Coolier - 新生・東方創想話

夜へ行進する、きみを

2014/11/04 16:41:57
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 私の目の前には空が広がっていた。
 灰色の厚い雲に沈んだ、暗い空。そこから雨粒が針のように細く鋭く、私の方へ落ちていく。それを避けようとも避けることはできず、皮膚に当たっても冷たいとも痛いとも感じない。まるで、意識だけがその場所に存在しているかのような。
 雲が流れている。いや、流れているのは私の方だった。不自然で規則的なグラインドを繰り返しながら、私はどこかへと向かう。暗がりに隠れていた視界がだんだんと開けて来て、人間の顔が二つ、私の目に飛び込んできた。顔つきは判然としなかったのだけれど、顔だちや体つきから見ると、それほど歳は取っていない、若者のように見える。そして私はどうやら、こいつらの腕に抱きかかえられているらしかった。
 どこか色彩を欠いた、褪せた世界を、暫く私はぼうっと眺めていた。私はどこへ向かうんだろう、この人間たちは何をしようとしているんだろう。そんなことをぽっと頭の中で浮かばせていると、不意に、何か嫌な感触が私の中から湧き上がってくるのを感じた。胸の中を掻き回されるような、恐怖の入り混じった気味の悪い感覚。それと並行して、一つの記憶が思い起こされる。それは姿形を失って漠然としているけれど、しかし私の中のいちばん深くに広々と根を張って、重く刻まれている記憶。
 ――逃げなきゃ。
 これから起こることを予期した私は、人間の腕の中から離れようとした。けれども、身体は動かない。確かに私はそこにいるはずなのに、そこにいる私は素っ気なく人間の中で揺られている。どうしようもないくらいに果てしない距離が、そこには横たわっているような気がした。
 やめて。やめてよ。
 私はやがて流れるのを止めた。人間の腕が、私の身体からゆっくりと離れていった。確かにやめてと言った。逃げなきゃとも思った。でも、それは私の願いが通じたのではない。私の運命は、全て人間の都合に流されるままである。
 空がほんの少し遠くなる。地上に転ぶ私のことを、人間は見下ろしていた。その表情はやっぱりよく分からないままで、人間たちは間もなくして私の視界から消えていった。
 相変わらず雨が落ちていた。
 人間たちはもういない。
 私の前には永遠のような時間が流れている。
 絶望、孤独、悲しみ、憎しみ、暗く塗りつぶされた気持ちが汚く混じり合い、しかしそのはけ口をどこにも向けることが出来ない、そんな黒々として恐ろしく静かな感覚。
 私はこの感じを知っている。
 そうだ、捨てられたんだ。私は。





 眠りから覚めると、自分の身体という存在がどっと意識に流れ込んでくる。
 手足の感覚、体幹に圧し掛かる布団の重み、小鳥の囀りがこそばゆく聴覚を揺らし、視界は幾つもの色彩を捉える。
 そうして生の感触を確かめると共に、先程までのそれが夢の中の出来事であったと理解すると、メディスン・メランコリーは憂鬱そうな重い溜息を吐いた。
 ――また、同じ夢……
 人間に抱きかかえられ、どこかへ捨てられてしまう夢。数日前から、メディスンは毎夜のようにこの夢ばかりを見続けている。
 最初は嫌な夢を見たと些事程度にしか思わなければ、二日目に見たときは同じ夢を続けて見るとは、こんなこともあるのかと気味悪く驚いてやった。
 三日目に見たときにはまさか冗談だろと狼狽し、四日目になれば反応をするのも最早面倒臭くった。
 信頼していたはずの人間に捨てられ、妖怪化したメディスンから見れば、この夢は悪夢以外の何物でもなく、毎日のように古傷を抉られている心持ちがしており、精神的にも相当参っていた。

 寝不足で重い目を擦りながら、メディスンは布団から這い出る。
 障子からは明るい陽射しが漏れていた。開けてみるとその通り、外には晴天が広がっていた。空気は少し冷えているが、身を縮めるほどのものではないし、寧ろ心地良く朦々とした頭の中の霧を吹き飛ばしてくれる。大きく伸びをするのと同時に空気を吸い込めば、自然の香りが体中に広がってくる。なんて気持ちのいい朝なのだろうか。
 しかしどうにも沈鬱な気持ちはすっかり晴れてはくれなかった。太陽が昇って、朝が来ても、やがて昼が来て夕方になって、太陽は沈み月が出る。夜が来る。きっと私はまた悪夢を見る。
 それもこれも夢――こいつのせいだと、メディスンは握り拳を作った。しかし誰を叩けばいいのかよく分からなかったので、とりあえず自分の頭を叩いてみることにした。頭にじんわりと痛みが走って、でも、それだけで空しさがあるばかりだった。





 数日前――悪夢を見るようになったその日――から、メディスンは何日かの間永遠亭の世話になることになった。間もなく梅雨に入って雨の日が続くから、それが明けるまでうちにいればいいとの永琳の誘いだった。
 別に今まで雨が降ろうが雪が降ろうが、岩下や廃屋に隠れてきたし問題は無いのだが、独りでそうして過ごすよりは永遠亭の方が格段に住み心地はいいし、何より永琳達と一緒にいるのは悪くない話だと、メディスンは彼女の誘いに乗ったのであった。
 
 寝室を出て居間に入ると、朝餉の場にはまだ誰もおらず、ひっそりとしていた。メディスンは腰を下ろすや否や、深い息を吐いて卓袱台の上に突っ伏す。
 焦点を遠くにやりながら、あの夢は一体何なのだろう、と考えていた。悪夢を見る原因として、何か特別なことが起きたわけでも感じたわけでもない。
 悪夢を見た前日にやったことと言えば、いつものようにスーさんの毒を集めて、それから永遠亭へ向かって手伝いをしたことくらい。毎夜のように決まって見るということはきっと何か理由がある筈なのだろうが、メディスンにはその理由というものが皆目見当もつかないでいる。
 昨日も考えた、一昨日も考えた。だが結局分からないまま、その繰り返し。不必要なプライドも加わって、自力で何とか出来るさと当初は考えていたので、このことはまだ永遠亭の誰にも打ち明けていない。
 もういっそ、話しちゃおうかな――
 疲労感の延長上で、そんなことを無意識の内に思っていると、居間の襖が開いた。静止していた景色が崩れる。メディスンは自らを引き戻した。 
「あら。おはよう、メディスン」
 数人の兎と一緒に、朝食が乗った盆を持ちながら鈴仙が入ってくる。彼女の挨拶にメディスンが視線だけで答えると、鈴仙は苦笑を浮かべた。
「今日はいつにもなくふてぶてしいのね」
「元気に挨拶返す気分でもないの」
「寝不足とか?」
「まあ……大体そんな感じ」
「へえ――ほら、ご飯置けないから起き上がってちょうだい。それから皆を呼んできてくれないかしら」
「やだ」
 メディスンは卓袱台に突っ伏していた体を起こすと、勢いでそのまま今度は畳の上に身を預けた。鈴仙は背中の割烹着の結い目に回していた手を止めて、メディスンの方を見る。
 天井を仰ぐメディスンの視界に、ずい、と鈴仙が入ってきた。
「駄々こねないの、それくらいのことはやってちょうだい」流石にメディスンの態度が鼻に付いたのか、鈴仙は左手を脇腹に添えつつ、彼女を諌める。
 それでもメディスンは、仰向けた体を起こそうとはしなかった。自分の身体が、すうっと畳に吸い付いているような感覚がした。起き上がろうとする気が湧いてこない。
 暫く鈴仙はメディスンに視線を向けていたのだが、観念したのか溜息を吐くと、「今日だけ特別だからね」と言って背中を向けた。それから改めて割烹着の結い目を解き、それを折り畳む。
 首だけ動かして、メディスンはそんな鈴仙の姿を見ていた。
 すらっとした肢体を覆い隠すような、淡い紫苑色の長髪が、彼女の動きに合わせて水面のように波打っている。梳いた後なのだろう、乱れたところは無く、光に当たって艶やかだった。その様をメディスンは、茫洋とした気持ちで眺めていた。
「後で話す」
 気が付いたらそんなことを口走っていた。
「え?」割烹着を折り畳んで、鈴仙が振り返る。やってしまった、とメディスンは思った。気を抜いたせいでつい理性よりも気持ちの方が先走ってしまった。今なら何でもないと誤魔化せるかもしれない、けれども一人で解決できると思ってこの有様だし……
 メディスンは逡巡した。しかし、それもほんの少しの間だけだった。
「――色々あったのよ。話すからさ、今はちょっとこのままでいさせてよ」
 今は不要な意地を張るよりも、自分の気持ちに正直になろう。
 打ち明けようとすることで、メディスンは自分の胸が幾分か空いてくれるのを感じた。息を吐くと、一時的にだがすっかり落ち着いた気分になって、精神の内奥がすっかり磨滅してしまっているのも感じる。
 鈴仙は、輝夜達を呼んでくるのを兎達に任せることにした。
 メディスンの言葉に首を傾げる彼女のその眼差しには、最前までの呆れというよりはむしろ、何かあったのかという心配の方が色濃く表れていた。





