『全く赤い色をした天井だけならば
何も見えなくても ―― 夕べ 』
『蜘蛛の糸でもって釣ってみたりしてさぁ。
初めから釣り上げるつもりなんて無かったのよねぇ、針も無いんだから。
もし上がってきたって、ポイだわ、ポイ。それがマナー。 ―― 比那名居 天子(待)』
*****
――聞きたいことが有るのですが。
「※日? 今月の? 先月。はぁ。
さぁ、何かあった日でしたか。特別な。
事件とか、覚えてないですけども。
まぁ見聞きせんことはないですけど、仕事柄。
けどそういうまぁ、ニュースであるとかは、大概こう、二三日もすれば忘れちまうもんですよ。
覚えていてもしょうがないというか。何の日でしたか。
空?
緋色っつぅと、赤い。オレンジっぽい赤ですか。炎っぽいというか。
そんな空ってことは、夕方ですか。日の入りの。それとも朝焼けですかね。
昼間? 真昼間で、緋色。
ん、ん。なんですか。あ、わかった。映画でしょう。公開初日だ。違う?
昼間の空が赤かった日。
はぁ。
記者さん、何をお調べなすってるんです?
異常気象がどうだこうだってあれでもない。はァ。
いえ申し訳ないんだが、どうも話が見えんもんで。
昼間に空を見たら赤かった、ということは無かったかいということなのですか。単純に。
そんならそりゃあ、無いですよ。ありません。
あるわきゃあ無いです。からかってんですか?
だってそうでしょうよ。
まぁ忘れっぽいタチじゃありますが、いくらなんでもまぁ、そんなもの見たら。
忘れやしないですよ。一生。昼間に空が真っ赤だったら。
昼は外まわってるんですよ。その日もそうだったと思いますがね。
別に見ようと思わなくッたって、空ぐらい見えます。都心ほどビルも多くない。
第一ね、そんなことが起こるはずァ、無いんですから。
もしそんなことがあったら、それはこの世の終わりでしょうよ。
でも今日もこの通り、あんたも私も生きて元気してるじゃあないですか。
なら嘘ですよそりゃ。アンケート? 噂話の街頭調査かなんかでしたか。そりゃお気の毒ってもんです」
*****
――聞きたいことが有るのですが。
「あ、それ、聞いたことある。
っつか、もう何か、友達が直で見たらしくって、すごい言ってました。
噂とかなってるんですか?
はい。えっと、はい。●●第三中学です。二年で。
先週くらいかな、そういうの好きなコで。同じクラスの。
なんか、部活の帰りで夜になっちゃったとき、あ、先週の金曜。
駅前の本屋でマンガ買って、外出たら、もう十時とか過ぎてるから真っ暗なはずなのに、ミョーに明るくて。
変だなと思って空見たら、やばいの真っ赤! って話で。
まぁ、は? ってなってる間に、スーッと元に戻っていったらしいですけど。
それだけかな?
でも、そんな怖い話じゃないのに、何か覚えてるんですよね。変な感じ」
*****
――聞きたいことが有るのですが。
「ええ。見ました。
最初が※日の昼間ですか、僕も妻も休みの日だったもので、二人一緒に見たんです。
それから一週間は朝に昼にのべつ幕なしでしたね。
今月入ってからは、あんまり見なくなりましたけど。
でも、ふと気付くと、赤かったりすることはありますね。
時間は短いです。赤くなってから、元に戻るまで。五分とか、長くて十分いかないかな。
不思議な光景ですよ。本当に。
いつも見ている風景が、まるで違って見えるんです。
何度見たって、信じられないな、って思います。
信じるも何も見てしまったのですが、兎に角そんな感じで、見慣れませんね。
綺麗だとは思いますよ。しかしあれは・・・何か、例え辛いんですが。
余りにも、綺麗過ぎるからなのでしょうか。
何となく気怠くなって、力が抜けていくような感じがするんです。
まるであの空に・・・僕自身の本質が、吸い取られていくような、そんな感じが。
そう、それです。正に、生きた心地がしない。
あれを見ているだけで、天国にでも連れて行かれてしまいそうな気分になるのですよ」
*****
――聞きたいことが有るのですが。
「見てるよ。おぉ、そりゃ、こんなんだからなぁ、おれぁ。
べっつに年がら年中空見てるわけじゃねぇよぉ。
道端探して何かいいもん落ちてねぇかって身分だからよ。空はあんま見んよ。
けどよほら、やっぱしどちらかつってみれば、あくせく働いてる方々と比べりゃ、暇だもの。
そうよ、赤っくなるだけじゃねぇな。
あれが出てくっと、途端に天気がばらつくんだな。
傾向つーほどじゃねぇが、周りに人が多いほどばらばらになっとる気がするよ。
それも、いや勘違いかもしらんけどよ。
多いときは見えるんだがよ、人の集まっとる辺り・・・も、なんだか赤いだわな。
ぉ? 嘘じゃねけど、まぁ信じられんってな無理もねか。
俺もよく判らんし、見間違いと何度も思ったもの。わはは」
*****
――聞きたいことが有るのですが。
「見たよ? りんごみたいに真っ赤なお空!
