水の音。
どぷりと呑み込む大泡。こんこん染み抜く透明は見通せず。
広く深く不明の光景と妙に軽やかな身体と気分。
立ちこめる靄とも霧ともわからぬものが世界全体を包み込んでいて――ぼやけた感覚だけが、空《から》と満ちていた。
何を思い出すこともない。何かを考える隙間もない。
安堵していて、安心していて、眠っているようで、目が覚めたばかりのようでもあり。
ただただ、のんぼりと漂ってく。それで、全て済んでしまうのだと。
そう。
「おや、お客さんかい」
そうやって、目を瞑ってしまおうかと思っていた所に声がした。
何だか眠たそうに気だるげで、欠伸まじりに緩みきったもの――なんだか、ひどく場違いだと、そう思った。
「こりゃまた年配さんだね。最近は随分と多くなった」
人間も生きるようになったんだねぇ。
からからと、気風良さげな声が鳴る。
嫌みのない。重さのない。その温風の様な日向声――この場に不釣り合いなそれに触れたからだろうか。
ぼんやりとした意識が少し波だった。
僅かと揺れて、波紋が広がり、とぷりと意識が浮き上がる。
『そういえば、私はなぜこんなところにいるのだろうか』と。
「……」
過った疑問で揺り返す。
透明だった水面に小石を投げ込んだように。
ごぼごぼと泡が、もうもうと泥が――『自らが沈んでいることに今気づいた』というように、胸中が騒ぎたてる。
どうして、どうして、わからない。
なぜ、なぜ、と溢れ出る。
ここは何処だ。これはなんだ。何がどうして。どうやって、私はこんなところにいるのだ。どうすれば、何をしたらあんな私を動かせるというのだ。
だって、だって、私は――
「……」
泥の底に見えたもの。
散っていた意識が確かな形となり、その答えに私は――私、は。
「――よいっと」
かたん、と。軽い音と声。
手に持った棒状のもので引っかけるようにして、少女が乗っていた小舟から簡素な木の板が降りていた。
ゆらゆらと水面に浮かぶ上からがたがたとした河原の砂利へと渡れるようにと襤褸の橋――見上げた私に少女は片目を瞑って、木船を叩き。
「色々疑問に思っていることも多かろうが――それはまあ、こいつに乗ってからにしてくれないかい?」
招くようにとにこりと笑う。
「……」
キイと、木の軋み。擦れあうような古い音。
それは旧家の階段を踏んだときに似た――どこか懐かしく、揺れだした思考がすこしだけ落ち着いて。
「あたい的には、もうちょとここでおしゃべりしててもいいんだけどさ」
この前叱られたばっかりでね。
「すまないねぇ」と困ったように顰められた眉――親しみやすい、あまりに日常的なその様子に。
己も『ああ、それは嫌だな』と、仕事が遅れ上司に怒られてしまった時のことを思い出してしまう。ついついと、話の合う客と話し込んで時間を忘れてしまった。ほんの少しのつもりがついついと話し込んでしまった。約束をすっぽかして、忘れてしまった。
そんな、よくある他愛のない記憶。昔の、ずっと昔の若い頃のこと。
思い出して、少し笑ってしまいそうになって――こんな気分になったのは、ずいぶんと久方ぶりのことだと、そう思いだした。
とても懐かしい。そして、なぜだか新鮮で。
こんなにも私の記憶は埃を被っていたのかという感覚に驚き、そんな気持ちになったのは一体いつ頃が最後だったかを思い出そうとした――そうだ、最後はあの場所に運ばれてしまう、そのずっと前ことで。
まだ、私が元気であったころ――ちゃんと■きていたころ。
「――さあさ、考えごとはそこらへんで」
ざぽんと、空気をはらんだ櫂があがった。
そこにあった岸辺が遠く彼岸へと離れていく。
水をかく先端もないというのに、水面を突くようにして小さな小船は波滑り、霧が満ちる向こう側へとその身を進めていく。
少女の手によって、その気風に巻き込まれるようにして、ゆっくりと。
「――あとは、旅の内でといこうじゃないか」
諭すように放たれた言葉を供として、私がその先へと運ばれていく。
――――
ぷくりと、浮き上がる泡。
淡く透明の様にも見えながら黒く濁った様に先を見通せない水面。その何が潜むかもわからない水音を上を滑るように船は進んでいく。
櫂、というには明らかに違う形で、しかもその先端とおぼしき箇所ではなくその対となる側、ただの棒といった部分を水につける形で、するすると。
