眼下に数え切れないほどの感情と光が現れた。
「な!?」
私は思わず息を呑む。
地上ではありえないほどに冷やされた、夜の風。それが頬を撫でている。どうやらここは小山よりも高い場所らしい。私とこいしは空の上にいる。
上空から下界を眺めると、そこは炎の光では決してない、見たこともない種類の光が満ちていた。その光景はまるで、夜の闇の絨毯にキラキラと輝く宝石をばら撒いたかのようだ。光全てからは感情が感じられる。おいおい嘘だろ? あの無数の光全部が、人間の出した光だっていうのか?
「とうちゃーく!」
隣でこいしはお気楽そうに叫んだ。相変わらずのふわふわした笑顔。その感情は読み取れない。
「さあさあさあ! 着いたよこころ! どう、凄い眺めでしょ?」
こいしはわたしの手を握りながらぶんぶんと振り回す。た、たしかに凄いといえば凄い。何の光かすら分からないが、それでもキラキラが遠く彼方まで一面に広がっている光景はなかなか見ごたえがある。あ、何か動く光もたくさんある。
「こ、こいし、ここはどこなんだ?」
私は面を戸惑いの猿面にしながら、ふと、下を見てみた。
そこにも驚きが待っていた。
そこには塔があった。金属によって複雑に構成されている塔。
信じられないことに、それは地上から私たちの足元まで伸びていた。
いやいや、たぶん私たち結構高いところにいるぞ、たぶん小山くらいの高さのところに。それなのにこの塔はそんな私たちのすぐ近くまでの高さがある。
なんなんだ、この巨大な塔は。
「これ? 東京スカイツリーだよ?」
こいしはニコニコ顔で、言った。
「そしてここは東京スカイツリーの上空一メートルなのだ!」
私は今日、命蓮寺でイベントの手伝いをやらされた。宗教家の活動の片棒をかつぐのは嫌だったが、聖のやつに無理やり引っ張られてしまった。イベントというのはマラソン大会のことで、私は完走者に渡すお汁粉を作らされた。何せ普段食事など取らないから料理などしたことがなく、四苦八苦。
まあ、豚汁を飲む人間たちの喜びの顔は、見てて悪くはなかったし、イベント終了後に聖がおいしい梨をプレゼントしてくれたから、大目にみてやる。暗黒能楽での攻撃はなし。
で、その夜は命蓮寺で泊まった。夕食を食べ、風呂にも浸かろうとした。
こいしが声を掛けてきたのは、風呂へと通じる廊下の途中だった。
「ねえ、こころ。良いところに連れて行ってあげようか?」
怪しい。知っているぞ、これが誘拐犯の手口だな! このまえ神子が教えてくれた。
「てやんでい! その手にだまされるかべらぼうめ!」
私は怒りの般若面を出しながら啖呵をきった。
「めんどくさいなぁ、えーい」
するとこいしは有無を言わさずいきなり私の手を握ってきた。がしっと力強く掴まれ、放すことが出来ない。
「な、なにを」
するのか、そう言おうとした瞬間、視界が暗転した。
それはあまりにも突然であり、あまりにも劇的だった。
劇的な『私の改造』だった。
全く奇妙な体験だった。ただ私の根幹以外が変化していく感覚。魂のみを残し、他が別の物質に変わっていく感覚。
何か壁のようなものをくぐった気がする。薄く、透明で、しかし決定的な何かを遮断する壁。それを細胞の一つ一つを作り変えながら無理やり通り過ぎた。
意識は朦朧とし、五感が判然としない。
ただ、こいしの手の温もりだけが、やけにしっかりと記憶に残っている。
そして、暗転が終わり目を開けると、東京スカイツリーとやらの上にいた。
「どういうことだこりゃ!?」
訳が分からん! こいしと一緒にいると摩訶不思議な出来事によく巻き込まれるが、こいつはその中でも一級だ! なにがどうしてこうなってる!?
「ここは東京、幻想郷の外の世界だよ」
「外の世界!?」
私は驚きの大飛出の仮面を出した。
ちょっと待てくれ、こいし。霊夢から聞いた話によると、幻想郷にいる人妖は博麗大結界を抜けることが出来ないんじゃなかったか。スキマ妖怪(霊夢談)とかの例外を除いて。結界は本当に強固なもので、どれだけ強い力をもってしても突破は不可能だとか……。
「うーん、ところどころに穴が開いているって聞いたこともあるし、そこまで完璧な結界でもないんだよあれ? わたしの能力を使えば簡単に内と外を行き来できるし」
あっけらかんとこいしは言う。な、なんだとぉ?
