ちょうどお昼を回った頃である。
人里から少し離れた雑木林の中を、人間の男の子が二人歩いていた。
兄弟だろうか、年長の男の子が体が一回り小さい男の子を引っ張るようにして進んでいく。
兄は片手に双眼鏡を手にしていた。親に買ってもらったものだろうか。
ときどき立ち止まっては頭上で鳴く小鳥の姿を探した。
中々見せてくれない弟は、さっきから口を尖らせている。
面白くなさそうに、視線を兄から移して――その影を見た。
「ねぇ、兄ちゃん。あれ?」
「なんだ? ん?」
弟に服の袖を引っ張られた兄が振り返る。目を細めてじっと見つめる。そして怪訝な顔をする。
「……何しているんだろう?」
「わかんない」
その影までは遠くて、はっきりと影の動きを知ることができない。
兄はとっさに双眼鏡を構えた。
「あ、兄ちゃん。そろそろ僕にも見せてよ!」
「うるさいなぁ、静かにしろ。後で見せてや――」
見てしまった。
はっきりと。
見てしまったのだ。
「兄ちゃん、さっきからそればっかりじゃん……どうしたの?」
様子が変わった兄に、弟が抗議の声を止める。
兄はやはり双眼鏡で影を覗いているのだが、その口は開いたまま固まってしまっている。
両手から双眼鏡が落ちて、音を立てた。
「……ふふ、ふへへ……ふふふ」
突然の笑い声。
弟は双眼鏡を拾い上げようとするのを止めて、兄の顔を見る。
笑っていた。
頬をだらしなく緩ませて、目を細め、口からか細い笑い声をあげる。
「兄ちゃん……? ど、どうしたの?」
「……べつに、なんでもないよ。ふふふ……」
何を訊ねても、落した双眼鏡を差し出しても兄は笑うだけだった。
「兄ちゃん、何か見たの?」
そうして弟は双眼鏡を影に向けて、覗こうとした。
「見ナイ方ガイイヨ」
背中からの兄の声。
振り返ると兄はふらふらと歩き出す。
弟は追いかけようとした。
しかし、すぐに立ち止まってしまう。
兄が見た影の正体。
弟の好奇心が心の中で暴れ出す。
やがて弟は影に向かうと――意を決して双眼鏡を覗く。
見てしまった。
※
一週間後。
永遠亭の一室。輝夜は文々。新聞を睨み付けていた。
そこには『人里で異変! 突然笑い出す人間たち』と大きく書かれていた。
原因はまったく不明。
大人も子どもも日中、突然ニヤニヤ笑い出すと、その場で体を丸め身もだえするのである。
そして、人間だけではない。
この一週間前の新聞を書き、取材を続けていた鴉天狗までにも症状が出たのである。
異変を感じ取って博麗の巫女も動いたのだが、まだ解決策が見つからないらしい。
「永琳。これどう思う?」
「そうですね……発作的に笑い出すだけだそうですので、人間たちには危害はなさそうです。あの霊夢も今は様子を見るしかないと言っていました」
「でも、被害は拡大しているのね?」
輝夜が新聞を畳の上に置くと、永琳が苦い顔を浮かべた。
「ええ……射命丸に続いて、稗田阿求。本居小鈴。命蓮寺の妖怪たちにも症状が出たそうです」
「そして今、『永遠亭の秘薬実験のせいじゃないか?』って言われているわけね」
輝夜はふんと鼻を鳴らすと、顔を庭に向けて睨み付ける。
もちろんそんなのはデマにしか過ぎない。すぐに収まるだろう。
しかしデマにしろ永遠亭が――自分たちが疑われているという話を聞いて面白いわけがない。
すっかり拗ねてしまっている輝夜に、永琳が何か話しかけようとした時だった。
バタバタと足音がして、そこへやって来たのは鈴仙だ。
「姫様! お師匠様! た、大変です!!」
顔を青くした鈴仙は永琳と輝夜の傍へ慌てて寄る。走ってきたのだろう、息が荒い。
「うどんげ、そんなに慌ててどうしたの?」
「ふん! どうせ人里で『お前たちの仕業だろ?』って詰問されたんでしょ?」
輝夜は拗ねてそっぽを向いたままだ。
だが鈴仙の言葉に、輝夜の表情が一変する。
「妹紅さん……妹紅さんにも症状がっ!」
※
「も、妹紅……」
迷いの竹林の中。
藤原妹紅の庵。
その玄関に輝夜と永琳が立ち尽くす。
目の前には。
「うふふ……あはははっ! あは、ふふふ……へへ」
頭から掛布団を被り、ごろごろ体を身もだえさせながら、だらしなく笑い続ける妹紅の姿だった。
「妹紅……妹紅! へらへらしないで、しっかりしなさいよ!」
やがて歯ぎしりしていた輝夜が庵に上り込むと、掛布団をぺいとはがして、妹紅に詰め寄る。
妹紅はやっと輝夜たちが来ているのに気が付いたようだ。
しかし笑いは収まらない。
「えへへ、あ、輝夜。来てたんだ……えへへ。あはは! あははは!!」
なんとか会話は出来るものの、体を震わせている妹紅。
輝夜は「も、妹紅」と呟き、哀しい顔を浮かべる。
その横から今度は永琳が話しかけた。
「妹紅。何か悪い物でも食べた?」
「い、いや。ふふふ、食べ、食べてない、へへへ……」
「じゃあ、何があったの?」
妹紅の笑い声がぴたりと止む。
その視線が遠くを見つめているようだった。
そして。
「あは……あはは。へへ、あはははははははは! あはははは! うふふ、へへへ!」
再び、今度は先ほどよりも大きな声で、体を床の上でゴロゴロ転がしながら笑い出す妹紅。
輝夜が大げさにため息を吐く。
だが永琳は「そう」と呟き、
「やっぱり何かあったのね? 妹紅、それを教えてくれる?」
「やだね!」
妹紅の即答に輝夜も永琳も目を丸くした。
「……何かはあったのね?」
「うん!」
「……教えて?」
「やだ!」
輝夜が訊ねてみても、妹紅は笑いながら拒否する。呆れた輝夜が永琳の顔を見つめる。
「どうする永琳?」
