物部布都がポッキーゲームなるものの存在を聞かされたのは、11月11日の昼のことであった。
それは布都が知り合いの店へと顔を出すため、魔法の森を歩いていた時のこと。
森の中で、何やら怪しげな袋を背負った女性を見かけた。
大きな袋を担いだ、青色が特徴の女性。
どこかで見たようなその容姿に思わず足を止めた布都。彼女はその人物が、霍青娥であると気付き大いに驚き、思わず声を上げた。
霍青娥。布都たちに仙道を教えた仙人だ。
まあ、仙人とは言っても、欲を捨てたような人物ではない。むしろ自身の欲望にどこまでも忠実で、そのせいであちこちでもめ事を起こしている。
(しかし、なぜ彼女がここに?)
青娥が『サンタクロース』なるよく分からない人物に扮し、その能力であちこちの家に侵入、金品を盗み、代わりに贈り物を置いていくというのは布都も知っていた。だがそれは十二月の話で、今はまだ十一月。だというのに、青娥が背負った袋は、布都も見知ったものであった。冬の日に、盗ってきた金品でパンパンになっていたあの袋に相違ない。
驚き声に気付き、あいも変らぬ妖艶な笑みとともに挨拶してきた青娥に対し、布都はその袋は何だと尋ねた。
袋の中身は外のお菓子で、ポッキーというものであると青娥は言った。言って、おひとつどうぞと布都に差し出した。
(ポッキー……確かチョコレートのお菓子であったか)
一度だが、食べたことがある。
一月ほど前であったか。布都が命蓮寺焼打ちに失敗し、聖という尼に説教され、泣き顔で帰路についたときのこと。
泣きべそを必死に隠そうとする布都に、おばあちゃん風の狸妖怪がこれをくれた。
甘いものを食べて元気出せ、ということだろう。実際、ポッキー一袋をその場で明けた布都はその後、上機嫌で神霊廟へと帰って行った。
「このお菓子は好きだ。甘いし」
「そうでしょうそうでしょう。布都様ならきっと気に入ってくれると思っていました」
手を合わせ、バカにしているのか納得しているのかいまいち分からないことを言う青娥。
そんな彼女を無視して、布都は青娥が背負っている袋を指差す。
「しかし青娥殿。いくらおいしいお菓子とはいえ、それほど大量に用意する必要はあるのでしょうか?」
「ええ、あります。ありますとも」
「本当に? 青娥殿のお腹に収まる量とは思えませぬ。そして失礼ながら、青娥殿が他人にお菓子を分けるような人物とも思えませぬ」
「あら、ちゃんと配りますよ」
嘘だ。なんて台詞をのどもとで押さえつけた布都は、代わりに思案する。
霍青娥は極めていい加減で、自分勝手な人間だ。そんな彼女が仮に、仮にだが、他者に物を与えるとすれば、それは何だ?
(思いつくのは、何らかの行事)
彼女はあれで、流行やら行事やらを好んでいる。サンタクロースなる人物に仮装したのも、ひとえに幻想郷でクリスマスがはやっていたからだ。
(と、なると)
大まかに辺りをつけた布都は、青娥に訪ねる。
「何かのもようしものですか?」
「ええ。大当たりです、布都様」
大正解、と両手を上げる青娥。やはり馬鹿にしたような感じがする。
「11月11日。外の世界ではこの日、ポッキーを使ったゲーム、その名の通りポッキーゲームというのを行うのが流行なんです」
「なるほど、そのような行事があったのですか」
布都は納得、と頷く。
布都は青娥に対しあまり良い印象を抱いてはいない。だがこと知識人としてならば逆だ。千年以上前に布都たちに仙道を教え、今も外の世界の知識を多く有する青娥に対し、布都は尊敬の念すら抱いている。
そんな彼女が言うのなら、本当にそう言った行事があるのだろう。
「ポッキーゲーム、ですか。それはいかなる遊びなのですか?」
「簡単ですよ。こう、ポッキーの端と端を、二人で口にして、ですね。そのまま二人でポッキーを食べるだけです」
「なるほど。して、その遊びの勝敗はどうやって決めるのです? やはりより多く食べた方、ですか?」
「いえいえ。そもそもこのゲームに勝敗なんてありません。だって勝ち負けを決めるものじゃないんですもの」
「ほほう。それはなかなか、興味深い」
布都の知る限り、遊技というものは勝敗を付けることで決着するものだ。
だから、勝敗がないという青娥の言葉に、好奇心をそそられた。
「その遊び、我にもできるかの?」
「ええもちろん。布都様は愛らしいですから、相手にも困らないでしょう?」
「……?」
布都には意味が分からなかった。
自身の容姿をほめられたことは理解できるが、それがなぜ相手に困らない、ということになるのか。
首をかしげ、考える。
しかしいくら考えても一向に答えは出ず、一分ほどたったところで思考を取りやめた。
「まあ、よい。とにかく今日はそのポッキーゲームとやらをする日なのだろう?」
「その通りです。仲の良い男性としてあげるといいですよ。相手が喜びます」
「うむ。参考にさせていただこう、青娥殿」
そう言って布都は青娥に手を振り、別れた。
手を振り返し、こちらを見送る青娥の瞳が、何やら腹黒そうに歪んでいた。だがいつものことなので、布都は気にせず歩き続けた。
**********
魔法の森を歩くことしばらく。
漂っていた瘴気が薄らぎ、怪しげなキノコたちがその数を減らし、妖怪化した樹木がみられなくなった頃。
一つの建物が見えてきた。
かなり年季の入った道具屋で、表にいくつか商品が並べられている。
