昼間だというのに湖からの風が冷たかった。
季節は冬になりつつあった。
紅魔館の庭で、せっせと体を動かしているのは紅美鈴だった。
「うーん……あまり綺麗に咲いてくれませんね。肥料が悪いのかな?」
様々な色を彩る花たちに囲まれて、美鈴は首を傾げていた。
彼女の目の前には鉢植えに植えられたバイオレット・レナの花が咲いていた。
青い色をした蝶ほどの大きさの花は、どこか元気がなさそうに映った。
美鈴はしばらく悩んで、鉢植えを風の当たらない位置に置くと、ゆっくりと立ち上がった。
「人里でいい肥料を買ってこないと」
鉢植えをじっと見つめて、やがてニコッと笑ってから美鈴は紅魔館の玄関へと歩いていく。
その背中に何かを訴えるように、バイオレット・レナの花が少し揺れた。
※
「人里に?」
「ええ。肥料を買いに行きたいのですが、いいでしょうか? お嬢様」
紅魔館内。大広間。
美鈴の前に座っているのはこの屋敷の主、レミリア・スカーレットだった。
レミリアは美鈴を少しじっと見つめて、しかし表情を変えないまますぐに返事をした。
「いいわよ。外出を許可するわ。ついでに何かフランにお土産も買ってあげて」
「わかりました。では」
「めーりん」
足早に部屋を出ようとする美鈴を呼び止めたのは、妹のフランドール・スカーレットだった。
振り返ると美鈴を呼び止めたフランは何か言いにくそうにして、視線をあちらこちらに移す。
「あ、あのさ。めーりん、このところずっとお庭でお仕事しているね。今日はゆっくり休んだりとか、どうかなぁ?」
やっとのことで美鈴に話しかけるフランに、美鈴は小さく微笑んだ。
「お言葉は嬉しいのですが、妹様。門番でなくなり、今はお庭番を任された以上、この紅魔館のお庭はいつも綺麗にしないと。またサボっていたら怒られます」
そう言って頭を下げると、美鈴は部屋を出て行った。
扉が閉められる音を聞いて、フランは小さくため息を吐いた。
「ねぇ、お姉さま」
フランに話しかけられて、レミリアは苦い顔で妹に振り返った。
そこには悲しそうな表情を浮かべたフランがいた。
レミリアは胸の奥から湧き上がる負の感情を必死に押し殺しながら、冷静を装ってフランに返事をした。
「なにかしら?」
「めーりん……いつになったら笑顔になってくれるのかな?」
しゅんとする妹を直視できなくて、レミリアは美鈴がいなくなった空間に視線を戻す。
もうレミリアも、美鈴を見ていられなくなっていたのだ。
「めーりん。咲夜が死んじゃってから、笑わなくなったね」
※
半年前の事だ。
紅魔館のメイド長、十六夜咲夜は九十二歳で静かにこの世を去った。
霊夢や魔理沙よりも長生きだった。
告別式は紅魔館で静かに執り行われた。
しかし、そんな中取り乱しながら泣き続けた者がいた。
美鈴だった。
咲夜がいなくなったことに――初恋の、ついに想いを伝えられぬまま去ってしまったことに、美鈴は強い後悔を覚えていた。
レミリアたちが必死に宥めるも、美鈴は泣き止まない。
泣いて、泣いて、泣いて。
泣き止んだ時には美鈴は別人のように変わった。
笑わなくなった。
いや、笑っても以前のような笑顔を浮かべることはなく、寂しそうな笑顔のようなものを浮かべるだけだ。
門の前で一日ボーっとするようになった。
去ってしまった想い人のことを見つめるような目で。
そうして、ふと人目を気にせず涙を流す。
レミリアはすぐに美鈴の門番の任を解き、庭番を命じたのだった。
こんな美鈴を誰にも見せたくなかったのだ。
それから美鈴は一日中、庭の花木の手入れに励むようになった。
まるで咲夜への想いを忘れてしまいたいように。
それでも夜になると、想い人のことを思い出し、静かに泣いてしまう。
※
「すみません。この肥料をください」
人里にて。
花屋で美鈴は肥料を買い求めていた。
何度も何度も店の娘に質問をして、ようやく納得がいく肥料を見つけたのだった。
お会計をしながら、すでに日が暮れかけているのに気が付いた。
主人の言葉を思い出す。