「悪夢?」
 眉間に皺を寄らせ、疑り深く語尾を上擦らせたてゐの反芻に、メディスンは小さく頷いた。「さあ、何があったのか話してちょうだい」と鈴仙に催促されてからの、メディスンの告白の後のことだった。朝食の場に居合わせた誰もが、メディスンの方を向く。
「最近、って、いつからそんな夢を見るようになったのよ」
 彼女の話を聞いて、真っ先に食いついたのは鈴仙だった。彼女だけが箸を置いている。「今日で五日目、くらい、かな」とメディスンが呟くように言うと、更に心配と怒りの入り混じった調子でメディスンに詰め寄った。
「五日目、って……どうして今まで何もいってくれなかったのよ!?」
「だって、どうせすぐ見なくなると思ったし、一人でどうにか出来ると思ったんだもの」
 感情の籠った鈴仙の語気とは対照的に、それに臆することもなく、メディスンは淡々と答える。疲労の影響だろうか、感情を表に出す気にもなかなかなれないでいた。
「すぐ見なくなるって、あなたね、本当に悪夢だったら誰にも何も言わないで溜め込むなんて逆効果に決まっているじゃない。もしちょっとでも私達に言うのが遅れたら――」
「まあまあ、メディスンはこうしてちゃんと話したんだし、相当疲れているみたいだけど命に別状は無い。今はそれで良かったことにしておこうじゃないか」感情の昂ぶりを隠しきれず、今にも掴みかかりそうな勢いでいる鈴仙とメディスンの間に、咄嗟にてゐが口を挟む。
「そうそう。ここで大事なのはメディスンがどうして、悪夢を見るようになったかということでしょ? お説教ならそれが分かった後でやりなさい、うどんげ」
 永琳の言葉が氷の矢のように、熱くなった鈴仙の心に冷たく突き刺さる。
 冷静になって、つい感情が間違った方向に向かっていたことに気付いた鈴仙は、先程までの勢いを萎縮させ、前かがみ気味であった姿勢を正してうな垂れた。味噌汁の味噌が沈んでいる。透明な上澄みに、情けない顔をした鈴仙の顔が映っていた。
「そもそも、悪夢ってどんな悪夢なのかしら」
 それまで平然と食事を進めていた輝夜が、おもむろに箸を置くと次の口火を切った。その語気はまるで取り留めの無い話をするかのように穏やかだった。
「誰かに捨てられる夢よ」メディスンが答える。既に彼女は箸を置いていた。「人間に抱きかかえられてどこかへ連れて行かれるの。それがどこかは分からない。それから確か、雨が降っていたわ」
「捨てられた? それはメディスン自身の夢だったの?」
「ん、んー? どうなんだろ……」輝夜にそう問われて、メディスンは返答に窮した。確かに自分は人間に捨てられて妖怪になった。そして捨てられた時の記憶はただ事実だけが残るのみで、景色とかそういった細やかなことは忘れてしまっている。一概に私の夢だ、私の夢ではないと断言することは出来なかった。
 メディスンが考え込んでいる傍ら、輝夜は輝夜で唸っていた。唇に指先を当てて、んー、ああ、ひょっとして。ぽん、と手を叩き、彼女が一つの答えを導き出すまでの動作は、まるで全ての動作があらかじめ定められているかのように滑らかだった。
「もしかすると悪夢じゃなくて、予知夢、かもしれないわね」
「予知夢?」
「そ。未来が夢の形をとって現われるあれよ。それはきっと人形が近い将来に捨てられてしまうことを暗示しているのかも。人形解放を望むメディスンに呼応して、人形の危機を察知する、そういう能力が備わったんじゃないかしら?」
「いくらなんでも、ちょっと唐突過ぎる話じゃあないですかね」輝夜の仮説にてゐが口を挟んだ。「そりゃあここは幻想郷、いきなり何が起こっても不思議じゃあないですけど」
「悪夢だろうが予知夢だろうが、それを見るようになったのには何かきっかけがある筈よ。メディスン、その夢を見る前に何か変わったこととかは無かったかしら」今度は永琳が尋ねる。
「何も無かったよ。朝起きて、スーさんの毒を補充して、永琳の手伝いをした。いつも通りだったけど」
 メディスンの返答に、永琳は眉一つ動かさないで、そう、と言うだけであった。卓袱台をじっと見詰める彼女の次の言葉を、てゐや鈴仙、輝夜、そしてメディスンは待った。しかし永琳は再び言葉を紡ごうとはせず、ただ涼しい顔を浮かべるだけだった。妙な沈黙を挟んでしまう。
「お師匠様、まさかメディスンに薬を盛ったりなんかして……」
 永琳の無表情さに不安を過らせたのか、息の詰まる沈黙から逃れるように、恐る恐るてゐが尋ねてみると、彼女は相好を崩した。「失敬な。まさかメディスンにそんなことをするはずが無いでしょう。うどんげならまだしも」
「え、何で至極真っ当にそんなこと言うんですか……」
 それまで下を向いて黙りこくっていた鈴仙が、咄嗟に顔を上げて反応すると、居間に穏やかな笑い声が響いた。
 普段通りのやり取り。いびられるのは正直嫌なのだけれど、それが永琳の、彼女たちなりの愛情なんだろうなあと鈴仙は考えている。そう感じるように思考を誘導されているようにも思っている。
 鈴仙たちの会話を見て、仏頂面をしていたメディスンにも幾らか笑みが戻っていた。それを横目に見て鈴仙は安堵する。同時に、彼女を助けてあげなければ、と強く思った。今までメディスンの異変に気付いてあげることが出来ず、つい詰問してしまった自分に後悔もしていた。永琳の言う通り、悪夢の原因は何かを突き止め、メディスンをそれから解放してあげることが今一番にやらなければいけないことなのだ。
 自らの意志について彼女は心の中で頷くと、膝上に乗せた掌に力を込めた。スカートに皺が寄る。それから彼女は、余り手の付けられていない自分の朝食と既にほとんど食べ終わっている周囲の碗とを見比べて、慌てて箸に手を伸ばしたのであった。





