広い室内に数人の男たちが立っていた。
囲まれるようにして大きなテーブルを前にした椅子に深く腰を下ろした男が、両手を握り口元に当てるように目を閉ざす。
足音が響き、やがて近づくと部屋のドアが破られるようにして開かれて額から汗を流した男が入ってきた。
肩で荒く呼吸して「失礼いたします」と椅子に座る男へ寄っていく。
椅子の男は両手をようやく離して目を開いた。
「どうだね?」
汗でシャツまで濡れた男は小さく頭を振った。
「音声があります。お聞きになりますか」
「もちろん。すぐにだ」
彼らの前にテープレコーダーが用意される。
椅子の男が周りの男たちを促すと、テープレコーダーが回り始める。
男たちはじっと耳を澄ませていた。
やがてテープレコーダーが鳴らした光景は――惨状。
数人の男たちが大声で怒鳴り合う声。
恐怖に怯えた悲鳴。
耳障りな鈍い音。
そして、明るい笑い声。
音声に聞き入っていた男たちの顔色が青ざめてくる。
互いに顔を見合わせて、受け入れられない事実を突き付けられたように。
椅子の男だけがじっと静かに耳を傾けていた。
しかしその男も目を閉じて手を小さく振る。
「もういい。止めてくれ」
男の指示でテープレコーダーは動きを止めた。
部屋の中に沈黙がおとずれる。
立っている男たちは椅子の男に注目していた。
椅子の男は一つため息を吐いてから汗をかきながら部屋に入ってきた男に話しかけた。
「クルーたちはどうなった?」
「申し訳ありません。今のところわかりません……」
「そうか」
返事を聞いてゆっくり立ち上がる。
そして周りの者たちを見渡した。
「この事実は公表するな。この場にいる者だけに留めろ!」
「了解しました」
「それから。至急クルーたちの家族全員を懐柔する手はずをしろ。偽装工作を行う。全ての事実をだ」
「しかし……もしクルーたちの家族が騒ぎ出したらいかがなされます?」
椅子の男は苦い顔を浮かべてたが、すぐに指示を出す。
「強硬手段も構わん。口を封じろ……異議はあるか?」
睨むように低い声で話す男に誰も口を出す者はいなかった。
「ではすぐに動け! 明日までの会見に間に合わせろ!」
「……わかりました。大統領」
翌日の朝。
テレビから。
ラジオから。
大統領と呼ばれた男の明るい声が響き渡った。
「おはようございます、合衆国国民の皆さん。皆さんは興奮と期待のため眠れない夜を過ごした事でしょう。しかしその眠気を吹き飛ばす明るいニュースが我々の元へ届きました……アポロ11号が無事に月面に着陸いたしました。これは人類にとって大きな一歩に違いないでしょう!」
※
嫌だ。
嫌だ。
嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。
誰か。
誰か助けて。
※
「うーん……よく寝たわぁ」
朝。
明るい日差しが永遠亭に降り注いでいた。
縁側を蓬莱山輝夜は背伸びをしながら何度も欠伸を浮かべながら歩いていた。
その顔はまだ眠そうだ。
何度も目を擦りながら一室へと入っていく。
「あ、おはようございます! 姫様」
「おはよー、イナバ」
部屋に入ってきた輝夜に声をかけたのは鈴仙・優曇華院・イナバ。
長い髪を頭の後ろで一つに括って元気な笑顔を浮かべる。
どうやら朝食に使うらしい洗った野菜が入ったざるを手にして元気よく挨拶をした。
「今日も元気ねぇ、イナバは」
「はい! 姫様と師匠に仕える身として精一杯頑張りたいと思っていますので」
「えらいわね。よしよし」
ニッコリ笑う鈴仙に輝夜も目を細めて、その頭を優しく撫でてやる。
鈴仙は「ひ、姫様ぁ!?」と驚いた声を上げながらも気持ちがいいのか目を細めて輝夜のされるがままにされていた。
この月の兎がこの永遠亭に来てから一年が過ぎていた。
竹林の中を彷徨っていたのをもう一人のイナバが見つけ輝夜に報告したのだ。
従者は当初、鈴仙を疑うように、脅すように睨み付けていたのだが今では大事な永遠亭の一員だ。
しばらく鈴仙の頭を撫でていると「ごほん」とわざとらしい咳ばらいが聞こえた。
二人が顔を見合わせてから振り返ると一人のイナバが苦い顔をして立っていた。
「朝から仲がいいねぇ。あまったるい空気で体が重いよ」
そこにいたのは永遠亭のもう一人のイナバ。
因幡てゐ。
竹林の中をふらふら歩いていた鈴仙を見つけ輝夜に報告したイナバである。
くせっ毛の頭をかきながら拗ねているような顔をしていた。
「あら? てゐったら鈴仙に嫉妬しているのかしら? ふふ、おいで。てゐの頭も撫でてあげるわ」
輝夜がにんまりしながら手をてゐに伸ばす。
しかしてゐはぷいっと顔を背ける。
「別にぃ。そんなんじゃないから」
「強がっちゃって」
輝夜は笑顔を浮かべたまま、てゐに構わず歩き出して卓上の前に座る。
「こら、てゐ! 姫様に失礼でしょ!」
てゐに近寄って鈴仙が怒ったような顔をする。
まるでぐずっている小さい妹を叱りつける姉のようにみえて輝夜がまた一つ笑った。
だが、てゐはじっと鈴仙の顔を睨むように見つめる。
「な、なによ?」
真っ直ぐな視線にたじろいでしまう。
「なーんでもない。鈴仙なんかに教えるか」
てゐが「べー」と舌を出して背中を向ける。
そしてゆっくり卓上へと歩いていく。
「……私が嫉妬しているのは鈴仙じゃないよーだ」
ぼそりと呟いたがその声は輝夜にも鈴仙にも届かない。
そこへまた一人顔を出した者がいた。
「朝から騒々しいわね。喧嘩はよしなさい」
顔を渋く作って二人のイナバを交互に見てから注意をする。
八意永琳。
月の都の創設者の一人で「月の頭脳」と呼ばれていた。
今では月を追われた輝夜の従者。
この永遠亭は輝夜とこの永琳の二人が取り仕切っている。
永琳は「まったく、もう」と呟くも笑みを浮かべて鈴仙の元に寄っていく。
この四人で暮らす生活がとても楽しいと思っていたのだった。
「うどんげ。野菜は洗えたかしら」
「はい師匠! すぐに料理にします」
にこにこ微笑んだ師匠に鈴仙もまた笑顔で返す。
「私も手伝うわ。お腹をすかせた姫様が待っているから」
永遠亭に朝の調理の音が響く。
まな板に振り落された包丁がとんとんと調子よく鳴った。
輝夜は両肘を卓上に乗せながら両の掌で顔を支えて笑っていた。
てゐだけはまだ拗ねている表情を浮かべていた。
「それで? またあの娘と徹夜したわけですか」
朝食を済ませて部屋の中にはのんびりとした空気が漂っていた。
お茶を出しながら永琳が輝夜に訊ねる。
庭では鈴仙が衣類を洗濯していた。
一生懸命でありながら丁寧に一つ一つ洗っていく。
その横でてゐが時たま鈴仙にちょっかいをかけて鈴仙に文句を言われる。
今日初めてようやくてゐの顔にも笑顔が浮かんだ。
「そうなのよ。まったく飽きないわね、妹紅は」
輝夜は永琳からお茶を受け取って一口すする。
そうして一つ息を吐いた。
藤原妹紅。
かつて輝夜が京の都にいた時に大金をはたいてまで求婚した男の娘。
輝夜は彼女のことなどまったく知りもしなかったが、今こうして迷いの竹林の中で隠れるように暮らしていたある日、突然輝夜を襲撃した。
そこで初めて妹紅のことを知ったが憎しみに満ちた妹紅は構わず輝夜の命を狙い続けた。
その日から輝夜と妹紅は竹林の中で終わりのみえない殺し合いを続けていたのだ。
「まったく相手にしているときりがないわ。もうそろそろこちらから手を打ってもいいと思うの」
「手を打つ? 姫様、いかがなさると言うのです?」
永琳が首を傾げると輝夜はニッコリと笑って自分の考えを口に出した。
「もちろん今度はこちらから奇襲をかけるのよ! もう妹紅に私への憎しみを忘れるような攻撃をね。というわけで」
「申し訳ありませんが私はごめんです」
永琳が両手でバツを作ってきっぱり断ると、輝夜が「えー」と不満そうな顔を浮かべる。
「永琳。貴女は私の従者じゃない。主人の言いつけを断るなんて」
「これは姫様、貴女とあの娘との問題でしょ? 私は不必要に介入しないでゆっくり見守ることにします」
輝夜の文句に気にすることはなく永琳はまるで子どもに諭すような口調で話した。
卓上に頭をのせて「そんなぁ。永琳のバーカ、バーカ」と輝夜が悪態を漏らす。
面白くなさそうな顔をして視線を庭に移すと、そこには二人のイナバが仲良くじゃれ合っていた。
「鈴仙ー。こっち向いてー」
「はいはい。どうせ振り向いたらあんたの人差し指で頬っぺた刺すんでしょ?」
「振り向かなかったらタライが頭に落ちてくるけどね」
ごちーん。
金属の高い音が鳴って鈴仙がぐわんぐわん頭を揺らす。
その後ろでてゐがケタケタ笑った。
「……てーゐぃ!!」
鈴仙が怒った顔を浮かべて両手を上げててゐを追い回す。
追われたてゐは楽しそうな顔をして逃げ回る。
そんな二人のイナバを見つめていると輝夜の頭に一つ思い浮かんだ。
「ちょっとイナバ。あ、鈴仙の方ね」
「まてーゐ! ……え?」
輝夜に呼び止められて鈴仙の足が止まる。
振り返ると輝夜がニコニコと笑いながら目の前まで歩み寄ってきていた。
頭にすごく嫌な予感がよぎって鈴仙の顔がそのまま固まる。
「そう言えばイナバ。ここに来てから貴女の実力を見たことがなかったわ。よかったら貴女の実力を見せてくれないかしら?」
「……え、えーと。つまり、その」
「今度、妹紅を奇襲してくれないかしら?」
そうニッコリと笑う輝夜。
鈴仙はまだ顔を固まらせて返事に戸惑う。
そんな鈴仙を見て楽しそうに逃げていたてゐが足を止めて真顔になる。
庭先に風が吹いて鈴仙と輝夜の髪を撫でた。
「……姫様。その、私は――」
鈴仙が言いよどむように何かを口にしようとした。
「ダメよ」
それを遮るように思い声が飛ぶ。
三人の視線が一つに集まるとそこには険しい顔つきの永琳が立っていた。
永琳は立ち上がると輝夜の顔をじっと見つめる。
少し輝夜が怯んだ。
ちらりと鈴仙の顔を見てから永琳は真剣に諭すように話した。
「姫様。先ほども申し上げましたがこれは姫様とあの娘の問題です。いくらうどんげが姫様の従者の立場とはいえ私事に巻き込むのはよくないことだと思います。私は許しませんからね」
月の都にいた頃の、かつての教育係の厳しい顔に輝夜はすっかり怖気てしまっていた。
「そ、そんな怖い顔をしないでもいいじゃない。わかったわよ」
輝夜が手を振ってお茶を濁すと永琳は自分の顔つきに気が付いたように、はっと我に返った。
「……申し訳ありませんでした、姫様。さて私は実験の為私室に入ります」
「そ、そう」
輝夜が返事をすると同時に永琳は背中を向けて部屋から出ていってしまう。
卓上の上には湯気が立った湯呑が残されていた。
「まったく永琳たら。なにをそんなに怒ることがあるのよ」
いなくなった永琳の背中を見て輝夜がプリプリ怒って文句を言う。
その後ろで鈴仙は静かにうな垂れていた。
「まったく。輝夜ったら」
永琳の私室。
輝夜ですら立ち入ることを禁じられた部屋だ。
様々な実験道具に囲まれた机の前に永琳は頭を抱えていた。
むきになってしまった自分を恥じながら輝夜への不満も覚える。
元から実験などする気はなかった。
する気がなくなった。
頭の中には明るく笑顔を浮かべる鈴仙の顔が浮かんだ。
どこかお調子者で。
どこか弱気で。
頼りないイナバ。
でも誰よりも一生懸命に仕事に励んでくれる。
明るい笑顔を振りまいてくれる。
今では愛おしい永遠亭の一員の彼女の顔を。
だが頭の中で彼女の顔が大きく歪まれていくのが目に映った。
永琳はそれを振り払うように頭を乱暴に振って、ため息を漏らした。
「……そろそろ輝夜に話すときかしら」
「それは是非とも聞きたいね」
後ろから声が投げかけられる。
永琳は頭を支えていた手をゆっくり下ろすと冷静に後ろへ振り返る。
部屋の入口。
てゐが立っていた。
悪戯兎の顔をして。
「私以外は立ち入り禁止とドアに札をかけていたけど?」
「ドアが少し開いていたから覗いただけさ。ほら、中に入ってないよ」
てゐはニシシと笑ってみせる。
確かにてゐは部屋の中には一歩も入っていないがドアは全開に開かれていた。
嘘を吐いていることは一目瞭然だった。
永琳の目が鋭くなる。
「そうね。貴女の言うとおりだわ。次からはきちんとドアを閉めることにするわ。ご忠告ありがとう。ドアを閉めてちょうだい」
「何を隠しているの?」
追い返そうと口にしたが、てゐもまた鋭い目で永琳を睨み付ける。
部屋の空気が張り詰めたものになった。
「隠している? 私が? 馬鹿なことを言わないでちょうだい。ただ我がままばかり言う姫様にちょっといらついてしまっただけよ。大丈夫、後で謝るから」
「姫様のことじゃなくて……鈴仙のことじゃないの?」
てゐがはっきりとした口調で永琳に詰め寄る。
永琳の目が丸くなった。
「図星だね。私に嘘など通用しないよ。嘘のつき方なんてこの屋敷の中では私が一番知っているからね。で? 何を隠しているの? 鈴仙のこと、何を知っているの?」
ゆっくりと永琳が立ち上がる。
てゐと向き合うとその手にはいつの間にか矢が握られていた。
しかしてゐが怯む様子はない。
じっと永琳を睨み返していた。
「あんまり調子にのると痛い目に合うわよ。全てが自分の思い通りにいくと思っているのかしら? 世の中は自分の好きなようには回らないことを身をもって教えてもらいたいの?」
「おぉ怖いね。それで? じゃあいつになったら話してくれるの?」
てゐはすぐに永琳に言葉を投げ返す。
永琳は矢を握って黙ったままだ。
また部屋に沈黙が訪れようとして、その前にてゐが破った。
「ま、いつかは話してくれるんでしょ? 鈴仙のこと。お師匠様は鈴仙のことを弟子以上に想っているみたいだけど……私だって負けてないんだから」
そう吐き捨てててゐは部屋の前から立ち去った。
永琳はしばらく矢を握ったままだったが、力が急に抜けたように椅子にもたれかかった。
頭が痛むようにまた手を額に当てて目を閉じた。
※
竹林の中をふらふら歩いている彼女が視線に入った。
何か絶望しているような顔をしている彼女が。
てゐは遊んでいた竹の棒を放り捨てると彼女に駆け寄った。
「なぁに辛気臭い顔をしているの?」
笑顔を浮かべて話しかけるが、彼女は足を止めたが返事をしない。
そんな彼女を気にすることなくてゐは話しかけ続ける。
彼女の頭には長い兎の耳が生えていた。
自分と同じ妖怪兎であることに親近感を覚えたようだった。
「あんたも妖怪兎かい? 仲間だね、と言いたいところだが地上のイナバじゃなさそうだね。へにょった耳をした妖怪兎を見るのは初めてだよ。どこから来たの?」
小首を傾げててゐが訊ねるとようやく彼女は返事をした。
「……貴女。仲間はいるのかしら?」
思いもよらない言葉にてゐは少し目を丸くした。