(いけない。妹様にお土産を買わないといけないんだった。何か、美味しいお菓子でもあったら喜ばれるだろうか)
そう考えていると美鈴の背中、店の入り口辺りがなんだか騒がしい。
なんだろう、自分が人里で買い物をしたって騒がしくなることはないのに。
お会計を済ませ、商品を受け取って振り返った。
「あら、誰かと思えば。こんにちは、門番さん」
そこに立っていたのは風見幽香だった。
微笑みながら美鈴に挨拶をする。
思わぬ幽香の姿に美鈴はとっさに返事をすることはできなかったが、一呼吸置いて絞るように言葉を口にする。
「……もう門番じゃありませんよ。今はお庭番です」
「あら? そうだったかしら、ふふ。頼んでいた種、用意できているのかしら?」
幽香は微笑んだまま表情を崩さず、店の娘に話しかける。
娘が慌てて棚に用意してあった紙袋を差し出した。
どうやら事前に注文をしていたのだろう。
紙袋を受け取って、幽香はお礼を言った。
「ところで、貴女とここで会うのは初めてね。より一層お花に興味をもったのかしら?」
「はい、まぁ」
美鈴は頭をかきながら、幽香に返事をする。
「お花を育てていると、辛いこととか全部忘れてしまえるので」
その美鈴の言葉に、幽香の顔から笑みが消える。
じっと見つめる幽香に気が付かず、美鈴は話を続ける。
「改めてお庭を見ると、いろんな花が咲いているのに気がつきまして、一つ一つお世話をしていると、なんだか癒されるような気持になります……どうかしました?」
ようやく幽香の様子が変わったのに気が付いて、その顔を見つめる。
幽香が、ふっと笑った。
「そうね。お花は綺麗よね。見ていると嫌なことも全て忘れてしまえる……大好きな人の死ですら」
幽香の言葉に美鈴の目が丸くなる。
一つ胸が高鳴る。
「想っていた気持ちすら、何事もなかったかのように思えるわね」
美鈴の鼓動が早くなる。
こめかみに血が溜まっていくのを感じた。
やめろ。
やめろ。
やめろやめろやめろ。
「あのメイド長のことも、すっかり綺麗さっぱり忘れてしまえ――」
気が付いた時には幽香の胸倉を掴んでいた。
周りの人間たちがギャーギャー騒いでいるが、何故だが小さく聞こえた。
美鈴の目は瞳孔が開ききっていて、幽香を睨み付けていた。
「……酷い顔ね」
幽香は冷静な口調で、美鈴を睨み返していた。
「誰がそうさせているんですか?」
歯をガチガチ鳴らしながら美鈴は胸倉を掴む手に、さらに力を加える。
まだ何か言おうものなら、ここで弾幕勝負をしてもいいとさえ思った。
だが幽香は一つため息を吐いて、美鈴を見返した。
その目がどこか悲しいものだと気付いて、美鈴の手から力が抜ける。
ゆっくりと幽香から手を放した。
美鈴は言葉を失った。
しばらく見つめ合う形になって、幽香が口を開いた。
「来なさい。いいから、ついて来なさい」
そう言うと、ゆっくり店から出て行く。
幽香を恐れて、人間たちが蜘蛛の子を散らすように逃げていく。
美鈴はしばらく佇んで、ゆっくりと幽香の後を追った。
※
「ここは?」
「私のお花畑よ。綺麗でしょ?」
目の前には無数の花々が遠くまで広がっていた。
幽香に連れられて、美鈴は幽香の花畑に着いていた。
辺りを見渡す。
そこかしこに花が綺麗な色をつけて咲いていた。
しかし、咲いている花よりもすっかり枯れ始め、萎れている花の方が多かった。
すでに季節は冬に向かおうとしているのだから、自然といえば自然なのだが美鈴には予想外に思えた。
「……枯れかけている花が目立ちますが」
「いいのよ。このままで」
そう言って幽香は花畑へ少し歩んで、空いたスペースにしゃがみ込むと、紙袋から種を取り出した。
「花は短い一生だわ。人間よりも、妖怪よりも」
手で土をかけ分けながら幽香は話し続ける。
その背中を、美鈴はじっと見つめていた。
「しかし花も生きている。私たちと同じように。その短い一生に花を咲かせてね」
地面に穴を空けて、幽香は種を一つ一つ落としていく。
まるで愛おしむように。
「私たちもこの花たちのように死んでいくわ。いつかわね……なのに」
