ぬめるように暗い闇の中、私は膝を抱えて座っている。
頭上から注ぐ丸い光がスポットライトのように私を照らし影を作る。
私は決して上を見ない。見られない。ただただ俯いて自分の爪先を見つめている。
そんな私の目の端に、それでも映る人影がある。下を向いているから足元だけ、頑丈そうなブーツが私と同じように光を浴びて爪先をこちらに向けていた。前に一人、右に一人、左に一人、たぶん後ろにも一人。きっと皆こちらに爪先を向けてぐるりと私を囲っている。
『レイ……のせいで』
――ゴメンナサイ
爪先達が掠れた言葉で私を責める。それを聞いて私は小さく呟く。
『よくも……な……殺……くも』
――ゴメンナサイゴメンナサイ
続く霞がかったような非難の声に私はますます俯いて、ただ一つの言葉を続ける。
それでも顔は上げない、上げられない。
『……んたのせい……死ん……』
――ゴメンナサイゴメンナサイゴメンナサイ
だって私は、私はもう彼らのことを……
『私は……に……から』
…………? え?
………………
…………
……
パチリと目が開く。目を覚ますといつも兎と目が合う。天井のシミの、不機嫌そうな兎の目に。
いつも通りの朝。いつも通りのうろ覚えの夢。最初は慌てて飛び起きたような気がするけど、流石にもう慣れた。
「……ん、起きます」
布団を押しのけ立ち上がり、障子を開けて軒下から空を見上げる。今日は生憎の曇り空、そろそろ初雪の気配もする冷え込みだった。
「はぁ、日が出てくれたらまだマシだったんだけど……ま、仕方ないか」
天気の感想を一言呟き、顔を洗いに行く。それが私、鈴仙・優曇華院・イナバのいつも通りの一日の始まりである……さて、今日も一日頑張りますか!!
……そう気合を入れて廊下を歩き出した頃には、もう夢のことは忘れていた。これもまた、いつも通り。
優しい悪夢の処方箋 ~Dear my branks~
金は天下の回り物とは良く言ったもので。
およそ社会というものは、どこもかしこも金銭を血脈にして回るものである。その点は月も幻想郷も変わりはない。
それは逆を言えば、お金を回さないのは社会から取り残されるということに繋がる。永遠などという箱庭に閉じ篭っているのならいざ知らず、どれほど高貴な生まれの方でも、どれほどの才媛であってもその理には抗えない。
ああ、世の中とは何故にかくも世知辛いものなのか……まぁ、そんな前置きをして私が何を言いたいかと言うと。
「しんどいわー冬の季節のー薬売りーてゐの奴もー手伝いやがれー……ちょっと字足らず」
「ついでに言うとセンスも足りてないね。もしそれでサービス料を取るつもりだというのなら、出直してくるといいよ、君」
「取らないわよ。どこぞの紅白じゃあるまいし、そんなケチな事は言わないわ」
「そうかい。ま、それならその謙虚な態度に免じて茶ぐらいは出そう。少し待っていてくれ」
そう言って堅い口調とは反対の、とたとたという軽い足音で居間から出て行く化けネズミ。確かナズーリンと言ったっけか。この命連寺に薬を売るようになったのは最近である上、大所帯らしいここは来るたびに応対に出る人が変わるので、どうにも名前が覚えきれない。
「ま、そのうち覚えられるでしょ……って、また消費が激しいわねここは。何に使ってるのかしら?」
ナズーリンが置いていった、この間補充したばかりのスカスカな薬箱に薬を詰めていく。
この辺は慣れたものでこの作業の手並みならすでに師匠を越えている自信がある。まぁそれで勝ったところでまったく自慢にならないのだけれど。
「よしっ、終わり。え~とお代が……」
「っと待たせたね、冬の必須アイテム熱いほうじ茶だ……おや、もう終わったのかい。兎なのに足じゃなく手が速いんだね。おぉ怖い」
「……手・さ・ば・き・は、速いわよ。これでも薬師の弟子ですもの」
戻ってきて早々、ナズーリンが物騒な事をのたまう。しかも私から身を守るように、わざとらしく自らを抱きしめるという小癪な演技付きだ。
ソロバンを弾いてお代を計算していた私は、そんな無礼なネズミに一言一言区切って反駁する。割と強めに言ったつもりだったのだが、ナズーリンは私の凄みなど気にした様子もなく、くすくす笑ってお茶を差し出してくる。
「ははは、冗談だよ冗談。しかし堪忍袋の緒が切れるのまで早いのは感心しないな。もっと大らかになりなよ、兎さん」
「心配しなくても兎っていうのは、駆けっこの途中で居眠りするぐらい大らかよ。それより、はいお勘定」
「ん、それなんだが、もう一品足してくれるかな。聖からアレを買っておくよう頼まれていてね」
「アレ? ああ、アレね。貴方の所の住職さんも物好きよね」
本当に、心底そう思う。もう片方の方ならそこそこ需要はあるのだが、こちらの方を好んで求める者はほとんどいない。
私は背負ってきた葛籠の奥から、薬包紙に包まれた黒い、それはもう不気味なまでに黒々しい丸薬を取り出す。
「それで? 今回は何錠いるの?」
「うん、三錠ほど貰えるかい?」
「またそんなに……なに? 悪夢マニアなの? 貴方のところの住職さんは」
私は取り出した黒の丸薬、胡蝶夢丸ナイトメアに目を落とす。
うん、我が師の作ながら、見た目からしてどうかと思うこの薬。よく見ると表面に目玉みたいな模様が彫ってあるし。注意書きに「毒です飲むな」と書かれてないのが逆に不思議。
「悪夢マニア……そんな斬新なマニアが存在するとは思えないが、否定はしきれないかな。私もそれをもう一度飲んでみたいとは思わないし」
「あれ、飲んだことあるの?」
「話の種程度にね。というかこの寺の住人達は基本、聖大好きっ子ばかりだからね。聖が飲むなら私も、という風になってしまうんだよ。後はまぁ流し流され野となれ山となれだ」
「ああ、なんか想像つくわねそれ」
私の脳裏に「ナズーリン、せっかくだから貴方も飲みませんか」と勧める虎と「いや、私はそんな悪趣味な薬は……」と断わるナズーリンが現れる。そして二人は「せっかくですし」「いやだからだなご主人様」と押し問答を繰り広げ、最終的にナズーリンが折れた。ああ、なんでだろう? 見たわけじゃないのに、これでおおよそ間違いないと確信できてしまうのは?