「博麗大結界は常識と非常識に関わる結界だよね? 外の世界の非常識を幻想郷の常識にしちゃうことで論理的な壁を作るってやつ。心を持つ存在なら誰しもが常識か否かを判断するわけだから、この結界はそれら全てに作用するわけだ。
でもね。
こころも知っている通りわたしの能力は無意識の力、無意識に沈み込む能力。で、そんな力を持つわたしだから知っていることがあるの。無意識の世界では意識界の常識非常識が曖昧模糊なものになってしまうことがあるんだよ。
人は暗闇に立つとき、言い知れぬ恐怖に包まれる。それはどうして? お化けなんて嘘だと分かっているのに。それは心の奥深く、無意識の領域で、暗闇のどこかに得体の知れない何者かが潜んでいるかもと感じてしまうから。これは意識的にどうにかしようと思ってもどうにもできないことなんだよ。
わたしはそこに潜り込む。無意識に感じる恐怖の中にはまだ妖怪が生きられる。常識も非常識も関係ない、誰しもの心の中にある幻想の隠れ家。
無意識の領域を通れば、結界は無視できる。常識という論理的な壁を突破することができるんだ。ね、簡単でしょう?」
「簡単じゃねえよ!?」
な、なんだかこいつとんでもないことを言っている気がする。無意識だから常識なんて関係ない、結界も関係ないだと?
ん? ちょっと待て。
「こいし、ちょっと待て。非常に混乱しているんだが一言いいか」
「戸惑いの猿面を出しながらどうぞ」
「お前がその、なんだ、無意識を操る能力をどうにかして外の世界に出れるのは確かにそうかもしれない。だが、私はそんな力持っていないぞ。どうやって私は結界を抜け出した」
「こころとわたしの能力は親和性が高いからね。手をこうやってぎゅっと握れば、能力の共有が出来るんだよ。っていうかいまさっきそれを試したから。実験大成功!」
「実験!?」
危ない結果に終わったらどうしてくれんだこのやろう! 私は怒りの般若面を出した。
「ははは、大丈夫、きっとうまくいくと確信してたから。意識と無意識は常に深く関係しあっているものよ。無意識が意識を縛るように、意識も無意識を縛れるんだから、頑張ればね」
「よく分からん」
「結界を通り抜けるとき、なんだか体中の色んなものが変わっていく感覚を覚えたでしょ。あれは幻想の世界から現実の世界に渡るために体が適応していく過程なんだよ。青虫が蝶に変わるためのサナギの時間みたいなものよ」
「よく分からん!」
ああもう。とにかくそういうものなのかと納得するしかない。とにかく私とこいしは外の世界に来てしまったのだ。
私はまた下を眺める。外の世界、東京の街が広がっていた。
「……凄い」
唖然とするばかりだ。私には神子のような力も、こいしの姉のような力もない。けれど、そこにどういった感情があるのかという認識は出来る。
眼下には数十万の感情があった。『喜び』、『悲しみ』、『怒り』、『恐怖』、『戸惑い』、『陽気』、『陰気』、『悦楽』、『嘲笑』、『憧れ』、『恋』、『悔恨』、『驚愕』、『自負』、『望郷』、『絶望』、『希望』。
数多くの人間が、数多くの感情を持ちながら夜を過ごしている。まるで感情の坩堝だ。この東京スカイツリーから見える範囲だけで、きっと幻想郷の人妖よりも多くの心があるのだろう。私はなんだか頭がくらくらしてきた。
「……酔った。感情酔いだ」
「酔い止めの薬もってるけど飲む? 車酔い用だけど」
「たぶん、効かない……」
今夜は月も星もない真っ暗な夜のはずだった。だが、外の世界では夜というものは無いに等しいのではないか。本当に煌々と明るくて、私は眠れる気がしない。
「うん、明るい? おい、こいし。こんなに街全体が明るいし、それにこの塔自体も光っている、私たち外の世界の人間に見つかるんじゃないか?」
「だいじょーぶ。仮にカメラに映り込んでも人はわたしを意識しないよ。もちろん手を握っているこころもね。皆が注目するのはテレビの中の俳優さんで、道端のこいしじゃないでしょ?」
やっぱりよく分からん。
まあ、こいしの力が外の世界でも有効なら大丈夫だろうが……。
「だから安心して。こころは安心してことに当たれるよ」
「……?」
うん? こと? 琴?