それを不思議に想い、少女をちらりと横目で見つめてみるがあちらはごく当たり前だという表情で、鼻歌などを機嫌良くならしながら船を操っている。
私を越えて向こう側、目的地であるその先が見えているかのように、深い霧の中へと瞳を向けて惑いなきまま。
「どうだい、この『三途のタイタニック』の乗り心地は?」
降りてきた視線が私を捉えた。
明らかにそのおんぼろ船とは不釣り合いなその名前を告げて、からからと楽しげに。明るく温かなそれは、やはりとこの場には不釣り合い。船の名前も合わせて余計に不吉に不明に。
語り過ぎぬままに進んでいく。
どこへ向かうかも、ここがどこなのかも、少女が何者なのかも――こちらがそれを呑みこむまでの時間を繋いでくれるように他愛なく、まるで日常の続きの様な気軽さで。
のんぼりと、船が進んでいく。
それを理解して、それを思い出して。
己が――私がそれを呑みこむ。
その時間。
この船とあの河原。ここにいたこととここにいること。流れる場所。進む目的地。
少女の姿。少女が持つもの。咲き誇っていた花に――きちんと動く体。
そうだ。私は。
「……どうやらわかったようだね」
こちらが腑に落ちるまで、待っていてくれたように。
その巻きあがった泥が、ちょうど落ち着くといったところで彼女は続けていた世間話を止める。
茜色の二つの尻尾を揺らし、私の視線……じっとその櫂の先の部分を見つめていることに気づいて、うんと大きく頷いて、「やっぱりこいつは便利だ」とそれを叩く。
変わった形なのだけれど、確かにその模した形のそれ――ああ、そうなのだと、なんとなくに納得してしまう。
噂されたままの持ち物にそのままの連想の形。
いや、最初から分かっていたのかもしれないけれど、呑みこみ切るための、その最後のピースとしてすとんと落ちた。
彼女はそう。
「そうさ。私は死神。死出の旅路の案内人」
ひゅんと風を切る音。
波うった金物がくるんと回って、滴を弾いた。
透明な粒。それは確かに己に向かったはずなのだけれど、いつまでたっても冷たさは感じにまま、そのままの形で私を通り過ぎてそれは落ちる。
濡れたのは船底で、私はそのまま渇いたままで。
「おっと、すまないね――けれど、わかっただろう」
あんたが死んだってことにさ。
軽く言い放れた言葉がしっくりと、胸に落ちて沁みていく。
そうか。私はあのまま、動けないままで逝ってしまったのか、と。
「……」
俯きながらも騒ぎ立てぬまま。
妙に落ちついた心持で私はそれを受け止めた。
そうそれは理解していたこと。ずっと隣りにあった向かうべきもので。
「どうやら、元々ある程度の覚悟はあったようだね。まあ、その歳なら当然なのかもしれなけれど」
悔いはないのかい。
尋ねる少女に止まったままの私。
悔いがないとはいわないが、私も長く生きていたのだ。そろそろ、いつ迎えが来てもおかしくはないだろう。その想いは頭の片隅にずっとあったことだ。
だから、来るときが来たというだけ。
涙もでないし、嗚咽を漏らすこともない――わかってしまえばそれだけのことで。
少しの寂しさの様なものを感じるだけ。ああ、終わってしまったのかと。
しんみりと、それを噛みしめていて。
「さて、それじゃああんた代金はもっているかい?」
だから、そんなことをいわれてしまって目が丸くなった。
代金という、あまりにもこの場に不釣り合いな言葉に驚き、先ほどまでのしんみりとした気分がふっとんで、わけもわからず首をかしげてしまう。
一体どういうことなのかと。
「決まってるじゃないか。この川――この三途の川を渡るための渡し賃がいるってことは有名な話だろう?」
悪戯っぽく笑う少女。
確かに、三途の川の六文銭。それは私だって知っている有名な話だ。
三途の河を渡るには料金がいる――しかし、そもそも六文銭とはいったい現在でいうどのくらいのものなのだろう。いや、どちらとしても、そんなものを持っているはずがない
。着の身着のまま――いや、最後は擦り切れた病院着に包まれた、ひどく落ちぶれた格好で私はそれを迎えたはずなのだ。小銭の入った財布すら持っているはずもない。
船に乗せてしまってからそんなことをいわれてもどうしようもないではないか。