「いるよ。いっぱい妖怪兎たちが。それに頼りになる姫様もお師匠様もね」
「そう……幸せね」
初めて彼女はてゐに視線を向けた。
その目が感情を失い冷たいものだというのがすぐにわかった。
てゐの顔から笑顔が消える。
竹林の間は冷たい空気に包まれていた。
彼女がゆっくりと口を開く。
「ねぇ。もしも貴女からその仲間たちが離れてしまったら、貴女はどう思う? 今まで仲良くしていた子が急によそよそしくなったりしたらどうする?」
「どうするって……まぁ、そりゃ悲しいことだろうね。きっと寂しい思いにかられるよ」
てゐはまたニコッと笑って彼女に話しかける。
「でもそうならないようにするよ。上辺だけの付き合いなんて互いに疲れるだけだし。心の底から笑い合える関係が一番さ。それでも仲間たちが私から離れたらまた新しい出会いを求めるさ。どう? 答えになってる?」
そう話すと彼女ははっと我に返ったようだった。
目に感情が戻っていく。
そして涙が浮かんできてその場に泣き崩れる。
「ちょ!? おいおいどーした?」
てゐが慌てて声をかけるも彼女は泣き続けた。
そして独り言のように口にした。
「皆……ごめん。こんな私でごめん。豊姫様、依姫様申し訳ありません。こんな私で申し訳ありません」
両手で溢れてくる涙を抑えるようにするが、涙は隙間からぼろぼろと地面に降り注ぐ。
てゐは話す言葉を失って彼女をじっと見つめていた。
彼女の体からは不幸が滲んでいるのがはっきりとわかった。
詳しくは知らないが彼女にとって耐え切れないほどの辛いことを味わってきたことを。
てゐはそっと彼女に寄り添うとその背中を優しく撫でてやる。
「何があったかわかんないけど、大丈夫大丈夫。このてゐさんが傍に居れば全て大丈夫! もう苦しむことはないよ」
「……え?」
彼女は顔を上げててゐを見つめた。
両目に涙を濡らせて。
長い髪の下のどこか弱気な、でも真面目で優しそうな顔を見ててゐの胸が一つ高まった。
「そ、そりゃそうさ。私は幸せを振りまく地上のイナバ。あんたなんかを笑顔にするのは容易いことさ」
高まる気持ちを抑えるように胸を張ってみせると、彼女はぼんやりしてから笑ってみせた。
てゐが見る彼女の初めての笑顔。
恥ずかしくなっててゐの顔が赤くなる。
しかし彼女は笑顔を浮かべたままくすくす笑っていた。
頬を紅くさせて目から涙を頬に伝わせて。
そんな彼女の顔を綺麗だと思った。
「笑うなよ」
「ご、ごめんなさい。つい」
彼女は謝って両手で涙を拭う。
その様子の一つ一つをてゐはちらちら見ていた。
「ところであんたの名前は?」
「え?」
「あ、私はてゐね。因幡てゐ」
てゐが名乗ると彼女は少し言いよどんでから話した。
「鈴仙……月にいたころは、昨日まではそう呼ばれていたけど」
「そう鈴仙か。よろしくね」
てゐはニッコリ笑って鈴仙に手を伸ばす。
鈴仙も戸惑ってからゆっくり手を伸ばした。
二人の手が繋がれた。
と思いきやてゐは鈴仙の手を引っ張るように走り出す。
「え? ちょ、ちょっと!?」
てゐに引っ張られて鈴仙は驚いた声を上げた。
しかしてゐは背中をみせたままどんどん走っていく。
「言ったでしょ? 私は幸せを振りまくイナバ。あんたみたいな妖怪兎でも幸せにさせるさ。これから姫様とお師匠様に鈴仙のことを紹介してやるよ。きっとあんたのことを気にいってくれるよ」
明るく話すてゐの言葉に。
鈴仙はぽかんとしながらも、やがて笑顔になる。
今度は涙を零さない満面な笑顔で。
※
「まったく永琳たら。そんなに怒る必要がどこにあるのよ」
「まぁまぁ姫様」
すっかり冷めてしまったお茶を飲みながら輝夜がぶーぶー文句を垂れていた。
その横で鈴仙が必死に宥める。
いつの間にかてゐもいなくなって部屋の中には二人だけとなっていた。
明るい日差しが部屋の中に降り注いでいた。
静かな部屋の中で二人はただ座って温かい日の光を体に受けていた。
輝夜が湯呑の茶を飲み干した。
「イナバ。おかわりを持ってきて」
「はい、ただいま」
鈴仙は席を立つと新しいお茶を淹れるために台所へと立った。
お茶の葉が入っている箱を開けて首が大きく傾げられる。
「あ、もうない」
「え?」
つまらなさそうにしていた輝夜が台所へ視線を向けると、そこには空になった箱の底を見せて申し訳なさそうに笑みを浮かべる鈴仙が立っていた。
「もぉー! 事前に買っておいてよー!」
「す、すみません!」
文句を垂れる輝夜に鈴仙がペコリペコリと何度も頭を下げて謝る。
別に鈴仙だけの責任ではないのだが、つい自分一人で責任を引き受けてしまうのが鈴仙の悪いところだった。
輝夜が畳を上に仰向けになる。
そうして両手足をバタつかせて、鈴仙にはわがままな子どものように見えてつい笑ってしまう。
行き場のない鈴仙はてゐに連れられて永遠亭へとたどり着いた。
永琳はやってきた鈴仙を見て「もし私に逆らうようだったら……」と月から来た鈴仙に警戒を強めた。
体を震わせていると明るい声で話しかけてきたのが輝夜だった。
「ふふ。いいわ。この永遠亭に暮らすことを許してあげるわ。でも私たちの一員になった以上は永遠亭に、というより私に尽くしてね」
なんの疑いもない綺麗な笑顔を浮かべた輝夜に鈴仙は目を丸くした。
同じく永琳も驚いた表情で輝夜の横顔を見つめる。
「ひ、姫様! まだこの者が月からの刺客ではないと確証を得られたわけでは――」
「大丈夫よ」
永琳の言葉を遮って輝夜は鈴仙の顔を目を細めて言った。
「貴女は綺麗な目をしているわ。とても綺麗な。貴女を見ているとあの頃が懐かしいわ。月にいた頃たくさんの玉兎たちが私の周りにいたわ……あの頃の思い出を忘れないように貴女が必要だわ。ここにいてくれるかしら?」
鈴仙はぽかんとした顔つきになる。
体の震えも緊張もなくなった。
顔を横に向けててゐの顔を見つめると彼女は小さく頷いてみせた。
永琳も「やれやれ」と首を振った。
「どうかしら? 私たちの仲間になってくれないかしら?」
もちろん鈴仙に断る理由はなかった。
仲間。
その言葉を聞いてまた鈴仙の目から涙が溢れてくる。
小さく頭を下げた。
「あらら。泣き虫さんなのね」
輝夜が笑い声を漏らした。
それから鈴仙は真面目な顔で永遠亭の為に仕事に励んだ。
輝夜は厳しいことを口にすることはなかったが、時折子どものようなわがままで鈴仙を振り回したが笑顔で彼女を労わってくれた。
鈴仙は徐々に笑顔になることが多くなり輝夜やてゐと楽しく会話をすることが多くなった。
てゐの鈴仙に対する悪戯もこの頃から始まっていく。
そんな彼女たちを見て永琳の顔も和らいでいった。
疑わしい顔つきをすることがなくなり、真面目な鈴仙を見て「私の手伝いをしてくれないかしら?」と誘うことになる。
永琳をあの月の創設者の一人である八意××だと知ったときは驚愕したが、そんな永琳に誘われて鈴仙は心から嬉しい気持になって頷いた。
この日から鈴仙は永琳のことを師匠と呼ぶようになる。
彼女たち四人の生活が始まって一年が過ぎようとしていた。
「イナバ、新しい茶葉買ってきてー」
「わ、私がですが?」
しばらく手足をバタつかせていた輝夜を見て微笑んでいると、いきなりのぶっきらぼうに話す輝夜の言葉に鈴仙は戸惑った。
茶葉を買うには人里に行くしかない。
人目から隠れるようにして竹林の中に過ごす彼女たちにとって人里への買い出しは、身分を明かさないようにしなければいけない。
さらに鈴仙はかなりの人見知りであり、人里への使いに行くのは苦痛にさえ思っていた。
本当はあまり行きたくはないのだが。
「うん、イナバしかいないし」
輝夜が言うとたしかにこの部屋には二人だけしかいない。
永琳は実験の為に私室に籠ることが多いし、てゐはその性格からか家事をすることはない。
いつも輝夜のお願いを素直に聞いて真面目に動くのは鈴仙だけだった。
覚悟を決めるしかなかった。
「……わかりました」
鈴仙は耳をさらにへにょらせて力なく立ち上がると、出かける準備をするために自室へと戻った。
「ありがとねー。あ、私の編み笠使ってもいいからー」
部屋を出て行った鈴仙の背中に輝夜は明るい声をかけた。
※
永琳はまだ私室で頭を抱えていた。
彼女の脳裏には鈴仙がこの永遠亭に住むようになって少し経った頃の事が浮かんでいた。
永琳が鈴仙と初めて言葉を交わした日。
「貴女、何故月を追われたの?」
まだ鈴仙を警戒していた永琳は自分の部屋に呼ぶと鋭い目で睨んだ。
鈴仙は体を震わせて言いよどむように答えた。
「……追われたわけではありません。月で大きな戦争が起きると聞いて、臆病者の私は身勝手にも逃げてきたのです」
「月で戦争?」
「ええ。なんでも人間たちが攻めてくるとか……そ、その私は逃げてきたので月がどうなったかは、し、知りませんが」
宙をキョロキョロと視線を彷徨わせてしどろもどろになって話す鈴仙を、永琳はじっと見つめていた。
「本当かしら?」
「ほ、本当です! でも豊姫様と依姫様のお力なら人間などに負けることはないと思いますけど……」
そうして鈴仙は顔を俯かせた。
永琳が顔を覗くと鈴仙は涙を流していた。
思いもよらないことに驚く永琳の前で鈴仙は泣きじゃくる。
「ごめんなさい……豊姫様、依姫様、すみませんでした」
鈴仙は心の底から泣いているようにみえた。
しばらくそんな彼女を見つめて永琳は目を細めた。
そしてそっと頭に手をのせて撫でてあげる。
涙を零しながら顔を上げた鈴仙に永琳は優しい声で話しかけた。
「ごめんね。貴女のことを完全に信用した訳じゃないけど、でも私たちに敵意がないことは十分にわかったわ。厳しいことを言って悪かったわ」
「……いえ」
この日を境に永琳は鈴仙を永遠亭の一員として認めたのだった。
数日後。
永琳はまた鈴仙を自室へと呼んだ。
「優曇華院?」
「そう。貴女の名前よ。この穢れた地上で美しく輝くように願いを込めて名付けてあげるわ。これからはそう名乗りなさい」
「……はい!」
鈴仙は悦びで頬を赤く染めながら明るく元気に返事をした。
喜怒哀楽が激しくて。
真面目で。
臆病で、お調子者で、弱虫で。
でも明るい笑顔が似合う彼女を永琳は優しく見守った。
「ところでうどんげ。貴女は何か特技のようなものはないかしら」
「特技ですか?」
「ええ。そういえば貴女には何ができるか聞いたことがなかったから」
永琳に言われて鈴仙は少し考える素振りを見せたが何か思い当ったらしい。
しかし言いよどんでしまう。
すぐに顔に出てしまうところがこの子の悪いところね。
永琳は微笑んで「何かしら?」と話すように促した。
促されて鈴仙は小さな声で話した。
「波長をいじることしか……」
「波長?」
「え、ええ。その、相手の感情だったり光や音だったり……幻覚とか幻聴とか、つ、作れるのかなぁ?」
「かなぁって。はっきりしなさいな」
「す、すみません。実は試したことがないので」
鈴仙は宙をキョロキョロ見渡してから小さく舌を出して頭を下げた。
一瞬の間、永琳は怪訝な顔をしたがすぐに笑顔に戻る。
「そう。それじゃあ私相手にやってみなさいな」
「ええっ!?」
永琳が「さぁ」と両手を広げて見せると鈴仙はわたわたと手を振って慌てた。
「ダメです、ダメです! そ、そんなことできません! そ、それに大した幻覚も幻聴も作れませんから、師匠のお役には何も立ちません!」
必死に弁解をする鈴仙をじっと見つめながら永琳は大げさにため息を吐く演技をする。
「あらそう。戦闘もダメ、特技もなし、うどんげに任せられるのは雑用くらいかしら?」
「うぐっ!?」
胸に見えない矢が刺さったように口から悲鳴が出た。
ズーンと落ち込む鈴仙に永琳はニコニコ顔をする。
「うどんげ。それじゃあ私の実験のお手伝いをしてくれないかしら?」
この一言で鈴仙は永琳のお手伝いもすることとなった。
あれから一年が過ぎた。
彼女は立派に永遠亭の仕事こなしてくれている。
しかし永琳はあの日の彼女の中の違和感を未だに感じている。
彼女は――鈴仙は何かを隠しているままだ。
そうは疑いながらも横で仕事に励む鈴仙に、辛い過去の事を訊きだすのは酷だと思った。
自分たちもまた月で大罪を犯しこの地上で隠れるようにして暮らす身だからこそ、余計に訊き出せなかった。
今までずっと鈴仙への疑いを隠して過ごしてきた。
だが。
今日の輝夜のあの言葉を聞いて、その違和感が永琳の胸の中で大きくなっていった。
「……やはり。輝夜に話すときね。それからうどんげにも話をしないと」
そうして立ち上がろうとした時だ。
大きな爆発音が聞こえた。
永琳が驚いて顔を上げる。
また一つ音が響く。
今度は銃声のような音。
竹林の中からだった。
永琳の顔から血の気が引いていった。
※
ねぇ。
どうしてそのような顔をされるのですか。
どうしてそのような目で私を見るのですか。
どうして私から離れようとするのですか。
どうして。
どうして。
どうしてどうしてどうしてどうしてどうして。
豊姫様。
依姫様。
皆。
どうして。
※
「あー……人里行くのやだなぁ」
永遠亭を出た鈴仙は深く編み笠を被りながら竹林の中を歩いていた。
編み笠は輝夜のである。
被っていけと言われて素直に主のを被る鈴仙であった。
高く伸びた竹林に遮られて、日の光はまばらに地面に降り注いで光の穴をあちらこちら作り上げていた。
人見知りが苦手な鈴仙にとって人里に行くのが一番辛い雑用だった。
まず竹林に隠れ住む立場であるから妖怪だと気付かれないようにしなければいけないし、また時間が余ってもどこか店に寄ることが出来ない。
美味しそうな食べ物や珍しい商品を置く店。
鈴仙はついつい気を取られてしまうが、用が済んだら静かに帰らなければいけない。
お預けを食らう犬みたいな気持ちになって、鈴仙はため息を吐いた。
――頭上から何かが迫ってきている。
そう感じた鈴仙が空を振り仰ぐと、
「輝夜! くらえっ!!」
火の玉が鈴仙目がけて落ちてきた。
慌てて鈴仙が跳ねて避けると、地面に火の玉が広がって雑草を舐めるように燃やしていく。
「さぁーて。一人でお出かけとはのんきなものね。今日こそは……って、あれ?」
やがて鈴仙の目の前に姿を現せた彼女は得意そうに笑っていたが、鈴仙の顔を見て目を丸くする。
藤原妹紅。
輝夜を心から憎み、度々輝夜を奇襲してはこの竹林を舞台に殺し合ってきた。
主の敵である。
鈴仙の顔に緊張が走った。
しかし一方の妹紅の顔は驚いてばかりで、さっき攻撃を仕掛けてきたような人には見えない。
「輝夜じゃない?」
首を傾げて編み笠を指差す。
鈴仙も「え?」と輝夜の編み笠を見つめた。
互いに言葉を失って、小鳥の声が聞こえるだけになった。
しばらくして妹紅は急に上を振り仰ぎ、今度は鈴仙が驚く。