 そもそも、鈴仙・優曇華院・イナバにとって、メディスンとは警戒するべき脅威だった。
 まだ妖怪として未熟ではあるが、毒を自在に操ることが出来る彼女の能力を見込んで、永琳が永遠亭に彼女を招き入れようとしたとき、最後まで反対したのは鈴仙だったのだ。彼女の生み出す毒がそこらの毒よりもずっと強力で質が悪いのを、鈴仙は身をもって知っていたからであった。閻魔の教えを守り、もっと見識を広めていきたいと友好的に接しながらも、その内面は人形を虐げるものへの強い憎悪に満ち溢れている。年相応に知的好奇心が強く、純粋で、周囲に笑顔を振りまいているその裏で、何を企んでいるかも分からない――たとえメディスンが永遠亭で勤勉にしていても、鈴仙は彼女への警戒をなかなか解かなかった。
 そうしてメディスンへ敵対心を向ける鈴仙に、永琳はメディスンの目付け役を任せることにした。否応なしにメディスンと一緒にいなければならなくなった鈴仙は、最初こそ目を光らせ糸を張らせ、ぎこちない関係でいたが、次第に彼女の心のより深い所に触れていくことによって、自分の抱いていた猜疑心が表層的なものであったことを知るようになる。
 捨てられたが為に人間を憎み、人形解放のための力を求めるその奥で、捨てられたからこそ、孤独に怯え、他人の温もりを強く求めようとするメディスンの胸苦しい内面。それを知ることで、水に落とされた砂糖が自然と溶けていくように、鈴仙の中にメディスンが時間の経過に伴って浸透していく。今となっては、鈴仙にとってメディスンは放っておけない妹のような存在であり、さすれば自分が彼女の姉貴分として面倒を見なければならないという自意識があり、そして、今回の事態を一番重々しく捉えているのもまた、彼女であった。


 朝食を済ませ、食器を片づけた鈴仙が居間へ戻ると、今朝と同じような具合でメディスンが机に突っ伏していた。襖から背けるようにして、頭を横向きに机の上に面させている。
 鈴仙は大福と茶を持って来ていた。それをことり、と机の上に置くと、メディスンがすっと起き上がった。
「甘いもの食べたらちょっとは元気出るかもよ」鈴仙はそう言って、大福の乗った皿と湯呑みとをメディスンの方へ差し出した。
「ありがと」
 メディスンの声色には、朝と比べて幾らか元気が戻っていた。こうして食べ物を拒まないのもその表れであるのだろう。小さな口を開けて、彼女は大福を頬張った。
「ほっほはふひはっは」
「口をもごもごさせたまま喋らない」
「ん」柔い口調で鈴仙がたしなめると、メディスンは何回か咀嚼して大福を呑み込んだ。「ちょっと楽になった」それからもう一度言い直す。
「あんまり無理はしないでよね、私たちがいるんだから」そうメディスンに言う傍らで、鈴仙はメディスンの言葉の、その外側について探ろうとしていた。また自分で解決してやろうとか、無理なことを考えていやしないか、と。それは彼女の保護欲から生まれた過大な心配から来るものであった。
 そんな、疑念を高まらせ、霧の中を探るように安定しない鈴仙の心中はいさ知らず、メディスンは美味しそうに大福を食べている。その表情には若干の綻びも見えていた。
「考えていたの」片栗粉が付着した指先を舐めて、メディスンは言った。「輝夜が言うように、あれは予知夢なのかもしれない、って」
 鈴仙は黙って彼女の話に耳を傾けようとした。
「そして、それはひょっとすると、スーさんが私にくれたものなのかもしれない、って思っていたの。私がただの人形で捨てられていたところに、毒を注ぎ込んで動けるようにしてくれたようにさ」
 独り言のように訥々と呟くメディスン。
「でもそんなの、私の都合がいいように考えただけかもしれない――だって、分かんないもん、私。スーさんの言葉」
 メディスンはそう言って、力無い笑みを浮かべた。その頼りなさげな横顔を見て、鈴仙は唐突に彼女のことを抱き締めてあげたい衝動に駆られた。そして、実際にそのようにしたのだった。メディスンの背後に回った鈴仙は、彼女の胸元へ腕を回した。鈴蘭の香りだろうか、甘くていい匂いが彼女から漂ってくる。
「鈴仙?」メディスンの言葉に、鈴仙はより近くに寄り添おうとすることで応えた。強く抱き留めれば砕けてしまいそうな、彼女の華奢な躯体を出来るだけ優しく、出来るだけ傍に置こうとした。
 個人の内面の中に生まれ、その庭の中で生きようとする悪夢を飼い馴らすことが出来るのは、他ならぬ内面の主しかいないのだ。それを自覚した途端に、自分がメディスンを助けるという言葉が、世迷いごとのように軽薄なものとして現れる。だが、自分のやっていることが、たとえ虚飾された正義を振りかざしているだけに過ぎないとしても、それは一心の内から浮かび上がった純粋な思いであった。彼女の中の葛藤を、少しでも和らげることが出来るように。彼女がまた今夜、同じ夢にうなされることのないように。
 無言の抱擁が続いた後で、鈴仙はそっとメディスンから身体を話した。振り返った彼女の両肩に手を置き、瞳を見据える。
「何か思い当たる節があったら私に言うこと。くどいようだけど、あなたはもう独りじゃなくて、私たちがいるんだから。分かった?」
 メディスンがこくん、と頷くと、それまで拘束力を持っていた鈴仙の双眸が、優しく緩む。そうしてメディスンに微笑みかけると、彼女は立ち上がり部屋を後にするのだった。





 鈴仙の背中を見送ったメディスンは、まだ残っている大福に手を伸ばした。よもぎが練り込まれた、新緑色の大福だった。口に入れると、中で香り立つよもぎの苦みと餡の控え目な甘さが混じり合い、幸福感に自然と息が漏れてしまう。良く味わってから、茶を一口飲んで、メディスンは改めてこれからのことに思いを馳せていた。
 ――私たちがいるんだから。
 先程の鈴仙の言葉が、鮮明に脳裏を過ぎる。彼女の言葉は素直に嬉しかった。しかし、鈴仙たちが手助けしてくれるとしても、悪夢の原因を突き止め解決するのは他でもない自分であるということをメディスンは理解していた。
 そこで、これからどのようにするべきか、ということである。恐らくあの悪夢を表面として、そこに現れる事象が悪夢の成因を掴むための手がかりになっているのだろうが、今の調子で考えて続けてみたところで、同じ轍を踏むことは既に経験済みである。だからと言って無いというわけがない、必ずそこに手がかりがあるのだ。
 だがそれが何なのか、そもそもどうやったら掴めることが出来るのか、メディスン一人の力じゃ分からないでいる。
 一人ならばそうだろう。
 でも、私は独りじゃないんだ――メディスンは一つ意を決して、居間から飛び出していった。