私は無一文。着の身着のままなのだから――のはずだったのだけれど。
「そうかい?」と楽しげに語尾を弾ませ、少女の目がこちらを見つめた。
にやりと持ちあがった口角と空を向いた手首がこちらを指して――私の、その背広の胸を指し示す。いつの間にか、私は私がいつもしていた格好をしていて……懐を探ってみれば何かにあたる。
内ポケット。懐の中。そこに何かが入っている感触。
「確かめてみなよ」
首を傾げて、導かれるままそれを懐中に手を差し込んだ。
じゃり、とした感触。
音を立てるそれを取り出してみれば、そこにあったのは、昔妻に送ったはずの巾着。それなりの重さを持ったそれをひっくり返してみれば、結構な量の小銭と――昔、私が渡した蛇の抜け殻を模した金属性のお守り。
よく物を失くす妻に、せめて財布ぐらいは失くさぬようにと贈ったもの。
「縁起物かい、洒落てるじゃないか」
ひょいと、私の手からそれを持ち上げて、少女はしげしげと眺めていた。
蛇の抜け殻、金運をもたらすというそのお守りがここで何の意味があるのだろうか。後に残った小銭に手を出す様子もない。これでは対価に足らぬということだろうか。
疑問のままそれを見つめる。
少女はただ、それを弄ぶように手のひらに転がしていて。
「成した行いによって人は財産を持つ。それは生きているうちのことであり、また死後にも連なって己を運ぶものとしての価値を持つもの」
呟くようにそれを語る。
くるくると、掌の上で回っていたそれは、まるで本物の蛇となって動き出したかのようにゆらゆらと揺らめいていて。少女の見詰める先で、ふらふらと、ぐらぐらと不鮮明に不確かに……徐々に形を変えていっているように、私からは見づらくなって。
「人の業の中、溶けた金が銭へと変わる。人の善行、人の悪行……あんたにとって、使いきれずに残った形のその一つ。悪意は溜まり、善意は返るってもんさ」
くるくると、掌で廻る。
するすると、船が進む。
その中で私に少女が――死の導き手がそれを。
現世に置いて『いったい何を成してきたのか』ということを。
問うように。説くように。
私の胸の中にあったものを受け取って、形としてその場に晒す。
それは善行故の姿なのか。悪行として遺ったものなのか。
答えのわからぬ私を前にして、うんと頷く。
押さえた胸でその巾着は、またちゃりんと音をたて――形となって清算されて、胸の内にと持たされて、この運ばれていく懐中に――つまりは、この小銭ぽっちが私の最後に残ったものということなのか。
たったそれだけ。ほんの一瞬で使いきってしまえるような、その僅かが私の成果なのだろうか。渡りきれぬその額が――
「――よし、確かに」
入っていた金子以外を握って、少女はこちらに見返した。
私を見下ろし、その数少ない小銭を一瞥して――ひょいと、その掌のものを投げ上げる。
そうして、一言。
「毎度あり」
そういった。
三途の川の渡し人、足りぬならば沼の底へと沈めてしまうという死の神が財布に残っら少しの小銭すらも受け取らぬまま。
そこに落ちてきた六文銭を受け止めて、にかりと笑う。
「随分と、いい金遣いをしたもんだ」
くくっと喉を鳴らして、それを弾く。
きんっと甲高い音。
先ほどまでは持っていなかった幾枚もの六文銭を手の内で遊ばせて、「十分以上の渡し賃だ」と機嫌良く言い放つ。よし張りきっていくぞと、その短い袖を余計に捲くるように見せつけて、死神の鎌を水面へとつける。
そこにあった蛇の形は消えていて、降ってきたのはワタシの銭。
手品のように、変わったものがそこにあり。
「残した文より、遺したもんとね」
独り言のように呟いて、少女はまた鼻歌を。
するすると船は進んで、ゆるゆると風が過ぎて。
笑み深く、軽くながらも沈みをまして――弄んだ銭がまた音を。
私が妻に贈ったものがいつの間にやら銭へと代わり ……銭代わりへと。
「後のものは精々後々の貯金にでもしときなよ」
振り向いた少女がくるりと指を。
向いた指が私から上方へ。
指したのは天と地獄の中間点か、
「それはまあ、誰かがあんたのために使った銭。それを損と思わなかった誰かの贈り物だからね」
そういって、死神は快活に。