「琴を弾くつもりは……」
「安心して復讐ができるよ」
「わたしね、時々幻想郷を抜け出して外の世界に行っているの。それであちこち見て回ってるんだけど、本当に外の世界って『希望』を失っているのよね」
こいしはニコニコとした笑顔を見せながら、喋り始めた。手はしっかりと握られている。
「詳しいことは分からないし、難しいこともわたしには分からない。けれど、みんなどこかで、行き詰っている。未来が無いのを、嘆いている。新しいと思ったことも本当は大して新しいことじゃないし、楽しいと思っていることも心の底からそうかと聞かれたら押し黙っちゃう。周りにあるのは暗い事柄ばかりで、明るいニュースも霞んじゃう。子供たちは笑わないし、大人たちは笑うしかない」
私はもう一度東京の街の感情を調べてみた。
……たしかに、『希望』の感情が少ないような……。
「こんな状況じゃ、こころがおかしくなってもしかたがないよね」
「私が、おかしくなる? どういうことだ」
「ねえ、あなたが持っていた希望の面、どうして無くなってしまったのかしら?」
こいつ、なにを今更。
「それはお前が盗んだから!」
「わたしは地底で面を拾っただけだよ。別にこころから奪ったわけじゃない。じゃあ、どうして希望の面はあなたから離れたのかしら」
う、言われればたしかに。考えてみなかった。そういえばどうやって面を無くしたのだっけ。お面が私から離れてしまって、それで、その理由は……。
あれ? おぼえてない。
全然おぼえてない!
「え、えっと」
「こころはもともと外の世界に居たんだよ、静かなお面の集合体としてね。でも外の世界の『希望』の喪失がこころに悪影響を与えた。外の世界の変化とリンクするかのように、こころの希望の面もどこかにいってしまったのよ」
「は、はあ!?」
「何等かのバグだったんでしょうね。そのバグのせいで外の世界と状況とリンクしてしまった。こころ、あなたがお面を無くしたのは、全部外の世界のせいだったんだよ」
「どうしてそんなことが分かる!」
証拠を出せ証拠を! なんというか今のこいしは有無を言わさぬ凄みがあるような気がするが、そんなものに流されてたまるか。
私は真剣の狐面を出した。
これ以上おかしなことを言えばタダではすまさない!
「ほいっとな」
だがこいしはどこ吹く風、私と同じ要領で面を出した。
それはどこか石造りの地蔵のような、小さな童のような。
間違いなくそれは、私が以前探し回っていた、希望の面だった。
「これが証拠。希望の面のことは希望の面に聞けってね。少し調べれば、みんな分かっちゃった」
ほ、本当に分かったのか? 希望の面を調べて?
……仮にこいしが言っていることが本当だとしたら。
私が希望の面を無くしてしまったのが外の世界のせいだとしたら。
その時、私はどう思って、どうすればいい? どのような感情を抱けばいい?
「だから復讐したらいいじゃない」
こいしはますますニコニコ笑った。ニコニコ、ニコニコ、笑みが深まりすぎてもはや不気味さすら感じられる。こいしの『楽しい』は、私と同じ『楽しい』なのだろうか?
夜風が、冷たい。
「こころ、あなたはものすごく怖い妖怪なんだよ。自分で思っているより百倍ぐらいね。
ねえ、いまこの場所であなたの力を暴走させてみたらどう?」
この場所。東京スカイツリーの上。巨大なる街、東京の上空。
数え切れないほどの感情がある、この場所で。
「わざと力を暴走させる、例えば、みんなから『希望』の感情を亡くさせてみようか。この前みたいにゆっくりとじゃなく、一気にやろう。
今だって大して『希望』は無いけれども、それでも全くのゼロになれば、人間は生きる意欲を完全に失ってしまうだろうね。東京都民一千二百万が尽く自殺するんだ。
家という家には首吊り死体がぶら下がる。
河は投身自殺で堰き止められるかも。
車に飛び込もうと思ってもドライバーがみんな自殺しているから困るだろうね。
飛び降り自殺で今日は人の土砂降り。
憎い奴が自殺して、ほっと一息ついた後、リストカット。
『希望』を亡くなりかけていたみんなからすれば、やっと死ねると思うんじゃないかな。死んでハッピー。
たぶん一晩で終わると思うから、うん、明日には東京も静かになっているだろうね」
夜の闇の絨毯にキラキラ輝く宝石をばら撒いたかのような光景も、今日で見納めだよ。
こいしはそう言って、手をぎゅっと強く握った。
私は、私はどんな感情を示せばいい?