「くそっ! 陽動作戦か!」
「ちっがーう!!」
どこかに輝夜が潜んでいると思っているらしい。
鈴仙は片手を額に当てた。
もしかしてこの人ちょっと天然? と鈴仙は心の中で思った。
「私一人で人里に向かっているの。この編み笠は姫様に借りたのよ」
「あ、そうなの? あー……うん。わかっていたわ」
嘘だ。
コントじゃないんだからと思い鈴仙の体が脱力していく。
妹紅は構わず髪を乱暴にかきながら鈴仙に話しかける。
「輝夜じゃないならいいや。見逃してやる」
「え?」
鈴仙がまた驚いたような声をあげると妹紅は首を傾げた。
「なに?」
「私、一応姫様の従者よ。闘わないの?」
怪訝な顔で訊ねる鈴仙に妹紅は「ふん」と鼻を鳴らした。
どこか得意げな表情になって。
「私が憎いのは輝夜一人だ。従者なんてどうでもいい。それに不老不死でもないお前が私と戦っても勝ち目ないでしょ?」
この言葉にカチンときた。
血が昇っていくのがわかる。
鈴仙の目が険しいものに変わっていく。
「……ずいぶん嘗められたものね。貴女が私のことをどうでもいいと思っても、私はどうでもよくないわね。姫様の敵は叩き潰す」
編み笠を丁寧に地面に置いて妹紅を睨むように向き合う。
「あらそう。じゃあやってみる?」
妹紅は得意げな笑みのままだ。
それがまた鈴仙を刺激した。
数秒、向き合った。
鈴仙の右手が妹紅に向けて構えられる。が。
「遅いね」
妹紅の言葉が聞こえた時には鈴仙の目の前で炎が壁を作っていた。
そして鈴仙へと迫ってくる。
「うひゃ!?」
鈴仙は喉の奥から変な声が出てしまったのにも構わず慌ててジャンプをする。
そんな鈴仙を追いかけるように火の玉が次から次へと放たれた。
竹から竹へと跳ねて攻撃を避けると鈴仙はやがて地面に降りる。
「すばしっこいなぁ。さすがは妖怪兎ね……うひゃー」
「うるさいわね!!」
妹紅にちょっかいをかけられて鈴仙が拗ねたような顔を少し浮かべた。
やっぱり恥ずかしいのだった。
両手の人差し指を妹紅に構えると弾幕を放つ。
妹紅が笑った。
そして放たれた鈴仙の弾を――もとい鈴仙を目がけて走ってくる。
「いいっ!?」
またもや驚愕されながら鈴仙は弾を放ち続ける。
何発かが妹紅の肩に、頬に、足に当たったが妹紅はそれでも鈴仙に近づいてくる。
自分から弾幕に当たりにくる妹紅に怯んで鈴仙は動けなかった。
弾を撃ち続けるが動揺した彼女の弾幕はあらぬ方向へ飛んで行ってしまう。
妹紅が目の前まで来たと思った時には、視界から妹紅が消えた。
そして強い衝撃が頭に走った。
妹紅に頭の左側を思いきり蹴られたのだ。
脳がぐわんぐわん揺れた。
その場に鈴仙は音を立てて倒れ込んだ。
「ふぅー。ほら、お前じゃ勝ち目ないよ」
「……いたたた」
激しく痛む頭を擦りながら鈴仙はゆっくり目を開けた。
目の前には妹紅が自分を見下ろしていた。
鈴仙の弾を受けた体の傷がどんどん塞がれていくのを見て歯がゆかった。
歯ぎしりしながらゆっくりと上半身を起こす。
「やめときなさいよ。今日は大人しく帰って傷でも診てもらいな」
「うるさい! お前なんかに――」
妹紅の言葉にイラついて言い返そうとしたが、左手がなにやらベトベトしているのがわかった。
ふと左手に視線を落とす。
血。
頭部から滲み出した黒のような濃い血が。
鈴仙はじっと見つめていた。
「家に帰った方がいいと思うんだけど。でもお前が希望するならもう少し遊んでもいいけど?」
妹紅が得意げになってなにかを言ったが、鈴仙の耳には届かなかった。
血。
血。
血血血。
嫌だ。
嫌だ。
嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。
誰か。
誰か助けて。
「ん? どうした?」
様子が一変した鈴仙に妹紅が首を傾げる。
妹紅の言葉に応じるように、ゆっくりと鈴仙は立ち上がると妹紅に向き合った。
だが先ほどまでの喧嘩口調はすでになく、ただ無言だった。
その目が赤く光り始めた。
※
「姫様!?」
輝夜の元に永琳が走ってきた。
永遠亭の縁側にはすでに輝夜とてゐが音のする方を見つめていた。
「てゐ。これはあの子よねぇ」
「鈴仙と妹紅だね」
どこかのんきそうに話す二人。
永琳は怒りを表して輝夜に詰め寄る。
「姫様! うどんげをあの娘と戦わせるのは止めてくださいと言ったでしょ!」
険しい永琳の表情に輝夜は怯んだが今度は負けずに言い返す。
「別にイナバをけしかけたりしてないわよ! ただお買い物をお願いしただけよ!」
無実を訴える輝夜に永琳は「そう」とだけ言ってまた視線を竹林へと向けた。
素っ気ない永琳に輝夜は「いーだ」と両手で口を大きく開けて舌を出した。
攻撃音が止んだ。
静かになった竹林を見ててゐがボソリと話す。
「終わったみたいだね。鈴仙、無事かな」
その表情は不安でいっぱいだった。
いつも鈴仙に悪戯をして楽しんでいるてゐ。
しかし今は本当に鈴仙のことを心配していた。
「まぁ大丈夫でしょう。妹紅は私には容赦ないけど、イナバには酷いことはしないと思うわ。ちょっと怪我してるかもだけど。その時は永琳、手当てしてあげてね」
輝夜は楽観視していた。
妹紅は輝夜しか狙わない。
今まで長い間、同居人である永琳やてゐに攻撃を仕掛けたことはなかったのだから。
あと少ししたら服をボロボロにして鈴仙が帰ってくると思っていた。
貸した編み笠は多分燃えてしまっているだろう。
そう思いながら永琳に話しかけようと視線を移すと、永琳は険しい顔つきのまま竹林の方を見つめたままだった。
「永琳? 何がそんなに心配なの?」
だが永琳は輝夜に返事をしない。
そして庭先へと降りた。
「私、うどんげを迎えに行ってまいります。姫様たちはここでお待ちください」
そう言うと竹林の中へ飛んでいく。
輝夜は目を丸くした。
「もうなんだって言うのよ! 私も行くわ!!」
慌てて永琳の背中を追いかけて飛んだ。
てゐは竹林の中へ消えていく二人を見て、「鈴仙……」と小さく呟いてその場で佇んでいた。
輝夜が追いかけると、それがわかったのか永琳は速度を落として輝夜と並んだ。
不機嫌そうな顔を隠さないまま永琳に話しかけた。
「永琳、話しなさい」
「……輝夜。ごめんなさい」
「いや、謝らなくていいから。何を隠していたの」
今度は輝夜が険しい顔で永琳に問い詰める。
永琳は苦い顔で輝夜に説明した。
輝夜にも今まで隠してきた事を。
それは初めて鈴仙と言葉を交わしたあの日、そして鈴仙に「優曇華院」という名前を付けた日。
鈴仙に感じた違和感。
彼女が嘘を吐いているという疑い。
そこから考えた、最悪の仮説を。
「輝夜。おそらくうどんげは今までずっと嘘を言い続けていたと思うわ」
二人きりのとき永琳は輝夜のことを呼び捨てにする。
その方が説明もしやすいこともある。
「嘘? あのイナバが嘘を? 臆病者で戦争が起きるのに怯えて、月から逃げ出したような子よ。そんな子が――」
「それがすでに嘘だったとしたら?」
「……逃げ出したわけじゃない、と」
「そう。うどんげが昔に言った人間が月へ攻め入ったという時、彼女はまだ月にいたと思うわ。これは仮説だけどね」
「へぇ、それで?」
輝夜が興味深そうに話の続きを促す。
永琳は険しい顔つきになって説明を続けた。
「次に考えられるのは何故うどんげは月に居られなくなったのか」
「私たちと同じく罪を犯したとか?」
「それとは違うと思うわ。だって私たちは禁忌である蓬莱の薬を口にした罪人よ。こんな大罪を犯した私たちの前で自分の罪を隠してどうするの?」
「そっか」
輝夜は首を傾げて考える。
(たしかに私たちのような大罪を犯した者を前にしたら、むしろ自分の罪を話すだろう。罪人仲間というような意識で……)
一体何をやらかしてしまうと月にいられなくなるのだろうか。
月の都で幽閉されている嫦娥と接触してしまった。
上層部に対してクーデターを計画したのがバレた。
依姫は豊姫に対して実は姉としてではなく、それ以上の想いで慕っているのを皆にバラした。
豊姫が夜な夜な自分の能力で依姫の入浴している姿を覗いているのを皆にバラした。
色々な理由を考えるが中々思いつかない。
どれも禁忌を犯した自分たちに隠しておくほどのものではなかった。
「うーん、わからないわね」
「そこで次の仮説が考えられるわ。これは結構当たっていると思っているんだけど。うどんげの特技のことよ」
「あぁ、あの波長を操るとかなんとか言うヤツ。あれも嘘だと言うの」
「いえ、たしかに波長を操ることが出来るのは本当だと思うわ。うどんげが嘘を吐いているのは『今まで試したことがない』ということよ」
そうして永琳は自分の特技を話してくれた時のことを思いだした。
鈴仙は「幻覚や幻聴を作れるのかわからない」「今まで試したことがない」と話した。
だが永琳が自分に向けてやってみるように言ったとき、こう言って断ったのだ――「大した幻覚も幻聴も作れませんから」と。
永琳が感じた違和感の正体である。
初めて鈴仙と話をしたときから、彼女はキョロキョロと視線を彷徨わせていた。
鈴仙は嘘が表に出やすいのを永琳はすぐに感じ取っていた。
「あの子はこれまで波長を操ったことがある。それを隠しているんだわ」
「人間との戦争の時イナバはまだ月にいた。でも月にはいられなくなった。波長を操り幻覚や幻聴を作り出せるのに『出来ない』と言って隠していた。この三つがイナバが吐いていた嘘ってこと?」
「そう。そしてその三つを合わせると最悪な仮説が出来上がるわ」
やがて二人の鼻に焼け焦げた臭いが漂ってきた。
目の前の竹林の一帯が真っ黒に焼けていた。
その端へたどり着く永琳と輝夜。
真っ黒に焼けた地面に一人倒れていた。
「……妹紅」
地面に転がっている彼女を見つけて、輝夜が呟いた。
妹紅は少し顔を動かして輝夜の顔を見たように見えた。
しかしその目の焦点がまったく合っていない。
すぐにキョロキョロと視線をあちこちに向けた。
まるで何も見えていないように。
体は小さく震えて、ボロボロになっていた。
傷が少しずつ回復していく。
そんな妹紅の横に、彼女は立っていた。
じっと俯いて転がる妹紅を見つめている。
やがて右足を上げると妹紅の横顔を思いきり踏みつける。
「ねぇ? どう? ねぇねぇねぇねぇ? どう? どう、どう? わたしにやられてどんなきもち? ねぇ、おしえてよ。あはは、あはははははは」
左の額から血が流れていた。
しかし両目を真っ赤に光らせた彼女は。
壊れた笑顔で震える妹紅の体を踏み続けていた。
「永琳。貴女の仮説はどこまで当たっていたのかしら?」
輝夜は冷静を装って狂気に満ちた鈴仙の顔を見つめていた。
問いかけに永琳は首を振って応えた。
「残念だけど……全部大当たりだったわ。うどんげは特技とか言っていたけど、その技を自分の波長すら狂うくらいまったくコントロールできていないということも。月にいられなくなったのは人間相手に暴走してしまった、というところかしら」
※
一年前。
表の月。
綿月依姫は何人かの玉兎の兵士を連れて走っていた。
その先には姉である綿月豊姫が背中を見せて佇んでいた。
「お姉様! 人間たちはどうしましたか? 月の都までには来れないでしょうけど」
ようやくその後ろまでたどり着いて豊姫に話しかける。
しかし豊姫は何も答えず前に視線を向けたままだ。
「……あの子を視察に向かわせたのですが、もしかして人間たちに捕えられたとか?」
「いいえ。無事よ。でも酷いわね」
豊姫がやっと問いかけに返事をしたがやはり視線は前に向いたままだ。
依姫が少し進んで姉と並ぶように立つ。
姉の背中に隠れて見えなかった惨状が目に入った。
「あはははあはははははは。ねぇ、どう? ねぇどう? どう? どう?」
赤く鈍く光る両目で笑いながら鈴仙が人間の着陸船を破壊していた。
着陸船の中には泣き叫び、涙や鼻水でぐしゃぐしゃに歪んだ顔をしながら鈴仙に懇願するように話している人間の姿が。
人間の一人は意識を失っているようだ。
すでにエンジンは破壊され今はゆっくりと味わうように着陸船の足を潰しにかかっていた。
一本一本破壊されるたびに人間たちは泣き叫び、彼女は笑い声を上げた。
「どう? ねぇどんなきもちなの? ねぇねぇねぇおしえてよ。あはははは。もうすぐひきずりだしてやるからね。おまえらなんかに、いかせない。つきのみやこに。ここでころしてあげる」
そんな狂気に狂った彼女を見て依姫の顔が引きつる。
玉兎たちも怯えたような顔で彼女を見ていた。
まるで化け物を見るかのように。
豊姫がゆっくりと歩き彼女の傍による。
「もういいわ。すぐに止めなさい」
声をかけられて彼女は壊れた笑顔で振り返ろうとした。
「あ? ああー、とよひめさまぁ。みてくださいみてください、わたしがんばりました。もうすぐにんげんころせます。およろこびください。もうすぐにんげんころ――」
だが振り返る前に鈍い音が鳴って彼女の声が途切れる。
彼女の左顎を目がけて豊姫が拳で殴ったのだった。
「っ!?」
顎を殴られて頭の中が揺れながらも、彼女は立ち上がろうともがいていた。
言葉にならない声を漏らしながら。
「依姫。人間たちの指令船がどこかで飛んでいるわ。すぐに捕縛してここに連れてきて。こちら側も人間側も色々もみ消さなきゃいけないわ」
「わかりました」
戸惑いながらも依姫が離れて行くのを見届けてから豊姫は視線を落す。
彼女はまだ必死に動こうとしていた。
「痛いけど、ごめんね」
小さく呟くと豊姫は彼女の後頭部目がけて今度は右足を力いっぱい振り落す。
そのまま彼女は意識を失った。
やがて指令船が捕えられた。
人間たちは一度月の都に収容されたが、洗脳した上で記憶をさっぱり忘れさせ、後日地上に送り戻した。
地上に戻った人間たちがどうなったかは誰も知らない。
※
「うどんげ! もうやめなさい!」
永琳が大声で呼びかけると、鈴仙は耳をピクリと動かして振り返った。
「輝夜、うどんげの目を見ないように」
「わかっているわ」
二人は鈴仙のお腹の辺りに視線を送って、決して鈴仙の赤く光る目を見ないように努めた。
すでに技を仕掛けている本人ですら自分をコントロールできない程、波長は乱れていた。
もし鈴仙の目を覗いてしまったら、そこに転がる妹紅のようになるだろうと思ったのだ。
「あー、ししょうさま。ひめさま。みてください。やりました。わたしやりました」
「そう。ご苦労様。もういいわ。もう十分。だから術を解きなさい」
「なんかいも。なんかいも。やりました。みてください。わたし。やりました」
「わかったから! 波長を全て戻しなさい!」
「たのしい。たのしい。みてください。たのしい」