あのねえ、ひいちゃんたちと中庭であそんでるとき、いつも赤いよ!
あれ好き! とってもキレイだし、それに、それに。
ああいうときって、お空で遊べるの!
ちょっぴり疲れるけど、楽しいよ。
そうじゃないよ!
でも、ナイショなの。
聞きたくてもダメ!
私たちだけのヒミツ、って決めたの!」
*****
――聞きたいことが有るのですが。
「いや。
空というか、家の外自体、もう一週間ぐらい見てないよ。
窓開けないからね。日光が入ると、ちょっとあれだから。眩しくて。
そんだけ? なんなの、あんた。
他に変なことって言われても、ぼく、見ての通りだし。
変わったことがあると嫌だから、ずっとこうして家に居る。
あ、そ。じゃあ出てってくれる?
今日中にレベル100突破までやりたいから。邪魔なの、あんた。
じゃあ。
ん? 何、まだ用。
だから何も無いって。え?
地震?
あったよ。二階はよく揺れるから。
そっか。地震なら、最近はしょっちゅうだしね。
あんた、それが聞きたかったの? 変な奴だね。
変人は嫌いじゃないけど、やっぱ邪魔だから。ほら、出てってよ」
*****
――聞きたいことが有るのですが。
「若いもんに、年寄りがしてやれるのは、昔話くらいのもんだ。
だってのに、お前さんは、昨日今日のことを聞く。
何もありゃせん。
こういうホームってもんは、実に穏やかで落ち着ける、それはいい。
ここが特別いい所なのかも知れんが、死ぬまで何の心配もいらん、って気になる。
だがなあ。
わしはまだ、まだまだ、頭ん中も、心の奥も、小さい子供の頃から変わってないつもりでなあ。
まぁ退屈な、と思ってしまうことも、度々だよ。
罰当たりだろうな。うン? 空の話だったか。
はは、すまんすまん。ぼけとらんつもりでも、どうも横に逸れるんだなあ。
うん、簡単なことと思うよ、そいつは。
例えばなあ、わしが一人でこう、庭で本なぞ読んでるだろう。
こうしてるときは、まぁ大体、ずうっと空にうっすら雲がかかっとる。
それが、ヤアヤアという風で莞爾さんやら吾郎さんが現れだすと、雲が晴れる。
そのうち吾郎さんが、それではというんでいなくなると、小雨が降る。
よおく見ておれば判るんだ。
ははあこれは、人の心根ちゅうものが、天気を決めておるな、と。
赤い空のときは、晴れ男とか雨女とかいうあれが、判りやすくなるな、と。
まぁ根拠も無く迷信なんてものは生まれないぞ、と。
んん。そういうところかな。
地震、も、そうだなあ。言われてみれば、随分多い。
でもなぁ、沢山起きていようとも、なるべく忘れたいものだから。
今んとこ大事も無いし、あまり覚えていないよ。
震災なんてヒサンなもんだよ、誰も悪くないのに、沢山人が死んだもの。
怖いよなあ。でももっと怖いのは、人間かもなぁ。
誰がいいの悪いのなんて決め付けて、勝手なもんだ。そう考えると、自然は平等だよなぁ」
*****
――聞きたいことが有るのですが。
「そんなのあたしら一般人にはわからないわよねえ。
噂みたいなものは聞いたことあるけども、ねえ。
空が赤い日は天気がよく変わるだとか、
その後必ず地震が来るとか、まぁウチの子なんかも言ってたような。
そんなことなの?