死出の旅路には似合わぬ様。明るい茜の花の様なその様で――何だかつられて、私も笑ってしまいそうになる様で、とてもうれしいことをいってくれたような気がして。。
そうなのだろうか。
こんな己にもその死を惜しんでくれた人が……その生を案じてくれた人がいたということなのだろうか。
私の価値を見てくれた人がいたのだろうか、と。
それが本当ならば、どんなに――そう、ついつい財布のひもが緩んでしまうくらいには。
「おや、いいのかい?」
こみ上げる感覚のまま、残った分の銭も全て差し出して、うんと頷いた。
現われた六文銭と比べても、きっと大盤振るまいとなるだろう量全て、わたしのための銭として。
気風よく、機嫌よく。
他の誰かの分も払ったつもりとなって――もしかしたら、遠からずに訪れるだろう知り合いの分までもと僅かにだけ期待して、気前良くも宵越し持たず。
渡した銭を渡し人に賽銭だと。
「――それじゃ、ぼちぼちいくとしようか」
ふふんっと楽しげに笑った少女。
死神の手の先で、櫂が揺れる。
とぷんぷくんと泡と波。置きざりにしてゆたゆたと。
心地よい揺れの内、母親の腹の中にいるような安らぎを。
「ふわあ」と欠伸を一つ。
「ごゆっくり、このまま安全で快適な船旅さ」
払った分だけの介を得て、柔らかに目を閉じる。
撒いた種が芽吹いたことを――使ったモノが巡ったことを、少しながらも自慢に想い。
死神少女の鼻歌を聞きながら、まだ少しの時間を微睡んで。
私が渡る。
____________________________________
落とした銭が世を巡る。
使った金が、世を富ます。
いつか訪れ変わった世界――その場所で、また返って回る投資の銭と。
「地獄の沙汰も銭次第」
とぷんとぽんと。
沈んで浮かんで波のよう――金子の価値はその場で変わり、使い貯めて形を変える。
そんな価値を稼ぐが人で。
生きとし生きて、そして、死ぬ。
その後のこと。その跡の事。
生きた後に植えた後世。
「払い忘れは御座いませんか、とね」
笑う死に神。茜の死に神。
六文銭が心地よくに懐中で鳴いている。
どぷりと呑み込む大泡。こんこん染み抜く透明は見通せず。
広く深く不明の光景と妙に軽やかな身体と気分。
立ちこめる靄とも霧ともわからぬものが世界全体を包み込んでいて――ぼやけた感覚だけが、空《から》と満ちていた。
何を思い出すこともない。何かを考える隙間もない。
安堵していて、安心していて、眠っているようで、目が覚めたばかりのようでもあり。
ただただ、のんぼりと漂ってく。それで、全て済んでしまうのだと。
そう。
「おや、お客さんかい」
そうやって、目を瞑ってしまおうかと思っていた所に声がした。
何だか眠たそうに気だるげで、欠伸まじりに緩みきったもの――なんだか、ひどく場違いだと、そう思った。
「こりゃまた年配さんだね。最近は随分と多くなった」
人間も生きるようになったんだねぇ。
からからと、気風良さげな声が鳴る。
嫌みのない。重さのない。その温風の様な日向声――この場に不釣り合いなそれに触れたからだろうか。
ぼんやりとした意識が少し波だった。
僅かと揺れて、波紋が広がり、とぷりと意識が浮き上がる。
『そういえば、私はなぜこんなところにいるのだろうか』と。
「……」
過った疑問で揺り返す。
透明だった水面に小石を投げ込んだように。
ごぼごぼと泡が、もうもうと泥が――『自らが沈んでいることに今気づいた』というように、胸中が騒ぎたてる。
どうして、どうして、わからない。
なぜ、なぜ、と溢れ出る。
ここは何処だ。これはなんだ。何がどうして。どうやって、私はこんなところにいるのだ。どうすれば、何をしたらあんな私を動かせるというのだ。
だって、だって、私は――
「……」
泥の底に見えたもの。
散っていた意識が確かな形となり、その答えに私は――私、は。
「――よいっと」
かたん、と。軽い音と声。
手に持った棒状のもので引っかけるようにして、少女が乗っていた小舟から簡素な木の板が降りていた。
ゆらゆらと水面に浮かぶ上からがたがたとした河原の砂利へと渡れるようにと襤褸の橋――見上げた私に少女は片目を瞑って、木船を叩き。
「色々疑問に思っていることも多かろうが――それはまあ、こいつに乗ってからにしてくれないかい?」