……いや、考えるまでもない。強引に押して来る虎をてゐに、仕方なしに折れるネズミを私に置き換えればそれで終わる。てゐはもうちょっと言葉巧みであくどいけど。
「それで? どんな夢見たの?」
「う……む、私が飲んだのは一錠だけだったんだが……中々強烈な夢を見たよ」
イシシと笑うてゐを頭の中から追っ払いながらの質問を聞いて、小さな賢将はたらりとコメカミに汗を垂らした。
何と言うか、余程怖い夢だったらしく聞かないでくれと露骨に態度に出してしまっている。
「そ。なら無理には聞かないけど……ちょっと興味があったから訊いてみただけだし」
「ん? 逆に聞くが、君は飲んだことがないのかい?」
「ええ、私も一度飲んでみたいんだけど……師匠が飲んじゃ駄目って言うのよ」
師匠のいやに真剣な顔を思い出して、私は苦笑する。
いやホントに、まさか師匠に薬を飲むなと言われる日が来ようとは。あの時の私は相当間の抜けた顔をしていたに違いない。
「それは君、ひょっとして……」
「ん? 何?」
「いや……なんでもない。私の夢の話だったね」
「話してくれるの?」
てっきりこのまま口を噤んでいるのだと思ったけど。
「話して何か損をするという訳でもないしね。むしろ話の種に飲んでみたのに、誰にも話さない方が損だろう?」
「まぁ、そう言われるとそうかも」
「だろう? それで私が見た夢だがね……」
「うんうん、どんなの?」
私は思わず身を乗り出す。ここまで来たら是非とも聞いてみたい。
「ご主人様が……」
「ご主人様って、あの虎よね。あいつが?」
「……しっかり者になっていた」
「は?」
なんか予想だにしないセリフが出てきた。
「それだけじゃない!! 一輪はぐうたらだし村紗はカナヅチだし響子は無口だし小傘は趣味がアロマになってるし、マミ三はロリで雲山はショタで挙句に聖はなんか部屋の隅で膝抱えて動かないし!!」
「へ、へぇそうなの……」
「一番凄かったのがぬえだ!! 誰だあの八頭身美女は!? あいつは同志だと思ってたのに裏切りだ裏切り!!」
「……気にしてたんだ」
「それに、それに……」
「?」
堰を切ったように捲し立てるナズーリンが突然失速して俯く。
「皆して……私を無視するんだ。話しかけても話しかけでも反応しない。私だけ世界から切り離されたようだったよ」
「……それはまた」
知り合いがあべこべになっている夢というだけなら私も見たことがあるのだが……それは中々しんどそうだ。
「……とはいえ、あれは仕方ないことなのかもしれない」
「?」
「皆、本当は私の隠し事を知っていて、私だけが偽りでここに居ることを知っていて。それでも皆優しいから、本当はああしたくてもできないという暗示なのかもしれないな。あの夢は」
自嘲気味に笑うナズーリン。その顔はいつもの気取った笑みとも、さっき私をからかった悪戯な笑みとも違う顔で……勝手な予想だけど、私は今とても珍しいものを見ているのではなかろうか? もちろん、あまりよろしくない意味で。
……よし。
「隠し事のことは知らないけど……」
「……?」
「本当はそうしたいっていうのはないんじゃない?」
「……何故、そう言い切れる?」
私の事を見るナズーリンは何かに縋るような弱々しい目で。
うん、今度は確信を持って言える。今の彼女はらしくない。見ていられない程にらしくない。
「師匠の薬は絶対よ。だから、貴方の見た夢があべこべの夢だっていうんなら、それもまた絶対。だから本当はむしろ皆貴方に構いたくて仕方ないんじゃないかな。なんせあべこべなんだし」
「……そうだったとしても夢というのは本人の無意識だという話だ。それは私の無意識の願望じゃないのか?」
「普通ならね。けど私の師匠は普通じゃないわ。師匠の薬で見た夢だっていうんなら、それはまた一つのリアルなのよ。誰よりも師匠の薬を飲んできた私が言うんだから間違いないわ」
なにせ師匠の薬には未来予知丸とかいう巫山戯た代物すらあるのだ。現実を映すくらいわけもあるまい。
……まぁその薬は飲んだ後、副作用で三日ほど意識不明だったので成功したかは解らないけど。冗談で飲んでみた姫様とかニ、三回死んでたけど。しかし、それは今言うべきことではないだろう。私の言葉を聞いて、明らかに気分を持ち直しているナズーリンを見ればなおさらに。
「……ふむ、ふむ!! そう言われると説得力があるな……確かに、少し気にし過ぎていたかもしれない。だいたいあのお人好し脳天気軍団が私の隠し事を見抜けるとも思えないしな!!」
「お、いきなりの不遜発言。らしくなってきたんじゃない? それにそもそもね……」
「ナ、ナズーリン!!」
「ん?」
「お?」
私の声を遮りスパンとふすまを開いて現れたのは、陸の舟幽霊こと村紗水蜜だった。
どうでもいいけど、急ブレーキとして使ったらしい碇が彼女の後ろで廊下をブチ抜いているのだけれど、いいのだろうかあれは。
「し、星が台所に入ってなんか始めたと思ったら止める間もなくなんか、なんかチュドーンって、チュドーンって!!」
「ちゅどーん?」
村紗の要領を得ない発言に首を傾げる。しかし対面のネズミさんは思い当たる節があったらしく、さっと顔色を青くして震える声で叫び出す。
「ふ、ふふ、またか、またなのかあのうっかりタイガーはッ!! 料理は響子や雲山料理長に任せておけと口を酸っぱくして言っているのに!!」
チュドーンに戸惑う私を置き去りに、さっきまでの落ち込んだ様子から一転、激昂するナズーリン。おお、祝完全復活。
「被害状況は!?」
「ひ、火とかは出てないんだけど、なんか得体の知れない煙がモクモクと……吸っちゃった聖が気絶してる」
「聖がか!? また逆方向にレベルアップしたなあのご主人様は!? ……仕方ない、被害が広がる前に雲山に言って台所を潰してもらってくれ」
「りょ、了解!!」
ドタドタと薬箱を抱えて慌ただしく去って行く二人。って……
「ちょ、薬のお代、わぁ!?」
手を伸ばして制止する私に、ナズーリンが高速で何かを投げつける。顔面直撃ギリギリで受け止められたのは、昔鍛えていたお陰である。
「それで足りるだろう!? 悪いが急いでるんだ勘弁してくれ!!」
「足りるだろうって……これ多すぎるわよ!?」
「サービス料込みだ!! 貰っておいてくれ!!」
投げつけられた物――布製の財布――の中身を見て驚く私に、そんな事を言って村紗と共に駆け去って行くナズーリン。
……まぁ、足りないならともかく、多く貰える分には構わないのは確かだけれど、そんなに急ぐほどの事なんだろうか? 私は廊下ににじり寄り、ふすまからそっと顔だけ出してナズーリン達が走り去って行った方を覗く。
「ナズーリンナズーリン見て下さい!! 日頃のお礼にホットケーキなるものを作ってみたんですけど食べませんか!?」
「気持ちは嬉しいが、聖を気絶させるようなBC兵器を私に食わせるつもりかこの逆錬金術師!!」
「ていうかその虹色に輝く物体はホットケーキなの!?」
「ベントラーベントラー、輝けホットケーキ!!」
「「お前の仕業かぬえぇぇぇえ!!」」
仲いいなぁあの人達。騒ぐ命蓮寺の面々を見て私は素直にそう思った。やっぱりナズーリンの悩みは杞憂だと思う。
偽りであそこに居る? あれだけ馴染んでおいて何を言う。本当は皆、無視したい? あれだけ仲が良くて、頼りにされているのだ、見当違いにも程がある。