「見た限り毒キノコ類の症状ではなさそうです。何かに操られているようにも見えませんし……やはり何かがあって、こうなってしまったものかと」
じっと話を聞いていた輝夜が、ゆっくりと服を翻す。
「永琳、人里へ行くわよ! こうなったら意地で原因を探すわよ! これ以上の風評被害を食い止めるわ」
「了解しました」
玄関から出る前に、輝夜はちらりと妹紅を見る。
笑い疲れたのか、発作的な症状が収まったのか、妹紅は床の上で転がるのを止めると、目をとろんとさせていた。
(……妹紅。貴女は私たちが治してあげる。それまで、待っていて)
庵を後にする輝夜と永琳の背中を見て、妹紅がぼそり呟く。
輝夜たちには聞こえなかった。
「輝夜……アレハ見ナイ方ガイイヨ……うふふ」
※
日暮れ。
空はすっかり赤くなり、夕日は山の向こうへ落ちようとしていた。
「……手掛かりないわね」
「そうですね」
人里の隅で、輝夜がぐったりと疲れた表情を浮かべていた。
その横で永琳も、やはり疲れた顔をして輝夜に答える。
鈴仙も「ふぅ」とため息を吐いた。
人里へたどり着いた輝夜と永琳、鈴仙の三人は手分けして症状が出ている者の所へ行き、話を聞いた。
しかし「何があったのか」と聞くと、その者たちは発作的に笑い出し、そして笑いながら「教えられない」と口々に言うのだ。
阿求に至っては、興奮しながらひたすら筆を動かし、紙に落書きのようなものを何枚も何十枚も書き続けていた。
「いったい、何が起きているというのよ!? もー」
「もう日が落ちそうです。今日は一先ず帰りましょうか」
ぶーぶー文句を言う輝夜を宥める永琳。
三人は永遠亭へと帰ろうとした。
「おや? 輝夜たちじゃないか」
そこへ声がかけられる。
振り返ると慧音が立っていた。輝夜たちと顔を見合わせると慧音は申し訳ない気持を表情に浮かばせる。
「す、すまないな。人里でお前たちを疑う者がいて、さぞ迷惑だろう。私から言ってきかせるから」
「いや慧音が謝ることじゃないよ。私たちで原因を突き止めようとしていたんだけど……」
「その手掛かりすら見つかなくてね……」
輝夜たちがため息を吐いて話す。
慧音は「そうか」と答えて、急に視線をキョロキョロさせた。
「すまない。少し用事があってな。ここで失礼する」
そう言い残し、慧音はさっさと歩き始めた。
その背中が見えなくなったのを見て輝夜たちも永遠亭へと帰ろうと背中を見せた。
鈴仙も輝夜たちについて行こうとして、「あ」と声を上げた。
「どうしたの? うどんげ」
「明日の薬売りの事で、ちょっと慧音さんとお話しすればよかった。すみません、姫様、師匠、先に戻ってくださいませんか?」
「そう。熱心ね、わかったわ」
輝夜と永琳に「早く帰りますから」と言い残して、鈴仙は慧音の後を追いかけて行った。
※
「鈴仙、遅いねー」
すっかり日も暮れた永遠亭。
四人分の食器と料理を乗せた座卓の前で、輝夜、永琳、てゐの三人は座っていた。
中々鈴仙が帰ってこないのだ。
永琳が何度も柱時計を見つめた。
「先に食べちゃダメ」
「ダメよ」
待ちきれないてゐを輝夜が止める。
そこへ玄関から足音が。
「あ、やっと帰って来たわね」
永琳がほっと安堵して、部屋の入り口を見つめる。
やがて鈴仙がゆっくり入ってきた。
無言で。
「おかえりイナバ。無事に慧音と話できた?」
「…………」
輝夜の問いに鈴仙は答えない。
「鈴仙、『ただいま』がないよー。そんな子にはご飯は抜きだー」
てゐが悪戯兎の顔をして話しかける。
しかし、鈴仙は答えない。
「……うどんげ? 何があったの?」
様子のおかしい鈴仙に永琳が声をかける。
何があったの?
その言葉を聞いて。
鈴仙の両目は、だらしなく細められ。
その焦点は合っていなくて。
口の端は大きく歪んで。
「……ふふ、ふふふ。あは、はははははは」
笑い声を上げた。
「ちょ、ちょっとイナバ!?」
「うどんげ!?」
慌てて輝夜と永琳が鈴仙に詰め寄る。しかし鈴仙は笑い声を上げるのを止めない。
ついに鈴仙にまで感染したのだ。
必死に体を揺さぶったり、頬を平手打ちしたりするが、鈴仙は笑ってばかりだ。
「もぉー! ちょっと、何があったのよ!? イナバ!!」
「あは、ははは。姫様、そ、それには、お、お答えできません、ふふ」
輝夜が怒って訊ねるも、鈴仙はやっぱり何が起きたのかを話してくれない。
永琳はじっと鈴仙を見つめた。
そして口を開く。
「……慧音」
ぼそりと呟くと、とたん鈴仙の体がピクリと震え、笑い声が止む。
部屋の中に沈黙が走った。
「まさか……この原因って慧音なの? うどんげ?」
永琳は鈴仙に話しかける。
あの時、鈴仙が最後に会ったのは慧音だったはずだ。
人里で慧音と会った時、輝夜たちが原因を探していると聞いた慧音は、急に落ち着きがなくなり視線を彷徨わせた。
慧音は何かを知っている。
いや、隠している。
永琳の思考はそこまでたどり着いた。
「……ね」
「え?」
鈴仙が何かを口にした。
「……ね、けねけね……けねけね、けねけね、けねけね、けねけね、けねけねけねけねけねけねけねけねけねけね」
突然、まるで壊れた蓄音機のように鈴仙がぶつぶつと話す。
その顔はやはり笑っていて。
「れ、鈴仙……」
傍によったてゐが泣きそうな顔を浮かべる。
輝夜がすっと立った。
「てゐ、鈴仙の傍にいてあげなさい」
「姫様、同行いたします」
同じく永琳も立ち上がる。
もう、原因はわかった。
間違いはない。
輝夜と永琳は勢いよく永遠亭を飛び出すと、宙を飛んだ。
目指すは、人里の寺子屋。
上白沢慧音の家である。
※
すっかり静まった人里。
慧音の家から少しばかりだが灯りが漏れていた。