・・・おおっとっと、あらら。噂をすればだわ。結構揺れたねぇ。
ううん、もういいかしら?
そう、ちょっと家が心配なの、手短にお願い。
空が? ああ、確かに赤いねぇ、こんな真昼間から。
最近はもう見慣れちゃってるし、あんまり気にしないけど。
そう言われてみれば、何だか気持ち悪いわねぇ。
向かいの奥様なんかは、冗談めかして言ってらしたけどね、天変地異の前触れだ、なんていって。
ああそれにしても今の地震、ウチの子というか、家は大丈夫かしら」
*****
――聞きたいことが有るのですが。
「えええ、取材のかた・・・困りますよ。
そういうのは七番の、え、あちょっと、参ったな。仕方ありませんね。
私も忙しいんで、五分ほど、歩きながらでよければ、こちらへ。
えー、概ね、報道にお伝えした通りです。
先月末から続く群発地震を先駆けとして、三か月後に直下型大地震が起こるっていう事については、オーケー。
きちんと観測された結果の、予報ですから。ばんばんお願いします。
でも、例の赤い空との関連性について触れるのは、もうね、ダメです。完璧NG。
空が赤いと天気を変えられて、天気が変われば変わるほど地震が起こる。
迷信や何かじゃない、全くの事実として。
まるきりオカルトで、信じられないが、見た以上はどうしたって理解するっきゃない。
しかし、公共の放送で流せるようなこっちゃありませんもの。
まぁ…こちらの都合が悪いってのが理由の大半ではありますが。
ええ、あれが見えるようになって数ヶ月、もう半年は経ちますか。
散々観光のネタにさせてもらいましたもんで、今じゃ役所内あちこち、真っ赤なポスターだらけですよ、はは。
それがね。
オカルトにせよ、我々がその、天災を助長していた…なんて流れになるとね、困るんです。
どうぞ、お願いしますよ。
後々にトンデモ記事やなんかで世間の波に乗っけたりするのも、なるたけ勘弁してください。
これが明るみになって、得する人なんていませんよ、ね。
わたくし個人的にも、困りますし。
お願いしますよ、本当に。
え? はぁ、個人的な理由について。それ必要なんです?
その、定時に上がった仕事帰りの、心穏やかに見る夕焼けが好きなんで。
赤い空ってもの、それ自体が不吉の象徴みたいになるのは、耐えられんというか、嫌な話だなぁ、と。
や、これは余計な話でした」
*****
――聞きたいことが有るのですが。
「元々ほら、赤い空が見える町ってことで、入ってくる人はここんところ結構多かったみたいすね。
自分もそれは知ってて、四ヶ月前くらいに社用で来ることになって、楽しみな気持ちはあったっすけど。
まさかほんとに・・・あ、ほらほら、空見て下さい、空!
あんなに赤いなんて思わなかったっすよ。メチャ綺麗っすよねぇ。
で、そうだ。記者さん。
このままちょっと待ってると。一、二、三・・・はい、ぐらぐら、っと。
間違いないっすよ、これ。揺れてるんす、空が赤くなったら。
ええもう、ほとんど毎日すから。
もし大地震が来るのが今だって言われても、普通に信じますよそりゃ。逃げます。
こんな感じで、もうビシバシきてますから。
ほんとにやばいんすよ、この町。
何か、全国区のTVとか新聞とかで自分の町が一面に載ってるってのに、こんなネタじゃなあ。
喜べないっすよ、ほんと。怖いす。
あ、話し戻しますか。
そう、多いんすよ、引越し。今度は出て行くほうがね。
やっぱ不安すもん。
ただまぁ、出て行く人が大半な中で、意外と入ってこようって人もいて。
妙だなっつーか、物好きっているもんだなっつか。
規制とかされててもね、今はほら、ネットとかありますし。
そういうのはウチじゃ断ってますけどね。
後から入ってくるバカまで面倒見切れないすよ。ええ。
ま、業者自体、殆どが事務所ごと引き払っちゃってますんで、それも来月までの話じゃないすか。
役所も退去命令みたいなのが出てるらしいすから、打ち止め間近っすね。
ウチもそろそろバイバイっす。
命は大事っすからねえ、誰でも。マジな話。
ああ、それにしても、愛着あったんすけどねぇ、この町と、あの空」
*****
――聞きたいことが有るのですが。
「地震は怖いよ。それに。
お隣のうーくんの家、※※県のばあちゃんちに行くんだって。
うちは、お母さんの実家。××県だよ。
りっちゃんちも、ともちのとこも、てつ先生の家も、もう引っ越しちゃった。
皆、遠くに行っちゃった。うちも、明後日には行っちゃう。
わかる? おじさん、僕の言いたいこと。
皆に会えないんだよ、もしかしたら・・・もうずっと。
会おうと思えば会えるって、思えばでしょ?