いや、並べられている、というのは誤りか。
より正確に言うならば、置かれている、と表現するべきだろう。
それこそ適当に、配置やら見易さやらなど一切考慮せず、店内に入りきらないから外に出した、と言わんばかりに放置されている。
商品に対する扱いとは思えない。
以前布都が尋ねたところ、店長は平然と。
「ああ、あれらなら役に立たないガラクタだよ。捨てるのも面倒だから放置してるだけ」
などと言い放った。ガラクタであれ何であれ、商品に対する扱いとは思えない。
「……いや、森近殿のことだ。きっと商品とすら思っていないのだろう」
それこそ、粗大ごみ程度の認識ではないだろうか。
「商売はよく分からぬから、物への扱いはいいとしても、だ」
いい加減掃除をしてほしい。
店の中をもうちょっと整頓すれば、客の入りも多くなるだろうに。
立地条件故に訪れる人の絶対数は少ない。だが少ないなら少ないなりに、限られた人を逃さぬよう工夫するべきだ。
布都はここの店主のことを気に入っている。少々ぶっきらぼうだが決して思いやりがないわけではないし、良く語る薀蓄も興味深いものが多い。
(顔も、悪くはないわけだし。客が増えれば、人里での人気も上がるだろうに)
少なくとも、常連客である霧雨魔理沙、博麗霊夢、十六夜咲夜たちからの評価は、決して低くない。
顔が良いのなら、ある程度の性格は許容できるのが人間だ。
容姿はいいがぶっきらぼうで、偶に優しい男性。婦人たちの間でさぞ人気者になるだろう。
「……あれ、何だろ?」
人気が出て、店が繁盛すれば、店主も喜ぶ。
それは、事実のはず、なのに。
「なんだか、変な気分」
違う。
何かが違うと、思う。
何か、違うし、嫌だ。
「なんで、嫌なんだろう」
よく分からない。
分からないことが不快で、でも心の底では分かりたくなくて。
その矛盾が嫌になって、嫌悪感を振り払うように、目の前に迫った扉を勢いよく開けた。
「森近殿! お邪魔するぞ!」
先の嫌悪感が原因なのか、その声は普段より一層大きく、一層力強かった。
しかし、そんな大声にもかかわらず、返事はない。
一秒、二秒。扉の勢いで倒れた商品の、崩れ去る音のみが周囲を満たす。
三秒、四秒。倒壊の余韻が店内に漂い、やがて消えていく。
五秒、六秒。やがて静寂が、冷気のように布都を包んでいく。
七秒、八秒。返答を待ち、扉を開けたままの姿勢で固まる布都。そんな彼女が、長い長い沈黙に首をかしげた。
そして、九秒を過ぎて、十秒目。
「……なんだい、騒がしいね」
ようやく、返事があった。
それは店の奥。所狭しと並べられた棚と、その足元に置かれた商品の向こう側。布都の記憶が正しければ、店主が良く読書などに使用する机の位置から聞こえてきた。
布都は商品を踏まぬよう慎重に歩き、声の主へと近づく。
ひょこ、ひょことおっかなびっくりに進むこと数十秒。ようやく、店主の下へとたどり着いた。
「やあ、こんにちわ、布都」
椅子にもたれかかり、何やら難しそうな本を読んでいた店主、森近霖之助。
彼は近づいてきた布都に気付くと、本から顔を上げ、あまり表情を変えずに挨拶してきた。
「こんにちは、森近殿」
それに対し布都も、両の袖を合わせ、頭を少し下げて挨拶を返す。
森近霖之助。
彼はこの道具屋、『香霖堂』を営む、ちょっと変わった人間だ。
彼と知り合ったのは、数か月ほど前のこと。
ちょっとした事情で外の世界の道具が必要になった際、霧雨魔理沙に紹介されたのがこの店だった。
外の世界のものも魔法に関連するものもただの日用品も、とにかく何でもかんでもかき集めた、子供の宝箱みたいな店。そこで目的のものを手に入れた布都は、以来気が向けばここに通うようになっていた。
買い物は、偶にする程度だ。
帰り際に適当に店内を散策し、何となく気になったものがあれば、購入する。
その程度だ。それが一般的に冷やかしと呼ばれているもので、あまり良い行動でないことは布都も承知している。
しかししょうがない。布都はそもそも、この店に買い物に来ているわけではないのだ。
静かで、少し薄暗い店内。立ち並ぶ道具たちと、若干の埃の匂い。それらが、布都は好きだった。
何よりここは温かい。気温ではなく、雰囲気が。
緩やかで暖かな流れが、体も心も包んでくれるような気がして、ここにいると落ち着く。
だから布都は、この店に通う。
温もりに身を任せ、霖之助の薀蓄に耳を傾ける日々は、気が付けば布都にとって、癒しのひと時となっていた。
「っと、失礼」
断りを一つ。返答は、いつものように小さな頷き一つだけ。
布都は近くの椅子を移動させ、霖之助の隣に置く。
そこに腰かけて、本へと視線を戻した霖之助の体にもたれかかる。
片方の肩と、頭部から、霖之助の体温が伝わってくる。
それが布都の皮膚から、肉へ、骨へと伝わっていくのを、脱力した表情で感じていく。
染み渡る熱が、体の力を抜いていく。疲労感が水に溶けるように消えていき、代わりに安心感が体の芯から全身へ広がっていく。
小さく、短い溜息を一つ。
それがきっかけになったのか。霖之助がふと、声をかけてきた。
「今日は一体何のようだい?」
用事。そんなものはない。
しいて言うならこの時間が要件だ。癒しと安らぎの空間が布都の望みだ。
だけど、仮にも店であるこの香霖堂に来ている以上、ただのんびりと過ごすだけというのも気が引ける。
