然にもジェンガ遊びをしているキミを見つけたんだ。僕は驚いた。それと同時に、ある種の既視感を覚えた。もしかしたら、キミの口添えもあったかもしれない。まぁとにかく、その既視感を切っ掛けにして、僕はキミを何度も忘れているという事実に気付いた訳だ。そして次に僕はこう考えた『どうにかして記憶を維持する方法は無いのだろうか』その方法として目を付けたのが、キミが遊んでいたジェンガだった」
ふぅと小さく息を吐く。
忘れた事とはいえ、自分の行動を代弁するのは妙な感じだ。
「ここまでで質問はあるかい?」
「ううん、大丈夫」
「ここからは想像の色がだいぶ濃くなるけど、構わないよね」
「おっけー」
「それは良かった。で、続きだが、僕はジェンガに少し変わったルールを付けたしてキミと遊ぶことにしたんだ。そのルールの詳細までは分からないけど、一手ごとに数日の待ち時間を設ける事。こんな感じだと思う。何故こんな決まりを付け足したかと言うと、理由はキミに何度も会うためだ。忘れたとしても、ジェンガをしに店に訪れたキミに会えばまた思い出せる。それを繰り返せば記憶が強化されると思ったんだろうね。記憶術の反復法みたいにさ。それがこの風変りなジェンガゲームの目的。平たく言うと、キミを忘れない為の記憶のトレーニングだった。」
どうだい? と最後に付け加えた。
「やるね」彼女は笑顔で言った。「細部までとはいかなくても、話の大筋はピッタリ合ってるよ」
「ほう、それは良かった」
「補足するとね。店主さんが記憶の喪失に気付いたのは、私が教えたからなの。だってね、店主さんは私に会うたびに凄く驚くんだよ。それって実は不思議な事なの。普通なら私の事を忘れちゃうってるから、驚くことすらしない、大人の場合は特にね。ニュートラルな反応が普通。だけど店主さんは違った。それで気になって、私は正体を明かすことにしたんだ」
「そんなことがあったのか」
確かに、ありそうな展開ではある。
「それでね、なんで私を覚えているの? って理由を聞いたんだ。そしたら『子供の頃に大きな恩義があるんだ』って。まぁ納得ね。子供の頃の記憶ならその印象が強ければ記憶に残る事は珍しくないから。その後で店主さんは、記憶を維持する方法はについて私に尋ねたんだよ。それで何でって訊き返したら、『キミを忘れたくないんだ』ってそんな台詞を店主さんが口にしたの。覚えてる?」
「いや」僕は首を横に振った。「覚えていない」
「んー残念。私ね、その台詞に少しときめいちゃってね。それで店主さんにに協力することにしたんだよ」
既に忘れてしまった自分の台詞に『ときめいた』と打ち明けられても、正直、反応に困る。まぁ彼女は嬉しそうなのだから、それでいいのだろう。
「その後のことは、店主さんの話と大体同じ。違った点は私が積極的に協力したってことだね。店主さんは私のアドバイスを参考にして色々と決めたんだよ。ジェンガを利用する事とか、追加したルールに関する事とか。ね、偉いでしょう?」
「ああ、うん。偉いぞ」取りあえず褒めた。「ところで、なんで僕はこんな回りくどい方法をとったのだろうか? 置き手紙でも残して置く方が、よっぽど手っ取り早いと思うけど」
「駄目だったの」彼女は首を振った。
「と、言うと?」
「店主さんは忘れてるけど、実は三種類の作戦を実行してたんだ。ジェンガと置き手紙と写真。この三つね。でも店主さん、手紙と写真はすぐに無くしちゃたみたい」
「ああ」と頷く。「それはすまない」
「気にしない、気にしない」彼女は気軽に言った。「写真と手紙はダメ元でやってみたようなものだから、本命はジェンガだったし」
「本命のジェンガも、どうやら失敗だったみたいだけどね」
ちゃぶ台に散らばったジェンガを一瞥する。結局、僕は自力で彼女を思い出すことは出来なかった。
「んー、何とも言えないなぁ。一応は効果はあったみたいだよ。なにせ、自分が忘却していることに気付いて、この推理を構築できる程になったんだから。このまま続けていたら“もしかしたら”って思えるよ」
「そう言ってくれるのは有りがたいね」と僕は声を落とした。「だけど、それももう終わりのようだ。ジェンガも崩れてしまったしね。キミとの約束は、ジェンガが終るまでだったんだろう?」
「うん」と彼女は小さく頷いた。「残念だけどね、コレで終わり。それとも、もう一回チャレンジしてみる?」
「いや、遠慮しておくよ。これ以上続けてもキミに負担をかけるだけだし、元々は僕の我儘が発端だったからね。ここが引き上げ時だよ」