輝夜たちが扉を開けようとすると、つっかえ棒でもしているのか開かない。そこで扉を叩く。
「慧音! 出てきなさい! 貴女が原因なのは知っているのよ!」
輝夜の声に、突然家の中でたくさんの物がひっくり返る音がした。なにやら慧音が大きな声で話す声も聞こえる。
やがて扉が中から開かれる。
「す、すまない! ちょ、ちょっと手が離せなくて、それにしてもこんな夜分に何の用だ?」
「慧音。隠していることがあるなら、早く教えなさい!」
「か、輝夜、あまり夜中に大声を出すものじゃないな。それに、私がお前たちに隠していることなんてないよ」
必死に作り笑いをして弁明する慧音。
輝夜と永琳は顔を見合わせて、頷いた。
「あ、あんまり夜遅くに――っておい!」
輝夜と永琳は慧音にはお構いなし、ずんずん家へ上がると、さっそく部屋の中を荒らしまわる。
「何をするんだ!? いつからお前らは泥棒稼業をするようになったんだ!?」
「だったら、隠しているものを出しなさい!」
「な、なんのことかな……? か、隠しているって、わ、私が?」
慧音の顔に冷や汗がだらだら流れ、両手をわたわた振る。
怪しい。どう見ても隠している風にしか見えない。そんな慧音を余所に、衣装籠、座卓の下、箪笥の中と見てまわる。
ガリガリ。
ガリガリ。
その音に輝夜と永琳の手が止まる。
そして顔を向けると、視線の先には押入れが。
「おぉーっと!!」
慧音が慌てて押入れに走り、両手を広げて押入れを守るように立った。
「なんにもない、ここにはなんにもいないから、いないいない!!」
「もう、慧音の嘘のわかりやすさはすごいわね……さぁ、どきなさい慧音! そしてその中にいるヤツを出しなさい!」
「いやだ! いやだ!」
慧音は涙目になって首を振る。
輝夜と永琳がじりじりと慧音に近寄る。
(こうなれば実力行使よ)
輝夜がアイコンタクトをすると、永琳が了解しましたと頷く。
ガリガリ……。
ガタガタっ! ガタ!
ところが押入れの襖が大きく揺れた。
慧音が必死に止めようとするも、襖を開けようとする力は増々大きくなる。
中にいる何かが必死に開けようとしているようだ。
「こ、こらっ! や、止めるんだ!!」
慧音が輝夜たちにも構わずに声を出す。
だが、とうとう襖が外れ、慧音を下敷きにして倒れる。
「痛いっ! ……あ」
遮られる物がなく、押入れの中がはっきりと見えた。
輝夜と永琳は、その姿を見て――目を丸くした。
「……え? 何?」
「これは、どういうことかしら?」
その姿は輝夜たちもよく知っていた。
緑色の服。
ふさふさの尻尾。
頭からは二本の角が。
その片方には赤いリボンが結ばれている。
「きゅー?」
ハクタク状態の慧音があどけない目をして、輝夜たちに首を傾げていた。
※
すっかり落ち着いた慧音の部屋の中。
輝夜と永琳は並んで座っていた。
二人に向かい合うようにして慧音ともう一人の慧音――ハクタク慧音が慧音に寄り添うようにして座る。
「きゅー、きゅ?」
言葉が話せないのか、ハクタク慧音は何かの小動物みたいな鳴き声を上げながら首を傾げてばかりいる。尻尾ふりふり。
「考えられるのは、ドッペルゲンガーかしら?」
永琳がじっと慧音とハクタク慧音を見比べて、静かに言った。
「どっぺる、げんがー?」
「自分の分身、もしくはもう一人の自分を見てしまう現象よ。そこにいるもう一人の慧音は貴女の分身じゃないかしら?」
永琳の説明を聞いて、慧音は「なるほど」と頷いてハクタク慧音を見る。ハクタク慧音も慧音を見つめ返して「きゅー」とにっこり笑う。尻尾ぱたぱた。
「で? 一週間前からこの子がいたの?」
今度は輝夜が慧音に話しかける。
「ああ、そうなんだ。朝起きたら、急にこの子が隣で寝ていたんだ。もうびっくりするしかなかった」
「……隠してないで誰かに相談したらいいのに」
「したさ! その日たまたま家に訊ねてくる者がいてな、相談したんだ。そいつは私の相談に応じてくれていたんだが……」
「だが?」
輝夜が続きを促すと、慧音は顔を俯かせた。
「……相談している内に、その、あの笑い声を上げるようになってな……相談も途中なのに笑ったまま家に帰ってしまった」
「ふーん」
輝夜の鋭い視線に気が付いたハクタク慧音が体を震わせると、慧音の背中に隠れる。慧音も背中で守るようにして大声を出す。
「ちょっと待ってくれ! コイツは何もしていない! 本当だ、何も危害を加えていなかった! ただ、気が付いたら相手がおかしくなって」
「そうね。ドッペルゲンガーが相手に危害を与えることをするなんて、聞いたことはないわ。見た限り大丈夫そうね」
永琳に宥められて輝夜が睨み付けるのを止めた。慧音がほっと一息を吐いて、ハクタク慧音もそぉーと顔を出す。
「それで慧音。今までこの子どうしていたの?」
「あ、ああ。この子に申し訳ないけど、昼間は人里から離れた雑木林で遊んでもらっている。で、日が暮れて人気が少なくなったら迎えに行くようにしていたよ……何故、周りの者が、妹紅も阿求もあんなことになってしまったのか、わからなくてな。それでこの子を隠すようにしていたんだ。もしこの子に原因があると疑われたら、何をされるか」
そう言う慧音は寂しそうな顔を浮かべる。
その横顔を見つめるハクタク慧音も悲しそうな声で「きゅー……」と呟く。
「なるほどね。霊夢に相談したら、退治されちゃうかもね……これからどうするの?」
「……わからない」
慧音は首を振った。輝夜が「やれやれ」と一つ息を吐く。
「慧音。理由はわからないとはいえ、妹紅もうちのイナバもおかしくなっちゃってんだから。嫌でも私たち、貴女に協力するわよ」