そう思い、懐にしまったものの存在を思い出した布都は、
「のう、森近殿。今日は、ポッキーゲームとやらをする日だと聞いた」
そう、答えた。
「……ああ、あれか」
霖之助は、わずかに言いよどむ。
心当たりはあるようだが、何やら不満そうだ。
「ん? 森近殿はご存じだったか?」
「知っているよ。霊夢と魔理沙が少し前に、興味本位でやってたのを見たからね」
「そうか。それならば、話が早い」
返答はない。布都は続ける。
「実は青娥殿という知り合いから、この遊技について聞いたばかりでな。彼女曰く、親しい男性にしてあげると喜んでもらえるとか。日頃のお礼に、どうだろう?」
もたれかかった体をそのままに、布都は顔だけ上にあげて、霖之助の顔を見上げる。
「それは――」
何やら言いかけた霖之助だが、上目づかいに彼を見る布都と視線を交え、言いよどむ。
「……布都は」
頭を振って、話し始める。
何やら真剣なそのおもむきに、布都の体が少し力む。
「君は、それでいいのかい?」
質問の意味は、布都にはわからない。
どうにもポッキーゲームというものには、布都の知らない何かがあるらしい。霖之助は、それについて心配しているのだろう。
だが、だとしても。
「森近殿は、嫌か?」
彼が望むのなら、してあげたい。
いやならば、したくない。
布都の選択肢は、この二つだけだ。それ以外なんて、あるはずない。
「僕は」
口にして、躊躇って。
「そうだね、僕は」
頭を振って、気付いたように。
「うん。僕はやりたいな」
そう言って、少し笑った。
「……うむ。ではしよう!」
その笑顔がうれしくて、つい声が上ずってしまう。
布都は懐から箱を取り出し、少し手間取りながら袋を開け、ポッキーを一本掴み取った。
「えっと、これの端と端を、口でくわえるのだったな」
言葉に出して確認すると、ポッキーを霖之助へと差し出した。
「はい。森近殿」
「うん、ありがと」
霖之助はそれを軽くくわえる。
ポッキーが、霖之助の口で固定されたことを確認すると、その反対側を布都はくわえた。
二人は、視線を交える。
声は出せないので、視線で合図を送る。
(……あれ、何だろ?)
少し、霖之助の視線に熱を感じた。
理由は、分からない。
分からないけど、気にはならなかった。
何より、熱い以上に、その視線は楽しそうだった。
こういう、何でもない遊びが、彼は案外好きなのかもしれない。
(森近殿が楽しいなら、それでいいか)
何はともあれ。
視線を交わし、合図を送り。
二人は同時に、ポッキーをかみ始めた。
**********
まず布都の口の中に、柔らかいような、硬いような、クッキー独特の感触が広がっていく。
(あ。チョコが)
ポッキーというものは、手を汚さないようにチョコの付いていない部分をつかむのが普通だ。
布都もそのようにポッキーを取り出し、霖之助に差し出すときも、持つ部分を変えなかった。だから、布都が咥える側には、チョコが付いていなかった。
(んー、ちょっと、悔しいの)
霖之助は最初から、チョコを味わっている。そう思うと、わずかな嫉妬心が芽生えてくる。
しかし、それはすぐに消えて行った。
逆を言えば、一番おいしい部分を、霖之助は今味わっているのだから。
その喜びに比べれば、布都がチョコを食べられないことなど、大した問題ではない。
(まあ、でも)
それでも、チョコが食べたいのも事実。
だから、かじる速度を少し上げる。
さく、さくと、ポッキーをかじり、短くしていく。
霖之助は、布都ほど早く食べてはいない。味わっているのかどうなのかは不明だが、どうにも速度が遅い。
気にせずに、布都はかじり続ける。
かじって、かじって、やがて唇に、なめらかで少し湿ったものが当たった。
チョコだ。布都は嬉しそうに顔をほころばせると、今度はゆっくり、丁寧にポッキーをかじった。
滑るような歯触りと、ざらついた歯触りとを感じとる。
かじられ分離されたポッキーの破片は布都の口の中に送られ、その唾液に溶けたチョコの味が、舌中へ広がっていく。
わずかな苦味に引き立てられた、甘味。
布都が人として生きていた時代、飛鳥の世にも、菓子はあった。
チーズのようなものに蜂蜜をかけたものが主流で、布都はよく食べたものだ。
あれはあれで、おいしかった。
だが、チョコレートには、当時はなかったおいしさがある。
カカオ特有の苦みだ。布都にとっては好ましくないはずの苦味が、チョコの甘味を引き立てると同時に、チョコの個性を演出する。
ほかの砂糖菓子では代用できない、チョコのみにしかない味わい。
口にすれば「ああ、チョコを食べてるんだ」と思わせるそれが、布都のチョコレートに対する好感度を上げていく。
(ん。おいしい)
顔が、ほころぶのが分かる。
みっともないから直したいけど、チョコの美味しさが、すぐに顔を緩ませる。
(仕方ないな。おいしいんだから)
仕方ない、と心の中で呟きながら、ポッキーをかじる。
味わいながら、ゆっくりと、ポッキーを短くしていく。
(そう言えば、森近殿は)
ふと、霖之助はどこまで食べたのか気になって、視線を上げた。
あまり、進んではいない。
布都以上に味わっているのか、それともチョコが苦手なのか。
(後者だとしたら、嫌だ)
霖之助が嫌がるのは、嫌だ。
だから霖之助の顔をうかがって、その表情が思ったより悪いものではないということに気付いて、安堵して。
(……あ、れ?)