輝夜が声を荒げるも鈴仙は構わない様子だった。
ケラケラ笑っているばかりだ。
すでに彼女は狂気に満ちていた。
輝夜たちの言葉が耳に入っていない。
「こうなったら、もう仕方がないわね」
永琳がすっと片手を鈴仙へと向けた。
輝夜が横から口を出す。
「永琳。わかっていると思うけど、イナバは私のペットでもあるんだから。あんまり酷い目には合わせないでよ」
「わかっています」
永琳が考えた鈴仙を止める一つだけの方法。
それは気絶してもらう事だった。
永琳の手から弾幕が放たれる。
「うどんげ。痛いけど我慢してね」
竹林の中で爆発音が響いた。
砂煙が立ち込める。
弾幕は鈴仙目がけて一直線に飛んでいったはずだ。
永琳と輝夜は並んで砂煙が消えるのを待った。
「永琳。イナバのこと、もっと私に早く言ってくれればいいのに」
「あんだけ可愛がっていたのに私がそんなことを言っていたら信じましたか? それに確証もほとんどなかったですし仮説だったからね」
「……さて。永遠亭に連れて帰ったら今後のことを考えないとね。さすがにこれは危ないし。イナバだって辛いでしょうに」
話を逸らすようにして輝夜は前を向いていた。
やがて砂煙が晴れていく。
その薄くなった煙の中に――赤い瞳が。
「! 輝夜!」
「わかってるわ! というより貴女の弾幕当たっていないじゃない!!」
すぐに視線を落とす二人の耳に。
「ころす。ひめさま、おししょうさま。ころすころすころす」
低く重い声に輝夜と永琳の体が小さく震えた。
鈴仙の方へ視線を移す。
顔を見ないようにしているも鈴仙が怒りで満ちているのが想像できる。
「ふたりとも。とよひめさまと。よりひめさまと。みんなとおなじことする。もういい。ころす。みんな、ころす」
豊姫と依姫の名前が出てきて永琳と輝夜は「え?」と声を出して、つい鈴仙の顔を見てしまいそうになって慌てて視線を落とす。
「豊姫、依姫って……」
「あの子たち、うどんげに一体何をしたのよ?」
永琳が呆れたようにため息を漏らしたが、油断は出来なかった。
輝夜たちの周囲の音が途切れたり、歪み始めていた。
波長が大きく狂い出していた。
自分がまっすぐ立っているのか不安に覚えてくるのをぐっとこらえて、永琳と輝夜は冷や汗をかきながら鈴仙と向き合っていた。
※
鈴仙が気が付くと綿月姉妹の家で横になっていた。
頭がひどく痛かった。
昨日のことは全て覚えていた。
「気が付いたかしら? 蹴ったりしてごめんなさい」
豊姫が鈴仙に近づいて、頭を優しく撫でた。
鈴仙は謝ろうとしたが豊姫は優しく微笑みながら手で制して、ついに聞いてくれなかった。
依姫が来た。
しばらく稽古を休むように。
それだけ伝えると部屋を出て行ってしまう。
豊姫からもらった桃をかじりながら外へ出ると玉兎たちが稽古をしていた。
じっと見つめていると、ふと一人の玉兎が鈴仙に気が付いて声を上げた。
皆、逃げ出した。
鈴仙を、まるで化け物のように見て。
物陰からそっと鈴仙を見ていた。
鈴仙は黙って立っていた。
いつの間にか右手に力が入っていて、桃がぐちゃぐちゃになっていた。
その夜。
鈴仙は月を飛び出した。
※
「いい加減にしなさい! イナバ! すぐに止めなさい!」
輝夜が怒鳴ってみるも鈴仙は狂気と怒りに満ちた殺気を二人に向けていた。
「まったく。あの子たち、どんな乱暴な手段をとったのかしら?」
永琳が首を傾げる。
ご自分がつい先ほど綿月姉妹と同じことをしたのだが気が付いていない。
「ころす……ころす、おししょうさまも。ひめさまも」
鈴仙の目は赤く光りながら少し滲んでいた。
謝れなかった。
皆が離れていった。
鈴仙の心の奥底に深い悲しみが植えつけられていた。
永遠亭に迎えられてその悲しみは深く眠らされていた。
しかし妹紅戦でふと技を使ってしまった。
そして狂気の中、主人――永琳に攻撃をされた。
月の時と同じように。
悲しみは怒りとなって狂気となり果てた。
「豊姫も依姫もそんな暴力的なことをする子じゃなかったと思うけど」
輝夜が永琳の横で小首を傾げる。
ご自分がつい先ほど綿月姉妹と同じことをした永琳に賛同していたのだが気が付いていない。
ゆっくり鈴仙が輝夜たちに歩み寄った。
が。
鈴仙を目がけて火の玉が飛んだ。
事もなげに鈴仙は攻撃を避ける。
永琳と輝夜が見慣れた攻撃に驚いて、視線を向けるとそこには怖い顔が。
「あー……くそ。この兎め」
傷が治りきった妹紅である。
首をゴキゴキ鳴らして、鈴仙を睨むようにして立っていた。
妹紅も鈴仙の技を見切ったのだろうか、その目を決して見ないようにしていた。
「あら妹紅。おはよう」
「馬鹿。何がおはようだ。あの兎、私を盾にしやがって」
先ほどの永琳の弾幕を鈴仙はとっさに妹紅を盾にしてやり過ごしたのだった。
それで妹紅は気を失ったが、それ故に一度鈴仙の術が解けたのだ。
「輝夜。お前とんでもない兵器を隠し持っていたんだな」
「兵器と呼ばないで。あの子は私の大事な弟子よ」
妹紅の嫌味に永琳が怖い顔をして睨み付ける。
だが妹紅は涼しい顔を浮かべていた。
「さてどうする? あいつにやられた分お前に仕返しをしたいが、あいつが黙って許してくれなさそうだ。もちろん逃げ帰る気もないけど」
「あらよかったわ。人数は多い方がいいからね」
「まったく……なんで妹紅なんかと共闘しないといけないのよ」
三人の目的は同じだった。
とにかく鈴仙を気絶させて狂気を解くことだった。
妹紅の言葉に輝夜も永琳も構えて鈴仙に向き合う。
鈴仙は赤い目を潤ませて、そして笑った。
竹林の中に四人の殺気が満たされていこうとしていた。
「馬鹿みたい。こんなことしてなんの解決になるのかな?」
ふいに投げかけられた言葉。
四人が言葉の主へ一斉に振り返った。
てゐだった。
面白くなさそうな顔をして輝夜と永琳を交互に睨み付ける。
「本当に馬鹿みたいだね、お二人さん。これで鈴仙が幸せになれると思っているの」
「自分なら幸せにできるような口ぶりね。じゃあ貴女に任せてもいいのかしら?」
永琳がてゐを睨み付ける。
だがてゐは口元に笑みを浮かべて頷いた。
「もちろんさ。私は幸せを振りまく地上のイナバ。このてゐさんに任せなさい」
そういうとてゐはゆっくり鈴仙へと近づいていく。
構える様子はなく両手を頭の後ろに回しながら。
輝夜も永琳も驚いて呼び止めようとした。
妹紅も眉を上げててゐを注視していた。
しかし構わず鈴仙の傍までてゐは歩いていく。
「鈴仙」
「…………」
てゐはニコニコ笑いながら鈴仙に話しかける。
鈴仙は黙っててゐを睨んでいた。
「もうこんなことをするのは止めようよ。ね、一緒に帰ろう。だから術を解いて――」
言い終わらぬうちにてゐが地面に倒れる。
鈴仙が頬を殴ったのだ。
「お、おい!」
「てゐ!」
妹紅と永琳が同時に叫んだ。
しかしてゐは手を大きく伸ばした。
まるで輝夜たちに干渉するなと言うように。
「いいから黙っていて。私が何をされても、何もしないで……鈴仙、落ち着こう」
鈴仙は話を聞いてくれない。
それからは一方的なものだった。
ひたすら鈴仙はてゐに拳を振り降ろした。
頬が赤くなり、紫色に変わり、やがて血が滲み出てきた。
それでもてゐは一切抵抗しないまま鈴仙の好きなようにさせていた。
「……鈴仙、そんなんじゃ私は死なないよ」
「っ!」
てゐの言葉に鈴仙は立ち上がると右手の人差し指を構えて――銃口をてゐの顔面に向けた。
さすがに見ていられなくなって、輝夜と永琳、妹紅は駆けだした。
だが、三歩進んだところで三人とも足を止めてしまう。
鈴仙が震えていた。
ぶるぶると構えた右手が大きく揺れる。
泣いていた。
赤く光る目からポロポロと涙が零れた。
やがて「ふー、ふー」と大声で泣きたくなるのを我慢するように、荒い呼吸をし始めた。
「……だよね。鈴仙は殺したりなんかしないよね」
体がボロボロになりながらてゐは上半身を起こすと、向けられた鈴仙の右手を握ってやる。
抵抗もなく鈴仙は右手を下ろした。
「自分をコントロールできないだけで、本当はこんなことしたくないんだよね」
「……あのとき。にんげん、ころそうとしていた。だけど。とよひめさま。よりひめさま。よろこんでもらえなかった」
「うん。そうなんだ」
鈴仙がぼそりぼそり呟くのをてゐは頷いて聞いていた。
「つぎのひ。あやまろう。だけど、とよひめさまも。よりひめさまも。みんな、わたしを避ける。それがすごくかなしくて、にげた」
「うん」
鈴仙の目から赤い光が弱まっていく。
やがて元の目の色に戻ると涙が次から次へと溢れてきた。
「えいえんていの皆に受け入れられて、私嬉しかった。なんとかしてお役に立ちたかったけど、でももうダメ。やっぱりこうして皆を困らせる。私は! 私は!」
そして膝から崩れ落ちると大きな声で泣いた。
今まで積もった悲しみも苦しみも吐き出すように。
竹林の中で彼女の声が響き渡った。
輝夜と永琳がそっとてゐたちに寄った。
黙って鈴仙を見つめていた。
妹紅はその場に立って目を閉じていた。
「私は自分のことが嫌い……調子にのって、勝手に良かれと思って暴走してしまう自分が、嫌いだ」
「でも私は鈴仙のことが好きなんだな」
てゐは優しく微笑んで鈴仙の頭を撫でた。
「初めて会った時のこと覚えている? あの時も鈴仙すんごく泣いていた。皆に謝っていたね。心の底から謝っていたね。だから私は鈴仙が本当は優しい子だって、知っていたよ。その後で見せてくれた鈴仙の笑顔。私、大好き。大丈夫。私が傍にいてあげるよ。これからのことも一緒に考えてあげる」
耳元に囁くようにてゐは一つ一つ言葉をかけた。
鈴仙は応えるように一つ一つ頷いた。
「ありがとう……」
そう言って鈴仙はてゐにもたれかかるように倒れた。
気を失ったらしい。
しかし、その鈴仙の顔は涙と鼻水でぐしょぐしょに濡れながら小さく笑っているようにも見えた。
※
翌日。
永遠亭の縁側でてゐは永琳の新しい包帯を巻き直してもらっていた。
時折てゐは痛そうに顔をしかめる。
「ちょっとお師匠様! もうちょっと優しく巻いてくれるとありがたいんだけど!」
「これでも優しく巻いているつもりだけど。はい」
包帯を巻き終えて永琳は軽く頭を叩いた。
傷口を叩かれて「いてぇ!」とてゐが叫ぶ。
「悪かったわね」
「本当だよ、まったく患者さんの傷口を叩くなんて」
「いえ、そうじゃなくて黙っていたことよ」
「え?」
てゐが振り向くと永琳は申し訳なさそうな顔を浮かべていた。
その顔をみててゐの目が丸くなる。
「私一人で解決しようと思っていたわ。私を師匠って慕ってくれるうどんげにちょっと浮かれていたのかもね……あのまま力づくでうどんげをねじ伏せても、うどんげの気持ちを知るのが遅れていたかもね。その間にも私はかけがいのない仲間を失っていたかも。てゐ、ありがとう」
永琳が深く頭を下げた。
しばらくてゐは見つめてから、ニシシと笑った。
「じゃあ私と鈴仙の為にお庭に人参畑作ってもいい?」
「どうぞ」
やっほー、と両手を挙げて喜んで、てゐは立ち上がった。
そして部屋の隅で三角座りをしている彼女の元へ寄った。
鈴仙は昨日ずっと寝続けて、朝からずっとこうしていたのだった。
てゐは笑いながら鈴仙に話しかける。
「ねぇ聞いた? 人参畑作ってもいいってさ! よかったね!」
「……うん」
鈴仙は顔を膝に埋めたまま小さな声で返事をした。
やがてゆっくり顔を上げててゐを見つめる。
その目は涙で赤くなっていた。
狂気の目ではなくて、溜まりに溜まった感情があふれ出てしまった目だった。
「てゐ。お師匠様……あの、ごめんなさ――」
「おっと! 謝らなくていいよ」
鈴仙の言葉をてゐが遮った。
言葉の行き先を失って鈴仙の目が丸くなる。
てゐの顔が豊姫と重なってまた表情が暗くなる。
しかしてゐは人差し指を「ちっちっちっ」と振って笑いかける。
「鈴仙がしないといけないのは謝ることじゃなくて、これからのことを考えること。昔を思い出して悩んでだってさ、何にも解決しないよ。だから一緒に考えよう。とりあえずはその技を上手にコントロールする方法を見つけないとね……月にいた仲間たちも、けっして鈴仙のことを嫌ったりはしていないと思うよ。ただどうしていいか戸惑っていただけだと思う。だから上手に技を操れるようになったらさ、いつか月に行って見せつけちゃえ。それから謝ったらいいよ。私が傍にいるから」
てゐの言葉に鈴仙は言葉を失ったまま見つめ返した。
ふと永琳の方を見ると、永琳も笑って頷いた。
「……ありがとう」
「はい、正解ー。こういう時の正しい返事は『ありがとう』さ。それじゃあ、さっそく技を磨くにはどうしたらいいか……って!? ちょっと鈴仙!?」
今度はてゐが言い終わらぬうちに鈴仙がてゐを思いきり抱きしめる。
絶対、離さないように。
てゐは「あー」と言葉を漏らして頬をかいて、そして鈴仙にされるがままにされていた。
頬を赤く染めて。
「あいつを見てるとさ。自分のことを思い出してしまうよ」
「ふーん」
少し離れた永遠亭の庭で。
輝夜と妹紅は並んで立ちながら抱き合う二人のイナバを見つめていた。
「お前に対する憎しみでいっぱいだった私は、けっこう無茶やってお前を探していたんだ。なんというか、あいつも今まで寂しさを抱えて生きてきたんだなぁって思う」
「それで? イナバはこれからに向けて歩き出すけど、妹紅はこれからどうするの?」
輝夜の問いかけに妹紅はふっと小さく笑った。
「私も歩き出そうかな。お前を見つけて、いやお前の姿を追い求めていた時から私は前へ歩くことを忘れてしまっていたみたいだ。どうするかなんて、これからゆっくり考えるようかな」
「そう」
妹紅は満足そうに歩き出すと輝夜に背中を見せて永遠亭の門から出ようとする。
それを輝夜が呼び止めた。
「一緒に考えてあげてもいいわよ」
妹紅が振り返ると輝夜は照れくさそうに顔を赤らめていた。
ぽかんと見つめて、そして妹紅は笑った。
「なによ!」
「いやいや別に。まさかお前からそんな言葉が聞けるなんて思ってもいなかったから……ありがとう」
そう言い残して妹紅は去って行った。
いなくなってしまった妹紅の背中を見つめて、輝夜は微笑んだ。
「……どういたしまして」
今日も明るい日差しが永遠亭を照らしていた。
これから歩き出す彼女たちを輝かせるようにして。
※
アポロ計画から数十年が過ぎた。
今ではアポロ計画はねつ造されたものではないかと人間たちは騒いでいる。
やれ宇宙では旗は揺らめかないとか。
やれ同じような地表ばかり映っているとか。
やれ全ては合衆国政府の陰謀ではないかとか。
その事実を人間たちは未だ知る由もなかった。
囲まれるようにして大きなテーブルを前にした椅子に深く腰を下ろした男が、両手を握り口元に当てるように目を閉ざす。