「ああ……え?」
「だから。妹紅たちが笑い声を上げる原因を一緒に探して、その子もどうしたらいいのか解決策見つけてあげるって。だから、そんな顔をしないで。ね?」
輝夜はそう言うとにっこり微笑んでみせた。
永琳も笑顔で頷いてみせる。
「ありがとう……輝夜、永琳。ありがとう!」
涙目になっていた慧音の顔に笑顔が浮かんで、頭を下げた。その拍子に涙が頬に零れる。
輝夜と永琳は顔を見合わせて頷いた。
さて、これから輝夜たちがまず考えなければいけないのは、何故妹紅たちがあのような事になったのかである。
このハクタク慧音が関わっているのは間違いがない。
しかし見ている限りでは、まったく危害を加えるようには見えないのだが……。
…………。
……。
見てしまった。
輝夜と、永琳は。
見てしまった。
目の前で。
見てしまったのだ。
「きゅーっ!」
「わっ? おいおい」
ハクタク慧音が慧音に飛びつくと、舌で慧音の頬をつたう涙をペロペロ舐めとった。
「こ、こら、くすぐったいじゃないか」
しかしハクタク慧音はその後も慧音の頬を舐め続ける。
しばらくして、今度は慧音の顔をじっと見つめる。
「きゅ」
「ん」
ハクタク慧音の唇が慧音の唇と重なって――まるで小鳥が囀るようなチュッチュッと短い子供のキスをする。
六回くらいしたところで、ハクタク慧音がにっこり笑う。やっと笑顔を浮かべた慧音に喜んでいるみたいだ。
それから慧音に頬ずりをしたかと思えば、耳たぶを甘く噛む。ハムハム。
「まったくお前は本当に私の分身か? 甘えん坊さんめ」
「きゅー!」
嬉しそうな顔を浮かべて、慧音の髪にすりすり頬ずりをするハクタク慧音。
今度は慧音がハクタク慧音を抱き寄せる。
「おしおきだ」
そう言うと慧音はハクタク慧音の頭を撫でてやる。
気持ちがいいのかハクタク慧音は体を震わせて目を細める。
慧音は一しきり撫でると、今度はアゴの下も軽く撫でてやる。
ハクタク慧音の尻尾が大きく振られる。ふりふり、ぱたぱた。
「ん」
そして慧音はハクタク慧音の頬に口づけをした。
さっきと同じようにチュッチュッと短く、おでこや鼻先、まぶたの上などあちこちにキスをする。
最後に唇に。今度はちょっと長めにキスしてやる。
しばらくして離れると、ハクタク慧音が顔を赤くして慧音の胸元に寄りかかる。
「きゅー……」
「よーしよし。もう大人しくするんだぞ」
そんなハクタク慧音の髪をわしゃわしゃと撫でる慧音。
「……あは、あははは」
「ふふ、ふふふ……えへへ」
慧音の顔が一変する。
さぁーっと血の気が引いた顔を向けると、そこにはあの笑い声を漏らす輝夜と永琳がいた。
頬がだらしなく緩み、目の焦点が合っていない。
そして、口を大きく歪ませて笑っていた。
「……お邪魔したわ。帰るわよ、永琳。あはは」
「そうですね。姫様、ふふ」
そうして立ち上がって、玄関から出ようとする。
「ちょっと待ってくれ! お、お前たちまでどうしたんだ!? 悪い冗談はよしてくれ!」
慧音も慌てて二人を引き留めるが、輝夜たちは出ようとするのを止めない。
「放して慧音……ふふふ、このままいたら、私、もっとおかしくなっちゃうわ」
「そうそう、あはは……いったんお暇するわ」
そう言い残すと、輝夜と永琳は宙に浮かんだ。
慧音が必死に叫ぶ。
「そ、そんな! せ、せめて明日、私はどうしたらいいのか考えてくれよぉ!」
「……そのままでいいんじゃない?」
「おい!!」
幸せそうな笑みを浮かべて、笑い声を絶え間なく漏らしながら輝夜と永琳の姿は、やがて小さくなり見えなくなった。
玄関に呆然とたたずむ慧音。
「……なんでだろうな。妹紅も阿求も、輝夜たちまで。なんで、こんなことになるんだ?」
そうして振り向くと、心配そうな顔を浮かべるハクタク慧音。
慧音はにっこりハクタク慧音に笑いかけた。
「さ、お風呂に入ろう。背中を流してやる……大丈夫。きっといい解決策が見つかるさ」
永遠亭まで宙を飛ぶ輝夜と永琳。
「永琳……ふふ」
「あはは……なんですか、姫様」
輝夜は永琳の顔を見つめると、そのだらしなく頬が緩んだ笑みで言った。
「けねけね」
※
ちょうどお昼を回った頃である。
「ねぇ、こっちにたくさんお花咲いてるよ」
「え? 本当?」
人里から少し離れた雑木林の中、二人の人間の女の子が歩いていた。
姉妹だろうか、年長の女の子が一回り小さい女の子の手を引いて歩いていく。
やがて目の前の開かれた場所に、色とりどりの花たちが咲いている。
「わぁ、本当だ。お姉ちゃん、いっぱいあるよー」
目の前の花々を見つけて、妹はしゃがんで目を輝かせた。
しかし姉は妹から目を逸らせて――向こうの二つの影を見つめていた。
「ほら、お弁当だ! ゆっくり食べるんだぞ」
「きゅー、きゅー」
「あはは。大丈夫だ。私の分はあるんだからな」
「きゅっ」
「わっ……もう、こら! 私の頬はご飯じゃないぞ」
「きゅー」
そこには。
よく見知った慧音と、ハクタク慧音が仲良くお弁当を広げて、お互いに食べさせ合っていた。
「お姉ちゃん、これなんのお花かなぁ――って、お姉ちゃん?」
急に姉に引っ張られた妹が驚いて声を出す。
しかし姉は振り返らず、ずんずん歩いていき、しばらくして足が止まった。
「お、お姉ちゃん? 何かあったの?」
そう言うと妹は後ろへ振り返ろうとする。
「ダメ」
姉が制した。
「……見ナイ方ガイイヨ」
姉は、頬をだらしなく緩ませて、目を細め、口からか細い笑い声をあげて。
そして笑っていた。
けねけね。