「――輝夜?」
 襖を少し開けて、そこからメディスンは顔を覗かせる。穏やかな日が差し込む縁側で、てゐは輝夜と将棋を指していた。
「メディスン? どうかしたのかしら?」
 一手を打った後で輝夜は立ち上がって、居間へ入るとメディスンに手招きをした。将棋盤を睨み、唸ってからてゐもまた一手を打ち、軽々しく立ち上がると、彼女の後を追った。
「邪魔しちゃったかな?」
 輝夜の部屋に入って、メディスンがおずおずと尋ねると、てゐはからからと笑う。「まさか。こんなことで邪魔だと突っ返していては心が廃れてしまうよ」そう言って彼女はメディスンの頭をくしゃくしゃと撫でた。
「そうそう。それに享楽はいつでも出来るからね」
 着ているものの関係もあるだろう、ゆっくりと静かに腰を下ろす輝夜。手を差し出し座るよう彼女に催促されて、それからてゐとメディスンが座った。
「今朝の夢の話?」輝夜が訊くと、メディスンは頭を縦に振った。和やかに弛んでいた糸が、ほんの少し緊張に張りつめる。
「何か、分かったことがあったのかい?」今度はてゐがメディスンに尋ねる。それに対してメディスンはううん、と首を振った。「分からない。分からないから、二人に教えてもらおうと思って来たの」
「教えてもらいたいこと?」
「そう」それまで真っ直ぐ二人の顔を見ていたメディスンの眼差しが、逸れた。何かを求めているはずなのに、その唇はきゅっと固く結ばれている。寂が降りた。輝夜は、てゐは何も言わなかった。そして、その沈黙を持ち上げて、どこかへ放り投げるように、メディスンはその口を縦に開いたのだった。
「実はね――夢の見方を、教えてもらいたいの」
 ――え。
 再びの沈黙。というより、咄嗟に言葉が浮かび上がらなかった。
「あ、あのね。変なこと言っているっていうのは自覚してるつもり」呆気が顔に直に出ているてゐを見て、メディスンは慌ててまくし立てた。しかし、その語調はすぐに落ち着いた、真剣なそれへと変わる。「でも、手がかりはきっとあの夢の中にあって、私だけの力じゃあどうにもならないんだ」
 輝夜がてゐを横目に見る。彼女はてゐのように色の変化を表に出すことは無く、そして彼女の心中をてゐには理解することが出来ないでいた。ただ、自分にはちょっと難しい問題であることには間違いなかった。普段は狡猾で機転の利く彼女も、このような精神的なところの話になると陳腐な発想しか思い浮かばない。
 夢の見方、ね――兎にも角にも考えてみる。そこに手がかりがあるのなら、とにかく一つ一つの現象を見逃さず目を凝らして観察するしかないんじゃないのか。いや、メディスンは自らの夢を夢と明晰に意識しているのだから、おそらく今までもそのようにしてきたのだろう。それで、出来なかったから、今こうしてここにいるのだ。
 霧の中を泳いで掴んだ物が、余りにもありふれた石くれだったことに、てゐは内心苦笑を浮かべた。これは私にはちょっと苦しい問題だな――ただ真っ直ぐに自分たちを見つめるメディスンの視線がてゐには痛く感じた。今朝、ああして打ち明けたからこそ、こうして自分たちを頼って来たのだろう。だが、自分はそんな彼女の信頼に応えられずにいる。
 頼みます、姫様――そんな思いを内に込めながら、てゐは輝夜に視線をやった。輝夜はそれを受け止めてから、やはり淡々とした調子でメディスンの方を見る。
「教える前に、一つ尋ねたいのだけど」輝夜は目を閉じた。紡がれた言葉はどこまでも穏やかである。「貴女が毎晩悩まされ続けている悪夢。それは本当に、悪夢なのかしら?」
 え、と、メディスン。言葉に詰まっているのをよそに、輝夜は続けた。
「それは本当に悪夢という、貴女が超克するべき壁なのかしら」
「悪夢であると、一歩退いた視点でその夢を見ていないかしら」
「偏見を取り払って、素のままで、その夢に寄り添ってみたらどうかしら――そしてら何か分かるかもしれない。その夢が貴女に伝えようとしていること、自分にすら気づかれない自分の深いところ、或いは、誰かの声」
 輝夜の声は、閑寂とした夜にりんと鳴る鈴の音のように透き通っていた。自分の心へ直接染み入ってくるような。
 その音を、私はずっと聴くばかりで、自らが鳴らすことはないのだろうな、とてゐは思った。死という、生命において不可避な面を乗り越えたところにある、蓬莱人という存在。その境地から見る景色は、どれだけ私の視力が良くなっても見えることは無いのだろう、ちょうど、ここから月の裏側を眺めるように。
 そして、メディスンは、輝夜の言葉を漠然とした調子で繰り返していた。素のまま。誰かの声。言葉の端々を掻い摘みながら。やがてふわりと、柔くゆっくりと頷いた彼女は、輝夜の言葉を十分に理解したふうには見えなかった。だが、声を上げて疑念を呈する様子を示さないのを見ると、分からないなりにも、輝夜の言葉の中に何か手応えを感じているようにも見える。
「――まあ、夜を迎えるにはまだまだ早いわ。そう今から真面目くさった顔をしないでちょうだい。大丈夫よ、そうやって頑張って考えているのなら、きっと夢の原因も分かるわ」
 目を開いた輝夜がそう言ってメディスンに微笑みを投げると、ぴんと張った彼女の気概の糸がちょっと緩むのが見て分かった。でも、ちょっと、だけである。肩は強張っていて、身体は小さく縮こまっている。そんなメディスンの様子を見て、てゐは腰を上げると彼女の背後に立ち、両手を肩に置いて揉み解してやった。
「不安なのかい?」てゐが問うと、メディスンは肯んじた。弱弱しい笑みを浮かべたのが、横顔から垣間見えた。夢の原因を突き止めるという真っ直ぐな決意の裏側で、依然として正体不明なままのそれを掴められるかという心配があるのだろう。その上今朝の通り、精神も万全、という状態ではないだろうから、こうして弱気を隠しきれないのももっともなことだ。
「姫様の言葉だけじゃあ物足りないか?」てゐはメディスンの頭を、荒っぽく撫で回した。ひゃ、と声を上げるメディスン。「大丈夫さ。きっと見つかる。私たちも付いているんだ。何かあったら助けになるから、安心して」
 歯を見せて、てゐは快活そうに笑う。これが、自分に出来る精一杯のことだった。輝夜のように未踏の境地に立って物を論ずることは出来なくとも、こうやって前へ進もうとするメディスンの背中を押してやることは出来る。
 メディスンは次第に緩慢になるてゐの掌の動きに身を委ねながら、心地よさそうに目を細めた。「うん――ありがと。てゐ、輝夜」その言葉を聞き届けたてゐは、ぽんとメディスンの頭を優しく叩いて、輝夜の部屋を後にするのだった。
「ちょっと席を外すよ」


 輝夜の部屋を出て、てゐは厠へと向かった。その道すがら、彼女は今朝の朝食の場にて永琳が言った言葉について思いを馳せていた。
 ――”メディスン自身が理解し、受け止めなければいけないこと”。
 私たちが答えを導き出すことをしないで、メディスン一人に負担をおわせてまで永琳がメディスンに教えたいこととは一体何なのだろうか。あの口振りからすると、永琳はメディスンの夢がどこから生まれ出たのか、あの場で理解したのだろう。その上で、敢えて答えを口にすることなく、メディスンが自力でそこへ辿り着くようにさせている。
 そして恐らく、輝夜もまた、永琳と同じ理解を胸中に抱えていた上で、あのように言ったのかもしれない。あくまで自分の域を出ない推測ではあるが。
 メディスン一人に背負わせるその意図について、てゐは永琳と輝夜に対して疑念を過ぎらせていた。例えば自分がこのことを理解できたとして、成程これはメディスン一人に任せるべき問題であったと思えるのだろうか。しかし、ここに確かに存在しているのは、その意図を理解できないままでいる自分なのであって、間接的にしか彼女を手助けすることが出来ず、肝要な部分は見守るしかない、というのは心苦しい所があった。
「――おや」
 師匠の部屋の前に、鈴仙が立っていた。重々しい表情を湛えている。声をかける余裕は無かった。そもそも声をかける雰囲気でもなさそうだった。
 多分、彼女も私と同じなんだろうな、とてゐは思った。しかも、鈴仙ならば尚更のことだ。何だかんだ言いながらも、一番メディスンのことを気にかけている鈴仙が、永琳の決定について黙っていられるはずがない。
「失礼します、師匠」
 そしてその思いは、時として盲目的であるのだ。それが、彼女と自分との間に横たわる差異。どうやら学ぶべきところがあるのは鈴仙も同じみたいかな――そんな思考を頭の片隅に浮かばせながら、てゐは廊下を右に曲がっていった。