足音が響き、やがて近づくと部屋のドアが破られるようにして開かれて額から汗を流した男が入ってきた。
肩で荒く呼吸して「失礼いたします」と椅子に座る男へ寄っていく。
椅子の男は両手をようやく離して目を開いた。
「どうだね?」
汗でシャツまで濡れた男は小さく頭を振った。
「音声があります。お聞きになりますか」
「もちろん。すぐにだ」
彼らの前にテープレコーダーが用意される。
椅子の男が周りの男たちを促すと、テープレコーダーが回り始める。
男たちはじっと耳を澄ませていた。
やがてテープレコーダーが鳴らした光景は――惨状。
数人の男たちが大声で怒鳴り合う声。
恐怖に怯えた悲鳴。
耳障りな鈍い音。
そして、明るい笑い声。
音声に聞き入っていた男たちの顔色が青ざめてくる。
互いに顔を見合わせて、受け入れられない事実を突き付けられたように。
椅子の男だけがじっと静かに耳を傾けていた。
しかしその男も目を閉じて手を小さく振る。
「もういい。止めてくれ」
男の指示でテープレコーダーは動きを止めた。
部屋の中に沈黙がおとずれる。
立っている男たちは椅子の男に注目していた。
椅子の男は一つため息を吐いてから汗をかきながら部屋に入ってきた男に話しかけた。
「クルーたちはどうなった?」
「申し訳ありません。今のところわかりません……」
「そうか」
返事を聞いてゆっくり立ち上がる。
そして周りの者たちを見渡した。
「この事実は公表するな。この場にいる者だけに留めろ!」
「了解しました」
「それから。至急クルーたちの家族全員を懐柔する手はずをしろ。偽装工作を行う。全ての事実をだ」
「しかし……もしクルーたちの家族が騒ぎ出したらいかがなされます?」
椅子の男は苦い顔を浮かべてたが、すぐに指示を出す。
「強硬手段も構わん。口を封じろ……異議はあるか?」
睨むように低い声で話す男に誰も口を出す者はいなかった。
「ではすぐに動け! 明日までの会見に間に合わせろ!」
「……わかりました。大統領」
翌日の朝。
テレビから。
ラジオから。
大統領と呼ばれた男の明るい声が響き渡った。
「おはようございます、合衆国国民の皆さん。皆さんは興奮と期待のため眠れない夜を過ごした事でしょう。しかしその眠気を吹き飛ばす明るいニュースが我々の元へ届きました……アポロ11号が無事に月面に着陸いたしました。これは人類にとって大きな一歩に違いないでしょう!」
※
嫌だ。
嫌だ。
嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。
誰か。
誰か助けて。
※
「うーん……よく寝たわぁ」
朝。
明るい日差しが永遠亭に降り注いでいた。
縁側を蓬莱山輝夜は背伸びをしながら何度も欠伸を浮かべながら歩いていた。
その顔はまだ眠そうだ。
何度も目を擦りながら一室へと入っていく。
「あ、おはようございます! 姫様」
「おはよー、イナバ」
部屋に入ってきた輝夜に声をかけたのは鈴仙・優曇華院・イナバ。
長い髪を頭の後ろで一つに括って元気な笑顔を浮かべる。
どうやら朝食に使うらしい洗った野菜が入ったざるを手にして元気よく挨拶をした。
「今日も元気ねぇ、イナバは」
「はい! 姫様と師匠に仕える身として精一杯頑張りたいと思っていますので」
「えらいわね。よしよし」
ニッコリ笑う鈴仙に輝夜も目を細めて、その頭を優しく撫でてやる。
鈴仙は「ひ、姫様ぁ!?」と驚いた声を上げながらも気持ちがいいのか目を細めて輝夜のされるがままにされていた。
この月の兎がこの永遠亭に来てから一年が過ぎていた。
竹林の中を彷徨っていたのをもう一人のイナバが見つけ輝夜に報告したのだ。
従者は当初、鈴仙を疑うように、脅すように睨み付けていたのだが今では大事な永遠亭の一員だ。
しばらく鈴仙の頭を撫でていると「ごほん」とわざとらしい咳ばらいが聞こえた。
二人が顔を見合わせてから振り返ると一人のイナバが苦い顔をして立っていた。
「朝から仲がいいねぇ。あまったるい空気で体が重いよ」
そこにいたのは永遠亭のもう一人のイナバ。
因幡てゐ。
竹林の中をふらふら歩いていた鈴仙を見つけ輝夜に報告したイナバである。
くせっ毛の頭をかきながら拗ねているような顔をしていた。
「あら? てゐったら鈴仙に嫉妬しているのかしら? ふふ、おいで。てゐの頭も撫でてあげるわ」
輝夜がにんまりしながら手をてゐに伸ばす。
しかしてゐはぷいっと顔を背ける。
「別にぃ。そんなんじゃないから」
「強がっちゃって」
輝夜は笑顔を浮かべたまま、てゐに構わず歩き出して卓上の前に座る。
「こら、てゐ! 姫様に失礼でしょ!」
てゐに近寄って鈴仙が怒ったような顔をする。
まるでぐずっている小さい妹を叱りつける姉のようにみえて輝夜がまた一つ笑った。
だが、てゐはじっと鈴仙の顔を睨むように見つめる。
「な、なによ?」
真っ直ぐな視線にたじろいでしまう。
「なーんでもない。鈴仙なんかに教えるか」
てゐが「べー」と舌を出して背中を向ける。
そしてゆっくり卓上へと歩いていく。
「……私が嫉妬しているのは鈴仙じゃないよーだ」
ぼそりと呟いたがその声は輝夜にも鈴仙にも届かない。
そこへまた一人顔を出した者がいた。
「朝から騒々しいわね。喧嘩はよしなさい」
顔を渋く作って二人のイナバを交互に見てから注意をする。
八意永琳。
月の都の創設者の一人で「月の頭脳」と呼ばれていた。
今では月を追われた輝夜の従者。
この永遠亭は輝夜とこの永琳の二人が取り仕切っている。
永琳は「まったく、もう」と呟くも笑みを浮かべて鈴仙の元に寄っていく。
この四人で暮らす生活がとても楽しいと思っていたのだった。
「うどんげ。野菜は洗えたかしら」
「はい師匠! すぐに料理にします」
にこにこ微笑んだ師匠に鈴仙もまた笑顔で返す。
「私も手伝うわ。お腹をすかせた姫様が待っているから」
永遠亭に朝の調理の音が響く。
まな板に振り落された包丁がとんとんと調子よく鳴った。
輝夜は両肘を卓上に乗せながら両の掌で顔を支えて笑っていた。
てゐだけはまだ拗ねている表情を浮かべていた。
「それで? またあの娘と徹夜したわけですか」
朝食を済ませて部屋の中にはのんびりとした空気が漂っていた。
お茶を出しながら永琳が輝夜に訊ねる。
庭では鈴仙が衣類を洗濯していた。
一生懸命でありながら丁寧に一つ一つ洗っていく。
その横でてゐが時たま鈴仙にちょっかいをかけて鈴仙に文句を言われる。
今日初めてようやくてゐの顔にも笑顔が浮かんだ。
「そうなのよ。まったく飽きないわね、妹紅は」
輝夜は永琳からお茶を受け取って一口すする。
そうして一つ息を吐いた。
藤原妹紅。
かつて輝夜が京の都にいた時に大金をはたいてまで求婚した男の娘。
輝夜は彼女のことなどまったく知りもしなかったが、今こうして迷いの竹林の中で隠れるように暮らしていたある日、突然輝夜を襲撃した。
そこで初めて妹紅のことを知ったが憎しみに満ちた妹紅は構わず輝夜の命を狙い続けた。
その日から輝夜と妹紅は竹林の中で終わりのみえない殺し合いを続けていたのだ。
「まったく相手にしているときりがないわ。もうそろそろこちらから手を打ってもいいと思うの」
「手を打つ? 姫様、いかがなさると言うのです?」
永琳が首を傾げると輝夜はニッコリと笑って自分の考えを口に出した。
「もちろん今度はこちらから奇襲をかけるのよ! もう妹紅に私への憎しみを忘れるような攻撃をね。というわけで」
「申し訳ありませんが私はごめんです」
永琳が両手でバツを作ってきっぱり断ると、輝夜が「えー」と不満そうな顔を浮かべる。
「永琳。貴女は私の従者じゃない。主人の言いつけを断るなんて」
「これは姫様、貴女とあの娘との問題でしょ? 私は不必要に介入しないでゆっくり見守ることにします」
輝夜の文句に気にすることはなく永琳はまるで子どもに諭すような口調で話した。
卓上に頭をのせて「そんなぁ。永琳のバーカ、バーカ」と輝夜が悪態を漏らす。
面白くなさそうな顔をして視線を庭に移すと、そこには二人のイナバが仲良くじゃれ合っていた。
「鈴仙ー。こっち向いてー」
「はいはい。どうせ振り向いたらあんたの人差し指で頬っぺた刺すんでしょ?」
「振り向かなかったらタライが頭に落ちてくるけどね」
ごちーん。
金属の高い音が鳴って鈴仙がぐわんぐわん頭を揺らす。
その後ろでてゐがケタケタ笑った。
「……てーゐぃ!!」
鈴仙が怒った顔を浮かべて両手を上げててゐを追い回す。
追われたてゐは楽しそうな顔をして逃げ回る。
そんな二人のイナバを見つめていると輝夜の頭に一つ思い浮かんだ。
「ちょっとイナバ。あ、鈴仙の方ね」
「まてーゐ! ……え?」
輝夜に呼び止められて鈴仙の足が止まる。
振り返ると輝夜がニコニコと笑いながら目の前まで歩み寄ってきていた。
頭にすごく嫌な予感がよぎって鈴仙の顔がそのまま固まる。
「そう言えばイナバ。ここに来てから貴女の実力を見たことがなかったわ。よかったら貴女の実力を見せてくれないかしら?」
「……え、えーと。つまり、その」
「今度、妹紅を奇襲してくれないかしら?」
そうニッコリと笑う輝夜。
鈴仙はまだ顔を固まらせて返事に戸惑う。
そんな鈴仙を見て楽しそうに逃げていたてゐが足を止めて真顔になる。
庭先に風が吹いて鈴仙と輝夜の髪を撫でた。
「……姫様。その、私は――」
鈴仙が言いよどむように何かを口にしようとした。
「ダメよ」
それを遮るように思い声が飛ぶ。
三人の視線が一つに集まるとそこには険しい顔つきの永琳が立っていた。
永琳は立ち上がると輝夜の顔をじっと見つめる。
少し輝夜が怯んだ。
ちらりと鈴仙の顔を見てから永琳は真剣に諭すように話した。
「姫様。先ほども申し上げましたがこれは姫様とあの娘の問題です。いくらうどんげが姫様の従者の立場とはいえ私事に巻き込むのはよくないことだと思います。私は許しませんからね」
月の都にいた頃の、かつての教育係の厳しい顔に輝夜はすっかり怖気てしまっていた。
「そ、そんな怖い顔をしないでもいいじゃない。わかったわよ」
輝夜が手を振ってお茶を濁すと永琳は自分の顔つきに気が付いたように、はっと我に返った。
「……申し訳ありませんでした、姫様。さて私は実験の為私室に入ります」
「そ、そう」
輝夜が返事をすると同時に永琳は背中を向けて部屋から出ていってしまう。
卓上の上には湯気が立った湯呑が残されていた。
「まったく永琳たら。なにをそんなに怒ることがあるのよ」
いなくなった永琳の背中を見て輝夜がプリプリ怒って文句を言う。
その後ろで鈴仙は静かにうな垂れていた。
「まったく。輝夜ったら」
永琳の私室。
輝夜ですら立ち入ることを禁じられた部屋だ。
様々な実験道具に囲まれた机の前に永琳は頭を抱えていた。
むきになってしまった自分を恥じながら輝夜への不満も覚える。
元から実験などする気はなかった。
する気がなくなった。
頭の中には明るく笑顔を浮かべる鈴仙の顔が浮かんだ。
どこかお調子者で。
どこか弱気で。
頼りないイナバ。
でも誰よりも一生懸命に仕事に励んでくれる。
明るい笑顔を振りまいてくれる。
今では愛おしい永遠亭の一員の彼女の顔を。
だが頭の中で彼女の顔が大きく歪まれていくのが目に映った。
永琳はそれを振り払うように頭を乱暴に振って、ため息を漏らした。
「……そろそろ輝夜に話すときかしら」
「それは是非とも聞きたいね」
後ろから声が投げかけられる。
永琳は頭を支えていた手をゆっくり下ろすと冷静に後ろへ振り返る。
部屋の入口。
てゐが立っていた。
悪戯兎の顔をして。
「私以外は立ち入り禁止とドアに札をかけていたけど?」
「ドアが少し開いていたから覗いただけさ。ほら、中に入ってないよ」
てゐはニシシと笑ってみせる。
確かにてゐは部屋の中には一歩も入っていないがドアは全開に開かれていた。
嘘を吐いていることは一目瞭然だった。
永琳の目が鋭くなる。
「そうね。貴女の言うとおりだわ。次からはきちんとドアを閉めることにするわ。ご忠告ありがとう。ドアを閉めてちょうだい」
「何を隠しているの?」
追い返そうと口にしたが、てゐもまた鋭い目で永琳を睨み付ける。
部屋の空気が張り詰めたものになった。
「隠している? 私が? 馬鹿なことを言わないでちょうだい。ただ我がままばかり言う姫様にちょっといらついてしまっただけよ。大丈夫、後で謝るから」
「姫様のことじゃなくて……鈴仙のことじゃないの?」
てゐがはっきりとした口調で永琳に詰め寄る。
永琳の目が丸くなった。
「図星だね。私に嘘など通用しないよ。嘘のつき方なんてこの屋敷の中では私が一番知っているからね。で? 何を隠しているの? 鈴仙のこと、何を知っているの?」
ゆっくりと永琳が立ち上がる。
てゐと向き合うとその手にはいつの間にか矢が握られていた。
しかしてゐが怯む様子はない。
じっと永琳を睨み返していた。
「あんまり調子にのると痛い目に合うわよ。全てが自分の思い通りにいくと思っているのかしら? 世の中は自分の好きなようには回らないことを身をもって教えてもらいたいの?」
「おぉ怖いね。それで? じゃあいつになったら話してくれるの?」
てゐはすぐに永琳に言葉を投げ返す。
永琳は矢を握って黙ったままだ。
また部屋に沈黙が訪れようとして、その前にてゐが破った。
「ま、いつかは話してくれるんでしょ? 鈴仙のこと。お師匠様は鈴仙のことを弟子以上に想っているみたいだけど……私だって負けてないんだから」
そう吐き捨てててゐは部屋の前から立ち去った。
永琳はしばらく矢を握ったままだったが、力が急に抜けたように椅子にもたれかかった。
頭が痛むようにまた手を額に当てて目を閉じた。
※
竹林の中をふらふら歩いている彼女が視線に入った。
何か絶望しているような顔をしている彼女が。
てゐは遊んでいた竹の棒を放り捨てると彼女に駆け寄った。
「なぁに辛気臭い顔をしているの?」
笑顔を浮かべて話しかけるが、彼女は足を止めたが返事をしない。
そんな彼女を気にすることなくてゐは話しかけ続ける。
彼女の頭には長い兎の耳が生えていた。
自分と同じ妖怪兎であることに親近感を覚えたようだった。
「あんたも妖怪兎かい? 仲間だね、と言いたいところだが地上のイナバじゃなさそうだね。へにょった耳をした妖怪兎を見るのは初めてだよ。どこから来たの?」
小首を傾げててゐが訊ねるとようやく彼女は返事をした。
「……貴女。仲間はいるのかしら?」
思いもよらない言葉にてゐは少し目を丸くした。
「いるよ。いっぱい妖怪兎たちが。それに頼りになる姫様もお師匠様もね」
「そう……幸せね」