酷く混乱している。戸惑いを遥かに超えて、心は混沌としている。
こいしの言葉が唐突で、そしてあまりにも凄まじいものだったため、言葉が見つからない。
どの面を出そうか、どの面が適切か。女面か、福の神面か、般若面か、婆面か、猿面か、狐面か。
どの、面に、頼ろうか。
『構わないもん。感情なんてもとより持ち合わせていないもん』
脈絡無く、突然脳裏にかつて聞いたこいしの言葉が浮かんだ。
言いようのない突然の情動が、濁流のように私の内から巻き起こる。
それは面からではなく、確かに私自身が来た感情だった。
「こいし!」
私はこいしに抱きついた。
「え」
しっかりとこいしの顔を見据える。目をそらさない。
理屈をすっとばす。言葉にできる理由はない。ただこうしたいからこうしたのだ。
「私はバカだ! 大バカだ!」
「え、ええ!?」
「私は未熟だ。感情について何も知らない! 生まれたばかりの赤ん坊のようだ! だから、復讐したいだとかも、さっぱり分からん!」
「あ、あの。抱きついている意味は?」
「よく分からん!」
「分からないの!?」
私はこいしの手をぎゅっと握り返す。強く強く握り返す。手を離したら、こいしがどこか遠くに行ってしまう気がする。
「私は感情について知らない、つまり人間について知らない! まだ知らない存在に対して、悪感情なんて持てるか!」
私は、こいしに、はっきりと言った。
「私はまだ知らないから……結論をまだ出したくない!」
「こころ……」
真正面のこいしの顔は、もうニコニコ顔では無かった。
呆気に取られているようで目を大きく見開いている。
そこには確かな感情が見受けられた。
「……こころ」
こつん。
突然私の額になにかが軽くぶつかった。こいしの額だ。
こいしは額をすり合わせてきた。
「うん……安心した」
「?」
うん? やっぱりこいつの言っていることは、よく分からん。
あれ、っていうか私さっき、何の面を出していたっけ? いや、そもそも面自体を出していなかった?
「さて! これから観光にでも行こうか」
「か、観光?」
ちょっと待て、なんじゃそりゃ! さっきまでのどシリアスな雰囲気はどこに行った?
ああ、こいしのやつまた感情の読めないニコニコ顔に。
「東京観光だよ。いや、勉強と言い換えてもいいかな。感情を学びたいんでしょう? だったらここは適地だよ!」
こいしは私と手を繋いだまま、東京スカイツリー上空一メートルから降下を開始した。ゆっくりと、ゆっくりと、降りていく。
夜の闇を照らし出す、東京の街の灯が近づいてくる。
ああ、もう。何か色々あったがとにかく後で考えよう。後回しだ。
こいしは怒ったかと思えば、次の瞬間には笑い出すようなやつだ。そういう時は一旦諸々を頭の片隅においてしまい、状況が落ち着いたら整理して考えるのだ。
後でゆっくり、考えよう。
「おい、こいし! ちゃんと幻想郷に帰れるんだろうな!?」
「幻想郷からちょっと離れているけどだいじょーぶ! それよりまずどうする? ザンギーでシースー?」
「訳が分からん!」
考えるべきことはたくさんあるが、まあ取りあえず。
妖怪二匹は綿毛のようにふわふわと降りていく。
私たちは東京という感情の大海に飛び込まんとしていた。
「な!?」
私は思わず息を呑む。
地上ではありえないほどに冷やされた、夜の風。それが頬を撫でている。どうやらここは小山よりも高い場所らしい。私とこいしは空の上にいる。
上空から下界を眺めると、そこは炎の光では決してない、見たこともない種類の光が満ちていた。その光景はまるで、夜の闇の絨毯にキラキラと輝く宝石をばら撒いたかのようだ。光全てからは感情が感じられる。おいおい嘘だろ? あの無数の光全部が、人間の出した光だっていうのか?