 朝食の後に永琳が発した言葉が、鈴仙の耳にひっついて離れない――

「そうね」場が若干和やかになったところで、朝食を済ませ、永琳が碗を重ねて立ち上がった。「これはメディスン自身の問題であるように、私は思えるわ」
 その彼女の言葉を聞いた途端、それまで鈴仙に流れていた暖かな気持ちが、急速に冷え込んでいった。驚きに目を見開き、水を得た魚のようにさっと顔を上げ永琳を仰ぎ見た。どうして――震えた声が口から飛び出そうになったが、永琳が言葉を続けたので、鈴仙は出かかった感情をぐっと体の中に押し込んでいった。
「そもそも夢とは、個人の内にある要素が引き金となって見るもの。本人にその自覚がたとえ無くとも、夢の原因というのは本人の中に必ず横たわっているわ。だから、親しい間柄とはいえ私たちとメディスンは個体の違ういわば他人。易々と他人の夢の原因を断言していいようなものじゃあない」
 永琳の言い分を聞いてもなお、鈴仙は納得することが出来なかった。筋は通っている、と頭では分かっていても、それを心から理解することが出来なかった。永琳の言っていることはつまり、事の解決の大本はメディスン一人に委ね、自分たちは傍観しろということなのだ。
 それがどうして出来るだろうか、彼女がこんなに弱っているのに、手を出さずに見守れと、そう永琳は言いたいのだろうか。
 鈴仙は、永琳がメディスンのことを突き放しているように思えて、沸々と熱い感情を胸の底から湧き上がらせた。涼しい顔を浮かべ、淡々と喋る彼女の姿に、師弟関係らしからぬ憎悪すらも覚えた。永琳は席を離れる。その背中に鈴仙は言葉を投げかけることが出来ず、ただ高揚した感情の混じった双眸を向けるだけであった。喉に何かつかえているような感覚がした。
「メディスンが苦しい状況に置かれているのは承知しているわ」去り際に永琳はそう言った。「でもこれは、彼女自身の力で気づき、受け止めなければいけないことだと思うから」


 ――鈴仙が襖に声を投げると、永琳の声が返ってきた。
「入りなさい」
 一呼吸置いて、鈴仙は永琳の部屋に入る。彼女は寛いだ様子で書物に目を通していた。鈴仙が入って来ても、彼女に視線を寄越すことはない。
 襖を閉じ、数歩永琳に歩み寄って、鈴仙はそこで立ち止まった。素知らぬ風な体でいる永琳に、鈴仙の、つい先ほど固めた鉄の意思が再び熱気を帯びていく。
「どうかしたのかしら」
 先に口火を切ったのは永琳だった。
「メディスンのことですけど」
「ん?」
「朝、師匠が言ったことについてです」
 ぱらり、とページの捲れる音。
「それが何か」
「まるで知っているかのような口ぶりでした」
 ぱらり。
 緊迫さを紛らすような、たおやかな音が部屋に響く。
「もしそうだとして、貴女はどうするというの」
「答えを知っていて敢えて黙るんですか、メディスンがあんなに苦しんでいるのに」
「言ったでしょう」永琳の語調が、些か固くなる。「彼女が苦しんでいるのは分かる。でも、これは彼女の手で答えを見つけなきゃいけない問題で、私たちがそう気軽に解を手渡しては駄目なのよ」
「納得できません」
 ぱら――。
 ページの捲る音が、不自然に止んだ。そこで永琳は初めて、鈴仙の方を振り返った。
「私には納得できません。我慢がなりません。目の前で親友が悩み苦しんでいるのを、師匠は手を差し出すことなく眺めていろとでも言うのですか」
 鈴仙の、それまで押し殺し続けていた不条理な怒気が、言葉を出すと同時に勢いよく溢れ出してくる。握り拳には汗が滲んでいた。彼女は力強い眼差しで永琳のことを睨んだ。
 そうして感情を露呈させる鈴仙とは対照的に、永琳は平生の瞳でもって彼女を見かえしている。夜のように静かで、冷たい眼だった。
「何もそれは一貫したものではないのようどんげ。もし彼女がいよいよ駄目になったなら策を講じるわ、でもメディスンはまだ本当にやられてはいない。今もなお自分の手で道を切り拓こうとしている」
「けれど、それで彼女が苦しんでいるのは紛れもない事実です。師匠にとって、そうまでしてそれはメディスン自身が気づいて欲しいことなんですか」
「ええ。私はそう思っている」
 現段階で自分と永琳の間には、決定的な壁がそびえ立っているということを鈴仙は理解していた。
 メディスンの夢の原因――それを知った上で、永琳はメディスン自身の力でそこへ辿り着いて欲しいと思っている。もし、それを自分も理解することが出来たのなら、永琳と同じように傍観に回ろうとするのだろうか。抱えた答えを出さずに、メディスンが悪夢にうなされる様を眺めることが果たして出来るのだろうか――。

「いや、駄目だ。そんなこと、駄目です」
「どうして?」
「どうしてって、そんなの決まっているじゃあないですか。メディスンが苦しんでいるのに、私たちが手を差し出さずに傍観しているなんて、それを駄目と言わない理由が逆にどこにあるんですか」
「うどんげ、私が訊きたいのはそのもう一歩奥のところよ」一本の矢のように、その言葉は、鈴仙の胸に真っ直ぐ突き刺さっていった。「敢えて手を差し出さないことが、彼女一人の力で解決させようとすることが、彼女が苦しみ悩むのが、何故駄目だと貴女は思ったの?」

 何故。

 永琳へ対する怒りとメディスンへの心配で築き上げられた壁に、一筋のひびが走った。
 何故、駄目だと私は思ったのか。
 メディスン一人の力で出来やしないと思ったから、傍観なんて駄目だと思った。
 メディスンには自分が付いていないと何も出来ないと思ったから、手を出さないなんて駄目だと思った。
 他ならぬ自分が見ていて辛いから、メディスンが苦しむ姿を見たくはないと思った。
「――――」
 鈴仙はそれらを、言葉に出すことはしなかった。当人のことを省みない、自分のエゴで塗り固められたそれを吐き出したところで、ただ惨めであると理解したから。一筋のひびはやがて壁全体に走り、鈴仙の激情を瓦解させていく。
「うどんげ」
「――はい」
 それまで冷淡だった永琳の眼差しに、仄かな光が差し込んでいた。言葉の切っ先は柔らかく、そっと鈴仙を包み込むようだった。
「貴女の言う通り、メディスンは思い悩んでいる。でもその眼は前を見ているわ。彼女なりに考えを持って、行動しようとしている」
「そこへ私たちが答えを教えるのは、果たして本当に良いことだと言えるかしら? ――それは違うわね。自分で考えて、悩んで、求め抜いた先に、その答えはかけがえのない輝きをもって現れてくる。私はね、それをメディスン自身の財産にしてもらいたいと思っているの」
 永琳の話を聞きながら、鈴仙は混雑とした思いでいた。
 いつまでもメディスンは無知な子供じゃあない。様々な人妖との出会いを通して見識を広めている。やがていつかは自分の手の中を離れて独りで歩いていく。それは分かっていることなのだ。
 けれど鈴仙はそのことから目を背けたがった。背ける為に、過剰な自意識を身に纏った。まだまだメディスンは、私の中に置いておかなければならない存在であるのだと。
 そして、今。メディスンは自分の手中から離れ、独りで歩こうとしている。感情の波が穏やかになっていく中で、鈴仙はメディスンに想いを寄せていた。自分が今まで直視することを避け続けていた、彼女の意思について考えていた。摩耗しようとも、決して潰れてはいなかったその意思。それについて、自分はどのように寄り添うことが出来るだろうか。
 彼女は改めて、その血のように鮮やかな赤目でもって見詰め直そうとしている。
 