その顔が。
霖之助の、割合端整な顔が。
きわめて近くにあることに、気付いた。
(もし、や)
このままいったら、どうなるんだ?
ポッキーゲーム。きわめて簡単なこの遊技が終わる時、一体何が起こるのか。
布都の思考がようやく、そこへ向けられた。
(あ、それは、ちょっと)
互いにくわえた、一本のポッキー。
食べて行けば、短くなって。
短くなれば、いつかはなくなる。
なくなれば、当然――
(それは、その、えっと)
嫌では。
嫌ではないが、ためらいは覚える。
(だって、それは)
経験は、あるけれど。
布都も、かつては豪族のひとりだ。
物部の血を引く彼女は、婚姻を交わしたこともある。
だから、この先に待つ行為も、経験は、ある。
あるが、何か違う。
(なんで、体、熱いのだ?)
体が、熱い。
心臓が、痛いほどに高鳴る。
胸部を揺らしそうなほど、鼓動が加速する。
体中が熱くなって、首から上は感触すらおぼろげになる。
ものが、良く見えない。
ポッキーを、確かにかじっているはずなのに、それさえもおぼろげで。
チョコの甘味も、苦味も、たった一瞬で消し飛んだ。
味なんてもうわからなくて、ただただ、何かに突き動かされたように、ポッキーをかじる。
(あ……あ……)
ポッキーが、短くなる。
二人の距離も、短くなる。
短くなって、近づいて。
布都の視界いっぱいに、霖之助の顔が広がる。
全体的には整ってて、目はなんだか薄暗くて、でも口元は少し優しげで。
そんな顔が、広がっていく。
四センチ、三センチと、ポッキーは短くなって。
それと反比例するように、霖之助の顔が、広がっていく。
(――――)
思考さえ止まるほどに、心臓の鼓動は激しさを増して。
二人の距離が、ゆっくりと。
じれったいほどにゆっくりと、縮まって。
後三センチ、あと二センチと、狭まって。
互いの鼻先が、ふれあって。
「ぁ――――」
そして、そして。
「…………」
「…………」
しばらくの後。
二人は黙って、過ぎ去っていく時間を感じていた。
霖之助は、本を読んで。
布都は、そんな彼に寄り添って。
静かに、過ごしていた。
「…………」
「…………」
言葉はない。
霖之助はどうか知らないが、布都にはもう、声を出すという発想さえ浮かばなかった。
頭の中がぼぅっとして、何も考えられない。
体は熱くて、とても熱くて、でも不快ではない熱さで。
頭の中は真っ白で、体は宙に浮いたように不確かで。
椅子に座っているはずなのに、中を漂う錯覚を覚える。
「…………」
「…………」
いったいいつまで、そうしていたのか。
布都は、鳴り響く鐘の音で目を覚ました。
「――――あ」
眠っていたのか、気絶していたのか。
とにかく意識を取り戻した彼女は、慌てて隣を見る。すると、霖之助は変わらずそこにいた。
「おはよう、布都」
「……おはよう、森近殿」
霖之助の笑顔が、今は無性に眩しく感じる。
とてもまぶしくて、見ていられない。
「わ、我は、そろそろ、帰らねば」
「そうだね。ちょうど、そんな時間だ」
いつも通りの、帰宅時間。
でも、いつものようには、終わらせたくない。
「森近、どの」
「何だい、布都」
「その、えっと」
言いたいことがいっぱいありすぎて、言葉に詰まる。
別れの挨拶とか、今日のこととか、先ほどのあれとか。
いっぱいいっぱい言いたくて、でも何一つ言葉にできない。
伝えたいことがあるはずなのに、埋もれてしまって見つからない。
はち切れそうな想いが、胸の中に閉じ込められる。解き放って言葉にしたいのに、頭がうまく働かない。
「これから、なのだが」
言いたいことも、言うべきことも言えなくて。
代わりのように、一つだけ絞り出す。
「これから、霖之助殿と、呼んでもよいか?」
ただそれだけのはずなのに。言うべきことでも、言いたいことでもないはずなのに。
それを口にしただけで、布都の顔が真っ赤になる。
赤い顔を見られたくなくて、布都は俯いて、霖之助から隠す。
「……うん」
返答は、そう間を置かずにやってきた。
「いいよ、そう呼んでも」
その一言が、今の布都にはとてもうれしかった。
「ほ、本当か!?」
驚き交じりの喜びで、布都は飛ぶように立ち上がった。
「う、うん。いいよ」
布都の反応についていけぬ霖之助。布都は気にせずにその両手を握る。
「り、霖之助殿!」
「な、何だい?」
「きょ、今日は、色々、あったけど」
いろいろを思い出して、布都の顔が赤さを増す。
それをごまかすように、早口でまくしたてた。
「また、今度! 遊びに、来るからの!」
「うん。できれば、何か買っていってほしいけど」
「だから! 今日は、さようなら、じゃ」
「そうだね。また今度」
「う、うむ。ではの!」
つかんだ両手を上下に振って、ついに耐え切れなくなった布都は、そのまま香霖堂を飛び出した。
飛び出して、しかしすぐに立ち止まって。
背後を振り返る。
今飛び出したばかりの香霖堂を。
開けっ放しの扉を。
その向こうの、商品と棚で、今は見えない、森近霖之助を。
「また、あおうの」
布都は楽しそうに、うれしそうに。
「――――霖之助」
とろけるように、呟いた。
それは布都が知り合いの店へと顔を出すため、魔法の森を歩いていた時のこと。
森の中で、何やら怪しげな袋を背負った女性を見かけた。
大きな袋を担いだ、青色が特徴の女性。
どこかで見たようなその容姿に思わず足を止めた布都。彼女はその人物が、霍青娥であると気付き大いに驚き、思わず声を上げた。
霍青娥。布都たちに仙道を教えた仙人だ。
まあ、仙人とは言っても、欲を捨てたような人物ではない。むしろ自身の欲望にどこまでも忠実で、そのせいであちこちでもめ事を起こしている。
(しかし、なぜ彼女がここに?)