私は自分の言葉が間違っていないことを確信つつ、そっとふすまを閉じ葛籠を拾いに部屋に戻る。
……ふむ。それにしても、
「サービス料? 何かしたっけ私?」
再び財布に視線を落として私は首を傾げる。サービス料サービス料、サービスサービス……あ。
「もしかして、意外と気に入ったのかしらね……あの短歌」
だとするなら、ネズミのセンスを兎の私が理解するのは遠い未来のことになるのだろう。きっと。
きちんと疑問を解決できた私は清々しい心持ちで葛籠を背負って部屋を出る。そして、廊下に響くネズミの怒声と虎の断末魔、ついでになにかの打撃音を聞きつつ命連寺を後にしたのだった。
………………
…………
……
――胡蝶夢丸ナイトメアタイプ。
胡蝶夢丸レギュラータイプと共に世に出たこの薬は、その奇妙な効果の他にも他の薬と大きく違う点が一つある。何が違うかというと値段が違う。はっきり言ってべらぼうに高い。
師匠は科学者として見るなら間違いなくマッドの類だが、医者と、そして商人として見るなら良心的な人である。そのため普通の薬はコスト対策も抜かりないのだが……この胡蝶夢丸ナイトメアはその辺を全く考慮していない。胡蝶夢丸レギュラータイプと比べてさえ十倍近く値が張るのである。
……悪夢を見せるという冗談のような効能に、売る気が無いとしか思えないような高値。普通に考えればこんな薬は売れるはずがないのである。大事な事だからもう一度言う、絶対に
「売れるはずがない……っていうのに、なんでかいつも買ってくお客さんが居るのよね~。密かに増えてるのかしら、ナイトメアジャンキー」
「はい?」
そんな私の疑問を聞いて、こてりと首を傾げて見せるのは守矢神社の風祝、東風谷早苗である。私が何故そんな呟きを漏らしたかというと、何を隠そう、ここの蛇と蛙も胡蝶夢丸ナイトメアの愛好者なのである。今も玄関口で黒い丸薬を袋から取り分け、薬包紙で包む作業を行っていたりする。
「いや、この薬ってなんで売れるのかなぁって思って。一個一個が高いからウチの売り上げランキングでも結構上位なのよ、この薬」
「いえ、薬を売る側の人にそんな事を聞かれても困るんですけど……」
「そう? 『外』だと結構あるんじゃないの? 客に需要を聞いて回るっていうの。えーと、マ、マ……マーライオン・リサーチだっけ?」
「……なんですかそのシンガポール限定のリサーチは。それを言うならマーケティング・リサーチですよマーケティング・リサーチ。マーしか合ってないじゃないですか」
そもそもマーライオンなんて何処で知ったんですか貴方は、と呆れたように溜息をつく風祝。
むぅ、本場出身の人間に『外』の知識で挑むのは分が悪かったか。
「でも確かにそうですね。御二方の事ならなんでも知ってる私ですけど、それをわざわざ買い求める理由は解りませんね。しかも1ダースも」
「そうよねぇ……なんでも知ってるってことは、弱点とかも知ってるの?」
「もちろんです。神奈子様は秘蔵のサイン入り少女漫画を人質に取ると何も出来なくなります。そして諏訪子様は朝に滅法弱く、起き抜けは日本語を喋れませんし、抱き着いてモフモフしても無抵抗。素敵です!!」
「そ、そう……」
胸を張って自慢気に答える腋出し風祝。しかし、自分が祀る神様の弱点をあっさり暴露していいのだろうか、この略して腋祝は。
……まぁいいのかな、こんな微妙な弱点なら。しかしそうか、いいことを聞いた。今度早朝弾幕ごっこをあの蛙に挑んでみよう。朝駆けのリベンジである、ホームで負けた憂さを晴らさねば。
「ああ、そういえば貴方は飲んだことあるの? これ」
「……一応は」
私は胡蝶夢丸ナイトメア入りの黒い薬包紙と代金を交換しつつ腋祝に尋ねてみる。すると彼女はしかめっ面で頷いた。
その顔色から察するに彼女も相当怖い夢を見せられたようだ。
「どんな夢みたかは訊いてもいい?」
「構いませんけど……聞いて面白い話だとは思いませんよ?」
構わないと断りつつも嫌そうな顔をする腋祝もとい早苗。
一応私は薬売りで、彼女は客であるわけだから、ここは引くべきなのだろうけど……
「それこそ別に構わないわよ、私はね」
「そ、そうですか。……解りました、では」
何故だろう、全く引く気にならない。自分でも本当に何故だか解らない。もしかすると私にもナイトメアジャンキーの素質があるのだろうか?
「そうですね。まず私は、夢の中で目を覚ましたんです」
「ゆ、夢の中で?」
「ええ。夢の中で、です。まぁ夢を見てる間はその自覚はなかったんですけど。それでまぁ夢の中では神奈子様と諏訪子様が楽しそうに白い光の中で、こう何と言うか踊っているというか舞っているというか……二人で手拍子を打って戯れていたんです」
「……えーと、それのどの辺が悪夢なの?」
確かにどことなく不可思議な光景ではあるが悪夢とは程遠い。というかあの二人なら神々しさも相まって結構似合いそうな気がする。
「いえ、悪夢なのはここからです。それでそんな御二方を見て私は混ぜてもらおうと思って近づいて行くんですけど、行けども行けども追いつかないんです。それでおかしいなぁと思って、ふと足元を見ると……」
「み、見ると?」
「ナメクジになってました、私」
「……おおう」
シュ、シュール。it's so surreal.
ちょっと天然な早苗が見る夢だから変化球気味なのは予想していたけど、その斜め上を行かれた。完全に想定外。言葉の大リーグボール一号。
「それで私びっくりして飛び跳ねたんですけど、それが御二人の目に止まったらしくて向こうから寄ってきてくれたんです。けど私はナメクジになってた訳ですから、二人とも私だと気付かず私のことを見下ろして……それが嫌で私は何とか神奈子様の足を登って行くんですけど振り払われて、今度は諏訪子様の足を登って行くんですけどまた払われて……」
「そ、それでどうなったの?」
「どうもなりません。何度も登って振り払われて、それを繰り返し。それで目が覚めて終わりです」
ね、面白くも無い話でしょう? そう言って鼻をすする早苗はいつの間にか涙目で。
……あれ? これはもしかして私が泣かしたことになるの?
「ひっく、ぐす」
「――――!!」
ま、待って。ちょっと待って、早苗さんが本気で泣いてるんですけどちょっと待って!!
うわああ、なんか凄い罪悪感。どうしようどうしよう落ち着け落ち着け落ち着いてなんか良い事言え私ぃーー!!
「え、ええと、泣くことはないと思うわよ早苗」
「グスッグスッ……でも、これ思い出すと私、なんだか凄く遣る瀬無くて」
「い、いいと思うわよ遣る瀬無くて。それは貴方が頑張ってる証拠なんだし」
「え?」
(お?)
な、なに? 何を言ってるの私?
自分でも意図しない言葉が口から出て、私は早苗と一緒に驚いた。そして更に驚いたことに、私の口は勝手に続けて言葉を紡ぐ。
「三竦みって知ってるわよね。じゃんけんとか、狐と猟師と庄屋とか」
「へ? え、ええ、知ってますけど」
「じゃあ、蛇と蛙と何で三竦みになるかは?」
「ええと、ナメクジ、ですけど」
「そう、つまりナメクジになるっていうのは蛇と蛙、神奈子と諏訪子と、一組で一緒に居たいっていうことのメタファーだと思うのよ私は」
「そ、それは……いえでも振り払われるっていうのは?」
お、おお、何か凄いこと言い出したわよ私。そのまま頑張って私。とりあえず早苗の涙は止まったわよ私!!