初めて彼女はてゐに視線を向けた。
その目が感情を失い冷たいものだというのがすぐにわかった。
てゐの顔から笑顔が消える。
竹林の間は冷たい空気に包まれていた。
彼女がゆっくりと口を開く。
「ねぇ。もしも貴女からその仲間たちが離れてしまったら、貴女はどう思う? 今まで仲良くしていた子が急によそよそしくなったりしたらどうする?」
「どうするって……まぁ、そりゃ悲しいことだろうね。きっと寂しい思いにかられるよ」
てゐはまたニコッと笑って彼女に話しかける。
「でもそうならないようにするよ。上辺だけの付き合いなんて互いに疲れるだけだし。心の底から笑い合える関係が一番さ。それでも仲間たちが私から離れたらまた新しい出会いを求めるさ。どう? 答えになってる?」
そう話すと彼女ははっと我に返ったようだった。
目に感情が戻っていく。
そして涙が浮かんできてその場に泣き崩れる。
「ちょ!? おいおいどーした?」
てゐが慌てて声をかけるも彼女は泣き続けた。
そして独り言のように口にした。
「皆……ごめん。こんな私でごめん。豊姫様、依姫様申し訳ありません。こんな私で申し訳ありません」
両手で溢れてくる涙を抑えるようにするが、涙は隙間からぼろぼろと地面に降り注ぐ。
てゐは話す言葉を失って彼女をじっと見つめていた。
彼女の体からは不幸が滲んでいるのがはっきりとわかった。
詳しくは知らないが彼女にとって耐え切れないほどの辛いことを味わってきたことを。
てゐはそっと彼女に寄り添うとその背中を優しく撫でてやる。
「何があったかわかんないけど、大丈夫大丈夫。このてゐさんが傍に居れば全て大丈夫! もう苦しむことはないよ」
「……え?」
彼女は顔を上げててゐを見つめた。
両目に涙を濡らせて。
長い髪の下のどこか弱気な、でも真面目で優しそうな顔を見ててゐの胸が一つ高まった。
「そ、そりゃそうさ。私は幸せを振りまく地上のイナバ。あんたなんかを笑顔にするのは容易いことさ」
高まる気持ちを抑えるように胸を張ってみせると、彼女はぼんやりしてから笑ってみせた。
てゐが見る彼女の初めての笑顔。
恥ずかしくなっててゐの顔が赤くなる。
しかし彼女は笑顔を浮かべたままくすくす笑っていた。
頬を紅くさせて目から涙を頬に伝わせて。
そんな彼女の顔を綺麗だと思った。
「笑うなよ」
「ご、ごめんなさい。つい」
彼女は謝って両手で涙を拭う。
その様子の一つ一つをてゐはちらちら見ていた。
「ところであんたの名前は?」
「え?」
「あ、私はてゐね。因幡てゐ」
てゐが名乗ると彼女は少し言いよどんでから話した。
「鈴仙……月にいたころは、昨日まではそう呼ばれていたけど」
「そう鈴仙か。よろしくね」
てゐはニッコリ笑って鈴仙に手を伸ばす。
鈴仙も戸惑ってからゆっくり手を伸ばした。
二人の手が繋がれた。
と思いきやてゐは鈴仙の手を引っ張るように走り出す。
「え? ちょ、ちょっと!?」
てゐに引っ張られて鈴仙は驚いた声を上げた。
しかしてゐは背中をみせたままどんどん走っていく。
「言ったでしょ? 私は幸せを振りまくイナバ。あんたみたいな妖怪兎でも幸せにさせるさ。これから姫様とお師匠様に鈴仙のことを紹介してやるよ。きっとあんたのことを気にいってくれるよ」
明るく話すてゐの言葉に。
鈴仙はぽかんとしながらも、やがて笑顔になる。
今度は涙を零さない満面な笑顔で。
※
「まったく永琳たら。そんなに怒る必要がどこにあるのよ」
「まぁまぁ姫様」
すっかり冷めてしまったお茶を飲みながら輝夜がぶーぶー文句を垂れていた。
その横で鈴仙が必死に宥める。
いつの間にかてゐもいなくなって部屋の中には二人だけとなっていた。
明るい日差しが部屋の中に降り注いでいた。
静かな部屋の中で二人はただ座って温かい日の光を体に受けていた。
輝夜が湯呑の茶を飲み干した。
「イナバ。おかわりを持ってきて」
「はい、ただいま」
鈴仙は席を立つと新しいお茶を淹れるために台所へと立った。
お茶の葉が入っている箱を開けて首が大きく傾げられる。
「あ、もうない」
「え?」
つまらなさそうにしていた輝夜が台所へ視線を向けると、そこには空になった箱の底を見せて申し訳なさそうに笑みを浮かべる鈴仙が立っていた。
「もぉー! 事前に買っておいてよー!」
「す、すみません!」
文句を垂れる輝夜に鈴仙がペコリペコリと何度も頭を下げて謝る。
別に鈴仙だけの責任ではないのだが、つい自分一人で責任を引き受けてしまうのが鈴仙の悪いところだった。
輝夜が畳を上に仰向けになる。
そうして両手足をバタつかせて、鈴仙にはわがままな子どものように見えてつい笑ってしまう。
行き場のない鈴仙はてゐに連れられて永遠亭へとたどり着いた。
永琳はやってきた鈴仙を見て「もし私に逆らうようだったら……」と月から来た鈴仙に警戒を強めた。
体を震わせていると明るい声で話しかけてきたのが輝夜だった。
「ふふ。いいわ。この永遠亭に暮らすことを許してあげるわ。でも私たちの一員になった以上は永遠亭に、というより私に尽くしてね」
なんの疑いもない綺麗な笑顔を浮かべた輝夜に鈴仙は目を丸くした。
同じく永琳も驚いた表情で輝夜の横顔を見つめる。
「ひ、姫様! まだこの者が月からの刺客ではないと確証を得られたわけでは――」
「大丈夫よ」
永琳の言葉を遮って輝夜は鈴仙の顔を目を細めて言った。
「貴女は綺麗な目をしているわ。とても綺麗な。貴女を見ているとあの頃が懐かしいわ。月にいた頃たくさんの玉兎たちが私の周りにいたわ……あの頃の思い出を忘れないように貴女が必要だわ。ここにいてくれるかしら?」
鈴仙はぽかんとした顔つきになる。
体の震えも緊張もなくなった。
顔を横に向けててゐの顔を見つめると彼女は小さく頷いてみせた。
永琳も「やれやれ」と首を振った。
「どうかしら? 私たちの仲間になってくれないかしら?」
もちろん鈴仙に断る理由はなかった。
仲間。
その言葉を聞いてまた鈴仙の目から涙が溢れてくる。
小さく頭を下げた。
「あらら。泣き虫さんなのね」
輝夜が笑い声を漏らした。
それから鈴仙は真面目な顔で永遠亭の為に仕事に励んだ。
輝夜は厳しいことを口にすることはなかったが、時折子どものようなわがままで鈴仙を振り回したが笑顔で彼女を労わってくれた。
鈴仙は徐々に笑顔になることが多くなり輝夜やてゐと楽しく会話をすることが多くなった。
てゐの鈴仙に対する悪戯もこの頃から始まっていく。
そんな彼女たちを見て永琳の顔も和らいでいった。
疑わしい顔つきをすることがなくなり、真面目な鈴仙を見て「私の手伝いをしてくれないかしら?」と誘うことになる。
永琳をあの月の創設者の一人である八意××だと知ったときは驚愕したが、そんな永琳に誘われて鈴仙は心から嬉しい気持になって頷いた。
この日から鈴仙は永琳のことを師匠と呼ぶようになる。
彼女たち四人の生活が始まって一年が過ぎようとしていた。
「イナバ、新しい茶葉買ってきてー」
「わ、私がですが?」
しばらく手足をバタつかせていた輝夜を見て微笑んでいると、いきなりのぶっきらぼうに話す輝夜の言葉に鈴仙は戸惑った。
茶葉を買うには人里に行くしかない。
人目から隠れるようにして竹林の中に過ごす彼女たちにとって人里への買い出しは、身分を明かさないようにしなければいけない。
さらに鈴仙はかなりの人見知りであり、人里への使いに行くのは苦痛にさえ思っていた。
本当はあまり行きたくはないのだが。
「うん、イナバしかいないし」
輝夜が言うとたしかにこの部屋には二人だけしかいない。
永琳は実験の為に私室に籠ることが多いし、てゐはその性格からか家事をすることはない。
いつも輝夜のお願いを素直に聞いて真面目に動くのは鈴仙だけだった。
覚悟を決めるしかなかった。
「……わかりました」
鈴仙は耳をさらにへにょらせて力なく立ち上がると、出かける準備をするために自室へと戻った。
「ありがとねー。あ、私の編み笠使ってもいいからー」
部屋を出て行った鈴仙の背中に輝夜は明るい声をかけた。
※
永琳はまだ私室で頭を抱えていた。
彼女の脳裏には鈴仙がこの永遠亭に住むようになって少し経った頃の事が浮かんでいた。
永琳が鈴仙と初めて言葉を交わした日。
「貴女、何故月を追われたの?」
まだ鈴仙を警戒していた永琳は自分の部屋に呼ぶと鋭い目で睨んだ。
鈴仙は体を震わせて言いよどむように答えた。
「……追われたわけではありません。月で大きな戦争が起きると聞いて、臆病者の私は身勝手にも逃げてきたのです」
「月で戦争?」
「ええ。なんでも人間たちが攻めてくるとか……そ、その私は逃げてきたので月がどうなったかは、し、知りませんが」
宙をキョロキョロと視線を彷徨わせてしどろもどろになって話す鈴仙を、永琳はじっと見つめていた。
「本当かしら?」
「ほ、本当です! でも豊姫様と依姫様のお力なら人間などに負けることはないと思いますけど……」
そうして鈴仙は顔を俯かせた。
永琳が顔を覗くと鈴仙は涙を流していた。
思いもよらないことに驚く永琳の前で鈴仙は泣きじゃくる。
「ごめんなさい……豊姫様、依姫様、すみませんでした」
鈴仙は心の底から泣いているようにみえた。
しばらくそんな彼女を見つめて永琳は目を細めた。
そしてそっと頭に手をのせて撫でてあげる。
涙を零しながら顔を上げた鈴仙に永琳は優しい声で話しかけた。
「ごめんね。貴女のことを完全に信用した訳じゃないけど、でも私たちに敵意がないことは十分にわかったわ。厳しいことを言って悪かったわ」
「……いえ」
この日を境に永琳は鈴仙を永遠亭の一員として認めたのだった。
数日後。
永琳はまた鈴仙を自室へと呼んだ。
「優曇華院?」
「そう。貴女の名前よ。この穢れた地上で美しく輝くように願いを込めて名付けてあげるわ。これからはそう名乗りなさい」
「……はい!」
鈴仙は悦びで頬を赤く染めながら明るく元気に返事をした。
喜怒哀楽が激しくて。
真面目で。
臆病で、お調子者で、弱虫で。
でも明るい笑顔が似合う彼女を永琳は優しく見守った。
「ところでうどんげ。貴女は何か特技のようなものはないかしら」
「特技ですか?」
「ええ。そういえば貴女には何ができるか聞いたことがなかったから」
永琳に言われて鈴仙は少し考える素振りを見せたが何か思い当ったらしい。
しかし言いよどんでしまう。
すぐに顔に出てしまうところがこの子の悪いところね。
永琳は微笑んで「何かしら?」と話すように促した。
促されて鈴仙は小さな声で話した。
「波長をいじることしか……」
「波長?」
「え、ええ。その、相手の感情だったり光や音だったり……幻覚とか幻聴とか、つ、作れるのかなぁ?」
「かなぁって。はっきりしなさいな」
「す、すみません。実は試したことがないので」
鈴仙は宙をキョロキョロ見渡してから小さく舌を出して頭を下げた。
一瞬の間、永琳は怪訝な顔をしたがすぐに笑顔に戻る。
「そう。それじゃあ私相手にやってみなさいな」
「ええっ!?」
永琳が「さぁ」と両手を広げて見せると鈴仙はわたわたと手を振って慌てた。
「ダメです、ダメです! そ、そんなことできません! そ、それに大した幻覚も幻聴も作れませんから、師匠のお役には何も立ちません!」
必死に弁解をする鈴仙をじっと見つめながら永琳は大げさにため息を吐く演技をする。
「あらそう。戦闘もダメ、特技もなし、うどんげに任せられるのは雑用くらいかしら?」
「うぐっ!?」
胸に見えない矢が刺さったように口から悲鳴が出た。
ズーンと落ち込む鈴仙に永琳はニコニコ顔をする。
「うどんげ。それじゃあ私の実験のお手伝いをしてくれないかしら?」
この一言で鈴仙は永琳のお手伝いもすることとなった。
あれから一年が過ぎた。
彼女は立派に永遠亭の仕事こなしてくれている。
しかし永琳はあの日の彼女の中の違和感を未だに感じている。
彼女は――鈴仙は何かを隠しているままだ。
そうは疑いながらも横で仕事に励む鈴仙に、辛い過去の事を訊きだすのは酷だと思った。
自分たちもまた月で大罪を犯しこの地上で隠れるようにして暮らす身だからこそ、余計に訊き出せなかった。
今までずっと鈴仙への疑いを隠して過ごしてきた。
だが。
今日の輝夜のあの言葉を聞いて、その違和感が永琳の胸の中で大きくなっていった。
「……やはり。輝夜に話すときね。それからうどんげにも話をしないと」
そうして立ち上がろうとした時だ。
大きな爆発音が聞こえた。
永琳が驚いて顔を上げる。
また一つ音が響く。
今度は銃声のような音。
竹林の中からだった。
永琳の顔から血の気が引いていった。
※
ねぇ。
どうしてそのような顔をされるのですか。
どうしてそのような目で私を見るのですか。
どうして私から離れようとするのですか。
どうして。
どうして。
どうしてどうしてどうしてどうしてどうして。
豊姫様。
依姫様。
皆。
どうして。
※
「あー……人里行くのやだなぁ」
永遠亭を出た鈴仙は深く編み笠を被りながら竹林の中を歩いていた。
編み笠は輝夜のである。
被っていけと言われて素直に主のを被る鈴仙であった。
高く伸びた竹林に遮られて、日の光はまばらに地面に降り注いで光の穴をあちらこちら作り上げていた。
人見知りが苦手な鈴仙にとって人里に行くのが一番辛い雑用だった。
まず竹林に隠れ住む立場であるから妖怪だと気付かれないようにしなければいけないし、また時間が余ってもどこか店に寄ることが出来ない。
美味しそうな食べ物や珍しい商品を置く店。
鈴仙はついつい気を取られてしまうが、用が済んだら静かに帰らなければいけない。
お預けを食らう犬みたいな気持ちになって、鈴仙はため息を吐いた。
――頭上から何かが迫ってきている。
そう感じた鈴仙が空を振り仰ぐと、
「輝夜! くらえっ!!」
火の玉が鈴仙目がけて落ちてきた。
慌てて鈴仙が跳ねて避けると、地面に火の玉が広がって雑草を舐めるように燃やしていく。
「さぁーて。一人でお出かけとはのんきなものね。今日こそは……って、あれ?」
やがて鈴仙の目の前に姿を現せた彼女は得意そうに笑っていたが、鈴仙の顔を見て目を丸くする。
藤原妹紅。
輝夜を心から憎み、度々輝夜を奇襲してはこの竹林を舞台に殺し合ってきた。
主の敵である。
鈴仙の顔に緊張が走った。
しかし一方の妹紅の顔は驚いてばかりで、さっき攻撃を仕掛けてきたような人には見えない。
「輝夜じゃない?」
首を傾げて編み笠を指差す。
鈴仙も「え?」と輝夜の編み笠を見つめた。
互いに言葉を失って、小鳥の声が聞こえるだけになった。
しばらくして妹紅は急に上を振り仰ぎ、今度は鈴仙が驚く。
「くそっ! 陽動作戦か!」
「ちっがーう!!」
どこかに輝夜が潜んでいると思っているらしい。