青娥が『サンタクロース』なるよく分からない人物に扮し、その能力であちこちの家に侵入、金品を盗み、代わりに贈り物を置いていくというのは布都も知っていた。だがそれは十二月の話で、今はまだ十一月。だというのに、青娥が背負った袋は、布都も見知ったものであった。冬の日に、盗ってきた金品でパンパンになっていたあの袋に相違ない。
驚き声に気付き、あいも変らぬ妖艶な笑みとともに挨拶してきた青娥に対し、布都はその袋は何だと尋ねた。
袋の中身は外のお菓子で、ポッキーというものであると青娥は言った。言って、おひとつどうぞと布都に差し出した。
(ポッキー……確かチョコレートのお菓子であったか)
一度だが、食べたことがある。
一月ほど前であったか。布都が命蓮寺焼打ちに失敗し、聖という尼に説教され、泣き顔で帰路についたときのこと。
泣きべそを必死に隠そうとする布都に、おばあちゃん風の狸妖怪がこれをくれた。
甘いものを食べて元気出せ、ということだろう。実際、ポッキー一袋をその場で明けた布都はその後、上機嫌で神霊廟へと帰って行った。
「このお菓子は好きだ。甘いし」
「そうでしょうそうでしょう。布都様ならきっと気に入ってくれると思っていました」
手を合わせ、バカにしているのか納得しているのかいまいち分からないことを言う青娥。
そんな彼女を無視して、布都は青娥が背負っている袋を指差す。
「しかし青娥殿。いくらおいしいお菓子とはいえ、それほど大量に用意する必要はあるのでしょうか?」
「ええ、あります。ありますとも」
「本当に? 青娥殿のお腹に収まる量とは思えませぬ。そして失礼ながら、青娥殿が他人にお菓子を分けるような人物とも思えませぬ」
「あら、ちゃんと配りますよ」
嘘だ。なんて台詞をのどもとで押さえつけた布都は、代わりに思案する。
霍青娥は極めていい加減で、自分勝手な人間だ。そんな彼女が仮に、仮にだが、他者に物を与えるとすれば、それは何だ?
(思いつくのは、何らかの行事)
彼女はあれで、流行やら行事やらを好んでいる。サンタクロースなる人物に仮装したのも、ひとえに幻想郷でクリスマスがはやっていたからだ。
(と、なると)
大まかに辺りをつけた布都は、青娥に訪ねる。
「何かのもようしものですか?」
「ええ。大当たりです、布都様」
大正解、と両手を上げる青娥。やはり馬鹿にしたような感じがする。
「11月11日。外の世界ではこの日、ポッキーを使ったゲーム、その名の通りポッキーゲームというのを行うのが流行なんです」
「なるほど、そのような行事があったのですか」
布都は納得、と頷く。
布都は青娥に対しあまり良い印象を抱いてはいない。だがこと知識人としてならば逆だ。千年以上前に布都たちに仙道を教え、今も外の世界の知識を多く有する青娥に対し、布都は尊敬の念すら抱いている。
そんな彼女が言うのなら、本当にそう言った行事があるのだろう。
「ポッキーゲーム、ですか。それはいかなる遊びなのですか?」
「簡単ですよ。こう、ポッキーの端と端を、二人で口にして、ですね。そのまま二人でポッキーを食べるだけです」
「なるほど。して、その遊びの勝敗はどうやって決めるのです? やはりより多く食べた方、ですか?」
「いえいえ。そもそもこのゲームに勝敗なんてありません。だって勝ち負けを決めるものじゃないんですもの」
「ほほう。それはなかなか、興味深い」
布都の知る限り、遊技というものは勝敗を付けることで決着するものだ。
だから、勝敗がないという青娥の言葉に、好奇心をそそられた。
「その遊び、我にもできるかの?」
「ええもちろん。布都様は愛らしいですから、相手にも困らないでしょう?」
「……?」
布都には意味が分からなかった。
自身の容姿をほめられたことは理解できるが、それがなぜ相手に困らない、ということになるのか。
首をかしげ、考える。
しかしいくら考えても一向に答えは出ず、一分ほどたったところで思考を取りやめた。
「まあ、よい。とにかく今日はそのポッキーゲームとやらをする日なのだろう?」
「その通りです。仲の良い男性としてあげるといいですよ。相手が喜びます」
「うむ。参考にさせていただこう、青娥殿」
そう言って布都は青娥に手を振り、別れた。
手を振り返し、こちらを見送る青娥の瞳が、何やら腹黒そうに歪んでいた。だがいつものことなので、布都は気にせず歩き続けた。
**********
魔法の森を歩くことしばらく。
漂っていた瘴気が薄らぎ、怪しげなキノコたちがその数を減らし、妖怪化した樹木がみられなくなった頃。
一つの建物が見えてきた。
かなり年季の入った道具屋で、表にいくつか商品が並べられている。
いや、並べられている、というのは誤りか。
より正確に言うならば、置かれている、と表現するべきだろう。
それこそ適当に、配置やら見易さやらなど一切考慮せず、店内に入りきらないから外に出した、と言わんばかりに放置されている。
商品に対する扱いとは思えない。
以前布都が尋ねたところ、店長は平然と。
「ああ、あれらなら役に立たないガラクタだよ。捨てるのも面倒だから放置してるだけ」