「とうちゃーく!」
隣でこいしはお気楽そうに叫んだ。相変わらずのふわふわした笑顔。その感情は読み取れない。
「さあさあさあ! 着いたよこころ! どう、凄い眺めでしょ?」
こいしはわたしの手を握りながらぶんぶんと振り回す。た、たしかに凄いといえば凄い。何の光かすら分からないが、それでもキラキラが遠く彼方まで一面に広がっている光景はなかなか見ごたえがある。あ、何か動く光もたくさんある。
「こ、こいし、ここはどこなんだ?」
私は面を戸惑いの猿面にしながら、ふと、下を見てみた。
そこにも驚きが待っていた。
そこには塔があった。金属によって複雑に構成されている塔。
信じられないことに、それは地上から私たちの足元まで伸びていた。
いやいや、たぶん私たち結構高いところにいるぞ、たぶん小山くらいの高さのところに。それなのにこの塔はそんな私たちのすぐ近くまでの高さがある。
なんなんだ、この巨大な塔は。
「これ? 東京スカイツリーだよ?」
こいしはニコニコ顔で、言った。
「そしてここは東京スカイツリーの上空一メートルなのだ!」
私は今日、命蓮寺でイベントの手伝いをやらされた。宗教家の活動の片棒をかつぐのは嫌だったが、聖のやつに無理やり引っ張られてしまった。イベントというのはマラソン大会のことで、私は完走者に渡すお汁粉を作らされた。何せ普段食事など取らないから料理などしたことがなく、四苦八苦。
まあ、豚汁を飲む人間たちの喜びの顔は、見てて悪くはなかったし、イベント終了後に聖がおいしい梨をプレゼントしてくれたから、大目にみてやる。暗黒能楽での攻撃はなし。
で、その夜は命蓮寺で泊まった。夕食を食べ、風呂にも浸かろうとした。
こいしが声を掛けてきたのは、風呂へと通じる廊下の途中だった。
「ねえ、こころ。良いところに連れて行ってあげようか?」
怪しい。知っているぞ、これが誘拐犯の手口だな! このまえ神子が教えてくれた。
「てやんでい! その手にだまされるかべらぼうめ!」
私は怒りの般若面を出しながら啖呵をきった。
「めんどくさいなぁ、えーい」
するとこいしは有無を言わさずいきなり私の手を握ってきた。がしっと力強く掴まれ、放すことが出来ない。
「な、なにを」
するのか、そう言おうとした瞬間、視界が暗転した。
それはあまりにも突然であり、あまりにも劇的だった。
劇的な『私の改造』だった。
全く奇妙な体験だった。ただ私の根幹以外が変化していく感覚。魂のみを残し、他が別の物質に変わっていく感覚。
何か壁のようなものをくぐった気がする。薄く、透明で、しかし決定的な何かを遮断する壁。それを細胞の一つ一つを作り変えながら無理やり通り過ぎた。
意識は朦朧とし、五感が判然としない。
ただ、こいしの手の温もりだけが、やけにしっかりと記憶に残っている。
そして、暗転が終わり目を開けると、東京スカイツリーとやらの上にいた。
「どういうことだこりゃ!?」
訳が分からん! こいしと一緒にいると摩訶不思議な出来事によく巻き込まれるが、こいつはその中でも一級だ! なにがどうしてこうなってる!?
「ここは東京、幻想郷の外の世界だよ」
「外の世界!?」
私は驚きの大飛出の仮面を出した。
ちょっと待てくれ、こいし。霊夢から聞いた話によると、幻想郷にいる人妖は博麗大結界を抜けることが出来ないんじゃなかったか。スキマ妖怪(霊夢談)とかの例外を除いて。結界は本当に強固なもので、どれだけ強い力をもってしても突破は不可能だとか……。
「うーん、ところどころに穴が開いているって聞いたこともあるし、そこまで完璧な結界でもないんだよあれ? わたしの能力を使えば簡単に内と外を行き来できるし」
あっけらかんとこいしは言う。な、なんだとぉ?