鈴仙は片手を額に当てた。
もしかしてこの人ちょっと天然? と鈴仙は心の中で思った。
「私一人で人里に向かっているの。この編み笠は姫様に借りたのよ」
「あ、そうなの? あー……うん。わかっていたわ」
嘘だ。
コントじゃないんだからと思い鈴仙の体が脱力していく。
妹紅は構わず髪を乱暴にかきながら鈴仙に話しかける。
「輝夜じゃないならいいや。見逃してやる」
「え?」
鈴仙がまた驚いたような声をあげると妹紅は首を傾げた。
「なに?」
「私、一応姫様の従者よ。闘わないの?」
怪訝な顔で訊ねる鈴仙に妹紅は「ふん」と鼻を鳴らした。
どこか得意げな表情になって。
「私が憎いのは輝夜一人だ。従者なんてどうでもいい。それに不老不死でもないお前が私と戦っても勝ち目ないでしょ?」
この言葉にカチンときた。
血が昇っていくのがわかる。
鈴仙の目が険しいものに変わっていく。
「……ずいぶん嘗められたものね。貴女が私のことをどうでもいいと思っても、私はどうでもよくないわね。姫様の敵は叩き潰す」
編み笠を丁寧に地面に置いて妹紅を睨むように向き合う。
「あらそう。じゃあやってみる?」
妹紅は得意げな笑みのままだ。
それがまた鈴仙を刺激した。
数秒、向き合った。
鈴仙の右手が妹紅に向けて構えられる。が。
「遅いね」
妹紅の言葉が聞こえた時には鈴仙の目の前で炎が壁を作っていた。
そして鈴仙へと迫ってくる。
「うひゃ!?」
鈴仙は喉の奥から変な声が出てしまったのにも構わず慌ててジャンプをする。
そんな鈴仙を追いかけるように火の玉が次から次へと放たれた。
竹から竹へと跳ねて攻撃を避けると鈴仙はやがて地面に降りる。
「すばしっこいなぁ。さすがは妖怪兎ね……うひゃー」
「うるさいわね!!」
妹紅にちょっかいをかけられて鈴仙が拗ねたような顔を少し浮かべた。
やっぱり恥ずかしいのだった。
両手の人差し指を妹紅に構えると弾幕を放つ。
妹紅が笑った。
そして放たれた鈴仙の弾を――もとい鈴仙を目がけて走ってくる。
「いいっ!?」
またもや驚愕されながら鈴仙は弾を放ち続ける。
何発かが妹紅の肩に、頬に、足に当たったが妹紅はそれでも鈴仙に近づいてくる。
自分から弾幕に当たりにくる妹紅に怯んで鈴仙は動けなかった。
弾を撃ち続けるが動揺した彼女の弾幕はあらぬ方向へ飛んで行ってしまう。
妹紅が目の前まで来たと思った時には、視界から妹紅が消えた。
そして強い衝撃が頭に走った。
妹紅に頭の左側を思いきり蹴られたのだ。
脳がぐわんぐわん揺れた。
その場に鈴仙は音を立てて倒れ込んだ。
「ふぅー。ほら、お前じゃ勝ち目ないよ」
「……いたたた」
激しく痛む頭を擦りながら鈴仙はゆっくり目を開けた。
目の前には妹紅が自分を見下ろしていた。
鈴仙の弾を受けた体の傷がどんどん塞がれていくのを見て歯がゆかった。
歯ぎしりしながらゆっくりと上半身を起こす。
「やめときなさいよ。今日は大人しく帰って傷でも診てもらいな」
「うるさい! お前なんかに――」
妹紅の言葉にイラついて言い返そうとしたが、左手がなにやらベトベトしているのがわかった。
ふと左手に視線を落とす。
血。
頭部から滲み出した黒のような濃い血が。
鈴仙はじっと見つめていた。
「家に帰った方がいいと思うんだけど。でもお前が希望するならもう少し遊んでもいいけど?」
妹紅が得意げになってなにかを言ったが、鈴仙の耳には届かなかった。
血。
血。
血血血。
嫌だ。
嫌だ。
嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。
誰か。
誰か助けて。
「ん? どうした?」
様子が一変した鈴仙に妹紅が首を傾げる。
妹紅の言葉に応じるように、ゆっくりと鈴仙は立ち上がると妹紅に向き合った。
だが先ほどまでの喧嘩口調はすでになく、ただ無言だった。
その目が赤く光り始めた。
※
「姫様!?」
輝夜の元に永琳が走ってきた。
永遠亭の縁側にはすでに輝夜とてゐが音のする方を見つめていた。
「てゐ。これはあの子よねぇ」
「鈴仙と妹紅だね」
どこかのんきそうに話す二人。
永琳は怒りを表して輝夜に詰め寄る。
「姫様! うどんげをあの娘と戦わせるのは止めてくださいと言ったでしょ!」
険しい永琳の表情に輝夜は怯んだが今度は負けずに言い返す。
「別にイナバをけしかけたりしてないわよ! ただお買い物をお願いしただけよ!」
無実を訴える輝夜に永琳は「そう」とだけ言ってまた視線を竹林へと向けた。
素っ気ない永琳に輝夜は「いーだ」と両手で口を大きく開けて舌を出した。
攻撃音が止んだ。
静かになった竹林を見ててゐがボソリと話す。
「終わったみたいだね。鈴仙、無事かな」
その表情は不安でいっぱいだった。
いつも鈴仙に悪戯をして楽しんでいるてゐ。
しかし今は本当に鈴仙のことを心配していた。
「まぁ大丈夫でしょう。妹紅は私には容赦ないけど、イナバには酷いことはしないと思うわ。ちょっと怪我してるかもだけど。その時は永琳、手当てしてあげてね」
輝夜は楽観視していた。
妹紅は輝夜しか狙わない。
今まで長い間、同居人である永琳やてゐに攻撃を仕掛けたことはなかったのだから。
あと少ししたら服をボロボロにして鈴仙が帰ってくると思っていた。
貸した編み笠は多分燃えてしまっているだろう。
そう思いながら永琳に話しかけようと視線を移すと、永琳は険しい顔つきのまま竹林の方を見つめたままだった。
「永琳? 何がそんなに心配なの?」
だが永琳は輝夜に返事をしない。
そして庭先へと降りた。
「私、うどんげを迎えに行ってまいります。姫様たちはここでお待ちください」
そう言うと竹林の中へ飛んでいく。
輝夜は目を丸くした。
「もうなんだって言うのよ! 私も行くわ!!」
慌てて永琳の背中を追いかけて飛んだ。
てゐは竹林の中へ消えていく二人を見て、「鈴仙……」と小さく呟いてその場で佇んでいた。
輝夜が追いかけると、それがわかったのか永琳は速度を落として輝夜と並んだ。
不機嫌そうな顔を隠さないまま永琳に話しかけた。
「永琳、話しなさい」
「……輝夜。ごめんなさい」
「いや、謝らなくていいから。何を隠していたの」
今度は輝夜が険しい顔で永琳に問い詰める。
永琳は苦い顔で輝夜に説明した。
輝夜にも今まで隠してきた事を。
それは初めて鈴仙と言葉を交わしたあの日、そして鈴仙に「優曇華院」という名前を付けた日。
鈴仙に感じた違和感。
彼女が嘘を吐いているという疑い。
そこから考えた、最悪の仮説を。
「輝夜。おそらくうどんげは今までずっと嘘を言い続けていたと思うわ」
二人きりのとき永琳は輝夜のことを呼び捨てにする。
その方が説明もしやすいこともある。
「嘘? あのイナバが嘘を? 臆病者で戦争が起きるのに怯えて、月から逃げ出したような子よ。そんな子が――」
「それがすでに嘘だったとしたら?」
「……逃げ出したわけじゃない、と」
「そう。うどんげが昔に言った人間が月へ攻め入ったという時、彼女はまだ月にいたと思うわ。これは仮説だけどね」
「へぇ、それで?」
輝夜が興味深そうに話の続きを促す。
永琳は険しい顔つきになって説明を続けた。
「次に考えられるのは何故うどんげは月に居られなくなったのか」
「私たちと同じく罪を犯したとか?」
「それとは違うと思うわ。だって私たちは禁忌である蓬莱の薬を口にした罪人よ。こんな大罪を犯した私たちの前で自分の罪を隠してどうするの?」
「そっか」
輝夜は首を傾げて考える。
(たしかに私たちのような大罪を犯した者を前にしたら、むしろ自分の罪を話すだろう。罪人仲間というような意識で……)
一体何をやらかしてしまうと月にいられなくなるのだろうか。
月の都で幽閉されている嫦娥と接触してしまった。
上層部に対してクーデターを計画したのがバレた。
依姫は豊姫に対して実は姉としてではなく、それ以上の想いで慕っているのを皆にバラした。
豊姫が夜な夜な自分の能力で依姫の入浴している姿を覗いているのを皆にバラした。
色々な理由を考えるが中々思いつかない。
どれも禁忌を犯した自分たちに隠しておくほどのものではなかった。
「うーん、わからないわね」
「そこで次の仮説が考えられるわ。これは結構当たっていると思っているんだけど。うどんげの特技のことよ」
「あぁ、あの波長を操るとかなんとか言うヤツ。あれも嘘だと言うの」
「いえ、たしかに波長を操ることが出来るのは本当だと思うわ。うどんげが嘘を吐いているのは『今まで試したことがない』ということよ」
そうして永琳は自分の特技を話してくれた時のことを思いだした。
鈴仙は「幻覚や幻聴を作れるのかわからない」「今まで試したことがない」と話した。
だが永琳が自分に向けてやってみるように言ったとき、こう言って断ったのだ――「大した幻覚も幻聴も作れませんから」と。
永琳が感じた違和感の正体である。
初めて鈴仙と話をしたときから、彼女はキョロキョロと視線を彷徨わせていた。
鈴仙は嘘が表に出やすいのを永琳はすぐに感じ取っていた。
「あの子はこれまで波長を操ったことがある。それを隠しているんだわ」
「人間との戦争の時イナバはまだ月にいた。でも月にはいられなくなった。波長を操り幻覚や幻聴を作り出せるのに『出来ない』と言って隠していた。この三つがイナバが吐いていた嘘ってこと?」
「そう。そしてその三つを合わせると最悪な仮説が出来上がるわ」
やがて二人の鼻に焼け焦げた臭いが漂ってきた。
目の前の竹林の一帯が真っ黒に焼けていた。
その端へたどり着く永琳と輝夜。
真っ黒に焼けた地面に一人倒れていた。
「……妹紅」
地面に転がっている彼女を見つけて、輝夜が呟いた。
妹紅は少し顔を動かして輝夜の顔を見たように見えた。
しかしその目の焦点がまったく合っていない。
すぐにキョロキョロと視線をあちこちに向けた。
まるで何も見えていないように。
体は小さく震えて、ボロボロになっていた。
傷が少しずつ回復していく。
そんな妹紅の横に、彼女は立っていた。
じっと俯いて転がる妹紅を見つめている。
やがて右足を上げると妹紅の横顔を思いきり踏みつける。
「ねぇ? どう? ねぇねぇねぇねぇ? どう? どう、どう? わたしにやられてどんなきもち? ねぇ、おしえてよ。あはは、あはははははは」
左の額から血が流れていた。
しかし両目を真っ赤に光らせた彼女は。
壊れた笑顔で震える妹紅の体を踏み続けていた。
「永琳。貴女の仮説はどこまで当たっていたのかしら?」
輝夜は冷静を装って狂気に満ちた鈴仙の顔を見つめていた。
問いかけに永琳は首を振って応えた。
「残念だけど……全部大当たりだったわ。うどんげは特技とか言っていたけど、その技を自分の波長すら狂うくらいまったくコントロールできていないということも。月にいられなくなったのは人間相手に暴走してしまった、というところかしら」
※
一年前。
表の月。
綿月依姫は何人かの玉兎の兵士を連れて走っていた。
その先には姉である綿月豊姫が背中を見せて佇んでいた。
「お姉様! 人間たちはどうしましたか? 月の都までには来れないでしょうけど」
ようやくその後ろまでたどり着いて豊姫に話しかける。
しかし豊姫は何も答えず前に視線を向けたままだ。
「……あの子を視察に向かわせたのですが、もしかして人間たちに捕えられたとか?」
「いいえ。無事よ。でも酷いわね」
豊姫がやっと問いかけに返事をしたがやはり視線は前に向いたままだ。
依姫が少し進んで姉と並ぶように立つ。
姉の背中に隠れて見えなかった惨状が目に入った。
「あはははあはははははは。ねぇ、どう? ねぇどう? どう? どう?」
赤く鈍く光る両目で笑いながら鈴仙が人間の着陸船を破壊していた。
着陸船の中には泣き叫び、涙や鼻水でぐしゃぐしゃに歪んだ顔をしながら鈴仙に懇願するように話している人間の姿が。
人間の一人は意識を失っているようだ。
すでにエンジンは破壊され今はゆっくりと味わうように着陸船の足を潰しにかかっていた。
一本一本破壊されるたびに人間たちは泣き叫び、彼女は笑い声を上げた。
「どう? ねぇどんなきもちなの? ねぇねぇねぇおしえてよ。あはははは。もうすぐひきずりだしてやるからね。おまえらなんかに、いかせない。つきのみやこに。ここでころしてあげる」
そんな狂気に狂った彼女を見て依姫の顔が引きつる。
玉兎たちも怯えたような顔で彼女を見ていた。
まるで化け物を見るかのように。
豊姫がゆっくりと歩き彼女の傍による。
「もういいわ。すぐに止めなさい」
声をかけられて彼女は壊れた笑顔で振り返ろうとした。
「あ? ああー、とよひめさまぁ。みてくださいみてください、わたしがんばりました。もうすぐにんげんころせます。およろこびください。もうすぐにんげんころ――」
だが振り返る前に鈍い音が鳴って彼女の声が途切れる。
彼女の左顎を目がけて豊姫が拳で殴ったのだった。
「っ!?」
顎を殴られて頭の中が揺れながらも、彼女は立ち上がろうともがいていた。
言葉にならない声を漏らしながら。
「依姫。人間たちの指令船がどこかで飛んでいるわ。すぐに捕縛してここに連れてきて。こちら側も人間側も色々もみ消さなきゃいけないわ」
「わかりました」
戸惑いながらも依姫が離れて行くのを見届けてから豊姫は視線を落す。
彼女はまだ必死に動こうとしていた。
「痛いけど、ごめんね」
小さく呟くと豊姫は彼女の後頭部目がけて今度は右足を力いっぱい振り落す。
そのまま彼女は意識を失った。
やがて指令船が捕えられた。
人間たちは一度月の都に収容されたが、洗脳した上で記憶をさっぱり忘れさせ、後日地上に送り戻した。
地上に戻った人間たちがどうなったかは誰も知らない。
※
「うどんげ! もうやめなさい!」
永琳が大声で呼びかけると、鈴仙は耳をピクリと動かして振り返った。
「輝夜、うどんげの目を見ないように」
「わかっているわ」
二人は鈴仙のお腹の辺りに視線を送って、決して鈴仙の赤く光る目を見ないように努めた。
すでに技を仕掛けている本人ですら自分をコントロールできない程、波長は乱れていた。
もし鈴仙の目を覗いてしまったら、そこに転がる妹紅のようになるだろうと思ったのだ。
「あー、ししょうさま。ひめさま。みてください。やりました。わたしやりました」
「そう。ご苦労様。もういいわ。もう十分。だから術を解きなさい」
「なんかいも。なんかいも。やりました。みてください。わたし。やりました」
「わかったから! 波長を全て戻しなさい!」
「たのしい。たのしい。みてください。たのしい」
輝夜が声を荒げるも鈴仙は構わない様子だった。
ケラケラ笑っているばかりだ。
すでに彼女は狂気に満ちていた。