思わなくても会えてたのが、そうじゃなくなるんだよ。大人みたいな自由も、お金も無いから。
嫌だなぁって思う。けど、しょうがないんだ。
そうじゃないよ。
僕たちは悪くないし、皆と離れ離れになるのも、嫌だけど、皆ちゃんと判ってた事だから。
うん。
僕たちは、最近は今までと違う遊びをしてた。
学校のグラウンドでサッカーしたり、自転車で別の町まで遊びに行ったりするだけじゃなくて、天気を変えて遊んでた。
僕たちだけじゃない、この町の皆が、天気で遊んだんだ。
その遊びのために、赤い空を出してた。
どうやってって、それはちょっと言えないけどさ。ヒントは、ドッヂボールかな。
簡単に出せるし、楽しかったよ。色んな遊びの幅が広がったから。
それに、雨が降るのも風が吹くのもちゃんと理由があるんだって判ったら、自然にちょっと興味も沸いたし。
ええっと。
そうやって遊ぶようになって何ヶ月かしたら、だんだん地震が多くなってきて、それからだよ。
最近の地震も、これから大地震が起きるのも、全部子供たちのせいだって言う大人が出てきた。
それはさぁ、違ってないけど、違うんだ。
知ってる?
地震ってね、必ず、いつかは起きるものなんだよ。
溜まったエネルギーを発散しなくちゃいけないんだ。
そして、今の地震観測の技術なら、大きな地震は前兆があれば、何月何日何時に起きるってことまで、判るんだって。
テレビでやってたよ。
地震は、しょうがないんだよね。それで、大きな地震はいつか来るんだ。
なら、いつ起こるか判らなくて怖がるより、大きくなりすぎる前に起こしちゃえばいい。
大地震の前触れを何度も起こして、本当の大地震を呼べばいい。
大きな地震が観測されたら、その日までに逃げれば、皆、命だけは助かる。
あの赤い空で、僕たちが、この町の皆を助ける!
え、僕が、そう考えたのかって?
うーんと、僕じゃあ、そんなこと思いつかないよ。頭良くないし。
協力しただけ、友達に。友達も、他の子から聞いたって言ってた。
だから、誰が言い出したのかは知らないけど。
その人はきっと、優しい人だと思うし、それに、この町の救世主だと思うな、僕は」
*****
――聞きたいことが有るのですが。
「こっちが聞きたいよ、あんたに。
再来週だかの超局所直下大地震について知らないわけじゃないだろう。
自殺志願者か? 記者だぁ? どこの雑誌だよ。
はー。知らんねぇ。しかし、命かけてんなオイ。
この近隣の市街は跡形もなくぶっ壊れるんだそうだぞ、交通機関だってもう止まった筈だ。
逃げ遅れってんなら乗せて行ってやるが、どうする?
・・・ほんとにいいのか。ツテがある?
ふうん、そうかい。死にてぇわけじゃねぇなら、いいけどよ。
で、何だ。聞きたいことって。
ん? 俺がまだここにいる理由か。
まだっつぅか、俺はここの町のもんじゃねぇんだよ。
そこの通りの先に実家が、あー、まぁ実家があってな。
忘れ物があって、それを取りに戻ったのさ。
何って、んなもん言いたかねえが・・・どうせ二度とあんたとは会うまいし、いいか。ネタにすんなよ?