「それは振り払われるってことに視点を置くから駄目なのよ。注目すべきは貴方が二人を登ろうとしたってところ」
「え、えーと?」
「二人を登ろうとした。つまり、これは貴方が見下ろす二人に追いついて対等になろうとしたってことよ。……それで貴方は『今』あの二人と対等になれてると思う?」
「そんな滅相もない!! 私の力なんて神奈子様と諏訪子様に比べればまだまだ全然です!!」
「貴方がそう思っているから、夢では対等になれずに振り払われたのよ。そして更に重要なのは、振り払われてもなお貴方が二人を登ろうとしたってことよ」
「……あ」
早苗の顔が、ぱっと花咲くように明るくなる。わ、こうして見るとやっぱり美人ねこの娘。
「それはつまり何度振り払われても頑張れるだけの意志が貴方にはあるってこと。それは喜びこそすれ、悲しむことではないと思うけど?」
「そう、そうですよね!! 不撓不屈の意志!! いい響きです!! 私、頑張ります!! ……あ、でも」
ドダンと片膝立てて意気込んだ早苗が再び消沈する。
「御二方と対等になるのを目指すっていうのは、風祝としていいんでしょうか?」
……言われてみると確かに。
いやでも待って、ここでそう言ったら多分早苗はまた泣く。今度こそ大泣きする。ええい、ままよ。お願いもう一度動いて私の唇!!
「別にいいんじゃない? そりゃまぁ普通は駄目かも知れないけど……」
「……」
早苗が私にどこか期待したような目を向けてくる。この期待に応えられないなら私はきっと師匠の弟子を名乗れない!!
「あの二人が嫌がると思う? 自分と同じくらいに成長した貴方を見て」
私がそう言うと早苗は俯いてふるふると震え始めた。
あれ? こ、これはもしかしてやらかしちゃった? ああ、スイマセン師匠、私は貴方の弟子を名乗れないようです。
「か……か……」
「やめて師匠やめて変な薬盛るのやめて飲みます自分で飲みますからいい笑顔で開口器持ってこないで……ん?」
「す……す……」
「早苗? 大丈夫、早苗?」
「神奈子様!! 諏訪子様ぁああああ!!」
「きゃあ!?」
師匠のお仕置きに恐れおののく私は、突如として立ち上がった早苗に驚きその場でひっくり返った。そんな私を一顧だにせず、早苗は廊下の向こうに猛ダッシュ。そして小気味良くスパンと響く障子の開閉音。
「神奈子様!! 諏訪子様!!」
「あぅわ!? さ、早苗? いきなりどうしたのさ?」
「早苗は、早苗は……立派なナメクジになってみせます!!」
「は? さ、早苗? 何を言って……」
「早苗は、早苗はぁぁあああああ!!」
「ああもう、聞いちゃいない!! 誰だいうちの風祝暴走させちまったのは!?」
ひっくり返った私を置いて、奥の部屋からドタバタと騒ぐ声が三人分聞こえてくる。
なんだろう、流行ってるんだろうかこういうの。私は起き上がって呆然としつつも散らばった薬を片付ける。それにしても……
(なんで私はあんな事を言えたんだろう?)
スラスラと口をついて出た一連のセリフに私は思いを巡らす。あれは本当に、完全に無意識で喋っていた。それぐらい自然に私は早苗の夢を理解することが出来た。それは何故?
(ああ、そっか)
ふと理解する。いや、これは思い出すと言ったほうがいいかもしれない。諦めたくなるほど遠い目標、それでも繰り返し地ベタを這って進むナメクジ。それと同じく、呆れるほど高い月を目指して飛び跳ね続ける兎を、私は知っている。
(師匠に対する私……なるほど、あの娘は私の似姿だったってことか)
納得。自分のことならスラスラ語れるのも道理である。では、早苗を励ましたのはその実、自分自身を慰めていたということだろうか?
(それは流石に情けないわね。早苗はあれだけ感激してくれたっていうのに)
未だ奥から聞こえてくる早苗の明るい声に、申し訳なくなってくる。このことは私の胸に秘めておいた方が良さそうだ。
「はぁ、やっぱりまだまだね。私」
葛籠を背負い戸口を潜って外に出る。
今は日中、月は見えないけれど、見上げた空には遠い遠い故郷が見えた気がした。
………………
…………
……
ところで、
胡蝶夢丸ナイトメアには必ず注意書きが付け加えられることになっている。その内容は黒い薬包紙に白字で書かれており、それは主に注意と用法用量で……
注意
この薬は服用すると悪夢を見ます。心臓の弱い方は服用しないで下さい。
用法
噛まずに飲んでください。水を用いると飲み易いです。
用量
一錠:愉快な悪夢が見られます。
二錠:怖い悪夢が見られます。
と、そんなことが書いてある。これもまた他の薬とは違って師匠が必ず手ずから書き記す。こうして見ると、この薬はなんにつけても特別扱いされていることに今さらながら気付く。
……そしてさて、そんな特別な薬であるはずの胡蝶夢丸ナイトメアが、何故か私の手にぽつんと一錠だけ転がっているんだけれど、どうしてだろう?
「……」
ホゥホゥと鳴いて、梟が私と薬のにらめっこを囃したてる。
時刻は夜半、場所は寝室布団の上。あとは枕に頭をのせるだけで夢の世界に旅立てるシチュエーションである。
「飲むべき、ではないわよね」
当然。なにせ師匠が飲むなと言ったのだ。理由があろうとなかろうと、それだけで弟子の私には禁忌足り得る。
「けど、危険はない、わよね」
それも当然、これは師匠が作った薬なのだ。
たまにお茶目で副作用付きの薬を出すことはあるが、最後の一線を越えるような症状が出るものを師匠が出すはずがない。それに……
「確認もした。この薬、少なくとも一錠だけならそこまで酷い夢は見ない」
守矢神社を去ってから、私は薬を売りつつ胡蝶夢丸ナイトメアを飲んだという人の話を聞いて回った。ほとんどの人が興味本位で一錠しか飲まなかったようだが、それ故に一錠のみの効果は簡単に判明した。
(一錠の効果は服用者の不安や怖れを、おどけた、喜劇じみた形でその人に見せる)
例えばナズーリンは自分の隠し事がバレることを怖れていた。それがあべこべなんていうコメディのような形で現れた。
例えば早苗は自身が仕える二柱に追いつけない事を不安に思った。だから、頑張っても振り払われるなんていう夢をみた。それでも頑張ったのは本当に大したものだと思う。
正直に言って悪夢について聞いて回るのは不謹慎じゃないかとも思った。そしてそれは多分事実なんだろうと思う。けれど……止まらなかった。やめるべきだと思いながらも私はどうしても悪夢について訊かずにはいられなかった。それはまるで仄火に誘われる虫のようで……今ならはっきり言える。私はこの薬に、悪夢に、どうしようもなく惹かれている。何故かは解らないけど。ほら、その証拠に……
(手が、止まらない)
私の手が、私の意思を離れて黒い丸薬を口に運んで行く。
私の唇が、私の意思を離れて黒い丸薬を食むために開いてしまう。
そうして私の口に収まったその薬は、甘くて、苦くて……
(この味……私、知ってる。けど、なんの味だっけ?)