招くようにとにこりと笑う。
「……」
キイと、木の軋み。擦れあうような古い音。
それは旧家の階段を踏んだときに似た――どこか懐かしく、揺れだした思考がすこしだけ落ち着いて。
「あたい的には、もうちょとここでおしゃべりしててもいいんだけどさ」
この前叱られたばっかりでね。
「すまないねぇ」と困ったように顰められた眉――親しみやすい、あまりに日常的なその様子に。
己も『ああ、それは嫌だな』と、仕事が遅れ上司に怒られてしまった時のことを思い出してしまう。ついついと、話の合う客と話し込んで時間を忘れてしまった。ほんの少しのつもりがついついと話し込んでしまった。約束をすっぽかして、忘れてしまった。
そんな、よくある他愛のない記憶。昔の、ずっと昔の若い頃のこと。
思い出して、少し笑ってしまいそうになって――こんな気分になったのは、ずいぶんと久方ぶりのことだと、そう思いだした。
とても懐かしい。そして、なぜだか新鮮で。
こんなにも私の記憶は埃を被っていたのかという感覚に驚き、そんな気持ちになったのは一体いつ頃が最後だったかを思い出そうとした――そうだ、最後はあの場所に運ばれてしまう、そのずっと前ことで。
まだ、私が元気であったころ――ちゃんと■きていたころ。
「――さあさ、考えごとはそこらへんで」
ざぽんと、空気をはらんだ櫂があがった。
そこにあった岸辺が遠く彼岸へと離れていく。
水をかく先端もないというのに、水面を突くようにして小さな小船は波滑り、霧が満ちる向こう側へとその身を進めていく。
少女の手によって、その気風に巻き込まれるようにして、ゆっくりと。
「――あとは、旅の内でといこうじゃないか」
諭すように放たれた言葉を供として、私がその先へと運ばれていく。
――――
ぷくりと、浮き上がる泡。
淡く透明の様にも見えながら黒く濁った様に先を見通せない水面。その何が潜むかもわからない水音を上を滑るように船は進んでいく。
櫂、というには明らかに違う形で、しかもその先端とおぼしき箇所ではなくその対となる側、ただの棒といった部分を水につける形で、するすると。
それを不思議に想い、少女をちらりと横目で見つめてみるがあちらはごく当たり前だという表情で、鼻歌などを機嫌良くならしながら船を操っている。
私を越えて向こう側、目的地であるその先が見えているかのように、深い霧の中へと瞳を向けて惑いなきまま。
「どうだい、この『三途のタイタニック』の乗り心地は?」
降りてきた視線が私を捉えた。
明らかにそのおんぼろ船とは不釣り合いなその名前を告げて、からからと楽しげに。明るく温かなそれは、やはりとこの場には不釣り合い。船の名前も合わせて余計に不吉に不明に。
語り過ぎぬままに進んでいく。
どこへ向かうかも、ここがどこなのかも、少女が何者なのかも――こちらがそれを呑みこむまでの時間を繋いでくれるように他愛なく、まるで日常の続きの様な気軽さで。
のんぼりと、船が進んでいく。
それを理解して、それを思い出して。
己が――私がそれを呑みこむ。
その時間。
この船とあの河原。ここにいたこととここにいること。流れる場所。進む目的地。
少女の姿。少女が持つもの。咲き誇っていた花に――きちんと動く体。
そうだ。私は。
「……どうやらわかったようだね」
こちらが腑に落ちるまで、待っていてくれたように。
その巻きあがった泥が、ちょうど落ち着くといったところで彼女は続けていた世間話を止める。
茜色の二つの尻尾を揺らし、私の視線……じっとその櫂の先の部分を見つめていることに気づいて、うんと大きく頷いて、「やっぱりこいつは便利だ」とそれを叩く。
変わった形なのだけれど、確かにその模した形のそれ――ああ、そうなのだと、なんとなくに納得してしまう。
噂されたままの持ち物にそのままの連想の形。
いや、最初から分かっていたのかもしれないけれど、呑みこみ切るための、その最後のピースとしてすとんと落ちた。
彼女はそう。
「そうさ。私は死神。死出の旅路の案内人」
ひゅんと風を切る音。
波うった金物がくるんと回って、滴を弾いた。
透明な粒。それは確かに己に向かったはずなのだけれど、いつまでたっても冷たさは感じにまま、そのままの形で私を通り過ぎてそれは落ちる。