ゆっくりと立ち上がる幽香。
美鈴に振り返ったその表情は怒りに満ちている。
「好きな人が死んで、それを受け入れられないから花を育てているですって? ふざけないで!」
幽香の怒号。
風が吹いて花たちを揺らした。
咲いている花も。
枯れかけた花も。
幽香の言葉が美鈴の胸に突き刺さる。
はっと思い知らされたように。
「命の終わりを受け入れられないくせに、命を育てるなんて。思い上がりもいいところだわ」
ゆっくりと美鈴に近寄る幽香。
だが美鈴は少しも動かないで、佇んでいた。
「そんなことをして貴女の想い人が影で喜んでいると思っているの!?」
一つ乾いた音がした。
幽香の平手打ちを頬で受けた美鈴が地面に倒れ込む。
そんな美鈴を幽香はじっと見つめていた。
沈黙が訪れる。
だが、すぐに破られる。
美鈴が泣いていた。
咲夜がこの世を去った時よりも。
咲夜の告別式の日よりも。
夜になる度に愛しい想い人の懐かしい顔を思い浮かべる時よりも。
地面に横になりながら美鈴は大きな声で泣いた。
すでに知っていた。
どんなに泣いたって、どんなに花を育てたところで、彼女はもう戻らないということを。
自分でごまかして、ごまかして、ごまかし続けて。
誰よりも自分の心を傷つけていたのが、そんな自分だということも。
長い時間、美鈴は精一杯泣いた。
そんな美鈴を幽香はじっと見つめていた。
目尻に涙を浮かべながら。
「……すみませんでした」
すっかり日も沈み、暗くなった花畑で美鈴は幽香に頭を下げた。
幽香はそっぽを向いたままだ。
構わず美鈴は話し続ける。
「私は、弱いです……いつまでも引きずっていて、このままじゃいけないと思っていたのですが。中々けじめをつけられなくて」
そして弱弱しく笑った。
その笑顔は、昨日までの寂しい笑顔ではなくて。
心から笑える笑顔だった。
「こんなんじゃ、咲夜さんに心配をかけてしまうだけですね……本当にすみませんでした。明日からは花を大事に、咲夜さんがそこにいるように育てていきたいと思います。ありがとうございました」
また一つ頭を下げて、美鈴はゆっくり背中を見せる。
「待ちなさい」
そんな美鈴を幽香が呼び止める。
振り返ると、幽香は美鈴をじっと見つめていた。
「貴女、どこまで花に詳しいのかしら?」
「え?」
美鈴が目を丸くして、やがて言いよどむように返事をする。
「そ、その……園芸の本とかはパチュリー様に借りているんですが」
「はぁ」
幽香はため息を一つ吐いて、そうして微笑んだ。
やれやれ、といったように。
「そんなんじゃ、貴女のところの屋敷の庭がどうなっているか気になるわ。明日から貴女の屋敷に通うことにするわ。週に一回くらいになるけど、いいわよね?」
そう笑顔で話す幽香に、美鈴は先ほどよりも大きく笑ってみせた。
「ええ! ぜひ!」
※
「なによこれ! 貴女、肥料のあげ過ぎよ! 胃袋に入る量よりも食べ物を口にした人間が元気になる!?」
「ひぃー! すみませんすみません!」
翌日。
紅魔館の昼の庭に、幽香の怒り声と美鈴の悲鳴が響き渡る。
「こら! 水のかけ過ぎ!」
「はい! すみません!」
幽香に厳しい指導を受ける美鈴を、レミリアは屋敷の中から窓越しに見つめていた。
その顔は微笑んでいた。
「お姉さま」
「あら? フラン、どうしたの?」
声をかけられて振り返るとフランが立っていた。
ゆっくりフランはレミリアに近づくと、窓越しに美鈴の様子を眺める。
フランもニコニコと笑っていた。
「めーりん、元気になったね」
「ええ……咲夜もやっと安心したでしょうね」
幽香にガミガミ言われながらも、以前のような笑顔を浮かべる美鈴をレミリアは優しく見守っていた。
「なんでこのお花をここに植えているのよ! もっと日が差すところに移しなさい! すぐに!」
「はいー!!」
※
紅魔館の庭に立つ白い石。
長年、紅魔館のメイド長を務めた十六夜咲夜の墓。
その前にはバイオレット・レナの鉢植えが飾られていた。
風が吹いて、花が小さく揺れた。