親父の位牌だよ。
今度の地震の疎開でうちに越してきたお袋が、何をとちったか荷物に入れ忘れたらしくてよ。
俺ぁあんな野郎の残し物なんて家ごと潰れっちまえと思ったんだが。
え? まぁ、ちっと折り合いが悪くてな。大嫌いな親父だったよ。
しかし娘が言うんだ、お爺ちゃん一人じゃ寂しいよってな。
一人も何もあの世だっつぅんだ寝言抜かせゃガキ、とは言えんだろ。ヒネるにゃまだ早ぇ。
なこってよ、はるばる田舎に舞い戻ってきたわけだわ。
全く、こんなことでもねぇ限り、もう来るつもりは無かったものをよ。
随分変わっちまったようで迷うかと思ってたら、何てこたぁねぇ。
そこら辺まで来たらよ、急にぴたっと足が止まりやがった。
帰巣本能の裏返しっつうかな。体の方が覚えてやがんだな、いやぁな思い出を。
そういうもんも、明々後日以後にゃ感じられなくなるんだろうな。
地震で瓦礫の山になっちまえば、見覚えも何もありゃしねぇよ。
それはそれで憂鬱じゃあるわな。まぁ別の意味でも憂鬱なんだが。
いや、そのさっき言った実家がよ、ついこの間、一人暮らしの老人用にリフォームしたばっかりでな。
まぁ一人にしてんのも俺の責任だ、俺から金出したんだが、少ぉしばかり借金があってよ。
災害保険やらは出るから金のこたぁいいにせよ、俺の心遣いが無駄になると思うとまぁ、むかっ腹は立つな。
なんて、はっは。どうでもいい話しちまったな。ええ?」
*****
――聞きたいことが有るのですが。
――聞きたいことが有るのですが。
――聞きたいことが有るのですが。
――聞きたいことが有るのですが。
――聞きたいことが有るのですが。
*****
――聞きたいことが――。
「記者でもなんでもない、根無しの流れ者。
言っていたことは、まやかしの素。
場に染み込ませた問答からまやかしを広め、戸の立たない人の口を介して、解し、何事でもなくする。
まやかしは、常識になる。
幻想をばら撒き、現実を攪拌する。
嘘が、噂となって、真となる。
うそを食べまことにして出す力。
嘘を替える程度の能力。
その力が、この町から人を去らせた。
瓦礫の山になる予定の、無人の町が、出来上がった。
人的被害だけを、避けるために。
貴方の役目は、既に成された。
後はこの現実から、貴方という幻想を消せば終わり。
んん…六十五点、かしら。
大正解とまでは、いかないけれど。
歩み寄る気があるのなら、良しとしましょう。
ただ、少しだけ。
思い知らせる必要はありそうね、あいつには。
ふふふ。
さぁ、これに掴まって。
嘘の無い幻想だけの世界へ、本当が詰まった現実を持って帰るの。
そしてあいつに、見せてやりなさい。
もう、退屈だなんて言えなくなるくらいにね」
――――。
***
時間。
***
距離。
***
忘れられた結界。
***
博麗大結界。
***
天と地。
***
妖怪の住まう山の上。
***
雲上世界。
***
天界。
雲海を突き抜け、遮るものの何も無い世。
その最上たる非想天に、彼女はいた。
ぷかり宙浮く一塊の要石に腰掛け、遥か見通せぬ地上へ、釣り糸を垂れる少女。
天上に住まう比那名居の人、天子である。
そして垂らした糸を支えて鈍く光る竿は、その名を緋想の剣といった。
真昼の晴天のごとく蒼い長髪と、被った帽子に実る桃。
居眠りのうちにそれらをかくかくと揺らしていた彼女が、ふと顔を上げる。
透き通った気に満ちる天界に、一転、濃密な妖気が立ち込めて流れ、天子の髪を揺すったためだった。
彼女はそこに客人の到着を知り、苦笑気味に頬を歪めて言った。