などと言い放った。ガラクタであれ何であれ、商品に対する扱いとは思えない。
「……いや、森近殿のことだ。きっと商品とすら思っていないのだろう」
それこそ、粗大ごみ程度の認識ではないだろうか。
「商売はよく分からぬから、物への扱いはいいとしても、だ」
いい加減掃除をしてほしい。
店の中をもうちょっと整頓すれば、客の入りも多くなるだろうに。
立地条件故に訪れる人の絶対数は少ない。だが少ないなら少ないなりに、限られた人を逃さぬよう工夫するべきだ。
布都はここの店主のことを気に入っている。少々ぶっきらぼうだが決して思いやりがないわけではないし、良く語る薀蓄も興味深いものが多い。
(顔も、悪くはないわけだし。客が増えれば、人里での人気も上がるだろうに)
少なくとも、常連客である霧雨魔理沙、博麗霊夢、十六夜咲夜たちからの評価は、決して低くない。
顔が良いのなら、ある程度の性格は許容できるのが人間だ。
容姿はいいがぶっきらぼうで、偶に優しい男性。婦人たちの間でさぞ人気者になるだろう。
「……あれ、何だろ?」
人気が出て、店が繁盛すれば、店主も喜ぶ。
それは、事実のはず、なのに。
「なんだか、変な気分」
違う。
何かが違うと、思う。
何か、違うし、嫌だ。
「なんで、嫌なんだろう」
よく分からない。
分からないことが不快で、でも心の底では分かりたくなくて。
その矛盾が嫌になって、嫌悪感を振り払うように、目の前に迫った扉を勢いよく開けた。
「森近殿! お邪魔するぞ!」
先の嫌悪感が原因なのか、その声は普段より一層大きく、一層力強かった。
しかし、そんな大声にもかかわらず、返事はない。
一秒、二秒。扉の勢いで倒れた商品の、崩れ去る音のみが周囲を満たす。
三秒、四秒。倒壊の余韻が店内に漂い、やがて消えていく。
五秒、六秒。やがて静寂が、冷気のように布都を包んでいく。
七秒、八秒。返答を待ち、扉を開けたままの姿勢で固まる布都。そんな彼女が、長い長い沈黙に首をかしげた。
そして、九秒を過ぎて、十秒目。
「……なんだい、騒がしいね」
ようやく、返事があった。
それは店の奥。所狭しと並べられた棚と、その足元に置かれた商品の向こう側。布都の記憶が正しければ、店主が良く読書などに使用する机の位置から聞こえてきた。
布都は商品を踏まぬよう慎重に歩き、声の主へと近づく。
ひょこ、ひょことおっかなびっくりに進むこと数十秒。ようやく、店主の下へとたどり着いた。
「やあ、こんにちわ、布都」
椅子にもたれかかり、何やら難しそうな本を読んでいた店主、森近霖之助。
彼は近づいてきた布都に気付くと、本から顔を上げ、あまり表情を変えずに挨拶してきた。
「こんにちは、森近殿」
それに対し布都も、両の袖を合わせ、頭を少し下げて挨拶を返す。
森近霖之助。
彼はこの道具屋、『香霖堂』を営む、ちょっと変わった人間だ。
彼と知り合ったのは、数か月ほど前のこと。
ちょっとした事情で外の世界の道具が必要になった際、霧雨魔理沙に紹介されたのがこの店だった。
外の世界のものも魔法に関連するものもただの日用品も、とにかく何でもかんでもかき集めた、子供の宝箱みたいな店。そこで目的のものを手に入れた布都は、以来気が向けばここに通うようになっていた。
買い物は、偶にする程度だ。
帰り際に適当に店内を散策し、何となく気になったものがあれば、購入する。
その程度だ。それが一般的に冷やかしと呼ばれているもので、あまり良い行動でないことは布都も承知している。
しかししょうがない。布都はそもそも、この店に買い物に来ているわけではないのだ。
静かで、少し薄暗い店内。立ち並ぶ道具たちと、若干の埃の匂い。それらが、布都は好きだった。
何よりここは温かい。気温ではなく、雰囲気が。
緩やかで暖かな流れが、体も心も包んでくれるような気がして、ここにいると落ち着く。
だから布都は、この店に通う。
温もりに身を任せ、霖之助の薀蓄に耳を傾ける日々は、気が付けば布都にとって、癒しのひと時となっていた。
「っと、失礼」
断りを一つ。返答は、いつものように小さな頷き一つだけ。
布都は近くの椅子を移動させ、霖之助の隣に置く。
そこに腰かけて、本へと視線を戻した霖之助の体にもたれかかる。
片方の肩と、頭部から、霖之助の体温が伝わってくる。
それが布都の皮膚から、肉へ、骨へと伝わっていくのを、脱力した表情で感じていく。
染み渡る熱が、体の力を抜いていく。疲労感が水に溶けるように消えていき、代わりに安心感が体の芯から全身へ広がっていく。
小さく、短い溜息を一つ。
それがきっかけになったのか。霖之助がふと、声をかけてきた。
「今日は一体何のようだい?」
用事。そんなものはない。
しいて言うならこの時間が要件だ。癒しと安らぎの空間が布都の望みだ。
だけど、仮にも店であるこの香霖堂に来ている以上、ただのんびりと過ごすだけというのも気が引ける。
そう思い、懐にしまったものの存在を思い出した布都は、
「のう、森近殿。今日は、ポッキーゲームとやらをする日だと聞いた」
そう、答えた。
「……ああ、あれか」
霖之助は、わずかに言いよどむ。
心当たりはあるようだが、何やら不満そうだ。