人里から少し離れた雑木林の中を、人間の男の子が二人歩いていた。
兄弟だろうか、年長の男の子が体が一回り小さい男の子を引っ張るようにして進んでいく。
兄は片手に双眼鏡を手にしていた。親に買ってもらったものだろうか。
ときどき立ち止まっては頭上で鳴く小鳥の姿を探した。
中々見せてくれない弟は、さっきから口を尖らせている。
面白くなさそうに、視線を兄から移して――その影を見た。
「ねぇ、兄ちゃん。あれ?」
「なんだ? ん?」
弟に服の袖を引っ張られた兄が振り返る。目を細めてじっと見つめる。そして怪訝な顔をする。
「……何しているんだろう?」
「わかんない」
その影までは遠くて、はっきりと影の動きを知ることができない。
兄はとっさに双眼鏡を構えた。
「あ、兄ちゃん。そろそろ僕にも見せてよ!」
「うるさいなぁ、静かにしろ。後で見せてや――」
見てしまった。
はっきりと。
見てしまったのだ。
「兄ちゃん、さっきからそればっかりじゃん……どうしたの?」
様子が変わった兄に、弟が抗議の声を止める。
兄はやはり双眼鏡で影を覗いているのだが、その口は開いたまま固まってしまっている。
両手から双眼鏡が落ちて、音を立てた。
「……ふふ、ふへへ……ふふふ」
突然の笑い声。
弟は双眼鏡を拾い上げようとするのを止めて、兄の顔を見る。
笑っていた。
頬をだらしなく緩ませて、目を細め、口からか細い笑い声をあげる。
「兄ちゃん……? ど、どうしたの?」
「……べつに、なんでもないよ。ふふふ……」
何を訊ねても、落した双眼鏡を差し出しても兄は笑うだけだった。
「兄ちゃん、何か見たの?」
そうして弟は双眼鏡を影に向けて、覗こうとした。
「見ナイ方ガイイヨ」
背中からの兄の声。
振り返ると兄はふらふらと歩き出す。
弟は追いかけようとした。
しかし、すぐに立ち止まってしまう。
兄が見た影の正体。
弟の好奇心が心の中で暴れ出す。
やがて弟は影に向かうと――意を決して双眼鏡を覗く。
見てしまった。
※
一週間後。
永遠亭の一室。輝夜は文々。新聞を睨み付けていた。
そこには『人里で異変! 突然笑い出す人間たち』と大きく書かれていた。
原因はまったく不明。
大人も子どもも日中、突然ニヤニヤ笑い出すと、その場で体を丸め身もだえするのである。
そして、人間だけではない。
この一週間前の新聞を書き、取材を続けていた鴉天狗までにも症状が出たのである。
異変を感じ取って博麗の巫女も動いたのだが、まだ解決策が見つからないらしい。
「永琳。これどう思う?」
「そうですね……発作的に笑い出すだけだそうですので、人間たちには危害はなさそうです。あの霊夢も今は様子を見るしかないと言っていました」
「でも、被害は拡大しているのね?」
輝夜が新聞を畳の上に置くと、永琳が苦い顔を浮かべた。
「ええ……射命丸に続いて、稗田阿求。本居小鈴。命蓮寺の妖怪たちにも症状が出たそうです」
「そして今、『永遠亭の秘薬実験のせいじゃないか?』って言われているわけね」
輝夜はふんと鼻を鳴らすと、顔を庭に向けて睨み付ける。
もちろんそんなのはデマにしか過ぎない。すぐに収まるだろう。
しかしデマにしろ永遠亭が――自分たちが疑われているという話を聞いて面白いわけがない。
すっかり拗ねてしまっている輝夜に、永琳が何か話しかけようとした時だった。
バタバタと足音がして、そこへやって来たのは鈴仙だ。
「姫様! お師匠様! た、大変です!!」
顔を青くした鈴仙は永琳と輝夜の傍へ慌てて寄る。走ってきたのだろう、息が荒い。
「うどんげ、そんなに慌ててどうしたの?」
「ふん! どうせ人里で『お前たちの仕業だろ?』って詰問されたんでしょ?」
輝夜は拗ねてそっぽを向いたままだ。
だが鈴仙の言葉に、輝夜の表情が一変する。
「妹紅さん……妹紅さんにも症状がっ!」
※
「も、妹紅……」
迷いの竹林の中。
藤原妹紅の庵。
その玄関に輝夜と永琳が立ち尽くす。
目の前には。
「うふふ……あはははっ! あは、ふふふ……へへ」
頭から掛布団を被り、ごろごろ体を身もだえさせながら、だらしなく笑い続ける妹紅の姿だった。
「妹紅……妹紅! へらへらしないで、しっかりしなさいよ!」
やがて歯ぎしりしていた輝夜が庵に上り込むと、掛布団をぺいとはがして、妹紅に詰め寄る。
妹紅はやっと輝夜たちが来ているのに気が付いたようだ。
しかし笑いは収まらない。
「えへへ、あ、輝夜。来てたんだ……えへへ。あはは! あははは!!」
なんとか会話は出来るものの、体を震わせている妹紅。
輝夜は「も、妹紅」と呟き、哀しい顔を浮かべる。
その横から今度は永琳が話しかけた。
「妹紅。何か悪い物でも食べた?」
「い、いや。ふふふ、食べ、食べてない、へへへ……」
「じゃあ、何があったの?」
妹紅の笑い声がぴたりと止む。
その視線が遠くを見つめているようだった。
そして。
「あは……あはは。へへ、あはははははははは! あはははは! うふふ、へへへ!」
再び、今度は先ほどよりも大きな声で、体を床の上でゴロゴロ転がしながら笑い出す妹紅。
輝夜が大げさにため息を吐く。
だが永琳は「そう」と呟き、
「やっぱり何かあったのね? 妹紅、それを教えてくれる?」
「やだね!」
妹紅の即答に輝夜も永琳も目を丸くした。
「……何かはあったのね?」
「うん!」
「……教えて?」
「やだ!」
輝夜が訊ねてみても、妹紅は笑いながら拒否する。呆れた輝夜が永琳の顔を見つめる。
「どうする永琳?」
「見た限り毒キノコ類の症状ではなさそうです。何かに操られているようにも見えませんし……やはり何かがあって、こうなってしまったものかと」