「あら、何しに来たの? お節介焼きに、頼み事でもされたのかしら」
声に応える形で、天子の背は何かの重みを受け止めた。
幼子のように小さく細く、それでいてしなやか、かつ、剛い。
柔らかくも難きその生涯を語る、人界のはぐれ鬼、伊吹萃香の背中だった。
「鬼の居ぬ間に何とやら、さ。
うん? 桃を餌に、桃でも釣るつもりだったかい?」
萃香の喉が鳴らす声音は明るく、清々しさに満ちていた。
その楽しげな鬼調子に釣られ、天子もふふと笑う。
笑みの由縁、天界に鬼が舞い戻った理由さえ問わず。
己の手元をしっかと見詰め、楽しい思いのままに頷いて。
「知ってるくせに妙な事を。桃なんて薄紅じゃないよ。
どんぶらこと河を流れるのも、釣り糸の先に下げるのも、真っ赤な真っ赤な・・・」
そう呟くと。
天子は両腕に力を篭め、一息に、強く竿を振り上げた。
竿のしなりはたちまちに音速を超え、天界の気をだん、と裂く。
釣り糸はそれに応え、雲間に沈んだ餌を釣り上げるべく、これまた強く、深い唸り声をぎりりと鳴らす、が。
そのまま暫く時を待っても、天の海たる雲居からは音沙汰ひとつ無い。
ぎりぎりと鳴く糸を除いて、非想天は変わらず静かなままだった。
すかさず、萃香が天子をからかう。
「どうした~?
赤いものは、釣り上がらないかい?」
「ぎぎぎ……。
ちょ、ちょっと鬼っ子、手伝いなさい」
歯ぎしりを隠さぬまま、振り向きもせず当然の体で天子が言う。
そのあからさまな慌てぶりと傲慢さに、萃香は更に苦笑して、ぐいと瓢をあおり一息つく。
「んふー。
それが鬼に物を頼む態度かね、全く。
万事任せなさいとか言っておいてこれなんだから。紫がちょっかい出すわけだよ」
「いいからこっち持って。
思ったよりも大きくなってるよ、こいつ」
赤ら顔のまま、平易かつ呂律の回った口調でもって指摘する萃香にも、天子はまるで取り合わない。
ただ睨み、口を尖らせて催促するばかりだった。
捉え所無い鬼特有の物腰にも慣れたものか。
いずれ変わらぬはぐれ者、いつの間にやら気心も知れ。
やれやれだねぇと笑い飛ばして、萃香は屈んだ天子の肩越しに腕を伸ばすと、柄を握る天子に手を重ねる。
添えた手は、山を崩し天を割る鬼の怪力。
包まれた手は、下界の普く悪事を弾き返す天人の剛体である。
「好ぉし。
一気に釣り上げるわよ。それ!」
鬨の声と共に、剣の柄に二者の強力が漲る。
緋想の刀身は折れんばかりにしなるも、それにさえ耐えて、ひたすらに暴れる。
そうして剣がしなりゆくのと重なり、ゆっくりと、徐々に緋想の剣が持ち上がる。
釣り糸は既に目一杯突っ張り、その先にあるものを引いてゆく。
雲海は暴れる糸に引き裂かれて波立ち、泡を吹いて乱れる。
「むむぅ……!」
「おーし、もうちょいもうちょい!」
雲間の乱れに飛沫すら感じて、天子が目を細める。
その幻視に予感するものから、萃香が声を上げる。
少しずつ少しずつ、水底の影を映し出す。
そして。
「おっ!」
「えいやっ!」
漲る力の、開放される予感。
その先触れを得た二人が、諸共に掛け声を上げる。
と、同時に。
分厚い雲海を突き破り、その釣果が、とうとう白日の下に晒された。
比那名居天子、幾年にも渡る長釣りの成果。
それは一羽の巨大な鳥。
足先から嘴先までが全て緋色に染まり、
鳳凰の如き神々しさを放つ、真っ赤な大鷽(おおうそ)であった。
「ほい来た!」
瞬時、天子は己を石と成す。
動かぬ要、揺れぬ意思。
決して離さぬようにと、より強く、緋想の剣を握る。