「博麗大結界は常識と非常識に関わる結界だよね? 外の世界の非常識を幻想郷の常識にしちゃうことで論理的な壁を作るってやつ。心を持つ存在なら誰しもが常識か否かを判断するわけだから、この結界はそれら全てに作用するわけだ。
でもね。
こころも知っている通りわたしの能力は無意識の力、無意識に沈み込む能力。で、そんな力を持つわたしだから知っていることがあるの。無意識の世界では意識界の常識非常識が曖昧模糊なものになってしまうことがあるんだよ。
人は暗闇に立つとき、言い知れぬ恐怖に包まれる。それはどうして? お化けなんて嘘だと分かっているのに。それは心の奥深く、無意識の領域で、暗闇のどこかに得体の知れない何者かが潜んでいるかもと感じてしまうから。これは意識的にどうにかしようと思ってもどうにもできないことなんだよ。
わたしはそこに潜り込む。無意識に感じる恐怖の中にはまだ妖怪が生きられる。常識も非常識も関係ない、誰しもの心の中にある幻想の隠れ家。
無意識の領域を通れば、結界は無視できる。常識という論理的な壁を突破することができるんだ。ね、簡単でしょう?」
「簡単じゃねえよ!?」
な、なんだかこいつとんでもないことを言っている気がする。無意識だから常識なんて関係ない、結界も関係ないだと?
ん? ちょっと待て。
「こいし、ちょっと待て。非常に混乱しているんだが一言いいか」
「戸惑いの猿面を出しながらどうぞ」
「お前がその、なんだ、無意識を操る能力をどうにかして外の世界に出れるのは確かにそうかもしれない。だが、私はそんな力持っていないぞ。どうやって私は結界を抜け出した」
「こころとわたしの能力は親和性が高いからね。手をこうやってぎゅっと握れば、能力の共有が出来るんだよ。っていうかいまさっきそれを試したから。実験大成功!」
「実験!?」
危ない結果に終わったらどうしてくれんだこのやろう! 私は怒りの般若面を出した。
「ははは、大丈夫、きっとうまくいくと確信してたから。意識と無意識は常に深く関係しあっているものよ。無意識が意識を縛るように、意識も無意識を縛れるんだから、頑張ればね」
「よく分からん」
「結界を通り抜けるとき、なんだか体中の色んなものが変わっていく感覚を覚えたでしょ。あれは幻想の世界から現実の世界に渡るために体が適応していく過程なんだよ。青虫が蝶に変わるためのサナギの時間みたいなものよ」
「よく分からん!」
ああもう。とにかくそういうものなのかと納得するしかない。とにかく私とこいしは外の世界に来てしまったのだ。
私はまた下を眺める。外の世界、東京の街が広がっていた。
「……凄い」
唖然とするばかりだ。私には神子のような力も、こいしの姉のような力もない。けれど、そこにどういった感情があるのかという認識は出来る。
眼下には数十万の感情があった。『喜び』、『悲しみ』、『怒り』、『恐怖』、『戸惑い』、『陽気』、『陰気』、『悦楽』、『嘲笑』、『憧れ』、『恋』、『悔恨』、『驚愕』、『自負』、『望郷』、『絶望』、『希望』。
数多くの人間が、数多くの感情を持ちながら夜を過ごしている。まるで感情の坩堝だ。この東京スカイツリーから見える範囲だけで、きっと幻想郷の人妖よりも多くの心があるのだろう。私はなんだか頭がくらくらしてきた。
「……酔った。感情酔いだ」
「酔い止めの薬もってるけど飲む? 車酔い用だけど」
「たぶん、効かない……」
今夜は月も星もない真っ暗な夜のはずだった。だが、外の世界では夜というものは無いに等しいのではないか。本当に煌々と明るくて、私は眠れる気がしない。
「うん、明るい? おい、こいし。こんなに街全体が明るいし、それにこの塔自体も光っている、私たち外の世界の人間に見つかるんじゃないか?」
「だいじょーぶ。仮にカメラに映り込んでも人はわたしを意識しないよ。もちろん手を握っているこころもね。皆が注目するのはテレビの中の俳優さんで、道端のこいしじゃないでしょ?」
やっぱりよく分からん。
まあ、こいしの力が外の世界でも有効なら大丈夫だろうが……。
「だから安心して。こころは安心してことに当たれるよ」
「……?」
うん? こと? 琴?