じっと話を聞いていた輝夜が、ゆっくりと服を翻す。
「永琳、人里へ行くわよ! こうなったら意地で原因を探すわよ! これ以上の風評被害を食い止めるわ」
「了解しました」
玄関から出る前に、輝夜はちらりと妹紅を見る。
笑い疲れたのか、発作的な症状が収まったのか、妹紅は床の上で転がるのを止めると、目をとろんとさせていた。
(……妹紅。貴女は私たちが治してあげる。それまで、待っていて)
庵を後にする輝夜と永琳の背中を見て、妹紅がぼそり呟く。
輝夜たちには聞こえなかった。
「輝夜……アレハ見ナイ方ガイイヨ……うふふ」
※
日暮れ。
空はすっかり赤くなり、夕日は山の向こうへ落ちようとしていた。
「……手掛かりないわね」
「そうですね」
人里の隅で、輝夜がぐったりと疲れた表情を浮かべていた。
その横で永琳も、やはり疲れた顔をして輝夜に答える。
鈴仙も「ふぅ」とため息を吐いた。
人里へたどり着いた輝夜と永琳、鈴仙の三人は手分けして症状が出ている者の所へ行き、話を聞いた。
しかし「何があったのか」と聞くと、その者たちは発作的に笑い出し、そして笑いながら「教えられない」と口々に言うのだ。
阿求に至っては、興奮しながらひたすら筆を動かし、紙に落書きのようなものを何枚も何十枚も書き続けていた。
「いったい、何が起きているというのよ!? もー」
「もう日が落ちそうです。今日は一先ず帰りましょうか」
ぶーぶー文句を言う輝夜を宥める永琳。
三人は永遠亭へと帰ろうとした。
「おや? 輝夜たちじゃないか」
そこへ声がかけられる。
振り返ると慧音が立っていた。輝夜たちと顔を見合わせると慧音は申し訳ない気持を表情に浮かばせる。
「す、すまないな。人里でお前たちを疑う者がいて、さぞ迷惑だろう。私から言ってきかせるから」
「いや慧音が謝ることじゃないよ。私たちで原因を突き止めようとしていたんだけど……」
「その手掛かりすら見つかなくてね……」
輝夜たちがため息を吐いて話す。
慧音は「そうか」と答えて、急に視線をキョロキョロさせた。
「すまない。少し用事があってな。ここで失礼する」
そう言い残し、慧音はさっさと歩き始めた。
その背中が見えなくなったのを見て輝夜たちも永遠亭へと帰ろうと背中を見せた。
鈴仙も輝夜たちについて行こうとして、「あ」と声を上げた。
「どうしたの? うどんげ」
「明日の薬売りの事で、ちょっと慧音さんとお話しすればよかった。すみません、姫様、師匠、先に戻ってくださいませんか?」
「そう。熱心ね、わかったわ」
輝夜と永琳に「早く帰りますから」と言い残して、鈴仙は慧音の後を追いかけて行った。
※
「鈴仙、遅いねー」
すっかり日も暮れた永遠亭。
四人分の食器と料理を乗せた座卓の前で、輝夜、永琳、てゐの三人は座っていた。
中々鈴仙が帰ってこないのだ。
永琳が何度も柱時計を見つめた。
「先に食べちゃダメ」
「ダメよ」
待ちきれないてゐを輝夜が止める。
そこへ玄関から足音が。
「あ、やっと帰って来たわね」
永琳がほっと安堵して、部屋の入り口を見つめる。
やがて鈴仙がゆっくり入ってきた。
無言で。
「おかえりイナバ。無事に慧音と話できた?」
「…………」
輝夜の問いに鈴仙は答えない。
「鈴仙、『ただいま』がないよー。そんな子にはご飯は抜きだー」
てゐが悪戯兎の顔をして話しかける。
しかし、鈴仙は答えない。
「……うどんげ? 何があったの?」
様子のおかしい鈴仙に永琳が声をかける。
何があったの?
その言葉を聞いて。
鈴仙の両目は、だらしなく細められ。
その焦点は合っていなくて。
口の端は大きく歪んで。
「……ふふ、ふふふ。あは、はははははは」
笑い声を上げた。
「ちょ、ちょっとイナバ!?」
「うどんげ!?」
慌てて輝夜と永琳が鈴仙に詰め寄る。しかし鈴仙は笑い声を上げるのを止めない。
ついに鈴仙にまで感染したのだ。
必死に体を揺さぶったり、頬を平手打ちしたりするが、鈴仙は笑ってばかりだ。
「もぉー! ちょっと、何があったのよ!? イナバ!!」
「あは、ははは。姫様、そ、それには、お、お答えできません、ふふ」
輝夜が怒って訊ねるも、鈴仙はやっぱり何が起きたのかを話してくれない。
永琳はじっと鈴仙を見つめた。
そして口を開く。
「……慧音」
ぼそりと呟くと、とたん鈴仙の体がピクリと震え、笑い声が止む。
部屋の中に沈黙が走った。
「まさか……この原因って慧音なの? うどんげ?」
永琳は鈴仙に話しかける。
あの時、鈴仙が最後に会ったのは慧音だったはずだ。
人里で慧音と会った時、輝夜たちが原因を探していると聞いた慧音は、急に落ち着きがなくなり視線を彷徨わせた。
慧音は何かを知っている。
いや、隠している。
永琳の思考はそこまでたどり着いた。
「……ね」
「え?」
鈴仙が何かを口にした。
「……ね、けねけね……けねけね、けねけね、けねけね、けねけね、けねけねけねけねけねけねけねけねけねけね」
突然、まるで壊れた蓄音機のように鈴仙がぶつぶつと話す。
その顔はやはり笑っていて。
「れ、鈴仙……」
傍によったてゐが泣きそうな顔を浮かべる。
輝夜がすっと立った。
「てゐ、鈴仙の傍にいてあげなさい」
「姫様、同行いたします」
同じく永琳も立ち上がる。
もう、原因はわかった。
間違いはない。
輝夜と永琳は勢いよく永遠亭を飛び出すと、宙を飛んだ。
目指すは、人里の寺子屋。
上白沢慧音の家である。
※
すっかり静まった人里。
慧音の家から少しばかりだが灯りが漏れていた。