笑っているかのように。
季節は冬になりつつあった。
紅魔館の庭で、せっせと体を動かしているのは紅美鈴だった。
「うーん……あまり綺麗に咲いてくれませんね。肥料が悪いのかな?」
様々な色を彩る花たちに囲まれて、美鈴は首を傾げていた。
彼女の目の前には鉢植えに植えられたバイオレット・レナの花が咲いていた。
青い色をした蝶ほどの大きさの花は、どこか元気がなさそうに映った。
美鈴はしばらく悩んで、鉢植えを風の当たらない位置に置くと、ゆっくりと立ち上がった。
「人里でいい肥料を買ってこないと」
鉢植えをじっと見つめて、やがてニコッと笑ってから美鈴は紅魔館の玄関へと歩いていく。
その背中に何かを訴えるように、バイオレット・レナの花が少し揺れた。
※
「人里に?」
「ええ。肥料を買いに行きたいのですが、いいでしょうか? お嬢様」
紅魔館内。大広間。
美鈴の前に座っているのはこの屋敷の主、レミリア・スカーレットだった。
レミリアは美鈴を少しじっと見つめて、しかし表情を変えないまますぐに返事をした。
「いいわよ。外出を許可するわ。ついでに何かフランにお土産も買ってあげて」
「わかりました。では」
「めーりん」
足早に部屋を出ようとする美鈴を呼び止めたのは、妹のフランドール・スカーレットだった。
振り返ると美鈴を呼び止めたフランは何か言いにくそうにして、視線をあちらこちらに移す。
「あ、あのさ。めーりん、このところずっとお庭でお仕事しているね。今日はゆっくり休んだりとか、どうかなぁ?」
やっとのことで美鈴に話しかけるフランに、美鈴は小さく微笑んだ。
「お言葉は嬉しいのですが、妹様。門番でなくなり、今はお庭番を任された以上、この紅魔館のお庭はいつも綺麗にしないと。またサボっていたら怒られます」
そう言って頭を下げると、美鈴は部屋を出て行った。
扉が閉められる音を聞いて、フランは小さくため息を吐いた。
「ねぇ、お姉さま」
フランに話しかけられて、レミリアは苦い顔で妹に振り返った。
そこには悲しそうな表情を浮かべたフランがいた。
レミリアは胸の奥から湧き上がる負の感情を必死に押し殺しながら、冷静を装ってフランに返事をした。
「なにかしら?」
「めーりん……いつになったら笑顔になってくれるのかな?」
しゅんとする妹を直視できなくて、レミリアは美鈴がいなくなった空間に視線を戻す。
もうレミリアも、美鈴を見ていられなくなっていたのだ。
「めーりん。咲夜が死んじゃってから、笑わなくなったね」
※
半年前の事だ。
紅魔館のメイド長、十六夜咲夜は九十二歳で静かにこの世を去った。
霊夢や魔理沙よりも長生きだった。
告別式は紅魔館で静かに執り行われた。
しかし、そんな中取り乱しながら泣き続けた者がいた。
美鈴だった。
咲夜がいなくなったことに――初恋の、ついに想いを伝えられぬまま去ってしまったことに、美鈴は強い後悔を覚えていた。
レミリアたちが必死に宥めるも、美鈴は泣き止まない。
泣いて、泣いて、泣いて。
泣き止んだ時には美鈴は別人のように変わった。
笑わなくなった。
いや、笑っても以前のような笑顔を浮かべることはなく、寂しそうな笑顔のようなものを浮かべるだけだ。
門の前で一日ボーっとするようになった。
去ってしまった想い人のことを見つめるような目で。
そうして、ふと人目を気にせず涙を流す。
レミリアはすぐに美鈴の門番の任を解き、庭番を命じたのだった。
こんな美鈴を誰にも見せたくなかったのだ。
それから美鈴は一日中、庭の花木の手入れに励むようになった。
まるで咲夜への想いを忘れてしまいたいように。
それでも夜になると、想い人のことを思い出し、静かに泣いてしまう。
※
「すみません。この肥料をください」
人里にて。
花屋で美鈴は肥料を買い求めていた。
何度も何度も店の娘に質問をして、ようやく納得がいく肥料を見つけたのだった。
お会計をしながら、すでに日が暮れかけているのに気が付いた。
主人の言葉を思い出す。