「琴を弾くつもりは……」
「安心して復讐ができるよ」
「わたしね、時々幻想郷を抜け出して外の世界に行っているの。それであちこち見て回ってるんだけど、本当に外の世界って『希望』を失っているのよね」
こいしはニコニコとした笑顔を見せながら、喋り始めた。手はしっかりと握られている。
「詳しいことは分からないし、難しいこともわたしには分からない。けれど、みんなどこかで、行き詰っている。未来が無いのを、嘆いている。新しいと思ったことも本当は大して新しいことじゃないし、楽しいと思っていることも心の底からそうかと聞かれたら押し黙っちゃう。周りにあるのは暗い事柄ばかりで、明るいニュースも霞んじゃう。子供たちは笑わないし、大人たちは笑うしかない」
私はもう一度東京の街の感情を調べてみた。
……たしかに、『希望』の感情が少ないような……。
「こんな状況じゃ、こころがおかしくなってもしかたがないよね」
「私が、おかしくなる? どういうことだ」
「ねえ、あなたが持っていた希望の面、どうして無くなってしまったのかしら?」
こいつ、なにを今更。
「それはお前が盗んだから!」
「わたしは地底で面を拾っただけだよ。別にこころから奪ったわけじゃない。じゃあ、どうして希望の面はあなたから離れたのかしら」
う、言われればたしかに。考えてみなかった。そういえばどうやって面を無くしたのだっけ。お面が私から離れてしまって、それで、その理由は……。
あれ? おぼえてない。
全然おぼえてない!
「え、えっと」
「こころはもともと外の世界に居たんだよ、静かなお面の集合体としてね。でも外の世界の『希望』の喪失がこころに悪影響を与えた。外の世界の変化とリンクするかのように、こころの希望の面もどこかにいってしまったのよ」
「は、はあ!?」
「何等かのバグだったんでしょうね。そのバグのせいで外の世界と状況とリンクしてしまった。こころ、あなたがお面を無くしたのは、全部外の世界のせいだったんだよ」
「どうしてそんなことが分かる!」
証拠を出せ証拠を! なんというか今のこいしは有無を言わさぬ凄みがあるような気がするが、そんなものに流されてたまるか。
私は真剣の狐面を出した。
これ以上おかしなことを言えばタダではすまさない!
「ほいっとな」
だがこいしはどこ吹く風、私と同じ要領で面を出した。
それはどこか石造りの地蔵のような、小さな童のような。
間違いなくそれは、私が以前探し回っていた、希望の面だった。
「これが証拠。希望の面のことは希望の面に聞けってね。少し調べれば、みんな分かっちゃった」
ほ、本当に分かったのか? 希望の面を調べて?
……仮にこいしが言っていることが本当だとしたら。
私が希望の面を無くしてしまったのが外の世界のせいだとしたら。
その時、私はどう思って、どうすればいい? どのような感情を抱けばいい?
「だから復讐したらいいじゃない」
こいしはますますニコニコ笑った。ニコニコ、ニコニコ、笑みが深まりすぎてもはや不気味さすら感じられる。こいしの『楽しい』は、私と同じ『楽しい』なのだろうか?
夜風が、冷たい。
「こころ、あなたはものすごく怖い妖怪なんだよ。自分で思っているより百倍ぐらいね。
ねえ、いまこの場所であなたの力を暴走させてみたらどう?」
この場所。東京スカイツリーの上。巨大なる街、東京の上空。
数え切れないほどの感情がある、この場所で。
「わざと力を暴走させる、例えば、みんなから『希望』の感情を亡くさせてみようか。この前みたいにゆっくりとじゃなく、一気にやろう。
今だって大して『希望』は無いけれども、それでも全くのゼロになれば、人間は生きる意欲を完全に失ってしまうだろうね。東京都民一千二百万が尽く自殺するんだ。
家という家には首吊り死体がぶら下がる。
河は投身自殺で堰き止められるかも。
車に飛び込もうと思ってもドライバーがみんな自殺しているから困るだろうね。
飛び降り自殺で今日は人の土砂降り。
憎い奴が自殺して、ほっと一息ついた後、リストカット。
『希望』を亡くなりかけていたみんなからすれば、やっと死ねると思うんじゃないかな。死んでハッピー。
たぶん一晩で終わると思うから、うん、明日には東京も静かになっているだろうね」
夜の闇の絨毯にキラキラ輝く宝石をばら撒いたかのような光景も、今日で見納めだよ。
こいしはそう言って、手をぎゅっと強く握った。
私は、私はどんな感情を示せばいい?