輝夜たちが扉を開けようとすると、つっかえ棒でもしているのか開かない。そこで扉を叩く。
「慧音! 出てきなさい! 貴女が原因なのは知っているのよ!」
輝夜の声に、突然家の中でたくさんの物がひっくり返る音がした。なにやら慧音が大きな声で話す声も聞こえる。
やがて扉が中から開かれる。
「す、すまない! ちょ、ちょっと手が離せなくて、それにしてもこんな夜分に何の用だ?」
「慧音。隠していることがあるなら、早く教えなさい!」
「か、輝夜、あまり夜中に大声を出すものじゃないな。それに、私がお前たちに隠していることなんてないよ」
必死に作り笑いをして弁明する慧音。
輝夜と永琳は顔を見合わせて、頷いた。
「あ、あんまり夜遅くに――っておい!」
輝夜と永琳は慧音にはお構いなし、ずんずん家へ上がると、さっそく部屋の中を荒らしまわる。
「何をするんだ!? いつからお前らは泥棒稼業をするようになったんだ!?」
「だったら、隠しているものを出しなさい!」
「な、なんのことかな……? か、隠しているって、わ、私が?」
慧音の顔に冷や汗がだらだら流れ、両手をわたわた振る。
怪しい。どう見ても隠している風にしか見えない。そんな慧音を余所に、衣装籠、座卓の下、箪笥の中と見てまわる。
ガリガリ。
ガリガリ。
その音に輝夜と永琳の手が止まる。
そして顔を向けると、視線の先には押入れが。
「おぉーっと!!」
慧音が慌てて押入れに走り、両手を広げて押入れを守るように立った。
「なんにもない、ここにはなんにもいないから、いないいない!!」
「もう、慧音の嘘のわかりやすさはすごいわね……さぁ、どきなさい慧音! そしてその中にいるヤツを出しなさい!」
「いやだ! いやだ!」
慧音は涙目になって首を振る。
輝夜と永琳がじりじりと慧音に近寄る。
(こうなれば実力行使よ)
輝夜がアイコンタクトをすると、永琳が了解しましたと頷く。
ガリガリ……。
ガタガタっ! ガタ!
ところが押入れの襖が大きく揺れた。
慧音が必死に止めようとするも、襖を開けようとする力は増々大きくなる。
中にいる何かが必死に開けようとしているようだ。
「こ、こらっ! や、止めるんだ!!」
慧音が輝夜たちにも構わずに声を出す。
だが、とうとう襖が外れ、慧音を下敷きにして倒れる。
「痛いっ! ……あ」
遮られる物がなく、押入れの中がはっきりと見えた。
輝夜と永琳は、その姿を見て――目を丸くした。
「……え? 何?」
「これは、どういうことかしら?」
その姿は輝夜たちもよく知っていた。
緑色の服。
ふさふさの尻尾。
頭からは二本の角が。
その片方には赤いリボンが結ばれている。
「きゅー?」
ハクタク状態の慧音があどけない目をして、輝夜たちに首を傾げていた。
※
すっかり落ち着いた慧音の部屋の中。
輝夜と永琳は並んで座っていた。
二人に向かい合うようにして慧音ともう一人の慧音――ハクタク慧音が慧音に寄り添うようにして座る。
「きゅー、きゅ?」
言葉が話せないのか、ハクタク慧音は何かの小動物みたいな鳴き声を上げながら首を傾げてばかりいる。尻尾ふりふり。
「考えられるのは、ドッペルゲンガーかしら?」
永琳がじっと慧音とハクタク慧音を見比べて、静かに言った。
「どっぺる、げんがー?」
「自分の分身、もしくはもう一人の自分を見てしまう現象よ。そこにいるもう一人の慧音は貴女の分身じゃないかしら?」
永琳の説明を聞いて、慧音は「なるほど」と頷いてハクタク慧音を見る。ハクタク慧音も慧音を見つめ返して「きゅー」とにっこり笑う。尻尾ぱたぱた。
「で? 一週間前からこの子がいたの?」
今度は輝夜が慧音に話しかける。
「ああ、そうなんだ。朝起きたら、急にこの子が隣で寝ていたんだ。もうびっくりするしかなかった」
「……隠してないで誰かに相談したらいいのに」
「したさ! その日たまたま家に訊ねてくる者がいてな、相談したんだ。そいつは私の相談に応じてくれていたんだが……」
「だが?」
輝夜が続きを促すと、慧音は顔を俯かせた。
「……相談している内に、その、あの笑い声を上げるようになってな……相談も途中なのに笑ったまま家に帰ってしまった」
「ふーん」
輝夜の鋭い視線に気が付いたハクタク慧音が体を震わせると、慧音の背中に隠れる。慧音も背中で守るようにして大声を出す。
「ちょっと待ってくれ! コイツは何もしていない! 本当だ、何も危害を加えていなかった! ただ、気が付いたら相手がおかしくなって」
「そうね。ドッペルゲンガーが相手に危害を与えることをするなんて、聞いたことはないわ。見た限り大丈夫そうね」
永琳に宥められて輝夜が睨み付けるのを止めた。慧音がほっと一息を吐いて、ハクタク慧音もそぉーと顔を出す。
「それで慧音。今までこの子どうしていたの?」
「あ、ああ。この子に申し訳ないけど、昼間は人里から離れた雑木林で遊んでもらっている。で、日が暮れて人気が少なくなったら迎えに行くようにしていたよ……何故、周りの者が、妹紅も阿求もあんなことになってしまったのか、わからなくてな。それでこの子を隠すようにしていたんだ。もしこの子に原因があると疑われたら、何をされるか」
そう言う慧音は寂しそうな顔を浮かべる。
その横顔を見つめるハクタク慧音も悲しそうな声で「きゅー……」と呟く。
「なるほどね。霊夢に相談したら、退治されちゃうかもね……これからどうするの?」
「……わからない」
慧音は首を振った。輝夜が「やれやれ」と一つ息を吐く。
「慧音。理由はわからないとはいえ、妹紅もうちのイナバもおかしくなっちゃってんだから。嫌でも私たち、貴女に協力するわよ」