(いけない。妹様にお土産を買わないといけないんだった。何か、美味しいお菓子でもあったら喜ばれるだろうか)
そう考えていると美鈴の背中、店の入り口辺りがなんだか騒がしい。
なんだろう、自分が人里で買い物をしたって騒がしくなることはないのに。
お会計を済ませ、商品を受け取って振り返った。
「あら、誰かと思えば。こんにちは、門番さん」
そこに立っていたのは風見幽香だった。
微笑みながら美鈴に挨拶をする。
思わぬ幽香の姿に美鈴はとっさに返事をすることはできなかったが、一呼吸置いて絞るように言葉を口にする。
「……もう門番じゃありませんよ。今はお庭番です」
「あら? そうだったかしら、ふふ。頼んでいた種、用意できているのかしら?」
幽香は微笑んだまま表情を崩さず、店の娘に話しかける。
娘が慌てて棚に用意してあった紙袋を差し出した。
どうやら事前に注文をしていたのだろう。
紙袋を受け取って、幽香はお礼を言った。
「ところで、貴女とここで会うのは初めてね。より一層お花に興味をもったのかしら?」
「はい、まぁ」
美鈴は頭をかきながら、幽香に返事をする。
「お花を育てていると、辛いこととか全部忘れてしまえるので」
その美鈴の言葉に、幽香の顔から笑みが消える。
じっと見つめる幽香に気が付かず、美鈴は話を続ける。
「改めてお庭を見ると、いろんな花が咲いているのに気がつきまして、一つ一つお世話をしていると、なんだか癒されるような気持になります……どうかしました?」
ようやく幽香の様子が変わったのに気が付いて、その顔を見つめる。
幽香が、ふっと笑った。
「そうね。お花は綺麗よね。見ていると嫌なことも全て忘れてしまえる……大好きな人の死ですら」
幽香の言葉に美鈴の目が丸くなる。
一つ胸が高鳴る。
「想っていた気持ちすら、何事もなかったかのように思えるわね」
美鈴の鼓動が早くなる。
こめかみに血が溜まっていくのを感じた。
やめろ。
やめろ。
やめろやめろやめろ。
「あのメイド長のことも、すっかり綺麗さっぱり忘れてしまえ――」
気が付いた時には幽香の胸倉を掴んでいた。
周りの人間たちがギャーギャー騒いでいるが、何故だが小さく聞こえた。
美鈴の目は瞳孔が開ききっていて、幽香を睨み付けていた。
「……酷い顔ね」
幽香は冷静な口調で、美鈴を睨み返していた。
「誰がそうさせているんですか?」
歯をガチガチ鳴らしながら美鈴は胸倉を掴む手に、さらに力を加える。
まだ何か言おうものなら、ここで弾幕勝負をしてもいいとさえ思った。
だが幽香は一つため息を吐いて、美鈴を見返した。
その目がどこか悲しいものだと気付いて、美鈴の手から力が抜ける。
ゆっくりと幽香から手を放した。
美鈴は言葉を失った。
しばらく見つめ合う形になって、幽香が口を開いた。
「来なさい。いいから、ついて来なさい」
そう言うと、ゆっくり店から出て行く。
幽香を恐れて、人間たちが蜘蛛の子を散らすように逃げていく。
美鈴はしばらく佇んで、ゆっくりと幽香の後を追った。
※
「ここは?」
「私のお花畑よ。綺麗でしょ?」
目の前には無数の花々が遠くまで広がっていた。
幽香に連れられて、美鈴は幽香の花畑に着いていた。
辺りを見渡す。
そこかしこに花が綺麗な色をつけて咲いていた。
しかし、咲いている花よりもすっかり枯れ始め、萎れている花の方が多かった。
すでに季節は冬に向かおうとしているのだから、自然といえば自然なのだが美鈴には予想外に思えた。
「……枯れかけている花が目立ちますが」
「いいのよ。このままで」
そう言って幽香は花畑へ少し歩んで、空いたスペースにしゃがみ込むと、紙袋から種を取り出した。
「花は短い一生だわ。人間よりも、妖怪よりも」
手で土をかけ分けながら幽香は話し続ける。
その背中を、美鈴はじっと見つめていた。
「しかし花も生きている。私たちと同じように。その短い一生に花を咲かせてね」
地面に穴を空けて、幽香は種を一つ一つ落としていく。
まるで愛おしむように。
「私たちもこの花たちのように死んでいくわ。いつかわね……なのに」