 夜は皆の前に等しく降りてくる。誰かがそれを望もうが望むまいが、あるいは無関心でいたとしても。どれだけ呪詛を唱えても、山の向こうへ沈んだ太陽を追い求めても、漏斗のように一つの穴へと滑り落ちていってしまう。メディスンはそれを疎んでいた。眠りに落ち、あの悪夢を観ることを恐れ、陰鬱な心持で夜の中に佇んでいた。
 ただ、今日ばかりはそのような気持ちは存在していない。外には誰もいない、時折永遠亭を取り囲む笹の葉が、風に揺られてさわさわと音を立てるくらいだ。そんな夜に同調するかのように、メディスンの心境は穏やかだった。
 眠気に重くなった瞼をゆっくりと瞬かせながら、茫洋とした頭を水車のようにゆっくりと回しつつ、メディスンは夢のことについて考えていた。
 あれは、私自身の夢なのだろうか。
 いや、夢は個人の内面の要素が引き金となって見るものだ、と朝に永琳が言ったことを考えれば、自分自身の夢であることには違いないのだろうが、メディスンにはその夢に対して、記憶の滓すらも揺り動かされないでいる。
 捨てられるという事象に共感にも似た雑駁とした感情を喚起することこそはあるが、それでもその夢には、自分の手中にあるような気がしないのだ。いや、それが、輝夜の言う、自分ですら気づかない自分の深いところであるのかもしれない。
 あるいは予知夢か。
 もしそうであるとしたら、毎夜毎夜自分の夢に凝りもせず現れるのは一体どのような意味があるのだろうか。捨てられるという運命を変えることが出来ない限り、ずっと同じ夢を見続けさせることになるのだろうか。それは有難迷惑な話で、何か別な思惑があるのではないかと考えを張り巡らせたくなる。
 メディスンは輝夜の言葉を、改めて思い出す。今日でこの夢について、一つ前進することが出来たらいいんだけど――悪夢というフィルターを外して素のままでそれを受け止める、自分に出来るかどうか彼女は不安を抱えていた。しかし、そんな彼女の不安をよそに、瞼はじんわりと重くなってくる。水車は水を失い回転を鈍らせる。その甘い感覚に身を委ねるがままに、メディスンは眠りの中に落ちていくのだった。


 ――夢の中で意識を目覚めさせたメディスンを、見慣れた鼠色の空が出迎えてくれた。
 昨夜見た景色、その前の夜も見た景色だ、脳裏に焼き付くくらいに覚えている。しかし今、彼女の頭上に広がっている鈍色の分厚い曇天は、いつにも無く鮮明であった。一瞬だけメディスンは錯乱してしまう。いつものような、霞がかかった感じが一切無い。まるで現実の中で存在しているような、それ程までに彼女が見ている風景はリアルだった。
 ただ、夢は台本通りに進む。メディスンは人間の腕の中でゆらゆらと揺られて、穏やかに死へと向かっていく。そこへ、聞いたことも無い声が、メディスンの頭の中に響いてきた。
「――嫌よ、嫌。やっぱり殺すなんて嫌よ、引き返しましょう?」一つは女性の声。涙混じりで、懇願するような悲痛な声色で誰かに言葉を投げている。
「俺だって嫌だよ。でも、君にも分かるだろう。もう満足な食事もままならないんだ。この子も日に日に弱って今じゃご飯を求めて泣きすらしない。このまま飢えで苦しむのなら、毒で楽にした方が――」もう一つは男の声。女性のすがりつくような悲嘆を振り払うかの如く、舌鋒鋭く女性に告げるその声は、心なしか震えている。
 それはメディスンを抱きかかえた、二人の人間から発せられたものだった。以前まで黒い靄に隠れて判然としなかった二人の表情が、景色と同じように明るみになっていく。
 しかし、その表情は、決して明瞭となって良いと思えるようなものではなかった。男の頬はすっかりこけ、腕は女声かと見紛うほどに細い。服も隙間が大きく生じており、開いた胸元から鎖骨が痛々しく浮かび上がっている。対する女性の方も、男ほど痩せ細ってはいないが、水気を失った肌に皺を浮かばせ、乱雑に伸びた髪は艶を失っている。
「毒で殺すのなら、私も一緒に殺して」掠れ声で女は半狂乱気味に男にすがる。「一緒に死にましょう。どうせ私たちだけが生き残ったところで何も変わらないわ、皆と同じように飢えて死ぬだけよ」
「それは違う」男は叫んだ。「俺たちは生きなきゃいけない。生きて田畑を耕して、作物を作って、この飢饉から抜け出さなきゃいけないんだ。俺たちみたいな若い奴が死んでしまったら、他に誰が稲を作るっていうんだ。俺たちが、頑張らなきゃいけないんだよ」
 話に耳を傾けながら、メディスンはこの夢を取りまく要素についてまとめていた。今、この二人の腕の中に抱きかかえられている私――メディスンが視界を借りている対象――は彼らの子で、今は飢饉の中にあり満足な食事も食べられない。そのせいで私は泣き声すら出さなくなり、二人もすっかり痩せこけている。そして彼らは、私を衰弱死させるよりも前に、毒で殺して楽にさせようとしている……
 整理するにつれて、メディスンの脳裏に幾つかの疑問が過った。この夢が人形に関するものではなく、どうして憎き人間に関する夢なのか、ということ。そして最前男の口から出た、毒で楽にするという言葉。それについてメディスンには心当たりがあった、ややもすると、彼らが向かおうとしている場所とは――そう思っているうちに、腕の中の揺れが止んだ。甘い香りがしたような気がした。嗅ぎ慣れた匂いだった。
「俺たちのことを、いくら恨んでくれても構わない」男が自らの腕から赤子を降ろし、大地に置くと、惜しそうに手を引いてそのまま合掌した。「どうか来世で、幸福な人生を送ってくれ」そう言って男が静かに目を伏せる傍らで、女は目を背け、顔を覆ってすすり泣いていた。
「――行こう」
 合掌を終えた男が、咽び泣く女を抱くようにして、赤子から離れていく。それをメディスンはただ眺めていた。口を開くことも出来なければ、手を伸ばすことも出来ず、目を動かすことすらも叶わない。それは、今ここに横たわっているのが自分自身ではない存在であるからなのだろう。両親に捨てられここへやって来て、そして死んだのだろう、赤子。なぜこの子が、私の中に突如現れたのか、今なら分かるような気がする。
 散りばめられた糸は一本に結び付けられ、メディスンは意識に向かって――自分の中に在りながら自分ではない意識に向かって、そっと両手を開く。

 そして夢は、終わる。
 メディスンの視界の端で、白い花が揺れていた。





「……ん」
 襖から差し込む白光に瞼を刺激させられて、鈴仙はそれをゆっくりと開いた。まだ覚醒しきっていない、茫洋とした頭でもって暫く天井を見上げていると、不意に昨日の出来事が脳裏に閃光のように浮かび上がってきた。
 緩慢と流れていた時間が鋭く止まる。呼吸すらも止まる。光と共に胸が締め付けられるような心持がして、鈴仙は沈鬱そうな溜息を一つ、吐いた。
 結局、永琳にあのように言われたものの、鈴仙は自分の中で意思の方向を定めることが出来ないままでいた。
 メディスンは日々成長している、それは分かっているつもりだ。しかし、その先に結果としてある、メディスンが自立し、自分から、永遠亭から離れるということすらも受け止めるのはすぐには出来ないものだった。それ程までに鈴仙にとってメディスンという存在は心の深いところにあり、彼女自身、それを一つの拠り所としている。
 そんな、どっちつかずな思いを無理矢理眠気の中に閉じ込めておいたのだった。しかし、鈴仙が目を覚ますや否や、待ち構えたように飛び出してきて鈴仙に問いかけてくる。どうするんだ、どうするんだ――そんなことを言われても、今すぐに決めることなんて出来やしない。中途半端な迷いは鈴仙の胸でつかえて、心はすっきり晴れてはくれない。
「……朝ご飯の準備しなきゃ」
 憂鬱な気分を奮い立たせるように、鈴仙はそう独りごちた。
 勢い良く布団を取り払い、普段着に着替える。寝癖を粗雑に梳いて、襟を正した。心中に立ち込める曇天から目を背けるように、逃げるように、鈴仙は早々に身支度をこなし、足早に部屋を出ていった。
 そんなことをしてもいつかはこの空と向き合っていかなければいけないことは分かっている――そんな一抹の理性すらも燻らせないように、ただただ鈴仙は、目先のことばかりを考えることに専念しようとした。