「ああ……え?」
「だから。妹紅たちが笑い声を上げる原因を一緒に探して、その子もどうしたらいいのか解決策見つけてあげるって。だから、そんな顔をしないで。ね?」
輝夜はそう言うとにっこり微笑んでみせた。
永琳も笑顔で頷いてみせる。
「ありがとう……輝夜、永琳。ありがとう!」
涙目になっていた慧音の顔に笑顔が浮かんで、頭を下げた。その拍子に涙が頬に零れる。
輝夜と永琳は顔を見合わせて頷いた。
さて、これから輝夜たちがまず考えなければいけないのは、何故妹紅たちがあのような事になったのかである。
このハクタク慧音が関わっているのは間違いがない。
しかし見ている限りでは、まったく危害を加えるようには見えないのだが……。
…………。
……。
見てしまった。
輝夜と、永琳は。
見てしまった。
目の前で。
見てしまったのだ。
「きゅーっ!」
「わっ? おいおい」
ハクタク慧音が慧音に飛びつくと、舌で慧音の頬をつたう涙をペロペロ舐めとった。
「こ、こら、くすぐったいじゃないか」
しかしハクタク慧音はその後も慧音の頬を舐め続ける。
しばらくして、今度は慧音の顔をじっと見つめる。
「きゅ」
「ん」
ハクタク慧音の唇が慧音の唇と重なって――まるで小鳥が囀るようなチュッチュッと短い子供のキスをする。
六回くらいしたところで、ハクタク慧音がにっこり笑う。やっと笑顔を浮かべた慧音に喜んでいるみたいだ。
それから慧音に頬ずりをしたかと思えば、耳たぶを甘く噛む。ハムハム。
「まったくお前は本当に私の分身か? 甘えん坊さんめ」
「きゅー!」
嬉しそうな顔を浮かべて、慧音の髪にすりすり頬ずりをするハクタク慧音。
今度は慧音がハクタク慧音を抱き寄せる。
「おしおきだ」
そう言うと慧音はハクタク慧音の頭を撫でてやる。
気持ちがいいのかハクタク慧音は体を震わせて目を細める。
慧音は一しきり撫でると、今度はアゴの下も軽く撫でてやる。
ハクタク慧音の尻尾が大きく振られる。ふりふり、ぱたぱた。
「ん」
そして慧音はハクタク慧音の頬に口づけをした。
さっきと同じようにチュッチュッと短く、おでこや鼻先、まぶたの上などあちこちにキスをする。
最後に唇に。今度はちょっと長めにキスしてやる。
しばらくして離れると、ハクタク慧音が顔を赤くして慧音の胸元に寄りかかる。
「きゅー……」
「よーしよし。もう大人しくするんだぞ」
そんなハクタク慧音の髪をわしゃわしゃと撫でる慧音。
「……あは、あははは」
「ふふ、ふふふ……えへへ」
慧音の顔が一変する。
さぁーっと血の気が引いた顔を向けると、そこにはあの笑い声を漏らす輝夜と永琳がいた。
頬がだらしなく緩み、目の焦点が合っていない。
そして、口を大きく歪ませて笑っていた。
「……お邪魔したわ。帰るわよ、永琳。あはは」
「そうですね。姫様、ふふ」
そうして立ち上がって、玄関から出ようとする。
「ちょっと待ってくれ! お、お前たちまでどうしたんだ!? 悪い冗談はよしてくれ!」
慧音も慌てて二人を引き留めるが、輝夜たちは出ようとするのを止めない。
「放して慧音……ふふふ、このままいたら、私、もっとおかしくなっちゃうわ」
「そうそう、あはは……いったんお暇するわ」
そう言い残すと、輝夜と永琳は宙に浮かんだ。
慧音が必死に叫ぶ。
「そ、そんな! せ、せめて明日、私はどうしたらいいのか考えてくれよぉ!」
「……そのままでいいんじゃない?」
「おい!!」
幸せそうな笑みを浮かべて、笑い声を絶え間なく漏らしながら輝夜と永琳の姿は、やがて小さくなり見えなくなった。
玄関に呆然とたたずむ慧音。
「……なんでだろうな。妹紅も阿求も、輝夜たちまで。なんで、こんなことになるんだ?」
そうして振り向くと、心配そうな顔を浮かべるハクタク慧音。
慧音はにっこりハクタク慧音に笑いかけた。
「さ、お風呂に入ろう。背中を流してやる……大丈夫。きっといい解決策が見つかるさ」
永遠亭まで宙を飛ぶ輝夜と永琳。
「永琳……ふふ」
「あはは……なんですか、姫様」
輝夜は永琳の顔を見つめると、そのだらしなく頬が緩んだ笑みで言った。
「けねけね」
※
ちょうどお昼を回った頃である。
「ねぇ、こっちにたくさんお花咲いてるよ」
「え? 本当?」
人里から少し離れた雑木林の中、二人の人間の女の子が歩いていた。
姉妹だろうか、年長の女の子が一回り小さい女の子の手を引いて歩いていく。
やがて目の前の開かれた場所に、色とりどりの花たちが咲いている。
「わぁ、本当だ。お姉ちゃん、いっぱいあるよー」
目の前の花々を見つけて、妹はしゃがんで目を輝かせた。
しかし姉は妹から目を逸らせて――向こうの二つの影を見つめていた。
「ほら、お弁当だ! ゆっくり食べるんだぞ」
「きゅー、きゅー」
「あはは。大丈夫だ。私の分はあるんだからな」
「きゅっ」
「わっ……もう、こら! 私の頬はご飯じゃないぞ」
「きゅー」
そこには。
よく見知った慧音と、ハクタク慧音が仲良くお弁当を広げて、お互いに食べさせ合っていた。
「お姉ちゃん、これなんのお花かなぁ――って、お姉ちゃん?」
急に姉に引っ張られた妹が驚いて声を出す。
しかし姉は振り返らず、ずんずん歩いていき、しばらくして足が止まった。
「お、お姉ちゃん? 何かあったの?」
そう言うと妹は後ろへ振り返ろうとする。
「ダメ」
姉が制した。
「……見ナイ方ガイイヨ」
姉は、頬をだらしなく緩ませて、目を細め、口からか細い笑い声をあげて。
そして笑っていた。
けねけね。
ただな、人は十分以上笑うと死ぬという事例があってだな……