ゆっくりと立ち上がる幽香。
美鈴に振り返ったその表情は怒りに満ちている。
「好きな人が死んで、それを受け入れられないから花を育てているですって? ふざけないで!」
幽香の怒号。
風が吹いて花たちを揺らした。
咲いている花も。
枯れかけた花も。
幽香の言葉が美鈴の胸に突き刺さる。
はっと思い知らされたように。
「命の終わりを受け入れられないくせに、命を育てるなんて。思い上がりもいいところだわ」
ゆっくりと美鈴に近寄る幽香。
だが美鈴は少しも動かないで、佇んでいた。
「そんなことをして貴女の想い人が影で喜んでいると思っているの!?」
一つ乾いた音がした。
幽香の平手打ちを頬で受けた美鈴が地面に倒れ込む。
そんな美鈴を幽香はじっと見つめていた。
沈黙が訪れる。
だが、すぐに破られる。
美鈴が泣いていた。
咲夜がこの世を去った時よりも。
咲夜の告別式の日よりも。
夜になる度に愛しい想い人の懐かしい顔を思い浮かべる時よりも。
地面に横になりながら美鈴は大きな声で泣いた。
すでに知っていた。
どんなに泣いたって、どんなに花を育てたところで、彼女はもう戻らないということを。
自分でごまかして、ごまかして、ごまかし続けて。
誰よりも自分の心を傷つけていたのが、そんな自分だということも。
長い時間、美鈴は精一杯泣いた。
そんな美鈴を幽香はじっと見つめていた。
目尻に涙を浮かべながら。
「……すみませんでした」
すっかり日も沈み、暗くなった花畑で美鈴は幽香に頭を下げた。
幽香はそっぽを向いたままだ。
構わず美鈴は話し続ける。
「私は、弱いです……いつまでも引きずっていて、このままじゃいけないと思っていたのですが。中々けじめをつけられなくて」
そして弱弱しく笑った。
その笑顔は、昨日までの寂しい笑顔ではなくて。
心から笑える笑顔だった。
「こんなんじゃ、咲夜さんに心配をかけてしまうだけですね……本当にすみませんでした。明日からは花を大事に、咲夜さんがそこにいるように育てていきたいと思います。ありがとうございました」
また一つ頭を下げて、美鈴はゆっくり背中を見せる。
「待ちなさい」
そんな美鈴を幽香が呼び止める。
振り返ると、幽香は美鈴をじっと見つめていた。
「貴女、どこまで花に詳しいのかしら?」
「え?」
美鈴が目を丸くして、やがて言いよどむように返事をする。
「そ、その……園芸の本とかはパチュリー様に借りているんですが」
「はぁ」
幽香はため息を一つ吐いて、そうして微笑んだ。
やれやれ、といったように。
「そんなんじゃ、貴女のところの屋敷の庭がどうなっているか気になるわ。明日から貴女の屋敷に通うことにするわ。週に一回くらいになるけど、いいわよね?」
そう笑顔で話す幽香に、美鈴は先ほどよりも大きく笑ってみせた。
「ええ! ぜひ!」
※
「なによこれ! 貴女、肥料のあげ過ぎよ! 胃袋に入る量よりも食べ物を口にした人間が元気になる!?」
「ひぃー! すみませんすみません!」
翌日。
紅魔館の昼の庭に、幽香の怒り声と美鈴の悲鳴が響き渡る。
「こら! 水のかけ過ぎ!」
「はい! すみません!」
幽香に厳しい指導を受ける美鈴を、レミリアは屋敷の中から窓越しに見つめていた。
その顔は微笑んでいた。
「お姉さま」
「あら? フラン、どうしたの?」
声をかけられて振り返るとフランが立っていた。
ゆっくりフランはレミリアに近づくと、窓越しに美鈴の様子を眺める。
フランもニコニコと笑っていた。
「めーりん、元気になったね」
「ええ……咲夜もやっと安心したでしょうね」
幽香にガミガミ言われながらも、以前のような笑顔を浮かべる美鈴をレミリアは優しく見守っていた。
「なんでこのお花をここに植えているのよ! もっと日が差すところに移しなさい! すぐに!」
「はいー!!」
※
紅魔館の庭に立つ白い石。
長年、紅魔館のメイド長を務めた十六夜咲夜の墓。
その前にはバイオレット・レナの鉢植えが飾られていた。
風が吹いて、花が小さく揺れた。
笑っているかのように。