 兎達と共に朝餉の乗った盆を持って、鈴仙が居間に入ると、既に全員が席に座っていた。てゐに永琳、輝夜、そして――メディスンも。それまで忘れようとしていた感覚が再び湧き上がってくる。鈴仙はそれを押し殺しながら膳を卓袱台の上に置いた。
「おはよう、鈴仙」てゐが挨拶をする。
「おはよ、てゐ」割烹着を脱いで、鈴仙も席に着いた。「師匠と姫様――それに、メディスンもね。どう? 昨日は良く眠れたかしら」
 なるべく平静を装った口調で、鈴仙は言葉を投げた。メディスンは「うん」と頭を縦に振ると、笑顔すらも浮かべた。「久しぶりにちゃんと眠れたような気がするわ」 
「そ、そう」鈴仙は次に言葉を紡ぐのを止める。夢のことについて尋ねようと思っていた。しかし、メディスンの返答が予想外に快いもので、質問するのが憚られたのだ。一晩の間で、彼女は解決に向かうことが出来たのだろうか。やはりいつかは、自分の手など借りる必要が無くなってしまうのだろうか――そんな未来を無意識の内に浮かばせて、鈴仙は首を大きく振った。何を勝手に自分のことと重ね合わせているんだ、毎晩うなされ続けていた悪夢の正体を、彼女は突き詰めることが出来た。それは喜ばしいことなのに、何を複雑な気持ちでいるのだろうか。
 朝餉は普段通りに過ぎていった。互いに取り留めの無い話題を取り上げ、ときに冗談を飛ばしては笑いあうような。誰も、メディスンの夢について口に出すことは無く、鈴仙はそこが気になってはいたものの、終始和やかな雰囲気でいたこの場を自分の一声で一旦切るのも気が引けるところがあり、結局最後まで話題に出せないまま朝食を食べ終えてしまう。
 それが、メディスンを信じている、ということなのだろうと、鈴仙は思った。異変解決の為に邁進するメディスンを後方から見守り、ただ自分のエゴで手を出すのではなく、彼女の意思に応じて手を差し出す、ということ。鈴仙を揺り動かす思いの根元にある、二つの事柄が具体性を帯びたことで、その感懐がより鮮やかさを伴って彼女に突きつけられる。
 だが、どれだけ鮮明なものになろうとも、追い詰められても、一方に決断を置くことが出来るほど彼女は強かではなかった。


 なかなか落ち着かない思いを胸に抱えたまま、鈴仙は朝食の後片付けをしていた。一度考えを浮かばせてしまうと、しつこく引っ付いて中々離れてはくれない。知らず知らずの内に何度目かも分からない溜息を吐いていると、背中から衣服を引っ張られている感触がした。食器を洗う手を休めて、鈴仙は振り返る。
「……メディスン?」
 彼女の後ろに立っていたのは、メディスンだった。両手を背後で組んで、表情は硬い。唇は横に結ばれているが、何か言いたそうに緩んでもいた。
「どうかしたの?」
「お墓――」小さく呟いてから、メディスンは泳いでいた視線を、きっと鈴仙の方へ向けた。「お墓に案内してほしいの、人里の」先程とはうって変わって、明瞭とした声色だった。
「それが、夢の手がかりなのかしら」そう鈴仙が訊くと、メディスンはゆっくりと、確かに肯んじた。
「やっぱり独りで人里に入るのは気が引けて……付いて行ってもらいたいの。駄目?」
「駄目なわけ無いじゃない」気恥ずかしそうに述懐するメディスンに、鈴仙は微笑みを浮かべた。しゃがんで、彼女のことをまっすぐに見据える。「言ったでしょう、あなたには私たちがいる、って」
 鈴仙はそう言って立ち上がると、「ちょっと待っててね。洗い物済ませちゃうから」とメディスンに背を向け、残りの食器を洗い始めた。ありがとう、と背中伝いにメディスンの声が身体に触れる。鈴仙は口許を緩めた。
 別にこの心中に抱えた中途半端な気持ちに決着がついたわけではない。まだそれは依然としてどっちつかずなままでいるけれども、メディスンの力になりたいことには変わらず、その気持ちは確かなものとして横たわっている。鈴仙はそのことを噛み締めた。そうであるのならば、曖昧な気持ちに苛まれているのではなく、今は自分の素直な気持ちに従っていたい。
 そしていつかは、揺らいだ思いに答えを出せるように。鈴仙は逃げるのを止めて、自分の中の片隅に漂う曇天を仰ぎ見た。そのくすんだ雲の向こうには、胸のすくような青い空が切なくも美しく、広がっているのであろう。



10

「いつか、本で調べたことがあったの」墓地へ向かう道すがら、メディスンは口を開いた。「私が生まれた無名の丘について、昔あそこで何が行われていたかについて」
 メディスンは鈴仙と共に、人里の通りを歩いていた。
 昼時ほどではないものの、人の往来は忙しない。それぞれが各々の持ち場へと向かう。ある人は隆々とした肉体を晒し木材を運び、またある人は着飾って慎ましやかに歩を進めている。中には鈴仙に声をかける者もいた。永遠亭の天才薬師といえば、人里ではお世話になっている人間も多い、有名人である。その助手である彼女もまた、永琳のお零れに預かるところがあった。
「――鈴仙は知ってた?」
 メディスンは鈴仙の裾を掴んでいた。最前に初老の女性に話しかけられ、無意識の内に手を伸ばしていたのだった。それに気づき、何事も無かったかのように手を戻しながら、彼女は鈴仙の返事を待つ。「いいえ」彼女は首を振った。
「ちょっと昔の話」前を向き、訥々とメディスンは言葉を紡ぐ。「人間の里で飢饉があったの。作物は取れなくて、人間は毎日の食事もままらない生活を送っていた。中には飢えの果てにそこらに生えてる雑草を食べ始める奴もいて……数えきれないくらいの人間が死んだみたい」
「赤ん坊だったら尚のこと、生きることは不可能に近い。赤ん坊の時期は一番、栄養に気を遣わないといけないみたいじゃない。でも、こんな状況でそんなことなんか出来るはずがない。赤ん坊は弱っていく。親としては見るに堪えなくて、けれどもどうしようもなくて……」
「それであいつらは、赤ん坊を飢えで殺すよりも、毒で殺すことにした」
 鈴仙の喉が、ごくり、と鳴る。
「そんな子捨ての風習が出来あがったために生まれたのが、無名の丘。名前が無いうちにスーさんの毒で殺してやるから、ってさ――ホント、迷惑な話よ」吐き捨てるようにメディスンは言った。「赤ん坊が無知で、無力なことをいいことに、人間は自分の理想を押し付けて勝手に捨てる。スーさんはあいつらの自己満足のはけ口になっていたのよ」
 二人の歩いている通りからは、次第と人の姿が減りつつある。通りに沿われた家屋の間隔も広くなり、砂利道が整えられただけの殺風景な風景が顔を出し始めていた。
 メディスンは同族、それも稚い子すらも身勝手で捨ててしまう人間に対し憤りを覚えていた。知らず知らずに拳に力が入る。ただ、それも暫くすると緩んでいった。
「それじゃあ、メディスンが見た夢っていうのは、もしかして」
 メディスンは頷いた。「そう。無名の丘に捨てられた赤ん坊の夢――というよりは、記憶、なのかしらね」彼女は胸に手を当てる。「この子は私がスーさんの毒を集めている最中に、私の中へ潜り込んだんだと思う。そして自らの記憶を引っ張り出して、眠っている私の意識に呼びかけていたのよ」
「そうやってメディスンに呼びかけていた、その理由の行き着くところが墓地、ってわけね……この子は何を望んでいたの? お墓の中できちんと死を迎えること?」
「…………」
 鈴仙の問いに対して、メディスンはすぐに答えを返すことが出来なかった。
 悪夢という壁を取り払い、純然なものとして赤子の記憶を受け止めた先に知った、彼彼女の願い。それはメディスンにとって分かりえないものであり、それが彼女の中で、一つの錯綜を生み出している。
「メディスン?」
「――会いたい、って」
「え?」
「お母さんとお父さんに会いたい、って」落ち着かない気持ちを抱えながらも、渋るようにメディスンは言った。それは彼女にとっては理解できない願いだった。捨てられたにも関わらず、その自分を捨てた存在に想いを募らせ、会いたいという願い。その切実な祈りが、メディスンの中で暖かな光を放っている。故に子は毎晩毎晩メディスンの眠りに語りかけた。彼女が気づいてくれることを信じて、死地の拘束から自分を連れ出して、両親の下へ返してくれるということを。
 それを否定することは、メディスンには出来なかったし、しかしそれを自らのものとして吸収することには抵抗があった。余りにも清澄な子の、自分とは全く逆の方を向いている思いに、だから彼女は迷いを見せている。