「ん? 森近殿はご存じだったか?」
「知っているよ。霊夢と魔理沙が少し前に、興味本位でやってたのを見たからね」
「そうか。それならば、話が早い」
返答はない。布都は続ける。
「実は青娥殿という知り合いから、この遊技について聞いたばかりでな。彼女曰く、親しい男性にしてあげると喜んでもらえるとか。日頃のお礼に、どうだろう?」
もたれかかった体をそのままに、布都は顔だけ上にあげて、霖之助の顔を見上げる。
「それは――」
何やら言いかけた霖之助だが、上目づかいに彼を見る布都と視線を交え、言いよどむ。
「……布都は」
頭を振って、話し始める。
何やら真剣なそのおもむきに、布都の体が少し力む。
「君は、それでいいのかい?」
質問の意味は、布都にはわからない。
どうにもポッキーゲームというものには、布都の知らない何かがあるらしい。霖之助は、それについて心配しているのだろう。
だが、だとしても。
「森近殿は、嫌か?」
彼が望むのなら、してあげたい。
いやならば、したくない。
布都の選択肢は、この二つだけだ。それ以外なんて、あるはずない。
「僕は」
口にして、躊躇って。
「そうだね、僕は」
頭を振って、気付いたように。
「うん。僕はやりたいな」
そう言って、少し笑った。
「……うむ。ではしよう!」
その笑顔がうれしくて、つい声が上ずってしまう。
布都は懐から箱を取り出し、少し手間取りながら袋を開け、ポッキーを一本掴み取った。
「えっと、これの端と端を、口でくわえるのだったな」
言葉に出して確認すると、ポッキーを霖之助へと差し出した。
「はい。森近殿」
「うん、ありがと」
霖之助はそれを軽くくわえる。
ポッキーが、霖之助の口で固定されたことを確認すると、その反対側を布都はくわえた。
二人は、視線を交える。
声は出せないので、視線で合図を送る。
(……あれ、何だろ?)
少し、霖之助の視線に熱を感じた。
理由は、分からない。
分からないけど、気にはならなかった。
何より、熱い以上に、その視線は楽しそうだった。
こういう、何でもない遊びが、彼は案外好きなのかもしれない。
(森近殿が楽しいなら、それでいいか)
何はともあれ。
視線を交わし、合図を送り。
二人は同時に、ポッキーをかみ始めた。
**********
まず布都の口の中に、柔らかいような、硬いような、クッキー独特の感触が広がっていく。
(あ。チョコが)
ポッキーというものは、手を汚さないようにチョコの付いていない部分をつかむのが普通だ。
布都もそのようにポッキーを取り出し、霖之助に差し出すときも、持つ部分を変えなかった。だから、布都が咥える側には、チョコが付いていなかった。
(んー、ちょっと、悔しいの)
霖之助は最初から、チョコを味わっている。そう思うと、わずかな嫉妬心が芽生えてくる。
しかし、それはすぐに消えて行った。
逆を言えば、一番おいしい部分を、霖之助は今味わっているのだから。
その喜びに比べれば、布都がチョコを食べられないことなど、大した問題ではない。
(まあ、でも)
それでも、チョコが食べたいのも事実。
だから、かじる速度を少し上げる。
さく、さくと、ポッキーをかじり、短くしていく。
霖之助は、布都ほど早く食べてはいない。味わっているのかどうなのかは不明だが、どうにも速度が遅い。
気にせずに、布都はかじり続ける。
かじって、かじって、やがて唇に、なめらかで少し湿ったものが当たった。
チョコだ。布都は嬉しそうに顔をほころばせると、今度はゆっくり、丁寧にポッキーをかじった。
滑るような歯触りと、ざらついた歯触りとを感じとる。
かじられ分離されたポッキーの破片は布都の口の中に送られ、その唾液に溶けたチョコの味が、舌中へ広がっていく。
わずかな苦味に引き立てられた、甘味。
布都が人として生きていた時代、飛鳥の世にも、菓子はあった。
チーズのようなものに蜂蜜をかけたものが主流で、布都はよく食べたものだ。
あれはあれで、おいしかった。
だが、チョコレートには、当時はなかったおいしさがある。
カカオ特有の苦みだ。布都にとっては好ましくないはずの苦味が、チョコの甘味を引き立てると同時に、チョコの個性を演出する。
ほかの砂糖菓子では代用できない、チョコのみにしかない味わい。
口にすれば「ああ、チョコを食べてるんだ」と思わせるそれが、布都のチョコレートに対する好感度を上げていく。
(ん。おいしい)
顔が、ほころぶのが分かる。
みっともないから直したいけど、チョコの美味しさが、すぐに顔を緩ませる。
(仕方ないな。おいしいんだから)
仕方ない、と心の中で呟きながら、ポッキーをかじる。
味わいながら、ゆっくりと、ポッキーを短くしていく。
(そう言えば、森近殿は)
ふと、霖之助はどこまで食べたのか気になって、視線を上げた。
あまり、進んではいない。
布都以上に味わっているのか、それともチョコが苦手なのか。
(後者だとしたら、嫌だ)
霖之助が嫌がるのは、嫌だ。
だから霖之助の顔をうかがって、その表情が思ったより悪いものではないということに気付いて、安堵して。
(……あ、れ?)