濡れたのは船底で、私はそのまま渇いたままで。
「おっと、すまないね――けれど、わかっただろう」
あんたが死んだってことにさ。
軽く言い放れた言葉がしっくりと、胸に落ちて沁みていく。
そうか。私はあのまま、動けないままで逝ってしまったのか、と。
「……」
俯きながらも騒ぎ立てぬまま。
妙に落ちついた心持で私はそれを受け止めた。
そうそれは理解していたこと。ずっと隣りにあった向かうべきもので。
「どうやら、元々ある程度の覚悟はあったようだね。まあ、その歳なら当然なのかもしれなけれど」
悔いはないのかい。
尋ねる少女に止まったままの私。
悔いがないとはいわないが、私も長く生きていたのだ。そろそろ、いつ迎えが来てもおかしくはないだろう。その想いは頭の片隅にずっとあったことだ。
だから、来るときが来たというだけ。
涙もでないし、嗚咽を漏らすこともない――わかってしまえばそれだけのことで。
少しの寂しさの様なものを感じるだけ。ああ、終わってしまったのかと。
しんみりと、それを噛みしめていて。
「さて、それじゃああんた代金はもっているかい?」
だから、そんなことをいわれてしまって目が丸くなった。
代金という、あまりにもこの場に不釣り合いな言葉に驚き、先ほどまでのしんみりとした気分がふっとんで、わけもわからず首をかしげてしまう。
一体どういうことなのかと。
「決まってるじゃないか。この川――この三途の川を渡るための渡し賃がいるってことは有名な話だろう?」
悪戯っぽく笑う少女。
確かに、三途の川の六文銭。それは私だって知っている有名な話だ。
三途の河を渡るには料金がいる――しかし、そもそも六文銭とはいったい現在でいうどのくらいのものなのだろう。いや、どちらとしても、そんなものを持っているはずがない
。着の身着のまま――いや、最後は擦り切れた病院着に包まれた、ひどく落ちぶれた格好で私はそれを迎えたはずなのだ。小銭の入った財布すら持っているはずもない。
船に乗せてしまってからそんなことをいわれてもどうしようもないではないか。
私は無一文。着の身着のままなのだから――のはずだったのだけれど。
「そうかい?」と楽しげに語尾を弾ませ、少女の目がこちらを見つめた。
にやりと持ちあがった口角と空を向いた手首がこちらを指して――私の、その背広の胸を指し示す。いつの間にか、私は私がいつもしていた格好をしていて……懐を探ってみれば何かにあたる。
内ポケット。懐の中。そこに何かが入っている感触。
「確かめてみなよ」
首を傾げて、導かれるままそれを懐中に手を差し込んだ。
じゃり、とした感触。
音を立てるそれを取り出してみれば、そこにあったのは、昔妻に送ったはずの巾着。それなりの重さを持ったそれをひっくり返してみれば、結構な量の小銭と――昔、私が渡した蛇の抜け殻を模した金属性のお守り。
よく物を失くす妻に、せめて財布ぐらいは失くさぬようにと贈ったもの。
「縁起物かい、洒落てるじゃないか」
ひょいと、私の手からそれを持ち上げて、少女はしげしげと眺めていた。
蛇の抜け殻、金運をもたらすというそのお守りがここで何の意味があるのだろうか。後に残った小銭に手を出す様子もない。これでは対価に足らぬということだろうか。
疑問のままそれを見つめる。
少女はただ、それを弄ぶように手のひらに転がしていて。
「成した行いによって人は財産を持つ。それは生きているうちのことであり、また死後にも連なって己を運ぶものとしての価値を持つもの」
呟くようにそれを語る。
くるくると、掌の上で回っていたそれは、まるで本物の蛇となって動き出したかのようにゆらゆらと揺らめいていて。少女の見詰める先で、ふらふらと、ぐらぐらと不鮮明に不確かに……徐々に形を変えていっているように、私からは見づらくなって。
「人の業の中、溶けた金が銭へと変わる。人の善行、人の悪行……あんたにとって、使いきれずに残った形のその一つ。悪意は溜まり、善意は返るってもんさ」
くるくると、掌で廻る。
するすると、船が進む。
その中で私に少女が――死の導き手がそれを。
現世に置いて『いったい何を成してきたのか』ということを。
問うように。説くように。