「それ!」
即座、萃香は剣持つ手を撃ち放つ。
切っ先から目掛けるは、これもまた切っ先。
惑い無く鮮やかに、剣先の釣り糸、赤い意図に振るう。
そうして。
ふつ、と幽かに啼き声を上げ。
剣に紡がれた赤い糸は、元の形無き気質に戻り、虚空へと消え去った。
糸から放たれた大鷽が、嘴に残った針も外そうとしてもがき、空に羽ばたく。
羽風が頭上花の帽子を揺らすのを押さえ、緋想の剣を構えたまま、天子は大鷽を見据える。
否。
彼女の眼中に赤い鳥は無かったのだ。
「あはは。
ちっちゃいなぁ」
笑って、剣持つ腕を横に振るう。
剣閃は強く光を放ち、緋想の軌跡を空に残した。
一瞬遅れて、剣が唸る。
音、と光に応えて声が響いた、その途端。
大鳥は一層強く身じろぎ始め、天空に赤い羽根を撒き散らす。
羽根はそのままぽろぽろと形を崩し、細かな赤い粒、天気玉へと変わってゆく。
天気玉は零れ落ちながら空に溶け、空間に満ち、天空の気質を変えてゆく。
楽以外無い筈の楽園、天国、非想天に、苦ばかりの下界、外界、現実から持ち込まれた気質が混ざる。
人の意図を介し、緋想天となった天界で。
どこからともなく雨が降り、
どこへともなく風が吹き、
いずこなりとも霧が立ち込め、
いつの間にやら蒼天が射し。
発現する気質が、実に目まぐるしく移り変わる最中も。
比那名居天子は居住まいを正し、ただ一点を見据えていた。
唯一天子の目に映るのは。
鷽がどれほど翼を瞬かせて暴れようとも、一向に抜ける様子の無い、一本の針。
細く、小さな返しの付いた、一本の――石。
「うーん、これなら地震も大したこたないだろうね」
「そういうこと。まぁ、町が一つ無くなる程度で済むでしょう」
かつての計略の失敗、振りまいた不信を払拭するための対価。
悲愴なき緋想が生んだ仕置きの後始末。
「まったく、プレート表面を剥離させて地上文明を無に帰し、
新たなる天界を産み出す事さえ可能とする地力だったでしょうに」
物騒な物言いをして残念がる天子。
だが冗談めかしたその言葉は全くの事実。
『外界にあって幻想を遮断され、力を失ったはずの要石の一つ』
『それが比那名居の人、天子の気まぐれな降臨によって呼び起こされつつある』
『このまま解き放たれれば、外界はもとより、幻想郷にも被害が及ぶだろう』
『何とかして頂戴ね』
持ち掛けられたのは何年前だったか。
有無を言わせぬ口調を思い出しながら、要石の釣針に向け、手を翳す。
途端、赤い鳥は羽ばたきをやめる。
「放っておいた方が面白いかとも思ったけど。
外の世界を操る方が、もっと面白そうだったしね。それも今日で終わり」
その声はどこか自慢げで。
苦心なき天人ならではの物言いとも、無念無想ゆえとは聞こえない。
「無愛想な振りしちゃって」
「いまさら、誰に向ける愛想があるのかしら」
鬼のからかいにも慣れたもの。
金剛の鉄面皮を張ってみせる天人を。
「あははぁ。そうだねぇ――そいつとか?」
なおも鬼は回り込む。
伊吹の霧で包み込む。
「へ?」
赤ら顔の片目を開け、視線の先に指を添える萃香。
元より天子は、鬼へと目を向けてなどいない。
意識だけを向け、要石だけを見ていたはず。
「な」
なのに気付けば、そこにあるのは石くれではなく。
どころか中空の先、悶える緋色の大鳥でさえなく。
突如として視界を遮る、何やら赤いもの。
「なん!?」
咄嗟に身を反らす。
反らしすぎて要石から落ちかけ、すんでのところで姿勢を戻し、ようやく捉えたその姿は。
小さな小さな、赤い鳥。
「う、うそ?