その顔が。
霖之助の、割合端整な顔が。
きわめて近くにあることに、気付いた。
(もし、や)
このままいったら、どうなるんだ?
ポッキーゲーム。きわめて簡単なこの遊技が終わる時、一体何が起こるのか。
布都の思考がようやく、そこへ向けられた。
(あ、それは、ちょっと)
互いにくわえた、一本のポッキー。
食べて行けば、短くなって。
短くなれば、いつかはなくなる。
なくなれば、当然――
(それは、その、えっと)
嫌では。
嫌ではないが、ためらいは覚える。
(だって、それは)
経験は、あるけれど。
布都も、かつては豪族のひとりだ。
物部の血を引く彼女は、婚姻を交わしたこともある。
だから、この先に待つ行為も、経験は、ある。
あるが、何か違う。
(なんで、体、熱いのだ?)
体が、熱い。
心臓が、痛いほどに高鳴る。
胸部を揺らしそうなほど、鼓動が加速する。
体中が熱くなって、首から上は感触すらおぼろげになる。
ものが、良く見えない。
ポッキーを、確かにかじっているはずなのに、それさえもおぼろげで。
チョコの甘味も、苦味も、たった一瞬で消し飛んだ。
味なんてもうわからなくて、ただただ、何かに突き動かされたように、ポッキーをかじる。
(あ……あ……)
ポッキーが、短くなる。
二人の距離も、短くなる。
短くなって、近づいて。
布都の視界いっぱいに、霖之助の顔が広がる。
全体的には整ってて、目はなんだか薄暗くて、でも口元は少し優しげで。
そんな顔が、広がっていく。
四センチ、三センチと、ポッキーは短くなって。
それと反比例するように、霖之助の顔が、広がっていく。
(――――)
思考さえ止まるほどに、心臓の鼓動は激しさを増して。
二人の距離が、ゆっくりと。
じれったいほどにゆっくりと、縮まって。
後三センチ、あと二センチと、狭まって。
互いの鼻先が、ふれあって。
「ぁ――――」
そして、そして。
「…………」
「…………」
しばらくの後。
二人は黙って、過ぎ去っていく時間を感じていた。
霖之助は、本を読んで。
布都は、そんな彼に寄り添って。
静かに、過ごしていた。
「…………」
「…………」
言葉はない。
霖之助はどうか知らないが、布都にはもう、声を出すという発想さえ浮かばなかった。
頭の中がぼぅっとして、何も考えられない。
体は熱くて、とても熱くて、でも不快ではない熱さで。
頭の中は真っ白で、体は宙に浮いたように不確かで。
椅子に座っているはずなのに、中を漂う錯覚を覚える。
「…………」
「…………」
いったいいつまで、そうしていたのか。
布都は、鳴り響く鐘の音で目を覚ました。
「――――あ」
眠っていたのか、気絶していたのか。
とにかく意識を取り戻した彼女は、慌てて隣を見る。すると、霖之助は変わらずそこにいた。
「おはよう、布都」
「……おはよう、森近殿」
霖之助の笑顔が、今は無性に眩しく感じる。
とてもまぶしくて、見ていられない。
「わ、我は、そろそろ、帰らねば」
「そうだね。ちょうど、そんな時間だ」
いつも通りの、帰宅時間。
でも、いつものようには、終わらせたくない。
「森近、どの」
「何だい、布都」
「その、えっと」
言いたいことがいっぱいありすぎて、言葉に詰まる。
別れの挨拶とか、今日のこととか、先ほどのあれとか。
いっぱいいっぱい言いたくて、でも何一つ言葉にできない。
伝えたいことがあるはずなのに、埋もれてしまって見つからない。
はち切れそうな想いが、胸の中に閉じ込められる。解き放って言葉にしたいのに、頭がうまく働かない。
「これから、なのだが」
言いたいことも、言うべきことも言えなくて。
代わりのように、一つだけ絞り出す。
「これから、霖之助殿と、呼んでもよいか?」
ただそれだけのはずなのに。言うべきことでも、言いたいことでもないはずなのに。
それを口にしただけで、布都の顔が真っ赤になる。
赤い顔を見られたくなくて、布都は俯いて、霖之助から隠す。
「……うん」
返答は、そう間を置かずにやってきた。
「いいよ、そう呼んでも」
その一言が、今の布都にはとてもうれしかった。
「ほ、本当か!?」
驚き交じりの喜びで、布都は飛ぶように立ち上がった。
「う、うん。いいよ」
布都の反応についていけぬ霖之助。布都は気にせずにその両手を握る。
「り、霖之助殿!」
「な、何だい?」
「きょ、今日は、色々、あったけど」
いろいろを思い出して、布都の顔が赤さを増す。
それをごまかすように、早口でまくしたてた。
「また、今度! 遊びに、来るからの!」
「うん。できれば、何か買っていってほしいけど」
「だから! 今日は、さようなら、じゃ」
「そうだね。また今度」
「う、うむ。ではの!」
つかんだ両手を上下に振って、ついに耐え切れなくなった布都は、そのまま香霖堂を飛び出した。
飛び出して、しかしすぐに立ち止まって。
背後を振り返る。
今飛び出したばかりの香霖堂を。
開けっ放しの扉を。
その向こうの、商品と棚で、今は見えない、森近霖之助を。
「また、あおうの」
布都は楽しそうに、うれしそうに。
「――――霖之助」
とろけるように、呟いた。
まあそこが可愛いんだけど
乙女な布都と大人な霖之助の組み合わせがよかったです
できれば霖之助の心理描写もあったらよかったなー
素晴らしい