私の胸の中にあったものを受け取って、形としてその場に晒す。
それは善行故の姿なのか。悪行として遺ったものなのか。
答えのわからぬ私を前にして、うんと頷く。
押さえた胸でその巾着は、またちゃりんと音をたて――形となって清算されて、胸の内にと持たされて、この運ばれていく懐中に――つまりは、この小銭ぽっちが私の最後に残ったものということなのか。
たったそれだけ。ほんの一瞬で使いきってしまえるような、その僅かが私の成果なのだろうか。渡りきれぬその額が――
「――よし、確かに」
入っていた金子以外を握って、少女はこちらに見返した。
私を見下ろし、その数少ない小銭を一瞥して――ひょいと、その掌のものを投げ上げる。
そうして、一言。
「毎度あり」
そういった。
三途の川の渡し人、足りぬならば沼の底へと沈めてしまうという死の神が財布に残っら少しの小銭すらも受け取らぬまま。
そこに落ちてきた六文銭を受け止めて、にかりと笑う。
「随分と、いい金遣いをしたもんだ」
くくっと喉を鳴らして、それを弾く。
きんっと甲高い音。
先ほどまでは持っていなかった幾枚もの六文銭を手の内で遊ばせて、「十分以上の渡し賃だ」と機嫌良く言い放つ。よし張りきっていくぞと、その短い袖を余計に捲くるように見せつけて、死神の鎌を水面へとつける。
そこにあった蛇の形は消えていて、降ってきたのはワタシの銭。
手品のように、変わったものがそこにあり。
「残した文より、遺したもんとね」
独り言のように呟いて、少女はまた鼻歌を。
するすると船は進んで、ゆるゆると風が過ぎて。
笑み深く、軽くながらも沈みをまして――弄んだ銭がまた音を。
私が妻に贈ったものがいつの間にやら銭へと代わり ……銭代わりへと。
「後のものは精々後々の貯金にでもしときなよ」
振り向いた少女がくるりと指を。
向いた指が私から上方へ。
指したのは天と地獄の中間点か、
「それはまあ、誰かがあんたのために使った銭。それを損と思わなかった誰かの贈り物だからね」
そういって、死神は快活に。
死出の旅路には似合わぬ様。明るい茜の花の様なその様で――何だかつられて、私も笑ってしまいそうになる様で、とてもうれしいことをいってくれたような気がして。。
そうなのだろうか。
こんな己にもその死を惜しんでくれた人が……その生を案じてくれた人がいたということなのだろうか。
私の価値を見てくれた人がいたのだろうか、と。
それが本当ならば、どんなに――そう、ついつい財布のひもが緩んでしまうくらいには。
「おや、いいのかい?」
こみ上げる感覚のまま、残った分の銭も全て差し出して、うんと頷いた。
現われた六文銭と比べても、きっと大盤振るまいとなるだろう量全て、わたしのための銭として。
気風よく、機嫌よく。
他の誰かの分も払ったつもりとなって――もしかしたら、遠からずに訪れるだろう知り合いの分までもと僅かにだけ期待して、気前良くも宵越し持たず。
渡した銭を渡し人に賽銭だと。
「――それじゃ、ぼちぼちいくとしようか」
ふふんっと楽しげに笑った少女。
死神の手の先で、櫂が揺れる。
とぷんぷくんと泡と波。置きざりにしてゆたゆたと。
心地よい揺れの内、母親の腹の中にいるような安らぎを。
「ふわあ」と欠伸を一つ。
「ごゆっくり、このまま安全で快適な船旅さ」
払った分だけの介を得て、柔らかに目を閉じる。
撒いた種が芽吹いたことを――使ったモノが巡ったことを、少しながらも自慢に想い。
死神少女の鼻歌を聞きながら、まだ少しの時間を微睡んで。
私が渡る。
____________________________________
落とした銭が世を巡る。
使った金が、世を富ます。
いつか訪れ変わった世界――その場所で、また返って回る投資の銭と。
「地獄の沙汰も銭次第」
とぷんとぽんと。
沈んで浮かんで波のよう――金子の価値はその場で変わり、使い貯めて形を変える。
そんな価値を稼ぐが人で。
生きとし生きて、そして、死ぬ。
その後のこと。その跡の事。
生きた後に植えた後世。
「払い忘れは御座いませんか、とね」
笑う死に神。茜の死に神。
六文銭が心地よくに懐中で鳴いている。
文体のリズムやテンポが良いのでさっくりと読めるのもありがたい
修正させていただきました