「そっかぁ。じゃさ、最後に一つだけ教えてほしい事があるの」
そう言うと彼女は僕に向き合った。なにやら重要な事のようだ。僕も彼女に合わせた。
「店主さんは何故こうまでして私の記憶を無くしたくないと思ったの?」
「そうだな」と言葉を選びながら言った。「キミには子供の頃に大きな恩があったんだ。その恩を忘れて、気付かないままに生活をするのはどうしても忍びない気がしてね。それで忘れたくないと思ったんだ」
「むー」と彼女は眉をひそめた。「それはウソ。というより本当の事を言ってない。私分かるんだよ。店主さんは忘れているだろうけど、前にも同じ質問をしたの、そうしたら最後になったら本当の事を教えてくれるって。そう約束してくれた。約束は守るべき」
「えーと……」それは予想外だ。「本当に?」
「うん。本当に」
「僕は覚えてないんだけれど?」
「私は覚えてるよ」
どうやら言い逃れは出来ないようだ。そのちっとも笑ってない笑顔は怖いからやめてほしい。「分かったよ」と言った。「正直に話す」
過去の僕はなんでこんな約束をしてしまったのだろうか。悔しいのは、悔やんでも何も覚えてないと言うことだ。
小さく息を吸って、彼女に向き合った。
「こいしちゃんの事が好きだったんだ。子供の頃の話だけどね。キミに恋をしていた。更に言うと初恋だった。何て言うかさ、それを忘れたくなかったんだよ。分かるだろう? そういう気持ち」
それを聞くと彼女は少しだけ頬を赤らめた。そういう反応をされるとこっちまで気恥ずかしくなるからやめてほしい。
「いいね」と彼女は顔を輝かせた。「いいよ。凄くいい」
「どうも、お気に召したようで……」
「分かるよ、うん、凄い分かる、その気持ち。忘れたくないよね、初恋。んんー甘美な響き。ついでにロマンティック」
よほど衝撃的だったのか彼女は身悶えはじめた。そのままトリップしてしまいそうだ。
まったく、なんの羞恥プレイか。
「おーい」と僕は声を上げた。「正気に戻ってくるんだ」
「ぬぅ?」
「少し落ちついてくれ。聞いてると僕まで気恥ずかしくなるんだよ」
「ん、ゴメンね」と悪びれなく言った。「まさかの告白に舞い上がっちゃった」
「子供の頃の話だがな」と僕は念を押すように言った。
「分かってるよ。それでも嬉しいことは嬉しいの」
彼女はそう言って立ち上がり、部屋の戸の前まで移動した。
「それじゃあ、最後の疑問が解けた事だし、私は帰るね」
「あ、待った」
「なに?」
「気が向いたら、また香霖堂に遊びに来るといい。未来の僕は覚えていないかも知れないけど、歓迎することを約束するよ」
彼女は無邪気な笑みで頷くと、そのまま音もなく消えた。あまりにも自然に消えたため、消えた事に一瞬気付けなかった。
しばらくのあいだ彼女が消えた場所を眺めていたが、窓からの斜光を受けたホコリがきらきらと漂っているだけだった。じきに飽きて視線をちゃぶ台の上に散らばったジェンガに向けた。
今にして思えば、このジェンガも過去の僕が残した隠れたメッセージだった。
メッセージの鍵は記憶の不整合だ。
僕は元々、ジェンガのルールを知らなかった。最初に知ったのは彼女から教わった時だ。しかし僕は彼女に会った記憶を失ってしまう。すると、僕は知らないはずのルールを何故か知っていた事になる。その矛盾点に気付いて欲しかったからこそ、ジェンガをカラクリに組み込んだのだろう。
けれど、あの時の僕はそれに気付けなかった。
僕は無意識のうちに矛盾の辻褄合わせをしてしまっていたようだ。発見したジェンガタワーをヒントにして、偶然にも遊び方を理解できたと勘違いしてしまっていた。
あの時の事を思い出すと、今さらながらおかしい事に気付く。
タワーを見ただけで遊び方を理解するなんて、なかなか難しい注文だ。百歩譲って理解出来たとしても、『片手のみ使用可』なんて限定的なルールを理解するのは、まず無理に決まってる。
その矛盾点に気付いていれば、結果は変わっていたかもしれない。
ま、今さら嘆いても仕方のない事なのだけれど。
ふう、とため息をひとつ吐いた。そのあとで、大きく伸びをした。
今日は妙に疲れた、主に前頭葉が。
思いがけない再開に、風変りなジェンガゲームの推理、そして終いには、あの辱めだ。色々な事が立て続けに起こったそのせいで、未だに戸惑いが抜けきらない感じがする。
取りあえず水を飲もうと思った。こういう時は、水を飲んで気持ちをリセットするのが一番いい。
そう考え、部屋を出たところでふっと気付いた。
はて、僕は何をしようとしていたんだろうか?