コクリと、喉が疑問と一緒に薬を飲み込む。そこで私の意識は途切れた。流石は師匠の薬、効き目は迅速かつ抜群である。
……暗転。
………………
…………
……
うーさぎ、うさぎ、なーにをみーて、はーねーる、じゅーうごーやおーつきさまー、みて、はーねーるー
うーさぎ、うさぎ、なーにをみーて、はーねーる、じゅーうごーやおーつきさまー、みて、はーねーるー
うーさぎ、うさぎ、なーにをきいてー……
………………
…………
……
「レイセン!? ちょっとレイセン!?」
「ん? ……ふみゅ?」
パチリと目が開く、私が目を覚ますと兎と目があった。私と同じ、月の兎の赤い目に。
兎の彼女は、さわさわと揺れる草の音が涼やかな草原で、くりくりと大きな瞳で私を見つめてくる。
「起きたっ。大丈夫? 意識はしっかりしてる? 頭が痛かったりは……」
「ん? あれ? 私寝てた?」
「ねッ……こんの大ボケ!!」
バゴンと、中々お耳にかかれないような快音をたててはたかれる。私の頭が。く、お、お、お……
「心配して損したわ。目は覚めた?」
「う、うん。一瞬また寝かけたけど。割と永遠に」
「そ。そんな冗談言えるなら大丈夫みたいね。それにしても銃構えたまま寝るなんて相変わらず変なとこで器用ね、アンタは」
「うう、褒められた気がしない」
「……良かったわ。そこで褒められたとか言ったら、もう一発はたかなきゃならないとこだったもの」
今度はこれでね、と言いつつ' 'がグーを握って私に微笑む。
怖い怖い、あのグーはこの村一番の破壊力、兎の一撃ではなくゾウとかゴリラとかの一撃なのだ。……ん?
「ほらほら、目が覚めたなら早く退きなさい。私も全弾的中を取ってやるんだから」
「え? あ、ちょっと待って今なんか変な感じが」
「問答無用!! いいからさっさと退けい!!」
「ひゃっ、わかった。わかったから引っ張らないで' '。自分で立つ……?」
……あれ? 今、私は' 'を呼んだの? どうやって? だって私は、
「どうしたのよレイセン? 固まっちゃって?」
こちらを不思議そうに見つめる彼女の名前を……"覚えていない"。なのに彼女はしっかりと応える。これは、これは……?
「……あ、思い出した」
「何をよ?」
「え? あ、なんでもないなんでもない。' 'の番だったよね。ごめんごめん」
早口で誤魔化して立ち上がり' 'に場所を譲る。
彼女は訝しげにこちらを見たものの、私がよけたシートの上でうつ伏せになりライフルを構える。
その頭にはショートボブの間に生えた長い耳がピンとまっすぐに伸びていて、ふわふわしたワンピースとイメージのコントラストをなして不思議な魅力を放っている。。昔はあの耳によく憧れたものである。そう、昔は。
(思い出した。これは夢なのよね。うん、懐かしいわ)
明晰夢と呼ばれる現象がある。簡単に言うと夢の中でそれが夢だと自覚してしまう夢のことである。
どうやら私は胡蝶夢丸ナイトメアを飲んでその明晰夢を見ているらしい。そう気付くと夢の中の光景が全部懐かしく見えてくる。ここは幻想郷ではなく、とある寒村近くの森、私の子供時代の遊び場所。つまりは……月だ。
(あー私も小さくなってるわね。そっか子供の時の視界ってこんな風なんだ)
木の背が高い、茂みの背が高い、総じて世界の背が高い。私はそんな大きな世界をもっと見たくて首を左右に向けようと……?
(あれ、動けない? さっきまで普通に動け……うぉうっ!?)
ダァンと、間近で銃声が鳴って思わず身を竦ませる……過去の『私』。
今の私は仮にも月で軍属だった身である。銃声を聞いて身を伏せることはあれど、その場で固まるようなことはしない。なのに今は勝手に身体が動いた。緊張で身体を固まらさせた。まるで昔の『私』のように。
(な、なんでか解らないけど、身体は昔のまま動くようになっちゃったってこと、かな?)
ダン、ダンと' 'が一発撃つ毎に身体が跳ねる現実を、そう解釈する。
全弾撃ち終わり彼女が立ち上がる頃には、私の身体はブルブルと震えていた。……これでよく兵隊になろうなんて思ったわね、私。
「ええい、三発しか当たんなかったわ。風の補正見るのに二発もかかるなんて」
ニ〇〇m先の的を憎々しげに睨んで、' 'は吐き捨てるように愚痴る。
私も吊られて的を見れば、増えた的の穴は確かに二発だけだった。
ここは' 'と私が見つけた森の中の草原で、こうして勝手に射撃場として使っていた。と言っても、安全の為に丘が後ろに来るように的を木に括っているだけだけど。
私の住んでいた村では昔戦争に使った旧式の火薬銃が大量に置き去りにされていて、年に二回ほど射的大会が行われるという物騒な風習があった。
この大会、月人のお偉いさんが見に来たり、入賞者に賞金が出たりするため参加人数は結構多く、私と' 'も森に捨ててあったのを一年かけて復活させた銃と、なけなしのお小遣いで買った弾で一攫千金を夢見て特訓中なのであった。
「今日は結構風が強いから、三発も当たれば十分だと思うけど……」
私は風に揺れる柔らかい草を見て、地団駄踏んで悔しがる彼女を慰めるように言った。
すると' 'は途端に真顔になって私の頬をふん掴み……
「全弾命中でー!! 一発ど真ん中に当ててるアンタに言われてー!! 納得できる訳ないでしょうが!!」
「ひたい、ひたい、やめへやめへぇ~」
ぐいぐいと私の頬を伸ばして、' 'は一転怒り顔で叫んだ。
痛い痛い、ちぎれるちぎれる。彼女はどうにも自分の腕力に自覚がなさ過ぎる。
「まったく……ほら、次はレイセンの番よ。じっくり見て、その技盗んでやるからさっさと撃ちなさい」
チャキとライフルをこちらに向け、スコープで私を見ながら' 'が言う。
弾が空でもその銃口が怖いようで、私はビクビクしながらシートに歩み寄る。銃口をよけて欲しいとは言えないようだった。
しかし' 'はそんな私の内心を言わなくても察してくれたらしく、ライフルをどけて仕方ないと優しく困ったように笑ってみせた。
それを見て、身体の強張りが一辺に取れた。銃声を聞いて震えていた身体がピタリと止まった。
' 'はいつもそうだった。可愛いくせに気が強くて、がさつなように見えるのに繊細で。だから薬搗きの手伝いで失敗ばかりしている私をいつも助けてくれた。
そんな彼女が私は大好きで、実は射的大会も賞金を取ってプレゼントできたらなと考えていた……あれ?
「うーさぎ、うさぎ、なーにをみーて、はーねーる……」
それは何かおかしくないだろうか?