っていうか、なんで残って……何した!?」
「そうそう。これからが本番ってわけ」
暴れた天子を巧みにかわし、寝転んだままに萃香は言う。
動揺に童謡を重ねて。
「青鬼さんとの仲直りに、とっておきのプレゼントって奴。
もっとも紫は赤くないから、合格通知ってあたりが落としどころかな」
にしても大概、素直なわけない性質だよ。
遍在の鬼は、羽ばたく赤を指で引き寄せながら言う。
「あんたは強い我欲と、夢と、妖怪と結びつくことはできない。
曲がりなりにも天上人だ、馬が合おうはずもない。
しかしそれで放置してれば、前みたいなことをやらかされるんじゃ始末に負えん」
弱々しく飛んで、やがて鬼の掌に納まった鳥は少し身震いすると、その顔を天子へと向ける。
呆気にとられた表情を、鳥の目を追って萃香も見すえる。
そしてにんまりと笑い、続ける。
「こうなりゃ、しょうがない。
自ずから朱に交わらせて、赤くしてしまおう、と」
「ああ……なるほど」
意図を捉えて、天子は空を仰ぐ。
否、この場所こそが非想天なのだ。
「極彩色の気まぐれと、緋想の剣、そして要石」
天の暗黒に向け、嘯く天子。
不思議そうに小首を傾げて自分を見る鳥を、しかし彼女が怒れるわけもないのだ。
してやられたと気づいても。
「極光。
ありとあらゆる空想。
全人類の、緋想天。
私の気質、性質を型に。
私にまつわる要石を依代に。
下界の人間の幻想を集めて――“妖怪の私”を作った!」
「あっはっはー、全人類!
あんたにそんなスケールがあったかなぁ?」
ゆらりと笑って、萃香は拳を握る。
気質の鳥は霧散するも、瞬時に姿を現す。
丸々とした体を、天子の眼前に。
「老若男女数万人。市民七割の緋想天、ってところだろうね。
それに紫は妖怪を創れるほど器用じゃない。式を打っただけさ。“雛名居”の式をね」
「雛、ねぇ」
茫洋とした、気質で編まれた三つ目の鳥が見つめる。
円らな瞳と、額の要石。
どの光も淡く、どこか頼りなげだ。
その姿が意味するところは。
(あいつ、皮肉のつもり? やっぱり仲良くはできないわね……するつもりもないけど)
「己がふり見てわがふり直せ、ってね。
気に入らなけりゃその剣を振るうといい。でもそれは」
「ああ、もう。
皆まで言わないで!」
鬼が笑う。天人もつられて笑う。
一方は呵々と大きく、一方は苦々しく。
苦笑と共に、天子は手を伸ばす。
小鳥を両手にふわりと包み込み、首を引いて頭に載せる。
瑞々しい桃に添えて並べれば、赤い鷽もまた果実に見えよう。
(ちっちゃいなぁ)
しかし手放すことはできないのだ。
天子自身の気質を持ちながら、妖気をも放つ鳥。
嘘八百の、赤いパスポート。
それこそは、幻想郷への立ち入り許可証であった。
式ということは監視の目でもあるということだが……。
(そんなことより、問題は)
――聞きたいことが有るのですが。
毒づくよりも速く、近く囁く声を聴く。
天子は振り向きもしない。
鬼はもう寝ている。
そもそも聞こえてはいまい。
彼女自身の心の声など――彼女自身の邪魔にしかならないのだから。
応えるよりも早く、遠く響く声を聴く。
――緋色の空のことで、何かご存じではありませんか。
(知らないわよ、ばーか)
さて、久方ぶりの幻想郷だ。
まずはあの妖怪に文句を言わねば。
敗北感と、隣り合わせの充足感を胸に。
比那名居天子は要石を飛び下りた。
<了>
つか寝てたのに。
shinsokkuさんの新作と聞いて飛び起きました。
鷽は天神さまの使いということで大宰府にその像があるのですが、「キャラデザ高橋留美子なんじゃねーの!?」というくらいファンキーでプリティな造形です。
天子の頭にどっかり乗っかってる姿を夢想してほっこりしましたw
声に出して読むと心地よいいつものリズムも健在で嬉しかったです。
これからもまた読ませてくださいねw
町の人達が良い味出てます。せんす・おぶ・わんだー。