前後の記憶があやふやだった。ちょうど夢から覚めたときのように。
えーと、状況は?
店内を見回してみるが、いつもと変わらず店の商品が静かに佇んでいるばかりで、特に変化は見られない。ストーブがさして興味もなさそうに唸っているだけだ。
当てもなく振り返ってみると、部屋の奥、ちゃぶ台の上にジェンガが散らばっているのを見つけた。
それで思い出した。
あーそう言えば、僕はジェンガをしていたんだ。
一つ思い出すと、あとは芋づる式に思い出せた。
ジェンガの遊び方が分かったので、その検証のためにあの部屋で一人遊んでいたのだ。それで一通りの検証をやり終えたので、小休憩として水を飲みに部屋を出たところだったな。
そう思い出すと、それは確かな事実のように思えた。
取りあえず水を飲み、その後で部屋に散らばったジェンガの片づけを始めた。片づけている間、僕は小さな熱を身体の内側に感じていた。その熱はかすかな痛みを胸の奥に残していたが、あいにく、その痛みの原因に心当たりはなかった。
片付けが終ると、カウンターに戻り雑誌を読み始めた。いつもと変わらない風景、いつもと変わらない日常が戻ってくる。
ふと窓を見ると外では雪が降っていた。どうやら初雪のようだ。
道理で今日は冷える訳だ、と一人納得し、ストーブのつまみを中から強へ回した。
雪が止んだら散歩でもしようかと思った。この冷えた空気に当たれば、胸中で燻ぶる熱も少しは薄らいでくれるだろう。
そういえば彼女も散歩が好きだったな、と思いだす。
とくに真っ白な雪のじゅうたんに足跡を残す遊びがお気に入りだったっけな。
はて?
ところで彼女とは一体誰のことだろうか?
窓の外ではしんしんと雪が降り続いていた。
了
無意識の恋、いいものですね。
面白かったです
最初はレティかとも思ったけど、成る程。伏線もちゃんとあって面白かったです!
とはいえ「片手で~」のところはん?とは思ったけど伏線とまでは見破れなかったのが悔しい
各人の設定を上手に活かしており、登場人物が脇役に至るまできちんと味付けされていて文句なしの満点を送らせていただきます。
ただ、初恋の記憶を本気で追い求めるには彼は大人になりすぎてたのかなぁと。
素敵なお話でした。
「先行」ではなく「先番」や「先手」、「白」などが正しいかと。
香霖堂原作を読んでいたので、てっきり紫だと思い込んでしまいました。
トリックもよく出来ていて、とても楽しめました。
所々季節等の違和感がこう来るとは。紫だと思ってました。
スッキリした気分とせつない気分がごっちゃになっております。
1点だけ。
>ワターを見やる。倒れていない。(後略)
タワーの誤字かと思われます。
タイトルと冒頭の文章だけでまず引き込まれましたね。
ジェンガというチョイスも見事です。
霖之助が想い人になることも珍しいですが、こいしの「忘れられてしまう」設定を活かしている作品も珍しい。
文句なしに100点です。
精神年齢が逆転(?)してるのがいいですね
わかりやすい、引き込まれる、終わりよしのいい作品に出会えました
久しぶりに満足したお話でした
悶えるこいしちゃん可愛い
いいね。凄く良い