何か、何かが変な気が……
「じゅーうごーやおーつきさまー、みて……」
ダンダンダンと連続で引き金が引かれる。その銃声で私は思考の底から引き戻された。
我に返ってみれば、勝手に動いた私の身体はすでに全弾撃ち終えており……的には新しい穴は一つも空いていなかった。
「珍しいわね、レイセンが的外すなんて。しかも全弾。スコープ向けたのそんなに怖かった?」
心配そうな顔をして' 'がしゃがんで、伏せた私に聞いてくる。
バツの悪そうな顔はそうだったらごめんね、と無言で言っているように見えた。
そんな' 'に私は慌てて言葉を返そうとして……
「凄いわね。あんなこと出来る子、うちの守備隊にもいないわよ」
パチパチと鳴らされる拍手が、私に口を噤ませた。
いつの間に居たのか、拍手しながらこちらに歩いてくるのは私もよく知る人だった。
くすみとは完全に無縁の長い髪と澄んだ瞳、シンプルなデザインなのに上等と一目で解る布地の衣装、歩いているだけで格が違うと解る凛とした立ち居振る舞い。そして何より兎の耳が生えていない。そこまで確認したところで' 'が慌てて立ち上がった。
「領主様っ!? いつの間に、いえ、気付きもせずどうもご無礼を……ちょっとレイセン、アンタもほら!!」
「わっ、わっ」
兎の耳が生えていない。
つまり月人であり、更にこの地を治める貴族でもある綿月依姫様に頭を下げていた' 'が、私の首根っこを掴んで引き立たせる。
「え、えーと、依姫様こんにちは?」
「レイセン、アンタね……」
「あはは、いいのよそれで。堅苦しいのが嫌でここに来てるんだもの、くだけてくれた方が嬉しいわ。はい、良かったら桃食べる?」
「頂きます!!」
「……頂きます」
依姫様に勧められ' 'が差し出した籠から山になった桃を一つ手に取る。
何かと使えるからと持ち歩いているナイフを使って' 'はテキパキと桃を二つに切って、片方を私に差し出してくる。
私が切ると桃が無惨な姿になってしまうので、依姫様から貰った桃を切るのはいつも' 'だった。皮を端から少し剥いて現れた桃のツヤは瑞々しく、その甘みは正に天上の美味。月人のお姫様が食べる桃は、やはり物が違った。
「依姫様、この桃おいしいですっ!!」
「そうよね。姉がよく送ってくれるんだけど、大した目利きよね」
ニコニコ笑って私達と一緒に桃を齧る依姫様は、しみじみと感心したように言った。
あれはいつのことだったか、' 'とこの草原で遊んでいたところに、この領主様はいきなりふらふらと現れ、木陰に腰掛けお構いなくと言ってお昼寝を始めたのだった。私と' 'が唖然としたのは言うまでもない。
それ以来、ここが気に入ったのか依姫様は時折この草原を訪れるようになり、月人にしては珍しい気取らない性格だったので私と' 'もすっかり馴染んでしまったのだった。
ここに来てるのは秘密にしてね、とお願いされているので黙っているけれど、お父さんとお母さんが知ったら卒倒するか、私の正気を疑いそうな現状であった。
「そういえば領主様」
「できれば依姫って呼んで欲しいんだけど……言っても聞いてくれないわよね、' 'の性格だと」
「……領主様、一つ聞かせて欲しいんですけど」
「あはは、ほんと真面目ね。うん、それで?」
丁寧ながらも頑固な' 'に朗らかに笑って見せる依姫様はとても楽しそうで、反対に' 'は少し困っているようだった。
真面目な性格の彼女は、依姫様の命令を聞くべきか、礼儀を通すべきか聞かれる度に悩んでいるのだろう。
「さっきレイセンが的を外したとき凄いって言ってましたけど、あれは一体どういうことなんでしょう?」
「うん? ああ、そうね。確かにちょっと解りにくいわね、あれは」
尋ねられて、逆に不思議そうな顔をした依姫様は、けれどすぐに納得したように頷いて……
「これがさっきレイセンが撃った的だけど……」
「え、あれ?」
私と' 'は、いつの間にか的を手にしている依姫様の姿に目を丸くしてしまう。
依姫様の後ろで何か揺らめいたと思ったら、気付けば的が現れていた。
「ほら、この真ん中の、一発だけ当たってるように見えるところを良く見て」
「はい……む? よく見ると穴が他より大きい……?」
「そう、この真ん中の穴、弾で広げられてるのよ。五発ミリ単位で綺麗に命中させて」
「ぶふっ……はいぃ!?」
口に含んだ桃を吹き出して' 'が叫んだ。
驚愕に染まる目は、からかうように笑う依姫様を見て、次に私に向けられた。
私は' 'に照れたように頷いて見せた。
「うん、普通に撃ってもつまんないから、今日は真ん中の穴を外側の穴まで広げられたらなーって」
「外側の穴……? ってまさか最初に四隅に外れてるのって……」
「あ、うん。あそこまで広げるのが目標。それなら' 'が何発当てても、それを使って私も続けられるでしょ?」
「……」
私がそう答えると' 'は完全に固まってしまった。
ピクリとも動かない。
「えーと?」
「……自覚がないってことは本当に才能だけでやってるのね、これ」
天才って言葉ですら足りないわ。
そう呟いて真ん中の穴をなぞり、依姫様は一瞬だけ怖いほど真剣な目を見せた。
「ねぇ、レイセン」
「は、はい?」
「貴方、うちの守備隊に入ってみる気はない? 貴方は薬搗きの玉兎だけど、"これ"は、眠らせたままにするにはあまりに惜しい才能よ」
「は、はいっ!?」
「ん? うちの守備隊はいや? それなら月の使者とかはどう? 姉がリーダーをやってるから紹介してあげるわ。お姉様も、この的を見れば断りはしないでしょうし」
「……あ、あの」
「領主様」
突然の誘いに戸惑っている私の前に、復活した' 'が立ちはだかるように進み出た。
礼儀にうるさい' 'らしくない行動に、私だけでなく依姫様も驚いていた。
「レイセンは銃の腕前はともかく、ドジで間抜けでボケボケしたやつなんです。兵隊なんてやったら訓練だけで死んでしまいます。どうか見逃してやって下さい」
そう言って' 'は頭を下げた。
随分と酷いことを言われたような気がするけど、私は何も言えなかった。それぐらい' 'は真剣だった。
「レイセン、貴方はどうなの?」
「……私は」
依姫様に尋ねられて、私は言葉に詰まった。けれど……
「ごめんなさい、依姫様。私は兵隊にはなりません。私は……」
私の前で、私のために月人の前に立った' 'を見て、
「ここが好きですから。だからここに居たいです」
お願いします。
そう言って前に出て、' 'の隣に並んで頭を下げた。
依姫様は少しだけ黙って、それから溜息をついた。
「はぁ、頭を上げなさい。まったく、レイセンは思ったよりも世渡り上手なのかもしれないわね」
私と' 'が頭を上げると、依姫様は笑って私達の頭を撫でた。
「私が治める土地をそんなに褒められたら、見逃すしかないじゃない。ほんと残念ね」
苦笑して依姫様は私達の頭を撫でる。その手はとても優しくて、ずっと昔に撫でて貰った母の手のようだった。
「ありがとうございます。依姫様」
「ほんとにね、こればっかりは感謝して欲しいわ。貴方達はまだ解らないかもしれないけど、月人の異動命令に玉兎が意見するってとんでもないことなのよ?」
「「…………」」
わざとらしい恩着せがましさで言う依姫様の言葉に、思わず黙り込む私達。
特に' 'は唇を噛んで顔を真っ青にしている。
あれ? 私達、もしかして勢いでとんでもないことしちゃったのかな?