酷く混乱している。戸惑いを遥かに超えて、心は混沌としている。
こいしの言葉が唐突で、そしてあまりにも凄まじいものだったため、言葉が見つからない。
どの面を出そうか、どの面が適切か。女面か、福の神面か、般若面か、婆面か、猿面か、狐面か。
どの、面に、頼ろうか。
『構わないもん。感情なんてもとより持ち合わせていないもん』
脈絡無く、突然脳裏にかつて聞いたこいしの言葉が浮かんだ。
言いようのない突然の情動が、濁流のように私の内から巻き起こる。
それは面からではなく、確かに私自身が来た感情だった。
「こいし!」
私はこいしに抱きついた。
「え」
しっかりとこいしの顔を見据える。目をそらさない。
理屈をすっとばす。言葉にできる理由はない。ただこうしたいからこうしたのだ。
「私はバカだ! 大バカだ!」
「え、ええ!?」
「私は未熟だ。感情について何も知らない! 生まれたばかりの赤ん坊のようだ! だから、復讐したいだとかも、さっぱり分からん!」
「あ、あの。抱きついている意味は?」
「よく分からん!」
「分からないの!?」
私はこいしの手をぎゅっと握り返す。強く強く握り返す。手を離したら、こいしがどこか遠くに行ってしまう気がする。
「私は感情について知らない、つまり人間について知らない! まだ知らない存在に対して、悪感情なんて持てるか!」
私は、こいしに、はっきりと言った。
「私はまだ知らないから……結論をまだ出したくない!」
「こころ……」
真正面のこいしの顔は、もうニコニコ顔では無かった。
呆気に取られているようで目を大きく見開いている。
そこには確かな感情が見受けられた。
「……こころ」
こつん。
突然私の額になにかが軽くぶつかった。こいしの額だ。
こいしは額をすり合わせてきた。
「うん……安心した」
「?」
うん? やっぱりこいつの言っていることは、よく分からん。
あれ、っていうか私さっき、何の面を出していたっけ? いや、そもそも面自体を出していなかった?
「さて! これから観光にでも行こうか」
「か、観光?」
ちょっと待て、なんじゃそりゃ! さっきまでのどシリアスな雰囲気はどこに行った?
ああ、こいしのやつまた感情の読めないニコニコ顔に。
「東京観光だよ。いや、勉強と言い換えてもいいかな。感情を学びたいんでしょう? だったらここは適地だよ!」
こいしは私と手を繋いだまま、東京スカイツリー上空一メートルから降下を開始した。ゆっくりと、ゆっくりと、降りていく。
夜の闇を照らし出す、東京の街の灯が近づいてくる。
ああ、もう。何か色々あったがとにかく後で考えよう。後回しだ。
こいしは怒ったかと思えば、次の瞬間には笑い出すようなやつだ。そういう時は一旦諸々を頭の片隅においてしまい、状況が落ち着いたら整理して考えるのだ。
後でゆっくり、考えよう。
「おい、こいし! ちゃんと幻想郷に帰れるんだろうな!?」
「幻想郷からちょっと離れているけどだいじょーぶ! それよりまずどうする? ザンギーでシースー?」
「訳が分からん!」
考えるべきことはたくさんあるが、まあ取りあえず。
妖怪二匹は綿毛のようにふわふわと降りていく。
私たちは東京という感情の大海に飛び込まんとしていた。
と、いうことで敢えて厳しく50点
この後の観光はどうなったんだろうか?願わくば恋心を習得してほしいw
長編にするつもりなのか、それとも人物を舞台に飛び込ませその都度に踊らせる短編形式にするのか。まずは短編として書いて、流れが生まれた時に長編化でも良いとは思う。風の向くまま気の向くまま、過ぎ去ることもあれば恋に立ちどまりもする。自然と生まれる物語も有る。
ゆっくり 楽しく どうぞ
しかし幻想郷の妖怪達は少数の人里の人間よりも大都会の人間の方が強烈に作用しそうだわ