輝夜たちの言葉が耳に入っていない。
「こうなったら、もう仕方がないわね」
永琳がすっと片手を鈴仙へと向けた。
輝夜が横から口を出す。
「永琳。わかっていると思うけど、イナバは私のペットでもあるんだから。あんまり酷い目には合わせないでよ」
「わかっています」
永琳が考えた鈴仙を止める一つだけの方法。
それは気絶してもらう事だった。
永琳の手から弾幕が放たれる。
「うどんげ。痛いけど我慢してね」
竹林の中で爆発音が響いた。
砂煙が立ち込める。
弾幕は鈴仙目がけて一直線に飛んでいったはずだ。
永琳と輝夜は並んで砂煙が消えるのを待った。
「永琳。イナバのこと、もっと私に早く言ってくれればいいのに」
「あんだけ可愛がっていたのに私がそんなことを言っていたら信じましたか? それに確証もほとんどなかったですし仮説だったからね」
「……さて。永遠亭に連れて帰ったら今後のことを考えないとね。さすがにこれは危ないし。イナバだって辛いでしょうに」
話を逸らすようにして輝夜は前を向いていた。
やがて砂煙が晴れていく。
その薄くなった煙の中に――赤い瞳が。
「! 輝夜!」
「わかってるわ! というより貴女の弾幕当たっていないじゃない!!」
すぐに視線を落とす二人の耳に。
「ころす。ひめさま、おししょうさま。ころすころすころす」
低く重い声に輝夜と永琳の体が小さく震えた。
鈴仙の方へ視線を移す。
顔を見ないようにしているも鈴仙が怒りで満ちているのが想像できる。
「ふたりとも。とよひめさまと。よりひめさまと。みんなとおなじことする。もういい。ころす。みんな、ころす」
豊姫と依姫の名前が出てきて永琳と輝夜は「え?」と声を出して、つい鈴仙の顔を見てしまいそうになって慌てて視線を落とす。
「豊姫、依姫って……」
「あの子たち、うどんげに一体何をしたのよ?」
永琳が呆れたようにため息を漏らしたが、油断は出来なかった。
輝夜たちの周囲の音が途切れたり、歪み始めていた。
波長が大きく狂い出していた。
自分がまっすぐ立っているのか不安に覚えてくるのをぐっとこらえて、永琳と輝夜は冷や汗をかきながら鈴仙と向き合っていた。
※
鈴仙が気が付くと綿月姉妹の家で横になっていた。
頭がひどく痛かった。
昨日のことは全て覚えていた。
「気が付いたかしら? 蹴ったりしてごめんなさい」
豊姫が鈴仙に近づいて、頭を優しく撫でた。
鈴仙は謝ろうとしたが豊姫は優しく微笑みながら手で制して、ついに聞いてくれなかった。
依姫が来た。
しばらく稽古を休むように。
それだけ伝えると部屋を出て行ってしまう。
豊姫からもらった桃をかじりながら外へ出ると玉兎たちが稽古をしていた。
じっと見つめていると、ふと一人の玉兎が鈴仙に気が付いて声を上げた。
皆、逃げ出した。
鈴仙を、まるで化け物のように見て。
物陰からそっと鈴仙を見ていた。
鈴仙は黙って立っていた。
いつの間にか右手に力が入っていて、桃がぐちゃぐちゃになっていた。
その夜。
鈴仙は月を飛び出した。
※
「いい加減にしなさい! イナバ! すぐに止めなさい!」
輝夜が怒鳴ってみるも鈴仙は狂気と怒りに満ちた殺気を二人に向けていた。
「まったく。あの子たち、どんな乱暴な手段をとったのかしら?」
永琳が首を傾げる。
ご自分がつい先ほど綿月姉妹と同じことをしたのだが気が付いていない。
「ころす……ころす、おししょうさまも。ひめさまも」
鈴仙の目は赤く光りながら少し滲んでいた。
謝れなかった。
皆が離れていった。
鈴仙の心の奥底に深い悲しみが植えつけられていた。
永遠亭に迎えられてその悲しみは深く眠らされていた。
しかし妹紅戦でふと技を使ってしまった。
そして狂気の中、主人――永琳に攻撃をされた。
月の時と同じように。
悲しみは怒りとなって狂気となり果てた。
「豊姫も依姫もそんな暴力的なことをする子じゃなかったと思うけど」
輝夜が永琳の横で小首を傾げる。
ご自分がつい先ほど綿月姉妹と同じことをした永琳に賛同していたのだが気が付いていない。
ゆっくり鈴仙が輝夜たちに歩み寄った。
が。
鈴仙を目がけて火の玉が飛んだ。
事もなげに鈴仙は攻撃を避ける。
永琳と輝夜が見慣れた攻撃に驚いて、視線を向けるとそこには怖い顔が。
「あー……くそ。この兎め」
傷が治りきった妹紅である。
首をゴキゴキ鳴らして、鈴仙を睨むようにして立っていた。
妹紅も鈴仙の技を見切ったのだろうか、その目を決して見ないようにしていた。
「あら妹紅。おはよう」
「馬鹿。何がおはようだ。あの兎、私を盾にしやがって」
先ほどの永琳の弾幕を鈴仙はとっさに妹紅を盾にしてやり過ごしたのだった。
それで妹紅は気を失ったが、それ故に一度鈴仙の術が解けたのだ。
「輝夜。お前とんでもない兵器を隠し持っていたんだな」
「兵器と呼ばないで。あの子は私の大事な弟子よ」
妹紅の嫌味に永琳が怖い顔をして睨み付ける。
だが妹紅は涼しい顔を浮かべていた。
「さてどうする? あいつにやられた分お前に仕返しをしたいが、あいつが黙って許してくれなさそうだ。もちろん逃げ帰る気もないけど」
「あらよかったわ。人数は多い方がいいからね」
「まったく……なんで妹紅なんかと共闘しないといけないのよ」
三人の目的は同じだった。
とにかく鈴仙を気絶させて狂気を解くことだった。
妹紅の言葉に輝夜も永琳も構えて鈴仙に向き合う。
鈴仙は赤い目を潤ませて、そして笑った。
竹林の中に四人の殺気が満たされていこうとしていた。
「馬鹿みたい。こんなことしてなんの解決になるのかな?」
ふいに投げかけられた言葉。
四人が言葉の主へ一斉に振り返った。
てゐだった。
面白くなさそうな顔をして輝夜と永琳を交互に睨み付ける。
「本当に馬鹿みたいだね、お二人さん。これで鈴仙が幸せになれると思っているの」
「自分なら幸せにできるような口ぶりね。じゃあ貴女に任せてもいいのかしら?」
永琳がてゐを睨み付ける。
だがてゐは口元に笑みを浮かべて頷いた。
「もちろんさ。私は幸せを振りまく地上のイナバ。このてゐさんに任せなさい」
そういうとてゐはゆっくり鈴仙へと近づいていく。
構える様子はなく両手を頭の後ろに回しながら。
輝夜も永琳も驚いて呼び止めようとした。
妹紅も眉を上げててゐを注視していた。
しかし構わず鈴仙の傍までてゐは歩いていく。
「鈴仙」
「…………」
てゐはニコニコ笑いながら鈴仙に話しかける。
鈴仙は黙っててゐを睨んでいた。
「もうこんなことをするのは止めようよ。ね、一緒に帰ろう。だから術を解いて――」
言い終わらぬうちにてゐが地面に倒れる。
鈴仙が頬を殴ったのだ。
「お、おい!」
「てゐ!」
妹紅と永琳が同時に叫んだ。
しかしてゐは手を大きく伸ばした。
まるで輝夜たちに干渉するなと言うように。
「いいから黙っていて。私が何をされても、何もしないで……鈴仙、落ち着こう」
鈴仙は話を聞いてくれない。
それからは一方的なものだった。
ひたすら鈴仙はてゐに拳を振り降ろした。
頬が赤くなり、紫色に変わり、やがて血が滲み出てきた。
それでもてゐは一切抵抗しないまま鈴仙の好きなようにさせていた。
「……鈴仙、そんなんじゃ私は死なないよ」
「っ!」
てゐの言葉に鈴仙は立ち上がると右手の人差し指を構えて――銃口をてゐの顔面に向けた。
さすがに見ていられなくなって、輝夜と永琳、妹紅は駆けだした。
だが、三歩進んだところで三人とも足を止めてしまう。
鈴仙が震えていた。
ぶるぶると構えた右手が大きく揺れる。
泣いていた。
赤く光る目からポロポロと涙が零れた。
やがて「ふー、ふー」と大声で泣きたくなるのを我慢するように、荒い呼吸をし始めた。
「……だよね。鈴仙は殺したりなんかしないよね」
体がボロボロになりながらてゐは上半身を起こすと、向けられた鈴仙の右手を握ってやる。
抵抗もなく鈴仙は右手を下ろした。
「自分をコントロールできないだけで、本当はこんなことしたくないんだよね」
「……あのとき。にんげん、ころそうとしていた。だけど。とよひめさま。よりひめさま。よろこんでもらえなかった」
「うん。そうなんだ」
鈴仙がぼそりぼそり呟くのをてゐは頷いて聞いていた。
「つぎのひ。あやまろう。だけど、とよひめさまも。よりひめさまも。みんな、わたしを避ける。それがすごくかなしくて、にげた」
「うん」
鈴仙の目から赤い光が弱まっていく。
やがて元の目の色に戻ると涙が次から次へと溢れてきた。
「えいえんていの皆に受け入れられて、私嬉しかった。なんとかしてお役に立ちたかったけど、でももうダメ。やっぱりこうして皆を困らせる。私は! 私は!」
そして膝から崩れ落ちると大きな声で泣いた。
今まで積もった悲しみも苦しみも吐き出すように。
竹林の中で彼女の声が響き渡った。
輝夜と永琳がそっとてゐたちに寄った。
黙って鈴仙を見つめていた。
妹紅はその場に立って目を閉じていた。
「私は自分のことが嫌い……調子にのって、勝手に良かれと思って暴走してしまう自分が、嫌いだ」
「でも私は鈴仙のことが好きなんだな」
てゐは優しく微笑んで鈴仙の頭を撫でた。
「初めて会った時のこと覚えている? あの時も鈴仙すんごく泣いていた。皆に謝っていたね。心の底から謝っていたね。だから私は鈴仙が本当は優しい子だって、知っていたよ。その後で見せてくれた鈴仙の笑顔。私、大好き。大丈夫。私が傍にいてあげるよ。これからのことも一緒に考えてあげる」
耳元に囁くようにてゐは一つ一つ言葉をかけた。
鈴仙は応えるように一つ一つ頷いた。
「ありがとう……」
そう言って鈴仙はてゐにもたれかかるように倒れた。
気を失ったらしい。
しかし、その鈴仙の顔は涙と鼻水でぐしょぐしょに濡れながら小さく笑っているようにも見えた。
※
翌日。
永遠亭の縁側でてゐは永琳の新しい包帯を巻き直してもらっていた。
時折てゐは痛そうに顔をしかめる。
「ちょっとお師匠様! もうちょっと優しく巻いてくれるとありがたいんだけど!」
「これでも優しく巻いているつもりだけど。はい」
包帯を巻き終えて永琳は軽く頭を叩いた。
傷口を叩かれて「いてぇ!」とてゐが叫ぶ。
「悪かったわね」
「本当だよ、まったく患者さんの傷口を叩くなんて」
「いえ、そうじゃなくて黙っていたことよ」
「え?」
てゐが振り向くと永琳は申し訳なさそうな顔を浮かべていた。
その顔をみててゐの目が丸くなる。
「私一人で解決しようと思っていたわ。私を師匠って慕ってくれるうどんげにちょっと浮かれていたのかもね……あのまま力づくでうどんげをねじ伏せても、うどんげの気持ちを知るのが遅れていたかもね。その間にも私はかけがいのない仲間を失っていたかも。てゐ、ありがとう」
永琳が深く頭を下げた。
しばらくてゐは見つめてから、ニシシと笑った。
「じゃあ私と鈴仙の為にお庭に人参畑作ってもいい?」
「どうぞ」
やっほー、と両手を挙げて喜んで、てゐは立ち上がった。
そして部屋の隅で三角座りをしている彼女の元へ寄った。
鈴仙は昨日ずっと寝続けて、朝からずっとこうしていたのだった。
てゐは笑いながら鈴仙に話しかける。
「ねぇ聞いた? 人参畑作ってもいいってさ! よかったね!」
「……うん」
鈴仙は顔を膝に埋めたまま小さな声で返事をした。
やがてゆっくり顔を上げててゐを見つめる。
その目は涙で赤くなっていた。
狂気の目ではなくて、溜まりに溜まった感情があふれ出てしまった目だった。
「てゐ。お師匠様……あの、ごめんなさ――」
「おっと! 謝らなくていいよ」
鈴仙の言葉をてゐが遮った。
言葉の行き先を失って鈴仙の目が丸くなる。
てゐの顔が豊姫と重なってまた表情が暗くなる。
しかしてゐは人差し指を「ちっちっちっ」と振って笑いかける。
「鈴仙がしないといけないのは謝ることじゃなくて、これからのことを考えること。昔を思い出して悩んでだってさ、何にも解決しないよ。だから一緒に考えよう。とりあえずはその技を上手にコントロールする方法を見つけないとね……月にいた仲間たちも、けっして鈴仙のことを嫌ったりはしていないと思うよ。ただどうしていいか戸惑っていただけだと思う。だから上手に技を操れるようになったらさ、いつか月に行って見せつけちゃえ。それから謝ったらいいよ。私が傍にいるから」
てゐの言葉に鈴仙は言葉を失ったまま見つめ返した。
ふと永琳の方を見ると、永琳も笑って頷いた。
「……ありがとう」
「はい、正解ー。こういう時の正しい返事は『ありがとう』さ。それじゃあ、さっそく技を磨くにはどうしたらいいか……って!? ちょっと鈴仙!?」
今度はてゐが言い終わらぬうちに鈴仙がてゐを思いきり抱きしめる。
絶対、離さないように。
てゐは「あー」と言葉を漏らして頬をかいて、そして鈴仙にされるがままにされていた。
頬を赤く染めて。
「あいつを見てるとさ。自分のことを思い出してしまうよ」
「ふーん」
少し離れた永遠亭の庭で。
輝夜と妹紅は並んで立ちながら抱き合う二人のイナバを見つめていた。
「お前に対する憎しみでいっぱいだった私は、けっこう無茶やってお前を探していたんだ。なんというか、あいつも今まで寂しさを抱えて生きてきたんだなぁって思う」
「それで? イナバはこれからに向けて歩き出すけど、妹紅はこれからどうするの?」
輝夜の問いかけに妹紅はふっと小さく笑った。
「私も歩き出そうかな。お前を見つけて、いやお前の姿を追い求めていた時から私は前へ歩くことを忘れてしまっていたみたいだ。どうするかなんて、これからゆっくり考えるようかな」
「そう」
妹紅は満足そうに歩き出すと輝夜に背中を見せて永遠亭の門から出ようとする。
それを輝夜が呼び止めた。
「一緒に考えてあげてもいいわよ」
妹紅が振り返ると輝夜は照れくさそうに顔を赤らめていた。
ぽかんと見つめて、そして妹紅は笑った。
「なによ!」
「いやいや別に。まさかお前からそんな言葉が聞けるなんて思ってもいなかったから……ありがとう」
そう言い残して妹紅は去って行った。
いなくなってしまった妹紅の背中を見つめて、輝夜は微笑んだ。
「……どういたしまして」
今日も明るい日差しが永遠亭を照らしていた。
これから歩き出す彼女たちを輝かせるようにして。
※
アポロ計画から数十年が過ぎた。
今ではアポロ計画はねつ造されたものではないかと人間たちは騒いでいる。
やれ宇宙では旗は揺らめかないとか。
やれ同じような地表ばかり映っているとか。
やれ全ては合衆国政府の陰謀ではないかとか。
その事実を人間たちは未だ知る由もなかった。
一定以上の実力。
でも、読後の気持ちすぐ無くなる。
しかし最後がw
オリジナル設定と書いてあったが割りとすんなり読めた
それにしても最後・・・。
良い話だったと思います。