「領主様……」
「ふふ、なにかしら? ってあら?」
どう見てもちっとも気にしていない依姫様が、歌うように、からかうように尋ねる。
すると' 'は、手にした銃に無言で弾を装填した。
予想外のこの行動に、依姫様は面食らった顔で楽しげな声を切った。
「寛大な御心に甘えた、度の過ぎた非礼。どうか、どうか……私の命でお許し下さい!!」
「そこまでいっちゃうの!? 待って待ってやめて、こめかみに銃口つけようとするのやめて!!」
「レイセン、元気でね。私が居なくなったらしっかりやるのよっ」
「なに遺言っぽいこと言ってるのよ!? やめなさいって言ってるでしょう!! って、わ、腕力強っ……解りました。許す、許すからやめなさいぃ」
やたら清らかな、何か悟ったような笑顔で私に別れを告げた と、彼女が己に向けようとしている銃を抑えるように飛びついた依姫様。
ん、真面目な人をからかうのって、気を付けないとこうなるよね。思い詰めちゃうから。
「レ、レイセン、笑ってないで貴方も手を貸しなさい。この子、力が強過ぎるわ……!!」
「……笑う?」
全力で抑えてるいるのに、半分くらいの背しかない' 'を止めきれない依姫様に言われて、私は初めて気付いた。
頬に手を当てる、その口元は確かに柔らかな弓を描いて笑っていた。ただ、笑っているのは『私』ではない。今笑っているのは……
(私、だ。夢を見てる、私が笑ってるんだ)
いつの間に体の主導権が移ったのか、今レイセンの顔に浮かんでいる笑みは鈴仙である私のものだった。
私は、微笑むことを止められなかった。夢の中とは言え依姫様に言われているのに、ちっとも。
だって……
(どうして、忘れてたの?)
あの頃はこんなに楽しかったのに。優しい領主様が居て、何より大好きな' 'が居た。
可愛いくせに凄くやんちゃで、優しいくせにそれを表に出すのが大の苦手で。いつもボケボケした『私』の手を引いてくれた『私』の親友。
ずっと彼女と一緒に居たかったのに、ずっと彼女の隣で笑っていたかったのに、どうして忘れていたんだろう。どうして、どうして……?
……あれ? 本当にどうして? どうして忘れていたんだ? 私は必死に思い出そうとして、そして……
叫んでいる。誰かが暗い暗い森の中で、喉が破けそうなほどに叫んでいる。
『……が、レイ……ザザッ……ン……ザザザ……なん……!!』
ザザザと灰色の砂嵐と共に場面が飛ぶ。時間が飛ぶ。それは擦り切れたビデオテープのような唐突さで、どうしようもなく穴空きで。
駄目だ駄目だ思い出せない思い出さなきゃどうして忘れていたの私は思い出さなきゃならないのに!!(……本当に?)
本当に決まってるよりにもよって' 'の名前を忘れるなんてどうかしてる思い出さなきゃ思い出さなきゃ!!(……本当に?)
うるさいうるさいなんでそんな事聞くんだ決まってるじゃないか私は、私は……!!(本当に? だって' 'のことを忘れたのは……)
……え?
………………
…………
……
「―――ッ!!」
パチリと目が開く。兎と目が合う。天井の、しかめっ面した兎の目に。
いつも通りの朝。いつも通りの穴空きの夢……?
「……じゃない。確か昔の夢を見て、それで、それで……?」
慌てて身を起して記憶を辿る。
けど……思い出せない、夢の最初の内しか思い出せない。夢を覚えていないのは、別に異常でもなんでもないのかも知れないけど……
「あれは、悪夢だったの?」
楽しい夢、だったように思う。特に奇怪な夢、でもなかったと思う。少なくともナズーリンや早苗が見たような悪夢の類ではなかったはず。
……師匠の薬は絶対である。悪夢を見せる薬を師匠が作ったのなら、それは絶対に悪夢を見せるはずなのに。
ん? 待って、ということは……
「忘れているところが悪夢ってこと? 悪夢を見たけど、私は忘れた……?」
駄目。それじゃ駄目。それじゃ私は思い出せない。' 'の名前を思い出せない。
「……少し調べてみないとダメみたいね。この薬について」
私は布団を蹴飛ばし立ち上がる。ナズーリンも早苗も他の皆も、悪夢についてはきちんと覚えていた。なのに何故私だけ忘れたのか?
丁度いい、今日薬を売りに回るところにも胡蝶夢丸ナイトメアを飲んだ奴はいるはずだ、こうなったら徹底的に訊いて回ってやる。
私はふすまを叩き開き、空を見る。今日は晴れ。ただし遠くに黒くて大きな雲がある、午後の雨にご注意を。私は傘の所在に思いをやりつつ、顔を洗いに洗面所に駆け出した。
……いつの間にか、たった一夜で悪夢を求める理由が変わっていることに、気付きもせずに。
………………
…………
……
「ね、ねぇ鈴仙、永琳がどこに行ったか知らないかしら?」
「師匠なら一昨日に『ヒャッホー!! オモロイ新薬思い付いちゃったZE☆ ヒャッハー!!』とか言って飛び出して行きましたから、多分どこかで材料探しに明け暮れてるんじゃないかと思いますが」
「そ、そう……って永琳がそんな事言ったの!?」
「いえ、マッドモード師匠の壊れ具合を解って貰うためのアレンジで、原文のままではないです」
「そ、そうなの。そうよね、良かった……」
「はい、流石の師匠もヒャッハーは言いませんでした。後はだいたいそのままですが」
「え゛、マジで?」
いえ、冗談です。
……顔を洗って歯を磨き、ブレザー羽織ってローファー履いて、ついでのおまけに葛籠を背負い、さて、今日も今日とて行きますか、と足を踏み出したところで姫様に手を掴まれ呼び止められた。当人曰くお見送りとの事だが……はて、いつもはそんな事しないし、一体どういう風の吹き回しだろう?
「えーと、用事はそれだけですか? それでは私はこれで……」
「あ、ちょっと待って鈴仙!! ちょっと待って!!」
「はい?」
「えーと、その、ね……」
「??」
どうにもしゃっきりしない姫様に私は困惑と共にいつにない強い苛立ちが沸き上がってくることに気付いた。おかしい、兎は大らかな生き物のはずなのに、なんで私はここまでイライラしてるんだろう?
そんな内心をどうにか抑えて、私は姫様の態度について考える。姫様は一体何を気にしているのか……?
「師匠のことなら別に心配することはないと思いますけど。師匠が材料探しの旅に出るなんていつものことですし。なにより師匠、不死身ですし」
「そ、そうね。その通りだわ」
その通りだと思うなら、私の手をがっちり掴むのをやめて欲しい。そんな思いと、少なくない苛立ちを視線に乗せて姫様に送る。すると姫様のかんばせがみるみる引き攣り笑いに変わっていく。玉兎の視線を舐めてはいけない。私の剣呑な視線を浴びて姫様は若干後退った……が、その次の瞬間、ふと何かに気付いたように視線を宙に逸らし、きょとんとした顔で改めて私に視線を戻してきた。
「ねぇ鈴仙」
「はい」
「もしかして、もしかしてなんだけど、本当に気付いてなかったりする? 強がり、とかじゃなくて」
「ええと、なんのことだか解らないんですけど……」
「はぁ、マジなのね。はいこれ」
呆れたように溜息を付いた姫様が袂から手鏡を取り出し差し出してくる。手鏡? えーと……?