 人里の西方、やや離れた位置に囲われている墓地には、ここで暮らしていた人間たちの系譜が脈々と流れているようだった。適当な石で組み上げられた墓があれば、丁寧に研磨されて出来たものもある。色鮮やかな花束が生けられているものもあれば、とうの昔に枯れ果て、原型を留めないほどに茶色めいたものが寂しく供えられている墓もあった。
「一つ一つ確かめていきましょうか」
 鈴仙の提案に従って、メディスンは墓の一つ一つを辿っていく。墓の前に立つ度に、彼女は墓標をなぞっていった。死者の名前と没年日、それから享年が記されている。天寿を全うしたであろう人間、夭折してしまった若者、遥かな前途を前に倒れた子供たち――この子は、あるいは、無名の丘にて殺された名も無き赤子の存在は、ここには記されていないのだろう。そうしてそのまま消えていってしまうのだ。最初は両親が覚えているかもしれない。しかしその子へ、子へと血が受け継がれていくに従って、その捨てられた子のことは忘れ去られてしまう。
 私もまた、そうなのだろうと、メディスンは思った。自分を捨てた持ち主のことを考える。奴は今も、私のことを覚えてくれているのだろうか――恐らくは覚えていないのだろう。日々生まれ行く物に埋もれに埋もれ、そこから弾き出した自分のことなんて、忘れているに決まっている。そして私は、そのことに対して恨めしいと、復讐してやりたいと黒い思いを泥沼のように淀ませているのに。
 どうしてあなたは、そんなに優しい気持ちでいられるの――? メディスンは胸中に訊いた。答えは返ってこない。そんな彼女の戸惑いを映し出す鏡のように、様々な色がマーブル状になった、何色にも定まらない思いが横たわっているだけである。

 暫くの間、ただ墓を巡ることだけが続いて、十何体目の墓石の前に辿り着く。長いこと手入れが成されていないのか、墓には苔が生え、土台は所々が欠けていた。同じようにメディスンは墓標をなぞる。最後に名前が刻まれてから、五十年以上も経過していた。彫られた文字も心なしか薄い。
「……後継ぎが途絶えてしまったのかしら」
 こぢんまりとした墓を前に、鈴仙は手を合わせる。そんな彼女の傍らで、メディスンは自分の中の柔らかい気持ちが、徐々に膨らみつつあることに気付いた。それまで湧き上がってこなかった感情であった。感情は膨らみに膨らみ、その末に、メディスンの体の中に止まり切れなくなって、外へと溢れ出していく。突如としてメディスンは足の力を失い、崩れ落ちるように土の上へ膝を衝いた。
「メ、メディスン!?」慌てて鈴仙が彼女を支える。自らの肩に置かれた鈴仙の手に、メディスンは自分の手を置いて、それをひしと握った。急に視界が狭まり、呼吸が苦しくなる。その代わりに、最前まで身籠っていた暖かな気持ちが失われていた。思うに、子の魂が抜けだしたのと一緒に、毒も外へ出ていってしまったのだろう。深呼吸をして動悸を収めながら、メディスンは飢えを覚えた。
「大丈夫、大丈夫」地に足着かない様子でメディスンは繰り返した。「ちょっと、力が抜けただけ。すぐに落ち着くから……」
 呼吸の深度が浅くなってきた頃、ようやくメディスンは顔を上げた。古ぼけた墓石の頭上には、澄み切った青空が広がっている。改めて墓標を見た。逝去した日は男女ほとんど同じで、男の死んだ数日後に、女が亡くなったと記されていた。俺たちは生きなきゃいけない。生きて田畑を耕して、作物を作って、この飢饉から抜け出さなきゃいけないんだ――子が見せた記憶の中でそう語った男の言葉を思い出す。彼はどのような最期を迎えたのだろうか。女は、最期まで子の死を嘆いていたのだろうか。何より――子は両親と再会を果たすことは出来たのだろうか。今となっては与り知れぬものだった。ただ、この混然とした気持ちは消えないでいる。捨てられてもなお親を愛し続けた子のあの柔らかい光が、残光のように心の中に引っ付いて離れない。
「うん、もう楽になった、かな」立ち上がり、膝に付着した砂を払う。「これで枕を高くして寝られるわね」冗談交じりにそう言って、メディスンは鈴仙に笑いかけた。心配の色が拭えない鈴仙は、彼女の肩を抱き寄せると離さなかった。
「メディスン」
「なに?」
「……呼んでみただけ」
「なにそれ」
「いいじゃない別に」口を尖らせる鈴仙。「ほら、帰るわよ。歩ける?」
「ん」
 鈴仙に身体を支えられながら、メディスンは歩き出す。彼女の身体はとても細くて小さくて、少しでも力を入れてしまえば壊れてしまいそうだった。しかしながら、その稚い彼女が、いつまでも稚いままではいられないのだ、ということを、鈴仙は彼女から誰よりも一番近い距離で感じている。今も、そうだ。
 心の惑いはそう易々とは消えてくれない。しかしそれは確かに、彼女らの色に変化をもたらし、やがては溶けて混ざり合う。
 昇りゆく太陽と共に、熱を帯びる日差し。地べたには陽炎が浮かび、メディスンの頬から一滴の汗が伝って落ちた。夏が、やって来るのだ。それぞれの色を予感させながら、いつもと違う心持で、二人はそれを迎えようとしている。いつまでも同じ色でなんか、いられなかった。 
前へ進むもの/それを見守るもの
そろそろカリスマ妖怪メディちゃんの大活躍が見たい。

ご読了、ありがとうございました。
碑洟
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コメント



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3.100絶望を司る程度の能力削除
面白かった!
4.90名前が無い程度の能力削除
なんともいえない切ないお話でした
こういうの大好きです
5.100奇声を発する程度の能力削除
とても良かったです
8.80名前が無い程度の能力削除
鈴仙にとっちゃ初めて出来る年下の家族みたいなもんだから、ついつい世話を焼きたくなるんかなぁ。
そんな様子が微笑ましい。ただ、いざメディスン独り立ちの際に、置き去りにされたと感じなきゃいいけど。