「こうですか?」
「や、私を映してどうするのよ。そこは自分の顔を見るところでしょうが」
「はぁ」
言われて手首を返し、私は自分の顔を覗き込む。
……うわ。
「あー、新型ダイエット薬大成功!! って言ったら宣伝になりますかね?」
「ならないわよ。いくらなんでも成功しすぎてるもの。あと目のクマも余計ね、貴方は兎でしょうに」
こけた頬、青白い肌、目の下の大きなクマ。兎は一晩でどれだけ不健康な顔になれるのか挑戦してみました。そんな馬鹿な事を言っても信じられそうな私の顔が、鏡の中でどんよりとした視線を送ってくる。
これは……なるほど、確かにこんな顔した知り合いがいたら、師匠に助けを求めたくなるのも頷ける。
「あ、あはは、えーとこれは……昨日ちょっと在庫の確認に手間取りまして、少しばかり深夜残業を」
「……本当にそれだけ?」
「はい、それだけです」
訝しげな姫様に、私は清涼感溢れる営業スマイルで応じる。
人里で怪しい兎扱いされ続けてきた私が、苦難の末に編み出した究極接客奥義。それがミレニアムクラスの引き篭もりである姫様に看破できようはずもない。私は努めて純真な笑顔の裏で、そんなてゐのような計算を巡らせる。そして果たして姫様は、
「嘘くさい笑顔ね。昔、私に言い寄ってきた奴らがそんな顔だったわ」
ばっちり見抜いてました。うん、正直忘れてた。姫様はかつて五人の貴族を手玉に取ったプレイガール、日本昔話史上でもトップの知名度を誇る、なよ竹のかぐや姫その人なのでした。どう考えても私の付け焼刃営業スマイルが通じる相手ではなかった、不覚。
どうしよう、今ので姫様の目が針で突き刺すような鋭い物に変わってしまった。師匠が居ない今が、胡蝶夢丸ナイトメアの事を探るチャンスなのに。
そう、今がチャンスなのだ。なにせ私の師匠は月の頭脳、八意永琳その人なのである。あの人ならば嘘を見抜くどころか、汗の味とかで私が胡蝶夢丸ナイトメアを飲んだということすら見抜きかねない。私の師匠はぶっちゃけそれぐらい頭抜けて……ん、師匠? そうだっ!!
「ええとすいません、ちょっと嘘つきました。実は師匠に薬の臨床試験を頼まれてまして。多分、昨日飲んだその薬が合わなかったんじゃないかと思います」
「はぁ、なるほどね。まったく永琳の薬好きにも困ったもんね。ちょっとは自重してくれないもんかしらね」
咄嗟の思いつきでの二つ目の嘘に、今度はあっさり引っかかる姫様。さもありなん、私が師匠のお茶目薬や罰ゲーム薬で寝込むのは、永遠亭ではさして珍しくもない日常の一部である。最初のちょっと無理がある嘘と違って、疑うべき理由がなにもない。しかも最初に嘘をついたことも師匠を理由にし辛かったということで説明が付く。この場を凌ぐには我ながら非の打ち所のない完璧な嘘である。……しかし、それでも強いて欠点をあげるなら唯一つ、それは、
「鈴仙、永琳に怒られたら私の命令だって言っていいから、今日は休んでおきなさい。そんな顔で薬売りに行ったって、誰も買ってくれないわよ?」
良心が恐ろしく痛むこと。姫様の八百万の男共を虜にしてきたであろう、類稀なる妍なお顔に慈愛の色が乗る。
私が言ったことが嘘でなければ、本当に感涙に噎び泣いてしまいそうな優しいお顔であったのだが、今の私にはそれは凶器にしかなり得ない。というか、師匠が帰って来た時の事を考えると本当に私の死因になりそうな気がひしひしと。
「いえ、大丈夫ですよ。これぐらいなら化粧で誤魔化せますし、顔色ほど具合は悪くないですから。ほら、足取りはしっかりしてるでしょう?」
「むう、それは確かにそうだけど」
だけど、それでも私は嘘をつき通す。姫様への申し訳なさも師匠のお仕置きも今は棚に上げて、健康そのもののように振舞ってみせる。いや、実際そこは嘘ではない。今の私は決して具合は悪くない。むしろ、聞き込みへの意気込みも相まって、逆に調子が良いくらいだ。
「ですからどうかご心配なく。私はきちんとお役目を果たして見せます」
「ん~けどねぇ、うーん……」
姫様が腕組みをして考え込む。私はそんな姫様を固唾を飲んで見守った。出せる手札は全部出したのだ、これ以上は下手にボロを出さないように黙っていた方が良い、そう判断してのことである。
そして、身体がむず痒くなるような沈黙が功を奏したのか、姫様は……
「ん、解ったわ。ちょっと心配だけど、鈴仙がそう言うなら納得しておきましょう。その代わり、やるからには貴方の師匠の名を辱めぬようしっかりやりなさい」
にぱっと童女のように明るく笑ってそう言った。
私は思わず浮かれて手を叩きそうになるのをどうにか抑え、神妙な顔を作り頭を下げた。
「有難うございます、姫様。それじゃ私はさっそく……」
「ただし!!」
くるりと踵を返し、そそくさと立ち去ろうとする私を腹式呼吸の効いた強い声で姫様が呼び止めた。
そして、姫様は手鏡を私に渡した時と同じようにごそごそ袂を漁り、探り当てた物を私の手にのせてくる。
「えーと、姫様これは……?」
それは円形の紅入れと白粉入れだった。朱色の満月と青ざめた三日月、紅の撫子と白の百合をそれぞれあしらった筆絵が描かれたそれは、多分私が師匠に給金兼お小遣いとして貰っている額の十年分はかたいのではあるまいか。なんていうか重い、とても重い。重量ではなく歴史的に。
「私が昔使ってた化粧道具よ。それを使ってめかし込むのが、貴方が出掛けることを許可する条件よ。いいわね?」
「は、はい。解りました」
頷く私を見て姫様は笑顔で頷き返しウィンク一つ残して、こちらに背を向けたおやかに歩き去る。その後姿すらも流石姫様、美麗極まる。
立てば芍薬座れば牡丹歩く姿は百合の花、背に負う気質は月のよう。時に子供のような稚気を見せるけれども、万事全ての仕草が絵になる姫様はやっぱりかぐや姫様なのだ。
……ということはつまり、
「私はかぐや姫様の化粧道具を使ってめかし込まなきゃならないってことよね。それってわりと難題のような気が……」
主に恐れ多いという意味と半端な真似は出来ないという意味で。
玄関で風雅な紅入れと白粉入れを手にして、私は五人の貴族の気分を味わいしばし途方にくれたのだった。
ただ一つ、輝夜は鈴仙の事をイナバと呼びます
あえてアレンジしたのかもしれませんが、そこが違和感。